1月3日(土)

1月2日(金)
下鴨神社でおみくじを引き、平がでる。平の意味がわからず調べてみると、吉と凶の間であることが判った。ここには、原寸大に復元された鴨長明の棲家「 方丈」がある。これを見てから清明神社へ行き、再び意地となっておみくじを引く。大吉で喜ぶ。小さな神社で あるが、これも水が有名であることを知る。千利休がこの地の水で茶を立てた後、毒を含んだ。その後、御所近くの和菓子とらやへ行く。サッシュの横桟を天井から離す欄間の納まりに脱帽する。それによって垂木が内外連続する。骨太でありながら繊細さがあるデザインである。1 時間ほど休憩し、東寺へ行く。雪をかぶる五重塔が綺麗であった。毘沙門天で護摩をお願いしたところで吹雪くも、すぐに止む。新幹線で帰路につく。
001 プレミア ストーク×マンU
最近は、ファンベルシーと ファルカオの2 トップ。その下にマタ、さらにその下にルーニーという陣形である。キャリックがアンカーである。彼ら3 ラインが上下移動を繰り返し、DF の裏を狙う。フリーキックから失点するのは、DF ラインが安定していないことの証である。1-1のドロー。ユナイテッドもセットプレーからの得点であった。

1月1日(木)
京都で正月を迎える。ホテルで京都風のお雑煮を頂き、六波羅蜜寺へ行く。六波羅蜜寺は、空也上人が、平安時代に当時貧しいこの地の救済のために開いた寺である。鴨川は当時疫病者の死体捨て場であった。有名な平清盛坐像も保管されている。清盛を六波羅殿ともいう。30 歳の頭角を現すまでこの地にいた。例年のことであるが、この寺に併設する弁財天堂の井水でお札を清め、お守り袋に詰めてもらう。弁財天とこうした寺が共存するのはなんとも不思議である。その後皇服茶をいただく。梅干しと結昆布が入ったお茶であり、空也上人が病人にふるまったとする起源である。種は大事に持って帰ることになっていることを後で知り、慌てて取りに行く。車で今宮神社へ行くも行列が長く挫折し、重軽石のパフォーマンスのお祈りのみで済ます。石を軽く3度叩き、石を持ち上げる。その後で石を撫で、再び石を持ち上げる。軽く感じると、幸運が訪れるという。この頃、天気予報通りに吹雪いてくる。南禅寺近くで松花堂弁当を頂き、ホテルに戻る。夕方から本格的な雪となる。

12月31日(水)
朝早く起き、新幹線で京都へ向かう。東京より少し寒い。レンタカーで天龍寺へ行き、庭園を抜けて竹林を散策する。外国人の好む日本の風景である。途中、野宮神社に寄る。娘が修学旅行で気に入ったという竹籠弁当を、渡月橋脇の旅館で頂く。2年前の台風で桂川が氾濫し、この旅館もは水没したという。その日、僕は入試のためにひとり遅れてブータンへ旅立った。成田の飛行機の中で3時間待たされたことを思い出す。帰りがけに上賀茂神社に立ち寄る。1対の円錐形の砂壇はいつ見てもかっこいい。名前と歳を記入した紙の人形を祝詞とともに川に流す1年の厄払いの儀式に参加する。これを大祓式という。これを執り行うのは、この上賀茂神社、下鴨神社、八坂神社、今宮神社くらいだそうだ。厳かな儀式であった。ホテルでチェックインをすませ、老舗の蕎麦屋、河道屋へ行く。真丈、飛龍頭、蕎麦、うどんを煮込んだ芳香炉を皆で頂く。ゆく年来る年をテレビで見て、新年を迎える。

12月29日(月)
ザックジャパンの4年間のドキュメンタリー「通訳日記 ザックジャパンの4年間の記録」を見る。通訳であった矢野大輔氏は、15歳でイタリアへサッカー留学をし、トリノのユースに所属していたことを知る。その後に大黒のトリノ在籍時にザックのもとで通訳をしていたのが、ふたりの関係のはじまりである。ザックは、戦略を通じてエリートを引っ張る大企業の社長というより、人心把握力に優れた中小企業の社長のようで、矢野氏を懐に入れた。それは選手にたいしても同様で、矢野氏を通して、ザックと本田は戦術の疑問を投げかけては、それをゲームに反映させようとていた。10番は香川であったが、ゲーム司令塔は本田であり、その両輪でチームを熟成させていった。W杯の敗因として、強豪国にたいしても攻撃的にのぞんだことが上げられる。それによって守備が崩壊した。なぜ、あそこまで自分たちの連動サッカーにこだわったかである。その疑問が解ける。ザッケローニは、選手に足りないものが国際経験のなさからくる自信のなさにあるとし、いかなる状況においてもスタイルの一貫性を要求し、自信を付けさせようとしていた。選手たちはそれを最後まで実行に移した訳であるが、上手くいかなかったのは、最後まで自信が足りなかったか、自信があってもそれに伴う実力が足りなかったは、神のみぞ知ることである。ともかく3戦の負け方は自爆に近いものであった。しかしそれ程までに、ザックと選手たちは信頼しあっていた。内田と長谷部が空港までザックを見送りに行ったことがそのことをよくあらわしている。

12月28日(日)
173 12月26日 プレミア サウサンプトン×チェルシー
吉田が4バックの右で先発出場。ぶ厚い攻撃陣を擁するチェルシーに対し、時に6バックとなる苦しい展開。吉田と対峙するのは、10番のアザール。右のWBが最初にアタックし、吉田はその後から2重の守りで、アザールを徹底マークする。しかし前半終了間際に、速攻からアザールに左右に振られ、得点を許してしまった。吉田は、サイド深くえぐられるのを防ぐために中央に逃がしたのだが、吉田のさらに後ろのCBフォンテが対応しきれなかった。アザールが余裕をもてたのは、吉田のマークが甘かったためである。最初のアタックでアザールを押さえるべきだった。後半はチェルシーが猛攻を仕掛けるも、どちらもスコアならず1-1のドロー。吉田はイエローをもらい、62分に途中交代となる。

12月27日(土)
「こどもたちに語るポストモダン」リオタール著を読み終わる。カントの崇高論とヘーゲルの弁証法が度々言及される。モノが多様になればなるほど、その差異=価値を示すものが、実は貨幣という単一なものに収斂されてしまうという状況がポストモダンであるという。これが、レーガン・サッチャー政権下で主導的に行われてきた。この前提の中で重用されなければいけないのが、事件を起こす芸術家である。事件の想起、暗示によって、価値が一本化されるのを留める。このように考えると、対立していたハーヴェイとの違いが曖昧になる。
続けて「空間の詩学」ガストン・バシュラールを読む。科学が純粋に客観的でいられることはなく、意識と物質性を離して考えることは無意味なことを、バシュラールは主張した。空間も同様である。意識してはじめて見えるものなのである。

12月26日(金)
JIA新人賞の現場審査のために「風の音」芦澤竜一設計へ行く。エオリアンハープという楽器に魅せられ、それを建築にするという、近頃あまり見ることのないモノと格闘している建築である。残念ながら、琵琶湖からの風量が足りずに今日はその音を聞くことができなかった。が、内部に入ると湖をバックに、不思議な紡錘型の空間の迫力は感じられた。それが短手の断面形状に現れている。エオリアンハープは、ギリシアを起源にもつが、18〜19世紀にはじまったものという。バイオリンをはじめ楽器の発達と音楽の先鋭化に対するものであっただろう。この作品も現代のカウンターバランスとして存在する。隣に建つ芦澤さん設計のホテルに付随したチャペルは、最も資本主義的な消費を煽るビルディングタイプである。そうした商業施設の設計に対し自覚的に、消費されまいとする挑戦が、自然というテーマを異様なかたちで処理したエオリアンハープ建築となって現れている。そこを評価したいと思う。ただし、琵琶湖を含む自然はさらに雄大であった。少し離れた岸辺からは、かわいくみえてしまう。ホテル棟に見られたマテリアルへの執着によって、それも解決できるように思えるのだが、それは予算の制限がおおきかったことをお聞きした。夕方事務所に戻ってから卒業設計のエスキスをする。上手い下手に関係なく、モノと格闘し、何かを生み出そうとする意志をもつようにアドバイスする。

12月25日(木)
現代思想1月増刊号柄谷行人特集を読む。彼がユートピアと建築の意志を同意にあつかっていることを知る。意志とは、信頼すべき何かがあるということだ。それをユートピアという。僕も11月に磯崎展に行き、そうしたユートピアの必要性を感じ、それを日記に書いた。行き詰まりの限界を感じたのである。ところで「建築の意志」という言葉を知ったのは、おそらく90年代初めに難波さんのINAXレポート「モダニティの条件」というタイトルの寄稿からであったと思う。僕が担当していた「EXマシーン」の完成前の模型写真と共に、難波さんがこのアドバルーンをあげたことにたいし、感動した記憶がある。ポストモダニズムの絶頂期で、「大きな物語」を発言することがナンセンスであるとされていた時代の寄稿である。時代風潮と真反対な発言だった。今から思うと、そのとき難波さんは既にデヴィット・ハーヴェイを誰より早く読み吸収していたのだろうと思う。難波さんとの対談を切っ掛けに僕もこの本を最近再読した。ここに書かれていたことは、序論のラバンの「住むための都市」やシンディ・シャーマンの写真にあるような、矛盾に満ちた都市においてさえそこで生きる人々の「意志」への信頼である。しかし読後に、宙づり状態な気分であったのは、こうした意志の方向性を示されることのないやり場のなさに原因があった。柄谷氏はこうした意志をユートピア志向という上昇気流に乗せようとしている。それは、氏の最近の共和国思想を構成させるダイアグラムにもあることだ。流石である。僕はというと、スピノザを囓りはじめてから「建築の4層構造」に、そうした可能性を最近見ている。ユートピアは将来を垣間見ることができないと生まれない。消費されない無限性が将来を確約する。「4層構造」を俯瞰的といいたかったのは、そこにあった。この本で、そこの繋がりの確信を持ち始めることができた。

12月24日(水)
サルハウス設計の「群馬県農業技術センター」へ行く。山々に囲まれ、水平的な拡がりのある地域にある大屋根構造、その大屋根の下に分散された実験室・事務室というコンセプトが面白い。それを木造格子型の吊り屋根で可能にしている。説明を聞いている内に、ふと丹下さんの代々木体育館の吊り屋根を思い出す。川口衛先生に聞いたのだが、力学的な垂れ具合に丹下さんは満足がいかず、もっとカーブの効いたそそり建つような形状にあえてしたという。そのための構造的対処に莫大なエネルギーとひらめきを必要とした。それを川口先生は「合理性を越えたところに美がある」といっていた。このことを思い出した。思えば代々木は、2階の高さ位置にエントランスがあり、吊り屋根の下に滑り込むように人を導く。壁の存在を感じさせないつくりになっている。代々木を持ち出すのもおかしいと思いつつも、そうした空間性は、現代的ではないのだろうか?という疑問をもった。そこの当たりを話したかったが、僕の方が内容を上手く伝えることができずに、この疑問を払拭することができなかった。ぼくも経験したことであるが、大きな試みをすると、建築家は好き放題に言うものだ。紙面の印象とは異なり、実物はそれだけチャレンジングな問題作であることを確認できた。この作品について「よく出来ている」という評価見受けられるが、その評価は相応しくないと感じる。

12月23日(火)
「空間の生産」ルフェーヴルを再度拾い読みする。面白い発見があった。この本では、近代が空間を抽象化していく過程が述べられている。そうして抽象化され均質化された空間の広まりによって、ローカルな場所性が喪失した。しかし一方で、かつての相互依存関係や、おのれの既存アイデンティをより広い文脈の中で再考するようになっている。つまり、グローバリゼーションは諸個人の多様な自己内省力を誘発しているのである。それは、建築家においては、おのれの感覚を動員して差異の空間を創出する権利ともなっている。ルフェーヴルは、こうした個人の権利を、社会空間論の中に位置づけていた。このことを再発見した。現在、人々は抽象化された矛盾にみちた生活空間の中で生きているのである。そこから、難波さんと「建築の4層構造」との関係についてわかったことがある。ふたつは別物であることに気づく。「建築の4層構造」のもとで主体的な対場をとる限り、難波さんは俯瞰的立場に立つことはない。1人の声の大きな建築家としていられる訳である。

12月22日(月)
172 12月20日 セリエA ローマ×ミラン 
前半開始直後の遠目からのシュート以外は、前半に本田は見せ場をつくることができなかったが、後半から前を向く。一端下がった本田がボールを受け、入れ替わりに上がるポーリーやモントリーオへの起点となる。あるいは、左サイドのボールを受けるために中央斜めにランするかたちができあがる。そのようなよい展開になりつつあるときに、ミランは退場者を出し、守備重視の体系1-4-4を強いられてしまう。本田の変わりにDFが投入される。本田にとっては、なんともアンラッキーであった。2位ローマに対し、アウエーでのスコアレスのドローとなる。

12月21日(日)
真鶴の「シェアハウス」原田真宏・麻魚設計へ行く。天気がよく、気持ちよく1時間半を過ごす。中央の生木の柱・梁がこの建築の核心である。これは、システムに決定打を与える自然な異物としてある。それを覆うように、LVLの架構やスチールサッシュ、仕上げとしての木、左官材が散りばめられる。それを自覚的に「おおらかな調和」といっているのがよい。ただし、写真を撮ろうとすると、撮影ポイントは1点であり、彼らの設計の強さを感じざるを得ない。そう簡単に大らかな調和はできないことを知る。
171 12月20日 ブンデス ドルトムント×ブレーメン
香川後半出場も流れを変えることができずに、1-2で最下位のブレーメンに負ける。問題は3つである。先制点がとれない。プレッシングがかからない。2枚のDFラインの裏をとられることでの混乱。である。これらはチームが連動することによって成立するのであるが、狂った歯車を正しく修正して連動させることの難しさを感じる。

12月20日(土)
卒業設計の第2回中間発表。極めて大きな社会的問題に対し真正面から向き合う場合、そのアプローチは極めて個人的になりがちであるが、そうした案2点が苦戦している。生の建築家さえも、そうしたことをしていないので実例を見出すことができない。ましてや個人的な問題なのでアドバイスするのも難しい。かたちをつくることの大変さを知ってもらいたいと思う。彼らの将来に役立つはずだ。また逆に最終的なイメージがある程度できあがっていても、その細部まで詰め切れないで苦労し、足文状態の案が数点ある。自分の中で、案のジャンプを狙っているものの、それを起こすことがでいないという案である。その数点には、いくつか期待を込めてアドバイスを行う。

12月19日(金)
修士設計の中間発表。どの先生も、あらかじめ僕が抱いていたような感想を持つことに驚く。かたちをつくるには、それ相応の覚悟がいる。僕にいわせると、その自信のなさが、構造への傾倒、環境への傾倒、コミュニティ論というものにつながっていく。他者への依存と言うべきものであろうか。自ら退路を打ち切ったと思ってくれればと思う。また、将来への膨大な夢を描いている案がひとつある。それは、今の社会では実現不可能なことであるが、しなければならないことであるので、比較的イメージがし易い。そこから逆照射して現在を設計するようにアドバイスをする。これは修士・卒業設計では今までになかったパタンである。
NHKで、マーカス・デュ・ソートイ教授による「芸術と数学」をみる。コルビュジエ、クセナキスが登場し、ジャクソン・ポロックも登場する。凝視しても拡大しても、同じ絵柄が登場してくる彼の画法にフラクタル性をみていた。ボルヘスの「バベルの図書館」も取り上げられる。それを幾何でもって説明してくれた。それは、トーラス状のかたちになる。今度読んで見よう。数学にせよ、芸術にせよ、どちらも何かを発見したときの喜びは大きい。詰まるところは、ふたつとも大きな喜びを与えてくれるものなのである。最後にポアンカレの言葉を紹介して授業を終える。「創作的な行為では、意味のない組み合わせをつくってはいけない。何かをつくることは、何かを見極めて選ぶことだ。発明家の頭に意味のない選択が姿を現すことはない。」
170 12月16日 ブンデス ドルトムント×ヴォルスブルグ 
ドルトムントの迷走は続く。攻撃のかたちもつくれない状況が続く。

12月18日(木)
モネの睡蓮を見る。北斎の富嶽36景を見て、モネはルーアン大聖堂の連作をはじめたという。睡蓮も連作である。岡崎乾二郎さんが、モネを「印象派といっても本当はモネしかいない」とまでいっていたことを思い出す。モネは、近代絵画の断絶をつくった。それまで近代絵画家は、いかに新しい絵画言語を創設するかを考えていたのだが、それはある種の規範を受け入れていたことも同時に意味する。コルビュジエがこれまでの美学を受け入れていたのでないか、というバンハムの批判と同じである。モネは「主体的判断を放棄して」「自分をまったくの感覚的装置に化す」という立場に徹底し、規範からの断絶をつくることに成功したという。そして、その後のセザンヌ、ピカソを導いた。これを岡崎は、本居宣長を引き合いに、モネには「漢意がない」という。徹底した形式化によって、これまでとの断絶を可能にし、「漢意」というものをあらためて発見した。「建築の4層構造」にも同様の可能性をかんじる。これまでの建築的習慣を徹底的になくすためのデバイスでないだろうか。スピノザが用いたユークリッド幾何学の徹底に近いものを感じる。
続けて、ベイトソンの娘メアリーとの間の「会話の輪郭」についても思い出した。「(会話も)終わらないうちには見えない。輪郭というのは、内側からは見えないものだ」という対話であったと記憶している。輪郭とは何か?、ベイトソン自身も明快な答えを出してはいない。神(上)から降ってくるものでもなく、あるいは話し手の内部にあるものでもなく、岡崎流にいうなら、会話によってあぶり出てくるものなのだろう。文化という歴史を背負いながら新しいものの創造を、会話(言葉)を通してつくることが可能である。建築において歴史を背負いながらも過去にとらわれないためには、「建築の4層構造」的な形式化が必要なのだろうと思う。

12月17日(水)
「ポストモダニティの条件」を読み終わる。最終的には、フォーディズム的モダニティとフレキシブルなモダニティは、資本に取り込まれるという点において連続しているという。つまり、モダニティとは、空間と時間をいかに配分するかをはじめて考えた世界で、その分配のしかたの違いでしかないという結論であった。それは、政治によって決定される。しかし、フレキシブルなモダニティにおいては、その政治性が意識されないことが多く、それに対する警告が付されている。現実はそのようにすすみ、少し宙づりにあったような結論であった。

12月16日(火)
「ポストモダニティの条件」の第4部に入る。断片化された世界、それをポストモダニティというなら、それをハーヴェイは歴史—地理的状況として語ろうとしている(21章)。それは兎にも角にも俯瞰することだと考える。ハーヴェイはこのことをメタ理論といい、それは俯瞰とは異なりボトムアップをイメージさせる。
168 12月14日 セリエA ミラン×ナポリ 
ミランの攻撃がどちらかというと本田と反対の左サイドに集中する。得点はメネズの個人技からであり、本田が最近点に絡むことができない状況である。とはいえチームバランスをとり、ボールの供給源になっていることに変わりない。決め毎が多そうに見えるイタリアでのフィットを感じるのだが、チャンスが廻ってくることをのぞむばかりである。
169 12月14日 プレミア ユナイテッド×リヴァプール

12月15日(月)
難波和彦氏を千葉工大へ招いて、「建築の4層構造」というタイトルでのレクチャー。僕が進行を務める。レクチャーでは、「形の合成に関するノート」から、難波さんが4層構造という考えに至るまでの説明をした後、3.11以降の状況を4層構造に照らし合わせて説明をする。そして「箱の家」が、数と経験を重ね、どのように変化していったかを4層構造を通して明らかにしてくれた。時間にして1時間30分。充実したレクチャーであった。その後、僕と難波さんとの対談。ボトムアップ式デザインでなく、俯瞰的なデザインの必要性について、どう考えるかの意見ををもちかけた。俯瞰的というと、アレグサンダーも当時マスタープランを否定したように、どうも聞こえが悪く、戦後、毛嫌いされてきたたテーマである。しかし、3.11以降動かない、あるいは、得体の知らない官僚制度によって仕切られる現実を切り抜けるには、ボトムアップ式ではないように思えてならない。その辺りの意見をお聞きしたがった。が、難波さんは、絶対に自分が俯瞰的視点に立つことを拒否し、あくまでも声の大きな1人の底辺の存在であることにこだわっていた。僕としてはその考えでは、コミュニティ場を持ち出す学生、あるいは、かたちをいじくり回す建築家、のように「小さな物語」の戯言としてしか見られないので、もう少し現実社会と持続する手立て、それを俯瞰的視点と言いたいのだが、それについての話をしたかった。もう少し言うと、柄谷行人がいうように、蔓延する鬱憤は、その解決を求めて突如としてある方向に集結することがある。その鬱憤を間違った方向に導かないための「振り」と「篩い」が、4層構造のような思考方法にあると考えている。それを俯瞰的と言いたかったが、上手くいかずに悔しい思いをする。

12月14日(日)
167 12月13日 ブンデス ベルリン×ドルトムント 
香川が2戦続けて出場せず。前戦はギュンドアンによって、チームに活性化がもたらされたが、今回はそうはいかずに、停滞した試合となった。前半途中に10番ムヒタリアンが怪我のために欠場し、後半から、ラモスを入れ2トップのかたちにするも戦況変わらず、香川はクロップの信用を失ったのだろうか、こうした状況でも最後に投入されたのはシャヒンであった。前戦で、うまくいったボールの取りどころが機能していなかった。ボールを持たされ感があり、前戦が最終ラインに吸収されてしまったことで、チャンスらしいチャンスもない。少しあきらめというかいやな雰囲気を感じる。ウインターブレイクまでの2戦の巻き返しという雰囲気ではない。

12月13日(土)
15章は、空間と時間の啓蒙の歴史について。ルネサンス時代のブルネルスキとアルベルティからその歴史の説明がはじめられる。彼らの編み出した遠近法は、自然の法則と調和しているという感覚、神によって幾何学的に秩序づけられた世界の中での人間の道徳的責任を強調する考えとして、当時の社会に受け入れられたという。今日ではあたりまえの個人主義はこうした神話や宗教からの離脱によってこの時期に可能になったのである。そして一端、個人主義的側面が認められるようになった空間は、その表象のために、その客観性を保証するために、地図というものを必要とし、その後は地図による啓蒙が続けられることとなる。近代ではこれが徹底され、ルフェーヴル「空間の生産」にいわせると、空間の細分化が行われ、自由に売買可能にまで空間は均質化されていった。16章では、それがエスカレートした状況を、時間・空間の圧縮と表現している。

12月12日(金)
13章「社会生活での個人的空間と時間」。社会論からの空間記述について。セルドー、バシュラール、ブルデュー、フーコーが挙げられる。セルドーは、支配的で抑圧的な秩序から創造される個人空間について。ブルデューは、時間的空間的構成が文化をつくるというもの、パシュラールは、空間の不連続性について、空間は客観的なものでなく私的で想像力の下のものであるというもの。それらをまとめてルフェーヴルについても言及される。空間を経験されるもの、知覚されるもの、想像されるものとして俯瞰し、モダニストからポストモダニズムへの思考形式の変化、空間的経験の変容を分析する。14章は、社会的権力の空間と時間の支配について。これもルフェーヴルの空間支配が下敷きとされる。

12月11日(木)
「ポストモダニティの条件」の第3部「空間と時間の経験」を読む。つまるところ、彼の主張は、時間と空間の表象方法によって、社会、経済を捉えようとするものである。それはこれまで、科学の分野でも、社会学の分野でも、美学分野でもなされてきたのであるが、それがオーバーラップすることはなかったという。社会学では、社会変動、近代化、技術的政治的変革という進歩=時間が主であり、空間を征服しようとしてきた。美学では逆に、空間化することで時間を超越しようとしてきたという。以下は、時間と空間の表象に従った社会についてが説明される。

12月10日(水)
166 12月 9日 CL ドルトムント×アンデレヒト 
香川がトップ下に復帰し、ドルトムントはその下にシャヒンとギュンドアンを配置するという攻撃的なかたちでのぞむ。そのため香川は、これまでの出し手から受け手になり、最終ラインの裏への抜け出しを何度か試みる。しかし得点は、香川が少し下がったところへシャヒンが上がり、そこへ香川からの鋭い縦パスが供給されたところからはじまったものであった。クロップは、リーグ戦にむけて様々な試みができただろう。最後は、ジェワイコフスキーも復帰を果たす。ゲームは1-1のドローとなるも、グループステージ1位通過を決める。

12月 9日(火)
「ポストモダニティの条件」の第2部を読む。第2部は経済社会がテーマとなる。1973年までの安定した消費に支えられ、経済発展してきた時代をフォーディズムという。それに対し、その後の少なくなった利ざやを上手く均等させるように考えられたのがフレキシブルな蓄積方法にもとづく時代である。この時代は、労働を再分配し、フレキシブル化させ、様々な産業が生まれる一方、強力な政治体制も台頭する。フォーディズムからフレキシブルな蓄積への移動は、社会経済システムの変化と連動すると同時に、個人消費者の個人主義にも支えられているという視点が面白い。自由になったこともひとつの原因という訳だ。そして、個人主義、すなわち断片状態は、経済的、心理的に不安定な状態であるので、基本的な諸制度、家族、地域、国家の権威が最重視されることになったという。しかし、その移行は一方的なものではなく、バランスの上に変化するものだという。

12月 8日(月)
「ポストモダニティの条件」デヴィット・ハーヴェイ著を再読はじめる。序論において、ジョナサン・ラバンの「住むための都市」が紹介される。都市の危機がさけばれる一方で、そこに住む人間の力は決して衰えていないという例としてこの本が挙げられている。どうやら本書はモダン後の世界を失墜と見るのではなく、なおかつ新しい力が生まれる希望の時代としてみようとしているらしい。以下の章では、具体例を示しながら社会と時代の関係が示される。第一部では、建築や芸術を例に挙げ、モダニズムとポストモダニズムの連続性を主張し、先のリオタールがいう2つの時代の断絶を批判する。リオタールは、大きな物語が終わって、ポストモダンの時代は、ローカルに限定された正当性のみが生きる時代になるというが、それでは、他者との関係を不透明にし、最終的には他者を認めないことにつながってしまう。声の大きな権力が入り込む余地を与える危険性をはらむので、メタ理論の必要性を訴える。この本の出版は1990年。残念ながら現実はリオタールがいうように進んでしまった。

12月 7日(日)
165 12月 7日 セリエA ジェノア×ミラン 
チャンスをつくれず本田は70分で交代される。試合も0-1でミラン落とす。本田にもイタリア発の厳しいコメントがネットに流れる。3トップの連携がみられなかった。その後、マインツの試合を見ると、最後に岡崎は決めている。チーム内の信頼の差を感じる。

12月 6日(土)
164 12月 5日 ブンデス ドルトムント×ホッヘンハイム 
ドルトムントが久しぶりに緊張感のあるよい試合をする。相手に対してプレスが効き、終始ドルトムントペースとなる。香川に代わってトップ下に入ったギュンドアンとCBのフンメルス、この試合で復帰を果たしたふたりの功績が大きかった。ただし、シュートを相変わらず決められない。

12月 5日(金)
福島南会津に行き、NIKEプロジェクトの説明会とワークショップ。峠は雪が降り、氷点下であった。使い方についての疑問を投げかけられる。敷地が狭いことなので、何ともしようがなかったが、それを理解してもらい、再スタートとなる。
NHKで、マーカス・デュ・ソートイ教授によるオックスフォード大学の白熱教室をみる。知っている知識を紹介することよりも、自分の知らない領域についての共有をつくることの大切さを知る。彼の最大の探究テーマは、素数についてであり、素数を数式化するための試みがいくつか示される。はじめは、ユークリッドによる素数の無限性の証明。スピノザを通して、無限性の獲得方法について知っていたものである。もうひとつは、ガウス曲線の意味について。それは、素数階段を近似するところから生まれたものであるという。次回はシンメトリー。かたちと数学をつなぐ話である。

12月 3日(水)
「ポスト・モダンの条件」リオタール著を読む。モダンな歴史観そのものが実行性を失い、失墜した60年代後半から70年代以降の世界観をポスト・モダンという。これ以降、知は、資本を支える技術と効率に従った判断基準に陥ってしまったという小林康夫の訳書でもある。「パラロジー」がキーワードとなる。パラロジーとは、正当性がなくなった世界で、あらゆるシステムのルールを疑い、システム同士の統合をも拒否するような考えである。ただし、最終的に「創発」というものを狙っている。それはもちろんローカルなものである。ハーバマスとルーマンがしばしば登場する。ルーマンのオートポイエーシス、ハーバマスのコミュニケーション理論が下敷きになり、読み始めの予想に反して、将来への希望を与えてくれる書であった。

12月 2日(火)
テイヤール・ド・シャルダン「現象としての人間」を読む。磯崎氏によって、Dトンプソンの「生物のかたち」と同列にされていたので興味をもつ。1955年に書かれ、科学によってこの世界がどのようになるかを進化論のように著した書である。世界も宇宙も、前のものを基礎としながら、まったく新しい多くの性質を付け加えて、終局的な完成、オメガ点というものに行く過程が記される。その途中に人間がいて、それ故に、進化とは、物質的なものだけでなく精神的な性質も含んでいる。あとがきに、シャルダンを、「物質は退化、崩壊運動であり、創造的進化とは物質に対する生命の戦い」といったベルクソンより、「物質は生命をもつ可能性を有し、生命は精神をもつ可能性を有する」といったブロンデルの立場に近いとある。ブロンデルに興味を持つ。進化の精神性というと難しいが、人は、世界についての知識を変えることによって、自分が知っている世界を変えることができることをいっているのだと理解する。オメガという崇高な概念にここでも廻り合う。

12月 1日(月)
EDLゼミにて先週に引き続き、最近の展覧会のレポートを聞く。「国宝展」では、最近国宝指定がされた縄文土偶を知る。この展覧会のメインのひとつである。「菊竹請訓展」では、先日シンポジウムが行われた内容も紹介される。菊竹氏が神話化されていることが印象的であったようだ。「ティム・バートン展」では、そのキャラクターの同時代性が指摘される。僕としては、建築で言う機能性にあたるストーリー性とかたちにあたる映像との関係を考えてほしかった。彼の中に、ストーリー性を突破する勢いが映像に認められる。それは時代性でなく、彼のキャラクターの強さにあると思うのだが、それについては以前、建築文化に書いたことがあった。続いて、「ラインズ」の読書会を行う。
「想像の共同体」を読み終わる。最後にネーション化の副次的な方法として、人口調査、地図、博物館があげられる。これらは、ベンヤミンのいう複製技術時代の産物である。今まで曖昧だったものが、人口調査によって少数である事実が明らかにされると同時に相対化され、母体、すなわちネーションの一部である既成事実もつくられる。地図も同様である。博物館は、これまで顧りみられることがなかった事実が伝統として位置づけられ、民衆のアイデンティつくりに一役買うこととなる。複製技術時代につくられた形式によって、人ネーションとしての想像力が形成されていく、その過程が示される。

11月30日(日)
163 11月30日 ブンデス フランクフルト×ドルトムント  
ドルトムントは、自陣に引きカウンターを狙うフランクフルトの術中にはまる。縦パスが入った瞬間の香川が狙われ、1発のロングパスによって2枚のCBの間を突破された。その後は、最終ラインを崩すことができず完封される。いよいよ先が見えなくなる。
163 11月30日 セリエA ミラン×サンプドリア 
本田の進化をみる。自らが仕掛け、あるいはゴール前にポジショニングし、フィニッシャーとなるFWへの進化である。4度ほどシュートチャンスがあるも、ゴールをこじ開けるまで至らなかったのは、残念であった。左サイドでは、エルシャーラビーが、メネスが、本田と同等なプレーを見せている。

11月29日(土)
「想像の共同体」を読む。ネーション成立の条件が、「ネーションビルディング」政策、正真正銘の民衆的ナショナリズムの熱情、マス・メディア、教育制度、体系的でマキアヴェリ(現実)的な行政があげられる。7章は、「なぜ人々はこれらの発明品(想像の共同体=ネーション)のために死のうとまでするのか」 という説明がされる。その理由として、家族が伝統的に、利害を超越した無私の愛と連帯の領域と考えられてきたように、国民の意味は、それが利害をもたないところにあるとされる。国民とは、道義的崇高さを帯び、たやすく参加したり脱退できないものであり、言語の特殊な同時存在的な共同性によって繋がれている。国民は、言語によって開かれつつ閉ざされたものなのであることが記される。ここでも崇高がキーワードである。

11月28日(金)
ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」を読む。スコットランドの18世紀後半において、独立運動が起こらなかった理由についての記述がこの本の主旨をよくを示している。スコットランドはこの時期に優秀な人材を排出し、独立するもっともよい時期にあったという。スコットランド語は、英語と多種言語が混ざり合っった言語で、17世紀初頭には、宮廷や社会的エリートによってそれが話されていた。つまり、イギリス化の土壌ができていた。ナショナリズムの時代到来の以前に、ヨーロッパ的な特定俗語と結びついた国民主義運動の可能性を効果的に排除していたという。そのため、独立の必要性がなかった。独立心は自発的なものと言うより、他者の束縛からの逃避に要因があるというものである。6章では、帝国主義以前の「公的ナショナリズム」について言及される。公的ナショナリズムは、19世紀半ば頃からヨーロッパで発展し、第2次大戦ではその支配を免れた日本とタイによって模倣された。大戦後こうした拘束から逃れ、東アジアはネーション化に至る。

11月27日(木)
研究室のゼミで最近の展覧会のレポートを受ける。「ジオ・ポンティ展」のキーワードは、皮膚、表面。スイスの建築家ヘルツォーク、ズントー、ペーター・メルクリ、オルジャティには表面性に特徴がある。そこから、再びジオ・ポンティの多彩なマテリアルとの戯れが注目されているという。彼は、ジノリのアートディレクターからキャリアをはじめていたので、初期のインテリアが青であることの謎が解ける。総じてモダニズムは、建築の表面性に重きを置かなかった。それに対し彼は重い質感の素材に軽さと薄さを与えようとしていた。その試みが紹介される。菱田春草展」と「チューリッヒ美術展」のレポートは、作品を通じて、1900年前後の日本と西欧の場所・背景の違いが意識できた。展覧会の詳細は、10月終わりの日記に書いた。が、それとは別に美術といえどもテーマにおいて、闘う相手がいることをあらためて思う。それは日本画であれば、西欧化に対してであり、西欧では、一般大衆を代弁する自分に向けられていたのである。コルビュジエをはじめとするこの時期の建築家が評価されてよいと思うのは、こうした私的になりがちな作品テーマを、集合住宅や工業化を通してもう一度、社会化を目指したところにある。この時期の日本画にも、日本に珍しく、そうした視点をもっていた。その点からすると、スイスの現代建築家に、少し物足りなさを感じてしまう。

11月26日(水)
163 11月25日 CL アーセナル×ドルトムント
スピィーディな試合を期待したにも関わらず、退屈な試合であった。そうした観点からヨーロッパのスポーツ紙を探索してみたのだが、そうした論調はなかった。ぼくの期待しすぎであろうか?引いて6人で守るアーセナルに対して、策略の見えない90分であった。香川も然り。60分から投入されるも状況を変えるに至らなかった。

11月25日(火)
ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」を読む。柄谷行人を通じて理解していた「想像の共同体」と磯崎のそれがかなり異なっていることに気づき、読むことにする。ネーションのユートピア的な要素に価値を見出していたのが柄谷であった。本書のはじめは、国民意識の起源について。国民という概念は、これまで支配的であった支配の公理がなくなったときに、はじめてイメージするものであるという。そのときに大きく貢献したのが、資本主義と印刷技術であった。4章からは、南北アメリカの独立を、その根拠によって説明する。

11月24日(月)
少し遠出をして円覚寺にいく。方丈の裏側が美しいことに気づく。石庭を囲むL字型の方丈は、1m近く地面から持ち上げられ、規則正しい建具のリズムが落ち着きを与えている。舎利殿の細かい垂木による中心性の高い天井を見たいと思うが実現していない。11月3日と正月のみに、それが公開される。
162 11月23日 セリエA ミラン×インテル 
ダービーらしく、激しい試合となる。比較的下がり気味で守備をし、速攻をしかけるミランは、チームとしてのかたちができ、有利にゲームをすすめていた。そうした中、長友は相手との駆け引きの中でイニシアティブを握っていたと思う。堂々としていた。得点も長友のシュート性のセンタリングのこぼれ球によるものであった。後半途中から本田が出場。ドリブル突破から、中央に折り返してのシュートを見せる。このかたちの力強さと精度を高めていくという。1-1のドロー。

11月23日(日)
「1954-2014」を続む。日埜さんの日本の近代に対するコメントが面白い。バンハムを持ち出し、西欧モダニズムには、機能主義、ノイエザッハリカイトのように古典性から遠ざかる方向性と、ミース(コルビュジエも)のように潜在する古典性への指向のふたつがある。この両極端の間のテンションにおいて西欧の近代建築が成立したという。一方日本の場合というと、実利的なエンジニアリングの問題と、伝統的な美学との確立のあいだに建築の全ての問題があった。西欧の場合のように、土台としてのメタ建築観、すなわち大文字の建築が不在であった。工学が美学を抑圧する中で推移してしまったのである。それをカントの三批判に重ね合わせて説明していた。フレデリックジェイムソンのディズニー批判を知る。彼のディズニーの批判は、コモディティ、コマーシャリズム、コンシューマリズムの3C批判である。
7時から遠藤研究室のOB会。蔵前隅田川沿いのレストランへ行く。出席OBの全員と話ができ、皆元気で安心する。毎年何人かがアトリエ系事務所に行く。色々な面で壁に当たっているようであるが、実績を残し、研究室を引っ張ってもらいたい。

11月22日(土)
161 11月22日 ブンデス パーダーホルン×ドルトムント
香川先発も、活躍できずに、後半早々に交代。その後2 点のリードを守りきれずに今季からの昇格チームに引き分ける。ゲーム内容もさることながら、勝てない悪循環が続く。ハーフライン近くで相手を囲んで、そこから全員による速攻がドルトムントの良い時のかたちである。相手の研究もあって、そのかたちに持ち込めない。失点を恐れて、中盤の底が下がり過ぎているためと思うのだが。

11月21日(金)
磯崎新の「1954-2014」を続む。アルト・ファン・アイクについてよく理解できた。彼も集落調査を通じて、この集落が西欧近代の時間論、空間論では捉えられないものであることを発見し、「場所」と「機会」というアイデアに至ったという。ギーディオンの批判である。時間は流動的でアモルフであるのに、空間はフイックスされている。これをどうにか解決しようとした。近頃の「場」という考えもこれに属している。同時期の68年以降、磯崎も、「間」とか「アンビュキティ」というテーマを追いかける。これが手法論へと至ったのは、68 年以降の、主題のなくなった宙吊り状態、根拠不在性によっている。それが現在の学生の設計にまでも続いているというのは言い過ぎではないだろう。かつて日本浪漫派もこれを始め、その後ステレオタイプ化してしまったのである。

11月20日(木)
NHK特集で丹下健三をみる。広島平和記念館、香川県庁舎、代々木体育館、目白のカテドラルを追って紹介する。切り口は軸線。軸線の向こうに自然、未来、平和があり、それに連なるかたちで建物群がある丹下のデザインは、都市計画でなく、都市のデザインであるというもの。ここにデザインに形而上的思いが寄せられている。解説に藤森照信氏。彼の言葉が印象的である。「建築は富士山のようである。様々なアプローチの方法があり、様々に楽しめる。5合目までは。丹下だけが頂上まで上り詰めることができた」と。

11月19日(水)
青木茂氏、藤村龍至氏を千葉工大に招いてのレクチャー。藤村龍至さんは、手続きを徹底的にオープンにした設計方法を披露する。大学の授業で学生を使っているのが面白い。彼らのプリミティブなアイデアを、ユーザを巻き込みながらブラッシュアップさせていく。その過程で、建築界でしか通用しない特有な案が淘汰され、彼らのまた別の創造性が捻出される。同時に、それに参加するユーザ、役所のモチベーションまでもあげられていく。縮小時代のアーキテクト像の提案である。その活動は今や、東洋大のある鶴島市から、大宮、川越市まで波及している。聞いているうちに、スピノザ「エチカ」を思い出す。この本では、ユークリッド的な座標軸を使って、本質、情念といったものを演繹的に記述することで、それまで絶対視されていた超越的神を否定し、精神の永遠性を獲得することを試みる本であった。それと同様に藤村さんの方法も、これしかないというデザイン解答を追い求めるのではなく、ひたすら条件を整理しては解き、また新しい条件をつくることで、アイデアをバージョンアップしていく。その永遠性が、人を惹き付けていくことに感心する。ただし、ひとつ疑問も残った。それは、計画の段階であれば、頭の中のことなので永遠性が担保されるが、現実に建物をつくるとなると、モノはリミットあるものであるので、その情感が停止してしまうのではないかという疑問である。講義後、その疑問を投げかけると、建物を中心にしたコトが拡がるので、それによって担保可能であるという。そうすると、その手続きもまたオープン化されていくのだろうか? 続いて青木氏のレクチャー。これも永遠性というテーマであったと思う。氏の場合は、モノの永遠性についてであり、それをリファイニング建築といっている。家歴書をつくることからはじまり、確認申請を再提出することでリファイニングをはじめる。一般には新築の7割、大規模なもので、6割の金額で新築同様の機能をもたせることができるという。その実例をいくつも紹介してくれた。

11月18日(火)
160 11月17日 代表 日本×オーストラリア 
前半途中にシステム変更をし、急にチームが活性化する。こういうゲームも久しぶりである。消えていた香川が流れを変えた。終了間際に、ケーヒルにヘディングを決められる。相変わらず、サイドからの放り込みに対する弱さを露呈する。フランスコンフェデ杯のメキシコに、ドイツW杯のオーストラリアに、今回ブラジルW杯のコートジボアールに、同様なシーンがあったことを鮮明に思い出す。

11月17日(月)
NHK特集で、建築100選をみる。99番目が代々木体育館。100番目が飛騨高山の住宅群である。寺院建築の王道に対して、日本の住宅の歴史も俯瞰する。待庵を、弥生から続く神殿・書院造と縄文から続く民家の結節点に位置づけているのが、特集の特徴を表しているようで面白い。この時期に、権力者に対する俗世間の(平民)建築が考えられるようになったのである。

11月16日(日)

11月15日(土)
磯崎新の「1954-2014」を読み続ける。「前衛的」という評価基準が68年に死んだように、「批評的」という評価基準が9.11(2001年)以降消えたと磯崎はいう。それを受けて、あえて3.11以降は、あえてもう一度ユートピアを語る必要性を感じる。全てが解体つくされ、言い尽くされた感を、読後感じたからである。夕方にEDHのOB会を開き、朝まで続く。

11月14日(金)
159 11月13日 代表 日本×ホンジュラス 
海外組が安定したパフォーマンスを見せ、6-0の勝利。中盤の落ち着きを遠藤がもたらす。完璧に近い試合運びであった。長短のパスを織り交ぜることがよい方向にむかわせた。サイド奥の長いパスに、本田と酒井が応じる。それは本田がミランで要求されていることであり、相手が弱い分、成功することができた。これにより、中央での香川を中心としたワンタッチパスも有効に機能する。このかたちで、3点目と後半の2点をもぎとる。

11月13日(木)
磯崎新の「1954-2014」を読み続ける。ジェイコブスとアレグサンダーの批判として、彼らが身体性を介してデザインしていないとする記述に引きつけられる。フェノロサ、天心以降の日本浪漫派にたいして、近代をヨーロッパから受け取って、その眼を通じて日本を見ているので、彼らが実は近代主義にのっとているという主張に納得する。最も興味をもったのは、目的=テロスについてであった。70年代に入ると既に、「目標が消えた、そして目標を外した場合何ができる」かが問題にされていたという。これは文化大革命に端を発した問題規制である。モーターが回転する場合、自動車を動かすという目的があるのだが、その目的がなくてもモータ−は回転する。人間や都市でも、そういうものを作動させる要素がDNAに仕込まれている、こうした生成論が、この時考えられた。このときの契機となった本が、ダーシー・トンプソンの「生物のかたち」とテイヤール・ド・シャルダンの「現象としての人間」だそうだ。それは、本書でも度々登場するアレグサンダーの「パタン・ランゲージ」にあるユーザー参加にも通じる。「空間」の提案よりも「環境」の提案なのである。その後は人がうまくそれを使って自動生成する、こうしたことを考えていたらしい。これをぼくも、「串としての建築」として考えていた。ただしそのとき、歴史的位置づけができなかったことを反省する。そして、30年が経った。この解決されない問題を、新しい切り口で語る必要性を感じ、この観点から本書を読み続けることにした。

11月12日(水)
3年生の第3課題「図書館+α」の講評会。図書館に新しいプログラムを加えて、今までにない図書館を目指す課題である。ここ数年続けている。身の丈に合った要求を図書館に持ち込み、その衝突を過度に期待した案が多い。岡本太郎の対極主義を思い出させてくれるが、当然そこまでの迫力がなく、かたちにまでも落とし込めていない。その中で反対にかたちを提案することで、既存の図書館プログラムを緩く解体していく提案がいくつかあった。新しい傾向である。例えば、斜路のあるリニアな空間構成をした図書館では、本棚と均質に近接する閲覧空間ができていた。今までにない透明な図書館である。あるいは、各階が異なる平面形をした図書館では、1階にいくつものアプを設けることができ、様々な興味をもつ様々な人を吸い上げる図書館ができていた。この事件的な提案に、先生は等しく興味を持つ。プログラムを再編することで、コトを起こすのが文系出身のプロデューサーだとすると、彼らに真似できないモノの考え方があることが判る。

11月11日(火)
磯崎新の「1954-2014」を読みはじめる。とにかく学ぶべき知識が多い。ここから得られる歴史観から知らず知らずに影響されている。

11月10日(月)
158 11月9日 ブンデス ドルトムント×ボルシアMG 
苦手なボルシアMGにドルトムントが何とか勝つ。しかしほとんどのセカンドボールをドルトムントは支配し、完全に封じ込めた試合で、完勝といってもよい。しかしそれを完勝といえないのは、チャンスを多くつくり出している状況をポジィテブに捉えずに、逆に試合を難しくしているとネガティブに捉えているからである。香川の置かれている状況も変わりつつある。チャンスメイキングをしている評価から、次第に結果を伴わないマイナス評価に変わりつつある。この試合に関しては、ほとんどゲームに参加できていなかった。香川より下にポジションをとっていたムヒタリアンがその代わりをなす。これが、クロップ指示のチーム作戦なのか、あるいは香川を事実上見限った選手間の判断であるかは、今後のゲームを見れば判る。最下位を脱し、インターナショナルマッチウィークに突入する。

11月 9日(日)
磯崎新展12×5=60へ行く。磯崎新の活動の広さを示す展覧会である。それを「建築外的思考」でまとめていた。建築外的たる所以は、趣味的であり、政治とは無縁であるところにおく。そのために中国の「文人」が引用され、これまた見識の広い話である。軽井沢の書斎「鳥小屋(トーリー・ハウス)」は極私的な小さな建築でありながら、それを壮大な歴史の中に位置づける。建築家磯崎の本領を再発見する。
157 11月8日 セリエA サンプドリア×ミラン  
マークのキツい本田は前半のワンプレー以外に見せ場をつくれず、後半早々に交代。本田がボールをもつと3人に囲まれるシーンが目立っていた。バックとのつなぎの役目を上手く果たせなかった。次の壁が訪れる。

11月 8日(土)
多田邸に行く。前面道路と緑道の面する敷地である。奥様が気に入ってこの土地を探し当てたという。そうした条件に対し設計者の解答は、各階毎に方向を違えた開きをもつ縦方向に連続する提案であった。1階アプローチを緑道と反対の位置に置くことで、半地階の事務所は緑道と反対方向に開くことを可能にし、その上のリビングは大開口によって緑道に開いている。最上階の寝室は前面道路方向へ開く構成である。その展開効果を高めるため、階段を吹き抜け空間の中でなく壁沿に置き、せまい階段を上がる度に異なる開けた空間が体験できるようになっている。ともすると多層空間は単純な繰り返し空間になるところを、飽きさせない空間構成である。実に心地よい住宅であった。素材の色と照明の扱い、天井高の変化がその効果を高めている。開く方向を違えるために、各階に異なる位置に階段を置くことにスタディがさぞ繰り返されただろう。住み手の空間意識を高いレベルで反映した住宅である。住宅にはそうした心地よさに加えて、住みこなすことによってはじめて得られる快適性もあるのではないかと近頃考えている。克服することで得られる達成感のようなものである。それは、ぼくら建築家がデザインしているときに感じる快感でもある。生活に直結する住宅を、建築家があえて作品としてたらしめるのは、実はそこに鍵があるかもしれない。それは受け身の住み手にとって最大の快感であろう。

11月 7日(金)
「私のルイス・カーン」工藤国雄著を再読する。2年前、小布施のワークショップで工藤氏にお目にすることができた。80歳を越えていたと思う。北斎の肉筆画を絶賛していたのを思いだす。その後の学生の作品に対するクリティークで、特に芸大生に対してであったのだが、ひどく激怒していた。それは、提案がまちづくりの仕組みの提案に終始していて、ものつくりへの情熱が見えなかったからである。現実を無視したコンセプチュアルな提案であった。本書を再読して、工藤氏がなぜ激怒したかがよくわかる。全体像から順序立てて、時間にしたがって細部に至る設計をカーンはしなかった。良い悪いに時間は関係がない。プロセスを踏むという考えがなかったに等しい。いつもよりよいものを求めて、全体の組替え作業が続けられていたことが判る。コンセプチュアルであることよりもモノの迫力をカーンは追求していた。「ルーム」とはそういうものなのだろう。作品を言葉よりも身ぶりで表現していたという。見習うことは多い。

11月 6日(木)
午後から卒業論文と設計の中間発表。50近くの研究をクリティークする。具体性のある提案には多く意見を寄せることができるのだが、前提のみで終わっている研究へのコメントに困る。能力は、よいアイデアを見つけるのでなく、ひとつの考えをかたちあるものにまとめるところが試される。個人の能力はたかがしれているので、相手の意見や背景によってリライトできる能力の方が大切である。
クリティークしている内に最近の学生の建築離れについても気づく。3.11以降問題意識が大きくなったのに対し、それを解決する計画が依然として小さい。身の丈にあった提案であり、それは、大きな社会、経済のシステムに直ぐに飲み込まれてしまいそうである。案の定、教員の上から目線の真っ当な質問に対して答えることができないでいた。これでは挫折感と無力感だけが残ってしまう。いつの時代もおそらく、学生はそうして叩かれてきたのだと思うが、その中でも一筋の光明が見いだせれば、それがバネになって次に進む気になる。そうなるにはどうしたらよいかと考える。以前、光が見えていたはずの身の丈サイズの感性的な提案は、3.11以降の突きつけられた現実問題を処理できずに、吹っ飛ばされてしまったのである。

11月 5日(水)
157 11月4日 CL ドルトムント×ガラタサライ
ドルトムントは、CLにおいては安定した勝ち方をする。速攻で右のSBからの比較的長めのクロスボールにルイスが反応し先制。続けて香川のコーナーキックから2点目。香川が下がった後半には、今度は左からのクロスボールを後半から投入されたインモービルがダイレクトで決めた。先制、追加となれば、安定したパフォーマンスを見せる。ブンデスで上手く運ばないのは、こうしたサイドからの攻撃を活かすための、中央からの攻撃が機能していないことに気づく。昨年のレヴァンドフスキのキープ力が大きいことをあらためて知った。キープできることで、中央からのワンタッチのダイレクト攻撃が可能となる。

11月 4日(火)
北関東の紅葉は終わり、冬が間近まできていることを実感する。秋が短かったような気がする。
「自己組織化と進化の論理」がようやく読み終わる。最後は、テーマが広まると同時に薄まった感もある。
「力学・素材・構造デザイン」坪井・川口・佐々木等著を読む。 佐々木さんのこれまでの活動を歴史的に位置づけることできた。RCシェルは、20世紀半ばに圧巻したが、急速に衰退してしまった。それは、もっぱら幾何学的なために、当初の目新しさがなくなり、シェル下の複雑な機能にもかたちが対応できなかったからである。そうした今や古典的になってしまったシェルを、より自由で有機的な局面形状への翻訳が佐々木さんの目指したところである。それは、現代のコンピュータ・アルゴリズムの応用で可能になった。それを佐々木さんはFlux Structureと呼ぶ。川口先生のシェルに対する考えも興味深い。シェルをサスペンション構造との関係を論じることで再定義している。無応力でも形態を保つシェルは、力の再配分が有利に働き、リダンダンシーが高い。それが極めて現代的というのである。2人の巨匠の切り口は鋭い。

11月 3日(月)
ギャラ間の伊東豊雄展にいく。スタディとモックアップの大小入り混ぜた模型によって、台北オペラハウスを紹介する。2階に上がると、360°視界が開ける近未来めがねがあり、それに感動する。実世界のように見回す体験がそれで可能になる。新しいグリッドからくるイレギラーな空間のつながりに可能性を感じる。
157 11月2日 セリエA ミラン×パレルモ
ミランは引いて守る相手に前線が詰まり、それを崩す術がなく、0-2で破れる。本田は、そうした状況では不向きとみられ、途中交代される。それでもミランは硬直状況を打開できなかった。個人で打開しようと、メネスと後半出場のエルシャーラビンは、ボールを持ちすぎている。それが一層の膠着をもたらす。少しチームに疲れを感じ、躍動感が感じられない。

11月 2日(日)
新国立美術館へ「チューリッヒ美術館展」へ行く。印象派以降の近代絵画を一通り見る。モネの睡蓮や、ゴッホ、セザンヌのビィクトワール山、ムンクの前期、カンディンスキー、ミロ、キリコなど巨匠作品が一通り見られるのだが、連作の中でも最高傑作というものではなく、感動もいまいちであった。しかし時代によって、絵画のテーマが、対象物から画家の内面へ移っていくことがよくわかる。彫刻ではロダンとジャコメティふたつだけであったが、その違いは明らかである。
その足でミッドタウンサントリー美術館の「高野山の名宝」展に行く。空海の精神と壮大な歴史に育まれた日本文化を堪能できる。運慶の八大童子像と快慶の四天王像は決して大きくないが、迫力があり小さい分だけ精巧である。空海の文字も、整然とした漢字列でありながら、少し歪んでいるのがよい。五大力菩薩像(絵)の、みなぎる赤みを帯びた配色から、以前に空海展でみたマンダラ図を思い出す。本物はかなり大きかった。その縮小印刷版が国宝として展示されていた。モバイル型の携行仏像とともに、唐から持ち帰ったものである。それを源泉とする日本美術は、空海に限らず、その精巧さからくる迫力に魅力があると感じる。空海高野山の文化財は、他に類のないほど豊富である。来年は、高野山の開創1200年である。
156 11月2日 プレミア マンC×マンU 
10人のユナイテッドが負ける。前半の内にスモーリングが退場。そのためかファン・ハールのこれと言った新しい意図は見えず。スパースターを集めただけでは、他の監督と変わりないのでないかという噂も目にするようになる。一流監督というのは、一流選手をコントロール下におけるといくことかと思う。2年前のように、ファンベルシーに輝きがないことが、ユナイテッド落日の原因である。 

11月 1日(土)
江尻さんとNIKEプロジェクトの構造打ち合わせ。縦ログの使い方の方針が決まり、縦ログ構法にない屋根構造の方針も決まる。屋根は在来と変わらないのだから、思い切って骨組みのない構法、テントに決める。それはKAMAISHIの箱にも通じる。いくつかヒントをもらい、週明けの宿題とする。
155 11月1日 ブンデス バイエルン×ドルトムント 
前半に先制するもドルトムントは後半逆転を許し、5連敗となる。クロップは前半を好評価し、後半を悔やむ。その前半、ドルトムントは0トップにし、オバメヤン、香川、ルイスの前線3人が激しいプレシャーをかけ続ける。そのため、バイエルンはビルトアップができずに、前線のレヴァンドフスキ、ロッペン、ゲッツェにボールが渡らなかった。途中からバイエルン・ベップはシャビアロンソを守備(香川)から自由にさせるために、前線からゲッツェを最後列まで下げる。シャビは攻撃から守備に移った瞬間、香川を捉えられずに、いくつかいいかたちを造られてしまっていたからである。そうした展開でドルトムントが先制する。香川からパスを受けた右のオバメヤンがドリブルであがり、センタリングをルイスが頭で決めた。後半になると、プレッシャーが緩くなり徐々にバイエルンペースになる。つまらないミスから、レヴァンドフスキとPKにより逆転される。その後は、前半のようなプレッシャーないままいいかたちがつくれずゲーム終了。ドルトムントにとってはいかんともしがたいゲーム展開であった。 

10月31日(金)
難波さんの学会賞打ち上げの会で、佐々木さんと話す。佐々木さんは学生時代に、当時池辺研の瀬口先制、奥田先生とともに「形の合成に関するノート」の翻訳に取り組んでいたことを知る。付記Ⅱや第Ⅱ部は数学的記述が中心で、詳細が判りにくいのであるが、その箇所を佐々木さんが担当していたという。打ち上げ後に、事務所に戻り再読するものの、やはり理解は難しい。佐々木さんはこの時、数式が形になることへの興味から、この翻訳に参加したという。しかし佐々木さんに言わせるとこれはまだ単純なもので、現在の佐々木さんの最適化局面解析はその数千倍の変数をもっているという。20代に抱いた漠然とした将来のイメージが、解析技術の進歩により、現在その一部を実現できるように至ったそうだ。あくまでも振り返ると判ることでもあるが、持続することの素晴らしさを教えてもらった。とはいえ、佐々木さんが「ノート」に引っ掛かり、それが今の伊東さん妹島・西澤さんにつながっているとは驚きである。
ハロウィンで渋谷はごった返していたので、途中でバスを降りる。交差点を30分では通過不可能とみた。振り返りたくないが、若い人が集団化したエネルギーは異常である。こうしたエネルギーは持続させてなんぼになることを、子どもたちに話してしまった。

10月30日(木)
藤本壮介氏と荻原廣高氏を千葉工大へ招いてのレクチャー。荻原氏の行う環境シミュレーション技術に驚く。風の動きをシミュレーションできるアプリがあることを聞き、さっそくそれをダウンロードする。彼はそれを使ってワークショップを行っているという。先日の羽鳥さんの逃げ地図に近いものを感じる。どちらも新しいメディアを通してユーザとの距離をフラットにしている。紹介されたプロジェクトの中では、伊東さんの図書館が面白い。90m角の空間にさまざまな微気候の場をつくり、ユーザが気分に合わせて選択できる空間の提案である。その微気候は、明るく暖かい空間、明るく涼しい空間・・・というように、縦軸に温度、横軸に明るさをもつグリッドにマッピングされたものである。このような仕組みにより、画一的に管理された空調空間よりも省エネにつながるそうだ。藤本さんは、これまで経験したことのないサイズの空間化を目指している。微細な材料による蜘蛛巣のような構造体の中を歩き回らせることにチャレンジングしていることが判った。その試みに勇気をもらった気がする。
NHK特集で「横山大観」を偶然に見る。横山大観は、菱田春草、岡倉天心死後、戦争を経験し、1958年まで生きた、その終生のドキュメンタリーである。朦朧体を捨て、輪郭線と色を使うことで、彼らの死後、徐々に現在の地位を固めていった。その転換作品が、「流燈」(1909)と「しょうしょう八景」(1912)である。しょうしょう八景は画法というより構図の斬新さが夏目漱石に評価された。朦朧とは、当時の料金を誤魔化すタクシーを指す呼び名であったらしい。その後の23年の「生々流転」で、朦朧体を含めた集大成を完成させる。そこから政治的活動が増えていったため、大きな社会に取り込まれていった。その辺りは詳しく紹介されていない。

10月29日(水)
菱田春草展 国立近代美術館に行く。作風を一通り見る。日本画は線画が基本とされる。当時フェノロサは印象画とのこの違いに着目し、日本画の位置づけを行った。1900年前後に生まれた「朦朧体」はこれに反するかたちで生まれた。岡倉天心の空気、光線を描く方法はないかという発案によって生まれた画法である。もちろんこれは西欧画を意識する。ちなみに「朦朧体」とは嫌味な呼び方であり、「金銀体」ともいわれたという。この展覧会でも、科学的分析により金銀が抱負に使用されていることが報告されている。光の表現として、当初は白黒であった朦朧体も、色彩が施されるようになっていく。その変様も見ることができた。色彩も西欧の影響である。当時、こうした画法は日本で評価されず、今日の位置を占めるようになったのは、岡倉天心による彼らのアメリカでの活躍をもたなければならない。ところで浮世絵をはじめとして日本画は近代開国前から西欧で評価されていた。他の政治、文化領域では、これまでの歴史を捨て去り西欧化に邁進したのに対し、日本画のみがそれを保つことができていたのである。先のフェノロサの功績も大きいが、日本画は経済的にも十分に成立する輸出品でもあったのだ。しかし実は岡倉天心が芸大を追われたのは、他の分野と同様の日本画の西欧化に、反対したためとされる。あくまでも西欧の歴史の中に日本画を位置づけようとしたフェノロサに反発したかたちである。歴史は2重にひねくれている。岡倉天心を筆頭とする菱田春草、横山大観、下村観山の活動は、西欧の後塵から逃れるため、日本画を保持したままの西欧化の探究であった。その代表が朦朧体であり、茨城の五浦でそれが試みられていた。その試みは成功をおさめるが、その後日本の芸術が世界的に着目されることはなかった。いくらがんばっても、西欧の追従とでしか見られなかったからである。唯一の成功例がここにあった。 

10月28日(火)
154 10月26日 プレミア チェルシー×マンU
「自己組織と進化の論理」は、9章「生物と人工物」から少し内容が変わる。進化と技術革新を重ね合わせる。これをカウフマンは、「カンブリア型の多様化のパターン」といっていた。根本的に新しいものが生まれると、それらはまったく異なる方向に、急速にしかも劇的に改善されていく。そしてそののち、あまり劇的でない改良が付け加わる、このことをいう。これを統計学的に説明する。

10月27日(月)
「装飾と犯罪」アドロフ・ロースの読書会。前期に行った「建築をめざして」の時代背景を学ぶために本書を選ぶ。今や、少なくとも建築の学生には、装飾することは罪である認識がある。構造や機能と合致した装飾のみが意味あるもように思われるようになった。しかしそれは正当か?という問いから議論を始める。ここでロースが言っているのは、装飾のもたらす効果についてである。ダイレクトに言えば、金になるか、人を豊にするか、という効果である。当時は、装飾は金にならなかった。その時間を新しい創作のために割くべきことを主張している。したがって職人保護を目指すドイツ工作連盟は否定されるべきものであった。100年経って時代は変わった。現代を代表する装飾はディズニーランドである。それは立派な経済循環にのり、ロースの時代になかった「消費」という生産活動をつくり出すものとなった。その意味では、もはや装飾は否定されるべきものではないのだ。むしろ、装飾を否定する建築家の方が経済活動に乗っていないともいえる。しかし相変わらずディズニーランドは新建築誌であつかわれない現実がある。これをどう捉えるかという議論になる。前期にヴェンチューリの「建築の多様性と対立性」も取り上げた。彼が注目したのは、アメリカで新しくおきた消費を創り出す建築とは何かという問題である。ダックはまさにそれを表現する装飾であった。ヴェンチューリはアイロニックな建築を提案したのではなく、至極真っ当に、これまで提案されてきた装飾様式に相当する現代の様式を提案したのだ。あらためて本書を手にすることで得た感想である。ここで再び、工業化を進めていたイギリスについて知りたいと思う。本書でも度々言及されている。イギリスのこの時代の芸術運動、ウイリアムモリスについて読もうと考える。
153 10月26日 セリエA フィオレンティーナ×ミラン 
前線をトーレスからメネスに変更した3トップでミランはのぞむ。引いて守るフィオにたいして打つ手がなかった。トーレスの動きの重要性を知る。前線が詰まりスペースをつくり出せないでいた。そのため本田も活躍できず。次回に期待する。

10月26日(日)
JIA新人賞の2次審査。審査員は今村雅樹、山梨知彦とぼくである。冒頭に各自選考基準を話す。今村氏がJIA新人賞は作品でなく、人にあげる賞との説明をした後で、僕は新人賞であるので、チャレンジングな試みを評価したい旨を発言する。サルハウス、古森弘一さん、原田真宏・麻魚さん、水谷俊博さん、浅野言朗さん、永山祐子さん、玉置順さん、芦沢竜一さん、末光陽子さんの順に発表。紙を通した理解と異なり、生の説明を聞くことで発見することも多い。住宅が少なく、リノベ作品が多いことは時代を反映している。サルハウス、原田さん、永山さんの3人が順当に現地審査と確定する。これらは、よく練られていて完成度が高いことに3人の審査員の意見が一致する。しかしその分、建築家としてのデザイン意図を問うことになり、彼らにとってはキツい質問であったに違いない。サルハウスの「群馬農業技術センター」については、開かれた施設を成立させるための計画の工夫とそれを覆う木格子屋根との関係に質問が集中する。木造屋根はこの時代、誰もが認める正論であるので、その使い方には注意が必要である。その質問であったと思う。技術的には、この木格子はぼくの予想を遙かに超えてよくできていて、カテナリーを許容するためリジットなものではない。これは凄いことで感心する。原田さんの「シェアハウス」では、材料の使い方、これを「開かれた秩序」にしたがうと発言していたが、こうしたアプローチと今までの強烈なコンセプトのもとの作品との差異が問題になった。永山さんの「豊島横尾館」は、赤ガラスや映り込みガラスの効果多くがスライドを通して明らかになった。「3次元空間を2次元空間にする」という次元を減らして効果を上げるというコンセプトが面白い。これまで商業建築ファサードを多く行ってきたからこその収穫なのだろう。プレゼも凄くよかった。現地審査の残り1作品が多少もめる。ぼくは芦沢さんの「風の音」を推し、結局これに落ち着く。異様なかたちは、チャペルという商業施設をつくらなければならないことへの自己批評ともとれ、それとは別に内部では、「建築」を探究している。これに自覚的であることを評価した。その試みとは、琵琶湖の風景と琵琶湖の音までをも訪れる人へ内面化しようとする試みであり、そのダイナミックさを評価すべきと、考えた。末光さんの「二重屋根の家」は環境を真摯に取り組んだ作品だけあって解析データを抱負に抱え、評価されるべきものと思われたが、環境をかたちにするときの難しさをあらためて感じた。玉置順さんの「深川不動」もこれまでにない空間を提示していたのだが、宗教性に寄りかかっているとの批判を受けてしまった。最後に古森弘一さんから選考されなかった質問を受ける。「九州工業大学製図室」は、技術的によく練られた作品で、ぼくの考えに近い作品だ。それだけあって、反対に少しきつい返答をしてしまったことに後で後悔をする。この柱頭のデザインに建築家の意思があるのだが、それに対する説明が足りないことを指摘した。プレゼでは、日本の近代産業史において九州工大が果たしてきた役割が位置づけられていたので、そのスチール版を展開するプレゼが見られるかとおもったのだが、あくまでもモノとの関係に終始していたのに不満があったからだ。昔、ぼくもそうした指摘を受けたことを思いだす。

10月25日(土)
152 10月25日 ブンデス ドルトムント×ハノファー 
香川は怪我もあって後半途中から出場。前半にルイス、オバメヤンが決めるところで決められず、いつものパタンでこの試合も落とす。いよいよドルトムントも赤信号が点滅し出した。途中出場の香川はゲームに入り込めず、中盤の底でのプレーが多く、ボールに絡むことが少なかった。得点は清武のフリーキックであった。うまくゴール左隅にあわす。2点目もボレーで決めるべきものであったのだが、それは外してしまう。その後は、ドルトムントのペースとなったが、ハノファーがしのぎきる。

10月24日(金)
難波氏の学会業績賞受賞パーティ。2時に界工作舎で荷物をピックアップし、4時から設営。佐藤先生から借りたスピーカシステムも問題なく機能することを確認し、6時半から佐々木さんの進行で会がはじまる。親友である佐々木さんの人柄で、ざわざわしていた会がしまる。はじめに山本理顕さんが話す。ここ1年の山本さんの執筆活動と絡めて難波さんの住宅を歴史的に位置づける。住宅とはプライバシィーを守るために考えられた近代システムであり、そのため住宅は本来小さく閉じている。それは国家が管理する都合のよいものでもある。その現実を指摘する。難波さんの一連の活動は、そうした住宅を開くという大きな矛盾を抱えたもので、建築家の役割とは実はそういうものであるべきであるという内容であった。次に石山修武さんが話す。同様に箱の家の社会的意義について説明する。現代のマスプロダクションに対抗できるのは、個人のアーティステックなアイデンティテーの強さか、難波さんの手作りでいながらの少量生産であるという。前者は古典的であり、難波さんは極めて現代的であると指摘である。社会に対抗できることが、社会的な活動なのである。最後は北山恒さん。難波さんのテーマの中心は時間であるという。それを若い頃からの経験を通して話してくれた。ポストモダンのテーマをサスティナブルとして現代まで引き延ばすことを評価した。いずれもが、社会的意義のある活動を業績賞として評価するのは相応しいというものであったと思う。

10月23日(木)
151 10月21日 CL ガラタサライ×ドルトムント
ドルトムントはCLでは調子よい。特にオバメヤンの走力が生きる。最初の2得点は、最終ライン裏を通すムヒタリアンの長いスルーパスから生まれる。香川の混戦の中の短パスとのバランスがよかった。ギンダー、フンメルス、香川と次々と負傷で途中交代する。経過が危ぶまれる。

10月22日(水)
150 10月21日 CL ローマ×バイエルン 
ローマがバイエルンに徹底的につぶされる。W杯のブラジル、あるいは昨季のバルサ戦を見るようである。最終ラインが個人技のドリブルから、あるいはパスによって破られる。ローマ、あるいはブラジルのようなチームは、攻撃に優位性に保つことによりディフェンス補強をする。そうしたチームが崩れる典型であった。ローマにとっては、クリアボールをことごとく奪われ、2列目からの意外性のある突破に為す術を見つけることが出来なかった試合である。しかしゲーム当初はローマが優勢であった。その際のゲーム中断の度に、グアディオラは選手を呼びつけ、各選手に指示を与える。その後にバイエルンの猛攻である。グアディオラの戦術妙を知りたいと思う。

10月21日(火)
日建の羽鳥さんのレクチャーを聞く。主に神保町シアター、SONYビル、逃げ地図と最近作についてであった。いくつか発見があった。計画上では、劇場において階段を少なくするため地上階に劇場を設置すること、オフィスのコアレイアウトにも企業なりのこだわりがあること、最近のオフィスは非常時の備蓄が義務づけられそのための面積がかなり大きくなることなどである。技術的には、植物は37°以上で蒸散作用があること。東京23区で一斉に打ち水をすると2°近く気温が下がること、海風は谷間にそって流れること、陶器の冬期防止のためタイルの含水率が3%以下に設定されていること、である。日建も床下に空調を埋め込む床下の空調を行っていた。それは天井材の落下防止にも役立ち、備蓄倉庫にもなり得る。クライアントとのコミュニケーションについて、ぼくが港区で経験したことと同じ感想をもっているのが最も印象的であった。技術的に優れたクライアントに対しては、問題解決型のコミュニケーションを採ることが有効で、マイナスを解消していくことでしか事が進行しない。一方、市民との場合は、対等の立場でコミュニケーションをするために、新しいメディアを使ったデータ共有は有効で、合意形成をつくるのに役立つということである。問題解決型の場合、通常は面白くない結論に落ち着いてしまうものであるが、彼の場合、遙か遠くの達成目標がそうなることを未然に防いでいる。これは、陶器の潜熱利用に対する信望である。こうなるとぼくら建築家と立ち位置は同じであり、集団としてのデータやノウハウの蓄積がある企業に、ぼくら建築家はどう太刀打ちするかの術を考えざるを得ない。責任の所在が明らかでないところに、ぼくらよりチャレンジングでいられたりもする。

10月20日(月)
オペラシティギャラリーでザハ・ハディト展をみる。技術が成熟した現在だからこそのなせる業を作品にみる。最終会場では、新国立競技場案と現国立競技場との大きさの対比がプレゼされている。それによると競技場の大きさでなく、付帯施設の大きさが問題にしていることがわかる。疑問になったことは、屋根と観客席が同じ構造体になっていることであった。荷重条件があまりにも違うのだから、構造システムが異なってよい。これは近代的な考えであって、現代はそれにイメージの付加も欠かせない。この点にこのデザインの鍵がある。
「自己組織と進化の論理」を読む。

10月19日(日)
148 10月19日 セリエA ヴェローナ×ミラン
本田が2ゴールし、イタリアメディアも本田を賞賛する。いずれもカウンターからの攻撃で、フリーになった本田が落ち着いて決めた。ミランは戦略が徹底している。攻撃が詰まったときは、CFWが開くかSBが上がるサイド攻撃、メインは速攻である。本田はそのどちらにもマッチしている。それにしてもセリエAは緻密で徹底したチーム戦略を実行する。
149 10月19日 オランダ トウェンテ×アヤックス 
宮市が先発、63分に退く。幾度かSBに対し、攻撃を仕掛けていた。DFをぶっちぎるところを早く見たい。試合は、連覇中のアヤックスに先制するも追いつかれドロー。後半は猛攻撃を受け、ホームトウェンテはよくもった。

10月18日(土)
147 10月18日 ブンデス ケルン×ドルトムント
ドルトムントは好機をつくり出すも先制点を奪えず、逆にイージーなミスから失点を繰り返す。おそらくフンメルスは、引いた相手との混沌とした状況を打開するために、あえて縦パスを多用していると思うのだが、ことごとくインターセプトにあい、逆にカウンターを食らう。そうしたフンメルスの低いパフォーマンスが痛い。CBの中央を突破されるとはあり得ないこと。一方あと少しのところでゴールを奪えない原因は、連携にある。インモービルは、スペースを残し、そこへ自分が入り込むことを好むようで、香川がそのスペースを埋めてしまっている。香川は、狭い局面をワンツーで崩したいのだろう。そうしたバランスが上手くいっていない。

10月17日(金)
「自己組織と進化の論理」スチュアート・カウフマン著を読みはじめる。いつか読みたいと思っていたところ、GA JAPANで触れられていたので思い切って手にする。この手の自己組織化の本は多々書かれ、この本の特徴は何なのだろうという思いが、今まで本書を遠ざけていた。本書では、突然変異と自然淘汰による進化論を否定し、その前段階にある自己発生的な秩序がもたらす進化論を提唱している。したがってジャック・モノーの「進化とは、翼を得た偶然である」という主張も退ける。アンリ・ベルクソンの「生命衝動」も同様である。夜に、池上彰の優しい経済学を見る。為替取引でリスクを少なくするためのデリバディブ商品についての放送であった。デリバディブ商品とは、為替取引において大損を回避するため保証商品である。その保証商品にも、大損した場合に備えてさらに別の保証商品がかけられる。それが繰り返されると結果、為替がそう簡単には大きく動かないシステムに現在なっている。為替における自己発生的な秩序がここにもあることを知る。日本の木造建築で大きな庇は、木の曲げを利用して、バランス取りながら持ち送る。その構成の絵を思い出し、デリバディブ商品をイメージする。ただし経済においては、リーマンショックの場合のように、大企業の破綻が信用不安を生み、一気にシステムがマイナス方向に崩れ落ちるカタストロフィな状況が起きることもある。これが突然変異である。エボラ出血熱のウイルスの拡散も同様だろう。ただし本書では、こうした突然変異は簡単には起きないことを示そうとしている。当時流行ったバタフライ効果の否定である。バタフライ効果とは、ある場所での蝶の羽ばたきが遠く離れた場所での異常気象を起こすことをいう。

10月16日(木)
岡本太郎の特集を見る。彼は「芸術は爆発である」という言葉を有名にした。これは、パリ時代からの具体と抽象にはじまり、古代と近代、平和と戦争、男と女というように、絶えずふたつのものがぶつかり合ったところのものである。表現者として、そのぶつかりを意図的に起こし、新しい化学変化を期待した。作品からその迫力が伝わってくる。太陽の塔の地下には、過去の顔として、世界の様々な民族に伝わる神の面が展示されていた。その異様さにも驚く。2年足らずで日本の民俗学者が岡本太郎の呼びかけで世界に散り、収集した。それを知りさらに驚く。

10月15日(水)
NHKスペシャル「ホットスポット最後の楽園」を見る。福山雅治のナビゲーションにより、ホットスポットの紹介をする。ホットスポットとは、7割の原生が失われ危機に面している地域をいう。今回の取材はアフリカ東部の大地溝帯である。今まで知らなかった事実がいくつかあった。チンパンジーは肉食でもあること。他のサルを襲い、食べることもあり、非常に攻撃的である。同種(チンパンジー)を襲い殺傷する生き物はほぼ限られていて、人間とチンパンジーがその代表であるという。ハイギョという魚が現存すること。魚でありながら肺をもち、水が干上がっても数ヶ月土の中で生きられるという。反対に水中に留まっていることはできず、数時間に一度呼吸のために水面から口を出す。ボノボという2足歩行猿がいることが最も驚いた。10頭あまり群れ皆が子どもを背負い、手で薪を抱え、それを歩き運ぶ映像は衝撃的であった。ボノボはチンパンジーと異なり平和的であるという。ボノボは繁殖期でなくても交尾をする。チンパンジーが凶暴なのは、メスの短い繁殖期の奪い合いが原因だそうだ。ボノボはいつでも交尾が可能であるのでその必要がなく、メスとオスの力の差はない。しかしWEBでボノボも他種のサルを狩ることを知る。ボノボをグーランの本の中に探したが見つけられなかった。残念。

10月14日(火)
146 10月14日 代表親善 日本×ブラジル 
先発6人を替えて、Jリーグ中心の先発メンバーに疑問を持つ。マークがゆるくスペースを与えてしまい、ネイマールに4発をあびる。ブラジルはお互いに調整し合い、スペースを空けておくようにゲーム運びをしていたようだ。そこへパスが入り、誰かが受けるかたちであった。1点目はその典型である。一瞬のかわしを阻止する強い1対1ができなかった。後半、本田が投入されるも流れを変えることはできず。後半早々の2点目が痛かった。それで張りつめていたものが折れる 。シンガポールまで出向き、王者を迎えてのなんともあっさりしたゲームであった。

10月13日(月)
145 10月11日 EU予選 ポーランド×ドイツ 
ドイツが負ける波乱。ただし、ポーランド国内では、2軍相当のドイツに対して勝算ムードが高まっていた。怪我人が多く2軍にならざるを得なかったドイツはちぐはぐな攻撃に終始してしまい、無敗記録が止まる。

10月12日(日)
「ナジャ」 アンドレ・ブルトン著 を読む。小説というより自伝である。ナジャという女に翻弄される様を脈絡なく書き綴った。「ラインズ」の紹介から手にする。直線でないラインの顛末として「ナジャ」が挙げられ、これを肯定的に捉えている。この文体を納得するのはなかなか難しいことを知る。

10月11日(土) 
NHK特集首都改造をみる。3人の戦後の首都改造の試みを紹介する。3人とは、石川栄輝、丹下健三、磯崎新である。石川は東京の川を埋め立て、堀の上に首都高をつくった張本人として知っていた。一方、西麻布商店街入り口の公園をつくり、不忍池を保存したのも石川である。歌舞伎町を繁華街としたのも彼だろう。丹下については、彼が固執した軸の意味を解説する。広島を引き合いに、今でも平和の象徴としてこの広場があるのはじつは、原爆ドームへの軸線が、大きな役割を果たしている。当時、軸線上の裏地に復興住宅計画があったのを、丹下は勇気をもって拒否したそうだ。目先の問題より、大きな視点の重要性を丹下は軸野デザインに重ねていた。東京計画にも、皇居から木更津への明確な軸があった。その実際の意味については広島ほど触れられていなかったのが残念。磯崎は、新都庁案に広大な広場をつくったことについてである。発展した東京のシンボルを誰もが超高層に求めていたのに対して、日本に根付いていない民主主義=広場を磯崎はコンセプトにした。猪子寿之のコメントが面白い。芸術家(建築家)は、かけ離れている理想と現実をどうかたちにするかを引き裂かれながらあれこれ考える。その試行錯誤の迫力が作品を通じて感動として伝わってくると。3人の試みは結局、現実や政治の前で、建築家の限界を示すものかもしれない。その中で、猪子のコメントで救われる。

10月10日(金) 
144 10月10日 代表親善 日本×ジャマイカ 
岡崎のコメントがWEB上で流れる。それによると、現在代表は戦略の模索中であるという。対戦相手によって戦術を変える。W杯では、哲学が通せなかった。現実的な戦いを見る必要を感じたという。哲学とはパスサッカーである。ゲームでは、それが出来ない時間帯が必ずある。この試合の前半がそうであった。相手のプレッシングがかなりキツかった。その場合、ロングパスによって、リスクを負わない戦略でいく。後半は相手が疲れてきたので、本来のパスサッカーでポゼッションを高める。そうした試合運びであった。次は一度も勝っていないブラジルである。強敵に対して、どういう戦いをするか楽しみである。コンフェデレーションカップでは、ガチに戦いを臨んで、完璧にかわされた。ドイツW杯でも同様であった。日本代表の進歩をみてみたい。

10月9日(木)
アギーレはメンバーを固定しない。近年日本代表選手個々のポテンシャルは高いものの、ブラジルW杯時には個々の選手のコンディションは褒めたものではなかった。それでもそうした選手を使わざるをえない状況がグループ敗退となった。思えば、ドイツW杯も同様であった。戦略を変えずに選手を更新し、システムの改良をめさすのがよい。負のスパイラルは、システムのさらなる下方硬直を招く。これはアイデアを廻る試みでも同じである。全てにおいて硬直はよくない。

10月8日(水)
「身ぶりと言葉」を読む。手を自由にし、集まって住むようになった人類が、知識を倍増倍増することに成功したのは、身ぶりや言葉という技術を通じてである。個体の自由が、集団の発展に寄与するのには、こうした身ぶりと言葉の相乗効果による訳だが、ここで主張しているのは、身ぶり(身体・技術)が先行し、それを追従するように言葉(知識・文化)が発展していくかたちである。今回、このことを理解できた。

10月7日(火)
「身ぶりと言葉」 アンドレ・ルロワ=グーラン著を改めて読む。「ラインズ」との関連を知りたく、再度手にする。

10月6日(月)
「ラインズ 線の文化史」、第6章を読む。最終章は残念ながら少し調子抜けだった。建築家が描く線を引き合いに本書が締めくくられる。前章において行われた技術の説明にあるように、リスクを回避するため、ラインの合理化が進められてきた。それによって、失われてきたものが多いという説明である。冒頭にダーシィー・トンプソン「生物のかたち」があげられる。それは、人間のつくるラインとの対比として、生き生きしたものの代表例である。それならば、リスク回避という上記の仮説は、なぜ人間以外の生物には適用されないのだろうか?という疑問が湧く。人間もおそらく、失った生のラインを回復すべく何かべつのものをつくり出していると思うのだが、それについての言及がなかった。とはいえ、大きな疑問を投げかけてくれた本であった。近頃読むスピノザの思想は、(ライン)幾何学的思考でありながら無限性の獲得を可能にしたものと理解している。そこに秘密があるのだろうか。
143 10月5日 プレミア チェルシー×アーセナル 
香川の移籍により縁遠くなったプレミアを、ブンデスとの違いを考えながら、このゲームを見る。選手の動くスピードはドルトムントの方がありそうだが、キツいDFのマークを外すために、反対にプレミアはボールを動かす。フィールド全体を大きく使うロングパスはそれ故に有効である。そのため選手には蹴るボールスピードとトラップの正確さが要求される。0-2でチェルシーが勝つ。得点は、オスカルのドリブル仕掛けによるPKと、セスクからのDFの間へのロングパスをジエゴ・コスタが決めたもの。個人の差が得点に顕れた。プレミアの特有の得点シーンではなかったが、チェルシーの攻撃にプレミアの特徴をみることができる。

10月5日(日)
「ラインズ 線の文化史」、第4章、5章を読む。この章で生の定義を行う。生とは「いくつかの地点の内部に閉じ込められるものでなく、ラインに沿って展開されるもの」とある。生についてのイメージは、ギリシア・ローマ時代から、2つの解釈がある。小川や河川のように上から下への水のように動くものと、樹木が光に向かって下から上に伸びていく2つである。それに対して本書では、組紐のように、撚り合わされ重なり合うイメージを生にもっている。それをベルクソンは「創造的進化」の中で、「流れに放り込まれた小さな渦巻のようなもの」といっている。5章には、技術と芸術の二項対立が生まれた理由について記述される。職人が知的で想像力あふれる創造性豊かな芸術家と区別されるのは、18世紀のイングランドからであるという。それはレイモンド・ウィリアムスの説によっている。18世紀まで芸術と考えられていた着彩画、線描画、版画、彫刻から、版画家が王立美術院の入会を拒否されたことに端を発している。そこから、芸術と職人、芸術と技術という概念が浸透した。いつしか、創造的知性と想像力を用いるものと、型にはまった習慣的な身体技法を用いるもの、制作過程を体系的に追求する原理から、生産の機械設備に組み込まれた原理へと時代と共に断絶していった。本書の主眼は、それと同じ背景をもつ線画と記述についてである。そこにも断絶がある。かつての記述は、言葉の組み立てという抽象的なものではなかった。書のように文字の質や調子も大切にするものであったのだ。5章後半は、グーランの「身ぶりと言葉」を引き合いに、そうした近代がもたらした抽象化、機能化が、生を消し去る警告がしるされる。いつしかラインは、「長さをもつがまったく幅をもたないもの(抽象化、関係性のみを示したライン)になり、生命も運動も存在しなくなる」。線状化とは、じつはラインの誕生でなく死をしるしづけるものというショッキングなまとめである。
142 10月4日 セリエA ミラン×キエーボ 
本田がフリーキックで2点目を決める。左サイドからのフリーキックに関わらず、ボールを抱えたまま、頑として譲り渡たさない本田の姿勢が印象的である。それを見事に決める。0-2でミランの勝利。このところのドロー続きから抜け出す。6試合で4点は立派であると同時に、本田の気持ちの強さを感じる。

10月4日(土)
ナチュラルスプリットllの撮影。内野正樹さん編集のムック本で、狭小地を工夫して建てられた住宅として扱われる。曇りに関わらず、スリットから差し込む光で、内部はほどよく明るく気持ちよかった。照明や家具、小物も徐々に増え、建物とマッチしている。気を遣って頂いているようだ。
141 10月4日 ブンデス ドルトムント×XハンブルガーSV 
これといった攻めのかたちがつくれず、ドルトムントが完封負けを喫する。CL圧勝後の中2日ということで集中力と気力が感じられなかった。さすがに後半は、香川を中心に攻撃を組み立てし直すも、得点できなかった。バイエルンとの差が開く。

10月3日(金)
「ラインズ 線の文化史」を読む。第2章はまさしく、線を描くことの人類学的な事実が示される。第3章からは、そうした事実の裏にある意味について説く。ネットワーク図では、点と点のむすびを直線として扱う。が、現実に目を向けるとそれは直線でなく、網細工状であるという。網細工は、ルフェーブルの「空間の生産」から借用した語である。近代的思考では、たくさんの固定された地点でなされた観察を、つなぎ合わせて1枚の完全な絵にすることによって知が組み立てられる。それは測量方法と重なるというのが面白い。それを否定する。事実はもう少し複雑で、生きていて、直線は歪み、絡んでいるという。それを抽象化して、結節点を例えば大きな濃い丸点とするのは、誤りであるという。事実、ワビリ人はそのように描かない。ここで生態学が登場する。「生命の生態学は、交点と連結器ではなく、糸と奇跡の生態学でなければならない。」あるいは、生態学は「網細工に組み込まれた生物それぞれの生活の道に沿ったさまざまな関係を扱うもの」でなければならない。序章から察する内容と異なり、俄然面白くなってきた。 

10月2日(木)
JIA新人賞の一次審査を行う。各々の意見がそれ程異なることなく、スムーズに9案が決まる。とはいえ、JIA新人賞は応募作品を通じて人を選ぶものなので、建築家のキャリアと今回の作品そのものの勢いについて議論になった。必ずしも、建築家力量と個々の作品の完成度は一致しないということだ。歳が若いほど作品評価の微分係数は大きくなるが、歳をとるほど、絶対値は高まるが微分係数は鈍る。そのなかでどこを評価するかが問題とされる。結局、微分係数の小さいものは選ばれなかったように思われる。
140 10月1日 CL アンデレヒト×ドルトムント 
香川が躍動し、3ー0でアウェーのドルトムントが勝つ。開始早々のインモービルの得点が、チームに安定をもたらし、全てにおいて良い方向に向かわせる。その得点は、狭い中からの香川のループ状のスルーパスからはじまる。香川は前を向くと強い。その後もゴールこそならなかったが、中央の香川から左、右のワンタッチパスの繰り返しで完全に崩すかたちが幾つか生まれる。後半、アンデレヒトは3バックにし、中盤に人数をかけ、ドルトムントのDFラインからの縦パスを防ぐかたちをとってくると、香川の疲れもあったろう、ゲームから消える。しかし攻撃の違いをつくったのはやはり香川である。アンデレヒト中盤前まで下がりパスを受けることで、ゲームを構成する。これはユナイテッドで、ルーニーが許されていたプレーである。2 点目、3 点目は、そこから、DFライン裏への長いスルーパスによって結びついた。昨年のレヴァークーゼン戦を思い出させる香川の活躍であったが、これをリーグ戦で見たかったのは、皆同じ気持ちだろう。「今日は視界が開けていた。」という香川のコメントがネット上に流れる。

10月1日(水)
千葉工大にトーマス・ダニエル氏を招いてのレクチャー。マカオの都市変遷についてショッキングな事実を知る。最近まで、香港のいわゆる表にたいして、マカオは裏道を歩んできた。しかし現在は中国の発展と共に、カジノの売上はラスベガスの6倍だそうだ。今はカジノと言わずに、インテグレートリゾートという。そうしたマカオになったのは土地の埋め立てによる。当初マカオは河川による土砂堆積により港湾が浅く、大型船が停泊できなかった。これが、香港より遅れることとなる原因であった。しかし、一方で埋め立てには有効で、新しい土地をつくっては、金となるカジノを建設してきた。とくにここ20年の建設ラッシュは凄まじいもので、中国のマネーと共に現在にまで発展していている。同時に歴史的に、マカオ政府はお金になるあらゆることを行ってきた。それも現在の発展に一役をかっている。アヘン、売春、奴隷、ギャンブルと、資源もなく、何も生産しないマカオは、こうしたトレードで生き残ってきたのだ。最近香港の学生運動が盛んであるが、経済が潤っているため、マカオでは全く影響がないらしい。都市は一般に時間的な上書きレイヤーが施される。それに対してマカオは横に拡がるレイヤー都市である。

9月30日(火)
139 9月30日 CL マンC×ローマ 
1-1のドロー。初戦をバイエルンに対して落としたマンCはホームで是が非でも勝ちたかったろう。いきなりPKで先制し、ボールポゼッションがあるものの、ローマの速攻に苦しめられた。ローマは、ドルトムント同様に、縦への攻撃が早く、この試合ではそれがカウンター攻撃となった。どちらにゲームが転んでもおかしくない展開であったが、マンCは攻めきれなかったという印象。

9月29日(月)
NHK特集法隆寺を見る。法隆寺の建て替えがあったかどうかにせまる特集。同時に、政争に巻き込まれながらも、聖徳太子の教えが認知されていく様を、国宝を通して紹介する。それによると一度は、一族の抹殺、火災消失にあいながら、直ぐに仏教を中心とした国つくりのために法隆寺は再建され、今日に至っている。使用されている檜の年輪測定法から、その再建を670年とする。元々の伽藍は現在の南にあったそうだ。消失時、金堂はすでに再建が進められていた。そこに釈迦三尊像を中心に、右に百済観音、左に玉虫の厨子があった。そのためこれらは消失から免れたという説明である。ともかくこうした37の国宝は圧巻である。それと平行して説明されていたのは、聖徳太子の教えである。実際に仏教が庶民に受け入れられるようになったのは鎌倉時代のことであるが、その源はすでに聖徳太子にあるというものであった。その間、仏教は公家や貴族のものであり、庶民は何にすがっていたかという疑問が湧く。戦後の民主主義の象徴として聖徳太子が扱われることも関係してくるのだろう。聖徳太子は、絶えず政争の具として扱われてきたこととになる。他に、東門の南面柱が節だらけなのは、元々の植生状態のまま建築材として利用したからであり、東院鐘楼が軽く見えるのは、平安時代の建て替えによるものであり、下部の木は江戸時代に施されたものであること知る。これらは、戦中に大規模修理を執り行った故西岡棟梁によって紹介されていた。

9月28日(日)
138 9月28日 セリエA チェゼーナ×ミラン 
4-2-3-1の2列目右サイドで本田は先発。本田の定位置となった。しかし試合は1-1のドロー。昇格組に対しての2戦の勝ち点2は痛い。ミランの1点は、本田のCKから。DFサバタが退場し、本田がDFに変わって後半75分に下げられる。イタリアサッカーはつくづく組織立っていることを痛感する。その中で本田が中央に入ることが許されているのは嬉しい。前試合でトーレスの右への開きが、有効に働いていることを書いたが、この試合に限っては、トーレスがDFラインを押し込むシーンが目立つ。押し込んで生まれたスペースをメネズがドリブルで攻め上がっていた。メネズも左に開いていたときに、本田が中央に入る。そうしたシーンが多くなることを希望する。本田の評価は一定になりつつも、勝ち点は増えず。

9月27日(土)
137 9月27日 ブンデス シャルケ×ドルトムント 
今年初めのルールダービーはホームのシャルケが2-1でドルトムントを下す。内田はフル出場。主に守備面で貢献。香川は後半57分から出場するも、ゴールを生み出せなかった。丸岡はベンチ。クロップは安全策をとり、単純な攻撃を目指した。香川というクリエイティブな選手を休ませ、ギンダー、ベンダーという守備的なダブルボランチでのぞむ。その代わり、フンメルスとスポティッチという攻撃型の従来のCBが復活する。しかし、CBからの縦のビルトアップが行えず、オバメヤンの速攻の他には、構成力を欠き得点の型がつくれなかった。後半、インモービルに変えて香川を投入。中盤が動き出す。78分の絶妙な浮き球パスで右のラモスに渡すも、トラップが大きくゴールならなかった。負けるときはミスがつきものである。ドルトムントは辛抱の時と感じる。

9月26日(金)
「ラインズ 線の文化史」ティム・インゴルド著を読みはじめる。序論は、ラインの制作歴史を人類学的に見ることの意味について。「長さがあるが幅はない点と点の連結としての直線という考え方は、今はさること2千年前、ユークリッド幾何学まで遡る。しかしそうした直線の考え方が、今日のように原因、結果、因果関係についての思考を支配するようになったのはルネサンス以降」とある。線のイメージを具体的にしにくいが、機能的なつながりをいっている。その引用の前に「現代社会において、直線性は、理性的思考や学術論的議論ばかりでなく、礼儀正しさや道徳的公正さといった価値を端的に示す」ともある。もう少し幅広く機能性を捉えている。その点でデザインと同義である。第1章は、「言語・音楽・表記法」。ルネサンス以前、書物は語るものであったという解釈に驚く。中世において書物とは聖書であり、聖書を語るのを聞き、それは耳と連携する行為であった。音楽も同様であった。中世音楽は歌であり、言葉の響きが重要であった。したがって、いわゆる楽譜というものが独立した地位を獲得するのは、歌と音が分離したルネサンス以降のことである。本書で言うところの、音のライン史とは、こうした歴史を言っている。

9月25日(木)
設計方法小委員会で、機械デザイン分野の近藤伸亮氏のレクチャーを聞く。全体を制御しない自立分散型のシステムを、「やわらかい」と呼んでいることに興味をもつ。目的論的な機械に対して、生物的ということだろう。機械分野では、昔からライフサイクルデザインという言葉を使っているらしい。これは製品販売後も、貴重な資源を回収し安くするために、どのようなデザインを当初からすべきかというものらしい。部品のモジュール化もそのひとつだそうだ。これは建築のモジュール化と異なっている。他に、最近ではロバストデザインが主流になっているらしいことを知る。パーフェクトでなく、頑強であることで、コンピュータウィルスの対抗処置分野として注目されつつあるという。また機械分野で最近は、ヒューマンインターンフェースからM to Mへ移動しているらしい。M to Mとは、マシーンtoマシーンである。自動車自動運転技術が代表例で、これは建築にはない例であることを知る。

9月24日(水)
136 9月24日 ブンデス ドルトムント×シユトゥットガルト 
ドルトムントが、終盤にようやく2点をとり、ドローに持ち込む。シユトゥットガルトは、勝ち星のまだない下位に沈んでいるチームである。そうしたチームに対して、ホームで苦しい試合になってしまったのは、前試合と同様、攻撃で優位に立ちながらも、先制点がとれなかったことによる。昨年のバイエルンは、点が入らない状況でも失点を決してしなかった。この差が大きい。香川はというと、得点できなくともチャンスは何度かつくる。ひとつめは、DFラインを抜け出したところを、右DFピシチェクからのロングパスを胸で受けてのループボレーシュートであった。DFと息の合っているところを知る。ふたつ目は、香川の左から比較的長めのオバメヤンへのシュート調のパス。数センチ低ければ、オバメヤンの頭に合った。3つめは、シュメルツァーからのセンタリングを香川が頭で合わせたもの。DFラインに香川が一気に入ったところを受けたもので、コンビネーションはよかったのだが、これも精度に問題であった。このように後半は、ドルトムントらしい縦への突破が目立ち、香川もそれに絡む。DFに余裕を与えずに、一瞬の判断でパスやシュートに持ち込んでいく香川のプレーを見ると、だいぶチームにフィットし、2年前に戻りつつあることが判る。後は結果である。今週末のルールダービーに向けてか、後半からフンメルスも出場する。丸岡は出場しなかった。

9月23日(火) 
135 9月23日 セリエA エンポリ×ミラン 
トーレスの下に本田を右、メネズを左に置く新布陣で臨む。昇格チームにたいしての2-2のドローは痛いが、攻撃のよいかたちを多くつくり、何よりもトーレスがフィットしたことが喜ばしい。トーレスが右に流れることによって、中央に本田が入る。2点目はそうしたかたちから生まれた。正しくは、本田が中央に入り込むことで、トーレスがDFを引き連れて右に流れ、中央の空いたスペースをさらに本田が攻めたというもの。パスは右のアバーテからであった。今日はアバーテからの攻撃が目立った。これもトーレスが右に流れることで、本田、アバーテが無理して右奥まで入りことなく、攻撃が手詰まりになることが少なかったためである。今までの左からが多かったミラン攻撃の左右バランスがよくなった。1点目も、アバーテから配球されたボールを、トーレスがDF前に入って放ったヘディングシュート。プレミアに比べてイタリアの1対1の甘さを露呈する。ミランの守備陣はいまいち安定しないが、後半は、攻撃的なムンタリに変えて、バランスの取れるポーリーを入れて、ゲームは落ち着いた。

9月22日(月)
柳田国男論を読み終わる。柳田が調べ上げた領域が、言葉、文学、地名、神社、祭り等であることを知る。これらを民俗学としてまとめた。柄谷は、そうした柳田の活動を、主観的と客観的、個人的と共同的、近代的と半近代的というような対概念が成立しないところにある無縁なもの、動詞的といっている。あくまでも私的、つまり直感的でありながら、実証主義的にその直感を内省するものだという。理論化、体系化を行うことなしの記述主義といってもよい。そうした方法を動詞的という。近代的思考とはっきり区別させている。

9月21日(日)
134 9月20日 ブンデス ドルトムント×マインツ
ここ数試合の速い縦の突破が、この試合に限りドルトムントに見られなかった。クロップは、はじめの1点の大切さをよく語る。どんなかたちであれ、先制点によってゲームは好転していくことをいっている。この試合では、何度かゴール機会があったものの、ラモスが決められなかった。そのためマインツペースのこのような状況に陥った。香川も悪くなかったが、このパフォーマンスで、ファンを納得させることはできないだろう。センターバックのスポティッチとフンメルスの欠場により、DFからのビルトアップができなかったことも大きかった。かわってマインツ岡崎は、ワンチャンスをものにした。岡崎の成長を感じる。マインツの開幕直後の大不振も勝利によって吹き飛んだ。

9月20日(土)
NHK 特集を通して、地震の原因を知る。東日本大震災とその後の余震は、大量な事例データを与えてくれた。それらを分析し、地震のメカニズムが徐々にではあるが判明してきたという特集。大地震は、プレート上の硬い地盤で起きるらしい。ユーラシアプレートに滑り込む太平洋プレートの滑り反動が地震を巻き起こすことは知られていたが、実際太平洋プレートは平らではなく、2〜3000 メートル級の山のような高低差がある。それが引っ掛かりとなりエネルギーが蓄えられ、その反動が地震になるという。柔らかい地盤では山は崩れ削られるのだが、固い地盤の突起は残る。現在、そうした山の位置の特定を急いでいるという。プレートが動くのは、地球中心部のマグマ活動によるもので、地球内部でもゆっくりとした対流によって動く。プレートが滑り込む角度が浅いと、ふたつのプレートが接する面積も広くなり、その分だけ摩擦によるエネルギーもたまる。チリで大きな地震が多発するのはそのためで、南海プレートも同様な構造をもっているという。南海大震災の警戒を呼びかける原因がそこにあることを知った。

9月19日(金)
柳田国男論を読む。 

9月18日(木)
132 9月16日 CL レアル・マドリード×バーゼル 
レアルは徹底的に右サイドを突き、そこを起点に、選手個人のスピードの違いを見せつける。ロナウド、ベンゼマ、ベイルである。この差は埋まらないと思われるので、右サイドへの出し手、クロースとモドリッチ、ロドリゲスをいかに防ぐかが問題となる。後半途中から柿谷登場。レアルも疲れはじめ、スペースが多く残されはじめていたが、チャンスに結びつけることができなかった。
133 9月17日 CL バイエルン×マンC 
今季はじめてバイエルの試合を見る。昨季ほど攻撃の迫力が感じられない。ロッペン不在により、相手DFを混乱させるまでに至っていないためか、マンCに固められてしまっていた。ただ、マンCの速攻も許さないところに守備の安定性がある。比較的自由なポジションにいるラフィーニャがその安定性に貢献している。これから新メンバーで攻撃パタンを熟成させるのだろう。

 
9月17日(水)
131 9月16日 CL ドルトムント×アーセナル 
クロップ曰く「永久に語り尽せる程、このゲームに満足している」。開始10分のドルトムントのプレッシングが全てであった。アーセナルに完勝といってよい。ここ4年で3度、グループステージで対戦しているが、ドルトムントの成長を感じることができた。実力が伴い、落ち着いてゲーム運びができていた。CL決勝まですすめた経験が全てであろう。DFラインからのビルトアップがドルトムントの特徴である。そこから中盤を抜きにした縦へのパスが多い。そのパスを前線が中盤へ一端叩いて、中盤から、前線への裏へのパス+突破である。とにかく速い。対して、アーセナルはDFから横パスで繋ぐかたちであり、ドルトムントはそこを狙っていた。アーセナルが守備を固めてからは、サイドがDFを押し込みそこへのパスでDFを下げるかたちにする。サイドアタッカーがキープできるかどうかは重要でなく、その空いたスペースを中盤選手が突き、そこから再び縦への突破を試みるかたちである。香川や中盤はそこを起点にゴールをめざしていた。オバメヤンの速さ、インモービルの確実さは尋常でない。ムヒタリアンは表情こそ表さないが、ゲームを支配するオールランドプレイヤーである。グロスコロイツの進歩にも驚く。香川もうかうかしていられない。

9月16日(火)
130 9月13日 ブンデス ドルトムント×フライブルク
香川が先発し、0-2で勝つ。1点目は、香川が最終ライン前で反転して、DFの間を通すアウトサイドのスルーパスが起点となった。グロスクロイツが抜けだし、折り返しをFWラモスが決める。ラモスはコロンビア代表。日本戦でも決められた。2点目は、左にフリーでいるところを得点する。グロスコロイツの右からのセンタリングを、中央のイリッチがスルーし、香川がフリーで決める。落ち着いていた。どちらもドルトムントらしい速い攻めであった。後半香川の疲れが見え、交代される。香川がよい環境にいることを実感する。

9月15日(月)
129 9月14日 セリエA ミラン×パルマ 
本田が先発し、アシストと逆転ゴールを決める。本田のプレー自体にキレがあるわけではないが、ゴールを奪える位置取りを許されているところに今後の将来性を感じる。得点は、CFWがニアサイドに走り込んで空いた中央を本田が入り、センタリングをゴールしたものであった。仲間との信頼が一番である。

9月14日(日)
AO入試。抽象化することの危険性を学んできた僕にとって、幼い作品を通して、反対の抽象化の大事さを知る。抽象化を行った瞬間に、わかった気になり、その真の意味を見失ってしまうことを、アレグサンダーの近代批判、その後のニューサイエンス的思考、柄谷行人から学んだ。したがって、できる限り抽象思考を避けてきたつもりである。それを自分の子どもにも伝えてきたし、学生には、できるだけ大きな模型をつくること、技術的問題を検討すること、を口うるさくいってきたのもその理由によっている。やってみなければ、問題の中心は見えてこないのだ。とはいえ、子どものときから知っている言葉を、一度検討し抽象化する手続きが不可欠なものであることを知った。世間というものを一端対象化しなければ、社会を獲得できないのである。それを知った。思い返せば、これは若者が成長するときに経験する。僕を含めておおむね若者は世間や分別を軽蔑してきた。世間や分別というものをあらためて対象化することなしに、である。社会や理性という概念に飛び移り、にわかに難解な言葉をしゃべりはじめる。やがて、世間のきびしさを知り分別を知るようになると、綺麗さっぱりそのことを忘れてしまう。これは転向という大げさな問題ではなく、決定的に「抽象」の過程というものが欠如している。抽象化を通してしか獲得できないものがあり、作品の評価の多くはそういうところにもある。

9月13日(土)
NHK特集で、昨夏の異常現象の原因を知る。インドシナ海域の水温上昇が、偏西風を北に押し上げ、その変化の大きさが、動的で進路が変化する偏西風の動きを固定化してしまった。そのため、絶えず日本は偏西風の下、すなわち暖気に覆われ続けたために、異常高温を招いたそうだ。すこし、後追い的説明で納得できないものの、偏西風が動的にコースを絶えず変化させながら、地球を回り続けていることを知ることができた。宇宙規模でいうと、風と雲は地球にへばりついて見えるのも驚きである。香川が、ドルトムントで得点する。監督の信頼がボールを呼び込んだといっても過言ではない。然るべきポジションに確率的にボールが転がってくる。これによって、高まりつつあるファンの期待に香川は答えられそうな気がする。

9月12日(金)
誰かがなりすまし、メールを大量に送っている理由から、メール送信機能をサーバーからストップされる。送信機能が働かないのはそのためであった。海外からの操作であることが予想される。サーバーからの指示にしたがって、これに対処することに追われる。時間をとられたが、改めてパソコンのアカウントシステムを知ることができた。

9月11日(木)
村野藤吾の宇部市市民会館を案内のもとみる。前面の列柱とシンメトリーが、戦前を思い起こさせる。どことなく、日本的でない。こうした体験をしたのははじめてであった。ホワイエの柱頭がフラットスラブを支えるかたちであるのは、どこから来ているのだろうか?その後、スターリングが実践したのは、60年代からである。袖舞台壁の紋様も見る。噂の戦前ドイツを思い出させるものである。宇部興産ビルの車寄せの迫力に脱帽。村野と菊竹には飽きさせない魅力がある。空間への思い入れがそうさせている。

9月10日(水)
萩市役所 萩市民会館 菊竹清訓設計 へ行く。市民会館の狂気に圧倒される。鉄骨トラスの大屋根の下に、小ホールと大ホールのコンクリートのボックスが戯れているように見えるほどである。遠くから白い巨大な屋根が浮いて見える。小ホールの天井はテントである。ホール施設に流動性が与えられていることは素晴らしい。こうした流動性について、菊竹はこの頃から行っていたことを知る。近くに山口美術館 丹下事務所 がある。美輪焼をみる。質素で力強い。山口芸術センター 磯崎新 で昼食をとる。図書館、美術館、ホールをリニアにつなげた大空間である。公共施設、ましてや機能性が大切とされるホール、美術館、図書館を、倉庫のような一室空間コンセプトで成立させていることに感心する。ただ、その連続が感じられないことを、残念に思う。建物を横断する空間が必要でないか?と考える。中庭が大きく、空間の連続性を阻害していた。中原中也記念館は、 スケールがおかしい。空間の大きさのメリハリがない。近くで外郎を買う。山口の名産である。芸術センターに戻り、中山邸に入る。いたく感動する。幾何学空間の強さだろう。室内からは見えないトップライトが効いている。ガラスブロックと透明ガラス、柱配置、樋等のシンメトリーに固執した白い空間である。モンローチェアにしばらく座っていたのだが、疲れなかった。床は薄い色のフローリングである。

9月9日(火)
午前便で山口宇部空港へ向かう。研究室の合宿である。はじめにレンタカーで、池原義郎設計の鹿戸市場へ行く。PCのディテールに、少し過剰さを感じるが、意気込みに感心する。建築にむかう姿勢をあらためて考える。屋上のグリーンが、海とコンクリートの防波堤と対照的で気持ちよかった。下関体育館 坪井善勝 は、 片側に観客席がある珍しい形式であった。そのため屋根は片勾配である。アーチ状の梁のスケールに圧倒される。建築家は入っていなかったのだろうか?周りにとりつくサブ空間のため、全体構成がみえにくくなっている。稼動率は、今でも100%だそうだ。市民に愛されている。続けて、このゼミ合宿の宿泊所である、秋吉台国際芸術村 磯崎新 へ行く。 施設管理者の案内でホールをみる。300人程度のヴィンヤード型劇場である。そのため、横長でホールに動きがある。建物中央には屋外の能舞台があり、それとも一体となる。フレキシブルなホールは磯崎の真骨頂である。夜から、隣のセミナー室を利用して、4年生の卒業研究の中間発表会。例年より進みが遅い。

9月8日(月)

9月7日(日)
「柳田国男論」柄谷行人著を読む。南方熊楠の天才性と比較し、柳田の鈍重性と綜合性を指摘する。熊楠の非日常、奇異なものに対して、柳田の場合、日常的生活の正当性を扱っているといってもよい。それを観念的でなく、科学でいう実験、「内省」により実践的であったことを強調し、評価している。明治期に導入された近代思想と土着思想を比較して、知識人に対して面白い記述がある。「いまだ抽象(内省)されたことのない生活的な思考と、それを抽象するかわりに別の概念にとび移った、つまり真の意味で抽象というものを知らない思考だけがある」というものである。抽象とは、定義することであり、定義すること明瞭化すること、その過程に思考がある。柳田はそれをひたすら行ったというものである。近頃読むスピノザの幾何学を思い出させてくれた。

9月6日(土)
熊楠コンペのプレゼンテーション。概ね指摘された事項は技術的問題であった。木造の妥当性について問われたこととなる。技術もひとつのデザインであることが理解できないらしい。熊楠コンペに関わる関係者としていかがなものかと思ったが、ぐっと押さえて質問を受ける。とはいえ、いいたいことはいえたので、晴れ晴れした気分で終えることができた。

9月5日(金)
アギーレの初戦を見落とす。後にダイジェストを見るが、基本的なミスからの失点であった。代表としていかがなものかと思う。

9月4日(木)
熊楠プレゼンテーションのテーマを、「縁」つくりと「柔軟性」に決定する。主観性をもって、動的にプロセスを捉えていく試みを提案することした。熊楠はそういうスタンスで研究を行ってきた。そのようにデザインも行いたいと思う。

9月3日(水)
「三つのエコロジー」に収録されている「エコゾフィーの展望」を読む。これは、92年の日本での講演記録である。エコゾフィーとは、エコロジーとフィロソフィーをかけ合わせたガタリの造語である。89年の大阪の講演を受け、さらに一歩踏み込んだ積極的(政治的)な講演であることがわかる。「潜在的なもののエコロジー的な力を発揮させることによって倫理的な自由の飛躍をめざし」、「逆に、政治的な実践を新たにつくりなおす」ことを要請している。そういえばこのころ、緑の党とかが出現していた。そしてこれを芸術家の姿とダブらしていた。「大切なのは、ある作品がひとつの突然変異的な言表行為の生産に実際に寄与しうるかどうかどうかなのです。芸術的活動の焦点は常に主観性の生みだす剰余価値であることに変わりありません。あるいは、別の言葉でいいかえるなら、平凡な環境世界のなかにおいての負のエントロピーを明るみに出すということです。というのも主観性の一貫性は、主観性が最小限の個人的もしくは集団的な再特異化という道を通してみずからを刷新することによってしか維持されない」とある。生物進化における突然変異を思い出させる内容である。そして現在は、「切断と縫合の技術に見合うだけの領域がわれわれのなかに存在している」という。「科学的な客観性の名のもとに主観性の体系的な拒否があいかわらず支配している」と前置きし、「既成の文脈から身を引き離した美的プロセスが、その美的プロセスそのものの自身のためと同時にあなた方(社会)自身のために、この両方の意味において機能し始める」という。この内容について、もうひとつ具体性がほしくなってきた。

9月2日(火)
大学院試験の面接。私が赴任した頃よりも学生の受け答えがしっかりしてきたことを感じる。ここ3年くらいの変化である。これからの設計授業の進め方についても合わせて考える。小さくまとまってしまうことへの危惧である。再び、学生に自由に発想させる指導もあるかとも思う。

9月1日(月)
「三つのエコロジー」に収録されている「ポストメディア社会に向けて」を読む。89年の大阪での講演会記録である。科学主義的なパラダイムを捨て、美的—倫理的なパラダイムへ向かうべきことを主張する。美的—倫理的なパラダイムでは人は、「積極的に自分の身を投じて危険をひきうけながら、みずからの幻想をもためらわずにてんびんにかけ、実在的な正当性を保ちながらも遊技的自由さをもったパラドクシカルな空気をつくりだそうと試みる」。これを主観性の個人化という、よくわからない言い方である。しかし次の引用で内容はあきらかになる。「自分自身に対して責任があるとみなされた人は、家族的習慣、地域のならわし、あるいは法律などによって支配された他者性との諸関係のなかでみずからの位置を決める」という。まさにデザインのことをいっている。続いて、主観性の集団化について言及する。「個人を越えて社会体にむかうと同時に、人になる以前の方向や、限定的な秩序立った論理よりもむしろ感情の論理に依存する言語以前的な強度の方向にもひろがっていく」とある。主観性が社会化するプロセスである。状況判断に絞った記述であるので、もう少し背景や方向性を知りたいと思う。

8月31日(日)
128 8月31日 セリエA ミラン×ラツィオ
本田が先制点をたたき出し、3-1でミランが勝つ。左のエルシャーラヴィの突破から、中央に走り込んだ本田が決めた速攻である。利き足でない右で決める。スタジアム入場の際には本田が、リヴァプールへ移籍したバロテッリにかわり最後尾となる。チームはサイドからの攻撃を徹底させ、本田もそれにフィットしていたが、ゲームにおいては本田中心のチームにはなっていない。ただし、右の本田も中央に入ることを許され、そこでボールを受け取ることも多くなっているので、これからだろう。先制点の後は、ふたつのゴールの起点となる。センターライン付近で本田が受け、右サイドの選手が上がったところの起点となる。ただし、本田に対するディフェンスがきつく、本田がボールをキープでない場面がたまに見受けられた。2点目の喜びは、監督を巻き込んでの全員のものである。本田も含めミランがいい方向に向かっていることを感じる。

8月30日(土)
スーパー台風についてのNHK特集を見る。900ミリヘクトパスカル以下の台風をスーパー台風という。近頃そのスーパー台風が増加傾向にある。温暖化のためである。その原因が、海水表面温度上昇によるものでなく、26°以下の海水層が海面深くまで追いやられていることが原因だそうだ。今までは上昇気流によってかき混ぜられていた海水が、26°以上の層が厚く、温度の低い海水となかなか混ざらないようだ。その分、上昇気流が衰えず、台風の中心部の気圧が下がり続け、勢いが増す。加えて驚いたことがひとつあった。地球規模で俯瞰すると、台風の高さは想像より低い位置にあり、すなわち海面すれすれを移動していることである。台風は思っているより大きいことがわかる。
ファン・ハールのマンUが勝てないでいる。今日もドローであった。選手の寄せ集めでは上手くいかないということか?ファーガソンの築きあげてきたものが一気に崩れ去るのを感じる。といっても、哲学があるようには見えないので、ファン・ハールは壊し屋のようにも見える。ヴェンゲルが何かを言いそうである。
南帆の誕生日は明日である。彼女の了解を下から築くのは難しく、なんとかかたちつけることを考える。

8月29日(金)
127 8月29日 ブンデス ドルトムント×アウグスブルク
ルイスの活躍により、ドルトムントの圧勝といってよいだろう。今日は前線でよくボールが回った。香川が復帰するというニュースがドルトムントでも流れているそうだ。正式な発表はまだない。

8月28日(木)
昨日放映されたNHK特集を考える。現代社会は、近代以前に比べて価値観が多様化ともいえるし、反対に、近代以前に比べて行き過ぎた合理性、抽象性を追求しすぎているともいえる。近代以前であったなら、自閉症の少年は、村外れにあったかもしれない。極端に縛られた価値観に合わないということで、である。あるいは、自然に囲まれせせこましくない社会では、そもそもそうした症状が発症しなかったかもしれない。世界や社会をいかように捉えるかによって、さまざまに解釈することができることに気づいた。つまりは、社会と自閉症との関係は一概には言えないのである。それに対する精神反応の不備を社会は自閉症と名付けただけなのかもしれないと思う。
午後、自分を取り巻く外界を再び考える。外界を、社会と自然という2つに分けてみたら、古の自然に開かれ閉ざされた社会から、自然に閉ざされ開かれた社会へ移行していることに気づいた。自閉症をはじめとする精神障害は、外界から閉ざされたときの一種のパニック状態をいうのではないかと思う。人は何らかの繋がりを欲していて、それが閉ざされたときが問題となる。自然と社会へともに開かれる方法は何かを考えはじめる。

8月27日(水)
自閉症についてのNHK特集を見る。「僕が跳びはねる理由」東田直樹著をめぐり、自閉症の子をもつ親にスポットを当てた番組である。自閉症の原因に、脳の欠陥が挙げられる。がその他に、親を含めて社会の要望に応えられないもどかしさを本人が、機能的欠陥と思い、無意識のうちにそれを隠蔽しようとする一種の自己防御本能にも原因があるようだ。だから、言葉に表すことができなくとも、実は本人の中では非常にさまざまなアイデアが渦巻いている。東田くんはしたがって、タイピングをまねた発言方法を使うことによって、実に深い表現を行うことができる。近代的な考え方では、情報の交通整理、あるいは情報をヒエラルキー化することが求められるが、それが不可能な場合の負のスパイラルの結果が自閉症という訳である。そのため、治癒するためには少年を自由にしておくのがよい。スピノザがいうように、他の能力を発揮することによって自己治癒可能なのである。自閉症の少年が跳びはねるのは、そういうことなのだ。自己表現は様々であり、跳ねることと言葉を発することは実はおなじ機能をはたしている面もあるので、それが通常の社会システムに合うか合わないかの違いでしかない。そう思えば、問題とならない。少し無責任な表現のようであるが、スピノザから学んだ無限獲得とはそういうものである。

8月26日(火)
「三つのエコロジー」フェリックス・ガタリ著を読みはじめる。3つとは、自然、社会、精神である。それに情報のエコロジーも随所に触れられている。冒頭にベイトソン「精神の生態学」からの引用がある。生態学的な問題を、外界と主体性との関係に昇華させることをテーマにしている。90年代の本であるが、この時期はモノと精神の区別が有効でないことが、あらゆる分野で叫ばれていた。エコロジーはその典型的問題であった訳だ。 

8月25日(月)
126 8月24日 プレミア マンU×サンダーランド
香川不出場。香川の優先順番がかなり低いことを実感する。ファンベルシーの状態がよくないのはW杯の疲れから仕方がないことであるが、この試合にかんしてはルーニーがいまいちであった。その原因は、ファンベルシーが下がり、スペースが重なることも多かったが、一番は、マタや両サイドと全くといってよいほど連携がなかった。香川にはそれを修正する能力があると思うのだが、ファン・ハール二はそうした期待が香川にないようだ。ファン・ハールはW杯のロッペンのように個人での打開を選手に期待しているようである。思えばW杯のオランダは、結局のところファンベルシーの決定力と、ロッペンの突破という個人の力量に依存していた。ロッペンに相当するディマリアを、多額のお金を払ってでもユナイテッドが獲得するという噂が現実味を帯びてくる。ディマリアに局面打開を期待するために、である。そうして上手くチームが回り始めた上で、アクセントを与えるという意味でトップ下があり、そのマタの控えというのが香川の位置づけである。ルーニーをとの連携を高め、ルーニーを活かすためにも香川という選択が最優先となることをファン・ハールは考えないだろうか。昨日ドルトムント戦を見たが、パスの成功確率が少ないにもかかわらず、ワンタッチパスの連続で瞬時に展開を変える戦略が3トップの魅力であることをあらためて知った。ルーニー、香川にその可能性を探ってもらいたいと思う。
旅行を楽しみにしていたのだが、足がむくみ、連絡することに決める。再び病院に戻る。

8月24日(日)
125 8月24日 ブンデス マインツ×バーターボルン
岡崎先発、先制弾、同点となるPK奮取と活躍するも、今季昇格のチームにやっとのことで引き分ける。昨季マインツを立て直したトゥヘル監督からヒュルマンド監督に変わりチームが安定していなく、岡崎をサポートしていた両FWの移籍も大きい。昨季はカメルーン代表モティングの左突破から前線の岡崎がシュートというパタンであった。ボールを岡崎まで持ち込むことができずにいる。心配である。

8月23日(土)
123 8月23日 ブンデス ヘルタベルリン×アウグスブルク
吉田が所属するサウサンプトンの戦いを見るか迷うも、ヘルタの試合を見る。原口と細貝が先発。細貝の攻守にわたる頑張りが目立つ。一方、原口は左の2列目に位置し、まだ縦横無尽にドリブルで仕掛けをするに至っていない。試合は2-2のドロー。2点目は、後半早々の、深く左サイドをえぐった選手の折り返しを、原口が繋ぎ、FWがゴール決めたもの。唯一原口が光った場面であった。縦への早い突破を持ち味として、表現してほしい。
124 8月23日 ブンデス ドルトムント×レヴァークーゼン
初戦をドルトムントは落とす。開始9秒で、油断のため1発決められる。レヴァークーゼンは監督が替わり、攻めが速くなる。前半は何度かピンチを迎えていた。一方ドルトムントは右のオバメヤンを中心に攻めるが、フィニッシュまで至らず。後半からはセカンドボールを拾い続け、波状攻撃を仕掛けたのだが、レバンドスキーが抜けた穴は大きい。ベンチに丸岡が入っていた。18歳のセレッソからのレンタル中の選手である。プレシーズン戦の活躍がありチャンスをものにしている。
本田がプレシーズンカップでMVPをとる。ユベントスとの1戦目のゴールは、中央での得点であった。チーム内での本田の位置づけがわかる。中央に入ることが許されるほど、本田の存在が大きくなっているのだろう。ようやく本田もミランで、実力を示せるような気がする。

8月22日(金)
南方熊楠や南方マンダラを知るキーワードとして、「リーマン幾何学」や「バロック空間」があげられる。これらは近代思想に反するものとされる。リーマン幾何学とは、曲がった空間における幾何学であり、ユークリッド幾何学と対比する。バロックであるということは、中沢新一の「森のバロック」で語られている。バロック教会内部の光と比べて、以下のように記述されている。「外部の力を、「事」という小さな小窓をとおして、マンダラの内部に、導き入れる。そして、その力は、マンダラ内部で運動している「縁の論理」によって、屈折させられ、折り畳み込まれて、マンダラのさらい内部深くへと侵入をはたし、それを無限の複雑をもった生きた構造として、つくりあげていく。」 

8月21日(木)
122 8月18日 スイス バーゼル×シオン
柿谷のスイスでのゲームを見る。バーゼルは3トップで今季のぞむようである。その右に柿谷が入る。スイスはディフェンスがガツガツくることもなく、バーゼルは攻撃的であるので、ゲームは面白い。そして柿谷の成功の確率も高いことを感じる。その証拠に既に1ゴールと1アシストを挙げている。なかなかのスーパーゴールであった。この日もほしいシュートがあった。

8月20日(水)
「スピノザとわたしたち」第4章「情動の社会学」を読む。個の欲望が「共」を生むプロセスが記述される。どうも予定調和的に思え、納得できない状況であるのだが、解説に熊楠とベイトソンが同時に取り上げられているので驚いた。「共」とエコロジーを比較するためにで、ある。訳者はベイトソンを引き合いに以下を述べているので、ここに記述する。「雑草から有害な思想に至るまで、なんらかのものものがなんらかのかたちでコミュニケーションをとろうとし、それがみずからの力能を拡大させるようなものであり、そしてそれが何らかの形で動的な均衡を見たとき、エコシステムはつねに成立している。かつてガタリはそれを精神、社会、環境と3つのエコロジーにまとめたことがあるが(「3つのエコロジー」ガタリ著)、その一つの様相としてこの「共」を位置づけることはおそらく可能だろう。」 エチカは、これを定義・定理にしたがい幾何学的手法で記述したものである。

8月19日(火)
建築雑誌8月号対談「国家と建築の間をめぐって」を読む。山本理顕の「思想」誌連載「個人と国家の間を設計せよ」をめぐる難波、西沢大良、山本の対談を読む。山本氏の主張は、かつての「世界」は生き生きと無限の可能性をもっていた。それは近代化によって管理されていき「社会」となっていく。そうした構造から脱却するために、モノをつくる建築家の気概を促すものであった。難波は、この見方こそあまりにも近代的で、図式的なものであるので、状況に応じたもう少し繊細な見方をする必要を提案している。例えば、経済や合理主義に囚われない、宗教や贈与などを基準とした新しいコミュニケーションの芽を今みることもできるという。身近なところでいえば、建築の学生達や建築家までもが、かけた努力に見合わない評価と賃金で、一生懸命モノつくりをすることが挙げられる。貨幣交換原則にのらない自己の幸福をえるためにぼくらはそうするのである。近代用語で言えば、これをアソシエーションという。局面々の機能的相互援助といってもよいだろう。但しこの時、各自が独立していて自由な立場にいることが前提とされる。かつての終身雇用のようなかたちの中では、全面服従が強いられ、そのアソシエーションから抜け出すことができないからだ。これと同時に、極めて幾何学的で近代的手法を用いて、無限性を獲得した最近読むスピノザを思い出す。スピノザは、管理された狭い範囲での自由でなく、真の意味での無限を獲得したとされる。それを可能にしているのは、「共通概念」というものである。必要に迫られて皆が「共」に想像できるひとつヒエラルキー上の絵の存在を、スピノザは幾何学的方法の中から見出していた。それがエチカのどこに由来するか詳細に表現できないのがもどかしいが、その可能性を、柄谷、ネグリ、ドゥルーズも指摘している。そうした立場に立ってみると、ぼくたちが現在がそうした変曲点にいることを山本は示し、難波はさらにそれを俯瞰的に見ているようにも思える。

8月18日(月)
「スピノザとわたしたち」 を続ける。人に限らず、事物が生来もっている自分を高めようとする衝動をコナトゥスという。ネグリは、スピノザの共通概念にこのコナトゥスを見出している。これが個人衝動を突き抜け、社会性、政治性に帯びる過程に可能性を見出している訳だ。しかしマンダラと少し離れていくテーマなので、身に入ってこない。
JIAマガジン8月号を読む。東大の小渕祐介氏の新しい建築教育のインタビューが掲載。2年間かけてひとつのプロジェクトを完成させるというもの。紙あるいは模型上のプロジェクトでないところがよい。建築は結局のところ、つくる自覚と覚悟にあると、このごろ思う。こうした1/1を完成させるプロジェクトは、自覚と覚悟を知り鍛えるよい機会である。後半には新国立競技場についての関連記事がある。ザハにはその覚悟があるかが重要なのだろう。槙氏はこのことをいっているように思えてならない。

8月17日(日)
121 8月17日 プレミア リヴァプール×サウサンプトン 
吉田がフル出場。主力の大半がビッグクラブ引き抜かれ、チーム状態が危ぶまれる記事が毎日掲載されていたが、このゲームを見る限り、昨季のチームの良さを引き継いでいるように思えた。負けはしたが、吉田の最終ラインから丁寧にパスを繋ぎビルトアップするかたちは健在であった。1点目は吉田がFWマークするため、上がっていたところを、もうひとりのCBポンテと吉田の代わりに中央に戻った右サイドの間に、ロングボールを放りこまれたもの。このパタンをなんとかクリアできないものかと思う。2点目は、ゴール前で跳ね返したボールを、クリアできずに再び折り返され、マークを甘くした選手に決められた。吉田は、一発目をクリアするために前に出て、右サイドの選手のマークが甘かったものだ。後半はリヴァプールに攻撃のかたちもさしてつくらせず、まあまあの出だしだと思うが、こうした展開で勝ちきれるかどうかが実は大きい。

8月16日(土)
119 8月16日 プレミア マンU×スォンジー 
プレミアが開幕する。同時にサッカーシーズンの到来である。W杯を忘れて次につなげよう。オープニングゲームがユナイテッド。プレシーズンマッチで、3-4-1-2布陣で好調であったユナイテッドに注目が集まる。しかし、攻撃の形をつくれずに、昨シーズンと同じ後半から4-4-2に戻す。故障者が多いこともあるが、ナニとフェライニを交代させて、香川を使わなかったのはどういうことだろうと思う。マタもよくなかった。要するに引いた格下相手にしっかり守られ、最終ラインをこじ開けられない。その対策が、ウイング(ナニ)によるドリブル突破であるのだが、これがチームのバランスを崩す結果となる。連動せず、前スペースが詰まるだけである。フェライニはロングボール対策として使われるが、結果として成功しなかった。おそらく香川のパスによる崩しとの天秤にかけての選択であったと思うが、上手くいかなかった。首脳陣はこれを反省して、香川に風が吹きはじめればよいと思う。香川にもっと前に出る勇気と迫力があればよい。
120 8月16日 プレミア アーセナル×クリスタルパレス 
アーセナルにバルセロナからサンチェスが加わる。アーセナルに足りないものは、縦への突破である。守備が壊れるのを待っている様にしか見えず、迫力が感じられない。このゲームでも最後のところで横パスが多く、決定機がつくれないでいる。サンチェスに求められる役割はその辺りでアクセルを踏み込むことだろう。W杯でもそうであったが、パンツの裾をまくり上げ短パンにして、サイド奥深くから削り込むサンチェスが、フィットしてくるかに注目である。

8月15日(金)
「スピノザとわたしたち」 アントニオ・ネグリ著を読みはじめる。

8月14日(木)
「批評と臨床」ドゥルーズ著の中の短編「スピノザと3つのエチカ」を読む。この短編はこの本の最後に収録されている。書かれている内容は「スピノザ 実践の哲学」にけるものと変わりない。エチカの1部から2部、そして5部への変様についてであり、それらを3つのエチカといっている。そこには「共通概念」が鍵とされる。1部での明快な幾何学に基づいた説明から、アレグサンダーのいう「名付けえぬ質」のようなものへ言及が動いているように思えてならないが、果たしてそうだろうか?と疑問を持つ。内容を引き寄せることが難しい。

8月13日(水)
5章は、「知性改善論」から「エチカ」に至るスピノザの思想的発展についてが記述されている。そこには「共通概念」というものが鍵とされる。しかしここで再び著者が、価値観を含んだ「共通概念」というものを取りあげる根拠が理解できなかった。6章は、ぼくら建築家にとっては判りやすい。空間という抽象的なものを平・立・断を使って表すように、体や精神などを実体として、幾何学を使って捉える必要性を記述したものである。スピノザは、そうした体系を示すことに成功した。それは決して収束するものでない。逆に体系のもとでの実践は、無限に拡がっていく。先日記した訳者あとがきにあったように、これがスピノザの功績とされる。

8月12日(火)
「スピノザ 実践の哲学」の第3章、4章を読む。生の総体は偶然に支配され、その結果に対して人が善悪というモラルを付加する、2章で述べられていたこのことを、あらためて3章、4章が補完してくれた。4章は「エチカ」で扱われる概念の定義であったので、拾い読みに留める。訳者あとがきを記す。「大切なのは、単なる理論でも実践でもない。概念の発明と情動の開放とを結びつけること。生の総体を自由な出会いと相互誘発へと促してやまないスピノザの力強い風をドゥルーズが増幅してわたしたちに届けてくれた。」

8月11日(月)
「スピノザ 実践の哲学」 G.ドゥルーズ著を読みはじめる。西田幾多郎を通じて、この時期多くの人たちが仏教思想に注目していたことを知った。熊楠もそのひとりである。彼らがいかにそれを実践していたかに興味をもった。そして再びスピノザを模索していたところ、この本に出会う。「エチカ」とマンダラは近い関係にあることは先に触れた(7/17)。「エチカ」も近代に対する特殊な考え方である。第2章の「道徳(モラル)と生態の倫理(エチカ)のちがいについて」に、タイムリーな新しい発見が多かった。今まで理解していたスピノザ(あるいはマンダラ)の不十分さがそこに記されていた。無限の属性をもつひとつの実体、これを森羅万象なる自然または神というのだが、これを想起するだけでは十分でないことがそこに記されていた。「エチカ」においてスピノザは、それに加えて、次の3つを提示しているという。ひとつめは、身体をよく掴めていないように、意識も同様に掴めるものではないということ。ふたつ目は、病も含めてひとにとってよいわるいとは、体に合うまたは合わないかを意味し、良し悪しという道徳に左右されるものでないこと。そして3つめは、合うまたは合わないかは、活動能力が誘発されるか阻害されるかということであり、絶対量をいうものでなく微分的なものであること、そしてこのように「身体」と「精神」は不可分な関係にあること、である。このように「エチカ」はまさに生態学(エトロジー)的思考を備えたものであることが判った。その上で、スピノザはできる限り自由な状態に置くことをよしとし、その実践を考え抜いた。ほんの一端であるが、改めて知ることができたことである。これにしたがうと、西田幾多郎の哲学は、「身体」と「精神」を一体と考えなかった点において、西欧近代の追従といわざるを得ない。仏教思想を抽象的に、西欧言語で訳してしまったことになる。一方熊楠は、粘菌観察に固辞し、モノと観察を平行させていた。この違いに気づいた。あまりにも綺麗な割り切り方であるが、同じ仏教思想に立ちながら、この相違を僕なりに発見できたことが大きかった。それは、エリート武家が受けいれた禅思想と土き法竜からの空海密教思想の違いかもしれない。引き続き「スピノザ」を続ける。
 

8月10日(日)
熊楠も、西田幾多郎と同時期の人物であることに気づく。そしてふたりとも、西欧にたいする新しい日本を、仏教(的観点)から再発見をした。この点でも似通っている。どちらも関西人で、熊楠は書簡から京都の影響を受けていることが判る。ふたりの発言の影響力の大きさに違いがあるかとも思うが、実際にどのようにその思想を運用していったかに関心をもつ。

8月9日(土)
NHK特集で西田幾多郎の戦前戦中の役割についての特集を見る。「日本人は何を考えていたか?」の特集のひとつである。「善の研究」は高校時代から読んでいた。多感な若い時代に、多様な価値観の中で何かにすがりたい気持ちから行き着いたと記憶している。読後、それは至極当然な疑問であることを知り、西田の描く「円相図」や「絶対矛盾的自己同一」という考えに励まされた記憶がある。それを当時は深く理解できなかったが、アレグサンダーやニューサイエンスに触れる度に鍵となって顕れてきた。しかし西田哲学の戦前の活動は柄谷行人の本をはじめとして、否定的なものとして知るようになった。ここ十数年のことである。彼らの掲げる共栄圏思想が日本(軍部)の帝国主義に取り込まれてしまい、その強化に利用されてしまったのである。今回のNHK特集はそこに光を当てている。西田を取り込んだのは、過激な陸軍でなく、比較的リベラルな海軍である。後で判ることであるが、歴史は巧妙であった。あれだけ政治にコミットすることに慎重であった西田でさえも「空」とか「矛盾的自己同一」を美学的、浪漫的に運用してしまった。既定路線であった日本の侵略政策を内的に自己救済するもの手助けしてしまったのである。「空」が、リーダー不在でもアジアにまとまりをもたらす天皇制を意味するようになってしまった。柄谷行人は、それに対抗する人物として坂口安吾をあげているが、いまいち理解できないのが正直なところである。その歴史を知った上で僕たちはどうすべきかは、疑問のままである。

8月8日(金)
「浄のセクソロジー」を読み続ける。後半は人魚、半男女についての考察。屈折した性についての世界各国の様々な伝説が記述される。「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」で、明快に性と粘菌についての見方が示されていることを知る。粘菌も性も摩訶不思議なものである。ふたつとも「人間の智識をもって絶対の真理を知らんなどは及びもつかぬ」ものなのである。

8月7日(木)
熊楠思想の全体像を捉えたので、さらに異なった見方を得る別の本を移る。「浄のセクソロジー」を読みはじめる。熊楠は性の領域においても多様な見方ををしていた。これは粘菌の多様性に通じるものであり、綺麗に2分できないものにたいする熊楠の興味である。前半では各国、各民族の血縁婚の事例紹介である。実体と制度との関係に興味があったようだ。中頃からは、同性愛についての逸話集。日本だけでなく世界からの収集である。「魔羅考」は長編である。竹本氏が円観上人が男根を魔羅と呼んだ起原について疑問を呈する論文である。熊楠は、鎌倉時代を遡り、「今昔物語」「古事談」などの文献調査から竹本説にたいし反論している。続き、女陰の話。地方独特の呼び名がどれも目との関係があることを示し、その起源にせまる。最後は再び魔羅の起源を神代にし、魔多羅神殿との関係に言及する。これらは全て文献調査によっている。

8月6日(水)
「動と不動のコスモロジー」南方熊楠著を読みはじめる。熊楠の履歴を追ういくつかの書簡がおさめられている。和歌山から世界を駆け巡った動の時代から、30歳前半帰国後の田辺に腰を据えた不動の時代を俯瞰することができる。多感な青年期の経験を経て熊楠独特のコスモロジーを形成していった。

8月5日(火)
箱根を深夜往復する。霧が立ち込め視界がゼロに近かった。久しぶりに運転に緊張をした。箱根新道より御殿場抜ける方が早いという話を聞いたが、全く正しくなかった。箱根新道の方が早く安全である。
「森の思想」第2部を読む。森の保存運動、神社合祀反対についての往復書簡である。要約すると保存すべき理由を以下に挙げている。1)神社合祀と敬神は別物である。2)民の和融を防ぐ。3)地方の衰退。4)国民の慰安を奪う。5)愛国心を損ずる。6)土地の治安と利益に大害。7)史跡と古伝の滅却。8)天然風景と天然記念物を亡滅。このことから熊楠が動植物の生態にたいする配慮もさることながら、空間・土地と人とのつながりにまで言及していることが判る。これにより解題で中沢新一は、はじめてエコロジーを体系的に考えた人として位置づけている。それは、生態のエコロジー、社会のエコロジー、精神のエコロジーの3つである。

8月4日(月)
「森の思想」を続ける。粘菌を詳細に観察すると同時に、それを生活や文化に結びつけて話す展開が面白く心地よい。例えば、色彩が艶やかな粘菌フィサルム・ギロスムの記述後に、その記録を送付する人の話、それを切っ掛けに南米のマテ茶、彼の知っている南米別種の藜の実の話に至るような具合である。その書きぶりが見事だ。また、ハドリアヌスタケを男性器と比較し、写生と酒精(エチルアルコール)をかけたりなどがあり、文章においても天才かもしれない。もちろん、酒の発酵も菌によるものである。こうした話しぶりと同様に、粘菌も実に変化することが判る。これに驚いた。色が白から赤に一晩で変化するものもあれば、バクテリアを食らうために、人間には見えない程ゆっくりの速さで動くものもいる。あるいは、変形体から子実体という胞子形成の段階において、植物の芽が土から成長するように変態するものもあるのだ。「森の思想」後半の第2部は、森と政治の話である。

8月3日(日)
118 8月2日 プレシーズンマッチ マンU×レアル・マドリード 
香川が後半15分からトップ下で登場。ファンハールユナイテッドは、戦略を昨季から大きく変える。サイドの選手のドリブル突破から、ダイレクトパスによる速攻への変化である。香川はこの戦略にマッチする。スムーズなボールタッチで前線のスペースへパスを連発する。やはり個人能力もチーム戦略あってのものである。香川と同時期にピッチに送り込まれたエルナンデスと好機をふたつつくり出した。そのひとつがゴールにつながる。ぺぺの裏をついたロングパスは評価できる。終了間際にも香川は自らよいかたちをつくり出す。自陣で奪ったボールを前線のスペースに蹴り出し、もう一度リターンパスをもらってフィニッシュまで持ち込むものであったが、最終パスが通らず。悔しがる様子がひしひしと伝わる。

8月2日(土)
「森の思想」南方熊楠著を読みはじめる。「粘菌の形態学」が面白い。熊楠は、粘菌を「唯今も変化進退して一日も止まざるもの」とみなし、進化の途中と考えていた。それは、粘菌の新種などを認めないことにつながる。新種を認めることは、科学界の前提、動物や植物を明確な基準で分類する既存の認識論、に追従することに他ならないからである。

8月1日(金)
「南方マンダラ」南方熊楠著を読む。土き法竜僧侶とのロンドン時代からの書簡を集めた本である。熊楠がマンダラ思想に行き着くまでの過程を知ることができる。書簡は、仏教を広めるためにロンドン(1890年代)を訪れた土き法竜僧侶との出会い時からはじまる。この初期の書簡の中で熊楠は、心や物のみ単独の研究を批判している。これが当時の西欧科学が行っていたことであった。それに対し、「心」と「物」の混じあうところに生まれる「事」の探究の大切さが当時からの主張であった。既にマンダラの思想の一端を垣間みることができる。そして、帰国後の書簡でそれは、森羅万象の現象を「不思議」として捉えるマンダラ思想に至った。そこでは、科学もその一部として考え、「不思議」を「いくつかの「現像団」に分けて、それらの集合の間に順序構造をあたえ、それに言語表現をあたえた法則をつくる仕事と考えていた。つまり、宇宙は複雑強大な「諸不思議」の集合体というわけだ。その場合、人間の知性も重要である。知性は宇宙の実相を知れば知るほど、さらに深い不思議の前に連れ出されていく。南方のマンダラの構造とは、そうした人の驚きと喜びを含めた一切のものを含めたものだ。これが特徴である。つまり、因果が因果をよび、マンダラは力による因果によって絶え間なく変化する。それは人の心も同様である。これを「縁」といい、マンダラは「縁」でできているともいえる。これは1903年の書簡である。熊楠はここにたどり着くまでに10年を費やしたことになる。

7月31日(木)
「ユングと曼荼羅」中沢新一編を読む。曼荼羅の構造を明らかにするシンポジウムを、まとめた本である。ユングの考える「無意識」と曼荼羅思想の共通点を追っている。ユングは「これが無意識」であると堂々と言っていたという。つまり、心にも完備な、ある種の一つの全体性をもった実体性があって、それを「無意識」として、その存在を認めていたのであった。これは、スピノザの「無限」あるいは「神」を定義したことと同じである。このためユングは、フロイト一派と対立していた。無意識を推論しながら組み立てていくフロイトの理論と反対だからである。曼荼羅の思想も同様であった。曼荼羅思想は、「一つの世界、全体性、有限性というような実体を与えて、それを探究する」ものであるため、仏教一般の「空」という精神と相容れなかった。そのため、仏教一般から拒否されていたのだという。次にその曼荼羅の実体が明らかにされる。その構造は3でなく4次元であることが特徴である。4次元目にあたるものは「空間に展開されて、具体的な表現方法、実体となった心の動き」にあたるものであり、ここでもユングとの共通点が示されている。ユングはこの4番目を「大地性」といったそうだが、これはなんだろうかという疑問が湧く。

7月30日(水)
「エチカ」を続ける。ものつくりの楽しさが、「エチカ」でいうところの、永遠性と同質であることに気づく。「エチカ」のテーマは此処にある。極端なことを言えば、無限を獲得するには、無限なるもの、例えば「神」や「精神」を定義し、それにしたがった実行をすることである。(第一部定理18 神は、あらゆるものの内在的原因であって超越的な原因ではない) そのかぎりにおいて、無限性が保証されることと理解する。アレグサンダーのマスタープランを拒否する態度もこれに従っている。したがって無限思考であることに気づく。そういえば、この考えを実行に移した「オレゴン大学の実験」でも、6つの原理にもとづいている。ただしものつくり個々には、はじめに定義される対象が不在であり、「オレゴン」には、上手く言い表せないが、そうした何かがあることは確かである。コジェーブが批判した日本のスノビズムも、定義なしの無限性獲得である。そのことに気づいた。ここでひとまず「エチカ」を終えることにする。

7月29日(火)
STAP細胞に関係するNHK特集を見る。偽装かどうかは本人のモラルによるし、真実を知るよしもないが、後追い検証で論文の不明瞭さ不自然さを指摘することに違和感を感じる。発見もひとつのデザインである。ひとつの仮説をストーリー展開させ、皆を納得させられるかにかかっているものである。ということはある意味、形式の問題である。形式を後で批判することは、政治的判断に頼っているというしかない。後では何とでもいえるからだ。小保方氏(正確には論文の専門家がいたそうだ)の論文は、ストーリーつくりに当初上手くいっていたが、最後はそれに失敗しただけとかんがえたらよい。ただそれだけだ。審査員もそれを見抜けなかったのは、ある意味仕方ないことかもしれない。むしろ、ぼくらは、それだけ形式が大きいことを肝に銘じることにする。スピノザの「エチカ」は形式性が徹底されている。その活動故、スピノザは死後、大文字の哲学者になり得たともいえる。

7月28日(月)
「エチカ」を続ける。ユークリッド幾何学を用いて「神」や「精神」を記述することについて考える。一般には、記述あるいは定義はものの範囲を限定するものと考えられるので、「神」や「精神」といった抽象的なものを記述する方法として不適と思うからだ。しかし数学は「無限」を公理主義で説いている。スピノザは無限なる神をいかに記述するかを考えた。その共通な思考方法に鍵を感じる。内容については、柄谷行人の解説を追うにとどまってしまう。

7月27日(日)
箱根のポーラ美術館行き。床空調の吹き出しを確認。開催中であったのは、モディリアーニ展。同時代の美術館所蔵の作品と一緒に展示される。プロポーションについて、1900年前後にも皆がテーマにしていたことを知る。ただし、いかにそれを崩すかにあった。晩年とはいえ、モディリアーニは1920年の35歳でなくなるのだが、このときまでそれが大きなテーマであった。コルビュジエ1920年の「モデュロール」は反対にこの比例体系を再整理するものである。コルビュジエの立ち位置が整理できた。モネのルーアン大聖堂のひとつを初めて見る。遠景からはそれと確認できるが、近づくと点の集合でぼっーとし、何が描かれているか判らない程である。光自体を表現しようとしていたのがよくわかる。

7月26日(土)
「エチカ」スピノザ著を読みはじめる。本書が定義、公理、定理、系という明確な順に従って記述されているのが特徴である。これをユークリッド幾何学をモデルにした叙述という。それが徹底されている。第一部は「神」について。スピノザの神は、自由意志によって万物を創造する創造主ではないことがわかる。神はその力の必然性によって万物を創造し、神と世界は創造主と被創造主との関係ではなく、原因と結果の関係にあるということである。つまり神は世界の延長上、あるいは空間的なつながりの上にいることになる。このときまだ空間という概念がなかっただろうから、神の物質化をスピノザが扱おうとしていた。このことが判った。その理解のために、「想像知」「直感知」「精神」「神即自然」といった概念あるいは観念をユークリッド幾何学にしたがって記述しようとしている。

7月25日(金)
旅行へ行くこと提案。久しぶりである。

7月24日(木)
朝から未央子と病院に行き、そのあと海へ。ぼくが反対に励まされる。激しい雷雨。

7月23日(水)
小泉雅生、安原幹、前田圭介、一色博貴氏を迎えての3 年生前期の設計授業講評会。前半課題美術館より後半課題の学校の方が概ねよい評判であった。これが昨年までと大きく異なっていた。学校の課題は、これといって大きな変換を起こすことができないので、作品自体はこれまでは地味になりがちであった。小泉さんによると、オープンスペースの使い方も絶対ではなくなり、学校計画の分野でもその使い方の是非において岐路に立っている状況という。つまり、プログラムの信用も揺らぎつつある。これに対し美術館課題は、条件が少なく自由に設計でき、文字通り大きな設計が可能である。学生が練る課題においても、そうした前提から逃れることができない。初めから美術館の方が作品として評価されるポテンシャルをもっている。ポテンシャルといったのは、最近の学会賞を見ても美術館はそれほど多くはなく、自由さをもてあます場合も多い、このことをいっている。そして今年はそれと同様な評価が下った。要するに、スケールからくる派手さに引っ張られてしまうところを、今年は、案の熟成させることによってそれを乗り越えた。それは、授業当初の倉斗先生の新しい学校建築のレクチャーが学生にリアリティを与えたことと、恵まれた敷地で育ち、それを丁寧に読み取った案が多かった結果と想像する(この後半課題は、自分の育った小学校を改築するものである) 。これでランドスケープはより大きな力をもたらすことを理解できたと思う。美術館もこうした捉え方をし直すともっと伸びると思うので、後期課題ではそれを学生に促そう。講評会後の懇談会では、公共性が話題になる。小泉さんは、公共建築の設計を通じて、大きな公共性を背負っているのだろう。僕はそうした大きな公共性はなくなるのではないかと思う。ある時、ある場所で必要とされる機能的な公共性、これをアソシエーションと呼んでよいと思うが、こうしたものが必要とされるのでないか? 港区の二つの仕事をそう考えることで、これまでの住宅設計の延長に位置付けてきた。ただし、小泉さんのように、俯瞰的意見を意識的に発言することを大いに歓迎する。僕はかたちについてそうした態度を取るつもりでいるのだが、予定調和的計画は問題を先延ばしにするだけで、そこから新しい世界は拓けてこない。調整は、後に誰かが行えば良いことで、進行中に当事者が行うと小さくまとまるのがせいぜいである。

7月22日(火)
「言葉と悲劇」柄谷行人著にある「スピノザの無限」を読む。「現代思想」誌のインタビューだけあって理解しやすい。概ね今までの理解が外れていないことを確認する。サイードの「オリエンタリズム」にある「全世界を異郷と思うものこそ、完璧なる人間である」が紹介される。これはスピノザ的な思考する場合の3段階目に位置するものであるという。1段目は「故郷を甘美に思う」に代表されるように、組織された有限な内部(コスモス)と組織されない無限定な外部(カオス)という二分割に基づいているものをいう。次は「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」というもので、共同体を越えた普遍的な理性なり真理があるという他者や外部の存在を前提にそれを乗り越えようとする考えである。そして3段階目は「全世界を異郷と思うもの」である。これをスピノザの核心という。あらゆる共同体の自明性を認めず、二分割を無効にしてしまう無限性がここにあらわされている。怒りとか悲しみとかに囚われたときに、デカルトであればその情念を意志によって克服しようとした(2段階目)。それに対しスピノザは、そうした理性とか意志によって情念あるいは感情を克服することはできない、怒りや悲しみから自由になるわけではないと考え、無限という観念を提出する。柄谷は、このスピノザ的無限思考が正しいというわけでなく、そうしたふたつの世界の見方を提示した上で、ふたつの別世界を繋ぐ方法を考えようとした。そして「超越的統覚」という発想に至ったのである。繰り返しになるが、赤ちゃんは未熟で母親の話すルールを理解できなくとも(ふたつの世界の見方が交わらないほど別なものであっても)、赤ちゃんは会話を理解するようになる。現実的にそうした能力が人には備わっている。これを「超越的統覚」といい、それを社会という共同体にも拡大しようとしたのが「マンダラ」である。そうしたマンダラを理解する。

7月21日(月)
近代科学は、限界や目標を設定し、それにむけて過不足なく因果を組み立てていく学問として考えてよい。それに対し、その限界自体を拡げていく方法や態度を魅力的に思えることが多々ある。設計とはそういうものかと思う。そうした場合でも問題とされるのは、自己の内部にむかって拡げるのでなく、外に向かって限界を拡げることについてである。ここにも無限性の問題が潜んでいる。数寄屋化は前者のように考えられてはいるが、はたしてどうだろうかと考える。
日本代表の監督人事が毎日のようにウエッブ上を駆け巡る。よく見かけるのは、「総括なしに人事だけ先行させてよいのか」という、ある意味もっともな意見である。これも因果関係をピラミッド状にした近代的で静的考え方と思う。実行によって拡がる可能性にかけるという、ある意味ルーズなシステムつくりも重要であることを、ここ数日確かめているのだが、未だにこうした近代思想は支配的である。

7月20日(日) 
「探究Ⅱ」柄谷行人著を、スピノザ中心に読む。内部と外部、真理と幻想、精神と身体といった二分法を否定するスピノザが記述されている。超越とは、境界を越えることである。その限りにおいて内部と外部は絶えず存在する。それに対しスピノザは、無限であることの記述を試みる。このことによって外部を消去し、二分法的思考を乗り越えようとしたらしい。唯物論者といわれる由縁である。このとき個人という主体は、普遍性に対する単独性=「この私」という解釈となる。一般性から特殊性を持ち出すこととは、少し異なる考え方である。これは、熊楠が粘菌を既知の分類上から捉えるのでなく、この粘菌自体の観察から何かを見ようとしていたことにつながる。というものの、無限という観念(概念でない)について、よく理解できない状況にある。

7月19日(土) 
「集積と変化」2014SSSの審査建築学会にて。構造的なアイデアを、実物大スケールの模型で表現するワークショップに参加。その評価をする。最優秀賞は、「ゆらら」という首都大学の作品。球(ボール)と皿(ボール)のあわせて700グラムの荷重にも耐えられないほどの、半座屈した数十本の極細ピアノ線柱が動的にバランスすることによって自立する作品。それは背の高さ以上あり、そのプロポーションが抜群の不安定さを醸し出す。ボールがボール(皿)の中を回転し、荷重が回転移動することで、座屈した柱がゆらゆら揺れながら、一方が伸び一方が縮み、連続的にバランスする仕組みである。自転車のスポーク原理を立体的に立ち上げたような不思議な作品といえる。とわいえ、コマが回ること、風になびくひまわりの風景を想像すると、納得でき感心した。東京大学の「テトラフレーム」も面白い。極細の竹細工でできた立方体を積層し、6mを越える鯨のオブジェを自立させようとする作品。変形立方体格子は床面近くでは小さく密に、上部では大きく、そのかたちが鯨であり、荷重をバランス良く流し支えるものである。こうしたかたちと力の流れを可能にするのは、立方体8角のジョイントを工夫することで、立方体の大きさを自由に変えられるところにある。これがアイデアの2番目の中心であった。最後は3階天井から吊らざるを得なかったことが最優秀に至らなかった理由だろう。

7月18日(金)
マンダラにおける境目のない内外、または主体と他者の区別がない意識の自然状態というものが理解できなく、いくつか書物をあたる。柄谷行人のカント考「超越論的統覚」を思い出す。文化や言語が異なる場合のコミュニケーションにおいて、文法を学ぶ以前に、想起といったものでお互いを理解し合おうとする。感性や悟性を駆使し綜合的判断をする訳である。マンダラはこの統覚というものにあたることと理解する。これは、数学における非ユークリッド幾何学を理解する場合や、母親から規則を教えられずに、たんに話しかけるだけで赤ちゃんが言葉を学ぶ場合にも存在し、これを想像すると分かり易い。規則が与えられなくとも、現実に学ぶことができるのは、こうした統覚の存在によっており、マンダラも同様に位置づけされると理解した。そうすると統覚を覚醒するには、いわゆる他者が必要となる。これが「縁」というものだろう。「縁」があって「事」をなすということもあながち変なことではない。

7月17日(木)
「チベットのモーツァルト」中沢新一著を、マンダラの記述を中心に再読。唯物論者としてスピノザが登場し、マンダラとの比較を展開する。スピノザは 1)形式や幻影に縛られない無限な多様性を備え、2)一般的な善悪といったモラルに囚われず、3)超越的な価値=神を否定する者、と定義され、それを前提に実践的な哲学を行った人とされる。これに対しマンダラの定義は以下のようにである。すなわち1)物質と意識とを分ける観念が解体され、2)宇宙的な倫理をもち、3)意識の自然状態にある、ものである。面白いのは、都市の出現と同時にこうしたマンダラ思想が生まれたとされる指摘である。ふたつの思想が生まれた根拠に共通性を見出している。スピノザは資本主義に対して、マンダラは都市の出現に対してつくられたという。どちらも社会化に対抗して、大きな意味での自然性を取り戻そうとする試みとして考えられている。柄谷行人がフロイトを持ち出し、抑圧からの解放を通して社会現象を捉えようとしたアプローチと同じである。

7月16日(水)
「建築をめざして」 コルビュジエ著の読書会。 はじめに20世紀初めの建築の状況を話す。当時の、そして西欧の、エンジニアの位置づけから、飛行機や自動車の歴史について話す。ライト兄弟の初飛行が1904年、リンドバーグの大西洋横断が1927年。第1次大戦時は偵察機として飛行機が出始め、飛行船というものがまだ主流であったことを話す。そしてこの本の初版は1920年である。次に「住宅は住むための機械である」について議論。もちろんこれは、機械のようにインプットとアウトプットをクリアに考える重要さが建築に求められていることをいっている。飛行機にせよ自動車にせよ、これらはより速く、あるいはより遠くといった目的設定がはっきりしている。それに対し住宅は複雑であり、機械のようにはいかない。そのため現在のような状況に至っている。これは当時も明白のように思えるが、真のコルビュジエの狙いは何だったのだろうかという議論である。しかし本書で理解できたのは、コルビュジエは当時から、住宅生産におけるそうした問題設定を真剣に考えていたことである。彼は美を一般市民にまで広く普及させることを、建築における近代化と考えていたのだ。美しいとされる基準が黄金比であり、それをある限られた人のものから大衆に普及させるという基準が標準化である。このふたつを何とかしようとしていたことが読み取れる。本書で、何度も標準化が叫ばれている。後にそれは「モデュロール」となって、このふたつの問題を融合解決することに成功するのであるが、「モデュロール」が彼にとって、建築を自動車や飛行機に近づけるための第一歩であった。こういった考えにも建築の社会性があることをあらためて知る。その芽が「建築をめざして」に読み取れた。それが発見できたことが収穫であった。建築の社会性がソフトなプログラム面に偏っている現代において、建築自体のハード面にも可能性があることが示された。次回の読書会を「モデュロール」にするか迷う。

7月15日(火)
再び、「森のバロック」を読み、マンダラについて考える。因果論の不完全性が基本にある。それに代わるものを「縁」とする。マンダラは常に「途上」であり重層構造である。「縁」があって「事」となるというと、できすぎとも思えるが、そういうことらしい。それは、熊楠が書いているようにぐにゃぐにゃの線で結ばれているようなものである。したがって因果論で理解できても、それはひとつの理論的なフィクションでしかないことがわかる。縁をサスティナブルといってもよい。熊楠が合祀反対にこだわった理由も理解できた。神社は歴史的に土地に根差している。神社合祀はその土地を無視することである。柳田国男も遠野と遠野固有の伝承にこだわりを持っていたことを思い出す。その喪失を危惧して「遠野物語」を書いたことを理解する。土地にこだわることが大切にされている。

7月14日(月)
「森のバロック」中沢新一著の再読。粘菌考が南方マンダラへ、さらに、カント「判断力批判」まで対応させていることに驚く。これについてはうすうす感じてはいた。マンダラはブータン調査、空海の世界観を通じて接していたものである。一方、崇高さや美しさへの根源をめぐり、ここ数年カントを遠巻きに回っていた。このふたつの関連を示してくれた。ただし中沢新一は、近頃読み始めている「サイバネックス」に代表される新科学領域との違いを、はっきりさせている。それは、近代科学が推し進めてきた観察者の外部視点からの考察の限界についてである。1900年前後にロンドンに滞在したアジア人熊楠は、西欧のその限界を悟ったという。つまり、世界の多くははっきりクリアでないのに、それを因果関係をもって説明することへの限界である。そうした態度は、粘菌のように植物とも動物ともとれる生物に対して接する態度に典型的にあらわれる。熊楠はその後10数年の粘菌考を通して、近代科学では割り切れないこうした動き、変化し、生成する存在社会のすがた、これを「事」という、をとらえる方法を考えた。熊楠はマンダラ思想にそうして行き着いたのである。「判断力批判」におけるカントは、抑圧矛盾からの解放されるための理性の助けによってその限界を乗り越えようとしていた。最近の柄谷行人が、カントを引き合いに持ちだすダイアグラムがある。これがマンダラのようなものであることも思い出す。

7月13日(日)
117 7月13日 W杯決勝戦 ドイツ×アルゼンチン
決勝戦らしく拮抗した試合であった。延長後半にシュールレの折り返しをゲッチェが胸トラップし、ボレーでゴール右隅に決める。結果論であるが、ドイツが優勝できたのは攻守のバランスに長けていたこと、レーヴ監督の長期視野のもと、ベテランと若手がバランスよく配置されてきたことがあげられる。たまたまであるが、バイエルンとの戦術も近く、多くはバイエルンの選手であることも大きかった。グアルディオラバイエルン監督のコメントも報告される。「勝利に値する」と。日本代表も確かに勝ちすすむ可能性があったが(事前のコスタリカ、フランス、ベルギーに勝利、あついはオランダとドロー)、それは事が上手く運んだ場合であって、様々なケースに対してその確率状況をキープするほどの準備と真の実力、伝統がなかったということである。

7月12日(土)
116 7月12日 W杯3位決定戦 ブラジル×オランダ 
開始早々ロッペンに裏をとられ、PKを献上。ペナルティエリア外とも思えたが、これでゲームが決まる。シルバ1人では、ファンベルシーのポストプレーとロッペンの抜け出し両方はケアできない。そのくらいDFが崩されていた。2点目は、ダビドシルバのクリア位置の問題。こともあろう、ペナルティエリア中央にボールをクリアする。2列目から上がってきたオランダボランチには誰も付いておらず、ペナルティ内でシュートをフリーで打たれる。一人目のボランチ、グスタボが最終ラインに吸収されていたので、2人目ボランチパウリーニョのミスである。こうしたふたつのミスが重なった。この試合、ブラジルはチェルシーの3選手に攻撃を委ねる。オスカル、ラミレス、ジュリアンである。ジュリアン初先発も攻守ともにチェルシーのような輝きを見せることはなかった。そのため当初の左から、前半途中からの右からの攻めが単純すぎ、堅い中央を崩せなかった。センターFWの力量も多少ある。終了間際には再び左が崩され、0-3でブラジルが負ける。何ともいえない虚脱感がスタジアムを包む。それは日本の不甲斐なさとも多少関係し、日本にもそれが伝わってくる。勝者のロッペンのインタビューも然りであった。この試合の物足りなさと、決勝戦にもう少しのところでいけなかったことへの悔しさだろう。明日は決勝である。

7月11日(金)
NHK「宇宙白熱教室」を見る。ローレンス・クラウス教授の宇宙のかたちとその歴史についてのエネルギッシュなレクチャーに思わず引き付けられる。理由は新しいこれまでにない価値基準を示していたことによる。宇宙の95%は私たちが見ることができない物質「ダークマター」と「ダークエネルギー」で占められているという。私たちに説明がつく物質は5%でしかない。そして宇宙は平らであるという。これを、物理学の簡単なモデル化を通して説明する。それは分子構造や生命もこうしたものでつくられていると勝手に想像する。宇宙のかたちだけに通じる訳はないという思いからである。こうした見えないものを計る尺度を気づかせてくれた。それさえ手にすることができれば、世界観も変わることを確信する。早く手にしたいと切望する。その可能性を示してくれた番組であった。

7月10日(木)
115 7月9日 W杯4 オランダ×アルゼンチン 
ここ数試合、アルゼンチンはこれまでのイメージと異なり堅いゲーム運びをする。5バックのオランダの戦略と相まって、それが一層強まったゲームとなる。PK戦の後、アルゼンチンが決勝進出を決める。
中高生プラザにおいて、建築空間の分化について考える。この建物は、中央コアとまわりの個室、これらの空間が分化していることがコンセプトである。この分化が建築的に有効かという問題である。建築には場が必要であること、現代では高度な性能が要求され、空間が特異になっていくことが、空間の分化へとつながる理由である。しかし、中心に広場と呼ばれる大きな空間でそれらをつなげている。最もそのコアも分化し、しっかりしたものでないことは言うまでもない。これらは「15の幾何学的性質」に従っている。パタンランゲージによく顕れるダイアグラムにその起原をもっている。

7月09日(水)
114 7月8日 W杯4 ブラジル×ドイツ 
ブラジルが大敗をする。ブラジルの左マルセロから攻められたかたちである。ダビドルイスはあせり軽率に攻め挙がってしまった。チェルシーでモウリーニョがダビドルイスの能力を認めつつもCBに使わなかった理由が理解できる。彼はその信頼ないことから、PSGへ移籍する。PSGのチアゴシルバの欠場も大きかった。
「15の幾何学的性質」に絞っての「ネイチャー オブ オーダー」ついての読書会。15の性質もそれぞれが独立しているわけでなく、お互いリンクしていることを確認する。15の性質とは、以下である。1スケールの段階制 2力強いセンター 3境界 4交互反復 5「正」の空間 6良い形 7局所的に現れるシンメトリー 8深い相互結合と両義性 9対比 10段階的変容 11ラフ 12共鳴 13空 14簡潔さと静謐謐(せいひつ)さ 15不可分であること。「センター」とは、「それ」というように、指し示すことができれば、そこにあるという解釈が面白い。したがって、指し示し方(解釈)によって多様なセンターが存在する。「えんぴつ」ひとつ例にとっても「えんぴつ」「芯」「六角形」「緑」「炭素」あるいは「書く道具」「人をつつくもの」というように多様なセンターを設定できる。アレグサンダーがいうよいかたちとは、このセンターが有機的につながっているものである。あるいはひとつのストーリーとしてまとめあげられるもの、機能的説明が可能なものをいう。次にこれら性質を理解することが、通常の設計でも多いに役立つことを説明する。例えば、完璧なシンメトリーはよいかたちでなく、シンメトリーを崩す何かが必要とされる。その何かを指し示すことは、新しいセンターを生み、かたちは有機的に意味的(機能的)にも絡んでいくという訳だ。南方熊楠について勉強し直しをはじめる。
 
7月08日(火)

7月07日(月)
佐藤淳さんを千葉工大へ迎えての講演会。佐藤氏の最近の研究と設計の関係を聞く。ガラスとスチール小部材に絞っての講演であった。ガラスについては、細かく分割されるステンドグラスを壁柱として使用する可能性の研究である。ガラスは硬いので、圧縮材として使用するのがよいが、一方で座屈処理が問題になる。スチールの細い枠によって、それを処理し、そのためのジョイント部に、錫などの新しい材料を使用する、その研究である。そのための実験研究を綿密に行っているところに違いを感じた。ぼくらの場合は、その点をメーカー任せになることが多い。また、ガラス同士を溶着する場合の熱割れを防ぐための冷却期間「アーニング」について言及していた。スチールの小部材は、溶接歪みの問題と部材の固定度をいかに見積るかという研究である。「ナチュラルスラット」でも池田とこれをトライした。最終的に25ミリ角柱の住宅を完成させたが、佐藤さんのベネチアビエンナーレの場合、固程度を実験で確かめている。これもうらやましく思った。ぼくらは住宅ということもあって、余裕を見て設計を行ったことを思い出す。考え方は全く同じで、この辺のルーツはおそらく佐々木+妹島にあると推測する。以前難波さんと「コネクション」(鹿島出版会)を翻訳した。この本は新しい構造や作品を紹介するものであったが、これまでのそうした本と異なっているのは、エンジニアを媒介にして、技術の改良がなされ、様々なプロジェクトで成熟していく、その連関を示した本であったことだ。そこには、これまでの美学に左右されない新しい建築の世界観が示されていたと思う。これが新鮮であった。日本では2000年頃から、スチール小部材に格闘する若い建築家と構造家の連携が見られた。現在では、こうした活動を「数寄屋化」として、ぼくらより上の世代によって片付けられそうな勢いである。常々これに対する反論を、なんとかをしたいと考えている。佐藤さんのこうした実験と検証、あるいは他分野との連携、これを彼は「設計法」と呼んでいたが、こうしたことが重要な鍵になることを感じる。ともかく有意義なレクチャーであった。後の懇談会では、木村事務所が徹底的にエキスパンジョイントを嫌っていたことを聞く。何十年に一度の崩壊のために、(そこが崩壊することが判っているのなら)防水等建築的な無理な納まりをしてまで対応することは必要ないという木村の考えであったことを知る。

7月06日(日)
113 7月4日 W杯8 ブラジル×コロンビア 

7月05日(土) 
112 7月5日 W杯8 アルゼンチン×ベルギー 
前半のラッキーともいえる1点をアルゼンチンが守り切る。こぼれ球を思い切り振り抜いたイグアインの初ゴールであった。その後、ディマリアが負傷交代後で、アルゼンチンの攻撃の突破口がなくなった。彼の偉大さを知る。一方アルゼンチンの守備は、組織的で堅固であった。ベルギーは自分たちの攻撃を全くさせてもらえなかった。それは後半のパワープレーにおいても同様であった。攻撃的なゲームを期待していたので、1-0は少し物足りない。

7月04日(金)
111 7月4日 W杯8 ドイツ×フランス 
ドイツの中央からの攻撃、フランスの裏スペースへ抜ける縦の攻撃。どちらも見応えがあった。ドイツは前線3人が動き回り、交互にペナルティエリア外中央でボールを受けることができていた。そこからサイドに一端ボールを叩き、また中央でパスを受ける攻撃であった。ボランチの球出しが優秀なため、ディフェンスのマークを受けながらも、中央でボールが納まる。見事である。それでも得点はセットプレーからであった。フンメルスの、相手マークに体を預けながらのヘディングが決勝点になる。一方フランスは、ディフェンスライン裏をとるかたちに終始する。ボールを奪った後のセンター MFからよいかたちをいくつもつくっていたが、一歩のところで得点が奪えず。ドイツが4強に進む。
昨日の問題は、ITに限ったものでなく、言葉や感情を伝える術全般にいえることでもある。昨今の世界の行き詰まりはこれをデザインで抜け出そうとしている。春に「デザイン思考が世界を変える」とか「知識創造の方法」といった本を読んだ。しかしこのとき、情報を発信する自分と受け取る相手は基本的に別人格という前提に立っている。しかし「 ネイチャー オブ オーダー」のセンターでは、それはコンテクストを共有してひとつであるとして、別々な状態を認めない。この違いに気づいた。ここにセンターを理解する鍵があるのかもしれないと考える。

7月03日(木)
情報が届いているかを、待ついらだちは大きい。それを解決するシステムが必要とされていることを実感する。 ITにおいて、情報は大量に扱えるようになり、そのかたち(経路)が見えなくなった。情報がとどいているかは、フェイスブックでの「いいね」というシステムがある。だが、少し物足りない。そのシステムを少し改良しても、この問題が解決されるとも思わない。根本的な解決が必要とされていることを感じる。

7月02日(水)
「 ネイチャー オブ オーダー」 の読書会。難解なアレグサンダーの「センター」という思想を巡る議論。僕も大学院時代さっぱりわからなかった記憶がある。25年以上前のことである。それを埋めようと、大学院時代の多くを、中埜さんと一緒に過ごした。住宅の設計をかじる程度での手伝いだったが、とにかく長い時間中埜さんと過ごした。その中で、机のかたちを決めたり、玄関扉をデザインしたりした。そのときはセンターという思想をまだ理解できていなかったが、モノを通してはじめてわかる何かをつかむことができた。後にそれがセンター思想に近いこと知る。合わせて行った本つくり(「パタンランゲージによる住まいつくり」 井上書院)は、その思想を紙の上で実践するよい機会であった。スケッチとレイアウトを、センターによって実践した。妹尾河童さんが描くような見下げ図を太い線でいくつも書かされたのだ。とにかく力強く書くことが要求され、はじめは僕の作品でないので、どうしてよいかわからず、遠慮気味であったのだが、スケッチを重ねるほどに慣れていったことを思い出す。高校時代バスケットに打ち込んだが、その感覚に近いものであった。それで会社という社会に属さないことを不安に思わなくなったし、その方が気楽でよいと思うようになった。来週の読書会に持ち越した「15 の幾何学的性質」の幾つかは、このセンターの思想を具体化するものである。学生のセンター理解としてはむしろ、この幾何学的性質からみるのもよいと考えた。そこで、次週もこの本を続けて議論することにする。

7月01日(火)
110 6月30日 W杯16 アルゼンチン×スイス
決勝リーグは点が入りにくい。実力が拮抗しているためと、ゲーム運びを慎重にするため守備的になるからだ。このゲームもスコアレスのまま延長戦となる。PK突入3分前にアルゼンチンがゴールを決める。120 分を通して走り続けていたデ・マリア( レアル)が、メッシからのパスを右足で決めた。メッシのドリブルの俊敏さは、120 分の死闘の後も残されていた。その後の終了間際のスイスの攻撃も凄まじかった。惜しくもゴールならなかったが、こうしたゲーム展開を見ると、メンタルが大きなウエイトを占めることを実感する。

6 月 30日(月) 
110 6月29日 W杯16 オランダ×メキシコ 
後半30分の給水タイム後、1点を追うオランダがエース・ファンベルシーを下げ3トップに変更する。ファン・ファール監督は、ボール基点をロッペン1人に絞り、前線を流動的にすることに変更。ファンベルシーにこの日精彩がなかった理由もあるが、流動的になるためには前線の選手皆が遠慮しないことを第1に考えたためだろう。キャプテンでエースのファンベルシーを下げるのは強い決断があったに違いない。しかしこれが奏し、逆転に成功する。メキシコにディフェンスターゲットを絞らせないことに成功した。1点目は中央からのフリーのスナイデルのミドルであった。2点目のPKはメキシコにとって厳しい判定であったが、この時間、オランダの攻撃は波状的でメキシコはなすすべがない状態にあった。それをメキシコが堪えてもおかしくない試合であったが、監督の采配によって的確に動くことができたオランダが勝った訳である。その実力を評価しなければならい。

6 月 29日(日)
109 6月28日 W杯16 ブラジル×チリ 
ブラジルがPKで勝利をおさめる。前半はブラジルペースも、徐々にチリが詰め寄るゲーム展開であった。ブラジル選手間のスペースにチリ選手が入り込み、大きな縦パスの繰り返しでゴール前まで詰め寄った。攻撃的であろうとするブラジルにとっても同様でスペースを見つけてはそこにパスを通そうとしていたので、お互い好都合なゲーム展開であったと思う。どちらがそのフォローに追われ、守備的になってしまうか、それで勝機を左右する戦いであった。結局は1-1。激しいPK戦の後、ブラジルがベスト8を勝ち取る。

6 月 25日(水)
108 6月25日 W杯 日本×コロンビア

6 月 23日(月) 
107 6月23日 W杯 オランダ×チリ
どちらの国も勝つことで次戦ブラジルとの戦いを避けたいところであった。後半30分過ぎに点を取ったオランダが1位通過を決めた。次戦はメキシコとなる。南米諸国は、絶えずブラジルやアルゼンチンといった強豪国のスーパープレイヤーといつも対峙しているためか守備が堅く、そこからの速攻に優れている。チリも同様であった。ロッペン、スナイデルの攻撃をびくともしていなかった。しかし最後は身長差をカバー仕切れずヘディングで決められ、終了間際にも追加点を許してしまった。しかし、試合としては互角以上。だから調子が下降気味のスペインに勝ったのである。

6 月 22日(日)
106 6月22日 W杯 ベルギー×ロシア 
アザールの個人技が光る。幾度か独特のドリブルでディフェンスラインを突破し、最後はルカク(エバートン)に代わって後半投入された19歳オリギが決める。初戦に続き接戦をものにし2連勝し、予選突破を決めた。ベルギーは攻守のバランスがよく、それが逆転に繋がっている。DFラインは、中央にコンパニ(マンC)、ベルメーレン(アーセナル)、アルデルワイレルト(アトレチコ)、サイドにファンブイデン(バイエルン)、ベルトンゲン(スパーズ)といった比較的ベテランを要し、ナポリのメルテンスも加わった。攻撃にはアザールをはじめ、ブライネ(チェルシー→ヴォルスブルク)、デンベレ、シャドリ(スパーズ)、ルカク(エバートン)がいる。怪我をしたがプレミアで大活躍したミララス(エバートン)もいた。フェライニ(エバートン→マンU)も定位置が危ういほどである。中盤はビチェル、ロンバーツ(ゼニト)、デフール(ポルト)。彼らは比較的同じクラブに属しているのも連携をよくしている。ベルギーは12年前の日韓大会以来の出場である。国を挙げての育成トレーニングを行い、ここまでのチームに急成長させた。消化試合とはいえ、11月には日本はよくアゥエーでこのチームに勝った。このダイナニズムが復活すればコロンビアも崩せると思うのだが、果たしてどうだろうか?

6 月 21日(土)
105 6月21日 W杯 アルゼンチン×イラン 
イランが大健闘するものの、ロスタイムにメッシに決められる。イランは守りもさることながら、攻撃が早かった。自陣でカットすると、アルゼンチン中盤のプレッシングをかわし、FWがフィニッシュまで持ち込むことができる。堅守速攻とはこのことだろう。解説によると、FWデヤガはドイツU代表であり、U・W杯の優勝選手だそうだ。この年代はドイツが最も力を入れて育てた世代。現在はフルハムに所属し5点をあげている。イランはカルロスケイロを監督にむかえ、選手を帰化させるなどしてかなりの強化をしている。アジア予選では韓国に勝ちグループ1位追加でW杯を勝ち取っている。カルロスケイロは、ヴェンゲル後の名古屋、レアル、マンUコーチを経るなどして、ポルトガル監督を経験している。選手が縦縦の力強い攻撃をすることがうなずける。W杯を生き残るには、やはり堅守速攻か?とも思う。最終のナイジュリアでの突破を期待する。

6 月 20日(金)
103 6月19日 W杯 日本×ギリシア
10人のギリシアに対して得点を奪えず、0-0のドロー。いよいよ窮地に立たされたこととなる。前戦のコートジボアール戦と異なり、日本は前線からのプレッシングによりハードワークをした。ただ、フィニッシュの精度がなくゴールマウスを外し続ける。シュート1本への執念が感じられなかった。W杯では勝敗を決める1本のシュートがある。その意味で、ことごとく外す日本は緊迫感がないと思われても仕方ない。相手が10人になったことは日本にはマイナスであったという見方もある。ギリシアは守りに徹し、バイタルエリアを完全にふさいでしまった。大迫も調子がよかった。前半のバイタルエリアにスペースがある時に決めるべきであった。後半ディフェンスを固める大きなギリシアに対し、日本はサイド攻撃に固執した。疑問が残る。今回ばかりは中央からの崩しが有効でなかったか?中央からの唯一のよいかたちができたのは、香川からの裏へ抜き出た内田へのパスであった。これをダイレクトに折り返した大久保がシュートを放った場面である。中央には岡崎もいた。しかしもう1歩足りなかった。こうした場面での迫力差が今の日本が世界で勝てない現状だろうと思う。 
104 6月19日 W杯 コロンビア×コートジボアール
2-1でコロンビアが勝つ。日本戦を残してコロンビアが決勝リーグ進出を決める。前線の動きが鋭い。ロドリゲス(モナコ)クゥアドラード(フィオレンティーナ)グディエレス(リバープレート)キンテーロ(ポルト)である。ダイレクトの長めのパスであっという間にゴール前まで運ぶ。堅守速攻がこの前線で成立している。コートジボアールは、ジェルビーニョ(ローマ)の柔軟なドリブルで1点を返す。堅守コロンビアに対してはパワープレーが通じなかった。日本との違いである。世界との差は明らかに大きいことを感じる。

6 月 19日(木) 
「負ける建築」隈研吾著の読書会。前週読書会の「ラスベガス」では、機能主義批判がかたちの自律性へ繋がっていった歴史的事実を学んだ。それから40年後の書籍である。時代を経て、機能もかたちも歴史も、技術や環境まで全てが等価に尊重される時代になった。今はそれらをいかに扱うかサスティナブルな時代であることを認識し、「負ける」ということを考えた。その場合、建築家の主体性はどこにあるかについて話合った。本書においても、公が大切されている現代に私をどう表現するかが主テーマとなっている。本書後半はモダニズムの代表としてケインズ主義が度々とりあげられている。当時それを否定していたのが、先に読んだハイエクである。「キップアンドトレード」に見られるように、全体主義でなく、個人の裁量に委ねた半自由的でユートピア的な経済思想を彼はもっていた。これと創発あるいは偶然性の問題を結びつけ、現代の閉塞状況を突破するひとつの根拠としていたのが、ネットワークに注目をはじめていた新しい科学分野であった。この本ではハイエクに対する言説はないものの、硬直的な全体主義に対して、柔軟で動的であろうとする「負ける建築」が同様な語り口でここでは語られている。

6 月 18日(水) 
102 6月17日 W杯  オーストラリア×オランダ  
オーストラリアの果敢なプレッシングによりオランダを慌てさせる。しかし2-3でこのゲームを落とし、2敗目を喫する。ロッペンの1点目、ファンベルシーの2点目は、リーグ戦でもよく見られるフィニッシュパタンであった。ディフェンスのあたりが弱い分、綺麗なフィニッシュであった。実力が抜きんでていたという証である。オーストラリアの1点目ケーヒルのボレーもスーパーゴールであった。8年前の日本戦を思いださす。これでオーストラリアは勢いづく。中央からのブレシアーノのミドルがあったが、直後のファンベルシーの2点目が痛かった。ケーヒル、ブレシアーノと中田世代が現役である。しかし彼らは90分もたず、途中交代となる。3点目を喫する直前も大きなチャンスをつくる。これを決めきれなかったのが勝敗を左右した。速いセンタリングであったが、ノーマークのレッキーの体を投げ出したシュートであった。ここでも少しの差が実力伝統の差として現れるのを感じる。

6 月 17日(火) 
101 6月16日 W杯  ドイツ×ポルトガル 
ドイツが4-0で圧勝する。前半早々にポルトガル・ぺぺがレッドカードを受ける。これで10人のポルトガルは完全に緊張の糸が切れてしまった。しかしゲーム開始時は、中盤の底のキャプテンラームが狙われ、ポルトガルペースであった。ところがゲッチェの突破で得たPKでドイツが先取した後、ドイツが完全にゲームをコントロールする。ゲーム展開の恐ろしさを感じたのだが、日本の場合と同様、見えない実力差あるいは伝統の差が明らかにあるのだろう。こうした大会ではこの点が露呈する。さらにポルトガルはコエントランの負傷退場が続く。攻撃に人数をかけられないため、前線のナニ、クリロナは孤立し、ゲームにならなかった。

6 月 16日(月)
100 6月14日 W杯  イングランド×イタリア
90分を通してイタリアのペースであった。ただし今までのイタリアのように守備的ではなく、ボールを支配しながらの90分であった。イタリアはユベントスの選手が中心、イングランドはセンターラインを綺麗にリヴァプール勢で固める布陣であった。イタリア1点目は、右サイドからの戻り気味の折り返しをMFのマルキージオ(ユベントス)がロングシュートを決めた。イングランドも直ぐに反撃する。イタリアのボールカットしてからのスルーパスをルーニーが絶妙のセンタリング。難しいボールであったが、難なくスターリッジが決めた。彼らのゲーム運びはW杯という特別な力みは感じられず、これまでのリーグ戦と変わらない質をもったものであった。後半に入りイタリア2点目はファーサイドのバロッテリのヘディング。その後はイタリアらしく守備を固めて締めくくった。D組もう一試合は、ウルグアイが負け、イングランドも決勝トーナメントへの望みを残している。
ハフポストという面白いサイトを見つける。データ解析により詳しいゲーム分析を行うサイトであるhttp://www.huffingtonpost.jp/2014/06/15/analysis-jp-civ_n_5496156.html 。それによると、コートジボアール戦では日本の左サイドの攻撃が全く機能せず、それに加えてその背後のスペースを使われたことが失点の原因であるという解析であった。面白いのは、コートジボアールが、日本の左サイド攻撃を促しておいて、左サイド奥にスペースが生まれることを仕込んでいたのでないかという仮説である。まんざらでもないので感心する。但し、香川、長友、本田3人の攻撃を完璧に防ぐ自信がなければできないことである。同様にコートジボアールがリードしてからは、横パスを用いず、キープ力の優れたドログバにボールを預けるという安全策をとっていたことも記されていた。コートジボアールの監督はサブリ・ラムシ。40歳前半のフランス人でザックのもとインテルでもボランチとしてプレーした経験をもつ。ただし現役時代それ程の大選手ではなく、指導者としてもこのコートジボアールがはじめてだそうだ。その彼がこれまで攻撃一辺倒のコートジボアールを解析のようにまとめ上げていたとしたら、偉大な指導者となる可能性を感じる。ドログバを途中出場させる策もうなずける。コートジボアールのコロンビア戦を別な意味からも注目したい。

6 月 15日(日)
99 6月14日 W杯 日本×コートジボアール 
前半15分の本田のスーパーゴールも、後半立て続けに2点を失い1-2で初戦を落とす。試合後、選手は完全に気落ちし、残り2試合大丈夫か?と心配になる。ゲームを振り返ると、はじめの15分で得点を奪えたものの、暑さのためか、慎重にゲームにのぞんだためか、初戦の緊張のためか、ゲームの入り方はよくなかった。前線からのプレッシングが全くなかった。コートジボアールもサイドいっぱいに大きくボールを回し、プレッシングを避けていたこともあったろう。その結果、前線と2列目の間にスペースができ、そこを上手く使われていた。ただ前半、コートジボアールの中央からのみの攻めに救われた。長谷部と山口のボランチが引くことでかろうじてしのぐことができていた。試合後選手は、自分たちのフットボールができなかった現実を皆悔やんでいた。後半からは、ドログバが入り、戦術が変化する。中央突破からサイド攻撃への変更であった。一端中央に入ったボールをサイドへ散らしてきた。日本はこれに対して2つの過ちを犯し、これが失点に繋がる。ひとつめは、ボランチがボール保持する中央前目に引きつけられ、DFはドラグバに押し込まれ、その間にスペースをつくってしまったこと。もうひとつは、長友しかり香川しかり、前半同様中央によせられ、サイドをケアしていなかったことである。いずれの失点もノーマークでの右サイドバックオーリエ(トゥールーズ)からのアーリークロスであった。それを、森重の前に走り込むボリー(スゥオンジー)または ジェルビーニョ(ローマ)に決められた。1失点目はともかく、その後の修正はできなければならない。この4年間に欧州で学んできたことは何かを考えなければならない。攻撃に関しては、本田のパスミス、香川と岡崎の無策が大きかった。ともかくこの結果、日本は2勝しなければならない状況に追い込まれた。

6 月 14日(土)
097 6月13日 W杯 オランダ×スペイン
前半守備的にのぞんだオランダが最終的に5-1で圧勝。これまでオランダといえば攻撃一辺倒であったが、その主義を曲げてこの日は守備的に試合にのぞんでいた。PKで1点を失うも我慢の前半であった。前半終了間際のファンベルシーのダイビングヘッドでオランダペースになる。もうひとりこの日、ロッペンが切れていた。後半早々の2点目のドリブルシュートがそれを物語っている。その後スペインの守備が崩壊する。前掛かりのスペインに対し、ロッペン、ファンベルシーがそれぞれ加点する。GKカジーシャスのミスもあった。初戦のスペインはいつも調子がよくない。

098 6月14日 W杯 コロンビア×ギリシア
日本と同組のゲームが先駆けて行われる。コロンビアが3-0で完勝。堅守といわれるギリシアもリードをゆるした場合、コロンビアの試合巧者ぶりに振り回された。やはり先取点の意義は大きい。リードしたコロンビアは、守備的でありながら、タイミングを見計らい、前線3人の速攻で2点を追加した。ただし中盤の守備はどちらの国も緩く、日本の細かいパス回しが通用しそうな予感はする。ただし、18番のフェトファツィディスのドリブルは手強く要注意である。本日明けの日本戦を楽しみに思う 。

6 月 13日(金)
096 6月13日 W杯開幕 ブラジル×クロアチア 
今日からW杯がはじまる。初戦はブラジル×クロアチア。日本の西村が主審を務める。ブラジルは苦戦するも3-1で勝つ。ダビドルイス(チェルシー)とマルセロ(Rマドリード)のブラジル守備は固いといわれていたが、モドリッチ(Rマドリード)、オリッチ(ボルフスブルク)、ペリリッチ(ボルフスブルク)を中心としたクロアチアのサイド攻撃が光る。W杯先制ゴールはクロアチアの素早いセンタリングの処理を誤ったマルセロのオウンゴールであった。少し嫌な雰囲気の中、ネイマールが同点弾を決める。これが大きかった。これによってブラジルが落ち着く。後半、西村主審の2点目のPKがこの試合の鍵となる。クロアチア側からはフレジのシュミュレーションではないかという疑義である。流れはこの時点でクロアチアにとって苦しくなったのは事実であった。ブラジルは終了間際のクロアチアの猛攻を凌ぎ、速攻で3点目を決める。オスカル(チェルシー)がひとりで行ったものだ。国歌斉唱時のブラジル選手のこみ上げてくる涙に心を打たれる。

6 月 11日(水)
「ラスベガス」 R・ヴェンチューリ著の読書会。担当者は、中埜博さんのレクチャーを通して「建築家なしの建築」ルドルフスキー著を知り、同様の近代批判として、この本に廻り合ったという。内容を解説してもらった後、1970年代の時代状況を話し、建築における規範について討論をする。「ラスベガス」は、機能主義を徹底的に批判し、かたちの自律性を促したはじめの試みであった。40年経って時代は一巡し、かたちの自律性は十分に保証され、現在はむしろ規範が必要とされているようだ。それについてどのように考えるかの話合いをもった。もちろん答えはないのだけれども、反機能主義が即形態主義に結びつくことの短絡さを40年経った今は実感できる。ここにある「ストリップス」を、別な意味でぼくの作品名にしたことも思い出す。ひとつの帯に様々な条件を取り込み今までにない象徴性をつくり出そうとした。次に現在はどのようなデザインアプローチが有効となるかについての疑問があがった。その鍵が、広い意味でのサスティナブルということにあるのは言うまでもない。それは以前のゼミで「デザインスゴロク」を通して考えたものである。そこで次回の読書会を「負ける建築」隈研吾著に決定する。

6 月 10日(火)
放送大学の川原靖弘さんと SHPPのクライアント鈴木さん来所。大阪のITを使った再開発物件、グランフロント大阪のプロジェクトについて聞く。1日に250万人がそこを訪れ、その訪れた人の嗜好にあった情報を与えることで、これまでにないインタラクティブな街のあり方を模索したという。具体的には、これまでの履歴結果から、家族連れとか恋人同士であるかなどを判断して、個々に情報を提供するものである。そのためのITのインフラ整備を行ったそうだ。まちづくりにこうしたソーシャルネットワークが役立っているのである。ただしその情報を誰かが監督しているのでなく、オープンなシステムの上に成立している。それはアレグサンダーのパタンランゲージが、現在のIT分野のオープンシステムの礎となっているのと同じである。このことを尋ねると、アレクサンダーは知らないもののパタンランゲージ的ソフト開発方法を知っていた。都市がインタラクティブ(アレクサンダーのいうセミラチス)になるためには、昔は時間をかける必要であった(漸進的成長)。多くの情報をつみこんでは淘汰し、セミラチスな街にしていった。そのための時間が必要であった訳だ。しかし現在はITによって短時間に多量の情報をつぎ込むことができる。それはアジャイルという言葉で表現される。アジャイルよって、これまでとは異なるインタラクティブなまちつくりが可能になる。ただし自然淘汰に相当する意識的な取捨判断が必要とされる。まちつくりの新しい局面を実感することができた。

6 月 9日(月)
NHKの本田特集第2回目を見る。こうしたW杯関係の番組が多くなる。45分間本田がこれまで4年間を語る。本田特有の語り口調に少し辟易するところがあったものの、途中から引きつけられる。本田は高い目標掲げそれを実現に移すことで、自らがアスリートかつクリエイターであることを可能にしている。皆にも知られているものは、小学校の卒業文集にセリエAの10番になることを書きしるしたものだろう。それに加えて最も印象的なエピソードは、高校時代に練習生として名古屋グランパスに参加した出来事であった。練習生の彼がパスを出さないプロに激怒し、一触即発な状況になったという。しかもその相手がエースFWのウェズレイであった。ウェズレイは外国人最多得点記録をもつブラジル人である。それを当時の監督ネルシーニョが語っていた。今季のミランの試合における謎も解けた。セードルフ監督就任時、本田は右サイドから1歩も動かすことを許されていなかった。それに従う本田も不思議であったが、それにましてCL合間の2月後半のサンプドリア戦を境に、徐々に中央に切れ込む戦術が許されてきたことについての疑問である。特に本田のパフォーマンスがよくなってきているとは思えなかったからである。本田はイタリア語をマスターし、何度もセードルフと会談をもったという。中央でプレーしたいと。その本田の真摯な情熱にセードルフが折れたかたちがこうしたゲーム運びに繋がったのである。本日、セードルフの解任が発表される。セードルフはそうした本田に惚れていき、反対を押し切って故障明けの本田をローマ戦で先発起用するまで至った。このゲームはミランのEL行きを決める重要な試合であった。会長はそれに激怒したという。その失敗が今回の解任に結びついてしまったといっても過言ではない(ちなみに本田の出来がひどくこのゲームの日記を書く気になれなかった)。本田はW杯優勝を掲げている。それに感化される長友、香川、内田らの相乗効果に期待をしたいと思う。

6 月 8日(日) 
NHK特集ザックジャパンの戦略を見る。ザックジャパンの4年間を振り返る。その特徴をFWとDFの距離20mに保つコンパクトな守備体系に置く。しかしそれは歴代の代表が行ってきたことでもある。むしろこの時期までこの方針を貫き通してきたことを特徴としていた。周知の通りこうした戦術では、DFの裏にスペースができるため、カウンター攻撃を受ける可能性が大きい。そのため岡田武史は直前に守備重視のDFラインを引いた戦略に変更し、トルシエもフラット3を4バックに変更した。世界と対峙していくうちに、前代表はおののいてしまった訳だ。現代表も変更にせまられる危機が訪れたという。コンフェデレーションカップの敗戦。続けてウルグアイ戦、東欧遠征で失点を重ねた時である。しかしザックと攻撃陣はそれでは進歩が望めないとして、守備的にのぞむことを拒んだという。その後のオランダ戦、ベルギー戦はその点で大きな賭であった。ザック解任間近というニュースが流れた程だ。オランダ戦では2点を早々に失ったものの、有効な攻撃によって世界と対等のゲームができた。少なくとも4年前のグループステージ第2戦、点を獲れる雰囲気すらつくれなかったオランダ戦からの進歩が見られた。その後のザックジャパンは守備の欠点を解決していない。ただし点も獲れている。このバランスがよい結果にむすびつくかどうかは神のみぞ知るということだ。ただし、イギリス紙が報道しているように、日本の試合を見る価値がありそうなことを世界が認めはじめている。

6 月 7日(土) 
095 6月7日 W杯前試合 日本×ザンビア 
0-2からひっくり返し4-3で勝つ。後半をライブで見ることができなかったが、後から試合結果を見てびっくりした。日本代表はしぶとく、後半からプレッシングは迫力がったようだ。前半はなぜかそれができなかったのは、アフリカ人の身体能力に対して様子を伺ってしまったからか?本田は、PKを含め得点できたことで、本調子に戻りつつある。これが大きい。大久保の決勝弾はトラップといい豪快なシュートといい文句が付けようがないものであった。森重のFWさながらのリターンパスも凄かった。ただしボランチ山口のアプローチの弱さが目立つ。彼にとってアフリカ人特有の身体能力の高さははじめてではないはずだ。それとも少し怖さを知り始めたのか?本番に期待する。後半の日本が強いのは、1)対戦相手の体力が極端に落ちるのに対して、持久力があること 2)諦めないこと 3)組織力 である。前半を凌ぐゲームプランが必要なところである。

6 月 5日(木)
NHK特集「俵屋宗達」を見る。この春に「風神雷神」の実物を見た。そのときの疑問を解決してくれる特集であった。ひとつめの疑問は、この絵の特徴のラフさについて。この技法を「たらしこみ」といい、濃淡の異なる墨をふくませてにじませる俵屋宗達のオリジナル技法だそうだ。宗達はこれに銀を含ませた銀泥を試みている。ふたつ目は構図。風神雷神の絵自体は中国にオリジナルがあり、宗達は「たらしこみ」と、現代で言うコラージュによってこの絵を完成させたらしい。宗達の「舞楽図」(醍醐寺所有)、本阿弥光悦との「三十六歌仙」、「槙檜図」(石川県立美術館)も紹介される。特に「槙檜図」の細かい正方形の金箔、野毛と呼ばれる毛状の金箔を貼る技術によって、その上の墨絵が引き立てられている。金箔はもはや背景ではなかった。書家光悦との関係も面白い。光悦はマルチ芸術家である。彼が宗達を京都町屋の絵師から芸術家にまで押し上げたという。その後、琳派という芸術集団へと成長させていったのである。

6 月 4日(水)
芳賀沼さんを迎えての大学院講義。復興の様々なかたちを紹介する。仮設住宅入居者目線と仮設住居拒否者からの目線、つまりは被災者の中に抱える矛盾、その中での高齢者目線と若者目線、あるいは被災者目線と建築家目線、同様にボランティア参加者目線と指導者的な上からの目線、これらは様々なところですれ違っている。つまりはこれらは交わることのない問題である。したがって、学生が自分の立場を明確にしてから参加する必要はなく、廻ってきた機会を利用すべきであるという話が中心であった。芳賀沼さんはこうした両極を往復している人なのだ。うらやましい。
094 6月3日 W杯前試合 日本×コスタリカ 
前半は、多くのチャンスつくるも得点を奪えず。嫌な雰囲気の中、前半に左右を崩され1点を失う。右の内田も左の今野も置き去りにされてしまった。コートジボアールのジェルビーニョ、コロンビアのクアドゥラードに対して大丈夫かと思わせる内容である。この試合欠場した長友は、今季セリエAで彼らとマッチアップしている。前半苦労するもの、スタミナのある長友は後半有利でいた。勝機を後半にまで伸ばせることができればチャンスと思う。センターにもドログバ、あるいはロドリゲス(モナコ)がいる。彼らとの対戦の経験がないのであるが、それを若い山口とCB吉田、今野に期待しなければならない。その山口とのコンビは青山であった。長谷部、遠藤の体調がいまいちなのだろう。その青山は縦への効果的なパスを多くだす。合格点だろう。コスタリカは5 バック、そのため中盤のプレッシングが弱かった。とはいえ、青山からのこの縦へのパスが効果的に働き、そこから最終ラインを混乱させたのは評価できる。後半は相手の疲れもあり3 点を獲ることに成功する。本番では、相手の集中も続くだろうから今回のような展開を期待することはできない。少ないチャンスをものにする必要がある。本田が存在感を示せないのが少し気になる。サンシーロ入場の際に最後尾に固執していた強気の本田はどこにいったのだろうか。今週末のNHKの本田特集にそのなぞを説く何かがあったのかもしれないと思うと、見なかったことが惜しまれた。

6 月 3日(火)
磯崎新の建築談義 「ル・トロネ」 を再読する。 M・メルロ=ポンティの「眼の精神」が引用されている。メルロ=ポンティのセザンヌやクレーの批評を通して、建築においても同様にデカルト的空間あるいは近代科学的空間認識からの脱却を指摘している。ル・トロネの素形は、これまでの価値観を振り戻す建築であるという訳である。この本は1961年のものである。芸術の分野でもこうした傾向がこの時期にはっきりと現れていたことも知る。「眼の精神」を再び引用する。「空間はもはや屈折光学が語っているもの、つまり私の視覚の第三者的な証人ないし私の視覚を再構成しそれを俯瞰する幾何学者が見るであろうような「対象間の関係の束」ではない(ゲーテ的 遠藤註)。それは空間性の零点ないし零度としての「私」のところからはかれる空間である。私は空間をその外皮にそってではなく内側から活きるのであり、そこに包み込まれているのだ。要するに、世界は私のまわりにあるのであって、私の前にあるのではない。」ルネサンス以降の認識方法を離れ、身体的な感知で見ることをいっている。

6 月 2日(月)
サンシーロスタジアムの構造について多田先生に教わる。スタジアムは11本のコンクリート柱によって支えられているが、うち角の4本が屋根トラスを支えるものである。残りはスタンドを支える。コンクリート支柱は階段である。4角の外に飛び出している赤い大梁は鉄の塊で、バランスをとるための錘として機能しているそうである。その内側はトラス梁であり、上部に透明なプラスチック屋根をのせている。この透明屋根は芝の生育に十分でなかった。サンシーロのゲームはいつも泥だらけであったことを思いだす。芝の改良が施され青々とした芝の上でプレーができるようになったのはここ数年である。ザハの国立競技場のコンペ案は、スタンドも屋根も連続した構造によって支えられている。流体的形態でありながら重々しいデザインと思った理由がここにあった。大きなスタジアムデザインにおいてはボリュームを分節させることは大切である。ピアノのバリスタジアムはスタンドを輪切りに分割している。代々木体育館はもちろん一体的であるのだが、これが大きさの限界である。

6 月 1日(日)
倉庫のリノベーション建築を見て回る。多くが海沿いか川沿いにある。空間が大きく、無機質な建物デザインが様々なイベントを可能にするようだ。日の出駅のタブロイド。月島の旭倉庫。秋葉原の練成中学校体育館。隅田川蔵前のリバーを回る。いずれも東東京である。サブ文化の中心が東に移動するというより、街の機能が港・渋谷の一極集中から多焦点的に変化しているのを体験することができた。

5 月 31日(土)
NHKドキュメンタリー「カラーで蘇る第一次世界大戦」を見る。原子爆弾を除けば、第二次対戦に使用された兵器はこの時期にほぼ出揃っていたという。これは今日使われている建築の素材が、100年前とそれ程異なっていないことと同じである。ただし戦い方が異なっていた。国境戦が主で、都市戦というものはこの時期になかったのである。つまり一般市民を巻き込んだ戦争ではなかった。その好例として航空中戦が挙げられる。空中戦は中世の馬上の騎士のように1対1の戦いであったようだ。この空中戦の英雄をエースパイロットと呼び賞賛した。つまり都市市民にとっては当事者意識がなかった。しかし戦争後期になると食料不足と経済困窮から様相が異なり、この戦争を世界大戦とまでいうようになったのだ。
建築の専門性について考える。建築学が日本に根付いた当時、機能的に計画することが建築の主目的であり、専門家として求められる条件であった。その前は様式についてであったかもしれない。しかし現在では、病院といったビルディングタイプ以外にそうした計画性は必要とされない。機能性はユーザを含め自由に解釈できるようになった。構造においても同様な状況をみることができる。少し前の80年代までは、構造は限られた人が扱える問題であったが、パソコンによる解析が格段に進歩し、若い多くの構造家が現れ、その専門性は薄くなった。最近問題になされるのは、建築の社会性である。建築はアートと異なり、建築が置かれる社会的意味が重要視され、歳をとって社会と接する機会が多くならないと判らないという訳である。公共建築の現在性がそれを物語っている。このように考えると建築は、次から次へと問題をつくり出すことで特権化、嫌らしい言い方をすると新しい力を摘み取ってきたともいえる。

5 月 30日(金) 
「シンクロニシティ」を読む。シンクロニシティをパウリとユングの延長上に位置づける。前半はその解説と歴史。要するに非線形系にも構造・普遍性があることの概論である。散逸構造、破れた対称性などが解説される。第5章から実例へと向かう。

5 月 29日(木) 
パブロフの犬の実験を批判するベイトソンを思い出す。非常に限られた環境をつくり出し、その中で観察者の仮説、この場合犬でも学習するという仮説、を実証することへの批判である。現実はもっと生態的で、様々な条件が折り重なる世界である。それを無視しては真の発見というものは起きないという警告であっと思う。近頃読んでいる本の中で否定している、因果性、決定論的思考が今でも知らず知らずのうちに行われてしまう経験をした。根がかなり深いことを知る。
「シンクロニシティ」 F・Dピートを読み始める。シンクロニシティとは、意味のあるコインシデンス(偶然)、意味をもつかのようにむすびあわされる偶然のパタンをいう。1987年の物理学者の著作である。

5 月 28日(水)
NHK特集「エネルギーの奔流」を見る。グリーンパラドックスという言葉を知る。ドイツは早々に脱原発の方針を打ち出した。しかし、自然再生エネルギーは生産コスト高を招くため、ドイツ国境30キロの地点のチェコをはじめ周辺国における石炭による火力発電所、さらには原子力発電所の建設を招くこととなった。そこから、ドイツは安価なエネルギーを輸入する訳である。この矛盾を表す言葉である。結局、地球規模ではCO2排出量は変わらず、むしろ増加する現実をいう。この特集は、地球規模で行うエネルギー対策の必要性をぼくらに突きつけつけるものであった。

5 月 27日(火)
093 5月27日 W杯壮行試合 日本×キプロス 
日本はよいコンビネーションを見せるも、スピードがなくキプロスゴールを奪うまでいかなかった。本番初日を目指してこの時期、体に負荷をかけるトレーニングが中心であるので体に切れがない、このことを理由にあげる。とはいえ、攻撃に迫力を感じることができなかったのはぼくだけだろうか?今季、マンUとミランのゲームをよく見たのだが、その差を感じざるを得ない。香川と本田に対する指揮官の信頼の弱さにも繋がるものだと思う。後半途中からの観戦であったが、迫力を体で表現する岡崎の動きがどうであったか気になった。

5 月 26日(月)
ナチュラルスティックⅡの現地審査。岸和郎氏、竹原義二氏、難波和彦氏に見て頂く。はじめにこのプロジェクトで目指したことを話し、質問の受け答えに終始する。Xゼミで以前に批評していただいた難波さんからは具体的な質問はなかったが、ぼくがかたちの人でないことを、暗に示してくれた。階段吹抜の拡がり効果について岸さんから感想をいただく。無理をいって梁を無くしてくれた江尻さんに感謝する。竹原さんからは浮かせた3階の意図を聞かれた。それは素材への注文であったかもしれない。その日たまたま、藤森さんと石山さんの対談記事を読む。世田谷村を訪れ、その発想のはじまりについて尋ねた記事である。石山さんは地下と地面のスケッチを書いたそうだ。石山さんがバルセロナの基壇をはがしその中にしばらくいたことも思い出す。Xゼミでは、多少嫌みを込めて地下をがんばれと批評してくれたことをまた思い出した。石山さんはミースの執着心のとてつもない深さに感動したのだ。現地審査でデザインを凝る必要性について話すかどうか迷ったがやめにしてよかった。こうした事実を前にして答えが十分でないからである。
092 5月25日 女子アジアカップ決勝 日本×オーストラリア 
日本は中盤からのロングパスを警戒し、澤、宮間、坂口の中盤が3ボランチ気味で相手中盤をケアする守備重視の戦略であった。そのため2列目からの攻撃の連動が見られなかった。2日前に120分闘った中国戦からの疲労と初戦に見せつけられたオーストラリアの迫力ある攻撃によるものだろう。ショートコーナーからの得点を守り切り、初優勝をする。最後まで守り切れたのは実力の差ありと思う。

5 月 25日(日)
再び「偶然の本質」を読む。第3章以降も現代物理学と超心理学との並行現象を紹介する。ユングとパウリ2人の功績と同様のその後の研究の記述である。その詳細が掴めないのが歯がゆかったが、因果的仕組みを信じるのはもはや「盲者」でしかない主張は十分に理解できた。はじめは超能力の本かと思ったが、物質、因果性、決定論を強く否定することが本書の目的であることを理解できた。この本の出版は1972年。40年が経ち、こうした既念に対する疑いは明白なものとなった。そして現在はアジャイルのような方法が注目されるようになったのである。
091 5月25日 CL レアル・マドリード×アトレチコ・マドリード 
後半ロスタイムにコーナーキックからセルジオラモスがヘディングで同点を決め、延長戦でレアルがアトレチコを引き離したゲームであった。早々の9分にジエゴコスタを失い、後半20分過ぎから1点の守りに入ったアトレチコには、同点にされた後の挽回する力が残っていなかった。はじめに動いたのは1点を追うマドリードであった。後半15分である。怪我明けのケディラと右のコエントランを変え、マルセロとイスコを投入した。3バックDFにして、ディマリアを上げ、マルセロとモドリッチの3人で中盤の攻撃を形成した。アンチョレティは、疲れてきたアトレチコを見越し攻撃的にでたのである。むしろ点を取りにいかざるを得なかったのかもしれない。それに対しアトレチコも十分に抵抗したが、最後の最後でセットプレーでやられた。このゲームはどちらもディフェンシブであった。しかし、両チームのディフェンス方法は対照的であった。アトレチコは皆で走り、ボール保持者を囲む泥くさいもの。レアルは、2人で1人FWをカバーし、いつもバックアップが後ろにおくスマートなものであった。それでも後半からモドリッチが左右に動き回り、4人のDFを揺さぶっていた。それに両サイドの選手が呼応し、全体を押し上げることでレアルは優位性を保っていた。緊迫のあるよいゲームであったと思う。これで今季ヨーロッパのゲームが終了する。

5 月 24日(土) 
「偶然の本質」の理解の手助けとして、「自然現象と心の構造」ユング+パウリ著を再び手にする。この本は、別の分野の論文をひとつにまとめた本で、当時興味をもったがよく理解できなかった記憶がある。その中の村上陽一郎氏の解説を再読する。改めて理解できたことは以下であった。ニュートン力学以来、時間系列のなかで因果連鎖という発想をするようになったこと。それは、先行事象が原因となって後継事象が結果になるという考えであり、その後、自然科学はこの因果関係を追求するものとして考えられてきたこと。そして、この関係はたまたまそう言えているにすぎないというのが、W・パウリの主張であり、これが1950年代の主張であったこと。である。これは、建築でいう「機能」に関する問題と同じであることに気付いた。パウリは、それを「孕む」といっていた。先行事象には孕みがあり、その孕みの中で、既念枠組みに上手く合致したものを後継事象に挙げているにすぎないという訳である。ユングはこの既念枠組みを深層とか「共時性」あるいは「元型」といった。機能とは一般に考えられていることとは異なり、多くの孕みの中から人が使いやすいと判断したひとつでしかないという考えである。「時間的に同時な二つの事象の間に、因果的でないような連関」が「共時性」あるいは「元型」というものである。社会に深く根差した時代雰囲気とでもいうものか。パウリは、ケプラーの例を持ち出し、これを「世界精神」といっている。これらをまとめてケストラーはこの本で「偶然の本質」といっているのである。

5 月 23日(金)
「偶然の本質」アーサー・ケストラー著・村上陽一郎訳を読む。本題は「The Rots of Coincidence」である。偶然というキーワードからこの本を手にする。内容はESP(extrasensory perception)超感覚知覚すなわち超能力であった。第一章がその歴史。第二章から現代物理の諸成果との結びつきを探る。第三章の「連続性と同期生」で、ようやく概論的なものから具体内容になる。それはユングと物理学者パウリ2人がいう非因果性についてである。一見因果関係がありそうなことが偶然であり、反対に因果関係がなさそうなことに構造があるように、それは観察者の見方によって決められる。むしろ、観察者の深層心理にこそ法則・構造があることをいうものである。 

5 月 22日(木)
多田研との合同ゼミ、パスタブリッジ第2回目。マイヤールの一連のコンクリート橋とそれ以前の鉄橋の模型を前にして、構造技術史を廻る。これらの正確な模型を学生たちはよくつくった。そのため多くの発見をする。マイヤールは、スチールに比べて後発のコンクリート橋の改良を、製作を通じて繰り返し改良してきたことを知る。組積アーチから、コンクリートアーチ構造、そして剛桁構造に及ぶ改良である。それは部材断面を最大限有効に使うという近代美学のもとに行われてきた。地道でいかにもスイスらしい。それに対しイギリスは鉄橋の歴史である。鋳、錬、鋼といった素材の改良と新しいアイデアの挑戦で発展させてきた。鋳鉄のアイアンブリッジはボルトを一切使わず、木造のような「ほぞ」により構成されていると聞き驚いた。錬鉄の代表はロイヤルアルバート橋である。上部アーチは鉄板で、下部引張材はチェーンによる構成。このかたちはスラストをおこさないため、支柱を細く自律させることを可能にした。鋼の代表はキャンティレバー方式のフォース橋である。ともにアクロバティックである。 
090 5月22日 なでしこアジアCUP 日本×中国
延長戦ロスタイムにコーナーキックからの劇的な逆転をする。なでしこの勝負強さを感じる。これが底力というものであろう。次は再度オーストラリアとの決勝。1月後の男子W杯でも感激したいものだ。

5月21日(水)
NHK特集「大回転するオホーツクの流氷」を見る。暖かくなり流氷が溶け出すオホーツクの春は、海洋生物が大量に誕生する生命の恵の時期である。それは、地球の生命誕生を知る鍵でもある。その特集であった。最大の原因はふたつあるという。ひとつは多量の鉄分の発生。鉄分はシベリアのアムール河から流れ出すのだが、通常は重いため海底に沈む。しかし冬には、海に流れ出た直後に氷として閉じ込められる。それが流氷としてオホーツクまで流れ着き、春先に氷が溶けると同時に鉄分も海面近くに溶け出すのだそうだ。その鉄分と生命誕生の関係が現在様々な分野で研究されている。ふたつ目は、流氷が溶け出す時におきる海水の大回転に起因する。春の晴天の日にそれは起き、低気圧によって引張られる雲のように、海がダイナミックに動く。それにより海底から大量の栄養分が巻き上げられ、プランクトンの発生と食物連鎖を起こす。実に壮大な自然現象である。

5月20日(火)
「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン著を読む。「沈黙の春」の後、彼女が亡くなる直前に書いた本である。神秘さや不思議さに目を見はる感性をぼくたちは失いかけている。それの取り戻しを問いかける本であった。日本版写真も美しい。中埜さんに接して、こうした本を読むようになる。

5月19日(月)
NHK特集「認知症800万人。行方不明者1万人」を見る。認知症患者の行方不明者は2012年に1万にのぼり、うち350人が死亡、200人が行方不明のままという現状を知る。1年間の総行方不明者は10万人にものぼることも調べて判る。情報が行き届いた時代に驚くべき数字である。他に身元不明遺体は年間1000人ということも調べて判る。日本の殺人犯検挙率はほぼ100%といわれているが、事件として扱われない隠犯罪はもっと存在するのでないかという疑問をもつ。数字のマジックは至る所にある。

5 月18日(日)
089 5月18日 セリエA キエーヴォ×インテル 
最終戦を長友は欠場。サネティの最終ゲームでもある。インテルは程よくゲームを支配する。イタリアチームの攻撃に連動が見えないのは、守備を重視する戦略に原因がある。攻撃を仕掛けることで生まれるスペースを嫌う。守備体型が崩れるからだ。そのため縦一本の速攻が大切にされ、インテルでは長友の走力とスタミナが買われている。スピードのないサイド本田が今のところ冷遇されている理由でもある。今季のローマは、攻撃的でありながら昨季までの守備の欠落を克服することができた。スパレツティ、ラニアリから今季ガリシアに至り、ようやく完成させたといってもよいだろう。時間がかかる。インテルの場合というと、サネティとカンビアッソは、後ろで構えるタイプであるので、長友を含めた前線からのプレッシングが必要となる。 インテルマッツァーリ はそれを目指すもまだ道半ばである。しかし来季も監督を続けそうであり、来季以降に期待したい。ミランセードルフは若く、かつ現役時代にもその経験がない。

5月17日(土) 
088 5月17日 リーガ バルサ×アトレチィコ 
最終節が優勝決定戦となる。実に60年ぶりだそうだ。もちろん勝った方がリーガチャンピオンである。序盤からアトレチコの守備が光る。前線においては厳しいチェックがあり、その後中盤は緩く、最終ラインはまたスペースのない堅実な守備となる。選手の総走行距離が1kmは違ってたのではないかと思う。しかしこれまでの疲労のためか15分と30分に立て続けに主力が怪我で離脱。ジエゴ・コストと10番トゥランである。そうした中バルサは、サンチェスが左から強烈なシュートで先制。メッシが胸トラップで落としたボールをダイレクトに放ったワールドクラス級の強烈なシュートであった。流れはバルサとなる。しかしアトレチコはメッシらに中央のスペースを与えず、バルサが攻めあぐむ前半であった。後半は一転、アトレチコのペースとなる。それがどうして変化したかが謎であり、サッカーの面白いところでもある。コーナーキックから長身DFゴディンが決める。アトレチコがゴール前でバルサ守備陣を引きつけ共倒れをし、遅れてひとりフリーで入ってきたゴディンが決めた。完璧なチームプレーである。その後アトレチコは守備を固めると、イニエスタ、ネイマールを投入するもゴールマウスをこじ開けることができずにタイムアップする。アトレチコの18年ぶりのリーガ制覇である。2強時代に終止付をうつ。アトレチコは今季優勝に相応しいチームであったというコメントが多く出る。

5月 16日(金) 
「20世紀を築いた構造家たち」 を読み通す。第5章「ローテクの可能性」というネーミングに感心する。キャンデラとディエステの話である。シェルは人経費のかからない発展途上国で発展した。第6章は日本の構造家についてである。晩年の木村俊彦氏には、池田昌弘を通してお会いしたことがある。氏は体を患い十分にしゃべることができなかったが、頭は妙に冴えていた。そのときでさえ、ぼくの建物を批判した。彼の設計へのこだわりがそうさせていたのだと思う。その尋常のなさをこの本からも知ることができた。池田昌弘はそれを引き継ごうとしていたのかと思う。ピーターライスに対しても同様の印象をもった。「構造に人間性を付与し、設計哲学を視角化することに徹底的に執着した」とある。そのため、様々な議論を呼び起こしたという。ポンピドゥーのガーブレットであり、ロイズオブロンドンのコンクリート被服をいっている。途方もない技術を得た優秀なエンジニアたちが、次に進む道は皆、自らの人間哲学の模索であった。この本から学んだ一番のものである。この執念さにおいて建築家は負けているかもしれない。

5月 15日(木)
昨日の授業について、学生から質問を受ける。よい 絵・写真は何かという質問である。ぼくも同じような疑問を学生の頃抱いたことを思い出した。よいとされているものは、伝統の上にあることを話す。ぼくも当時はセンタリングという考えが判らなかったけれども、今ではセンタリング的な考えでそれらをみると、伝統の上に立って判断することができることを話す。それは絵、写真や陶器、音楽などある程度のものの理解に役立つことを率直に話をした。
アレグサンダーがIT分野に及ぼした功績について、昨日の授業で中埜さんが語っていたことを思い出す。それは、レイヤー、ボトムアップ式思考、セミラチス構造の3つであった。記しておく。 

5月 14日(水)
中埜博さんを招いての大学院授業。難解とされるアレグサンダーのセンタリングを、パタンからランゲージへのつくりかたに重ねて解説をする。センタリングとは、ものつくりや現場作業を通じてわかるもので、ともかく頭で考えてはダメというものであった。頭で考えると疑問となる事柄も、実際に現場に立ち作業を行えば解答は明らかであり、ほとんど皆が同じ解答をみつけるという話であった。昨年、中埜さんが翻訳した「ネイチャー オブ オーダー」の核心となる話である。はじめに「ネイチャー オブ オーダー」にもある写真を見比べる実験を行う。左右の2枚の写真から自分に合っているものを選ぶ実験である。アレグサンダーのいういい絵=多くのセンターがある絵とは全て左である。結果は左:右=4:3であった。この結果はだいたいどの被験者でも同じだそうだ。それを聞いた学生たちは、解答が自然とひとつに収束することに対して、いたく疑問を持ったようだ。様々な考えをもつ人が一致していくマジックがあるのかという疑問である。ここにセンタリングというアレグサンダーの世界観がある。この説明を経験交えて話してくれた。ともかく多くの学生はこの話を通して、不自由なものとして見ていたパタンランゲージに対する考えが変わったようだ。使いこなすことで、自由が獲得できることを理解した。彼らにとって、これが一番の収穫であったと思う。誰もが詩を書くことができるが、詩人になれるのは一部の造詣の深い人である。パタンランゲージも同様である。誰もがある程度使いこなせるが、それを操れるのは一部の熟練した人である。センタリング的感覚を誰もがもっているが、使いこなせるようになるのは熟練と時間が必要なのだ。はじめから玄人になる素晴らしい方法などない。ただ、皆その可能性をもっている。そのことが通じるとよい。同様に、センタリング=全体を掴む訓練をどのようにしたらよいかという質問があがった。ぼくはやはり、よいものとされるものを多くみて、一心不乱に無茶ぶりスタディをするしかないというアドバイスをした。「弓と禅」程ではないが、型の訓練から判ってくることは意外に多いと思う。

5月 13日(火)
「20世紀を築いた構造家たち」 第4章「アメリカの構造技術史」を読む。摩天楼と橋を中心にしたアメリカ構造界を、経済との関連で説明する。はじめは懐かしいワイドリンガーについてである。三沢浩氏のレクチャーでリーダーズ・ダイジェスト(設計:レイモンド)の構成に頭をひねっていたことを思い出す。現在の毎日新聞社のあった場所にこの建物は建っていた。サルバトリーとワイドリンガーが親しい関係にあったこともはじめて知った事実である。SOMのイェール大学図書館もワイドリンガーがエンジニアとして参加したという。ともに実直なエンジニアである。ルイスカーン、アルバートカーンに継ぐファズラー・カーンという人物も知る。ファズラー・カーンは多くの超高層を手がけ、SOMに属していた。同僚にロバートソンがいて、このころからSOMには優秀なエンジニアが集まっていたのである。最後は、WTCについてである。ロバートソンとミノルヤマサキとの傑作である。チューブ構造と崩壊との関係が記される。フラーとコマンダントの記述が少なく、ミースのガラスの摩天楼からの一連の記述がないのは少し寂しかった。

5月 12日(月)
087 5月11日 プレミア マンC×WBA
マンCは落ち着いてゲームをコントロールする。守りを固める相手に対して焦り、状況を悪くすることが最悪のシナリオであった。そうなってもおかしくない状況であったが、ナスリのミドルでこれを打開する。前半終了間際の得点である。ヤヤ・トゥーレ(コートジボアール)を中心に、シルバ、ナスリの3人でゲームをコントロールする能力がある。サイドいっぱいに開いてから、中央にスペースを残しつつそこを突破する攻撃である。山口がピッタリとヤヤ・トゥーレに付くという代表のシナリオは可能だろうかという疑問がわく。試合後、優勝の歓喜に酔うファンでピッチがいっぱいになる。が、5分後の表彰式では皆が平静にスタンドに戻っていたことにまた驚く。プレミアもFA杯決勝を残すのみである。

5月 11日(日)
086 5月11日 プレミア マンU×サウサンプトン 
香川が中盤の底で先発も前半終了と同時に交替となる。サウサンプトンの激しい前線からのプレッシャーに、本職でない香川は苦労した。ここ数試合、ボランチ香川が新しい試みである。イタリアのピルロのようなプレーを期待するものであろう。短いターンでかわす場面も多かったが、囲まれる場面も多く、前線への配球ができなかった。このあたりはサウサンプトン ポチェッティーノのお家芸である。吉田はここで鍛えられていることでもある。ユナイテッドは、今季を象徴するようなゲームで、その中でも前半は最悪の部類に入るものであったろう。10得点を目標にかかげた香川にとって、不本意な1年だったに違いない。今季後半はポジションをつかんだが、コンビネーションをあげるまでいかなかった。香川は、連動がチームに求められたとき、力を発揮するタイプである。香川は生かし生かされてこそ力を発揮する。最終戦をユナイテッド勝利で飾れず。 

5月 10日(土)
「20世紀を築いた構造家たち」小澤雄樹著 を第1章から3章まで読む。モダンストラクチャーの系譜を、構造の実務に即しながら解説した書である。ぼくら建築家にとっても判りやすく、あらためて知ったことも多かった。マイヤールの橋は改良に改良を重ねたものであること。フェロセメント(フェロ=鉄)はネルヴィのつくった造語であり、「ソロンアネリ」ではじめて大きく適用したこと。トロハの「アルヘシラスの市場」のリングは、実は直径3センチ16本からなっており、スラスト力に対するテンションリングの役割があり、フィレンツェのドームではブルネルスキーはそれを木でやっていたこと。当時の構造家は実業家でもあり、ネルヴィやキャンデラは施工会社をもっていたこと。イスラーやキャンデラは自ら考案したシェルの特許をもち、その施工販売で会社を大きくしていったこと。イスラーもガウディのように、麻布の逆さ吊り実験をして、懸垂面シェルを実現していたこと。RCで覆われたプラネタリウムの球形ドームが、はじめてのモニエの鉄筋コンクリート植木鉢の直後であったこと(年代不明)。それをデザイン製作したのは「プレスウラの世紀ホール」と同じ会社であること。などである。
086 5月10日 ブンデス マインツ×ハンブルガーSV
岡崎マインツの最終戦。前半に岡崎は、チームが守備に追われボールをうまく受けることができずに孤立するが、ワンチャンスをものにする。見事なDFを切り返した今季15点目であった。これを象徴するように、この1年のチームメートからの信頼というものは大きかった。そのため岡崎は本来の実力を出すことができた。W杯に続けてもらいたい。対象的にニュールベルクは降格が決定する。清武、長谷部は十分な成果をあげることできず。長谷部はその責任を感じ、怪我の状態を顧みることなしに今は自分を拾ってくれたチームに尽くすべき、と判断し、出場する、しかしフル出場は意外だったに違いない。長谷部の心意気に感動する。

5月 9日(金)
「職業としての学問」マックス・ウェーバーを読む。1919年のドイツでの講演記録である。前年にドイツは敗戦している。学問を行うものへの倫理を訴えるもので、当時の世界状況との関連がいまいち掴めなかった。またいつかチャレンジしようと思う。

5月 8日(木)
「家の理」難波和彦著をいただく。早速読む。帯が松岡正剛。「日本人の家の秘密があかされている」とある。家の原型論を現在の難波の箱の家論まで連続させたことをいっている。この本で、一室空間を家の原型論と関係づけているのが新しい。今までの家の原型論といえば、構法(物理性)の説明か空間論に限られていた。空間を理性的に扱うか、あるいは肉感的にと扱うかという記号性の問題として、であった。原型論に家族という人間関係(機能性)を持ち出したのは、これまでなかったのでないか?そしてこの本では、家の原型論を持ち出すことによって、巧みにこれからの住宅の進むべき方向性を示唆している。それは部品化(工業化)を通して性能を向上させていく住宅の道程である。それは、建築家の仕事が依然としてコトつくりでなくモノつくり中心であることでもある。それを優しく通底させていることを嬉しく思う。少なくとも子どもたちはそう感じるだろう。線の密度による濃淡で全体を表現し、輪郭をぼかす絵の中で、「KAMAISHIの箱」の絵だけがリアルである。
NHK特集で「薬師寺」を見る。薬師寺が昭和40年には、東塔と国宝薬師三尊像を安置する仮講堂しかなく、藪の中に朽ち果て、誰もが気付かない程落ちぶれていた写真を見て驚く。そういえば、国宝の法華寺を20年前訪れたときも似た感想をもった。薬師寺をここまでに再建したのは、官長高田好胤(こういん)を中心に、写経による寄進に成功したからだという。国が創建した薬師寺には檀家がいないことによる。家の娘2人もこの写経を行った。西岡常一棟梁も同様に官長高田の人柄に感化され、次々と薬師寺建築の再建に力を貸していったのである。それで現在がある。

5月 7日(水)
ロースのミュラー邸の平面を読む。ロースは、ミュラー邸(1930)の前に、同様のシュトラッサー邸を1919年にデザインした。これがラウムプランのはじまりとされる。このシュトラッサー邸は既存の改築であった。天井高のある空間に中2階の床を挿入していくうちにラウムプランを思いついたのだという。最初のラウムプランの適用が改築にあったというのが興味深かった。大学院時代に、ホワイト派を参考に、グリッドスケルトンの中に床を挿入する友人がいたことを思い出した。ホワイト派の歴史の連続と、それを知ることで建築の世界観がだいぶ変わっていただろうと思うと、恐ろしささえ感じる。

5月 6日(火)
085 5月6日 プレミア マンU×ハル 
香川がボランチで出場。ハルは残留が決まっているため、プレッシャーもそれ程なくボランチの役割を無難くこなした。このフォーメーションは、決定的な裏へのパスが期待されたものであると思うが、数本にとどまる。もっとフェライニの頭へのパスと織り交ぜてもよかったのではないか?それでも前半は2本の遠目からのシュートを放つ。ヤヌザイと同期の3人が先発し、若い彼らは生き生きとプレーをしていた。残り20分で監督ギグスが登場。香川は左MFに変わり、息のあったロング・ミドルパスを繰り返す。縦への展開が少し見られた瞬間である。ギグスからのロングパスを香川がファウルをもらい、ギグスのフリーキック。ほしかった。これでギグスのもつ24年続いたプレミア連続得点に終止符が打たれる。

5月 5日(月) 
084 5月4日 セリエA ミラン×インテル 
本田不出場。長友も、始終守備に追われよいところがなかった。前半はインテル押し気味も、後半はミランペース。3バックの攻撃的シフトであるとしても、縦のパスが入らないことが、インテルの上位との差であることを感じる。ELを目指すミランは、インテルを射程範囲にとらえる。セリエAも残り2節である。一方、ユベントスの優勝は決まる。

5月 4日(日)
「ルネサンス 3章真理の探究—ルネサンス期の科学の進歩」 サートン著を読む。ルネサンス期における様々な発見を紹介する。地理上の発見、天文上の発見などの他に病気があげられる。梅毒と黒魔術であった。したがって、この時代は決して明るい状況ばかりではない。続けて6章の「芸術家、科学者、天才」 パノフスキー著を読む。ここででもルネサンス期の芸術家たち人文学者たちの功績が称えられる。中世と異なり、距離をおいて世界を眺望できたことが進展を遂げることができたという。そのための技術として初期には遠近法、そして望遠鏡と顕微鏡、最後に写真の発明が大きな役割を果たしたという。「ルネサンスは、頭だけでいろいろ考え手いる者を、手仕事をする者から分け隔てていた溝に橋を架けたのである。(中略)自然学での最重要な発展が、学者先生たちよりもむしろ芸術家たちによってなされた」とある。理論と社会=現実を繋げたという意味で、ルネサンスを近代に入れる理由が示される。
083 5月3日 プレミア マンU×サンダーランド 
香川不出場。理由は体調不備のためとある。ユナイテッドは決定的シーンすらつくれず0-1で敗ける。攻撃が単調で、年当初のモイーズ体制に戻ってしまう。中央を固めるDFに対して、サイドアタッカーはドリブルをしかけては詰まり、スペースをなくすだけである。ナニ、ヤングはこれをどう考えているのか?個の打開のみを求めチームメート連動が全くない。 

5月 3日(土) 
「ルネサンス 6つの論考」を読み始める。昨日のディオゲネスの興味から、ルネサンス・ラファエロの「アテナイの学堂」をウエブで見ているうちに、ギリシアの哲学者たちがこの時代にバチカンに描かれた理由を知りたいと思った。ルネサンスとギリシア哲学の関係についてである。この本は「アテナイの学堂」が表紙である。そしてルネサンス研究の伝説的シンポジウムをまとめた本である。
その中から、4章「ルネサンス期の、人間、神、そして教会」バイントン著 を早速読む。一般には、ルネサンス期の人々は穏やかで明るいというイメージである。科学、芸術、医学、文学あらゆる分野での探求開花がそう思わせる。その手本になったのが創造主(デミウルゴス・ポイエシス)のいるギリシアであり、バチカンにギリシア哲学者たちが描かれている理由である。が、現実は必ずしもそうでなかったようだ。それに対する厳格で中性的世界観が大半を占めていたという。この本の主旨はここにあった。ヘブライキリスト=一神教とヘレニズムギリシア=多神教のせめぎ合いは永遠続いていた。このルネサンス期は確かに、ギリシアの急激な高まりが事実であったとしても、近代視点がさらにそれを増幅させているというものであった。そしてこの2つの対立からルネサンス後期に宗教改革が起き、結局はキリスト教を強化させることに繋がった。こうした構図を宗教から切り離し、古代ギリシアで起きた社会変化として述べているのが柄谷行人の「哲学の起源」であろう。このことを理解する。

5月 2日(金)
「a+u 524木造がつくる新たな風景」を読む。レンゾピアノのインフラフリー住宅が紹介されている。CLTパネルに似たXLAMパネルという木構造をアルミで覆った2.5×4 m(トラック輸送可)の自立型住居である。中に太陽光発電・太陽光給湯・雨水槽・バイオトイレ浴室・キッチン・冷蔵庫・自然換気設備が収容されている。どうやらあらゆる環境に適応するように閉鎖型の住宅のようであるが、肝となる空調換気方式が見えてこないのが残念である。この住居の名ディオゲネはギリシア哲学者ディオゲネスから由来したという。早速ディオゲネスを調べる。西洋版の一休さんである。酒樽に住んでいたという逸話もあり、コスモポリタンであった。ラファエロのバチカンにある「アテナイの学堂」の中央にひとり寝そべっている人が彼である。ネーミングに感心する。他に、ナイジュリアのマココという水上生活者のためのフローティングスクール。ベルギーとスイスのログの住宅(熊小屋)も興味深い。

5月 1日(木)
「限界デザイン」三宅理一著を読む。本帯にある「限界から見える建築の必然」に惹かれた。ここに上げられているのは、南極や貧困国、あるいは災害や戦争の極限状況を脱した直後の住宅の紹介である。極限の後に何かしらの新しさがもたらされる。ぼくら建築に携わるものにとって、その希望の書ともとれた。読み進めるにつれてカントの崇高論を思い出す。カントもリスボン大地震を経験して崇高論を書いたという。崇高という考えはこのとき存在していなかったし、そもそも情感を記述することも当時なかった。限界によって価値観の転換が起きるのである。力学では「限界状態設計」。英語ではリミット・ステート・デザイン(LSD)という。プルーヴェの6m×6mハウスを、数年前鎌倉の近代美術館で見たことを思い出す。自由度のあるプリファブリケーションにいたく感動した。フィンランドカピュラでのログの難民住宅が高級住宅地に変貌しているのには驚いた。もっと時代が流れ、この時代を大局的に見ることができれば、ここに上げられている建築は時代がつくり出した偶然のものといえないだろうか。必然と偶然は立ち位置の違いからくるものかもしれない。銑鉄、鍛鉄、鋳鉄、錬鉄、鉄鋼の歴史も勉強になった。
082 4月30日 CL準決勝 チェルシー×アトレチコ 
1-3でアトレチコの勝利。決勝はマドリードダービーとなる。緊張感のあるよいゲームであった。チェルシーの先制とアトレチコの3点目は、固い守備を崩すお手本のような攻撃である。ボランチのチェックを受ける前に、サイドから反対サイド奥に一端ロングボールを叩いてからの折り返しによる得点である。チェルシーはニアにトーレスが入り込み、アトレチコはさらに反対サイドを上がってきたトルコ代表10番トゥランが決めた。チェルシーにとってこの3点目が痛かった。2点目以降、ポストとGKに嫌われたあわやのシーンもあり、よいかたちを多数つくっていた。その矢先の失点であった。モウリーニョの策もこれで尽きる。

4月30日(水)
081 4月29日 CL準決勝 バイエルン×レアル・マドリード 
0-4でマドリーの勝利。誰が見ても前半のバイエルンは攻め急ぎすぎた。中央から縦縦と中央にボールを入れては失敗をする。本来ならば、一度ライン深くまでボールを落ち着かせてから、じわじわと陣形を縮めていくのがバイエルンである。マドリーのクリロナ、ベンゼマ、ベイル3人の攻撃は速く、スピードに難があるといわれていたバイエルンDFにとって、後方を気にしなければならないかなりのプレッシャーがあったろう。それによって、攻撃も中途半端で、最終のライン上げを徹底できなかった理由と考える。崩されたのは、彼らの速攻に加え中盤が上がったときのものであった。今季多くのバイエルン戦を見てきたが、こうした速攻が成功したのは、先日のドルトムントとこのマドリーくらいであった。マンUすらできていなかった。

4月29日(火)
EDLゼミ。「デザインの鍵」池辺陽著の読書会。デザインにおける経験というものが役立つかどうかの議論をする。デザインには「気づき」が大切である。それが根本的であるほどデザインのクオリティーが上がるのだが、普段のデザインでも、小さな気づきは必要とされる。その気づきは、経験=知識から得られるものかという議論になった。大方は、経験よりも感性あるいは運命に左右されるという意見であった。はたしてそうか?もうすこし積極的方法で、気づきを促すような方法はないのだろうかという議論である。そうでなければ、ぼくらの将来は明るくないからだ。AI領域ではこれを「フレーム問題」という。ロボットが副次的な結果を認識できるようにするための方法である。ロボットはチェスのようなルール化された前提のある場面では力を発揮できるが、例えば自ら立ち上がる行為のような、前提そのものが変化していくような場合のプログラム化が思いの他難しい。AIはこの「フレーム問題」をどう説くかで進歩してきた話をする。最近読んでいるデザインスゴロクやアジャイルにも、その応えの可能性がある。AI領域では既に、次々に連続する「環境」を、完全に表現しつくす知識表象をつくりあげることなど不可能と結論づけた。一方で、気づきというような偶然も期待できないので、「環境」の変化が及ぼす影響に限定してそれに注目するようになった。その影響をコントロールすることで環境を一定に保つことを行っている。それは網膜に写る像をどのように認識するかという視角構造と同様であるという話である。

4月28日(月)
「システムの科学」を読む。本書では、これまでに複雑系に関して3つの大きな高まりがあったことを示し、経済がそれとは不断の関係であることを言う。ひとつめは、第一次世界大戦後のゲシュタルトと創発論(ポパー、ハイエク、ウェ ーバー)、ふたつ目は第2次大戦後のサバネティックス(ウイーナー)、カタストロフ。アフォーダンス(Jギブソン)もここに入る、3つめは少し前のエントロピー(プリコジン)、カオス(ローレンツ、マンデルブロ)、アルゴリズムである。そしてあえて付け加えるなら現在のネットワーク科学である。反還元論や創発という考えからはじまって、フィードバックとホメオステイス(恒常性)、そしてそのシミユレーションという変化を追っている。その上で本書の主眼は、全体を「準分解し」、階層化によって複雑性を理解しようとするところにある。時間軸を考慮に入れ、短期的には差異がある下位システムも長期的には上位システムに影響を与えない範囲に区切って観察する方法の提案である。付章では、組織における合理的意思決定論を展開する。著書サイモンはノーベル経済学賞受賞者である。最近読む「アジャイル」本、アレグサンダーのその後、に影響を与えているに違いない。
081 4月27日 プレミア リヴァプール×チェルシー 
キャプテンジェラードの信じられないトラップミスが引き金になり0-1のチェルシーの勝利。今週のCLを睨み、先発となったバがゴールを決める。いつものようにCBサコからのジェラードへのパスで、分厚いリヴァプールの攻撃がはじまるはずであった。その何でもないトラップを失敗した。24年ぶりの優勝のプレッシャーとはこういうものなのだろう。その後リヴァプールは、キャプテンの失敗を取り戻すべく一丸となって攻めるも、チェルシーの厚い壁に阻まれた。やはり守ると強いチェルシーである。ロスタイムにはさらに1点を決める。これでリヴァプールは1試合少ないマンCに実質並ばれてしまった。それにしても、優勝を諦めこのゲームを捨てたという今日のモウリーニョの采配は見事であった。同様のプレッシャーで前回サンダーランド戦を落としてしまった反省が生かされる。スピードのあるバを引いて守るワントップFWに使い、一方で若い21歳のチェコ人DFも使う。等しく選手を使うことで全選手からも信頼され、将来へ向かって勝利と経験、勢いをこの試合で手にしている。

4月27日(日) 
080 4月26日 プレミア マンU×ノーウィッチ 
先発は、ルーニー、ウェルベック、バレンシア、そしてマタでなく香川であった。暫定新監督ギグスは前日、選手もプレーを楽しむべきだとコメントする。この前線4人をベースに、今までよりショートパスを多く、大きなサイドチェンジを織り交ぜた流動的な攻撃を見せてくれた。中盤底にキャリックとクレバリー。キャリックのポジションもいつもより高めであった。ゲーム序盤はちぐはぐさが多かったものの、ルーニーのPKでゲームが落ち着く。ただし、これも完全に崩してのPKであった。2点目は、香川がDFを引き連れ、空いたスペースでルーニーがフリーでロングシュートを放ったもの。後半は、前半自嘲気味の香川もいつものように広くピッチを使う。香川にとって、さあこれからというときの交代であった。90分のフル出場は、前線ではルーニーとバレンシア。ギグスが寄せる信頼度が判る。最初にピッチに送り込まれたマタが効果的に攻撃参加し、2点をあげる。マンUはこれで一応ファンを納得させることができた。多くのメディアから、ファン・ハールでほぼ決定という情報が流れる。

4月26日(土)
モイーズ解任の様々な情報が拡がる。組織論と結びつけて興味深いのは、ミューレンスティーン氏のコメント。彼はファーガソンのもとで5年間コーチを務めた。ユナイテッドのような大クラブで必要とされるのは、ゲーム監督業だけではないことを指摘し、エバートンとの違いは、ヨットと客船くらい差がある。重要なのはゲーム以外のところにあるという。ゲームコントロールはむしろコーチ陣やベテラン選手でも指揮することができ、その前提つくりが老体ファーガソンにしかできなかったものであるという訳である。成功をおさめるには、実力に加えて運命をたぐり寄せるような創発をゲットすることが必要不可欠であり、それが起きるような前提つくりが監督業として最も重要視されるべきものであるといっている。年間60ゲームをこなすためのスターティングメンバーを選手各人へ納得させ、マスコミを含めた勝利への雰囲気つくり、ライバルチームへのプレッシャー、そして経営陣からのある程度の自律とかつ金銭面の援助などである。そこには人事も絡んでくる。ヨット出身のモイーズにはそこが理解できなかったと言わんばかりの発言であり、近頃読む本との関連できて面白かった。
079 4月26日 ブンデス マインツ×ニュールンベルグ 
岡崎と清武がともに先発。岡崎がセットプレーからヘディングを決める。マインツは好調を維持。ニュールベルグは攻撃の型がなく、降格圏からの脱出が難しい状況にある。前線とDFの距離がありすぎ、速攻撃に移れない。ニュールンベルグもユース監督に変更し、スクランブル状況にあるなか、長谷部が東京から呼び戻されたという。彼のキャプテンシィがここでも必要とされる訳である。今後2人の日本人の力がみものである。

4月25日(金) 
「システムの科学」ハーバート・A・サイモン著を読みはじめる。経済学者が科学に注目していること、デザインと科学の結びつきを説いた初期の人であることを聞き、本書を手にする。1章を通して、「サスティナブル」が、この本の延長上にあることがよくわかる。当時はサスティナブルという言葉なかった。が、この本で説いているのは、内部環境から、あるいは人工物をつくる側の視点から、外部環境との接点を探ることである。複雑な実体から抽出された少数の特性を、より現実的に経験的にみるための試みが紹介されている。

4月24日(木) 
078 4月23日 CL準決勝 レアルマドリード×バイエルン 
序盤はバイエルンペースで得点も時間の問題かと思われた20分に、レアルが速攻で得点する。ゴール前のクリアボールをセンター付近でクリロナがキープし、そこからなぜかしら相手陣地まで攻め挙がっていた5番左サイドバック、コエントランの折り返しをベンゼマが確実に決めた。その後もレアルは、シュートを数回外すも1-0でレアルの先勝。ボールポゼッションは前半25%くらいであったと思われるが、バイエルンはもたされていたともとれ、攻めあぐねていた。反対にクリロナ、ベンゼマ、ディマリアの攻撃の圧力は鋭くバイエルンDFを圧倒していた。DFをかわす日本のFWにこうした強さがほしい。

4月23日(水) 
EDLでのゼミ。話ながら、池辺さんのデザインが他の人が言う統合的デザインと、どこが異なるかに気付いた。それはデザインの鍵79「仮説を立てること」にある。そこでは、仮説の上に設計を展開させることが求められている。それを「トータリティ−」といっている。一般には仮説の強さが重要視されるが、85「デザインスゴロク」と合わせると、むしろ情報量の多さと個々の情報結びつきの強度が重要とされているのが判った。それを強度ある「トータリティ−」という。それはアレグサンダーのいうようにツリーシステム思考では履行不可能であり、現存する複雑なシステムを上手に仮説に引き寄せる技術、せめてセミラチス程度に整理する技術が必要とされる。
078 4月22日 CL準決勝 アトレチコ×チェルシー 
モウリーニョの思惑通りにアウェーで0-0のドロー。しかしチェルシーにとって、GKシェフとキャプテンDFテリーの負傷は予想外であったに違いない。お互いが探り合い、退屈なゲームとなるのはチェルシーの場合いつもである。そうした守りを固めるチェルシーに対してアトレチコは、中央からのミドル、あるいはサイドからファーサイドに放り込みで対抗していた。あと少しのところで得点に結びつかなかった。アトレチコもカウンターによるホームでの失点を恐れていたためだろう。強引に中央を割って入ることをしなかった。次戦のアウェーで1点獲ればよしという作戦であった。メディアのいうようにチェルシー有利とはいえない。

4月22日(火)
「偶然の問題」解説を読む。九鬼周造の生い立ちと絡めて偶然の説明をする。彼の生い立ちとは、彼の母親が彼を産むために余儀なくされたアメリカからの帰国途中に、サポート役であったはずの岡倉天心とスキャンダルを犯してしまったことをいう。そのため母は精神的におかしくなり亡くなった。そうした後追いによって、九鬼周造の生涯のテーマが偶然と必然の表裏一体性にあったというものである。九鬼は時として神を持ち出し、至上から説明を行ったが、後追いの正当性はそうした視点によってはじめて可能なる。それに対しぼくらは目先のことしか見えない。現実にたって結論を出しているワッツに好感をもつ。
プレミア番外 
モイーズの解任が発表になる。日曜日の試合におけるエバートンマルティネスの躍進が、モイーズを逆境に追い込んだ。CL消滅によるものではない。ではなぜモイーズを選んだとされるファーガソンは、モイーズの能力を把握しきれていなかったのだろうか?という疑問が挙がる。ファーガソンは退任時、 73歳であった。彼はチームの最終決定者として強く存在していたが、おそらくマンUを実際に支えていたのはベテラン選手やコーチ陣であったのだろう。モイーズは彼らを首にしてしまっていた。チームが機能していなかった理由である。OBロイ・キーンから、選手もこの事態を恥じるべきであるというコメントが流れる。キーンは、ファーガソンをサポートしていた自負があるのだろう。現在チームのベテラン達はその気概がなかったことを指摘するものである。ファーガソンが選んだとされる香川はその実力を証明しなければならない。偉大なるOBギグスが残り4試合の監督を務めるという。

4月21日(月) 
「偶然の問題」九鬼周造著を読みはじめる。1935年の著書である。偶然を様々な角度から分析する。しかしその中に、ローティのみる自然科学における偶然というものはない。決定な違いは偶然を、可能性が拡大するポジティブなものとして捉えるか、必然のうちのひとつとして捉えるかの違いがある。世界を動的でクリエィションの集まりと見なすか、静的なものと見なすかの違いがある。「腑に落ちる」という表現がピッタリいく偶然性をいっている。

4月20日(日)
077 4月20日 プレミア エバートン×マンU 
モイーズが古巣とクディソンパークでの対戦。下馬評通りにマンUの0-2の完敗。ルーニーの体調がいまいちであったのが最大の敗戦要因とも思えるが、攻撃陣の不甲斐なさはどこから来るのだろうと考える。前線の攻撃にイマジナリーが全くなかった。マルティネスとの監督の差とも考えられるが、そう簡単でもない。エバートンは、高さと体力のあるルカクを押し込みこぼれ球をMFがシュートするパタン、それに加えて、サイドが強引に攻め上がるパタン、このふたつを織り交ぜて闘う方針である。それに比べてモイーズマンUは中央突破のショットパス連携で打開を狙う。モイーズはサイド中心の押し込みを得意としていたのであるが、それでは上位を狙えないことを実感しここ数試合で、香川、マタ、ルーニーのパス攻撃に切り替えた。この成熟度の差が出た。最近このパタンで成功しているのは実は、マンUがコーナーからのセットプレーによって得点を重ね、自分たちのペースをつくり出していたことが実は大きい。このゲームではそれができなかった。前半2本の香川からのルーニーへの長い裏を狙ったパスが決まっていたら、展開は違っていただろう。先に書いたようにルーニーの体調がいまいちでこれを決めきれなかった。失点は、いずれもマンUの左サイドを崩されたことから始まっている。特に前半終了間際の2失点目は、左サイドのビュッイトナーがラインコントロールを見過ごすという基本を失ったもの。体の向きが全く反対であった。モイーズの育てた両サイドバック、ベインズとコールマンにやられたかたちである。守備では彼らにナニと香川の攻撃が封じこめられたのも大きかった。それを嫌い香川もナニも中央の前線に入りすぎ、ゴール前にスペースをなくしてしまっていた。これでは攻撃が行き詰まってしまう。こうした劣勢を跳ね返す強さとイマジネーション、あるいは経験が今季のマンUになかったということである。

4月19日(土) 
「偶然性・アイロニー・連帯」を読み終わる。「偶然性・アイロニー・連帯」は、「哲学と自然の鏡」1979年の10年後の著作である。「哲学と自然の鏡」において中心においていた「対話」はどこにいったのだろうと思う。「偶然性・アイロニー・連帯」では、革命を実行するのはアイロニストのみである。アイロニストとそれを受け入れる大衆とを区別するものだ。彼が左派から受け入れられない大きな理由がそこにある。彼のいう偶然が、アクシデントでない理由も理解できる。とはいえ、主体性を出さないアイロニーな方法を勧め、偶然を起こす前提つくりをはっきりと意識化している両立点をもっているのがローティのいわんとするところであり、不思議なところである。
075 4月19日 ブンデス ドルトムント×マインツ
岡崎2度の同点弾放つも、2-4でマインツ負ける。実力の差が明らかであった。いずれもラッキーなゴールであったが、前線からのプレッシャーとシュートへのこだわりがなせる業であろう。一方ドルトムントの起点はもはやロイスからである。彼からはじまり、レバントスキーとムヒタリアン3人でゴールまで結びつける。シーズン終盤になり連携が馴染んでくる。来季はこのメンバーで戦えないのが残念である。

4月18日(金) 
昨日引用した5章前に「私は第8章で主張する。」とある。そこで早速8章に飛ぶ。文芸評論のようでさっぱりであった。「1984」を書いたオーウェルを批評する。1950年に書かれた未来小説である。「1984」は、85年公開の「未来世紀ブラジル」の原作とされている。この本が書かれたのは1989年。この本の時代背景も判ってくる。

4月17日(木) 
「偶然性・アイロニー・連帯」第Ⅱ部5章「自己創造と自己を越えたものへのつながり」を読む。カントをはじめ崇高論が扱われる。カントが崇高の現象を唯々記述しているのに対し、本書ではそれと創造との関係にまで踏み込もうとしている。そうした人がいることが判っただけでも収穫であった。しかし崇高なるものを仕込むために偶然性を期待することに否定的であった。あくまでもアイノロニーという立場を貫き通す訳である。5章最後に「自己創造の言説がどれほど洗練されようとも、リベラルの政治言説はそのままアンセオリティカルを保ちつづけた方がうまくゆく」とある。引き裂かれる思いである。

4月16日(水) 
大学院の授業。池辺氏の「デザインスゴロク」をもとにしながら、デザイン時にまず仮説をたてること、そしてそれにトータルティーをもたせることの大切さを話す。香取線香の商品開発・デザインを行う場合を想定し、具体的にグループディスカッションを行った。デザインスゴロクに従うことによって、どんな発想からはじめてもトータリティーを帯びるようになること、反対に、デザインスゴロクを参照して、様々な発想を得ることも可能であることを示したかった。イームズの椅子やガウディの建築が異質に見えるのは、むしろデザインスゴロクにおける一般に扱わない問題をデザインしていることによる。

4月15日(火)
「偶然性・アイロニー・連帯」第Ⅱ部、アイロニーに入る。アイロニストとなることをすすめる。アイロニストとは、常識とされる前提を拒み、世間から一定の距離を保つ人のことをいう。自分の主義主張に固辞するのは、自分より強大な世間から身を守るためである。そこから距離を置くことで、むしろ自由な存在でいることができる。またその余裕から相手に関心を抱くこともよりできるようになる。contingencyを起こす前提条件がアイロニーという訳だ。

4月14日(月) 
「偶然性・アイロニー・連帯」リチャード・ローティ著を読み始める。「哲学と自然の鏡」においてローティは、主体性に対して否定的であったこと、それと「偶然」がどう絡むかを知りたいと思い本書を手にする。 本題はcontingency. 偶発という意味である。 アクシデントと異なり、前向きでポジティヴなイメージをこの語から持つ。第Ⅰ部は偶発性を、言語、自己、共同体から説明する。難解である。ただ、真理は発見されるというよりつくるのだ、というメッセージを強く感じる。世界を説明するための合理的で科学的思考=啓蒙を否定している。フランス革命は、これまでの宗教、哲学、科学が与えてきた世界観をロマン主義者が中心になって変革したものだという。ロマン主義者達は啓蒙の行き詰まりを新しい言葉によって切り開こうとしていた。そうした言葉の存在が革命の原動力になったという。そういえば、フランス革命を目の当たりにしたバーグの「崇高と美の観念の起原」も、カントの「判断力批判」も最終章は言葉についてであった。その最終章で、詩を推奨していた。3章では、語彙=コンセプトとして表現することの重要性を述べる。それが可能になることで反対に、運動が明快になり、運動が活性化され進歩させることができるといっている。後解釈というものをポジティヴに解釈するとこのようになる。ぼくたちに必要とされるのは、皆が自由に発言できるようなリベラルな前提つくりである。

4月13日(日) 
「偶然の科学」を読み続ける。ハイエク理論にもとづく「キャップ・アンド・トレード」政策、「スモールワールド」でも挙げていたトヨタの「ブートストラップ」方式を勧める。「キャップ・アンド・トレード」政策とは、例えばCO2削減に対し、政府が法律のようなかたちで全体規制を設けるのではなく、一端目標値という「キャップ」を全体にかけて、後の実行方法を個々の企業に任せるというものである。技術力のある企業は、生産においてCO2削減に対処し、そうでない企業は排出権を買い取るなど、企業にあった選択を行う。こうした考えの前提には、大きな問題を統一解決できるベストな答えなどはなく、個々の試みの淘汰を通して社会が公正に導くという信念の上にある。先のハイエクに対するケインズへの批判でもある。スモールワールドがひしめき合い世界全体が動いていくイメージである。といっても、ぼくらは未来に対して明快な方針を示すことが無力といっている訳ではなく、インターネットなどの新しいテクノロジーによる統計を駆使して、予測可能性と予測不能性のバランスを知ることからはじめるべきであるというのが本書の結論である。

4月13日(日)
「偶然の科学」2部に入る。計画が意味のないことを、様々な例を挙げて指摘する。未来を見通すことは全くできないという。面白かったのは、ソニーのベータ戦争でVHSに負けた失敗について。よく聞かされていたのは、ソニーが画質の優位性にあぐらをかきユーザ本位でなかったということだ。それでレンタルビデオ市場でのVHSシェアを許してしまったというものである。それは事実であるのだが、ソニーがユーザをなおざりにしていた訳ではないというのが本書の指摘である。ソニーはビデオデッキをテレビ番組の録画に使うものと予想していた。レンタル中心とは予想できなかったという。現在のデジタル録画機の主目的がむしろ録画にあることを考えると、あながちソニーのユーザ像が外れていたわけではない。たまたま時代に合わなかったのだ。一般に知らされているソニー敗北の理由が、後解釈の好例であった訳である。常識というものは存在しないという本書の根拠をここに置いている。そこで本書では、計画者の役割として、未来に何が役立つかを正しく予想するのでなく、現在役だっているものについて知る能力を向上させることを説く。20世紀初頭の建築家、科学者、政治家、哲学者の計画立案によって社会の諸問題を解決しようとする態度を、楽観主義すぎるとして断罪している。

4月12日(土)
「偶然の科学」ダンカン・ワッツ著を読み始める。「スモールワールド・ネットワーク」の続編である。原題は、Everything is obvious. Once you know the answer. 人間は後知恵でいかようにも解釈する。と訳すべきか。世界は偶然の連続で成立していることを様々な実例で説明する。
074 4月12日 ブンデス バイエルン×ドルトムント 
バイエルンにとっては優勝とCL4強を決め、ドルトムントにとってはCLの敗退が決まってしまい、このリーグ戦に対するモチベーションが両者にとって難しい試合に思えた。しかしドルトムントは違っていた。ドルトムント選手の球際は強く、ことごとくバイエルンのパスを突き返していた。バイエルンのボール支配率が70%以上であっても、それはバイエルン自陣でのものであり、いつものボール回しからの相手を徐々に絞っていくような攻撃はほとんどなかった。それに対しドルトムントは、FWにレバントスキーでなくオバメヤンを使い、激しいプレッシングから彼への速攻を幾度も試みた。バイエルンDF陣は、そのオバメヤンの速さに翻弄され、攻撃に参加できなかったことになる。いつもの攻撃とならなかったふたつ目の原因である。前半の得点は、スローイングからのリスタートをムヒタリアンが落ち着いて決めたもの。CL後半の好機を逃した2回を挽回するものであった。後半は、DFラフィーニャを退場させるなどドルトムントの圧勝である。両者は、おそらく再びドイツカップ決勝で顔を合わすことになる。今日の試合で、ここまでバイエルンが機能しなかったのは驚きである。

4月11日(金)
「スモールワールド・ネットワーク」を読む。3章以降、コンピュータウィルスやエボラ出血熱、あるいはトヨタアイシンの復活劇などの実例を紹介するにとどまる。ワッツとしても、社会ネットワークが閾値(臨界点)を超えてカスケード状況に向かう状況を正面から掘り下げたいのであるが、どうやら答えはそう簡単でないようだ。分析・仮説の検証という悶々とした状況を超えて、かたちにまで昇華させるのは難しいことが判る。ところで本書の中で面白い事実を発見した。エボラ出血熱が(幸いなことに)未だ爆発的流行していないことに対しHIVがもはや閾値を超えている理由である。エボラのウィルスは、あまりにも強いキャラクターをもっている。つまり感染直後に症状がでる。そのためネットワーク切断、つまり村を隔離することが容易で、感染拡大を防ぐことが可能であった。それに対しHIVは潜伏期間が長く、逆にその存在が発見されないため拡大を招いたという。ウィルスの弱さと既存社会との親和性が重要な条件となっているわけだ。それは統計学の扱う数字と別の次元の問題である。情報のアジャイル性ばかりでなく、その質も問題にされていることになる。
073 4月7日 CL チェルシー×パリSG
チェルシーが終了間際に1点をとり2-0、トータル3-3としアウェーゴールの差で4強進出を決める。モウリーニョの喜びは凄かった。点を決めたバを中心としたフィールド内の選手の輪に加わる程である。チームの一体感が感じられた。前半に1点を取り、決してアウェーゴールを許すことなく最後の最後で点をとるのはモウリーニョらしい。早めの2点目は、むしろ反撃の余裕を与えることになり、ゲームがどのように展開していったか、は判らない。この辺りに采配の妙があることを、「スモールワールド・ネットワーク」を読んで感じる。

4月10日(木) 
「スモールワールド・ネットワーク 世界を知るための新科学的思考法」ダンカン・ワッツ著を読み始める。スモールワールドとは、いわゆる「世間は広いようで狭い」現象のことをいう。表紙も「6」。6人いれば世界につながるのである。一見大きなネットワークも小さなネットワークの積み重ねから成る。この現象を、実例とともに科学的に説明した書である。こうした科学は、ネットワーク科学と呼ばれ、ワッツによってはじめられた。ぼくとしては、小さな学習の積み重ねが突如不連続に大きく発展し、革新的アイデアにまで至る現象がいかなるものかを知りたいと思いこの本を手にした。第2章にワッツの理論的背景が概観されている。伝染病の拡散、流行の伝達も、ある規模を越えると臨界点に達し爆発的に拡がる。この現象は数学的に証明可能であり、それを表したグラフをランダムグラフという。3章以降に実例が紹介される。
072 4月8日 CL バイエルン×マンU
香川右で先発。1stレグ程ではないが、マンUはカウンター狙いのゲーム運びに終始する。カウンター時にボールをキープできていたことが、マンUが他のチームと異なっていた。必ず右のバレンシアに預け、彼が他の選手が攻撃に上がる時間を稼ぐことができた。それにルーニー、香川が呼応する。それが徹底されていた。先制点はそうしたバレンシアサイドからボールを受けた左のエブラの強烈なミドルシュートであった。この時4人の選手がゴール前に詰めていたのは流石である。この時点でアウェーのマンUが圧倒的優位となり、逆転勝利への希望をもたせてくれた。2点奪われなければ大丈夫だからだ。しかし直後のプレーで同点弾を浴び、チームに動揺が拡がる。完全に守備が崩壊した。モイーズは試合後に、この時間帯の失点を経験のなさからくるものだといっていた。これはモイーズ自身のことをいっているのだろうか?それ程マンUは若いとも言えない。それに対しグアディオラのゲームプランは明快であった。ゲッチェに変え、右にラフィーニャを投入する。ゲッチェのいた両サイド奥にスペースをつくり、右から移動してきたラームが、そこへパスを出す攻撃変更である。香川が中央寄りになったのはこのためか、あるいは香川自身が攻撃を重視したためかは不明であるが、2点目失点時に、折り返しを入れるロッペンに対し、エブラと香川が左サイドで不在という状況であった。そのクロスに対する1対1にビビッチが負けたことが最大の問題であるが、マンUに前半にはない混乱がおきていたのは明らかであった。グアディオラの指示通りに空いたサイド奥をミューラーとリベリーが突いていた。その後、点を獲るために香川は中央に位置し、流動的に攻撃参加をする。ルーニーの体調がいまいちであったようだ。ルーニーから引き継いだかたちで、シュートをはじめいくつかの決定機を香川が演出した。TVカメラも香川を多くクローズアップするようになる。相手のプレッシングがキツい中、体の小さな香川が生き生きできたのは皮肉でもある。縦々一辺倒のモイーズも連動の必要性を実感できたと思う。香川をフル出場させるも、マンUの来季CL出場が絶たれる。

4月9日(水) 
ゼミでクセナキスの作曲した1954年のメタスタシスを聞く。HP幾何学で生み出されるグラフ図形を元に、縦軸を音高、横軸を時間と見做し音響の変化を綴る形で作曲したものである。http://www.youtube.com/watch?v=SZazYFchLRI に楽譜と曲がアップされている。フィリップ館も同様な構成であることを知る。HP幾何学の端部直線を50センチで等分し、それを結ぶ直線の角度を数学的に連続させたものである。はじめから空間イメージがあった訳でない。数学を先行させた、いわゆる、「できちゃった」空間である。曲も同様であった。もちろん、適所での建築家の意思が方向性を決めているのはいうまでもない。それによって当初あった4本の柱をなくすことに成功した。室内には400個のスピーカーが設置され、それと「2001年宇宙の旅」を彷彿させる映像によって、不思議な囲まれた空間をつくり出した。建設は50センチ幅のPCを並べ、その上にアルミの防水を施したという。音楽によるひとつの次元を加えた空間とクセナキスはいっている。研究室では、1/100模型からスケールアップさせた模型に取りかかる。
071 4月8日 CL ドルトムント×レアル マドリード 
1stレグと異なりドルトムントは、開始直後のレアルの攻撃を凌ぎきることができた。これによってホームドルトムントは自らのペースに持ち込むことができる。バイエンフェラーがPKを止めてからはさらにそれが加速する。プレッシングが効果的に効き、相手のミスを誘い、早々に2点を奪う。あわや逆転を思わせるゲーム運びであった。 しかし後半は点を取れずにトータル2-3で敗退。後半にレアルが持ち直した訳ではない。あるいはドルトムントが攻め疲れた訳ではない。ムヒタリアンの2発、グロスクロイスの1発は決まってもおかしくないものであった。ゴール前のワンツーによって完全にレアル守備を崩すものであった。ムヒタリアンの1発目は2人の縦の攻撃で3人のDFを崩す見事な攻撃であったが、ポストに嫌われた。ドルトムントにとっては、1stレグのレバントスキーとルイスの欠場が痛かった。この試合有効であった前線からの守備は彼らから始まっていたのである。

4月8日(火)
NHK特集「34年前のバス放火事件」を見る。ぼくが新宿から帰宅するバスで34年前に起きた事件である。確か高校2年生であった。全身にやけどを負い、そのための輸血で肝炎にもなってしまったひとりの被害者の終生を追うドキュメンタリーである。被害者の心の深い傷を追う。人を慰める言葉が、さらに人を傷つけてしまい、肉親であってもそれをカバーできないという難しい人間関係を追っていた。
070 4月7日 セリエA ジェノア×ミラン 
本田の初ゴール。DFとキーパーを上手く交わしての速攻であった。ゴール後のチームメートの彼への祝福も尋常でなかった。本田の貢献度が理解できた。このゲームにおけるジェノアのプレッシングがプレミア並であり、本田も守備に追われる。ミランは何もすることができなかったが、勝利を手にする。 

4月7日(月)
今年2回目のゼミ。アレグサンダーンのパタンランゲージを起点にして、他分野関連本の読書会を行う。「パターンWiki」というコンピュータプログラミングの本、「知識創造の方法論」というビジネス書、「デザイン思考が世界を変える」というデザイン(ビジネス)書、「弓と禅」という東洋哲学導入本である。いくつかの候補の中からこれらを学生が選択した。本の底辺に流れているのは現代の行き詰まりからの脱却方法である。いずれも、明確なゴールを目指しステップアップする分析型学習を否定している。優れたコンセプトの探求よりも、発見されたコンセプトをいかに実行するかの大切を説いたものである。あるいは、情報をキーワードに、それをつなぎ合わせることの重要性を述べている。それは、アレグサンダーのいう思考形態をツリーからセミラチスへ移行させることを意味し、ぼくらの考える空間つくりも同様であることを話した。学生から「偶然を起こすように日々仕込むことですね。」という的得た感想を得る。今回のゼミの意図が伝わったようだ。これに関連させた次回のテーマを決める。
069 4月5日 セリエA インテル×ボローニャ 
長友が前半は左、後半途中から右のウイングとしてフル出場。1点目をアシストするなど、プレーに貫禄を感じさせてくれた。左を起点にサイド奥や中央にドリブルで切れ込む、あるいはDFの裏に回り込むなど縦横無尽な動きをする。チームメートがその動きを把握しているようにも思え、無駄な動きには見えなかった。結果は2-2のドロー。3バックディフェンスの脆さが出た試合であった。4試合勝ちがない。

4月6日(日)
俵屋宗達の「風神雷神図」を見る。迫力のある絵と想像していたのだが、むしろ風神の軽さが特徴的な絵であった。現代的な絵としても素直に受け入れられるものである。風を受ける頭上の白袋が効いているのだ。眼を見開いた顔の表情もどことなく滑稽である。神が人格化されるようになったのはこの頃からだろう。雷神と風神を対極に置く構図も現代的で、両風の間に「間」がある。先週見た長谷川等伯が画面いっぱいに描き尽くしていたのとは対照的である。実物を間近に見て気づいたのは、タッチのラフさにあった。色の塗り重ね方にそれがよく現れている。特に神が乗る雲には驚いた。雲の軽さはそこから来ている。尾形光琳はこれに感動し模写したというが、タッチはだいぶ異なっている?と記憶している。筆のタッチだけで描く水墨画が由来だろうか? この絵は「栄西と建仁寺」展で見ることができる。栄西は風神雷神を所有する建仁寺を建立した。栄西を、最近は「ようさい」と呼ぶらしい。ぼくにとって、栄西は禅宗や茶を広めた人物というより、東大寺大勧進重源の後を引き継いだ人物である。彼により大仏様が途絶え、いわゆる和洋化というものが始まった。現代まで続く日本文化はこれを源とするものが多い。茶、花、書、禅全てそうだ。禅宗の伝播とともに、こうした文化も伝播していく。建仁寺はその起点として働いた。毎年3月1日の栄西の生誕日に、伝統式的な四頭(よつがしら)式茶会が建仁寺で開かれるという。

4月5日(土) 
北澤豪の講演会。選手選考基準について面白い発言をする。才能がある若手と、才能が飛び抜けていないが自分の立ち位置が見えている若手とでは、選考に際して、後者を選択するという。サッカーでは、年間を通じたゲームプランを考える。絶えずマイナス部分を付いてくる対戦相手に対して、自己修復能力が、ちょっとした才能より大切とされるのだそうだ。それはメンタルコントロールによってなせる業であり、ポジティヴな思考によって育てられるという。それも天性のものであり、ひとつの能力なのである。北澤はヴェルディに所属し、どちらかというと創造性重視の選手と考えていたので意外に思えた。それだけサッカーはチームスポーツであり、選手に要求されるタスクが多いのである。
068 4月5日 プレミア マンU×ニューカッスル 
ルーニーが怪我で欠場。エルナンデスの1トップにマタ、香川、ヤングという前線をとる。そのヤングが負傷し10分にヤヌザイが入る。ニューカッスルのディフェンスは当たりが弱く、マンUもCLの間ということもあり、主力が温存された。したがって集中力がいまいちのゲームで、どちらかというと退屈な試合であった。しかし時間が経つにつれて、エルナンデスと香川の近い距離の連携でゴールにせまるようになる。点にはならなかったが、キーパーからの蹴り出しをエルナンデスが落とし、それを受けた香川がDFをドリブルで引きつけ、再びエルナンデスへのパス。それをエルナンデスがシュートに結びつけた攻撃がその典型であった。3点目は、ヤヌザイのサイドに香川が切れ込み、それに連動してエルナンデスも切り込むものであった。マンUもこうした攻撃ができるようになる。ファンベルシー1トップに、ルーニートップ下の時にはない攻撃である。その下に位置するマタと香川は連動できがなかった。ファンベルシーは、DFライン上に位置とりをし、自らスペースを空け、そこを使うタイプである。その場合、どうしてもサイドのマタと香川は攻撃の萱の外になってしまうのだろう。ルーニーやエルナンデスは比較的自由なポジショニングをするので、マタと香川も連携できるのだ。4-0で数字上は圧勝。しかしCLのバイエルンとの戦いには、このモチベーションと負傷者の問題があり、疑問を残す試合となった。

4月4日(金) 
「経験経済」を読む。これまでの品質価格競争経済に対して経験経済を提案する。この「経験経済」とは、建築の場合でいえば「場」を提供することにあたる。しかしこうした利用者の経験を促す場の建築に名作があったかどうかを考える。「場」とは利用者が自らの要求を実現するためにあり、その容易さが大切にされる。一方で、不自由なものを使いこなしたときに感じる達成感もある。エドマンドバーグとカントの「崇高」理論から、そうした達成感がはるかに大きな感動や快適性を与えることを学んだ。名作とはそれを前提にしたものであり、ぼくら建築家はそれを追い求め続けている。したがって、建築をつくることと経験建築=場をつくることとは相容れない。もしそうでない場合があるとしたらそれは住宅においてである。住宅は特定個人を前提にし、むしろこうした予期しない快適性が大切にされる。利用者を絞りきることが不可能な公共の建物にかんしては、場であることを徹底しなければならない。

4月3日(木) 
「経験経済」パイン+ギルモア著を読み始める。価格競争によって縮小していくマーケティングをコモディティ化という。そこから抜け出すための方法として「経験経済」があげられている。経験経済では、豆腐を使ってどんな経験が提供できるかを問題にする。例えば100円の豆腐の品質競争、あるいは98円にする価格競争に打ち勝つものではない。よい例は、ディズニーランドであり、ベネチアのサンマルコ広場に面するカフェである。最近ではスターバックスがそれに該当する。これらは、「従来重視されてきた技術・機能あるいは効率化の知識ではなく、より深いレベルで消費者の感性や情緒を組み込んだモノづくりの知恵」によって成立している。出版は1999年。経済価値が見なおされた時期である。今までは価値は与えるもので、すべて買い手の外部に存在しているが、本質的に個人に属する経験に委ねられることとなった。
067 4月2日 CL レアルマドリード×ドルトムント 
アウェーでドルトムントの0-3の完敗。開始3分の失点が痛かった。右イスコから左奥へのロングパスの折り返しを、グロスクロイスが付ききれなかった。ベイルに先制を許す。前半の20分過ぎからようやくドルトムントのプレッシングが効くようになるが、これからというときの2点目であった。レアルはドルトムントビルトアップ時をカットすることを狙っていた。見事にその罠にはまってしまい、ボランチ・シャビアロンソにパスカットされ、ボランチ・イスコに決められる。後半も同様な失点。ドルトムントは苦しい状況に追い込まれる。

4月2日(水)
066 4月1日 CL マンU×バイエルン 
マンUは守備的なフォーメーションでこのゲームに臨む。ゲーム開始時には2列目を3人にして4-3-3、途中からウェルベックを前線に残し4-4-1-1にする。ルーニーをトップ下に配置し、長いダイレクトパスを使って、ウェルベックの個人技に勝機を賭ける戦術変更である。こうした変更をゲーム中に行えるのは、歴史あるチームの証である。これに対しバイエルンはいつものように大きな円を描くようなボール回しをし、ボールが奪われてもユナイテッドにカウンターを許さないかたちをとる。バイエルンの一方的な攻撃である。ボール保持率は7割を超えていただろう。マンUのスタメンは、オリンピアコス戦と同様にモイーズの信頼を置くベテランを起用。ファーディナントをCBに、ギグスを左の中盤に使う。しかしオリンピアコス戦のようなギグスからの効果的なパスは1度のみであった。ギリシアチームとの格の違いを世界王者は見せつけたことになる。一方前半をしのいだユナイテッドの守備も特筆すべきものがあった。ギグスが2列目から間を計ったように飛び出すDFのかたちをとる。それがチームとしてのプレッシング始動の号令であった。その度にDFラインを押し返す。前半にマンUが得点を許さなかった最大の理由がそこにあった。しかし30分過ぎからDFラインが疲れ、前線のみのプレッシングで、逆にライン間が間延びしてしまった。バイエルンは最終ライン前に選手が入り込み、そこからボールを出入りさせては、サイド奥にボールを入れるようになる。円陣が狭まり、得点は時間の問題と思われたが、ユナイテッドは前半をしのぎきった。これがユナイテッドにとって大きかった。後半からギグスにかわり香川の登場。ギグスは怪我という。守備的ならフレッチャーという手もあったはずだ。香川投入は、モイーズのここ数試合の香川への評価の変化の現れである。香川はそれに応え、自由に動き、バイエルンの守備を混乱させる。香川が得たコーナーキックをビビッチがヘッドで決めユナイテッドの先制点となる。その後もバイエルンの落ち着かない状況は続く。しかしその10分後にはバイエルンが追いつく。香川とビュイットナーの左サイドを揺さぶり、マンジュキッチュのヘディングの折り返しをシュバインシュタイガーがボレーの同点弾を決めた。たった1度のチャンスでゴールを決めるのは流石である。その後の展開は完全にバイエルンとなる。しかし結局は1-1のドロー。ユナイテッドにとって、4月9日の2ndレグへと望みを繋げるゲームとなった。

4月1日(火)
065 3月29日 セリエA ミラン×キエーボ 
本田フル出場。バロッテリとの連携が向上する。お互いにDFを引きつけ、その空いたスペースを使うようになっていた。そうした中いくつか本田にも決定機が訪れる。特に前半のカカからのパスをフリーで受けたシュートを決めきれなかったのは大きい。大事に行ってしまった。混線の中でのヘディングシュートもいくつかあった。確実に皆が本田を意識しはじめた。起点となるパスあるいは最終パスを本田に預けるようになったのである。本田は守備も献身的で、チーム全体もそれを理解している。後はゴールのみである。

3月31日(月)
会津若松技術支援センター、北会津村役場、県立医科大学を訪れる。技術センターでは、ユニット化が徹底され、それは技術研究所という建物の性格と一致している。その中でも屋上のソーラーパネルを支える格子ユニットは狂気を孕んでいた。小さなスチール部材を溶接によりユニット化したものであるが、水平を出すことにさぞ苦労したことだろう。建築家の力量に脱帽する。右ウイングの屋上は、丹下さんの山梨放送の中間階の外部空間、チャンディガールの事務棟の屋上を思い出させてくれた。これらは屋上とはいえ、建築の迫力さを示す空間である。ホール前のガラス張りのホワイエはぼくも扱える空間でたいへん参考なった。技術センターの木造の柱は200角。コンクリート柱は250厚であったろう。柱は2ペアで柱間が設備ゾーンという徹底ぶりである。一方北会津役場の木造柱は200角の7.2mグリッドの高さも7.2mである。参考になった。議場は3階にある。その理由を特と聞かされる。今後の参考としよう。明るい大らかな空間で他の建物と違った印象をもつ。前日に空間の力強さが大きさに由来することを知ったが、古市氏の建築は柱の建築、垂直方向の建築である。その間を通り抜けるときに感じる空間のダイナミックさが鍵となっていることが改めて判る。県立医科大学の中庭に面するEVは垂直の表現で、圧倒するものであった。2万m2という空間を引き締める役割を持っている。垂直性の重要性を、未来派を引き合いにバンハムが指摘していたのを思い出す。垂直は技術的でもある。それに対して妹島さんは水平性を用いて、技術的アプローチを加味しているのかもしれない。それが新しさの由縁である。

3月30日(日)
古市先生の案内で棚倉の古市邸、棚倉町文化センターを訪れる。小細工のない堂々とした括弧つきの「建築」であった。建築に力強さをもたらすのは、大きさが重要であることを実感する。ただし、それを間延びさせないことが建築家の腕の見せ所である。棚倉町文化センターでは、コンクリートの柱梁が大空間にメリハリを与えていた。もうひとつ、空間が囲まれることの重要さも知る。ホワイエのガラス面の方立ピッチは狭めである。総ガラス張りにもかかわらず閉じられた感じをつくっていることが空間を効果的にしている。夕方に原さんの会津中高を見たが、中央の屋外広場はオープンな空間であった。その違いがわかった。
064 3月29日 プレミア マンU×アストンビラ 
スタメンから香川、マタ、ルーニーが並び、効果的な攻撃がようやくできるようになる。香川はこれまでと異なり相手の最終ラインに吸収されることがなくなった。おそらく、チーム全体が流動的になり、多くのスペースができるようになったからである。そこに香川が有効的に入り込んでいった。そこからマタにも負けないロングパスで香川が起点になることが多かった。ちょっと遅すぎた感もあるが、ミッドウィークのバイエルン戦を楽しみにしたい。前半はじめは比較的左に位置する。自らドリブルでボールを運び左45°からのルーニーへのピンポイントロングパスが1点目である。前半途中からは、フェライニが上がるためか、ルーニー、マタ、香川と縦に並ぶことが多くなり、自由に動くようになる。2点目は、相手自陣中央から長いDF裏へのスルーパスであった。マタが倒され、与えられたPKをルーニーが決める。後半は相手が守勢に立ったためだろうか、ゴール前に位置取ることが多くなる。混線からマタが3点目をきめる。ボールが反対側に転がり込めば香川の得点という可能性もあった。徐々にユナイテッドに明るい材料が増えてきた。ボランチにフェライニが定着してきたのも大きい。彼がことごとく相手ボールを跳ね返し、それをフレッチャー、マタ、香川が起点となるパタンで攻撃のかたちをつくることに成功していた。

3月29日(土)

3月28日(金) 
「学習する組織」を読み終わる。経営書としてベストセラーらしいが、特に得るものがなかった。しかしなぜ今こうした組織論が流行っているかについて考えさせられた。従来の経営あるいは実務においては、アナリシスが強調され、全体へのシンセシスが欠けていたという。現在では相変わらず大学の研究が然りである。科学あるいは生物の分野では同様なことが30年前に起き、近代哲学の歴史は、この思考か実践かの二元論を越えようとするものである。「Nature of Order」を出すまでもなくアレグサンダーは、このアナリシスを徹底的に批判していた。ぼくはそれで若い時を過ごしたが、未だにそれにぴったりくる答えを得たいと考えている。

3月27日(木)
synthesisという言葉を知る。integrationと近い。synthesisが同種の合成綜合を意味するのに対して、integrationは異種との統合、化学的意味合いと生物的意味合いの違いがあることが判る。設計に引き寄せれば、閉じられた系における最適解を求めるための方法か、系の拡大を目指すものかどうかの違いだろうか。
063 3月25日 セリエA フィオレンティーナ×ミラン 
本田は4-2-3-1の右で先発出場。しかし攻撃では自由が保障されていたようだ。ゲームの50%が中央でのプレーというデータが示される。特に自陣でボールをカットしてからの中央攻撃では本田が起点であった。バロッテリの「本田はパスをすべきであり、流れから点を獲りたい」というコメントが気になるが、半分は彼流のジョークだろう。バロテッリは比較的サイドに開いてボールを受けることが多く、本田の前、あるいは併走することで、連動が生まれたと思う。バロッテリはその点を指摘していたのかもしれない。開始当初、左サイドからのセンタリングを空振りしたこと、後半はじめのデヨングからのロングパスに対し転倒してしまったことは本田らしくない。得点できるチャンスであった。しかしそのFKをバロッテリが決め、試合を確実なものにした。ミランの守備は献身的である。4-2-3-1から4-5-1に瞬時に変えるフォーメーションはこれまで見られなかった点である。相手にスペースを与えず、両サイドバックを攻撃に参加させなかった。フィオレンティーナはロッシとマリオゴメスといった決定力をもったプレイヤーを欠いていたこと、EL消耗で疲れていたこと、がミランを優位にした。この試合で、ある程度本田は満足したようである。試合後、ユニホームをファンにプレゼントし、バロテッリと片を組み合う姿が放映される。本田がチームの中心的役割へ変わることに期待する。

3月26日(水) 
建築家増田友也を知る。京都の浄水場や智積院(ちしゃくいん)会館を手がけた建築家である。コンクリートHP幾何を屋根に多用し、モダニズム的な力強いかたちをつくる。これらはオリンピック直後の建物であり、丹下健三の代々木あるいはカテドラルと同じ時代感覚をもっている。その時代にぼくは生まれた。その前の時代には鳴門市にいくつか建物をつくっていることも知る。今年の夏に見た丹下の淡路島戦没記念館と位置的にも近かった。同時に見学する機会を逃したことが悔やまれる。今度彼を追いかけてみよう。
062 3月25日 プレミア マンU×マンC
マンUはいつもとは異なる守備的な4-3-3という布陣で臨む。今までの守備的布陣の場合、両ウイングに屈強かつ縦の早い選手を使っていた。今日はフェライニがトップ下ともボランチとも言える中間的役割を担い3列目を固め、サイドを自由にしたパス重視のかたちである。その効き目が出る前40秒でシティに1点を奪われてしまう。ユナイテッドが優勢にゲームをすすめるようになったのは15分過ぎからである。フェライニとマタ、ルーニーが連動し、長めの連続パスが通るようになった。マタがもたらした新しい面である。しかし得点にはならず。ルーニーがボール運びにエネルギーを使いすぎた。ここで点を奪えなかったのが力不足であると、モイーズが試合後に吐露する。クレバリー負傷のため後半から香川登場。正直、香川のリズムがチームを苦しくした。前半に対して、短いワンタッチパスがことごとく失敗し、マタと合わなかった。マタは疲れたのかもしれない。ともかくチームのリズムが前半より悪くなった。そうした中、コーナーキックにおいて、ファーディナントがマークを外すという致命的な失敗を犯し、ジェコに2点目を奪われる。ユナイテッド、万事休す。もはやファーディナントは役に立たないとさえ思う。その後負けているにも関わらず選手に覇気が感じられなくなる。監督の交代時期を示す予兆でないか?明確な策を示さないモイーズに、最大の原因があると選手も思いはじめたのでないか?と考える。マンUは上位6チームにほとんど勝てていない。

3月25日(火) 
「学習する組織」ピーター・センゲ著を読み始める。未来への創造のための5つの原則が示される。システム思考、自己マスタリー(熟達)、メンタルモデル(適正な判断)、共有ビジョン、チーム学習である。これらは、著者の豊富なケーススタディによって裏付けされたものだ。管理でなく学習を、正確性の固辞でなく好奇心を呼ぶための原則として考えてよいだろう。
長谷川等伯の「桜図」「楓図」をみる。桃山文化の豪華絢爛かつ構図の力強い絵であった。等伯は、当時主流の狩野派に対して、千利休によって見出されたという。利休の本質がわびさびだとすると、このセレクションは利休商人としての才覚によるものである。この時代、日本画は個人というより、血縁関係のある集団によって伝統的画法として描かれていた。それで狩野派は400年も続いたという。等伯は、新規参入者として利休に買われ、狩野派に代表される画壇に一撃を加える役割を担っていたのである。等伯息子の「桜図」は繊細なところもあり不思議な絵であるのだが、25歳の息子の早死によってその流れも大きくなることなく、等伯と利休の企ても一代で途絶えてしまった。等伯後の江戸初期には、俵屋宗達や尾形光琳が現れる。琳派である。彼らもまた商人をターゲットにしていた点で時代は繰り返された。それでも狩野派は残り、衰えたのは明治になってからである。明治になって、建築も含めあらゆる分野での近代化が伝統を衰退させたが、日本画だけは異なっていた。日本画のみが西欧化を免れたのだ。それは、狩野派や大衆浮世絵をはじめとする日本画が以前から西欧において評価されていたためと、中心を担っていた岡倉天心が汎アジア(脱西欧)を目指していたからである。したがって狩野派が衰退したのは、岡倉天心というフィクサーによってである。以前TVのドキュメンタリーで、村上隆のアトリエを見たことがある。アトリエは郊外の倉庫を改築したもので、多数の若者の手により作品が分業で制作されていた。この10数年のキャラクターがデータ化され、色においては何千もの数がナンバリングされ、指示体型や制作プロセス全てがシステム化されていた。担当スタッフによって作品の出来が左右されることなく、工場というのに相応しいものであった。彼も日本画出身であり、狩野派の成功が頭にあったに違いない。千利休も同様に偉大なフィクサーであった。茶と塔頭建設を通して、名だたる武将の名誉欲と購買欲をかき立て、応仁の乱以降見る術もなかった大徳寺を現在にまでにした。いうまでもなく、それを通じて千利休の株があがり、それは現在まで引き継がれている。等伯もそのひとつであった。○○好みという制度も完成させたのも利休である。

3月24日(月) 
「哲学と自然の鏡」ローティの第3部に入る。真理の追究を否定したローティは、会話による客観性獲得を本書での最終的結論とする。会話とは、目的を持つ対話と異なり、外へ開かれた他者との交流自体を促すものである。そうしたローティは、相対的、あるいは非合理的として批判されたのはいうまでもない。この点においてもパタンランゲージと同じである。アジャイルもその延長上にある。ローティはその応えとして、徹底した実践主義を用意していた。偶然性を回避した普遍的本質から出発するのではなく、出発点の偶然的性格を承認し、実行によってその批判に応えようとしたのである。そこには「格率」=自分の持つ行為の道徳的規則、が必要とされる。カントは、この「格率」を普遍的道徳規制に対して、主観的のみ妥当する実践的原則といった。アジャイルを考える上で参考になった。解説では、「ここがロードスだ、さあここで跳べ」というイソップ寓話が持ち出されている。マルクスも持ち出したものである。ローティはこの格率に身を委ね、実践で過去の哲学、ここでいう体系学的哲学を越えようとした。ローティは自らのこの哲学を、体系学的哲学に対して啓発的哲学といっている。

3月23日(日) 
ローティを読み続ける。第1部の「心」に続き、第2部では、大文字の「真・善・美」でさえも、ばっさりと時代の「発明」品として処理される。そこに普遍的な答えなどないということだ。それは、これまでの伝統的建築を否定したマンフレッド・タフーリの切口と同じである。これまでの歴史的起原を明らかにし、新たな歴史展望に置く、超歴史的処置によってローティも断罪していた。この時代に建築と哲学の両分野で同様な歴史の扱いをしていたことが、ぼくにとっての発見であった。現在は、彼らの行ったそれぞれの分野での解体を前提としてあり、その解体速度はIT技術の進歩でさらに加速している。
060 3月22日 ブンデス マインツ×バイエルン 
最後は底力の差が現れ、バイエルンの勝利。マインツの4-1-4-1の広目の守備体型は、バイエルンの円陣型攻撃を80分までしのぐことはできたのだが、攻撃へまで転換する力がなかった。もちろん、その大きな役割は岡崎にある。なかなか決定機をつくれないバイエルンは、突拍子もないと思われるシュバインシュタイガーの怒濤の一直線の上がりでゴールを奪うことに成功する。イレギュラーな動きが硬直したゲーム展開に大きな穴を空けたことになる。バイエルンは強い。
061 3月22日 プレミア マンU×ウエストハム 
待望のルーニー、マタ、香川の3者同時出場。サイド45°からの放り込みは皆無で、ユナイテッドは完全にパス中心の攻撃に変わったようだ。ルーニーの超ロングシュートは、ユナイテッドのこうした攻撃を予想できなかったウエストハムの守備の混乱から生じたものだろう。その後、香川も好機をつくるもゴールは奪えず。後半途中から香川はトップ下にも入る。ゲーム感が足りないためか本調子ではない。パス感覚が多少狂う。これを力の限界と見るか、あるいは多少我慢し将来への糧とみるかはモイーズ次第である。今日はマタがトップ下で輝いていた。選手にあったポジション選びが重要であることを感じる。

3月22日(土)
今年度の卒業式と謝恩会。心温まるものであった。今年で6年目を迎えるが、彼らに道をつくってやれたかという責任をこの度に感じる。特に3年を一緒に過ごした院生から感謝されるとなおさらである。これから活きていくために基礎は大事である。基礎とは、技術的なことはもちろんであるが仕事に向かう姿勢をいう。中途半端でなくやりきること、形式るものまで整える力量である。
「哲学と自然の鏡」ローティを読み続ける。近代哲学を様々な面から批判する。その根本に、近代哲学のもっている(ゴールがあたかもあるような)真理崇拝主義への疑いがある。現実を直視する限り、真理によって物事は解決できていない、これを重要視すべきであるという指摘である。ローティは磯崎新と同じ歳であった。近代哲学の解体といってよいだろう。第1部は、心、直感の問題を扱う。それを写しだす鏡の位置づけが本書のテーマである。解説では、鏡を主題に用いたベラスケスの「ラス・メニーナス」(プラド美術館所蔵)との比較がなされている。鏡は一般に心を表象するものと考えられ、ぼくらはこのような思考方法をとる。しかし、鏡と心はそもそも別ものなのであるというのが前半の主張だろう。「鏡」という虚像をつくって安住することへの警告である。
059 3月19日 CL ドルトムント×ゼニト 
1STレグを落とし躍起に攻めてくるゼニトに対して、ドルトムントのプレッシングがうまく機能するゲーム展開となるはずであった。しかしそうはいかず、ゲームはパタン化できないことを実感する。ゼニト、フッキの強烈なミドルを早々に決められ、フッキをケアするためのドルトムント両サイドが完全に封じ込められてしまった。その結果、従来の守備から攻撃への素早い切り替えが行えなかったのである。1STレグの大量リードが守備的にさせたとも言えるのだが、バイエルンのリベリーと対戦するときの大きな問題になるだろう。しかし前半のうちにドルトムントは、ドルトムントらしくない通常のセンタリングからヘディングでゴールをあげることで、難なく8強に進むことができた。レバントスキーの累積警告による次戦出場不可が大きい。次戦はレアルであることが決まった。

3月21日(金) 
058 3月19日 CL マンU×オリンピアコス 
モイーズの進退がかかっているといわれる試合である。アゥエーのオリンピアコスは1点でも獲れれば、ほぼ8強を確実にする。そうした窮地のモイーズが選んだメンバーは、ベテランであり、従来の縦々への試みを実践できる選手であった。サイドにウェルベックとバレンシア、ボランチにギグス、CBにファーディナントであった。それに応えたのはギグスであった。ギグスが決定機を3度つくる。一度目は、左奥から左外に流れるルーニーへのロングパス。ヘディングは残念ながらポストに嫌われる。2度目は、やはり左奥から右奥へのファンベルシーへのロングパス。オリンピアコスは慌てたためPKを与えてしまう。これを落ちついてファンベルシーが決めて1点目。3度目は、2度のデ・ヘヤの好セーブの後の、やはり左奥からの右に開いたルーニーへのロングパス。その折り返しをファンベルシーがきっちりと決めた。いずれもサイドMFの動きにつられ、ギグスをフリーにした結果のものであった。前半、彼を比較的フリーにオリンピアコスはしてしまったのが失策だろう。3点目は、後半早々に、ルーニーとウェルベックのドリブルを、慌てて留めたファウルを、ファンベルシーがフリーキックで決めたものであった。ファンベルシーのハットトリックでマンUの完勝。固いといわれるギリシア代表のディフェンスは大半がオリンピアコス選手と聞く。といえでも、ギグスが遠藤と重ね合わせることができるし、日本の連動は、ルーニーとウェルベックの単独ドリブルより厚みがあるだろう。なんとか代表でも戦える感触もつかめた。早々にリードし守備重視の状況で香川の出場がなくなる。そして8強の対戦相手がバイエルンと決まる。香川はバイエルンにドルトムント時代負けたことがない。

3月20日(木) 
栗生明、川口衛、渡辺真理、宇野求氏を招いての卒業設計、修士設計の講評会。遠藤研に関しては学部生3人、院生2人が発表した。総じて提出後1ヶ月の間の進展がなく、先生をうならせる程のものとなっていなかった。これは過去5年間にないことで、残念である。確かに提出時の案は例年になくまとまっていた。しかしそうした学生は他校にもたくさんいる。ぼくらに残された可能性は、エネルギーのかけ具合を調整することなく、情熱とパワーでやりきることである。この1か月の伸びは、これまでの半年分くらいに相当する。過去賞を得た学生は、この期間にのびた学生であった。上手い学生ではない。学校を代表して選ばれたのは、それを見込んだものであることをもっと自覚すべきである。栗生先生が面白い標語を教えてくれる。千葉大学医学部外科における標語である。これは全く建築に通じるものである。獅胆鷹目 行以女手((したんようもく おこなうにじょしゅをもってす)獅子のような決断をし、鷹のように鋭く観察し、優しく人の身になって施すという意味である。

3月19日(水) 
057 3月18日 CL チェルシー×ガラタサライ 
チェルシーの盤石の守備により完勝をする。チェルシーはどんな状況においてもピッチいっぱいを使用し、相手にスペースを与えなかった。このフォーメーションでは選手間に距離が生まれるため、長いパスを奪われカウンター攻撃を受けるという欠点があるが、サイド側にボールを散らすことでそのリスクを少なくしていた。当然、攻撃は4人の前線のうち3人のみ。1人は攻撃に参加せず守備にとどまる。1人でも決定機をつくれるエトゥーのような選手が必要となるのはいうまでもない。ガラタサライが守備的であることを見越し、スペースを使うトーレスでなく、スペースなくとも突破できるエトゥーの起用となった。試合としてはいつものことながら退屈なものであった。「バルサのようなボールポゼッションの高い攻撃的フットボールが美しいのではない。勝つフットボールが美しいのだ。」というモウリーニョの言葉を思い出す。
3年前の福島原発原子炉内がどのような状態にあったかというドキュメンタリー「メルトダウン」NHK特集を見る。番組によると、すでに地震直後の3.12(正確な日付忘れる?)には、1号機がメルトダウンをしていたという。その対策としてのベントは役に立たず、水素爆発をし、その後3号機も同じ運命をたどった。初期の多くの放射能はこの2度のベントと水素爆発によってもたらされたものであった。しかし2号機はさらに危険な状態にあった。ベントが行えなかった。そのために完全にメルトダウンをし、原子炉から絶えず放射能が漏れ出していたという。爆発をしなかったのは、常時放射能漏れをしていたため炉内圧力が上がらなかったからである。こうした放射能漏れの実情は、最近見つかった街中にある計測機データから判ったものであった。ベントは本来、放射能除去を95.5%可能であるはずのシステムであるが、こうした異常時にはその機能を果たしていなかった。また2号機では、外部との接続ダクトの4重パッキング、厚さ24ミリの鉄板、これらも高温異常時には機能しなかったのである。つまり、万全な対応策など前もって用意することは、どんな科学技術が進んでも不可能であるという番組の結論である。それにも関わらず、原発の再稼働を目指す政府方針に警笛を鳴らすものである。
クーン、ファイヤーベントと並び賞される「哲学と自然の鏡」リチャード・ローティを読みはじめる。

3月18日(火)
NHK特集「脳卒中」を見る。日本人が脳卒中にかかる確率は他の国に比べてかなり高い。その原因を探る番組である。ほ乳類は進化の過程で手を使えるようになった。その時、脳における運動野が発達し、脳はチンパンジーの3倍にまでの現在大きさになったという。それに伴い心臓機能が発達し、同時に動脈管厚が太くなったのだが、脳内血管においては他の動物と同様の細いままであるという。脳卒中を引き起こす血管破裂は、この運動野へ向かう肉厚の薄い曲部分で起こる。脳内血管厚にまで進化が及んでいないのは、多量の塩分を摂取するようになったのは最近のことであり、進化が追いついていないという説明であった。したがってアフリカ原住民、あるいは古代人は、(血管が薄くても)脳卒中になる人はいないということだ。このような機能的な問題を解決するために進化を持ち出すことに疑問をいつももつ。それならこれから血管厚は厚くなるのかといいたくなる。しかしぼくも歳をとり、こうした番組を見るようになった。
056 3月18日 CL レアル・マドリード×シャルケ 
基本となる1対1がダイレクトパスによって崩れ、組織性が失われた典型的な試合であった。1点目は、PA内中央のドリブルから右サイドへのパスを、左のDFがカバーしきれずにダイレクトの折り返しをゆるしたもので、2点目はハーフライン付近の中盤において同様にダイレクトに、2人のDFの間にパスを通されたものである。最終的にはロナウドが決めた。彼の決定力もさることながら、崩された場合のカバーをどういう組織体制で行うかという組織の差である。内田がこれを経験できなかったのが残念である。ロナウドが、ギリシア代表パパロクーロスからの2度のアタックにぶれることなく、ドリブル+シュートまで持ち込めたのは凄いと感心する。

3月17日(月)
山本理顕氏が寄稿した「思想」3月号を探して読む。最終講義前から気になっていたのだが、なかなか手にすることができなかった。「世界」から「社会」への近代化が果たした役割について、ハンナアーレントの「人間の条件」に即しながら詳細に記述されている。その仕組をつくる上で建築家は大きな役割を担った。次号からは、そこからのブレークスルー論が展開されるだろう。とはいえ、最近読んでいるウイーナーやパースに則して考えると、こうした流れを止めることはできないとさえ思う。イレギラーな情報のフィードッバックは、より強固なシステムをつくりあげてしまうことに至る。3.11以降少し垣間見た「世界」は、今では「社会」へ還元されてしまった。新建築3月号における芳賀沼整氏の寄稿によると、3.11以降福島の家族構成が、多世帯同居型から核家族化へ確実に移行しているという。経済的な保証さを求めて、ポテンシャルのある若者は独立していく傾向を示したもので、こうした小さなところにでも「世界」が「社会」化されていく例をみることができる。「世界」を目指すことが無駄と行っている訳ではない。この力をどう空間に結びつけるか具体的な方針が必要とされている。今までにないアジャイルな方法での量的な対抗を真剣に考える。

3月16日(日)
055 3月16日 プレミア マンU×リヴァプール 
リヴァプールの圧勝。ホーム試合というのに、どうしたユナイテッドと叫びたくなる試合であった。前半の激しい1対1の局地戦は、THE ENGLANDといえるほどの見応えのあるものであった。ただ、この肉弾戦からボールを奪ってから試合を支配したのはリヴァプール。右サイドのスターリッジに渡してから、逆サイドのスアレスというしっかりしたパタンをもっている。ジェラードは選手生命終盤にきて、ボランチのさらに底という新しいポジションをしっかり見つけ出した。それに対してマンUは無策であった。3つのPKをあたえたのは、DFの差というより、組織的守備ができているかの差である。こうした激しい戦いには香川は不向きと見られたのか、香川は不出場。3人目の後退にマンUはDFを投入する。モイーズは、無様な負けだけを避けたかったのである。情けない。

3月15日(土) 
古市教授の最終講義司会を務める。山本理顕氏の祝辞、トムヘネガン氏の現代バナキュラー論、伊東豊雄氏のビデオ参加等盛りだくさんであった。最終講義は古市教授の活動を改めて振り返るものであったが、その活動の広さに皆圧倒されていた。大学院修了後、丹下事務所でのアフリカ・アジアでの単身乗り込みが先生を決定づけたのだが、誰でもがまねすることはできないことだろう。これまで105か国を訪問したそうだ。総じて研究室活動を古市先生は、学生と一緒になってトレペ上に図面を引き、学生の数だけ基本計画をこの13年間で行ったという。そのため、自分の技量が相当進歩したといっていた。ぼくはというと、これまで養ってきた知識を分け与えるようにフル活動をして指導をしてきたのだが、それだとこちらが消耗するだけである。古市先生の態度を見習いたい。山本氏の祝辞もまた立派であった。ぼくらが属する空間を、ハンナアーレントの「人間の条件」を引き合いに出し、「世界」と「社会」とに区別した。「世界」は、経験を重んじ個人が拡がる空間であり、「社会」はコントロール化された空間である。コントロールとは機能的であるということだ。一般には近代化を通じて「世界」が「社会」化されたというのだが、それは間違っているという。実は空間をどう見るかにかかっている。「世界」と「社会」は別物なのだ。古市教授はアフリカ世界からはじまり、その経験を持って近代を突き抜けたという講評であった。当然僕らは、空間を「世界」として見る立場にいなければならない。その奮起を促すものであったと思う。ぼくの知っているハンナアーレントは柄谷行人からである。

054 3月15日 ブンデス ホッヘンハイム×マインツ
岡崎の2ゴールでマインツの逆転勝利。マインツは前線からのプレッシングが効くかどうかでゲームの良し悪しが左右される。その典型的な試合であった。後半2点獲られてから相手がディフェンシブになり、得意のこのパタンとなり、逆転に成功した。岡崎は香川に続く二桁得点である。

3月14日(金)
「アブダクション」を読む。仮説的思考が歴史的に解説される。探求は仮説によって導かれ、事実は仮説にもとづいてしか集められないのだ。これも池辺陽から学んだことであるが、池辺は科学分野で生じた仮説思考を、デザイン、芸術の分野に持ち込んだ。この書によれば、はじめ仮説的思考=アブダクションがあり、その信用性をあげるための演繹的思考を通して最終的帰納的な結果を導くという。科学的発見とはその繰り返しによってもたらされるものである。したがって局所的には、先に読んだウイーナーのサイバネックスは、パースにおける演繹的思考部分に対応し、あるいは、この繰り返しサイクル全体をサイバネックスということもできる。この場合、仮説の重要性は相対的となるが、いずれにせよ仮説を無視することはできなそうだ。これを否定するウイーナーの思い切った結論はどこから来ているのだろう。

3月13日(木)
「アブダクション 仮説と発見の論理」米盛裕二著を読む。ギリシア以来の演繹的、あるいは帰納的思考方法に対して、アブダクションと呼ぶもうひとつの思考方法をパースは提案した。その仮説的思考方法=アブダクションに惹かれ、導入書として本書を手にした。仮説的思考は、池辺陽「デザインの鍵」からを学んだことでもある。
インターネットで面白い橋を発見する。West 8 Urban Design & Landscape Architecture。構造が薄いコンクリートシェルでできており、そこから橋がつられているものだ。
053 3月12日 CL バルセロナ×マンC
マンCが勝ってもおかしくないゲームで、両者の厳しい1対1が見られた密度の濃いゲーム内容であった。メッシが絶好調とはいえないものの、中央から幾度となくチャンスをつくり出し、終了10分前に1点をとりゲームを決める。メッシの中央付近での横の動きは、彼しかできない動きだろう。何人かのDFが引きずられ、空いたサイドを狙われていた。審判のジャッジが多少ゲームを動かしたかもしれない。

3月12日(水) 
「サイバネティックス」第Ⅱ部(1961)を読み終わる。機械と生物の違いを学習能力と増殖能力の有無に置き、第Ⅱ部では生物の自己組織化について言及をしている。今でいう「ゆらぎ」の数学的証明をし、自己組織化の好例とした。自己組織化とは、自律的に秩序をつくりだす現象をいう。生物が学習と増殖を可能にしているのは、明確な目的にそった実行をしている訳ではない。それは、情報を繰り返しフィードバック処理することで、自然と身につく結果としての能力によるものなのだ。情報のフィードバック処理は機械においても可能である。それに基づき機械制御の可能性を示したことがウイーナーの仮説であり、様々な分野へ影響を及ぼしたのである。アレグサンダーもそのひとりであったかもしれない。時代を経てパタンランゲージの第3世代は、パタンランゲージを、(単なる)舵取りする手段として評価するまで至っている。ウイーナーの徹底といえるだろう。しかしこのことにぼくは少し疑問を残している。舵取りにも明快な目的が必要でないか? この書でウイーナーは、こうした目的性を否定していたことが判った。次に時代を遡り、パースをかじることとする。
深夜NHKで歌麿の肉筆画の特集を見る。歌麿は一生女性を描き続けのだが、有名な浮世絵とは別に、「品川の月」「吉原の花」「深川の雪」という肉筆の大作も描いていたことを知る。1800年前後には,質素倹約を勧める寛政の改革、天保の改革があった。どの世も、快楽的芸術は悪である。色、花魁を描くことが禁止され、庶民文化に対する幕府からの締め付けがきつくなったという。最後には町娘を描くことさえも禁止された。それを受けて、歌麿の画風も変化してきた。色から描く対象へ(内容)、そして構図へとテーマが変化していったのである。その中で絶えず、江戸を離れ栃木のパトロンの下に囲われながら、肉筆の大作を描き続けていたという。パトロンは若い頃からの狂歌仲間であった。そのとき、蔦谷重三郎という版元の助けはなく、彼も投獄されていたという。三作とも、その色鮮やかさと女性個々の動きを見事に表現しており、構成において圧倒するものである。当時既に西洋の遠近画法が知られており、北斎が展開させた構図を巧みに利用し、それに鮮やかさを加えたものだ。思えば、北斎も晩年、長野の小布施でいくつかの天井肉筆画を描いている。赤の天井龍図である。その迫力にぼくもそうであったが、ニューヨークの工藤國男さんがえらく感動していたことも思い出した。芸術家は古今問わずパトロンの助けを借りながら、自己実現を行っている。「深川の雪」は、4月から箱根の岡田美術館で公開される。
052 3月11日 CL バイエルン×アーセナル 
このゲームも、序盤はアーセナルがよいかたちをつくっていたものの、10分過ぎからバイエルンペースになる。最初の8分まではアーセナルの、広めの布陣、かつ前線からのプレッシングが功を奏していた。一方バイエルンは、ラームを本来の右サイド、かつダブルボランチという守備的にゲームに入り、それを迎え撃つ。結局のところアーセナルが、この時間帯にゴールを奪えなかったのが痛かった。その後アーセナルは徐々に押し込まれ、FWも守備に追われるようになると、ボールを奪っても出しところがなく、2人のDFにはじかれるパタンとなった。バイエルンの完勝といってよいだろう。1STレグの教訓を活かし、アーセナルは、このゲームをプレッシングで臨んだ。しかしこれが継続できなかったのは、サニャの右サイドにボールが入ってしまったからであり、その折り返しとリベリのドリブルで徐々にゲームコントロールを難しくしてしまったのだ。

3月11日(火) 
東日本大震災から3年が経った。3年前も大学院入試の面接であったことを思い出す。その強烈な揺れに対して、はじめは家族や関わった建物などの自分の周りのことを気にしたが、被害はそれ以上であったことを徐々にTVを通して知っていった。各地で様々な追悼のイベントが催される。自分の不甲斐なさにあきれる。

3月10日(月) 
「サイバネティックス」を読む。1948年に書かれた第Ⅰ部前半は、数式にもとづく統計学的な論考である。それ対し後半は、種がもつ普遍性、人の精神病理、社会といった人文分野を、制御という観点から論じていてわかりやすい。現代との違いは、分析の細かさにあるのは明白であるのだが、サイバネティックスは、あらゆることが細分化され、緻密性が要求されている状況において、それをコントロールする方法が何かをいっている。副題にあるように、生物が行う制御を、機械においても持ち込もうとした。そうした考えの契機となった。今でもその解答を得られていないのだが、生物や、世界や社会に、制御する見えざる手がある状況証拠を示している。第一部を読み終わる。

3月9日(日)
051 3月9日 セリエA インテル×トリノ 
パラシオのFWらしい強引なヘディングシュートで1-0のインテル勝利。右サイドからの大きく左の長友へのサイドチェンジを、さらに中央のカンビアッソが受け、裏へ抜け出したパラシオへの浮き球のヘディングであった。連携のあるよい攻撃であった。最後はイタリアらしく守備を固めて完封で終了。プレミアのようにプレッシャーがきつい場合、スペースがない。このため、こう簡単にも守備固めも難しいのでないか?とも思う。ともあれインテルもシーズン後半になりエンジンがかかる。

3月8日(土)
049 3月8日 プレミア マンU×WBA 
香川後半15分から登場。ヤヌザイがこれといった働きをしなかったこと、モイーズがどうやら戦略を変更したらしいこと、これらが重なりマタ加入後はじめての香川出場へと結びついた。モイーズは、試合後のコメントでも、香川の出場機会が今後増えることを断言する。想像するにCL前の合宿、あるいは前節クリスタルパレス戦の失敗あたりから、パス中心の攻撃を浸透させようとしたのだろう。本節はそれを試す最終試験的意味合いが強かった。CLにおいてバレンシア、ヤングが、ドリブル+センタリングというおきまりのパタンを使わなかったのはその理由による。それがCLでの前半の混乱である。本節の香川の出番はそうした理由から回ってきたものである。したがって試合にスムーズに入ることができた。パスを多く受け、後退直後のウェルベックへのパスは自らがシュートで終えたいところである。その後も、香川とルーニーとの関係、特に距離間はよかった。最終的なゴールにはならなかったものの、いくつも突破を予感させるチャンスをつくり出していた。ぼくは香川の存在感を示せたと考える。もうひとつ見逃してならないのは、チームとしての守備の意識の高さである。ルーニーはいつものことであるが、フェライニの前からのプレッシャーが効いていた。ここからの攻守の切り替えが素早く、2点目と3点目が生まれている。
050 3月8日 セリエA ウディネーゼ×ミラン 
右サイドの本田は、これまでと異なり比較的自由なポジショニングが保障されていた。後半終わりからはトップ下も許される。今週火曜日のCLアトレチコ戦をにらんで、カカをはじめ多くの選手を休ませたため、ゲームをコントロールする選手が不在であったことによる。しかし本田は、前線に入りすぎたため、パスを受けることができずに、違いを創り出せなかった。FWパッチー二との連動がほしいところであるが、彼は神出鬼没で複雑に動き回り、特に左サイドへ一端大きく開くので、連動が難しかったのだろう。岡崎のように本田に合わせることもない。残念であった。メディアからは本田タタキがいつもより増す。救いは、セードルフの時間が解決するというコメントである。

3月7日(金)
「サイバネティックス」ウイーナー著を読み始める。ITの爆発的普及前の科学において、生物や心と機械との関係をどう捉えていたかを知りたいため、あるいは、アジャイルにおける発散的創造に対してのカウンターバランスとしてこの名著を手にした。サイバネティックスとは、舵を取るという意味のギリシア語である。この本から機械制御という概念がはじまった。しかし、機能的要求に対してシステムが制御するというこのサイバネティックスという考えは、現代科学を持ち出すこともなく、行き詰まっている。それは今日の復興の解決策が未だ見いだせないことと同様である。価値が多様化して複雑であり、それをひっくるめたひとつの方向性を見出すことができないでいる。そこからの脱却の可能性として、アジャイルな創造的アプローチに最近注目している。一方でアレグサンダーのパタンランゲージは、動的な環境のなかで絶えず事態の変化に適応する舵取りである。学習する組織、学習する社会といったものだ。舵取りにも色々ある。アジャイルには、制御する方法がないように見えるのが、今のところのぼくの疑問だ。その接点をつかみたいと思っている。

3月6日(木)
「アジャイルに効く〜」を続けて読む。英語のタイトルが判りやすく気に入ったのでここに記す。( )内は該当すると思われる「パタンランゲージ」のパタンである。
1Evangelist 2 Small Successes 3 Step by Step(順に固める構造208) 4 Test the Waters 5 Time for Reflection(アルコーブ179 ベッドアルコーブ188) 6 Ask for Help 7 Brown Bag(生き生きとした中庭115) 8 Connector 9 Do food(会食147食事の雰囲気182) 10 e-Forum 11 Early Adopter(アーキテクトビルダー) 12 External Validation 13 Group Identity 14 Guru on Your Side 15 In Your Space(30 活動の節点44地区タウンホール 45 コミュニティ活動の輪 81 形式ぬきの小さな窓口 80自主管理の作業場とオフィス 151小さな集会室) 16 Innovator 17 Just do It(85店先学校156腰を据えた仕事 ) 18 Just Say Thanks 19 Next Steps 20 Personal Touch 21 Piggyback 22 Plant the Seeds 23 The Right Time 24 Stay in Touch 25 Study Group 26 Taillor Made(202 造りつけの腰掛 253 自分を語る小物 ) 27 Big Jolt 28 Corporate Angel 29 Dedicated Champion 30 Early Majority 31 Guru Review 32 Hometown Story(81 形式ぬきの小さな窓口) 33 Involve Everyone 34 Just Enough(207ふさわしい材料) 35 Local Sponsor 36 Location, Location, Location(205生活空間にしたがう構造) 37 Mentor(83 師匠と弟子) 38 Royal Audience 39 Shoulder to Cry On 40 Smell of Success 41Sustained Momentum 42 Token(249装飾 253自分を語る小物) 43 Bridge-Builder 44 Champion Skeptic 45 Corridor Politics 46 Fear Less 47 Trial Run 48 Whisper in the General’s Ear
こうしてみると、意外と「パタンランゲージ」と1対1対応していないことに気づく。 「パタンランゲージ」はあくまでもかたちや空間に主眼を置き、つくられ方に言及していないためだろう。アレグサンダーは「パタンランゲージ」を補完するものとして、アーキテクトビルダーの存在とセンタリングの考えを別に与えている。この48個はそちらの考えに傾いているのだ。センタリングは、最近出版された「The Nature of Order」に示されている。既存を活かしながら徐々に全体を成長させていく考えである。アーキテクトビルダーはそれに基づき、建設行為や資金の運用も含めてプロジェクトプロセス全体を把握する人物である。アーキテクトビルダーについては、ぼくも翻訳に関わった「住宅の生産」に詳しく書かれている。

3月5日(水) 
「アジャイルに効くアイデアを組織に広めるための48のパターン」マリリン・マンズ リンダ・ライジング著 を読む。組織的に新しいアイデアを導入するときの秘訣を「パタンランゲージ」形式で記述した本である。冒頭でのアレグサンダーの紹介からはじまり、48個のイノベーションのためのパターンが示されている。これまで読んできたソフトウェアへの応用は「パタンランゲージ」を利用した第2世代であり、この本が契機となり、創造的な仕事をするための組織論へ展開する第3世代に移行していったという。この第3世代では、したがって未来志向の方法を示し、コミュニティを尊重する。48パターンには個々を繋げる構造がなく、その使い方はむしろ利用者に委ねられている。前半はその具体的な応用例である。後半の48パターンから読み始めるとイメージしやすく判りやすいと思う。
048 3月4日 Aマッチ 日本×ニュージーランド 
W杯の直前を抜かすと今年最初で最後のAマッチである。それを加味すると2つの物足りないところがあった。ひとつ目は対戦相手。韓国がギリシアと対戦したことを考えると、ニュージーランド相手は少々疑問に残る。南アフリカ大会では、予選リーグを無敗で戦った守備に長けているチームとはいえ、モチベーションはW杯出場国とは違うだろう。彼らは若手中心であった。ふたつ目は、これといって新しいメンバーを試さなかったこと。特に問題のディフェンスについては手を打つ必要があったのでないか。内田、長谷部が怪我、遠藤、今野が体調不良とあって、スタメンは、青山と森重が使われたのだが、ディフェンス待望論に応える程のものでなかった。案の定この試合もあっさり2点を獲られた。2点目は森重がプレミア2部の20歳のFWにすっ飛ばされたものだった。1年前ならともかく、これを糧と見るにはもはや遅すぎる。ザックはチームを熟成させていくタイプである。これが是か非かは、3ヶ月後を見なければならないのだが、多少不安がつきまとう。しかし、ぼくらはその方法に託すしかない。

3月4日(火) 
「プレゼンテーション・パターン」井庭崇著を読む。「パタンランゲージ」は誰でもが街や家つくりへの参加を可能にする誘発装置であり、その形式に則り、現代的なプレゼンテーションの方法を記した本である。プレゼは今やどの世界でも不可欠な表現手段である。そのことを前提に、プレゼを、意図伝達のための手段としてではなく、ユーザ(この場合聞き手)の創造を誘発するものと捉えているところに、本書のいわんとするところがある。ユーザを含めたひとつのシステムつくりをいかに行うかを考えた実験的な指南書である。そのための方法が、パタンランゲージのように33個のパターンとして示されている。それは、「形式」、「魅せ方」、「振る舞い」と大きく3つに分類され、それもパタンランゲージの「街並み」、「建物」、「施工」に一致する。TPO(パタンランゲージの場合はスケール)を変えながら、あるいは一部分を特に詳しく述べるなど、比較的同様の内容を繰り返し述べ、パタンランゲージと構造も同じにしている。全体のコンセプトを示すダイアグラムも特徴的だ。それはアレグサンダーの好きな陰陽のかたちをしている。その中央に「0創造プレゼンテーション」というパターンがある。パターン内容についてもダイアグラム化ができればもっと判りやすいはずだ。ぼくにとっての発見は、スポーツ選手から哲学者、科学者に至るまでの数々の名言である。それを読むだけでパターンの内容をつかむことができた。

3月3日(月)
C(千葉)リーグ合同講評会。千葉5大学の3年生共通課題「自分が育った小学校の建替計画」の優秀作品合同講評会である。20名を越える各大学教員で盛況であった。Cリーグも6回目を迎え、競争することで、確実にレベルが上がっていることを実感する。ほしくも次点で重村力賞をいただいた新田さんの案は、街の動線を学校まで引き入れる案。体育館の高さを抑え、昔の街並みのようにクラスルームを並べる構成が講評を得た。2階建とするのは敷地の大きさから妥当であるが、1階と2階の繋がりと、引き込み通路と2階との関係が不明瞭であるという指摘があった。2階建は、1階を暗くし、2階の引込通路との関係を弱くする。緩やかに揺れるような配置に対して、2階案は十分な答えとはなっていなかった点が次点の理由である。内藤賞をいただいた秋山くんの案は力強いかたちを前面に出し、千葉工大生っぽい案でよい。既存の段地を保存し、その上に蜷局を巻く学校の提案である。蜷局型とはいえ、数珠状に並ぶクラスルーム構成ではなく、中に3つの階段を設け、2つの玄関からほぼダイレクトに各教室にアプローチ可能な構成である。3つの階段部分周りが、図書館あるいはメディアセンター、食堂として計画され、実に理にかなった計画である。蜷局の中央が閉じた中庭であっても、既存敷地の高低差を利用して、持ち上げられた蜷局の下を通り、北の校門から南の校庭までの移動の問題が解決されていたのも驚いた。最終的にかたちとその大きなボリュームが受け入れられなかったが、ぼくとしては1番であったと思う。第4課題の国際交流センターでもかれは面白い提案をしていた。宿泊室、中庭、研究室をひとつにまとめた塔状ユニットを敷地全体に配置する案であった。その塔は中庭があるため半分開いているのだが、構造としても機能している。残りは図書館のような自由に行き来する交流空間であり、その構成に感心した記憶がある。なかなか面白い学生だ。賞を得ることができなかったが原くんの案も高低差を利用して案である。大階段は、日常的な駅を結ぶ近道として計画され、それに面し1階には、特別教室空間と図書館がある。図書館にも屋内化された階段状の閲覧があり、2階のクラスルームと接続している。全体のかたちが固かったことと、敷地全体を設計していないことを指摘される。ランドスケープを意識させるような図面があればよかった。L型壁で仕切っているクラスルームから、その通路を見透す効果をもう少し提案するべきであった。最優秀案の理科大学生の案は、空間とそれをつくる仕組みに着目した点が評価される。全体を覆う格子梁からつられた垂壁が要求空間を解決する装置として計画されていた。ただし空間にメリハリがないことと、全体を司る格子梁の存在をもっと考えるべきである。身近な問題をひとつの方法で全体構成まで拡げたときの案の強さを感じた。原とは同じ出発点に立っているのだが、原のL字壁とはその徹底において差があった。

3月2日(日)
046 3月1日 セリエA ローマ×インテル
長友とジュルビーニョとのマッチアップを楽しみにしていたのだが、ジュルビーニョは主に反対サイドでのプレー。守備的にゲームを支配するインテルは、ジュルビーニョの背後を突き、右サイドを起点にダイレクトのパス連続によるビルトアップをスムーズに行う。この試合運びに進歩を感じる。長友も試合後のインタビューで守備重視を考えたという。それにしても、長友は競合相手とのマッチアップを多く経験し、W杯に向けてよい準備ができている。
047 3月1日 セリエA ミラン×ユベントス 
理由が不明であるが、本田は後半25分過ぎから出場。ボランチであった。緊張感のないプレーがいくつかあり、どうした本田といいたくなる。2点ビハインドであったので、流れを変えて存在感を示してほしかった。ボランチとはいえ、守備重視のデ・ヨンクの前。比較的自由な動きが保証されているポジションである。左サイドのエマニエルからのパスを受け手の攻撃にいくつか面白いものがあったが、本来の右サイドからがさっぱり。利き足が左である本田は、右から中央に入るか、左サイド奥からのセンタリングによる攻撃パタンを多くつくりだしたい。

3月1日(土) 
ここ数日の間に、「人間と空間」ボルノウ1963、「空間の経験」イーフー・トゥアン著1977、「場所の現象学」エドワード・レルフ著1999の拾い読みをした。いずれも、人間が経験する場として、空間を定義する本である。空間を芸術あるいは数学的、政治的なつくる側のものから、生活に根差した日常的空間へ分化していくことを主題にしている。が、いまいち、これが実社会にどう展開するかがよめなかった。もはや言い尽くされた感があるのかもしれない。むしろITによって、現実は大きく変化していることを改めて実感する。ここにスポットを当てたいと思う。時間をおいて再チャレンジしよう。読売の論点に、大学教員のインターンシップ導入をすすめる主張があった。大学教育が社会と切り離れているために、学生だけでなく、教員もインターンから学ぶべきであるという主張である。ぼくも3〜4人を雇う企業人として、新卒者に対して実務能力を期待していない。大企業とは違って学歴で判断するほど余裕はないのだが、これまでの企業というものはしたがって、学歴や意欲での採用をし、技術力は入社後に育てるとしていたのである。今は技術革新のスピードが速まり、研究費にかける余裕もなく、大学とくに工学部にその役割を期待しているあらわれだろう。大学がこれを行うとしたら、生産効率を上げる利益追求から、アイデア知を利益に結びつけるノウハウを提供することに可能性がある。それは社会ニーズにも合っている。
045 3月1日 ブンデス レバークゼン×マインツ 
岡崎の先発フル出場。マインツの1-0勝利。前線で一度ためをつくるとゲーム展開が楽になることを知る。そのためのパスの正確さとトラップの基本は大事である。両チームともことごとくそれを失敗し、ドタバタした試合であった。

2月28日(金)
044 2月26日 CL ガラタサライ×チェルシー  
チェルシーは絶えず負けない試合運びをする。したがって、コンサバな試合となり、退屈となる。アザールが目立った活躍をしなかったのも、サイドをケアしていたためであり、得点は、FWトーレスの空いたスペースへの速攻を期待するものであった。1-1のドロー。

2月27日(木)
もう一度建築にスポットを当てるため「空間の生産」ルフェーヴル著を改めて読む。空間を通して社会を探求する書である。本書では、心的快楽を追求した作品と区別して、それを社会空間といっている。社会空間は時代に即し、矛盾した空間、差異による空間へと分化してきた。空間が抽象的なものからより身近なものになってきた訳である。「空間的実践」とは、その調整を行いつづけることであり、それにより空間の再生産を可能にするのである。それは、グローバルに対して個人、抽象に対して多様、を認めるものである。この点に異論を唱えるものはいないのだが、そうした中、ぼくらに向けられる「数寄屋化」「遊び」「戯れ」というのはどういう位置づけなのだろうか?これらは、少しネガティヴな意味で使われるものだ。
043 2月25日 CL ゼニト×ドルトムント 
ドルトムントの前からのプレッシャーが効き、前半早々に2点先取し、ゲームを決定づけた。ゼニトはウインターブレイク中で実践感覚に劣っていた。それがドルトムントの速攻を活きよいづけることとなった。ドルトムントはどのポジションにおいても、ディフェンダーの前に足を出すプレッシングをし、奪ったボールをトラップなしにダイレクトにパスをつなぐ。ゲームプランに一貫性がある。しかし少し安定性に欠けるため失点が多いことが欠点である。対極にあるのがバイエルンの確実性のある球回しで、もう一度行われる両者のマッチアップが今から楽しみである。

2月26日(水)
042 2月25日 CL オリンピアコス×マンU 
モイーズがいうようにユナイテッドに全くよいところがなかった。おそらくマタ加入でボールポゼッションをあげるサッカーを目指しているのであるが、バレンシアとヤングは縦縦の突破型であるとことに問題がある。彼らは組織的かつ強力な守備を前にそれを交わす術を知らないところに問題があった。個人能力に安易に頼る程、CL16は甘くないということである。モイーズは何をいわんかである。後半は、相手のプレッシングに対してボールすらビルトアップができず追加点を許し、15分にはバレンシアと中盤クレヴァリーを替える。ルーニーが中盤に下がり香川トップ下。1ヶ月ぶりの出場の香川の背中を見て、思わず涙が出そうになる。はじめの10分はディフェンスにしっかりとマークされパスをもらえない香川の状況が続く。香川はゲームに入れていなかった。しかし自由が許されている香川が中盤まで下がりボールポゼッションをあげはじめると、ルーニーがロングボールを蹴るなどと相まって、徐々にユナイテッドがボールを動かせるようになる。このふたつをマタは実行していたことを改めて感じる。香川の右奥へのスルーパスが通ったのはそんな時間帯であった。香川が3人を引きつけた後の空いたスペースへのパスであった。そのセンタリングをファンベルシーが決めきれなかったことが悔やまれる。そこから香川の躍動を感じることができた。終了間際には、中盤混線でのルーニーとのワンツーを受けて、香川が中央のディフェンスを置き去りにしたドリブル、そして左の空いたスペースへのエブラへのスルーは見事であった。エブラはトラップしたためセンタリングあげられなかった。2つめの悔やまれる点である。ディフェンスに関しては、ファーディナントの甘さは年齢によるものといえそうであるが、ポゼッションができないのは致命的である。そのカバーリングにヴィヴィチが追われていた。ファーディナントが小刻みのドリブルに振られた前半の1対2の状況では、中央のFWを後退しながら視野に入れ、一転ドリブラーへのアタックによって、失点を防いだ守備は見事であった。アウェーの1stレグ0-2の敗戦。ところで試合運びから、改めてモイーズの影響力の大きさがわかった。選手は型を強要されているため、自由に発想できない状況にいる。唯一ルーニーだけが例外である。禁止されていたと思われる、彼の放ったあてもないロングボールによって組織的守備を崩したのは皮肉である。ユナイテッドのベテランとはいえ、30代は、一般に考えると若者である。監督の影響力は大きいのは当然だろう。香川が干されている理由は、自由な発想をしようとするところが折り合わないからであろう。そうした自由なルーニーが香川を欲してくれればと思う。ところで、ウエッブでは香川の働きが評価されていない。このゲームではそうでなかったと思うのだが、どうだろうか?

2月25日(火)
隈氏の千葉工大での講演会。1755年のリスボン地震から自作を引き寄せて説明をはじめ、この歴史感覚を流石と感心する。この時期にカントもこの大地震を経験し、地震の物理的メカニズムまで解明しようとした。同時に心的影響も考え、崇高という概念に行き着き、「判断力批判」の執筆へ向かったのである。その辺りを10+1に「崇高と美の観念の起原」エドマンドバーグ著の書評として書いた。隈氏も、建築が変わるのはこのような外からの強大な圧力でしかないと考えていたようだ。負ける建築の根拠である。もうひとつ歴史的なこととしては、世界恐慌後のライト、おそらくブロードエーカーシステム、に言及していたことである。ブロードエーカーシステムは、当時のニューディール政策(フォーディズム)に対抗するべきものとして出現したプログレッシブ党の農業を中心とした協同体システムである。ライトは、自然素材を使い、このタリアセンでの自給自足協同生活を考えていた。隈氏も、政策との関係で建築を見出そうとしている。3.11以降の素材と構造の使い方の根拠をここに置いている。ただし、素材はスケールに左右されるので、大きな公共建築では説得力がないのではないかとの疑問が残る。長岡の役場プロジェクトでは、公共の屋外空間が有名であるが、僕らがコンペの中心として考えたように、役場の議会場を1階に設けていた。彼もそれを画期的なこととして少し触れる。建築を社会と接点をもたせるひとつである。学生に分かり易く、内容のある講演であった。
041 2月22日 ブンデス ハノファー×バイエルン
CLを見てバイエルンの攻撃に興味をもつ。今シーズンは、スカパーの番組編成が異なりブンデスを見る機会が減っていた。バイエルンはこの試合もハノファーを圧倒する。ハノファーは4-4-2とし、ラインを広く高めにとる布陣。サイド奥を使われないようにするためである。それでも揺さぶられ、サイド奥へボールは入るのがバイエルンたる由縁である。ラインが下がり、その折り返しをMFがシュートを放つパタンだ。1点目がそれであった。後半ハノファーは前線からの強いプレッシングに戦術を替えたのだが、大きな三角形をつくって縦パスで崩すかたちでバイエルンが対抗し、2点を獲る。完璧であった。特に3点目は、FWとMFの距離をなくした、サイドから受けたボールのワンツーによる中央突破からのゴールであった。香川が理想的とする得点シーンである。バイエルンを崩すとしたら、アーセナルがゲーム当初したプランのように、前目からのプレッシングを持続させるしかないと思う。

2月24日(月)
「ポストモダニティの条件」第3部「空間と時間の経験」に入る。はたと空間について考える。ぼくら建築家は空間という言葉を、質という審美的意味を込めて使う。それとは別に一般の人は、組織のあり様を空間と呼ぶことに気づいた。パタンランゲージがITを通じて、組織論においてはじめに受け入れられたことに合点がいく。第3部では、こうした空間重視の美学とフロー重視の社会理論の対比からの考察である。セルトー「日常的実践のポイエティーク」、フレデリックジェインムソン「批判的地域主義」、ルフェーヴァル「空間の生産」が挙げられる。空間と時間が資本主義社会に組織化される過程が記述されている。空間と時間といったものを秩序化しようとした18世紀は、まさに啓蒙の時代であったこと(ブレーやフランス地図、フォーティーの「言葉と建築」)、そしてそれを秩序立て美学を追求したのがコルやグロピウス、ニーマイヤーを代表とするモダニストであり、彼らは、時間—空間を圧縮しコントロールしようとしたフォーディズムに代表される資本経済に取り込まれてしまった。その結果、ポストモダニズムの時代には、獲得した個人中心の空間が内向してしまった。このことが「ブレードランナー」「ベルリン天使の詩」「パリーテキサス」といった映画の紹介を通じて書かれている。結局、そのやり場のなさで本書は締めくくられる。出版は1990年。ITの爆発的成長前のことである。近頃読み始めているポストモダニズム後のキーワードとして「アジャイル」がある。アジャイルな参加型社会形成について、さらに追いたくなってきた。

2月23日(日)
「ポストモダニティの条件」の核心部分「フレキシブルな蓄積」に入る。20世紀初頭のフォーディズムの蓄積からフレキシブルな蓄積への移行について端的にまとめられている。フォーディズム下では、一貫性のある価値、国家と上昇する経済があった。それを支えていたのが民主主義的自由個人主義なのであるが、それが加速すると、新たなもの、束の間のもの、偶発的なものを重視する。しかしその価値は不確定である。不安な70年代は個別に新たな価値が見出される時代である。これを「フレキシブルな蓄積」という。新しい家族制度、地域、国家、新ビジネス、金融市場がこうして立ち上がった。IT 産業、アレグサンダーのパタン、あるいはWikiにつながる社会基盤の成立である。最近の柄谷行人を思い出させてくれる論展開である。
040 2月22日 セリエA サンプドリア×ミラン
本田先発フル出場。カカ休養のためトップ下に入る可能性あった。後半早々のトップ下交代で、再びその可能性もあったが、右サイドは変わらず。しばらく右で使われる方針のようである。しかしここ数試合と異なり、少し自由に動き回ることが許される。許されると評したのは、ライン際から絶対に動かなかった試合もあったのだが、本田がそういう立場をとるとは思えないので、セードルフの強い指示と考えたからだ。したがって方針転換をしたことになる。おそらく、CL戦のイメージがあったのだろう。自由に動き、効果的なパスと2本のシュートを放つ。その他にも大きなサイドチェンジを狙ったパスを多く出す。このゲームの起点は主に右サイドからであった。ディフェンスからの縦のワンツーでディフェンダー裏へのスルーパスがいくつか見られた。徐々にフィットしてくることを感じ、次戦に期待する。

2月22日(土)
「ポストモダニティの条件」デヴィッド・ハーヴェイ著を読み続ける。空間思考と社会構造の関係を詳細に並列解説した本である。IT出現前の社会の前提をもう一度知りたいと思いこの古典を手にした。第1部は、文化のポストモダニティについて。科学、絵画、そして都市デザインの潮流が、20世紀初頭と68年以降の2回大きく変化した。はじめの変化は、西欧モダニズムがアメリカ主導へと移行し、それを存続可能とするために新しい美学原理を必要としたことによる。それが「自由主義+抽象主義」であり、建築でいえば、1932年のMOMA、フィリップジョンソンとヒッチコックによるインターナショナルスタイル展の位置づけと一致している。そのモダニズムにはなかった自由さが、アメリカの経済台頭と同時に、帝国主義をおびた政治的な見合いをもつようになった。それが強大になりすぎ限界に達した。爆発したのが1968年からである。2部は、経済から見たポストモダニティへの経緯である。20世紀初頭からはじまったフォードを代表する大量生産中心の経済が、新しい全体的モダニズム文化と結びつく経緯が示されている。そういえば、アルバートカーンがこの時期、西洋建築史にはのらないかたちの多くの工場建築(フォード工場をはじめとする)を残している。これはコルやグロピウスが夢見た建築であった。西欧文化とアメリカ文化が交わるのはこれ以降であることを改めて知る。
039 2月22日 プレミア クリスタルパレス×マンU
交代はバレンシアとギグスであり、香川不出場。1か月以上出番がない。残念ながらモイーズの構想には全く香川はないようだ。CLでもチャンスがなさそうである。マンUの攻撃の形が少し変わった。復帰したフェライニが前目のポジションをとり、サイドからの一辺倒の攻撃でなく、パスが中心となる。しかし、ペナルティの外でのパス回しで、シュートはペナルティエリア外からであった。得点シーンは相変わらず、サイドを深くえぐってからのセンタリングより生まれたものである。2-0でマンU勝つ。この変更では、香川の出番のチャンスは少ないだろう。次の日に行われたバイエルンの中央突破の3点目が理想と思う。

2月21日(金)
038 2月19日CL ミラン×アトレチコマドリード 
イタリアは攻撃でも複雑であることを知る。このゲームにおいて通常の攻めでは4-1-3-1-1が基本で、ボールを奪われると4-4-2のようなかたちになる。トップのカカとバロッテッリも縦の関係であったり、2人同時に開きスペースに2列目が入ってきたりなど複雑だ。本田は言葉の壁もあり、理解できていないのでないかと不安に思う。前半は、カカとバロテッリがディフェンスを押し込み、比較的楽に2列目のドリブルを可能にした。動き回るバロテッリに1回預け、近くにいるカカがシュートいうパタンがいくつも実る。ただし、ネットを揺らすことはなかった。後半は、おそらく、バロッテッリがボールをもらいにペナルティエリア外まで上がってしまいそのスペースが消えていた。そのためチャンスが少なくなるが、ファウルによるフリーキックが多くなった。本田はCSKA登録のため出場資格がなかったのだが、今日のような縦の動きに弱いことを知る。

2月20日(木)
037 2月19日CL アーセナル×バイエルン 
昨年の決勝リーグ1回戦と同じ対戦。バイエルンは監督がベップに替わり、アーセナルはチームが一新。どちらも今シーズンのテスト的意味合いのあるゲームと位置づけ、意気込みを顕わにしていた。序盤はホームアーセナルが優勢。前線からのプレッシングが有効に効き、右サイドのサニャへ一端展開してから、再び中央突破を試みる攻撃で幾度となくチャンスをつくる。しかし、決定的チャンスとなったのはその隙を狙った反対サイドのエジルであった。エジルはPKを与えられるものの失敗。エジルはそれを引きずりプレーに精彩さを欠いた。その時間帯から戦況がバイエルンへ傾く。前半終了間際のGKシュチェスニーのレッドカードが、アーセナルをさらに苦況に追い込むことになった。後半早々クロース、終了間際にはミュラーが得点。2得点差以上にバイエルンの完勝であった。バイエルの攻撃はというと、実に無理のないものであった。それは、センターFWを中心に2重の大きな円でアーセナル守備陣を囲むものだ。大きくボールを回しながら、時折FWまたは攻撃的MFが外向きボールを受け、その繰り返しでディフェンスを揺さぶるものだ。混入った中への無理なパスでないので、ボールを奪われることもない。たとえボールを奪われても、広く大きく囲っているので、10人のアーセナルにはそこからの突破はどうしようにもできなかった。おそらくボールポゼッションは70%を越えていただろう。そのうちアーセナルはしびれを切らし、ライン裏やライン間へスペースをつくってしまう。バイエルンのシュートシーンは、そのカバーがさらなる空いたスペースをつくったところからの比較的遠目のシュートである。アーセナルは、チェルシーがマンC相手にとったディフェンスのように、思い切って広目のディフェンスをすべきであった。今季バイエルンの試合をあまり見ていなかったことが悔やまれる。

2月19日(水)
「創発」スティーブン・ジョンソン著を読む。訳者の山形浩生氏は「アメリカ大都市の死と生」の訳者でもある。最近読み続けているソフトの世界を建築へ橋渡しする本として選んだ。興味深かったのは、多くをジェイコブスの分析に割き、都市部に起こる階層別のゾーニングと生物界との類似であった。粘菌の離散と集合,働きアリのコロニーつくりと社会行動とにおける一致を指摘している。いずれも明確なルールがあるわけではなく、そこにある一定のパタンをしめすことにとどまっているが、そこにコントロールされたランダムさの存在「創発」を指摘している。アリがコロニーを形成する不思議なメカニズムをかたちつくるものである。副題に「個別の意志決定から自己組織化される集団の創造力」とある。大文字の目的がなくとも、プロセスの中の小さな目的を達成することで生じる変化に言及したものだ。学生時代によく読んだ70年以降のニューサイエンスを思い出す。
035 2月18日CL マンC×バルセロナ
CLが再スタートした。決勝戦に相応しい好カードであった。2-0でバルサの勝利。いずれのゴールも、バルサの落ち着いたボール回しから、FWの一瞬の突破によるゴールであった。中盤から絶えず三角形をつくり、ワンタッチでリズムよく連動を繰り返す。その距離は5m前後でコンパクトである。そうしてディフェンスのほころびを待ち受ける攻めである。グアルディオラの遺産を垣間見る。そういえば、怪我から復帰したネイマールはベンチスタートであった。マンCのスペースを消した最終ラインつくりも見事であったが、揺さぶられた後の守備のバックアップが完璧でなかったとしかいいようがない。バルサはパスだけでなくドリブルでの仕掛けもある。しかしそれが行き詰まることなく、次へのパスと連動している。これが、メッシが他の選手と違うところでもある。聞くところによると、今季のマルティーノバルサの攻撃パタンはこれだそうだ。マンCもジェコを投入してから、彼がターゲットとなり攻撃がクリアになり、連動が生まれる。もう1歩のところで得点できずの完封負け。次戦は負け越でのアウェーゲームである。このゲーム後半のような思い切った戦いが必要である。むしろその方が戦い易いような気もする。
036 2月18日CL レバークーゼン×パリSG

2月18日(火)
「デザイン思考が世界を変える」 ティム・ブラウン著を読む。ティム・ブラウンはIDEOのCEOである。IDEOは世界を代表するデザインコンサルタント会社であり、度々様々な書籍で散り扱われるので、IDEOについて調べたくなった。ここにはデザイン思考するための方法や組織論が挙げられている。いずれも、研究室活動に使える、いくつか興味を持ったことがあった。「前もって許可をもらうのではなく、あとから許可を求める方がよいとされる文化、つまり成功には報酬を与えるが、失敗しても許される文化は、新たなアイデアを生み出す」。「イノベーションの定義は、優れたアイデアを効果的に実行することであり、もはや優れたアイデアだけでは不十分なのである。」

2月17日(月)
「都市はツリーではない」を読む。人の思考形態は単純なツリーシステムでしかなく、それにもとづいてつくられた近代以降の都市は許容力のあるものにならない、というのがこの本の要旨である。そのために、漸進的成長なるものを、後に「オレゴン大学の実験」で提案した。情報を取り込むためのバイアスとして時間が考えられている。それに対して、近頃読む情報科学の本では、アジャイル(素早い)がキーワードである。それは漸進的成長と対極のものである。ITにより誰でもが参加可能な世界が保証された。それは短い時間で多量の情報を組み込むことを可能とする世界である。重要なバイアスが時間から参加に変わったのだ。コラボレーション、エコロジカルといった概念はそこから生まれてきた。半世紀の年の流れを感じる。ぼくも構造家とのコラボレーションで多くの作品をつくってきた。構造解析がノートブックレベルで瞬時にでき、かたちのフィードバックが容易になり、これを設計に反映してきた。大事なのは観察量でなく、そこに差異を生むことにあるというベイトソンの考えが頭を横切る。多量の情報によって様々な差異を発見していくことが、設計行為を格段に進歩させるのだ。

2月16日(日)
「知識創造の方法論」を読む。いかにして組織的な知力を鍛錬するかについての方法が書かれている。与えられた問題の解決にとどまらず、新たな構想を構築するには、企業トップだけでなく、そこで働く個人全てが知力の鍛錬を備える必要があるという訳である。デザイン思考という語が目立つが、抽象的でよくつかめない。実用書であるためか、少し虫がよすぎると感じる。ただ、ビジネスの世界においても、すぐれた新商品を発売することに終始していてはダメなことが判った。このような企業トップダウンの垂直的な考えが改められ、消費者や環境を考慮に入れた柔軟で水平的なエコシステムとしてビジネスが描写されるようになったのである。それは、まさしく建築的な発想である。
034 2月15日セリエA フィオレンティーナ×インテル
コロンビア代表クアドラドと長友のマッチアップ。クアドラドが後半に足をつったところを見ると、上下運動を繰り返した長友の勝ち。クアドラドはその時点で交代が告げられる。局面において見応えがあった。同様に一瞬の飛び出しにおけるゴールがセリエAでの売りである。長友のクロスからの決勝点もそれであった。同じコロンビア代表同士のクアドラドとインテル・グアリンの一触即発的な争いも凄かった。日本とは異なる国民性を認識する。香川と本田がピッチ上でやり合うことなどあるだろうか?セリエAは要するに局所戦がメインである。逆を返せば、トータル的には退屈なゲームであるともいえる。守りが重視され、スペースが消され、選手間の距離があり、攻撃にスピーディさを生まないからであり、ボールを奪う位置が最終ディフェンスラインであり、奪ってからゴールまでの距離が長く、攻守の切り替えもスピーディでないことによる。観客が少ないため緊張感に欠けていることも要因としてあるだろう。TV収入を重視して生観戦対策を怠っていた結果である。今年のCL16強にミランしかいないのが実情である。

2月15日(土)
「利益や売上げばかりを考える人はなぜ失敗してしむのか」紺野登著を読む。「パターン」から、コードソースをオープンにしたシステムつくりについて興味をもったことからこの本に廻り合う。なお著者の紺野氏は建築の出身である。経営においても、イノベーション的な発想方法は不可欠であり、そのために、個人・組織・社会の知識の結合の必要性を説いた本である。その知を束ねるのが「目的」であるという。common good共通善、バウンダリー・オブジェクトという新しい言葉を知る。続けて「知識創造の方法論」野中郁次郎+紺野登著を読む。
033 2月15日セリエA ボローニャ×ミラン
本田が右サイドで窮屈そうにプレーをするのを見る。体調壊していたため精気も感じられず、後半65分で交代。香川より重症のようだ。自由さが与えられていない。1-0でミランの勝利。

2月14日(金)
「パターン、Wiki、XP」の後半を読む。アレグサンダーのパタン思考が、Wikipediaの誕生なるまでのプロセスがまとめてそこに記されている(特にp182)。Wikipediaの最古は、2001年1月15日だそうだ。当初のNupedia(New encyclopedia 新しい百科事典)というシステムが、「Wiki」システムを取り入れることで現在のWikipediaへと発展した。「Wiki」は、ウォート・カニンガムとケント・ベックが開発に関わったパタン的思考をもったプログラムをもっている。このときNupediaがとった方向転換、すなわち専門的で正確あることよりも、アジャイルであることを優先したことが成功の理由として挙げられている。一般の人が参加可能なシステムとしたのだ。これが膨大な情報の処理を可能にし、成功へ導いた。次に、「パタンランゲージ」と「Wikipedia」の中間に位置するものとして、GoF4人組による「デザインパターン」が紹介されていたので、早速これを読む。「パタンランゲージ」における施工部分に当たるのだろう。実務的で全く理解できなかった。「Wiki」と同様、システムがパタン構成をとっていても、そこに「参加」という概念がないので、ぼくのような素人には理解不能なのである。「Wiki」のもつ参加という基本コンセプトの偉大さを知ったのが最大の収穫であった。

2月13日(木)
032 2月12日プレミア アーセナル×マンU 
香川またしてもベンチ外。マンUは前回同様の攻めができなかった。ポイントは、いかにボールポジションをあげるかである。それにより有効なサイドチェンジを繰り返して、相手陣営を崩す。その中でのセンタリングとこぼれ球を拾った2列目からのシュートが、モイーズのいう「正しいかたち」である。このゲームプランでは、狭いスペースで両チームが対面するため、香川のような小さなプレイヤーは苦手であろう。古き良きイングランドサッカーを代表するものである。そのためマタも香川も、そこにショートパスを組み込み、アクセントを付けるサッカーをしなければならないのだがそこまで至っていない。昨年を振り返ると、ルーニー、キャリック、香川の連携にその可能性を見いだすことができたのだが、この数試合の状況を見ると、香川はモイーズから全く信頼を受けていないことが判る。0-0のドロー。マンUの抜け出せないトンネルは続く。マンUの今季決算が発表になる。今のところ、日本からの放映権収入により黒字収支。香川の去就が取りざたされる中、モイーズと経営側のやり取りに注目される。

2月12日(水)
修士設計講評会。午後から遠藤研の発表。五十嵐くんは山居倉庫のリノベーションを計画する。歴史的であるが、現状は空きとなっている倉庫に、観光客と市民の両者が使える工作センターと役所機能を組み込んだ案。前面にある川の交通機能も復活させ、街に中心機能をもたせようとする案である。8棟の連続する木造倉庫を貫くようにチューブ状の新しい動線が計画されている。それは、構造補強として機能し、倉庫という大空間を全空調するのは合理的でないとし、空調範囲を明確に分離する環境を配慮したものである。歴史的建築物のリノベーションとはいえ、デザイン範囲をもっと明瞭にすべきであった。かたちはランドスケープに合わせても、思想は明快にすべきである。河内くんの案は、ハイプレインという幾何学を発見し、それを建築に応用した意欲的な案であった。1平面上1点を中心に三角形を集合させるためには、内角の和を360°にする必要があるのだが、360°を越えた場合、幾何学が立体的になる。この性質を利用した案である。敷地は、山間部の小さな村。そこの斜面地にハイプレインを摺り合わせ、小さな情報センターとホールを計画した。斜面地であることと特殊な幾何学が相まって、平面図では表しきれない、外部と内部空間をアトランダムに繋げる立体的な空間がそこにあった。そこは、オープンな交流スペースであり、一体感のある多層階劇場ホールである。幾何学が勝っているため、ランドスケープとの一体化に疑問が呈されていたのだが、より大きなランドスケープからみれば、白の幾何学郡は緑の斜面の中に可愛く見えるだろう。そうしたプレゼへの配慮が足りなかったといえる。冨山くんの案は、東京36景。スカイツリーを中心に現在の東京をあぶり出そうとする案である。東京には電柱が多いこと、実は桜樹などに代表される自然が多いこと、高層ビルと木造が混在していること、首都高速道路が巨大な構造物としてうねっていることなどを、北斎の富嶽36をもとネタに、再現したものである。北斎の画法をスタディし、そうした構図のある建築シーンをつくりだしていった。最後のかたちの是非に疑問が呈されるが、目の付け所に感心した。卒業設計でも同様のテーマを展開していたが、格段のストーリー展開をさせるものであった。林くんの案は、住宅には多く散在されてきた中間領域を公共建築にも応用しようとする案。かつて芸能の街として栄えた浅草において、再び路上芸能空間を、現代的軒下空間で復活させようとする案である。浅草公会堂の地を敷地に選んだ。地上面だけでなく、立体的に繋がる公共空間が展開されていることに高評価を得た。都市のコンテクストを読み込み、丁寧に建築に折り込んだ好感のもてる案であった。今年のM2はスケールにおいて圧倒するものがなかったものの、実に良く考えられた案が多かった。今後の伝統としていきたい。
031 2月11日プレミア ハルシティ×サウサンプトン
吉田の少し開き目のポジショニングに感心。絶えず守備範囲にFWを捉えることで、裏を取られる場面も減り、1-0の完封に貢献。前回のように一発で抜かれることもなかったのは、ボランチが守備的であったためでもある。しかしその分、攻めへのタイミングが遅れ、攻撃の連動が見られなかったのは、これからの課題である。同時によい解答を得ることができないのは、どの世界でも同じであることを知る。この時期の勝利は大きく、マンUに勝点でせまる。

2月11日(火)
030 2月9日 セリアA インテル×サッスーロ

2月10日(月)
「パターン」を読み続ける。状況をデザインする言葉として「Playground」という言葉が気に入る。「CRC(Class Responsibility Collaboration) カード」、「それゆれしかし形式」という試行は、「Playground」上で方向性を模索する方法である。そうした試行を通して「Playground」を再発見するともいえる。まさに曖昧模糊した全体を表す言葉である。
029 2月9日 プレミア マンU×フラム
サッカーでいうクリエイティブなプレーとは、こうした「Playground」を活かすものだと思う。個人のイマジナリーなプレーが、小さな渦となってチーム全体を巻き込む。「創発」スティーブ・ジョンソン著を思い出した。これもソフトウエアーの本である。マンUは、今のところ型にはまったサイドからのセンタリングが多い。大きなサイドチェンジでの揺さぶりは大きな渦にはならず。モイーズがいう、「手の打ちようがない」とはこのことである。新しく加入したマタもひとつの型にはまってしまった。こういう時こそ少し自由を与え、新しい血を入れるべきと、思う。香川にその役割を期待する。

2月9日(日)
土木構築物には署名がないが、なにがしかによって立派にそれはつくられる。土木を日本国へ置き換えることも可能で、固有名のない官僚によって支えられてきた。署名なき組織を前にした個人は時に小さな存在である。しかしそれに立ち向かうことはそれだけで美しい。とはいえ、善悪は別のところにあることを肝に銘じていなければならない。悪者はときに美しく散ることもある。そうしたアンビバレントな経験をした。正当性が集団によって用いられるとき暴力となることがある。ひとりの人間を葬ることも可能だ。水戸黄門が最後に出す印籠がある。町衆はそれにひれ伏せ、物語が終わる。印籠は正当性をバックに掲げた得体の知れない強大な何かの象徴である。建築家はいいかっこしいだから、この印籠にもの申すこともある。カントは快感について述べている。快感というものは個人的なもので、それは与えられるものではなく、自らの恐怖に打ち勝ってこその達成感の表れということであった。建築家はこの興奮を追い求めることを常としているので、勝敗が明快な真っ当な意見への同調は難しいのである。むしろ、正当性にクエスチチョンを呈することの快感の方が大きいとさえ思う。伊東豊雄だけが作品性を捨てることができた。それは、作品をつくるときの快感に勝る署名なき集団と闘う快感を見つけたからに違いない。繰り返しとなるが、作品の善悪は別のところにある。「組織パターン」がまさにこれについて書かれていると思い、再び読み直す。
028 2月9日 プレミア サウサンプトン×ストークシティ
サウサンプトンホームで吉田先発フル出場。1点目の失点は、相手自陣からのスルーパスに反応したFWを、サイドBと吉田で挟むことができなかったことによるディフェンスの連携ミス。吉田は背後を気にしなければならない。コーナーキックを決められた2点目は、マンツーマンディフェンスがブロックされ、マークがズレたことにより、長身クラウチをフリーにしたことによる失点。直接失点に関係ないにしてもその時吉田も振り切られていた。団子状態のゴール前のマンツーマンディフェンスにおいて、ファーサイドからニアサイドに大きく回り込むセットプレーに注意する必要がある。その時ディフェンスは肉弾戦となり振り切られる。攻撃はというと、ストークの前線と2列目からのプレッシャーによって、サウサンプトンは、前回アーセナル戦に比べ、スムーズなビルトアップをさせてもらえなかった。特にストークの左サイドのケアが優れていた。

2月8日(土)
「パターン、Wiki、XP」を読む。現代のマウスを使って、ウインドゥを次々に開いていくコンピュータインターフェイスを、GUI(Graphical User Interface)という。それらを総じてオブジェクト指向のプログラミングというのだそうだ。それは、1984年のApple Macintoshから始まった。その開発に絡んだのが、ウォート・カニンガムとケント・ベックという2人で、ベックはぼくと歳は変わらない。コンピュータ出身であるのだが、オレゴン大学の書店で「Timeless Way of the building」に出会い、その後アレグサンダーのパタンをヒントに、GUI研究に没頭したのだそうだ。ぼくも1989年まで大学に籍があった。そのころは、日本でアレグサンダーが盈進学園をつくり、ちょっとしたアレグサンダーブームの時であった。ぼくの研究室は建築計画研究室であるが、来るべきコンピュータ時代に対して設計行為がどのように対応すべきかを探っていた。アレグサンダーに興味をもっていたぼくには、早速パタンランゲージをシステム化する役割があてがわれた。そこで学部と院の3年間その研究に没頭する。しかし、コンピュータ(当時はコマンドによる入力プログラム)に苦手なぼくは、パタンランゲージのような複雑なものをシステム化するのは不可能であると結論づけた。むしろアレグサンダーの思想の方に興味を拡げていったのだ。そうしてモノをつくる建築家の道を選ぶことになった。ベックは、当時開発されはじめていたSmalltalkの良い点を熟知していた。これをパタンランゲージのシステム化に有用であると思いついた時は、さぞ興奮したに違いない(最終的にシステムを完成させたのは90年に入ってからで、そう簡単なことではない)。ぼくはというと技術がまるでなかったので、60年代のノイマンのノイローゼプログラムをヒントにして研究をまとめた。ノイマンのプログラムは、ただただ患者の悩みを聞いてはオウム返しをするシステムである。それによりノイローゼ患者は自己修復力によって、悩みから解放されるもので、コンピュータと人間を総括的に扱うものであった。誰もがヒントさえ与えられれば美しい空間をつくることができる、それの手助けをするのがパタンランゲージであるというアレグサンダーの思想をぼくなりに解釈である。自分のことながら実に面白い分かれ道だと思う。技術に対するアプローチの違いから、こうも人生の方向が変わるのだと思った。4半世紀以上経って知った事実であった。

2月7日(金)
「プロセスが答えではないのなら、どこに答えがあるのだろう?」というフレーズは反語であった。プロセスに全てを求める戦略的組織論である。全体を把握しながら緩く縛る弾力的な組織論である。個人を尊重しながらの組織を成長させる方法といってもよい。まちつくりとプログラミングという違いにあるにせよ、問題解決に臨むときの思考方法を提示していて、パタンランゲージと同様の思想がある。成果物はそれをつくりだしたグループの組織構造を反映するという「コンウェイの法則」に代表されるように、かたちと思想を不可分としている点もこれに近い。「インクリメンタル=増分の」は、センタリングを思い出させるキーワードである。「アジャイル=素早い」が、センタリングを強化する今までにない概念である。池田とのコラボを思い出し、連絡を取る。

2月6日(木)
「弓と禅」オイゲン・ヘリゲルを久しぶりに読む。スティーブ・ジョブズの愛読書として、最近見なおされている。はじめに読んだ学生時代にも感じたのだが、禅問答を地でいく内容がよく理解できなかった。向かうべきゴールが見えないときにでも、日常の些細なことに同様の問題があるので、それを通じて1歩1歩漸進的に成長することが理にかなった道である、と読む。これを感覚として理解できるのだが、この弓の先生のような強い指導を行えない現実がある。続けて、「組織パターン」ジム・コプリエン+ニール・ハリソン著 和智右桂訳に進む。コプリエンは、Nature of Orderの謝辞に挙がっている。冒頭にある「プロセスが答えではないのなら、どこに答えがあるのだろう?」というフレーズにも惹かれた。

2月5日(水)
レジスと表意文字について話が盛り上がる。渋谷には谷が多いのが、「渋谷」という名前の由来であることを説明する。そうしたら、「渋」は何かと聞かれた。ぎょっとして、渋谷区のホームページで調べると、昔は入江であり、塩谷であったことが判る。今でも渋谷駅は一番低い場所にあり、道に迷っても下っていけば必ず駅までたどり着くことができるというと、なるほどそうだという。実際に今週の日曜の朝、原宿から迷いながら渋谷まで行けたそうだ。表意文字である漢字は始皇帝時代に改良された。紀元前2世紀に始皇帝が周辺民族を次々征服した。そのとき、自国語を強要せずに新しく改良した漢字を通し、視覚による意志の伝達をはかり、全土の統一を完成させた。人身の掌握も最後は文化である。その後、漢字はそれぞれの地域において、時代とともに簡略化されていき、現代にいたる。中国では、「愛」の字に今は「心」部分がないそうだ。日本ではこの表意の簡略化に加えて訓読みが追加された(柄谷行人「日本精神分析」)。日本は、文化においても完全に大陸からの影響下にあった。それに、日本独自の文化を付け加えることで、大陸文化を換骨奪胎させ、心の征服からも逃れたことが記されている。これにスピードと誰でもの参加の可能性を加えると、グローバル時代のウイキィペディアになる。「パターン、Wiki、XP」江渡浩一郎著に繋げて考えることにしよう。

2月4日(火)
本日は朝から卒業設計発表会。毎週のように指導をしてきたのだが、この1週間の研究室の学生の頑張りに驚いた。今年は配置図に力を入れるように指示をし、少し不安なところがあったのだが、大きな模型と相まってそれなりに仕上がった。今年の4年生は真面目で、読書会においても積極的であった。ただ、皆を引っ張る力強い者がいなかった分、突出した案が生まれなかった。
荒井くんの「斜めの建築」は、お茶の水の両岸に挟まれた神田川上を都市公園として捉え直したところが評価された。川面をいじりすぎでないかという指摘も受けるが、斜めの手法を現代的と理解された。佐久間くんの「茂原駅そごう」は、問題設定がよかったのだが、敷地選定がさえなかった。駅との繋がりが理解してもらえなかったようだ。大きな模型であっても、内部を覗いてくれるものでない。卒業設計にいては、上から眺められることを意識した設定にすべきだと痛感する。それと対照的なのは、佐々木さんの「矢板インター」。敷地の選定が抜群であった。建物を急な崖に埋め込む方法に疑問が残されたが、ランドスケープを考えれば、この程度の非現実性も許されるだろう。後は、高速からの敷地の眺めを捉え直し、メインの建物の内部計画を構造も含めて捉え直すとよい。折れ曲がった壁のカーブの意味は構造からも来ているはずだ。杉浦さんの「路地」は、一番よい意味で意外であった。模型が、図面での理解よりずっと魅力的であったのだ。皆が指摘するように、路地というより、ヒルサイドテラスのような高級住宅における公共空地に見えた。谷井くんの「ジブリ」は期待していたが、建築となっていないところがダメであった。彼はよいキャラクターをもち、大学院に進むというので、基礎から鍛え直そう。増子くんの「道の駅」は、完成度が高く評価された。ただし、最後に1等となれないのは、大きな模型において、ランドスケープを表現しきれなかった点にある。ぼくも強く推したのだが、その点の説得力が表現されずに認めてもらえなかった。彼の良さは、頑固さと柔軟さを兼ね備えているところにある。それに踏ん張りが必要である。土屋くんの「渋谷」のパースは抜群であった。かたちものびのびしていて見なおした。普通建築をとらえるのは、歩くスピードに沿って、あるいは立ち止まってからなのだが、現実は異なっている。車から電車から、あるいはインターネット的な見方があってよい。そこからの着目から都市へ捉え直すことができなかったのが、最後までの課題であった。「川復活」の牟田くんは最後まで悩んでいた。力はありそうなので多いに悩むべきである。模型における川の表現が昭和を感じさせてしまった。上部の高層建築をもっと未来的にすべきであったか?今後のがんばりに期待しよう。

2月3日(月)
住宅建築賞の評価を書く。千葉工大の作品は、これまでにない内部空間に繋がりがあるものであった。これをぼくだけでなく、課題提出時に複数の担当教員が感じたことであったが、新たな模型写真には、それを再現できていなかった。それが、賞に漏れた原因だと推測する。それを補う解説文にした。書いて気づいたことがひとつあった。それは、多くの学生が、敷地南の公園を意識する余り、それに対する正面性にしたがい、住宅に裏をつくってしまったことであった。彼女はそれをクリアしていたのだが、それによってのびやかな計画となっていた。今後の指導のひとつとしよう。
027 2月1日 プレミア マンC×チェルシー
1-0でチェルシーの完勝。結果を知ってからの鑑賞であったので、マンCホームで完封したチェルシーの守備を中心に見る。キーパーを含めて7人で守り、攻撃は前線の4人だけ。少し退屈な試合に思えそうだが、お互いの動きとパス回しが早くそれ程でもない。チェルシーディフェンスは綺麗なラインコントロールをし、ボールに対して前向きなプレッシングを必ず1人が行う。その代わりに直ぐに1人が下がり、ラインは一糸乱れていなかった。凄いと感じる。ラインが4人から5人になり時に6人になり、2人だけを残し、ボランチ位置まで上がったりする。それに応じてシティは、最終ライン上で、あるいはボランチ位置の前で絶えず誰かをポスト役にし、そこからのダイレクトな折り返しシュートを試みるのだが、その数も多くつくりだせなかった。唯一右SBイバノビッチが上がった後半はじめに、チェルシーに得点が生まれる。モウリーニョの采配が的中。さぞ嬉しいことだろう。

2月2日(日)
026 2月1日 セリエA ユベントス×インテル
長友キャプテンで出場のイタリアダービーもインテルの完敗。中盤の構成力に差があった。長友は絶えずFWの位置にいた。何もできない場合、もう少し下がるのがよいと思うのだが、マッツアーリの指示はいかがなものだろう。

2月1日(土)
中埜博さん事務所がある中井に行き、最近のアレグサンダー自身の近況と日本におけるアレグサンダーの受け止め方について意見交換をする。昨年は、「ネイチャー オブ オーダー」、井庭崇氏による「パタン・ランゲージ」が出版され、「都市はツリーでない」や僕も関わった「住宅の生産」が鹿島から再版された。アレグサンダーの考えが、IT分野や、イノベーション的発想方法、戦略経営の組織形態のあり方を扱うビジネス分野において、プラグマティックな問題として浸透していることを聞く。それに関するたくさんの書籍を紹介してくれた。早速、アマゾンで注文する。それらは手続論として取り上げられ、その手続きを経て生まれるものがどんなものであるか、その価値については言及していないのが本質的問題であるとの意見で一致する。アレグサンダーは、プロセスも含め、最終物における価値に揺らぎがなかった。その当時の建築界で巻きおきた様々な問題の原因はそこにあった。彼の日本での作品「盈進学園」も、ポストモダンの時代に置いてさえ、擬日本的であったことにより、反対に建築界からの反発を受けたのはそのためであり、皮肉なことでもある。今月号の新建築住宅特集で、僕はその価値を固辞することは、ユーザーを蔑ろにすることではなく、飛躍的なコミュニケーションを高め、お互いの合意形成、すなわちサスティナブルになることを書評した。中埜さんに紹介された書籍の中で、経営の本がいくつかある。経営では売上という明確な結果が求められるのだが、他の価値というのはあるのだろうか? 中埜さんに大学での講義のお願いと、「ネイチャー オブ オーダー」4巻翻訳の話しをして、お暇する。懐かしくもあり、興奮した夜であった。
024 2月1日 プレミア ストーク×マンU
パス連動でいくのか、サイドからのクロス攻撃を中心とするのか不明瞭なゲームプランで、攻撃が噛み合わない。追加点が取れず1-2で勝ち点3を落とす。香川はベンチ外。バレンシアとヤヌザイも不出場であることを考えると、戦略を変えつつあることが伝わってくるのだが、マンUの伝統を覆すことは難しそうだ。
025 2月1日 セリアA トリノ×ミラン
前半途中に、わざわざカカがベンチまで戻り監督と相談する。その結果、2列目3人のポジショニングが流動的となる。後半から、先週のカリアリ戦と同様、本田は右に固定される。センターとの間に大きなスペースができ、そこに守備陣が攻撃に入り込む。得点はそのかたちからCBが得点したパタンであった。本田は、ドリブルをサイドライン深くあるいは中央に仕掛けるのだが、ワンツーで崩したいのだろう。守備陣が中央スペースに入り込むとき、それが障害になる。本田は自由を好んでいるようであった。プレミアと比べると、カカにおいてさえも、判断そのスピードが遅い。得点にならないのは、そのためである。1-1のドロー。トリノが中位にいるのは伊達ではなかった。

1月31日(金)
ラ トゥーレットのプランについて熟考する。中庭を閉じない工夫を改めて考える。思えば、5原則に中庭はない。シトー4教会との意訳をどうするかをコルビュジエは考えたに違いない。

1月30日(木)
「STAP細胞」について報道される。今までにない単純なプロセスによって、より成功率の高い受精前細胞ができるのだという。微生物をはじめ、そもそも生物は機械ではないのだから、細胞生成プロセスは単純明快なはずだ。彼女はそこに注目し、単純明快なプラットホームを用意した。後は、細胞内にある自律生成システムによる創生力に委ねることを考えた。僕は、ノイマンの精神病を治癒する人工プログラムから、同様なことを学んだ。コンピュータは、「YES」とただただうなずくだけで、それにしたがった精神病患者は、自然と自らのダブルバインドを開放する治癒プログラムであった。建築でいえば、細部をあれこれ提案するよりも、生き生きと生活するための切掛けをひとつだけでも与えることが重要なのである。その後はユーザが考える。「STAP細胞」の場合は、弱酸性溶液がそれにあたる。以前「串のような建築」を提案したのだが、今でもそれを目指したいと考えている。
023 1月28日 プレミア ウエストハム×チェルシー
退屈な試合であった。ゲームはお互いでつくるものと改めて知る。モウリーニョの試合後のインタビュー「West Ham play 19th-century football」がよくそのことを表している。

1月29日(水)
難波さんの4層構造について考える。XY軸による表で4層構造を表すのに対して、デザインスゴロクは3つの中心が重なり合ったダイアグラムで表現されている。池辺さんのデザインスゴロクにある自由さはそこにあることに気づいた。4層構造を、正四面体のような立体的なダイアグラムに置き換えることは可能でないか? このようなかたちは、4つの層が互いに影響し合って全体が形成されるように見える。ある層が高いポテンシャルをもつことで、全体がバランスをとろうと、他の層も釣られるように動く。これを表現したダイアグラムである。コンペにおいて、遠藤事務所が、機能的(平面)提案はともかくとして、かたちの提案にこだわるのはそのためである。
022 1月26日 プレミア サウサンプトン×アーセナル
2戦続けての吉田の先発。ジールに体を預けられ、ゴールライン反対側のスペースを与えてしまったことによる1点目は、プレミアの質の高さを示すものであった。吉田も肌でそれを感じたはずだ。しかし慌てることもなく、FWの位置を見計らったディフェンスラインから両足を使ってのビルトアップ、ときに左足でのロングボールを使うのは、サウサンプトンのチームコンセプトであり、吉田も難なくそれを実践していた。そうした最終ラインから始まる攻撃に、アーセナルはかなり苦しめられる。特にサウサンプトンの左サイドは圧巻だった。絶えず1辺をサイドライン平行にした3角をつくりながら、縦パスを繰り返しアーセナル陣営深くまで攻め込むものである。昨年の日本代表のベルギー戦における右サイドの攻撃を彷彿さえてくれた。最後のセンタリング精度も高く、1点目はその典型である。首位アーセナルは、後半立ち上がりに一端勝ち越したものの、直ぐに追いつかれ手痛いドロー2-2。むしろ、サウサンプトンがチャンスを多くつくる。おまけにフラビニが不用意なファウルでレッドカードを受け、少なくとも3戦欠場が決定する。

1月28日(火)
021 1月26日 プレミア ユナイテッド×カーディフ
マタとファンベルシーが先発。マタと香川の違いは、マタには大きな展開力があることで、サイド攻撃を重視するマンUに馴染みそうなことだ。1点目がそれを証明していた。マタからの左サイド奥へのロングボールの起点である。ところでファンベルシーの決定力には感心される。彼の不在時にもポストを叩くまでのシーンは多数あった。その後を詰めて得点できる能力が、他の選手との決定的な差である。トップクラスとはそういうものなのだろう。スーパープレーだけでなく確実性なのだ。その後マンUが、落ち着いてゲーム運びができた一番の要因でもある。これまで欠けていたことだ。マタの評価は待たなければならない。香川出場ならず。ルーニーとのプレーを望む。

1月27日(月)
国営BBC放送が、マタの移籍の影響について、勝者と敗者に分けて解説している。勝者は、マタ本人、ユナイテッドが目指すことになる創造性あふれるプレー、モイーズ、ルーニー、モウリーニョ、スペイン代表、そしてユナイテッドのオーナー。敗者にチェルシーのライバルチーム、香川、両サイドプレイヤー、を挙げている。英らしいウイットに富んだ分析だと感心する。チェルシーは大金を手にしたと同時に、ユナイテッドに奮闘してもらうことで、ライバルチームの優勝戦線からの離脱を手にするという話である。チェルシーは、ユナイテッドとの対戦を今季すでに終えている。一方、来季4位以内に入り、CL出場権を得るのが絶対条件であるユナイテッドは、死にものぐるいでシティ、アーセナルと対戦する。それをチェルシーが影から後押しをした。最後にカップを手にするのは、チェルシーという訳だ。

1月26日(日)
建築雑誌1月号「住むことから考える」篠原、北山、上野、織山氏の対談を読む。「アンバンドリング」がキーワードである。サービスをはじめとするソフトとハードである箱ものを分けるマーケティング戦略をいう。戦後、個人資産形成と持ち家推進制度が一体となった国策が現代の問題となっていることを指摘し、この関係を離す新しい試みが、コーポラティブの協同であり、昨今の福祉制度にあるという。今後の住宅制度のあり方を示唆している。
ドマーニ展の最終日に新国立美術館へ行く。「ドマーニ」とは、明日という意味であることを知る。栗生さんの伊勢は、現代的かつ地に足がついた風格のある建築であった。是非、見に行きたい。それと対称的であったのは、川上りえさんの針金彫刻。いくつもの細い針金でつくられた線状の彫刻が天井から吊られているのであるが、直方体をかたちつくる1本1本の針金が直線でなく、曲がっている。それが、逆に不思議な浮遊感をつくりだしているのである。
020 1月26日 セリエA カリアリ×ミラン
本田が右MFで先発。少なくとも4度のシュートを放つが、決勝点となったコーナーキックのアシストに活躍がとどまる。とはいえ、入団してから2週間であることを考慮すれば、まずまずの及第点だろう。右のポジションでは、可能なかぎりサイドライン際で開いて待つことが要求されていたようだ。2列目からの上がりを期待し、ゴールエリア中央付近にスペースを残して置くためである。同点フリーキックにつながった、相手のハンドを呼んだ終了間際のシーンも、そうしたかたちの上のものであった。しかし、守りを固められたときの崩しは難しく、本田を含めミランの試行錯誤が続く。対照的に本田が絡んだ1度目のバロテッリとのワンツー、2度目のカカーのセンタリングからのヘディングはいずれも、中央にポジションイングをし、相手の攻撃からの速攻をかけたものである。この2つの攻めのパターンが早く機能することを期待する。

1月25日(土)
午前と午後の2回、1時間30分かけて、来年度入学者に対して模擬講義を行う。ブータンの紹介から、パロゾンの開口から差し込む光について私見を述べる。それを谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」に結びつける講義である。「陰翳礼讃」は、新入生の必読書であるので、至る所で考えられる問題であることを示唆したかった。それに、近代建築の均質な光とロンシャンの光を持ち出し、現代建築家の光に対する解釈も加えた。新入生には、建築に対する広い視野があることを掴んでもらいたい。
6時から、難波事務所OB会に出席する。河内、中川両くんと話している内に、ぼくらが作品をつくるときに囚われすぎているあることに気づく。それは、課題をひとつの形式へまとめあげようとする強引さである。同様に、コンセプトを表現するときや、相手との受け答えといった言葉を発する時にも見られる。難波さんの執拗な問いから防御するための、いつの間にかに身に付けた態度であるかもしれない。
019 1月26日 ブンデスリーグ シュツツガルト×マインツ
岡崎が9点目でマインツが1-0で勝利。岡崎のキーパーとの衝突を恐れないプレーによる得点。彼の真骨頂だろう。反対に酒井高徳においては、彼からおきた失点の他にもミスが目立つ。
018 1月22日 キャピタルワンカップ マンU×サンダーランド
香川は悪くなかったと思うのだが、それは日本人のひいき目だろうか?前半途中から、曖昧であったが、香川がトップ下に入る。比較的流動性が認められていることから、香川の主張で中央に居座ったようにも思えた。それを確かめたいところである。しかし後半は、香川に中央のポジションがしっかりと与えられた。同時にスウォンジー戦と同様、チームとして、ボールを奪うコンセンサスが生まれ、ボールポジションもマンUが勝る。そうした時点での香川の交代であった。勝利を確実にするため、もう1点を取りにいく方法において、モイーズは香川を見切ったかたちだ。どうやらモイーズには、力強い突破しか頭にないようだ。守備もある程度信頼のあるバレンシアを投入し、ウェルベックの中央突破にかけたのである。しかし、ウェルベックの強引さからボールを失うことしばしば。逆に、サンダーランドのボールポジションが高まり、そこから多くのチャンスを与えてしまった。守備のバランスが崩れた格好だ。マタの移籍が噂される中、香川は自分を出そうと必死である。モイーズは香川を本当に見切ったのだろうか?

017 1月22日 コッパイタリア ミラン×ウディネーゼ
ミランが開始直後の1点目以外、見せ場をつくれず、カップ戦敗退。本田は、後半35分過ぎに登場。1点目は、縦縦と見事な突破であったのだが、その後、守備的なウディネーゼに対して、ハーフラインからのペナルティ付近へ最終パスがつながらず、崩すことができなかった。

016 1月19日 セリエA ミラン×ヴェローナ
本田がリーグ戦初先発。思っていたより、ボールが本田に集まるが、ゴールを固めたヴェローナのディフェンスを崩すまで至らず。本田が退いた後の、バロテッリのPKの1-0で、セードルフの初勝利。本田、カカ、ロビューニョの3人は、バロテッリ下で流動的に動いていたが、もう少しコンビネーションを高める時間が必要なようだ。ディフェンスに人数をかけて、ゴールを固められた場合、個人のドリブル、あるいは、ショートパスのワンツーなどの崩し方がいくつかあると思うが、チェルシーのように、ボールを広く回すことで、ディフェンスを引っ張り出す方法もあるのだろう。その場合、サイドに早い走力とパスセンス、中央にそれを受ける選手が必要とされる。サイドの起点となるプレーを恐れて、ディフェンスが引っ張り出されるからである。チェルシーでは、アザールがそれである。日本代表においては、香川を中央に置き、サイドの起点となるのが宮市か?宇佐見だろう。清武では物足りない感じがする。左サイドの香川に固持するモイーズはどう考えているのだろう?
月曜日深夜のスーパーサッカーで本田のリポートが入る。本田は、バロッテリやカカに、ボールの受け方を指示しているそうだ。ビッグクラブで、新参者の行うことではないらしい。ミランが不調にいること、セードルフ新監督が本田と丁度同じ時期にそれを打開するために赴任したこと、そのセードルフがもともと攻撃重視の考えをもっていること、を加味しても、これが事実であるとしたら、凄いことと感嘆する。

015 1月19日 プレミア チェルシー×マンU
チェルシーホームとあって、マンUは守備的なシステムをとる。それを予想してか、モウリーニョは、1トップにスペース裏を狙うトーレスでなく、エトゥーを先発に起用。それが当たった。エトゥーのハットトリックでチェルシーの完勝。マンUは、4位との差6点となり、リーグ戦において窮地に立たされる。体格のない香川出場せず。
チェルシーのシステムは4-2-3-1で、グランドいっぱいを使ってボールを回す作戦。マンUのディフェンスが引っ張られ、選手間横に広いスペースが生まれる。そこをエトゥーが割って入った。1点目と2点目は、その典型であった。ディフェンスについているものの、エトゥーとの距離を詰め切れずに、素早く打つシュートを打たれ、対応が追いつかなかった。モウリーニョの采配に脱帽。
ゲーム開始時、マンUは守備重視策をとったため、ウェルベックとヤヌザイの2人の個人技に頼る作戦。それに納得したとしても、点差が開いた後半は、より守備的になったチェルシーを打開する別の策がマンUに必要であった。しかし、モイーズは、それに応えることができなかった。スウォンジー戦後半で示した、ディフェンスラインを上げて、チェルシーディフェンスを強引に崩す一か八かの手があったと思う。その場合、香川の助けが必要となるだろう。しかし、前半戦のマンC戦6失点が思いだされたのか、大敗を恐れ、思い切った作戦を打つことができなかった。次戦、ミッドウィークのカップ戦に期待する。

014 1月14日 プレミア アストンビラ×アーセナル

013 1月13日 セリエA サッスオロ×ミラン
後半20分から本田デビュー。18番からをのぞき、そこそこにパスも受け、チームに馴染んでいたことに、正直安心する。ボールを失うことを避けるためか、球離れを極端に早くしていたのが目立つ。そのため攻撃が単発で、チームに連動をもたらさなかったが、それでもポスト直撃のシュートは、本田の落ち着き、このレベルでも十分に通じることの証だろう。これからに期待する。3-4でミランが負け、監督の交代が報道される。監督の信用を得ていただけに、本田にとって、慌ただしい日々が続く。

012 1月12日 プレミア ニューカッスルU×マンC
審判のゴール取り消しジャッジミスにより、荒れた試合となる。Y・トゥーレとナスリが負傷。ナスリは長期間の離脱になりそうだ。

011 1月11日 プレミア マンU×スウォンジー
前半40分過ぎに香川がトップ下に移動してから、ゲームが動く。ボールを奪う位置について、チームの意識が統一され、前線と中盤が連動した。それが、2点目へと繋がる。ヤヌザイのボールカットからの攻撃は、スムーズかつスピーディで、その典型であった。キャリックとフレチャーの香川へのダイレクトパスは効果的で、このかたちで、守備的中盤が攻撃に絡み、幾度となくゴールにせまる。スウォンジーのゴール前からの跳ね返しも拾い、さらに攻撃に厚みが増す。ディフェンスからのビルトアップにおいても、香川がセンターライン付近でためをつくることができたのが大きい。そこから左右サイドバックへの展開ができた。75分の香川の折り返しを、スモーリングは決めるべきだろう。終了間際、スウォンジー攻撃を受け止めたヤヌザイから右サイドのラファエルの突破、香川のシュート(残念ながらスウォンジー7番にゴール前阻止させる)は、ドルトムント時代を彷彿させる攻撃であった。キーパーを交わしたトラップを、もうボール1つ分左に置くことができれば、強いボールが蹴れたはずだ。試合後に、トップ下での手応えを香川が語る。このシステムで、マンU共々香川も調子が上がってくると良い。

英メディアからは、ヤヌザイの活躍ばかりが報告される。モイーズの試合後の彼を賞賛するコメントに引張られているためだと思う。ヤヌザイの左足は、そろそろ相手に読まれつつある。ただし、まだツキをもっているので、香川と上手く絡んでくれることを願うとともに、モイーズの本心を知りたいところでもある。

010 1月10日 セリアA インテル×ラッティォ(1月7日録画)

009 1月7日 FA杯 アーセナル×スパーズ(1月4日録画)
7番ロシツキーのプレーを追いながら観戦。2-0でアーセナルの勝利。ウォルコットが負傷し、6か月の離脱。8日には、本田のミラン会見を飛び飛びで見る。「リトル本田」がはやりそうだ。10番を背負って、がんばってくれといいたい。

008 1月5日 FA杯 マンU×スウォンジー
香川フル出場も、またしてもFWポニーの活躍。コートジボアール強い。いまひとつの香川の評価をウエッブで読むのだけれども、後半の動きは悪くはなかったと思う。ペナルティエリア内で、ボールを預けてのワンツーを何度も試していた。香川には自由なポジショニングを与えれば、それなりの結果を出す。

007 1月2日(木) 04W杯 日本×オーストラリア
最も悔しかった試合である。あの当時、僕らは海外組を中心としたチームつくりに、これまでの日本を突破する何かを期待していた。ダイジェストでは度々見ていたが、改めて1試合を通して見て、判ることも多かった。それは8年経ってなせる業でもある。
日本の放送時間に合わせて昼間に行われ、体力の劣る日本に不利に働いてしまったこと、前半からオーストラリアの肉弾戦につきあってしまい、そのツケが後半にきたこと、ジーコのチームつくりに対する考えが無策であったことなどが敗因であった。驚いたのは、ケーヒルは後半10分から投入されていたことであった。後半30分過ぎでの投入と記憶していたからである。それほど、試合はドタバタであった。FW高原と柳沢の守備はほとんどない。中田はこの年に、アラダイスの下でプレミアボルトンにてプレーしていたが、ほとんどがスペースへのロングボールである。ヒディングがディフェンスラインをおし下げるために、ロングボールで、日本の中盤を省略させたことに対しての策が全くなかった。今の代表であったら、どうだろうか?彼らは、コンパクトでお互いの距離を大切にする。昨年のベルギー戦で、その成果を見ることができた。連携の大切さをこの試合から学んだのだろう。ディフェンスの技術に関しても、その進歩に目を見張るものがある。ズルズル交代することなく、自分より大きなFWにボールが渡る前にカットすることで、そのリスクを避ける術を知っている。吉田はたまにそれを失敗するのをサウサンプトンの試合でみるのだが、それは失敗を克服するためのチャレンジとみることもできた。次の日、日本×パラグアイの南アフリカ16強の戦いを食事の合間に見たが、この問題が既に解決されていた。

006 1月2日(木) 98W杯 日本×ジャマイカ
今日は1日中、BSNHKでW杯特集である。再び悔しい思いをする。現在の日本代表と異なるのは、見方同志プレイヤー互いの距離にある。現代表は明らかにコンパクトである。それが、16年の成果か?当時は、中山のゴールに感嘆するのが精々であったが、平野のアーリークロスとそれを受けるロペスのポジショニングが光っていた。しかし、中山が1点を取り返してからは、勝ちそうなポテンシャルを感じることができない。その理由が、その後の日韓W杯の16敗退、南アフリカW杯の16敗退に繋がっていることを痛感する。もうひとつ、踏ん張りが足りないのである。それは、チームの実力差に関係しているのかもしれない、実はジャマイカとは同レベルであった。昨日のアーセナルは、明らかに実力が上であった。絶えずコンパクトなシステムを保ち続けていた。実力差があっても、サッカーではこうした状況は起き得る。精神論ばかりに問題をもっていくのは危険である。

005 1月1日(水) ヤべっちFC×日本 フットサル
お正月の特別番組。矢部の技術うまさが目立った。少々驚く。ガンバ宇佐見の速さに改めて感嘆。6月に期待しよう。バイエルンでの2年間はウソではなかった。

004 1月2日(水) プレミア マンU×スパーズ(1/1録画)
香川60分からの出場。香川の目立ったチャンスは1回。左サイドで、ハーフ下から受けたパスを、前を向き、左のスペースへパス、その折り返しをゴールまで詰めてシュートした場面である。惜しくもキーパーに阻まれる。ドルトムント時代にもよく見たシーンである。しかし、パスをもらいたいところでもらえない状況が続いているのに変わりがない。香川もこの状況を踏まえ、プレースタイルを変えるべきだと思う。スペースに入り込むタイミングを遅らせるべきだ。
試合展開に関しては、攻撃選手バレンシアが右サイドに回った場合、彼には守備を期待できない。寄りが甘く、そのため2点目を献上。その後のルーニーがボランチの位置に入ってからは、マンUの攻撃はさっぱり。ゴール前での展開がないからである。それは、香川に期待されていることなのだが。最後、モイーズは、FW6人にして攻め込む。攻撃的姿勢を示したのは、世論操作と思う。手をうつべきことはやりきっている姿勢を見せることによって、ファンに納得してもらうという意図が見える。1-2スコアで、ホーム2014初戦を落とす。5連勝のチーム上昇気運が止まる。それ以上に、モイーズ采配の限界を知る。

003 1月1日(水) プレミア アーセナル×カーディフ
アーセナルのしぶとさが蘇った。昨年のマンUがそうであったように、勝てる試合を勝つことが大事である。アーセナルは、昨年までと反対で勝負強くなった。2-0で勝ったのは大きい。宮市は出られないまま。レンタルを志望し、6月に備えるべきだ。

002 1月1日(水) プレミア マンC×スウォンジー 
ヤヤ・トゥーレの球回しが際立っている。大丈夫か、日本? 加えて、スウォンジーのFWポニー(コートジボアール)も2点。ヤヤからのボール起点を考えると、日本は簡単には勝てないと確信する。コートジボアールが同リーグで一番手強い。

001 1月1日(水) 天皇杯 マリノス×広島
判断のスピードが世界と違う。ディフェンスの当たりが弱いので、安心してボール回しをしていることが攻撃に余裕を与えている原因である。退屈な試合であった。リーグ2位のマリノスが天皇杯掴む。21年ぶりだそうだ。