6月5日(月)
今年度3回目の読書会。「野生の科学」中沢新一著。関連する映画として「メッセージ」ヴィルヌーブ監督を挙げる。この本の前提条件としてあるのは、近代の科学との対峙であり、近代の科学の限界を超えようとするものである。近代の科学とは、中世が終わり、ニュートンが出現した18世紀以降の西欧を中心とする思考方法である。なぜかしらぼくらは、(近代の)科学では説明しきれない事象が多々あることを気づいているのに、それを、まだ解明の途中段階であるとか、あるいは個人的感性に委ねる問題であるとか人間性、あるいは自然観といった言葉によって納得させられてきた。しかし、近代以前にはそれを別な方法で多くの事象を説明できていたという仮説が中沢にはある。アースダイバーしかり、ぼくらの研究でいえば発酵などがそれにあたる。この映画でエイリアンがぼくらにもたらしたのは、そうした能力である。新しい言語体系を理解させることでそれを与えようとしていた。では、ぼくらは設計において、それを取り入れるとしたらどう取り入れるか?というが、今日の担当者のテーマであった。これは近代思考=計画思考=シンボル的思考を越えるには?という今日的テーマであり難解である。ひとつにラトゥールが提案するアクターネットワークのような応えがある。彼はこの考えに至るまで「ラボラトリー・ライフ」という本を著している。これは、実験室で行われてきた出来事を詳細に記述し、それを振り返るというものであった。それを受けて建築では、コールハースのホイットニー美術館プロジェクトを詳細に記述しネットワーク化してみせたヤルネバの「The Making of a Building」そして「Mapping Controversies in Architecture」という本もある。建築でもぼくらは、不可解なものにたいしてリサーチという作業を設計行為として行うが、リサーチ結果を積み上げるだけでは不十分であるらしいことをまずこれらの本では言っている。自分をあるいは仮説を抱いてデータ化に対峙しないかぎり何も得られないというのである。没入といってもよいだろう。あるいは、このことを全体性の必要性といったりする。前回読書会の「人間の条件」では、全体主義として悪者であったものである。どうやらぼくらはこうした何かに取り囲まれていて、良くも悪くもそれから自由になる必要がありそうだ。
071 ラ・リーガ ソシエダ×セビージャ 2-1でEL王者をソシエダは下す。久保は10点目に届かなかったが、充実したシーズンになったと思う。若いSBを置き去りにするドリブル+トラップが今日は印象的。それを象徴するように久保のコンディションはシーズンを通じて良好であって、チャンスをものにしていた。これで今季終了。来季、WOWOWはスペインリーグの中継を打ち切るそうだ。

6月4日(日)
070 ドイツ杯決勝 フランクフルト×ライプチッヒ フランクフルトは鎌田と長谷部が先発するも、負ける。これで来シーズンのELがなくなった。ちょっと引いた位置からのプレッシングで、そこから刈り取っての速攻をねらうのだが不発に終わる。序盤にこのかたちで成功させたかったに違いない。しかし相変わらずのスペースにボールを出してからの選手がそれに連動するという攻撃のかたちは健在。スペースを上手くつくるための工夫が随所に見られた。

6月3日(土)
「海街diary」是枝監督を観る。家族とは、血縁がもたらされる外部形式もさることながら、それを維持しようとする日々のコミュニケーション、互酬によってかたちつくられるというのは、いつもの是枝監督のテーマである。その中で今日の映画はエンターテイメント性が要求されたためか、今時の俳優陣を中心に配して、周りをベテラン演技で固める方法がとられている。この頃から、監督の手腕が上がるのを感じる。ただ、このパターンだと是枝監督のいつものような前提の特異性が解決できていないとも思う。是枝監督は特異性の徹底した調査から一般性を導き出すのが上手い。特異性から物語を出発させるのは容易なことである一方、ストーリーに厚みを持たせるのが難しい。ハリウッド映画なら膨大なお金をかけて映像密度を上げるだが、これを演技密度に賭けるのでなく緻密な脚本によって欲しいと思う。
069 FA杯決勝 マンチェスターシティ×ユナイテッド シティの圧勝。これで2冠を達成。来週のCL決勝で3冠を狙う。ギュンドアンは調子よい。いずれの得点も、ボールより遅れてPエリアに入ってからの折り返しである。これは、前線のハーランドが効いていることによる。相手はそれに釣られて、おおきなスペースができる。そこをギュンドアンが上手く突いている。イングランドの今季もこれで修了。明日のスペインで欧州のレギュラーシーズンが終わる。


6月2日(金)
「野生の科学」中沢新一著を読書会のために再読。読みながら、ここでいう野生の科学とは具体的に何かを考えた。通常の科学的思考に対するものである。読書家に同時に取り上げている「メッセージ」という映画では、エリアンの発する墨絵のような言葉がそれにあたる。はじめに、x,yで解く代数に対する図で理解するつるかめ算、あるいは和差算を思い出した。これは図によって答えを導き出すものだ。次に、昨日の授業でも取り上げたスペキュラティブデザイン。「ライトついてますか?」という看板デザインである。トンネンルの出口にかかっている「ライトついてますか?」という問いかけから、人は自分の置かれている状況を把握しライトのオンオフを瞬時に実行できる。もし、プログラミングする(科学的思考)としたら膨大な数の条件付けになってしまう。もうひとつは、ぼくがよく例に出す逆上がりや自転車乗りの例である。この能力が野生の科学といったものだろう。これらに共通することは、事前に前提条件が不確かであるのだが、事後的に事前にあっただろう(前提条件)を理解するということである。ここに時間の逆転が起きている。事後的に、事前に遡ったとき何を未来に考えていたかを、理解できるということだ。これはとてつもない人間の科学的思考と異なる能力であると思う。そして人間は、その前提を積み上げて結果があるように考えてしまう。「メッセージ」といいう映画で、主人公の時間の混同がこうして表現されていた。つまり物事は時間によって進む(原因から結果)なのではなく、少なくとも思考やイメージの上ではバラバラなのだ。以前、陸上の為末氏が、短距離のスタートで、脳におけるスタート指示よりも先にアスリートの筋肉はスタートしている、といっていたことも思い出した。ティン・インゴルドのライン思考もこの中沢のアースダイバーも同様な思考形態を取っている。

6月1日(木)
授業の後に中山のナチュラルシームに学生と行く。30名近くのワークショップとなった。責任者を中心に模型上の案を1/1で実際に作成し、問題点を発見していった。色々な発見があり、現場での手を動かしての思考はよいものだと実感する。来週はじめまでに今日の問題を整理し模型と図面にすることにする。

5月31日(水)
068 EL決勝 ローマ×セビージャ 120分+PKの激闘の末、セビージャが勝つ。スペシャルワンのモウリーニョにたいし、ELスペシャリストのセビージャが勝った訳である。セビージャは今季絶不調で、あのロペテギからサンパオリ、そして4月になってメンディリバルに代わる程であった。両チーム共これといったストライカーがいなく、組織的連動が重要となってくるが、南スペインのチームは陽気のためか素直な性格な選手がいないそれが難しい。それがもろに出てしまったシーズンであったようだ。それをメンディリバルが見事にまとめ上げたということだろう。

5月29日(月)
「人間の条件」ハンナ・アーレント著の読書会。本書におけるアーレントの主張が、現代にあるいは設計において通じるものが何かを感じて欲しかった。それは積極的な思考とその表現ということであり、ぼくらは知らず知らずの内に社会風潮に取り込まれてはないだろうかということである。
067 ラ・リーガ アトレチコ・マドリード×ソシエダ ソシエダは1-2で破れるも、来季のCL出場を決めた。アトレチコは、久保に対し5バックの0トップでのぞんだ。そうしたフォーメーションにたいしソシエダは攻撃的にいかなかった。そのためボール保持するも決定機をつくれずに終了間際の1点に終わった。それにしても戦術にしたがい行動をとれるアトレチコ選手の能力の高さには脱帽する。

5月28日(日)
066 ブンデス ドルトムント×マインツ 優勝のかかった最終戦。前節、首位だったバイエルンが負けてドルトにチャンスが転がり込んできた。香川が属していた時以来の14年ぶりの大チャンスだそうだ。久しぶりにブンデスを観る。イグナパークは当時のように満員。観客が若者だけでないのが目立ち地域に支えられているのがわかる。ビッグクラブにないよいところだ。今季、ドルトはハーランドが抜けこれといったFWがいなかったらしい。今日はその弱みが露呈した。攻め手に欠き、ドローで優勝を逃してしまった。


5月27日(土)
ヘザウィックスタジオ展へ行く。フリーなスケッチが多く、彫刻的作品が多かった。しかし多くの作品は幾何学を連続させていて、全体のかたちとかたちをつくるためのルールつくりの往復が激しいのだと思う。そうしたプロセスを示す模型も多く、もう少し知りたいと思った。動画にそのあたりのプロセスがあったのだろうか。事務所に帰り気づいた。

5月26日(金)
4年生の設計における中間発表。与条件としてのプログラムが具体的でないときに、方向性を失う学生が多いことに気づく。そのアドバイスがあるとしたら、社会や都市は、ある決まりの下で知らず知らずのうちにできているので、それからの批評が設計の方向性になることが多い、ということだろうか。これをネチネチとするのが、ダリによる偏執狂的批判的方法というものであり、レムがそれをいたく気に入っていた。その決まり事が強大であればあるほど、調査は厚いものとなり、設計も面白くなるのだろう。

5月25日(木)
「ハンナ・アーレント」マルガレーテ・フォン・トロッタ監督をもう一度観る。前のシーンの解答を次のシーンで意味深に応えていることに気づく。前半からこの映画のテーマははっきりしていて、それは全体主義にたいする個人の無能さであるが、それだとエンターテイメント性には欠けるので、ハンナの人間性を打ち出すために途中ハイデガーとの人間関係に移り、その描き方は曖昧で意味深く、この作品を豊かにしている。ハイデカーとの回想シーンの後に友人メアリーの作品の性描写にたいする議論があったり(ハンナは強い拒否感がある)、ニューヨーカーの男性編集長が女性編集者にやり込められるなどのシーンがあったりする。それにしてもここで描かれるハイデカーの2面性は滑稽でもある。言葉の強さと人間性の幼さである。しかしハイデカーに対するアーレントの批評、「ひとりではできないものもある」という言葉は印象的。考えることに限界があるのだが、それを打破したいという強い意志がそこにあるということだろう。ぼくたちはそういったものに覆われていることに恐怖をみないといけない。

5月24日(水)
3年生の設計における美術館課題の提出。遠藤スタジオの優秀案3案がそのまま13週目の全体講評に選ばれる。ひとつは、上野公園全域に5つの小さな美術館のある複合施設を計画したもの。日本のスター芸術家の作品展示とカフェなどの休息所はもちろん、貸しギャラリや公衆トイレ、授乳室、子供のための屋上公園などを併用させた計画である。これら複合施設は、様々な人を受け入れるのに上野に足りていないもので、上野公園全域を様々な人に体験してもらうために計画された。上野の多生する樹をモチーフにした土と緑を前面に出したデザインで、どことなく野暮ったく現代風でもある。2つめは、子供の絵本を展示する美術館。もちろんそこで子供たちは読むこともでき、不忍池から桜のあるメイン通りまでを一体として考えた計画で、ダイナミックであった。美術館の設計はとかく中身に集中しがちであるが、中身は展示作品ばかりでなく、外部環境もある。外にある中身というものであろうか。それを上手く利用した計画であった。3つめは、展示室を桜のある通りに開き、生の桜と桜の絵を同時に体験できる展示室をもつ美術館。通りから見ると裏側の壁柱にダミアン・ハーストの桜を展示し、通りに面した表には一般展示を行うものである。その展示方法が評価された。優秀作品には様々な美術館空間を提案するものが多いが、現代はそれよりも場所性が大事にされている。それを表現する配置図は格別に重要であることを痛感する。
065 ラ・リーガ ソシエダ×アルメリア ソシエダにとって日程がきつい中、落としてはいけないゲームがこれであった。1-0の久保のゴールでソシエダは勝利をものにする。右から中央に切り込み、一度フェイントをいれてからの見事なループシュートであったと思う。シルバが早々に怪我のため退き今日は久保が攻撃の中心となった。久保をフリーにするために、久保と相手SBの間にシルバに代わって入ったブライス・メンデスがポジショニングして、逆サイドから久保に投げ込まれるケースが多かった。ゴラッソもそうして生まれた。次は久保が得意とするアトレチコ戦である。

5月22日(月)
3年生の設計における第1課題住宅の提出。配置を含めた大きな模型をつくることにしたのがよかった。小さな建築となるので、いかに外部を考えて、ダイナミックにするかが大事になる。スキップなどを工夫して外を巻き込もうとする案が多かったのはそのためだろう。それに屋根のデザインも絡めて環境を考えるように指導をする。


5月21日(日)
064 ラ・リーガ バルセロナ×ソシエダ 2-1でソシエダの勝利。カンプノウでの勝利は実に32年ぶりだそうだ。今日は怪我のためシルバがメンバー外。オヤルサバルと久保もスタメンから外れる。4位獲得に向けて次節火曜日のアルメニア戦に備えるためのようだ。しかしメンバーを代えても戦い方に変更がないのがソシエダ。むしろ、相手の裏に抜けるという戦術が明確になりFWのスルロットは躍動していた。1G1AでMOM。55分過ぎから登場の久保も切れていて、2点目のお膳立てをつくる。

5月20日(土)
午前中に墓参り。午後に棚からホロヴィッツ/スカルラッティを探す。スカルラッティはむしろホロヴィッツによって有名になったという。ホロヴィッツは硬質なタッチで歯切れがよい。自由に戯れているという感じかとも思うが、聞いていてテンションは上がらない。この整理を続けて、棚から取り出していたCDのメモをとる。パブロ・カザルス演奏のバッハ無伴奏チェロ組曲。カール・リヒター指揮のバッハマタイ受難曲BWV244。クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団のワーグナーパルシファル1962。ショルティ指揮のスタジオ録音のニーベルングの指輪。

5月19日(金)
グレン・グールドの浅田彰と松浦寿輝の対談を読む。WAVE37号。グールドの乾いていて離散的な音楽がどこからくるかを理解しはじめる。後期には生演奏をしなかったことを知っていたが、グールドは劇場型でなく、弾き終わってから音を確かめるような演奏家であったらしい。それは、全てをコントロールしながら、他者と共有する倫理を求めようとする現れで、グールドのことをこの対談で開かれた独裁者といっている。グールドと反対側にいる、スカルラッティの曲を演奏するホロヴィッツが紹介されていて、興味を持つ。

5月18日(木)
063 CL マンチェスターシティ×レアル・マドリード よもやの4-0でシティの圧勝。マドリードは何もできなかった。プレッシングがかからずに前線は浮き、DFラインと中盤は押し込まれてしまい、数的有利をシティの中盤に与えてしまっていた。それは両サイドの攻防で負けていたからで、マドリーが優位のはずのサイドが反対にやられたかたちである。展開としては面白いゲームであったと思う。これで決勝はシティとインテルになった。

5月17日(水)
062 CL インテル×ミラン インテルがミランを圧倒。1-0のスコア以上に安定した戦いであった。モウリーニョ時代依頼の決勝進出だそうだ。ミランにしても同様で長らく両チームは停滞していた訳であるが、その間にインテルのサイドバックには長い間長友がいたし、ミランには10番の本田がいた。懐かしい。監督は何度も代わってもインザーギが今は指揮を執っている。

5月16日(火)
INAX季刊誌の今月の特集は湯沢・横手。ぼくも昨年の夏に白井晟一を中心にここを観て回った。記事で白井晟一と林芙美子がパリで恋仲であったとことを知った。林芙美子の小説「浮雲」から、白井晟一の稲住温泉の「浮雲」の名が付いたという。その浮雲は外観こそあれ、従業員の宿泊所に変わっていた。林芙美子の自宅が山口文象だということも知った。今度観に行こう。林芙美子は若いときの不遇体験を書いた小説「放浪記」が有名であるが、戦前の日本政府に操られてしまったという汚点がつきまとっている。白井晟一も多才で、つかみ所がない建築家である。この秋田で観ることのできる稲住温泉の一連の茶室、秋ノ宮役場、そして四同舎などに共通性を見出しにくい。外界に影響されない感性などないのかもしれない。

5月15日(月)
今年の読書会第1回目は「イームズ・ハウス」岸和郎著。巨匠の建築からブリコラージュ的な建築への変わり目を本書から捉えてくれた担当者がいて話が進んだ。そこに大きく係わってた点が、テクノロジーに対する開かれた視点と、消費社会を見据えた工業化や核家族化、大衆社会などの社会変化であったりする。それをイームズが見通していて、実際のモノとして許容をもった作品にまで到達できたのがレイというのは、言い過ぎだと思う。しかし実際のところ、このイームズの作品から、建築はカジュアルになり、ぼくらがアタッチできるものになっていった。そこに学ぶべきものがあると思う。

5月14日(日)
「イームズ・ハウス」岸和郎著を再読。第1章では、イームズ邸を実際に訪れた感想というか分析が詳細になされている。当時の映像技術を下敷きにしてそれがこの建築に与えている影響を具体的に記述している。第2章は、同時代のアメリカの住宅建築との比較。俯瞰的にイームズ邸を位置づけている。他の建築との差異から、この建築が考える技術の位置づけが明らかにされる。メタファーとしての技術がリアルなものになったという。素直にこのような分析アプローチ方法を学ぶべきだとまずは思う。詳細で具体的な調査と俯瞰的な全体からの位置づけである。本書はそれでこの建築を明らかにしている。その結果、岸さんはこの建築がマスターピースとされる由縁を説明する。「近代という理性と合理主義の時代、内部が外部に開く時代になっているにも係わらず世界から閉じようとすることーしかも一見するとまるで閉じようもないオープンなガラスの箱、鉄とガラスの建築という形式を採用しながら閉じようという壮大な試みである」と。工業主義や商業主義、個人主義を引き受けて、それを透明にまとめてワンパッケージしたような建築をいっている。それは、要素を集約してインテンシティ高くまとめ上げるこれまでの「建築」とは異なっている。現代では、西澤さんのHouseAとの重なりをイームズ邸に感じる。

5月13日(土)
今年のCリーグを東京電機大学で行う。審査員に芦田智之氏、雨宮知彦氏、大村真也氏、小川博央氏、手塚由比氏を迎える。最優秀案に理科大学のよく練られた案が選ばれた。巧みな配置計画で、敷地の一部を買い取って(あるいは交換して)、街に上手く開いた正面性のない案であったと思う。次点の東京電機大学の案もそうであるが、総じてスケール感がよく、それは様々な問題に応えているのが完成度として表れている作品であった。千葉工大はその点で失敗したといえよう。その中で、学内の講評会もそうであったが、酒井さんの不思議な感性は評価され、雨宮賞をいただくことができた。全体講評では、大村さんのいう、地域への眼差し不足という指摘が印象的。地域に対する愛着をもっと深堀すると、それは時間軸で地域を考えることになるという。手塚さんの絶えず計画された建物の中にたって想像しようとする視点も印象的で、最後の大事なところはモノとなる。仕方のないところであるがそれがツメの甘さとして作品に表れるのだ。それをもっと自覚するとよくなると思った。理科大学が、これからの小学校の新しい教育プログラムの採用を建築にもり込もうとしているのが新しい側面か。垣野さんにその当たりの経緯を聞く。
061 ラ・リーガ ソシエダ×ジローナ CLを狙うソシエダは早々に久保のPK獲得とアシストで2点を先行し、このゲームは楽勝かと思われたが、前半に追いつかれ2-2のドロー。その後の時間に行われた5位のビジャレアルは圧勝し、勝ち点を5まで迫られてしまった。今日の久保は圧巻。早々にPK誘発によって、その後は相手も距離を取ってきたので、2点目のアシストも容易に成功させた。今日は右ハーフにシルバが久しぶりに位置したのも大きい。彼やスピロメンディとの前半30分頃のワンツーの繰り返しは凄かった。しかしその直後にあっという間に展開が切り替えてしまったのは、久保のインタビューにあったように、謎である。10番のオヤルサバルがこれに乗れずに穴を空けてしまったのかもしれない。その後の後半も、久保は好パフォーマンスを繰り返し、決定機をいくつもつくるも得点には至らなかった。

5月11日(木)
060 CL インテル×ミラノ インテリアのムヒタリアンのゴール。昨日のシティのギュンドアンといい、香川の元同僚はまだ十分の戦力となっている。香川の復調を望む。久しぶりのイタリアサッカーを観る。どちらかというと、どっしりと守りきるかたちである。インテルは速攻とセットプレーの個人技で今日は逃げ切った。

5月13日(土)

今年のCリーグを東京電機大学で行う。審査員に芦田智之氏、雨宮知彦氏、大村真也氏、小川博央氏、手塚由比氏を迎える。最優秀案に理科大学のよく練られた案が選ばれた。巧みな配置計画で、敷地の一部を買い取って(あるいは交換して)、街に上手く開いた正面性のない案であったと思う。次点の東京電機大学の案もそうであるが、総じてスケール感がよく、それは様々な問題に応えているのが完成度として表れている作品であった。千葉工大はその点で失敗したといえよう。その中で、学内の講評会もそうであったが、酒井さんの不思議な感性は評価され、雨宮賞をいただくことができた。全体講評では、大村さんのいう、地域への眼差し不足という指摘が印象的。地域に対する愛着をもっと深堀すると、それは時間軸で地域を考えることになるという。手塚さんの絶えず計画された建物の中にたって想像しようとする視点も印象的で、最後の大事なところはモノとなる。仕方のないところであるがそれがツメの甘さとして作品に表れるのだ。それをもっと自覚するとよくなると思った。理科大学が、これからの小学校の新しい教育プログラムの採用を建築にもり込もうとしているのが新しい側面か。垣野さんにその当たりの経緯を聞く。

061 ラ・リーガ ソシエダ×ジローナ CLを狙うソシエダは早々に久保のPK獲得とアシストで2点を先行し、このゲームは楽勝かと思われたが、前半に追いつかれ2-2のドロー。その後の時間に行われた5位のビジャレアルは圧勝し、勝ち点を5まで迫られてしまった。今日の久保は圧巻。早々にPK誘発によって、その後は相手も距離を取ってきたので、2点目のアシストも容易に成功させた。今日は右ハーフにシルバが久しぶりに位置したのも大きい。彼やスピロメンディとの前半30分頃のワンツーの繰り返しは凄かった。しかしその直後にあっという間に展開が切り替えてしまったのは、久保のインタビューにあったように、謎である。10番のオヤルサバルがこれに乗れずに穴を空けてしまったのかもしれない。その後の後半も、久保は好パフォーマンスを繰り返し、決定機をいくつもつくるも得点には至らなかった。

5月11日(木)
060 CL インテル×ミラノ インテリアのムヒタリアンのゴール。昨日のシティのギュンドアンといい、香川の元同僚はまだ十分の戦力となっている。香川の復調を望む。久しぶりのイタリアサッカーを観る。どちらかというと、どっしりと守りきるかたちである。インテルは速攻とセットプレーの個人技で今日は逃げ切った。

5月10日(水)
059 CL レアル・マドリード×マンチェスターC いよいよ準決勝が始まる。好カード。レアルが先制するもシティが追いつく。レアルのヴィニシウスはずば抜けている。圧巻である。しかし、得点の後はシティに押さえられていた。流石である。一方シティも攻めあぐねていたものの、デ・ブライネのスーパミドルシュートで嫌な雰囲気を脱することができた。結果はシティのホームにまで伸ばされた。

5月9日(火)
午前中レジスと打合せ。その後、学長のお別れ会のために虎ノ門へ。事務所に戻り雑用と授業準備。レポートを見る。忙しい1日であった。夕方ジムに行き、どうやら一連になっていた鍵を落としたらしい。事務所に入ろうとするときにそのことに気づく。自宅にも誰もいなく、途方に暮れる。

5月8日(月)
絵本図書館の本棚ができたので、大学内の保育園へ行き、保育士から感想をもらう。合わせて子供たちに利用して、その観察。概ねよかったと思うが、安全性について一部注意される。意外であったのは、捕まり立ちをする幼児にとって格好の位置に棚があり、もし体重をかけると棚の転倒の危険があるとのこと。研究室に戻り、担当者と善後策を練る。水曜日のゼミで経過を発表することにする。

5月7日(日)
「超複製技術時代の芸術」展へ行く。コピーができないデジタルデータNFT(Non-Fungible-Token)によってデジタルデータは変わりつつある。その紹介である。チーム・ラボ、ダミアン・ハースト、レア・メイヤーズ、セス・ジーゲローブからはじまり、ゲームクリエイターのルー・ヤン、ローゼンタールや森万里子などの新技術を使った自動生成、藤幡正樹のNFTアイコンデザインなどが紹介される。
058 国王杯 オサスナ×レアル・マドリード ヴィニシウスが圧巻のパフォーマンス。誰も彼を止めることができなかった。開始早々に得点。その後はオサスナに攻められるも、レアルはいなす形。一度は同点にされるも、ヴィニシウスが起点となりロドリゴが2得点。レアルが優勝。

5月6日(土)
「アメリカ大都市の死と生」ジェイン・ジェイコブス著を再読。本書で示されるのは、間違いなくトップダウンの都市計画でなく、ボトムアップのそれである。この思想は間違いなく建築の学生には共有されていて、そのためか最近の不動産会社のCMもこのことを強く訴えるようになっている。しかし疑問に思うのは、そうした状況を受けたためか路地で街を埋め尽くす卒業設計における計画の多さである。それではスケールは小さくとも、善良?な計画家のトップダウンと変わりないと思うのだ。ジェイコブスと敵対する再開発業者もそれ程の悪人でないとすると、無知であることにおいて共通している。これをジェイコブスは直感で判っていて、それは自習的な秩序というものである。つまり、ひとりひとりが重要で、かつひとりひとりが何かの秩序の下で自由に活動することへの視点である。全体計画ではなくて、秩序=ルールの共有であり、本書はそうするための経済的社会的政策を挙げている。建築する場合、このバランスが難しい。日本は成熟した。一通りインフラが整備され今だからこそこのことが可能にあると思う。しかし一方で、東日本大震災のような急務が求められるときに、トップダウンが幅を効かせてしまう。まだまだ危うい方法論かもしれないと思う。「シンドラーのリスト」スピルバーグ監督1993年作品を観る。ナチスのユダヤ人に対する扱いから彼らを救出するドイツ人実業家シンドラーの生涯を描く。当初の低賃金ユダヤ人を雇う工場経営の目的が、利潤追求からいつしか私財を投げ打ってもユダヤ人の命を守ることに変わる。対するドイツ将校の自制心こそが力という言葉は重い。ところでこの戦時中は欲しくてもモノが手に入らないので貨幣よりも物々交換が主流となり、モノが主流となっていた。しかしそれは命あってのことであり、生命は貨幣で交換できることがあっても、信頼をはじめとする道徳などの形ないものはそういかずに互酬から生じていた。将校が自分に欠けていると気づいた自制心は、そこに交換という仕組みがないので力(フェティッシュ)までにならなかった。それは、ユダヤ人の家政婦を愛せなかった理由でもある。

5月5日(木)
「レム」ドキュメンタリーを観る。読書会の副映画として最適と思う。レムのモノローグから彼の思想を垣間見ることができる。彼は自分の思想に自信をもっていて、それは、不確かな未来を占うものでなく、分析した現状にたいする批判精神が生むものであるからだ。ここに新しさを感じる。答えではなく、応えであることに○や×はない。ただしモノである建築は拘束力を伴うので、調査からモノに至るときにそれをどう扱うかをテーマとしているのがよく分かった。

5月4日(水)
「レム・コールハース 驚異の構築」ロベルト・ガルジャーニ著の再読。コールハースの大学時代からの伝記である。彼の思想の根本に計画に対する不信がある。それは近代や近代建築のもつ原因→結果の不信でもある。本書によると、コールハースがそこからの脱却を見出したのは、ダリによる偏執狂的=批判的解釈からである。第1章は、ダリの本に従い彼が「錯乱のニューヨーク」に至った経緯である。2章からは、その実践、発展が示される。それは即物主義であったり、コンテクスチュアリズムへの反旗であったりする。それは技術やプログラムへの懐疑である。かれの作品のユニークな形の根本に「建築」への批判精神があることを頭に入れる必要がありそうだ。それが驚異なものとしてクンストハルやグラン・パレ、エデュカトリウム、フランス国会図書館コンペ案、ボルドーの住宅に結びつく。ボルドーの家は実際に体験したが、素材の扱いや構造において箱を批判的に扱っている。この考えを拡大したのが著書「S,M.L,XL」で、4章に書かれているように、その思想をサイズと都市にまで拡大をした。5章のマコーミックセンターからは、コンテクスチュアリズムに加えて寓意的挿話の詩的総合をテーマにしたという。それは、計画から漏れる残余空間に着目するものであるという説は面白い。残余空間は、ソリッドとヴォイドからなる。それで、カーサムジカのような不定形な多面体が生まれた。ジャンクスペースはそれを機能的側面から評価するものである。しかし一貫して本書は、偏執狂的=批判的解釈を軸に作品解説を行う。このことが面白い。「ジャコメッティ 最後の肖像」スタンリー・トゥッチ監督を観る。作家ジェームズ・ロードがデッサンモデルとなる1964年の18日間のドラマ。ネガティブ思考で決して満足しないジャコメッティは癇癪持ちで自由人である。有名にもかかわらずお金に無頓着で汚いアパートに暮らしている。娼婦であるカロリーヌに現を抜かし、魂を絞り出す。妻のアネットも仕方なしに容認。理解者は弟のディエゴ。彼の作品集を見るとこうした人物にモデルは限られていた。ジェームズの肖像画はそこに残念ながらなかったが、カロリーヌの肖像画もそうであるが、どれも真っ正面からのもので、手は腹の下で組んでいる。細い線を重ねて描き緊張感がある。

5月3日(火)
「ミレー<晩餐>の悲劇的神話 「パラノイア的=批判的」解釈」サルバトール・ダリ著を読む。当時のパリではこの偏執狂的であることが流行していたそうだ。1977年の著作とされているものの、制作当時のダリの思考方法を知ることができる。それは、ミレーの「晩餐」を好き勝手に解釈し、そこに客観的事実を付加させるものである。その前提としてこの絵画は、画家たちのマスターピースであり、ダリの解釈とは真逆の正当なものに属していたという事実がある。それは性的なものが多く、生と死に関わる解釈である。
057 ラ・リーガ ソシエダ×レアル・マドリード 今日のソシエダはインテンシティも高く、何よりスタジアムがそうさせていた。前半久保は下がり気味で守備重視。前からのチェックは右サイド。後半からシステムが変わりFWと久保がチェック。これが見事にはまりミリトンのミスを誘い久保が先制弾。今期8点目である。その後もシルバの活躍がずば抜けていて安定したパフォーマンスをして試合をコントロールした。2-0でマドリーを破る。出場停止選手と週末の国王杯の休養のため多くの選手が欠場したとはいえソシエダの好パフォーマンスが光るゲームであった。

5月2日(火)
「人間の条件」に感化された建築家がいる。山本理顕さんで「権力の空間/空間の権力」山本理顕著の再読。はじめにと第1章は、「人間の条件」におけるポリスを、形によって解説している。それによると、まず植民地としてのグリッドのポリスがあり、そこにはアゴラ広場がある。そしてアゴラに通じる道にアンドロティスという閾、つまり私的でかつ公的な空間が用意されていたのだという。古代ギリシア人は、そこで個から公的領域に参加し、議論をした。これを「人々はグリッド・プランの都市に住み、ストアによって囲まれたアゴラで聴衆に訴え、「閾」のある家に住むことによって平等と自由という作法を身につけるのである。つまり市民としての作法を身につけたのであるp31」。つまり、自由や平等がポリスより先にあった訳ではない。アレンの「革命について」にあるように、「自由は、ギリシアの都市国家(植民都市)の出現と時を同じくして生まれた」のである。つまり、ポリスという建築空間があってはじめて、人々の政治的自由そして平等が実現されるのであってその逆ではなく、ポリスは自由と平等が実現されるように、建築的に計画されたという。しかし、山本やアーレントがいうには、「私たちの「社会」の中の建築空間は、その政治的な重要性を全くと言っていいほど失ってしまっているp34」。「人間の条件」に話を戻そう。「都市にとって重要なのは、隠されたまま公的な重要性をもたないこの「私的」領域の内部ではなく、その外周の現れ」ということである。つまり、建築の都市環境へのたちかたであるということだ。だから山本理顕さんが訴えるのは、現代の日本の風潮に反して「物化」ということである。ぼくもそれに同意する。

5月1日(月)
読書会に向けての「人間の条件」ハンナ・アーレント著の整理をする。一般にこの本を評すると、労働、仕事、活動の定義から、人間たる由縁は自ら積極的に思考し社会に関わることとされる。ただし、それだけだとそういった思想家はいるだろう。アーレントの建築で取り上げる可能性とはなんであろう。あるいは映画における彼女のエネルギッシュさは何に由来するのだろうか。それを考える上で、この本の最初にギリシアのポリスの話がある。そこには、批判としてではなく社会のつくりかたが具体的に示されている。この建築的思考が役立たないかと思うのだ。

4月30日(日)
映画「メッセージ」について、中沢新一が現代思想の2018年の総展望で寄稿していたのを思い出し、「レンマ的算術の基礎」を再読。ここでは、映画に沿いながら近代というか西洋思想と、それとは異なる思想体系を紹介している。人類/ヘプタポッド、線形/非線形、原因と結果/全体思考、因果律/目的律、ロゴス/レンマなどである。そして、後者を縁起、華厳経、虚数の存在、ライプニッツのモナド、鈴木大拙、ハイゼンベルクのマトリックス力学、量子論として説明する。そして、「物質の微細レベルに起こることを記述するには、思考はどうしてもレンマ的=縁起論的になっていかざるを得ない」という。

4月29日(土)
056 ラ・リーガ オサスナ×ソシエダ 中2日で今日もアウエー戦。厳しい日程がソシエダも続く。久保は先発から外れて60分過ぎから登場。疲れた相手に対し久保は好機を作り出す。今日は久保の日になると監督はいって久保を送り出したという。それに応えるように90分にチーム2点目を左足でゲットし、大事な試合をソシエダは手にすることができた。久保は調子を維持している。次はマドリード戦。楽しみである。

4月28日(金)
「メッセージ」ヴィルヌーヴ監督を観る。もう何度目か。この映画は様々な解釈を許す哲学的な作品である。ストーリーは単純である。人間が未知の外来生物と遭遇したときのドラマである。ただし、両者にコミュニケーションの手段はないので、そうした場合における言語伝達の意味や方法がテーマとされている。主人公のルイーズは言語学者。未知の生物は世界12箇所に突然現れた。そのかたちが、ブランクーシー「バード」の彫刻のようで、単純で有機的なかたちである。通常の解釈であるならば、言語学者ルイーズが、異性物との模索的なコミュニケーションを通じて、未来を知る予知能力を得たということだろう。それによって、宇宙戦争を回避できたというものだ。映画のはじめのシーンの子どもとの別れのシーンは実は過去のことでなく、未来の話であったというものだ。死んだ娘の名がHANNAHといい、対象文字で、こうした転倒を意味するものとされる。ところでこの映画では、いくつかの興味深い話が引用されていた。ひとつはカンガルーの話。袋をもった生物をオーストラリアの原住民であるエボリ人がなんと呼ぶかを、西洋人が尋ねたとき、彼らは「カンガルー」といったという。しかし、カンガルーは、What?というのが、エボリ人本来の意味であったいうもの。つまりは、コミュニケーションは錯綜するというもの。もうひとつは、サピア・ウォーフの言語相対性仮説。人の思考は、使用する言語体系に支配されているというもの。このふたつによって物語が展開されている。したがって、このふたつから、予知能力を得るという解釈は事前と事後の混同ではないかと思うに至った。ぼくらは普通、原因-結果という時系列で事象を対自として考える。しかしこの作品で外来生物が使用するもうひとつのものは、経験からくる事象に、感じて反応するものである。ぼくはこのときよく学生に逆上がりの話をする。逆上がりのできる条件が何であったかは、逆上がりができたことによって人は理解するのである。ただし、判ったと理解しただけで、真の事実(逆上がりの条件)はなにひとつ不明のままである。事後の成功によって、事前条件を誤読してしまっているのである。この映画では、最後の追い詰められた状態でルイ-ズは、異星人の言語全てを理解すると同時に、予知能力を獲得したことを悟る。そして未来における中国将軍の説得によって、宇宙大戦を回避するのである。しかし、未知の言語が理解できたかどうかは誰も分からない。理解したと思い込み、その必死さが生んだ行動が偶然にも成功に導いたと考えられないだろうか?彼女の思い込みが全てをよい方向に導いた。その後の結婚と子どもとの死別の予知は、過去の記憶を自分本位に編集した結果である。このとき、異星人の言語の映画における役割はなんだろうか、と思う。彼女の人としてのポテンシャルを最大限引きだしたトリガーであったのだ。彼女の内面は彼女自身しかわからないばかりか、事実も誰も分からない。結局は、偶然の一致なのである。ルイーズが自分自身と向き合い、個人的な内面の体験を突き詰めることで、結果として世界が救われるというものだ。ジジェックを思い出す。「モダンの透明とは、機械がどう動いているかを見とせるという錯覚を維持するという意味」というジジェックの言葉である。こうしたことを思わせる巧みな仕掛けがある映画であった。

4月27日(木)
八咫の坂上直哉氏の偲ぶ会が建築学会の中庭で行われた。それに出席。坂上さんとは1度だけしかお会いしていないが、昨年夏にアンデルセン美術館を案内していただき、その後で濃密な創作についてのお話をさせていただいた。難波さんと同じ47年生まれでに難波さんに負けずと劣らず、技術と芸術の融合の実践を考えていらっしゃった。芸大を出てから金属メーカーに就職。ステンレスで絵を描くことに生涯を捧げた人だ。その作品は、光反射を個々の人の網膜に感受させようとする軽く繊細なものである。そう想うのはギブソンの「生態学的視角論」やユクスキュルの「生物から見た世界」を通してであるが、今日の展示で坂上さんのスケッチブックが紹介されていて、蝶やキノコの詳細がやたらスケッチされているのを見て、なお納得がいった。もっと話を続けたいと思う人であった。
055 ラ・リーガ ベティス×ソシエダ 4位と5位による来季CL圏を争う戦い。リーグも終盤を迎えてきた。互いに中2日とあって体力的に厳しい状況。大事なゲームではあるが、シルバとメリーノは控えから登場。久保はフル出場であった。結果0-0のドロー。前半ソシエダは守備がはまり一方的であったが、クーリングブレイク後にボランチスピロメンディがマークされブライス・メンデスが下げられると、サイドのオヤルサバルも下げられソシエダは展開できなくなった。それが最後まで続いた。久保はインタビューで、もっと勇気が必要なことを訴えていた。この程度の相手に引いてしまっては活路がないというのだ。今年加入の21歳の生え抜きでない選手のコメントとして、なんとも頼もしい。

4月26日(火)
今日は建築計画2の授業で、京都市京セラ美術館の前田尚武さんを迎えての1時間半に及ぶレクチャー。前田さんは六本木ヒルズの建設に立ち会うことからはじめて、六本木美術館の展示企画で数多くの建築展を企画した。その手腕が認められ、建築と美術を結ぶコーディネーターとしての地位を確立した。京都市京セラ美術館はその最たるものである。今は村上隆展の準備で忙しいそうだ。今日のテーマは3点。ひとつ目は美術館の位置づけについて。実は建築が大きな美術作品であることを示しつつも、建築家の考える機能の限界、美術館を通じた地域への貢献、そして多様化していく美術館の現状である。それにもとづき前田さんは、美術館のアーカイブ化に力を入れていて「モダン建築の京都」という本を著したり、富岡製糸場では年表やその歴史展示を行ったりしている。京都の街へ出かけるワークショップ、あるいは美術館建設のコンペでは美術館ツアーの提案など多様で、その実践を数多く示してくれた。2つ目のテーマは、従来とは変化していく美術館について。なんでも美術館の入場料収益は2割程度で、それを埋めるべき方策が美術館の箱としての多様化を促進しているという。リアルな話だ。そのために、美術館自体が収益を上げるのがひとつ。ショップを充実させたり、ホイットニー美術館に代表されるように、展覧会をしない時間帯に結婚式とか出版パーティとかに貸し出しなどをしているという。京都市美術館ではカルティエの新作発表会などを行っている。そのためには今までは前面にでていなかった設備機能の柔軟さや充実が建築に求められているという。もうひとつの方策は、いかに外部資金を獲得するかということ。様々な企業と連携や、あるいは街との連係で経済活性化などに貢献することなどである。その積極性が求められている。3つ目のテーマは、日本の美術館の特徴について。ヨーロッパが歴史ある豊富な展示中心の美術館、アメリカのコレクターによる現代美術+建築の面白さにあるのに対し、日本は無料スペースを上手く使ったコミュニケーション重視にその特徴があるという。その好例として金沢21世紀美術館のフリー通路や大分美術館の街路と一体となる展示室などを上げてくれた。もっとも日本は寺の仏像などのご開帳に代表されるように祭との一体的展示が歴史的に展開されてきたという。どれもが興味深い話であった。夜にはゼミで、OBの秋山怜央さんを迎える。学生時代から最近の藤本事務所の仕事を紹介してもらった。学生時代にたまたま参加した篠原雅武さんに感化されたオブジェクト指向は今でもずっと続いているという。藤本さんは寛大で色々案出しをさせてくれるので、自分の案を認めてもらうために苦労するらしい。今日の説明もそうしたためか非常に説得力があった。ほぼ秋山さんがはじめから最後までひとりで完成させた十和田の市民センターは、即物的である点を評価したい。建築は煩わしことが多いので、こうした作品は強烈なインパクトを残す。正に建築だと思った。前にGA誌で3DCADによるその即効的なスタディとプロセスが紹介されていた。藤本さんは、事後的に言葉を与えていくという。モノの力を信じていて、秋山さんがずっと気にかけてきたオブジェクト指向とそこでリンクしている。もっとも池辺さんをはじめ難波さんも形式こそを大事にして、目新しい視点でもないが、近頃建築で薄れている姿勢である。これを歴史という出来事まで含めたのがぼくに言わせるとティム・インゴルドで、ラトゥールとつながるものとなる。レクチャーの後、研究室にもどり皆で歓談。学生時代のことなどざっくばらんな話ができた。

4月25日(火)
「野生の科学」で度々、贈与について語られる。つまり貨幣による交換以前にも、それに匹敵する物神性(フェティッシュ)がそこにあったことを見出している。それは柄谷も同様で、貨幣論理=言語論理=近代と考えると、それを越えるものとしての贈与互酬性を見出している。贈与互酬性は、金に換算できない何かを産む。昨日否定的に考えた修士の修了基準設定、あるいはエビデンス主義は、この近代思考の最たるものだろうと思う。教員と学生との間で何か創造しようとすると、プロセスや信頼関係が大事となり、責任の所在を外部にもっていくのは気が楽でありがたいことであるが、それ以上のもの=物神は生まれないことになる。

4月24日(月)
修士研究の合格ラインについての明示化が学科内で問題になってきている。明確な基準を設けることにぼくはあまり乗り気でないのは、意欲のある学生を伸ばすことに力を入れるべきであり、基準はやがて目標に成り代わってしまうからだ。建築基準法は設計にとっての明確な基準であろう。健全な町並みをつくることや衛生的で健康的な場所つくりに最低限の貢献をしているものの、本来の主旨は忘れられ基準法を満たすだけの主旨からむしろ離れてしまっているところも多い。要は基準が目的化されるのは避けられないことであると思う。人もエントロピー増大の法則に従い壊れていく運命にあるとすると、生きることとはそれに逆行して壊れないようにまとまりをつくることであり、それによって安易な基準をよりどころにしてしまうものだ。そう安易ではなく大海に出てからまとめるような姿勢であって欲しいと思うのだ。

4月23日(日)
午後に川口行き。状況は芳しくない。深夜「ブラックホーク・ダウン」リドリー・スコット監督を観る。ノーカット版ははじめて。市街地での戦闘がともかく生々しく戦争が怖くなる。軍隊において、指揮官の絶対性とそのために仲間を絶対に見捨てないという徹底的な姿勢が描写される。このソマリアの事件でアメリカは撤退。米軍の死者は19人に及んだという。

4月22日(土)
054 ラ・リーガ ソシエダ×バジョカノ 2-1でソシエダの勝利。ソシエダの今日の攻撃は冴えていた。久保は控えで、7番バレネチアが使われる。色々な見方ができるが、後半落ちる攻撃のための温存とみたい。バレネチアもよかった。後半からシステム変更し、4-3-3に。シルバ頼りからの変更となる。久保はゴールこそなかたものの、今日は相手DFを置き去りにする逆転の起点となった。

4月21日(金)
053 EL スポルティング×ユベントス 守田の役割は大きかった。ユベントスに堂々の戦いをする。しかしドローとなりスポルティングの敗退が決まる。スポルティングの連動は組織化されていて、前線に魅力的なアタッカーがいるのがよい。

4月20日(木)
「野生の科学」を続ける。中沢新一も物々交換(貨幣交換)に対する贈与(モース)を考察している。それはマリノフスキの「クラ」の交易である。リニアに対するノンリニアであることで、それの具体的例としてあげる「空とカタツムリ」の神話が面白い。贈与や互酬性にモノを越えた人格、記憶、霊性のやり取りをそこに見出している。
052 CL バイエルン×マンチェスター・シティ シティがバイエルンを去なして、準決勝に進出。今日のバイエルンはホームでインテンシティが高くあと一歩のところまでせまったのだが速攻でデ・ブライネとハーランドにやられてしまった。なかなか形がつくれないでいるので、新しく代わったトゥヘルの腕の見せ所と思う。

4月19日(水)
授業の後に、多田研との合同ゼミ。パスタブリッジが進歩してアイスバーブリッジになった。パスタと違って正確なジョイントができ、このために準備してくれた多田研の試作品は既に完成度が高かった。果たして遠藤研はどう立ち向かうか。期待しよう。剪断力を使ったジョイントがよいのではないかと思う。その後、新しい4年生の歓迎会を新習志野で行う。スペースの大きさがよく、皆としゃべることができた。最後にネズミが登場したのには驚いたのだが。
051 CL レアル・マドリー×チェルシー マドリー今日は、ロドリコが台頭。2点を決めて盤石に次のステージに進む。ビニシウスと並び同年代の久保と比較がされてきたが、ビニシウスは確実にトップになり今やマドリーの中心。ロドリゴは要所で活躍。確実性が売りである。久保はまだまだドタバタ名ところがあり、若いともいえるが、ロドリコの確実性が欲しいところだ。

4月17日(月)
今年の研究室の読書会は映画とペアで考えることにした。どれもが、イノベーションを起こした人のドキュメンタリーである。そうした映画の時代背景を後のぼくらには当たり前となって知ることができないが、その手助けになってくれる。どれもが近代以降の話で時代順にあげるとまずは、「エッフェル塔試論」松浦寿輝著と最近公開された「エッフェル」。保守的な都市パリからエッフェル塔がシンボルにまで認められるようになった経緯が記されている。そこには美学的側面はもちろん機能や技術に対する世間や専門家の意識変化が示されている。「人間の条件」ハンナ・アーレント著と映画「ハンナ・アーレント」。人間が社会へコミットする積極性の必要がここに記されている。それは労働、仕事、活動である。この人の持って生まれた力をアーレントは信じ、ハイデガーから離れ、映画にあるようにナチスを生んだ当時の社会自体を批判した。「イームズ・ハウス」岸和郎著と映画「ふたりのイームズ」。近代建築が資本商業化されていく中、これをもう一度建築にたらしめるのに苦悩したことが記されている。工業化や個人/大衆といった社会変化に対応する建築を提案したのであった。「アメリカ大都市の死と生」ジェイン・ジェイコブス著と映画「ジェイン・ジェイコブス」。資本主義がいよいよ台頭しとき、ヒューマンな都市が再開発される戦いである。ジェイコブスが単なる市民派代表ではなく、戦略・経済的に具体的に実践(活動)していたことを知ってもらいたいと思う。レム・コールハースの伝記「驚異の構築」ロベルト・ガルジャーニ著と映画「だれも知らない建築のはなし」。単発に見える建築潮流も実は大きなうねりの中にある。その中でエキサイティングな建築の可能性を示すのはコールハース。計画=プログラムと美とは別物であると一般には考えられて、美にとっては計画は不要とされるが、そうでなく新しい計画方法について示した本である。「野生の科学」中沢新一著とヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」。これも、デカルト的思考では捉えられない何かを説明しようとしている。映画では言語体系に対するものがそれであり、中沢新一は多くの事例を引用してこの何かを紹介しようとしている。科学で捉えきれない何かを人間性とか美とかで済まそうとする、この近代の限界をラトゥールは警告している。それらふたつに連続性をもたらすことをテーマとしている。

4月16日(日)
今ちょっと仏教のことを知りたいと思い柄谷行人の「仏教とファッシズム」を読む。仏教の教義とは関係なしに当時の知識人は、西洋のキリストに相当するものとして仏教を要請したことが詳細に記されている。それは現代における地球環境を再考するときに、自然との一体というような日本伝統を持ち出すことと同様だろう。それは建築でいえば、西洋の建築の知の行き詰まりから新しい方向付けを行うために、環境を持ち出すようなことなのかもしれない。柄谷はこれを美学的にみることだという。その反対は相対的にみることである。環境はいま特別視されているが、むしろ現代はその括弧外しを行うときなのかもしれない。
050 プレミア チェルシー×ブライトン 今日は前節と変わり三笘が躍動。いくつもチャンスをつくる。チェルシーは調子がよくないとはいえ、どちらがビッグチームであるか分からない程だ。ブライトンは、三笘や反対サイドにボールを届けるまでがシステマチックで組織化されている。というか上手く機能している。チェルシーは監督交代後もそれが上手くいっていない。今週はマドリーとの戦いがある。

4月15日(土)
今「野生の科学」を続ける。天皇に対する視点が面白い。当初天皇は、稲魂の祭祀者として自然の生産力の支配者としての王であったという。ところが、壬申の乱後に天皇権力が確立されると、政治という王権が前面に出てきた。ここまではよく言われることである。次に律令制が確立されるとその役割は実質不要になり、天皇そのものは空虚な中心という超越物になった。それが今日まで続いているというのだ。この記述と同時に登場するのは、クラインの壺とクロスキャップ。クロスキャップの動画をチェックhttps://wed7931.hatenablog.com/entry/2018/05/07/192208。これを立体的に理解する。
049 ラ・リーガ ビルバオ×ソシエダ バスクダービー。久保によるこのゲームに対する意気込みがこの1週間報道されていた。しかし、完全に久保は押さえこまれる。サイドに開いた久保には絶えず複数人がマークにつき、久保は思うようなプレーができなかった。試合も0-2の完敗。4位の座も危ぶまれる。

4月14日(金)
「野生の科学」を続ける。どうやらこの本はベイトソンのいう論理階型を力として説明しようとしているようだ。論理階型とは、AとBの矛盾を解決できないときに使用し、もうひとつ上の論理階型に上げて解決する人特有の自然な考え方である。よく出されるのは、母の愛情を受けたい子供が忙しい母に拒否されノイローゼになる例である。そのとき子は、母は今忙しいのであって時間をずらした後になれば愛情を受けることができる、と考え直すことができればノイローゼから復帰する。ここでは、時間という新しいファクター=もうひとつ上位の条件が考慮されている。人はこれを自然に行うのだが、本書はこれを力として問うている。
048 EL ユベントス×スポルティング 守田が先発。チームの中心メンバーであった。攻撃時でもわざと相手選手の中間にポジショニングをして、味方をフリーにさせようとするのは流石である。いくつか欲しいシーンもつくるもユベントスに0-1で負ける。次のホームでの戦いに期待である。チーム自体がユベントスのようなメガチームと対戦するのを楽しんでいるようだ。

4月13日(木)
今日は大学院の授業。計画2の学部の授業と同様に、大文字の建築の話しをする。アーキネットの織山さんにかつて行っていただいた若手建築家向けのセミナー企画をもとに、自分のキャラクターの差異化を目指すには、その前提なるものが必要となるという話である。こうした考えはG・ベイトソンから学んだ。ところで若いときは、こうした前提にたって思考することを創造的でないと考えたりしていたので、その予防策として今日は「オイディプス王」の神話の話もした。これはフロイトや柄谷行人、ジジェクから学んだことである。彼らは無から何かを生むことを、この神話を引用して説明しようとしていた。自律と社会化は同時に起こるという話である。あるいは、自己を俯瞰的に見ることを自己認識ということである。最近、他者がキーワードになっているが、他者との境をつくるとき、それよりも大きい全体というものが重要と思うのだ。自律を創造と重ねると、「建築」と作品にそのままあてはまる話である。
047 CL チェルシー×レアル・マドリード レアルの完勝。マドリーはピッチをいっぱいに使い、ボールを受けるべきところでボールを受ける。機械のように動いていたと思う。典型がFWのベンゼマで最終ラインから1歩引いてははたいて裏をつく。面白いように決まっていた。それでも2−0.セカンドレグにチェルシーは望みを残した。

4月12日(水)
建築計画2の授業で、恒例の「建築と建物との違い」から建築の作法、そして大文字の建築、そして「建築の四層構造」まで話を拡げる。小さいことに拘りすぎないで、自分の作品を大きな視点から位置づけられるようになるとよいと思う。
046 CL マンチェスターシティ×バイエルン バイエルンは監督がトゥヘルに代わってから2戦目だそうだ。しかしシティに歯が立たなかった。0-3の点差以上の差を感じた。典型的9番がいないのが大きいが、守備でもバイエルンがプレッシングをかいくぐれないのには驚いた。

4月11日(火)
大学の年度初めの会議。その後に数人の学生と立ち話。といっても数時間話す。池辺さんの内之浦ロケットセンターの資料をみせてもらった。建築文化の資料で、前回訪問したときのいくつかの疑問も解けた。卒業設計のアドバイスもする。敷地が面白そうで資料集めのアドバイス。かたちになるのは意外と伝統や習慣と言ったソフトが多いこともある。

4月10日(月)
今日から本格的に授業がはじまる。設計のガイダンスで学生と一緒に非常勤先生のショートレクチャーを聴く。新しく加わっていただいた若林拓哉さんは、建築のみならずソフトを含めパッケージすることに興味があるようだ。全国の建替予定の郵便局を町の中心施設に変えるプロジェクトを進めている。自宅の商店長屋の改修も進行中という。どことなく気持ちよい空間がそこに仕込まれている。一色さんは自分の立ち位置を定めたようだ。若林さんのようにまるごと建築の面倒をみることに興味があるらしい。村田さんの経歴も驚いた。京都の高松研+事務所から川口衛先生の事務所であることは知っていたのだが、その前に情報学科にいて4年次に建築に編入をしたという。さらに村田さんに興味が湧いた。佐野健太さんの話を聞いていても、偶然を必然に変える力を感じる。建築科は皆そういった者なのだろう。

4月9日(日)
快晴で景色の良い露天風呂として蓼科小斉の湯に寄る。木越の連峰の景色は抜群である。自由農園に寄り帰宅。「野生の科学」を続ける。「カタラクシー」が面白い。敵を味方に返る現象を、トーラストポロジーを使って説明しようとする。設計でいける!
045 ラ・リーガ ソシエダ×ヘタフェ 今日は、久保とオヤルサバルが先発。久保は右いっぱいに張り付き、空いたレーンをブライス・メンデスが狙う。したがって今日の久保は前ほど自由に内側に絞ることをしなかった。後半から、中盤底が若手のゲバラからスピメンディに代わると活性化する。久保も得点。縦への速い攻撃を行うことができた。なんとなく先が開けてきたような気のするゲームであった。

4月8日(土)
八ヶ岳行き。東京は20度超えるも、八ヶ岳は雪混じりの氷点下となる。夜はストーブがまだ必需である。渋辰野館に寄るも冬季で露天風呂はまだ閉まっていた。少し残念。ちょっと下りてホテルへ。
044 プレミア トットナム×ブライトン どこでもサッカーが見ることができるのはありがたい。三笘好調もハンドで得点の取り消し。試合後に誤審とされる。認められれば鮮やかな得点であった。ブライトンは逆転されCLが少し遠のく。

4月7日(金)
「野生の科学」中沢新一著を読み始める。科学では説明できないものは多々ある。そのことを多くの例をもって説明しようとする。柄谷と同様に「交換」をキーワードに挙げているのが面白い。交換を近代合理的思考を越えるものとして位置づけている.

4月6日(木)
043 スペイン国王杯 バルセロナ×レアルマドリード 第1戦と違って、ホームバルサは積極的に出る。メンバーも揃っていいた。しかし後半からスペースを与えてしまい4失点。マドリーの逆転決勝進出。マドリーの戦術はオーソドックスであるが、どんな相手にたいしても選手はそれを難なくこなす。これが強さの原因と思う。ビニシウスを起点とした速攻と、中央からサイド奥に切れ込んでからのもう一度中央への繰り返しである。前半優勢のバルサも、ビニシウスの中央突破から崩れていった。ビニシウスの相手は今日のために用意されたマルコス・アロンソであった。

4月5日(水)
ゼミにて、こども絵本図書館の計画。本棚の検討。絵本の新しい見せ方を提案してくれた。所蔵数が少ないので、ちょっと変わった見せ方もできるかもしれない。スケッチを続行。

4月3日(月)
NHKでフルトヴェングラーの特集。父はフルトヴェングラーのフィギアを飾るほどのファンであった。フィギアがあるのはそれだけである。フルトヴェングラーはワーグナーを愛し、ベートベンの第九が十八番であったらしい。この特集では、ナチに取り込まれてしまう苦悩が描かれていた。絶対的な美を信じて政治に取り込まれんとする、あるいは取り込まれても構わないとする姿である。1942年4月19日のヒトラー誕生日前日の第九が紹介される。ナチからのプレッシャーに屈するも美で立ち向かったという物語である。興味をもち早速棚を調べるも見つからなかった。第九だけでも演奏によって数種類のCDがあることを知った。この特集では他にジョスタコビッチとレーニンとの関係も示され、レーニンの死後の1953年の交響曲10番はソビエト現実に倣った悲愴的な曲らしく、やっと自分の曲が演奏できたのだという。他にユダヤ人のバレンボイムの2001年7月7日のエルサレムでのワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の演奏も挙げられる。ちなみにバレンボイムはサイードと関係があったことも知る。

4月2日(日)
NHKの日曜美術館は安藤忠雄特集。病気の現状からはじまり新しいプロジェクトが紹介される。若者に生き様を紹介する主旨があった。奇しくも坂本龍一も死去する知らせが来る。「人生は短し、芸術は長し」という言葉が遺言。
042 ラ・リーガ ビジャレアル×ソシエダ CL圏を争う重要な一戦にソシエダは負ける。いいところをつくれるもの得点できず、空いた中盤底を起点に得点されるという、このところの悪いパターンであった。だから、久保やシルバの評価は高く、中盤底のメリーノとブライス・メンデス、フィニッシャーのスルロットの評価は厳しい。この戦略でいくなら早い段階の得点。もしくはフォーメーションの変更が必要なのかもしれない。次節は、守備の要となるスピメンディとスペルディアが出場停止となる。

4月1日(土)
041 プレミア ブライトン×ブレントフォード ブレントフォードも上位に位置していて、好ゲームであった。3−3のドロー。チーム状態が成績に結びついている。三笘も好調を続け、得点を決める。ブライトンは、三笘と反対サイドのマーチを起点にしようとしていて、自然と良い形でボールが集まるからだ。

3月31日(金)
「ルーブル美術館展」国立新美術館へ行く。美術を広く行き渡らせようとしているのだろう、愛がテーマである。作品はフランス革命前のものが多く、そのためか建築との関連も薄く感じ惹かれるものも少なかった。エドマンド・バーグ、カントにゲーテ、バッハ、モーツァルト、マリー・アントワネット、建築家でいえばルドゥー、ブーレー、産業革命のはじまりの時代に重なる。

3月30日(木)
東「空想の建築史」土居義岳著を読み始める。建築を信じる力をテーマにしているようだ。それは部分が組み上げられひとつになるときの力である。原広司、カント、ヘーゲルそしてフォションと続き、扱う範囲が幅広い。040 ユーロ予選 スコットランド×スペイン 先日とガラッとスタメンを替えてのぞむもスペインが決定機をつくれずに負けてしまった。パスを中心にゲーム構成する場合、完成するまで時間を要するのと、決定機を高めるのは難しい。

3月29日(水)
ゼミにてM2生の1年間の計画を聞く。今年の読書会の方針も発表。映画と結びつけることにした。映画は、イノベーションを起こした人をテーマにしたもの。その内容を、映画を通じて当時のバックグランドから理解しようと思う。映画「エッフェル」と「エッフェル塔試論」松浦寿輝著、「ハンナ・アーレント」と「人間の条件」、「ふたりのイームズ」と「イームズ・ハウス」岸和郎著、「ジェイン・ジェイコブス」と「アメリカ大都市の死と生」、「だれも知らない建築のはなし」と「驚異の構築」そして「メッセージ」と「野生の科学」の中から選ぶ。

3月28日(火)
039 代表 日本×コロンビア 日本が苦手とする南米勢との第2戦。加えて新しい試みがどれだけ実践できるかが試される。今日は遠藤が外れて鎌田がボランチ。時折2CBの間に下りて、SBと前線との間でゲームプランニング。悪くなかったと思うが、堂安はJリーグレベルとして試合後にこの前半を批判。後半は選手が代わり、代わって入った選手が前のめりでエキサイティングになったものの、形にならずに終わってしまった(堂安は後半途中出場)。南米特有の球際の激しさがさらに試合を難しくしてしまっていたこともある。W杯後、代表にはボールポジショニングが大事にされている。その場合でも時折スイッチが入ることが必要となる。この2つに連続性を持たせること、三笘のいる左サイドでその萌芽が見られたのは希望。

3月27日(月)
「ストーリーが世界を滅ぼす」ジョナサン・ゴットシャル著を読み終える。本書の言うストーリーとは悪者だ。ぼくらを影でコントロールする根源をいう。もちろんそれは正しいが、一方でぼくらが言葉を話せたり、イメージを共有できたりするのも、そうした単なる言葉を知っているだけでなく、背後のコンテクストをストーリーとして共有しているからだと思う。もう少しストーリーのポジティブな面も語ってほしかった。

3月26日(日)
東京都写真美術館の土門拳「古寺巡礼」展へ行く。全5巻の古寺巡礼全集にそって展示がなされ、その中でも仏像の顔をズームする作品が中心に選ばれていた。土門拳特有の迫真に迫る力は半端ない。まだ現物を観たことのないものに、長浜渡岸寺十一面観世菩薩像、多治見の永保寺観音堂があった。事務所に戻り作品集を手にして展示作品に係わる他の写真を確かめる。

3月25日(土)
アーティセゾンで開催中のダムタイプ展へ行く。昨年のヴェネチアビエンナーレの回顧展で、同スケールで日本館が再現されている。建築家の場合と違って、素人にはまねできない作品であった。確固たるデジタル空間が提案され、その中でぼくらは右往左往するだけで、彼らの結成時からあまり状況は変わっていない。
038 ユーロ予選 スペイン×ノルウェー 新生スペインは柔軟で、今日は右サイドからの攻撃が多かったが、どこからでも展開できる強さをもっていた。後半突き放し初陣をかざる。

3月24日(金)
037 代表 日本×パラグアイ 日本のリスタートは国立競技場からはじまった。4-3-3でポジショニングを上げながらゲームコントロールを目指していくという。そうはいうものコンディションがよくないこと、あるいはパラグアイの効率よいプレッシングが効いていたことによって、自陣に留まる遅攻が目立った。後半から遠藤を両CBの間に落として、両SBを上げるようにすると、そこからの速攻で同点にした。注目は新しいSB。長友や酒井のように上下だけでなく、内側のレーンも使う。ただしその前の三笘や堂安、今日はさっぱりだった鎌田との連係が今後の課題となる。

3月23日(木)
「ストーリーが世界を滅ぼす」ジョナサン・ゴットシャル著を読む。ぼくらは物語にコントロールされているという。前半はその実例が多く示される。最たるものがキリスト教だ。キリスト教にある福音伝道と一神教不寛容な2つのプログラムコードが、物語に力を特に与えているものであるという。昨日までのWBCの人気も同様だろう。

3月22日(水)
午前にWBCを観る。かつてはスモールベースボールといっていたが、いつのまにか体力、スピードともに大リーガに劣っていなくなっていた。内容もいわゆる横綱相撲で、その上での勝利である。サッカーも2050年優勝を掲げているが、そうした日がくるのだろうか。体格的にはいまいちの状況でそれを前提にしたゲームプランを考えているのだが、それだと勝利してもタイトロープを渡るような状況で運に大きく左右されてしまうような気もする。午後は卒業式で学生らと研究室で会う。3年間一緒であった大学院生とは感慨深い。就職先も決まったというので一安心。これからも頑張って欲しい。

3月21日(火)
JIA MAGAZIN の坂牛さんと内藤廣さんの対談を読む。建築は小乗仏教、土木が大乗仏教という考えだそうだ。その中で、建築におけるプリコジンを引用したエントロピー論に同意する。「物理世界全体はエントロピー拡大の方向で、最後は無限大になって消滅するということになっている。それがエントロピー論の描く世界観です。1980年代、イリヤ・プリコジンという化学者が、そうばかりでない、不連続に局所的にエントロピーが減少することもあり得ること示して話題になりました。それが生命現象の定義だというのです。つまりエントロピーが増大していく中で、ひょっとしたら建築はエントロピーを減少させる人間の生命的な営みなおではないかと思い至ったのです。もしそうだとすると、建築を一生懸命つくること、そのこと自体はエントロピーを減少させる生命的な現象と矛盾していない。そういうことの延長上として僕らは営みとして建築をつくっていると思えるのは、心安まることですね」。

3月20日(月)
036 ラ・リーガ ソシエダ×エルチェ 今日はオヤルサバルに代わり久保が登場。トップ下のシルバとの連係が光り、後半になって漸く得点すると、チームにも安堵感が漂い、2−0の久しぶりの勝利。欲をいえば、シルバと久保にもうひとり誰かが絡むと最高だ。これで気持ちよく代表ウィークを迎えることができる。

3月19日(日)
御手洗龍さんの新しいプロジェクトを観に行く。帰りがけの難波さんにお会いし簡単なご挨拶をする。そして13:30から1.5時間かけて丁寧な御手洗の説明。7階建ての旧街道沿いの自宅を兼ねた賃貸ビルである。テーマは、建築の秩序がもたらす多様な場つくり。9m×38mの細長い敷地に千鳥状のラーメン構造で建築にして、そこに外部を取り込みながら諸室を挿入させる計画である。取り込んだ外部空間は縦方向にも展開し、横の駐車場空き地からスカスカの全体像がよく見える。赤色の600mmの柱とスラブを強調するために、邪魔となる手摺りを目立たなくしているのは上手い。しかもその構造計画が、支配的にならないように梁をみせたり半分隠したり、柱の形状を○や□など変えたり千鳥配置にしたり、散漫的構築といったらよいか、新しい構築方法だと思う。構造を他のエレメントに融けこませたり小さくするだけでないのは発見的な方法かと思う。上部3階分のオーナー住宅は雑多な豪華さがあってよい。それはスケールの扱いが上手いからだ。施工は日南鉄鋼。頑張っている。その後、車で30分のところにある妹島さんのなかまちテラスへ。彫刻的建築を輪切りにするので各階で平面が異なるのは現代的だ。ただしスケールが小さくて、同様なコンセプトのもう少し大きい北斎美術館の方が機能的に役だっている。外壁を覆うエキスパンドメタルの西日への遮蔽具合は、完璧でないものの機能的であった。その後、多磨霊園まで南下し、墓参りを済ませてから稲城のスーパー銭湯へ。中央道で帰宅。1日を終える。
035 FA杯 ブライトン×グニムズリー・タウン 何でも相手は4部のチーム。前半は手こずるも、早々に得点すると落ち着いて突き放した。その中の三笘も同様。5点目を決める。

3月17日(金)
034 EL ソシエダ×ローマ ホーム0-0のドローでソシエダ敗退。久保はよもやの先発から外れる。アルグアシル監督は絶不調のチーム状態から勝利するために、調子のよかった時のシステムを変えないこと、その場合新参の久保よりもポジションの被るチームの顔であるオヤルサバルにかけること、であったと思う。かけるといったのは、オヤルサバルは本調子から程遠かったからである。案の定、引いたローマに対して風孔を空ける者はいなかった。前日のインタビューで久保は、チームの歴史を自身のゴールで変えるといっていった。それなのに、である。久保の悔しさと絶望感が、試合後のサポーターに向かう久保の背中が語っていた。

3月16日(木)
「闘争の世代は偉大だ。これまでの自身の行ってきた活動に自信があり後輩を心配する。時代の変化は刻々と変わること、だから先日の審査でも話題になった未来を計画することの限界など、気にしてはいないのだ。それは、論理における強度とどこまでを射程に入れるかという繊細さに対応するといえそうで、これを建築では、微細な構築として乗り越えようとしているが、要は他者をどう位置づけるかということだと思う。他山の石としよう。
033 CL マドリー×リヴァプール リヴァプールは超攻撃的布陣でのぞむも撃沈。決めきれずに速攻でビニシウスとベンゼマに仕留められてしまった。これでCLも敗退。昨年とは打って変わる。

3月15日(水)
JIA修士設計展の審査に参加。審査委員長に飯田義彦氏。最優秀案には、芸大のモバイル寺の作品が選ばれた。なんでも寺のご子息で、寺の布教をするために担いで動かすことのできる寺の提案であるという。飯田さんの心配は、こうした企画力に負う作品の扱いだ。審査では対抗馬を求めていたが、どの案もナイーブで強い企画力に抗するものはなかった。工学院や日本工業大の町並み保存案は社会性がありその点で強さがあるものの、ぼくとしては、理想的なヒューマにズムに頼ることなく、再開発に屈してしまう現実に抗する戦略が必要かと思った。ラトゥールが、最後に人間論に逃げる近代科学主義の弱点を指摘していたことである。逆の立場にたって、未来を計画することの不可能性を意識するあまり手法論を中心に展開するものがある。最近流行のオブジェクト思考へと連動していくこれは発見的であるのだが、自我的でもあり共感が弱い。神奈川大や工芸大、千葉工大の酒井くんの案もそうであった。プレゼに選出された9作品は、展示の規定上から、どれも模型映えのするものであったのは否めない。最後は建築にしてなんぼという原点みたいものだろう。ぼくの研究室の鈴木さんの弱かったところでもある。そうした中の最優秀案のモバイル寺の案はぼくも納得がいった。彼のプレゼが生き生きとしていたのは、仏教という全体像がまずあってそれに感化する自己を、形を通じて表現しているからだろうと思った。無理矢理に自己を表現してもいないし、逆に隠すことにもならないのは、そのためだろう。トップダウン形式はもはや時代遅れでボトムアップがよいというのは通説である。それはポストモダン時から言われていて、制作でなく生成ということであるが、先の方法論の行き詰まりも同様で、そうはいってもなかなか自然には生成ならないのである。柄谷行人は、シンボル思考でなくアレゴリー思考といっていた。先日亡くなった大江健三郎を引用して、である。ぼくらは、何かはっきりとしていないが選択可能な全体像に包まれている。それは宗教やネーションであったり、社会通念や文化であったり、もう少し狭く言うと、○○道といったものがその典型例でいくつもある。だから選択可能なものである。講評でぼくは「建築」もそのひとつでないかと、おそろおそろ発言をした。それらはなかなか意識されないものであるが、その中で自己位置を表面することで逆にその世界が示されるものでないかと思う。モバイル寺の案はその好例であった。修士設計でリサーチが重要であるとすると、その世界観を意識化することでないかと思う。

3月14日(火)
JIA修士設計展の準備に実行委員として参加。模型サイズは1800×900。図面を大きく展示できないので、1次審査は模型評価がポイントとなる。14時に終えて事務所に戻り、明日の審査のための資料を読み込む。私小説的な作品が多いことが気になる。こうした感性を外に向ければよいのだが。

3月13日(月)
「エッフェル塔試論」松浦寿輝著を読み終える。前半は、観光資源としてだけでなく、文化的資源となったエッフェル塔の説明。コルビジュエとスーラを取り上げ、そこではエッフェル塔建設を巡る当時の社会状況が捉えられている。それは、「西欧建築史の言説の制度性、技術と芸術の棲み分けをめぐるイデオロギーの変容、第三共和制下フランスの階級と共同体無意識、発生期の大衆社会における「知」とジャーナリズム、職能共同体への忠誠と民族的自己同一性との葛藤、「イメージ」現象の20世紀的再編成」といったものである。そして後半は、当時はともかくとして現在までエッフェル塔がパリを表象するものになったことの説明。それは、エッフェル塔が「「表象」と「近代」との関係をめぐる問題の束を集約的に体現している特権的な記号として、虚空に屹立している」からであるという。そして、エッフェル塔という対象が社会から影響されまた影響を与え、無意識のあるいは多義的(ポリセミー)な歴史的対象となった仕組みを明らかにする。そのとき取り上げられるのは、ゴダールの「カラビニエ」とブニュエル「自由の幻想」。映像やイメージとしてのエッフェル塔である。「こうした複製技術が産み出すマス・プロダクションの商品に対しては、人はふつう、どちらかと言えば批評的な距離を取りつつ軽く扱いがちであり、熱い思い入れの対象とはあまりしないものである。中世のイコンと、エッフェルの絵葉書と、コンピュータ−・グラフィックスという三者を並べてみた場合、呪術的なフェティッシュとして崇拝の対象となるのにもっとも相応しからぬものは、中間に位置する絵葉書だろう」としながらも、「モダンの時代における映像の存在感とは、あくまでも「量」の問題であり、「質」の問題ではない。(中略)人を説得するのは、映像と「本物」との間の「類似」ではなく、無数の映像相互間の「相似」の方である」というのだ。つまり近代においては、質や美ではなく、対象自体の圧倒的数量、その偏在分布の広さ、そしてそれら相互の間での流通頻度が重要であるというのだ。エッフェル塔はそれを体現するものなのである。

3月12日(日)
午前に墓参り。帰りに深大寺に寄る。「エッフェル塔試論」の終盤は、エッフェル塔のもつ表象について。2つの映画が紹介される。ゴダールの「カラビニエ」とブニュエル「自由の幻想」である。ここでエッフェル塔の位置づけを絵葉書的といい、近代を表象する虚空の屹立とする。2つの映画は、「物語とイメージの安易な癒着を撃つという批評的身振りを通じて、そうした無限に巨大な記号論的環境としての「エッフェル塔」の不在の輪郭を触知さしめることに成功した、稀有なフィルムp369」であり、それがエッフェル塔の本書の最終的な位置づけでもある。
032 ラ・リーガ マジョルカ×ソシエダ 今日も1-1-のドロー。ソシエダはトンネルから出ることができない。ここ9試合で1勝だそうだ。久保は今日休みで80分過ぎから登場。シルバ以外は思うようなプレーができていないので、大事にいきすぎているからかも知れない。もっと大胆なプレーを欲する。

3月11日(土)
「テルマ アンド ルイーズ」リドリー・スコット監督を観る。これまでリドリー・スコット最悪の映画となっていたのが、時代とともにその評判も薄れて、この映画を推す評論家も出てきた。それもそのはず、「エイリアン」「ブレードランナー」「ブラックレイン」の後の作品である。しかし実際に観ると、やはり疑問が残る作品。2人の女性が旅の途中、ヒョンとした切掛けで犯罪を犯したことからはじまるロードムービー。ブラッド・ピットの出世作でもあるそうだ。
031 プレミア リーズ×ブライトン 今日は三笘の日であった。これまでの数試合と違って三笘へのマークが1人であった。リーズの作戦は前線からの激しいプレッシング。そのために中盤守備も中央の3人にかかり、両Wサイドは比較的ルーズとなる場面が多かった。そうなると三笘も反対サイドも躍動する。今日は全得点に三笘が関わった。それにしてもブライトンDFは相手FWを呼び寄せてかわすという大胆なプレー。ちょっと信じられなかった。

3月10日(金)
029 EL ローマ×ソシエダ ソシエダがモウリーニョに完敗。ローマ前線3人の激しいプレッシングからソシエダはビルトアップが上手くいかずに、サイドに追いやられる。右Wで先発の久保はそこから受けるも、2人に付かれ上手く中央へボールを送ることができなかった。唯一のチャンスは、逆に奥へドリブルしニアサイドをぶち抜いたシュートとセンタリングをあげたところだけだった。その後、久保はスペースを目指して中央に寄る。そして空いたスペースを両SBが使うのだが、反対にその裏をローマに突かれてしまった。その速攻は見事であった。点差以上にローマが優勢であったと思う。ところでプレシングが激しくなると個人技に差が出る。トラップミスも多く、ひ弱くまで見えてしまった。来週のセカンドレグをどう闘うか。意地の見せ所である。
030 EL スポルティング×アーセナル 守田先発。富安は65分過ぎから。守田は攻守の要にいる。オウンゴールはしかたなかった。富安は今日、守備の安定しないアーセナル左サイドへ途中出場。左サイドの攻撃時には、中央に絞りボランチ役が要求される。富安はトーマスとともに見事にその役割をこなし、むしろ生き生きしていたように見えた。2-2のドロー。

3月9日(木)
028 CL バイエルン×パリ バイエルンの試合巧者ぶりが目立った。それほど強力なFWがいるわけではないが全員が攻めていた。一方パリはちぐはぐさが目立ち、前線までボール渡らず。バイエルンが完勝。

3月7日(火)
「エッフェル塔」マルタン・ブルブロン監督を観る。松浦さんの「エッフェル塔試論」を読むと、伝統的な美から脱却することの苦心やそれを個人的嗜好でなく社会的使命と感じている点、そしてめまぐるしく生まれてくる新技術を背景とした社会転換、これらに興味を惹かれることが多いのであるが、本作はふたりのロマンスがそれに加わっている。エッフェルが偉大な成功を収める裏に、上流階級であるにもかかわらず天真爛漫、当時としては破天荒な女性の社会挫折があったというストーリーである。とはいえ「エッフェル塔試論」にも触れられている当時の社会状況も知ることができ、それは、芸術ほどには技術や科学を尊重せず、市民の立場を保障しつつあるも個人の存在感は薄く、これから移行する大衆消費への対応が遅れている社会である。その後100年以上が経って現在は、完全に消費商業中心に社会はなっている。にもかかわらず、あいかわらず美的関心は、それに背を向け、公共性とかの別の形へ置き換えることで、それを保持しようとしているのかもしれない。

3月6日(月)
027 プレミア アーセナル×ボーンマス 富安は前半のみ出場で評判がよくないことを知り、見逃し配信を観ようと思った。確かに前線との連係がとれていなかったのだが、大きなミスもなかったと思う。前半0-1となり攻めあぐんでいたチームに活性化を与えるには、停滞気味の富安サイドにあったということかと思う。長らく出場していないと、こうも評価が変わるのかとも思う。

3月5日(日)
午後の飛行機搭乗まで、霧島神社とその古社を廻る。霧島神社は最近国宝指定となったという。参拝所となる勅使殿は立派な装飾のある唐破風屋根で覆われ、そこから先は行けないのだが、本殿までの直階段があり、その両脇にも立派な装飾があるようだ。急斜面を利用した躍動的な本殿である。参道が広く堂々としているのは古社も同じ。古社はそこに小さな樹のみが現在祀られているが、その背後にはふたつの霊峰がそびえる。ここも宮崎と同じ高千穂と呼ばれるところで、古事記以来、神の生まれたところとされる。

3月4日(土)
内之浦のロケットセンターへ。1960年代の通産省と関係深かった東大生産研究所の池辺陽設計である。今日は2度目の訪問となるが、前回は発射直前のため見学禁止で苦い思いをした。敷地ゲート近くにある花びら型プランの資料館のみが見学可能であった。今日は幸いにも雨に降られずにいくつかの施設を外観のみ見学できた。まずはMロケットセンターへ。ここはロケットの組立場。メインの北側ファサード前までは入れずに西と東面のみ見ることができる。この面の写真掲載はなく、北壁と同様の四角錐パーツを使用した大型引戸となっていた。施設は再塗装され70年代のアウラはなくなっているが今でも健全に使用されている。内部には大阪万博のお祭り広場の予行演習として日本で初めてスペースフレームが採用された。観たかった。その手前には、不思議な幾何学をしたコンクリートの退避室がある。大地に馴染み外観をうかがい知ることはできない。隣のU字型の管制室はなくなっているようだ。しかし別の坂道からここを俯瞰できる場所を発見。そこからMロケットセンターの四角錐トップライトはなくなっていることを知る。南側は新しい機能が付加され現在は本体より大きくなっていた。その途中にはコンクリートのLロケットセンター。そして鉄骨造の施設も発見。かつての計算センターか。今は稼働していない。梁なしの斜柱によって天井高のある三角のメイン空間をつくり、諸機能はそこから突き出すかたちで付加されている。このような幾何学的構成は池辺さん特有である。斜面に建つ第一光学観測室の建築は、土圧を受けるコンクリート箱に1/4円の屋根と壁が一体化したスチール骨組+フレキ外壁を被せる構成である。再び道を下り、ゲート近くの資料館へ。花びらをつくる鉄骨造壁のスリットから採光し、中央が吹き抜けで、そこに直立したロケットが展示されている。その吹き抜け周りを階段状にスキップする構成である。内壁は6角形の段ボールをFRPでサンドイッチしたものであった。2時間くらい見学した後、再び霧島のホテルへ戻る。今日、鹿児島のホテルは予約でいっぱい。テレビでマラソン大会があることを知る。宿泊ホテルも満室で家族連れが多い。湯量が豊富で霧島の人気を知る。

3月3日(金)
午前虎ノ門行き。午後の便で鹿児島行き。レンタカーを借りて空港から直ぐの日当山温泉へ。資料集成にも掲載の数寄屋旅館をインテリアデザイナーが最近リノベーションした。デザインに線が多いのが気になる。吉田五十八は線を少なくすることで近代数寄屋を完成させたというのだから、その逆行となる。
026 ラ・リーガ ソシエダ×カディス 0-0のドロー。このところソシエダがなかなか得点までいかないのは、中盤底の5番がマークされ、かつ前線が流動的でないからである。今日の久保はダイアモンドの頂点で先発し自由に動き回り、その連係のキーマンとして監督から期待される。いくつか決定的パスを通すも、単調なのだろうか、シュート数も少なく、得点に至らなかった。後半途中からその位置にシルバが復帰。流石シルバはひと味違った。そして久しぶりに久保との連係でDFラインを混乱させる。ソシエダらしい戦いが戻ったところでタイムアップ。来週はローマ戦がある。

3月2日(木)
「エッフェル塔試論」を読みながら、難波さんの「箱の家と環境」が前衛だとしたら、エッフェル塔との間に相関が見出せるのではないかと思うに至る。本書でのエッフェル塔の存在は、単なる技術×芸術や革新×保守に還元されるものでなく、保守側の時代背景と共有しつつもそこから逸脱するものとして描かれている。「建築」も新しい民主の力によって崩れていくのは確実である。しかしそれは、単純に(民主的な)場×建築あるいは市民建築家×ザ建築家、住宅×公共建築という2項対立に回収されてしまうことでもない。これが現代日本の風潮であるが、エッフェル塔の場合ように、「建築」という土俵に立って、場や民間、住宅への創出が可能でないか。難波さんの環境は、これを目指しているのだろう。そうすると難波さんはいつから「建築」における環境を意識するようになったのだろうかという疑問が次に湧く。

3月1日(水)
025 国王杯 ストーク×ブライトン ブライトンは三笘のアシストにより1-0の勝利。チームにおける国王杯の位置づけが不明であるが、ビッグクラブほどに力が入っていない印象。いずれ負けるとの判断か?それともそれ程の収入が見込めないためか。週末に試合がなかったにもかかわらず、ベストメンバーではなかった。三笘も後半75分で交代。それでもブライトンは逃げ切った。

2月28日(火)
今花粉症のためか、眠れずに深夜wowowで「スティルウォーター」マット・デイモン主演、トム・マッカーシー監督を観る。オクラハマスティルウォーターからマルセイユに留学した娘の殺人罪無実を証明するために、真犯人探しに奔走するアメリカ人を描く。主人公はアクションドラマのヒーローではなく惨めな存在であるが心を入れ替えたひたむきさがある。そこに文化の違いや宗教、人間心底の憎悪、道徳が絡む。マルセイユの文化の象徴としてサッカーがあがり、そこに当時所属していた酒井の名とアシストのシーンも含まれていた。

2月26日(日)
024 ラ・リーガ バレンシア×ソシエダ 今日のバレンシアは、監督替わりホーム初戦ということで、勢いが違っていた。ソシエダは最初4-3-3。途中から4-4-2のダイヤモンド型にし、それは久保をキーマンにした変更である。しかし相変わらず、バレンシアのプレッシングをかわし前線までボールを運ぶことができずに負けた。久保も75分過ぎに交代される。絶対的存在であることが否定されたようで、久保にとっては屈辱的であろう。選手全員の距離が間延びさせられ、各自が孤立してしまっていたのを、改善できなかったということである。

2月25日(土)
「だれも知らない建築のはなし」石山友美監督を観る。70年代からの日本の建築家の状況を、国内外の建築家や批評家、編集者のインタビューを通して明らかにするドキュメンタリーである。あの安藤忠雄氏、伊東豊雄氏らも80年代はじめには、当時作品も小さいこともあるが、内向的であり批評に堪えないとの批評を受けていた。それは磯崎新氏にたいしても同様で、日本という特殊性を持ち出すので美的判断しかできないとレムから批判されるし、ポストモダンという流行にのってしまったとアイゼンマンにも批評される。そうした状況を知らないぼくにとっては衝撃的であった。ぼくらもあるいは学生もレベルが違えど、無自覚であることに対して批評にさらされてしまうことは宿命なのだ。GAの二川さんはそうした現実を踏まえて、建築家育成の必要性に駆られGAを位置づけているらしい。そして今がある。英語のタイトルは「INSIDE ARCHITECTURE」。内輪話とも解釈できるが、建築からのまだ見ぬ可能性ともとれた。要は、崩れゆく近代建築後の話で、批判という尖った表現が終わった現在、磯崎さんはその後に建築家がエンジニア的、テクノクラート的、アーティスト的の3つのパターンになっていくといい、伊東さんは、社会性のあるコミュニティアーキテクトを提案する。社会性と作家性を2項対立させることは容易で、前者が現在日本では優位に立っているけれども、GAが追求してきたように、そう簡単に割り切れるものでないという歴史事実を本作品は明らかにしている。

2月24日(金)
国立近現代資料館で開催中の原広司展に行く。原邸も含めて原さんの建築は大方体験しているのだが、よく分かっていないコンペ案を観たく展覧会に行く。とにかく原さんのいうことは壮大である。その意味を若い頃は訳分からなかったが、今日のビデオでの京都駅についてのコメントは印象的であった。京都駅の大階段は、昇る昇らないという問題でなく、駅構内にしかも京都駅で、谷間の風を吹かせるためのものなのだ。いみじくも今月のニュースで、雪が吹き込む様子を観て、それに合点した。それは機能の提案を越えているし、ランドスケープをつくることとは次元の異なるデザインである。もちろん単なる思いつきでない。そこまで至る過程のすごさは、教え子たちが圧倒されていることから推測するしかないが、資料やスケッチが広範囲に渡っていた。それに関する出版予定の吉見俊哉さんとの対談集が楽しみでもある。
023 EL マンチェスターユナイテッド×バルセロナ バルセロナは、ユナイテッドのプレッシングに苦しみボールを前線に運ぶことが出来ずに敗退。特に後半からはひどかった。サイドへのロングボールに頼るしかなく、そこをターゲットにされると、再び中央狙いにいくのだが、代わってそこを任され入ったファティも本調子でなく、ポジションについてレバンドスキーと口論になっていた。

2月23日(木)
今年度の卒業設計・修士設計の講評会を、審査員に宇野求氏、高橋一平氏、佐々木珠穂氏、伊藤孝仁氏をむかえて行う。審査の後に宇野さんから、学生のアイデアをリアルな世界へと上手く指導がなされていて教育バランスよいとの感想を頂く。今日の講評会では、各審査員が作品講評を通して自分の建築観を述べていたので自然と議論が白熱し有意義であった。そのために賞を決めるのにも時間がかかった。その中で中心的テーマとなったのは、青井さんが最近出版した「ヨコとタテの建築論」でいうところのタテの必要性についてだ。どうもタテにたいする真剣度を学生は甘くみていると感じたらしく、それに対するコメントが多かった。宇野さんは、それを素材やディメンションの選択を通して表現できるという。だから、その根拠を学生に問い、建築作品の出来を判断していた。それは、ぼくら建築家がジャーナリズムから求められることでもあり、少し高度なことで遠慮していたのであるが、それこそがまさに必要であることに気づく。その反面、学生なりの新鮮な視点も大切にしていて、それをぼっーと終わらせずにどうやって表現となることをアドバイスしていたと思う。まさにタテに対するアドバイスである。同様に高橋さんは、プログラムの設定を含めて、学生が無自覚に解いてしまっている点を絶えず疑問視していた。だから敷地選択に最もシビアであった。それは、与条件のようで実は一番の選択権あることだからである。そうした審査を通して最優秀案となったのは、遠藤研鈴木奏子さんの鵜飼プロジェクトであった。鵜にまつわる生態系の奥行き深さに伊藤さんは驚かされたといい、高橋さんは、計画の粗さはあるもののリサーチの精度の高さと表現の効果度を好評してくれた。今日新しくできた1/50の模型が、内部から覗けるのもよかった。建築の役割とは、このプロジェクトにあるように、大きな生態系を意識してその中に自分の位置づけを表明することだと思う。この作品はこれをクリアに表現していた。遠藤研の皆川莉久さんの天空の集落の作品については、宇野さんがこの作品をよく読んでくれていたのだが、審査員の議論で3等になった。2等となった岩間小春さんの遠野のリノベーション案を、宇野さんが今日的気配感のある作品として、より魅力的に感じたからだと思う。屋根デザインをいじらずにその下を流動的に扱う巧みさのセンスを買っていた。ぼくとしては皆川さんの浮遊感を買いたいと思うのだが、タテをソフィスティケーション表現する技量を好んだのだろう。これらの案に限らずリサーチを重要視する案は現状追認型になる傾向がある。かつてはそれに批判的態度をとることがもてはやされたのであるが、それを現代的に表現するのなら、浮遊感というものかと思う。皆川さんは、わざわざ「天空の・・・」といい、今回それに値する大きな縦型パースまで用意していた。3等で残念。しかし宇野さんの長々と語ってくれた皆川評は印象的であった。宇野さんは地形の読み方を評価し、かつて関所があった地勢までを読み取っていた。ブドウ畑をつくるための植樹パターンが幾何学的になることまでアドバイスしてくれた。何でもフランスのブドウ生産地のそうしたマップがあるという。観光地化でなく巡礼といったらよいとまで提案しくれた。そして、建築しかできないこととは希望や安らぎを与えることといい、この案にその可能性を見出してくれていた。ありがたい。もうひとりの遠藤研中村理来くんの伊王島のプロジェクトは惜しくもOB賞であった。高橋さんのいう、自分の考えを精度高く伝える点に難点があった。しかし、彼の直感に驚かされることが多く、それが発見的であるほどいくつかを線としてつなぐのは難しいことではあるが、それによるダイナミックスさを実感して欲しいと思う。
022 CL フランクフルト×ナポリ ナポリの攻撃は素早かった。10人になるとフランクフルトはさらに厳しくなる。鎌田は中盤の下で先発。起点になり時折フュニッシャーにまでなる。0-2で初戦を落とす。以前のように前からのプレッシングとサイド攻撃がなりを潜めていた。

2月22日(水)
021 CL リヴァプール×レアル・マドリード 開始早々リヴァプールは2点をとり、しかも2点目は名手クルトワのミスであったので、このままリヴァプールが復活の道を進むのかと思いきや、マドリーは前半に追いつくと、最後は5−2とする。恐るべきマドリー。マドリーの速攻は安定している。逆をいえば、リヴァプールは攻めることでしかこの速攻を防ぐ手立てをもっていなかったことになる。これは正面切っての解答でないので、ボロがでたかたちである。クロップ戦略の限界かとも思った。

2月21日(火)
「エッフェル塔試論」を続ける。はじめに、塔のデザイナー側からの主張が描かれる。鉄による前世との石文化との分断が認められるものの、美においては自己言及的で前世と連続している、という指摘は面白い。「第一機械時代の理論とデザイン」のバンハムのようである。風に抵抗するために、新素材鋼ではなく、錬鉄を使用したというのである。

2月20日(月)
「ふたりのイームズ」ジェイソン・コーン+ビル・ジャージー監督2011を観る。この頃を前後してイームズの展覧会が日本でもよく開催されていた。ふたりの伝記で、よいところも悪いところも描いているのだが、作品の核心に触れるようなところはこうしたメディアにはない。ぼくの誤解であったのは、エーロ・サーネンとの合板技術による椅子のアイデアは最初からあって、その後にレッグ・スプリントの製品化を通じて、合板技術に長けていったそうだ。そして、イームズ邸の斜面における配置計画においても長い間の思慮の結果と材料不足から今のような配置になったらしい。ミースの同様の計画を知って急に変更をしたものではないらしい。ところで、まずこの映画から痛感させられるのはつくることの喜び。そしてそれはレイに負うことが多かった。そしてチャールズに負うこととは、建築とメディア、都市との関係、技術や工業化など、モダニズムがかかえていた次なる問題である。チャールズはそうした広い視野をもっていた。そのときに作品はヒロイックでなく社会の中のものとして見えてくる。途中のチャールズの自由についての言葉も印象的。自由は規則や制限がなければならないという主旨のものであった。

2月19日(日)
020 プレミア ブライトン×フラム 0-1でブライトンが負ける。何度もゴールに迫ったが、最後のところをGKに阻まれて、終了間際にカウンターを食らう。後半途中からエストゥピニャンが退くと三笘にボールが集まるようになる。しかし得点にはならなかった。何でも新年からはじめての敗戦だそうだ。

2月18日(土)
「建築と時間と妹島和世」ホンマタカシ監督・撮影を観る。大阪芸大キャンパスセンタープロジェクトの3年にわたるドキュメンタリー。ひとつのコンセプトが決定した後の最終的な作品になるまでの過程を追っている。ここで示されるのは、建築が、アイデアにある訳でもなく、建築家による環境や社会や他者との確認作業によっていることである。
019 ラ・リーガ ソシエダ×セルタ ソシエダのどちらかというと集中力を欠いたような内容であったと思う。ソシエダはリードしつつもミスもあり、最後にそのしっぺ返しで、ゼロで閉めることができなかった。強豪との戦いの後で魔が差しているのであろうか。昼のゲームということもあろうか。中盤の組み立てがままならずに、速攻を食らってしまっていた。ゲーム早々の久保による素晴らしいスルーパスまではよかった。1-1のドロー。久保は今日もMOMとなるも、終了後苦い顔をしてベンチに居続けていた。

2月17日(金)
018 EL バルセロナ×マンチェスターユナイテッド プレーオフとは考えられないほどの好取組。結果2-2のドローに終わる。ユナイテッドのラッシュフォードの勢いは凄かった。2点に絡む。一方のバルサは、ブスケツの怪我欠場に続きペドリも前半で怪我のため退き、ガビ奮闘も次節は出場停止となった。中盤がデ・ヨングのみでは苦しい。
「エッフェル塔試論」松浦寿輝著の再読を始める。「アメリカ大都市の死と生」の反対に位置つけられるものと思った。序章から、保守的な美学をもつエイスマンスと進歩的なエッフェルとの対立構造が示される。ただし、ちょっと捻くれている。「insensであるがゆえの「美」を感受する眼差しが一般化してゆく過程―また、そうした「無用の」まなざしを実践的に基礎づける「前衛」的な美学が種々様々なかたちで開花しては、渦を巻き、相互に葛藤し、消長を繰り返す、眩暈のするような過程」が書かれている。

2月16日(木)
「ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命」マット・ティルナー監督を観る。大戦前後の都市計画についてのドキュメンタリーであるが、なぜかしら「アメリカ大都市の死と生」の再翻訳(2010)と合わせて、再び現在脚光をあびている。2018年の作品である。市民リーダージェイコブス×開発業者モーゼスというあからさまな対立構造を持ち出しているのも、今更なぜかしらと思う。NYは再びそうした岐路に立っているとは思えないのだが、トランプの出現、#MeTooと関係するのだろうか。建築的には、道路の市民に対する役割、一方で高速道路がもたらす町の分断が大きなテーマである。「アメリカ大都市の死と生」の位置づけが当時、「沈黙の春」レイチェル・カーソン(環境問題)、「新しい女性の創造」ベティ・フリーダン(女性人権)と同等ということを知った。
017 プレミア アーセナル×マンチェスターシティ 富安はこのゲームのキーパーソンとして右で先発。しかしアーセナルは右からの展開が全くできなかったのは、グリーリッシュのプレシングに耐えきれずに出した富安のバックパスを決められてしまったからである。スタジアムの雰囲気は首位対決ともあって最高潮であった。この経験はかけがえのないものである反面、失策は大きく富安にのしかかる。これで潰れて欲しくはないことを願う。

2月15日(水)
016 CL パリ×バイエルン パリは前半押し込まれる一方。バイエルンの前線からチェックを受け、ボールを進めることができず。後半からSBメンバーを変えて、途中から怪我から復帰したエンバペを投入。すると攻撃が見事に復活。一度はゴールもオフサイド判定もありエンバペのゴールは取り消しになる。0-1でホームでの敗戦。

2月14日(火)
015 ラ・リーガ エスパニョール×ソシエダ ソシエダは十分な休息。2日の休暇があったという。今日は4-3-3でのぞむ。久保は右、オヤルサバルが左であった。左のオヤルサバルは復調の兆し。今日は下がり気味でアシストを記録。IHのイジャラメンディとよい関係。左が活性化すると、右の久保も生きる。1Gとオウンゴールの誘発まで行う。通常は右に張り付いて、IHのブライス・メンデスとの兼ね合いで中央に入りこむ前試合からの形がよかった。メリーノも後半に登場。

2月12日(日)
014 プレミア クリスタルパレス×ブライトン 三笘は上手くマークされ、ここ数試合のような活躍はできなかった。その代わり反対サイドのマーチと三笘の後ろのエストゥピニャンが自由を得ていた。こういう日もあるのだろう。ただ、今日前掛かりになった10番マクアリスタが右利きらしく、後ろ向きで受ける場合、三笘と逆サイドにボールをはたいてうたのが気になる。

2月11日(土)
「ショーシャンクの空に」フランク・タラボン監督 を観る。タイトル画像とは全く異なり、清々しい映画であった。モーガン・フリーマンの語りによって物語は進み、それで主人公ティム・ロビンスの行動が客観性を帯びる。観客にどことなく感情移入させない構成が、他の映画と違っていてよい。モーガン・フリーマンはこの映画でも重要な役割を果たしていて、「挫折しないために希望を持つな」という台詞や甦生することなど、聖書からの引用も多い。

2月10日(金)
近くで開催中の「Sit,Down.Sit Down Please, Sphinx.」泉太郎展に行く。久しぶりにさっぱり判らない展覧会であった。ひとつのテーマに縛られることを嫌っているようであるが、展示に手がかりがみえないし、マントを着るとかが反対に同調や参加が求められる。結構なショック。

2月8日(水)
「建築に何が可能か」を読み終える。本書は建築とは何かの否定からはじめる。「(建築とは何か)のような本質の把握においては、本質とは過去にあっても未来には必ずしも約束されていない理想であり、もし未来の行動の指針として本質をかかげるなら、彼岸としてしか設定されないのである」。そして「建築として何ができるか」に向かう。「何ができるかという問いは、過去から未来に至るプログラムの設定を可能にする。(中略)強く現世的である」。「個人あるいは集団の意識下にある不安と恐怖を意識の表面に浮上させることによって、これを積極的に打開すべき対象に転化させる。こうした顕在化こそ、希望の源となる。建築になにができるかと問うことと(中略)同じ構造をもっている。T・インゴルドの文章を読むようだ。この姿勢こそ後半の有孔体の理論であり、規制箱から孔がうがつイメージだ。浮遊の思想とは、そのために自由で自立した存在でなければならないことをいっている。読後に違和感がないのは、難波さんの考えの大きな部分にこの原さんの思想が大きくあって、それを通じてきたからだと思う。建築家の主体性が否定されて久しいが、原さんはそうでない。「建築家にとって可能なのは、ひとつの解答の提起であるにすぎないp33」。だから「したいことの内容が社会化されておらねばならないp34」という。それには秩序の発見が必要であるという。ぼくらにはむしろ秩序にかんする視点、制御する意識が欠けているというのだ。それを「被覆性」といい、そこからの搾孔が重要という。こうした全体と部分の関係がこの本を通じて一貫して語られている。

2月7日(火)
「建築に何が可能か」を続ける。「新しいこと」にかんする興味深い記述があった。「物質は、人間の出現とともに、ずれを表出する。私はこのずれにたいして、物語性なる概念をあてた。つまり、ものの在り方は、人間の介入とともに物語性に転化する。物語性とは、存在が意識に与える意味である。美しさとか心地よさといった領域は、観察者によってうけとり方が異なる。そこで客観性を議論してもはじまらない。しかし新しさは客観化されるのではないだろうか。新しいものの在り方は、論理的な新しさをもっている。新しさは、歴史の地平において論理的にとりあつかえそうである。そして、新しいものの在り方は、新しい物語を人々に用意するであろう。非難を覚悟で発言するなら、建物における条件の満足を議論し研究するより、新しさの追求の方がずっと合理的な行為なのだ。正確に発言すれば、正しい方法を探求する姿勢からは矛盾の止揚はほとんど期待できず、実践的に矛盾と対決せねばならない状況に、私たちは投げ出されているのだ。新しさの中にこそ、希望があるp178」。

2月6日(月)
013 ラ・リーガ ソシエダ×バリャドリッド 開幕時でいうならサブ組でソシエダはのぞむ。台所事情は苦しい。選手間のタイミングがよくなく、前半はバリャドリッドに押し込まれていた。したがって、久保は下がり気味で前線へはつながらない。後半からブライス・メンデスを投入。久保は前線に留まることができる。チームのポゼッション率も上がりいつもの形に近くなる。この修正力は流石である。ただし、久保のいくつかのフィニッシュは決まらず。速攻でやられて0-1で落とす。痛い敗戦である。久保はシュート後も引き締まった表情で気力が充実していていることが判る。今日のMOM。

2月5日(日)
NHK特集を2つ観る。ひとつ目は、ロシアのIT技術者の世界への流出についての特集。優秀な技術者がアメリカだけでなく、ウズベキスタンなど世界各地に均等に拡がっているという。実に1/3が国外脱出した。そして彼らはロシア国外で開発のネットワークをつくりはじめている。2つめは、アイリーン・スミスをクローズアップした水俣の特集。水俣は過去の問題ではないとして、現在でも2月に1度、ボランティアで彼女は水俣を訪れている。元夫のユージン・スミスの写真集は有名で、ぼくも幾度となく展覧会を訪れたが、いつ観ても心詰まる思いがする。数年前にはジョニー・デップ主演で映画化もされた。水俣は新しい局面に入っているのだ。したがって、この特集も「52年目のMINAMATA」というローマ字表記である。なんでも、スミス2人は50年代の水俣を訪れる前に結婚し、写真集ができると離婚したという。チッソ社を調べると現在も大企業である。驚きであった。当時も水俣市はチッソ社が中心にあって、公害問題が表面化していてもその善悪を問うには難しい状況であったらしい。特集後半の、映画に影響されてボランティアに参加する若者に優しく問うアイリーンが印象的。こうした状況に直面して何ができるかを迫っている。水俣を他者の出来事となるのを彼女は嫌っているようだ。しかし多くの若者はそれ以上踏み込むのを恐れる。FEARという感情を抱くからだ。「地獄の黙示録」のカーツ大佐が呟く「FEAR」をそのとき思い出した。そして裁判は今でも続いている。
012 プレミア ブライトン×ボーンマス 今日も三笘が終了間際に決勝点を決める。神かっている。引いてくる相手にたいし、決定機をつくれていなかったが、時間が経つにつれて相手の疲れからか徐々に可能性の片鱗をみせはじめ、最後はヘディングで決めた。それにしても三笘はクールである。

2月4日(土)
「灼熱の魂」ヴィルヌーヴ監督を観る。ギリシア神話を参照しているようで、アンティゴネの視点でオイディプスの周辺を描いた作品である。原作があり、70年代のレバノン内戦を舞台にして、悲劇における肉親への愛と社会倫理、そして神の崇高性をテーマにしようとしている。憎しみは愛の欠落から連鎖してしまうが、その欠落に気づくと同時に愛が理解できるというメッセージである。この映画のように運命のいたずらを批判的にみたくもなるが、それを上回る神のような存在が示されている。結局ぼくらが把握できる範囲はその程度であるという世界の被服性についてである。最初のシーンでの主人公のオイラーの等式についての見解がそれを物語る。パースのこれに対するコメントをまず思い出した。「ぼくたちはそれを理解できないし、それがどんな意義を持っているかも分からない。だがそれは証明されるし、それゆえにそれが間違いのない真実である」。
011 プレミア エヴァートン×アーセナル アーセナルは攻めあぐねて、0−1で下位から勝利を逃す。後半から新加入の選手が送られる。そして最後に富安も。相手に研究され、とくにサカへのつなぎが難しくなってきている。

2月3日(金)
午前から昼にかけて虎ノ門で打合せ。夕方から時間をつくり、久しぶりにゆっくりする。怪我から復帰して漸く自由になれた気がする。

2月1日(水)
「建築に何が可能か」を続ける。「非連続性の構造」の章が興味深い。「多様性の讃美は、ともすればあらゆるものの存在を許す共存思想に結びつく危険性がある。これは権力体制の持続をそのまま肯定する思想であるp74」。「共存の思想は、部分に自律性を認めるところに魅力がある。この魅力を変化する総体のなかでどう持続させるかが、私たちの課題であるp75」。つまり、部分と全体の両方を考える必要をいっているが、とかく部分にとらわれがちであり、全体、あるいは部分の連続に重要性を見出している。それで数学が登場し、加えて美がその機能を持っているというのだ。

1月31日(火)
「建築に何が可能か」原広司著を読む。「建築とは何か」ではなく、「何が可能か」を問うことを求める。というのは、カオスが普通のこととして、ありそうもないことを実現するのが人間であるという解釈に基づく。何ができるかには決断を要し、それは現実の自己否定性、歴史の否定性を予告するものという。それを投企といっているのは興味深い。大学で、合格か否かの議論が続く。上位の学生を伸ばし全体をあげることを議論した方が建設的だと思う。ルールを定めることはそれのクリアを目指させることを意味して前向きでない。学生の能力をあげることと反すると思う。

1月30日(月)
010 ラ・リーガ レアル・マドリード×ラ・レアルソシエダ 今日もシルバとメリーノは不在。4-3-1-2でマドリーにのぞむ。久保はトップ下。終盤では右に移動しフル出場。久保を右にして5−4−1にすると、ソシエダはマドリーの度々犯されていたサイド突破を抑えることができたが、攻撃に関しては久保頼りになる。そのときの久保とカマビンガのマッチアップは見物であった。しかし久保もアップアップで、0-0のドローで終える。ホイッスルと同時に久保はピッチに仰向けになる。怪我人が多く、オヤルサバルもいまいちで、これまでのようにパスで崩すことができないでいる。ソシエダはこれから少し日程も楽になっていくので、巻き返しに期待したいところだ。

1月29日(日)
009 FA杯 ブライトン×リヴァプール ブライトンは、移籍がこじれてボランチのカイセドが欠場。これが痛かった。中盤から前線へのつなぎが上手くいかずに、2週間前の戦いのようにはいかず。ただ調子悪いとはいえ、前年のチャンピオンとの対戦。見応えのあるゲームであった。そんな中、ロスタイムに三笘が逆転のボレーシュートを放つ。三笘は落ち着いていて貫禄すら感じられた。

1月28日(土)
友人の墓参りの後、数人の同級生と食事会。十年以来思っていた墓参ができて、少し肩の荷が下りた。高校卒業後も、その友人とは仕事を一緒にしたりよく遊んだりしたもんだ。苦い思い出ばかりが残っている。彼はアメフト部に属していて、彼らは幾度も墓参りをしていたそうだ。自由業をしている人が多く、会話も弾む。楽しい会であった。

1月27日(金)
修士設計の発表会。設計ではよく調査から形へ導くための論理性を問うために、不確定な条件を排除してしまう傾向がある。それでは、これまでの科学が犯した失敗と同じ轍を踏む。このことに自覚的になる必要を感じた。例えば、人口減少を課題にした減築のための有効な構法は、昨今の環境問題、特にしっかりと断熱することにとってはマイナスともなる。あるいは30年前にはフロンなど考えもしなかったが、大きな社会問題となった。こうした課題はこれからも山ほど生まれてくるということもあるだろう。それらを視野に置いた対応とはどういうものか。「デザインスゴロク」の効果を池辺は、陥りがちなそうした過ちのためにも役立つ、といっていた。それだけ未来を計画することは難しいのだが、避けることができないことでもある。今年度の遠藤研からは2名が参加した。伊藤くんは、環境を建築でコントロールする前段階として、環境を身近に感じさせるための建築を考えた。制作者の意図を他者に伝える技法は映画において先んじていて、昨今では背景に環境を絡める技法が多い。それを建築に応用する計画である。例えば、雲間から差し込む幾筋かの太陽光は印象的な映像である。映画ではそうした光景をより印象的にするために、前後のカメラワークやストーリーを巧みに構成し、それによってぼくらは、主人公の心の動きを、光りのもつ力強さや空の高さなどと合わせて感じることができる。建築もまた、シークエンスの映画的な手法の導入によって、特定の環境をユーザーに認識させることが可能となるというのがこの作品のねらいである。結果、建築のシークエンスは映画ほどに誘導できるのは難しく自由に思考してしまうので、その効果は発揮できなかったと思う。しかし、建築のオブジェクトだけに注目するではなく、それを含むコンテクストまでを取り込むシステムをデザインしようとしたところを評価したい。もうひとり鈴木さんの作品は、失われていく鵜飼文化を建築によって再構築しようとする作品であった。本作品は、鵜文化を4つの視点から見直している。まずは通時的視点。鵜飼いは漁業というよりも文化的側面に重きが置かれた歴史的な変遷を辿ってきたという。次に共時的な視点から、現在残っている鵜文化に物質的や道具的共通性を認め、そこに特殊な素材の扱いを発見していた。そして自然科学的視点。鵜飼いに使用される鵜は海鵜で、渡り鳥で、中国からシベリアへの行き帰りの年2回、茨城県の太平洋突端の海岸壁で休息を取る。そのときに用いる伝統的捕獲方法を発見した。そして全国に送られて鵜飼いの鵜として飼い倣わせる方法にも特徴があり、鵜の生態を通じた人の営みを発見した。最後に経済的視点。観光業として現在の鵜飼いは危機的状況にある。その経済的存在価値を高める方法を建築に見出していた。以上から本作品が計画したものは、人間と鵜の関係の提示、それは捕獲し、生活し訓練し、副産物を得て、観察・研究することを可能にする文化的拠点の提案であり、それを多くの人に掲示するための開かれた文化の推進を目指し、鵜を中心とした人と社会のネットワークの再構築である。これは地域間の交流にも及ぶ。以上のようにこの作品は、鵜文化を詳しく調査し、そこで見出されたいくつかの発見が、人と生物との間にあった興味深い関係を示すものであった。この建築が目指すものは、そうした環境を取り巻くような建築の提案であった。

1月26日(木)
「風景の科学 芸術と科学の融合」を読む。2019年の国立科学博物館開催に合わせて制作された本である。上田義彦氏の写真から数々の事実を拾い、それを指し示すことに目的がある。伊藤俊治さんの「風の博物誌 ー芸術と科学のインターフェースー」という論考は勉強になる。それによると、「ランドスケープ」という言葉は17世紀、風景画を意味していたという。だから、現実の光景を意味するのではなく、風景を描いた絵画を示していた。現実の風景を意味するようになったのは18世紀であるというのだ。そして、風景画が芸術ジャンルになり自律するのは、19世紀になってからだという。それは、ジョン・ラスキンが「感情を持って見るにもかかわらず正しく精密な知覚」をもつ人を芸術家といったことによる。その画家とは、ウィリアム・ターナーとジョン・コンスタブルである。この時期に自然と人間の交錯を模索した人が一方にいた。ゲーテである。ゲーテは18世紀後半から19世紀にかけて、科学たる由縁を、新規の発見ではなく、発見されたものの自分自身へ結びつけることにおいてみていた。つまり、「個々の事実の発見の連鎖により世界全体を一つの視点から眺め直す」ことを目指したとのである。直感的概念を科学的概念の先に置いたのである。そして本書にもある写真の登場である。写真にも科学的想起を期待させようとする意図がこの本にある。008 スペイン国王杯 バルセロナ×ソシエダ メリーノ、シルバと故障で、トップ下久保、2トップにするロットとオヤルサバル。前半の30分でプライス・メンデスが退場。0-1で敗退。久保はというと、左からのシュート、60分過ぎには正確なセンタリングで活躍。爪痕を残した。とにかく激しいゲームであったと思う。そうした中、気後れせずに久保が中心であったのが大きい。

1月25日(水)
「力と交換様式」におけるマルクスの言葉を整理。「机は、やはり木材、ありふれた感覚的なものである。ところがこれが、商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう。(中略)したがって商品の価値の神秘性は、その使用価値に由来するものではない。価値規定の内容から生ずるものでもない」(マルクス「資本論」第1巻第1章)。「ある一定の商品を一般的等価(貨幣)にしうるものは、社会的行為だけである。だから、この一定の商品以外のすべての商品の社会的行為が、自分たちの価値を全面的にそれに表すある一定の商品を、除外するのである。このことによって、この商品の自然形態が、社会的に妥当な等価の形態となる。一般的等価であるということが、社会的過程によって除外されたその商品の、特殊な社会的機能となる。こうしてその商品は―貨幣となる」(マルクス「資本論」第1巻第2章)。つまり、マルクスは「貨幣の生成を商品世界における「社会契約」として見たp105」と、柄谷はいっている。

1月24日(火)
GA JAPAN180 2022総括と展望 を読む。二川さんと藤原哲平氏+石上純也氏の対談。前半は建築家のスタディもどきの批判。あまりにも建築家は前提を受け入れすぎていて、それでのバリエーションに価値がないという。そのボスとして隈さんと藤本さんの名が上がり、山本理顕さんはその対極に置かれる。制度そのものを変えた上での空間化を目指すべきという。GAは健在である。

1月23日(月)
a+u増刊号「茶室33選」を読む。桐谷邦夫氏と石上純也氏との対談で、茶室を空間ではなくモノとしてみることが提案されている。非常に現代的だ。日本には黒木造が古からあり、草庵はこれを引き継いでいるらしい。小堀遠州の孤篷庵忘筌、金地院八窓席、曼殊院八窓軒、高台寺の傘亭と時雨亭を思い出してみる。

1月22日(日)
007 ラ・リーガ ラージョ×ソシエダ 国王杯の相手がバルサと昨日、決まる。したがって、ソシエダは今週バルサ、レアルと合いまみれる。そのためか久保は欠場。監督曰く、右太ももの違和感があり大事を取ったという。2-0で勝利も、攻撃の起点がみえなかったのを見ると、久保の存在は大きくなっているのが分かる。

1月21日(土)
「力と交換様式」を読み、建築における力みたいなものを考えた。建築における空間と人間との間にも、霊的な力の交換が期待されているように思えるからだ。もう一度、繰り返しアルベルティを持ち出すまでもなく、中世が野蛮とされていたのは、考えることすなわち知が上部構造に何よりも置かれていなかったからであった。そして図面というシステムを持ち出してそれを可能にしたのがアルベルティであった。このとき建築家は空間操作という力を手にしたことになる。知はそれまで、パンテオン級の大きい空間がフィレンツェのドームまで不可能であったことに見られるように、石材を積み上げる作業や徒弟制度のギルドの中に隠されていたのでないか。それが開放されたのである。このように知の出現は歴史上繰り返し起こっている。ヴィオレ・ル・デユクの18世紀は「構造」というものがそれであったのではないか。そう考えると交換様式Aという遊動的で個性体・独立性を備えた状況は、知をもそうさせる。柄谷のいう高次元の回復とは、知も射程に入っているものだろう。
006 プレミア レスター×ブライトン 三笘のスーパーゴール。余裕が感じられ、右45度からであった。相手DFも三笘を恐れて無理にあたってこないことがそれを可能にしている。その時点で三笘が上にいる。しかしゲームは2-2のドロー。ブライトンのトロサールは移籍してしまった。

1月20日(金)
卒業設計の発表会。朝から全学生による発表。昼にポスターセッション。20名程度の選抜を経て質疑応答、こうしたプログラムで進めた。全体的印象というと、構造等のエンジニアリングや社会的要求を考える教育方針であったので、きちんとした建築を考えることができるようになっていた。それによってポジティブには、図面表現が充実した一方、既知感に支配されているように見えてしまうのも事実。むしろぼくらを取り巻くそうした押さえるべきことから批判的に向かえばよいと思う。例えば、社会的要請からリノベーションを提案する案が多いのだが、そのとき構造材などの痕跡を残そうとするのは、設計者としての美的センスが実は大きいのだと思う。しかしそれを社会的な要請として処理してしまえば、それを免罪符にして美を自由に手にすることができる。そうした美は意識的でないので、客観的な伝達能力も低くステレオタイプ的なものになっているような気がした。遠藤研の中村理来くんの案は、長崎の伊王島の観光地化を文化面から考える案であった。伊王島は隠れキリシタン、炭鉱、本土からの橋の建設などの最近の経済政策、コンテクストが複雑な場所である。70年代には山田洋次が映画にしていたし、遠藤周作の小説とも深く係わっている。中村くんはそうしたものを手がかりに島の情報を丁寧に拾っていった。今では当たり前になった島にある仮設パイプや失われた山道、そして炭鉱孔の動圧受けになる山積みされた木々の写真の発見は、そうした手がかりによるものである。それらに彼のセンスが相まって独特な作品に仕上げていた。遠藤周作の文学界における評価はいまいちのところもあるが、外来文化を内的なものにかみ砕く日本人としての苦悩を一貫して描いており、映画監督マーティン・スコセッシは人間性をそこに発見している。皆川里久さんの作品は、70年代の森俊偉さんが見出した「丘端」を現代の栃本限界集落に見出そうとする計画である。それが現代SANAA風で軽やかにできているのが当時と異なりよい。いくつかの問題が指摘されたのが、この発想は皆川さん特有の素晴らしいものなので、これを表現としてさらに展開できればよいと思う。タイトルにも「天空の栃本集落」とあり、天空性を表現できたら有無を言わせないと思う。瀧岡玲奈さんの作品は、瀬戸内海の粟島での日常を再評価しようとする作品。空間が場になるには、意識化を経なければならないというイーフー・トゥアンの考えによっていて、この作品は導かれている。これを表現できなかったのが悔しいところであるが、瀧岡さんは島民の生活や出来事にそれを見出そうとしていて、中村くんがモノにそれを見出そうとしていたところとの違いがあった。こう考えると、岡崎乾二郎が芸術家にみられる抽象の力といっていたものの存在を大きく、山田洋次やマーティン・スコセッシなどは映像へ総力を投じていることに気づく。建築も同じだと思う。森本遼くんの作品は、ジル・クレマンの「動いている庭」を参照し荒れ地をテーマにしている。そこには、全てをコントロールすることへの批判がこめられている。雑草を亡くすことは無理あるように、街へユートピアを見出すこと、逆に消えゆく街を復活させることも難しい。だから、荒れ地という現実と上手く付き合い共存していくこと、その素晴らしさが現代に欠けていて、荒れ地にヒントがあるというものであった。この節度さは建築と相反することが多く建築化するのに難しかったが、確実に現代的なテーマである。山崎優大くんの作品は境界の研究。境界は曖昧な事象なため、モノとしてあるいは心的対象として研究に昔からなっているので新規性が難しかった。参照文献を見つけることができなかったことも大きいと思う。分析の解像度を上げていくと複雑になり、ネットワークのようなもので応えるしかない、このことまでたどり着くことができれば新しい展開かとも思うが、ぼくにとってもアイデアの段階である。小川裕太くんの作品は西船橋駅の再整備計画。いつものようにプレゼがユニークでこれまでになかった才能をみる。今後この才能のテーマは何かを考える。

1月18日(水)
「力と交換様式」を読み、建築や芸術、あるいは文化における交換様式A,B,CそしてDは何に当るかを考える。いわゆる「建築」というシステムは15世紀中頃からはじまったと言われている。その第1人者であるアルベルティはフィレンツェ出身で、はじめは商人から仕事を受け、晩年はローマ教皇の仕事を受けていた。アルベルティの「建築論」はウィトルウィウス(紀元前の共和制古代ローマ末期と帝政ローマ初期)を参照したのは有名である。「力と交換様式」によると、このウィトルウィウスの時代は、カエサル暗殺の頃で、「互酬交換Aをとどめる“パトロンークライエント”関係が残り、それが王―臣下という体制Bの確立に抵抗したp201」時代であった。つまり、「ギリシアと同様に氏族社会の民主主義残っていた」時代、すなわちBに行く前のAの時代であった。一方アルベルティの時代は、絶対王政と宗教改革前の商人資本の時代。職人や商人のアソシエーションあるいはコンミューンが形成されていた時代。「力と交換様式」によれば、未開のAが濃密に残存し、それがBの決定的な優越を許さない時代にあたる。だからアルベルティをはじめその後の多くの芸術家はパトロンを求めていくつかの都市を渡り動いていた。アルベルティの作品の代表は、マントヴァのサンタンドレア教会。図面というものを発明し、考える人とつくる人を分離させ、建築家を特権化させたことでも有名で、建築家に一種の力、無から素晴らしいものを生む力、これを備えた人であることを世間に浸透させようとした。このように考えると「建築」のはじまりは、未開の氏族社会Aの互酬交換のような力を復活させようとする産物だろうと推測する。次の段階、1848年時代の建築家と言えば、構造を「建築」に取り上げたヴィオレ・ル・デユクである。ヴィオレ・ル・デユクは官僚であったと聞く。鉄を使用し力の流れを理解して、朽ち果てていた数々のゴシックの教会を独自の思想で修繕をした。教会が教皇のものから国のもの、そして市民のものとなっていった時代で、キリスト=ネーション=国家の出現ともいえる。その前がルドゥーで完全円形の管理建築、ショーの製塩工場(1779)を完成させている。絶対王政の時代で、これはまさしく交換様式Bの建築である。だからヴィオレ・ル・デユクは、この完成されたBからの脱却のために構造=技術、あるいは中世のゴシックの可能性を見出した訳だ。交換様式Cの建築としては、1951年のミースのレイクショア・ドライブ・アパートメント、あるいは真反対のぼくらがつくったような狭小住宅のようなものだろうか。お金によってしかも少額で、これまでの慣例、道徳なしに誰もが最新の技術や素材を手にできるようになった。

1月17日(火)
「力と交換様式」柄谷行人著を読み終える。本書によるとマルクスが晩年に至った結論は、未来の共産主義が古代社会にあったものの高次元の回復によって成立する、というものであった。それは、次のようにも記述されている。「定住を強いられた諸個人は、定住共同体の掟に自発的に従うようになったが、同時に、遊動的な段階にあった個性体・独立性を保持したのである。それが氏族社会である。しかし、国家の出現とともに、自体が変わった。氏族社会が終わっても、人々は国家の下で共同体を維持したが、それまであった個体性・独立性を失った。交換様式でいえば、そのときAがBに押さえこまれたのである。 その後、近代国家・資本主義の発展、つまり、BとCの拡大とともに、村落共同体Aは解体されていった。しかし、それはある意味で回復された。つまり、資本主義経済の下で、ネーション(想像の共同体)が形成されたからである。とはいえ、それはAの“低次元での回復”にすぎない。その結果として成立したのが、資本=ネーション=国家である。そして、それが最初に出現したのは、ヨーロッパにおける1848年の革命を通してであった。マルクスとエンゲルスはそのとき、資本=ネーション=国家の出現、すなわち、Cの下でのA・Bの結合という大事件に立ち会ったのであるp389」。共同体のあり方としてアソシエーションという協同組合方式もひとつの方法であるがそれは、ユートピアン社会主義であり、ローカルに通用するものでしかないという。したがってもう少しスケールアップした国家や資本というものを揚棄することはできない。揚棄しようとすること自体が、それらを回復させてしまうからだという。そしてそれを可能とするのは、この本のテーマである高次元のAの回復によってしかないというのだ。Aとは、互酬にもとづく相互扶助。個体性・独立性ある社会のことであり、それは古代社会にあったものものである。

1月16日(月)
「力と交換様式」は第4部。ヘーゲル、マルクス、エンゲルスと続き、エルンスト・ブロッホが登場し、ブロッホの「希望」を定義する。それは「希望とは、中断された未成のものが、おのずから回帰すること」である。これを史的唯物論でいう「未来」、生産力とともに形成された生産関係(階級)の変革と国家の揚棄によって実現されるもの、と対比する。そしてブロッホは、無意識に対して未意識という。反復される意識のことをいう。

1月15日(日)
午前に娘たちと2階の残工事。これで一通り終えることができた。後はリフォーム会社に任せようと思う。午後から妻の実家に行き、義父の退院祝い。軽めの会食をする。元気そうで何よりである。
005 ラ・リーガ ソシエダ×ビルバオ はじめて観るバスクダービー。他のダービーとは異なり穏やかである。互いのサポーターは隣り合って座り観戦するほどだ。隣接すれどもいがみ合うことなく共同体としての意識があるらしい。ソシエダのホームページも一番始めにバスク語euskarであり、スペイン人であることの前にバスク人であることが分かる。試合前には民族舞踊も。脚を中心とした踊りであった。久保は右FWで先発。ゲーム当初から意気込みが感じられ調子がよいのがわかった。相手股抜きの1GにエースオヤルサバルへPKもプレゼントし、MOMに選ばれる。今日は、ビルバオのプレッシングも激しく、ソシエダはそれをかいくぐるのに苦労していた。そのひとつの打開策にCFのセルロートが下り、久保はその近くを上がってゴールを狙っていた。交代前には、そうした状況で何度も裏を狙っていたのだが、味方からはパスが供給されないのは、もうひとつ信頼をつかめていないことかとも思う。反対サイドにオヤルサバルがいて攻撃の重心がそちら側になっている。

1月14日(土)
003 プレミア マンチェスターユナイテッド×シティ ユナイテッドが逆転に成功。ホームでの気合いが感じられた。いずれも速攻から少ないチャンスをものにしたものであるが、その前からプレッシングが激しくなり逆転の予兆は十分に感じられていた。その結果ユナイテッドもいつのまにか上位に位置し、2位のシティとの差はなくなっている。
004 プレミア ブライトン×リヴァプール 三笘の左先発もしっかり定着したようだ。今日も随所にリヴァプールサイドを脅かしていた。その対策としてリヴァプールは右ハーフのヘンダーソンを下げて2人で押さえ込もうとするも、ブライトンも左SBのエストゥピリアンとの連係でこれを崩そうとしていた。結果、後半からブライトンの圧勝。故障者が多いリヴァプールであるが、昨年までの勝者の面影は今はない。クロップは7年目で、それはドルトムントで不調であった時と重なる。

1月13日(金)
朝から建具、ガス、ペンキの工事。今日で工事は一段落するも、残されたセルフ工事部分は大きい。その予定を立てて今日を終える。室内はすこぶる快適になった。

1月12日(木)
大学にて重要な会議。なかなか解決が見出せないが、誰かが無理しないといけないのだろうと自覚する。交換様式Aを高次で再回復するには、柄谷にいわせると、本来あるべき交換様式Aが有効らしいことを自覚できないといけないが、それには情が重要な要因になるのだろう?と思う。

1月11日(水)
o+hの大西麻貴さんをむかえてのレクチャーシリーズ。今年度最後となる。大西さんは実に感受性豊かで人柄もよく、具体的なエピソードにそって話をすすめる。この姿勢に惹かれた。無防備にみえるのもまたよかった。タイトルは「愛される建築をめざして」。これは高校時代からの近代建築に対する疑問であったという。大西さんの考えは一貫している。それは「個から出発する共感の輪が重なり合い全体が包摂される」というものだ。それを聞いて、ぼくはプリコジンの散逸構造を連想した。大西さんはそのための建築の構成を模索しているのだという。他の建築家と異なっているのは、そのために新しい建築の形式をつくることも大切に考えていることだ。このことに大変共感した。つまり、恣意的でありつつも自分を開いているのである。いくつかのプロジェクトを紹介してくれた。どれももちろんプランが大事となり、そのため求められる要求を意味として重ね合わせていくのだそうだ。しかし、それにもまして屋根の形にも重きが置かれている。屋根にはあまり要求がないのだろう。したがって大西さんの建築に対する思いがそこに表現され、建築になっていると思う。近作では、庇端部の修まりなど建築としても洗練されてきている。よいレクチャーであった。

1月10日(火)
「力と交換様式」を続ける。第3部の最後は環境問題について。アニミズムが消えてしまって、自然が人間にとって、単なる操作される、また操作されるべき物となってしまった点を批判する。「われわれが今日見出す環境危機は、気候変動のような問題に還元されるべきではない。環境危機は、人間の社会における交換様式Cの浸透が、同時に人間と自然の関係を変えてしまったことから来る。それによって、それまで“他者”として見られていた自然が、たんなる物的対象と化した。こうして。交換様式Cから生じた物神が、人間と人間の関係のみならず。人間と自然の関係をも致命的に歪めてしまったのである。さらにそれが、人間と人間の関係も歪めるものとなる。すなわち、それはネーション=国家の間の対立を各地にもたらす」。

1月9日(月)
サントリー美術館で開催中の智積院展に行く。長谷川等伯の屏風は、10年くらい前に父が本物を観たいというので京都に一緒にいった。行くと屏風は、門の左の寒々しい宝物館に展示されていて、がっかりした記憶がある。しかし隣の会館には土肝を抜かれた。屋根を支持する柱がコンクリートのポテンシャルを遺憾なく発揮していた建築であった。後で調べると増田友也であった。現在は取り壊されてしまったそうだ。今日の展示では、等伯と息子久蔵の屏風は完璧に展示されていた。CGのようであり、これはこれで少し残念でもある。この江戸初期の絵は絢爛豪華であまり好みではないが、構成と対象物の大胆さがその感じを上回っている。構成という概念は江戸当時なかったと思うが、極端な横長であることがそうさせているのだと思う。それは少し前の狩野永徳のもと比較しても、のびのびしていてより大胆である。二人はライバルであったといわれているが、それもうなずける。等伯後の琳派の展覧会に今度行ってみようと思う。

1月8日(日)
妻を実家に送って、ホームセンター巡り。今週の残工事に備える。
002 ラ・リーガ アルメリア×ソシエダ 久保は右で先発。今日は右脚で右奥までドリブルで攻め上がり、遅れて上がってくるシルバとの連係も多かった。シルバにアシストを与える。右サイドでは、シルバやメリーノ、そしてプライス・メンデスなど左利きの選手が密集して起こす攻撃が目立つ。対し左では、比較的スペースがあり久保が自由に動き回れっている。最近久保が右に位置するのは、おそらくエースオヤルサバルが左で復帰したときの対策と思いたいが、実に面白い展開となっている。

1月7日(土)
リビングのオーディオのセッティング直し。漸くこの作業にかかることができた。始めようとしてから1年かかった。注意深くアンプの配線を確かめながら進める。
001 プレミア ミドルズブラ×ブライトン 三笘先発。アシストも決める。ブライトンの戦術が巧妙で全員をピースのように考えている。こういう形に日本人はあっている。三笘も後ろのSBエストゥピアンとIHのファーガソンとの連係がはまる。

1月6日(金)
午前に虎ノ門に行き、午後に銀行の雑用と炊飯器を修理センターに届け、どちらも連絡待ちとなる。「力と交換様式」第3部を読みはじめながら、子供の頃の疑問を思い出した。それは、なぜ紙切れでしかない紙幣の価値を皆が信じて売買するかという点や、西欧の人たちが聖書の前で宣誓する点。宣誓など単なる口先のものでしかないと思っていたからだ。あるいは戦争を起こす一方で、憲法を重んじる点についてだ。これらは幽霊のようなわからい力である。本書ではこれを説明しようとしていて、徐々に納得していく。

1月5日(木)
「力と交換様式」第2部を読み終える。後半は、共同体にいたゲルマン農民が、どこでいかにして賃労働者に転化したかについてである。それはマンチェスターやリヴァプールという新都市の織物業で起きた。織物業はあまり熟練業を必要としなく、消費者としての魅力に彼らがかかってしまったためとされる。これが資本の優位性を導き、絶え間ない技術革新が求められ、産業革命が起こったという。その下地として宗教革命による神崇拝からの解放、すなわち貨幣を蓄える物神崇拝と国家による規律教育があったという。

1月4日(水)
妻が義母の世話に出かけたので、今日は近くの熊野神社に一人で行く。結構人が多かった。「力と交換様式」第2部をほぼ読み終える。第2部はイオニアからギリシア、ローマそしてゲルマンまでの中世、そして絶対王政までの、近代国家が成立するまでの話である。このときギリシアやローマは、アジアの亜周辺であったと指摘される。そのためアジアの官僚制専制国家システムが及ばなかった。そこでは互酬性に基づく小国家(都市国家)が形成され、ゲルマンの封建制も、領主と農民の間の双務的な農村共同体(アソシエーション)であったという。柄谷はそれを未開的といい、文明と対立させる。この未開性が専制国家をつくる妨げになっていたし、ギリシアで芸術が花開いたのも、この未開性によるものだという。その未開性は、今では修道院にて見ることができる。そしてこの絶対王政(といっても君主に毛が生えたものでしかないそうだ)が崩壊してはじめて近代国民国家が成立するに至った。本章の後半にベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」も紹介される。資本主義の成立と印刷を通じた情報技術を通じて、新しい集団意識が目覚め、法に基づく国民国家がブルジョア層によってもたらされたという。ここでもまずは現実社会があり、それは上部構造から発展したものとなっていない。

1月3日(火)
今日は妻と近くの氷川神社へ初詣。午後から2階の整理。正月が明けると職人さんが入るための準備をする。昨日に続き山田洋次監督を観る。「幸せの黄色いハンカチ」。この映画を、ぼくが学生の頃、中埜博さんが難波さんに強く薦めていた。このことを鮮明に覚えている。そのとき難波さんは意地でも観ないといいつつも、それなりに詳細を把握していた。二人のただならぬ会話から、ぼくも今日まで観ないでいた。その自制を思い切って外して観ることにしたのである。もうよいのではと。案の定、この映画の特徴は、あらゆる複雑な現実を伏せても訴えかける感動をなんの衒いもなく描き切るところにある。もちろんぼくもそれに素直に反応した。が一方で、ある種のパターンに寄り添ってしまっている姿勢を批判的に思ってもしまう。つまりこのふたつの間を揺れてしまう訳で、学生時代に危惧した状況と今もあまり変わっていない。ただし、あらゆる前提をあらためて問い直すことなど本当に不可能と考えるようにもなっていて、その上に乗った方がいくらかでも前進できるとも考えるようになってきている。この映画を通じてこのことに気づけたのはよかった。

1月2日(月)
近くの幡ヶ谷不動尊へ初詣。人が少なくてよい。護摩焚きのみで予定の時間より早くはじまるも30分ばかり続いた。天気もよく清々しい気持ちになる。午後に「家族」山田洋次監督、1970年の作品を観る。長崎の伊王島の炭鉱に勤めていた家族が北海道の中標津町の開拓地までたどり着くまでのドラマである。日本の高度経済成長時代の風景と世情を知ることができる。井川比佐志と倍賞千恵子が扮する家族はおそらくぼくの両親と同世代だろう。現実と社会の歪みにもがくのはどの時代でも共通であるが、真っ直ぐな希望を抱いているのが現在と違うところである。それに重ね合わすように博多の工業地帯、福山の工場団地、そして大坂万博も描かれていた。列車から垣間見られる街の風景も多様で特徴的だ。山田洋次監督はその前年に「男はつらいよ」を完成させ、キャストを含めそのファミリーによる製作である。

1月1日(日)
今日は妻の実家で正月。向かえにある西福寺は今年も開いていない。三重塔もある立派な寺であるのに残念だ。その間に4年生から送られてきた梗概のチェックと読書。妹夫妻が今年になって飼い始めたボルゾイに会う。大型犬であるが、物静かで優しい。2時間の間、子供たちとじゃれ合っても一度も吠えなかった。体高は机より高く体重は45キロくらいあり、毛艶もよくぬいぐるみのようだ。「イエスマン」ペイトン・リード監督をBSで観る。2008年の映画で、家族はよく知っていた。主人公が変な宗教に感化され、つまらない人生をポジティブに変えるコメディ映画で、元気をもらう。ジム・キャリー主演。「アメリカン・スナイパー」のブラッドリー・クーパーも友人役で出演。製作までしている。クリント・イーストウッドの「運び屋」では、イーストウッドを敵視する保安官役でもあった。司祭役がこれまた特徴的で、見覚えがあるとネット検索するとスターウォーズの良心的な最高会議議長の一人であった。