5 月 31日(土)
NHKドキュメンタリー「カラーで蘇る第一次世界大戦」を見る。原子爆弾を除けば、第二次対戦に使用された兵器はこの時期にほぼ出揃っていたという。これは今日使われている建築の素材が、100年前とそれ程異なっていないことと同じである。ただし戦い方が異なっていた。国境戦が主で、都市戦というものはこの時期になかったのである。つまり一般市民を巻き込んだ戦争ではなかった。その好例として航空中戦が挙げられる。空中戦は中世の馬上の騎士のように1対1の戦いであったようだ。この空中戦の英雄をエースパイロットと呼び賞賛した。つまり都市市民にとっては当事者意識がなかった。しかし戦争後期になると食料不足と経済困窮から様相が異なり、この戦争を世界大戦とまでいうようになったのだ。
建築の専門性について考える。建築学が日本に根付いた当時、機能的に計画することが建築の主目的であり、専門家として求められる条件であった。その前は様式についてであったかもしれない。しかし現在では、病院といったビルディングタイプ以外にそうした計画性は必要とされない。機能性はユーザを含め自由に解釈できるようになった。構造においても同様な状況をみることができる。少し前の80年代までは、構造は限られた人が扱える問題であったが、パソコンによる解析が格段に進歩し、若い多くの構造家が現れ、その専門性は薄くなった。最近問題になされるのは、建築の社会性である。建築はアートと異なり、建築が置かれる社会的意味が重要視され、歳をとって社会と接する機会が多くならないと判らないという訳である。公共建築の現在性がそれを物語っている。このように考えると建築は、次から次へと問題をつくり出すことで特権化、嫌らしい言い方をすると新しい力を摘み取ってきたともいえる。
5 月 30日(金)
「シンクロニシティ」を読む。シンクロニシティをパウリとユングの延長上に位置づける。前半はその解説と歴史。要するに非線形系にも構造・普遍性があることの概論である。散逸構造、破れた対称性などが解説される。第5章から実例へと向かう。
5 月 29日(木)
パブロフの犬の実験を批判するベイトソンを思い出す。非常に限られた環境をつくり出し、その中で観察者の仮説、この場合犬でも学習するという仮説、を実証することへの批判である。現実はもっと生態的で、様々な条件が折り重なる世界である。それを無視しては真の発見というものは起きないという警告であっと思う。近頃読んでいる本の中で否定している、因果性、決定論的思考が今でも知らず知らずのうちに行われてしまう経験をした。根がかなり深いことを知る。
「シンクロニシティ」 F・Dピートを読み始める。シンクロニシティとは、意味のあるコインシデンス(偶然)、意味をもつかのようにむすびあわされる偶然のパタンをいう。1987年の物理学者の著作である。
5 月 28日(水)
NHK特集「エネルギーの奔流」を見る。グリーンパラドックスという言葉を知る。ドイツは早々に脱原発の方針を打ち出した。しかし、自然再生エネルギーは生産コスト高を招くため、ドイツ国境30キロの地点のチェコをはじめ周辺国における石炭による火力発電所、さらには原子力発電所の建設を招くこととなった。そこから、ドイツは安価なエネルギーを輸入する訳である。この矛盾を表す言葉である。結局、地球規模ではCO2排出量は変わらず、むしろ増加する現実をいう。この特集は、地球規模で行うエネルギー対策の必要性をぼくらに突きつけつけるものであった。
5 月 27日(火)
093 5月27日 W杯壮行試合 日本×キプロス
日本はよいコンビネーションを見せるも、スピードがなくキプロスゴールを奪うまでいかなかった。本番初日を目指してこの時期、体に負荷をかけるトレーニングが中心であるので体に切れがない、このことを理由にあげる。とはいえ、攻撃に迫力を感じることができなかったのはぼくだけだろうか?今季、マンUとミランのゲームをよく見たのだが、その差を感じざるを得ない。香川と本田に対する指揮官の信頼の弱さにも繋がるものだと思う。後半途中からの観戦であったが、迫力を体で表現する岡崎の動きがどうであったか気になった。
5 月 26日(月)
ナチュラルスティックⅡの現地審査。岸和郎氏、竹原義二氏、難波和彦氏に見て頂く。はじめにこのプロジェクトで目指したことを話し、質問の受け答えに終始する。Xゼミで以前に批評していただいた難波さんからは具体的な質問はなかったが、ぼくがかたちの人でないことを、暗に示してくれた。階段吹抜の拡がり効果について岸さんから感想をいただく。無理をいって梁を無くしてくれた江尻さんに感謝する。竹原さんからは浮かせた3階の意図を聞かれた。それは素材への注文であったかもしれない。その日たまたま、藤森さんと石山さんの対談記事を読む。世田谷村を訪れ、その発想のはじまりについて尋ねた記事である。石山さんは地下と地面のスケッチを書いたそうだ。石山さんがバルセロナの基壇をはがしその中にしばらくいたことも思い出す。Xゼミでは、多少嫌みを込めて地下をがんばれと批評してくれたことをまた思い出した。石山さんはミースの執着心のとてつもない深さに感動したのだ。現地審査でデザインを凝る必要性について話すかどうか迷ったがやめにしてよかった。こうした事実を前にして答えが十分でないからである。
092 5月25日 女子アジアカップ決勝 日本×オーストラリア
日本は中盤からのロングパスを警戒し、澤、宮間、坂口の中盤が3ボランチ気味で相手中盤をケアする守備重視の戦略であった。そのため2列目からの攻撃の連動が見られなかった。2日前に120分闘った中国戦からの疲労と初戦に見せつけられたオーストラリアの迫力ある攻撃によるものだろう。ショートコーナーからの得点を守り切り、初優勝をする。最後まで守り切れたのは実力の差ありと思う。
5 月 25日(日)
再び「偶然の本質」を読む。第3章以降も現代物理学と超心理学との並行現象を紹介する。ユングとパウリ2人の功績と同様のその後の研究の記述である。その詳細が掴めないのが歯がゆかったが、因果的仕組みを信じるのはもはや「盲者」でしかない主張は十分に理解できた。はじめは超能力の本かと思ったが、物質、因果性、決定論を強く否定することが本書の目的であることを理解できた。この本の出版は1972年。40年が経ち、こうした既念に対する疑いは明白なものとなった。そして現在はアジャイルのような方法が注目されるようになったのである。
091 5月25日 CL レアル・マドリード×アトレチコ・マドリード
後半ロスタイムにコーナーキックからセルジオラモスがヘディングで同点を決め、延長戦でレアルがアトレチコを引き離したゲームであった。早々の9分にジエゴコスタを失い、後半20分過ぎから1点の守りに入ったアトレチコには、同点にされた後の挽回する力が残っていなかった。はじめに動いたのは1点を追うマドリードであった。後半15分である。怪我明けのケディラと右のコエントランを変え、マルセロとイスコを投入した。3バックDFにして、ディマリアを上げ、マルセロとモドリッチの3人で中盤の攻撃を形成した。アンチョレティは、疲れてきたアトレチコを見越し攻撃的にでたのである。むしろ点を取りにいかざるを得なかったのかもしれない。それに対しアトレチコも十分に抵抗したが、最後の最後でセットプレーでやられた。このゲームはどちらもディフェンシブであった。しかし、両チームのディフェンス方法は対照的であった。アトレチコは皆で走り、ボール保持者を囲む泥くさいもの。レアルは、2人で1人FWをカバーし、いつもバックアップが後ろにおくスマートなものであった。それでも後半からモドリッチが左右に動き回り、4人のDFを揺さぶっていた。それに両サイドの選手が呼応し、全体を押し上げることでレアルは優位性を保っていた。緊迫のあるよいゲームであったと思う。これで今季ヨーロッパのゲームが終了する。
5 月 24日(土)
「偶然の本質」の理解の手助けとして、「自然現象と心の構造」ユング+パウリ著を再び手にする。この本は、別の分野の論文をひとつにまとめた本で、当時興味をもったがよく理解できなかった記憶がある。その中の村上陽一郎氏の解説を再読する。改めて理解できたことは以下であった。ニュートン力学以来、時間系列のなかで因果連鎖という発想をするようになったこと。それは、先行事象が原因となって後継事象が結果になるという考えであり、その後、自然科学はこの因果関係を追求するものとして考えられてきたこと。そして、この関係はたまたまそう言えているにすぎないというのが、W・パウリの主張であり、これが1950年代の主張であったこと。である。これは、建築でいう「機能」に関する問題と同じであることに気付いた。パウリは、それを「孕む」といっていた。先行事象には孕みがあり、その孕みの中で、既念枠組みに上手く合致したものを後継事象に挙げているにすぎないという訳である。ユングはこの既念枠組みを深層とか「共時性」あるいは「元型」といった。機能とは一般に考えられていることとは異なり、多くの孕みの中から人が使いやすいと判断したひとつでしかないという考えである。「時間的に同時な二つの事象の間に、因果的でないような連関」が「共時性」あるいは「元型」というものである。社会に深く根差した時代雰囲気とでもいうものか。パウリは、ケプラーの例を持ち出し、これを「世界精神」といっている。これらをまとめてケストラーはこの本で「偶然の本質」といっているのである。
5 月 23日(金)
「偶然の本質」アーサー・ケストラー著・村上陽一郎訳を読む。本題は「The Rots of Coincidence」である。偶然というキーワードからこの本を手にする。内容はESP(extrasensory perception)超感覚知覚すなわち超能力であった。第一章がその歴史。第二章から現代物理の諸成果との結びつきを探る。第三章の「連続性と同期生」で、ようやく概論的なものから具体内容になる。それはユングと物理学者パウリ2人がいう非因果性についてである。一見因果関係がありそうなことが偶然であり、反対に因果関係がなさそうなことに構造があるように、それは観察者の見方によって決められる。むしろ、観察者の深層心理にこそ法則・構造があることをいうものである。
5月22日(木)
多田研との合同ゼミ、パスタブリッジ第2回目。マイヤールの一連のコンクリート橋とそれ以前の鉄橋の模型を前にして、構造技術史を廻る。これらの正確な模型を学生たちはよくつくった。そのため多くの発見をする。マイヤールは、スチールに比べて後発のコンクリート橋の改良を、製作を通じて繰り返し改良してきたことを知る。組積アーチから、コンクリートアーチ構造、そして剛桁構造に及ぶ改良である。それは部材断面を最大限有効に使うという近代美学のもとに行われてきた。地道でいかにもスイスらしい。それに対しイギリスは鉄橋の歴史である。鋳、錬、鋼といった素材の改良と新しいアイデアの挑戦で発展させてきた。鋳鉄のアイアンブリッジはボルトを一切使わず、木造のような「ほぞ」により構成されていると聞き驚いた。錬鉄の代表はロイヤルアルバート橋である。上部アーチは鉄板で、下部引張材はチェーンによる構成。このかたちはスラストをおこさないため、支柱を細く自律させることを可能にした。鋼の代表はキャンティレバー方式のフォース橋である。ともにアクロバティックである。
090 5月22日 なでしこアジアCUP 日本×中国
延長戦ロスタイムにコーナーキックからの劇的な逆転をする。なでしこの勝負強さを感じる。これが底力というものであろう。次は再度オーストラリアとの決勝。1月後の男子W杯でも感激したいものだ。
5月21日(水)
NHK特集「大回転するオホーツクの流氷」を見る。暖かくなり流氷が溶け出す春は、オホーツクでは海洋生物が大量に誕生する生命の恵の時期である。それは、地球の生命誕生を知る鍵でもある。その特集であった。最大の原因はふたつあるという。ひとつは多量の鉄分の発生。鉄分はシベリアのアムール河から流れ出すのだが、通常は重いため海底に沈む。しかし冬には、海に流れ出た直後に氷として閉じ込められる。それが流氷としてオホーツクまで流れ着き、春先に氷が溶けると同時に鉄分も海面近くに溶け出すのだそうだ。その鉄分と生命誕生の関係が現在様々な分野で研究されている。ふたつ目は、流氷が溶け出す時におきる海水の大回転に起因する。春の晴天の日にそれは起き、低気圧によって引張られる雲のように、海がダイナミックに動く。それにより海底から大量の栄養分が巻き上げられ、プランクトンの発生と食物連鎖を起こす。実に壮大な自然現象である。
5月20日(火)
「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン著を読む。「沈黙の春」の後、彼女が亡くなる直前に書いた本である。神秘さや不思議さに目を見はる感性をぼくたちは失いかけている。それの取り戻しを問いかける本であった。日本版写真も美しい。中埜さんに接して、こうした本を読むようになる。
5月19日(月)
NHK特集「認知症800万人。行方不明者1万人」を見る。認知症患者の行方不明者は2012年に1万にのぼり、うち350人が死亡、200人が行方不明のままという現状を知る。1年間の総行方不明者は10万人にものぼることも調べて判る。情報が行き届いた時代に驚くべき数字である。他に身元不明遺体は年間1000人ということも調べて判る。日本の殺人犯検挙率はほぼ100%といわれているが、事件として扱われない隠犯罪はもっと存在するのでないかという疑問をもつ。数字のマジックは至る所にある。
5 月18日(日)
089 5月18日 セリエA キエーヴォ×インテル
最終戦を長友は欠場。サネティの最終ゲームでもある。インテルは程よくゲームを支配する。イタリアチームの攻撃に連動が見えないのは、守備を重視する戦略に原因がある。攻撃を仕掛けることで生まれるスペースを嫌う。守備体型が崩れるからだ。そのため縦一本の速攻が大切にされ、インテルでは長友の走力とスタミナが買われている。スピードのないサイド本田が今のところ冷遇されている理由でもある。今季のローマは、攻撃的でありながら昨季までの守備の欠落を克服することができた。スパレツティ、ラニアリから今季ガリシアに至り、ようやく完成させたといってもよいだろう。時間がかかる。インテルの場合というと、サネティとカンビアッソは、後ろで構えるタイプであるので、長友を含めた前線からのプレッシングが必要となる。 インテルマッツァーリ はそれを目指すもまだ道半ばである。しかし来季も監督を続けそうであり、来季以降に期待したい。ミランセードルフは若く、かつ現役時代にもその経験がない。
5月17日(土)
088 5月17日 リーガ バルサ×アトレチィコ
最終節が優勝決定戦となる。実に60年ぶりだそうだ。もちろん勝った方がリーガチャンピオンである。序盤からアトレチコの守備が光る。前線においては厳しいチェックがあり、その後中盤は緩く、最終ラインはまたスペースのない堅実な守備となる。選手の総走行距離が1kmは違ってたのではないかと思う。しかしこれまでの疲労のためか15分と30分に立て続けに主力が怪我で離脱。ジエゴ・コストと10番トゥランである。そうした中バルサは、サンチェスが左から強烈なシュートで先制。メッシが胸トラップで落としたボールをダイレクトに放ったワールドクラス級の強烈なシュートであった。流れはバルサとなる。しかしアトレチコはメッシらに中央のスペースを与えず、バルサが攻めあぐむ前半であった。後半は一転、アトレチコのペースとなる。それがどうして変化したかが謎であり、サッカーの面白いところでもある。コーナーキックから長身DFゴディンが決める。アトレチコがゴール前でバルサ守備陣を引きつけ共倒れをし、遅れてひとりフリーで入ってきたゴディンが決めた。完璧なチームプレーである。その後アトレチコは守備を固めると、イニエスタ、ネイマールを投入するもゴールマウスをこじ開けることができずにタイムアップする。アトレチコの18年ぶりのリーガ制覇である。2強時代に終止付をうつ。アトレチコは今季優勝に相応しいチームであったというコメントが多く出る。
5月 16日(金)
「20世紀を築いた構造家たち」 を読み通す。第5章「ローテクの可能性」というネーミングに感心する。キャンデラとディエステの話である。シェルは人経費のかからない発展途上国で発展した。第6章は日本の構造家についてである。晩年の木村俊彦氏には、池田昌弘を通してお会いしたことがある。氏は体を患い十分にしゃべることができなかったが、頭は妙に冴えていた。そのときでさえ、ぼくの建物を批判した。彼の設計へのこだわりがそうさせていたのだと思う。その尋常のなさをこの本からも知ることができた。池田昌弘はそれを引き継ごうとしていたのかと思う。ピーターライスに対しても同様の印象をもった。「構造に人間性を付与し、設計哲学を視角化することに徹底的に執着した」とある。そのため、様々な議論を呼び起こしたという。ポンピドゥーのガーブレットであり、ロイズオブロンドンのコンクリート被服をいっている。途方もない技術を得た優秀なエンジニアたちが、次に進む道は皆、自らの人間哲学の模索であった。この本から学んだ一番のものである。この執念さにおいて建築家は負けているかもしれない。
5月 15日(木)
昨日の授業についての質問を学生から受ける。よい絵・写真は何かという質問である。ぼくも同じような疑問を学生の頃抱いたことを思い出した。よいとされているものは、伝統の上にあることを話す。ぼくも当時はセンタリングという考えが判らなかったけれども、今ではセンタリング的な考えでそれらをみると、伝統の上に立って判断することができることを話す。それは絵、写真や陶器、音楽などある程度のものの理解に役立つことを率直に話をした。
アレグサンダーがIT分野に及ぼした功績について、昨日の授業で中埜さんが語っていたことを思い出す。それは、レイヤー、ボトムアップ式思考、セミラチス構造の3つであった。記しておく。
5月 14日(水)
中埜博さんを招いての大学院授業。難解とされるアレグサンダーのセンタリングを、パタンからランゲージへのつくりかたに重ねて解説をする。センタリングとは、ものつくりや現場作業を通じてわかるもので、ともかく頭で考えてはダメというものであった。頭で考えると疑問となる事柄も、実際に現場に立ち作業を行えば解答は明らかであり、ほとんど皆が同じ解答をみつけるという話であった。昨年、中埜さんが翻訳した「ネイチャー オブ オーダー」の核心となる話である。はじめに「ネイチャー オブ オーダー」にもある写真を見比べる実験を行う。左右の2枚の写真から自分に合っているものを選ぶ実験である。アレグサンダーのいういい絵=多くのセンターがある絵とは全て左である。結果は左:右=4:3であった。この結果はだいたいどの被験者でも同じだそうだ。それを聞いた学生たちは、解答が自然とひとつに収束することに対して、いたく疑問を持ったようだ。様々な考えをもつ人が一致していくマジックがあるのかという疑問である。ここにセンタリングというアレグサンダーの世界観がある。この説明を経験交えて話してくれた。ともかく多くの学生はこの話を通して、不自由なものとして見ていたパタンランゲージに対する考えが変わったようだ。使いこなすことで、自由が獲得できることを理解した。彼らにとって、これが一番の収穫であったと思う。誰もが詩を書くことができるが、詩人になれるのは一部の造詣の深い人である。パタンランゲージも同様である。誰もがある程度使いこなせるが、それを操れるのは一部の熟練した人である。センタリング的感覚を誰もがもっているが、使いこなせるようになるのは熟練と時間が必要なのだ。はじめから玄人になる素晴らしい方法などない。ただ、皆その可能性をもっている。そのことが通じるとよい。同様に、センタリング=全体を掴む訓練をどのようにしたらよいかという質問があがった。ぼくはやはり、よいものとされるものを多くみて、一心不乱に無茶ぶりスタディをするしかないというアドバイスをした。「弓と禅」程ではないが、型の訓練から判ってくることは意外に多いと思う。
5月 13日(火)
「20世紀を築いた構造家たち」 第4章「アメリカの構造技術史」を読む。摩天楼と橋を中心にしたアメリカ構造界を、経済との関連で説明する。はじめは懐かしいワイドリンガーについてである。三沢浩氏のレクチャーでリーダーズ・ダイジェスト(設計:レイモンド)の構成に頭をひねっていたことを思い出す。現在の毎日新聞社のあった場所にこの建物は建っていた。サルバトリーとワイドリンガーが親しい関係にあったこともはじめて知った事実である。SOMのイェール大学図書館もワイドリンガーがエンジニアとして参加したという。ともに実直なエンジニアである。ルイスカーン、アルバートカーンに継ぐファズラー・カーンという人物も知る。ファズラー・カーンは多くの超高層を手がけ、SOMに属していた。同僚にロバートソンがいて、このころからSOMには優秀なエンジニアが集まっていたのである。最後は、WTCについてである。ロバートソンとミノルヤマサキとの傑作である。チューブ構造と崩壊との関係が記される。フラーとコマンダントの記述が少なく、ミースのガラスの摩天楼からの一連の記述がないのは少し寂しかった。
5月 12日(月)
087 5月11日 プレミア マンC×WBA
マンCは落ち着いてゲームをコントロールする。守りを固める相手に対して焦り、状況を悪くすることが最悪のシナリオであった。そうなってもおかしくない状況であったが、ナスリのミドルでこれを打開する。前半終了間際である。ヤヤ・トゥーレ(コートジボアール)を中心に、シルバ、ナスリの3人でゲームをコントロールする能力がある。サイドいっぱいに開いてから、中央にスペースを残しつつそこを突破する攻撃である。山口がピッタリとヤヤ・トゥーレに付くという代表のシナリオは可能だろうかという疑問がわく。試合後、優勝の歓喜に酔うファンでピッチがいっぱいになる。が、5分後の表彰式では皆が平静にスタンドに戻っていたことにまた驚く。プレミアもFA杯決勝を残すのみである。
5月 11日(日)
086 5月11日 プレミア マンU×サウサンプトン
香川が中盤の底で先発も前半終了と同時に交替となる。サウサンプトンの激しい前線からのプレッシャーに、本職でない香川は苦労した。ここ数試合、ボランチ香川が新しい試みである。イタリアのピルロのようなプレーを期待するものであろう。短いターンでかわす場面も多かったが、囲まれる場面も多く、前線への配球ができなかった。このあたりはサウサンプトン ポチェッティーノのお家芸である。吉田はここで鍛えられていることでもある。ユナイテッドは、今季を象徴するようなゲームで、その中でも前半は最悪の部類に入るものであったろう。10得点を目標にかかげた香川にとって、不本意な1年だったに違いない。今季後半はポジションをつかんだが、コンビネーションをあげるまでいかなかった。香川は、連動がチームに求められたとき、力を発揮するタイプである。香川は生かし生かされてこそ力を発揮する。最終戦をユナイテッド勝利で飾れず。
5月 10日(土)
「20世紀を築いた構造家たち」小澤雄樹著 を第1章から3章まで読む。モダンストラクチャーの系譜を、構造の実務に即しながら解説した書である。ぼくら建築家にとっても判りやすく、あらためて知ったことも多かった。マイヤールの橋は改良に改良を重ねたものであること。フェロセメント(フェロ=鉄)はネルヴィのつくった造語であり、「ソロンアネリ」ではじめて大きく適用したこと。トロハの「アルヘシラスの市場」のリングは、実は直径3センチ16本からなっており、スラスト力に対するテンションリングの役割があり、フィレンツェのドームではブルネルスキーはそれを木でやっていたこと。当時の構造家は実業家でもあり、ネルヴィやキャンデラは施工会社をもっていたこと。イスラーやキャンデラは自ら考案したシェルの特許をもち、その施工販売で会社を大きくしていったこと。イスラーもガウディのように、麻布の逆さ吊り実験をして、懸垂面シェルを実現していたこと。RCで覆われたプラネタリウムの球形ドームが、はじめてのモニエの鉄筋コンクリート植木鉢の直後であったこと(年代不明)。それをデザイン製作したのは「プレスウラの世紀ホール」と同じ会社であること。などである。
086 5月10日 ブンデス マインツ×ハンブルガーSV
岡崎マインツの最終戦。前半に岡崎は、チームが守備に追われボールをうまく受けることができずに孤立するが、ワンチャンスをものにする。見事な切り返しとなる今季15点目であった。これを象徴するように、この1年のチームメートからの信頼というものは大きかった。そのため岡崎は本来の実力を出すことができた。W杯に続けてもらいたい。対象的にニュールベルクは降格が決定する。清武、長谷部は十分な成果をあげることできず。長谷部はその責任を感じ、怪我の状態を顧みることなしに今は自分を拾ってくれたチームに尽くすべき、と判断し、出場する、しかしフル出場は意外だったに違いない。長谷部の心意気に感動する。
5月 9日(金)
「職業としての学問」マックス・ウェーバーを読む。1919年のドイツでの講演記録である。前年にドイツは敗戦している。学問を行うものへの倫理を訴えるもので、当時の世界状況との関連がいまいち掴めなかった。またいつかチャレンジしようと思う。
5月 8日(木)
「家の理」難波和彦著をいただく。早速読む。帯が松岡正剛。「日本人の家の秘密があかされている」とある。家の原型論を現在の難波の箱の家論まで連続させたことをいっている。この本で、一室空間を家の原型論と関係づけているのが新しい。今までの家の原型論といえば、構法(物理性)の説明か空間論に限られていた。空間を理性的に扱うか、あるいは肉感的にと扱うかという記号性の問題として、であった。原型論に家族という人間関係(機能性)を持ち出したのは、これまでなかったのでないか?そしてこの本では、家の原型論を持ち出すことによって、巧みにこれからの住宅の進むべき方向性を示唆している。それは部品化(工業化)を通して性能を向上させていく住宅の道程である。それは、建築家の仕事が依然としてコトつくりでなくモノつくり中心であることでもある。それを優しく通底させていることを嬉しく思う。少なくとも子どもたちはそう感じるだろう。線の密度による濃淡で全体を表現し、輪郭をぼかす絵の中で、「KAMAISHIの箱」の絵だけがリアルである。
NHK特集で「薬師寺」を見る。薬師寺が昭和40年には、東塔と国宝薬師三尊像を安置する仮講堂しかなく、藪の中に朽ち果て、誰もが気付かない程落ちぶれていた写真を見て驚く。そういえば、国宝の法華寺を20年前訪れたときも似た感想をもった。薬師寺をここまでに再建したのは、官長高田好胤(こういん)を中心に、写経による寄進に成功したからだという。国が創建した薬師寺には檀家がいないことによる。家の娘2人もこの写経を行った。西岡常一棟梁も同様に官長高田の人柄に感化され、次々と薬師寺建築の再建に力を貸していったのである。それで現在がある。
5月 7日(水)
ロースのミュラー邸の平面を読む。ロースは、ミュラー邸(1930)の前に、同様のシュトラッサー邸を1919年にデザインした。これがラウムプランのはじまりとされる。このシュトラッサー邸は既存の改築であった。天井高のある空間に中2階の床を挿入していくうちにラウムプランを思いついたのだという。最初のラウムプランの適用が改築にあったというのが興味深かった。大学院時代に、ホワイト派を参考に、グリッドスケルトンの中に床を挿入する友人がいたことを思い出した。ホワイト派の歴史の連続と、それを知ることで建築の世界観がだいぶ変わっていただろうと思うと、恐ろしささえ感じる。
5月 6日(火)
085 5月6日 プレミア マンU×ハル
香川がボランチで出場。ハルは残留が決まっているため、プレッシャーもそれ程なくボランチの役割を無難くこなした。このフォーメーションは、決定的な裏へのパスが期待されたものであると思うが、数本にとどまる。もっとフェライニの頭へのパスと織り交ぜてもよかったのではないか?それでも前半は2本の遠目からのシュートを放つ。ヤヌザイと同期の3人が先発し、若い彼らは生き生きとプレーをしていた。残り20分で監督ギグスが登場。香川は左MFに変わり、息のあったロング・ミドルパスを繰り返す。縦への展開が少し見られた瞬間である。ギグスからのロングパスを香川がファウルをもらい、ギグスのフリーキック。ほしかった。これでギグスのもつ24年続いたプレミア連続得点に終止符が打たれる。
5月 5日(月)
084 5月4日 セリエA ミラン×インテル
本田不出場。長友も、始終守備に追われよいところがなかった。前半はインテル押し気味も、後半はミランペース。3バックの攻撃的シフトであるとしても、縦のパスが入らないことが、インテルの上位との差であることを感じる。ELを目指すミランは、インテルを射程範囲にとらえる。セリエAも残り2節である。
5月 4日(日)
「ルネサンス 3章真理の探究—ルネサンス期の科学の進歩」 サートン著を読む。ルネサンス期における様々な発見を紹介する。地理上の発見、天文上の発見などの他に病気があげられる。梅毒と黒魔術であった。したがって、この時代は決して明るい状況ばかりではない。続けて6章の「芸術家、科学者、天才」 パノフスキー著を読む。ここででもルネサンス期の芸術家たち人文学者たちの功績が称えられる。中世と異なり、距離をおいて世界を眺望できたことが進展を遂げることができたという。そのための技術として初期には遠近法、そして望遠鏡と顕微鏡、最後に写真の発明が大きな役割を果たしたという。「ルネサンスは、頭だけでいろいろ考え手いる者を、手仕事をする者から分け隔てていた溝に橋を架けたのである。(中略)自然学での最重要な発展が、学者先生たちよりもむしろ芸術家たちによってなされた」とある。理論と社会=現実を繋げたという意味で、ルネサンスを近代に入れる理由が示される。
083 5月3日 プレミア マンU×サンダーランド
香川不出場。理由は体調不備のためとある。ユナイテッドは決定的シーンすらつくれず0-1で敗ける。攻撃が単調で、年当初のモイーズ体制に戻ってしまう。中央を固めるDFに対して、サイドアタッカーはドリブルをしかけては詰まり、スペースをなくすだけである。ナニ、ヤングはこれをどう考えているのか?個の打開のみを求めチームメート連動が全くない。
5月 3日(土)
「ルネサンス 6つの論考」を読み始める。昨日のディオゲネスの興味から、ルネサンス・ラファエロの「アテナイの学堂」をウエブで見ているうちに、ギリシアの哲学者たちがこの時代にバチカンに描かれた理由を知りたいと思った。ルネサンスとギリシア哲学の関係についてである。この本は「アテナイの学堂」が表紙である。そしてルネサンス研究の伝説的シンポジウムをまとめた本である。
その中から、4章「ルネサンス期の、人間、神、そして教会」バイントン著 を早速読む。一般には、ルネサンス期の人々は穏やかで明るいというイメージである。科学、芸術、医学、文学あらゆる分野での探求開花がそう思わせる。その手本になったのが創造主(デミウルゴス・ポイエシス)のいるギリシアであり、バチカンにギリシア哲学者たちが描かれている理由である。が、現実は必ずしもそうでなかったようだ。それに対する厳格で中性的世界観が大半を占めていたという。この本の主旨はここにあった。ヘブライキリスト=一神教とヘレニズムギリシア=多神教のせめぎ合いは永遠続いていた。このルネサンス期は確かに、ギリシアの急激な高まりが事実であったとしても、近代視点がさらにそれを増幅させているというものであった。そしてこの2つの対立からルネサンス後期に宗教改革が起き、結局はキリスト教を強化させることに繋がった。こうした構図を宗教から切り離し、古代ギリシアで起きた社会変化として述べているのが柄谷行人の「哲学の起源」であろう。このことを理解する。
5月 2日(金)
「a+u 524木造がつくる新たな風景」を読む。レンゾピアノのインフラフリー住宅が紹介されている。CLTパネルに似たXLAMパネルという木構造をアルミで覆った2.5×4 m(トラック輸送可)の自立型住居である。中に太陽光発電・太陽光給湯・雨水槽・バイオトイレ浴室・キッチン・冷蔵庫・自然換気設備が収容されている。どうやらあらゆる環境に適応するように閉鎖型の住宅のようであるが、肝となる空調換気方式が見えてこないのが残念である。この住居の名ディオゲネはギリシア哲学者ディオゲネスから由来したという。早速ディオゲネスを調べる。西洋版の一休さんである。酒樽に住んでいたという逸話もあり、コスモポリタンであった。ラファエロのバチカンにある「アテナイの学堂」の中央にひとり寝そべっている人が彼である。ネーミングに感心する。他に、ナイジュリアのマココという水上生活者のためのフローティングスクール。ベルギーとスイスのログの住宅(熊小屋)も興味深い。
5月 1日(木)
「限界デザイン」三宅理一著を読む。本帯にある「限界から見える建築の必然」に惹かれた。ここに上げられているのは、南極や貧困国、あるいは災害や戦争の極限状況を脱した直後の住宅の紹介である。極限の後に何かしらの新しさがもたらされる。ぼくら建築にたずさわるものにとって、その希望の書ともとれた。読み進めるにつれてカントの崇高論を思い出す。カントもリスボン大地震を経験して崇高論を書いたという。崇高という考えはこのとき存在していなかったし、そもそも情感を記述することも当時なかった。限界によって価値観の転換が起きるのである。力学では「限界状態設計」。英語ではリミット・ステート・デザイン(LSD)という。プルーヴェの6m×6mハウスを、数年前鎌倉の近代美術館で見たことを思い出す。自由度のあるプリファブリケーションにいたく感動した。フィンランドカピュラでのログの難民住宅が高級住宅地に変貌しているのには驚いた。もっと時代が流れ、この時代を大局的に見ることができれば、ここに上げられている建築は時代がつくり出した偶然のものといえないだろうか。必然と偶然は立ち位置の違いからくるものかもしれない。銑鉄、鍛鉄、鋳鉄、錬鉄、鉄鋼の歴史も勉強になった。
082 4月30日 CL準決勝 チェルシー×アトレチコ
1-3でアトレチコの勝利。決勝はマドリードダービーとなる。緊張感のあるよいゲームであった。チェルシーの先制とアトレチコの3点目は、固い守備を崩すお手本のような攻撃である。ボランチのチェックを受ける前に、サイドから反対サイド奥に一端ロングボールを叩いてからの折り返しによる得点である。チェルシーはニアにトーレスが入り込み、アトレチコはさらに反対サイドを上がってきたトルコ代表10番トゥランが決めた。チェルシーにとってこの3点目が痛かった。2点目以降、ポストとGKに嫌われたあわやのシーンもあり、よいかたちを多数つくっていた。その矢先の失点であった。モウリーニョの策もこれで尽きる。