9月22日(水)
授業の前後の時間を使って対面のゼミをはじめる。授業では、小堀さんの作品を中心に働く場と建築との関係を解説。「ティール組織」も絡める。フラットな組織形態を用意し、それをいかに建築の仕掛けによって活性化させるかを問題にしたい。最後にグループ分け。これまでの設計課題と違ってコンセプトを重視することよりも、実際の問題の検討を重ねることによってアイデアがダイナミックに動いていくことを体験してもらいたいと思う。新しい働く場の建築としての提案は、エスキスの方法とも連動している。

9月21日(火)
午後時間をつくり墓参りへ。「世界はありのままに見ることができない」を続ける。夜にTVでたまたま「グラン・トリノ」クリント・イーストウッド監督・主演を観る。イーストウッドが頑固な退役軍人の晩年を演じる。近頃公開の「運び屋」とストーリーは似ている。2008年の作品で、主人公が愛するのはタイトルにもなっているフォードの名車。主人公は朝鮮戦争の後にフォード=デトロイトで働いていた。ところがそのデトロイトにはアジア人の流入が増え、黒人スラムも大きくなる。息子はというと日本車のセールスマンになっているほどだ。落日の白人アメリカがそこにある。そして差別用語を交えた会話が日常的に描かれているのに驚いた。決して隠されたものではなくオープンなものだ。彼らはかつてポーランド系としてあるいはイタリア系として差別を受け、それが今は別の人種に向けられている。しかし信仰心は厚く、心は満たされていないが生活は貧しくはない。通りに面して大きな芝生庭と1mほど上がったテラスエントランスがある平屋住宅に住み、地下にはワークスペースがある。結末でイーストウッドは町のチンピラと会い対し死んでしまう。これには、ちょっとスケールが小さく感じられてがっかりした。

9月20日(月)
今日から授業がはじまる。午前にひとつと午後から2年生の設計の授業。CASABELLA922が届く。パウロ・メンダス・ローシャの追悼集。最後にスミルハン・ラディックの「木の家」がある。コンセプト絵として浮世絵風のドローイングがある。共同者原田雄次によるものだ。斜面角度に微妙に振れた細長い建物で、不定型な土地との角度を吸収するためにピロティ部分の構造に工夫がある。意図的なズレを生む構成は篠原一男の影響であるという。ダルコはそのことを「回帰する自由」というタイトルの文章で記している。

9月19日(日)
高校生に向けてオンラインによる質問を受ける。コロナ禍でできなかったオープンキャンパスの代わりである。元気な学生は気持ちよい。真剣に彼らに向き合う。091 ラ・リーガ マジョルカ×ビジャレアル 久保は先発。今日は守備に追われることが多かった。ビジャレアルSBの早い12番と要役の14番のロドリゲス2人を見るかたち。時折インターセプトもして上出来であったと思う。中盤底が安定すると久保は前向きになりいくつかチャンスもつくることができるも、もっと攻撃の機会を増やすことが今後の課題だろう。試合はというと、日中のゲームであったためか、あるいはマジョルカが守備重視でいったためか、時折ボールのだしどころが詰まるゲームで、スピード感にかけた序盤であった。ビジャレアルのエミリはそのため4人同時代えを後半行ったほどだ。それは久保には有利に働きフリーになることが多かった。マジョルカのチャンスの多くはこの時間帯からはじまったといってよい。0-0のドロー。

9月18日(土)
「浅田家」中野量太監督を観る。脚本が凝った日本らしい作品である。二宮和也演じる写真家の序盤にみせたキャラクターが後半になって大きく裏切られるのが特徴である。これによって単調になりがちの若者の成長映画が奥行きをもつようになる。序盤は、妻夫木聡が演じる兄の回想によって二宮(写真家)のキャラクターが印象づけられ、いつの間にかそれもなくなり後半は写真家自身の思いが中心となる。この方法によって、3.11における人間物語の挿入に成功している。090 プレミア バーンリー×アーセナル 富安先発。バーンリーも組織だった流動的な攻撃がなく、富安も特に攻撃参加の指示がなかったようで守備に専念ができ、安心してみてられた。余裕すら感じられたのであるが、試合後ピッチに座り込んでいたところをみると、実情はそうでもないらしい。気がかりなのは、2CB+中盤でビルトアップするのであるが、そこに富安が外されているということである。チーム戦術かあるいは信頼を得ていないか分からないが、その分富安は楽である。そして富安より前の右の2人も一人で攻め上がるタイプなので尚更である。これまでは下位のチームとの対戦であった。これからそうもいかなくなって変わっていくのだろうと思う。そのとき富安の変化が楽しみである。

9月16日(木)
089 CL インテル×レアル・マドリード 新加入の18歳カマビンガがアシストを決める。モドリッチのポジションだ。久保もうかうかしていられない。昨日のバルサといい、世代交代が急速に進んでいることを実感する。無理をしても若い者を育てようとする環境が今どのクラブでも確実にできている。

9月15日(水)
088 CL バルサ×バイエルン どうもバルサはバイエルンに勝てない。今日もラインを下げられその前のスペースを上手く使われていた。1本面はミューラー。その後の2本はそこからのこぼれ球をレヴァントスキーに仕留められていた。2点の差がつくとバルサは 17,18歳の選手を登用する。思い切った采配だ。少し長期的な視点でチームつくりを考えている。それはスターティングメンバーにも現れていた。なんとバルサが5バック。メッシがいない今ホームでも守備的にのぞむというものだ。現実を見せつけられる。

9月14日(火)
GA 172は海外作品のオンパレード。雑誌の後半には、旅への妄想というエッセイ集がある。建築家がこれまでの旅を振り返る特集である。そんな中内藤廣氏の紀尾井清堂がよい。そこに寄稿している文章は「建築の力を問われるということ」。この作品においてクライアントからの要求はなかったそうだ。内藤さんはそこで何をつくるべきかを考え続けたという。そしてモノとしての作品に対峙したという。昔、コンペで内藤さんに批判されたことを思い出す。そのときぼくは建築の可能性ばかりを主張して、現実に即していないと一蹴された。実現することへの意思ばかりで、それが社会に置かれるときのことを考えていなかったという指摘であったと思う。その後内藤さんの作品をいくつも見て回った。モノへのこだわりが力強い空間を形成していると感じる反面、どこか内藤さんは納得していないだろうなと思う節がいくつもあった。建築が解かれる対象となっているという直感である。今や時代の要請は内藤さんのようになってきた。それにたいする窮屈さを感じるのだ。今回の作品はどうだろう。文章からその苦悩が感じられる。

9月13日(月)
「世界はありのままに見ることができない」ドナルド・ホフマン著を読み始める。予想に反し、本書も最近流行の新しい実在論に関してを科学的視点から描こうとしていることがわかってきた。ディスクトップ上のアイコンが知覚を表出する代表例であるという。つまりアイコンの中にある実在などあってもなくてもよく、知覚のみに頼った世界が、ディスクトップ上だけでなく我々の現実という世界でも機能しているというのである。真実を獲得するための数値化できないものこそを知覚にたよるという話は完全に否定されている。

9月12日(日)
087 ラ・リーガ ビルバオ×マジョルカ ビルバオのタイトなマークにマジョルカは苦しむ。それが90分続いた。久保はというと、たまに下におりてはよいつなぎ役をして、チャンスメイキングをしていたと思うが、なかなかフィニッシュまではいかなかった。絶対的な立場になるまでもう少しである。

9月11日(土)
086 プレミア アーセナル×ノーウィッチ 富安が早くも先発登場。右サイドであった。ノーウィッチが富安のサイドを組織的に攻撃してこなかったので、富安のプレーを安心して見ることができた。ヘディングに負けることなく、前半終了間際にはほしいダイレクトボレーまでしてみせた。サイドにおける富安の守備能力は問題ないと感じた。次のステップ、センターあるいは3バックに回されたときが楽しみである。

9月10日(金)
「陽の当たる場所」1951年ジョージ・スティーブンス監督を観る。敬虔なクリスチャンの母を離れた貧しく真面目な青年が富と名誉に翻弄され死刑に至るまでの物語である。エリザベス・テイラー演じる裕福な娘の無邪気さに翻弄されてしまう。彼の死後もテイラー演じる娘は新しい人生を進み、他の周囲の人の立場や状況に変化はなく、その人それぞれの天分があるというメッセージだろうか、そう思うと悲しくなった。テイラー自身の役者としてのその後の人生を思うとなおさらそう思う。主人公の青年は素直で心底の悪でない。2人の恋人の間で揺れる青年で、心のどこかで元の恋人の死を望んでいた、このことが罪だという物語で、ぼくらの知るハリウッド映画と少し趣が違っている。

9月8日(水)
Zoomの合間に郵便局などで雑用を済ませる慌ただしい1日。「1973年のピンボール」を読む。大阪万博を終えて、学生運動、公害問題、石油ショック、ベトナム戦争などをはじめ、ひとつの時代が終焉することがなかなか完成できずに転がっていく社会状況が主人公の視点によって描かれている。見出すことができないリアルな未来をどう捉えるかの模索はこの頃から始まっていて、今でもぼくらを悩ませ続けている。とはいえ建築で、そうもいっていられないし、社会の内実もそこをテーマとするところでまで熟してきている。一時だけ村上の方法が有効であったのでないかと思う。

9月7日(火)
085 代表 中国×日本 今年からアウエー試合の地上波放送がなくなった。サッカー人気の翳りを感じる。中国は前半、守りに徹してくれたので、日本は厚い攻撃を繰り返すことができた。そういった中で久保の動きが目立つ。とはいうもの面白いもので、得点は縦に速い突破から大迫が決めた。大迫の株は持ち堪えたが、明らかに力は落ちている。ポストプレーではボールが落ち着かず、今後の行くすえが心配でもある。中国は組織的でなかったことが大きかった。それがオマーンとの違いであった。

9月6日(月)
今月号の建築雑誌は「祝祭のゆくえ」。オリンピックを社会的視点から祝祭と捉える特集である。落合陽一郎のいう「質量あるものは壊れる、質量のないものは忘れ去られる」が印象的。メディアアーティストはモノ化を目指している。東大寺のお水取りや春日大社の神事がアーカイブ化されていることも知る。これまで一部の人たちにしか公開されなかったイベントが、コロナによって逆に広くオープンなった例である。ニコニコ美術館。かなり充実している。

9月5日(日)
母の納骨のため多摩墓地へ。夜はパラリンピックの閉会式。母はオリンピックの開会式に亡くなったので、ぼくの記憶はオリンピックを介して繋がれることになるのだろうと思う。

9月4日(土)
続けてINAXのPR誌が届く。菊竹清訓の階段手すり特集。スチールの華奢な手すりも興味深いが、島根の田部美術館を思い出す。重い木をガラスでサンドイッチするディテールであった。いつか使ってみたい。多治見駅前の公園を八馬先生が紹介している。ゼミ合宿で訪れたとき、水豊かな美しい公園であったと記憶している。農業用水を利用した新しい傾向の公園であることを知る。

9月2日(木)
続けて084 代表 日本×オマーン 日本が完敗したのに驚いた。オマーンは日本を研究していて、攻撃でいえば中央の大迫、鎌田が完全に押さえ込まれ、決定機がつくれなかった。守備でいえば、吉田がサイドに引き出されることが多く、その隙が狙われていた。かといって長友と吉田の距離があって、その間も縦パスを通されていた。選手のコンディションもよくない。オリンピックその後のリーグ開幕と休む暇がないことが響いているのだろう。そうした彼らが守備の中心である。守られてからカウンターというのならいつものことだけど、今日は戦術の上を行かれていた感じである。吉田は、試合後のインタビューで負けるべきして負けたと独白している。その通りだろうと思う。ショッキングな試合であった。

9月1日(水)
続けて代々木警察署に行き、問題を整理。これまでの問題が動き始めることを期待する。建築士会の9月号は設計監理契約について。後藤先生が寄稿している。設計かしは引き渡し後2年、そして損害賠償の請求期間は完成引き渡しから2年、故意または重大な過失の場合は10年と記されている。これらが明確された。

8月31日(火)
「1973年のピンボール」村上春樹著を読み始める。新しい空気感をどう評価するかによって、本書の評価が分かれることを実感する。1973年頃は決して明るくない時代で、数年前の挫折を振り返ることが可能となった時代である。特に若者にとっては虚無感が満ちていたと思う。そうした時代雰囲気の描き方に新しさがあったのかとも思う。ぼくもまだ小さく、この頃の状況をよくわかっていない。

8月30日(月)
「村上春樹の風景」柄谷行人著を再読。読みながら池辺の「名前のない空間へ」のことを考える。これに照らし合わせると柄谷はもちろん、名前のある例えばリビングとかの部屋名に由来する既知感でものをつくることを否定している。つまり名前のない空間つくりに同意している。名前のない空間つくりとはどういうことか。ここではふたつの方法をレヴィ・ストロースの言説をもとに提案している。ひとつはゲームや科学のように、構造から出来事をつくり出すこと。もう一つは儀礼や神話、そしてブリコラージュに見られるように出来事を駆使して構造的配列をつくり出すこと。前者はバリエーション的(離接的)となり、後者はまとまり的(連接的)なものとなる。つまり、要請にしたがってその場その時にあった空間を定めていく方法(固有の空間となる)と、目指すべき空間を表出化する方法(必要とされる空間となる)である。そのふたつとも、間接的であれ直接的であれ、規則や構造、あるいは名前のある空間の存在、こうしたものを前提とし、そこから自由でない。そして村上は空間に名前をつけることを本当に拒否したという。建築では空間1とか空間2とかいうこともあるが、それ以上のこと、例えば平面図で表現しないとか、サムネイル式の写真にするようなことを行った。しかしこれは例えば、リビングという名前のある空間に共通認識がある、このことを前提としたものであるが、今は(村上らによって)そんなものはなくなってしまった、上記でいうところのバリエーション(離接)性が大きくなりすぎてしまっている、というのが柄谷である。

8月29日(日)
柄谷行人の「病という意味」を再読。堀辰雄が少し気になった。結核が日本においては「文学」によって神話化されていく経緯が記述されている。堀辰雄がこれに絡まっていると考えたのだが、日本に西洋風の小説が根付くために試された方法のひとつの現れであろう。ただしここには堀の記述がなかった。
083 ラ・リーガ レアル・マドリード×ベティス マドリードの試合等を観ると多くの選手が同時に流動的に動き、ボールも大きく動く。ダイナミックである。これを実行するには感覚だけではすまされないので、それを共有するためには、言葉という壁が日本人に生じてしまう。日本人は身体的に優れた突破型選手ではなく、チームメートを活かすパサーが多いので、この壁を突破することは尚更大事なものとなっている。長谷部が成功した理由がみえてくる。

8月28日(土)
「This is it」マイケル・ジャクソンの最後のドキュメンタリーを観る。曲毎にハーサルを通しで行い、曲が終了する度にマイケル・ジャクソンがアイデアを出すのだが、それをディレクターが確かめるだけで再演されることなく次の曲に進められる。その指示は結構細かいところにまで及ぶのだが、それを把握するスタッフや出演者の優秀さにも驚く。即興の上書きの繰り返しである。そしてリハーサル最後にスタッフ全員が円陣を組み、マイケルが音頭をとる。その言葉は地球によせたメッセージであった。スタッフを鼓舞することに留まらないそのメッセージの大きさに感動する。
082 ラ・リーガ マジョルカ×エスパニョール 今日久保は右で先発。右のムブーラは左に行く。中盤底ライン際にスペースがあり、久保はそこで起点となり、ドリブル、パス、シュートを放し、チームのエンジンとなる。決定的なパスの相手はニーニョであった。仲よさそうにはみえないが、リズムはあっていた。ニーニョのほしいシュートがいくつあった。ショートパスの相手は14番ダニ・ロドルゲス。これはあまり成功していなかった。とはいえ得点は皮肉にも左からの折り返し。中央から左に振ってもう一度右に2回大きく振ってからの14番の得点であった。もっとも久保がつくった2番目のスペースを利用したものであった。久保に対する守備の指示も明確で、上手くこなしていたと思う。

8月27日(金)
会計事務所から連絡あり、基本方針を確認する。TVで「風立ちぬ」宮崎駿監督を観る。堀越二郎という飛行機エンジニアの戦前までの半生を描いた映画である。妻菜穂子の位置づけによっては、未知へのものにたいしてトライすることが美化されすぎているともとれた。結核であった菜穂子は、二郎の設計完成を有利に進ませるためにあえて八ヶ岳の病棟から上京したともとれるからだ。未知のものへトライすることが素晴らしいが、結核という悲劇の上に物語が成立しているのがちょっと気になる。

8月26日(木)○
「森のバロック」中沢新一著を再読。熊楠が粘菌に惹かれた点を本書で確認する。中沢によると、既存のパラダイムに分類できない粘菌の魅力に熊楠は引っ掛かったのではないかという仮説である。そこには粘菌にたいする造詣がないので不満であるが、他山の石としなければならない。タイトルにバロックとあるように、解くことができない絶対的外部に向かって、ああでもない、こうでもないと、織り込むように内面化していく様を、生命の本質と捉え、それをマンダラや森、熊楠の態度に見ているのだ。ドゥルーズの「襞:ライプニッツとバロック」を今から見ると下敷きにしているのがよく分かる。西洋伝統のものとは異なる新しい認識論の存在をぼくらに示そうとしている。

8月24日(火)
大学は急な入構禁止となったので、唯一許されたこの日を利用して大学にて雑務をこなす。帰りの首都高はパラリンピック開会式のため通行止め。大きく迂回を強いられる。「オブジェクト指向UIデザイン」を読み終える。この本を読んでの収穫は、データの新しい整理方法にあった。早速、これを実践してみようと思う。目的に沿ってデータを収集するのではなく、未来の可能性を拡げるために収集があるのだ。将来何かを判断するときに、自分を含めて他人にその条件を開いておくためのものである。それは、原因から結果を導くという思考形態ではなく、今ある現状を部分的であるが構築し直すにはどうしたらいかという思考形態である。大きなパラダイム変換だと思う。

8月23日(月)
訪問を延期していた会計事務所に夕方に行き、プロジェクトの再開をお願いする。建築における「オブジェクト指向UIデザイン」とは何かを考える。隈さんの「アオーレ長岡」が好例だろうか。大きな屋根の下に箱が散らばっていて、ユーザは箱を目的にそって選ぶことからはじめる。ユーザは箱の外の空間に出て、箱から得た情報を自由にアレンジできる状態になれば尚更よい。建築にはそこに環境的制御が求められるので、そうした自由空間をどうしたら快適にすることがポイントのように思う。ここに新しいデザインがあるのだろう。

8月22日(日)
081 ラ・リーガ アラベス×マジョルカ 久保がトップ下で先発。試合終了までチームのアクセントとなっていたが、決定機までに至るものではなかった。右Wの7番とのコンビネーションが悪い。そのムブーラもバルサB出身と聞く。しかし猪突猛進タイプである。決定機をつくったのは、途中出場の37歳のセビージャ。2年前、シーズン最後まで久保にパスを出さなかったキャプテンである。今日はベンチスタート。中盤下からの浮き球によって、これまたビジャレアルで結果的に久保を追い出した20歳のニーニョのループシュートを生んだ。マジョルカの選手層は薄くはないことが分かる。こうしたチーム状況から抜け出た存在になることが久保には求められ、本人もそう感じているはずである。

8月21日(土)○
ギャラ間で開催中のアンサンブルスタジオ展に行く。カザベラを通じて彼らの活動は知っていたのだが、彼らの残す作品はアースワークで、そこにアーティストと建築家の区別はなくなっている。土に穴を掘ってモルタルを流し込みオブジェをつくるように、シャベルカーとミキサー車で人が入れるくらいの空間を大地に残す。工業製品でない材料を使って、つくること自体に焦点をあてることは、ここ10年くらい前から脚光をあびている。スタジオムンバイや王樹の活動など典型だろう。しかし使用目的がなく、存在自体に重点が置かれた活動は建築には多くない。「建築」が直接モノを扱うことを教えてくれる作品であった。

8月19日(木)
M2生との修士設計の個人打ち合わせ。建築雑誌を読む。今村さんのコンペの歴史についての論考がある。戦後、特に80年以降のコンペの歴史を詳細に調べられていて感心する。コンペ自体も社会を反映するものだという主旨の論文であった。難波さんの論考は、プログラム論。プログラムへの信頼が揺らぎつつある中でもプログラムの必要性を読後に感じた。プログラムとは将来を見据えた計画のことであるがそれを行わないというのが、最近読んでいるオブジェクトプログラミングである。そこでのプログラムにたいする態度はつまり、1秒先は分からず、先回りもできないものであるが、そうする代わりにまだまだ埋もれている情報があるのでそれを掘り起こすことの方が重要というものである。しかし、どうやらそうした情報は無限に展開しているものではなく、文化のような括りでぼっーとではあるがカテゴリー化されているらしい。ので、その存在に意識的であることが、情報をゲットするのに効率がよいというのである。

8月16日(月)
ライゾマテックスの齋藤精一さんのインタビュー記事をJIAマガジンで読む。インタビュアーの坂牛さんも驚いていたのだが、役所の仕事が齋藤さんのメインになっていることだ。通産省の大阪万博やドバイ博もそうであるが、奈良吉野や横須賀の猿島のプロジェクト、そしてなによりも国交省の「PRATEAU View」というプロジェクトが面白い。日本全国を3Dデータ+ビジュアル化する地図プロジェクトである。これがGoogle Earthと異なるのは、全て1つ1つの建物がプロパティ化(彼はそれをセマンテックスといっている)されていることだ。つまり今読んでいる本にあるように、地図データが全くオープンなオブジェクト指向UIになっている。そしてこれらが点群データということで、ぼくらもダウンロードして自由に加工できるという。実際に体験してみる。人流までカバーしている。どうやら地図というものは国がつくらなければならないという国の使命感と齋藤さんらの新しいUI思考がこのプロジェクトを生んだようなのだ。ところでそんな齋藤さんは、理大卒業後のコロンビアでの経験で一旦建築に見切りをつけたという。驚いた。そして読んでいて面白かったのは、そんな齋藤さんが建築で今、多領域を揺り動かしているということだ。「建築」を解体させようとする人は多いと思う。ぼくもそれに同意するが、「建築」の解体は内部から起こるのではなく、解体とは齋藤さんのように多領域との関係によって薄まっていくようなことらしい。このことに気付いた。それでも「建築」の芯は残るのだろうが、「建築」の輪郭が曖昧になっていくこと、これが解体ということらしい。このことを感じた記事であった。

8月15日(日)
080 ラ・リーガ マジョルカ×ベティス 1年ぶりにマジョルカのゲームを観る。久保が2日前にマジョルカと契約をしたからである。マジョルカの中心メンバーはそんなに変わっていなかった。むしろヘタフェからFWアンヘルが加入をしている程である。オリンピックを優先して合流が開幕間近となってしまったので久保はそうした慣れた環境を望んだのかもしれない。とはいえサポーターやチームメンバーから、2部降格時に見捨てられたと思わないだろうかと心配する。久保は同点にされた60分から登場。はじめ左、そしてラゴ・ジュニアが入ると右に回る。その間、監督ともピッチ上で何度も話合っていた。今日の久保は積極的な守備とドリブルでの仕掛が印象的であった。フリーキックまで任される。ただし、バーの遙か上を通過。昨日、中村俊介との対談番組を観たが、そのとき久保は俊介にフリーキックの極意を聞いていた。それが活かされていなかったかたちである。ところでその番組で印象的あったのは、中村の10番への拘りと、その10番の中央の司令塔としての役割がボランチに組み込まれたり、サイドからの突破も求められるようになり、時代に追従できなかったという中村自身の独白である。赤裸々であった。中村は久保にその突破の可能性を見ていた。今日の久保はその点に関してはトライをして、まずまずの存在感を出していたと思う。

8月14日(土)
「オブジェクト指向UIデザイン」を読みながら、「パタン・ランゲージ」の何が当時のベックやカニンガムを刺激してXPやWikiなどのオブジェクト指向UIに導いていったかを考える。パタン個々をオブジェクトとすると、これからはじめるタスクとしてのかたちをつくる行為は無限通りあって、当事者としても楽しくクリエイティブである。パタンは空間+出来事のセットとされ、それはオブジェクト+アクションとも似ている。彼らは、手順を積み重ねるタスク型よりも、目前の興味を連続させながらかたちつくることの方が可能性あることを見透したのである。そうすると、もしオブジェクト指向を設計に組み込もうとすると、いくつかのパタンをあげて、これを好きに組み合わせては図面にするような方法がよいのではないかと思う。そもそも部屋名をあげてこれを組み合わせる従来の設計方法も同様であるが、パタンはプロパティ化されていて同時にそれが何らかのネットワーク化されているところに大きな違いがあるのではないかと思う。研究室の学生に100枚資料というデータ収集を要求していているが、これを分析するのではなく、好きなときにピックアップして設計に役立てることができるようにプロパティ化する指導をした方がよいのかもしれない。
079 プレミア マンチェスターユナイテッド×リーズ ボクバが開幕で大活躍。右の中盤であったが、そこからの早い展開で4点をとる。リーズは昨季のように面白いゲーム展開をしていたが、一気に崩れた。

8月13日(金)
「もののけ姫」宮崎駿監督を久しぶりに観る。テーマは、様々なパラダイムが内部葛藤し外部へ闘争することの空虚さである。闘争は単純化された自然対人でなく、もちろん人対人もあるし、生きもの対自然もある。そしてその上に存在するのが、生命や環境を司る神のようなものの存在である。その下であらゆるパラダイムが右往左往しているのだ。だから、例えば人間愛とかが特化している訳でない。この神のような存在の描き方に苦労しただろうと思う。この映画で神は、あるときは動物、最後には黒く強大な人間のかたちをしたもの(ティタラボッチ)として描かれているが、少し具体化しすぎたのでないかと思う。この演出にまだ残された余地があるような気がする。主人公のアシタカが住んでいたのは蝦夷(エミシ)。たたら場があるのは奥出雲。出雲を逃れた死神がことの発端になっているなどは諏訪神話を思い出させてくれ、ダイナミックな物語背景である。

8月12日(木)
午後からアンデルセンこども美術館へ。今日が展示準備の最終日で、松本さんの作品が出来上がっていた。https://www.park-funabashi.or.jp/and/kodomo/exhibition.php?period=2021081420210926。そこは、音と光によってなんともいえない幻想的な展示室であった。竹を叩く音が予想外に響きそのリズムが空間の雰囲気をつくっている。竹細工はモビール仕掛になっていてゆらゆら揺れながら、ゆっくりしたリズムを刻む。光がそれに連動して、裏から見る影絵にまで反映されている。松本さんは若いとき、奨学金で1年半かけて、東南アジアの文化とくに竹文化の精通のための旅をしたのだそうだ。竹は日本以上にアジアでは文化の基軸になっていて、祭りや食器、家具、建築の中心という。こうしたお話しを、作品をみながらお聞きした。今日も堂ノ下くんが参加していて、松本さんの下で竹の加工や組み立てに協力をしてくれていた。それらはモビールの支柱になっていたり、モビールの囲いになっていたりする。この企画を与えてくれた八咫の方に感謝である。

8月11日(水)
078 スーパーカップ チェルシー×ビジャレアル もう早いもので今週からリーグ戦が始まる。それに先駆けてのUCLとECLチャンピオンの戦いである。いつもようにビジャレアルは機械的。久保のときと変わっているのは、身体能力に長けたポストプレーができるFWが加入したので、モレーノと2トップを形成し4-4-2であることだ。久保加入当初の1ボランチとならない限り、久保が残留していたとしてもここにポジションはないのだろうと思う。久保の位置に18歳のピノがいた。彼は延長フル出場し守備に追われていた。ピノも攻撃的な選手で突破力に長けていた。若く、久保と対比されることが多かったが、かれが今後どう成長するかで、久保の昨冬の決断がどうであったかを教えてくれる。試合は1-1のドロー。PK戦の後にチェルシーが勝つ。

8月10日(火)
「オブジェクト指向UIデザイン」を続ける。本書でも、オブジェクト指向の先行例としてアレグザンダーの「パタン・ランゲージ」が紹介されている。アブダクションデザイン例として、である。アブダクションとは、制作の非プロセス化である。線形でも円形でもなく、帰納的でも演繹的でもない方法である。「ユーザーの要求に合わせて形を作るという前提から翻り、形に合わせてユーザーが要求をストレスなく捉え直せる」ことである。ぼくのいう「自転車乗り」や「逆上がり」のことである。段階的に条件を積み重ねて具象に至るのではなく、一気にもっともらしい具象を掴み、そこから最初の抽象へリバース、あるいはロジックを後から見出すことである。このことをプロセスに沿った立場からいうと、ぼくたちは最終的な理想形を直接イメージすることはできずに、たまたま目についた問題箇所を直すことしかできないということである。コンテクストへの適合が最終目標であるとすると、そうすることでしかここに近づくことはできないということである。本書では、これでは行き当たりばったりで非効率的であるので、そのために抽象度の高い道具、すなわちユーザーが自ら合わせることができるように上手に促してくれるもの、「使い道をユーザー自身が考え、自分の使用スキルの向上によって、利便性を広げていくもの」が必要とされるというのである。「パタン・ランゲージ」がそういう道具であるのはいうもでもない。ぼくとしてはそこに「デザインスゴロク」もいれたい。

8月9日(月)
「オブジェクト指向UIデザイン」上野学+藤井幸多著を読みはじめる。UIとはユーザーインターフェースのことである。集団による設計行為がITにおけるプログラム作成行為と比べられることが多いので、その参考書として読みはじめる。本書を通じてオブジェクト指向とは何かをよく理解できる。それは、タスク指向と対比されるもので、まずオブジェクトを選択し、その後アクションするように進めるプログラムのことをいう。本棚から本を手に取り、これから読むあるいはコピーする、マーキングをするなどの行為を自分で決めていくことだ。この方が自然な人の動きや思考に近く、ユーザーはストレスなくコンピュータを操作できるというのだ。それを建築におけるデザイン例も挙げて説明をしている。建築もタスク中心にデザインすると、例えばトイレに行ってご飯を食べて横になる」ことを最適化デザインすると、「寝ているときトイレに行くことは大変」になってしまうので、そのためにこれを満足させる別の解答を用意しないといけなくなる。これがタスク指向の限界であるというのだ。つまり、ユーザーフレンドリーのデザインとは、ユーザーに合わせたデザインではなく、ユーザーが自ら合わせることができるデザインのことをいう。つまり、タスクに冗長性をもたす必要があるということだ。そのために、コンピュータには道具としての程よい抽象性(冗長性)が必要とされる。これがオブジェクト指向プログラミングというものである。人間中心に物事を考えると、反対にモノ(オブジェクト)を先行させてそれの扱い方(思考)を人に委ねるという方法である。

8月8日(日)
オリンピックが閉幕。開幕直前に母が亡くなりこの16日間は色々なことがあったので、開幕をそういう目で振り返ってしまう。遠い昔のようだ。スタジアム中央に現れるプロジェクションマッピングが印象的。どうやっているのだろうと思う。時折演出に使用される花火はつきものなのだろうが、プロジェクションマッピングで押し通すのも手だと思う。

8月7日(土)
研究室の学生が参加しているワークショップのために船橋のアンデルセン公園こども美術館へ行く。場所は千葉の内陸にあるのだが、交通網が古いままで常時渋滞状態。高速を降りてからも1時間近くを要し、この展覧会をマネジメントしている八咫の露口さん、坂上さん、倉本さん皆さんを少し待たせてしまった。はじめにアーティストの松本さんに挨拶をし、学生と準備中の作品を一通り拝見させてもらう。松本氏の作品は竹を使ったモビール作品で、どうやらそこから派生する音と影絵をテーマとしているらしい。そのために丁寧につくられるモノがまずもって必要としていることが感じられた。松本夫人のネコの作品も独創的。色鮮やかで独特のかたちにたいする感覚があり、竹作品と対照的に作家の感性がダイレクトに表現された作品であった。会場は2つあって、夫人の作品と影絵となる第2会場がどうなるのだろうと期待が膨らむ。会場となる美術館は、象設計集団の池田正一氏による設計。25年くらい前の作品である。背後に丘を抱えコンクリートと漆喰、天井は鉄骨ガラス、南面は木サッシュで、地形と一体になった作品であった。美術館へのアプローチは、谷をまたぐ橋によってである。アプローチフロアは地下で、エントランスドームとアンデルセンに関する常設展示室がそこにある。その上は明るい大きなガラス張りのワークスぺースと学生たちが参加している企画展示室がある。円形のエントランス上は芝生の丘であり、外と連続している。そしてアプローチブリッジ下の谷筋には、それに沿ったクラフト棟がある。これらの建物は25年近くたっているのに、木サッシュの歪みがないのが驚異的であった。今はない北海道のサクラ木を使用しているそうだ。漆喰は久住章によるものだ。川久からの2つめの大きな仕事だそうだ。久住さんのエントランスドームの漆喰天井は圧巻である。建築家の池田さんの空間思考がここに凝縮していると思う。また大きな空間にたいして小さな空間が必ず付随しているのもこの建築の特徴である。クラフト棟にその特徴がよくあらわれていて、小さな空間は木でできていたり、土でできていたり、半外部の庇空間であったりして、そこはこどもの居場所となっていた。こうしたクラフトへの参加はチケット制で、藍染めや陶芸、木工作業に親子で多くの家族が参加していた。船橋市はアンデルセンの生誕地であるデンマークのオーデンセ市と姉妹都市を締結しているそうだ。そのため、常設展示室には本格的なアンデルセンの資料があり、公園内にはデンマーク民家や風車があり、こうした美術館と相まってこの公園はトリップアドバイザーの3位の位置を獲得しているそうだ。一通り公園と美術館の見学をすませてからから八咫の坂上直哉氏と色々な話しをする。坂上さんは47年生まれのアーティストで、芸大卒業後日新製鋼でステンレスの発色技術開発に携わる傍ら、企業アーティストとして活躍をしている人だ。作品集を頂き、それを拝見する。代表作である今は玉川大にある羽田空港にあった翼のモニュメントは、発色がモアレを起こす幻想的な作品である。この美術館とは対照的に最先端技術を応用したこれまでにない感覚を刺激する作品である。とはいえ日本のものづくり文化という点ではこの美術館コンセプトとも一致していて、文化の幅の広さを同時に感じることができた。つまりものづくりには、川上にある発注側やアーティストのアイデアと川下にある製作側の生産手段、あるいは材料などといった実際のモノ、このふたつの立場ができてしまうものであるが、久住さんはそれをひとりでやってのけ、多様な現代ではその距離が大きくなってしまうので、ジョーカーのように動き回る坂上さんのような人が必要となってくるのだ。このことに意識的な坂上さんとの話しは共感できるものであった。昼には、アーティスト松本さんを学生とは違って専門的な立場から協力をしている芸術家の井口雄介さんとお話をした。彼は武蔵野美大の建築出身で、その後彫刻で博士号もとっている人だ。ぼくのスタッフであった鈴木竜太さんとも交流があると聞く。彼の作品は建築出身らしく、正確な図面に基づくもので、修士作品である巨大な木トラスリングは大きさという点で圧巻である。最近作の、人がペダルをこぐことで回る巨大な万華鏡は、機械仕掛けなジャイアントファニチャーである。建築のように構成とユーザーに対する視点が明確な作品であった。ドク論は作品の寿命についてで、建築でいうところの仮設感覚をテーマとしている。こういう意味で井口さんも川上と川下の間に立つキーマンであった。そうこうしているうちに刺激的な1日が終わった。梨を購入して帰路に着いた。

8月6日(金)
077 オリンピック 日本×メキシコ 今回もメキシコに敗れる。日本は十分に研究されてしまっていたと思う。そのため序盤は日本のプレシングが全く効かなかった。そして日本が防御に入ると、強みであった2人のボランチがマンマークを受けて、吉田からのボールが日本の右に制限されていた。SBの酒井がフリーになるのはいつものことであったのだが、そこから堂安あるいは久保への横パスが狙われていた。そしていずれの失点もこれが起点となっている。左の相馬へは時折縦パスが入っていたのであるが、相馬は内に絞るので攻撃も単発であった。サイド奥に左のSB中山らが走り込めればよかったと思う。とはいえ、遠藤と田中が疲れ切っていて相手マークを外せなかったことが大きい。展開をこうした単調なものにしてしまっていた。そして失点も残念ながら遠藤のマークがゆるかったことによる。今から思うと、やはりローテーションが必要であった。あるいは、もう少し余裕をもった余力を残した試合運びが必要なのだろう。後半、左を旗手に変えたが、全くプレッシングは効いていなかった。日本はメキシコを手本にしているといわれている。メキシコはW杯で8強の常連である。メキシコは2戦目で日本に敗れてから、大きく変えたといわれている。このマネジメント力の差かとも思う。試合後の久保の号泣が印象的。なかなか立ち上がることができないでいた。

8月5日(木)
カザベラ920号が届く。特集の意図が見えにくいのは、海外の建築実情をよく表している。スキャンダラス性がない紙面では、空間性もなかなか通じないので、テーマを読み解くことを難しくしている。とくにバックグランドを共有しにくい海外では尚更である。それを明らかにするのが紙面の役割だとも思う。

8月4日(水)
076 オリンピック 日本×スペイン 激闘の末に延長戦でにて0-1で負ける。ゴールは一瞬のスキからとられた。このとき左SB中山がボールに釣られてアセンシオを見失ってしまったいた。今日の日本は引いてからの速攻ねらいであった。こうした代表を見たことがない。それだけ守備に自信があったということだ。とはいえ、4-4-1-1のトップ下久保がボールチェックに行くとそのスペースから展開されていたし、わざとフリーにしていたCBパウ・トーレスから前線への一発の縦パスも通されていた。日本としては、それでも何回かは訪れるであろうパスカットから縦への早い攻撃で得点をしたかったのだがそれが叶わなかったかたちである。スペインも相当疲れていたので、こうした勝機がなかった訳でもない。しかしスペインの強みはデュエルにある。久保の出場するラ・リーガを観ていて思っていたのだが、人へのチェックはリーガが一番でないかと思う。今日もセカンドボールから攻撃に展開するときとかのデュアルにおいてボールをことごとく跳ね返されていた。この差が勝敗を分けたのだと思う。久保でさえ、これに十分慣れていたとは思えない。まして、はじめて対戦するプレヤーは尚更だろう。善戦であったのだが、相当な実力差があった。終了後のインタビューで、喪失感でいっぱいの久保を観た。メダルを賭けたメキシコとの戦いが残されているのだが、大丈夫だろうかと思う。

8月3日(火)
ゼミにて「抽象の力」の読書会2回目。今日は、形式化(モノに)することの必要性を強調した。これは設計者や画家といったモノをつくる人のみ行使できるものであり、そこにこそ価値を見出すべきという強い主張を本書で感じたからだ。著者の岡崎氏はクプラーの「時のかたち」も称賛している。ここでは、広義のコンテクストあるいは歴史、こういったもの積み重ねの上に成立するかたちの存在が語られていた。唯物史観ともいえるが、形式化するにあたっての判断は個人に委ねられているとしたところに特徴がある。本書もそのコンセプトに沿ったものだ。ぼくらは意識無意識に関わらず色々な集団に所属していて、集団内で共通認識なるものをもっている。ときにはそれを文化といったりする。その中に自分がいるかと思うと窮屈な感じがするものであるが、それとの関係で主体を発揮でき、それが何かを間接的にでも表現しようとしてきた芸術家たちがいた、彼らの能力を抽象の力といって本書で紹介している。本書から学ぶべきことは、形式化することにネガティブな感情をもつことではなく、むしろ何を形式化するか、現前にある問題に意識的である必要性である。

8月2日(月)
建築雑誌はプレデザイン特集。興味をもつ企画であったが、具体性に欠け消化不良感は否めない。難波さんのコラムはたいして非常に建築的。建築後のユーザの活動を疎外しないための建築の形式化として直島時代の石井和紘氏との仕事を紹介している。ジャイアントファニチャーあるいはスモールストラクチュアという解答である。これはミースのユニバーサルスペースに対する批判として考えられたものである。それから半世紀近くが経つ。これがどう変化したかを、今日のゼミで促した。ゼミではギブソンの「生態学的視覚論」を読んで、アフォーダンスをぼくらの設計に如何に役立てるかというのが主要テーマであった。これと絡む問題と考えたからである。ぼくはこの本を読んで、動的状況だからこそ把握できる人間のもつ光の不変項把握能力なるものの存在に感動した。つまり観察者をシステムに含めていること、アフォーダンスは観察者の能動性の重要性をあげていることである。そして観察者はゆらいだ動きの中で得る不変項なる情報を頼りにしていることだ。これを、建築に於いて「場」をつくるときに役立てないことはないと思う。建築が不変項を起草させる何らかの契機となればとよいということで、次の読書会の本「抽象の力」で述べられているFに近いものを、ここに感じるのである。つまり、何を継起させるかの方が重要になってきている。

8月1日(日)○
a+uの今号はスミルハン・ラティック特集。巻末で西澤立衞さんが指摘しているように詩的で時間的である。以前に出版された作品集では、寓話集(bestiary)といっていた。シンボルと対になる言葉である。通常建築は個別に得られた条件を積み上げて一般解に結びつけようとするものであるが、それとは反対の態度をスミルハンの作品にみることができる。作品は自然との対峙というテーマで一貫していて、その表現を作品によって違えて生き生きと描いている。だからその場その時の1回限りのものである。だから敢えて言うと、スミルハンの作品はプログラムとか機能性とかを感じさせない程のもので、それによって永遠性を獲得している。

7月30日(金)○
昼過ぎから3年生に向けての研究室紹介。遠藤研では、身体知あるいは暗黙知をどう拾うか、設計に反映させるかをテーマにしていることを強調する。夕方に事務所に戻り雑用。

7月29日(木)
母の葬式を執り行う。9時半には代々幡斎場に入り、心行寺の副住職を迎える。控え室で母との思い出を住職と話し、戒名を受け取る。夏雲院念誉愛薫大姉。12時には火葬。13時に収骨する。これで一区切りがついたことになり、急に力が抜ける。この半月間の家族とくに妻に感謝である。

7月28日(水)
午後に母を送り出し、その後を追って車で斎場入り。会場の確認。父のときの隣の部屋であった。花壇が注文したものより豪華になっていた。明日の確認をしてから帰宅。コロナ患者が急増し、ちょっと離れた親戚には、無理をしないようにという連絡をする。ぼくより1日おそくワクチンを注射した娘の状態は予想以上にきつそうである。
074 オリンピック 日本×フランス 国際試合でフランスに4-0で勝つ。これには驚いた。はじめはフランスの出方をじっくり観てから徐々にペースを握っていった。ボランチが安定しているので、得点はその上の久保が起点になっていた。縦に早い攻撃で、遅れて入ってくる久保が1点目。2点目は酒井。3点目が三好。4点目だけ裏へ抜け出すことに成功した前田の得点であった。

7月27日(火)
2回目のワクチンは、これまでマスコミで放送しているように少しキツイ。発熱をする。アリ駆除を業者に依頼したのであるが、そのため工事の監督を妻に任せることになった。そうしたときに限って、色々なところから電話が入る。午後には復帰するも微熱は続いていた。なかなか集中ができない。

7月26日(月)
午前中、「抽象の力」岡崎乾二郎著の読書会。担当者は、本書で取りあげられていた絵画作品をひとつひとつ丁寧に取りあげて、それに則してよく読み込んでいた。そして担当者のあげたテーマは、本書のいう抽象の力とはなにかということであった。本書には夏目漱石のF+f理論が下敷きにある。FはFocus、fはfeelingである。f(1,2,3・・・)→Fでなく、あるいはFが感覚にフィルターをかけ情報を絞り込む訳でもなく、Fとfを並列して「F+f」とする理論である。つまり、F+fによって具体的なモノ=作品とする力を抽象の力といっている。面白いのはFが存在することである。Foucusするものがあるというのである。大文字の「建築」とは正にそれだと思うのだが、一般に芸術はfを重視し、科学はFを重視すると考えられている。これへの反転が見られることにある。午後2回目のワクチン。注射直後から筋肉が引きつり腕が上げづらい。

7月25日(日)
GAHOUSE177 HOUSES from Archive3 JAPAN2001-2021が届く。171号と173号が海外100選。今号が21世紀の日本の50選である。そこにナチュラルエリップスが取りあげられている。巻頭論文は二川由夫氏。日本の住宅の特殊性を、小宇宙といい、ぼくらの仕事を「伝統的な空間を廻る哲学を根に育まれてきた思考が見え隠れする中、施工されてきた」と評している。そしておそらくぼくらの世代の作品を「突出した構造デザイン志向が生み出す意欲的で時にフリーキーな作品」という。西欧からみると極東の地で歪なかたちであるが密度の濃い建築作品が生まれてきた状況、これをぼくらの世代は説明しないといけないと痛感する。そして、ポストコロナの住まい方のフェーズの変化を二川氏は期待し、この論文は終えていた。
073 オリンピック 日本×メキシコ 久保の左と堂安のPKで逃げ切った。逃げ切ることができるのが凄いと思う。両サイドとも負けていなかったし、センターは完璧であった。今日は右利きの相馬が左Wで先発。相馬は中央に絞ることなく、ライン奥を突くことができて、メキシコは第1戦と印象が異なっていたに違いない。相馬がつくったスペースを田中や中山が上手く使い攻撃を厚くしていた。セカンドボールを拾うことができていた。

7月22日(木)
072 オリンピック 日本×南アフリカ 1-0の勝利。久保が得意の右から決めた。やはり南アフリカの守備は固く屈強であった。最後のところで南アフリカ中央を突破できなかった。前半の攻撃は酒井を中心とする右サイドからのみで、左は機能していなかった。最初の酒井のプレーで得点をしておけば展開も変わったかもしれない。ボランチも守備重視で、人数を攻撃に割けなかったことも大きい。後半から相馬を投入。左サイドが生き始める。そうした中左サイドで、田中碧がフリーになりはじめ、逆サイドに大きく振って久保が決めた。

7月21日(水)
071 ナデシコ 日本×カナダ オリンピック開幕前からサッカーは始まる。初戦は1-1のドロー。岩淵の縦への速攻で最後追いついた。これで勢いにのるとよい。

7月19日(月)
設計方法小委員会にオンラインで出席。従来の設計では、いわゆる建築家主導で設計行為が行われてきた。そうした形態も残るだろうが、高度な要求をフラットな関係の専門家によって解決する組織へと移行してきている。とはいうもの、これはどういう組織形態をとるか?は未だ明らかになっていない。IT分野でコンピュータプログラムをつくるときに現場で起きていること、これがヒントとなる、このことに気付いた。アジャイルやスクラム、U理論、ホラクラシー、ティール、これらが該当するキーワードである。

7月18日(日)○
毎週要求していたレポートの配点を決め、というよりはシラバスにしたがうことになるのだが、これによって授業全体を整理し評価点を決める。1日かけて全科目を終えることができた。「抽象の力」の再読。ぼくの考えのかなりの部分を岡崎氏に負っていることに改めて気付いた。岡崎氏と柄谷行人はよく対談をしていた、それに由来するのだろう。

7月17日(土)
070 U24 日本×スペイン 魅力的なカードが実現する。スペインの多くが先週まで開催していたEUROのメンバーでもある。ゲームはというと、久しぶりに日本がボールを保持できない展開となる。今日のボランチは遠藤と板倉。いつもと違ってここで相手を捉えることができなかった。それでも最終ラインで踏ん張る。そしてそこからの展開となった。数少ないチャンスは、久保と堂安でつくる。久保のソシエダボランチを蹴散らしたのは見事であったし、堂安の決定力は流石である。今日は左一辺倒の攻撃であったのは、左が相馬と旗手の川崎で固めていたからかもしれない。後半から、両チームともがらっとメンバーを変更し、コンディションにも重点を置く。スペインの代わってくる選手も名前的に見劣りしない。ペドロやガルシア、ククレジャなどバルサあるいはユース出身の選手であった。日本は1点を獲られるも踏ん張ることができ1-1のドロー。ロ
7月16日(金)
鮫島先生の訪問診察。傍らで計画2のレポート採点を始める。プリントをせずにiPad上で行う。上手い進み具合を見つけていく。今週末で決着をつけよう。計画の授業では、まず一般的なことを押さえてから、それだと現実に上手く適応できなくなってきているので新しい傾向を示し、今後を考える糧にしてもらいたいというスタンスをとっている。一端は現状を紹介してからそれを覆すような授業の流れである。しかしこの辺りを混同している学生がいることが解答からとれた。来年には注意しよう。

7月14日(水)
3年生の講評会に残念ながら欠席。14時に介護タクシーを使って母と退院。15時に自宅に戻る。既にテイジンの看護師が待機してくれていて、酸素マスクの設定と機械の操作を再度確認する。鮫島先生も到着し診察。母にぼくとの関係を含めてゆっくりと自己紹介。血液検査と心電図、全身の様子などを次に触診する。その後鼻からの呼吸器に変えてマスクを外す。すると母の表情が豊かになる。その後、入れ歯を丁寧に外して、口の中の確認。氷水を持ってくるように指示されて、首元に聴診器を当ててスプーン半分の氷水を口に含ます。母の喜びがうかがえた。病院では全てが禁止されていたことが許され、だいぶ生き返ったようだ。データに基づく診察を超えたものを観た。リスクを犯しているわけでなく、患者の要望を経験によって判断し前に進めている。データに基づくこととは、むしろ自分の判断を押しとどめてしまうことになり、間違ってはいないだろうが良い方向になるとは限らない。この様子をみて強引に帰宅させてよかったと思う。その後、看護師と様々なトライ。今日は酸素マスクの確認に留まった。

7月13日(火)
午後から病院でカンファランス。担当医が変わったようだ。前の担当医と2人と看護師、病院側のソーシャルワーカー。こちら側のソーシャルワーカーとケアマネジャー、看護師という大人数であった。初めて一同が介したカンファレンスなので、病院側とこちら側の母の病状認識の違いが浮き彫りになる。退院が現実的でないという指摘も出る程で、ぼくとしては、準備が整うことは永遠にないので方針を決めて、受け入れることのできる人に最善を尽くしてもらいたいという旨を伝える。ちょっと強く主張し過ぎたかとも思う。その後HCUに行き対面。さまざまな機械の扱いを学ぶ。他人事でないにしても、一度の説明では理解は無理であった。これを前もって経験していたら母の帰宅に及び腰であったと思う。大変さが伝わってきた。
069 U24 日本×ホンジュラス 3-1で日本勝利。久保と堂安、そして三好にFWの流動的な動きで前半は相手DFラインを混乱させていた。久保の繋ぎに堂安の決定力が光った。ホンジュラスも意地をみせ後半は盛り返す。ヨーロッパでプレーする選手がいないと見下し安泰ムードが漂うが、それ程チーム力に差はないと思う。

7月12日(月)
2年生前期設計講評会。発表者のみ対面方式のオンラインで行う。ここに選ばれた作品は総じて、条件を幅広く拾い上げ、工学的解決手段を駆使している。この時期に生じる差は、それに加えてプレゼ技術に現れるのだと思う。そうした中、特別に第1課題で印象的であったのは、隣に建つ脇田山荘のように大地を開放し、新しいランドスケープを形成している案であった。建物は分棟構成で、雨水が折れ屋根辿って大地へ、そして南端の池へと流れる作品であった。北側は少し盛土された山があり、分棟の1つが着地している。そうした大地のうねりが、そこから持ち上げられた建築とは対照的で、ダイナミックに大地をデザインした作品である。第2課題で印象深かったのは、住居を思い切って地下に埋めて、地上に現れる屋根面が斜めの敷地に逆らってめくられたように見える案であった。模型はとても小さく、かたちのコンセプトを的確に説明するものであった。建物以外の土地は段々畑で、それが余計に屋根面の抽象性を際立たせていた。人は敷地の西側まで回り込むことができ、こうしたシークエンスの方法はここ数年の作品にはなかったものであった。まずは条件をよく読み込むこと、それから自分なりの読みをもつこと、後者は慣れが必要であり、今日に選ばれなかった人はここを学習するとよいことをまとめとして講評会を終える。

7月11日(日)
朝のバラエティでの松本人志のコメントが面白かった。スーパーコンピュータ富岳による競技場のシミュレーションについてである。富岳は、1万人収容のスタジアムで10人のコロナ患者がいた場合、新規感染者が0.08人発生すると予測した。無観客が決定となった現在、これは政府による屁理屈でしかなくなったのだが、松本がいうのには、スタジアムに行くまでの電車内のシミュレーションもないし、実情に則していなく何がスーパーコンピュータであるというのだ。限定された情報で担ぎ出されている富岳はかわいそうというのである。これを他山の石としなければならない。いくら情報を細かく分析をしても動的に捉えることができていなければ、何も作り出せはしない。父の初盆のため墓参り。午後は激しい夕立で雹まで降った。

7月10日(土)
068EURO イングランド×デンマーク 2-1でイングランドの勝利。ウエンブリーでは、マスクなしの6万人の観客である。イギリスの感染者数は1日3万人。2回接種率が45%、1回接種率は75%である。これまでと政策を大きく舵を変えたかたちである。

7月9日(金)
4年生の設計の講評会。4年間の総括として今日の講評会をみた。新カリュキュラムになって3年目の学生である。この間の設計教育によって、学生はコンテクストを捉える視野を広くすることができ、幅広く工学的な解決手段を身に付けることを学んでいる。狙いとしては、これによって設計の水準を現代的にすることができ、ぼくとしてはその先にこそ創造性が生まれると考えているのではあるが、あくまでもそれはぼくの経験則に基づいた考えである。谷口スタジオは、高度なシミュレーション技術を身に付けることによってさらにこれを向上させるものであった。たいして比嘉スタジオは、こうしたカリキュラムによってある意味抑圧されていた自己を、開放させる術を学ぶものであった。これをこの時期に意識的にトライしてくれた比嘉さんには感謝である。とはいえ学生は俯瞰してこういう状況をみていないので、とくに比嘉スタジオの学生が半年先の卒業設計でどう展開するのかは楽しみである。ぼくの仮説のように、これまでの知識の上にこの開放感を上手く乗せる術を発展させてくれるか、あるいは再び現実の教育環境に引き戻らされてその落差に混乱してしまうか、わからないがそれは、学生1人1人がこの時期の経験をどう見極めたかにかかっている。

7月8日(木)
「生態的視覚論」ギブソンの読書会。担当者は総じてよくみ込んでいた。本書の内容を説明した後の今日の議題のひとつ目は、前半の光学的説明と中半のアフォーダンスとの関係についてであった。本書では、それを3つの章を割いて説明している。アフォーダンスは、5章の包囲光配列、6章の光による対象の運動性、7章の観察者の運動性、これらの統合によって成立するといっている。人はこれまで生きてきた経験とは関係なしに直接的にそれらに反応するというのである。2つ目の議題は、ギブソンの考え方の新しさについてである。これまでの科学では、実験室という限定的な環境で思考するものであった。つまり、観察者の主体を抜きに対象と知覚との関係を機械論的に考えていた。ギブソンはここに観察者の立ち位置を含めたのである。むしろ、対象や環境、観察者までをも動的なものとして捉え、そうでないと、不変項なる構造を観察者が知覚できないというのである。前半の光学的説明はこれを、対象が動く場合、人が動く場合など細かく場合分けをして、モデル化したものである。ところで建築がギブソンのアフォーダンス論をすんなりと受け入れられたのはなぜだろうか。それは、今では当たり前になっているが、ユーザを含めた環境を科学的に考えたところにある。しかも冒頭でカントを否定しているように、ユーザは前もって見る目を持つことを必要としないのである。これが受けたのだ。最後に、来週に向けてのフィールドワークが説明されて終える。経験などに依拠しないと思われるアフォーダンス例を街で見つけようとする課題であった。楽しみである。

7月7日(水)
067EURO イタリア×スペイン スペインが終始押し気味であったのだが、PK戦の後にイタリアが決勝に進む。両チームとも監督の考えが明確で、選手が変わってもパフォーマンスを下げることのないゲーム展開を行っていた。イタリアはその中でも最終ラインの中央にはベテラン勢がいて、その分、分があったのだと思う。とはいえスペインの、モラタと若きライプニッツのダニ・オルモの崩しは見事であった。スペインは、ペドロ、オヤルサバル、ウナイ・シモン、パウ・トーレスと若手を積極的に採用し、彼らが監督の期待に応えていた。

7月6日(火)
「抽象の力」を読み終える。Ⅳ部は「具体の批評」。そこで述べられる「芸術」の定義はそのまま「建築」の定義となる。「「芸術」の不在、それこそが「芸術」(という概念)が決して消去されえない秘密である。いかなる「芸術」も否定するという仮芸術の身振りは、ゆえに「芸術」という概念を持続させるための効果そのものだといえる」。しかしこれでは「複数ありうる形式を排除し、単一の形式内で思考する限り、そこで自覚される歴史は異質なものを排除するか吸収するかだけの同心円状の運動にとどまるしかない」、あるいは「その形式の事象を認識できないがゆえに、その形式それ自身の存在はただ自同律的に肯定されつづけることになる」。そうならないために求められるのはベンヤミン的な態度である。それは、「一つの主体(自体)が複数の言語形式、表現形式に貫かれ、交錯する場」を必要とする態度である。つまりグリンバーグのように自閉してはいけないということだ。ここでジャン・デュビュッフェを通じて道具と技術が登場する。「デュビュッフェがいっているのは、人間と素材を結びつけ、語らせるのは、何より道具であるということである。道具によって主体(人間)も物質(素材)も全く異なる語り方をするし、そもそも素材そのものの形象、性質まで変わってしまう。主体も、道具が行使されたあとに事後的に生み出されるのである」。ここでいう道具あるいは技術とは何だろう。道具や技術に対する記述は以下である。「芸術のさまざまな形式は対象と人間を結びつけるさまざまな機能的な連関=技術つまりは道具の数々であって、どれが優位であるというわけではない。それぞれの道具の必要(そこで知りたいとされるところのもの)に応じて、異なる対象像が見出され、それを見る異なる主体が生成する(視覚像も変貌する)」とある。ここで当然レヴィストロースがあげられていて、ぼくとしてはそこにデザインスゴロクをあげたい。そして結論は「作品のそれぞれを「芸術」という一つの概念に帰属させることなく(「芸術」という概念を括弧に入れ)、それぞれ別の生産方式によって統御された生産物=道具=オブジェクトとして捉え、分析することー道具としての事物は、オブジェクトとして存在それ自体が、物質とそれに関わる人間の行為(認識を含む)双方を機能的に結びつけ制御する規範として働いているーつまり芸術を無数の異なる道具=生産規範に解体する」ことにあるのだという。つまり、「芸術」や「建築」をこれまでとは異なる生産手段や道具で見るということである。その結果、「われわれは複数の異なる形式に沿って主体を分裂させ、それらを自らの内で葛藤させ、またその複雑の形式、セリーの闘争そのものを内在化できる」という。この本のいう抽象とは、こうしたことを可能とする具体的な美術のあるいは建築の力のことをいっていて、これを信じているのがよい。

7月5日(月)
「抽象の力」を続ける。後半は白井晟一についてである。白井晟一は豆腐から様々なことを考えたという。非常にユニークだ。豆腐とは、「理性(その目的)の求めに従って固定された対象ではなく、むしろ理性の把捉(はそく)から逃れて、絶えず流動しつづける自然=物質としての豆腐」というのである。岡崎は豆腐に似たものとして技術もあげる。「技術は手段(客体)として実体的に存在しうるものではなく、ただ認識(主体)に属するものでもない、その二つを繫いで(含んで)その用として扱う=その用の過程、用の体系としてだけ成立する」。つまり白井晟一をあげてここで提出されている問題規制とは、客体と主体を結び付けるものは何かということである。なかなか面白い視点で、池辺のシステム論との共通性を感じる。池辺は、「システムには原則がない」と言い、「システマテックな思考にはかぎられた対象物は存在せず、それは常に変化している無限に広がった対象の中に何らかの新しいものを生み出していくプロセス」といっていた。このことを思い出す。

7月4日(日)
TV番組でアスリートが変化する図像を一瞬で捉える訓練をみた。これはサッカーなどで、フィールドで起きている様子を、ボールを受けた瞬時に判断するために行う。こうしたメッセージの受け取り方もあるのだと思う。ビルヌーヴ監督の「メッセージ」を思い出した。スポーツとはこうしたコミュニケーションの積み重ねの結果なのである。まずはその流れに乗ることが大事となる。
066EURO イングランド×ウクライナ ウクライナはシェフチェンコが監督となり、規律だったチームとなっていた。それでもイングランドは前ゲームで得点したケインが完全復活、相変わらずスターリングも調子がよく、これによってウクライナの守備陣を翻弄させていた。ケインの開始直後のライン裏への抜け出しによるシュート、後半はじめのヘディングシュート、よい時間帯で相手に大きなダメージを与えていた。4−0の圧勝。ここぞ、というとき勝ちきれないこれまでのイングランドとは違うイングランドである。

7月3日(土)
065EURO イタリア×ベルギー 前半のはじまりこそベルギーのペースであったが、その後イタリアがゲームを支配する。とくにイタリアの左サイドがよかった。そのためベルギーの中盤は押し込まれ、得意の中盤からの攻撃を起こすことができなかった。それでも個人技でデ・ブライネは突破しようとしていた。攻撃から守備に変わるイタリアのDFラインが鮮やかなのにはびっくりした。どんな状況でも綺麗な3ラインが瞬く間に完成する。これでデ・ブライネの突破をこらえていた。もうひとり目立ったのは左Wの10代のドク。彼だけが安定したイタリア守備陣を切り裂いていた。

7月2日(金)
エスキスの終盤に、アンデルセン公園美術館の露口さんからワークショップ参加のお誘い。スラックに挙げて、堂ノ下くんを通じて研究室の皆に聞いてみる。カザベラ919が届く。巻頭は日本人による小住宅。タイトルに「日本、日本的なるもの」とある。五十嵐淳、佐々木勝敏、宇野友明、長坂常が紹介されている。ここで表現されているのは、伝統的な住宅への指向、普通のクライアント、凡庸な既存建築などであり、これらをアイコン化せずに思慮深く捉えている。しかしそれが内省的表現にむかっていることを不満に思う。現状を受けての表現がもっと別のかたちで現れるべきだと思う。左右のページから受ける印象はそれ程異なっていない。内省していては、知らずのうちに何かに取り込まれてしまう。

6月30日(水)
064EURO イングランド×ドイツ 両チームとも3バック。主流になりつつある。しかしどちらもノックアウトステージで冒険ができないためボールを前に進めることができない。ドイツはクロースが度々下りる展開であったし、イングランドは受け手がいなくマクガイヤーがひとりドリブルで上がることも多かった。そうした膠着状態から、左からのセンタリングでイングランドが2発決める。後半も後半であった。スターリングは好調なのだろう。それが反映されたかたちであった。2点目はケインであるのだが、ケインの後ろでスターリングは準備できていた。ドイツとしては、スターリングのバックパスミスからのチャンスをミューラーは決めたかった。もし決めていたら展開は異なっていただろう。2-0でイングランドの勝利。イングランドがドイツに勝ったのは、もう何年も前のことらしい。今回のドイツはなぜかしらベテランに頼っていた。事情はわからないが、それだけレーヴ監督は苦しかったのだろう。そのレーブも勇退。クロースやフンメルスらも再度の代表引退らしい。

6月29日(火)
午前に戸山。昼食をとってから五反田へ。戸山はこれまでのTEL説明と変わりなし。予防線を張られているようで、なんだかスッキリしない。五反田ははっきりしている。でも先生は少し疲れているようである。きっと同じ説明を色々な人にしているからであろう。今後も注意深く追うことにしてくれた。
063EURO フランス×スイス PK戦の後スイスが勝利。ベンゼマが2発しポグマが3点目を決めたときには勝敗が決まったと思った。フランスも安心したのだろう。そこからちょっと落ち着いてしまった。スイスはそこから反撃というよりも、フランスのミスを突いたかたちである。ゲーム中断毎に監督がキャプテンポグマを落ち着かせようとしているのが印象的。前半リードされていたときもピッチ上からポグマはベンチへ何か訴えかけているようであった。ミスはポグマのところで起こった。難しい選手なのだろう。一体感がなかった。それに比べてスイスはキャプテンジャカを中心に強烈にまとまっていたのは明らかであった。

6月28日(月)
研究室にて粘菌の話で盛り上がる。なんでも安達くんは高校時代に粘菌の研究をしていたそうだ。粘菌を駅から高校まで帰還させるという実験をしていたという。ぼくの方からは以前NHKで観たフランス制作の番組と南方熊楠を紹介する。この番組では、単細胞である粘菌が、知能を持っているかのように振る舞うことができる謎に迫る特集であった。それはデータの積み重ね方式の最近のAI(お掃除ロボット)と暗に比較するもので興味深かった。実際の知能とは何かということである。帰宅して過去を振り返る。その特集で粘菌は餌に対してもっとも短い距離となる直線状に動き、迷路でさえも簡単に解く。塩分に弱いが、それが害でないと学習すると移動速度を早めることができるという。またその学習内容は他の粘菌にも伝達されるという。伝達は電気信号によって行われる。粘菌の行動を人間的な機能的視点から捉えようとしていることに納得いかないものも、粘菌の行動から知能の働きを再定義しようとしていることに好感をもった。粘菌があたかも目的をもってそれに従って行動するというのは、人間の独りよがりでしかないと思うが、単細胞も人間も環境に対して電気的反応するというのだ。
062EURO ポルトガル×ベルギー ノックアウトステージがはじまる。はじめは相手の様子を見て無理をしない安全策にでるのでゲーム自体は面白くない。それでも得点が決まり、それはアザール弟の目の覚めるよな鮮やかなミドルシュートであった。後半からポルトガルが積極的に出て、俄然盛り上がる。ゴール前での激しいぶつかり合いにイエローの連発。結局1-0でW杯王者が前回覇者を破る。それにしてもポルトガルの攻撃陣は多彩であった。駒を使いあぐねていた。

6月27日(日)
午前に墓参り、その後深大寺へ。「抽象の力]を続ける。夏目漱石の「文学論」にあるF+f 理論の説明に1章をあてている。そこには柄谷行人やスラヴォイ・ジジェックと同様の考えがある。ぼくにとっては、ここから大文字の建築について考えるようになった。FはFocus、fはfeelingである。f(1,2,3・・・)→Fでなく、あるいはFが感覚にフィルターをかけ情報を絞り込む訳でもなく、Fとfを並列して「F+f」とするのが漱石理論である。ベネチアビエンナーレで岡崎が行った漢字文化をテーマとして作品がこれにあたる。「漢字はアルファベッド等と違って、開かれたシステムであり、その総数が確定されず、いくらでも増加しうる。漢字は表意文字であり、象形文字であるとみなされているが、漢字が象るイメージは「愛」や「真」などの抽象概念を含む。すなわち漢字は、いかなるものにでもイメージ(=像)として焦点(=F)を与えることができる表記システムである」。日本はこうした背景を受けた漢字文化の上にあるというのだ。ぼくにとってFとは大文字の建築「建築」に見える。建築作品とは「建築」と時代や環境の合成物であると思う。「KINGDOM」佐藤信介監督を観る。「図書館戦争」の監督である。日本映画もハリウッド映画のように壮大なエンターテイメントが可能になりつつある、このことを感じた映画であった。日本映画には内に閉じた私小説的なものが多いが、これは日本文化への理解が前提とされる。そうしたことに頼らないユニバーサルな映画であったと思う。

6月26日(土)
「抽象の力]を続ける。熊谷守一に対する岡崎の批評には泣ける。同時代の世界的画家に匹敵する力をもっていたと守一を分析する。守一の中に、当時の世界的なシンクロニシティをみている。「守一はつまるところ人間が一つの統一された像をもつこと、のみならず対象が固定的な像をもつこと、表されること、固定されることへの疑いを持っていた」。それは、漱石が核心にもっていたrepresentationの問題を引き継いでいたという。別なところでは、「人は何かを見ているとき、自分が「何か」を見ていることと「自分が分かっている」と思い込んでいるということです。が、実はそれが「何か」はわかっていない。「F」は定まっていなかったということです」とある。あるいは、「芸術は視覚的対象ではない。対象とそれに対する人間の変化それ自体なのです」。「絵画における対象があらかじめあるのではなく、絵画を見るという行為の中で現れてくるものだという点に集約される」とある。そこで守一が目指したのは「絵画が何かの再現ではなく、現実的な力を持つ具体物として認識させる」ことであったのである。それで後期の守一は色彩に具体性を付していくことに終始していたという。それはマティスのロザリオ教会での試みと同等とまでいう。そしてこの章の最後は共振についての岡崎の考えである。「影響されることができ、再生できるのは、当たり前ですが自分たちの理解できたことだけです。ゆえに理解した側が変わることなく、構造は影響を受けることがなく見かけだけが変化する。が、これでは同期も共振も起こらないでしょう。共振つまりレゾナンスとは繰り返せば、構造的に起こる同期であって、ゆえにそれは一時的、表面的な類似性を超えた展開力を持つのです」。理解することと共振することとの違いを言い当てた見事な言葉である。そしてこれは熊谷守一に対する最大限の賛辞である。

6月24日(木)
061EURO ポルトガル×フランス 2-2のドロー。最後は同グループのドイツの試合を見て、両チームとも勝負にいかなかった。メンバーは、ビッグクラブを中心にお互い知った仲だ。そんな高レベルに中だからこそ輝く選手もいる。C・ロナウド、ベンゼマ、エンバぺ、ボグマ、カンテ、ぺぺ、らである。レアルの選手たちが多い。グリーズマン、コマン、ブルーノ・フェルナンデス、ジョッタは裏役に徹する。

6月23日(水)
学部あるいは大学院時代に建築士の資格の準備をするかどうかについて、一部の学生と話し合う。建築士受験を通して学ぶ内容が、今後のキャリアや設計に役立つかどうかという疑問をもっていた。具体的にいうと、工学知識がデザインの足かせにならずにむしろプラスに転向することを少なくともEDLの学生は理解をしているが、それと法規をはじめとする建築士の学習が同様であるかという迷いである。それをイコールと考えている学生や、社会や家庭から要請されるために仕方なく行っている学生もいる。様々である。この悩みに応えることは難しく、最後は自分自身の考え次第であるということに尽きるが、これでは責任転嫁しているようでもどかしく感じた。知識は情報でしかない。これをネットワーク化、つまり実際と結びつけることが重要と思う。これへの技術やノウハウ、これも設計教育を通じて教えているのだが、それだと実践社会でも可能なので、その哲学といったらおこがましいので「デザインの鍵」ではこれをトータリティといっていたが、このトータリティを身に付けることがこの時期とくに重要と考える。ただただ機械的にこなすようになったり、訳も分からずこうした社会状況から逃げまくった結果路頭に迷ったりしないように。学生に対する態度を再確認する。

6月22日(火)
昨日に続き銀行めぐりを午前の早い時間に行う。そこではコロナのため門前払い。予約が必要なのだという。店舗前の広場から予約TELすると最も早い予約が7月半ばとのこと。スピード優先の時代に逆行するサービスである。銀行によってこうも対応が異なるものかと思う。必要書類は揃っているので受け付けてくれればよいので、その怒りを抑えて笹塚支店へ行く。なんとか受理をしてもらった。夕方からオンラインゼミ。ゼミの終りに面白い質問を受ける。環境を制御しようとする場合、ルーバーの使用が効果的となりそうした方法に収斂してしまう。そこが環境をデザインに取り込むときの限界でないかというものであった。なるほどと思う。日本の住宅が似てしまうのは、経済を最大限に考慮すると性能的に優れていて経済的なものを使用せざるを得なくなってしまうからであるが、こうした問題と同じである。しかしフィレンツエの街並、そこまでいかなくとも日本の旧街道筋の街並、あるいは白川郷などが逆に美しいのもそうした理由による。使用できる材料に限りがあるからだ。しかし、当時そこに暮らしていた人の中にその状況を窮屈に感じていた人もいるはずだ。ここからいえることはつまり、対象に対する立ち位置によって見方は様々に変わるということである。ぼくらは意外とそうしたことに意識的でなかったりする。デザインする者が、そこから抜け出すにはどうしたらよいか。凝り固まった主体を解体してくれる対象が必要となるのだろうと思う。それは、よいアドバイザーでもあるし、道具であったりもする。デザインスゴロクやパタンランゲージなどは、そうした意味で優れた道具であると思うのだ。

6月21日(月)
午前中早くに銀行めぐり。コロナの影響もあってだろう、窓口での対応の手前で、TV受付があるのには驚いた。個室ブースのモニター越しに必要書類のチェックを受けてから、窓口に行って手続きをする。今後はこの過程を家でもできるようになるのだろう。
059EURO イタリア×ウェールズ 引いてカウンターを狙うウェールズに対してのイタリアの攻撃は巧みであった。低い位置でボール回しをして、最終ラインを引き上げさせその裏のスペースを突くというかたちであった。たとえそれが成功しなくとも、厳しいチェックからまたボールを拾いそれを繰り返していた。得点はそこから得たフリーキックからであった。イタリアは30戦負けなしであるという。率いるのはマンチーニ。CLやELでイタリア勢が再起しはじめ、インテルやミランといった古豪が復活しつつあることと連動している。しかし今日のメンバーはユベントスが中心で、まだまだ余力があり伸びるような気がする。

6月20日(日)
「抽象の力」岡崎乾二郎著の再読をはじめる。緒言は岡崎の展覧会のはじめの言葉からの引用、唯物論についてである。「事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追究してきたものだった。アヴァンギャルド芸術の最大の武器は、抽象芸術の持つ、この具体的な力であった」。先日まで読んでいたギブソンの著書は戦後の人であるが、その前からアヴァンギャルド芸術が同様なことを示唆していたことになる。その次の記述もまた同様である。「感覚与件=視覚を含めた個々の感覚器官が刻一刻と感受している情報と、対象の認識=人が対象として把握していることはまったく異なる次元の事柄だという認識である。すなわち、人は、視覚が捉えうる情報を超えて、対象をより直に捉えている」。真にギブソンのいうところだ。抽象芸術がこれを試みていたというのは驚きである。

6月19日(土)
059 EURO スペイン×ポーランド とうとうwowowに加入。EUROを見始めてしまった。DAZNを脱会。インフラの覇権争いは凄まじい。ゲームはというと1-1のドロー。しっかり守備を固めるポルトガル。なかなかゴールを破れないスペインという展開。ポルトガルは、プレミアの中堅クラブの選手を中心とし、スペインにはレアルの選手がいないようにスーパースターが不在。そのかわりマンCの若手2人が途中出場。こうしたメンバーである。両チームのゴールは、モラタとレヴァントスキベタランによる力強いゴールであった。後半からポーランドのインテンシィティが高くなり、俄然ゲームが面白くなる。負ければ、ポーランドはグループステージ敗退だからだ。

6月18日(金)
「ティール組織」の第4刷が手元に届く。このところの読書を通して、ティールとギブソン、ベイトソン、そしてアレグザンダーとがつながってきた。これらでは全体性というものを取り上げている一方でボトムアップも重視している。このところに共通点がある。つまり主体と対象との間にプロセス、あるいは動的であることが大切にされている。

6月17日(木)
昨日気付いたことを反芻する。概念=崇高な目的 も必要な場合があるが、常に変化する小さな目的を捉えながら、そこに潜む不変項を掴むことの方が重要ということである。自転車乗りの例のことを推奨するものであるが、設計においてこのことを一般化できるだろうか。コンテクストを知覚し、そこから建築化することがこれにあたる。次の読書会で読む「抽象の力」に結びついていきそうだ。

6月16日(水)
「生態学的視覚論」ギブソン著を続ける。ギブソンは環境世界を、媒質、物質、面で捉える。古典物理では世界を質料と捉えるものであるのだが、ギブソンは光で環境世界を捉えるのである。そうした条件での環境世界とは、媒質=光りを透すもの、物質=対象、面=光りの反射で構成される。このことに納得がいく。こうして生物は光りを通じて世界を認識し、それらは刻々と動くものなのである。生物はそうした状況で不変項のみを知覚する。この不変項がアフォーダンスというものである。ここまでくるとアフォーダンスとは、モノが存在する以前から存在するように思えてしまうのだが、じつは動きの中から発見する不動な部分であって、必ずしも絶対的な存在という訳ではない。これを建築にあてはめる。アレグザンダーは似たようなことをパタンと言った。生態学的な意味で言えばパタンとは、動的な環境の中でも知覚できるものとなる。もちろんそこには人にとって喜ばしいルールみたいなものが存在していることになるのだが、むしろ建築家としてはそのパタンを浮かび上がらせるための世界を重ねて動的にすることが重要になる。そうして生活者が不変項を発見してくれるような環境全体をつくることを目指すべきなのだ。これが原因→結果とは異なるモノのつくりなのだと思う。「名前のない空間へ」、あるいは「全体の中から生まれるかたち」とは、こういうことをいうのだと合点する。カントの「概念なき知覚は盲目である」という言葉をギブソンは否定しているが、このことを少し理解できるようになった。概念などなくとも動的な見方をすれば知覚は可能なのである。

6月15日(火)
東京都現代美術館で開催中のライゾマティクス展へ行く。今週までの開催での予約制で、週末は空きがなかったので今日行くことにした。ライゾマティクスの作品は3年前に鹿児島霧島アートの森で観た。そこにあったのは特殊な光源とロボットアームによる光のインスタレーションで、現実のものかどうかが判らなくなる不思議な作品であった。他にも音を解析して図像化したものなどがあり、視覚と聴覚の融合が試みられていた。対して今日の展覧会は大がかりなものであった。その分、観客が参加出来ないのが残念。体験することで生まれる常識が覆されるほどのものは得られなかった。むしろ観られることを意識したデジタルアートに徹していたのかもしれない。「Particles」は、7mくらいあるローリングボールスカルプチャーで、電気的仕掛でアナログ運動を宇宙的な重力を感じさせない動きに変換させる作品。もっと静かな音でよかったのでないかと思った。デジタルデジタルしていた。続けて同時開催のマーク・マンダース展へ行く。手作業的な鉄板の積層版の上に、板や鉄板で挟みこんだ粘土による顔彫刻というのが彼のスタイル。顔もギリシアの彫刻のようでリアルを追究したものではない。意味するところは不明であるが、時間の凍結ということだろうか。彼の彫刻と乳白色のビニールに透ける観客とのコントラストが現実と虚構の同時性を感じさせてくれた。
058代表 日本代表×キルギス アナイウのポストプレーを期待していたのだが、ゴールに拘っていたためかそれ程見ることができなかった。しかし一応の合格を勝ち得たようにもみえた。日本は格下相手にはボールを動かすことができる。結局、1対1で優位に立てるかによってチームとしての連動も可能となる訳である。作戦云々の前にデュエルが大事ということであろう。

6月14日(月)
「生態学的視覚論」ギブソン著を続ける。14章。ギブソンの立場が段々詳細になってくる。「知覚とは、環境の面およびその中にいる自己自身を意識することである」。「認識は知覚の拡張である」。「情報それ自体は主として刺激流動とは独立である」。「外界についての意識はそれを言葉に直せる以前からあるにちがいない」。「知覚は叙述に先行する」。ぼくらは、モノ→反応を情報のやり取りと考えているが、ギブソンにとってそれは全くの擬人的解釈でしかないのだ。序でギブソンはカントの「概念なき知覚は盲目である」という言葉を否定している。その意味するところは、知覚に先行するものなど生物内部にはなく、同時に知覚自体に良いもの悪いものなどはなく、ただの感度の違いだけであって、知覚に先行して現前する環境とシンクロしたかどうかでしかない、ということなのだろう。学習についても言及する。「知覚能力とは、必ずしも知覚されうるものについての観念をもつという意味ではない。観念をもつことは事実であるが、それが知覚するうえでの必要条件ではない。おそらくそれは一種の拡張された知覚なのだろう」。これによって、G・ベイトソンの学習Ⅱ理論に繋げることができた。建築でギブソンといえば、アフォーダンスが注目されるが、生態の知覚システム論として読むと、その内容は理解し易くなった。「知覚者は、流動に注目しながら、刺激作用の流動から構造の不変項を抽出する。特に視覚系については、知覚者は、自分の運動によって惹き起こされる遠近法的構造の変化の基礎にある、包囲光配列の不変的構造に波長を合わせる」。人は差異を意識的につくることで、それから類推する上位の構造=不変項を掴むということである。このことを丹念に説明をしているのが本書である。

6月13日(日)
初台のICCで開催されている「北斎・広重展」に行く。北斎や広重の浮世絵をデジタルで紹介する。ぼくも知らなかったが、初刷には、色を載せないで木肌を残す過程があったという。凹凸により立体感を出そうとしていたのである。浮世絵は太陽光と二酸化炭素に弱いので、デジタル版によってこのことを詳細に見ることができるようになっていた。同時に幾何学の扱いなどの構図も精密に分析していた。モネのルーアン大聖堂のデジタル版も3点あった。ルーレットの動きに目を慣らしてこの作品をみると、モネの絵が歪んで動きあるものになる。このことには驚いた。

6月12日(土)
「生態学的視覚論」ギブソン著を再読。何度読んでも難解である。要は光学について語っていて、それがリアルなものとして掴めないからである。はっきりしていることをまとめる。ギブソンは、経験や認識論的処理によった知覚を認めていない。純粋に大脳による反応であるという。それを司る直接決定因子がアフォーダンスというものである。ぼくたちはそれを受けて純粋に行動するのだ。通常ぼくらは、刺激を脳や心で判断してから反応すると考えている。それとは異なる考えである。つまりモノ→反応という図式の矢印が極端に短くあるいは存在していないのである。このことが特徴である。これを一方向的な刺激反応とみたり、アフォーダンスを決定因子とみたりすると機械論となり、モノ即反応でもあるので、モノにアフォーダンスがあっても受動するのはそれを認知する個体次第とも考えられる。このことがギブソンの理解を難しくしている。

6月11日(金)
057代表 日本代表×セルビア セルビアは一流選手が来日してこなくともやはり屈強であった。前半の日本は何もできなかったといってよい。皆ディフェンスをかわそうとしていただけであった。南野然り伊東然りである。しかし後半からのオナイウの投入でがらっと様相が変わる。久しぶりの収穫であった。大迫と同様に十分なポストプレーをなし得ていた。縦への早い攻撃を何度か見せていた。

6月10日(木)
ゼミにて「平成都市計画史」の読書会。担当者は内容をよくまとめていた。都市計画研究者からの戦後からの都市計画史なので読みやすかったのかもしれない。なぜなら、そこに価値基準がなく淡々と事実を積み上げているからである。とはいえ、都市計画を制定するにあたっての日本の社会情勢分析に筆者特有の解釈があり、それが面白い。平成の時代も終わり、日本の都市計画史を俯瞰的にみることができるようになった。最近の建築でも、環境建築とか構法について歴史を追って語られることが多い。何か大きな変化が起きる前兆だろうか。

6月9日(水)
今月号の建築雑誌の特集は生産について。難波さんの文章はいつも新鮮である。構法は生活と関係してはじめて成立する、という文章であった。構法を単独で扱うことは考えられないし、生活への影響をフィードバックするべきという主旨である。ラトゥールの近代批判=モノと人を都合よく使い分けて進歩してきた近代の批判、これを正面から肯定するものだ。

6月8日(火)
母に連絡。相変わらず声に力がない。担当医との面談を申し込む。その後、リクエストにあった保湿剤などの必要なものを届ける。このコミュニケーションに不安を残す。明日の授業の整理をすませてからオンラインゼミ。M2生の修士設計のテーマについて討議し、ぼくのマスターピースの紹介。プルーヴェの自邸を紹介する。イームズと比較して生産の問題と絡める。情報から再びリアルなモノへ。大量消費社会から必要なものを少量生産することへ変化、現在はファボラボに代表されるように、このことが可能となっている。こうした新しい建築の向かうべき可能性の話をした。

6月7日(月)
「生態学的視覚論」ギブソン著を読みはじめる。一般にぼくらはモノ→反応と考えがちである。これは科学における原因→結果という図式と同じで、こうした思考方法に慣れている。しかし、実はモノ→反応ではなく、モノ↔反応であるというのが本書の趣旨である。そのことを生態的といっている。生物は何故かしら教育されなくとも、ある特定の環境を認知する能力をそなえていて、それによって反応するのである。したがって、生物個々によってその認識世界は異なる。そう考えるとモノに何かしらの構造があるわけでなく、モノを捉える見方(フレームワーク)に何かしらの構造を個々がもっているのである。これをカントは、認識図式といった。そしてそうした概念から物自体を前提とした理性の無限性、こういったことにまで話を広げていった。つまりぼくらは知らず知らずのうちに時と場所によって支配されたある認識図式の上に乗っているのである。「パタン・ランゲージ」も同様だと思う。ぼくとしては建築にも「建築」があるのだと思う。デザインとはこれに意識的でときに戦略的でないといけないと思うのだ。

6月5日(土)
「15時17分、パリ行き」クリント・イーストウッド監督を観る。2015年に実際に起きたユーロスター内でのテロを描く。このテロから乗客を救った主人公の若者3人が、本人役として登場していることを知って驚く。先週観た「リチャード・ジュエル」といい、信念があるも社会的に不適合と見なされていた少年が社会を救うというストーリーである。そこに家族があり友人がいる。そして彼らが育ってきた家庭は、決して裕福でないのであるが、住居環境は日本と比べて遙かに高い。彼らは皆、校外の住宅地に住んでいて、敬虔なクリスチャンでもある。しかし彼らの出身学校であるキリスト教学校がやたら悪者になっているのも特徴的である。こうした題材は歴史的に相対化されていないこともあるが、社会が抱える闇を、主人公を通して淡々と描いている。クリント・イーストウッドの以前の映画は、これに立ち向かうのがヒーローであった。

056 代表 U24代表×ガーナ ガーナは弱かった。1対1でほぼ完勝。6−0で日本の勝利。今日は、前線4人だけで勝つことができた。バックが安定していたからか。今後に期待。

6月4日(金)
午前中、渋谷区役所に行き、母の高額医療限度額の申請。その途中、病院から電話が入りびくっとする。退院後のソーシャルケアの方法にかんする電話であった。一安心。午後、病院行き。コロナのため面会できずにモノのやり取りのみ。先生からもこのとき偶然に電話があった。回復しつつも平衡状態であるという。コロナ渦で連絡が付かないことの苛立ちは何ともいえない。必要書類のやり取りをすませて帰宅。夕方から授業の用意。

6月3日(木)
055 代表 日本代表×U24代表 ジャマイカがコロナ陰性証明の不手際から来日でできずに、このカードが決まった。楽しみにしていたのだが、U24にオーバーエージ枠の選手が先発にいなかった。とはいえU24はトップ下に先発で久保を使う。しかし久保は若い。ボランチがマークされ思うように動けないので久保が下がるのであるが、前線の選手も動きがないために久保の自滅が目立った。1人で何とかしようとしているが、そうは上手くいかなかった。一方後半の終わりから登場の遠藤航には大きさを感じた。遠藤の登場によってU24が、がらっと変わった。サイドいっぱいを使っていた相馬を内に絞らせ、空いたスペースに走り込むSBの菅原に遠藤から効果的なロングパスが幾本も通った。これにより日本代表のフォーメーションが崩れ幾度かチャンスを得ることができていた。遠藤のボール保持者に対するチェックの素早さも流石である。セカンドボールを支配するようになり、後半はU24ペースであったと思う。逆にいうと、代表のボランチは失格ということになる。それにつられて先日大活躍の南野と大迫も消えていた。連携がほとんどなく単発な攻撃のみであった。

6月2日(水)
「スケール」を続ける。単純にいうと生命体というのは、端末ユニット(ミトコンドリア等)が効率よくエネルギーと資源が交換できるように考えられていて、そのための最適な循環系の血管ネットワークシステムが出来ているという。これは生命体の種類や大きさによるものではなく、普遍的なシステムであるというのだ。ここまで把握すると、普遍システムがなぜ多様な結果をもたらすのかという疑問が湧く。この章がいうようにスケールを拡大してみると、それは僅かな誤差程度なものなのだろうか。別なところでは、それは分解能(測定器械)に左右されるともいっている。多様性とは分解能が優れた状態を近接して観た状態というのだ。驚きである。その好例として心電図が紹介される。通常健康な人の心臓は疾病を持ったひとのそれよりフラクタル次元が低いと考えられている。しかし詳細を追うと、健康な人の心電図は凹凸が多く、疾病患者のそれは滑らかであるというのである。健康とは外部の刺激に対して微細に対応することであり、そのかたちがフラクタル次元の高い心電図となって現れているという。その微細さが多様というものなのである。ほ乳類の血管システムと植物の管システムが紹介されている。心臓のない植物の管は全て同型で尖端にいくにつれて枝分かれする構造をしているという。これを面積保持分岐という。対してほ乳類は血管の大きさがルート2係数で減少していくかたちをとっているという。これにかんしてのダ・ヴィンチのスケッチも掲載されている。3章の最後にフラクタルで有名なマンデルブロがノーベル賞を受賞出来ないのは、フラクタルな重要な発見を数学に向かわずに自然全般へと思考を大きくしていったからであることが記される。マンデルブロが「科学」に反していたことが暗に記されている。

6月1日(火)
「スケール」を続ける。人間という生命体は、1014なる細胞から出来ていて、その個々に500個ほどのミトコンドリア、さらにその中に呼吸複合体が500個あり、それが毎日80キロのATPというアデノシン三リン酸をつくっている。つまり体重以上のものを毎日リサイクルしているというのである。また、1014の細胞は、様々な器官の下位システムの一部でもあり、その器官のニーズと機能によって、独自にこのエネルギーを消費している。つまり生命体は、相互関係のある多層的な動的構造をしたものなのである。これが人間の場合、最高100年間機能し続けるというので驚きである。そしてこれは、バクテリアからネズミ、クジラに至るまであてはまるスケーリング組織をなしているのだ。ここまで読み、最近のティール組織との関連に気付く。こうしたことがモデルになっているのだ。ダーシー・トンプソンの「生物のかたち」もここで取りあげられていた。トンプソンは生物学者であるが、当時の生物学は定性的で、数学との関係で考えられていなかったので、「生物のかたち」の序文で、生物学は小文字の「一科学science」であって「大文字の科学Science」ではないといっていたという。科学においても「大文字」という問題があることを知った。そこで本書の著者ジェフリー・ウェストは、ダーシー・トンプソンがなし得なかったこの生命体の謎を数学的に解こうとしているのである。一旦休憩し「生物のかたち」を再読しようと探すも、本棚になくショック。貸した記憶を遡る。

5月31日(月)
新しいM1MacのTimeMachineへのバックアップを試みる。1晩かかりそうだ。カザベラ918が届く。コルビジュエの新時代館に関するエッセイがフランチェスコ・ダルコによって投稿されている。この作品は内部も興味深いが、その挑発的な展示方法、そしてダルコの、都市計画に生物学を模範したという指摘が面白い。コルの先見性をいったものである。が、現在使用される生物学的という意味とは少し異なり、真実をタイポロイジーとして表現しそれが伝播することをいったものであるらしい。これによりコルは、「輝く都市」をパリに建設しようとしていたという。

5月30日(日)
「リチャード・ジュエル」クリスト・イーストウッド監督を観る。1996年のアトランタオリンピックで爆発物を発見して多くの人名を救い英雄になったにもかかわらず、FBIとマスコミから容疑者として見なされた警備員の事実に基づく物語である。冤罪がテーマであるが、社会の目に反して直感でその人物を判断するという弁護士、秘書、母親、アメリカ人が好む人物像がそこにあり、これに感銘する。これが歪んだ社会を正すものとして描かれている。

5月29日(土)
「スケール」を続ける。スケーリングを超えるイノベーションの例として橋の設計が挙げられているp82。スケーリングを超えるのには、素材や設計技術、あるいは失敗などが必要であり、これによってその後革新的なものが多様に生まれていくという。つまり、そういったメディアの存在が重要性である。ここに、構造家ブルネルが登場する。BBCの投票でダーウィン、シェークスピア、ニュートン、ジョン・レノン、ベッカムに続く偉大なイギリス人になった、このことを知りびっくりする。それだけ知名度が高いのだ。ブルネルは、実は大型船の設計もしており、現在の大型タンカーの1/2もあるグレート・イースタン号を設計した。しかしこれはスケーリングに失敗し、成功をおさめることができなかった。本書がいうには、これを契機にモデリングあるいはスケーリング理論が発達したという。バタフライエフェクトという考えが広まったのもこのころである。椅子を設計していたときに佐々木陸朗さんがよくいっていた「モデルで持たなければ現実には尚更もたない」。あるいは川口衛氏の巨大なコイノボリのことを思い出した。

5月28日(金)
父の本棚を整理していたら、熊谷守一の写真集と画集があった。写真集は「獨楽」。写真家藤森武のものである。藤森武は映画「モリのいる場所」で加瀬亮が演じた写真家である。写真集を観る。映画に描かれていることがほぼ事実であることがわかる。そうすると最後のシーンはなんだったのかと再び疑問が湧く。山崎努といい樹木希林といい、謎の洞窟といい、これらは忠実に再現したものであったのだ。画集にある「草人」と「ヤキバノカエリ」をじっくり観る。「草人」は予想に反し色彩豊かであった。
054 代表 日本×ミャンマー 10-0の大勝。日本代表は、点差が開いても少しも手綱を緩めなかった。ほぼ全ての出場選手が活躍。相手との間に間合いがつくれると、こうも自由にプレーができるのかと思う。

5月27日(木)
午前中の大学院講義では、「崇高」から考えられる社会意識についてと、辞書としてではないパタン・ランゲージの使用について。どちらも集合知のようにぼくらの深層に眠っているものである。次回からそれを覚ます道具の役割について講義をする。午後学科会議。かなりの譲歩に関わらず他系は頑ななである。現実的な問題はいずれ知恵を出し合えば何らかのかたちで解くことができるので、理念の共有が系を超えて大事と思う。それを学生の希望する実情まで拡大すべきである。夕方中目黒行き。夕食前に戻る。出入りの多い1日であった。

5月26日(水)
久保のコメントがネットを賑わす。今季前半のビジャレアルの移籍は見誤ったはっきりと言ったのだ。同様に出場機会が少なかった後半のヘタフェでは実り多かったと。ここまではっきり言う裏にはどういう意図があるのだろう。自分の技術よりも、監督やチーム事情を含めた先見性のなさを言ったものであるが、同時に余裕がついてくる必要性も言っている。ビジャレアルではよほど追い込まれていたのだろう。自分の理解及ばないところ、あるいは得意でないところで様々なテストが行われ失敗の刻印を押されていった。総合的判断といったらそれまでであるが、これへの吐露であった。
053 プレミア ウエストハム×サウザンプトン 最終節に南野先発。監督の信頼度がここから分かる。とはいえ、マスコミの評価は相変わらず辛い。今日はトップ下であった。スペースをつくる役割というよりもスペースに飛び込む役割であった。前者の方が向いているかもしれないと思うのは、決定機を外してしまうことを目にしたからだろうか。ザルツブルク時代とは周りのレベルが少し違ってきた。ここを突破できればと思う。これでプレミアも今季終了。

5月25日(火)
「スケール」ジョフリー・ウェスト著を読みはじめる。副題にあるように本書は「生命、都市、経済をめぐる普遍的法則」、つまりあらゆるものがべき乗数に従っていることを示す本である。第1章は「全体像」。べき乗数の存在を全体性といっている。一昨年注目した増田直紀+今野紀雄やバラバシらのネットワーク理論に通じるものだ。

5月24日(月)
052 ラ・リーガ グラナダ×ヘタフェ ヘタフェは残留も決まり、ラグビーのような試合からパスサッカーに変更。久保はトップ下の先発である。いくつか見せ場もつくるも、フィニッシュまでいたらず。しかし躍動はしていた。それに力強さがほしい。前戦でゴールを決めたようにドリブルの縦突破があればと思う。0-0のドロー。これで今季も終了。久保にとって苦い1年であったと思う。

5月23日(日)
「ジャンクヘッド1」堀貴秀監督をYouTubeで観る。映画に関しては全く経験のない素人が7年かけて制作したというストップモーションアニメーションである。この1は、ただ今公開の長編映画の一部、2013年制作のもので、30分の短編映画である。どことなくコミカルで既知感があるストーリーであるのだが、その精巧さに圧倒される。1人で全てをつくったというのだから驚きである。

5月22日(土)
051 ラ・リーガ レアル・アドリー×ビジャレアル レアルは優勝をかけ、ビジャレアルはEL出場をかけた真剣勝負。今日はベンチのキャプテンセルジオ・ラモスの様子から刻一刻とアトレチコの状況がピッチに入ってきていることが分かる。そんなレアルは1点ビハインドのまま、残り10分でゲームを覆した。強い。しかしアトレチコも勝ち、レアルは優勝を逃す。最近久保の試合を観ることが多いが、それにしてもレベルが違うと思った。ピッチ満遍なく選手がいて空いたスペースなどない。そこへスペースをつくりながら選手が動くとそこへ長いパスがピタッと決まり、徐々に相手陣地に押し寄せるかたちである。これはビジャレアルも同様である。

5月21日(金)
江渡浩一郎さんの「パターン、Wiki,XP」を再読。パタン・ランゲージがヒントになってWikiができた過程が本書で示されている。従来のコンピュータプログラミングは、データとその処理を示すアルゴリズムによって構成されていた。プログラマーがデータを完全にコントロールしていたわけである。その後、オブジェクト指向というプログラムが生まれる。オブジェクトというのだから単なるデータが集合したものではなく、扱いかたによってデータの集合させ方が変わるような柔軟性をもったものになっていった。ぼくの経験に照らし合わせるとそれは、MSDOS的パソコンからMacになったときで、インターフェースが劇的に変わったと思い出がある。Mac出現前、ユーザは通常、プログラミング言語をスクリーンに打ち込んでいたのであった。その後、パタン・ランゲージのパタンをアレグザンダーたちがつくっていったように、プログラムのパターン化が行われた。繰り返し使用されるプログラミングを視覚的にパターン化しようとしたのである。そのパターン化の方法は、パタン・ランゲージのパタンの構造に倣ったものだという。そして重要なのはそこにユーザの存在を絡めたことだ。まず人に伝わりやすいインターフェースをつくり、それを通じてプログラムをオープンにした(参加)。そうして成長させ(漸進的成長)ながら、フィードバック(診断と調整)を続けたことだ。そうしてアジャイルなXP(エクストリームプログラミング)やWikiが出来ていったという。そのときの過程で面白いのは、制作プラクティスにまで及び、実行組織のパターンを生んでいたことだ。つまり、オープンなプラットホームを成立させるために、実行組織もフラットにする必要があったということである。このことを本書で確かめた。ここから思うことは、現在流行りのオブジェクト思考は、オブジェクト指向プログラミング状況にまだあるということである。そこからの社会への根付かせ方についてはまだ不問状態なのである、このことも分かった。もうひとつ気付いたことがある。それは、こうしたプロセスには目指すべき到達点を予め用意されていないことである。曖昧模糊とした現状をどう捉えるかという問題意識に終始し、それによってのみ推進していることだ。(目標に向かって)どのように進むか(HOW)ではなく何を(WHAT)が問題になっている。

5月20日(木)
「平成都市計画史」を読み終える。これまで施工されてきた都市計画の背景がよく分かった。それにしても役人は巧みに法をつくるものだと思う。そして国民はこれに迷うことなく従順に従ってきたものだと思う。それで日本ができてきたのだ。それは設計に似ていて、そもそも計画ということであるが、飽くなき空白恐怖症的状況であった。計画することの無能性が叫ばれているが、こうした法にまず適用させる必要があると思う。

5月19日(水)
「平成都市計画史」を続ける。市民レベルでつくられる制度と国がつくる法、この2つを対比しながら論が進む。法の影響力が少なく制度によってコントロールされる状態を良好な民主主義の状態という。もうひとつ付け加えるとすると、制度はやがて明示する必要がなくなりかつ共有されて文化のようなものになる。そして、そうした土台が出来上がると民度が上がり、新たな制度を表出化することが可能となる。このことを民主主義というのだと思う。

5月18日(火)
「平成都市計画史」を続ける。7章からは政策側からの視点となる。まずは住宅からである。戦後の住宅政策は、公営住宅、公団住宅、住宅金融公庫という3本柱で進められたという。それらは所得に応じた再配分を基本に考えたもので、若者が東京に出てから戸建てを持つまでを双六のように進ませるためのものであった。双六という発想は、池辺を思い出させてくれるが、この双六は1973年発表のもの。池辺のそれはそれへの批判だと見ることもできる。ともかくも日本はそれで戦後の住宅不足を解決させることができた。しかしその役割も1973年の住宅数が世帯数を上回ったことで終え、量から質の時代に入る。質を支えたのは、大小のディベロッパーや住宅メーカーであった。そのため他の産業に比べて住宅分野の民営化が急務でなく遅れた。その時までに既に十分な民活が行われていたからである。したがってポスト3本柱の政策の枠組みは、こうした市場からこぼれ落ちる人を支えるセーフティネットになっていった。そうした政策の結果もあって、住宅供給量は相変わらず増え続け、現在では反対の空き家という問題を引き起こしている。政策のツケである。今後は、既に巨大な地を形成している住宅とユーザとのマッチング制度にあるという。

5月17日(月)
モリのいる場所」沖田脩一監督を観る。昨年以来である。画家の熊谷守一の晩年を描く。熊谷と妻の大きな人柄をユーモア交えて描いた映画である。観察からモノにする力、そしてそれが波及する力、これを「抽象の力」と岡崎はいっていたが、この力によって家にやってくる人を魅了しているのが、この映画からよく分かる。守一は観察を注視していたことが分かるが、画にディテールはない。画を見る鑑賞者はディテールにとらわれてしまうということだろうか。画家の主体をなくし、画そのものを感じてほしいという守一の立ち位置が、映画となって表現されている。ところでラストシーンをどう捉えるか。ラストシーンで守一の熱狂者であるはずのカメラマンは近代の産物である完成したばかりのマンションの屋上から守一邸を俯瞰して、全体が分かった気がしている。実際、ぼくも結構大きくない敷地を見てそう思ったりする。一方守一は地面に座ってじっと何かを見つめたままである。これは近代に対する批判であろうか。
050 ラ・リーガ ヘタフェ× 今日からリーガは全てのゲームで同時刻開催。首位争いと残留をかけて各々のレベルで激しくなる。ヘタフェもその中にある。久保は75分過ぎから登場。点を獲ってこいといわれたそうだ。キーパーからのパスミスをさらって、豪快にミドルを決めた。ゴール後に喜びを爆発させる。珍しい久保をみる。

5月16日(日)
049 プレミア サウザンプトン×フラム 南野は75分までプレーする。現地の評価は芳しくないが、スペースをうまく使いチームに貢献していたと思う。特に前半はSFイングスが開いたときに、そこにできたスペース中央に遅れて斜めに切り込むシーンがいくつかあった。シュートを決めたかったが、これによって前線が活性化していた。後半は反対に南野が中央に絞り、サイドを空ける動きをしていた。そこから多くのセンタリングが上がっていた。今日も続けて先発であったのは、監督もそうしたプレーを評価してのものだと思う。しかし、代わって投入された2選手が得点を決めた。

5月15日(土)
「美の巨人」で八坂神社の特集。昨年国宝に指定された八坂神社は何度も増築を重ね現在に至っている。起源は平安京遷都前というからかなり古い。今でも疫病治癒祈願で有名であるが、疫病を封じ込めたというスサノウ尊を祀る社として歴史が始まる。それが中央にあり、その下には東山からの清水池があるという。疫病の原因が水にあったという理由からである。その後、要望に応じて拡張をしていくのだが、封じ込めに成功した初代社を壊すことができなかったそうだ。その増築は幾重にも重なった屋根から見てとれる。後期の屋根先端は跳ね上がって面白いのだが、樋が水平にかかっていて、その美しさを邪魔している。これは現代になってのものだろうか。

5月14日(金)
「平成都市計画史」を続ける。本書のいう民主化とは、さまざまなレベルで、たとえば住民あるいは市場において、様々な制度がつくり出せることを可能な社会をいう。そして2軸をもちだし4事象で応え、環状に発展するという論法にその行く先を見出している。これは、柄谷行人を想起させてくれるものであるが、その到達点が制度のない理想郷においていることが腑に落ちない。むしろトップダウン的な「都市計画」的な制度は必要悪で、それを外すために制度がつくり出されているのだと思う。だから、制度がなくなることはないと思う。

5月13日(木)
048 ラ・リーガ セルタ×ヘタフェ 久保は60分過ぎから登場も見せ場なし。ヘタフェは0-1で負ける。これによって降格圏との勝ち点差は3となり、レッド信号が点滅する。今季のヘタフェを振り返ると、前半にチーム状態が怪しくなって久保やアレーニャを獲得した。新しい攻撃パターンをつくるためである。それで初戦は大躍進をしたが、失点を抱えるという別のリスクを負った。それで再び以前の守備的でラグビーのような戦術に戻した。久保らが刺激になり、マンネリ化していたこれまでの選手が再び目を覚ますことに成功したからである。しかし、再びレッド信号の点滅である。根本は変わっていない。残りが2試合。ヘタフェは逃げ切ることができるだろうか。

5月12日(水)
「平成都市計画史」饗場伸著を続ける。5章のコミュニティの発達と解体を興味深く読む。コミュニティがアソシエーションによって取って代わられているという事実をはじめて知った。それを「尖ったアソシエーションと弱いコミュニティ」といっている。都市計画特有な言い回しである。アソシエーションはもっとマイナーな概念と思っていた。建築では疎いが、中間支援体の活動が別のところで強調されている。NPO同志や役所と結びつける組織のことだ。これこそアソシエーションというものだろう。以上が本書のいう住民の制度というものである。対し市場の制度ははるかに強大で、多様性に欠けるものをつくり出しているという。

5月11日(火)
妻と虎の門へ行く。その後、気晴らしに久しぶりの外での食事。夕方事務所に戻り授業の用意。「平成都市計画史」饗場伸著を読みはじめる。都市変遷の俯瞰的分析である。建築家の立場とは違い、ビジョンがトップダウン的である。こうした概説の目的は何か。なかなか掴めない。

5月10日(月)
設計の中間発表をオンラインで行う。全員が一度に集まることが出来ないので仕方がない。非常勤の先生から疑問が上がったが、教育の方針として学生のイマジネーションを鍛える方向に向かうか、基礎を教え込む方向に行くか、悩みどころである。基礎の上にイマジネーションがあると考えたいのだが、現実はなかなかそのようにいっていない。

5月9日(日)
046 ラ・リーガ バルセロナ×アトレチコ バルサは中盤を消され、思い切った攻撃ができなかった。その上、ブスケツが故障した。ブスケツに代わって入ったのは久保の元同僚18歳のモリバ。テンポよいダイレクトパスの中にとけ込んでいた。久保は羨ましいことだろう。0-0のドロー。これで3チームの三つ巴が続く。
047 ラ・リーガ ヘタフェ×エイバル 3人の日本人は出場せず。下位チーム同志で残留を争うゲーム。当初から失点をしないゲーム運びをするため、蹴り出しが多くなる。まるでラグビーの陣取り合戦のようである。それでゲームが膠着した。0-0のドローかと思いきや、終了間際にヘタフェはPKを献上し敗れる。エイバルは首の皮一枚残った。それにしても退屈な試合であった。

5月8日(土)
今年で12回目のCリーグを理科大で行う。審査員に野沢正光氏、日建設計の芦田智之氏、東京電大の計画専門家伊藤俊介氏、小川博央氏、MARU。の森田祥子氏をむかえる。野沢さんが総括してくれたように、オンライン授業では友人あるいは先生と応答ができない。ということは、一度出来た案をなかなか覆す事が難しくなる。したがって今年は、あっさりとまとまった案が多かったように思えた。1ラウンドで終えるのではなく、格闘した結果が作品として面白く現れるような案が望ましいのであるが、今日の講評会ではそのためおのずと完成度の高い作品が優秀賞に選ばれたように思う。そうした中、電機大学の山田光輝さんの作品は敷地にも恵まれ、児童の視線を非常に意識した密度の高い作品であった。ぼくとしては、配置写真にあったように、ここは森が残された特異な敷地であったので、そうした歴史的背景やそれがもたらしている町の構図を意識した設計をするともっとよくなると思った。それが第2ラウンドにあたるものなのだろう。もうひとつの電大の長井さんの案も6角ユニットを基本として内部プランの完成度が高い作品であった。しかし野沢さんが指摘したように環境にたいする配慮がもう少しほしい。最上階のテント地の屋根は気持ちよいが現実的ではないからだ。もうひとつの優秀案は千葉工大の小暮美歩子案であった。街中の小学校で、打瀬小学校のように道路に面したところにアーケードをつくり、そこを開放的な特別教室とし、校庭を広く取りこむために教室をそこに密接密させた案である。採光が問題となるので、屋根をジグザクさせてその隙間から光りを取り入れている。さらにそこに中庭を設け、児童が生き生きと遊べる外部空間を差し込んだ。近年になくコメント力もあり上手くまとまった案であった。野沢さんも買っていた。千葉工大の他には、安達鉄也くんが芦田賞を受賞した。野沢さんには、デザインの繊細さが要求されたが、芦田さんには反対にそのエネルギーと勢いが買われたかたちである。いわゆるてんこ盛り状態になりがちであるのをいかに整理するかという問題であるが、安達くんのキャラクターを活かせば、卒業設計ではこうしたことが活かされるプログラムを考えるとよい。ぼくとしては格闘が現れている粗削り感を買いたいと思う。Cリーグも今年で12回目となった。長い歴史を通じてここに選ばれる案は、学校計画に必要な条件のかなりの範囲を扱えるようになってきたと思う。子供の居場所を考えること、そして地域性や学校が街の中心となることなど、こうした条件が普通に扱われることとなった。嬉しいことである。それでも足りないところがある。それは、敷地とのリアルな関係である。もっと敷地からみて、置かれることになる建物を考えることが必要となるだろう。そして、教育制度へのメスである。ソフト面に入り込むことは難しいが、学生だからこその教育制度に関する批評性があってもよいと思った。そのためには、大学教育から義務教育を振り返り、それとの違いに意識的になる必要があるのだろうと思う。その点で、学校建築計画専門の伊藤さんが指摘していた点が興味深かった。それは、教室周りの空間配置にあるという。オープンスペースの扱いである。ここにもう一度戻ることになる。もうひとつは特別教室を簡単に地域開放とすることの否定であった。これらはかなり老練な作業が必要とされるものであるが、教育制度を考える上では重要なこととして聞いた。野沢さんは、木造に対する可能性をもうひとつ示してくれた。今日の作品には木造案は多かったが、構成や空間コンセプトにまで結びつけたものはなかった。

5月7日(金)
役所や郵便局の往復。雑用をこなす。夕方から設計方法小委員会。特に話題なし。緊急事態宣言が延長される。政府の対応は世論の後手後手となり迷走ぶりが顕著になる。首相のリーダーシップが必要と思う。美術館が閉館のままであるのが本当に痛い。

5月6日(木)
ゼミにて「ドローダウン」の読書会。この本には、様々な温暖化防止のための方法が示されている。その中で建築に関わることも多々ある。その実践に関わることがまず大事である。その他のところでぼくらが学ぶべき時代精神はあるか、という討論を行った。ところでこの本を、ティール組織の著者フレデリック・ラルーの推薦によって知った。読後、ラルーが提案するような、ローカルを中心に考え、それがゆるく連帯していくような社会観がこの本にもあるように思われた。それによって地球環境を考えようとする態度である。

5月3日(月)
045 ラ・リーガ ビジャレアル×ヘタフェ 久保は、1点のビハインドになって漸く80分過ぎから登場。そこそこのパフォーマンスを示すも得点までは至らず。これが、久保の置かれている現状である。今日対戦した両監督は久保の加入を望んだ人たちである。それは攻撃のアクセントとして、であった。それでも久保が未だにこうした状況であるのは、攻撃において期待以下のパフォーマンスであったからであるのか、あるいはそれ以上に守備にたいする不安が勝ってしまっているからかが計り知れないが、この状況を打開するには攻撃の結果を残すしかない。久保のモチベーションに不安がないわけではないが。

5月2日(日)
父の納骨のため多磨霊園へ。墓地での読経の前後に住職と立ち話。住職は物理出身から仏の道に入った人である。キャリアが特殊だ。それに興味をもち話しをしてみたいと前から思っていた。物理といっても扱う範囲が広いが量子力学や宇宙の存在などでは、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレーティンガー、プリコジン然り、一方で数学による理解、他方でこれまでにない認識方法が要求されることを知った。前者が西洋思想、後者が東洋的思想に対応さえることもあるが、それは一時の流行で、現在はどうやらその中間に真実があると考えるらしい。住職はその辺りを実践してきたと思うので、そうした話を聞きたいと思っていた。帰宅直後は春の嵐。天気に恵まれていた。

5月1日(土)
044 プレミア サウザンプトン×レスター 南野先発。しかし開始10分でDFに退場者が出ると、比較的守備重視の戦術となる。それで南野の存在は薄くなる。そして75分に交替。これは守備に徹するという監督のサインであったろう。それで、チームはレスターに一方的に攻められるも、なんとか1-1のドローに持ち込むことに成功する。代表で日本に呼ばれてからの南野の立場は変わってしまった。久しぶりの登場となったが、このチャンスを監督がどう判断したかは分からない。次はあるだろうか。

4月30日(金)
「樹木たちの知られざる生活 森林管理者が聴いた森の声」ペーター・ヴォールレーベン著を読みはじめる。ドイツの森林保護管理者のエッセーである。面白いことに著者はフリーランスとして、自治体から森林の保護と管理を委託されている。2〜3週前に放送された「情熱大陸」の桜守の3人を思い出した。彼らもヴォールレーベンと同様、吉野山の桜が上手く花ひらくように山を管理する民間の人たちであった。

4月29日(木)
「ドローダウン」には、地球を癒やす様々な方法が示されているが、そこに共通するものは何かと思う。そこではぼくらの意識改革を求めていて、過去に戻るということではなく、よりローカルに成立し柔軟で生物のようなシステムの構築を求めている。そしてそのための技術使用やそれを成立させる構造を求めているようなのだ。それを建築に適用させるとどうなるのだろう。地域素材の活用、コストよりもコンテクストの重視、パッシブな環境制御、地元工務店による建設など多数が考えられるが、つまるところ寛容な建築とは?ということか。これは「ティール」の組織論を具体化するときにも考えた問題である。そこで、「ティール」にある自主管理とパタン・ランゲージ80「自主管理の作業場とオフィス」を比較する。このパタンは意に反して抽象度が高かった。それでも、パタンのネットワークを追っていくうちに分かったことがあった。ティールの基本となる自己管理組織をかたちでいうと、p85にあるような小さくグルーピングされたかたちとなる。しかしそれは、固定されたものではなく、自主的に変形するという。ただし、それらがひしめき合って細胞のように集合することを前提とすれば、かたちは円に近く、それほど突拍子な変形とはならない。「ティール」本では、このかたちが硬直しなく、かつ反対のバラバラにもならないように、ゆるく束ねる方法の模索に苦労しているのだ。つまりトップが君臨する本部の位置づけについてである。かたちでいえば、全体を束ねる外形の設定についてである。しかし実は「ティール」にこれは言及されてはいない。同一面にまとめるプラットフォームの存在についてである。硬直をもたらすものとしてミッションステートメントが否定されているが、これに代わるものがこの本では示唆されていない。あるいはそうした外形を直接用意しなくとも、同様の規模の組織を設定して、一緒にひしめき合うようにすればよいとも考えられる。ビュートゾルフが、無償で他の組織に情報提供しているのは、このためだろうかとも思う。「ドローダウン」を幾何学で観てみたいと考えた。

4月28日(水)
「ドローダウン」にも取り上げられていた「デザイン・ウィズ・ネーチャー」イアン・マクハーグ著を読みはじめる。この本で示されているランドスケープや地域生態系、これを分析する方法に興味をもつ。大地は何百年というそう遠くない時間においても変化する。そうした土地の変遷を捉える方法である。

4月27日(火)
a+u608は、S-MAO(サンチョ+マドリデホス・アーキテクチュア・オフィス)の特集。表紙の折り紙でつくられているコンセプト模型が印象的。ただし、サンチョは、これは折り紙でなく襞であるという。「私たちの狙いは、折りたたまれた形態をつくることにはない。(中略)むしろなぜ襞によってこのように一体的な形態や空間構造が現れるのかを解明しようとしたのがそもそもの出発点となっている」。ドゥールズの「襞 ライプニッツとバロック」を思い出す。彼らのコンクリートのみを主戦場としていることに小ささを感じるが、共感できることも多い。それは彼らが示す平面や断面は無限な展開をし、それが空間にも現れていることである。因みに襞はFOLDの訳である。

4月26日(月)
「ドローダウン」読み終える。新しいインフラ、これをスマートグリッドといっていたが、これが必須となることを知る。その中に建築があり都市がある。これは今のコロナ渦でのテーマと一致している。建築が土地や周辺環境ばかりでなく時間的変化や他者に微細に対応し、植物的である。

4月25日(日)
「ドローダウン」によると、資材リサイクル率65%がひとつの目標指標になるという。2000年前のパンテオンはローマンコンクリートででき、そこにはポラゾンといわれる灰が含まれていて耐久性を向上させていたという。現在主流のポルトラントコンクリート生産のためには、高温巨大な窯が必要となり、コンクリート1トンの製造のために180キロに相当する石炭の燃焼が必要だという。その点フライアッシュは有効であるが、問題は有毒物質を含むことにある。ライアッシュは石炭を燃焼するときに副産物よしてでき、これまで廃棄していた。フライアッシュの再利用が大きなテーマだそうだ。節水では、今流行りのシャワーヘッドも紹介されている。
043 ラ・リーガ ウエスカ×ヘタフェ 岡崎は後半の終盤に登場し久保は不出場。久保は拮抗した試合になると、守備が不安視され出場が叶わなくなる。負けているときの切り札として扱われるのだ。2-0でヘタフェ快勝。降格圏ボーダーラインからひとつ抜け出す。

4月24日(土)
「ドローダウン」は輸送システム。大量交通システムを発展させることは温暖化防止に役立つのだそうだ。1900年の段階で既にポルシェ社からハイブリット車が考えられていたことも知る。ローナーポルシェ(常に生きているという意味)と命名されていた。Wikiでチェック。フォードTと違い馬車のようなイメージはないのだが、機械そのもので、そこにデザインが加味されていない。見るからに重そうである。こう考えるとフラーにも美学があったことに気付く。リモートワークをこの本ではテレプレゼンスといっていた。次章「資材」へ行く。

4月23日(金)
「ドローダウン」中盤は土地利用について。プランテーションも色々あるらしい。日本は古来からマツ、ポプラなどの単一樹種による植樹が行われていた。しかしこれだと短期間で土壌が枯れてしまうので、高、中、低木といった多様性が必要だという。これは日本の宮脇昭が考案した方法だそうだ。これはティールでも挙げられて、私たちが目指すべき組織のあり方とされていた。同様な研究にペーター・ヴォールレーベンという人もいた。彼の研究によると、植物はライバルの樹にも栄養分を分け合って、人間社会と同じく協力し合うのだという。ティ−ルでは、このことを結果そうなるのであって、予め調整するものではなく、自然に進行させながらバランスさせる力、進化する目的といっていた。ここまで読み進めると、ドローダウンを政治的に扱う矛盾を身に染みて感じるようになる。

4月22日(木)
042 ラ・リーガ バルセロナ×ヘタフェ 久保が4-2-3-1の2列目左で先発。守備から入り、現地評価はいまいちであったのだがまずまずのプレーであったと思う。ヘタフェ2点目は同年代のトリンコンを突き飛ばしたところからはじまっていたし、相対するこれも同年代の急上昇中のミンゲサをベンチに追いやっている。特に1点目は今日サイドバックに下がったククレアとのワンツーからバルサを崩したものは見事であった。久保を活かすという意味ではこの左サイドの組み合わせは悪くないと思う。したがっていつもと違ってラグビーのような試合ではなかった。こうも変わるとは不思議である。やはり監督からの指示がチームにもたらすものは大きい。選手にはそれだけポテンシャルの幅があるのである。週末は当面のライバルウエスカとの対戦だ。

4月21日(水)
午前にオンラインで授業を行い、午後から3年生のエスキス。対面である。2年生と違ってしっかりした案が出てこないのが少し残念だった。「ドローダウン」を続ける。エネルギーからフードへと実例紹介が移行する。次が建物と都市である。ここで、その先駆者としてジェイコブスとイアン・マクハーグなる人物が紹介されている。ジェイコブスと同様、市民レベルからエコロジカルデザインを提案している人だと知る。著書「デザイン ウィズ ネイチャー」を購入。

4月20日(火)
041 ラ・リーガ ヘタフェ×レアル・マドリード レアルは怪我人続出でフィールドプレヤー13名。そこにはBチームの選手も含まれている。ヘタフェの久保は先発せず。それでもヘタフェはマドリーを上回っていたと思う。しかし結果0-0。ヘタフェにとってこれは御の字とみるか。逆に首位に勝ち点1で肉薄していたマドリーにとってこの引き分けは痛いものだろうと思う。こういった拮抗ゲームに久保の出番はない。今週のミッドウィークのバルサ戦に期待である。

4月19日(月)
午前中に大教室での講義。そして午後は久しぶりの対面エスキス。流石に4時間は疲れた。2年生だからこそ、設計が小さくまとまることなく、外へ外へと視点を広げていってほしいと思う。敷地には十分余裕があり、隣には脇田山荘という名作建築も建っている。軽井沢の特殊性も大事である。

4月18日(日)
040 スペイン国王杯 ビルバオ×バルセロナ 前半ビルバオはバルサの攻撃を守り抜くも、後半に失点すると、返す力がなく0-4で負ける。潜在力の違うチームの典型的なゲームであった。前半のバルサのボール支配率は80を超えていたのではないか。レフリーもゲームを壊さないためにイエローカードの出し惜しみをしていた。しかし繰り返されるファウルギリギリのプレーにひとたびイエローが出ると、ビルバオの詰めも甘くなった。それにしても、今日のメッシはこれまでのメッシと違っていた。メッシ1点目の得点は自陣から長い距離を走りこんでのものであった。このタイトルによってメッシはバルサに残留するという報道がネットで賑わう。

4月17日(土)
久しぶりに映画を観る。「しあわせの隠れ場所」2009ジョン・リー・ハンコック監督。アメリカンフットボール選手の伝記である。しかし未だに現役選手を描いたものであることを知って驚く。原書と異なり映画は彼を受け入れた家族を中心に描いているのだが、この後の選手のキャリアが上手くいかなかったらどうなってしまうのだろうと心配してしたりしてしまう。ストーリーは、貧しい生まれで孤児であった心優しい青年が、裕福で優しいファミリーに受け入れられ、スター選手になるというものである。そしてその家族皆が人格的にも優れている。ドイツ車に乗り、カレッジフットボールやバスケット好きで愛校心があり、宗教信に厚く、ボランティアに積極的に参加し、共和党員であるのだが民主党に傾きつつある。こういった白人アメリカ人家族像、そいてリーダーの交渉力は強く、子供も大人のような口をきいても咎められることはないというようなアメリカ社会も垣間見ることができる。

4月16日(金)
039 CL ドルトムント×マンチェスターシティ 2ndレグのフルバージョンをUEFA.TVで見つける。今年ドルトは調子悪いと聞いていたが、戦術は以前と違って、パスをつなげていくものに変わっていた。サイドに個性的なスピードのある選手を置くのを止めて、オーソドックスな戦い方に変化していた。中盤が消されていて、ハーランドまでボールが届いていなかった。1-2でドルトが負ける。シティが順調に次のステージへ。シティは、ドルトにいたギュンドアンが中心となっている。相手陣内で彼を中心にボールが供給される。

4月15日(木)
大学院の授業もはじまる。受講生が多かったので、ディベート中心の授業であること、毎週本を読む課題を課すことなどの説明をはじめにする。来週の受講生数はどうなっているだろうか?今日の内容は、「建築」があることを話し、それがデザインの足かせになるのではなく、創造につながることを説明する。昨年の学生はこのことに納得がいかなかったようだ。あくまでも自由な立場でいたいという主旨であったと思う。今日は、個人的な個性(差異)の大切さを考えさせ、それを生む前提があることを説明し、さまざまな前提があるが、最も強力なものが「建築」であるという説明をした。午後からゼミ。「デザインの鍵」にある「名前のない空間に」と「目的のないところに機能がある」の説明からはじめ、今年の読書会に結びつける。M2中心に活発な意見交換ができた。押しつけがましい空間をつくることは誰もが嫌うが、そんなことせずに空間をつくることは可能か、というテーマである。いろいろな意見が出たが、面白かったのは、名前のない空間を残すような外堀を埋めるような設計をすること、あるいは、あえて名前をつけて既成とのズレを考えさせるなどがあった。その中でも環境や時間といった広いコンテクスト中で考えること、それでも上手くいくか分からないが、建築家としてそれに正面から向き合わなければならないこと、をまとめとした。これが今年読む「生態的視覚論」や「抽象の力」と関連することで説明を終える。

4月14日(水)
建築計画2の授業がはじまる。今年の授業は、はじめにライブで概要を説明し、その後オンデマンドというかたちにした。今日は第1回目なので、ライブでこの授業の意味についての説明。午後に行われる設計演習と連動していること。建築計画は決してスタティクなものではなく条件によって動くものなのだが、そこには作法らしきものがあり、それを設計実習を通して学ぶということ。実践によって計画作法を学ぶということである。前半は美術館の設計を通してである。作法というと決まり切った固いイメージがあるが、スポーツも然り、華道や茶道なども然り、それにしたがえばある程度もいくことができ、なによりもそういった型からこそ創造が生まれる。設計もこれと同様に考えるとよいというアドバイスをする。はじめは基本、それから思うことがあれば変えていけばよい。はじめからあれこれと複雑なことを考えるのもありだが、これまで建築が培われてきた土俵の上にまず乗ってそこから設計を行う方がジャンプは大きくなるというのがぼくの信念である。思えばぼくも学生時代、大胆な設計をしてこなかった。当時は四層構造もなかったが、その萌芽を習っていた。今日のオンデマンドではまず建物と建築の違いがあることを説明した後で、それを直感ではないj方法で説明するものとして「建築の四層構造」というものがひとつあるという結論であるというアドバイスをする。したがってこの授業は絶えずこの建築の四層構造に帰って説明をする。もっというと「四層構造」にそって建築をどう判断したかで建物との違いが生まれるのである。この四層構造を実践によって体得してもらいたい。こういった説明をした。次回は平面図作成の作法について学ぶことを前置きしてライブを終了する。

4月12日(月)
大学の会計システムに慣れるのに一苦労。ウインドゥズは扱い慣れていない。「ティール組織」の4刷に向けての校正開始。思い切って小題目を再考することにする。本の構成が曖昧なのが売りであるのだが分かりにくい面もある。元本にはない言葉を付け加えることにする。

4月11日(日)
038 ラ・リーガ レアル×バルサ 春の嵐の中の戦い。ポゼションはバルサであったが、先制点をとったレアルがペースを握っているのは明らかであった。最初はバルベルデがSBの上がりを阻止し、途中から3バックになったものの前線の選手を下げて中盤に守備的選手を入れる。それは攻撃的な守備で、ときに5バックでとなり、バルサの猛攻をしのいでいた。この変更はどうやらバルベルでの怪我のようだ。雨中の中、ジダンはびしょ濡れ。ライン際で指示をしていたのが印象的であった。監督も戦っていた。

4月10日(土)
037 ラ・リーガ ヘタフェ×カディフ 久保が先発も、後半5分で交替。どういった意図があるのだろう。久保は単発のプレーが多く、それがチームとして連動する気配はなかった。それを是正するためのものだろうか。その後、1発の速攻からオウンゴールを犯してしまい、0−1で敗ける。降格圏上のライバルに敗れた。次戦はレアルとバルサと続く。

4月8日(木)
今年度のはじめてのゼミを行い、研究室で読む本を決める。そのひとつとしてあげた「ドローダウン」ポール・ホーケン編著を読みはじめる。ドローダウンとは経済用語で、株が下がっていくことが明らかな中で最小限のリスクによって運用することをいう。本書では、科学的知見から、地球温暖化を逆転させる100の解決策が提示されている。

4月7日(水)
「シェークスピアのアナモルフォーズ」後半は著者の専門であるシェークスピアの分析。戯曲の中に挿入される1文が、様々な人に対して様々な意味を帯びてくることを詳細に説明する。そこには歴史(文化)と娯楽が同時に存在することで、劇に厚みを与えているという。このマニエリスムの時代、様々な視点を与える試みが試されていたのを知る。

4月6日(火)
今週からCLが再開されるもWOWOWに加入していないので観ることができない。残念である。放送権を廻って各メデイアの攻防は凄まじい。メディアが淘汰中であることを実感する。ホルバインの「大使達」は、立ち位置によってドクロが浮き上がる程度に思っていたが、そうでもないらしい。凸面鏡などの光学器具を使用するとさらに異なる構図が出る。つまり、鑑賞者に何度も足を運ばせる仕組みがあるという意味で、読む度に新しい発見をもたらすシェークスピア文学と同じであるというのである。ルネサンスからマニエリスムの時代にこうしたことが起きた。

4月5日(月)
「シェークスピアのアナモルフォーズ」蒲池美鶴著を読みはじめる。絵画において正面から見るとさっぱり訳がわからいのに、斜めから見ればはっきりとものの形が現れる、これをアナモルフォーズというが、この言葉が気になり本書を手にする。第1章は、絵画のその典型、ホルバインの「大使達」の紹介である。

4月4日(日)
「やさしいベイトソン」野村直樹著を再読。情報は一般に階層性がないといわれるが、ベイトソンはそれを覆した人である。ある前提のもとに会話はするものであるので、それを共有できないと会話が成立しない。例として、電車が止まった時の社内アナウンスが取りあげられる。「先程、お客様が線路に降り立ったため、電車を停止しております。お客様には大変ご迷惑をおかけしています」。このふたつの「お客様」が異なる人であることは普通に理解されるという例だ。もっとも会話が成立して前提が共有されているのを知るわけであるが、つまり情報は単独で意味を持つわけではないという意味で階層性がなく、その場その時のコンテクストに左右されるのである。このコンテクストというものを図式でなくなんといったらよいか。
036 プレミア サウザンプトン×バーンリー 3−2でサウザンプトンが逆転勝利。南野は不出場。この2チームも降格ライン上にいるが、両者とも守勢に立つことなく積極的なゲームを試みていた。結果、大変楽しかった。こうした試合でないと、勝利云々の前に観客が離れていく。ラ・リーガが学ぶべきことと思う。

4月3日(土)
「ティール組織」再読。昨日考えたことに関連してティールでは、予測→制御ではなく、感知→反応といっていたことを思い出す。感知→反応は、図式→認識と対立する。後者は、カントの有名な言葉「内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である」に代表されているように、盲目的な直感にたいし否定的である。ティールにある感知→反応は「目的は常に進化する」に代表されるように、ぼくたちを廻る環境は常に動的であることを前提としている。いわば図式など見出せないという立場である。図式という言葉はスタティックなイメージがある。
035 ラ・リーガ オサスナ×ヘタフェ 残りを10節とした残留ライン上に位置するライバル同士の戦い。どちらも失敗を怖れて安全策をとる。そこに久保はいない。80分過ぎから登場も、ボールタッチがなかったのでないか。0-0のドロー。

4月2日(金)○
午前、1年生の新入生ガイダンスに参加。午後研究室に戻り、安達くんから近況報告を受ける。SUPEでよい経験をしていたようだ。彼の興味のある「遊び」について話合う中で、ベイトソンの遊び理論を思い出す。ベイトソンは、双方向コミュニケーションを考える人である。昨日のゼミでもそうであったが、アフォーダンスというとそれがモノに宿っているように考えてしまう。そうでなく受け手としての人との関係で考えるのがベイトソンである。その論理でいくと遊びとは、例えばチャンバラごっこをするのは、互いにこれが遊びであると理解しているので楽しむことができるのであって、この理解がなければケンカになってしまうという。遊びとはこうしたひとつ高次元の精神性を伴う行為である。これはアフォーダンス理論にも応用可能で、人がアフォードされる前提を理解していないとアフォードは起きない。アフォーダンスとは環境全体を問題にしていて、そこで生活することによって理解できる意味のことで、一方向的な刺激的なものではない。これについて上手い言葉を探る。そう、刺激→反応ではなく、図式→認識である。ここまで考えてギブソンを再読したくなった。

4月1日(木)
新M2生とゼミ。修士研究の方針について話合う。興味あることを調査分析し、そこに共通してみられるものを起点にして設計をすすめようとする学生が多い。それよりも調査分析した中で興味をもった事例を身体化していく方が、設計が展開できるというアドバイスをする。これまで気付いていなかった自己を開放させるのに適した方法を考えるとよいと思う。各自がテーマとしていたのは、「斜面」、「北斎」、「発酵」、「影」、「セルフビルド」、「見えるけど隠されているもの」であった。今年度の読みたい本についても話合う。ティム・インゴルド、J・ギブソン、イーフー・トゥアン、マトゥラーナ+バレーナ、R・バンハムらが上がる。物事を歴史としてとらえること、空間を建築でない視点でとらえること、自律性や生態系のなぞ、建築と技術との関係、こういったものにある。

3月31日(水)
昨日のゲームでの右SBの松原の評価は高い。伊東とのコンビネーションがよかった。伊東が最終ラインの裏と2列目との間を上手く使わせていたという趣旨のものであった。

3月30日(火)
034 代表 日本×モンゴル 日本で開催もモンゴルのホームゲームらしい。日本がゴールラッシュし、14-0。引いて小さく守る相手に、パスを大きく回してはポストプレーによって、外からと中からと攻め抜いた。まるでゲーム前のミニゲームを見ているようであった。

3月29日(月)
033 U24代表 日本×アルゼンチン 26日からの中2日で本番と同様のスケジュールという。久保と板倉以外を代えてこのゲームにのぞむ。結果3-0の完勝。第1戦の雪辱を果たす。今日は、日本のプレッシングが勝っていた。とくにボランチの田中と板倉がよかった。それで両ウイングが積極的に奥を突くことができ、中央の久保が下がりライン間で受ける、そのかたちができていた。得点はこのかたちでないもののこれによってよい流れがチームをつくっていた。得点は、サイドバックからの縦パス1本によるものと、久保のコーナーキックによるもの。よい時間帯で得点を重ねることができていた。

3月28日(日)
「ベンヤミン・コレクション1」の浅井健二郎氏の解説を読む。コレクションの選択指針がまとめられている。1「近代の芸術意識のなかにー誰よりもゲーテにおいてー巣くっている神話的なもの(アウラ的知覚)を、ベンヤミンは名によりもまず認知する。その限りにおいて、ベンヤミン自身の深い内部に濃厚な親アウラ的心性が潜んでおり、そのうえでのゲーテ批判、とりわけその反批判的姿勢への批判なのだ。そしてベンヤミンは、このゲーテからの遠ざかりの距離、もしくはその距離の絶対性において、たとえばボードレールのモデルネ度を、またたとえばブレヒトの脱近代度を測定するのである」とある。同時に、2「バロック・アレゴリーの精神が重なって映ったということ、そしてさらに、バロック・アレゴリーを捉えたまなざしのありようが、いま一度翻って、パリの近代ないしボードレールを捉えるまなざしのありようを本質的に規定したということ、である。このまなざしによって、市民社会の演出する調和幻想が打ち砕かれた」という。これをまとめたベンヤミンの思考変遷は以下である。「アウラ的近代技術の代表者をゲーテに見出し、そこからの断絶の最初のラディカルな顕れ(近代の転回)をボードレールに、近代からの決定的な覚醒を告げるシグナルを非(反)アウラ的芸術(シュルレアリズムやブレヒトと複製芸術とに)見出した」。ここまできて、難波さんの美的経験の変容と近いことに気づき、はっとする。アレグザンダーに注目し批判するのは、難波さんはそこから出発したからであり、近代の極北である池辺さんを物差しにしてアレグザンダーの思考を計っていたからだ。そしてそれを注目したのは技術とりわけ環境技術によってなのである。アレグザンダーを一番に批判するとき、必ず技術に対するアレグザンダーの無知さを上げるのはそれによる。技術は、ベンヤミンが映画に見たように非アウラ芸術に欠かせないものだ。こうした2人の軌跡の目的は何かを考える。この解説にあるように、それは近代社会に深く切り込むためである。当時の読書記録を日記で振り返る。アナモルフォーズと不共可能性(共同主観)というふたつのキーワードが引っ掛かった。

3月27日(土)
カザベラ916で興味深い記事。スイスは国家として、津々浦々にまで整備された鉄道網を使って、そして美しい自然を活かした美術館を配置し、観光国家として戦略を考えているというものである。ヘルツォークからはじまり、ギゴン+ゴヤのキルヒナー美術館、クリスト+ガンデンバインのチューリッヒ国立美術館、メリクリのラ・コンジュンタ美術館らが評価を勝ち得たものであるという。

3月26日(金)
昨日の内藤廣さんの言葉を思い巡らす。主体と社会(外部)との位置付けについてである。得てして主体の強度が注目されがちではあるが、主体の強度と社会(外部)に深く切り込むこととは違うのでは、と最近思うようなった。むしろ社会に切り込むことができるのは、社会にオープンにされているという意味で中立的な位置にある技術とか科学とかいったものによってでしかなく、しかも技術は一朝一夕でできたものではない。これを利用した深度が問題にされるのではないか、と思うようになった。もしかしたらぼくには技術にたいする後者の配慮が欠けていたのかもしれないと思うようになる。切れ味と深さである。
032 U24代表 日本×アルゼンチン 前半はほとんどかたちをつくることができずに、アルゼンチンのプレッシングに苦しむ。昨日の代表はこの点が韓国より上回っていたことになる。後半からサイドをいっぱいに使ってプレッシングをかいくぐるようにすると、攻撃のかたちになる。久保はそれによってスペインでのいつものパターンに持ち込めるようになった。反対左サイドにボールがあるときは右の久保は内に絞り、際どいシュートも放つ。後は結果である。0-1の完敗といってもよいだろう。

3月25日(木)
午前、確定申告と役所周り。渋谷区役所に行く。建物中央に動線コアがあり、南がガラス張りの執務空間である。その向こうに低層で校庭のある神南小学校があるので渋谷駅にむかって視界は開けている。北はタワーマンションや公会堂があり、その間が小さな庭が連続している。どう使われているのだろうか。それに面する北内部はアトリウムでエスカレータ動線があり、空間は反対に大きい。評価は微妙である。午後、赤れんが卒業設計展をzoomで見る。遠藤研の佐藤さんが10選に選ばれたという知らせを受けた。質疑応答における末光さんの、多くの学生が生の空間を意識していないという指摘が面白い。手法とか情報とかシステムといったものが目的化しているという。これを聞いて時代が動いていることを感じた。内藤さんは建築家自身の時代にたいする欠如を指摘していた。おそらく、社会状況といった外部条件に則して考えてしまう傾向を批判したものだろう。そういう意味で主体を捨てて世界の中で個人を位置づけること、アクターネットワークに基づく方法論であるが、そうした時代性を感じないこともない。こんなこともあって審査の論点が、空間にしろ、方法論にしろ、その強度が問題になっていった。佐藤案は最終形を明確に示さなかった点でこの論点から外れてしまった。時代は面白いもので、ぼくが別の審査の場で末光さんにいったことが繰り返されている。それは「建築」というものに関わるもので、「建築」の存在をあらためて知ることとなった。
031 代表 日本×韓国 今日はよいかたちで攻撃を組み立てることができていた。やはり身体的な余裕がそうさせているのだと思う。1対1が安定していた。ゴールして後にピッチ上で選手皆が喜ぶ姿を見ると、海外では孤独なのだろうと思う。こんなところで国を感じたりする。

3月24日(水)
研究室の棚卸し業務をチェックして、午後は来年度の設計授業の準備をする。カザベラ916が届く。巻頭はスイス建築。アルド・ロッシがETHに赴任にした1972年からスイスの建築は変わったという。アナロジー建築なる方法論ができた。技術を前面に押し出すものではなく、壁構造で切り妻屋根のマッシブな端正な建築である。その根底にはマイヤールなどのシビルエンジニアリングがある。

3月23日(火)
午後大学行き。諸々の事務処理をして、夕方に理事長にお礼をする。帰りの夕方の首都高速は混んでいる。日常が戻りかけているようだ。

3月22日(月)
午前は会計士との打ち合わせ。午後はコロナ渦の卒業式。研究室に戻ってきてもらい歓談のみとする。今年の思い出と横の連携の大切さについて話した。小さなスタンドと無垢のアクリル製ブックスタンドを記念品として頂き、皆で記念撮影。その後、就職先などの相談を数人から受ける。アトリエ事務所を目指す学生はこれからが本番だ。希望する事務所にむかって頑張ってほしいと思う。

3月21日(日)
030 ラ・リーガ ヘタフェ×エルチェ 前線の怪我人のため久保が久しぶりの先発。最初はトップ下、前半途中から右Wに移動。トップ下では左右からのクロスに2度ばかり合わせるチャンスもあったが、ひとつは体格不足、もうひとつはタイミングが合わなかった。右に移ってからは早いタイミングでクロスを放り込む。そのうちのひとつがアシストとなった。結果を残したかたちとなったが70分に交替。その直前の速攻時に、走り抜けなかったことが交代させられた原因か。走力的な問題か一度受けてからアシストしようと目論んだかが分からないが、腑に落ちないプレーであった。監督も同様だろうと思う。久保の後に交代した10番選手に監督が激怒していたのが印象的。PKを廻る論争であったと後で知る。結果1-1のドロー。問題のPKを決めて勝ちたかったにちがいない。

3月20日(土)○
029 FA杯 ボーツマス×サウザンプトン サウザンプトン圧勝。南野は規定により不出場となる。2部が相手であると精神的余裕があるのか気持ちよいようにシュートが決まっていた。南野と同ポジションの選手が活躍している。

3月19日(金)
JIAで今年度の関東甲信地区の修士設計展の2次審査。審査員に大野秀敏氏。実行委員はぼくの他に電機大の日野さん、法政の下吹越さん、日大の古澤さん、千葉大の杉山さん、芝浦工大の岡野さんである。コロナのため今年はZoomによるオンラインとなる。8分の生プレゼを聞くと、1次の紙面審査との違いを多く発見する。特に最優秀案の東洋大の渡邉雄大さんの作品はそれが顕著であった。彼の作品は建築の動的さをテーマとしていた。機械的ではなく生態的にするという意味であろう。面白いのは、彼の試みがアレグザンダーの「オレゴン大学の実験」のプロセスに相当していたことだ。参加と漸進的成長の原理はもちろん、診断を行っていたのが特徴である。加えて彼はある集落(久我集落)を丁寧に調べていたのであるが、大野先生からの質問でどの集落でもよかったと応えていた。つまり、どの集落でも伝統を培ったものであれば、そこから普遍性を得られるということだろう。それは、パタンランゲージの精神のようでもある。そうした集落を丁寧に読み解き、パタンのようなものを無意識に習得していたことになる。大野先生もこれをダントツに優れていると考えていて、あっさりと最優秀案となった。審議ではその後の優秀賞の選択が中心となった。ぼくが選んだ理科大学の齋藤匠くんの作品は、瀬戸内海の小さな島の街おこし計画である。製塩やレモン栽培、豚の家畜場をアドホックに構築するものである。ぼくが考えるにインダストリアルブリコラージュというものに近い。街おこしあるいは製塩場などをつくるという目的をはっきりさだめて、それを達成させるためには身近な材料のブリコラージュで十分だという考えである。面白いのは、島で採集できる大文字の材料にこだわることなく、現代の工業製品も含めて、それらを匠みに使いブリコラージュの手法がカジュアルになっている点だ。それをインダストリアルブリコラージュといいたい。もうひとつぼくが選んだ作品は都市大学の木村くんの作品。これも街おこしをテーマにしていた。場所は和歌ノ浦の漁港。和歌ノ浦は和歌の発祥の地でもあるという。この地をよく調査し、考えられるアクターネットワークを作成し、最終的に彼が選んだ大伴家持の歌に基づき作品としてまとめ上げていた。アクターネットワーク的なアプローチする作品は多いが、それが動的であるために建築にまで仕上げるときの一工夫が必要とされる。彼の作品には、和歌に詠み上げられた塩によって、それを可能にしていた。それが他の作品と違っていた点である。紐を使った製塩の方法も様々な実験を試みていて共感できた。力作であったと思う。もうひとつの優秀案は、留学先でアマルフィの街を調査し、その街を改修した工学院の北村久美子さんの案であった。ぼくとしては、抜群のロケーションに助けられていると思われたのだが、これが伝統的なイタリアのリノベーションというのを先日の渡邉真理さんと陣内先生のレクチャーで知った。それで納得をする。今年の作品は昨年より充実していた。方法論において面白い作品が多かったように思われた。

3月17日(水)
10時前に代々幡斎場。住職の話を控え室で聞く。住職のキャリアは興味深い。息子の副住職は物理出身だそうだ。11時から告別式と初七日法要を執り行う。無事終了。最期のお別れでは、母が諦めつかずにお棺を閉じるのに時間がかかる。その後隣の焼き場へ。1時間もかからなかった。

3月16日(火)
15:30になると父を迎えに来る。その後を追うようにして自動車で代々幡斎場へ。式場で納棺式を家族で執り行う。その後で供花の祭壇配置を指示。祭壇は供花16束あり賑やかで安堵する。上階の控え室で住職を待つ。18:00から通夜開始。通夜の住職の衣装は地味であった。40分程度の読経の後、講話。戒名や通夜、告別式の意味を説明。1時間程度で終了。

3月14日(日)○
父は生前から戒名がいらないと言っていっていたが、先祖との関係ででそうもいかなかった。弟が世話になっていた心行寺にお願いし、護雲院政誉知則居士となる。少し落ち着いたので、溜まっていた日記作業にかかる。この2〜3日を思い廻らす。書きはじめると色々なことを改めて発見する。
027 ラ・リーガ ヘタフェ×アトレチコ 0-0のドロー。結果的にヘタフェのペースであった。したがって、そこに久保はなし。右は久保ではなくアレーニャが先発であった。
028 プレミア サウザンプトン×ブライトン 南野は先発。前半は、中盤まで下がりそこで受けるとボールをサイドに散らし、中央でリターン受けてフィニッシュというかたちを上手くつくっていた。チームにとけ込んでいるのが分かる。しかし後半は消えてしまう。このパターンが数試合続いている。1-2でサウザンプトンの競い負けであった。

3月13日(土)
早朝、母と妻の意見を聞いてから、葬儀会社に連絡。夕方打ち合わせとする。午後は法政大学のオンラインシンポジウム「コモンズを再生する東京」を聴講。北山恒さん主催である。若手建築家の商店街の活性化活動の報告と陣内秀信先生、大野秀敏氏、織山和久氏、渡辺真理氏がそれをレクチャーでバックアップする形式だ。陣内先生は、歴史家らしく日本の商店街を世界から説明してくれる。寝食一体の商店街は日本独特の文化だそうだ。紹介してくれたのは、トルコのギョイヌック、イスファハーン、シリアのアレッポ、モロッコのマラケシュ、ポンペイ、アマルフィ、北京のフートンなどである。学術的説明というのはこういうことだろう。大野先生は、東京の紐状都市のフィールドリサーチの報告。近代建築家によるデザインを強く批判していたのが印象的。建築家なしの建築の東京版リサーチである。笹塚の10号商店街を好例として挙げていたのは驚いた。ぼくの家の近くである。こういう視点に立つと、若手建築家の意見もそうであるが、建築家はエージェントになるのだろうかという疑問も湧く。渡辺さんはここのところを意識的で、建築家教育も一方で必要とし、その上で例えば大学院教育でその行き詰まりを考えるのがよい、という立場であった。これが法政大学の教育方針なのだろう。織山さんは経済分野出身で、データによる説明をする。日本の経済は先行き不安と言われるが、東京で建物が建っていない空間は逆に70%も残されていて、それを活用しない手はないということであった。北山さんらと活動する日本版「ヴォイドの戦略」である。コールハースが発想し、かつつくろうとしたヴォイドを実活動として引き継ぐものだ。面白いのは、建築家はこうした問題を考えると異様な想像力で創造を起こし、周囲を活気づけると考えていることだ。そしてそれが最終的な経済に反映されるということであった(それはちょっとカント的思考を彷彿させる)。ぼくらの経験した狭小地ブームにみられる現象である。今日紹介された若手建築家山道拓人さんの活動はその典型だろう。京王電鉄と協力した駅から遠い商店街の活性化活動である。彼らが中心となって商店街長屋にアクティビティを復活させ、本来不便であるはずの土地価値をあげるものであった。ぼくとしてはこれに建築技術を加え、昇華させる方法を考えたい。もうひとつ面白かったのは、織山さんは、そうした活動を促すのに組織論を問題にしていたことだ。フラットで刺激し合う組織がまずもって重要と考えていた。これに同意する。ところで今日のレクチャーで収穫だったのが、自分の意見を主張する方法と、織山さんがプレゼしてくれた内容、すなわち建築の可能性を経済的視点から捉えることであった。事実、経済は創造からこそ大きくなるというのだ。

3月12日(金)
朝早く起き、和室の掃除。プリンタだの照明器具の多くを片付ける。9:30過ぎに代々木警察署から電話。10:30に警察行き。電話では、父は家に帰ることが出来るということであったが、結局監察医行きが決まる。葬儀屋が遅れ1時間近く待たされる。14:00に大塚の監察院へ行く。30分待たされてから本人確認。ちょっと顔が変わっているような印象。結局死因の特定はできなかったという。ぼくらはそのことはどうでもよいのだが、誰のためにやっているのかと思う。段取りはわからないが、今度は葬儀屋へ運ばれるらしい。ひとりで帰宅。食事をして仮眠。義理の妹家族も駆けつけてくれた。そうこうしている間に葬儀屋から電話があり、18:30に漸く父が帰る。70キロの体で3階に上げるのは大変であった。父の態勢が整うと、皆が悲しみにふける。ぼくはフォロー役に回る。その後、葬儀の打ち合わせ。妹家族と賑やかな簡単な夕食。葬儀屋との打ち合わせを思うとなかなか寝付かれなかった。翌朝電話で相談し直すことにする。

3月11日(木)
父死去。突然であった。15時くらいには買い物に行く姿をzoomによる会議中に事務所から観た。声をかけようかと窓を開けて外に出たのだが、反対側に行ってしまったので声をかけることができなかった。少し経って階段の踊り場付近で戻ってくる足下だけ観た。ひとまず安心。その後帽子が転がり落ちてきたので、拾ってから声をかけようと外に出る。いつものことだと思ったので「大丈夫か」というつもりであった。階段下に行くと頭を下にして大の字に倒れている父を観て急いで駆け上がる。頭を持ち上げてから声をかけると反応がなかったようには思えなかった。体を起こそうとするが重くてひとりではできなかった。携帯を事務所に置いたままだと気づき、大声で2階の自宅勤務の娘を呼ぶも声が届いていないらしい。続けて3階の母を呼ぶ。これも反応なし。頭の高さを一定にしたまま階段に座り直し、太ももに頭を乗せる。道路には人影見えるも関係なしであった。父に「大丈夫か」と何度も語りかけるも反応なし。合間に大声でふたりを再び呼ぶ。漸く母が来る。南帆を呼ぶように指示。出ないという。次に119番に連絡を頼む。父の息はもうないようだった。南帆が来る。南帆は落ち着いていた。そうだ心臓マッサージと気づき、父の体を支えているためぼくにはそれが出来ないので南帆に頼む。母が階段を降りようとするので、2次被害を怖れてそれを制してセーターを着るようにいう。やがて救急車到着。救急車の中で蘇生措置。反応がない模様。緊急病院がなかなか見つけられないようなので出発まで時間がかかる。漸く女子医大病院に到着。ぼくは緊急外来の外の長椅子で待機。外出していた妻からメッセージと電話が届く。母を向かわせるかどうかである。おそらくもうダメだろうと感づいていたので、体調を優先するよう指示。30分後医師が出てきて中に入るように指示を受ける。父と対面。悲しみが急にこみ上げてくる。今日の2回目の感情である。様々な処置を尽くしたが無理であることの説明をしているらしいもはっきりしりない。どうやら延命装置を外してよいかぼくに同意を求めているようだ。心拍計の上段が心臓のものか尋ねる。そうだといい僅かに反応ある。再び心臓マッサージ。それでも波形が変わらないことを説明。無理だとは感じていたのだが延命装置を外ことの決定をくだすことに躊躇していたが一連の処置をみてそれも消える。瞳孔に光りを当てる。反応なし。16:30。これで死亡とする。半開きの父の目をそっと手で閉じる。カーテンを閉じてくれる。3回目の一番大きな悲しみが訪れる。どうしようもなかった。「何をやってんだ」と、言ったような気がする。自分に対する言葉でもある。部屋を出て妻に連絡。妻も混乱していた。しばらく長椅子で待機。死因不明のため警察が来るとの話を聞く。3〜40分して父と霊安室へ。ここで警察を待つ。警察からも自宅に連絡がいくそうで、それよりも身内の口から母に知らせることが重要と考えたが、妻にはそれが出来ないという。代々木警察署から2人の刑事と対面。今日の状況を説明。親切な人であった。今日これから検視、父が帰るのは明日という。タクシーで帰宅中、いかに母に告げるか思いを廻らす。タクシー降りると妻が待っていてくれた。母の状況を聴き、結局車椅子に腰掛けていた母の片を押さえて単刀直入に告げた。母は入院と思っていたらしい。遅れて食事。泣きじゃくっている南葉もいた。ショックで一緒にいれななかったようだ。そうこうしているうちに先程の刑事の現場検証。明日からの予定を確かめる。霊安室にいた葬儀会社に連絡することにする。そのころは既に就寝時刻であった。1日の出来事を思い廻らしながらソファーで就寝。

3月10日(水)
17年卒業の秋山怜央くんから「中銀カプセルスタイル」前田達之編 草思社が送られてくる。最近まで中銀カプセルに住んでいたのだそうだ。そのインタビューが掲載されている。ぼくも10年以上前に訪れたことがある。当時は設備が老朽化していて気になったが、狭くとも十分に事足りていた印象があった。この本からは、パッケージエアコンが装備され、その問題も解決されているようであった。秋山さんは藤本氏の事務所に勤めてからもう4年も経つという。早いものだ。主担当の東北の施設も来月オープンさせるという。頼もしい。

3月9日(火)
午後、JIA修士設計展の1次審査を、法政大学を借りて行う。今年度の審査員は大野秀敏氏である。大野さんは応募作品を深く読み込んでいらして、ぼくらのサポートはそれ程必要とされなかった。したがって2時間あまりで2次審査のへの9点を決めることができた。選考はバランスが良くとれていたと思う。作品の目の付け所あるいは研究過程よりも最終形に重点が置かれていたという印象を持つ。そこに大野氏のテイストが反映されていた。そもそも最終形が不十分なものはダメであることには当たり前のことではあるが、この時期それほど冒険もできない社会的風潮もあるので、まずは結果の密度とある程度の社会的妥当性が問われたということだろう。その上での批評性に耐えうるかどうかの作品が残った。

3月8日(月)
建築雑誌今月号は震災特集。滑田さんと浦部先生の木造仮設住宅の再利用状況のレポートがある。彼らのチームで再利用した実績は実に50件を上回るそうだ。その考察も面白い。スパンが3.6あるいは5.4mはほしいこと。部品構成種類を限定すること。部材一部だけでも再利用可能にすること、である。難波さんの論考は、胸に刺さるものがある。一連の建築家の提案に対して「3.11以前の自身の活動を見直すというより、それまでのデザインをより先に推し進めるかたちで展開したといったほうがよい」という。難波さんにおけるその結果が半ば途中であるが、「これまでの経験の上に、新しい技術を取り入れた、コンパクトで高性能なエコハウスの提案」であるという。

3月7日(日)
「グリーンブック」ピーター・ファレリー監督2018製作を観る。1962年時のジャマイカ系黒人ピアニストとイタリア系運転手の友情物語である。当時のアメリカ社会における黒人差別はショッキングであった。しかし差別自体ではなく、既に財をなして裕福な黒人の葛藤からそれを描き出している点が、それをより新鮮にしていた。社会に深く根付く差別がありつつも、それへの一人一人の僅かな抵抗と社会への上手い同化が希望的に描かれていたのが、まずもって素晴らしかったと思う。ピーター・ファレリー監督は喜劇中心に活動をしているようだ。「グリーンブック」とは当時の中産黒人階級者が安心して旅行できるためのガイドブックで、当時も黒人の間でしか知られていなかった本であったらしい。
026 プレミア シェフィールド×サウザンプトン 南野は怪我から復帰し先発で登場。下位のチームに取りこぼすことなく2−0で落ち着いて勝つことができた。ゴールすることができなかったが、南野はチームにすっかりとけ込んでいる。ライン間でボールを受けることが多く、ゴール前で絡むことも増えた。同時に結果も欲しいところで、終了間際の左足でのシュートは決めたかった。

3月6日(土)
NHK特集は、震災から10年。住民ひとりひとりからの避難にかんする聞き取り調査のまとめであった。ひとりひとりの行動を、時間を追ってプロットし、それを人数分重ね合わせた結果の報告である。町単位の小さな集団では避難誘導が、人によるカスケードあるいはヒエラルキー構造をもっていた。合理的な情報伝達のかたちをそこに見ることができた。
025 ラ・リーガ バリャドリッド×ヘタフェ ヘタフェは今日も従来の戦いかたでのぞむ。前半に2失点し後半はじめから久保を使う。いくつかチャンスをつくるも、これといって変化はなし。下位のチームに1-2で負ける。流石にここまでくると、久保を応援していてもヘタフェの試合にはうんざりした。ビジャレアルでは、久保が出場しなくとも組織がしっかりしていたので別の楽しみ方があったのだが、ラグビーのゲームのようである。

3月5日(金)○
「サーカス」チャップリン監督・主演、1928を観る。放浪者チャップリンがひょんとしたことからサーカス小屋に紛れ込んでしまい、そこから繰り広げられる喜劇である。はじめて観たと思うのだが、そうは感じさせないほど明確にシーンをイメージすることができた。思えばよくある短編アメリカンアニメも同様で、定番ストーリーといってもよいだろう。したがって、映画に込めてある社会縮図や個々の演技のディテールの是非が映画としての価値を決めるものとなっている。

3月4日(木)
「複製技術時代の芸術作品」の後半を読む。後半は、当時政治的意味をもつようになった映画に代表される複製芸術の本質についてである。キーワードは複製芸術を形成する技術と大衆。どちらも純粋芸術に向かうことを阻止し、反対の社会というものを形成していく源とされる。大衆の効用は以下である。「チェックすることになるこの大衆のほうは目に見えず、まだ存在していない。この不可視性によってチェックの権威は高められる」。こうして大衆も作家と同様にチェックを通じて自らの意見や考えを社会に反映させることができるようになるというのだ。これは現在のSNSの状況と似ている。次にその実現をになう技術について、ベンヤミンにとってそれは、政治的に中立にあるものとされる。中立とは以下にあるように人の判断外部にあるということである。良くも悪くもなるというのだ。「撮影機械が現実から獲得することができる多様な姿の大部分は、感覚的知覚の通常の範囲の外にある」。そこには知覚器官によってでは、歴史の転換期において直面する課題を解決することは不可能であるという考えが根本にあり、そのために外部にある技術の助けが必要となるというのだ。最終的にこうした課題がどのように解決されるか、ここで建築が登場する。建築を体験することに照らし合わせて、「触覚的受容(=体験)の導きによって慣れを通じて少しずつ克服されてゆく」ことによって解決されるというのだ。ここでいう技術とは、「魔術師に対する外科医、絵画に対する映画のカメラテクニークにあたる」ものである。「画家はその仕事において、対象との自然な距離を観察する。それにたいしてカメラマンは、事象の組織構造に深く侵入してゆく。それぞれが獲得するイメージは、はなはだしく異なっている。画家によるイメージは全体的なものであるのに対し、カメラマンによるイメージはばらばらに寸断されたものであり、その諸部分は、のちにある新しい法則にしたがって集められる」。つまり社会に深く入り込むことできるのは中立的で外部にある技術によってのみであり、そうして深く入り込んだ成果だからこそ、公平に大衆判断に委ねることができるというのだ。このことができるのが映画(あるいは建築がしてきたこと)という複製芸術なのである。

3月3日(水)
思い直して「複製技術時代の芸術作品」を再読することにした。読み直すと改めて気付くことも多い。ここで挙げられているヴィーナスの例が頭を整理しやすい。「古代のヴィーナスの像は、それを礼拝の対象としていたギリシア人にとってはある伝統連関に属していたが、それを災いをもたらす偶像と見なした中世の聖職者にとっては、また別の伝統連関に属していたのである。しかしこの両者に対して、等しい現れかたをしていたものがある。それはこの像の唯一無二という性格、換言すればそのアウラである」。そして「決定的に重要なのは、芸術作品のこのアウラ的な存在様式が、その儀式機能から完全に分離することは決してないということである」。つまり「真正な芸術作品の比類なき価値は、つねに儀式に基づいていた」という。しかし、芸術の複製可能性がこの状況を変えたと本論は続く。それは「芸術のための芸術という教義を持ち出し」、「いかなる社会的機能を果たすことを拒むだけでなく、いかなる具体的テーマによって規定されることも拒絶する、<純粋>芸術の理念というかたちで現れた」のだという。逆にいうと「芸術作品が技術的に複製可能となったことが、芸術作品を世界史上はじめて、儀式への寄生状態から開放するという認識である。(中略)芸術は儀式に基づくかわりに、必然的にある別の実践、すなわち政治に基づくことになる」。芸術となったのは複製技術によってであるというのだ。ものの根拠をその内部に見出すのではなく、とりまく状況からあぶり出す論の進め方。この論考の前半である。

3月2日(火)
024 プレミア サンザンプトン×エヴァートン 南野はハムストリングを痛めたという理由で欠場。心配である。サンザンプトンは好調エヴァートンに先制され、そのまま逃げ切られる。0-1。このところサウザンプトンでゴールしているのは南野だけである。

3月1日(月)○
午前に虎の門行き。午後は来春からの授業の準備をはじめる。一応の方針の目途を着けることができた。この勢いで確定申告の資料も集める。「チャップリン回顧」ベンヤミン著(1928)を読む。笑いをインターナショナルで革命的な情動にまでしたチャップリンを評価する。「サーカス」「世論」「巴里の女性」「ある美しい女性の夜夜」「偽牧師」が挙げられていた。

2月28日(日)
023 ラ・リーガ ヘタフェ×バレンシア 久保は85分過ぎから登場。今日のヘタフェはプレッシングが効きゲームを有利に進めた。そんな中前半終了間際に強烈なミドルシュートで得点ができ、久保の出番は遅くなる。崖縁に立たされたボルダラス監督はこれまでのメンバーに戻し、彼らが徐々に応えるかたちになっている。久保は終了間際にほしいシュートも放ったのだが、後半登場という立ち位置に落ち着いてしまうのだろうか。

2月27日(土)
渡辺真理氏と北山恒氏の法政大学での最終講義にzoomで聴講。アーバニズムがテーマ。渡辺氏は、コーリン・ロウの「コラージュシティ」翻訳からはじまって、都市をどう位置づけてきたかを、作品を通して紹介してくれた。学会賞の真壁伝承館では、プロポ時に建築的な答えを与えていなく、サーベイとワークショップの実施のみを提案していたというのをはじめて知った。その審査員長をしていたのが北山さんであった。続く北山さんは反アーバニズムを唱える。都市をつくるエージェントを市民に取り戻す方法を法政に赴任してからずっと考え続けてきたという。アーバニズムのその後を考えているという点で2人は共通している。北山さんにとってその答えは、都市のヴォイドに注目すること。死んでいるヴォイドを上手く活用することであった。そうした彼らに共通しているのは、資本の手に落ちた都市からの脱却である。もう一度、地形的歴史的文化的バックグランドをもつ都市を計画するにはどうしたらよいかということであった。それを学術的科学的アプローチよりもブリコラージュ的なサーベイやワークショップに期待しているのである。このことに大筋納得できた。しかし、強大なコンペティター=資本には、対抗でなく懐柔が必要でないかと思ったりもする。昨今はリノベーション、環境問題、あるいは狭小地建築ブーム等があるのだが、その上に乗った資本誘導を建築家として考えることもあると思う。建築家のもっている技術とは何かということであるが、つまりは、それこそが(都市)計画することの否定、建築家だからこそのブリコラージュ的手法と思ったりする。
022 ラ・リーガ エイバル×ウエスカ

2月25日(木)
昨日に続き、ベンヤミン著の「オスカル・シュミッツへの応答」1927年を読む。映画「ポチョムキン」の批評である。この映画のストーリーの分かりやすさを批判するシュミッツに対してベンヤミンは、モンタージュという新しい技術を用いて大衆を惹き付け、映画の意味までをも大衆化させたという点を評価する。映画をはじめとする芸術活動が、ブルジュワの審美眼に留まることへ否定したものである。新技術を使用することで「ポチョムキン」が社会にたいして直接為し得た事実を大いに評価していた。夕方から設計小委員会。建築情報学会の「建築情報学へ」第2章の石澤さんの「一から多へ」が話題になる。著書は竹中工務店のBIMマネージャーである。建築情報も詳細になり深度を増していく。それに設計者は追従できなくなりどうなっていくかが間接的に問われていたように思う。ここで書かれているように、建築家が優れているのは、1:500図面に於いて書くこと、1:50において書くこと、1:5で表現する意味等を自然と身体化していることである。このスイッチの切り替えが建築家特有のセンスで、それがさらに問われるようになるようだ。ぼくの経験を振り返っても、最近は事務所特有の究極のディテール等が許されることはない。標準ディテールを使用しながら、それを上手くカバーするようなデザインが細かいところで必要となっていて、それが建築の作品としての質を左右している。情報がオープンになり個々で独立して価値を持つようになったとき、とるべき態度がここにあるように思う。ティール組織のような話である。一方でスペシャリストは細密化を試みる。池田さんのRC構造のモデル化にたいする研究を思い出した。現行の基準法のモデル化はあまりにも単純であるので、実際の挙動を詳細に分析して、新しい基準を作り出そうとするものである。ベンヤミンを読んだ後には、技術者の本来の行いがこうしたところにあるのだとも思うに至る。

2月24日(水)
「生産者としての<作者>」1934年ベンヤミン著を読む。「球と迷宮」から知った。これが書かれた時代背景をなかなか理解することが難しいが、ロシア革命が好転しない現状を踏まえたものと推測する。それをベンヤミンは、様々な分野に所属していたブルジョアジー(知識人、専門家)が仕組んだ革命がそこで留まり、プロレタリアートまでに及んでいないからだと指摘する。計画したことが一人一人の個人にまで及ばなかったことを批判しているのである。これは文学や音楽、写真について言及したものであるが、建築も同様であろう。どうしてそんなことになってしまったのか、ここでは「生産装置」という言葉を使い説明する。「実際には装置が彼ら(音楽家や作家や批評家)を所有しているのに、自分たちこそがその装置を所有していると思っており、そのことによって、みずからがもはやコントロールできない装置、彼らがまだ信じているところはちがってもはや生産者のための手段ではなく、生産者に敵対する手段になってしまった装置を、擁護している」からであるという。この装置を「建築」と言い換えてもよいだろう。ぼくらは「建築」の中にいることを知らずして、逆に「建築」に取り込まれてしまっているのである。ではそうした認識の後どのようにすべきか。本書では「ある作品は時代の生産関係(=「建築」)のなかでどういう立場になるのかを問うべき」といい、別のところでは、「作品が具現している作家の技術」こそが重要といっている。技術とは「生産過程における知識人みずからの持ち場についての正確な知識」のことであり、社会の中にあり、ある方向づけすなわち一旦形式化するものである。この技術を使用して、「生産を束縛している障壁のひとつを新たに取り払う」ことが、「ブルジョア出身でありながら、その出自を克服して、真にプロレタリアートとの連帯を目指す作家」を可能にするというのだ。難波さんとの縦ログ構法を「建築」として捉え直し、今日的な環境問題に合致するよう位置づけし直すこととの共通性をここに感じた。縦ログ構法がなんであるかよりも、縦ログ構法が有益なものを何も作り出せないのなら、役立たずとする考え方である。それにしてもここで取り上げられているブレヒトの言葉は衝撃的であった。「政治において決定的なのは私的な思考などではなく、他者の頭のなかで思考する術(クンスト)である」。

2月23日(火)
「はじめてのスピノザ」國分功一郎著を読み終える。スピノザに惹かれる理由が整理できた。後半にそれをデカルトとの比較で示している。デカルトにとって真理はア・プリオリに存在し、「真理は公共性をもっており、公的な精査に耐えうるものでなければならない。言い換えれば、真理が真理と求められるのは、もはや反論の余地がないと考えられた時であり、したがって真理が相手を説得した時である」とある。この考えによって今日の近代科学が根拠付けられている。それにたいしてスピノザは「真理の基準を外に設けることはできない」とし、「自分と真理の関係だけが問題にされる。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしている」。これは建築家が敷地や前提条件にのぞむときの態度に近い。あるいは、幸福って何だろうというような答えのない問題を考えるときの態度に近い。そうした問題に根拠を与えるものなどないので、その中で考え戯れ、それがせめてもの創造といえるものだということである。次に疑問に思うのは、こうしたスピノザ的真理観と近代科学との間に接点があるかということである。本書では、全くOSが異なるので、つまりパラダイムが異なるので共有は難しいと結論付けている。ただぼくが思うに、その中で考え戯れる方法自体は整理説明できるし、その手順は近代科学的思考方法と同じでないかと思う。あるいはもしスピノザの方法こそが正しいとするなら、対立する近代科学の限界を示すことで逆に振り戻すこともできるのではないかと思う。

2月22日(月)
「はじめてのスピノザ」を続ける。原因/結果、能動/受動が3章で取り上げられる。「自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である」。つまりコナトゥスを発揮していることを能動的という。すなわち、自由とは能動的であることである。しかし一方で自発性は否定される。意識も含めて全てが複雑な原因の上に成立して、ゼロから生まれるものなどなく、それを差し示すことなどできないというのだ。むしろ原因は結果の中で自らの力を表現するものとしてある。パタン・ランゲージに対する評価も同様だろう。パタン・ランゲージを使いこなすことが自由=創造で、そうしてはじめてパタン・ランゲージが創造の源と見なされるようになる。

2月21日(日)
020 プレミア サウサンプトン×チェルシー 南野が先発。サウサンプトンは前戦からのプレッシングが効かずに押し込まれ、ボール支配率が極端に低かったが、南野は一瞬のチャンスを活かして先制ゴールを決める。このときだけ左ではなく反対サイドに位置していた、そこの選手間でボールを受け、DFとGKが滑るのを見届けてから落ち着いてゴールに流し込んだ。しかし後半から消えてしまう。チームが押し込まれる状態ではやはり南野は活きない。先制ゴールにもかかわらず75分過ぎに一番はじめに交代させられる。こういう均衡したゲーム展開でも使い続けられる信頼を勝ち取ってほしいと思う。
21 ギリシア PAOK×ラミア 香川は60分過ぎから登場。そのとき3点をリードしていて試合は決してた。動きは上々。ただし、ギリシアリーグはあたりが強くなく、判断スピードが他リーグと比べて劣っていた。それは小さな香川には不利にならず、背中に相手を背負っても難なくターンをして窮地を脱していた。ここに日本人の欧州での成功が難しい答えがあるように思えた。激しさからくる体格の弱点をクリアする何かがまず求められている。

2月20日(土)
「はじめてのスピノザ」國部功一郎著を読みはじめる。スピノザ「エチカ」の入門書である。コナトゥスとは、自分の存在を維持しようとする力。つまり、エントロピーを減少させる力である。このコナトゥスによって、物や人は変状し、つまりエントロピー増大に反し生き、それは生物学に於けるエソロジーという考えである。人が幸福を感じるのは、コナトゥスが発揮されるときで、場や時、各自にとって異なり、絶対的なものではない。生起=幸福ということであろう。したがって、精神と身体を2分けして考えない。同時期のデカルトが考えた近代二元論と大きく違うという指摘がなされるが、芸術においてはバロックが先行していて、むしろスピノザよりもデカルトの誕生の方が異様なことだろうと思う。ちなみにこの後17世紀にはニュートン、ホッブス、ロック(契約論)が続き、啓蒙の18世紀に入る。そして3章からはスピノザの自由について。自由とは、与えられた条件のもとでコナトゥスを発揮できることである。
019 ラ・リーガ ソシエダ×ヘタフェ いよいよヘタフェが行き詰まる。5戦勝ちがなく4連敗である。久保とアレーニャを外し守備的でのぞむのが、今日は以前と違い数度チャンスをつくる。しかし得点できなかった。試合も0-0の均衡を保っていたので、久保の登場も遅くなり80分過ぎから。交代直後にPKを与えてしまい、反撃に移ろうとするも打つ手なし。久保はともかくチームの迷走は続く。

2月19日(金)
本年度の卒業設計・修士設計の講評会をzoomで開催。ゲスト審査員に比嘉武彦氏、松井龍哉氏、日埜直彦氏を迎える。それに非常勤講師と専任を加え、23名による大講評会であった。たいし参加する学生12名全員はパワポによる2回目のプレゼとなり、テーマを絞り上手く伝えることができたと思う。Zoomのよいところであった。遠藤研からは佐藤玲香さんと町田忠浩くんが参加。佐藤さんの案は地元の庄内平野で計画し、庄内平野の大きな課題である雪を「溶かす」ことから「と化す」ことを目指した案で1等に選ばれた。この案は、使われなくなった田を町が推進していた移住者促進計画によって再生しようとする試みである。計画されたのは8棟。それらをシミュレーションによって巧みに離れた分散配置をし、夏と冬で全く異なるランドスケープをつくった。それはこの雪国特有の吹溜りという自然現象を上手く建築化したものである。松井さんからは、生活する側の視点からのデータ分析と観察が丁寧であり、それをみずみずしいと講評してもらい、「〜と化す」という言葉の扱いも感心してもらった。日埜さんは、野生動物の脱皮などの例に挙げ、夏と冬の顔があるのは生態的と評してくれた。こうした建築のあり方は、モンゴルのゲルや東南アジアの浮型高床式住居に見られないこともないが、ひとつの発明であるとも評してくれた。比嘉さんは、前提となる庄内の過疎や農業問題などの条件操作も巧みであったと評してくれた。御手洗龍さんは最もこの案を評価してくれたひとりである。この案を、観察から自分の言葉での抽象化し、そしてそれを建築にまで高めたものという高い評価である。そしてその広がりを根付かせることが文化であるともいっていた。しかし一方で内部の生活のプレゼなさを指摘し、今後の課題としてあげてくれた。武田清明さんは将来に開けていて、そこからくる明るさを評価してくれた。谷口景一郎さんは、技術的側面から雪の断熱や反射などの実現性の高さを評価してくれた。それに加えるならぼくが思うにこの案の素晴らしさは、卒業設計で必要な壮大な希望があり、かつそれを具体的にしようとする意志の高さが先生の琴線に触れたのではないかと思う。地球とまでいかないまでも自然までをもブリコラージュする大胆さと緻密さが受けたのだと思う。これからは、こうした視点の思想、たとえばティモシー・モートンなどに触れて問題を整理するとよい。2等となった町田くんの案は、ピラネージの「牢獄第2版」を分析し、その意味を現代に問い直す提案であった。松井さんは、学生らしい意欲的な試みであり、ピラネージから隈研吾とインスタ、そしてイオンが代表される商業批判といった一連のストーリーつくりの力強さを買ってくれた。日埜さんはこの案の明るさを評価してくれた。こうしたことが可能なのも軸組構法によるものであるが、チュミとの相違を質問に挙げていた。日埜さんは絶えず成果物としてのモノの効果に重点を置いていたのが印象的であった。もっというとチュミがもたらしたものと30年後の現在何が違うかという問いである。これに答えるのは難しいが、町田くんがあげたインスタ映えの意味を再評価することにヒントがあるのだろうと思った。一般の人は全体計画など全く気にしていないということだ。チュミのものとは違って全く全体像などないのだ。比嘉さんは、牢獄における「衝突」の発見を評してくれた。衝突については、タフーリがそしてエイゼンシュタインもキーワードとして挙げているので、チェックする必要がありそうだ。ぼくとしては、建築の根本である将来を計画することの不可能さを示す批判的作品として、この作品を評価している。ピラネージには、近代の明確な都市計画への反発がある。それによって、ひとつひとつ一人一人の個が消されてしまうことへの批判である。現在誰もその危惧を感じている。しかしそうした危うい計画に代わる新しい方法など見出されてはいない。そのときにこうした窮屈な現状を衆知にさらす批判的方法もあるのでないかと思うのだ。そこも評価したいと思う。遠藤研以外では、布施晃輔くんの南極に建つプレファブ建築の提案も好評であった。詳細な技術的検討やモックアップが評価されたかたちである。完成度が高かった。日埜さんもいっていたのだが、オープンテクノロジーの可能性について結論として位置づけるとよいのではないか。それは比嘉さんがこの構法の汎用性を問うていたことでもある。これらの話を聞いて、三宅理一さんの「限界デザイン」という本を思い出した。参考にするとよいと思った。塚原諒くんの作品も高い評価を受けた。手賀沼の自然環境を読み解き、そこで生育している芦を建築にする提案である。彼はプレゼの前半で、石山修武、坂茂、ジャン・プルーヴェ、池辺陽を構築家として挙げて、彼らの作品に対する姿勢を受け継ごうとしている。それにぼくも賛同する。ぼくが思うに彼らに共通していることは、建築を通して社会性を示そうとするのではなくその反対の、社会の中から生まれてくる技術を利用して建築として顕在化することにある。比嘉さんはこれを踏まえて、手賀沼の歴史性も拾い上げる必要性を指摘してくれた。日埜さんはもう少し現実の敷地に向かう必要性を指摘してくれた。研究に重点を置いてしまう院の弱点を突かれた訳である。ほしかった。学部4年の竹村寿樹くんも高い評価を受けた。これも地元商店街を丁寧に読み解き、そこから拾った問題点や特徴を公共に役立てようとする提案である。松井さんからは最終的な新しさが問題にされたが、比嘉さんによる、この案を中華料理に喩えた評価が面白い。大きさの同じ材料を揃えてざっと組み合わせるカジュアルさを評価したものであった。この指摘にあるように図面の精度と密度は圧倒するものであって、真摯に評価する必要がある。最後に総評として松井さんは槙文彦先生の言葉を紹介してくれた。美とは美しいという意味の他に、元来人間が住むときの快適さを示すものであるというもの。こうした提案の大切さを重く受け止める必要がある。日埜さんは佐藤案と町田案の突出したユニークさと展開の面白さを評価してくれたものの、比嘉さんにはいまいちであったようだ。2案の力強いストーリーつくりを評価しつつも、そこに至るまでの視点の面白さ、拡がりの可能性も評価すべきだという意見であったと思う。それは、コロナ渦を踏まえた非同期コミュニケーションの提案や地面レベルの開放を狙った案のことをいったものだと思う。その上で選ばれた3案に対して敢えて批評してくれて、佐藤案に対しては特殊解で普遍性がないとし、布施案に対してはテクニカルな方法論の行き先に疑問を呈していた。町田案には情熱を感じつつも最後のモノとしての強度に疑問を感じていた。今年はzoomによる講評会であった。建築としてのモノの出来の深度よりも、設計に至る内容までの深度を上手く表現できているかが問題にしたと思う。比嘉さんがいうにはその深度よりも切り口の鋭さというものだろうか。近頃の傾向として、学生らしい突き抜けた案がなく保守的といってもよい案が多い。そんな中、モノよりも過程の方に重心が移ったかたちである。それは千葉工大らしくなく、先行きに少し不安を感じないこともない。このように思うに至る。

2月18日(木)
「球と迷宮」の8「閨房建築」を再読。閨房とは心地よい寝室のことである。現代建築が内部に留まっていることを批判している。では向かうべきはどこか。ベンヤミンの「生産者としての作家」というエッセイが最後に挙げられ、それが答えである。「ある文学(作品)が時代の生産関係に対してどういう立場にたっているかと問う前に、生産関係に対してどういう立場になっているのか、と問いかけてみたい。(中略)この問いは作品生産における作家の技術に直接向けられている」。この生産と技術に向けられた視点は池辺さんを思い出させるものであった。池辺さんはこれをまとめて「デザインの鍵」の最後の96「広げるほど決めやすくなる」でこういっている。「デザインの対象は単に名前だけではなく、具体的な形として無限に広げた形の中に浮かび上がってくるとシンボリックに考えることができる。ここにシステムの考え方の基本が存在しており。システムとは、描かれた組織図ではなく、対象物の無限の成長の形態であるといえる」。

2月17日(水)
建築雑誌2月号が届く。特集は「ローコスト建築の諸相」。巻頭に石山修武氏の対談。最後の方に難波さんの「ブリコラージュとしてのローコスト・デザイン」がある。この特集ではローコストを、工業化技術という実際的問題として示すよりも、設計者や社会のもつ美学としても浮き上がらせようとしている。その中でフィンランドの戦後の住宅政策の紹介が興味深い。三宅理一氏の「限界デザイン」でも紹介されていたPuutalo社の戦後復興難民丸太組住宅である。ローコストの普及はもちろん品質保証と地域への適用が目的とされていて、今年のベネチアビエンナーレでも紹介されているということである。最後に最近の日本のDIY的建築家の見取り図が挿絵としてある。石山さんを中心にして、横軸に生産工法―美学意匠。縦軸に複雑性―単独性として建築家を割り振っている。これは生産と美学、単純と複雑性を対比して捉えるものであるが、その批判として難波さんの論考を読むと、ブリコラージュをこうしたステレオタイプ的な思考を脱するものとして紹介していて、面白い。

2月16日(火)
CASABELLA915号が届く。アンサンブルスタジオによるアースワークが2点。ロッキー山脈のある財団のためのステージ。大地を盛り、穴を掘ってコンクリートを打設し、盛った大地を取り除いた作品。それと、石灰岩の採掘場の再生計画。どちらも建築というよりもアートである。ヘルツォークのバーゼルの集合住宅は、外装のシャッターが印象的であった。

2月15日(月)
017 プレミア サウザンプトン×ウルヴァーハンプトン 今週FA杯でも両者は戦っていた。南野は規定により登録できずに今日は2列目から先発。前半はチャンスメークをし、シュートも放つ。チームの前線からのプレッシングが効きよいかたちであった。ところが後半から形勢ががらっと変わる。なぜだか判るとよいのだが、トラオレが縦横無尽にドリブルするようになるとDFラインが下がり、全くセカンドボールを拾えなくなった。こうして南野が消えて、60分に交代。しかしゲーム展開は変わらなかった。フットボールの面白いところである。サウザンプトンは良い戦いをしているのだが、リーグ戦5連敗である。

2月14日(日)
016 ラ・リーガ ヘタフェ×レアル・ソシエダ 前戦のマドリードに続き、ヘタフェは従来の形式に戻す。したがって、久保とアレーニャは先発から外れる。久保登場の58分まで、得点を決められるもまずまずのプレッシングが効き5分5分であったと思う。久保とアレーニャの登場は守備中心から攻撃はじまりの狼煙である。しかしそう簡単にはいかなかった。チャンスが訪れないのは、相変わらずハイボールを上げて相手攻撃をしのぐパターンが続いているからだ。久保がフリーでいるもそこへのパスは少なかった。そろそろボルダラス監督の次の新しい手が必要となってきた。

2月13日(土)
「球と迷宮」の2「アヴァンギャルドの歴史 ピラネージとエイゼンシュタイン」を再読。エイゼンシュタインはロシアの映画監督である。有名なのは「戦艦ポチョムキン」。エイゼンシュタインが用いたピラネージをオマージュする構成手法をタフーリは評価する。それは、エイゼンシュタイン特有のモンタージュ手法というものであり、「牢獄」からヒントを得たものであるという。エイゼンシュタインは「牢獄」の構成を「相互に随伴する複数の知的作業による衝突―並置」したと捉えていた。ところでこの章で、タフーリはエイゼンシュタインのどこにアヴァンギャルト性を見出しているのか。なかなか読解するのが難しいが、フォルマリズムの実験を行いながらも、コンテクストの全体性、有機性、その構造の永続性を保持しているところにそれを見い出しているようである。ぼくなりに考えると、「名前のある空間」をつくりつつも、名前によって決め切ることができない余白も提示することだろうと思う。つまりは「名前のない空間へ」ということなのだろう。
015 プレミア レスター×リヴァプール 1-3でレスターが勝利。リヴァプールペースでゲームが続き、漸く後半になって美しい崩しからサラーがゴールを決めた。しかしその直後に、DFが崩壊し続け様に3失点をしたかたちである。今日もキーパーをはじめとするDFがおかしくなった。クロップはこういう時もあると選手をかばうも、悪いチーム状態から抜け出せずにいるのが現実である。

2月12日(金)
「球と迷宮」タフーリ著の1「悪しき建築家 G・B・ピラネージ ヘトロトピアと旅」を再読。ヘトロトピア(混在郷)とは、フーコーの言葉で、想像上の場でありながら現実に存在する場のことをいう。ユートピア(理想郷)と対の言葉である。このピラネージの不思議な画の構成をタフーリは「すわりの悪い」「非実在的」といい、「中心をもつかに装ってはいるが決してそこには到達していかぬような組織体の呈示」あるいは「『中心性』の概念に対する体系的な批評」といっている。修士研究で町田くんは、ピラネージのこの「牢獄」に物理的「衝突」を見ていたが、本書ではこれを、物理的なものを超えて、「支配の必要性の主張が主体の権利の主張と衝突しているもの」といっている。つまりこの啓蒙の時代には、社会、自然、科学、都市といったあらゆるものが超越的なものによって合理的にコントロールされると考え、それが主体にまでおよぶと考えていた。ピラネージはこのことを非常なまでに拒否しようとしたのである。そうではなく、自然や社会はもっと「偉容」であるべきといっていた(この偉容と言う言葉をピラネージは「ローマの建築と偉容」と題名にしている)。「偉容」とは、社会や自然に疎外されている恣意的な主体をも含む有り様を示す。つまりピラネージは、理念や理想が窮屈なもので、それに対して偉容な世界観を「牢獄」で提示しようとしているというのだ。

2月11日(木)
JIAから書籍「2020大学院修士設計展」が送られてくる。昨年の修士設計優秀作品集である。遠藤研から中山くんと櫻井さんが代表で選ばれ、ぼくも実行委員をしていたので思い出深い。そこでの審査委員長の野沢正光さんが中山くんに話してくれた言葉が印象的であった。「建築には作為が必要だ」というもの。兎角ぼくらは、意識した環境条件を全て拾い上げようとするものであるが、そうではなく切り捨てる判断が必要、これを作為といっていたように思う。同様なことを総評でぼくも話したのであるが、野沢さんの方が上手くこのことを言い当てていた。リサーチをかたちにジャンプさせることを無理なく行う方法のひとつで、非常に現代的な方法であると思う。NHKで聖林寺の十一面観音の特集を観る。栗生さんが新しい収蔵庫を設計しているようである。この像は優雅で好きな仏像のひとつで、奈良橿原の山奥にあるのだがこれまでに4〜5度訪れた。元々は三輪山神社本殿にあったというが、廃仏毀釈を免れるためにこの山奥の小さな寺に隠されたものだ。それをフェノロサが再発見し、国宝制度をつくった。この特集で御堂の右にあるのが、フェノロサが寄贈したものであることを知った。今は一旦外に出て外廊下を登った味気ないコンクリートの中に保存されているのであるが、それがクラウドファンディングによって新しいものになるそうだ。

2月10日(水)
015 ラ・リーガ レアル・マドリード×ヘタフェ 延期していた第1節を中2日で強行。そのためヘタフェは先発を前戦から7人代え、久保らは後半56分から登場。アレーニャ、マタと3人揃っての交代登場であった。しかし決定的な見せ場はつくれず。それ以前のヘタフェは厳しいチェックによってレアルに善戦していたと思う。攻撃モードになったところを、逆に突かれたかたちであった。今日のレアルは、久保と同世代のB出身の若手が2人登場した。久保も頑張らないといけない。

2月9日(火)
「世界を変える7つの実験」ルバート・シェルドレイク著を読み終える。科学教義は反駁可能で、これまで当然視されていた「科学」信仰を実験の俎上にのせるのが本書のねらいであった。1980年代の本であるがその後40年経ち、本当に壊れ始めて多様な価値観が広く認められるようになった。しかし未だに「科学」信仰は強固であり、ご都合主義によって上手い具合に使い分けられていることを一方で感じる。

2月8日(月)
「世界を変える7つの実験」を続ける。光速度Cや重力Gというような基礎定数値も一定でないことが第3部で示される。プラトンのイデアのように隠れた理性やロゴスがあり、時空を超えて存在するものなどないということだ。基礎定数は、18世紀後半の理神論に代わって登場した。そして、1960年代にまで永遠のものであった。しかし、よく言われることであるが、そうした定説をホワイトヘッドらが覆した。自然の変化にともなって法則も進化するはずだと考えられるようになったのである。例えば実際に、光速度は1928年から1945年にかけて下降した。本書がいうには、基礎定数は平均値の限度内でゆらぐものであるという。もちろんこの自然数が一定でないのは観察者側の立場によっても左右され、医療の治癒効果としてはブラシーボ効果として既に認められている。しかし、一般には基礎定数にかんする信頼は厚い。ここに風穴を空けようとしているのが本書である。

2月7日(日)
015 ラ・リーガ セビージャ×ヘタフェ 今日も荒れた試合。退場者が出たのは今季4試合目だそうだ。ヘタフェの試合はこういうものだと知る。ボールをつなげようとするも久保らには届かず、得点の臭いすらしなかった。久保はと言うとDF退場者によって60分過ぎに交代。その後加点され0-3の大敗となる。次戦はレアル戦。久保に奮起を促したいところであるが、先日の、小澤一郎氏とヘタフェの番記者との対談では、コロナがなければボルタナス率いるチームは昨季で寿命を全うしていたという。そうしたところから今季の求心力が弱まっているそうである。久保やアレーニャの加入は、そうした状況で、なんとかチームを再活性化したい手段として考えられたものであるという。

2月6日(土)○
014 プレミア ニューカッスル×サウザンプトン 南野がサウザンプトン移籍後の先発フル出場。鮮やかな得点を決める。DF選手間でボールを受けると前にトラップしてDFを置き去りにして左足を振り抜いた。それでもチームにフィットするには時間が必要なようで、相手が10人になると後方での待機となってしまった。相手を退場させたのも南野の突破からであった。退場を誘発するまでの南野を振り返ると、南野はトップ下で、FWがサイドいっぱいに開くので、2列目から中央に乗り出すようなかたちとなる。これは南野が活きるかたちかとも思う。得点もそこから生まれた。しかしチームは引いて守る10人の相手に攻めあぐねて、2-3で負ける。

2月5日(金)
東京理科大学院の修士設計講評会にzoomで参加。三宅理一氏、加藤道夫氏、ライゾマティクスの齋藤精一氏、能作淳平氏、栃澤麻利氏、近藤哲雄氏が参加。設計の対象がリノベーションや住宅といった小規模なものが多く、身近なものの延長上に設計を捉えているものが多かった。その分ダイナミックさを欠いてしまい、ぼくなんかは少し残念に思う。経験のある者に対してものを申すときには、張ったりが効果的であると思うのだが、そうした作品が少なくなった。自戒も含めて考えたことであった。最終的にぼくが評価した作品は他の審査員に認められなかった。それでも興味を惹かれたのはふたつあった。ひとつは、文学のレトリックを建築に応用した岸野祐哉くんの作品。レトリックが通用するには、そもそも衆知されるための前提がなければならず、そこからのズレによって、自分の考えに加えて前提表現も可能になる、そうした作品であった。建築でいえば、大文字の「建築」あるいはコンテクストといったものをあぶりだすことである。それはコールハースの偏執狂的批判的方法に近く、非常に構築的なものであると思った。ところでこの作品の提案者が前提としたものは、建築家である祖父の思い出詰まった住宅で、それに直階段を新しく挿入して、祖父が大事にしていたものを明らかにしようとしていた作品であった。もうひとつ気になった作品があった。それは篠原麻衣さんの作品で、江戸時代の錦絵の構図を利用して、大阪の水風景を再生させようとしたものであった。錦絵から現代大阪へ正当に適用すべり込ませる方法が巧みであった。錦絵のパースペクティブな構図は、絵を鑑賞する人の立ち位置を意識したものであるので、それを淀川の流れにのせることによって、現代人の興味を川に沿って連続させることを期待した作品であった。これは2等になった。1等は、齋藤匠さんの瀬戸内海小島の活性化計画。ランドスケープアーキテクト石川初さんのインダストリアル・ブリコラージュを思い出させてくれる作品であった。島内の素材を巧みに使っているのだが、ブリコラージュするときの切羽詰まった必要性のようなものを感じることができずに、遊び的あるいは数寄屋的ともとれて、評価することができなかった。その他、3等は住宅が壊れるまでの30年をデザインした、落合諒さんの作品。計画することがこれほど疑われている現在、死に方まで計画する必要はないと思い、選ぶことはできなかった。4等は地下の水脈を活かした山崎南帆さんの下町計画。こうした地球規模の環境を考えることは素晴らしいと思ったが、既存の住宅区画に縛られていてランドスケープまで至らなかったのが残念であった。

2月4日(木)
香川がPAOKデビュー。YouTubeのタッチ集を見る限り、ボールが23番に集まっているのがわかった。ただし、後ろ向きで受けることが多く、連動的な動きに至るまではもう少し時間が必要と思う。
013 プレミア リヴァプール×ブライトン リヴァプールが0-1で負ける。ブライトンは組織化されてよいチームであった。今日はマネが欠場。シャキリが先発も前戦のように活躍ができなかった。それはフェルミーノも同様であった。

2月3日(水)
「世界を変える7つの実験」を続ける。例えばモノを見るというのは、モノから瞳、網膜、そして脳へという一方向的な伝達プロセスではなく、反対のプロセスがもう一方向にあるといっている。それは、映像や知覚が瞳を介して外界へ投影されるプロセスである。本書ではこの2つめのプロセスを科学的に証明しようとしている。建築でいえば、モノから人への作用に加えて、モノを廻る人が知覚するコンテクストもあるということであろう。情報は単独には存在せず、周辺状況と絡まってはじめて存在するということである。これはある観察者の意識下で起きることであるので、完璧に客観的な情報とすることはできない。修士研究などにおいて事例からパターンを分析することに、ぼくが引っ掛かるのはこうした理由による。これを逆の創造という立場からいったものが岡崎乾二郎の「抽象の力」である。このパターン化するときの観察者(芸術家)の意志こそが重要で、それを力説した本である。これを思い出す。

2月2日(火)
「世界を変える7つの実験」ルパート・シェルドレイク著を読みはじめる。1994年出版である。日常近辺には既成の科学が見過ごしている大きな謎が潜んでいる。それは、ペットの犬が飼い主の帰宅に気付くとか、後ろからの視線を感じる、といったことであり、その紹介である。本書の立場は、これをミステリアスに扱わないで、科学によってアプローチしようとしている。この点に好感が持てる。要するに複雑系システムの扱い方について書かれたものだ。

2月1日(月)
012 プレミア ウエストハム×リヴァプール このところ好調のウエストハムにリヴァプールが乗り込む。中2日で日程が混んでいることもあり、今日の3トップはサラー、シャキリ、オリギであった。南野はいない。オリギは前半からディフェンダーを引きつけて3本シュートを放つ。シャキリは、サラーへの2点目のアシストが素晴らしかった。サラーは2得点。どちらもスーパーゴールである。3点目は途中出場のフェルミーノの絶妙なペナルティ内でのアシスト。前戦の戦いぶりといいリヴァプールは調子が戻ったという感じである。残念ながらそこに南野はいない。

1月31日(日)
011 ラ・リーガ ヘタフェ×アラベス 下位同志の戦い。横パスカットを怖れて、トラップもなしに兎に角前に蹴り出すという戦法を両者がとる。そのボールは高くパントのようなボールで、壮絶なヘディングの競い合いとなる。それがファウルをよびゲームは途切れ途切れとなる。ラグビーの試合かと思うほどであった。久保にたいして「内に絞れ」という監督の指示が、今日は2シャドーという形になった。しかしほとんど展開できずに80分過ぎにもう片方のアレーニャと共に交代。自由が与えられているようなので、中盤の空いていたスペースを使って、ボールを受けても良かったのではと思う。その後、これまでのメンバーに戻るとボールがむしろ回るようになるのは皮肉か。出場チャンスを得ても成長のためのプレーとなっていない。こうしたゲームが2つ続いてしまった。

1月30日(土)
010 プレミア トットナム×リヴァプール モウリーニョとクロップの新しい闘いである。序盤から激しいスペース争いで得点の取り合いと思われたが、オフサイドやハンドなどの判定が翻った。緊張感が張りつめた序盤であった。アジア人のソン・フンミンはその中で一際輝いていた。前半終了間際に速攻からリヴァプールが得点すると、このところ成りを潜めていたSBアレクサンダー・アーノルドが輝く。早めのアーリークロスによってアシストとゴールをする。これによって本来のリヴァプールに戻ったという印象。3-1でリヴァプールが完勝。トットナムは後半からケインが怪我で退いたことでレクサンダー・アーノルドを楽にさせてしまった。ゲームの流れはこのことが大きかった。

1月29日(金)
修士設計発表会をZoomで行う。入念に準備されたパワポプレゼにより研究内容や手順を詳しく理解できた。Zoomによる今年の新しい傾向である。しかし、図面を詳しく読み解くことができなくなってもいる。つまり作品にまで至るプロセス共有が大事になり、修士設計も現在の多くの建物と同じ問題を抱えるようになっていると思う。それは、現実感の欠如というもので、多くの設計前提が情報として扱われた結果のものである。最近、新しい病院に行くことが多くなった。そこで感じたことであるのだが、それらは来院者を滞りなく流すことに重視が置かれ、案内は全て番号表示で、建築計画はそれを補完するように一筆書きになっている。それで利用者の混乱を少なくすることに成功はしているが、エントランスや診療待ちなどの空間に違いはなく、単なる面積確保として考えられているようである。そのために空調や照明といった環境制御が重要視されるのだが、かえってますます人が本来もっている感性とかけ離れる結果を招いている。遠藤研からは発表会に5名が参加。トウくんは中国の伝統式構法である耳鍋屋根を復活させた新しい街の提案である。この構法を風水と絡めて、部屋の配置とランドスケープを意識した建物配置に用いた。加藤翼くんの作品は純粋幾何学を分析し設計に応用する案である。古代建築やカーンの建築を詳しく調べていた。その結果、彼らは幾何学を自然と対峙するためのものと考えていることを発見した。それは昨今流行りの自然と同化と異なる考えである。手賀沼で残すべき風景をリサーチから発見し、それに学んだ幾何学の配意方法で対峙することで自然を浮き立たせる設計であった。こうした研究では多くが、資料収集をパターン化して設計に応用させようとする。もちろん、そうした分析は自分にとっての学習にはなるが、それを一般化させるには無理があると思う。パタン・ランゲージも同様のツールと考えられがちであるが、アレグザンダーはあくまでもパタン・ランゲージを、利用者に刺激を与える媒介物として考えている。パタン・ランゲージは、モノと人との間に潜んでいる関係を浮かび上がらせるための道具としてあって、詩や小説を表現するための言葉(ランゲージ)のようなものなのである。あくまでも結果としての成果物は設計者の判断に委ねられていて自由である。それを念頭に置く必要があると思う。佐藤誓哉くんの作品は、忌み嫌われているお墓を日常的なものにしようとする作品。選ばれた敷地は行田公園である。この公園で収集された特徴的なモノには記憶が宿っているとして、その記憶を、建築を通じて再獲得しようとする案である。しかしそうしたモノと受け手のプロセスは複雑で容易にモデル化が難しいことが指摘された。加藤くんの作品と同様に必ずしも明確なルール化する必要がなかった。もっと記憶を宿したであろうモノをクローズアップさせた設計をすべきであった。鈴木蘭子さんは建築の寿命をテーマとした。非常に現代的テーマである。しかし視点がユニークであった。本作品によると、モノとしての耐久性とプログラムが機能する時間にズレが生じ、それが建築の根本の問題であり続けてきたという。特に最近は生活変化が激しいにもかかわらず、モノの寿命が延びてその乖離は大きくなっている。フラーのエフェマリゼーションもこのことを問題にしていた。本作品は、それをスクラップアンドビルドが柔軟な素材によって実現しようとするものである。提案では設計を2つのフェーズに分けて、現在必要な療養施設と何十年後日に住民の中心となる図書館が計画されている。敷地は、お茶の水駅プラットフォーム対岸にある住宅が建つ細長い敷地である。そこでスクラップアンドビルドを繰り返しながらもシンボル性を確保しようとしている。この視点が次に面白かった。町田くんの作品は、2/19の外部講評会に選出された。ピラネージの「牢獄第2版」を分析し、それを設計に応用する作品である。「牢獄」の構図は、スケールアウトした階段やブリッジが中心に向けて「衝突」をおこすものである。しかし、その中心部には入り口などもなく、ナンセンスな画である。このピラネージの意図はどこにあるかというのが研究の出発点である。本研究によると、ローマの都市計画とこれは深く関わっているという。古代ローマの遺跡は混沌とし全体性がない複雑なものであった。ピラネージは古代ローマ遺跡の実測調査を通してそうした古代ローマに憬れていたという。ところが16世紀のサッコ・デ・ローマ以降のピラネージ時代のローマは、教会前広場やオベリスクを直線道路で繫ぐ明快な都市計画になった。それはいわゆる近代思想の中心である計画(原因から結果)による全体性の獲得を目指したものである。しかし数世紀を経て、そうした計画の行き詰まりが叫ばれるように現在なっている。そうは明快に原因と結果の構図にならないのだ。しかし代替え方法が見つけられずに未だに世界は計画によって支配されている。そうした計画への批判性が本研究にある。しかしそうした兆候は既に見ることができ、隈研吾によると、彼の建築をバックとするSNSには部分を背景にしたものが多いという。それは現代の若者が全体像に関心を示すことのないひとつの現れであるという。本研究はそうした現代性を表現しようとするものだ。SNS=「牢獄」の構図を引き継ぐことでそれを獲得しようとしている。敷地は幕張のイオンモール。現代のイオンモールなどの大型店舗は、無意識に消費を促すような入念な計画が練られている。本来自由意志基づくはずの消費活動はそういう意味でコントロールされている。そこから脱却するにはどうしたらよいか、ピラネージのローマ批判と同様な方法がここで試されている。フードコートやブランドショップに、スケールアウトした門や階段が衝突を起こす計画である。結果、そうした場所は窮屈そうで不自由である。それが周知されることで、消費計画から自由になることが考えられた。批判性のある作品としてユニークであった。

1月28日(木)
昼に虎の門病院行き。午後から雪が降り始める。GA JAPAN168の2020の総括は、伊東さんと藤本さん。美学が共有されないとプロポでは選ばれないという伊東さんの言葉が印象的。美学とは建築を統合するときのセンスのようなものをいっている。これは卒業設計などにもいえることだろう。香川のPAOK移籍が決まる。ギリシアリーグのゲームは日本では放送されていないらしい。iPadのデータ消費が激しい。メモ機能の消費が多く、最近増えた手書き機能によるものだろうか。Wifi意外での同期チェックを外す。

1月27日(水)
卒業論文の発表会をzoomで行う。コロナ渦のためこれまでの既往研究の延長上のものが多い。新実験棟のスペース問題も収束させることができた。メールデータが飛び復旧に悪戦苦闘する。Macの場合は、自分の問題とピッタリ一致する解決策がネットでも見つけられないので、同様な問題を抱えていた人の解決策を辿って、トライアンドエラーしなければならない。怪しいところを狭めていく訳である。設計を体感しているようであった。それにしても専門用語が多いので、辟易する。

1月26日(火)
009 ラ・リーガ ビルバオ×ヘタフェ ヘタフェは後半、ビルバオから力の違いを見せつけられた。1-4の大敗。久保は60分過ぎまで先発。開始いきなりの連携による得点以降、ビルバオの守備に苦しめられた。自陣でしかボールを受けることができずに、ゴールまで迫ることができなかった。試合後、監督のインタビューでは中央に絞ることが許されていたという。マンマークの相手SBの裏を見方SBに使わせて自由に展開ができなかっただろうかと思う。ビルバオはそのことを実践し、久保のサイドから攻撃していた。

1月25日(月)
母と国立国際医療センター行き。詳細な検査の結果、特定原因が発見されず、それがよかったのか悪かったのか。妻はというと父と虎の門病院行き。こうした状況が続きそうだ。「建築情報学へ」を続ける。複雑であるとされる世界が細かく情報化される過程を本書から読み取ることが出来た。しかしそれでも不明な疑問が残り続ける訳である。余白がなくなることはない。まるで原子核の周りの量子のようなものの存在が情報であるとも思う。これを制作に結びつけるのは至難の業であるが、要するに「建築」と言うことではないかと思うに至る。存在がはっきりしないが、確実に存在するものである。そして「建築」はそもそも動的なものである。

1月24日(日)
「建築情報学へ」を読みはじめる。新しくつくられた建築情報学会のマニュフェスト的本である。デジタル技術が単なる手段からフィジカル的に受け入れられる可能なものとなるにはどうしたらよいか、これを説明している。加えて強調されるのは、領域的横断と拡張である。つまり、情報が微細に身体に浸透していく過程の扱いが示されている。実践的例がないことと、歴史も浅いので、記される技術内容が客観視できないでいるので、読み物としては苦しかった。教科書とはこういうものであるといってしまうとそれまでであるが、設計教科書も同様、動的な現象を記述するときの表現の難しさを感じた。

1月23日(土)
CASABELLA914の巻頭はモンタージュ。論考にあったチューリングの格言が印象的であった。コンピュータによる創造性を廻る永遠の論争についてである。「機械が書いたソネットを味わえるのは別の機械だけである」。この格言は、機械の創造を否定したとも人間が変わるべきものであるかを指摘したものとも、どちらにも捉えることができるものであった。そしてその次に、「イタリアのフォトモンタージュ」が紹介されている。ミレーの晩鐘、ピラネージは定番であることが分かる。
008 ラ・リーガ ウエスカ×ビジャレアル 久保が移籍し興味が半減したものの岡崎先発。奮闘するもウエスカは守備重視でボールが前線にまで届かず。60分過ぎに交代となる。ビジャレアルはと言うと、久保のライバルであったモレーノとチュクエゼが離脱していた。何ともいえない感じであったが、そこに右のモイ・ゴメスを入れ、左はというとSBのペトロザを上げていた。あくまでも守備重視であって、久保が移籍しなかったとしても先発が回ってきたかは不明である。0-0のドロー。あくまでも型重視のエメリの姿勢がうかがい知ることが出来たゲームであった。

1月22日(金)
卒業設計の発表会を今年はオンラインで行う。実際の模型と図面をみることが出来ないので、作品のもつ力が感じられなく、画面を通してのプレゼの良し悪しで決まったように思えた。つまり、評価がモノから説明力に移動したわけである。遠藤研からは佐藤伶香さんが2/19開催の講評会に選ばれた。敷地は庄内平野の田んぼの中。夏と冬でがらっと変わる景色を利用して、庄内平野特有の新しい生活を提案するものであった。積雪が多いと道路やあぜ道が消え、その上の吹雪きで新しいランドスケープが出現する。これを吹きだまりというが、それを積極的に生活に活かそうとする提案である。残念ながらその風景の変化がどんなものであるか、雪国出身でないぼくらは理解できなかった。その辺りのプレゼが重要となるだろう。木造ログハウスが、雪に覆わることでザハ建築になることをイメージすると良い。こうしたランドスケープが表現できればとよいと思う。

1月21日(木)
007 プレミア リヴァプール×バーンリー アンフィールドで、リヴァプールがまさかの敗戦。実に64試合ぶりとのことだ。しっかり固めた陣形を最後まで崩すことができなかった。これで4試合得点がないことになる。南野は80分過ぎから登場。ゴール前の混戦において南野は重要な働きをすると思ったのだが不発。最終ラインに埋もれてしまい、リヴァプールは1点もとれなかった。

1月20日(水)
006 ラ・リーガ ヘタフェ×ウエスカ 久保が先発。ウエスカは守りに徹して5バック。対して4-2-3-1の右Wで先発の久保は二人の左バックスを見る必要があり、前半は自陣に追いやられていた。そのため幾度か相手DFを交わす見事なポストプレーもあったが、ゴールマウスからは遠く、ゴールに押し込むまでは至らなかった。その反省から後半から、チーム全体が前線から果敢なプレッシングをするようになる。これでウエスカの攻撃を食い留めることができ、パスカットから速攻を決めた。久保と同じくこの冬に加入したアレーニャからのスルーであった。興味深かったのは、久保が得たフリーキックを久保自信が蹴っていたことである。堂々としていて、久保がチームから受け入れられていることを知るシーンであった。

1月19日(火)
午後大学行き事務処理を行う。夕方から設計方法小委員会にzoomで参加。最近出版された「建築情報学へ」が話題になる。購入をしていたので、早速読みはじめる。

1月18日(月)
母と国立国際医療センター行き。事務所に戻り調べると、日建設計と厚生省の設計とある。他の病院に比べて廊下幅等が広くゆったりした設計で、待合室も科ごとの枝状になっていて、いわゆる窓口の合理化が行き過ぎていないと思った。2010年の竣工らしいが電子システムの様子をみると、この10年でだいぶ進歩したことがわかる。患者数が少なく感じたのは、建物の大きさからきているのだろうか。午後にはほとんどいなくなっていた。

1月17日(日)
005 プレミア リヴァプール×マンU フィジカルを前面に押し出しユナイテッドが守り切る。0-0のドローである。キーとなっていたのは、リヴァプールの復帰を果たしたティアゴであった。これまでの最終ラインからではなく、ここから縦パスが供給されるのであるが、左右のSBからのパスと同様、決定機にまで至らず。他チームから研究されていることを感じた。

1月16日(土)
CASABELLA914号が届く。巻末に丹下健三の自邸がある。それをピエルコンティが批評している。これによると丹下の転換期が1956年のグロピウスの来日によってもたらされたという。それは創造についてである。それ以前の丹下にとっての創造は「自我の内部でフォルムが育ち、最終的に出現し成熟する」ものであった。しかしグロピウスの日本文化吸収力に触れ、「伝統と破壊のディアレクテイクな統一が、創造の構造である」というまでに至ったというのだ。それで丹下は日本伝統を、伊勢からの神殿造と桂に見られる数寄屋で統合しようとしたというのだ。そしてそのエネルギーを創造に変換した。その詳細をこの丹下自邸に見ることができる、という論考であった。

1月14日(木)
「サピエンス全史」を読み終える。ホモサピエンスが良くも悪くも大きくなったのは、「想像上のコミュニティ」を描くことが出来たからであるという。それは、王国、帝国、宗教、貨幣といったものである。他の生物との違いは、親密なコミュニティでは補うことが出来ない感情的空白を想像上のコミュニティによって補えることができたかどうかにあるという。文化とはそういう上に成立するもので、アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」もそれを示唆するものだろう。大文字の「建築」もそういうものでないだろうか。そう考えると、ぼくらはそこから何をあぶり出すかが大事で、それの方法を追究するのは時代に左右されてしまいあまり重要でないと思うようになる。

1月13日(水)
「サピエンス全史」を続ける。ここでは、想像上のコミュニティをポジティブに評価する。建築では一般にリアル(本書では親密)なコミュニティにたいするものとしての想像上のコミュニティについてである。最たるものは国家である。国家のおかげで社会秩序が保たれ、暴力の割合は圧倒的に減っている。こうした一連の話を読むと、カントの永遠平和を思い出す。想像上のコミュニティはサガ(性)であり、その扱い次第で幸不幸が決まるというもの。つまり、真(科学)と善(道徳)と美(価値)は独立していてその三つ巴の相が世界という考えであり、進歩主義にたいするものである。この本に共通する思想であった。

1月12日(火)
004 ラ・リーガ エルチェ×ヘタフェ ヘタフェのあるマドリードが何十年ぶりの大雪のため移動が出来ずに試合が順延。練習することなしに久保が65分過ぎからピッチに登場。逆転の2得点のお膳立てをつくり、新チームでの最高のスタートを切ることが出来た。久保は特異とする右サイドで登場。基本的にサイドいっぱいに位置し、状況に応じてライン間中央付近を使う。ビジャリアルでは、他選手との絡みでこの動きがあまり許されなかった。モレーノがこの役割を果たしていたと思う。今日の久保は自由になったことで輝いていた。自分の特異とする位置でボールを受けて相手DFと勝負していたのだ。終了間際の2回のショートコーナーでは、バルサカンテラ育ちのククレジャとアレーニャと3人でパス交換を繰り返し、時間稼ぎを楽しんでいたようであった。久保が入ると、これまた初先発のアレーニャはひとつポジションを下げて、押し下げられた相手ラインの間でフリーにボールを保持するようになり、左のククレジャと右の久保に好パスを繰り出していた。今後が楽しみである。

1月11日(月)
エクスナレッジ社から「奇跡と呼ばれた日本の名作住宅」が送られてくる。1950年からの日本住宅の歴史を総覧するものだ。清家さん、吉阪さんからはじまって難波さんもあり、2000年以降の章にナチュラルスラットが取りあげられている。この時代の総括として、構造家、クライント、素材、既存建物等とのコラボレーションによって建築の内部から従来の建築が壊れつつあるが捉えられている。そしてこの本の終わりとして、ぼくと当時大学院に在籍していた上島直樹くんとで描いた挿絵で締めくくられている。2011年12月号の建築知識の投稿論文である。ここで記述したかったのは、「インテリアがとけ込んだ建築」である。ここでぼくは、「建築」が残りつつも、フラーのエフェマリゼーションがもたらす住宅のあり方を提案した。それは、あらゆる問題が十分に広く微細なところまで身体化される「建築」のあり方であった。これを踏まえた編集になっていて誇らしく嬉しくも思った。

1月10日(日)
ツキノワグマの生態を追うドキュメンタリーを観る。同種の生きもので殺し合いをするのは、一部の猿類と人間だけであると聞いていたのであるが、クマが子グマを殺すという事実を知った。メスクマは子育てに専念する期間、すなわち授乳中は生理的に発情できないのであるが、発情を押さえられないオスは子グマを殺すことで、メスの発情を促すのである。メスとオスはそのとき壮絶に闘う。森では無敵なクマでも成人するのはしたがって50%以下であるというのだ。

1月9日(土)
「テネット」C・ノーラン監督を観る。ストーリーを追うことが難しく、途中から直感で感じるようにした。時間が順行することに意識的な映画で、これまでも実際に未来から人がやってくるとか、編集によって時間経過を曖昧にするとか、あるいは論理的ではなく時空の乱れといった神秘性に委ねるものはあったが、同じ空間に違った時間を同居させた映画はなかったと思う。それを後ろ歩きや車の逆走という後退映像で表現していた。すごく奇妙であった。観る側の焦点が定まらないからである。

1月8日(金)
003 FA杯 アストン・ヴィビラ×リヴァプール アストン・ヴィラはチーム内でコロナが蔓延し、監督をはじめ選手が全員隔離されているとう。それでこの試合はU-23選手、監督でのぞむ。FAだけはスタジアムにサポートを入れていたが、そうした政策が裏目に出たかたちである。今日のロンドンではコロナが手に負えない状況になっているとニュースでいっていた。試合はというと、今日は南野が先発で出場。前半の左ウィングではボールを受けるタイミングをいつものように失っていたのだが、後半から中央に入りよい起点となっていた。しかし60分にポストプレーでアシストした直後に交代。チームは90%近くボールをポゼッションし、最初のうちは手こずるも4-1で完勝した。久保のヘタフェへの入団も漸く発表される。

1月7日(木)
「サピエンス全史」を続ける。学生の頃から、イギリスやオランダという国ではない東インド会社が南アジアの国を治めていたことへ疑問をもっていた。その理由に納得する。このときの裕福層は、国王よりも新興組織である株式会社に「信用」を置き、株式会社の方に、自分の資本を賭けた=投資したのである。16世紀以前は、本書によると生産の中心はむしろ中国やインド、イスラムといったアジアにあった。しかし、これ以降の西ヨーロッパでは、生産利益を新たな生産のために再投資することが広まり、資本を指数関数的な量に膨れあがらせることを可能にする投資家、資本家を出現させたという。それが株式会社となり、国を征服するまでに至ったというのだ。その富は税金や略奪から得られるものよりも遙かに大きく、それは科学革命によってもたらされたものであるという。テクノロジーの発明や組織改革によって、現在よりも確実に未来が明るくなることを「信用」流布させることに成功し、資本のあくなき再投資する社会に変換していったのだという。そして東インド会社が南アジアを征服するにまで至ったのだ。

1月6日(水)
コロナ患者に対する病床データが日経に掲載されていた。それによると、日本のベッド数は世界有数。先進国の中でも突出しているという。それなのになぜ医療危機が起きているかということだ。それは、医師数、看護師数が少ない上に、日本の病院の多くが民間(8割)で中小規模であるからだという。ICUにおける病床数も先進国で飛び抜けて低いこともある。一人当たりの入院日数も日本の16日にたいして欧州は10日であるという。つまり他の先進国はコロナに限らず入院前後の別の受け入れシステムが整っていて、近頃問題にされる医療構造改革が日本はまだまだ進んでいないからだという(ちなみに、フランスやドイツは20年前日本と同じ状況であった)。加えて日本は国民皆保険制度で、入院にたいする国民の経済負担が少ないことも一因にあげている。それもあって軽症患者が入院患者の66%という結果となっている。それは日本特有の医療方針で良くも悪くもあるのだが、こうした緊急時において限られた医療資源を有効に使用するという点ではマイナスである。そのためには、各病院を束ねる本来あるべきトップの視点から、病床と人材運用を効率化する必要があるという。例えば公立病院をコロナ患者専用にあてるとか、小規模民間病院の連携を高めるとかである。本来こうしたことに日本の官僚システムが有効に働いていたのであるが、有時には時としてそれが働かなくなり、そのとき知事や政府らのリーダーシップが大事になる。

1月5日(火)
002 プレミア サウザンプトン×リヴァプール 0-1でリヴァプールが負ける。攻撃リズムがよかったが、最後のところでゴールマウスをこじ開けることができなかった。南野は不出場。こうした引かれた相手のペナルティエリア内で南野は強いと思うのだが。次戦のFA杯のためであろうか。

1月4日(月)
「都市美」山本理顕責任編集を拾い読み。家族を会社や学校が上手く利用することで、戦後の日本が形成されてきたという指摘が印象的であった。社会性を学ぶ学校は家庭の協力なしには運営が不可能であるし、主婦の家事労働の上に猛烈に働く会社が可能となっているというのである。にもかかわらずこれらは別個のシステムとしてこれまで考えられていたのが問題で、こうした矛盾が現在のコロナ渦で露呈しはじめている。例えば政府の学校閉鎖についてである。家庭側から、働くためためには子供の面倒をみてくれる学校が不可欠であることが指摘されているのだ。コミュニティと意味が近い「アソシエーション」に、山本さんが否定的であるのは意外であった。山本さんは(動くことができない)空間を伴うコミュニティにこそ信頼を寄せているのだ。山本さんの設計している名古屋造形大の計画も興味深い。これまでと同様に社会に開けた建築であることに加えて、研究室というコミュニティ単位も取っ払い、ひとりひとりの学生を重んじた建築計画となっている。そこではひとりひとりに十分なスペースをあてがうことが出来ないので、他者とのコミュニケーション(調整)力が必要とされている。山本さんに接して思うのは、思想を建築に直結させる意志の強さである。そこから建築を信じることがぼくらには欠けていることを思う。

1月3日(日)
「プラド美術館 驚異のコレクション」を観る。絵画の解説というよりは、フェリペ2,4世当時の時代背景や彼らに雇われていた画家たちの生涯が中心に語られていた。400年前のことである。このときスペインが栄華を極めていたのだが、ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」やボッスの「快楽の園」「地獄」が購入されたのはこうした経緯からであった。しかし当時、芸術はやはりイタリア(特にこの時期はパラディオの生きたベネチア)が中心であったことも改めて知った。ダイナミックな焦点を持つティントレットの「弟子たちの足を洗うキリスト」もこの時ベネチアから手に入れたものであった。そして当時、スペイン自国の宮廷画家であったのが、「ブレダの開城」「ラス・メニーナス」「マルガリータ王女」のベラスケスであり、現在巨匠とされるそのベラスケスも、長く地方画家としての評価であった、このことを知る。そして、それ以前にエル・ゴレコが存在していたことを知ってさらにびっくりする。エル・グレコの構成やタッチの特殊性は、バロックの中でも突出している。このことが作品からよく理解できた。そして美術館自体が完成するのはその200年後である。それは1800年前半。これはゼンパーのウィーンの美術史美術館より早い。ベラスケスの再評価もこれに負うことが大きいらしい。そしてこの美術館収蔵品として特に充実しているゴヤの作品はそのときのものであった。ゴヤはサラゴサ出身であることも知る。

1月2日(土)
コロナ渦で迷ったが、義理の父が年明けに病院へ行くというので、例年通りに妻の実家に行く。帰宅後、今年最初のサッカーを観る。久保がベンチ外であった。
001 ラ・リーガ ビジャレアル×レバンテ 2-1でビジャレアルが逃げ切る。久保はベンチ外。試合終了後のインタビューでエミリがその理由を説明する。終了後1時間以内のことである。それを小澤一郎氏がYouTubeで伝える。どうやら2日前に久保とエミリは直接話し合いを持ったそうで、その時久保から「出たい」とのはっきりしたコメントを受けたのだそうだ。耐えてチャンスを待つこれまでの日本人と違って久保ははっきりしている。自分に自信もあるのだろう。どうやら新しい移籍先はヘタフェが有力らしい。その後ヘタフェのゲームを観る。熱血漢のボルダラス監督が率いていて、今日のゲームは全く形になってなかった。これをどうみるか、確か柴崎も彼から嫌われていたと記憶する。

1月1日(金)
2021のはじまり。お雑煮を戴き、午後から近くの神社へ。途中、昆虫食の販売機を見つける。混んでいたので、さらに移動して不動尊へ。夜は実家に行き夕食。いつものような元日を過ごす。力を入れた特集番組もない。これが例年と異なっている。