12月31日(木)

ジジェクを読みはじめたのは、(難波さんらが)ぼくらを批評するときに持ち出す「数寄屋化」にたいする反論のヒントが剰余享楽に対する彼の考えにあると感じたからであった。このとき数寄屋化というのは、重箱の隅をつつくような無意味に見えることをすることをいい、俯瞰的に立たない状況をいっているのだが、ジジェクは主体の立場を歴史的に相対化することを第一に批判している。それによって、フェティシズム、オイディプスの例に代表されるように既存の秩序補助をしてしまう。大文字なる既存システムに回収されてしまう危惧をいっていた。このことを理解したものの、その先は今一歩つかめないでとりあえず終える。
130 プレミア マンC×レスター
0-0で引き分け。岡崎は出場せず。今年は130試合を見たことになる。

12月30日(水)
「幻想の感染」の「3 フェティシズムとその転換」を読む。フェティシズムは性的偏向と思っていたが、実は呪物崇拝を意味していたことを知る。呪物崇拝は、世代を通じて伝えられてきた伝統のもとで信じられてきた。近代人はここには根拠がないと見下し、それを原始的な概念と考えている。宗教にたいしても然りである。しかし、それは貨幣に対しての近代人の暗黙の了解と同じであるという。貨幣はただの紙でしかないのではなく、社会経済交換の根本をなしている。常識というか暗黙の了解としてある。ジジェクはこれを「中心をはずれた他者の信仰」という。主体は「信じていることになっている」のである。王が王であるのは、そのカリスマ性にあるのではなく、人が王であることを認めて成立する。そして王政を認める前提も必要とされる。本書が繰り返していう「見る」こととは、対象も曖昧でかつ見ようとする意識(フレームワーク)も常識や暗黙の了解に支配されているもとでの現象をいう。訳者後書きにある「幕に幻想を写し出し、その向こうにある現実を見ないでいることによって、われわれは何かをいとしく思ったり、生きる支えにしたりしている」p393とはそのことである。「幻想を横断する」ということが度々言及される。それは、「世界や生活を支えているフェティッシュな仮想の幕の裏と表」を吟味することである。平たくいってしまったが、ぼくが惹き付けられたのはジジェクがリビドーにもとづく超自我を根幹にしている点にあった。柄谷行人の「世界史の構造」も同様である。これから読むレムクールハースもそこを根幹としているらしい。

12月29日(火)
「幻想の感染」を読む。当時のナチの話に興味を持つp93。ホロコーストで何が行われていたかということを、当時のドイツ人は知っていた。加えてそれに手を貸すかどうかの選択までが自由に与えられていたという。そうした状況でホロコーストの悲劇が起きたのは、一種の強制された選択の状況にドイツ人が置かれていたからだと本書はいう。高貴な義のために手を汚さなければならない脅迫観念が国中に充満していた。多くの建築家は当時アメリカに渡った。ナチはそれを認めた。反対に留まる選択をさせることによって、ナチのシステムはより強大な強制力を持つようになった。それは強制より強いものである。ジジェックはここから、人の主体の苦痛と直結する享楽を説明する。「余剰=快楽」とは「苦痛の中の快楽」p77をいう。ラカンは「享楽以上(plus-de-jouir)」といったそうである。それは、「享楽の余剰」とも「もはや享楽はない」とも両義的に読める。ジジェックはこれを「ただの快楽に対する享楽の余剰は、快楽の正反対、つまり苦痛の存在によって生成される」p77 と解釈する。

12月28日(月)
「幻想の感染」スラヴォイ・ジジェク著「透明性」の定義が面白いp198。モダンの透明とは、「機械がどう動いているかを見とせるという錯覚を維持するという意味」である。したがって、「理想的な条件においては、それを合理的に再構成できる」。一方ポストモダンの透明とは、機械の動きを隠すスクリーンによって日常生活を可能な限り忠実にシミュレートできることである。デジタル機構はスクリーンの見えないところに交代してしまっている。つまり、「日常の生活世界(レーベンスヴェルト)によく似た不透明な状況、「自分の立場を理解」し、単にあらかじめ定められている一般規則に従っているのではなく、試行錯誤によるやりとり[プリコラージュ]という形で動かざるをえない、それに身を委ねる」ことへと透明性への考えが変化してきた。

12月27日(日)
BSでブルーノ・タウト設計の日向別邸の特集を観る。理科大の山名さんがナビゲートしていた。大階段からと母屋の庭先ベンチから海への眺めを堪能できた。図面と写真だけからではわからないものである。深夜にNHK BSで生命大躍進の特集を見る。ハリネズミはほ乳類であるにも関わらず卵を産み、対外で孵化させる。このことを知る。母親体内から分泌される汗が、卵を菌から守る殺菌作用と母乳としての栄養機能を果たしているという。殺菌作用のタンパク質汗が栄養素的タンパク質に突然変異したそうだ。これによって進化の過程を説明する。

12月26日(土)
南洋堂へ行き、図書の購入。その後蕎麦を食べる。この時期にもかかわらず人が多かった。南洋堂の本の配置が気になる。
129 プレミア リヴァプール×レスター
0-1で首位レスターが久しぶりに負ける。ドルトムントばりの激しいプレッシングをレスターはかいくぐることができなかった。奪った瞬間に複数人で取り囲まれ、2トップのヴァーディと岡崎にボールが供給されることは全くといってなかった。早々とこの2トップとマレズが引っ込む。ボクシングデーに備えたラニエリの采配か?と思う。岡崎が小さいにもかかわらずポストプレーに終始していたのに驚いた。これもラニエリの作戦だろうか?リヴァプールはクロップ就任から2月が経った。クロップ精神が通底されてきたのを感じる。

12月25日(金)
「atプラス25」における磯崎の新国立競技場案を再び見る。「偶有性操縦法」には具体的な操縦法が示されていなかった。それを知りたいと思った。「偶有性操縦法」では、繰り返される歴史性を通してそこから、人間社会の本性を見出している。それは外から加えられる圧力の高まりに対する内部の所作というべきものかと思う。歴史はそれを繰り返してきた。その所作を活かす案であった。新国立競技場問題と異なるのは、磯崎はその外圧を「マレビト」としてデザインに組み込んでいる点である。無知でいるのと対称的である。その外圧あるいは問題設定を与え続けることができる限り、偶有性の中に取り込まれることはない。そうしたデザインであった。

12月24日(木)
「偶有性操縦法2」現代思想11月号 磯崎新著 を読む。磯崎は(彼自身の中で)疑問をもちながらも、テクノクラート官僚制度を持ち出すことによって、漠然とした魑魅魍魎とした一連の出来事をまとめようとしている。テクノクラートというように、官僚制度とは解くことだけに追われているものをいう。彼らの作動によって、設計/施行制度、海外からの信用といった諸問題が捨てさられてしまった。それら全てが「日の丸」排外主義の下で行われたという。安保法案成立もそのひとつであった訳だ。磯崎の仮説の真意はともかく、新しい案が今週決定された。今日もテレビでその内容について紹介されている。「開かれた競技場」というテーマである。それも空言のように聞こえ響いてこない。

12月23日(水)
「スターウォーズ フォースの覚醒」を観る。40年経っても、キャラクターや背景のディテールは劣化してなく、連作として純粋に映像を楽しむことができた。そのことに驚く。この間に新しい宇宙観が示されていなかったことでもある。そうした完成度とは反対に、登場人物の関係とストーリーに因果関係が言及されないので、観ている者には宙ぶらりさが残り、それが次回作への想像をかき立てさせてくれる。映像にはそうした思わせブリがなく、ストレートである。ダイナミックな戦闘、迫真的なチャンバラを十分に描き、その上で勝敗の結論を先延ばしにしている。観ているぼくら側に勝敗の結論にたいして納得を与えるだけの情報が十分に用意されていない。このことにより勝負への期待はより高まる。納得し安堵という通常人間が思考する回路を逆手にとったテクニックである。

12月22日(火)
NHKで待庵の特集を見る。土の塗り壁、開口部処理に朝鮮半島からの影響が強いという。3年前に韓国安東河周村に宿泊した民家を思い出す。土壁の角は丸く、紙が貼られていた。開口部は壁内部の竹下地が露出し、その内側に障子があった。そうした民家とは別に少し離れたところにあるビョウンサン書院は重厚な木造として素晴らしかった。17世紀建造であるが、大陸文化の影響下にあり、奈良との連続性を感じさせてくれた。「幻想の感染」スラヴォイ・ジジェクを読みはじめる。

12月21日(月)
「言葉と建築」エイドリアン・フォーティー著の「構造」を再読。建設あるいは物理的な力学的問題を抽象的な概念へと昇華させたのが19世紀後半のヴィオレ・ル・デュクであり、それが「構造」であった。ミースの引用が示される。「われわれはストラクチャーという言葉によって哲学的な思考をする」と。これに対し、同時期のドイツ人ゼンパーは、空間を創ることを第1の目的としたそうだ。「空間」という概念である。アドルフ・ロースはゼンパーの弟子であり、「ラウムプラン」としてこの概念を完成させた。このことを再確認する。と同時にゼンパーは「形」についても重要な役割を果たした。ルネサンス以後のシェイプ(形状)が、18世紀後半のカントによって美的知覚の哲学へと展開され、19世紀初頭のゲーテによって、自然の有機体へと適用された。そこでは、事物の上にあって先んじている特性を、形としてみている。ゼンパーは著書「様式」によってこれを建築的に説明しようとした。「空間」という概念はここからはじまった。このことも「言葉と建築 形フォーム」の章で確認する。現在の「空間」という概念は、こうした抽象性を下敷きにして、より個人的な解釈を許した概念へと変化してきたのである。

12月20日(日)
128 セリエA フロジノーネ×ミラン
本田が久しぶりの先発。積極的に攻撃に絡みフル出場を果たす。意外にも今季はじめてのことだそうだ。後半早々には、ワンツーから抜け出した可能性のあるシュート、その3分後には速攻において、サイドバックのアバーテのシュートを生む決定的アシストを中央からする。今日は、そのアバーテが右サイドを支配していた。多くの時間を攻撃に参加し、本田が中央寄りにポジショニングすることを可能にしていた。本田はサイド深い位置で孤立することなく、左右のスペースにいる見方と連係を計り1対1の局面を打開していた。ミハイロビッチも本田の動きに満足のコメントを残す。

12月19日(土)
「言葉と建築」エイドリアン・フォーティー著の「空間」を再読。18世紀以後、建築家たちは「ヴォリューム」や「ヴォイド」について語り、現在常套句となっている「空間」という概念を出現させたのは1890年からであった。それはゼンパーを契機にしたものであったという。それによって、建築家は「社会的空間」と切り離された「空間」をつくることに成功した。空間が独立し、資本主義と結びつき、権力と支配の遂行に結びつけることに力を貸してしまったのである。その詳細をルフェーヴルが「空間の生産」で語っている。これをもってフォーティーは、空間という言葉が建築語彙に仲間入りする前の空間概念を説明しようとしている。これは、別の章の「構造」と同時に起きた。このことを改めて知る。
127 ブンデス ケルン×ドルトムント
よもやのドルトムントが逆転を許す。後半45分は、全くゲームをコントロールできなかった。こういうことも珍しい。ケルンはマンツーマンの厳しいチェック。前節のフランクフルトと反対のゲームプランである。前半交代したフンメルスいたらと、その不在が悔やまれる。交代の理由は示されていない。

12月18日(金)
昨日のレクチャーを思い出す。実際の空間と、欲望あるいは目的を持って見る空間、そのふたつの溝を埋めることはできないのだろうかという疑問である。「斜めから見る」にその応えが用意されていることに気づく。それによると、そもそもわれわれは「確固たる現実と夢の世界という素朴なイデオロギー的対立に固執している」という。実は「社会的世界の現実が、じつは、ある種の「抑圧」、すなわちわれわれの欲望の<現実界>から眼を逸らすことの上に成立した一つの幻想にすぎない」p43のである。建築家は空間という<現実界>に縛られているということなのだろう。この<現実界>がなくなることはない。もしその先に進もうとしても、空無がまちうけていて、<現実界>に差し戻される。これをラカンのオイディプス神話評と重ね合わせている。

12月17日(木)
学会の設計方法小委員会で武田有佐氏のレクチャーを聞く。組織事務所に所属し、かなり早い時期から設計にコンピュータ導入に努めていたことを知る。コンピュータを使うことによってクライアント説得のための手数が増え、それが建築家にとって大きな武器となる。こうした内容であった。そうした氏でもBIMには否定的であった。BIMはデータベース量によって大きく左右され、情報戦になりかねないというものであった。そこには質が活かされないと考えている。忍び寄る恐怖をBIMに感じた。コンピュータグラフィックによるプレゼというテーマからは、バーチャル体験の話となる。3Dドールハウスという、専用ゴーグルを装着することによってバーチャル体験が可能なシステムがあるという。それを使ってどこまで現実化できるかという話題になった。ぼくはそれに対し否定的な意見を述べた。空間とは、欲望によって「歪められた」視線でしか見えない対象であり、「客観的」視線にとっては存在しない対象であるからだ。それを『斜めから見る』では、「<対象a>とは、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へ導入された混乱と錯綜の、具現化・物質以上の何者でもないのである。客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。」P35といって説明していた。このことを念頭においた意見であった。

12月16日(水)
「斜めから見る」を読み終わる。最後にローティーとネーションを登場させ、それを批評する。ジジェクのいう「現実界」は「建築」に読み直すことができることに気づく。恣意的な一面からしか捉えることはできないとはいえそれでしか現すことができず、完全でないことを前提に確実に存在するものとして「建築」もある。虎ノ門の菊池寛実美術館のレストランで一足早く意匠系教員の忘年会を催す。

12月15日(火)
「斜めから見る」第2部を読み終わる。第2部はヒッチコックの手法についてであった。いくつかヒッチコックを観直した。特にジジェクが評価するのは、カット割り(モンタージュ)である。「ヒッチコック的モンタージュでは、2種類のショットが容認され、2種類が禁じられている。容認されているのは<物>に接近する人間を写す客観的なショットと、その人物の目を通して<物>を映し出す主観的ショットである。禁じられているのは、<物>、すなわち「不気味な」対象の客観的ショットと、そして何よりも、「不気味な」対象そのものの視点に立って、接近してくる人物を写し出す主観的ショットである。」p221。建築におけるパースの視点について考える。

12月14日(月)
126 ブンデス ドルトムント×フランクフルト
前半終了前に、怪我のロイスと交代で香川が登場する。ドルトムントが10人の連敗中のフランクフルトに対して主導権を握るのは思ったより早かった。香川が起点となり3点を獲る。今日は全員の裏への抜き出しが徹底されていた。DFラインを高く維持しようとするフランクフルトはボールチェックをもっと徹底すべきであった。その役割は久しぶりにボランチに使われた長谷部の役割であったかもしれない。ドルトムントは、一人がボールを受けようと下がると、誰かが裏を狙う。あるいはその空いたスペースを誰かが走り込む。その後方からフンメルスが好き放題にボールを供給していた。

12月13日(日)
「めまい」ヒッチコック監督を観る。3つのパタンの女性がそこに描かれる。幻想の中だからこその崇高な女性。それが現実化されてしまった女性。そして母のような女性。彼女の存在は大きくとも意識されない。ここで描かれている崇高というものは、ある対象の質に関わる内在的なものではなく、それが及ぼされる幻想空間の効果によるものである。喪失が崇高をもたらすが、喪失の喪失は絶望状態に陥る。それは、「斜めから見る」に一貫して語られているテーマでもある。対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまう危険=不安である。このことが判る。「めまい」にも結論がない。絶望状態の先はあるのだろうか。
125 セリエA ミラン×ヴェローナ
得点を加算できず、ミランがホームで引き分ける。このところの下位チーム相手に十分な勝ち点を重ねることができないので、再び監督叩きが始まっている。本田も出場できていない。ライバルボナヴェントゥーラのみ勢いがある。やはり本田の突破力はこのクラスでは通用しない。周りとの連係でこそ活きる。おそらく2トップが活躍し、その後ろでバランスをとる立ち位置が本田のベストであると思う。あるいは中盤底からのゲームメイキングである。後者のポジションは今ではミランもいっぱいだ。デヨングも出場できないほどである。バッカやアドリアーノも当初ほど爆発ができず、怪我から復帰後のバロテッリ頼みのように思われてならない。

12月12日(土)
「斜めから見る」第2部。ハルバインの絵画「大使たち」と、フーコーも言及したベンサムの「パノプティコン」が度々言及される。監視するのは、反対に怯える原因があるという例においてである。正常健康であれば監視されることは全く気にならない。監視システムは、未だ見ぬより大きな脅えにたいする不安構造が生み出したものである。「裏窓」ヒッチコック監督を観る。ジジェクの批評とは別に、最近気になっている偶然について描いた映画としてみることができた。セールスマンが犯人かどうか宙ぶらりんのままであり、つまり真実が何かは不明のままである。しかし、それとは関係なしにジェームズ・スチュアートから見ると、セールスマンが犯人であるという仮説で全てのストーリーが繋がってしまっている。その悲劇を描いていた。ジジェクのいう現実界とはそうしたものなのだ。世界をある恣意的な一面からしか捉えることはできないのであるが、それでしか現すことができないものでもある。

12月11日(金)
イタリア、デダロミノッセ建築賞講演会のために九段のイタリア文化会館に行く。地下のホールは、椅子が革張りで少し座り心地が固いもののスッキリとしている。岡田、前田、窪田氏の講演。窪田氏のスライドが雑誌で見るよりも張るかに美しく驚く。
124 EL ドルトムント×PAOK
0-1でホームドルトムントが負け、グループリーグ2位となる。決勝リーグにおいてCL落ちの実力チームと対戦となる状況をつくってしまった。ゲーム内容はドルトムントが陥る典型となる。シュートを放つも固い守備に阻まれ、逆に1本の速攻で仕留められるパタンである。怪我のためか大幅に先発メンバーを入れ替えたことも連係にマイナス要因をもたらした。香川とロイスがワンツーで切り崩すもその次をフォローする者がいなかった。加えて何本もポストに嫌われた。香川も積極的に前線で活躍したのだが、後半オバメヤンとの交代を命じられる。

12月10日(木)
今年度Cリーグ開催に向けての打ち合わせのため、理科大の岩岡さんのアトリエへ行く。10坪の角地に多角形平面をはめ込んだ地下1層地上3階の住宅兼アトリエである。技術的なアプローチからくるシステム性と手作りに近いインテリアからくる親しみやすいラフさが共存する。岩岡さんの建築は4つくらい見ているだろうか。その中で最も彼の特徴が現れている建築と思う。地下は潜函工法によるRC造で、上部構造はS造である。上部構造の外周はイソバンドで覆われ、室内は仕上げされていない。むき出しのスチール骨組間は全て棚となり、本で囲まれる空間である。ただし道路と反対側の壁面は設備のスペースとなり、温冷水パイプが上下左右に走り、縦方向への伸びを感じさせてくれる。それは、1/4程しめる階段吹き抜けと相まっている。居間天井も通常より高かった。その温冷水によって、足下は僅かに暖かく冷えることはない。居間の大きな丸テーブルで1時間あまり話合い、今年度のCリーグの実施方針を決める。

12月09日(水)
ナイキプロジェクトの構造打ち合わせを江尻事務所で行う。建て方順序を再考し、詳細においては大工が馴染みやすい接合方法に変える。オーバーした見積金額調整のためである。これで3月末までの完成が決定した。冬は雪のため、福島では現場作業ができない。

12月08日(火)
「斜めから見る」第2部を読む。紹介されるヒッチコックの映画の詳細が掴めずに苦労する。学生時代に集中してヒッチコック映画を見た。迫り来る恐怖を、この本では性的な抑圧から説明しようとしている。「裏窓」では、主人公のジェームズ・スチュアートが、性的不能を覗き見によって性的能力に変え、グレースケーリーとの性的関係を回避する物語であるという。「鳥」では、所有欲の強い母親からの圧迫から自由になることができない息子の悲劇の物語であるという。その息子に父はいない。父性には平和をもたらす法の機能があり、それが中止され、非合理な母なる超自我によってそれが埋められる。母性は邪悪で、正常な性的関係を妨害するものなのである。これが映画の基本ストーリーである。鳥はこれを強化するためののものである。一般観衆はそこにこそ注目するので、メインストーリー(コンテンツ)は一層抑圧される。強化されるといってもよいだろう。ヒッチコックの深みはここにあるという訳だ。

12月07日(月)
授業の後、3年担任会議。新しい4年生の研究室配属の振り分けを行う。予想以上に手間取り深夜1時過ぎまでかかる。どんな学生にも不利にならないように考えられた方法が複雑過ぎて手に負えない状況である。一端設定されたシステムがこうして動き続ける。日本のあらゆるところでこういうことが起き、世の中が動きにくくなっている。

12月06日(日)
EDLのOB会で代官山PACHONに行く。40名近く参加してくれる。皆の近況を聞き、ぼくからは最近の大学の変化を話す。社会と学生時代の間には大きなギャップがあり、一端社会に浸かると大学時代のことがリセットされるらしい。懐かしさ以上に、学生時代を取り戻し興奮する彼らに接する。楽しい時間であった。深夜、岡崎真司の特集を観る。中村俊輔の岡崎評が面白い。岡崎は今、慣れないプレミアリーグにおいて、得点屋でなく便利屋に成り下がっている。それはFWであるにも関わらず、監督から前線からの守備を第一に期待されていることをいっている。一般にその批評は辛いものであるが、岡崎はその立場を逆利用して虎視眈々と自分の活路を整えているという。活かされてなんぼの岡崎にとって、出し手となるチームメートの協力は欠かせない。パスのタイミングさえチームメートが掴んでくれさえすれば、成功する自信を岡崎はもっているというのだ。その仕込み段階にあるという。海外で成功するかどうかは実力の差ではない。周囲の自分に対するもって行き方が重要なのである。コミュニケーション苦手の日本人にとって、それをクリアできないだけなのだそうだ。海外活動が長かった中村からの教訓である。岡崎にとってどんなかたちであれ、ひとまず監督の信頼を得ていることが一番らしい。練習でチームを成熟させるのはブンデスくらいで、海外ではそうした機会はなく、ゲームでの成熟だけだそうだ。その点をクリアしている岡崎に、怪我をしないことを祈り今後に期待しよう。

12月05日(土)
EDHのOB皆に会い、1年の報告会。それぞれがんばっているようなので、ぼく自身も身が引きしまる思いをする。来年はもっとじっくりとそれぞれの活動について話し合おうと思う。事務所を構えると批評されることがすくなくなるので、その機会は貴重である。ぼくが難波さんとプロポを参加する理由のひとつでもある。「ソーシャル物理学」では、それを突発的な探究行為といっていたことを思い出した。ルーチングから抜け出すためにするまずはじめの方法である。
123 ブンデス ヴォルスブルグ×ドルトムント
香川が今季はじめての先発を外され、ロスタイムに今季はじめての決勝弾を放つ。劇的なゲームであった。ドルトムントは、前半と打って変わって、プレッシングが効かずに選手個々が引き離され、ゲームを支配される。セカンドボールを拾った瞬間に奪われる展開である。全く反対の立場となる。それは香川投入後も大きく変わらなかった。そうした中でも香川自信は落ち着いていたと、ゲーム後に述懐する。終了間際のパク投入後、ポジションがトップ下になる。下がり気味でフリーでボールを受け、そこから右左とダイレクトパスをつなげ、ゴール前でのフリーでのシュートを成功させた。バイエルンが負け、再び勝ち点差を5となる。バイエルンを射程内に入れる。

12月04日(金)
「斜めから見る」を読む。エディプスコンプレックスの意味をやっと理解する。偶然の意味も理解する。「<現実界>は、象徴化に抵抗する何かではなく、すなわち象徴的宇宙に統合することのできない無意味な残余ではなく、反対に、象徴的宇宙の最後の支えとなる。物が意味をもつためには、「記号」として読むことができるような何か偶然的な<現実界>のかけらによって、その意味が確証されなければならない。」p68.「われわれの象徴的現実を支える役割を果たす<現実界>は、作られたように見えてはいけないのであって、発見されたように見えなければいけない」p69。NHKで「狩人の夜」を観る。カット割り、とくに凝った背景シーンが唐突である。それがさし迫る緊迫感をつくる。因果関係に綾がなく、話がスピーディーに展開するのも特徴である。1955年の映画であるが、この時代の特徴だろうか? ティムバートンが真似たシーンをいくつか発見した。当時はほとんど評価されなかったという。ストーリーや登場人物心理に因果関係なく、象徴的シーンの連続によって押し切る手法が受け入れられなかったのだろう。そうした点もティムバートンと似ている。建築と同様機能性が大切にされるのである。ただし、日本人であるぼくには分からないが、宗教的教訓と批判が背後に隠されているような気がしてならない。悪人である狩人も宗教家であり、最後に主人公の子どもを救う老婆も敬虔なクリスチャンである。HEITEとLOVEのひしめき合いと従順であること是非が語られている。それにしてもこの老婆以外全ての女性は男性に従順であり、それをバカ者扱いしているのは常軌を逸している。

12月03日(木)
午後から修士設計研究の中間発表を行い、終了後遠藤研学生に詳細なアドバイスを加える。統計を読み解き、あるいはひとりの建築家やその著作を調べ上げるていた研究について、ある程度の評価を受けた。何らかの問題意識をもつことの素晴らしを教えてくれるものであった。最終的にモノにしようとする意志もまた彼らの成長を延ばしてくれる。提出までの残り2月間でどう変化するかを楽しみにする。

12月02日(水)
井庭崇さんを千葉工大へ招いてのレクチャー。20年後の未来像を示してくれる。それは、コンセプションからコミュニケーション、そしてクリエーションへと変化する世界観である。そこにパタンランゲージが欠かせない存在になるというレクチャーであった。井庭さんが考えるパタンランゲージは、禅のような以心伝心的教えとマニュアルによる伝達方法の中間に位置づけられていることが判る。これまでは経験則が重要な意味を持っていた。それを学ぶには修行を必要とし、それを誰でも分かるように言語化あるいはビジュアル化したものがマニュアルであった。しかしそれでは伝わらない内容が実は多い。それをいかに伝えるか、パタンランゲージの機能をそのように考えていた。先輩から後輩への仕事内容の伝達などもっともよい例だろう。社会はそうして進歩してきた。それが大きくなると新しい世界観を得るチャンスさえもあるという訳だ。子どもに道徳を教える寓意のようなものでもある。井庭さんはそれを最新の複雑系に絡むシステム理論から発想している。ロボットを人に近づける方法からきているのである。後半のぼくとの討論では、井庭さんの実践方法について主にたずねた。状況分析はできてもそれをクリエーションに結びつけるためには、もうひとつ段階が必要となるからである。つくる側は受け取る側より多くのディテールを積み重ねる必要がある。それについて聞きたかった。井庭さんによると、そにには試行錯誤の連続が必要とされ、一筋縄ではいかないという。ぼくらがかたちをつくるときと同じ状況にあることが判る。そして今はそこから学んだコツをさらにパタンとして加えようとしているのだという。例えば、KJ法から共通点を見つけたらそれに名前をつける等などがそれである。それは「パタンランゲージ」の14見分けやすい近隣や197厚い壁に近い。そうしたものを積み上げているのだそうだ。事務所に戻り改めて最新本の「旅のことば 認知症とともによりよく生きるためのヒント」井庭崇著を読む。「エチカ」スピノザを回想し、少し泣けてくる。ユークリッド幾何的空間定義があり永遠が語られている。井庭さんの活動が単なるプロセス論でないことも判る。

12月01日(火)
「斜めから見る」スラヴォイ・ジジェク著を読みはじめる。P36に剰余享楽が語られる。明日の井庭さんとの対談と重ね合わせていたらふと、パタンランゲージが現実から逃避するためのフィクション、として思えてくる。

11月30日(月)
122 ブンデス ドルトムント×シュツットガルト
フンメルスとヴァイグルを外してこのゲームに臨む。最近の彼らの低パフォーマンスを考慮したものだ。しかしDFラインの不安はぬぐえない。幾度となく決定機をつくられる。下位相手なら何とかなっても、EL上位チームやバイエルン相手には通用しないだろう。したがって後半にはこのふたりを投入することになった。今日は香川とポジションがかぶるカストロが大活躍をする。縦横無尽に動き回っていた。そのため香川のポジショニングが下がり気味となり、ゲームに入れなかったというコメントを残す。それはムヒタリアンとロイスも同様であったと思う。ムヒタリアンは香川交代後の後半60分過ぎからその流れに慣れ、一時はよいリズムを取り戻した。シュツッガルトはプレッシングが甘く、一度はドルトを追い詰めるも最後は好きにやられるかたちとなった。

11月29日(日)
午後、奥田研究室のOB会へ先生のお宅に行く。少しの時間しかお邪魔することができなかったのが残念であった。帰りにばったり大学の同級生に会う。今月でゼネコンを辞め、ベトナムに移住するという。奥様のところに帰る訳である。また会う約束をして別れる。「行為のデザイン」思考法」村田智明著を読む。プロダクトデザインに特化した内容でリアリティを見いだせなかった。内容にヒエラルキーをつけると一般化しやすくなる。それをパタンランゲージから学んだ。他山の石とする。続けて「さよなら、インタフェース」ゴールデン・クリシュナ著を読みはじめる。

11月28日(土)
「ソーシャル物理学」を読み終わる。どういう突発的な探究行為が有効となるかが示されていないが、変換後の状況を調査すると、必ず突発的な探究行為が原因になっている。社会学は、こうした可能性すなわち確率を示す学問であることが判った。しかし、ぼくらは流れをチューニングする必要性が理解出来ても、その良し悪しが問題とする。役に立たなかったチューニングも多く存在しているのである。その状況分析と内容吟味をプロセスとコンテンツといってもよいが、その溝はぼくの中で残ったままである。「ラスベガス」を再読する。大きなサインと小さな建物という話は今に始まったことでないことを再確認する。この本でダックは、いきすぎた空間拒否症候群のシンボルとしてある。

11月27日(金)
「ソーシャル物理学」PART3を読む。都市についてである。都市の生産性が高い理由が示される。都市ではイノベーションが起き、特許や発明が生み出されるいう。一方で1人あたりの道路やサービスの量は少ない。これをもって生産性が高いという。それは実は日常生活に因っていない。ショッピングや週末のお出かけなどの突発的な探究行為に因っている。こうした探究が行われれば行われるほど、既存の規範と新しいアイデアが交差する回数が増え、イノベーションを促進する行動に繋がるという。日常生活はあるルーティーンにはまるだけで効率を上げるが停滞もするので、流れのチューニングが必要とされる。これを流れの速度で説明できるという。夕方TNAの学会賞祝賀会に自由学園へ行く。

11月26日(木)
121 EL グラスノダール×ドルトムント
香川、オバメヤン、ロイスを欠き、ドルトムントはロシアのアウェー戦に臨む。しかし得点できずに0-1で敗れる。香川の独特のリズム、オバメヤンの裏への飛び出しのタイミングの絶妙さを知ることとなる。前半は最後列のフンメルスがほぼ全ての起点であったが、ゴールまで繋がらなかった。これにもうひとつアクセントが欲しかった。これが香川であった訳である。後半からギュンターがその役を十分に果たすも、すでにグラスノダールも守りのリズムを整えてしまっていた。調子のよい選手とそうでない選手との差は個々のプレーの正確さにある。決定機のパスをトラップミスし、あるいはセンタリングの精度を欠きゴールまで繋ぐことができなかった。

11月25日(水)
コンペを落選する結果が入る。難波さんによると、これまでの実績が重視され、はじめから審査の対象に入っていなかったという分析。というのも、当選案とぼくらの案あるいは坂案は明らかに一線を画していた。その違いを審査員も朧気ながら分かっていたに違いない。それをプラスと受け止めるか、マイナスに受け止めるかによって、結果がでたのだろう。坂案の審査員とのやり取りを見て、そうしたぼくらの立位置も判った。審査員も自分たちに自信と責任があるので、彼らのコントロール下でプロジェクト進めたいと考えている。提案がその範疇に即しているかどうかを問題にしている。建築家の案はそれを突き抜けてしまっている。どんな案であれ、社会がこうなるべきであるというビジョンで動いている。それに対して管理側にいる人間の多くは拒否反応を示す。納得はしたとしても、自分のコントロール下で現実のシステムの運用を優先する。システムができあがっているほどそこに強度がある。あるいは自分たちの乗っているシステムを疑う余地をもっていないのかもしれない。山本理顕さんの最近の著作内容を繰り返す愚痴るような書きぶりなってしまった。

11月24日(火)
「ソーシャル物理学」を読む。アジャイルの重要性がここでも登場する。

11月23日(月)
「ソーシャル物理学」を読みはじめる。アイデアの創造より流れについて焦点をあてていることに注目した。流れとは個人の才能でなく、グループ内でこそ見出されるものである。コンテンツよりもエンゲージメントを重視する。エンゲージメントとは、強力かつポジティブな直接的交流である。IQよりも参加者の平等な発言数、すなわち多様性を重視する。多様性を生む流れ=プロセスをチームに可視化することが最重要視されている。

11月22日(日)
大分体育館プロポの2次審査のため、大分へ行く。5チーム中3番目の発表。屋根からの自然風取り込みについて、かなり突っ込んだ質問を受ける。1階の窓が開放できることを言うべきであった。他には道場のアイデンティを問われる。発表後に後の2チームの発表を聞く。ぼくらの木造に対するスタンスは成功であったことを確認する。案を中途半端に留めることなく、徹底させるのがよい。事後にそれを実感する。

11月21日(土)
「バクダット・カフェ」を観る。ミュンヘン出の婦人ヤスミン(ジャスミン)が、アメリカ南部砂漠の荒れ果てたモーテルで過ごした日々を綴った映画である。彼女はドイツからアメリカへの旅行中、夫婦けんかをし、ひとりになった。その彼女が寝床としたモーテルの経営者家族との交流を描いた映画である。彼らは時間に追い回され、ギスギスした生活を送っていた。その生活環境が改善されていく。アメリカ現代社会の現状を皮肉っているような映画である。度々流れるラブソング「コーリング・ユー」が効果的であるのだが、話としてはこれで終わり?という印象である。コンペのためのスケッチを続行し、佐々木さんの連続対談を欠席する。

11月20日(金)
慶應SFCのアレグサンダーシンポジウムに行く。松川昌平さんの司会で、長坂一郎氏、諏訪正樹氏、難波和彦氏、井庭崇氏、江渡浩一郎氏が長坂さんの近著「クリストファー・アレグサンダーの思考の軌跡」について語る。誰もが自然を機械論的だとは信じてはいなく、そうでないものの代表としてパタンランゲージをあげる。とはいえ、パタンランゲージの内容を批評するのではなく、その扱いについて論じる。それを受け、難波さんの誘導で、大切なのはコンテンツかプロセスかを問うことがテーマとなった。その中で江渡さんの集合知がもたらす可能性の話が面白かった。彼はニコニコ学会βをWEB上で制作している。その経験を踏まえて、単なる母数を増やすだけではダメであり、コンテンツの工夫の重要性を語る。彼は「パターン、Wiki、XP」を書いた人である。彼はアレグサンダーの「ネーチャー・オブ・オーダー」を評価しているらしい。諏訪さんは、神をも持ち出すアレグサンダーの批判にたいし、カントの超越論的仮象を持ち出した。アレグサンダーの幾何学的性質をカントの物自体と同様に位置づけているようだ。この点に同感する。そこで疑問を持つ。超越論的仮象は、何らかの強大な反動によって引き起こる。アレグサンダーにとって、それは何か?という疑問である。パタンランゲージは誰もが否定できない包容力のあるシステムである。それでも伝えることができない反動から幾何学探究に向かったのでないかというのがぼくの仮説である。それ程、アレグサンダーは意志の伝達に飢えている。難波さんの認識図式の話は、松川さんがいうように生命体誕生の神秘の謎にまで言い含めることができない。生命体同様に人も、環境に対しての反応を繰り返すだけで、その現象を人は思い思いに「思考」といっているに過ぎないのでないか?と思う。ジジェクから学び、ベイトソンの「精神の生態学」につながるものである。しかしアレグサンダーは、そうした個別でモノへ向かう一方向の認識図式を徹底して批判する。その反動が幾何学的性質になったのかもしれない。

11月19日(木)
「クリストファー・アレグサンダーの思考の軌跡」を再読。パタンランゲージ出版を境にして、アレグサンダーが機能からかたちを求める方法転換を行ったという仮説を長坂さんはもっている。幾何学的性質はかたちの問題ではあるが、それと両輪をなすセンタリングは、意識の問題を扱っている。それに対する認識がぼくとは違っていた。センタリングとは前提措定であり、前提にかたち、措定として広い意味での機能的判断がある。

11月17日(火)
コンペのスケッチをする。クールハースとアレグサンダーとの違いにはたと気づく。クールハースは、負の空間、それは現実問題であるが、それも計画に含もうとしている。それが建築家皆を惹き付けているのでないかと思う。
120 代表 カンボジア×日本

11月16日(月)
屋根のカタチをあれこれとスタディする。はじめは漠然としたものであったが、ある程度設計前提が押さえられてきたので、その上でのスタディに入る。プロポでこういった作業にどういう意味があるのだろうかと、ふと考えたりする。「イデオロギーの崇高な対象」においては、こうしたプロセスを「措定的反省」という。事後経験を通して問題が構造化されては壊されていくプロセスである。その果てを自己満足と捉えるか、よりよい結果として捉えるかを、この本は問うている。

11月15日(土)
佐々木さんと磯崎氏との対談、インターンの遠藤研学生達と法政大学へ向かう。超満員であった。佐々木さんは、ぼくらの行ってきたことを数寄屋化といって批判をする。それはぼくらが手がけてきた建築が構造的にもつかもたないかの段階に留まっているからである。このことを理解する。佐々木さんは、そこから理論化・数値化し、一般化することを合わせて行ってきた。通常、抽象化することは退屈な方向へ向かう。佐々木さんは逆の方向性を切り開いた。その理由を尋ねたかった。数値化することにもエレガントさはあるのだろうか?佐々木さんは、実験でない合理的方法を目指しているという言葉が印象的であった。磯崎さんからは驚きの発言を聞く。自分はカタチをつくる天才ではないので、いつも選択で生きてきたという。モンロー定規しかり、スプラインしかり、テクノクラート然りである。磯崎ほどの人でもつくることに行き詰まりを感じているのだ。ただし、カタチに対する飽くなき欲望があることも確かである。そして説明は決して演繹的でない。このことからも、クリエターとしての磯崎を感じる。パリでまたしてもテロが起きる。深夜遅くまでコンペのデータつくりが続く。

11月14日(金)
午前中に打ち合わせ。その後、南禅寺に寄り、昼過ぎに帰路につく。コンペの提出物を確認し、スケッチを続ける。車中「イデオロギーの崇高な対象」を再読。

11月13日(木)
京都へ行き、町屋が並ぶ下京区の「木のぶ」で昼食をとる。1階ファサードを保存し、2階は近代的木ルーバーで覆う上手いリノベーションであることに感心する。通りから長い路地を抜けたところに玄関があり、間口は決して狭くないので路地の横は厨房だろう。奥の2階で食事をする。その後打ち合わせをし、夕方に瑠璃光院へ行く。紅葉はまだであった。今週末から本格的な秋の催しが京都でも始まる。
119 代表 シンガポール×日本

11月12日(水)
「イデオロギーの崇高な対象」において、マルクスが度々否定される。それを書き留める。「マルクス主義の
視点からすると、イデオロギー的手続きは何よりも「虚偽の」永遠化かつ/あるいは普遍化の手続きである。具体的かつ歴史的な結びつきに依存しているある状態が、人間の条件の永遠かつ普遍的な特徴としてあらわれる。ある特定の階級の関心が、人間の普遍的関心になりすます」p80 「マルクス主義は、剰余物、すなわち象徴化から逃れる現実界の残骸を、上手く取り込むことができなかった。」p81 『資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。』p84 「最も重要なのは、ポジティヴで事実的な介入よりも形式的変換の行為のほうが先だということであり、この点でヘーゲルはマルクス主義弁証法と決定的に異なる。マルクスにおいては、(集合的)主体はまず最初に、生産という現実的・物質的過程によって、あたえられた客観性を変換する。彼はまずそれに「人間的形式」を与えておいて、それから、自分の活動の結果を反省して、自分が「世界の作者」であると形式的に見なす。ところがヘーゲルは逆である。主体が「現実に」世界に加入する前に、世界に対して責任ある存在として形式的に自分を捉えなければならない。」p325

11月11日(火)
「イデオロギーの崇高な対象」を再読。ジジェクのこの本の本質は、残余享楽とカントの「物自体」の次のステップについてである。しかしなかなか理解できない。「措定的反省」はステップアンドステップというアレグサンダーのいうセンタリングである。先週の日記に書いたように、条件があってその結果として空間があるわけでなく、提出された空間を経験することによって条件が満たされていることに気づく。そこには合理性からは計り得ない「気持ち」という問題が大きく関わっている。その確認作業を繰り返し、プロセスを徐々に大きくしていく。この「前提措定」によって、プロセスの正当性は担保される。このことだろう。「外的反省」とは、こうした思想が袋小路に入ってしまった時の抜け道だ。カントのいう「物自体」という障害だ。カントは「物自体」として片付けてしまってきたというのがジジェクの主張である。そのとき、問題の本質が分からない状況にあり、こういう状況も含めて理解することを「外的反省」といっている。この必要性を問う。本質が内面化することである。ぼくとしては、全てが内面化というとどうも小さくまとまってしまう感を否定できない。それが社会性の乏しさに繋がるからだ。このステップを実は理解出来ないでいる。

11月10日(月)
118 ブンデス ドルトムント×シャルケ
香川のヘディングで先制。これによってドルトが勢いづき、圧勝するかと思われたがシャルケが粘る。。フンテラールに、速攻で2点を獲られる。さすがダービーである。見応えのあるゲームであった。フンメルスの最終ラインでのミスは致命傷を招く。もっとゲームをコントロールできたはずである。香川はフル出場できたので、気持ちよく代表に合流することだろう。

11月09日(日)
117 ブンデス マインツ×ヴォルスブルグ
武藤の最近の活躍は目覚ましい。今日の1点目の起点も武藤からであった。日本人の攻守における貢献が高く評価される。ヴォルスブルグは、選手が替わり昨季の勢いがない。
黒磯へコンペの敷地を見に行き、その後で道の駅とアウトレットモールに立寄る。地方都市が水平方向に展開していると思えるのは、自動車での移動を基本としたまちづくりとなっているからだ。歩くことや電車移動とも違い、抑揚がない。町は自動車速度に従っている。本来歩くことで、気づき見えていた建物のディテールも消えていく。帰り際に木造トラスのパチンコ店による。木造はこういう風に政治的に利用されていることを実感する。高速が事故渋滞のため那須に立寄り食事をしてから帰路につく。

11月08日(土)
プリズミックギャラリーにて、難波さんと松川さんの対談。各々がアレグサンダーの活動との関連を話す。抽象的でない討論であったので気持ちよく理解出来る。松川さんも、部分の積み上げ方式、すなわち機械論的思考に限界を感じているようだ。かたちからの出発を目指してシステムつくりをはじめた理由がそこにあるという。そのため「事後的」という文言を度々発言する。人は事後的にしかモノを把握できないことをいっている。しかし一方で松川さんは、生命体が発生するのは事後的でないという疑問をもっていた。それについて難波さんはカントを持ち出し認識図式についての話をする。世界全てを形式化や象徴化はできない。世界は混沌としている。しかし個々が自分の思考を構造化することは許されている、というものであった。最後に池辺さんから学んだことを話した。「自分もクライアントも社会も変わる。したがって建築はそれを受け入れるカタチでよい」と。少しカント図式と違うのでないかと思う。一般ユーザーもカタチを使いこなす快適性を求めている。そのために箱ではすまされない。少しのハードルが必要でないか?と思う。そこでぼくは次のような質問をした。創発すらも個人の認識図式上のことでないかということと、松川さんのシステムには、利用ユーザーにたいしてもっとノイズが必要でないか、という2点であった。松川さんは価値とカタチの一致を狙っている。しかしそれではツリー構造のように利用者は見てしまう。むしろミスマッチによって、ユーザーの思考を刺激することが得策であるという主旨である。アレグサンダーのパタンランゲージは他者を巻き込むシステムであるという点が、修士の時代からのぼくの考えである。ユーザー思考を限定させない不思議さがある。これが寓意に近いと思う点である。

11月07日(金)
「イデオロギーの崇高な対象」を再読する。「残余享楽」からスピノザを思い出す。スピノザは、精神の秩序とつながりは物質の秩序とつながりと同じであるといっていた。精神は永遠化することができるので、物質も永遠化可能であるといっていた。このことを思い出す。本書の後半は「前提措定」が度々言及される。アレグサンダーのセンタリングも思い出す。条件があってその結果として空間があるわけでなく、提出された空間を経験することによって条件が満たされていることに気づく。そこには合理性からは計り得ない「気持ち」という問題が大きく関わっている。その確認作業を繰り返し、プロセスを徐々に大きくしていく。このことによって、プロセスの正当性は担保される。アレグサンダーはこれをセンタリングといっていた。センタリングはモノにも宿るし、プロセス上でも必要とされる。このようなアレグサンダーの思想を思い出した。ジジェクは、現実界を明らかにすることは不可能であるといった。それでも絶えず構造化と象徴化を繰り返す必要性もいっていた。そのエンジンが何かという疑問の解決が、前提措定とセンタリングにあることに気づく。

11月05日(木)
大学でOBOG懇談会の進行をする。それなりに学生は集中し、よい会で会った。会場の大きさと人数のバランスもよかった。これまで不評であった理由が理解出来ない。
116 EL ドルトムント×ガバラ
ボールポゼッションを高め、じわじわとガバラを締め上げる方法でドルトムントが圧勝する。どことなくバイエルンの戦法を思い出させる。今日、香川は休み。彼がいないことで香川の独特なリズムに気づく。少し攻撃に乱れを与えるのだ。今日に至っては、それがないことがむしろバイエルンのように美しく見えたのが不思議である。

11月04日(水)
授業とゼミの後、難波事務所にて打ち合わせ。今日もコールハースの話になる。機能的に無理していないことが特徴であるという。それが複雑になった結果がかたちになるというのが難波さんの見解であった。集合知の話ともなる。集合知を扱う場合、そこにコンテンツが不在になることが多く、建築家がそこにかたちを持ち込むことの不条理さも指摘する。コンテンツを主体といってもよい。かたちには主体性がなければならないが、主体は集合知によって理解と鍛錬をされるべきであると理解する。コールハースはそのコンテンツつくりにエネルギーをかけているという。11月から遠藤研出身の木村くんが界工作舎バイトをしている。彼は院卒業後オーノジャパンで働き、その後の就職先を界工作舎と決めたようだ。

11月03日(火)
「イデオロギーの崇高な対象」を読み終わる。象徴化を構造化といってもよいが、象徴化によって現実界を明らかにすることができない、このことが判る。ぼくにとってこれは、ロボットに生命体にように振る舞うプログラミングが可能かという問いから出発した問題であった。アレグサンダーのノートからパタンへの移行を追ったものである。それにたいする解答は少し得られた。プログラミンとは構造化・象徴化である。生命体が現実界であり、なぜ出来ているかわからないが、現に存在している。そうした生命体はプログラミングを繰り返しても問題ばかりが生み出され、全貌は明らかにならない、という結論を得た。したがって読後に閉塞感を感じる。現実界が内部化され矮小化される思いをする。救いは象徴化によってできる残存物を剰余享楽といい、これへの言及であった。残余享楽は、前の日記で書いたが建築の数寄屋化に近いものでもある。

11月02日(月)
「イデオロギーの崇高な対象」第Ⅲ部を読みはじめる。主体について、「ワルシャワのレーニン」の小話が紹介される。その内容はこうだ。モスクワの絵画展に、タイトル「ワルシャワのレーニン」の絵画が出展される。それは、レーニンの妻が共産主義者と寝ている絵である。観客が「レーニンはどこに?」と聞く。「レーニンはモスクワに」と応える。こうした小話である。モスクワは抑圧された表象である。抑圧された表象が失われることによる空無の意味作用をこの小話は語っている。レーニンがいなかったなら妻はこんな行動ができなかった訳で、同時にこの抑圧自体を風刺している。この例をもって本書は「現実界」を説明する。つまり現実界とは、それ自体は存在せず、一連の効果の中にのみ現存するが、つねに歪められ、置き換えられあらわれるものである。主体というものはこうした中にある。主体と対象は流動的であるにも関わらず、あたかも主体が実際に選択したかのように扱う。「自由愛」も例に出される。愛も自由選択でありながら、選択は絶対に現在には訪れず、遡及的に「私はすでに選択した」ということしかできないものである。

11月1日(日)
115 セリエA インテル×ローマ
長友が活躍する。今季2度目の先発であった。任されたのは左SB。W杯と同様にジェルビーニョと対戦。それに今日は長友も尊敬する元同僚マイコン、さらにサラーが加わる。ジェルビーニョとサラーはトップクラスの走力を持っている。前半に突破を許す危険な時間帯があったが、後半は完全に押さえ込んだ。これでマンチーニ監督の信頼を得るとよい。1-0でインテル勝利。暫定で首位となる。今年のインテルは守備が堅く、多くの試合を完封勝ちしているという。当初長友はサイドからの放り込みに対する身長不足からメンバーから外れていた。これからの巻き返しを期待する。

10月31日(土)
114 ブンデス ケルン×ドルトムント
安定した力を発揮し、ドルトが勝つ。今週はカップ戦もあったそうだ。香川は大活躍をしたという。ドルトムントは、選手を入れ替え、ハードスケジュールに臨む。

10月30日(金)
学生達のプレゼを見にTDWへ行く。まずまずの出来に満足する。欲を言えばもう少し元気が欲しかったか?その場で簡単な打ち上げを行い、大学へ行く。産官学の懇談会。企業の必死さから今年の就職が上向きであることを実感する。企業はよい人材を求めている。残念なのは大学で教える教育内容を彼らがあまり期待していない点である。今でも学生が機械の歯車のように考えられている。学生の人力に期待はしているもののの、技術には期待していない。学生にはそうした企業かどうかを判断できる眼が必要とされる。

10月29日(木)
難波事務所へ夕方行く。中心性のあるプランと発散性のあるプランの違いについて私見を話す。発散性のあるプランは全体像がないので、行為が空間を決定しているかのように見える。それに対して中心性のあるプランは、行為を制限しているようかのように見える。中心性のあるプラントはパタンランゲージである。それを覆すためには、周囲を外に開くか、さらに大きなストーリー性を与えるか、ふたつの方法がある。それらは、かたちの提案と機能の提案に該当する。続いてビッグデータに関わる話をする。ビッグデータが面白いのは、標準偏差内におさまらないロングテールデータ部分にあるという。それは全くの的外れではなく、ある大きな中心の周縁を示すからである。そこを探ると実は構造を垣間見ることが出来るのではないかという仮説であった。そこからビックデータを扱う根拠が、実は周縁であることを隠すためのものでもあることに気づく。そこからアレグサンダー論にいたる。ノートからパタンに至る過程でアレグサンダーはモノ(世界)と見解(主体)の区別を意識的にはじめたのではないかという。世界と自然は多様であり、人の意識はツリーである。その前提の忘却が近代以降の混同を招いているという旨であった。アレグサンダーは決してモノと意識の分離は認めないだろう。そこが引っ掛かる。

10月28日(水)
江尻事務所にて、ナイキプロジェクトの打ち合わせ。予想以上に棟木にかかる力が大きいのは、多雪によって外に向かって倒れる壁が開き、それによって棟木が沈むことによるらしい。その検討を、アイデアを出し合いながら行う。対策に様々なアイデアがあがった。例えば柱足下を固定にする方法、棟木の端部を1本から3本に変える方法、小屋組の下にテンション材を配置する位置の検討など。それらは、単に棟木の材料強度を上げるのではなく、全体再構成から棟木の負担力を小さくしていく方法である。つまり力の流れを全体で制御していく。そのライブ感が面白かった。構造家のキレとシュミュレーション速度の賜である。人の病気治癒についても同様の方法がとれないだろうかと考える。今週は父の診断結果が出る予定である。

10月27日(火)
レジス氏とエイドリアン氏と食事。東京の住宅事情について話合う。文化と言葉の障害により、曖昧な内容は伝わらない。ましてや計りきれないグレー部分に可能性を見出しポジティブな方向に話を導くこともなかなか難しい。正確な数字データと言葉が必要とされることを実感する。

10月26日(月)
小西泰孝氏を千葉工大へ招いてのレクチャー。単純梁構造と片持梁構造を応用した5つの作品を紹介してくれる。その多くの構造システムが特異であるにも関わらず、意匠と融合していて透明であることが特徴である。それは多田さんの構造と少し異なる。時代は少し動いているように思うので、建築家にも因るだろうが、次のフェーズを見てみたい。山本理顕さんの物化に代表されるようにモノの拘束力を期待している時代風潮がある。あるいは、今読んでいる「イデオロギーの崇高な対象」にあるような物神化を否定的な意味で捉える風潮もないこともない。今さら闘争もないだろうが、融けあうのでなく触発に近いインテグレートが注目されていると思う。伊東さんは、それを具体的な抽象といっている。

10月25日(日)
ミッドタウンのゲーリー展へ行く。建築家はアイデアを提示する人であり、それで皆を引っ張る。しかしそのアイデアは皆のエンジンとなるもので決して達成すべき目標ゴールではない。こういう展覧会であった。そのために施工を射程に入れたデジタル技術は必要不可欠で、彼はプロジェクトの度に新しいソフト技術を開発している。日本と異なり施工技術の高さに頼ることが出来ないのも大きな要因だろう。要するに技術の公平透明さを利用して新しい世界をつくっているのである。それを小さな建物への適用でなく、企業や街、社会を取り込んでいるところに意義を見る。
113 ブンデス ドルトムント×アウグスブルク
面白いようにドルトムントは連係を成功させ圧勝する。固く引いて守る相手、なりふり構わずプレッシングを続けてくる相手、これ以外の中途半端な相手に対しては絶大な力を発揮することができる。香川も3アシストし、軒並み各紙の評価も高い。ロイスも復調した。

10月24日(土)
明治神宮外苑のデザインウィークへ行く。研究室での出品を確認するためである。彼らの頑張りで、芝生の上に3.6m×4.5mの大きな鏡を敷くことができた。そこに空を映り込ませようとするアイデアである。実際に見ると予想外に通行人の姿が映る。彼らが実際にそれに気づかないのは残念であるが、空を横切る人の動きは絵になる。タイトル等の作品の主旨を明快にする必要があるだろう。「イデオロギーの崇高な対象」を続ける。「剰余」をいかに活用するかがテーマのようだ。これまで剰余は分配されることが基本であり、そのため時間が停滞し、空間が細切れになる。それは反対に紙幣をはじめ大本の既存システムがより強固になることを意味する。それを不自由とする前提がこの本にあることが判る。
112 プレミア レスター×クリスタルパレス
いつものようにドタバタなゲーム展開の中、バーディーが得点し1-0でレスターが勝つ。岡崎は後半途中から出場。ゴール前での見せ場をつくれずに終わる。

10月23日(金)
「イデオロギーの崇高な対象」第Ⅱ部に入るが、Ⅰ部と異なり入ってこないのが歯がゆい。
111 CL アーセナル×バイエルン
0-2でアーセナルが勝つ。但しアーセナルはプライドを捨て、4-4-2でしっかり守り、時たま見せるカウンターで揺さぶるゲーム展開を徹底させていた。それも仕方がない。アーセナルは既にグループリーグ2戦2敗である。それゆえ必死さが伝わってきた。ボール支配率は3:7くらいであったろう。それでも勝つことができた。アーセナルのカウンター方法は、ボールを奪ったら一度キープし反対サイドへのロングパス、そこから中央への折り返しであった。エジルもキレていた。得点にいたらなかったもの、ウォルコットの開始早々のシュートがバイエルンを狂わした。後半になりはじめにバイエルンが動いたのだが、その機にアーセナルも仕掛けたの意外であった。得点もそのときフリーキックであった。ノイヤーはこのときだけミスをした。

10月22日(木)
110 EL ガバラ×ドルトムント
ムヒタリアンがガバラ遠征から外れる。ガバラはアゼルバイジャンのチームで、ムヒタリアンの母国アルメニアとは、領土問題でもめているからだそうだ。アゼルバイジャンはバクーが首都であることを知る。ロシアへ送る石油パイプラインの大本だ。そのため南コーカス3国の格差は大きいらしい。以前大学のワークショップで招いたスチュワートムンロがこのアゼルバイジャン、グルジアのことを調査していたことを思い出す。ソ連邦崩壊後、経済至上主義になりカスピ海は油田開発で相当荒れているらしい。その西の黒海といい、馴染みのないミステリアスな地域である。カスピ海の東は、ウズベキスタンやトルクメニスタン、アフガニスタンである。安倍首相がそのトルクメニスタンへ旅立った。ドルトは先制点を挙げ、安定した勝ちをものにする。

10月21日(水)
「イデオロギーの崇高な対象」を続ける。第1部の後半はリアリティについてである。リアルと呼ばれているものが実は幻覚にすぎないといっている訳ではないことが判る。敢えて書かれていないが「ブレードランナー」の結末を短絡的として批判する。幻覚に還元できない固い核、残骸が存在することを信じ、幻覚だと諦めないで、その事実から目をそらさないことの大切さが語られる。しかしその根拠についてはこの章で語られてはいない。「鏡」の話が取り上げられる。ベラスケスの「ラス・メニーナス」を引き合いにローティ、フーコー然り、真理と鏡は絶えず対にされる。真理崇拝主義への疑いである。ここでもそうだ。一般に鏡は人の心を表象するものと考えられ、ぼくらはそうした思考方法をとる。しかし鏡と心は全く別のものであり、「鏡」という虚像をつくって安住することへの警告がそこで語られている。ジジェクの言わんとすることも同様であろうか?どうしたらユダヤ人差別がなくすることができたかについても語られる。ユダヤ人に対して客観的な事実を加えることは、益々無意識的偏見を強化するだけであるという。あるいは反対に、ユダヤ人のよい日常例を取り上げ感情に訴えることもギャップを大きくするだけであるという。第1部最後がまた興味深い。ぼくにはいわゆる建築の数寄屋化について言及しているように読めた。「剰余価値と剰余享楽」についてである。マルクスを批判する。剰余享楽を建築では数寄屋化というのだが、剰余享楽批判を、社会的諸関係の全体を見落とした部分的な視点しかもたないものとして反対に批判する。短絡的な「速すぎる歴史化」とさえ言っている。剰余享楽を生む社会への注視が問題にされるべきなのだろう。ぼくにとっての新しい切り口を発見する。

10月20日(火)
「イデオロギーの崇高な対象」スラヴォイ・ジジェク著を読みはじめる。この本でははじめ、ぼくらが歪曲して社会現象を見ている事実、そのものを紐解こうとしているらしい。建築に引き寄せると、ぼくらは、普遍と特殊の関係を転倒させる傾向がある。本来普遍は、建築に存在しているひとつの属性にすぎないのだが、ひとたび建築の神秘性に囚われると、まるで建築の価値を抽象的普遍性の表現でしか見ないようになってしまう。抽象的な普遍性が、一連の具体的な物の中に次々に具体化する真の実体のように見てしまう。この転倒を認識できないことを物神化という。そこから逃れるためには、建築は社会的現実の中にあることを問い続けなければならない。このことをマルクスは明らかにしたという。幻想はぼくらの認識にあるだけなく、現実そのもの側、社会にあるという。柄谷と同様、抑圧されたものの回帰が主テーマとされる。

10月19日(月)
江尻さんとNIKEプロジェクトの構造の打ち合わせ。再度基礎部分の検討をする。その後、屋根について新しい展開となる。アイデアがアジャイルに膨らんでいくのは楽しい。こうした経験を最近2度、久しぶりに経験する。その後、芳賀沼さんと建築計画について話をする。芳賀沼さんはビックデータを解析する研究室出身である。IT進歩により、利用者個々の動きを知ることができるようになった。現在はその分析をどう事前の建築計画に結びつけるかが建築計画家の主テーマになっているという。アクティビティを誘発する仕掛けの考案だけでは建築家と何も変わりない。それを超えるために、他分野と同様ビッグデータを扱い、その予測と応用によって新しさをつくる。ただし、陳腐な空間では予想を裏切るような新しいデータは集まらない。シーラカンスの設計する学校建築はその点でユニークな空間であるので、分析には好都合だそうだ。計画学の新しい第2ステージを垣間見る。そうした視点で「おおたかの森小・中学校」を雑誌で見る。体育館以外、床とスラブに挟まれた一見ごちゃごちゃに連続する空間の意味が理解出来る。生徒の集まる具合がかたちとなって見えてきた。空な部分とL壁の配置が絶妙に見えてきたから不思議である。折り戸サッシュも梁のないフラットスラブにも納得がいく。アクティビティを表現するのにこれら全てが奉仕している。

10月18日(日)
109 プレミア トットナム×リヴァプール
クロップの初采配としてこのゲームを見る。2列目からボールを奪いにいく姿勢はドルト時代と同様である。とにかく選手にアグレッシブさが感じられた。ただし、運動量が足りないため、前半も30分過ぎると失速。ドルト選手より選手間距離が元々長いため、時間が経つと疲れによって、長いパス攻撃が中心となる。それによって、連動性のあるスピーディーな攻撃でなくなる。もしろ守備中心のように見えて、どちらかといえば、好調トットナムが有利にゲームをすすめていた。

10月17日(土)
コンペ提出のためのプリントが上手くいかず大学行き。その後無事提出。今回のコンペでは、要求されていたプログラムがぼくたちにあっていた。その分やりやすかった。
108 セリエA トリノ×ミラン
大敗後のミランのフォーメーションは4-3-3に変更。トップ下がなくなり、本田は右ウイングに入るのだろうか?昨季インザーギ体制と同じである。終了間際の5分間のプレーに留まる。しかしフィットしていない。ゲームは、ミランが後半途中までゲームを支配する展開である。新しいフォーメーションが機能していたことになる。本田のポジションのチェルチもよい動きをする。以前のように個人技に走ることなく、ワンツーを多用していた。サイドに開き、中盤底のモントリーヴォやベルトラッチの攻撃への上がりに貢献していた。プレッシングが上手く機能し、先手先手を打つことができていた。ところが得点後は前線のプレッシングが効かずに防戦一方になる。失点はその流れから喫した。ミハイロビッチもこの10分を耐えることができなかったことを悔やむ。本田はこれからどうなるか?チームは既に、ボナヴェントゥーラとモントリーヴォ中心となっていることが手を取るように判る。このフォーメーションが目新しさから効いていたのかどうかは次戦で判る。

10月16日(金)
107 ブンデス マインツ×ドルトムント
代表戦から2日しか経っていないにもかかわらず、香川と武藤が躍動する。ふたりとも、チーム戦術の一歯車として機能しチームに馴染んでいることが大きい。

10月15日(木)
何もせずにその前提を攻撃し合う空しさを感じる。自分は何をしたいかであって、行動した後で批判に応えればよい。すべきことを議論するのが生産的でないのは、文字通り何も生まないままで終わってしまうからである。そうした経験をする。マツダのCMにいささか感動する。ドライブの楽しさが蘇ってくる。

10月14日(水)
偶然、杉本博司の「建築」を見る。焦点を無限大に設定することで、サヴォア邸やファンズワース邸といった近代建築をぼやかして撮る。その表現は、建築写真の常識に対する批判である。直島のベネッセ美術館でも海シリーズを見た。それに対して、都築響一がサルを使ってニューヨークを撮影していたことを思い出す。サルと杉本の違いを問うていた。ぼくは模型を前にして都築響一に撮ってもらったことがある。確か雑誌「SUTADIO VOICE」の取材であったと記憶する。彼は手作りのピンホールカメラを使っていた。誌上では案の定、何が写っているかが全く分からなかった。 表現を持て余した末の姿をその時感じた。建築の表現傾向もそれに近い。

10月13日(火)
106 代表 イラン×日本
フィジカルを前面に出すイランに対して日本はよい展開できず苦しむ。前半はそれが顕著であった。香川は前半で交代し、DF陣も幾度となく突破を許す。多くの選手がドイツでプレーしている昔と異なるのになぜだろうと思う。実はブンデスでも上手くいっていないのであるが、代表に対する期待が大きいため、彼らに対してよい夢を見ていたのかもしれない。10年前と現実は変わっていなかった。そうした現実が明るみに出てきたことによる失望が、代表の視聴率低調を招いているのかもしれない。

10月12日(月)
2年生の設計授業。どんなものでもかたちをつくり形式化するのは難しい。したがって、かたちをつくる人や姿勢を批判することはできない。批評はつくられたかたちや形式にたいして向けられ、人に非ず。批評は、かたちをもっと改良するための手段である。とはいえ、批評された当人がそのことを理解するのは難しい。

10月9日(金)
「戦争のはらわた」サム・ペキンパー監督を見る。戦闘シーンの中に、スローモーションを挿入し、感情の起伏を表現している。人の道徳心を問うシビアなシーンから急遽最後、滑稽さで終えるのは時代の影響だろうか。これもスローモーションだ。バックには童謡が流れる。この映画が、ドイツ側から見た戦争映画であるというのも面白い。戦争の中の正義感のあるひとりのドイツ小隊長(ジェームズ・コバーン)を描いたものである。ドイツを英雄視し、ヒトラーと戦争の不条理を知りつつも組織に属している以上それに心身ともに捧げる忠信性が描かれる。こうした切り口は日本映画にしかないものと思っていた。最後にベルトルト・ブレヒトの名言まで記される。これもまた何を意味しているかよく分からない。1977年の映画であるが、強大なアメリカ中心の現状を破壊することがまずはじめのテーマがあったことを推測する。ブレヒトは、ドイツから亡命した劇作家で、戦後世界の演劇界に多大な影響を与えた。ぼくが高校時代に見ていた意味の分からない過激で異物感のある攻撃的演劇の根にある人物である、このことを知る。

10月8日(木)
105 代表 シリア×日本
日本はPKで先制すると、落ち着いて突き放すことに成功する。そのPKを誘った岡崎の動きに脱帽。イングランドで覚えたのだろう。ボール受ける瞬間にスピードを緩め、DFを背中越しに受ける態勢をとっていた。2点目の香川のマタ抜きパスにすかさずの反応も見事であった。岡崎の活躍が大きい。後半になると、サイドの本田が中に入るようになり展開が変わった。選手間の距離がよくなったのだろう。日本は個人技でなく連動性が重要となることが判る。本田のミラン批判もここにある。ミラン、ミハイロビッチ監督のコメントも面白い。今までの日本人と違う、と。

10月7日(水)
稲山さんと構造打ち合わせ。基壇部について新しい方針が示され、屋根構造にも新しい案が追加される。早速模型で検討を始める。俄然面白くなってきた。実施するための方針整理をはじめる。

10月6日(火)
佐々木睦朗氏の法政大学退任連続レクチャーのため法政大学へ行く。今日は冨永謙氏、陣内秀信氏との対談である。佐々木さんは、自らの仕事を、柱梁構造のパルテノン、ドーム構造のパンテオン、その延長上に位置づけようとしている。その壮大さに驚く。パルテノンを人為的(構築的)、パンテオンを自然的とする。おそらく、このシリーズの後半では佐々木さんのその融合が語られるのだろう。それを受けた陣内さんの発言も面白い。西欧は自然的パンテオンをもって最高点に達してしまったので、その後は様式美に行くしかなかったという。冨永さんは、そこに断裂をつくったのがコルビュジエであるという。バンハム流にいうなら構築という概念をつくり新しいスタートとした。現在はそれがとけかけた境目にいる。事務所に戻り、パルテノンより100年前に建てられたパエステゥムをじっくり見る。たしかに無骨であり、パルテノンの元型と見えないこともない。「建築をめざして」に、その直接的な言及をみつけることができなかった。夜に江尻事務所でナイキプロジェクトの打ち合わせ。再び本格的に動き出した。内容は主に基礎構造について。敷地変更によりかたちの意味が失われてきたので、それを基礎のデザインに還元したい旨を伝える。それをコストダウンにも結びつけるこちができればなおよい。
104 セリエA ミラン×ナポリ
本田不出場で大敗。試合後、本田は自らの思いをメディアにぶちまける。イタリアメディアはそれを受け、騒然としているようだ。本田が禅からサムライに変わったという。本田の発言をいくつかのメディアを通して読む。要約するとこうだ。ミランには現在攻守においてチーム姿勢がない。それはマスコミをはじめ派手な試合を望むからだ。昔のようなゲームができないことは3年前から明らかだ。今はチーム姿勢を地道に熟成させるときで、フロント、ファンはだまっていろ。さまなければ、お金を使ってスーパースターを連れてくればよい。こんなことだろう。本田を知る日本人は本来の本田節として理解できるが、日本人を少し甘く見ていたイタリア人には驚きだろう。

10月5日(月)
佐々木玉穂さんに1時間ばかりレクチャーをしてもらう。ロンドンでの体験が彼女の活動の基本となっているようだ。手でつくることを徹底的に教育されたという。材料などをじっくり観察することを学び、そこからデザイン発想を膨らませていくことを学んだ2年であったそうだ。事務所には若い女性で、家具や原寸模型をつくるスタッフがいる。そうした活動を徹底させる覚悟が感じられた。プロジェクトの話も途中経過を示してくれたので、学生の刺激になったに違いない。

10月4日(日)
秋晴れの中、真壁の伝承館へ行く。雑誌で見ていたよりもこぢんまりとしている。街並みにあっているとも言えるが、少し物足りないのは、ディテールが原因かもしれない。正面性のなさがフラットな格子状の街割りに妙にあっているのは不思議であった。裏の公園に抜ける中庭がそのような配置計画をもたらした。プログラム全体の調整とモノの調整の両立が難しいことを知る。
103 ブンデス バイエルン×ドルトムント
ドルトムントは完膚なきまでにバイエルンにたたきのめされる。個人能力の差が出る。香川はシャビアロンソに徹底的にマークされ何も仕事ができなかった。マンU時代のCLを思い出させるものがあった。当時シャビアロンソはレアルにいた。香川はマスコミの予想に反しトップ下を担わされた。ファーガソンはその時、皆をあっと言わせたかった発言したことを記憶する。それ程ファーガソンの香川に対する期待は大きかった。香川がもうひとつ大きくなるチャンスであった。その時と同様、今回もシャビアロンソにその機会を阻まれた訳だ。ただし試合後のフンメルスのコメントから少し考えも変わった。ドルトムントは、トゥヘル監督からシャビとボアティングからのロングパスを警戒するよう指示を受けていたという。その前提に立って、両サイドを押し上げDFラインを高く保つことを目指したという。香川はそのため、いつもの下がり目でないトップ下のポジションが与えられたそうだ。だからシャビアロンソを釘つげにしていたことにもなる。ムヒタリアンとカストロはフリーであったが、反面、ボアティングからの2本のロングパスを許している。それで完全にゲームが崩れた。

10月3日(土)
夕方、田畑大先生の個展のため銀座へ行く。金属と土素焼による精巧な作品を見る。土素焼が金属彫刻の輝かしさを一層引き出す。田畑さんもモノの繰り返しがテーマのようだ。ただし、その全体像はくずれることなく円や半円といった幾何学に収束する。モノの力と幾何学の力を信じているからだろうか?と思う。精巧な作品であるにもかかわらず親しみが感じられ、独特の奇妙さがある。ラグビーW杯を見る。今日は安定した試合運びをし、素人目にも完勝であった。少し興奮する。そのため同時刻の岡崎レスターのゲームを見逃す。

10月2日(金)
102 EL PAOK×ドルトムント
ドルトムントは、週末のバイエルン戦に備えて、香川、ギュンドアン、オバメヤン、フンメルス、ギリシア代表ソクラテスを遠征に帯同させず、敵地で引き分ける。控えメンバーで臨むも遜色のないゲーム展開となる。しかし先制点を奪われ厳しくなる展開もいつもと同様であった。とはいえ、オバメヤンのゴール前のキレ、フンメルスの展開力、香川のゲームコントロールの素晴らしさを改めて気づく。
103 ブンデス マインツ×ダルムシュタット 武藤のゲームを久しぶりに見る。2点に絡む活躍をする。裏へ飛び出しは群を抜いている。後はパスの出し手とのタイミングである。

10月1日(木)
工藤和美・堀場弘氏の建築大賞受賞パーティに夕方青山へ行く。原広司氏の乾杯の挨拶が面白かった。30年前に複雑性時代の到来を予想して、それを表現する方法として今流行のクラウドというものを考えていたという。その展示の手伝いをしたのが工藤さんであった。ノートからパタンへと同様の時代精神が伝わってくる。伊東さんが新しい建築について話す。視覚から嗅覚や聴覚に根ざすものに変わるという。木造はよい香りがするそうだ。佐藤淳さんは、エンジニアの力量が試される木造の将来性を話す。皆が木造を鍵にするのは、受賞作品が木造であるばかりでない。

9月30日(水)
千葉工大に倉方俊輔氏を招いてのレクチャー。建築文化を街や市民に定着させる必要性について話してくれる。10月末から大阪で倉方さんが企画した「生きがい建築ミュージアム 大阪」が開かれる。大阪市の建築が自由に見学できる企画である。シカゴ、ロンドンは建築に対する市民意識は高い。そうした建築ツアーやオープンハウスは市民の間に既に浸透しているという。このように、当初限られた人にしか使われないクローズドな建築も徐々に開かれていく宿命にある。それを積極的に考えようという訳だ。つまり建築は分化していくことにより文化になるという。分化させるのが市民の役割なのだ。レクチャーの中で、大阪船場、黒川紀章のスリープカプセルを知る。帝国ホテルのカフェも知った。今度行ってみよう。

9月29日(火)
「閉じた世界から無限宇宙へ」アルクサンドル・コイレ著を読みはじめる。16,17世紀の科学と思想の諸関係が記述される。近代科学の形成とヨーロッパ思想の変革との同時代性が現在にあるということをよく読む。それで古典的な本書を手にする。50年代のものである。

9月28日(月)
「進化する箱 箱の家20年」を読み終わる。前書「建築の四層構造-サステイナブル・デザインをめぐる思考」から5年経ち、箱の家から改めて学ぶことが2つあった。それらは、ぼくの興味変化にも因っている。ひとつめは、これから益々多様化するクライアントのライフスタイルやその要求、条件に対して、箱の家のスタンスが独特であること。ふたつめは、建築の快適性を、身体的な快適性(四層構造第2層)から第4層にある記号性の能動的な克服に置いていること、このふたつである。これらは深読みすると、建築家批判とメーカー批判ともとれる。ふたつめは、ぼくらがデザインする時に得る快適性と同様のものを、箱の家の住み手が得ている。アドルノ(勉強不足である)とカントを引き合いに、快適性とは、第1層から3層の問題を克服するときに得られる第4層の審美的・倫理的判断であるという。箱の家では、現代では失いかけ幻想とさえされている家族の一体感を、一室空間というコンセプトの下での獲得を住み手は挑戦している。この達成感がもたらす快適性追求がメーカーの工業化住宅には欠けている。
ひとつめについては、ぼくの中でパタンランゲージの見方が変化してきたことで気づいた。それは建築家批判と受け止められるかもしれない。パタンランゲージはこれまで、ユーザーに無限の可能性をあたえるメディアとしての機能が注目されてきた。建築家も実はそれを利用し自分のイメージを拡大させてきた。単純明快な現実世界に対し、人の意志深くに沈みこんでいる複雑な精神世界に対する憧れ、それを開放するのがパタンランゲージと考えていた訳だ。
複雑系探究に関しては、第一次世界大戦後のゲシュタルトと創発論(ポパー、ハイエク、ウェーバー)、第2次大戦後のサイバネティックス(ウイーナー)、カタストロフ、アフォーダンス(Jギブソン)、その後のエントロピー(プリコジン)、カオス(ローレンツ、マンデルブロ)、アルゴリズム。そしてあえて付け加えるなら現在のネットワーク科学と変化してきた。反還元論や創発という考えからはじまって、フィードバックとホメオステイス(恒常性)、そしてそのシミユレーションへという変化である。パタンランゲージは、創発論、アフォーダンスとエントロピーの時代までに考えられたものである。個人の存在が注目され、個人の無限な可能性が探究された時代のものであり、それゆえ個別性が強調された。しかしパタンランゲージの優れた点は別のところにある。それは個別性追求末の限界とそれを乗り越える方法の模索である。パタンランゲージでは、それを以下のような表現方法をとることによって試行した。パタンは、短期的には差異がある下位システムを長期的には上位システムに影響を与えない範囲に区切り、下位システムにおける合理的意思決定を避ける構造になっている。多様化する家族に対しその都度応えることを必要としない箱の家と同様である。すべての否定をくぐり抜けた後で肯定される光景をどう提供するかという問題にパタンランゲージは挑んでいた。それは想像の上のユートピア=超越論的仮象のもとで志向できるものだと思う。箱の家の一室空間コンセプトがそれに当たる。それによって住み手は空間を膨くらませるように思考を廻らすことができる。箱の家とパタンランゲージには普遍解への探究がある。それは個別性の限界を見出したところにあるものである。

9月27日(日)
101 ブンデス ドルトムント×ダルムシュタット
ドルトムントは終了間際に事故のような失点を喫し、痛恨の引き分け、勝ち点2を失う。先制を許し引いてくる相手に対し、なんとか後半になって逆転することに成功したところまではよかった。1点目の香川の起点となるパスを「缶詰をこじ開けるパス」とドイツメディアは評する。上手い表現だと感心する。それ程、ダルムシュタットのコンタクトの必死さは十分伝わってくる試合ではあった。ドルトは少し勢いが落ちたところでの次節相手は上向きのバイエルンである。

9月26日(土)
100 プレミア レスター×アーセナル
2-5で破れ、レスターは今季はじめて勝ち点を失う。ここ数試合と同様打ち合いとなる。ただしこのファイトをこの試合でも見せたものの追いつくことはできなかった。前半で退いた岡崎がそこにいないのは残念であるが、アーセナルの攻撃を恐れて中盤を厚くするための交代である。レスターにはゲームコントロールする人がいないので岡崎が活かされていない事実に変わりがない。

9月25日(金)
ポンピドゥーからとベニス両方から展覧会の依頼がくる。ポンピドゥーはこれまでの所蔵作品の再展示・再版であるので問題ないが、ベニスの方は判りにくいので早速疑問点を尋ねる。「進化する箱 箱の家20年」を読み続ける。MUJI HOUSEは、箱の家の工業化の試みであるという。一室空間という思想ありの工業化がそこで語られる。

9月24日(木)
大学での会議の後、EDHで木材商社メーカーと打ち合わせ。芳賀沼さんをはじめ木に関わる人と会う機会が最近多くなった。木は伝統的な材料であるのだが、新しい産業として見直されている。そのため非常にクリアなシステムの上に成立していることを認識する。技術や材料情報などが細分化し分散するところまでいたっていない。村社会がオープンになった健全な印象がある。
099 ブンデス ホッヘンハイム×ドルトムント
ドルトムントは中2日の厳しい日程のため、不安定なパフォーマンスで下位チームから勝ち点を取り損なう。先発フル出場の香川も同様である。今日は、ギュンドアンとムヒタリアンを休ませることからスタートしその代わりロイスが故障から復帰するも、やはりチームはフィットしなかった。後半は流れを掴むところまでいくもフィニッシュのところで決めきれなかった。仕方なし。

9月23日(水)
午後、ナチュラルスラットに行き、1時間あまりの間お話しを聞く。明快なライフスタイルコンセプトをもっているのにいつも感心する。彼も近代技術や現在の社会制度に疑問を持ち、それに基づいて仕事をしている、と思う。こうした疑問を日々のライフスタイルにまで実行する人は多くない。ぼくの場合はとくにアレグサンダーの影響が大きいが、彼の場合はどこから由来しているのか?と帰宅してふと疑問にもつ。夜、はじめてラグビーの試合をTVで見る。前試合の健闘によって世界ランキングで上回るも相手は伝統ある強豪国スコットランドである。伝統の壁の厚さをここでも感じる。中2日のため疲れで勢いのない日本はあと1歩のところが上手くいかずに、逆に一瞬のミスをつかれ引き離される。フットボールでも同様だ。抜ききれば何でもないことが達成するまでは険しい。事後的な説明はクリアでも、それは悪戦苦闘した後の結果のものであって、可能性のある選択をつなぎ合わせてできたひとつでしかない。ベストな解答でもなく、必然なことでもなく、たまたま現在のコンテクストに落ち着いたものである。勝ち負けは、それを納得させる明快なかたちである。

9月22日(火)
横須賀美術館へ行き、長新太展を見る。彼の描く絵本はナンセンスで滑稽であるが、しらけさせないポジティブな不思議な印象を持たせてくれる。コップという無機質なものにも命を吹き込む画風による。これをアニミズムといってしまうと他愛もないが、要するに奇想天外な中に愛がある。渋滞のため、浦賀をまわり朝比奈インターから帰る。途中浦賀で食事。
「進化する箱 箱の家20年」を読みはじめる。難波さんから直接いただいた。前半を読み終える。箱の家が、多様化する家族に対して独特なアプローチをしていることが判る。建築家は社会性を主張してもそれは、個々の家族にたいして個別的な解答を用意することでしかない。個別性を高めることで作品性を高めていった。日本でおいて発展した住宅メーカーも最近は同様のストラテジーをもっている。生産性と経済性を重んじながらそれを目指している。戦後日本に限らず産業全てが目指したのは、社会を集団としてでなく、顔の見えるひとりひとりの集合としてあつかうことであった。それは消費社会に裏付けられたものである。その個々への対応を新しい技術で目指した。しかしそうした先鋭化にも陰りが見えはじめたのが現在である。要求やクレームといった情報はあまりにも数が膨大であり、リアルなモノとしての対応は新しいIT技術をもってしても追いつかない状況になった。このアンバランスさにたいして箱の家は自覚的であった。1章はアレグサンダーについてである。アレグサンダーはノートで建築を数学的・演繹的方法で表現することを試みた。その後、パタンランゲージにおいて経験的・帰納的方法へ変化させていった。その驚きがそこに記されている。ぼくはその変化を共有できなかった。パタンランゲージを無限なイメージをもたらすものとして、利用者と同様の立場から考えていた。パタンランゲージを否定する人は、逆に発想のイメージを妨げるものとして批判した。箱の家はそれらとは反対の方向を目指していたことになる。今さらながらそのことに気づく。

9月21日(月)
AO入試の面接を行う。数人の受験生と中身の濃い話ができる。ここ数年経験できなかったことである。大学の建学精神を繰り返すような形式的な志望理由をのべるのでなく、自分の言葉で話す学生が増えてきた。加えて具体的な建築作品や展覧会に触れた経験を語る学生もいる。その経験の差がモチベーションの差となることを実感する。彼らは生き生きと語ってくれ、その話を聞くこちらも気持ちよい。
098 ブンデス ドルトムント×レヴァークーゼン
最終スコア3-0以上にドルトムントはレヴァークーゼンを圧倒する。特に香川は躍動していた。中盤左底からの長い右へのサイドチェンジパスがことごとく決まる。1点目のアシストである。下がり目のポジショニングをすることで、前を向き広い視野を確保している。こうした事後説明を容易にするほど、今のドルトムントは全体が上手く機能している。当人の香川は、序盤の攻防が全てであったとゲーム後語る。レヴァークーゼンのボールチェックは相当に激しかった。昨年の開幕ゲームではそれによって19秒で失点した。その悪い流れが半年間続いたといっても言い過ぎでない。今日もフンメルスとソクラティス、アンカードゥルムが完全に押さえ込まれた。それをくぐり抜けることができたのは、香川やオバメヤンが瞬時に下がり、フンメルスからの縦パスを受けて打開していたことによる。香川とオバメヤンはボールをダイレクトで散らすことで相手守備陣を崩していった。後半に香川は得点も決める。ドルトの速攻からDFラインを押し下げ、空いたスペースを突いた得点であった。香川は同様なかたちでさらに点を取るチャンスを掴む。失敗に終わったが、愛嬌ですまされるほどチームは好調である。

9月20日(日)
AO入試のため大学行き。問題のレベルが少し上がる。新しい建築学科に相応しい論理展開と発想力を問う。ダイナミックな案が少なかったのが気になる。
097 セリエA ミラン×パラレモ
本田がトップ下10番で先発。マスコミの本田批判に反して、ミハイロヴィッチは本田を信頼していることが判る。前半からゴールに迫るかたちはつくっていた。前線の2人とは上手くいきつつある。前線が開けたスペースに本田がゴールに向かって切り込むかたちである。ただし力強くない。マスコミもこれを指摘する。しかし相手中盤に疲れがみえはじめた後半からは可能性が感じられるチャンスを幾度かつくる。むしろ後方味方から本田にボールが集まるところまでいっていないのが問題だろう。最近の香川、代表における本田とは対照的だ。後半出場のバロッテリにはボールが集まっていた。トップ下を与えられているチャンスを何としても掴んでもらいたい。

9月19日(土)
界工作舎で高間三郎氏と設備打ち合わせ。基本的な設備方針を決定する。前向きな意志を持ってシステム説明することが重要であることをアドバイスされる。マイナス条件を解決するための提案と未来的で積極的な提案にさほど大きな違いはない。表現方法に左右されて異なった捉え方をされるだけである。経験で以て問題を察しする能力が、プロセス進行中でも事後結果のように語ることを可能にする。
096 プレミア ストーク×レスター
岡崎先発もゴールならず。FWは結果が求められるので、岡崎は再びマスコミから窮地に立たされる。が、ぼくの見るところ、監督ラニエリの信頼は厚いように思う。彼はスマートな得点を望んでいる。レスターは今回も2点差を追いつくいたのであるが、それは岡崎のみならず全員の強い闘争心によっている。ゲーム内容はバタバタであり、後半は前線と最終ライン間は広く、中盤での組み立てはない。両チームの打ち合い状態である。岡崎を下げるのは、こうしたゲーム状況では彼は得点できないからである。サイドからの攻撃に対しポジショニングの良さで得点ができるのが岡崎である。ラニエリはこうした攻撃をイメージしているのであって、ここ2試合は運がよいとさえ思っているのでないか。

9月18日(金)
マカオ大学ワークショップの講評会。デザインを解く鍵を機能と時代雰囲気に頼ることについて違和感を感じる。機能はこれまでの経験に基づいたものであり、それでは革新的なデザインが不可能であるので、時代雰囲気を加える。この方法は見え透いている。リアルな建築条件がない場合にそれが顕著に表れる。講評会後の懇談会でトマス先生と話したところ、同様な感想をもっていた。彼はプラクティカルな思想にもとづく教育を目指している。
095 ヨーロッパリーグ ドルトムント×クラスノダール
トゥルムは先を見越しメンバー変更を行う。DFラインにはこれまでのメンバーを保ったまま、MFの変更を行う。守備重視の基本的姿勢が判る。マインツからのパク、ユナイテッドからのヤヌザイ、レヴァークーゼンからのカストロを試す。不動であったギュンドアン、ムヒタリアン、オバメヤンがトゥルムのコアメンバーというべきだろう。その新メンバーのコンビネーションはこれからであった。後半から、従来のMFメンバーに戻しながら、今度はDFラインを変えていく。それは実にスムーズであった。パクが左SBに入る。後半から登場の香川はチームに落ち着きを与えることができた。ガツガツいくことなく、引いた上で攻撃の核となる進歩をここ数試合香川に見ることができる。ロスタイムにパクがサイド奥まで侵入しヘディングで決める。2-1でドルトムントの勝利。ドルトの幸運と好調は続く。

9月17日(木)
難波さんを交えて、構造家の稲山正弘氏と打ち合わせを行う。有意義であった。プロジェクトが大きく前進したことはもちろんであるが、打ち合わせ途中で、ガウディに出会って構造家を目指した話や、夏に訪れたコルトバのメスキータの水平性に感動した経験、を実直に語ってくれたことが実に面白かった。メスキータの中央のゴシック教会が軽快なのは、イスラムの屋根が水平力を補っているからであり、当時の建設家はそれに自覚的であったというのが、稲山さんの仮説である。木造はスチールに比べて障害がある構造材である。アイデアが直結するものでなく、経験値が重要視されることを改めて知る。個人の経験に限らず、伝統や産業が抱えているリアルな問題と関連してくる。その意味で技術の先端性と社会性が相反する場面が多く、それを実感する。

9月16日(水)
マカオ大学トマス・ダニエル先生と一緒にワークショップの中間講評会。学生の提案にたいし問題を拡げようとするぼくの発言に対し、トマス先生は抵抗があったようだ。教育における先生の役割の認識の違いだろう。正しい手順付けを行うことか、あるいは学生がエンカレッジするためのトリガー外しと考えるか、の違いである。ぼくにとっては、その違いが実感できたことが有意義であった。プロジェクトの目標を結果に置くのか、あるいは教育効果に置くかの違いかもしれない。普段結果を要求するぼくが実はプロセス重視していたわけだ。

9月15日(火)
10時の便で大分へ行き、6時の便で戻る。慌ただしい1日であった。機内で現代思想「偶有性操縦法」磯崎新を読む。偶有性とは、決定的なひとつの解がないことをいう。本質がない状態を比較的ポジティブに捉えるときに用いる。以前この状態は不確実性とか偶然性として理解されていた。その後、この考えは冗長性(リタンダンシィー)として構造家に捉えられる。3.11以降の設計における試みである。そして偶有性(コンティンジェンシー)である。よりじゅうなんせいが要求され極めて政治的である。それは寓意やパタンに近いものと思う。これらが着目されるのは、世の中の決定論的思考から全体性思考を志向する変化の現れである。現システムがいよいよ上手く働かなくなったことが顕在化してきた証である。大分では、使い手、正確には運用側からの要望が暗に知らされた。磯崎の論説によると、以前の談合システムが偶有性を補完していた。談合はもちろん良いことではない。しかし、談合が崩壊したあとのクリアな決定論的システムの元では、要求条件がそのまま価格として積み上げられ、今回のような悲劇を招いた。ここでは、建築家の偶有性操作法が言及されていないのだが、設計においてまず第一に考慮されるべき問題と理解する。新国立競技場ほどのプロジェクトでないが、ザハの過ちから学ぶべきことが身近にも発生している。

9月13日(日)
094 セリアA インテル×ミラン

9月12日(土)
093 ブンデス ハノファー×ドルトムント
香川をはじめドルトムントは好調をキープ。逆転で勝利を飾る。落ち着いていた。落ち着いていたことは、香川が自陣で3人に囲まれボールロストされそうになったシーンによくあらわれている。少しトリッキーなボールタッチで巧みにマークを外す。それ程精神的余裕があるのだろう。今までとかわり、右サイドからの得点となる。右SBのギンダーが90分間通してフリーであった。左中心の組み立てから大きな右へのサイドチェンジを、フリーでギンダーがチャンスメークをする。左右の大きな振れへのハノファーの対応が難しいことが判るが、90分の中で為す術を見つける必要がある。2回のPKとオウンゴールンに絡んだCBに責を負わすのは酷である。ハノファーに関して、手術明けの清武は早くもチームの中心となっている。清武は中盤下がり目にポジショニングし、ボールを奪った後の攻撃の起点である。ドルトムントは両サイドが高い位置を位置取るため、ボールロスト時には実質2バックになる。そのためロスト直後のボールチェックが生命線である。清武は巧みにこれを攻める任を負っていた。1点目は、チェックにきたCBパパロクロースをターンで交わし、フンメルスの背後に長いスルーパスを通したものであった。香川もよく行うプレーである。日本人の俊敏性を活かしたプレーである

9月11日(金)
北九州市立図書館のシステムが閉じていることに疑問を感じる。半外部のヴォールト空間があったなら、もっと雑多で豊な意味の発生機能が期待できると思う。この建築の歴史的位置づけを「手法で」で解説していたことを思い出す。それにしたがい、かたちの意味が理解出来る。それに対して大屋根の歴史は浅い。水平方向の展開を発見したミースからはじまり、スーパースタジオ。もう少し調べよう。

9月10日(木)
先日訪れた大分県立美術館よりも街に開かれた空間として、ジェン・ヌーベルのルツェルンの庇下の大きな開かれた空間を思い出す。これをつくるのは正方形の大きな屋根であった。そうした機能を担うのが庇でなく屋根本体であるのは、フォスターのニームにあるメディアセンターや小さいが箱の家も同様であることに気づく。フィスターを調べると、平ら屋根でなく少しむくりのあるシェル屋根にもチャレンジしていることを知る。

9月 9日(水)
092 EU予選 スコットランド×ドイツ
ドイツが予選突破を確実にする。逆にスコットランドは厳しくなった。予選突破の先目になるゲームだけ合って、アグレッシブでスリリングであった。ドイツは、ミューラー、ゲッツェ、エジルをはじめとする攻撃陣が躍動する。ギュンドアンの中盤底からのビルトアップも迫力があった。決勝点はギュンドアンによるもので、一度スルーパスでゴール脇のスペースまでミューラーを走らせてから、その折り返しを中央から叩き込んだ。2点目のゲッツェの得点も中盤からのワンツウーとドリブルによってDFラインを突破したものだ。まるでドルトムントの試合をみているようであた。ブンデスの勢力変化を予感する。それに対しスコットランドもアグレッシブな伝統を引き継いだ、ホームゲームとして果敢に攻撃をした。監督は中村俊輔がセルティク所属時に指導を仰いだストラカン。同僚であったマローニー、スコットブラウンも先発である。諦めない姿勢がサポーターの心を掴んでいる。

9月 8日(火)
091 代表 アフガニスタン×日本
香川のミドルシュートが決まると、チームが落ち着き6-0で圧勝する。先制点がチームにもたらす勢いは大きい。ハリルも絶賛する原口の動きもよかった。彼が引いて守る相手へのアクセントとなっていた。同様な選手として宇佐美、武藤、永井がいる中、今後も調子の良い選手を起用していくのだろう。山口も安定している。彼に期待されているのは守備であるのだが、今日は点差のためか、前線への上がりも多かった。岡崎の最初の得点では、山口が起点となった中央突破である。香川が調子の良いときは、柴崎でなく、山口の守備を買うことになりそうだ。今日のテヘランスタジアムはピッチ状態が良いとは言えず、日本的なスピーディな攻撃ができそうになかったことも理由かもしれない。

9月 5日(土)
「手法が」磯崎新著の中に含まれる北九州市立図書館の作品評「建築ができあがってから」を読む。手法と成果物との関係を自問し、強大なヴォールトに至った理由を説明することは不可能である、といっている。手法を語りながら、その無意味性を語っているのが面白い。ただし、「もっぱらのメタファーの発生機構」として建築を意識しているようだ。(群馬県立美術館のように)グリッド空間でなく連続したヴォールトであることに、雑多で豊な意味の発生機能を期待していることが判る。

9月 4日(金)
北九州市立図書館へ行く。長い巨大なヴォールトに覆われた凄まじい建築である。閉塞しているが故に緊張感がある。エリップスに近い構成箇所にいまさらながら驚く。次に北九州市立美術館に行くも、改修のため閉館。見ることができなかった。大きな階段室前で集合写真を撮る。10 年前にここでレクチャーをした。その時感じたこととの違いを知りたかったのだが残念であった。その後、門司カントリー倶楽部 レーモンド設計 に行く。古い木造建築であり、大切に使われている。欄間からの光が差し込み、内部のシザーズトラスが赤く染まる様を経験する。浄土寺の内部雰囲気に近い。安藤さんの淡路の寺を含めて、こうした経験は3度目である。飛行場近くの温泉に入り、帰京する。

9月 3日(木)
コアやまくに栗生明設計へ行く。94 年の作品である。巨大なアトリウム市民広場を中心に、役場、図書館、シアター、ミュージアム、スケートリンク、小売店舗が集まる。アトリウムを通り抜けるのは、斜面山道がストレートに侵入する外部空中通路である。過疎の村にとって必要とされる全てのものが揃っている。当時の先端的な試みだろう。反対にそのため巨大となり環境整備が追いついていない。20年経って建築が扱う問題がシフトしてきたことを感じる。続けて、中津市図書館と風の葬祭場 槇文彦設計 へ行く。これらの建築にはそうした時代を感じさせないものがある。安定している。図書館は白を基調とし品がある。高さが低く抑えられているのは、昔からの街並みに合わせた結果だろう。それは、読書に相応しい落ち着いた雰囲気でもある。その屋根は緩やかなアールであるが、図書館は書棚が多く、期待していたよりも内部で流動性が感じられない。葬祭場は、ランドスケープと光の扱いに長けている。葬儀場では、池に反射する光が壁を舐める変わった様子を見る。こうした空間性を創ることに憧れるも、自分の目指す世界とは異なることが確信できたのは、数年前の訪問と異なるところである。

9月 2日(水)
大分県立美術館に行く。巨大なあっけらかんとした箱である。これが建築たる所以は以下の2つが考えられる。街に開くコンセプトと木材の使用である。どちらも空間性を超えたものである。横力を負担する木製ブレースが3階全体を覆う。屋根は3 次元格子である。共用部分からそれが見える。街に開くコンセプトを可能にしているのは、開口部の機構と微気候を可能にする床下空調、加えてコンペにおける審査員の評価である。こうしたコンセプトは、得てしてマイナス要件になり、設計の途中で潰されていくのが常である。コンペ時の審査員の評価が最後まで拠り所なったに違いない。逆に考えると、コンペではこうした提案が必要で、今の社会で建築化できる唯一の方法と思う。なかなかコンペで勝ち抜くことができないが勇気をもらった。

9月 1日(火)
院入試の面接のため大学行き。会議中に佐野研二氏デザインのオリンピックのロゴが公式エンブレム辞退する一報が入る。夜はそのニュースが至るところで放送される。少し同情する。難波さんが、昨日の日記でコールハースを、パラノイド クリティカルといっているのを読む。いずれにせよ、シニシズムの否定である。

8月31日(月)
ユリイカ2009年6月号「レム・コールハース」を再読する。特集冒頭浅田彰と磯崎新の対談では、コールハースをシニシズム、磯崎は自分をスノビズムという。コジェーヴの歴史の終焉が基準となっている。一時ぼくもシニシズムがコールハースにぴったりの言葉と思い、彼を敬遠していたが、真当であることを最近知る。シュルレアリスムというのがよいかと思う。浅田はアーネストであるともいっている。新しいプロジェクトの方針について塩谷くんと話す。機能的にまとまっていた案をその方針で組み立てなおす。

8月30日(日)
090 ブンデス ドルトムント×ヘルタ・ベルリン
香川が起点としての役割を十二分に果たし3-1でドルトムントが勝つ。2点を獲ってからは、安心したためか、プレーが雑になり、何度も得点チャンスをつぶす。その中に香川のフリーな状態でのシュートもあった。そのためゲームを苦しくしたが、3点目を挙げ逃げ切る。今季は守備的な相手に対して、有効な攻めが出来ている。今日のヘルタも5バックに近かった。代表にも同じ課題がある。良い見本になればと願う。欧州は一時中断し、インターナショナルウィークに突入する。

8月29日(土)
088 プレミア ボーンマウス×レスター
イタリア人ラニエリ、レスター監督は、泥臭さが嫌いなようだ。自陣でフォーメーションを崩さずにスマートに守り抜くことを理想としているようである。好調な現在だからこそ、昇格チームであるボーンマウス戦でその戦術を試みた。今のところ攻め手がなく、よい結果が得られていない。。後半から泥臭さを求め、岡崎を投入する。相手の疲れもあり、ある程度の結果を残す。同点弾も、岡崎のチャックから、奔走した9番ヴァーディーのPKからである。レスターチーム状況をこう見るのだが、ラニエリは今後をどう判断するのだろうか?インターナショナルウィークで2週間の猶予がある。しかし岡崎は代表でチームから遠ざかっている。
089 セリエA ミラン×エンポリ
予想に反し本田は出場しなかった。怪我か?と思うも、試合後のミハイロビッチ監督のコメントから、ライバルスペイン人スソの動きが良かったというものであった。安心するも危機となる。スソは機能せず、後半代わりに投入されたのはボゥナベントゥーラであった。ゲームは2-1で勝利する。ミハイロビッチが信じるように2トップは破壊力がある。彼らが攻撃に専念する分、中盤の守備負担が大きい。このゲームでは、その中盤をエンポリに完全に支配されていた。後半から新加入のクツカが加わり安定すると、攻撃のイマジネーションとして期待されたのは本田ではなかったわけだ。本田の立場は相変わらず厳しい。
映画「ディア ハンター」を観る。

8月28日(金)
難波さんからメールでクールハース評をいただく。「錯乱のニューヨーク」において、目的論的技術と遊技論的技術の統合として評価する旨の文章を読む。少し違和感を感じる。むしろコールハースは都市の偶然的な変動を根本に見出しているように読んだからである。都市(ニューヨーク)や建築が目的論的に見られるのは事後的なことであって、変動に沿って、できる限り因果機械的な過程から見ようとしていた。そのようにこの本を読めた。したがって、都市はむしろ遊技的である。またそうしたコールハースの行動を踏まえて最終的に難波さんは「プログラム—調査—理論化—デザイン」という一貫性において彼を評価している。遊技性を実践する方法の模索と言っているようにも見えるが、その反対の、近代が歩んできた内向性と重なってみえる。内向的とは、問題ー解決ー新しい問題ー解決ーさらに新しい問題ーというように宿命的に個別性を高めていってしまうことをいう。『錯乱』というくらいなので、むしろごちゃごちゃな状態でないか。偶然性の考慮が必要である、あるいは純化させない整理が必要と思う。コールハースが実践しようとしているのは、遊技的なものが一般的なものの中に、偶然的なものが必然的なものの中に吸収されるような光景でないか、と思う。理論化の実践をむしろ否定するような、すべてが否定をくぐり抜けた後で肯定される光景でないか、と思う。想像の上でのユートピア=超越論的仮象のもとで志向できるものである。パタンランゲージのパタンも同様であることを今さらながらに気づいた。寓意もそうだろう。思考の凝縮でなく、思考境界を膨くらませていく空間イメージである。

8月27日(木)
087 EL ドルトムント×ドット
ドルトムントが好調を維持する。7-2でドットを退け、香川も2得点する。攻撃が好調なのは、スペースを上手く使い、そこに配球するように徹底されているように見える。最終ラインが上がっているときは、その裏へ可能な限り早く送る。DFラインからと中盤底からの縦パス。あるいはサイドからのダイレクトな折り返しによってである。相手DFラインが下がると、前線がさらに押し込み、その前のスペースを使う。今季の香川の得点はこのパタンが多い。解説では、この状況を格上と速攻主体のチームにも可能かどうかを問うている。中盤アンカーのヴァイグルがキーとなる。

8月26日(水)
映画「スティーブ・ジョブス」を観る。彼はエンジニアでは全くなかったことを知る。デザイナーでもなく実業家であった。この映画はエンターテーメント性を排除し、真っ向からモノつくりの歓びと非情、結果と過程をテーマにしているのだが、ジョブスのもっていた執拗性が映像としても欲しいところであった。それは観る側のぼくらにもあてはまることである。

8月25日(火)
086 セリエA フィオレンティーナ×ミラン
本田が開幕先発も、見せ場なく前半35分で交代となる。交代は味方DF退場によるチーム戦略によるものであるが、その前30分間のパフォーマンスに可能性がみられなかったからである。
「atプラス25」掲載の大澤真幸「皇居前広場のテオーロス」が気になる。中上健次についてである。そこにアレグサンダーのパタンを拡大延長するヒントを感じる。中上は代表3部作で終焉を書いた。その後遺作「奇蹟」において、終焉から悔恨という視点をもった、このことを解説するものである。そこに回収不可能な個別性を発見しているのだが、いまいち理解できず今後の宿題とする。

8月24日(月)
「atプラス25 東京祝祭都市構想」を読む。東京祝祭都市構想とは、2020東京オリンピックメイン会場を皇居前広場で行う計画である。神宮外苑での計画にはない歴史的背景と場所にたいする明確なコンセプトが示される。単なる歴史認識と街並み保存といった機能性を超えたコンセプトを提出できる建築家が磯崎である。その姿勢に感動する。最近読む本と同様、ここで唱えるコンセプトが「「想像力」の都市」である。折口信夫(対談の相手は安藤礼二である)の「マレビト」が参照される。マレビトとは、想像力の世界と現実の世界の媒介者であり、祝祭をもたらす神である。磯崎が目指すのはザハに代表されるユートピアを現実に構築することではなく、想像力の中での構築である。そこには壮大な観客=マレビトが必要とされる。磯崎が具体的にイメージする都市や建築単体は、いずれ内に向かって固まってしまうものであり、それがここかしこに「ハイパーヴィレッジ(超都市)」としてある。彼はこの終焉状況を俯瞰的に見ることができている。しかし、彼が想像期待しているのは、ハイパーヴィレッジの内部吸引力においてである。これにマレビトが積極的に関わることにより生まれる劇場性であった。それでは、終焉の前の一瞬の輝きでしかない。2020という一時的なものに限らず、拡大延長する術があるような気がする。ところでこのハイパーヴィレッジはパタンランゲージのパタンに近い。牧歌的で、すべてが否定をくぐり抜けた後で肯定される光景である。個別的なものが一般的なものの中に、偶然的なものが必然的なものの中に吸収されるものである。

8月23日(日)
085 ブンデス インゴルシュタット×ドルトムント
少し緊張感のない試合で、ドルトムントが足下をすくわれるのでないかと危惧したが、最終的には0-4で大勝する。後半早々の右のドゥルクのロングシュートの得点が全てを打開した。ドルトムントは今季フォーメーションを変えている。中盤底を若い19歳のヴァイグルがアンカーをつとめ、その前にギュンドアン、香川はトップ下でもあるが、特に守備においてはかなり下がり気味の左にポジショニングすることが多い。その代わり両サイドバックの上がりが早い。フンメルス、香川、ギュンドアンが前を向いて、そこへ縦パスを通す。守備的な相手に対してこじ開ける攻撃でなく、広大な残ったスペースを突きながらラインの崩れを誘うものである。それが上手く機能している。3点目の香川の得点も、押し込んだラインの前のスペースを香川がつかったものであった。欲を言えば、そこでダイレクトのシュートが望まれる。前半でも幾度となく左で同様なシーンをつくっていた。それが得点には至らなかったのは、相手ディフェンスが弱っていなかったからである。代表戦でも、モチベーションの高さから同様だろう。強さがない代わりの早さが求められる。

8月22日(土)
084 プレミア レスター×トットナム
レスターは格上トットナムに対して守備的に臨む。降格ラインを争うレスターにとって現実的な戦法だろう。岡崎も無鉄砲にボールを奪おうとせずに、スペースを埋めることに徹する。そのため最終DFラインがボールを奪ってもゴールまで距離があり、ゴールチャンスまで結びつかない。そこで必要とされるのは、前線3人の連係と思うのだが、得点は右のマレズの個人技によるものでしかなかった。岡崎はペナルティーエリア内で機能する選手なのので、パスが必要とされる。それを得るまで行かなかった。シュートを放ったのは1度だけであった。今後こうした戦術での前線との連係方法を岡崎は考える必要がありそうだ。ホームでのレスターサポーターはこうした現実的戦法をどう思うのだろうか。当初の目的通りに守り抜くことができるのが上位チームであるのだが。

8月21日(金)
083 EL ドット×ドルトムント
3点差をドルトムントがひっくり返す。実力の差とはこういうものだろう。香川も輝く。後半早々の得点もさることながら、中盤で自由にボールを持ち、サイドへチラす。攻撃の起点としての役割において輝いていた。ドルトムントの攻撃はそこから組み立てられていた。左サイドのシュメルツアーのクロス精度に負うことも大きい。前半ドルトムントが攻めあぐんだのは、その精度に問題があった。後半のチャンスの多くはそこから生まれた。その代わり今日はフンメルスからの縦攻撃がなりを潜める。多彩な攻撃が今のドルトムントの強みである。今週のリーグ戦に期待する。

8月20日(木)
建築雑誌8月号「住まうことから制度を考える」を批判的にしか読めなかった。いかなる制度も不備はある。したがってその内容の批評は無駄と思えた。制度とは、社会的な決定事項を個人の判断に委ねない方法である。そうして導かれる結論は、自然淘汰的な定常(予定調和)に陥る。それを歴史の終焉という。冒頭のハンナ・アーレントの線引きは、その始まりとなるものでないだろうか。線引き=物化は建築を正当化する場合には有効であるが、さらにスケールアップした社会に適用するとそれは政治となる。こう考えることができたのも、パタンランゲージから多くのことを学んだからだ。そのひとつに、悟性の誘導がある。「〜しよう」「〜してみるとよい」という書き方にそれが端的に表れている。このような線引き自体を皆が考える世界が望ましい。制度に委ねる世界と反対である。

8月19日(水)
第22章「結論 機能主義とテクノロジー」を読む。本来の意味の機能主義とテクノロジーの統合が実現されなかったというのが結論である。これをコンポジションとコンストラクションの統合と言ってもよいと思う。コルビュジエの志向を評価しつつも、最終的にはコンクリートに限ってしまったことを問題とする。ミースも同様であった。評価されているのは、真の意味での機能主義者としてフラーがあげられる。設備、運搬、新素材の使い方も含めて産業にたいする広い視野がある。バンハムは歴史家故に、参照すべき全体像が示されてはいないが、池辺さんのデザインスゴロクがその指針となることをぼくは強調したい。この点において、これまでの読みとは異なっていなかった。ただし、個々の解答を積み上げるときに美学(想像力)を本書は問題にしていることに今回気づいた。コルにはそれがあり、未来派を評価する理由もそこにあった。

8月18日(火)
「第一機械時代の理論とデザイン」の第18章「ル・コルビュジエ 都市計画と美学」が気になり、続けて読む。コルビュジエと、コンストラクションに熱狂していった他の建築家との違いが明らかにされる。コルは、ボザールのコンポジションに関わる美学の問題が近代建築の本質であったと考えていたようだ。盲目的にコンクリートの問題を解くことへの警戒感である。つまり、コンストラクションはカテゴリー化される宿命をもっていて、反対にその領域を広げようとする美学がコンポジションにはあると考えていたようだ。その点が他の建築家と異なっていた。そのためのコルは、未来志向となる都市計画を考え、個々の作品においては、「はじめからやり直す」ことに重点を置いていた。問題を拡げる志向である。バンハムは、この点においてサンテリーアと同様に評価している。サンテリーアも「未来派」である。「われわれはゼロから出発するほかはない。いつの時代にも、理性と情熱の平衡を保たせる調和の感覚に合致した新鮮な選択をする」と。想像力を伴う美学を、ここでは情熱として扱っている。

8月17日(月)
難波さんの日記に触発されて、「第一機械時代の理論とデザイン」を再読する。本書には、1920年代の近代建築成立過程が記されている。それは、ガテに代表される様式美に対抗するかたちで生まれたボザール流のコンポジションと、ショワジーに代表されヴィオレ=ル=デュックの影響を受けたコンストラクション、1910年代のこの2つのおおきな流れが、ペレーのコンクリートによって合体し、コルに引き継がれた歴史である。ぼくにとって発見だったのは、ペレーのコンクリートの扱い(ノートルダム寺院1923)が、新しい空間形式を完成させたことで、その時代の建築家たちは、かたちのない技術がオブジェクティブ(客観的)性を帯びることに熱狂してしまった、ということである。それによって本来の技術、科学、さらには様式美の反対にあるとされていた学問(サイエンテフィックp15)の問題、これをコンポジションの問題といってよいと思うが、これが矮小化された。一気にコンストラクションがもたらすかたちの問題にすり替わってしまったのである。本書では、そのため未だ第一機械時代を建築が超えていないことを問題にしている。崇高について読んだ経験がこのことを理解させてくれた。ところでぼくの好きな建築のひとつにサント=シャペルがある。それは、本書において3度(p40,p61,p479)言及されている。この空間に触れたときの感動は忘れられない。その理由が、透明な技術がひとつの実在に結実しているところにあった、このことを改めて理解した。しかしそれは20年代の建築家が陥った状況と同じであったわけである。

8月16日(日)
081 プレミア ウエストハム×レスター
前半の岡崎のゴールを含む2点によりレスターが連勝を飾る。しかし後半は前からのプレッシングが効かずに苦しむ。自陣に引いた守備中心のカウンター狙いのゲームプランに後半変えたのがよくなかった。反対に右深くボールを入れられ、全体が押し込まれ、折り返しを幾度となく狙われた。今後の課題である。レスターは左の攻めがよい。岡崎のプレミア初得点も、初戦と同様の左からのクロスをダイレクトに押し込んだものであった。一端はキーパーに跳ね返されるも、落ち着いて得意の頭で押し込む。2点目も岡崎が粘ったところを、中央に走り込んだFWの得点である。岡崎も結果を出し、ひとまず落ち着いたことだろう。次戦はトットナムをホームに迎える。プレミアでの真価が問われる。
082 ブンデス ドルトムント×メンヘングラードバッハ
香川はトップ下で先発出場。昨季3位のチームに対し4-0の勝利に貢献する。ドルトムントは縦への突破が恐ろしいほど効果的に決まる。ラインをコンパクトに保ち、最終ラインのボールを回しが瞬時に縦パスに変わる攻撃であった。10分のオフサイドと判定されたものを含めて、はじめの2点はそうして決まった。それを指揮する最終ラインのキーマンはフンメルス、中盤は香川であった。ロイス、オバメヤン、ムヒタリアンは決して簡単ではないが、確実にシュートを決めた。そうしたパタンに加えて3点目は、中盤の混戦からボールを奪っての速攻であった。オバメヤンの走力が生きたかたちである。前線の混戦をワンツーで細かく突破する攻撃も時折見せる。後半15分のオバメヤンと連係したそうした攻撃で香川は決めたかった。今後に期待である。スタメン落ちが予想されていた香川にとって、ひとまずよい結果が得られることとなった。

8月15日(土)
錦織がナダルを下す。最近テニスを見始めた。1ゲームのブレークが勝敗を左右する。相手が怯んだ瞬間を突くことができるかどうか、これで勝負が決まる。ストロークで終始ナダルを錦織が圧倒していた。
95年発刊の「モダニズムのハード・コア」冒頭の磯崎×柄谷×浅田×岡崎の対談を再読する。15年くらい前に読んでいる。柄谷行人がカントを引用し、美術や建築の自律性を問いている対談があったことを思い出した。ポリティカル・コレクトネス(PC)、建築でいえばコンテクスチュアリズムを批判する。芸術、建築は、科学(真)×道徳(善)×美の上のア・プリオリな原理によって成立するものであるが、現在は道徳すなわち政治の優位性に振り回されすぎであるという批判である。岡崎乾二郎にいたっては、幼稚な目的論的理性のもたらす錯覚ははなはだしいとさえいっている。確か別の本ではフランプトンの「テクトニック・カルチャー」も同様の理由で批判していたと記憶する。浅田のいう「マルクス主義の崩壊が、自律的であるはずの領域を雲散霧消した」ということを理解できないが、大きな政治思想に抗するかたちで建築や美術の自律が担保されていたのだが、その崩壊によってPCのような短絡的な政治に翻弄されているということだろうと思う。つまり建築や美術が今や生産的でないといっている(歴史の終焉)。そこで抑圧をエンジンのように働かせることによっての脱却が考えられている。建築を科学(真)×道徳(善)×美という生態系として見、悟性にもとづき美に訴えかけ、一度、科学=技術や道徳=政治の括弧入れを行うことで新しい様相を見ようとする結論であった。ここで重要なことに気づく。何を括弧入れするかという問題である。善や道徳が問題にされている現在において、その解決への糸口に、美や科学からのアプローチが必要ということだ。ひとつの自律した体系を大きく育てるには、美を括弧に入れて、その内部の問題解決に右往左往しては小さくまとまるだけでしかない。こうした俯瞰的な見方は『ノート』から『パタン』へアレグサンダーが進んだ道と同じである。このことにも(今さらながら)気づく。もっというと、ア・プリオリな原理に反応する悟性が「センタリング」であり、これは、「12の幾何学的性質」というかたちあるものから得られる。アレグサンダーは「パタン」後に、パタンの内容の吟味を捨てた。ア・プリオリな原理に反応する悟性によってしか、パタンの保持ができないと考えた。「センタリング」の意味するところが明快になった。

8月14日(金)
「地獄の黙示録」フランシスコッポラ監督を見る。アメリカのデモクラシーの通俗性を批判する一方で、原住民を率いて村を存続させることに成功し、神とまで崇められる者をも断罪する映画であった。神となっていたのは、克己的なアメリカ大佐である。彼は前近代的な野蛮な原住民文化を認め、そこに善悪を抜きにした近代技術(兵器と戦略)を投入していた。原住民が彼を受け入れることができたのは、自分達を守る術を与えてくれる新しい神と考えたからである。大佐が畏れていたのは、相手を殺戮することによって自分は神に崇められていて、それは悪魔と同じではないかという自問によっている。主人公の大尉が最終的に大佐を殺害することによって、大佐は救済される。大尉はその瞬間に新しい神になる可能性も残されていたが、その誘いを善心により追い払った。原住民もそれを受け入れたことで物語は終わる。アメリカ映画は道徳心をテーマにしながら、エンターテーメントに富む。出来栄えというか美に対しての見方が厳しいところが日本と異なる。
「制作の現場」磯崎新建築論集を読みはじめる。磯崎が様々な批評性をもってキャリアを積み上げていった力量に感嘆する。しかしなかなか入り込めない自分がいることの理由を考える。批評性の多さが逆に建築の可能性を失わせている気がしてならないからである。ここ数日再読したコジェーヴ的にいえば終焉に向かわせているとしか思えない。ここでも長谷川堯の「神殿か獄舎か」が引用されている。長谷川の批評は、さらに建築を矮小化しているように思う。

8月13日(木)
「世界史の構造」柄谷行人著の再読。コジェーヴのいう「歴史の終焉」とは、袋小路に落ちいった状況を事後的に説明したものであるという記述が面白い。これまでの考えていたことと真反対であった。それに対して未来に向けて、明るく、そこからの突破を語る=デザインするには、想像を超える程の理性がもたらす指標が必要であるという。これがカントのいう「超越論的仮象」である。このことを序文から理解する。近代のユートピア論はすでに失脚している。例えば経済発展によって格差社会が生みだされてしまった。このジレンマの中で最適解を求めるのが、コジェーヴ的な見方である。これにたいして社会をひとつの体系とみなし、構成要素個々にはプラスマイナスがあるものの、体系が膨らんでいくような見方をする。こうした想像力で終焉パラダイムからの脱却を図る可能性が本書で書かれている。これはアレグサンダーの「センタリング」を用いた空間つくりに近い。「生き生きした空間」=パタンはこのひとつの体系に値する。生き生きとした空間には、前提問題を具体的に応えていなくともそれが満たされたかのように思わせる特質があるからである。そしてパタンを全体化させていくのが「センタリング」であった。『世界史の構造』が説いているのは「抑圧」がもたらす想像力によってである。「抑圧」は受動的であり、「センタリング」は能動的であるという違いはあるが、どちらも未来に向かう方法として、人の想像力が主題になっている。

8月12日(水)
「クリストファー・アレグサンダー」を読み終わる。プロセスの中に新しい生成を促すものがあり、これをアレグサンダーは「センタリング」という。センタリングとは、既存のかたちに何かを加えることを誘発するものである。機械的に見える手続に世界観を与える必要不可なものである。この考えには彼固有の美学がある。研究者でなく建築家たる所以だろう。デカルト以来のモノと精神を分離すること、近代科学への拒否がここにも現れている。条件があってその結果として空間があるわけでなく、提出された空間を経験することによって条件が満たされていることに気づく。そこには合理性からは計り得ない「気持ち」の問題が大きく関わっている。その確認作業を繰り返し、プロセスを徐々に大きくしていく。このことによって、プロセスの正当性は担保される。センタリングはモノにも宿るし、プロセス上でも必要とされる。大雑把にアレグサンダーの思想をこのように理解した。

8月11日(火)
「クリストファー・アレグサンダー」において、ダーシー・トンプソンの「生物のかたち」が度々言及されている。すべての生き物は、いかにしてつくられたという歴史の所産としての今日そのかたちをとっている、どんなかたちも基本的に何らかの成長プロセスの産物である、というのがトンプソンの仮説である。これからパタンランゲージを、デザインプロセスを動かすエンジンとして見なす方法が模索されはじめたという。パタンランゲージに生成力があることを感じつつも、それが何かがわからなかった。パタンランゲージが流行しても多くの建物は、アレグサンダーが望むものとかけ離れていた。このころ、ホワイトヘッドに代表されるように、すべてはプロセスとして思考する土台もできあがっていた。パタンランゲージ以降、アレグサンダーが実践を通して、お金、アーキテクトビルダー、社会政治メカニズムに言及するようになったのはそのためである。社会システムにたいしては、パタンランゲージにもその発芽を見ることができる。個人は自分の要求に対して責任をもち、同時に、自分が属する大きな集団にも貢献するというような政治メカニズムがここかしこに語られている。

8月10日(月)
080 プレミア レスター×サンダーランド
いよいよ各国リーグが始まる。そして岡崎がプレミアデビューをフル出場で飾る。岡崎は2トップの後のポジション。献身的な守備と激しさが印象に残った。センターサークル付近まで下がり、前線からのボールチェックと、後方からのビルトアップのための多くのポストプレーをする。レスターはそこからの速攻を何度か成功させた。レスターは降格圏付近で争うチームである。しかも昨年は得点力不足が懸念されていた。つまりは守りのチームである。自陣でコンパクトに守りかつ前線からプレスをかけ、そこからの速攻しか攻撃のパタンはない。岡崎には90分に渡っての縦への繰り返し走力と、フィニッシュ力が要求される。しかし前線にスペースが残されていることを考えると、岡崎にとってプラスとも思う。岡崎らしいシュートも2度見られた。DFライン裏のスペースにサイドハーフが食い込み、そこからの低い早いクロスにたいし、ニアサイドに体ごと滑り込むかたちである。ほしかった。岡崎は早く得点をしたいところだろう。とはいえボールが回らないで孤立する、外国人選手がクリアしなければならない段階をひとまずクリアしているようだ。

8月 9日(日)
078 プレミア ユナイテッド×トットナム
攻め急がず、ボール回しを徹底する新しいユナイテッドを見る。セカンドボールを拾えていたことが大きい。今季、中盤底を補強し、そこからのゲームの組み立てを目論んでいる。今日は叩き上げのキャリックであった。彼が怪我をしなければ今までも上手くいっていたことを考えると、補強により1年通してユナイテッドは安定した力を発揮できるのだろうか。
079 東アジア杯男子 日本×中国
前2戦と異なり落ち着いたゲーム運びをするが、1-1のドロー。このトーナメントの最下位が決まる。海内組のトライアルの意味合いが強かったものの、もう少し輝いてほしかったと思う。1トップ川又に全くボールがおさまらないので、DF外の単調なボール回しとなった。縦への突破が少なかった。海外のゲームと比較すると基本能力の差が歴然とする。

8月 8日(土)
「神殿か獄舎か」長谷川堯著を再読する。村野展を見て感化された。言うまでもなく、丹下健三が近代の牢獄を築きあげていることに自覚的でないことを本書は批判している。(この本は70年代はじまりのものである。)それに意識的であったのが後藤慶二と大杉栄である。坂本一成は評価される。村野藤吾に対する批判は微妙であるが、牢獄の中に「人間の尺度」を見出しているという点で評価される。長谷川は本書で3つのDをあげる。ディフェンス、ディメンション、ディテールである。牢獄であることが避けられない以上、閉じることを意識した上で内に開く身体性を建築に要求している。村野にはそのディテールがあるという訳だ。箱の家(難波)の開かれた住居思想と真反対である。当然のことながら池辺陽は長谷川氏によって取り上げられていない。前川國男も同様である。技術にたいする考えがそこにはないからである。
077 東アジア杯女子 日本×中国
粘り最後に得点を決め漸く勝利する。佐々木監督も満足そうであった。

8月 7日(金)
目黒美術館の村野藤吾展へ行く。ビルディングタイプごとに分類された模型の正確さと数に圧倒される。村野藤吾は、公共の丹下健三と比較され、商業建築家として批判されていた。関西に拠点があり、国と距離を取っていたことと関係している。商業建築故に多くが街中にあり、他の商業建築と差異化を図るため設計に密度があり、それがファサードに現れている。設計密度の濃さは丹下以上だろう。それを逆の意味で、志のなさと批判されていた。同時代的に官能であるか、建築の将来を見据えた前衛であるかの違いでもある。空間的か概念的かという違いでもある。その空間性を小さな模型でもしっかり反映していた。ただし展覧会図版の写真ではそこまで伝わっていないのが残念なところでもある。いくつかの村野の建築を体験した上で気づいたことは、ホールを除いては、その空間性は商業建築故に限定的であり小さい。丹下の強烈性とは異なるものである。ただし村野の空間性は連続し、シークエンスの建築によって丹下に対抗しようとしていたように思える。ビルディングタイプが複雑になり、市民の建築が求められる現代において、村野のそれは丹下の強さに変わる建築のひとつのあり方だと思う。長谷川堯と松隈洋氏との対談では、それを「人間の尺度」の有無に関係しているといっている。丹下にはそうした視点がないことを暗に批判しているのだが、逆いえばグロピウス、前川國男でなく、戦後はコルビュジエ、丹下が近代建築を牽引していた由縁である。このことを改めて知った気がした。

8月 6日(木)
「クリストファー・アレグサンダー」を読む。条件を積み上げるだけでは形はできない。そこは不連続である。建築家はそれを形にする力を持っていて、アレグサンダーもその能力を認めている。ただし、それが独りよがりにならないための方法を探究する。彼が注目したのは、ルールをもったシステムは自らバランスを保つように自己言及的なシステムが作動するその生成力である。建築家はその扱いに優れているのであるが、その能力を一般化しようとした。ルールをもったシステムをパタンと呼ぶ。それが集まってランゲージになると彼は考えた。しかしパタンランゲージを研究する過程で、アレクサンダーは大きな壁にぶち当たる。現実世界の言葉と異なり、アレグサンダーのパタンは、パタンのままでありランゲージに至らない。そこには形式的な論理だけでなく、直感に訴えかける何かがあることに気づく。プロセスでは語り得ないものの存在。これがキーワードとなる。

8月 5日(水)
「クリストファー・アレグサンダー」において、スピノザが取り上げられている。それはデカルトとの対比においてである。それにブルーノにも言及されている。p104 「デカルトと同世代であるスピノザは彼の考えにひかれながらも、反対の立場をとっていた。スピノザにとって精神と物質は分離したものではなく、むしろ同一のものの異なる側面だったのだ。ジョルダーノ・ブルーノは、すべてのリアリティーはひとつの均質な存在であり、リアリティーのあらゆる繊細な部分は物質現象でもあると同時に、心理現象でもあると考えていた。(中略)内面に向かってみれば「精神」、外面に向かってみれば「物質」であるような実体が存在する。しかし実際には、双方の分かち難い混合であり、結合である。スピノザによれば「精神の秩序とつながりは物質の秩序とつながりと同じである。」だから、精神とは外的世界に大きく左右される。」p104。
同様にカントに対する引用も見事であった。「カントの偉大な発見は、外的世界を確かに知ることは決してできないのだがそれを知覚することはできる、ということであった。カントはある意識形態を外部世界にある物体の対応として捉えること、つまりその物体は存在するのだということは証明できた。しかし、このような超越論的な知識は、科学と宗教のどちらにも属さない。なぜならば、理解(悟性?)は感性の限界を超えられないからである。神はそれゆえ、18世紀の経験主義的な懐疑論からは救われたかもしれないが、科学的探究から断絶されてしまったのである。アレクサンドル・コイレは、「カントは神を空間に結びつけることができず、われわれ自身の中に置いたのだ。」と述べている。」p105
神、精神、アレグサンダーのいう質、これらが置き去りにされきた経緯を端的に表現するものである。

8月 4日(火)
夕方から学科の先生との懇談会を東京駅のホテルで行う。その前に、ホテル内を一通り案内してもらう。300メートルもある廊下の長さは圧巻である。近代初期の客車のインテリアがデザインモチーフだろうか。低い位置にある照明と縦長の鏡が効果的な演出をする。床は黒光したフローリングである。時折現れるのは、ドットポイントを使用した現代風のガラスのブースである。とにかく落ち着いたデザインである。ぼくには真似できない。ほどよく酒も入り、普段は話すことない先生の一面に触れる。学科再編で別れを惜しみ皆どことなく優しくなる。

8月 3日(月)
「クリストファー・アレグサンダー」スティーブン・グラボー著の再読はじめる。クーンのパラダイム論をもとに、近代建築とそれ以前の建築の違いを明らかにする。グラボーによると、近代科学が全てを変えた。原因と結果をひとつの繋がりとみる近代科学の線的合理思考が中途のプロセスを無視した。と同時にこれまでの美意識までもを奪ってしまったという。クーンの理論をもとに、それの再変換が難しい現状を切々と記述する。パタンランゲージでアレグサンダーは、読者の気持ちが傾くような誘発性のある語り口を目指した。それに対してこの本の場合は建設的でなく、ネガティブ思考から始まっていることが再び気になる。

8月 2日(日)
オスカーニューマイヤー展に行く。大きな模型が印象的である。SANNAの会場構成であった。中央の映像コーナーでほとんどの時間を過ごす。この中でニューマイヤーは、デザインモチベーションを女性に置いていることをあからさまに発言している。ブラジルたる由縁か?と思う。立体的ではなく平面的な有機形態の方が現代的に見えるのはSANAAの影響だろうか?だとすれば、立体構成にもまだ可能性が残されているともとれる。
076 東アジア杯男子 日本×北朝鮮
ゲームの入りはよかったのだが、北朝鮮が中盤のつなぎを抜きにしてロングボールを放りこみはじめると、ことごとくセカンドボールを拾われ、攻撃に関して為す術がなくなる。時折訪れるチャンスのみで、そのチャンスもことごとく外す。いつものことであるが、トラップなし、利き足関係なしのダイレクトシュートを決めない限り、真剣勝負で体を張った守備陣を崩すことができない。思えばアジアで、攻め手を失い、逆に速攻で屈することはあっても、攻め込まれての逆転負けの記憶はない。逆転を許してからも北朝鮮の勢いは変わらなかった。それ程、日本は存在感を失っていた。国内組のアピールどころでない逆の効果となる。

8月 1日(土)
「クリストファー・アレグサンダーの思考の軌跡」を読み終える。著者は最後にホワイトヘッドを参考にし、無味乾燥とした自然と、人が主観的価値付けを行う自然に2分けし、アレグサンダーのいう「生き生きとした構造」、すなわちパタンランゲージが正しく実行される方法についてを結論づける。「パタンランゲージ」において欠いていたのは、主観的価値観に対する考察であった。この2つの自然を有効に働かせる状態を良しとし、「ネイチャー・オブ・オーダー」でそれをアレグサンダーは語ろうとしている。したがってそこで語られる幾何学的性質には、形の問題に加えて、形が誘発する主観性に重きが置かれている。これが著者の結論であった。しかしここまでだと18世紀後半のバーグやカントの仮説と違いがない。もう少し踏み込みたいと思い、続けて「クリストファー・アレグサンダー」スティーブン・グラボー著の再読をはじめる。
075 東アジア杯女子 日本×北朝鮮
W杯とは異なり王者たる風格なく、北朝鮮に屈する。ゲームをコントロールできなかった。経験の大きさが違いをもたらすことを知る。佐々木監督の思いきった采配に感心する。

7月31日(金)
「クリストファー・アレグサンダーの思考の軌跡」を続ける。アレグサンダーのニーズの分析が面白い。ユーザーに尋ねても行為を観察しても、結局のところニーズはわからないという。どのような椅子を欲しているかまではわからないということである。しかし、モノとして満たされると、そのニーズが明らかになる。したがってデザイナーが行うことは、ニーズを厳密にすることではなく、ニーズを満たすことであるという。そこでパタンランゲージでは、「ひとが・・・をしようとする」という概念に置き換えた。ニーズ背後にある自発的な力の誘発にアレグサンダーが努めた。彼はこれを「フォース」といっていたことも知る。学生時代、中埜さんが「スターウォーズ」のフォースをよく例に出していたことを思い出す。神的なこととも取れるのでそれへの注目を避けていた問題であった。

7月30日(木)
大学に行き、新建築学科のロゴについて相談。デザイナーの主旨をさぐる。彼らの試みたいことを実行してもらえればと思う。「クリストファー・アレグサンダーの思考の軌跡」長坂一郎著を読みはじめる。Ⅰ章からアレグサンダーの核心にせまる。それは「デザインの究極的な目標は形だ」というアレグサンダーの引用に表れる。形が全てである。それに加えて挙げられるのは、「全てのデザインの問題は、次の二つの実在の間に適合性をもたらす努力から始まる。その二つの実在とは、もとめる形とそのコンテクストである。」というように形を生み出すコンテクストについてである。「形の合成に関するノート」の分析にそったものであるが、コンテクストに対する定義が弱い。敷地とか機能的要求といった狭い範囲の外部環境と捉えかねない。与えられた問題を解いて満足する近代批判が根本にあるので、演繹的に形が導き出されることにアレグサンダーは否定的である。むしろ閉ざされがちな系をいかに開くかを目的としている。『ネイチャー・オブ・
オーダー』が出版された現在からみると「ノート」の主題がそこにあることがわかる。「形が全て」というのは、形が与えられることによって、これまでの形成過程が因果関係のある線的に帰結されてしまう。その形の力の脅威についていっている。アレグサンダーが強情に見えるのは、この脅威にたいし服従を強制するからである。アレグサンダーを理解する時の分岐点となる。この本では、ブルーナ-の影響を大きく触れている。

7月29日(水)
「複雑系入門」の中にあるカウフマンネットワークに興味を持つ。例えば電球が3個あるとき、オンオフのパタンは2³=8通りある。しかし次のオンオフ時には5パタンになり、次の段階では最終的に3パタンに収束する。要素がN個あるとき、初期値からおちいる最終サイクル数はほぼ√Nとなる。これをカウフマンが発見した。人間の遺伝子は約10万あるが、√100000=316は人間の254種類の細胞と大体近いものとなる。パタンが天文学的な数字であっても、自己組織化されることで少数のパタンに落ち着く。流動的に秩序と混沌の間に落ち着いていく。このことをカオスの縁という。

7月28日(火)
「複雑系入門」を読み終わる。20世紀前の複雑系科学を総覧できた。ここで紹介されている内容は、本書池上高志氏のメッセージに要約できる。「あたまで考える前に計算機を動かそう。そのなかで計算機の中に新しいリアリティーを構築していく。そのなかには『自然』でも『紙の上』でもない、新しいリアリティー生成の場がある。」至極納得いくのであるが、新しいリアリティーを目指す目的をそこに見ることができない。目的というとあたまで考えるもの、とみなされがちであるが、目的≒美学がないと前進できないのではないか?と近頃思う。美学も含めた言説について調べはじめる。

7月27日(月)
2年生設計の学内講評会を行う。総じてよくできている。図面もよく書けているのが今年の特徴である。いくつかの案をピックアップし講評する。いずれもがダイアグラムに表せるようなクリアなデザインである。その上で発表においては、そのダイアグラムの意義を補強するように具体的な説明を加えることをアドバイスする。モノとしての出来が最終的に問題になることをこの時期実感することは大事である。これによって小手先でなく、課題に取り組む時間や質、真剣さが必要とされることを理解する。

7月26日(日)
「複雑系入門」を読む。Ⅱ部は、フラクタルを中心とする自己組織化について。全体を統制するルールを否定し、局所的なルールによって世界が生成される考えが示される。井庭さんの立ち位置の基本がここにあることが判る。そこには全体を支配するマスタープランがない。コンテンツよりプロセス重視の発想がここにある。ただし、アレグサンダーはこれを否定するだろう。なぜならこれは事後説明であり、これを受け入れる人間の情感がない。これを抜くことに否定的だからだ。説明(事実×道徳)と情感(美学)を絶えずペアで思考するところに彼の特徴がある。改めてアレグサンダーのこの起源を知りたくなった。休日を使い、1週間で築き上げたデザインコンセプトを再検討する。

7月25日(土)
ブラタモリ東京駅編を楽しみに見るも不発でがっかりする。100年足らずの歴史の表象は、ゲニウス・ロキに比べて厚みがない。それは近代建築の存在意義が弱いことにも直結する。本田、香川、長友の活躍をYouTubeでチェックする。香川ドルトムントが調子よい。昨季までと異なり、フィールドいっぱいに使ったダイレクトパスが印象的である。チャンピオンズ決勝リーグで打ちのめされたユヴェントスに完勝である。ビッグプレヤーの移籍後に、おとずれるであろう選手の玉突き変更を待つチームに比べてドルトムントは既に、チーム戦術が徹底され、その熟成に時間をかけている。これは健全だと納得し、サポーターに愛される由縁を理解する。選手よりチームなのだ。

7月24日(金)
建築設計小委員会にて、東京電気大学渡邊朗子さんのレクチャー。最近のロボット開発を建築に翻訳し、空間をロボット化することの試みを聞く。彼女はそれをインテリジェントスペースロボットといっていた。インテリジェントスペースロボットとは、ロボットを拡大解釈して、人を手助ける空間の構築をいう。これはまさに医療現場で必要とされるものだそうだ。それは、ビッグデータによって可能となる。人の動きを十分にシュミュレーションし、反対に空間が人の動きに応対する。今までは人が知らず知らずのうちに空間に合わせていたことと反対である。これを意識的に空間を捉えるためのデザインナーの試みと考えると面白い。片山先生から「生物のかたち」ダーシー・トンプソンをお借りしたいという連絡が入る。それを切掛けに久しぶりに再読。数年前にはユクスキュル「生物から見た世界」も読んだ。ユクスキュルは環境世界を通してしか外部を見ることができないといっていた。ダーシー・トンプソンは種や目を超え、生物の形態はいくつかの数学に帰着することを美しく示してくれた。つまり、問題をデザインに置き換えると、新しい見方などなく、目の前に転がっている問題を精査するだけで十分である。そうした結論に行き着いた。しかし、ひとはその見方に幅を持たせていて、あるときはそれが世紀の発見ともなりえる。それを目指してあくせくと思考するのだ。こうした見方をこれの本から学んだ。

7月23日(木)
学会選集審査のため、ナチュラルステックllへ行く。手塚由比さんと日建設計の小板橋裕一氏へ説明する。施工者である日南鉄鋼の鹿島氏の話に自然となる。手塚さんの建築と日南は切っても切り離せないし、日建設計でもホキ美術館で鉄骨部門を日南が担当した。ぼくもこの建築の完成に至った感謝と仕事の素晴らしさを語る。そのため、今回の審査ではフラットバー柱の納まり、ヒートブリッジを防ぐ断熱方法とサッシュ等のディテールに終始する。設計密度についてを伝えることができたと思う。あっという間に1時間半が経過する。その後、塩谷くんと渋谷のストリプスに行く。問題がないことを確かめる。

7月22日(水)
永山祐子さんと御手洗龍さんを迎えての3年生の前期設計講評会。選考された学生のこの1週間の頑張りにいつものように敬服する。講評会中に、学生の案を通してぼくが各々の先生に聞きたいことがふたつ浮かんだ。永山さんには、内面をテーマにしたときの建築のつくり方について。戦中に殺処分された象の一生の展示を考えていた学生に対して永山さんが食いついていたので、そのような疑問をもった。そういえば豊島横尾館も死をテーマにしていた。内面をテーマにする建築は難しい。普通なら避けたいところだ。永山さんによると、一度モノ化に努めるという。それが豊島では赤のガラス壁であった。このことに合点がいく。切り口に何か新しさが必要されるのだ。光という抽象的なものでは弱い。御手洗さんには、イメージを建築化するときの挫折についてお聞きした。伊東さんは最近までイメージをそのまま建築しようとしていた。モノとしての存在感をなくすことをテーマとしていたと思うのだが、必ずモノは立ち現れる。そのギャップをどのように納得処理していたのかという疑問である。御手洗さんによると、イメージが喚起したかたちによって新しい感覚が発見されれば、それで良しとしていたという。それは設計者も利用者も然りで、所内ではその感覚の喚起を目指していたという。そこには経験の有無は関係なく、学生でも立ち向かうことができる。このことを御手洗さんは強調していた。「デザインの鍵」にも同様なことが書かれているのだが、表現の仕方によってかなりの違いを生むことにも気づく。コンテンツ内容よりもむしろ表象の仕方が大きな影響を及ぼす。表象について疑問を抱きながら図らずも、表象の大きさに逆に気づくことになった。御手洗さんは伊東事務所時代にUCバークレー美術館の担当であったそうだ。具象グリットを試みたプロジェクトである。

7月21日(火)
カザベラジャパンで、岡田哲史さんのアドルフ・ロース試論を読む。ミューラー邸をデザインするにあたってミューラー氏から、ウホタと協同することが条件にされていたという。ロースの健康状態からである。そのウホタは大学教員で、構造を教え積算も可能であった。また当時でも確認申請を通すことも難しかったらしく、それを行ったのもミューラー氏率いる建設会社であった。つまり、実現するためにかなりの部分を施主が負っていた。それだけミューラー氏は、建築家ロースの案に惚れ込んでいたことにもなる。なんとかして実現したかった。いったいミューラー氏とはどんな人物であったか疑問に思う。論後半からミューラー邸の詳細が記述される。ウィーンに倣い抑圧と開放という仮説を持ち出し、ミューラー邸の天井高を言及するのは少し物足りないと思う。

7月20日(月)
「複雑系入門」井庭崇 福原義久著を読みはじめる。1998年発刊で、井庭さんがパタンランゲージに至るまでの過程を整理しようと思い、この本を手にする。冒頭からトーマス・クーン「科学革命の構造」の変革が紹介される。それは、ぼくが少なからずニューサイエンスに興味を持ちだし心躍った時期と重なる。

7月19日(日)
オープンキャンパスにてAO説明会を行う。例年より来場者は多い。学科展示会場では、新しい建築学科のロゴについてのアンケートも行われる。デザインされるクライアント側を経験する。デザインがコンセプトを誘導しようとしているが、なかなか難しいことを感じる。アンケートの結果から、これといった案に収束はしていないことでそれが判る。たとえ組織であっても明快なコンセプトを打ち出す必要性を感じる。

7月18日(土)
午後学会に行き、斉藤公男先生率いる学生構造コンペの審査をする。ナウム・ガボを連想する作品に出会う。張力を特殊フィルムでくるみ不思議なかたちをつくるものだ。それを支えるフレームがデザインされていないことを少し残念に思う。もうひとつ興味を持ったのは、正方形のフレームの中央に樹脂を張り、その樹脂を熱で歪ませることで非展開面をつくるというもの。そのユニットの連続でスペースフレームとしていた。1昨年の遠藤研河内くんが修士研究した幾何学をアナログ的に解くものであった。2冊のマンガ雑誌をページ毎に噛ませたユニットでハンモックをつくった作品も好感がもてた。以前、遠藤研でもこの方法で3次曲面をつくろうとして失敗した。2次元曲面に留め、使い方のアイデアを付加するものであった。こういう方法もあるのだと納得する。アクリルに切れ目を入れて短冊状にし、自動車のリーフ式サスペンションを縦方向に応用した作品も面白かった。真直ぐに立たせることなく鉛直力を支える構成となる。千葉工大の4作品もがんばる。アイデアが面白く10作品の中で4作品が採用された。ただし、最後の完成まで十分に至らないところがほしい。構造研究室の弱点でもあった。審査を中途にし、大学に向かう。オープンキャンパスの準備である。担当同僚のご家族にご不幸があったので、その仕事を引き継ぐ。事務所に戻りプロジェクト案の修正。研究室学生によっていくつかの案が用意され、それをもとにした検討をする。いよいよ方向性が見えてきた。

7月17日(金)
夕方事務所を出て、クライアントと新しい案をもとに打ち合わせをする。色々なアドバイスを投げかける人がいて、少し混乱に陥っているようだ。その手助けになればよいと思う。ぼくら建築家が行うデザインは、こうした混乱を整理するための手段と考えてもらってもよいと思う。そのための報酬でもある。新国立競技場の問題でも明るみになったのは、建設費は、製品を買うようには確定できないとうことであった。このことを一般の人はまだ認知していない。深夜、「J・エドガー」を観る。長きに渡りFBI長官を務めたエドガー・フーバーのキャリアを描いた作品である。監督はクリント・イーストウッド。フーバーが歴代大統領のもとで50年近く長官に居続けることができたのは、政治家大統領のスキャンダルを握っていたからである。民主主義国家アメリカの闇の部分に迫る映画であった。キング牧師のノーベル平和賞の妨害、ケネディの暗殺、これらにも関わっていたことを暗に濁す。この描き方は大風呂敷を拡げたようなもので少し納得できなかった。ディテールがほしい。

7月16日(木)
谷尻さんを千葉工大へ迎えてのレクチャーを行う。iPadに手書きを入れながらのレクチャーが面白い。そうすることで聴衆を飽きさせないし、その時の生の考えを効果的に伝えることできる。彼の経歴が示すように、建築におけるアウトサイダー的立場から建築にせまろうとしているのがよくわかった。「作品をつくりたい」とまで最近思うようになったそうだ。そこから推測するに、大文字の建築があるとしたら、そういうものを意識するようになったのだろう。それを誠実に楽しんでいることに共感を持てた。そうした建築家は少ないからだ。一般に彼のデザインはハスに構えたように見えるが決してそうではない。色々な人の意見を聞いては集約し、それがひとつに結実する瞬間を仕込む。このことを快感としているようだ。それは最近読む偶然の考え方に似ている。レクチャーの後で、個人的に話をしたかった。

7月13日(月)
ブータンの今後について学長と打ち合わせ。大学間協定を結ぶことになる。古市先生と行ってきた一連の研究が漸く認められてきたことを実感する。今後も古市先生と密に連絡することを、現在ブータンの研究を引き継いでいる吉村先生にアドバイスをする。午後は授業。

7月11日(土)
難波事務所にて、「S,M,L,XL+」の読書会。コールハースは作品において、複数のコンセプトをもっていること、偏執症的批判的方法(PCM)によって創作活動をしていること、この2点が難波さんから指摘される。ぼくとしては、コールハースが作品にのぞむときに特定の美学をもたないことが、作品の多様性を生むし、多様な要求の受け入れを可能にし、現実社会の(整理されていない)狂乱状態に近いものになると考える。その考えがうまく伝わらなかったようだ。「錯乱のニューヨーク」を読むと、それは崇高論に近いものを感じる。難波さんもこの会にゲスト参加した中谷礼仁さんも、柄谷行人との接点を暗に指摘している。どれもがひとつの美学を超えたところで発生する世界を指摘している。崇高論との関係についてもう少し今後も考えよう。

7月10日(金)
彦根の町は濠端に手すりがないためスッキリしていて美しい。堀の周囲の建物の区画サイズも大きく、城に対して正対している。つまり都市化されていない。都市が大きくなると、近代の役所という新しい中心ができ、そこから商業が発展し城の中心性を弱まる。それがないのは、松江のランドスケープに似ている。城が国宝であるのは、この彦根と姫路、松本、犬山である。濠の内に高校や大学もある。ここ彦根で、現在井伊直弼生誕200年の催しが行われている。博物館で井伊家の鎧を見る。朱く、兜のツノ脇立が長い事が印象的であった。朱は武田軍から精鋭部隊とともに徳川の命で引き継いだそうだ。城内には能舞台が移築され、それを囲むようにコンクリートの博物館と木造数奇屋の井伊家住居がある。博物館の一部が観客席となり、能舞台と一体化している。この配置計画は、もとの表御殿に倣ったものだそうだが、その計画に感心する。

7月 9日(木)
多賀大社に行く。参道の長さに対して本殿が大きい。おそらく建物が時代を経て拡大を続けてきたのだろうと推測する。しかし敷地に十分の大きさがなかった。大社は南向きに丘の上に立ち、背後の北丘下に川が東西に流れる。大社の屋根は重なりひとつに見えるが、実は幾重にもかこわれてた構成である。水も豊富である。低地は大昔湖であったという。琵琶湖が現在の位置となるまでに200万年かかったそうだ。山裾の村を訪ねると、ブータンの風景と同じである。生活空間が水路と絡んでいる様子がところどころで見受けられた。緩やかな山裾に、田んぼと住居を設けようとするとその立ち位置は似てくるのだろう。彦根に戻り、圓常寺へ行く。母方の菩提寺である。快慶の阿弥陀像を見ることはできなかった。四番町スクエアへ行く。城下町の一区画を、江戸でなく大正時代を模してロマン主義的に再開発した。メイン通りに面していない開発として珍しい。スケール感が良いが、2×4でできているのに驚いた。

7月 8日(水)
大学院ゼミ。「第一機械時代の理論とデザイン」レイナ-バンハム著に書かれていた内容をデザインスゴロクに照らし合わせてぼくの考えを話す。1930年以前に、サヴォア邸、チューゲンハット邸、ローズ邸という今日を代表する傑作が完成している。しかしぼくにとってフラーのダイマキシオンハウスは、これより遙かに先んじていて、誰の目からもその異質性が感じられる。その理由について解説する。デザインスゴロクに照らし合わせると、多くの建築家はデザインスゴロクの下側、すなわちファンクションとアピアランス、あるいは右上のトラディショナルを扱う。自動車や汽船、あるいはもモデュラーコーディネーションを考えたコルビュジエでさえも、左のワークのところは疎かであった。それに対し、フラーはトラディショナルをほとんど無視し、ワークとマテリアルの関心と解決に集中していた。その違いをバンハムが明らかにしているというものである。バンハムが偉大なのは逆に言うと、フラーがコルになれなかった点に焦点をあて、脈々と続く大文字の建築が何かに迫ったところにあり、これが本書の主題であることも付け加える。続けて、フラー的建築を紹介する。難波さんの下で翻訳に参加をした「スーパーシェッズ」の解説である。19世紀中頃の産業の変化に伴い、鉄道駅舎、ハンガー倉庫、自動車工場にて当時建築とは認められなかったシェッズが一方で、近代建築を生むための準備段階として社会に用意されていたことを話す。

7月 7日(火)
2週前のゼミの話を整理する。「デザインの鍵」と「偶然の科学」ダンカンワッツ「偶然性・アイロニー・連帯」ローティであった。偶然とは、事後の説明であり、現実は複雑に絡み合った無数の因果関係で物事は成立している。後になって、そのなかのひとつの繋がった軌跡が認識される。これを偶然という。アレグサンダーのパタンランゲージのパタンは、この複雑なネットワークを緩くサブネットワーク化を目指したものである。これを彼はセミラチスといい、ツリー的思考を否定した。僕らはデザイン行為において、創発を狙う。創発とは、サブネットワークの位相が移行することを言う。僕らは通常複雑なサブネットワークの中に埋没している。しかし建築においてモノをつくることは、そう複雑な訳ではない。先人はその指針を俯瞰的視点として与えてくれている。「デザインの鍵」におけるデザインスゴロクはまさにそれに相当する。優れた建築とは大なり小なり、小さな創発を繰り返し、スゴロクを何重にも回転させてできたものと考えると分かりやすい。建築を作るうえで、俯瞰的にものを見る視点と、発見した問題をサブネットワーク化し、次の問題に繋げる用意をしておくことが重要である。

7月 6日(月)
074 女子W杯決勝 日本×アメリカ
開始早々から主導権を握られ、セットプレーから2点を喫する。その後も2点を返したものの、3点を取られ、連覇がならなかった。アメリカはパワーとスピードが勝り、その上で戦略も徹底していた。完全アウエー状況もそうさせたのかもしれない。ゲーム途中に3バック、4バックとシステム変更を繰り返していたように、ベンチからの指示に選手も戸惑いをみせ、チームとして闘う状況にないほどの混乱であった。それは相手セットプレーにたいしての守備において最後まで続く。日本はマークを外し後手となり、いつ追加点を取られてもおかしくない状況であった。これまで安定していたチーム力はウソのような状況であった。
ゼミでパタンランゲージ。パタンランゲージは辞書のようにアイデア集としても使えるが、一貫した世界観が内包されていることを説明する。世界観といっても、中世への懐古主義のことをいっているわけではない。境界に対する考え方、スケールの繰り返し、中心性と反転、自律など具体的にかたちとして表すことができる。多かれ少なかれ建築家はこの美学を持っていて、この密度の濃さが建築家たらしめている。これが「デザインの鍵」でトータリティといっていたものである。

7月 5日(日)
「S,M,L,XL+」を読む。建築家は都市をコントロールしようとするが、それは不可能である。これまでの都市論は、こうした現実に蓋をした上で独自の理論の構築に力と時間を割いてきた。それに反して、現実のコントロール不可能性に立ってそれを象徴するものとして考えたのが、ビッグネスやジャンクスペースだ。これらの言葉は、都市を人間の欲望と商品経済を含む内在的なものとして考えるぴったりの用語である。決して都市を外在的なものと考えていない。このことに気づく。また建築家個人の美的感覚や主体性を問うていないのも特徴である。一人一人の建築家の創造性はこれによって解放されることになる。OMAの独自性はここから生まれた。コルビュジェが機械の美学を持ち出して前世紀の美学を否定しても、結局は前世紀の美学に縛られていた。これが「第一機械時代の理論とデザイン」におけるバンハムの結論であったが、それとは対称的である。

7月 4日(土)
斉藤公先生主催によるSSSサマーセミナーの審査で学会へ行く。今年は25作品に留まる。1人8票を持っての投票。空けてみると千葉工大の学生が健闘し、4案が2次審査へ進む。2次は制作である。模型がしっかりして建築としての完成度の高い案であった。ひとつめは、立体的に噛み合うユニットを積み上げるもの。その噛み合わせがアンバランスで、積み上がってできるかたちがイレギラーになるのがよい。ふたつめが、簾上のユニットで囲むもの。引張ることでバランスし、制作途中でかたちが動くことが評価された。3つめは、かたちの変わるテント。現実化させるのが難しそうだ。最も建築的な作品であった。4つめは、竹のしなりを利用して浮いたベンチ。竹の固定度を増すこと、座る人の荷重とのバランスを考えること。最も実現が難しそうだ。会が始まる前に着席した机にあった作品なので面白いと思っていたが、実現難しそうなので、議論を誘発させるつもりで投票した。2週間後の制作に期待する。もうひとつ気になる作品は、いくつかの風船をラップするもの。ラップを綺麗にして全体を浮かせたら面白いと思った。

7月 3日(金)
NHKでブータンのドキュメンタリー映画を見る。ガサ北の村に住む少年の物語。ガサはティンプーから車で半日のプナカのさらに北にあり、そこから3日歩く必要があるとはかなりの山岳村である。主人公の少年は10歳手前。父親を失い貧困のため母親と離れて学校へ行かずに村の寺に預けられている。ブータンのどんな小さな村にも寺がある。寺には僧侶が中央から配属され、彼らの世話をするのが少年の仕事である。貧しいとはいえ、ぼくらが調査したようにブータンの民家はどれも手が込み立派である。現在は学校制度も充実し、基本的に全員が教育を受ける権利がある。その子どもたちは生き生きしている。それは彼らが走り回る外の景色と同様すがすがしい。それとは対照的に、かつて学業を積まなかった大人達の表情は暗い。彼らが登場するのは決まって暗い室内である。主人公の少年の叔父も購入したばかりのテレビを運搬中に落とし、少年の母親から小言を言われる。それも暗い民家の中のシーンであった。ある冬、僧侶(ラマ)がプナカへ行く間の暇をもらい、少年は叔父とラバを売りにガサへ行く。そして首都ティンプーまで足を伸ばす。新しいテレビを購入するためである。この映画は2013年制作というので、このときティンプーはもっと都市化されていたと思うが、穏やかにティンプーが描かれていた。電気屋のテレビで見るアメリカのプロセス中継に圧倒される少年を通してでしか都市の近代化は表現されていない。役場で働いているはずの姉はナイトクラブで働いていた。とはいえすさんではいないのは、ブータンたる所以である。しかし少年は村に帰って母にこの事実を伝えられない。この村にも電気が届く。つまりそれまでテレビの存在意味はなかったのである。ちなみに電気は日本の援助によるものであり、ブータンのほとんどの地域に現在電気が送られている。暗い部屋で、皆がプロレス中継を見る。皆の顔にテレビのちらつきが写るシーンで物語は終わる。なんともやりきれない映画であった。精気や幸せを奪うモノとして近代化をやんわりと批判する。そしてそれに抗することができない僕たちがいる。映画の結論も同様であった。近代が悪で、プリミティブな世界が良しという二項対立が暗黙の前提にある。しかもそれは近代側視点から描かれているので、悪くいうと、判りきった結論を感動的に描いただけということもできる。近代という大文字のフレームを通じてあたかも全体を見るような視点に大きな欺瞞を感じる。どちらの世界にも幸福がある。幸福とは微分してみると上向きとなる感情である。そうした個々の描き方はないのだろうかと思う。サイード著の「オリエンタリズム」を思い出した。西欧からオリエンタル=中東諸国を尊重すべきという主張であるが、そこには中東を外在的なモノとみる視点がそもそもあるとして、それを批判するものであった。中東を美的対象として見上げるのは、じつは知的・道徳的に見下す視点を隠すものであることを批判していた。

7月 2日(木)
073 女子W杯 日本×イングランド
日本はこれまでと異なりゲームコントロールができなかった。前線2人の中盤でのボールキープができなかったことによる。それだけマークがきつかった。それに加えて、MF底からのパスも封じられていた。そうした流れを変えたのは、イングランドにも疲れが見え始め、FW岩淵が投入されたあたりからである。彼女のドリブルにイングランドDFが翻弄される。ロスタイムに奪ったオウンゴールも彼女の動きが引き金になっている。岩淵の素早い動きに対応するためDFは押し込まれ、サイドの川澄がフリーになっていた。そこからのクロスがオウンゴールをよぶ。運に恵まれたかたちで決勝に進む。これもよし。これで4年前のW杯、オリンピック、そいて今回のW杯と3回続けてのアメリカとの戦いとなる。

7月 1日(水)
マリ・アンジェ・ブレアさんを千葉工大に招いてのレクチャー。彼女はポンピドゥーセンターのプロスティクティブキューレターである。レクチャーは建築模型について。彼女のライフワークである。彼女が紹介してくれたここ数年の建築家の模型に驚く。ぼくも10年前にエリップスの模型を彼女に渡している。それとはことなり、3Dプリンターのなせる技術を存分に展開したものであった。それは他分野専門化とのコミュニケーション媒体となっている。しかしかわらないものもある。それは、いつの時代も先端技術との結びつきがあり、自らの新しいアイデアを実作より前にモデル化する建築家の働きについてである。そのことが十分に理解できた。その上でアーティスト特に彫刻家との違いについて質問をし、日本の建築家の特殊性についてたずねた。デジタル技術に関して、日本は遅れを取っている。が、素材に対するアプローチにはセンシティブであるという。彫刻家との違いをはっきり聞き取れなかったが、ぼくの質問を繰り返したような回答であった。建築を抽象化したものが模型であったのだが、現在はかたちにできない思考を具象化するものとして模型があるようだ。このような変化にぼくらは直面している。帰宅して錦織の棄権を知る。

6月29日(月)
「S,M,L,XL+」を読む。問題を解決したときに快感は一般的であるが、問題の全容が何かを明らかにして、それを表現する快感もある。これが本書に通底している。設計授業後に「パタンランゲージ」のゼミを行う。パタンは253個与えられている。しかしよく見ると253個は似通っている。スケール、場所、使い方、時間などにしたがって様相が変わる。このことを説明し、パタンランゲージを専門家として扱う場合には、その型(パタン)を身に付け、外部要件にたいして臨機応変に対応することが大事であるアドバイスをする。アレグサンダーは、この型を15の幾何学的性質に結びつけていった。決して多くはない持ち駒をもってしても、多様性を創り出すという考え方である。これは、少し前に流行ったフラクタルとか生物の進化論をもとにしていることを付け加える。以前ゼミで扱った井庭さんの組織論やブレインストーミングの方法も同様で、人間は思考するときパタンを持ってのぞむ。アフォーダンスやゲッシュタルトも同様である。学生がパタンランゲージに興味を持つのもそうした点を直感的に感じているからだろう。ぼくとしては学生にもうひとつ次のステップに進んでほしいので、取り上げる外部要件をより広くする必要性を説いた。そうして、型の強化をする。外部条件を拡げるのに有効なのはデザインスゴロクである。デザインスゴロクを使えば、近視眼的になりがちな思考を拡げることができる。条件設定が厳しいほど、つくられたモノがユニークとなるとしたら、これはある意味悲しい建築家の性であるが、これまたこえなければならない条件である。これを悪意を込めて石山修武さんが、ポジティブにフランプトンが発言している。

6月28日(日)
「S,M,L,XL+」を読みながら、「陰翳礼讃」を思い出す。どちらも時代を俯瞰し、抗力しがたい建築の変わり様をつぶやくように語る、その表現法がそう感じさせてくれる。無抵抗にならざるを得ないほど、時代潮流は大きい。ジェネリック・シティやビッグネスとは、全てを飲み込むブラックホールのようなものだ。今までの建築には、最近日記でも書いている「物化」という役割が重要されてきた。時代を切り取り、整理仕切り直すポジティブな役割である。こういうと聞こえがよいが、近代化を推進する運動を留めているともいえる。こうしたネガティブな見方の方が一般的かもしれない。つまりは儲けを止めないでくれという主張ある。これまでの建築論は全て建築側からの視点であった。建築の行為は正であり、社会は悪である。したがって、社会をコントロールするという主張になっている。しかし現実にはそうしたコントロールは不可能であった。ならば建築側から社会を悪といわずにポジティブに表現するにはどうしたらよいか?本書の面白さと新鮮さはここにあるように思う。

6月27日(土)
072 女子W杯 日本×オーストラリア
後半40分過ぎにコーナーキックからのこぼれ球を決め、1-0で8強入りを決める。点差以上に安定したゲーム運びであった。FW大儀見が確実にボールをおさめることができたため、2列目とサイドからのぶ厚い攻撃を可能にしていた。その後の第2ゲームで、7月1日の準決勝の相手が主催国カナダでなくイングランドに決まる。その日はカナダの独立記念日であるという。決勝トーナメントのくじ運といい流れは日本にある。運も引き寄せるだけの余裕が頼もしい。

6月27日(土)
「プラトーン」オリバーストーン監督を見る。戦場という極限状況において(銃を持った)力のある人間に道徳心があるかを問う映画であった。残念ながらそういう状況においては、死への恐怖から自己既成=善悪が失われ、力が暴発し暴力に変質する。一方力をもたないベトナム村民にその矛盾はない。しかし戦場を離れたもう一方の安定社会においては、善悪という道徳心が社会既成となり人の欲望をコントロールする。絶対的な道徳観の存在を否定し、人間と社会は相対的な関係にしかない。このことを感じさせてくれる映画であった。

6月26日(金)
金沢海みらい図書館に行く。空間を決定づけているのは、均質の丸穴ファサードにあるよりも空間の大きさにある。ここまで大きな白い空間はこれまでなかった。外は強い雨が降る状況でも、天井からの照明なしに十分に図書館として機能していた。本に囲まれることで空間を圧倒する図書館はあっても、建物自体で空間を圧倒する図書館も珍しい。ラブルーストの図書館を思い出す。大きくとも軽い。箱の空間が感じられるようデザインされているのが、谷口氏のファサードデザインと異なる。

6月25日(木)
加賀に行き、谷口吉生と内藤廣の温泉施設を見学する。回遊性と中心性へのこだわりは、これまでの氏の作品の連続上にある。回遊性を高めるために外とのインターフェースデザインが、中心性を高めるために屋根をはじめとする構造・構成が、それぞれ大切とされる。外へ向かうか、内へ向かうかの違いでもある。そして谷口氏の回遊性デザインは他の現代の建築家と同様どこまでも明るい。しかし谷口たらしめているのは、無垢のスチールとガラス、コンクリートによってであり、素朴な重厚さによる。それにたいし中心性は陰影というヒエラルキーをつくる。そこに空間の力を信じていることが実感できる。立地条件も対照的だ。いっぽうは川縁にあり、もうひとつは街の中心にある。その後、九谷焼窯跡展示館に行く。内外黒系のガルバで覆われた建築であり、これまた屋根が中心である。

6月24日(水)
071 女子W杯 日本×オランダ
オランダを格下とは見ないものの、少なくともリスペクトを払わないで試合に臨む女子チームにとりあえず脱帽である。ゲーム展開も同様であった。予選3試合と異なり、フィニッシュまで何度もいく。予選リーグで全選手をピッチに送り出した佐々木監督は、大会を通じてチームをつくりあげていく。その手腕も経験のなせる業である。

6月22日(月)
ミラノトリエンナーレへ出展するためのエリップスの模型を成田まで送る。全てのエリップスの模型はポンピドゥーセンターへ寄贈したので、新しいものをM1生の力を借りてつくる。大きなエリップス模型が完成した。外周のブレースを省略したために少し柔く、運搬に差し支えないように養生に時間をかける。そのポンピドゥーのキューレーターブレイエさんが今村先生の紹介で、千葉工大にてレクチャーを来週の水曜日7月1日に行う。

6月21日(日)
午前中につくばへ行き、クライアント候補へ現場を案内する。午後、今週から始まる大学院授業の構成を考える。自分にとって大きなターニングポイントになった書籍を今年から解説することにする。第1回目は、池辺陽のデザインの鍵「デザインスゴロク」。発想の着眼点よりも「トータリティ」が重要であること、それによって得られる俯瞰的視点が、他者との違いを意識化させる。このことについてを話すこととする。アレグサンダーの「パタンランゲージ」もとりあえず、デザインスゴロクのひとつに位置づけて語ってみよう。可能ならそのあとに「創発」について触れたいとも考える。「偶然」をキーワードとして、J・モノーからリチャード・ローティ、ダンカンワッツ、ハーバート・サイモンという流れを知った。それらは現代のネットワーク理論にもとづいた視点を有している。ダンカンワッツは「シックスセンス」で、知人6名のネットワークで世界を皆繋げるという理論を実証して見せた。ローティも、はじめに真理ありきの啓蒙思想を否定する。つまり複雑なネットワークの筋道をはじめから予想することなど不可能であるが、確実にそれは存在することをどれもがいっている。その中でモノを創り出すということは何かが考えられていた。「パタンランゲージ」においてアレグサンダーも、このようなネットワーク化の問題を建築というものづくりにおいて、誰よりも早く導入していた。

6月20日(土)
友人宅のリノベーションの相談を工務店と待ち合わせて杉並へ聞きに行く。幹線道路沿いは住宅地域でないのだろうか、少し荒廃している感じである。が中に入ると、玉川上水脇を緑化するよい環境になる。道路整備もまだ不十分であるが、区画が大きくのんびりしているのは23区内とは思えない環境である。「錯乱のニューヨーク」に続き、「S,M,L,XL+」レム・コールハース著の再読をはじめる。

6月19日(金)
錦織が怪我のため急遽棄権したことに驚く。そのあとに、「I am Sam」を見る。ショーン・ペンが演じる知的障害者とその幼い娘との親子絆を描くドラマ映画。全編にビートルズのカバー曲が使用される。ショーン・ペンの圧倒的な演技力が前面に現れた映画である。弱者を正面切って描くことは難しい。ある意味、作品の狙いが見え見えだからである。その上でショーン・ペンの演技が嫌味なく感動をよぶ。

6月18日(木)
「錯乱のニューヨーク」を読み終わる。限られた土地に膨大なエネルギーとマネーが投資される状況で起き得たものをコールハースはマンハッタンに見た。その意味で、規模は小さいものの、ぼくらは狭小地住宅で同様のことを繰り返してきたのかもしれない。近頃の学校建築にも同じものを感じる。バロック建築も同様でないかとも思う。建築化とは情報を生態学的に捉えることであるが、建築化によってとてつもないものが出現することがある。山本理顕さんはこれを物化という。この物化の力を意識的に行うことが今の建築家に欠けていると氏は力説する。いずれにせよ建築化を意識下でコントロールする必要があるわけだ。このことを、この本から改めて学ぶ。

6月17日(水)
「錯乱のニューヨーク」を読む。様々な欲望が因果を伴い錯綜しながら今日のマンハッタンは形成されてきた。その形成過程を記す本である。それを単なる推測の域を超えて、建物毎にひとつひとつの細かい事実を積み重ねているところにこの本の面白さがある。そこに記されている因果関係は、時代や社会、経済といった外的状況から、仕方なくそうせざるを得なかったかのようにあぶり出されたものである。その描き方はカントが注目した超越論と重なる。それは、「超過密」「どこまでもグリッド」「臨界点」「自己再生産」といったキーワードによって表現される。それが見えざる手となって、超自然都市へと変容していく。それは、コルビュジェの描いた理想都市とは異なる。生物の進化のように、なるようにしてなったかのような自己懐古のストーリーである。これまでこの本の魅力が何かよくわからなかったが、このことを理解し自分の中で少し合点がいく。

6月16日(火)
070 W杯予選 日本×シンガポール
相手FWから点を獲られる様子が微塵も感じられなかったので、最後は何とか勝利できると考えていたが、よもやのスコアレスドローとなる。記録によるシュート数23対3が示すように、誰もがそう考えていたに違いない。しかし現実にはいつものアジア予選通りの苦しい船出となってしまった。その中でひとつのことを気づく。日本にとってシンガポールの攻めに脅威が感じられなかったように、ブラジルをはじめとするフットボール大国は、日本の攻めに対して同様な感覚を持っているのではないかということ。もしそうだとしたら、ゾッとする。本田は右手で相手DFをブロックするためゴール前では絶えず半身のかたちである。そのためズルズルと左足でのキープしたまま中央中央へ追いやられる。宇佐美、香川は縦へ鋭く切れ込まないままDFをかわそうとするので、たとえかわすことに成功しても体が開いているので、パスに力がない。ブンデスでは捨て身の岡崎も、体格的に劣る相手にたいしてなぜかしらこのチャレンジをしなかった。槙野、吉田といった選手がアジア相手に空中戦で勝つことができても、そこに精度がなかった。それでも香川は前半3シュートを放つ。意地だろう。その香川も30分過ぎからは全くゲームから消えてしまったことが気になる。負のスパイラルに陥る切っ掛けが何かはわからないが、シンガポールが引きすぎることなくコンパクトなライン形成を徹底していた。最終ラインとその前のラインの間にスペースが極端にない場合、ドルトムントの場合も同様に攻め手を失う傾向があるようだ。

6月15日(月)
製図の授業でパタンランゲージを紹介する。これまで行わなかったことであった。それは、パタンランゲージをアイデア集として使うことへの抵抗が消えたことが大きい。思えば、平面を組み立てることの自信はパタンランゲージの研究によって培われた。しかし建築としての勝負所はその先にあるとも叩き込まれたので、パタンランゲージを持ち出すことを、どこか気恥ずかしく考えていた。大学で教えるようになってから、設計行為を俯瞰的に見るようなった。それによってそうした考えも消え、気軽に考えられるようになった。設計を面白くさせそうなパタンを5〜7個選び、それを解説する。来週の学生の展開が楽しみでもある。研究室に戻り、『デザインの鍵』の読書会をゼミで行う。「96 広げるほど決めやすくなる」が話題に上がる。ぼくも理解できないでいる章のひとつである。タイトルと内容の一致が見られないことによる。デザインプロセスは、システム思考をする限り、その事後に逆算することによってしか追うことできない。最初から手順というものがあって、それにしたがって線的に解くことの不可能性をいっている。このように思うのであるが、どうだろうか?「錯乱のニューヨーク」の再読をはじめる。

6月14日(日)
設計条件を緩くして、新しいプロジェクトの方向性を考える。どのプロジェクトでも方向性を発見するのに、苦労する。

6月13日(土)
069 女子W杯 日本代表×カメルーン
2-1でカメルーンを斥けるが、前戦と同様後半はあわやの場面が幾度とあった。試合後のインタビューで佐々木監督が、こうした戦いを通してチームを(この段階で)つくっていく旨の発言をする。心配ではあるが風格さえ感じる発言である。最後のペナルティーエリア内に攻撃人数を割いていないことが追加得点できない理由だろう。大儀見を中心とした前線でのタメが欲しいところである。

6月12日(金)
「旅のことば」井庭崇+岡田誠 編著を読む。パタンランゲージが広く人間活動にまで応用されていることを知る。この本は、パタンランゲージの形式を保ち、認知症患者との前向きに生きる実戦的工夫が40パタンとしてまとめている。明確な思想のもとの編集作業は、単なる手続き論にとどまっていないところに、井庭さんの新境地をみる。

6月11日(木)
068 代表 日本代表×イラク
ボールを縦へと送る強いメッセージを代表に感じる。とにかく柴崎のボールを奪う位置がよかった。そこから前線が裏へ飛び出し、あるいは一端下がることでボールをキープし、そこからパス、ドリブル等、自由な展開ができ、ゲームを支配した。ただし、イラクDFのチェックが本番とは異なり甘かったことを差し引く必要がある。しかしともかくアジアでは再び格の違いを見せることが出来た試合であった。23番槙野が生き生きしているのが嬉しい。

6月10日(水)
午前中つくばに行き、難波さんに完成間際の現場を説明。断熱性能を加味して内外木の打ち放しの建築を実現できた。この実績を重ねていくための第1歩のプロジェクトである。
「マインド・タイム」を読み終わる。人は心臓運動をコントロールできないように、ほとんどの行動をコントロールできない。しかし、スポーツ選手が時速160キロのボールを打ち返すことができるように、無意識状況での反応強化を鍛え上げることで無意識状態の行動に意志を反映させることができる。経験の積み重ねは、その点において情報のパッケージ化やパタン化の大いなる助けになるわけだ。それが動物と人が異なる由縁である。リチャード・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」を思い出す。主体性のないアイロニーを積み重ねることから起こりうる偶然を誘導するするようなものだ。完全な主体的なコントロール下にはないが、ある意識にもとづき世界が動く。

6月9日(火)
067 女子W杯 日本代表×スイス
1-0で厳しいW杯初戦をものにする。追加点が奪えず、逆転されてもおかしくないシーンはいくつかあったが、それをクリアする。後半は澤も交代し不在であった状況においてである。前回優勝という経験値が選手とスタッフを育て、最後までチームに安定を与えていた。男子との違いであった。昨年のW杯にも同様のシーンがあった。ドログバが入り、危険を察した本田が詰めるまではよかったが、見事に突き飛ばされチームが負のスパイラルに陥ってしまった。あそこで本田が逆にドログバを吹っ飛ばしていたら、状況も変わっていただろう。得点となったアーリークロスも跳ね返すことができたかもしれない。そうした差が大きな差となって勝敗が決まるものである。

6月8日(月)
「マインド・タイム」を続ける。人が行動すると決定する意識的な意志(W)は、脳活動(RP)の始動より400ミリ秒遅れ、実際の運動活動の150ミリ秒前のものである。という現実を前に、人の意志とは何かを問うのが4章であった。WはRPを拒否することができ、行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御するものであるという。通常の主体性とは全く別のものが示されている。

6月7日(日)
AO入試説明会を行う。今年から少し説明を変更する。新しくなる学科・カリュキュラムに対応するためである。メインは7月のオープンキャンパスとなるのだろうか?その後研究室に戻り、展覧会向けのエリップス模型の打ち合わせ。制作方法を決める。

6月6日(土)
佐倉にある川村美術館へ行く。残念ながら、ナウム・ガボの彫刻は見られなかったが、ジャン・アルプという彫刻家を知る。ブロンズを磨き上げた抽象的な彫刻である。もう少し大きい作品を見たい。マーク・ロスコも今回じっくり見た。暗い照明の部屋を一面ロスコで覆う部屋が用意されている。そのような空間ではじめて、キャンパスからかたちが浮かび上がってくる。それは微妙な色使いによる。当初設置する予定のレストランではこの暗さを確保できなかったため、ロスコ自ら作品を提供することを止めたという。彼は空間全体を壁画のように覆いたかったのではないか?と思う。それにしても壮観である。

6月5日(金)
「マインド・タイム」を読み続ける。3章からは、「気づき」までの0.5秒が何を意味するかにせまる。無意識が登場する。無意識の精神機能がより持続時間の短いニューロン活動によって生み出されているという。この意識と無意識をオーバーラップさせることで、意識は途切れることがない。球速の速い投球を打てるのはこうしたメカニズムによる。これよって0.5秒のタイムラグがなくなる。

6月4日(木)
バブル経済を振り返る特集を見る。当時の産業成熟社会における将来への方向性欠如が新たな金融商品を渇望したこと、衰退を経験したアメリカ次期経済政策=グローバル化にじつは日本政府は抗せなかったこと、経済状況を見極める日銀の決断遅れ、が紹介される。バブルが起き、崩壊するメカニズムはこうも簡単かと愕然とする。それならば当然それを知り得た賢人もいただろうと思う。あるいは、事後説明でしか判明しないものなのだろうか?あるいは、部分部分で起きていることなので、お互いをつなぎ合わせることは事後でないと知り得ないものなのだろうか?と思いを廻らす。おそらく事は複雑でもっと絡み合っているに違いない。とにかくこうした特集の事後説明は、もっともなようで納得がいくものではない。こうした思いがいつもよぎる。というのもその中でキーとなる銀行の存在が明らかにされない。銀行だけが生き残ったからである。政治的な判断が時に大きく働くと聞く。

6月3日(水)
日建設計の構造家原田公明さんをむかえての大学院レクチャー。規模はひとまわり原田さんの方が大きいものの、最近のぼくの仕事と近いことにびっくりする。具体的にはPCが同じファブであったこと、クライアントが港区であったことだ。公共建築未経験のぼくには悪戦苦闘の連続であったので、クライアントを安心させる術について大いに感心が湧く。それだけ気負いがなく、安心感を与えてくれる人柄であったのだ。したがってそうした話に終始する。学生には理解できなかったろうと推測するが、作品にはじつは人間関係が占める比重が大きい。このことが伝わればと思う。先週の山田さんの木構造と異なり規模が大きい分、適切なエンジニアとしての判断が大切なことも知る。反対に考えると木構造はリダンダシィーが要求されるので、それが選択の幅を拡げる。木構造を考える建築家が多いことと結びつくかもしれない。デザイン学科の倉斗先生から最近の学校建築の動向について聴く。3年生の設計授業において、学校建築課題に取りかかるためだ。最近の学校建築の教育委員会側も、建築家の設計提案を受け入れるようになったという。そのため様々に使われる。ただし、まだ決定打がなく、可能性が拡大している途上であるという。それは反対にぼくらが狭小地住宅で行ってきた様々な提案と同様、数寄屋化しているともいえる。小嶋さん達がこれをどう克服するかという興味を反対にもつ。その辺りをテーマにする学生作品も出てよいと思う。

6月2日(火)
汐留で打ち合わせをし、午後「マインド・タイム」ベンジャミン・リベット著を読みはじめる。自分が何かをしようと意識するよりも前に脳の活動のほうが先に始まっている。この時間差を説明する。あるいは熱いものに触れたとき、手を引っ込めるほうが熱いと自覚するより速いことをいう。熱いと自覚するには0.5秒以上その刺激が続く必要があるのだそうだ。その状況に達するまでに、人は手を引っ込める行動をする。これでは人が決定論的に動いていることとなる。人は意志をもって行動制御しているようにみえるが、その司令となる意志の存在を疑わなければならない。このことが2章まで述べられている。

6月1日(月)
半期の講義を終える。最後はテキストに沿って「寿命」についてを説明する。テキスト作成当時は、不確定な未来に備えて緩いデザインを提供することがよいと考えていたのだが、最近は考えが異なってきていることを話しながら気づく。不確定な未来にたいしても解答を無理矢理にでも提示しない限り、誰も曖昧な事なかれ主義的な使い方を続けてしまう。これを回避させることが建築の役割でもある。このことを思うようになった。最近話題となる「物化」とはこういうことと考える。

5月31日(日)
新しい住宅の案について考え、ひとつの切り口を見つける。それにそった3案の検討はじめる。午後はサイ・トゥオンブリ-を見るため原美術館へ行く。正直いって理解が難しい。ヒューストンにあるピアノ設計のサイ・トゥオンブリ-美術館は、正方形平面にダブルルーフを載せたシンプルなものである。光を極限まで落とし、300ルクス程度しかない落ち着いた空間を創っていた。サイ・トゥオンブリ-の白を基調にした繊細な色使いはこうした空間でしか映えない。こうしたことを想い廻らす。その後、御殿山周辺を歩く。

5月30日(土)
066  ドイツカップ ヴォルスブルク×ドルトムント
香川がアシストで活躍するも1-3で負ける。今季で去ることになっている監督クロップとキャプテンケールに優勝を捧げることができなかった。前半早々に追加点をあげることができなかったことが大きい。その後前半の内の15分間に3失点を喫する。DFのチェックの甘さによるものであった。とはいえ、ヴォルクスブルクのFW陣は今季充実し、その勢いで押し切られるかたちであった。

5月29日(金)
「ものづくり革命」を読み終わる。この本の中心テーマは、ものづくりが一般の人にも広く行き渡り、かつそれが歓びへとつながることにある。建築の本質も同様である。日本では現在、これを行きすぎた動向と見なし、むしろ制御される向きにある。これを再び融解させるには手はないかと思い巡らす。

5月28日(木)
a+u最新号ジェームズスターリング特集を読む。スターリングというと、最初の日本語作品集において難波さんが解説を書いた。そうしたこともあり、よく読んでいた建築家のひとりである。またその後難波さんはスターリングを引き合いにして雑誌「都市住宅」で「仕掛け考」という特集も企画していた。スターリングは部分を取り出した独特なアクソメドローイングを画く。しかも見上げのアクソメである。この雑誌企画は、こうしたドローイングから、スターリングが何を意図し、どういった社会建築風習から逃れようとしていたかを問うものであった。ぼくもそれに影響を受けた。彼のドローイングを卒業設計で活用したものだ。その中でも特にレスター工学部の建築はお気に入りであった。むさぶるようにそれを見ていた覚えがある。今回の特集でもレスターが巻頭で扱われている。責任編集のトムヘネガン氏のレスター評に新しい発見をする。スターリングとパートナーを組んでいたジェイムズ・ゴーワンとの関係についてである。トム氏によると「スターリングは古典派で、ゴーワンはゴシック派」であるという。古典派とは中心集中型であり、ゴシック派とは部分をより緩やかに組み合わせた構築型である。そのふたりの間のせめぎ合いがレスター工学部の傑作を生んだという推測であった。実は2年くらい前、改めてレスターをよく見た時期があった。難波さんと久しぶりに組んだコンペにおいてである。建物を高揚させる矛盾性と複雑性を求めようとし、45度に振ったソーラパネル屋根案を思いついた。スターリング+ゴーワンの45度に振ったガラス屋根を現代に置き換えたものである。難波さんもそれに気づき、プロジェクトはそれでまとまった。ゴーワンが行ったゴシック型アプローチとはこういうものかと今になって妙にトム氏の解説に納得できる。

5月27日(水)
山田憲明さんを招いての大学院レクチャー。多田先生と行う。山田さんが構造担当した作品を紹介してもらう。伝統、小空間、大空間というテーマを3つに縛っての説明であった。このテーマから判るように、山田さんは歴史とスケールに重きを置く骨太の構造家である。山田さんの先生は増田一眞さん。ぼくも伊勢神宮の新宮建設の製作現場を伊勢まで増田先生と同行した経験がある。山田さんはそこで15年間伝統木造を叩き込まれたという。その間、集成材を使うことを禁じられていたそうだ。そういった制約のなかで磨き上げてきた思考と技術が山田さんを骨太の構造家にしたことと合点がいく。今日紹介された作品にもそれがはっきりと現れている。構造を消すといいながらアクロバテッィクさを強調する構造家と違って、構成を明確にかたちづくる構造である。そうした特徴は大空間で生きる。いつか仕事を一緒にしたいと思う。

5月25日(月)
午前は講義で、技術とデザインの関係を話す。技術の進歩によって、建築においてもものづくりに革命が起きないといけない。このことを話す。それは、ひとりひとりが必要とするモノを一品だけ製造することを可能にする世界への改革である。プルーヴェが描いた世界でもある。建築はそれを建築としてモノ化することで社会化される。バンハムの「第一機械時代の理論とデザイン」から学んだぼくなりの結論である。パーソナル・ファブリケーションの可能性である。

5月24日(日)
新宿の野村ビル東郷青児美術館でゴッホ「ひまわり」をみる。タッチの荒々しさは、キャンパスのジュート地による。とはいえそこに執念を感じる。色合いは以前の記憶より幾分抑え気味であるように思えた。高層ビルの上階にある美術館であるが、デパートの催し物空間のようで空間にたいする理解がないことが判る。作品を並べることが可能であればよいということでもないだろう。一昔前の美術館を想う。
064  ブンデス ドルトムント×ケルン
クロップ采配のリーグ最終戦、ホーム、ドルトムントが勝利する。攻撃も守備も迫力がこれまでのゲームと異なっていた。香川は口火になる得点とそれに続く2アシストを果たし、フィールドで輝く。ボールの出し手でもあり、前線でのシューターでもあった。とにかく4人の前線が流動的であったのがよい。来週のカップ戦決勝にも期待する。
065  セリエA ミラン×トリノ

5月23日(土)
063  ブンデス ハノーファー×フライブルク
引き分けでもよいフライブルグと17位にいるハノーファーの降格圏争い。このゲームを清武ハノーファーが制し、1部の残留を決める。清武の開始直後のヘディングシュートを守り切った。フライブルクは受けて立ってしまったことによって、先制を許す結果となった。その後もゲームコントロールはままならなかった。フットボールの難しさを感じる。前節でバイエルンに勝利したことで降格圏を抜け出し安心したチームと合宿を張りチームの一体感を高めることに努めたチームのマインドコントロールに差が出たようだ。酒井の所属するシュツットガルトも逆転で勝利し、日本人所属のドイツチームは全て残留を決める。

5月22日(金)
GA JAPAN134 『歴史なき現代建築に未来はないⅡ』を読む。ミゲーレ氏がキュレーションをしたジャパンアーキテクト展に端を発した問題である。磯崎氏の対談に合点がいく。「「社会が建築を創る」に対して、「建築こそが社会をつくる」というものである。「社会派に対して、我々はフォルマリストでありアトリエ派だと。それでarchitectureと「建築」の乖離の問題に突き当たって「大文字の建築」といった」。山本理顕の物化と同じである。3.11以降出現する屋根型建築の反動が見え始めてきた。建築家がこのふたつにたいしてどのようなスタンスをとるかは見物である。磯崎は一端ザハの案を肯定したが、初期案から矯角殺牛していく様を見て、皇居前広場にオリンピック競技場を仮設として検討しているらしい。

5月19日(火)
062  セリエA サッスオロ×ミラン
ミランは降格脱出組に負けるものの、ゲームを支配する。出場停止のメネズがいないことによって、チーム戦略が徹底し、その中心に本田がいる。中盤で一端ボールを受け、そこからの仕掛けを幾度も行う。マスコミも本田に一定の評価を与えているが、シュートを決めておきたかった。

5月18日(月)
建築計画2の授業も佳境に入る。「住宅における空間原論」にもとづき2章の「流れ」を説明する。力、空気、人という切り口で、建築における流れの重要性を示唆した上で、人=シークエンスについては歴史的経緯を話す。ライトの一連の住宅情報がヨーロッパに渡り、ミースの初期作品、ロースのラウムプラン、コルのスロープを生んだ。実はそれで近代建築は完成してしまった。その後の現代までの建築はそのバリエーションでしかないといったのは磯崎である。その実例も説明する。もし、そうだとすると、ぼくらが追求すべき次の課題は何かということを続けた。これは本書の後半に書き記したつもりであるが、授業ではそこで池辺陽氏をとりだした。池辺陽のデザインスゴロクには、建築家が問題としてこなかったディストリビューションやワークの問題がある。その重要性を話す。池辺陽と合わせてB・フラーやプルーヴェの話は次週に持ち越す。彼らの功績を通して、建築計画について考え直してほしいいことがある。それは与えられた条件を計画論理に従って解くことではない。建築計画とは俯瞰的思考をもって新たな条件も拾い上げかたちにしていく組み立て作業のことをいう。それをプロジェクト毎に行う。池辺はこれを最終的にスタンダードへつなげることを建築の課題としていた。それを社会的といっていた。午後の設計授業では、アレグサンダーのパタンランゲージを説明。

5月17日(日)
061  プレミア マンU×アーセナル
コートいっぱいにロングボールを使うユナイテッドの攻撃にアーセナルが苦しむ展開。ショートパス中心のアーセナルはボールを奪っても選手間が引き延ばされて自由が効かない。一方ユナイテッドは、徹底してファーサイドのフェライニが起点となりアーセナル守備陣を揺さぶる。しかしゲームとは面白い。90分の内に流れが変わる。快足を活かしてサイド奥の空いたスペースを使い、ロングボールを足下に上手くおさめた途中出場のウォルコットがドローに持ち込む。これでアーセナルの3位とユナイテッドの4位が決定する。残すところプレミアも1ゲームとなる。
5月16日(土)
060  ブンデス ヴォルフスブルグ×ドルトムント
ドルトムントは覇気のないゲームをし、1-2で重要な試合を落とす。今季の悪い時のパタンが解消されていない。香川がゲームに入れていなかったこととフンメルスが怪我のため不出場であった。このふたつが原因である。良くも悪くも、ドルトムントはこのふたりのチームといってもよい。彼らのパフォーマンス次第である。失点は前半、後半開始直後の香川曰く「ふらふらしていた時間帯」に喫する。何とも安易であった。その後はペースを掴めないまま終わる。攻撃においてもフンメルスの時折見せる縦への展開が大きいことを知る。これがアクセントとなり、相手を揺さぶっていた。アウグスブルグも負けたため、最終節にEL出場権の6位の可能性を残している。

5月15日(金)
「ブラックホーク ダウン」リドリースコット監督を見る。ソマリア戦争における捕虜奪還計画モガディッシュの戦闘を描いた作品である。その戦闘描写に圧倒される。いわゆるストーリー展開がなく、それは建築で言う機能性がないことだと思うが、ディテール描写で2時間を押し切る。ただし、どんな状況においてもアメリカ(軍隊)は仲間を裏切らないし、どんなに不合理であっても遺体を持ち帰ることを最優先とする。それがルールとなって隊が成立していることが描かれている。ブラックホークとはレンジャー部隊のもつヘリをいい、小さなつまずきがやがてブラックホークの墜落を招き、部隊の混乱、戦闘の恐怖へと導く。リドリースコットらしい、恐怖を叩き込んでくるような映画であった。

5月14日(木)
久しぶりに大学時代の級友に会う。今でもぼくの仕事を追いかけてくれていることを知り、驚くと同時に感謝する。彼は建築の社会から距離を置いているので、彼との話は新鮮であった。とくに建築の作品性についての見解は面白かった。複雑でマネーに信頼を置く現実社会では、そこで活動する人の人間性は判らないままだそうだ。その点作品性を追いかける建築家はキャラクターが明快で、クライアントの領分を侵さないものとして安心できるというのである。シャープが減資し中小企業となるニュースや、サンヨー電気がパナソニックの傘下に入り、そのパナソニックも瘋癲の灯火となっている、そのことを思い返す。
059  CL準決勝 レアル・マドリード×ユヴェントス
巧者ユヴェントスに勝ちきれずに、レアルが準決勝で敗退する。このところ低調なイタリア勢であるが、名門健在を示した。昨日はバルサが勝ったが、ブラジル大会以来サッカーが再び保守的になるのを感じる。守りを基本に2トップあるいは前線3人の個人能力に賭ける試合運びである。個人能力に長けていない日本チームには向かない戦術である。

5月13日(水)
058  CL準決勝 バイエルン×バルセロナ
バルサ前線の個人技に崩されバイエルンが敗退する。バイエルンのミューラーとレヴァンドスキーも対抗したが、1stレグの4点差をひっくり返すことはできなかった。ドイツ人の頑張りには敬服する。最後までゲームとしては面白いものであった。

5月12日(火)
時間を置いたが「権力の空間/空間の権力」山本理顕著を読み終わる。「物化」あるいはかたちにすることのこだわりが読み取れる。これに共感する。公共建築を設計するにつれ、あるいはぼくの場合は、大学に属するようになることとと平行するが、かたちにすることが機能的であることの二の次に考えられる。このことを痛感するようになった。山本流に言えば、知が行為にたいして先んじるものであることを思い知らされてきた。山本氏に驚かされたのは、この関係を社会的に捉えていた。ぼくはというと、新しい視点としての思考の冒険としか考えていなかった。このことに気づく。建築が建築家の作品であることと、地域のものあるいは社会のものであることの違いがここにある。かたちにすることへの執着が建築家たるものであり、この能力がまずは求められているのであるが、これを進行形でなく、俯瞰的にみる必要性を感じる。「ものづくり革命」ニール・ガーシェンフェルド著にかかる。

5月11日(月)
「材料・生産の近代」鈴木博之著を再読する。藤岡洋保氏による「日本建築家が鉄筋コンクリート造に見た可能性」では形と技術の関係が記され、難波和彦氏の「メタル建築論」は、技術の近代建築史である。佐藤彰氏の「初期工業化のもとでのイギリス建築」は、19世紀中葉までの建築の工業化について。鈴木淳氏による「建築と機械」は、建設現場の近代ドキュメンタリーである。藤森照信氏の「佐野利器論」は少し政治的ではあるが日本建築学における工学と美のバトルである。日本を中心として建築諸分野における近代の波とどのように向き合ったかを確認する。

5月10日(日)
昼過ぎに箱根に行き、ツツジを見る。その帰りポーラ美術館でセザンヌを見ようとしたが時間オーバーとなる。次のチャンスを伺う。それでも渋滞なくスムーズなのは、大涌谷の火山活動のためだろう。
057  セリエA ミラン×ローマ
本田はゲームの入り方に成功する。左からのクロスをボレーで得点を決めきれなかったが、その後中央に位置し、攻撃の起点となる。インザーギも今季最高ゲームと賞賛する。ローマの中盤の守備が弱かったことで比較的自由に本田がボールを持ち、FW陣に加えて中盤底のポーリの上がりが有効であったためである。派手ではないが堅実な献身的なプレーを本田は行う。本田の2アシストで、2位好調ローマを2-1で破る。

5月9日(土)
今年度のCリーグを、千葉大学主催により千葉大医学部にある槇文彦氏設計のホールで開催する。槇氏が豊田ホールに続いて手がけた建築作品である。昨年改修工事をすましている。おそらく竣工当時のコンクリートの粗々しさが失われていると思われるが、それでも若々しい建築家の勢いがここかしこに感じられる。コンクリート塊をどこまでも分節し、インテリアはグリッドモジュールにこだわった設計である。感服する。そうした中で行われた講評会では学生作品が当然のことながらどことなく小さく感じられてしまう。その中でも千葉工大の3作品はどれも完成度が他大を上回る。渡辺君の、太田の山風景を意識した大屋根作品が最優秀作品を得る。学校としての中身もよく練られていた。全体として、近頃の影響だろうか、多くの学生は身の丈にあった身体感覚からデザインする。それは「寄り道」とか、「かくれんぼ」とかというコンセプトとなって現れる。千葉大の中山先生から最後にお叱りを受ける。学校の廊下ばかり設計して面白いかと、多くの時間を過ごす教室をデザインしろと。最もな感想である。指導教員は肝に銘じなければいけない。身体感覚の設計を延長しても学校の設計となるわけでない。身体感覚も大切であるが、学校計画とのスリ寄せについて自覚的であるべきだろう。そのバランス感覚が全くずれているのは問題である。個人賞となった作品にそれに該当しているものがあったのは問題であると思う。中山先生の意見はもっともなものだ。他山の石としなければならない。講評会の後、栗生先生と鈴木先生設計の同窓会館で打ち上げを行う。吊られた積層横ルーバーに囲われた13.5m角の抽象空間である。ナチュラルストリップスを思い出す。住宅だけあって、もっと透明な空間をもとめたが、囲われている空間もまたよいと思う。写真で見るよりずっと小さい。
056  ブンデス ドルトムント×ヘルタベルリン
ドルトムントが0-2で勝利するも、香川の出来はそれ程よくなく、足下にボールが落ち着けることができなかった。前半におけるヘルタの守備が安定する前に訪れた好機、フンメルスからの2度の縦パス、これを生かし切れなかったことが、ゲームを難しくさせてしまった要因である。後半、フンメルスがチームメートのムヒタリアンを2度叱咤したのには驚いた。彼の残り3試合に賭ける執念を感じる。

5月7日(木)
次回講義で行うテーマ「流れ」についての現在的意味を考える。「言葉と建築」にもそれに言及する記述がなかった。このキーワードのオリジンを調べる。そうしているうちに、モノを見るフレームワークの多様性の追求が各分野で行われてきたことに気づき、そうした近代性と建築テーマを関連させることを思いつく。絵画を見る人の視点、科学的発見、とくに光に対する量子論はその好例である。建築の使われ方もこの影響を受けている。SANNAのプランがこの延長上にある。パースペクティブな古典的建築やセザンヌの静物画を解説したダイアグラムを探す。
055  CL準決勝 バルセロナ×バイエルン
メッシ封じのためバイエルンは3バックでゲームにのぞむ。バルセロナ3トップに対して3バックはグアウディオラの奇策である?それによってマンマークを嫌うメッシを抑えることができたが、スワレスに裏を捉られること多々生じ、15分から4バックに否応無しにシステム変更する。これがスムーズであった。その後のDFの安定がレヴァンドスキーとミューラーの2人による決定機をもたらす。グアウディオラのチーム戦術完成度の高さに感心する。しかしゲームの多くの時間は、バルサスワレスとバイエルンレヴァンドスキーがゴールを決め切れなかったことで膠着する。リズムが変わったのは70分過ぎからであった。後半からは、スワレスに代わりメッシが生き生きし始めた。4バックライン間にポジショニングしドリブルでの仕掛けを度々行う。75分、80分にメッシが決めるたのは、グアウディオラも感嘆する彼の個人技からであった。終了間際にネイマールも速攻から得点する。3 失点目は、次戦ホームといえどもバイエルンには辛くのしかかる。

5月6日(水)
054  CL準決勝 ユヴェントス×レアル・マドリード
ユヴェントスは1点目を先制できたことが大きかった。その後守備を固めた上でゲームをコントロールする。トーナメントではこうした戦術が有効である。1点目は比較的長めのパスによるボールポゼッションから、崩し切ったところをテベスがシュートを放ち、こぼれ球をもモラタが決める。一方マドリーもその直後に、左右に大きくボールを振ってからのC・ロナウドが決める。しかしその後、ベイル、ロドリゲス、エルナンデスのスピードスターに仕事をさせなかった。ホームユヴェントスの完勝である。

5月5日(火)
曜変天目茶碗を見るため静嘉堂文庫美術館に行くが、今年秋まで改装中であった。五島美術館へ変更。そこで、本阿弥光悦書に挿絵した俵屋宗達の初期作品を見る。たらしこみのタッチは風神雷神図と変わらないが、構図に新しさがない。構図を評価するのは近代になってからなので、それ以前は宗達より光琳が評価されていた、このことに納得する。国宝の源氏物語絵巻も見る。構図がアクソメで画かれていることが桁の表現で判る。しかしその桁も途中で書き終えている何とも不思議な絵である。こうした俯瞰的視点がどこから来たかも謎である。見る人に自由な視点を与え、西洋画のように視点が限定されていない。これをジェームズスターリングも多用した。彼も建築の全てを書き記した訳でない。1本の動線の途中に意外性のある空間を仕掛け、それを俯瞰するためにこうした表現方法を採用した。『権力の空間/空間の権力』を読む。過去や物質を分析すること(構成的理解)ができても、それをもとに推測し未来を捉えるにはいささかの無理がある。この本ではこれを機能的説明といい、それにたいする思考を「物化」という。思考することは自由であるが、思考を社会化するにはもうひとつ超えなければならない別の次元の能力が必要とされる。官僚制がつくりあげた機能によってそれを可能にしてきたのだが、そこには真の自由はないという。

5月4日(月)
053  CL バイエルン×ポルト
2週前に行われたバイエルンが大逆転したゲームを見る。1stレグのやり返しと言わんばかりのバイエルンが序盤からポルトを圧倒する。激しいプレッシングと、引いて守る相手にたいしての大きなサイドの揺さぶりが徹底される。前半の早々でゲームを決める。強いとしか言いようがなかった。ポルトとしては受け身になったことを後悔しただろう。しかしそれは事後的な解説でしかない。ポルトは3-1というリードを有効に使い、バイエルンの攻撃を受け流してバイエルンを焦らし、あわよくば速攻による先制を考えていたに違いない。そんな強いバイエルンも次の週にはドルトムントに、リードしつつも追いつかれ、リーグ杯準決勝で負けている。

5月3日(日)
052  ブンデス マインツ×ハンブルガーFC
岡崎のプレーを久しぶりに見る。マインツは降格争いの真っ只中にいるハンブルガーに始終圧倒され、1トップ岡崎にほとんどボールが配球されなかった。ドタバタしたゲームで、裏のプレミアとの質の違いを感じる。マインツは終了間際に逆転され、ハンブルガーが降格争いから1歩抜け出す。それでも岡崎にたいする評価は厳しい。マスコミとはそういうものだろう。

5月2日(土)
「社会システム理論」から様々なことを学ぶ。とりわけ社会にたいする態度は設計でも役立つ。それは、以下の冒頭文に要約されている。「わたしたちは日々社会のなかで生きる。社会をその内側から眺め、そこに参加している。経験のなかで社会を理解し、自分なりの社会像を形成している」と。ということは人の数だけ小さな社会があり、それらが関係し合いより大きな社会が生成されることになる。そしてこれらは併存し、自律しながら相互依存している。これが近代社会という訳である。学問も同様である。ブルックリンの掃除ロボットも同じ仕組みの中で機能している。ルーマンはその代表だそうだ。ルーマンは全てをコミュニケーションの連鎖として説明しようとした。そうして井庭さんが試みようとしていたのは、暗中模索のなかでつくる立場にたったとき、社会をどう描くかであった。討論であくまでも俯瞰的立場に立たたないでいる姿勢に感心させられた。ただし、実際の運用方法まで示されていない。続いて「権力の空間/空間の権力」山本理顕著を追う。おそらく、暗中模索が強いられる事前説明を俯瞰的に示すものと推測される。
051  ブンデス ホッヘンハイム×ドルトムント
ヨーロッパリーグ参加をかけて7,8位の戦いとなる。結果は1-1のドロー。香川は70分過ぎまでプレーする。前半はホッヘンハイムのプレッシャーに負け、幾度も危ないかたちをつくられる。ミッドウィークの120分闘ったバイエルンとのボガール杯の疲れだろうか、ホッヘンハイムのFWの前に軽くかわされるシーンを幾度もつくる。後半になると、このところ多く見られる香川を中心とした攻撃のかたちが見られるようになる。香川が前向きにボールを持ち、左右サイドに散らすかたちである。香川交代の後は、中盤下のギュンドアンからの長い縦への攻撃がこれに変わる。いずれも得点にはならなかったが、オバメヤンが左に開くことによってセンターライン中央にスペースができることによる。これまで、前線で一端ボールキープしてからの攻撃にこだわっていたことからの変化である。

5月1日(金)
「社会システム理論」を読み終わる。3章は「構成的理解」が話題の中心となる。つくって動かし理解することをいう。計画でなく、仮説あるいはアブダクション的思考をいう。これは、ものつくりを通じて得ることができるアウトプットな思考である。このときのアウトプットされるもののスケールについての考察が面白い。マクロ的に望ましい秩序は創発されるというものである。逆にいうとミクロ的に望ましい秩序は創発されないことになる。そして各構成要素に不平等が生じると、それを是正する新たな秩序がつくられる。これを自生的秩序という。まずは秩序をつくるのでなく、秩序が生まれてくるような自由な創発を促すことが重要とされる。ハイエクの経済論も同様であった。午後新しいプロジェクトについて考え、SANA設計のラーニングセンターを見る。ピロティ下の1本の柱が気になる。構造的になくすることも可能だろうが、ここに1本の柱を置くことで、正しいと思われる部材寸法が保たれるシステム的美学のあらわれであることに気づく。解くことに集中する若手構造家を批判する佐々木さんの真骨頂をここに見る。近頃、井庭さんの本を読み、システム的思考を再びするようになる。

4月30日(木)
ブリジストン美術館所蔵のセザンヌ自画像の背景は意外にもあっさりしている。それに対し中央の頬骨辺りの書き込みに力が集中している。立体的に見えるのはそのためである。所蔵のビィクトワール山は晩年のものであった。これは画面周囲の近景に集中し、中央のビィクトワール山はあっさりした色調である。構図はどことなく富嶽36景を思い出させてくれた。モノの輪郭が描かれていたのは、ビィクトワール山と人物だけであり、残りはセザンヌ特有の筆タッチを重ねることでかたちつくられている。セザンヌは、全ての作品を試作といったが、その中でもセザンヌの渾身の作に触れてみたいと思う。とはいえ、これらの作品は孤絶した態度を現在まで持ち続けている。それを病的といった岡崎乾二郎著の「誰がセザンヌを必要としているか」を思い出す。絵画を解説するのではなく、我々が絵画を受け入れる日常的状況を解説するものであった。セザンヌの歪な構図は今に始まったものでなく、セザンヌを受け入れがたい理由を構図に求めて納得する我々を批判したものである。もっと別なところにセザンヌたらしめる鍵があるというものであった。それをメルロ=ポンティは「セザンヌの疑惑」で次のようにいっている。科学技術によって光や物質の定義が転換しはじめた1910年頃、それに反するかたちでセザンヌが評価され始め、その評価が本質とかけ離れたものであると。

4月29日(水)
ドルトムントがバイエルンを破った情報が入る。早速YouTubeでチェックする。香川はボアティングの厳しいマークに苦しむも、中盤ではボールを保持できていた。しかしバイエルンの守備のポジショニングがよく、パスを出す判断が遅れ、失点はそこからであった。香川のメディア評価が低い原因となる。「社会システム理論」第2章を読む。ビッグデータから社会を斬る熊坂賢次氏にたいして、井庭さんは新しく社会を創造することに意味を見出そうとする。その姿勢の対比が面白い。上の世代から批判されるのはいつも何を目指すかその目的である。コンテンツの不在性といってもよい。一方ぼくらはモノを創り出す行為そのものに興味をもつ。生物と自然の関係にある微細な関係は、目的がなくとも現実に存在する、それが井庭さんの反論であった。生き物以外のの好例として、Flickerにアップされた写真のデータをプロットしていくと自然と地図となる例が挙げられる。皆が多く写真を撮るのは、海上でなく地上であり、海岸近くが多いことによる。私見ではビッグデータによって、「漸進的成長」において行われてきた、時間をかけての微細な構築の方法が変わると思うが、その辺は対談では触れられていなかった。NHKでセザンヌ特集を見る。生のセザンヌを見たいと思い、ブリジストン美術館へ行く。

4月28日(火)
内野正樹さん編集の「最高の建築家が教える スタイルのある家をつくる方法」が送付される。渋谷のナチュラルスプリットllが掲載されている。ありがたいことに建築家を紹介してくれる本である。タイトルにあるように、住み手が自分のライフスタイルを表現するということが一般的になった。各住宅メーカーもそれを押し出している。こうした現状の中で、この本で紹介される作品は全て厳しい条件のものである。住宅メーカーと差別化して建築家の力が発揮できるのはこうした条件という訳だ。ライフスタイルの表明は決して悪いことではなく、先輩建築家とぼくら世代が推し進めてきたものであるが、それが消費されないためには「箱の家」がもつ「一室空間」のような強さが必要とされることを自省する。

4月27日(月)
多田研との合同ゼミで「パスタブリッジ」を行う。毎年新入生に対する好例行事となった。今年は、1mスパンの橋の軽量化を競った。吊り構造がパスタ10g、トラス構造だと100gという結果となる。ただし吊り構造の場合は、反力を土台の重さに期待していることと、人や車が移動する平面機能が考慮されていないことを鑑みる必要がある。1mスパンを飛ばすための100gがデザイン上のクリティカルポイントになる。このことを覚えておこう。
050  プレミア エヴァートン×マンU
0-3でマンUが落とす。これまでの攻撃のかたちがつくれず、よいところがなかった。アンカーキャリックの不在が大きい。このところ好調フェライニのマークが厳しく、彼が起点になりにくい状況がさらにアンカーの重要性を浮き彫りにしている。キャリックは速攻を止め、攻撃のためのボールを散らす。このことで前線が生きていたが、このゲームでは昨年のように前線が手詰まりの状況にあった。

4月26日(日)
オペラシティギャラリーで、高橋コレクション展を見る。日本の現代アートを総覧できる。個人コレクション展であることを考慮しても、総じて日本現代アートに力強さを感じることができない。文化も消費の対象である。それへの抵抗として社会問題を扱うことには異論がないが、表現方法へ向かわないことにその原因があると思う。
049  プレミア サウサンプトン×トットナム
2-2のドロー。吉田のプレー中心にゲームを見る。吉田のCBからのビルトアップの進化に驚く。両足を使った落ち着いたものであった。そこから前線へのパスは攻撃にダイレクトに繋がるものであった。しかし後半の2失点目は吉田の判断遅れによる。前にいくか後ろにいくかの迷いが相手FWに先手を許し、振り切られたかかたちである。崩されることはほぼなかったが、一瞬の早いFWのプレーに負け失点してしまうのは代表戦と同じである。

4月25日(土)
048  ブンデス ドルトムント×フランクフルト
香川と長谷部が先発する。試合後のメディアはふたりに高評価を与える。香川は2戦連続の得点。長谷部は中盤底からの攻撃の起点となってチームの核となっていた。ドルトムントはボールを奪う位置を以前より下げ、センターラインより10m自陣にする。そのためボールポゼッションは6:4でフランクフルトとなるも、相手を引き出すことに成功し、得点に結びつけた。これでドルトムントは来季のヨーロッパリーグ出場権獲得まで3点差となる。

4月24日(金)
「社会システム論」1章の井庭さんの「つくる」ことについて発言に惹かれる。それによると大学学部教育(ディシプリン)というのは、これまでその分野で蓄積してきた理論や概念といった知とそれを実践する方法の体系としてある。その理解を教えることが教育であった。したがって分野毎に自律したディシプリンが可能となった。そしてそれを先鋭化することが求められていた。こうした状況において現在、新しいものをつくることとは、ディシプリンによって埋め込まれてしまった知と方法を開放することにある。ディシプリンの枠を超えてシェアすることによってそれが可能となる。最先端が変化した。シェアするために、ツールやメディアが必要になり、分野を超えたコミュニケーションが必要となることはいうまでもない。ディシプリンの体系がしっかりしているほど、それを超えて生まれるものは新しいという訳だ。

4月23日(木)
NHK特集でマイセンの歴史を知る。絶対君主アウグスト王のもと3人の技術者、芸術家によって、西欧で白磁が完成した。1700年のことである。日本の有田・柿右衛門と中国の青磁がオリジナルであることはいうまでもない。当時からシノワズリといって、東洋風デザインがもてはやされた。アウグストは、白磁を金銀に替わる装飾品として、その商いで国を豊かにした。そのため製法は今でも秘密であり、当時彼らが発見した彩色材や型材が現在でも使われている。白磁を完成させたベドガーは陳金術士であり、幽閉されながらの研究であった。伊万里の白磁器が1600 年、景徳鎮1000 年であるので、伊万里がドイツにいかに早く伝わったかを物語っている。その後、マイセン白磁は動物をモチーフとした立体製品となる。アウグストは、アフリカから取り寄せて動物園を開いていたという。それをモデルにした異国情緒的作品である。時代はロココへと向かう。「社会システム理論」を読む。1章の対談で宮台真司氏が面白い発言をする。構成要素的説明から全体性を追求する方法をサイエンティフィック(科学的)といい、それは手順を明示化し、触知不可能な全体性へのイマジナリーな接近・志向をシステム論的に行うものである。アメリカ的な手法である。それに対しヨーロッパの伝統はヴィッセンシャフトリッヒ(学問的)であり、それは全体性を参照するため俯瞰的立場にいる。近頃注目されているデザイン学というのは、イマジナリーなアプローチ行為を形式化するものである。このことを改めて気づく。

4月22日(水)
早朝に行われたCLでバイエルンがポルトを逆転した。バイエルンの底力に感嘆する。昨日の難波さんの日記について再考。メロン=ポンティは知覚現象を言葉として捉えていたことを思い出す。それは、プロセスとして捉える方法と異なる。「エナクティブ(行動化)」「スティグマジー(環境との微対応・コミュニケーション)」「中間層」あるいは「偶然」といった言葉があげられていた。空間化とはここに含まれる。ところでアレグサンダーの「15の幾何学的性質」はまさに空間である。「パタンランゲージ」以降を考えるヒントと確信する。夕方から新しいプロジェクトについて考える。

4月21日(火)
難波さんの日記を読み、ふたつのことに驚く。ひとつめは、事前と事後説明についてを老荘思想にまで及んでいたこと。これはバレーナが「身体化された心」において仏教思想を持ち出したことに似ている。もうひとつは、こうした考えを空間的に捉えていたこと。個による事前説明と公となる事後説明をふたつの空間と見なし、時間的隔たりを境界という実体的なものとして見ていた。ぼくの関心に引き寄せると、構成要素的説明でいかに全体性を獲得するかということであるが、その獲得イメージは連続的であった。シンクロニシティあるいはオートポイエーシスとは、偶然、淘汰、選択というようなプロセスを追う考えである。近頃読んだルーマンなど最たるものだろう。全てを連鎖とみる。空間的に捉えるとは、このプロセス志向に対峙する。あくまでも形式として捉えるものだ。それはまた、建築の評価にもあてはまる。あくまでもモノとして見るか、それともプロセスにもとめるかである。しかしその境界を「閾」といっては、プロセス論で創発といっていたように、煙に巻いたように感じられ、違和感が残る。バレーラは創発という言葉を否定していた。

4月20日(月)
NHKで、中国において雪舟が注目されていることを知る。拝金主義の反省から、南宋時代の文化が再評価され、その中心に雪舟がいるというものであった。それを内斂というそうだ。南宋時代以降、中国では政治と同様に様々な文化交代が起きた。それに対し日本では、南宋を起源とする花、茶、書、禅、建築など多くのものが現代に至るまで生き続けている。それが日本文化を形成しているといっても過言でない。雪舟がその代表とされていた。「社会システム論」井庭崇著を読みはじめる。そこで、ルーマンが紹介される。井庭さんによるとルーマンとは、コミュニケーション連鎖で社会を説明し、コミュニケーションを発する人間自体への言及を敢えてなくしているという。要するに、コンテンツがないプロセス主義である。このことに興味をもつ。

4月19日(日)
047  プレミア チェルシー×マンU
好調フェライニが若手チェルシー5番に押さえ込まれる。このところのテンポある攻撃をマンUはできずに0-1で落とす。圧倒的なマンUのボール支配率にたいしてゲームをコントロールしていたのはモウリーニョのチェルシーであった。守備の勝利である。ユナイテッドの失点はアンカーのキャリック不在によるもの。キャリックに替わりアンカーを務めたエレーラと右サイドのバレンシアの譲り合いがスペースを許してしまった。久しぶり先発のFWファルカオも本来のパフォーマンスに戻っていない。

4月18日(土)
046  ブンデス ドルトムント×パーターボルン
後半早々に得点できたことで、本来のドルトムントが戻る。結果は0-3の圧勝。3点目は香川であった。ゲームプランに精神的要素が大きいことを感じる。珠離れを早めようとする香川に対し、個人技でのドリブル突破を試みる両ウィングとの呼吸が合っていなかった前半であった。このどちらかの攻撃がはまりはじめると、不思議とふたつとも機能するようになる。それでは、はまりはじめるパタンは何かと問われると、これを言葉で説明出来ない。トライアルアンドエラーを繰り返し、突然はまる。ここに面白さがある。大クラブでは、こうした不確定さをなくした安全な作戦となることが多いのだが、ドルトの魅力はそこにはない。

4月16日(木)
GA HOUSES展(http://www.ga-ada.co.jp/japanese/ga_gallery/2015/1503-05_GAH2015/gallery_gah2015.html)へ行く。西澤立衞さんと平田さんの作品に目が留まる。 住宅の域を超えている。西澤さんの住宅は、色鮮やかな衣装、色付けられたキャラクターをもつ人や緑等に対して空間はぼーっとはっきりさせていないが、実は強烈なものである。平田さんのは、未知の世界を見ようとしているようで、ここに共感できる。建築は事後的な説明で成立するものであるが、それを一切拒否しているところが潔い。それを逆な「ユニバーサルな洞窟」といってる。ぼくは今回出展した住宅に「網細工」と名付けた。糸が寄れる様を形容したものである。時間に沿ったプロセス(手順)があることは理解できても、そのプロセスを解きほぐすあるいは再生することはできないことを表現しようとしている。3.11以降建築は、社会的発言をするために表現の幅を狭めるようになった。それは、建築あるいはかたちを事後的に見る顕れである。創るとは事前的な活動である。そうあろうとする共通性を感じる。
045  CL ポルト×バイエルン
ホームポルトが3-1でバイエルンを破る。ポルトの早いプレッシャーにバイエルンDF陣がたじろぐ。アロンソ、ダンチ、ノイヤー然りである。90分間このプレッシングが効き、バイエルンはほとんどなす術を見つけられず、終了間際には、ロングボールを放り込むしかない程であった。調子が下降気味のバイエルンであったが、ここまで惨めになることもあるかと思う。

4月15日(水)
「プレゼンテーション・パターン」の読書会。嶋田君・谷田部両君のプレゼもよく、そのため議論も進んだ。ぼくが問題にしたのは、プレゼをするにあたっての内容についての示唆がこの本では一切語られていないことである。手段や方法といったプロセスに重点が置かれ、コンテンツにたいする見解がない。それはwikipediaしかり、最近流行の2.0思想も同様である。本家のアレクサンダーの「パタンランゲージ」を、辞書としてみるか通底する思想をそこから学ぼうとするかの違いに似ている。これを今後の宿題として促し、ゼミを終える。事務所に戻ると、ドルトムントクロップが監督を辞任したことがクラブの公式ウェッブで正式に発表される。朝からネットでくすぶりはじめていた。それが現実となる。前試合のインテンシーのなさが気になっていたが、これはチームとしての限界を意味していたと納得する。クロップは、同時に準決勝まで勝ち進んでいるカップ戦への意欲を表明する。ここまでチームは落ち込んでいた。チームへの最後の劇薬である。

4月14日(火)
明日の読書会ゼミに備えて「プレゼンテーション・パターン」井庭崇著を再読する。パタンランゲージと形式を同じにするプレゼを創造するための手引き書である。個々の内容もさることながら、創造的であるとはどういうことかを学ぶことができたらと思う。

4月13日(月)
「ルネサンス経験の条件」岡崎乾二郎著「信仰のアレゴリー」を再読する。牟田君との話で、日常性を描きながらも迫真性をもつフェルメールの作品についての核心がこの本で書かれていたことを思いだした。この絵の中央に描かれたこちらを正視する女性が何を意味するかを問うた論文である。フェルメールにとって、全ては表象にすぎず、全てを等価に併置する技法として、この中央の正視女性がいるという。フェルメールの緊張感は、この構図の絶妙さと光の効果が相まったところにあるという結論であった。先週見た「天文学者」はこの点において、構成がすこし大胆過ぎなのかもしれない。「信仰のアレゴリー」は、メトロポリタン美術館が所蔵している。

4月12日(日)
044  プレミア マンU×マンチェスターシティ
好調マンUとCLを落とした後下降気味シティとのマンチェスターダービー。シティのシルバによる見事な突破からユナイテッドは先制を許すも、難なく直ぐに逆転し、4-2で圧勝したのはユナイテッドである。ユナイテッド、フェライニが活躍する。フェライニへのヤヤのマークが、逆に、スペースをつくり、ヤングを自由にする。それがこのゲームを決めた。ファン・ファール采配は、この数試合で何かをもたらした。采配の特徴は、空いたスペースを使った比較的長めのワンツーパスによる崩しにある。弟子のモウリーニョに通じるものであるが、モウリーニョほど守備的でない。左のフェライニのポストプレーと右のマタとエレーラらコンビによるイマジネーションを使った流動的プレー、この両輪が功を奏している。そのいずれもがアンカーキャリックの展開力による。キャリックはディフェンスラインの直ぐ上に位置し、フォーメーションも4-1-4-1に固定された。大金を叩いて得たデ・マリアもファルカオも、ショーも今のところここに入る余地がない。トップはファンベルシーでなくルーニーである。流動的に攻撃するには、好ポジションを陣取るファンベルシーよりもルーニーが適任である。要するにファンファールの行ったことは、巷で言われるような人材配置でない。彼のコンセプトを実行できるフィットネスの模索である。そのためにはベテランも若手も関係ない。左右のサイドで攻撃方針が変わるという奇妙な結果はこうして生まれた。しかしチーム状態は動く。キャリックが終了間際の3人の交代枠を使い切った後に負傷で自ら退く。今後の采配が楽しみである。

4月11日(土)
オウムのNHK特集を見る。地下鉄サリン事件を防ぐことができなかった検察・警視庁の構造的問題にせまる。サリン製造を把握していた両庁が強制捜査にまで踏み込めなかった経緯を追う。徹底した縦管理社会の中で横の連係がなく管轄を横断する捜査に不慣れであったこと、平和呆けしていた日本ではサリンという化学兵器に対して全くの無知で対応策がなかったこと、失敗を畏れたエリート官僚の判断遅れ、が挙げられていた。彼らを擁護するわけではないが、この結論は後追いの事後調査であり、暗中模索の当時者の判断ミスを簡単に責めることはできない。むしろ、こうした失敗を社会や構造的な問題として処理することで、妙に納得してしまう社会の風潮の方を危惧する。一番の問題は、サリンをつくった本人の道徳心の欠落である。このことをもっと責めるべきであろう。社会の不備といった瞬間に逃げ道となる。それを用意せずに、あくまでもまずは本人の問題に帰さないいけない。
043  ブンデス メンヘングラッドバッハ×ドルトムント
ドルトムントにインテンシーが感じられずに、1-3で上位とのゲームを落とす。香川は、後半早々の2本のクロスをゴールに結びつけることができなかった。決めればスーパーゴールとなるものであった。先制を許し、引いて守る相手に対しての攻撃のかたちを見ることができないのは、チームとしての問題であろう。地元マスコミはそれをトップ下香川のイマジネーション不足といっている。

4月10日(金)
筑波の現場行き。縦ログ構造の半分ができあがる。立ちあがった空間は、今までの経験と異なる存在感をもっている。木の打ち放しといったらよいだろう。コンクリート造程に重厚でなく、鉄骨造の大きさであるが軽くない骨太な空間である。白いキシラテコールがよいと思う。

4月9日(木)
「知覚の哲学」メルロ・ポンティを読みはじめる。1948年のラジオ講演記録である。第2章は、「空間」について。外部にあるものの代表として空間があげられる。こうした空間も、身体を通してしか把握できない、という今では当たり前にされる考えが示される。セザンヌも例にあげられる。当時の画家が目指したのは、風景の分析ではなく、知覚的経験のスタイルそのものを表現するものであった。ぼくらは定まった視点でものを整理して見ているわけでない。1章では同様に「科学」の絶対的な教条主義を否定する。

4月8日(水)
新年度の授業がはじまる。3年生の設計授業では、受講者が増えている。続いて大学院授業のガイダンス。今年から多田先生と行う。多田先生のカリュキュラムを聞きながら、授業構成を少しいじることを決意する。多田先生は理論的な話をするようなので、後半担当のぼくは歴史的つながりを中心に将来の展望も絡めた話をしたいと考えた。それに合わせて月曜の建築計画2の構成も、事務所に戻り少し変える。

4月7日(火)
「意味と目的の世界」から再び、同時生起(コインシデンス)について興味をもつ。そこで『シンクロニシティ』F・Dビートを拾い読みする。シンクロニシティはユングとパウリの造語である。本書も機械論的立場にいる。しかし、それを支える構造が不変としている点において、ミリカンと少し異なる。このことを確認する。どちらも「知恵の樹」マトゥラーナ+バレーラに行き着くことも確認できた。

4月6日(月)
1年生向けのガイダンスで東京国際フォーラムへ行く。この建築の設計担当であった佐藤尚巳氏にレクチャーをお願いした。ビニョーリが寸法体系を大切にしていたことを知り驚く。この建築の高さ方向は5m、平面は9mのモデュールが徹底されていた。ガラスロービーの構造、地下鉄入口のガラスキャノピー、1階中庭周りのガラス庇に見られる自由さと、対照的なプランニングの明瞭性の乖離に、この建築にたいする評価が竣工当時からわかれていたと思う。実際に訪れる度に僕もそれを感じていた。意外にもビニョーリにはこの両面があることが判った。実際に聞かないとわからないものである。ビニョーリの真意は、こうした緊張感のある空間性を自覚し、それを和らげるヒューマニティな空間、これらの同居を目指すところにあった。

4月5日(日)
新国立美術館のルーブル展に行く。雨のためか人が多い。その人気の割にピンとくる作品に巡り会えなかったのが残念。フェルメールを見る。「手紙を書く女」「手紙を読む青衣の女」「手紙を書く女と召使い」「地理学者」「レースを編む女」「手紙を書く婦人と召使い」「青いターバンの女」などフェルメール作品を幾度となく見たが、「天文学者」は他と比べて迫真性にやや欠けていたのではないか?と思う。しかしこれだけ多くの作品を日本で見ることができたのは、日常的な風景を描く作家として、宗教に馴染みのない日本人には受け入れやすいのかもしれない。
042  プレミア マンU×アストンヴィラ
前戦ほどダイナミックな展開を見せることができなかったマンUも危なげなく1-3で勝つ。エレーラとマタのコンビがよく今日も効いていた。ルーニーのトラップからのボレーも見事であった。

4月4日(土)
041  ブンデス ドルトムント×バイエルン
途中出場の香川は、完敗を認める発言をする。香川の出場は、後半15分過ぎからであった。交替直後に2つの可能性のあるワンツーによる崩しをしつつも、その後シャビアロンソのマンマークに苦しんだ。先発でなかった理由がここにある。香川の交替後にムヒタリアンを投入したのは、シャビアロンソが香川に釣られて空けたスペースを使うためであろう。このクロップの狙いは機能しなかった。序盤からドルトムントのゲーゲンプレッシングは確かにバイエルンを圧倒し効いた。しかし5バック3ボランチのバイエルンの壁を空けるまでには至らなかった。ドルトムントの個人突破あるいはアイデアが欲しかったが、バイエルンのどんな状況でもラインを崩さすスペースを許さない守りは固い。ボールをもたされ、ペナルティに入れては押し返された。最終ラインからフンメルスが時より見せる縦パスも、組織立った守りに跳ね返される。それに対してレヴァンドスキーのキープ力は効果的である。得点もそこから生まれた。昨年までのドルトの攻撃を組み立てていたのは、このレヴァンドスキーのプレーであったことを痛感させられた。一度ボールが落ち着くと、そこから目まぐるしく早い展開をみられるのだが、今はそれが出来ないでいる。

4月3日(金)
「意味と目的の世界」を読む。アフォーダンスについて痛烈な批判がある(第14章「対象の表象を分離する」)。リンゴにはもちろん食欲を誘うアフォーダンスがある。食べることを提供するリンゴがあるということを知覚することと、どのようにして手を伸ばしてリンゴを取ればよいかを知覚すること、このふたつの知覚の側面を結合させて、はじめてアフォーダンスが成立する。これはアフォーダンス理論とパタンランゲージの違いでもある。生産者にも、消費者にも志向記号があり、お互いに摺り合わせを行う学習機能によって、もうひとつ上の階層、すなわち自然記号に至る。これによって機械か生物かの違いが生まれる。パタンランゲージにはその機能が備わっている。

4月2日(木)
「意味と目的の世界」Ⅳ部へ入る。昨日疑問に挙げた協調とは、学習することであった。生産者と消費者は互いに異なる志向的記号を表象するが、互いの学習を経て、相関程度があがることを協調といっている。Ⅳ部からはそれを「オシツオサレツ記号」(P-P記号)という。このP-Pは、ホメオシスタスとして生物体内ではよく見られる現象であり、JJギブソンのアフォーダンスも同様であることが言及される。つまり機械論的立場から生産者側からの進化を促すには学習の量を増やし、相関率をあげることが重要である。

4月1日(水)
「意味と目的の世界」を読む。AとBの相関程度によらず何らかの因果関係が見られるとき、それを自然的記号関係にあるという。このことを厳密には、局所的反復自然記号関係にあるという。ここでは、「親鳥の鳴き声は子鳥を集める」というような例を挙げている。それに対し、「親鳥が鳴いている」は、記号としては成立していても、親鳥が鳴いていない場合には、この記号はウソとなる。これを志向的記号という。志向的記号が正しく成立するには、発信者の生産の仕方にかかっているだけでなく、受信者がいなければならない。発信者と受信者が互いに「協調的」に働くことによって成立する。ここでは子鳥が集まらなければならない。この協調的働きの繰り返しが、生物にとっての生存への助けとなる。あるいは進化というものとなる。社会においては文化となる。つまり志向記号が、役に立つことで自然記号へとなり、俯瞰的視点にたてば、内的表象が進化したことになるというのだ。創発の新しい定義である。発信者と受信者が別々に存在している前提に立って、お互いが「協調」的関係にあることが本書の鍵である。生物が記号として機械的に扱われながら、ヒューマンな「協調」を持ち出す。この「協調」とは何だろうと思う。

3月31日(火)
040  国際親善試合 日本×ウズベキスタン
ハリルボシッチはスターティングメンバーを総入れ替えして第2戦に臨む。前線は安定した海外組。守備には新しい顔をそろえる。ハリルは知将である。安定性とチャレンジングを上手に織り込む。例えば、この日のようにCBを若手で揃えると、中盤底にベテラン今野を使う。柴崎ではなかった。サイドは内田と酒井高徳だ。太田は交代要員として使う。GKは西川でなく川島であった。戦術でも同様である。香川、本田、岡崎、乾に思い切った縦への突破を要求しつつも、相手のカウンターに用心して、中盤底を無理に上げない。DFラインと前線とのコンパクトさにこだわらない。そのため中盤にスペースが空き、相手にそこを自由に使われてしまっていた。今回は得点されることがなかったのだが、今後の課題だろう。攻撃では時折よいかたちがつくれるものの前半に連動による得点を奪えなかった。後半は前戦と同様に次々に交替カードを切る。偶然にもその采配が的中する。太田のアシスト、宇佐見、柴崎、川又が得点し交代要員が活躍する。それによるこの2連戦でチームが活気付く。W杯以来の見通しのないなんともいえない嫌な雰囲気を払拭する十分なスタートとなる。

3月30日(月)
「意味と目的の世界」第Ⅰ部は、「模倣」がテーマである。模倣を芸術にあてはめ、模倣は文化となる。しかし複製するときに明快な目的が意識されているわけではない。ましてや、模倣によって新しい種類の目的がもたらされることを願っているわけではない。それでは、どうして文化は発展してきたのだろうという疑問を説く。ポパーは、試行錯誤を通じて環境の中で行動システムが正しく機能する人の能力を示した。試行錯誤によって発展してきたわけである。本書は、この試行錯誤を経て選択される行動決定が何に由来しているか、そのメカニズムを明らかにしようとしている。「よい」と思う根拠が何かということだろう。ドーキンスは遺伝的複製に対して、模倣による複製を「ミーム」と呼んだ。ミームの協調機能が、早くも第Ⅰ部で紹介される。人はそもそも協調する方向に働くものであるという。

3月28日(土)
「意味と目的の世界」ルース・G・ミリカン著を読みはじめる。著者のいう「固有機能」に惹き付けられた。固有機能とは、そのものがある働きをすることによってそれが属する全体のシステムの存続に貢献する働きをいう。構成要素的説明のひとつ上の階層の話である。それと生物的存続、進化論を関連させようとしているらしい。2004年発刊の新しい切り口の思想である。

3月27日(金)
039  国際親善試合 日本×チュニジア
ハリルの初戦。スターティングメンバーとチームのかたちに注目する。怪我人を抱えるサイドバックを除いて守備はこれまでと変わりないが、攻撃陣が総入れ替えとなる。川又、永井、清武、武藤というロンドン世代へ移行する。激しいプレッシングとそこからの早い切り替え、縦パスが特徴である。連動を見ることができなかったのは、まだ4日しか経っていないという時間の問題だろう。先発も流動的になり、競争が激しくなる。ハリルの第1の特徴である。後半から2人ずつのメンバー交替を続ける。海外組は普段のリーグ戦より相手が劣るため余裕をもち、結果を残すことができた。前線がDFラインを押し込めば、その前に空いたスペースが出来る。香川は水を得た魚のように自由にそこを使っていた。今後もこうしたかたちに持ち込めるか、である。後半は、いくつもチャンスをつくり出し、0-2で勝つ。ハリルの2つめの特徴は、非情なまでも徹底する勝負へのこだわりにある。

3月26日(木)
ギャラ間の丹下展に行く。来館者が多く残念ながらポジをよく見ることができなかった。

3月25日(水)
「ブルックスの知能ロボット論」を読み終わる。この本が出版されたのは2002年であり、現在は、さらに技術革新が進んでいる。お掃除ロボットもこの時期、研究開発中であった。ブルックスのヒューマノイドロボット、キッズメットもゲンギスと構造は同じであることを知る。個々の構成要素的説明で構成されるものである。基本的にブルックスはこの立場の人であった。

3月24日(火)
俯瞰的視点を学生に与えたいと思い、新年度からの授業内容を整理する。建築の4層構造とデザインスゴロクを使って事例紹介をするカリュキュラムに変更する。建築を機能×構造×かたちで捉えることを学生時代に学んだ。加えて難波さんから、「仕掛け考」として、そうした基準からズラすことでデザインが大きく変わることを学んだ。都市住宅の廃刊間近の特集企画にこれがあったことを思い出す。池辺陽、フラー、プルーヴェを理解できたのもそれによっている。逆に、基準となる歴史というものに興味をもつ契機にもなった。学生が先生のいう評価基準を理解できないのは、こうした判断基準が自身にないからである。その発見がぼくには大きかった。その体験を反映するカリュキュラムを考える。

3月23日(月)
「ブルックスの知能ロボット論」ロドニー・ブルックス著を読みはじめる。「現れる存在」でしばしば登場してきたロボットデザイナー、ブルックスの著作である。「スティグマジー」について知りたいと思った。はじめは、AIロボットの歴史についてが記述される。グレイ・ウォルターが製作したカメロボットがはじめに紹介される。1950年のものである。彼の製作したゲンギス(1980年後半)を含めて、これらをカンブリア紀のロボットという。カンブリア紀のロボットは、高レベルの行動プログラムが直接書き込まれることなく、個々の単純な局所的な計算(例えば、光に対応してモーターを駆動させるなどのプログラム)しかもたないものである。これに漸進的に(アレグサンダーぽい)、鏡とか新たな駆動系などを付け加えることで、機械に生命を吹き込むものである。ここにある条件は、1.特定の現実の状況下に存在すること(situatedness) 2.物理的な身体をもっていること(embodiment)である。つまり現実の状況下で身体性をもつロボットをいう。したがって、航空機の予約システムはsituateしていてもembodyはしていないので、それに含まれない。それが20世紀終わりには、ロッキーという火星探索ロボットへと進化する。これが自律ロボットのはじまりとされる。近代がもたらした抽象化を逆行するかたちのヒストリーが示されている。これが面白い。
038  プレミア リヴァプール×マンU
マンUの見違えるような攻撃に驚く。1トップのルーニー、トップ下のフェライニとサイドのマタ・ヤングが機能する(後半からデ・マリア)。このシステムで香川が機能するかも考える。コートを広く使い、空いたスペースに彼らが順に入り込み、そこへのロングパスによって相手のDFラインを崩していく。リヴァプールのプレッシングは全く効かなかった。逆にいうと、もし守勢に回った場合、マンUも広い人員配置なのでプレッシングをかけにくい。したがって、攻撃を中心としたゲームコントロールがこの場合必要とされる。フェライニへのボールが必ずおさまることで、それを可能にしていた。中盤底のエレーラがセンスよい。はじめのボールの出所はプレッシングのかからないエレーラからである。それをカバーするのは、キャリックである。香川は、ファン・ファールの意向に反してトップ下にこだわり、ユナイテッドを出た。シーズン開幕前には、このポジションを試されていた。その役割をエレーラが果たしている。香川にも可能でないかと思い、少し残念な気がした。2点ともマタである。こうして崩して行く過程で、フリーになりかけた右サイドのマタが、華麗に決めている。マタも一度干されている。フェライニも、キャリックもそうだ。こうして考えると、ファン・ファールは先入観がなく試しては、自分のスタイルに合致する選手を起用していることが判る。それをファン・ファールの弟子であるモウリーニョも引き継いでいる。選手の個性重視でなく信念のひとである。あくまでも機能的な見方をする人物である。一切の情緒的要素はない。モウリーニョは、これにショートパスを混ぜ、最後を決定力のあるセンターフォワードにかけていることも理解できた。サウサンプトンのクーマンもまたこれに近い。また少し、マンUを追いかけてみよう。ともかくファン・ファールのかたちが見えてきた。流石である。

3月22日(日)
今年度の謝恩会に出席し、近くの居酒屋でEDLの打ち上げ。この1 ヶ月の間で行われた外部の卒業、修士設計展での講評を聞く。学内では賞に至らなかった高橋君の作品が好評を得たことを知り、喜ぶ。モノの強さを前面に出した案であった。しかし、いくつかのいいところまで行く作品があるものの、賞にまで至らない現実を受け止める。修士に至っては、新しい方向を打ち出しているので心配をしていないが、評価まで至るには時間がかかるかもしれない。就職する学生に、1年ないし3年間のぼくとの触れ合いで感じたことを聞き、感謝とねぎらいの気持ちを伝える。これから社会で頑張って欲しいと思う。
037  セリエA ミラン×カリアリ
前戦あたりから変わり、ミランの連動した攻撃が見られる。元の4-3-3 に戻し、前線右が本田である。アバーテとの連携し、本田のタッチ数も格段に増える。加えて近頃本田は自分の課題を1 対1 の勝負に置いているようだ。ドリブル、シュートと果敢に勝負を挑む。これは香川と対照的だ。いくつか成功するも、詰まることも多い。イタリアメディアはこれを、連動を見始めているミランの攻撃を留めるものとして酷評する。実際失点は、アバーテとのワンツーが詰まったところからのカウンターを受けたものであった。本田に求められているのは判断の俊敏さである。本田はメネズとは異なるので、評価を気にして焦ってはいけない。

3月21日(土)
036  ブンデス ドルトムント×ハノーファー
香川が活躍する。サッカーとは面白いもので、1人の退場で状況が大きく変わる。ドルトムントの縦の攻撃が機能し、最後はフリーで香川が決める。ドルトデビュー戦以来の長い時間を要した2点目である。その後は、これまでの3戦スコアレスの状況が一変し、ドルトムントはサイド攻撃も機能し、見違えるように攻撃に厚みを増す。2 点目は左を起点とした香川のフリーのアシスト。ふり向き樣のアウトサイドキックであった。その後、押せ押せが続く。しかしルイスは疲れていたためか決定機をいくつか逃すと、また状況が変わり、1点を取られ動揺する。だからサッカーは面白い。香川は久しぶりのフル出場。香川が絡むとドルトムントのかたちとなる。このかたちのために指揮官から香川が必要とされることを、香川はもっと内外にアピールするべきだ。

3月20日(金)
メガデータによる演繹的方法と対比するものとして、「アブダクション」米盛裕二著を再読する。近頃の人工知能分野で有用とされる「厳密でない推論」は、20世紀初頭のパースのアブダクションを起源とする。「厳密でない推論」の実践方法を確かめる。しかし理論に留まり、その疑問を解決するものではなかった。午後、大学で1,2年生の設計授業連絡会議で意見を交わす。学生に少しでも初歩設計において興味をもつカリュキュラムに変更する。

3月19日(木)
20日で20年をむかえるオウムサリン事件の特集をNHKで見る。オウムの武装化経緯を新たに検証する。事件のかなり前からサリン製造にかんして各地方警察、さらに公安までが疑惑をもっていたが、宗教法人の壁によって、強制捜査へ踏み込めなかった実情を知る。その危機を察した朝原は、半ば自爆気味の捨て身行動として、地下鉄サリン散布に踏み切った。朝原は、この長いテロ計画において、揺らぐ信者の道徳心をコントロールすることに成功していた。それが明らかにされていた。ひとりの人間として、可能性の追求ではなく、それが道徳的かどうかの自問が重要であることを改めて考える。
035  CL ドルトムント×ユヴェントス
ホーム、ジグナル・イドゥナ・パルクでユヴェントスにゲームを支配される。開始3分のテヴェスのロングシュートによって、その後ユヴェントスに自由な守りを許す。守備に人数を割かれ、横に広く守られ、選手間距離を離されたドルトムントは1対多の相手を囲むかたちがつくれない。1人1人の技術ではユーヴェが高く、局面々でゲーゲンプレッシングをかわされる。効果的な2トップへのパスのケアにDFラインは追われる。ユーヴェの2トップは、他の助けなしにフィニッシュまで持ち込む技量があった。ドルトムントにとって全てが悪循環となる。この流れを変えるには、セットプレーしか持ち手がないことが問題だろう。そのキーとなるシャヒンの大きさを知る。クロップも完敗を認める。出場しなかった香川のコメントが欲しい。

3月18日(水)
「知恵の樹」が出版された20世紀後半について考える。まだITが世界を圧巻する前のこの20世紀後半は、サイバネックス思想の中に目的あるいは意志のようなものの存在を認める時代であった。その好例は「機械の中の幽霊」アーサーケストラー著である。少し東洋的で神秘的であった。しかしITによって膨大な情報を扱えるようになると状況が一変する。Wikkiなどの出現説明はその典型で、近頃の趨勢はメガデータによって、目的や意志の存在を否定する傾向にある。より詳細で状況に見合うフレームデザインが可能という訳である。井庭さん達はこの視点に立っているのだろう。20年前のオウム事件も日本では大きな転換となったことを思い出す。
034  CL モナコ×アーセナル
引いて守る相手を崩す好例を見ることができた。結果0-2とするも、アーセナルは敗退。イングランド勢がCLから消える。こんなに早い全滅は近頃なかったのではないか?前線とDFラインとの間で縦パスを通すことで、相手のDFを吊り出しラインを崩そうとしていた。その空いたスペースに2列目の選手が入っていくかたちである。

3月17日(火)
パタンランゲージのパタン個々は、セカンド・オーダーとサード・オーダーのカップリングが前提に計画されている。これがネットワーク化され、単なるオープンシステムでないことを認識する。この1年間に触れた組織論やアジャイルの本で扱われるパタンもネットワークを持っているが、そこにスケール感がないことと、そもそもかたちがあるものが少ないことに気づく。「知恵の樹」を読み終わる。個が互いに自律性を保ちながら共ー存し、相呼応して共ー進化していくヴィジョンが示されている。そしてそれを社会的・文化的な次元にまで拡大している。それを道徳的でなく、科学的(機能的)に説明する本であった。20世紀後半のものなので、その後の展開を知りたいと思う。

3月16日(月)
「知恵の樹」を、第8章の社会現象まで一気に読む。8章の「社会」の定義が面白い。あくまでもシステム論的観点からのものである。「サード・オーダーのカップリングの自然発生的構成によって生じる現象をぼくらは「社会」と呼び、このようにして構成されたサード・オーダーの単体(まとまり)を「社会システム」と呼ぶ。」サードー・オーダーとは、生殖に代表される個と個のカップリングをいう。そしてこの間の調整行動をコミュニケーションという。文化とは、コミュニケーションパタンが何世代にも渡って安定したものでありつづけてきたものである。少しも道徳的な意味合いがなく、機能的な説明であることに感心する。
033  セリエA フィオレンティーナ×ミラン
前半12分の本田のシュートは今後を占うものになりそうだ。左から受けたトラップが少し大きすぎた。そのためシュートレンジが狭まり、GKの正面のシュートとなり、難なく阻まれる。ここ数試合と比べると、ミランはチームとしての流動性を取り戻してきたが、決定機はこの1本だけである。決めることで悪い流れは断ち切れたはずだ。これを今後の期待とみるか、やはり本田には決定力がないと見るかは、幹部がインザーギを見る目と同じである。ミランの新しいスタジアム計画をアラップのホームページで見る。今のサンシーロと異なり、四角がモチーフのビルのような建物である。スタジアムが街の特異点となっていない。世代を超えて誰もが親しめる複合施設になるという。

3月15日(日)
032  プレミア チェルシー×サウサンプトン
ライバルが怪我から復帰し、吉田はベンチスタートとなる。この2チームは今季、チーム失点が最も少ない2つであり、守備的な退屈な試合が予想されたが、けっしてそうではなかった。時折見せるサウサンプトンの速攻は迫力がある。強く早い。一方のチェルシーも、選手に疲れが見られるものの、大きくボールを動かす攻撃はダイナミックである。こうした中での吉田のプレーを見たかった。

3月14日(土)
031  ブンデス ドルトムント×ケルン
ドルトムントが90分通して全く機能しなかったのは久しぶりである。香川も60分で交替する。ケルンは4-4-2ラインをコート幅いっぱいに保つ。そして最終ラインをそこそこ高く維持し、2列目との間にドルトムント攻撃陣を完全に閉じ込めた。スペースがなく、かなり窮屈そうな中での攻撃となる。そこでドルトムントは最終ラインからの縦パスによってラインを押し下げ、攻撃陣のために広いスペースをつくろうとするが、跳ね返りのセカンドボールをことごとく拾われる。ドルトムントにとっては、反対にそこからケルンに速攻を幾度となく許す。ケルン2トップは早く、そのケアに追われ、ゲーゲンプレッシングが効かない悪循環となる。この2戦は点が取れず、足踏み状態が続く。クロップは、前半戦と異なり、この状態でも失点していないことを前向きに捉える。

3月13日(金)
『身体化された心』フランシスコ・バレーナに続いて、「知恵の樹」ウンベルト・マトゥラーナ+フランシスコ・バレーラを読みはじめる。第1章から、盲点の実験、あるいは、ゲーテも行ったとされる色彩の影の実験が上げられる。それは、客観的事実というものはなく、全ては自己の認識にかかっていることを記すものである。他律でなく自律(オートノミー)の構図を明らかにしようとした本で、動的平衡、動的非平衡に続く、オートポイエーシスの理論の優しい解説がなされる。これまで得た知識をひとつひとつ確かめながら読み進める。

3月12日(木)
030  CL チェルシー×パリサンジェルマン
シュートが少ないにもかかわらず、十分に見応えのあるゲームであった。空いたスペースに次々ボールが入り、コート全体を大きく自由に使うサッカースタイルである。どちらのチームの守備体系も大きく崩れず、シュートにまで結びつかないが、人とボールが連動しダイナミックである。パリは、セットプレーから2点をもぎ取る。守備は全員で、攻撃は体力と気力という個人能力に依っている。チアゴ・シルバとダビド・ルイスのブラジル人による得点、しかもヘディングによるものであった。

3月11日(水)
029  CL マドリー×シャルケ
シャルケがアウェイにもかかわらず、4-3で勝つ。第1戦と比較してシャルケが健闘する理由を考える。中盤でボールを保持でき、効果的な前線への供給があったことが挙げられるが、そのように展開できた理由が判らない。サッカーは面白いところである。

3月10日(火)
パタンランゲージの中にパタンは253個あるものの、さして内容に違いがない。このことを、大学院時代に修士論文で書いた。中心があること、周囲を囲むこと、その境界が厚いこと、それはノンスケールであること(あらゆるスケールにあてはまること)などの共通点があり、それと出来事をセットさせることで253個のバージョンとなることを結論とした。その共通点は、後の「15の幾何学的性質」の一部と一致する。井庭さんは「パタンランゲージは作り込みすぎている」という。その発言は、出来事とのセット方法が整理されていないという意味において、合点がいく。井庭さんはそこで、整理を施したパタンランゲージをつくった。しかしそのパタンランゲージとアレグサンダーとの違いは、個々のパタンのネットワークにある。このまとまりを志向といってよい。志向が排除されてしまった。AI分野では、カップリングという用語がある。個体のある特性が特定な環境条件と組み合うことで、ある効果を発揮することをいう。どちらもランダムで自由な立場にある訳だが、ふたつが偶然に折り合った場合、それを成立した後から振り返ると必然性があったかのように、あるいは目的論的思考をしたかのように見える。このことをカップリングという。つくられたモノ、ここでいうパタンランゲージが有効かどうかは、カップリングの確率にかかっており、その確率を高める必要がある。繰り返しになるが、確率が高いとは目的にそっていたこととなる。個体側の視点からカップリング確率を高めるためには、ひとつは個体の数を増やすことであり、出会いのチャンスを上げることであり、もうひとつは志向を狭めることである。出会いを増やし志向を狭めるために「動く」。これを「行動の構造」や「動きが生命をつくる」あるいは「ブリコラージュ」から得た。アレグサンダーにとっての「動く」とは、敷地主義であり、ユーザーとの対話であり、漸進的成長である。しかし「志向を狭める」に該当するものが何かが判らない。

3月9日(月)
10+1の「パタン・ランゲージの今日的意義」を読む。藤村龍至+井庭崇+難波和彦の対談である。ここで話題となっている「ノート」(1964)から「パタンランゲージ」(1977)の変遷は、近頃読んでいる、フッサールからサイバネックス、メルロ=ポンティへの移行と一致していた。これにより、学生時代からのひとつの疑問が解ける。それは、アレグサンダーが今では当たり前とさえ思える試みを「ノート」で行った理由である。時代背景と関係しているとは思っていたが、アレグサンダーも、この時期のサイバネックスと同様に、「括弧入れ」(経験それ自体の構造を、実際の経験世界に言及せずに検証すること)を考えていた。「括弧入れ」によって、次のステップに進むことができる。次のステップとは、「事実知」に対する「技能知」、あるいは「非客観主義の中心的洞察」、「機能的システム」に対する「自律的システム」、のことである。それを考えていたことが判る。次に、そうした歴史的見方をするなら、アレグサンダーがパタンランゲージ以降に目指した『ネイチャーオブオーダー(自然の摂理)』や「15の幾何学的性質」についてを、この対談で触れていないことを疑問に思う。近頃読む本では、メロン=ポンティ以降のキーワードとして、「エナクティブ(行動化)」「ブリコラージュ」「スティグマジー(環境との微対応・コミュニケーション)」「中間層」あるいは「偶然」「アジャイル」などがあげられる。これらと「15の幾何学的性質」の関係を考えてみよう。
もうひとつこの対談では、デザインにおいて大切になされるのは、プロセス主義かコンテンツ主義かというテーマである。デザインに美学、あるいは目的をもつべきかどうかという問いでもある。難波さんは「盈進学園」を持ち出しその評価を問い、山本理顕さんを持ち出し、どうにも進まない復興状況を言及し、それが美学、あるいは目的のなさに原因があるのではないかと問うている。井庭さんはそれに対し、AI分野と同様に「エージェント」の存在を示唆しつつ、その解答を濁してはいるが、彼の中では、デザインに根拠がない前提に立っているようである。それについては、これまた近頃読んだ「Dの研究」(atプラス23)で柄谷行人のカントに対する記述が関係している。それによると、カントは「神のかわりに自然を主体として語った。(中略)カントが意図したのは、自然史や人間史に目的論的なものを見出すことではない。その逆である。目的論的に見られている歴史を、物理的な因果性のeffect(効果=結果)として見」たという。井庭は、パタンランゲージを通して目的を見ようとし、難波は、この目的論的な観点を形而上学として斥けている。目的論的でなく、機能論的に見るということである。この両者のアプローチの違いは決定的である。難波さんはエピクロス風の考えに否定的である。ぼくはこれを俯瞰的と言いたいのだが、「Dの研究」によると、カントが「判断力批判」で、目的論的な観点に立たずに、「個体の偶然的な変動(=無政府状態、自発)」を、種としての集団的開展にまで高める説明に大半を費やしているという。まだ十分に納得できるものでないが、自立型ロボットの設計で、AI分野ではこうした観点からこの問題を解明しつつあるということだ。

3月8日(日)
028  セリエA ミラン×ヴェローナ
相変わらずミランはチームとしてのかたちがつくれていない。メネズのドリブルキープ力は素晴らしいが、単発であり、周りと連係しない。ミランが不調なとき、メネズというひとりのキャラクターに頼っていた。そのツケが回ってきた。シーズン前半の守備を固めてからの速攻を主体とした攻撃に戻すのも手だと思う。半年でアトレチコに戻ったトーレスは結果こそ出さなかったが、十分に連係を考えたプレーをし、その時チームが機能していた。本田もその時輝いていた。正月明けのインザーギの変化は何だったろうと思う。

3月7日(土)
027  ブンデス ハンブルガーSV×ドルトムント
ハンブルガーのファウル覚悟の厳しいプレッシングに対し、ドルトムントが気合いで負ける。いつものゲーゲンプレッシングをできなかった。体力に不安のある香川は、動き回るカンプルと後半はじめに交代させられる。その後のドルトがかたちをつくれないのに反して、ハンブルガーのプレッシングは最後まで続く。結局0-0のスコアレスドローで終わる。カンプルの動きは単発であったが、アクセントとなっていた。カンプルが抜けた後のザルツブルグに南野拓実が入ったことを知る。

3月6日(金)
「身体化された心」を続ける。第3部から仏教思想となり、ちょっとついて行けない。1991年の発刊。オウムが問題をおこす(1995)以前のことであり、その時代、西欧の行き詰まりの解決を東洋文化に求めていた時代であることを思い出す。3部の第7章「デカルト主義の不安」とは、全てが根拠づけられていく一方で、その反対に判らないことが膨れあがることをいう。カントも引き合いに出される。カントは、その不安を解決するために、はじめてアプリオリすなわち生得的なカテゴリーを認め、それを体系化しようとした。その延長として本書が示されている。またこの不安とは何かについてを担っていたのはフロイトである。フロイトの不安としてこれについても触れている。

3月5日(木)
「身体化された心」フランシスコ・ヴァレラを読む。経験と世界の関係に関する通常の判断をまるで括弧をくくるように棚上げすることを、「括弧入れ」(判断停止)というが、これはフッサールの「現象学」を源とすることを知る。経験それ自体の構造を、実際の経験世界に言及せずに検証する方法をフッサール(1858−1938)は考えた。ここで「現象学」が、初期サイバネックスの理論的支柱となっていたことがここで判る。かれらは、記号論的表象の計算として定義可能なものの探究をはじめた。この当時の建築に手繰り寄せると、いままでぼくは、コルビュジエが5原則で理想の都市をつくろうとしていたことに疑問を持っていた。今から見ればそんなことはあり得ない。当時のコルビユジエもそんなバカでなかったはずであったから、5原則の発言の真の主旨を知りたいと思っていた。このフッサールとサイバネックスの時代背景と照らし合わせるとそれも少し納得ができた。
フッサールがフロイトと同時期の人である事実も興味深い。ベイトソンに代表されるその後のサイバネックスが、認知というものターゲットにするようになったのは、このフロイトの影響だろう。多レベル的思考や認知の上位づけが、そのあらわれである。その中にメルロ=ポンティの「行動の構造」があることが判る。メルロ=ポンティも「現象学」を一歩進め、「行動の構造」で、経験と世界の中間を科学的に説明しようとした。「身体化された心」はまさにこれをテーマとした本である。最近話題となる「創発」は、これを結果としてとらえたものである。こうしたストーリーはまさに「世界史の構造」と一致する。これはこれで気持ち悪いものである。

3月4日(水)
トマ・ピケティ「21世紀の資本」の解説「日本の21世紀の資本論」水野和夫著を読む。過去が未来を蝕む傾向をピケティはこの書で指摘しているという。これが格差を広げる大きな要因だそうだ。「過去に創出された冨は労働を加えなくとも、労働に起因する貯蓄可能な冨より自動的に急速に増大する。これはどうしても、過去に生み出された格差、ひいては相続に、持続的で過大な重要性を与えがちになる。地理的空間はもはや搾取するところがなくなったので、未来が過去からも、そして現在からも搾取されている」と。過去の遺産を残すことは、新しい分野での成長を止め、既存を擁護し、格差を広げる。僕たちの考えているサステイナブル信望とはある意味真逆の立場の言説である。これが正しいとすれば、ぼくらは実は資本の波にどっぷりとつかり流されていたこととなる。
「行動の構造」メルロ=ポンティを読むが、いまいち入ってこないので、「身体化された心」フランシスコ・ヴァレラを読みはじめる。どちらも「現れる存在」のルーツとしてとりあげられている本である。

3月3日(火)
「建築する動物たち」を読み終わる。動物の巣つくりこそが、目的論的に見えて実は自然環境から生じる機械論的な説明がなされているものである。このことに気づく。人がこうした巣つくりに興味をもつ理由である。動物のこうした巣つくりが環境的に優れている点が最近クローズアップされるが、つくる側からの視点も見直す必要がありそうだ。「現れる存在」をはじめ、近頃読んでいる本はそうした視点をもっている。続いて、「建築する動物」写真家インゴ・アルント+動物学者ユルゲン・タウツを読む。

3月2日(月)
柄谷氏は「アソシエーション」という言葉を使う。このことを先週の日記で、「曖昧模糊した社会問題をソフトでなく、あくまでも俯瞰的にシステム的視点から説いている」と書いた。今日、柄谷氏の「D(交換様式D)の研究」atプラス23を読む。「アソシエーション」について、もっと適切に言い当てている表現を見つける。それは「目的論的と見えるもの(神or道徳にもとづく善)が、いかにして自然史の過程から生じるかを考える(物理的な因果性の効果=結果(機械論的)として見る)」である。俯瞰とは、目的論的でなく、機能論的に見るということである。もうひとつ「ナチュラル」を表現するよい言葉も見つける。「偶発的な変異体は、変動する環境システムのなかで適合したときに存続し繁殖する」というものだ。設計とは、偶発的な変異体に支配されている。ゆえに設計行為自体を「そこに目的はない。ただ事後的には、それが目的論的に見えるもの」と、言うことができないだろうか?と思う。これを設計の数寄屋化への反論として記す。

3月1日(日)
026  セリエA キエーボ×ミラン
本田が後半はじまりから出場する。いきなり左から強烈なシュートを放つもバーに嫌われる。ミランはその後も攻撃の方針が固まらずに、0-0のドローでゲームを終える。前線はかなり流動的であるのだが、前線への楔パスが入らないのが問題である。メネズのドリブルによる切り込みに頼っていたツケが回ってきた。メネズの調子が上がらないと、相手DFを崩すことが出来ないでいる。

2月28日(土)
025  ブンデス ドルトムント×シャルケ
前半からドルトムントの猛攻が続き、香川交代直後の後半35分から続けざまに3点を取り、ドルトムントの圧勝である。とはいえ、香川の動きはよかった。ドルトムントはリーグ前半とは異なり、点が取れていなくとも、後半まで攻撃を持続させることができている。フンメルスとスポティッチ、ボランチのシャヒンとギュンドアンがセカンドボールをことごとく支配していることが大きい。そこから時折繰り出す縦パスが、攻撃リズムを崩すことなくゲームをコントロールしている。そのためFWの位置にいる香川は前を向いた状態でボールを保持でき、前半にオバメヤンに3度、ルイスにも決定的なスルーパスを1度成功させる。自らも前線3選手とよい距離感を保ち、シュートを2度放つ。決めたかった。一方シャルケ内田は為す術がなかった。ドルトのプレッシングをかいくぐり前線へ繋ぐ余裕がない。2点目の失点の場面においては、2列目のムヒタリアンの上がりについていくことができなかったことは今後の課題である。ポジショニングの失敗である。

2月27日(金)
山崎亮の「楽観主義者ロバート・オウエン」atプラス23を読む。イギリスにおけるラスキンとモリスの先駆者オウエン(1771〜1858)の半生を紹介する。彼は、工場管理者であることを通して、労働における新しいコミュニティつくりを実践した。それは、自立した個人が協同することで生産向上を目指したものである。そのため、労働者の意識向上をはじめに手がけ、教育に力を入れた。それは、労働に喜びを見出さなければならない信念による。それを「性格形成」教育と呼ぶ。彼がアメリカにつくった「ニューハーモニー」は失敗に終わったが、彼の「協同組合」思想はその後、ハワードやラスキンに引き継がれる。

2月26日(木)
024  CL ユヴェントス×ドルトムント
香川不出場であった。このところよいチーム状態であったのに関わらず、クロップはチームをいじってきた。ユヴェントス出身のインモービルを使うことは理解できても、リーグ戦で連係において息の合っていなかったムヒタリアンの起用はないと思う。そのため、ここ3試合成功していたプレッシングからの攻撃ができず、チーム全体のリズムが悪かった。サイドからのクロスに対するチェックが甘かったのが決定的であるのだが、プレッシングの迫力がチーム全体に欠けていた。ユヴェントスの数少ない速攻によって1−2で落とす。リーグ前半に喫した同様の失敗を犯してしまった。

2月25日(水)
古市徹雄、トムヘネガン、小嶋一浩、荻原廣高各氏を招いての卒業・修士設計講評会。総じて大学院の作品に好評を得る。通常は学部設計の方が興味深いものが多いが、今年に限ってはその反対で、修士作品がボリュームとストーリーテリングにおいてともに充実しているという評価をいただく。ただし小嶋さんと古市先生から、建築作品としては最後にもっと強さが必要な旨のアドバイスを受ける。口酸っぱくそれを指導してきているつもりであるが、まだまだである。思い返せば僕もそうしたアドバイスを受けてきた。おそらく各氏も同様であったと思う。それは、雑誌批評を通じてである。特にGAのその批評は厳しかった。そうした建築にある強さを一般には、作品性を気にした建築家のエゴとして批判される場合が多い。ユーザーが不在の、社会性が乏しい建築として批判される。しかしぼくがおそれおおくもカントから学んだことは、むしろ右往左往した状況の只中の調整において全体像が見えないことの危うさである。これは設計行為そのものに当てはまると思うが、人が納得するのは、全体像の提示=抽象化を通して行われ、しかしその抽象化は、外から降ってくるように見えながら実は雑多な中から生まれるということである。そのように指向させる意志が設計行為の中に必要なことを学んだ。その意味で、4年生の作品に、経験とか能力とか、作品のストーリーテリングとかいったものが足りなかった訳でなく、与えられた能力と経験の中での「もがき」が不足していたということになる。一般には、能力の劣る4年生の作品がより面白いと感じるのは、扱う範囲が小さくともその過激な「もがき」の中で、彼らが得られた何かをぼくらが納得できるからである。ある程度実績を積んだ人が判る違いとはそういうものであって、質の問題ではない。子どもの絵、晩年のマチスの切り絵が共感を生むのはそういうところにある。

2月24日(火)
設計小委員会で本江正茂さんの「アルベルティ・パラダイム」というタイトルのレクチャーを聞く。近代の始まりをルネサンスのアルベルティ「絵画論」におき、そこで、今日も有効な生産から独立した設計システムがつくられた。このシステムはまた、インゴットの「ラインズ」に書かれているような抽象化思考(これを質料形相といっていた)も同様に各分野で促し続け、現代でも支配的なものである。現在、IT全盛の時代を迎えた。そうした時代における、ルネサンスから引き継いだ思考のシステム変換を目論む研究である。これはもちろん人工知能問題と関連している。学生に様々なワークショップ的実験を行わせ、その動きを解析検証する研究で、興味深いものであった。「現れる存在」クラーク著では、ロボット設計という立場から、そうした学生の行動を「スティグマジー」といっていたことを思い出す。動物が巣をつくる要因となるものである。それは、外部環境にたいして、絶えず微修正を繰り返し、生命を維持対応させていくもので、動物のみが可能とする。クラークは、ロボットを設計するという立場から、どんなにデータ量を積み上げても超えることが出来ない抽象化(フレーム)問題を乗り越える方法としてと説いていた。設計方法も限界に来ている。線的にプロセスを捕らえることから、不連続な発想への変化である。本江さんもそこを新しい切り口と考えているらしい。インゴットの網細工のように。レクチャーで「誰が責任をとるのか?」というサブタイトルが「建築する動物たち」における「4章ここの責任者は誰だ?」と同様なので驚いた。神に変わる主導者を問うものである。

2月23日(月)
023  プレミア サウサンプトン×リヴァプール
吉田の守備を中心にゲームを見る。吉田は前線への縦パスを幾度も試みる。サウサンプトンのDFから攻撃を組み立てる姿勢の表れである。守備でも、リヴァプールのスターリッジ、スターリング、若いイベのスピードに問題なく対処し、まずまずの安定性をもたらす。ジャッジの不利もあり、序盤に点を獲れなかったことが影響し、0-2で落とす。プレミアの3位以下は大混戦である。

2月22日(日)
今村創平さんから、柄谷行人のバウハウスについてのインタビュー記事「アソシエーションとしてのバウハウス」2004をいただく。確か前年に柄谷氏は、石山修武さんに誘われてバウハウス大学の会議に出席した。その感想記事である。実はぼくもバウハウスを、石山さんのウイリアム・モリス論を通して理解した。ペヴスナーの「モダンデザインの展開」では、ウイリアム・モリスの位置づけが近代建築のはじまりにある。いかにもクラフト的なモリスのデザインが、なぜ近代建築と関係があるか、ましてや冒頭にあるかを理解できないでいた。近代と資本主義が、芸術と生活、アートとクラフトを分離させてしまうのであるが、その兆候をはじめて批判したのがモリスであった。技術社会と生活の接点を探ったのがモリスであったのだ。石山さんの「開放系技術」はこれを基盤とする。バウハウスもモリスからそれを継承した。ドイツ工作連盟に対抗して、技術を先鋭化専門化するのではなく、あくまでも生活と密接な関係のあるものとして手仕事をはじめとする技術を考えようとしたのである。この記事は、この考えを色濃く反映している。「開放系技術」を初期マルクス主義と関係づけているのが新しい発見であった。それを可能にする組織を近代初期のドイツのゲゼルシャフトに近いものとして、「アソシエーション」と呼ぶ。柄谷は組織を考えるとき、コミュニティでなく、機能性関係を基本としたアソシエーションという言葉を使う。ここに形式主義者としての真骨頂を感じる。曖昧模糊した社会問題をソフトでなく、あくまでも俯瞰的にシステム的視点から説いているからである。柄谷氏が最近いう交換様式Dは、単純化すると、20世紀初期に、奇跡的にこうした関係が様々な分野で可能であったものを、大きなスケールにおいて再生目指すものだろう。10年前の記事にその芽をみることができる。

2月21日(土)
022  プレミア スウォンジー×マンU
縦の推進力が大事なことを知る。マンUの攻撃はサイド攻撃が中心であるが、組織された今のサッカーでは個人能力のみでは打つ手がなくなり、直ぐに詰まる。香川加入前のマンUは、早めのクロスがその推進力をつくり、今はFWのファン・ベルシーの調子に負うところが大きい。ファン・ファールは今年から、新しい縦への推進のために、デ・マリアを使い、サイドに若いショーを使い、変化の重責を担っているのであるが、依然としてマンUはチーム戦術の切り替えが上手くいかないでいる。彼も老体である。リスクを消すことでゲームプランをたてる。ファーガソンも老体であったが、香川にその任務を背負わせることで、自分にない変化をもたらすことを期待した、といったら大げさであろうか。身体能力が劣る香川には、連携というサポートが必要であったのだが、旧態のマンUにはそうした選手がいなく、中途半端なものでしかなかった。香川はゲーム中孤立していた。香川は反省し、個人での打開を目指したが、それはないものねだりであり、彼に悪循環をもたらした。前日のドルトムントの香川に、そうしたジレンマからの脱却の兆しが見られた。

2月20日(金)
021  ブンデス シュツットガルト×ドルトムント
ドルトムントは前半の得点以降、混戦状態から大きく変化する。その違いを作り出す原因を何かを考えるが判らない。ゲーゲンプレッシングが効き、セカンドボールを拾うことが出来、香川が前を向いてボールを操れるようになる。香川とルイスのいい関係が出来つつあるようだ。ルイスは絶えず香川を見て、壁パスによってライン突破を計るシーンがいくつか見られた。オバメヤンとの関係では、裏への抜けだしにおいて既に息があっていたので、ふたつ合わせて香川もだいぶ落ち着くのでないかと思う。そのため、展開がスピードアップし、見ている方も興奮する。

2月19日(木)
「建築する動物たち」マイク・ハンセル著を読む。第3章「つくり手に脳はいらない」が面白い。これまでいくつも巣作りの例を挙げながら、動物の単純で反復的な構築行動と、構築のための最も顕著な身体構造が力を放出するために適応したものであることの重要性が指摘される。4章からは、進化を視野に入れ、単純な行動といえども、主体は何かを問うものである。

2月18日(水)
020  CL シャルケ×マドリー
内田が、C・ロナウド、マルセロ、イスコと対峙する。それ程1対1で負けていたとは思えないが、突破を唯一許した場面が2点目の失点となる。これがチームの差だろう。シャルケは数的優位をつくることで守りきる作戦であったが、サイドが攻撃されることによってDF2人が押し込まれ、空いたペナルティ周辺スペースを中盤選手に使われていた。2点ともこのパタンであった。シャルケはどことなくゲームテンポがプレミアに近い。ダイレクトパスを多用し、大きくコートを使い組織的であるが、プレミアほど当たりが強くない。その点でマドリーは、組易い相手と感じたに違いない。チャンスといえば、内田のオーバーラップのみであった。内田はそこを決めたかった。

2月16日(月)
「動きが生命をつくる」を読み終わる。身体性(受動側)にもシンボル性(発信側)にもゆらぎがあり、それはアクティブとパッシブのバランスの上に成立しているものという。未だ構造化されていない意識も同様である。本書によると現代の科学で解明できているのは、ここまでである。最後はアートで締める。すこし納得がいかない。アートの章で面白かったのは、ストーリーテリングを否定したところにテクスチャー主義が登場したというアートの位置づけである。次に、「建築する動物たち」マイク・ハンセル著を読むことにする。客観的に同じと思われる運動も、第一人称的には、それとは異なるものの適例が、動物の巣作りにあると考えた。

2月15日(日)
「動きが生命をつくる」を読む。この本の核心となる運動についての記述に惹かれる。「遺伝子が作り出すのは、組み合わせ的多様性と複雑さである。これに対し運動することでSMC(センサーとモーターのカップリング)が変化し、環境の構造が内部化される形で生み出される多様性は、もっとダイナミックである」(p88)。それに続いてJ・ギブソンを引き合いに感覚と知覚の違いについての記述も面白い。「感覚は、物理的な刺激に対しての興奮パターンであり、それに対して知覚(アクティブパーセプション)は、感覚に意味を与えるものである。」と。つまり、他の誰かにくすぐられるとくすぐったいが、自分ではくすぐったくないことをいう。知覚は、運動を介して生まれ、運動は、環境を区切っていき、区切りが刺激となって知覚をつくるのである。「生命は外に向かって開かれた存在であり、その個体内の内と外を結んでいるのがセンサーである。センサーは運動と対になってはじめてセンサーとして機能する。センサーと運動の対がつくるものが、身体化された知覚である。」(p173)これが繰り返し登場する。パタンランゲージを辞書的に使用するのはよいが、環境と行動が絶対的な関係にあると思ってはいけない。あくまでもセンサーを研ぎ澄ますためのフレームでしかないのだ。このことを説明してくれる文章である。建築に繋がる面白い例えも発見する。「木漏れ日の差す森の小道」を、言語というシンボルを使わずに表現できるか、というものである。言語を使ったシンボル化よりも、多様性の精度が落ちることのない表現があるかという投げかけである。塚本さんが、隠された現象を追求しているにもかかわらず、最後に言葉のシンボル性を持ち出すことに少し違和感があった。それと関係する問題である。

2月14日(土)
018  ブンデス ドルトムント×マインツ
香川が積極的に動く。ペナルティーエリア外からのシュート、DFライン上でのボールを受けて反転切り込み、これらが見られた。ドルトムントの攻撃もスピーディだ。前線選手がDFラインからの縦パスを受け、そこからのダイレクトのDF選手への折り返しに連動して、他の攻撃選手も含めて相手DFラインの裏を狙うものである。たとえそのスルーパスがカットされても、そのセカンドボールあるいはパスを、プレッシングで奪い返す。岡崎といえども裏を足られていなかった。攻撃と守備のよいリズムができていた。そうすると不思議と相手システムが乱れはじめ、香川がフリーになる。香川の積極性はそこから生まれていた。岡崎のボールの受け方にも成長を感じる。ソクラテスをかなり苦労させていた。先制されても逆転し、4-2でドルトムントの勝利。

2月13日(金)
修士設計の講評会。今年の遠藤研は8作品となる。年当初は具体的に提案が示されなかったため、内容が危ぶまれたが、ぎりぎりまでがんばり総じて出来はよかった。新しい切り口が出はじめてきたのも今年の特徴である。今さらながら彼らの底力に脱帽する。中島君の案は、NYCのリノベーション計画である。既存ビルの1街区分の屋上空間の再活用を提案した。NYの歴史を踏まえ、成熟社会における新しい公共空間の提案である。それはモノの価値を、新しくつくることから、これまでのストック、つまり人、建築、歴史、ノウハウといったものを含めて、それからトータルに考えるものである。もちろん前市長のブルームバーグの都市政策に感化されたものであり、既存の建物の価値までも上げることを目的にした市全体の資産価値に注目している。この壮大な計画スケールが評価された。ただし、屋上階と道路レベルとの連続が既存のシステムに依存しすぎているので、それについて再考の必要がありそうだ。大塚君の案は、個人自動車を必要としない高齢化社会の具体的な将来MAPを提出したことに好感を得た。当初はそれが学校として使用される。バスターミナルと学校という全く異なるプログラムを、時間を経て同じ建築の形式で成立させているのが面白い。彼の結論では、建物が末永く使われていくには、建物に強いポテンシャルが必要である。それがない場合、時代の速い流れと経済性から建物は取り壊されてしまうという。その強いかたちを、10年後と25年後の使用を提示することで証明しようとしている。それをヴォールト状の長い空間形式でまとめられているのであるが、その妥当性が問題にされた。今後の外部講評会に向けて、周辺を含めた配置計画と具体的な使いかたを明確に示す必要がありそうだ。石黒さんの案は、アルド・ファン・アイクに魅せられ、彼の両義的空間を再現する試みである。アルド・ファン・アイクが調査したのと同様、彼女もブータンの伝統村の調査をした。アイクが試行したように、この空間の豊かさを、近代言語を使って実現する方法の試行である。壁はランドスケープを操作するものであり、屋根は機能を操作するものであり、このふたつの操作によって、近代がつくりあげた計画の限界に挑戦している。深澤君の案は、真っ正面から光とシークエンスを扱ったものである。テーマが内向的で古典的であるが、説得力のあるスケール提案まで展開できていた。そこを評価したい。人は空間に感動する。ただしそれは空間自体が発信する訳でなく、それを利用する人がもっている記憶との絡みによる。自然とか歴史の位置づけを、空間性を呼び起こすための起点として位置づけることで、また別の見方が提示できると思う。

2月12日(木)
「動きが生命をつくる」を続けて読む。中間層をつくるメカニズムが次第に明らかになる。動くことで、差異をつくり出すことが鍵となる。差異の差異をつくるのが、知能というものだというベイトソンがはじめに引用される。

2月11日(水)
『現れる存在』に続き、「動きが生命をつくる」池上高志著を読む。「現れる存在」の訳者である。解説書に、ブルックスの自律型ロボットの延長にこの著書を位置づける、とある。「中間層」あるいは「中間理論」がテーマにされる。ものを見るには、適切な抽象化、適切な時間スケールというものが必要とされる。原子分子などの法則レベルに言及しないで記述できるレベル設定がものの見方には実は大切であるというものである。ブライテンベルグのビークルが例に上げられる。これは一般に、目的と結果が1対1対に対応する機械理論の集積と見なされている。これを「ツール的」構造という。それに対して、目的を明示的に持たない運動を「ゴール的」という。言葉をもたない赤ちゃんが泣き叫ぶ行為をいう。ブライテンベルグはこのゴール的運動を加えることで、この機械を生命っぽくした。ただし、この「ゴール的」運動は、別の局面で「ツール的」な役割を果たすというのがミソである。赤ちゃんの鳴きにも実はメッセージがある。全ての生命はさらにこうした複雑な構造で成り立っている。近代の抽象化は、こうした事実を切り捨ててしまっている。そうした見方でない「中間層的」見方が必要になってくるのである。

2月10日(火)
卒業論文発表を聴講する。仮説を明確にすると結論が陳腐になるため、仮説を曖昧にする研究が多いことが気になる。他山の石とする。設計研究においても、敷地条件と平行して、環境とセットに考えた将来に対する仮説を明確に打ち出すことを研究室学生に早速指示する。彼らの対応を見てみよう。

2月 9日(月)
理科大学の修士設計講評会へ行く。常勤の川向、岩岡、山名、安原、伊藤各先生に加え、山代悟さん、近藤哲雄さんと講評する。研究テーマを綿密に分析している学生が多く、そのことが講評を通して、還元主義的説明あるいは構成要素的説明から全体を説明することの難しさを教えてくれた。自分の学生時代を振り返ると、僕も「建築」にするための手法分析で精一杯であったことが思い出されれる。作品には否が応でも、還元的分析と成果物との間に不連続が生まれ、手法の追跡だけでモノはつくりあげることは決してできないものだ。しかしこの事実を、学生時代を経た後にしか知ることができない。卒業し、デザイン的訓練がなされていくにつれて、還元的分析がより緻密で現実的になり、あたかも不連続性をなくしたかように見せる術を身に付けていく。経験を積んだぼくらと学生との違いはそれだけでしかないのだ。したがってなるべく講評では、そうした経験を積んだ立場からは発言しないようにしている。ところでこの不連続性を埋める手段は、今読んでいる「現れる存在」がヒントになりそうである。それよると、自立型ロボット製作は、この不連続性を「スティグマジー的能力」といったもので解決しているという。環境と行動のセットで条件を与え、その再帰(調整)システムによって、ロボットの行動をコントロールするものであった。それはふと、アレグサンダーが『形の合成に関するノート』からパタンランゲージへ移行したのと同じ経緯であることを気づく。そして、パタン個々の再帰システムとして考えられたものが「15の幾何学的性質」なのである。このことを改めて知った。こう考えると、かたちとそこから受ける感覚・行動の関係のみの分析を行っている学生が苦しんでいることに合点がいく。全体性は周辺状況との間でつくられていくので、それとのセットでかたちの分析を考える必要がありそうだ。「緑と建築」を扱った学生は、その点において、大樹を植える条件を前提として建築化したものであった。大樹を植えるインフラ的巨大な植木鉢で宮益坂公園を覆う提案であった。もうひとつ気になった作品も、自動車交通の駐車環境を分析し、それを機能的に建築として積み上げた提案であった。どちらもインフラ的な提案であったことが面白い。今週以降に続く千葉工大の学生の発表についても可能なら、環境条件とのセットで提案を行ってみたらと思う。その反応を見てみたい。

2月 8日(日)
017 セリエA  ユヴェントス×ミラン
本田がトップ下でフル出場も、1-3でミラン落とす。力の違いを見せつけられた。トップ下のチャンスを本田は活かしたかった。ピルロをマークし決定的な仕事をさせなかったが、攻撃では煌めきを見せられなかった。そうした中ミランは、個人プレーでの打開をする選手が脚光をあびはじめる。本田のミランでのプレーに、彼のキャラクターのインテンシィーが発揮されない理由を考える。チームバランスを維持するプレーをしてしまうのである。

2月 7日(土)
016 ブンデス フライブルク×ドルトムント
香川が先発し、0-3で久しぶりの勝利。今後に向けてよいゲーム内容と結果であった。開始早々からドルトムントのゲーゲンプレッシングが効く。それは、フライブルクもパスを繋げビルトアップを試みるチームであり、プレッシングがかけやすく、ドルトムント前線3人のこのゲームに賭けるモチベーションの高さがそれを可能にさせた。得点の予感は9分の香川のシュートからはじまる。このプレーに代表されるようにこの日のドルトムントは、プレッシングからボールを奪うと、オバメヤンがDFラインの裏を取り、その折り返しを中央で香川と2列目がゴールを狙うという作戦を徹底させていた。1点目はプレッシングからあっさりフリーでシュートを打てたもの。2点目も、中盤底のボランチからオバメヤンがフリーで折り返すことなしに決める。3点目は、香川のプレッシングから一端外に叩き、中央の折り返しを香川が再び逆サイドのオバメヤンに渡し、彼がフリーで決めた。得点の度に全員が集まり、チームの雰囲気もよくなっていく。これを次に繋げてもらいたい。

2月 6日(金)
卒業設計を講評する。相対的に図面の完成度が上がり、中間発表の機会を増やした甲斐があった。モバイル式の小屋を製作していた学生がいたのに驚く。遠藤研の評価はよかった。大島の土石流防護壁を、土木スケールのものを建築スケールにまで落とした案が好評を得た。ただし、25日の外部講師を招いた講評会に向けて、建築の内部空間をデベロップできるかどうかの疑問が呈された。設計内容とともに、言葉でまとめさせよう。問題は、必要とされていない機能をどのように根拠づけるかである。壁を使わずにランドスケープ的な処理によって機能を満足させようとする案が次に評価される。この案の場合は、模型のテクスチャーがもたらすバナキュラーな空間性が問題にされた。ランドスケープといっても生な土や芝でなく、あくまでも抽象化された有機的なかたちのことを指しているのではないかという疑問であったと思う。その様相が模型に端的に表れる。それについて考える必要がありそうだ。飛騨高山や宿場町に代表されるような伝統的な街並みではなく、もちろん郊外のロードサイド店、あるいはアウトレットモールとも異なる新しい郊外の風景を提案している案は意外と理解されていなかった。これを支えるのは、高い意識を持った半農半Xを追い求める自由人であり、現代文明に依存しなくても快適性を求める住民であり、それは消費社会を支える現代人でない。これを強調する必要があることを感じた。水上交通システムにより街を活性化させようとする案も反応はいまいちであった。表現過多であったことが、そのヒューマニティさを消していたのかもしれないので、表現を整理する必要がありそうだ。近頃には珍しく、崇高な空間性を目指した案に対しては、空間性に頼らずに言葉による俯瞰的視点の必要性が求められた。少し納得がいくものの、崇高さは言葉という抽象化によって納得できないものにこそ宿ることをカントはいっていた。したがって、言葉による抽象化を求められてしまう程、空間の質が至らなかったことを反省すべきであったろうと思う。同様の八ッ場ダムにメモリアル棟を埋め込む案もそこまで至らなかった。空間性を競うのは難しく、工学部にある建築学科では、説明することが終始求められる。このことを彼らは知ったにちがいない。しかし社会が求めるのは、社会をイノベーションすることであり、それは還元主義的説明からは生まれないことも気がついてほしい。それに気づけば彼らの努力はプラスに働くと思う。

2月 5日(木)
「現れる存在」の9章からは、人間と他の生物との思考の違いについて。人間の行う経済活動、国家をつくるような組織活動は、他の生物にはない能力かどうかを問うている。いわゆる高度な思考についての定義である。人間には、「スティグマジー的アルゴリズム」といって、外部構造(社会)を使って個々の行為を制御、誘発、調整する能力がある。それが他の生物と異なる点であるという。人間を含め他の生物には、十分な情報を得てからじじっくり推論する前段階に、間に合わせ的で限定された制約の中で動く能力がある。人間にはそれにくわえて、行動後にそれを維持させる能力があり、その点が異なっている。「内的表象と計算プロセスのモデル」に対して「スティグマジー的な自己調整」能力というものである。第10章はさらに議論を絞り、言語について。これについては、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」に負うところが大きいことを感じる。
015 ブンデス ドルトムント×アウグスブルク
ドルトムントが0-1で落とす。決定機を何度も逃したのが敗因である。香川も後半途中から出場。ただし、これまでのように直ぐに彼にボールが集まり、そこから展開というわけではなかった。なかなか中央にいてもボールをもらえず、最終ラインに食い込んでもラストパスは供給されなかった。最後の最後になってようやくリズムを少しは変えることができ、少し長めのパスによるフィニッシュのかたちをつくる。そこでタイムアップ。辛い日々が続く。

2月 4日(水)
「現れる存在」7・8章を読む。本書の主旨とハイデガーの「現存在」、メルロ=ポンティとの関係が、この章のテーマである。われわれは、「世界から切り離された受動的な観察者としてではなく、能動的な参加者として存在している。われわれの実用的な世界とのつきあい方が、きりはなされた表現を伴うものではなく、機能的カップリングを伴う」。熟練を伴う実用的な世界との関わりこそに、すべての思考と志向性の核心がある訳だ。メロン=ポンティの言葉を借りれば、「われわれは言葉が制定されている世界の中に生きている」のである。

2月 3日(火)
「現れる存在」を読む。5章は現代のロボットについて。ブルックスの自立型ロボットのことを差している。これは包摂アーキテクチャを備えたロボットで、いくつもの原始的で反射的な行動の層を重ねていくことで、複雑な行為を創りだそうとしたものである。ゴキブリの素早い退避行動を参考に創られた。それは1993年のリッチマンという人の研究にはじまる。ゴキブリは、襲ってくるものの動きを風の乱れとして感じることができ、通常のそよ風と気流とを区別可能であるという。ゴキブリは尾角でこれを感じ、現在位置と周辺環境のコンテクストから方向転換を行う。ただし、ゴキブリは場合に応じた膨大な量の明示的なデータの蓄積をもっているわけではない。これを「フレーム問題」という。これまで人工知能の研究者を悩まし続けてきた問題である。これを還元主義的説明、あるいは構成要素的説明といってもよい。5章で、それとは異なる自立型ロボットの構造の核心に触れる。それは、ゴキブリの退避行動を「遺伝的アルゴリズム」を用いて説明するものである。反射的モデュールとそのデータを修正する再帰的モデュールをふたつ組み込んだものをそう呼ぶ。生物は長い年月を経て、環境とセットされた行動パタンをストックし、そのデータの微修正によって進化していく。ゴキブリはそうすることで素早く動くことができるわけだ。力学に支配されるているというよりも、歴史・遺伝情報に支配されていることとなる。6章では、そうした現象を「創発」という言葉で説明する。創発は、内部から制御されるものでなく、システム内の複数の単純な構成要素の相互作用の結果として起きるものである。大小関わらず、あるいは創発と感じる感じない人がいるもののの、必ず閉じたシステム内ではこうした調整(再帰)システムが作動するという。創発には、僕にとって美学的な希望が含まれていた。しかしシステム変換として通常的なこととして考えられることを知った。これが発見であった。福島で活躍したのは、このブルックス型を踏襲したロボットである。

2月 2日(月)
小泉雅生さん著の「住宅設計と環境デザイン」を読む。デザインを徹底した環境的側面から説いたところに特徴があり、潔い。例として列挙されている住宅は、皆、建築的にも優れたものである。ぼくがデザインした佐藤先生の自宅「ナチュラルユニット」も遮音・吸音性能を考える内装デザインの項目として取り上げられている。若い設計者、あるいは学生に対しての著書で、彼らに美学が備わっている前提で、環境の必要性を訴えるものである。が、そうした美学的側面の欠落が確実に進行している点を見落としてはならないと思う。小泉さんが環境建築家としての不動の位置を占めつつあることを示す本である。
014 セリエA ミラン×パルマ
オーストラリア帰りの本田は機能していなかった。彼のところになかなかボールが集まらない。メネズが下がり、ドリブル突破により崩しにかかる。それしか頼るものがない前半のミランであった。途中から本田は左サイドに回る。これがどういう意図かは不明である。新戦力チェルチは右しか使えないため、オールマイティな本田が左に回ったというのがインターネット上で流れる。後半になると皆疲れはじめ、自然と本田にボールが集まるようになる。本田も辛そうであったが、それに応える。ただし得点に絡むことはできなかった。

2月 1日(日)
BS朝日でオリンピックと建築の特集を見る。丹下健三+山田守+高山栄華+山田正男(東京都土木)を通して1964年のオリンピック前後の建築状況を俯瞰する。古市先生が代々木体育館を歩き回りながらこの時代性を的確に説明する。巨匠丹下やこうした空間の崇高性を時代が欲していたのである。2020年のオリンピックが決定して以来、こうした特集を多く目にする。それを通して、丹下の日本における歴史的位置づけが一般の人にも決定的になった。敗戦から立ち直り、この時期に日本が世界に追いついた好例として、丹下はその象徴としてある。山田正男は首都高速を計画した東京都の役人である。先頃のNHK特集では、その役割を石川栄輝という人に求めていた。歴史家も行き詰まっているのだろう。歴史研究が重箱の隅を突くようになっているとしか思えない。明らかにこの時期の首都改造は失敗である。それを美化するのはいかがなものかと思う。
012 ブンデス レバークーゼン×ドルトムント
レバークーゼンもドルトムントと同様に堅守速攻のチームでなく、パスを繋ぐ攻撃主導型のチームである。そにためDF裏にスペースができる。そのスペースを狙って両チームが攻防する。結果0-0のドローも、ドルトムントが優勢であった。何よりもシーズン前半に不振であったフンメルス、シャヒンといったセンターラインが整いつつある。個人での打開では難しい香川もそれに便乗できればと思う。
013 アジア杯決勝 オーストラリア×韓国
延長戦までもつれ込む死闘となる。ホームオーストラリアが優勢に試合を進めるも、最後で韓国が踏ん張る。今大会で期待のなかった韓国もこの決勝まで進出するとは、韓国らしい。大会の総括として、アラブ諸国の台頭が目立ち、これまでの4強のイメージが変わりつつある。若い世代も含めて日本は全て8強で終わっている。これもアラブ諸国の経済波及効果だろう。現日本代表は、年齢的に今が成熟期である。今年からはじまる予選にむけて世代交代をいかにしていくのだろう。下も育っていない現実がある。

 

1月31日(土)
鎌倉報国寺に行く。足利・上杉氏の菩提寺であり、竹の庭として有名である。川端康成も一時期住んでいたという。孟宗竹の管理の参考になる。今年は京都の天竜寺裏といい、竹を見る機会が多い。テレビ東京でマスターピース「モネ カササギ」をみる。番組では、絵の構成の素晴らしさを称えていたが、反射する雪光の生命力表現にこの絵の素晴らしさがある。白色の雪の中に、赤とかブルー色を絶妙に忍ばせ、その輝きを表現している。印象派勃興前の作品である。
011 ブンデス シャルケ×ハノーバー
内田、酒井は先発で出場。内田のディフェンスが安定している。無理に守ろうとせず、最後のところで留める術を身に付けていた。酒井はなかなか見せ場がつくれず苦労している。しかし後半15分から清武が入ると、息の合ったパス交換をし、攻め上がることが多くなる。つくづく連携の大切さを知る。清武は、比較的自由が保障されているようで、今日は、比較的中盤の底に位置し、彼中心にハノーバーがスムーズにビルトアップする。しかし得点にまで至らなかった。0-1でシャルケの勝利。

1月30日(金)
久しぶりに「朝まで生テレビ」田原総一朗を見る。イスラムについて。ISILは、原理主義思想をもつアルカイーダの分派であることを知る。アルカイーダに変わり、昨年から急速に力を持つようになる。それは資金をアルカイーダにかわって得ているからだという。人質身代金も彼らの資金源になっているが、それ以上に周辺パトロンからの援助が大きい。したがって人質身代金問題は、上手くソーシャルメディアを使って、パトロンや若い信望者に対して、彼らの存在を知らしめるためのものであるらしい。新しい分配法則を作っている点でこれまで生まれてきた反政府組織と異なっている。現代がもたらす不満、圧力の開放先としてISILが若者から見られているのは、イスラムのイデオロギーからだけでなく、石油という資源の分配システムを提示しているところにある。近代国家以前の中世を思い出させるものである。

1月28日(水)
2年生の第2課題講評会。まずまずの出来であったと思う。その中で飛び抜けて優秀な学生がいた。テーマを自ら決めて、それをつくりこむことができている。かたちに対する興味が高く、そこから出発しているのもよい。かたちは学生にとって実は身近なものでなく、感情や、雰囲気、現象、使われ方に行きがちである。少し力を持て余してもいるので、新しい興味を見つける必要がありそうだ。来年度は、こうした数人の優秀な学生に引っ張っていってもらいたいと思う。これまでも千葉工大に限らず2年生の作品を見てきた。しかし彼らがどのように成長していくかを予想することはできない。あることを契機にして作品の出来は大きく変わるものだ。自分を高める状況に自分を置けるかどうかが大事である。

1月27日(火)
「現れる存在」を読み続ける。2章は知覚についてである。受動的な知覚、それに対応する認知、出力する意図的行為、これら3つは独立していない。非常に絡み合っているという。外部の現実を受動的に反応するというよりも、「行為と状況の流れに特化したコントロール構造」が知覚であるという。知覚、認知、行為のループを効率よく形成すること学ぶのが、日本の教育であるのだが、その偏りが見えてくる。ループ自体の流動性を知る機会は与えられていないからである。こうしたまだまだ鍛えられる力は潜んでいる。4章の粘菌の変態とアリの巣つくりの例が面白い。どちらも特定化学物質に導かれ、それが自然・物理現象と結びつき、あたかも設計図があるような変化をする。粘菌は、餌がないと自分からある化学物質をつくりだす。それが接着剤として働き、あたかもアメーバーのように動く理由である。アリも泥団子を作るときの接着剤として化学物質をつくり出し、それにしたがって積み上げられた団子は、重力によってアーチとなる。このような現象、ひとつひとつの小さな行為が不連続な大きな変化となることを「創発」と定義するところで、本書の前半は終わる。

1月26日(月)
010 セリエA ラツィオ×ミラン
戦術に長けているイタリア・ミランが全く攻撃のかたちができずに、1-3で落とす。正月明けの勝利がない。今日は、パッチィーニの1トップであった。得点もメネズのドリブル突破による個人技のもの。本田の合流が待たれる。

1月25日(日)
午前中にフェリーで豊島に渡り、西澤立衞さんの豊島見術館へ行く。ローザンヌのラーニングセンターに神聖さが加わる。コンクリートの粗い素材感が、柔らかな光によって表面に微妙な表情を与えている。その光は、もちろん緩やかな曲面によるものである。それは、見る者に空間を意識させ、解像度をあげさせ、空間の奥行きを感じさせるものであった。建築家の意図が真っ向から空間化された希有な建築である。古典的かもしれないが、これが建築だと思う。
昼食を取ってから、JIA新人賞の審査で、豊島の豊島横尾館へ行く。この旅行の目的である。個性的なアーティスト横尾忠則に対して永山祐子さんがどういう態度で向き合ったかに興味をもつ。幸いといったら失礼であるが、与えられた条件はそれだけではなかったことを知る。朽ち果てて寿命を全うしていた「古民家」、それに加えて、企画構想として福武總一郞氏から与えられた「葬館」というものがあった。この死へつながるテーマは横尾忠則のテーマであるし、どんな絵画よりも存在感のあるものである。これを手掛かりに、横尾氏とがっぷり組むことなく作品としていった。この建築が、単なる横尾氏の背景でないことは直ぐに了解できたのであるが、その理由も理解できたような気がする。とはいえ永山さんがデザインした赤いガラスは、そうした動きのない重厚さにポップを与えるのに十分なものであった。このポップさを「生」といってもよいと思う。さらにリノベーションにつきものの既存のコンテクストに頼った力弱さはどこにもなかった。薄くフィルム加工されただけのガラスという現代工業品が力強くさえ思われる程である。この表層の実験は永山さんが商業施設のデザインを通して時間をかけてこれまで試みてきたものである。人が動くことでモアレのように表情を与えていた実験が、直線的なものから、水平ではあるが、奥行きにあるものへと進化していた。圧巻は、横尾氏収集のポストカードが張り巡らされた煙突空間にある。低く抑えられた入り口によって視線はステンレスで磨かれた床に導かれ、それは底なしの空間のように見えた。直線的であった表層の実験は、遙か遠くの底と天までの効果となっている。今までにない建築家の力強さを発見できた。つくづく建築家は、現代的テーマであっても、それの処理・編集に追われることなく、モノにまで昇華させるべきであることを考えさせてくれた。これを2つの作品から学んだ旅行であった。

1月24日(土)
昼過ぎに羽田から高松に行く。飛行機の中で「現れる存在」アンディ・クラーク著を読みはじめる。冒頭の「心は脳の中にあるものではない。脳と身体と世界の相互作用から創発するものである。」というフレーズがよい。1章からユクスキュル「生物から見た世界」のダニの話が紹介される。それぞれの動物は、それぞれの実効環境に生きているという例である。ダニの実効環境があるとしたら、それは何十年も獲物が通るのを待ち構えてぶら下がっている環境であり、わたしたちが生きる環境とは時間的にも全く異なるものである。
伝生山温泉に行き、今村さん、山梨さん、吉松さん、長田さんに合流する。中庭口の字型の心地よい温泉であった。地元建築家岡さんの設計である。その後、岡さん設計の宿に泊まり深夜まで作品評を行う。

1月23日(金)
009 アジア杯 日本×UAE
PK戦の末、決勝トーナメント1回戦で姿を消すことになる。日本は前回王者として、あるいは実力が上であることを自覚して(油断はなかったと思うが)、UAEを受けるかたちでゲームに入ってしまった。これがよくなかった。今までの相手と違って、果敢にプレッシャーをかけてくるUAEに対して動揺する。UAEの狙いも明快であった。日本が前線にボールを入れる時のインターセプトを狙い、素早く日本DFの間にスルーパスを通す速攻であった。はじめに酒井高徳が餌食になり、左でも同じことがいくつか起きる。それを修正できないところが、経験というものかと思う。結局は、W杯のコートジボアール戦、最近のオーストラリア戦のような失点である。得点はこのかたちから、DFの間を抜けた7番FWがニアで受けた瞬間に素早く振り抜いたものだ。その後、守りを固めるUAEに対して優勢にゲームをすすめるも、後半最後まで中盤底への遠藤(柴崎)や香川が自由になれずに、攻撃に深みが加わらなかった。終了間際の柴崎の得点頃から、UAEの足も止まり彼らがフリーになる。この時に、柴崎の1点のみであったことが敗因である。とはいえこの試合では、セカンドボールも拾えていなかったこと、1対1の局面では5分5分であったことなど、それ程日本の優位性があったわけではない。むしろ技術的なことをいえば、武藤、乾はもちろん本田、香川まで、シュート前のトラップが今後の課題となる。UAEの得点シーンとの差はそこである。トラップすることで、相手DFはカットのタイミングをより合わせやすくなるのではないかと思う。DFのスピードも問題である。吉田はプレミアの時の過ちを犯す。

1月21日(水)
3年生後期の講評会。比嘉武彦氏、下吹越武人氏、藤村龍至氏、佐々木珠穂氏を迎える。藤村さんが「今日はアーバン派として発言する」という切り口からクリティークをはじめたので、各人も自分の立場を明確にして批評をする面白い展開となった。それは歴史的、建築的といった具合である。そうしたクリティークに対し、ただ聞き入るだけでなく、それに対する応えを学生に発言するように促す。藤村さんからは、提案に至るまでの根拠を求められることが今回は多かったと思う。藤村さんには何度か千葉工大の講評にきて頂いた。おそらく、今年の作品は完成度が高く、ひとつひとつに一貫した筋が見られたため、そうした質問になっただろうと推測する。その分、元気さが足りなかった気もするが、下吹越さんにはそこを買ってもらった。今年から各先生から賞を選んでもらう。比嘉さんは代官山の歴史を注視した案を選ぶ。アイデアの出発点とそこからつくられたかたちの振れ幅が大きい案である。下吹越さんは、空間性の高い作品を選ぶ。最もよく練られていた作品である。藤村さんは、かたちを先行させることで何か事を起こそうとしている案を選ぶ。根拠が明確であるが、曖昧な空間を残した案である。佐々木さんは、思いっきりはじけた案を選んだ。もしかしたら、最も空間性を目指した案かもしれない。

1月20日(火)
GA JAPAN 「2014年総括と展望」を読む。隈研吾×藤村龍至×二川由夫の対談である。今までの個々の作品の批評というよりも、ワタリウムでの磯崎展と「磯崎新INTERVIEWS」、「磯崎新著作集」の発刊によって、逆に磯崎時代を一区切りさせ、次の時代の到来を示そうとする論評であった。それは、相対的視点の上にたつ建築のことをいい、今年からGA紙面で文字批評が増えていることと関係している。小嶋一浩氏はアンケートで、それを踏まえ逆に、作品批評が少なくなったGA誌に疑問を呈している。こうした傾向はしばらく続くものだろうか?石山修武氏は、磯崎の諸矛盾が浮き彫りになったはじまりとし、磯崎の影響、すなわち脈略と続く大文字の建築の歴史がそう簡単に崩れないことをを示しているようだ。

1月19日(月)
医者も帰納的思考に慣れ、演繹的思考が苦手なことを経験する。数々のデータを彼らはよく参考にする。そして原因(この場合疾病箇所)を確定していくのが通常の判断である。問題は、データからその原因が発見できない場合、人体の基本原理と症状から演繹的に導き出される知識を仮説と照合していく。その訓練に欠けている。そこには経験と勘、患者からの信頼が必要とされるのだろう。ブリコラージュによる「野生の思考」、ベイトソンの「マインド(精神)」とはこの能力をいっている。ベイトソンによれば、精神もメッセージからできている。それは、あるサーキットを廻るサイバネティックス・システムを基本形としている。サーキットを廻ることによって引き起こされる差異は実際には複雑なものであるが、これを「精神」という。それは、「データバンクという言い方が前提とするような、スタティックに貯蔵されるものとしての記憶ではなく、回路をめぐる情報の移動に基づくものとしての記憶に基づくもの」(「精神の生態学」p609)である。「精神とは、情報を交換し、試行錯誤する、関連サーキットの全体を単位とする存在」(同p610)なのである。もはや、一般にいう身体化された精神と外界との区切りはない。これは、ブリコラージュにおける思考方法と同義でもある。「野生の思考」で紹介される「栽培思考」や近代科学と対するものである。

1月18日(日)
008 セリエA ミラン×アトランタ
本田不在で前線右サイドに新戦力のチェルチが入る。右のSBにはデ・シーリョが戻ったようだ。本田も苦労したようにチェルチもチーム戦術にフィットしていない。前半早々にかたちがつくれたもののその後はさっぱりであった。後半からチェルチに変わり、パッツィーニをターゲットにサイドからの放り込み型に変更する。いくつかチャンスをつくるも不発に終わる。インザーギ監督もイライラが募り、スローイングボールを蹴り出してしまう始末である。退席処分を受ける。ミランがまた混迷にはまり込む。

1月17日(土)
第3回目の卒業設計の中間講評会。遠藤研の学生のテーマが、近年になく内向している理由を考える。表現の閉塞状況はいかんともしがたい。時代の好みは内へ内へと向かう。自分の身体と気持ちを考え、それを頼りに設計する傾向である。この傾向に逆行する指導をこれまでしてきた。そのため大きな社会問題を考えるようになったのだが、その解決は極めて難しい。それが内に向けてしまった大きな原因かと思う。それならば、呆れるほどの大きな自己満足の域まで引っ張ってほしいと思う。内に向かうことで失敗したとき、自己否定の挫折はしてほしくない。
007 プレミア QPR×マンU

1月16日(金)
006 アジア杯 日本×イラク
イラクも前々回のアジア杯王者である。その相手に対し落ち着いた試合運びにより、本田のPKによる1点を守り切る。イラクは引いて守備を固め、その分、中盤底の遠藤と長谷部、あるいは攻め上がってきたサイドバックの長友、酒井がプレッシャーなしにボールの出し手となるなることができたことが、試合を楽に進めることができた理由である。DFライン裏にいくつものスルーパスを通す。本田が2本の決定機を外す。体調が万全でないのかもしれない。香川は少しずつであるが上向いている。ゴール前にスピードを上げて切り込むシーンが2度ばかりある。どちらもシュートするところまでもっていった。GKに止められたが、復調の兆しと判断する。日本は必要以上に攻めることなく、相手の出方を覗いながらボール回しができたところに成長を感じる。無駄な危うい横パスをなくし、確実とされる縦パスのチャンスを狙うことに終始していた。

1月15日(木)
「野生の思考」の再読を続ける。ここでも「偶然」がキーワードとなる。たまたま集められた素材でできたもの=神話が、同じ構造をもつのは、訓練や学習によるものでない。それとは別の力があることをいっている。恣意性から有縁性が生まれる(=科学的発見)のでなく、有縁性から恣意性が生まれるという考えである。こういう考えと永遠性が関係ある。が、今いちピンとはこない。ぼくのような建築家は工学部にいたためか、作品を通して何らかの普遍性を求めている。それに対し美術学部で学んだ建築家はその逆で、自分の行為が有縁性の上に成立する独自性をもっていることを理解しているのでないかと思う。その辺りを聞いてみよう。

1月14日(水)
「ブリコラージュ」が気になり、「野生の思考」を再読する。設計という手仕事においての思考は、楽しいし、かつその時間を没頭することができる。しかし現実の様々な条件はこれを阻む。もしこれが永遠に続けられたら幸せだろう。藤村龍至の一連のワークショップにおいて、学生が感じるものはこれに近いものと考える。これから、永遠についての別の観点があることに気づいた。そこで、手仕事=ブリコラージュを客観的に解説している、レヴィ=ストロースを手にする。寄せ集めは単なるバラバラであるが、そうならないのは、ひとがつくる構造らしきものによっている。ひとがつくるストーリーには共通性があって、それ程バラバラにはならない。しかもそれはその閉じた(他者を参照していない)系の中だけで再生産可能なのである。それをいくつかの神話を通じて説明していた。

1月13日(火)
ナチュラルウエッジへ行き、改築の契約をする。お子さんが大きくなったこともあり、吹抜床を一部塞ぐ。こうした増床を見込み、吹抜を予めグリッドの構造にしていた。竣工10年以上が経ち、大規模な改修となる。

1月12日(月)
005 アジア杯 日本×パレスチナ
またアジア杯を迎える。この時期の開催に、選手からも疑問が投げかけられているが、川島が言うように「DFやGKは一端ポジションの失うと取り返すのが大変」なのだろう。夏開催にしないことに一ファンからも疑問が湧く。さて、日本は、ほぼブラジルW杯と変わらないスターティングメンバーでのぞんだ。そのため、試合運びが安定し、それが順当な勝利へつながった。8分の遠藤のロングシュートが全てを上手く運ばせた。相手が引いてくることを見越し、実質3トップ。本田は中央にポジショニングし、サイドバックの長友と酒井は上がりやすくなっていた。したがって3列目の香川と遠藤は実質トップ下である。しかもフリーになることが多く、そうした状況からの遠藤のシュートであった。2点目の岡崎のヘディングとなった香川のシュート気味のアシストも同様である。細かいパスで崩すというより、サイドや中央からの長めのパス攻撃が多いのがこれまでと異なるところであった。前からのプレッシャーで相手の速攻も封じ、長谷部がことごとくセカンドボールを拾えていたことが、さらにゲームを上手く運ばせた。勝敗が決した後半から、乾に変わって、清武、武藤が投入される。どちらもドリブルで切り込む。このかたちで、前半の長距離パスによる攻撃とは異なったアクセントをもたらす。ただ、、左の武藤は中央に入っていくので、少し前線が窮屈気味であった。時たま右に開く香川や本田の攻撃がよい。中央の空いたスペースを酒井や清武、武藤が使う。しかし10人の相手に対し得点できなかったのはいただけない。

1月11日(日)
004 プレミア サウサンプトン×マンU
3位と4位との戦いである。マンUは故障明けの3選手がスタメンを連ねる。ショーとバレンシアによるサイドアタックが中心となり、先週行われた攻撃とかたちが変わる。ファンハールはメンバーによって変えていく方針だろうが、熟成度がないため攻撃が噛み合わず得点にならなかった。0-1でサウサンプトンが勝つ。それに対しサウサンプトンはメンバーが替わってもかたちは同じである。DFラインからボールを繋ぎ、サイドを効果的に使う。ただし得点は、ゴールキックから高さを使って繋げたパワープレーであった。マンUマタは特に目立つ。3度のゴールチャンスをものにできなかったが、体は切れ奮闘していた。中盤のサイドに下がっては、ワンツーでボールのビルトアップを手助け、時にはゴール前にも顔を出す。しかし、マンUは結局のところ、FWとくにファンベルシー頼みであることが明らかになる。香川が成功できなかったのは、その時期、ファンベルシーがいまいちであったことと、最後に何が何でも打つファンベルシーと、パス交換で崩しを狙う香川は合わなかったことが上げられる。彼が好調であれば勝ち、彼のパフォーマンスが下がるとチーム状態も下がる。今日もその典型的な試合であった。

1月10日(土)
003 プレミア チェルシー×サンダーランド
大敗の後のチェルシーが0-2で勝つ。サンダーランドの時間帯があったものの、最終的には安定していたといってよい。やはりセスクが効いている。ゴール前はさることながら、大きくサイドチェンジをするのは彼からである。チェルシーはリスクを減らした攻撃をする。攻撃時でもコート内いっぱいに選手を配置して、カウンターに対し大きなスペースを与えない。速攻を許さない攻撃である。

1月9日(金)
荒井くんの助けを借りて、K邸の模型を完成させる。崖下からのイメージを大切にした住宅であったが、思い切って屋根に手を加えた。内部の光の取り込みがよくなるのはもちろんであるが、現代的な技術の使い方が何かを考えた。GAへの搬出を指示する。午後は、父親を説得し病院へ行く。

1月8日(木)
K邸のGAへの解説文を考える。どうしても時間について書きたいと思ってはいたが、よい切り口が見つからないでいた。時間を線状で表すことを思いつく。点と点を結ぶ連結器的ネットワークは現代的であるが、そこには時間感覚がない。アレクサンダーのセミラチスもこれだろう。それに対し、ネットワークというよりも時間的経過による移動を線として織り合わされ絡み合った図を、ティム・インゴルドが「ラインズ」で紹介していたことを思い出した。それはルフェーヴルに起源がある。ルフェーヴルは、それをメッシュワーク(網細工)といっていた。メッシュワークは、「時間と空間がたがいに切り離すことができずに、空間が時間をふくみ、時間は空間をふくむものである。これらはけっして閉じてられておらず、見知らぬものや外来のもの、みずからを脅かすものとみずからに好意的なもの、敵と味方に対して、あらゆる方面に開かれているものである」。「ラインズ」の印象的なP133の挿絵が起点になった考えである。これを建築に置き換えることを発想し、文章を再スターとさせる。
午後は大学に行き、卒制のエスキスを行う。

1月7日(水)
NHK特集で「ボルドーワイン」を見る。1986年制作で、鈴木保奈美が歴史ある数々のシャトーを案内する。バブルの余波が残る時代だからできたことだろう。見ながら何年か前にボルドーへ行き、ロジャースの裁判所、OMAのボルドーの家、そしてジャンヌーベルのセントジェームスホテルに泊まったことを思い出す。ホテルは川を挟んで街の反対側の南にあっと記憶している。その前にはブドウ畑があったが、シャトーは、街のずっと北にあることを知る。シャトーは密集している。しかし場所によって、微妙に温度や風向き雨量が異なる。それで全く異なるワインがつくられるという。雨が多くなく、石の多い肥沃でない土地、太陽が恵む土地がよいワインをつくる条件だそうだ。

1月5日(月)
娘が読んでいた夏目漱石の「こころ」を、何十年かぶりに囓り読みをする。書き手である「私」を通してしか記述されない文体に惹かれる。小説は、知らず知らずのうちに時代背景に引っ張られている。その影響が大きいほど、時代を経るにしたがい小説の意味主旨は伝わらなくなる。というより、小説を読むことへの魅力のひとつ、主人公への思い入れが時代を経るにつれて不可能となる。そうならないためには、漱石のように極めて主観的に記述しつくすことが必要なのだと思う。風景を創出し続ける。そうすることで、時代が異なっても、当時の時代精神を新鮮なままに保持し続けることができる。内面性や自我という主観や、反対の写実的な客観も歴史的なものであり、そうなった瞬間にそれらは抽象化され詳細が忘却されてしまうことを、漱石は意識していたのでないかと考える。

1月4日(日)
002 FAカップ3回戦 マンC×シェフィールドウェンズデー
控えメンバーでのぞむシティは、2部相手に手こずるも最終的には2-1で勝つ。2点ともミルナーによるものであった。CFWの1点目は、DFラインを破る速攻からであった。ソングのマーク怠慢が得点を許した。その後、シティは仕掛けを行うものの、フィニッシュまでいかずにDFにはじかれる時間帯が続いた。2部があわやの期待をもたせるところにカップ戦の面白さがある。

1月3日(土)
NHKで特集「ホットスポット2 最後の楽園」を見る。ナミブ砂漠のフェアリーサークルが面白い。乾燥地帯の草原に、3m程の全く草が生えていない円が無数に拡がる。自然のなせる技でないように見えるため、これをフェアリーサークルという。原因は最近突き止められた。実は、シロアリが地中の草の根を食べ尽くしたためにそうなるという。その下は、草木が水分を吸い上げない分、湿り気のあるシロアリの格好の巣となる。3mの円状の外は非常時用の食物として草木が残され、シロアリはある程度距離をとって群生する。それが無限数のサークルとなって現れている。他にもシロアリについて面白い発見があった。あるシロアリは小枝を切断しては重ね、高さが背丈ほどの蟻塚をつくることを前から知っていたが、その中が比較的湿度が高いことを利用して、なんとシロアリがキノコ菌類を繁殖させ、それを食していることを知る。シロアリは、世界中で最も種類が多く、数も最も多い生物だそうだ。乾燥地帯では、ミミズなどの生物が生きられず、アリの食ー排泄活動によって食物が土に帰る循環が担保されてもいる。

1月2日(金)
下鴨神社でおみくじを引き、平がでる。平の意味がわからず調べてみると、吉と凶の間であることが判った。ここには、原寸大に復元された鴨長明の棲家「 方丈」がある。これを見てから清明神社へ行き、再び意地となっておみくじを引く。大吉で喜ぶ。小さな神社で あるが、これも水が有名であることを知る。千利休がこの地の水で茶を立てた後、毒を含んだ。その後、御所近くの和菓子とらやへ行く。サッシュの横桟を天井から離す欄間の納まりに脱帽する。それによって垂木が内外連続する。骨太でありながら繊細さがあるデザインである。1 時間ほど休憩し、東寺へ行く。雪をかぶる五重塔が綺麗であった。毘沙門天で護摩をお願いしたところで吹雪くも、すぐに止む。新幹線で帰路につく。
001 プレミア ストーク×マンU
最近は、ファンベルシーと ファルカオの2 トップ。その下にマタ、さらにその下にルーニーという陣形である。キャリックがアンカーである。彼ら3 ラインが上下移動を繰り返し、DF の裏を狙う。フリーキックから失点するのは、DF ラインが安定していないことの証である。1-1のドロー。ユナイテッドもセットプレーからの得点であった。

1月1日(木)
京都で正月を迎える。ホテルで京都風のお雑煮を頂き、六波羅蜜寺へ行く。六波羅蜜寺は、空也上人が、平安時代に当時貧しいこの地の救済のために開いた寺である。鴨川は当時疫病者の死体捨て場であった。有名な平清盛坐像も保管されている。清盛を六波羅殿ともいう。30 歳の頭角を現すまでこの地にいた。例年のことであるが、この寺に併設する弁財天堂の井水でお札を清め、お守り袋に詰めてもらう。弁財天とこうした寺が共存するのはなんとも不思議である。その後皇服茶をいただく。梅干しと結昆布が入ったお茶であり、空也上人が病人にふるまったとする起源である。種は大事に持って帰ることになっていることを後で知り、慌てて取りに行く。車で今宮神社へ行くも行列が長く挫折し、重軽石のパフォーマンスのお祈りのみで済ます。石を軽く3度叩き、石を持ち上げる。その後で石を撫で、再び石を持ち上げる。軽く感じると、幸運が訪れるという。この頃、天気予報通りに吹雪いてくる。南禅寺近くで松花堂弁当を頂き、ホテルに戻る。夕方から本格的な雪となる。