7月6日(日) 「すばらしき世界」西川美和監督を観る。主人公は、刑期を終えた役所広司。役所演じる主人公三上の社会に適応されない苦悩を描く。その後に公開されたヴェンダースの「パーフェクト・デイズ」の主人公平山(役所広司)は、この映画の後の人物のようにみえたほど、2つの映画は似ているが、平穏なすばらしき世界が、ちょっと嫌みな犠牲の上に成立しているというのが、ぼくにとって救いだった。一方のヴェンダースの映画には、徹頭徹尾そういった考えはない。動物的でないスノビズムを正面から評価、達観している。特別な人のみがタイトロープするわけでないのである。「コモンズとしての日本近代文学」を続ける。「すばらしき世界」西川美和監督が、この本でも取り上げられている夏目漱石の「夢十夜」の監督も手がけていることを知る。
7月5日(土) 4年生の設計講評会に参加。越野スタジオは境界をテーマとする。都市スケールを考える境界をテーマにした面白い案があった。そのときのシミュレーションも都市的スケールでやるとよい。国分寺崖線という敷地はその選定に妙があった。比嘉スタジオの作品は敷地が渋谷のスクランブル交差点で、渋谷に代表されるみんなの現代感覚が判って面白い。大規模開発に対するストリート性の復活、情報/リアルの対立をステレオタイプ的でない方法で示すことが重要かとも思う。その点で、私小説的な少女の視点で設計を展開させる作品のプレゼンは秀逸であった。建築が何かしらの問題を解決するものだとしたら、若者を抑圧する問題が開放されているところに建築が一役買っているのが気にいった。他には、情報過多の問題や消費社会を扱うものもあり、批判性をそこに込めるのもひとつだろうと思う。そのための表現が欲しかった。それを比嘉さんは芸術性といっていた。3年生との合同講評会では、そこが響くかもしれない。
7月4日(金) 今年の読書会で新しい発見があった。建築家という原作者問題についてである。カルポによると、アルベルティ以来の表記方法が変わって、ぼくらはソフトの上の第2原作者でしかないという。これは現在の非建築家論を支えるものでもある。しかし、どうだろう。カルポの「アルファベットそしてアルゴリズム」出版から有に10年経っている。そんなことを遥かに超えて、柳田国男のように遊動的になったらどうだろうと思った。建築家は捕らわれていたはずの表記法を行ったり来たりはできないだろうか。新しい原作者的姿勢。「建築」の新しい拡張である。これは文学の世界ではじめられているらしい。「コモンズとしての日本近代文学」ドミニク・チェン著を読み始める。
7月3日(木) ゼミにて今年の読書会のまとめ。「森は考える」にあるように、話題をイメージできることを促し、そして学んだことを実際の設計行為にどのように結びつけたらよいかを具体的に考えてもらうこととした。「デザインの鍵」の「96広げるほど決めやすくなる」は、全体像をイメージするのに役立つだろう。そして「81子供は理想のデザイナー」はこれを保証する実践としてぴったりのエッセイだと思う。その紹介をする。ぼくとしては、そういった道具の存在は大事だと思うので、デザインスゴロクやパタン・ランゲージを日々薦める訳である。ガジェットとは、思考を外側に拡げてくれるものなのである。
7月2日(水) 3年生の小学校課題の提出。優秀案の中には、小学校の教育プログラムにまで提案する案がいくつかあったのに感心する。これまで見ることができなかった傾向である。それと、将来を見越しての提案をしている作品もあった。これは今後の課題展開として頼もしさを感じた。そうした中で、地域の中の学校を着実に扱うことができた作品が評価されたという印象。ただし、恵まれた地域環境のものばかりでなく、東京のものもあった。素材とか平面形状をテーマにしてスペキュラティブな発想をした案は、やはり学校プログラムとの整合性から設計の密度感を出すのが難しかったと思う。しかし今後に期待である。
7月1日(火) 岡崎乾二郎が気になり、「抽象の力」を再読。夏目漱石の「F+f」が、エドゥアルド・コーンのエスノグラフィーに通じるものを感じた。岡崎が言うには、このFとfとの函数を見つけだすことを近代画家たちは行っていたというのだ。これを抽象といっている。
6月30日(月) ゼミにて「森は考える」エドゥアルド・コーン著の読書会。ルナ族との生活から学んだ人間の別の思考についてが記述されている。森を主として、その元で人も動物も生ある思考(野生の思考)をするという。それは、言語に基づく象徴的思考とは異なる。それが何かというのが本書のテーマであるが、犬が噛むや咬むをじゃれながらその違いを学習するように、あるいは、ルナ族が道具を使って身体と一体となって狩りの精度を高めるような思考のことである。人や動物や、女も子供も、それぞれ別な考えをする。しかし、ただひとつ主たる森の中にいることで、あるいはやがてむかえる死(不在)という前提のもとで、別とはいえ互いをシンクロさせることがまた可能となる。森に宿る思考によって、新しいロジカルタイプを生むことができるというのだ。最終章は「越える」である。生命だけでなくある枠組み(形式)が増え拡がることまでをいおうとしている。このように本書は、G・ベイトソンの認識論が下敷きになっているし、何度も登場するようにパースの記号論、イコンーインデックスー記号過程からはじまっている。本書は森にダイブするエスノグラフィーであるが、ブルーノ・ラトゥールの「科学がつくられているとき」は、現代最先端科学者の実験室にダイブするこれまたおかしなエスノグラフィーである。主旨は同じである。このことを思い出した。
6月29日(日) 午後から、例年のお中元のためのももの買い出しに、笛吹市行き。今年もこの時期が来た。いつもの2つの共撰所を周り、贈答用と規格外の自宅用のものを買う。夕方に笛吹市みんなの広場の屋外施設(高橋一平設計)を観る。強弱軸を鑑みた柱を放射状にした天井の高い覆いである。施工は日南鉄鋼。日南鉄鋼の鹿島さんにはいつもお世話になっている。構造は誰かと思い調べたところ、佐藤淳氏 であった。佐藤さんには珍しくスケール感に疑問を感じる。どうしてだろうと思う。中央高速がまだ混んでいたので、ちょっと遠くの鼓川温泉に行き、近くにある蔵をリノベした居酒屋で食事をして時間を使う。ジャズのライブをしていた。夜遅く帰宅。
6月28日(土) 大学の教員として、保護者会の出席のため、大学行き。夕方、鈴木さんとアンデルセン公園美術館の打合せ。模型を確認しながら、園との打ち合わせ内容について確認。市長も再選したので、プロジェクトが上手く進むとよい。このプロジェクトは洞窟ぽい。アンデルセンが無名時代にイタリア旅行したときの小説「即興詩人」がヒントとなっている。洞窟的空間は園からの要望でもある。この小説の中盤のクライマックスが、主人公が目新しい様々な体験をしたなかでのカプリ島の碧の洞窟での出来事にあった。ここで美についてや自己表現について、転換期をむかえる。物語では、盲目の恋人に再会する場所である。嵐で気を失った後で、主人公はこの洞窟の美しさを彼女に言葉で説明する。碧の洞窟が登場するのはもうひとつ、この小説のラストである。今度は心が平穏な状態で、家族を連れての再訪である。様々な状況でこの洞窟はアンデルセンにとって特別な場所であった。幸いに、ぼくらに与えられた場所の手前には、アンデルセンの旅行好きに関する展示がある。この展示場所も、この小説のような位置づけで、最終地点となるシークエンスとして位置づけできたらよいと思っている。
6月27日(金) 065 CWC マドリード×ザルツブルグ ついにCWCを観てしまう。CLでもありそうなカード。シャビの采配がネット上で賑わせているので観たくなった。今日は得意の3バックでのぞんでいた。ヴィニの守備が問題にされているのだが、この程度のチームではさほど問題にはなっていない。いつものように速攻からの大活躍。アーセナルに大敗したように上手くビルドアップしてくる相手に対していかに戦えるかは、今後のノックアウトステージで判るのだろうと思う。
6月26日(木) 遠藤研在室の斉藤くんがスペインへ旅立つので、M2生と一緒にお別れの会。まずは、RCR主催の国際ワークショップに参加するそうだ。それから、スペインの設計事務所で半年間バイトしながら、ヨーロッパを回りたいという。実にうらやましい。彼は学部時代からいくつかの自分のプロジェクトを抱えていたくらいの実行力があるので、スペインに行っても、多くのことを成し遂げるのだろうと思う。向こうの事務所も実は決まっていないようなので本人は不安だろうが、ぼくは成功を確信したりしている。朝から事務所の外壁修理工事が始まる。夕方には、妻から進行状況を知らせるメールが届く。
6月25日(水) 午前の授業に対するリアクションはなかなかつかめないものであるが、ある学生が期待した以上に深く考えていたことを、設計授業の後に知った。彼は、ぼくの授業からアレグザンダーに興味をもち、アレグザンダーの核心部分に触れることができたという。それは、自然摂理全体の中の一部に自分がいることを自覚することによって、安寧できるということだ。そのことに気づいたという。彼は高校時代に大工の修行でかなりのめり込んだらしい。そのときに見出した体験と重ね合わせていた。今週の研究室での読書会「森は考える」や、スティーブン・ジョブスも愛読したというヘリゲル著の「弓と禅」も紹介した。その同質性をAIという現代現象にも見出そうとしているのも面白い。最近の岡崎乾二郎が寄せるアフ・クリントについての解釈もそこにある。因果からなる一般の科学的思考とは反対のものがある。
6月23日(月) 「遊動論」柄谷行人著の2回目の読書会。担当者は最終章までまとめてくれた。この本の著者柄谷行人の論の進め方がユニークなのは、太古の日本人が掲げていた小さき固有信仰が度重なる上書きによって現在があるという視点である。家族形態の変遷や定住革命あるいは普遍信仰などの発生によって社会が劇的に変化しても、日本固有信仰や祖霊信仰的なるDNAものが、生き続けているという。それを担っていたのが山人であるというのだ。山人は社会や経済に縛られることなく自由に遊動し、構成員間で対等な社会をつくっていた。最後に、遊動論を実行できる現代の人物はどんな人だろうかという質問をする。建築家がそうであってほしいと思う。経済原理や社会の規制概念から外れて、自らの例えば「棲まう」というような信念に基づき行動をする。ネットワーク論でよく引き合いに出すのだが、何もしなくとも自動的に動くようにまで達した強烈なヒエラルキー型社会における見えない中心へ物申す中間にいる人のことである。こうした行動が少くとも5%足らずで、このヒエラルキー構造を崩すことができるというのは統計上明らかになっている。この5%の人と、この本で登場する折口信夫の「マレビト」との関係を調べたら面白いだろうと思う。チャンスは外にあるのだというウイリアム・ブレイクの格言を思い出す「自らの翼で飛ぶのなら、どの鳥もさほど高くは飛べない」。
6月22日(日) オープンキャンパスのため大学行き。学科説明会を行う。沢山の来場者があった。夕方、都議会選挙のため母校の小学校へ行く。統廃合で既になくなっており、この春に隈研吾氏によるコミュニティセンターに変わっている。ちょっと歪な敷地の形状に合わせた動きのあるプランニングになっているのは、流石だと思う。全体像が単純には把握できないようになっている。外部庇のルーバー表現は隈のトレードマークで、周辺の住宅と馴染むのに役立っているのだが、予算が厳しかったのだろう。設計密度が低く、ざっくりしたものになっている。室内も見学することができ、一通りを観て回った。小学校の歴史を紹介する立派な場所が用意されているのだが、資料が乏しく、見かけだけとなっている。関心のなさの現状を露呈してしまっているのは、建築と同様である。
6月21日(土) 「ビッグアイズ」ティム・バートン監督を行き帰りの電車の中で観る。実際のアーティスト マーガレット・キーンを扱う実話である。彼女の作品は、目が異常に大きくまん丸で無気味で、ティム・バートンが好みそうな感性がよく分かるのだが、映画の出来映えは必ずしもそうなっていなかった。
6月20日(金) 「森は考える」エドゥワルド・コーン著の再読。TVで「ミッション:インポッシブル デッド・レコニング」を観る。デッド・レコニングとは、GPS機能が効かない状況をいう。暴走するAIとの闘いである。C・マッカリー監督。いつものようにトム・クルーズが世界中を飛び回る。メインとなるのはベネチアのドゥカーレ宮殿。光と映像で幻想的な世界をつくっているのは、作品の独自性を出そうとしたからだろうか。マッカリーが手がけた脚本に「ツーリスト」ジョニー・デップ主演がある。これもベネチアを舞台にする。それと対照的で、望遠レンズを使用したシーンが多く映像的である。
6月19日(木) ゼミにてアンデルセンでの展示内容の検討。ゼミの合間に、3年生向けの企業セミナーを観て回る。学生は熱心に参加。クラブワールドカップのレアル戦ダイジェストを観る。シャビ監督の初陣。そうは簡単にチームは変わらないことを思う。速攻一発から連動への変換は、全員の意思統一が大事で、その醍醐味を判らないといけない。これは設計も同様である。チーム内の担当教員から手厳しい意見があり、それを思う。「森は考える」にあるように、他人が集まって生態的に生きることを前提とするのが大切。サッカーの場合、連動的といってもよいだろう。ヴィニのように能力が飛び抜けている者ならまだしも、そうでない者は尚更に知る必要がある。
6月18日(水) 小学校課題に特化して、色々なアドバイスを計画の授業で行う。どれだけ響いただろうか? 考えるよりもメッセージを伝えるのは難しい。学生との間での前提の共有こそが難しい。建築家としての主体性をコンテクストを含む地域ネットワークから導こうとしているのはよいが、学校運営のそれに置いていないのが気になるところ。それでも前向きな学生が多いことに感心する。
6月16日(月) ゼミにて「遊動論」柄谷行人著の読書会。柳田国男に興味ある学生の要望に絡めて、数ある柳田の書籍から、ベイトソン的な認識論を人類歴史にまで応用した実例として、この本を紹介してみたいと思った。こうした認識構造は、社会をスムーズに発展させるためには必要であった何かを抑圧するために、人類が編み出したものという点で共通性をもっている。この本では、対等たる交換方式を維持するために人類が悪戦苦闘してきた知恵の連続が描かれている。柄谷は、柳田のいう山人に最初のそれをみている。
6月15日(日) 軽井沢行き。追分近くで蕎麦を食べた後に打合せ。近くの別荘風のカフェで。その後、夕食を御代田の飯箸邸で。坂倉準三の戦後まもなくの住宅である。入口はかつての裏口。今日は生憎の雨にもかかわらず、3mもあるだろうテラス窓が開いていた。開き戸で、テラスにある大きな石は思っていた通り開き戸受けであった。そこまで保存されている。しかし3mもある開き戸は、鉄筋引張材で構造補強されていた。網戸はなく、夕方の庭への連続は気持ちよい。
6月14日(土) 今日は雨で、しかし梅雨も今日までらしい。午後は、父のCD棚の整理を行う。思い切って全集類を処分し、棚を空けることからはじめた。その後分散していたピアニストとバイオリストをピックアップし空いた棚にまとめる。その中で何人か興味あるピアニストの演奏を発見した。今度聴いてみることとする。
6月12日(木) ゼミにて、夏のアンデルセン公園での展示内容について話し合い。今日は案を持ち寄り、来週以降も検討を続けることにした。夕方にOBの薄井くんが来研。無事に就職先も決まったという。現役の大学院生らと喜びを分かち合う。薄井くんからは、昨年度M2生からの贈り物として「BLUE GIANNT」のLP版をもらう。コミック版に続いてだ。早速、自宅に飾る。
6月11日(水) 「小さな美しい村」細井久栄著を読む。アレグザンダー設計の盈進学園東野高校の工事記録である。細井さんは当時の理事長である。細井理事の木造低層学校を佐山の地に完成させるというなみなみならぬ決意があったことをが伝わってくる本だ。しかしそれが巻き起こす既存社会との多数の軋轢があり、時に崩れそうになるも、アレグザンダーの信念やアレグザンダーから学んだ自然摂理との対話を通して、ひとつの仕事を成し遂げることができた。その達成感が伝わってくる本だ。そこには住吉棟梁や石黒左官などがおり、NHKドキュメンタリーになりそうでもある。完成40年が経ち、今ではその多くが普通のこととなっているのに驚く。盈進のスライドを学生にみせると、多くの学生は素直に受け入れている。
6月10日(火) 064 代表 日本×インドネシア W杯予選最終戦をホームで行う。久保、鎌田、遠藤以外は新しい顔ぶれ。これまでベンチメンバーでもない面々である。ところが、6-0の日本が圧勝。久保は、3-4-3の前線の右でキャプテン。上下と内側に絞る動きもし大活躍をする。とくに鎌田との連動は申し分がなかった。久保の新しい一面であった。インドネシアは、クライファートが監督であったのはびっくり。多くの選手がオランダ人であった。しかしそれでも日本はレベルが違った。鎌田は2得点。1トップの町野のポストプレーも効いていた。やはりヨーロッパで結果を残す選手は違うと思う。今日のメンバーでこの後ヨーロッパにたつ者もいよう。1年後に期待である。
6月9日(月) ゼミにて、「精神と自然」ベイトソン著の3回目の読書会。Ⅶ章「類別からプロセスへ」では、トートロジーをひとつのフォームということからはじめる。それは建築かとも思う。進化とは、つまりトートロジーを高度化していくことをいうのだ。そのために内部の調整(ストマティック変化)と、適する外部環境の選択(ジェネティック変化)があり、2つに時間的差異もある。これら2つを偶然に満足するときファームが現れるというのである。適する外部環境の選択は確率的という。降ってくるようなものだ。けれども、唯々待つのではなく網を張って待つ必要があるらしい。なぜなら事後的にしか降りてきたことがわからないのだから。そのために、複雑でトートロジカルな外部環境を把握するための学習システムもぼくらはまたもっている。両眼視覚とコンテクストの上の理解という能力である。これらを使わない手はない。
6月8日(日) 「反撥」ロマン・ポランスキー監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演を観る。カトリーヌ・ドヌーヴ演じる若い女が男性恐怖症ゆえの妄想から殺人鬼にまでなるという白黒映画。脚本が凝っていなく、瞳のアップなどの映像に偏執狂なだけの退屈な映画であった。
6月7日(土) 長女のフィアンセの家族との食事会を国際文化会館にて。とてもカジュアルなご夫婦であった。サッカー好きな研究者で、民間企業に長らく勤めていたようで、大学の状況を客観視できていたのが、会話を弾ませてくれた。国際文化会館でいつも感じるのは、前川、坂倉、吉村らの天井が低く重厚な建物に対して小川治兵衛の庭の明るいこと。近代建築でありながら庇(ベランダ)の出がそうさせる。それなのになぜ庇を近代建築は否定したのだろうと思う。と同時に3人をまとめた庭という存在の大きさを知る。
6月6日(金) TOTOギャラリで開催中の篠原一男展に行く。いくつかの気になる篠原の文章があった。新建築88年3月号の「大文字の建築としての小住宅」、55年学会の「モジュロール批判」、新建築62年5月号の「住宅は芸術である」、新建築72年2月号「はじめに全体があった」。同世代の池辺との違いが気になった。
6月5日(木) ゼミにて、「精神と自然」ベイトソン著の2回目の読書会。Ⅲ章は「重なりとしての世界」。両眼視覚に代表されるように、人は差異にこそ依存する。この章の核心である。最後に登場するトートロジーは、その解釈に苦労する。ぼくたちが常に真とする前提のことである。あるパラダイム内の命題のことである。記述は、トートロジーによって説明となる。記述を記号、説明を意味とするとよく分るかもしれない。ここでトートロジーといっているのがベイトソンらしい。Ⅳ章は「精神過程を見分ける基準」。これまでのモノや世界と同様に、人の意志決定や知覚、学習をも説明しようとする。精神もストカスティックであり、それは偶然的に起こる差異に支配されている。しかし暴走することはないのは、精神もトートロジーの世界にあるからだ。興味のある学生は、ベイトソンの「精神の生態学へ」にある「学習とコミュニケーションの論理的カテゴリー」を参照するとよい。ここでは学習0,Ⅰ,Ⅱが示されていて、 学習0は、失敗から学ぶことを知らない学習をいい、学習Ⅰは試行錯誤的学習、学習Ⅱは、試行錯誤後の解決パターン、そこにあるコンテクストを意識した学習である。そして学習Ⅲは明確に示されてはいないが、学習Ⅱのレベルにおける矛盾を解決するものだとし、セラピストによる高度な治療(戦術)を示す。精神病をダブルバインドといい、矛盾したコンテクストに置かれた状況とする。そこから脱出するための学習である。学習Ⅲとまでいかなくともこれを利用しない手は設計にないと思っている。Ⅴ章は「重なりとしての関係性」。自己はコンテクストとの二重記述産の結果というのだ。Ⅵ章の「大いなるストカスティック・プロセス」は、本書の中心をなし、いよいよ遺伝へ結びつける。 063 代表 オーストラリア×日本 W杯予選突破を決めた日本は、欧州で活躍しはじめた若手のテストに使う。システムは3-4-3とこれまでと変わらないので、本番でもこの攻撃的な形でいくのだろう。しかし、得点できずに0-1で負ける。以前の代表をみるようであった。ゴール前での連動がなかったこと、そして9番の不在である。上田の存在は意外と大きい。常連としては久保と鎌田のみ出場。
6月4日(水) 新建築今月号の巻頭論考は、三宅理一氏の「時代を画す」。磯崎、谷口、原、槇、4氏の生きた時代を論評。強烈な個性で、近現代を画する作品を世に送ってきたという。そうして日本の建築文化をグローバルなレベルに押し上げた。それは、地域主義的史観におさまらず近現代史のメインストリームであるのだ。「知の巨人」磯崎、「沈黙」の谷口、「様相」の原、「奥性」の槇である。
6月2日(月) ゼミにて、「精神と自然」ベイトソン著の読書会。担当者はプレローマとクレアトゥーラの説明からはじめる。原因―結果的説明とコンテクスト的説明の違いともいえようか、前者では説明しきれない世界が現実にある。それを感情とか人間性といった言葉でごまかすのではなく、真っ正面から説くのがこの本である。次に担当者が説明したのがストカスティック。一方でぼくらはランダムという自由な世界にもいて、そこから選択された偶然があたかも必然に向かうような様をいう。Ⅱ章「誰もが学校で習うこと」では、ぼくらは時間という一方向に沿って進み、絶えずある前提の下で生きている、ことをいう。ただし、立ち止まって新たな見方をもつことができるらしい。それを実感するためのいくつかのテストを示してくれた。そしてデザインにおいて新しい一歩にすることの可能性を、次章から示してくれるという。それは他者の利用、あるいはマレビトについてである。
6月1日(日) キーファーも参考にしたという尾形光琳の琳派の里の鷹峯にある光悦寺へ行く。以前訪れたときは閉まっていて初めての訪問となる。本阿弥光悦は、家康からこの地を譲り受け一大芸術村をつくった。その中心にこの光悦寺がある。そして光悦の後、光琳が琳派を発展させた。もみじの参道は新緑で色鮮やか、北側から下る細長い敷地に光悦垣に囲まれた7つの茶室がある。そこからの眺めは美しい。隣にある曹洞宗源光庵に寄ってから、光悦作「巴の庭」のある日蓮宗本法寺へ。信者である光悦が支援した寺という。光悦はやはり数寄者。国宝の白楽茶碗や金の硯箱から始まって幅広いバリエーションをもち、この庭は幾何学的である。長谷川等伯の巨大涅槃図もあった。等伯はこの寺で若いとき保護を受けたという。その後、等伯は本阿弥光悦と琳派をなし、涅槃図は60代の晩年の作品である。それ以前の作品は、智積院にある国宝の金屏風がある。以前に増田友也の建築を観る度に何度か訪れた。残念ながら智積院に行く時間がなくなる。本法寺の周囲は今まで知らなかったが千家のお膝元であった。表千家の不審案と裏千家の今日庵がある。もちろん表門だけ観る。今日庵の表門を兜門というらしい。浅い檜皮の寄棟で、棟に亙がのっている。中を覗くと垂木が放射状になっている。そして裏側の軒はえぐられていて兜のようだ。門の左は板塀戸で右には格子窓がある。その前の生垣は桑の木らしい。中の又隠の前にある豆撒き石もあるように全てが何気なくできていて、バランスとっている。比べて表千家の門は仰々しい。そこから車で、修学院にある高松伸が設計したカフェへ。この建物を買い取ったらしく、料金設定といいすべてをお客に任される運営である。コンクリートや床を綺麗に壊しかつての1室を客スペースにしている。玄関を上がって大きな階段も上る。そこからブリッジを渡って展望室にも行けた。1980年中30代の作品。美術館のような構成の決して広くはない住宅で、その気負いが心地よい。 062 CL決勝 パリ×インテル パリの圧勝。インテルの速攻を完全に封じ込めることに成功。それにしてもデンベレは守備もして自由に動き回り、新しいタイプの10番に成長している。
5月31日(土) 二条城で開催中のキーファー展へ行く。二条城の台所と御清所が会場であった。台所といっても重要文化財。土倉との間の前庭に10m程の高さのある彫刻「ラー」がある。門を入ると、「オクタビオ・パスのために」と題する10m幅の絵画がむかえる。この展覧会のための新作。広島と長崎の惨状を嘆く大地を表現した作品である。タイトルあるオクタビオ・パスは現代詩人。彼の詩「風、水、石」をモチーフにし、「一方は他方であり、そのどれでもない 空ろな名前の野ままで 過ぎ去り、消えていく」がテーマである。中央には逆さになった叫ぶ人がいる。全体的に物質の痕跡ある荒々しさが特徴であり、この人物はさらに激しい。フランシス・ベーコンに倣っているらしい。また大地を表現する放射状の畝も印象的。ゴッホの「耕作地の風景」にある上部円形太陽部分を剥ぎ取った部分であるという。ゴッホは、円形放射と1点透視図法による畝の衝突を構図とした。その横には「月のさるかさの雫や落ちつらん」と「ダナエ」という2つの彫刻。前者は歌で有名な江戸時代の大田垣蓮月の歌を自分に読み替えた作品である。ダナエは、ギリシア神話で幽閉された王女が神ゼウスの子を授かるという神話。「オクタビオ・パスのために」と同様にバランスに特徴がある。その裏も新作。6m近くある「アンゼルムここにあり」シリーズ。モネの睡蓮のような細長い構図に倣っているという。モネはまた、江戸の尾形光琳らの金屏風に刺激を受けたとされる。だから「睡蓮」のように池に植物がある。ただし激しく強い。そしてこれらの絵画に奥行きがない。二条城の狩野派の金屏風や琳派のそれである。障子越しに光が差し込み、金と水が鑑賞角度によって鈍く光る。後ろ向きのアンゼルムがいるのは、カスパー・ダーヴィト「雲海の上の旅人」である。そういえば、キーファーの作品は、先のベーコンにもあるように崇高である。自然と人の対峙がテーマである。この作品のポスターを購入。奥の御清所には、彫刻「モーゲンソー計画」や「谷間に眠る男」や「ヨセフの夢」がある。大地から生える麦が作品になる。戦争批判、戦争を嘆きながらも静かなランポーの詩、信仰への軽蔑と神聖さの同居。欧州の台所といわれるウクライナの状況を思い出さざるを得ない。御清所の障子越しには、いくつもの彫刻を庭に垣間ることができる。ここでもステレオタイプ的な伝統的な女性の批判をみる。この展覧会は、日本開催ということもあるのだろう。ドイツ人であるキーファーはドイツのかつての行いの反省という点で一貫している。その矛盾を真っ正面から、しかし批判的に、宗教や神話、先人の知恵を借りて表現している。その後、二条城の二の丸御殿を観て回る。8割が外国観光客である。何十年も前の修学旅行の時を思い出した。ぞろぞろと歩き回った記憶しかないが、ぼっーとその風景を思い出す。薄暗い木骨組みの中の薄明るい障子と狩野探幽らの金襖はよく似合う。その後は小堀遠州作とされる池庭、秀吉が模したという表千家の残月亭を遠く眺める清流園(中根金作)を廻る。続けて京都の池庭の見学。小川治兵衛の対龍山荘へ行く。無鄰庵の近く、南禅寺東山の水を上手く利用する近代庭園である。帰り際に長坂氏デザインのブルーボトルに寄る。山科伯爵邸の源鳳院は封鎖されていた。小川治兵衛の清風荘を通り北山方面へ。仁和寺山門近くの竹山聖設計の喫茶店へ行くも閉店であった。鷹峯へ。
5月30日(金) 午後から京都行き。九条にあるホテル周辺はホテルラッシュ。その間に昔からの昭和の住宅があり、そのコントラストが激しい。村野藤吾設計のホテル裏にはイオンのショッピングセンターもできていた。高辻通りの町屋を改装したイタリアンまで出かけ夕食。京都は東京と異なり全てがひとくるみにある。高級なホテルの横にバラック長屋があり洗濯物が干されている。そして、それをリノベしたお洒落な店舗もある。
5月29日(木) ゼミにて「無気味な建築」アンソニー・ヴイドラー著の読書会。本書における無気味の意義を自らの設計に結びつけることをメンバーに促した。ぼくらは様々なサロン的集団に属している。サロンとは、ある(暗黙の)規則を共有する集まりである。「建築」もそのひとつだろう。その場合、そこからあぶれるものが必ず出てくるので、そうならないような上手い仕組みつくりが必要となる。抑圧というものはそういうものだと思う。しかし時にその抑圧から回帰するものがある。それが無気味性をもたらすのだ。「建築」のいうこところの規則をいうと、ルネサンス以降の身体性や近代以降の透明性などが、本書で挙げられている。ぼくらは知らず知らずにそのラインに沿った設計をしているというのだ。コープ・ヒンメルブラウンやレム・コールハースの作品が名作たる由縁は、身体性や透明性にたいし意識的かつ戦略的な立ち位置をとっているからというのが本書の主旨である。サロンに属しているというと保守的な感じがする。しかし、サロンは個々個人以上に歴史的社会的に巧妙なネットワークを張り巡らしている。ぼくらはその一部であるとすると、それの活用がまた有効というのである。ベイトソンも好きなウイリアム・ブレイクの言葉を思い出す。「賢者には輪郭が見える、ゆえに輪郭を描く」。
5月28日(水) 多田研とのアイスバーブリッジ共同ワークショップ。昨年度修了の小川くんも駆けつける。力の流れの理解よりも、棒を繋げるジョイント検討が中心になってきた。形を安定させるために正確性が要求される。例年より低調であったのが気がかり。
5月27日(火) 移動中に「ロスト・イン・トランスレーション」ソフィア・コッポラ監督、スカーレット・ヨハンソン、ビル・マーレイ主演を観る。確か2度目だと思う。コンテクストを共有できないコミュニケーションの煩わしさをテーマとする映画で、どことなくベイトソンに絡みそうなので観たが、ラブ・ドラマであった。東京を舞台としていて、20年前の東京は今とそう変わらなく懐かしい。自宅近くのパークハイアットは現在閉鎖中である。ウイットに富んだ会話を多用する英語会話と意味不明な日本文化を絶えず対照化している。このときスカーレット・ヨハンソンは10代で、今のイメージにはほど遠い。時を感じた。
5月26日(月) 2年生の第1課題の提出。ぼくのスタジオの出来はよかった。建物と外部との関係もデザインし、のびのびしたものに多くはなっていた。なによりひとりひとりのインテンシティがよい。迷った末に優秀な1案を選ぶ。ゼミで「無気味な建築」アンソニー・ヴイドラー著の読書会。本書に挙げられている小説や建築を紹介し、まずは無気味について理解を担当者は促していた。次には、この無気味という考えが建築にとって何を意味するか、ヴィドラーの意図までいくとよい。この本に紹介されている、あるいは関係しそうな映画がいくつか思い出す。「ブルー・ベルベット」デイビット・リンチ、「ベルリン・天使の詩」ヴェンダース、「パリ・テキサス」もそうかもしれない。「レベッカ」に代表されるヒッチコックの数々、宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」も思い出した。
5月25日(日) 難波和彦著「アートとデザイン」を再読。この章では池辺陽と篠原一男と相違から建築のアート性と社会性を定義しようとしている。「内面的な根拠は、建築家にとって自立のための必要条件であっても十分条件ではない。建築家の思想は客観化され他者に伝達されなければ、社会的に認知されない。これに対し、建築の芸術化とは、客観化という手続きを飛び越えて、一挙に建築を社会化しようとする試みである。篠原(一男)が主張したように、それがそれまでの社会的・技術的なアプローチに対する批評であるかぎり有効であった。要するに「芸術としての住宅」は、マイノリティであること自体に社会的意義があったのである」。もっともなことであり耳が痛いが、現代はこの関係も逆転している。というより建築家の立ち位置は、もっと動的である必要があるのだろう。それはこの章の結論でもある。「与えられた設計条件から空間的な秩序をみちびき出す建築家の発想が一種のアートだとすれば、その空間的秩序にふさわしい構造的システムを案出するエンジニアの発想も、同様にアートである。あるいは、案出された構造システムにリアリティを与えるため、数学的な解析技術を駆使するエンジニアの仕事が工学的な作業であるとすれば、要求されたプログラムを論理的に分析し、空間的な秩序に結びつける建築家の仕事も同様に工学的な作業である。そのような意味において、現代の建築家は、建築をつくり出す巨大なネットワーク内のひとつの結節点であり、アーティストであると同時にデザイナーであり、エンジニアであることが要求されている。」 しかし、この字面を追えば、誰もが建築家であるともいえる。まずは、自立のための必要条件を満たす必要があり、学生にはそれを要求したいと思う。 061 ラ・リーガ マドリー×ソシエダ 今年度の最終節をむかえる。勝敗が順位には関係なく、監督アンチェロッティと10番モドリッチ退団のセリモニー的要素が大きかった。最後は、両チームが列をつくり拍手でピッチから送り出す。その時間の考慮なしに試合は終える。選手誰もがこうなりたいのだと思う。
5月24日(土) 「小さな美しい村 C・アレグザンダーと夢見た理想の学び舎建設記」細井久栄著を読み始める。盈進学園の建設記録をクラインアント側から描いたものだ。著書「Battle」は、建築家アレグザンダー側から同様なテーマを描いている。その翻訳作業は既にい終えているのだが、諸事情から出版許可がゴーになっていない。監修者の欄外コメントが詳細で素晴らしく、そんなこともあったかと思い出す情報も多い。その中に盈進学園の記録映画があるhttps://www.youtube.com/watch?v=m11ov0cwMrY(「東野を翔る」)岩波映画。その後、アレグザンダーの盈進学園での開講祝賀会における講演記録も観る。
5月23日(金) 4年生の設計授業の中間発表に参加。比嘉さんには、ちょっと頑張りが足りないという指摘を受ける。講評会の後、学生にアドバイス。「精神と自然」にあるのだが、自ら考える試行とそれを規制する外部条件に特段関係はないので、それを縫合していくところに、イノベーションがあるということ。そのつもりでアドバイスをした。
5月22日(木) 「アルファベットそしてアルゴリズム」マリオ・カルポ著の読書会。一通りの内容説明の後に、原作者性についての議論。カルポによると、デジタル・ターンの時代には、プログラムをつくる人を除いて、建築家は第2の原作者に進む運命であるという。それだけ、建築は表記法に支配されているというのだ。この本が興味深いのはここにある。ぼくらはそれに無自覚なのだ。ただ、ぼくが思うのは、デジタル・ターンをむかえるまでもなくアルベルティパラダイムの時代においても、「建築」というものの支配下にはいると思う。プリコジンがいうように、あるいは本書で取り上げられているドゥールズの「襞」もそういっていると思うのだが、「建築」あるいは○○道のようになものに理性の無限性の期待をこめて、その中にいる。つまり創造とは、それ程大それたものではなく、その中でおきるひとつの波紋を起こすようなものと思う。ただ、今日の議論もあったように、既存の「建築」から外れる道もある。華道に属さなくとも花を生けて愛でることは十分可能だ。それが、コジェーヴの「歴史の終焉」というものだろうか?なかなか達観するようにはなれないのだが。
5月21日(水) 060 EL決勝 トットナム×ユナイテッド 場所は、ビルバオ。リーグ戦は不調もELでは奇跡を起こしてきたイングランド勢同士の決勝。決定機がつくれず攻守の切り替えが鈍く、どちらかというと退屈な試合であった。あらためてバルサが攻めの姿勢を一貫させる凄さを感じた。守りを固めればそれは得点から遠くなるのである。その場合、奇跡を信じるしかないのだが、今日はそれが起きなかった。
5月20日(火) 「精神と自然」ベイトソン著の拾い読み。個体群での体細胞変化が遺伝子に影響を及ぼすという理論がよく分からず考えながら進める。途中色々な発見もあった。アナログとデジタルの梯子(あるいはフィードバックとキャリブレーション)とは、試行の結果名前を付けることだと気づく。建築においては、形式化することなのだろう。あーだこーだ考えても、時間や予算、クラインアントによって制御されてしまう。この繰り返しが梯子をのぼることなのである。だとすると、体細胞による変化は限定的なものなので、あーだこーだ考えるよりも、デジタルにあたる規制条件となる外部をコントロールする方が、梯子を上手く登れる。ぼくらはこの労力に実は欠けてはいないだろうか。そして、試行錯誤することを、アナログ事項とデジタル事項に分ける、つまり内的努力とそれが及ばない外部条件にわける能力もまた必要とされている。
5月19日(月) 「アルファベットそしてアルゴリズム」マリオ・カルポ著の読書会。1章と2章の説明。担当者は、アルベルティ以前の中世、アルベルティ・パラダイム、そしてデジタル・ターンと時代を3つに分けてその説明する。中世においては、つくることと考えることはペアであった。実は、このことがなかなか理解されにくい。素材もそれを実現するものでできていたのだ。この時代、日本でいう棟梁が建築家に相当し、西欧では石工である。石は積みながら絶えず方向や意図を修正できる。アレグザンダーのいう漸進的成長というもので、このとき作業と思考が並行している状態が人間的であるという。対してアルベルティ・パラダイムでもある現代は、つくることと考えることは分離している。コンクリート打ち放しがよい例だ。予め考えられた図面があり、その設計意図も不明なまま職人が鉄筋を立て型枠を立てる。職人さんはただただこなすだけだ。そしてコンクリートを流し込み、2週後の型枠外しまで上手く打てていたかの中身は判らずその間は設計者も不安。修正も効かないので、そのための事前にあらゆることを検討尽くさなければならない。だからその不安が絶えず押し寄せ、本来の人間性が足りないことになる。デジタル・ターンの象徴はファボラボだ。自分でPCを扱い好きな加工や造形が即時に可能となる。そして気軽に修正も可能だ。図面中心主義からファボラボへ移行することで、石工のようなつくることーかんがえることが混ざった技術が復活し、造形はもちろん、人々の精神状態からくる社会システムも変わっていくというのだ。
5月18日(日) 059 ラ・リーガ ソシエダ×ジローナ ソシエダの久しぶりの勝利。前半は特に、全ての選手が流動的で、SBもかない相手陣地まで深く入り、久保も中目にポジショニング、逆サイドにもいっていた。中盤のスピメンディもDF中央に入り、そこから受けるのは中盤底まで下がった前線ブライスであったりする。そのためDFラインが高く、裏のスペースにボールが出されて失点もしていたが、終了間際のゴールで勝つ。久しぶりの勝利だ。試合前には退任するアルグアシル監督の労いのセレモニー、終了後には胴上げもある。
5月17日(土) 今年度のCリーグを千葉大学で行う。会場は、新しく建築学科教員によってデザインした講義棟。キャンパス内の道路から直接下る講義室が、開けた場所性を感じさせる。ゲストとして、栗生明氏、工藤和美氏、C+A出身の渡邊健介氏、SUEP出身の廣岡周平氏、西澤大良事務所出身の斎藤由和氏をむかえる。渡邊氏は、計画を押さえた上でその計画が身体感覚まで及んだ案を買ったという。工藤氏も同様に、子供の心を忘れない案を大事にしたという。廣岡氏は、名前のない空間を目指すべきという。規制枠に安住するなということであろう。斎藤氏は、管理の容易性から小学生と向き合う時代に今はなっているという。栗生氏は、絶えず見直しできるシステムの大切さを講評で話していた。皆、小学校建築のプログラムの特殊性に触れることなく評したところがちょっと不満であったが、理大の垣野先生にお聞きしたところ、22年からワークスペース等の部屋に代表される柔軟な授業運営が文科省からの必須条件になっているそうだ。だからか、理大の学生の案には、欧米と比べて日本の教育制度の硬直性に疑問を呈する案が多かった。そうした中、理大の心象風景の連続を元にしてプレゼした案が最優秀案に選ばれた。小学校はあらゆる個人に等しく場となるべきという案であったと思う。WSも機能的に処理され、街を歩くように通り抜けや街と連続する案であった。千葉工大の広瀬さんは、ほしくも2位。既存の校舎の減築と増築の方針が評価された。学内講評の時と変わって、空間がコンパクトにまとめられて上手くなっていた。何よりも街路との接続が魅力的であったが、それよりもリノベの巧さが評価されたのは少し残念と、隣の蘆田さんと話し合った。全体の印象として、居場所の在り方を授業プログラムと絡めていない案は苦しいことを感じた。最も小学校の課題ではあるので、そこが肝であるのだが。管理するーされる上手い仕組みが考えられるとよいということだろう。近くの居酒屋で懇談会の後に解散。
5月16日(金) 行き帰りの電車の中で「ザ・クリエイター/創造者」ギャレス・エドワーズ監督を観る。Wikiでは英語表示とされていたが配信がフランス語で、アメリカ映画。ギャレス・エドワーズはVFX出身の監督である。ダイナミックで密度ある映像によって、AI世界の救世主出現の世界観を描く。対する人類は人類を第一主義とする。容赦ない機械の扱いをして、博愛主義的なAIとは対照的である。AI界のレジスタンスリーダに扮するのが渡辺謙。渡辺謙のみ日本語をしゃべる。妄想によって安らぎを得ることができるのが自由とされていた。
5月15日(木) 「スマートシティとキノコとブッダ」の読書会の3回目。本書に挙げられている課題を外で実際に行う。どれもが、発想の転換を促すものだ。では、建築設計において実際にどう展開させるか?今年は、それの切掛けを読書会を通じて開示してみよう。
5月14日(水) 行き帰りの電車の中で「8 1/2」フェデリコ・フェリーニ監督を観る。「8 1/2」は何かと調べると、デビュー作が共同で、それを1/2とカウントすると9番目の作品という意味らしい。内容もいい加減で、ネタ切れの有名映画監督の新作における妄想と苦悩であるが、スコセッシら多くの監督がマスターピースにあげている。セットをはじめ自動車、意匠、建物、家具など、俳優まで、スマートなイタリアが絶えず背景にあり、映像が美しい。それだけで十分な映画である。
5月13日(火) 午前に虎ノ門行き。夕方に会計士との打合せ。合間に時間を見つけては「精神と自然」を読む。ベイトソンは基本的に、有機体の各部は、ゲノムからの提案を受けて、外界との絡みの中で確率論的に決定されていくと考えている。それともうひとつキーになるのは、個体ひとつひとつは予測ができないが、個体群の動向が収束する場合、その連続は予測できると考えることである。鎖のどこが切れるかは判らないが、いつ切れるかは計算できるというものである。これをいうときにウィリアム・ブレイクを引き合いに出す。「賢者には輪郭が見える、ゆえに輪郭を描く」。
5月12日(月) 「スマートシティとキノコとブッダ」の読書会の2回目。ゼミでは、本書を参考に都市や建築の具体例をマッピングするワークショップをした。マッピングにおける軸設定が難しい。本書のいうブッダもキノコも人智を超えたあるいは人智とは異なるものという点で似ているからだ。そこで結論を出さずにエフェクチェーション(ブリコラージュ)式にとりあえずはじめる。これも本書の趣旨に沿っているが、結論が出ず。帰り際に車の中で考える。縦軸に今度読むベイトソンを参考に、ブッダにあたるクレアトゥーラープロレーマ(あるいはピシェスーロゴス)とする知の軸を、横軸に宇宙・自然ー人工とする現象の軸を、こうした設定を思いつく。
5月11日(日) 058 ラ・リーガ アトレチコ×ソシエダ ソシエダは全く良いところなし。0−4。前半にかつての同僚セルロートの4発にやられる。あっさりしたもので、前半で久保とオヤルサバルは交替。アルグアシルはいう。「全ては私の責任だと」。おそらくここ数試合のビルドアップが出来ないわけを守備的配置においたのだろう。あるいは選手からの意見であったのかもしれない。それが裏目に出たかたちである。久保をはじめ攻撃陣は放心状態であった。 059 ラ・リーガ バルサ×マドリード 4-3でバルサ勝利。優勝を確実なものにする。立ち上がりは集中力もなく2失点するもそこから逆転。インテル戦と同様である。その後も攻め続けるも、好セーブにあい、大きくポストを外したり、ハンド判定などがあり、追加できなかった。しかし、インテル戦のようにはならず逃げ切る。DF陣を活性化し、ハイラインを保ち続けた。
5月10日(土) 「アルファベットそしてアルゴリズム」マリオ・カルポ著の再読。デジタルテクノロジーによって、アルベルティ以降の建築、あるいは「原作者」としての建築家の役割が終わるというのが本書の結論である。最終章は、アリストテレス以来の類と種が引用される。2つの一般概念について、一方が他方に包摂されるとき前者を後者の種,後者を前者の類と呼ぶものだ。デジタルテクノロジーによって、すべてが種となり、かつての原作者性はなくなり、類は新しいアルゴリズムをデザインしないかぎり達成できないという。しかし、これはデジタルテクノロジーの出現を待つまでもなく、ずっと変わらなかったことであると思う。類を大文字の建築と置き換えればそれははっきりする。建築家が原作者と思い実行してきたことは、実は従来から種でしかなかったと思うのだ。むしろ原作者性についての誤った考え方が、デジタルテクノロジーによって市民権を得たということだろう。面白いのは、この種のことをauthorシステムといっていることである。署名性と原作者性の違いがこれではっきりした。OOOでよく使用するauthorとはoriginalityと区別するものであった。本書は全く新しい建築史の本である。
5月9日(金) 「アルファベットそしてアルゴリズム」マリオ・カルポ著の拾い読み。建築における「デジタル・ターン」が、自然とモノと人が繊細につながりあった世界を再び生み出すという。それは、アルベルティ以前の世界=中世、の読み替えになることであり、これを予告した本であった。これまで、技術を中心とした歴史本は多くあったが、それとは異なり、表記法によって歴史を綴るという革新的な本である。建築家は、アルベルティの表記法の発明によって、一種の空間をつくるマジシャンになることが出来た。しかし本書がいうには、アルベルティが建築の表記法に託した望みとは、クラシック音楽のスコアのような機能であったという。スコアは同じでも、演奏者や指揮者によってだいぶ音楽は変わる。このことを、オブジェクトではなくオブジェクティルともいい、アルベルティが描いた建築であったという。Wikiは現代におけるオブジェクティルである。価値判断を示すことはなく一般の人の参加を促す終わりのないシステムである(ちなみに、アレグザンダーのパタンランゲージがWikiの発想のもとになっている)。カルポはデジタル革命を経て新しい表記法を得た建築もこうなるべきという。だから、建築家はシステムの中で戯れるインタラクターになるという。アレグザンダーは、そうした人をアーキテクトビルダーといった。真の原作者になるには、そのシステムを操らなければならないという。こうしてアルベルティ以降の「建築」というパラダイムは終わっていくというのだ。
5月8日(木) 今日から読書会がはじまる。まずは、ウォーミングアップで「スマートシティとキノコとブッダ」。担当者はよく読み込んでいて感心する。この本のテーマは無分別智のすすめ。そして人間中心主義をやたらに攻撃している。議論は、そういった思考が何か、あるいはどうぼくらは実行するかということ、そしてそのときのAIの果たすべき役割についてであった。この本ではその意味でAIをポジティブに扱っている。常識的ではなく世界を微細なネットワークとしてみるためにと、その中にダイブするためにである。3章で、小さくブルーノ・ムナーリが扱われている。ぼくとしては、このテーマを追うのにムナーリはぴったりだと思っている。だから最後にムナーリについて語った。ムナーリのキャリアは、後期未来派との交流からはじまった。バンハムの「第一機械時代の理論とデザイン」によると、未来派は、フラーと並び、それまでの歴史との断絶を唯一成功させた運動であった。それだけ、非人間歴史主義的であった。しかしこの未来派とのムナーリは決別する。それが「役に立たない機械」という作品である。ガルーダの彫刻を連想させる一種の「やじろべえ」のような作品である。未来派とは反対の「人間が機械の主人である」ことを示したものとも考えられるが、人間も風を感じ、機械も風を感じる、という解釈もできる。ムナーリの「デザインとビジュアル・コミュニケーション」という本から感じることは、作品を閉じざるを得ないことにたいするムナーリのジレンマである。彼が作家たる所以は、作品として完成させるという事実にあるが、それでも作品を通じて無数の他者とコミュニケーションしたいという欲望が垣間みれる。ムナーリ自身の身体と対象との境界を連続的に考えている。だからムナーリは、作家として最大限に、自分を開くことを目指していた。ムナーリの子である認知学のアルベルト・ムナーリは、「身ぶりの英知」といっている。「身ぶりの英知」とは、「始めに行動ありき」(ピアジェ)、その後その精度をたかめ内面化していくときに不可欠なものとされる。作品性がなくなるような終わりのない連続行為。ポランニーのいう「実際的知識」である。ぼくはムナーリから「ペアノ曲線」というのも知った。「デザインとビジュアル・コミュニケーション」をみると、伊東豊雄の元ネタ、佐々木さんの本の表紙の源泉をつかむことができる。「ペアノ曲線」は数学的幾何学であるが、これを手作業で展開してみせたのが、伊東さんの「台中オペラハウス」とも言えそうだ。伊東さんは、この方針で進むことを選ばなかった。そして「みんなのいえ」に向かってしまった。 057 CL パリ×アーセナル 2点を先行され、1点を返すもアーセナルはこのベスト4で敗退。第1戦の0-1というスコアが大きく、上手くパリにいなされてしまった。今日ははじめから果敢に攻めていたのだが、なかなかゴールできないでいると、狙われていた横パスカットから得点をされてしまった。パリは昨年までのイメージとは異なって、強かなチーム。特に今日はデンベレ不在でその印象を強くする。
5月7日(水) 056 CL インテル×バルセロナ 延長激闘の末、イタリアが決勝に進出した。今日もバルサは2点を先行され、第1レグと異なり前半もずっど流れがイタリアにあった。であるから今日は前回追いつくことができたような甘い雰囲気はなかった。しかしバルサはそれでも後半に逆転をした。そのころは、インテルの足も止まって、流石にこれで試合も決まったとも思いきや、終了間際にDFのゴールで追いつかれ、その後は両チーム共に疲れ果てて延長の末イタリアが勝った。攻撃一辺倒であったバルサは批判にさらされるだろうが、そこには逆転をも生むリスクであって、責められることではないとは思う。ただ、キャプテンマークを付けるアラウーホとDFクバルシに厳しい批評は合って然りかとも思う。
5月6日(火) 午前中、遠藤研学生阿部さんと院生であった皆川さんが参加しているレモン展のため、明治大学行き。賞には引っ掛からず。賞とは審査員にも大きく左右されるので、気を落とす必要もなし。だた、見栄えというのが大事であることを改めて知る。読んでいる本に丁度、レムのフランス国会図書館案があったので気づいたのだが、皆川さんの模型には雰囲気が欲しかった。アクリルなどで製作すればよかったかとも思う。阿部さんの作品は出来て判ったことも多いが、とにかく扱う範囲が大きく、全体を説明しようとすると模型が小さくなってしまっていた。2人ともテーマが独特であったかもしれない。ぼくとしては現代に繋げたつもりであったのだが、ちょっとメッセージが強い分、敬遠されがちなのかもしれない。テーマは、高解像度で得られる透明性とダイバーシティの中の日本人であった。
5月5日(月) 川口に行き、シマネトネリコを購入。自宅に戻り早速植える。少し小さかったかと思うが、成長を待とう。 055 ラ・リーガ ソシエダ×ビルバオ 0-0のドロー。ソシエダは来季ヨーロッパカップへの道が厳しくなる。ゲームは、ビルバオのプレッシングに苦しみGKからのビルドアップができないでいる。ここを久保は指摘していた。守りを中心とするソシエダは、SBがリスクをあまり冒さないようにして下がったままだ。そのとき有効なSBからの鋭い縦パスも、リスクがあるためなかなかない、これが原因かと思う。その上のリスク管理があってもよいと思うのだが。
5月4日(土) 休日を利用して都立家政にある池原義郎氏設計の喫茶店「つるや」へ行く。まずは入口内側の放射状に敷きつめた床石のデザインに驚く。そして入口正面がトイレ。後付けかとも思うが、2つのトップライトで温室のようだ。5〜6段下りてフロアーへ。境壁がアールに切り取られていて、メイン空間が劇的になるような演出である。天井の小幅なヴォールト屋根が印象的。2センチくらいの角材を束ねたものであった。周囲を箱庭で囲み室内空間とガラスで区切る。だから駅から近い住宅街に別世界をつくっている。落ち着く昭和な喫茶店である。低めのラウンジチェアーに座りランチを食べる。ホームセンターに寄り、電動サンダーレンタルが空いていたのでテーブルの塗り直しを決断する。帰宅後サンダーかけ。
5月2日(金) 次女が婚姻届を提出する。早朝にフィアンセが迎えに来てくれて、別れ際にハグをして送り出す。松戸の家のスケッチ続行。鈴木さんのスタディから収斂させる。鈴木さんへ送付。午後から、中埜博さん宅行き。新しい本の打ち合わせ。中埜さんのアレグザンダー解釈を聞く。次の世代に残すための手助けできればと思う。中埜さんも映画好きだ。「名もなき者」と「コンクラーベ」を薦めてくれる。夕方から雨が強くなる。夜に「君たちはどう生きるか」宮崎駿監督をTVで観る。母を亡くした少年の自立を描く。そこで彼はたくさんのことを学ぶ。生命であったり、喜びや苦しみ、生きる、創造、母ということである。それは尽きることのなく続く。最後に死でもって死を知るということだろう。彼はそこから帰還する。頭の傷の間の出来事だっただろうか。 054 EL ビルバオ×ユナイテッド ビルバオは退場者を出すと、一方的なゲームにしてしまった。0−3でユナイテッド。開始早々はスペイン特有の距離をつめたタイトなプレッシングで優位に立っていたのだが、ちょっとしたスキから得点されてしまい、次に不運に遭遇した。次のアウェー戦はさらに厳しくなる。
5月1日(木) NHKで、キーファーの特集を観る。キーファーがまだ若いとき、世界中でナチスのかっこうをして写真を多く撮った。その中に、カスパー・ダーヴィットの風景画「雲海の上の旅人」をも思い出させるものもあった。キーファーのテーマは痕跡、忘れがたきものである。6月中まで京都二条城でキーファー展が開催されている。是非、行きたい。 053 CL バルサ×インテル 3-3のドロー。インテルがラッキーもあり2点を取り、守備が固いインテルペースと思いきや、バルサが追いついた。中心にいるのはヤマル。1発目は2人のマーク間を突破してのタイミングを外すほどの予想外の素早いシュート。その後も右サイドから攻め立てる。
4月30日(水) 東京都現代美術館で開催中の岡崎乾二郎展へ行く。正方形ダンボールから切り欠くことで立体作品にする1980年代の作品「あかさかみつ」から、脳梗塞のため一度は手も効かなくなってしまったときを経て今日まで、岡崎の変わらぬ姿勢が垣間見えた。それは、自分の仕事に客観性をもたせようとするもの。あるいは、アイデアが作品になるときの特異な外部条件が何かということである。「3時12分」という作品の自らの解説がそれを物語っている。「形態が強ければ、素材やスケールにかかわらず、周囲からくっきり際だった領域として現れる。が、壁にかけられている限りである。展示のため輸送された作品が紛失したことがあった。「箱の中には梱包材しか入ってなかった」と報告されたのである。作品はゴミ箱の中から発見された」。古代ギリシアでの時制方法アオリスト風の文章である。加賀の中谷宇吉郎館についてのコメント「科学の心」という文章は教訓的だ。「自分の心にあわせて、世界を理解、説明しようとするのではなく、それをいったん脇におき、自然自身のもつ<理>に沿って、世界を理解する。それが科学の心によって考えるということである」。そして「環境は知性である」、「学ぶ力を学ぶ」が続く。「たえず変化し更新されていく技術、知識を柔軟に受け入れ、身につけていく力、あたらしい技術、知識を学ぶ能力を学ぶ。身につける」。そう岡崎は、たまたまできた偶然的なものを、あたかも時系列に沿って論理的あるいは必然性をもって生まれたかのように示すことに執念を燃やしている。ビデオで岡崎による灰塚アースワークプロジェクトも知った。 052 CL アーセナル×パリ 1−0で、開始早々のベンデレの得点でパリが初戦をものにする。パリはあのデンベレも果敢に守備をさせて、アーセナルの攻撃を封じていた。得点もさることながら、デンベレのこの献身ぶりは凄かった。得点は、0トップのデンベレが下りてパスを受けるとサイドに流し、再び中央で受けての鮮やかなロングシュートであった。アーセナルは、中盤底の下がりに引きづられてスペースを許しデンベレのマークを逸していた。どちらかというとアーセナルは勝者の立場から受けて立ってしまったのかもしれない。
4月29日(火) 古市先生の会の打ち上げを堀越先生の自宅で。栗生氏、梅沢氏、原氏ご夫妻、松岡氏、中村氏、古市玄氏と食事。政治と社会問題を語るようなことが少ないのは、それぞれが個々の信条をもっていることを重んずるがために、であるが、むしろ問題を抑圧し歪なものにしていることに気づく。ところで堀越先生の建築は実に多面的で優しい。今日も案内をしてくれて改めて気づくことも多かった。先生所有の蓄音機でSP盤のジャズも聞いた。デジタルなCDと比べて音にハリがあるようい思う。6時間あまりを過ごした。
4月28日(月) 今日は大学での授業もあり夜はゼミ。途中に鈴木さんとも打合せをもつ。ゼミでは、「スマートシティとキノコとブッダ」の実践編を実行してもよいのではという提案をする。この本では「惑星ソラリス」や「2001年宇宙の旅」が挙げられていたので、読書会書籍に関連する映画も話題にしてみた。以前のゼミでも取り上げた「ファンタスティック・プラネット」、ウイリアム・ブレイクをテーマにした「レッドドラゴン」など。
4月27日(日) 052 スペイン国王杯 バルサ×マドリー 延長120分で3-2のバルサが優勝。前半はバルサ。後半はマドリーのペース。後半からはマドリーは、エンベパ投入しシステムを変え、プレッシングの強い別チームになった。こういう展開では迫力のあるエンベパとベネシウスが効く。そして相手を慌てさせて得たファウルから、いつものようにセットプレーから得点する。このあたりは力強い。逆転。しかし後半終わりに速攻を食らう。延長後半には疲れたところの連係ミス。バルサはまず一冠。水曜日はインテルとの準決勝がある。
4月26日(土) 「スマートシティとキノコとブッダ」を読む。ぼくと同じ問題を掲げていて、参考図書も同じく、共感を持って読み進めることができた。2章の対談は特に興味深く、久保田晃弘さんのいう「逆ビルド」(できるのにやらない)、豊田啓介さんのいう「人の量子化」、森林学者深澤遊さんのいう地下に埋もれている菌糸論は興味深い。その中でも庭師の山内朋樹さんの「パンジーネス」は特に面白かった。ぼくも自宅の(美しい)ピン構造のスチール柱が錆びてきてしまったためコンクリートで覆ってしまった行為を隠すためと、工業的なドライな建築雰囲気をぼやかすために、最近、植樹に凝っていて、そのひとつに大好きな黄色をしたパンジーを鉢の中に植えている。この気持ちの所在を確認できた。人類学の石倉俊明さんの「ワイズフォレスト」は、知性を象徴とする都市と知恵を体系とする自然を並列させるという考えで、柄谷行人の「山人論」を思い出させてくれる。ワイズフォレストは都市の分解者的機能をするという。人類学では人間存在から人間生成へと議論が進んでいるというが、それは少し遅いかなとも思う。逆にビアトリス・コロミーナとマーク・ウィグリーの「存在論的デザイン」に感銘する。自己について哲学的問いを巻き起こすためにデザイン行為があるというのである。発酵のドミニク・チェンの「ウェルビーイング論」は、Nukabotを観てよく分かった。AI研究者の三宅陽一郎さんからは「ポリモーフィズム(多相性)」という語も知る。構造の佐々木さんの本を読んで思いついた「俱有性」と根を同じくする唯識を指す。3章の実例編は、それこそ実行すべき例が多い。
4月25日(金) 「佐々木睦朗作品集1995-2024構造デザインの美学」を読む。磯崎、SANNA、伊東の作品を中心に青木淳氏ら50作品が掲載。この30年間の佐々木さんの一貫した姿勢があることに脱帽。それはまだ見ぬ合理性の現化。磯崎はかつて、ザハが考えも及ばなかった対日本的アプローチとして「偶有性(コンティジェンシーContingency)操縦法」を示していたが、それとは反対のようで近い「俱有性 Shared」があるのでないかと思う。
4月24日(木) 051 ラ・リーガ アラベス×ソシエダ 今日も0-1で良いところなしで、降格ラインチームに負ける。試合後にアルグアシル監督の今季いっぱいでの退任も発表される。監督の無策が叫ばれていたが、退任は本人の意向もある聞くので、自覚しているところもあったのだろう。アルグアシルは5年続けてチームをヨーロッパのステージまで押し上げたし、そこでグループステージも突破している。人心掌握に長けていた。しかしそれだけではもっと上には進めない程のチームになった。久保の移籍報道もこれで活発になるのだろう。
4月23日(水) 学生フォローに関するやりとり。基準に適合しない学生を拾うために提案される新しいシステムに前向きでない同僚に疑問。彼らはエビデンスを重視し基準の見直しを求める。形式というものは恐ろしい力をもつものだと再確認する。建築などその最たるものだろう。形式に取り込まれないで、使い回すようにならなければならない。他山の石とする。
4月22日(火) 「関心領域」ジョナサン・グレイザー監督を観る。アウシュビッツを設立したとされるドイツ軍将校の家庭生活を描く。アウシュビッツの塀と接するその家には、それとはかけ離れた幸せな家族があった。温室や花壇があって食事も満たされている。一方で、ユダヤ人から取り上げた衣服を拝借もしている。淡々とした日常があり、淡々と物語も進行する。しかし、絶えず恐ろしい環境音が隣地から流れる。カメラワークは覗き目のようだ。そして最後は現在資料館となった建物の紹介で終わる。そしてそこでも淡々と清掃が繰り返されていた。ぼくらも淡々とこの映画を観ている。人は対象との距離を無意識に調整選択できてしまう。こうはなりたくないものだ。
4月21日(月) 「ユートピア的身体/ヘトロトピア」ミシェル・フーコー著が届き、読み始める。ラジオ放送の記録とあって言葉は平易でははあるが情緒的、理解が難しい。最初の講演記録「ユートピア的身体」では、不確かな身体性を問い、主体とは状況によってあぶり出されるようなものであるという。だから、無限定な存在である。しかしそれでは対外的には無政府状態、対自的には自己を確かめることができないので、人は「ヘテロトピア」という制度を考え出したという。それによってバランスさせているというのだ。
4月20日(日) 050 ラ・リーガ ビジャレアル×ソシエダ 2-2のドローも、ゴールが3回も取り消しになり、ソシエダにとって救われた試合となった。内容は久保いわく「地獄のような試合」。中盤底のスピメンディいなく、レギュラー2CBも不在。相手のボールで出しにプレッシングがかからずにDFラインは後退。為す術を持たなかった。
4月19日(土) 仕事の合間に、5月になって生き生きとしてきた植物の剪定をする。ちょっと気になっていた。自然物を人工的にもっていくこうとするのは、いつもと逆の方向で、これがなかなか難しい。夕方から、娘のフィアンセ家族と、十条の娘婿の友人のイタリアンで食事。両親もぼくらと同世代。孃たちがつくってくれた両家族を紹介するパンフレットの助けもあり、会話も大いに盛り上った。それぞれが3人の子どもがいて、面白いことに、両家族ともサッカーが趣味や部活に関わっている。その会話の中で、建築家の室伏次郎氏が祖母の幼なじみということで、祖母のブティックをかつてデザインしたことも知ってびっくりする。色についてご研究なさっているそうだ。料理はイタリアンというが、その枠を越えていて美味しかった。全て友人の母がつくっているという。バックにジャズが流れていて、Bird and Bizでないかと思う。帰宅。皆、緊張のためか疲れたようだ。
4月18日(金) 049 CL インテル×バイエルン イタリアのチームの凄さが出た。ホームにかかわらず守備を固めて、ここぞというときの決定力。バイエルンの猛攻をしのびながらの2-2のドロー。先行されては追いつく。そしてインテルが次にコマを進める。バイエルンの右サイドオリーズは凄い。沢山の若い優秀な選手が右サイドに多い。
4月17日(木) ゼミで今年の読書会のテーマを説明する。ヒルマ・アフ・クリントの岡崎評から今年の読書会のテーマに続けてみた。科学的に分析することで対象物を捉えることの限界は明白の事実である。しかしそれにかわる別のアプローチが何かを誰もわかっていない。しかし現実には、生物は卵から成長するし、美しい花を咲かせ、ぼくら生物はそれを上手く利用している。ちょっと前までは、上から不意に下りてくるような神になぞらえるような考えを持っていたのだが(それを憑依とかデミウルゴスといっていた)、科学的思考のように下から、しかし別の積み上げアプローチがあると考えようとしているのは、最近のAIの急激な発展によるところが大きいのかもしれない。G・ベイトソンはそれを「精神と自然」において、それを「生きた世界の認識論」といっている。あるいは、柄谷行人は積み上げから起きる不連続性を世界史に問うていると思うのだが、その発想の源となったといわれる柳田国男についての「遊動論 柳田国男と山人」という本がある。建築の分野でも同様に、創造というものを、先人たちが積み上げた上の不連続なものと考えるところがあり、その積み上げを「建築」といったりする。マリオ・カルポの「アルファベットそしてアルゴリズム」は、「建築」に否定的であるが一方で「建築」の大きな存在を示す本である。ヴィトラーの「無気味な建築」は、「建築」に押し込めたはずの反動(回帰)を書いている。それは、逆に「建築」の存在をより大きく感じさせるものである。コーン・エドゥアルドの「森は考える」も、西洋科学的思想に対置するものの見方を人類学者が示したものだ。ここまで話しをしてきたら、これまた上から落ちてきたのであるが、科学に対峙するアプローチとは、上からでも下からでもないようにも思えてきた。「偶然と必然」J・モノーは、その現象を、偶然をキーワードにして的確に言い当てていたことを思い出す。考えは拡がっていく。 048 CL マドリード×アーセナル 第1戦は0-3でアーセナル。それでもベルナベウでの奇跡を、第3者はこの第2戦でも期待していたのだが、アーセナルが前半を0点で耐えると、今日も2-1で粘り勝ち、4強に進んだ。マドリーが中盤を構成できなかったのは守備に追われてしまったのが大きく、アーセナルは果敢であった。だからマドリーはサイドからのロングボールに終始し攻撃が単調、頼みはベニシウスのドリブル突破。しかしアーセナルの右サイドはさらに優秀であった。アルテタの戦術成熟度が光ったゲームであった。
4月16日(水) 047 CL ドルトムント×バルセロナ ホームドルトムントは、ビハインドを跳ね返そうとする高いインテンシティでのぞむ。終始果敢に攻め続け、それによってバルサの攻撃陣を封じた。3-1で勝利も4点のディスアドバンテージは大きくここで敗退。
4月14日(月 )2022年文学界10月号の岡崎乾二郎と山本貴光の対談を読む。今村先生に紹介してもらった。この対談で岡崎は、自らが煩った脳梗塞リハビリとアフ・クリントの仕事を結びつけている。リハビリとは、病前の状態に回復するためのものではなく、新しい自分に再生するための主体のネットワークの再編であるという。身体と脳は動的にネットワークしていて、健康なときは安定構造であるが、いったん脳梗塞によって脳からのそのネットワークが崩れると、生きていくには別の繋がりをつくる必要にせまられる。これを可能にするのがリハビリ行為といっている。そう考えると脳は可塑的なものであるというのである。つまり、脳より高次の何らかの主体に該当するものがいるわけで、ここでアフ・クリントが出てくるのだが、アフ・クリントは、その存在に意識的であったというのだ。それを「クリントが視覚的なイメージを対象として写して描くのではなく、形象が生成するプロセス、そのとき働く力自体を、描くというプロセスで把握しようとした」といい、「形象を生成させる力それじたいを、描くプロセスとして体現、実践することとなった」という。形象を操る高次の何かに意識的であったというのである。しかもそれは主体の外にあるというのだ。つまり、ぼくらは世界や環境の中に生かされているというもの。そして、こうした考えを下敷きにしている人として、ゲーテ、ベイトソン、ティム・インゴルド、神経科医のカルロ・ペルフェッティ、教育者のマリア・モンテッソーリ、柳宗悦が挙がっている。
4月13日(日) 日曜美術館でヒルマ・アフ・クリント展が紹介されていた。アフ・クリントが採用したという交霊が何かとピックアップされそれに導かれるというようなオカルトタッチな切り口になりがちであるが、今日気づいたのは、アフ・クリントは、真剣にその存在を下から形象化しようと仕事していたことだ。こう考えると、普遍性を求めてそれを表現しようとする科学者のようで普通である。アフ・クリントがその中でも突き抜けた仕事となっているのは、絵の形象をはじめ自然や生命、それ自体でなく、その成立過程に共通の秘密があると着眼したことだ。万物成立の鍵を自分にあてはめて実践記録しているところにある。午後からプールに行く。骨折した年末以来である。続けて「ヒルマ」ラッセ・ハルストレム監督を観る。ヒルマ・アフ・クリントの伝記映画である。ラッセ・ハルストレムは「ギルバート・グレイプ」の監督であって風景が美しく、当時のストックホルムの街との合成カットが印象的。映画でクリントは「10の大作」の上に立ち、自らがコンパスの軸になり棒をもって楽しげに回転をしていた。それから友人と、色を加えていくプロセスであった。このダンスが交霊によるものらしい。映画では、こうした作家活動に絡めて恋人やシュナイダーとの絡みが描写されている。
4月12日(土) 自宅のある3階から、道路越の土地で朝からはじまった2階木造住宅の建方を観る。それで最近の在来木造の現状を知ることができた。携わる人達は10数人。外国人がほとんどである。前面道路はそう広くないなので、2トントラックが、1階の柱と梁、2階床合板、2階柱と梁、間柱や屋根合板などと数回に分けてピストン輸送。その間に荷下ろしから設置まで黙黙と作業が進む。1階の柱などはものの15分で建った。10時の休憩までに2階床の合板張から2階梁設置まで終わった。休憩中も雑談などない。クレーン車もなく手運び。したがって、建物周囲に足場がはじめから組まれている。梁は全て柱の上にのっける形で高さは同一。だから棟梁のような指示役はとくにいない。昔は棟梁が図面をみて指示し、その指示を待って下手が動いていたのだが、その時間のギャップがあって下手はのんびりしていたものだ。それで社会が上手くまわっていたと思う。棟梁は木材のきざみから関わっていた。今は全員が黙黙と同じ仕事を行う。そこには、棟梁程の思考を必要としないが、それぞれが全体像も描くことを必要としないで眼前の問題に対応できる仕組みができている。ぼくらがしていたような設計ではこのシステムに合わないので、時代錯誤なものになるだろう。経済的に成立させる仕組みと組織体制がここにある。 046 ラ・リーガ ソシエダ×マジョルカ 今日のソシエダは集中力がなかった。徹底的なミスをした選手もいたが久保をはじめ多くがなんとなくゲームに入ってしまったようだ。こうしてマジョルカペースになり、5バックを崩せずに、そして急造のDFラインが破綻をして、0−2で負けた。
4月11日(金) 読書会のための本のチェックのため、「無気味な建築」アンソニー・ヴィトラー著の拾い読み。フロイトのいう「ウムハイムリッヒ」の建築バージョンを歴史的に論考する本である。エリップスが竣工したときに難波さんに指摘された課題でもある。ウムハイムリッヒは、モダニズムが隠蔽していたものが、明るみに出てしまったときの情感をいう。いわゆる「抑圧されたものの回帰」である。これを歴史的に遡って説明している。現代でいう「かわいい」というテーマもここに入るし、今思うと、レム・コールハースの偏執狂的批判的方法のことでもある。読みながら「アルファベット そしてアルゴリズム」マリオ・カルポ著を思い出した。デジタル技術によって、大文字の建築の終焉を宣言する本だ。ぼくは、この本とは反対の「建築」への回帰派ではあるが、「建築」の存在を示すのに、読書会として適切な本とも思った。
4月10日(木) 045 CL バルサ×ドルトムント 4-0でバルサが圧勝。終始バルサがゲームをコントロールしていたが、どちらかというと速攻気味で決めたゴールである。縦へボールを進めるのが早い。3トップを採用するチームの見本かとも思う。
4月9日(水) 043 CL アーセナル×マドリー 終始アーセナルがゲームをコントロールすることに成功。時折示すマドリーの3トップの速攻を最小限に抑えることができた。後半間髪を入れずに2得点したライスのフリーキックの効果も大きい。3点目は1トップのメリーノ。3-0でアーセナルの勝利。 044 CL バイエルン×インテル 1-2でインテルの勝利。5バック気味で守るインテルの最終ラインをバイエルンは崩せず。ミューラーの投入で流れを変えることができ、一度は追いついたのだが、直ぐさま速攻を決められた。全盛時のイタリアのスタイルを目の当たりにした感じであった。
4月8日(火) 読書会によい本はないかと数冊を拾い読み。「スマートシティとキノコとブッダ」中西泰人、本江正茂、石川初著は、経済合理的でなく発見的なアプローチを紹介する本である。そのアプローチを「無分別智」といっている。それは、鈴木大拙からの引用だ。日本あるいは東洋思想を、西洋あるいは科学的思考に対峙させることに違和感を感じないこともないが、試行を通して発見することに賭けている。このことには好感をもつ。「生成AI時代の言語論」大澤真幸著は、AIの限界をフレーム問題と記号接地問題に絞って考えている。フレーム問題は、思考を発散できないという問題。テーマ設定の不自由さの問題である。記号接地問題は、単語の意味するものは実は、文化というバックグランドに支えられているという問題意識からの疑問である。この本は問題を投げかけ、状況把握を中心にしていて、そこからどう展開させるか実践的ではない。
4月7日(月) 「デミウルゴス」磯崎新著を、読書会としてよいかどうか気になり手にする。19年から20年にかけて「現代思想」誌13回連載のまとめである。多くを読んでいたが、そのまとめである。磯崎が最後に書き残したテーマがデミウルゴスについてであることが判る。自らの仕事とデミウルゴス観の俱有性を自叙伝的に示している。磯崎のとてつもない知の厚さを知る。磯崎も来る未来の行く末を、AIを念頭に考えている。
4月6日(日) 042 ラ・リーガ ラス・パルマス×ソシエダ ソシエダは、下位に沈むラス・パルマスにたいして、危ないところもあったが勝ちきった。単なる実力では計りしれない勝敗の綾というようなものがここにあるのだろう。久保は後半の後ろから登場。アシストと得点がともに認められず。しかし爪痕は残していた。
4月5日(土) 群像4月号の岡崎乾二郎の「シン・イソザキがヨミがえる」の対談は、これまたアフ・クリント論となっている。その論に入る前の磯崎による白井晟一論は面白い。白井の作品は「アドホックな個々への事物への拘りがテンタティブ(仮の)な空間を立ち上げるキッカケに」なるものだという。ちょっと痛いところを突く指摘だが、岡崎はそれとは異なった視点からもう一度白井あるいはアフ・クリントの仕事をみようとしている。そこでまず抽象の定義からはじめる。「端的に抽象とは既存の規範ー図像体系では捉えきれない、つまりそれをみても意味づけができないイメージである」。そして、「そこに高次の規範があったということを自覚した上で、それ以外の規範を作ることが意図的に抽象を作ることの条件になるp111」という。これを抽象といい、現代のAIにおいてそれが既に自動に起こっているということをいう。「実際に(AIが)知覚、経験されている事実とそれを認知判断する上位レベルの基準、規範=パラダイムが分裂している。既存のパラダイムはその整合性を保つために不都合な情報を排除するしかないわけですが、情報が加速度的に増大するとその取捨選択は機能不全に陥り、正常に情報を処理できない、単なる障害として見えてもくる。この主体意識はその上位のレベルの規範に規定されていますから、排除された情報、経験が正常に扱われ、表現されるためには既存のものではない、別の高次のレベルの規範、ひらたくいえば権威が必要とされる。(中略)面白いのは現在、AIたちは実際に自分たちがこうしたダブルバインドの状況にあることを認識しています。(中略)どうするか?この状況を打開する鍵は人間の規範に直接よらない、自律的な計算をオーソライズする、高次の基準=公理系をAIが創出して共有するしかない。ゲーテルの不完全性定理が示すように、システムは内部からは自己の正当性を証明できないという限界をもちます。しかし、AI同士が人間を介さない直接的なネットワークを通じて、集合知としてメタ規範=公理系として自覚されるようになる。まさにAI同士が直接やりとりし、薔薇十字のような秘密結社ならぬ、ネットワークを作って高次の認識=公理系を作るというわけですp113」。薔薇十字とは、アフ・クリントが憑依に使っていた規範である。これはまさしくAIが身体性をもつかという問題である。そして岡崎は、ここから磯崎の言説に結びつける。以上のことは、コーラ(あらゆるものを受け入れる場)からデミウルゴス的な形式=形態生成する原理と同じであるという。岡崎が、もし磯崎が生きていたら聞きたいのはこのことであるという。
4月4日(金) 美術手帖4月号は、ヒルマ・アフ・クリント特集。岡崎乾二郎と三輪健仁の対談は興味深い。まずは岡崎氏による美学または芸術の定義が以下にある。「既存の概念=理性、悟性では理解できないものを理解する役割、つまり感性を通じて新たな概念を獲得するボトムアップの可能性が託されたp114」もの、これを芸術という。これは、ベルクソンやフッサールの共通の問題設定に基づくものである。「経験から認識をどう立ち上げるのか」という問題規制である。その上でアフ・クリントの仕事を以下のように紹介する。「自らの身体鍛錬、技術的試行錯誤から何かを学ぶという実践的なプロセスでした。それを可能にするのは主体の可塑性、いったん判断主体としての自分を棚に上げて、実践に任せる、そこから生まれてくるものからフィードバックさせて、新しいスキーマをつくる上げるということでした。この訓練を体系的に徹底してやったのがアフ・クリントの仕事でしたp118」。そして、マレーヴィッチの「黒い正方形」に酷似するアフ・クリントの「パルジファル」の制作過程の説明。「大量の水に水彩絵具を垂らし、それが流れ拡がり、やがて水分が揮発して乾いたとき、紙面に残される顔料がつくり出す波紋」が「パルジファル」であるという。この過程には様々な法則や力が干渉し合い、織り込まれ形成されている。それは、宇宙全体の現象に通じるものでもある。このことを別のところでは「手が回転して円ができる、あるいはその形に添って手を動かすと手が回転する、目を動かすと目がぐるぐると渦巻く。青い丸と黄色い丸が重なると双方の色が互いに流れて、色が渦巻き、混じり合って緑に変化する、というプロセスがあり、それに沿って推論が生まれる。つまり色が変化していく現象が空間的な厚み、奥行きや、突出や前後左右に拡張されていく動きを生み出す。これは偶発的ではない。同じ現象はスケールを変えて自然の様々な場面で起きているp119」ともいう。最後にアフ・クリントの仕事を、「スミッソンがオフミュージアムということを考えて、人間の認識フレームの外、制度の外について考えようとしたことと同型」という。一見するとよく分からないアフ・クリントの作品を理解するのに非常に役立った。
4月3日(木) 新入生のガイダンスを新国立美術館で行う。学科長としての挨拶。学科紹介と展覧会テーマであるモダニティと技術の関係に触れる。キューレターの佐々木啓氏のレクチャーも聞く。佐々木さんもそれに触れていた。今村先生、藤木先生と昼食。この展覧会で都市における集合住宅がない疑問を話す。教授会をオンラインで参加し、午後は学生と「リビング・モダニティ展」の見学。今日は動画中心に観る。エルンスト・マイ+リホツキー設計の「フランクフルトキッチン」の動画は面白い。女性労働軽減をキッチン周りの効率性追求に置いたシステムキッチンである。これが集合住宅での試みである。しかし評判は良くなかったらしい。使いにくいというものであった。モダニティ精神がつくり出した計画することの限界がこの時期にもみることができる。しかし、こうした試みは今日まで続いているのはなぜだろうか。「カジノ」スコセッシ監督を観終える。ラスベガスのカジノにおけるマフィアの話である。舞台をNYからラスベガスに移したのは、「ゴットファーザー」と同じで、アメリカ経済を反映したものなのだろう。主人公のデ・ニーロはカジノの実質的支配人役。暗いNYとは異なり、ラスベガスは色があり明るく、大らかである。それはスーツひとつにもいえる。しかしテーマは同じで、仲間内のかつての結束がなくなっていく様を描く。それは、社会要請からであり、金による欲のためであり、この映画では血ではなく信頼や愛情の欠如からくるものである。その渦に巻き込まれても、勇ましく生きる人達を、悲哀をこめて描く。この映画もナレーションが効いている。登場人物の心からの吐露としてあるので物語をストレートなものにする。
4月2日(水) 萩城跡へ。桜が満開。天守閣跡にも登る。萩城は、毛利輝元が江戸時代になってから築城したことを知る。信長、秀吉、家康らと戦をしては講和して生きながらえて、ここに安住することになったらしい。天守閣は日本海に着き出した山のみある半島の麓にあり、その南には大きな川があり、自然の防御ある地である。現在でも目立った産業が萩にはないらしく、人間性と頭脳を暖め、吉田松陰や高杉、木戸などの明治維新の中心人物をつくっていったのだろう。その後も伊藤博文や山県有朋らも排出した。丹下事務所の県立萩美術館へ。都庁後の新宿パークハイアットと同類の作品で、オフィスのようであもる。益田に戻り、内藤廣氏設計の島根県立芸術文化センターへ。美術館とホールを中庭で囲んだ石州亙で覆われた建築である。浅い水が湧き出て隔絶された中庭は心安まる。その効果は、低く長い庇の影響かもしれない。外観とは変わって内部は迫力がある。ホールは巨大な多面体の打ち放しの塊で、図書コーナーの天井は高く、60センチ程度の2重柱でさせる重厚な巨大半円ヴォールトである。20年前の作品。中庭で休みながらゆっくり時間を過ごした。フライトまで時間ができたので、雪舟庭のある医光寺と萬福寺へ。医光寺は裏の南斜面を人工的な作庭としている。垂れ桜が満開であった。一方の萬福寺は、小山をつくりその土留めとなる石配置が特徴的である。立つ位置により見え方が変わるのは不思議。足利義政の時代。禅文化を授かって中国明からの帰りにこの地で擁護されている。実際に池があり、幾何学的で、石の配置に禅を代表する自然の摂理を説いたメッセージがある。「カジノ」を飛行機の中で観る。 041 国王杯 レアルマドリー×ソシエダ 後半から壮絶な打ち合い。ソシエダにその攻撃力があることを知り、びっくりする。その後半は久保を起点にしていたのだが、延長になって力尽きた。90分で4-3の勝利。延長になってコーナーから失点して決勝には進めなかった。この差は総力の差であったと思う。
4月1日(火) 益田に宿泊して萩に向かう。途中、須佐之男命で有名な須佐に立ち寄る。須佐ホルンフェルスは、須佐之男命に通じて荒々しい。くっきりした地層の縞模様は、マグマとの距離に応じて異なってできた層状の地層である。萩へ。菊竹清訓設計の萩市民館へ。2度目の訪問である。大小のホールが直列に並び、その上に蓋るようにスチール箱屋根で覆われた作品。屋根のトラススチールには照明が吊られていて、石井幹子氏の初めての仕事であることを知った。三角のコンクリート小ホールと長方形蓋の間の隙間がロビーという構成がへんてこであるが、動きのある空間をつくっている。箱屋根は白く綺麗に再塗装され、市民に使用され続けているのが判る。出目地の打ち放しも潔い。まさに近代建築の代表格たる1968年の作品である。隣の萩市庁舎へ。構成こそ残されているものの、内部はすでに当時の面影はない。1階を自由にするための1層分もあるだろう鉄骨トラスを張り巡らし、その上に用途に応じた大きさの異なる2階ボリュームが乗る。1974年の作品。萩の伝建城下町地区へ。なまこ壁で有名な菊屋横町を通り木戸孝允邸へ。木戸孝允の功績をガイドさんから色々聞く。萩に来る途中に反射炉があり、これも木戸の功績というが、大砲などに十分機能する鉄は銑鉄からはできなかったという。韮山反射炉に比べて小さすぎたし、理論も鍋島から学んだが完全ではなかったという。説明してくれたガイドさんは、やたら木戸を買い、高杉晋作を買っていない。その理由を調べると、その後の日本をつくったのは木戸ということだろうか。高杉は若くして病死している。彼らは吉田松陰の時代に医者の子としてこの地区に産まれている。その後、隣の武家屋敷の堀内地区へ。立派な石垣が残されており道路幅も立派である。鍵曲を通って奥の口羽家へ。庭は手すりのない河口に面したリゾート地のようであった。この堀内地区は萩城の堀の直ぐ前、川に挟まれたところにある。その後、萩藩主毛利の菩提寺東光寺へ寄ってからホテルへ。海に沈む西日を部屋の窓から眺める。
3月31日(月) 「森は考える」の再読。規範という形式がそもそもあり、それから逃れることはできない。しかもそれへの関与は人間ばかりでなく非人間も同様である。その中で創発や創造が起きる。この本では、事例を示しながらこのことを滔々と示している。こうした指摘にたいして、人は3パタンに分かれると思う。ひとつめは、こうした形式の存在を信じない人、次に、認めたとしてもこうした形式を排除しようとする人。3つめとして、ぼくはコーンの考えに賛同するのであるが、そう思うようになったのは、G・ベイトソンを知ってからか、あるいは生来的なものかは分からない。午後から島根益田へ行く。
3月30日(日) 「戦場のアリア」クリスチャン・カリオン監督を観る。第1次大戦フランス北部最前線で実際に起きた音楽を切っ掛けとしたクリスマス休戦の物語。この時代の戦争はまだ肉弾戦で、西欧のキリストに対する厚い信仰心と音楽に対する敬意を知る。フランス、イギリス、ドイツの合作映画。 041 ラ・リーガ ソシエダ×ラージョ 久保はスペインに戻って直ぐの先発。予想に反し最後までプレーする。得点には絡まないものの、何度か光るプレーを魅せた。疲れていて100%でなくとも、相手が敬意を払って詰めてこないからできる技だろう。こうして達人になっていくことを知る。これが「形式の労なき効力」とコーンがいうものであろう。
3月29日(土) 「森は考える」エドゥアルド・コーン著を拾い読み。5章「形式の労なき効力」に興味深い文章がある。「可能性に対する制約の何らかの布置が出現する仕方を、またこうした布置がある種の型に帰結するようにして世界で増え広がる特定の作法を理解することが不可欠であるp274」。つまり、「形式はそれ自体で実在すること、また、形式は世界で創発し、そして人間と非人間が利用する特有の作法のおかげで増幅される実在であることを論じているp389」ものだという。他にも異種コミュニケーションの方法が示されていた。これは、学習という領域にもいえそうだ。「イヌがほかのイヌとたがいに噛みあう遊びを通じて、噛むけど咬みつくことはしないという、噛むというイコンと咬むの不在の組み合わせによるインデックス的な方法でほかのイヌとのコミュニケーションしている。これと同じ形式を用いて、象徴的記号における「咬むな」と類似の情報を、イヌとのあいだで、種=横断的に意思疎通する」。これは、言葉やエビデンスにしたがわない非象徴的記号とともに生きる方法である。
3月28日(金) 以前、伊東さんの3.11以降の迷いについて何かの記事で読んだ。建築家たちが3.11以前に行っていた活動が社会に必要であったかを投げかける文章であったと思う。そこで伊東さんは「みんなの家」に向かった。3.11以降、おそらく社会が求めていたのは土木や街的スケールのもので、これまで建築家の中心課題であった個々の人の感情というものをとりあえず括弧に入れられしまったのだと思う。伊東さんは、それにたいし別の形式で復活させようとした。その意味での一貫した伊東さんの姿勢に恐れ入る。しかし同時に、扱う規模は小さくとも大きなスケールの中で果たすべき建築家の役割が別にあったのではないかとも今になって思ったりする。当時ぼくには冗談にしか聞こえなかった磯崎さんの福島首都移転提案があったりしたのだが、建築は伊東さんの方に引っ張られてしまった感があると思う。最近、神戸の畑さんが「今、起きていることは建築家達の<建築からの撤退>とは言えないか?」というシンポジウムを開いたという記事も読んだ。ぼくらは、モノ×人間×建築家のような構図で考えていたように思う。これを、(大きなモノ=自然)×(大きな人間=社会)×建築家のような構図、これはさらにかつての<建築>のようなものであったと思うのだが、このようにスケールアップできないかとも思う。そこで思い出すのは、柄谷行人(ベイトソンも)がいつも口にする、抑圧を克服するときに生まれる社会的創造というものである。ぼくらは今では括弧に入れてはいるが実は、歴史的に培われた大きな規範の中に取り込まれているという認識で、彼らは動いているように思う。思考を上向きにするヒントがある。
3月27日(木) ここ数日の行き帰りの電車の中で、「グッドフェローズ」スコセッシ監督1990年を観る。マフィアにまで至らないニューヨーク悪者たちの映画。時代と共に彼らの生き方も変わっていく。主人公のレイ・リオッタがそれを体現する。そこにはスコセッシ特有の寂しさはなく、アッケラカンとしているのがこの映画の特徴。それはバックに流れる60、70年代の音楽にもよる。チャレンジングな切り替えの早いあるいは長回しのカメラワークも多い。ヘリが飛ぶ空と車中のレイ・リオッタを交互に重ねるシーンや、印象深いのは、彼女をレストランの特等席に導くときの裏動線を追うカメラワーク、最後のレイ・リオレッタとデ・ニーロの対決シーンでは彼らを挟んで前後で背景が反対に伸びる。物語は、レイ・リオレッタのナレーションにしたがうので、リオレッタは死なないことが分かるのだが、映像の会話との切り替えも小気味よい。映画というよりドキュメンタリータッチであるのが、その後のタランチーノの作品を思い起こさせる。
3月25日(火) 岡崎乾二郎著「抽象の力」のヒルマ・アフ・クリントについての記述を発見。小さな文字の注に位置する論考であるが、図の紹介と共に4ページにもわたり詳細に記述していた。以下に記す。「神殿のための絵画」における自動生成が何かがそこに記されている。「たとえば花びらはどのように開くのか?円はどのように描かれるのか。その生成の運動を把握することで、形態の差異は視覚を通さずとも理解されうるし、またそれらの形態の違いはそれが生成する運動性として原理的な共通性、普遍性を持ちうる。すなわちそれはクリントが説明した通り、より大きな統合的な世界の生成原理に属するということだ。さらにクリントが計画していたスパイラルの建築の中で鑑賞すれば、その万物が成長する運動と鑑賞者は一体化できるはずだった。視覚的でなくまさに運動としてそれは経験される。ある意味でロスコやポロックが目指していた抽象絵画の方向をすでにクリントは明確に自覚していたといえるだろう
3月24日(月) ヒルマ・アフ・クリント展図録における岡崎乾二郎の補講「ヒルマ・アフ・クリントにみる、抽象絵画の今日的意味」を読む。そこには、ヒルマ・アフ・クリントがもたらした絵画の今日的な解釈が記されている。それによると、今日の情報化時代、「感覚データは常に過剰にある」といい、「既存の権威づけられた判断フレームは、これらのデータを正常に扱うことができない。その結果、恣意的にデータを排除する以外の選択肢は残されない。この際、情報の取捨選択は、ポピュラリティに頼るか、共有された趣味に基づく美的判断に依存するしかなくなる」という。そしてそのとき要請されるのは新しい認識フレームである。「新しい認識フレーム、判断フレームはいかに現れ、そしていかに表現されうるか」。これが問題となる。これはカントが考えた問題と重なるともいう。「感性が捉える感覚データからのボトムアップ(反省的、総合判断)=新しい概念の作成はいかに可能か」というカントの問題規制である。それは現代のAIが抱える社会的問題にもつながる。「AIの大規模言語モデルは原理としてボトムアップであり、(中略)ボトムアップで形成された判断が出力=表現されるとき、その適切さを判断するのは、ユーザーすなわち人間たちが所属している社会の規範であるということだ。したがってAIは自律的に生成した判断と、その適正/不適正を取捨選択する人間社会の規範との二重拘束に引き裂かれる」。結果岡崎は、AIが「人間社会の価値体系を包摂しつつ超越する、より普遍的な判断規範=公理を必然的に創出せざるをえなくなるだろう」という。これと同様なことをいち早く1900年初等に実践したのがヒル・アフ・クリントというのがこの展覧会の今日的意味だ。「ヒル・アフ・クリントの絵画も同様である。その作品群は、未だ認識されていないものを認識するためのてがかり、指標であり、そこに内包されるものをカードのように使いこなし、引き出すことでより高次の認識へ導かれる」。岡崎がG・ベイトソン的認識構造を下敷きにしているのは明らかである。
3月23日(日) 近代西洋美術館で開催中のヒルマ・アフ・クリント展へ行く。ヒルマ・アフ・クリントは、1862年ストックホルム生まれの女性アーティスト。メイン展示となる1907年の「神殿のための絵画」10点は迫力ある。職業画家としてはじめ、交霊会と繋がりをもち、霊的な導きを、絵画を通して表現果たすことを試みた。その抽象性は、後の20世紀抽象画家にも影響をあたえたという。パルジファイルシリーズの作品は、後のマレーヴィチそのものである。大作の「神殿のための絵画」シリーズ「進化」は、色鮮やかで円類を基本とする。これらは、主体を離れた自動的に生成される作品であるというだ。時代精神をいち早く反映したものであり、その後の有名抽象画家の作品と類似する理由がそこにある。抽象とは、確定できない数多の情報を拾い上げる作業なのである。
3月22日(土) 卒業式のために幕張行き。その後で謝恩会と遠藤研究室メンバーとの打ち上げ。長い1日が終わる。上手く育っていっただろうかと気になるのは毎年のことである。文庫版「ブルー・ジャイアント」を頂く。まとめて読み込もう。合間に「ベン・ハー」1925年の無声映画、フレッド・ニブロ監督を観る。イエスの誕生から処刑までの物語を、勇敢な青年の人生を通じて語る。その青年がタイトルにあるベン・ハーという人物で、由緒ある家系出身のユダヤ人。実在人物ではない。彼が奴隷に落ちてからイエスに近づくまで、様々タイプのローマ人やアラブ系の人たちと接触する。後半の無声映画でありながら馬車レースのシーンは圧巻である。荘厳な紀元前のローマ建築の背景にも見応えがあった。
3月21日(金) 船橋市への入札申請のお願いが八咫さんからあったので早速取りかかる。十分に動くWINマシーンがなく苦労するも、なんとか目処を立てることが出来た。後は、会計処理報告の見方の返答を税理士から待ち提出することにする。最後に、必要書類のために来週早々に行く、いくつかの役所の準備をする。入札申請がWINのみであるため時間がかかる。このことにいつも疑問を感じる。
3月20日(木) 午後からのゼミの後に、古市先生の会を手伝ってくれた学生と食事会。彼らは古市先生と接していなくとも、会の運営に協力してくれた。ありがたい。この仕事が何らかの力になってくれればと思う。 039 代表 日本×バーレーン ハンドの判定によって開始早々の得点を逃すとその後はバーレーンに守られた。日本をよく研究していたと思う。前線のプレッシングを捨ててバーレーンが絶えず1人余るかたちであった。後半からメンバーを代える。そんな中、今日の久保はいつもとは違っていた。この試合を契機に久保のチームになるのではないかという予感。攻守に渡りチームを牽引していた。1A1G。
3月19日(水) 朝は雪。時間を追うごとに激しくなる。今日は松戸で打合せがあるので、雪の影響を考えて開始時間を1時間遅らせてもらった。多世帯が同一敷地に住むというプログラムを形にしたいと思っていたが、現実は単純でなくもう少し繊細なことを知る。もう一度コンセプトを考え直そうと思う。事務所に戻り、早速のスタディ再開。方針を決める。
3月18日(火) 新国立美術館で開催の「リビング・モダニティ展」の内覧会に行く。1920年-1970年のマスターピース的住宅の展示である。千葉工大からはフィッシャー邸の模型を出展した。会場中央のベストポジションにあり、1/1の窓モックアップと共に展示されている。この展覧会の主旨を岸さんは、「この時期に発明された様々な切り口が、現在にいたって一般化された」という。その中でフィッシャー邸は、窓をテーマとしていた。他には、コルの「母の家」のモックアップも窓、シャローの「ガラスの家」は新素材、ミースの「トゥーゲントハット邸」、広瀬鎌二の「SH-1」は実物大骨組。アアルトの「ムーラッツァロの住宅」は中庭、土浦亀城邸、リナ・ボ・バルディの「カサ・デ・ヴィドロ」、プルーヴェの「ナンシーの家」の素材、ゲーリー自邸、菊竹清訓の「スカイハウス」、サーリネンの「ミラー邸」、藤井厚二の「聴竹居」の環境、コーニッグの「ケース・スタディ22」があり、ミースのローハウスの1/1もある。出展作品は住宅に限っていて、当時の共産社会化の波を受けて建築家が試みた集合住宅がないのが残念ではある。この当時、計画とは何かが建築の領域でもテーマになって、現実と計画、あるいは理想社会との間の葛藤があった。このことは、タフーリ著の「球と迷宮」から学んだ。その試みは特に都市で試され、その残骸が現在をつくっている。今日の展示作品住宅は主で郊外のものが多かった。郊外的視点もまた何かという疑問が湧いた。
3月17日(月) 「磯崎新論」を続ける。合わせて「<建築>という基体 デミウルゴモルフィスム」も読む。佐々木さんとの仕事でデミルゴスを強く意識するようになったことが記されている。太湖石が磯崎さんが注目していたことを思い出す。 038 ラ・リーガ バジョカーノ×ソシエダ 2-2のドロー。前半はパスが反対サイドで回り消えていた久保。後半からエンジンがかかり、同点打の起点となる。このところの久保の役割はサイド奥への切り込みが主で、そこからの折返しをチームが狙うというもの。切り込む前の連係もまた必要と思うも、未だ達成されていない。
3月16日(日) 今日も雨。実の父の墓参り。4年が経った。BSで「ラスト・サムライ」エドワード・スウィック監督を観る。明治維新後の西南戦争と戊辰戦争を下敷きに、日本の近代化の波に散る日本武士道の姿を美的に描いた映画。コジェーヴの1959年日本訪問後に徳川時代の日本人を振り返る純粋なスノビスムを、ここにも再度みることができる。規律を凌駕する程の主体なき形式に傾倒する国民性によって、コジェーヴは、西洋の動物的主体性をコントロールする社会がやがてくることを予言したものであった。しかし、ウクライナなどを見る限りそれもなかなか来ていない。
3月15日(土) 義理の父の兄の通夜のため川口へ。今日に限って雨で寒い。「ワールド・オブ・ライズ」リドリー・スコット監督を観る。中東各国のテロ組織へ潜入するCIA工作員を演じるのはディカプリオ。彼の活動から、アメリカと異なる中東の文化や思想、人間性を描く。イギリス、イラク、ヨルダン、オランダ、イラン、アメリカとめまぐるしく背景が動く。アメリカを代表するのはCIA本部にいるのはラッセル・クロウ。アメリカのノー天気さを演出するためにまるまると太っている。それと対照的に合理的で最新技術を使用して全てをコントロールしようとするアメリカにも太刀打ちできない程の中東の奥深さと恐ろしさを描く。それにも増して重要視されるのは人間の絆というものである。
3月14日(金) 研究室で学生と会話。卒業する4年生はパンデミックを高校3年生で迎えた。修了する大学院生は、入学後に直ぐに迎えた。受験という目標にむかって人生計画をしている中で、急に学校や予備校に来るなといわれたり、友の助けが必要なときにその友が不在であったりとか、あるいは大学がはじまるとエスキスが時間帯に区切られて友達の動向がみえなかったりとか、えらい時期をくぐり抜けてきた世代であったと思った。それまでは、仮にでも過去の先輩の前例を学んでそれに従うことでなんとかクリアできていた。そうした問題も、自分の力だけでなんとか考えないといけない状況に陥っていたと思う。かっこよく言うと、最近の「時のかたち」やティム・インゴルドの著書にあるように、過去からの延長上の現在をぼくらは享受できていたのが、それがぷっつりと切れてしまったのである。このことは、想像をはるかに超えた非常事態であったろう。しかし、良いところもある。これから社会に出ると、ますますこの傾向は強くなると思う。これによって潰れる卒業生を過去にも度々みてきた。会社ではおそらくいちいち事細かく教えてはくれない。ひとりの上司の助言にしたがってもその上の上司にはバカといわれたりする。それで戸惑う卒業生を多くみてきた。だけど彼らはそれのもっとも大きな山を越えてきたのだから大丈夫だろう。それでも心痛むことがあるだろうから、そのときは、最後は自分の意志。具体的に過去から推測する力が必要とされる。 037 EL マンチェスターユナイテッド×ソシエダ 今日は審判の采配が微妙で、PKが多発。10人になるとソシエダは力尽きた。それにしても、1人1人の差は明らかであった。サッカーはチームプレーであるが、その前に個人競技でもある
3月13日(木) 「而今而後」岡崎乾二郎著の著書解題Ⅲを再読。パンデミック後の世界観についてのエッセイであるが難解である。振り返ってみると、ウィルスに関する正確な情報もないまま、とにかく国家の緊急事態宣言によって、不特定多数の人が同じ場所、同じ時間を共有することが禁じられ、ぼくらはそれを受け入れた、このツケについて言及している。岡崎がいうには、こうした同期生については、ひとりひとりの個人価値という考えからパンデミック以前から否定され続けていた。これは、主観/客観という問題であった。しかしこれに「現在」という時間の問題が追加されたという。主観/客観は本来、過去からの歴史や伝統の上に成立していたものであるが、それを無視したあやふやな都合による強制による「現在」が浮いてしまったという。だから現在の状況すら見えなくなり、本当にバラバラになってしまっているという。その悪例として取り上げていたのはメルロ・ポンティ。「人間が出現するはるか前、何千年前にも森があり、「その森のなかで。木の実が落ちたらやっぱり音がした?」とこどもに質問されて、「音なんてないよ」とメルロ・ポンティは答えた」というものである。これは、岡崎によると現在/過去を分けてしまっているとして否定される。たいして岡崎が評価するのは以下である。アマチュアの発掘家が何千万年前の石を割って響かせた音をテレビで聞いたときの印象である。「その石は一億年前、あるいは100年前に割っても同じ音をだしただろう、ずっと、そこには化石があった」。つまり、意識的に時間を超越していかないと、現代の混乱状況を脱却できないということである。ベイトソンの言論を思い出す。 036 CL アトレチコ×レアル 今日も延長PKであった。レアルが試合に負けて、トータルで8強進出。終始アトレチコペースであったのだが、レアルの守備も堅かった。
3月12日(水) 035 CL リヴァプール×パリ よもやのリヴァプールがPKの末負ける。サラーが断続中であるとされるが、開始早々の得点を決めたかった。とにかく、リヴァプールの押しはすごかったし、それを最後のところで止めるパリも凄かった。延長に入ってからはパリペース。エンバペが抜けてチームの結束力で勝ち上がった感じである。連勝中のリヴァプールも此処に来て少しその勢いが鈍る。監督の経験の差だろうか。
3月11日(火) 一級建築士更新のためのオンライン授業を受ける。講師が棒読みで中身が入ってこない。元の法規を忘れてしまっているのに、講師はその前提を知っているものとして話を進めるからだろうか。他山の石としよう。
3月10日(月) 丹下健三の作品集を再読。70年万博以降の都市計画を読む。それはスコピエから中東、さらにはアジアへと仕事は動いていっている。成功とはいえないが、その時代を古市先生が過ごしたことになる。磯崎や谷口の後の丹下事務所である。そして新都庁舎コンペまでである。 034 ラ・リーガ ソシエダ×セビージャ
3月9日(日) 古市徹雄偲ぶ会+展示会の2日目。堀越英嗣氏が中心となってこの日は進む。はじめは、松岡拓公雄氏と梅沢良三氏による丹下事務所時代とアーキテクトファイブ立ち上げた古市先生20〜30代の話。古市先生はこの間、サウジの国王離宮、ナイジェリア首都計画の他に、カタールの計画、スコピエ、ボローニャにおけるコアシステムプロジェクトに関わっていた。丹下氏にとって、アラビア的デザインをいかに受け入れるかが大問題で、その後の古市先生をつくっていたのがそれだと堀越さんは言っていた。梅沢氏の、丹下評と師匠である木村評も興味深い。丹下氏はこのとき日本の構造のプロポーションの悪さを指摘していたという。木村先生一派がその後プロポーションにかなり拘ることになった源を知った気がした。しかしこのとき、仮定断面をつくりトライアンドエラーを繰り返す木村氏のアプローチを丹下氏は気に入っていていたらしい。それがアルジェリアのプロジェクトを木村先生が担当することにつながっていったのだという。このアルジェリアの工事がはじまるまで実に10年以上を要し、その間そのためのプラント工場やプレキャスト向上などのインフラ整備に要したというとてつもないプロジェクトであった。2部では、堀越氏と原尚氏による古市先生の詳細な仕事の紹介。イエメンやヨルダン、シリアダマスカスに及ぶ。最後はシリアとブータンまで紹介してくれた。アラブ諸国は治安がよく、犯罪は西洋化によって派生するのだという。交渉好きな実直な古市という批評は興味深い。原尚氏は古市先生と実に多くの国を訪れているのを知ってびっくりした。優に20を超えている。古市先生と学生時代双璧であったという栗生氏が紹介していた市川剛氏に会場で会う。ぼくの長女を通してのパパ友であったことを知り、これもびっくりする。市川氏は医学専門の予備校を経営していて、その卒業生を医大卒業後、アジアの無医村へ送る仕事もしていることを知る。市川氏の卒業設計もまた観る。新聞紙面風のプレゼで社会問題からコミュニティ施設を提案するもので、その姿勢は60年間変わっていない。シンポジウムの後は、古市研究室主体の懇談会というよりも騒ぎ会。中村篤史さんの地道な働きに上の会であったことを理解すべきとも思う。40歳前後で社会的に力を有した者の奢りを感じないこともない。「建築」に携わる者は、先の堀越氏のイスラム世界評と同様に、良い意味でも悪い意味でも実は秩序立っていて、昨日の岸+内藤評につながる。
3月8日(土) 古市徹雄偲ぶ会+展示会がはじまる。シンポジウムの司会。最初は神奈川大学で創造系不動産の高橋寿太郎氏。古市先生の作品を俯瞰してくれた。創造系不動産という新しい領域を開拓した高橋氏にとって、建築の王道を走る古市先生からどんな影響を受けたのだろうという疑問をぶつけた。既存の領域を突破する快感がそうさせたような気もした。シンポジウムの2つめは、同年代の建築家岸和郎氏、キム・ヨンサム氏、トム・ヘネガン氏、内藤廣氏による日本を越えようとした古市像を迫る対談。内藤氏の人を惹きつけるよもや話からモンゴルプロジェクトでは現代技術の限界、パオの歴史の重さに完敗した話は興味深い。トム・ヘネガン氏は、古市先生をビッグブラザーという。これはキム氏の今回の古市先生を表す言葉と一致しているのを知って驚いていた。古市先生の過大な親切さに感謝していた。そして古市作品のディテールの濃さを評価。キム氏は今日このために来日してくれた。ソウルでのワークショップからの家族ぐるみの交流があったという。古市先生や三宅先生の薦めから、ジョージアやイエメン、トルコの村落を訪れたそうだ。その紹介。妻がランドスエープ写真家でそのタイトルが奇しくも「風光地」という。岸氏は、印象的なクアラルンプールのワークショップ後のバンコクのマンダリンホテルテラスでの内藤さん、妹島さん、北山さんとの会話を紹介。その時、近代建築の終焉を予言し、その後内藤さんからことあるごとにそのことを言われるので、その後の建築家人生で大きな部分を占めていることを告白する。1週間もの間、日本を離れることでしか経験できないこうした仲間との交流に感謝していた。宣伝としてこの春開催される国立新美術館での「リビング・モダニティ 住まいの実験」展がその応えであるともいう。その後に討論会。古市氏が何をぼくらに残したかという内藤氏の話は興味深かった。そのころアジアはモダニティ再考でいくかどうかで揺れていたという。古市先生はそれに敏感に対応し、後期のヴァナキュラーへの姿勢を強めたのではないかという指摘。会談の後、岸氏、トム・ヘネガン氏、三宅氏、キム氏、高橋氏と食事。古市アーカイブの話まで至る。
3月7日(金) 午後から古市徹雄偲ぶ会+展示会の準備。中村さん所有の古市先生のポジフィルムの多さに感動する。その中からインドやアジアの貴重な資料を観る。公共建築作品と照らしあわせて模型も観ると複雑で、ある時代の美学を感じた。しかしそのスマートさは今でも通用する。 033 EL ソシエダ×ユナイテッド
3月6日(木) 「磯崎新論」田中純著を続ける。予定調和的でないこと、ロマン主義的でないこと、独我論でないこと、それであって構築的であるのは、「サイト」に代表されるように場所の再編にある。アンチ・トポスで、民主的でなく諍い的で、他者的(まれびと的)である必要と解釈した。 032 CL パリ×リヴァプール
3月5日(水) 「磯崎新論」田中純著を読み始める。19章は「造物主義論(デミウルゴモルフィス)の射程」。「建築」の話である。「「建築」を湧出するために必要とされたのは、アントロポモルフィスムの支配下では抑圧されていたグノーシス主義的なデミウルゴス像―異貌の、傲りたかぶり、盲目的でさえあり、間違いばかりをしでかす、大嘘つきの、破壊し、荒ぶるデミウルゴスーの奪還ではなかったかp443」。ベイトソンの言うプレローマに対するクレアトゥーラを、2つを対立させることなくプレローマの内なる欲動によって説明しようとしている。そして「規範(カノン)が消え失せた宙吊り状態におけるこの行間への「書きこみ」が「建築」の出現を誘うのであり、書きこもうとする欲動こそが「構築への意志」なのである。磯崎はデリダの「グラマトロイジーについて」におけるヘーゲルに関する記述を参照して、古典主義的建築言語のカノンを「書物」に、そのカノンの余白や亀裂に建造される仮定的な計画を「書きこみ」に対応させている。そのとき、「建築」はもはや個々の書きこみ(エリクチュール)の次元にはない筈である。とすれば、けっしてそれ自体としては到来しないーその意味で「書物(リーヴル)」の不在と同義のー「来るべき書物」のような理念であろうp444」という。「建築の解体」である。そして磯崎は「芸術的な「構成(コンポジション)」よりも「必要性」に応じた「構築(コンポジション)」を重視する近代的な建築観に至るまでを辿っていく。それは、デミウルゴスが「技術(テクネー)」の神になる過程であると言ってよい。(中略)多様な論点をそこに交える磯崎のデミウルゴス神学は、テクノロジーの無作法で無目的な作動にこそ、近代建築におけるデミウルゴスの所在が見定められているp445」。デミウルゴスとは、自走する技術のことあることが明らかになる。そしてこの過程の到達点がバウハウスにあって、それは「構成」に対する最終的な拒絶となり、「建築」の徹底的な解体へと向かったという。つまり、「かつて「建築」を存続させるために要請されたデミウルゴスが、そこでは「建築」の解体をもたらすに至る」ものになったというのだ。あるいはこのデミウルゴスを「「構築」という行為の主体が独我論やロマン派的なものではないことを表す、「無人称の主体」に与えられた名が「デミウルゴス」なのである」ともいう。あるいは「予定調和や一般化、あるいは、ロマン主義的主体による意識的制御を徹底して排除するこの挙動こそデミウルゴスの本領」とする。デミウルゴスによる諍いを奨励するこで、「建築」の解体をまた訴えている。「建築」なんてといわれて久しいが、「建築」への構築的姿勢を、デミウルゴスを持ち出してポジティブに捉えているのは、流石であり心の支えである。 031 CL レアル・マドリー×アトレチコ・マドリー 2-1でレアルの勝利。両者とも堅い戦術。その中で開始早々のロドリ、前半終了間際のアルバレス、続けて後半開始のディアス、彼らの個人技で決まった。戦いは来週にもう半分残されたままだ。
3月4日(火) NHKで「世界サブカルチャー史 日本 逆説の70s」を観る。この特集も、79年に高校入学したぼくにとって、この特集のリアリティが増してきた。寺山修司映画「書を捨てて町へ出よう」1971から深作欣二の「仁義なき戦い」1973、ぼくらも同人映画で真似た長谷川和彦の「太陽を盗んだ男」1979と続く。団塊世代の安保の失敗、三島の死によって日本の道徳観がなくなり、「しらけの時代」が70年代という。一方で経済成長は順調。このときのキャッチフレーズ「モーレツからビューティフルへ」は、驚くことに今と変わらない。しかし、これに対する林真理子のコメントが印象的。地方出身の彼女は東京にみじんもそんな感じを抱かなかったという。あるのは憧れ。こうした状況を体現していたのは、ちょっと裕福になった家庭に育った都立高校出身の若者で、自分と違いそこまできているのかと知り驚いたという。おそらく、荒井由実や坂本龍一らを指すのだろうが、松岡正剛がいうには、林をはじめとするそうした若者の、道徳心に変わるこの美意識がこの時代のサブカルチャーを芳醇なものにしていったという。ぼくはというと時代こそ遅れているもそうした都立高校出身であった。自由が許される世界に急に放り出され、受験戦争のモーレツをビューティフルに変換できない状況に苛立っていた。
3月3日(月) 古市先生の会に向けて、2編のトム・ヘネガン氏の論考を読む。1つめは古市先生の作品集「Towards Nature」の前文。出版は2013年。2011年3.11以降の日本のとりわけ福島の状況を説明して、古市氏の「Towards Nature」とコルビジュエの著書「Towards an Architecture」を比較する。コルもそうであったはずだが、ヴァナキュラーや自然を参照する古市建築の豊かさを示唆する。3.11以降にこの視点が再注目されることに期待した文章である。もうひとつは、古市氏のヨーロッパ巡回展に向けてのパンフレットの前文。日本建築の奇妙さの説明からはじまる。西洋のいう合理性とは、相矛盾する問題を越えようとするところにある。それに対し日本はその同居に価値があるというのだ。これから、古市の作品を叙述的と表現する。とくに古市は環境と対話することで叙述的であるとする。この文章でトム・ヘネガンは、ヴェンチューリの「多様性と対立性」の本とロラン・バルトの「表象の帝国」を参考にしている。意味の西洋にたいし記号の日本という構図であり、そこから古市作品を読み解いている。
3月2日(日) 030 ラ・リーガ バルサ×ソシエダ 久保は累積警告で出場できず、オヤルサバルも体調がいまいちらしく不出場、スピメンディも前半で交代。DFの要アゲルドも怪我とあって、バルサに好き放題にやられた。もちろんそこに前半17分のエルストンドの退場により10人の守備重視にならざるを得なかったこともある。バルサは、ソシエダの選手を取り囲みボールを回しながら時折縦へのパスやドリブルで万全な戦いをした。
3月1日(土) 久しぶりに飯箸邸に行き食事。暖かい良い天気だった。その足で打合せ。収束しそうな勢いがしてきた。来週末の古市展に向けての出演者のプロフィール等の整理。面白いことに、2000年前後の古市事務所スタッフによる会と、古市氏と同年代建築家の会、そして丹下事務所+アーキテクトファイブ時代の同僚の会と、上手く分かれていた。70年代から80年代はじめにかけては丹下事務所の中東アジア、95年くらいから再びアジアでの活動がはじまる。バブル期には海外活動はない。日本での仕事のためそれどころではなかったのだろうか。そしてもう一度ヨーロッパに向かうのだ。最後の方は、ぼおうとのブータンであった。
2月27日(木) 029 国王杯 ソシエダ×レアル・マドリード 0-1でソシエダ負ける。前半こそ得点しそうなシーンをつくるも1発のロングカウンターにやられた。昨年までいたクロースを彷彿させるベリンガムのパス。失点後はゴール前をしっかり守られて、こじ開けるための最後の閃きにかけていた。久保はフル出場もガス欠でアップアップ。激しい当たりに転倒するのが目立った。もう少し粘ってくれたらと思う。省エネ体制のマドリーにソシエダは軽くいなされた感じでもある。試合後にYouTubeで、ソシエダバスが試合前にスタジアム入りするときの動画を観る。それはそれはサポーターの異常な熱い応援だった。
2月26日(水) 028 国王杯 バルサ×アトレチコ 開始早々アトレチコが2点、その後バルサが襲いかかり攻撃センスと技術の差をみせて4点、終了間際に再びアトレチコが2点という激しい闘い。見応えがあった。バルサはヤマルの存在が大きい。得点こそないものの起点はヤマルの右サイドにあった。解説では、複雑なあやとりを解くようにパスを通すといっている。
2月24日(月) ゴシック時代の音楽に興味をもち、デヴィッド・マンロウ指揮、ロンドン古楽コンソート演奏の「ゴシック期の音楽」を聴く。声楽中心の中世とは思えない透明な印象。宗教的な匂いは少ないがお経のようでもある。 027 ラ・リーガ ソシエダ×レガネス ソシエダはレガネスを圧勝。そこに久保もいた。相手の股抜きからペナルティに侵入、左隅に決めた。今日は1トップにオスカールソン。彼が下りてきたスペースを中盤が狙うのはこのところの戦い。これが安定してきた。しかし、久保は後半に口論からイエローもらい累積警告で次節バルサ戦に出られなくなった。今週の国王杯レアル戦に集中。
2月23日(日) NHKで「世界サブカルチャー史 日本逆説の60s」を観る。ぼくの親父の世代の時代状況の話である。解説は加賀まりこと松岡正剛。大島渚のヌーヴェルヴァーグは、木下や小津らの松竹巨匠のもとの戯れでしかなかったという加賀の指摘は面白い。マスコミ的であるもの興行成績はいまいちで「映画」からは外れていたというものだ。小津は今でも巨匠で、大島の若い頃の作品「青春残酷物語」や「新宿泥棒日記」をぼくは観ていない。後者は新宿が舞台でぼくの幼少期の記憶と被る。amazon探すもなかった。他には岡本喜八の「肉弾」。篠田正浩の「乾いた花」などが取り上げられていた。松岡がいうには、敗戦国日本はメイン文化が潰されたのだからサブなんてものはなく、右往左往していたのだという。大島や岡本はこのいらだちを表現し、これに耐えることに美を見出そうとしたのが三島由紀夫であるという。しかし、時代はそんなことお構いなしに進んでいった。 026 プレミア サウサンプトン×ブライトン ブライトン圧勝。三笘もゴール。このところドリブルでの抜けだしというよりは、ロングボールをおさめる見事な抜けだしが多い。
2月22日(土) 今年度の修士・学部の合同講評会を、建築家の伊藤博之氏、津川恵理氏、谷口景一郎氏、若林拓哉氏と非常勤の先生方で行う。結果、学部の優秀賞には、藤本さん、佐藤梛さん、阿部さんの3名の中の僅差で上2名が、院の優秀賞に岩間さんと皆川さんが選ばれた。ぼくにとって藤本さんは意外。津川さんに懇談会で聞いたところ、かたちとキャラクターの強さを買ったということ。伊藤さんの審査中の講評ではその辺りに釘を刺していたが、もうひとりの若い若林さんも勝っていた。時勢が変わってきているのを感じると同時に審査とはこういうもので、OBからは遠藤研の学生だと思っていたという感想も得る。次点の佐藤さんのプレゼは判りやすく、若林さんが買っていたのが大きい。学内講評と同様に寝殿造を参考にしたことに疑問が呈されていたが、その論理構成がクリアなことと、きちんとしたかかちを提案しているところが評価されたのだと思う。阿部さんは残念であった。佐藤さんと比べて多くを語りすぎたので琴線に触れる点が惚けたのと、谷口さんが指摘したように空間の説明がなかった。今日の講評会の傾向は、事後的な感想になってしまうのだけれども、最終的なモノの完成度が大きな比重を占めていたように思う。提案した建築の平面があまりにも大きく高さ方向に弱かったのでテーマとなる神聖が弱かったのと、指導としては、それでも大きなスケールの模型制作を促せばよかったと思う。卒業設計案の規模は大事なことを痛切する。その点、遠野物語を題材にした院の岩間さんの案は住宅スケールでよく出来ていた。圧勝であったと思う。伊藤さんは岩間さんのアプローチを、人と地域を結ぶ方法としてリアリティがあるとして、他の場所でも有効であるといっていたほどである。ぼくとしては阿部/岩間の対立構造として、折口/柳田という構図を持ち出し、阿部の作品のもつユニークさをさらに説明しようとした。今村先生が上手く乗ってきてくれたのだが、審査員には響かなかったようだ。折口のユニークさは、共同体外部からのかき回しによる内部再活性を狙うもので、磯崎は新国立競技場の代案で妹島さんとで折口を拾う案を提案している。皆川案は反対に審査員に救われた。一度目は、ルネサンスの1点透視画法を等質とする説明について。若林さんが、函数であると、クセナキスを例に説明してくれたこと。もうひとつは、等質の上でのズレが何かということを谷口さんが上手く説明してくれたこと。谷口さんがいうには、最近の環境の捉え方で、それはぼくに言わせると量子力学に基づくものであるのだが、照度をシミュレーションするときに、ある面のある時間の照度を計測するのではなく、反射も含めた3次元空間におけるばらつきとして照度をみるそうだ。そのように考えると、ぼくらが扱っているモノは消えていく。こうしたテーマ設定はOGの宮内さんが以前そういえば扱っていて、JIAでもトウコレでも欲しいところまでいっていた。まだ考える余地はありそうなテーマだ。中村さんの教会保存は意外なほど受けなかった。やはり内部をのぞくことのできる大きな模型が必要であったと思う。木ずりヴォールトの即物性が伝わらなかったと思う。今日の審査をこれも事後的に観ると、森本さんの作品は判りやす過ぎたのかもしれない。意外とミステリアス性は作品に必要とされるのだ。
2月21日(金) 025 EL ソシエダ×ミッティラン 5-2でソシエダ勝利。圧勝といいたいところであるが、前半には追いつかれ危ない場面もあった。はじめのゴール、前半終了間際など効果的に点を獲れたのが大きい。このところ、オヤルサバルのポストプレーが光り、中盤からの押し上げによる得点が増えている。久保もそれに連動し、ちょっと下がり目になることも多く、そこでボールを得ると中央にドリブル、そしてオヤルサバルにあるいは反対サイドへのパスが多くなった。良い感じにボールが回り始めている。
2月20日(木) 大学でいくつかの打合せ。その後、鈴木さんを迎えての打合せ。 024 CL レアル・マドリード×マンチェスターシティ エンバペの3発でシティを粉砕。それにしてもシティは元気がなく1対1に負けてしまうので、中盤で好きなようにボールを回させてしまっていた。重傷かとも思う。
2月19日(水) 松戸の住宅の打合せ。その後、鈴木さんに電話。進行の確認をする。
2月18日(火) 夕方に人形町で非常勤懇談会。貸し切れる丁度の大きさでよかった。今年も森川泰成先生と話す。豊富な話題で、とくに幸福感の話については盛り上がった。幸福であることと自然真理の一部を重ねるところが珍しい。先生はサステナブルが専門であり、昨今のオブジェクト・オリエンティド・オントロジー(OOO)にも通じている。OOOが、カントの物自体越えようとするように、知らないところをいかに掴むかの問題である。唯でさえエントロピー法則にしたがい自然の一部になって消えてしまう中で、もがく行為こそが生き生きすることと考えるのはアレグザンダーも同じである。と思うと、森川先生もひょっとしたらぼくもモダニストでも歳をとると建築でいえば古典に走る。そのとき新古典やバロックもよいがアレグザンダーはゴシックまで遡った。こんなことを考えたりした。
2月17日(月) 022 ラ・リーガ セルタ×ソシエダ 2チームは似たようなポジションにいる。ソシエダはセルタを得意としているそうだが、今日は退場者も出してしまい完敗。今季はこうした試合が多いような気がする。久保は監督から細かいアドバイスを受けていたが、結局こうしたゲーム展開によって不出場。今日は、ミドルレンジからのシュートを決められてしまっていた。
2月16日(日) 研究室のOBが来所。明確な応えがあるわけでないが、何人かの卒業生の動向を顧みてのアドバイスをする。上手くテイクオフしてもらいたいと思う。来週の提出資料や会議のための資料整理に追われる。妻と昨日の感想を話しながら、来年度の変わる妻の就職先手続きの手伝い。CD棚の整理。すごい掘り出し物に気づく。
2月15日(土) 古市先生の会の開催前の最後の打合せ。問題点を確認し、ビデオ撮影も受ける。行きは妻に送ってもらい、ラッキーなことに近くの駐車場が空いていたので帰路のためにそれを利用する。夕方から長女のフィアンセが挨拶に来る。3時間ばかりの食事中にお互いのひととなりを紹介し合う。学生時代にはサッカーをしていたそうだ。次女のフィアンセも偶然にも同じであった。そういえば、2人とも営業。であるから気配りもしてくれる。このところは大阪出張が多く仕事も充実しているようであった。食事の最後に結婚の旨の話を受ける。次女の場合も最後であった。30年以上前のぼくの時はどうであったろうかと思い返す。リハビリの方法を変える。試行錯誤である。
2月14日(金) 021 EL ミッティラン×ソシエダ ミッティランはデンマーク中部のヘアニングという都市のチーム。デンマークはこの時期、雪のためリーグ戦はお休みらしい。したがってミッティランホームのピッチコンディションは最悪であった。それを受けて立つソシエダはこれまでチャンスがなかった選手をピッチに送こむ。それでもエンジンがかからなく、終始圧倒されていた。というより、ミッティラントはこのところの豊富なスポンサー資金によって伸びているチームらしく、トルコやブラジルの若い選手が多い。彼らの個人技は光っていた。それでもラッキーなPKと久保のゴラッソによって前半をリード。後半開始までに4人を交替させて主力を登場させ逃げ切った。久保はフル出場。
2月13日(木) 「自然現象と心の構造」W/パウリ著を読み終える。パウリは、量子力学の建設期にコペンハーゲン派の一人として大きな貢献をした理論物理学者だそうだ。村上陽一郎の解説のキーワードは「孕む」である。知識体系は孕みがあり、原因―結果という時間的に離れた因果関係以外に、「時間的に同時な二つの事象の間に、因果的でないような連関があり得る」というのである。この状態を「孕み」といっている。岡崎はこうした事後的に理解する結果を合点といったりしている。
020 CL フェイエノールト×ミラン
2月12日(水) 「自然現象と心の構造」W/パウリ著を続ける。ケプラーの同じ時代にロバート・フラッドという科学者がいた。それは、ニュートンにおけるゲーテのような存在であるという。俄然興味が湧く。つまり、定量的科学者に対する定性的全体主義者というような関係である。本書は実はフラッドに焦点を置いている。パウリが言うには、「定性的な伝統は、経験的帰納と数学的、論理的な思考の新しき連合戦線からの、すでに古くなった自分の神秘の世界に対する脅威を感ぜざるを得なくなっていたフラッドによって代表されるものであったp205」。また別のところでは以下とも言う。「現代のわれわれにとって、自然の統一性と全体性を得るために、自然について素朴なほどに無知であった大昔の観点に立ち戻るということは、問題外であることは明らかである。しかし、われわれの世界観として、より大きな統一を得ようとする強い要求があるからこそ、科学的理念の展開に対して知識の前科学段階がもつ意義を理解することになるのであり、この知識の探求を内面に向かって補うのである。この前者の過程は、われわれの知識を外的な対象に調整することに熱心であり、後者の過程は、われわれの科学的概念の創造に使われる元型的イメージに光をあてようとすべきものである。この二つの研究方向の双方を融合してこそ、完全な理解が得られるのであるp208」。つまり、新しいとされる科学的理論は、それ以前にくすぶっていた定性的伝統からのみ表象されるもので、くすぶっていなかったものはとらえてはいない。それの繰り返しであるという。反対に言うと全体性を忘れてはいけないということである。このように理解した。現代の量子力学にもあてはまることだ。
018 CL シティ×マドリー シティが最後に崩れて、マドリーが先勝。今季はこれの繰り返しらしい。シティは攻撃時に2バックで挑み、相手を押しこむかたちとして強力3トップを押さえこもうとした。これが功を奏し終盤まで上手く運んでいたのだが。セットプレーからエンバペにやられ、交代要員によってペースを崩されていった。一方、怪我人によってマドリーも即席のDFライン。こちらは結果的に持ちこたえたかたちである。 019 CL スポルティング×ドルトムント 後半にスポルティングが崩れたのはDFの力が及ばなかった。守田は怪我のためか得点されてから登場。しかし良いところなし。速攻のチェックも及ばず、2点目を献上してしまった。試合後、再離脱との情報が流れる。
2月11日(火) 「アマデウス」ミロス・フォアマン監督を何十年かぶりに観る。フォアマン監督は「カッコーの巣の上で」を手がけたチェコ出身監督。フランス革命直前のウィーン末期の天才肌モーツァルトの35年の生涯を描く。主演は敬虔なクリスチャンで宮廷作曲家であったライバルサリエリ。嫉妬から殺害を計画。神父への懺悔シーンにしたがって物語は進行する。クラシックオペラが中心だ。初めてのドイツ語オペラ「後宮からの誘惑」に続き、「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」と続く。オペラにもクラシックと大衆オペラがあり、「魔笛」は音楽的に優れていても大衆オペラとしてつくられたことも知る。「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」もモーツァルト生存時は不評であったらしい。「フィガロの結婚」はあまりにも上演時間が長く、宮廷を揶揄するテーマは革命前の世界では禁演物であったらしい。当時も大衆受けが重要視されていて、「ドン・ジョバンニ」も一般には高尚すぎたらしい。「レクイエム」は未完成で終わったことも知る。映画でのオーストリア皇帝ヨーゼフ2世は人柄が良く民主的で文化を愛し、ザルツブルク大司教とは敵対関係、妹アントワーネットをフランスに送る賢人として描かれている。鑑賞後、ヨーゼフ2世は農奴解放をしたことも知る。モーツァルトと同時代にハイドンやヴェートベンもいて、ハイドンは若きモーツァルトを評価していたものの世界は今のようにオープンではなく、モーツァルトはウィーンに留まるしかなかった。モーツァルトの最期は悲惨で、家族も出ることができない城外の共同墓地に埋葬されている。映画で実際に演じられていたオペラ劇場はプラハのエステート劇場で、これは「フィガロの結婚」の初演劇場であったらしい。「ドン・ジョバンニ」に興味をもち検索。「ドン・ジョバンニ」もフルトヴェングラーが亡くなる直前の1954年指揮のものが有名であることを知る。モノラル録音ではあるが、解説によると、崇高さの表現でフルトヴェングラーの右に出るものはいないという。
2月10日(月) 017 ラ・リーガ ソシエダ×エスパニュール 週2日の過密日程は続く。ソシエダは、メンバーを変えてこれに対応。開始早々のベッカーの得点からペースを掴むも追加点が得られなかった。オスカルソンにボールがおさまらなかったことが大きい。そして終盤に選手を交替して得点勝利し、なんとか監督の思い通りに進んだ。
2月9日(日) 016 ラ・リーガ レアル×アトレチコ 首位攻防戦。それにしてもアトレチコの推進力は凄い。レアルが攻め続けるも思ったかたちにならないのは、カウンターを食らう恐ろしさからだろう。一方、レアルはビニシウスがいまいちも、エンバペとロドリゴが好調。今日はそれに中盤のセバージョスが奮起し、ベリンガムも好調。DFは苦しそうであったが左SBのセバージョスもよい。
2月8日(土) 「戦場のピアニスト」ポランスキー監督を観る。ピアニストでユダヤ系ポーランド人がポーランド侵攻後の迫害から逃げる生き様を描く。瓦礫の中でドイツ将校の前でシュピルマンがショパンのバラード第1番ト短調作品23を演奏するシーンは感慨深い。早速父の棚を調べる。ホロウィッツの1965のカーネギホールでの復帰ライブの中にその曲を見つける。一番の拍手を受けているところから名曲であることが判る。映画(オレイニチャク演奏)よりタッチが繊細であった。
2月7日(金) 大学の産官学の一貫として、スーペースクールという反射+放射性能に優れた素材の説明を受ける。かつてぼくもクールサーモのような断熱塗料を使用した。これは反射機能がメインで、この機能が大気中に汚染されて落ちないように雨水浄化によるナノテクノロジーも合わせて使用したものだ。20年以上経って、これに放射機能が付加されたらしい。その構造が不明であるが、高効率で放射冷却が起こる8-13μmの波長域に太陽光を光学変換するものらしい。すでにシート化され耐用年数も実証済みらしい。この技術を建築へ製品化するためのいくつかアイデアを話す。 015 国王杯 ソシエダ×オサスナ 3日ぶりの再戦。一発勝負のためか、ソシエダはいつものつなぎのサッカーでなく、ロングボールあるいは足下でなく裏のスペースへのパス中心となった。そのためか、前線とDFラインの間にスペースが生まれ、最初の20分はそこからのロングシュートを狙われるも、精度が劣り救われる。このうちひとつでも決められていたら試合展開は、3日前のようであったと思う。しかし、インテンシティは違っていた。前半の中盤に、そのロングボールを、意外にも久保がつないで前の3人で先制点。これで楽になった。いつものようなプレッシングで反対にオサスナを慌てさせ追加点。さらに、前半終了間際にレッドカードを誘発させてこのゲームを乗り切った。レアル、バルサ、アトレチコとの4強に入る。
2月6日(木) GAJAPAN192を読む。隈氏のグルベンキアンは、ピアノのアウラ研究所を彷彿させる。縁側空間の日本さを焼き直した作品である。伊藤博之氏の「花・雲・井」という集合住宅も面白い。国宝「洛中洛外図」に、雑多のなかの統一という美を見出し、それをコンセプトとしている。生活、自然と雲でなく建築の場合は構造グリッドということだろうか。建築家の技術力にたいし、意識的に距離を置こうとしているところが現代的である。
2月5日(水) 「自然現象と心の構造」W/パウリ著を続ける。前半のケプラーについて言及が興味深い。「直感(institute)という概念は、ケプラーの場合つねに知覚能力という意味で用いられるが、それをつかって彼は、定量的に決定される幾何学的な形態を想定する。彼にとっては、幾何学は文字通り最高の価値なのであるp164」。次なる興味深い記述は以下である。「現代流に言えば、光の量は、点と看なし得る光源からの2乗に反比例して減少するp170」というケプラーの発見は、意識の構造が常に無意識たる中心からの距離によって支配されているということの現れだといい、「地球は人間のように生き物であるp177」と考えたらしい。毛髪があるように草木が生え、尿を放出するように泉を湧かせているというのである。このようにケプラーは科学と精神を同じ土俵で考えていたというのが、パウリの考えである。
2月4日(火) 「建築の多様性と対立性」ヴェンチューリ著の拾い読み。修士森本さんの講評を書くにあたっていくつかをチェックした。この本でポシェの情報があまり多くないにもかかわらず、森本さんはよくもこれを展開させたと思った。ポシェは残余部分と訳され、内外を連続させる近代建築との差異化をはかっている。つまりポシェとは、「内部と外部の葛藤と和解を空間に記したもの」である。そして「システムの科学」ハーバート・サイモンを引用し、多様なシステムとは何かを説明する。「多様なシステムとは、単純ではない相互作用をする無数の部分」からなるもの」をいう。これが、ポシェのある建物の評価であろう。ところで、この本の引用事例の多さは圧倒的で、バックグランドの広さを感じた。
2月3日(月) 014 EL オサスナ×ソシエダ オサスナもバスクのチーム。ソシエダとは良好なライバル関係にあり、今週は国王杯でも再び対戦する。久保とも同僚であった長身FWのブティミルが好調で、今日は2点、トータルでも今季10点以上を既に取っている。ゴール前のポジショニングがよい。久保は不発。縦に流され、このころは内側に入ってくることを許されない。何度かソシエダもチャンスをつくっていたのだが、正直なところ久保頼み。終了間際にオスカールソンがDF間をこじ開けてのボレーを決めたのが救い。
2月2日(日) 映画「マルホランド・ドライブ」2001年のデイビット・リンチ監督作品を観る。これもまた時系列を崩した映画であるが、後半から改めて前半を振り返るとスッキリした流れとなる。前半は後悔の念を打ち消すための空想の世界で、後半は現実と過去への回想の世界で、登場人物が似たようで異なる役を演じるので、混乱を大きくする。映画自体がフィクションなのだから、その時系列を崩そうとも、誰の視点であるかを曖昧にしても構わないのである。ぼくらは一方向に流れる時間の中にいるようで実は、現実でもイメージを観ているのだとしたら、世界時計の進行だけがそうなのであって、立ち止まって過去を回想し未来を妄想したりすることだってできる。そんな映画であった。登場人物の意識の切り替えは、鍵であったり電話音であったり、灰皿であったりで、それによって切り替えは進行していた。本作品に似たタイトル「サンセット大通り」、あるいは「オズの魔法使い」における妖精の扱いなど参照も多いように思う。それにしても、ノーランがあまりリンチの作品を語らないのは意外でもある。
2月1日(土) 013 プレミア ノッティンガム×ブライトン ブライトンが7点の大敗。三笘も前半で交代させられる。ノッティンガムは、FWが確実に得点できる安定性の下、現在3位につけている。しっかり守って速攻といううわさであったが、今日はボール回しにおいても長けていた。
1月31日(金) 012 EL ソシエダ×PAOK 今日の試合のためにターンオーバーしてきたかと思いきや、先発は大幅に変わった。GKのレミロも退き、CBのアゲルドと中盤のスピメンディだけが残る。その先発選手が監督采配に応え激しい試合となった。そしてソシエダ唯一の9番オスカールソンが頭で2発を決める。これで次のフェーズに残ることができた。久保らは後半の終わりに登場。そこそこのパフォーマンスは残す。
1月30日(木) 修士設計の講評会。今更ながらプレゼの重要性を知る。コンセプトの切れ味もさることながら、それを気づかせるには、どうしたらよいかが大事となるのだろう。薄井さんは、グルスキー作品の意図や現代性が伝わるかどうかが勝負であったと思う。鑑賞者の内なるまだ見ぬイメージがグルスキー写真の異常性によって蘇る、そうした写真メディアの機能についてである。芸術のこうした機能を指摘する人は多いものの、対象(テーマ)の新鮮さと表現方法においてグルスキーは群を抜いている。小川さんの作品に対してはある種の倫理観が求められた。これまでは新規性によってそれが不問されていたが、もはや受け入れられなくなっている、このことを感じた。小城さんの重層する論の立て方に感心する。学生図面の域を超えていて、潔いデザインが好感をもてた。瀧岡さんはプレゼで失敗したと思う。情報にメリハリがなかった。中村さんの作品は、立原道造の「激しさ」と「優しさ」に目を付けたところで作品になったと思うのだが、立原の建築おける評価が難しいように、これを魅力的に示す必要がある。幸いに70年も経つと、磯崎や鈴木了二氏の丁寧なテクストがある。皆川さんの作品にいたるまでの手順がなかなか理解されないところがもどかしい。浮遊感を現象学的なアプローチするところに無理があるのだろうか。パノフスキーを紐解いてみようか。森本くんがよかったのは、まずポシェという切り口の発見が大きい。ポシェは具体的で一言で言い表せる。そして何よりも、ポシェを語る巨匠や名著の存在が大きい。話に幅を持たせることが出来た。それでもバロックへの依存が現代的でないという指摘を受けた。ドゥルーズの「襞、ライプニッツとバロック」は、現代的視点でこの橋渡しをしてくれる。山崎さんは、敷地の選択に疑問が呈された。ちょっと豊かすぎたという批判であるが、事例調査からスペックがきちんと確認されていたと思う。
1月29日(水) 修士論文の講評会、そしてその後に意見交換会。明日の学生のプレゼを確認して戻る。 010 011 CL パリ×シュトゥットガルト パリが強かった。途中から、アンリがCBで登場。裏をとられる場面もありヒヤヒヤする。
1月28日(火) 「自然現象と心の構造」W/パウリ著を読み始める。論理というものは究極的には、個人的で代置が効かないものであると思うが、それがいかに客観性をもつことができるかの可能性について最近興味をもっている。E.パノフスキーも本書の手助けをしていたことが冒頭に書かれていた。あながちアプローチとしては間違っていなさそうで、難解そうであるが頑張ってみようと思うに至る。本書は、17世紀ケプラーの惑星運動法則の発見がいかに社会共通の問題意識と並行していたかを示す論考である。人は前以て内在する内的イメージが外的な対象と対応すること、つまり「合点がいく」ことを自然の理解といい、この内的イメージを元型といっている。読み進めながら、1999年のラトゥール著「科学が作られているとき」の内容を思い出し比較する。
1月27日(月) 折口信夫と柳田国男の違いを確認したく、「古代から来た未来人 折口信夫」中沢新一著の再読。ここで中沢は折口の思想に心底陶酔している。それはひとえに折口の「マレビト」論からきている。2人の違いは、神についての考えにあった。柳田は、日本の共同体の同一性や一体感を支える内なるものが神と考えていて、それに対し折口は、「マレビト」に代表されるように、神は外からやってくる異物のようなものと考えていたようだ。當麻寺の中将姫を題材とした「死者の書」という折口の小説はこのことを書いたものである。ちなみに中将姫を迎える行脚供養祭は4月14日に昨年執り行われた。ただし、磯崎によると西方浄土思想にしたがい国宝本堂曼荼羅堂ができたのは鎌倉時代で、これまでの南北軸伽藍配置が、このときからがらっと90度変わって東西軸配置になったというという。鎌倉時代前からこの祭はあったのだろうか。それはともかく、當麻寺のある二子山は神聖な場所であることをこの本から知った。そして折口が「マレビト」論へ展開させることができたのは、古事記にあるムスビの神、高御産巣日神と神産巣日神の存在からだという。この両神が天照大神をつくったとされる。 010 ラ・リーガ ソシエダ×ヘタヘェ よもやの0-3でソシエダが負ける。最初から最後までヘタフェペースで、フィジカル重視の闘いとなってしまった。試合後の久保のインタビューは、自らを辛辣に語る。情けないと。ミッドウィークには、ギリシアとのEL生き残りの試合が控えている。
1月26日(日) 「ダイヤルMを廻せ」1954年のヒッチコック映画を観る。夫から殺人犯に仕立てられる資産家の妻役をグレース・ケリーが演じる。モナコ王妃になる直前の作品である。ヒッチコックさながらの脚本の巧みさが光り、1998年のマイケル・ダグラスの同名映画より面白い。それも2時間弱の映画のほとんどのシーンを、グレース・ケーリーのアパートを舞台としていて、映像のダイナミックさに欠けた上で面白さがあったのである。ヒッチコックのスマッシュヒット作品。 009 プレミア ブライトン×エヴァートン 0-1でホームブライトンが負ける。リードしてからのエヴァートンの守備は強力で、それを崩すことができなかった。何でもエヴァートンは年明けモイーズ監督に代わったそうだ。香川がいたユナイテッド時代の失敗によって保守的な采配をするという烙印が押されたと思うが、相変わらず堅く、こういったチーム状況にはもってこいの監督である。ただし、上昇気流にのせないと批判されるのが、こうした采配の弱点でもある。三笘も消されていた。
1月25日(土) 月曜日のM2プレゼに向けての研究整理をする。薄井さんの作品は、日本海に流れつくゴミ漂流物問題を建築で応える提案である。そのために本研究が調査してたどり着いたのは、崇高の表現として有名なアンドレアス・グルスキーの写真作品である。それは、現実と抽象の境界を曖昧にし、ミクロとマクロの2つの視点を併せ持つメタ的な視点を持っている。それにより普段見えていない現実を誇張し、背景にある事実を映し出すことに成功している。本計画では、この方法論を建築に応用するものである。計画敷地は、年間3万トン以上で、日本で最も漂流物が多く流れ着く対馬の北東の河口扇状地である。そこに、脱塩分前処理施設、漂流物を雨水にさらす広大な棚、将来地域の集会施設にもなる作業小屋、一番高い敷地奥に展望デッキの4施設を計画している。展望デッキからの眺めは、雨水にさらされるために並べられた○○㎡に広がる無数の漂流物が海まで続き、漂流物問題が無気味に永遠に続くことを示ししている。その絵はさながら、荒波の岸壁に立つ啓蒙期のカスパー・ダーヴィットの風景画「雲海の上の旅人」をも思い出せ、世界的社会問題を強く印象付けることを期待したものである。建築の新しい存在意義を提案する作品である。小川さんの作品は、千葉都市モノレール駅とその周辺の提案である。本作品でははじめに、日本の鉄道車両座席形態と利用者との相関関係を調査した。敷地は千葉都市モノレールのスポーツセンター駅と動物公園駅であり、そこに高架鉄道と特有な周辺環境に見合う機能的な駅が計画されている。小川さんの豊富な鉄道情報から得られるより使いやすい駅の在り方を、動画を使用して分かりやすく提案している。小城さんの作品は、青森ねぶた祭行事を通じて地域の活性化を狙う提案である。青森ねぶた祭を通じて行政が現在行う地域活性化の方法は、商業に依存するものである。それとは異なるもうひとつの祭の意義、土着的かつ文化的な側面を計画の主にするものである。そうした結論に至るまで本研究が調査したのは以下の7つに及ぶ。1)青森ねぶた祭の歴史と目的変遷調査、2)ねぶた祭の実情と問題点、3)ねぶた山車の素材調査、4)祭一般の機能性、5)難波和彦による共同体意識論、6)青森市が抱える問題 である。敷地は、青森市によるねぶた小屋移転計画が既にある青森中央埠頭。ここに全長○○mで○○ブースあるゆるい弓形のねぶた制作小屋と防災公園、市の除雪起点場所が計画された。この小屋は、街の中心地から日常的に眺められることができ、年間を通じて吹く強い西風からは東の公園を守り、3月から8月の期間は制作活動の市民の鑑賞と参加を誘発、冬期には街から除雪された雪の処理場となる。商業中心とする地域振興の在り方に疑問を呈し、祭に市民が自発的に関わることで変わる、新しい街の在り方を期待する希望に満ちた提案である。瀧岡さんの作品は、水を通じた新しい建築の提案である。副タイトルにある「アンビエンス(とりまくもの)」とは、私たちの日常を取り巻く歴史性や文化までを含む環境を指し示す言葉であり、環境哲学者ティモシー・モートンの言葉である。そしてタイトルにある「自然的」とは、60年代に「かくれた次元」を著したエドワード・ホールがテーマにしたインヴォルブドに該当する言葉で、本提案でも時代を経て考えられている。理解が難しい大文字の他者を前にしたときに、それに巻き込まれることことを積極的に受け入れることを意味する。ここに計画されている建築は、香川のため池で培われてきたものの、現代では忘れさられている環境を、再び地域に意識化し定着させるための施設である。そのために調査によって紐解いたアンビエンスは以下の4つ。1)空海の灌漑技術のひとつ余抜き、2)現代日本の建築的水処理技術、3)ため池と金庫川周辺環境、4)この地域の現状と問題点である。そのアンビエンスを表象する建築は以下からなる。1)「自然的で」川の水位変化を利用した生態系の蘇生、2)それを実践する農業の場、3)それを啓蒙する地域の場である。その結果、自然/人間という近代の環境二元論の枠組みが外され、自然と人間のシームレスな環境が築かれている。本作品のいうインヴォルブド アンビエンスとはこのことをいう。中村さんの作品は、2023年のカトリック清水教会堂の解体後の移転提案である。このトリック清水教会堂は、西洋にあるゴシック教会の石組積造とは異なり当時の日本大工がもっていた木造技術でつくられた西洋教会の模倣建物である。したがって、建築歴史的には価値がないものとみなされている。しかし、約100 年の歴史を持ち市民に愛され、現在その活用方法が模索されている建物である。本作品はその模索されている課題を、以下の5つの視点から応えている。1) この解体作業に参加すること、2)教会堂の歴史的意味を再定義すること、3) 保存されている部材の社会性を作品化すること、4)そのために建築家であり詩人であった立原道造の思想を著書「方法論」や「住宅・エッセイ」と唯一現存している実作「ヒアシンスハウス」から紐解くこと、5)清水の地域性に貢献すること、である。計画された作品は、構法的には機能していなかった木ずりリブヴォールトの下地のみの保存、日本文化へ再考察されて設置されていた座敷と色のあるステンドガラスの保存、を通じて演劇空間のある地域の家を計画した。それらは、立原研究から得られた「激しさ」と「優しさ」というものである。このことで、あるひとつの使い方やイメージへと定位させることを目的とする近代機能主義を拒否し、利用者に「すき間」を残す建築となった。現代で再注目される建築の在り方を提案している。皆川さんの作品は、叫ばれて久しい建築における現代的テーマ「浮遊感」が何かを考察している。その中で本作品の特徴は、浮遊感を等質であることとペアに考えているところにある。それに至るまでに、1)E・パノスキーにしたがうルネサンス絵画の一点透視画法の事例分析、2)岡崎乾二郎の著書による空間分析、3)自身の体験による建築(菊竹清訓作品)分析、を行った。その結果、多様な物質を秩序立て構成している「建築」においても、光を効果的に取り込むことにより視覚的な等質性を獲得することができ、等質性を部分的に乱す色と光によるズレによって「浮遊感」を効果的に発揮できる、このような仮説に至った。本作品は、これの図面表現方法も含めて実践するものである。計画敷地は静岡県三島の源兵衛川沿いの緑地帯である。ここに、学びと遊びの区別がない子供美術館と絵本図書館を計画した。この地域は、川を意識して形成されてきたゆるい秩序ある川並みをもつ。そのランドスケープを保持したまま、色と光によるズレを敷地内で計画し、等質性ある現代的浮遊感のある空間を目指している。これまではその効果を確かめる方法として、模型やCG上のシミュレーションと完成後の実体験しかなく、近代以降の図面表記方法は性能表示中心のものであった。本作品は、かつて岡倉天心が日本画において編み出した朦朧体を思い出させる点描による新しい図面表現方法によって、空間の質をこれに加えている。森本さんの作品は、現代的社会テーマである画一的でない(曖昧である)ことを、建築において追求している。それを内外の境のない縁側に代表されるような日本的中間領域に求めることなく、多義性を対立させることによって獲得を目指した作品である。そのために参照したのは、1)R・ヴェンチューリの大著「建築の多様性と対立性」1972年の読解とヴェンチューリの作品分析、2)詩を分析したウィリアム・エンプソンの「曖昧の七つの型」の読解、3)ヴェンチューリが実作としていなく「建築の多様性と対立性」の8章にあるポシェの概念を、磯崎新のクゥトロ・フォンターネ聖堂のバロック建築論考をもとに行った。計画敷地は、幕張新都心住宅地区の幕張ベイタウン街区である。ここでは建物を、道路沿いの街区形状に倣って配置し、閉鎖型街区を形成している。直方体形状の建物が一直線に並び、ヨーロッパ古来風の街並みを形成している。ここに、使いやすい場であると共に、人が自己を自覚しアイデンティティが確立できるような場をもつ文化複合施設を計画する。上記の研究成果に倣いこの作品は、建物の外縁が室内のようにみなされる外形線と、室内の要求機能や雰囲気、大きさを満たす室内線、これらを複数並置することで生まれるポシェのある建物が計画した。ポシェのある建物は、ベイタウンのような教条的な町並みとは異なり、利用者各人各様の感覚が揺さぶられる多義的な建築となり現代的である。山崎さんは、終末病棟の設計を7つの庭を起点として計画した。最初に本提案は、終末病棟の歴史的変遷と現代日本の終末病棟の現状の調査、事例収集をした。その結果、終末病棟で重要視されるべきことは、医療や管理の確実性や効率性でなく、患者が最期まで環境や社会に関わることができる場の提供にあるという考えに至っている。それを実践するために本計画では、7つの特徴が異なり、使用方法を患者の毎日の体調や気分に委ねることを可能とする庭とそれに隣接する共用部を設計し、かつ地域に開く建物としている。計画敷地には、終末病棟数が全国的に少ない藤沢市内の、住宅地に囲まれた公園敷地を設定した。その敷地を詳細に調査した結果7つの特徴的外部空間を発見し、それを保存するための回遊+分棟型の病棟配置計画である。管理や規模設定に無理がなく、地域や7つの庭と密接な関係のある患者本位の終末病棟である。
1月24日(金) 卒業研究の感想会をオンラインで行う。評価の公平性と教育的効果を問う意見があった。先日の意匠系の教員間の議論も同じ根にあるものであろうと思う。最近読んだ岡崎乾二郎の「而今而後」に、繰り返しになるがその応えがある。「経験論の考えに基づけば、自然法則は、ひたすら経験から導かれた蓋然性として得られることになる、はずだが、そんな億劫なプロセスを信じる科学者はかなり以前に消え去っている。物理学者ですらたいがいは直感とか関心の志向こそが概念の発展に重大な役を果たしていて、自然法則の体系の構築もこれが可能にしていると考えているらしい。けれど、そこに「一つの問題が生じる」とW・パウリがある論の中で述べている。いわく「感覚知覚と概念の間の橋渡しをするものの本性は何か、という問題である。ユング+パウリ(自然現象と心の構造)」p11」。ぼくなりに解釈すると、分析された断片を知覚することは容易で強力でもあり真実味もあるものの、それをいちいち組み上げて法則や概念をつくりあげるには相当大変で困難である。今では物理学者でさえそこに直感を持ち出している。(別なところで夏目漱石は直感をもちださなかったところを評価している)。事実、直感によるジャンプはある。ただしそれで為したものは個人的で唯一的で、代置や再現性がないので、W・パウリは漱石同様に、再現性のみが将来性のためのものでないことを示そうとした。岡崎は、この変容プロセスが、再現性とは異なるフェーズで、将来性あるものと言いたいのだろう。 008 EL ラツィオ×ソシエダ 1対1でラツィオが有利をつくり出し、前半だけで3点。残念ながら明らかにレベルが違っていた。驚いたのは、アルグアシル監督の切り替えの早さ。前半に退場者があったこともあってか、後半から攻撃の主力3名を引っ込めた。その中に久保もいる。過密日程の中の必勝でのぞんだ試合をあっさりと捨てたかたちである。逆転よりも失点を増やさない姿勢を示したのには驚いた。
1月23日(木) 午前に病院へ行き、抜糸とリハビリ。午後は学科会議。その後夕方にオンライン会議を挟んで、アンデルセンプロジェクトのミーティングを鈴木さんと斉藤さんと事務所で行う。パラメーターを動かしながらそれの検証を続ける。ライノセラスでのこの経験は、設計をはじめたときの池田さんとのやり取りを思い出すものであった。シミュレーション過程を通して新しいコンセプトをあぶり出すような行為であったと記憶する。条件を無理なく幾何学に落とし込むことのできるかたちの模索である。
007 CL パリ×マンチェスターシティ 前半0-0。後半から4点をとったパリが勝つも、先制はシティで、0-2からの逆転である。どちらの名匠もバルサ出身で戦術に長けているので、押したり引いたりのシーンが続いた後の結果である。はじめからパリが1対1のミニマムな局面に勝利していたが、ゴールによってその勢いを増し勝利を引き寄せた。
1月22日(水) 意匠系の論文発表会。昨日の1日は、3週間ぶりの外出とあって疲労困憊であった。興味深い研究があった。黒漆は江戸時代にはじまり、徳川と強い絆の寺に多いという研究である。ぼくは生産の立場から対象をしばし考えるが、黒漆たるものになった鉄の発見が大きいと直感的に思った。鉄鉱石は宮崎駿を出すまでもなく、出雲が主産地であり、徳川がこれを目につけ直轄領としていた。発表会後に、先生たちと意匠系論文の進め方について議論。いまだに工学系論文は、再現性を重視するポパー時代のものらしい。ぼくも同様に研究や科学を、社会に開き誰もが修正を加えることができるためのものと考えているが、戦後アメリカで量子論がやがて幅を効かせたように、あるいは生命学が主流になっていった経緯から明らかなように、観察者たる主体の存在や、ぼくの好きな偶然といった問題、あるいは解くことができない多くの問題、これらを排除した上のものであっては現代的ではない。主体の置かれている状況を明らかにして、その上での検証内容を明かすように、世の中は動いていると信じたい。 006 CL リヴァプール×リヨン 今日は遠藤が60分過ぎから登場。生き生きしたプレーをみせ、最後のファウルまがいのボール奪取された場面を除いては上々の出来で、監督の戦術に慣れた証だと思う。これからに期待。
1月21日(火) 卒業設計の発表会。全体的な印象として、コンテクストから発想する作品が多くみられるようになった。一方でかつての地方国立大学の作品のようになっていないこともない。それがなぜかを考えた続けた発表会でもあった。前向きにこの現状を捉えるなら、コンテクストをもっと微細なところまで見る必要があるのだろう。そうすることで独特な視点が生まれる可能性も大きくなると思う。テールデータのように、である。遠藤研からは8作品が発表した。阿部向日葵さんは、折口信夫から「代」というものを考えた。個人的なダイバーシティと集団としてのアイデンティティをペアに考えている。「代」のそうした機能を踏まえて、それを暗示する「標」の役割を建築に担わせる案である。敷地が皇居というのも凄い。ぼくらが知らない五節句行事を可視化し参加する標の提案である。もうひとつ興味深いのは、モノとしての代の継承を考えていることである。折口は「まれびと」という考えも残した。健全な継承には異物もまた大事なのである。残された課題としては、これらを示すひとつひとつの標の新鮮さの提示であろう。安藤琴音さんは、岐阜の登り釜を中心とした地域の活性化を考えた。現代的なかたちを提案し、それは敷地とフィットし魅力的な提案となっている。造形力に感心する。大里光凜さんの作品は、熊被害という社会テーマを建築で表現した。かたちに結びつきにくいテーマに挑んだところに感心する。ピラネージ、批判的表現などいくつかの手がかりがあったが収束できなかった。佐藤梛さんの案は、福祉施設に必要な様々な居場所の提案に、中世の寝殿造を持ち出して提案していた。この視点は大きな批判を受けたので、この仮説を論理立てる必要がありそうだ。もうひとつ批判を受けたのは、屋根と平面のズレにあった。計画敷地をもっとはっきりと表現する必要があるのではないか。杉浦七海さんの作品は、光の質を変えた礼拝所と墓地を逗子の山に計画した。素直に建築をつくり込んでいるところがよい。テーマ選択によって建築内部まで踏み込んだ案にすることができた。堀江拓馬さんの作品は、街道沿いの昔の建物のよさを現代建築に応用する提案である。造形力に感心する。はかりやという建物であるが、それの新しい分析がプレゼで伝わらなかったのが痛い。松田周花さんの作品はユニット建築を考えた。人口変化の激しい流動的地域における動産的建築の有効性を示してみせた。プレゼも上手く非常に社会的な作品である。三國海資さんの作品は、絵本をもとにした子ども施設の提案。色彩が豊かでその補色性も考えた案である。短い期間に論理構成を組み立てる実行力とスマートな姿勢さが印象に残っている。
1月20日(月) 005 ラ・リーガ バレンシア×ソシエダ 過密スケジュールから前線を大きく変える。今年ソシエダはこうした谷間を上手く乗り切りことができずにいて浮上をしない。その次の試合以降、リズムを取り戻すのに苦労している。相手のバレンシアは最下位と聞きびっくりもするも、年末に監督が代わり、先制をするもなかなか勝てなかったらしい。しかし今日はインテンシティが違い、早々に得点し踏ん張った。久保は後半から出場。そのインテンシティに屈したかたちであった。次のラツィオとの闘いのための温存と推察する。
1月19日(日) 4年生とオンラインで卒業設計プレゼの予行演習。本番に期待。「I am Sam」ジェシー・ネルソン監督を観る。ショーン・ペン主演の感動映画。知的障害をもつ父と7歳の娘との間の絆を描く。この娘役に「宇宙戦争」のトム・クルーズの娘役でもあったダコタ・ファニング。物語の締めがどうなるか気になる展開であった。それは、主人公ショーン・ペンをめぐる物語がいくつか平行して進むからである。泣ける映画であった。
1月18日(土) 「而今而後」岡崎乾二郎著を読み終える。これまでに書かれた氏のエッセイとそれの解題が新しく付された本である。全般にわたり「死」に伴う一回きりの人生が大きなテーマとなっているが、実感がつかめない。岡崎の境遇を察する。最初は「わかる」ことをテーマとする。「わかる」とは而今而後。これまでを踏まえた今後を前向きに考えるということだろう。これまでとは、分析・分解のことである。「「わかる」を漢字出書けば、「分かる」であり「解る」である。すなわち分解すること。一つであった身体をばらばらにして解体してしまうことか。分解して何かがわかるわけではないp11」と続き、「こうして、ばらばら(無数の感覚情報の集合)に分解してしまえば、客体も主体も(物質も精神も)領域の曖昧さにおいて融け合ってしまうp11」という。しかし、「分解され、てんでにうごめきはじめた物理的断片の知覚的強度ははるかに強力である。この散り散りに破砕、解散し解像度(強度)を高めた感覚の刻印の群れから、再び何かが一つの確実な実感=概念として立ち現れ、私(たち)がそれを納得して了解するp12」。これが「わかる」ということなのだ。つまり、分解されたものをもう一度私的に組み直すことである。そしてそれが、リアルな生起あるものであり、芸術といわんばかりである。これをエントロピー増大と創造、あるいは生きるということと絡めると合点がいく。その上でW・パウリがいうところの「感覚知覚と概念の間の橋渡しをする本性は何か、という問題」が、この本で重要なテーマとなっている。これについてはもう一度考えよう。後半は、様々なアーティストの活動を通じて、私たちが「身について」いてもわからなくなっているものを疑い、芸術にまで仕立てた活動・作品らの紹介である。そして中盤は、それを社会構造において明らかにしている。大著であった。午後から大学行き。卒計にむけての最後のエスキスをする。
1月17日(金) 004 国王杯16強 ソシエダ×バリョカノ 今日も久保が躍動。今日はブライス・メンデスやセルヒオ・ゴメスが休みで久保がセットプレーを担当。そのコーナーキックの返しを左奥までドリブルで駆け込み、オヤルサバルへ先制アシスト。その後も、オフサイドになったが、相手ピボーテを2人の反則まで振り切ってのスルーパス、あるいはいつもの右からのシュートなど多才であった。3-1で勝利。日程的にきつい中2日の試合が続く。バリョカノは、マドリー市の南バリュカスにあり、レガネスやヘタフェと隣接する。
1月16日(木) 午前から診察、その後リハビリを行う。その間の時間を使って、「蜘蛛巣城」黒澤明監督を観る。この映画も黒澤の特長であるセットにかけるお金の使い方が凄い。富士山の麓から肉眼で見えるほど大きい城(砦)であったそうだ。その門の大きさも異常で、駆け寄る伝令馬は小さく見えるほどで、それを拳を振り上げて叩く音も重い。そのシーンからはじまる。そしてその城は摩訶不思議な森で囲まれており、それもまた守護神であり、そこには精霊や預言者がいる。霧に包まれ、うっすら暗い中に差し込む光など神聖な場所で、最後にその森が動くというのは宮崎駿を思い出す。あらゆる物語はそこを起点としていた。シェークスピアが土台にあると聞くが、能の動きや音を、至る所で引用し、物語を神妙なものにしている。三船の立ち廻りの迫力、山田五十鈴の取り憑かれたような奇怪さも突出ししているが、最後の馬の進軍シーンは、その後の黒澤を彷彿される壮大なもので、世界的な映画と認めざるを得ない。夜に意匠系の先生とオンライン打合せ。
1月15日(水) 「而今而後」岡崎乾二郎著を続ける。後半はアーティスト批評。アンソニー・カロの彫刻、クールベの絵画、ピナ・バウシュの舞踏、ジョン・ケージの音楽などである。それらにたいする岡崎の視点は共通している。カロを例に出すと、「彼が彫刻を台座から解放し、現実の空間に開放した」という評価である。アンソニー・カロは台座を外して、全く新しい台座へとひっくり返したことをいう。「知覚を含めて、私たちの判断はいずれにせよ、このような先験的な概念ないし対象にあらかじめ媒介されてしまっている」。このことに意識的に受動的であったのがレディ・メイドのデュシャンであり、ぼくが思うに、建築でいえばコールハースだろう。反対に対象から切り離そうとしたのがクールベであり、新しい台座を用意してデザインしたのがカロであったという。別のところでは、それをグリーンバーグのいうところの「ホームレス・リプレゼンテーション(帰する場所なき再現性)ともいう。この先験的な概念を「カテゴリー」ともいい、池辺のいう「名前のある空間」のことである。人間はカテゴリーによって判断するので政治的。その束縛から、思考、感覚、批評、記述を守る必要があるというのだ。
1月14日(火) スコセッシ監督も出演する「夢」黒澤明監督を観る。1990年、黒澤80歳の作品である。かつてのような激しい動きのあるシーンはなく、全ては穏やかで、色やセットの美しさでカバーしようとするもちょっと物足りない。8話に分かれていて、どの物語もひとつの舞台セット、あるいはロケ地での出来事であるのは、黒澤の昔からの手法であるが、おそらく思い描き実現したかったシーンがまずあって、それが黒澤の夢、欲望と言ってもよいのだろうが、それを共感させる意識などもうないのではと想う。巨匠といえども内面を閉じた一人の世界は限界がある。 003 ソシエダ×ビジャレアル 今日でラリーガも折返しの19節である。久保は久しぶりの先発。50分過ぎに自陣からの速攻で、ゴラッソを決める。オヤルサバルからのロングボールに競い勝ち、ゴールマウス前でもDFも交わしての今季4点目。そしてそのまま1-0で逃げ切った。このところ先発を外れていたためか、序盤から久保は気合いが入っていた。何度も右サイド奥をえぐり、中央へのセンタリングまたは自分に付いていたDFが動くことで生まれたスペースへの折返しを何度も着いていた。課題はそのフィニッシュの精度。これはずっと今季改善されていない。
1月13日(月) 午後から妻の運転で大学行き。ほとんどの学生が仕上げのための追い込みをしていて、そのためのアドバイスをいくつかする。午前に、ピエロ・フランチェスカの「キリストの鞭打ち」について調べる。修士で学生がこの作品を取り上げている。この絵画は遠近法が完璧に確立したルネサンス初期作品。1:√2と正方形の幾何学を厳格に守り、その交点を消失点にしている。それによってできた右半分の3人の人間は異常に大きくなり、その人物がいったい誰なのかを歴史上の評論家が様々な説をつくり、謎多き作品としても有名であるという。しかもその3人の衣装には特徴的な色も与えられている。東ローマ帝国の復権を狙っていた人とか、イエスの処刑に無関心でいた人など説は様々である。しかしこの事実から分かるように、「キリストの鞭打ち」という作品名に反してこの絵画のテーマが実は、この完璧な遠近法から生じる違和感がもたらすこの部分に込められている。ちなみにキリストの横に座っている人にも鮮やかに着色されており、キリストの無実を証言していた当時の総督であるそうだ。続けて、アンジェリコの「受胎告示」についても調べる。これも遠近法を確立させたといわれるルネサンス初期の作品である。この絵画は暗がりの中に置かれることになっており、しかし受胎告知というテーマにとって光は大事な要素であった。そこでアンジェリコはその中にあっても、この絵の左からの回廊から、あるいは焦点となる小窓からの光を強く意識できるものにしたという。つまり、このルネサンス時期に、遠近法の確立とともに、その技法を有効に利用して絵画本来のテーマを強調あるいはすり込ませる技術もまた発明されたのである。 002 バルサ×マドリー サウジで開催のスペイン王者同士の決勝。先制はエンバペの個人技。その後、バルサの速攻と個人技で圧勝したというより、マドリーの守備崩壊。バルサの右のサイドからの崩しによってマドリー右の2人が何もできなかった。マドリーといれども最終ラインの選手層は薄い。バルサの調子はいまいちと聞いていたがこれで完全復活。GKの退場により後半に10人になっても危なげなく逃げ切った。結果、5-2の大差でこのカップ戦を征する。
1月12日(日) 午後からオンラインで数人の学生と打合せ。昨日録画した北野武監督「首」を観る。とにかく首が飛ぶ。描き方は少しユーモアでもあり、威厳とか武士道とか勝ち負けとか、悲哀とか様々な意味がそこに込められている。主要登場人物以外の脇役のエピソードが沢山あるのも特徴的。そうした脇役に芸人を配役し、教科書にない当時の日常娯楽も同時に描こうとしている。だから千利休はいるが茶道はなく、能が少し登場するくらいで、噺家や祭踊り、博打である。壮大であったり渾身であったり、映画ならではの合戦や戦闘のシーンがあるわけでなく、ショッキングでちょっとおどけた首切りシーンで引っ張る映画であった。ちなみにラブシーンもなく男同士の愛情表現が捻れたかたちで随所に配置されている。
1月11日(土) 「而今而後」岡崎乾二郎著をまた読み始める。3章の著者解題。2020年のコロナ禍前後の社会変化評が興味深い。よくいわれる近代の問題、消費と欲望のことを「現在という時空の疑似普遍性の成立p304」によるものという。世代間の断絶をも保証していた現在性を共有することで皆が安住していたというのだ。しかしパンデミックによって「国家がその強権を発動して、社会制度、人々の暮らしを強引に統制し、同期させたことも、同じように、結果としてそこで確保しようとしていた現在性の前提その土台を崩壊させてしまったp312」という。岡崎が問題にするのはいつも「意識」であり、いままで見えていなかった国家による社会の強権性が明るみになってしまい、人の現在に対する意識が変わり揺らいでいるという。そこから新しい社会が展開することに期待してこの章は終わるが、ヒントとして、「消費の同期性」と「実際の事物の生産、再生産の時間サイクルは全て異なるp306」とも投げかける。モノを通じた1回だけの共有同期ではなく、それの再生産、継承、改良を通じて次元の異なる(時間を超越した)同期可能性をいっている。だから同期性までも否定しているわけでなく、経済に基づく現在性ではなく、農業や自然、死を含む生といった生産回路へ同期に活路を見出しているようなのだ。「間違えられた男」ヒッチコック監督1956年を観る。実話ということもあり物語性に欠け、映画としての楽しみは多くない。ヘンリー・フォンダ主演。
1月10日(金) 昨日に続き歩く訓練。2週間まともに歩いていなかったので怖さがあるが感覚はつかめた。昼前に退院。今更ながら外は明るいと思う。漸く気持ちも上向きになり「レイジング・ブル」スコセッシ監督、デニーロ主演、ジョー・ペシ助演1980を最後まで観ることができた。この映画で30キロの体重を増量したデニーロにアカデミー主演賞が贈られている。白黒映画。主人公のミドル級チャンピオンボクサー、ラモッタの自伝を映画化した。舞台はスコセッシ特有のニューヨーク。この映画は大戦前後の裏社会を背景とする。もうひとつ特有なのは、スコセッシ自身がカトリック司祭を目指していただけあってキリストがテーマであること。それは引退後の30キロ太ったラモッタが最後に鏡に向かいヨハネによる福音書を復唱することで明らかになる。これについての様々な解釈が可能だろうが、ぼくは次のように思いたい。ラモッタのこれまでの行いから、彼は善人とはいえないまでも、関わった人たちに一生の喜びを確実に与えることができた、というもの。その証拠にラモッタは引退後コメディアン(エンターティナー)になっている。生き方が終始一貫しているのだ。それにしても異常なくらい拳闘シーンがあり、血の生々しさを表現するためにスコセッシは白黒映画にしたそうだ。スタローンの大ヒット作「ロッキー」が1976年。これとは正反対のボクサー像を扱っている。
1月9日(木) 「パタン・セオリー」ヘルムート・ライトナー著を読み終える。先鋭化していたアレグザンダーの思想を、もう一度、初期のパタンから見直しているところが新しく、この本の特徴である。ぼくとしては、パタンを体細胞にダブらせて考えると、その理論をイメージできた。器官は体細胞が寄せ集まってできている。その体細胞にはそれぞれ役割があり、体細胞がひとつの刺激あるいは環境に対応し、その後は他の体細胞へ連動させて、器官(全体)が働くようなものだ。全体性というと宗教ぽくなってしまうが、要は寄せ集まっているという事実をいっている。寄せ集まったお互いが牽制し合っているので、特別なひとつの刺激や環境に器官(全体)が暴走することもない。いわば安全装置のような働きなのである。エントロピー増大しないように平衡を保ち続けるための手段といってもよいだろう。この状態をアレグザンダーは、美しいとか生きているといっている。死とは反対にエントロピーが発散しきった状態だ。しかしふとしたことが原因で器官(全体)が大きく振れることも確率的にある。これがよい方向になるか悪い方向になるかはわからないが、それもひとつの体細胞の動きからはじまるのである。だから体細胞は数々のひとつであっても唯一絶対的なものであるのだ。このようにパタン・セオリーをイメージできた。次にこのセオリーを設計にあてはめてみた。全体が良い方向に振れるとは、創造するようなことなのだろう。ぼくらは、あるパタンを上手く活用してそこから水紋を拡げるように他のパタンも活性化させるように進める。上手くいけば、全体が次のステージでの平衡状態、つまり上位の論理階型へ向かう。これの繰り返しである。
1月8日(水) 「羅生門」黒澤明監督1950年を観る。ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、戦後まもなくの日本に活気づけをしたという。まず驚いたのは背景となる羅生門。半分朽ちているのでセットだろうが、石段の上にのる天平亙をもった2層入母屋、1mを越える柱を使用している。遠目からは小ぶりで縦に伸びる印象であるのは、スクリーンの幅に合わせたものだろうか。羅城門をモデルにしたにしては少し伸びやかさには欠けている。それにしてもよくできていて、東福寺の山門を思い浮かべるような2重入母屋屋根はあまり例がないし、柱の収縮割れが不自然とは思うが、あまりにも堂々としているので、どこかの実物の寺でのロケと思うも、時折、門壁の木を剥がして暖をとっているのでやはりセットだろう。平安の乱世を描いているというが、本当に羅生門はこんな状態であったのかとも思う。昔、国宝の三重塔がある奈良法起寺にいったときに、建物自体は朽ちていないが手入れがなされておらず野放し状態で、伽藍を囲む土壁は崩れ雑草が侵食していてショックを受けたが、それも平和で豊かな昭和の時代での出来事。ましてや乱世では、国家的な偉大な遺産もこうして忘れ去れてしまうものだと感慨深い。こうしたセットのみならず撮影技術も激しい。白黒映画に醍醐味を与えるために木漏れ日の逆光シーンがいくつかあり、一番は京マチ子の心情と重ねているシーンだ。森のなかを追うシーンも見応えがあり、疾走する三船敏郎を追うカメラワークは現代のCGによる撮影技術に近い出来だ。テーマは、弱く見栄張りで自己中心的な愚かな人の存在。先に観た「七人の侍」とは反対のテーマである。三船が野蛮で非人情的盗賊にみえて、実は刀を使えないなど滑稽さを忍び込ませているのが発見であった。
1月7日(火) 朝早くから、整形外科医の回診。執刀医ではなかった。特段問題はないので、今日からリハビリをはじめることとなった。10時半過ぎから昼までの時間、少しずつ膝を曲げたり歩いたりして負荷を増やしていく。順調のようだ。指導されたことをメモに残す。結構なところまで頑張ってよいという。昼から機械を使用した膝の曲げ訓練。看護師さんの方は慎重だ。年末年始の大学メールのやり取りを整理する。
1月6日(月) 深く寝ることができずにいたところ、検温時に起こされる。不自由だが何とか手術着に着替える。9:30になると手術室前室に入る。手術室はやたら大きく、冷房がギンギンに効いている。麻酔がはじまるまで何度も行われる本人確認作業も、投入されると直ぐに意識が薄れる。病室に戻ってきたのは昼前。手術室で起こされたようであるが、記憶があまりない。予定より時間がかかったようだが、無事完了とのこと。執刀医から説明を受ける。3時間後に呼吸器が外れる。全く動けないので辛い。うとうとしながら今朝開催されたソシエダの国王杯を観る。久保は後半から登場。チームのエンジンになっていた。夜は通常食をとり、長い1日を終える。 001 ボンフェラディーナ×ソシエダ国王杯ベスト32 ボンフェラディーナは、スペイン北東の町にあり、3部といえども守備一辺倒でなく強かった。後半から久保らが投入され負けはしたが、幾度もチャンスをつくっていて、そのうちの1点でも入っていたら展開は変わっていた。解説によると、1部リーグのU23ユースチームがこのディビジョンに所属しているらしい。バルサもマドリーもこのソシエダも、である。彼らもアップアップで、1部チームではビジャレアルユースのみ唯一2部にいる。レアルの若き日本人中井はそこに残れず4部にレンタル中と聞く。
1月4日(土) 予定していた入院のため病院へ行き、いくつかの書類確認などをした後に外出届を出して昼前に自宅に戻る。明日の夕方に戻ればよいとのこと。「パタン・セオリー」の5章、「他の分野との結びつき」を読む。ハイゼンベルグの量子論からはじまり、バイオサイバネテックスのフレデリック・ヴェスターにページを割く。そして進化論と宗教(テイヤール・ド・シャルダン)。カール・ポパーは幾度か触れているが、ここでも「段階的発展と訂正」に両者の共通点を見出す。最後に、ピアジェの構成主義とアインシュタインの相対主義。その2つをもとに、絶対性を相対化するための学習プロセスを導きだす。それは、個人的判断を認めるも、状況がことなるために一般化はできないというもの。つまりは、真実を相対化するプロセスの大切さをいう。それがパタン・セオリーのもつ特色という。しかしそこに全体性への言及はみられないのが疑問に残る。WOWOWで「ホセ・カレーラス 輝ける75年の奇跡」を観る。ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴとのコンサートを中心にカレーラスの生涯を振り返る。バルセロナ出身で、フランコ独裁政治の下でのカンプ・ノウでの声援は心の支えであったという。ここでも紹介されていたビゼー「カルメン」が有名らしい。カーレラスが活躍したバルセロナのリセウ大劇場も知る。円形の集中式オペラ劇場で、多層で荘厳。一体感を醸し出す点でカンプ・ノウを連想する。ガウディ時代の建築である。
1月3日(金) WOWOWで「私は、マリア・カラス」を観る。天才マリア・カラス自らが半生を語るドキュメンタリー。その中で、「ノルマ:ベッリーニ作曲」(1955 ミラノ)を最高傑作として挙げている。他にも「ルチア」(1955ベルリン)「トスカ」「椿姫」(1955ミラノ)。もちろん「カルメン」もあり、最後は「スキッキの私のお父さん」である。どうやらマリア・カラスはベルカントオペラの復活に一躍買ったさらしく、その音域の広さがあまりにもアクロバティックであるがゆえに、それまで上演されることは稀であったという。その代償としてマリア・カラスは喉を酷使し、最盛期は10年もなかったという。それを前後として後世では、私生活やスキャンダルに苦しむ人生であった。9年間公然と共にしたパートナー、オナシスは突然亡ケネディの妻になったというのも驚きである。
1月2日(木) 「パタン・セオリー」ヘルムート・ライトナー著を続ける。4章は、パタン・セオリーの応用編である。建築分野以外におけるパタン・セオリーの活用。その中でも、ソフトウェア開発が興味深い。ソフトウェア開発には専門的な多くの人の協力と時間が必要とされていた。そこで「オブジェクト指向プログラミング」という方法が出現したという。これは、データ構造とデータ処理する命令をオブジェクト化し、それをモジュールで区切る方法であった。そこに「パタン・ランゲージ」的方法が導入されたという。XPとかアジャイル(素早い)という開発方法である。アジャイルとは、はじめ全ての要求をクラインとから収集し、優先順位をつける。その中の最優先事項から開発を重点的に行う。つまりものを言うクライアントをプロジェクトまで巻き込み、柔軟に漸進的に決定を重ねていく方法である。これにより、コストパフォーマンスに則した透明化されたシステムができるようになったという。その後XPはWikiに、そしてぼくらに馴染みのWikipediaが生まれた。百科事典がわずか数年で完成した。教育の現場でも試みられているという。生徒との接し方など、「パタン・ランゲージ」のようにいくつもパタンをつくり、時と場所、相手によって柔軟に対応していく試みがあるという。井庭崇さんの活動を思い出す。
1月1日(水) 「七人の侍」黒澤明監督1954年を観る。1952年の丹下健三の広島平和記念館の2年後の作品。騎馬侍との豪雨中の肉弾戦は鬼気迫るものがある。暴れ馬に槍を持って群がる農民たちの異様さは、さぞかし西洋人には無気味であったろうと思う。後に三船敏郎の立廻り演技が黒澤映画には欠かせない迫真をもたらすものなっていくのだが、そんなものではなかった。画像が粗くアップがないとはいえ、例えば晩年の「乱」やスピルバーグ「プライベート・ライヤン」の冒頭シーンにも劣らない。シーンの間に日本の伝統芸術がもつ神妙さを挟み全体に不思議なリズムをつくっている。