10月3日(月)
ゼミにて、100枚資料と今年の読書会の意義をつなげてみた。そもそも今年の読書会は、100枚資料の整理方法を再確認することからはじまった。数年前まで100枚資料は、身体知の拡張を狙ったものであった。その間にエンゾニアリング教育に力をいれたこともあり、100枚資料をいわゆる科学的段取りで整理する多くの学生が目立つようになった。資料を一端抽象化、ルール化して、再び設計に利用するという段取りである。しかし、この分析段階で多くの情報が捨てさられてしまって、観察者にとって都合のよい情報のみがピックアップされていように思えてならない。分析する以上それは仕方のないことであるが、今年の読書会で読んだ本は皆このことを否定している。「スペキュラティヴ・デザイン」のBパラダイム、ブルックスらが当初失敗した方法というものであり、副読本としてあげたラトゥールの「ラボラトリー・ライフ」とはまさにこれをテーマとしていた。ティール組織でも自転車乗りの例がある。いくら切り捨てることをしないで情報を増やしても一向に自転車は乗れないままなのである。ではどうしたらよいかというと、ティム・インゴルドやユクスキュルから学んだこととは、対象をコンテクストに位置づけて見るということだろうと思う。これはアレグザンダーのパタンといってもよい。読書会のひとつの目的は、こうした考えを裏付けるためであった。この意図にしたがって説明を行った。
118 ラ・リーガ ジローナ×ソシエダ ソシエダは、ここに来てようやく軌道にのったようだ。久保も落ち着いていて、プレーにメリハリがあった。後半終了間際の速攻でゴールを決められるのはそのためだろう。ボールがないところでも焦ることなくサイドに張っていられる。そして結果的にいつも攻撃に絡んでいる感じである。1A1Gと結果もともなっている。

10月2日(日)
116 プレミア リヴァプール×ブライトン リヴァプールとブライトンの今季の調子は対称的である。それがゲームに出た。ブライトンは序盤に2点。コートをいっぱいに使い、ボールをもっている選手がリヴァプール選手を呼び込んでから強いプレッシングを外して前進し、ゴール前でも人数をかけて狭いところから得点している。しかし後半からは、流石のリヴァプール。選手交代によってブライトンの右サイドでも起点をつくるようになると、ブライトンは形勢が逆転されてしまった。そこで60分過ぎから三笘登場させる。前監督時の速攻イメージが強かったので、新しい監督の今日のような連係重視という点では三笘の不利さを感じていたのだが、なんと三笘も右サイドで連係し同点弾を呼び込んだ。3-3のドロー。ブライトンはトロサールのハットトリックであった。

10月1日(土)
今年の読書会の整理をする。アンソニー・ダン著の「スペキュラティヴ・デザイン」では、本書の最初に書かれているAパラダイムとBパラダイムの対比が面白い。Aでは問題解決のためにデザインがある。一方Bでは、疑問を提起することにデザインの意味が置かれている。ぼくらはAパラダイムに慣れていて、とくに千葉工大ではエンジニア+デザインで建築を捉えることを学んできているので最近この傾向が強くなってきた。それとは別の、利用者を含めてその頭を刺激するようなデザインを提案するのが本書であった。「生物から見た世界」ユクスキュル著では、それぞれの生物にはそれぞれの独自の環世界が展開していることを学んだ。つまりぼくたちの外部に見える対象というものに真実というものはなく、個々のつくり出すイメージ上のものでしかないということだ。それは個々独自のコンテクストと共にある。個々がコントロールできないところで勝手に置き換えられてしまっているといえそうだ。では、例えば鳥と人間といった異なる種間で、あるいは人間Aと人間Bという別人格で、どうしたら共有することが可能となるだろうか?という疑問が湧く。人間同士の間では言葉や文化、習慣があり、ある程度それに頼ることができる。では異種間での共有は不可能なのだろうか。その答えとして、2種を取り巻くより大きな環境のもとで一緒に生きていること、これを共有することがキーとなる。それをユクスキュルは意味の理論といっていて、ぼくらは何らかの大きな世界の一部に無意識のうちに存在しているということである。歴史的視点は建築で大事であるが、歴史もこのコンテクストのひとつといえそうだ。後藤武さんの「鉄筋コンクリート建築の考古学」では、アナトール・ド・ボドーの研究から後藤さん独自の考えを綿密に導き出している。つまり鉄筋コンクリートが発展をしてきた事実などは様々な要因が絡んで複雑すぎてわかるはずもない。それを後藤さん自身が考える「建築」コンテクストに引き寄せて、十分に説得力あるものに仕上げている。研究もデザイン同様、その強度が重要であることを痛感させてくれる本であった。最近のAIの傾向を示す「ブルックスの知能ロボット論」も読んだ。この情報時代において、先のスペキュラティヴ・デザインのAパラダイムにあったような問題可決の方法が、もはやAIには存在していないことが分かった。いくら情報量を増やしてもロボットは決して生き物のような動きに達しないのである。では、ブルックスはどう解決したかというと、サブサンプション(包括)アーキテクチュアというものを考え出したと、この本はいっている。これは3つのプログラムから構成されていて、それはセンサーに反応するという感知反応プログラム、目的もなしに彷徨ランダムプログラム、そして目的に向かって動く探索プログラムである。一見これら3つは矛盾する。しかしこのようにプログラムすると結果的に、ロボットは生き物のような動きをすることになったというのだ。つまり生き物はAパラダイムの寄せ集めから生きているのではなく、かといってそれによって説明不可能な領域にある精神やセンスなどによって支配されているわけでもなく、何らかの創発プログラムにしたがっていることになる。そしてブルックスはこれをつくったのだ。この内容から思い出されるのは、G・ベイトソンのロジカルタイプである。ロジカルタイプとは、Aをただ観察しているだけでは得られない情報が、それとは異なるBとの観察による差異から、A+Bを思考し改めてAを再帰定義できるようになることである。人は、単なる情報の積み重ねによるのではなく、こうした思考によって、ジャンプしたかのようにみえる。そう、ジャンプ。これこそが、「生きていること」でティム・インゴルドがいっている生というものである。その前提として、「生きていること」でインゴルドは、広い意味でのコンテクストの中で対象を位置づける必要性もいっている。未来はコンテクストの少し先にあるものだと。しかし、どうやってコンテクストを位置づけるべきかまでは言及していない。ただヒントとしては、12章にある。そこにあるのは垂直思考と水平思考というものである。それは、科学的問題解決思考と、経験にもとづく身体的思考とに置き換えてもよいと思う。これを交互に組み合わせて対象を捉える。これもベイトソンの考えであるが、遠藤研としては、100枚資料をこうして位置づけたらよいと考えている。
115 プレミア アーセナル×トットナム ダービーだけあって白熱した試合。今日富安は終了間際で登場。それまでの右サイドは、ホワイトとサカがよく連係して、攻撃の起点となっていた。いずれもそこからの得点である。トットナムは後半退場者が出て万事休す。

9月30日(金)
早朝から自宅の車椅子用EVを復活修理をしていただき、ナチュラルシームへ。工事の進行状況の確認。今後絵本図書館にリノベするに際しての黒いフローリング床の扱いとらせん階段の落下防止を、クライアントは気にされていた。そのまま大学に行き研究室の説明会を行う。多くの学生が参加してくれて頼もしい。建築家にとって大切になるだろうことを、ぼくの経験から話をする。それはデザインスゴロクに関係してくるのであるが、それをもって、読書会で取り上げる本や展覧会への出展方針、しいては研究室のテーマとなることの解説。その後に雑用をこなす。

9月29日(木)
「天使のおそれ」G+M・ベイトソン著を続ける。9章において、いつもの梯子状のダイアグラムの初期スケッチが登場する。左にキャリブレーションやセッティング(フォーム)、右がフィードバックやイベント(プロセス)となる馴染み深いものだ。物事はこれを上から下に梯子状に流れるが、セッティングからイベントへの逆向き行為を意識とするのが面白い。情報は拡散し消えゆく運命にあるがこれに抗するのが意識というのである。動的平衡の生の定義を思い出す。

9月28日(水)
ベイトソンを拾い読み。「精神と自然」にあった以下の文章が印象的。「道筋の初期段階で逸脱する方が、後の段階で逸脱するより難しい(成功の確率が低い)p338」。進化が起きるタイミングをいったものであるが、それを創造と重ね合わせようとしている。

9月27日(火)
114 代表 日本×エクアドル 今日はスタメンを11名入れ替えた。0-0のドロー。先日のアメリカ戦と違い後手後手となる。アメリカとの違いは、攻撃においてエクアドルのインテンシティに負けていた。西欧でいうとスペインリーグの試合を観るようであった。相手との身近い距離に苦労し、セカンドボールをことごとく奪われていた。これが一番大きい。もう一方の守備でいえば前からのプレッシングが全然効かなかった。エクアドルは当初4バックも、両サイドを高く上げてビルトアップ時にはボランチを下ろす3バック形式になる。このとき古橋と南野の2枚のプレッシングが綺麗に交わされてしまっていた。両ウィングの方針の曖昧さと両トップの守備強度に問題があったと思う。アメリカ戦ではこれがはまっていたので、難しい問題だ。だからベンチワークかとも思う。こうした状況が悪い場合、思い切って下げるという選択肢があってもよいかと思った。後半から上田、そして鎌田と遠藤が登場すると、状況ががらっと変わる。一端ボールをキープできる人はやはり必要で、大迫待望論も起きると思う。

9月26日(月)
午前、日大病院行き。午後2年生の設計授業。「スチールデザイン40」が届く。千葉大の岡田さん設計のガレージが紹介されている。格子梁の13.5m角。8本の95mmV字パイプ柱で支えられている。透明な構造が印象的。岡田さんはロードリ神父やヴィオレ・ル・デュクで、合理性の歴史に位置づけしようとしているが、ちょっと苦しいか?とも思う。技術と美の関係を説明するのは難しいが、それに期待してしまう。

9月25日(日)
自宅の食堂家具を山庄工務店に解体してもらう。これで食堂が一室空間として感じられるようになった。家具の背の高さについて、25年前は無頓着であった。足が不自由なので、スイッチ関係など細かいところを動かすまで至らず。徐々に考えていこう。

9月24日(土)
「アレゴ」ベン・アフレック監督作品を観る。1979年テヘランでアメリカ大使館占拠事件が起きた。そのときの6名の大使館員の国外脱出劇で、実話に基づいている。97年の情報開示によって明らかになった。その脱出劇は、アルゴというSF映画の脚本をつくり、その制作発表会まで行い、公然の事実として堂々と出国させるものだった。なんとも大がかりな仕掛けでアメリカらしい。もっとも政府もこの方針を認めるのに2,3転した。大使館が占拠されるまでのシーンは実際の当時の映像も交えて緊迫感がある。アクションシーンがないにも関わらず後半までずっとそれは続く。かつてのこうした映画によくみられた6名のドラマもない。これが一層の効果を高めていた。

9月23日(金)
NHKで「欲望の資本主義2022夏 メタバースの衝撃」を観る。メタバースの大きな役割は、貨幣による国境をなくすことにあるという。これまでの為替制度をなくしフラットな経済社会をつくるとメタバース開発者たちはそろっていう。政府の大きな役割のひとつが貨幣経済の安定確保にあるというが、ブロックチェーンシステムが発明されてから貨幣に代わるものを自由につくれるようなった。それに対する各国の危機感はグーグルが電子マネーにのりだした頃から真剣になった。ドル通貨に力がなくなること、そして中国がオリンピックで電子マネーに成功し、この分野での基軸通貨を狙いはじめたからである。それで現在各国は躍起になって電子マネー導入を模索しているという。昨日みた100枚資料について再考。4)のコンテクストは興味深い。レム・コールハースの偏執狂的批判的方法とは、4)のようなコンテクスト共有方法を狙ったものでないかと直感する。ベイトソンは、この否定表現になぜかしら拘っている。動物たちは否定命題(例えば、これは本気でないとか)を伝える手段をもちえていないのであるが、それを試行錯誤しながら実施しているからである。帰きょう法が度々言及もされる理由もここにある。建築の構築性以外の面がそこに隠されているような気がする。ところで、コンテクスト1)と2)は、外と内のことをいっていて、つくづく対象の認識にはこの両輪が関係していることを痛感した。外部コンテクストをこなす内部と、それから無関係の内部自体の問題、これが偶然かみ合うと次のステップへと発動するのである。学習もある意味確率的でこの偶然をcontigency (「精神の生態学」p400)といっている。
113 代表 日本×USA 日本よりランキング上のUSAを圧倒したと思う。アメリカリーグの中心のUSAがコンディションに問題があったとはいえ、前線からのボール奪取は見事であった。鎌田が軸となる形に変わり、鎌田はその期待に応えて躍動。2-0で勝つ。攻守切り替えのキーマンとなる守田もそれを助けていた。最後は3バックも試し逃げ切る。

9月22日(木)
研究室の学生から100枚資料の整理について質問を受ける。おそらく彼らは、人には(あるいは動物にも)本来あるべき特性みたいなものが備わっていて、環境から刺激を受けるとそれが反応する。建築でいえば、ある空間に対して人はある行動をとるので、真っ当な行動(例えば感動とか?)をとらせるための建築とは何か、それを発見するためにはどうしたら可能になるか、を考えていると思う。これは、現代科学が少ない法則に従って世界が多様に展開する、これと同じ考えだ。しかしそれだとパブロフの犬的であまりにも宿命的人生観しか得られない、という疑問も残る(すなわち自由選択がない)。そこで「精神と自然」G・ベイトソン著で彼が、パブロフの犬に対して何を言っているか整理をする。それで気づいたのは、この単純化したパブロフ的反応には、学習という概念が欠如していることであった。つまり、パブロフの犬は、単なる条件反射(これを学習ゼロと呼ぶ)をしているわけでなく、コンテクストを含めた学習をしているというのである。250ページでは、このコンテクストを4つに分類している。1)単なる1つの条件反射でなくもう少し多数条件が絡み合った刺激。まさしくコンテクストというもの。これをパブロフ的コンテクストといっている。2)と3) 犬自体が置かれた状況、例えば空腹であったとか、それをしないと怒られると怖いとか。これを道具的コンテクストといっていて、コンテクストに対しプラスに反応するものとマイナスに反応するものとに分けている。4)被験者自身が条件刺激を発しそれに対する条件反射が獲得されるもの。これを連続と反復のコンテクストといっている。まとめると、ここでベイトソンは、この4つをあげるように、人や動物の刺激に対する反応は、そう単純なものでない。いわゆる自分を含めた広い意味でのコンテクスト全体に依存しているといっている。4)については、世界が危険に満ちていると認識すると、そこに墜落しないようにするための学習パターンに結びつけようともしている。これはまさしく現代人を的確にいいあてたものだと思う。だから、100枚資料から、抽象化した概念のみをルールとして取り出すだけでは不十分で、その原因を、コンテクストを含めたものにまで拡大しなければならない。それにはどうするか?色々な方法があると思うのだけれどもぼくにいわせると、C・アレグザンダーが「パタン・ランゲージ」で記述したパタンというものが、正にそれを上手く方法化したものだと思うのだが、どうだろうか。コンテクスト=パタンである。

9月21日(水)
3年後期の設計授業がはじまる。小堀さんのニッカイノベーションセンターのプランを、時間をかけて解説する。そこには、15人グループが実験に集中し、自由に動き回ることができて、互いのグループと接触をもてる十分な計画がなされている。ぼくが訳した本「ティール組織」を保証する空間が用意されていると思う。伊東さんのぎふメディアコスモスを、ぼくはだらだらした空間といいたいが、ニッカも一室空間でありながら空間にムラがあり、利用者の自主性を促す建築となっている。ゼミにて、絵本図書館プロジェクトについての説明。まずは絵本図書館の100枚資料収集からはじめる。ここから、こども絵本図書館についてのパタンランゲージでもつくれたらよいと思う。

9月20日(火)
「天使のおそれ」を読むも、なかなか発火しない。「精神の生態学」に比べてエッセイ的であるからかとも思う。

9月19日(月)
2年生の設計授業がはじまる。ガイダンスで、非常勤の先生による近作紹介を行う。非常に感銘深かったのと、ギャップもまた感じた。上手く説明ができないが、彼らは現代の社会や建築を巡る環境を窮屈に感じていて、そこから本来あるべき姿をつかもうとしているようだ。そこには、社会に順応しつつも、そうでない、そんなものに惑わされないという自己が一方にいる。というか可能性を信じている。プロジェクトを通してそれが公私共々開放されることをモチベーションとしていて興味深い。対しぼくの興味は特に最近、建築を巡る環境が何によっているかということで、それを受け入れようとしているところに違いを感じた。
112 ラ・リーガ ソシエダ×エスパニョール 2-1でソシエダが勝つ。先週の嫌な負け方を立て直すゲーム展開であった。今日はいつものメンバーを中心に構成。そこに2トップの左に久保がいる。相手が5バックであることもあり、久保は左サイドにへばりつき、シルバとの連係がその分おろそかになるも、中央のレーンを空けることに専念。そしてサイド奥深い部分を狙う。中央からは何本もそのスペースにボールが供給されていた。1点目は、そうした展開で久保のGKへのプレッシングからアシストを記録したものだ。このところ守りでもよく働く。2点目は空いた中央をIHが上手く突いたものだ。久保は上手い具合にチームと混じり合っている。それでスペインマスコミの評価も高い。久保にとってはよいかたちで、W杯前の最後の代表戦ウィークに突入する。

9月18日(日)
今日も人事相談のため大学行き。いくつか残された問題を解決する。「天使のおそれ」を読む。
111 リーグ・アン  ランス×モナコ 伊東先発。南野は後半65分過ぎから登場。解説者が今日の南野は、パスの受け渡しがスムーズでリズムができつつあるといっていたところ、長いパスがフリーの南野の足下に届く。それを落ち着いて決めて、フランスでの初得点。続けて不調であった主将にも長いパスを成功させアシストも記録する。伊東は孤軍奮闘。ドリブル突破と走力で能力の高さを示すことができていた。

9月17日(土)
この夏にベイトソンの「精神と自然」、「精神の生態学」を読み込んだ。そこで娘メアリー・ベイトソンとの共著「天使のおそれ」に入ることにした。G・ベイトソンの死後、メアリーがまとめ本だ。いつものように2人の掛け合い形式となっているのが面白い。そして本書は、題名が示すようにアンタッチャブルな世界に入ろうとしている。それはこれまでの精神+自然という二元論を否定するものだ。「一元論とは、精神と自然がひとつの必然的統一をなすもので、そのなかでは身体と離れた精神はなく、創造と離れた神はいない」というものである。「雨月物語」溝口健二監督を観る。1953年の作品である。幽玄な映像美とはこういうことをいうのだろう。戦乱の世の中で、現実と夢、あるいはあの世の話が混在している。ベネチア映画祭で銀獅子賞を受賞した。この晩年の作品では溝口の代名詞ロングショットを観ることができないが、それでも冒頭のシーン、主人公源十郎が若狭に魅せられるシーン、その夢から覚めるシーンなどはショットのつなぎが絶妙である。ひとつの舞台を観ているようだ。調べてみるとこの時期に小津安二郎「東京物語」、黒澤明「七人の侍」も公開。この頃の巨匠達の勢いは目を見張るものがある。日本らしさを踏まえた上で西洋文化への問いがテーマになっている。建築でいえば丹下健三が広島ピースセンターを完成させ、世界へ向けて発進するときである。

9月16日(金)
「精神の生態学」の「環境危機の根にあるもの」、「ダブルバインド」、「冗長性とコード化」を読む。「ダブルバインド」では、これが繰り返されると不適応症状を示すか創造性が促進されるか、紙一重であるという指摘に興味をもつ。混乱がマイナスにもプラスにも働くということだ。「冗長性とコード化」では、コミュニケーションの進化を説明している。あるメッセージに欠落部分があっても、受信したメッセージからそれを推測コミュニケートできる。近頃の情報工学での技術である。この冗長性あるコミュニケーションが、言葉にたいする身振りや声のトーンに代わるわるものというのである。先の「形式、実体、差異」で、名前と実体は別物であることをいっていたが、この落差を伝えるものが冗長性あるコミュニケーションという。別のところではこれをパターンともいう。人や動物は、あるクラスに属さないものを、非メンバーとして認知するために苦労してきた。こうしたとき、冗長性のあるコミュニケーションは重要なものとなる。環境を表現しようとするパタン・ランゲージを、それと結びつけて考えないわけにはいかない。
110 EL ソシエダ×AC・オモニア オモニアはキプロスの首都チーム。監督は、俊輔と一緒にプレーしたセルティックの中盤、闘将レノンであった。当時から比べると少しふっくらしている。エンブレムは緑の三つ葉で十字を意味する四つ葉のセルティック似ているし、ユニフォームは緑の縦縞(セルティックは横縞)。宗教色が強いセルティック(ケルト)とは何か関係があるのだろうか。そのオモニア前半は守備を固めてカウンター、後半から前目にプレッシャーというパターンでソシエダに襲いかかる。後半60分から久保登場。攻撃に行き詰まり感のあったチームのエンジンとなる。1アシスト記録。今日は右サイドにギリギリまでへばりつき、サイド奥からとIHからボールを受けて中央へ切り込んでいくことが多かった。それで相手DFラインを動かしていた。監督の指示か、こうしたチームでは1対1の絶対的自身があるのか分からないが、シュートも数本放っている。後はこれを決めたい。

9月15日(木)
109 CL シャフタール・ドネツク×セルティック 会場はポーランドワルシャワ。ウクライナリーグが戦禍の中でも行われていたことを知る。シャフタールは、もう長いことドネツクを離れ北部のハルキウ、そしてキーウに移していたことも知る。昔は民族対立の問題からディナモ・キエフとの熾烈な争いがあったと記憶していたのだが、現在のシャフタールはソ連系中心ではないのだろう。シャフタールという意味が炭鉱夫ということも知る。ウクライナのUEFAランキングも高く、ポルトガルに続き8位であった。これも意外。ゲームは全体的にセルティックが支配していた。しかし、前半の終わりに巻き返されあわや逆転にまで持って行かれてしまっていた。勢いは凄い。セルティックはフィニッシュの精度を欠き、というより守り切られ、1-1のドロー。前半の旗手のゴールは、後半にオウンゴールに変わって残念。古橋、前田も奮闘していた。

9月14日(水)
「精神の生態学」G・ベイトソン著の中にある「サイバネティックスの説明法」を読む。通常の原因→結果という因果論と対称的なサイバネティックスの説明である。サイバネティックスは、ランダムであることを前提として拘束によって前へ進む。これが生態的という。拘束の方法には2つある。「冗長性」と「フィードバック」。「冗長性」をここでは、ランダムに起こる出来事の集団の中である特定の出来事が起こる予測の容易さの度のことをいう。例えば英語文にkが位置することで、次の文字が何であるか、それによって文章の意味の確率が狭まることをいう。これを「最初に、所与の項が持ちうる最大の情報量を考え、次に、その項を含む周囲のパターンについての知識が、この全情報量をどれだけ減らすのかを考える」ことという。またこのことを、逆の伝える立場からパタンを定義している。興味深い。「パターン化を強め、予測可能性を増すことことこそがコミュニケーションの本質であり、その存在理由である」と。そしてこの冗長性には、情報を発信する側だけでなく受ける側の経験度が左右するという点も面白い。先の例で言うと英語に慣れた人とそうでない人では情報量の減らす量が違うというのだ。もうひとつの拘束「フィードバック」については、いつもの、ウィーナーによるガバナーの例が出される。蒸気機関にはランナウェイしないためにガバナー(統制者)があり、放っておくとプラスに進むシステムに、フライホイールという一種の振り子を用意することで、触れすぎた場合ガバナーが供給するガソリン量を減らす指示する。この拘束は、平常時の段階的な原因→結果という局部間でおきるステップにたいし、回路全体へ作用するものである。このときウィーナーは、各ステップが機能し1周するまでの時間的変化も変数に入れた制御を考えたのだという。この時間という概念は、この蒸気機関システムとは別のシステムからくるものであり、ひとつのシステムとそれより大きなシステムの両方をいつの間にかに考えていたことになる。これをサイバネティクスがもたらす論理階型という。
108 CL バイエルン×バルセロナ バルサよりバイエルンの方がボールをポジショニングするサッカーをしてバルサは速攻中心になるという予想外な展開。中盤3人ブスケツ、ペドリ、ガビの組み立てが上手くいっていないのだろう。後半からのデ・ヨングはよかったが。速攻においても今日はサイドのデンベレも封じられて単調になってしまっていた。

9月13日(火)
「精神の生態学」G・ベイトソン著の中にある「「自己」なるもののサイバネティックスーアルコール依存症の理論」を読む。本書によると、アルコール依存には、酔いよりも醒めのプロセスが大きく関わっているという。アルコールやその習慣に問題があるわけでなく、内からの外からの立ち直りの要求にプライドが応えられなくなる負のスパイラルから生じるもので、そこから脱却するために酔いの世界に結果的に閉じこもってしまうことをいい、極めて近代的なことだそうだ。難波さんはよく、酔いに自己をまかせることが出来ない人はアルコールに負けると言っていたが、このことだったのだと思う。本章ではその前半に、ガバナー機関を用いて人の精神の働きを説明する。「ガバナーの動きは、直前の状況がもたらす直接の原因ばかりでなく、メッセージが一周する時間分だけ現在から遡った時点での、それ自身の動きにも、部分的に拘束されるp429」。システムが、自己修正的に動くか、ランナウェイに走るかは、この2つの制御の連係によってもたらされるといい、2つのシステムに及ぶホリスティックなものなのとしてガバナー機関が挙がっている。しかし一般にはガバナーの動きをそうとは考えずに、疑似力学的に考えてしまう。ガバナーは機械であり、それをコントロールする人間(感性)があると。この考えが、アルコール依存症にみられる自己をコントロールしようという考えに繋がってしまっているのだ。この自己コントロールが別の方向へ展開させてしまったのが依存症というものである。同様に斧で木を切る例も紹介される。一般には、自分が木を切ったと考える。自己という独立した行為者があって、それが独立した対象に、独立した目的を持った行為をなすものと考える。しかし正確には、木にある差異群-網膜に生じる差異群-脳内の差異群-筋肉の差異群-斧の動きの差異群-木に生じる差異群-というサーキットを巡り伝わっていく差異の変換体の群れである。これは建築学生の作品に対する誤った理解にもあてはまる。具体的なある対象を設計しようと考えるとやがてドツボにはまる。与えられた個々のコンテクストにおける差異を連続させたものの結果が建築というものである。何を設計するかではなく、またコンテクストへの眼差しが何かでもなく、コンテクストの再定義を積み重ねていくこと、このとき重要視されるべきものなのである。
107 CL マルセイユ×フランクフルト フランクフルトはなかなか調子が上がらないようだ。3バックにして長谷部が先発。鎌田はボランチという布陣で、なんとか1-0で勝つ。鎌田は、本職のローデが復帰するとポジションをひとつあげてよいかたちをつくる。長谷部も前半に危ういシーンをつくってしまったが後半は安定。とにかく勝ててよかった。

9月12日(月)
「精神の生態学」G・ベイトソン著の中にある「プリミティブな芸術の様式と優美と情報 STYLE,GRACE AND INFORMATION IN PRIMITIVE ART」を読む。プリミティブな芸術における理知的で整然的な無意識の存在の可能性を感嘆している。前半は意識的あることと無意識であることの定義。通常ぼくらは、フロイトに倣い無意識は、意識から追いやられたものとしてみる。しかしベイトソンは、まず無意識ありき(それは世界がランダムであるという前提と同じ 生前的)で、意識はその中で言語の論理によってコード化できたものであるというのだ。だから無意識は全く別の演算コードで組織化されているはずだという。情報全部を脳の回路に入れ込むことができないので、効率性を考えると、一般事項は無意識の引き出しに入れておいて、個別的な実際的処理に関わる事項を意識領域に留めるというのである。つまりシステムとして人は「思考の前提は沈めて、個々の結論は意識の上に残しておくのが得策」と考えるという。以前読んだ、パソコン上のアイコンの喩えを思い出す。スクリーン上のアイコンが意識で、パソコンの中での演算が無意識にあたるというものだ。しかし緊急時にはそこから意識として取り出す必要があるので、そこに一般性があるはずだとベイトソンは考えている。そしてベイトソンは、芸術家がその行為に長けているという。その一般性がパタンであったり冗長性あるものであったりというのが、アレグザンダーの考えに近い(アレグザンダーは15の幾何学的特性といいそれを取り出す方法をセンタリング(構造保存変容方法)といった)。ベイトソンはその一般性を、この章でプリミティヴな芸術、あるいは神話、アレゴリに見出す。芸術家の作品とは、彼の無意識の一部が映し出されているものなのだ。これを分かりやすく説明するために人間における病を持ち出す。医者が病を発見(意識化)できるのは、壊れた部分のネットワークだけで、それを手術や投薬により修正するのだが、内部の全体がどうなっているかは知る術もないものだという。カンのよい医者のみがその意識の範囲をもう少し広げることができるのである。ところで芸術作品は、異なる文化間でも共有できる。それは、この一般性を人間が共有できる能力を備えているからだという。
106 ラ・リーガ ヘタフェ×ソシエダ ソシエダは厳しい日程の中、まだ勝ち星のないヘタフェに乗り込む。先発に久保はいたが、いつものメンバーは半分ほどだ。したがってヘタフェの序盤からのインテンシティに苦しんでしまい受けてしまった。これがよくなかった。相手は調子悪いこともあって救われた場面も多かったが先制され、後半からいつものメンバーを揃えるもなんとかならなかった。1−2の敗戦。久保はその前半のみのメンバーである。

9月11日(日)
「精神の生態学」G・ベイトソン著の中にある「学習とコミュニケーションの階型論 THE LOGICA CATEGORIES OF LEARNING AND COMUNICATION」を読む。学習ゼロ・Ⅰ・Ⅱ・Ⅲを説明する。学習ゼロとは、いわゆる条件反射のようなものだ。学習Ⅰとは、単なる本能的なことばかりでなく経験によって反応し、その境目がゼロ学習より広いものをいう。学習Ⅱとは、通常学習Ⅰの強化(反復)したものと考えられているが、そう簡単なものではなく、コンテクスト内での位置づけがなされたものである。したがって、ベイトソンは、有機体の外部にあるものをコンテクストといっていなく、有機体の行動自体も含めた全体としてコンテクストを考えている。したがって、「“私”とは、コンテクストのなかでの行動のしかた、また自分がそのなかで行動するコンテクストの捉え方、形づけ方の「型」である。要するに“私”とは、学習Ⅱの寄せ集めであるP413」とまでいう。学習Ⅲとは、この学習Ⅱからブレークスルーするもので、なかなかお目にかからないもの。この学習に関する変化は論理階型にしたがって行われ、これをむしろ積極的活用することによって世界観(認識観=エピステモロジー)が変えられることを示唆している。ちおみにこの学習は、体細胞変化や集団としての学習にも当てはまるといっている。午後に「マリーゴールドホテルで会いましょう」ジョン・マッテン監督、007のジュディ・デンチ、カリブの海賊のビル・ナイ、ハリーポッターのマギー・スミスらの名俳優たちが出演。インドのジャイプルが舞台であるも、ここの観光地があまり紹介されないのが残念。アーグラと同様の赤砂岩の建物が有名である。

9月10日(土)
「精神の生態学」G・ベイトソン著の中にある「形式、実体、差異 FORM,SUBSTANCE AND DIFFERENCE」を読む。コージプスキー(1879-1950)の「地図と土地は別物である」がここで紹介されている。地図が形式、土地が実体である。形式<実体というこの考えは、ピタゴラスからグノーシス派、そして錬金術師の中に追うことができ、原因→結果というハードサイエンスの影にずっと置かれていたものであったという。ユングは、「死者への七つの語らい」においては、プレローマに対するクレアトゥーラといって評価していたものであった。これは実体の差異のみをぼくたちは知ることができるという考えである。人間内部のニューロンの働き方似似ている。そしてベイトソンは、この差異の概念を体の外側にも拡張しようとしている。これを内側に拡張をしようとしたのは夢判断という精神を研究したフロイトであった。「ヒート」マイケルマン監督、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ主演を観る。1995年の作品である。ロサンゼルスを舞台にした強盗団と刑事たちの男たちの戦い。そこに巻き込まれる家族も描かれる。NYでなくロサンゼルスそして孤独でなく家族をテーマとするのが、70−80年代の社会派映画と違っていた。
105 EL チューリッヒ×アーセナル 今日のアーセナルのスターティングメンバーはこれまで控えであった選手たちだ。そこに富安がいる。しかし戦術は変わらない。ただ前半は呼吸があわずに、つっかえ、つっかえであった。それでも後半早々にリードし、最後は主要メンバーに代わり締めきった。富安はフル出場。サカやウーデゴールとの連係をアルテカは確かめたかったに違いない、とこれについて好意的に考えた。

9月9日(金)
「精神の生態学」はメタローグから1章へ。この本では時系列に論文を並べているので、ベイトソンが初期期から2つの比較推論を試みていたことがよく分かる。学習について直感と精査このふたつが大切であることを戦後まもなくからいっていた。これが「精神と自然」において、キャリブレーションとフィードバックに繋がっている。
104 EL ユナイテッド×ソシエダ 1-0でソシエダの勝利。後半50分過ぎから久保の躍動は目を見張るものがあった。おそらくアルグアシル監督の指示だと思うが、久保は得意の右でなく左サイドにへばりつくようになり、中央よりのレーンを8番メリーノに空けるようなシステムになった。前半からユナイテッドは、両サイドバックをフリーにさせて真ん中を閉める作戦でいたのだが、このサイドバックにGKからボールが届くもののそこから展開できないでいた。そのためにSB前にウイングをへばりつかせて、ハーフとウイングへの両面待ちにした。左利きの久保は右だと内に絞りたがるが、左だと縦突破するので、左に配置されたと思う。その位置で久保はフリーでボールを受けると、ひとつめは素早いクロス、2つめは深くえぐって好機をつくりだした。その直後の右コーナーキックからシルバとのワンツーで唯一の得点であるPKを呼んだ。その後も、久保は鋭いシュートを放つなど、15分間は久保の時間帯であった。

9月8日(木)
続けてG・ベイトソンの「精神の生態学」の再読をはじめる。序章でベイトソンが否定するのは、近代科学あるいは人間の思考が「データから仮設へと帰納的に思考と議論を進めていく」ことにあり、「徐々に修正と改良を加えていけば、最後には「規定の知」のリストに加えて恥ずかしくないものが完成する」という考えに対してである。そうではなくぼくらが求められているのは「科学と哲学の基本原理から演繹的に導き出した知識を仮設と照合していく」ことにあるという。ここで寓話(アレゴリー)的思考についても触れている。ある未開民族(イアトムル族)についての解釈である。「イアトムルの思考では、ランダム化の作用が阻止されたときに分化が生じる」。はじめに世界がランダムであるかあるいは秩序立っているかについていっていて、その前提が、これまでぼくに引っ掛かっていたアレゴリーとシンボル的思考の違いでもあったのだ。前提として世界はゴチャゴチャなので、なんとか接点だけでも見出そうとする立場と、はじめから法則があってそれを探求しようとする立場の違いである。
102 CL フランクフルト×ベンフィカ 0-3で鎌田と長谷部要するフランクフルトが守田所属のベンフィカに大差で負ける。とはいっても、得点されるまでフランクフルトペースで、失点し前掛かりになったところを立て続けに決められた。最後は長谷部が登場し、チームを落ち着かせる。フランクフルトは、序盤からプレッシングが効きいくつもチャンスをつかんでいた。このうち1つでも決めていればと思う。ただしベンフィカの選手は固まらないので、ボール奪取されていたとはいえ、最終ラインの守備陣形が崩れてはいなかった。苦しい状況でも守田は積極的にボールを受けに行くことはしていない。
103 CL ナポリ×リヴァプール 1-4でリヴァプールが大敗。ナポリのそっこうに為す術なし。珍しい。しかし今季こうした戦いが多いそうだ。クロップの7年目のジンクスらしい。

9月7日(水)
「精神と自然」G・ベイトソン著を読み終えての収穫は、ストカスティック(創造)が、何かを突き詰めることによるトートロジーによって起きるのではなく、内からと外からの2つのプロセスによるトートロジーが必要とされることの理解であった。
101 CL セルティック×マドリード 0-3でセルティック完敗も後半はじめまでは五分五分。セルティックは前半、決して個人技による突破をせずにチームとして決まり事に徹していた。後半はマドリーがこれを理解し、対個人戦に持ち込むことに成功した。こうなると疲れもあってセルティックは立て続けに失点。日本代表も強豪にたいしこうした戦い方が必要なのだと思う、セルティックが遂行していたのは、広くグランドを使い、スペースを生む作戦である。そこにワンタッチでたとえボールが繋がらなくても繰り返しボールを送る。もし失敗してもボールは拾われることなくサイドを割るから、また守備陣形を立て直せばよい。その中で旗手が活躍。古橋は怪我のため途中出場。前田は最初の決定機を決めたかった。代表でもそうだが、これが実は後でボディーブローのように効いてくる。

9月6日(火)
「精神と自然」G・ベイトソン著を読み終える。ぼくにとってのこの本があらためてマスターピースであることを実感できた。トートロジーでストカスティックであること、これが生態的(エコロジカル)特質をもたらすことを示す本であった。トートロジーとは、内容がともなわないで自明と思われていること。普通は否定的な意味で使用される。ストカスティックとは、散乱選択ということである。この2つを結びつけるのが再帰性というものであり、これによる新しい論理階型の出現である。BからAを知り、かつその違いをつくっている元のA+Bを理解するということだ。ベイトソンはこの考えを進化の根本に置く。本書後半はじめまでの重要なテーマである。整理しよう。生存とは、2つの対照的なプロセスに依存する。その2つとは、環境変化にたいしこれまでの構造を保持しようとする保守的な体細胞的変化、それと、外からの急激な変化に対応するための緊急的な遺伝子によるその保持を開こうとする強制変化である。体細胞変化も遺伝子変化も環境と別々にコミュニケーションし動いていて、保持と変化という矛盾を抱える。このことをトートロジーの成長という。そしてこの2つの歩調が合わないと生存がくずれるが、シンクロあるいは再帰的な繰り返しで大いなるストカスティックが起きる、つまり種として進化するというのだ。最終章は、この2つが上手く機能しなくなっている現状(死)を危惧する。2つを別の見方をすると、フィードバック/キャリブレーション、デジタル/アナログ、知識/経験、数/量、機能/形態などというものである。今日の近代思想は、この2つが和解することに関心がないというのだ。2つは梯子を登るように論理階型を登り、クラスのクラス・・・という抽象性が高まる動きをするべきというのである。ぼくらにとっては、論理階型が上がること、ストカスティックが起きること、これらを創造と考えてもよい。外部環境とコミュニケーションすることによる内部規律の保守性。それと何かしらの変更強制命令。この2つから創造は起きる。建築で前者を環境コンテクストへの対応と考えれば、後者は既に外部化されている建築文化や社会規範みたいなものと考える。

9月5日(月)
「精神と自然」ベイトソン著のⅦ章「類別からプロセスへ」を読む。ここで説明されるのは、フィードバックシステムとキャリブレーションシステム。進化や思考を考える上でこの2つが必要という。フィードバックとは、ライフルで鳥を撃つ場合に照準器が的の外れ具合を知らせてくれることをいう。キャリブレーションとは、散弾銃で撃つ場合、あるいはライフルの照準器に眼を置く前の経験にしたがうようなことをいう。この繰り返しで、進化や思考が出来上がっているというのだ。このフィードバック/キャリブレーションという関係は、遺伝子命令/体細胞変化、デジタル/アナログ、知識/経験、数/量、機能/形態などにも当てはまる。進化も思考も、このふたつの梯子を登るように論理階型(ロジカルタイプ)を上がることだという。だから、そのどちらかに偏ることを否定する。両者は相補的なのである。この章の最後はウィリアム・ブレイクで閉められる。「賢者には輪郭が見える。ゆえに輪郭を描く」。何を意味するのか?輪郭を見ることは理想(真実verity)であり、これができないためにぼくらは(ウィリアム・ブレイクにいわせると)善/悪という構図をつくりだしている、と推測する。

9月4日(日)
「Gemini man」アン・リー監督、ウィル・スミス主演を観る。ウィル・スミスが51歳の主人公と25歳のクローンを演じる。とはいえ、25歳はそこからフルCGに置き換えたというから驚きである。
100 ラ・リーガ ソシエダ×アトレチコ 今週前半に久保は練習を休みメンテナンスに要していたということで、今日は控えに回る。2トップはショーとはじめは新加入のセルロート。今日のソシエダの攻撃は左サイドのショーのスペースへの抜き出しからであった。これが実によくはまった。得点はセルロートの後に入ったこれまた新加入のサディク。大型の身体能力のありそうなプレヤーである。ショーのふわっとした折り返しをマークされていたにもかかわらず頭で決めた。決定力がありそうだ。久保はというと、65分過ぎからダビド・シルバに代わってトップ下で登場。周りが疲弊していたこともありそれほどの活躍もなかったが、見事なダブルトタッチでサディクの決勝弾のお膳立てをした、と思ったらオフサイド判定。1−1のドロー。

9月3日(土)
「マリアンヌ」ロバート・ゼメキス監督を観る。ブラッドピット主演。マリオン・コティヤールがブラッドピットの妻役で逆スパイ。ゼメキス監督特有の心温まる映画であったと思う。夜にNHKで、たたら製鉄のドキュメンタリーを観る。優れた日本刀をつくるには、このたたらによる鋼製造が不可欠であるという。これを玉鋼といい、鋼に比べてはるかに粘りがあるのが特徴である。もののけ姫でこのたたらは、シシ神に対する近代の象徴として扱われている。現在この製法が行われているのはこの奥出雲だけであるそうだ。以前、槇さんの刀剣美術館を訪れたとき、そこでその紹介ビデオを観たのだが、表と裏という2つのチームに分けて製鉄作業を行い、伝統継承や製品の吟味など様々な意味でダブルチェックが採用されていることを知った。

9月2日(金)
初台のアパートの外装メンテナンスについて工務店と打合せ。後期設計授業の資料を整理し多田先生に送る。「精神と自然」を読み続けながら、ティール組織を振り返る。ティールでは、決定において主体の価値判断がないことを問題にされるが、それはベイトソンにいわせるとストカスティックなプロセスの賜物として生まれるものなのある。このプロセスを生むためにティールでは、「自己組織」+「規制枠にとらわれないこと」が求められていて、それはこの本ではランダムであること、散乱選択として考えられている。ブレークスルー3の「進化する目的」とはわかりにくいが、ロジカルタイプが連鎖することをいっているのだろう。そう考えると合点がいった。ところで「進化する目的」において感知→反応がメインにそこで取り上げられているが、ロジカルタイプが上がる話だとすると、振り返りの場などの仕事の再帰的定義を含めるのがよいと思った。

9月1日(木)
「精神と自然」はⅥ章「大いなるストカスティック・プロセス」に入る。ここでは、進化とは何かを説明しようとする。進化するためにはランダムであることが前提とされ、それは遺伝子レベルにおいても体細胞レベルにおいてでもある。それを前提としたストカスティックなプロセスがどちらにおいても起きることを進化というらしい。それは一個体内においてまず起きるのが普通で、個体は、ぼくらの知っているように、環境に対して体細胞内でアナログ的な適応をしていく。しかしこの適応は通常、子孫に受け渡されることはない。それは、元々もっている順応能力も捨ててしまわないようにするためで、固体内に留まる。ラマルクの要不要説は、これを無視していきなり種全体を言おうとするのでベイトソンは否定的である。一方の遺伝子でベルでは、環境の変化があまりにも大きいと体細胞のみでは適応できないので、適応を広げる命令を出し、それによってもう一段上の適応をさせるものだ。この現象はon or off であるのでデジタル的である。しかしこれでもまだ子孫に伝達するような連係進化は起きない。そうするためには、もうひとつ大きなレベルでの適応あるいは記述命題の変化が必要となる。個体が多数存在し、これがまた束となって、関係する周囲の種にも影響を与え与えられる関係になることで、先の体細胞的対応の場合と理屈は全く同様である。ベイトソンのいう進化とは、こうしたロジカルタイプの連続の結果である。この章の後半では、この進化と思考を結びつけようとする。これが面白い。思考(ぼくにとっては創造)もまた試行錯誤の結果からひとつを結論付け選び出すストカスティックなプロセスであるというのだ。

8月31日(水)
中埜博さんから、1996年にカルフォルニアで行われたコンピュータプログラマー向けのC・アレグザンダーの講演会記録の翻訳を送ってもらった。中埜さんが翻訳している。タイトルは「理論の未来と、「生命」の宿る世界の生成について」である。ナビゲーターは「組織パターン」の著書ジェームス・コップリエン氏。氏は25年も前からアレグザンダーをITの世界に紹介していた。アレグザンダーの講演は、3つの骨子からなる。Aパタン理論 Bネイチャーオヴオーダー C未来に向けた新理論:生勢力にからむ、生命を宿す世界の生成 である。アレグザンダーが強調しているのは、Aの後半からBにおけるセンタリング(構造保全変容)プロセスについて。パタンに全体性を与えるにはどうしたらよいかという点だ。Cでは、このセンタリングプロセスで新しく世界をつくることを、フィジカルな建築ではなく、コンピュータという新しい分野のパラダイムで起こることを期待している。興味深いのは、今になってぼくにも分かることであるが、センタリングという一見精神的に思われがちな概念をオブジェクトのみで解説していることである。その際に使用しているのは「再帰的」という言葉。「センターには明快な境界がなく」、「センターで強いかどうかは、それを形成する別のセンターによって、再帰的に、決まる」(共に11ページ)とある。そして「すべてのソフトウェアーはオブジェクトでできています。それ以外ではありません。このオブジェクトに、生命の強さと弱さが存在するならば、そのときは、画期的な建築のセンターとの繋がりがある」(P11)とし、別のところではこのセンタリングプロセスを優しく生成スキームランゲージといい、「この生成スキームランゲージは、新しく動的で、ソフトウェアープログラムにそっくり」(P17)として、「建築のためのパタン・ランゲージは、興味深いモノ(オブジェクト)を集めることで、成立します。しかし、ソフトウェアーの場合は、もっと踏み込んで、実際に生きた構造の生成に成功する手順や、プロセスを提起できるのです。世界の状況は複雑です。しかし、ソフトウェアーのグループの存在基盤故にですが、この生きた構造づくりのソフトウェアーは急速に、世界を席巻する可能性がある」(P17)と、コンピュータ分野へ期待を寄せ講演を締めくくっている。まとめると、生命力のあるものをつくることがまずもってアレグザンダーの興味の中心であり、それは建築だけでなく、一見ドライに見える情報分野においても可能ということだ。この当時ぼくは、センター=生命ということを頭で納得していたと思うが、今は、流行の「オブジェクト指向」の力を借りて、神秘的なものとしてではなく順を踏んで理解できているように思う。情報とは境界がなく消え失せる運命にある(エントロピーの法則)。情報Aという特別な境界つけをするためには、別の情報Bが必要で、それによって再帰的にBを通じたAとして決定境界付けられる。それを俯瞰すると、有を生んでいるようにみえるので創造的といってもよい。しかしそれを繰り返さないとやがて情報Aも再び消え失せてしまう。絶えず再帰的であることで情報は生き長らえるのである。これが生態的あるいは動的という意味で、アレグザンダーが生命と呼ぶものである。アレグザンダーは当時からこのプロセスをどう実現するかを考えている。

8月30日(火)
大学院入試のため大学行き。一般入試では自らの作品解説、推薦入試では研究計画、これらを行ってもらう。それが朝から夕方までかかった。その中で遠藤研のある学生と先生たちのやりとりが非常に興味深かい。それはUくんの主張にたいしであり、先生達はおもに2つのUくんの主張に疑問を呈していた。それは、「現在の問題は、環境解析によって空間が均質化していることにある」というものと、「自分が快適に感じた空間を解析して、その根拠を明確にする」という2つにたいしてであった。まずひとつめに関して、通常研究者は利用者立場に立った提案を行っていると考えている。しかも自分を捨てて。しかしUくんはそれによって人が本来もっている選択能力が失われてしまっていると考えているのだ。ここで問題になっているのは、閾値が何かということ、それを越えていることの是非である。TVでも大学でも、問題が起こると規定を決めようとする。そうすると規定を満たすものが明確になるもののそれ以外のものが排除されるということである。2つめについては、研究者はそれを実行しているという自負から、Uくんのふたつの主張の矛盾を指摘した。先生達というより世間は、快適であることは共有でき、しいては一般化できると考えている。たいしUくんは、感覚は個人的なものであり、それを共有できるという前提には立っていない。Uくんは修士研究においてあくまでも個人感覚の探求と成長を追求しようとしている。なぜUくんはこのように考えるようになったかは知らないが、この両者が無意識に異なる前提に立っているのは面白いと思った。もちろんぼくはUくん側にいる。一般化ありきから出発するのと、人はそれぞれ異なり確率的に重なりがあるとみるかは大いに異なる。かみ合った議論をするUくんをみてみたい。

8月29日(月)
99 フランス パリ×モナコ 上位対戦らしくハードな闘いであった。後半60分過ぎの1−0でリードしている状態で南野が3トップの中央で登場。この中央ポジションが適すると考えられるようになったようだ。しかし今日は得点と言うよりも前線からの守備が求められているようでもある。ボールロストが目立つ。周りからのフォローがないのが大きな理由であるが、結果がよくない。結局交替直後に1点を奪われ、アップアップの時間帯が続いた。南野の立場は危うい。

8月28日(日)
「精神と自然」のⅤ章「重なりとしての関係性」に入る。この章は自己について。自己とは、線や袋のようなものがあって、その内側に含まれる部分ではなく、人間特有のものでもないという。自己は反対にいうと、ここでいう二重記述というものによって定義されるらしい。つまり自己とは、もうひとつ別の他者というものがまずいて、他者との違いを知ることによってはじめて認識するものなのである。そこで、「プライド」が例として定義される。プライドとは、個人に根ざしているものでなく、他者の与える条件付きの讃美プラス自身の反応プラス一層の讃美プラスその讃美の受容・・・によって生まれるものだ。したがって、讃美次第でどうでも変わる。反対に言うと例えば讃美をやめて軽蔑を示したところで、プライドはなくなることなくますます変形されるのである。ここまでは、容易に理解できるよくいわれることだ。この本が面白いのはそれからである。例えば暗闇で電灯スイッチをみつけようとするとき、もちろんランダムな試行錯誤によってスイッチにたどり着くこともできるが、スイッチを探す手、その高さに関する自己知識を働かせることで、より早くスイッチにたどり着けることができる。例えば、手は肩の高さにあるとか。だから催眠術によって手が頭の上にあるように思わされるとなかなか発見することができなくなる。こうした自己を活用することをぼくらは普通にこれまで行なってきた。本書はこれをシステマティックに説明する。A+Bからなる様々なシステムを長い間存続させるためには、外部から新しい情報を得ることをしないで、システム内部のみからの情報をもとにして動かぜるA+Bの学習プロセスであるという。この内部情報というものが自己と呼ばれるもので、このシステム限定的なものである。そう考えると、あらゆる生物にこうした機能は備わっていることになる。

8月27日(土)
098 ラ・リーガ エルチェ×ソシエダ イサクが電撃移籍し、久保の相棒はショーとなる。ショーは比較的開き気味を好んでいた。久保はというとトップ下のシルバと連係しショーと反対の位置で躍動する。得点は、そうした連動から空いたスペースをプライス・メンデスが突いたもの。鮮やかであった。ボールの出し手はスピロメンディ。初戦の久保のゴールをアシストしたメリーノといい、中盤3枚は誰もがパスの出し手でもあり、FWを追い越すフィニッシャーでもあり、ピッチいっぱいを使って連動する。その前でひとまわり小さく、細かいパスワークで守備陣を混乱させスペースをつくり出すのが、前線の3人である。その役割を久保は全うしている。個人技に頼ることなく全体での連動で攻撃していくチームスタイルは観ていて面白い。

8月25日(木)
仙台市内から、ふくしま道の駅を経て裏磐梯へ。磐梯吾妻スカイラインを利用。途中高湯温泉玉子湯へ。乳白湯の川岸の野天風呂で気持ちよい。浄土平は樹が全くなく噴火火山でできた景色の中を通るワイディング道路がある。この先ホテルへは先日の大雨で道路が封鎖され遠回りをする。途中益子義弘氏のアアルトホテルへ寄る。木構造の山小屋で、インテリアは北欧家具で統一されていた。

8月24日(水)
秋田市内を歩いて廻る。まずは谷口𠮷生の中央図書館へ。城内にある。1983年の作品で、完全無欠なシンメトリー建築で威厳を前面に押し出した建築である。左右に分かれる大階段が中央にあり、その奥は中庭。機能的に資料室などと分割する機能をもつ。秋田市文化創造館(旧県立美術館)へ。建築家が誰だか分からないが、最上階のつり屋根と丸窓が特徴的である。画家の藤田嗣治が大きく関わっていたらしい。オープン前のあきた芸術劇場ミルハスへ。佐藤総合設計である。これまでのホール設計のようにホールを奥に置き自由通路が手前にある。そこが吹き抜けていてレストランや展示、休憩コーナーが配置されている。常時市民に公開されているというのが建築コンセプトになっているのだが、あまりにも饒舌でお金をかけすぎたことへのアリバイのようにこの空間がみえてしまう。城外にある安藤氏の新県立美術館へ。堀は蓮の花でいっぱいであった。エントランスが三角形の大きな吹き抜け。優雅な回り階段がそこにある。白井晟一の四同舎を思い出す。この美術館のある周囲一画には、そこを横切る通り抜け街路があり、切り取られた美術館敷地のかたちがこのエントランスのかたちになっているのかと思う。周囲は観光などの公共施設やイベント広場である。美術館は小さくまとまっていて、安藤さんは他の施設と差異化を図っているのだと思う。もちろん自分の巨大プロジェクトとの違うためにも。安藤さんらしい。高速を利用して平泉の中尊寺へ。退職なされた山本先生が町おこしをしていたと記憶する。思ったより境内が広く、宝物館や金色堂を中心に観て回る。絢爛豪華な装飾はそれほど気にならなかったのは、歳をとったためかとも思う。仏教芸術の円熟期平安末期を堪能できる。平等院の直ぐ後の建築で、この後、快慶重慶の写実的彫刻、そしてソフトを中心に置く和様化へと向かう。それ直前の最終形を観る。敷地内に白山神社があり、そこに野外能舞台があった。宝物館では、文殊菩薩が印象的。中尊寺開祖した藤原氏の生首棺には驚いた。近くにある毛越寺へ。作庭記にもある大きな池がある浄土庭園で有名である。中州があり、当時本堂へは池を横切っていたらしい。池の向こうに遺跡後が並ぶ。町並みを観ながら高速を利用して仙台市内へ。

8月23日(火)
今日は秋田の白井晟一と重伝建築群を巡る。はじめに稲住温泉の旅館へ。旧秋ノ宮役場1951がここに移築されている。とはいえ、数年前の大雪でファサードを形成する右庇が落ちてほったらかしであった。この管理は町にあるのだそうだ。そしてその隣に浮雲1953がある。当時は玄関であったというが今は従業員宿舎となっていて、内部を観ることできず。外観はそのままらしいが疑問が残る。旅館にお願いをすると幸運にも離れの嵐亭1963、杉亭1963、漣亭1959、カン亭を見学させてもらう。低い門口を通って中に入り、隣に茶室がどれにも用意されている。もちろん日本庭園に面した雁行上の部屋配置で計画目線は低く、どこにいるか全体像をつかめない方向性を失わせる平面構成である。後期の2つの離れは斜線や曲線を使用する。カン亭に関しては白井晟一作品を模したものとも言われているそうだ。途中、丁寧な仕事の蕎麦屋で食事をとり、四同舎(酒造会館1959)へ。同時期の建築と比較すると、実に白井晟一は独特であったことがうかがえる。それは、ファーサードの窓や素材の扱い、内部に入れなかったが有機的な階段は玄関ガラス越から垣間見えた。妖艶さが、構造が違えど共通している。そして近くにある1953の試作住宅へ。これは東京から移築したものだそうだ。現代数寄屋建築である。戦前の疎開からこの地方と縁があるそうだが、昔から酒造で潤っていた様子が、街の中心に爛漫というブランドの大きな酒蔵工場の存在から分かった。続いて横手の増田町へ、重要伝統建築群保存地区である。妻入りくらいしか統一された様子はなく、細長い敷地割の内に倉をもつ商家の集まりである。その中の山吉肥料店を案内してもらった。長さは100m近くあるという。間口も広く、道路先が商いの場所、脇に通り土間がある。途中に内倉がある。倉は家のシンボルで、見せないけれども工芸細工などで家の格式を表現していたそうだ。もちろん物品倉庫でもあるが冠婚葬祭の場で、畳が中に敷かれているという。この家では娘さんの結納を執り行ったのが最後だそうだ。年に数回扉を開けて風通しをして掃除をするという。住居全体は洋小屋組で新しさを感じる。この商家は絹、塩などを商いしていたそうだ。ここ増田は東北における南北道と東西道の交わる交通の要地で、塩は北回り船から運んできていたという。商家の裏は昔田園が拡がっていたという。続いてもうひとつの重要伝統建築群保存地区角館へ。ここは武家屋敷町である。想像していたより区画が大きく道路も広い。桜やしだれ桜などの大きな樹がここかしこにあり町並みは黒の木塀で囲まれている。戊辰戦争で戦禍を免れたことが、今になり観光地化されている。北は区画が小さくなり町並みが変わる。ここから1時間くらいかけて秋田市内へ。

8月22日(月)
今日は月曜日で休館が多い。豊栄市にある青木淳さんの湧水館と潟博物館へ。ふたつとも同じ潟に面している。潟博物館は建築らしく迫力がある一方、それがガラス張りによるものであるのは当時の建築の限界であることを思う。青木さんですら当時はそうであった。安藤忠雄氏の豊栄市図書館へ。正方形と円で構成された単純な構成である。それぞれがヴォイド空間になっていてその形を意識でき、壁面の本の存在は十分に機能的である。移動中に安藤さんの中学校も観る。新発田市へ。レーモンドのカトリック教会へ。これも中心をもった平面形である。この地方での建築家の原型かとも思う。1965年の後期作品である。丸太の骨太構造がよい。対し周りは切り抜いた和紙によるステンドグラスの代用で幾何学的。妻ノエミの作品である。内井昭蔵氏の新発田市民文化会館と隣の記念館へ。これも円形プランである。休館で入れず。鶴岡に移動。駅前の青森屋で贈り物をして、スイデンテラスホテル坂茂設計へ。一番奥の部屋に泊まる。無印的な透明空間を意識しているのは、様々な素材が淡い白色で統一されているからか。伸びやかなおおらかな空間である。それに対し前にも思ったが大浴室は窮屈であり、水田はそう綺麗でないので、一体化させるのも無理がある気がした。とはいえ、これだけの規模のホテルにおいて、外部と建築を意識させるのは流石だと思う。
097 ラ・リーガ ソシエダ×バルサ 1-4で大敗のように見えるが、後半途中まで五分五分であった。ソシエダは上手くチームとして機能していた。久保もそこに含まれる。今日も2トップの1角で先発。今日不在の1ボランチブスケスの代わりには入ったデ・ヨングから、シルバと連動しボール奪取に早々と成功。イサクの同点弾を呼ぶ。その他にも、シルバと連動し、相手右SBとデ・ヨングを上手く見張っていたと思う。攻撃ではシルバの近くにいて、どちらかというと右サイドの攻撃が多かった。チームとしてはそこで空いた左サイドを8番メリーノが上手く使い、2度ばかり決定機をつくる。チームの約束事か。そのひとつのこぼれ球をフリーの久保はゴール決めたかった。監督曰く、決定力の差が得点差となった。バルサは後半から投入のファティが、がらっとゲームを変えた。久保とのカンテラ仲間。恐るべし。

8月21日(日)
長岡行き。伊東豊雄さんの長岡リリックホールへ。ランドスケープが素晴らしい。大きくなりがちなホールの大きさを感じさせない建築である。続いて、隈研吾さんの長岡市役所へ。竣工10年経つという。ドマと呼ばれる通り抜け道が画期的。ファサードに取り付いた木のヒラヒラは賛否の分かれるところであるが、ドマの印象を和らげ建築の新しい芽をつくっている。ボリュームがランダムにずれる平面コンセプトは従来からあったものだろう。それの形式性から脱却に成功している。田上町へ。難波さんの竹の友幼稚園、現在の田上町生涯学習センターへ。新しく1/3くらいの天井壁が設置されて図書館に改装されている。外部から見える雁木や時計台等はそのままだ。お願いをして残りの2/3を開けてもらい見学する。メンテナンスされ当時のままだ。少し前まで幼稚園として機能していたそうだ。様々な試みがなされていて空間密度があふれている。明るいにも関わらず暑くないのは素晴らしいと思うと、何よりもS造特有の朽ちた感じがない。45年前の作品である。屋根以外はRCであるのと、竣工後も空間がいじられていないからかと思う。続いて難波さんの心起園という老人施設へ。この建築のプランを想像する。塔屋の窓、外周部の窓が開け放たれ、換気によって現在の環境要件も満足しているようだ。流石に東京から来た者が老人福祉施設の見学を申し込むことは許されないと思い、遠慮した。続いて新居千秋さんの新潟市秋葉区文化センターへ。建築らしい建築である。丸いホールを囲むようにらせん状の自由通路とホワイエがある。システムをなくすコンセプトによりハプニング的になりがちなディテールをまとめあげる力量に感心する。ホテル小柳へ。これも難波さんの設計である。旧館の構造をそのまま残し上手く増築されている。これも40〜50年前の建築である。斜めのファサード、それに沿う樋などそのままだ。リノベされた旧館客室に宿泊。ラウンジは天童木工の製品で構成されている。クラシックなオーディオセットと近隣の刃物製品を並べたショーケースに囲まれ、普通の温泉旅館とは一線を画していた。田上町の難波さんのどの建築も上手く使われ続けている。まずはこれに衝撃を受けた。

8月20日(土)
096 ベルギーリーグ オラウデン×シントロウデン 今週になって岡崎が加入。直ぐさま香川とツートップをつくる。岡崎を久しぶりに観たがこれまで同様に守備は一枚も上。とはいえ攻撃は機能していなかった。

8月19日(金)
午前、虎ノ門行き。午後大学へ。その間に飛騨産業のショールームで、ソファーの座り心地を確かめる。座り心地はほぼクッションで決まるようであるが、フレームはそれを支える意味で微妙さをつくっている、このことに気づく。

8月18日(木)
「精神と自然」はⅣ章を続ける。基準5は、メッセージとそのコード化の違いについて。モノと名前が違うように、メッセージ自体とメッセージが意味するものは違う。基準6は、メタメッセージについて。Aからのメッセージがどのようにコード化されているかをBに伝える別のクラスの情報が存在し、それをBが活用できる必要がある。なかなか難解であるが、メッセージとなるには、発する側と受け取る側に共通するロジカルタイプが上のレベルのコードが必要ということか。これをモノと対比させてマインドといっている。

8月17日(水)
「精神と自然」はⅣ章。ベイトソンの思想の核心に入っていく。基準1は、マインド(メッセージ)とはパーツ間の相互反応の連続物である。基準2は、パーツ間の差異がトリガーになって、エネルギーがリリースされる。基準3は、そのエネルギーによってマインド(メッセージ)がつくられる。基準4は、したがって、マインド(メッセージ)=パーツ間の相互作用は再帰的である。円環のようにみえるが、それはロジカル・タイプのレベルが上がることである。ここでいうのは、メッセージとはモノの違いによって生まれ、モノ間の相互作用によるということである。したがって、モノとメッセージは不可分である。

8月16日(火)
CASABELLA933が届く。「設計の過多と過小:イタリアとイギリス、昨日と今日」のフランチェスコ・ダルコの論考はよくわからなかった。バンハムとイタリアの関係をよく理解していないこともあるが、当時の2つの作品の違いが今日の日本からは理解しがたいからである。したがって50年代に遡ってバンハムを批判する意味を見出すことができない。

8月15日(月)
NHKで「ビルマ 絶望の戦場」を観る。インパール作戦前の日本軍の行動も別のNHK特集で観たのだが、その後1年間にわたる敗戦までの記録である。それは、これまでの日本軍の印象を変えるほどのものであった。ビルマ国軍から謀反され、軍の規律が乱れ、最後は日本民間人も戦争に巻き込んでしまうほどの無政府状態で、指揮官の能力以上に人間性を問う特集であった。窮地に追い込まれてもこういった人間にはなりたくないと思う。このとき10万が戦死したという。10万人とは、東京大空襲全体、広島、長崎の原爆による死者数と同数である。

8月14日(日)
095 ラ・リーガ カディス×ソシエダ スペインもいよいよ開幕。チームは久保をどう見ているのか気になるところであったが、2トップの1つとして先発。しかもトップ下にシルバ、右にメンデス、左にメリーノ、スペイン代表候補を従えての布陣である。久保はその期待に応えて、もう1方のFWイサク、シルバと連係して何度も最終ラインの裏をつく。若々しく躍動していたと思う。これまでの久保は下りてきては足下にボールをほしがるプレーをしていたのだが、違った面を見せたわけだ。監督曰く、久保だけこの特徴を分かっていなかったという。得点は、左のメリーノが右に寄り相手守備陣全体が右に寄っていたところを、比較的左にいた久保がCBの背後を追いてメーリノからのセンタリングを受けたかたちである。利き足と反対の右足のボレーであった。周りを活かすプレーも相変わらず続いて、アシストはなかったものの、今日は久保の日であったと思う。

8月13日(土)
パソコン写真の整理。これで休み中の予定がひとつ片付く。夕方ペンキ購入のため出かけようとしたが断念。台風が時間を追うごとに強くなった。
094 プレミア アーセナル×レスター 新加入のジェズスが躍動。左SBの新加入ジンチェンコと左IHジャカ、左Wマルティネリとともに今日の攻撃の中心は左からで、昨季とは逆であった。これを右のSBに富安がいなかったためと思いたい。それだけ右のサカとウーデゴールと絡んだ富安のキープ力は安定していた。後半30分過ぎからから右のSBとして富安登場。ならし運転か。好調アーセナルに今後どういったかたちで入りこむか注目である。

8月12日(金)
台風が近づいているので、アンデルセン公園の展示の確認に行く。既に担当者が片付けに入っていた。八咫の倉本さん、露口さんと偶然に会い、2階で開催されている荒井恵子さんの墨のアートを紹介される。墨によってグラディエーション化されて吊られている200枚もの和紙はのびやかである。空調によって揺れてのんびりした雰囲気もつくる。もうひとつの展示室では、様々な大きさの○とか□といった文字を模した構図の作品が吊られている。これは壁面に平行に高さが様々な展示方法で動きがあってよい。どちらも、壁に張り付いた通常の展示と異なり、落ち着いた墨絵からはひと味違ったものになっている。荒井さんは建築に興味があるようだ。鐵の家ギャラリをご存じで、これから作品と箱がもっと密接になっていったらよいとおっしゃっていた。今度、鐵の家ギャラリが絵本美術館へ変更の予定であることを話す。そういえば、アンデルセンも童話である。大学へ。5時からzoom。有意義な話し合いができた。そして7時から研究室の学生と卒業設計の進行状況の確認を対面とオンラインで行う。10時近くまでかかった。

8月11日(木)
休日を利用し空き部屋の塗装し直しをする。エアコンの故障が判明。工務店に連絡し、盆明けに打合せをすることにする。「精神と自然」を続ける。

8月10日(水)
093 スーパーカップ マドリード×フランクフルト マドリードは昨季とまったくメンバーが同じ。珍しい。チームが熟成して、入れ替わりがないのは選手に不満もないということで、チームとして万全である。一方フランクフルトは、10番コスティッチが移籍予定のため不在。新加入のゲッツエと鎌田のポジション争いも微妙。今日は鎌田が先発。0−2で負けたとはいえ躍動していたと思う。ライン間でマドリーの中盤3人を上手く外していた。ゲッツエが投入されるとボランチの位置に下がる。これでフランクフルトは攻撃のかたちがなくなったと思うのは、日本人の目線か。それにしても前半はじめのフリーでのシュートを鎌田は決めたかった。

8月9日(火)
研究室の合宿係と相談し、9月の青森行きを延期する。弘前をはじめ青森はコロナも含めて大雨でそれどころではないようだ。「精神と自然」の「Ⅲ重なりとしての世界」を続ける。異なるソースからやってきた情報の組み合わせから、いかなる理解のボーナスが手に入るか、を説明している。面白いのは、私たちは差異から学ぶ。そしてその差異には物理的、時間的な次元がない。つまりそれ以後に私たちが経験するのは、100%精神的な過程であるということである。タイトルのマインドというものがそれである。

8月8日(月)
午前に会議。その後事務作業を終えて事務所に戻る。「精神と自然」の「Ⅱ誰もが学校で習うこと」を読む。この章はエピステモロジー、すなわち、われわれがいかにして物事を知ることができるのか、についての基本的な概念の整理である。ぼくなりに整理してみた。1科学は証明しない、探索するのみ 2名前とそのものは違う 3客観的経験はない 4イメージは無意識に形成される 5記述は必然かつ恣意的である 6精度を高めても予測はできない 7逆に厖大な数のメンバーから成るクラスの行動については予測できる 8意味をなすためには、それ自体が規則的で、かつ別の規則性に出会う必要がある(パターンは認識されてパターンとなる) 9数と量は別物 10量はパターンを決定しない 11生物は適量でできている 12生物は互いに連動して動くシステムである 13論理的あることと因果的であることは違う 14物事はリニアルである(再帰的でない) 15ものはその名前と性質と属性によってしか参加できない 16安定も、その中で実は変化している

8月7日(日)
092 プレミア マンU×ブライトン 今シーズンからプレミアはABEMAで放送。調べるとABEMAはサーバーエージェントが経営する日本の会社であった。毎年のように配信会社が変わる。それだけ放映権が高騰している証だろうが、DAZNをやめるべきかどうか迷う。幸いABEMAは無料。しかし、見逃し配信を見るためにはお金がかかるそうだ。上手くできている。ブライトンはインテンシティがあって強かった。プレミアらしい闘いであった。後半はマンUが押し返してきたので三笘の出場はなし。三笘のライバル、トロサールも凄い。直前にククレジャが100億でチェルシー行きのニュースを観た。彼もバルサ落ちで2年前は久保とヘタフェで同僚。仲良かった記憶がある。そのブライトンが2-1で勝利。

8月6日(土)
091 プレシーズンマッチ ビルバオ×ソシエダ ダブルヘッダーの第2試合目。久保が初の主力組として右Wで先発。4-3-3であった。ビルバオのかなりのプレッシャーにソシエダは為す術がなかった。久保はというと右サイドライン際で、ブライス・メンデスとの縦突破を試みるも囲まれてしまい、思うように前進できていなかった。前半の終わりからポジションを中に絞るようになると、よい形が作れるようになった。後半からは4−2−3−1か。ブライス・メンデスが中央に入り、久保は比較的右サイドを自由に動けるようになり、スペースを上手く使った攻撃ができるようになる。しかしシュート0。連携がいまいちであった。頑張れ。

8月5日(金)
午前中オンラインで会議。その後銀行と郵便局を回る。ソシエダのダブルヘッダー第1試合はどちらかというとサブ+調整組か。久保はそこのメンバーに含まれていないので、今夜の試合へ期待をもたせてくれる。「精神と自然」イントロダクションを読む。本書ははじめにで、「われわれはいかにして物事を知ることができるのか」というエピステモロジー(認識論)について書いているといっている。そこでベイトソンが主張しているのは<クレアトゥーラ>。因果関係で説明するプレローマとは反対の、コンテクストに沿って(時に沿って進むパターンで)考えるというものだ。そこでゲーテ、そしてリニアルという言葉が紹介される。リニアルとはリカーシヴ(再帰的)の反対語である。「すべての情報伝達にはコンテクストが必要だということ、コンテクストのないところに意味はないということ、コンテクストが分類されるからこそコンテクストから意味が付与されてくるp42」というものだ。もうひとつのキーワードは連続的相同。これによって「先行する文節がそのすぐ後ろに形成される次の文節へ情報をあたえているのではないかという予測が容易に立つ」。リニアルであることから少し先の未来につなげる方法である。

8月4日(木)
今日の長野は曇りで気温もかなり低い。小斉の湯というローカルな古い温泉場に寄り帰路につく。途中、一宮御坂で下りて農協で規格外品の桃を購入。JIA修士設計競技の審査対談の校正。リサーチの位置づけが、設計のアリバイとなることから変わってきている感想を書く。「精神と自然」G・ベイトソンの文庫版を読みはじめる。ぼくの一番のお気に入りの本だ。佐藤良明さんが大幅に改訳して今年に出版された。イントロダクションの原注にウィリアム・ブレイクが登場。「ウィリアム・ブレイクにとって、われわれの新聞が“実在する”と見なしている<身体の宇宙>は、真の実在者であるフォームとアイディアから二次的に紡ぎ出されたものなのである。「はじめに観念(アイディア)ありき」」がある。ぼくの考えてきたことの延長にいつもウィリアム・ブレイクが引っかかっている。

8月3日(水)
長野行き。八ヶ岳サイクリングというカフェが敷地近くにあるが、そこからの眺めは心がいつも安まる。南西斜面の畑が続き、向こうの山々を見渡せる。樹の下は風も心地よい。用水路の水の流れも激しく、その音もまたよい。目的となる小さな絵本美術館へ。絵本作家のさとうわきこさんが主宰する。参考になるものも多い。フェリックス・ホフマンやハンス・フィッシャーの絵本を観る。その後ビーナスラインを通って車山まで行く。

8月2日(火)
アンデルセンに行き現場を確認。概ね収まったようで何よりである。葛工務店から見積が上がる。それをクライアントに送付。返事をいただき概ね工程も決まる。

8月1日(月)
卒業設計のテーマ発表をオンラインのゼミで行う。研究室でティム・インゴルドを読んでいるためか、全体的として保守的にアプローチする提案が多い印象。街つくりとかリノベーションをテーマにし、問題をあぶり出してそれを解決しようとする提案である。そのときふたつのアプローチがあると思う。ひとつは、そうした問題を社会が受け入れることができない現状は何か。そこまで踏み込みもデザインに組み込む方法。もうひとつは、調査を徹底することによって見えてくる独自の具体的問題をテーマにするもの。このふたつの方針は共に、調査をユニークにしてくれるものと思う。これまでの建築計画とティム・インゴルド的アプローチとの差はあるようでない。そこでそれとの差異をつくるためにも、突っ込んだ視点は必要となる。

7月31日(日)
オープンキャンパスで大学行き。4回に分けてAO入試の説明会を開催し、多くの高校生に説明。夕方車検を終えた車をディラーで受け取る。久保のイギリスでの親善試合をYouTubeでチェック。今日は60分過ぎからの登場で、控えメンバーの4-3-3のインサイドハーフであった。よい連携もあるも、ボールロストして速攻による得点を与えてしまう。まだ実力を試されている段階である。しかし大事に扱われている気もする。

7月30日(土)
夕方葛工務店と見積打合せ。微調整をして来週施主に送ることにする。LIXILの季刊誌が届く。葉祥栄さんの小国の仕事を岩本真明さんが紹介している。武田清明さんと中川エリカさんの対談も面白い。時間の蓄積を将来につなぐということに、建築をつくることの意味があることを2人の間で了解している。とはいえ、こうした考えこそ以前からあったし、最近のティム・インゴルドも同様である。彼らが面白いのはその上での建築のユニークさにあるのでないか。これを正面から説明することはできないのを歯がゆく思う。

7月29日(金)
午前中レジスと打合せ。その後銀行を回る。この1週間の空白を埋めるのに1日を過ごす。「環境シミュレーション 建築デザイン 実践ガイドブック」川島範久著を読む。読みながら設計は方法論ではなく、実践であることをつくづく思う。howでなくwhatへ変わってきている。もちろんコンセプトからつくることでもない。卒業設計で参考にすべき問題であると思う。

7月28日(木)
090 プレシーズンマッチ ソシエダ×オサスナ 久保がセカンドチームの中で先発。マンツーマンのオサスナにたいしソシエダはボールをビルトアップさせることができなかった。それでトップ下の久保は下りてきて、そこからのドリブルが目立った。それはまさにマジョルカの久保であった。ただし、選手の距離が短いのでなんとかなる。60分過ぎから1.5軍が登場。するとゲームが落ち着いた。ニアポスト脇を押さえて得点する。ソシエダの強みと思った。

7月27日(水)
089 代表 日本×韓国 韓国はそこそこメンバーが集まっているらしいが、その韓国を今日も圧倒。日本の左の相馬がよかった。三苫らが怪我の場合のバックアッパーとなりそうである。それにしてもこのポジションには、南野、三苫、鎌田と揃っている。DFにしても中山と伊藤、長友がいる。他に興味深かった選手は、FWの町野と中盤の藤田。町野は勢いがある。ポストプレーができれば大迫の代わりとなるか。町野はこれからである。早く海外へ行って欲しい。守田がスポルティングで目処が立つという情報が入る。中盤も安泰である。

7月25日(月)
「ドライブ・マイ・カー」を観て感じたのは、それほど歳をとっているわけではないけれど、監督の老練さというものだ。それが感動を呼んでいる。しかし一方で登場人物それぞれの生あるいは個性というものの描写が欠けているとも思う。この老練さは、近代のオイディポス的主題にたいするひとつのニヒルな態度からくるものと考えられるが、もし近代のもつオイディポス的主題を否定するなら、「動的平衡」にあったように、このままであったらそれを加速させる方向に向かってしまうので、それとは逆の登場人物のあがきみたいなものが必要と考えた。

7月24日(日)
088 プレシーズンマッチ メーヘングレートバッハ×ソシエダ ソシエダは4-4-2の中盤ダイアモンド型。今日は守備の確認重視であったのだろう。そのため板倉所属のMGはボールを進めることができなかった。久保とポジションが重なるダビド・シルバは無駄な動きをしない。攻守ともめったに下がることなく、味方にボールが入るとよっていきサポートする。前半はこうした主力組の実践確認であったと思う。後半からがらっとメンバーが替わり久保も登場。ダイヤモンドのトップ下。前半と同じシステムである。久保は焦っているのか、守備においても動きすぎた。これはぼくの目からも明らかであった。久保がチェックに行くことで、中盤にスペースが生まれそこへボールを運ばれてしまっていた。途中の給水タイム以降は、おそらく監督の指示かと思うが急にソシエダは積極的になる。それは久保からはじまるパターンとなった。ショートパスが多くなったのは中盤が上がりはじめたからだ。そうした中、開いた味方FWからの折り返しを中央突破した久保は、ゴールを決めたかった。全体的印象として、このレベルでも久保の個人技は光っている。サポーターを喜ばせるに違いない。後はチーム戦術に馴染むかである。

7月23日(土)
昼過ぎに母の1周忌のために墓参り。そこでこの1年を振り返る。夜に「ドライブ・マイ・カー」濱口竜介監督を観る。アカデミー賞をよく取ったものだと感心するほど密度のある3時間越える映画であった。この映画に流れる雰囲気は、最後の舞台シーンで手話者が語っているように、最後に誰にも幸せあれ、と達観できない限りつきまとう喪失感というものであった。映画の人物設定やその人生は多様である。娘が病死した穴埋めとしての妻の浮気や突然死。加えて自動車事故に遭遇、運転手の幼少期の虐待記憶や、家庭崩壊、母の2重人格。主人公とは正反対の位置にあった妻の浮気相手が偶然起こす殺人事件。瀬戸内海の風景やサーブという小物。あるいは舞台となる丹下健三の建築、谷口建築の軸線の意味、あるはチェーホフの劇など。これら全ては詳細に描かれながらストーリーとは無関係な位置に怒れている。これらにある共通性は、近代以降つくられた神話かとも思う。つまりこれらを誰もが信じていないが、ぼくらの日常にあり続けるもので、この作品もこれらに無感心な態度を描いている。これだけのシチュエーションを作品に詰めると普通、場末的な劇場型になりそうであるが、淡々とした印象。だから喪失感を考えさせられる。ただしこれを批判ととれれば救いもあるが、これが現代の日常と考えると、この世界に描かれた人物、ひいては作品が自己肯定でしかないような気がする。

7月22日(金)
計画2の採点のため1日を過ごす。記述問題は比較的よく書けていた。採点していく途中で、ぼくの本音と建前を理解していない学生もいることに気づく。折りに触れいってきたのだが、来年からはこのことをきちんと言うことにしよう。例えば美術館について。美術館には裏と表があり(建前)、それは当然なことで設計において中心議論にならない。その上でどう設計展開するかに期待している(本音)。逆に言えば、裏と表を上手くやっていれば合格でもあるが、次に期待している。ただし次のみではまた片落ちということでもある。あるいは、美術館=展示作品×空間(建前)である。しかし、展示と空間が合っていればよいのでなく、上野というコンテクストに合わなければ、あるいは展示が面白くなければ、美術館も退屈になる(本音)。だから単純な公式は成立しない(本音)。ただし、ただ空間をいじるだけではどうにもならないので、展示作品を決めてそれにあった空間を用意することからはじめたらよいということである(本音)。

7月21日(木)
プレシーズンマッチ 川崎×パリ 2-1で川崎破れるも、川崎の左からの攻撃はよかった。3バックのラモスの裏を幾度か突破していた。パリは守備になると5バックになるのだが、その切り替えの早さは左右のSBにかかっている。そうでないときに右のハキミのカバーをラモスにはきついように感じる。

7月20日(水)
今日は1日事務所待機。休養に充てる。久保の情報が入ってくる。その後YouTubeをチェック。レアル・ソシエダはサンセバスチャンにあることを知る。20万人以下のバスクの街。やはり6割がバスク選手で占めるそうだ。冬暖かく夏もそんなに暑くない。海をバックに会見していたが、格好のリゾート地らしい。もちろん美食の街でもある。それにしても久保はマジョルカといい、いい場所に行く。同じバスクのビルバオとは直ぐ鼻の先。フランス国境の街である。

7月19日(火)
銀行巡りで1日を終える。書類を揃える、あるいはチェックするというのは大変な作業であった。
086 代表戦 日本×香港 YouTubeでチェック。この代表は国内組中心で今日はマリノス中心としたチーム編成らしい。長めのパスがスムーズに続き、香港を圧倒。1対1の激しさとチーム出来は一体である。

7月18日(月)
だいぶ前のコールハースの論考「濁流での釣り」を読む。コンテクストの即物性の過大評価を否定する。一方で過小評価されているジェネリックにいくことなく、歴史(旧市街)保存するには、この2つを完全に分離することにあるという考えであった。続いてフレデリック・ジェイムソンの「ジェイコブスとハイデガーにおける都市理論」を読む。フランクフルト学派が展開した道具的理性の概念は、西洋では以前から普及していたことを知る。理性の特別性を否定する考えだ。そして「物神」をあげる。20年も前の論考である。

7月17日(日)
濱口竜介監督の「寝ても覚めても」を観る。描写は淡々としている反面、ストーリーはかなり強引であるので感心をしない。特殊なシチュエーションから一般論を導き出そうとしているのは、少し前の建築の状況と同傾向を感じる。大江はその逆である。

7月16日(土)
アンデルセン公園行き。今日からセッティングがはじまる。その他にもボードやポスターのプレゼの指導を受ける。すべてが勉強だ。夕方事務所に戻り雑用。

7月15日(金)
「ブータン 山の教室」パオ・チョニン・ドルジ監督を観る。懐かしいブータンの風景を堪能する。主人公が向かったのはヒマラヤ山脈麓のルナーナという村。ぼくらが訪れた村々のさらに奥である。その村の生徒がいう「先生は未来を触ることができる」という台詞が印象的。ここにある先生という言葉を知識という言葉に置き換えるとしたら、知識を通じて夢を抱き、人を大きくもするが、自然や環境と一体となっていた生活からも引きさかれてしまう。この映画のテーマであろうと思う。

7月14日(木)
「新しい人よ眼ざめよ」大江健三郎著を読み終える。基本的に他者を理解することはできない。しかしぼくらは互いに想像することによって結ばれる。神、道徳、家族なるものはそうやって成り立っているということだ。その下で生きる生を描写している。

7月13日(水)
3年生と4年生の合同講評会を、宮崎浩さんをむかえて行う。非常勤の佐々木珠穂さん、武田清明さん、谷口景一郎さん、比嘉武彦さんの助けも借りる。夢いっぱいの作品からプログラムをたどたどしく追う3年生の作品、環境シミュレーションやプログラムを越えたコンセプトをまるごとかたちにしたような4年生の作品まで、バリエーションに富んでいた。それを谷口さんは、おなかいっぱいといい、しっかりと年代を追うごとに成長していると評してくれた。それは、モノのスケールを把握できるようになり、モノとプログラムの葛藤を消化できるようになってきていることだという。佐々木さんはその成長を、かたちつくることができることと平行であるといっている。武田さんの、社会へのメッセージ性が大事というコメントは印象的。宮崎さんはプロセスの説明に終始する学生を批判していたがそれを受けてのものだ。モノ自体がもっているメッセージ性を大事にするという意見であったと思う。宮崎さんが、作品の最終的目的を絶えずたずねていたのが印象的。最後の講評では、個人の底にあるものを出すことが設計として大切であるといっていた。比嘉さんが示したのは、一般に建築が社会要請からつくられるものだと考えられていることにたいし、建築によって新しい社会も生まれることの可能性である。その不確かさが建築の魅力であったりするので、そこを失ってはいけないということであった。そうした考えでは、外部条件が建築家自身と一体でその境界がなくなっている。このように、建築家それぞれの考えがあって面白い講評会であったと思う。人生に答えがあると考える学生には疑問が多い議論であったと思うのが、それだけ建築にたいする視点も多様であることを知るよい機会であったと思う。率直に意見を交換してくれた先生方に感謝である。最終的に宮崎さんが優秀案に選んだのは、模型に感性あふれる作品、それと渋谷の街を立面と平面にまで取り込んだ完成度の高い作品であった。最後はモノとして何であるかの共有が根本にあるのである。

7月12日(火)
「新しい人よ眼ざめよ」を続ける。中頃で想像力がテーマとなり、そこでパシュラールの想像力論に出会う。ブレイクの想像力の定義を補強するものとしてとりあげられている。「想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力」であり、「想像力は状態ではなく人間の存在そのものである」と続く。つまりブレイクの示す神の実体(ブレイクの版画でも表現されているものだが)、それは想像力で成り立っているというということだ。柄谷を通じたカント、崇高論のエドマンド・バーグを思い出す。そこでも想像力とは恣意的な空想のようなものでなかった。対象をいったん括弧入れする理性の発展形であった。この理性によって高次の理性が獲得できる。その要として評価されているものだ。ここに至り大江がブレイクを取り上げる理由をつかめるようになる。

7月11日(月)
2年生前期設計の講評会。第1第2課題とも、学生が課題を身近に感じられる住宅のため、かなり多くのバリエーションが作品として提出されていた。そのなかでも共通の特徴として、今村先生らからの模型の素材表現に関するコメントが印象的であった。大地の表現をはじめ、既存の模型材料にかなり縛られているということだ。もっと抽象的にして独自の表現であってもよいということである。学生にとって、このコメントを理解するのが難しいと思われるのは、具体的であることと抽象化することの境が判らないことにあると思う。優秀案に選ばれたのは、土地のコンテクストを丁寧に読み込み、それをかたちにまで落とし込んでいる案であったと思う。最近の傾向として、抽象に代表されるようにコンセプトのもつ強さよりも、モノとしてしっかりと定着させていることが重視される。そうした案であった。その証として周囲までもつくりこむ必要もあり、優秀案はそれを行っていた。ぼくとしてはプログラムの読み込みまでいくとさらによいと思っているが、そこまでいくと表現が粗くなってしまう。2年生の住宅課題ではそれなりにできてしまうので、3年生くらいでこの問題を突破してくれるとよいと思うのだが、こうしたモノとしてのあり方と抽象性のバランスこそが最近の問題であると思う。そこに達するためにはもう少し俯瞰した視点が必要となるのだろう。それは経験しないと理解できないことでもある。そのためにとりあえずトライすること、これが肝要と思った。それにしてもスケッチが上手い学生が多かった。1年生の教育が活かされていることを感じた。

7月10日(日)
選挙に行った後、山梨まで出かける。ゆっくりとした1日を過ごした。投票所は今なき母校であるが、建築計画の看板から隈さんが建て替えることを知った。4000平米を越えるこども園とコミュニティセンターであり、大いに期待である。頑なに建築家を許さなかった渋谷区が変わるとよい。

7月9日(土)
岩間直樹さんの住宅を観るために成田へ行く。高度成長期にできた住宅地の南端角に建っていた。敷地は変形の五角形である。周囲は緩やかな南斜面で、学校の校庭がその先に拡がっている。不思議な土地だ。この近くには古墳も多いという。その南は最近できた建売住宅地がある。以前の土地は生垣に囲まれていて、40センチくらい盛土されていたという。近隣の人はそうした土地が小割にされなくて安堵したという。新しい建築には生垣もなく、盛土は緩やかに削られて、それで得られた土で小山のあるランドスケープを道路に開いて形成している。小学校低学年の娘さんが友達と一緒に水遊びをそこでしている。懐かしいとはいいたくないがそういった光景が拡がっている。建築の特徴は、HP屋根が敷地の長手に沿って緩やかに伸びている。そこは居間であり駐車場である。緩やかに曲がりながら登るこの周囲の雰囲気をこの屋根で受け止めているそうだ。屋根の上面がきちんと見えるのは上手いと思った。なかなか難しいと思う。この屋根はスチールパイプの柱梁の上にある。無骨なせいのある梁がHPのリズムをつくり、2階のロフトの子供室まで続いている。建築は敷地に沿った「くの字型」。5角形の敷地を囲むようにある。欄間からあるいは斜めの窓から、南に下がった学校の校庭をどこからでも見下ろせて皆違う。時を眼で見ることはできないが、時の流れを想像することはできると思った。建築が過去の延長上で考えられると、新しくできた建築からその様子を振り返ることができるのだ。こうした素直な時間の流れを実感できるのを生成的といってみてもよいと思うのだが、制作的なHPが関与しているのが建築的でよい。

7月8日(金)
4年生設計の講評会に参加。比嘉先生のスタジオの学生の多くが、自ら考えたことを模型として表現できているのに感心した。そのために捨てていることも多いのだが、アイデアをなんとか形式化できている。これが建築家にしかできないことであり目指すところであり、感心した。ただ、こうした行為は旧態の建築家像といえばそうなので、比嘉さんはどう考えているか、お聞きしてみたいと思った。フランプトンの「テクトニックカルチャー」における調整役としての建築家とは違う面がここにあるからだ。現実から解くのではなく、現実を表出することに力点が置かれている。そういうときに技術とは、現実をフォローするだけのものであろうか。

7月7日(木)
出展作品は詳細も検討されモノがリアルになっていくのを感じる。大学へ向かう途中で、赤坂プリンス跡地の大巻伸嗣の彫刻が気になった。このくらいハッピーであってもよいと思った。

7月6日(水)
ゼミにて、出展する作品についての現物検討。つくることから学ぶのは遠藤研のテーマであるが、つくること自体が目的化することは避けたいと思う。ぼくの作品を批判するときのナンセンスなコメントである。とはいえ検討に検討を重ね、大分現実感を帯び問題点が絞られてきた。大枠が決まり引き続きサイズを上げての検討をすることにする。

7月4日(月)
漫画「サピエンス全史」を拾い読み。ぼくらの先祖ホモサピエンスは15万年前に東アフリカにいたとされているが、同時にネアンデルタールやホモ・エルクトス、デニソワというようなヒト類はユーラシア大陸に多数いたそうだ。それが、なぜかしら5万年前にホモサピエンスだけになった。それはホモサピエンスが他種を絶滅させた可能性も高いが、DNA鑑定からわずかながらに交配した可能性もあるという。ネアンデルタールはぼくらよりも脳の体積が大きく、ぼくらはサルから進化したように思っているがそうではなく、実は同時に沢山の類や種が存在していたということだ。

7月3日(日)
父と母の一周忌を多磨霊園で行う。午後「未来世紀ブラジル」テリー・ギリアム監督(1985)を観る。公開当時にこれを観て意味を追いかけたものだが、今はリラックスして観ることができる。要はカルトムービーだ。リカルドボフィルの建築が印象的。時代を感じる。

7月2日(土)
「ホドロフスキーのデューン」を観る。デイビット・リンチの「デューン」の前に、ホドロフスキーが映像化しようとしていた、そのドキュメンタリー。ホドロフスキー自身が、作品がぼつになるまでを語る。興奮気味に語るのが印象的。後のエイリアンのデザイナーになるHRギーガー、出演としてダリ、ダリの愛人のアマンダ・リア、ミック・ジャガー、オーソン・ウェルズらが決定していた。10時間にも及ぶ大作で予算が合わずにお蔵入りになってしまったという。しかしフランスのバンドデシネの第1人者メビウスによる絵コンテ集はこのとき既に完成していた。噂によるとこの絵コンテ集は3.5億で落札されているそうだ。

7月1日(金)
大江健三郎の「新しい人よ 眼ざめよ」を続ける。イーヨーという息子が何を考えているかを観察する小説である。イーヨーは知的障害を抱えている。そしてそれを解く下敷きとしてウイリアム・ブレイクがある。先に読んだマサオ・ミヨシの論考も、計画外部にあるものの観察に可能性を見出そうとしていたところで終わっていた。共通している。

6月30日(木)
研究室でテンセグリティのワークショップ。2日目となると、様々なかたちのものができるようになった。それをみながら実物大への可能性を来週に決定することにする。夕方から金箱温春氏の今年度の第1回目のレクチャリーズ。自身の構造家の立場を建築家との対比において示してくれた。それは、建築家の思想を具現化しようとするものと、建築家をインスパイアする2つの役割であった。そして新しい傾向として、複雑なかたちをしたものでも単純な構成へ整理することへの可能性を示してくれた。構成を与えることも協働ということになる。レクチャーの後の話し合いでは、こうした自身の仕事をバッティングピッチャーに喩えていた。色々な球を投げて、バッターの本来の振りを呼び戻す役割として、である。ピッチャーとバッターは会い対しているが同時にバッターを助けているという意味である。建築家として金箱さんの存在はありがたい。進行役の多田先生は、そうした金箱氏の仕事を知識が広く懐が深いといっていたことを思い出す。どうやら構造家は、軸力に持ち込むことで構造を確実なものにできると考えるらしい。金箱さんはそこへもっていく力量が長けているということであった。

6月29日(水)
ゼミにて様々なテンセグリティの確認。動画をチェックし、単純なものから作成に入るも、なかなかできない。ちょっとしたワークショップへの展開である。学生時代を思い出す。明日には収束させる必要がありそうだ。

6月28日(火)
マサオ・ミヨシの論考「建築の外部」を読む。計画することと生活の分離、とくに都市におけるそれを批判する。20年も前の論考である。計画の外部に生があるかもしれないということが語られている。こういった意見が契機になり、今の計画への不信が出来上がった。

6月27日(月)
「デューン 砂の惑星」ヴィルヌーヴ監督は、主人公が宇宙と同調する中で、自身の中に浮かび上がってくるものを表現しようとしている。それによって、主人公は過酷な環境を生き抜き、恐怖に打ち勝とうとする。スターウォーズでは、フォースを信じること、これをテーマとしていたことにたいしデューンでは、フォースを具体的に外面化しようとしている。

6月26日(日)
山梨の一宮御坂へ行く。日川あたりの桃畑中の農協で桃を購入。お中元もする。昼時間を過ぎてしまったので、西湖の近くの空いている店まで南下する。瑞々しい蕎麦であった。近くの温泉に入り、高速が混んでいたので、今度は北山麓沿いのレストランまで。これまた当たりであった。夜帰宅。「デューン 砂の惑星」ヴィルヌーヴ監督がWOWOWではじまっていた。遅れて視聴。なぜかしら宮崎駿を思い出す。

6月25日(土)
ナチュラルシーム鐵の家ギャラリー行き。メンテナンスとこれからの利用方法について相談する。午後事務所に戻る。来週の建築計画の授業ではゼミと並行して「スペキュラティヴデザイン」について語る。そのためのpptを整理する。先週の授業では、パタン・ランゲージのひとつの特徴である集合知についてを説明をした。集合知を利用することのデザインの有効性についてである。その場合、(アレグザンダーのように)集合知に乗っ取て素直にデザインすることもできるし、さらに、集合知を知った上ならWhat if(もし○○であったら)を持ち出せるようにもなるので、それによってデザインの方向性を少し変えることもできるだろう。この後者がスペキュラティヴデザインというもので、この説明をしようと思う。この場合、What if というのが、ひとつの直感のようなものであるが、重要なファクターとなる。集合知というものを踏まえるか踏まえないかでWhat if という直感の厚みも変わってくることも合わせて説明しよう。ところが、得てして集合知を捉えることは難しい。だからパタン・ランゲージは重宝されるし、アレグザンダーも「パタン・ランゲージ」を著すのに10数年かかった。そのための道具としてもうひとつ、池辺さんの「デザインスゴロク」を紹介しよう。デザインスゴロクは建築分野に限られたものであるが、中央に標準が設定されているように集合知をあぶり出すことができる便利な道具だ。建築においてこういった道具、「パタン・ランゲージ」や「デザインスゴロク」を上手く利用することとは、建築版のブリコラージュを行うことになるのである。

6月24日(金)
昨日のゼミ「スペキュラティヴデザイン」で、アンソニーダンが指摘するPPPP図の理解が足りなかったので再読する。アンソニー・ダンのPPPP図は未来に向けて開かれている(青図)。その中でぼくらはデザインによって、図中の赤部分を指向することが求められている。そこは、preferrable future(好ましい未来)というものである。そしてぼくらデザイナーの役割は、政治や経済に依存することなく、社会をpreferrable futureへ向かわせることにある、といっていた。ところでこの図のpreferrable futureは現在から出発した末広がりのかたちをしている。そしてティム・インゴルドがこの図をみたとしたら、それは現在に向かって過去からも線でつながっている、といいいそうである。昨日のゼミで共有ということがひとつのキーワードになった。この共有とは何か?それはこのPPPP図に書かれていない過去の線=遺産ということなのだろうと思う。

6月23日(木)
「ファンタスティック・プラネット」ルネ・ラルー監督を研究室で観る。バンド・デシネのような平面的な絵が展開される。この映画は科学的思考と野生の思考の対立構造になっているのがフランス映画らしい。原始人たる人間が最後にたどり着くのが野生(ソバージュ)の国、テラ地球であった。(原題は、La Planète sauvage)。この映画はアンソニー・ダンの「スペキュラティヴデザイン」で取り上げられているものだ。ぼくにとっては、人間のもっているはずの野生の思考の偉大さを考えさせられるものであった。アリのようであった人間が最後にロケットまで発射させるところまで行き着いている。「スペキュラティヴデザイン」で位置づけられている理由だろう。最後に科学的知識をもったもうひとつの人間と和平をするというのが、これまたフランス映画らしい。ぼくら人間は野生の思考とともに科学的思考も手に入れることになったというのだ。

6月22日(水)
ゼミにて展覧会の出展作品について相談。実現性をどこまで考えているかで1案に収束する。とはいえ、これから施工性を考えてもらい、もう何回かかたちの展開があることを期待したい。

6月19日(日)
オープンキャンパスのため大学行き。コロナのため予約制の人数を限定して実施であった。ぼくはAOの説明会を4回にわたって行った。近頃は倍率も高くなり難関である。皆真剣に聞いていた。OC終了間際に佐藤先生の実験室を訪れる。無響音室内で生音をシミュレーションしていた。ユクスキュルを読んだ経験もあって、仕組まれたシミュレーションに抗して聞き分けをしようと考えたのだが、出来たような出来なかったような、微妙な体験であった。

6月18日(土)
午後に芳賀沼さんのお別れ会にZoomで参加。18時になって明日のオープンキャンパス準備のため退席。出席者が各々が芳賀沼さんのキャリアを話し、あらためて芳賀沼さんの幅広いキャラクターを知る。実業家として、アカデミックな側面として、建築家として、復興活動家として、である。一方で芳賀沼さんはこれらの分野の人たちのことをよく批判もしていた。アナーキーで横断的な彼にとって分野が分かれていることは大きな壁であったにちがいない。ぼくとの関係は建築においてのみであった。芳賀沼さん自身がプロジェクトの先頭に立つので、彼の他分野とネットワークせずにすんだ。その分ぼくは気兼ねなく動くことができたのだと思う。それは他の人も同様であったに違いない。うすうす分かっていても彼の一面しかしれないことが彼のミステリアス性をつくっているのだろう。建築家に対してもよく批判していて、当初は建築を馬鹿にしていたと思う。ところがそうでもないことを難波さんから知ったにちがいない。しかし難波さんもミステリアスであるので、橋渡しをしてくれるぼくのような人を欲するようになった。それで、それまでのコトからモノをつくることへ関心が変わったと思う。それが今の作品に現れている。スタッフにまで共有されるとよかったと思っていたが、上手くいっているようだ。ところで今日もそうであるが、一方で芳賀沼さんの家族について話をする出席者はいなかった。芳賀沼さんにとって逆に家庭は自由にふるまうことができる安住場所であったのだろうと思った。

6月17日(金)
ちょっと時間ができはじたので、大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」を読み始める。表紙はウイリアム・ブレイク。導入からウイリアム・ブレイクの引用がはじまる。美や善の括弧外しをここで行うとしているようだ。

6月16日(木)
「生きていること」ティム・インゴルド著の読書会。ティム・インゴルドがこれほどまでうけているのはなぜか、彼が何と闘っているのか、それを実感してもらいたいと思うのだが、担当者を含めてこれを表現するのに苦労した。厚い本であるが担当者は詳細に読み込み、自らの視点に引き寄せようとしていた。この体得しようとしている点に大変共感を持てた。そう、ティム・インゴルドはタイトルにあるように生をテーマにしている。生とは動いていることである。体得するというのも生のひとつだろう。問題は、そうした認識(体得)はできても、動いているもの記述やモノにすること、制作といった留めざるを得ない作業をどう生成するかである。本書はこれをテーマとしている。彼がいうには、留まっている石や痕跡にも過程があり、それを把握することで未来へも留まらずに続けられるということである。担当者がこだわっていたあらゆる2項対立からの脱却という考えは、2項対立をつくる価値基準が、動いているものを一端凝固させてしまうからである。それは今年の読書会のユクスキュルにもスペキュラティヴデザインにも共通していて、価値基準の撤廃というものだ。ではまだ見えぬ予定調和的でない現象を把握する生なる方法としてどんな方法があるか。帰納法とか演繹法とか、ティム・インゴルドも否定するアブダクションなどあるが、そこには動きや生きていることに対する視点が欠けているかあるいは弱く、ティム・インゴルドはそこを強調している。その反対に位置するのがブリコラージュであるが、それは論理だっていない。ラトゥールのアクターネットワークもそこを強調している(でもティム・インゴルドはACTを否定)。建築でいえば、建築という行為はまさにそういったものであり、それを意識的にした例として、コールハースの偏執狂的批判的方法の狙いもそこにあるのだと思う。アレグザンダーのパタン・ランゲージも然りである。ところでティム・インゴルドはそのヒントを12章でつかんでいるようにぼくは思う。垂直思考と水平思考。別なところでは物的存在と道具的存在といっていたものだ。それを融合としようとしている。G・ベイトソンは、フィードバックとキャリブレーションといって、ロジカルタイプという融合方法を提案している。こうすると目標もなしにルーズな進行ができるといっているのである。まさに生態的である。

6月15日(水)
ゼミにて展覧会に向けてのテーマを絞っていく。ぼくとしては実施プロジェクトであるのでデザインスゴロクを使ってダイナミックな提案にしてほしいと思う。ダイナミックとは、テーマの大きさももちろんのこと、お金のこと施工性のこと安全性のことなど実効性も含めた提案をして、設計課題とは異なるものにすることである。素材やモノと多面的に格闘することで、イメージを超えてそこから何らかの新しい感性を発見し、それが作品に反映できればよいと思う。イメージを越えたいということである。

6月14日(火)
085 代表戦 日本×チュニジア 前半は互角。後半はミスから失点しペースを握られてしまうと、決定機までもつくることができず0-3の大敗。考えられる最悪のパターンである。相手は組織的な守備をしてきて遠藤ひとりではボール運びができなかった。また遠藤が動くとスペースができ、そこで奪われると危険な状態になっていた。チームとしての策が欲しい。それは攻撃陣でも同様。左サイドでは鎌田と南野が重なり窮屈そうであった。両ニアサイド裏をとった攻撃もみられそこは評価するも、単発で連続性がなかった。先発が交代するとさらにぐちゃぐちゃになり混雑気味になり、空いたスペースを使ってカウンターを食らう。どうやらその辺りもチュニジアには策があったようだ。森安批判があっても然りである。

6月13日(月)
「抽象の力」岡崎乾二郎著にある中谷芙二子の霧の彫刻について再読。ここで岡崎はいう。「中谷芙二子の作り出す霧に、何ものかを曖昧にしたり、神秘的に見える効果を見出すのは誤解である」。そして「建築家にとって霧の彫刻は単に、客体の恣意性を隠蔽する煙幕の代用にすぎない」ともいい、そうした建築家の態度を否定する。さらに「霧の効果のみを「神秘的である」などと賛美するのはさらなる欺瞞である」ともいっている。つまり中谷の作品の本質は、「事物の生成過程そのものを成り立たせる構造であり、その装置が開放したのは、いかなる固定的な形式をもブレークスルーする、相互に分離された無数の微粒子の集合が作り出すような自由な生成変化の能力、活動力そのものである」というのだ。だから建築家の態度は、人間の創造性や判断力を奪うロマンティシズムや神秘主義というものであり、否定しているのだ。中谷の父は寺田寅彦から学んだ物理学者であった。その父は、顕微鏡がもたらした綺麗な雪の結晶の発見によって、それぬ含まれない大多数の雪、そのもののあり方を見えなくしてしまった、といっていた。このことと同じ意味である。ティム・インゴルドで度々登場するパウル・クレーの「かたちを与える過程の創造性」というものは、中谷芙二子の作り出す霧の彫刻にあたる。

6月12日(日)
「線のしぐさ Gesture of Lines」展のため渋谷行き。線による作品を実践する多彩な作家の展覧会。齋藤裕一の作品は、線の重なりによって絵画が立体的に見える、これが印象的。線の濃淡によってこちらが勝手に立体と判断してしまうのである。トニー・ペデモンテは、綺麗な糸を丁寧に巻き付かせることでヘンテコな立体をつくっている。この中に入ってみたいと思う。杉田千春や池内晶子など糸を操る作家がこのごろ多い。これらの糸はつながれていても動くと見えが変わったりしながら決まりのない複雑な世界観を表現するものだ。渋谷を後にして、表参道ジャイロ内で開催されている「世界の終わりと環境世界」展へ。冒頭でユクスキュルが紹介されている。作品は、環世界からの広がりというよりも環世界の内性を表現するものが多い。大きな世界の中に位置づけられるひとつの環世界の紹介である。荒川修作などはマスターベーションであったりもするので、なかなか理解が難しい。エントランス部分で紹介されている数々の本も興味深い。ティモシー・モートンからはじまり、ジャックデリタ、レヴィストロース、プリコジン、アーレントなど、他者を前提とした繋がりが何かを問う本が多い。そこには個々の環世界を包む何かが期待されている。

6月11日(土)
軽井沢を経て、以前から訪れたかった村野藤吾設計の小山敬三美術館へ。小諸の千曲川を見下ろす小高い丘の上にある。小さく高さを抑えた美術館であるが、ゆっくり下るスロープ状の床になっていて、有機的なかたちの壁に沿って絵が掛けられる。そして壁の隙間からなめるように光が入る。中央から2手に分かれるプランはまた面白い。この構成はどこかで経験したような気になったのは、西澤さんの千住博美術館と重なったからだ。近くに谷口𠮷郎の藤村記念館もあったことを後で知る。中谷芙二子の霧の彫刻を観るために長野県立美術館へ。直線上に配置されたバルブから勢いよく霧が発生し、薄曇りの梅雨時期では、視界がゼロになるほど霧が凄かった。池にそってバルブがあるというがポイントだろうか。なぜ中谷はタイトルとして彫刻といっているのだろうか。作品に対峙するのとは違ったものがそこにあった。子供は大変喜んでいたのである。その後、善光寺へ。7年に一度の釈迦像ご開帳とあってすごい人。断念してお参りして戻る。いつもの蕎麦屋に立ち寄るも売れ切れで、そのまま中央道を使って家に戻る。

6月10日(金)
084 代表戦 日本×ガーナ ガーナは主力メンバーの数人が来日していないとはいえW杯出場国である。それに、日本は控え中心のメンバーでのぞむ。それでも4−1の大勝。久保や前田まで初ゴールを決める。どうやら日本は自分たちの距離感でプレーが出来ると強さを発揮するようだ。それはどの国も同じだろうが勝敗を左右する要因らしい。日本のどの選手もブラジルには全くプレーをさせてもらえなかった。ということは、戦術やテクニックよりも1対1が強い者、あるいは常時そうした環境でプレーしている者を選ぶべきである。と考えると遠藤以外の日本の中盤に不安が残る。後半の終わりには3バックも試す。最終ラインのDF陣はヨーロッパで経験を重ねているので、これまでは上手くいかなかったといえ、3バックも新しいひとつの手だろうと思う。

6月9日(木)
ゼミにて、展覧会に向けてのテーマ設定を少しずつ決めていく。子供に向けて、何をメッセージとするか具体的になってきた。そのテーマを子供に伝える方法が作品になればよいと思う。スペキュラティヴデザインで学んだことだ。ティム・インゴルドを読んでいるが、そこでは世界(対象)だけでなく観察者も動いているという。そうした世界観を示したいと個人的には思う。

6月7日(火)
昨日のブラジル戦で自信を振り返る田中碧のインタビューが印象的であった。田中を見直した。「今は言語化できない。それくらい分かりやすく離れていたけど、その差はフィジカルやスピードという抽象的な言葉で終わらせるのではなく、細分化して消化しないといけない。まだ整理はできていない感じがする。まずは肌感覚と映像を照らし合わせて、感じていたものが客観的に見て違うのか、合っているのか。自分と相手との関係で、サッカーには相手がいてゲームの流れや運も作用する。自分がそういう選手に追いつくための具体的なものを見つけないと追いつけない。その作業は簡単ではない。それが分かれば追いつける」。なんと頼もしい言葉か。

6月6日(月)
083 代表戦 日本×ブラジル 終了間際まで0点で引っ張るも、PKを献上し0-1で負ける。点差以上の差を感じたのは、得点できる兆しが見えなかったことだ。日本の攻撃のひとつめのパターンである伊東が、左SBばかりかカゼミーロの2人がかりで囲まれると、それ以上の展開はお手上げ状態になってしまった。今のブラジルは組織的だ。後半から鎌田投入。そして反対サイドの三笘を続けて投入。しかし攻撃のかたちは依然としてつくれず。ようやく三笘にボールが入るようになったのは、相手が疲れてきてからであった。頼みの遠藤は相手を潰すことができていたものの、ビルトアップを明らかに狙われアップアップであった。後半からブラジルは前線からのプレッシングをより強めてきたので、これをかいくぐる術は遠藤だけでは無理であった。おそらくサイドに振ってからもう一度中へというのが有効だろうがそれが単発であった。いつもとは逆のサイドの長友は攻撃では内に絞り、伊東や原口とワンツーを成立させてはいたのだが、もっと数を増やさないといけない。しかし守備では貢献しヴィニシウスを封じた。森安が長友を使い続ける理由が分かった。とにかく日本には戦術性のなさを感じる。

6月5日(日)
学生から、ブルックスの包摂(サブサンプション)アーキテクチュアについての質問を受ける。ブルックスが革新的であったのは、ぼくの理解によると、数多の1対1プログラムを直接構築することをせずに、3つのヒエラルキー構造をプログラムとして持ち込むことで、自分の脳で判断したかのようにロボットを動かすことに成功したということである。質問をしてきた学生はこれを実感できないようであったので、子供のノイローゼの例を示した。この例は、G・ベイトソンから教えられたものである。2人の母と子がいる。母は忙しい。子供も寂しいことがあるのだろう。母に愛されたいと思い抱っこされたいと思う。しかし母は家事で忙しく思わずきつい言葉を言ってしまう。「ちょっとテレビでも観ていて」と。すると子供は、母に愛されたいのであるが、母が忙しいことを想像すると無理を言ってはいけないと思うし、でも抱っこされたいと思い、これが重なると一種のノイローゼ状態になってしまう。これをダブルバインド(二重拘束)といっていた。しかし健全な状態であれば子供は、今母が忙しいので無理であるけれども、もう少し我慢して夕飯後には大丈夫、だから母に愛されていないことはない、と考えることができる。これをロジカルタイプ(階層性)が上がる思考といい、生態構造とはこういうものだといっていた。生態という限りベイトソンにとってこの思考方法は、人固有なものでないことを示しているのであるが、ブルックスの人工ロボットはまさにこれを可能にしたものであった。だから、アンディ・クラークは「現れる存在」でブルックスを度々取り上げている。ちなみに、ベイトソンはキャリブレーションとフィードバックという2つの思考方法を挙げている。そして、これを繰り返すことでロジカルタイプが上がるといっている。これは次の読書会で取り上げるティム・インゴルドに通じるものでもある。

6月4日(土)
082 代表戦 スペイン×ポルトガル 1-1のドロー。後半になると中盤の潰し合いでゲームとしては面白くなかったが、ちょっとしたミスでこぼれたボールがチャンスになったりするのを観て興奮する。真剣勝負ではこういう結果になる。日本が本大会で負けるのは、こうした状況においてである。解説者はこれを集中力の差ともいっていたが、経験によってどこで集中力度を高めればよいかを伺う感が働き、それとの連携だとぼくは思う。集中力というのは、論理で説明できない場合、これを人間性に負わせる悪い近代思考と、ラトゥールが批判していた、ことを思い出した。

6月3日(金)
081 代表戦 日本×パラグライ 昨日の日本強かった。半年前とは全く異なっていた。相手の真剣さによって、日本代表は変わるのだろうか。それとも今日の中盤、原口と鎌田がよかったか。ビルドアップに苦しむところもあったが、それを抜けると相手を翻弄させていた。思えば、五輪前の代表がそうであった。そこには鎌田がいた。次のブラジルが楽しみである。

6月2日(木)
今年度の第4回目の読書会。「鉄筋コンクリート建築の考古学 アナトール・ボドーとその時代」後藤武著である。人は物事や現象を理解するときに、身体を通じて動的把握することもあるし、言葉などを通じて頭で理解すること(静的理解)もあり、この2つを、場合に応じて使い分ける。だからぼくはスポーツに興味をもったりする。本書が面白いのは同様に、コンクリートが生まれてきた経緯を、副題にもあるように考古学といっていて、観察(静的)でもって極めて連続的(動的)に捉えているところにある。それは次回のティム・インゴルドの読書会にも通じる。ひとつひとつの証拠(事実)は静的な頭で理解出来るものであるのだが、その時代をコンテクストの中で考えると、そこから浮かび上がる動的物として考えられる。そしてそうしたひとつひとつの事実を積み重ねることによって、コンクリート発明という全域的最大なものにまでストーリー化されている。このような印象を本書からもった。この方法をぼくらもリサーチにおいて学ばなければならない。観察結果を応用するときに、それを成立させているコンテクストとペアで理解するときっと、結果が急に生き生きとして設計への応用が効き、ジャンプしているなどといわれなくなるのではないか。なぜなら、その動きはコンテクストとの関係において理解済みにされているから。パタン・ランゲージとはそういうものであると思うのだが、こんなことを実践している本であったと思う。

6月1日(水)
今日から設計課題は小学校に入る。夜のゼミで、展覧会のテーマを協議する。民主的に決定していく方法を模索中。まずは問題点を挙げて、それからぼくらのメッセージを何にするかを話し合う。問題点を周知するだけでもよいことは、最近のデザイン傾向からも知っている。それを来週のテーマとする。

5月31日(火)
「鉄筋コンクリート建築の考古学 アナトール・ボドーとその時代」後藤武著の再読。ヴィオレ・デュクのゴシックの関心は力の流れにあった。ボドーは、ヴィオレ・デュクからゴシックの木造屋根とアーチがはらむための控え壁=フライングバットレスの2つが不純であることを学んだ。そこでゴシックからさらに遡り、ビザンチンやロマネスクにおける力を内在させる構造形式に活路を見出そうとしたのである。それが圧縮のみを受け持つペンデンティヴの存在の発見である。ぼくが解釈するとおそらくこの解決のために、力を素直に流す交差ヴォールトに行き着き、ダブルアーチ方式のサン・ジャン・ド・モンマルトル教会をつくったのだろう。この教会は柱が45度傾いている。しかしその構成とシマン・アルメ構法との関係が本書では曖昧で、その解釈に飛躍があるのではないかと思う。ぼくなりに資料から推測すると、交差ヴォールトリブはまずはヴォールトかたちをつくるための仮設物であり、煉瓦は軽い型枠でないか。それがかたちとして壊れないために鉄筋材があり、むしろ煉瓦を圧密接させるためのものであったか。だから全体構造の引張力のために鉄筋があるのではないと思う。このリブが完成するとモルタルを流し込み面として一体化させ、ドーム効果もあって重い荷重に耐え得るようにしている。これはパンテオンのドームつくりの解説にもとづくものである、あるいは、ヴィオレ・デュクの構造関心で多く言われているようにそれは動的構造なので、ヴォールトリブが菱面体として捻れるときに局所的な引張材として効いているのかもしれない。いずれにせよ、こうした点でラーメン構造の元祖となったシステム・エヌビック構法と異なるものとなった。本書によると、この施工性の悪さによりシステム・エヌビック構法に負け、今のコンクリート構法があるという。つまり、歴史との連続性がその後見えなくなくなってしまったのである。

5月30日(月)
「動いている庭」ジル・クレマン著を読み終える。「動いている庭」とはセンセショーナルナタイトルである。本書での主張は、あらかじめ庭のデザインがあるわけでなく、その場の環境から導かれる草花の動きを庭師が解釈して方向づけをして、そこから昆虫や動物、人を、庭を中心に織りなしていくことである。その数々の実例が時間を追って示されている。というと当たり前に聞こえるが、どうやら庭のデザインには庭師と修景家に2分されているようだ。ぼくらのゼミテーマに合わせると、これは経験と計画(理念)といってもよいと思う。ところで本書では数々の力強い引用や彼自身の文章がある。「生物学的事実・・ 生という言葉は魔法の言葉であり、価値を与えられた言葉である。生命原理を引き合いに出すなら、他のどんな原理も色褪せてしまう(パシュラール「科学的精神の形成」より)。「変化の動きは庭の構想を絶えず覆す。だからすべては庭師の手中にあり、庭師こそがコンセプトをつくるだす。<動き>が彼の手段、草花が彼の素材、生命が彼の認識だ」。「荒れ地とは、極限的な生の場所である。それは極相への入り口なのだ」。「壁のひび割れに視線を漂わせる。それは昔からあったと思うけれど、いま気がついた」。「どんな事実もばらばらのままにせず、まるごと理解すること。ひとつの仮説にしたがって、不意にそれらを組み合わせてみること。とどまろうとする傾向に逆らうこと。創出は生じるままにしておくこと。ある創出に、また別の創出が続いていくから」。パタンランゲージのことであり散逸構造だ。

5月29日(日)
瀬戸さん、菅原さん、菅野さんたちと昨日話したことを思い返す。彼らの言葉や作品を見ると、すでに建築は出来上がってしまって、そこに未来を感じられないので、新しい方向性を建築以外の他との絡みから目指している、このことがわかる。これまでの建築家は社会に取り込まれてしまう危惧から社会を越えようとしていた、こうした拘りがない。だから個人として丸腰でも、街や社会にどうコミットするかを明確にしている。だから建築側からいうとコミットするときの切り口が問題にされるのだが、建築における帰属意識はないのだろうか。  080 CL決勝 リヴァプール×レアル・マドリード 百戦錬磨のレアルの堂々とした戦いぶりが勝利を呼んだ。リヴァプールは何度もゴールに襲いかかるもその直前で阻止され続けた。とはいえ、レアルにはヴィニシウスというキレキレの若手もいて彼が得点を決めた。1-0でレアル勝利。これで今季のスケジュールが終わる。今季はアーセナルとフランクフルトの戦いぶりが面白かった。どちらも単純なところからはじまる縦へ早い展開であった。これに日本人が絡んでいるのがまたよい。

5月28日(土)
第14回目のCリーグを日大生産工学部で行う。審査員に栗生明氏、比嘉武彦氏、瀬戸健似氏、菅原大輔氏、菅野龍氏を迎える。発表者の多くが地道な計画をしていて、学校という課題に即した提案をするようになった。残された問題は、教室以外での学びに対するリアリティの欠如。それを理大の垣野さんと話をした。都心の小学校の場合に今後そこが突破口になるのだと思う。審査員による優秀案は、そうした視点にたって、よく練られた案が選ばれたと思う。電気大の案は都会における4層建築の提案であり、千葉大の案は校舎を凝縮し塊にした案であった。どちらも恵まれない条件で工夫がなされている。切り口よりも計画の妙さがあるものが選ばれた。千葉工大からは4作品がエントリー。発表を聞き、よいところまでいけたと思っていたが、皆川さんの案のみ通過する。大屋根のかたちと神社の扱いが問題にされたのだが、どちらも詳細な思考がほしいということであったと思う。学校は管理と自由の両面をもっているので、その境界を越えるものとして、神社という聖域性をもっと持ち出すべきだという比嘉さんの指摘は面白い。神社の参道は聖域への入り口でもあり、子供の遊び場であったりする。この性格に着目し学校内の引き込み路の性格付けすると、他の案とは異なったものになるという指摘であったと思う。このようにCリーグでも卒制のように、計画+建築コンセプトが試されるようになった。注意しないといけないのは、学校計画の上での建築コンセプトである。それは瀧岡さんの案にもいえそうだ。細かい居場所つくりが問題にされたのは、それだけ瀧岡さんがそれを考えていたということでもある。そこから、建築全体のコンセプトを印象付ける何か?それが必要とされたのだろう。道をつくることは既に定型となってしまったので、ぼくはトップライトのかたちとか屋根のかたちだと思うのだが、今後それに対する見識を頑張るとよい。

5月26日(木)
諸会議を挟み夕方から第3回目の読書会。「ブルックスの知能ロボット論」ブルックス著。副読本として「ロボット」カレル・チャペック著。ぼくらは設計するとき、条件を拾いリサーチを繰り返し、情報の積み上げを試みる。しかしいくら情報を増やしても自動的にかたちになることはない。否が応でもそこでジャンプすることが必要とされる。それは、センスや経験、あるいは個人能力に負うものが大きいというのが一般的な考えであった。そうではいと真っ向から否定するのが本書である。本書のいう「サブサンプション・アーキテクチュア(包摂アーキテクチャ)」が、このジャンプを説明してくれるもので、本書のテーマである。サブサンプション・アーキテクチュアとは何か?ゲンギスというロボットプログラムでこれを説明してくれている。ゲンギスには3段階の制御処理が組み込まれている。包摂とは利用するということである。すでに組み込んだものをいじらずに動く状態にしたまま、新たな制御系を追加していくことである。最初の層には、障害物接触を避けるためのセンサー機能のプログラム。2番目の層には、目的もなく彷徨するプログラム。そして3層目には、対象を指定すると探索するプログラム。この包摂アーキテクチャ構造によって、ロボットはまるで生き物のように、あるいは意志があるような動きをしたというのだ。ブルックスは、脳のない昆虫が動くのにそんな多くの情報を操れることなどない、ここから発想している。たった数個の命令系統だけでよいと考えたのだ。これまでのロボットは、いくら情報を内部に組み込んでもフリーズすることが多かった。つまりプログラムの複雑化や精密さで問題は解決されなかった。しかしその問題をこの包摂アーキテクチュアで乗り越えたのである。議論で、他にこうした包摂アーキテクチャ構造らしきものは何かを挙げてみた。サッカーなどのスポーツプレーはどうか。少ないルールで多様なゲーム展開が行われる。植物の花の形などどうか?おそらく太陽に向かうことや花粉など、そう多くはない条件のもとで多様な花が存在している、など。機械論から一歩抜け出すこのような包摂方式が鍵であるに違いない。もしこれを理性で判断できれば、設計におけるジャンプも容易にできるはずだ。第1回目の読書会テーマ、スペキュラティヴデザインもこのジャンプを促す鍵といってもよい気がする。Aシステムは機械論で、Bシステムは逐一解答をもとめずに問うスペキュラティヴデザインである。しかもBデザインは批評的であったりする。このBデザインによって、デザインされたモノと参加する人を一体にみると、ゲンギスのように予定調和的行動を脱して、予想プログラム外の成果をあげることになる。ジャンプとはこういうことなどと思う。チムポムの道作品は、このように考えると、美術館という厳しい動線規則の上に彷徨を促す道プログラムがあって、道で開催されるイベントを企画する、という3つのアイデアが包摂相まってこれまでにない過激な作品となっている(つまりありきたりの作品でない)。評価対象にまでなっているのかもしれない。最後に、道具の存在についてある学生から問われた。そう、道具という存在も、このジャンプを促す道具であるのだ。はさみを手にすると、どんなものをつくりたいかが思いついたりするのである。デザインスゴロクなどもそうなのだ。

5月25日(水)
「公の時代」卯城竜太(チムポム)+松田修著を読む。仕込まれた公共性。3.11以降おかしな自主規制。公共のブラックホール化や市民発の下からの監視体制、というコメントが印象的。青木淳さんとの対談も面白い。突き上げる卯城+松田に対し大人の青木さんを見ることができる。青木さんは、いつの間にか騙していて超一流の詐欺師のような振る舞いである。この本全体にあるのは、今や社会はクラスタ化してさらにセクタ化する傾向にあるという。その裏返しで彼らは公を考えるようになった。その意見に同調もするも、ぼくとしては大文字の「」を考えるようになったといいたい。ちょっと右傾化して危ない表現ではあるのだが、個と「」が同時に考えるようになるのではと思う。

5月24日(火)
OBからのメールの後で曲面を扱う建築家を探していたら、丸山洋志さんのぼくにエリップスについての批評が10+1に2回に分けて展開されていたのを発見する。https://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1086/ https://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1311/  ぼくの名前を雅樹とわざわざ間違えているのは丸山さんらしい。丸山さんはぼくのエリップスを酒のつまみにして、建築を理性的に判断しようとする建築家たちを批判している。ベルクソンやアイゼンマンをも持ち出し難解な内容ではあるが要約すると、ぼくらは先験的理念に縛られていてそれに自覚的になるべきであり、その外部に出るためには空間や時間への思考が必要である、というものであった。ぼくがエリップスで考えたことは、丸山さんの批評と重ならないこともないのだが、既知の幾何学を使用しないことで、ぼくの中にある思い込みを意図的に超えようとしていたし、実際にあまりにもヘンテコなかたちをしているので、第3者がつくらざるを得ない状況においては、全体をコントロールすることなど到底不可能で、ある種の施工常識みたいなものまでを超えざるを得ないものであった。つまりぼくの思考枠組みばかりでなく、社会枠組みも超えざるを得ないプロジェクトであった。だから、コントロールに代表される理性的態度よりも、対象の処理を通じてそれを記録として作品にとどめる建築のあり方の表現をとったのだ。それが「モノのあり方をアナログ的にトレースする」と、ぼくが建築文化の誌上でいった意味である。それを時間への表現ともいえるが、自己言及によって、思い込みでなく、もしナチュラルで純粋な社会のあるべき姿などがあるとしたら、そうしたものに近づきたいと考えたものであったのだ。

5月23日(月)
「ロボット」カレル・チャペック著を再読。ロボットの出現がもたらす問題を予言的に言い当てた戯曲であった。ロボットと人を対比的に扱わないのが、ブルックスの本と似ている。しかし読後の印象は異なる。それはロボットへの信頼度合いの違いなのか?と思う。そしてこの違いによって、人の本質というものがときに見えなくなってしまうこともあるようだ。これは、第1回目読書会で観たチムポムが主張する内容と一致するかもしれない。チムポムは歌舞伎町と高円寺において道を作品化していた。しかしそれは、ぼくらが道に寄せる自由という思いを批判するものであったと思う。道は何某かにコントロールされているとチムポムはいっているかのようだ。2作目の高円寺における道は制作後、一般の人が自由を謳歌する展開にならなかったらしい。自由の受容とは難しいのである。自由とか人の本質とかいったものは分かったつもりでいても、実は曖昧模糊としていて問題に上げるべき深部にあるものものなのだ。建築に引き寄せると、池辺さんの「名前のない空間へ」を目指すことに値するのだろう。それほど条件や常識は確かなものではないのである。
079 ラ・リーガ オサスナ×マジョルカ 2部落ちかどうかの運命の最終節。マジョルカは、リームとして集中しmしっかり守り少ないチャンスをものにして勝ち点3を勝ち取った。これで残留が決まる。これらを支えたメンバーの多くはマジョルカをずっと支えてきた選手たちである。色々いわれても、最後は必死さが全てであった。残念ながら1点を守る展開での久保の登場はなし。これでマジョルカでのプレーは見納めとなるのか、注目である。

5月22日(日)
午前墓参り。午後はブルックスの本を再読。本書は機械論を優先する。戦後ウィナーから発したサイバネティックス理論がここに来てホーリズムをもつようなる。参考までに、この機械論から逃れるように、ニューサイエンスやマトゥラーナ、バレーナらによる生命の自己組織化を言及する動きが、オートポイエシースとして80年代から起きている。
078 プレミア マンチェスターシティ×アストンビラ プレミア最終節。ジェラード率いるアストンビラがどれだけシティに抵抗するかが見物であったが、追い詰めたものの2-3となり結果に結びつけることはできなかった。これでシティがリーグ戦を勝ち取った。逼迫する状態で2点差を追いつくのは選手交代を含めて監督の頭脳の賜物である。

5月21日(土)
日本代表28名が発表された。大迫と酒井がいないことに驚く。鎌田や堂安、伊藤と菅原がリスト入り。徐々に入れ替わっている。7月からアンデルセン公園で研究室の展示が行われる。その下見に行く。敷地となる前庭は意外と広くなかった。図面から見るスケール感とは恐ろしい。その後制作の進め方について議論する。面白いことになりそうだ。四街道を回り帰宅。

5月20日(金)
午後から4年生の設計中間発表。比嘉さんと谷口さんの指導により。直ぐにかたちとして答えるのではなく、宙ぶらりんの状態で設計を進めること、このことが試されていた。今年のゼミの読書会に引き寄せると、問題を自ら発見しそれを拾い上げて条件とし、それらを下から積み上げていく方法が試されていることになる。さあこれから遠藤研の学生はどのようにかたちに昇華させるか、期待である。スペキュラティヴデザインでは批評性が問題にされていた。ユクスキュルでは、他者とのコミュニケーション方法が問題にされていた。AIではどうか?ブルックスは新しい積み上げ方式を提案している。ボドーの記録はその試行錯誤の中心に「建築」への視点がある。そして、ティム・インゴルドはどうか?水平思考と垂直思考の融合を目指している。読書会の成果をためすよい機会と思う。

5月19日(木)
ゼミにて今年の第2回目の読書会。ユクスキュルの「生物から見た世界」。副読本として「建築する動物」ユルゲン・タウツ著と「建築する動物たち」マイク・ハンセル著を挙げる。本書でユクスキュルは、それぞれの種にはそれぞれの環世界があり、それらは自律しているといっている。それぞれの生物は、細胞レベルで刺激に反応する独自の系の機能環というもので構成されている。だから違う環境環をもっているもの同士は交差する術がないというのだ。だとすると、様々な生物たちが地球という環境の上で互いに助け合っている、この事実をどう説明するかという疑問があがる。これがひとつめの今日のテーマであった。例えば、副読本にあるようにビーバーが、枝で巣つくりをし、それが他の川辺生物の増水からの危機から守っているような例である。それについての説明は、偶然というものが考えられた。偶然をテーマに多くの科学者や哲学者が論じている。ジャック・モノーやハーバート・サイモン、ダンカン・ワッツそしてローティなどで、近頃はネットワーク論によって数学的に説明しようともしている。そこでは、偶然を事後に起きる結果論としてみていて、英語でいうとaccidenntではなくsynchronicity,coincidenceととらえるものだ。その延長上で最近では、人間中心主義を否定するようになっている。環世界が独立しているのだから、他生物を人の環世界から判断するのは傲慢であるという考えである。学生たちもでは、どうしたら人間は閉じた自分の環世界からヌケだして他の生物と接すればよいのだろうかという疑問を次にもっていた。それについても話し合った。そのひとつの答えとして、知識の利用という意見が出た。例えば、猫が鉢の土の上で寝ているのを、場所がなくてかわいそうとみるのではなく、猫の体温が土中温度より高いという知識をもてば、夏の日の猫を理解する手助けになる。つまり知識を駆使することよって知覚では把握できない世界をとらえることができるのである。これで、今年の読書会のテーマ、知識と体験の間、に近づく。つまり知識は、環世界の外に出るための可能性あるものという訳である。これは今日の2つめの発見であった。では次にぼくら人間同志で他者とコミュニケーションをするときはどうだろう。人間は何億という違った環境環をもっているので、ユクスキュルによればそこにコミュニケーションなどいうものは生まれないことになる。これについての議論では、両者が知識を総動員して共通項を設定することが大切であるという意見が出た。それは共通の趣味や話題をもつことかはじめ、もっというと文化、言葉というものの存在意義まで至る。アレグザンダーは、そうした観点に立って建築をつくるためにパタン・ランゲージというものを発明した。ユクスキュルは偉大だ。ユクスキュルは環世界という閉じた世界観を示した。しかしそれはコミュニケーションの方法の可能性を示すものでもあるのだ。このことを再発見した話し合いであった。

5月18日(水)
076 プレミア サウサンプトン×リヴァプール 南野が先発し貴重な同点弾をたたき出す。チームにフィットしていることを印象づける。これで再びシティと勝ち点差は1となる。これで最終節をむかえる。
077 EL決勝 フランクフルト×レンジャーズ 1-1のドローからPKでフランクフルトが優勝。セビージャスタジアムの半分以上がフランクフルトの白で埋め尽くされていた。鎌田先発。得点できなかったものの、2度ゴールに迫った。長谷部も怪我人が出たため途中出場。失点した直後であったのだが、チームに安定感をもたらした。フランクフルトは、バルセロナを破ってからの勢いは凄かった。とにかく縦へ早い展開をする。この戦い方は日本代表でも参考になる。

5月17日(火)
「鉄筋コンクリート建築の考古学」を読み終える。最終章では、ボドーの1891年の機械館代案もある。この案に代表されるようにボドーもヴィオレ・ル・デュクも否定していたのは、新しい鉄という素材のこれまでの歴史との連続性のなさである。新しい素材であるのでその連続性が薄いのは当然であるのだが、「建築」という文脈の奥底に潜む連続性がこの素材にもあることをボドーとヴィオレ・ル・デュク両者を通じて後藤氏は探り当てたのである。これに圧倒される。ぼくは授業で、機械館やエッフェル塔などが、「建築」から相手にされなかった事実を前向きに評価している。それは、「建築」の小ささを批評するところから生まれるものであるが、後藤氏は「建築」の存在をポジティヴにとらえているところが新鮮で現在的でもある。反省である。あるいは通常、ゴシック建築は知的でないと判断されるところを、ロマネスク・ビザンティンへつなげて、構造という別な知的領域へ引き込んでいるのもなかなかである。以前からサン・ジャン・ド・モンマルトル教会を訪れたいと思っていた。この形の意味を知って、その思いは強くなった。ところで、この本には資料に向かう姿勢に学ぶべきものがある。資料を丁寧に結びつけることにおいて、後藤氏の直感(仮説)が働いている。それは、「第一機械時代の理論とデザイン」における、コルビジュエが革命的な宣言をしたのにもかかわらず作品には前史との連続性があったというバンハムの指摘である。これと同じ論を、ヴィオレ・ル・デュクの資料を追っていく中で、思い至ったのであろう。そしてそれを完璧なストーリーに仕立て上げている。こうした姿勢を学ぶ必要があると思った。

5月16日(月)
075 ラ・リーガ マジョルカ×バジョカーノ 今日は5バックが決まり先制、そして60分まで0で押さえる。そして久保とロドリゲスを送る。もうひとつギアがあがり、ロスタイムに逆転弾。降格圏から抜け出した。次節が最終戦。アウエーとなるが、なんとか踏ん張って欲しいと思う。久保も奮闘。ドリブル突破でチームに勢いを与えていた。

5月15日(日)
「鉄筋コンクリート建築の考古学」3章は、ボドー同時期のロマネスク・ビザンティンへの建築家の関心について。4章は、そうした中でボドーがシマン・アルメ構法にたどり着くまでの過程である。その間にサン・リュバン教会、サン・ピエール教会、サン・ジャン教会、そして学校とホールを設計した。それらは、ゴシックの控壁やフライングバットレスを消去するためにペンデンティヴや鉄による引張力を利用するものであった。
074 FA杯 チェルシー×リヴァプール 今日も120分戦いの後PK。リヴァプールが優勝。0-0とはいえ、見応えのある密度のある戦いであった。クロップもトゥヘルも周知の間柄。互いに譲らなかった。これでリヴァプールは2冠目。4冠への夢は膨らむ。

5月14日(土)
「鉄筋コンクリート建築の考古学 アナトール・ド・ボドーとその時代」後藤武著を再び読み始める。2章は、ド・ボドーとヴィオレ・ル・デュクとの連続性について。ヴィオレ・ル・デュクは鉄を使用してゴシック建築を再考したことは有名であり、そのことが詳細に書かれている。「ヴィオレ・ル・デュクは、弾性と均衡の原理に基づくゴシック建築の構造が19世紀における鉄の構築を先取るものだったと解釈し、その原理を発展させていくために石と鉄との複合的な構造形式を見出していったP52」。このアナクロニズム的思考をボドーが引き継いだという。ボドーはさらに時代を遡り、ゴシックからロマネスクビザンティンへとむかったという。その中でも石から煉瓦への変遷についてを着目した。2章においては、パンテオンに見る古代ローマのドーム構法を知る。幾度となく本で読んだことだであったが、それが図解によって詳細に理解できた。これはブルネレスキのフィレンツェのクーポラでも行っていた構法である。どうやら骨組とドームを一体化させるハイブリットのこの構法が、ボドーの鉄筋コンクリート発想の源であったらしい。ところで面白いのは、ボドーとヴィオレ・ル・デュクのラブルーストへの批判である。ラブルーストの有名なサント・ジュヌヴィエーヴ図書館の鉄の扱いを、圧縮力や軽量に負っていて鉄の材料の引張力を活かしていないとして批判していた。
073 プレミア トットナム×アーセナル アーセナルは早々に退場者が出て10人。最後にはCBに故障者も出る。そのため富安は左SBから右のCB、左のCBなど様々なポジションをこなした。10人となっても攻撃的になるための富安のポジショニングは絶妙であった。これまでの右SBとは異なり、前線深く入りこむ中に絞るかたちでいた。0-3の大敗。それでも勝ち点1差で4位にいる。

5月13日(金)
072 ラ・リーガ セビージャ×マジョルカ 両者の立場が違うものの、CL進出と降格がかかった熱い戦いである。マジョルカは5バックでのぞみ耐え続けることができたので、今日はゲームが引き締まった。そこが前節と違うところである。そうした緊張感の中75分過ぎから久保が投入される。2トップでムリキの後ろに位置しムリキからのヘディングを拾い、速攻を仕掛ける役目が課されていた。終了間際の久保を起点とした縦への速い攻撃をマジョルカは決めたかった。0-0のドロー。ライバルが勝ち点を積み上げる中、なんとか踏みとどまっているのだが、状況は厳しい。

5月12日(木)
「スペキュラティヴ・デザイン」アンソニー・ダン+フィオナ・レイビー著の読書会。最初に担当者から本の概要を説明してもらった後に千葉工大を後にして、六本木美術館開催中のチムボム展へ行く。その後、チムポム展について話し合う。活発な意見交換を行い、はじめの読書会として上手くいった。ところでチムポンも鑑賞するぼくらも、これまで生きてきて培われてきた頭による知識(これを担当者は理論といっていた)とこれまでの経験をもとにして、対象を理解したり感じたりする。それぞれのもつ知識や経験は当然のことながら違っているので基本的には意思疎通は難しいはずである。それなのに、この「スペキュラティブ・デザイン」でいうところの従来のAデザインは、それがあたかも可能である前提に立って私たちはデザインを進めきたといっていて、否定的なのである。そして一方のBデザインは、そうした前提を否定したところから出発しているにも関わらずコミュニケーション共有可能で、そうするためには、ここでいうスペキュラティヴな方法が有効であるといっている、らしい。と考えると、この本の帯にあるスプツニ子の言葉は俄然重みをおびてくる。「世界は常に人の頭からうまれている」。つまり、正しいリアルな姿などないらしいのだ。だから、知識(担当者がいっていた理論)もいい加減なものだし、経験とは尚更なものなのである。チムポムのリーダー卯城竜太の書籍「公の時代」のはじまりで、彼は幼年時代のエピソードを紹介している。それは、「サンタが死んだ」というエッセイである。内容を要約すると、彼が幼かった頃、母親からサンタが死んでしまったので今年からクリスマスプレゼントをもらえないと言われた。それを次の日に友達に話をしたら、友達皆もそのことを知っていて、皆で残念な思いをした、というエッセイである。ただしそれは尼崎のゲトー内でのことと、このエッセイでいっている。そしてこの体験が今の作品制作にたいする確信に至っているというのだ。凄くユーモアたっぷりの社会批評である。ぼくらはチムポムとスペキュラティヴデザインが噛むと直感した。そうだとすると、デザインを共有する大きな秘密がこの2つの絡むところに隠れていそうである。今年の読書会で、これがとらえられたらと面白い。

5月11日(水)
「スペキュラティヴ・デザイン」アンソニー・ダン+フィオナ・レイビー著を再読。様々なスペキュラティヴデザインの例が示されているので分かりやすい。それら例は全て目次の次にあるA/Bデザインが示すことの説明としてある。それでもなかなか分かりづらいスペキュラティヴが意味するところは、「はさみ」の例を持ち出すと、Aのパラダイムでは切りやすさや刃の形状、刃の鉄成分、または指穴リングの形や大きさ、売れ筋の色、価格などをデザインすることである。対してBのパラダイムでは、はさみを使って何をつくるか、を考えさせるようなはさみのデザインである。あるいははさみを手にしたときどんなものをつくりたいと思わせるかのデザインである。実は、こうした思考に建築の学生は慣れていて、例えば住宅の設計では経済性や使いやすさ、快適性の他に、例えばどんな生活を送ることが可能かを日頃から考えているのだ。ぼくがよく例に出すEVの待ち時間を減らすためのホールに置く「鏡」のデザイン例もBだろう。この場合、鏡の大きさ、形や位置、クリア性などよりも、鏡をEV前に置くことで時間が忘れられるという鏡の存在自体の変化がデザインされたものだ。つまり、これまでのAデザインは最適化するものであり、Bデザインはより大きなコンテクストに位置づけることなのだと、合点する。答えを求めるものから可能性を残すデザインである。集約型か発散あるいは拡張型なのかの違いでもある。こう考えると卒業設計でのリサーチには分析だけでは不十分で、周囲との関係などの外へのつながり指向が必要となってくる。パタン・ランゲージは空間と出来事のセットとしてあり、この意味で先進的な思考形態の提案であった。

5月10日(火)
アンデルセン美術館と八咫さんの倉本さん露口さんが来研してくださった。ワークショップ室前の大きな前庭での展示、そして7/16−8/26の展示期間が決まった。夏休み期間ということで、船橋の子供たちに興味をもってもらい彼らをいかに展示に引き込めるか、これが求められた。展示場所は大きく、同時期に開催されるメディアアートの斬新性を考えると、気合いを入れる必要がありそうだ。午後、森美術館で開催中のチムボム展へ行く。ノリからはじまり、最近ではかなり批判的な作品+パフォーマンスをする人たちだ。彼らにははっきりとした、隠されている問題を表面化するというコンセプトがある。これが社会から観ると批判的になるのである。その対象は都市公害からパンデミック、3.11、ヒロシマ、トランプの国境壁など多岐にわたる。対象が社会的な場合には抵抗力となって彼らの力が十分に発揮できるのだが、徐々に主体性がはっきりしその矛先が内面に向かいはじめ、作品の深度が問題になっていくと従来のアートと変わりなくなっていくことが気になった。

5月9日(月)
AIの本に続き、最近のデザイン分野の傾向とアプリの開発方法を知るために「オブジェクト指向UIデザイン」上野学著を再読。これまでのタスク指向のUIデザインを否定し、オブジェクト指向デザインに現在のアプリデザインは置き換わってきた。タスク中心プログラムとはyes or no チャートにしたがうようなもので、タスクでなくオブジェクトというのは、たまたま目についた問題箇所を修正することで進み、無限に結果が広がるものである。あくまでも主導権がユーザ自体にあり、したがっていかにアプリと相互作用させるかが重要とされる。それによって生まれるものが期待されているのだ。道具の開発に近い。中心がHowでなくWhatとなっているが、最終目標があるわけではない。ブルックスのアレンロボットのセンサー開発にあたるものである。

5月8日日)
「ブルックスの知能ロボット論」を読み終える。機械論的思考をみじんも疑問を持たない本として傑出していた。ぼくたちが人間としてだいじにしている意識とかセンスとかいった思考は、つくられた幻影でしかないといっているようだ。振り返るとブルックスのサブサンプション・アーキテクチュアは、アレグザンダーの漸進的成長あるいは構造保存則と同じであったりする。ぼくにとっては理解しやすかった。
071 プレミア アーセナル×リーズ 開始早々にアーセナルは2点を先取し逃げ切る。そこに安定した富安が今日は左で先発。直ぐに退場者が出てリーズは10人になって攻撃的になることはできなかったが、10番ラフィーニャを完全に押さえ込んだ。ラフィーニャのために左にコンバートされたという。恐るべき安定感である。

5月7日(土)
「ブルックスの知能ロボット論」7章は、AIからの人間観である。ブルックスは、人間は機械以上の存在であると考えるのは間違いであるという。ワイゼンバウムの1963年のエリーザという精神分析プログラムは有名で、ぼくの修士論文の重要資料になっていたのだが、本書でブルックスは「ワイゼンバウムは、明らかに、人間は機械以上のものではない、という考えから逃げようとしていたp252」という。アルゴリズムとして実行される体系の中からも知能が発生するといっているのである。ただし本章の最後では、本能的なものがロボットには欠けているともいっていた。
070 ラ・リーガ マジョルカ×グラナダ マジョルカがホームに下位のグラナダをむかえる降格ライン上の戦いであったが、グラナダの息を吹き返させるものとなってしまった。マジョルカは攻守にかみ合いがなく6失点。久保も右ウイングで先発登場。開始早々にシュートを放ち、ムリキにスルーパスも通すが、前半のそれまでの活躍でしかなかった。マジョルカの攻撃にはムリキのキープからの速攻しかなく、それが封じられると皆が勝手に頑張るだけである。それが原因かと思う。

5月6日(金)
建築計画2の課題となっていた前田さんのレクチャーレポートを読む。講義とは難しいことを悟る。前田さんのおっしゃった「美術館は最大の展示」というものは、富岡や京都市立美術館といった歴史的保存建築の場合をいっていて、箱を自由にデザインするために感性を発揮せよとは決していっていなかった。むしろその逆である。大阪中之島美術館での指摘では、建築家の掲げた「開けた美術館」コンセプトにしたがい沢山のエントランスが設けられたことにたいして、傘立てがそこら中に必要となるとして、批判的な視点をもっていた。「開けた」というコンセプト自体は問題ないのであるが、それによって生じることに、設計が責任を取っていないことが多々あることを批判しているのだ。傘立てはその象徴だ。オーストラリアのゴールドコーストのコンペで前田さんが負けたのは、半ば冗談を交えて、バンジージャンプを用意していなかったことをあげていたのは、それだけ観客を呼び込むことが運営側としては最重要事項であることを自虐的にいっていたのと、建築家の立てるコンセプトの脆さを指摘したものだ(先の開けた美術館というような理想を否定している)。こうした問題は凄く微妙で、設計におけるぼくら側が提供する発想と現実問題とのギャップに関わる問題である。ところで、前田さんの講義をよーく顧みると、それにたいする答えのヒントが隠されている。講義では最後に日本における美術館のこれからの可能性を「参加」あるいは「体験」というものに見出していたが、それは日本の歴史を振り返ってみると、お寺のご開帳や季節ごとの催しなどを通して仏像(=彫刻)を提供してきた日本文化定着度から推察したものであった。つまり、美術館を日本の大きな歴史の中で位置づけている。歴史保存建築を最大の展示物と考えるのもそれである。あるいは、傘立ての重要性。これは日常的な行動を通して考えると、それは欠かせないものなのである。あるいは照明の重要性については、作品を一所懸命制作したアーティストとの連携で考えるということなのだ。それら全ては過去から引き継いできた現実に関わることで、ぼくら設計者の提供する発想はそれと連続させることが大切ということである。こうしたことにもっとセンシティブであって欲しいというのでなかったか。
069 EL フランクフルト×ウエストハム 1-0でフランクフルトが勝ち、鎌田もフル出場。攻撃のタクトを振る。選手を後押すようなスタジアムの雰囲気も最高であった、ゲーム終了間際からサポートがフィールドを囲む、そして終了と同時になだれ込み、まるで優勝したかのようであった。

5月5日(木)
068 CL レアル・マドリード×マンチェスターC シティはカエル・ウォーカーを復帰させてベニシウスを封じ、レアルの速攻を押さえることに成功。そんな中でもベンゼマは2度のチャンスを得たのだが、ものにできなかった。だからどちらかというとペースを握っていたのはシティ。後半からは疲れの見え始めていたデ・ブライネに代えてギュンドアン投入。攻めに入っていたマドリーの裏を突くようにギュンドアンは精力的に動きグアディオラは勝ちにいった。これがあたり、シティが速攻を決めた。トータルスコアで2点差がつきシティは逃げ切りに入った。誰もがシティの勝ちを考えた似違いない。ところが、今年のベルナウは神かかっている。久保のライバル、途中投入のロドリゴが2得点する。右から左への大きな折り返しを右足で、右からのセンタリングを頭で決めた。延長戦に入ってもシティは流れを戻すことができなかった。ベンゼマのPKで万事休す。レアルの世紀の大逆転であった。

5月4日(水)
「ブルックスの知能ロボット論」を続ける。読み進めるにつれて、建築家石山修武さんの「建築家には難しい条件をあたえればそれで上手く」という言葉を思い出した。人とロボットは何が違うのだろうか。7章はそうした疑問がそもそも間違っていることが示されている。池辺さんのデザインスゴロクも思い浮かぶ。デザインスゴロクを使用するデザインなども、人間のサブサンプション・アーキテクチュアを上手く活用したデザインともいえないだろうか。
067 CL ビジャレアル×リヴァプール 開始直後リヴァプールはビジャレアルを受けてしまった。するとビジャレアルペースとなる。そして2失点。トータルスコアも同点となってしまった。ウメリの策を見ようとしたためかもしれない。スタジアムサポーターに押されたのかもしれない。後半になるとディアスを投入。そして強引なかたちで右サイドを押し上げた。するとDFは安定し、プレッシングも効くようになり、いつものリヴァプールペースとなった。そして3得点し、決勝進出を決めた。

5月3日(火)
「ブルックスの知能ロボット論」を続ける。3章には、ブルックスがつくったゲンギスというロボットが説明されている。このロボットは、はじめて動物に似た行動を実現したロボットだそうだ。それまでに至る開発回想が面白い。サブサンプション・アーキテクチュア(包摂アーキテクチュア)を発想した経緯である。当時ブルックスたちAI科学者たちは、認識とは何かを探求しようとしていた。それは、「世界モデルを内部に構築し、外部の状況の変化に応じて更新する作業が処理」するものであったという。つまり、対象と反応を1対1対応させるプログラムつくりである。それだと膨大なデータが必要となる。ブルックスは、昆虫たちがそんな知能を持っていないし複雑な認識をしていないことに注目した。そしてアレン(アレン・ニューウェルから命名、ハーバート・サイモンの同僚)というロボットをまずつくったという。アレンは3つの層をもっている。最初の層は、ロボットが障害物と接触を避けるためのセンサ検知制御系。そして2つめの層は、ロボットが目的もなく彷徨(ほうこう)癖あるように動くプログラム。そして3層目はロボットが興味ある対象へ進むというセンサをもったプログラム。この相反するような3つのセンサー機能によってロボットは動物に近い動きをしたという。この処理系をサブサンプション・アーキテクチュア(包摂アーキテクチュア)という。「まず簡単な行動群を作り出す簡単な制御系を組んだ。すでに組み込んだものをいじらず動く状態にしたまま、これにより複雑な行動を発生する新たな制御系を追加した。ロボットがそのような動きをした方が良いような場合には、新たに加わった制御系は、時として古い制御系の機能を包摂する(利用する)。こうして制御系の層は、生物進化のプロセスが複雑な機能を実現する神経回路網をひとつずつ獲得していくように、処理層として次々に追加されるp69」。これらロボットのソフトウェアは単純で、個々には極端に単純な局所的な計算群となっている。

5月2日(月)
068 ラ・リーガ バルサ×マジョルカ 今日も5バックで守備重視。ムリキが出場停止で久保はスタートかと思われたが、スタメンから外れる。その5バックも釣り出されてそのスペースを使われ失点する。後半から得点の欲しいマジョルカは久保をトップ下として送り込む。ただし、ボランチのブスケツマークという厳しいタスクが課されていた。

5月1日(日)
科学、生物分野に続いて、AI分野が、条件(データ)とアウトプットの関係をどうとらえているかを知るために「ブルックスの知能ロボット論」を再読。ブルックスはMITに属しiRobot代表である。サブサンプション・アーキテクチュア(包摂アーキテクチュア)を開発し、人が振る舞うようにロボットを動かすことに成功した。行動を小さくモデュール化し階層化したプログラムを開発した。アンディ・クラークが「現れる存在」で多く引用してこの本を知った。

4月30日(土)
「生物から見た世界」を続ける。意味というものがどこから生じるかは答えていなかった。この本を歴史的にみると、機械論と生気論の中間にある。数字的に自然を解明することなく、生物は自分にもともと備わった感覚器官によって、環境の中から自分にとっての意味あるごくかぎられた特定の知覚標識を認識し、それに応じて反応する、このことを明らかにしている。そして、物の性質と、生き物の主体によって刻まれる知覚標識は、基本的に異なることを説明していた。

067 プレミア ニューカッスル×リヴァプール 好調同士の対戦となる。とはいえ水曜日のCL戦ほどの迫力はリヴァプールになかった。それでも1-0でリヴァプールの勝利。

4月29日(金)
066 EL ウエストハム×フランクフルト 今日も鎌田は躍動。DFラインからボールを引き出すのが上手い。早い10番コスティチが封じられていた一方で、地味ではあるのだが、攻撃は鎌田が中心となっていた。代表でのポジションについて考えてしまう。前の1人になるのは間違えないが、バルサを崩したときのように早い展開をするには、日本自慢の3ボランチだと苦しい気もする。とはいえ、彼らは安定している。右サイドへ早い人選か。三苫はベルギーではSBである。

4月28日(木)
ゼミにて、「パタンランゲージのコラボレーションカード」を使って自己紹介をお互いにする。ティール組織の2つめのテーマにあったように、現代人は自己の殻をつくることが強いられている。それによって、潜在的にもっている自己能力が発揮できないという。そのための解決方法がティール組織には書かれていないが、アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」という本は、道具として、建築デザインにおいて、自己の環境にたいする感性を開放してくれる最良のものだと思う。「パタンランゲージのコラボレーションカード」の発明者井庭崇さんも、こうした道具の重要性を認識しているのだろう。そうした目的でこのカードを制作した。慶応では1年生のオリエンテーションでこれを使っていると聞いた。研究室全員がカードにしたがってこれまでの自分の経験を語ってもらった。成果が徐々にでも発揮されることをのぞむ。
065 CL リヴァプール×ビジャレアル リヴァプールは、戦術家エミリが率いるビジャレアルを混乱させるように、徹底的に前戦から激しいプレッシングをかけ続けた。クロップがドルトムント時代にバイエルンに挑んでいたときからの戦術である。相手に考える猶予を与えないということだ。それを選手全員90分間続けられるのが凄い。特に激しかったのは、あるいはドルト時代と異なるのは、ビジャレアルの要である5番のパレホへのチェック。当時はサイドにボールを追いやってそこで囲い込んでの回収を狙っていたのであるが、今日は中央であった。ここを封じてボールをサイドへ逃すことさえさせていなかった。そしてここから攻撃を再出発させていた。ゴールマウスへあまりにも近く、脅威は絶えず続いていた。しかし結果は2点差にとどまる。エミリがホームに帰って、巻き返し戦術が楽しみである。

4月27日(水)
今日の授業は、京都市美術館のマネジメントをしている前田尚武さんを迎えた。前年のレクチャーからさらに充実していた。ありがたいことだ。氏のレクチャーを聞いて、設計にはイマジネーションを働かせるべきところとそうでないところ、そのふたつの見極めが重要であることに今更ながらに気づいた。というか、ぼくらはイマジネーションを目に見えないところで応用するものと考えがちであるが、目にみえるかどうかは立場によってあるいは人によって違う場合が多いので、それ自体を疑う=イマジネーションを働かせる必要があるということだ。イマジネーションを不問に付すのではなく、あらゆるところに今ジメーションを向けることが重要だ。
064 CL マンチェスターシティ×レアル・マドリード 今年からアウエーゴール方式がなくなって、ファーストレグから俄然ゲームが面白くなる。今日も第1戦から壮絶な打ち合い。要はホームチームが失点しないことを戦術の優先としなくなったのだ。シティは中盤をつくりほぼゲームプランを支配し、流れもそうなっていた。しかしレアルはタレントが豊富。時折みせるカウンターでそれに対抗していたのだ。レアルの中盤カゼミーロが不在であることから、デ・ブライネが自由に動きレアルのDFラインを釘付けにしていた。しかし結果4−3でシティ。面白かった。

4月26日(火)
「生物から見た世界」ユクスキュル著の第2部「意味の理論」を続けて読む。生物それぞれは独自の環境世界をもっていることは第1部で示された。例えばその2つの種がぶつかる、あるいは関係する場合、その現象を意味という言葉で説明しようとしている、これが第2部である。意味をトーン、あるいは篩いといったりもしている。その使用は細胞(器官)間でも成立する。機械部品はひとつの目的のために部品も目的化され求心的であるのにたいして、生き物の器官はそれぞれトーンをもっているので遠心的(発散的)であり、両者の決定的な違いであるという。

4月25日(月)
ラトゥールの「ラボラトリー・ライフ」を振り返る。要は、科学といえども真実など存在していなく、科学的事実とは社会的に鍛えられた構築物でしかないことをいったものだ。社会エントロピーが大きくなっていく中での、細やかな抵抗というものが生きることであり、それが科学であったりするのだ。こうした考えを前提とすると、どんなデザインあるいは組織つくりが可能になるのだろうかと思う。それは、構築物をつくるまでの周囲を巻き込んだプロセスの重要性を意識することとそれが未来への礎にもなり得ることへの用心である。次は科学者から生き物に視点を移動させてみようと思う。「生物から見た世界」ヤーコプ・フォン・ユクスキュル著を再読。ぼくの本では2部構成となっている。1部は「動物と人間の環境世界への散歩」。2部は「意味の理論」である。第1部では、人間の考える環境と個々の動物種が知覚する環境とは違うことを、例をあげて説明する。1部後半に至ると、主体にテーマが移動する。「主体そのものがどの程度までその環境世界の中に入りこむのであるか、いまだにわかっていないP124」。この疑問に関する応えが第2部へ続く。

4月24日(日)
東京都写真美術館で開催されている本城直季展へ。4×5版カメラを使ってミニチアのような都市風景を撮る。周囲がぼやけていて、対象のピントが異常に合っているので、対象が全く動きのない模型のように拍車をかけてみえるようになる。被写体の多くは直立している人であるのもそう感じさせる。この方法は、4×5の撮り方を誰にも教わらないで試行錯誤している間に気づいたそうだ。この発見がアートたる由縁である。本城の評価がテーマや被写体にあるのでなく、写真自体にあるのがよい。
063 プレミア アーセナル×マンチェスターU 調子の落ちていたアーセナルが盛り返してきた。富安も終了間際に登場。残り数試合に向けてアーセナルはチーム体勢を整えてきたかたちである。メンバーも大分代わってきて、調子の良さを優先しているようだ。

4月23日(土)
「ラボラトリー・ライフ 科学的事実の構築(construction)」ブリュノ・ラトゥール+スティーヴ・ウールガー著を読み終える。6章は総括である。そこでは、ラボの観察から得られた6つの概念をまとめている。1.構築。現実とは論争の終結の結果であって終結の原因でないこと。2.闘争的。現実が論争の終結の結果であって終結の原因でないとしたら、言明の操作は重要となる。言明とは闘争の総和であるという。3.物質化。形式化を最終目的とすること。一度物質化されれば、それまでの決定はその後の論理的な議論の前提を果たすというのである。4.信頼性。不安定な言明から確実な物質化に至るには、お金がかかり、それによって信頼性が勝ち取れるということ。経済社会に位置づけることの重要性をいっている。5.状況。科学においても、事実は完全に特定のローカルな状況からつくり出される。決して全体を見渡しているわけではない。だから、騙すと誠実には違いなどないという。「騙す/誠実どちらも、個々の状況や科学という闘争の状態に依存する相対的な価値をもった戦略p236」なのである。6.ノイズの重要性。ノイズがあることこそがリアルである。「もしリアリティという語が何がしらの意味を持つとすれば、それは圧力や強制に抵抗するということp236」であり、いかにノイズを含めた言説あるいは物質化が重要であるかをいっている。ここから最後に本書は、秩序付けること=創造とは何かを説明する。秩序の創造とは「同じように確からしい言明の集合から、確からしさに差がある言明の集合へと変換されるp236」ことをいう。これが本書の結論である。創造とは新しいものの発見ではなく、より多くのノイズを含む言明への変換である。本書は、クーンの科学革命の構造を下敷きにしている。つまり、世界に秩序があることを前提としていない。むしろ無秩序が支配的であり、秩序は例外的なものと考えられている。つまり結論としてあげられているこの6つの概念は、精巧な説得力のあるフィクション=秩序つくりのためのものなのである。科学者といえどもここから逃れることはできない。闘争、構築、物質化がローカルな場所に限定されてしまうのはそのためである。こうした行為は、生命の仕組みとも同様である。「生命とはエントロピーへと向かう巨大な流れから逆方向にわずかな糧を得ている負のエントロピー的な出来事である」。デザイン行為そのものも同様だろう。6章では碁の例が上げられている。デザインとは、偶然的な序盤から出発し、外在あるいは先在する秩序に基づくことなく、ローカルな文脈と規則との闘争の場の圧力に依存しながら手探りで無秩序から抗することなのだ。

4月22日(金)
「ラボラトリー・ライフ 科学的事実の構築(construction)」を続ける。4章は、言明が安定化するまでのラボ内構成員の具体的な会話などの観察記述である。構成員が互いに影響し合い、ラボというものは組み立てラインで事実が生産される工場のようなものであるという。これが意味するところは、現実とは関係なく言明の操作のみが行われているということだ。それを闘争ともいい、その総体が言明というわけだ。だからこのラボで発見されたTRFがPyro-Glu-His-Pro-NH2であるという言明は、実は事実かどうか分からないままであるという。このことから、事実は結果であって原因でないという結論を本書は引き出す。「外在性は科学研究の結果であって原因でないp173」と。これはぼくがよく持ち出す鉄棒の例と同じである。逆上がりができる要因(外在性)は、逆上がりができてはじめてわかることで、条件ではないということだ。それを次のようにもいっている。「ひとたび言明が安定化しはじめると、重要な変化が起こる。その言明は分裂した実体になるのである。(中略)安定化の時点では、対象と対象に関する言明のどちらもが存在するようにみえる。やがて、実在(リアリティ)が対象へと帰属されるようになるにつれ、ますますその対象についての言明には帰属されなくなる。その結果転倒した事態が生じる。つまり、対象(物的存在 オブジェクト)が、そもそもその言明が形成された理由となるp168」。つまり「対象と対象に関する言明の対応関係の強さが、ラボの文脈における言明の分裂と転倒に由来する」というのである。続く5章は信用について。言明から人工物へ、そして物質化されるプロセスにおいて科学者は、名声とかの内的要因よりもお金が絡む信用の方に大きく依存しているという。

4月21日(木)
「ラボラトリー・ライフ 科学的事実の構築(construction)」を続ける。3章はラボにおいて事実が構築されるまでの観察である。なんでもTRFというホルモン物質があって、それへの予感、そしてそれがなんであるかを、提出された論文(数)によって解明しようとしている。このとき関わっていた2つのラボが、本書の観察の対象である。これのよると、2つのラボが影響し合い、様々な政治的(社会的)影響を受けながら、仮説(この場合言明)というものが事実として広まり安定化しはじめていた。面白いのは、こうしてつくられた言明は事実とは限らず人工物でしかないということだ。闘争の結果物であるという。ここで示されるダイアグラムグラフが面白い。

4月20日(水)
少し視点を変えて、「ラボラトリー・ライフ 科学的事実の構築」ブリュノ・ラトゥール+スティーヴ・ウールガー著を読み始める。人類学者が、未開の地の原住民から「野生の思考」なる何かを探るように、ラトゥールがソーク研究所に密着して、科学者なる者がどのように科学的事実を構築していくかを綴った本である。この未開人と科学者との間に共通の思考回路があるとする視点が面白い。一般的な理解とは異なり、科学的思考についてラトゥールは以下の確信をもっている。「十分に組織化され、論理的で、一貫していると部外者が通常考えているような(科学の)一連の実践は、実は観察行為の無秩序な寄せ集めからできており、科学者は観察データを使ってなんとか秩序を生み出そうとしているのだp25」。そうした確信のもとラトゥールは、経験的な調査を通じて、科学的実践が未開人のようにあるいは職人のように実践がどのように体系へと整理されていくかを明らかにしようとしている。
062 ラ・リーガ マジョルカ×アラベス 久保が久しぶりに先発。80分過ぎまで右Wでプレーする。得点に結びつくような目立った活躍はなかったが、前半に2トップの攻撃陣が2得点し、2-1でマジョルカが貴重な勝ち点3を勝ち取った。今日の久保は右サイドでSBとマフェオとの連携が目立ち、その分CFトップ2人の負担を楽にさせたのかもしれない。ただし、久保サイドからのセンタリングを上げられることが異常に多く、大きな問題だろう。アラベスは明らかに久保サイドを狙っていたと思う。

4月19日(火)
「知識は身体からできている」レベッカ・フィンチャー・キーファー著を読みはじめる。思考は身体から切り離すことができないことを本書は主張する。人は感覚情報を入力するときに、自らの身体の形態、生理的機能、行動により尺度化するというのだ。しかし内容が認知心理専門家の考えによっていて一般化しにくいので、少々読みづらい。

4月18日(月)
CASABELA929が届く。今号は地域と文化がテーマである。イランテヘランにあるアルゴ現代美術館。破壊された建物の修復計画である。昔のエビデンスがなく、想像によってそれを修復している。マーク・マンダースのアトリエは彼の作品のように繊細で大胆なCLT構造の屋根である。ブリュッケレのアトリエはプルーヴェの現代版だ。香港九龍にあるヘルツォーク+ド・ムーロンのM+ミュージアムも興味深い。この時期にあえてスイス資本によって完成した。シンドラー社がコレクションしたアジア芸術の美術館である。どうやら地下には地下鉄が2本走っているようで、それが大きな計画条件らしい。低層部に美術館部門、平ぺったい高層建築がオフィスで建築全体がディスプレイとなっている。

4月17日(日)
「キャラクター」永井聡監督を観る。主演の菅田将輝の演技は光るも、ストーリーの既知感は否めなかった。それは脚本が少し説明的過ぎるということによるのでないか。サスペンスでは恐怖を感じさせることとストーリー展開を納得させることの両方が必要とされるが、それを映像として示すべきでないかと思った。ストーリー自体は過激ではあるが、それが追えてしまうと恐怖も薄らいでしまう。もう少しストーリー展開を映像に頼って、曖昧にする方法もあるかと思った。061 FA杯準決 マンチェスターシティ×リヴァプール 今日もこの対戦である。CL強豪との対戦でシティはメンバーを変えざるを得なかった。そのため連携が不安定となり、そこへリヴァプールがインテンシティ高く詰め寄った。最後はシティが意地を見せて得点をしたのだが、点差以上にリヴァプールが圧勝したといえるだろう。それに対し今年のリヴァプールは怪我人も少ないため選手層も厚く、CLの抽選も恵まれた。南野は今日もベンチ外である。

4月16日(土)
060 ラ・リーガ エルチェ×マジョルカ 0-3でマジョルカは負ける。久保は後半から登場。前半の5バックの守備中心の戦術では久保はメンバーに入らないようだ。そうした布陣でも終了間際に失点してしまった。前戦ほどの守備の強度が感じられなかった。少し上をいくチームへの勝利はマジョルカにとって絶対である。それで後半から久保とイガインが同時投入された。久保はサイドいっぱいに開いたり中央に絞ったり自由に動き回っていた。決めなければならないシュートも2本放つ。決定的なパスも何本か通した。しかし得点ならず。久保の現状を見てしまう。他の選手とは明らかにレベルが違うが、ゲームを決めるほどでもない。CFムリキとの連携もないのは気のせいだろうか。個々の選手にあったチームというものがあるのだと知る。むしろそれに合わせる、あるいはめぐり会った選手は幸せである。

4月15日(金)
059 EL バルセルナ×フランクフルト フランクフルトは序盤にPKを得ると、効果的というか決定機をのがさずに得点を重ねていきバルサを振り切った。得点こそなかったものの鎌田は中盤のタメつくりでチームに貢献する。この動きをみたら森安が代表で使わない手はないだろう。早い10番スコティチの縦への動きのエンジンになっていたし、バルサのデンベレやトラオレ、あるいはSBから見事にボール奪取していた。タメをつくっていたため遅れてゴール前に顔を出すのだが、そのためで、深いところからの折り返しを比較的フリーで受けていた。それがまたゴールへの可能性を感じさせるものであった。

4月14日(木)
ゼミにて今年の読書会のテーマと選書を決める。テーマは、「経験と論理思考の間」とする。そうしたコンセプトにしたがった活動をしているつくり手の本を、話し合って末にピックアップする。AI分野からは、「ブルックスの知能ロボット論」と「ロボット」カレル・チャペック著、プラス「ロードアイランド・スクール・オブ・デザインに学ぶクリテイカル・メイキングの授業」ロザンヌ・サマーソン著。生物の世界からは「生物から見た世界」ユクスキュル著と2冊の「建築する動物たち」と「建築する動物」。建築の歴史調査からは「鉄筋コンクリート建築の考古学」後藤武著か「建築の聖なるもの」土居義岳著。デザイン分野からは「スペキュラティブデザイン」アンソニー・ダン+レイビー著と「オブジェクト指向UIデザイン」上野学著、「世界を一枚の上に 歴史を変えたダイアグラムと主題地図の誕生」大田曉雄著やマニュエル・リマの「ビジュアル・コンプレキシティ」。そして「生きていること」ティム・インゴルド著と「動いている庭」ジル・クレマン著とする。テーマに沿ったビジュアル本も今年は用意した。 057 CL リヴァプール×ベンフィカ リヴァプール楽勝と思っていたが、結果3−3。トータルスコアーでリヴァプールが4強へ。シティ戦の合間で選手を上手くローテションさせていた。しかし南野はベンチ外。
058 CL アトレチコ・マドーリード×マンチェスター・シティ 0-0のドローでシティが抜ける。負けたとはいえ、アトレチコはあっぱれであった。最後は乱闘シーンまで用意する。週末のマジョルカ戦とは違いインテンシティが高かった。シティは上手く逃げ切ったという印象。

4月13日(火)
055 CL バイエルン×ビジャレアル 1−1のドローで、ビジャレアルが抜ける。ビジャレアルは5バックの守備重視とはいえ、速攻のパターンが明快であった。それが終盤にようやく決まる。エミリのしたたかさを見る。
056 CL レアル・マドリード×チェルシー それにしてもベンゼマで、このチームはもっている。加えて中盤のモドリッチも同様か。延長の末にマドリーが抜けた。

4月12日(火)
「ロボット」カレル・チャペック著を読み終える。ラトゥールの機械論/人間論を思い出したが、この戯曲はこれにあてはまるものだろうか。ラトゥールは、近代以降世界は科学的論理的思考を中心にするようなった。しかしそれでだけでは世界を語り尽くせないので、その担保として人間論とか感情というものを近代は考え出したといっていた。憲法の基本的人権などその最たるものというのである。そしてこの2項対立を超えるものとしてラトゥールが提案するのがアクターネットワークであった。この戯曲はそんなことを考えさせてくれないこともない。

4月11日(月)
054 プレミア マンチェスターシティ×リヴァプール 2-2のドロー。両者の勝ち点差は1と変わらず。激しいほどの打ち合いになりエキサイティングなゲームであった。シティはリヴァプールのインテンシティ高いプレッシングを交わすのに苦労するも一端それができると中盤からのパスが繰り広げられる。それを受けて前線の選手は高いDFラインの裏を突いていた。とくに右のアーノルドの裏である。一方のリヴァプールは、DFからの長い縦パスやクロスによりFW陣を走らせる戦術であった。どちらもCLを控えての気の抜けない大一番であった。

4月10日(日)
先週に続き安行の農協に行き、ヤマツツジを購入。妻の実家から黄色い花のなるレンギョウももらう。「ロボット」カレル・チャペックを読み始める。1920年の劇作品。人間とは見分けのつかないロボットが魂までをももつというストーリー。建築でいえばウイリアム・モリスからバウハウスに該当するストーリーである。

4月9日(土)
053 ラ・リーガ マジョルカ×アトレチコマドリード 今日のマジョルカは、5-3-2からはじめる。これが上手くはまった。マジョルカの最終ラインと中盤では、前向きのチェックがずっと続き、前線までボールを運ばせることがなかった。しかし問題は、イ・ガインが健闘するもゴールまで距離があるので攻撃に展開できないことであった。後半の早めに久保を投入。それによって3−5−1のようになり、プレッシングが前かかりになって攻撃が活性化した。PK奪取はここから生まれたといってよい。久保もこれまでになくヘディングを競いボール奪取を狙うなどインテンシティが高かった。これが実は大きい。アギーレは、久保を先発から外した理由を、練習でのインテンシティのなさといっていた。このお灸が上手い具合に回転したということだろう。

4月8日(金)
052 EL フランクフルト×バルセロナ バルセロナに日本代表と戦うスペインを想定してしまう。3トップ右で先発の鎌田が大健闘。サイドレーンをエース10番に譲りながら中盤中央気味に残ってのポストプレーが縦への突破を効果的にかたちつくっていた。フランクフルトはとにかく前戦からのチェックが鋭く攻撃が縦方向に早い。バルサはこれに手を焼いていたと思う。このキーとなっていたひとりが鎌田であった。日本でいえば中盤3枚は早くはないので、早い右SBと鎌田との連携がはまればスペイン戦は面白くなると思った。最後フランクフルトは10人になるも1-1のドロー。フランクフルトはカンプノウに来週就く。

4月7日(木)
051 CL ビジャレアル×バイエルン 1-0でビジャレアルが勝つ。今日はモレーノが活躍し、あと1〜2点をビジャレアルが取っていてもおかしくない展開であった。早いビルトアップが綺麗に決まり、中盤でワンタッチパスで一端外に開いてから縦、そしてゴールへと迫っていた。そこにモレーノとダンジュマが絡んでいる。あるいは中盤底パレホからの大きなサイドチェンジがあり、決して中央から攻撃することがなく、何度かパスがカットされてもバイエルンからカウンターを受けることはなかった。そうして、バイエルンの攻撃をサイドからのセンタリングのみにして守り切った。おそるべきビジャレアルの組織力である。久保が在籍していた場合を想像してしまう。

4月6日(水)
先週国立新美術館で観たフェルメールの「信仰のアレゴリー」を振り返る。ふと岡崎乾二郎氏のこの絵画に対する批評を思い出したからだ。岡崎によると、この絵画はフェルメールの作品のなかで最も評価の低いものだそうだ。生活費稼ぎのために教会に寄り添って描かれたものともいわれている。確かに、中央の青の女は地球儀の上に足を立てて行儀が悪いし、手前には蛇が死んでいる。青いターバンの少女とは違う。「あからさまに寓意になっていることにある。この仰々しさはまるでフェルメールらしくない。ここに見える光景はひたすら読まれることに奉仕し、視覚は犠牲にされている」というのが一般的な批評である。つまり、光が織りなすような一瞬の何気ない表情をとらえた純粋的なフェルメールさがこの絵画にないというのだ。ところが岡崎はこの一般的な「信仰のアレゴリー」にたいする評価に反対する。そもそもフェルメールは現実の光や表情の豊かさなど信じていないというのだ。岡崎はこの「信仰のアレゴリー」と一連の作品の共通性を、一般にいうところとは違った意味でのリアリティを見出している。「リアリティは各々の表象の真実さではなく、その表象の使われ方すなわち、それぞれの表象の交換(翻訳)という作業からしか発生しない。真理(真実の対象)と最終的に対照されることなく、にもかかわらず表象はその正しさをいかに確保するか」、これが岡崎のいうリアリティというものである。フェルメールが生きたこのマニエリスムの時代は宗教改革の時代でもあった。神(真理)が喪失した時代である。しかし信仰は存在していた。「神は存在しない。だが私は神が存在するのを信じている」という言明の時代であった。この絵画はこの真理を描こうとしたもの、というのだ。「信仰のアレゴリー」の絵の中の壁に掛かっている額縁のど真ん中に正視している女性がいる。これがじつは絵の主題であるというのだ。他者と共有できないどころか、それを確かめる術すらない状況を踏まえて、それでもいかに共有を可能とするか、これがフェルメールのテーマであったという。050 CLマンチェスターシティ×アトレチコ・マドリード アチレチコは2列で5−5という極端なかたちで守りながら時折速攻を繰り出すも、後半になるとシティにやられてしまった。ただし0−1という最小限の負け。ここにシメオネの不気味さを感じる。久保のいるマジョルカとの対戦を挟んでホームにシティをむかえる。

4月5日(火)
「鉄筋コンクリート建築の考古学 アナトール・ド・ボドーとその時代」後藤武著を読み始める。コンクリートは近代と現代建築の主要構造材であり、一見すると歴史性を欠いているように見えるが、後藤さんのボドーの研究によると、その以前の様式建築からの連続は明らかであるという。バンハムの「第一機械時代の理論とデザイン」では、コルビジュエが革命的な宣言をしたのにもかかわらず作品には前史との連続性があることを指摘していた。それと同様である。ド・ボドーの教会を何度か訪れようとしたが未だ達成されていない。ド・ボドーはラブルーストとヴィオレ・ル・デュクのアトリエで働いていたことも本書で知った。協働する技術者はポール・コタンサン。彼と開発した鉄筋コンクリート構造をシマン・アルメ構法といっていた。

4月4日(月)
「世界を一枚の紙の上に」大田暁雄著を読み始める。「世界」を描いた18世紀以降のダイアグラムを紐解く歴史本である。ぼくらは実際に世界というものを見たことがない。啓蒙の時代以降、科学と共にまだ見ぬ世界をどう伝えるかは人類の最大の関心であったという。本書によると、18世紀のころの科学において、グラフィックによる視角表現というのは現代より重要視されていたらしい。3章からはデータの視覚化についてである。

4月3日(日)
川口安行の妻の実家近くの農協に行く。1時間いろいろ観て回った後に、株別れしていて葉が薄緑したものとして1本のシラカシを購入。職員に聞くと日陰でも大丈夫だということ。アパートの階段下に置かれるものである。帰宅後に、階段下に置くと思ったより小さかった。成長を見ることにしよう。
049 スコットランド レンジャーズ×セルティック 前田と旗手が今日も先発。オールドダービーである。この重要な試合で、セルティックは先制されるも逆転する。旗手もそれに絡んでいた。勝ち点を6に広げたセルティックは断然有利になる。

4月2日(土)
048 ラ・リーガ ヘタフェ×マジョルカ アギーレ新監督の初戦。しかしこれといって新しい方向性は見られなかった。久保は86分から登場。何もできなかった。今日のアギーレが選んだスタメンに関して、前監督ルイス・ガルシア・プラザの退任会見が示唆的である。ルイス・ガルシア・プラザは次のようにいっていた。「このチームにはかけがえのないチームを支えるメンバーがいる。彼らを上手く生かして欲しい」というものであった。おそらくベテラン勢を指したものだろう。そうした彼らはGKレイナ以外今日も先発であった。良くも悪くも現状のマジョルカを映し出すものである。そこからの脱却をどうするかが、最重要問題と思うのだが、次節以降にこれは持ち出されたと思う。

4月1日(金)
新1年生のためのオリエンテーションに参加。その後にゼミを行い、M2生が修士設計に向けてのテーマを発表。そして研究室の今年1年間の活動について話し合う。深夜にW杯の抽選会が早くも行われる。ドイツ、スペインと同組。選手たちはやりがいを感じているはずだ。

3月31日(水)
東京都現代美術館で開催されている吉阪隆正展へ行く。吉阪のメッセージと作品、スケッチ、ダイアグラム、全てが力強く説得力があり、鑑賞していて元気が出た。コンゴ・レオポルドビル文化センターコンペ案の3つの箱にかかるテンション系の屋根がかかる案は興味深い。権力、力場、思想、流通をメビウスの輪を下にしたダイアグラムと「進歩と輪廻の曼荼羅」は、どちらも事象を動的に表現しようとする試みで、ここに吉阪の秘密があると思った。知らなかったのは丸山邸。電車のような箱空間に、サブ空間とさらに2階部分の増築を重ねたものだ。メッセージには3つの印象的なものがあった。「他者の立場、他者の考え方、他者の反応を理解し、相互の矛盾を乗り越えるアイディアの発見、実行ということになる。その媒体となるのが空間的に表出された表現であり、その姿や形である」。「生身で世界を見直せということだったのだ。北などという抽象概念に引きずり回されず、大きく見える太陽をもとにしろということだ」。「発見的方法とは、<いまだ隠された世界>を見出し、<いまだ在らざる世界>を探る きめて人間的な認識と方法のひとつの体系である。それは<私たちによって作り変えられるべき世界>ではなく、逆に<私たちひとりひとりが、それによって支えられている世界>を見出すことなのだ」。会期中にもう一度訪れよう。

3月30日(水)
信州の敷地巡り。今日は温暖で気持ちのよい春の日である。奥蓼科温泉郷に入る手前の、田園が続く南斜面の場所へ行く。三井の森別荘地の手前であり、現在はサイクルショップがある。そこで小1時間を過ごした。時間ができたので、明治温泉と横谷温泉を観て回る。どちらも鉄分が豊富な茶色の温泉であった。

3月29日(火)
047 代表 日本×ベトナム 日本は、4-3-3を保ったまま中盤より上をオーストラリア戦から大幅に入れ替えた。しかし全くといってよいほど機能せず、後半から久保をトップ下に右に伊東を入れて4-2-3-1に変更。結果1-1のドロー。森安監督は選手の特性を見て人選するものの、各選手に具体的な戦術指示はしていないことが分かる。前半の総入れ替えに近い日本チームにこれまでの戦いからの一貫性など見られなかった。逆に言うと、ゲームに入ると選手任せで、代表が持ち直せたのは川崎の選手の慣れた連動性に負ったものであったのだ。しかし残念ながら彼らは欧州でトップチームと対戦してはいないので、W杯でどこまでそれが通じるかは疑問である。森安チームの限界と思うのだが、どうだろうか。

3月28日(月)
午前中に車を取りに行って、ギャラ間に行くもSANNA展は終了していた。結露で割れたナチュラル<>の寸法取りをしてから、近くのガラス屋さんへ見積りをお願いしに行く。

3月27日(日)
横浜へ。八咫さんが主催している刺繍彫刻作品を観に行く。刺繍によるものとは思えないくらい正確に対象がつくられていることに驚く。対象に魚が多いのは、アーティストの好みだろうか。多くの人が不思議がって観ていた。TVで「ファーザー」フローリアン・ゼレール脚本監督を観る。初の監督作品だそうだ。アンソニー・ホプキンス主演。認知症の役を演じる。オリヴイア・コールマンがその娘を演じる。この映画は、本名と同じ役名の認知症患者アンソニーの目にしたがって進行するので、観ているぼくらも混乱する。認知症とは、思考認知システムが壊れるのではなく(映画のストーリー展開と同様)、それは至って正常で、インプットされる情報の混乱(役者がぐちゃぐちゃになる)が原因である、このことを実感する。当然のことながら情報は全くの外から来るものでなく、個人による選択を経た生成物なのだ。アンソニーが入居している病院中庭の彫刻が印象的であったので調べると、イゴール・ミトライという人の洞爺湖にある作品であった。大きな古典的な形をした顔のみの彫刻で一部欠けている。岡崎流にいうと彫刻の永遠性を否定するものだろうか。途中にアンソニーが効いているオペラはビゼーの「ナディールのロマンス耳に残るは君の歌声」である。この曲をアンソニーはCDで聴き、曲が飛んで繰り返されるのを不思議がるのがこれまた印象的であった。

3月26日(土)
国立新美術館に行く。最初にメトロポリタン美術館展へ。歴史に沿った展示である。ルネサンス時代のものとしては、フィリッポ・リッピの「玉座の聖母子と二人の天使」の遠近術が圧巻。聖母子が浮き上がってみえた。他にはエルゴレコの「羊飼いの礼拝」。やはりこの時代ではかなり異端である。17世紀後半バロックのフェルメールの「信仰の寓意」は、ここで初めて見た。フェルメールを観るのもこれで22作目となった。明るい光がテーマで、近代につながる萌芽をこの作品に感じた。近代の作品では、ウィリアム・ターナーの海の反射、ルノワールの軽いタッチ、セザンヌの構図が印象的。描く対象が宗教から風物に変化し、同時に描画方法もカジュアル化していく。続いて現代のダミアン・ハースト展へ。元々はパリのシャネル財団の展示のようだ。24作品全てが桜である。実物の桜は外で満開であるが、それよりも明るく華やかな気分になった。展示方法からマーク・ロスコを思い出せてくれるが、ロスコの死的で静謐な印象とは真逆なものである。ハーストの紹介ビデオで、フランシス・ベーコンからの影響がクローズアップされていた。それは今回の作品との間に大きなギャップがあるからである。ちょっと話がそれると、ベーコンが描いた有名な「戦艦ポチョムキンの習作」は、映画ポチョムキン(エイジェンシュテイン監督)のオマージュである。この映画を一躍有名にしたのは、ラストのモンタージュ手法による大階段での虐殺シーンで、この大階段はウクライナのオデッサにある。オデッサといえば現在侵攻の危機に瀕していて、この映画のストーリーとまる被りである。映画ポチョムキンでは、最後にロシア軍が我に返り改心するというストーリーであったが、現実もそうなってほしいと思った。

3月25日(金)
スチールデザイン39が届く。今号は日建設計による松山大学の学生休息所だ。既存のRC校舎の基礎を再利用し、バランスよくX,Y方向に配置されたロの字型鉄骨フレームによる架構である。全て外部で内外を仕切るガラスが一切なく、まさしく透明である。ロの字フレームは3mと5.7m高さの2種類があって中2階をつくっていて、のびやかな空間つくりに貢献している。天井はキーストンでロの字フレームも全て亜鉛メッキ仕上げである。

3月24日(木)
046 代表 オーストラリア×日本 日本がW杯進出を決める。0-0の膠着状態から三苫が決めた。以前は頼りない雰囲気であったが彼を見直した。前半はどちらかというとオープンな打ち合いとなる。勝たなければならないオーストラリアは前に出て、それと裏を狙うFWの早い浅野の起用がそうさせたのか。負けなければよいのに打ち合いにしてしまった。そして前掛かりになった長友の裏が狙われていた。後半は前半と変わって守備を重視した、どちらかというといつもの戦いとなった。なかなか点が入る気がしなかったのだが、代わった三苫が決めた。今日の右SBも川崎の選手であった。これまた川崎にいた守田との崩しで川崎にいた三苫が決めた。おそるべき川崎というか、こうして無策?の森安は、川崎に救われている。解説で岡田はやたらと森安監督を持ち上げていたのだが、それは人物としてである。そうした代表があってもよいと思うが強豪国相手にそうはいかないと思う。とはいえ、こうして日替わりのヒーローが出るのも日本の底上げが上手くいっている証と悟る。

3月23日(水)
オンライン授業の方法を教務と相談。来年度の授業はコロナのため2教室開催となりそうだ。特に新しい情報も得られなかったが、昨年の大学院授業から試した動画+解説の方法で上手く運営できそうだ。

3月22日(火)
大学の卒業式。例年のことで感慨深い。特にM2生とは3年間も一緒にいたので尚更である。黄色い花束と記念品としてストームグラスとフィルター付きの竹製水筒を頂いた。早速ストームグラスはディスクに置き、水筒は使用始める。それに加えて蜂蜜付きコーヒーも頂く。コーヒーがフレッシュな味わいとなる。合間に中野重治を読む。おばばが死ぬという2回目の山場も淡々としていて、現実味を感じる。夜にマジョルカの監督解任のニュースが入る。後任はアギーレだという。これも淡々としている。

3月21日(月)
JIAの修士設計展の審査。鈴木了二さんと行う。鈴木さんの選考基準は近代建築からどれだけ距離をとっているかにあったと思う。それで懇談会場に向かうタクシーの中で、近代建築を真っ向から否定しているのかを尋ねたところ、否定ではなく近代建築を超える必要性を切実に考えていると話しをしてくれた。それは、つくることを自由なものにするということで、とかく近代的思考(原則といってもよい)によって、多くがとらわれすぎているということである。だとすると、講評会最後の議論において、リサーチのあり方を問題にしたのは間違っていた、このことに気づく。リサーチから作品へつなげる方法に問題がある訳でなく、リサーチに向かう姿勢に批判的視点が重要視されていたのであった。作品は批判によって規制枠組みから自由になれるというのだ。1等に選ばれた法政大のアイスダイバー+盲目者のための施設の提案は、その点において、視角重視にたいする批判であると考えられるし、2等の芸大の地下鉄に流れる自然水の積極利用を促す作品は、環境と対峙して考える都市構造を否定するものと考えられる。それを地下でやっているのが面白い。3等の日本女子大のぼっーとするための空間提案において、そのテーマは語り尽くされた感を否めないが、鈴木さんの思考をダイレクトにトレースするものであった。神奈川大の歌舞伎町の都市構造を立体化する試みでは空間の新しいネーミングを鈴木さんは買っていた。今日の会で勉強になったのは、リサーチとは隠された問題をえぐるためのもので、その発見をデザインによって形式化する重要性にあった。ただ、この思考方法では、ある局面からのみの自由でないかという危惧もある。批判ではなく、大局的な視点を受け入れて、その中に自分の考えや作品を位置づけるようなことがあってもよいと思うのだが、武田案の発酵建築はそれ以上でもなく問題が隠されたままであるとして受け入れられなかった。
045 ラ・リーガ レアル・マドリード×バルセロナ ここ数年の鬱憤を晴らすかのようにバルセロナが爆発圧勝する。レアルはベンゼマが不在で0トップの奇襲でのぞんだ。モドリッチとヴァルベルデが交互にトップに入るかたちである。当初はこの奇襲が、そこそこ効いていたのだが、バルサブスケスが中心となってそのプレッシングを外せるようになると、完全にバルサペースとなった。今日はデンベレが先発。そのデンベレガ右サイドをぶっちぎると、オバメヤンが体を投げ出し頭で先制する。その後もブスケスを中心にデンベレ、オバメヤンとパスが回り、フェラン・トーレスまでゴールを決めた。オバメヤン効果というものだろう。今日はブスケスが輝きを取り戻し、デンベレ、ペドリも同様である。フェラン・トーレスも輝きそうである。

3月20日(日)
044 ラ・リーガ エスパニョール×マジョルカ 久保が久しぶりに先発落ち。代わって左に入ったイガインも悪くなかったが決定機までつくれずにマジョルカは0-1で敗戦。いよいよ降格圏に入ってしまった。どことなくチームに覇気が感じられず、チームは停滞気味であった。何かの発憤材料が必要と思う。監督解任の噂も出始めている。

3月19日(土)
伊豆長岡を巡る。村野藤吾の三養荘はコロナのため見学できず。街の中心から外れた住宅街にそれはある。塀があるわけではなく道路とは門もなく素っ気なく続いていて、外から高級旅館と感じられないつくりである。その感じは敷地内にも続き、数寄屋造で緩くカーブした屋根の一部だけが見え、林に囲まれた奥は分からない構成である。ただし大きな玄関が独特の雰囲気をつくっている。江川邸へ。改修工事中であったが、こちらは内部見学ができた。仮設で覆われてはいるものの妻面上部からの光によって壮大な小屋組を観る。その小屋組は細い部材でできた掛けつくりのような構成である。しかし通し柱になっていたり、梁が優先になったりしていて、構成に一貫性はない。構造的な意味があるのだろうか。太く短い柱と4間分の梁、そしてその上の小部材で細かく構成された大きな小屋組。そしてハイサイドライトをじっくり感じる。幻想的である。その後に韮山反射炉へいく。印象より小さい。資料館のビデオで錬鉄の行程を知る。江川氏がオランダ書からの独学で大砲をつくる技術を学んだという。お台場の大砲台の建設にも携わった。この韮山から南関東をおさめていた人であることも知る。耐火煉瓦塔の外のスチールブレースは、最近の補強のためのものであることも分かった。当時はグリットのみで建設当時は耐火煉瓦のみであった。前庭が開けているのびのびしたランドスケープがよい。願成就院へ。2回目の訪問である。まだ有名になる前の初期の5つの運慶作品がある。これらは弟子たちとの共同作品になる前の運慶ひとりによるものらしい。阿弥陀如来座像の眼は、江戸時代に手が加えられたことを知る。円成寺と同様にぐっと押さえたような迫力がある。その両脇の不動像など観ると特にそれは明らかで猛々しいとはいえ東大寺南大門とは異なる。反対に童子像はかわいらしい。

3月18日(金)
043 EL ガラタサライ×バルサ 今日のバルサはベストメンバー。オバメヤンをトップに入れる。これが効き、先行されるも逆転で圧勝。パスのテンポも早くトルコの雄を圧倒していた。

3月17日(木)
042 CL ユベントス×ビジャレアル ユベントスは前半決定機をいくつかつくるも速攻もいくつか食らい、後半も押し気味となっても、無理をしないため決定機までには至っていなかった。そんな中、最初に動いたのはウナイ・エミリ。怪我から復帰したエースJ・モレーノを投入。そうするとビジャレアルは直後に速攻からPKを得る。流れはそのまま変わらずに、逆にビジャレアルが得点を重ね、ユーベが負け、ビジャレアルが8強入り。サッカーとはこういうものだと思う。そしてウナイ・エミリのしたたかさを垣間見た。今日のビジャレアルは4-4-2。昨年序盤のバルサ敗戦後の4-3-3から変わっていた。4-3-3の変更によって久保の立場はきつくなった。久保からすると、しばらく4-4-2を続けてほしいと思っていただろう。なぜなら1トップでは機能しないエースモレーノが右を固持したことから久保のポジション候補が狭まり、そのとき既に守備が弱く、左ではいまいちと判断されはじめていたときであったからである。右にはチュクエゼもいて、彼には勝てると思っていたのだろうが、ボランチのイボーラが怪我をして新しいボランチ獲得のための金が必要となっていた。その穴埋めのターゲットはサラリーの高い久保である。そのためビジャレアル生え抜きの若手を採用し始め、久保の退団を促すようにチームが動いていると、久保には思えただろう。チャンスがみるみるうちに狭められていくのがあからさまであった。よくも悪くもエミリはしたたかさであった。今から振り返るとそれでもビジャレアルは、残る価値のあるチームであったのだが、当時はそう判断できなかった。悔やまれる。

3月16日(水)
041 CL マンU×アトレチコ・マドリード アトレチコははじめこそ苦しむが、中盤の人数を増やして対応すると持ち直す。その間にオフサイド判定で泣いたプレーも含めていくつか速攻も決めて、1-0で勝利。連動が素晴らしい。

3月15日(火)
040 ラ・リーガ マジョルカ×マドリー パリ戦とバルセロナ戦との間のゲームにもかかわらずマドリーはベストのメンバーでのぞむ。それにたいするマジョルカは久保を初めての左に置き、右のメンディ+ヴィニシウスに対する守備を強化すると同時に反対サイドで攻撃を組み立てようとするねらい。そしてそれに応じるかのように今日の久保は早めにクロスを放っていた。ムリキもいつもより比較的下がることが多く、ボールキープ力も復活していたので、マジョルカはよい組み立てができていたと思う。したがって前半はスコアレスドローで終える。しかし後半はマドリーのプレッシングから立て続けにミスを犯し失点をする。いつもように久保は終盤で交代。エネルギー切れと判断される。悪くはなかったが爪痕を残せたかどうかは微妙であった。

3月14日(月)
午前に神保町行き。その後銀行を回る。現状は厳しい。午後大学行き。カサベラ928はランドスケープ特集。意外にも自然と馴染むよりも自然と対峙する作品が多い、特にここで取り上げられている建築は半端なく厳しい自然の中にあり、そこで生活するのは生やさしそうではない。それで自動的に対峙するものとなる。シザ、オスカーニーマイヤー、ヘルツォーク、ゲーリー、ノット・ヴィタル、ズントー、チョル、スミルハン・ラディックらである。コルのカップマルタンの小屋を雌型にしたアントン・ガルシア・アブリルの「トゥルファの家」は面白い。

3月13日(日)
039 プレミア ブライトン×リヴァプール 2-0でリヴァプールの勝利。リヴァプールは前戦のホームで犯したような戦いをさせなかった。早くアグレッシブな前戦と中盤を盤石の布陣で待ち受け、安定した勝ち方をする。南野はベンチ外。前線の全選手が復帰してきた。

3月12日(土)
JIA修士設計展の1次審査。鈴木了二さんをむかえる。千葉工大から2人がエントリー。宮内さくらさんにたいする鈴木了二さんの講評は、光を物質として捉えずに体験として見るのは大賛成しつつも、その後の形が光にとらわれすぎて原理的であるというものであった。つまり、堅すぎるという講評。光において近代的見方を否定しているのだから、形も近代から脱却しなければならないというものであった。このコメントは、宮内さんも含めて、リサーチを一生懸命やっている案に対しても同様なものであった。リサーチに引っ張られて、また別の意味の自由を失っているということである。原理的というのは、ぼくもよく言われる批評であるので身にこたえる。鈴木了二さんの本を読むと、近代建築は既に終わっているといっているのだけれども、鈴木了二さんの建築や評価する建築は近代建築そのものなので、本心はそこにないと思っていたのだが、今日選んだ作品を見ると、近代建築のボキャブラリーのあるものは選んでいなかった。ところでこの作品の公共にたいする視点についての討論は盛り上がり、評価する委員もいたのだが、ある意味鈴木さんはプロセスより最終の形式化に重点があって、この点でぼくと同意するものの、形にたいする批評はその分強かった。もうひとりエントリーしたのは武田千紘さん。今日のトウコレにも出展している。武田さんにたいする鈴木了二さんの講評も宮内さんと近いものであった。発酵に対する壮大さ、リサーチ中心の他の作品よりダイナミックな視点をもっていると評価してくれた。見えないモノを相手にしているのもよい。ただ、すっきり通らなかったのは、形がやはり不自由だと。もっとのびのびと、村ごとデザインするくらいまでいくとよいというアドバイスであった。リサーチから形へ成長させる過程で、もうひとつデザインが必要ということであった。

3月11日(金)
038 EL バルサ×ガラタサライ バルサの状況が好転していうるらしいが、今日は結果が伴わなかった。IHにペドリがいて、両サイドとともに前線との間でボールを出し入れしながらゴールを目指す。休ませていたオバメヤンらを後半から投入するも0-0のドロー。

3月10日(木)
大学院入試の面接。遠藤研から3名が受験。モノに即して具体的に内容を話していくのがよいことを改めて感じる。
037 CL マドリー×パリ 第1戦ではパリが圧勝で、今日のマドリーの出方に興味をもっていたのだが、前線からのかなり激しいプレッシングでのぞんだ。前半はそれでもその間を掻い潜りエムバペの速攻で突き放される。しかしマドリーのプレッシングは後半になっても衰えることなく、60分過ぎから若い2人を投入してさらにギアが上がった。この時間帯からパリはDFラインが下がり前線3人は浮いていた。そこからベンゼマのハットトリック。モドリッチのパス供給も異様な迫力があった。こうなるとチーム事情はどうであれ、マドリーのチームワークを評価しないわけにはいかなくなる。事実、勝利の後は優勝したかのようであった。アラバは椅子をトロフィーのように高く持ち上げていた。

3月9日(水)
ヒルサイドラスヘトウキョウ建築コレクションを観に行く。遠藤研の武田さんが出展している。特徴のある敷地を選択しそれを精査し、その特徴を引き延ばす案がいくつかある。設計者が直接主体を発露することに抵抗があるのだろう。調査が、作品をつくるためのアリバイのようにもみえてしまう。その中で武田さんの展示は、発酵を巡る世界を強く解明しようとしていて潔さを感じた展示であった。発酵が奥行きある大きな世界観をもっていることがよかったのかもしれない。それを追求しようとすることで自らの視点がはっきりとしていた。モノへの転換が弱いというコメントがあるが、主体を隠すのでなく位置付けること、そのためには大きな全体を知るべきでありそれが意識された作品であると思った。そうしたアリバイに自覚的な作品も面白い。ひとつは、かつて水の都であったほど水資源が豊かであった東京が現在は地下鉄などにおいてその水処理に苦労している、この点を逆手に取り、その現状を建築であからさまにして歴史的連続性をつくろうとする案。もうひとつは、マクベスの世界観を建築という多面体にマッピングしようとする案だ。これらはアリバイつくりをドライブしている。姫路城の大柱を展示する案も面白い。ドローイングも含めて自己陶酔の域に達している。その中間に、線香の灰でつくる建築あった。設計とはそもそもこうした自らの設定した仮設をいかにトータリティ持たせるかにある、といったのは池辺さんであった。設計はこうでないといけない。遠藤研の宮内さんは次点であったようだ。提出したポートフォーリオのみ展示されていた。彼女の案も自己陶酔の域に達していたと思うので残念だ。
035 CL リヴァプール×インテル

3月7日(月)
G・ベイトソンとティム・インゴルドの類似性を感じたので整理をする。インゴルドのいっていたヘリコプター操縦士の水平思考とはベイトソンのいう散弾銃を撃つキャリブレーションのことであり、データを抽出してそれから法則を導き出すというボトムアップ思考をベイトソンはフィードバックといっている。インゴルドは、まず水平思考があることが大事で現在のボトムアップ中心主義を嘆いていたが、インゴルドによるとそのふたつは梯子式に相互関係しながらボトムアップしていく(ロジカルタイプが上がる)といっているのだ。インゴルドがこの例を出したときに、法則を導き出すことの詳細を追いかけると、そう単純なボトムアップでないという疑問を挟んでいるが、その答えが既にベイトソンにあったのだ。ぼくとしても大きな発見であった。
034 ラ・リーガ セルタ×マジョルカ 久保はトップ下あるいは2トップのひとりとして曖昧な立ち位置であったが、ともかくも中央でのプレーから始まったゲームであった。しかし、上手く機能しなかった。ムリキへのチェックがきつくボールをおさめられなくなっているのと、中盤底からボールを前に運ぶことのできる者がいなく、ムリキへのパスが長くなってしまい相手に読まれてしまっていたためである。それで前半終わりから久保が右に流れ、フリーで受けそこからいつものビルトアップを試みるようになる。それだとムリキが孤立しなかなかゴールへ向かない。悪循環となった。それでも今日は3点を獲れた。しかし4点失った。DFの間のゾーンでセルタがボールを上手くおさめるので、一端下がった最終ラインと中盤底との間のスペースを上手く使われてしまっていた。マジョルカは4連敗。チームはムリキ中心として久保を活かすシステムを考えているようであるが、なかなか発火しないので、そろそろ久保にたいする信頼をなくしはじめているような気がする。

3月6日(日)
ワクチンダウンから復帰。難波さんとのメールやり取りで、「ロジカルタイプ」がキーワードであったので、「精神と自然」グレゴリー・ベイトソン著を拾い読みした。この本は、系統発生的な進化における、遺伝子的変化と環境における体細胞的変化の関係について書いていて、ラマルク説を否定するものである。そしてそれを、思考プロセスや創造プロセスとは何か、までつなげている本だ。ベイトソンによると、遺伝子的変化と体細胞的変化という2つは、ともにストカスティック(出来事の連続がランダムな要素と選択的プロセスの両方を兼ね備えた)システムで、両者には連携がないのだが、体細胞的変化の閾の幅によって両者のランダム性の確率を狭め、その結果合体したものが進化であるというのだ。それは、ものからものの名前をつけることと同じ構造で、どちらもひとつのロジカルタイプが上がることであるという。多量のデータ(デジタル)と自由な試行錯誤(アナログ)状態が別々にあり、試行錯誤によってデータ選択の幅が狭まり、結果として進化であり名前が生じる、より上位のロジカルタイプなのである。これを最終章では、ゆっくりと独りでに癒えていくトートロジーともいっている。トートロジーとは自明の理ことである。水に落ちた石によってできた波紋がまた静かな水面にもどっていく例が出されているが、プリコジンの散逸構造のようでもある。これを別の本「精神の生態学」では、エコロジーといっている。これに沿って考えると、「建築」とは高度なロジカルタイプであるとますます思う。だからこれをデザインにおいて閾として利用しない手はないのだ。ところで本書の最後の方でウイリアム・ブレイクがまた登場していた。「賢者は輪郭を見る、すなわち輪郭を描いている」。ぼくにとって今年になってイリアム・ブレイクは3度登場した。映画「レッド・ドラゴン」、大江健三郎、そして今回。これが近頃考えることの閾というものであろう。ぼくの中でのロジカルタイプが上がればと思う。

3月5日(土)
「ワクチン注射のためほとんど1日中ダウンし、ベットで過ごす。
033 プレミア リヴァプール×ウエストハム ウエストハムの監督はモイーズであった。じっと引いて時折カウンター。前線には早く強い選手を置く。あわよくば勝つという戦い方をする。ユナイテッド時代にその力量に疑問が残されたのだが、こうした中堅クラブでは求められる期待通りの働きをする。フロントと上手い関係をもち、弱点のない手堅い選手で固める。これで2部に落ちることなく、フロントの要望に応えていくわけだ。こうはなりたくないと思う。

3月4日(金)
午前にオンラインを終えて、3回目のワクチン注射を午後に行う。その間に難波さんとやり取り。「梨の花」を続ける。もう少し物語に展開が欲しいとも思う。

3月3日(木)
032 ラ・リーガ マジョルカ×ベティス 久保の評価はいまいちのようだが、そうでもないと思った。すべて結果にしたがっているように思う。前半に久保が中央に位置して推進する展開はよかった。今日は、中盤が消されていてかつムリキのマークがきつく全体によくなかった。久保だけではなんともならなかったが、それだけ期待大ということだろう。

3月1日(火)
「ナオミ・ポロロックさんからzoomを通じてインタビューを受ける。エリップス当時の東京の状況を説明する。そしてぼくが建築をどう考えているかも同時にお話しした。英語と日本語を混ぜながらの説明であったので通じただろうかという不安がまずある。難波さんに連絡が取れないというので、橋渡しをする。メールで難波さんと久しぶりにやり取り。お忙しいようだ。車のへこみの修理を出す。

2月28日(月)
「梨の花」中野重治著を読み始める。大江健三郎が絶賛していた。主人公が子供時の田舎の様子を、子供の視点で描いている。まずは目の付け所がユニークである。しかも子供の視線であるのではっきりしたものでない。しかしそこから生き生きとした情景が浮かぶ。というよりも読み進めると、不明であったところが合点いくようになっている。段階を追ってはっきりしてくるのだ。なるほどそれで読みをそそる。当時の田舎の状況が垣間見ることができる。

2月26日(土)
031 ラ・リーガ マジョルカ×バレンシア 久保が抜群の動きを見せる。前半だけでも3枚のイエローを得て、止められるとしたらファウルでしかなかった。それでも0-1の敗戦。得点できなかったのは7番のムリキが今日はいまいちであったことが大きい。久保同様にマンマークがきつく、容易にポストとしてボールをおさめることができていなかった。やはり彼の出来不出来の方が勝敗に関わる。セットプレーでのアイデアも欲しい。20本以上あったのでないか。ゲーム展開という意味では8番中央のセビージャがキーとなっているのだが、解消されたかにも見えた久保との関係がまたいまいちにも見える。久保と反対のサイド左への展開が多い。一方右では久保が前半中央に絞ってSBを上げて、後半からサイドに開いて右奥をFWに提供していた。こう見るといつものマフェオより新加入の2番との相性がよさそうだ。

2月25日(金)
「寝そべる建築」鈴木了二著を一気に読む。はじめの立原道造論と、続くコルのメディア戦略論には意表をつかれた。非ヨーロッパ的なるもののDNAが最初から近代建築に内在していたという指摘であった。コルビジュエがメディアの扱いに優れていたことは有名であるが、コルの源にはイスラム建築があり、コルがそれを隠すための戦略であったという。コルにはギリシアから連続する必要があったのである。それに対して立原道造には、終わりからはじまる建築を見出しており、それがコル後にあるべき建築の解答となっている。それはいみじくも大江健三郎のアンビギュアスに通じるものであった。恐ろしいのはこの本が出版されたのは2014年。その後、コルに対する評価はさらに書き換えられている。これがメディアとしての建築の終わりの理由だろう。

2月24日(木)
029 CL アトレチコ×マンチェスターU アトレチコが終始圧倒するも、土壇場でユナイテッドが追いつき1-1のドロー。アトレチコはフェリックスがよかった。珍しくヘディングを決めた。その後もアトレチコは何度かチャンスがあるも崩せなかった。そしてこうした結果を招いてしまった。

2月23日(水)
「大江健三郎 柄谷行人 全対話」を読み終えて、ぼくの自作について振り返る。近代思想の限界は「建築」の限界でもある。そのなりの果てに、ナチュラルエリップスのように遠い日本の狭小住宅が位置づけてはならないと思った。当時考えたのは、東京の特殊性を示すこと、そして「建築」において推進力のある技術や素材を取り上げること、そしてそのギャップを解いてみせることであった。このギャップをアンビバレントというところまで昇華させる必要があったと、本書を読んで思った。ナチュラルというタイトルに込めた意味は、実はこういうことがあって、美的に見られることにたいして批評を込めたのであった。

2月22日(火)
「大江健三郎 柄谷行人 全対話」を続ける。現在近代思想は世界中に広まっている。そしてその限界も知っている。西洋の思想家たちはそうした中、日本などの外の国に対して、近代を乗り越えるものを欲している。それは近代的思想などによってではなく(なぜならぼくらはそれを身体化させていない)、ぼくら民族のオリジナリティから期待をするものだ。そうした視点を本書では「美的にみる」といっている。浪曼派と同じで、中身を吟味せずに分からないものを判断する基準として美を持ち出すことだ。かつての思想家では丸山眞男と坂口安吾はこれに反発したという。たいして日本の多くの思想家や小説家は、美的に見られてしまうことを受け入れていた。このアンビバレントな態度が超克というような思想を生んだとして批判する。大江のノーベル賞の基調講演は「アンビギュアスな日本人」である。両義性を認めた上で癒えることをいう。ユニバーサルとはこういうことだという。別なところでは、ヴァシレーションともいっている。揺れ動くという意味だ。本書では、アンビギュアスであるためのいくつかの方法を提示している。ひとつは「終わり」を前提として進めること。内輪話としないで、アンビバレントなふたつを認めること。そしてふたつのアンビバレントな間を綱渡りすること。ただし地域主義のように閉じることなく発散すること。である。大江はその意味で、ウイリアム・ブレイク(ブレッド・ラトナー監督の「レッドドラゴン」にあった)、ミラン・クンデラを評価していた。

2月21日(月)
「大江健三郎 柄谷行人 全対話」を続ける。日本の近代小説あるいは批評についての大江の印象的な文章がある。それは、「日本語と固有名詞に全面に寄りかかっている、あるいはそれを手がかりにして、日本語と切り離すと普遍的な文学の問題は出てこないのみならず、なにひとつ進まないという仕事をずっとしてきた」。あるいは、「戦前の批評家として小林秀雄がそうだし、戦後の批評家として、江藤淳など、もっぱら日本語の固有名詞、日本語の文学、日本人の文学というものを検討してきた。普遍的な原理は考えないで来た」である。この文章はそのまま、現代の日本建築家の言説と重なっていないだろうか。つまり、日本の(独特の)生活状況をおいといて、そこから建築を語ろうとする姿勢である。池辺さんの「デザインの鍵」に「名前のない空間へ」という文章があるが、固有名詞に寄りかからない設計とはこういうことをいうのだろう。
028 ラ・リーガ ベティス×マジョルカ 3位のベティスに対してマジョルカは善戦をした。久保はというと前半のみ。前半に失点に絡んでしまった。あっさりとSBに裏を取られてしまったのだ。失点の後、2トップの1人を久保サイドに置きSBとで3人で守る形にした。これでは攻撃にならないと判断したためだろう。また、前半はマジョルカが攻められた後、そこからボールを回収したときもなんとかつなぎ役をムリキが下におりてしていた。しかし、それではゴールが遠い。後半から、イガインを中央において、イガインでキープしてムリキを前線で使うという選択にした。このための久保の交代であったかもしれない。久保にとってはここ数試合よい流れであったのだが、ちょっとアウエーでは疑問を残すかたちとなったわけだ。イガインも同様な理由でスタートのポジションが奪われたので、気がかりである。

2月20日(日)
「題名のない音楽会」というTV番組でクセナキス特集。そこでカッサンドラというオペラ曲を聴く。1人のバリトンが神からのお告げを高音と低音の2役を演じる曲であった。フィリップス館は楽譜が形になったとして有名であるが、その曲メタスタシスの楽譜は、2人分のヴァイオリン演奏を1人で行うものを示したものであった。続くディクタスでは、4人分のメロディが同時に進行する。オコは、打楽器三重奏の定番曲であるそうで、民族曲のようであったのだが、途中でバラバラなリズムを奏でるものであった。先日鈴木了二さんの本でコルのラ・トゥーレットにおけるクセナキスの初期スケッチを知った。クセナキスが外壁サッシュの割だけでなくプランにおいても、聖堂と生活空間の2つを1つにぶつかり合わせるのに重要な役割を果たしているという内容であった。それはエントランスを入るときに中庭で伺いしることができるものだ。これらは皆クセナキスの意向も強く反映されていたものであったのだ。
027 プレミア リヴァプール×ノリッジ 後半からオリギを入れると活性化されリヴァプールが逆転し、その後は圧勝。前半は中央を固められて苦労していた。チェンバレンが下がって、ティアゴが入ると大きなサイドチェンジが増えて、そこからの得点であった。

2月19日(土)
今年度の卒業修士設計の最終講評会を、吉村靖孝さん、藤野高志さん、谷口景一郎さんをむかえてzoomオンラインで行う。パワポプレゼとなり、学生は自らのテーマを的確に説明できていた。これはオンラインのよいところである。そのため7時間以上にも及ぶ長時間な講評会も緊張感を保つことができた。各先生方には感謝である。その中でも吉村さんの設計研究における研究アプローチについての問題提示が印象的であった。どの大学でも同様だと思うのだが、研究設計では、資料やデータからの類型化そしてそれを合成するというボトムアップ的思考を多くの作品が行う。しかしこれだと建築の可能性を狭めてしまっているし、千葉工大内の講評会での指摘にもあったように、抽象化するときにそこからもれて切り捨てられてしまうものも多くなってしまう。それに対する危惧である。本来建築設計行為はデータや条件を整理することとそれを形式化することの間を行ったり来たりするものであるが、では、設計研究ではどういうスタンスを取るかという問題規制である。ボトムアップに対するトップダウン的な方法があるか?ということでもあるが、ぼくとしては柄谷行人のいうアレゴリー的方法というのがそれにあたるのだと思う。遠藤研の武田さんの作品は発酵による地域再生を目指した作品であった。酒蔵の再建を通じて地域を再考することなどはアレゴリー的だろう。ある種の地域ネットワークというものは発酵菌をサブシステムとした全体というようなものだろうというのが本研究の元にあるが、近代化によってそれは崩れてしまった。その崩れたサブシステムを酒蔵の再生によってこれまでの方向に修正しようとする提案であった。この提案にもし足らないものがあるとしたら、それはアレゴリーにおける登場人物設定が建築においては何かを考えることだろうか。惜しくも武田案は優秀3案から外れてしまったが、こうしたことを考えさせてくれた案であった。2等の森口案はこうした観点に立つと、ボトムアップでもなくトップダウンでもなく水平思考をするものであったと思う。彼は実際にアパートを解約しバンを買い、後ろにモバイルハウスを乗せて、その経験からノマド生活を提案するものであった。ぼくが言うこの水平を藤野さんは発散といって評価していた。遠藤研の安達鉄也くんの案はその点において評すると、ボトムアップのジレンマから上手く逃げる周到な論理構成を用意していたと思う。安達くんのは、ドラえもんの愛着性を建築に落とし込もうとする作品であったが、ドラえもんの整理から得たデータを到達目標設定のためのものとして利用していて、設計自体はそれに縛られることなく自由に行なっていた。非常勤の中野さんはこれをパタン・ランゲージ的といっていていたが、パタン・ランゲージを到達目標と考えるなかなか面白い捉え方であると思った。遠藤研の山口くんは投票が伸びなかったが、調査結果を無批判に受け入れるのではなく、そこから独特の視点を見つけているという点で評価されてもよいと思う。会津の巡礼路を聖なるものでなく娯楽として捉える点にそれを見ることができる。調査を批判的に捉えていた。山口くんの調査では、さざえ堂も巡礼路を一度に体験できる娯楽施設であるという。こうした視点を中心にして作品を語ることができればもっとよくなっただろう。他に吉村さんが指摘していたのは、作品のテーマ性についてであった。社会性をテーマにすることはよいことだが、例えばマスクをするとかしないとかは現在の社会問題に直結するので、そういった当事者的意識がもう少し必要でないかという指摘である。もっともなことだ。今回3等ではあったが、宮内案は、こうした点で興味深い案であったと思う。宮内案は光という身体的でかつ古典的な問題をテーマにしていたが、視角を触覚と捉えなおしている彼女自身の視点が評価された。ぼくとしてはさらに、光と公共性を平行に扱っている点を評価したい。残念ながらそれは伝わらなかったようだ。宮内さんは、光が物理性としてあるいはデータとしてしか捉われない窮屈性と、近代的な公共性というものが1人1人の人間性を大事にしないで教条的にサービースを提供する、利用者にとっての不自由性を、上手く重ね合わせた提案をしていた。それで彼女の視角論も公共性に対する考えも経験を大切にしたものとなり、公共性にとって大切なこととは、窮屈な社会から逃れて(住宅と同様に)そこにいることで、個人(の感覚)を解放させてくれる場所であるべきであるというのだ。そしてそのオリジナルをギリシアのテルマエに求めている。ぼくには十分に伝わったのだが、後は表現の問題だろう。場の選択の自由性として表現できればと思う。飛び抜けていると思っていたのだが残念であった。各先生方の総評として、谷口さんは環境建築家らしく、リサーチに充実した環境条件を加味すべきとの指摘をいただいた。1等の坂井案は解体という新しい時間ファクターがあることを評価し、森口案の実行性を評価していた。宮内案のシミュレーション結果を評価した上でさらなる素材とか条件の精度を上げることをアドバイスしてくれた。藤野さんは、研究の厚みを評価しつつも、建築としての成果物の責任を問うていた。もっと形にせよ、ということである。宮内案については彼女の発する言葉の独自性を評価し、森口案に対しては、彼の整理したデータを収束させずに発散させていることを評価していた。吉村さんは、千葉工大の特徴として構造的アプローチがあることを上げて、とかく大学院では設計がつまらないものとなってしまうのだが、学部から大学院へと順調にステップアップしていることを評価してくれた。そして優秀作に選んだのは、自身のテーマに没頭している作品にしたといっていた。それが宮内案と森口案に当てはまる。そして坂井案がテーマとした解体への可能性をあげていた。つくるというプロセスはすでに決まっているが、解体に関しては未だ未定だということである。

2月18日(金)
026 EL バルセロナ×ナポリ 新しい3トップもなりを潜めた。フェランが決めればというシーンがいくつもあったが、皮肉にもそれを演出していたのはデンベレであった。デンベレは途中投入後もバルササポーターからブーイングの嵐。それでもチャンスメーキングに徹していた。そのため後半はバルサらしいテンポのあるパス回しであったと思う。1-1のドロー。

2月17日(木)
午前は隣で地鎮祭が執り行われていた。ぼくは打ち合わせでそれどころではなかったが、本格的であったようだ。その後に工務店が挨拶に来る。午後から大学行き。外部講評会に出席する学生のプレゼをみる。なかなか上手くまとめているので、明後日には期待である。
025 CL インテル×リヴァプール クロップは、サラー、マネにジョタを選ぶ。ジョタは前半で負傷のためフェルミーノ。その後、マネに替わってディアス。オリギもベンチに入り、南野不出場。南野の序列が明らかになる。中盤も新人の67番エリオットを抜擢。ヘンダーソン、ケイタ、ミルナーという順で投入。カーティス・ジョーンズもベンチ外。こちらも激しいポジション争いである。インテルの激しいプレシングに苦しむも、コーナーから得点をして逃げ切る。

2月16日(水)
024 CL パリ×マドリード パリが終始押し気味の展開であった。そして最後にエムバペが2人の間を抜け、クルトワの股間を抜いてゴールを決めた。0-1でマドリーがアウエー戦を落とす。今日のところはパリの方が圧倒的に上だったが、最小限の点差で終える。

2月15日(火)
午前は一級建築士更新考査のためビューロ新宿へ。3年前は1日中拘束されていたのだが、オンライン講習が事前にあっため。1時間のみですんだ。
023 ラ・リーガ マジョルカ×ビルバオ 久保の逆転弾で3-2でマジョルカの連勝。ゲーム開始時こそビルバオのプレッシングに苦しみ何もできなかったマジョルカであったが、久保がキープし、ムリキのポストプレーが上手くはまるとマジョルカペースになる。そこから立て続けにPKとムリキの落としからFWアンヘルの得点で突き放した。後半には一端追いつかれるも、中盤底を変え、そしてやはりムリキがいて、今までのようにひたすら前に蹴り出すのではなく、時折見せるキープで反撃の形をつくっていた。そうした中で久保のオウンゴール呼ぶシュートが生まれた。ゴール後、久保はユニフォームを脱いでどこかに行ってしまった。そのくらい興奮していた。

2月14日(月)
CASABELLA927が届く。巻末の赤坂喜顕氏の論考が勉強になる。ローマにあるペルッツイのパラッツォ・マッシモ1536については色々評されているのを読んできたのだが、やっとその意味を理解することができた。1527年のサッコ・デ・ローマ後の建築で、その古い基礎の上の建築であること、そして盛期ルネサンス都市型パラッツォの典型であったブラマンテの「ラファエロの家」の立面を下階にずらして過剰にし、かつ上段をすっきりさせていること、これによって安定的な盛期ルネサンスではない表現=冷笑的な優雅さと不安に満ちた表現を可能にしたというのだ。続くボロッミーニのクアットロ・フォンターネ聖堂の平面解析も面白い。動きのある濃密な楕円建築は、尊敬するミケランジェロの楕円とギリシア十字とを整合させようとした結果できたのだとして、それを証明している。

2月13日(日)
午前中に村上春樹と和田誠のジャズ本を見つけ、それらCDを棚で探す。午後は「大江健三郎 柄谷行人 全対話」を読む。最初は中野重治について。中野のアレゴリー性、おもしろいことを発見する能力、絶えず自己の座標をもつという意味でエチカ的、と両者が評する。池辺さんも中野重治を評価していたことを難波さんの本で読んだ。興味が湧く。
022 プレミア バーンリー×リヴァプール 南野はベンチ外。いっそうポジション争いが激しくなってきた。

2月12日(土)
021 ラ・リーガ ビジャレアル×レアル・マドリード 0-0のドロー。プレッシングの強度で前半と後半とでがらっとゲーム内容が変わる。ビジャレアルは前半とにかく連動するも、最後は個人であった。それは、右のチュクエゼであったり、中央の17番であるのだが、最後はレアルの2CBが勝つ。後半になるとバルベルデが前掛かりになり押し込み始めると、レアルの右が連動した。面白いゲームであったと思う。久保も早くこういうレベルでプレーできたらと思う。

2月11日(金)
府中市美術館で開催の池内晶子展に行く。氏の作品はテンションを用いた絹糸の彫刻である。展示室内の微風や湿度でそれは動き、鑑賞者の立つ位置によって見えたり見えなかったりする。照明の反射による。それほど微細な作品であった。テーマは、重力や空気感を身体感覚で知るということだろう。大作となればさらに空気感が表現できると思った。

2月10日(木)
雪が本降りになる。1日中オンラインのミーティング。
020 プレミア リヴァプール×レスター LWに新加入のコロンビア代表のディアスが初先発。リヴァプールの戦術にぴったりとはまり、何の違和感もなかった。それだけ優秀ということだろう。得点はRWのジョタにより2−0でリヴァプールの勝利。後半からはアフリカから帰ってきたサラも復帰する。

2月9日(水)
「ユートピアへのシークエンス」鈴木了二著を読む。近代建築の名作にたいする独特な解説に惹かれる。まだまだ経験不足であることを実感する。シザのガルシア現代美術センター、アールトのセイナッツァロのタウンホール、シンドラーハウス、スカルパのブリオン・ヴェガ、カーンのソーク、リベラのアラパルテ邸、マッキントッシュのグラスゴー美術学校、コルのラ・トゥーレット、ミースのバルセロナ、ハンス・シャロンのベルリン・フィル、テラーニのサンテリア幼稚園を取り上げていた。

2月8日(火)
「生きていること」ティム・インゴルド著を読み終える。「形が生成しつつある運動状態が生である」。あるいはドゥルーズとガタリの「生きた世界における本質的な関係は、質料と形相の関係ではなく、「素材」と「諸力」の関係であるp483」。この本の中心テーマであった。こうしたことはアレグザンダーも主張してきたので慣れているのだが、アレグザンダーは絶えず全体性というものを持ち出し、ぼくたちに価値判断を迫る。たいしインゴルドは「素材に随う」あるいは環境に随うといい、対象と主体を区切ることをそもそも嫌う。身を投げ出せというのである。この違いは小さいようで大きいように感じた。

2月7日(月)
「建築雑誌」2月号が届く。21年目のせんだいメディアテーク特集。公共建築における運営の大切さはこの建築から知った。この建築の強度がすごいのは、この公共性においてなのだと思う。対談において小野田さんは、「月にたどり着くような思いでトライした」と述懐しているが、これは構造や施工においても同じ状況であったことが分かる。もう一度、こうした建築の役割を振り戻したいと思う。

2月6日(日)
019 FAカップ リヴァプール×カーディフ リヴァプールは前半苦しむも、後半突き放し、順調に勝ち進む。南野先発。今週末には両ウイングがアフリカから帰ってくるので、与えられた最後のチャンスかもしれない。ぼくとしては、前半もボールに絡んでいてよかったのでないかと思う。交代直前にルーズボールに素早く反応し得点も決めた。やはり南野は中央がよい。

2月5日(土)
019 ラ・リーガ マジョルカ×カディス 降格圏争いの白熱したゲーム。久保は終了間際までプレーした。CFらしいムリキが新加入して、マジョルカはそこでボールを落ち着けることができゲームらしくなった。今日はセビージャもIHとして久しぶりの先発。ムリキからの折り返しを起点として展開するが、やはりセビージャは久保が好きでないようで、基本左にパスを指す。右に張り付きボールを待つ久保を使えばと思うのだが。右のSBもただ突進するばかりで久保を全然使わない。久保も、絶妙トラップやサイドをえぐるドリブルなど果敢に攻めるも攻撃は単発であった。もう少し連携すべきだと思う。

2月4日(金)
東京理科大の修士設計講評会にオンラインで参加。30作品もあり、13時から22時までと長丁場であった。図面は簡素で物足りないが、模型はつくりこまれているものが多かった。3Dで展示されている模型を見ることができ、外観はそれで十分に把握できた。講評においてぼくが押したのは、「不便のすすめ」という作品。今日の講評会では、研究調査をかたちにするプロセスを注意深く見たのだが、調査がどんな綿密にできたとしても、かたちにするときに一般にわかりにくい因子というものを見落としてしまうものである。このことは千葉工大でも同様で、インゴルドのいうところの垂直方向思考の限界というものだ。この作品は、これを微妙にかわす論理体系をしたものであった。あえてネガティブな問題をかたちとして提供すれば、利用者はそろってそれを解く、そうしたときの共感を期待したものだ。これに近いアプローチにレム・コールハースの偏執狂的批判的方法というのがある。レムがダリの作品を紹介して、この考えを知った。ミレーの「落穂拾い」は絵画のマスターピースである。ダリは、その理由を考えた。女性がカマキリの雌で男性が雄でそれを食べようとしている、あるいは籠の下には死んだ子供がいる、そんなおぞましいことをミレーは表現している、とダリは考えた。そしてCTスキャンによってそれも確かめたという。この隠れたネガティブさが無意識に皆の共感を生んでいるといったのだ。建築でいえば、安藤さんの建築もそうだろう。安藤建築が受けるのは、決して住みやすい訳ではなく、そんな建築でも住みこなしているという逆行からの安藤建築施主共通の快適がある、安藤建築が受けるのはそういう共通感覚によるものだ。この理大生の作品も、ネガティブ条件を新建築誌からピックアップし、それを構築するという道を選んでいた。これを評価した。もうひとつ評価したのは、根曲がり木の再活用を狙った作品である。役に立たないとされる斜面に生える根から曲がった木を上手く使い分けることで、妙な建築に仕上げた作品であった。これも先の垂直思考にもとづいているが、曲がった木を扱うという仮説が明確で、その仮説自体は正しいことに間違いないので、その後に展開する物語を共感できたのだと思う。しかし最優秀案に選ばれたのはこれらではなく、街を調査しその特徴を拾い上げて空き地に新しい提案をし、街の再生を促すものであった。よくあるストーリーではあるが入念に練られた作品である。そして建築家の作為性を否定することからはじまる作品である。おそらく誰もがここで展開する論理性を信じていないが、調査に対する真摯な態度や作品の密度を買っている。しかしこれだと、論理性を目指した作品にたいし逆にそこに目をつぶることになってしまわないだろうか。そして、形の優位性にむしろ光あたってしまうことにならないだろうか。こうした傾向の作品への評価はやめるべき、とも思う。
018 スコットランド セルティック×レンジャーズ 久しぶりのスコットランドリーグでしかもオールドダービー。中村俊輔が在籍していた頃以来久しぶりに観た。相変わらずの熱狂ぶり。その中で旗手が2G1Aの全得点に絡む大活躍した。旗手も、代表で活躍している守田、田中、谷口とならび川崎フロンターレ出身である。川崎のすごさを感じる。今日の旗手はIHとして登場。LWのジョタとの連携に一生懸命であったが、中に絞っての右レーンからの得点もあった。守備においても上下に走り回って、攻撃の芽をつぶしていた。万能プレヤーである。

2月3日(木)
「生きていること」を続ける。最近読む本の中に、生の哲学を扱うものが多い。それは、既成の枠組みに納まることなく自らが場に応じて思考することを促すものであるが、インゴルドがいっているように、既成の枠組みを壊せ、とはいっていない。建築をつくるときはどうか。「建築」に沿って考えるということであろうかと思う。
017 スペイン国王杯 ラージョ×マジョルカ ラージョは昇格組であるにもかかわらず8位につけ好調、かつラージョのホームゲームである。そこでマジョルカは、ラージョのつなぐサッカーを嫌ってロングボールで応戦していた。新規加入のムリキがそのボールを上手くおさめることができて、ちょっとこれまでとは違ってゲームになっていた。久保は75分過ぎからイ・ガインに代わり登場。日本でのサウジ戦から中1日である。ムリキの近くに位置し、こぼれ球をねらっていたものの全くゲームに入れていなかった。lこのころはゲームもぐちゃぐちゃであった。結果、0−1でマジョルカの敗戦となる。

2月2日(水)
「生きていること」ティム・インゴルド著の12章を読む。ここでは「空間」という考え、そして「空間/場」という2つを分ける習慣を科学的思考と同様に強く否定している。ロシア北部におけるツンドラの欠損調査における科学者とヘリコプター操縦士の喩えが面白い。調査は地図上を50キログリッドで区切りそこからサンプルを採取するというものである。科学者はそれを持ち帰り、データベースを構築し、分類や集計をすることで、垂直方向に統合していく。この統合プロセスを通して知識は生み出されていく。これが科学といわれているものである。対しパイロットは、地形を知っていて、さまざまな気象条件の中で航路を見つけることを知っている。この知識はそのロケーションに由来するのではなく、それ以前の飛行経験に由来している。インゴルドは、このふたつ目的な知識があるからこそ、科学者はデータを追って統合する能力を発揮できるのだけれども、それを放っておいてはじめの知識ばかりがクローズアップされていることを批判しているのである。「空間/場」も同様である。はじめに抽象的な空間があり、それでは生がなく窒息してしまうので場という概念ができた。これを批判している。本来人には、生があり無限の大地の上を散歩し、「経験的データを秩序づける概念やカテゴリー体系をその場に輸入することで機能するp365」知識を活用しているのであって、「出来事を個別的で自己完結的な事実へと、そして生起することを閉じられた場所を占めることへとひっくり返す」ことではなかったはずであるという。どうも近代思想はこうなっているのだという。これは設計研究においても、こうした傾向が見られないこともない。あるいは、問題が起きたときにそれの白黒をつけるための基準を求めることもそうしたことの現れだろう。水平思考と垂直思考、あるいは柄谷行人のいうアレゴリー的思考とシンボル的思考の違いと同じである。

2月1日(火)
016 代表 日本×サウジアラビア 前戦とは違い締まったゲームであった。サウジが優秀であったのと、解説の岡田氏は、海外組が集まって1週間の期間が大きいといっていた。要するに欧州のサッカー道の上で両チーム皆が演じることができているということである。それは選手だけでなく、観るぼくら側もそうした眼で観ているのだ。だからぼくも、3人の中盤の動きをそうした目で見てしまう。それほど目立たなかったが、両SBの押し上げチームの核となっていた。1点目は、ハーフライン付近からRSB酒井からの縦パスをRW伊東がぶっちぎったかたちであった。2点目は、両SBも含めてサウジを押し込んだ中での混戦から伊東のゴラッソであった。加えて今日は大迫のポストも効いていた。解説の岡田はいいことを言っていて、大迫のポストプレーが成功するには、出し手の位置も高くないと成功しないということであった。大迫がおさめることができればまた両SBとWGも上がることができ、よい方向に展開する。

1月31日(月)
設計研究における参考作品のあり方を考える。真似ることとは、道具を使いこなすことと一緒だという結論に至る。上手く使いこなせば、身体と一体になり制作を伸ばすことができる。上手くいかないと、道具と身体は離れたままで、単なるモノでしかない。インゴルドはこれを道具的存在といっていた。あるいは、憑依とはそういうことか。参考作品も同様だと思った。上手く使いこなさないと形が遊離しマイナス評価され、上手く使うと、自分のものオリジナルになるということだろう。2つの区別が難しいのだがそれがつくることの魅力ともなっている。名建築に連続性が見られるのはこのためだろうと思う。「建築」とはこうしてできているのかとも思う。

1月30日(日)
修士設計における参考作品の扱いが問われ、そのまとめをする。設計は行ったり来たりして一方向流れるものではないのだが、求められる要求に事後的にまとめることはできる。このことを実感する。「感覚のエデン」では憑依をテーマにしていたが、憑依が起きた過程は事後的に説明ができても、憑依を起こすことは難しい。しかし、その起きる可能性を大きくしていく態度は何かしらあるのだと思う。考えればずっとそのことを考えていた。そのためか、そうした可能性を修士研究に求める研究室の学生もいないこともない。論文要旨をまとめていて、そうしたことに気づいた。

1月29日(土)
久しぶりにゆっくりして外に出た。妻の実家にもよる。その間も昨日の修士設計を反芻する。それぞれのテーマ設定は面白かったし、研究から作品に展開する筋道つくりも上手くいっていたと思う。事例収集から何をつかむかがその後の展開を大きく左右していたのだと思う。そうだからこそ、ここに時間をかけてしまうのだが、不思議なもので、提出されてからの気づきの方が圧倒的に多いことに気づく。これを自己システムとして取り入れることができたらどんなに建設的なのだろうと思う。

1月28日(金)
修士設計の発表会。コロナの中、無事対面で行うことができた、遠藤研からは8作品が発表。石野くんは、建築ファサードを白黒化しても建物輪郭が明確で情報量がかわらないものに名建築が多いことに気づいた。建築は様々なエレメントでできているが、人が建築を把握するのは何らかの全体像に基づいているということを、これは示している。本研究は、建築の白黒化という方法を通して人それを実証しようとする研究である。このアプローチによって収集された名建築の白黒化総覧は見事であった。そこから確立した方法論は白黒の形をつくる建築エレメントへの還元であったが、今から思うと、白黒の形自体の評価をすすめるべきであったかもしれない。例えば、全体に占める白と黒の割合とか、かみ合いとか、対称性とかである。アレグザンダーの15に幾何学的性質に近いものである。なぜならエレメントは、プログラムとか生産技術に負うことが大きいことに加え、最終的に建築を把握するには、エレメント自体は問題にならないとしているからである。岡田くんは斜め建築の研究を行った。クロード・パランの「斜めにのびる建築」の論考からはじめ、扱う範囲をパランの建築の機能性から地形や自然といったランドスケープまで拡大させた研究である。人はこれまでこうした斜めの自然を異質なものとしてコントロールしてきた。しかし昨今の災害を考えるとコントロールしきることは不可能で、篠原一男の「谷川さんの家」はこうした自然にたいする人の態度を批判的に捉えた先駆的作品であるという分析は面白い。本作品もこれに倣い、建築を自然の斜めと対峙させる作品で、批評的表現を試みているという点で新鮮であった。菅原君は日本庭園の研究である。5つの池泉回遊式庭園を調査した。桂離宮・等持院・天授庵・銀閣寺・修学院離宮上御茶屋の5つである。これらがつくるシークエンスを参考に、活気が失われた月島の路地空間の再生化を試みる作品である。方法論が明確な反面、抽象化によって失われる情報も多い。本研究に限らずデータをどのようにまとめるかその検討が必要となるのだろう。ひとつは、データをいかようにでも取り出し可能なような整理の仕方である。マトリックスの中に位置づける、あるいは、ひとつの世界観をつくるためのパタン・ランゲージ的整理もあると思う。今後の課題である。武田さんは発酵をテーマとした建築の再構築である。発酵菌は地域文化をつくりだしてきたという。モノのスケールや時間歴史を超えて地域の核にまでなっているという。しかしそれを目にすることは難しいので、その隠されたネットワークを紐解いて、再修復することがこれから課せられた建築の役割であるという趣旨の研究である。本研究では、酒倉を中心に発酵菌がもたらす地域ネットワークを詳細に調査し記述している。そして、そのネットワークの中に新しい建築を挿入させることを試みている。結果、地域の歴史を背負ったシンボル的なものと建築がなることが意図されている。日暮君の研究は、ジェイコブスの街つくり理論を日本の都市へ適用する研究である。アメリカにおけるハイウェイが日本では鉄道にあたるという見解が面白い。ジェイコブスの理論による4つの指標、混合一時用途、古い建物、小さな街区、密集を設定し、それに基づいた建築化を試みている。敷地は十条駅前である。現在高層建築の再開発計画が進められている地域である。本作品では、商店とオフィスを成立させるひとつのシステムを用意し、既存商店街の連続性を新たにつくり出すための2本のアーケードをつくり、街区を4つに区切った。そして既存の商店を調査し、賑わいをもたらしていた間口寸法と商店主がセルフビルド可能で参画を促すシステム建築を提案している。堂ノ下君の研究は、恐れや不安を建築で解決しようとする意欲的な試みである。敷地となる神社は、かつて近くの川の氾濫を沈めるためにつくられたという。そして日本の神社には一般に、見世物小屋やお化け屋敷といった怖いもの見たさを刺激する社会的装置も用意されていた。それらはまた、恐れや不安を身近にし平板化させるという機能として働き、神社としての存在意義を保ってきたという。敷地となる現在の神社は防波堤の建設によりその役割を終え形骸化しているように見えるが、地震等の自然の驚異は別の形で迫っている。本研究は、かつてのそうした神社のもつ社会システムの役割を現代的に建築化する試みである。本研究によると現代の怖いもの見たさを満足する建築とは、テンセグリティを用いた不安定建築である。それらを参道化して、人が歩くと床が傾き歩きづらい全く新しい建築の提案をしている。さらにそれは災害時に解体でき避難施設として展開できるものである。真の意味で不安を解決するシステムにまで高められている。この提案は、文化や慣習を深く媒介させた建築の提案として興味深い。松崎さんは葛飾北斎の富嶽36景に見られる構図研究であった。そこには図学的技術があり、さらに遠景と近景を同時に枠内におさめるための「やすり霞」という技法があった。本研究が着目するこの「やすり霞」という技法は、主題とは直接関係のない余白としてありながら、主題を浮き上がらせるための技法である。その効果を建築に応用する研究である。提案する敷地は隅田川である。隅田川では高い堤防の建設によって親水性が失われてしまっている。高い堤防という物理的な問題を、この「やすり霞」技法に相当する背景となる建築の提案で人の視線をコントロールし、かつての親水性を再生しようとする提案である。宮内さんは光の研究を行った。体験から得られる光の状態をシミュレーションを通じていったん言語化し、それを建築化する研究である。光の知覚は、光の物質性によるものではなく、人の認識構造によるものであるいうJ・Jギブソンやメルロ=ポンティの認識論的理解がある。そしてこの研究では光と「公共」の関係が考察されていることである。光も公共施設も共に一方的に体験者や利用者に享受されるもので、それでは真の意味での自由選択を限定しているものと考えた。それで温泉施設と図書館という全く異なるプログラムを隣り合わせて一室空間としたうえに、その場の違いを使用目的でなく光の質の違いによってつくりだそうとしている。したがって公共建築でありながら珍しく、土に埋もれて内に閉じた建築となっていて、光を通して利用者のもつ感受性を刺激し高めようとしている計画である。人の感性を開放することこそが公共の役割であると考える提案である。

1月27日(木)
明日の修士設計発表に向けて、事前プレゼをzoomで行う。これによって、もう一度研究内容を再整理することを試みる。明日の本番に役立てばと思う。しかし未だ作業にかかっている学生が多くもどかしくも思う。
015 代表 日本×中国 追加点が取れずに嫌な雰囲気もあったが、完勝だろうと思う。日本は今や自慢の2CBが不在で心配であったが、中国相手には問題がなかった。思えば、新しいSB谷口や2人のIHの守田と田中は川崎でプレーしていた。その安定がもたらした勝利であったと思う。特に谷口の持ち上がりと縦パス、そのための2IHのスペースのつくり出しにおいて、中国を圧倒したと思う。加えて伊東の推進力もよかった。さあ次はサウジをむかえる。このごろ様々なレベルのサッカーを見るが、レベル差の一番はタイトにつかれたときの技術の差にあることが判る。サウジは中国のようにはいかないだろう。そのときの日本がどうなるか。海外での経験が試されるときである。

1月26日(水)
「生きていること」ティム・インゴルド著にある、光についての記述が興味深い。「私たちは光を見ることはないが、私たちは光のなかで見ている」。メロン=ポンティの言葉である。ぼくたちには感覚的な気づきが欠けている。それを回復するには、対象の客観視された形式のうえに私たちの注意を投げ返すのではなく、対象を生起させる動きのなかに参加するべきということである。ここまで読んで、「感覚のエデン」を思い出した。「主体はいかなるシステムにも特定化されることなく可塑的である」という内容である。岡崎はこれを可能とする人を本来の意味での「市民」と呼んでいた。

1月25日(火)
「生きていること」ティム・インゴルドを続ける。アクターネットワークについて、相互作用線の複雑なネットワークとぼくらは思いがちであるがそれを否定している。インゴルドはACNでなくメッシュワークという。メッシュワークとは真菌の菌糸体のようなものをイメージしているようだ。「現れる存在」のアンディ・クラークやグレゴリー・ベイトソンがあげて、外殻のない動的なものをイメージしている。本書後半でこの詳細が与えられそうだ。

1月24日(月)
014 プレミア アーセナル×バーンリー 富安が怪我のためベンチ外。再発したようだ。そこにホワイトが入る。アーセナルは何度もゴールにせまるが得点できなかった。0-0のドロー。連勝しているときの決定確率がかなり高かったことを考えると、こういうときもあるのだろうと思う。ただ、選手層が薄くこうした状況を打開してくれる控えがいないのが残念である。

1月23日(日)
建築家の設計した温泉に行った。入ってみるとびっくり。ちいさな温泉であったのだが半数以上の人にタトゥーがあった。湯船も小さいので囲まれるかたちである。高校の頃、クラスメートの女子と電車に乗ったら、隣の高校のビーパップハイスクール並の7〜8人の集団が直後に飛び乗ってきた。このことを思い出すような出来事である。ちなみに息子に聞くと、今はそうしたことはないようだ。湯船の中で色々なことを思い巡らす。年齢幅もあったので、一団だろうか。それにしても複数団いそうだ。もめ事が起きるのだろうかなどなど。くつろぐことができなかった。後で確認すると、ここはタトゥー断りを前面に否定している温泉施設らしい。普通は、タトゥーしている人は温泉に入ることができないので自然と集まってくることが判った。むしろ彼らこそが、偶然にそうした人たちに出くわした場合、意地の張り合いから変なぶつかり合いをしてしまう、こんなことを経験しているのだろう。この温泉はむしろ、そうした偶然性を回避できる彼らにとっての公然の場であり、ぼくだけがそれを共有できていなかったことになる。ユクスキュルのいう、「環世界」に生きるとはこのことだろう。お互い別な環境に生きていて、同時に存在することもあるのである。それにしても半数以上という確率はすごいと思った。そしてこの温泉では何も起きなかったが、ドゥルーズのいう「此性」とはこういうものなのだろうとも思った。これを実感する。
013 プレミア クリスタルパレス×リヴァプール 前半と後半が大きく形勢が変わるという面白い展開をであった。それは決定機に決められなかったことが大きく、特にクリスタルパレスは後半よい形をつくっていたので、そのうち1度でも決めていたら結果は変わってだろう。それが本当の一流選手との技術の差なのだと思う。逆にいうとリヴァプールもサラーのような絶対者がいなくなり苦労していた。

1月22日(土)
木村優志くんが来所。今日で6年間務めた難波事務所を退所したという。自邸の竣工写真を見せてもらい、近況を聞いた。木村くんは、遠藤研修士修了後に大野ジャパン事務所で構造を学び、難波事務所で建築と環境について学んだ。つまり一人で一通りの仕事をこなせるという人物だ。それについてのプレゼンテーションの助言をした。ところで何人かのOBが活躍しているので、来年度のゼミで彼らにプレゼをしてもらおう。それを研究室で励みにしたいと思う
012 ラ・リーガ ビジャレアル×マジョルカ 久保は先発し、75分過ぎまでプレーする。ディフェンスにたいする評価が上がっていただろうときに、前半の2失点に絡んでしまった。相対するビジャレアルのSBペドロサ程度に振られるというのはまずいと思う。2点目は久保のみの責任でないが、完全にペドロサをフリーにしてしまった。エミリ特有の(久保に対する)戦略に為す術がなかったことになる。攻撃でも、久保の特長をよく知っていたためか、久保の左足が封印されてしまった。それでも絶妙なセンタリングをするなど、他との違いを見せていたが、同時に現段階の限界も示してしまったことになった。

1月21日(金)
「生きていること」ティム・インゴルドを続ける。本書ではギブソンやユクスキュルについて言及していて、自分のこれまでの考えが整理できた。ギブソンについては、「アフォーダンスは今や明白に環境の側にあり、住人たりうる生き物に一方の道だけを指示しているように見える。「環境はそこに生活する動物(少なくとも生活体)を包含している」と私たちを説得することから始めたギブソンは、続けて同等の確信をもって、しかし正反対に、「環境はそれが存在するために有機体に依存しない」と主張するp195」。つまり、アフォーダンスは、環境にある対象の固有な潜在的存在と考えられている。対しユクスキュルについては、「あらゆる生き物はその生き物自身の「環世界」に含まれているので、それ以外のどんな世界にも動物はアクセスできないp197」といい、つまり、環世界はアフォーダンスと正反対なもので、内的世界あるいは主観的宇宙観にもとづくものと考えている。つまりインゴルドはユクスキュル支持である。そしてこのことを道具的存在と物的存在という言葉でわかりやすく説明もしている。道具的存在とは、熟練工が作業に没頭しているときの道具のことをいい、そのとき道具である槌は点検されたりしない人体(世界)の一部になっているという。6章の結びは以下である。「環境を知覚することは、世界において見いだされるべき物を顧みることでも、固定化された形や配置を識別することでもなく、物および私たちが今まさに為しつつある形成に寄与する素材の流れや運動のなかでそうした物と一緒になることであるp214」と。ここまで読み、「建築」と関連させないわけにはいかなくなった。「建築」を環世界と考えたらどうか。建築における認識や創造は、「建築」との関係においてこそ可能なものなのだろう。このように思うに至った。

1月20日(木)
011 プレミアリーグカップ アーセナル×リヴァプール2レグ 富安は久しぶりの先発。急遽間に合ったようだ。南野は60分過ぎから登場。試合の流れとはおそろいもので、序盤優勢であったアーセナルが徐々に前からのプレッシングが効かなくなった。それはリヴァプールが、17番を下ろし、得意の2CBを開かせずに、両SBもそれほど上がらせなかったからだ。それでできた中盤のスペースへボールを押し込む作戦に切り替えた。アーセナルにとっては、前と後ろが空きすぎてしまった。富安も体調がいまいちのようであったが、何よりも富安サイドで連携ができなかったことが大きい。8番のウーデゴールが富安の近くにいることができなかった。その連携の不味さとは反対にリヴァプールの2発はともに富安サイドのジョタからであった。

1月19日(水)
4年生が卒業設計を提出する。最後は全員がよくまとめていた。これがもう少し早かったらと悔やむ。なぜなら、自分の作品を客観的に観る時間が必要と考えるからだ。それは、優秀案選定において議論が分かれることともつながっている。当然lことながら色々と解釈されてしまう。そうならないためにも、客観的にもう一度みて、議論を呼ぶ道筋をこちらからつくっておく必要がある。今、読んでいるティム・インゴルドもそうであるが、作品の意図(インゴルドは物質性といっている)が作品を総括していると考えるのは間違いである。それとは全く関係しない他者は、自分の置かれている環境(ユクスキュルは環世界という)で対象を理解する。ぼくらはこのことに意識的である必要があり、そのための方策こそが必要とされる。意図を端折ってもわかりやすいプレゼ、作品のエネルギーといってもわかりにくいのでプレゼ密度、ストーリーつくりなど、他者とより多くの共有を目指すことが重要である。ティム・インゴルドが強調するメディウム、サブスタンス、サーフェス(表面)という分類の表面とは、共有ということだろう。ともかくも、物質が対象をつくり、対象が知覚されるという認識の昇華的構造はナンセンスなのだ。安達くんの作品は、ドラえもんのもつ愛されるべきキャラクターを建築に落とし込もうとするものであり、詳細はともかくその意図は共有されたのだと思う。安達くんはドラえもんというコンセプトに行き着くまでも共有は何かを考えていた。それがよかった。講評会に選出されたので、ドラえもんにある上手い共有方法とは何かを具体的に示してくれることを望む。大石さんは、未定の未来を形式化することをテーマとした。視覚芸術であるSF映画は、その未定の未来を多くの観客に納得させる手法に長けている。大石さんはその調査からヒントを得た。未来は現在の少し先にあるもので、いまだ隠れている現在を示すことが未完の未来を共感させるということであったと思う。だから現在が見えない「ふり」の設計をしていた。何回もひねくれている。充実したプレゼを準備して、琴線に触れる機会を狙うしかない。小山くんの作品は、孔の現代性を建築化する試みであった。孔のひとつであるチューブがクローズアップされてしまったが、多くの孔がデザインされていたので、その具体性を示せばよかった。高評価であった。塩野くんの作品は、建築×ジェットコースター。ぼくも卒業設計で同じことをした。人と対象との新しい関係を問い直す試みであったと思う。関原くんの作品は、庄内地方にあった米倉を文化として捉えてその伝承を目指すものであった。優れていたのは、継承内容が具体的であったことだ。それは、中身としての米の保管技術や製造過程、そして米を中心としたコミュニティ形成要因であった。特に前者は建築的ディテールと米の乾燥という特殊な空間を用意することにつながり、庄内の英知を再提示することになった。それはぼくらが半年で考えるものより数段高い密度あるものであり、それをプレゼンテーションできたと思う。島袋さんの作品は、沖縄の消えゆく生態系を保持する建築をテーマとした。生態系に寄り添う建築を調査し、そこから得られた情報を敷地やプログラムに適合させていった。テーマに合うプレゼ、敷地の読み込みが高評価を得た。ランドスケープのような建築となっていた。土師くんの作品は、村上春樹の作風を建築化するもの。これまでの文芸を否定してきたとされる村上春樹の独創性は理解されることを拒むものであり、それを建築化するのはチャレンジングであった。想定される利用者の心的変化を異世界というキーワードで展開させた。異世界をつくる建築外観の特異性のみに焦点が当たってしまったのが残念であった。もう一度建物を覆うなどして、指摘にあったように、インテリ化する方法もあったと思う。こうした作品のように感性を追求した作品の評価は難しい。普通は構造とか環境といったエンジニアの問題解決で逃げるが、それでは、感性それ自体は社会化されないままであるといって柄谷行人は否定している。今後に期待である。水口くんは縄文建築精神を追求した作品である。縄文建築は、日常生活的で雑多的かつコスモロジーがあるという主張が面白い。それがよくプランニングされ、独特な雰囲気は貴重である。昨今の縄文ブームと関連させるとまだ展開の余地はある。宮野さんは、アルバロ・シザの光の窓を研究した。人は自由に景色や光を選ぶ権利を有していて、それを保証する建築を求めていた。それに合ったホスピスという建築プログラム、その規模設定や配置などに一貫性があった。最後に1/50スケールの内部模型もあり、シザの空間を用意していた。好感のもてる提案であり、これをもっと評価する道程をつくってやれなかったことを後悔する。山口くんは、地元である会津33カ所巡りを通じて、娯楽的性質を伴いながら浸透する文化昇華システムに気づき、それを建築化する試みであった。いわれてみれば、さざえ堂はそれに該当するし、飛雲閣などもそうだろう。説明がつかない日本建築である。今は廃れてしまった33カ所のひとつを再建する案で、調査した対象の現代建築にないユニークさが形式化されていた。もう少し綿密な調査を求めればもっとよくなるだろう。優秀案に選ばれた。1周巡り回った新しいテーマパークともいえる。

1月17日(月)
「生きていること」インゴルド著を続ける。素材の属性についての記述は、パタン・ランゲージの説明を思い出させてくれるものであった。対象の物質性にいくらアプローチしても、対象は捉えられないという。石の成分が判っても石全体を理解できないという訳だ。それではどうするかというと、対象が置かれている環境の中で対象を捉えるということだ。それは対象の中に生命が宿るという物神論とは異なる。どの対象にも固有の属性が複数あり、それらは使用において発現することもあれば抑制されることもあるという考えであり、パタン・ランゲージのパタンの考えととぴったり一致する。

1月16日(日)
010 プレミア リヴァプール×ブレンドフォード リヴァプールは中2日でリーグ戦をむかえる。このところ勝ち点の上積みはなく、おまけにサラーとマネの両翼がいない。前半は引いてくるプレンドフォードに対し攻めあぐね、重苦しい雰囲気であった。が、何回目かのセットプレーで得点するとそれも溶けた。南野は2点リードしてから75分過ぎに登場。南野不要論がマスコミをにぎわせているが、ぼくとしては頑張っていると思う。いきなり、フェルミーノの助けもあって得点をした。とはいえ、相手を追い込んでミスパスを呼んだのは南野であった。得点後、南野は中央に位置し、攻めるしかない相手に対し、得意なプレッシングが効く。トップクラス以外のチームに対して南野は十分対抗できることを示した。そうした展開で、2度の決定機をつくった。生き生きとしていたと思う。リヴァプールは3-0で結果的に圧勝。今日は南野の誕生日だそうだ。

1月15日(土)
久しぶりに神奈川音楽堂+図書館に行く。モダニズムのもつ空間の清々しさを感じた。これに皆憧れたのだろうと思う。今の建築でそれが難しいのは、求められる条件の多さからだろうか。断熱や照明などの質的問題、それと素材の扱いなどがある。プログラムにおいても。丁寧に場を提供されることが大切とされ、その過多さが問題となっていると近々思ったりする。モダニズム建築には、利用する人自身を変化させる強さがああって、それが前向きに作用したとき人は清々しさを感じるのかとも思う。
009 スペイン国王杯 マジョルカ×エスパニョール 久保先発。30分過ぎに、スーパーなフリキックを決めた。ファウルを受けたのも久保。それを狙っていたのかもしれない。ファウル後もボールを抱え続け、絶対にキッカーを譲ろうとはしていなかった。気がかりなのは、前半終了間際から突然、久保のエンジンが止まったように見えたことだ。それは、後半の交替時まで続いていた。ハーフタイムまで解説者も、怪我の心配をしていた。どうだろう。怪我の情報はない。試合後は前監督と抱擁もしていた。90分もたせるようにリズムを調整していたとしたら大物だ。

1月14日(金)
007 リーグ杯 リヴァプール×アーセナル コロナのため今日まで延期。日本人対決が楽しみであったが、富安は怪我から復帰できず。南野はフル出場。終了間際の南野の失敗が、戦評ではクローズアップされているが、今日の南野の動きはよかったと思う。特に皮肉なものでアーセナルが10人になる前はよかった。それは、アーセナルが積極的に前へ出てきていたので、多くのスペースができ、そこを巧みに南野は突けていたからだと思う。やはり南野は背中に選手を背負うと苦しいし、30分過ぎの10人になってから引かれてしまって、そうした状況になってしまった。しかし、65分に代表されるように、陣形がばらけるとパスを受けてほしいシュートも放っていた。本人もそれなりに自信をつかんでいるのでないか。以前のようにパスがもらえないことはなくなっている。0-0のドロー。

1月12日(水)
「生きていること」ティム・インゴルド著を続ける。CASABELLA926が届く。テーマは、「プリファブリケーション」。冒頭に、ジャン・プルーヴェの1984年のインタビューを文章化したものがある。興味深い。建築をバッハの変奏曲になぞっている。重要なのは、構造的な一体性と部材のバリエーションにあるという。ここでは一様性を否定し、一体性を支持する。一体性とは、構成の普遍性をいっている。だから、地域に根ざす資材を使う必要もないし、形態の類似でもないという。だから、建築家個人の欲望もまた否定されている。次に、編集者とフランチェスコ・ダルコとマリオ・モノッティというエンジニアの対談も興味深い。マリオ・モノッティは、クリステャン・ケレツと多くの協同をしている。彼ら3人に共通しているのは、いわゆる建設の合理化あるいは機械化に対してプレファブリケーションがあることに批判的であること。戦後の世の中を形成してきた住宅の工業化に、未来をみていない。かつ、最新のモデリング技術による複雑な形態をもつ建築をつくるためのプレファブリケーションにも否定的である。マリオ・モノッティにとって、「建築の真の思想とは、構成要素を部分に分けるコンセプトであり、分割された要素が建物の「煉瓦」になると捉えています。このように捉えた煉瓦は、表向きは小さな部分に見えますが、概念的には信じられないほど大きな力を秘めている」ものである。プルーヴェのいうような一体性と部品との関係である。気になるのは、そうした技術の扱いを唯一的であることにあまりにも肯定的に捉えていて、社会への還元や技術の社会性については希望的なロマン主義的な立場にいることだ。掲載されているケレツの作品をみると、そうした技術が美学の下に置かれているのが判る。プリファブリケーションによって新しい美学が形成されているようには感じないのである。そうした掲載作品の中でも、MAPAアーキテクトの「サクロモンテの礼拝堂」はそそられた。

1月11日(火)
「生きていること」ティム・インゴルド著の第1章プロローグを読む。はじめから、なかなか密度が濃い。冒頭からマルクス+エンゲルスの「人間は生産する。人間は、人間なしに自然に生じたりはしえない手段をみずから用意する」からはじまり、オルテガの「人間は自然をもたない。人間が手にしているのは歴史である」。そしてハイデガーの「人間が地上に存在する仕方が、住まうことである」と続く。尊重されているのは自律する主体性である。それから登場するのは生態学的視覚論のギブソンであった。「ギブソンの知覚理論の重要な洞察は、知覚は根本的に動きに関するもの」であり、「ギブソンにとって、意味とはこのような生産的な関わりから発見されるものP46」である。それぞれ別々にあった対象と主体、これらが曖昧な関係になっていき、対象というものへ着目が動いていることが分かる。そして、メロン=ポンティ。「生きている体は根本から世界の組織へと縫い込まれており、私たちによる世界の知覚は、世界による世界自身の知覚以上でも以下でもない」。そしてホワイトヘッドへと続く。「私たちが生きる世界は決して完了したものではなく、絶えずそれ自体を超えていくものである」。主体が対象を飛び超えて裏に控える世界と渾然一体化するという世界観だ。それをドゥルーズとガタリは明確な形あるもとして示した。「個人、集団の別を問わず、われわれ人間をつくりなすのは複数の線である。いやむしろ、線の塊というべきだろう」。こうしてインゴルドは以下の結論に至る。「私たちの課題は世界の内部に格納された内容物を鑑定することではなくて、そこで進行しつつあることをたどることであるP52」と。ぼくらは川の上の両岸にかかる橋のかけ方を求め続けていたが、大事なのはそこに流れる大きな川があることであり、それこそが世界をかたちつくっているものであり、橋がもたらす結果はほんの一部でしかないというのだ。柄谷行人もかつて「隠喩としての建築」で制作することと生成することの違いを追求していた。40年も前の著作で、そこから変わっていないということもいえるのだが、それでも本書が気になるのは、建築を実際に担うユーザをも対象に加えようとしていることだ。「ハイデガーが考えたように、住まうことを森のなかの空き地のような開かれた場所におけるものと見なすことはふさわしくはない。それは場所のなかにではなくて、道に沿って存在することだろうP48」。場を静的というか空っぽとすることに批判的で、もう少しウエットな生的なものを必要としているのである。

1月10日(月)
「ハンニバル・ライジング」ピーター・ウェバー監督を観る。ハンニバルの幼青年期の物語であった。復讐劇が中心になってしまい説明的で、後のハンニバルのもつ冷淡さと聡明さにつなげる不気味さが弱い。日本人のムラサキがキーパーソンとして登場する。他の3作との関係はどうなのだろうか。
006 FA杯 ノッテイングガム×アーセナル 富安は欠場し、アーセナル負ける。早々とFA杯から脱落。富安の他にCBのガブリエル、中盤ではトーマス、前線でナカゼット(後半から出場)らが欠場し、歯車がかみ合わず、得点まで至らなかった。

1月9日(日)
鹿島に打ち合わせに行く。国道は海岸から高い位置にあり、さらに崖がある。面白い西向きの土地である。ハマグリとタコ、あるいは干芋が有名だそうで、昼食にとる。行き帰りの高速は空いていた。
005 FA杯 シュルーズベリー×リヴァプール これからしばらくは、いずれのチームもアフリカ選手権と怪我人とかで選手が欠け、苦しい戦いが続く。リヴァプールもサラーとマネが今日から欠場。しかし南野とフェルミーノは怪我から復帰し、後半から出場した。試合はというと、引いて守る相手にリヴァプールは攻めあぐんだ。後半途中にクロップはカーティス・ジョーンズを呼んで、攻撃の陣を大きくすることを指示。これでようやく攻撃が活性化した。最後は4-1で力の差を見せつけた。南野は特によいところなし。

1月8日(土)
004 ラ・リーガ レバンテ×マジョルカ 久保が休養明けぶっつけの先発でフル出場。前半はトップ下で、下りてボールを受けてゲームをつくるも攻撃は単発であった。後半からは右に移動。これでもいくつかチャンスメークするも得点なし。最後にショートコーナーからゴールを決めるも、オフサイドで取り消しになり、判定に泣かされた。今日欠場のイ・ガインもコロナか。久保と比べると推進力があり、久保より上だろう。これでマジョルカは勝星のなかった最下位レバンテに0-2の敗戦。お尻に火がついた。

1月7日(金)
今日も雪のため大学に行くことができなかった。事務所の近くは日陰部分でも雪が溶けていたが、高速入口新宿が封鎖。断念した。「感覚のエデン」を読み終える。冒頭にあった「憑依」、最後にあった「アブソープション(没入)」、これが本書のテーマであった。それは、絵画を描くとき等の主体のもつ感覚である。これを客観的な言葉で説明しようとしている。それを建築でいえば、一つに個々の視覚を集めるというようなシンボル的空間をつくることでもなく、一見個々の人が自由に空間を私有できるような仕組みを作っておいて、実はその外部には神のような視点を置いて、その視点から空間を制御するような空間(パナプティコン)をつくることでもない。これらの方法は、習慣とか日常といった社会システムや文化を前提にしていて、そうしたものにとらわれている以上、逃れることができない「機械的他力的な生産に積極的な意義を見いだすことができなくなるp62」という。だから目指すべきは社会システムから個々の主体を開放する変換装置のような空間である。これによって体験者もつくり手もこうした憑依を体験することは可能といっている。この変換装置の好例として、ブルネレスキの透視装置やマサッチオとフィリピーノ・リッピのブランカッチ礼拝堂の壁画、ダヴィト・ブリュークやジョン・グラハムの生き様、トリシャ・ブラウンのダンス、ジャコメッティの彫刻などをあげている。つまり、建築の目指すべき本書のいう憑依的な空間とは、先験的にあるものではなく、対象の認識から引き出されて、対象と可変的な射影関係によってもたらされるものなのだ。「物が物を産み出すのであって、人が産み出すのでもなく、人の観念がそれを可能にするものでもない。物を思い起こすのもまた物であり、この無心の想起の反復―物の継続にこそ美は宿る。ただ機械的な反復と複製の連鎖があるのみであるp62」。憑依とは、この無心の想起の反復を代表するものである。

1月6日(木)
午前虎の門行き。雪のため、大学に行くことできず。「感覚のエデン」にあった記憶に関する記述が印象的。「記憶術では、思い出すべき「何か」ではなく、その何かを「思い出している心の状態」を再現すれば、対象の「何か」はそのつど、作りなおされるp280」という。要は、記憶は単体としてではなくネットワークとして貯蔵されているというのだ。

1月5日(水)
「感覚のエデン」にあるトリシャ・ブラウンのダンス動画をYouTubeで観る。岡崎が言うには、「運動は、時間と空間の函数として把握されているが、運動(=ダンス)がなければこの二つの観念が結びつくことも、生み出されることもない」。トリシャ・ブラウンはこれをダンスによる形式化により成功させている。
003 スペイン国王杯 エイバル×マジョルカ 中2日とマジョルカにとって厳しい日程。前節のメンバーをほとんど変える。今季2部降格している対戦相手エイバルも同じことであるが、それでもマジョルカの前半はよくなかった。後半からセビージャを下げ4番ガラレタを投入すると、そこでタメができ、左右サイドからの攻撃、セカンドボールの保持、これによって逆転に成功する。2-1の勝利。久保はコロナのためかベンチ外。

1月4日(火)
伊豆半島を回って松崎町長八美術館(1984)へ。はじめて訪れた。思ったより外観は大きい。道路から階段を少し上ったところにあるからだろうか。それに比べて内部は小さい。漆喰の白さが朽ちていないのは、メンテナンスのためか、それとも素材故のものか。とにかく綺麗であった。プログラムも変わっていないのも大きいのだろう。今でも現役である。対してアネックス部分は利用されていなかったが、屋上にあるガウディを彷彿とさせる鉄塔とモニュメントは健在である。松崎の町を歩いて回る。時この漁村は裕福であったに違いない。しかし、なまこ壁の建物はもう数少ない。当下伊那神社をお参りしてから、長八美術館前の地魚の定食屋さんで食事。盛りだくさんな料理で1時間半を要した。帰路につく。海岸沿いの道の富士は夕日で美しかった。

1月3日(月)
伊豆高原のEXマシンへ。今は「怪しい少年少女博物館」となっている。難波事務所時代に担当した作品である。数年前の夕刻に外から見て、今回は中に入ることができた。変化している点は、道路側の吹き抜け部分の増床、外壁周りの新しい木材の追加、やぐら下の機械室は倉庫となり空調が機能していないこと。照明器具、空調のダクト、エントランスの庇などそのままに放置され、構造体ももちろんそのままである。内部塗装も艶の感じからそのままだろう。空調の吹き出し口の監理が上手くいかずに後悔したことを思い出した。空間の質は全く異なり、展示は無数あり空間も小さく感じられた。不思議な体験であった。外に出る。屋根のシート防水は変わっているようであるが、道路ファサード左の尖った部分の屋根はガラスを被せただけであったがそのままであった。その後に、城ヶ崎海岸の吊り橋へ行く。30年ぶりだろう。伊豆高原の町も変わっているようでそのままである。

1月2日(日)
近くの氷川神社と不動尊へ墓参り。ちょうど不動尊では護摩供養の時間でそれに参加する。50年以上住んではいるが初めてだ。寡黙な住職で、深大寺で観たような派手なパフォーマンスはない。経読もなく、護摩供用のみであったが、それもよかった。読み上げる名前に遠藤が多くなぜかしらと思う。室生寺派の真言宗であることも知る。
002 ラ・リーガ マジョルカ×バルセロナ 両チームともコロナ陽性者が続出していた。久保もそのひとり。どうやらスペインはコロナ患者の隔離が日本と比べて甘いようで、久保は連日一人での練習はしていたようだ。そして当日のPCR検査が陰性になれば試合への出場は可能であったらしい。しかし陽性。0-1でマジョルカ負け。前半はバルサが一方的に攻めるも、後半のプレッシングが甘くなるとマジョルカも攻めるが、意図する形は全くみられない。行き当たりばったりである。

1月1日(土)
雑煮を頂き、昼から妻の実家へ。今年から年始のルーティーンが変わった。近くの西福寺に行くもコロナのため閉鎖。初詣ならず。その後義理の妹の夫の料理を頂く。「レッドクリフ」ジョン・ウー監督を観る。前日観たNHKの特集では、それほど曹操は悪者ではなかったという解説であったが、この映画では劉備の下の諸葛孔明と孫権の下の周瑜が崇められ、それは儒教的教えにしたがった価値基準であった。米国でこの映画はあたらなかったらしい。
001 プレミア アーセナル×マンチェスター・シティ ゲームとしてはアーセナルがコントロールしていたと思うが、1-2の逆転負け。富安はコロナから復帰し先発フル出場。対するスターリングに1歩も引いていなかった。アーセナルはPKを与えてしまったことや30分を10人で戦わなければならなかったなどアンラッキーな面もあったが、これがシティの試合巧者ぶりというべきか、あるいは両者の実力の差というべきか、今年初めて観るゲームはよい戦いであった。

12月31日(金)
CASABELLA925号が届く。ランド・デザイン特集。SANNAのミラノの大学計画。ぼっーとした雰囲気のあるファサードは曇った空によく合う。プランも不思議だ。道と建物が1街区内で押し合うように配置されている。細胞膜のようで不思議だ。これに対してカルロス・セオアネというスペインの建築家の作品も面白い。巻末のアンサブル・スタジオに共通する石の彫刻だ。建築家自身の中での自然を畏怖する感性がもはやなくなっている。自然とは崇高なもので簡単に手を出しては大きなしっぺ返しがくるという畏れがなくなっている。今日はグールドのゴールドベルグ変奏曲(バッハ)1981年バージョンを聴く。この翌年に亡くなっている。55年よりスロー−でどことなく優しい感じがする。棚にある吉田秀和の全集もチェック。この55年の演奏を絶賛。ランドフスカが確立してしまったチェンバロでしか可能でないというピアノの限界説を覆したという。ランドフスカのゴールドベルグ変奏曲を棚で探すも見つからない。

12月30日(木)
グールドについて調べる。ピアノは対位法的楽器であるという持論をグールドはもっていたという。それは、音色より構成を大事にすることらしい。それがバッハ、とくにカノンやフーガへと結びついていくのだそうだ。演奏の仕方も特徴的で、ペダルを重視せずにすべての指を同等に扱うことをする。つまり知的なテクニシャンかつ偏屈者である。「感覚のエデン」を続ける。クプラーの「プライム・オブジェクト」を、トーマス・クーンのパラダイム論をモノにまで応用する。「自分が物を理解するのではなく、その物と世界との関係、つまり物にとって世界はどうして存在しているか、それに従って自分も世界を理解しなければならないp270」。茶碗蒸しとプリンとグラタンの例が面白い。「茶碗蒸しとプリンのどちらが優秀であるかを比較できるポジションは存在しない」。「茶碗蒸しを選んだら茶碗蒸しのルール内でしか勝負をつけられない」。「では、どうやって物を選ぶか?まずはとりあえず直感で選び、それに身をまかせてみることしかない」。「仮説的に、ある特定の事物をルール(法)として扱ってみる」。「すべての細部を必然として受け入れ、再生産することを目指す。つまり「技術」として成立するまでやってみる」。「しかし、その後で世界にはほかにもたくさんの事物があると、覚醒しなおす必要がある」。「すると必要なのは、このルールとあのルールの間の差異」。「この違いは具体的な対象(物)に付属する差異ではない」。つまり人は一つしか選べない物を選び、次にまた物を選び、この非対称にこそ主体性を生成させるというのである。「レッドドラゴン」ブレット・ラトナー監督を観る。レッド・ドラゴンとは、ウィリアム・ブレイクの宗教画にある、太陽のもとの女とペアにある悪魔のことである。実際にボストン美術館に保存されている。

12月29日(水)
深夜「ハンニバル」2001年のリドリースコット監督を観る。前作の「羊たちの沈黙」よりも映像的に優れてダイナミックであるものも猟奇性は劣っていたと思う。少し遅れて途中から観てしまったのであるが、アンソニー・ホプキンスはいるものもジョディ−・フォスターがいないので、前作とのつながりがつかめないでいた。中盤はフィレンツェが舞台であった。レクター博士がクラリスにヒントを与える香水の店はノベェッラ薬局からはじまる。この店は、アルベルティがファサード設計、ブルネレスキのイエスの彫刻。マザッチオのパースの効いたイエスのフレスコ画があるサンタ・マリア・ノベェッラ協会の中庭に面している。レクター博士は、サンタ・クローチェ教会で仕事をしていて、パッツィ家の礼拝堂はブルネレスキの幾何学に制御された建築である。レクター博士を追う刑事はこのパッツィ家の末裔である。新興のメディチ家を抹殺しようとして逆にギロチンにあったということを直ぐにレクター博士は指摘していた。パッツィ刑事がレクターにギロチンされるのがヴェッキオ宮殿のゆりの間。500人広間は、ダヴィンチコードの「インフェルノ」でも大きくあつかわれていた。ヴォザーリの壁画の内側にはメディチ家依頼によるダヴィンチとミケランジェロの壁画が隠されているという広間である。ダンテの散文詩も中盤の要。ダンテもフィレンツェで生き、ルネサンスの先駆け。レクターが好きだというグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲(バッハ)1955年録音を棚から探し聴く。父も何回もきいている。グレン・グールドの衝撃のデビュー作であることを知る。

132 プレミア レスター×リヴァプール リヴァプール南野は筋肉系のトラブルで欠場。DF陣はコロナ禍から復活。しかし、0−1で敗戦。首位のシティから離されてしまった痛い敗戦である。

12月28日(火)
修士の学生のエスキスをしながら、市民センターについて考えた。市民センターとは様々な人が集まるところで、彼らを惹きつけるためにはどんな場がよいかとこれまで考えてきた。しかしそれでは教条的で人が踊らされているのと同じなのでないか、と思った。むしろ自由に人が主体を変えることができるような場こそ相応しく、結果、施設が長続きする。つまり公共建築たる市民センターに求められるものは、その体験を通じて人が自分を自覚するような場所、日常において社会に組み込まれて機械的になってしまうところから離れることができる場所、それこそが公共の役割なのでないか。そのように考えると、最近流行の開いた場というよりも社会から閉じた場という発想も可能となり、それで可能となる異なる時間軸を、いろいろと組み合わせた場、という場が市民センターになる。

12月27日(月)
「感覚のエデン」を続ける。規定的判断と反省的判断というカテゴリー分けが面白い。反省的判断とは、不安定な現象を技術として安定するよう、試行錯誤していくときの能力である。デューイの教育がこれにあたる。経験から何かを学ぶこと、つまりあらかじめ答えが与えられていない場所で、試行錯誤して、そこにある理論、法則を発見していくという教育である。それがもたらすものは主体の「積極性としての可塑性」である。主体がいかなるシステムにも特定化されることなく可塑的であるということである。これを可能となる人を「市民」と呼んでいた。

12月26日(日)
131 プレミア ノリッジ×アーセナル プレミアは相変わらずコロナで今節のゲームの中止が続いている。アーセナル富安もコロナで欠場であるという。富安は前試合において筋肉系トラブルで途中交代した。長期離脱ではなく、多くとも2週間内の問題としたら富安にとって幸いではあるが、クリスマスから立て続けてゲームのあるプレミア・アーセナルにとって問題は大きい。富安以外のコロナ罹患もあって、富安のポジションに本来CBのホワイトが入る。それだけ、この右SBがアルテカにとって重要であるという意味だろう。ホワイトのポジショニングは富安の場合とほぼ同じで、富安がアルテカ戦略を忠実に実行できていたこともわかる。右ハーフのウーデゴールと右ウイングのサカとの連携は抜群である。これがアーセナルの攻撃の軸となっている。

12月25日(土)
卒業設計の図面審査。各研究室によって特徴がでていた。それは、図面自体にメッセージ性をもたせようとするか、図面を予想される空間のリプレゼンテーションとみるかの違いによる。とはいえ、その前段階にいる学生がほとんどで、理想は後者から前者へとなることだろう。メンバーが何を考えていたかを整理しながら図面を見てまわった。安達君の作品は、ドラえもんが万人に受ける秘密を建築で実行しようとしている。大石さんは、未来は理想からくるものでなく隠蔽された現実を見ることからはじまることを批判的な方法で表現しようとしている。小山君は、今日性を孔にみている。島袋さんは広い意味での生態系と同化しようとする建築だ。関原君は、ユニークで伝統的な庄内建築にせまろうとしている。これは特殊な環境がなせる技であった。土師くんは村上春樹の独特の世界観を表現しようとしている。建築にならないとしたら思想の表現でも十分だと思う。水口くんは縄文の魅力をかたちにしようとしている。白井晟一が持ち出すような白い豆腐のような表現ができたらよい。宮野さんはシザの光の採り方の追求。山口君は娯楽を通じての建築の存続可能性を考えようとしている。

12月24日(金)
隙間風は、室内の暖かい空気が上昇することで気圧の低い箇所が発生し、そこに外から空気が流入することによって生じる。外が冷気だとそれを隙間風とよぶ。建物全体にそれを積極的に利用すると温度差換気となる。実は自宅の寝室とリビングの障子が一部破けている。その障子紙が夜になるとパタパタと揺らぐ。その原因が温度差にあったのだ。その破れは数センチほどでも、十分な風の流れとなっている。

12月23日(木)
「感覚のエデン」を続ける。岡崎はメタポリズムを批判する。なぜなら、インフラという下部構造が動かないことを前提とした思想であるからだ。それは、上部構造は動くべきであるという理性が、あるべき下部構造への意識を排除したことから生まれたものであるからという。そしていつしか安定した下部構造の上で思考するようになった。菊竹清訓のか・かた・かたちはその典型である。最近のテーマとなる雑多性もこのことに近い。雑多性によって下部構造が見えにくくなっている。岡崎は、こうした思想の下地をつくった根本に、武谷三男による技術論の二重性があるという。武谷は、技術や科学が生産過程に左右されるとしつつも、それでは発展性がないので、理性によって生産過程が合理化できると考えた。しかし現実は、理性には限界があってそんなことは不可能である。それによって、狭い範囲での理性の無限性、つまり上部構造においてのみの理性となってしまったという。3.11の原発事故はこの矛盾をより一層明瞭なものとした。ぼくらは下部構造である原発施設は動かない安定したものとして、その上で自由を満喫していたのだが、それは短期的には有効と考えられても、スパンを1000年に伸ばすとそれの成立を確約することなど不可能になるのだ。ここでぼくらに必要とされるのは、下部構造の安定性に対する疑いというものだ。「日本文化私論」で坂口安吾はすでに、こうした下部構造=日本文化内の通約不可能性をもっていたという。これを自分の活動について照らし合わせて考える。パタン・ランゲージについてであるが、パタン・ランゲージを下部構造のルールとして考える傾向にたいする違和感がこれで説明できる。パタン・ランゲージは実は使いやすい道具に過ぎず、プロジェクトごとに下部構造から何ものかを表出させるための道具なのである。それを想像し組み合わせることで創造となるのだ。岡崎流にいうと、下部構造に接するための道具がパタン・ランゲージなのである。接してはじめて下部構造の本質や動きが分かる。それは、下部構造を前提とする計画(本書では都市化)とは全く似て似なるものである。

12月22日(水)
3年生後期の設計講評会に安原幹さんをむかえる。この課題は専任全教員が担当するグループ課題で、はじめてから4年目が経過した。はじめに働く場として安原さんに短いレクチャーをお願いし、その後各スタジオで2チーム前後の発表。そして最後の安原さんのコメント。これが印象的であった。住宅が身近な存在として捉えられていることは当然であるが、オフィスもこれから50年利用することになるので、住宅に匹敵する感覚が必要となる、という内容であったと思う。働く環境について考えることは人ごとではないということである。今日の発表で多くの作品は、オフィスを公共建築と位置づけ社会に開くことを行っていた。が、そこから働く様子がイメージできていなかった。それは暗黙のうちに、理想像を追求するものが建築と理解しているからであろう。安原さんが言いたかったのは、建築学科には一般的に、住宅と他の施設との間にこうした捉え方の違いがあるという指摘である。もっと現実に基づいた建築的解決が他の施設にも求められているというのだ。住宅のように。実はこうした視点に立つと自ずと計画やエンジニアリングの解決方法も具体的となってきて、それで出来上がるデザインもユニークになってくる。佐野健太さんとのスタジオではある程度その克服に成功したのではないかと、このコメントから振り返ることができた。佐野さんとのスタジオで考えてきたことは2つある。ひとつは、7つの実験室とフリーアドレスのオフィスをどのように配置するか、そしてそれをどのように社会に開いていくかである。これはプランニングをユニークにする。次に敷地となる習志野の現状を考えたことだ。これにより建物を外との関係で位置づけることができた。そんな中で安原賞には、働く場や会議室、カフェなどの求められる諸室を一度解体した後にそれを立体的に構成し直し、ヒューマンスケールな諸室と外部空間との関係を提案した案が選ばれた。この構成を利用するには一般には無理がありそうに感じるので、彼らはプランニングの検討をかなり重ねていた。その密度が評価されたのだと思う。佐野+遠藤スタジオの他の案では、働く場を内部動線と外部人用動線の間に置いて、その外部動線上に公共空間や出会いの場を周到に用意した案があった。1階にはバス路線も引き込み公共インフラと絡めた案でもあった。優秀な案でこれまでのスタジオ内の講評では常にトップであった。この案は、ひとつひとつのアイデアが上手く結集しているようで熟れていないところがある案だと思う。ぼくはこの熟れていないない箇所が作品をユニークな方向に進めてきたと思うのだが、この姿勢に本人たちは気づくとよいと思う。3つめの作品は、カテゴライズされるのを避け、受け取られる自由な全体像を大切にした案。香りを研究する施設で、緑の提供を街にするという案である。それはひっそりと立体的に提供するものであった。この案の評価は、ひとつひとつ説明できないものがあるのをよいと判断するかどうかに関わっていたと思う。そう判断させるには、かたちになる前の綿密な調査、ソフト部分の用意が大切になるだろう。3点とも他を圧倒していたと思う。これを講評後の佐野さんと同意した。

12月21日(火)
午前に会計事務所行き。一通りの丁寧な説明を受ける。年末に向けて午後から事務的な作業。「感覚のエデン」を続ける。

12月20日(月)
2年生の設計講評会。入学時からコロナ禍でオンライン中心だった学生であるが、大きな模型を制作し元気であることを知って、ひとまず安心する。担当してくれた先生のおかげである。惹きつけられた案が各課題に2点ずつあった。集合住宅の案では、水平方向の横と垂直方向の縦への動き、両方が感じられる塔状の案が印象的であった。高さの違う7本の塔の開口がリズムをつくり、地上階の水平な動きに対してユニークな都市生活をつくっていた。もうひとつは、メイン階を地下に埋めて、地上階は3つの折半型オブジェクトをもたれ合わせて、その上に土を覆った案である。森をつくっていた。フォスターがかつて小さなコックピットのような住宅を設計していたのだが、それが集合したものだ。幼稚園の課題では、大きな樹木のある植木鉢を並べて緩やかな平面をつくっていた案、それとガラスの三角錐等が森に埋められていた案、この2つが印象的であった。どちらも樹の下にある場をイメージしていて全体的構成を問題にしていない案であった。感覚的シーンあふれる案であった。
130 プレミア トットナム×リヴァプール 2-2のドロー。退場者が出て10人になり攻撃陣の南野には出場の機会なし。トットナムはコロナでファン・ダイクが出場できず、そこを突いてソンとエリクソンが速攻を決めていた。彼らは強力である。イギリスではコロナが1日に6万人も罹患しいくつものゲームが延期となっているのに、会場は満員で、多くの人はマスクをしていない。コロナを風邪のようなものだとイギリス人は考えているらしい。コロナが日常になっている。日本ははっきりいってびびっているのだが、この温度差を文化の違いとはいわずに、イギリスは自分たちの態度がスタンダードであるとごり押しをしているようにも見える。世界から向けられる目は全く気にしていない。

12月19日(日)
黒磯行き。街の商店のシャッターは閉まり、数年前の敷地調査時より問題は大きくなっているように感じた。はじめに藤原徹平氏のまちなか交流センターを観る。大きなフラット屋根にヒューマンスケールの波形屋根が挿入した広場としての交流センターの提案である。裏にはイベント広場があり、奥行きある敷地に特有となる裏面、これをつくらない構成である。あっけらかんとした空間に人は思い思いの過ごし方をしている。この空間性を市民はどう考えているか知りたいと思った。難波さんとの応募案では、規格木材で構成される一室空間とその周りをぐるりと一周できる車道をつくり、奥に駐車場を確保した。車社会を批判的に捉えた案であったと思う。それを示すかのように、メインパースには大きくダミアン・ハースト風の豚の彫刻を描いた。難波さんがこの彫刻をもっと大きく大きくと指示された記憶がある。そこに車を止めたままにして、駅前の図書館「みるる」へ。伊藤真理さん設計である。通り抜け可能で、がらんとした建築の中に大きな本箱壁で仕切った機能的な場が左右にある。構造体スパンが大きく、高い天井が、これまたがらんとした感じをつくっている。2階は折り屋根で、メインエントランス側から奥へ全体的に徐々に下がっているので奥行きを感じさせるものとなっている。これが効果的であった。防火区画に必要な小壁などをあるがままに受け入れて小細工なく全面鏡面で仕上げているのは、予想以上に目立たなく、感心をした。照明が気持ちよいのは、折り屋根をさらにスポットライトで濃淡をつくりだしているからである。岡安さん設計であった。1階は天井仕上げがなく吊天井システムまでというのは店舗的で、空間をカジュアルにしている。このコンペにも応募した。駅前のインフラスケールにあった大きな吸い込まれるような開口と通り抜け街路を確保するために、スキップ型の箱を浮かせた案を提案した。駅改札の2階レベルもメインエントランスと考え、立体的な通り道を提案したものであった。今日観た2つの建築も構成が強いと感じた。つまりは、構成をぼやかす人の動き分析が提案では重要となることがわかった。
129ラ・リーガ グラナダ×マジョルカ 久保が中2日をおいて先発フル出場を果たした。RWで登場し体の切れがよかったと思う。圧巻は50m級のサイドチェンジパス。これで一度は同点に追いついた。その前にも切れの良い長めのドリブルで相手から2枚のイエローをもらっている。後半も、予想もできない程のタイミングの早いシュートや、中央にドリブルからのパスなど、十分にその存在感を見せたと思う。とはいえ1-4で、下位チームに大敗。これで小休止に入る。年明けはバルサ戦である。

12月18日(土)
作家である海堂尊氏出演の番組を観る。作家創作活動は、自転車乗りと同じというコメントが印象的。はじめはどうしてよか分からないが、いったん乗ることができると自転車は大変気持ちよく、時として手放し運転までできてしまうという。結果がみえると過程がスムーズになるという良い例であった。
128 プレミア リーズ×アーセナル リーズは珍しくマンツーマンの守備をする。開幕当初はそれに相手チームはためらって上手く機能していたが、前節のマンCといい、今日のアーセナルといい対応力の方が勝ってきた。富安とウーデゴールが上手くマークを引きついて中盤にスペースをつくっていた。1対1だからこその富安の強さも目立った。決してボールを渡さず、あるいはチェックをかいくぐっていたのが印象的であった。ところが、富安がリタイア。心配である。

12月17日(金)
127 プレミア アーセナル×ウエストハム 調子のよいチーム同士の戦いである。両チームともベスト4を狙う。苦しい時間帯もあったがアーセナルの完勝であったと思う。富安もその中心の一人である。このところのプレースタイルは、安全策をとることから攻撃的なものに変化している。最終的なゴールに直結はしていないが、相手スペースを崩すことに貢献している。

12月16日(木)
昼過ぎから東京学芸大学へ模擬授業に出かける。他大学からきている教員もいて、理系の授業は工学部全般と建築である。建築はそれだけ人気があるということだろう。生徒が興味を持ちそうな、今求められている思考方法の話をした。大学の建築の設計を通じてそれを学ぶことができる。例をあげながら説明する。「ライトついていますか」の内容説からはじめてフラー、ローバーミニ、イッセミヤケ、ピアノ等の例を挙げて、「スペキュラティブデザイン」の話で締めた。2回同じ授業をしたのだが反応が異なっていたのが印象的。授業後の廊下は、生徒で賑わっているのが印象的。いい意味で幼い気がした。子供の小学校訪問時を思い出した。このエネルギーを学校生活に活かさない手はないと思った。この学校は独特な教育を目指している。しかし残念ながら校舎は従来のままで、建築の役割が理解されていない。この現状をみる。

12月15日(水)
「ネーションと美学」を続ける。「「自律」とは、自我の二重化―自我と超自我―によって可能なのであるp106」。それは、「経験的自己(対象化される自己)と超越論的自我(対象化する自己)という二重化と似て非なるものであるp106」という。ここでは自由がテーマとなっているが、建築でいうところの「建築」、それと主体との関係に重ね合わせるとよくわかる。後者のいうところは、主体が対象化されることを拒み続けるだけで、「建築」は存在し続け、それでは「建築」を神秘的なものにしてしまう。つまり与えられた範囲内の主観に留まるということだ。対して前者は、「建築」を公然化し変化させられるという点で真に主体が自律していることになる。ところで果たして「建築」などあるのだろうか。昔から疑問に思っていたことなのだが、「せんだい」のような卒業設計コンペティションが成立している現実がある。これは、日本のあらゆる大学での設計評価がある程度一致しているという現れだろう。誰も申し合わせをしていないにもかかわらず、である。そうした事実はまた別のところでも散見できる。例えば専門高校出身の学生は入学当初、建売住宅のようなプランを正確に描く。数年間それをたたき込まれた彼らは大学での設計に馴染めないでいる。それは、社会が求める建物とぼくらの建築との違いでもあるだろう。こうした基準がどの大学で通じているとするとそこには何ものかがあるに違いないと思わざるを得ない。そしてこの価値基準は工学部に建築学科が属する日本だけでなく、西洋の建築とも関連している。こうと思うと更に驚きは続き、何かしらのぼくらを包む「建築」というものを考えないと整理つかないことになる。もうひとつ面白いことを学んだ。それはフロイトにおける超自我についてであり、「これまでの見解では、超自我は「外から」到来し内面化されたものである。つまり、他律的である。ところが、新たな見解によれば、超自我は、むしろ「内から」生じる。(中略)つまり、超自我は自律的なのであるp72」。ここで超自我とは、エディプス・コンプレックスをはじめとする広い意味で共同体的な規範すなわち道徳性、文化のことをいっていて、これはフロイトが生きた第一次大戦中のことである。本来野蛮であった人間は、惨たらしい経験を通じて道徳を内面化していった、このように一般には考えられていた。だからコントロール可能となる。しかし、第1次大戦でそれが発動されなかったところをみると、大戦が想定以上のものであったからとみる(ロマン派)か、この考えはそもそも間違っていて、人が納得するためにつくりだされた自己満足物でないか、このふたつになる。この時期のフロイトはこの後者を選択したというのだ。そしてフロイトはむしろ人間のこうした普遍な思考方法に着目したという。だから超自我とは、都合良くつくられたものであるが、外すことができないようなものなのである。それをフロイトは、「おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるもの」といっている。この超自我を「建築」に置き換えても、この話は成立するように思う。建築における創造とは、「建築」なしには語ることができないものらしいのだ。

12月14日(火)
「ネーションと美学」柄谷行人著を再読。これまでの理解が誤っていたことに気づいた。カント=柄谷はここで、人間の想像力にこそ価値を見いだしているのである。これは、対象(オブジェクト)と主体(サブジェクト)とは別に存在するもので、それらをつなげるものである。例を出そう。隣人がいる。人は幸せになりたいと思う。これらは本来別々の自律したものである。隣人からお金を盗もうとする人もいるだろう。しかし隣人が困っていたら助けて、隣人も幸せになり自分もそれによって満足したいと思ったりもする。こうなれば幸せなコミュニティができる。これが想像力である。隣人の中に幸せに関する属性があるわけではなく、自分にも様々な感情がある。この場合は幸せという目的の元に、対象と主体と想像力が動的システムによって三位一体を形成していたのである。このときに何かが生まれる。それは、理性と感性、美学にも対応するものなのだ。

12月13日(月)
建築士の12月号が届く。福島さんと富永さんの美学をテーマにした特集が面白い。自分の美学について整理する良い機会となった。美学を理性と感性をつなげるものであると教えてくれたのは、柄谷行人を通じてのカントであった。そしてこの美学が形骸化してしまうことを美学化といって(カント以降のロマン派を)批判していた。つまり、国とか地域文化とかを容易に取り出してしまうことである。そうではなく理性、感性、美学(想像力)はそれぞれ独立していて、絶えず動的なシステムとして扱わなければならないというものであった。柄谷行人はここで国家という問題を扱っているのだが、建築のぼくらにはコミュニティという問題規制が身近だろう。コミュニティはア・プリオリに存在するものではなく、理性(悟性あるいは道徳感情)と感性をいかにつなげるかを想像して創造すべきものなのである。これを柄谷はアソシエーション、想像=創造される共同体といっている。あるいはぼくがよく書いている氷山のパタンランゲージの生成図はこれにあたる。

12月12日(日)
126 プレミア アーセナル×サウサンプトン アーセナルは嫌な連敗の流れを消し去る3-0で圧勝した。富安はその中心となっている。今日の1点目は美しい。サウサンプトンの激しいプレッシングを交わして数的有利を瞬時につくったのは富安であった。この得点によって流れはアーセナルに傾き、それを最後まで離さなかった。1対1にも強く、恐ろしいほどの安定力である。

12月11日(土)
「日本人はなぜ戦争へ向かったのか」2011年のNHK特集の再放送を観る。これまでは一部の軍人の独走によって戦争に突入したとされてきたが、実はそうでもないことを知る。綿密な戦争シミュレーションがなされ、ほぼ内閣全員がアメリカには勝てないという判断を下していた。そして、戦争回避の方法と理由を探っていったという。しかし中国進出で生じた損失、一度盛り上がった世論、これらに対する責任をだれも進んでとることができなかった。そうした近衞内閣は責任逃れのため総辞職をした。その間にアメリカからの和解条件はさらに厳しくなり、最後の東条内閣では、都合のよい戦略情報にすがるように決断なき戦争に突入してしまったという。リーダーに求められるのは、軌道にのったプロジェクトを中止する決断力にあるという。マスコミに関しては、求める世論にしたがって動いた責任を問うていた。
125 ラ・リーガ マジョルカ×セルタ 審判のマイク故障、選手の脳しんとう、強風等で集中を欠くかたちでゲームが始まる。その強風は後半最後まで続き、両者とも殴り合いのようなゲーム展開で終わった。攻撃のかたちなどつくれなかった。久保は65分過ぎからの登場。タッチ数2というのでこれもびっくり。0-0のドローで、ゲームとしても最悪のものであったと思う。

12月10日(金)
124 EL フェネルバチェ×フランクフルト 1-1のドローでフランクフルトは決勝トーナメント1位通過。3バックの中央に長谷部、3トップの右に鎌田。鎌田の攻守にわたる奮闘が光る。最後は左の10番まで開いて高速センタリングするのがパターンであった。

12月9日(木)
レクチャーシリーズで、門脇耕三さんを迎える。門脇さんが学生時代に考えたことから自宅などの実作を経て今年のベネチアビエンナーレまでのストーリーを説明してくれた。そこに通底しているのは雑多性である。映画や音楽からヒントを得たモンタージュ、セッション、コラージュ手法を手本にした創造である。そして建築にあてはめると、そこには使い方の新しい提案や空間の質があるわけでもなく、構成の衝突のみに終始し、まさに構法がポイントなっている。このことが独創的である。ベネチアビエンナーレでは、解体した自邸の隣家をベネチアまで運びそれを部分的に再生産をするという展示であった。展覧では一歩進ませてこれまでの建築の設計では超えることができなかった時空がテーマになっているようだ。雑多性によって設計者の主体が隠れるばかりかダイナミックなものにまでなっている。それを評価したいと思った。そしてそれだけ(日本の)建築生産は熟しているということだろう。ただし、雑多性を支持する熟した生産システムは揺るぎはじめているようにも思える。生産の合理化の元に多種多様な規格品が整理され、伝統的な手工業もより特殊なものに位置づけられてしまうようになっている。社会に目を向けると、ブラック・ライブズ・マターに見られるようになりを潜めていた人権に対する偏見がコロナによって顕在化しはじめている。これまで良しとされてきた雑多性や多様性にたいする新たな亀裂発生でないかと思うのだ。物理的には超えたはずの時空は、実は脆い社会、保守的な人の意識や社会認識の上にあるともいえそうだ。そう考えると、雑多性という観念ももうひとつ転がりがありそうである。
123CL バイエルン×バルサ 今日も3-0でバイエルン勝利。監督が代わっても差は依然としてあった。連携もフィニッシャーあってそこから逆算するのものであることを実感した。まずは怪我人が復帰することを望む。

12月8日(水)
1121CL ミラン×リヴァプール サラーとマネ以外は先発メンバーを変えてのぞむ。そこに南野はIHとして登場。ピッチを走り回りミラン中盤底の8番トナリを押さえ込んだと思う。その分、攻撃参加がすくなかったが、逆に走り込むスペースがはっきりしてチームに溶け込んでいたと思う。2-1の勝利。南野はフル出場。
122CL ポルト×アトレチコ アトレチコらしい闘いで3-1の勝利。守って耐えて相手をじらし、自分らからも退場者を出したが、相手にも出させて士気を高め、前戦マジョルカに負けた嫌な雰囲気の一掃に成功していた。指揮官としてクロップのようでありたいが、シメオネのようであるとも思っている。最下位からグループステージ突破である。

12月7日(火)
今月号の建築雑誌を読む。巻頭は、村上陽一郎氏の病気と都市設計についての論考。結核を治したのは医療ではなく政治あるいは社会組織であったという指摘。都市計画が感染症に関して有効であり、上下水道の普及然り、ソーシャルディスタンス然り、政治が大きな役割を果たしていたというものであった。そして文明が進むと死因も歴史的に変化するという。消化器系感染症、呼吸器系感染症、生活習慣病と癌、そして自殺となっていく。難波さんの論考は、「建築の四層構造」の後編。日本の建築認識が、刺激→反応という因果関係となっていることに対する批判。その前に認識図式というものがあって、それに基づいてぼくらは刺激→反応している。言うまでもなく建築の認識図式とは大文字の「建築」があり、もっと広げると文化ということになる。低学年で設計が上手くいかないのはそのためである。難波さんの四層構造は、その層の提示にあるという趣旨であった。

12月6日(月)
「感覚のエデン」を読む。柳宗悦の人生観を変えさせた「一遍聖絵」の絵巻、モランディが紹介される。モランディの時空を超えた一時性を「平板さ」と評している。セザンヌ、メダルド・ロッソ、ブランクーシがこの「平板さ」に気づいたという。そして坂田一男。2年前の展覧会を思い出す。坂田はコルビジュエやオザファンらと交流があった。そして、壺の外と内を同時に描くという手法にこの時期巡りあった。それは、先の「平板さ」を時間をもったものとしてとらえなおす問題群として出現したものだ。52ページではコーリン・ロウの透明性も言及する。「二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行の喰違に遭遇することになる。この矛盾を解消するために人はもう一つの視覚状上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである。すなわち像は互いに視覚上の特性以外のもの、更に広範な空間秩序を意味しているのだ。透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである」。相矛盾するものが同時に存在できるためには、リテラルな透明性ではないフェノメナルな意識上の想像的な透明性が必要となる。坂田の作品は雑多性を表現しているのだが、テーマは透明性にあるというのだ。

12月5日(日)
120ラ・リーガ アトレチコ・マドリード×マジョルカ 久保の逆転ゴールによって、敵地でアトレチコを2-1で破る。優勝したかのようなベンチであった。とはいえインタビューから推測するにプレーにおいて久保は冷静であった。オフサイドをくぐり抜け、焦らずに長めでなく足下ドリブルをして、何回かチームを見ている。そしてGKオフラクの位置を把握してからのタイミングをずらした股抜きシュートであった。今日のマジョルカはここ最近の数試合と異なっていて、守りが堅くドタバタ感がなかった。これが大きい。90分もっていたことが久保のゴールに結びついている。

12月4日(土)
119プレミア ウルヴァーハンプトン×リヴァプール 終了間際にオリギが勝ち越しのゴール。今日、南野には出番が回ってこなかった。クロップは順繰りに選手を回してチームモチベーションを維持している。戦術とチームワークが対となっているところは日本人好みである。

12月3日(金)
修士設計の中間発表会。遠藤研から8名が参加。石野君は建物ファサードの陰影研究をしている。ファサードを白黒化しそれでも建物輪郭が明確で情報量がかわらないものが名建築に多いという。一般にいわれている近代抽象化理念にたいする疑問を解くものであり、エレメントの多さと全体像を焦点することは相反するものでないという仮説に基づいている。岡田くんは斜め建築の研究。クロード・パランの斜めの建築をもとにして、その扱う範囲を建築の機能性から地形や自然などに拡大している。斜が異質であると見なされるのは人工物としてであり、自然物としては普通である。建築が自然と向き合う方法を問う研究である。菅原君は日本庭園の研究。5つの池泉回遊式庭園を調査した。桂離宮・等持院・天授庵・銀閣寺・修学院離宮上御茶屋の5つである。これらがつくるシークエンスをどう位置づけるかその独創性の表現がこれからの課題だろう。武田さんは、発酵をテーマとする。発酵菌は地域文化をつくりだす。地域に関わるモノのスケールや時間を超えて核になっているという。しかしそれを目にすることは難しい。その隠されたネットワークを紐解いて、壊れかけた地域文化を修復再生させようとする研究である。日暮君の研究は、ジェイコブスの日本の都市への適用である。アメリカにおけるハイウェイが日本では鉄道にあたるという見解が面白いので、街を分断するそうした原因をどう具体的に乗り越えるかが重要だろう。堂ノ下君の研究は、恐れや不安を建築化する試みである。建築家が人の感情とモノとの間にある何らかの関係を追い求めて久しいが、そこにある直接的な対応関係を疑っているところに新しさがある。むしろ時間をかけて積層されてきた文化や慣習が深く媒介していると考えている。それを建築化することは難しいが、建築を通じての顕在化を目指した研究である。松崎さんは葛飾北斎の富嶽36景に見られる構図研究。そこには図学もあるのだが、遠景と近景を同時に枠内におさめるためのやすり霞という技法があり、その研究である。やすり霞は主題とは直接関係のない余白というものである。その働きが現代求められる建築のあり方とマッチしていると考えている。宮内さんは光を研究する。体験から得られる光の具合をシミュレーションを通じていったん言語化し、それを建築化しようとしている。空間性を問うものになっているので、それをどう形に落とし込みそれを表現できるかによって、研究方法が新しくもなり従来の方法と変わらないものともなる。総じて、誰もが研究することに甘んじている。すべては成果物次第である。池辺さんは仮説の重要性を問うた。しかし、それをデザインすることによってトータリティをもつ重要性を強調している。もう一度、自分が目を付けた仮説を、成果からフィードバックする必要がある。

12月2日(木)
118 プレミア マンU×アーセナル 富安フル出場。ユナイテッドのスピードスターサンチョを押さえ込んだ。とはいえ、ロナウドがそこに絡むと富安裏のスペースを利用されて、そこから危ういシーンもいくつかつくられていた。1対1に負けず、攻撃参加もできるようになり、次なる目標はチームとしての連動か?

12月1日(水)
今月号のa+uはパウロ・メンデス・ダ・ローシャの特集。以前から氏の自邸をよくみて参考にしたものだ。一室空間における深い庇の取り方をここから学んだ。代表作に大阪万博のブブラジル館があることを初めて知る。3つの人工丘と十字柱の上に巨大な直方体が載る形式で、上部の人工箱と大地の関係が構成的でかつ力の流れが明確でかっこいい。そんなこともあって偶然にもこの形式をいくつかのプロジェクトで試したことがある。同じことを考える先人は必ずいるものだと思った。要はアイデアではなく実行力こそが大切なのである。

11月30日(火)
「You’d be so nice to come home to」は、ヘレン・メリルの有名なナンバーである。その意味が気になった。come home to の後にyouが略されていて、「私があなたのいる家に戻ることができたら、あなたはさぞ喜ぶだろうに(今はない)」という意味だろうか。つまり、一緒に過ごした時が幸せであったことを直接言わないで、かつ、きっとあなたもそう想っていて、そうとはならない原因があなたにあって、私も悲しい(懐かしい)、ということをいっている。事実この歌でのあなたとは戦争に就いている恋人のことである。面白い表現方法が英語にはあるのだと思った。文章に書かれていること以外でもないが、対比によって多くのことを語る機能がここに見られる。明瞭性が求められる英語でもこうなのだ。(構築的な)建築においてもこうした表現方法があってもよいと思った。

11月29日(月)
「感覚のエデン」を読む。彫刻の本質をエトルニア彫刻とジャコメッティから読み解いている。彫刻の本質は、その視覚性や彫刻が置かれることによるその場所性にあるのではなく、風化せずに残り、時たま生き返ることで、人が通常もつ時間感覚を超越することにあるという。時間を本書で扱おうとしているらしい。

11月28日(日)
公募型推薦入試の面接のため大学行き。例年より自分の意見をはっきり持っている学生が多く、さらに驚いたのは建築にまだ接していないのにかかわらず「建築」のかけらを知っている学生が数人いた。建築が文化として浸透している証拠だろうか。例えば自宅の改修などを語る学生がこれまで多かったが、こうした受動的な個人的体験を超えて、同時代性への関心を示す学生がいたのだ。自宅改修の向こうにある大きな何かを知ろうとしていた。
117ラ・リーガ マジョルカ×ヘタフェ ここ数試合マジョルカの放送がなかったので数試合ぶりの観戦である。マジョルカはイ・ガインのチームになっていた。後半65分過ぎから久保が右で登場。66日ぶりだそうだ。何度か優しいセンタリングを供給するも、0−0のドロー。イ・ガインが中心となるも勝点は積み上がっていない。久保との絡みが楽しみである。

11月27日(土)
「感覚のエデン」岡崎乾二郎著を読み始める。冒頭「憑依(ひょうい)」という言葉から本書ははじまる。そこに面白い文章があった。「おっかさん、などというものを本当は誰も見たことがないが、いつも見ているとわれわれはそう思い、思うばかりでなく語りかけている。むしろ、おっかさんと呼びかけること、語りかけることに、おっかさんが出現するのかもしれない。これは一つの手品の仕組みである。手品師がそれを出現させているのではない、見る人がそれを喚びさましているのである」。このことを物理的な現象として別な表現もしている。インゴルドを受けてのものである。「凧揚げをすると人が言うとき、凧揚げとして呼ばれているものは、対象としての凧そのものではないし、もちろん凧を引っ張る人の動作にあるものでもない。凧揚げとは、空気の抵抗、風の流れの中で、さまざまな力の葛藤、均衡、不均衡の移行から織りなされる運動そのものであって、凧(客体)と人(主体)、あるいはその関係のいずれにも還元されない、と文化人類学者のT・インゴルドが書いたが、(中略)はっきりしなかった。(中略)いや実際、凧揚げとは、凧揚げという本来、対象としては知覚できない、目には見えない像を、人が凧揚げしている最中に、確かにそこに在ると感じてしまっていることだというべきでないか。(中略)それが運動(凧の運動ばかりか、凧揚げする人にとっても文字通りの身体運動)として確かに実感されるとき、その運動の実感を、凧揚げという像を見ていると取り違えてしまうのだと」。これによるとモノをつくるとは、まだ見ぬ何ものか=像を目指すことであるが、この見えないはずの何ものかに帰属させないことには、制作途中には何も知覚できないことになる。

116プレミア アーセナル×ニューカッスル 富安フル出場。10番マクシマンとのマッチアップを楽しみにしていたが、マクシマンが下がり気味で内に絞ることも多く、マクシマンが富安を嫌ったかたちである。したがって富安のポジショニングは高くなり、今日はいつもよりシュートもセンタリングも多かった。アシストも記録する。後半に得点を重ねて2-0の完勝。前戦リヴァプールに負けたショックはなく、チームは安定を取り戻していた。

11月26日(金)
115EL フランクフルト×アントワープ 鎌田が先制。フランクフルトは中盤でボールを奪うと、一端外に持ち出し、中央に走り込んだ鎌田がその折り返しを決めた。鮮やかな速攻であった。フランクフルトの全員がポストプレーでき、どこからでも一端下に預けてから縦への突破を行う。この展開をワンタッチパスで行うため、ポジショニングの意思統一がチーム内でなされていた。

11月25日(木)
114CL リヴァプール×ポルト 南野フル出場。オフサイドになったがゴールに突き刺すシーンもあった。今日はマネとサラーとの間の3トップの中央でプレー。いつもと違ってチームに溶け込んでいた。チアゴが下りた後のスペースを上手く使ってそこから前に進めることができていたし、最終ラインの裏のスペースに抜け出してチャンスメイキングをしていた。ポルトは勝たないといけないこともあって前掛かりであった。こうした状況でのトップ下のポジションは南野に好都合であった。

11月24日(水)
「パンデミック2」ジジェク著を読み終える。著者は資本主義のもとのコロナ禍によって、レイシズムをはじめ様々な差別が顕在化したという。かといって当然ながら共産主義も批判する。それでは、資本主義を保持したままこうした差別を克服するにはどうしたらよいか。そのヒントが最後の補遺にある。「完全な民主主義があらゆる疎外された構造を廃するような、自明の社会などという全くの理想は廃棄すべきなのである。疎外は我々の自由のひとつなのであり、息ができるスペースを与えてくれるから自由を行使することもできる。私が住む「大文字の他者」(社会的実体)が私にとって、また「それ自体に対して」不透明である場合のみ、私は自由なのだp141」。なんだか禅問答のようであるが、寛容さが社会に必要ということだろう。「大文字の他者」を影で糸引く秘密の主がいない社会が正常であり、こうした状態でも差別は起こりうるが、その差別を克服することよりも差別を理解し和解する必要があるというのである。

11月23日(火)
所沢の狭山湖畔霊園にある中村拓志さんの礼拝堂と休息所を見に行く。街を見下ろす小高い墓地のさらに奥に礼拝堂がある。中に入れなかったが、隙間からの景色は最高だろう。眼下に街、遠くに山々が連なる。木を円形状に束ねた柱6本が頂点で5本からなるアスタリスクをつくる幾何学である。梁をなくした建築構成であるのが素晴らしい。ぼくがびわのかげ運動場で試したことと同じことを考えていたのだと思う。木の連続性を強調させたかったのだ。休息所へ。丸い休息所は庇が長く陽を遮り水盤と風景を一体化するものであった。この建築に至っては衒いもなく素直に空間性を指向しているように思えた。この両面を中村さんは扱えることに感心する。その後隈さんの角川ミュージアムへ。イオンモールとは異なる新しい商業施設の形である。通りを外部化して、少なくとも人が内部に留まることを拒否した建築である。外部にはこれぞとばかりに高い手摺りのある通路が張り巡らされていた。建築家がこうした新しさに関与しているのがうれしくもある。メインのミュージアム棟は日本の建築でないようで、見ていてクラクラする。スケールを感じさせるものがないからだ。ぼくらは日本の建築生産体制から逃れることは難しい。それが良くも悪くも建築となって現れる。それの括弧外しをした建築である。夕方は怪しい雲が出てきて、まばらなグレーの外観はそれと相まって不思議な外部空間性をつくっていた。外部をメインに考えるのは先日訪れた宮崎さんの長野の美術館と同じであるが、そこに悪意とはいわないまでもダイナミックなアクシデントを期待しているのを買いたいと思う。

11月22日(月)
昼に都税事務所のある恵比寿行き。相変わらずデパートは閉店のままでガーデンプレイスの活気は薄れている。都心の1等値のこの状況はまずいと思う。ガーデンタワーのラウンジで昼食。タワー専用のラウンジが開放されている。空間がゆったりしていて贅沢な空間だと思う。

11月21日(日)
113プレミア リヴァプール×アーセナル 0−4でアーセナル完敗。しかし見応えのあるゲームであった。アーセナルは序盤から積極的な守備。リヴァプールの後方に対して3トップが激しいプレッシングする戦法。そのため、富安は同サイドのSBとマネー2人を見るかたちとなった。富安の裏はCBが追う形である。ここが見応えがあった。前半まではこれが上手く機能する。一方、リヴァプールも同様に激しいプレッシング。そうするとアーセナルはいつものようにGKからつなぐことができずに苦労する。サイドに出しては2点目が右のSBの狙われたように何もできなかったし、対抗策としてSBがドリブルするも止められた。元アーセナルの8番の闘争心がすごかった。最後に南野が登場。アーセナルDFが疲れたところ、富安の裏を使う。入って直ぐのところのファーストタッチでゴール決めた。

11月20日(土)
事務所で作業の合間に、ジャズ女性ボーカルの名盤というものをネットでチェックをして棚から探し聴く。エラ・フィッツジェラルドの「Ella and Lois」と「MACK THE KNIFE」。カーメン・マクレエ。サラ・ヴォーンの「Creze and Mixed up」。クリス・コーナーの「Sings Lullabys of Birdland」。ヘレン・メリルの「with Clifford Brown」。アン・バートンの「BLUE BURTON」。ナラ・ジョーンズの「come away with me」があった。さすがに馴染み深い曲が多い。その中でも陽気でチャーミングなエラが印象的。なんだかわからいが曲の間でどんどん変わる。即興を楽しんでいるようである。

11月19日(金)
「パンデミック2」スラヴォイ・ジジェク著を読み始める。「パンデミックと共に起こったのは、単なる共同生活から距離の確保への移行ではなく、もっと複雑な、近接性と距離の布置constellationの変化である。パンデミック前の社会にあった共同生活と私的領域の脆いバランスが、新しい布置に換わっている。そこでは(外出禁止によって)現実的・身体的な社会交流の場が消失することで、プライバシーが増えるのではなく、逆に、社会的秩序や統制の新しい基準が生まれてしまうのだp48」。ジジェクらしいコメントである。別のところでは「多くの人が、パンデミックで以前より相手とより強い結びつきを感じているp43」とある。そして「パンデミックの真の問題点は社会的な孤立ではなく、むしろ他者や社会的つながりへの過度の依存なのだp44」とある。建築における過大なコミュニティへの関心も同様だろう。表面化したモノの理由に、裏返しの理由もあるということだ。

11月18日(木)
「言葉と建築」の「機能性」を再読。どうやら戦後から60年代にかけて、進化や遺伝子に基づく生物学的な思考が他の分野に大きな影響を与えたようである。それは、本来遺伝子には構造というものが宿っていて、それが環境によって現出するという考えである。建築もこれに同意したらしい。本来人間にとって望ましい気持ちよい空間みたいなものがあって、それを建築家が条件から拾い出し建築化するというものである。インターナショナルな機能主義というものはそのために重宝され、一気に全世界に広まったようだ。70年代中に生まれたパタン・ランゲージの受け取り方も然りである。しかし最近の偶然にまつわる本を読むと、そうした構造性を疑い、構造を事後的な説明と片付ける考えもあるし、散逸構造のように、構造はゆるく、現出するモノまでのコントロール不可能、このようにプロセス的に考えるものもある。機能主義への自分の中での不信が整理できた。

11月17日(水)
3年生後期の佐野+遠藤スタジオの中間講評会。エンジニア系の先生も加わる。数人のチームでの作業となりマンパワーを発揮し仕上がりはよかった。この課題は、そこに働いている個人がグループへ、そして会社全体へと有機的に展開する組織のあり方をどのように建築化するかが大きなポイントであった。そしてさらに大きな、会社の外部や環境と絡む方法も求められていた。今日の中間では、そのための上手い構成がいくつか示されたと思う。今後の課題は、佐野先生も指摘していたように、こうした構成が概念(ダイアグラム)に留まることなくもっともらしい現実空間にしていくことだと思う。それで次の段階で、意匠を目指す学生にはこれを課題とすることにした。例えば働く場として太陽光のグレアをなくし、場(人数や親密度の度合い)にあった光環境を加えていくことが条件となるが、これまで考えてきた大きな構成は変えないで、例えばトップライトやルーバーのデザインによってさらに展開させるようなことである。街に利用されることを目指した構成も多かったが、それが敷地内に留まっていないかを再検討するようなことである。来週の全体講評会に進む2案を最後に選出する。

11月16日(火)
112代表 オマーン×日本 1-0の辛勝。後半から投入の三苫がゲームを変えた。三苫の縦の仕掛けでオマーンDFラインを揺さぶった。得点ではそこに後方の中山も絡んでいた。前半はどうであったろう。日本より勝ち点がほしいオマーンを完全に止めることができていたので、評価してもよいのだと思う。森安監督の無策に批判が集まっているが、それに同意するも、アウエーでの極めて重要なゲームにおいて、前半でみせたような安全策もありなのだとも思う。

11月15日(月)
「それはあくまでも偶然です」ジェフリー・ローゼンタール著を読む。エッセイのようで、運をもちだすことは危険な罠に陥ることである、という教訓染みた本であった。著者の専門は統計学。しかし運と迷信によって無味乾燥とした統計数字が味あるものにもなる、こうとも読める不思議な本であった。

11月14日(日)
昨日に続き棚から美しいジャケットCDをピックアップ。ビル・エヴァンスBill・Evanceの「Waltz for Debby」と「Explorations」が引っかかる。他にファーストアルバムの「PORTRAIT IN JAZZ」があった。これから視聴。昨日のNewYork・Trioと同様の白人ジャズであった。「マラソンマン」1976ジョン・シュレンジャー監督ゴールドマン脚本を観る。ゴールドマンは「大統領の陰謀」1976の脚本でもあったと記憶する。この映画はボードリヤールが「想像性が欠如した天才的なシミュラークル」と評したものであった。ただただ歴史的事件をドラマティックにしたものに過ぎないという意味であろう。対してこの「マラソンマン」は、複雑な脚本がもたらす創造性に満ちていたものであったと思う。そこに政治不信もある。国が情報をコントロールしているという恐怖も。事件は偶然の重なりで生じたものであるが、実はそこに必然性がみられるというストーリーである。もちろんそこにユダヤ人や都市の現状もコンテクストとしてしっかり描かれていた。こうした世界観の対極にあるのは無心に走るアベベでありオープニングシーンはこれからはじまっている。

11月13日(土)
叔母の1周忌のために多磨霊園へ。行きは中央道が渋滞。コロナの影響がなくなっていることを実感。午後から中庭を整理する。中庭に置いてあった粗大ゴミを処理した後にテーブルを移動した。たまたま目にした「Stairway To The Stars」NewYork・Trioのジャケットがエドワード・スタイケン企画の「The Family of Man」のようで惹かれた。棚を探ってみると、「Blues in The Night」と「The Thigs We did Last Summer」があった。早速聴いてみる。凜とした品格ある音楽であった。これらもジャケットにこだわりがある。ある種のイメージを写真でかたちつくろうとしている。

11月12日(金)
午後から五反田のNTT行き。問題なし。レイナー・バンハムの本の整理。昨日、今村研でフォスターのウィリス・フェーバー本社の1:100模型を制作していたので、その経緯をお聞きした。森美術館の方針で、フォスターを紹介するのに、最近作ばかりでなく、こうした作品も重要な位置づけをしたかったそうだ。そのときの展覧会パンフレットをいただく。改めてウィリス・フェーバー本社を観ると、印象に残っていたプールは1階にあった。中央のエスカレーターに対して建物外形が不定であるのが特徴的である。

11月11日(木)
今年3回目のレクチャーシリーズで魚谷繁礼氏を迎える。魚谷氏の仕事は京都の町家の改修である。これまで120棟以上を改修したそうだ。町屋改修は基準法の適用外で、現在の状態よりよくなればよく、既存不適格が可能といっていた。現在京都は路地が少なくなり、町家中央の接道しない空地が合筆されて高層化している。この状況を食い止めることに躍起になっていることがうかがえた。素晴らしい。魚谷さんの作品には、現代あるいは計画というものでとらえきれない闇がある。「陰影礼賛」でもそうだが、闇は時としてぼくらのスケール感覚を超える。1mも幅のない路地は健全に利用することを前提とすればあり得ないものであるが、闇とペアであることで十分に機能的なものになるのだ。新しい発見であった。と考えると、ぼくらはいかに危うい前提に立って物事を考えているかを痛感させられる。闇に代表されるものをどうとらえるかは面白いテーマである。
111代表 ベトナム×日本 1-0で辛勝。選手やピッチのコンディションもあるが、明快な戦略が見えないのでゲームを歯がゆく観る。個々の実力の差で勝てたのだろう。3ボランチが消されてしまいボールを前に運ぶことが出来ないでいた。それにたいするボランチが開くとかSBが起点になるとか、次のオプションが見えなかった。次戦のオーマンは前回戦略的であったので、心配である。中4日でオマーンに立ち向かう。

11月10日(水)
「REYNER BANHAM and the paradoxes of HIGH TECH」Todd Gannon著を読み続ける。ぼくにとってウィリス・フェーバー本社は偉大な建築であるのだが、当時の評価は2分されていたようだ。コンセプチュアルでなく、特別な環境配慮がなされている訳ではないので、知的に解かれた箱としか見なされていなかったようだ。本書では、この作品をG・カレンの「タウンスケープ」の延長上に位置づけている。そしてハイテック建築を、建築内部あるいは「建築」に留まらせることなく、ランドスケープや広い意味での環境などといった他分野との関係にこそその特徴を見いだそうとしている。ウィリス・フェーバー本社は、技術によって可能となる他分野との微細な融合の到達点的作品なのである。今でいうところのサスティナブルの本質を1977年に的を射ていたことになる。これはなかなか歴史づけられない問題であるのだが、それをバンハムの生涯を通じての苦悩として関連付けているところが、著者トッドの面白いところである。

11月9日( 火)
「機能」という言葉の変遷を当たっていたところ、夏目漱石のF(Focus)+f(felling)も関係してくることに気づく。1900年のはじめ帰国した漱石は外国語で書かれた小説を日本語でも共有できるにはどうしたらよいかとその謎に迫ろうとしていた。そこには構造が隠されていると考え、函数のようなF(Focus)+f(felling)を提案した。社会や文化が何かしらの影響を与えて文学をかたちづくるという考えであるが、戦後から60年代の建築における機能主義の扱いに似ていると思った。日本の近代小説家は単に西洋を真似たのであるが、漱石は1歩踏みとどまって新しい小説を目指したのだ。建築においてこれに該当する人を考える。機能という考えによって揺らいで変わる建築像からもう一度モノのつくり方を見直し、というよりも他分野でも同様のことが起きているはずだから、もう少し俯瞰的視点でもって建築だからこその特徴で建築を自律させようとした人だ。吉坂さんや池辺さんが思い浮かぶ。彼らはそこでかたちつくりの理論を深めていったのかもしれない。

11月8日(月)
110プレミア ウエストハム×リヴァプール 今日はハーフラインを超えたところでボールを入れることができずにリヴァプールはリズムをつくることが上手くできなかった。その付近でのボールロストも多かった。後半の2失点の場面ではこのような状況が続いていた。アトレチコ戦では解消されていたのだが。75分過ぎにパワープレーに入ると南野も登場。やはりゲームに入れない。前線から下りてきてライン間でボールを受けるも返すのみで、チームのリズムをむしろ悪くしている。リヴァプールは2-3で久しぶりの負けである。少し前の勢いというものがなくなりつつある。

11月7日(日)
上田市に行く。はじめに柳澤孝彦氏設計のサントミューゼ(2014)に行く。大(1500席)小(300席)の音楽ホールと美術館が入る市の複合文化センターである。直径300mの大回廊の東側が音楽ホール、西側が美術館で、それに囲まれる大きな芝生の中庭に向かって大小沢山のスタジオやアトリエがある。かつての文化センターと異なり中でのアクティビティが市にオープンとなる構成である。とはいえ柳澤氏らしくカジュアルではなく品がある素材とディテールの扱いである。北側に巨大なイオンモールがあり、南に千曲川があり、こうした配置計画は上田駅からのアプローチを意識したものだろうが、逆に川に開いてもよかったと思う。近代建築から脱却しランドスケープを意識した作品であるが、想定される利用者像が抽象的で、生き生きとしたアクティビティを想起できないので、かつての建築観を脱することができないでいる。その後車で30分のところにある安楽寺へ。とがった山の麓の別所温泉街の中にあった。国宝の八角三重塔がそこにある。こけら葺である。にもかかわらず階高が低いためか鈍重で、五重塔のように美しくないのがよい。大陸的とでもいったらよいだろうか。構造的なのである。その帰りに北向観音堂に寄る。温泉街を流れる川を挟んで反対側の尾根にお堂が見え、階段を下がってまた上がるというアプローチが面白い。その途中にお土産屋が数件並ぶ。参拝道が川に沿ってなくあくまでも川を横切る配置なのである。次に30分ほどで北川原温氏の上田市農村文化交流館へ。野菜販売所、食堂、交流施設、温泉施設がコンタに沿って、うねる屋根の下に配置されている。1997年の作品である。駐車場が建物を挟んで両側にあるので、施設へのアプローチが複雑になり配置空間構成を面白くしている。構成は単純であるのだが、迷路のように感じられた。細部に居場所を作り出そうとしていてそれが屋根の形状に現れている。とはいえ北川原氏的な独特な建築空間もある。予算の関係もあるがその複雑性故に細部はざっくりしている。柳澤氏との違いだろう。温泉に浸かるとそれがよくわかった。夕方前に、稲倉の棚田に行く。高速道路から見ていつか行きたいと思っていた。広大な棚田が尾根伝いに展開する。この環境を保全するために様々なボランティア活動が続けられて、その一つとして上段の棚田にはキャンプテントが多く設営されていた。募金を募っていたので参加する。

11月6日(土)
虎ノ門での打ち合わせを終えると中央道へ。途中、初狩インターで吉田うどんの昼食をとり八ヶ岳へ。いつものように西山麓を通っていった。打ち合わせを済ませて山荘で宿をとる。スキー場は今期も閉鎖だそうで静まりかえっている。スイスアルプス登山の要所アンデルマットと提携していているのだが。山荘客も少ないが、オーナーのこだわりが感じられた。

11月5日(金)
109EL フランクフルト×オリンピアコス フランクフルトの試合を久しぶりに観る。鎌田が復調しつつある。フランクフルトは長谷部を起点としてダイレクトパスを多用するよいチームであった。鎌田は時折下りてきてはポストとなり、一端ボールを後方に預けて縦へ展開していた。鎌田の得点は。チームが前掛かりになったときに、斜めに走行し裏をとり、受けたボールをダイレクトに決めたものだ。素晴らしいゴールであった。

11月4日(木)
108CL リヴァプール×アトレチコ 今日もアトレチコを粉砕する。今日の3トップはジョタであったが、何ら遜色はなかった。アトレチコに退場者が出て、余裕のできたリヴァプールは後半から南野をCL初登場させる。ジョタと対照的でいまいち絡まってこない。南野は活かされるタイプでないので、完成したチームへの溶込みは難しいことを痛感する。一歯車になればよいと思うのだが、彼のフィジカルの弱さがそれを不可能にしているのだろうか。

11月3日(水)
先日の歴史研究室の発表で日本における「機能性」についての研究があった。ぼくの理解と異なっていたので、エイドリアン・フォーティを再読。「言葉と建築」によると、現代における「機能」という言葉は1960年以降に生じたという。本書によると、「機能」という言葉は英語では1つでイギリス人やアメリカ人は気軽に使用しているが、その前の1900年まではドイツ、イタリア語では少なくとも3つあって、即物的、合目的、そして社会的であった。1930頃までドイツ建築家は、この最後の意味を激しく否定していたという。そして構造的意味においてのみ使用していた。インターナショナルスタイルでこの機能性はクローズアップされるようになったのだが、しばらくはその反動が大きかったともいっている。要するに美学が上位にあり、クライアントを満足させることを「建築」がなかなか受け入れらなかったのだ。それが逆転するのは、科学からラマルクの生物学進化論が世界の主流になってからであるという。それが戦後から60年代にかけてというのだ。進化論が主流となり、生物学(社会)では環境が生物をかたちづくるように考えるようになった。建築もこれに同調し、なんだか分からないが環境的社会的要因と形との関係を考えることが決定的になったという。そのときの1957年のスミッソンの言葉が印象的である。「機能という単語は今や、いわゆる非合理的、象徴的価値をも含むものとならねばならない」と。その後はまたその反動でアイゼンマンが「反機能的」という言葉を、ルフェーヴルは「使用」という言葉に限定をしたのだそうだ。建築は、建物の内部、あるいは周辺、生活との関係をずっと語ってきたのであるが、その認識方法は時代によって変わっていて、今ぼくらが「機能」と考えるものは最近の変化の表出であったと本書はいっている。

11月2日(火)
卒業設計の中間発表。発表とは面白いもので、大体の道筋が自分の中で見えていると説明もわかりやすくなる。研究は積み重ねの結果のプロセス的なものではあるが、やったことの事後的説明であることをつくづく実感する。その意味でオブジェクト思想なのだ。そういった点に立ち、遠藤研で行う100枚資料のデータベース化について考える。パタンランゲージに習ってまとめてみたらどうだろう。まずはタイトル。多くの学生は事例を数個の属性に分類してしまうが、そんなにまとまっていなくてもよくキーワードのようにかんがえてもよいだろう。パタンは253個もある。次にそれを表現する上手い写真や図。そしてそのタイトルが何を解決しているかを簡単にまとめる。その次にタイトルに該当する事例番号等をあげる。本文やコメント。最後にそれを簡素化したダイアグラム。それぞれのタイトルがスケール化させることができれば、このタイトルを成立させるさらに小さいスケールのパタン番号を最後にあげてみるのもよいだろう。

11月1日(月)
「REYNER BANHAM and the paradoxes of HIGH TECH」Todd Gannon著を読む。フォスターのウィリス・フェーバー本社を建築において技術を語る上でのターニングポイントとしている。1977年の作品である。これによって、技術が「建築」の中に位置づけられるようになったとしているが、その後のハイテックスタイルには批判的である。表現スタイルとして見ているからだろうか。そこを読み込みたい。

10月31日(日)
事務所と自宅のWifi接続に時間を要する。中継器を購入しWifiブリッジすることに成功。
107プレミア リヴァプール×ブライトン リヴァプールは早々と前半2点を取り楽勝するかと思いきや、終了間際からペースが落ちる。そこで失点すると、後半はブライトンペースになってしまった。2-2のドロー。前半のマネーの3点目の幻のゴール、後半始まりのサラーのオフサイド取り消しゴール、これらは微妙な判定でゴールとならなかったが、それでゲームが動いた。そうしたのはブライトンのインテンシティの高さである。リヴァプールのSBが上がったところの裏を突くところからはじまり全員による攻守の切り替えが生んだゴールであった。

10月30日(土)
白井晟一の松濤美術館へ何十年ぶりに行く。白井晟一展が開催されている。模型と図面を中心とした白井晟一の紹介で展示内容としてはいまいちか。松濤美術館というと、縦方向を感じさせる空間で、中庭の配置に無理があるように今回訪れても感じる。そのため空間に奥行きを感じさせてくれないのだ。帰りにナチュラルエリップスに寄る。相変わらずだ。ただ周りが変わってきている。少しずつリニューアルされ綺麗になっているが、淫靡な感じは所々に残っていて、新しい世代にそこが受け入れられているのを感じる。安心安全を求めることと違った世界がここに拡がっている。
106プレミア レスター×アーセナル 富安先発フル出場。前半レスターはビルドアップが上手くいかず、富安もフリーで楽にボールを保持し攻撃に参加する。後半にレスターは修正。2ボランチにすると彼らがボールを保持することで富安の裏を仕掛ける。そうすると富安は守備に時間が割かれてしまった。それでも失点をせずに2-0でアーセナルの勝利。富安もアーセナルも安定をしてきた。順位が上がる。

10月29日(金)
GAJAPANが届く。藤本壮介さんのプロジェクトで、藤本さんと一緒に遠藤研OBの秋本怜央くんが登場している。十和田の交流センタープロジェクトである。西澤さんの美術館の通り沿いにそれはできるそうだ。3つの大きさの異なるギャラリが要求され、その他に交差点角地に約25m角のボイド空間が用意されている。壁厚は500ミリで高さ12mの壁で覆われた屋根のない中庭空間だ。これまでの中庭は人が集まる機能的なものとして考えられていた。この中庭はそうした公共性を伴いつつそれとは違って空間性を前面に押し出したものとして興味深い。スタディをライノセラスで行って、細かなチェックまでを3D上で行ったという。即物的な対応によってできる空間が指向されている。それは模型を通してでも可能なことであったのだが、施工や構造といった技術的問題も即物的に伝達できるようになった点が空間にどう反映するか楽しみである。次の課題はモノによって可視化できない情報をどのように扱うかである。風の流れや温度などである。こういった情報はシミュレーションという作業がつきまとい即物的になりにくいものだ。

10月28日(木)
卒業設計の中間向けての最終ゼミ。100枚資料を設計にまでつなげることに苦労している学生が多い。そこで、100枚資料をデータベースと考え、敷地とプログラム検討によって生じた課題の解決をそこから 引き出す、そのための100枚資料としたらどうかを提案する。帰納的推論デザインでなく、オブジェクト指向的なデザインを目指すということである。

10月27日(水)
「スチールデザインNO38」が届く。石上純也氏のKAIT広場である。80m×50m角の12mmの鋼板が懸垂状の形をしている。何もない空間で四角孔が59個。石上氏曰く土手のような内部空間ができている。構造的にはこの鋼板の反力処理がキーらしい。平たく重い地中梁を通じて内側に地中杭、外側に54本のアースアンカーによってバランスさせている。構造的には四角懸垂局面というのが不合理らしく四角の端部にはリブがあるという。仕上げに透水性アスファルトでこのリブを隠す。施工は日南鉄鋼。ぼくの場合でもあるが鹿島さんあっての作品だ。

10月26日(火)
カザベラ923 924が届く。世界の住宅特集。住宅が建築になる多様性を実感する。ただし、一般の住宅、あるいは日本の建築家による住宅との違いが一目で分かる。それは空間密度の差であると思う。素材の扱いに端的に現れ、それを型にはめ込む外形の自律性にあるように思う。

10月25日(月)
2年生の後期第1課題の提出。総じてよくできていた。遠藤スタジオでは、大きな視点を持って設計することを指導してきた。そうした中で数点、敷地となる奏の町の特色から幼稚園を位置づけていた案があった。これを優秀案とした。幼稚園を町の憩いの場に位置づけようとするものであった。全体的に多くの案が、具体的な園児の行動まで描き切れていないところが気になる。第2課題以降の課題だろう。テラスと名付けただけでは足りない。どんなテラスになるか図面化あるいは模型化する必要がある。そうして雰囲気のある図面となる。

10月24日(日)
105ラ・リーガ バルサ×レアル・マドリード 1-2でマドリーが勝つ、点差以上にマドリーが優勢であった。バルサは転換期にいる。今日も半数の選手がクラシコ初体験だという。メッシは局面を個人で打開していたがそういった選手が今見当たらないのが、きついところだ。

10月23日(土)
103ラ・リーガ バレンシア×マジョルカ マジョルカは2点先制するもイガインが退場となり10人。30分は踏ん張ることができたが終了間際に2失点しドローとなる。ドタバタするのは実力からくるものだろうか。バレンシアのサイドからの放り込みにたいしてチェックがなくゴール前でボールを跳ね返すだけであった。ちょっとうんざりしたので、富安の試合を続けて見逃し配信で観る。
104プレミア アーセナル×アストンビラ アーセナルは非常に組織的で富安もキープレヤーの1人となっていた。ゲーム当初はアーセナル2CBと2ボラをアストンビラは徹底マークしてきたので、フリーになる右SBの富安はドリブルまたはパスでの縦の攻守が激しかった。富安とその前の7番サカとのコンビネーションもよい。前節のぺぺとはかなり違っている。後半からアストンビラは戦術を切り替えて富安にもマークをきつくする。そうすると富安は大きく開いて、前の左第2レーンスペースをラカゼット、サカ、ウーデゴールに使わせてむしろワンツーで抜け出す形としていた。こうしてアーセナルは皆が連動しゲームを終始リードしていた。皆気持ちよかったに違いない。これはプレミアとラ・リーガの違いともいえるが、選手個人の差だろうと思う。

10月22日(金)
雑用を済ませて午後遅くに打ち合わせのため横浜へ。「レイナーバンハム」を続けて読む。技術が「建築」に位置づけられるようになったのは、フォスターのセンズベリーセンターからである。それはつい最近のことだ。その功績はバンハムに負うことが大きい。本書前半の展開である。

10月21日(木)
会議の合間に修士設計の方針の打ち合わせ。具体的にモノとの関連で研究を進めている修士の学生が多いので安心する。研究内容の社会的意義はもう少し後になって事後的に分かるものなので、現在は可能性だけ示すだけでよいことを指導する。

10月20日(水)
今村先生から「REYNER BANHAM and the paradoxes of HIGH TECH Todd Gannon著」を紹介してもらう。バンハムを通して20世紀のハイテック建築をパースペクティブに概観しながらバンハム晩年の未発表論文を紹介する本である。その結論は「建築を超えた建物」である。技術を意識しているかどうかにかかわらずそれは建築に大きな影響を与えて「建築」なるものを創造してきたのだが、それがさらに進み文化というか一般の建物にまで浸透していく過程を示している。そうした建物をシリコンスタイルといっていた。

10月19日(火)
102 CL アトレチコ・マドリー×リヴァプール スピーディなゲーム展開。アンラッキーな退場者がアトレチコに出てゲームは荒れたが、リヴァプールは時折入る斜めのロングボールからの打開、そこからサラーが仕掛けた。アトレチコは、堅守からの速攻。鮮やかなグリーズマンとジョアン・フェリックスの個人技であった。最終的に3-2でリヴァプールが勝つ。南野はここにいなかったが、こうした流れの中での南野を見てみたいと思う。

10月17日(日)
今年度のAO入試。入試では問題が生じてはいけないのでいつも気をもむ。今年の課題は木材の加工とした。高校生の頃を思い出すと、与えられたテーマを純粋に形に表現することに慣れていなかったと思う。自分の考えを無理に抽象化してからそれを形象化する傾向があった。以前の試験のように自由テーマであればそれも可能となるが、そこに条件が付加されるとそれとの連続性は難しいものになって飛躍したものになってしまう。義務教育のあり方を振り返ると、与えられた条件を解くことに学生は慣れていると思うのだが、作品性がここに加わると、自分なりの解釈を優先してしまう。なぜだろう。ゴールを急いでしまうからだろうか。素材やモノと純粋に格闘する経験が欠けているからだろうか。予測→制御(イメージ→形化)ではなく、素材を通じての感知→反応の繰り返しを結果(形化)とすることが問われている。
102 ラ・リーガ ソシエダ×マジョルカ 10人のソシエダにたいしてマジョルカはロスタイムに被弾し負ける。マジョルカは終盤になってようやくセビージャが入り、それらしい形になる。そのときに決めたかった。そこでもたついている間に速攻を決められてしまった。久保が予想以上に復帰するまでに時間がかかるニュースも入ってくる。久保がいないと少々退屈なゲームでもある。

10月16日(土)
トム・ムーアの作品「ウルフ・ウォーカー」を観る。トム・ムーアはアイルランドのアニメーター監督である。多色彩で平面的で、細かい線を中心とした映像である。エッチング作品のようでCGを駆使しリアルに近くまろやかさを目指すディズニーアニメーションとは違っている。ケルト文様の最高傑作「ケルズの書」を彷彿とさせ、詳細な線が紙芝居化されているようなものだ。作品のテーマは自然とキリスト教の対立。アイルランドでは昔からオオカミは人類と自然の共生のシンボルであったらしい。その森を守るオオカミを凌駕しようとするキリスト教軍団が、最後は負けてしまうというストーリーである。「もののけ姫」のエンディングと異なり白黒はっきりしている。設定条件ももののけほど複雑ではない。それは、妖精の扱いも異なっていて、妖精はどちらも見知らないところにいるのであるが、もののけが神秘的であるのに対して、この映画はファンタジー的である。人の世界から自然へは明確な城壁という境界があるのも特徴的である。 101 プレミア ワトフォード×リヴァプール リヴァプールが完全にゲームをコントロールしていた。そういう状況で、これからの連戦に備えてクロップは、サイドバックと怪我人の多いMFを交代し、南野は不出場であった。残念だ。今期いまいちであったフェルミーノがハットトリックし、マネの先制、サラーの個人技得点という大量得点であったので、南野を試すという選択肢もあったのだが、クロップの選択はそうではなかった。

10月15日(金)
明日の入試のための準備をしながら、昨日の卒業設計のエスキスの思いを巡らす。今年は、コロナのためか、非現実の世界を扱う作品が多い。とはいえ、非現実を形にすることは難しいので、現実と非現実の世界を橋渡しする役割を建築化することとなる。TV番組の特集で隈研吾氏が似たようなことを話しているのをYouTubeで見つけた。村上春樹記念館のトンネルのことである。そこでは非現実の世界を前向きに評価し、「建築」を超えるものとして期待を寄せていた。続けて細田守のインタビューYou Tubeを観る。非現実の世界を氏が語る。彼はそれを最新作で描写していると自負していた。そのために新作の仮想世界に、エリック・ウォンという建築家を採用して世界観を構築したという。エリック・ウォンの作品を観る、幾何学を背景に近景が断片で構成される世界が展開されていた。他にも採用しているのはハリウッドのジム・キムとケルトを描くトム・ムーアなど多様である。どうやら、多様であることが仮想世界の前提としてあるようであった。

10月13日(水)
「世界をありのままに見ることはできない」を読み終える。最近流行の新実在論を記した書として本書を位置づけることができた。この新実在論を本書では「コンシャスリアリズム」といっている。訳者はこれをアドバンスト汎神論と評している。それは、ぼくらが見ている物体の裏に複雑な実在があるというものである。つまり、ぼくらはディスクトップコンピュータを見ていて、物体はそこに写るアイコンである。実在はパソコンやインターネット内にあるデータ構造やICチップなのである。こうしたインターフェースを挟んで「経験し行動する主体としての人間」と「実在の世界」という2つの世界が生まれ、本書では、一方のシステム「主体としての人間」が、人間独自の知覚によって他方のシステム「実在の世界」と相互作用をするのだという。ここでの知覚の役割は、実在の真のメカニズムを開示することではなく、生き残って子孫を残す可能性を示す適応度を報告するものとしてある。それは色や音やにおいなどの物体の属性のみならず物体それ自体にも及んでいる。そして時間、空間にまでそのインターフェースの範囲が及ぶのが本書の特徴でもあった。人は実在の存在をまるごと知覚することはできない。適応度にしたがった仮象として個々が見ているというのである。当然それぞれが見ている仮象は異なっている。しかし、適応度という範囲において全く異なるものでもないのだ。似たようなものを見ているのである。

10月12日(火)
午前霞ヶ関行き。予定より早く済み午後は整理に費やす。これで一通りの手続きが済む。
100 代表 日本×オーストラリア 今日はシステムを変更し3ボランチの4-3-3。前線から上手くプレッシングが効きオーストラリアDFからボールを出せなかった。選手のインテンシティが高く、日本は勝つべくして勝ったと思う。そうしたよいリズムが得点にまで結びついた。とはいえ失点は、先発メンバーが代わり、プレッシングのタイミングが選手間でずれたところからであった。最後の長友は突っ込まない方がよかった。同点にされた後も執念は見事であった。吉田からの長いロングパスに浅野が反応し、そのシュートがオウンゴールを生んだ。伊東と古橋の2人がゴール前に詰めていた。とはいえ、まだまだスピーディな展開が少ない。3バックにした結果、両サイドバックが高い位置を取り、南野を内に絞らせたのだから中央からの展開を多くしてもよかったと思う。前半に大迫の久しぶりのポストプレーを見たが、実際このプレーからゲームが好転したので、こうしたパタンを増やすべきであると思う。

10月11日(月)
午前から会議がありゼミと授業を行う。ホイラーの2重スリット実験、遅延選択実験が「世界をありのままに見ることはできない」で解説されている。観察者がいるかいないかで観察結果が異なるというものだ(http://rizomata.com/引き寄せの法則/未来も過去も変えられる?二重スリット実験とホ/)。普通はこの事実を証明しようとするのであるが本書では、この実験によって実在など反対に存在しないということに結び付けようとしている。

10月10日(日)
グランドオープンした長野県立美術館へ。建替前の県立信濃美術館は林昌二設計であったと記憶する。意欲的な近代建築であったが、設備的に少し時代遅れであった。加えて90年頃に隣につくられた谷口吉生の東山魁夷館とも接続が悪く、微妙な位置関係にあった。両館の入口が見通し効かずに離れていて、魁夷館は池西端からのアプローチであったと記憶する。今回それが解決されていた。善光寺からのアプローチも明快になり、そこから新しい大きな公園から新しい美術館へそして魁夷館へと続くようになっていた。美術館自体もかなりカジュアルである。公園の一部になるようなつくりである。新しい長野県立美術館の設計は宮崎浩氏。氏の建築は切れがよいのだが、谷口建築よりかなり規模が大きいために、同時に2館を体験すると緊張感欠如を感じないこともない。その原因は予算も関係するが、大きいが故にだらだらとしていて、谷口建築のように自然へ対峙する感はない。時代を経て、公共建築にたいして求められるプログラムが変化してきた証だろう。それに意識的である必要を思う。

10月9日(土)
長野へ。諏訪インターまで行き、時計回りのルートを走る。途中、霧ヶ峰のヒュッテで休憩する。山並みを通して見通しが効いて気持ちよい。敷地を確かめる。夕方にホテル着。老舗のホテルらしくある種の落ち着きがある。気温は20度を下回るがそれほど寒くはない。

10月8日(金)
099 代表 サウジアラビア×日本 アウエーの中東は予想以上に暑かったかもしれない。後半になると日本はぴたっと攻撃が潜んでしまった。そんな中で起きた柴崎の痛恨のミス。その前から度々囲まれていたので、柴崎の疲れと技術も問題であるが、指揮官の判断の遅さが気になった。サウジは徹底的にDFから中盤へのボールにたいしてインテンシティ高いプレシングをしてきていた。南野も何もできていなかった。そういった状況で指揮官からの変更は何もなかった。五輪前に森安の評価も一度は上がったが、森安の能力はやはり疑問である。

10月7日(木)
ゼミにて、遠藤研100枚資料の意義について話をしてみた。ぼくらは平均分布図に慣れ親しんでいる。そこではデータ数が限られていて基準というものがあり、偏差で対象をみるようにぼくらは訓練されてきた。ところが最近ビックデータによって、正規分布図に代わってべき分布グラフというのが注目されるようになった。これは、全世界の人の年収分布やインターネットのフォロワー数、商品の売れ筋、あるいは鉄の引張特性など様々な分野で見ることができるものだ。そこには平均などない。圧倒的多数を一部のものが占め、残りを無限のものが分かち合う、このことを示すものである。このグラフの形からテールデータともいう。平均分布的思考が主流であったころまでは、頭部分の大多数しか対象にできなかった訳である。それがビックデータによってこのテール部分の存在が明らかになった。これに従いamazonなどは、ありとあらゆる商品を用意することに成功した。大多数を多くの会社で食い潰すよりも、少量でも少ない会社で分け合う方が実は有効なこともあったが、amazonはこの両方を手に入れたのである。ぼくらが研究調査する建築対象も、以前のような正規分布的な視点でみていないだろうか。建築の現象も容易に推測できる大きな要因の他に、無限数の隠れた要因がある。これまではその存在を無視してきたが、それを探ることが新しい実体を捉えることになると思うのだ。ビッグデータをどう扱うのか、最近読んだ「UIデザイン」にそのヒントが書かれている。以前コンピュータの世界ではタスク中心に考えられていたという。つまりマニュアル主義である。ある想定される範囲内でのルートの可能性を示そうとするものだ。ところがビッグデータでは条件が複雑に絡み合いそれが不可能である。アクターネットワーク図をみればそれは一目瞭然である。そこでビックデータでは、属性だけを示すことにした(プロパティ化)。本棚から本を選ぶように背表紙だけを属性化することである。しかもコンピュータによってそれが瞬時に入れ替わることができる。そして人は希望するものを手に自由に取ってタスクを実行する。読んだりマーカーしたり書き込みができるようにした、これが最近のUIデザインというのである。僕らの100枚資料もこのように整理したらどうだろう。100枚が多いかどうかは別として、こうした整理方法によってテール部分のデータに関わることができないだろうか。それによって、型にはまらない新しい建築を手に入れることができないだろうか。

10月5日(火)
「世界をありのままに見ることはできない」には、昨日考えた意識化のプロセスについて言及されていない。意識化は確実に時代によって変化してきたことを感じる。建築でいえば建築家がリーダーとして彼の才能によってこれを行ってきた。ところが最近のビッグデータの存在によって、そうした建築家の能力がより一般化されるようになってきたようだ。ビッグデータはまだ一部の限られた人しか扱うことができないが、これを身近なものにしてぼくらも扱うことができないかと思う。ティールにおけるフラット構造がもたらす活発な意見交換など、情報を増やすという意味で、その好例なのではないかと思う。

10月4日(月)
「世界をありのままに見ることはできない」を続ける。ここでいう世界観とユクスキュルの環世界との共通点を感じる。知覚が個々の種による適応度にしたがい、知覚している世界が全く異なっているという点である。同じものをみているというというのは幻想で、個々がコミュニケーションすることによって文化化され、はじめて共通認識となるのである。この文化化するために、一度モノに表出するという意識化のプロセスが建築家にとって大事であることを思う。

10月3日(日)
098 プレミア ブライトン×アーセナル 0-0のドロー。今日も先発の富安は、サイドいっぱいに開くSHククレジャに苦労していた。そしてその背後をボランチに狙われていた。富安の試合後のコメントが印象的。「ゴールエリア内では勝っていた。しかしその外では課題が残った」。連携が必要ということだろう。それにしてもブライトンは辛抱強い。基本的に全マンマークで、今日のアーセナルは思うようにビルトアップができなかった。アーセナルのボランチが変更になったのも大きかったかもしれない。それにしても富安が攻撃時に内に絞るのはなぜだろうかと思う。ボールがそこに供給されないのは信頼のなさか。そのときの背後をククレジャに狙われていた。

10月2日(土)
097 ラ・リーガ マジョルカ×レバンテ 1-0でマジョルカが勝つ。両者決定機をつくれないゲームであった。ここに来てスペインの特徴をみる。1対1の距離が他のリーグより近く激しいのだ。テクニックに勝るので、それをさせまいと局所的戦闘が繰り広げられる。そのためよほど卓越したテクニックがないと今日のような展開となってしまう。組織力を生かす展開に持っていけないのである。

10月1日(金)
台風のため事務所で仕事。大学は休講となった。夕方になると台風も治まりかけ、弟嫁と打ち合わせ。コミュニケーションの難しさに直面する。「世界をありのままに見ることはできない」は中盤にさしかかる。同じような経験が書かれている。「私が火を見ているとき、あなたも火を見ている。互いの記述が一致することが多い理由は、それがなんであれ同じ実在とやり取りし、あなたも私も類似のインターフェースとアイコンを動員しているからである。しかしITPの予測では、あなたと私のあいだで記述が一致しない場合もあるp154」。同様に時空についての記述も、「時空は観察者ごとに異なり、時空の性質のなかには、観察者間でつねに一致するとは限らないものもある。実在は、それがなんであれ時空の制約を受けないp154」。とあった。そして知覚については、「知覚が実在を記述するという見方を否定」し、知覚は「実在を開示するためではなく私の適応度が高まる方向へと自分の行動を導くために自然選択によって形作られたインターフェースであるp162」という。つまり、知覚には法則はなく、生き残るために編み出されたものであるというのだ。

9月29日(水)
096 CL パリ×マンC パリは先制すると、守備に重きをおいて上手く逃げ切る。後半には速攻からメッシも初得点した。大きくたちはだかったドンナルンマの存在、そしてなんといっても前線3枚の守備強度はあやしいので、こうした展開はパリにとってはありがたかった。

9月28日(火)
「世界をありのままに見ることはできない」を続ける。著者ホフマンは時間や空間も実在しないと考えているようである。つまり、すべては意識上のものだと。これで昨日の疑問は解決していく。時空(現実)はディスクトップで、トマトはその上のアイコンだというのである。もっともアインシュタインの相対性理論によって重力の大きさによって時間長が変わることを知ってはいるが、実感が湧かない。

9月27日(月)
「世界をありのままに見ることはできない」を続ける。実在にたいする体勢意見が示される。それは以下のようなものである。トマトは実在する。しかし、匂いや味、色などは知覚に由来する性質で、トマトの実在とは別物であるというものだ。つまり実在はもの自体の性質ではなく、観察者の心、あるいは2章では遺伝子が培ってきた環境に対する適応度、これらに関わるものという訳である。どうやら本書では、これに否定的であるらしい。というのは、これでは人が知覚しないとトマトは存在しなくなるのだが、この矛盾が解決できないからである。読むにつれて、ラトゥールを思い出す。ラトゥールは、都合が悪くなると人間性を持ち出して理論の破綻を補ってきた近代科学を批判していた。

9月26日(日)
094 プレミア アーセナル×トットナム 富安先発。いよいよ安定する。アーセナルは攻撃時に変則的な3バック。その右に富安。このときやはり中央のホワイトからボールは出ないが、ソンからのマークが外れサイドに大きく開いた富安にはボールがよく回っていた。そして、今日はそこから攻撃参加も多かった。前半の終わりにはその空いたスペースをソンに突かれてはいたが。守備はというと、ソンをよく押さえたと思う。ソンが中に絞ると富安もそれを追って決して離さなかった。そんなこともあり後半からソンは富安を嫌って2トップの位置へ。そしてソンに代わったサイドプレヤーとSBの2人で富安の裏を突かれていたのが気になる。得点されたのもそこからであった。チームとの連携が重要だろう。それにしても富安が徐々にプレー範囲が広がりボールも回るようになりチームに馴染んでいっているのがわかる。このゲームはロンドンダービーであった。これまでの下位とは違って株も上げたのだろうと思う。 095 ラ・リーガ マジョルカ×オサスナ 松葉杖の久保が時折映る。自然治療を目指すというが大丈夫だろうか。マジョルカは逆転負け。このところ守備が安定しないのは、怪我人が多いこともあるが中盤底のメンバーが定まらないからである。ローテーションが上手くいかないためだろう。

9月25日(土)
休日を利用し家の片付け、父の遺品を整理する。思ったよりLPが中古市場でさばけない。とくに全集物がだめである。  093 プレミア チェルシー×マンC 1-0でマンCが勝つ。見応えのあるゲームであった。マンCの相手神内からにプレッシングが効いていた。

9月24日(金)
敷地を観るため長野方面へ。関東地区ナンバーの車が多い。中央高速は順調であったが、東名は渋滞があったと聞く。少しずつ人の活動が広がっている。土産にブドウを購入する。今月号の新建築住宅特集は別荘特集。先日届いたCASABELLAとともに、コロナ禍でのセカンドライフがひとつのテーマになっている。分散型社会への進行を示すものである。

9月23日(木)
092 ラ・リーガ レアル・マドリード×マジョルカ 久保が先発。ハーフタイムで交代。膝に違和感があるという。心配である。レアルに対し一泡吹かせることはできなかった。むしろ、久保の後に加入したイ・ガインが縦突破から見事なゴールを決めて、ピッチ全体を動き回っていたのが印象的である。

9月22日(水)
授業の前後の時間を使って対面のゼミをはじめる。授業では、小堀さんの作品を中心に働く場と建築との関係を解説。「ティール組織」も絡める。フラットな組織形態を用意し、それをいかに建築の仕掛けによって活性化させるかを問題にしたい。最後にグループ分け。これまでの設計課題と違ってコンセプトを重視することよりも、実際の問題の検討を重ねることによってアイデアがダイナミックに動いていくことを体験してもらいたいと思う。新しい働く場の建築としての提案は、エスキスの方法とも連動している。

9月21日(火)
午後時間をつくり墓参りへ。「世界はありのままに見ることができない」を続ける。夜にTVでたまたま「グラン・トリノ」クリント・イーストウッド監督・主演を観る。イーストウッドが頑固な退役軍人の晩年を演じる。近頃公開の「運び屋」とストーリーは似ている。2008年の作品で、主人公が愛するのはタイトルにもなっているフォードの名車。主人公は朝鮮戦争の後にフォード=デトロイトで働いていた。ところがそのデトロイトにはアジア人の流入が増え、黒人スラムも大きくなる。息子はというと日本車のセールスマンになっているほどだ。落日の白人アメリカがそこにある。そして差別用語を交えた会話が日常的に描かれているのに驚いた。決して隠されたものではなくオープンなものだ。彼らはかつてポーランド系としてあるいはイタリア系として差別を受け、それが今は別の人種に向けられている。しかし信仰心は厚く、心は満たされていないが生活は貧しくはない。通りに面して大きな芝生庭と1mほど上がったテラスエントランスがある平屋住宅に住み、地下にはワークスペースがある。結末でイーストウッドは町のチンピラと会い対し死んでしまう。これには、ちょっとスケールが小さく感じられてがっかりした。

9月20日(月)
今日から授業がはじまる。午前にひとつと午後から2年生の設計の授業。CASABELLA922が届く。パウロ・メンダス・ローシャの追悼集。最後にスミルハン・ラディックの「木の家」がある。コンセプト絵として浮世絵風のドローイングがある。共同者原田雄次によるものだ。斜面角度に微妙に振れた細長い建物で、不定型な土地との角度を吸収するためにピロティ部分の構造に工夫がある。意図的なズレを生む構成は篠原一男の影響であるという。ダルコはそのことを「回帰する自由」というタイトルの文章で記している。

9月19日(日)
高校生に向けてオンラインによる質問を受ける。コロナ禍でできなかったオープンキャンパスの代わりである。元気な学生は気持ちよい。真剣に彼らに向き合う。
091 ラ・リーガ マジョルカ×ビジャレアル 久保は先発。今日は守備に追われることが多かった。ビジャレアルSBの早い12番と要役の14番のロドリゲス2人を見るかたち。時折インターセプトもして上出来であったと思う。中盤底が安定すると久保は前向きになりいくつかチャンスもつくることができるも、もっと攻撃の機会を増やすことが今後の課題だろう。試合はというと、日中のゲームであったためか、あるいはマジョルカが守備重視でいったためか、時折ボールのだしどころが詰まるゲームで、スピード感にかけた序盤であった。ビジャレアルのエミリはそのため4人同時代えを後半行ったほどだ。それは久保には有利に働きフリーになることが多かった。マジョルカのチャンスの多くはこの時間帯からはじまったといってよい。0-0のドロー。

9月18日(土)
「浅田家」中野量太監督を観る。脚本が凝った日本らしい作品である。二宮和也演じる写真家の序盤にみせたキャラクターが後半になって大きく裏切られるのが特徴である。これによって単調になりがちの若者の成長映画が奥行きをもつようになる。序盤は、妻夫木聡が演じる兄の回想によって二宮(写真家)のキャラクターが印象づけられ、いつの間にかそれもなくなり後半は写真家自身の思いが中心となる。この方法によって、3.11における人間物語の挿入に成功している。090 プレミア バーンリー×アーセナル 富安先発。バーンリーも組織だった流動的な攻撃がなく、富安も特に攻撃参加の指示がなかったようで守備に専念ができ、安心してみてられた。余裕すら感じられたのであるが、試合後ピッチに座り込んでいたところをみると、実情はそうでもないらしい。気がかりなのは、2CB+中盤でビルトアップするのであるが、そこに富安が外されているということである。チーム戦術かあるいは信頼を得ていないか分からないが、その分富安は楽である。そして富安より前の右の2人も一人で攻め上がるタイプなので尚更である。これまでは下位のチームとの対戦であった。これからそうもいかなくなって変わっていくのだろうと思う。そのとき富安の変化が楽しみである。

9月16日(木)
089 CL インテル×レアル・マドリード 新加入の18歳カマビンガがアシストを決める。モドリッチのポジションだ。久保もうかうかしていられない。昨日のバルサといい、世代交代が急速に進んでいることを実感する。無理をしても若い者を育てようとする環境が今どのクラブでも確実にできている。

9月15日(水)
088 CL バルサ×バイエルン どうもバルサはバイエルンに勝てない。今日もラインを下げられその前のスペースを上手く使われていた。1本面はミューラー。その後の2本はそこからのこぼれ球をレヴァントスキーに仕留められていた。2点の差がつくとバルサは 17,18歳の選手を登用する。思い切った采配だ。少し長期的な視点でチームつくりを考えている。それはスターティングメンバーにも現れていた。なんとバルサが5バック。メッシがいない今ホームでも守備的にのぞむというものだ。現実を見せつけられる。

9月14日(火)
GA 172は海外作品のオンパレード。雑誌の後半には、旅への妄想というエッセイ集がある。建築家がこれまでの旅を振り返る特集である。そんな中内藤廣氏の紀尾井清堂がよい。そこに寄稿している文章は「建築の力を問われるということ」。この作品においてクライアントからの要求はなかったそうだ。内藤さんはそこで何をつくるべきかを考え続けたという。そしてモノとしての作品に対峙したという。昔、コンペで内藤さんに批判されたことを思い出す。そのときぼくは建築の可能性ばかりを主張して、現実に即していないと一蹴された。実現することへの意思ばかりで、それが社会に置かれるときのことを考えていなかったという指摘であったと思う。その後内藤さんの作品をいくつも見て回った。モノへのこだわりが力強い空間を形成していると感じる反面、どこか内藤さんは納得していないだろうなと思う節がいくつもあった。建築が解かれる対象となっているという直感である。今や時代の要請は内藤さんのようになってきた。それにたいする窮屈さを感じるのだ。今回の作品はどうだろう。文章からその苦悩が感じられる。

9月13日(月)
「世界はありのままに見ることができない」ドナルド・ホフマン著を読み始める。予想に反し、本書も最近流行の新しい実在論に関してを科学的視点から描こうとしていることがわかってきた。ディスクトップ上のアイコンが知覚を表出する代表例であるという。つまりアイコンの中にある実在などあってもなくてもよく、知覚のみに頼った世界が、ディスクトップ上だけでなく我々の現実という世界でも機能しているというのである。真実を獲得するための数値化できないものこそを知覚にたよるという話は完全に否定されている。

9月12日(日)
087 ラ・リーガ ビルバオ×マジョルカ ビルバオのタイトなマークにマジョルカは苦しむ。それが90分続いた。久保はというと、たまに下におりてはよいつなぎ役をして、チャンスメイキングをしていたと思うが、なかなかフィニッシュまではいかなかった。絶対的な立場になるまでもう少しである。

9月11日(土)
086 プレミア アーセナル×ノーウィッチ 富安が早くも先発登場。右サイドであった。ノーウィッチが富安のサイドを組織的に攻撃してこなかったので、富安のプレーを安心して見ることができた。ヘディングに負けることなく、前半終了間際にはほしいダイレクトボレーまでしてみせた。サイドにおける富安の守備能力は問題ないと感じた。次のステップ、センターあるいは3バックに回されたときが楽しみである。

9月10日(金)
「陽の当たる場所」1951年ジョージ・スティーブンス監督を観る。敬虔なクリスチャンの母を離れた貧しく真面目な青年が富と名誉に翻弄され死刑に至るまでの物語である。エリザベス・テイラー演じる裕福な娘の無邪気さに翻弄されてしまう。彼の死後もテイラー演じる娘は新しい人生を進み、他の周囲の人の立場や状況に変化はなく、その人それぞれの天分があるというメッセージだろうか、そう思うと悲しくなった。テイラー自身の役者としてのその後の人生を思うとなおさらそう思う。主人公の青年は素直で心底の悪でない。2人の恋人の間で揺れる青年で、心のどこかで元の恋人の死を望んでいた、このことが罪だという物語で、ぼくらの知るハリウッド映画と少し趣が違っている。

9月8日(水)
Zoomの合間に郵便局などで雑用を済ませる慌ただしい1日。「1973年のピンボール」を読む。大阪万博を終えて、学生運動、公害問題、石油ショック、ベトナム戦争などをはじめ、ひとつの時代が終焉することがなかなか完成できずに転がっていく社会状況が主人公の視点によって描かれている。見出すことができないリアルな未来をどう捉えるかの模索はこの頃から始まっていて、今でもぼくらを悩ませ続けている。とはいえ建築で、そうもいっていられないし、社会の内実もそこをテーマとするところでまで熟してきている。一時だけ村上の方法が有効であったのでないかと思う。

9月7日(火)
085 代表 中国×日本 今年からアウエー試合の地上波放送がなくなった。サッカー人気の翳りを感じる。中国は前半、守りに徹してくれたので、日本は厚い攻撃を繰り返すことができた。そういった中で久保の動きが目立つ。とはいうもの面白いもので、得点は縦に速い突破から大迫が決めた。大迫の株は持ち堪えたが、明らかに力は落ちている。ポストプレーではボールが落ち着かず、今後の行くすえが心配でもある。中国は組織的でなかったことが大きかった。それがオマーンとの違いであった。

9月6日(月)
今月号の建築雑誌は「祝祭のゆくえ」。オリンピックを社会的視点から祝祭と捉える特集である。落合陽一郎のいう「質量あるものは壊れる、質量のないものは忘れ去られる」が印象的。メディアアーティストはモノ化を目指している。東大寺のお水取りや春日大社の神事がアーカイブ化されていることも知る。これまで一部の人たちにしか公開されなかったイベントが、コロナによって逆に広くオープンなった例である。ニコニコ美術館。かなり充実している。

9月5日(日)
母の納骨のため多摩墓地へ。夜はパラリンピックの閉会式。母はオリンピックの開会式に亡くなったので、ぼくの記憶はオリンピックを介して繋がれることになるのだろうと思う。

9月4日(土)
続けてINAXのPR誌が届く。菊竹清訓の階段手すり特集。スチールの華奢な手すりも興味深いが、島根の田部美術館を思い出す。重い木をガラスでサンドイッチするディテールであった。いつか使ってみたい。多治見駅前の公園を八馬先生が紹介している。ゼミ合宿で訪れたとき、水豊かな美しい公園であったと記憶している。農業用水を利用した新しい傾向の公園であることを知る。

9月2日(木)
続けて084 代表 日本×オマーン 日本が完敗したのに驚いた。オマーンは日本を研究していて、攻撃でいえば中央の大迫、鎌田が完全に押さえ込まれ、決定機がつくれなかった。守備でいえば、吉田がサイドに引き出されることが多く、その隙が狙われていた。かといって長友と吉田の距離があって、その間も縦パスを通されていた。選手のコンディションもよくない。オリンピックその後のリーグ開幕と休む暇がないことが響いているのだろう。そうした彼らが守備の中心である。守られてからカウンターというのならいつものことだけど、今日は戦術の上を行かれていた感じである。吉田は、試合後のインタビューで負けるべきして負けたと独白している。その通りだろうと思う。ショッキングな試合であった。

9月1日(水)
続けて代々木警察署に行き、問題を整理。これまでの問題が動き始めることを期待する。建築士会の9月号は設計監理契約について。後藤先生が寄稿している。設計かしは引き渡し後2年、そして損害賠償の請求期間は完成引き渡しから2年、故意または重大な過失の場合は10年と記されている。これらが明確された。

8月31日(火)
「1973年のピンボール」村上春樹著を読み始める。新しい空気感をどう評価するかによって、本書の評価が分かれることを実感する。1973年頃は決して明るくない時代で、数年前の挫折を振り返ることが可能となった時代である。特に若者にとっては虚無感が満ちていたと思う。そうした時代雰囲気の描き方に新しさがあったのかとも思う。ぼくもまだ小さく、この頃の状況をよくわかっていない。

8月30日(月)
「村上春樹の風景」柄谷行人著を再読。読みながら池辺の「名前のない空間へ」のことを考える。これに照らし合わせると柄谷はもちろん、名前のある例えばリビングとかの部屋名に由来する既知感でものをつくることを否定している。つまり名前のない空間つくりに同意している。名前のない空間つくりとはどういうことか。ここではふたつの方法をレヴィ・ストロースの言説をもとに提案している。ひとつはゲームや科学のように、構造から出来事をつくり出すこと。もう一つは儀礼や神話、そしてブリコラージュに見られるように出来事を駆使して構造的配列をつくり出すこと。前者はバリエーション的(離接的)となり、後者はまとまり的(連接的)なものとなる。つまり、要請にしたがってその場その時にあった空間を定めていく方法(固有の空間となる)と、目指すべき空間を表出化する方法(必要とされる空間となる)である。そのふたつとも、間接的であれ直接的であれ、規則や構造、あるいは名前のある空間の存在、こうしたものを前提とし、そこから自由でない。そして村上は空間に名前をつけることを本当に拒否したという。建築では空間1とか空間2とかいうこともあるが、それ以上のこと、例えば平面図で表現しないとか、サムネイル式の写真にするようなことを行った。しかしこれは例えば、リビングという名前のある空間に共通認識がある、このことを前提としたものであるが、今は(村上らによって)そんなものはなくなってしまった、上記でいうところのバリエーション(離接)性が大きくなりすぎてしまっている、というのが柄谷である。

8月29日(日)
柄谷行人の「病という意味」を再読。堀辰雄が少し気になった。結核が日本においては「文学」によって神話化されていく経緯が記述されている。堀辰雄がこれに絡まっていると考えたのだが、日本に西洋風の小説が根付くために試された方法のひとつの現れであろう。ただしここには堀の記述がなかった。
083 ラ・リーガ レアル・マドリード×ベティス マドリードの試合等を観ると多くの選手が同時に流動的に動き、ボールも大きく動く。ダイナミックである。これを実行するには感覚だけではすまされないので、それを共有するためには、言葉という壁が日本人に生じてしまう。日本人は身体的に優れた突破型選手ではなく、チームメートを活かすパサーが多いので、この壁を突破することは尚更大事なものとなっている。長谷部が成功した理由がみえてくる。

8月28日(土)
「This is it」マイケル・ジャクソンの最後のドキュメンタリーを観る。曲毎にハーサルを通しで行い、曲が終了する度にマイケル・ジャクソンがアイデアを出すのだが、それをディレクターが確かめるだけで再演されることなく次の曲に進められる。その指示は結構細かいところにまで及ぶのだが、それを把握するスタッフや出演者の優秀さにも驚く。即興の上書きの繰り返しである。そしてリハーサル最後にスタッフ全員が円陣を組み、マイケルが音頭をとる。その言葉は地球によせたメッセージであった。スタッフを鼓舞することに留まらないそのメッセージの大きさに感動する。
082 ラ・リーガ マジョルカ×エスパニョール 今日久保は右で先発。右のムブーラは左に行く。中盤底ライン際にスペースがあり、久保はそこで起点となり、ドリブル、パス、シュートを放し、チームのエンジンとなる。決定的なパスの相手はニーニョであった。仲よさそうにはみえないが、リズムはあっていた。ニーニョのほしいシュートがいくつあった。ショートパスの相手は14番ダニ・ロドルゲス。これはあまり成功していなかった。とはいえ得点は皮肉にも左からの折り返し。中央から左に振ってもう一度右に2回大きく振ってからの14番の得点であった。もっとも久保がつくった2番目のスペースを利用したものであった。久保に対する守備の指示も明確で、上手くこなしていたと思う。

8月27日(金)
会計事務所から連絡あり、基本方針を確認する。TVで「風立ちぬ」宮崎駿監督を観る。堀越二郎という飛行機エンジニアの戦前までの半生を描いた映画である。妻菜穂子の位置づけによっては、未知へのものにたいしてトライすることが美化されすぎているともとれた。結核であった菜穂子は、二郎の設計完成を有利に進ませるためにあえて八ヶ岳の病棟から上京したともとれるからだ。未知のものへトライすることが素晴らしいが、結核という悲劇の上に物語が成立しているのがちょっと気になる。

8月26日(木)○
「森のバロック」中沢新一著を再読。熊楠が粘菌に惹かれた点を本書で確認する。中沢によると、既存のパラダイムに分類できない粘菌の魅力に熊楠は引っ掛かったのではないかという仮説である。そこには粘菌にたいする造詣がないので不満であるが、他山の石としなければならない。タイトルにバロックとあるように、解くことができない絶対的外部に向かって、ああでもない、こうでもないと、織り込むように内面化していく様を、生命の本質と捉え、それをマンダラや森、熊楠の態度に見ているのだ。ドゥルーズの「襞:ライプニッツとバロック」を今から見ると下敷きにしているのがよく分かる。西洋伝統のものとは異なる新しい認識論の存在をぼくらに示そうとしている。

8月24日(火)
大学は急な入構禁止となったので、唯一許されたこの日を利用して大学にて雑務をこなす。帰りの首都高はパラリンピック開会式のため通行止め。大きく迂回を強いられる。「オブジェクト指向UIデザイン」を読み終える。この本を読んでの収穫は、データの新しい整理方法にあった。早速、これを実践してみようと思う。目的に沿ってデータを収集するのではなく、未来の可能性を拡げるために収集があるのだ。将来何かを判断するときに、自分を含めて他人にその条件を開いておくためのものである。それは、原因から結果を導くという思考形態ではなく、今ある現状を部分的であるが構築し直すにはどうしたらいかという思考形態である。大きなパラダイム変換だと思う。

8月23日(月)
訪問を延期していた会計事務所に夕方に行き、プロジェクトの再開をお願いする。建築における「オブジェクト指向UIデザイン」とは何かを考える。隈さんの「アオーレ長岡」が好例だろうか。大きな屋根の下に箱が散らばっていて、ユーザは箱を目的にそって選ぶことからはじめる。ユーザは箱の外の空間に出て、箱から得た情報を自由にアレンジできる状態になれば尚更よい。建築にはそこに環境的制御が求められるので、そうした自由空間をどうしたら快適にすることがポイントのように思う。ここに新しいデザインがあるのだろう。

8月22日(日)
081 ラ・リーガ アラベス×マジョルカ 久保がトップ下で先発。試合終了までチームのアクセントとなっていたが、決定機までに至るものではなかった。右Wの7番とのコンビネーションが悪い。そのムブーラもバルサB出身と聞く。しかし猪突猛進タイプである。決定機をつくったのは、途中出場の37歳のセビージャ。2年前、シーズン最後まで久保にパスを出さなかったキャプテンである。今日はベンチスタート。中盤下からの浮き球によって、これまたビジャレアルで結果的に久保を追い出した20歳のニーニョのループシュートを生んだ。マジョルカの選手層は薄くはないことが分かる。こうしたチーム状況から抜け出た存在になることが久保には求められ、本人もそう感じているはずである。

8月21日(土)○
ギャラ間で開催中のアンサンブルスタジオ展に行く。カザベラを通じて彼らの活動は知っていたのだが、彼らの残す作品はアースワークで、そこにアーティストと建築家の区別はなくなっている。土に穴を掘ってモルタルを流し込みオブジェをつくるように、シャベルカーとミキサー車で人が入れるくらいの空間を大地に残す。工業製品でない材料を使って、つくること自体に焦点をあてることは、ここ10年くらい前から脚光をあびている。スタジオムンバイや王樹の活動など典型だろう。しかし使用目的がなく、存在自体に重点が置かれた活動は建築には多くない。「建築」が直接モノを扱うことを教えてくれる作品であった。

8月19日(木)
M2生との修士設計の個人打ち合わせ。建築雑誌を読む。今村さんのコンペの歴史についての論考がある。戦後、特に80年以降のコンペの歴史を詳細に調べられていて感心する。コンペ自体も社会を反映するものだという主旨の論文であった。難波さんの論考は、プログラム論。プログラムへの信頼が揺らぎつつある中でもプログラムの必要性を読後に感じた。プログラムとは将来を見据えた計画のことであるがそれを行わないというのが、最近読んでいるオブジェクトプログラミングである。そこでのプログラムにたいする態度はつまり、1秒先は分からず、先回りもできないものであるが、そうする代わりにまだまだ埋もれている情報があるのでそれを掘り起こすことの方が重要というものである。しかし、どうやらそうした情報は無限に展開しているものではなく、文化のような括りでぼっーとではあるがカテゴリー化されているらしい。ので、その存在に意識的であることが、情報をゲットするのに効率がよいというのである。

8月16日(月)
ライゾマテックスの齋藤精一さんのインタビュー記事をJIAマガジンで読む。インタビュアーの坂牛さんも驚いていたのだが、役所の仕事が齋藤さんのメインになっていることだ。通産省の大阪万博やドバイ博もそうであるが、奈良吉野や横須賀の猿島のプロジェクト、そしてなによりも国交省の「PRATEAU View」というプロジェクトが面白い。日本全国を3Dデータ+ビジュアル化する地図プロジェクトである。これがGoogle Earthと異なるのは、全て1つ1つの建物がプロパティ化(彼はそれをセマンテックスといっている)されていることだ。つまり今読んでいる本にあるように、地図データが全くオープンなオブジェクト指向UIになっている。そしてこれらが点群データということで、ぼくらもダウンロードして自由に加工できるという。実際に体験してみる。人流までカバーしている。どうやら地図というものは国がつくらなければならないという国の使命感と齋藤さんらの新しいUI思考がこのプロジェクトを生んだようなのだ。ところでそんな齋藤さんは、理大卒業後のコロンビアでの経験で一旦建築に見切りをつけたという。驚いた。そして読んでいて面白かったのは、そんな齋藤さんが建築で今、多領域を揺り動かしているということだ。「建築」を解体させようとする人は多いと思う。ぼくもそれに同意するが、「建築」の解体は内部から起こるのではなく、解体とは齋藤さんのように多領域との関係によって薄まっていくようなことらしい。このことに気付いた。それでも「建築」の芯は残るのだろうが、「建築」の輪郭が曖昧になっていくこと、これが解体ということらしい。このことを感じた記事であった。

8月15日(日)
080 ラ・リーガ マジョルカ×ベティス 1年ぶりにマジョルカのゲームを観る。久保が2日前にマジョルカと契約をしたからである。マジョルカの中心メンバーはそんなに変わっていなかった。むしろヘタフェからFWアンヘルが加入をしている程である。オリンピックを優先して合流が開幕間近となってしまったので久保はそうした慣れた環境を望んだのかもしれない。とはいえサポーターやチームメンバーから、2部降格時に見捨てられたと思わないだろうかと心配する。久保は同点にされた60分から登場。はじめ左、そしてラゴ・ジュニアが入ると右に回る。その間、監督ともピッチ上で何度も話合っていた。今日の久保は積極的な守備とドリブルでの仕掛が印象的であった。フリーキックまで任される。ただし、バーの遙か上を通過。昨日、中村俊介との対談番組を観たが、そのとき久保は俊介にフリーキックの極意を聞いていた。それが活かされていなかったかたちである。ところでその番組で印象的あったのは、中村の10番への拘りと、その10番の中央の司令塔としての役割がボランチに組み込まれたり、サイドからの突破も求められるようになり、時代に追従できなかったという中村自身の独白である。赤裸々であった。中村は久保にその突破の可能性を見ていた。今日の久保はその点に関してはトライをして、まずまずの存在感を出していたと思う。

8月14日(土)
「オブジェクト指向UIデザイン」を読みながら、「パタン・ランゲージ」の何が当時のベックやカニンガムを刺激してXPやWikiなどのオブジェクト指向UIに導いていったかを考える。パタン個々をオブジェクトとすると、これからはじめるタスクとしてのかたちをつくる行為は無限通りあって、当事者としても楽しくクリエイティブである。パタンは空間+出来事のセットとされ、それはオブジェクト+アクションとも似ている。彼らは、手順を積み重ねるタスク型よりも、目前の興味を連続させながらかたちつくることの方が可能性あることを見透したのである。そうすると、もしオブジェクト指向を設計に組み込もうとすると、いくつかのパタンをあげて、これを好きに組み合わせては図面にするような方法がよいのではないかと思う。そもそも部屋名をあげてこれを組み合わせる従来の設計方法も同様であるが、パタンはプロパティ化されていて同時にそれが何らかのネットワーク化されているところに大きな違いがあるのではないかと思う。研究室の学生に100枚資料というデータ収集を要求していているが、これを分析するのではなく、好きなときにピックアップして設計に役立てることができるようにプロパティ化する指導をした方がよいのかもしれない。
079 プレミア マンチェスターユナイテッド×リーズ ボクバが開幕で大活躍。右の中盤であったが、そこからの早い展開で4点をとる。リーズは昨季のように面白いゲーム展開をしていたが、一気に崩れた。

8月13日(金)
「もののけ姫」宮崎駿監督を久しぶりに観る。テーマは、様々なパラダイムが内部葛藤し外部へ闘争することの空虚さである。闘争は単純化された自然対人でなく、もちろん人対人もあるし、生きもの対自然もある。そしてその上に存在するのが、生命や環境を司る神のようなものの存在である。その下であらゆるパラダイムが右往左往しているのだ。だから、例えば人間愛とかが特化している訳でない。この神のような存在の描き方に苦労しただろうと思う。この映画で神は、あるときは動物、最後には黒く強大な人間のかたちをしたもの(ティタラボッチ)として描かれているが、少し具体化しすぎたのでないかと思う。この演出にまだ残された余地があるような気がする。主人公のアシタカが住んでいたのは蝦夷(エミシ)。たたら場があるのは奥出雲。出雲を逃れた死神がことの発端になっているなどは諏訪神話を思い出させてくれ、ダイナミックな物語背景である。

8月12日(木)
午後からアンデルセンこども美術館へ。今日が展示準備の最終日で、松本さんの作品が出来上がっていた。https://www.park-funabashi.or.jp/and/kodomo/exhibition.php?period=2021081420210926。そこは、音と光によってなんともいえない幻想的な展示室であった。竹を叩く音が予想外に響きそのリズムが空間の雰囲気をつくっている。竹細工はモビール仕掛になっていてゆらゆら揺れながら、ゆっくりしたリズムを刻む。光がそれに連動して、裏から見る影絵にまで反映されている。松本さんは若いとき、奨学金で1年半かけて、東南アジアの文化とくに竹文化の精通のための旅をしたのだそうだ。竹は日本以上にアジアでは文化の基軸になっていて、祭りや食器、家具、建築の中心という。こうしたお話しを、作品をみながらお聞きした。今日も堂ノ下くんが参加していて、松本さんの下で竹の加工や組み立てに協力をしてくれていた。それらはモビールの支柱になっていたり、モビールの囲いになっていたりする。この企画を与えてくれた八咫の方に感謝である。

8月11日(水)
078 スーパーカップ チェルシー×ビジャレアル もう早いもので今週からリーグ戦が始まる。それに先駆けてのUCLとECLチャンピオンの戦いである。いつもようにビジャレアルは機械的。久保のときと変わっているのは、身体能力に長けたポストプレーができるFWが加入したので、モレーノと2トップを形成し4-4-2であることだ。久保加入当初の1ボランチとならない限り、久保が残留していたとしてもここにポジションはないのだろうと思う。久保の位置に18歳のピノがいた。彼は延長フル出場し守備に追われていた。ピノも攻撃的な選手で突破力に長けていた。若く、久保と対比されることが多かったが、かれが今後どう成長するかで、久保の昨冬の決断がどうであったかを教えてくれる。試合は1-1のドロー。PK戦の後にチェルシーが勝つ。

8月10日(火)
「オブジェクト指向UIデザイン」を続ける。本書でも、オブジェクト指向の先行例としてアレグザンダーの「パタン・ランゲージ」が紹介されている。アブダクションデザイン例として、である。アブダクションとは、制作の非プロセス化である。線形でも円形でもなく、帰納的でも演繹的でもない方法である。「ユーザーの要求に合わせて形を作るという前提から翻り、形に合わせてユーザーが要求をストレスなく捉え直せる」ことである。ぼくのいう「自転車乗り」や「逆上がり」のことである。段階的に条件を積み重ねて具象に至るのではなく、一気にもっともらしい具象を掴み、そこから最初の抽象へリバース、あるいはロジックを後から見出すことである。このことをプロセスに沿った立場からいうと、ぼくたちは最終的な理想形を直接イメージすることはできずに、たまたま目についた問題箇所を直すことしかできないということである。コンテクストへの適合が最終目標であるとすると、そうすることでしかここに近づくことはできないということである。本書では、これでは行き当たりばったりで非効率的であるので、そのために抽象度の高い道具、すなわちユーザーが自ら合わせることができるように上手に促してくれるもの、「使い道をユーザー自身が考え、自分の使用スキルの向上によって、利便性を広げていくもの」が必要とされるというのである。「パタン・ランゲージ」がそういう道具であるのはいうもでもない。ぼくとしてはそこに「デザインスゴロク」もいれたい。

8月9日(月)
「オブジェクト指向UIデザイン」上野学+藤井幸多著を読みはじめる。UIとはユーザーインターフェースのことである。集団による設計行為がITにおけるプログラム作成行為と比べられることが多いので、その参考書として読みはじめる。本書を通じてオブジェクト指向とは何かをよく理解できる。それは、タスク指向と対比されるもので、まずオブジェクトを選択し、その後アクションするように進めるプログラムのことをいう。本棚から本を手に取り、これから読むあるいはコピーする、マーキングをするなどの行為を自分で決めていくことだ。この方が自然な人の動きや思考に近く、ユーザーはストレスなくコンピュータを操作できるというのだ。それを建築におけるデザイン例も挙げて説明をしている。建築もタスク中心にデザインすると、例えばトイレに行ってご飯を食べて横になる」ことを最適化デザインすると、「寝ているときトイレに行くことは大変」になってしまうので、そのためにこれを満足させる別の解答を用意しないといけなくなる。これがタスク指向の限界であるというのだ。つまり、ユーザーフレンドリーのデザインとは、ユーザーに合わせたデザインではなく、ユーザーが自ら合わせることができるデザインのことをいう。つまり、タスクに冗長性をもたす必要があるということだ。そのために、コンピュータには道具としての程よい抽象性(冗長性)が必要とされる。これがオブジェクト指向プログラミングというものである。人間中心に物事を考えると、反対にモノ(オブジェクト)を先行させてそれの扱い方(思考)を人に委ねるという方法である。

8月8日(日)
オリンピックが閉幕。開幕直前に母が亡くなりこの16日間は色々なことがあったので、開幕をそういう目で振り返ってしまう。遠い昔のようだ。スタジアム中央に現れるプロジェクションマッピングが印象的。どうやっているのだろうと思う。時折演出に使用される花火はつきものなのだろうが、プロジェクションマッピングで押し通すのも手だと思う。

8月7日(土)
研究室の学生が参加しているワークショップのために船橋のアンデルセン公園こども美術館へ行く。場所は千葉の内陸にあるのだが、交通網が古いままで常時渋滞状態。高速を降りてからも1時間近くを要し、この展覧会をマネジメントしている八咫の露口さん、坂上さん、倉本さん皆さんを少し待たせてしまった。はじめにアーティストの松本さんに挨拶をし、学生と準備中の作品を一通り拝見させてもらう。松本氏の作品は竹を使ったモビール作品で、どうやらそこから派生する音と影絵をテーマとしているらしい。そのために丁寧につくられるモノがまずもって必要としていることが感じられた。松本夫人のネコの作品も独創的。色鮮やかで独特のかたちにたいする感覚があり、竹作品と対照的に作家の感性がダイレクトに表現された作品であった。会場は2つあって、夫人の作品と影絵となる第2会場がどうなるのだろうと期待が膨らむ。会場となる美術館は、象設計集団の池田正一氏による設計。25年くらい前の作品である。背後に丘を抱えコンクリートと漆喰、天井は鉄骨ガラス、南面は木サッシュで、地形と一体になった作品であった。美術館へのアプローチは、谷をまたぐ橋によってである。アプローチフロアは地下で、エントランスドームとアンデルセンに関する常設展示室がそこにある。その上は明るい大きなガラス張りのワークスぺースと学生たちが参加している企画展示室がある。円形のエントランス上は芝生の丘であり、外と連続している。そしてアプローチブリッジ下の谷筋には、それに沿ったクラフト棟がある。これらの建物は25年近くたっているのに、木サッシュの歪みがないのが驚異的であった。今はない北海道のサクラ木を使用しているそうだ。漆喰は久住章によるものだ。川久からの2つめの大きな仕事だそうだ。久住さんのエントランスドームの漆喰天井は圧巻である。建築家の池田さんの空間思考がここに凝縮していると思う。また大きな空間にたいして小さな空間が必ず付随しているのもこの建築の特徴である。クラフト棟にその特徴がよくあらわれていて、小さな空間は木でできていたり、土でできていたり、半外部の庇空間であったりして、そこはこどもの居場所となっていた。こうしたクラフトへの参加はチケット制で、藍染めや陶芸、木工作業に親子で多くの家族が参加していた。船橋市はアンデルセンの生誕地であるデンマークのオーデンセ市と姉妹都市を締結しているそうだ。そのため、常設展示室には本格的なアンデルセンの資料があり、公園内にはデンマーク民家や風車があり、こうした美術館と相まってこの公園はトリップアドバイザーの3位の位置を獲得しているそうだ。一通り公園と美術館の見学をすませてからから八咫の坂上直哉氏と色々な話しをする。坂上さんは47年生まれのアーティストで、芸大卒業後日新製鋼でステンレスの発色技術開発に携わる傍ら、企業アーティストとして活躍をしている人だ。作品集を頂き、それを拝見する。代表作である今は玉川大にある羽田空港にあった翼のモニュメントは、発色がモアレを起こす幻想的な作品である。この美術館とは対照的に最先端技術を応用したこれまでにない感覚を刺激する作品である。とはいえ日本のものづくり文化という点ではこの美術館コンセプトとも一致していて、文化の幅の広さを同時に感じることができた。つまりものづくりには、川上にある発注側やアーティストのアイデアと川下にある製作側の生産手段、あるいは材料などといった実際のモノ、このふたつの立場ができてしまうものであるが、久住さんはそれをひとりでやってのけ、多様な現代ではその距離が大きくなってしまうので、ジョーカーのように動き回る坂上さんのような人が必要となってくるのだ。このことに意識的な坂上さんとの話しは共感できるものであった。昼には、アーティスト松本さんを学生とは違って専門的な立場から協力をしている芸術家の井口雄介さんとお話をした。彼は武蔵野美大の建築出身で、その後彫刻で博士号もとっている人だ。ぼくのスタッフであった鈴木竜太さんとも交流があると聞く。彼の作品は建築出身らしく、正確な図面に基づくもので、修士作品である巨大な木トラスリングは大きさという点で圧巻である。最近作の、人がペダルをこぐことで回る巨大な万華鏡は、機械仕掛けなジャイアントファニチャーである。建築のように構成とユーザーに対する視点が明確な作品であった。ドク論は作品の寿命についてで、建築でいうところの仮設感覚をテーマとしている。こういう意味で井口さんも川上と川下の間に立つキーマンであった。そうこうしているうちに刺激的な1日が終わった。梨を購入して帰路に着いた。

8月6日(金)
077 オリンピック 日本×メキシコ 今回もメキシコに敗れる。日本は十分に研究されてしまっていたと思う。そのため序盤は日本のプレシングが全く効かなかった。そして日本が防御に入ると、強みであった2人のボランチがマンマークを受けて、吉田からのボールが日本の右に制限されていた。SBの酒井がフリーになるのはいつものことであったのだが、そこから堂安あるいは久保への横パスが狙われていた。そしていずれの失点もこれが起点となっている。左の相馬へは時折縦パスが入っていたのであるが、相馬は内に絞るので攻撃も単発であった。サイド奥に左のSB中山らが走り込めればよかったと思う。とはいえ、遠藤と田中が疲れ切っていて相手マークを外せなかったことが大きい。展開をこうした単調なものにしてしまっていた。そして失点も残念ながら遠藤のマークがゆるかったことによる。今から思うと、やはりローテーションが必要であった。あるいは、もう少し余裕をもった余力を残した試合運びが必要なのだろう。後半、左を旗手に変えたが、全くプレッシングは効いていなかった。日本はメキシコを手本にしているといわれている。メキシコはW杯で8強の常連である。メキシコは2戦目で日本に敗れてから、大きく変えたといわれている。このマネジメント力の差かとも思う。試合後の久保の号泣が印象的。なかなか立ち上がることができないでいた。

8月5日(木)
カザベラ920号が届く。特集の意図が見えにくいのは、海外の建築実情をよく表している。スキャンダラス性がない紙面では、空間性もなかなか通じないので、テーマを読み解くことを難しくしている。とくにバックグランドを共有しにくい海外では尚更である。それを明らかにするのが紙面の役割だとも思う。

8月4日(水)
076 オリンピック 日本×スペイン 激闘の末に延長戦でにて0-1で負ける。ゴールは一瞬のスキからとられた。このとき左SB中山がボールに釣られてアセンシオを見失ってしまったいた。今日の日本は引いてからの速攻ねらいであった。こうした代表を見たことがない。それだけ守備に自信があったということだ。とはいえ、4-4-1-1のトップ下久保がボールチェックに行くとそのスペースから展開されていたし、わざとフリーにしていたCBパウ・トーレスから前線への一発の縦パスも通されていた。日本としては、それでも何回かは訪れるであろうパスカットから縦への早い攻撃で得点をしたかったのだがそれが叶わなかったかたちである。スペインも相当疲れていたので、こうした勝機がなかった訳でもない。しかしスペインの強みはデュエルにある。久保の出場するラ・リーガを観ていて思っていたのだが、人へのチェックはリーガが一番でないかと思う。今日もセカンドボールから攻撃に展開するときとかのデュアルにおいてボールをことごとく跳ね返されていた。この差が勝敗を分けたのだと思う。久保でさえ、これに十分慣れていたとは思えない。まして、はじめて対戦するプレヤーは尚更だろう。善戦であったのだが、相当な実力差があった。終了後のインタビューで、喪失感でいっぱいの久保を観た。メダルを賭けたメキシコとの戦いが残されているのだが、大丈夫だろうかと思う。

8月3日(火)
ゼミにて「抽象の力」の読書会2回目。今日は、形式化(モノに)することの必要性を強調した。これは設計者や画家といったモノをつくる人のみ行使できるものであり、そこにこそ価値を見出すべきという強い主張を本書で感じたからだ。著者の岡崎氏はクプラーの「時のかたち」も称賛している。ここでは、広義のコンテクストあるいは歴史、こういったもの積み重ねの上に成立するかたちの存在が語られていた。唯物史観ともいえるが、形式化するにあたっての判断は個人に委ねられているとしたところに特徴がある。本書もそのコンセプトに沿ったものだ。ぼくらは意識無意識に関わらず色々な集団に所属していて、集団内で共通認識なるものをもっている。ときにはそれを文化といったりする。その中に自分がいるかと思うと窮屈な感じがするものであるが、それとの関係で主体を発揮でき、それが何かを間接的にでも表現しようとしてきた芸術家たちがいた、彼らの能力を抽象の力といって本書で紹介している。本書から学ぶべきことは、形式化することにネガティブな感情をもつことではなく、むしろ何を形式化するか、現前にある問題に意識的である必要性である。

8月2日(月)
建築雑誌はプレデザイン特集。興味をもつ企画であったが、具体性に欠け消化不良感は否めない。難波さんのコラムはたいして非常に建築的。建築後のユーザの活動を疎外しないための建築の形式化として直島時代の石井和紘氏との仕事を紹介している。ジャイアントファニチャーあるいはスモールストラクチュアという解答である。これはミースのユニバーサルスペースに対する批判として考えられたものである。それから半世紀近くが経つ。これがどう変化したかを、今日のゼミで促した。ゼミではギブソンの「生態学的視覚論」を読んで、アフォーダンスをぼくらの設計に如何に役立てるかというのが主要テーマであった。これと絡む問題と考えたからである。ぼくはこの本を読んで、動的状況だからこそ把握できる人間のもつ光の不変項把握能力なるものの存在に感動した。つまり観察者をシステムに含めていること、アフォーダンスは観察者の能動性の重要性をあげていることである。そして観察者はゆらいだ動きの中で得る不変項なる情報を頼りにしていることだ。これを、建築に於いて「場」をつくるときに役立てないことはないと思う。建築が不変項を起草させる何らかの契機となればとよいということで、次の読書会の本「抽象の力」で述べられているFに近いものを、ここに感じるのである。つまり、何を継起させるかの方が重要になってきている。

8月1日(日)○
a+uの今号はスミルハン・ラティック特集。巻末で西澤立衞さんが指摘しているように詩的で時間的である。以前に出版された作品集では、寓話集(bestiary)といっていた。シンボルと対になる言葉である。通常建築は個別に得られた条件を積み上げて一般解に結びつけようとするものであるが、それとは反対の態度をスミルハンの作品にみることができる。作品は自然との対峙というテーマで一貫していて、その表現を作品によって違えて生き生きと描いている。だからその場その時の1回限りのものである。だから敢えて言うと、スミルハンの作品はプログラムとか機能性とかを感じさせない程のもので、それによって永遠性を獲得している。

7月30日(金)○
昼過ぎから3年生に向けての研究室紹介。遠藤研では、身体知あるいは暗黙知をどう拾うか、設計に反映させるかをテーマにしていることを強調する。夕方に事務所に戻り雑用。

7月29日(木)
母の葬式を執り行う。9時半には代々幡斎場に入り、心行寺の副住職を迎える。控え室で母との思い出を住職と話し、戒名を受け取る。夏雲院念誉愛薫大姉。12時には火葬。13時に収骨する。これで一区切りがついたことになり、急に力が抜ける。この半月間の家族とくに妻に感謝である。

7月28日(水)
午後に母を送り出し、その後を追って車で斎場入り。会場の確認。父のときの隣の部屋であった。花壇が注文したものより豪華になっていた。明日の確認をしてから帰宅。コロナ患者が急増し、ちょっと離れた親戚には、無理をしないようにという連絡をする。ぼくより1日おそくワクチンを注射した娘の状態は予想以上にきつそうである。
074 オリンピック 日本×フランス 国際試合でフランスに4-0で勝つ。これには驚いた。はじめはフランスの出方をじっくり観てから徐々にペースを握っていった。ボランチが安定しているので、得点はその上の久保が起点になっていた。縦に早い攻撃で、遅れて入ってくる久保が1点目。2点目は酒井。3点目が三好。4点目だけ裏へ抜け出すことに成功した前田の得点であった。

7月27日(火)
2回目のワクチンは、これまでマスコミで放送しているように少しキツイ。発熱をする。アリ駆除を業者に依頼したのであるが、そのため工事の監督を妻に任せることになった。そうしたときに限って、色々なところから電話が入る。午後には復帰するも微熱は続いていた。なかなか集中ができない。

7月26日(月)
午前中、「抽象の力」岡崎乾二郎著の読書会。担当者は、本書で取りあげられていた絵画作品をひとつひとつ丁寧に取りあげて、それに則してよく読み込んでいた。そして担当者のあげたテーマは、本書のいう抽象の力とはなにかということであった。本書には夏目漱石のF+f理論が下敷きにある。FはFocus、fはfeelingである。f(1,2,3・・・)→Fでなく、あるいはFが感覚にフィルターをかけ情報を絞り込む訳でもなく、Fとfを並列して「F+f」とする理論である。つまり、F+fによって具体的なモノ=作品とする力を抽象の力といっている。面白いのはFが存在することである。Foucusするものがあるというのである。大文字の「建築」とは正にそれだと思うのだが、一般に芸術はfを重視し、科学はFを重視すると考えられている。これへの反転が見られることにある。午後2回目のワクチン。注射直後から筋肉が引きつり腕が上げづらい。

7月25日(日)
GAHOUSE177 HOUSES from Archive3 JAPAN2001-2021が届く。171号と173号が海外100選。今号が21世紀の日本の50選である。そこにナチュラルエリップスが取りあげられている。巻頭論文は二川由夫氏。日本の住宅の特殊性を、小宇宙といい、ぼくらの仕事を「伝統的な空間を廻る哲学を根に育まれてきた思考が見え隠れする中、施工されてきた」と評している。そしておそらくぼくらの世代の作品を「突出した構造デザイン志向が生み出す意欲的で時にフリーキーな作品」という。西欧からみると極東の地で歪なかたちであるが密度の濃い建築作品が生まれてきた状況、これをぼくらの世代は説明しないといけないと痛感する。そして、ポストコロナの住まい方のフェーズの変化を二川氏は期待し、この論文は終えていた。
073 オリンピック 日本×メキシコ 久保の左と堂安のPKで逃げ切った。逃げ切ることができるのが凄いと思う。両サイドとも負けていなかったし、センターは完璧であった。今日は右利きの相馬が左Wで先発。相馬は中央に絞ることなく、ライン奥を突くことができて、メキシコは第1戦と印象が異なっていたに違いない。相馬がつくったスペースを田中や中山が上手く使い攻撃を厚くしていた。セカンドボールを拾うことができていた。

7月22日(木)
072 オリンピック 日本×南アフリカ 1-0の勝利。久保が得意の右から決めた。やはり南アフリカの守備は固く屈強であった。最後のところで南アフリカ中央を突破できなかった。前半の攻撃は酒井を中心とする右サイドからのみで、左は機能していなかった。最初の酒井のプレーで得点をしておけば展開も変わったかもしれない。ボランチも守備重視で、人数を攻撃に割けなかったことも大きい。後半から相馬を投入。左サイドが生き始める。そうした中左サイドで、田中碧がフリーになりはじめ、逆サイドに大きく振って久保が決めた。

7月21日(水)
071 ナデシコ 日本×カナダ オリンピック開幕前からサッカーは始まる。初戦は1-1のドロー。岩淵の縦への速攻で最後追いついた。これで勢いにのるとよい。

7月19日(月)
設計方法小委員会にオンラインで出席。従来の設計では、いわゆる建築家主導で設計行為が行われてきた。そうした形態も残るだろうが、高度な要求をフラットな関係の専門家によって解決する組織へと移行してきている。とはいうもの、これはどういう組織形態をとるか?は未だ明らかになっていない。IT分野でコンピュータプログラムをつくるときに現場で起きていること、これがヒントとなる、このことに気付いた。アジャイルやスクラム、U理論、ホラクラシー、ティール、これらが該当するキーワードである。

7月18日(日)○
毎週要求していたレポートの配点を決め、というよりはシラバスにしたがうことになるのだが、これによって授業全体を整理し評価点を決める。1日かけて全科目を終えることができた。「抽象の力」の再読。ぼくの考えのかなりの部分を岡崎氏に負っていることに改めて気付いた。岡崎氏と柄谷行人はよく対談をしていた、それに由来するのだろう。

7月17日(土)
070 U24 日本×スペイン 魅力的なカードが実現する。スペインの多くが先週まで開催していたEUROのメンバーでもある。ゲームはというと、久しぶりに日本がボールを保持できない展開となる。今日のボランチは遠藤と板倉。いつもと違ってここで相手を捉えることができなかった。それでも最終ラインで踏ん張る。そしてそこからの展開となった。数少ないチャンスは、久保と堂安でつくる。久保のソシエダボランチを蹴散らしたのは見事であったし、堂安の決定力は流石である。今日は左一辺倒の攻撃であったのは、左が相馬と旗手の川崎で固めていたからかもしれない。後半から、両チームともがらっとメンバーを変更し、コンディションにも重点を置く。スペインの代わってくる選手も名前的に見劣りしない。ペドロやガルシア、ククレジャなどバルサあるいはユース出身の選手であった。日本は1点を獲られるも踏ん張ることができ1-1のドロー。ロ
7月16日(金)
鮫島先生の訪問診察。傍らで計画2のレポート採点を始める。プリントをせずにiPad上で行う。上手い進み具合を見つけていく。今週末で決着をつけよう。計画の授業では、まず一般的なことを押さえてから、それだと現実に上手く適応できなくなってきているので新しい傾向を示し、今後を考える糧にしてもらいたいというスタンスをとっている。一端は現状を紹介してからそれを覆すような授業の流れである。しかしこの辺りを混同している学生がいることが解答からとれた。来年には注意しよう。

7月14日(水)
3年生の講評会に残念ながら欠席。14時に介護タクシーを使って母と退院。15時に自宅に戻る。既にテイジンの看護師が待機してくれていて、酸素マスクの設定と機械の操作を再度確認する。鮫島先生も到着し診察。母にぼくとの関係を含めてゆっくりと自己紹介。血液検査と心電図、全身の様子などを次に触診する。その後鼻からの呼吸器に変えてマスクを外す。すると母の表情が豊かになる。その後、入れ歯を丁寧に外して、口の中の確認。氷水を持ってくるように指示されて、首元に聴診器を当ててスプーン半分の氷水を口に含ます。母の喜びがうかがえた。病院では全てが禁止されていたことが許され、だいぶ生き返ったようだ。データに基づく診察を超えたものを観た。リスクを犯しているわけでなく、患者の要望を経験によって判断し前に進めている。データに基づくこととは、むしろ自分の判断を押しとどめてしまうことになり、間違ってはいないだろうが良い方向になるとは限らない。この様子をみて強引に帰宅させてよかったと思う。その後、看護師と様々なトライ。今日は酸素マスクの確認に留まった。

7月13日(火)
午後から病院でカンファランス。担当医が変わったようだ。前の担当医と2人と看護師、病院側のソーシャルワーカー。こちら側のソーシャルワーカーとケアマネジャー、看護師という大人数であった。初めて一同が介したカンファレンスなので、病院側とこちら側の母の病状認識の違いが浮き彫りになる。退院が現実的でないという指摘も出る程で、ぼくとしては、準備が整うことは永遠にないので方針を決めて、受け入れることのできる人に最善を尽くしてもらいたいという旨を伝える。ちょっと強く主張し過ぎたかとも思う。その後HCUに行き対面。さまざまな機械の扱いを学ぶ。他人事でないにしても、一度の説明では理解は無理であった。これを前もって経験していたら母の帰宅に及び腰であったと思う。大変さが伝わってきた。
069 U24 日本×ホンジュラス 3-1で日本勝利。久保と堂安、そして三好にFWの流動的な動きで前半は相手DFラインを混乱させていた。久保の繋ぎに堂安の決定力が光った。ホンジュラスも意地をみせ後半は盛り返す。ヨーロッパでプレーする選手がいないと見下し安泰ムードが漂うが、それ程チーム力に差はないと思う。

7月12日(月)
2年生前期設計講評会。発表者のみ対面方式のオンラインで行う。ここに選ばれた作品は総じて、条件を幅広く拾い上げ、工学的解決手段を駆使している。この時期に生じる差は、それに加えてプレゼ技術に現れるのだと思う。そうした中、特別に第1課題で印象的であったのは、隣に建つ脇田山荘のように大地を開放し、新しいランドスケープを形成している案であった。建物は分棟構成で、雨水が折れ屋根辿って大地へ、そして南端の池へと流れる作品であった。北側は少し盛土された山があり、分棟の1つが着地している。そうした大地のうねりが、そこから持ち上げられた建築とは対照的で、ダイナミックに大地をデザインした作品である。第2課題で印象深かったのは、住居を思い切って地下に埋めて、地上に現れる屋根面が斜めの敷地に逆らってめくられたように見える案であった。模型はとても小さく、かたちのコンセプトを的確に説明するものであった。建物以外の土地は段々畑で、それが余計に屋根面の抽象性を際立たせていた。人は敷地の西側まで回り込むことができ、こうしたシークエンスの方法はここ数年の作品にはなかったものであった。まずは条件をよく読み込むこと、それから自分なりの読みをもつこと、後者は慣れが必要であり、今日に選ばれなかった人はここを学習するとよいことをまとめとして講評会を終える。

7月11日(日)
朝のバラエティでの松本人志のコメントが面白かった。スーパーコンピュータ富岳による競技場のシミュレーションについてである。富岳は、1万人収容のスタジアムで10人のコロナ患者がいた場合、新規感染者が0.08人発生すると予測した。無観客が決定となった現在、これは政府による屁理屈でしかなくなったのだが、松本がいうのには、スタジアムに行くまでの電車内のシミュレーションもないし、実情に則していなく何がスーパーコンピュータであるというのだ。限定された情報で担ぎ出されている富岳はかわいそうというのである。これを他山の石としなければならない。いくら情報を細かく分析をしても動的に捉えることができていなければ、何も作り出せはしない。父の初盆のため墓参り。午後は激しい夕立で雹まで降った。

7月10日(土)
068EURO イングランド×デンマーク 2-1でイングランドの勝利。ウエンブリーでは、マスクなしの6万人の観客である。イギリスの感染者数は1日3万人。2回接種率が45%、1回接種率は75%である。これまでと政策を大きく舵を変えたかたちである。

7月9日(金)
4年生の設計の講評会。4年間の総括として今日の講評会をみた。新カリュキュラムになって3年目の学生である。この間の設計教育によって、学生はコンテクストを捉える視野を広くすることができ、幅広く工学的な解決手段を身に付けることを学んでいる。狙いとしては、これによって設計の水準を現代的にすることができ、ぼくとしてはその先にこそ創造性が生まれると考えているのではあるが、あくまでもそれはぼくの経験則に基づいた考えである。谷口スタジオは、高度なシミュレーション技術を身に付けることによってさらにこれを向上させるものであった。たいして比嘉スタジオは、こうしたカリキュラムによってある意味抑圧されていた自己を、開放させる術を学ぶものであった。これをこの時期に意識的にトライしてくれた比嘉さんには感謝である。とはいえ学生は俯瞰してこういう状況をみていないので、とくに比嘉スタジオの学生が半年先の卒業設計でどう展開するのかは楽しみである。ぼくの仮説のように、これまでの知識の上にこの開放感を上手く乗せる術を発展させてくれるか、あるいは再び現実の教育環境に引き戻らされてその落差に混乱してしまうか、わからないがそれは、学生1人1人がこの時期の経験をどう見極めたかにかかっている。

7月8日(木)
「生態的視覚論」ギブソンの読書会。担当者は総じてよくみ込んでいた。本書の内容を説明した後の今日の議題のひとつ目は、前半の光学的説明と中半のアフォーダンスとの関係についてであった。本書では、それを3つの章を割いて説明している。アフォーダンスは、5章の包囲光配列、6章の光による対象の運動性、7章の観察者の運動性、これらの統合によって成立するといっている。人はこれまで生きてきた経験とは関係なしに直接的にそれらに反応するというのである。2つ目の議題は、ギブソンの考え方の新しさについてである。これまでの科学では、実験室という限定的な環境で思考するものであった。つまり、観察者の主体を抜きに対象と知覚との関係を機械論的に考えていた。ギブソンはここに観察者の立ち位置を含めたのである。むしろ、対象や環境、観察者までをも動的なものとして捉え、そうでないと、不変項なる構造を観察者が知覚できないというのである。前半の光学的説明はこれを、対象が動く場合、人が動く場合など細かく場合分けをして、モデル化したものである。ところで建築がギブソンのアフォーダンス論をすんなりと受け入れられたのはなぜだろうか。それは、今では当たり前になっているが、ユーザを含めた環境を科学的に考えたところにある。しかも冒頭でカントを否定しているように、ユーザは前もって見る目を持つことを必要としないのである。これが受けたのだ。最後に、来週に向けてのフィールドワークが説明されて終える。経験などに依拠しないと思われるアフォーダンス例を街で見つけようとする課題であった。楽しみである。

7月7日(水)
067EURO イタリア×スペイン スペインが終始押し気味であったのだが、PK戦の後にイタリアが決勝に進む。両チームとも監督の考えが明確で、選手が変わってもパフォーマンスを下げることのないゲーム展開を行っていた。イタリアはその中でも最終ラインの中央にはベテラン勢がいて、その分、分があったのだと思う。とはいえスペインの、モラタと若きライプニッツのダニ・オルモの崩しは見事であった。スペインは、ペドロ、オヤルサバル、ウナイ・シモン、パウ・トーレスと若手を積極的に採用し、彼らが監督の期待に応えていた。

7月6日(火)
「抽象の力」を読み終える。Ⅳ部は「具体の批評」。そこで述べられる「芸術」の定義はそのまま「建築」の定義となる。「「芸術」の不在、それこそが「芸術」(という概念)が決して消去されえない秘密である。いかなる「芸術」も否定するという仮芸術の身振りは、ゆえに「芸術」という概念を持続させるための効果そのものだといえる」。しかしこれでは「複数ありうる形式を排除し、単一の形式内で思考する限り、そこで自覚される歴史は異質なものを排除するか吸収するかだけの同心円状の運動にとどまるしかない」、あるいは「その形式の事象を認識できないがゆえに、その形式それ自身の存在はただ自同律的に肯定されつづけることになる」。そうならないために求められるのはベンヤミン的な態度である。それは、「一つの主体(自体)が複数の言語形式、表現形式に貫かれ、交錯する場」を必要とする態度である。つまりグリンバーグのように自閉してはいけないということだ。ここでジャン・デュビュッフェを通じて道具と技術が登場する。「デュビュッフェがいっているのは、人間と素材を結びつけ、語らせるのは、何より道具であるということである。道具によって主体(人間)も物質(素材)も全く異なる語り方をするし、そもそも素材そのものの形象、性質まで変わってしまう。主体も、道具が行使されたあとに事後的に生み出されるのである」。ここでいう道具あるいは技術とは何だろう。道具や技術に対する記述は以下である。「芸術のさまざまな形式は対象と人間を結びつけるさまざまな機能的な連関=技術つまりは道具の数々であって、どれが優位であるというわけではない。それぞれの道具の必要(そこで知りたいとされるところのもの)に応じて、異なる対象像が見出され、それを見る異なる主体が生成する(視覚像も変貌する)」とある。ここで当然レヴィストロースがあげられていて、ぼくとしてはそこにデザインスゴロクをあげたい。そして結論は「作品のそれぞれを「芸術」という一つの概念に帰属させることなく(「芸術」という概念を括弧に入れ)、それぞれ別の生産方式によって統御された生産物=道具=オブジェクトとして捉え、分析することー道具としての事物は、オブジェクトとして存在それ自体が、物質とそれに関わる人間の行為(認識を含む)双方を機能的に結びつけ制御する規範として働いているーつまり芸術を無数の異なる道具=生産規範に解体する」ことにあるのだという。つまり、「芸術」や「建築」をこれまでとは異なる生産手段や道具で見るということである。その結果、「われわれは複数の異なる形式に沿って主体を分裂させ、それらを自らの内で葛藤させ、またその複雑の形式、セリーの闘争そのものを内在化できる」という。この本のいう抽象とは、こうしたことを可能とする具体的な美術のあるいは建築の力のことをいっていて、これを信じているのがよい。

7月5日(月)
「抽象の力」を続ける。後半は白井晟一についてである。白井晟一は豆腐から様々なことを考えたという。非常にユニークだ。豆腐とは、「理性(その目的)の求めに従って固定された対象ではなく、むしろ理性の把捉(はそく)から逃れて、絶えず流動しつづける自然=物質としての豆腐」というのである。岡崎は豆腐に似たものとして技術もあげる。「技術は手段(客体)として実体的に存在しうるものではなく、ただ認識(主体)に属するものでもない、その二つを繫いで(含んで)その用として扱う=その用の過程、用の体系としてだけ成立する」。つまり白井晟一をあげてここで提出されている問題規制とは、客体と主体を結び付けるものは何かということである。なかなか面白い視点で、池辺のシステム論との共通性を感じる。池辺は、「システムには原則がない」と言い、「システマテックな思考にはかぎられた対象物は存在せず、それは常に変化している無限に広がった対象の中に何らかの新しいものを生み出していくプロセス」といっていた。このことを思い出す。

7月4日(日)
TV番組でアスリートが変化する図像を一瞬で捉える訓練をみた。これはサッカーなどで、フィールドで起きている様子を、ボールを受けた瞬時に判断するために行う。こうしたメッセージの受け取り方もあるのだと思う。ビルヌーヴ監督の「メッセージ」を思い出した。スポーツとはこうしたコミュニケーションの積み重ねの結果なのである。まずはその流れに乗ることが大事となる。
066EURO イングランド×ウクライナ ウクライナはシェフチェンコが監督となり、規律だったチームとなっていた。それでもイングランドは前ゲームで得点したケインが完全復活、相変わらずスターリングも調子がよく、これによってウクライナの守備陣を翻弄させていた。ケインの開始直後のライン裏への抜け出しによるシュート、後半はじめのヘディングシュート、よい時間帯で相手に大きなダメージを与えていた。4−0の圧勝。ここぞ、というとき勝ちきれないこれまでのイングランドとは違うイングランドである。

7月3日(土)
065EURO イタリア×ベルギー 前半のはじまりこそベルギーのペースであったが、その後イタリアがゲームを支配する。とくにイタリアの左サイドがよかった。そのためベルギーの中盤は押し込まれ、得意の中盤からの攻撃を起こすことができなかった。それでも個人技でデ・ブライネは突破しようとしていた。攻撃から守備に変わるイタリアのDFラインが鮮やかなのにはびっくりした。どんな状況でも綺麗な3ラインが瞬く間に完成する。これでデ・ブライネの突破をこらえていた。もうひとり目立ったのは左Wの10代のドク。彼だけが安定したイタリア守備陣を切り裂いていた。

7月2日(金)
エスキスの終盤に、アンデルセン公園美術館の露口さんからワークショップ参加のお誘い。スラックに挙げて、堂ノ下くんを通じて研究室の皆に聞いてみる。カザベラ919が届く。巻頭は日本人による小住宅。タイトルに「日本、日本的なるもの」とある。五十嵐淳、佐々木勝敏、宇野友明、長坂常が紹介されている。ここで表現されているのは、伝統的な住宅への指向、普通のクライアント、凡庸な既存建築などであり、これらをアイコン化せずに思慮深く捉えている。しかしそれが内省的表現にむかっていることを不満に思う。現状を受けての表現がもっと別のかたちで現れるべきだと思う。左右のページから受ける印象はそれ程異なっていない。内省していては、知らずのうちに何かに取り込まれてしまう。

6月30日(水)
064EURO イングランド×ドイツ 両チームとも3バック。主流になりつつある。しかしどちらもノックアウトステージで冒険ができないためボールを前に進めることができない。ドイツはクロースが度々下りる展開であったし、イングランドは受け手がいなくマクガイヤーがひとりドリブルで上がることも多かった。そうした膠着状態から、左からのセンタリングでイングランドが2発決める。後半も後半であった。スターリングは好調なのだろう。それが反映されたかたちであった。2点目はケインであるのだが、ケインの後ろでスターリングは準備できていた。ドイツとしては、スターリングのバックパスミスからのチャンスをミューラーは決めたかった。もし決めていたら展開は異なっていただろう。2-0でイングランドの勝利。イングランドがドイツに勝ったのは、もう何年も前のことらしい。今回のドイツはなぜかしらベテランに頼っていた。事情はわからないが、それだけレーヴ監督は苦しかったのだろう。そのレーブも勇退。クロースやフンメルスらも再度の代表引退らしい。

6月29日(火)
午前に戸山。昼食をとってから五反田へ。戸山はこれまでのTEL説明と変わりなし。予防線を張られているようで、なんだかスッキリしない。五反田ははっきりしている。でも先生は少し疲れているようである。きっと同じ説明を色々な人にしているからであろう。今後も注意深く追うことにしてくれた。
063EURO フランス×スイス PK戦の後スイスが勝利。ベンゼマが2発しポグマが3点目を決めたときには勝敗が決まったと思った。フランスも安心したのだろう。そこからちょっと落ち着いてしまった。スイスはそこから反撃というよりも、フランスのミスを突いたかたちである。ゲーム中断毎に監督がキャプテンポグマを落ち着かせようとしているのが印象的。前半リードされていたときもピッチ上からポグマはベンチへ何か訴えかけているようであった。ミスはポグマのところで起こった。難しい選手なのだろう。一体感がなかった。それに比べてスイスはキャプテンジャカを中心に強烈にまとまっていたのは明らかであった。

6月28日(月)
研究室にて粘菌の話で盛り上がる。なんでも安達くんは高校時代に粘菌の研究をしていたそうだ。粘菌を駅から高校まで帰還させるという実験をしていたという。ぼくの方からは以前NHKで観たフランス制作の番組と南方熊楠を紹介する。この番組では、単細胞である粘菌が、知能を持っているかのように振る舞うことができる謎に迫る特集であった。それはデータの積み重ね方式の最近のAI(お掃除ロボット)と暗に比較するもので興味深かった。実際の知能とは何かということである。帰宅して過去を振り返る。その特集で粘菌は餌に対してもっとも短い距離となる直線状に動き、迷路でさえも簡単に解く。塩分に弱いが、それが害でないと学習すると移動速度を早めることができるという。またその学習内容は他の粘菌にも伝達されるという。伝達は電気信号によって行われる。粘菌の行動を人間的な機能的視点から捉えようとしていることに納得いかないものも、粘菌の行動から知能の働きを再定義しようとしていることに好感をもった。粘菌があたかも目的をもってそれに従って行動するというのは、人間の独りよがりでしかないと思うが、単細胞も人間も環境に対して電気的反応するというのだ。
062EURO ポルトガル×ベルギー ノックアウトステージがはじまる。はじめは相手の様子を見て無理をしない安全策にでるのでゲーム自体は面白くない。それでも得点が決まり、それはアザール弟の目の覚めるよな鮮やかなミドルシュートであった。後半からポルトガルが積極的に出て、俄然盛り上がる。ゴール前での激しいぶつかり合いにイエローの連発。結局1-0でW杯王者が前回覇者を破る。それにしてもポルトガルの攻撃陣は多彩であった。駒を使いあぐねていた。

6月27日(日)
午前に墓参り、その後深大寺へ。「抽象の力]を続ける。夏目漱石の「文学論」にあるF+f 理論の説明に1章をあてている。そこには柄谷行人やスラヴォイ・ジジェックと同様の考えがある。ぼくにとっては、ここから大文字の建築について考えるようになった。FはFocus、fはfeelingである。f(1,2,3・・・)→Fでなく、あるいはFが感覚にフィルターをかけ情報を絞り込む訳でもなく、Fとfを並列して「F+f」とするのが漱石理論である。ベネチアビエンナーレで岡崎が行った漢字文化をテーマとして作品がこれにあたる。「漢字はアルファベッド等と違って、開かれたシステムであり、その総数が確定されず、いくらでも増加しうる。漢字は表意文字であり、象形文字であるとみなされているが、漢字が象るイメージは「愛」や「真」などの抽象概念を含む。すなわち漢字は、いかなるものにでもイメージ(=像)として焦点(=F)を与えることができる表記システムである」。日本はこうした背景を受けた漢字文化の上にあるというのだ。ぼくにとってFとは大文字の建築「建築」に見える。建築作品とは「建築」と時代や環境の合成物であると思う。「KINGDOM」佐藤信介監督を観る。「図書館戦争」の監督である。日本映画もハリウッド映画のように壮大なエンターテイメントが可能になりつつある、このことを感じた映画であった。日本映画には内に閉じた私小説的なものが多いが、これは日本文化への理解が前提とされる。そうしたことに頼らないユニバーサルな映画であったと思う。

6月26日(土)
「抽象の力]を続ける。熊谷守一に対する岡崎の批評には泣ける。同時代の世界的画家に匹敵する力をもっていたと守一を分析する。守一の中に、当時の世界的なシンクロニシティをみている。「守一はつまるところ人間が一つの統一された像をもつこと、のみならず対象が固定的な像をもつこと、表されること、固定されることへの疑いを持っていた」。それは、漱石が核心にもっていたrepresentationの問題を引き継いでいたという。別なところでは、「人は何かを見ているとき、自分が「何か」を見ていることと「自分が分かっている」と思い込んでいるということです。が、実はそれが「何か」はわかっていない。「F」は定まっていなかったということです」とある。あるいは、「芸術は視覚的対象ではない。対象とそれに対する人間の変化それ自体なのです」。「絵画における対象があらかじめあるのではなく、絵画を見るという行為の中で現れてくるものだという点に集約される」とある。そこで守一が目指したのは「絵画が何かの再現ではなく、現実的な力を持つ具体物として認識させる」ことであったのである。それで後期の守一は色彩に具体性を付していくことに終始していたという。それはマティスのロザリオ教会での試みと同等とまでいう。そしてこの章の最後は共振についての岡崎の考えである。「影響されることができ、再生できるのは、当たり前ですが自分たちの理解できたことだけです。ゆえに理解した側が変わることなく、構造は影響を受けることがなく見かけだけが変化する。が、これでは同期も共振も起こらないでしょう。共振つまりレゾナンスとは繰り返せば、構造的に起こる同期であって、ゆえにそれは一時的、表面的な類似性を超えた展開力を持つのです」。理解することと共振することとの違いを言い当てた見事な言葉である。そしてこれは熊谷守一に対する最大限の賛辞である。

6月24日(木)
061EURO ポルトガル×フランス 2-2のドロー。最後は同グループのドイツの試合を見て、両チームとも勝負にいかなかった。メンバーは、ビッグクラブを中心にお互い知った仲だ。そんな高レベルに中だからこそ輝く選手もいる。C・ロナウド、ベンゼマ、エンバぺ、ボグマ、カンテ、ぺぺ、らである。レアルの選手たちが多い。グリーズマン、コマン、ブルーノ・フェルナンデス、ジョッタは裏役に徹する。

6月23日(水)
学部あるいは大学院時代に建築士の資格の準備をするかどうかについて、一部の学生と話し合う。建築士受験を通して学ぶ内容が、今後のキャリアや設計に役立つかどうかという疑問をもっていた。具体的にいうと、工学知識がデザインの足かせにならずにむしろプラスに転向することを少なくともEDLの学生は理解をしているが、それと法規をはじめとする建築士の学習が同様であるかという迷いである。それをイコールと考えている学生や、社会や家庭から要請されるために仕方なく行っている学生もいる。様々である。この悩みに応えることは難しく、最後は自分自身の考え次第であるということに尽きるが、これでは責任転嫁しているようでもどかしく感じた。知識は情報でしかない。これをネットワーク化、つまり実際と結びつけることが重要と思う。これへの技術やノウハウ、これも設計教育を通じて教えているのだが、それだと実践社会でも可能なので、その哲学といったらおこがましいので「デザインの鍵」ではこれをトータリティといっていたが、このトータリティを身に付けることがこの時期とくに重要と考える。ただただ機械的にこなすようになったり、訳も分からずこうした社会状況から逃げまくった結果路頭に迷ったりしないように。学生に対する態度を再確認する。

6月22日(火)
昨日に続き銀行めぐりを午前の早い時間に行う。そこではコロナのため門前払い。予約が必要なのだという。店舗前の広場から予約TELすると最も早い予約が7月半ばとのこと。スピード優先の時代に逆行するサービスである。銀行によってこうも対応が異なるものかと思う。必要書類は揃っているので受け付けてくれればよいので、その怒りを抑えて笹塚支店へ行く。なんとか受理をしてもらった。夕方からオンラインゼミ。ゼミの終りに面白い質問を受ける。環境を制御しようとする場合、ルーバーの使用が効果的となりそうした方法に収斂してしまう。そこが環境をデザインに取り込むときの限界でないかというものであった。なるほどと思う。日本の住宅が似てしまうのは、経済を最大限に考慮すると性能的に優れていて経済的なものを使用せざるを得なくなってしまうからであるが、こうした問題と同じである。しかしフィレンツエの街並、そこまでいかなくとも日本の旧街道筋の街並、あるいは白川郷などが逆に美しいのもそうした理由による。使用できる材料に限りがあるからだ。しかし、当時そこに暮らしていた人の中にその状況を窮屈に感じていた人もいるはずだ。ここからいえることはつまり、対象に対する立ち位置によって見方は様々に変わるということである。ぼくらは意外とそうしたことに意識的でなかったりする。デザインする者が、そこから抜け出すにはどうしたらよいか。凝り固まった主体を解体してくれる対象が必要となるのだろうと思う。それは、よいアドバイザーでもあるし、道具であったりもする。デザインスゴロクやパタンランゲージなどは、そうした意味で優れた道具であると思うのだ。

6月21日(月)
午前中早くに銀行めぐり。コロナの影響もあってだろう、窓口での対応の手前で、TV受付があるのには驚いた。個室ブースのモニター越しに必要書類のチェックを受けてから、窓口に行って手続きをする。今後はこの過程を家でもできるようになるのだろう。
059EURO イタリア×ウェールズ 引いてカウンターを狙うウェールズに対してのイタリアの攻撃は巧みであった。低い位置でボール回しをして、最終ラインを引き上げさせその裏のスペースを突くというかたちであった。たとえそれが成功しなくとも、厳しいチェックからまたボールを拾いそれを繰り返していた。得点はそこから得たフリーキックからであった。イタリアは30戦負けなしであるという。率いるのはマンチーニ。CLやELでイタリア勢が再起しはじめ、インテルやミランといった古豪が復活しつつあることと連動している。しかし今日のメンバーはユベントスが中心で、まだまだ余力があり伸びるような気がする。

6月20日(日)
「抽象の力」岡崎乾二郎著の再読をはじめる。緒言は岡崎の展覧会のはじめの言葉からの引用、唯物論についてである。「事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追究してきたものだった。アヴァンギャルド芸術の最大の武器は、抽象芸術の持つ、この具体的な力であった」。先日まで読んでいたギブソンの著書は戦後の人であるが、その前からアヴァンギャルド芸術が同様なことを示唆していたことになる。その次の記述もまた同様である。「感覚与件=視覚を含めた個々の感覚器官が刻一刻と感受している情報と、対象の認識=人が対象として把握していることはまったく異なる次元の事柄だという認識である。すなわち、人は、視覚が捉えうる情報を超えて、対象をより直に捉えている」。真にギブソンのいうところだ。抽象芸術がこれを試みていたというのは驚きである。

6月19日(土)
059 EURO スペイン×ポーランド とうとうwowowに加入。EUROを見始めてしまった。DAZNを脱会。インフラの覇権争いは凄まじい。ゲームはというと1-1のドロー。しっかり守備を固めるポルトガル。なかなかゴールを破れないスペインという展開。ポルトガルは、プレミアの中堅クラブの選手を中心とし、スペインにはレアルの選手がいないようにスーパースターが不在。そのかわりマンCの若手2人が途中出場。こうしたメンバーである。両チームのゴールは、モラタとレヴァントスキベタランによる力強いゴールであった。後半からポーランドのインテンシィティが高くなり、俄然ゲームが面白くなる。負ければ、ポーランドはグループステージ敗退だからだ。

6月18日(金)
「ティール組織」の第4刷が手元に届く。このところの読書を通して、ティールとギブソン、ベイトソン、そしてアレグザンダーとがつながってきた。これらでは全体性というものを取り上げている一方でボトムアップも重視している。このところに共通点がある。つまり主体と対象との間にプロセス、あるいは動的であることが大切にされている。

6月17日(木)
昨日気付いたことを反芻する。概念=崇高な目的 も必要な場合があるが、常に変化する小さな目的を捉えながら、そこに潜む不変項を掴むことの方が重要ということである。自転車乗りの例のことを推奨するものであるが、設計においてこのことを一般化できるだろうか。コンテクストを知覚し、そこから建築化することがこれにあたる。次の読書会で読む「抽象の力」に結びついていきそうだ。

6月16日(水)
「生態学的視覚論」ギブソン著を続ける。ギブソンは環境世界を、媒質、物質、面で捉える。古典物理では世界を質料と捉えるものであるのだが、ギブソンは光で環境世界を捉えるのである。そうした条件での環境世界とは、媒質=光りを透すもの、物質=対象、面=光りの反射で構成される。このことに納得がいく。こうして生物は光りを通じて世界を認識し、それらは刻々と動くものなのである。生物はそうした状況で不変項のみを知覚する。この不変項がアフォーダンスというものである。ここまでくるとアフォーダンスとは、モノが存在する以前から存在するように思えてしまうのだが、じつは動きの中から発見する不動な部分であって、必ずしも絶対的な存在という訳ではない。これを建築にあてはめる。アレグザンダーは似たようなことをパタンと言った。生態学的な意味で言えばパタンとは、動的な環境の中でも知覚できるものとなる。もちろんそこには人にとって喜ばしいルールみたいなものが存在していることになるのだが、むしろ建築家としてはそのパタンを浮かび上がらせるための世界を重ねて動的にすることが重要になる。そうして生活者が不変項を発見してくれるような環境全体をつくることを目指すべきなのだ。これが原因→結果とは異なるモノのつくりなのだと思う。「名前のない空間へ」、あるいは「全体の中から生まれるかたち」とは、こういうことをいうのだと合点する。カントの「概念なき知覚は盲目である」という言葉をギブソンは否定しているが、このことを少し理解できるようになった。概念などなくとも動的な見方をすれば知覚は可能なのである。

6月15日(火)
東京都現代美術館で開催中のライゾマティクス展へ行く。今週までの開催での予約制で、週末は空きがなかったので今日行くことにした。ライゾマティクスの作品は3年前に鹿児島霧島アートの森で観た。そこにあったのは特殊な光源とロボットアームによる光のインスタレーションで、現実のものかどうかが判らなくなる不思議な作品であった。他にも音を解析して図像化したものなどがあり、視覚と聴覚の融合が試みられていた。対して今日の展覧会は大がかりなものであった。その分、観客が参加出来ないのが残念。体験することで生まれる常識が覆されるほどのものは得られなかった。むしろ観られることを意識したデジタルアートに徹していたのかもしれない。「Particles」は、7mくらいあるローリングボールスカルプチャーで、電気的仕掛でアナログ運動を宇宙的な重力を感じさせない動きに変換させる作品。もっと静かな音でよかったのでないかと思った。デジタルデジタルしていた。続けて同時開催のマーク・マンダース展へ行く。手作業的な鉄板の積層版の上に、板や鉄板で挟みこんだ粘土による顔彫刻というのが彼のスタイル。顔もギリシアの彫刻のようでリアルを追究したものではない。意味するところは不明であるが、時間の凍結ということだろうか。彼の彫刻と乳白色のビニールに透ける観客とのコントラストが現実と虚構の同時性を感じさせてくれた。
058代表 日本代表×キルギス アナイウのポストプレーを期待していたのだが、ゴールに拘っていたためかそれ程見ることができなかった。しかし一応の合格を勝ち得たようにもみえた。日本は格下相手にはボールを動かすことができる。結局、1対1で優位に立てるかによってチームとしての連動も可能となる訳である。作戦云々の前にデュエルが大事ということであろう。

6月14日(月)
「生態学的視覚論」ギブソン著を続ける。14章。ギブソンの立場が段々詳細になってくる。「知覚とは、環境の面およびその中にいる自己自身を意識することである」。「認識は知覚の拡張である」。「情報それ自体は主として刺激流動とは独立である」。「外界についての意識はそれを言葉に直せる以前からあるにちがいない」。「知覚は叙述に先行する」。ぼくらは、モノ→反応を情報のやり取りと考えているが、ギブソンにとってそれは全くの擬人的解釈でしかないのだ。序でギブソンはカントの「概念なき知覚は盲目である」という言葉を否定している。その意味するところは、知覚に先行するものなど生物内部にはなく、同時に知覚自体に良いもの悪いものなどはなく、ただの感度の違いだけであって、知覚に先行して現前する環境とシンクロしたかどうかでしかない、ということなのだろう。学習についても言及する。「知覚能力とは、必ずしも知覚されうるものについての観念をもつという意味ではない。観念をもつことは事実であるが、それが知覚するうえでの必要条件ではない。おそらくそれは一種の拡張された知覚なのだろう」。これによって、G・ベイトソンの学習Ⅱ理論に繋げることができた。建築でギブソンといえば、アフォーダンスが注目されるが、生態の知覚システム論として読むと、その内容は理解し易くなった。「知覚者は、流動に注目しながら、刺激作用の流動から構造の不変項を抽出する。特に視覚系については、知覚者は、自分の運動によって惹き起こされる遠近法的構造の変化の基礎にある、包囲光配列の不変的構造に波長を合わせる」。人は差異を意識的につくることで、それから類推する上位の構造=不変項を掴むということである。このことを丹念に説明をしているのが本書である。

6月13日(日)
初台のICCで開催されている「北斎・広重展」に行く。北斎や広重の浮世絵をデジタルで紹介する。ぼくも知らなかったが、初刷には、色を載せないで木肌を残す過程があったという。凹凸により立体感を出そうとしていたのである。浮世絵は太陽光と二酸化炭素に弱いので、デジタル版によってこのことを詳細に見ることができるようになっていた。同時に幾何学の扱いなどの構図も精密に分析していた。モネのルーアン大聖堂のデジタル版も3点あった。ルーレットの動きに目を慣らしてこの作品をみると、モネの絵が歪んで動きあるものになる。このことには驚いた。

6月12日(土)
「生態学的視覚論」ギブソン著を再読。何度読んでも難解である。要は光学について語っていて、それがリアルなものとして掴めないからである。はっきりしていることをまとめる。ギブソンは、経験や認識論的処理によった知覚を認めていない。純粋に大脳による反応であるという。それを司る直接決定因子がアフォーダンスというものである。ぼくたちはそれを受けて純粋に行動するのだ。通常ぼくらは、刺激を脳や心で判断してから反応すると考えている。それとは異なる考えである。つまりモノ→反応という図式の矢印が極端に短くあるいは存在していないのである。このことが特徴である。これを一方向的な刺激反応とみたり、アフォーダンスを決定因子とみたりすると機械論となり、モノ即反応でもあるので、モノにアフォーダンスがあっても受動するのはそれを認知する個体次第とも考えられる。このことがギブソンの理解を難しくしている。

6月11日(金)
057代表 日本代表×セルビア セルビアは一流選手が来日してこなくともやはり屈強であった。前半の日本は何もできなかったといってよい。皆ディフェンスをかわそうとしていただけであった。南野然り伊東然りである。しかし後半からのオナイウの投入でがらっと様相が変わる。久しぶりの収穫であった。大迫と同様に十分なポストプレーをなし得ていた。縦への早い攻撃を何度か見せていた。

6月10日(木)
ゼミにて「平成都市計画史」の読書会。担当者は内容をよくまとめていた。都市計画研究者からの戦後からの都市計画史なので読みやすかったのかもしれない。なぜなら、そこに価値基準がなく淡々と事実を積み上げているからである。とはいえ、都市計画を制定するにあたっての日本の社会情勢分析に筆者特有の解釈があり、それが面白い。平成の時代も終わり、日本の都市計画史を俯瞰的にみることができるようになった。最近の建築でも、環境建築とか構法について歴史を追って語られることが多い。何か大きな変化が起きる前兆だろうか。

6月9日(水)
今月号の建築雑誌の特集は生産について。難波さんの文章はいつも新鮮である。構法は生活と関係してはじめて成立する、という文章であった。構法を単独で扱うことは考えられないし、生活への影響をフィードバックするべきという主旨である。ラトゥールの近代批判=モノと人を都合よく使い分けて進歩してきた近代の批判、これを正面から肯定するものだ。

6月8日(火)
母に連絡。相変わらず声に力がない。担当医との面談を申し込む。その後、リクエストにあった保湿剤などの必要なものを届ける。このコミュニケーションに不安を残す。明日の授業の整理をすませてからオンラインゼミ。M2生の修士設計のテーマについて討議し、ぼくのマスターピースの紹介。プルーヴェの自邸を紹介する。イームズと比較して生産の問題と絡める。情報から再びリアルなモノへ。大量消費社会から必要なものを少量生産することへ変化、現在はファボラボに代表されるように、このことが可能となっている。こうした新しい建築の向かうべき可能性の話をした。

6月7日(月)
「生態学的視覚論」ギブソン著を読みはじめる。一般にぼくらはモノ→反応と考えがちである。これは科学における原因→結果という図式と同じで、こうした思考方法に慣れている。しかし、実はモノ→反応ではなく、モノ↔反応であるというのが本書の趣旨である。そのことを生態的といっている。生物は何故かしら教育されなくとも、ある特定の環境を認知する能力をそなえていて、それによって反応するのである。したがって、生物個々によってその認識世界は異なる。そう考えるとモノに何かしらの構造があるわけでなく、モノを捉える見方(フレームワーク)に何かしらの構造を個々がもっているのである。これをカントは、認識図式といった。そしてそうした概念から物自体を前提とした理性の無限性、こういったことにまで話を広げていった。つまりぼくらは知らず知らずのうちに時と場所によって支配されたある認識図式の上に乗っているのである。「パタン・ランゲージ」も同様だと思う。ぼくとしては建築にも「建築」があるのだと思う。デザインとはこれに意識的でときに戦略的でないといけないと思うのだ。

6月5日(土)
「15時17分、パリ行き」クリント・イーストウッド監督を観る。2015年に実際に起きたユーロスター内でのテロを描く。このテロから乗客を救った主人公の若者3人が、本人役として登場していることを知って驚く。先週観た「リチャード・ジュエル」といい、信念があるも社会的に不適合と見なされていた少年が社会を救うというストーリーである。そこに家族があり友人がいる。そして彼らが育ってきた家庭は、決して裕福でないのであるが、住居環境は日本と比べて遙かに高い。彼らは皆、校外の住宅地に住んでいて、敬虔なクリスチャンでもある。しかし彼らの出身学校であるキリスト教学校がやたら悪者になっているのも特徴的である。こうした題材は歴史的に相対化されていないこともあるが、社会が抱える闇を、主人公を通して淡々と描いている。クリント・イーストウッドの以前の映画は、これに立ち向かうのがヒーローであった。

056 代表 U24代表×ガーナ ガーナは弱かった。1対1でほぼ完勝。6−0で日本の勝利。今日は、前線4人だけで勝つことができた。バックが安定していたからか。今後に期待。

6月4日(金)
午前中、渋谷区役所に行き、母の高額医療限度額の申請。その途中、病院から電話が入りびくっとする。退院後のソーシャルケアの方法にかんする電話であった。一安心。午後、病院行き。コロナのため面会できずにモノのやり取りのみ。先生からもこのとき偶然に電話があった。回復しつつも平衡状態であるという。コロナ渦で連絡が付かないことの苛立ちは何ともいえない。必要書類のやり取りをすませて帰宅。夕方から授業の用意。

6月3日(木)
055 代表 日本代表×U24代表 ジャマイカがコロナ陰性証明の不手際から来日でできずに、このカードが決まった。楽しみにしていたのだが、U24にオーバーエージ枠の選手が先発にいなかった。とはいえU24はトップ下に先発で久保を使う。しかし久保は若い。ボランチがマークされ思うように動けないので久保が下がるのであるが、前線の選手も動きがないために久保の自滅が目立った。1人で何とかしようとしているが、そうは上手くいかなかった。一方後半の終わりから登場の遠藤航には大きさを感じた。遠藤の登場によってU24が、がらっと変わった。サイドいっぱいを使っていた相馬を内に絞らせ、空いたスペースに走り込むSBの菅原に遠藤から効果的なロングパスが幾本も通った。これにより日本代表のフォーメーションが崩れ幾度かチャンスを得ることができていた。遠藤のボール保持者に対するチェックの素早さも流石である。セカンドボールを支配するようになり、後半はU24ペースであったと思う。逆にいうと、代表のボランチは失格ということになる。それにつられて先日大活躍の南野と大迫も消えていた。連携がほとんどなく単発な攻撃のみであった。

6月2日(水)
「スケール」を続ける。単純にいうと生命体というのは、端末ユニット(ミトコンドリア等)が効率よくエネルギーと資源が交換できるように考えられていて、そのための最適な循環系の血管ネットワークシステムが出来ているという。これは生命体の種類や大きさによるものではなく、普遍的なシステムであるというのだ。ここまで把握すると、普遍システムがなぜ多様な結果をもたらすのかという疑問が湧く。この章がいうようにスケールを拡大してみると、それは僅かな誤差程度なものなのだろうか。別なところでは、それは分解能(測定器械)に左右されるともいっている。多様性とは分解能が優れた状態を近接して観た状態というのだ。驚きである。その好例として心電図が紹介される。通常健康な人の心臓は疾病を持ったひとのそれよりフラクタル次元が低いと考えられている。しかし詳細を追うと、健康な人の心電図は凹凸が多く、疾病患者のそれは滑らかであるというのである。健康とは外部の刺激に対して微細に対応することであり、そのかたちがフラクタル次元の高い心電図となって現れているという。その微細さが多様というものなのである。ほ乳類の血管システムと植物の管システムが紹介されている。心臓のない植物の管は全て同型で尖端にいくにつれて枝分かれする構造をしているという。これを面積保持分岐という。対してほ乳類は血管の大きさがルート2係数で減少していくかたちをとっているという。これにかんしてのダ・ヴィンチのスケッチも掲載されている。3章の最後にフラクタルで有名なマンデルブロがノーベル賞を受賞出来ないのは、フラクタルな重要な発見を数学に向かわずに自然全般へと思考を大きくしていったからであることが記される。マンデルブロが「科学」に反していたことが暗に記されている。

6月1日(火)
「スケール」を続ける。人間という生命体は、1014なる細胞から出来ていて、その個々に500個ほどのミトコンドリア、さらにその中に呼吸複合体が500個あり、それが毎日80キロのATPというアデノシン三リン酸をつくっている。つまり体重以上のものを毎日リサイクルしているというのである。また、1014の細胞は、様々な器官の下位システムの一部でもあり、その器官のニーズと機能によって、独自にこのエネルギーを消費している。つまり生命体は、相互関係のある多層的な動的構造をしたものなのである。これが人間の場合、最高100年間機能し続けるというので驚きである。そしてこれは、バクテリアからネズミ、クジラに至るまであてはまるスケーリング組織をなしているのだ。ここまで読み、最近のティール組織との関連に気付く。こうしたことがモデルになっているのだ。ダーシー・トンプソンの「生物のかたち」もここで取りあげられていた。トンプソンは生物学者であるが、当時の生物学は定性的で、数学との関係で考えられていなかったので、「生物のかたち」の序文で、生物学は小文字の「一科学science」であって「大文字の科学Science」ではないといっていたという。科学においても「大文字」という問題があることを知った。そこで本書の著者ジェフリー・ウェストは、ダーシー・トンプソンがなし得なかったこの生命体の謎を数学的に解こうとしているのである。一旦休憩し「生物のかたち」を再読しようと探すも、本棚になくショック。貸した記憶を遡る。

5月31日(月)
新しいM1MacのTimeMachineへのバックアップを試みる。1晩かかりそうだ。カザベラ918が届く。コルビジュエの新時代館に関するエッセイがフランチェスコ・ダルコによって投稿されている。この作品は内部も興味深いが、その挑発的な展示方法、そしてダルコの、都市計画に生物学を模範したという指摘が面白い。コルの先見性をいったものである。が、現在使用される生物学的という意味とは少し異なり、真実をタイポロイジーとして表現しそれが伝播することをいったものであるらしい。これによりコルは、「輝く都市」をパリに建設しようとしていたという。

5月30日(日)
「リチャード・ジュエル」クリスト・イーストウッド監督を観る。1996年のアトランタオリンピックで爆発物を発見して多くの人名を救い英雄になったにもかかわらず、FBIとマスコミから容疑者として見なされた警備員の事実に基づく物語である。冤罪がテーマであるが、社会の目に反して直感でその人物を判断するという弁護士、秘書、母親、アメリカ人が好む人物像がそこにあり、これに感銘する。これが歪んだ社会を正すものとして描かれている。

5月29日(土)
「スケール」を続ける。スケーリングを超えるイノベーションの例として橋の設計が挙げられているp82。スケーリングを超えるのには、素材や設計技術、あるいは失敗などが必要であり、これによってその後革新的なものが多様に生まれていくという。つまり、そういったメディアの存在が重要性である。ここに、構造家ブルネルが登場する。BBCの投票でダーウィン、シェークスピア、ニュートン、ジョン・レノン、ベッカムに続く偉大なイギリス人になった、このことを知りびっくりする。それだけ知名度が高いのだ。ブルネルは、実は大型船の設計もしており、現在の大型タンカーの1/2もあるグレート・イースタン号を設計した。しかしこれはスケーリングに失敗し、成功をおさめることができなかった。本書がいうには、これを契機にモデリングあるいはスケーリング理論が発達したという。バタフライエフェクトという考えが広まったのもこのころである。椅子を設計していたときに佐々木陸朗さんがよくいっていた「モデルで持たなければ現実には尚更もたない」。あるいは川口衛氏の巨大なコイノボリのことを思い出した。

5月28日(金)
父の本棚を整理していたら、熊谷守一の写真集と画集があった。写真集は「獨楽」。写真家藤森武のものである。藤森武は映画「モリのいる場所」で加瀬亮が演じた写真家である。写真集を観る。映画に描かれていることがほぼ事実であることがわかる。そうすると最後のシーンはなんだったのかと再び疑問が湧く。山崎努といい樹木希林といい、謎の洞窟といい、これらは忠実に再現したものであったのだ。画集にある「草人」と「ヤキバノカエリ」をじっくり観る。「草人」は予想に反し色彩豊かであった。
054 代表 日本×ミャンマー 10-0の大勝。日本代表は、点差が開いても少しも手綱を緩めなかった。ほぼ全ての出場選手が活躍。相手との間に間合いがつくれると、こうも自由にプレーができるのかと思う。

5月27日(木)
午前中の大学院講義では、「崇高」から考えられる社会意識についてと、辞書としてではないパタン・ランゲージの使用について。どちらも集合知のようにぼくらの深層に眠っているものである。次回からそれを覚ます道具の役割について講義をする。午後学科会議。かなりの譲歩に関わらず他系は頑ななである。現実的な問題はいずれ知恵を出し合えば何らかのかたちで解くことができるので、理念の共有が系を超えて大事と思う。それを学生の希望する実情まで拡大すべきである。夕方中目黒行き。夕食前に戻る。出入りの多い1日であった。

5月26日(水)
久保のコメントがネットを賑わす。今季前半のビジャレアルの移籍は見誤ったはっきりと言ったのだ。同様に出場機会が少なかった後半のヘタフェでは実り多かったと。ここまではっきり言う裏にはどういう意図があるのだろう。自分の技術よりも、監督やチーム事情を含めた先見性のなさを言ったものであるが、同時に余裕がついてくる必要性も言っている。ビジャレアルではよほど追い込まれていたのだろう。自分の理解及ばないところ、あるいは得意でないところで様々なテストが行われ失敗の刻印を押されていった。総合的判断といったらそれまでであるが、これへの吐露であった。
053 プレミア ウエストハム×サウザンプトン 最終節に南野先発。監督の信頼度がここから分かる。とはいえ、マスコミの評価は相変わらず辛い。今日はトップ下であった。スペースをつくる役割というよりもスペースに飛び込む役割であった。前者の方が向いているかもしれないと思うのは、決定機を外してしまうことを目にしたからだろうか。ザルツブルク時代とは周りのレベルが少し違ってきた。ここを突破できればと思う。これでプレミアも今季終了。

5月25日(火)
「スケール」ジョフリー・ウェスト著を読みはじめる。副題にあるように本書は「生命、都市、経済をめぐる普遍的法則」、つまりあらゆるものがべき乗数に従っていることを示す本である。第1章は「全体像」。べき乗数の存在を全体性といっている。一昨年注目した増田直紀+今野紀雄やバラバシらのネットワーク理論に通じるものだ。

5月24日(月)
052 ラ・リーガ グラナダ×ヘタフェ ヘタフェは残留も決まり、ラグビーのような試合からパスサッカーに変更。久保はトップ下の先発である。いくつか見せ場もつくるも、フィニッシュまでいたらず。しかし躍動はしていた。それに力強さがほしい。前戦でゴールを決めたようにドリブルの縦突破があればと思う。0-0のドロー。これで今季も終了。久保にとって苦い1年であったと思う。

5月23日(日)
「ジャンクヘッド1」堀貴秀監督をYouTubeで観る。映画に関しては全く経験のない素人が7年かけて制作したというストップモーションアニメーションである。この1は、ただ今公開の長編映画の一部、2013年制作のもので、30分の短編映画である。どことなくコミカルで既知感があるストーリーであるのだが、その精巧さに圧倒される。1人で全てをつくったというのだから驚きである。

5月22日(土)
051 ラ・リーガ レアル・アドリー×ビジャレアル レアルは優勝をかけ、ビジャレアルはEL出場をかけた真剣勝負。今日はベンチのキャプテンセルジオ・ラモスの様子から刻一刻とアトレチコの状況がピッチに入ってきていることが分かる。そんなレアルは1点ビハインドのまま、残り10分でゲームを覆した。強い。しかしアトレチコも勝ち、レアルは優勝を逃す。最近久保の試合を観ることが多いが、それにしてもレベルが違うと思った。ピッチ満遍なく選手がいて空いたスペースなどない。そこへスペースをつくりながら選手が動くとそこへ長いパスがピタッと決まり、徐々に相手陣地に押し寄せるかたちである。これはビジャレアルも同様である。

5月21日(金)
江渡浩一郎さんの「パターン、Wiki,XP」を再読。パタン・ランゲージがヒントになってWikiができた過程が本書で示されている。従来のコンピュータプログラミングは、データとその処理を示すアルゴリズムによって構成されていた。プログラマーがデータを完全にコントロールしていたわけである。その後、オブジェクト指向というプログラムが生まれる。オブジェクトというのだから単なるデータが集合したものではなく、扱いかたによってデータの集合させ方が変わるような柔軟性をもったものになっていった。ぼくの経験に照らし合わせるとそれは、MSDOS的パソコンからMacになったときで、インターフェースが劇的に変わったと思い出がある。Mac出現前、ユーザは通常、プログラミング言語をスクリーンに打ち込んでいたのであった。その後、パタン・ランゲージのパタンをアレグザンダーたちがつくっていったように、プログラムのパターン化が行われた。繰り返し使用されるプログラミングを視覚的にパターン化しようとしたのである。そのパターン化の方法は、パタン・ランゲージのパタンの構造に倣ったものだという。そして重要なのはそこにユーザの存在を絡めたことだ。まず人に伝わりやすいインターフェースをつくり、それを通じてプログラムをオープンにした(参加)。そうして成長させ(漸進的成長)ながら、フィードバック(診断と調整)を続けたことだ。そうしてアジャイルなXP(エクストリームプログラミング)やWikiが出来ていったという。そのときの過程で面白いのは、制作プラクティスにまで及び、実行組織のパターンを生んでいたことだ。つまり、オープンなプラットホームを成立させるために、実行組織もフラットにする必要があったということである。このことを本書で確かめた。ここから思うことは、現在流行りのオブジェクト思考は、オブジェクト指向プログラミング状況にまだあるということである。そこからの社会への根付かせ方についてはまだ不問状態なのである、このことも分かった。もうひとつ気付いたことがある。それは、こうしたプロセスには目指すべき到達点を予め用意されていないことである。曖昧模糊とした現状をどう捉えるかという問題意識に終始し、それによってのみ推進していることだ。(目標に向かって)どのように進むか(HOW)ではなく何を(WHAT)が問題になっている。

5月20日(木)
「平成都市計画史」を読み終える。これまで施工されてきた都市計画の背景がよく分かった。それにしても役人は巧みに法をつくるものだと思う。そして国民はこれに迷うことなく従順に従ってきたものだと思う。それで日本ができてきたのだ。それは設計に似ていて、そもそも計画ということであるが、飽くなき空白恐怖症的状況であった。計画することの無能性が叫ばれているが、こうした法にまず適用させる必要があると思う。

5月19日(水)
「平成都市計画史」を続ける。市民レベルでつくられる制度と国がつくる法、この2つを対比しながら論が進む。法の影響力が少なく制度によってコントロールされる状態を良好な民主主義の状態という。もうひとつ付け加えるとすると、制度はやがて明示する必要がなくなりかつ共有されて文化のようなものになる。そして、そうした土台が出来上がると民度が上がり、新たな制度を表出化することが可能となる。このことを民主主義というのだと思う。

5月18日(火)
「平成都市計画史」を続ける。7章からは政策側からの視点となる。まずは住宅からである。戦後の住宅政策は、公営住宅、公団住宅、住宅金融公庫という3本柱で進められたという。それらは所得に応じた再配分を基本に考えたもので、若者が東京に出てから戸建てを持つまでを双六のように進ませるためのものであった。双六という発想は、池辺を思い出させてくれるが、この双六は1973年発表のもの。池辺のそれはそれへの批判だと見ることもできる。ともかくも日本はそれで戦後の住宅不足を解決させることができた。しかしその役割も1973年の住宅数が世帯数を上回ったことで終え、量から質の時代に入る。質を支えたのは、大小のディベロッパーや住宅メーカーであった。そのため他の産業に比べて住宅分野の民営化が急務でなく遅れた。その時までに既に十分な民活が行われていたからである。したがってポスト3本柱の政策の枠組みは、こうした市場からこぼれ落ちる人を支えるセーフティネットになっていった。そうした政策の結果もあって、住宅供給量は相変わらず増え続け、現在では反対の空き家という問題を引き起こしている。政策のツケである。今後は、既に巨大な地を形成している住宅とユーザとのマッチング制度にあるという。

5月17日(月)
モリのいる場所」沖田脩一監督を観る。昨年以来である。画家の熊谷守一の晩年を描く。熊谷と妻の大きな人柄をユーモア交えて描いた映画である。観察からモノにする力、そしてそれが波及する力、これを「抽象の力」と岡崎はいっていたが、この力によって家にやってくる人を魅了しているのが、この映画からよく分かる。守一は観察を注視していたことが分かるが、画にディテールはない。画を見る鑑賞者はディテールにとらわれてしまうということだろうか。画家の主体をなくし、画そのものを感じてほしいという守一の立ち位置が、映画となって表現されている。ところでラストシーンをどう捉えるか。ラストシーンで守一の熱狂者であるはずのカメラマンは近代の産物である完成したばかりのマンションの屋上から守一邸を俯瞰して、全体が分かった気がしている。実際、ぼくも結構大きくない敷地を見てそう思ったりする。一方守一は地面に座ってじっと何かを見つめたままである。これは近代に対する批判であろうか。
050 ラ・リーガ ヘタフェ× 今日からリーガは全てのゲームで同時刻開催。首位争いと残留をかけて各々のレベルで激しくなる。ヘタフェもその中にある。久保は75分過ぎから登場。点を獲ってこいといわれたそうだ。キーパーからのパスミスをさらって、豪快にミドルを決めた。ゴール後に喜びを爆発させる。珍しい久保をみる。

5月16日(日)
049 プレミア サウザンプトン×フラム 南野は75分までプレーする。現地の評価は芳しくないが、スペースをうまく使いチームに貢献していたと思う。特に前半はSFイングスが開いたときに、そこにできたスペース中央に遅れて斜めに切り込むシーンがいくつかあった。シュートを決めたかったが、これによって前線が活性化していた。後半は反対に南野が中央に絞り、サイドを空ける動きをしていた。そこから多くのセンタリングが上がっていた。今日も続けて先発であったのは、監督もそうしたプレーを評価してのものだと思う。しかし、代わって投入された2選手が得点を決めた。

5月15日(土)
「美の巨人」で八坂神社の特集。昨年国宝に指定された八坂神社は何度も増築を重ね現在に至っている。起源は平安京遷都前というからかなり古い。今でも疫病治癒祈願で有名であるが、疫病を封じ込めたというスサノウ尊を祀る社として歴史が始まる。それが中央にあり、その下には東山からの清水池があるという。疫病の原因が水にあったという理由からである。その後、要望に応じて拡張をしていくのだが、封じ込めに成功した初代社を壊すことができなかったそうだ。その増築は幾重にも重なった屋根から見てとれる。後期の屋根先端は跳ね上がって面白いのだが、樋が水平にかかっていて、その美しさを邪魔している。これは現代になってのものだろうか。

5月14日(金)
「平成都市計画史」を続ける。本書のいう民主化とは、さまざまなレベルで、たとえば住民あるいは市場において、様々な制度がつくり出せることを可能な社会をいう。そして2軸をもちだし4事象で応え、環状に発展するという論法にその行く先を見出している。これは、柄谷行人を想起させてくれるものであるが、その到達点が制度のない理想郷においていることが腑に落ちない。むしろトップダウン的な「都市計画」的な制度は必要悪で、それを外すために制度がつくり出されているのだと思う。だから、制度がなくなることはないと思う。

5月13日(木)
048 ラ・リーガ セルタ×ヘタフェ 久保は60分過ぎから登場も見せ場なし。ヘタフェは0-1で負ける。これによって降格圏との勝ち点差は3となり、レッド信号が点滅する。今季のヘタフェを振り返ると、前半にチーム状態が怪しくなって久保やアレーニャを獲得した。新しい攻撃パターンをつくるためである。それで初戦は大躍進をしたが、失点を抱えるという別のリスクを負った。それで再び以前の守備的でラグビーのような戦術に戻した。久保らが刺激になり、マンネリ化していたこれまでの選手が再び目を覚ますことに成功したからである。しかし、再びレッド信号の点滅である。根本は変わっていない。残りが2試合。ヘタフェは逃げ切ることができるだろうか。

5月12日(水)
「平成都市計画史」饗場伸著を続ける。5章のコミュニティの発達と解体を興味深く読む。コミュニティがアソシエーションによって取って代わられているという事実をはじめて知った。それを「尖ったアソシエーションと弱いコミュニティ」といっている。都市計画特有な言い回しである。アソシエーションはもっとマイナーな概念と思っていた。建築では疎いが、中間支援体の活動が別のところで強調されている。NPO同志や役所と結びつける組織のことだ。これこそアソシエーションというものだろう。以上が本書のいう住民の制度というものである。対し市場の制度ははるかに強大で、多様性に欠けるものをつくり出しているという。

5月11日(火)
妻と虎の門へ行く。その後、気晴らしに久しぶりの外での食事。夕方事務所に戻り授業の用意。「平成都市計画史」饗場伸著を読みはじめる。都市変遷の俯瞰的分析である。建築家の立場とは違い、ビジョンがトップダウン的である。こうした概説の目的は何か。なかなか掴めない。

5月10日(月)
設計の中間発表をオンラインで行う。全員が一度に集まることが出来ないので仕方がない。非常勤の先生から疑問が上がったが、教育の方針として学生のイマジネーションを鍛える方向に向かうか、基礎を教え込む方向に行くか、悩みどころである。基礎の上にイマジネーションがあると考えたいのだが、現実はなかなかそのようにいっていない。

5月9日(日)
046 ラ・リーガ バルセロナ×アトレチコ バルサは中盤を消され、思い切った攻撃ができなかった。その上、ブスケツが故障した。ブスケツに代わって入ったのは久保の元同僚18歳のモリバ。テンポよいダイレクトパスの中にとけ込んでいた。久保は羨ましいことだろう。0-0のドロー。これで3チームの三つ巴が続く。
047 ラ・リーガ ヘタフェ×エイバル 3人の日本人は出場せず。下位チーム同志で残留を争うゲーム。当初から失点をしないゲーム運びをするため、蹴り出しが多くなる。まるでラグビーの陣取り合戦のようである。それでゲームが膠着した。0-0のドローかと思いきや、終了間際にヘタフェはPKを献上し敗れる。エイバルは首の皮一枚残った。それにしても退屈な試合であった。

5月8日(土)
今年で12回目のCリーグを理科大で行う。審査員に野沢正光氏、日建設計の芦田智之氏、東京電大の計画専門家伊藤俊介氏、小川博央氏、MARU。の森田祥子氏をむかえる。野沢さんが総括してくれたように、オンライン授業では友人あるいは先生と応答ができない。ということは、一度出来た案をなかなか覆す事が難しくなる。したがって今年は、あっさりとまとまった案が多かったように思えた。1ラウンドで終えるのではなく、格闘した結果が作品として面白く現れるような案が望ましいのであるが、今日の講評会ではそのためおのずと完成度の高い作品が優秀賞に選ばれたように思う。そうした中、電機大学の山田光輝さんの作品は敷地にも恵まれ、児童の視線を非常に意識した密度の高い作品であった。ぼくとしては、配置写真にあったように、ここは森が残された特異な敷地であったので、そうした歴史的背景やそれがもたらしている町の構図を意識した設計をするともっとよくなると思った。それが第2ラウンドにあたるものなのだろう。もうひとつの電大の長井さんの案も6角ユニットを基本として内部プランの完成度が高い作品であった。しかし野沢さんが指摘したように環境にたいする配慮がもう少しほしい。最上階のテント地の屋根は気持ちよいが現実的ではないからだ。もうひとつの優秀案は千葉工大の小暮美歩子案であった。街中の小学校で、打瀬小学校のように道路に面したところにアーケードをつくり、そこを開放的な特別教室とし、校庭を広く取りこむために教室をそこに密接密させた案である。採光が問題となるので、屋根をジグザクさせてその隙間から光りを取り入れている。さらにそこに中庭を設け、児童が生き生きと遊べる外部空間を差し込んだ。近年になくコメント力もあり上手くまとまった案であった。野沢さんも買っていた。千葉工大の他には、安達鉄也くんが芦田賞を受賞した。野沢さんには、デザインの繊細さが要求されたが、芦田さんには反対にそのエネルギーと勢いが買われたかたちである。いわゆるてんこ盛り状態になりがちであるのをいかに整理するかという問題であるが、安達くんのキャラクターを活かせば、卒業設計ではこうしたことが活かされるプログラムを考えるとよい。ぼくとしては格闘が現れている粗削り感を買いたいと思う。Cリーグも今年で12回目となった。長い歴史を通じてここに選ばれる案は、学校計画に必要な条件のかなりの範囲を扱えるようになってきたと思う。子供の居場所を考えること、そして地域性や学校が街の中心となることなど、こうした条件が普通に扱われることとなった。嬉しいことである。それでも足りないところがある。それは、敷地とのリアルな関係である。もっと敷地からみて、置かれることになる建物を考えることが必要となるだろう。そして、教育制度へのメスである。ソフト面に入り込むことは難しいが、学生だからこその教育制度に関する批評性があってもよいと思った。そのためには、大学教育から義務教育を振り返り、それとの違いに意識的になる必要があるのだろうと思う。その点で、学校建築計画専門の伊藤さんが指摘していた点が興味深かった。それは、教室周りの空間配置にあるという。オープンスペースの扱いである。ここにもう一度戻ることになる。もうひとつは特別教室を簡単に地域開放とすることの否定であった。これらはかなり老練な作業が必要とされるものであるが、教育制度を考える上では重要なこととして聞いた。野沢さんは、木造に対する可能性をもうひとつ示してくれた。今日の作品には木造案は多かったが、構成や空間コンセプトにまで結びつけたものはなかった。

5月7日(金)
役所や郵便局の往復。雑用をこなす。夕方から設計方法小委員会。特に話題なし。緊急事態宣言が延長される。政府の対応は世論の後手後手となり迷走ぶりが顕著になる。首相のリーダーシップが必要と思う。美術館が閉館のままであるのが本当に痛い。

5月6日(木)
ゼミにて「ドローダウン」の読書会。この本には、様々な温暖化防止のための方法が示されている。その中で建築に関わることも多々ある。その実践に関わることがまず大事である。その他のところでぼくらが学ぶべき時代精神はあるか、という討論を行った。ところでこの本を、ティール組織の著者フレデリック・ラルーの推薦によって知った。読後、ラルーが提案するような、ローカルを中心に考え、それがゆるく連帯していくような社会観がこの本にもあるように思われた。それによって地球環境を考えようとする態度である。

5月3日(月)
045 ラ・リーガ ビジャレアル×ヘタフェ 久保は、1点のビハインドになって漸く80分過ぎから登場。そこそこのパフォーマンスを示すも得点までは至らず。これが、久保の置かれている現状である。今日対戦した両監督は久保の加入を望んだ人たちである。それは攻撃のアクセントとして、であった。それでも久保が未だにこうした状況であるのは、攻撃において期待以下のパフォーマンスであったからであるのか、あるいはそれ以上に守備にたいする不安が勝ってしまっているからかが計り知れないが、この状況を打開するには攻撃の結果を残すしかない。久保のモチベーションに不安がないわけではないが。

5月2日(日)
父の納骨のため多磨霊園へ。墓地での読経の前後に住職と立ち話。住職は物理出身から仏の道に入った人である。キャリアが特殊だ。それに興味をもち話しをしてみたいと前から思っていた。物理といっても扱う範囲が広いが量子力学や宇宙の存在などでは、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレーティンガー、プリコジン然り、一方で数学による理解、他方でこれまでにない認識方法が要求されることを知った。前者が西洋思想、後者が東洋的思想に対応さえることもあるが、それは一時の流行で、現在はどうやらその中間に真実があると考えるらしい。住職はその辺りを実践してきたと思うので、そうした話を聞きたいと思っていた。帰宅直後は春の嵐。天気に恵まれていた。

5月1日(土)
044 プレミア サウザンプトン×レスター 南野先発。しかし開始10分でDFに退場者が出ると、比較的守備重視の戦術となる。それで南野の存在は薄くなる。そして75分に交替。これは守備に徹するという監督のサインであったろう。それで、チームはレスターに一方的に攻められるも、なんとか1-1のドローに持ち込むことに成功する。代表で日本に呼ばれてからの南野の立場は変わってしまった。久しぶりの登場となったが、このチャンスを監督がどう判断したかは分からない。次はあるだろうか。

4月30日(金)
「樹木たちの知られざる生活 森林管理者が聴いた森の声」ペーター・ヴォールレーベン著を読みはじめる。ドイツの森林保護管理者のエッセーである。面白いことに著者はフリーランスとして、自治体から森林の保護と管理を委託されている。2〜3週前に放送された「情熱大陸」の桜守の3人を思い出した。彼らもヴォールレーベンと同様、吉野山の桜が上手く花ひらくように山を管理する民間の人たちであった。

4月29日(木)
「ドローダウン」には、地球を癒やす様々な方法が示されているが、そこに共通するものは何かと思う。そこではぼくらの意識改革を求めていて、過去に戻るということではなく、よりローカルに成立し柔軟で生物のようなシステムの構築を求めている。そしてそのための技術使用やそれを成立させる構造を求めているようなのだ。それを建築に適用させるとどうなるのだろう。地域素材の活用、コストよりもコンテクストの重視、パッシブな環境制御、地元工務店による建設など多数が考えられるが、つまるところ寛容な建築とは?ということか。これは「ティール」の組織論を具体化するときにも考えた問題である。そこで、「ティール」にある自主管理とパタン・ランゲージ80「自主管理の作業場とオフィス」を比較する。このパタンは意に反して抽象度が高かった。それでも、パタンのネットワークを追っていくうちに分かったことがあった。ティールの基本となる自己管理組織をかたちでいうと、p85にあるような小さくグルーピングされたかたちとなる。しかしそれは、固定されたものではなく、自主的に変形するという。ただし、それらがひしめき合って細胞のように集合することを前提とすれば、かたちは円に近く、それほど突拍子な変形とはならない。「ティール」本では、このかたちが硬直しなく、かつ反対のバラバラにもならないように、ゆるく束ねる方法の模索に苦労しているのだ。つまりトップが君臨する本部の位置づけについてである。かたちでいえば、全体を束ねる外形の設定についてである。しかし実は「ティール」にこれは言及されてはいない。同一面にまとめるプラットフォームの存在についてである。硬直をもたらすものとしてミッションステートメントが否定されているが、これに代わるものがこの本では示唆されていない。あるいはそうした外形を直接用意しなくとも、同様の規模の組織を設定して、一緒にひしめき合うようにすればよいとも考えられる。ビュートゾルフが、無償で他の組織に情報提供しているのは、このためだろうかとも思う。「ドローダウン」を幾何学で観てみたいと考えた。

4月28日(水)
「ドローダウン」にも取り上げられていた「デザイン・ウィズ・ネーチャー」イアン・マクハーグ著を読みはじめる。この本で示されているランドスケープや地域生態系、これを分析する方法に興味をもつ。大地は何百年というそう遠くない時間においても変化する。そうした土地の変遷を捉える方法である。

4月27日(火)
a+u608は、S-MAO(サンチョ+マドリデホス・アーキテクチュア・オフィス)の特集。表紙の折り紙でつくられているコンセプト模型が印象的。ただし、サンチョは、これは折り紙でなく襞であるという。「私たちの狙いは、折りたたまれた形態をつくることにはない。(中略)むしろなぜ襞によってこのように一体的な形態や空間構造が現れるのかを解明しようとしたのがそもそもの出発点となっている」。ドゥールズの「襞 ライプニッツとバロック」を思い出す。彼らのコンクリートのみを主戦場としていることに小ささを感じるが、共感できることも多い。それは彼らが示す平面や断面は無限な展開をし、それが空間にも現れていることである。因みに襞はFOLDの訳である。

4月26日(月)
「ドローダウン」読み終える。新しいインフラ、これをスマートグリッドといっていたが、これが必須となることを知る。その中に建築があり都市がある。これは今のコロナ渦でのテーマと一致している。建築が土地や周辺環境ばかりでなく時間的変化や他者に微細に対応し、植物的である。

4月25日(日)
「ドローダウン」によると、資材リサイクル率65%がひとつの目標指標になるという。2000年前のパンテオンはローマンコンクリートででき、そこにはポラゾンといわれる灰が含まれていて耐久性を向上させていたという。現在主流のポルトラントコンクリート生産のためには、高温巨大な窯が必要となり、コンクリート1トンの製造のために180キロに相当する石炭の燃焼が必要だという。その点フライアッシュは有効であるが、問題は有毒物質を含むことにある。ライアッシュは石炭を燃焼するときに副産物よしてでき、これまで廃棄していた。フライアッシュの再利用が大きなテーマだそうだ。節水では、今流行りのシャワーヘッドも紹介されている。
043 ラ・リーガ ウエスカ×ヘタフェ 岡崎は後半の終盤に登場し久保は不出場。久保は拮抗した試合になると、守備が不安視され出場が叶わなくなる。負けているときの切り札として扱われるのだ。2-0でヘタフェ快勝。降格圏ボーダーラインからひとつ抜け出す。

4月24日(土)
「ドローダウン」は輸送システム。大量交通システムを発展させることは温暖化防止に役立つのだそうだ。1900年の段階で既にポルシェ社からハイブリット車が考えられていたことも知る。ローナーポルシェ(常に生きているという意味)と命名されていた。Wikiでチェック。フォードTと違い馬車のようなイメージはないのだが、機械そのもので、そこにデザインが加味されていない。見るからに重そうである。こう考えるとフラーにも美学があったことに気付く。リモートワークをこの本ではテレプレゼンスといっていた。次章「資材」へ行く。

4月23日(金)
「ドローダウン」中盤は土地利用について。プランテーションも色々あるらしい。日本は古来からマツ、ポプラなどの単一樹種による植樹が行われていた。しかしこれだと短期間で土壌が枯れてしまうので、高、中、低木といった多様性が必要だという。これは日本の宮脇昭が考案した方法だそうだ。これはティールでも挙げられて、私たちが目指すべき組織のあり方とされていた。同様な研究にペーター・ヴォールレーベンという人もいた。彼の研究によると、植物はライバルの樹にも栄養分を分け合って、人間社会と同じく協力し合うのだという。ティ−ルでは、このことを結果そうなるのであって、予め調整するものではなく、自然に進行させながらバランスさせる力、進化する目的といっていた。ここまで読み進めると、ドローダウンを政治的に扱う矛盾を身に染みて感じるようになる。

4月22日(木)
042 ラ・リーガ バルセロナ×ヘタフェ 久保が4-2-3-1の2列目左で先発。守備から入り、現地評価はいまいちであったのだがまずまずのプレーであったと思う。ヘタフェ2点目は同年代のトリンコンを突き飛ばしたところからはじまっていたし、相対するこれも同年代の急上昇中のミンゲサをベンチに追いやっている。特に1点目は今日サイドバックに下がったククレアとのワンツーからバルサを崩したものは見事であった。久保を活かすという意味ではこの左サイドの組み合わせは悪くないと思う。したがっていつもと違ってラグビーのような試合ではなかった。こうも変わるとは不思議である。やはり監督からの指示がチームにもたらすものは大きい。選手にはそれだけポテンシャルの幅があるのである。週末は当面のライバルウエスカとの対戦だ。

4月21日(水)
午前にオンラインで授業を行い、午後から3年生のエスキス。対面である。2年生と違ってしっかりした案が出てこないのが少し残念だった。「ドローダウン」を続ける。エネルギーからフードへと実例紹介が移行する。次が建物と都市である。ここで、その先駆者としてジェイコブスとイアン・マクハーグなる人物が紹介されている。ジェイコブスと同様、市民レベルからエコロジカルデザインを提案している人だと知る。著書「デザイン ウィズ ネイチャー」を購入。

4月20日(火)
041 ラ・リーガ ヘタフェ×レアル・マドリード レアルは怪我人続出でフィールドプレヤー13名。そこにはBチームの選手も含まれている。ヘタフェの久保は先発せず。それでもヘタフェはマドリーを上回っていたと思う。しかし結果0-0。ヘタフェにとってこれは御の字とみるか。逆に首位に勝ち点1で肉薄していたマドリーにとってこの引き分けは痛いものだろうと思う。こういった拮抗ゲームに久保の出番はない。今週のミッドウィークのバルサ戦に期待である。

4月19日(月)
午前中に大教室での講義。そして午後は久しぶりの対面エスキス。流石に4時間は疲れた。2年生だからこそ、設計が小さくまとまることなく、外へ外へと視点を広げていってほしいと思う。敷地には十分余裕があり、隣には脇田山荘という名作建築も建っている。軽井沢の特殊性も大事である。

4月18日(日)
040 スペイン国王杯 ビルバオ×バルセロナ 前半ビルバオはバルサの攻撃を守り抜くも、後半に失点すると、返す力がなく0-4で負ける。潜在力の違うチームの典型的なゲームであった。前半のバルサのボール支配率は80を超えていたのではないか。レフリーもゲームを壊さないためにイエローカードの出し惜しみをしていた。しかし繰り返されるファウルギリギリのプレーにひとたびイエローが出ると、ビルバオの詰めも甘くなった。それにしても、今日のメッシはこれまでのメッシと違っていた。メッシ1点目の得点は自陣から長い距離を走りこんでのものであった。このタイトルによってメッシはバルサに残留するという報道がネットで賑わう。

4月17日(土)
久しぶりに映画を観る。「しあわせの隠れ場所」2009ジョン・リー・ハンコック監督。アメリカンフットボール選手の伝記である。しかし未だに現役選手を描いたものであることを知って驚く。原書と異なり映画は彼を受け入れた家族を中心に描いているのだが、この後の選手のキャリアが上手くいかなかったらどうなってしまうのだろうと心配してしたりしてしまう。ストーリーは、貧しい生まれで孤児であった心優しい青年が、裕福で優しいファミリーに受け入れられ、スター選手になるというものである。そしてその家族皆が人格的にも優れている。ドイツ車に乗り、カレッジフットボールやバスケット好きで愛校心があり、宗教信に厚く、ボランティアに積極的に参加し、共和党員であるのだが民主党に傾きつつある。こういった白人アメリカ人家族像、そいてリーダーの交渉力は強く、子供も大人のような口をきいても咎められることはないというようなアメリカ社会も垣間見ることができる。

4月16日(金)
039 CL ドルトムント×マンチェスターシティ 2ndレグのフルバージョンをUEFA.TVで見つける。今年ドルトは調子悪いと聞いていたが、戦術は以前と違って、パスをつなげていくものに変わっていた。サイドに個性的なスピードのある選手を置くのを止めて、オーソドックスな戦い方に変化していた。中盤が消されていて、ハーランドまでボールが届いていなかった。1-2でドルトが負ける。シティが順調に次のステージへ。シティは、ドルトにいたギュンドアンが中心となっている。相手陣内で彼を中心にボールが供給される。

4月15日(木)
大学院の授業もはじまる。受講生が多かったので、ディベート中心の授業であること、毎週本を読む課題を課すことなどの説明をはじめにする。来週の受講生数はどうなっているだろうか?今日の内容は、「建築」があることを話し、それがデザインの足かせになるのではなく、創造につながることを説明する。昨年の学生はこのことに納得がいかなかったようだ。あくまでも自由な立場でいたいという主旨であったと思う。今日は、個人的な個性(差異)の大切さを考えさせ、それを生む前提があることを説明し、さまざまな前提があるが、最も強力なものが「建築」であるという説明をした。午後からゼミ。「デザインの鍵」にある「名前のない空間に」と「目的のないところに機能がある」の説明からはじめ、今年の読書会に結びつける。M2中心に活発な意見交換ができた。押しつけがましい空間をつくることは誰もが嫌うが、そんなことせずに空間をつくることは可能か、というテーマである。いろいろな意見が出たが、面白かったのは、名前のない空間を残すような外堀を埋めるような設計をすること、あるいは、あえて名前をつけて既成とのズレを考えさせるなどがあった。その中でも環境や時間といった広いコンテクスト中で考えること、それでも上手くいくか分からないが、建築家としてそれに正面から向き合わなければならないこと、をまとめとした。これが今年読む「生態的視覚論」や「抽象の力」と関連することで説明を終える。

4月14日(水)
建築計画2の授業がはじまる。今年の授業は、はじめにライブで概要を説明し、その後オンデマンドというかたちにした。今日は第1回目なので、ライブでこの授業の意味についての説明。午後に行われる設計演習と連動していること。建築計画は決してスタティクなものではなく条件によって動くものなのだが、そこには作法らしきものがあり、それを設計実習を通して学ぶということ。実践によって計画作法を学ぶということである。前半は美術館の設計を通してである。作法というと決まり切った固いイメージがあるが、スポーツも然り、華道や茶道なども然り、それにしたがえばある程度もいくことができ、なによりもそういった型からこそ創造が生まれる。設計もこれと同様に考えるとよいというアドバイスをする。はじめは基本、それから思うことがあれば変えていけばよい。はじめからあれこれと複雑なことを考えるのもありだが、これまで建築が培われてきた土俵の上にまず乗ってそこから設計を行う方がジャンプは大きくなるというのがぼくの信念である。思えばぼくも学生時代、大胆な設計をしてこなかった。当時は四層構造もなかったが、その萌芽を習っていた。今日のオンデマンドではまず建物と建築の違いがあることを説明した後で、それを直感ではないj方法で説明するものとして「建築の四層構造」というものがひとつあるという結論であるというアドバイスをする。したがってこの授業は絶えずこの建築の四層構造に帰って説明をする。もっというと「四層構造」にそって建築をどう判断したかで建物との違いが生まれるのである。この四層構造を実践によって体得してもらいたい。こういった説明をした。次回は平面図作成の作法について学ぶことを前置きしてライブを終了する。

4月12日(月)
大学の会計システムに慣れるのに一苦労。ウインドゥズは扱い慣れていない。「ティール組織」の4刷に向けての校正開始。思い切って小題目を再考することにする。本の構成が曖昧なのが売りであるのだが分かりにくい面もある。元本にはない言葉を付け加えることにする。

4月11日(日)
038 ラ・リーガ レアル×バルサ 春の嵐の中の戦い。ポゼションはバルサであったが、先制点をとったレアルがペースを握っているのは明らかであった。最初はバルベルデがSBの上がりを阻止し、途中から3バックになったものの前線の選手を下げて中盤に守備的選手を入れる。それは攻撃的な守備で、ときに5バックでとなり、バルサの猛攻をしのいでいた。この変更はどうやらバルベルでの怪我のようだ。雨中の中、ジダンはびしょ濡れ。ライン際で指示をしていたのが印象的であった。監督も戦っていた。

4月10日(土)
037 ラ・リーガ ヘタフェ×カディフ 久保が先発も、後半5分で交替。どういった意図があるのだろう。久保は単発のプレーが多く、それがチームとして連動する気配はなかった。それを是正するためのものだろうか。その後、1発の速攻からオウンゴールを犯してしまい、0−1で敗ける。降格圏上のライバルに敗れた。次戦はレアルとバルサと続く。

4月8日(木)
今年度のはじめてのゼミを行い、研究室で読む本を決める。そのひとつとしてあげた「ドローダウン」ポール・ホーケン編著を読みはじめる。ドローダウンとは経済用語で、株が下がっていくことが明らかな中で最小限のリスクによって運用することをいう。本書では、科学的知見から、地球温暖化を逆転させる100の解決策が提示されている。

4月7日(水)
「シェークスピアのアナモルフォーズ」後半は著者の専門であるシェークスピアの分析。戯曲の中に挿入される1文が、様々な人に対して様々な意味を帯びてくることを詳細に説明する。そこには歴史(文化)と娯楽が同時に存在することで、劇に厚みを与えているという。このマニエリスムの時代、様々な視点を与える試みが試されていたのを知る。

4月6日(火)
今週からCLが再開されるもWOWOWに加入していないので観ることができない。残念である。放送権を廻って各メデイアの攻防は凄まじい。メディアが淘汰中であることを実感する。ホルバインの「大使達」は、立ち位置によってドクロが浮き上がる程度に思っていたが、そうでもないらしい。凸面鏡などの光学器具を使用するとさらに異なる構図が出る。つまり、鑑賞者に何度も足を運ばせる仕組みがあるという意味で、読む度に新しい発見をもたらすシェークスピア文学と同じであるというのである。ルネサンスからマニエリスムの時代にこうしたことが起きた。

4月5日(月)
「シェークスピアのアナモルフォーズ」蒲池美鶴著を読みはじめる。絵画において正面から見るとさっぱり訳がわからいのに、斜めから見ればはっきりとものの形が現れる、これをアナモルフォーズというが、この言葉が気になり本書を手にする。第1章は、絵画のその典型、ホルバインの「大使達」の紹介である。

4月4日(日)
「やさしいベイトソン」野村直樹著を再読。情報は一般に階層性がないといわれるが、ベイトソンはそれを覆した人である。ある前提のもとに会話はするものであるので、それを共有できないと会話が成立しない。例として、電車が止まった時の社内アナウンスが取りあげられる。「先程、お客様が線路に降り立ったため、電車を停止しております。お客様には大変ご迷惑をおかけしています」。このふたつの「お客様」が異なる人であることは普通に理解されるという例だ。もっとも会話が成立して前提が共有されているのを知るわけであるが、つまり情報は単独で意味を持つわけではないという意味で階層性がなく、その場その時のコンテクストに左右されるのである。このコンテクストというものを図式でなくなんといったらよいか。
036 プレミア サウザンプトン×バーンリー 3−2でサウザンプトンが逆転勝利。南野は不出場。この2チームも降格ライン上にいるが、両者とも守勢に立つことなく積極的なゲームを試みていた。結果、大変楽しかった。こうした試合でないと、勝利云々の前に観客が離れていく。ラ・リーガが学ぶべきことと思う。

4月3日(土)
「ティール組織」再読。昨日考えたことに関連してティールでは、予測→制御ではなく、感知→反応といっていたことを思い出す。感知→反応は、図式→認識と対立する。後者は、カントの有名な言葉「内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である」に代表されているように、盲目的な直感にたいし否定的である。ティールにある感知→反応は「目的は常に進化する」に代表されるように、ぼくたちを廻る環境は常に動的であることを前提としている。いわば図式など見出せないという立場である。図式という言葉はスタティックなイメージがある。
035 ラ・リーガ オサスナ×ヘタフェ 残りを10節とした残留ライン上に位置するライバル同士の戦い。どちらも失敗を怖れて安全策をとる。そこに久保はいない。80分過ぎから登場も、ボールタッチがなかったのでないか。0-0のドロー。

4月2日(金)○
午前、1年生の新入生ガイダンスに参加。午後研究室に戻り、安達くんから近況報告を受ける。SUPEでよい経験をしていたようだ。彼の興味のある「遊び」について話合う中で、ベイトソンの遊び理論を思い出す。ベイトソンは、双方向コミュニケーションを考える人である。昨日のゼミでもそうであったが、アフォーダンスというとそれがモノに宿っているように考えてしまう。そうでなく受け手としての人との関係で考えるのがベイトソンである。その論理でいくと遊びとは、例えばチャンバラごっこをするのは、互いにこれが遊びであると理解しているので楽しむことができるのであって、この理解がなければケンカになってしまうという。遊びとはこうしたひとつ高次元の精神性を伴う行為である。これはアフォーダンス理論にも応用可能で、人がアフォードされる前提を理解していないとアフォードは起きない。アフォーダンスとは環境全体を問題にしていて、そこで生活することによって理解できる意味のことで、一方向的な刺激的なものではない。これについて上手い言葉を探る。そう、刺激→反応ではなく、図式→認識である。ここまで考えてギブソンを再読したくなった。

4月1日(木)
新M2生とゼミ。修士研究の方針について話合う。興味あることを調査分析し、そこに共通してみられるものを起点にして設計をすすめようとする学生が多い。それよりも調査分析した中で興味をもった事例を身体化していく方が、設計が展開できるというアドバイスをする。これまで気付いていなかった自己を開放させるのに適した方法を考えるとよいと思う。各自がテーマとしていたのは、「斜面」、「北斎」、「発酵」、「影」、「セルフビルド」、「見えるけど隠されているもの」であった。今年度の読みたい本についても話合う。ティム・インゴルド、J・ギブソン、イーフー・トゥアン、マトゥラーナ+バレーナ、R・バンハムらが上がる。物事を歴史としてとらえること、空間を建築でない視点でとらえること、自律性や生態系のなぞ、建築と技術との関係、こういったものにある。

3月31日(水)
昨日のゲームでの右SBの松原の評価は高い。伊東とのコンビネーションがよかった。伊東が最終ラインの裏と2列目との間を上手く使わせていたという趣旨のものであった。

3月30日(火)
034 代表 日本×モンゴル 日本で開催もモンゴルのホームゲームらしい。日本がゴールラッシュし、14-0。引いて小さく守る相手に、パスを大きく回してはポストプレーによって、外からと中からと攻め抜いた。まるでゲーム前のミニゲームを見ているようであった。

3月29日(月)
033 U24代表 日本×アルゼンチン 26日からの中2日で本番と同様のスケジュールという。久保と板倉以外を代えてこのゲームにのぞむ。結果3-0の完勝。第1戦の雪辱を果たす。今日は、日本のプレッシングが勝っていた。とくにボランチの田中と板倉がよかった。それで両ウイングが積極的に奥を突くことができ、中央の久保が下がりライン間で受ける、そのかたちができていた。得点はこのかたちでないもののこれによってよい流れがチームをつくっていた。得点は、サイドバックからの縦パス1本によるものと、久保のコーナーキックによるもの。よい時間帯で得点を重ねることができていた。

3月28日(日)
「ベンヤミン・コレクション1」の浅井健二郎氏の解説を読む。コレクションの選択指針がまとめられている。1「近代の芸術意識のなかにー誰よりもゲーテにおいてー巣くっている神話的なもの(アウラ的知覚)を、ベンヤミンは名によりもまず認知する。その限りにおいて、ベンヤミン自身の深い内部に濃厚な親アウラ的心性が潜んでおり、そのうえでのゲーテ批判、とりわけその反批判的姿勢への批判なのだ。そしてベンヤミンは、このゲーテからの遠ざかりの距離、もしくはその距離の絶対性において、たとえばボードレールのモデルネ度を、またたとえばブレヒトの脱近代度を測定するのである」とある。同時に、2「バロック・アレゴリーの精神が重なって映ったということ、そしてさらに、バロック・アレゴリーを捉えたまなざしのありようが、いま一度翻って、パリの近代ないしボードレールを捉えるまなざしのありようを本質的に規定したということ、である。このまなざしによって、市民社会の演出する調和幻想が打ち砕かれた」という。これをまとめたベンヤミンの思考変遷は以下である。「アウラ的近代技術の代表者をゲーテに見出し、そこからの断絶の最初のラディカルな顕れ(近代の転回)をボードレールに、近代からの決定的な覚醒を告げるシグナルを非(反)アウラ的芸術(シュルレアリズムやブレヒトと複製芸術とに)見出した」。ここまできて、難波さんの美的経験の変容と近いことに気づき、はっとする。アレグザンダーに注目し批判するのは、難波さんはそこから出発したからであり、近代の極北である池辺さんを物差しにしてアレグザンダーの思考を計っていたからだ。そしてそれを注目したのは技術とりわけ環境技術によってなのである。アレグザンダーを一番に批判するとき、必ず技術に対するアレグザンダーの無知さを上げるのはそれによる。技術は、ベンヤミンが映画に見たように非アウラ芸術に欠かせないものだ。こうした2人の軌跡の目的は何かを考える。この解説にあるように、それは近代社会に深く切り込むためである。当時の読書記録を日記で振り返る。アナモルフォーズと不共可能性(共同主観)というふたつのキーワードが引っ掛かった。

3月27日(土)
カザベラ916で興味深い記事。スイスは国家として、津々浦々にまで整備された鉄道網を使って、そして美しい自然を活かした美術館を配置し、観光国家として戦略を考えているというものである。ヘルツォークからはじまり、ギゴン+ゴヤのキルヒナー美術館、クリスト+ガンデンバインのチューリッヒ国立美術館、メリクリのラ・コンジュンタ美術館らが評価を勝ち得たものであるという。

3月26日(金)
昨日の内藤廣さんの言葉を思い巡らす。主体と社会(外部)との位置付けについてである。得てして主体の強度が注目されがちではあるが、主体の強度と社会(外部)に深く切り込むこととは違うのでは、と最近思うようなった。むしろ社会に切り込むことができるのは、社会にオープンにされているという意味で中立的な位置にある技術とか科学とかいったものによってでしかなく、しかも技術は一朝一夕でできたものではない。これを利用した深度が問題にされるのではないか、と思うようになった。もしかしたらぼくには技術にたいする後者の配慮が欠けていたのかもしれないと思うようになる。切れ味と深さである。
032 U24代表 日本×アルゼンチン 前半はほとんどかたちをつくることができずに、アルゼンチンのプレッシングに苦しむ。昨日の代表はこの点が韓国より上回っていたことになる。後半からサイドをいっぱいに使ってプレッシングをかいくぐるようにすると、攻撃のかたちになる。久保はそれによってスペインでのいつものパターンに持ち込めるようになった。反対左サイドにボールがあるときは右の久保は内に絞り、際どいシュートも放つ。後は結果である。0-1の完敗といってもよいだろう。

3月25日(木)
午前、確定申告と役所周り。渋谷区役所に行く。建物中央に動線コアがあり、南がガラス張りの執務空間である。その向こうに低層で校庭のある神南小学校があるので渋谷駅にむかって視界は開けている。北はタワーマンションや公会堂があり、その間が小さな庭が連続している。どう使われているのだろうか。それに面する北内部はアトリウムでエスカレータ動線があり、空間は反対に大きい。評価は微妙である。午後、赤れんが卒業設計展をzoomで見る。遠藤研の佐藤さんが10選に選ばれたという知らせを受けた。質疑応答における末光さんの、多くの学生が生の空間を意識していないという指摘が面白い。手法とか情報とかシステムといったものが目的化しているという。これを聞いて時代が動いていることを感じた。内藤さんは建築家自身の時代にたいする欠如を指摘していた。おそらく、社会状況といった外部条件に則して考えてしまう傾向を批判したものだろう。そういう意味で主体を捨てて世界の中で個人を位置づけること、アクターネットワークに基づく方法論であるが、そうした時代性を感じないこともない。こんなこともあって審査の論点が、空間にしろ、方法論にしろ、その強度が問題になっていった。佐藤案は最終形を明確に示さなかった点でこの論点から外れてしまった。時代は面白いもので、ぼくが別の審査の場で末光さんにいったことが繰り返されている。それは「建築」というものに関わるもので、「建築」の存在をあらためて知ることとなった。
031 代表 日本×韓国 今日はよいかたちで攻撃を組み立てることができていた。やはり身体的な余裕がそうさせているのだと思う。1対1が安定していた。ゴールして後にピッチ上で選手皆が喜ぶ姿を見ると、海外では孤独なのだろうと思う。こんなところで国を感じたりする。

3月24日(水)
研究室の棚卸し業務をチェックして、午後は来年度の設計授業の準備をする。カザベラ916が届く。巻頭はスイス建築。アルド・ロッシがETHに赴任にした1972年からスイスの建築は変わったという。アナロジー建築なる方法論ができた。技術を前面に押し出すものではなく、壁構造で切り妻屋根のマッシブな端正な建築である。その根底にはマイヤールなどのシビルエンジニアリングがある。

3月23日(火)
午後大学行き。諸々の事務処理をして、夕方に理事長にお礼をする。帰りの夕方の首都高速は混んでいる。日常が戻りかけているようだ。

3月22日(月)
午前は会計士との打ち合わせ。午後はコロナ渦の卒業式。研究室に戻ってきてもらい歓談のみとする。今年の思い出と横の連携の大切さについて話した。小さなスタンドと無垢のアクリル製ブックスタンドを記念品として頂き、皆で記念撮影。その後、就職先などの相談を数人から受ける。アトリエ事務所を目指す学生はこれからが本番だ。希望する事務所にむかって頑張ってほしいと思う。

3月21日(日)
030 ラ・リーガ ヘタフェ×エルチェ 前線の怪我人のため久保が久しぶりの先発。最初はトップ下、前半途中から右Wに移動。トップ下では左右からのクロスに2度ばかり合わせるチャンスもあったが、ひとつは体格不足、もうひとつはタイミングが合わなかった。右に移ってからは早いタイミングでクロスを放り込む。そのうちのひとつがアシストとなった。結果を残したかたちとなったが70分に交替。その直前の速攻時に、走り抜けなかったことが交代させられた原因か。走力的な問題か一度受けてからアシストしようと目論んだかが分からないが、腑に落ちないプレーであった。監督も同様だろうと思う。久保の後に交代した10番選手に監督が激怒していたのが印象的。PKを廻る論争であったと後で知る。結果1-1のドロー。問題のPKを決めて勝ちたかったにちがいない。

3月20日(土)○
029 FA杯 ボーツマス×サウザンプトン サウザンプトン圧勝。南野は規定により不出場となる。2部が相手であると精神的余裕があるのか気持ちよいようにシュートが決まっていた。南野と同ポジションの選手が活躍している。

3月19日(金)
JIAで今年度の関東甲信地区の修士設計展の2次審査。審査員に大野秀敏氏。実行委員はぼくの他に電機大の日野さん、法政の下吹越さん、日大の古澤さん、千葉大の杉山さん、芝浦工大の岡野さんである。コロナのため今年はZoomによるオンラインとなる。8分の生プレゼを聞くと、1次の紙面審査との違いを多く発見する。特に最優秀案の東洋大の渡邉雄大さんの作品はそれが顕著であった。彼の作品は建築の動的さをテーマとしていた。機械的ではなく生態的にするという意味であろう。面白いのは、彼の試みがアレグザンダーの「オレゴン大学の実験」のプロセスに相当していたことだ。参加と漸進的成長の原理はもちろん、診断を行っていたのが特徴である。加えて彼はある集落(久我集落)を丁寧に調べていたのであるが、大野先生からの質問でどの集落でもよかったと応えていた。つまり、どの集落でも伝統を培ったものであれば、そこから普遍性を得られるということだろう。それは、パタンランゲージの精神のようでもある。そうした集落を丁寧に読み解き、パタンのようなものを無意識に習得していたことになる。大野先生もこれをダントツに優れていると考えていて、あっさりと最優秀案となった。審議ではその後の優秀賞の選択が中心となった。ぼくが選んだ理科大学の齋藤匠くんの作品は、瀬戸内海の小さな島の街おこし計画である。製塩やレモン栽培、豚の家畜場をアドホックに構築するものである。ぼくが考えるにインダストリアルブリコラージュというものに近い。街おこしあるいは製塩場などをつくるという目的をはっきりさだめて、それを達成させるためには身近な材料のブリコラージュで十分だという考えである。面白いのは、島で採集できる大文字の材料にこだわることなく、現代の工業製品も含めて、それらを匠みに使いブリコラージュの手法がカジュアルになっている点だ。それをインダストリアルブリコラージュといいたい。もうひとつぼくが選んだ作品は都市大学の木村くんの作品。これも街おこしをテーマにしていた。場所は和歌ノ浦の漁港。和歌ノ浦は和歌の発祥の地でもあるという。この地をよく調査し、考えられるアクターネットワークを作成し、最終的に彼が選んだ大伴家持の歌に基づき作品としてまとめ上げていた。アクターネットワーク的なアプローチする作品は多いが、それが動的であるために建築にまで仕上げるときの一工夫が必要とされる。彼の作品には、和歌に詠み上げられた塩によって、それを可能にしていた。それが他の作品と違っていた点である。紐を使った製塩の方法も様々な実験を試みていて共感できた。力作であったと思う。もうひとつの優秀案は、留学先でアマルフィの街を調査し、その街を改修した工学院の北村久美子さんの案であった。ぼくとしては、抜群のロケーションに助けられていると思われたのだが、これが伝統的なイタリアのリノベーションというのを先日の渡邉真理さんと陣内先生のレクチャーで知った。それで納得をする。今年の作品は昨年より充実していた。方法論において面白い作品が多かったように思われた。

3月17日(水)
10時前に代々幡斎場。住職の話を控え室で聞く。住職のキャリアは興味深い。息子の副住職は物理出身だそうだ。11時から告別式と初七日法要を執り行う。無事終了。最期のお別れでは、母が諦めつかずにお棺を閉じるのに時間がかかる。その後隣の焼き場へ。1時間もかからなかった。

3月16日(火)
15:30になると父を迎えに来る。その後を追うようにして自動車で代々幡斎場へ。式場で納棺式を家族で執り行う。その後で供花の祭壇配置を指示。祭壇は供花16束あり賑やかで安堵する。上階の控え室で住職を待つ。18:00から通夜開始。通夜の住職の衣装は地味であった。40分程度の読経の後、講話。戒名や通夜、告別式の意味を説明。1時間程度で終了。

3月14日(日)○
父は生前から戒名がいらないと言っていっていたが、先祖との関係ででそうもいかなかった。弟が世話になっていた心行寺にお願いし、護雲院政誉知則居士となる。少し落ち着いたので、溜まっていた日記作業にかかる。この2〜3日を思い廻らす。書きはじめると色々なことを改めて発見する。
027 ラ・リーガ ヘタフェ×アトレチコ 0-0のドロー。結果的にヘタフェのペースであった。したがって、そこに久保はなし。右は久保ではなくアレーニャが先発であった。
028 プレミア サウザンプトン×ブライトン 南野は先発。前半は、中盤まで下がりそこで受けるとボールをサイドに散らし、中央でリターン受けてフィニッシュというかたちを上手くつくっていた。チームにとけ込んでいるのが分かる。しかし後半は消えてしまう。このパターンが数試合続いている。1-2でサウザンプトンの競い負けであった。

3月13日(土)
早朝、母と妻の意見を聞いてから、葬儀会社に連絡。夕方打ち合わせとする。午後は法政大学のオンラインシンポジウム「コモンズを再生する東京」を聴講。北山恒さん主催である。若手建築家の商店街の活性化活動の報告と陣内秀信先生、大野秀敏氏、織山和久氏、渡辺真理氏がそれをレクチャーでバックアップする形式だ。陣内先生は、歴史家らしく日本の商店街を世界から説明してくれる。寝食一体の商店街は日本独特の文化だそうだ。紹介してくれたのは、トルコのギョイヌック、イスファハーン、シリアのアレッポ、モロッコのマラケシュ、ポンペイ、アマルフィ、北京のフートンなどである。学術的説明というのはこういうことだろう。大野先生は、東京の紐状都市のフィールドリサーチの報告。近代建築家によるデザインを強く批判していたのが印象的。建築家なしの建築の東京版リサーチである。笹塚の10号商店街を好例として挙げていたのは驚いた。ぼくの家の近くである。こういう視点に立つと、若手建築家の意見もそうであるが、建築家はエージェントになるのだろうかという疑問も湧く。渡辺さんはここのところを意識的で、建築家教育も一方で必要とし、その上で例えば大学院教育でその行き詰まりを考えるのがよい、という立場であった。これが法政大学の教育方針なのだろう。織山さんは経済分野出身で、データによる説明をする。日本の経済は先行き不安と言われるが、東京で建物が建っていない空間は逆に70%も残されていて、それを活用しない手はないということであった。北山さんらと活動する日本版「ヴォイドの戦略」である。コールハースが発想し、かつつくろうとしたヴォイドを実活動として引き継ぐものだ。面白いのは、建築家はこうした問題を考えると異様な想像力で創造を起こし、周囲を活気づけると考えていることだ。そしてそれが最終的な経済に反映されるということであった(それはちょっとカント的思考を彷彿させる)。ぼくらの経験した狭小地ブームにみられる現象である。今日紹介された若手建築家山道拓人さんの活動はその典型だろう。京王電鉄と協力した駅から遠い商店街の活性化活動である。彼らが中心となって商店街長屋にアクティビティを復活させ、本来不便であるはずの土地価値をあげるものであった。ぼくとしてはこれに建築技術を加え、昇華させる方法を考えたい。もうひとつ面白かったのは、織山さんは、そうした活動を促すのに組織論を問題にしていたことだ。フラットで刺激し合う組織がまずもって重要と考えていた。これに同意する。ところで今日のレクチャーで収穫だったのが、自分の意見を主張する方法と、織山さんがプレゼしてくれた内容、すなわち建築の可能性を経済的視点から捉えることであった。事実、経済は創造からこそ大きくなるというのだ。

3月12日(金)
朝早く起き、和室の掃除。プリンタだの照明器具の多くを片付ける。9:30過ぎに代々木警察署から電話。10:30に警察行き。電話では、父は家に帰ることが出来るということであったが、結局監察医行きが決まる。葬儀屋が遅れ1時間近く待たされる。14:00に大塚の監察院へ行く。30分待たされてから本人確認。ちょっと顔が変わっているような印象。結局死因の特定はできなかったという。ぼくらはそのことはどうでもよいのだが、誰のためにやっているのかと思う。段取りはわからないが、今度は葬儀屋へ運ばれるらしい。ひとりで帰宅。食事をして仮眠。義理の妹家族も駆けつけてくれた。そうこうしている間に葬儀屋から電話があり、18:30に漸く父が帰る。70キロの体で3階に上げるのは大変であった。父の態勢が整うと、皆が悲しみにふける。ぼくはフォロー役に回る。その後、葬儀の打ち合わせ。妹家族と賑やかな簡単な夕食。葬儀屋との打ち合わせを思うとなかなか寝付かれなかった。翌朝電話で相談し直すことにする。

3月11日(木)
父死去。突然であった。15時くらいには買い物に行く姿をzoomによる会議中に事務所から観た。声をかけようかと窓を開けて外に出たのだが、反対側に行ってしまったので声をかけることができなかった。少し経って階段の踊り場付近で戻ってくる足下だけ観た。ひとまず安心。その後帽子が転がり落ちてきたので、拾ってから声をかけようと外に出る。いつものことだと思ったので「大丈夫か」というつもりであった。階段下に行くと頭を下にして大の字に倒れている父を観て急いで駆け上がる。頭を持ち上げてから声をかけると反応がなかったようには思えなかった。体を起こそうとするが重くてひとりではできなかった。携帯を事務所に置いたままだと気づき、大声で2階の自宅勤務の娘を呼ぶも声が届いていないらしい。続けて3階の母を呼ぶ。これも反応なし。頭の高さを一定にしたまま階段に座り直し、太ももに頭を乗せる。道路には人影見えるも関係なしであった。父に「大丈夫か」と何度も語りかけるも反応なし。合間に大声でふたりを再び呼ぶ。漸く母が来る。南帆を呼ぶように指示。出ないという。次に119番に連絡を頼む。父の息はもうないようだった。南帆が来る。南帆は落ち着いていた。そうだ心臓マッサージと気づき、父の体を支えているためぼくにはそれが出来ないので南帆に頼む。母が階段を降りようとするので、2次被害を怖れてそれを制してセーターを着るようにいう。やがて救急車到着。救急車の中で蘇生措置。反応がない模様。緊急病院がなかなか見つけられないようなので出発まで時間がかかる。漸く女子医大病院に到着。ぼくは緊急外来の外の長椅子で待機。外出していた妻からメッセージと電話が届く。母を向かわせるかどうかである。おそらくもうダメだろうと感づいていたので、体調を優先するよう指示。30分後医師が出てきて中に入るように指示を受ける。父と対面。悲しみが急にこみ上げてくる。今日の2回目の感情である。様々な処置を尽くしたが無理であることの説明をしているらしいもはっきりしりない。どうやら延命装置を外してよいかぼくに同意を求めているようだ。心拍計の上段が心臓のものか尋ねる。そうだといい僅かに反応ある。再び心臓マッサージ。それでも波形が変わらないことを説明。無理だとは感じていたのだが延命装置を外ことの決定をくだすことに躊躇していたが一連の処置をみてそれも消える。瞳孔に光りを当てる。反応なし。16:30。これで死亡とする。半開きの父の目をそっと手で閉じる。カーテンを閉じてくれる。3回目の一番大きな悲しみが訪れる。どうしようもなかった。「何をやってんだ」と、言ったような気がする。自分に対する言葉でもある。部屋を出て妻に連絡。妻も混乱していた。しばらく長椅子で待機。死因不明のため警察が来るとの話を聞く。3〜40分して父と霊安室へ。ここで警察を待つ。警察からも自宅に連絡がいくそうで、それよりも身内の口から母に知らせることが重要と考えたが、妻にはそれが出来ないという。代々木警察署から2人の刑事と対面。今日の状況を説明。親切な人であった。今日これから検視、父が帰るのは明日という。タクシーで帰宅中、いかに母に告げるか思いを廻らす。タクシー降りると妻が待っていてくれた。母の状況を聴き、結局車椅子に腰掛けていた母の片を押さえて単刀直入に告げた。母は入院と思っていたらしい。遅れて食事。泣きじゃくっている南葉もいた。ショックで一緒にいれななかったようだ。そうこうしているうちに先程の刑事の現場検証。明日からの予定を確かめる。霊安室にいた葬儀会社に連絡することにする。そのころは既に就寝時刻であった。1日の出来事を思い廻らしながらソファーで就寝。

3月10日(水)
17年卒業の秋山怜央くんから「中銀カプセルスタイル」前田達之編 草思社が送られてくる。最近まで中銀カプセルに住んでいたのだそうだ。そのインタビューが掲載されている。ぼくも10年以上前に訪れたことがある。当時は設備が老朽化していて気になったが、狭くとも十分に事足りていた印象があった。この本からは、パッケージエアコンが装備され、その問題も解決されているようであった。秋山さんは藤本氏の事務所に勤めてからもう4年も経つという。早いものだ。主担当の東北の施設も来月オープンさせるという。頼もしい。

3月9日(火)
午後、JIA修士設計展の1次審査を、法政大学を借りて行う。今年度の審査員は大野秀敏氏である。大野さんは応募作品を深く読み込んでいらして、ぼくらのサポートはそれ程必要とされなかった。したがって2時間あまりで2次審査のへの9点を決めることができた。選考はバランスが良くとれていたと思う。作品の目の付け所あるいは研究過程よりも最終形に重点が置かれていたという印象を持つ。そこに大野氏のテイストが反映されていた。そもそも最終形が不十分なものはダメであることには当たり前のことではあるが、この時期それほど冒険もできない社会的風潮もあるので、まずは結果の密度とある程度の社会的妥当性が問われたということだろう。その上での批評性に耐えうるかどうかの作品が残った。

3月8日(月)
建築雑誌今月号は震災特集。滑田さんと浦部先生の木造仮設住宅の再利用状況のレポートがある。彼らのチームで再利用した実績は実に50件を上回るそうだ。その考察も面白い。スパンが3.6あるいは5.4mはほしいこと。部品構成種類を限定すること。部材一部だけでも再利用可能にすること、である。難波さんの論考は、胸に刺さるものがある。一連の建築家の提案に対して「3.11以前の自身の活動を見直すというより、それまでのデザインをより先に推し進めるかたちで展開したといったほうがよい」という。難波さんにおけるその結果が半ば途中であるが、「これまでの経験の上に、新しい技術を取り入れた、コンパクトで高性能なエコハウスの提案」であるという。

3月7日(日)
「グリーンブック」ピーター・ファレリー監督2018製作を観る。1962年時のジャマイカ系黒人ピアニストとイタリア系運転手の友情物語である。当時のアメリカ社会における黒人差別はショッキングであった。しかし差別自体ではなく、既に財をなして裕福な黒人の葛藤からそれを描き出している点が、それをより新鮮にしていた。社会に深く根付く差別がありつつも、それへの一人一人の僅かな抵抗と社会への上手い同化が希望的に描かれていたのが、まずもって素晴らしかったと思う。ピーター・ファレリー監督は喜劇中心に活動をしているようだ。「グリーンブック」とは当時の中産黒人階級者が安心して旅行できるためのガイドブックで、当時も黒人の間でしか知られていなかった本であったらしい。
026 プレミア シェフィールド×サウザンプトン 南野は怪我から復帰し先発で登場。下位のチームに取りこぼすことなく2−0で落ち着いて勝つことができた。ゴールすることができなかったが、南野はチームにすっかりとけ込んでいる。ライン間でボールを受けることが多く、ゴール前で絡むことも増えた。同時に結果も欲しいところで、終了間際の左足でのシュートは決めたかった。

3月6日(土)
NHK特集は、震災から10年。住民ひとりひとりからの避難にかんする聞き取り調査のまとめであった。ひとりひとりの行動を、時間を追ってプロットし、それを人数分重ね合わせた結果の報告である。町単位の小さな集団では避難誘導が、人によるカスケードあるいはヒエラルキー構造をもっていた。合理的な情報伝達のかたちをそこに見ることができた。
025 ラ・リーガ バリャドリッド×ヘタフェ ヘタフェは今日も従来の戦いかたでのぞむ。前半に2失点し後半はじめから久保を使う。いくつかチャンスをつくるも、これといって変化はなし。下位のチームに1-2で負ける。流石にここまでくると、久保を応援していてもヘタフェの試合にはうんざりした。ビジャレアルでは、久保が出場しなくとも組織がしっかりしていたので別の楽しみ方があったのだが、ラグビーのゲームのようである。

3月5日(金)○
「サーカス」チャップリン監督・主演、1928を観る。放浪者チャップリンがひょんとしたことからサーカス小屋に紛れ込んでしまい、そこから繰り広げられる喜劇である。はじめて観たと思うのだが、そうは感じさせないほど明確にシーンをイメージすることができた。思えばよくある短編アメリカンアニメも同様で、定番ストーリーといってもよいだろう。したがって、映画に込めてある社会縮図や個々の演技のディテールの是非が映画としての価値を決めるものとなっている。

3月4日(木)
「複製技術時代の芸術作品」の後半を読む。後半は、当時政治的意味をもつようになった映画に代表される複製芸術の本質についてである。キーワードは複製芸術を形成する技術と大衆。どちらも純粋芸術に向かうことを阻止し、反対の社会というものを形成していく源とされる。大衆の効用は以下である。「チェックすることになるこの大衆のほうは目に見えず、まだ存在していない。この不可視性によってチェックの権威は高められる」。こうして大衆も作家と同様にチェックを通じて自らの意見や考えを社会に反映させることができるようになるというのだ。これは現在のSNSの状況と似ている。次にその実現をになう技術について、ベンヤミンにとってそれは、政治的に中立にあるものとされる。中立とは以下にあるように人の判断外部にあるということである。良くも悪くもなるというのだ。「撮影機械が現実から獲得することができる多様な姿の大部分は、感覚的知覚の通常の範囲の外にある」。そこには知覚器官によってでは、歴史の転換期において直面する課題を解決することは不可能であるという考えが根本にあり、そのために外部にある技術の助けが必要となるというのだ。最終的にこうした課題がどのように解決されるか、ここで建築が登場する。建築を体験することに照らし合わせて、「触覚的受容(=体験)の導きによって慣れを通じて少しずつ克服されてゆく」ことによって解決されるというのだ。ここでいう技術とは、「魔術師に対する外科医、絵画に対する映画のカメラテクニークにあたる」ものである。「画家はその仕事において、対象との自然な距離を観察する。それにたいしてカメラマンは、事象の組織構造に深く侵入してゆく。それぞれが獲得するイメージは、はなはだしく異なっている。画家によるイメージは全体的なものであるのに対し、カメラマンによるイメージはばらばらに寸断されたものであり、その諸部分は、のちにある新しい法則にしたがって集められる」。つまり社会に深く入り込むことできるのは中立的で外部にある技術によってのみであり、そうして深く入り込んだ成果だからこそ、公平に大衆判断に委ねることができるというのだ。このことができるのが映画(あるいは建築がしてきたこと)という複製芸術なのである。

3月3日(水)
思い直して「複製技術時代の芸術作品」を再読することにした。読み直すと改めて気付くことも多い。ここで挙げられているヴィーナスの例が頭を整理しやすい。「古代のヴィーナスの像は、それを礼拝の対象としていたギリシア人にとってはある伝統連関に属していたが、それを災いをもたらす偶像と見なした中世の聖職者にとっては、また別の伝統連関に属していたのである。しかしこの両者に対して、等しい現れかたをしていたものがある。それはこの像の唯一無二という性格、換言すればそのアウラである」。そして「決定的に重要なのは、芸術作品のこのアウラ的な存在様式が、その儀式機能から完全に分離することは決してないということである」。つまり「真正な芸術作品の比類なき価値は、つねに儀式に基づいていた」という。しかし、芸術の複製可能性がこの状況を変えたと本論は続く。それは「芸術のための芸術という教義を持ち出し」、「いかなる社会的機能を果たすことを拒むだけでなく、いかなる具体的テーマによって規定されることも拒絶する、<純粋>芸術の理念というかたちで現れた」のだという。逆にいうと「芸術作品が技術的に複製可能となったことが、芸術作品を世界史上はじめて、儀式への寄生状態から開放するという認識である。(中略)芸術は儀式に基づくかわりに、必然的にある別の実践、すなわち政治に基づくことになる」。芸術となったのは複製技術によってであるというのだ。ものの根拠をその内部に見出すのではなく、とりまく状況からあぶり出す論の進め方。この論考の前半である。

3月2日(火)
024 プレミア サンザンプトン×エヴァートン 南野はハムストリングを痛めたという理由で欠場。心配である。サンザンプトンは好調エヴァートンに先制され、そのまま逃げ切られる。0-1。このところサウザンプトンでゴールしているのは南野だけである。

3月1日(月)○
午前に虎の門行き。午後は来春からの授業の準備をはじめる。一応の方針の目途を着けることができた。この勢いで確定申告の資料も集める。「チャップリン回顧」ベンヤミン著(1928)を読む。笑いをインターナショナルで革命的な情動にまでしたチャップリンを評価する。「サーカス」「世論」「巴里の女性」「ある美しい女性の夜夜」「偽牧師」が挙げられていた。

2月28日(日)
023 ラ・リーガ ヘタフェ×バレンシア 久保は85分過ぎから登場。今日のヘタフェはプレッシングが効きゲームを有利に進めた。そんな中前半終了間際に強烈なミドルシュートで得点ができ、久保の出番は遅くなる。崖縁に立たされたボルダラス監督はこれまでのメンバーに戻し、彼らが徐々に応えるかたちになっている。久保は終了間際にほしいシュートも放ったのだが、後半登場という立ち位置に落ち着いてしまうのだろうか。

2月27日(土)
渡辺真理氏と北山恒氏の法政大学での最終講義にzoomで聴講。アーバニズムがテーマ。渡辺氏は、コーリン・ロウの「コラージュシティ」翻訳からはじまって、都市をどう位置づけてきたかを、作品を通して紹介してくれた。学会賞の真壁伝承館では、プロポ時に建築的な答えを与えていなく、サーベイとワークショップの実施のみを提案していたというのをはじめて知った。その審査員長をしていたのが北山さんであった。続く北山さんは反アーバニズムを唱える。都市をつくるエージェントを市民に取り戻す方法を法政に赴任してからずっと考え続けてきたという。アーバニズムのその後を考えているという点で2人は共通している。北山さんにとってその答えは、都市のヴォイドに注目すること。死んでいるヴォイドを上手く活用することであった。そうした彼らに共通しているのは、資本の手に落ちた都市からの脱却である。もう一度、地形的歴史的文化的バックグランドをもつ都市を計画するにはどうしたらよいかということであった。それを学術的科学的アプローチよりもブリコラージュ的なサーベイやワークショップに期待しているのである。このことに大筋納得できた。しかし、強大なコンペティター=資本には、対抗でなく懐柔が必要でないかと思ったりもする。昨今はリノベーション、環境問題、あるいは狭小地建築ブーム等があるのだが、その上に乗った資本誘導を建築家として考えることもあると思う。建築家のもっている技術とは何かということであるが、つまりは、それこそが(都市)計画することの否定、建築家だからこそのブリコラージュ的手法と思ったりする。
022 ラ・リーガ エイバル×ウエスカ

2月25日(木)
昨日に続き、ベンヤミン著の「オスカル・シュミッツへの応答」1927年を読む。映画「ポチョムキン」の批評である。この映画のストーリーの分かりやすさを批判するシュミッツに対してベンヤミンは、モンタージュという新しい技術を用いて大衆を惹き付け、映画の意味までをも大衆化させたという点を評価する。映画をはじめとする芸術活動が、ブルジュワの審美眼に留まることへ否定したものである。新技術を使用することで「ポチョムキン」が社会にたいして直接為し得た事実を大いに評価していた。夕方から設計小委員会。建築情報学会の「建築情報学へ」第2章の石澤さんの「一から多へ」が話題になる。著書は竹中工務店のBIMマネージャーである。建築情報も詳細になり深度を増していく。それに設計者は追従できなくなりどうなっていくかが間接的に問われていたように思う。ここで書かれているように、建築家が優れているのは、1:500図面に於いて書くこと、1:50において書くこと、1:5で表現する意味等を自然と身体化していることである。このスイッチの切り替えが建築家特有のセンスで、それがさらに問われるようになるようだ。ぼくの経験を振り返っても、最近は事務所特有の究極のディテール等が許されることはない。標準ディテールを使用しながら、それを上手くカバーするようなデザインが細かいところで必要となっていて、それが建築の作品としての質を左右している。情報がオープンになり個々で独立して価値を持つようになったとき、とるべき態度がここにあるように思う。ティール組織のような話である。一方でスペシャリストは細密化を試みる。池田さんのRC構造のモデル化にたいする研究を思い出した。現行の基準法のモデル化はあまりにも単純であるので、実際の挙動を詳細に分析して、新しい基準を作り出そうとするものである。ベンヤミンを読んだ後には、技術者の本来の行いがこうしたところにあるのだとも思うに至る。

2月24日(水)
「生産者としての<作者>」1934年ベンヤミン著を読む。「球と迷宮」から知った。これが書かれた時代背景をなかなか理解することが難しいが、ロシア革命が好転しない現状を踏まえたものと推測する。それをベンヤミンは、様々な分野に所属していたブルジョアジー(知識人、専門家)が仕組んだ革命がそこで留まり、プロレタリアートまでに及んでいないからだと指摘する。計画したことが一人一人の個人にまで及ばなかったことを批判しているのである。これは文学や音楽、写真について言及したものであるが、建築も同様であろう。どうしてそんなことになってしまったのか、ここでは「生産装置」という言葉を使い説明する。「実際には装置が彼ら(音楽家や作家や批評家)を所有しているのに、自分たちこそがその装置を所有していると思っており、そのことによって、みずからがもはやコントロールできない装置、彼らがまだ信じているところはちがってもはや生産者のための手段ではなく、生産者に敵対する手段になってしまった装置を、擁護している」からであるという。この装置を「建築」と言い換えてもよいだろう。ぼくらは「建築」の中にいることを知らずして、逆に「建築」に取り込まれてしまっているのである。ではそうした認識の後どのようにすべきか。本書では「ある作品は時代の生産関係(=「建築」)のなかでどういう立場になるのかを問うべき」といい、別のところでは、「作品が具現している作家の技術」こそが重要といっている。技術とは「生産過程における知識人みずからの持ち場についての正確な知識」のことであり、社会の中にあり、ある方向づけすなわち一旦形式化するものである。この技術を使用して、「生産を束縛している障壁のひとつを新たに取り払う」ことが、「ブルジョア出身でありながら、その出自を克服して、真にプロレタリアートとの連帯を目指す作家」を可能にするというのだ。難波さんとの縦ログ構法を「建築」として捉え直し、今日的な環境問題に合致するよう位置づけし直すこととの共通性をここに感じた。縦ログ構法がなんであるかよりも、縦ログ構法が有益なものを何も作り出せないのなら、役立たずとする考え方である。それにしてもここで取り上げられているブレヒトの言葉は衝撃的であった。「政治において決定的なのは私的な思考などではなく、他者の頭のなかで思考する術(クンスト)である」。

2月23日(火)
「はじめてのスピノザ」國分功一郎著を読み終える。スピノザに惹かれる理由が整理できた。後半にそれをデカルトとの比較で示している。デカルトにとって真理はア・プリオリに存在し、「真理は公共性をもっており、公的な精査に耐えうるものでなければならない。言い換えれば、真理が真理と求められるのは、もはや反論の余地がないと考えられた時であり、したがって真理が相手を説得した時である」とある。この考えによって今日の近代科学が根拠付けられている。それにたいしてスピノザは「真理の基準を外に設けることはできない」とし、「自分と真理の関係だけが問題にされる。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしている」。これは建築家が敷地や前提条件にのぞむときの態度に近い。あるいは、幸福って何だろうというような答えのない問題を考えるときの態度に近い。そうした問題に根拠を与えるものなどないので、その中で考え戯れ、それがせめてもの創造といえるものだということである。次に疑問に思うのは、こうしたスピノザ的真理観と近代科学との間に接点があるかということである。本書では、全くOSが異なるので、つまりパラダイムが異なるので共有は難しいと結論付けている。ただぼくが思うに、その中で考え戯れる方法自体は整理説明できるし、その手順は近代科学的思考方法と同じでないかと思う。あるいはもしスピノザの方法こそが正しいとするなら、対立する近代科学の限界を示すことで逆に振り戻すこともできるのではないかと思う。

2月22日(月)
「はじめてのスピノザ」を続ける。原因/結果、能動/受動が3章で取り上げられる。「自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である」。つまりコナトゥスを発揮していることを能動的という。すなわち、自由とは能動的であることである。しかし一方で自発性は否定される。意識も含めて全てが複雑な原因の上に成立して、ゼロから生まれるものなどなく、それを差し示すことなどできないというのだ。むしろ原因は結果の中で自らの力を表現するものとしてある。パタン・ランゲージに対する評価も同様だろう。パタン・ランゲージを使いこなすことが自由=創造で、そうしてはじめてパタン・ランゲージが創造の源と見なされるようになる。

2月21日(日)
020 プレミア サウサンプトン×チェルシー 南野が先発。サウサンプトンは前戦からのプレッシングが効かずに押し込まれ、ボール支配率が極端に低かったが、南野は一瞬のチャンスを活かして先制ゴールを決める。このときだけ左ではなく反対サイドに位置していた、そこの選手間でボールを受け、DFとGKが滑るのを見届けてから落ち着いてゴールに流し込んだ。しかし後半から消えてしまう。チームが押し込まれる状態ではやはり南野は活きない。先制ゴールにもかかわらず75分過ぎに一番はじめに交代させられる。こういう均衡したゲーム展開でも使い続けられる信頼を勝ち取ってほしいと思う。
21 ギリシア PAOK×ラミア 香川は60分過ぎから登場。そのとき3点をリードしていて試合は決してた。動きは上々。ただし、ギリシアリーグはあたりが強くなく、判断スピードが他リーグと比べて劣っていた。それは小さな香川には不利にならず、背中に相手を背負っても難なくターンをして窮地を脱していた。ここに日本人の欧州での成功が難しい答えがあるように思えた。激しさからくる体格の弱点をクリアする何かがまず求められている。

2月20日(土)
「はじめてのスピノザ」國部功一郎著を読みはじめる。スピノザ「エチカ」の入門書である。コナトゥスとは、自分の存在を維持しようとする力。つまり、エントロピーを減少させる力である。このコナトゥスによって、物や人は変状し、つまりエントロピー増大に反し生き、それは生物学に於けるエソロジーという考えである。人が幸福を感じるのは、コナトゥスが発揮されるときで、場や時、各自にとって異なり、絶対的なものではない。生起=幸福ということであろう。したがって、精神と身体を2分けして考えない。同時期のデカルトが考えた近代二元論と大きく違うという指摘がなされるが、芸術においてはバロックが先行していて、むしろスピノザよりもデカルトの誕生の方が異様なことだろうと思う。ちなみにこの後17世紀にはニュートン、ホッブス、ロック(契約論)が続き、啓蒙の18世紀に入る。そして3章からはスピノザの自由について。自由とは、与えられた条件のもとでコナトゥスを発揮できることである。
019 ラ・リーガ ソシエダ×ヘタフェ いよいよヘタフェが行き詰まる。5戦勝ちがなく4連敗である。久保とアレーニャを外し守備的でのぞむのが、今日は以前と違い数度チャンスをつくる。しかし得点できなかった。試合も0-0の均衡を保っていたので、久保の登場も遅くなり80分過ぎから。交代直後にPKを与えてしまい、反撃に移ろうとするも打つ手なし。久保はともかくチームの迷走は続く。

2月19日(金)
本年度の卒業設計・修士設計の講評会をzoomで開催。ゲスト審査員に比嘉武彦氏、松井龍哉氏、日埜直彦氏を迎える。それに非常勤講師と専任を加え、23名による大講評会であった。たいし参加する学生12名全員はパワポによる2回目のプレゼとなり、テーマを絞り上手く伝えることができたと思う。Zoomのよいところであった。遠藤研からは佐藤玲香さんと町田忠浩くんが参加。佐藤さんの案は地元の庄内平野で計画し、庄内平野の大きな課題である雪を「溶かす」ことから「と化す」ことを目指した案で1等に選ばれた。この案は、使われなくなった田を町が推進していた移住者促進計画によって再生しようとする試みである。計画されたのは8棟。それらをシミュレーションによって巧みに離れた分散配置をし、夏と冬で全く異なるランドスケープをつくった。それはこの雪国特有の吹溜りという自然現象を上手く建築化したものである。松井さんからは、生活する側の視点からのデータ分析と観察が丁寧であり、それをみずみずしいと講評してもらい、「〜と化す」という言葉の扱いも感心してもらった。日埜さんは、野生動物の脱皮などの例に挙げ、夏と冬の顔があるのは生態的と評してくれた。こうした建築のあり方は、モンゴルのゲルや東南アジアの浮型高床式住居に見られないこともないが、ひとつの発明であるとも評してくれた。比嘉さんは、前提となる庄内の過疎や農業問題などの条件操作も巧みであったと評してくれた。御手洗龍さんは最もこの案を評価してくれたひとりである。この案を、観察から自分の言葉での抽象化し、そしてそれを建築にまで高めたものという高い評価である。そしてその広がりを根付かせることが文化であるともいっていた。しかし一方で内部の生活のプレゼなさを指摘し、今後の課題としてあげてくれた。武田清明さんは将来に開けていて、そこからくる明るさを評価してくれた。谷口景一郎さんは、技術的側面から雪の断熱や反射などの実現性の高さを評価してくれた。それに加えるならぼくが思うにこの案の素晴らしさは、卒業設計で必要な壮大な希望があり、かつそれを具体的にしようとする意志の高さが先生の琴線に触れたのではないかと思う。地球とまでいかないまでも自然までをもブリコラージュする大胆さと緻密さが受けたのだと思う。これからは、こうした視点の思想、たとえばティモシー・モートンなどに触れて問題を整理するとよい。2等となった町田くんの案は、ピラネージの「牢獄第2版」を分析し、その意味を現代に問い直す提案であった。松井さんは、学生らしい意欲的な試みであり、ピラネージから隈研吾とインスタ、そしてイオンが代表される商業批判といった一連のストーリーつくりの力強さを買ってくれた。日埜さんはこの案の明るさを評価してくれた。こうしたことが可能なのも軸組構法によるものであるが、チュミとの相違を質問に挙げていた。日埜さんは絶えず成果物としてのモノの効果に重点を置いていたのが印象的であった。もっというとチュミがもたらしたものと30年後の現在何が違うかという問いである。これに答えるのは難しいが、町田くんがあげたインスタ映えの意味を再評価することにヒントがあるのだろうと思った。一般の人は全体計画など全く気にしていないということだ。チュミのものとは違って全く全体像などないのだ。比嘉さんは、牢獄における「衝突」の発見を評してくれた。衝突については、タフーリがそしてエイゼンシュタインもキーワードとして挙げているので、チェックする必要がありそうだ。ぼくとしては、建築の根本である将来を計画することの不可能さを示す批判的作品として、この作品を評価している。ピラネージには、近代の明確な都市計画への反発がある。それによって、ひとつひとつ一人一人の個が消されてしまうことへの批判である。現在誰もその危惧を感じている。しかしそうした危うい計画に代わる新しい方法など見出されてはいない。そのときにこうした窮屈な現状を衆知にさらす批判的方法もあるのでないかと思うのだ。そこも評価したいと思う。遠藤研以外では、布施晃輔くんの南極に建つプレファブ建築の提案も好評であった。詳細な技術的検討やモックアップが評価されたかたちである。完成度が高かった。日埜さんもいっていたのだが、オープンテクノロジーの可能性について結論として位置づけるとよいのではないか。それは比嘉さんがこの構法の汎用性を問うていたことでもある。これらの話を聞いて、三宅理一さんの「限界デザイン」という本を思い出した。参考にするとよいと思った。塚原諒くんの作品も高い評価を受けた。手賀沼の自然環境を読み解き、そこで生育している芦を建築にする提案である。彼はプレゼの前半で、石山修武、坂茂、ジャン・プルーヴェ、池辺陽を構築家として挙げて、彼らの作品に対する姿勢を受け継ごうとしている。それにぼくも賛同する。ぼくが思うに彼らに共通していることは、建築を通して社会性を示そうとするのではなくその反対の、社会の中から生まれてくる技術を利用して建築として顕在化することにある。比嘉さんはこれを踏まえて、手賀沼の歴史性も拾い上げる必要性を指摘してくれた。日埜さんはもう少し現実の敷地に向かう必要性を指摘してくれた。研究に重点を置いてしまう院の弱点を突かれた訳である。ほしかった。学部4年の竹村寿樹くんも高い評価を受けた。これも地元商店街を丁寧に読み解き、そこから拾った問題点や特徴を公共に役立てようとする提案である。松井さんからは最終的な新しさが問題にされたが、比嘉さんによる、この案を中華料理に喩えた評価が面白い。大きさの同じ材料を揃えてざっと組み合わせるカジュアルさを評価したものであった。この指摘にあるように図面の精度と密度は圧倒するものであって、真摯に評価する必要がある。最後に総評として松井さんは槙文彦先生の言葉を紹介してくれた。美とは美しいという意味の他に、元来人間が住むときの快適さを示すものであるというもの。こうした提案の大切さを重く受け止める必要がある。日埜さんは佐藤案と町田案の突出したユニークさと展開の面白さを評価してくれたものの、比嘉さんにはいまいちであったようだ。2案の力強いストーリーつくりを評価しつつも、そこに至るまでの視点の面白さ、拡がりの可能性も評価すべきだという意見であったと思う。それは、コロナ渦を踏まえた非同期コミュニケーションの提案や地面レベルの開放を狙った案のことをいったものだと思う。その上で選ばれた3案に対して敢えて批評してくれて、佐藤案に対しては特殊解で普遍性がないとし、布施案に対してはテクニカルな方法論の行き先に疑問を呈していた。町田案には情熱を感じつつも最後のモノとしての強度に疑問を感じていた。今年はzoomによる講評会であった。建築としてのモノの出来の深度よりも、設計に至る内容までの深度を上手く表現できているかが問題にしたと思う。比嘉さんがいうにはその深度よりも切り口の鋭さというものだろうか。近頃の傾向として、学生らしい突き抜けた案がなく保守的といってもよい案が多い。そんな中、モノよりも過程の方に重心が移ったかたちである。それは千葉工大らしくなく、先行きに少し不安を感じないこともない。このように思うに至る。

2月18日(木)
「球と迷宮」の8「閨房建築」を再読。閨房とは心地よい寝室のことである。現代建築が内部に留まっていることを批判している。では向かうべきはどこか。ベンヤミンの「生産者としての作家」というエッセイが最後に挙げられ、それが答えである。「ある文学(作品)が時代の生産関係に対してどういう立場にたっているかと問う前に、生産関係に対してどういう立場になっているのか、と問いかけてみたい。(中略)この問いは作品生産における作家の技術に直接向けられている」。この生産と技術に向けられた視点は池辺さんを思い出させるものであった。池辺さんはこれをまとめて「デザインの鍵」の最後の96「広げるほど決めやすくなる」でこういっている。「デザインの対象は単に名前だけではなく、具体的な形として無限に広げた形の中に浮かび上がってくるとシンボリックに考えることができる。ここにシステムの考え方の基本が存在しており。システムとは、描かれた組織図ではなく、対象物の無限の成長の形態であるといえる」。

2月17日(水)
建築雑誌2月号が届く。特集は「ローコスト建築の諸相」。巻頭に石山修武氏の対談。最後の方に難波さんの「ブリコラージュとしてのローコスト・デザイン」がある。この特集ではローコストを、工業化技術という実際的問題として示すよりも、設計者や社会のもつ美学としても浮き上がらせようとしている。その中でフィンランドの戦後の住宅政策の紹介が興味深い。三宅理一氏の「限界デザイン」でも紹介されていたPuutalo社の戦後復興難民丸太組住宅である。ローコストの普及はもちろん品質保証と地域への適用が目的とされていて、今年のベネチアビエンナーレでも紹介されているということである。最後に最近の日本のDIY的建築家の見取り図が挿絵としてある。石山さんを中心にして、横軸に生産工法―美学意匠。縦軸に複雑性―単独性として建築家を割り振っている。これは生産と美学、単純と複雑性を対比して捉えるものであるが、その批判として難波さんの論考を読むと、ブリコラージュをこうしたステレオタイプ的な思考を脱するものとして紹介していて、面白い。

2月16日(火)
CASABELLA915号が届く。アンサンブルスタジオによるアースワークが2点。ロッキー山脈のある財団のためのステージ。大地を盛り、穴を掘ってコンクリートを打設し、盛った大地を取り除いた作品。それと、石灰岩の採掘場の再生計画。どちらも建築というよりもアートである。ヘルツォークのバーゼルの集合住宅は、外装のシャッターが印象的であった。

2月15日(月)
017 プレミア サウザンプトン×ウルヴァーハンプトン 今週FA杯でも両者は戦っていた。南野は規定により登録できずに今日は2列目から先発。前半はチャンスメークをし、シュートも放つ。チームの前線からのプレッシングが効きよいかたちであった。ところが後半から形勢ががらっと変わる。なぜだか判るとよいのだが、トラオレが縦横無尽にドリブルするようになるとDFラインが下がり、全くセカンドボールを拾えなくなった。こうして南野が消えて、60分に交代。しかしゲーム展開は変わらなかった。フットボールの面白いところである。サウザンプトンは良い戦いをしているのだが、リーグ戦5連敗である。

2月14日(日)
016 ラ・リーガ ヘタフェ×レアル・ソシエダ 前戦のマドリードに続き、ヘタフェは従来の形式に戻す。したがって、久保とアレーニャは先発から外れる。久保登場の58分まで、得点を決められるもまずまずのプレッシングが効き5分5分であったと思う。久保とアレーニャの登場は守備中心から攻撃はじまりの狼煙である。しかしそう簡単にはいかなかった。チャンスが訪れないのは、相変わらずハイボールを上げて相手攻撃をしのぐパターンが続いているからだ。久保がフリーでいるもそこへのパスは少なかった。そろそろボルダラス監督の次の新しい手が必要となってきた。

2月13日(土)
「球と迷宮」の2「アヴァンギャルドの歴史 ピラネージとエイゼンシュタイン」を再読。エイゼンシュタインはロシアの映画監督である。有名なのは「戦艦ポチョムキン」。エイゼンシュタインが用いたピラネージをオマージュする構成手法をタフーリは評価する。それは、エイゼンシュタイン特有のモンタージュ手法というものであり、「牢獄」からヒントを得たものであるという。エイゼンシュタインは「牢獄」の構成を「相互に随伴する複数の知的作業による衝突―並置」したと捉えていた。ところでこの章で、タフーリはエイゼンシュタインのどこにアヴァンギャルト性を見出しているのか。なかなか読解するのが難しいが、フォルマリズムの実験を行いながらも、コンテクストの全体性、有機性、その構造の永続性を保持しているところにそれを見い出しているようである。ぼくなりに考えると、「名前のある空間」をつくりつつも、名前によって決め切ることができない余白も提示することだろうと思う。つまりは「名前のない空間へ」ということなのだろう。
015 プレミア レスター×リヴァプール 1-3でレスターが勝利。リヴァプールペースでゲームが続き、漸く後半になって美しい崩しからサラーがゴールを決めた。しかしその直後に、DFが崩壊し続け様に3失点をしたかたちである。今日もキーパーをはじめとするDFがおかしくなった。クロップはこういう時もあると選手をかばうも、悪いチーム状態から抜け出せずにいるのが現実である。

2月12日(金)
「球と迷宮」タフーリ著の1「悪しき建築家 G・B・ピラネージ ヘトロトピアと旅」を再読。ヘトロトピア(混在郷)とは、フーコーの言葉で、想像上の場でありながら現実に存在する場のことをいう。ユートピア(理想郷)と対の言葉である。このピラネージの不思議な画の構成をタフーリは「すわりの悪い」「非実在的」といい、「中心をもつかに装ってはいるが決してそこには到達していかぬような組織体の呈示」あるいは「『中心性』の概念に対する体系的な批評」といっている。修士研究で町田くんは、ピラネージのこの「牢獄」に物理的「衝突」を見ていたが、本書ではこれを、物理的なものを超えて、「支配の必要性の主張が主体の権利の主張と衝突しているもの」といっている。つまりこの啓蒙の時代には、社会、自然、科学、都市といったあらゆるものが超越的なものによって合理的にコントロールされると考え、それが主体にまでおよぶと考えていた。ピラネージはこのことを非常なまでに拒否しようとしたのである。そうではなく、自然や社会はもっと「偉容」であるべきといっていた(この偉容と言う言葉をピラネージは「ローマの建築と偉容」と題名にしている)。「偉容」とは、社会や自然に疎外されている恣意的な主体をも含む有り様を示す。つまりピラネージは、理念や理想が窮屈なもので、それに対して偉容な世界観を「牢獄」で提示しようとしているというのだ。

2月11日(木)
JIAから書籍「2020大学院修士設計展」が送られてくる。昨年の修士設計優秀作品集である。遠藤研から中山くんと櫻井さんが代表で選ばれ、ぼくも実行委員をしていたので思い出深い。そこでの審査委員長の野沢正光さんが中山くんに話してくれた言葉が印象的であった。「建築には作為が必要だ」というもの。兎角ぼくらは、意識した環境条件を全て拾い上げようとするものであるが、そうではなく切り捨てる判断が必要、これを作為といっていたように思う。同様なことを総評でぼくも話したのであるが、野沢さんの方が上手くこのことを言い当てていた。リサーチをかたちにジャンプさせることを無理なく行う方法のひとつで、非常に現代的な方法であると思う。NHKで聖林寺の十一面観音の特集を観る。栗生さんが新しい収蔵庫を設計しているようである。この像は優雅で好きな仏像のひとつで、奈良橿原の山奥にあるのだがこれまでに4〜5度訪れた。元々は三輪山神社本殿にあったというが、廃仏毀釈を免れるためにこの山奥の小さな寺に隠されたものだ。それをフェノロサが再発見し、国宝制度をつくった。この特集で御堂の右にあるのが、フェノロサが寄贈したものであることを知った。今は一旦外に出て外廊下を登った味気ないコンクリートの中に保存されているのであるが、それがクラウドファンディングによって新しいものになるそうだ。

2月10日(水)
015 ラ・リーガ レアル・マドリード×ヘタフェ 延期していた第1節を中2日で強行。そのためヘタフェは先発を前戦から7人代え、久保らは後半56分から登場。アレーニャ、マタと3人揃っての交代登場であった。しかし決定的な見せ場はつくれず。それ以前のヘタフェは厳しいチェックによってレアルに善戦していたと思う。攻撃モードになったところを、逆に突かれたかたちであった。今日のレアルは、久保と同世代のB出身の若手が2人登場した。久保も頑張らないといけない。

2月9日(火)
「世界を変える7つの実験」ルバート・シェルドレイク著を読み終える。科学教義は反駁可能で、これまで当然視されていた「科学」信仰を実験の俎上にのせるのが本書のねらいであった。1980年代の本であるがその後40年経ち、本当に壊れ始めて多様な価値観が広く認められるようになった。しかし未だに「科学」信仰は強固であり、ご都合主義によって上手い具合に使い分けられていることを一方で感じる。

2月8日(月)
「世界を変える7つの実験」を続ける。光速度Cや重力Gというような基礎定数値も一定でないことが第3部で示される。プラトンのイデアのように隠れた理性やロゴスがあり、時空を超えて存在するものなどないということだ。基礎定数は、18世紀後半の理神論に代わって登場した。そして、1960年代にまで永遠のものであった。しかし、よく言われることであるが、そうした定説をホワイトヘッドらが覆した。自然の変化にともなって法則も進化するはずだと考えられるようになったのである。例えば実際に、光速度は1928年から1945年にかけて下降した。本書がいうには、基礎定数は平均値の限度内でゆらぐものであるという。もちろんこの自然数が一定でないのは観察者側の立場によっても左右され、医療の治癒効果としてはブラシーボ効果として既に認められている。しかし、一般には基礎定数にかんする信頼は厚い。ここに風穴を空けようとしているのが本書である。

2月7日(日)
015 ラ・リーガ セビージャ×ヘタフェ 今日も荒れた試合。退場者が出たのは今季4試合目だそうだ。ヘタフェの試合はこういうものだと知る。ボールをつなげようとするも久保らには届かず、得点の臭いすらしなかった。久保はと言うとDF退場者によって60分過ぎに交代。その後加点され0-3の大敗となる。次戦はレアル戦。久保に奮起を促したいところであるが、先日の、小澤一郎氏とヘタフェの番記者との対談では、コロナがなければボルタナス率いるチームは昨季で寿命を全うしていたという。そうしたところから今季の求心力が弱まっているそうである。久保やアレーニャの加入は、そうした状況で、なんとかチームを再活性化したい手段として考えられたものであるという。

2月6日(土)○
014 プレミア ニューカッスル×サウザンプトン 南野がサウザンプトン移籍後の先発フル出場。鮮やかな得点を決める。DF選手間でボールを受けると前にトラップしてDFを置き去りにして左足を振り抜いた。それでもチームにフィットするには時間が必要なようで、相手が10人になると後方での待機となってしまった。相手を退場させたのも南野の突破からであった。退場を誘発するまでの南野を振り返ると、南野はトップ下で、FWがサイドいっぱいに開くので、2列目から中央に乗り出すようなかたちとなる。これは南野が活きるかたちかとも思う。得点もそこから生まれた。しかしチームは引いて守る10人の相手に攻めあぐねて、2-3で負ける。

2月5日(金)
東京理科大学院の修士設計講評会にzoomで参加。三宅理一氏、加藤道夫氏、ライゾマティクスの齋藤精一氏、能作淳平氏、栃澤麻利氏、近藤哲雄氏が参加。設計の対象がリノベーションや住宅といった小規模なものが多く、身近なものの延長上に設計を捉えているものが多かった。その分ダイナミックさを欠いてしまい、ぼくなんかは少し残念に思う。経験のある者に対してものを申すときには、張ったりが効果的であると思うのだが、そうした作品が少なくなった。自戒も含めて考えたことであった。最終的にぼくが評価した作品は他の審査員に認められなかった。それでも興味を惹かれたのはふたつあった。ひとつは、文学のレトリックを建築に応用した岸野祐哉くんの作品。レトリックが通用するには、そもそも衆知されるための前提がなければならず、そこからのズレによって、自分の考えに加えて前提表現も可能になる、そうした作品であった。建築でいえば、大文字の「建築」あるいはコンテクストといったものをあぶりだすことである。それはコールハースの偏執狂的批判的方法に近く、非常に構築的なものであると思った。ところでこの作品の提案者が前提としたものは、建築家である祖父の思い出詰まった住宅で、それに直階段を新しく挿入して、祖父が大事にしていたものを明らかにしようとしていた作品であった。もうひとつ気になった作品があった。それは篠原麻衣さんの作品で、江戸時代の錦絵の構図を利用して、大阪の水風景を再生させようとしたものであった。錦絵から現代大阪へ正当に適用すべり込ませる方法が巧みであった。錦絵のパースペクティブな構図は、絵を鑑賞する人の立ち位置を意識したものであるので、それを淀川の流れにのせることによって、現代人の興味を川に沿って連続させることを期待した作品であった。これは2等になった。1等は、齋藤匠さんの瀬戸内海小島の活性化計画。ランドスケープアーキテクト石川初さんのインダストリアル・ブリコラージュを思い出させてくれる作品であった。島内の素材を巧みに使っているのだが、ブリコラージュするときの切羽詰まった必要性のようなものを感じることができずに、遊び的あるいは数寄屋的ともとれて、評価することができなかった。その他、3等は住宅が壊れるまでの30年をデザインした、落合諒さんの作品。計画することがこれほど疑われている現在、死に方まで計画する必要はないと思い、選ぶことはできなかった。4等は地下の水脈を活かした山崎南帆さんの下町計画。こうした地球規模の環境を考えることは素晴らしいと思ったが、既存の住宅区画に縛られていてランドスケープまで至らなかったのが残念であった。

2月4日(木)
香川がPAOKデビュー。YouTubeのタッチ集を見る限り、ボールが23番に集まっているのがわかった。ただし、後ろ向きで受けることが多く、連動的な動きに至るまではもう少し時間が必要と思う。
013 プレミア リヴァプール×ブライトン リヴァプールが0-1で負ける。ブライトンは組織化されてよいチームであった。今日はマネが欠場。シャキリが先発も前戦のように活躍ができなかった。それはフェルミーノも同様であった。

2月3日(水)
「世界を変える7つの実験」を続ける。例えばモノを見るというのは、モノから瞳、網膜、そして脳へという一方向的な伝達プロセスではなく、反対のプロセスがもう一方向にあるといっている。それは、映像や知覚が瞳を介して外界へ投影されるプロセスである。本書ではこの2つめのプロセスを科学的に証明しようとしている。建築でいえば、モノから人への作用に加えて、モノを廻る人が知覚するコンテクストもあるということであろう。情報は単独には存在せず、周辺状況と絡まってはじめて存在するということである。これはある観察者の意識下で起きることであるので、完璧に客観的な情報とすることはできない。修士研究などにおいて事例からパターンを分析することに、ぼくが引っ掛かるのはこうした理由による。これを逆の創造という立場からいったものが岡崎乾二郎の「抽象の力」である。このパターン化するときの観察者(芸術家)の意志こそが重要で、それを力説した本である。これを思い出す。

2月2日(火)
「世界を変える7つの実験」ルパート・シェルドレイク著を読みはじめる。1994年出版である。日常近辺には既成の科学が見過ごしている大きな謎が潜んでいる。それは、ペットの犬が飼い主の帰宅に気付くとか、後ろからの視線を感じる、といったことであり、その紹介である。本書の立場は、これをミステリアスに扱わないで、科学によってアプローチしようとしている。この点に好感が持てる。要するに複雑系システムの扱い方について書かれたものだ。

2月1日(月)
012 プレミア ウエストハム×リヴァプール このところ好調のウエストハムにリヴァプールが乗り込む。中2日で日程が混んでいることもあり、今日の3トップはサラー、シャキリ、オリギであった。南野はいない。オリギは前半からディフェンダーを引きつけて3本シュートを放つ。シャキリは、サラーへの2点目のアシストが素晴らしかった。サラーは2得点。どちらもスーパーゴールである。3点目は途中出場のフェルミーノの絶妙なペナルティ内でのアシスト。前戦の戦いぶりといいリヴァプールは調子が戻ったという感じである。残念ながらそこに南野はいない。

1月31日(日)
011 ラ・リーガ ヘタフェ×アラベス 下位同志の戦い。横パスカットを怖れて、トラップもなしに兎に角前に蹴り出すという戦法を両者がとる。そのボールは高くパントのようなボールで、壮絶なヘディングの競い合いとなる。それがファウルをよびゲームは途切れ途切れとなる。ラグビーの試合かと思うほどであった。久保にたいして「内に絞れ」という監督の指示が、今日は2シャドーという形になった。しかしほとんど展開できずに80分過ぎにもう片方のアレーニャと共に交代。自由が与えられているようなので、中盤の空いていたスペースを使って、ボールを受けても良かったのではと思う。その後、これまでのメンバーに戻るとボールがむしろ回るようになるのは皮肉か。出場チャンスを得ても成長のためのプレーとなっていない。こうしたゲームが2つ続いてしまった。

1月30日(土)
010 プレミア トットナム×リヴァプール モウリーニョとクロップの新しい闘いである。序盤から激しいスペース争いで得点の取り合いと思われたが、オフサイドやハンドなどの判定が翻った。緊張感が張りつめた序盤であった。アジア人のソン・フンミンはその中で一際輝いていた。前半終了間際に速攻からリヴァプールが得点すると、このところ成りを潜めていたSBアレクサンダー・アーノルドが輝く。早めのアーリークロスによってアシストとゴールをする。これによって本来のリヴァプールに戻ったという印象。3-1でリヴァプールが完勝。トットナムは後半からケインが怪我で退いたことでレクサンダー・アーノルドを楽にさせてしまった。ゲームの流れはこのことが大きかった。

1月29日(金)
修士設計発表会をZoomで行う。入念に準備されたパワポプレゼにより研究内容や手順を詳しく理解できた。Zoomによる今年の新しい傾向である。しかし、図面を詳しく読み解くことができなくなってもいる。つまり作品にまで至るプロセス共有が大事になり、修士設計も現在の多くの建物と同じ問題を抱えるようになっていると思う。それは、現実感の欠如というもので、多くの設計前提が情報として扱われた結果のものである。最近、新しい病院に行くことが多くなった。そこで感じたことであるのだが、それらは来院者を滞りなく流すことに重視が置かれ、案内は全て番号表示で、建築計画はそれを補完するように一筆書きになっている。それで利用者の混乱を少なくすることに成功はしているが、エントランスや診療待ちなどの空間に違いはなく、単なる面積確保として考えられているようである。そのために空調や照明といった環境制御が重要視されるのだが、かえってますます人が本来もっている感性とかけ離れる結果を招いている。遠藤研からは発表会に5名が参加。トウくんは中国の伝統式構法である耳鍋屋根を復活させた新しい街の提案である。この構法を風水と絡めて、部屋の配置とランドスケープを意識した建物配置に用いた。加藤翼くんの作品は純粋幾何学を分析し設計に応用する案である。古代建築やカーンの建築を詳しく調べていた。その結果、彼らは幾何学を自然と対峙するためのものと考えていることを発見した。それは昨今流行りの自然と同化と異なる考えである。手賀沼で残すべき風景をリサーチから発見し、それに学んだ幾何学の配意方法で対峙することで自然を浮き立たせる設計であった。こうした研究では多くが、資料収集をパターン化して設計に応用させようとする。もちろん、そうした分析は自分にとっての学習にはなるが、それを一般化させるには無理があると思う。パタン・ランゲージも同様のツールと考えられがちであるが、アレグザンダーはあくまでもパタン・ランゲージを、利用者に刺激を与える媒介物として考えている。パタン・ランゲージは、モノと人との間に潜んでいる関係を浮かび上がらせるための道具としてあって、詩や小説を表現するための言葉(ランゲージ)のようなものなのである。あくまでも結果としての成果物は設計者の判断に委ねられていて自由である。それを念頭に置く必要があると思う。佐藤誓哉くんの作品は、忌み嫌われているお墓を日常的なものにしようとする作品。選ばれた敷地は行田公園である。この公園で収集された特徴的なモノには記憶が宿っているとして、その記憶を、建築を通じて再獲得しようとする案である。しかしそうしたモノと受け手のプロセスは複雑で容易にモデル化が難しいことが指摘された。加藤くんの作品と同様に必ずしも明確なルール化する必要がなかった。もっと記憶を宿したであろうモノをクローズアップさせた設計をすべきであった。鈴木蘭子さんは建築の寿命をテーマとした。非常に現代的テーマである。しかし視点がユニークであった。本作品によると、モノとしての耐久性とプログラムが機能する時間にズレが生じ、それが建築の根本の問題であり続けてきたという。特に最近は生活変化が激しいにもかかわらず、モノの寿命が延びてその乖離は大きくなっている。フラーのエフェマリゼーションもこのことを問題にしていた。本作品は、それをスクラップアンドビルドが柔軟な素材によって実現しようとするものである。提案では設計を2つのフェーズに分けて、現在必要な療養施設と何十年後日に住民の中心となる図書館が計画されている。敷地は、お茶の水駅プラットフォーム対岸にある住宅が建つ細長い敷地である。そこでスクラップアンドビルドを繰り返しながらもシンボル性を確保しようとしている。この視点が次に面白かった。町田くんの作品は、2/19の外部講評会に選出された。ピラネージの「牢獄第2版」を分析し、それを設計に応用する作品である。「牢獄」の構図は、スケールアウトした階段やブリッジが中心に向けて「衝突」をおこすものである。しかし、その中心部には入り口などもなく、ナンセンスな画である。このピラネージの意図はどこにあるかというのが研究の出発点である。本研究によると、ローマの都市計画とこれは深く関わっているという。古代ローマの遺跡は混沌とし全体性がない複雑なものであった。ピラネージは古代ローマ遺跡の実測調査を通してそうした古代ローマに憬れていたという。ところが16世紀のサッコ・デ・ローマ以降のピラネージ時代のローマは、教会前広場やオベリスクを直線道路で繫ぐ明快な都市計画になった。それはいわゆる近代思想の中心である計画(原因から結果)による全体性の獲得を目指したものである。しかし数世紀を経て、そうした計画の行き詰まりが叫ばれるように現在なっている。そうは明快に原因と結果の構図にならないのだ。しかし代替え方法が見つけられずに未だに世界は計画によって支配されている。そうした計画への批判性が本研究にある。しかしそうした兆候は既に見ることができ、隈研吾によると、彼の建築をバックとするSNSには部分を背景にしたものが多いという。それは現代の若者が全体像に関心を示すことのないひとつの現れであるという。本研究はそうした現代性を表現しようとするものだ。SNS=「牢獄」の構図を引き継ぐことでそれを獲得しようとしている。敷地は幕張のイオンモール。現代のイオンモールなどの大型店舗は、無意識に消費を促すような入念な計画が練られている。本来自由意志基づくはずの消費活動はそういう意味でコントロールされている。そこから脱却するにはどうしたらよいか、ピラネージのローマ批判と同様な方法がここで試されている。フードコートやブランドショップに、スケールアウトした門や階段が衝突を起こす計画である。結果、そうした場所は窮屈そうで不自由である。それが周知されることで、消費計画から自由になることが考えられた。批判性のある作品としてユニークであった。

1月28日(木)
昼に虎の門病院行き。午後から雪が降り始める。GA JAPAN168の2020の総括は、伊東さんと藤本さん。美学が共有されないとプロポでは選ばれないという伊東さんの言葉が印象的。美学とは建築を統合するときのセンスのようなものをいっている。これは卒業設計などにもいえることだろう。香川のPAOK移籍が決まる。ギリシアリーグのゲームは日本では放送されていないらしい。iPadのデータ消費が激しい。メモ機能の消費が多く、最近増えた手書き機能によるものだろうか。Wifi意外での同期チェックを外す。

1月27日(水)
卒業論文の発表会をzoomで行う。コロナ渦のためこれまでの既往研究の延長上のものが多い。新実験棟のスペース問題も収束させることができた。メールデータが飛び復旧に悪戦苦闘する。Macの場合は、自分の問題とピッタリ一致する解決策がネットでも見つけられないので、同様な問題を抱えていた人の解決策を辿って、トライアンドエラーしなければならない。怪しいところを狭めていく訳である。設計を体感しているようであった。それにしても専門用語が多いので、辟易する。

1月26日(火)
009 ラ・リーガ ビルバオ×ヘタフェ ヘタフェは後半、ビルバオから力の違いを見せつけられた。1-4の大敗。久保は60分過ぎまで先発。開始いきなりの連携による得点以降、ビルバオの守備に苦しめられた。自陣でしかボールを受けることができずに、ゴールまで迫ることができなかった。試合後、監督のインタビューでは中央に絞ることが許されていたという。マンマークの相手SBの裏を見方SBに使わせて自由に展開ができなかっただろうかと思う。ビルバオはそのことを実践し、久保のサイドから攻撃していた。

1月25日(月)
母と国立国際医療センター行き。詳細な検査の結果、特定原因が発見されず、それがよかったのか悪かったのか。妻はというと父と虎の門病院行き。こうした状況が続きそうだ。「建築情報学へ」を続ける。複雑であるとされる世界が細かく情報化される過程を本書から読み取ることが出来た。しかしそれでも不明な疑問が残り続ける訳である。余白がなくなることはない。まるで原子核の周りの量子のようなものの存在が情報であるとも思う。これを制作に結びつけるのは至難の業であるが、要するに「建築」と言うことではないかと思うに至る。存在がはっきりしないが、確実に存在するものである。そして「建築」はそもそも動的なものである。

1月24日(日)
「建築情報学へ」を読みはじめる。新しくつくられた建築情報学会のマニュフェスト的本である。デジタル技術が単なる手段からフィジカル的に受け入れられる可能なものとなるにはどうしたらよいか、これを説明している。加えて強調されるのは、領域的横断と拡張である。つまり、情報が微細に身体に浸透していく過程の扱いが示されている。実践的例がないことと、歴史も浅いので、記される技術内容が客観視できないでいるので、読み物としては苦しかった。教科書とはこういうものであるといってしまうとそれまでであるが、設計教科書も同様、動的な現象を記述するときの表現の難しさを感じた。

1月23日(土)
CASABELLA914の巻頭はモンタージュ。論考にあったチューリングの格言が印象的であった。コンピュータによる創造性を廻る永遠の論争についてである。「機械が書いたソネットを味わえるのは別の機械だけである」。この格言は、機械の創造を否定したとも人間が変わるべきものであるかを指摘したものとも、どちらにも捉えることができるものであった。そしてその次に、「イタリアのフォトモンタージュ」が紹介されている。ミレーの晩鐘、ピラネージは定番であることが分かる。
008 ラ・リーガ ウエスカ×ビジャレアル 久保が移籍し興味が半減したものの岡崎先発。奮闘するもウエスカは守備重視でボールが前線にまで届かず。60分過ぎに交代となる。ビジャレアルはと言うと、久保のライバルであったモレーノとチュクエゼが離脱していた。何ともいえない感じであったが、そこに右のモイ・ゴメスを入れ、左はというとSBのペトロザを上げていた。あくまでも守備重視であって、久保が移籍しなかったとしても先発が回ってきたかは不明である。0-0のドロー。あくまでも型重視のエメリの姿勢がうかがい知ることが出来たゲームであった。

1月22日(金)
卒業設計の発表会を今年はオンラインで行う。実際の模型と図面をみることが出来ないので、作品のもつ力が感じられなく、画面を通してのプレゼの良し悪しで決まったように思えた。つまり、評価がモノから説明力に移動したわけである。遠藤研からは佐藤伶香さんが2/19開催の講評会に選ばれた。敷地は庄内平野の田んぼの中。夏と冬でがらっと変わる景色を利用して、庄内平野特有の新しい生活を提案するものであった。積雪が多いと道路やあぜ道が消え、その上の吹雪きで新しいランドスケープが出現する。これを吹きだまりというが、それを積極的に生活に活かそうとする提案である。残念ながらその風景の変化がどんなものであるか、雪国出身でないぼくらは理解できなかった。その辺りのプレゼが重要となるだろう。木造ログハウスが、雪に覆わることでザハ建築になることをイメージすると良い。こうしたランドスケープが表現できればとよいと思う。

1月21日(木)
007 プレミア リヴァプール×バーンリー アンフィールドで、リヴァプールがまさかの敗戦。実に64試合ぶりとのことだ。しっかり固めた陣形を最後まで崩すことができなかった。これで4試合得点がないことになる。南野は80分過ぎから登場。ゴール前の混戦において南野は重要な働きをすると思ったのだが不発。最終ラインに埋もれてしまい、リヴァプールは1点もとれなかった。

1月20日(水)
006 ラ・リーガ ヘタフェ×ウエスカ 久保が先発。ウエスカは守りに徹して5バック。対して4-2-3-1の右Wで先発の久保は二人の左バックスを見る必要があり、前半は自陣に追いやられていた。そのため幾度か相手DFを交わす見事なポストプレーもあったが、ゴールマウスからは遠く、ゴールに押し込むまでは至らなかった。その反省から後半から、チーム全体が前線から果敢なプレッシングをするようになる。これでウエスカの攻撃を食い留めることができ、パスカットから速攻を決めた。久保と同じくこの冬に加入したアレーニャからのスルーであった。興味深かったのは、久保が得たフリーキックを久保自信が蹴っていたことである。堂々としていて、久保がチームから受け入れられていることを知るシーンであった。

1月19日(火)
午後大学行き事務処理を行う。夕方から設計方法小委員会にzoomで参加。最近出版された「建築情報学へ」が話題になる。購入をしていたので、早速読みはじめる。

1月18日(月)
母と国立国際医療センター行き。事務所に戻り調べると、日建設計と厚生省の設計とある。他の病院に比べて廊下幅等が広くゆったりした設計で、待合室も科ごとの枝状になっていて、いわゆる窓口の合理化が行き過ぎていないと思った。2010年の竣工らしいが電子システムの様子をみると、この10年でだいぶ進歩したことがわかる。患者数が少なく感じたのは、建物の大きさからきているのだろうか。午後にはほとんどいなくなっていた。

1月17日(日)
005 プレミア リヴァプール×マンU フィジカルを前面に押し出しユナイテッドが守り切る。0-0のドローである。キーとなっていたのは、リヴァプールの復帰を果たしたティアゴであった。これまでの最終ラインからではなく、ここから縦パスが供給されるのであるが、左右のSBからのパスと同様、決定機にまで至らず。他チームから研究されていることを感じた。

1月16日(土)
CASABELLA914号が届く。巻末に丹下健三の自邸がある。それをピエルコンティが批評している。これによると丹下の転換期が1956年のグロピウスの来日によってもたらされたという。それは創造についてである。それ以前の丹下にとっての創造は「自我の内部でフォルムが育ち、最終的に出現し成熟する」ものであった。しかしグロピウスの日本文化吸収力に触れ、「伝統と破壊のディアレクテイクな統一が、創造の構造である」というまでに至ったというのだ。それで丹下は日本伝統を、伊勢からの神殿造と桂に見られる数寄屋で統合しようとしたというのだ。そしてそのエネルギーを創造に変換した。その詳細をこの丹下自邸に見ることができる、という論考であった。

1月14日(木)
「サピエンス全史」を読み終える。ホモサピエンスが良くも悪くも大きくなったのは、「想像上のコミュニティ」を描くことが出来たからであるという。それは、王国、帝国、宗教、貨幣といったものである。他の生物との違いは、親密なコミュニティでは補うことが出来ない感情的空白を想像上のコミュニティによって補えることができたかどうかにあるという。文化とはそういう上に成立するもので、アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」もそれを示唆するものだろう。大文字の「建築」もそういうものでないだろうか。そう考えると、ぼくらはそこから何をあぶり出すかが大事で、それの方法を追究するのは時代に左右されてしまいあまり重要でないと思うようになる。

1月13日(水)
「サピエンス全史」を続ける。ここでは、想像上のコミュニティをポジティブに評価する。建築では一般にリアル(本書では親密)なコミュニティにたいするものとしての想像上のコミュニティについてである。最たるものは国家である。国家のおかげで社会秩序が保たれ、暴力の割合は圧倒的に減っている。こうした一連の話を読むと、カントの永遠平和を思い出す。想像上のコミュニティはサガ(性)であり、その扱い次第で幸不幸が決まるというもの。つまり、真(科学)と善(道徳)と美(価値)は独立していてその三つ巴の相が世界という考えであり、進歩主義にたいするものである。この本に共通する思想であった。

1月12日(火)
004 ラ・リーガ エルチェ×ヘタフェ ヘタフェのあるマドリードが何十年ぶりの大雪のため移動が出来ずに試合が順延。練習することなしに久保が65分過ぎからピッチに登場。逆転の2得点のお膳立てをつくり、新チームでの最高のスタートを切ることが出来た。久保は特異とする右サイドで登場。基本的にサイドいっぱいに位置し、状況に応じてライン間中央付近を使う。ビジャリアルでは、他選手との絡みでこの動きがあまり許されなかった。モレーノがこの役割を果たしていたと思う。今日の久保は自由になったことで輝いていた。自分の特異とする位置でボールを受けて相手DFと勝負していたのだ。終了間際の2回のショートコーナーでは、バルサカンテラ育ちのククレジャとアレーニャと3人でパス交換を繰り返し、時間稼ぎを楽しんでいたようであった。久保が入ると、これまた初先発のアレーニャはひとつポジションを下げて、押し下げられた相手ラインの間でフリーにボールを保持するようになり、左のククレジャと右の久保に好パスを繰り出していた。今後が楽しみである。

1月11日(月)
エクスナレッジ社から「奇跡と呼ばれた日本の名作住宅」が送られてくる。1950年からの日本住宅の歴史を総覧するものだ。清家さん、吉阪さんからはじまって難波さんもあり、2000年以降の章にナチュラルスラットが取りあげられている。この時代の総括として、構造家、クライント、素材、既存建物等とのコラボレーションによって建築の内部から従来の建築が壊れつつあるが捉えられている。そしてこの本の終わりとして、ぼくと当時大学院に在籍していた上島直樹くんとで描いた挿絵で締めくくられている。2011年12月号の建築知識の投稿論文である。ここで記述したかったのは、「インテリアがとけ込んだ建築」である。ここでぼくは、「建築」が残りつつも、フラーのエフェマリゼーションがもたらす住宅のあり方を提案した。それは、あらゆる問題が十分に広く微細なところまで身体化される「建築」のあり方であった。これを踏まえた編集になっていて誇らしく嬉しくも思った。

1月10日(日)
ツキノワグマの生態を追うドキュメンタリーを観る。同種の生きもので殺し合いをするのは、一部の猿類と人間だけであると聞いていたのであるが、クマが子グマを殺すという事実を知った。メスクマは子育てに専念する期間、すなわち授乳中は生理的に発情できないのであるが、発情を押さえられないオスは子グマを殺すことで、メスの発情を促すのである。メスとオスはそのとき壮絶に闘う。森では無敵なクマでも成人するのはしたがって50%以下であるというのだ。

1月9日(土)
「テネット」C・ノーラン監督を観る。ストーリーを追うことが難しく、途中から直感で感じるようにした。時間が順行することに意識的な映画で、これまでも実際に未来から人がやってくるとか、編集によって時間経過を曖昧にするとか、あるいは論理的ではなく時空の乱れといった神秘性に委ねるものはあったが、同じ空間に違った時間を同居させた映画はなかったと思う。それを後ろ歩きや車の逆走という後退映像で表現していた。すごく奇妙であった。観る側の焦点が定まらないからである。

1月8日(金)
003 FA杯 アストン・ヴィビラ×リヴァプール アストン・ヴィラはチーム内でコロナが蔓延し、監督をはじめ選手が全員隔離されているとう。それでこの試合はU-23選手、監督でのぞむ。FAだけはスタジアムにサポートを入れていたが、そうした政策が裏目に出たかたちである。今日のロンドンではコロナが手に負えない状況になっているとニュースでいっていた。試合はというと、今日は南野が先発で出場。前半の左ウィングではボールを受けるタイミングをいつものように失っていたのだが、後半から中央に入りよい起点となっていた。しかし60分にポストプレーでアシストした直後に交代。チームは90%近くボールをポゼッションし、最初のうちは手こずるも4-1で完勝した。久保のヘタフェへの入団も漸く発表される。

1月7日(木)
「サピエンス全史」を続ける。学生の頃から、イギリスやオランダという国ではない東インド会社が南アジアの国を治めていたことへ疑問をもっていた。その理由に納得する。このときの裕福層は、国王よりも新興組織である株式会社に「信用」を置き、株式会社の方に、自分の資本を賭けた=投資したのである。16世紀以前は、本書によると生産の中心はむしろ中国やインド、イスラムといったアジアにあった。しかし、これ以降の西ヨーロッパでは、生産利益を新たな生産のために再投資することが広まり、資本を指数関数的な量に膨れあがらせることを可能にする投資家、資本家を出現させたという。それが株式会社となり、国を征服するまでに至ったというのだ。その富は税金や略奪から得られるものよりも遙かに大きく、それは科学革命によってもたらされたものであるという。テクノロジーの発明や組織改革によって、現在よりも確実に未来が明るくなることを「信用」流布させることに成功し、資本のあくなき再投資する社会に変換していったのだという。そして東インド会社が南アジアを征服するにまで至ったのだ。

1月6日(水)
コロナ患者に対する病床データが日経に掲載されていた。それによると、日本のベッド数は世界有数。先進国の中でも突出しているという。それなのになぜ医療危機が起きているかということだ。それは、医師数、看護師数が少ない上に、日本の病院の多くが民間(8割)で中小規模であるからだという。ICUにおける病床数も先進国で飛び抜けて低いこともある。一人当たりの入院日数も日本の16日にたいして欧州は10日であるという。つまり他の先進国はコロナに限らず入院前後の別の受け入れシステムが整っていて、近頃問題にされる医療構造改革が日本はまだまだ進んでいないからだという(ちなみに、フランスやドイツは20年前日本と同じ状況であった)。加えて日本は国民皆保険制度で、入院にたいする国民の経済負担が少ないことも一因にあげている。それもあって軽症患者が入院患者の66%という結果となっている。それは日本特有の医療方針で良くも悪くもあるのだが、こうした緊急時において限られた医療資源を有効に使用するという点ではマイナスである。そのためには、各病院を束ねる本来あるべきトップの視点から、病床と人材運用を効率化する必要があるという。例えば公立病院をコロナ患者専用にあてるとか、小規模民間病院の連携を高めるとかである。本来こうしたことに日本の官僚システムが有効に働いていたのであるが、有時には時としてそれが働かなくなり、そのとき知事や政府らのリーダーシップが大事になる。

1月5日(火)
002 プレミア サウザンプトン×リヴァプール 0-1でリヴァプールが負ける。攻撃リズムがよかったが、最後のところでゴールマウスをこじ開けることができなかった。南野は不出場。こうした引かれた相手のペナルティエリア内で南野は強いと思うのだが。次戦のFA杯のためであろうか。

1月4日(月)
「都市美」山本理顕責任編集を拾い読み。家族を会社や学校が上手く利用することで、戦後の日本が形成されてきたという指摘が印象的であった。社会性を学ぶ学校は家庭の協力なしには運営が不可能であるし、主婦の家事労働の上に猛烈に働く会社が可能となっているというのである。にもかかわらずこれらは別個のシステムとしてこれまで考えられていたのが問題で、こうした矛盾が現在のコロナ渦で露呈しはじめている。例えば政府の学校閉鎖についてである。家庭側から、働くためためには子供の面倒をみてくれる学校が不可欠であることが指摘されているのだ。コミュニティと意味が近い「アソシエーション」に、山本さんが否定的であるのは意外であった。山本さんは(動くことができない)空間を伴うコミュニティにこそ信頼を寄せているのだ。山本さんの設計している名古屋造形大の計画も興味深い。これまでと同様に社会に開けた建築であることに加えて、研究室というコミュニティ単位も取っ払い、ひとりひとりの学生を重んじた建築計画となっている。そこではひとりひとりに十分なスペースをあてがうことが出来ないので、他者とのコミュニケーション(調整)力が必要とされている。山本さんに接して思うのは、思想を建築に直結させる意志の強さである。そこから建築を信じることがぼくらには欠けていることを思う。

1月3日(日)
「プラド美術館 驚異のコレクション」を観る。絵画の解説というよりは、フェリペ2,4世当時の時代背景や彼らに雇われていた画家たちの生涯が中心に語られていた。400年前のことである。このときスペインが栄華を極めていたのだが、ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」やボッスの「快楽の園」「地獄」が購入されたのはこうした経緯からであった。しかし当時、芸術はやはりイタリア(特にこの時期はパラディオの生きたベネチア)が中心であったことも改めて知った。ダイナミックな焦点を持つティントレットの「弟子たちの足を洗うキリスト」もこの時ベネチアから手に入れたものであった。そして当時、スペイン自国の宮廷画家であったのが、「ブレダの開城」「ラス・メニーナス」「マルガリータ王女」のベラスケスであり、現在巨匠とされるそのベラスケスも、長く地方画家としての評価であった、このことを知る。そして、それ以前にエル・ゴレコが存在していたことを知ってさらにびっくりする。エル・グレコの構成やタッチの特殊性は、バロックの中でも突出している。このことが作品からよく理解できた。そして美術館自体が完成するのはその200年後である。それは1800年前半。これはゼンパーのウィーンの美術史美術館より早い。ベラスケスの再評価もこれに負うことが大きいらしい。そしてこの美術館収蔵品として特に充実しているゴヤの作品はそのときのものであった。ゴヤはサラゴサ出身であることも知る。

1月2日(土)
コロナ渦で迷ったが、義理の父が年明けに病院へ行くというので、例年通りに妻の実家に行く。帰宅後、今年最初のサッカーを観る。久保がベンチ外であった。
001 ラ・リーガ ビジャレアル×レバンテ 2-1でビジャレアルが逃げ切る。久保はベンチ外。試合終了後のインタビューでエミリがその理由を説明する。終了後1時間以内のことである。それを小澤一郎氏がYouTubeで伝える。どうやら2日前に久保とエミリは直接話し合いを持ったそうで、その時久保から「出たい」とのはっきりしたコメントを受けたのだそうだ。耐えてチャンスを待つこれまでの日本人と違って久保ははっきりしている。自分に自信もあるのだろう。どうやら新しい移籍先はヘタフェが有力らしい。その後ヘタフェのゲームを観る。熱血漢のボルダラス監督が率いていて、今日のゲームは全く形になってなかった。これをどうみるか、確か柴崎も彼から嫌われていたと記憶する。

1月1日(金)
2021のはじまり。お雑煮を戴き、午後から近くの神社へ。途中、昆虫食の販売機を見つける。混んでいたので、さらに移動して不動尊へ。夜は実家に行き夕食。いつものような元日を過ごす。力を入れた特集番組もない。これが例年と異なっている。