6月12日(火)
NHKで、江戸の歴史特集第2回。この時期の江戸が世界の大都市と比べても、1,2を争う経済発展を遂げた理由に迫る特集であった。それによると、江戸初期には、各地の大名が行ったインフラ整備による公共投資の恩恵と、その後の参勤交代により、大量の資金が江戸に流入したためであるという。しかし、あっという間にこのバブルははじけてしまったそうである。しかし中期以降の発展は、その恩恵で生活水準を上げた一般町人による商いを中心にしたという。これは世界と歩みを同じくしていて、日本でも文化が一般市民に支えられるようになった。よいことばかりでなく、それが生んだ貧富の差は、フランス革命を呼んだように、日本でも「打ち壊し」が相次いだ。しかし、この時期パリにはレストランというものがなかったという。ある書物によると、フランス語の識字率も低かったという。これに比べて、江戸では、蕎麦屋や寿司屋などが流行し、浮世絵も広まっていた。この番組によると、フランスとは異なり江戸幕府が倒されなかったのは、こうした状況を受けて、裕福な商人は、自治会によって富の再分配を行っていたからであるという。ヨーロッパのように、城壁をつくり、傭兵を募るような自治ではなかったことが強調されていた。
063 代表 日本×パラグアイ 
西野監督は思いきったことをするものだ。先発10人を入れ替える。変えていなかった酒井高徳も、スイス戦で、前半交替させられていた。彼を勝負師と言う人が多いが、このことを言うのだろう。徹底して選手が機能するコンビネーションを模索しているようだ。その期待に応じてチームは、ゲーム入りから攻守のバランスがよく、セレッソ時代共に過ごしていた香川と乾、あるいは、代表で長く共にしてきた香川と岡崎が連動できた。思えば、後ろの昌子、植田、芝崎もアントラーズで時間を共にしていた。彼らはサブチームと言われているが、この阿吽の呼吸感が実ったかたちである。守備は、前回同様の4-4-2。相手DFをチェックする能力は、岡崎、香川とも所属チームで訓練されている。したがって前回の本田+大迫より上手く機能していた。後半から西野監督は、岡崎をトップ下にして、さらにレスター方式を模索する。香川をサイドに置くことになるが、そのバランスを見ようとしていたと思う。今日のかたちが上手く機能していたのは、最終ラインの昌子、中盤底の柴崎からの縦パスも大きい。これがよく決まった。しかしあたりがきつくなる本番ではそうは上手くいかないだろうから、それをカットされたときのDFの準備が問題にされるだろう。今日は4-2で勝利。ただし、パラグアイはW杯を逃し、コンディションもモチベーションも遙かにコロンビアに劣っているチームである。

6月11日(月)
計画の授業で、佐藤裕さんを迎える。彼が担当をした芦原小学校をじっくり解説してくれた。学生は、生活のリアリティを把握することが一番大切と考えてくれたようだ。

6月10日(日)
打ち合わせを兼ねて、鎌倉行き。荏柄天神社、覚園寺による。駐車場から寺までの途中に、多くのレストランがあった。夕方、翻訳。夜、W杯のバラエティを観るが、この番組くらいで、いつものようには盛り上がってはいない。 

6月9日(土)
昨日のスイス戦について、代表のDFとFWとの間にギャップがあることを、選手のコメントから知る。ドイツ大会での選手の不満を彷彿とさせてくれた。DFは行き過ぎずないかたちでコンパクトにして欲しいようだ。FWは、このこところ点が取れておらず、前へ前へと厚い攻めを望んでいる。次のパラグアイ戦では、前線と中盤の選手を大幅に入れ替えるという。選手を入れ替えては、連動もないと思うのだが、よい組み合わせを模索しているのか、あるいはコンディションつくりを最優先にしているのか不明である。

6月8日(金)
「ゼロ・ダーク・サーティ」キャスリン・ピグロー監督を観る。ビン・ラーディン殺害まで至る経緯を、ジェシカ・チャステインふんする女性CIA局員マヤを中心に描いた。この登場人物設定が事実であるかは、定かではないが、迫力が十分であった。
062 代表 スイス×日本 
今日、日本は慣れた4-2-3-1で臨む。トップ下に本田。守備では、4-4-2にして、引いてブロックする新しいかたちであった。もっとも、レスターにおいて、岡崎が生きる馴染み深いものであるが、岡崎出場なし。アジア勢相手と異なり、シュートのかたちすらつくれない。事態は深刻である。本田の判断力遅さを否定できないと思う。時折、フリーとなる大島からの長いスルーパスだけが光る。FW左右の宇佐美と原口が何もできないことも気に掛かる。後半から香川が登場。バイタルエリアで決定機をつくろうとするも、空回り。仲間とタイミングがズレている。0-2で負け、希望を見出すことができず、お先が真っ暗である。これをどう突破するのだろうか?

6月7日(木)
科学者らしくない発言に出会う。たまたま都合のよい実例を持ち出す。その例がどれだけ客観性あるものなのか、検証されていないのである。むしろ、世の中が科学的でないことが普通であるので、それを前提にすべきだと思うのに、それをしない。アカデミックな場所でも、そういったことが横行しているのである

6月6日(水)
3年生の設計第1課題の講評会。プログラム条件から組み立て、完成度が高い作品が多い。これを良し、とするか迷うところでもある。続けて、次課題である小学校の課題説明。倉斗先生による学校計画と、温熱・光環境がここでは中心となる。環境からは学校計画で必要とされる設計上のヒントが挙げられた。これを参考に建築の4層構造の第2層を考えるとよい。最近、エコスクールが大切に考えられるのは、小さい頃から環境に関心を持つことが求められ、運営×教育×空間の大切さが一定の評価を得ているからだという。ただし、新しいエコスクールが以前の学校よりエネルギーを多く使用するのだという。これを運営の問題と指摘しているのだが、本当のところは、これまでは寒くても暑くても我慢をしていたのだろう。要求条件があがり、新しく設定された性能基準が問題にされる必要がある。そしてこうしたエコスクールは、パッシブ方法での解決が中心となるそうだ。ただし、時と場所によって光や熱は、プラスになるしマイナスにもなる。そのバランスを鑑みた組み合わせの多様さがデザインになるのである。その際、ローイーガラスのメカニズムを建築化するのがよいという。ダブルスキンはその典型だそうだ。他にソーラーチムニーもある。換気には、風力換気と温度差換気があり、風力換気では負圧と正圧の位置を見極める必要があるという。他に緑化もあるが、日陰のつくり方も温度と湿度のバランスでケースバイケースであるいう。つまり、シミュレーションが大切で、万能な環境制御はパッシブではあり得ないので、何を目的とするかというデザインコンセプトが大切なのである。ZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)が叫ばれているが、そのときは、アクティブな方法を避けられない。これが今後の課題だろう。続いて倉斗先生の計画からも同様に、学校では、理念×指導方法×空間の大切さが指摘される。1985年の宮前小以来、オープンスペース型学校が建築分野では増えてきているが、その運用を成功させるには長い道のりが必要なのだという。しかし、教えるー教わるというクローズシステムに疑問がもたれ、多様なオープン教育が求められる方向に間違いはない。それに加えて最近は、その方向が傷害者マネジメントに移ってもいるそうだ。ここでも環境が問題にされる。オープンスペースがもたらした学校建築は、環境制御が難しくなり、他のビルディングタイプ以上に光、風、熱が真剣にかんがえられるようになっているという。ソウフト面にかんしては、アクティブラーニングが中心になり、教育内容でなく、 どう実行するかが問題になっているという。打瀬小も当初OSを使っていなく、それも学級単位でしかなかった。その後、自主性、テーマ別学習、進行別学習などの実行が考えられることによって、使われるようになったという。居場所とアクティブラーニングとの関係として面白い。そういう先生も、教室が大きく空いていることの気持ち良さは受け入れてくれるという。反対に問題にされるのは、音響的にうるさく集中できない、感染症が広まるなどの不満である。そこで最近では、先生が気楽に使える稼働壁が重宝されているそうだ。観察によると、先生は、合同クラスを多用し、そのためOSは家具を置かないガラーンとした空間になるという。パタンランゲージにあるように、それでは子どもたちの居場所とならない。自由とは何かを深く考えさせてくれる問題である。地域と学校の関係も示される。芦原小では、「街づくりはひとつくりから」というコンセプトで、プロジェクトがはじまったという。3.11以降、避難所として学校のあり方も再考されている。被災後しばらくして避難所と切り離すことができる校舎配置が重要となってきているという。最後に、今後プログラムへの挑戦が求められた。可能性のあるのは、履き替え、体育館のボリューム、セキュリティという3つである。加えて、教室のかたちが、依然として方向性のない8M角である。空間はアクティビティを変えられる。それへの奮起が促された。夕方から、三沢悠子さんを迎えての大学院レクチャー。佐藤事務所時代から独立後の仕事を紹介してくれた。素材に対する探究心が凄い。佐藤さんは、モノを建築としてでなく、物性としてみるのだというのが印象的。それをギリギリに思えるのは、近代建築家が鉄骨建築を前にしときの態度とおなじであることに気づき、反省する。

6月5日(火)
就職セミナーで行われた遠藤研の元くんのレクチャーを聞く。5年くらい前に大学院を修了し、韓国での徴兵を経て、NYのOMAを経て今は隈事務所にいる。自信に満ちた生き生きしたレクチャーであった。3年生も勇気づけられたと思う。これを聞き、つくづく自信は大事だと思った。しかし、それはもって生まれたものばかりでなく、かつ一気に育つわけではなく、トライの繰り返しで大きくすることができるのである。その後、今村先生と元くんと食事で、意見交換をする。

6月4日(月)
「誰も知らない」是枝裕和監督をもう一度、気になるところをピックアップしながら観る。それだけ、衝撃的であった。そして少し考えが変わる。子どもたちが孤独のなか生き抜くためには、母親というものがもたらすイメージだけでも必要であった、このように思うようになった。物理的には母も全く別な人間であり、この映画の場合、それが現実でもそうであるのだが、そこに何かしらのつながりを見出すことで、人は生きていく。それは、イメージでしかないのであるが、実はそこに、かけがえのないものが隠されているのである。このことに気づく。

6月3日(日)
マウントフジの「道の駅 ましこ」に行く。ギザギザの集成材屋根の伸びが気持ちよい。それは、田んぼの中のランドスケープとも一体である。現代的な骨太建築に原田さんは意識的であるようだ。その後、内藤廣設計の「フォレスト益子」へ。20室程度の国民宿舎である。内藤さんに珍しく、繊細な建築である。時代性を感じる。マウントフジの方が、内藤さん風でもあるのが面白い。その後、重要文化財の西明寺へ。狭い敷地に建て込んだ伽藍をもつ。川口に戻り、伊東豊雄さんの火葬場へ。入ることができなかったが、岐阜ほど緊張感がないように感じる。錦織が全仏敗退。楽しみが半分に減る。

6月2日(土)
「誰も知らない」是枝裕和監督を観る。現代版「ほたるの墓」のようで、観るのがつらい。母親に見捨てられたこどもたちの世界を描く。子どもたちは母親に見捨てられても、それを認めようとしない。認めた瞬間に全てが壊れてしまうからである。子どもたちを支えているのは、ただその信念だけである。その姿が感動的を誘う。母性を子ども側から強く描いた映画である。その後、よく眠ることができなかった。

6月1日(金)
「ティール組織」翻訳再開。現代の複雑な問題は、これまでのヒエラルキー型の思考・組織では対応できないという前提が本書にはある。そこで組織や思考方法を、現代の複雑性に対応するティール型へ変更することを推奨するものだ。ティール組織・思考とは、自主性を重んじた横並び型の構造をもち、自然なヒエラルキーをもつ。それは人類が何千もかけて進化させてきたものでもある。しかしこれへの実行は難しい。本書では、その成功実行例を示すことで、ティールへの変換の可能性を示している。要は、個人的イノベーションを寄せ集め全体へ波及するにはどうしたらよいか、全体論への実践例を示すものである。しかし実践例を示せても、原因—結果という機械論的思考に慣れている現代人に説得力をもたせるのは難しい。これまでも、そこに根性論や、宗教といったスピリチャルなものといわないまでもケン・ウィーバーのように感知する能力、スピノザのように自然システムへの自己投入、近頃流行のより大きなシステム=アクターネットワークの中での位置付けといったものが歴史上にあった。その中で本書の特徴は、「進化する存在目的」なるものを示していることにある。人類の組織形態が進化してきた歴史を辿り、進化する存在目的の必要性を、あくまでも過程記述によって表現している。組織の進化の過程を、蟻が複雑な動きをしながら巣に進むことのように実況するものである。あくまでも進行形で表現すること、そうしながら「進化する存在目的」なるものを示している。このことに本書の新しさがある。アレグサンダーもこの全体論の実況的(過程記述として)を「オレゴン大学の実験」を著し、「存在目的」を「パタン・ランゲージ」としてまとめた。そしてその理論的な背景(状態記述)を、「時を超えた建設の道」で行ってはいたが、受け入れられずに、その活動は現在も継がれている。本書から感じられることは、そうした論理的説明より、より複雑な問題を上手く解決できることの重要さと意義である。こうした観点から、続けてハーバート・サイモンの「意思決定と合理性」を読むことにする。

5月31日(木)
「システムの科学」ハーバート・サイモン著の再読。この本が「ティール組織」の思想的根幹となっていることに気づき、再読はじめる。ハーバート・サイモンは、経済でノーベル賞を受賞したシステム思考の第一人者である。ぼくにとっては、どろどろした現実、あるいはその反対の理想を追いもとめた「ティール組織」に、俯瞰的説明を与えたいと思った。本書にはこれがあるという直感である。本書は、システム論という俯瞰した立場から、「ティール組織」の基本構造である「複雑性」について語る。そもそも「組織」とは、「集団目的が個人目的となる。p52」ことで成立する。「進化」とは、「ジェネレーター(多様性すなわち以前に存在していなかった新しい形態を生み出すこと)とテスト(自然淘汰)という2つの過程に依存するp54」考えである。この考えに従うと、「局所的最大化と全域的最大化」が同時に起きることで進化する。したがってダーウィンは片落ちであったという。これを別なところでは、「内部環境と外部環境」あるいは「組織化と自然淘汰」といっている。そしてその接面(インターフェース)に人工物(システム)がある。それが、科学であり、デザインであるというのだ。このふたつが等価に扱われているのが面白い。別なところでは、「部分と全体」「還元論と全体論」といっている。全体でもなく、部分からでもなく、両方を満足させることをデザインといっているのだ。したがって、デザインとは最適解でなく動的な満足解なのである。そして本書ではこの複雑性について、蟻を例に持ち出し説明する。「ティール組織」における自転車の例と同じである。「蟻は自分の巣がどこにあるか、大まかな方向感覚をもっているが、そこに行きつくまでの途中に横たわる障害物については、必ずしも全てを予知しているわけでない。(中略)蟻が歩いた路を幾何学的な図形としてみると、不規則で、複雑であり、記述しにくい。しかしそこにみられる複雑性は、蟻が歩いた海岸の複雑性を示しているのであって、その蟻の複雑さを示すものではないp65」。ティールの自転車の例は、これを当事者側から説明するものだ。本書は続く。「細胞や分子のレベルでみれば、蟻は明らかに複雑である。しかし内部環境の微視的な世界は、外部環境との関連における蟻の行動とはほとんど関係ないp63」。これを、準分解可能性という。「静的には階層的な構造を持っていて、動態的には準分解可能性の特性がある。そして準分解可能性はまた、複雑なシステムの記述を単純化し、そのシステムの発達や再生産に必要な情報がいかに適度に貯えられるかということの理解を容易にするp256」ものだという。サイモンはこの理解の仕方を、「状態記述と過程記述」とした。「複雑性の問題解決には、状態記述を与えたり、過程記述を与えたりして、この2つの記述の仕方の間でたえず変換作業を行う必要があるp250」というのである。つまり、複雑なもの(システム)とは、鶏と卵のどちらが先であるかという問題と同様、思考とシステムが不可分なものなのである。「ティール組織」は、この複雑性の理解を、過程記述で試みるものといってよいだろう。「創発」についても言及する。全体論では、部分から全体へのジャンプを説明することができない。サイモンによると創発とは、そういうときに要請される発明物であるという。「緩い意味では、創発とはたんに、複雑なシステムを構成する個々の部分が、それ単独では存在しないような、相互的な関係をもつことp205」である。つまり全体論は、還元論の焼き直しと考えられている。しかしそこに大いなる人の可能性を読むのは、考えすぎだろうか。「ティール組織」では、蟻の例における「大まかな方向感覚」を「存在目的(ちょっと霊的であるが)」といい、あくまでも「過程記述」で、この全体論問題を乗り超えようとしている。創発に当たる機能を存在目的に与えているのである。このことに気づく。夕方、中埜さんと新宿で打ち合わせ。途中、日本代表23名を知る。実績が重視されるものであった。世界と戦うには、世界を知っていないといけないという理由だろう。潜在的個人能力の突然の開花は信じられていない。

5月30日(水)
061 代表 日本×ガーナ 
長谷部をリベロにおき3-4-3を試す。ガーナがハイパワーで攻めてこなかったので、これを検証することができず。一方、3-4-3による攻撃は不合格であった。厚いサイドからの攻撃が見られなかった。ホームで、W杯にでないチームに得点できないのだから、守備を固めることに終始し、相手を誘い出す初期対応を考えたらよいのでないかと思う。4バックで、MFに運動量を求めるのが適していると思う。
錦織の全仏2回戦を観る。錦織は、一度は崩れかけたメンタルを持ち直すことができた。フルセットの末、変人といわれているフランス選手に勝つ。

5月29日(火)
設計小委員会に出席。シンポジウム打ち合わせ。設計の目的論に話が進む。何のためのデザインかということであった。目的がしっかりすると、デザインはHOWよりもWHAT TO DOが大切にされることだろう。方法論よりもモノである。「フューチャーサーチ」マーヴィン・ワイスボード+サンドラ・ジャノフを読む。会議の進め方の本である。価値観の違いを超えて、それを受け入れるべき現実として捉えるための方法論である。隠されているテーマは、全体を、部分からいかにコントロールするかである。そのために、共有意識をつくり、それを未来と定めるためのコツがノウハウとして示される。しかしその共有意識が何かについては触れられておらず、実行のみが示される。アレグサンダーの引用も、この途中?段階の意識を示すものである。「外の景色が見えない部屋は、その中にいなければならない人にとって牢屋のようなものです。人は今いる世界とは違う世界を観ることで気分転換する必要があるのです。そして、外の世界は、それ自体が気分転換できるような変化に富んでいて、活気がある必要がありますp295」。この段階では、多様な価値観のみが示され、その先が見えていない。

5月28日(月)
「ワールド・カフェ」アニータ・ブラウン+デイビッド・アイザックス著(2007)を読む。主体性と創造性を高める話し合いのエッセンスをまとめている本である。リラックスしてカフェにいるようにミーティングするという意味である。二人は、ワールド・カフェという企業向けのコンサルタント会社の創始者である。続いて「オープン・スペース・テクノロジー(OST)」ハリソン・オーエン著ヒューマンバリュー訳(2007)を読みはじめる。OSTを実行するための手引書である。ノウハウ中心の実務書である。両著とも本のレイアウトセンスを疑う。これは、企業戦略立案思考とデザイン思考とにリンクがないことを如実に表す。このことに唖然とする。文化度が低いといってもよいが、経済活動に文化・歴史を必要としない考えが判る。「万物の歴史」が目的としていた人間性回復など少しも感じられない。ここにある人とは、企業の単なる一歯車でしかなく、その効率性を高めるための条件でしかないのだ。組織論が流行っているが、「ティール組織」においてこれらとの違いを出すとすれば、ここにあることに気づく。 

5月27日(日)
「意識のスペクトル」ケン・ウィルバー著再読。1977年の出版である。はじめに、スペンサー・ブラウン、鈴木大拙、クーマラスワミの引用があった。このときは、意識のレベルが変われば知覚される世界そのもの様相を異にするというまでの結論であった。その後の20年後に「万物の歴史」が出版される。
060 CL決勝 リヴァプール×レアル・マドリード
サラが前半に怪我のため退場し、後半からゲームが動いた。各選手の能力は明らかにレアルが上で、押すリヴァプールに対しかわすレアルの前半であったが、ミスからリヴァプールが失点すると、この関係が崩れた。要所でレアルが得点を続き、盤石の勝利であった。これで今季全日程終了する。フットボールはW杯に向かう。

5月26日(土)
「万物の歴史」再読。読後のまとめの中で多くを気づく。この本では、これまでの科学に対する考えを否定している。これまでの科学とは、ニュートンに代表される機械論的、分析的なるもの、それに対置する全体論もふくめたものである。この全体論も、モノロジカルな現象を経験的・客観的方法で捉えているものに過ぎないという。ここが新しい。自然のとらえ方然り、人体のとらえ方然り、エゴもエコも否定という訳だ。スピノザも登場する。「純粋な自由は、自然の<大システム>、純粋な<エコ>への全面的投入にある」p439。エコの代表としてある。古いという。最終的に本書では、このエゴとエコをひとつに繋げるもの=スピリット<霊>が挙げられる。ちょっと引いてしまうが、物事が発達しリアルになるプロセスの中で生まれる直感のことである。直感の扱いも触れられている。<エゴ>を捨てるためには、直感が自分にだけ顕現するのでなく、皆にも同様に顕現すると思うことである。その調整が、社会的、文化的基盤と客観的な相関物を備えたコミュニティのなかの自己として顕現する。一方<エコ>を捨てるためには、エコは全体論的な概念をもった<エゴ>であると自覚することである。これを意識するのが、直感ということだろうか。結論は、事後的にものを捉えることなく、探究的なそれ、私たち、私(真・善・美)のひとつひとつを活性化するプロセスから自己の立ち位置を発見するということか、と思う。この3つが程よく調和したフラットランドは強く否定されている。「そして父になる」 2013年是枝裕和監督を観る。親子とは血縁関係にもとづくものか愛情にもとづくものであるかというのが表面的なテーマであるが、「万物の歴史」読後だけあって、「私・私たち・それ」に引き寄せて考えてしまう。物語は、主人公となる父が、産後直ぐに息子が取り違えられたことを小学校に上がる段階で知らされたことからはじまる。それまでは幸せに満ちた親子関係にあった。父と母と子の感情も、両者間の愛情面も、そして社会的バランスも取れていたのである。ところが血縁がないという外部(社会)要因がもたらされると、いとも簡単に全体バランスが崩れてしまうのである。それは大人の感情の乱れからはじまる。そのときの人はひ弱い。しかし最終的に主人公である父は、これに気づくことで、再び幸福=バランスを取り戻す父になるのである。つまり、家族とは、外部からもたらされる存在ではなく、親と子自身が家族であることに意識的で、確かめ合い、時間を超えた状態となることをいう。「万物の歴史」から学んだことであった。

5月25日(金)
「万物の歴史」ケン・ウィルバーを読み終える。この本は、「ティール組織」の参考文献として扱われている。1996年出版で、20年も前のものである。この本では、モダニティが失った人間性を科学的に回復することを目的としている。そして本書は、瞑想やスピリチャル(霊的)なものを持ち出していることに特徴がある。その点に、ついて行けないが、課題が「世界観」にある。カントの世界観「真・善・美」は、「探究のそれ・私たち・私」である。本来世界は、この三つ巴にあった。しかし、これら3つを差異化したまではよかったが、現在は、ひとつの「それ」=真のみが突出してしまっているという。それが人間性の損失ということであるが、判るようで難しい。自然が例として挙げられる。「自然は完全に調和のとれた、相互に関連したシステム」P193と捉えるようになってしまったことをいっている。別なところでは「相互に関連した存在の巨大な調和の取れた全体」P194といっている。これは近頃流行のティモシー・モートンの考えに近い。しかし、こうした考えを否定しているのである。これは、「私」「私たち」を抑圧し、感覚で捉えることができる自然だけがリアルになり、意識・文化といったものを益々崩壊させていくというのだ。むしろ、3つの再統合が必要であるという。昨年夢中になっていたOOO等は、メイヤスーの「有限性の後で」とならないことが、ここで明言されていることになる。この本の考えに沿えば、ホリスティックと思われていた考えが、実は世界を分化していることになる。衝撃的であった。ぼくなりに解釈すると、空間に名前をつけては、デザインの敗北である、ということかと思う(妙に昨日の本田の発言が引っ掛かってきた)。ところで、モダニティを代表とするものとして水晶宮が選択されているのが面白い。水晶宮は、内面的な知性の啓蒙、外面的な新しい経済・技術の合成物であるという。内なる魂と外なる社会とを一体にし、かつ非合理的、非科学的、未開野蛮なものの影もかたちもなくした透明な体系というのである。ぼくにとってはこのように、私的な立場からモダニティを俯瞰する視点が面白かった。

5月24日(木)
やっとのことで、本田圭祐出演の「プロフェッショナル仕事の流儀」をネットで観る。話題になっている程、本田節が炸裂している。面白いのは、この取材中にハリルが解任されたことだ。本田は、解任後の事後説明でなく、進行形として主張している。それによると、ハリルの縦へのコンセプトを実践上選手(特に本田)が共有できなくなっていたことがわかる。ハリルは強力なリーダーシップにより、チームをコントロールしていた。しかし共有できていた選手が結果を残すことができず、チームコンセプトにたいする公然とした批判が噴出したのである。それが海外組からのものであった訳だが、それが近頃話題の日大アメフト部員とは異なる点である。彼らは、順応型人間でなかった。ひとりひとりが代表における自己を客観視でき、チームが進むべき方向性をハリル同様、いやそれ以上にもち、主張していたことになる。ハリルのコミュニケ−ション不足というのは、ハリルが旧タイプの人間で、この包摂能力に欠けていたということである。ハリルのコンセプトがよいかどうかは事後的にしか説明ができないので、もうその検証は不可能であるが、マスコミから批判されるサッカー協会は、それより現代的な考えに少し進んでいて、解任決断の時間的問題はあるものの、正しい方向付けをした。ところで、最後の本田の言葉「プロフェッショナルとは、ケイスケホンダである」は、意味深い。カッコよく解釈すると、プロフェッショナルとは、もたらされる存在ではなく、本田自身がそれに気づき、告白し、時間を超えた状態、といっているようでもある。少し感動する。

5月23日(水)
多田先生と平岩良之さんを迎えての大学院講義。佐々木事務所から独立後の自身の仕事を紹介してくれた。近頃珍しく、かなり難解なプロジェクトに携わっている。それは、つくり方に関わるものが多く、アイデアと生産との間の方法論が彼の中心的な課題のようだ。そうした展望を共有してくれる彼に世話になる建築家は羨ましい。しかし反対に、広い意味でのかたちをつくる美学をもたなければならなくなる。これまでのプロセスを開き、世界観の変えることに美学をあてることもひとつあったのだが、3.11以降、これも難しくなってきた。存在目的がより重視されるようになったからだ。

5月22日(火)
「ティール組織」翻訳続行。素晴らしいフレーズにいくつも出会ったので、書き留める。フラー「目の前の現実と闘っても何もかえることはできない。何かを変えたければ、今あるモデルが時代遅れになるような、新しいモデルをつくるべきだ」。アインシュタイン「問題は、それが起こったときと同じ意識レベルでは解けない」。マーガレット・ミード「世界を変えることに打ち込んでいる少数の人々の力をあなどってはならない。実際、それこそが世界を変えてきたのだから」。マーガレットJ.ウィートリー+マイロン・ケルナー-ロジャーズ「もし私たちが、人間性にあふれた世界に存在することができれば、一体何を実現できるだろう?」 。夕方、鈴木竜太さん来所。リノベーションの打ち合わせ。いくつか案を出し合う。拡がりそうだ。その後の雑談でお互いの近況を批評。不思議なもので、今日読んだ本と同種の内容を助言される。こういうことを、シンクロニシティという。

5月21日(月)
計画の授業で、環境、構造、機能等の建築の綜合について話す。これらを「流れ」という言葉でまとめる。時間の流れを加えると、建築の四層構造となる。この「流れ」は、かたちのない中身であり、巨匠たちは近代以降、これをかたちにすることをテーマとしてきた。かたちないものをかたちあるもので表現することである。現在はその綜合性が求められてもいる。

5月20日(日)
住宅特集6月号が届く。芳賀沼さんとの縦ログによるリノベーション住宅が掲載される。縦ログ材は生材なので、外装材としての耐久性に劣る。それを内部において、しかもポテンシャルのある構造性能をフルに発揮した試みを前々からしてみたいと思っていた。古い建物は基礎が不安定である。それに対する提案として、梁と基礎とを縦ログ材を挟んで張力で緊結することを試みた。そして、古いなんともない普通の住宅の天井を剥がすだけで露出される構造体が、それとなく迫力を増して見えるのは、モノのもつ力であることを痛感するプロジェクトであった。作品としてはそこに追うことが実は多い。縦ログが白い箱であったらどうだろうと思うのだ。弟の3回忌として、家族で墓参り。その後食事。夜にテニスのローマ大会を観る。
059 ボカール杯決勝 フランクフルト×バイエルン
3試合の出場停止から、長谷部がボランチで登場。監督の彼に対する信頼の大きさを感じる。長谷部もそれに応えた。センターライン付近ではボールチェックをし、押し込まれるとDFライン中央にはいり5バックを形成する。決して1対1には強くないが、事が大きくなる前の事前処理能力が期待されている。そのため、他の選手は思いきり当たり、そのカバーを安心して長谷部に任せている。バイエルンもW杯が目前にあるためか、集中力が今一であったと思う。後半までのらりくらりとしていた。結果3-1でフランクフルトが優勝。長谷部は、ボルフスブルク依頼のカップである。レバントスキー、ハメルと対戦し、間合いを掴んでくれたと思いたい。

5月19日(土)
千葉工大でCリーグ(千葉工大、千葉大、東京電機大、理科大)開催。古市徹雄氏、栗生明氏、川向正人氏、山本圭介各先生を特別審査員に、赤松佳珠子さん、長崎辰哉さんをゲスト審査員に迎える。今年で10回目である。各大学から4名が参加。10年も経つと、他大学と競うことで内容もさることながら物理量も上がる。EV階段に入らないほど模型が大きくなり、大ホールが模型と人でいっぱいになる。課題は10年間、自身の出身校を敷地にするものであり、最近は周囲とのつながりで小学校を皆が考えるようになった。その前は、居場所を提案するものが多かった。こうした発展の傾向をみることができる。しかしまだ、学校プログラムとの関係が言及されていない。これが、今後の余地だろうと思う。公開討論の後、最優秀案に千葉工大の水沢綸志くんの作品が選ばれた。地域性とみんなでつくることの参加に重点を置いた作品である。失われた参道を復活させ、その両側に学校を配置する案である。周囲を意識させた模型が美しかった。参道をまたぐ1階における学校の利用方法が問題にされたが、作品にかけた彼のエネルギーとプレゼでの堂々とした態度が評価された。惜しくも2等には特別審査員賞が与えられた千葉大の高力雄大くんの作品は、バランスのとれていた。実施されてもよいほど、細かく練られた作品であった。問題は、4つのゾーニング分けが学年に従うもので、そこに疑問が残されなかった点だろう。千葉工大の学生については、案が窮屈なものになっていたのが気に掛かる。作品を発散させて、問題を引き込むようにするのがよい。設計者の迷いが表れては、見る方がきつくなる。力が入りすぎたのかもしれない。その後、近くで懇談会。古市先生とゆっくりお話しをする。

5月18日(金)
夕方から、明日のCリーグのための会場設営。EDLの小池くん、中山くんを中心にがんばってくれた。一通り準備できたところで終える。研究室では、明日発表する佐藤くんのために、皆が協力。がんばってもらいたい。

5月17日(木)
058 EL決勝アトレチコ・マドリード×マルセイユ
シーズン最後に怪我から復帰に間にあった酒井は出場しなかった。酒井のいるはずの左サイドをクリーズマンに、マルセイユはやられてしまった。この経験を酒井にさせたかったと思う。0-2でアトレチコの圧勝であった。シメオネのリーダーシップに感嘆。選手ひとりひとりに、イズムが徹底されたピラミッドスタイルである。

5月16日(水)
「メイキング」再考。ぼくらは抽象化する傾向にある。そしてその方法に主体性がある。このことは、1800年後半の絵画に、構成が生まれたことから起きたことだ。このときセザンヌはやたらと長い腕をした人物を描いた。「メイキング」はそれが間違っているという。そこからこぼれ落ちたものたちが沢山あるというのだ。それが一作品の出来事ならともかく、世界が同様な思考をするようになっては、問題が大きすぎるという。例えば、経済優先というような。そこで提案されるのは、社会的文脈、文化的文脈を通して見ることである。そのためには、未来を予想しては、それをできなく、現状を感知—応答することであるという。そこに別の見方の主体性がある。ぼくらが自転車を乗りこなすとき、書道をするとき、あるいはスポーツでホームランを打つとき、日常的にそれをやってのけているのだ。建築の場合どうだろう。建築は扱う条件が広い。感知—応答という主体性を働かせることで、「メイキング」できるだろうか。そのためにこれまでの建築家が残してきてくれた文化的文脈というものが、道具(ガジェット)としてある。ぼくが「デザインスゴロク」や「建築の四層構造」に可能性があると思うのは、この点である。フラーが特異であるのは、感度のよいアンテナとしてこうした道具をもっていたような気がするのである。錦織の試合を久しぶりに観る。素人目にも、躍動しているのがよくわかる。「メイキング」における「文脈」は感じることができるのである。

5月15日(火)
昨日、「人類学・考古学・芸術・建築」ティム・インゴルド著の読書会をゼミにて行った。発見的な思考は、つくることによってのみ獲得できるという大筋を理解しつつも、それを第1章に述べられている「内面化」できないのが悩ましいところであった。本書に従えば、それは実践で得ることしかないので、頭で理解することは難しい。それでも、いくつか考えるヒントが挙げられていた。「参与観察」。観察においても対象と距離をおくのでなく、働きかけなければならない。「応答」。世界との関係を調整することである。この世界とは、社会的文脈、文化的文脈のことで歴史である。生物においては「環境世界」(ユクスキュル)であり、動態である。それに「感知」「ダンス」「結合」することである。みずからの存在をいくらか他の生きものの特性と認め、他の生きものと交感することである。そしてそのために「交換装置」が必要とされる。あくまでも、「交換装置」を通じて受け身である必要があるわけだ。それは、「予測でなく、予期的発見」によって行われる。偉大な建造物などは、予期的発見の積み重ねによって創りだされたという。建築に引き寄せると面白い。以上のことは、「空間に名前をつけていくこと」である。しかし、それであると受け身であったつもりが、作品性を強くしてしまい、本書と反対の路を辿ってしまう。建築でいえば、これまでの方法と何ら変わりないことになる。つくることは本来主体的であり、それを受け身で行うには、「空間に名前をつけていくこと」ではなく「名前のない空間へ」(池辺)であると思う。ぼくがひっかった点はここにあった。もうひとつ、受け身というシステムを行う「ガバナンス」に関して主体性を発揮することでも、この疑問は解決できる。このあたりが突破口となると思うのだ。「ティール組織」で取り上げられているケン・ウィルバーの「万物の歴史」を読みはじめる。

5月14日(月)
森美術館の前田尚武さんを建築計画の授業で迎える。丁寧に美術館の定義をし、課題とされる美術館の位置づけを与えてくれる。美術館なるもの日本に6000館あり、その設定の仕方によっては、ヘビーな設備を必要としない美術館もあり得るのである。次に美術館の活動について説明してくれた。日本では、美術館は教育委員会の下に置かれることが多く、教育施設と考えられることが伝統的に多いという。最近はこれをラーニングといったりする。したがって、展覧会事業は低予算となり、新聞社やテレビ局との共催がメインとなる。その内容は、アニメなどとなる。伝統的に無料スペースも多いのも特徴である。前田さんがいうには、寺の「開帳」を引き継いでいるからだという。これを大阪万博のお祭り広場が決定的なものとした。ヨーロッパは、これに対し豊富な展示数が特徴的で、保守的である。そのため、ガラスなどの現代性が美術館に差し込まれる。アメリカは、個人コレクターが多く、展示のほとんどが戦後の現代アートである。慈善事業でこれを行うため、近頃は、パーティや結婚式などの目的にも広く貸し出す。年間200は行われるという。この早変わり方法が今問題にされているという。そのため、外観もユニークなものが要求されるのだそうだ。その後、前田さんが関わった美術館の説明。国内外に渡る。これらは的確にマネジメント要求に応えたものだ。新しい美術館対する一番の要求は、流行るかどうかである。時間毎の利用状況を視覚化し、様々な利用例も具体的に示していた。それに加えて目玉となるものの大切さである。商業的ではあるものの、これが重要であるという。ランドアートはこの点有効だそうだ。最後に現在開催されている「建築の日本展」について。建築を題材にして、テーマ毎に展示する試みははじめてであるという。建築の世界では意外にも正統さが要求され、これまで、○○運動とか○○生誕100年展等といった展示しかなかったという。対してアートの世界では、古典と現代アートを対比するような試みは多くあった。その折衷的なことを建築展で試みたという。

5月13日(日)
神奈川県立美術館葉山で開催されている「ブルーノ・ムナーリ展」へ行く。ムナーリが、自らの作品を完成した閉じたものにみられることを拒んでいることがよくわかる。作品は皆に利用され、開かれたものとなることを願っていた。ムナーリのキャリアは、後期未来派との交流からはじまったという。バンハムの「第一機械時代の理論とデザイン」によると、未来派は、フラーと並び、それまでの歴史との断絶を唯一成功させた運動であった。それだけ、非人間歴史主義的であった。この未来派とのムナーリの決別が、「役に立たない機械」という作品である。ガルーダの彫刻を連想させる一種の「やじろべえ」である。未来派とは反対の「人間が機械の主人である」ことを示したものとも考えられるが、人間も風を感じ、機械も風を感じる、という解釈もできる。事務所に戻り。「デザインとビジュアル・コミュニケーション」を再読。この本から感じることは、作品を閉じざるを得ないことにたいするムナーリのジレンマである。彼が作家たる所以は、作品として完成させるという事実にある。外部に開かれることを認めつつも、作家たる主体と他者の間のコミュニケーションに同化しては、ムナーリたるものの存在が必要なくなる。むしろその拘りが強いことを感じた。「メイキング」では、ゲーテが参照されていた。自分の身体と対象との境界を連続的に考える人として紹介されている。ムナーリは、ここまで結論を下せなかったが、作家として最大限に、自分を開くことを目指していたのである。ムナーリの子である認知学のアルベルト・ムナーリは、「身ぶりの英知」とこれをいっている。「身ぶりの英知」とは、「始めに行動ありき」(ピアジェ)、その後その精度をたかめ、内面化していくときに不可欠なものである。ポランニーは、これを「実際的知識」といった。「メイキング」では、この考えをさらに推し進めているようである。作品はなくなり、終わりのない連続行為となる。今回の展覧会で「ペアノ曲線」というのも知る。「デザインとビジュアル・コミュニケーション」をみると、伊東豊雄の元ネタ、佐々木さんの本の表紙の源泉をつかむことができる。「ペアノ曲線」は数学的幾何学であるが、これを手作業で展開してみせたのが、伊東さんの「台中オペラハウス」とも言えそうだ。伊東さんは、この方針で進むことなしに、「みんなのいえ」に向かったのは、なぜだろうかと思う。

5月12日(土)
057 ブンデス ホッヘンハイム×ドルトムント
今季最終戦。1-3で負ける。順位を4位に落とし、CLストレートインとならなかった。それにもかかわらず、積極的な攻撃に出なかったのが、不思議である。若きナーゲルスマンとご老体シュテ-ガーの差が出たと思う。選手に戦術とモチベーションを与えられていない。香川は、75分から3月ぶりに出場も、何もできず。W杯選出に暗雲である、

5月11日(金)
夕方、中埜さんの事務所行き。第1弾の翻訳を終える。深夜BSで「プライベート・ライアン」スピルバーグ監督を観る。開始早々20分以上続く戦闘シーンの迫力に圧倒される。この密度感が映画の醍醐味であると思う。「メイキング」ティム・インゴルドの再読。池辺さんの考えと重なることが多いことに気づく。キーワードを上げるだけでも、「形を生み出すシステム」、「つくることのプロセス」、「発見するのはもの自体であり、もののデザインではない」、「予期的な発見」「見るということは離れて持つことである(メルロ-ポンティ)」、「物質に従え(ドゥルーズ・ガタリ)」、「運動のさなかの思考(シーツ・ジョンストン)」、「空気はエージェントである」、「太陽が目のごときものでなければ、どうして空で輝くことができようか(ユクスキュル)」、「語るということ」など「デザインの鍵」に似たものが多い。ユークリッドの元来の意味が異なっていることにも驚いた。これを整理する。

5月9日(水)
ゼミにて、設計をホラクラシーミーティングでやってみる。昨年からはじめた。敷地条件からはじまり、他人がおいたパーツを手掛かりにリレー方式でかたちを積み上げていく。かたち遊びに近いが、これまでの機能性重視の頭を解きほぐすことを目的とする。「デザインスゴロク」の紹介も改めて行う。この凝り固まった考えをほぐすのに、デザインスゴロクは最適である。ホラクラシーのいわんとすることは、問題を感受し、それに応答することである。これまでは、未来を予想し、それをコントロールしようとすることであった。科学、人生観など全てのことがこのフレームワークに囚われている。ユートピア志向といってもよいと思う。しかし一方でこの予想しない、コントロールしいないということは、暗中模索の中を進むので、実は怖いことである。そこで登場するのが「デザインスゴロク」である。手近な道標となり、ぼくら知り得なかった存在を知らしめてくれる。

5月8日(火)
1年生に向けて、「建築と絵画」に関して授業をする。先日、体験した「赤いチョッキの少年」セザンヌをもとに、「モダンデザインの展開」ベブスナー著と「第一機械時代の理論とデザイン」バンハム著の概要をかい摘まんで紹介する。「赤いチョッキの少年」に見られるように、1800年後半に、画家たちは、「構成」というものを手にして、かたちを自由に扱うことができる主体性を獲得した。あるいは、シャガールのように、淡い点表現による「空間性」を獲得した。後者の精神がアールヌーボーへ、前者が近代建築へと展開していった。前者は、アートの世界では、「分解・再構成」を繰り返しデュシャンに行き着き、個人的世界へ迷走してしまうのであるが、建築の世界では、この分解がコルビジュエによるモデュロールによって、生産や人の身体性と結びついていった。これに代表されるように、建築は社会的であるべきことを指摘した。ある学生から、建築の社会性について質問を受ける。ぼくのレクチャーに同意したのか、違和感を感じたか、確かめたかった。この学生も高校生の頃から、建築の社会性のなさがなぜかを考えていたという。

5月7日(月)
計画2の授業。美術館で大切にされる「シークエンス」の説明から、これを超えるための建築家の試みも合わせて示す。ふたつを使いこなしてほしい。夕方ゼミにて、「ホラクラシー」の読書会。「研究室が掲げる問題」を題材にして、実際にホラクラシーミーティングを行ってみる。ファッシリテーターの技量が大きく進行に関わってくるが、面白い体験であった。ホラクラシーミーティングでは、正解という結論を目指さない。現在「感じる」ことができる問題に応えるだけである。それを積み重ねて行く。これを進化といっている。ただの言葉遊びにならないように、真剣さとプロセス管理(ガバナンス)が重要となる。真剣さは、自分をさらけ出すことである。それができないと、これまでの慣行から考えられる結論を逆算した応えになってしまい、陳腐なものになる。この真剣さ、あるいは自分の問題として積極的に考えることができるかのための実践が、本書で示されている。そのためには、ヒエラルキー構造をなくし、フラットなホラクラシー型(全体が部分であり、部分が全体であるような構造を維持していくガバナンス)が考えられている。

5月6日(日)
新国立美術館で開催の「ビュール・コレクション 至上の印象派展」へ行く。明日が最終日であった。なんと言ってもセザンヌの「赤いチョッキの少年」を見たかった。思ったより大きい。1890年前の作品で、ポーズこそは伝統的構成に倣っているものの、長く引き延ばされた腕が異様である。これは、写実でなく、絵としてのバランスから来たものであることがよくわかる。背景が黒っぽく、白い腕を中心に映える構成である。既に抽象画の領域に入ったようにも思える。つまり、構成というものを手にして、画家は自らの主体性を大きく放ったことになる。ここから、絵画が新しい領域に突入して行った。ゴッホのコレクションも充実している。彼の成長を確認できる。生前は理解されなかったことも理解できる。終始、名作からインスピレーションを受けようとし、自分と格闘しているのがよくわかる。その実直までの無骨さが、評価に勢いをもたらさなかった。最晩年の花の絵は、これまでと打って変わって穏やかで泣かされる。もうひとつ見たかったのは、ブラックである。「ヴァイオリニスト」のひとつがあった。中央下のヴァイオリンが浮かび上がって見える。これは現物でわかったことである。コーリンロウは、ピカソと対比してこれをフェノメナルな透明性といった。目からだけでなく、五感で感じてわかるという意味である。このことを実感する。

5月5日(土)
森美術館で開催中の「建築の日本展:その遺伝子がのこすもの」に行く。前田尚武さん責任の展覧会である。建築展覧会らしく、コンセプトと空間構成がしっかりしている。大きな空間、暗い空間など空間バリエーションが豊かに連続し、鑑賞を飽きさせない。現代建築を歴史上の先端にあることを位置付け、そのための9つのテーマが展示室毎に位置付けられる。建築の学生にとって、教科書のような扱いである。ただし、齋藤誠一さん率いるライゾマティクスアーキテクチャーによるデジタルアートを駆使し、これまでの建築展とはことなり、建築提案を身近なものにしている。9つのテーマは、「木造・技術」「わびさび日本美学」「屋根」「(伝統)工芸」「日本らしさ」「折衷」「日本社会・ムラ」「発見された日本」「共生・環境」である。一筋縄では行かないテーマ設定が日本的ということであろう。伊東忠太やシンドラーなどの外からの目を入れているのが効果的である。夕方、妻の親族の通夜に出席。帰宅して、女子の卓球の決勝戦を観る。
056 ブンデス ドルトムント×マインツ
香川がまた足の故障と聞く。ベンチ外。武藤がDFの前に素早く抜け出しヘディングでゴール。マインツは残留を決める。マインツの真剣さに比べて、ドルトムントは今一集中力に欠け、引く相手にたいして縦パスを幾度も試みるも、1-2で負ける。チームとしての目標がなく、怪我を恐れ、W杯に意識が向かっている。

5月4日(金)
天気が良いので、八ヶ岳まで遠出をし、村野藤吾の原村美術館へ。エコーラインという農道がある。緩やかに下る畑を見下ろすことができ、斜面とは垂直方向に走る道路である。これが気持ちよく、幾度も訪れる。いくつかの別荘地があり憬れる。それを突っ切り、ビーナスラインへ。ガムラスタンという店名に引かれてそこで食事。ストックホルム郊外の美しい伝統的建物が並ぶ町である。店内はGWとあっていっぱい。上り渋滞がひどく、ふたつの温泉で時間を潰す。

5月3日(木)
東京駅ステーションギャラリーで行われている隈研吾展へ行く。訪れている人の年齢層が幅広い。これまでの作品を、素材を中心にして紹介する。新しい解析技術や、成熟した産業を巧みに建築に応用した新しいモノつくりの提案である。これは、90年代後半からの日本建築の特徴でもあった。ぼくもその初期に大きく関わったと自覚している。IT革命がもたらした情報の開示によって、意外な展開が様々なところでにおきたのだ。建設という巨大産業の、様々な専門家の中心にいた建築家が、この恩恵を利用することが最も可能であった。しかしさらに情報開示が進み、情報が専門家の手から一般の人へも行き渡るようになると、情報が錯綜し、専門家には巧みなマネジメント能力が必要とされるようになった。特に2005年の姉歯事件という専門家による不祥事件頃からその傾向が強くなった。隈研吾はこのマネジメント能力にも長け、今日のこの展覧会にまで至っている。というより、こうした恩恵を実践するハンドリング具合をわきまえていた。それを用いる場所や強度の操作が群を抜いていた。現在もこうした傾向は続いている。ただし、最近になって漸くその詳細が判明してきた環境問題と密接に絡むようになった。それは、大規模プロジェクトで試されるもので、建築家ではなく企業にしか追えないものとなっている。開放されたはずの情報が反対にコントロール化されている。この現状を考える必要がありそうだ。その後、内藤廣氏がインテリアを設計した虎屋に行く。椅子座り心地よさに感動する。
055 CL ローマ×リヴァプール
第1戦の大量リードによって、リヴァプールは落ち着いたゲーム運びを行った。それが、ゲーム開始直後のローマナインゴランのミスを誘った。最後は意地のローマに逆転されるも、リヴァプールが決勝の地にコマを進める。それにしても、日本が対戦するマリのスピードは群を抜いている。ゴム鞠のように躍動感がある。チームメートであった吉田との対戦は楽しみである。

5月2日(水)
彰国社行き。最後の打ち合わせ。事務所に戻り、「はじめに」を再考。少し切り口を見直す。翻訳続行。ほぼ終える。
054 CL レアル・マドリード×バイエルン
今日のセカンドレグもバイエルンがゲームを支配するも、引き分け、レアルが決勝に進出する。後半早々の痛恨のバックパスミスがバイエルンは痛かった。それにしても、両チームの技術力の高さに感服する。トラップがピタッと足下に収まり、テンポ良くボールが展開する。精神的な余裕から来るものだろう。流石に、ゴール前では慌てる様子が見られるが、日本人もこの精神的余裕の幅が必要と思う。時としてCL決勝はW杯に響くと言われている。選手が休養する余裕を与えないことになるからである。日本の相手となるポーランドのレバントスキーとコロンビアのハリル・ロドリゲスはここで姿を消すこととなった。

5月1日(火)
ブラタモリは銀閣。銀閣の広縁からの庭景色を始めて知る。ここから日本文化がはじまったというものであった。タモリたちも同仁斎を堪能する。これを歴史的位置づけからでなく、地形から読み解くのが面白い。この番組の後で、江戸の特集を観る。150年前の江戸の町写真がオーストリアで発見された。江戸城も存在し、その周りは立派な瓦屋根の長屋が囲んでいた。その風景は美しい。現在の下町のような雑然としたカオス状況ではなかった。この江戸の都市計画は堀を中心に進められたという。江戸の堀は、螺旋状を描きながら大きくしていったということを知る。それは、今でもその面影を追うことができる。コルビジュエのムンダネウム構想のようだ。それと江戸に関するもうひとつの解釈に興味をもった。江戸も西洋と同様の石の町であるという指摘である。木や紙の町でなく。江戸の町は、大石による擁壁工事の上に成立しているという指摘であった。参勤交代のように、全国の大名が、この造成のためにかり出され、お金を出資させられたという。石の多くは伊豆から切り出し、海上から江戸まで運ばれたのだそうだ。陣内さんが出演していた。

4月30日(月)
秩父行き。谷口吉郎の秩父セメント工場を観る。その後、キャンプPICAの温泉でくつろぎ、昭和の映画館をリノベーションしたイタリアンレストランで夕食。木造のシザーズトラス構造であった。奥行きが浅く、当時の使用方法が読めなかった。

4月29日(日)
053 ブンデス ブレーメン×ドルトムント
ドルトムントはしっかり固める守りを攻めきれず、1-1のドローに終わる。香川不出場。次戦にお預けだ。どうやら負けないという消極的指示があったように思われる。縦パスを少なくし、ゲッツエやロイス、プリシッチはサイドに張り付き、DFが出し所を見出せなくとも、ボールを受けるような無理はしなかった。

4月28日(土)
052 プレミア クリスタルパレス×レスター
岡崎はまだ怪我のようだ。代わりにイグアナチョが先発。しかし上手く機能しない。後半から、このポジションが交替させられるのは、岡崎と場合と同じだ。それでも好転はしない。順位上位を狙う期待ができなくなり、ピュエル監督の求心力が弱まっているためだ。監督に明確な戦術方針を出す必要があるのでないか?

4月27日(金)
彰国社で出版会議。最後の方針を決める。その行き帰りでハリルボシッチの弁明会見をYouTubeで全てを観る。ハリルは、90分間しゃべりまくった。そのエネジーに完敗する。その中でハリルは、田嶋会長が解任原因にあげたコミュニケーション不足の有無を問題にする。いっそのこと、欧州遠征での結果が悪かったと言ってもらえれば納得するというものであった。本当に直接的だ。田嶋会長は、ハリルに対して、おそらく敬意を払って、指揮内容の是非をいうことを忖度してしまった。いっそのこと、はっきりとコミュニケーションとか言わずに、はっきりとゲーム内容について言及をすべきであった。むしろこの点のコミュニケーションが失敗したのだと思う。明らかに、マリとウクライナ戦では、チームとしての一貫性は見られず、気のないゲームであった。これは事実であったと思う。もっと具体的に言うと、ハリルは縦への突破をコンセプトにしていた。それは、ベテランの本田、香川、岡崎でなく、大迫、原口、浅野、井手口によってなされるものであったのだが、その彼らが所属チームで全く出場機会を得ていない状況であった。そのときに彼らの代わりになる選手が見出せず、かといってチーム方針を変えることも、ハリルはできなかった。協会にとって、ぼくらにとってもこれが最大の危機であったのだと思う。ちなみに、会見から解任の真意を総合的に判断するに、本田の明確な行動が一部の選手と協会を動かしたことになる。本田は、監督にも直訴していたというので、本田の堂々とした行動力にハリルが屈したかたちがこの結果のようである。

4月26日(木)
051 CL バイエルン×レアル・マドリード
バイエルンが攻め立てるも、1-2で負ける。C・ロナウドを完全に押さえていたにもかかわらず、である。いつものように、DFを囲い込むことに成功していた。ただし、最後のフィニッシュまで至らなかった。

4月25日(水)
050 CL リヴァプール×ローマ
リヴァプール前線の3人はめっぽう速い。彼らが攻め続けた。そのため、ローマDFは慌て規律をなくし、セカンドボールもことごとく拾われていた。ただし、5-0となってから気が緩んだろうか、一休みしたところで2失点する。ローマに希望を与えることになってしまった。

4月24日(火)
設計方法小委員会に出席。出席者が少なく、今後の方針についてのブレインストーミング。その中でテーマが、新しい設計・施工体制。合意形成のためのファシリテーションから、プロ同士のコラボレーションのためのファシリテーションに収束する。様々な意見交換。「ティール組織」も加えられる。現状打開のための分析から実践へ、ということだろうか。これを実践するために便利なアプリも知る。研究室で利用してみよう。深夜、キム・ジョウンの特集を観る。39号室というキム直轄の外貨獲得のための組織があるのだそうだ。世界各地にいる北朝鮮職員が獲得した外貨がそこに集まる。父、  が考え、ジョウンによって完成されたという。これによって政権維持が確実なものにしている。同時に今日は、中国観光客が遭遇してしまった事故のための病院を視察する人間味のあるジョウンがニュースで紹介される。情勢の変化はかなり速い。

4月23日(月)
設計の授業で、河内さんと佐野健太さんのショートレクチャー。河内さんらしい自作のかたちの意味を与えてくれた。グリッド空間に球を挿入する意味と空間的効果についてであった。佐野さんは、伊東さんの作品の紹介からはじめ、建築の可能性を拡げる話をしてくれた。学生にとっては、施工という新しいキーワードが加えられたと思う。「アイデアキャンプ」の読書会。その後、皆で実践する。意見が活発に展開し、5月のゼミ予定をこの方法で決める。

4月22日(日)
龍ヶ崎の現場行き。今週木曜日に行われる新建築誌の撮影に向けて、工事が追い込み段階に入る。田畑の中にある昭和の農家から突き出た縦ログが印象的である。縦ログは、構造的にも断熱性能も、日本の抱える木産業においても、優れた構法といえるが、外壁としての耐候性に劣る。いつか、室内に置いて耐震補強として、使用したいと考えていたところ、この昭和の民家の改修で実現できた。屋根から突き出た縦ログ材は、一種のシンボルである。昭和の民家を立派に新しい木造が支えている。錦織のモンテカルロツアー決勝戦では、王者ナダルに全く歯が立たなかった。テニスにおいて強いとは、得点が必要なときに一気に攻め込むことができることである。このことを今日も痛感する。反対にそれに耐えることができると勝機が開けていく。
049 ブンデス ドルトムント×レヴァークーゼン
香川のベンチ入りを期待したが、それはかなわなかった。バチュアイ負傷のため、大きくスタメンを変える。トップ下にロイス、ボランチにヴァイグル、その前にゲュツエである。サイドに、若いサンチョを置く。これが当たった。もっとも、レヴァークーゼン戦はいつもオープンな撃ち合いになる。これに適した選手配置であった。中盤ボールをキープし、トップが自由に走りまわっていた。今日は、左のサンチョが特に良かった。一度サイドで起点となっていた。

4月21日(土)
翻訳のために1日を使う。途中、若冲の特集をNHKで観る。「樹花鳥獣屏風図」は、解体新書にある挿絵、ノアの箱船をヒントにしたものという指摘が面白い。このころ鎖国が緩くなりはじめ、もの新しい情報が多く流れてくるようになったそうだ。それに敏感であったというものである。錦織の準決勝を観る。錦織が怪我をしているあい間に台頭著しいズベレフを破る。様々な攻撃パターンを繰り出し、勢いがあった。安心して試合を観た。明日の決勝戦が楽しみとなる。

4月20日(金)
建築学会に行き、今年の東北大学での学会梗概のプログラムつくり。はじめての参加で、学会というものの様子が判る。どの世界にもその世界の作法があり、その世界の内的平衡を保ちながら、対外性を保っていることがよく判る。社会への貢献もさることながら、研究発表というものも、学会に所属する人の位置づけを、内部的にも対外的にも位置付けるものであるのだ。対外的には、その人の評価に客観性を与え、内部的には序列化と組織強化するものである。人はどうやってこういう仕組みをつくり出したのだろうと思う。建築家においては、こうした組織体制否定が現在一般的である。これにたいして、ぼくはむしろ批判的であるのだが、一般社会においては、そうした意識がまだ薄いのだ。このことを感じた1日であった。今日も錦織の試合を観る。ランキング3位のチリッチに勝ちきる。チリッチは、第2セットで膝を痛めてから、捨て身の作戦をとる。とにかく、強く振り切り、失敗もするが、意外と数多いスーパーショットになる。解説者によると、これまでにないチリッチの出来だそうだ。簡単に勝利を掴めるそうな気がしたが、実際に錦織は悪戦苦闘する。それでも3セット終盤でブレークして、勝ちきった。問題の手首は痛そうであった。

4月19日(木)
深夜錦織の試合を久しぶりに観る。今シーズン初めてである。精神的にハラハラする。最後は勝ちきることで喜びも倍増するのであるが、これがテニスの他のスポーツとは異なる面白みだと思う。「アイデアキャンプ 創造する時代の働き方」中西泰人著の再読。人には創造という能力があり、それを客観的・論理的思考と対立させている。その能力を発揮させるためには、主観的に身体的環境を変化させなければならない。それを象徴する言葉が、「キャンプ」である。数々のアイデアはいずれ収束させなければならないが、まずは発散させることの重要性が、この本のテーマである。参考文献にオーエンの「オープン・ススペース・テクノロジー」、アニータ・ブラウン、アイザックスの「ワールド・カフェ」、ワイスボードとジャノフの「フューチャーサーチ」。ルフェーブルの「空間の生産」、ユクスキュルの「生物から見た世界」、ハーバート・サイモンの「システムの科学」が挙げられている。

4月18日(水)
4年生を研究室に新しく迎えるにあたって歓迎会。「ティール組織」を読んでいることもあり、お互いで質問を繰り返すことで、コミュニケーションを深めることをやってみる。当然のことながら、もう少し工夫が必要であることが判る。帰宅後、なでしこが中国を圧勝していた。

4月17日(火)
「ティール組織」の翻訳に没頭。そのためこの頃読書できないのので、少しストレスが溜まる。深夜、キム・ジョンウンの特集を観る。これまでガキ大将のように考えられていたが、実は強かな戦略を張り巡らす策略家であるという特集であった。今日までの日米韓、中国の動向は、彼の思い描いたシナリオに従っているという。果たしてそうしたことは可能なのだろうかと疑問に思う。そのくらいの力量があるなら、もう少し国富を貯めることができてもよいと思うのだが。

4月16日(月)
建築計画2授業。難波さんの「建築の四層構造」中心に「建築」と建物の違いを説明。「建築」には、4層構造全てに対しての何らかの解答がなければならない。ディズニーランド施設が、誰にも親しみがある一方で、「建築」として扱われない理由がそこにある。その後、設計授業で扱う美術館課題をもとにして「第3層」の解説を行う。今日の授業のテーマである。「第3層」とは機能層である。一級建築士試験は、ほぼ第3層を問うものであることを前提に、これを解くことを課した。実際に黒板で解いてみせる。ただし、繰り返しになるが、「建築」にするためには、ここで具体的に示した例えば「裏と表」というような計画術を超えたものにする必要がある。

4月15日(日)
048 ブンデス シャルケ×ドルトムント
ドルトムントは、なんともはっきりとしない攻撃を続け、シャルケに完封させられる。昨季は、トゥヘルが、強烈なキャラクターと戦術でチームを率いた。それは、チームに歪みを生むほどのものであった。現在のシュティンガーは、反対に細かな指示は選手にないようである。ドルトの選手も優秀ではあるが、個で打開するほどのスーパースターはいない。トゥヘルがいなくなり、その空虚感をボー然と見守るだけの試合になっているように感じる。なかなか選手コントロールは難しいことを知る。

4月14日(土)
047 プレミア バンリー×レスター
岡崎先発もいいところなしに、前半で交替させられる。このところ、レスターの型にはまらない。岡崎に原因があるわけではないが、その原因探しのしわ寄せが彼のところにくる。後半から登場のイグアナチョがアシストを決める。レスターはこの繰り返しを続けてきた。いつか型にはまるようになり、岡崎定着となるのだが、今季はあと数試合しかない。

4月13日(金)
046 EL ザルツブルク×ラッツィオ ザルツブルクが一気にひっくり返す。攻撃だけでなく、守備からの展開にスピードが長けていた。インザーギがラッツィオの指揮をしていたのはビックリ。モンテッラといい、ミランを追い出された若手が指導において活躍をしている。

4月12日(木)
夕方に鈴木くんが来所。ナチュラルアングルの増築計画の打ち合わせ。子どもが大きくなり、新たな有ペース分割が求められている。流れるような空間を仕切る方法を検討する。
045 CL レアル・マドリード×ユベントス
今日もイタリア勢が完璧に試合をコントロールし、今日も奇蹟を起こすかと思われた。しかし、95分過ぎにPKを与えてしまい、レアルがベスト4に進む。0-3にした時点でユーベは一呼吸置いてしまった。そこから流れを引き戻すことはできなかったことになる。それにしても今日のユーベは、前戦では綺麗なラインコントロールを行い、スペースを消していたのだが、これとは異なり、マンツーマンに近いかたちでロナウドやベイル、マルセロを押さえ込んだ。セルジオ・ラモスが出場停止であったことも影響した。前回不出場のマンジュキッチの攻守走り回る貢献度も大きいだろう。バイエルン時代とは大きく変身を遂げていた。

4月11日(水)
ゼミにて、「メッセージ」ヴィルヌーヴ監督を観る。観るのは3度目になるが、いくつか発見もあった。普通に考えると、主人公のルイーズは予知能力を授かったと言うことであろう。ただし、映画がエンターテイメントであり、正確性を求めるものでないとすると、むしろ予知能力など得られるはずもないので、人が正しいと感じ、思い込むことで時に世界を大きく変えることもある。とも映画を解釈できる。この映画では、ふたつの思考方法が紹介されている。ひとつはぼくたちが今もっている、原因-結果という時系列で事象を追いかけるもの。対自で考えることである。もうひとつは、経験からくる事象に、感じて反応するものである。自転車の例を挙げた。自転車を乗ることができるために、いちいち、降りては反省して修正したりはしない。試行錯誤が壮大な情報処理を行っているという事実である。ヘプタポットはこれを操っていた。ここには、時間という概念がなく、ぼくら時系列から考える世界観からは、ヘプタポットは予知能力があると言うことになる。ぼくとしては、後者の思考方法が、物事を変えていくときの大いなるヒントとなると思うのだ。そのため今年の初回ゼミで、この映画の鑑賞会を行った。
043 CL マンチェスタC×リヴァプール
クロップの人間性溢れるアグレッシブな戦法が、グアディオラの緻密な機械のような戦法を破った。ドルトがバイエルンを破ったときのような感情が蘇った。しかし、前半終了間際のオフサイド判定が正しくなされていたら、この結果はどうなっていたかは判らない。グアディアオラはこの判定に怒り、退場処分となった。
044 CL ローマ×バルセロナ
ローマがバルサの攻撃を封じ、3-0で勝利し、アウエーゴールの差でベスト4に進出する。誰も予想できなかったに違いない。バルセロナは、1点を取れれば優位に立つと思い、守勢にまわってしまったのが痛かった。この流れを最後まで変えることできずに無得点で終わってしまう。スタディオ・オリンピコの奇蹟として、後世まで語られることであろう。

4月10日(火)
ハリル解任にたいするコメントが一転して、協会批判となる。面白いものだ。強い者への大衆批判と見て取れる。いつの時でも、事を為すかモノをつくる者は批判の対象である。つくらない者は、批判されることのない安全な場所にいる。その中で、川島の心泣かされるコメントもあった。再びピッチに立てるように配慮してくれたハリルへの感謝の意であった。

4月9日(月)
朝起きると、ハリルボシッチ監督の解任をニュースで知る。どうやらマリ戦が決定打となったようであるが、年末から水面下で準備は進められていたようだ。その中に長谷部からのヒアリングもあったという。そうした現場からの生の疑念が、マリ戦後に現実となって紛失したという。ハリルにしてみれば、本田を招集してしまったことが仇となった。本田は、マリ戦で明らかにゲームを落ち着かせていた。これができたのは本田だからであり、それをハリルは否定してしまったのだ。ゲームに勝てればよかったものの、この否定は選手からの求心力を失い、逆に本田へと集まることになってしまった。ゲーム後の長友の発言、ハリルに買われていた大迫でさえ、縦一辺倒の戦術の批判をするようになった。記事によると、選手皆のボイコットまでもが起こりそうであったそうである。これをまとめたのは、強化部長の西野であり、彼が後任となった。それにしても、本田の行動力に感心する。ミランにおいても、最後は必ずポジションを獲得していたし、後半の落ち気味のキャリアを、メキシコという飛び道具を使って復活させ、代表の座を最後には掴みそうである。

4月8日(日)
042 ブンデス ドルトムント×シュツットガルト
香川の怪我は続き、浅野もベンチ外。3-0でドルトムントの勝利。点差から推察するほどの優劣差はなかった。プリシッチのクロスが偶然ゴールしたのを切掛けにして、要所でドルトが得点を挙げていった。前戦の大敗を機に、大幅なメンバー入れ替え。シャヒンも久々の先発であった。
「プリズナーズ」ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品を続けて観る。誘拐された娘を奪還するための、常軌を逸した父親をヒュー・ジャックマンが演じる。これを聞くとアメリカ映画特有の人間愛に満ちたハードアクション作品に思えるが、全体的印象は、善悪を超越する程のキリスト教的な映画である。人間を超越したところの存在が登場人物を動かしているようである。したがって、娘救出のために、知的障害者をヒュー・ジャックマンは殴り続けるし、神父ですら殺人を犯し、少年愛好者であったりする。全てがたわいもないことに見えるほど、絶対的他者の存在を示す映画であった。これが受け入れられる背景がアメリカにはあることを知る。

4月7日(土)
041 プレミア レスター×ニューカッスル
岡崎の代わりにディアバテが先発出場。前戦同様、高い位置からのボール奪取し、速攻するというパターンがはまらない。バランス悪く、相手ボランチにボールが簡単に落ちて、そこから展開されてしまっていた。この戦況を見極めてか、岡崎は後半早々に登場。2点差となったところで、ニューカッスルが守りをかためたため、奇しくもレスターのボールポゼッションが高まる。得点は、サイドからのロングボールに岡崎が頭で落とし、バーディが決めたものである。しかし1-2で負ける。チームが上手く機能しない理由を、なぜか岡崎の交替で解決しようとする采配に、岡崎も少し疑問に思うこともあろうと思う。

4月6日(金)
「複製された男」ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督を観る。カナダトロントが舞台であった。トロントというと、ジェイコブスの街という印象であるのだが、現代建築も目立つ。ヤンソン・マーの捻れた超高層が象徴的に扱われ、ルイーズ・ブルジュワらしき蜘蛛のアートも度々登場する。この映画は、2重人格者を描いたとも、偶然に廻り合ったそっくりさんが巻き起こすミステリーとも解釈できるが、そんなことより、この映画は人(男)のさがについて語るものであったと思う。蜘蛛は、どうやら女性(母親)の健全な母性とは反対の、嫉妬、独占欲、性などの暗部を象徴しているもののようだ。そこから男(息子)は逃れられないことを、極めてシリアスに語っている。物語のはじめに主人公が学生向けに講義する2パターンの独裁者「遊びを与えて享楽させる方法」と「情報をコントロールして大事なことを教えない方法」とは、息子にたいする母親のことであり、あるいは、「1度目は悲劇、2度目は笑劇」というマルクス、ヘーゲルの引用は、母親から逃れたとしても今度は別の女性(妻)に囚われてしまう、歴史=男のさがを言うものである。それから逃れるための手段として、怪しげな秘密クラブや浮気などの反社会的行為があるのだ。この反転する見方が他と異なるヴィルヌーヴ監督の特徴だろうかと思う。

4月5日(木)
040 CL リヴァプール×マンチェスター・シティ
今季のシティは頭ひとつぬけた成績をおさめているのだが、そのシティを3-0でリヴァプールが破る。速攻が上手く決まったとは言え、前半はその後も終始ゲームを支配していた。球離れが早く、かつDFを背負ってボールを受けることがない。ロングボールによるチーム戦術が確立している。基本的に、リヴァプールも、グアディオラのように、相手陣内を取り囲むようにボール回しをしていた。これは、チームに落ち着きをもたらし、相手に対し余裕を保つ戦法である。昨日の試合といい、フィールドを大きく使い、ボールを失う確率を低くし、チャンスが廻ってくるのを待つ戦術のように見えた。バタバタ感がない。

4月4日(水)
039 CL ユベントス×レアル・マドリード
アウエーでマドリードの圧勝。固いと言われているユーベのDFラインを開始早々にロナウドが崩し、マドリ-は終始ゲームをコントロールできた。それにしても、1点目は見事であった。ベンゼマを盾にしてDFの1歩前に出ることに成功していた。それにしてもお互い守備が固い。多人数に囲まれないように、フィールドいっぱいにボールを回す。日本代表より、1周り大きいボール回しである。

4月3日(火)
大学で一級建築士実務免除のためのガイダンス。構造と設備の学生は見当たらない。「ティール組織」の下訳を終え、中埜さんへ送付。図柄の方にとりかかることにする。

4月2日(月)
白馬のジャンプ台を観る。思っていたより急勾配で、壮大さを感じる。内藤廣氏設計の安曇野のいわさきちひろ美術館へ。10年ふりの訪問である。この間に、のびのびしたランドスケープが出来上がり、公園の中の美術館として美しくなっていた。こうした力強いかたちがぼく好みではあるが、岩崎ちひろの優しい画風との関連に説明がつかない難しいところがあることを前から感じていた。そのための工夫が、平面をはじめとする計画の様々なところにあることに今回気づいた。外観からの形式は、内部から全く感じさせないようにできている。人は屋根方向と直角方向に動き、天井を見通すことができない。サッシュ上の2m高さにコンクリートの大きなまぐさが廻っているが、それは人の動く方向にそってあり、屋根構造の方向と一致していない。屋根構造も、コンクリートラーメン構造でできている大きな樋の上に引っ掛かるようにかけられているが、その設置が明快ではない。これらは、それ以前の高知や伊勢の美術館と異なっている。五浦の美術館に近いかもしれない。その後、近くのわさび農園で食事をとり帰路につく。
038 ブンデス バイエルン×ドルトムント
ドルトムントが0-6で大敗。マスコミが騒ぐ。監督も限界を感じ、来季の続投を諦めるコメントを残す。激しいプレッシングに対するチーム戦術がなかった。失点はほとんど、中盤近くでパスカットされたものであった。中盤が孤立されてしまっていた。前線から下がってのフォローが必要である。香川がいた場合も想像できない。最も苦手とするパターンであるからだ。

4月1日(日)
上田を抜けて、松本市内へ。宮本忠長設計の松本市立美術館へ。草間彌生展が開催されている。草間は、この松本が出身地ということらしく、街をあげてのイベントである。街中に水玉模様のフラッグが溢れ、彫刻も展示されている。若き頃のニューヨークでの活動から、作品が一貫していることに驚く。単純なアイテムへの固執とその映り込みである。にゅろにゅろなものであったり、水玉であったり、カボチャであったりする。それが、空間の中に仕込まれて、無限を獲得することがテーマとされるのだ。宮本忠長の建築は、階段がテーマである。中庭を囲むように常設展示と企画展示がゾーン分けされ、それを両方に往き来できる中央に、上り下りができる大きな吹き抜け階段室がある。中庭も陽が当たり気持ちよい。そこから、裏道を抜けることができるので、旧街を通り抜け近くの蕎麦屋へ。そこには井戸水が湧いている。安曇野の碌山美術館へ。今井兼次設計の教会のような美術館である。安曇野のイメージを代表する美術館で抵抗があったが、はじめて訪れる。やはり少しがっかり。言われているほどに精神性を感じることができなかった。天井から吊されている蛍光灯が全くよくない。白馬のホテルへ。この付近に来ると山にはうっすら雪がある。

3月31日(土)
伊東豊雄さんのまつもと市民芸術センターへ。大ホールでのバレエの練習風景を観る。上から見下ろすことができ、馬蹄形がつくり出す一体感が良い。ホワイエの大きさには疑問が残る。ここから、動線だけでなく、岐阜のようにもっと流動的な使われ方を目指してのではないかと推測する。蓼科のホテルへ。

3月30日(金)
午前中、龍ヶ崎行き。深夜、BSで「フォーカス」ウィル・スミス主演を観る。ウィル・スミスは詐欺師である。詐欺とは、相手の心の裏をかくことで成立する。それと恋愛をかけあわせたストーリーで、機能性を高めた作品であるが、早い展開が心地よい。最後まで観てしまう。

3月29日(木)
成増のナチュラルフレックス行き。竣工後10年経っているが、当時のままであった。その後、近くの喫茶店で岩間くんの近況を聞く。実作もでき、チャレンジングなプロジェクトに参加している。実験的にプロジェクトを試みようとする人がどの時代にもいて、それが最終的に実現されるかは不透明である。その試みに同乗してくれる建築家が求められていることを理解する。ぼくも若いつもりでいるが、既に出来上がってしまっていると判断されてか、あまり声がかからなくなった。あるいは、チャレンジングであることがかなり一般的になり、誰もが主体性を持ち出す世の中になった。作品をつくることにも、主体性が避けられないことであるが、それとの折り合いがなされていないということだろうか、とも思う。

3月28日(水)
父と岩本町の病院へ。予想に反して芳しくない。その後大学行き、翻訳を続ける。なぜ今、組織論なのかを考える。

3月27日(火)
036 親善試合 日本代表×ウクライナ
1-2で負ける。こうも代表が弱かったと思う。欧州のリーグ戦を見ることが多いが、それとの差は大きい。1つのイージーなミスが勝敗を分けると言うが、そうしたミスが無数にあった。おそらく、身体能力をはじめ精神的に相手に圧倒されていたのでないかと思う。ハリル監督が目指すところに、香川をはじめ、満足な解答を出す選手がいないこともわかるが、欧州で日頃から切磋琢磨しているベテランを招集する必要を感じる。こうした状況が未経験の選手には、さらに解決が難しい。ハリルも、現実的な策が必要となるだろう。今日も、4-2-3-1。ダブルボランチで、トップ下を置くかたちである。トップ下に前回は森岡、今日は柴崎が入る。ここにボールがおさまらないと、両サイドの早い飛び出しができない。それは、ドルトムントのかたちでもある。香川の復帰に期待する。トップ下を置くかたちであれば、岡崎も可能だろう。右での本田のタメ、終盤登場の中島の活躍、前半に見せたハーフラインより自陣に引いてからの速攻、これらが少ない明るい兆しである。前半終盤から、上手く前線FWが引き出され、ウクライナにかわされることで、このかたちが崩れていった。

3月25日(日)
NHKの人体特集の最終回を観る。このシリーズは、エクソソームに代表されるメッセージ物質に光りをあてるものであった。あらゆる臓器からメッセージ物質は放出され、それを介して臓器は互いにバランスをとり合っているという。分析的機械論の立場から、全体性を表現しようというものである。医学界でのメッセージ物質への注目は、ここ10年だそうだ。ところで、今回のテーマは、ガン治療と心筋梗塞予防について。最先端のガン治療は大きくふたつあり、ひとつは遺伝子治療ともうひとつは免疫治療である。このことを知る。ガン細胞は遺伝子異常が引き起こす負細胞の結果である。この異常遺伝子を特定するプレシジョンが遺伝子治療である。もうひとつは、今回の特集にある、ガン細胞自体を治癒するのではなく、がん細胞が放出するメッセージ物質を正常な体内にある免疫細胞によって押さえ込むものである。ガン細胞は、免疫細胞から防御するためと自らを増殖のためにエクソソームというメッセージ物質を放出する。これに対するケアで、ガン転移を防ぐものである。

3月24日(土)
「美の巨人」でベラスケスをまた観る。今日は、「セビーリャの水売り」ベラスケスのデビュー作である。滑らかな壺の素材感、水が浪波そそがれたグラスの透明感、これらは光りを強調したリアルな表現の極地である。そこに身近な宗教観を差し込むのは、この頃に既に完成していた。夕方にかけて花見に出る。少し寒い。

3月23日(金)
035 親善試合 日本代表×マリ
ロスタイムに追いつき1-1のドロー。ベルギーという第3国での開催ということで観客がいない。このこともあって、迫力に欠ける試合であった。崩されることがなかったが、それはマリにチーム戦術がなかったということで、1対1では負けていた。日本は、4-2-1-3で臨む。両ウイングに宇佐美と久保。トップ下に森岡である。これは驚きであった。当初、両ウイングが裏を獲る場面があったのは、ボランチからの縦パスによるもの。前からのプレッシングが上手く効いていたためである。しかし時間を立つと、大迫らの疲れと、マリDFがボールの出だしをかわすことに成功し、全体にプレッシングがかからなくなった。と同時に、日本の攻撃もなくなる。このフォーメーションは、ドルトムントと同じである。それと比較してしまう。森岡と大迫の関係にも疑問が残った。60分過ぎから本田登場。久保と異なりボールをキープし、全体の押し上げに成功し、相手マークがきつくなると、逆サイドの宇佐美に替わった中島のフリーにさせることに貢献する。得点はそうしたなかで、左からの折り返しの跳ね返りで生まれる。中島初出場で初得点。今日の日本は、守備面での連携を見せるまでいかなかったこと、かといって攻撃におけるパターンが見出せなかった。この相手にこの戦いでは、本番でかなり苦労しそうな気配である。選手間の競争ばかりが目につき、戦術に熟成がないように見えるのは、ハリルに明確な方針がないことによるものか、気になるところである。

3月22日(木)
夕方から謝恩会に出席、その後EDLの打ち上げ。学部、院生とも今年の卒業生はキャラが立っていたので、面白かった。就職する学生と重点的に話す。それぞれ、問題を抱えているのは、明るい見通しが立たない時代の風潮だろう。気にしても仕方ないので、求められた道に進むことをアドバイスする。多少シンミリすることもあったが、ハッピーに終える。

3月21日(水)
早くも大学院のゼミを始める。来年度の予定と、研究室の片付けの指示。製図室環境ががらっと変わるので、研究室も気分一新することとする。4月のゼミの予定をねることにする。

3月20日(火)
夕方、中埜さんと翻訳の打ち合わせ。至極真っ当な方法論を研究するいくつかの本について話す。フレデリック・ラルーの「ティール組織」でも彼らは扱われている。ノーマン・ウルフの「生きている組織」、ユルゲン・ハーバーマスの「他者の受容」、ケン・ウィルバーの「万物の歴史」「存在することのシンプルな感覚」、アブラハム・マズローなどである。ハーバーマス以外は、これまでぼくにとって馴染みのなかった人たちで、アメリカのプラクティカルな思想家たちである。なぜかと思い難波さんの日記でチェック。流石に何人かは引っ掛かる。が、否定的な見解が目立つ。建築と異なり結果を伴わないで済まされるプロセス論者だからとも思う。このあたりを翻訳のテーマとする。

3月18日(日)
エクスプローラーの車検を通したが、10年を超え、そろそろ買い換えについて考え、ディーラーを廻る。本来のぼくの好みはクロカンであるのだが、エコ対策としては時代遅れであることが判る。車種も限定される。一部の望みをかけて三菱のPHEV車も見る。スバルも今年にデビューさせるそうだ。車のスケールを落としハッチバック型にし、燃費を重視すると、それは欧州基準のディーゼル車となるそうだ。聞けば、フィアット並に走るそうである。マツダもデザインに重点を置き、質とコストパフォーマンスの両立を問題にしているのが印象的であるが、そもそもコスト抜きにした輸入車に質感は譲らざるを得ない。
034 ブンデス ドルトムント×ハノーファ

3月17日(土)
NHKスペシャル「メルトダウン 7」を観る。昨日再放送を観た88時間の後の話である。その後、格納容器内への注水が中止され、その2日間における大量放射線物質放出の事実とその原因にせまる特集である。音声記録解析から当時の状況を再現する。ここでひとつの事実を発見できた。一連のNHKの特集では、失敗した格納容器のメルトダウンが問題にされていた訳だが、原発当事者の本題は炉心のメルトダウンを防ぐことにあったらしい。したがって、放射線物質を放出させてしまったものの、最悪のケースを招かなかった成功を称えるものとして、番組を描くこともできた訳である。このように考えると、別な意味で薄気味悪く感じてしまう。こうした特集でさえ、バイアスのかかったものしかぼくらは知ることができないのである。ところでこの特集は、当時の福島現場には情報が集まりすぎ、それによる対処時間ロスとその労力によって、問題解決の糸口が阻まれていたという論旨であった。それを、一般的な組織論に結び付けようとするものであった。あらゆる決定がひとつに集中すると、判断の閾値を超えてしまうということであったと思う。これは、今翻訳している「ティール組織」との関連を考える必要がありそうだ。この特集から推測するに、時代の趨勢はもはやピラミッド式組織はもはや死語となり、その先にある、フラットでありかつひとつにまとめるような組織のあり方、それにまで批判が向けられている。「ティール組織」もそうした現状を受け止めた展開を強調する必要がありそうだ。

3月16日(金)
深夜、「メルトダウンまでの88時間」の再放送をBSで観る。あの臨場感がふたたび蘇り、不気味さを感じる。当時、最後福島第1原発内では打つ手がなくなっていた。東京本部との生々しい交信記録がそれを物語っている。4号機の爆発と2号機の容器内圧力が0になってしまったことで、彼らは終わったと思ったという。しかし2号機核納容器の設計不足から生じる自然ベントにより救われた。まさに奇蹟の神ありということだろう。要するに偶然に助けられたわけで、コントロールできなくなっていた。それでも稼働再開する日本の実情に疑問を感じざるを得ない。
033 EL2nd ザルツブルグ×ドルトムント
0-0でドルトは16強で敗退。前半は、ゲーゲンプレッシングされると全くいいところなし。後半から、背の高いイサクをターゲットマンして、2トップのロングボールを混ぜる。いくつかチャンスができるようになったが、最後を突き崩すことができず。シュテ-ガーの無策ぶりが表面化した。選手がピッチ上で自由にできないときの方策が必要である。それがこの監督にも見えなかった。

3月15日(木)
032 CL2nd バルセロナ×チェルシー
開始早々にバルサが得点を上げて、チェルシーにとってはゲームプランが狂う。そのため攻撃に積極的に出た。今日はアウエーの白いジャージ。ラインコントロールがよく映えていた。守りでは5バック、攻めになると3-2-4-1の統率がスムーズである。バルサは1点目以外にこのラインを崩せないと見るや、速攻にかける。得点は、ボール奪取から陣形が整うまでの勝負に徹していた。3-0の圧勝といってよいだろう。

3月14日(水)
夕方に西洋美術館で開催されているプラド美術館展へ。ベラスケスが多く展示されている。しかし目当ての「ラス・メニーナス」と「鏡の前のヴィーナス」は出国していなかったのが残念。ローティもジジェックも、フーコーもこの絵にある鏡を語る。鏡と真理は絶えず対にされる。真理崇拝主義への疑いである。一般に鏡は人の心を表象するものと考えられ、ぼくらはそうした思考方法をとる。しかし鏡と心は全く別のものであり、「鏡」という虚像をつくって安住することへの警告がそこで語られている。という前提に立てば、これらの絵は、主体不在の表象を批判的に捉えることができる。この17世紀には、現在考える人間というものは存在していなかった。本展にある7点のベラスケスの絵は、肖像画・宗教画であり、それに写実性を与え、宗教や神話との結びつきにリアルさを与えるものであった。絵に登場する人たちはみなベラスケスの家族をモデルにしていた。絵によって、宗教と現実のつながりを強化させようとする意図がある。「ラス・メニーナス」中央に描かれているマルガリータ・テレーサがウィーン美術史美術館で見た王女の肖像画との一致に気づく。確か成長に合わせて何枚かの肖像画の連作であったことを思い出した。

3月13日(火)
午前中に税務署に寄り、確定申告の提出。その足で大学にいく。2〜3の会議のあと、退職する二人の先生の送別会。おふたりには大変お世話になった。包容力のある先生であった。
031 CL 1stレグ セビージャ×マンU
0-0のスコアレスドロー。ホームのセビージャはとにかく失点しないことを優先とする。ユナイテッドも、カウンターを怖れ、サイドからの展開に終始。その結果、スピード感のない展開となる。

3月12日(月)
彰国社で教科書の原稿打ち合わせ。全体像を掴もうとするも、まだまだである。なんとか1冊の本としてのまとまりをつくりたい。それは、4年生の卒業設計にむけてのヒントを与えることと考える。その問題提起にまで至っていない。これのよって何とか設計授業とのリンクであることをこの本で示したい。午後、中目黒のナチュラルスティックⅡ行き。「ENGIN」誌の撮影に立ち会う。

3月11日(日)
030 ブンデス ドルトムント×フランクフルト
香川は未だ欠場。2〜3週の療養が永遠と続く。一方長谷部はボランチで出場。完全復帰したようだ。後半から、ボアティングといい距離を保ち、ボールの起点となる。ただし、ドルトの得点は、長谷部の辺りを起点にしたもので、守備の要としては問われることになるだろう。ドルトムントは、ゲッツエとバチュアイを先発から外し、プリシッチを使う。それで右サイドからの効果的な攻撃ができた。中盤の細かいややもすると独りよがりのパス回しがなくなり、素直な展開となった。途中交代で入ったバチュアイも中央に陣取り、これに応えることができた。一度は追いつかれるもロスタイムに逆転。なんとか3位をキープする。

3月10日(土)
午前、山庄建設の山本社長来所。リノベの簡単な打ち合わせ。午後、面接のため大学行き。昨日届いた原稿を読みはじめ、全体構成に考えを廻らせる。合間に車検に出していた車をピックアップする。原稿構成については、歴史、近代、ユーザーオリエンテッド、かたち(主体性)、構造、都市(社会)、プロセス(他者性)、それぞれの建築への言及で、各章を整理するという考えに至る。その後、内容の重なりをチェック。建築は、近代の賜である一方で、置き去りにしてしまってきたモノも多い。そうしたものを指摘しつつ、拾い上げるようなことを促す構成を考える。再読。テレ東で東大寺特集。盧舎那仏は華厳経の宇宙仏であることを知る。法華堂の不空羂索観音とともに光り仏といわれている。
029 プレミア レスター×WBA
岡崎が怪我から復帰し、先発出場。このところのレスター不振と岡崎の怪我による欠場との間の因果関係が地元紙でも指摘されていたという。プエル監督の岡崎起用にも、これと同様の解釈がみられる。プレッシングの守備からの攻撃を組み立てるというのがレスターの基本姿勢であり、岡崎はその要である。とはいえ、岡崎にゲーム感覚がなし。全くよいところがなかった。60分過ぎに交替。替わって入った8番イグアナチョが大活躍。岡崎が使えきれなかったちょっと下がり目のスペースでタッチ数を増やし、ゲームに上手く加わる。バーディへのアシストを試みはじめたのも、イグアナチョの新しい一面であった。ゴール前では、岡崎と同じポジショニングで、上手くセンタリングを手にし、ゴールを決める。ここ数試合に見られなかったいい流れがレスターにもたらされる。4-1で勝利。

3月9日(金)
午後は、大学院の試験監督に半日費やす。合間に、石原先生と興味深い話をする。GAのインタビュー内容についてで、それによって頭の中を再整理できた。その後、JIAの大学院修士展に遠藤研から二人参加していたが、全くダメだったという報告を受ける。どうやら、他大学も正当といってはおかしいが、堅実な設計方法するものが多かったという。千葉工大は提出してから時間がない分、プレゼの完成度は低い。ここに大きな差があったようである。このようにコンペでは、相対的な見方を否が応でもされる。同じ土俵で戦うには、相当なる心構えが必要とされる。深夜、郵便局へ不在配達を獲りにいく。原稿校正である。
028 EL ドルトムント×ザルツブルク
香川欠場。ドルトは攻めきれずに、ホームで、1-2で負ける。ところでザルツブルクは統率されたよいチームであった。中盤底を徹底マークし、ボールの出所を押さえ、今日は、ロイスをサイドに置き去りにした。前線でのボールもシュールレに限定し、フィニッシュまでいたらせかなかった。後半、プリシッチに替えられると、一時攻められるも、最後は耐え抜いた。ドルトは、ホームでの敗戦が痛い。

3月8日(木)
研究室の学生から、せんだいの10選に入ったという嬉しい報告を受け、会場での審査経過についてしばらく話合う。櫻井さんは、大学内での講評に選ばれなかったので、大いなるリベンジをした。審査員の琴線に触れることができたのだろう。
027 CL ユヴェントス×トトナム
昨日とは違い、ユヴェントスの試合巧者ぶりが目立った。完全にゲーム運びはトトナムにあったのだが、的確な両サイドの二人の交替によって、がらっと展開が変えた。交替後3分で逆転する。攻められ続けても、最終ラインで踏ん張ることができるのが、DFを慌てさせない。この3分前後から、セカンドボールを拾うことができ、ベンゼマが決定機を逃さなかった。

3月7日(水)
事務所の電話工事。ソフトバンクからKDDIに変更。既存ネットワークが複雑で、通常のような切り替えが難しいことを指摘される。この際に、ネットワークを整理することに決めるも、取り合えず今は既存のインフラの上で徐々に更新していくしかない。実は、KDDIへの変更も、事務所のネットワークの再整理が目的で、これを決断をした。
026 CL パリSG×レアル・マドリード
ゲームは一進一退であったが、レアルの速攻が最後に勝つ。パリは10人になったのがいけなかった。ひとつ気づいたことがある。速攻によって押し込みはじめてから、中盤にスペースをつくりだしたのは、レアルの意図だろう。C・ロナウドがそこを使いはじめたのは、そうした直後であった。

3月6日(火)
設計小委員会に出席。計画系の論文構成について様々学ぶ。「対話としてのデザイン」シンポジウムの査読。ぼくにとっては目新しいことばかりである。

3月4日(日)
025 ブンデス ライプニッツ×ドルトムント
秋のライプニッツからの敗戦から、ドルトはおかしくなった。その時はCBのトプラクが標的にされていた。今日は、ビルトアップの起点となるヴァイグルが狙われていたようだ。そこから、幾度かピンチを迎える。ドルトも決定機をつくるも、ことごとくオフサイド判定となる。ライプニッツが巧みなラインコントールしているというよりも、ボールの出し手が一瞬遅れていた。最終的に1-1のドロー。ドルトムントの攻撃のパタンがないのが、気がかりである。

3月3日(土)
024 プレミア レスター×ボーンマス
岡崎欠場。開始早々、左SBアマーティーも怪我で交替。3バックでのぞむ。やはりこれが良くない。プエル監督は、ボールをつなぐビルトアップに拘る。これまでラニエリ以降多くの監督がこれを目指すも、上手くいった例しがない。60分過ぎからイヘアナチョ投入し、いつものパターンに戻す。スペースに投げ込み、全員が前からプレッシングするものだ。ラグビーのようで、かつてのイングランドサッカーを彷彿させ芸がないが、これで上手く機能するようになる。辛うじて追いつき、1−1のドロー。

3月2日(金)
「ブレードランナー2049」リドリー・スコット総監督、ヴィルヌーヴ監督を観る。レプリカントも悩むというのが、この映画の面白い切り口である。前作では、生きている証が、過去にも現在にも未来にもなかったのだが、今作では未来があり、技術が進んことで、例えばバーチャルな愛があるなど現在も、レプリカントに残されている。この閉塞感が足りない分、作品を少し面白くしていないように感じた。そのため、最後の戦闘シーンにおけるデッカードは少し滑稽にすら思える。記憶や経験が、人にとって何かがテーマとされるが、レプリカントと人間との違いが描かれていないのも、少し不満である。

3月1日(木)
雑誌編集者のジョースズキさんが午前中に来所。ナチュラルスティックⅡのインタビュー。建築専門と一般ユーザの橋渡しをしていただける人でありがたい。スズキさんがいうには、一般ユーザといっても、故障しやすい欧州車を、愛情をもって悪口を言うような人たちのことである。彼らは、与えられるモノよりも、使いこなすコトにカイカンを得る。モノよりコトということであろう。モノをつくる人の感覚に近いものである。人の情感が、人にある訳でもなく、あるいはモノにある訳でもなく、その関係にこそあることをいったもので、共感することが多かった。ぼくはこれをエドマンドバーグとカントの崇高論から学んだ。18世紀後半、リスボンでも大地震がった。恐怖とか喜びが、どこから来るかが最大の関心事であった。それは今も変わらない。

2月28日(水)
GAから「151 100details」が届く。ディテールが細部の問題でなく、モノとモノ、あるいはモノと人、さらに広げると社会との接点の問題であることを、池辺さんの「デザインの鍵」から学んだ。ここに、「名前のない空間へ」という氏の思想が色濃く現れている。絶えず新鮮な眼でモノのあり方を模索しかたちにしていく態度がここにある。本書のインアタビューでは、「イマジナリー・ストラクチャー」がテーマとなっている。ここでは、「イマジナリー・ストラクチャー」におけるぼくの位置づけが、当初の、他のモノとインテグレートさせ、見えなくなる構造から、目的にそって、目指すべきモノのあり方構成のようなものへの、変化を語った。ミースの「神は細部に宿る」は、凝縮していく思想であるが、それと反対の拡散に向かっていったことをお話しした。そうすると実際には、見えない構造から反対に見える構造になっていくのが不思議である。何人かの学生から反応を得る。昨日の田井さんの「住宅断面詳細図集」をはじめ、ディテールが注目されるのに、何か理由がありそうである。

2月27日(火)
夕方、田井さんの出版パーティに行く。北山恒さんと今村さんとの30分のレクチャーがあり、こうした会に珍しく真面目な討論がなされる。北山さんは池辺さんを持ち出し、「フェア」という言葉で田井建築を切りはじめた。エイドリアン・フォティーの「構造」の定義に近いものである。北山さんがバリバリの近代主義者であることがよく判る。その反論を田井さんは、純化に向かうのでなく、多矛盾に向かうといっていた。近代の行き詰まりが、行き過ぎた合理主義がまねいたものであるという発言であったと思う。世界をより詳細に見る力が建築に備わってきたということを前向きに評価するものといっていいだろう。最後に北山さんは、建築の基本である住宅が誰のものであるかが重要であるという指摘をする。これが興味深い。住宅建築は、子金持ちから脱却をする必要があるというものだ。帰り際に橋本純さんと立ち話。橋本さんは、この最後の北山さんのアドバイスを大変気に入っていた。橋本さんは経済に興味が集中し、昨今の建築に不満があるようであった。

2月26日(月)
朝病院へ行くも、インフルではなかった。その足で大学に行き、スペースにかんする会議。無事終了。
022 ブンデス ドルトムント×アウグスブルク
月曜深夜開催にサポーターが抗議する。サポーターファーストでないというものだ。いつものように熱狂的な応援がない。ボールタッチがスタジアムに響き渡る。これもまたよいと思う。香川は依然として怪我のため欠場が続く。中盤3人の連動はよい。しかし、トップのバチュアイ、それと出場機会を失ったプリシッチが割を食っている。なかなかそこに入り込めていない。少し、中央からに拘りすぎている。もう少しオープンでよいのではないかと思う。鮮やかな速攻が決まるも、引き分けに持ち込まれる。

2月25日(日)
朝から下痢が続きダウン。1日中ベットで横たわる。ナチュラルアングルの改築の打ち合わせを鈴木くんに任せる。ここ数週間のハードスケジュールが身に応えたか?

2月24日(土)
卒業設計・修士設計の外部講評会。長谷川逸子氏、米田明氏、門脇耕三氏をむかえる。総体的に好評価であったように感じられた。長谷川さんと門脇さんは、ぼくたち教員の影響が大きいと語ってくれた。これをどう受け止めようか?その上で、長谷川さんは学生を鼓舞してくれた。学生なりの感受性をもっと教員にぶつけるべきであるという主旨である。門脇さんは加えて、リサーチ力と図面技術も評価してくれた。米田さんは、テクノロジーの位置付けに千葉工大の特殊性を感じたようだ。もともと、アートとエンジニアリングは同種であり、近代以降分離してしまった。そのなかで、テクノロジー×建築=デザインとしての態度が印象的であったというのであった。そうしたなか、優秀案は学部が占めることとなった。河内さん曰く、院生にたいしては辛めに採点することによるものだという。決して劣るものではなかったとぼくも思う。長谷川さんは、本日一貫して、ユーザ目線から、提案される空間内部からのシーンの強度を問題にしていた。このことが印象的である。したがって、設計方法論をテーマにした作品が辛めとなってしまった。これを評価側が感じ、同調したことでもあったと思う。その点においても、院生の作品は比較的方法論よりで不利でもあった。中山くんの「グリッド無化」というような作品も割を食ってしまう形となった。反対に最優秀賞の塙くんの案は、ミステリアスな個性あるドローイングが評価側のイマジネーションを誘うものとなり成功した。最後に長谷川さんからそれにたいする建築的言語による説明が求められ、「浅い空間」というタイトルに込められた意味を説明できたのがよかったと思う。浅い空間とは、パースペクティブな近代思考から逃れ、個人にたいして思い入れのある言葉である。中山くんの作品も、ぼくにとって、塙くんとは反対側からこれを説こうとしたものと思っている。3等案の小池くんの作品は、作品の主旨を米田さんに完璧に理解されたことは驚きに値する。講評会で非常に明確にまとめあげてくれた。その上で、モノとしての作品性に物足りなさを感じたようであるが、その物量を門脇さんが評価してくれた。ただし、公共性の前のひとりの個人の立ち位置についての討論を巻き起こすべきであったと反省する。嶋田くんの作品は、人間中心主義を超えようとしているようで、(この場合)鳥目線が欠けていることが門脇さんから指摘された。もっともなことであったので、今後の課題である。山田くんの作品は、講評の度に評価が上がり、好ましい。真摯なコンテクストに向かう態度が評価されたものだ。ぼくにとっては十分に彼の建築的な提案が感じられるのであるが、なかなか伝わりにくいので、それを美しいパース等に示すことができれば、この壁を超えることができるのではないかと思う。こうした順番付けは審査員によって変わるものであるが、主張が形になって表現されているかが重要である。このことを切に感じた。

2月23日(金)
iphoneを新しくする。いまだに0円キャンペーンをやっていることに驚く。深夜BSで「チャイナタウン」ポランスキー監督、ジャックニコルソン主演を観る。チャイナタウンとは、法の埒外にあることの象徴である。ダークな中央に権力者がいて、そこには道徳も正義も捜査も及ばないことをいっている。親子の絆もない。ジョン・ヒューストン扮する権力者がいたって普通であるのも、一層ストーリーを不気味にする。最後の結論に向けて、様々な伏線が張られているのも懐かしい手法と今では感じる。今では様々な解釈を残すものがもてはやされている。
022 EL アトランタ×ドルトムント
終了間際に復帰戦となるシュメルツァーが決め1-1のドロー。辛うじてドルトが次戦へ駒を進めることができた。ドルトは、逆サイドへの展開にDFラインが振られ続け、GKブリュキのファインセーブがなければ、敗退であった。アトランタはおそろしく組織立たれたチームであった。

2月22日(木)
田畑大氏、土屋範人氏と食事。同世代のアートの状況について話合う。アートの世界では、差異を最大のテーマとする。建築における差異を隠そうとする風潮に疑問が投げかけられる。氏たちの長きに渡る千葉工大教育のお話しも聞く。千種寮をリノベするべきであるという提案に驚く。

2月20日(火)
021 CL チェルシー×バルセロナ
1-1のドロー。岡田武史氏が解説。チェルシーのホームにもかかわらず守り中心の戦術に批判的であった。3トップのアザール、ウィリアン、ペドロに攻撃を任せ、後ろは無理をしないという作戦を評価していないようであった。耳を疑う。岡田戦法そのものであるからだ。それがゲームを面白くなくし、人気を下降させた原因とぼくはみている。

2月19日(月)
020 ブンデス メーヘングランドバッハ×ドルトムント
香川の怪我は長引きそうである。バチュアイを1トップに、ドイツ代表のゲッツエ、シュールレ、マルコ・ルイスの3人がはじめて顔をそろえる。コンビネーションはよい。特にこのところシュールレが活躍する。香川が復帰後この間に入る余地はあるだろうか。それでも、MGBの守備は堅く、1-0でなんとか勝ち抜く。

2月18日(日)
今日も、ASJのイベントに参加。合間に矢板さんと話をする。先週までドイツにいっていたという。シンケルを見た喜びを語ってくれる。思わず合点。この夏にぼくも行くことにする。事務所に戻り、a+u2016年8月号のベルリン特集を読む。矢板さんがいうには、遠いがシャーロッテンホーフ宮殿がよかったという。意外である。シャウシュピールハウス、ノイエ・ヴァッヘ、アムテス・ムゼウムは一気に観ること可能だそうだ。シャロウンの劇場、図書館とミースのナショナルギャラリもひとかたまりにある。ライヒスタークとっげーリーのDZ銀行は南。ユダヤ博物館だけ離れている。これでホテルを決めるとよいそうだ。

2月17日(土)
ASJのイベントに参加。東京フォーラム前の日石ビルの1階に行く。来場者が多くなく、隣のコーナーの建築家矢板久明さんとの話に盛り上がる。沢山の谷口さんのお話しを聞く。スタッフ配置に優れ、コンセプトつくりには全く興味がなく、仕事はプラグマチックに進めるそうだ。矢板さんが卒業後のはじめに担当した幕張のIBMの話がその典型であった。IBMから当時まだ注目されていなかったファッシリティマネジメントにかんする分厚い報告書をもとにしたという。そこには、オフィスに関する仕事効率性が数値化されるなか、残余の部分も明確に位置づけされているという。その統合の中で建築が試みられるという。そうした姿勢が矢板さんの現在の仕事にも反映されている。氏は住宅においても、事務所固有のコスト判定システムを持っており、大変参考になった。これについての研究も計画としてありえると思った。
019 FA杯 レスター×シェフィールド

2月16日(金)
夕方から彰国社にて編集会議。いよいよお尻に火がついた。
018 EL ドルトムント×アトランタ
香川は怪我のため欠場。バチュアイの2発で、逆転勝ちをする。今季前半のように守備に問題がでてしまった。大きなサイドチェンジに対応できなかったかたちである。ただし、攻撃陣は流動的に動き、調子がよい。前回も感じたことであるが、プリシッチもシュールレも中央に切り込むことが多く、オバメヤンと動きのパタンが重なっていたのである。それが分散し、チーム全体が上手く働いている。バチュアイも移籍後全試合のゴールである。

2月15日(木)
修士設計審査会。遠藤研究室から2名が参加。内容の濃いものであったと思う。どちらもコンテクストに批判的な焦点をあてている。嶋田くんは住宅の詳細な設計をした。ただし、ここかしこに生き物が住まうような計画である。通常読み込むコンテクスト範疇を拡大解釈したものだ。具体的には、生物の住処を加えること、住宅の耐用年数を超えた長いスパンで考えること、このふたつに焦点があてられている。敷地は、中川の土手沿い。ここは、江戸川区がカワセミなどの野鳥成育地区に指定しているところだそうだ。彼のデザインは、こうした与条件を解くというよりも、全てを調整せずに等価に投げ出したようなデザインである。コンテクストから得られる未来への解答を拒否しているようにみえ、その一方で、人が住まなくなった後の問題がテーマにされているところが面白い。つまり不在を現前にした建築のあり方が模索されている訳である。そこを評価したいと思った。したがって他のコンテクストの読みも批判的になる。たとえば、建物を上がったり下がったりするのは、土手の段差をそのまま踏襲したもので不便である。生態系の操作は、不便ですらある。それは、住宅に関わる人以外の全体の底上げの必要性からである。昨今空き屋が問題にされるが、彼がいうには、上手くそれを個別に解決しても、人口減少の現在、その量が減ることはないという。日本のどこかで空き屋が発生する。その根本の解決を目指した提案であった。山田くんは月に建つ宇宙建築を計画した。そこでは、科学に基づく条件が絶対であり、そこでは、ぼくらが知らず知らずのうちに囚われている習慣や文化というものが全く役に立たない、このことを思い知らされてくれる。それは材料ひとつの選択まで及ぶ。地球から持ち込むユニット建築にするか、現地調達の素材を利用するかしか選択はない。計画では、宇宙放射線防御のためにレゴリスという月砂、水素などが使用される。本計画は、2045年までのNASAの第一次計画の後を継ぐ食物研究所計画である。それを、NASAの宇宙線防御のために土で覆ったこれまでの閉鎖的建築にたいし、水膜によって開かれた建築にする。これが彼の唯一の提案である。トリチェリの実験を応用したシンボル的気圧棟が中央にあり、具体的にそれは墓標である。屍は月土を植物生育のためのものでもある。与条件とは実は完全な外部にあるものでなく、ぼくたちの多大な解釈の上にある内部のものであることを、批判する作品であった。
017 CL レアル・マドリード×パリSG
スピーディな戦いであった。ベイルが終了間際に登場し、サイドからの攻撃にエンジンが掛かり、レアルが逆転勝利する。それにしてもとっさの鋭敏な反応がゲームを左右する。後半の2点はGKのリバウンドにロナウドと   が反応したものであった。

2月14日(水)
妻と病院へ行きその後、夕方ぎりぎりに上野で開催中の仁和寺展へ行く。仁和寺は、皇族による真言密教の中心地でもあったようだ。空海の「30帖冊子」を観る。丁寧な真四角な筆使いであったのが意外であった。これを読みたいがために、皆が空海にすり寄っていったという。真言がかかれていたという。この類の国宝クラスが多く展示される。仁和寺の小さな薬師如来坐像の精巧さにも驚く。全体が12㎝ほどで、ディテールはミリ単位に施されていた。空海が身に離さずに持っていたという。今回観音堂の33体も公開される。葛井寺の千手観音菩薩坐像も、精巧だ。大阪にはこの手の仏像がまだ沢山あることを知る。今度訪れたく思う。他に、大阪金剛寺、福井明通寺、中山寺などである。
015 CL ユヴェントス×トトナム
トトナムは後半自力で、固いユヴェントスDFを崩す。完璧なシュートチャンスに至る前に打ち抜く力に脱帽。力が均衡しているので、構える前が勝負となること知る 。
016 CL バーゼル×マンC

2月12日(月)
「理想的ヴィラの数学」コーリン・ロウ再読。以前と印象を異にする。コルビュジエとパラディオの間の構造的類似性から、そこには連続性があるというのが以前の印象であった。そこに、機能主義の行き詰まりを打破する幾何学の可能性が残されていると考えていた。ところが今回感じたこととは、ふたつの間にあるむしろ断絶というものであった。時代の慣習規範から力を得るか、むしろそれを無化しようとするか、ふたつの正反対なアプローチが見て取れた。大袈裟に言うと主体の有無ということだろう。何回かのトライで、はじめて気づいた。続けて「透明性」を再読。虚の透明性を、奥行きの「浅い空間」と言いかえている。あるいは建築においては、「空間の位置的な矛盾」といっている。バウハウスにはなく、軸線の明快なコルの国際連盟案にあるものであるという。構造を消すのではなく、設定した構造を無化することである。これを批判的構築といってよいと思った。

2月11日(日)
坂茂設計の富士山世界遺産センターへ行く。富士山の西面が見える富士市にこの建築は位置し、浅間神社の参道横にある。建物前面の大きな池に円錐が美しく映り込む。逆円錐の中は、屋上へ行くための螺旋スロープである。その屋上から富士山を見ることが出来る。屋上にはたくさんの人が集まりにぎわっている。その姿が、下のアプローチから見えない設計は流石である。富士山、建物、池、アプローチの位置関係が上手い。今日はとにかく富士山が綺麗であった。建築は少し大味な印象を受ける。明確なひとつのアイデアで全体をまとめあげることに好感もてるも、近づいても大きなスケールのままであるのが、その印象をつくっている。それは部材の扱いに現れていた。途中建物内で、中畑さんに会う。その後、浅間神社をお参りする。極めて平坦な印象で不思議に思う。夕日に赤く染まった富士も美しい。参道裏に横町があり、そこを寄って帰路につく。センターの北にある温泉に入り、市内で食事して帰宅。
014 プレミア マンC×レスター
岡崎は怪我のため、2週間の離脱と聞く。マンCにとっては苦手なレスター戦。岡崎がいるからである。グアディオラがはっきりと言っている。はじめ3バックでのぞむも、早々に失点し、オルブライトンを下げて4バックとする。そのサイド奥がいきなり使われてしまった。これでいつものようなパターンにもどすが、ラインがいつもより深かった。後半は、マンCに打ちのめされる。アレグロに4発を食らう。レスターDFは前からプレッシングによって成立する。今日は、ラインを下げてしまいサイドから中央へとDFが揺さぶられ、全く機能しなかった。グアディオラの采配が光る。セカンドボールを拾うことが出来なかったことも大きい。バーディが2人のDFが挟まれてしまった。もうひとりDFからのボールを納めるプレヤーが欲しかった。その役をこなすはずの途中出場のマフレズである。移籍ごたごたでパフォーマンスがいまいちであった。

2月10日(土)
013 ブンデス ドルトムント×ハンブルグ
ロイスが復帰。前半香川はボランチとしてバランスをとる。シュテ-ガーの指示であるかは不明であるが、前半はいつも守備重視である。後半から香川は前に。ロイスとサイドが少し下がり気味とする。すると、ボールが動き、GKとDF裏のスペースへのサイドからの早いクロスをバチュアイが決める。2戦連発である。その後、香川は自ら下がる。怪我の具合が気がかりである。その後、ペースを崩すも、最後にゲッツエが決める。2-0の勝利。

2月9日(金)
修士論文の審査会。ぼくの研究室ではないが主査を務めた論文はふたつ。下川くんの論文は、68年から75年までの「都市住宅」誌に掲載された都市の傾向をまとめるものである。68年にはパリで革命が起きた。その後は、どの分野でも既存世界とその価値観の再検討を計る時代となった。建築でいえばアレグサンダーが「パタンランゲージ」の原型「人間都市」が出版されたのが1970年。ルドルフスキーの「建築家なしの建築」が1964年である。これらは人間を中心とする考えの否定である。技術の進歩によって、見えてくる世界が大きくなった。それと平行してポピュリズムを背景に、すさまじく時代が動いた。これを念頭にすべきであったと思うのだ。もうひとりは、現代のカフェの研究。アクティビティの根拠をかたちにまで結び付けるのは難しい。その前段階として考現学のように、現実をわかりやすくかたちとして整理することを薦める。その資料のようなものはパタンランゲージのようなものかもしれない。午後に理科大学に行く。修士設計の講評会に参加。3〜4年前に比べて、かたちにたいする信頼が向上していることを嬉しく思う。精巧な大きな模型でのプレゼであった。テーマも前半に未来志向の前向きの提案が多かったのだが、後半は社会派が占める。最終的に優秀案は、ある瀬戸内海の小島の活性化、小布施の街おこしをテーマにしたものに落ち着いた。講評会に三宅理一さんが最初いらしていた。途中の社会派の案に対して、3.11以降は理論でなく生の時代になったというコンメントが印象的であった。生とは、合理性に反する人間の動きのことをいっている。作品に引き寄せると、都合のよいコンテクストを引っ張り上げてそれから未来を思考する時代は終わったということだろう。たとえ、それが隠れていて見えなくなっていたものだとしてもである。もっと、不合理な拾ろいきれない問題=生の問題を扱う必要がある。なかなかそれにたいする方法は見出せないのであるが、歴史は繰り返されるので、その視差(パララックスビュー)から浮かび上がらせることしかないように思う。その意味で優秀案等に見られたような、想定利用者を持ち出して、未来像を正当化する方法と反対の方法が必要なのだと思う。もっと開かれる必要があると思うのだ。終電の11時まで講評会は続いた。

2月8日(木)
卒業設計の審査会。総じて例年より図面の完成度が上がる。コンセプトもさることながら、敷地周囲との関係、利用方法などが彼らにとって、より詳細にリアルに考えられるようになったこととして評価できる。卒業設計の履修数も増えていることも喜ばしい。その中には、3年次に設計の授業をとっていなかった学生も含まれる。彼らもCAD技術を駆使し詳細な図面をあげている。もはや、描けるということだけではダメになった。それは、機能に特化した建物では、建築家がいなくとも可能であることも意味している。建築家には雑多な標準にのらない施設へのトライが必須となるのだろう。遠藤研も奮闘する。講評会に選ばれることのなかった学生もあと少しであった。微妙なバランスの上にひしめいている。赤塚くんは、六本木の街裏にある墓地のリノベーションである。既存の六本木の墓地空間は、都市化の波をくらった残骸のように取り残されしまっている。そこに、経済性を超越する哀愁を赤塚くんは発見し、それをデザインしようとした。地下に墓地空間を埋没させ、地上にはそれを取り囲む雑居ビルを現前させ、その間にできる空間の哀愁を、より増大させることに成功したと思う。それは、デュシャンが残したアンフラマンスというテーマを思い出させてくれるものであった。岡部くんの作品は、忙しい山手線の乗車中の居場所を提案するものである。電車の構造を変え、ホームとの連携を再考察した。彼は身体スケールを問題としていたのだが、ホームという大きなインフラの設計の中に、それが埋没してしまった。ぼくもそのことに意識的である必要があったと反省する。小池くんは2重に捻れた視点で、現代都市を批判している。なかなか伝わりにくいテーマではあるが、それが伝わったようであった。当然のことであるが、都市は幾層もの歴史の上に存在している。残念ながら、それは見えない。トマソンとして時たま発見するだけのものである。とはいえ、誰もが思い思いのイメージで都市をみている。それは、おそらく経験や学習を通じて得られ、個別のものである。しかし、ある共通意識のようなものに、それは支配されているのではないか?こうした疑問が小池くんの中にある。ヴィトラーを参照している。かつて広場恐怖症という病があったそうであるが、それはそうした共通意識にセンシティブな人がかかる病気である。彼からいわせると、現代は広場安心症というマインドコントロールされているというのだ。広場恐怖症の人にとっては、そのもやもやして見えないものの存在が不気味でしかないのだ。小池くんの提案は、その不気味さに風穴を開けようとする提案である。トマソンとミミクリーというものを現出させることでそれを試みている。彼のデザインしたドローイングの数々は、ちょっと薄気味悪いものであった。河野さんは武蔵野の森のランドスケープの設計である。遊環構造が基にした、雑木林と一体になった遊具類のデザインである。コンセプト重視の提案と異なり、快適な空間性、さらに奥行きのないランドスケープにそれをを示すことは実は紙段階ではかなり難しい。櫻井さんの提案は吉阪隆正の再検証である。当然のことながら、合理的判断可能なこととは私たちが見ることが出来る世界の一部でしか過ぎない。当たり前のことであるが、人はそれで全てであると思いがちである。通常の建築は合理性をかたちにすることで客観性を担保し、できないものをセンスといって片付ける。それは建築家のつくる作品も同様である。吉阪は、それを丸ごとをかたちにすることを正面から考えた。ユーケロジーとはまさにそのことをいっている。櫻井さんはそこに心動かされた。敷地である谷中を歩き回りヒアリングをして、避難重視の地区計画の下、谷中らしさが犠牲になっていく姿を目撃した。避難施設を設計すると同時に、ターザンロープのような日常的に子どもたちが遊ぶ避難施設を提案した。これが、どれだけ非常時に有用であるかは不確かであるが、谷中のよき日常イメージを保ちながら、災害に備える街の計り知れないイメージを喚起するものとなっている。これが、櫻井流の吉阪の解釈で、それを「スキ」と位置付けていた。防災拠点の凝ったデザインより遙か遠くに焦点する世界観がある。その落差がスキであるというのだ。ぼくらのデザインの小ささを喚起する批判的方法と捉えると、優秀賞に選考できなかったことを悔しさを思う。島田くんは、オタクと工場萌えをテーマにしていた。モノにすることのエネルギーは遙かに大きいので、その落差が大きすぎた。そこに意識になることで、今後もがんばってもらいたい。瀧本さんは、サウンドスケープのデザインである。シェーファーの提案するサウンドエデュケーションを実行し、環境音を捉える施設をかたちにした。それは5線譜音楽、あるいは人の伝統式音楽でも捉えきれないものである。設計経験によりかたちを決め、それをシュミュレーションし、新しい機能を発見するという極めて斬新的な方法である。近頃風解析による設計と同様で、サウンドに関してはより扱いやすいことが判る。残された問題は、サウンドを扱うことの目的だろう。その背景の指導を徹底すべきであった。中山くんは、グリッド空間にたいする批判を提案した。グリッドは近代において、建築を無限に成長させる典型と考えられてきた。それを使って設計者は主体的に、問題—解決という一方向のプロセスで建築を考えてきた。その否定である。敷地は昭和高度経済成長時代に建てられた団地。団地グリッドの半分近くを緑化し減築し、残りに建築家の設計した住宅プランをブリコラージュする計画である。建築とは、見ることが出来ない未来の現前であるべきで、単に新しいシステムを提案するだけでは、建築の不在を表層することは決してできないことを意味している。塙くんの作品には、近視眼的な空間性が全くないことに特徴がある。空間性はユーザに委ねられ、遠隔視的に抽象化したモノを操作に主眼がおかれている。これを不評する意見にたいして、バンドデシネのコンセプト絵はこれに応えようとしている。このコンセプトとして提出されているバンドデシネには、パースペクティブな方法なしにふたつの遠と近のものが同居する。浅い空間である。通常考えられる形式論的な範疇が否定されているものだ。平野くんは、観念的になりすぎた。もっと他者との間でおこる偶然性に身を任せる必要がある。山口くんのがんばりに期待する。

2月7日(水)
歴史研の卒業研究を聞く。明治の初期の混乱期をテーマにしているのが面白い。聞きながら時代背景を整理する。明治20年が1887年。今から130年前。島崎藤村の「夜明け前」が1886年までの話。国学と離れていく明治国家の不信が、木曽を舞台として扱われている。岡倉天心が芸大を開校し、日本画を正式に認めさせたのが1890年。81年にフェノロサと日本中の仏像調査をしている。このころに世界的視点から再度改めて日本を再発見している。夏目漱石が連載をはじめたのが1905年である。二葉亭四迷の「浮雲」が1987年である。このころを境に、先見のある人間は冷静な目で西洋を見るようになった。コンドルが東大に招かれたのは、1877年である。

2月6日(火)
大学に行き、卒業設計の発表構成を学生と練る。整理し、伝わり安くなるように指示。合間に翻訳をする。

2月4日(日)
011 プレミア レスター×スウォンジー
岡崎の序列が急降下。このところカップ戦で好調のイグアナチョが先発。オフサイドなどで得点なかったものの中盤下でフリーにボールを受け、エンディティやジャバティとの綺麗なワンツーを決め、岡崎より彼らとの相性が良さそうなところを見せる。前半は完全なレスターペース。後半は反対となる。その原因を探るのは難しい。ただ、スウォンジーは後半に力を残し、様子を見て、プレッシングの激しさをコントロールしていた。岡崎は終了10分前から3番手の交替順位。存在感を見せるも、決定機をつくるまでは至らず。1-1のドロー。もっともスウォンジーは、アーセナル、リブァプールに勝ち、キングパワースタジアムに乗り込み、勢いがった。
012 プレミア アーセナル×エバートン
オバメヤン、ムヒタリアンがアーセナルに加入。二人はワンツーによって、ペナルティアエリア内のエバートンDF陣を切り崩す。ドルトムントでよく見た光景である。アーセナルは、プレミアの中でもブンデスに似て、中央からの攻めを重視し、密なスペースの中で動く。中盤底のラムジーが今日3点を獲ったことがそれを物語っている。オバメヤン、ムヒタリアンに、そのスタイルは合っているのだろう。マンU時に比べて、ムヒタリアンが生き生きしていたのは明らかであった。

2月3日(土)
入試監督。ぼくより学生の方がリラックスしていたと思う。研究室に戻り、学生と卒業設計の相談。バンドデシネを知る。その後、昨年の漫画展にあったことを思い出す。フランスの漫画のことである。英語でいうと、コミック・ストリップス。現代のバンドデシネは多彩で絵本のような体裁である。映画を意識したカット割りが特徴的で、絵の芸術性がストーリーよりも重要視される。そのストーリーを補うものが構図にある。最近の日本漫画に影響を与えているのも分かる。
010 ブンデス ケルン×ドルトムント
今週、選手が大きく動いた。ついにオバメヤンが移籍し、代わりにベルギー代表のバチュアイがチェルシーから加入する。早速先発し、2点を決める。ゴール中央にポジションした素早い反応であった。オバメヤンはサイドに開いて、中央のスペースを残し、そこに飛び込むかたちであったため、他の選手はなかなかそのスペースに使うことができなかったこと。香川はいつもより生き生きしていたことから、そのことが分かった。香川だけでなく中盤選手が中央のバチュアイにボールを預けたワンツーが多かった。2点目は、香川の斜めの走りがつくったスペースを逆にバチュアイが使っていた。終了間際に得点し、久しぶりの勝利。ドルトはこれで波に乗れるとよい。

2月1日(木)
009 プレミア エバートン×レスター
水曜日の変則開催であった。岡崎は十分休養をとって先発。序盤こそ、長めのダイレクトパスでレスターは相手陣内に攻め入ることができたが、事故とも言える失点を犯した後、激しいDFラインへのプレッシングと、エバートンのロングボールに、いつものプレッシングができずに苦しむ。中盤ルーニーが下がり、そこからの鋭いロングボールで全体が押し込まれてしまった。加えて、移籍騒ぎによるマフレズ不在が大きかった。彼のドリブルがこれまで膠着状態の打開となっていたことが浮き彫りになった。1-2の完敗である。岡崎といえば、中盤に下がり、ダイレクトロングパスの繋ぎ役として中心にいることは、代表にとっても大きなことであろうと思った。前線からのプレッシングだけでないことを示すものであった。

1月31日(水)
ジジェクの「幻想の感染」を思い出して読む。「客観的に主観的」に引っ掛かる。幻想のことをいっている。続けて柄谷行人の「大江健三郎のアレゴリー」も読む。再び翻訳続行。「ティール組織」の翻訳が出版されていたのを中埜さんから聞く。早速購入。

1月30日(火)
GAの原稿に集中的にとりかかる。「イマジナリー・ストラクチャー」の意味が、リアルな構造の話から建築の構成を指すものに移動していることを明確に示したいと考えた。スペキュラティブデザインにおけるアプリケーション(応用)からインプリケーション(含意)への変化を分かりやすくしたいと考えた。「モノがあるけど見えない」とする立場と、「見えないけどあるモノ」を前提とする立場には違いがある気がしている。前者はモノをある慣習や文化(装置)によって想像させることを期待し、後者はそれを明らかにすることを期待する。後者の意識が大きくなるのがぼくの中にあった。例えば「渋谷」といって、イメージを誘導するのが前者であり、後者は、「渋谷」を詳細にすることで、渋谷の位置づけを日本の中においているのか、世界においているのか、若者においているかなど前提を明らかにすることを目的とする。パタンランゲージも、辞書として扱うか、対象が置かれる特殊性を明らかにするか、で扱い方が分かれる。

1月29日(月)
2年生の設計講評会に参加。この課題に関しては直接指導をしていないが、集合住宅の課題は直ぐに難しい課題であることを理解する。集合住宅定型のラーメン構造を崩そうとする案が多かったのは、それだけ構造を意識するようになったからであろう。それを前向きに捉えることとする。ひとつ面白い案があった。南面向き住戸を確保しつつも、中心のある中庭型を志向した案である。かたちが歪で、設計者の手の後がみられる作品であった。この意図を明確にしたとき面白い案に成長することを感じた。その後、津田沼に戻り、意匠系のちょっとした会議。来年度について話合う。GAからの原稿を読み込み、考えさせられること多かった。頭の再整理をする。

1月28日(日)
008 ブンデス ドルトムント×ホッヘンハイム
ドルトムントは終了間際に追いつき2-2のドロー。オバメヤンが先発し、早々によいかたちから香川が決める。それによって気が緩み、そこから回復することができなかった。ホッヘンハイムのプレッシングが予想以上であったこともあるだろう。これで年明け引き分け続きである。守備を安定させた分、選手の動きが小さく打開するまでに至っていない。オバメヤンのモチベーションも不安である。

1月27日(土)
昨日の話をぼくなりに整理する。ぼくの設計の基本的な方針は、池辺さんの「名前のない空間へ」というものである。名前をつけることで安心することが、デザインにとってもっとも遠いところにあることをいったものである。ナチュラルシリーズの初期では、若さ故にテーマが限られていた。この頃構造解析がカジュアルにできるようになり、新しい技術を用いた新しい空間つくりにデザインの主眼が置かれていた。それは、これまでにない寸法感覚を可能にしたと思う。GAは、これを評価されつつも、それ以外の既存システムにのっとったデザインを酷評した。それは、開口部の扱いなどに現れているものである。「神は細部に宿る」といったのは、ミースあるいはアビ・ヴォールブルクである。GAの指摘で気づかされたのは、この言葉に代表されるような「建築」を成立させている懐の深さである。ぼくらは、ここから逃れられないような気がした。ただし、ぼくは「名前のない空間へ」を目指している。ただただ、それに従うことには意味がないことは承知しているつもりである。従うだけでは、それは「名前のある空間へ」あるいはシンボル的思考となってしまう。それは、歴史的な装置に、何も考えないで思考を委ねていることである。これは、柄谷行人が繰り返し忠告していることでもある。近代の持つシンボル的思考を脱するための方法を考えていたといいてもよいと思う。既成の考えを疑うことを、エリップス頃までは、これに終始していたと思う。ディテールを単独で存在させないようにし、家族、街並、技術、機能など近代のヴォキャブラリーとして考え得るもののデザインを削ぎ落とし、それらを同化させるデザインを前向きに行った。それを平立断で徹底的に描くことによって。エリップスでは、最終的にディテールの見えない白のシームレスな空間となるのだが、それは条件を純化することで可能となる。何もなく純化された後に、作品の個別性だけが残ったのには驚きであった。シンボル的思考の裏には、個性の否定がもたらされていたことに逆に気づかされた。ただし、疑問も残った。あまりにも純化されすぎたデザインの暴力性と、いくら前提条件を否定したところでも、成熟した日本の状況をもろに前提としたものになってしまうことに対する自省である。問題は永遠に解決されないまま残る。あるいは都合のよい問題の解決だけといってよいかもしれない。このときのディテールは、洗練という消しのディテールである。数寄ともいわれた。このころSANNAが、ジョイント方法を溶接からボルトに変え、カーペットを見せ、花を見せ、アルミを使う住宅を発表したのに驚いた。50年代のイームズを彷彿させるもので、あらゆる設計条件が等価に置かれた新しい生活を示すものであった。同時に、パタンランゲージの「順に固める構造」にある大工の話とも結び付けることができた。見習いに比べて熟練大工の作業が早いのは、小さな問題を後で何とかなるとして、アバウトの状態で次に進むことができるから、という話である。熟練大工には、大きな目的があるのだ。その下での行為が様々にある。これは、ミースの「神は細部に宿る」と対極にある態度である。部分に全体を求めるのでなく、全体があって部分は部分でしかないのだ。部分の強弱や、あるなしは重要とされない。アレグサンダーは、これを全体性という。目的優先思考といってもよいかもしれない。抑圧されていた生活の方を開放する。エリップスの消しのデザインから、ディテールなどあらゆるモノの存在を認め、解像度を上げていく方向に変えたのは、そうしたことによる。もっとも解像度という言葉もGAから批評してもらったものであった。既存の素材感を保ち、それに呼応するようにディテールを分節させ、全体へばらまくようなデザインである。FBの小端や道路面のFBの向きにそれが表れている。デザインのひとつひとつのキレでなく、位置つけを大事にするデザインである。自分の表現の立ち位置が俯瞰できるようになったのではないかと思う。最近は、木造を手がけることになった。そこでもうひとつのディテール処理、すなわちシンボル的思考の否定の別の方法に気づくことができた。シンボル的思考とは、歴史性のことである。歴史性の否定が新しい局面を生むと考えるようになった。これまでのふたつの方法は、まったく歴史に関係がない。これが問題であると考えた。歴史を取り出し、それをずらすことで非歴史的なる。このように考えるようになった。木造は、皆が暖かみを感じるように、もっとも日本人には歴史的な素材である。この木造の扱いをズラすことで、非歴史性=シンボルの否定がデザインできると考えた。ディテールの金物に新しさはないが、これまでの柱+梁というシステムにのっとったディテールとは異なるものである。こうしたディテールの3つの変遷があったのだ。このことを改めて記しておくことにする。
006 FA杯 ピーターバラ×レスター
格下とあってレスターは大幅にスタメンを変えてきた。岡崎も帯同を免除され、扱いがひとつ上がったことになる。3部といえ、プレミア経験者も多く侮れないパフォーマンスをする。強豪を相手とする代表を見ているようでもある。ひとつひとつプレーの正確さと、プレッシャーの弱さがゲーム展開を難しくしていた。これまでと違って、レスターはそのため落ち着いている。新鋭の選手がしたがって活躍できていた。少しの違いが大きな開きをうむことを知る。

1月26日(金)
GAの杉田義一さんが来所。次回GAのディテール特集のインタビュー。はじめに杉田さんからイマジナリーなディテールと聞かれたのでびっくりする。そんな大それたことを、何年か前にいっていた。ぼくにとっては最近、ディテールの亡霊からやっと開放された感があり、その経験に基づいて、ディテールへの思考変遷をイマジナリーに絡めて話しをする。そのぼくのディテール思考の変化というのは、平立側面というユークリッド的表現から、高解像度へ、そして非歴史性というステップを辿るものである。イマジナリーディテールとは、このユークリッド表現を捨てたあたりのものをいう。「神は細部に宿る」といったミース、アビ・ヴォールブルクであるが、それからの開放のことである。これは、初期のユークリッド表現が不可能になった瞬間、(正確にはだいぶ時間を要したが)のことである。ディテールに建築家の思考が凝縮されるというのは、まったくの近代シンボル思考である。人それぞれは異なる視点をもっているのだから、受け取り方も様々であるはずで、ある無意識に存在する(習慣という)装置に思考を委ねていることに他ならない。「名前のない空間へ」とは池辺がいっていたが、これに反するものである。これが、従来のユークリッド的表現では不可能になった曲面エリップスにて変化したような気がしている。そのため、ディテール自体を納得するものに至らなかったが、要は、開放され新しく考えられるようになったのだ。昔の10+1で、丸山洋志さんが、エリップスのリングをイマジナリーに繋げることを、「時間」という言葉で力強く批評してくれたことを思い出した。そしてエリップス以降は、部分は部分に過ぎず、全体を俯瞰するように考えられるようになった。全てを等価に高解像度なものとして、ディテールを考えられるようになった。そして最近は、人に馴染み深い木造をあえて外す扱いで非歴史性を獲得しようとしている。シンボル思考とは深く歴史とかんでいる。これらふたつは、機械論的なシンボル思考から逃れるために身に付けた方法であった。もうひとつ、アレグサンダーの大工のお話によって、シンボル思考の次ステージについて語りたかったが、力不足。とはいえ、内容の濃い時間であった。その後、杉田さんと雑談。様々な有名建築のコンテクストについて教えてもらう。これらが今日生み出される過去の作品にはなかった新しい解像度ということなのだろう。そこに歴史性をずらし例も垣間見ることができた。視点の解像度を上げることと、ずらすことで生まれる視差は近いことかもしれない。このことに気づく。深夜BSで「24時間の情事」アラン・レネ監督の広島を舞台とした1959年のフランス映画を観る。原題は「ヒロシマ・モナムール」。戦後の広島が舞台であり、丹下健三の原爆記念館、そしてその中の悲惨な展示、展示映像が前半生々しく描き出される。どれもぼくには強烈に記憶に刻まれているものである。大きくストーリーはふたつに分かれ、どちらも、強烈で個人的な記憶・体験を他者と通じ会うことが可能かをテーマとする。前半は戦争の悲惨さ、後半は人の内面である。登場人物はふたり。彼らに名前が与えられていない。ヒロシマとヌーヴェルと互いを呼ぶ。これは彼らの出身地を表し、はじめから終わりまでキャラクターに変化がない。広島を発つ前日の濃密な時間の中で、会話から、お互いの地での悲惨な過去が明らかになる、それだけの映画である。コミュニケーションの限界を示しつつも、他者と通じ合うことによる自己更新。このことを情感的に描いた作品である。ところで、ヌーヴェルが宿泊していた新広島ホテルとは、誰の設計なのかと思う。資料館の直ぐ西にあった。

1月25日(木)
3年生後期課題の講評会。建築家の福島加津也さんと小堀哲夫さんをむかえる。両氏に選ばれたふたつの作品は、深くつくり込みを行った、設計者の思いが伝わるものであったと思う。お二人とも強調されていたのは、身体感覚であった。得てして頭で考えがちになるが、それにたいするものである。建築は唯一世界を動かすことが可能な仕事で、そのためにはリサーチと歴史性が大切であるという福島さんの言葉が印象的。どちらも、センシティブな視点が必要となる。その後、水道橋で食事会。学生に対する接し方を皆工夫していることが判る。

1月22日(月)
午前中、中埜さんの事務所へ。2回目の翻訳の打ち合わせ。Vision Purus Target といった言葉の訳しかたについて話合う。文化によって、それぞれのイメージが異なることが問題である。Tealとはまさにコガモのことで、グリーンかかった色の鳥である。ヨーロッパでは一般的らしい。「人生フルーツ」という映画を紹介してもらう。経済社会に埋没された建築家の生涯を描いたものらしい。ステレオタイプの物語ではないようだ。

1月22日(月)
大雪となる。急遽、今日の予定を変更。「Reinventing organizations」の翻訳を行う。2部に入ると具体的で訳しやすくなる。

1月21日(日)
気晴らしに甲府行き。眺めのよい温泉に入り食事をして、休日を過ごす。合間に現代思想1月号に掲載されている柄谷行人「資本の力とそれを超える力」を読む。最近のぼくの興味に引き寄せると、時系列的解決から目的優先的解決へ転換方法の具体性を示したものである。柄谷は時系列的なものを生産過程からみる経済に、目的優先的なものを、生産過程とその逆の流通過程の両方向的を複合したものに、見ている。建築でいえば、利用者視点を入れるということであると思うのだが、建築には既に組み込まれたものでもある。もう少し詳細さが必要で、デザインスゴロクなどは最適なものであると、あらためて思う。夜にNHKで731部隊の特集を観る。昨年夏の特集と被るところが多かった。昨年のものは、事実を明らかにすることが主であったが、今回は「なぜ」である。731部隊の組織は、横のつながりが分断されていて、全体像が掴めないようにものであったという。それは、人が善悪を働かなくするためのものであった。うすうす皆は知っていたとしても、それは知らないという構図をつくりだしていた。戦争後のハバロフスク裁判で、その全体像が明確にされることによって、当事者の道徳心がはじめて芽生える。問題は、早々に日本へ退散した中枢部の医師である。彼らは、おそらく自責の心はあったと思うのだが、そこでの研究成果を社会に貢献し直すことで自制し、社会的にはそれなりのポストを手に入れたのだ。
005 プレミア レスター×ワトフォード
終始レスターのペースで進む。全選手が前を向いてプレッシングを上手く行うことができ、相手ボールへのチェックと同様にセカンドボールも拾うことができている。3試合連続して無失点というのはかつてなかったことだという。このチームバランスを保つ大きな要因に岡崎にあることを監督も認めているようだ。中盤の選手の入れ替えは行われても、前線は岡崎とバーディのままである。サイドに流れるバーディからの折り返しを、岡崎がニアサイドに詰めよる決定的シーンがあった。これを決めたかった。今日は、岡崎が中盤に下がってからパスを受け、反転し、あるいはサイドへの展開する、こうしたシーンが多く見ることができた。これまでにない進展で驚く。グレイのプレーを岡崎も実践した訳である。

1月20日(土)
004 ブンデス ヘルタ・ベルリン×ドルトムント
今日もオバメヤン不在でドルトムントは臨む。オバメヤンは移籍ということだろうか。前節のヴォルフスブルク戦同様、ボールをビルドアップするのに苦労し、前戦の脅威がない気がする。全員がマンマークされ、突破の糸口が見出せていない。もう少しボールと人を動かし、冒険をする必要があるのだろうか。前半、特にドルトは無理をしないので、尚更である。香川のヘディングで同点にするも、1-1のドロー。2戦続けて同じようなパタンである。

1月19日(金)
午後大学行く車の中で、小室哲哉の長い引退会見を観る。不倫報道に端を発した引退は、スポーツ選手の場合のように華やかなものでなく、自分の内面を淡々とこれでもかという程に吐露するものであった。それはある意味、自己演出による最高のエンターテイメントであったと思う。自分の体力と才能の衰えを、不倫による社会的責任処理をすることによって、見事に逆転美化できた演出であったと思う。自分の存在をよく理解していることによるものだろう。近頃の力士引退とは違ったものを感じることができた。深夜BSで60年代のフランス映画「バルタザールどこへ行く」ロベール・ブレッソン監督を観る。これといった盛り上がりのあるストーリーがなく、登場人物の演技もない。どうやら、皆素人の役者であるらしい。とはいえ、自由な気軽な感じはせず、戒律の厳しさがひしひしと感じられる作品である。バルタザールとは、ロバの名前である。登場人物が意識する有無にかかわらず、横に絶えずいる。そして売られた先の飼い主の人生が断片的にエピソードのように描かれる。神のような不動の存在で、実は、死や強姦されるなどショッキングなエピソードであるにも関わらず、ロバの存在で、その凹凸が消し去られている。最後は、羊に囲まれて死ぬ。まるで人全ての償いを背負ったキリストのようでもある。ハリウッド映画の対極にある詩的で宗教的作品つくりが巧みである。

1月18日(木)
今日は1日中、卒業設計の図面審査。4年生は一端完成の目途が立ったことを契機に、コンセプトからかたちへの橋渡しを考えることに時間を集中できる。このとき、ダイアグラム的なもので表現する方法も大切であるが、最終的なかたちはもっと大事である。まずは納得してもらわないと、他人は細部を注視してくれない。原因と結果、前提と結論などは交換可能で、人は全体思考を行うものである。人は、原因が発生する前に結果についての知識を持っていて、それにしたがい最小化を目指して原因を追及する思考を展開する。例えば、ある料理が旨いと感じてから、その原因を探り、自己納得すると言うことである。これを目的論的解釈ともいう。先日の中沢新一の論考で気づかされた。このとき他者に、シンボル的な解釈、例えば、光りが劇的な空間性をつくりだすという解釈を強要すると、むしろ嘘くさく見られてしまう。なぜなら、シンボル的解釈は体験する以外に他者が入り込むことが許されないほどに余地を残さないものだからである。何人かの学生にこのようなアドバイスを行う。

1月17日(水)
3年生の後期第2課題の講評会。総じてよく出来ていた。例年と比べて、都市スケールの視点で解く案が多く、そうした案が上位を占める。視点を広く持つことで、設計の密度も上がる。

1月15日(月)
003 ブンデス ドルトムント×ヴォルフスブルグ
ブンデスもウインターブレイクが明け、後半戦がはじまる。ゲッツエとコンビを組み香川は先発。前半はバランス重視し、どちらも速攻を重視しているように見えた。試合後の「もっと賭けが必要」という香川のコメントが印象的。香川のフィニッシュまで至らなかった責任ある言葉と思われるが、ヤルモレンコは少ないチャンスを確実に決めたかった。後半15分も過ぎると、香川も含め全体に疲労感が漂う。ドタバタが多くなり、スコアレスのドロー。プリシッチとオバメヤンの欠場の大きさを感じないこともない。

1月14日(日)
「エイリアン コヴェナント」リドリー・スコット監督を観る。前作の「プロメテウス」に比べて、ストーリーがスッキリし、これまでのエイリアンシリーズの描写に戻る。突然現れるエイリアンに対し、乗務員が次々に襲われ、エイリアンの恐怖を前面に押し出したものであった。ただし、この作品で焦点が当てられている最高のアンドロイド、デビッドのミステリアスさが前作より劣っているのが皮肉である。その点が、興行収入低下の原因でないか、と思う。少し、説明しすぎた感がある。

1月13日(土)
東京都写真美術館、ユージン・スミス展へ行く。LIFE誌を通じての報道写真家として有名である。加えてぼくにとっては、戦後の「The Family of Man」展における、森を歩くふたりの子どもの後ろ姿の写真が印象的である。パタンランゲージでも取り上げられている。作品注によって、写真のふたりはスミスの子であったことを知る。戦争取材から心身共に傷つき、写真家としての道に失望しかけていたときの、久しぶりのショットであった。したがって、この森はニューヨークのものであったのだ。事務所に戻り、「The Family of Man」展の復刻本を観る。愛する人と出会い、子どもが生まれ、死を迎えるまでを、様々な写真家によって表情豊かに捉えた写真展であった。後半は、社会に対する不安、苦悩、希望を表す写真が追加され、最後に「A world to be born under your footsteps・・・(St.-John Perse)の詩と、ユージン・スミスのこの作品で閉められている。
002 プレミア チェルシー×レスター
岡崎先発。今日は、バーディより多くのシュートを放つ。全て難しい局面のものであったが、決めたかった。レスターは後半70分に、DFが2枚目のイエローをもらい10人となる。そのためチーム戦術から岡崎が交代となる。それまでは、得点こそないもののアウエーのレスターのペースであった。その後、10人で何とか猛攻を凌ぎ、0-0のドロー。岡崎の評価は分かれるところだろう。

1月12日(金)
現代思想1月号から思い付くことがあった。「デザインの鍵」の「42目的のないところに機能がある」は、ぼくのお気に入りのひとつである。そこで池辺は、合目的性と機能性の違いに言及し、ふたつを分けることの必要性て説明している。近頃注目している思弁的実在論のいうところは、42を反対の立場から説明しているのでないだろうか?「機能のないところに目的がある」という訳である。このように理解すると、合点いくことが多くなった。身近な問題、例えば機能的問題とは別の上のところに、絶対的目的の存在があることを、どちらもいっている。深夜NHKで、映画「あの頃のペニー・レインと」キャメロン・クロウ監督を観る。監督自身の経験に基づく青春映画であった。15歳の少年が、スターダムにのし上がるロックバンドのツアー同行取材を通じて、大人に成長していく過程を描く。

1月11日(木)
深夜BSで運慶の特集を放送していた。2008年の再放送である。東大寺南大門の金剛力士像がわずか2〜3ヶ月で完成させたことを知り驚く。さらに面白いのは、全体像があらかた出来てから細かいパーツをきったりはったり、まるで粘土でつくるように手を加えていることであった。それによって、完成度よりも迫力のある大きな像が完成した。処女作が円成寺の大日如来坐像、今のところの遺作が光明院(金沢文庫)のものであるという。これは思っていたより小さい。晩年の最高傑作が、自然体を表現した無著菩薩と世観菩薩立像とされる。興福寺でこれを観て、納得した。願成就院(伊豆)や浄楽寺(三浦)は、まだ有名になる前のものであるらしい。奈良に本拠地を置く慶派は平安末期の新興源氏がパトロンであったため、関東に作品が多い。その間、東寺の立体曼荼羅像らの修繕を通じて、平安仏像が忘れていた写実的技巧を学んだという。

1月10日(水)
車を車検のためにディラーに出した後、彰国社へ。一通り原稿が出揃う。まとまりをつくる方法について考える。今のところバラバラである。その後、卒業設計のアドバイスのため大学行き。総じて進みが遅いので、図面レイアウト方法について個別に話合う。新しく考えるよりも、これまで考えてきたことを表現することの方が大事である。

1月9日(火)
NHKの人体特集を観る。第3回は、骨について。骨は3年程度要して新しく生まれ変わるという。絶えず骨は壊され、生成される。それは、カルシウを体が必要とすることに由来する。今日の特集は、この骨生成の速度を調整するアクセルとブレーキを司る物質についての話。これは、血液にのって、体内中を周る。そして、他の臓器や脳の活性化にも関わるものとしても機能するという。体を支え、内臓を保護する以外の骨の機能が示されていた。この特集を観れば観るほど、東洋医学の方が人体に合っているように思えてならない。

1月8日(月)
新幹線駅で購入した現代思想1月号を読む。中沢新一「レンマ的算術の基礎」と大澤真幸「根源的構成主義から思弁的実在論へ・・・そしてまた戻る」のふたつをまず読む。驚いたことに中沢は、映画「メッセージ」を題材にしていた。レンマ×ロゴス、東洋思想×西洋思想、仏教×キリスト教、未来×近代、そして目的論的方法×近代科学という体裁をとり、鈴木大拙の「華厳の研究」にまで言及する。これまで全体論として理解していたことを目的論という言葉でまとめている。それによって読後、柄谷がよくいうアレゴリー的思考×シンボル的思考を理解する。こちらは、ものをつくるという表現の立場からのもので、物事をどう捉えるかという批評的立場から発展させることができた。アレゴリーとは、遠くで焦点する道徳あるいは真実を前提とするために、少しテレもあって居心地が悪いが、それを前提として下々の自由な交通を描くものであるのだ。したがって、下々の個別性を生き生きと描く必要が求められ、それがアレゴリー作家の特徴である。このことを理解する。大澤の論考は、この「自由な交通」を、磯崎が最近よく言う「偶有性」という言葉を使っている。「偶有性」とは、「差異」あるいは「パララックス」という関係性を表現する言葉にたいして、そのもの自体の方を指す言葉である。大澤は、偶有性とは他者の存在を意識することで、絶対的な実在がないことを示す好例であるという。この偶有性の存在確認によって、メイヤスーのいうところの、有限性=相関主義内におさまってしまうこと、を超えることができるといっている。簡単に考えると、絶対的なもの=神の存有無についてであるが、他者の存在を認めることで、絶対的なものなどないことをいっている。磯崎新の連載「結界」も読む。デュシャンのアンフラマンス(極薄)を引用し、驚いたことにここでも、「華厳の宇宙」と、映画「メッセージ」の宇宙船イメージであるブランクーシの「バード」が挙げられていた。忘我の境地でひたすら水磨きするなかで光りに満ちた宇宙の声が「バード」であるという。

1月7日(日)
朝食をとり、三輪山神社へ。三輪山は対象形の完璧に美しいかかちをしている。したがって、自然のものとは思われずに、神がつくったものであるという意味で、古来から信仰の対象であった。神社として祀られるようになったのはその後のことである。楽しみにしていたが、1月7日ということであろうか、大渋滞で近づくことができずに訪問を断念する。引き返し、代わりに長岳寺に寄る。阿弥陀如来坐像と両脇侍坐像は、運慶が影響受けたものであることを、運慶展で知った。それを観る。静かなお寺で、大和路の面影がそのまま残されていた。帰路の途中、石上神宮(いそのかみじんぐう)を見つけ、急いで拝観する。日本書紀では、伊勢神宮と並び、最古の神宮とされている。そういえばこの道筋には、沢山の古墳があった。卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳もあった。東西の山々に囲われ、北の奈良と南の飛鳥の中間地点にある。国宝の拝殿は、平入りの優雅なかたちである。その奥には、本殿がある。伊勢神宮のかたちに似ていて、近寄ることができなかったが、後で近代になってからのものと知る。夕方の新幹線で戻る。深夜、今年開催されるロシアW杯に向けての代表選手のロングインタビュー番組を観る。W杯前には、こうした番組が多かったと思うが、今回は少ない。サッカー人気の低下だろう。新しい選手が大きな活躍をできていないことが原因である。それは南アフリカW杯と同じ雰囲気である。俊輔のスペイン選択が裏目となるなど代表は当時もどん底であった。大会がはじまってから、大幅な選手入れ替えを岡田監督が行う必要があった程である。しかしはじまってみると、長谷部、本田の数少ない海外組が奇跡的な活躍をした。そうして長友、川島、岡崎、香川、内田らがその後に海外移籍をしていった。そうした彼らがピークを終えているのである。

1月6日(土)
寺町内にある元興寺極楽堂へ行く。小さな町中にある寺である。以前に夜は何度も、この前を素通りしていた。3重になる入れ子状のプランが透明感をつくる。スケールに無理のない幾何学に支配され、屋根の迫り方にも品がある。後ろにある僧坊も同様で簡素であった。1時間あまりを過ごし、菊一文字刃物店により、国宝館がリニューアル完成したという興福寺へ。中身は素晴らしい国宝ばかりであるが、昔と変わらず寒々とした空間であった。阿修羅像、八部衆立像、千手観音立像などを観てまわる。昨年国立博物館で観た運慶作が特に多い。東金堂には、薬師如来座像、他に国宝の四天王像、12神将像などがあった。南円堂、北円堂をその後観て回る。中の弥勒如来座像は観れず。車に乗り換えて、東大寺大湯殿へ。やはり内部には入れない。法華堂へ。不空観音菩薩と四天王像を観る。日光、月光菩薩像は新しくできた美術館へ移動したようだ。戒壇院へ。以前の記憶だと、四天王以外にもあったような気がするが気のせいであった。入れ子状の内部空間の床高がかなり高い。その後、葛粥の遅い昼食をとる。新薬師寺へ。薬師如来座像を中心に12体の神将が囲む空間構成であるが、建築は平入りの一方向の入母屋屋根であった。磯崎新のなら百年館へ。3つのホールを巨大な楕円が収容する。奈良を彷彿させる巨大建築である。楕円外のHP屋根アトリウム部分がホワイエであり、外の広場とつながる。現在は、一体的に都市整備され各建物が広場中心に連携されていた。ホテルに戻り、奈良町の別の民家で夕食。

1月5日(金)
新幹線で京都を経て、奈良行き。40分くらいで宇治上神社に到着。拝殿と本殿が国宝である。屋根のかたちが両端で持ち上げられ優雅である。敷地が狭く、全景を写真におさめて撮ることができなかった。その後、平等院へ。本院修理が終了し、阿弥陀座像にまで入ることができた。周りの雲上像も間近で見る。その後、池の反対側に渡り全景を観て、栗生さん設計の美術館へ。外形が目立たないシークエンスの建築である。奈良のホテルへ。奈良町の民家で食事。

1月4日(木)
「メッセージ」ヴィルヌーヴ監督を観る。この映画は様々な解釈を許す哲学的な作品であった。ストーリーは単純である。人間が未知の外来生物と遭遇したときのドラマである。ただし、両者にコミュニケーションの手段はないので、そうした場合における言語の意味がテーマとされている。主人公のルイーズは言語学者。未知の生物は世界12箇所に突然現れた。そのかたちが、ブランクーシーの彫刻のようで、単純で有機的なかたちである。通常の解釈であるならば、言語学者ルイーズが、異性物との模索的なコミュニケーションを通じて、未来を知る予知能力を得たということだろう。それによって、宇宙戦争を回避できた。映画のはじめのシーンの子どもとの別れのシーンは実は過去のことでなく、未来の話であったというものだ。死んだ娘の名がHANNAHといい、対象文字で、こうした転倒を意味するものとされる。ところでこの映画では、いくつかの興味深い話が引用されていた。ひとつはカンガルーの話。袋をもった生物をエボリ人がなんと呼ぶかを、西洋人が尋ねたとき、彼らは「カンガルー」といったという。しかし、カンガルーは、What?というのが、エボリ人本来の意味であったいうもの。つまりは、コミュニケーションは錯綜するというもの。もうひとつは、サピア・ウォーフの言語相対性仮説。人の思考は、使用する言語体系に支配されているというもの。このふたつによって物語が展開されている。したがって、このふたつのことから、予知能力を得るという解釈は事前と事後の混同であると思った。ぼくはよく学生に逆上がりの話をする。逆上がりのできる条件が何であったかは、逆上がりができたことによって人は理解する。ただし、判ったと理解しただけで、真の事実(逆上がりの条件)はなにひとつ不明のままである。事後の成功によって、事前条件を誤読してしまっているのである。この映画では、最後の追い詰められた状態でルイ-ズは、異星人の言語全てを理解すると同時に、予知能力を獲得したことを悟る。そして未来における中国将軍の説得によって、宇宙大戦を回避するのである。しかし、未知の言語が理解できたかどうかは誰も分からない。理解したと思い込み、その必死さが生んだ行動が偶然にも成功に導いたと考えられないだろうか?彼女の思い込みが全てをよい方向に導いた。その後の結婚と子どもとの死別の予知は、過去の記憶を自分本位に編集した結果である。このとき、異星人の言語の映画における役割はなんだろうか、と思う。彼女の人としてのポテンシャルを最大限引きだしたトリガーであったのだ。彼女の内面は彼女自身しかわからないばかりか、事実も誰も分からない。結局は、偶然の一致なのである。ルイーズが自分自身と向き合い、個人的な内面の体験を突き詰めることで、結果として世界が救われるというものだ。ジジェックを思い出す。「モダンの透明とは、機械がどう動いているかを見とせるという錯覚を維持するという意味」というジジェックの言葉であった。こうしたことを思わせる巧みな仕掛けがある映画であった。

1月3日(水)
教科書の原稿に再度とりかかる。年末に集中的にネットワークに関する本を乱読したので、これに基づきいくつかの点を変更する。これらの本から得たぼくなりの仮説は、ネットワークモデルが平均化したとき、はじめて活発な優先的選択が働くということであった。しかし、それを数学的に追究することができなかった。平均化とは、スモールワールドのように、平均頂点間距離が一定値に漸近することである。これは容易に起きる。様々なことが起きる可能性が高くなる確率あるところである。夕方、今年はじめて泳ぐ。

1月2日(火)
妻の実家に年始の挨拶に行く。ゆっくりとした時間を過ごす。合間にネットワークに関する本を乱読。

1月1日(月)
朝起きると、「ジョーズ」(1975)スピルバーグ監督が放送されていた。はじめて親無しに友達といった映画である。新宿ハルク裏の「タワーリングインフェルノ」との2本立てであった。ヒッチコックのテクニックが多いことに現在気づく。その後、近くの氷川神社に初詣に行く。
001 プレミア レスター×ハダーズフィールド
前戦から中1日。今日でボクシングウィークが終わる。岡崎先発。今日レスターは、いつものよいかたちをつくり、カウンター攻撃がはまる。バーディは怪我のため欠場し、代わりの初先発スリマニが走り回ったためである。マフレズのドリブルもキレ、マフレズ、スリマニ、ドリンクウォーターにより3-0の勝利。岡崎もファウルになった幻のゴールもあったが、2得点目の起点となり絡んだ。しかしオールタイム出場中であったモーガンが途中交代。彼は昨季もオールタイム出場であったと思う。中心プレヤーが欠きはじめる。ハードなプレミアリーグであることを身をもって知る。

12月31日(日)
朝から、合間をぬって黒澤明監督映画を3本「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」を観る。「七人の侍」のディテールとスケール両方に圧倒される。とかく登場人物設定とそのストーリー展開の斬新さが評価されているが、世界的に評価されているのは映像美にあると思う。その多くは馬が疾走するシーンにあった。野武士たちが山から現れるシーン、雨中の戦いの馬の足下、とくに馬の筋肉の躍動が印象的である。これらは望遠レンズと複数カメラで構成されていた。当時の斬新な試みである。これが効果的であったため、その技術が今にある。このことを知る。晩年の「乱」「影武者」を思い出した。何百頭の馬戦闘のローアングルのスローモーションのカメラワークであった。

12月30日(土)
109 プレミア リヴァプール×レスター
レスターは序盤こそかたちになったが、その後は全くいいところなし。1-2で負ける。この岡崎不在にたいするプエル監督の判断が、次戦で現れると思うのだが、これが楽しみである。グレイのキープ力は素晴らしいが、個で打開するまで至っていない。チームによるプレッシングによるボール奪取が様々な展開を生んでいる。個の打開を可能にするのは、クリロナくらいなものだろう。レスターのチーム戦術の要が岡崎であった。これは日本のメディアだけの判断ではないと思う。

12月29日(金)
「マンガでわかる複雑ネットワーク」右田正夫・今野紀雄著を読む。特に新しい発見がなかったが、WSモデルが、小さな平均頂点間距離と大きなクラスター係数をもつことを確認する。したがって、頂点数が増えても、平均頂点間距離離はさほど大きくならない。BAモデルとの違いは、最初から頂点数がN個であるWSにたいして、BSモデルは最終的にN個になる成長ネットワークであることにある。次数の高い頂点に高確率でつながる優先的選択によってそうなる。他に成長するネットワークとして、ゴルトン・ワトソン木ネットワークや閾値モデルなどが紹介される。代謝のネットワークはハーマンの「四方対象」の思考のような構造をもつ。これらの研究から、ハブとなる化学物質は、生物の種にかかわらず共通なものだそうである。そして、ネットワークは多元行列として表現可能である。したがって、これは固有値をもたない動的なものとなる。

12月28日(木)
入間市駅で中埜博さんと落ち合い、C・アレグサンダー設計の盈進学園東野高校へ行く。実に30年ぶり、大学院時代の調査以来の訪問であった。理事が変わり、経営運営方針も全く変わったと聞くが、綺麗にメンテナンスが行き届き、校舎がこの学校の背骨にあり続けていることが、すぐ理解できた。第1の門から正門を抜けるときの広場の拡がりが懐かしい。砂利部分が舗装され、静寂さがなくなった分、親密さが生まれていた。職員室訪問の後、学校を自由に観て回る。教室の半数の当時の木サッシがいまだに使用されている。冬のため、木々が枯れていたのだが、春にはホームルーム通りも活気があるに違いない。多目的ホールへ。縦方向への迫力を「感じる。これは学生時代には気づいていなかったことであった。その奥の尾根つたいに大学棟の予定があったのだが、それが完成していたことを想像する。その奥の新しい部室棟は不自然で、設計の密度のなさを感じる。体育館へ。多目的ホールに比べて屋根構造が軽いにも関わらず、これも建築単体としてかなりの迫力である。空間のプロポーションがそう感じさせる。もっと大きくする要望があったことを「Battle」で読み知ったが、これで十分であったことは誰もが知ったことだろう。食堂棟へ。下庇部分ができてその前の池へ緩やかに通じている。太鼓橋を通って池の周りを歩く。池の清浄は井戸水による循環ビオトープで行われている。これが現在も健在である。池には薄く氷がはっている。同窓会館へ。竣工後に追加した建物で、少し手が込んでいる。アレグサンダーは気に入っていなかったことを聞く。講堂へ。照明が追加され、神聖な雰囲気がなくなっていた。唯一がっかりしてしまった建物である。しかし力を入れた黒漆喰は今も健在である。ここに関しては少し色合いと装飾が気になった。平面プロポーションにも違和感を感じないこともない。小さく感じたのである。再び奥の武道場へ。残念ながら入ることができず。その裏の職員室裏の中庭はなくなり、管理棟が増築されていた。予算をけちったように見える日本建築であったので、少し残念であった。歩き回り、気づいたことがある。単純な構成のようで、色々なルートが実にたくさんある。なだらかな土地の形状に忠実な建物配置がそうさせている。そして30年前に受けた擬日本風な印象が全くなくなっていた。尾根上の建物が完成していたらと、つくづく思う。敷地を大きく取り囲む安定感がそれによってつくり出されていただろう。斜面に直行するホームルーム通りの位置付けもそれで納得がいく。再び、正面玄関を通り学校を後にする。その後、昼食を済ませて、大学へ。長旅であった。学生のエスキスをすませ、研究室の忘年会に出席。担当者ががんばってくれた。話題は、講評会システム、すなわちぼくら講評者の立ち位置についてであった。彼らの意図するところを、講評者がずらしているのではないかという疑問である。このズレが埋まるものでないことをジジェックはいっていた。このズレの解釈が個性であり、主体である。

12月27日(水)
夕方から中埜博さんの事務所で、「Reinventing organization」翻訳の打ち合わせ。方針を決め、事務所に戻り、パート1部分を大まかに見る。世界観の変化に関する世界的に話題になっている本である。来年前半を目途にとりかかることにする。

12月26日(火)
縦ログ構法研究会の対談に参加。五十嵐太郎さんの司会で、今後の縦ログ構法について、難波さん、芳賀沼さん、板垣先生と網野禎昭さんとの対談である。木造を俯瞰する構法専門の網野さんの指摘が面白い。木産業はこれまで、木生産者に一方的に価格のしわ寄せを行うことで、その産業を成立させてきたという。これが現在、林業の衰退を招いている。木の産業仕組みも同様であるらしい。例えば、エンドユーザの実情関係なしに、林現場では木の製材長さの加工を慣習的に行っているという。網野さんにいわせると、川上と川下のネットワークが切られ、皆が川中の意見ばかりを聞くようになっているという。これは、ぼくが今日話すことができたらよいと考えていたネットワーク理論を実際に示すものであった。ぼくの説明を受けて難波さんはこれを、ローカルなボトムアップ方式と理解してくれた。ぼくとしては、ローカル的問題が中心の問題に影響を及ぼす可能性についてをさらに具体的にしたかったのであるが、そこまで及ばなかったのは、理論不足であった。後半は、価格の話になる。難波さんはエリック・ホブスボームによる産業革命研究から、新しい構法が既存のシステムにすり替わるためは経済原則にあるとして、価格を下げることよりもの、慣例的人件費が高騰する条件をしめしていた。ぼくとしては大きな価格の違いではないのだから、そのことよりも価値の違いを見出すことの重要性を指摘した。新しい構法のシェアが数%でも、これがトリガーになって中心の問題を揺さぶるということを、前半の問題提起と関連付けて発言すべきであった。頭の中に、これは多分に希望的観測を含むので、難波さんに理解されつつも拒否されたことであろうと考え、この意見を控えた。この点を整理すべきであったことを後悔する。今後は、この考えを網野さんのように具体的に展開させていくことが必要なようだ。事務所に戻り、早速「Reinventing organization」Frederic Laloux著の翻訳をはじめることとする。このネットワーク理論を具体的に解説する本のようである。中埜さんに薦められていたので、これと取り組むことに決める。
108 プレミア ワトフォード×レスター
イングランドのボクシングウィークである。他国リーグが休みになる中、イングランドプレミアのみ3日おきにゲームが行われる。これをモウリーニョはかつて、プレミア勢がCLで活躍できない理由に挙げていた。このハードワークの間に、他国チームは十分に休息をとり、1月後半のCL決勝リーグに向けて鋭気を養っているのである。レスターもローテーションを組み、今日は岡崎が先発。しかし、岡崎先発するとき有効となる前からのプレッシングがワトフォードに少しも機能しなかった。レスターの得意な陣形が整う前に、ボールをサイドにおくることにワトフォードは成功していた。結果、先行するも1-2で、下位に留まるチームにレスターは負ける。次はアンフィールドで、シティ、ユナイテッドとの間に位置するこの試合で確実にポイントを伸ばしておきたかった。したがって今日の岡崎は全くいいところなかった。

12月25日(月)
「複雑ネットワークとは何か」を再読。この本に記述されているリッチ・クラブとビップ・クラブが気になっていた。リッチ・クラブとは、BAモデルのように、優先的選択と成長の結果として出てくるものである。つまり、重みのあるハブというものが多立する状態である。重み付けグラフあるいは閾値グラフともいう。これは、ハブがヒエラルキー状に広がるかたちをする。このとき残念ながら、中心部のハブが全体の8割の枝をもっている完全なヒエラルキー型である。これにさらなる効率化を求めると、あまりにも離れたところを結ぶ枝を切ることになる。似通ったハブだけにすることである。そうすると、この本でいうビップ・グラフになる。本書では、違った名前でホモフィリーのある閾値グラフともいっている。面白いのは、この本の指摘で、この中心部を黒幕といっている点である。逆にかたちをそのまま見ると、中央のハブの枝は少なく、中央の空洞化が起きていることである。じつはこれが世界の現状であるように思えた。中央の問題がなおざりにされているのである。したがって、中央のハブから、非効率な外の頂点への枝つけが再び必要となる。そうして中央を活性化しないといけない。このことに気づく。これに平行して、縦ログ構法を通じて日本の林業木産業について考えていた。建築家の役割とはこのことであることに気づいた。今日まで気づいていなかったことである。そこで、土曜日の考えを修正する。日本の林・木産業は成熟している。各サブネットワークが十分に機能し、多立状態である(ホモフィリー+閾値グラフ)。在来構法はこの恩恵の上に成立している。ただし、サブネットワークが充実しすぎ、中央の空洞化、あるいは外から中央が見えにくくなっている。そこで新しい中央への位置づけを考えているのはCLT構法である。しかしそれは、新しい接着工場をつくる必要があるなど0からはじめることが多く、大変な労力がかかる。これにたいし、縦ログ構法は、中央から末端へ枝をつなぎ足すことに該当する。再生といってもよいかもしれない。これは、優先的選択に反することであるかもしれない。しかし、これによって全体のネットワークが再動はじめる。つまり、中央のネットワークの枝が増える訳である。建築家の役割が、政治家や実業家と異なる点がるとしたら、この点であろうと思う。ネットワークを大きくすることだけではないのだ。あるいは、以下の解釈もできるが、ぼくには計算ができないので仮説のままである。それは、末端の点の新しいポテンシャルに光りをあてるものである。それは、グラフに新しいクラスターができることを意味する。それと中央との距離を縮めるために新しい枝が必要となる。そうでないと、中心空洞が益々大きくなるだけだからである。ネットワークが行き詰まるとき、新しいヘテロフィリーなつながりが必要とされる理由がここにある。そしてこれが建築家の役割である。

12月24日(日)
107 プレミア レスター×マンU
ロスタイムにレスターが追いつき2-2のドロー。ホームレスターの粘りが結実したゲームであった。それを発火したのは、65分から登場の岡崎であった。その後、岡崎はゲームから消えてしまったが、サポーターにチーム姿勢を見せることができた。2日前に、岡崎は120分のマンシティ戦を戦ったため、今日は控えであった。とはいえ、ライバルグレイも好調である。中盤から多彩のドリブルでゴール前までボールを進めることができる。これは引いて守るレスターにとって大きな武器だ。これから2日おきにゲームがある。次戦の岡崎に期待である。

12月23日(土)
送付されてきた縦ログ本の草稿を読む。NIKEプロジェクトでは、新しい構法によって、何が可能となるかを模索した。ぼくにとっては、縦ログにかかわらず木造に関して後進であったので、既存の木造システムを最大限利用することからはじめ、むしろそうしたものを引き出すことに重点を置いた。そうしてみると、縦ログの位置づけが見えてきたところがある。当然のことながら、日本における木環境は成熟している。CLT構法はそれらのネットワークなしに全く新しいシステムを導入しようとしているように見えた。当然、無理が生じ、折り合いが必要とされることが判った。そこでCLTは、細かい自由度が要求されない中高層建築におけるRCのような位置付けになるような予感がしている。在来構法は、自由度が高いが、生産のシステムが完成し硬直していることを感じた。縦ログは未発達でプリミティブな構法であるので、既存のシステムにのせることでいかようにも展開する可能性を感じるものであった。それは、最近よく読むグラフ理論のBA(バラバシ+アルバート)モデルを思い出させてくれるものであった。BAモデルは、優先的選択によって、次数の大きな頂点により沢山の頂点が接近する成長するモデルである。これに基づけば、CLT構法は0から全く新しい規範モデルをつくろうとし(おそらくそれは樹形モデルとなるだろう)、在来構法は枝の差し替えだけを行っている静的モデルで成長は望めないものである。昨日調べた政府の「働き方改革」も、ぼくなりに組織論の改革でないかと考えたが、これが縦ログ構法にもあてはまることに気づいた。ただしこれはオートポイエーシス的なものでなく、「複雑ネットワークとは何か」によると、多くのハブ構造をもつものとなることもあるし、黒幕構造(中央の存在が見えない構造)にもなる。このコントロールが重要なのだろうと思う。続けて「複雑ネットワークの科学」増田直樹、今野紀雄著と「図解 複雑ネットワーク」今野紀雄、町田拓也著を読む。
106 リーガ レアル・マドリード×バルセロナ
3-0でバルサが勝つ。前半マドリ-は、マンマークの守備をして、デュエルで負けていなかったが、後半から何もできなくなった。ブスケスの動きにそれが典型的に現れている。前半は窮屈の中、ふたつの大きなミスをして、後半は決定的なスルーパスをいくつか出せるようになっていた。その違いがどこに由来するか分からないのがもどかしい。

12月22日(金)
政府の「働き方改革」について調べる。どうやら人口減少が招く労働力不足が将来経済を衰退させてしまうことにたいするケアのようだ。そのために労働者絶対数の増加と労働の質向上を目的としている。以前までは量をあげることで、生産増大を考えていたが、このシステムを変更して質の向上を目指すものである。幸い日本は技術力というインフラが充実しているので、それが可能ということは最近読みはじめているグラフ理論を読んでわかったことだ。「人はそれぞれ異なる能力(重み値)を持っている。重みが大きい人は、他の頂点と結びつく力が大きいこととする。つまり、ハブなりやすいことを意味している」(「複雑ネットワークとは何か」p215)。それは、もちろんトップダウン(樹形方式)でなく、小さなクラスター同士の相互補助による全体の押し上げ(ネットワーク成長)方式である。予め決められたハブの枝を差し替えるというという効率性を求めるものでない。クラスター性を重視し、枝の平均距離(数)を小さく、グラフを大きくするためには、どういうかたち(グラフ)がよいかということである。ここまでくると、「働き方改革」とは組織論になっていく。先週に続きジョン・ヒューストン監督、ハンフリー・ボガード主演の作品、「黄金」を観る。場所はメキシコの金鉱。黄金を手にしたとき人間の本性を描く。悪人、善人の区別はなく、人間が、制度や宗教、対人関係によって、様々なかたちで道徳観が変わっていく様を描いた。時折現れる様々なインディオが重要な役割を果たすが、インディオに対する人格の位置づけに疑問が残る。1948年の、1920年代を描いた作品である。iPADの再インストールするも上手くいかないので、時間をとられる。

12月20日(水)
深夜、東山魁夷の特集を観る。「年暮る」(1963頃)を廻る写真家三好和義のドキュメンタリーである。「年暮る」は、大晦日の除夜が鐘の鳴るしんしんと雪降る京都の町屋の屋根の連なりを描いている。機械的でなく自然と派生した街並みにおける庶民の生活を描いたものである。東山魁夷特有のブルーの効果もあるが、どこか懐かしい日本の風景である。しかし、極めて特殊なかたちをしているものの、周りの風景が描写されていないので、場所が特定できない。ただしタイトルから大晦日雪降る様、民家の明かりなど極めて特別な時間のものであることが判る。それは一般的なものに決して回収できないもののである。しかし前述のようにどこか日本の街の原風景を思い出させてくれる。アレゴリー的描写と、柄谷行人がいっていたものであろうと納得する。

12月19日(火)
NHK特集で「脱炭素革命の衝撃」を観る。環境が倫理問題でなく、経済問題となっていることを示す。どうやら保険会社にとって、昨今の気候変動による金融リスクは相当大きいものらしい。このまま気候変動が続くと、保険制度が崩壊するという。そこで、石炭火力など従来の炭素エネルギー開発企業への締め出しは、近い将来確実なものになる。保険を貸さない。トランプはパリ協定脱退を表明したが、それとは関係なしに、アメリカを中心とした投資家は、環境企業に莫大な投資をしている。加えて、中国が国に挙げて環境問題に正式に取り組みはじめた。つまり、マネーは明らかに脱炭素世界へ向いているというものである。トランプはむしろこれまでの既得権の保護をしていた訳であった。ぼくら日本も従来の経済成長を基本にしている。それでは日本企業の将来はないという衝撃的な特集であった。

12月18日(月)
千駄ヶ谷の国立能楽堂(大江宏設計)へ行く。建物が一体でありながら分節した屋根が印象的な外観。内部は、日本建築特有の水平方向へ伸びる小さめの空間連続が特徴的である。中庭を中心に整理した日本的プランニングがそれを可能にしている。今日は能舞台の裏に回れることができたのがよかった。舞台と廊下を挟んで和室の続き間が控え室であった。能舞台の斜め線をモチーフにした空間構成がメリハリを与えている。1時間半あまりの時間をかけて紹介してもらう。

12月17日(日)
104 ブンデス ドルトムント×ホッヘンハイム
ゲームは終始ホッヘンハイムペースですすみ、ドルトムントはドタバタしていた。はじめこそ、右サイド奥にボールをおさめることができたが、左のダイレクトパスによる連携は全く消され、いいところがなかった。ヴァイグルが押さえ込まれ、そこから展開ができなかったことによる。4-3-3の欠点がでていた。後半から香川が下がり、ヴァイグルをフリーにするように努める。そうしてはじめて連携できた場面で香川がPKをとり、もうひとつで香川はアシストを決めた。なんとか2-1で逆転し、順位も上げて前半戦を終える。連勝するものも、決してよいかたちではなかった。

12月16日(土)
群馬の県立近代美術館へ行く。原稿に載せる写真撮影のためである。おそらく最後に訪れたのは20年以上前のことだと思う。ここからホワイトキューブがはじまったといわれるが、巨大な空間はこれ以降のホワイトキューブとは全く異なっている。入れ替え可能というのは方便で、建築の抽象性を最大に高めた空間志向は明らかであった。いまでもその空間は健在である。先日訪れた埼玉の郷土館とは全く異なる。これは空間性を抑えた中身を収容する箱であるのだが、年月が経ち、中身のプログラムが時代遅れになると、インフラという箱も同時に時代遅れの無用物になることを感じてしまった。建築の悲劇であったように思う。それに比べ、磯崎の作品は建築家のキャラクターによって、いまだに生き生きとしている。その後、車で30分ほどの白寿の湯に寄る。ひなびた温泉を建築的にリニューアルさせたものであった。施設にカフェという名前もついている。温泉自体を変えるのでなく、ロゴをつくり、地元食材を利用した料理を今風のカフェとして提供し(昔からの醤油倉と提携)、若者が満足するような居場所を提案している。消費主義に無自覚な学生の課題のような提案で、とはいえすっかりそれに取り込まれて成功している不思議さがある。先日レクチャーをしていただいた東さんの星野やはそれにたいする戦略が巧みであり、新しい建築の切り口となっていたことを思い出す。例えば雑誌「ソトコト」にあるようなテーマを建築に取り込む方法が模索されている。
103 プレミア レスター×クリスタルパレス
中2日が続くプレミアスケジュールのため、岡崎は休み、グレイが先発。今日は上手く守備の型に入れず、アウエーに弱いクリスタルパレスにホームで完敗する。レスターの守備の型は特徴的である。バーディを頂点にして三角形の守備陣形をつくる。バーディ、岡崎、サイド(マフレズ。オルブライトン)で三角形の一辺をつくり、ボールをサイドへ追いやる。このラインがサイドラインと平行に近づくほど、守備の効果を高める。相手はサイドラインとの間に挾まれ、これがレスターのボール奪取地点となる。しかし逆サイドに振られる場合などにたいし、この陣形を保ち続けることは難しく、岡崎とバーディの運動量が鍵となる。加えて、三角形の中の選手をマークする中盤の運動量である。カンテとドリンクウォーター、現在はエンディディである。レスターがそれほどマンCを苦手としないのは、あくまでもボゼッションに拘るチームにはこの陣形が有効だからである。これはおそらくラニエリの遺産であると思う。この力を軽視しポゼッションを高めようとすると、上手くいかないのが現状である。

12月15日(金)
彰国社にて原稿の打ち合わせ。その後、今年はじめての忘年会を行った。同僚の原稿から、自分に足りなかった視点と他の人にない視点を知る。今回は一人称で客観的に語るようにしている。その立場を明確にする文章が必要かもしれない。深夜BSで、名作「マルタの鷹」を観る。ジョン・ヒューストンの監督、ハンフリー・ボガード主演の1941年のハードボイルドの傑作である。ブリジット、カイロ、ガットマン次々と怪しい人が主人公のサム・スペードに絡まっていき、物語は拡散しながらも、徐々にマルタの鷹の存在が明らかになる。これが十字軍からの戦利品というのが物語に厚みを与える。最後は、ハンフリー・ボガードのダンディズムで終えることで映画というエンターテイメント性を確保している。ところで、多くのシーンはスタジオにおける数セットにおけるものであるにもかかわらず、台詞回しとカット割りで現代でも飽きさせない展開になっているのは流石である。

12月14日(木)
船橋に最近完成した室伏次郎さん設計のインマヌエル船橋キリスト教会」に行く。今村さんの紹介で、室伏さんに案内をしていただいた。もともとは歴史ある教会であったという。道路拡張により敷地が小さくなり、事務所と教会という離れたところにあるふたつの建物になった。そのふたつとも室伏さんの作品である。ひとつめの駅前の事務所は、両面を正面にもつコルビュジュエの住宅のようである。直階段が両道路をまたぐ。横面は正方形だろう。拡張道路に開かれたコミュニティ施設となっている。可愛くも大胆である。ふたつめの教会はそこから歩いて5分くらいの、また別の拡張道路に面している。間口が広い。その敷地に、教会と信者のためのコミュニティホールを歪んだかたちで収容している。ここに力強いプランニングの妙がある。これが面白い。教会内部に入ると、そこに差し込む光が柔らかく印象的である。幾何学をくずしたかたちがコンクリートの塊に動きを与え、焦点を定めない。かたちの力である。400名収容でそこそこ空間は大きい。椅子はスギ丸太を加工した長椅子で落ち着いた質を与えている。この内部空間の尊厳さにたいして、それが外部から感じられないのは、配置を振っていることと、道路面ファサードを屋根と分節しているところにある。まちなみスケールを意識した結果という。したがって大きな教会の側面は見えない。長いファサードの中央はえぐられ、三角の広場となり、そこがエントランスである。室伏さんは、角となる教会裏から一周り、外観を説明してくれた。ちょっと不思議な説明順路であった。教会と反対側にあるコミュニティホールは明るく、コンクリート柱をルーバーのように扱った明るい空間である。室伏さんの真骨頂が発揮されている。はじめて室伏さんの作品を拝見した。無骨で老練で力強い。
102 プレミア サウサンプトン×レスター
岡崎が2点獲り、活躍する。前戦の流血ゴールからの好調さをキープする。岡崎の場合、ゲーム出だしが上手くいくと必ずそのゲームでゴールする。リズムが大切なのだろう。今季は、ゴールエリアに突っ込むことに積極的である。

12月13日(水)
101 ブンデス マインツ×ドルトムント
ドルトムントは、やはり週明けに監督が代わった。驚いたのは、ケルンを前週クビになったシュテ-ガーであった。シュテ-ガーは今シーズンケルンで1勝もできなかった監督である。チームと合流しての練習は1日のみであったと聞くが、その采配が気になるところであった。ベンチ予想であったが香川は先発。序盤は香川が振り返るように無理をしない安定した守備重視の「作戦をとる。前線ラインを押し下げ、ボールを奪う位置を下げていたようだ。そこからのロングパスが目立っていた。ミッドウィークの試合とあって後半から疲れとともに試合が荒れる。そのなかで香川が活躍する。いつになく積極的で、アウエーに駆けつけたサポーターを煽る程であった。聞けば、監督交代に際し、シャヒン、シュメルツァーらがCEOから度々意見を求められていたという。彼らがここ数試合で気迫を見せていたのはそのことであったのだ。ドルトに長く在籍する香川も同様の気持ちであったに違いない。試合中に香川は新監督にトップ下を志願したようである。そして鮮やかなゴールを決めた。久しぶりであった。その直前も好機を逸していたが、悔しさを顕にしていなかったので、よほど集中していたのだろう。レアル戦から続き、やっとのことでチャンスをものにすることができた。やはりトップ下の香川はよい。次戦から期待である。

12月12日(火)
「四方対象」グレハム・ハーマン著を読み終える。つくづく自分の考えは、つくる立場からの視点からのものであることを痛感する。逆をいえば、何かわからない「建築」というものがあり、それは大きな象のようなものであり、その周りを様々に「射影」しながら移動している。しかし「建築」にこうした働きがあるからこそ、文化として位置付けられている。これをハーマンは「志向的(感覚的)対象」といっていた。これにたいして「実在的対象」(ハイデガー)というものがあるという。実践や実験という射影によって掴める経験から理解できるものである。このふたつが同時に存在し、これを思弁的実在論ということであった。現代的なものから哲学的(静的)なものにしてしまっている感がある一方、アクターネットワークをより分析的にしている。後者を語るものとしてアレグサンダーを思い付く。ユーザ視点のコミュニティ論や建築が求められる社会性などであろう。そして「デザインの鍵」にはこうした項目が皆無であることを疑問にもつ。
100 E1 日本代表×中国代表
中国DFの裏を使い、縦への攻撃の意識が徹底されていることがわかる。しかし残念ながらそのパタンで得点に結びつくことがなかった。この推進力が鈍ったところで、川又を投入し、ポストプレーによる縦への突破を試みる。これで得点した。しかし、U-20も試合があるとは言え、攻撃陣のこの代表は決して若くはない。GKとSB発掘が目的のようでもある。

12月10日(日)
映画「プロメテウス」をパソコンで観る。ラストのシーンにおける脱出可能なもう一機の宇宙船の存在、あるいは主人公の博士がエイリアンの卵を飲まされた理由など、ストーリーに破綻が多いことが批判されるのがよく判った。しかし反面それでストーリーを面白くしている。ようするに、全てをこの作品で描ききっていない。次作との連続のなかで位置付けられているのか、あるいはむしろ一話の限られたなかで完結させることが不自然と考えているのか、最近のSF映画の傾向であるが、これが顕著に表れている作品である。鍵となるのは、不死身で完璧なアンドロイド「デヴィット」の存在である。人間でない彼がぼくらの知らない情報を握っていることを肯定的に捉えた瞬間に、こうしたストーリー展開が可能になり、作品がより不気味になっていく。
098 ブンデス ドルトムント×ブレーメン
今日のドルトムントは、試合中にもかかわらず目まぐるしくフォーメーションを変え、模索中であることがうかがえる。それに合わせて香川のポジションもボランチ、トップ下、ボランチと変わった。攻撃が活性化したのは、香川がトップ下に入ったときである。3度の決定的シュートも放った。しかし失点は香川がボランチの時でもあった。1-2のスコアで、ホームで負ける。前半終了時のブーイングも凄かったが、試合後はこれを超えていた。ボス体制の終わりを感じる。
099 プレミア ニューカッスル×レスター
レスターがゲームをコントロールできたのは、岡崎なしの前線によるものであった。マフレズ、オルブライトン、とくにグレイがよかった。岡崎は、同点を許した直後の後半70分から投入される。おそらく、逃げ切りのための守備として投入されたのだろうが、追いつかれ、岡崎にとっては願ってもない機会に恵まれる。そうした岡崎のプレーは悲壮感をそそるものあった。近頃の代表落ち。交替直後に流血。包帯による仮処置の後も果敢にボールをチェイスし、最終的には相手のオウンゴールを誘った。日本では浪花節を好むのであるが、この活躍を海外メディアはどう扱うのだろう。そして監督はどのような評価を今後の岡崎にするのだろうかと思う。

12月9日(土)
kindle版書籍「パタンランゲージと合意形成プロセスルール」中埜博著を読む。Kindleを利用したのははじめての経験であった。合意形成のためのステップが3つ示される。ひとつめは、意見が多様であることを認めること。ふたつ目は、この多様な意見をまとめる方法、3つめはそれをひとつのストーリーにすることである。ふたつ目にある、柔軟に合意形成を拡大していく方法が特に面白い。全体で行うことでは不可能で、ある具体的な問題を共有するいくつかのグループに柔軟に分けて、それへの解決討論を行うことが示されていた。まずは全体を考えずに、個々をバラバラにして、問題を出し合うことが重視されている。それによって、テーマを明確にして討論ターゲットを捉えるのである。なぜなら、問題の本質はかなり似通った傾向があり、これが次の段階での共有物となると考えられているからである。もちろんこれはトップダウン方式でない。3つめで大切にされているのは、共有合意イメージをつくるためのかたちの活用であった。要するにパタンランゲージを組織論へと展開するものであった。パタンのような、ばらばらに独立した利害関係のないグループひとつひとつ連続させていくことで全体をつくる方法である。読みながら、縦ログ構法について考える。低炭素社会実現にたいして、既存産業を保全した上での実行目的がこの構法にあることに気づく。目的の実行のために、各組織が有効に機能させようとしている。トップダウンの問題を、ボトムアップで応えている点がよいと思う。この本には触れられていなかったが、そうすることで、過去の遺産を引き継ぎ、次へ展をさせるアドバンテージを多く導くことも可能となる。「実況 近代建築史講義」中谷礼仁著を読みはじめる。講義形式でルネサンス以降の建築史が語られる。磯崎新の「建築行脚」と「西洋建築史図集」を基となっているのがよくわかる。8時から龍ヶ崎での打ち合わせ。11時半まで行う。工務店が多忙のなかに小さな仕事をお願いするのは、大変である。芳賀沼さんが、先を見ているかどうかよくわからないが、プロジェクトが動くかどうかの世知際であろう。

12月8日(金)
先日の修士設計の講評内容について学生から質問を受けた。そこで、ぼくなりにアクターネットワークの新しさを整理する。世界がモノも人間も関係なく、世の中の複雑に絡み合ったネットワークの中で構成されることが前提である。したがって建築もそうした状況を受けとめるものとする。ただし建築のこうした働きを一般化するのでは、世の中が整理されてしまったことになるので、してはいけない。あくまでも具体的に個物を探っていくとズレが生じ、いいもの(一般性を帯びたもの)に偶然落ち着く。こうしたもっともらしい物語を提出し、見る人を納得させる。未来を描くことに近いが、過去や既存の特定の時点の問題を超える予見性を示すことにあるのではないかと思う。とはいえ、ぼくらの存在が矮小化されたように思え少しもどかしい。アクターネットワークとは、複雑で絡み合ったネットワークなのだから、その前提に立つ以上ぼくらが行うことができるのは、それに積極的に抵抗することでしかないのではないか?これがぼくの疑問である。

12月7日(木)
「建築する動物たち」マイク・ハンセル著の再読。動物が巣をつくることが可能な理由について動物学者が語る。学生の発表を聞きながら、この本を思い出した。巣つくりという一見知的に見える行為も、遺伝子能力にコントロールされるとはいえ、多くは動物の偶然の行動によって支配されているという。その証拠として、巣つくりは生物の種類に比べ遙かに実例が少ないことが挙げられている。あるいはサルを例にあげ、人と動物の知的操作には歴然とした差があることもいっていた。つまり、単なる偶然の一結果をぼくら人間は、そこに何かがあるように思っているにすぎないということである。この考えは、ドーキンスの「延長された表現型」からの影響らしい。次にこの本を読むことにする。
097 CL レアル・マドリード×ドルトムント
思えばドルトムントは、前回のホームのマドリード戦まで絶好調で、正面から勝負にのぞみ、そして叩きのめされてしまった。これから守備力の不信を招き、今の状況に陥ってしまった。その反省から、今日は最近の3バックの2ボランチによる守備重視とする。それが消極性を呼び、前半は香川のシュートのかたちをつくるものの、全くよいところがなかった。気を吐いたのはキャプテンのシュメルツァーである。途中から果敢にプレッシングをして、それが点に結びついた。ハーフタイムには、キャプテンから奮起が促されたのであろう。ドルトが前からいくようになると、香川が起点となり追いついた。香川はよかったと思うのだが、終了間際の同点弾を大きく外してしまった。この差がチームの差である。レアルは、醜いながらも伏兵がゴールを決めている。2-3でまたしてもドルトは勝てないでいる。混迷は続く。

12月6日(水)
修士設計の中間発表。遠藤研から2名が参加。嶋田くんの作品は、ディテールから建築を位置づけしようとするもの。一般にディテールは、技術的納まりの問題と考えられているが、それに限らずふたつの異なるものがぶつかるときに対処すべき問題として捉えている。通常の材料のぶつかりから、人と環境、人と生物などにまで適用を拡大させ、それらのつなぎ方をデザインするものである。少し無骨な建物になるのだろうか、まだ作品のイメージができない。「デザインの鍵」にあるディテールの章を思い出した。今度出版する縦ログ本にこのことについて触れたところであった。今後の展開に期待する。山田くんは、インフラフリーの建築の提案である。ぼくらのデザインがインフラの恩恵を無意識に受けていることに対する批判とみた。インフラに頼らずに建築をつくるためには、建築を、宇宙船のようにハイテクノロジーを使用して外部要因に左右されない閉じたものにするか、あるいはこれまでインフラとは考えていなかったもの=例えば土のようなものを利用し、動物が自らの巣をつくるようにローテクながらも開いていくか、この両極の間に位置付ける必要がある。反対にいうと建築のデザインとは、このふたつの間にあって、インフラを臨機応変に使用している。山田くんの試みはこれを意識化したところにある。その場合、具体的に選択する敷地が問題となるだろう。今のところ、月面という片極に振るそうだ。今村研に、投機的な作品がふたつあった。どちらも都市分析から導きだされたものに新しい解釈を与えるものである。こうしたアプローチの新しさは、発見、目の付け所、分析にあるのではなく、個々の勝手とも思える視点を説得力のあるストーリー展開させ納得させることにある。彼らも注目していたアクターネットワークの面白さは、別々と考えられていた即自と対自の一致を目指しているところにある。この即自が抜けていることを感じた。ところでこれらの4作品に共通しているのは、ある対象にたいしてふたつの全く異なる立場からの見方を提出していることである。そこまでは共通している。しかしここから作品にするときに、片方によらずにいかに両面を示し続けるかが重要であると思う。なぜならモノと人間の間をフリーと考えるのなら、答えにより確定することでなく、implicationが重要視されるからだ。

12月5日(火)
096 CL バイエルン×パリSG
3-1でバイエルンが第1戦の雪辱を果たす。思えば、この第1戦から監督が変わり、本来のバイエルンに戻り、快進撃を続けている。今日も、はじめは攻めあぐねていたが、サイド深くにボールを送ることが一端できると好転し、2列目からの選手が活躍をする。それにしてもトラップが完璧で、他のチームとの差を感じざるを得ない。

12月4日(月)
東理恵氏を千葉工大に迎えてのレクチャー。風景をつくる建築について。東さんの留学先であったコーネル大学から、星野さんとのコラボレーションがはじまったという。当時のコーネル大学は観光学が有名で、星野さんはそこでホテル経営の正攻法を学んだ。それは、短期的な視野に立たずに、オーナーの信じるホテル経営を貫くことだそうだ。したがって、星野やは、建築、ランドスケープなどチームワークを大切にする。チームは、環境に真面目に向き合い、身体感覚を大切にするのである。その活動は、軽井沢からはじまり、京都、竹富島、河口湖、バリ、東京と広がっていく。どれもがランドスケープと一体化し、理屈を超えたもの、すなわち身体性を模索している。しかし徐々にモノに執着し、建築的になっているように感じられた。東さんの向上心がそうさせているのだと思う。作品性とは、建築家の個性にあるのではなく、様々な条件の中できちんと建築化することで生まれるもの、という東さんことばのが印象的であった。それをぼく流に考えると、個性はきちんとした方向性を示すことにこそあり、個を無化することではない、ということを付け加えておきたいと思った。

12月3日(日)
天気がよく仕事も一区切りついたので久しぶりに箱根行き。竹やぶで蕎を食べ、日帰り温泉施設となった龍宮殿による。以前家族と宿泊したことがある旅館であったが、気軽によることができるようになった。雲もない青空の下の富士山が既に雪を被り、その姿を芦ノ湖端に見ることができたのが嬉しい。合間に「四方対象」を読み、縦ログ構法の位置づけを考える。現状のまま木製材業が推移すると、林業やこれまでの伝統技術を失う損失は大きい。コストを抑えるための合理化は、こうした切り捨てを背景にして成立する。一方でこうしたこれまで保持されてきた地方地域資産の損失を招くことになるのだが、それは経済指標にストック的な見方が反映されないことによる。GDPとはGross Domestic Productであるが、日本国全体を細分化して地方GR(Regional)Pに限定することも、この時代あってよいと思う。昨年から政府が推し進める「働き方改革」なるものも、多様な働き方、成長と分配の好循環の実現を目指す。これは在来木林産業において該当するのではないかと思う。各業種の自立性を保ちながら全体の発展を促す新しい産業体制が求められているように思う。

12月2日(土)
095 ブンデス レヴァークーゼン×ドルトムント
ドルトムントは、10人のレヴァークーゼンに対して攻めきれずに1-1のドロー。なかなかチームの状況が好転しない。オバメヤンは出場停止。前戦のゲッツエに続き、今日は、フィリップとカストロの攻撃的ふたりが負傷のため退く。DFは3バックとし、CBに退団が噂されているスポティッチが入る。緊急状態である。2ボランチの一角に、このところチームをまとめ奮闘するシャヒンである。負傷者の後に香川が入り、前線に絡み、いいところをつくるも、やはりフィニッシュまでいかなかった。往年のシャヒンとの絡みが欲しい。シャヒンは徹底して守備の安定に徹していた。チーム戦略もなし、駒も切れてきた。この状況を打開する思い切った起爆剤が必要である。

12月1日(金)
「四方対象」グラアム・ハーマン著を読み続ける。深夜にW杯の組み合わせ。日本は、32チーム最後の枠に入る。H組のポット4である。対戦相手は、初日がコロンビア、第2戦がセネガル、3戦目がポーランドとなった。いずれのチームもスーパースターのアタッカーを擁し、彼らは身体能力において突出している。しかし日本選手も経験を積み、欧州リーグで幾度か対戦済みであるので、慌てることはあるまい。初戦のコロンビア戦が全てであろう。コロンビアには、前回W杯の第3戦で、あっという間に逆転を許してしまい、決勝トーナメント進出を絶たれた。ハメスがこれを境に世界トップに躍り出た訳であるが、このリベンジをしてもらいたいと願う。

11月30日(木)
「My Architect」を観る。数日かけて少しずつ鑑賞した。カーンの息子が追うカーンの生涯を描いたドキュメンタリーである。よく聞いていたことではあるが、カーンの作品に対する執着は異常で、スタッフの家庭、カーンの家族、構造家も、いとも容易く壊してしまう。しかしその情熱は、人を惹き付け、おそらく空間を密なものにしている。だから、クラインの多くは喜び、3人もの女性に子どももいた。その女性は皆、スタッフであったりして、仕事を通じて関係した人である。今月号のa+u 「ヴァン・モリヴァン」を読む。難波事務所にいた岩元真明さんの研究成果である。幾何学構成と対南国環境によって作品が紹介可能であるが、そこに伝統との葛藤を見出そうとしている。一見一貫性のない一連の作品のなかに建築家の意思をくみ取ろうとしている。難波さんの教え子らしいアプローチで、少し恥ずかしくもある。

11月29日(水)
094 プレミア レスター×トットナム
2-1でレスターが勝つ。ドルトムントとの対戦時ほどトットナムに勢いが感じられなかったが、ドルトよりレスターの方が総合力で勝っているように思われた。レスターの今日の前線は、バーディ−、岡崎、ドリンクウォーター、マフレズと従来のかたちにもどした。岡崎のプレッシング、ドリンクウォーターのクロスと安定していた。監督が変わる度に様々な試みがなされるものの、このかたちに落ち着く。今回も同様だろうかと思う。ドルトとの違いは、ビルトアップ能力にあった。それは特に日本代表との差でもある。後半の疲労がピークの時間帯でも、自陣深い位置からなんとかフィニッシュまでいき、チーム状態を落ち着かせることができる。バーディーの速さと、プレッシングをかわす個々選手のボールキープ力による。

11月28日(火)
設計方法小委員会で能作文徳さんをむかえてのレクチャーを昨日行った。能作さんは、ラトゥールを、自作を通じて語ってくれた。能作さんは、建築を構成するモノの生産から製造、そして消費、ゴミとなるまでの寿命のネットワークのなかに自作を位置付けようとしている。そしてそこに物語性を刻む。その作品は何か人をくすぐる違和感があり、それは彼の固有性のようなものであると思うのだが、それが何かと追っていくと、そこに物語性(客観性)が見える。そうした建築であった。そうした態度を、新しい建築家の目指すところにしている。このことに好感がもてた。物語性とは、ラトゥールがよく挙げる例のように、モノに対して能動と受動のふた通りの見方を提示することである。例えば消費物を不要物ともとれるし、新しい地球資源ともとることができる。これを提示することである。違和感とは、ゴミ=不要物でないことが直感的に感じられ、反対のゴミ=地球資源という説明で納得できる。それを喚起するのが物語性である。それは、あるネットワークという俯瞰した立場にいることで可能になると判断した。先日の田根剛さんのレクチャーで感じたこととの共通点を指摘したところ、能作さんはそれにたいして違和感があるようだ。ぼくには田根さんのいう考古学は、モノの経緯を発見し振り返り、それを未来に繫ぐという意味で、能作さんの物語性に通ずるものだと思ったのだが。ネットワークは得てして、狭い建築界、あるいは日本という文化圏のみでおさまることが往々にしてあるが、能作さんの場合、それが環境という問題に根をおいているのが憎い。ともかくラトゥールを、つくる立場から評価する面白いレクチャーであった。「メイキング」「物神事実」に続き「四方対象」グラアム・ハーマン著を読みはじめる。

11月27日(月)
「近代の物神事実崇拝について」を読み、さらに考えることがあった。これまでの科学の否定である。「伝統的な批判思想は、実在的でない対象(「魔力を持つ対象」)を世界から駆逐し、実在的な対象(「事実としての対象」)のみで世界を観たそうとする。その上で、一方に客体的な客体(「原因としての対象」)、他方に主観的で内面性を持つ主体(「源泉としての主体」)を置いて、両者を「表象」によって接続させようとする」 P229。ラトゥールは、このような構図に現実を当てはめるのは困難だと考えている。それは、建築界で散見できる、コンセプト批判+実在対象肯定による主体存在批判かわしに通ずるものである。建築は、科学より、真実が何かを進むための方法において一歩前に進んでいるが、それを揶揄する文章であるとみた。その上で、メイキングを唯一の可能性とみている。もちろんこれは、アレグサンダーに通じる。マスタープランなしでの未来思考は何かという問いである。何かを等価で見るということは、ひとつ上の視点=表をもつことである。それさえも否定するのが、メイキングであると思う。

11月26日(日)
「近代の物神事実崇拝について」ブリュノ・ラトゥール著を読み終わる。核心を突かずに、遠回しの表現をするので、その前後関係を知ることができるのだが、それが分かるのに苦労を要する。目次、解説、本文、解説と読み、なんとか理解した気がする。物神とは、神や真理といった超越的なものである。一方の事実とは、客観的な存在である。本書のいう「物神事実」とはこのふたつを合わせたもので、要はふたつの区別などないことをいう。ぼくらは、物神を一般に否定し、科学などを肯定するが、本書によれば、単に問題をずらしただけで、物神事実というものに拘束されているのである。ぼくら建築家は、一般の科学者と違い主体/客体の2分法がすでに役立たないことを自明としている。それを最近では中動態といったりする。ラトゥールのいうアクターネットワークの中にいることである。「する」でもなく「される」でもなく、「させる」ということである。もはや主体が客体(対象)を支配することも、過去の物神が行っていたようなその逆でもない。近代(科学)は、単なる主体をそれより大きな法則という対象に支配させているだけということである。しかし、創造は少し超越的である。「自らの行為によって幾分か超越される行為者」になれるのである。ぼくが度々例を出す逆上がりのことである。このことを上手くいっていた文章があった。「諸々の創造物の中の一つであるその探り手もまた、自らが為すことによって幾分か超過され、自らが製作するものによって自分が何であるかを知らされ、自らの創造物と接触することで自らの自立性を獲得するだろう。同様に我々も、誰もが、他の諸存在との遭遇の機会に、その一瞬前まで我々によって可能であると知らなかったことを発見することで、生活の糧を得ている」p144。つまり、主体/客体(対象)を無効にするものが、行為・実践というものである訳である。このことが的確に記述されていた。本書前に読んだ「メイキング」と重なる。このことに少しびっくりする。予見的先見である。
093 プレミア ウエストハム×レスター
1-1のドロー。岡崎は不出場。そのポジションに、マフレズがはいり、マフレズのいたサイドはオルブライトンであった。後半レスターはいつもと異なり、純粋に(岡崎を使わずに)守りにはいる。プエル新監督は純粋に基本的な守備から改善し、今のところ速い両ウイングのボールを持ち上げる力に期待していることが判る。日本代表と同じであり、現在サッカーのモードということであろう。岡崎、あるいは香川は、それにそぐわない過去の遺物ということである。

11月24日(金)
ラトゥールを読みながら、田根さんのレクチャーを思い出す。考古学分析とは、データを解析し、それに基づき未来を決定する方向性が意識的である。それがあるか否かが、建築であるか建物であるかの差である。このことに気づく。午後から縦ログ構法研究会のため界工作舎へ。難波さんはいくつかの木造シンポジウムに参加したそうである。それから、縦ログの立ち位置を発見したようだ。つまり、世界の趨勢は木である。その背景には低炭素社会実現への社会の希望がある。日本のCLTはそれを背景にしている。しかしCLTと低炭素を結ぶものはなにもない。その証拠に西欧では相変わらず集成材の柱梁構造が主流だそうである。ぼくらの縦ログ構法は、低炭素へ有効であることももちろんであるが、日本の伝統的ローテク技術を背景に、既存生産業のイノベーションを試みている。社会に根差した下部構造からの視点である。しかし、CLTも縦ログ構法どちらも、現実の経済性という壁に阻まれている。ただし、CLTにおいては例えば補助金を使うというような、トップダウンで解決の見込みがあるかもしれない。しかし縦ログ構法は上部からアプローチしない。したがって、解決できないコストにたいして別の、新しい戦略が必要である。こういうことであったと思う。最大の問題が投げかけられた訳である。さらに難波さんは続ける。工業化は精度を要求するのでお金がかかる。したがってこれまでの慣例的方法における人件費が高騰しない限り、工業化製品が普及することは難しいということであった。これは、高性能である以上、高価格になることを前提にしている。これをイギリスの産業革命の歴史から説明をした。当時のイギリスの人件費はかなり高かったという。そのため産業革命が起きたというものであった。これを聞く中で、熱力学第2法則を思い出す。実は、精度を上げることで選択の幅が狭まるのではないか?熱力学第2法則によると、確率(選択の幅)を上げるためには平均化がよい。それは、特殊解よりも伝統的一般解に乗ることである。これが価格に反映しているのではないか?イギリスの産業革命は、それだけ選択の幅を大きくするものであったのでないか?と直感する。この問題について少し考えてみよう。

11月23日(木)
混雑しているといわれ躊躇していた安藤忠雄展にようやく行く。20分待ちであったので、地下で食事をとって時間を潰すも、やはり20分待ちであった。恐るべき人気である。内容に関して実際に訪問したことのある作品が多く、新しい発見はなかったが、パリの建設中のプロジェクトを含め、莫大な数の作品を一気に観ることができた。ここ数週間で、妹島、小嶋、安藤3氏の作品展を廻った。展覧会において安藤作品の発想プロセスを垣間見ることができないのは、全てが安藤の内面にあり、その必要性を考えていないからだろうと思う。作品のメッセージ性が全てである。その点がふたりと大きく変わっている点であった。光の教会は思ったより小さく、満員列車のように人が多く、緊張感ある空間として感じたかった。
090 CL ユベントス×バルセロナ

11月22日(水)
千葉工大に田根剛さんを迎えてのレクチャーシリーズ3回目を行う。作品もさることながら、プレゼンテーションの画像が美しい。ミラノサローネで行われた2回分のシチズンのインスタレーションは、パワーポイント越しにでも涙が出そうな感じであった。質問をすると、言語の抽象性と画像のギャップにたいして意識的であるという。中心となるテーマは、「archeology for the future」 考古学である。ティム・インゴルドの「メイキング」に挙げられていた4つのAとピッタリ重なる。art architecture anthropology archeology である。モダニズムを否定し、建築(making)を、空間(infinity)−場(singularity)と時間(continuity)—記憶(meanings)のマトリックスの中に位置付ける。建築家の行うことは、その位置づけを決断することであるという。その決断が建築家に委ねられたものであるという。BuildingとArchitectureの違いがそこにあるとも食事会でいっていた。試行錯誤のメイキング自体を重視しながら、プログラムの内部には入り込まずに、建築を外から規定していくことがよい。ここに日本的でない建築性を感じた。エストニア美術館で興味を惹いたのは、滑走路に記される無限の民族の神話、寓意。それとパブリックスペースを、アクティビティの重層空間といっていたことである。タイトルのarcheologyが示すのは、そこから学ぶこと。歴史の道を前へ進め、その過程で生成変化をもたらすことである。歴史とは何かに関する研究であり、何かについて学ぶことである。人類学者ティム・インゴルドの人類学の定義とそれは重なる。

11月21日(火)
089 CL ドルトムント×トットナム
1-2のホームでドルトムントが負ける。攻撃ではスペースが見つけられず、守備ではスペースをつかれて、よい流れではない。失点は、右サイドのトルヤンが狙われていた。ドルトムントは迷宮に入り込んだままだ。

11月19日(日)
火曜日の彰国社での会議のための原稿のスケッチに1日をかける。「メイキング」にあったポランニーの言葉を下敷きにして、設計における試行錯誤を前向きにとらえる文章を考える。試行錯誤こそが、新しいものを創造する唯一の方法であることに気づいていないことを、3年生の設計を指導していてつくづく感じることがある。それを根性論でない方法で記述したいと考えた。

11月18日(土)
河内一泰さんのオープンハウスに行く。40年経た建売住宅のリノベーションである。河内さんの事務所では、スタッフと解体からはじめるそうである。その状況をみて設計をはじめるという。この作品は、一棟全体をスケルトンにして、様々な高さの床をはめ込む住宅である。スラブの水平性が強調された建築であった。ヨコミゾさんの富弘美術館や妹島さんの梅林の住宅、あるいは藤本さんの住宅では、水平移動するときに壁の薄さによる新しい空間特性を獲得していたと思うのだが、それを垂直移動時のスラブにて経験できる作品であった。真っ白の25ミリの合板がそれを可能にしていた。その上には、既存の生の骨組みがある。作品のテーマ性が明確にあって、捻れた窮屈さがなく、ある意味気持ちよい。
087 プレミア レスター×マンC
マンCとは相性がいいレスターであったが、今季絶好調のマンCには0-2で歯が立たなかった。今日は、岡崎のポジションにはオルブライトンが試された。指揮官の試行錯誤が続く。レスターもいくつか速効を試みるフィニッシュまでいかなかった。今季じっくりとマンCの試合をはじめて観た。バイエルン時代のように、一度サイド深くボールを押し込み、徐々に相手を囲い込む戦術である。そこから、色々なかたちで選手が切れ込んでくる。その点で左のサネのキープ力と柔軟性のあるスピードがキーとなっていた。続けてレッズの試合を観ると、その差は歴然である。
088 ACL アル・ヒラル×浦和レッズ
レッズがサウジアラビアの完全アウエーにのぞむ。ゲームを完全に支配されるも1-1のドローに持ち込む。アル・ヒラルは3人のブラジル人をのぞくと控えも含めて全て代表選手だそうである。こうした展開で耐えられたのは日本にとって大きい。レッズの左が問題である。これでもかというくらい、徹底的に攻撃されていた。マンCの試合から続けて観たのだが、個人の差を痛感する。スーパースターがいるかどうかの差でなく、トラップ、パスの精確さ、戦術、平均的に全ての違いが明らかであった。欧州のチームは、ドタバタしている感がない。とは一方でそれは、ぎりぎりの所での勝負処が、彼らの間での暗黙の了解になっていて、両者無理をしないことに要因があるとも考えられる。代表の次の段階へは、そこを崩す方法が必要のようにも思われた。

11月17日(金)
これまでの研究室学生の頑張りに感謝し、夜に食事会。深夜「ロビンフッドの大冒険」1938年アメリカで制作映画を観る。対戦間の不況中の映画である。1200年前後の大義があった時代の十字軍遠征中の国王不在時のイギリスの混乱時を背景とする。民衆(サクソン人)を顧みずに私欲に走るノルマン人と虐げられるサクソン人という設定に、農民(サクソン人)を率いるサクソン人英雄ロビンフットの反乱を描く。時代を反映してか、人種対立が露骨である。ぼくら東洋人にとっては、西欧の人の区別がつかないが、ノルマン人がどういう位置付けにあったか興味が湧く。ところで内容は、ちょっと道徳的で退屈ではあるが、映画展開はスピーディで今でも通用するものであった。

11月16日(木)
「近代の物神事実崇拝について」ブリュノ・ラトゥール著を読みはじめる。モノと主体との関係を、物神事実を通して記述するものである。物神事実とは、物に超越性が宿っている現実をいう。それは近代においても開放されていない。したがって、主体/モノという二者択一的な態度に批判的である。

11月15日(水)
ゼミの後、研究室紹介を3年生向けに行う。ぼくが学生時代に知った経験は、考えることとかたちは不可分であるということ。これは、アレグサンダーや難波さん、池辺さんの考えに負うことが大きい。この考えは今でも続いており、研究室活動もこれに基づき、これに関する本を読み、実物大の模型を創り、アートプロジェクトに参加している。このことを説明する。分析から一歩進めるための方法が何かを実践したいと思っている。面接時間を決めて終了。ゼミの時間帯を縫って海外のOBと仕事のやり取り。無知がよんだ喜劇のようなやり取りであったが、あっけらかんとしているのもまたよしとする。

11月14日(火)
086 代表 ベルギー×日本
ブラジル戦から長澤と浅野に変えて、4-1-4で臨む。今日は、はじめから早いプレッシングを行う。ベルギーも苦しむも、後半から形勢が徐々に変わりセカンドボールが拾えなくなる時間帯に失点する。これが決勝点になり、強豪との欧州での戦いは連敗となる。前回W杯を思い出させる試合展開である。力のない日本の限界を観る。後半まで力を蓄えておくための比較的引いて守ることは無理なのだろうか。ハリル監督は、それは試合の流れで選手が判断するものであるという。どのチームも苦しい時間帯があるものだと思うのだが、体力が落ちたときに力の差が顕著になってしまうのだ。どうにか引き分ける方法を模索してもらいたいと思う。ところで、改めてブラジルの凄さを感じた。日本が優位に立っていた時間帯においてベルギーの速攻がいくつかあった。ベルギーは失敗し、ブラジルは確実に決めていた。そしてその後のゲームの優位性を確保していた。反対に日本はその時間帯に確かにシュートまでいっていた。しかし、相手に驚異を与えるほどの強烈さはそこになかった。逆に攻撃力の底が知れてしまった。日本が相手を慌てさす敏捷性をペナルティエリア内で実践してもらいたいのだが、それは見えないままである。

11月12日(日)
すみだ北斎美術館で開催されている「妹島和世展」に行く。昨日訪れた小島一浩氏の展覧会と同様、事務所の設計思考方法を理解できる展示であった。ただし妹島さんの場合は、展示されていた多量のスタディ模型が示すように、自らの実感を信じて修正を重ね、試行錯誤の繰り返しによっている。これだけモノに執着すると一般には手垢まみれになるところを、作品に透明感があるのが不思議である。モノを展開し、かつ構造にそれをおっている点に共通点を見出すことができる反面、その先に見出す目標設定の差を痛感する。妹島さんは、数多くのスタディチェックを通して作品を対象化することに意識的であった。それによって、作品が透明であるのだ。このことを理解した。小嶋氏と妹島さんのふたりの作品は対照的であるが、同世代の時代性は共有されている。それは作品の客観性というようなものだろうと思う。だとしたら、次の展開もあるような気がした。

11月11日(土)
GAで開催されている「小嶋一浩」展へ行く。模型が主であるが、ドローンイングとともにある小嶋氏の指示書から設計の思想を読み取る。組織のあり方にも関係することだと思うのだが、氏のもつ俯瞰的視点が印象的である。これはなかなかできない術だと思う。プロジェクトごとにテーマを決め、それにしたがって自分のプロジェクト案を批評している。テーマは単一でなく複数ある。テーマの発想よりも、テーマがかたちになっているかの総合評価がなされ、プロジェクトが進められていることが判る。したがって、テーマの運用が大事とされる。そこが小嶋氏の大きな役割であったのだろう。あえていうと、それはかたちになりにくいものであるのが、小嶋氏の判断が分かれるところであろうと思った。理科大学における小嶋氏がリードする講評会も同様であったことを思い出す。案は小嶋氏のもとの学生のものであるので、それを面白可笑しく厚みを持たせ育てていく意見の誘導が巧みであった。今読み進めておる「メイキング」のいう実践に近いものを感じる。
「メイキング」を読み終わる。本書は、抽象化を否定し実践を薦める。抽象化とは、観察位置をモノの外におくことであり、内側から知る(参与観察)ことと反対のことである。あるいは、質料形相論(アリストテレス)と反対のことである。抽象化は、「社会的な文脈や文化的な文脈にその物体を置く」p28ことからはじまる。あるいは著者の専門である人類学では、「自分以外の何かと遭遇するときに、いつも親族、法、儀式など、それが何であれ、分析可能な対象に変えようとする」p29ことである。この抽象化の起源は、アリストテレス以来の西洋思想にあるという。「建築十書」のアルベルティもそうであった。理論が先行し、実践がそれを引き受けるという考えから生じたものである(このころ勢いがあったバロックに対するものがあったと思われる)。理論の優位性を確保し、それによって対象にもう一度命を吹き込むためには、対象がそれ自体で完結した存在である必要があった訳であるP197。主体と客体を分離し、外部から観察する=抽象化はその運動を象徴であった。対象のエージェンシーなる概念を考えることが人類のあるいは科学の課題と考えられていたのであった。しかし、こうした抽象性が哲学や科学の分野で続けられてきた理由については、本書では触れていない。それを踏まえて、抽象化によって失ってしまったものは何か?それが本書のテーマである。それは、「物質の多様性—強度や弾力性、流れや抵抗の線—を認識せず、他方では、これらの調整が生じさせる構造とその変成の認識にも失敗」p63してしまうことである。この物質性には、ふたつの定義があるという。ひとつは、(定量的な)物理性。もうひとつは、「人間による作用が社会的に歴史的に位置付けられる」ものである。このふたつは、「属性が客観的であり、科学的に計測できるもの」と、「主観的であり、人間の頭のなかにあって、当該する物質に対して投影される観念」p70ということになる。この後者部分が見捨てられてきた。これをコレクトするのが、本書のいう「実践」というものである。それを端的に表現している文章がある。「メイキングとは対応していくプロセスなのである。生の素材の内部にある実体に対して、あらかじめ考えた形式を押しつけるのではなく、生成する世界のなかで、素材に内在する潜勢力を引きだして「力」を産出することだ。現象的な世界において、あらゆる素材はそのような生成であり、無数の奇蹟が描いている迷路を通っていく、そのひとつの経路、ひとつの軌跡である」p75。これは前書の「ラインズ」というものである。いくつかの興味深い引用があった。ひとつめは「理論家と職人」の違いp26についてである。「前者が考えることを通してつくる者であり、後者はつくることを通して考える者。(中略)理論家は、物質的世界の実体を思考の形式にあてはめることで、ようやく頭のなかで考えを組み立てる。対照的に、職人の方法は、周囲の人や事物との実践的で観察に基づいた結びつきから、知識が育まれることを許容する」上手くふたつを言い当てている。もうひとつは石に関する認識について。ぼくらは、石というと固く永続的なものを考えるが、昔の人は、石を流動的で変異性のあるものと考えていたという。それは色彩の画材であり、アーチの要石のことである。

11月10日(金)
夕方にむけて労働基準監督局、年金機構などをまわる。深夜映画「ポリスストーリー レジェンド」ジャッキーチェーン主演を観る。いつものようなコメディタッチでなく、シリアスで映像に凝った作品であった。その分、ハリウッド映画との差を感じないこともない。中国映画。
085 代表 日本×ブラジル
この試合は、W杯前の数少ない実践という見方の他に、香川、本田。岡崎らの安定したパフォーマンスを抜きにした新生日本が問われる試合である。もっというと、攻撃が最大の守備であるという戦術から、相手に応じて守備重視のカウンター攻撃への変化を試す試合である。それはかっこいい言葉で言うとサッカー文化の転換を狙ったものと言ってよいと思う。オーストラリア戦の再現を試みるものであった。その象徴が香川らのベテラン排除にあったのだ。したがって、日本は開始早々から受けて立つ態勢で試合にのぞんでいた。長谷部を中心に守り抜き、早い両サイドとエンジンとなる若い中央MFによるカウンター攻撃を目論んだものである。しかし老獪なブラジルには全く通じなかった。というのは、日本がボールを持つと直ぐに自陣で潰された。攻撃人の守備力の差である。そのためさらに陣形が不安定になり、ひたすら後手後手にまわる前半であった。3失点。ブラジルは日本がこれまで行ってきた戦術で圧倒した。後半から、戦術を戻し、日本はいつものように前戦からプレッシングにいく方針に変える。余裕のあるブラジルは手を抜き、プレッシングをかわしに入る戦法となった。いつもブラジルが日本と戦うときの展開である。それで後半は5分5分といったところ。1点を返し、その後もチャンスをつくるもブラジルには決定機をつくられ、1−3で終了。惜しむのは前半、日本は明らかにインテンシティで劣っていたこと。ブラジルのプレッシングに屈服したことである。この差はずっと埋まらないままである。これが実力の差というものだろうか。今日の試合を観る限り、新しい変革は日本に馴染むことはできていない。ぼくとしては、戦術を戻すことなく、次のおそらくブラジルより守備で劣るベルギーにたいしても試してもらいたいと思う。

11月9日(木)
NIKE現地審査のために福島行き。午後1時に、建築家の鈴木弘二氏と東北大の野村俊一氏を迎える。先月にメディアテークで行われたパワポによる1次審査では、縦ログ構法の意味とこの作品の位置づけをプレゼしたので、今日は、それより大きな福島の木産業状況を芳賀沼さんに話してもらい、ぼくは審査員からの質問に対応することを重視した。その結果、具体的な作品内容の質問を多く受けた。鈴木さんは、ユニットを倒すことによるシェル構造構成のメリットについて質問。将来の縦ログ構法の可能性についてである。加えて、スケールやディテール、利用実体についてもあった。建築家として総合的な判断についての質問であった。野村先生は、この建築におけるリーフ桁あるいは箍についてであった。そこに、標準化を目指す建築家にとっての主体性が何かが現れていると判断したのだろう。縦ログ構法の開発は研究会で行っているものの、その最大の推進役は難波さんであり、この作品の評価を受けるとしたら、設計者としてどこに立ち位置を置いているのかということであったと思う。それは震災以降とくに語ることが難しくなった建築家の立ち位置についてとつながる。震災によってこれまでの劣悪な住環境がある意味一掃され、その後の新しい構法開発によって生活+居住環境を新しくしてきた。このことにたいする評価は終了し、現在その持続性が求められている。しかし建築界は依然としてモノの存在よりもソフトつくりに向かう傾向が著しい。それは建築家のこれまでの働きの否定ではないかというものであったと思う。非常に共感するところである。今後の議論展開の助けになればと思う。

11月8日(水)
「メイキング」第5章「明視の時計職人」は、制作において予め全体をイメージする必要性についてである。それを「予期的な先見」といっている。デザインとは事後的な説明である。デザイン論だけをもって即自的に制作を進行させることなど不可能である。「予期的な先見」とは何か?この章では、具体的な定義を試みる。これを数学的に説明しているのが、偶然を持ち出したのはバラバシであった。このことを思い出す。

11月7日(火)
午前中は論文の中間発表。午後、運慶展の上野の国立博物館へ行く。平日だというのに予想以上の人で入場に30分以上もかかった。運慶の仏像は写実的であるが、それを助長するようなポーズである。その特徴は、同時期の快慶と比べるとみるとさらによく判る。したがって、快慶の阿弥陀像の印象が強いのにたいして運慶の印象は四天王像である。四天王像の中でも圧巻は興福寺南円堂の天を指す四天王立像であった。今回菩薩像もみることができた。興福寺の無著世親菩薩立像である。菩薩像においては、動きは袈裟にあった。関東に作品が多いことにも驚いた。今度、願成就院(西伊豆)あるいは浄楽寺、満願寺(葉山)にいってみようと思う。ところでこうした慶派のような派閥は、仏師の世界でも平安末期に生じた。そして仏師の名前が出るようになった。この時期、建築では東大寺が再建され、多くの宗派と偉大な宗教家が生まれた。一般的には、やっと民衆に仏教が広まった時代といわれている。社会の混乱期から抜け出るときにオーサーシップが必要とされたのである。これはスペキュラティヴ・デザインのいうことである。しかしこのオーサーシップは、アノニマスとされるモノの写実にあった。仏像は仏教の教えを表現するものであるから創作は制約の上にある。その写実性が創造にまで深まっていったのである。このことを自然に感じられた。運慶は、石のミケランジェロより200年遡る。写実が熟したのは、西欧より早かったことになる。

11月6日(月)
「メイキング」の3章、4章を読む。4章は「家を建てること」。アレグサンダーの主張することと重なる。すなわち、マスタープランをもたないこと、つくりながら考えること、しかし後戻りはしないこと、しかし全体のイメージがある(共有している)ことである。手順を重要視し、結果でなく、漸進的成長させることである。アレグサンダーは、それを実行する人をアーキテクトビルダーといっている。

11月5日(日)
工務店との打ち合わせのために龍ヶ崎行き。設計内容の妥当性を工務店との打ち合わせを通じて探る。相手があることで、プロジェクトがなかなか収束しないが、頑張りどこだろう。NHKの人体特集を観る。全8回特集の2回目は筋肉と脂肪について。臓器でない外部組織である筋肉、脂肪細胞も、メッセージ物質を出す。これが脳に働きかけることで、人体にとって重要なバランスをとる役目を果たしているという。この特集では、身体というものを情報メッセージの総体として捉えようとしているらしい。これまでの臓器は単機能的な説明がなされてきた。それに代わって、全体のバランスを司る制御システムとしての身体が説明されようとしている。
084 ブンデス ドルトムント×バイエルン
ドルトムントは、チャンスをつくるもホームで大敗する。ここ数試合同様、DF陣が簡単に突破されていた。今日はフォーメーションを変え、アンカー1人からダブルボランチへ変更したのに関わらず、それは改善されなかった。香川はというと、トップ下で、前戦からの守備も積極的であった。シュートをいくつか放ち、これまでにない積極的なターンも見せた。マスコミ評価はまずまず。ただし決定的な仕事とならなかった。チームとして、この先が見えてこないので、監督交替もありえるような気がする。

11月4日(土)
奥多摩湖に行く。途中で雨となる。渋滞が予想されたので、高速を利用しないで帰ることができる観光地を考える。
083 プレミア ストーク×レスター
プエル監督の2戦目。今日は岡崎が先発メンバーに入り、アウエーでのチーム戦術を試したように思われる。岡崎はシュートを放つも、決定的な印象を残すことができなかった。安定したチームのかたちとならなかったからである。岡崎の代わりにイヘアナチョが後半早々に投入されたが、彼も同様であった。再三のリードも追いつかれ2-2のドロー。前戦に活躍したグレイもDFラインを突破できなかった。

11月3日(金)
深夜BSで「炎の人ゴッホ」ヴィンセント・ミネリ監督カーグ・ダクラス主演1956年を観る。ゴッホの異常までの作品にかけるインテンシティーがテーマとされている。そのため、手をさしのべてくれるあらゆる人と馴染めずに孤高の人となっていく。芸術とは、このような異常性が常につきまとうことが、そのような時代性によって、ぼくらにスリ有込まれた。ところでこの映画を通じて、19世紀後半の印象派台頭前後のアートの状況を知ることができる。この時期、近代科学発展にあわせて、絵画にも客観性論理性が求められた。と同時に、これまでと異なる主体性を考える必要性に迫られてきた。ゴッホ(セザンヌ)と対極的に位置付けられるのはスーラーである。スーラーは段階的に変化する色彩論をもちだし、絵画の抽象性、あるいは透明性というものを主張している。ゴッホは、あくまでも近代抽象主義に取り残される自然や生命というテーマに拘り、それをキャンパスに宿そうとするため、タッチと構成が突出する。それは、ミースやコルビジュエのモダニストが考えた構成というものと重なる。建築でいう透明性と抽象性はアール・ヌーボーである。ところで、ゴッホは牧師となることに失敗し、ゴッホを一生バックアップした画商の弟は、ゴッホの死後1年で亡くなった。このことを知る。ゴッホが有名のあったのはじつは弟の仕事を受けた妻の功績が大きく、10年後にはセザンヌととともに、絵は高騰をしていく。ゴッホは当初絵の具の使い方も知らなかった。
082 EL ケルン×ボリソフ
ケルンがリーグ戦も含め今季の初勝利。後半から出場の大迫が活躍の中心にいた。CFでなく右ウイングのポジションでの2G1Aである。逆サイドからの速攻に上手く対応ができていた。これでケルンが吹っ切ればよい。

11月2日(木)
卒業設計の中間発表。長い講評会であった。遠藤研の学生は全般的に意欲的であったが、自分の考えがクリアでないと、考えを相手に伝えることは難しいことを知ったと思う。それだけ周到な準備が必要となる。しかしそのために問題を単純にしてはいけないが、クリアにしておく必要がある。この講評会でも意外なことに、今読んでいる「メイキング」のいうところに出くわした。それは、プロセスの精確性が求められ、観察を駆使しながら予想的に進行していくことにたいする否定的な批評である。問題を拡げていくことに否定的で、何故という根拠がもとめられる。むしろ必要となるのは、そのときの悪戯な個人的な論理を振り回すことでなく、それを否定した強い倫理感であると思う。

11月1日(水)
081 CL ドルトムント×APOEL
香川好調も1-1で引き分け、ドルトムントのCL決勝トーナメント進出が絶望的になる。香川らしいアシストも決めたのだが。試合後のインタビューで、代表落ちの無念を語る。本人もそれ程不調と考えていないらしい。余程、ブラジル、ベルギー戦に向けて期するものがあったようだ。日本の戦術が、カウンター攻撃に変更したということだろうか。

10月31日(火)
コンペの提出完了。研究室の力を借りてなんとか仕上げる。いつものことであるが、コンペで選ばれるためのジレンマを感じる。建築とは、実験的で終わりのない実践のための現状のベストが何かの未来を語りたいのであるが、コンペでは実際的問題の精密な解答が求められる。それが、予想的でダイナミックに進行させていくことと対立してしまうことだ。「そんなことを期待していない」に含まれるのは、具体的方向性が異なっていたことと、余計なことである。このジレンマに対する答えをなかなか見つけ出すことはできないでいる。この答えは、コンペの度にときに近づいたり遠のいたりするのであるが、はたして今回はどうだろうか。昼過ぎから、溜まっていた雑務をこなす。夕方、ブラジル、ベルギー戦に向けての代表の発表。これまでの格下相手と異なり興味深い試合となる。そこに本田、香川、岡崎がいなかった。彼らがトップコンディションにいないという理由からであるが、ハリルボッチは強い人間である。ブラジルを前にしても、彼らの経験に頼らないという強い意志が感じられた。おそらく、ブロックして守りぬき、カウンターを徹底させるストラテジーだろう。このときの速い強い選手が必要となる。香川、岡崎、ミラン時代の本田は自チームでも全く同じ状況に置かれている。しかし大迫、原口、浅野は、香川、岡崎以上によいコンディションにいない。

10月30日(月)
朝から研究室行き。授業をはさみ、最後の仕上げを行う。このところ毎日研究室通いであるが、充実している。多田さんと構造の打ち合わせ。四角のグリッドがドームのように縦に延びる構造は、効率的日常に根差しながらも、そこに特異点を表現するようなかたちで面白い。このことを今回発見する。これだけで構造にすることが次の課題だろうか?多田さんとニヤリとしたい。先日に続き、4年生と卒業設計の中間に向けてのゼミ。投機的建築提案が目立つのは、ぼくが蒔いた種によるものだろうかと少し考える。そこに分析的思考が必要なのかと思うのだが。それに応えていそうな「メイキング」ティム・インゴルド著を読みはじめる。「ラインズ」の続編である。

10月29日(日)
080 プレミア レスター×エヴァートン
フランス人プエル監督の初采配のゲームである。若手を起用する。岡崎に代わりマフレズを、バーディの下におき、両ウィングに速いグレイとチルウェルを配置する。これが見事にあたる。前半、守りからグレイが突破し、サイドに流れたグレイを経由しバーディが決めた。スムーズで鮮やかな攻撃で、岡崎にはできないかたちである。フォーメーションは4-2-3-1に近いかたち。中盤の2-3はかなり流動的である。ボランチは、セビージャからのイボラである。中盤底での舵取りを期待したものだ。つまり、ボールを奪う地点を岡崎、オルブライトンの位置からDFライン前に下げたことによる。これら新しいメンバーがいずれも鮮やかに機能する。こうしたスタイルを新プエルが打ち出し成功したことにより、岡崎の立場は少しきつくなったような気がする。

10月28日(土)
079 ブンデス ハノファー×ドルトムント
ドルトムントのチーム状態は変わらず、底のままである。思えば、CLでレアルとガチに勝負に行き、完敗したことからこの流れがはじまった。裏を抜かれることを怖れて勝負所が遅れている。今日も得点されたのはミスからである。ミスが得点にまで至っていることが、チームの悪循環を加速させている。香川は後半から出場。逆サイドへの展開を意識していたようだ。一度目の同点弾は香川の展開からはじまった。ただし、退場者が出てからボランチまで下がることが多く、存在感が消える。ドルトは今季、幸先よくスタートを切ったものの、今日で、復活したバイエルンに首位を受け渡す。ボス監督の打つ手のなさがむしろ気になる。

10月27日(金)
土浦の高校へ1年生に向けての模擬講義に出向く。分野毎のたくさんの先生が招かれている。学生が将来の目標を見つけることができるように、高校が用意するプログラムである。とはいえ、こうしたところまで商売として成立させている実質の運営業者がいる。ぼくらはボランティアで行っているのにたいし、どのくらいのお金が動いているのかと思う。大学に戻り、4年生とゼミ。他研の研究も佳境に入っている。それに対し遠藤研の多くが焦点定まらない不安を学生から指摘される。探究的に思考は、研究とともに動く物質の流れやその変動に絶えず応答しながら進むものだと考えている。とくに4年生の段階では、知識を育むことを大事にしたいと思っている。この段階では問題を絞っていく必要はないと考えている。それは、社会や大学院で自ずと強要されることなのだ。このことを説明する。深夜、「スローターハウス5」を観る。ジョージ・ロイ・ヒル監督。グレン・グールドのバッハが全編に流れる。ドレスデン空爆の恐怖を、時空を超えた主人公を通してコミカルに描く。というよりも、死は特別なことではなく、So it goes.ということなのだ。これが主題となっている。この映画の中でも広島と比較され、13万人が死亡したことを知る。

10月25日(水)
香川が3部相手のカップ戦でそこそこの働きをしたことを知る。ちょうど谷間のゲームへの先発で、複雑である。それにたいし、レスター岡崎はベンチ外。岡崎ライバル2人が活躍をする。妻の病院に付き添い、遅れて授業に参加。学生の承認を得て、授業を延長する。総選挙後の解析がはじまり、小池バッシングに変わっていく。これまでの小池党首の行動にたいする不満が噴き出したかたちである。

10月23日(月)
台風のため授業が休講。午後から研究室にてコンペ打ち合わせ。学生から新しいレイアウト案が提出される。ぼくが曖昧にしていた点を指摘するもので、彼らも明快な答えはないのであるが、疑問に思うことなのだろう。この問題をクリアに解決する必要がでてきた。それによって整理することに決める。少し後戻りすることになったが、今後に期待する。多田先生との構造の打ち合わせも上手く進む。幾何学的にも面白い展開となった。

10月22日(日)
朝起きると雨が激しくなっている。選挙に出向いた後、重い腰を上げて、最終週に竹橋で行われている「日本の家」展に行く。観ておく必要を感じた。冒頭にキューレターのあいさつがある。日本では、若い世代が施主となり建築家に依頼することが多いので、実験的になりやすい傾向があるという。それならば、という感じであるが、展示されるテーマは、環境、家族以外、現状を表象することに向けられている。西欧の「建築」を先鋭した作品が少ないのも特徴であり、これまであった日本建築展とは異なる日本色が模索されている。

10月21日(土)
今日から我孫子国際野外展がはじまる。遠藤研の学生も出展する。2週間かけて、旧店舗の中に、天井からたくさんのトイレットペーパーを吊した洞穴を作製した。美術展来場者の休憩所となることを期待したものである。紙を手繰り寄せながら進むと、優しい照明の効果で、少し神秘的な雰囲気が感じられる。午前中、2回のラジオテレビのインタビューを受けていた。美術展は11/5まで開催される。その足で、ぼくは龍ヶ崎の現場へ。今日は、大工棟梁への説明である。たてログ構法の新しいジョイント方法を理解してくれたようだ。2週間後に職人さんを集めてくれて、全体説明を行うこととなった。
077 ブンデス ドルトムント×フランクフルト
長谷部がSBとして先発。香川は60分過ぎから登場。長谷部については、前半ドルトの攻撃に翻弄され1対1で劣っていたが、後半からその流れを断ち切る。頭がよいのだろう。先回りをして体力劣る分を補っていた。本来はボランチ的なパフォーマンスであると思うのであるが、代表での成長につながっている。香川は見せ所がなかった。中盤で前を向いて長くボールをもつことができても、そこから決定的なパスを送ることはできなかった。ドルトムントのチーム状態は現在底である。2-2のドロー。
078 プレミア スウォンジー×レスター
シェークスピア監督解任後のレスター第1戦。変更先発メンバーは岡崎のみの4-4-2のこれまでのスタイルでレスターは臨む。岡崎はそれに応え、後半早々に得点を決める。今季4点目である。少し遅れてニアに入り込み、なんなくゴールを決めた。ゲーム後の暫定監督アップルトンが岡崎をベタ褒めるコメントが入る。明らかにバーディとのコンビは岡崎でしかないと。オフザボールの岡崎の動きがチームにリズムをつくるというものである。これは暫定だからこそ発することができるフロントへの抗議ともとれた。大金でスリマリ、イヘアナチョを獲得した。彼らを起用しなければならない圧力があったことを思わせるコメントであった。レスターはこれで一気に降格圏を脱出する。

10月20日(金)
午後にフランス人の研究者ルソ・ペラ・マロン氏が通訳をつれて来所。日本の狭小住宅について2時間に渡り意見交換。これからのサステイナブルな社会において、日本を参考にした狭小住宅をフランス郊外に根付かせたいようだ。そのための調査である。戦後からの日本政府の持ち家政策、バブル、その後のユーザのニーズ変化を中心に実情をかいつまんでお話しをする。その上でぼくの作品を、技術を中心とした「sovoir faire」であることを説明。これは「l’architecture d’aujourd’hui」が2003年にぼくを評した言葉であった。ユーザも建築家も、自由な発想を展開していた時期であった。「ランブルフィッシュ」フランシス・コッポラ監督を観る。ランブルフィッシュとは、マット・ディロンとミッキーロークのふたりの主人公兄弟のことをいう。兄は地方都市ギャングの頭であったが、カルフォルニアに行き、自由と世界の大きさを知り、自分の小ささにたいして喪失感に包まれる。弟は、まだそれを知らない半端物である。彼らを通して、アメリカ社会を描く映画であった。白黒映画であり、最後のシーンのペットショップの水槽の中の金魚のみ色がある。アメリカ映画にない、余韻をもたらす曖昧な心象風景を描く映画であった。

10月19日(木)
教科書本について、彰国社で会議。各自、他章の内容について吟味する。執筆者の論点を明確にするような話であった。ぼくの大学時代の思い出は、授業内容より、先生のキャラクターにあった。彼らの拘りに興味を抱いたことを思い出す。事務所に戻り、コンペの整理。レスターのシェークスピア監督が解任される。予想より早く、プレミアの厳しさを知る。

10月17日(火)
076 CL アポエル・ニコシア×ドルトムント
GKブルキの凡ミスから失点するも、なんとか引き分ける。今日は、引いて固められた相手にフィニッシュまで行くことができなかった。香川、ゲッツエが時折よい展開をみせるも局面打開まで至らなかった。香川は3本のシュートを放つ。3本目のミドルはバーに嫌われた。3トップの両ウイング、フィリップとヤルモレンコは明らかに疲れ、調子が下降気味であるので、次のストラテジーが必要となることを感じる。ボス監督の手腕が試される第2段階である。

10月16日(月)
中性子星というものをニュースで知る。質料が桁外れに大きく、引力もそれに比例する。それが互いにぶつかり合ってブラックホールなるものができるのだそうだ。
076 レスター×WBA
岡崎不出場。今日もレスターはかたちがつくれずに引き分けに終わる。18位に転落し、シェークスピア監督の交替が現実化してくる。前からのプレッシングからの速攻のかたちにしたいのであるが、中盤底が下げられてしまって機能できていないのことが続いている。

10月15日(日)
雨であったが、早朝から敷地に向かう。周囲を散策し、気になっていたことを確認する。老舗の蕎麦屋に入ると、今月で一度店じまいだそうだ。旅館のような造りで面白い。図書館へ。1時間あまり調べ、意中の資料を見つけることができたので、その詳細資料について図書館の人に聞く。わざわざ他の場所まで出向いて、資料を教えてくれた。ありがたい。敷地に行きアプローチ路などの確認。予想より高低差があった。上りが渋滞であるので、時間を潰すために温泉に浸かり事務所に戻る。

10月14日(土)
夜、長谷川等伯親子の屏風画の特集。京都の智績院にある楓と桜図である。展示がよくなかったことを思いだした。絵の迫力に対してボリュームが小さかったのだ。王道の狩野派に対して千利休や秀吉をパトロンにもっていたので、この2点もアグレッシブである。大徳寺の鳴龍も同様だろう。しかし彼らの影響をとかれた晩年は落ち着いた作品になった。松林屏風である。長谷川派は狩野派のように長くは続かなかったが、尾形光琳や俵屋宗達に影響を与えていったという。それと敷地内の増田友也のコルビジュエばりの信徒会館に感動した覚えがある。増田友也をそれまで知らなかった。
075 ブンデス ドルトムント×ライプニッツ
ドルトムントがホームで負ける。これでホーム無敗記録に終止付が打たれる。審判のジャッジに翻弄されたのは事実も、DFが乱れてしまった。CLをみても早い選手には対応が出来ていない。サイドのトゥルクがことごとくぶっちぎられていた。これはレアル戦と同様である。今日は、その乱れからソクラテスが退場になってしまった。そのためか香川は不出場。攻撃も噛み合わなかった。

10月13日(金)
夕方から、設計小委員会。来年度以降の活動方針について意見を交わす。その前に学会に選集の書類の提出。夜、BSで「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」ヴェンダース監督を観る。1999年の作品である。当時キューバ音楽流のい切っ掛けとなった映画であったが、そのことを知らなかった。ヴェンダースの友人ライ・クーダーがキューバを訪問し、彼らを集めて即興で録音したのがはじまりらしい。当初はアフリカンミュージシャンの予定であったが、急遽の変更であったという。彼らのことは、時代を経て、キューバの人たちでさえわすれかけていた。日本でいうと、美空ひばりや都はるみを再発掘したものである。彼らのゆったりした情熱的な音楽に改めて魅了される。もちろん、録音後にヴェンダースは撮影に入ったのであるが、映画の構成により、あたかも同時進行的に思わせるのは編集は流石である。

10月12日(木)
多田先生と構造の打ち合わせ。新しい木造の方針を教えてくれた。ふたつの木の使い方の検討を行うことにする。その後プランニングを皆で検討し、方針を固める。

10月11日(水)
いくつかの部分模型のスタディ。立体的模型の検討が一番である。なかなかフィットしないまま今日は時間切れとなる。帰り際に、新しい構成を示すペーパーを見つける。ちょっとした不連続がぼくの中で起きた。車の中で思いを廻らせ、事務所でそのスケッチをし、3点(大きさ、天井高、街並み)の整理点を見つける。

0月9日(月)
先週末に仙台で行ったプレゼンテーションの現地審査のお知らせが早速送られてくる。研究室にてコンペの打ち合わせ。一度案を収束させ問題点を整理する指示をする。帰りの車の中で、構造のアイデアを思い付く。事務所に戻り、チェックする。

10月8日(日)
天気がよいので、休日とする。自動車で1時間ばかり走り昼食をとる日となった。その後、原稿の整理。U17W杯の放送がないことを知る。その後大勝したことを知る。

10月7日(土)
朝早く起き、せんだいメディアテークに行く。「びわのかげ投球練習場」の東北建築作品賞のプレゼのためである。開催前に予め送付していたスライドをチェックし、7階のホールに入る。その後芳賀沼さんが合流。ふたりで10分間のプレゼを行う。縦ログ構法の文章を書いていたこともあり、ぼくは構法の意義を中心に語った。構法の特権化をなくし、誰でも利用でき、地元工務店を元気にすることが目的であることを強調する。このことは、中央のCLT構法にたいしての地方のあり方を示したつもりである。東北建築賞であるので、地域性が重要なテーマとされる。今日のプレゼで、こうした産業構造からの地域性が理解されるとよい。芳賀沼さんは、皆が地域性を重んじるので、逆手にとって、デザイン性の高さを強調した。小さくまとまるなという警告を込めたものであろう。凶と出るか吉と出るか見物である。メディアテークはいつも人がいっぱいである。7階は勉強をしている人がいて、1階のオープンスペースではコンサートのリハーサルが行われていた。それを取り囲むように皆が傍聴している。2,3階の図書館まで音は聞こえず、何ら問題はない。タクシーを拾い午後の新幹線で帰京。

10月6日(金)
夕方仙台行き。ホテルにチェックインした後、せんだいメディアテークを訪れる。夜遅いにもかかわらず、1階と7階のみオープンしていた。この時間でも学生が勉強をしている。
074 代表 日本×ニュージーランド
2-1で勝つが、よいゲームではなかった。前半はかたちをつくるも決めきれず。そこに香川と大迫がいる。同点にされてから小林、乾らが投入される。彼らが活躍をする。今日は逆サイドへの展開が徹底されていたのだが、決勝の得点も、左の乾の早いクロスを右の酒井が中央に折り返したものであった。ニュージーランドのCFWウッドはプレミアで今季2得点をあげている。そのFWを押さえきることができなかったのが痛い。

10月5日(木)
昨夜も続けて、NHK特集「人体 神秘な巨大ネットワーク」の第1回目腎臓を観る。腎臓は血液を尿化するだけあって、すべての血管のネットワークの絡みにある。肝心の心とは元々腎であったという。心臓よりも腎臓ということを示す特集であった。そうしたことが明らかになってきたのは、腎臓の動きが高解像度の電子顕微鏡によっている。夕方、長坂常さんを千葉工大にむかえてのレクチャー。テーマは、「家具と建築の間」。長坂さんは、まだリノベーションがマイナーであったとき、狭山の社宅のリノベで有名になった。予算がきびしかったこともあっただろうが、一部を壊すだけのものであった(一室100万円で施工)。このモチベーションをぼくはわからなかったが、その謎が話を聞いていく中で解けてきた。長坂さんは自由人である。そのためには、他者にたいしても自由でなければならない。そうでなければ身勝手者となってしまうからである。そこでまず他者の観察が求められる。他者は既存でもある。そこは素材自体でもあるし、コンテクストでもある。デザインの目的が、かたちという結論をつくるのでなく、つくる立場を自由に保つことにある。こうしてみると色々と見えてくるものがあったという。白は決して出発点というものではなく、色というものははじめから存在している。あるいは、分離発注は都合のよいものであるらしい。請負方式は整理されヒエラルキーがあって通常は効率的であるのだが、その分自由ではないのである。その後、皆で食事をする。これまで自由とは、制約があってそれを乗り超えることによって得られる情感と考えていたが、別の側面に気づいた。自由とは、他者を自由にすることで解かれる拡がりでもあったわけである。視野がぐっと広がった。

10月4日(水)
昨夜は、NHK特集「人体 神秘な巨大ネットワーク」を観た。今日から年始までの間に6〜7回放送されるという。内容は、今読んでいる本と重なる。血管をネットワークにして、あらゆる臓器から信号を送りあうことで人体は成立している。このことを、最新医学として紹介する特集である。これまでは、脳のみが信号を送るものと考えられていた。ところが、高解像度の電子顕微鏡の開発から、あらゆる臓器から信号が送られる現実が発見されているのだという。その情報はランダムに流れるのではなく、あきらかに目的があるような回路をもって、臓器間をネットワークしている。これこそ局所的な多元行列を動的に捉えようとする試みである。がん細胞ですらそうした情報ネットワークを持っているという。

10月3日(火)
昨日に続き、「物理数学の直感的方法」とアレグサンダーとの類似について考える。アレグサンダーは、ペルシア絨毯を好み、その収集家である。「Battle」では、ペルシア絨毯を幾何学で説明している。本書では、デカルト以降の還元主義を否定し、その対極にイスラム多元代数学(幾何学)を位置付けている。イスラム数学に関する本はないだろうか?ゼミが長引き、今日は津田沼駅前のカプセルホテルに泊まった。部屋の両面に50以上のカプセルが並び、廊下を空調する。その部屋は、風呂や食事が出来る共用部分としっかりとしたドアで仕切られ静粛である。度々共用部分を管理者が歩き回つことで規則が徹底され静粛である。カプセルと廊下は簾で仕切られる。カプセル内には換気扇がありTVもあるが、イヤホンでなく直接小さなスピーカーからの音を聞く。不思議である。カプセル奥行きが180㎝で少々きつい。カプセル内まで空調が届かずに、深夜に少し暑くなるものの、それなりに面白いシステムであった。

10月2日(月)
「物理数学の直感的方法」読み終え、整理をする。興味深いことが多かった。天体や社会の動きは、相互作用を成分とする行列で記述できる。それをもとに、今の状態に1回かけて少し将来の状態がわかるようになる。この行列を作用トリックスという。そしてこのN乗によって、原理的には世界そのものの表現が可能である。しかし、一般の行列法則として、部分に分けてから何乗化したものをつなぎ合わせても、元のものに一致しない。これは「部分の総和は全体に一致しない」ということの証明となる。これはデカルト以来の還元主義的方法論の限界である。ただし、2行2列行列においては部分の総和が全体に一致する特殊なケースがある。固有値というものがある場合である。これが「ハーモニック・コスモス」なる幻想をつくりだしたのであった。しかし現実は多元行列である。つまり、抽象単純化という行為によって動き(将来)を捉えることができた反面、世界観を狭めてしまったのである。それは、数学だけでなく医学のおける治療、経済思想など全てに浸透している。ところがイスラム文明には、幾何学(多元行列)をもとにした代数学が発展していた。日本の和算(鶴亀算)も同様である。そこで本書では、「ハーモニック・コスモス」なる概念を止め、小さな範囲でふたつを融合する必要性をうたっている。残念ながら、それをイメージすることはできない。C・アレグサンダーも数学者であった。おそらく、このハーモニック・コスモス信仰を理解していただろうと思う。それは「形の合成に関するノート」の有名な「デザイン・プロセスの3段階」に示されている。コンテクストと形に限って(小さな範囲で)、すべての条件を意識化、明示化しようとしたものである。本書に引き寄せると、多元行列での世界の記述を目指したことになる。しかし建築の世界でも、それとは反対の状態、単純化への動きをとめることはできなかった。なぜなら単純化(あるいは寡占状態)の2元2列行列に近い場合の答えは数種類あるのにたいして、現実に近い多元行列の答えは限りなくひとつとなるので、これを解く容易な方向、すなわち単純化の方向に、自ずと進んでいくのだという。ところが、それと反対の方向(自然状態)に行かなければならないとしたら、解答の確率をあげるために情報を増やさなければならない。本書では、これを熱力学の法則によって説明している。つまり人の頭脳容量に限りがあり、打つ手が限られているとすれば、平均であることがもっとも情報量が多い。同じ長さで正方形の面積が最大となることである。この平均=パタンランゲージと考えられなくもないと思ったが、考えすぎだろうか。

10月1日(日)
品川の革製品ショップに行き、妻のiPhoneのケースとカバンを購入。その後、歩いて原美術館へ。今年6月に亡くなった田原桂一写真展に行く。生涯撮り続けてきた田中ミンの肉体美とのコラボレーションである。白黒写真で、陰影をテーマとする。写真密度が常軌を逸している。気候がよいので庭園で食事をする。

9月30日(土)
073 ブンデス アウグスブルク×ドルトムント
好調同士の戦いであった。香川が鮮やかなループシュートを放ち、前半のこの得点が決勝点になった。後半は、アウグスブルクペース。中盤を省略し、全員がボールを追う戦いとなり、ドルトは為す術がなかった。香川も後半途中に交替。その後、プレミアのマンC×チェルシー戦を少し観たが、はるかにこちらの方の戦略が管理され、その中で個人技が発揮されている。

9月29日(金)
朝早く起き、コンペの敷地説明会のために木曽町へ行く。昨年の夏に馬籠宿と妻籠宿を訪れたときに昼食をとった蕎麦屋越前屋のある街であった。福島宿は大きく、近代化され妻籠とは趣が少し異なる。予定より早く敷地に到着したので、山の上にある郷土資料館と広い石庭のある興禅寺(伊東忠太による再建であることを知る)、関所跡と関所資料館、旧中山道、その隣の島崎藤村の「家」の舞台となった高瀬家を訪れる。「家」は、「夜明け前」の土台となった小説で、旧家が近代の波に飲み込まれる過程を描いた小説である。この中山道は崖縁にそっていたことがわかる。木曽川幅は現在の国道分広かったのである。今でも平地は少ないが、江戸の時代から比べると大きくなっている。福島関所は中山道最大の関所で、地理上ここを避けることは不可能であった。その後、木曽福島駅に行き、敷地へのアプローチの確認。そこから歩いて直ぐの役所で13時から説明会。気候について再考の余地があったが、特に目立った情報はなかった。1時間ばかり敷地を歩き回り、いくつか気づくことを整理する。その後まちを遠回りして、木曽町文化交流センターへ。まちの構造は、川に沿って直線上である。道路も川に平行であるが、傾斜が急なため平行道路同士の接続がない。数キロ単位で上下がつながっている。もちろん川の向こうとは交流は少なかったろう。施設は図書館と多目的ホール、集会室が併設されている。旧陣屋跡地にあり、旧中山道を模した道が施設内にある。帰りの4時間のドライブに備えて炭酸泉の代山温泉に浸かってから、帰路につく。事務所に戻り、芳賀沼さんと電話。地方色の出し方についてアドバイスを受ける。深夜BSで「ロスト・イン・トランスレーション」ソフィア・コッポラ監督を観る。ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンのラブストーリーを中心に、愛に限らず文化や世代間のコミュニケーションの難しさをテーマとする。その背景として西欧人にたいしてのアジア東京が使われる。ぼくにとっては歌舞伎町、西口ガード下、パークハイアット、ヨドバシ付近、東京医大、環6沿いの成願寺、渋谷、代官山AIRなど実に馴染み深い。そうした場所が舞台であった。この映画のテーマは反対に、信じるものを失った現代を描いているともいえる。その場合コミュニケーションは、何かしらの目的を達するためのものではなく、発することによって何かしらの自己啓発するためのツールで、それは個人的なものでしかない。ラストシーンでふたりは信じるもの=愛をつかむ。ふたりは西欧文化の終わりを日本にみていたのであるが、この終わり方では、彼らの優位性を示すだけで少し違和感を感じる。

9月28日(木)
「物理数学の直感的方法」を拾い読みする。後半の様々な物理法則は、行列における固有値についてであったことが判る。固有値とは、行列が収束する特殊解であるのだが、これによって将来(次の局面)を予想することができる。本書後記が面白い。近代思想に与えた数学の影響についてであった。それは、17世紀のデカルト以降の分析合理主義批判である。それは、数学的には「ハーモニック・コスモス」なるものの存在を信じ、行列の特殊解を解き続けてきたことをいう。こうした世界観を批判している。そのため今でも天体における三体問題を解くことができないままでいる。それは、地球・太陽・月の3つが絡み合う3行3列行列を記述することであり、今でもこの3行3列行列の特殊解を求めることはできなく、この問題は萱の外であるらしい。この批判である。つまり、2行2列行列に単純化させてしまい、その中でしか世界を観ていないことへの批判である。もう一度整理すると、イメージとして世界は多元他列行列の繰り返しn乗で表現が可能な世界である。しかし近代合理主義はこのn乗を重視し、動的解析(将来予想)を発展させてきたのであるが、そのために行列を2行2列行列のものに限定をしてしまったのである。一方イスラム世界はデカルト以前、数学においては西欧のむしろ先生であったという。彼らは代数学に長け、多行多列行列(幾何学)を操っていた。しかしそれはn乗を捨てた静的なものであったという。本来そのふたつは相補的であるべきものであるが、デカルト以降、デカルトのパラダイムが主流になってしまった。本書がいうには、これは数学的な問題ばかりではない。医学においても同様であった。西欧医学では、これまでのデータによる原因究明によって病原体退治あるいは器官修繕というかたちの方針がとられてきた。それは、全体バランス(多元行列)を重視する東洋医学とは異なるものである。社会思想でいえば、ハーモニック・コスモスが資本主義のバックグランドになった。個人個人は、ミクロな世界で、自由に自己の利益と幸福の追究に邁進することが許されるようになったのである。その結果現在のグローバル経済が主流となった。行列を少なくし、裕福層と巨大企業の寡占状態に限定したモデルを想定しているからである。しかしこの思想が崩れはじめている。それは思想と数学が歩み寄ってきたからである。

9月27日(水)
073 CL パリSG×バイエルン
バイエルン大敗。ヨーロッパ選手権、コンフェデ杯とドイツの勢いは突出しているが、CLではドルトムントを含めいまいちである。

9月26日(火)
中埜さんと彰国社へ行く。「Battle」翻訳の行き先が見えにくくなるも、少し方針を考えることとする。事務所に戻り、改めて目次を再考する。
072 CL ドルトムント×レアル・マドリード
ドルトムントは、これまで通りのポゼッションサッカーで挑み、完敗をする。この敗戦をどのように受け止めるのだろうか?ぼくにとっては、W杯の日本戦を観るようであった。ボス監督もこの完敗を試合後のインタビューで認める。昨年度までのトゥヘル体制では、強豪との戦いでは、現実的なカウンター攻撃に徹していた。3バックとはいえ、事実上5バックを想定したものであった。この状況で香川の出場は限られたものであったが、今日攻撃重視で香川は不出場。香川に対する監督の順列が明らかになった。ゲーム開始直後から、レアルのペースであった。レアルのDF陣は、少し長めのワンツーパスによって、簡単にプレッシングをかわしていた。そこからの速攻である。15分過ぎにベイルに決められ、ゲームはリアルに握られた。レアルは必ずシュートまで持ち込み、1対1の局面でも完全に制覇していた。たいしてドルトは、パス先が詰まっては横パスが多く、ボールを持たされていた。左サイドのフィリップ、トルク、CBのトプラクなど超一流との対戦ははじめてであったろう。そして差を見せつけられた感じがする。反則で止めることすらできずに、振り切られていた。それにしてもロナウドは格が違うことを改めて知る。遠くDFと距離を取ってサイドライン際でボールを受け、広いスペースの選択肢をもっては、そこから必ずスピード全開で振り切っていた。見方ですら、ロナウド側のサイドに入ることができない。予想外のロナウドの動きの邪魔となるからである。これでドルトは2敗目。苦しいグループステージの戦いとなり、ぼくにとっても久しぶりに虚無感を感じた試合であった。

9月25日(月)
「経済数学の直感的方法 確率・統計編」に続き、「物理数学の直感的方法」長沼伸一朗著を読みはじめる。はじめて行列式の意味を知る。世界を分析することの記述方式であったのである。そして、よく目にした固有値とはその記述を至極簡単になる希なケースを探すことであった。本書では、どうやらこの固有値のことを直感といっているようである。

9月24日(日)
071 ブンデス ドルトムント×メーヘングレートバッハ
ドルトムントは過密日程が続く中、フィリップ、怪我から復帰のヴァイグル、ゲッツエを使い、後半からDFバルトラも復帰する。フィリップ、ヴァイグルが活躍し、層に厚みが増す。香川は後半から出場。今季初めてのゲッツエとのコンビを期待するも、大量得点差の間延びしたゲーム展開を変えることができずに、ゲームは終了する。6-1の大勝。ボス監督は最高の状態にあるといい、火曜日のレアル戦が楽しみである。

9月23日(土)
070 プレミア レスター×リヴァプール
全く同じゲームが3日前のカップ戦であったという。岡崎が途中出場し1G1Sの大活躍をした。今日、岡崎は先発出場。今季はかなり積極的にゴールを狙う。今日も早い時間帯にヘディングシュートを放ち、オフサイドになったが(ビデオをみるとオフサイドでない)裏へ抜き出てからのシュートもする。ゴールへの期待が高まる中、終了間際に、GKとの競り合いからゴールを決める。今季4点目である。ゲームは、後半レスターペースとなるも、バーディのPKが阻まれて、同点のチャンス失い、今日は負けてしまった。岡崎の評価はうなぎ登りである。

9月22日(金)
彰国社の鈴木さんと連絡をし合い、中埜さんと一緒に訪問の約束をとる。夕方、設計小委員会に出席。深夜、BSで「五福星」サモ・ハン・キンポー監督1983年制作を観る。特に興味をもっていたわけではなかったが、最後まで観てしまうのは、アクションの面白さだろう。「経済数学の直感的方法 確率・統計編」を読む。ブラック・ショールズ理論の理解の仕方である。正規分布を少し右に寄らせる方法である。元本保証とはいわないが、後出しじゃんけんのような投資方法である。

9月21日(木)
069 ブンデス ハンブルガー×ドルトムント
香川がリーグ戦初先発。こぼれ球をゴール決める。WEBでは高評価を与えているが、実はいまいちであったという印象。スペースを見つけられず、ボールを効果的に受け裁くことができていなかった。香川というよりチーム全体の印象が低調であった。それは香川交替後の、ダフード、フィリップ、右に移動したプリシッチの3人が躍動したのとは、対照的であった。オバメヤンは点を獲っているものの、調子はよくないのが気になる。

9月20日(水)
「歴史と反復」の「大江健三郎のアレゴリー」を再読。ここでは、アレゴリーと近代のシンボル的文学を対比しているが、後者を帰納的作品というと理解し易くなる。個別事例を積み重ねて普遍性を類推させるものである。このとき実はひとつひとつの出来事やキャラクターが排除され一般化されてしまう。一方アレゴリーとは、外堀を埋めていくように個別性を浮き上がらせるような描き方である。「名前のない空間」のつくりかたに近いことを感じる。NHKで「黒潮」の特集を観る。黒潮はフィリピン沖で発生し、日本列島の東を通り抜け、オホーツク海で消える。そのメカニズムを風と海底の地形によって説明する。地形の変化によって大小様々な渦が巻き起こり、海底の栄養分を跳ね上げ、黒潮内のプランクトンが北に行くほど増えていくのだという。それにつられて豊富な生き物も移動する。人には到底立ち向かうことができないほどの地球規模のダイナミックさがある。

9月19日(火)
午後、中埜さんの事務所に行き、「Battle」翻訳の相談。翻訳の出版社がはっきりしなく、時間がかかりそうなので、翻訳、ワークショッププロジェクト、アレクサンダー解説本の3つを同時進行させることとする。それぞれが、建築家向け、ユーザ向け、他分野専門家向けで、手間のかかる翻訳の労力を無駄にしないように、いくつかの選択しを用意することにする。JIAマガジンに掲載の今村さんと難波さんの対談を読む。昨年出版された「メタル建築史—もうひとつの近代建築史」に関するインタビュー記事である。メタルが近代建築に根付いていく過程は、いまでは当たり前になってきたのだが、難波さんがそのような結論に至るまでの過程がこのインタビュー前半に示されている。これによって、この視点が難波さんの功績であることが明確に記された。このインタビューの大きな功績だと思う。またぼくにとっての新しい知識を、難波さんから引き出しているのも、今村さんの博識がなされる技だと思う。インタビュー全体を通じて、美学と規則を廻る建築家の立ち位置がテーマとされていた。美学を自由、規則を大衆社会からの平等要請と読み替えると、これは自由と平等という近代思想のテーマと重なる。メタルは、コンクリートと比べてこれらの問題をクリアにしなければならない素材であったため、近代思想を体現するものとなったのである。ただし、難波さんのあまりの美学拒否によって、美学/社会に、対立軸があるかのような誤解を招いてしまうのではないかという危惧をする。

9月18日(月)
AO試験2日目の面接。例年同様、素材を与えて自由につくらせる試験だが、近年、作品の制作意図をクリアに説明することを求めている。するとひとつの傾向が生まれる。作品を擬人化し、自分の置かれている状況を表現しようとする作品が多くなることである。ストーリーを重視しているのはよいが、そこに素材との関連、格闘がない。ようするに話だけで終わっていて、モノにまで至っていないのだ。建築学科のAO試験であることをわすれてはいけない。他の学科と異なり、建築はモノとの関わりを重要視するので、そこへの言及が必要となるのだ。一般には、制作は創造性に基づいて、論理性とは別物であると、暗黙に理解されているのかもしれない。これに倫理を加えた美学と工学との3つともえが建築を面白くするのだが、大学ですらそうした考えに至っていない。
068 ブンデス ケルン×ドルトムント
ケルンは開幕から大失点中の5連敗と聞く。そうした中この試合でもドルトムントが5-0で圧勝する。ドルトは現在、シャヒンのチームになりつつあり、彼が位置する中盤底からの展開が多い。ケルンはそこにプレッシングをかけずに、何度も最終ラインの裏を突かれる。今日は、シャヒンに加えて、カストロ、ダフードも同様の働きをする。後半からヴァイグルも怪我から復帰。大迫にそのケアを託されるが、これだけタレントが動き回るとそれも難しい。最終的にゲーム展開を失ってしまった。香川は不出場。今週水曜日の次戦のために保存か、ボス監督はローテションを重視している。

9月17日(日)
AO試験のため大学行き。試験は新しい校舎で行われた。志願者が多く狭き門となり、皆の緊張感が伝わってくる。今年もこの季節となった。合間の休憩時間に石原さんから、教科書原稿のアドバイスを頂く。もう少し帰納的であるほうが判りやすいのではないかというものであった。おそらく考えるに、客観的な事実とぼくの考えとの境目を明確にすることが、判りやすさにつながるというアドバイスであったと思う。それにたいして上手く応えられなかったが、その明瞭さによって、幼い学生が、設計の一回性を切り捨ててしまう危惧を怖れての文章構成であった。例えば、ルーティングされずにかたちを考えることを毎回の大事なこととして示したいと考えた。夕食を代々木上原で、家族皆でとる。ママの誕生日。
067 プレミア ハターズ・フィールド×レスター
レスターはヴァーディの相方を模索中。今日は、マンCから移籍のイヘアナチョを起用。前回は、スリマリであった。後半から岡崎登場。ひいき目で見ても、岡崎投入後チームは連動する。前からのプレッシングが上手く働くようになる。したがって岡崎がフィニッシュまでの走力が持続できるかが証明されれば、岡崎がファーストチョイスとなるだろう。1-1の引き分け。

9月16日(土)
「哲学の起源」を読み終える。大切と思われることがいくつか見えてきた。ひとつめは、ホロンのような部分と全体の関係、それは生物における細胞の機能性を考えることと同等であるが、これが既にイオニア時代にイソノミア(無支配)として自然哲学として存在していたこと。このとき、ぼくらは全体と部分の関係として見がちであるが、実は部分間の問題として考えることが妥当であること。次に、このようなイソノミア(無支配)を、イオニア以降のアテネの賢人たちは試みたが実行不可能であったこと。である。そうした中で、イオニアの回復に固執したアテネ人がいた。ソクラテスである。ソクラテスは、そのためにデモクラシー(大衆支配)によって死刑になったこととして有名である。それは、無支配を徹底させ、どこにも帰属しない自由人を目指したことが異端児扱いされたからであった。ぼくは高校時代に倫理の授業で「最後の弁明」を読んだ。このとき、理想と現実のギャップを超えられなかったソクラテスにたいして憤慨した記憶がある。その時は、その解答をもちろん見出すことができなかったが、その当時期待していたであろう答えが、本書のプラトンの中に見つけることができた。そのプラトンは、無支配は現実的でないと判断し、全てに超越する哲人王による統治を持ち出し、その下での大衆支配を考えたのである。しかし問題はこれによって、目的性が支配する世界に至り、その後そこから抜け出すことが不可能になってしまったというのが、本書の結論である。そしてこの目的性を排除するためにソクラテスが繰り返したのが、問答というものであった。問答とは、結論を期待することのない制作である。別なところではp199、問答を産婆術ともいっている。ところでアレグサンダーも、無支配なイソノミア世界を理想とする。これは確実である。そしてアレグサンダーは、現実的解決方法論として15の幾何学的特性などの仮象を想定するに至っている。この本によれば、それはピタゴラスが万物の始原(アルケー)として数学と考えることと重なる。数学によって、例えば音楽、天文学を説明しようとしたように、15の幾何学的性質で生き生きとした建築を目指した。しかしこれによって、感性的世界と超感性的世界という二重世界が生じ、(アレグサンダーのシステムAとB!)真理と現実の2分によって、真理探究のための必要性(=目的性)が生まれてしまったという。自由であるが平等ではなくなり、無支配なる世界が崩壊してしまった。アレグサンダーの思想の限界を端的に表現したものでないだかと思い愕然とする。しかし前向きに捉えると、アレグサンダーの最新本「Battle」で語られているのは、パタンランゲージにおけるユーザとの問答、かたちにおける土地との問答というものである。この問題についてもう少し考えて見ることにする。

9月15日(金)
「哲学の起源」にスピノザが登場するp102。「擬人化された神を否定するが、「唯一なる神」を肯定する。ゆえに、自然哲学者は神々を斥けたとき、ある種の神を考えていたということである」 その後に、本書は制作と生成の説明が続く。生成とは目的論を斥けるものとしてある。イオニアの次にイソノミア思想を受け継いだのはスピノザであるという。深夜BS映画「奇蹟の丘」パゾリーに監督を観る。マタイの福音書にもとづきキリストの生涯を描いた映画であった。大袈裟なシーンがなく、淡々と描くものであった。キリストも慈悲に溢れているわけでなく、どこかせわしく神経質で攻撃的であるのが印象的。それは教会内部の空間性と通じるものである。それにたいして弟子たちは少し頼りない。1964年のイタリア作品であり、南イタリアの山岳都市が舞台になっているが、正確には分からない。

9月14日(木)
「哲学の起源」を読む。イオニア思想が示される。自然哲学であり、物質が自己運動すると考える。神々の存在を否定し、そこにある目的性を考慮しない。何のための制作でなく、生成を重視する。事後的説明を拒否するものである。ここまで読み、アレグサンダーの目指す世界と重なって見える。アレグサンダーはその後、15の幾何学とか、センタリングに向かうが、これとイオニアを受けたアテネの哲学者たちが行ったことも重なってくる。その後本書の結論がどう展開するか楽しみとなる。ところでカントの「物自体、現象、仮象」についての判りやすい解釈があるので引用する。「カントは物が外的に存在することを肯定する唯物論者である。ただ、われわれが認識するのは物自体でなく、主観的な構成にもとづく現象であるというのである。この場合現象とは事実上、科学的認識を意味する。ゆえに現象は仮象ではない。現象が感性的直感にもとづくのに対して、仮象はそれにもとづかないからだ。さらに仮象に中には、もっぱら理性によって形成されるものがある。つまり、超越論的仮象である。カントが「純粋理性判断」で批判したのは、そのような仮象である」P155。「旧来の哲学が、感覚にもとづく仮象を理性によって批判することを課題にしてきたのに対して、カントは、理性そのものが生み出した仮象を批判しようとした」P154。
066 CL トットナム×ドルトムント
ドルトムントは、前半のポゼッション率が7割近くあるものの、速攻を2つ決められてしまう。DFが完全にソンとケインの2FWのパワーに振り切られてしまった。一方トットナムは、ドルトの早いボール回しについて行けずにラインを後退させてしまった。その空いたライン間を香川が使い、香川は、アシストを含む3つの決定機をつくり出していた。代表での攻撃パタンである。このときのゴールを決められなかった差が勝敗を左右した。後半にトットナムは守備を修正し、両者とも拮抗状態となる。スペースを与えられない香川は70分で交替させられる。一方、トットナムはケリーが再び決める。3人を投げ倒してのゴールであった。この差が出たのだが、きついことをいえば、ボス監督の修正力のなさを感じないこともない。前戦のフライブルクとの戦いでは、ドリブラーの欠如が問題となったが、これをケアする次の手が必要とされるが、それがなかった。レアルが勝ち、このグループでの戦いが難しいことを示す。

9月13日(水)
「哲学の起源」柄谷行人著の再読をはじめる。自由であるが平等であるためには、ひとりひとりが自由に自立状態にあることが前提とされる。それがイオニアにはあったという。なぜなら、彼らは土地に縛られる農夫でなく、商工業を主にしていたからである。ひとりひとりが自由意志で全体に帰属していた。生物の細胞組織をここでも思い浮かべることができるが、その向こうにアレグサンダーのセンタリングを思い出す。NHK特集で「異常気象・スーパー台風予測不能の恐怖」を観る。天気予報は、地表面と上空数キロを500mグリッドで切り、立体解析をすることを知る。近頃予報が外れるのは、海面上空は、この方法での詳細な解析が不可能であるからという。想定より5%多い水蒸気が実際に含まれていた。この5%が不連続な巨大積乱雲を生んでいる。つまり、情報量が増えて真実に近づく訳でなく、益々不確定な現実が明らかになるだけである。まさにハイゼンベルグの不確定性原理内にいる。
065 CL バルセロナ×ユヴェントス
どちらのチームも、開幕前の主力選手の移籍により問題を抱えていたが、いざ開幕すると失点することのない絶好のスタートを切った。そうした層の厚さを感じさせる決勝戦のような効果カードが早くも訪れる。ゲーム開始時のユーベのポゼッションも、徐々に失われる。メッシの中央からの得点により、守備陣形が小さくなってしまったことが大きな理由と思われるが、3-0のバルサの完勝。

9月12日(火)
深夜NHKで、都市直下地震の特集を観る。長周期パルス地震というものが熊本地震で明らかになった。地表面が割れることにより直後に発生する3秒周期の地震波であり、東日本大震災で起きた震源から離れた地点で起きる長周期地震波と異なる。直後にかつ、次第に揺れが大きくなるのではなく、いきなり最大となるものである。高層ビルにたいする影響が大きく、この対策は現在なされていないということであった。研究者は、問題を兎も角も明らかにすることの重要性を3.11から学んだという。この特集は、こうした方針のもと制作された。しかし出演した研究者たちにはこの問題を解く力があるものの、価値判断を持ち合わせていない。このことが気になる。超高層ビルが安全であることに越したことがないのだが、地震後停電はするだろうし、都市防災からの総合的見地から高層ビルの存在是非を考えるべきだと思う。与えられた問題を解くことに集中してしまった技術者のマイナス面が出てしまった。街区全面をフローティングする技術でこれへの対応が現実的だそうであるが、より問題を複雑にするだけの迷宮のような気がしてならない。

9月11日(月)
研究室の旅行中も続けて読んでいた「「世界史の構造」を読む」の再読を終える。第2部の討論を通して、交換様式Dというものをリアルに感ずることができた。アソシエーションあるいは、イオニアのイソノミアに相当するものであるが、それは、近頃読むホラクラシーというものである。一般に自由と平等は相克するものである。自由は勝ち組と負け組をつくり、平等は自由を束縛する。それがなくなったものをいう。すなわち「自由であるが平等である」ということで、生物の組織細胞のように、あらゆるスケールで機能する相互依存のことである。細部に優劣はなく、それぞれが機能している。これを柄谷は高次元の互酬性の後に獲得できるものといっている。フロイトを持ち出していうこの抑圧からの回復というのは、生物における恒常性のことである。自然の狡知というのも、このことをいう。世界を生産でなく交換から見るというのは、エネルギーの受け渡しのことをいっているのである。

9月10日(日)
足利出流原町に行き、美味しい食事と温泉でゆっくりする。山の急斜面に弁天神社があり、眺めがよい。出発が遅かったため、館林美術館へ到着できずに挫折。はじめて羽生PAで食事をする。アミューズメントパーク化したPAであるが、食事は美味しかった。

9月9日(土)
今日は、磯崎新のセラミックパークMINOと藤森照信のタイルミュージアムを訪問するつもりであったが、所用で帰京する。残念である。色々なことがあるものだ。新幹線で3日分の日記をまとめる。
064 ブンデス フライブルク×ドルトムント
インターナショナルウィーク明けの試合で、怪我から100%でない香川は不出場。同様のコンディションから、バルトラ、今日から復帰したシュメルツァーが早々に退く。試合開始時の見事な展開は、相手が10人となり、引いて守られると、その勢いが潜まる。ポゼッションが90%はあったのでないだろうか?得点できずに0-0の引き分け。勝ち点2を落とす。こういうときに、デンベレ、モルらの存在が大きかったことを感じる。彼らは、チーム方針にあわずに8月末に他チームに移ってしまった。今週からCLが始まる。

9月8日(金)
今日は秋晴れである。味噌汁と朴葉味噌の朝食をすませ、車で30分くらいの公民館へ。立派なコンクリート造の小学校をリノベーションした建物であった。雪国とあって、中央に大きな遊び場がある。教室が会議室にリノベされ、校庭越の山並みは、昔を懐かしむ映画の1シーンのようである。2時間をかけての2回目のゼミ。塙くんは、動く建築をテーマとする。ただし、実際に動くことがテーマではないようだ。かつてミースがライトを参考にして「煉瓦住宅」を、コルビジュエがスロープを多用して人の動きの表現を目指した。これらは内部にかんするものであり、塙くんは、それを外部で行うものと思う。ウォーキングシティが該当するが、これは動くことを通して都市を批判していた。岡部くんのテーマは、どこまでも効率化する空間にたいする批判的な場の提案である。ただし、この白川郷にみられるように、今や人間味のある旧来の場さえも商品化されていっている現状に意識的でなければならない。懐かしさに捉えられてしまっては、消費の世界に知らず知らずの内に取り込まれていくだけである。小池くんは、バラバラになった街を過去の痕跡の表象の力を借りて帰属意識を回復させようとするもの。かつてトマソンを発見するように街を観察することがメインテーマである。モノと意識の区別が意識的であることが面白い。ただし、住民がこの意識を永続的に持ち続けるための建築の方法が何かが難しい。中山くんは、デザインの手続きの徹底した形式化を目指している。その目的はよく判らないが、デザイン方法の一般化にその目的はなさそうだ。むしろ、主体性の純化を目指しているようでもある。クレメント・グリンバーグの芸術の純化、マレーヴィチ評を思い出す。しかし、最後マレーヴィチは死んでしまった。2時間のゼミを終える。再び白川郷にもどる。民家レストランで食事をすませ、集落を見下ろす城跡へ。こういう風景が見えるのが世界遺産となる由縁である。大きくカーブする街道筋が、山並みを通り抜け、大きな急茅葺き民家が田んぼの中に点在するのが特徴であった。その後自動車で、郡上八幡エリアに行く。郡上八幡城下町として発展し、現在も賑やかである。象設計集団の小道整備などの試みが実っている。その後、多治見のホテルにチェックイン。3回目のゼミを行う。桜井さんは、吉阪隆正の研究。吉阪建築をスキのあると仮定する追究研究。そのために多量の模型をつくるという。最終的にそのスキを的確に言い当てることを望む。島田くんは、表層的であったので、ひとつのテーマに集中することを薦める。デザインスゴロクにあるように、出発点はなんでもよいので、サイコロを回しながら深めることが大切である。河野さんは、設計者でなくユーザ目線からデザインしていることに好感をもつ。幸福に対する考えの開きが両者にある。考えようによっては、場というような名前のある空間に安住することのない空間の発見があるかもしれない。このことに期待する。滝本さんは、サウンドスケープをテーマとする。ワークショップで音を身近なものにするために、ジョン・ケージは100個のパタンを挙げたそうである。これに沿って実験的な音の場をつくることを目的とする。音のメリハリのある敷地選びが重要そうである。平野くんは人口密度に注目するもの。人の距離感について簡単に言いそうなところを、統計上の人口密度と建物における人口密度の違いから明らかにしようとしていることに興味をもつ。そこには尺度となるスケールというものが存在している。山口くんは、手賀沼と印旛沼の水質浄化を建築によって試みるもの。環境の亀田研究室と連絡を取りながら印旛沼の現状を把握していることに感心する。その後場所を駅前の居酒屋に移動して打ち上げ。途中多治見駅前の水を利用したオンサイトの駅前広場をみる。コンサートが行われていて、照明計画がよい。明るさが均質でなく、周囲からは生演奏が聞こえてくるが食事をしているプライバシーが保たれている。少し低いところに水辺空間があり、涼しい風が吹き、多少気温が下がっていることを経験する。感心する。ホテルでNHKBS「蘇る金狼」村川透監督。松田優作主演を観る。全編暗めで、ダーティハリーシリーズを彷彿させる。現在の映画は、CGによりディテール密度とアクションが格段に向上している。それをカバーしている。おちょくった態度とハードボイルドな2面を持ち合わせるスタイルは死ぬまで貫徹した松田優作のスタイルであった。

9月7日(木)
朝一番で朝食レストランにいくがいっぱいであった。今日は医学学会があるらしいことが判る。伊東豊雄さんの瞑想の森へ行く。写真で観るより大きかったというが、そうした印象はない。そうした話をきいていたからであろうか。背後に森を背負い、横に蓮の池を置く、なだらかな傾斜地にある。それに白の波打つ屋根は馴染む。通常はガラスファサードが目立つものであるが、そうでないのは、屋根のデザインによる。中央に葬式場と焼場の箱があり、その周りがエントランス、待合などとなる。箱に対して波打つ屋根のボリュームが少し窮屈な感じもする。内部では波打つ屋根が空間的には効いていない。この屋根は、シェルとして効かせるために、少し勾配が急である。その後、安藤忠雄の岐阜国際会議場へ。外部巨大階段や通路が縫うようにあり、いくつかのホール、会議場全体を覆う。一方が長良川、他方がアクセス路である。いつもの安藤建築をさらに強引に構成したものだ。内部は圧巻である。市民ギャラリは5層吹き抜けで、上部に4本のシリンダートップライトもつ。屋上階段から再び内部にアプローチできるようになっているのだが、現状はロックされていたのは残念であった。そのシリンダーの下は、正円のスロープが廻り、ギャラリを見下ろすことができる。今日は学会のポスターセッションが開催されていた。次に、岐阜市民会館へ。坂倉準三の1967年の作品である。外側を一層分高さのある3次元コンクリートPCで囲み、その内に小さなタイルで覆われたどちらかというとバナキュラーな真円の音楽ホールがある。図式的平面である。外側のPCはその後中型ビルのファサードの見本となった。西新宿で多く見かけるのは、当時のその影響の大きさである。内部は小さな会議室が並び、中央のホールの外壁が見える。ホールと会議室の間のエントランスホールなどはスペーストラスがかかる半外部空間である。ホールは1600人収容。円形とは言え、小さいながらも両袖をもつ舞台と対面するので、それ程一体感はない。システムを一貫させ、残余を有機的デザインを持ち込むファサードや平面構成に、潔さと心地よさを感じる。が、緊張感に物足りなさも感じる。そこの会議室を借りて、1時間のゼミ。卒業設計の中間発表である。途中にゼミを挟むのは面白い試みである。赤塚くんのコンセプトは、敷地コンテクストに左右されない建築の自律性について。コンテクストが強いほど、それを批判的にみることで自律性が高まると思うので、敷地の再考を促す。思わず、ロンシャンの敷地歴史コンテクストを思い出した。山田くんは、コンテクストを赤塚くんとは反対側からみる。宇宙建築を目指し、コンテクストに囚われない普遍性のある方法を模索している。ぼくが思い出すのは、松村先生が著書で引用していたバイオテクノロジーを発展させた接着方法ガンツ構法とミウラ織りである。そういったものに匹敵する案がつくれるだろうか?楽しみにする。その後、岐阜メディアコスモス伊東豊雄設計へ。横長のどっしりした印象である。入り口が素っ気なく、その分エスカレータを上がったときの2階のダイナミックさを助長する。グローブによる光りのグラディエーションが印象的。光りと影の濃淡がある建築を経験したことがあるが、グラディエーションとなっているのは初めての経験である。グローブはそう低い位置まで下ろされていないが、くぐって入るという印象をもつ。それだけ空間に変化があるのだ。しかし空気の温度差までは達していない。今後のテーマであると感じる。1階のカフェで昼食。スターバックスであるためか、ちょっとあっさり目のインテリアである。1階を廻る。中央にガラス張りの閉架書庫と左に小さめのギャラリがある。信長展を催していた。向かって右がカフェとコンビニ、奥が相談コーナーとかキッズ向けのスペースである。もう一度、2階を廻る。屋根は緩やかでよいのだが、構造的に効いていないという佐々木さんの話を思い出す。そこで、今まで気になっていなかった細い柱の位置を確認する。構造と空間印象の関係はなかなか難しい。その後、時間をかけて荒川修作の養老天命反転地へ。メディアコスモスと対極的である。激しいデザインで、これでもかというほどに身体に語りかけてくる建築である。建築というかランドスケープである。万里の長城を思い出す。尾根に沿って歩き進む。コンクリートや鉄板の荒さが気になるのは、建築家だろうか?アイデアをモノにするときの施工限界が目についてしまう。小雨の中、ともかく全部を体験する。その後、高速で飛騨高山白河郷へ。霧と雨が激しくなり、前の見通しが効かない中、2.5時間で到着。トンネルが多く、日本の隅々まで高速が行き渡っていることを感じる。世界遺産高山は、秘境であるが、この高速によってまた秘境となったのである。6時だというのに、雨と暗さで周囲が見えないまま宿にチェックイン。平入りである。これまでみてきた民家よりかなり大きく、屋根は南北方向急勾配の茅葺きである。小屋組が見えるわけでなく、1階は中廊下式で南北に和室が続く。玄関左がトイレと風呂、もともとは土間であったろうか?正面が囲炉裏のある空間である。そこで、早速夕食をとる。タイムスケジュールは厳格のようである。山菜に飛騨牛、ヤマメなどご馳走であった。10時に必ず消灯というので、急いで近くの公衆温泉に行く。これは流石に擬白川郷つくりであった。

9月6日(水)
事務所で田口さんへ送付する詳細を打ち合わせた後に、新幹線で岐阜羽島へ。閉店ぎりぎりでレンタカーを借りてホテルにチェックイン。ホテルのレストランも終わっていて、コンビニで済ます。窓から、長良川越しに岐阜城が見える。傾斜のきつい山(金華山)の上に建っている。信長がかねてから齋藤道三から欲していた城と聞く。天空の城のようだ。

9月5日(火)
教科書の原稿整理。結論とそれに関する歴史事実、個人的関心などをスムーズにすることに努める。自分の中にはつながりがあることを意識することであるが、なかなか難しい。
063 W杯予選 ウズベキスタン×韓国
韓国もこの予選の戦い方に苦労しているようだ。前半は守備を重視して相手の出方を見る。後半から、サイドを支配しポゼッションをあげ、完全にゲームをコントロールする。得点こそならなかったが、組織立っていてそう悪くはないと思った。おそらく決定力を問題にしていたのだろう。0-0の引き分けで、同時刻のシリアがイランと引き分けたために、韓国のロシア行きが決定する。それにしても、引き分けで十分なはずなのに、後半リスクを犯してまでも急いで攻めまくっていた。情報が入っていなかったのだろう。精神的な緩みから招く失敗を心配する采配だと思うのだが、こうした精神コントロールができないと大舞台でのゲームコントロールは不可能だろうと思う。これは日本についてもいえる。

9月3日(日)
先日締め切りの原稿を済ませてからプールに行き、その後古市先生の事務所に行く。近況を伺うなかで、GAシリーズを頂く。本の出版に力を入れているそうだ。

9月2日(土)
鎌倉の近代美術館で行われている大高正人展へ行く。これといって発見はなかったが、前川國男の下での神奈川音楽堂や上野の東京文化会館の設計はやはり密度がある。その中で大きな住宅が気になる。東京文化開館以来一緒に仕事をした向井良吉の自宅兼アトリエである。傾斜屋根が大地と連続するものであった。三春には、大胆なたくさんの作品があるが、設計密度という点において欠けるとも思う。教科書の原稿を集中的に行う。できるだけ俯瞰するような書き方にすることに今回は努める。判りやすく広くという意味で、入り込むことを避けるということである。夜、娘の誕生を祝うため食事に出かける。

9月1日(金)
大学院入試の面接試験。その後、研究室でM2生との研究の打ち合わせ。事務所に戻り、先日の構造打ち合わせ後の検討。夜NHKBSで「シンプル・プラン」サム・ライミ監督を観る。田舎町に住んでいた幸せな若者が、偶然見つけてしまった大金に目がくらんでしまったことから、犯罪に手を染めていってしまう。彼らの負のルーチングを描いたサスペンス映画。監督は、B級カルト映画を手がけてきた人とあって、突発的なシーン展開が多い。

8月31日(木)
062 W杯予選 日本×オーストラリア
2-0で、フランスW杯以来連続のロシア行きを決める。1点目の長友のセンタリングと浅野の飛び出し、2点目の井手口の遠目からのシュート、ともにワールドクラスの得点であった。長谷部の復帰が相当心強かったのか、ハリルはこの大一番で大賭けにでた。新しいフォーメーション4-1-4-1とブラジル五輪世代の採用である。長谷部を中盤底に置き、その前にパワフルでボール奪取できる山口と井手口を置いた。このふたりで、長谷部の指示のもとセカンド的な最終守備ラインを形成させた。そうすることでSBの長友、酒井は守備に時間を割くことができた。そして攻撃は、このふたりがボール奪取してからの速攻賭ける。両ウィングには、浅野、乾という速い選手を置いた。はじめフィットしなかった右の浅野も徐々に慣れ、得点前には2度シュートを放つようになっていた。世代交代が進んでいることを僅かながらに感じる。本田、香川らはもちろん今でもワールドクラスであるが、それはコンディションが100%のときである。ハリルは香川が100%の時を実は知らない。彼らは70%でもそこそこの働きをするが、それではブラジルW杯で判ったように、世界では太刀打ちできないのである。それならば、伸びしろが未知数な若手を使うと考えたのだろう。彼らは、がむしゃらにボールを追い(乾は前半軽い守備でピンチをつくってしまったが、それがいい薬になった)、70%の香川、本田よりも上だった。今後、この4-1-4-1の堅守速攻を基本とするだろう。このとき、香川と本田がどういう役割を果たすか見てみたい。ドルトムントで香川は、浅野、乾よりさらに速い両ウイングと経験を積むことができている。

8月30日(水)
大阪から、構造の田口雅一氏来所。芳賀沼さんを交えて構造の打ち合わせ。ディテールの検討。縦ログパネルの柱脚金物についての新しい提案をもらう。直接縦ログ構法一般に結びつくかどうかは次の問題であるが、それは、改築のときのように、既存の基礎を利用する場合に確実となるジョイントである。同様に、既存小屋組と縦ログパネルとのジョイントにも提案をもらう。ぼくらはいつもシステムの一貫性を求めるものであるが、技術的観点からそれが難しいと判断された場合、むしろ一貫性の不可能性を強調するような方向に進むことが多い。田口さんとは初めてのプロジェクトであるが、今回もそのパタンとなり、プロジェクトが動く。不思議である。それがたぶん特殊性を誘導していくことだと思うのであるが、それは佐々木さんと交えての打ち合わせと異なるのである。細部に対する見方の違いではないかと思う。

8月29日(火)
061 スペインリーガ第2節 ヘタフェ×セビージャ
代表戦前の柴崎岳のプレーを観る。DAZNのおかげである。後半70分まで2トップの下がり目でプレーする。ヘタフェにチームとしてのストラテジーが見えなかったが、柴崎は前線からよくボールを奪取していた。日本でのボランチ経験がそうさせているのだろう。そこからの攻撃組み立てが有効に働いていた。柴崎のスキルが他の選手より抜きんでているのは明らかで、後は、人とたいした時にもそれを示すことで信頼を勝ち得ることだと思う。香川は、クロップの保護の下ドルトムントではそれが上手くいき、ユナイテッドでは、監督が代わることによって、信頼を勝ち取ることができなかった。柴崎はどうだろうか?

8月28日(月)
「世界史の構造」を再読するも、「ネーションと美学」ほど発火はしない。方向性を変えて、縦ログ構法の文章にかかる。「構法」を真、「デザイン」を善として、二つを分けた上で想像=美が必要となることを書くことに決める。二つは別々に語られることが多いが、一緒にするときに新しい方向が生まれることが、再三「デザインの鍵」でいわれている。それが、「ジョイント」にあったことを思い出す。
060 プレミア第3節 リヴァプール×アーセナル
4-0でリヴァプールの圧勝。アーセナルは3バックの前半が特によくなかった。リヴァプールは、3バックの間に斜めから進入し、ことごとく起点をつくる。レスター戦もそうだったが、アーセナルは連動したプレッシングに為す術がなかった。

8月27日(日)
058 プレミア第3節 マンU×レスター
レスターは過去2戦のようなゲーム展開ができなかった。岡崎以降の中盤選手が守備に追われ押し込まれ、プレッシングが連動しなかったことによる。ルカクを押さえたとはいえ、その後ろのマタ、ムヒタリアン、マーシャル、ポグマに翻弄された訳である。岡崎は60分で交替し、さらにフレッシュな選手で守りを重視するが、耐えることができずに70分に失点してしまった。予想されたゲーム展開とはいえ、ユナイテッドの岡崎、ヴァーディへのケアは万全であった。ほとんど速攻が阻まれ、セカンドボールを取られていた。
059 ブンデス第2節 ドルトムント×ヘルタ
プレッシングが有効に効き2点目までの時間をドルトムントは完勝。ただし、その後集中力がきれてゲームが絞まらなかった。後半60分過ぎからゲッツエに代わり香川登場。この雰囲気を打開するまで至らなかった。ここ2試合とも、ゲッツエとシャヒンが中盤で上手くボールを奪取し散らしているのが印象的。チーム状態が非常によく、香川を含めて控え選手が出る幕がない。

8月26日(土)
「ネーションと美学」を読み終わる。理性では容易に取り除くことができない(超越論的)仮象、それは例えばここで挙げられる「ネーション」「死への欲動」、ぼくら建築にとっては「大文字の建築」である。本書では、これにたいして意識的でいないことを美学的といい、ロマン主義者を否定する。建築の場合に、コミュニティを持ち出すことは一時しのぎのことであることをいっている。それは、ぼくら皆がその仮象の存在をどこか欲しているという現実を無視したものだからである。つまりは、経済活動その他から、ぼくらは雁字搦めの状況に実はいるのだ。これは、これまで読み込んできた池辺さんの「名前のない空間へ」をより具体的に凝縮した考えでもある。しかしこの超越論的仮象が既定になって、戦争や、技術の暴走に走ってしまわないようにするにはどうしたらいか?これが次の問題である。本書は、それに対しフロイトの抑圧論を持ち出している。ネーションを発動する同じ想像力で、人は理性で納得し続け内面化し続ける能力もまたあるというのである。それによって、敗戦国日本は現在も平和であり、戦前に犯した罪を日本人は十分に内面化しているのだ。そしてこれが日本歴史上はじめての抑圧とも読める。しかし現在、その抑圧から解放され、再び日本は雑居状況にむかっている。これは全世界的状況でもあるが、それが排除による権力の存在によるものであるという示唆で本書は終わる。

8月25日(金)
深夜NHKで「インパール作戦」の特集を観る。インパール作戦は、補給路を確保できずに進行を試みる無謀な作戦として有名であるが、その詳細を追う特集。現地司令官牟田口による一発逆転を狙った奇襲作戦の代償を示す内容であった。この司令官は、兵士の命の重要性を認識していないことで、こうした賭けに出ることができたのであるが、それは日本国自体が戦争に突入した理由と重ねるもので、あまりにもできすぎた話だと思う。ところで、インパールがインドアッサムの内陸にあることを知る。インパールと同時に日本軍が攻撃したコヒマという町は、ぼくがブータン調査のために最終空港に選んだグアハティから200Kmと離れていなかった。現在は、バングラデッシュが独立したために、アッサム地方は、インドと地続きであるとはいえほとんど飛び地である。当時から独立運動が盛んで、渡航自粛区域であった。グアハティ空港到着後の、予約していたタクシー5台をその見つけたときの安堵感を忘れることができない。これに200kgの器財をのせ、15人の学生を引率した。6時間かけて、ブータンの3つ目の出入国管理所サムドラップジョンカーという町に入り、8時間かけてブータン最東部タシガンで調査を行った。インド国の道中は、デリやムンバイといった西の都市とは違って、紅茶畑が続く長閑な風景が続いていたのをよく覚えている。ところで、こうした経験が自信になり、この前後に調査の度にインド中を見て廻った。デリ、ニューデリー、アグラ、タージマハール、ファテープル・シークリー、ムンバイ、グアハティそしてコルのチャンディガール、アーメダーバードなど。どれもタフな旅行であったことを思い出すが、こうした山中を日本軍が食料なしに進退軍したことは想像を絶する。

8月23日(水)
朝一番で朝食をとりダナン空港へ。空港に近づくにつれて道の整備が進んでいる。基本的に信号がなくサークル状の一方向環状交差点である。街中央はアジアの雰囲気を残した大都市であった。羽田行きの飛行機まで時間があるのでラウンジで読書。ハノイ経由で羽田へ。飛行機の中で「ゴースト・イン・ザ・シェル」ルバート・サンダース監督を観る。香港がロケ地と聞く。ディテールが凝るものの、脚本が今一という印象である。アニメの実写化は、脚本を含めて演技に負うことが多く、スカーレット・ヨハンソン演じるドライなキャラクター設定で、ここを突破するのは難しかった。その後「君の名は。」新海誠監督を観る。続けて観ると尚更、スピード感、密度ともにハリウッド映画より数段劣っていることは否めない。背景の建築や都市の描写も凝っているのだが、ぼくらの撮る建築写真と同じような広角度で、目新しさに欠けていた。例えば「ゴースト・・」では、とてつもなくカメラが捉える角度は広い。時間や人とのつながりを暗喩する組紐が、この映画のひとつのテーマである。ティム・インゴルドの「ラインズ」を思い出させてくれた。そうしたテーマ性と時系列を判らなくするストーリー展開が上手く働いているのが救いである。最後のシーンには大きな疑問が残る。約束された人との再会が適う訳であるが、それは俯瞰的立場にいる観客者のぼくらだから理解できるわけで、映画の臨場感をわざわざ損ねている。深夜に羽田に到着。
057 セリエA第1節 フィオレンティーナ×インテル
長友が攻守に活躍する。動きもさることながら、叫び声をあげるなど、アグレッシブさを前面に出していた。PKをよんだロングスルーパスをはじめ、随所に得点シーンに顔を出す。サイド奥深く切り込み中央へのラストセンタリングが印象的であった。3-0の完璧に近い勝利で、開幕をライバルからもぎ取る。

8月22日(火)
遅めの朝食をとり、ナマンリトリートへ移動。昨日に続きヴォ・チョン・ギアの建築である。タクシーで20分くらいのところにある。途中の海岸沿いの道のリゾートホテルは、建設ラッシュで、このホテルは、後発であるため空港から最も遠い位置にある。ゲートを潜ると、チェックアウトのためのレセプションのための小さな建物があり、正面に竹の2連アーチの大ホールがある。スパンは13.5m位で片側に幅4.5m程度の側廊をもつ連続アーチ構造である。側廊の位置が反対なのでないかと思う。チェックインは、カートで移動し、奥のレストラン棟の中のレセプションで行われる。混雑時にはこうするのだろう。竹の柱が5〜6mグリッド状に建ち、大きな切妻屋根から2つの円形の屋根が飛び出す複雑な構造である。そこにレセプション、カフェ、レストラン、ロビーなどが収容されている。大きさは1200㎡というので、30-40m角である。構造は、細い竹柱を束ねたものをさらにいくつか集めてボックス状にし、その外に円状に広がって梁となっていく竹を囲む。中央の天井高いところには、竹が一方向にアーチ状に広がるもので、グリッドの構造システムは少し異なり、空間が開けたものになっている。竹は直径4センチ程である。街でみたところ、コンクリート柱が基本的に20㎝角であるので、こうした構造も可能なのだろう。一室空間の中に区切りがない機能的な空間をいくつか配置する計画にどことなく岐阜のメディアコスモスを思い出す。空調方式は見えなかった。メインの建物の前にも円形状の屋外休憩所があり、アクセントとなる。これも竹材で、直線材のない双曲面構造ある。このメインの建物と海岸との間には、四角い青いプールがあり、プール壁のエッジを立たせて、その向こうの海岸線との境界を消す。海は東に向き、北側に竹の屋外カジュアルなレストラン、南はコンクリートのモダンなレストランである。カジュアルなレストランの構造もまた異なっている。上弦下弦ともに束材で突っぱねた張弦梁構造である。2時間このプールサイドで過ごし、部屋にチェックイン。東洋人が多いのは、経営方針だろうか、昨日のアトラスホテルと対象的である。客室は4部屋をひと組とし風車型で、高密でもプライバシィーを配慮したかたちである。中央に4部屋の入り口が向き合う。各部屋全てに小さなプールがあり、間口の広い建物である。境界壁はグリーンが絡んだ石の積層であるが、建物自体は現代的である。照明は最低限に抑えられている。ダナンにギア氏のブリックハウスがあると聞いていたが、時間の都合上断念をする。

8月21日(月)
チェックアウトを済ませ、タクシーでハノイ国内空港へ。タクシードライバーは、市内を縦横無尽に走らせるが、空港近くのハイウエーにはいると安全運転になる。途中、違反で警察に呼び止められるも、振り切ったのには驚いたが、いつものことなのだろう。国内空港は国際空港とは少し離れ、共産時代のものだろうか、3方に延びた中心性のある空港である。壁面で閉ざされた空港で、外部の影響が少なく暑くはないが、快適性がいまいちのゲートで長く待つ。1.5時間のフライトでダナン空港に着。45分のタクシー移動で世界遺産ホイアンに4時頃到着。途中国道が拡張中で、舗装されてないところもあり、古い民家が壊されはじめている。インドの地方都市を思い出させてくれた。ヴォ・チョン・ギアが昨年完成させたアトラスホテルにチェックイン。ギア事務所に勤務していた安達くんに紹介してもらった。世界遺産地区に隣接する5層の現代的な環境を意識したホテルである。煉瓦壁面全体が緑化され、中庭にプールをもつ。リーズナブルな価格でよい。部屋にも広いテラスがある。チェックインした後に、ホイアンの街に出る。江戸時代初期の朱印船貿易港として日本と馴染み深いと聞く。日本—ホイアン文化友好交流が行われていて、ひとつの目的を済ます。ホイアンの象徴は日本橋である。街の中央にあり、瓦の屋根がかかるアーチのきつい石柱で支えられた橋である。その東が日本人街、西が中国人街と言われている。ベトナム人を含めてアジア系、ヨーロッパ系の観光客が多く、ランタンが至るところにあり、これまでの経験からもっともアジアを感じさせてくれる。見学可能な由緒ある古民家は木造で、200〜300年前のものであると説明を受ける。どれも中庭があり、手前がお店、奥に行くに従い住居となる。中庭に光りが入り込むように南2階部分がセットバックし1階屋根が見えるのが気持ちよい。欄間や構造体に彫り込んだ装飾が素晴らしい。1階床は石である。商店街に沿ってこうした商家といくつかの寺がある。寺も中庭型で、左右にパブリックな大きな机と椅子がある屋根のある外部空間がある。中庭正面が祭壇であり、その左右に小さめの仏像がある。完全な左右対称の中庭型であったからだろうか?どことなく韓国アントンなどで見た韓国様式を思い出させてくれた。夜に再び市場に出ると、益々人が増えていた。常時テントが張られた小物露店市場に行く。川を見下ろすレストランに入るも、暑くて途中退席。ホテルのレストランでベトナム料理の夕食。中庭プールに連続する開口がフルオープンとなるレストランである。

8月20日(日)
早朝の便でハノイ行き。機中で「ネーションと美学」を読み、途中から「Going in Style」を観る。モーガン・フリー、マイケル・ケイン主演。将来の明るい見通しが抱けなくなった老人が銀行強盗を通して幸福をつかむ過程をコミカルに描く。昼過ぎにハノイ市内に到着。2時間の時差。空港から市内までタクシーで40分。幹線沿いの建物は間口が狭く4〜6層である。地震がないのだろう。コンクリートの柱が細く20㎝、柱梁の間にファサードを自由にはめ込む建物が多い。チェックインをし、ホアンキエム湖近くを散歩。自動車、バイクの往来が激しく、通りを横断するのに一苦労する。これが幹線道路ばかりでなく全ての通りが同じであった。非常に蒸し暑い。ホテルに戻り、夕食で春巻き、ホーなどを食べる。明日の飛行機の確認に手間がかかる。ホテル室内TVのスポーツプログラムはFOXTVによるもので、オランダリーグを放送していた。

8月19日(土)
作品選集審査のため、福島行き。芳賀沼さんと江尻さんに同席してもらい、びわのかげ投球練習場の審査。曇ったり晴れたり天候は不安定であった。途中、地元の少年にピッチングも披露してもらう。1年が経ち、メンテナンス状態がよい。芳賀沼さんのおかげだ。入り口の雪よけメッシュシートを芳賀沼さんに変えてもらっていた。2:30に、審査員の東北公益文科大学の矢野英裕氏と岩手大の三宅論氏が到着。はじめに芳賀沼さんがプロジェクト経緯を説明した後に、ぼくから縦ログ構法との連続性の説明をする。仮設住宅からの職人関わるノウハウが生かされていること、移築解体が可能なこと、構法を熟成させることである。その後で、具体的にこの与えられた敷地と条件での展開を説明する。その後、江尻さんから構造の説明。主には、曲げのかからない擬シェルであることである。その後にざっくばらんに質疑応答を行った。二人とも設計が専門であるので、建物自体のデザインについての質問が多かった。構造については、なかなか伝えにくい。壁上部のかたちが完全な円形でないので、積雪荷重によって多少変形を引き起こす。それを防ぐためだけの横架材や箍というものが必要となるが、基本的に門型としての梁は必要ない。屋根の横架材は積雪荷重だけのものであり、テント材でもよい。これを明確にするには、ワイヤーなどを使用して、壁面上部の変形留めを行えばよいのだが、コストと風雨積雪のための機能的な屋根が必要となった。しかし、短手方向に壁はなく、横架材を剛接合にする必要もない。壁と屋根のジョイントは置くだけの簡単なビスやホールアンカーで行うことができている。CLTのジョイントが一般性を獲得するために、特殊な金物によって規定されることと対照的である。縦ログ構法は、自由度を確保する目的で、その都度ディテールが検討できる在来構法を目指している。それは、生産プロセスにも現れていて、新しい生産組織を必要とせず、既存生産体制のポテンシャルを利用するものである。この建築の表現の自由さはそこから来るものとして評価してもらえばと思う。
056 ブンデス第1節 ボルクスブルク×ドルトムント
今週からドイツも開幕。ドルトムントは最高の出発を、3-0で飾る。内容も完璧であった。先週の試合とは全く異なり、プレッシングが効き縦への早い展開で、DFも危ういところがなかった。特に3点目は圧巻。プロシッチの折り返しをGKとCDFとの間に滑り込んだオバメヤンのスライディングシュートであった。ゲッツエ先発で香川は85分から出場。新監督もトゥヘル同様に左右に速い選手を配置する4-2-3-1、あるいは4-1-4-1。香川はその中央のポジションを争わなければならない。

8月18日(金)
「ネーションと美学」の読書を実行。フロイトによって昨日と同様なことを説明する。本来崇高あるいは超自我というものは、理性(悟性)で説明出来ないものを、名前をつけることによって想像で納得させることだという。道徳についても明確に言及していた。「道徳的なあり方は、外から命令や強制によって吹き込まれるが、それはたんに他律的な道徳性にとどまる。それが自律的なものになるためには、反復脅迫的なものとならなければならない。」

8月17日(木)
気になるところあり「ネーションと美学」柄谷行人著を再読。昨日知った戦争の事実は、むしろ個人の道徳心でコントロールできないほどの皆が想像をした「ネーション」によるものなのである。死を前提とする外的要因にたいする不安は理性では払拭することができないので、その不安の下に、それを超える目的で皆が共同体意識を明確に認識する訳である。ネーションは、個々人というよりも共同体の永遠性を与えるものであり、人や人々にはこうした想像力が備わっている。このことが強調されている。単なるひとりの問題では済まされない問題である。そして、これを反対の創造的(生産的)に転化するための方法が示される。それは、感性と悟性を意識的にコントロールすることである。これを失った結果が戦争の悲劇である。これによると道徳ですら絶対的なものでなく、想像されるものである。戦争という異常時には道徳感も動いてしまう。道徳ですら、実体化、名前をつけることを前提としてはならない。それを乗り超える想像が働いてしまうからである。簡単なようであるが、カント以降の哲学者がこれを行ってしまったことを批判している。彼らをロマン派という。

8月16日(水)
よく建築において「場」という言葉を用いるが、そこにある違和感を今日理解する。場は内にむけた表現であり、外部にもたらす効果を排除しているように思えるからである。建築には、どうしても雨風を防ぐ壁や屋根が必要となり、実はそのかたちが人に多くの意味をもたらしてきた。「場」は、それに目を瞑ることを求める。壁や屋根は、内をつくると同時に、外との接点となるものなのである。NHKで731部隊の特集を観る。ロシアから最近発見された音声の軍事裁判記録によって、その存在と活動が明らかになった。731部隊は満州にあり、東大京大が当時の研究費を得るために、優秀な若手をそこに送った。当時も禁止されていた人体実験を多く行い、国家ぐるみの陸軍との内密行動であったのだ。送られた医師は当初道徳観があるものの、研究が国家から評価されるにつれて研究にのめり込み、人としての道徳観が全く失われてしまった。先日観た特集の空爆をするアメリカパイロットの場合と同じで、外からの権威と内の恐怖心や探究心の異常性が相まると、個人の道徳観でこれをコントロールすることは全くできなくなる。京大の西田一派が陸軍の拡大路線に反対して海軍と関係をもち、結局は戦争への意味を与えることで(「近代の超克」)、戦争への加担をしてしまったことは有名であるが、ことは全く複雑である。特集では、京大医学部の行動を事前と事後で結び付けてはいたが、番組内容ほどクリアではないと思う。

8月15日(火)
お金のかかるEthernet経由の移行を試みる。新しいMacには、ひとつのUSB-Cしかないので、そのためのアダプタの購入が必要となる。おそらくこのためにしか使用しないものだと思われる。加えて、古いMacにもEthernetポートがないので、そのアダプタも必要となる。自由度を求める新しいシステムが特権化し、既存のシステムとは折り合わない例の典型である。Macは革新的で、以前にもFireWireというシステムを開発した。これは今ほとんど見かけない。これと同じ轍を踏む危惧をいだく。こう思うのも、現在木造建築で普及させようとしているCLT構法と同様の臭いを感じるからである。WiFiが本来の姿とおもうのだが、その整備の不十分さがこうした混乱を招いている。以前の高速道路整備のように、利用する自動車量を見誤ったのでなく、爆発的拡大がもたらすインフラ整備費増大をコントロールするものでないかと疑う。ネットワークの性格上、どこでも同一のサービスが求められる。高いレベルで日本中整備するのは難しいのではないか。道路のように東京のみでは済まされない問題である。転送速度が50Mとなり、移行が1時間程度で成功する。

8月14日(月)
Time Machineを介してUSBでデータの移行を試みる。USBでは転送速度が5M程度であった。それでも事務所のWiFi性能の2倍はある。完了まで8時間程度と示され、1晩覚悟するも途中でストップ。おそらくTime Machineのデータ構成の問題ではないかと思う。完全バックアップとはいえ、3年分の上書きの積み重ねであるので、仕方なしと納得する。

8月13日(日)
妻の実家に帰省し、夕飯をごちそうになる。新しいMacへのデータ転送に悪戦苦闘。当たり前のように移行アシスタントで指示されるWiFiでは24時間以上かかることが判る。Macサポートで有線を使用した方法を調べる。

8月12日(土)
NHKで、本土空襲の特集を観る。こえまでの非公開であった多くのフィルムからその状況が明らかにされる。本土空襲によって46万人が亡くなった。そのうちふたつの原爆により死者が22万人。東京大空襲が10万人である。ここまで死者が拡大したのは、日本民間人に被害が及んだからである。アメリカは、マスコミの支持のもと、効果の上がらない軍需施設にたいするピンポイント攻撃から、無差別攻撃支持の指揮官へと変わった。そして、サイパン、硫黄島の激戦から、兵士が日本人への恐怖と憎悪が大きくなったという。このふたつによって、兵士個人の道徳が完全に失われてしまった。戦闘機の小銃器につけられたガンカメラからその様子が明らかにされていた。その映像には、攻撃目標を失った戦闘機が、軍の指令の下、自由采配が許され、動くもの全てに悲惨な攻撃を繰り返していた。それはCGゲームのようである。トリガーが外れたときの人間が脆いことをみる。他者に依存しない自己はいつのときも必要である。
054 プレミア1節 アーセナル×レスター
今週からヨーロッパのリーグが開幕する。プレミアのオープニングゲームにレスターが選ばれる。レスターは新加入FWが加わり、岡崎には厳しい状況が続くことが報告されていたのだが、今日は先発出場。おまけに先制弾をヘディングで決める。アーセナルを相手に、熟成した前からのプレッシングが有効に働いていた。その流れで、バーディも2ゴールを決める。70分過ぎにいつものように岡崎交替された後、新FWイヘアナチョ投入あたりから、全体的な疲れも出始め、攻守のバランスが崩れ、途中交代のラムジーとジルーにゴールを決められる。試合の詰めの段階で、チームとして上手く機能しなかった。3-4でアーセナルが勝利する。
055 DFBポカール リーラジンゲン・アーレン×ドルトムント
DAZNのおかげで、こうしたドイツ杯まで観ることができるようになった。ドイツ杯1回戦、相手は4部のチームである。DF力に関してはそれほど差がなく、固められるとドルトムントは苦戦をする。香川が60分過ぎから今季初出場。左に入ると、今季定着のシャヒンとのショートパスで、左の攻撃率を圧倒的に高める。しかし得点には結びつかなかった。昨季率いたトゥヘルであったら、雷がおちていただろう。どことなく緊張感がないのは、横へと後ろへのパスが多いからである。ボールを受けたらとにかく前を向く。これが昨季は徹底されていた。今日は、そのトゥヘルが重宝したデンベレ、プリシッチ、ゲレイロといった選手が諸々の理由でいなかった。前への推進力に圧倒的に欠けていた。

8月11日(金)
BSにて「怪談」小泉八雲原作小林正樹監督を観る。短編4作である。「黒髪」の冒頭部分の門のシーンといい、「雪女」といい、「耳なし芳一」が奏でる平家偉所の並びなど黒澤監督の「夢」と重なるものが多い。このことに気づく。ストーリーと関係ない自然背景が横長のアートであることなども、そのように思わせる。ともかく映像美に圧倒される。1965年作というのも驚きである。今のようなCGがない分、ストーリーに飽きないのは迫力でしかない。主役はそれぞれ、三國連太郎、新玉三千代、仲代達矢、岸惠子、丹波哲郎であった。このとき若かりし俳優がその後トップスターになっている。小泉八雲は、柳田国男、折口信夫とともに日本再発見者といわれる。この映画も、神話・伝説・昔話を再構成したものだ。この再話という方法に興味をもつ

8月10日(木)
彰国社にて、原稿の打ち合わせ。ぼくとしては、残りの原稿にかかることにする。夕方レジスと打ち合わせをして、事務所に戻る。縦ログ本の原稿の整理。新しい構法によって、技術的問題と構法を廻る社会や人との関係の見直しとなることを目指してきた。同様のことを、「デザインの鍵」にある「ジョイント」にあることに気づき、それを中心にしたストーリーを考える。そして導かれる結論が、CLT構法とは異なり、構法の特権化をなくした自由度のあるものとなること、このことを考える。

8月9日(水)
遠藤研学生と、この秋出展する我孫子美術展の打ち合わせ。この夏までに研究室として取り組んできたこと、それはモノの機能を発見しそれを組み上げることであるが、その延長上に位置付けできる計画が話し合いの中で生まれた。なんとか上手くまとめたいと思う。今年の敷地は、古民家を利用できる。6m×10mの以前スーパーであったプレーンな空間である。真っ新な敷地でなく、すでに与えられた空間ではあるが、将来こうした6m×10mの空間を設計することを考え、がんばってもらいたい。次の話合いに期待しよう。

8月8日(火)
NHKで、8/6のヒロシマを、ビッグデータで読み解く特集を観る。当時の悲惨な状況を風化させないためにこの特集では、8/6前後のひとりひとりの動向に、気象、聞き取り調査内容、警察官による調査報告を重ね合わせ、新事実を明らかにすることが目的である。それは、今まで原爆の影響が少ないと言われてきた2.5km圏外の1%の死亡原因の追究となる。ビッグデータのテール部分の意味するところを明らかにし、それによって原爆の人体にたいする影響を再検証していた。こうした情報は今でもデータ化が続けられているという。データが多層であることと動態であることで、新しい局面が見出されている。

8月7日(月)
一昔前に流行った「パラダイム論」、昨年からよく読むようになった「スペキュラティヴ・デザイン」、現在翻訳中の「Battle」。どれもふたつの対照的な世界の交わらない平行関係を書いている。けれど同じ世界に住み、同じ様な建築をつくっているのだから、そこに交流がある。その現実に注目したのが東浩紀の観光論であった。グラフ理論を持ち出し、現実の下部構造が上部の形而上世界を動かし変える可能性を数字で示した。建築をつくることも同様であると思う。主体が社会にもたらす可能性は残されていると思う。

8月6日(日)
朝起き、昨日に続き錦織の準決勝を観る。今日も20歳の若手が相手であるが、今年勝ち続けランキングが上のズベレフである。初めての対戦と聞くが、為す術なくあっさりストレートで負ける。終始相手のペースであったことをどう捉えるか?今後の課題である。オープンキャンパスの説明会のため大学行き。高校生向けに2回の説明会を行う。説明会に出席する人数、ブースに訪れる学生の質問を通じて、他学科と比べて建築学科受験生のモチベーションが高いことを感じる。建設の好景気もあるのだろうが、社会の行き詰まり感からデザインに何か新しい可能性を高校生が期待していることが判る。この高揚感をしぼめずに、成長させたいと思う。

8月5日(土)
朝起きると、錦織が試合をやっている。マッチポイントを握られてから、1セットを奪い、大逆転の勝利をおさめる。相手は調子よいとはいえ、ランク200位であった。実力の差を思う。ランキングの差ほど差はないが、じつはこの差は大きい。このことをいつも感じる。今週の残仕事を仕上げる。その中でNIKEプロジェクト原稿整理がある。その結論を決める。新しい可能性のある構法をコントロールするために、次々と基準が付加されることで自由度が失われてしまう。このことを避けたいと考えた。これを結論とすることにする。

8月4日(金)
「エル・アレフ」ボルヘス著を再読。ある民家の地下に存在するエル・アレフという物体にまつわる著者の心情を綴る短編小説。これは、無限の知識を備えている。1949年の作品であるので、科学によって明らかになる世界にたいする人の道徳観を示すものと思われる。原広司氏の薦めで、西澤立衞さんらと読んだ。錦織の登場したワシントンオープンを観る。苦手のデルポトロにまずまずの勝利をおさめる。

8月3日(木)
時間の合間を縫って自動車免許の更新へ行く。ドラマ仕立てのビデオ、さだまさしの心情に訴える歌を観る。「ハイコンセプト」ダニエル・ピンク著大前研一訳を読みはじめる。「A Whole New Mind」
の日本語版である。中埜博さんに薦められた。日本語版は、全くの実用書である。

8月2日(水)
新しい原稿のストーリーを整理し章立てを考える。1.建築にも作法がある 2.建物と建築の違い(建築の4層構造) 3.表と裏を超えて(美術館) 4.中身のない空間はない(アートと建築) 5.空間のマネジメント 6.集まって生活すること(学校) 7.個性と管理(ホラクラシー) 8.全体の中から生まれるかたち(パタンランゲージ) 9.かたちの持つ機能 10.観察と創造(ビッグデータ) 11.外をみるということ(デザインスゴロク) とする。

8月1日(火)
「建築の条件」坂牛卓著の感想をまとめる。アートも建築も、「超越的で絶対的な価値」から、「見る者を超えることなく見る者と同じ次元に位置」するものへと変換していくことに同意しつつも、自分と全く異なる建築の見方があるものだと今さらながらに気づく。それは、本書のいう「ハビトゥス」の存在に同意しつつも、ハビトゥスを、外/内のどちらのものとして見るかの違いである。そのことに気づく。大まかにいうと本書の目的は、建築を成り立たせている表象へ外から肉薄することにある。いかにつくるか、仮説は何かというような、人間の内面(第1部の内容)に関わる問題にたいしてさほど問うてはいない。それは、「ハビトゥス」が外在するものと考えるからである。それは、例えば池辺陽の「デザインの鍵」とは対照的なものであり、主体性といってもそれは、倫理性の中に位置付けられひとつのアクターと考えられている。坂牛さん訳の「言葉と建築」には、本書で指摘しているように「形」「構造」などの建築内的問題が挙げられている。一般に構造とは、中心からの距離を形にしたものである。そうした中心など存在していなく、全てが外在化されたものと見るのが本書の特徴である。もうひとつの発見は、「テクトニック・カルチャー」の位置づけである。ぼくにとって「テクトニック・カルチャー」は、心酔しつつも同意できないものであった。この原因を本書によって整理することができた。「テクトニック・カルチャー」は、多木浩二の「生きられた家」と同列なものであるという。「テクトニック・カルチャー」も日常性について書いたものであったというのは、目からうろこであった。技術さえも特権化が失われ、その延長上にぼくらがいる。これへの足掻きの気持ちであったのだ。

7月31日(月)
昼の便で東京に戻る。夜は学科の懇談会。2次会に田井さん設計の新宿3丁目のバーへ行く。慌ただしい1日であった。

7月30日(日)
大原美術館を廻る。最初に完成した本館は1930年であることを知り驚く。イオニア式オーダーの円柱が三角形破風を支える薬師寺主計設計である。当時は渡辺要のトップライトがあったという。現在はいくつかの別棟が建設され、コレクションも多様である。本館後の設計は浦部鎮太郎と聞く。その過程を通して日本に、建築の近代化が根付いていくことが判る。途中楢村徹氏が手がける古民家を回る。古い街並みに新しい木造を差し込んだ誰もが気持ちよく感じる空間である。こうした試みが連続するのは、建築が人を呼ぶことで、経済性が成立していることの証である。そのノウハウのディテールが分析されるべきことを感じる。バブル以降続く試みである。

7月29日(土)
岡山行き。SANAA設計の岡山大学内のJテラスカフェへ行く。古河公園の同類作品から動きが生まれる。屋根はわずかにうねり、流動的な平面で内外が曖昧である。深い庇空間で直接光も入らず、真夏でも暑くはない。芝の小山もあり、ランドスケープと一体化した建物である。前川國男設計の林原美術館へ行く。岡山城内の門と石垣を上手く取り込んだ小さな美術館である。1960年代の作品としては修景を意識する現代的な建築で、今日夕方に訪れた倉敷市庁舎と対照的である。倉敷市庁舎の竣工当時の二川さんの写真が展示されていたのだが、木造住宅の中に忽然と舞い降りた建築が倉敷市庁舎であった。しかし、美術館内部は古典的で見るべきものではなかった。その後、もうひとつのSANNAの岡山大学内の福武ホールへ行く。SANAAの新しい展開を見ることができる。屋根の建築である。ひとつの屋根がひとつの場所をつくり、ホワイエ、前室、ホール部分、サブ空間、屋外空間に、それぞれに傾いた屋根がかかっている。そうした空間が重なり合ってひとつの建物となる。中央のホール部分もガラスに囲まれ、その内側をカーテンで囲う。構造部材はしっかりしていて、屋根の厚みもある。現代建築が目指す純化というものとは異なるかたちの主張が屋根にみられる。その後、SANAA初期のS-HOUSEへ。現代アートを中心とする個人美術館へと用途変更されているが、かたちは竣工当時のものである。度々雑誌で見ていたので懐かしい。入れ子状プランで外側はFRPのダブルスキン。内側は木建具と木ルーバーで制御される。住宅地にある。そこから、この構成を理解できるし、そうした中でも室内環境をコントロールしようとする強い意志が感じられる。プランを機能性から構成するのでなく、徹底的な図式化から導いた希有な建築でもある。ただし、ローコストと経験不足からくる性能不具合が散見でき、それは自分にもあてはまることでもあり、心苦しさを感じる。その後、倉敷に移動し、旧市役所(現市美術館)丹下健三設計へ。力強い構成で空間的である。正面性もある。多焦点であるがSANAAも図式的である。建築の基本をみる。3階議事堂は、現在ホールとして使用されている。子どもたちの発表会を観る。内部はぼそぼその吹き付けコンクリートで、ロンシャンを思いださせてくれるが、白色であるので深みがない。浦部鎮太郎設計の倉敷国際ホテルにチェックイン。夜の食事を、倉敷の古民家再生を生涯続けている楢村さんの設計で、保存地区内にある倉のイタリアンでとる。

7月28日(金)
龍ケ崎行き。基本案の一通りの了承をもらう。次回打ち合わせでは、構造との打ち合わせが必要となるだろう。「建築の条件」を読み終わる。つくづく自分の思考は、対象を中心として、それを拡げる方へ向かうものであることを知る。しかし対象ははじまりの仮説といってもよく、結論は未知で、外に向かうものである。これまでの価値観を信じていないので生まれるものは周囲となじまないことが多い。それにたいして本書は、もちろん結論ありきではなく、分析がまず重要視され、批判的思考によってつくられる。したがってモノの部分に特徴が見られる。生まれるモノには評価基準が定められない(分析不能である)ので、そういう形式となる。

7月27日(木)
「建築の条件」を読み終わる。後半第2部は、消費性、階級性、グローバリエーション、アート、ソーシャルである。人間に外在する問題としてこれらが挙げられる。しかし著者の主張はこの後半の外在の問題の方にあるのが面白い。アートも建築も、この本でも、「超越的で絶対的な価値」から「見る者を超えることなく見る者と同じ次元に位置」p257していくものなのである。つまり、アートまたは建築は、その文脈に位置付けられはじめて価値をもつものとなるのだ。別なところp261では、美学的から文化的、社会的という変遷として記される。本書は、建築を成り立たせている表象へ肉薄することがテーマである。いかにつくるか、どう捉えるかというような、人間の内部(第1部の内容)にたいしては冷ややかにさえ思える。例えば池辺陽の「デザインの鍵」と対照的であり、人間が中心に位置付けられることはない。構造、構成という考えもこの構図から派生するものであることを痛感させられる。主体性といっても、倫理性の中に位置付けられるものであり、ひとつのアクターでしかない。

7月26日(水)
3年生前期建築設計の、美術館と小学校の講評会を、佐藤裕さんと金野千惠さんをむかえて行う。金野さんから、展示物設定の曖昧さを指摘される。箱と内容との関係を指摘されたことになる。提案した空間には説明が求められ、それは、必ずしも制作プロセスから生まれたものと一致はしない。そのことに自覚的になる必要があり、客観的な言葉で語る必要もある。その意味で、金野さんが指摘してくれた湿度感というような切り口は面白い。特異な人体解剖標本のようなものを展示として選んでいた学生がいたが、それに適する空間には、例えば湿度と反射率などを数値化して示す方法がある。特異な空間を目指すほど要求されることだろう。この点で全体的印象として、美術館課題は低調であった様な気がする。学校課題では、よりリアルな解答が求められた。敷地や地域の読み込みについては一定の評価を得られたのだが、学校自体の運営についてつっこんだ案がなかったということである。ぼくも含めて、学校の内実についての理解がないということだろう。それを、Cリーグ目指してブラッシュアップしなければならない。思うにそれは、子どもが自由に活動し、生き生きするための空間を用意することと、それを保障する管理方法がペアでなければならないということである。学校というビルディングタイプでは、児童と先生は対で考えられる。一方への視線だけでは不十分で、自由と管理をバランスさせるもうひとつ上位の管理が必要とされる。それが当事者でない建築家に期待されている。さもなくば、児童の自由は簡単に管理し易い方向へと変更されてしまう。厳しい指摘をしてくれた学校計画の専門家である佐藤さんや倉斗先生は、痛いほどそうした経験しているのだろうと思う。優秀作品に学校の位置付けを周辺地域との関係で明確にしている2案が選ばれた。それは、学校周囲施設のネットワーク図をデザインし、そこに設計する学校を位置付けたものであった。2案とも新しい散策路がインフラとしてデザインされ、今年の新しい切り口である。それを示す模型がビジュアルのために必要となる。

7月25日(火)
「建築の条件」を読む。エマニュエル・レヴィナスを引き合いに、「自分には理解できないもの」を他者とする定義が面白い。対象化して理解できるものは他者ではないのである。フロイトの自我がそれにあたるのだろう。第8章「アート」に、意外な発見があった。そこでは、ヴェンチューリとバンハムを同列に置いている。それは、ポップアート的様相を建築に位置付けたのがテクノロジーによるバンハムであるという批評である。続いて、多木浩二の「生きられた家」とフランプトン「テクトニック・カルチャー」も同列に置き、それは日常性においてであった。ぼくには、「テクトニック・カルチャー」に心酔しつつも、同意できないところがあった。この指摘によって、この気持ちを整理することができた。

7月24日(月)
2年生の住宅課題の講評会。非常勤先生を中心に行う。講評会に選ばれた案とは、解答が完璧というよりも、批評に値しているからである。河内さんのその指摘は正しい。それにしたがい発表者は、客観的で俯瞰的な言葉で説明する必要がある。好き嫌いという感覚にて設計したとしても、そこから生まれた結果を説明し、批評を受けなければならない。環境からの様々なアプローチが試されたのも今年の特徴である。中川、若山両先生のおかげである。講評の後、中川さん、河内さんと食事。講評の合間に発表した遠藤研作品について講評をもらう。ふたりともゲーリーの作品との関連を指摘してくれた。この作品では、主体性の排除を目指している訳でなく、主体性を持つことによって反対の頑なな設計にならないことを目指した。このことを理解してもらったのはよかった。とはいえ、作品つくりがゲーム遊びと異なるのは、決断をどれだけ真剣に行うかによっている。こうした実験では注意しなければならない点である。中川さんの自らの作品を、類似と差異という言葉で説明してくれた。フーコーの「知の考古学」からの言葉と思われるが、他者の言葉を自分の言葉にしてしまうのではなく、解釈を拒むかのように黙して語らない石像美術のごとく文章を鑑賞してみようということだろう。難波さんを意識した言葉である。

7月23日(日)
NHK特集で日本列島の成立過程を観る。太平洋プレートがユーラシアプレートの下に潜り込む反動によって、ユーラシアプレートの端部が引き裂かれ日本列島ができたという。そのときは、東西ふたつの島に分かれていたのだが、富士火山帯の連続的噴火によって現在のひとつの日本列島が完成した。1500年前の話である。「建築の条件」を読む。建築の表層に迫ることは一方で、制作ポイエティークについて片落ちとなる。そう思いながら、3章の「主体性」に注目する。そこには、当然これまでとは異なる主体性が示されている。それは、フーコーの「混在郷エテロトピ」に代表されるものであった。コンピュータ技術がもたらすものがそれである。通常の主体性は次章の「倫理性」にあった。ブルデューを引き合いに「ハビトゥス」(習慣的枠組)の更新がそれにあたる。アンソニー・ヴィトラー「不気味な建築」も挙がられる。しかしそれがもたらす意識構造には触れられていない。この差異がぼくとの違いである。

7月22日(土)
ビッグサイトにて、高校生に向けてレクチャーをする。「未来への思索のために建築ができること」と題して、デザインの社会的役割について話す。高校生は真剣に聞いているものの、メモをとったり、笑ったりするなど反応が今一であったので、引き込むことに苦労する。150名程度相手であったのでこれも可能であった。各大学から先生が招待され、ビッグサイトいっぱいを使って、1日8回くらいの講義が行われる。かなりの数の先生に高校生は触れることになる。子どもの数が少ないことを受けて、こうしたことまでが商売となっている状況を実感する。

7月21日(金)
「建築の条件」坂牛卓著を読みはじめる。坂牛さんには及ばないものの、読書歴が重なっている部分がある。しかし、全く異なる見方であることに気づく。視線の先が異なるのだ。この違いが何に由来するかを考えて本書を読んでみよう。第1章の「男女性」にカワイイ論があり、2章の視覚性にグリーンバーグ、クラウスが語られる。社会やモノの構造というより、外から肉薄する表面への視線が特徴的である。ぼくが考えがちの構造というと、それは建築内からの視線であることに気づく。

7月22日(土)
ビッグサイトにて、高校生に向けてレクチャーをする。「未来への思索のために建築ができること」と題して、デザインの社会的役割について話す。高校生は真剣に聞いているものの、メモをとったり、笑ったりするなど反応が今一であったので、引き込むことに苦労する。150名程度相手であったのでこれも可能であった。各大学から先生が招待され、ビッグサイトいっぱいを使って、1日8回くらいの講義が行われる。かなりの数の先生に高校生は触れることになる。子どもの数が少ないことを受けて、こうしたことまでが商売となっている状況を実感する。

7月21日(金)
「建築の条件」坂牛卓著を読みはじめる。坂牛さんには及ばないものの、読書歴が重なっている部分がある。しかし、全く異なる見方であることに気づく。視線の先が異なるのだ。この違いが何に由来するかを考えて本書を読んでみよう。第1章の「男女性」にカワイイ論があり、2章の視覚性にグリーンバーグ、クラウスが語られる。社会やモノの構造というより、外から肉薄する表面への視線が特徴的である。ぼくが考えがちの構造というと、それは建築内からの視線であることに気づく。

7月20日(木)
ノイズの豊田啓介氏を千葉工大に迎えてのレクチャーを行う。デジタル技術を使うことで自らのレンジが拡がっていく実感を、実例を通じて示してくれた。創発に関する考えなどぼくと重なることが多く、最近のデジタル技術を操縦できないぼくには、その実感から遠ざかってしまっているので、彼の状況を少し羨ましく思う。これほどのエキサイティングなレクチャーであった。レクチャー前半に紹介してくれたアート作品は、名和晃平氏、BAOBAOらとの共同で、デジタル技術を繊細に試みることによって、より自然な状態に近づけることを目的とした作品であった。難波和彦のいう、微細な構築がもたらす意味的かつ物理的な透明性、これをサステイナブルデザインといってもよいが、これがデジタル技術によってはじめて実現可能となることを示すものであった。具体的にそれは、動くことによって自然に近い状況を視角化させようとする作品である。もちろんこうした試みは実験的である。後の食事会で話したところ、金銭的理解がある台湾においても、この試みはかなりのリスクを背負うものであったようだ。若かったからできたとお話ししていたが、この試みに敬服する。豊田啓介さんによると、最近のデジタル技術は生産面に関わってしるので、情報とマテリアルの境界までもシームレスにすることが可能であるという。これは、マスプロダクトからマスカスタマイズの方向に、専門性から一般ユーザーへという流れで、社会に広く馴染む方向のものである。そして多くのひとが様々な創造を可能とする状況をつくりだしている。ただし、ことデジタルインフラに関しては、その独占がはじまっており、新しい管理社会が構築されつつあることを見逃してはならないことも同時に思う。豊田啓介さんは情報学のようなものを立ち上げようとしているという。彼のようなつくる立場の人が、この新しい管理社会に注文を出すようにしなければならないと思う。その意味で情報学を立ち上げることにも賛成する。もうひとつ面白いことがあった。豊田さんは安藤事務所で、みっちりと大道の建築の修行をしていることだ。おそらく、作品にのめり込みつつも、社会との接点の重要性を失わないことだろうと思う。他のデジタルアーティストと比べて、ふたつの世界を俯瞰することができているからだ。

7月19日(水)
「パターン、Wiki、XP」を通して、パタンランゲージの新しい解釈を思い付く。パタンランゲージを辞書として使用することとの違いである。対象(オブジェクト)を大きなコンテクストに位置付け、対象が単に名前だけでなく、具体的な形として無限に広げた形の中に浮かび上がってくるシンボリックなものとして考える。これがパタンである。与えられる教示的なものでなく、パタンを生成物のように扱うことである。パタンは無限の成長の一形態であり、繰り返されるものである。設計とは、こういうことをいうのだろう。例えば学校というものはある制度のもとで運用されるビルディングタイプではあるが、地域という中からシンボリックに上がってくるものとしてみることである。

7月18日(火)
「パターン、Wiki、XP」再読。昨日書いたプログラム方法を、コンピュータの世界では、オブジェクト指向プログラミングといっていることも判る。これは、データ指向に相対するもので、ある目的に従って、複雑なデータを取り合えず捉える手法である。空間に名前を付けることであるが、それをもっと柔らかくいうと、パタン認識いうものである。HOWからWHATへの移行であった訳だ。WHATであることで、分析型から提案型への移行が可能になった。

7月17日(月)
「パターン、Wiki、XP」江渡浩一郎著の再読。Wikipediaとパタンランゲージのつながりについて再確認。これまでのプログラム設計がアルゴリズム処理手段とデータ構造という2段構えであったのを、パタンランゲージをヒントに、ふたりのプログラマーがユーザーインターフェイスを重視するようひとつに統一したということが判る。繰り返し現れるプログラム手法をパタン化して、それをインターフェース上に載せたのである。そのユーザーフレンドリーな構造が、爆発的な拡大に繋がった。ぼくらのみて、だれもが参加出来るWikipediaはその最大の成果物である。つまり、ここでは曖昧模糊した現象を捉えるのに、パタン認識とそのオープン化のふたつが構造化されたわけだ。ここには、善悪というような価値判断がないのが特徴である。ビッグデータによる淘汰によって、その機能が担保されている。とはいっても、かたちのない大きなストリームにたいしては批判できないのである。ぼくらに許されている現実とは、その上の参加というかたちをとる個性発揮でしかないのだ。どことなく最近の建築におけるワークショップに近いものを感じる。このことに最近気づいた。

7月16日(日)
忙しい休日を過ごす。墓参りに行き、その後山梨のキースへリング美術館。途中で三分一湧水というところで、蕎の食事。なかなか美味しかった。その後、高速の反対側にある尾白の湯。途中白州を通り抜ける。緩やかな開けた田んぼの山裾に温泉があり、湯船が広々として気持ちよい。管理されたキャンプ場が隣にある。20号の東側は永遠と断層が続く。韮崎駅はそれを超えたところにあり、断層真上に大きな観音仏があり、街を見下ろす。韮崎経由の高速で帰宅。途中韮崎高校があり、中田英の高校かと思うと感慨深く思う。夜、フェデラーとチリッチのウインブルドン決勝を観る。フェデラーは、勝つためのスタイルをもっていて、それに持ち込む能力が高い。錦織との差をここに感じる。無理することなく、短時間で圧勝した。それを思うと、全豪でフェデラーにそうさせなかった錦織の健闘を称えたく、この死闘を制することができればと残念に思う。

7月15日(土)
龍ケ崎行き。ブラッシュアップした案を提示し、概ね了承される。これで詳細な技術的問題の検討に入ることができる。
053 親善試合 浦和×ドルトムント
ヨーロッパリーグも休みが終わり、新シーズンに向けての準備がはじまる。ドルトは監督が変わった。4-3-3を基本に後半は3-5-3となり、昨年とそれ程変わりがなく、今日を見る限り新監督のコンセプトは見えてこなかった。それよりも前半はレッズの闘志が目立つ。それに圧倒され、攻め手をつくれなかったのかもしれない。しかし後半からレギュラーが保障されていないモチベーションが高い選手が出ると流れが少し変わる。モルがかき回し、個人技で浦和を逆転する。とはいえ、モルの持ちすぎは今後の課題だろう。香川は、代表戦の怪我のため欠場。

7月14日(金)
昨日に続き、データの整理。その中で、デザインの役割について気づくことがあった。同じデザインも、受け取る側には答えにもなり、疑問が呈される、このふたつの可能が生まれる。拡散型思考を促すには、この後者の役割が大きい。これによって、これまであたりまであったことがはじめて見直されることになるのだ。

7月13日(木)
来週、幕張で行われる高校生向けの模擬授業の整理をする。「未来を思索するために建築ができること」と題し、これまであたりまえと思われていたことをひっくり返す建築あるいはデザインの力を紹介することにする。この力によって、社会が大きく変わることがある。その実例の紹介である。これまでの美学を否定できたフラー、これまでの業界構造、工程を変えることができたイッセイミヤケ、機能に合った素材選びとは逆の、素材から新しい機能性を発見したイームズなどを挙げ、デザインには、答えを与える役割に加え、問題を巻き起こす起点となりうることを示し、むしろそれがデザインの本質であることを示そう。逆にいうと、それだけ既存のフレームワークから逃れるのは難しいことでもある。そうするために、パタンランゲージのもっていたユーザに対するオープンソース性が役立つ。Wikiの本質がそこにある事実を示すのもよいかもしれない。加えて、デザインスゴロクのような俯瞰的視点を与えるツールを使うことも有効である。このことを示したいと考えた。

7月12日(水)
生物学者ルイ・パストゥールがいったという「偶然は心構えのある者にしか微笑まない」は、アイデアの発想を上手く言い当てた名言である。ある本で廻り合う。

7月11日(火)
新しい原稿の準備にかかる。設計に求められることを書こうとするだが、それだと教条的になり、学生が外向き思考できなくなることを懸念する。ぼくや多くの建築家が実際に行っているように、既存のフレームワークを疑う姿勢の必要性を痛感する。設計行為において、闇雲に与えられた条件を解いてしまうとしたら、それは創造行為でなくなる。このこともあわせて強調する必要がありそうだ。テーマを少し拡げ、もう一度考えることにする。

7月10日(月)
先週末に研究室活動として八王子に行き、研究状況の報告会をしたので、今日のゼミは休みとする。夜に、娘が事故に遭ったというので大慌てとなる。現場に駆けつけると、たいした怪我もなく一安心する。

7月8日(土)
朝食を、新しく建てられた木造建物でとる。尾根の突き出た先端にその建物はある。景色を取り込むように外に開かれた建物で、気持ちよいが、なぜか物足りなさを感じる。その横には、タイルアートとした大浴室がある交友館がある。この浴室は、冨田玲子さんの設計と聞く。本館にあるコンタ模型を見ると、意外な事実を発見する。本館と講堂の間に山頂があり、そこは手つかずのまま残されている。そして、尾根筋が基本的なアプローチ路となっている。敷地と建物の関係がよく判った。先程見た交友館は、大きな煙突をもち、重要な位置付けにあるのだが、その手前にさくら館ができ、その位置付けが曖昧になってしまった。高いところで、本館、交友館、講堂で施設の一体感をつくり出し、以前はその下に宿泊ユニット群があった。そのクラスターに、ユニット各室からの焦点をつくるために、谷筋をまたぐようにユニット群が建てられている。が、昨日見て判ったように、その配置のため朽ちるのを早めてしまった。地形から発想するなら、同じ高さのコンタ上にユニットを配置し、中央を最も小高い部分にし、外に開くような構成とすべきであった。このことに気づく。ともあれ吉阪建築とは、体験可能な原寸模型建築である。

7月7日(金)
芳賀沼さん来所し、龍ケ崎住宅の改築の打ち合わせ。スタッフと話をしている中で、新しい展開を思い付く。彼が言うには、近頃発表されるリノベーション作品の多くは、構造を顕わに保存した上で間取りが変えたものであるという。間取りの変更は、既存住宅の機能的破綻を解決するものであるので合点がいくが、構造を顕わにすることは、近頃の建築家の行動に反し、強烈な意志を表すものである。一般的なリノベーションで、これを行わないことからもそれは明らかで、彼はその違和感を指摘していた。それは、無意識に建築家の中に、構造が上位概念、その下に生活があるとし、このヒエラルキーが横滑りしていることではないか?と考えた。ぼくらの提案する案も同様のかたちをとっている。空間を拡げるために、閉じた縦ログの箱を既存住宅の中に用意した。これによって構造的にも環境的にも最大限の効果をあげることができる。果たしてこれからこの案をどう考えようかと思い巡らす。
午後、研究室活動で、八王子セミナーハウスに何年かぶりに行く。とはいえ、訪れるときはいつも雨が降っていて、十分に各建物を観たのは今回が初めてであった。まずは本館の逆四角錐型外観に圧倒される。こうした建物は少ない。観る側に傾斜をし、加えて、建物の重量感がなおそうした未経験からくる不思議さを増長している。これと対をなすように、中央セミナー館は、姿を谷間に隠し、四角錐の内部が圧巻である。宿泊ユニットはかなりくたびれていたので、少し残念であった。松下館は、敷地を活かしたユニットの連続建物である。しかし屋根が一体化しひとつになり、大地へと連続する。ユニット建築がこれほどダイナミックなかたちになることに驚く。こうした経験は初めてである。シェル屋根の講堂と図書館のつば競り合う庇がつくる屋外空間は、涼しい風道である。ただし、室内空間との連続が弱い。つまりは、外か内か2分するのがこの施設の特徴である。それだけ繊細な構造ではないのである。野外ステージは、単なる外部空間として軽く見ていたが、ステージ上から見上げると、講堂と図書館に囲まれ、さながらオペラ劇場のようであった。大きな模型、あるいは現場観察からでしか発見できない設計だと思う。同様に長期研修館の通り抜けアプローチからは、飛行機が下降するときのコックピットからの眺めたようだ。国際セミナー館の屋上は滑走路のようで、それくらいダイナミックな構成であった。吉阪さんらは登山家でもあった。この国際セミナー館は、山の尾根筋をデザインしたものなのだ。そう考えると、谷筋にあるユニットハウスは、華奢な木造ではあるが、朽ちるのが早いことに合点がいく。谷をまたぐ松下館はなんとか持ちこたえている。建物の配置には、谷を避けるべきことを教訓とする。

7月6日(木)
彰国社で、出版に関する打ち合わせ。設計と講義科目のリンクについて、今一理解されない。このことを歯がゆく思う。設計課題に、設計技術の向上や創造性を鍛錬する直接的な目的と、その課題を廻る建築的知識や思想を知る目的をもたせたい。各講座で、それとの関係を多面的に示すこと、逆にいうと、そのとき学んだ知識や思考を設計として実践し、検証することに設計が位置付けられればよいと思う。つまり設計を、結果というより手段として考える。それが将来の拡がりをつくるのではないか。もう少しトライしてみよう。

7月5日(水)
「バースト」を再度整理する。スケールフリーの実在によって、自然や生物、生命といったものは、偶然の産物という見方が出来る。たまたまの線の組み替えが一気に態勢、システムを変えていき、偶然に同じ組み替えをする他者が数%いることで、こうしたことが起こるのだ。この可能性を数字で示したことが本書であった。しかしそのことを、事後に機能的に説明することが可能であっても、進行中にそれを行うことは難しい。なぜなら、進行中には、線の組み替えを無数に、自分も他者も行っているからである。バーストが起こった後に、線の組み替えの成功の原因が特定できるのである。創造に関しても同様だろう。だとすると、過去を振り返り、組み替えが成功した痕跡を見ることはできても、その痕跡を廻る当時の環境は不明のままである。それはかたちにないからである。「Battle」では、土地の観察、センターの見極めが主題であった。これも眉唾もののように思えてくる。当然のことながら、そう簡単に説明できないことだけは判る。「デザインの鍵」には、「名前のない空間へ」という章がある。名前あるいは機能的な説明で納得することが最も創造と遠い行為となる。このことをいっている。

7月4日(火)
夕方、下訳をもって中埜さんの事務所へ行く。「Battle」は当初、アレグサンダーと細井理事との共著であったらしい。中埜さんが細井理事の文書を英訳し、その量は今の1.5倍くらいあり、各章で担当を分けたかたちであったそうだ。ふたりとも頑固で、いくつか妥協できない問題があり、その試みは決裂したそうである。中埜さんは最近、15の幾何学的特質を組織化するための人間行動に置き換えていることを聞く。「Battle」でも、幾何学をtransformationと置き換え、より実戦的なのにしていた。中埜さんによると、パタンをランゲージにするには、考えられているほど容易ではなく、盈進のときにアレグサンダーの中心課題であったという。本書を読むとそのことがよく判る。土地の構造を読むことでそれを追究していたのである。土地の構造によって、パタンがランゲージになった。つまり、パタンの問題とセンターあるいは幾何学の問題を、盈進以前は別個に扱っていたのを、盈進によって繋げた訳である。と同時に、メキシカリの住宅「住宅の建設」でも扱っていた生産の問題も、このパタン+土地という案を形にするための重要なファクターとなった。ぼくが思うに、15の幾何学的性質とは、多くの情報をとり込むための緩い枠組のようなものである。それは受動的に聞こえるかもしれないが、枠組みを設定するので、当然のことながらある価値観が存在する。そして受け入れる側にも上手い資質、構造がなければ、それが可能とならない。それは生来のものでもあり、学習することもできる。その学習方法を中埜さんはメタファーという。それは、見たり感じたりして、自分の場合にあてはめ真似することである。

7月3日(月)
「バースト」を読み、スケールフリーの問題を整理。まずは、ワッツとストロガッツによるネットワークモデルというものがあった。これは、円上に等分割された頂点とそれを結ぶ線で説明されるものである。狭い社会では、隣の頂点としか結ばれない。これだと反対側にある頂点にまで達するのに、相当の線を経なければならない。例えば、22の頂点がある円では、対角線上にある頂点には6本の線が必要となる。しかし、人は遠くに飛ぶことができる。それによって、対角線上の頂点にたったひとつの線でいくこともでき、平均するとその線は3弱本になるそうである。これがスモールワールドである。ワッツは世界がこうしたランダムネットワークであると考えた。バラバシはそれに主体性を考慮した。世界はこれほどランダムではなく、偏りがあるというものである。それがリンク数の多いWEBを生み、一部の富豪をつくり出している。なぜか?それは、「優先的選択」というものがあるという。それから発生するモデルをバラバシは考えたのである。それは、最もリジットな初期モデルの15%の線を変えるだけのものである。それで、偏りができる。世界はランダムであることよりも、この形状をとることの方が実は多い。世界が出来る様を、経済性や機能性、あるいは生物なら進化的機能性からできている訳ではなく、数学的な主体性、個性のない部分のようなもので支配されている。この見方が刺激的である。

7月2日(日)
新国立美術館で開催されている「ジャコメッティ展へ行く。初期のキュービスム的作品から、最晩年の結局は実現しなかったチェース・マンハッタン銀行のプロジェクトまで、ジャコメッティの生涯を顧みることができる。その中でジャコメッティは、1935年を境に作風を変えたという。シュルレアリスムに別れを告げ、モデルを前にする制作へと回帰したのである。次の言葉は、1948年に自身が35年以降の自身の作品を振り返ったものであるが、{バースト}で読んだハイゼンベルグの不確定性原理に近いものがここでも見ることができ、時代性を感じる。「見たものを記憶によって作ろうとすると、怖ろしいことに、彫刻は次第に小さくなった。それらは小さくなければ現実に似ないのだった。それでいて私はこの小ささに反抗した。倦(あぐ)むことなく私は何度も新たに始めたが、数か月後にはいつも同じ地点に達するのだった」。ジャコメッティは、そうして極小の作品をつくり、1940年頃にサルトルと知り合いになった。そこで「絶対の探究」にめぐり合ったという。即自と対自を一致させるような試みと推察する。ハイゼンベルクの観察絶対主義的な姿勢もこれに近いものだろうと思う。そうして、見ることと制作することの一体化が、その後のジャコメッティ生涯のテーマになった。ジャコメッティがモデルを前に行うスケッチ映像は、それにたいする迫力が十分に伝わるものであった。ところで2006年に神奈川県立近代美術館葉山でも同展が開催された。そのときは日本所蔵の作品を中心にした展示であったが、今回はこの極小の作品数点と大型3点が加えられ、だいぶ様相が変わっていたと思う。ぼくの観る視点もだいぶ変わっていった。上記のことを当時は気づかなかった。

7月1日(土)
21-21 DESIGN SIGHTで開催されている「そこまでやるか」展に行く。クリスト、アーク・ノヴァ、ヌーメン、石上純也、ジュルジュ・ルースらによるスケールが壮大なプロジェクトが紹介される。壮大であるが故に、ビデオや模型展示では、迫力不足が否めないことを感じる。建築展で感じる欲求不満と似たものである。その中で、ヌーメンのビニールテープがつくり出す地蜘蛛の巣のような作品は、実際に中に入ることもできる遊具であり、圧巻であった。

6月30日(金)
久しぶりに「朝まで生テレビ」を1時間だけ見る。官僚制度がテーマであった。その討論とは別に、官僚をはじめ世の中の管理側の力が以前より強くなったことを近頃感じる。今回の加計問題は、内角官房府が主導する特区にたいする文科省の反発からはじまっている。しかしその力関係は明白で、それは安倍内閣の情報公開要求にたいする横柄な対応でそれがわかる。大学と文科省との間にもこの縮小をみるこができなくもない。現在、特に3.11以降、世の中が進むべき方向性は見えていない状況である。何を実行するにも、価値観が多様化し利害関係がぶつかり、簡単には物事・政治を進めることができないでいる。震災復興もそうである。そのため世論は、公言はしないものの、政治的なリーダーシップをどこか求めている。安倍政権はそうした状況にのっている。特区政策もそのひとつの現れである。しかしそうした強い政権でも、前提となる情報公開がもたらすクレームにたいして対処が求められるので、それをすり抜ける巧妙な管理体制というもののさらなる強化が必要とされる。そうでなければ、法治国家の下でリーダーシップをはっきできないからだ。加計・森友問題における野党とマスコミの突っ込みがさほど効果的でないのは、既にそうした体制が完成しつつあることを物語るものであるかもしれない。つまりは、真の民主化を促す情報の公開というものが、複雑な世論を招き、それとは反対の管理強化する方向にむいていることだ。それが不気味である。知らないうちに巧妙で強大な管理体制が出来上がりつつあることだ。これは政府だけでなく、会社組織や建築にかかわる一連の法律設定、大学問題にまで及んでいる。このことをたまに実感する。

6月29日(木)
「バースト」アルバート=ラズロ・バラハシ著を読み終わる。バースト、べき乗数が発生する根拠、初期条件とは、人の重要度にもとづく優先順位付けにやはりあった。しかし病気発生(入院状況)や知的生命体発生数など、原因が優先順位付けに該当しないものもバーストすることが指摘されたところで、本書は終わる。「バーストが我々人間の発明物でなく、知的生命が地球に現れるずっと前から働いていたp351」のである。結論を先送りした感が否めず、「意識的な優先位置付けなどありそうもない動物や分子原子レベルのプロセスで、いったいどんなメカニズムが重要性を決めているのだろうか」(監訳者あとがき)という疑問が残されたかたちである。本書後半は、バースト原理から、人の行動などにたいする「予測可能性」というものに話題が移る。これにたいしては全くの試行段階のお手上げ状態であった。本書偶数章で進められるルネサンス十字軍の物語は、これを案じるものである。主人公の破天荒な動きがバーストであることは事実であるとしても、個々の事実は多大な解釈の上にあり、歴史というのは、ぼくが前日に指摘したように、事後的な説明でしかないことが説明されている。未来を予想することもさることながら、過去を知ることさえ不可能なのである。つまり、ぼくらは未だに1927年のハイゼンベルグの不確定性原理の内にある。現実さえも捉えることができないことが示されているp286。観測によってはじめて人の行動が予知できるのであるが、観測しなければ決まるものもない。逆にいうと、必要とされているのは、事実と思わせる程の観察である。バラバシを支えているのがこの考えであることが判る。

6月28日(水)
昨日の番組に触発され、再び「バースト」アルバート=ラズロ・バラハシ著を読みはじめる。「新ネットワーク思考」を読み終え、結論が見えているので、バースト、べき乗数が発生する根拠、初期条件を知りたいと思うのが、なかなか出てこない。ただし、ルネサンスの十字軍の物語が偶数章に、現代のバースト例を奇数章にと、2つの物語を平行に進める書き方は、読者を引き込む。物語内容も時系列に沿っていない。行ったり来たりする。むしろその方が、臨場感がある。人が筋道付けて説明するのは、事後強引に必然性を導いくためのものであり、本当のことではない。

6月27日(火)
「Battle」のまとめを終える。気になるところがあるのでそれをどう扱うか、次の段階である。NHKで、AI特集「天使か悪魔か」を観る。AIロボットと将棋名人との2局の戦いを通じて、AIの将来に迫ろうとするものである。既に知られているように、AIロボットが圧勝した。しかも別の番組では、このAIロボットも、AIロボットとの将棋大会決勝で負けている。恐るべきAIの進歩である。というのも、このAIには、これまでの名人戦700万局がデータ化され、それは棋士の対局2000年分に相当する数であるという。AIはこのデータをもとに、棋士の常識では考えられない進め方をする。つまり、制作者のプログラムに沿ってはいるが、その扱う量が膨大であるためにプログラマーでもその因果関係を掴むことがもはや出来ず、つまりAiが独自に学習しているかのような現象がおきている。この技術は、文章アンケートを解読することによる深層心理の解読、あるいはアメリカでは犯罪者の行動予想などに、既に世の中で実用化されているそうだ。これらに共通するのは、思考過程はブラックボックス化され、結論だけを提出する。この過程をだれも静止することができないAIの現状である。この番組はこれを揶揄するものであった。はたしてこれはAIだけの問題であろうか?と思う。レム・コールハースが著した「錯乱のニューヨーク」におけるニューヨークの成立過程も、これに近いことでないかと思う。法律(=プログラム)に則ってはいるが、経済の欲望によって、あのような都市が完成した。東京の狭小地住宅状況も同じである。中国の状況も同じかもしれない。これらはデータ数の多さでなく、大衆や経済パワーによっている。そう考え、設計というものに限定すると、計画することよりも、情報量をかき集めることの方がより豊かな結果をもたらすことになる。もっというと計画内容よりも、情報量を獲得するための方法の検討の方が重要となるのである。

6月26日(月)
「生活とかたち 有形学」を読む。「デザインの鍵」と同様に、ひとつの章で話題を完結させる書き方が特徴的である。2章には、ふたつの思考方法が示される。「悠久の歴史、無限の宇宙は、どうジタバタしても全体のつかみようがないが、自分の撫でた範囲で全体像を推察する他はあるまい。ここにいわば二つのみち、拡散型と凝集型がみられる」。これにしたがうと両書とも、拡散型思考に値するすことが判る。ある中心にあるテーマを、凝視するのでなく、多面的に捉え中心を浮かび上げるような方法である。この中心となるテーマとは、社会、宇宙、世界、歴史、文明の構造とは何かということである。繰り返しになるが、まえがきにある「他者の立場、他者の考え方、他者の反応を理解し、相互の矛盾をのりこえるアイディアの発見、実行ということになる。その媒体となるのが空間的に表出された表現であり、その姿や形である。」ということにつきる。「デザインの鍵」最後の96「広げるほど決めやすくなる」にも、同様の内容が読み取れる。「デザインが何らかのものを形づけるためにあるとすれば、最も問題になる点は、そのデザインの対象とその外側との区別がどのようにしてなされているかということであろう」。「このような意味で、デザインの基礎が対象物の中に入っていくということではなく、問題を外側に広げていく思考方法が最も重要である」。かたちをひとつのシステムに位置づけること。この時期彼らが行っていたことである。

6月25日(日)
「Battle」24章をまとめる。日常的な美によって世界が変わることを、盈進の実例を交えて説明する。全体性の中身を説明するのでなく、それが展開されることによる結果を示すのが本章である。「生活とかたち 有形学」吉阪隆正著を読みはじめる。歯切れのよい文章に感嘆する。まえがきがも素晴らしい。吉阪の基本的考え方を理解できる。「主意は、証明にあるのではなく、別な考え方も存在するということを述べることにある。最も身近で心が通い合っていると信じている親子や恋人同士でさえ、何らかの仕方でその心の内を表出しない限り伝わらない。」そして、「他者の立場、他者の考え方、他者の反応を理解し、相互の矛盾をのりこえるアイディアの発見、実行ということになる。その媒体となるのが空間的に表出された表現であり、その姿や形である」。吉阪の形に思い入れする考えがここにある。1章 生活とかたち(有形学)はこの本の概要である。「物の姿を通じて生活との絡み合いを知る必要が生じて、有形学をつくらせる。原人たちが大自然の形姿に対したように、今私たちは人工物に対応しなければならなくなったのである」。有形学は明らかに、人間中心主義的な考えである。しかし一方で人間がつくるということに疑問が呈されている。「物をつくるとはその物に生命を移すことだともいえる。私たちが物の形を通じてその奥にあるものを知り感動を受けるのは、注ぎ込まれた生命の多さによるのだろうか」。まるで、「Battle」で訳したような内容である。「安心できるのは総合されたものだ」。これも「Battle」にある。「このためには過去を顧みて、物の形がつくられる経過を学び、他方、未来に賭けて提案をするみちを探ることだ」。現代でいうところのスペキュラティヴ・デザインである。次章からは、目次がシラバス形式をとっていて内容が理解しやすい。どれも歴史、文化がどのように空間化されていったかが語られている。本書締めくくりの15章が最初に気になった。「視点と視野」というタイトルである。ここでは、全体像を把握し、その中に個人を位置づける重要性を説き、発想転換を促している。具体的にそれは「魚眼地図」に現れる。客観的とされる地図を主体的に表現したものである。
052 コンフェデ杯 ロシア×メキシコ
開催国ロシアが先制するも、逆転を許し、メキシコが決勝トーナメントへ進出する。メキシコは勝ち方を知っている。日本は参考としなければならい。リードをとると、その後は、粗い攻めにより追加点が奪えず、流れがホームのロシアに行くところを、前線からのちょっとしたプレッシャーから相手の勢いを削ぐことに成功していた。ラインを下げすぎずにいられたのは、前線からの守備によるものだ。セカンドボールの支配率が高くなくとも、なんとかボールを押し戻していた。決して体格的に優勢でないメキシコの勝ち方を日本は学ばなければならないと思う。

6月24日(土)
「Battle」23章をまとめる。この章では、全体性へのアプローチを語られる。本来世界には構造がある。それをよく見れば、何をすべきかが自ずとわかるというものである。以下抜き出す。「私たちは、新しい将来の現実を現在の現実から理解し、抽出することができます。私たちは、それが何であるかを定義できなくとも、未来に導くロープをたどり、その現実を越えた見方が可能であるということをそれは意味しています。」p452。あるいは、「現在あるものに関する構造についての私たちの知識が、私たちのためにドアを開けます。それが、輝くビジョンとなり、直接私たちを誘導します。私たちは、現在の構造を深く推定することで、まるで自分自身のことのように、ものごとが生まれてきます。」p452。「さらにいうと、それらは、現在ある構造の深い構造から来ます。何をするべきかについて示すものです。それはまるで、見えない魂が主体的に働いたかのようです。これが、創造というミステリアスな性質です!!」p452。人間中心主義ではない世界が展開されている。しかし、それを把握するのはあくまでも人間でしかない。この把握方法が徹底化されているのが特徴的である。ぼくらは様々な場面で試行錯誤を繰り返す。例えば、途中でコンセプトを思い付いたり、敷地の見方が開けたりとか、設計とは時間を行ったり来たりする連続の末のものと考えている。もちろんこの本でも、そうした試行錯誤が語られる。しかしそれは思いつきではない。例えば、パタンランゲージから生まれた田の字センターと敷地における中心となる場所の一致。これを永遠と試行錯誤していたことが本書から判る。最終的には、コンタ模型の上に建物ボリュームの切れ端を偶然に置いたことを切っ掛けに設計は展開するのであるが、それは主題が定まっている中での試行錯誤である。人間中心主義を、思考という言葉で解釈するなら、自由な思考の上にガバナンス方法が位置づけられている。さらにその上位に、全体性を司る幾何学構造がある。ヒエラルキーが徹底され、思考は下層にあるものである。

6月23日(金)
「吉阪隆正とル・コルビュジエ」再読。ヴェネチア・ビエンナーレ日本館。日本国のアイデンティティが求められる中、吉阪はこの建築テーマを、建築と自然とする。これを本書では、「明晰な形態に、土地に対するさまざまな配慮を盛り込んでいる」という。ピロティは、土地から離れるのでものでなく、土地に介入しその性格を引き出すものである。これを、ぼくも経験した。伊東豊雄は、中央の外部に通じる吹き抜けがいつも展示の時に格闘すると述懐する。ヴィラ・クゥクゥは、道路からであるが彫塑のようなコンクリート外観が印象的である。思ったより小さい。これから後期コルビュジエを思い出さない人はいないだろう。プランは、ロフト型の一室空間であり、この時期よくあったものである。中央に玄関。外に開かれていて、道路側2階が寝室である。アテネ・フランスは色使いが特徴的である。増築を重ね、不連続統一体をなしている。手すりがとにかく凄い。大学セミナーハウスも、62年から78年まで7期に分けて工事が行われた。本館、中央セミナー館、宿泊ユニットと続く。これは工業化されたものだ。次に本館に繫がれた講堂と図書館。ふたつのシェル屋根で構成される。冨田玲子さんが担当した長期研修館、野外ステージ。それから大学院セミナー館、国際セミナー館と続く。とにかくバリエーションに富み、それが自然と一体化した道によって繫がれている。アテネ・フランスと同様のコンセプトである。最後に樋口邸。ぼくの設計した住宅の直ぐ近く、篠原さんの住宅の隣にある。コンクリートの迫力は群を抜いている。
051 コンフェデ杯 オーストラリア×カメルーン
カメルーンは引いて守り、カウンター狙い。オーストラリアもそれを怖れ、どちらも負けない戦いを選択する。ゲームとしては退屈であった。オーストラリアは左の10番がよい。サイド奥深く攻め込み、そこからのクロスに終始する。

6月22日(木)
「吉阪隆正とル・コルビュジエ」倉方俊輔著を再読。有形学がやはり、60年代からのものであることを再確認する。池辺陽との同時代性もはっきりした。有形学は、自然と対峙するもので、人間を主体としたアプローチである。しかも、「生産ではなく、消費あるいは利用の側に立つ学問」である%