10月7日(月)
「095 ラ・リーガ ソシエダ×アトレチコ・マドリー 1-1のドロー。開始早々に速攻を決められが、その後追加点を与えないように絶えず攻めて押し切っていたと思う。最終的にMFスチッチのゴラッソでドロー。久保がチームを牽引していた。アトレチコの5バックをこじ開けることはなかなか難しい。グリーズマンも久保をマークしていたほどだ。その中でも久保は多くの決定打をつくる。要求されるのは、その精度である。

10月6日(日)
開館と同時にアンデルセン公園へ。昨日の雨のためとヘリウム不足のため作業が進行せず。学生たちは応急処置として細い棒で浮力を補うこととした。キャンプで使うロープ結びで細い棒を自立させ、その上の大きなターフとなった。その下でワークショップ。風船だけで子供は大喜び。学生のコミュニケーションの巧さもあって成果を上げることができた。その間に上手く浮かべるために対策を考える。四隅の柱を通じて地面に位置固定をすると今日は形になった。つまり1点だけでも位置を定めないと、浮力が働かないときに糸の引張は機能せずに形は崩れてしまう。当然ではあるが。そこで、目立たないで位置取りだけする柱を立てたらどうだろうかと思う。中央のなびく天井をつくるには、その場所は端の方が良さそうだ。休館日を利用して来週にこの問題は持ちこし。

10月5日(土)
午前中にアンデルセン公園でプレゼ。サンゴの鈴木さんにも参加してもらう。展示空間の建物内の意味づけと利用方法の説明。この作品の意味づけとして「即興詩人」を持ち出したのはよかった。大方の了承をもらい、設計を進めることにする。今日も風船を用いた展示は悪戦苦闘。小雨が続き思うように作業を進めることができなかった。
094 プレミア アーセナル×サウサンプトン 菅原先発。冨安は85分から復帰。3-1でアーセナルの横綱相撲。

10月4日(金)
アンデルセン公園での展覧会の敷地準備がはじまる。まずは室内でその後庭に出て作業。搬出方法や浮力などいくつか問題が出たのでそれらは解決する。他には、布の接合部強度など明日解決すべき問題、ワークショップの内容を共有して終了。大学に戻り、明日のプレゼの模型の確認。

10月2日(水)
設計の授業で初台を案内。今年から初台を敷地に選んだ。その後で事務所で数組とエスキス。この課題は、コンセプトを自己の中で深めるよりも、エンジニアとの協働で案を発展させることを目的とする。案を転がしてどのくらい上乗せできるかを期待する。今日的なアプローチとなることを願って、エスキスを行う。

10月1日(火)
093 CL アーセナル×パリ アーセナルが前半にセットプレーを含めて効果的に得点を重ね、後半はそつなくかわして、完勝といってもよいだろう。戦術の使い分けができるチームはあまりない。怪我人がそこそこいてもやりくりできているところに、ここ数年の実績からくる安定感があった。冨安は全体練習に復帰したというが今日はベンチ外。インターナショナルウィーク明けに期待がもてる。

9月30日(月)
ゼミにて展覧会の方針の確認。M2生の修士設計中間報告も受ける。OBによる会社説明。住宅メーカーの実情を知る。がんばっているようだ。設計授業は、今年から新しい敷地にのぞむ。ぼくとしては、まずは要求建物のボリュームを抑えてから敷地に2つの建物をプロットすることが先決と思う。担当の先生はランドスケープを求めていて、それは個々の建物より優先順位が高い。

9月29日(日)
大学のPPAに参加する。研究室での打合せ。行き帰りに「カッコーの巣の上で」ミロス・フォマン監督、ジャック・ニコルソン主演を観る。漸くサブスクに出るようなった作品である。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」での博士役クリストファー・ロイドも出演している。カッコーの巣とは精神病院のこと。現状社会や科学の危うさを少しも疑わない婦長と患者らの闘いをテーマにする。患者を先導するのがジャック・ニコルソン。このころからパラダイムという言葉が生まれたと思うが、他のパラダイムを受け付けない閉じた世界は恐ろしい。その象徴が婦長である。しかし精神患者にもそれはあてはまり、ベイトソンに言わせると、パラダイム内で自己昇華ができないときに陥ってしまうのがこの病である。彼らも自己のパラダイムに内包されてしまっている。このことは、1970年代当時を越えた現在でも、アカデミーの世界でよく見る。その闘いは続いている。
092 プレミア チェルシー×ブライトン 好調同士の戦い。前半から打ち合い。裏をつつかれてもDFラインを高く保つブライトンの戦術は面白い。しかし前半に4点をFWにとられて負ける。

9月28日(土)
091 ラ・リーガ ソシエダ×バレンシア ソシエダはホームで久しぶりの勝利。久保が先制点、新加入のオルカーソンが途中出場の2点。前半からソシエダがよかったのは、中盤でのつなぎが良かったからだろうと思う。下りてきたのは、右WのヴァレネチアとCFのオヤルサバル。彼らのワンタッチパスで相手陣形を崩すことができていた。そして深くえぐってからの決定力。久保が早々に決めることができたのが大きい。その後は決定力を欠き前半にもう1〜2点はとれていた。

9月27日(金)
「即興詩人」アンデルセン著森鴎外翻訳を拾い読み。アンデルセンの碧の洞窟への思いと物語での位置づけを知りたかった。デンマーク人のアンデルセンは、このときゲーテに倣いイタリアツアーを行う。その旅行記がもとになって、自身を主人公に重ね合わせたのがこの小説といわれている。目新しい様々な体験をしたなかでの中盤のクライマックスが、カプリ島の碧の洞窟での出来事であった。ここで美についてや自己表現についての転換期をむかえる。物語では、盲目の恋人に再会する場所である。しかも嵐で気を失った後で。主人公はこの洞窟の美しさを彼女に言葉で説明するのである。碧の洞窟が登場するのはもうひとつ、この小説のラストにもある。心が平穏な状態で、家族を連れての再訪である。様々な状況でこの洞窟は特別な場所であった。今回の設計は、洞窟が与えられたテーマであった。幸いに与えられた場所の手前には、アンデルセンの旅行に関する展示がある。この小説のような位置づけで、最終地点洞窟へのシークエンスとして位置づけできたらよいと思う。

9月26日(木)
ゼミにて、展覧会の確認。いくつもの具体案からアイデアを絞っていった。途中、幾何学の応用に気づく。実際どうなるかを確かめてみたい。色々なアイデアと条件や安全性が矛盾なく収束していくことも感じた。その後、いくつかの対面会議と研究室の新入生の面談。研究室を希望する学生の話と現研究室での今日のこれらの出来事を振り返ると、ちょっと足踏みしたくなるところをとりあえず進んでみる術に彼らは敏感になっていることを知る。教えられる環境に安住するヤバさに気づいているようだ。これに意識的であるかどうかは将来に向けて大きいと思う。
090 EL ニース×ソシエダ どん底のチーム状態でソシエダがELに突入。週末のゲームから大幅にターンオーバー。この週末にもリーグ戦が控えている。なかなか今年の型ができないでいる。ターンオーバーとはいっても、実績のある選手で固めることができている。彼らは決してよくはなかったけれども、DF陣が耐えて、前からのプレッシングで久しぶりの得点による1-1のドロー。やはりソシエダは前線からのプレッシングでボールを奪って早い攻撃をする戦術が一番だと思う。そのために、相手DFに合わせる形が良いことを改めて思う。

9月24日(火)
「パリ、テキサス」ヴェンダース監督を行き帰りの電車の中で観る。何回目だろうか。ここでいうパリとはテキサス州のパリのことであり荒涼とした場所である。しかし男が思い込んでいる妄想の中の小さな安らぎの場所である。彼は以前購入したその土地の写真を大切にしている。妻を失ってからそれは妻の象徴ともなった。くだらない妄想だと判っていながらそれを捨てることができないでいる。パリという名のイメージを借りて現実を封印していた。男は、確固たる現実と妄想の世界という素朴なイデオロギー的対立に固執していた。だから病んでいた。ベイトソン風にいえばダブルバインド状態である。しかし、覗き部屋のマジックミラーの向こう側の現実の彼女を見てはじめて、妄想の中でのみ自分の理想の彼女と出会うことができるということをあらためて知ったのだ。マジックミラーの真の機能性に気づいたといってよい。しかしマジックミラーは自由に取り外しができるものなのである。それを考慮できた途端、パリの写真を捨てることもでき、現実を受け入れることもできた。マジックミラー内外の照明を調整することで、生きたふたりになれることを主人公スタントンは気づいたのだ。だから、結末は曖昧であるが、男は症候から立ち直ることができたとぼくは思う。本当の故郷に辿り着くために、やすらぐことができない偽の故郷を放棄できた。ハイデガーの「故郷喪失」である。妄想であることが自覚でき、自由に現実と妄想の世界を往き来できることが大切なのだ。ところで、母親を探す旅の途中で息子が興奮して語る宇宙論やアインシュタインの「双子のパラドックス」論がなぜだか気になった。主人公のトラヴェスは、ひたすら真っ直ぐ荒野を歩き続けていた。それは双子のパラドックスの話と重なる。相対性理論にしたがって光速で進む兄の年齢がその分時間が早く進むので、戻って合流しても双子の歳はちがっているという話だ。もうトラヴィスと妻が結ばれることはないということを暗にしめしているのかもしれない。だけど息子との関係は変わることはなかったのである。「ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブ」でリーダーであったライ・クーダーのギター効果音楽も素晴らしい。

9月23日(月)
089 プレミア マンチェスターシティ×アーセナル 2-2のドロー。前半終了間際にトロサールが退場。1点リードのアーセナルは、後半から5−4−0あるいは6−3−0の2列構成でライン間をなくして守りに徹する。おそらくボール支配率は10%代だっただろう。しかし、終了間際に跳ね返りの混戦の中を決められる。見応えのあるゲームであった。

9月22日(日)
「PERFECT DAYS」ヴィム・ベンダース監督を観る。渋谷の公衆トイレ清掃員である主人公役所広司の日常生活の反復と微細な変化を描いた映画である。思えばぼくも生活ルーチンが増えてきた。それは時間をコントロールできるようになった余裕からである。しかしこれを必ずしも良しとできないのは、コジェーヴの「歴史の終焉」によるところが多い。50年代後半に日本を訪れたコジェーヴは、経済的不平等にかかわらず形式化された価値の中に自分を見出すことができる日本人の価値観を、西欧発のアメリカ文化と対比させていた。この映画の根底にこのような考えがあるように感じる。コジェーヴは、これを動物的でない純粋なスノビズムといっていたのだが、それをどうも前向きに受け取ることができないからである。この映画で描かれる東京も、綺麗で優れたデザイン性のある公共トイレに象徴されるように、すべて(家の前の販売機から美味い定食屋、コンビニ、銭湯、本、都会の中の樹など)が整っている。そしてそこからでも生まれる微妙がこの映画のテーマである。ちょっと達観しているようで抵抗があるのだ。平穏であるための達観は少し不味いと思ってしまう。
088 プレミア クリスタルパレス×マンU 時間が経つにつれて、クリスタルパレスがリズムをつかみ勢いを増していくのがよくわかった。得点まであと一息であったと思う。0-0のドロ。

9月21日(土)
お彼岸に入り多磨霊園行き。その後、深大寺へ。夜にミーティング。遅れてサッカーを観る。
087 ラリーガ バリャドリード×ソシエダ 昇格組でDFに安定さがないバリャドリードにたいして今日もノーゴール。久保はトップ下で、ゴメスは左のSB。フォーメーションをいじってきが、結果に結びつかなかった。苦しい状況は続く。

9月20日(金)
ベイトソンの拾い読み。「精神の生態学へ下」の「形式、実体、差異」。1970年のコージプスキー記念講演の記録。ぼくらは、本と机に触れた時の違いを知っているが、この違いはどこにあるかと考え出すと厄介なこととなる。ベイトソンはこれを、プロレーマ的認識からくるものだという。「負のエントロピー」なるものを考えたのも同様の理由であるらしい。説明のための新しい説明方法であり、それはますます実体とかけ離れる。そうならないためには、実体には割り振れない精神の働きを、どのレベルにもあると考えるとよいとい。そうした認識方法がクレアトゥーラ。精神というとなんだから、内在している情報がトリガーされるようなことと考えるとよい。いつもの「地図と現地」の話の例もある。シナプス加重という言葉を使用しない場合のニューロンの働きを235頁で説明をしているがなかなか理解できない。加算的でない割り算的なものであるという。

9月19日(木)
ゼミにて、アンデルセン公園の展示の打合せ。後はディテールだ。夕方に、3年生向けに研究室の説明会。大勢の学生がきてくれた。「天使のおそれ」ベイトソン著を読み終える。今日でもホットな話題であるリダンダンシー、デジタルの意味、AI(サイバネティクス)についての示唆を与えてくれる。名前を付けることをデジタルといい、それに至るまでのプロセスをアナログなものとして、そこに思考(生命)の営みをみる視点が目から鱗であった。名前をつけるとは、バラバラなモノ(物質)にまとまりをつける仕組みのことで、その瞬間に概念上はモノ(物質)の動きが止まってしまうのであるが、それに逆らってまた変化を漸進させるのが想像であり生命的であるという。度々、カントのもの自体が言及されていた。これに照らし合わせると、もの自体の存在を認め、それに収束されるのに逆らうことが想像であるということなのかと、思う。括弧付きの「建築」というものにもあてはまるのだろう。
086 CL ミラン×リヴァプール 今季はじめてのリヴァプールの試合を観る。クロップ時代は、プレッシングが生命線であったが、スロットはビルドアップの縦への素早さが特徴と感じた。連戦で前線の選手を交代させるも、中盤はなかなか変えない。攻撃的でない遠藤の立場が苦しいのもこれで判る。強い相手で守備的にならざるを得ない場合に、遠藤がどうかということだろうか。

9月18日(水)
昨日に続き「天使のおそれ」ベイトソン著の15章を続ける。リダンダンシーについて。生物にとって経済的(効率的)であるためにあるというのだ。「リダンダンシーは、かぎられた構造的情報で複雑な問題をカバーするための経済的な方法なのであるp281」。アナログとデジタルの説明もわかりやすい。「原則的に記述のしくみがデジタルで不連続なのに対し、記述されるものに内在する諸変数がアナログで連続的p283」。このアナログのところをクレアトゥ−ラといってもよいという。このことで「精神と自然」にあったサーモスタットの働きを説明しようとしている。
085 ラリーガ マジョルカ×ソシエダ ソシエダはなかなかエンジンがかからない。今日は前線を大幅に変えて中2日でのぞむ。そこに久保の名前はない。ビルトアップができずに保持率を高くするもののシュートまでは至らない。この繰り返しである。FWがいまいちなのが一番の原因で、中盤の持ち上がりが上手くいっていないのでそこにテコを入れる必要があると思うのであるが、アルグアシルはなかなか構成を変えてこない。

9月17日(火)
「天使のおそれ」ベイトソン著を続ける。15章は、名前をつけることについてである。「構造は無限の詳細のいくつかを寄せ集めたり仕分けたりすることを前提としているが、それが済むと詳細は捨て去られて、要約的言明に取ってかわられるp264」。名前をつけることの功罪である。これを別なところでは、「われわれ科学者がこの「構造」ということばを使うと、ある名づけられた構造に含まれる具体的詳細がどこかその構造の本当の構造の構成要素であるかのような誤解を招く。すなわちわれわれは、記述の目的で実世界を切り分けしたそのしかたが、最善にしてもっとも正しい分け方だと信じ込みやすいp265」ともいう。これを否定し、それでは何かというとそれは生物学的なアプローチにヒントがあるという。それは、メッセージの累積作用の考慮をいっている。「物理学者と科学者の構造的言明は彼らの理論に内在する構造をさしているにすぎず、物理世界に実在する構造をさすものではない。ところが、生物学的世界では事情がちがってくる。その世界、つまりコミュニケーションと組織化の世界においては、ニュースとメッセージの交換が出来事の本質的要素になっているp266」とし、具体的な例もあげる。「発達中の胚はつねにみずからの発達を目撃しかつ批評し、変化と反応の道筋を指定したりコントロールしている」と。技術者と設計者の違いをいっているかのようだ。

9月16日(月)
敬老の日ということもあり、義父の施設を訪問。その足でホームセンターへ。自宅の内窓の検討をする。合間に観ていた「ライアンの娘」デイビット・リーン監督は、有効期限が切れてしまい途中で断念。リーン監督の失敗作といわれる理由もわかる。しかしアイルランドの海岸線の風景を美しくも激しく撮っている。アラブ、ロシア、モンゴルに続く、リーン監督の撮る映像というものであった。

9月15日(日)
084 ラリーガ ソシエダ×マドリード 今日のソシエダはよかった。マドリーのような優秀なチームは強度が絶えずあるわけでないので、そうした相手には形がつくれるのかもしれない。ゲームとは互いの関係、あるいは阿吽のもとで成立するものであると思う。前節のヘタフェで形にならない理由もここにある。久保もフル出場。ボールが入ったときに2人が付いてくるわけではないので好プレーをしていた。PKにより0−2で負ける。

9月14日(土)
久しぶりのビーナスラインで王ケ頭まで行く。すぐ裏の王ケ鼻までは徒歩で行けても、車では山をぐるっと回らなければならないので今回は断念。ビーナスラインは連休ともあって、走り屋の車とバイクが多かった。食事する場所が限られているのが残念なところ。「ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブ」ヴィム・ヴェンダース監督の音楽ドキュメンタリーを観る。ライ・クーダーによるキューバの老ミュージシャンたちとのセッション。98年のレコーディングとコンサートを中心として、2003年のアメリカからの渡航開放前のドキュメンタリーである。路上には多くの廃車が停車していて、当時の経済が落ち込んでいる状態がよくわかる。その中でも彼らの陽気な音楽は生き続けていて、革命後に情報がなくなった噂だけでしかなかったキューバの音楽の片鱗を解き明かしている。

9月13日(金)
午前に虎ノ門で打合せ。午後から五反田行き。少し早い休暇をとるため、その足で夕方から長野へ。途中に夕立に会う。流石にこちらは涼しく20℃を下回る。

9月12日(木)
大学の行き帰りで「ダンケルク」クリストファー・ノーラン監督を観る。ドイツ軍がまだ優勢だった第2次大戦、連合軍がフランス北海岸沿いの町ダンケルクから撤退する時の物語である。ノーラン特有の時系列の扱いが面白い。陸軍、空軍、海軍兵士のそれぞれの物語を同時平行に進ませるものだ。物語の登場人物のバックグランドは示されない。会話も少なく、淡々と事実や風景が提示されるだけなので、観客はのめり込むことなく映画に俯瞰的に接する。そうして伝わってくるのは崇高さである。果てしない海外線、1列に並ぶ兵士たちのそれに比べてあまりにも小さな列、細長すぎる桟橋からなどである。それとは反対の沈没シーンはリアルで、こっちが水の中で息が詰まるようだ。ノーランはデビット・リーンやヒッチコックが好きだというので、「ライアンの娘」や「海外特派員」のシーンと重ねて観ることができた。

9月11日(水)
深夜に「アメリカの友人」ヴィム・ベンダース監督1977年を観る。様々な国籍や背景を抱えた人たちが、ひょっとしたことを切掛けに知り合い、世界を舞台にして混じり合い、また離れていくという無情な物語。暗殺という大きな事件があるが、これまでの映画のように決してヒロイックなものではなく、淡々とした綺麗な映像を中心とするところが特徴的。舞台はNY、ハンブルク、パリ、ミュンヘン。そこを代表する建築や都市、自動車も背景としてあり、物語は漂うようだ。主人公のブルーノ・ガンツはこれをステップにその後の「ベルリン天使の詩」にも採用され、デニス・ホッパーはこのとき麻薬などで天才ながらも苦しい立場にいた。

9月10日(火)
083 代表 日本×バーレーン 日本は前半こそ攻めあぐねたものの、最終的には5-0と第2戦も圧勝した。バーレーンが前からプレッシングにきたので、最終ラインの背後をFW以外の選手が狙っていた。それが初めのPKとなり、後半には相手を疲れさせて中央の攻めが可能となり、結果この点差となった。強い。

9月9日(月)
「天使のおそれ」ベイトソン著を続ける。13章に、オイディプス王の神話の話がある。ベイトソンは、フロイトとは異なり、二重拘束をオイディプス王とオレスレースの2つの神話の間に求めている。それは、父系制と母系制との狭間に生まれる文化システムとして、である。そして個々の神話に見られる宗教性を、登場する人格化された神にではなく、「アナンケ」や「ネメシス」といった必然性のある連鎖=運命的なものにみいだしている。それは神をも操ることができるものである。「あくたもくた」という言葉も知る。つまらない、役に立たないもののことをいい、それをあげつらう言い方のこともいう。これに科学的思考に対抗する認識としている。

9月8日(日)
アンデルセン公園に行き、展覧会の打合せ。概ね内容は了承された。期間は10/5〜10/13。長丁場となり、頑張るしかない。童話館のデザインについても約束する。なかなか発火できないが、恵まれた機会をものにしなければならない。途中、梨を購入。親戚にも送付。来週はまずはポスターの制作。そして本展示の制作に入ることにする。

9月7日(土)
「フィッシャー・キング」テリー・ギリアム監督、ロビン・ウィリアムス主演を観る。ギリアム監督特有の数奇さにロビン・ウィリアムの暖かさが加味されて、ファンタジー映画に仕上がっていた。フィッシャーキングとは、不具の王のことをいい、聖杯によって救済される中世騎士道の物語として有名である。騎士役にジェフ・ブリッジス。「未来世紀ブラジル」もそうだったのだが、ギリアム監督は背景となる建築や都市への拘りが強い。この映画では、当時のNYを様々な形で紹介している。最後の場面となる聖杯のある豪邸建築は何かと思う。「未来世紀ブラジル」にも登場したリカルド・ボフィル風の建築だった。

9月6日(金)
1か月以上前に注文していた下駄箱がようやく届く。中庭に設置し簡単な片付け。広島出張で滞っていた残仕事を片付ける。合間に藤森照信著の「丹下健三」を読む。改めてピースセンターと広島聖堂の設計プロセスを確認する。不連続な閃きが度々あることを記すのは、この本を出版した藤森氏によるものだろうか。マルクスぽい。それは量的に閾値を超えると新しいパターンが生まれるというものである。

9月5日(木)
大学をトンボ帰りして、早い夕方から事務所で工務店と、断熱効果を高めたガラス改修についての打合せ。考えていたアイデアが甘かった。サッシュを外さないとガラス交換をしないらしい。内窓設置案に変更しての見積をお願いする。残念ながら、1954年の広島聖堂でのヴィルヘルム・ケンプ演奏のCDを棚から見つけることができなかった。情報によると、バッハのBWV639らしい。
082 代表 日本×中国 埼玉スタジアムでW杯の最終予選がはじまった。冨安をのぞきメンバーは揃う。守り中心の中国に危険を感じなかった。ルーズボールもほぼおさめることができたので、前半に2得点すると、後半はテンポ良く5点。圧勝であった。

9月4日(水)
今日は谷口氏の広島市観光局中工場からはじまる。自由通路はピースセンター軸上にある。そこを抜ける海風は気持ちよい。清掃員がドットポイントによるガラスファサードの指紋消しをしている。聞けば1日に1回義務づけられているそうだ。こうした徹底管理のもとにこの作品がある。プラントの配置といい、整然としていて怖いといえば怖いのであるが、丹下や村野に続き堂々とした建築である。鉄骨部材の細さや納まりも驚異的である。管理の徹底性と同様、学生に思わずこの驚異性を紹介した。30分あまりで次の目的地である宮島ターミナルへ。商業施設で、設計は乾久美子氏。民主的であることと政治的であることは紙一重なのだろう。この違いをクリアにすることが作品の出来を左右することに気づく。そのための主体が一番なのである。フライト時刻の関係で、宮島には行かずに皆とここで別れる。また30分のところにある下瀬美術館へ。坂茂設計。埋立地のショッピングセンター内にあると思いきや、車では大回りをさせられ、裏にある場所性のわからない静かなところにあった。歩行路アプローチもこじんまりしていて、これまでの坂建築とは異なる。ハーフミラーのエントランスに入ると中は劇的に風景が変わる。2つの放射状柱から伸びる梁の融合が印象的な広々した空間。ハーフミラーガラスの内側では鏡も多用し、ランドスケープとの連動ではない内的なランドスケープが追求されている。外へのレストランへの開き戸はわかりにくく、わかっても重く、このコンセプトが一貫している。内部で完結させようとしているのだ。別棟のレストランはコース料理のみなので、エントランス脇のカフェで昼食。この空間は気持ちよい。チケットを購入し展示室へ。モデュール化されたカラフルな展示の箱を廻る構成である。ガレの作品が常設。ガレの住まいの庭が、奥にランドスケープとしてつくられている。箱は水に浮いていて、すべて大きさが同じであるが色が異なる。箱をつなぐブリッジは当初外部やお互いの箱が見えていたのだろうか。今は閉じている。箱に入るのはすべて自動ドアを通してであるので、宇宙船内をめぐるようにも感じた。岩国飛行場へ。帰宅。待ち合わせと帰りの飛行機の中で、「ワルキューレ」ブライアン・シンガー監督、トム・クルーズ主演を観る。タイトルのワルキューレは、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」第2部にあるように、戦争の運命を握る超自然的存在を示す神々のことで、ドイツが第2次大戦時に国防陸軍を緊急招集する秘密作戦として作成した。これを逆利用したクーデターが終戦の9ヶ月前に実際にあったという。トム・クルーズはその首謀者である。この映画を観ると、多くの実践将校たちはヒトラーの政治的手腕に疑問をもつも、親衛隊からの恐怖から、反対意見を進言できなかったらしく、最も成功に近かったのがこのクーデターであった。トム・クルーズが率いたこのクーデターはベルリンを一度はほぼ掌握したのだが、実際にヒトラーは死んでいなかったため、勝敗を天秤にかけていた一部将校の寝返りにより成功しなかった。運命がどちらに転ぶかを描く緊迫した映画であった。ところでいつもわからないのが、トム・クルーズはイギリスの諜報部員の役もこの映画のようにドイツ人大佐の役もこなす。リアリティの面で西欧人に違和感はないのだろうか。それともそれ程、当事者間の区別はないのだろうか。西欧の友人に前も聞いたところによると、言葉のアクセントによるというのだが。

9月3日(火)
研究室の皆とピースセンターに集合。1時間かけて原爆投下の資料を観る。当時の現実を知るたびに心が痛む。来館者の多くは白人である。立場の異なる彼らも神妙である。昨日観た「フルメタル・ジャケット」を思い出した。こうした心痛の重さは真実だとしても、それは一時的なものだろうか。そうした疑問を投げかける映画であった。展示後半の廊下に竣工時の写真があった。新建築でも墓越しの建設途中写真があったのを覚えている。それは廃墟の中から煌々と生えた異様なものとしてある。当時は建設に反対もあっただろう。それを乗り越えての現在である。振り返るとわかる丹下の先見に、改めて感心する。凄い。両脇の本館は改修されすぎてしまい当時のプロポーションは保たれていないのが残念ではあった。そこから村野藤吾の世界平和聖堂へ。1時間もかけて内部を案内してくれた。この建築もキリッとしている。しかし煉瓦は日干しモルタル。鋳物鉄も多い。内部はモルタルの吹付仕上げで、ステンドガラスも最小限。村野らしい。当時は信者が150人ほどの小さな教会であったが、ドイツ人の宣教師の活動が世界的に支持されこのように大きくなった。照明、パイプオルガン、ステンドガラスなど、海外からの援助品も多い。1954年のオープニングでは、ヴィルヘルム・ケンプの演奏があったそうで、そのレコードも発売されたという。戻ってから父の棚を探してみよう。案内してくれた人も話していたが、このコンペでは1等案が当初なく、2等に丹下案があった。回廊のある中庭式のニーマイヤー風の放物線状の聖堂案で、造形で圧倒していたのだが実現されることはなかった。審査員でもあった現存の村野の聖堂は、堂々としていてやはり造形的である。当時の多くの案に見られる近代的な建築ではない。その後に、o+hの熊野東防災交流センターへ。2018年の豪雨災害を教訓にこの町に3つの同様な避難施設が計画された。そのはじめのものであるらしい。被害のあった地域はここから7キロほど東の所だそうだ。高度経済成長時に宅地化された造成地で起きた。ここも10センチほど浸水したという。しかし現在は1mかさ上げされ、非常時以外は交流センターとして機能する。中心に円形ホールがあり、諸室やスロープがそこから飛び散るようになったプランである。プロポとしても有名であった。このホールを借りて2時間あまりの研究発表会を行う。その後に施設の案内をしていただく。150人の3日分の蓄えがあるそうだ。3年経ち、年間で数回は避難施設となるそうだ。廻りながら建築の設計密度や民主的な建築が何かについて考える。どちらも建築家の信条に関わる問題であることに気づいた。再び市内のホテルへ移動。居酒屋で宴会。長い1日を終える。

9月2日(月)
昼過ぎに事務所をたち、広島行き。夕方に到着。久しぶりの原爆堂。そして池辺さんが台座を担当したという「原爆の子の像」も観る。伸びやかな構造である。平和記念公園を散策。北側から、照明のついたピースセンターに感動する。ファサードを観て感動するのはこれくらいだろうか。ブリーズ・セレイユのあるピロティ上の本体が照明で浮いて観える。あまりプロポーションがよいとかいいたくはないが、それのなせる技である。入館は終了しているので、公園を1周して、三分一さんの「おりつるタワー」へ。屋上階のカフェだけはオープンしていた。木をふんだんに使用した大きな庇空間である。一度階段で上がってからそこから斜面デッキをつくる演出である。そこに皆が直に座って、360度の広島市内を見下ろす。ピースセンターの軸線から伸びる新しく計画されたスタジアムなどもそこから一望できる。提灯があり、夜であったこともあり、アジアの風景である。「フルメタル・ジャケット」スタンリー・キューブリック監督を移動中の飛行機の中で観る。フルメタルジャケットとは被覆された弾丸のことで、体内で玉が砕けないようにするために強く被覆された玉のことで、戦争ではこれしか使用できない。戦争という殺戮の中でも倫理があるという普通で考えるとおかしな話である。これが映画のテーマである。2部構成で最初は海兵隊の養成所の物語。若者が丸刈りされるシーンからはじまり、徹底的に戦争マシーンへと育て上げられる。それは自己を持たないことでありそのための新しい価値観が植え付けられる。それを風刺的にキューブリックは描いている。一方では神を信じさせ、理不尽な要求にも上司に全体服従である。多くの若者はそうして戦場に送られるのであるが、主人公のジョーカーはその名の通りにスノッブで少し捻くれている。ピースバッチを胸に着け、ヘルメットには殺戮マシーンになることを宣言するほどで、自己の俯瞰性を保とうとする人物だ。2部では、ダナン沿岸からホイナンへの市街地戦となる。ひとりまたひとりと上官が狙撃され、命令系統はズタズタ。小隊は孤立し、新聞記者として同行したジョーカーも自己制御を失っていく。苦しめられたスナイパーは実は少女であったのだが、その娘の「Pleese shot me, Pleese shot me,・・・・(文法的に間違っているとはいえ、たぶんそういっていると思う)」という彼女の訴えに応じて、ジョーカーは戦争規律を破り、安楽死させることを選択する。このシーンは、「地獄の黙示録」のカーツ大佐が繰り返す台詞「fear、fear・・・」と同様、心に突き刺さった。このシーンは、いかなる状況においてもジョーカーは自己倫理が働いたともいっているし、おかしな倫理や規律にぼくらは縛られているという批判でもある。その象徴が、ミッキーマウスの替え歌で敵地へ行進する最後の米兵たちのシーンである。大学院時代にアレグザンダーの下の中埜さんから薦められてこの映画をはじめて観たと記憶する。そのときのおぼろげながらの印象、それはアレグザンダーの根本にあったことであるが、正しさは外部になく自己の下にあるという確信、これは今も変わらない。

9月1日(日)
台風の影響も受けずに、予定通りに義母の1周忌を川口で執り行う。午後は週末の工事に合わせて自宅の大清掃。深夜雷を伴う大雨。とはいえ交通インフラは夕方になって漸く通常状態にまで整った。
081 ラ・リーガ ヘタフェ×ソシエダ 前線から激しくガンガンとぶつかり、奪ったらロングボール。ヘタフェはボルダラスが復帰した。それにしたがってしまい、ソシエダはリズムがつかめない。久保は60分に交替。久保をはじめ前線選手はシュートすら打てなかった。0-0のドロー。久保も危機感を口にする。

8月31日(土)
古市先生偲ぶ会の3回目の打合せを堀越先生の事務所で行う。予算報告をした後に、協賛金について、会の名称について、発起人について、会費について、会場レイアウトや展示内容について話し合った。開催を延期することも了承。腰を落ち着けてのぞめそうだ。フライヤーの制作担当を決める。ぼくは来週はじめにこれらの事務手続きをする必要がある。なかなか上手くいかなかった銀行口座の開設もお願いをした。夕立のくる前に解散。事務所に戻る。
080 プレミア アーセナル×ブライトン アーセナルが退場者を出し後半は10人で戦い、1-1のドロー。10人になれど、組織立って効率よく守りそして攻める。あわよくば得点となるケースもいくつもあった。ブライトンも果敢に三笘を中心に責めるも牙城をくぜすことができなかった。

8月30日(金)
台風の合間で、午後は雨がなかった。その中で、広島に向かう予約の取り直し。情報が動く中で今やるべきことの方針を決めていくのは設計のようで、緩い縛りを設けて可能性を発見しては縛りを狭めていく作業だ。この緩い縛りをつくることと可能性を発見すること、どちらが建築家の仕事なのだろうかといつも思う。

8月29日(木)
「炎のランナー」ヒュー・ハドソン監督を大学の行き帰りの電車で観る。100年前の1924年のパリオリンピックを目指す若きランナーたちの物語である。2人の主人公それぞれの人生をパラレルに進行させる構成が面白い。さらに1978年の葬式の回想シーンから進むので、白人でないぼくなんかは登場人物の見分けがつかずに混乱する。そしてこの2人の主人公のキャラクターが全く逆として描かれているものの、シンクロさせているのもそう感じさせる。とはいえ物語は単純である。メダリストになるまでの苦悩とそれに打ち克つ強い精神力がテーマである。この映画が評価されるのは、そうしたストーリー構成と、苦悩が決して個人的なものでなく、ひとりはユダヤ人としての国家偏見との狭間としてあるものとして描かれ、もうひとりは宣教師としての臣民の在り方が神の下なのか国家の下なのかというところにある。だから見方を変えれば、スポーツのライバルものでなく体制批判の映画ともとれる。それは、登場人物に時折見られる価値観にもある。当時のオリンピックは白人中心で、西欧では経済的理由から裕福な文武両道のエリートたちによるものであった。たいし米国ではスポーツの世界にも商業主義が入り始めている。キリスト教は肉体を通じた精神性を大切としていて、国家は2大戦の間で忠誠心を求めている。そしてこの2つの闘争もある。その捻れた関係はナチスへの展開を彷彿とさせるものであった。ヴァンゲリスのシンセサイザーとオーケストラを組み合わせたサウンドは画期的で効果的である。

8月28日(水)
079 ラ・リーガ ソシエダ×アラベス 今日もホームで勝ち点を落とす。オヤルサバルが不運から退場になったとはいえ、その直後の速攻からの得点と、開始早々のフィニッシュまでの展開は見事であった。しかし得点後は、こうした形がなかなかつくれずに見せ場はなくなった。その理由はわからない。いつものビルドアップはせずに安全を見てGKからはロングボールのみであったことで、チームリズムがつくれなかったからかもしれない。

8月27日(火)
「天使のおそれ」を続ける。8章に紹介されている眼科医エイムズの実験が面白い。長いテーブルの中程にラッキストライクの箱、奥にマッチ箱を置く。テーブルの端の穴からそれを覗き、各箱の大きさを確かめさせて、次に覗き穴をテーブルの短辺にそって動かしてみる。そのとき気づかれないようにタバコの箱は穴と並行して動かせ、マッチは反対方向に動かす。すると、被験者は、タバコ箱を2倍の大きさでかつ遠くにあるように感じ、マッチ箱の場合は半分に感じる。これは、車窓から遠くの山々は動かないように見えるけれども、近くの牛は後ろに飛んでいくように見る人の習慣と同様であるという。そこから次のような結論を導く。「イメージというものはわれわれの「外側」に実在するのではないこと。もうひとつは、われわれはおそらく必然的に、自分たちのこころのなかで進行する出来事に気づかないということである。自分でものを見ていると思っても、実際には、さまざまなイメージをまったく無意識につくりだしているというのが真相だp168」。あるいは、「われわれは知覚のプロセスについて知ることはできるが、それらをじかに知ることはできないp171」。これをギャップといっている。「このギャップはわれわれの存在そのものが必要とし、深い意味の「信仰」がこれを埋めるp170」。そして文化も同様であるというのだ。


8月26日(月)
大学院入試のため大学行き。その後、意匠系のミーティング。今後の方針を決める。読書は「天使のおそれ」を続ける。Ⅶ章は「汝の左手に知らしむべからず」。ノンコミュニケーションの意義から、逆に認識について説こうとするのが面白い。コールリッジの老水夫で、老水夫が復活し悟りを開いた瞬間の詩や、マングースの檻をもったアル中男の話、アジ・ダルマという動物の話が聞き分ける人の神話、等がある。これらは忌み嫌うことが暗に肯定されていて、それはコミュニケーションによって観念の本質が変化させられてしまうことを避けるものとしてある。「聖 サクラメント」には言葉は不要とされ、ここがカントとは異なるところではあるが逆にいえば、言葉によってコンテクストがその都度変わっていくことのダイナミックス性を支持しているという点では共通である。カントはそれを想像と言って評価していた。

8月25日(日)
078 ラ・リーガ エスパニョール×ソシエダ 久保がまさかの先発落ち。アルグアシルがそう判断する予感はあった。将来に対する疑問からモチベーションに問題があったのだろう、このごろのプレーには発展がみられなかった。それでも68分過ぎから登場。自由にポジショニングしては、いつもの右サイドから2人を交わしての怒りのゴラッソを獲得。ゴール後には仲間の祝福を拒否していた。これは何を意味していたのだろう。そして試合が終了すると、直ぐにロッカーへ引き上げていた。監督もこのパフォーマンスに疑問を呈する。ともかく1-0の今季初勝利。

8月24日(土)
理大奥田研究室のOB会を兼ねた奥田先生の傘寿の会に出席。会場である三田の中華料理店に少し前に着き、先生ご夫妻にご挨拶。その後、懐かしい面々と近況を話す。周りをみると、結構年上の方に属する。乾杯の挨拶。会を仕切ってくれた仲間に感謝。その後、近くで2次会。夕立前に帰る。
076 プレミア ブライトン×ユナイテッド 三笘の頭脳的なアシストなどでブライトンの連勝。三笘はブライトンの中心プレーヤーである。
077 プレミア クリスタルパレス×ウエストハム 開幕とは異なり後半途中から鎌田はボランチで出場。その後チームの失点が続く。鎌田らがつくった穴をことごとく利用されての失点である。監督の信頼を得ているとはいえ、今後の展開に心配。鎌田にとって気の抜けない時が続く。

8月23日(金)
初台のNTTインターコミュニケーションで開催中の「とても近い遠さ」展へ行く。遠いこと近いことはいつも時代も変化する。それをもたらすテクノロジーをテーマにした展覧会である。リー・イーファンのちょっと気持ちの悪い2つのビデオ作品が面白い。制作プロセスを演じた作品で、主人公がキャラクター化されていて、エンターテーメント性が高かった。その一方で、参加型になっているとはいえ、新しいテクノロジーに接するときに問題となるアプローチすらできないものも多くあった。その中でも、耳型のコンタをつくり、まちの音を吸収するおおしまたくろうの作品、画像の解像速度を変えて新しい見方を提供する古澤龍の作品などは好感をもてた。夕方から設計小委員会をzoomにて参加。新しく委員に加わった名古屋女子大学の松村哲志先生の、ファシリテーター養成教育プログラムのレクチャーが面白い。ユーザと接するときの専門家が必要とする暗黙知を明示化しようとするものだ。他の研究者と違って、実践から何かを掴もうとしているところに好感がもてる。だからざっくりしているのだが、ユーザを取り込んだシステムであるので、生き生きとしている。これを支える思想なり哲学があるようで、それに興味をもつ。

8月22日(木)
休み中にもかかわらずゼミにて展覧会の打合せ。その甲斐あって案が収束する。布が外形を残したまま風になびいて浮く不思議さを目的としたものであるが、実現性が問題になるところ。来週以降の実験に期待する。

8月21日(水)
石山修武氏設計のリアスアーク美術館へ。開館して30年をむかえるという。建築家の執念をかんじる作品であったし、無理な計画や形をしていてもスケールにおいてそれはなかった。熟成した工業化を前に職人技を前面に出した作品でもある。うねる屋根を成立させる高橋工業の天板溶接技術もさることながら、開口のつくりが非常に参考になった。面にあがつ窓の枠角度は自由なのである。それで入ってくる光に厚みをもたせている。フラットバーが建築家が扱うようになったのもここからはじまったに違いない。展示室の格子点天井をはじめ、無垢の分厚いフラットバーでブリッジを支えている。最後に駐車場の土手にのぼり屋根を見下ろすこともできた。一度観ることができてよかった。その後、湾の一番奥にあるRIA設計のムカエルへ。防潮堤と一体化する建築に興味をもった。防潮堤上の軽い屋根が印象的。ただし近寄るとそうでもなかった。商業施設とインキュベーションセンターが一体となる施設で、隣の交流館と一体化するとランドスケープ的にも機能的にももっとよくなるだろう。その後、一ノ関から新幹線で帰る。

8月20日(火)
南三陸町へ。国道沿いから高野会館と旧防災対策庁舎を観る。隈研吾設計の伝承館+駅を観る。これも今日は休館。隈ワールド全開である。中橋は巨大なインフラ。そこから復興公園と旧庁舎を一望する。ここが一面海になったかと思うとぞっとする。最後に生きのびるのを助けてくれた電波塔もある。一度もどってから、さんさん商店街に行く。10mの盛土上の商店街の隈研吾氏の再生。海に続く素形の街がこれからどう変わっていくのだろうか。新しくできた高台の住宅地へ。壇上造成の上に南向きの住宅が並ぶ。この風景は神奈川や都下でも観ることができるので、災害を忘れさせてくれる。陸前高田へ。街の規模が大きい。みんなの家へ。そして対面の伊東さんのほんまるの家。キッチンのあるレンタルスペース。東ガスがスポンサーということもあり、木造の新しい試みがみられる。その周囲は、大型ショッピングセンターとその駐車場になっていて、どこの日本でも観られるような風景となった。ただし道路は広い。その前に位置する祈念公園スペースへ。内藤廣氏設計の陸前高田市立博物館へ。洗練されたスチールディテールの長い庇が特徴的。外壁と内壁は、モデュール化された杉の羽目板。これは祈念公園の伝承館にも使用されていた。その庇下を辿って犠牲者刻銘碑がある。他の祈念碑ほど神聖さがないのは、敷地環境によるものだろう。曲げを利用した木造の伝統工法を倣った構造である。その隣には、動きのある隈研吾のアムウェイハウスまちの縁側がある。そこで休憩。無骨な木構造は屋上避難のためのものだろうか。これら建築の一体性はなぞのままだ。海沿いの内藤廣設計の祈念公園伝承館へ。軸線上のスーパー堤防上に祈りの場所があり、そこからの軸性を強調した建築である。シンボルの1本松もそこから見える。長い長方形建築の中央が屋外エントランス。そこに池があり、軸線にのって吹く海風を気持ちよくする。左が伝承館で、右が道の駅。要求とはいえ複雑な世間を反映するプログラムだ。同じ場所で少しの時間差でもって神聖さと日常が同居している。例えば軸線を使わなくとも槇さんの風の葬祭場のような解答もあったろう。丹下さんの広島ピロティ案をなかなか越えることは難しいことを感じる。そこから車で15分の所にあるサルハウス設計の中学校へ。屋根全体を見渡せる場所がなかなかなかった。そこから時間をかけて住田町へ。サルハウスの消防署と稲山正弘氏構造の住田役場がある。役場の木構造は意欲的で木のラチス耐力壁、レンズ型のトラス屋根である。力の流れに対応した材の選定によったデザインである。今日宿泊する気仙沼へ。

8月19日(月)
石巻へ。山下設計+栗生明設計の石巻南浜復興祈念公園へ。伝承館は、浮いた正円屋根が特徴。それの接線軸の対面に碑となる水盤モニュメントがある。周りから視界が遮られないのは、こういう敷地からだろう。この軸を陸側に伸ばすと門脇小学校がある。津波と津波火災で被災した震災遺構である。月曜日で残念ながら増築された伝承館は休館。しかし情報なくとも遺構には十分なメッセージ性があった。現在運用されている小学校は佐藤光彦氏+鈴木弘人氏による増築。遺構を突き出すように筒が飛び出ているのが特徴。遺構として旧校舎を残すかどうかは意見が分かれただろうが、周囲をお墓や記念碑で囲まれ、すべてを受け入れる準備がなされていることを感じた。石巻市内へ。オンデザイン設計のIRORI石巻で休憩。震災後に街のキーとなる施設として活躍し、現在もオープンシェアオフィスとして機能している。全開するスチール戸は無骨かつ繊細で、納まりをしっかり観る。市内を抜けて旧北上川を渡り、藤本壮介設計のマルホンまきあーとテラスへ。こちらも休館。白い外壁はガルバのサイディングであったことを知る。意外と遠くからは目地が見えないものだ。バックの山並みと対称的な白い建物は建築だと思うつくりである。一方で柱と樋が同スケールで細かい。平面構成の考えは、以前訪れた柳澤孝氏の上田のホールや伊東さんの長岡と同様に、市民に開くこととランドスケープを同時に意識したものだろうと思う。この作品は平面的には真っ直ぐで、縦方向の変化に特徴がある。正に建築だと思った。町並みからここまで津波が押し寄せてきたことが判る。女川へ。坂茂設計の女川駅へ。高台造成の上にあり、もとの駅舎からさらに北に移動したという。石巻線の終着駅。合板を平編みした格子屋根にテント屋根の3層建築。屋根を支える斜柱の無骨さが気になるが、安心感からだろうか。1階は、2階銭湯へのエントランスとラウンジで2階が休憩所と湯船。湯船はタイルばりの銭湯のようで、山形でも感じたが坂さんはあまり温泉には興味がないらしい。とはいえ明るく清潔で気持ちよい。2階の休憩室では、ずっと語りあっているおばさんたちの方言はまったく理解できなかった。21年の余震で一時休館になったという。そこからシーパルピア女川を見下ろすことができる。この施設は東理恵さんと知った。そういわれると軽井沢のハルニレテラスのようである。高台避難のために駅への軸線上にありながらも、それを否定するように道の両脇に居場所などを設けて、路地のような計画性を否定したところを目指している。そこで定食の食事。軸線を進み海辺へ。ここには巨大な堤防がなく、内側は記念公園である。海岸道路を進み、硯石で有名な雄勝へ。この三陸河岸線は上下のアップダウンが激しく、山を越えるごとに漁港村が現れる。雄勝にもかつて小さな漁村があったと聞く。震災後は巨大堤防で安全性が確保され、自動車を止めるような道の駅のような施設もあるのだが、建築家の活動もなく閑散としていている。その代わりに高い堤防を利用した大きな壁画があった。不思議な景色である。これをなんと評価しようかとも思う。道の駅のところは病院があって大きな被害を被ったという。そのまま雄勝半島を1周。白銀崎灯台、大須崎灯台を回って元のルート398号に戻る。途中、本当に古い木造小学校をリノベしたホテルを発見。今度宿泊したいと思う。5時ぎりぎりに震災遺構大川小学校へ。遺構となった小学校は建築家の作品であろうことが想像できる。ディテールもそうであるが、特殊な小学校プログラムも想像できるし、山を背にするのではなく、校舎と山で校庭を囲むような構成から理解した。しかしこのためにとぐろを巻いた津波が校庭に発生したという。体育館をつなぐコンクリートブリッジが捻れたままで強烈である。語り部の話を聞くとさらに胸が痛んだ。遺構横の伝承館で大川小学校の記事も改めていくつか読む。余計に辛い。そこから4キロ下った北上川河口付近は広く海のようだ。さらに海岸道路を進み三陸崖脇のホテルへ。巨大ホテルでそこからの眺めは良いのだが、地震のことを考えると恐ろしさも感じる。

8月18日(日)
午前中に打合せをして仙台へ。そこから車で松島。円通院と国宝瑞巌寺に寄る。円通寺参道横の石庭は、丸窓の腰掛けから縦に眺めるユニークな庭である。これが小堀遠州作と思ったら、実は本堂の前のものが遠州作だと後で知る。重要文化財は急勾配の天平亙が印象的な三慧殿。そこから時計回りに苔の庭を通り一周する。臨済宗の寺であった。瑞巌寺は伊達家の霊廟寺で、本堂はこれまた本瓦で入母屋の堂々とした建物である。中は金襖の間が数々ある。本殿の前には、白砂でつくられた1組の円錐形があるのは、下鴨神社ばりだ。参道が中門を挟んで海まで続く。海に向かって戻り、少し北にある付属の五大堂へ。重要文化財の桃山建築という。陸から橋で渡る小島にある。そこからの景色は松島の絶景。海は穏やかであった。松島は津波の影響が少なかったとされる。そのためこうした松の島の風景は崩されることはなかった。国道沿いの崖上のホテルへ。新幹線内で「上海から来た女」1947年オーソン・ウェルズ監督主演を観る。謎の多い美しい人妻役はリタ・ヘイワース、妻でもある。鏡を使用した最後のシーンは有名で、アナログ特有の幻想的な世界をそうした舞台設定によってつくっている。
075 リーガ ソシエダ×ラージョ ソシエダはホームでの開幕戦。ソシエダは多くの選手がEU選手権と五輪に出ていて、開幕にもかかわらずベストメンバーが組めず。したがって攻撃もちぐはぐで、昨季終盤の怪我人を抱えていたときのチーム状態のままである。久保も連係ができずにいまいち。久保もチームも、今季における不安を残す試合となった。

8月17日(土)
074 プレミア エバートン×ブライトン プレミア開幕。三笘が得点。それ以外にも果敢に攻めた。新生ブライトンはDFラインからつなぐのだが、前線の誰かが下に降りてポストプレーで数的優位をつくる。そこから両Wに展開。前線はその分数的不利の中、彼らが前を向くことができれば個人突破が可能となる。そうした三笘の得点、かつ相手ヤングの退場を誘発した。ヤングは香川とチームメートであった。まだ現役である。

8月16日(金)
WOWOWのお盆期間の特集がロビン・ウィリアムズであった。「レナードの朝」ペニー・マーシャル監督、ロバート・デ・ニーロ+ロビン・ウィリアムス主演を観る。感動的な映画であるのだが、納得できないところもあるのはなぜだろう。物語は、戦前未知の病気であった脳炎の患者ロバート・デ・ニーロを、臨床経験のない植物好きの医師ロビン・ウィリアムスが、新薬によって30年ぶりに奇跡的に回復させるという実話をもとにしたもの。しかし、最後は力及ばず再発させてしまう。心優しいロビン・ウィリアムスの医師としての姿勢とロバート・デ・ニーロの患者としての演技が素晴らしい。引っ掛かったのは、投薬という化学的療法による医学的手段に疑問が置かれていないという点。1967時代では、全体的治癒や反対のもっと精度のあるジェネティック的プレシジョン療法がなかったとはいえ、あまりにも機械論的解決で、ヒューマンなドラマと対照となることを感じた。
073 五輪女子 日本×アメリカ

8月14日(水)
時間の余裕ができたので、事務所内の整理。思い切ってネットワークを軽くする。右往左往しながら、最低限のネットワークでこれまで通りの使用に差し替える。新たにネットワークを更新する次には、電話回線、光回線、事務所内(プリンタ)ネットワークを切り離してさらに単純にしてみよう。

8月13日(火)
「ガープの世界」ジョージ・ロイ・ヒル監督、原作ジョン・アーヴィング、主演ロビン・ウィリアムズを観る。ネット配信がなかったが、偶然WOWOWで観ることができた。原作は大江健三郎もどこかで評価していた。ビートルズの「When I’m 64」やナット・キング・コール「There will never be another you」なども、ぐーんとくる。ストーリー展開がぶつぶつ切れるところに感心できないが、心優しい主人公ガープが成長するのに関わる様々な女性を一貫して描いている。それは普通に想像される女性ではなく、生、死、性、暴力、母性、寛容などを表象した多岐に渡る女性で、ある意味病んでいて、どれも子供を除いた男性を拒否したところにいる。ガープの最愛の妻に関しても同様だ。窓も重要なモチーフで、幸せなシーンは窓越しに描かれている。結構泣かせる台詞も多く、ティム・インゴルドが言うように、生は1本の線で過去の思い出の上に繋がっている、ような主旨のものもあった。最初のガープ少年の絵に寄せるイマジネーションにもあるように独特の世界観ある1982年の作品である。

8月12日(月)
「天使のおそれ」グレゴリー・ベイトソン+キャサリン・ベイトソン著の再読。「精神と自然」をわかりやすく娘のキャサリンが追記した本だ。ここでは、キャリブレーションを勘による見当と訳し、対立するフィードバックと区別している。そしてライフル銃(フィードバック)と散弾銃(キャリブレーション)の違いの説明も興味深い。「ライフル射撃と散弾銃射撃のちがいは、ライフルマンの場合、行為が完了する以前、その途中の段階で狙いを定め直すことができるという事実からくる。それにたいして散弾銃を撃つときは、行為が完了したあとでその出来事を判断するほかない。発砲の時点で、散弾銃のハンターにはライフルマンほどの柔軟性はない。ハンターの方は習慣系制のもつ経済性に依存しているからだp84」。

8月11日(日)
「グッドモーニング ベトナム」バリ・レヴィンソン監督、ロビン・ウィリアムス主演を観る。主演のロビン・ウィリアムスはDJ役で、彼の目を通じたベトナムという国や人、アメリカとの関係を描いた作品。戦闘自体を扱っていないところが特徴があるヒューマンドラマ。社会や民族の壁によって越えることができない人間関係の本質を描く。今日でオリンピックも終わる。

8月10日(土)
上野に行く。まずは「内藤礼 生まれておいで生きておいで 展」。東博で開催というのが意外であったのだが、東博所属の縄文作品やこれまで開かずの間であった展示室とのコラボを狙ったものらしい。この狙いは最近の時勢に通ずるもので納得するも、作品としての出来には疑問をもつのは、ぼくだけだろうか。同じ建物で開催中の「神護寺展 空海と真言密教のはじまり」に続けていく。神護寺は、空海が唐から帰国後、都に入るためにまず拠点とした寺である。そこから日本における真言密教がはじまったとされる。展示作品も、恵果からの贈物一覧からはじまり、当時日本ではエリートであった最澄との交流を示すものが多々、そして持ち帰った曼荼羅を空海流に再現した日本現存最古の根本曼荼羅(両界高雄曼荼羅)等である。この高雄曼荼羅は230年ぶりに最近修復を終えたものであった。以前観た東寺所有の国宝西院曼荼羅では、図柄をほとんど識別できなかったが、これは全体を赤紫に染めた綾絹の上に、繊細な金泥線と銀泥線というもので書かれていることがよく判った。空海が唐から持ち帰った曼荼羅は損傷が大きかったそうで、そのために弘仁本を制作し、この高雄曼荼羅はこれをもとにしたものだという。ただし暗めで彩色はないのはなぜだろうか。永遠に残すための空海が考えた方策だったのだろうか。その大きさは4mもある。仏像は、国宝の薬師立像が展示される。2011年の「空海と密教美術展」、2014年の「高野山の名宝展」、2019年「東寺展」と、空海は人気高いが、それと比べて仏像に関しては少し物足りなさを感じた。

8月9日(金)
ホテルオークラ大倉集古館で開催中のコルビジュエ展に行く。ギャラリタイセイのコレクションを大々的に展示するものであった。パンフレットの表紙にもなっている「直角の詩」は印象的。後期になるほど作品は力強かった。横浜へ。中華街で食事。昨日から続けて「危険な年」ピーター・ウィアー監督、メル・ギブソン、シガニー・ウィーバー、リンダ・ハント出演を観る。シガニー・ウィーバーにとって、この作品は大ヒット「エイリアン」の次作となるが、それとは異なるロマンス映画であった。ただし、1965年当時のインドネシア状況はよく分かる。第2次大戦後の独立を成功させた英雄スカルノも、国民の生活は苦しく一向に上向きせず、国民に愛想を尽かされていた。それを表象するのがリンダ・ハント扮するカメラマンである。彼は実は女優で、助演賞を受賞している。そうしたなか9月30日に、共産党によるクーデタが起きた。大統領スカルノは、共産勢力と回教徒勢力のバランスとることで漸く国を維持していたらしいが、それが崩れた形であった。クーデタからの脱出を描いた映画はいくつかあり、どれも緊迫感がよい。ちなみにデビィ夫人は、その2年前の63年に第3夫人になり、この事件の最中の中心人物にいたこともわかった。

8月8日(木)
ゼミにて、展覧会に向けての1/1実験。今年の展示では、風船を使って布を浮かせようとしているが、色々なことが判り、素材の、あるいは浮かせることの可能性が示された。布がなびくのは美しい。とくにそれを下から見ることは得がたい経験である。その結果をもってアイデアを詰める。いつもの設計のように、外的条件を押さえながら同意形成を試みてみた。まずは、風船の使用によって既存の建築システムをどのくらい越えているかを検討する。意外と重力に基づいた既存システムはよく練られているのが改めて判る。当然ではあるが。次に仮に全体の大きさを決定しそれが浮くための風船数を押さえてみる。風船を敷きつめると意外と空きがとれることを確認し、空きを利用し風船レイアウトを試してみた。それで、どんな形が可能となるかの閾値を定めることができた。意外といけそうなので、後はこれに言葉を与えたり意味づけを行ったりする。これでまた意外と、先人たちの似たような作品の意図がつかめたりする。それを知って後はこれを越えられるかどうかだ。少々強引にアイデアを転がしてみながら、焦点を定めていった。次に期待。

8月7日(水)
「精神と自然」ベイトソン著の拾い読み。ウィリアム・ブレイク「賢者には輪郭が見える、ゆえに輪郭を描く」。これ以外にもよい言葉が残されていた。P214「理解されるべく語られた真実が、信じられないことはありえない」(ブレイク)。P394「美しい答えは、より難しい問いを尋ねたもののところへ」(e・eカミングス)。P252「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神なりき」(聖書ヨハネ伝)。

8月6日(火)
ニュース番組で、広島と長崎投下前に、日本各地で模擬爆弾なるものが落とされていたという事実を知る。これは今まで秘密事項であったそうだ。原子爆弾はサイズが大きく投下方法も特殊であり、そのためにアメリカにとっての少しでもの失敗は歴史的汚点がつくというので完璧を目指し、日本各地の49箇所で投下実験がなされていたという。このとき既に日本は抵抗の術を何ももっていなかったことになる。にもかかわらず敗北受諾の決断ができず、あるいは現状すら把握できなかったために、最悪の悲劇をよんでしまった。

8月5日(月)
「精神と自然」ベイトソン著を読み終える。エントロピー増大という確率論に抗して、ぼくらは生きるという秩序立てを試みる。その仕組みをつくるにあたって、人はあるいは動物は2つの大いなるストカスティック・システムを使い分けるというのが本書の主旨である。ひとつはキャリブレーション。時間を要するのでプロセスである。学習によって、クラス、クラスのクラス・・・をつくるものだ。他の言い方だと、ソマティックあるいはトートロジー、相同、名前をつけていくことである。変化する外部環境にたいして内部秩序を維持するためのものである。もうひとつは、フィードバックシステム。ジェネティックあるいは名前そのもの、プロセスにたいしてフォームともいっている。これによって外的で可視的になり、伝達可能となる。このことを、ウィリアム・ブレイクは、「賢者には輪郭が見える、ゆえに輪郭を描く」という。そしてベイトソンは、この2つのシステムを、行ったり来たり梯子を登るようだとイメージしているのだ。ぼくら建築家は、このフィードバックシステムにこそ加担しなければならないというのを、本書から学んだ。

8月4日(日)
電車の行き帰りで「ノスタルジア」タルコフスキー監督を観る。何度観ても理解できない映画であるのは、説明するところの拒絶があるからで、けれど、エントロピーに満ちた霧、湯気、光と暗闇、雨などを用いたシーンはいつ観てもとてつもなく美しく静かである。対して人が扱う火は小さくはかないこと。最後のシーンにある住宅は模型だろうか。そのスケールが小さく、廃墟なる背景の教会が壮大に見える。

8月3日(土)
オープンキャンパスのために大学行き。夜は、卓球、サッカー、柔道と続けて五輪を楽しむ。
072 五輪女子 日本×アメリカ ほしいゲームであったのだが、得点する感じはしていなかった。アメリカも丁寧につないできた分引いても守りやすかったと思う。しかしそれだけ前への推進力は弱く、いつかはゴールを割られてもおかしくない状態ではあった。

8月2日(金)
学科の懇談会を青山のメゾン・ド・ミュゼで行う。煙草の製造で財をなした千葉家が大正前に鍋島家から嫁を迎えるために建てたという。RC造に木造小屋組を載せた形で、意外と大きく、住宅だけあって個室も多い。それを利用して30年来会員制の倶楽部にもなっているという。屋根裏のサロンはよかった。元は庭であったところに増築したサンルームのような場所で、2時間以上かけての食事。
071 五輪 日本×スペイン 先制点を奪われてゲームをコントロールされた。個人技術の差はやはりあり、少しのところであるのだが、それが結果にむすびついた形であったと思う。それにしても、前半終了間際の細谷のオフサイドによる得点取り消しはいたかった。ここでは勝っていたのだが。

8月1日(木)
「精神と自然」Ⅵ章は、Ⅴ章に引き続き大いなる2つのストカスティックシステム合体の前触れ。名前を付けるアナログ的プロセス=コード化プロセスと、結果、名前になるという、外部環境からの要請獲得、この両者が一致することである。

7月31日(水)
「精神と自然」ベイトソン著「Ⅴ-重なりとしての関係性」の拾い読み。「生物界にあって、変化が生じるためには、二重の条件が満たされなくてはならない。有機体の内部から来る一貫性の要請にも、外部環境の要請にも共に応じるのでなければならないp271」。つまり、進化も、そして人の考えるアイデアも創造も、内的な保守性と外的変化の二重規定の上に両成立する別の論理階型に属するものという。このことをabductive、AとB各から(A+B)を生むことといっている。

7月30日(火)
箱根ポーラ美術館で開催中のフィリップ・パレーノ展へ行く。 作品にバルーンを取り込んでいることを知り訪れる。金魚の風船がエントランスに唯々泳いでいるものだ。展示室の大きなガラス越しにみえる箱根の林と対称的なのが面白いといえば面白い。たまに係員がガスを注入していた。もうひとつは、マンガの吹き出しの形をした風船が天井いっぱいに敷きつめられた作品。ちょっと気落ち悪い。興味をもったのは、こうした具象的な作品と緻密なAI等を駆使した抽象映像がフィリップ・パレーノの中で同居しているところ。はじめの映像作品はマリリン・モンローの「七年目の浮気」の舞台となったNYのアパートで、映画と同様に今度はフィリップ・パレーノが妄想に走るものである。もうひとつは、水中の異性物や太陽、自然などを解像度高く接写撮影した神秘的な映像。最後の展示室のドローイングも緻密である。美容院を改修したという強羅の日本茶専門店へ行く。3回に分けてサービスしてくれて、その度にお湯の温度が上がっていく。甘みあるものから香り高きものに変わっていくのが判る

7月29日(月)
070 五輪女子 日本×ブラジル ロスタイムに同点し逆転。神かかった試合であった。初戦スペインに子供のように扱われたことを思うと救われた。

7月28日(日)
「グラディエーター」リドリー・スコット監督、ラッセル・クロウ主演の2000年の映画を観る。時は紀元190年。ローマ、アウレリアウ皇帝とその息子コンモドゥス統治下、コロセウムでの奴隷らの剣闘が民衆を熱狂させていた時代の物語である。学識に富むといわれていたアウレリア皇帝に愛され、軍隊からの信望も厚いスペイン人将軍が、父アウレリアに愛されなかったコンモドゥス皇帝との確執を描く。その将軍が命を狙われ奴隷として拾われ、北アフリカからローマに帰還し復讐する。スペイン人のこの将軍が、ここでも観衆や仲間たちの心を掴んでいく過程が見所であるが、ローマ末期の衆愚政治の批判も同時に描かれている。ただし、最後に民衆がコンモドゥス皇帝に逆らい将軍の最期を静かに受け入れるところに民衆への救いがあり、少し安堵。それと並行して家族愛やロマンスが挿入されているところは抜かりない。

7月27日(土)
中村さんと古市先生偲ぶ会の相談。暑い日が続く。午後に雑用。オリンピックがはじまる。3年前の母が亡くなったときのことを思い出す。東京オリンピックの開会式前で、開会式中は今後の段取りのためドタバタしていた。
069 五輪 日本×パラグアイ 南米王者から5点の圧勝。後半はじめのパラグアイの猛攻を交わしたのがこの結果に結びついた。それにしてもタイトなマークに屈することなく、ボールをつなぎ切る日本の技術の高さを強く感じる。以前のようにハラハラすることなく、全体の成長を感じる。

7月26日(金)
学生は出発前まで川遊び。その後原さんの建物を後にして昼前に槇さんの藤沢秋葉台文化体育館に着く。中央にエントランスがあり、北に大アリーナ、南に中アリーナという軸を意識した構成。谷口さんの酒田の体育館を思い出す。こうした配置を堅いとみて、例えば大分の体育館などは、ショッピングモール的な道などの動きのある一般開放空間をつくるのは自治体受けはいいが、建築本来の目的をどこに置くかは槇さんたちの作品は明快である。個々の内部空間も、そうした木造の優しいフラットな屋根に比較して、2本のキールトラスが屋台骨としてまずあり、それから全体を覆うというヒエラルキーのある空間に仕上がっている。そのズレから光を取り込むなどの方法が崇高感をつくり出している。中アリーナの構造も構造的合理性と純幾何学とのズレを採光部分にするなどチャレンジングである。中アリーナとはいえコンクリートの大構造であった。そこから1時間くらいかけてオンデザイン設計の神奈川大学国際学生寮へ。120人収容可能と知ってびっくりする。個室の充実よりも共用部、そしてコミュニティあるいは街のようなものの室内化を目指した建物である。3棟に分かれているのは防火上の制限かとも思う。中央の吹抜には様々な活動を誘発する居場所であるポットが置かれ、とかくその素材感やスケールに注目されるが、その位置や高さ、支え方が建築的な見せ所である。それは同様に共同住宅としての避難方法にもいえる。そうしてできたものが現代的であるのは、素材の扱いや居場所の提案といった社会の潜在的要求に合致していることがもちろんであるが一方で、建築家が優秀な制作者=エンジニアに支えられた一人のエンジニアへとなることの現れでもある。そして、それを受け入れるのを良しとする現代的風潮は、現代の都心再開発が大手の会社のみで執り行われる実情を心底隅々まで広げることにもつながっていく。そこにある新鮮な視点も消費される運命にある。そう思うと、昨日訪れたKAIT広場は竣工時に消費されても、残り続ける作品だろうと思う。

7月25日(木)
昼過ぎに研究室の皆と神奈川工科大学へ。石上さんの2つの建物を体験する。正面玄関からつながったKAIT工房は、すっと立った柱が林のようだ。それを上手く利用して工房や談話コーナーをつくっている。外は40℃になろうとするも中が快適である環境が、林を思わせる。そしてその奥がKAIT広場。80m×50mくらい大きさで、うねる大地的床と吊られた鉄板だけの空間で、こちらは無柱空間である。四角に切り取られた鉄板からは空をみることができて、そこから太陽光が差し込む。斜面に大地に沿って座ると、なんとなく涼しく木陰にいるような感覚となる。しかし抽象的な空間なのである。そこから1.5時間かけて、原広司さんの丹沢ホームへ行く。今日の宿泊所。1階がコンクリートで2階が木造。中央スパイン部分がコンクリート列柱で、その半分が直列に並ぶ宿泊室で半分が長い吹き抜けの大階段空間である。その上の屋根はうねっていて、外部的雰囲気をつくる。斜材の使い方など原さんを連想させるも、ブレースを3角面で覆っているのは竣工後のものだそうだ。中央スパインのコンクリート列柱はすべてかたちが異なる。かなり開けた感じであるのは、直列の宿泊室が階段状になっているからだと思う。高さも3層分あり、空間に動きがあるのだ。オーナーから原さんとの興味深い思い出話をたくさん聞く。牧師でもあったオーナーのお父さんの頃からのお付き合いで、原さんの卒業設計と修士設計をここで実物化したそうだ。今はないが外観写真を見せてもらった。卒業設計の方は、塊的建物で原さんらしいが、その2年後の修士設計の方は、木造柱や梁が露出した線的表現をしている。この間に何があったか興味深い。卒業は1959年である。この建物の前の本館は、3段ベットのある大空間で学生が寝泊まりをするものであったという。ガルバで覆われていた。現在のこの作品は1996年竣工。京都駅と同時期である。空間コンセプトも同じである。夕食後、4年生の中間発表を階段吹抜で行う。このような利用を目指していたのだろう。具体的に100枚資料を何にするかに的を絞った指導をする。この時期に堂々巡りのコンセプトつくりに費やすと良いことはない。コンセプトを転がしていくことの方が大切である。

7月24日(水)
今日は採点等の前期の整理。夜に昨日の電車での続き「ダークナイトライジング」クリストファー・ノーラン監督、2012年を観る。ここ最近のアメリカ政治状況をなぞるような設定。市民の鬱憤がときによからぬ方向に向かってしまう内容であった。それを扇動する悪の巣窟は地下にあり、そこから抜け出すことのできる力がすべてであり、その力が向かう方向の善し悪しとは関係なく、民衆が惹きつけられる原動力となる。その地下の巣窟ロケ地はインドジャイプルにある巨大階段井戸。一部訪れたことのあるファテープルシクリもバックにあった。それとは対称的にウェイン社となっているはおそらくNYのトランプタワーだろうか。強烈なグリッドが表象的に扱われていた。この映画は背景となる建築選びにもぬかりはない。

7月23日(火)
深夜目が覚めてしまい「コカイン・ベア」エリザベス・バンクス監督を観る。熊が森に落ちた犯罪者からのコカインを偶然に摂取し、キャンパーらを襲うという映画で、シリアスな恐怖シーンとコメディが混在するB級映画。子供が主人公でもある。

7月21日(日)
「Everything Everwere All at once」ダニエルズ監督を観る。ちょっと退屈で長い気がした。テーマが明快ではっきりしていて最後に裏切りもなく、途中のシーンが似ていているのが、そう感じさせたと思う。アカデミー賞を各部門でいくつもとったことにはちょっと驚きであるが、主演のミシェル・ヨーのキャラクターは突き抜けている。

7月20日(土)
古市先生を偲ぶ会の打合せを堀越さんの自宅で行う。課題として、発起人の選択、予算組み、予算の獲得方法、予算管理の口座など、展示以外の対処すべきことが大きくなってきた。ひとまず今週中に対処を考えよう。来週末に中村さんとこの件での打合せを約束する。夕方、映画「三体」を観る。スーパーカミオカンデを観たいと話をしたら、学生からこの映画を教えてもらった。早速、Netflixをチェック。最初のエピソード1にあった。宇宙研究者が神なる者に操られて、スーパーカミオカンデ内部で自殺するシーンである。ますます体験してみたくなった。ちなみにスーパーカミオカンデは直径が40mで、パンテオンやフィレツェのクーポラと同サイズである。

7月19日(金)
以前のヴェネチアビエンナーレで開催された「宇宙の卵」展を思い出す。今年の読書会のテーマであった神話とティモシー・モートンあるいは生きることを直接的に表現した展示があったことを思いだした。建築家として能作さんも加わっていた。それは、沖縄八重山諸島にある「津波石」を扱う展示である。これをキューレターの服部浩之さんが、共異体あるいはヘトロピアと呼んでいるのは、「自然なきエコロジー」にもあった。日常とは異なるものの、皆に共通認識されているものを指している。この巨大な石は太古の津波によって運ばれてきたものであるが、古代の人はそれを理解できずに神話の対象となっていた。こんな巨大な石がなんで存在するか、その説明がつかなかったものを、超人間的な所作として神話という手段を使って納得させてきたのである。加えて神話を通して人々は、そこに道徳感や倫理感をも根付かせている。それを深層で共有する共同体が成立してきたのである。この展覧会ではこの事実を、6人のアーティストの新しい共通言語にして、何かを生み出そうとするものであった。歴史的事実の紹介や自動生成の音楽でそうしようとしていた。

7月18日(木)
修士設計の前期締めの発表。4年生の参考にしてもらいたい。この数ヶ月でテーマが絞られつつある。いくつか具体的なアドバイスをして参考となる本を思いつくかぎり提案する。事務所に戻りその本の整理。まずは、「Mordern Forms」ニコラス・グロスピエールの写真集。近代建築を外形で分類し、全てがほどよい大きさの正面写真である。曇天のため物静か。過去の遺産のようにもみえる。ウィリアム・エンプソンの著書「曖昧の七つの型」の延長にある本である。エンプソンとグロスピエールの写真集の関係をどこから知ったかが思い出せない。次に豊田市美術館で開催された岡崎乾二郎展のパンフレット。探すもなかったのは、購入していなかったことを知る。「経験の条件」に詳細に書かれているが、ブラカッチ礼拝堂のVRでの体験が記載されている。a+u634のカーモディ・グロークの特集。ウルスプルングの巻頭論文で、カスパー・ダーヴィットの「雲海の上の旅人」が紹介されている。カスパー・ダーヴィットは、同時代のゲーテと反対に立つ人というが、ゲーテは自然を愛するがゆえにシビアな目をもっていて、反対といってよいのか疑問に残る。そしてグルスキーの写真集。

7月16日(火)
もうひとつの柳田国男論、弟子である折口信夫について再考。柳田の影響を受けた折口も固有信仰から神道というものへの発展を試みた。ただしその方法は柳田とは反対に向かったというのが、「遊動論」柄谷行人による。折口も柳田同様に社会との関連を考えるも、「マレビト」のように、次の世代への救世主というものを外に求めた。折口は、それを普遍宗教となったユダヤ教から学んだという。「マレビト」といえば、晩年に磯崎が五輪会場の設計で掲げた考えでもある。安藤礼二との対談「東京祝祭都市構想」を再読。安藤礼二は、折口信夫の弟子である。ここで語られる磯崎の五輪計画は、オリンピックを100日間行う祝祭のオープニングに位置づけて、世界各国の祝祭をその間に次々と誘致するという案。そのための装置としてオリンピック会場を考え、巫女として妹島さんをその設計者に指定。巨大な妹島風の透明な箱や場が、ブラックホール的皇居前広場に布置されるものである。日本的とは何か、あるいは、それをユニバース的なものへと理解を広めるという目的で、この「マレビト」選択は他の建築家を圧倒する。第1次コンペ時に思いついていたのだろうか。

7月15日(月)
068 EURO決勝 イングランド×スペイン 2-1でスペインの勝利。前半はスペインがイングランドのプレッシングをかわすことができずにアップアップ。ところが後半はじめ一瞬の隙を突いて速攻でヤマルからニコのシュートで先制。ニコサイドにDFがいなかった。その後スペインは防戦一方。サカに奥深く攻め込まれFWのポストプレーから遅れて入ってきたパーマーに決められた。しかし終了間際には、中盤からの折り返しポストプレー+走り込みのオヤルサバルが速攻で決めて、王者をものにした。引き締まった決勝。勝った者の喜びが爆発。一致団結もみられた。

7月14日(日)
ある学生が柳田国男に興味をもち、自分の柳田観の整理。それは柄谷行人を通してのものである。「遊動論」柄谷行人著の再読。柄谷は、家族観(社会観)が国家制度をつくる、という立場に常にいる。だから、家族や社会と宗教の成立もパラレルに俯瞰する。それは次の文章によく表れている。「中間の神社のお祭りは色々やかましい儀式があったりして違っているが、宮中のお祭りは村々のお祭りとはよく似ている。これではじめて本当に日本は家族の延長が国家になっているという心持が一番はっきりしますp24」と。そこからこの本が着目するのは、土着的な固有宗教と神道や仏教などの普遍宗教との関係である。柳田国男が固有宗教に着目したのは、普遍宗教のもつ互酬性を越えた何か、それを「愛」だというが、固有宗教にはそれがあることによる。「柳田がいう固有信仰の核心は、祖霊と生存者の相互的信頼にある。それは互酬的な関係ではなく、いわば愛にもとづく関係である。柳田が特に重視したのは、祖霊がどこにでも行けるにもかかわらず、生者のいる所から離れないということである。このような先祖崇拝は日本に固有のものだ、と彼は考えたp138」。そうした互酬性を越えた固有信仰とは何か。柳田国男はそれを次のようにいっている。「人は死ぬと御霊になるのだが、死んで間もないときは、「荒みたま」である。すなわち、強い穢(けが)れをもつが、子供の供養や祀りをうけて浄化されて、御霊となる。それは、初めは個別的であるが、一定の時間が経つと、一つの御霊に融けこむ。それが神(氏神)である。祖霊は、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守る。生と死の二つの世界の往来は自由である。祖霊は、盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となる。御霊が、現世に生まれ変わってくることもあるp135」。最近読んだティモシー・モートンの「本当のディープエコロジー」に近いものであった。

7月13日(土)
久しぶりに村野藤吾設計の原村八ヶ岳美術館へ行く。まあまあの天気であったが、それでも少しかび臭いのは時代と実環境への考慮のなさからくるものなのかと思う。村野が90歳を超えてからの作品と知ってびっくりもする。小諸の小山敬三美術館やほんとうに最晩年の谷村美術館などの規模が比較的小さいものを体験すると、村野が力を持て余しているのを感じる。それを確かめるために村野の茶室も体験してみたいと思う。八ヶ岳は食材から判断するとまだ夏をむかえてはいなかった。

7月12日(金)
「キル・ビルⅡ」タランティーノ監督を観る。昔の映画、西部劇やカンフー映画、戦争映画のオマージュ満載で観ていて飽きない。各シーンの終わりが必ずそれである。2000年初期のなんでもありの時代を象徴する映画であると思う。
067 EURO イングランド×オランダ 今日のサカのWBとフォーデンIHの位置取りは楽しかった。それは超攻撃的で、そのバックにいるウォーカーが加わるとさらに面白い。決勝でのニコとの対峙が楽しみでもある。

7月11日(木)
研究室前期の軽い打ち上げ。親睦程にはならなかったが、様々な意見が出てアンデルセンの方向性を決める。今回の展示では、建築的な構造なしのものをつくってみようということになった。屋外が展示場所で予算がないだろうから風などに抗さず、あるいは重力を考慮しないようなデザインが得策であると考えたからである。そのために軽くすることはフラーもアプローチした。それで、建築ぽさをなくすことができるのかもしれない。
066 EURO スペイン×フランス スペインの圧勝。リードされても落ち着いてフランスをコントロールしていた。ペドリ不在もオルモが絶好調で、両サイドにボールを送ってはまた受けて多彩な攻撃を牽引している。

7月10日(水)
3年生と4年生の合同講評会。ゲストとして安田幸一さんと吉田周一郎さんをむかえる。他に非常勤の蘆田暢人さん佐野ももさん、谷口景一郎さん比嘉武彦さんとで5時間あまりの講評。安田さんは、多くの美術館を設計した経験から、建築家への期待からくる美術館の自由度とその反対の難しさを知っている。そこから、誰のための何のためのデザインかを自分で規定する必要性を学生に投げかけていた。そのためには、宇宙船のように舞い降りた建築ではダメでコンテクストから浮き上がるようなものとなる必要がある。緑ではなく地形だともいっていた。そして優秀案に選んだのは、地形を巧みに利用した広瀬さんの作品。内部の展示作品との絡み=近景と外部のランドスケープとしての遠景、このバランスがとれていた作品である。風景に合わせて小さくするとその分フレキシブルさに欠けるという指摘は、経験によるものだと思う。京都の安田さんの美術館でそれを感じた。吉田さんの、コンテクストやプログラムなどを丁寧に解釈する真摯な姿勢に感銘を受ける。したがって優秀案に選んだのは、トチノキを中心にコンテクストを再編した磯谷さんの作品。この作品は加えて構成的でもあり、RCRの作品のように環境に同化することを欲していないものだ。4年生の谷口スタジオのシミュレーション系が振るわなかったのが残念。やはり建築コンセプトをぼくらは求めたがる。なんとかしたい。阿部さんがつくる物語性によって、落とし物に精神が宿るのでは?という小さな気づきを共感というものに変えた。同調から共感へとなったのは、大きな模型でしっかりとモノにしていたからだと思う。よく気づいたね、からよくやった、に皆の見方を変えることができた。モノの力を信じたからのこそのものだと思う。もうひとりの遠藤研大里くんの作品も模型の迫力が買われていた。ピラネージばりの計画の不能性を表現できていたという比嘉さんの講評も引き出していた。そういえばピラネージも、首都ローマの破壊からの再生を、俯瞰的視点からではなく崩壊の積み重ねによって批判をしていた。どことなく動的平衡の壊しながら再生産するという生物の掟=生きること、これとの共通性を見出すことができた。この2作品が他と顕著に異なっていた点であった。学校課題で、安田さんがいたなら指摘しただろう宇宙船を舞い下ろしたような作品が酷評を受けたのはかわいそうであった。選考した教員側の責任でもある。しかし、今週にかけて形をブラッシュアップして強度を高めてきたのは、先の4年生の作品と同様に好感が持てる。

7月9日(火)
なぜかしら90年後半出版の「Anyway」磯崎新+浅田彰編を読む。「ともあれやはり大文字の<建築>を」と柄谷の「「物自体」について」である。どちらも大文字の建築や物自体を、われわれの外部にあるが、感覚を通じて絶えずわれわれを触発するもの、彼岸に留まり続けるものとするところに特徴がある。その前提を忘れると、ロマン主義になり、差異の氾濫を生むAnyway、なんでもありになってしまうという。その結果を建築でいえば日本的スノビズム、構成的という。それにたいして柄谷が提案するのは統整的であろうとすること。それを実行するためのデザインが大事という訳である。神話的思考に近いものを感じる。

7月8日(月)
2年生の前期第2課題の提出。自ら個別のテーマを設定して与条件を満足させようとする作品と、与えられたテーマを演繹的に膨らませる作品のふたつが相変わらずあり、前者の方に勢いを感じる。問題は、ぼくらも相対的な評価が避けられないので、コンテクストが変わると、あるいは他に完成度の高い作品と並ぶと、差異を生まなくなって埋没してしまうときがある。後者はもっともな解答となり創造性が乏しく感じられてしまうので受けが悪く、広い意味での表現を生き生きとできるかどうかにかかっている。このことを感じる。

7月7日(日)
064 EURO イングランド×スイス 強いイングランドをイメージすると、ちょっと物足りないイングランドの攻撃である。優秀なWが数多くいてダブり、組織的な攻撃ができていない。それでもPKを征し4強に進出。
065 EURO トルコ×オランダ オランダが逆転。底力を感じた。10番デバイがかき回して崩れたところをガクポが突っ込むという形が上手くいっている。セットプレーからのパワープレーも驚異であった。

7月6日(土)
063 EURO スペイン×ドイツ 事実上の決勝戦といわれていたが、実にそのような展開となった。延長になっても守備的とならずに死闘であった。ドイツが勝ってもおかしくなかったのだが、最終的にはスペインがオルモのセンタリングをメリーノがヘッドで決めた。その勝因は、最後までスペインは幅を使った戦いをしていたからだと思う。対しドイツの攻撃は中央に寄りすぎていた。メリーノとホセルは相手DF間に位置取りでDFラインを引かせて両サイドを自由にすることを繰り返し攻撃の起点としていた。とはいえ、先発の両Wが下がると攻撃の質が下がり問題は残されている。

7月5日(金)
読夕方から大学の同窓会に出席。前回会ったのはコロナ前であるので実に数年ぶり。近況を報告し合い、皆元気で安心する。次回の日程を決めて、その際にもっと集まるようにしようということになった。高校といい大学といい、昔を懐かしむ年齢になってしまった。昼からは、4年生の設計講評会。今年の4年生はしっかり形にまで落とせるのがよい。だから、それへのストーリーを膨らませることも可能で、良い傾向だと思う。大学の行き帰りの道路が異常に混む。気温も上がり、嫌な夏のイメージである。

7月3日(水)
3年生前期第2課題の講評会。総じて計画は無難にできるようになって、安心する。そうなると、地域のポテンシャルをどう読み込むかが課題の出来に大きく関わる。結果、それを設計密度に結びつつけた作品が優秀案として選ばれた。作品内のアクティビティが見えずらくなっているのは、要求スケールに応じた家具がデザインされていないからである。模型にでもそれが表現されるようになるとよい。ジャンプが望めそうできちんと計画もされているプロジェクトはあっただろうか。来週の再プレゼに期待。

7月2日(火)
062 EURO スペイン×ジョージア スペインの両Wリコとヤマルは強し。彼らをフリーにするためにSBククレジャとカルバハルが内の高い位置に絞る。リコは裏から中央へ折り返し、ヤマルは中央にドリブルしてモラタのポストプレー、最後はロドリやファビアン・ルイスで仕留める。日本と対戦したカタールW杯からの進歩は激しい。若いジョージアも見直した。5バックで守り切ろうとして最後はやられたが、クヴィチャのナポリ、GKのママルダッシュビリはリヴァプール入団が光る。若い世代の欧州トーナメントがジョージアで続けて開催され、ジョージアは若手育成に力を入れてきたそうだ。後半からスペインはソシエダ選手が登場。ヤマルを久保に重ね合わせるが、それほどの連係はできていなかった。

7月1日(月)
読書会の整理。基本的に建築の評価は最終的な結果にあるが、発想のキレにも大きく左右される。発想といえども、それは思いつきからのものはなく、原因―結果の探求の末のものと考えている。今年研究室で取り上げた今年の本は、ユクスキュルをはじめとする、見る目をもたなければ見ることができないという考えを下敷きにしている。ただし、それを拡張するためにはどうしたらよいかを考えたものだ。東浩紀は、それを観光客的という気軽に現代的な方法で示し、確率論的な証拠を与えている。ティモシー・モートンは、正面からその問題に取り組んでいたのが判った。没入の方法をあれやこれやと示し、対象と主体との距離を問題にしている。福岡伸一の考えは、生きていると創造を重ね合わせる良い機会を与えてくれる。エントロピー増大の法則に反して、無理矢理エネルギーを投じて整理し直すこと、これが生きるということで創造ということなのだ。こうした主体からのアプーロチとは反対の神話的アプローチは興味深い。計画するとは未来にむかって案を立てることであるが、そこに気負いがなく、ほぼ変わらないだろう未来を過去―現在の延長に見ようとするものだ。ここに科学的イノベーション的発想と異なるものがある。

6月30日(日)
060 EURO イタリア×スイス よもやのイタリア敗退。ここ数年のイタリアチームの調子のよさとは反対に、ナショナルチームはどことなく調子が悪そうであった。これは前回の欧州選手権とは反対となる。チームのこなしてきたゲーム数と代表のパフォーマンスは反比例な関係にあるのかもしれない。
061 EURO ドイツ×デンマーク こちらはドイツが順調に勝ち進んだ。点差とは裏腹に白熱した戦いであったが、終始ドイツの安定さは目立った。ドイツの両Wの早さは驚異的。デンマークの3バックの裏を徹底して攻めていた。こう思うと日本がドイツに連勝した戦い方は凄い。

6月29日(土)
大学で保護者向けに活動報告と個人面談。夕方、「ジャッキー・ブラウン」タランティーノ監督を観る。70年代初頭に起きたブラックスプロイテーション映画の象徴でもあるパム・グリアを主演にむかえてのタンティーの才能を遺憾なく発揮した作品であった。テーマ音楽も「110番街交差点」。これもブラックスプロイテーションといえばというものらしい。キャストも、タランティーノ映画の常連から、マイケル・キートンやブリジット・フォンダ(ダニー・エルフマンの妻)はティム・バートン映画の常連、あるいはロバート・デ・ニーロに真抜けた役を演じさせるなど、過去の名作奇作との絡みも複雑。ストーリーも同様で、登場人物それぞれの思惑を平行にすすめて従来のサスペンス映画とは異なる進行である。

6月27日(木)
大学院の授業でネットワーク理論について話す。その後、いくつかの会議を経て、「構造・神話・労働」と「やきもち焼きの土器つくり」レヴィ・ストロース著の第2回目の読書会。神話的思考というものが何かなかなか掴みづらい。提案として、構造と要素の交換可能性という2軸を持ち出し、神話的思考、科学的思考、ブリコラージュ的思考を振り分けてみる。神話的思考は、構造があり○交換可能×となり、科学的思考は○+○、ブリコラージュ的思考は×+○。×+×が何かというと、科学的思考の対極にあるアート的思考というものだろうか。これによって俯瞰的な理解を促す。その上でこの分類の是非、あるいは担当者の提案するスミルハン・ラディックの作品をどう捉えるかを話し合った。神話的思考方法とは、皆が大前提とみなす構造が当然のことのようにあることからはじめ、それの下に吟味して代えの効かないほどの登場人物まで高めているような気がする。この描き方が絶妙なのだ。こうした建築の在り方もあるのではないかと考える。パタン・ランゲージなどはその典型だと思うのだが。今後の課題とする。

6月26日(水)
重い長い重要な会議。考えあぐねた末、ひとつの結論にもっていった。果たして学科は受け入れてくれるだろうか。その後に学生からの相談。なんとい純粋なことか。「フォロウィング」クリストファー・ノーラン監督を観る。ノーランの最初の長編映画。ストーカがはめられたりはめたりする映画。最近、ネットに出るようなった。この映画は、3つの時系列といくつかの場所の繰り返し、それとそれぞれの登場人物からの視点、これらを交錯させる。こうしたテクニックをノーランは若いときから駆使しているのを知る。スリルを映像によらないこところが新しい。この映画は興行的にあたらなかったというが、次作の「メメント」の前振りになったそうである。イギリスが舞台で、バーの扉はプルーヴェのようである。
060 EURO イングランド×スロベニア 0-0のドロー。マッチ3の良くないところが出た。どちらも負けない戦い方をして、次のノックアウトステージを目指す。もうひとつの冒険や賭けがゲームを面白くする。

6月25日(火)
今日は蒸し暑く、日本の典型的な梅雨である。事務所で数々の雑用。学生のレポートも見る。自分のGA対談を改めて読むと、「イマジナリー」「フェノメナル」「アンビエンス」「トータリティ」、これらを下から肉薄しようともがいていた自分がいる。しかし崇高論に触れてから徐々に融解し、反対のコンテクストを意識し、そこの中に位置づけようとする自分がいた。ぼくにとっては大きな違いとなった。池辺さんは1冊の本のなかでこのふたつを達観してみている。このことは驚きである。最近はアレゴリー的試行にその可能性を感じてはいる。レヴィ・ストロース、コールハース、ティモシー・モートンやウイリアム・ブレイク、あるいはティム・インゴルドはそれについて考えるよい機会を与えてくれている。

6月24日(月)
「構造・神話・労働」と「やきもち焼きの土器つくり」レヴィ・ストロース著の読書会。他大学や他研からの学生も参加。担当者は、本書で取り上げられているいくつかの神話を紹介しながら、当時生まれた構造主義を解説し、それから科学的思考との違いが何かを考えようとしている。そのとき題材としたのは、神話と石川初さんがあげる神山町での町民によるブリコラージュ、そしてスミルハン・ラディックの作品であった。これらの違いを通して神話の特徴を掴もうとしていた。アプローチとしてなかなか面白い。様々な意見が出た。素材の置き換え可能性、あるいは素材の共有度あるいは民度、制作目的の達成度など。次回の2回目でこの方向性を高めていくという。ぼくが考えるに、これらは、設定された目的にたいしてのブリコラージュ姿勢はとっているという意味でどれも同じで、目的が達成可能なものかどうか、あるいは歴史的であるかどうかの違いであると思う。そして神話は、なかなか説明しきることが難しいので、ブリコラージュされたものが奇妙に感じられ、むしろ解けないことを助長する仕組みが考えられているのだと思う。だから、素材ひとつひとつが生き生きと描かれる必要が増し、キャラクターで人を惹きつけるものになっているのだと思う。

6月23日(日)
059 EURO ポルトガル×トルコ ポルトガルの3-0の圧勝。トルコは途中自滅した感じである。後半途中からレアルの19歳ギュレルが登場。久保と違ってちょこまかしていなく、大物感がある。こうみると、久保はバルサの選手であったのだ。

6月22日(土)
「火まつり」中上健次原作、柳町光男監督を観る。中上の出身地熊野の二木島を舞台にして、1980年に実際に起きた一族殺害事件を中上独自の解釈で描いたものである。それは、近代化に抗して自然崇拝をする一青年の物語である。中上の原作というので期待をしたのだが、主演の北大路欣也には優等生のイメージがあり、別な意味で町から浮いてしまっていて、また北大路がはじめから山の神秘性を信じているので、最後の山とのエロティックな関係になっても、新鮮さがなくスクリーンとの距離をとってしまう。おそらく、熊野の崇高な神秘性を描きたかったに違いない。
058 EURO オランダ×フランス 0-0のドロー。それ以上にゲームは面白かった。フランスが攻めるも、もうひとつのところでゴールマウスをこじ開けることができずに、オフサイドで取り消しになったがオランダも時たま速攻を繰り広げていた。なんでもこの大会はじめてのドローだそうだ。

6月21日(金)
午前にナチュラルスラット行き。新しいエアコン設置について工務店との打合せ。クライアントの犬が弱ってきて、1階の子供室だったところにエアコンが必要になってきたという。その方針を決める。工事は1ヶ月後になる。夕方から設計小委員会。新しく出版する本の目次つくりが主な議題であったが、読者にこの本の前提とする説明が弱いように感じた。それを書いてみよう。
057 EURO スペイン×イタリア スペインの圧勝であった。セカンドボールを両SBのククレジャとカルバハルが内に絞って拾い、イタリアの反撃を許さなかった。その後は、バルサを思わせるピンボールのようなボールの動きがペナルティ内で起きる。1−0以上の圧勝であった。 

6月20日(木)
午後直ぐに学科での会議の後に、それをもって学部長らとの打合せ。大方意見を通しすことができたが、後味はあまり良くない。その後に研究室で、「自然なきエコロジー」ティモシー・モートン著の2回目の読書会。この本でとりあげられてる、ブレイクの「蠅」やクレアの「私は生きている」の詩、そしてコールリッジと同時代のワーズワースの詩の構造を、皆で実際に読んで考えた。ぼくとしては、こういった詩を通じて、ティモシー・モートンの考える「アンビエンス」とは何か、そしてそれを掴むためにはどうしたらよいかに結びつけようとした。「アンビエンス」は「自然」とはことなり、「とりまく」ものである。訳者あとがきにあるように「私を外からとりまくものでありながら、私の内的空間で抱かれる思考や想像と明確に区別されるともかぎらず、そのあわいにおいて生じている」ものなのだ。それは、ぼくら建築を志す者にとっては、明確にされない社会的や場所的コンテクストにのぞむようなものだと思う。それを作品に反映するヒントがこれらの詩にあるのだと思う。そのとき思い出したのは、シンボル的でなくアレゴリー的な思考というもの。欠如を知ったときに、それを成立させていた枠組みを同時に理解できるアレゴリーの構造である。ここで理解する枠組みがアンビエンスというものだろう。安藤さんの住吉の長屋の中庭が好例だと思う。自然と暮らすとは何かを、屋根のない空間(中庭)という毒性を通じて実感できる。他にはコールハース。山本理顕の集合論も同様なのだと思う。ぼくの好きなピアノはその反対側にいるのかもしれない。難波さんもそうかも。アレグザンダーも同様かと、色々と考える。

6月18日(火)
船橋市立アンデルセン公園美術館へ行き、園長と美術館長と間に立ってくれる八咫さんとの打合せ。公園内にあるアンデルセンに関わる絵本図書館の改築の相談である。ここにある建築は、寄贈された本格的なものである。にもかかわらずあまり利用されていないので、その見直しをしたいという。園長は、親子と加えて大人だけでも利用できるアンデルセン的空間を希望している。それをほら穴的な閉じた世界と中庭に面する落ち着いた開かれた世界で共存させたいという明確なアイデアをスケッチと一緒にもっていた。これを実現すべく案の提案を約束する。帰りがけに何から手をつけるかを考え始める。船橋の提携都市オーデセンの隈氏のアンデルセン美術館に刺激を受けたようでもある。

6月17日(月)
「自然なきエコロジー」ティモシー・モートン著の読書会。担当者は読書会の前に、関連メディア「ブレードランナー」やオラファー・エリアソンの作品メイキングを研究室の皆に紹介していた。その上で、本書に取り上げられている「フランケンシュタイン」やウイリアム・ブレイクの詩や絵画も紹介して、この本のキーワード「アンビエンス」「ディープエコロジー」「ダークエコロジー」の言わんとすることを話し合おうとしていた。そこに彼らが用意したものはmiro上の4事象マップ。縦軸には毒性、横軸には左から装いへの没入から右へ、事物への没入度が規定されたものだ。皆がそこに、思いつく建築や映画、絵画等を皆はマッピングし、担当者からは、ダークエコロジーは右上(毒性があって没入度が高い)に、ディープエコロジーは左下(毒性がなくイメージに没入)に位置するのでは?という仮説が投げられた。本書のエコロジー観、あるいはティモシー・モートンの哲学観の次回への予告説明である。さらに詳細な議論に深めていくというので楽しみである。ぼくもそこへのマッピングを求められたので、建築家を落としてみた。気づいたことは、縦軸に、世界を肯定的(秩序的)にみるか批判的(混沌的)にみるかを、横軸に、さらのその態度が俯瞰的か偏執狂的であるかで設定してみた。

6月16日(日)
佐藤総合と畝森さん設計の須賀川市のこども施設へ。昨今の話題作品で、役所機能やコンビニ、カフェ、広場、図書館、円谷美術館、市民開放室などの複合公共建物である。模型による空間の作り方が、そのまま現実になったようで、そのために足かせとなる防火のための区画法規規制などを全く感じさせないその技術力に脱帽する。素晴らしい建築である。大変賑わっていて市民に愛されている。プロの仕事とは、建築家の発想や信条よりも作品としての完成力にあり、それを前面に出した作品で、新しい建築家の流れを反面教師的に感じることができた。

6月15日(土)
打合せのために那須行き。夕食を探すのに苦労する。昼間と違い夜は閑散としてどこも閉まっている。
056 EURO スペイン×クロアチア 確実に点を重ねるスペインにたいして好機を逸していたクロアチア。それが得点差となりスペインが3-0で勝つ。スペインはビルトアップがいつも問題視されるが、今日は2ボランチがかなり上がり目で無難であった。時折見せる大きなサイドチェンジも功を奏していた。効率よく得点が重ねられていたのだが、ボールの保持率は低く、むしろ逆になったのは意外。保持させていたともいえるスペインの作戦勝ちであったともいえる。

6月14日(金)
学生と話している内に神話と寓話アレゴリー、あるいはベスティアリの関連に気づく。スミルハン・ラディックの本を探す。a+uの特集号も観る。詩的で時間的である。スミルハン・ラディックは、シンボルと対になるものとして自らの作品をベスティアリ(bestiary)といっている。通常建築は、個別に得られた条件を積み上げて一般解に結びつけようとする方法を用いるが、それとは反対の態度をスミルハンは試しているようだ。自然との対峙というテーマで作品は一貫していて、その表現を違えて、生き生きと描いている。だから作品はその場その時の1回限りのものである。敢えて言うと、スミルハンの作品はプログラムとか機能性とかを感じさせないもので、それによって永遠性を獲得しようとしている。

6月13日(木)
午前に大学院の授業で、自分の作品解説。大風呂敷を広げた。突っ込んだ質問も受ける。説明に納得できても、それが不明な世間はどう理解するのだろうというものであったと思う。確かGA誌で故小嶋さんが伊東さんにぼくをそう説明するときに、同じようなことを話していたのを思い出した。午後は、大学でのいくつかの会議で1日が終わる。そのためゼミ延期。残っていた学生と夏の合宿予定を決める。事務所に戻り深夜に学科にメール。なかなか収束しない

6月12日(水)
小学校課題の中間発表。講評会の前に簡単なエスキス。面白い案が数点。学校建築はプログラムが明確なので、従来のようなI型やL型などの形では、なんとなく内容までも一瞬で読めてしまう。そのために地域との関連、あるいはそれでも考えなければならないプログラムの異種性が大事となる。あるいは、プログラムを解くことに自信があるならちょっと太っちゃな形にするなどのトライもあるようだ。

6月11日(火)
「訂正可能性の哲学」のアーレント評の整理。東はそもそも、公共空間と私的領域の区別が明確なことに疑問をもっている。公共空間が成立するには、アーレントの言う開放的であることに加えて持続的である必要もあるという。公共においてひとりひとりが尊重されるには、意識の高い署名性にある「活動」だけでは無理で、無名でもモノに宿る「制作」も大事にする必要があるという。こうなると私的領域もある意味開放せざるを得なくなる場合があるというのだ。

6月10日(月)
「生物から見た世界」ユクスキュル著の2回目の読書会。この本から、ぼくらは何を学ぶべきか。それが議論となった。空間に関してこの本の序論では以下のようにいっている。それはダニの例の後の記述である。「われわれは今、主体がその環境世界の時間を支配しているのを見た。今までは、時間がなければ生命を有するいかなる主体も存在しないと言われていた。いまやわれわれは、生きた主体がなければ、いかなる時間も存在しえないと言わなければならない。次章においてわれわれは、似たようなことが空間に対しても当てはまることを知るであろう。つまり、生命を有する主体がなければ、空間も時間も存在しえないのである。それとともに生物学は、結局カントの学説と結びつくことになった。それは環境世界説において生物学が果たす決定的な役割を強調することによって、その学説を十分に利用しようとするからにはほかならない」。つまり、生物は人間を含めて、あるいは建築家も、見る目をもたなければ見えないということである。認識構造は、能動的なものであるということである。もっとダイレクトにいうなら、客観的な観察あるいは調査がもたらす客観的な事実などないということである。

6月9日(日)
「キルビル」タランティーノ監督を観る。日本が大好きな監督の日本オマージュ映画とみた。アニメといい、立廻といい、設定舞台といい、懐かしさを感じた。これが良いか悪いかという評価軸はないのだと思う。だから、避けてきた映画でもあった。

6月8日(土)
EDHを訪れてくれた山岡くんと西方路くんとで名和研二さんの展覧会へ。たまたま1時間あまりのレクチャーを聴講する。その話には名和さんの人となりがよく出ていた。名和さんは建築家としても十分やっていけたと思うのだが、彼自身は創造をサポートすることに未来をあるとき見出したようで、構造という立場を掴んで、自身の最大限のパフォーマンスを発揮できるようになった。このことが伝わってくるレクチャーであった。展示に30年前の卒業設計や学生時代のスケッチもあったには驚いた。それらは一言で言うと暗い。それ以前の名和さんを表象するものである。現在との連続はあるものの、そこから脱却できている自信の表れだろう。そうした姿勢が、現代人とはかけ離れて彼をユニークな存在にしている。

6月7日(金)
「神話と意味」レヴィ=ストロース著を読む。神話についてのコメントがいくつもある。「すべてを理解しなければ何一つ説明したことにならない、という思考法です。これは科学的思考のやり方とはまったくちがいます。科学的思考は一歩一歩と進みますP23」。これを別なところでは「野生の思考のもつこの全体的把握の大望」といっている。また、「言うまでもなく神話には、人間が環境を克服するための実質的な力を補強することはできません。しかしながら、神話が人間に与える重要なものがあります。自分が宇宙を理解できるという幻想、宇宙を理解しているという幻想です。もちろん、それは幻想にすぎないのですけれどもp24」と続く。そしてガンギエイの神話から次のようにもいう。ガンギエイとは、体が薄っぺらくて、横からみると存在がなく、その存在は○か×を表象するものであるらしい。だからコンピュータ時代を先取りしたものであるという。「神話と科学のあいだには、ほんとうは断絶などありません。科学的思考が現段階に達してはじめて、私たちはこの神話に何がこめられているのかを理解できるようになったのですp31」。あるいは神話の歴史性については、「神話の目的とは、未来が現在と過去に対してできる限り忠実であることー完全に同じであることは明らかに不可能ですがーの保証なのですp60」といい、また音楽との類似については、「神話は、多かれ少なかれ、オーケストラの総譜と同じような読み方をしなければなりません。つまり一段一段ではなく、頁全体を把握することが必要です。頁の上の第一段に書かれていることが、それより下の第二段、第三段などに書かれていることの一部だと考えてはじめて意味をもちうるのだ、ということを理解しなければなりませんp63」。そこであげているのは、バッハの「フーガの技法 BWV1080」とワーグナーの「ニーベルングの指輪」であった。18世紀に「音楽が伝統的な形を完全に変えて、その同じ時期に神話思考が放棄しかけてきた機能―知的であるとともに情的でもある機能をひきつごうとしたp64」という。このようにこの本は、神話の存在意味を容易に理解できるように語る。

6月6日(木)
「生物から見た世界」ユクスキュル著の読書会。今日は第1部。生物には種それぞれが感知できる世界が独自にあり、それは閉じたものである。そうしたこの本のテーマを説明した後に、その実例のサーベイ。他者を認めること、これは判っているようで難しい現代的なテーマである。大事なのは、そのときに生物は主体自体を押さええるような他者とのバランスをとっていないようなのだ。
057 代表 インドネシア×日本 アジア杯と異なりアウエーでの圧勝。ボランチの鎌田と守田が輝く。守田がことごとく相手を刈って、鎌田が前線にボールを繋げていた。新戦力もそのため得点を重ねる。久保や遠藤、冨安はベンチ外で休み。

6月5日(水)
自宅のTVブースター故障でTV観られず。録画していた「クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男」を観る。タランティーノのオタク的映画情熱が皆を引張り、より作品が強力なものになっていくことを俳優陣を中心に語るドキュメンタリー。スタッフも何十年間変わっていない。なんでもタランティーノの指示は、大胆かつ詳細なものであるそうだ。とはいえ、俳優の感受性に任せることも多く、万が一意見の相違があるときはNGを決断するのだが、そのとき次のように皆に大声で言葉をかけるそうだ。「ぼくらは映画が好きだから」と。

6月3日(月)
先週に続き「動的平衡」と「福岡伸一、西田哲学を読む」の読書会。福岡氏が動的平衡と同じに考える絶対矛盾的自己同一なる思想を、担当者は「自己形成」と重ねようとしていた。本書の言う、行為的直感というものを働かせたものであるので感心する。ぼくはそこから、エディップスコンプレックス神話の話をしようと思ったのだが、「構造・神話・労働」の読書会もあるので、ここでは止めた。その代わりに、いつもぼくが言うところの逆上がりや自転車乗りの話をする。逆上がりや自転車乗りができた事後的にこれまで暗中模索していたことが、これだったのかと判明する例としてだ。本書でも、これを「逆限定」というような表現をしている。これは、ロゴス的思考の外にある思考なのだと思う。担当者は、この暗中模索の過程を方法論的にもっと効率よくできないだろうかと、意見を求めていた。遠藤研の言うところの100枚資料のもっと明確な意義を見出したいということであると思う。様々な意見が皆から出た。キーワードは二項対立。そしてその選択のセンスであった。二項対立の差異に共通項を見出すと、論理階型が上がることになる。それを成長と位置づけることだ。あるいは、その差異の振幅を大きくすること。振れ幅が大きいほど、達成できた論理階型のジャンプは大きくなる。まだまだ多くの疑問が解決されないままであるが、エキサイティングな話合いになったと思う。

6月2日(日)
「怪物」是枝裕和監督を観る。複雑な時系列をした脚本に凝った作品。人の思い込みや正義感、道徳心あるいは愛情までもが、偶然が重なりあうと、本人の意図とは無関係に他人をあるいは社会を、反対の怪物に変えてしまうという映画。それは弱いとされている子どもやマイノリティーな人にもあてはまる。人が属する社会の恐ろしさを描いている。しかしその中に、「スタンド・バイ・ミー」の映画にあったような、頼もしく生きる子どもたちをぼくは観ることができた。それは、最後のシーンで、写真家ユージン・スミスの「The Family of Men」の最後にある作品を思い出したからだ。是枝監督のシリアスで独特な感覚である。確かユージン・スミスが太平洋戦争取材から心身共に傷つき、写真家としての道に失望しかけていたときに希望を与えてくれた自分の息子たちの写真であったと思う。ふたりの兄弟が手をつなぎ暗い森の中から光あふれる方に歩む後ろ姿を偶然写したものであった。
056 CL決勝 ドルトムント×レアル・マドリー このゲームで欧州の今季リーグが終了。今季も長いシーズンであったと思う。前半不発で後半に復活したドルトムントは、香川が抜けた年に負けた決勝のリベンジを果たそうとしたのだが、返り討ちにあったかたちである。そのときに在籍していたのはフンメルスとロイスのみ。時代を感じた。前半の速攻からの決定機をひとつでも決めておきたかった。最終的には決定力の差で0-2。劣勢の時もマドリーが繰り返す縦への引いたり押したりのパスワークは見事であった。

6月1日(土)
堀越さんの事務所+自宅で、古市先生を偲ぶ会の打合せ。無事に方向性が決めることができた。ミーティングの後に、建築を案内して頂いた。20年くらい前に建てたそうで、ぼくには真似できない行き届いた丁寧な設計であった。流石というしかない。狭い敷地に、行き止まりをなくして絶えず回れるように考えられたプランで、かつ視線が抜けるように計画されている。それは敷地外にたいしても同様である。室内に目を向けると、壁に掛けられている絵や家具、音楽まで、空間効果が上がるように選び抜かれている。ディテールも手に優しい。それにたいしてぼくの自宅を顧みるととなんとも無骨で、図式的なものだと思う。建築家の姿勢の違いはこういったところに現れるのだと思った。行き帰りの電車の中で「12人のいかれる男」シドニー・ルメット監督1957年を観る。舞台演劇のような映画で、最初と最後は画期的なカメラワークが試されているが、ほとんどのシーンがひとつの部屋内で撮影されている。容疑者である不良少年をめぐって陪審員控え室での12人の議論である。アメリカ民主主義を支える社会基盤の縮図をそこに垣間見ることができる。

5月31日(金)
「生物から見た世界」ユクスキュル著の再読。第2部の「意味の理論」の趣旨を漸く把握する。それぞれの種や個体によって知覚範囲があるという環世界の問題提起から、そうなるのは、固体感覚器官の外界反応と体内細胞の連動もあるからであるという。しかし、そのためには対象とガチンコすることが必要とされる。だから総合的に考えると、ぼくらは機能環、つまり意味、関係に支配され、成立しているらしいのだ。生身の生物も情報でできているという画期的な考えであった。

5月30日(木)
今年度2冊目の読書会「動的平衡」と「福岡伸一、西田哲学を読む」。担当者は動的平衡を、福岡さん考案のモデルを使って丁寧に説明してくれた。それは、坂を登る円が開いた弓形モデルである。エントロピー増大の方向に逆らって生きるということを示すモデルでもある。西田哲学にならって、それを絶対矛盾的自己同一というが、これが何をいっているか実感できないので、ぼくの会議中に、皆でのフィールドリサーチを行うことを薦めていた。部分が全体であり部分でもあることで、よく言われることである。2つの相反するモノの矛盾を解決するには上位の考えが必要とされるということで、生物は分解と合成を絶え間なく行って、エントロピー増大(乱雑さ)に抵抗しているというのである。前回の読書会における観光客というものがグローバリズム(拡大)の方向に反するものになり得るとしたら、2つの考えに連続性が見出せるとも思う。

5月29日(水)
多田研との合同ゼミで、アイスバーブリッジ。パスタからアイスバーに変わって、モノの精度が全く異なった。力がシミュレーション通りに流れて、それを知るよい機会になる。
055 親善試合 ソシエダ×東京V ソシエダは強行日程のジャパンツアー。そのためソシエダは若手のBチームが中心。それでも久保は看板なので先発。しかしお疲れ気味か、精彩に欠けていた。両チームの違いは球際にある。そうした技術に日本は劣っている。

5月27日(月)
「観光客の哲学」東浩紀著と「複雑ネットワークとは何か」増田直紀+今野紀雄著の読書会。担当者は各章ごとのまとめの上で、「観光客の哲学」の内容をまとめてくれた。この本で東さんは、観光客行動的な下からの社会変革の正当性を記述している。観光客とは、動物的で身軽な立場の人のことをいう。その活動が、お金中心にまわるグローバリズムの世界、あるいは思想(理念)中心のナショナリズムの世界、そのどちらをも越えることができることを様々な角度から解説する。様々な角度とは、過去の哲学者の参照はもとよりネットワークという新しい数学論、家族論、ドフトエフスキー論など多面的である。担当者は、この考えや状況をネットワーク理論を図化して説明しようとしていた。

5月26日(日)
「デューン砂の惑星Part2」ヴィルヌーヴ監督を観る。格闘シーンが多くあるもののヴィルヌーヴ特有の抑揚のない地響きするような時間の流れを画面を通じて堪能できる。崇高性が何かを判っているからだろうと思う。それはおそらく、スカルパのブリオン家の墓地が、教母らの拠点となる修道院になっていることからも判る。そこはエントロピーが満ちていながら人工的に整備された皇帝たちのいる砂漠とは反対の世界である。ブリオン家の墓地は、一度訪れたいと思っていたのだが、映像からみるとスケールは思ったより小さい。そうしたシーンの連続であった。ただ、大作となってしまって主張が強くないのが残念でもある。

5月25日(土)
054 ラ・リーガ ソシエダ×アトレチコ・マドリード 今日が今季の最終戦。ソシエダは、これまで休ませていたメンバーを使う。そこに久保もいる。ほしいシュートもあったが得点できずに0−2で負ける。今季の総括として、久保を起点とする攻撃も単発であった。だから今日のように引いてくるアトレチコに為す術がなく、もうひとつ連係アイデアがほしいと思った。昨年のシルバの存在は大きかったのだ。今日も見せてくれた久保の右の縦への突破は、そこからセンタリングという選択しかなく、中央を閉められては得点には結びつかない。その前の、ボールを預かったときのIHやSBとの連係。意外とブライスメンデスも淡泊だ。

5月24日(金)
4年生の設計授業の中間発表。形を展開させることよりも、コンセプトつくりをできるだけ引っ張ることが試されている。卒業設計前の良い経験になるだろう。設計には色々な進め方があって、自分にあった方法を知るのがよく、ただし最後はモノとしての力で決まる。それはひとえに設計密度として現れるとぼくは思うのだが、そのためにどういう方法が自分に合っているかを知ることができたらよいと思う。構造の多田先生ともそれについて話した。

5月23日(木)
大学院の今日の授業はパタン・ランゲージ。辞書としての役割でなく、コミュニティプラットフォームとして役割を話す。そうした役割を果たすものは数多あるが、パタン・ランゲージは包括的であろうとしているところが他と異なる道具である。集合知的ともいう。レポートとして、江渡さん中西さん井庭さんの対談を提供する。

5月22日(水)
「やきもち焼きの土器つくり」を読む。文化も時代も異なるぼくにはほとんど神話のストーリーを追うことが出来ない。そのことは、当時のその地域の人々も同様であったと本書はいう。しかし、ユーモラスに生き生きとして語られ、誰がつくったかも不明であるが自然発生的なものでもなく、本章が指摘するように垣間見ることができる構造がそこにある。その構造は錯綜するコードをもち、ストーリーは多様である。それは、現代に求められるメッセージ方法として、どことなく通用しそうであることを感じる。

5月21日(火)
大学院授業での崇高論についての学生からのレポートを読みながら気づいたことがあった。崇高と美の違いは対象の程度の差である。ただし、バーグとカントが発見したのは、そうした対象から受ける主体の情感ではなく、その情感を説明しようとする人の理性の存在である。だから美しいものに対して人は社交的でいられるし、対し崇高的なものは理性ではコントロールできないので、とりあえず崇高といって自己納得するしかなくなる。理性のコントロールが効かないままでは、ノイローゼ化することもあるからである。ときに人は愛という言葉にも同じようなことを言ったりする。しかしこれを個人的な領域に限ってしまっては、もったいないと考えたのがカントであった。愛は足下をすくわれることが多い。それをロマン主義といって批判しているのだ。カントがそこから抜け出すことが出来たのは、そこに一種の構造をみたことだ。つまり、崇高=超越的仮象というものの想定。そして、人はそれに飽くなき目指すものだという構造。その姿勢を想像といい、理性の優位性を説いたのだ。だから想像は次から次へと膨らみ階層的なものをつくる。そしてその生まれる仕組みを創造といってもよいかもしれない。崇高なるものははっきりと説明ができない。しかし、多くの人がそういった情感をもつということは、実は一般性がありそうで、だから社会化しようとしたのである。建築の設計も似ていないか。現代は地球環境のダイナミックなことが最も身近な超越的仮象というものだろうか。そこに向かって想像を繰り返して創造する。建築が自己満足で終わらないものを目指したいとしたら、それはロマン主義に留まらないことで、単に形の操作をやめることではなく、このような姿勢を貫くことなのかもしれない。

5月20日(月)
八咫の倉本さんと露口さんにナチュラルシームをご案内する。そこで、今年の研究室でのアンデルセン公園美術館での活動について話合いももつ。9月末から10月始めにかけて行い、屋外になることが公算大であるという。このころ三州瓦粘土を使用した陶芸家のワークショップが美術館であるらしい。粘土の可能性を調べてみようか?

5月19日(日)
053 ラ・リーガ ベティス×ソシエダ 両チームにとってEL出場をかけた重要な戦い。過去の対戦では圧倒的にベティスが優位であったにもかかわらず、しかもアウエーのソシエダがこのゲームを征する。ソシエダは基本5バックで守備的にのぞみ、加えて両センターバックが不在という厳しい状況。フリーキックで先制し、プレッシングから得点するなど効果的に点をとることができた。PK阻止やPK判断の取り消し、ゴールポストに助けられるなど運も味方してくれた。久保は不出場。理由は語られていない。

5月18日(土)
今年度のCリーグを開催校として千葉工大で行う。前日と午前中の開催準備に、先生方や学生に大いに助けてもらった。ありがたい。午後から、審査委員に栗生明氏、柳澤潤氏、立花美緒氏、稲垣淳哉氏、瀬戸健似氏をむかえてはじめる。主催校として千葉工大の学生は頑張ったが、3名の特別賞に留まった。どれもが地域の中の学校の位置づけを強調しているのが特徴的である。全国一律であった小学校の在り方から個性を大事にする傾向に変わりつつあるということを、立花さんがコメントしてくれたのだが、それを裏付けるものであったと思う。ここでいう個性とは地域性のことである。地域の中に小学校がいかに貢献するかを考える必要がある。学校の運営についても突っ込んだ議論がなされた。学校プログラムを離れたところでの建築提案はないことを思い知る。道草や遊びを子どもに提案することを強調したい気持ちは理解できても、そうしたアイデアはナイーブすぎて、現実には追いやられてしまうものなのだ。そのことが議論された。柳澤さんは、千葉工大の飯塚さんが提案する浅草の都市型小学校の新しい試みを買ってくれていた。敷地が狭いのだから校庭を半地下にそのまま埋めた作品だ。シーラカンスの学校は固まりとしてあった。これは校庭や方位と校舎との関係を考えると、画期的なアイデアであったと思う。飯塚案は都市との関係で画期的であったようにぼくも思った。佐藤くんの天童木工隣の小学校は、栗生先生と立花さんが買ってくれた。街に開く佐藤くんの意気込みに動かされたものだ。作品にたいする設計者のユートピア思考が認められるとしたら、今は社会に向けたものにあるのだろう。今年は、各校皆模型が大きく、プレゼも立派であった。そこで試されるのが、個人をどこに置くかという全体の視点の重要性にある。このことを実感した。

5月17日(金)
052 ラ・リーガ ソシエダ×バレンシア 両チームとも中2日でのゲーム。ソシエダはバルサ戦から大きく先発メンバーを代える。右Wに久保が先発。開始早々に、逆サイドからの難しいボールを上手く折り返してアシストを決める。その後もチームはチャンスをつくるも得点できずに1-0で勝利。順位もEL出場権内に戻り、次節の直接対決が重要となる

5月16日(木)
「観光客の哲学」を再読。本書の前提を確かめる。それは、「自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらしか選択肢がない時代に足を踏み入れているp193」という文章によく表れているものだ。これは建築にもいえる。自分の感性や眼、身体性を信じるデザインをするか、外部に根拠を置き結構によるデザインをするか、この2つを示しているといってよいと思う。続けて東は「ぼくはそのような世界に生きたくない。だからこの本を記している。言い換えれば、ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道であるp193」と。先の建築の話でいえば、署名的と結構的の片方ではないような方法で、皆が享受できる新しい建築のつくりかたがあるというのだ。ここでいう「世界市民」とは何だろうか?本書では、ぼくも好きな増田直紀、今野紀雄氏による「複雑ネットワークとは何か」による数学的思考を下敷きにローティを引用して、その方法を提示している。「ぼくたちは、普遍的な価値の支えなしに、いったいどのようにして他者と関係を結べばよいのだろうか?(中略)ローティの答えはどのようなものだろうか。じつは彼はそこで「感覚」や「想像力」といった言葉をもちだしている。ローティはつぎのように記している。「本書でこれまで主張してきたのは、わたしは歴史や制度を越えたものを求めないようにしようということだった。わたしがリベラル・アイロニストと呼ぶのは、この感覚[連帯の感覚]が、まえもって他者と共有さらたなにものかについての認識としてあるのではなく、むしろ他者の生の細部への想像的な同一化の問題としてあるような、そのような人々のことである」p242」。つまり、大きな物語や法則あるいはみんなのための方法論を追ってもそれはなく、きわめて具体的で偶然的な細部への個人的感情移入といった(観光客的)体験の事後に、遡及的にそうした共有、ローティのいう連帯というものが生まれるというのである。それをダンカンワッツのスモールワールドやバラバシのスケールフリーべき乗数理論によって説明しようとしている。そしてこの遡及性を産み出す力のことが「否定神学的」というものである。

5月15日(水)
3年生設計授業、美術館課題の講評会。建築の設計趣旨をコンテクストと絡めて浮かび上がだせるような案は少なかった。そこでは、展示内容との関連、上野公園のコンテクスト、昨今の美術館運営に乗っ取るなど、いくつかの道が考えられるが、それとの関連に強い説得力を見出せるものは少ないように感じた。最終講評会では、そうした手順でプレゼを組み替えるとよいと思った。

5月14日(火)
051 ラ・リーガ バルセロナ×ソシエダ ソシエダは5バックでのぞみ、久保はスタメン落ち。久保に代わってこの頃好調のベッカムを1トップにして、DFライン裏を徹底して狙う戦法にアルグアシルは出た。も一人のFW10番のオヤリサバルが時折自由に降りてきては起点となり、その攻撃も効果的であったが、得点には結びつかなかった。バルサはそうした流れにも慣れた頃の前半の終わりに得点。後半もその勢いでゲームをコントロールしていた。70分過ぎからソシエダは久保らを投入し、これまでの4-3-3へ。久保のシュートもあったが、反対にPKを与え完敗。これでソシエダはEL出場圏から落ちてしまう。

5月13日(月)
「やきもち焼きの土器つくり」レヴィ・ストロース著の再読。世界中に土器に関する神話は見出され、それらは似ているようで違ってもいて、しかし共通の構造から派生したものであるというのが本書の趣旨である。その構造とは、「まず掘り出され、対で成形され、最後に焼成される陶土は、内容物としての食物を入れる器となる。そして食物といえば、同じ行程を逆に辿るのだ。まずは土製の器に入れられ、次に火にかけられ、そして体内での消化によって同化され、最後に便として排泄されるp247」という構造であり、神話によって、料理の火を強調したり、土器つくりを強調したりして、様々なバリエーションを生むものなのだ。そして神話によって、次のようなことを可能とする。「神話とは「それは、・・・と同様」「それは・・・のようである」という手法によって定義される論理演算システムなのだ。常軌をこえたもの、矛盾、不祥事は、思考や感情にとってよりなじみやすい、ある秩序のあからさまな構造が現実の他の相において顕在化したものとして描き出される。それによって、特定の問題の解決にもならないひとつの解決が、知的な不安、さらには生きていることの苦悩をしずめるp242」という。そしてその神話の特徴にある、似ているようで違っているのは、複数のコードが同時存在していることによるという。コードとは何か。重要なキーワードとなっていて、結びつけの規則みたいなものだろうか。当時のコードを理解できない現代人のぼくらは神話に不思議な感じをもつ。これは民族たちもまた同様であるというのだ。しかしこうした意味の伝え方に何かあるというのが本書である。

5月12日(日)
宮ノ下曹洞宗常泉寺で精進料理の朝食。お寺の隣りにある住宅だと思われるが、その縁側床が5間ほどの長さがある1枚板であったのに感動。昨年オープンしたそうで、コロナ禍の間、家のアイデアをじっくり考えることができたという。その後に久しぶりに姥子の竹やぶで蕎麦。快晴にもかかわらず開け放した窓からの風が寒いくらいであった。姥子温泉には入れず。渋滞する前に帰宅。

5月11日(土)
江の浦測候所に行く。杉本博司氏のアースワークである。杉本氏は、かつてミカン畑であった一山に、万の神を舞い下ろした。だから、まず素晴らしい風景があり、太陽の軸線があり、神社があり、道祖神があり、石窟があり、化石がある。隠れキリシタン碑もある。その中に杉本氏の彫刻や写真、そして建築と庭がある。新素材研究所の榊田倫之氏との建築は、素材の究極性を演出するもので、そこに仮説性など求めていない。それもそのはずで置かれている石は歴史的なものばかり。飛鳥四大寺の川原寺礎石、藤原京の石橋、その時代の亙、百済寺の石橋、東大寺東塔の疎石、前法隆寺疎石、今はなき元興寺疎石、村野藤吾の比燕庵の玄関石などである。これらは、その良さの判る目利き人によって代々伝えられてきたものばかりである。建築を含めて芸術の位置づけがぼくの感覚とは異なることを感じた。

5月10日(金)
050 EL レヴァークーゼン×ローマ 久しぶりのシャビ・アロンソ率いるレヴァークーゼンのゲームを観る。なるほど守備から速攻、攻撃に入ると最終DFラインへボールを縦に出入りさせて、積極的に揺さぶっているのが判る。これによってブンデスを優秀させ、連勝記録を更新させている。どことなく、スペインのサッカーのようだ。

5月9日(木)
049 CL マドリー×バイエルン 白熱したゲームとなった。そうなったのは、ホームマドリーが、バイエルンによって序盤はゲームを支配され、後半はじめにはスーパーゴールでリードされ、誰もが昨日のパリの敗戦をよぎったからにちがいない。しかしマドリーはそこから攻勢を高め、両者打ち合いの末、終了間際の89分と91分で一気に逆転した。2年前の準決を思い出すゲームであった。今日はロドリゴから代わったホセの立て続けの2ゴールであった。

5月8日(水)
048 CL パリ×ドルトムント 後半早々のフンメルスのヘッドでトータル2点差となり、ドルトムントは決勝への切符を確実にする。これでパリに立ち向かう勢いが失せたように見えた。もう一度チームを奮い立たせるリーダシップがなかったのが痛い。ただし、ポストに嫌われたシュートのひとつでも決まっていたら、展開も変わっていただろうと思う。

5月6日(月)
「構造・神話・労働」レヴィ=ストロース講演集を読む。本書では、構造という視点がもたらした成果が語られている。それは、親族組織と神話の社会的意味を解明するものである。「構造分析がもたらした成果は、人類学の分野でいえば、本質的に二つの領域に限られています。その一は親族組織の領域であり、その二は神話の領域p44」と。そして、ふたつ目の神話の領域でもたらされた成果とは具体的に次のことである。「神話の第一の性格はこの「時間統合機能」です。それは、過去によって現在を説明し、現在によって未来を説明して、ある秩序が現れるとそれが永久に続くことを確認するものですp66」。「時間統合機能」、つまり神話には未来を語る用意があるということだ。それは、神話が二項対立構造をそもそもしていることによるという。この二項対立構造には「答えのない問いから成り立つオイディプス型の神話」と「逆変換により、問いのない答えという逆の図式をもつ神話p79」という2つの型がある。そのどちらの型も答えがないという点で共通している。人々に上手く考えさせることによる説明可能性というものである。さらに、過去―現在の問題を未来にまで延長させることを次のように説明する。「いくつかの項目を対立させた後で、それを集め結び合わせ、外面の矛盾を乗り越える方法を見出そうと試みるp78」。レヴィ=ストロースが構造に見出したのは、ぼくらが慣れ親しんだ論理的方法とは異なるこの推論方法であった。

5月5日(日)
自宅の食卓テーブルを再塗装する。サンダーをホームセンターでレンタルし、2時間かけて研磨の後、ワトコのダーク色で塗装。手を動かすことは、設計者としての審議眼がにぶるとはいえ、気分がよい。現場管理のときによくいわれていたことで、このことを思い出した。
047 フランス モナコ×クレルモン はじめてのフランスリーグ。スペインと比べて対人強度が強くない。イングランドにせよ、スペインにせよ、相手選手との距離の取り方が尋常でない。南野が躍動。4点全てに関わっていた。

5月4日(土)
「複雑ネットワークとは何か」の再読。物事をネットワークから視ること、最新のネットワーク理論をやさしく解説した本である。ここではぼくらは、スモールワールドモデルからBAモデルまでを通して、個人的には自由であっても総体的にみると確率に支配されていることが判る。最後にある閾値を使用した黒幕型ネットワークも面白い。東浩紀さんの「観光客の哲学」は、このネットワーク理論を前提に個人はどのように振る舞ったらよいかを示すものである。
046 ラ・リーガ アラベス×ソシエダ 示唆しぶりにソシエダが勝利。久保に代わって先発の右Wベッカーが踊っていた。彼の右からの縦への突破で2-0の勝利。久保は85分過ぎから登場。

5月3日(金)
「福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅」を再読。「ベルグソンの弧」を用いた生命とは何かの解説はわかりやすい。エントロピー増大(乱雑が増える方向にしか進まない)の法則に、あらゆる物事はしたがうのだが、それは生物にとってはやがてむかえる死を意味していて、生きることとはそれに逆らうことであるという説明ダイアグラムである。坂道を転がる弦、その接点Kでは分解が起き、弦の反対の頂点Sでは合成が起きるとすると、弦の対称的でないカタチゆえに重心は円弧の中心より坂上側にあり、分解点Kがわずかに合成点Sより先んずる場合、弧は坂道を登るようになる。つまり細胞は、自らが積極的に分解をした後に合成するという繰り返しで、これを動的平衡といい、エントロピー増大の法則に逆らうことを可能にしているのだという。このとき大事なのは、閉じた円弧ではなく開いたバランス悪い弧であること、その弧は円弧から徐々に減じて弧になるという指摘である。エピローグで著者はこのことを、対象を内から見る姿勢といい、ここに西田哲学との共通点を発見している。先のユクスキュルでは、主体の大切さを言い、対象と同時存在を指摘していたのだが、動的平衡では、このときの状況を「行為的直感」あるいは「感得」といい、ぼくのよくあげる自転車乗りの理由として説明している。従来の科学的思考をロゴス的というなら、これは「ピュシスを内面から理解すること、即ちピュシスによって包まれるつつ包むこと」というものらしい。この生きるという説明は、創造というものに置き換えることができそうだ。
045 U23アジアカップ 日本×ウズベキスタン 終了間際の得点で日本が勝つ。3人の主力が抜けたにもかかわらずそのウズベキスタンの方が上だったかもしれない。日本が逆に、日本スタイルであるウズベキスタンのプレッシングに苦しんだ。


5月2日(木)
「生物から見た世界」ユクスキュル著の再読。本書でユクスキュルは、これまでの生物研究が、生物を単なるメカニズムとしてしか把握してこなかったとして批判している。生理学というものに対してである。これに対して、ユクスキュルは、機械が働くからには(例えば<自動車の走行>)これを運転する主体(Subjekt)を立てることを回避できないと断言する。観察において、対象に加えて主体の必要性をもたらしたのが本書であった。だから、ダニの環世界があるし、犬の環世界があるし、人の環世界がある。それらは複雑に絡み合っていて、調和しているというのであった。そして、この各主体がなぜそのようにできるか、「総譜」といってその存在を示すところで終わっている。「総譜」とは、意味と意味の担い手の必然的に見える結果のことをいっている。この関係は、偶然に支配されているのか、淘汰の結果か、などはここからは判らない。ここから学ぶことは何か。建築においても、対象を見るときにそこに主体を抜きにしては考えられないということ。ユクスキュルが批判したように、ぼくらも従来の工学的思考をやめなければならない。それは、見る目をもたなければ見るべきものも見えないということ。解説にあるポルトマンやフィシャー版の序にあるカント的というのはこうしたことをいっている。
044 CL ドルトムント×パリ ドルトムントはかつてぼくが観ていたときのようにアグレッシブで、パリに臆することなく攻め続けた。ファンも凄い。その後押しも昔と変わらなかった。これが文化なのだと思う。前半の速攻で1-0の勝利。後半は攻めまくられたが耐え忍んだ。ハキミといい、デンベレといい、かつてはドルトで活躍していた選手である。香川とクロップのいた頃の余韻にしたる。

5月1日(水)
043 CL バイエルン×レアル・マドリード CLの準決勝となる第1戦。序盤からホームバイエルンのペース。ところが得点し損なうと、速攻でベニシウスに決められる。ベニシウスの中央突破とクロースの縦パスは見事としか言い様がない。後半からバイエルンはリスクを負って攻める。するとザネの鋭い1発。反対サイドからのロングボールからであった。その後、ムジアラのドリブル突破からPKを獲得。これで終わらないのがマドリー。中央突破のロドリゴがPKを獲得し、2-2のドロー。決着は、来週のベルナベウに持ち越しとなる。

4月30日(火)
042 U23代表 日本×イラク 終始安定した戦いでパリへの切符を手にする。2−0の完勝。早い時間に得点できたのがよかったのと、A代表も含めて日本は前からのプレッシングが上手くかかっているとき、自分たちのプレーができて安定している。日本サッカーのプレースタイルとなりつつある。

4月29日(月)
義理父の一時退院のため実家へ。元気そうで何よりであった。帰りがけに2つめのアオダモを購入。早速植える。アオダモは株立ちの数が値段に反映するようだ。「自然なきエコロジー」ティモシー・モートン著を読み終える。ティモシー・モートンは、ぼくらが通常使用する「自然」という言葉の使い方に否定的だ。それはロマン主義の否定にもつながる。自然を無批判に崇めることは反対にそれを遠ざけることになると考えているからである。つまり、「自然」と主体の距離間に意識的であれ、ということ。だから自然というこのテーマを批判し注視することを薦める。それをネイチャーライティング、本書では「エコミメーシス」という。本書タイトル「自然なきエコロジー」とはそのことだ。そのエコミメーシスには強弱がある。簡単には自然を捉えることはできないので、そのために強い主体の意志が必要とされる。だから、本書は自然(客体)と主体の二元論を受け入れる。そうして見えてくるものが、この本でのキーワード「アンビエンス」という、「エコミメーシスによって演出された自然P67」である。本書では、このアンビエンスをもう一歩踏み込む。似たようなものに場とかアウラ、有機体主義とかゲニウス・ロキとか、があったが、さらに内在を要求するところに特徴がある。だから、ティモシー・モートンは現代アーティストを評価する。彼らは「未知なるものの未知性を保持することが求められるが、ただし、それを美的な不思議さとして保持することではないP372」と考えているからだ。それが、さらにハイディガーや「ディープエコロジー」と異なるのは、それでも存在する他者性を念頭におき、取り込まれないで孤高にいるべきと考えることによる。連帯をつくろうとしないのが、ローティらと異なっている。だから「ダークエコロジー」である。最終的にたどりつくのは、映画「ブレードランナー」と「フランケンシュタイン」、ジョン・クレアとウィリアム・ブレイクの詩。「ダークエコロイジーは、対象を理念的な形式へと消化するのを拒絶する、倒錯的で憂鬱な倫理であるP377」のだ。「保守的なエコロジカルな観点でのように限界を外部にあるものとして想像するのではなく、私たちは内的な限界を認識するが、(中略)限界を前向きのやり方で受け入れていくということにかかわるP391」ことである。「私たちはまだ、物理的な世界や動物でさえもが主体であるかどうかを知らない。そしてこれこそが、アンビエンスが明らかにすることのない裂け目であり、溝であり、空間である。おそらくこの考えは自然崇拝と名付けるべきものである。それはむしろ、「人間」という人間中心主義的な考えに対するスピノザの批判のようなものである。だが、スピノザの道を歩む多くのエコロジカルな思想家とは違い、私たちはそれをカントとデカルトをつうじてつくりあげていく。というのも、彼らのほとんどの場合、思考が動物と環境に対して距離を保持することを助けてくれたからだp392」という。そして「次の段階になる。私たちは距離そのものの観念を問題にしなくてはならないp396」という。つまり、「自然」と主体の距離間に意識的であれというのだ。これが結論で、共感する。最後の締めは情緒的で現代を象徴する言葉となる。「エコロジカルな批評は美学を政治化せねばならない。私たちはこの毒された地面を選択する。私たちは、この意味のない現実性と等しくなるだろう。エコロジーは自然なきものになるだろう。だがそれは、私たちがいない、ということではない」。

4月28日(日)
古市先生の偲ぶ会の打合せを、古市玄さんと古市事務所OBの中村さんとEDHで行う。中村さんは千葉工大の出身でもある。方針を立てることができたので、古市先生の友人建築家に相談することになった。中村さんと昼食。古市先生との思い出話をしながらお互いの古市先生を通しての自分像を確かめる。中村さんは率直な方なので、ぼくも本音で話すことができた。「自然なきエコロジー」ティモシー・モートン著を読み直す。彼のいうダークエコロジーは、コールハースのいう偏執狂的批判的方法に近いことに気づく。まずは注視すること、そしてそれを既存枠で視ないことである。

4月27日(土)
勝浦行き。勝浦の遠見岬神社に寄ってから大喜多町役場へ。高台の土地を切り開き1階を埋めた今井兼次氏設計の本庁を観て、千葉学氏の新館へ。休日だが、新館を見学させてくれた。力強い格子屋根の下の一室空間。軸線を通して両館の連係を強めている。力強さと現代性の軽さの対比が面白い。それは本館と新館の対比でもある。大多喜城へ。城下町も魅力的だ。蕎麦を食べて、市原湖畔美術館へ。10年前のコンペに応募した。その敷地説明の時以来である。地下を利用した様々な空間を用意した美術館であった。間仕切りに亜鉛メッキ床版デッキを使っているのが印象的。間仕切りの剛性を高めるためのようだ。リノベーション建築で、外壁にも使用している。大学近くのホームセンターに寄って、大型プランターを購入してから事務所に戻る。

4月26日(金)
041 ラ・リーガ ソシエダ×レアル・マドリード マドリーは来週初めのCLに向けて、控えメンバーでのぞむ。そしてソシエダはメンバーが怪我から復帰し、戦力が揃いつつある。したがって拮抗した試合になった。マドリーはいつものようにペースを消すために大きく構える戦術。それは、いつものソシエダを変えて、ダイナミックな展開となり、試合レベルが上がったように思えた。やはり相手次第で試合も変わる。久保にとってもそれは好都合で、よいパフォーマンスを発揮した。取り消しゴールもあり消化不良ではあったが。0-1でソシエダ負ける。

4月24日(水)
計画2の授業で、前田尚武氏を迎えてレクチャー。前田さんは、京セラ美術館の運営に関わっていて、美術の将来を見据えている。だから、伊東さんのプロジェクトなどへと活動が広がり、皆が彼の意見をほしがっている。西洋と比べると日本の美術館は、仏像のご開帳に祭があったように参加というものに特徴があるという。そうした視点で、金沢21世紀美術館や大分県立美術館を位置づけているし、町おこしの契機になることも同様の理由であるという。芸術家に展示方法のアドバイスをするなど、それはプロデューサーのようだし、美術に対するハードルを下げるために建築を目玉商品のように扱う。美術鑑賞以外の施設の使い方にも積極的だ。誰もが観客第一主義を掲げる時代において、その中で建築が課せられる役割をはっきりしてくれる。ぼくも多くを学ぶ。

4月23日(火)
「自然なきエコロジー」ティモシー・モートン著の第3章。ディープエコロジーを否定するものをダークエコロジーという。ディープエコロジーとは美的に善であり、「自然なものの観念の代用物として尊重」するものである。反対にダークエコロジーとは「対象を理念的な形式へと消化するのを拒絶する、倒錯的で憂鬱な倫理p377」であるという。そこで「フランケンシュタイン」が登場。ぼくたちはこの奇怪なものと同一化する、あるいは美的にみない必要があるという。そのための2つの方法を提案する。ひとつは、「他者(フランケンシュタイン)の人工性を保持し、他者性を自然化したり崩壊させたりしようとしないp379」こと。もうひとつは、「枠の中ではなんであれ起こるがままにしておく」ことであるという。本書で繰り返し言及する没入というかとか?この状況では、適度に美的にみるという距離間を保てないという。それで、モートンは暗中模索から自然を捉えようとするアーティストの活動を評価している。いわゆる自然というものを、訳の分からない理屈でできた不気味なものとして捉えることからはじめるようなのだ。

4月22日(月)
040 ラ・リーガ ヘタフェ×ソシエダ 1-1のドロー。ソシエダが再びおかしくなる。ソシエダは前線からのプレッシングが生命戦。それができない場合、攻撃のかたちがつくれない。それは久保の不在が大きいことの証。久保はディフェンスでも貢献しているようだ。怪我明けの久保は後半から登場。果敢にボールを前に進める。ヘタフェの厳しいマークをかわすのは久保だけであるところをみると、技術力は抜きん出ていると思う。しかし、見せ場をいくつかつくるも得点にまでは至らず。

4月21日(日)
日曜美術館は、京セラ美術館で開催中の村上隆特集。今週水曜日に計画2の授業でレクチャー予定の京セラ美術館のキューレター前田尚武さんも関わってようで、村上氏のアトリエでの打合せに登場していた。この特集では村上氏のハッピーで自由奔放なキャラクラーがクローズアップされていた。それが可能なのも、才能もさることながらステータスを確立した上のものであると思う。村上氏のステータスは、日本のおたくに文化に則ったものであるが、日本画出身である彼が、マンガやアニメを西洋美術の文脈にまで位置づけることができたことによる。それをこの特集では、平面的な日本画の歴史構成に日本文化の重層性を重ねた結果のものであるという。この展覧会におけるテーマ「もののけ」もそのひとつである。日本美術史家の辻のぶ雄氏が会場で絵を前に解説する。作品は、国宝の「洛中洛外絵図」や光琳の「風神雷神図」のオマージュ、京都の4つの守神、金閣を思わせる「お花の親子」などが展示されている。ぼくも授業で紹介する村上隆の工場も紹介されていて、氏の製作過程が見えて面白い。もうひとつ惹かれたことがあった。美術の商業性を考慮して、展覧会用のグリーティングカードを制作していたことだ。これからの若いアーティスト達のことを思ってのことだが、それをボランティアではなく、制作を通じて行っている。

4月20日(土)
039 FA杯 マンチェスターシティ×チェルシー シティは120分戦いの後の中2日で準決勝をむかえる。チェルシーに主導権を握られる時間帯があったが、いつの間にかに取り返す。小さなパスでプレシングをかいくぐると、反対サイドへの攻撃である。そして後半から強力な右Wが投入されると、そこから徹底的に攻めるかたちになった。終了間際にそこから逆サイドに振って、1−0の勝利。

4月19日(金)
「自然なきエコロジー」の第3章に入る。前半は、批判的なエコミネーシスの紹介。
038 EL アトランタ×リヴァプール アトランタがリヴァプールの猛撃を1点に抑えて、4強に進出。今日のリヴァプールはここ数試合とは違って気迫に満ちていたのだが。先週から大胆にスターティングメンバーを変更し、その中に遠藤も含まれる。彼らの果敢なプレッシングから直ぐにPKで1点をとり、その後もいくつもチャンスをつくり出したのだが、決定力に欠けていた。そのなかで1点でも入っていたらと思う。復帰したアーノルドの前線へのロングパスが効いていてた。

4月18日(木)
授業の後、学科会議と金子先生の歓迎会。多忙な2週間がこれで終わった。自宅のトイレの様子が変なのでいじり始めたら、ドツボにはまる。深夜まで格闘し、前より悪くなってしまう。
037 CL バイエルン×アーセナル アーセナルは右サイドの攻撃を封じられ得点ができなかった。反対サイドには、久しぶりに冨安が先発。その冨安もバイエルン右サイドのザネとキミッヒを封じることに成功したが、0−1の惜敗。バイエルン右サイドザネは、冨安と対峙すると仕掛けては一度キミッヒに戻すのだけれども、同時にインサイドのゴレツカが斜めに走って冨安の裏を狙う。こうした連係に冨安始め守備陣は対応できていた。冨安は、攻撃時には中央のボランチの位置、あるいは前戦の選手間に位置取りしてバイエルン選手を引きつけ、右ウイングをフリーにしようとしていたが、その効果はいまいちであった。残念。

4月17日(水)
研究室の4年生の歓迎会。大いに盛り上がり、他の先生が言うような心配もなくなって、4年生のポテンシャルを感じた。積極的なところがよかったと思う。
036 CL バルセロナ×パリ バルサは先制するもパリに大敗。第1戦とはまるっきり変わってしまって、逆転の負け。レッドカードによって10人なってしまったのが大きいが、パリの猛撃に追われるかたちで引いてしまった。ひとつスペイン勢が消えてしまった。

4月16日(火)
「自然なきエコロジー」の第2章を進める。政治的バックグラウンドの知識が欠けている分、ネットで確認しながら読み進める。リテラルな消費ではない消費主義と環境主義の結びつき易さ(無農薬野菜を好んで買うようなこと)を解説し、それがロマン主義的であり、美しき塊というものになっていくという。その言葉通りに魅力的であるがその危険性を指摘しているようだ。

4月15日(月)
今年はじめのゼミを行い、研究室活動のスタート。パターン・ランゲージカードを使って自己紹介をしてもらい、読書会の本の紹介。21×21デザインサイトで開催中の展覧会の紹介。続けて「デザインの鍵」の読書会。何年かぶりに研究室でこの本を扱う。池辺さん独特のシステマティックな思考方法、それは、WHY根拠やHOWいかにするかに時間をかけることよりも、自分のもっているWHATを利用する方法、あるいは、デザインの対象を自分の内に閉じ込めることなく、対象を外側に広げていくための思考である。パターン・ランゲージカードやデザインサイトの展覧会をぼくが薦めるのも、同様な理由である。

4月14日(日)
「自然なきエコロジー」の第1章を読み終える。「とりまくもの」が、現実の世界においていかに歴史的に位置づけられてきたかを解説する。とりわけ強調しているのは「再―刻印」という手法である。芸術のそうした役割によって、内と外、そしてその中間というカテゴリーを越えようとするが、それを言語的に考えようとしている点が特徴的である。だからハイデガーを否定しているようで、一方でカントの崇高論も否定する。特殊な修辞を目指していて、そこに芸術家の出番を期待している。

4月13日(土)
義理父の見舞いとその帰りに植木屋さんに寄る。アオダモを購入。株別れのかたちが気に入ったのと昨日垣根を切ってもらったら寂しくなった。急いで自宅へ戻り、色々迷った末に3階に上る階段脇に植える。

4月12日(金)
035 EL リヴァプール×アトランタ よもやの0-3で、ホームリヴァプールが落とす。ホームで負けるのは今季初だそうだ。決定機を外し、反対にいくつかの速攻にやられてしまった。チームとして少し失速気味にある。いつものプレッシングが効かなかったのは、アトランタが上手かったためか、あるいはアトランタのプレッシングにはまってしまい目指すべきカタチがつくれなかったか。これでELの次のステージが厳しくなってしまった。

4月11日(木)
先日の日記を読んで、ある学生から分析的でない方法が何かについて質問を受けた。ひとまず説明をしたのは、美味いと経験した料理についての話。美味いのは料理のレシピにあるだけでなく、その場の雰囲気や個人的なシチュエーション、例えば合格した時であったとか、彼女との初めてのデートに成功したとか、にもよっている。こうして思考を外側に拡げていく方法がひとつ。もうひとつは「パタン・ランゲージ」にもあるように思うことも話す。パタン・ランゲージが辞書より優れているのは、利用者に考えさせる視点を与えているところにある。データ提示より視点の行き先の指示があることが素晴らしい。つまり、相手を加えたシステムとして物事を捉えようとしている。他に具体的なものとして挙げるなら、神話や寓話にもそのような構造をしているらしいが、確信がもてないでいることも話をした。
034 CL パリ×バルセロナ エンリケとシャビの戦い。2-3でシャビが勝つ。ラフィーニャの躍動もあるが、なんとかチームとして踏ん張って逆転するほど力強かったと思う。それにしてもバルサは若い選手が多く、久保世代すらも越えられてしまった感じである。その急速な変化は恐ろしい。

4月10日(水)
033 CL アーセナル×バイエルン 2−2のドロー。アーセナルのここという時の決定力のなさとバイエルンの巧者ぶりが出た試合であったと思う。アーセナルはケインのような大黒柱がいないので、どうも技巧的になりそこを読まれて突かれた感じであった。冨安は不出場。リードされていたので、堅実さより攻撃がとられた形である。

4月9日(火)
明日からの授業の整理と、読書会ゼミの本をピックアップする。卒業設計や修士設計における調査において、どうも分析的になってしまうのを回避させたいと思う。未知なるものにアプローチすることが面白いのに、それを自ら忘れさせようとしているように思える。分析して基準を作って予測できるつまらないモノにしようとしてはいけない。そうではなく、分析と信念から演繹的に導き出していくという外向き思考が大事と思う。

4月8日(月)
2年生の設計1のオリエンテーション。今年から敷地を吉田先生の力を借りて変えた。非常勤教員の自己紹介。刺激的であったと思う。吉田さんはかなりのバリエーションの仕事をこなしている。氏のユーザとの関わり方に興味をもつ。村田さんは根っからの構造家だ。構造には制約でなく、意匠における可能性の拡大の可能性を自らの体験をもとにして示してくれた。山下貴成さんは、設計プロセスにおけるそれぞれの役割を分かりやすく示してくれた。まずは条件整理からはじめて、それを成立させる多数のスタディ。そしてそれを実現化するためのモノの検討。実に設計密度が濃い。発想が帰納的なものか演繹的なものかという学生からの質問があった。それに対して山下さんは、例えば構造家との打合せである程度貯めていたものがあったという。それのアレンジであるらしい。ずっと前にピーターライスの講演会で槇さんが、レンゾ・ピアノのメリルコレクションでのダクタルアイアンの採用理由をたずねたことを思い出した。若林さんは建築を通して経済に関心があり、町おこしに結びつけようとしていて稀有な存在だ。愛媛のホテルに行ってみたいと思う。

4月7日(日)
千鳥ヶ淵の八咫さんの事務所で花見会。色々な人と出会うことができて楽しい時間を過ごす。4階から眺める景色は格別であった。帰りは靖国神社に寄って市ヶ谷まで歩く。「構造・神話・労働」レヴィ=ストロース著を読み終える。1977年に行われた日本講演集である。秋に6週間の日本滞在。その間に、能登、金沢、五箇山、飛騨、伊勢、京都、隠岐を回り、職人と仕事内容を主に話し合ったという。講演であるので、その内容は判りやすい。神話では、登場人物を二項対立させて、話をダブらせながら、その矛盾を乗り越える方法を見出そうとする。神話のこの機能は、人々に規則を教示させようというものらしい。言語以前の認識方法である。

4月6日(土)
「自然なきエコロジー」ティモシー・モートン著を読み始める。まずは長い序論から。どうやら環境にたいするロマン主義の否定であるらしく入り込みやすそうだ。タイトルの「自然なき」とは、なんでもかんでもポジティブな意味の代表として使用する「自然」―これをロマン主義というのであるがーそれなしに現代的問題である環境を解こうとする現れのようだ。そのために大切にされるのが精読ということ。対象に対しての距離の取り方を問題にしようとしたのがカントであったが、それへの挑戦のようだ。

4月5日(金)
行き帰りの電車の中で2回に分けて「ヒート」マイケル・マン監督を観る。分けて観るにはほしい大作だった。クリストファーノーランの「ダークナイト」を観ていたら思い出した。映画オープニングの超大型トラックの重量感で観客を攻めるシーンなどがそう感じさせるし、ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノの打って変わった静かな対決シーンもそうだ。都市でのロケがやたら多いところ、ガラス張りの近代建築をバックとするところ、ファミリーの裏切りの裏切りを描いていること、終わりそうで次のアクシデントが起きる展開も同様である。ロバート・デ・ニーロの相棒ヴァル・キルマーは、ティム・インゴルド版のバットマン役でもある。1995年の作品で、これがアカデミー賞にノミネートすらされていないのは意外である。

4月4日(木)
「精神の生態学へ」ベイトソン著を拾い読み。「輪郭はなぜあるのか」に面白い文章を発見。「予測ができないから法律を作るんじゃない?法律を作る人は、予測できるようにしたいのよ」。ここにある法律という言葉を基準と置き換えてもよい。データを集めてそこから仮説へと帰納的に思考と議論を進める人への批判である。ベイトソンはそうではなく、データと信念から演繹的に導き出した知識を仮説と照合していくという外向き思考を期待しているらしい。「構造・神話・労働」レヴィ=ストロース日本講演集を読み始める。神話とは何かを説く。「オイディプス型」神話には、近親相姦禁止と謎かけの2つがある。奇妙な関係だ。それに対する応えは、どちらも決して結びつかぬはずの問題であるという。これによって、知性や因果関係にとらわれないものの存在を示そうとしている。と同時に、こうした解けない問いを、時代を超えても絶えず考えさせようと説く役割があるという。レヴィ=ストロースは、知識に基づかないこうした思考をまた大事にしている。「具体の科学」である。あるいは先の演繹的に導き出した知識といってもよいか?

4月3日(水)
「パターン・ランゲージ」井庭崇著の「建築からソフトウェアへ」の章を読む。「パタン・ランゲージ」の特徴が、単なるノウハウ集になく、問題発見・解決の方法の視点や発想も記しているという指摘は面白い。そして「パタン・ランゲージ」からWikipediaが生まれることは有名であるが、その途中段階のXPに至る段階でプログラマーが工夫した点に、「テスト・ファースト」という仕組みがあるというのも驚きであった。これを応用したコミュニケーション方法として、「テスト・ドリブン」あるいは「議事録ドリブン」などという方法があることも知る。目標をはじめに定めておいて、それに至るメンバーのコミュニケーションプロセスを重視するという考えだ。

4月2日(火)
「DESIGN SCIENCE_01」THE DESIGN SCIENCE FOUDATION編を読む。人類学者中村寛氏の「デザイン人類学の地平―デザインの暴力と、人類学のナルシスティックな反省をこえて」というエッセイが面白い。ティム・インゴルドばりのデザインと人類学をつなごうとする。それを「未来に向かいつつも、過去へのまなざしを内包することをますます迫られているデザインと、過去に向かいつつも、現在に応答し未来へとはたらきかけることを切望する人類学とを、切り結んだり、かけあわせたりできないだろうか」という。いい言葉だ。そして、ぼくの大好きなベイトソンのクレアトゥーラについても言及する。「「厳密な思考」と「ゆるい思考」との往復をつうじて思考実験をおこない、物質そのもの(プレローマ)だはなく、生きたものを扱うための認識論を練り上げようとしていた」。「厳密な思考」と「ゆるい思考」とは良い訳だ。「精神と自然」では、デジタルとプロセス、フィードバックとキャリブレーションといっていた。つまり、社会学にある事後的な批評でなく、渦中のコミュニケーションに携わることの大切さを問うている。続く櫛勝彦の「カタチ」は、ダーシー・トンプソンからC・アレグザンダーを参照するもので、それからの情報の統合方法へ憧れで終わっているのは、先のプレローマにとらわれすぎているからだろう。自戒をこめて考える。

4月1日(月)
9:30から新入生ガイダンス。学科長としてはじめての仕事で、学科の紹介をする。昼過ぎに21_21デザインサイトの「科学とデザインの実験室」展へ。遠藤研OBの町田くんが萬代基介事務所のスタッフとして担当した。薄い鉄板でつくられた均質配置のテーブルデザインが、室内を見通せる緊張感のある空間に仕上がっていた。展示のテーマも、山中俊治氏の科学と芸術とデザインの融合を示すもので、遠藤研テーマと合っている。千葉工大のfuloも参加している。興味深かった作品は、荒牧悠氏と舘知宏氏による「座屈不安定スタディ」。ある規定の安定ルールを外すことで生まれる新しいルーティンを表現している。これはベイトソンから学んだことであった。それとよく分からなかったが、東大の池内与志穂研究室プロジェクト。生物を参照している。さらに新野俊樹氏の3Dプリンター作品。ちょっとしたアイデアが元の図形から欠かれることによって新しいルーティンを生むものだ。対してA-POCの服のデザインなどは、発想と目的にズレがなく、以前のプリーツプリーズの方が未来志向だと思う。ロボットや義足のデザインも同様で、洗練に重心が置かれていて心をかき立てくれなかった。この展示は夏までの長丁場である。いくつかの本も購入。
032 ラ・リーガ アラベス×ソシエダ 久保が前半終了間際に自ら異変を訴えて途中交代。相当にモモウラの状態が悪いらしい。メンバーが揃いそうになりながらも、ブライスについで離脱か?ゲームは1-0の勝利。

3月31日(日)
朝早く起きて、宮本忠長設計の軽井沢発地市庭に行き買物。それから御代田の坂倉準三設計の1941年竣工飯箸邸へ。パリ帰国後のはじめての仕事である。非対称型をした妻入りの切り妻屋根が特徴的。その下の外壁は白漆喰で、僅かに出た屋根には垂木が現れている。室内も漆喰で天井は構造体をみせることなくフラット仕上げ。よく見ると壁から天井へは角が丸くなっていて、僅かに離れた木枠付きの天井は浮いた表現になっている。当時のままと思われるフローリングも特徴的。斜材を使用した表現。南面の木製大型開口圧巻。空けることはできなかったが、3枚で構成された全面開口の開き戸。中央の3×3の格子開き戸は3mを越えるだろうと思う。北側は黒石を大きく張った暖炉。この建物は移築されたものである。その際に鉄筋のブレースが組み込まれている。テラスの石も特徴的。何かと考えたが、どうやら開き戸のストッパー役のようだ。移築後は三國レストランになっていたのだが、この冬からイタリアンとして生まれ変わったそうだ。後で元々は世田谷にあったことを知り驚いた。周囲をコテージ風のホテルのような別荘に囲まれていて南面の庭は中庭として共有されている。だからその配置に少し違和感がないこともない。前菜のアクアパッツァとパスタを食べる。天気がよいので、近くの菱野温泉へ。1000円の眺めのよい露天へはワンマントロッコで行く。帰りに不思議なジャズ好きのカフェによる。グーグルで検索して偶然出会ったのだが、趣味が高じた居間が喫茶店になった店であった。

3月30日(土)
軽井沢行き。ホテルに入る前に、レーモンドの教会に行く。何度目だろうか。そういえば、丸階段の囲いは妻ノエミのアイデアで板の継ぎ目には装飾がある。絵本図書館の設計で気づけばよかった。その後、その宣教師ショーの自宅であったというカフェで打合せ。雰囲気があるが、ちょっと建物は疲れていて時代を感じるものであった。日本の建物と比べてスケールが少し大きい。

3月29日(金)
一昨年亡くなった坂本龍一の追悼番組「坂本龍一の700日」をwowowで観る。病気発覚後も数々の映画やコンサートに参加してきた坂本龍一の創作活動のドキュメンタリー。現在開催中のICCでの展覧会の意図もこれでよく理解できた。坂本は、人間が開発してきた技術が自然を圧迫しているといい、近代音楽もその例外でないという。ピアノの音は、箱一つとっても理想の型にはめたもので、鍵盤もしかりワイヤーも何トンもの力で引っ張った結果のものである。それが自然と緩むのを絶えず調律コントロールした上に音楽が成立しているというのだ。だから自然の音を求めて坂本龍一は、森を歩き回り、北極に行き、人類発祥のアフリカに行き、福島まで行く。そこでの体験を大事にして、ピアノに新しい音を加えていっていた。最新のテクノロジーを使用して。80年代のYMO時代から変わっていないことである。

3月28日(木)
午前中に中山のナチュラルシーム行き。こども図書館の完成をクライアントにプレゼする。喜んで頂いた。1点、もうひとつ大きな看板や子どもへのアピール掲示がほしいということ。少し検討してみよう。開館方法や時期については検討中とのことで、実施可能な会社を探しているということだった。食事をごちそうになり大学行き。ゼミにてM2生から修士研究の方針を発表してもらう。2回目となる。方法論を模索することへの興味は判るが、それよりも問題点を発見して、それを解決していくプロセスで方法論を試すあるいは検証する方が効果的であることを話した。方法論の確立に満足してはいけない。その後に読書会の相談。具体的な書名、現代の建築家論や視覚に頼ることへの疑問を呈する本、時間論などが挙げられた。まずは久しぶりに「デザインの鍵」をはじめてみることにする。

3月27日(水)
大学の行き帰りの中で「ダークナイト」クリストファー・ノーラン監督を観る。ノーランは最新撮影技術の実践に努め、大作を製作することの意義に徹したようでもある。その甲斐あってエンターテイメントに富んだ商業的に成功した作品になっているのが判った。そしてその分評価が分かれることになったというらしい。

3月26日(火)
「考える粘菌 生物の知の根源を探る」中垣俊之著を拾い読み。体細胞である粘菌の不思議な行動を語る。粘菌は単核生物で、動物のように動き捕食し、子孫を残すために胞子を飛ばす。もちろん脳をもっていないのだが、餌を求めて迷路という難題も学習する。この点にあの熊楠もとりつかれた。人とは異なる知性の存在を示す本である。それを確かめるための数々の実験が面白い。

3月25日(月)
学科の教員と石原先生の送別会を代官山のオクシタンで行う。ここで何度か遠藤研のOB会を行った。石原先生とは最近訪れた北欧の話や退職後の話をした。湾岸の公園コンペを勝ち取って2年後の竣工を目指すという。病気もよい方向に向かっているようで何よりだ。2次会は遠慮したいというので、藤木先生と神泉駅近くまで歩いて、その後車を拾って帰る。佐藤良明氏の新訳「精神の生態学へ」ベイトソン著を拾い読みはじめる。メタローグがテーマで、ぼくが日々試みていることでもある。

3月24日(日)
031 代表 スペイン×コロンビア スペインは様子見が多く、サイドからのセンタリングに終始し中に指すことができない状況で、あまり得点の匂いのしない展開であった。コロンビアは対称的で、個人突破から活路を見出していた。得点もそこから生まれる。1-0でコロンビアの勝利。

3月23日(土)
先日広島・尾道に行ったので、それを舞台にした映画「故郷」1972年山田洋次監督を観る。60年代からの高度経済成長に伴う地方の歪みにスポットを当てた作品。広島の倉橋島西側が舞台であり、その風景は先日訪れた犬島のものと変わっていない。それだけ変わっていないともいえるし、50年間取り残されていたともいえる。これらの島は、映画にあるように高度経済成長前期に資源産出のために使われ、技術発展と共に採算が割に合わないとして見捨てられた地域で、登場人物は世に中に翻弄された。それがドラマの根底にあり、主人公井川比佐志の「大きいものに巻かれなければならんのか」という台詞が印象的。一方、本土の広島市内は都市整備がされていてガラッと変わっていた。尾道は変わっているところそうでないところが半々で地形による。映画にあった大造船所、宿泊した倉庫(1943)は当時からそのままであるが、線路下の街道沿いはだいぶ変わっている。

3月22日(金)
卒業式後の研究室で、卒業生から花束とコーヒーセットをいただく。学生は晴れ晴れとした様子で頼もしい。その後に会場を移してお別れ会。短い最後の時間過ごす。今年の学生も活躍してくれた。進む道はそれぞれであるが次の目標に向かって頑張ってほしい。これからも横の繋がりを大切にしてほしいという旨を語った。

3月21日(木)
昨日に続き、建築計画2の授業も進行を考える。設計3の第1課題期間が6週と短くなるので、カリキュラムを急ぐ必要がありそうだ。第1回目授業で一級試験の製図類題を宿題にまで到達させたい。したがって、例年行っていた建物と建築の違い○×の説明に作法があることを簡単に示して、その見方として「建築の四層構造」を示す。そしてまず第3層の「表と裏」の説明をする。ぼくもつい数年前まで建築計画をバカにしていたくらいで、設計ができる学生にその重要性を理解させるためには、そこからの裏切りが必要なことを強調したいと思う。同様に、美術館の展示室にはシビアな要求がなされて、普通だとホワイトボックスにならざるを得ないので、それを外すための方法も示そう。展示室にもいろいろな種類があることの紹介である。次の第1層の構造計画では、グリッドで解くことをとりあえず紹介し、それを知った上でそれを崩すことを提案する。一級の類題で説く順番を作法としても示そう。これに基づき、スケジュールを直す。引き続き、設計1も見直し。来年度から課題作成を非常勤の吉田先生にお願いをした。リアルな条件のある課題を提案してくれたので、ちょっと条件が複雑であるが解く甲斐が増したと思う。それでスケジュールをまとめる。非常勤の先生には、住宅を中心に第1回目の授業で、これまたリアルに話してもらおう。
030 代表 日本×北朝鮮 開始早々に日本は先制。日本のアグレッシブさとスピードに北朝鮮は付いていくことができなかった。その後も日本はいくつかチャンスをつくるも決められないと、北朝鮮も日本のリズムに慣れてきた。後半から逆に北朝鮮はギアを上げる。一瞬、前戦のイラン戦が蘇る。遠藤、そして3バックに変更し、このピンチを防ぐ。成長したと考えてよいだろう。1-0で勝利。試合後にアウエーでの平壌での試合は中止という発表。北朝鮮からの申し出であったという。

3月20日(水)
ジャズの紹介本「200CD 21世紀のジャズ」を購入。すると評者が久保田晃弘氏であることを知る。多摩美のデザインメディアコースの教授で、ぼくより少し歳が上。彼のビジュアルなネットワークに関する本は愛読書だ。開いてみると本書は、「パタン・ランゲージ」のような構成をしている。評者紹介CDには元となる関連CDが提示され、紹介されている200のCDの繋がりも示されている。これをネットワークとして表現すると面白いだろうと思う。1995年出版である。他にも、紹介されているCDを国別に、あるいは楽器別に、あるいは年表など、様々なデータ化が試みられている。久保田さんのジャズに対する評も興味深い。それは本書の構成とも関わる。「ジャズは自由なので各自が判断すればよい。ジャズ通なるものがいて、どこまで聴けばそこに達するかを気にする人がいりけれどもそんなものではない」。つまり、ジャズは深く多様でユーザーに受容的なものだという。あるCDを評するとは、その作品を深堀することであるが、同時に視野を広げてそのバックグランドすなわち「ジャズ」へと導こうとするのが本書なのだ。全体像を朧気ながらみながら部分をみることと、暗中模索に部分を彷徨うことは違う。夏目漱石の「F+f」論を思い出させてくれた。とはいえ、久保田さんの紹介する作品はちょっと現代的すぎるようで、多くが父の棚にはなかった。

3月19日(火)
4月からの授業の整理をはじめる。まずは1年生向けのガイダンスから。学科の特徴であるデザイン+エンジニアリングの説明に力を入れよう。しかし1年生はこの区別も難しいだろうから、その前提を話す必要がありそうだ。そのために学科の就職先、いずれ所得する一級建築士の数を他の業種と比較し、就職先企業や建築士習得が目的化しないようにする。それで、どんな建築士(デザイナーorエンジニア)になるかが大切かを示す。その後で、ヤンエバの現代建築が完成するまでのネットワーク図も示そう。現代建築は議論の束の末のものなのである。そこに参加できる資質を備えることの大切さを示そうと思う。そのための副読本も示そう。ティム・ブラウン「デザイン思考が世界を変える」を、エンジニアを目指す人に。そして「ブルックスの知能ロボット論」をデザインを志望する人向けに挙げよう。

3月18日(月)
ホテルU2から青木淳さん設計の千光寺展望台へ。そこからは360度の尾道を見渡すことができる。端正なシンプルな建築だ。残念ながら近くの安藤さんの市立美術館は休館。外観のみ眺める。そこから浄土寺へ。小津安二郎の「東京物語」の舞台となり、笠智衆の自宅近く義理娘原節子と最後のお別れをした場所である。本堂と多宝塔は国宝で由緒正しい。傾斜地に立ち、映画のように海と民家、鉄道が見下ろせる。今の民家は映画のように亙でなくトタンとなる。続いて、スタジオ・ムンバイが設計したというホテルLOGへ。千光寺への参道中腹にある。60年前の普通のラーメン鉄筋コンクリート集合住宅のリノベーションした高級ホテル。ギャラリーでは設計プロセスを示す模型や色決めサンプルなどを観ることができる。いくつかの部屋を吹きさらしの屋外にし、小さな庭と一体するなどの外部デザインが素晴らしい。外壁は吹付仕上げなのは予算のためだろうか。インテリアはミニマムの極地である。サイン広告もなくふらっと寄ることはないのでインスタ等の影響と思われるが、若い人が多いのはなぜかとも思う。メニューも素朴でインスタ映えするものでないのに写真を撮っている。空間を楽しんでいるわけでもなく不思議であった。この辺りは邸宅が並ぶ。当時、ここでコンクリート工事も大変だったろうと思う。今では無理か。貴重なインフラ資源のリノベである。車に戻り、海沿いを通って広島空港へ。帰路。飛行機の中で「バットマン ビギンズ」2005年の続きを観る。前半のストーリーは、バットマン誕生までのアフリカやアジアでの旅がテーマになる。最近観た「王になろうとした男」ジョン・ヒュースト監督の西アジアのシーン、あるいは「アラビアンのローレンス」リーン監督の砂漠シーンを思い出させてくれるが、少しスケールが足りない気もする。ゴッサムシティだけの場面やストーリー展開では映画が小さくなると考えたのだろう。はじめて大作へ向かう意欲の現れである。後半は従来の原作にしたがったゴッサムシティが舞台。「ブレードランナー」ばりのエントロピーの高い世界でアクションが展開し、ジョーカーの存在を濁して物語は終わる。

3月17日(日)
ホテルから宝伝港へ寄って犬島へ行く。高速船で10分ほどであった。三分一さん設計の犬島精錬所美術館へ。チケットセンターから海沿いに進むといかにも洗練所のようなゲートがある。そこから煉瓦の壁を通り抜けてエントランスへ。そこで、説明を受けて鏡を利用したトリッキーな暗い通路を進む。何回も折れると、アーチ状の三島由紀夫の住まいを換骨奪胎させたメイン展示室がある。展示は柳幸典氏。妻面間仕切壁とアーチ状の屋根との隙間からの太陽光が印象的。涼しい風も感じることができる。この間仕切りを越えると明るい展示室がって、そこからガラスボックスと煙突が見える。それで空気循環の仕掛けを理解する。このガラス内で暖められた空気が円筒効果で排出される。それにしたがい、後方の空気も引っ張られるようだ。メイン展示室のさらに後ろに大きな明るいガラス張りの展示室もあり、2段構えである。ビデオを観て屋上へ。産業遺産の全景を眺めることができる。壊れた煉瓦建造物と自然との対比が悲しい。この精錬所は10年ほどしか運用していなかったという。その後、100年間ほっとらかしであった。ぐるっと一山を歩き回ってエントランスに戻る。次に犬島の家プロジェクトを観て回る。ほぼ全てが妹島さんが建築で、アクリルの曲壁によって対面の民家との対比を練った作品や、古民家を磨き直して新品のように綺麗に組み直した作品、卵上の屋根で被った東屋など様々だ。今日は雨が降っていて反響音といい雨雫といい不思議な体験であった。参加アーティストは、名和晃平、エリアソン、荒神明香、ベアトリス・ミリャーゼス、大宮エリー、半田真規、淺井裕介ら。チケットセンターのカフェで昼食をとり、14:00の高速船で宝伝港に戻る。高速を使い尾道へ。谷尻誠氏設計のU2に宿泊。かつての運河沿い倉庫のリノベーションである。客室数も少ない商業施設。PSヒーターによる輻射空調が特徴的。日本ぽさをなくしたスマートな客室インテリア。倉庫感が上手く残されている。

3月16日(土)
昼の飛行機で岡山行き。飛行機の中で「バットマン ビギンズ」クリストファー・ノーラン監督を観る。レンタカーを借りて1時間ほどで岡山市内へ。後楽園と県立美術館を見学。前川さんの県庁に寄ってから市内から少し外れた観光ホテルへ。市内に戻りオランダ横町で夕食とする。

3月15日(金)
JIA主催の修士設計展講評会に委員として参加。今年度の審査委員長は岸和郎氏。午前中の2時間ほどのポスターセッションの後、偏りのなく8作品を岸さんは選出してくれた。午後から順次プレゼを聞く。藝大生の作品を岸さんははじめから買っていたようだ。それは、アメリカで起きた原発事故施設をまるごと放射線漏れを防ぐために覆った防御屋の形をモチーフにした作品である。その形は、施設を覆う合理的な形状であり、本作品ではそれをスケールアウトさせ、別の不合理な中身を再構築するというプロジェクトである。設定テーマと空間の質、両方ともに高かった。工芸大の作品は記憶の再生がテーマ。自宅の改修である。質疑を通してその方法が巧みであることを知る。東工大の東インド会社のリノベ作品は、ドローイングが手慣れていた。家具の製作歴史をトレースできるような空間配置が考えられていて、その手法自体は古典的で、玄人好みのモノの寸法の捉え方をしている。当然ぼくにはあまり引っ掛からなかったが、完成度が高く優れていた。以上の3点が優秀賞となった。その他にも都市大のモックアップ作品や法政大のプラスチック回収建築などの作品に興味をもった。これまでのように地域特色をネットワーク化するものも多いが、そこから踏み込んで地域や地球の問題点を具体的にしてからそれに応える建築の提案、あるいはそれに科学的なメスを加える作品が面白いと思った。講評会後の懇談会で、学生から質問を受ける。場所を移動し、岸さんと委員との間で食事会。岸さんから古市先生とお別れ会のマネジメントを頼まれる。
029 ラ・リーガ ソシエダ×カディス 2-0でソシエダが連勝。メンバーも戻りつつあり、以前のような闘いが展開された。厳しいスケジュールに対応できないチームの弱さを露呈することになった。

3月14日(木)
以前から気になっていた「Mapping Controversies in Architecture」Albena Yaneva著の原文を拾い読み。ロンドンオリンピックスタジアムが2012年にできるまでのプロセスをControversies(テーマ、打合せ)で捉えるダイアグラムが気になっていた。そこには、2009年からテーマにされてきたレガシー、コスト、地域性、デザインというの4項目があげられ、それに関わってきた多くの人や組織(ODA,IOC、HOKsportsなど)がマッピングされている。面白いのは、それに時間軸が加えられていることだ。建築に多くの人が携わっていることはもちろん、こうしたテーマがオープンになっていて様々な立場からの意見が交わされてきたことがわかる。そこから判る専門家に求められているものは、自らの専門立場からのコミュニケーション能力である。つまり現代の建築は議論の束なのである。
028 CL アトレチコ×インテル

3月13日(水)
WOWOWで「ラストスタンド」キム・ジウン監督、シュワルツェネッガー主演を観る。ちょっと笑いの要素も取り入れた現代西部劇。痛快であるがゆえに思わず観てしまった。
027 CL アーセナル×ポルト 延長PKの末、アーセナルが8強に進む。ポルトの組織立った攻守の素早い切り替えにアーセナルは苦しんだ。アーセナルとしては全員攻撃であるのだが、やはり大黒柱がほしいところ。堅守なチームにたいして決定打を打ち出すことができないでいる。ただし、チームが強くなるにつれてそういった選手が出てくるような気もする。冨安は久しぶりのベンチ入り。

3月12日(火)
「パフォーマンス 青春の罠」というサイケな映画を、昨日今日の行き帰りの電車で観る。暴力や性のシーンが多く、電車では憚りながら観る。D・キャメルとN・ローグの共同作品。ミック・ジャガー主演。セットといい映像といい、ストーリーといいかなり過激。60年代のロンドンを彷彿とさせる。関心となるのは作家ボルヘスの顔が度々挿入されること。ミック・ジャガーが読む詩はおそらくボルヘスのものだろうとも思う。ボルヘスの作品では鏡が重要なファクターとなっているが、この映画でも鏡が多用されている。最初の疾走する車のシーンや、暴力のシーン、もちろんミックジャガーの家のシーンにも。鏡を巧みに利用して、男になったり女になったり、ミック・ジャガーとジェームズ・フォックスが入れ替わったりする。ボルヘスのもつ永遠性や時間感覚とかのミステリアス性が、ロックやサイケとマッチし、当時の時代が求めていた感覚となっているのだろう。ミック・ジャガーも今は80歳。ボルヘスを紹介してくれた原広司氏も87歳。このゼネレーションの青春である。1968年の作品らしいが、公開は70年と聞く。公開までだいぶもめたそうだ。内容やキャスティングもスキャンダラスで、駄作とも判断されていたらしい。

3月11日(月)
大学院の入試の後、ナチュラルシームに行き家具の確認。上手くいった。アンデルセン美術館での展示作品を上手く運用でき、新しい素材の格闘にもトライできた。早速、クライアントと打合せの予定を入れよう。ティム・ブラウンの「デザイン思考が世界を変える」を拾い読み。IDEOのデザイン思想を紹介する一般書である。IDEOは世界的デザイン事務所かつコンサルタント事務所で、Macのマウスなどを生み、深澤直人氏も所属していた。観察から洞察を経て、「どうすれば〜ができるか」を探る。これはビジネスの枠を越えて、社会における、学生には科学や工学における、課題の解決に目を向けさせてくれる本である。デザイン思考が社会や企業と渾然一体となっていく姿を描いた本である。

3月10日(日)
026 プレミア リヴァプール×シティ プレミアの首位攻防戦。見応えのあるゲームであった。そこに遠藤がフル出場。クラブの選ぶMOMになる。両チームの組織的なプレッシングが効く中、各選手がポジションを変えながらそこをかいくぐるプレーは圧巻だ。しかも守備中心ではなく、1-1といえ打ち合いのような展開が観る者をドキドキさせる。しかもそれが終了間際まで続いた。両者勝点を1づつ分けあい、アーセナルが首位に躍り出た。今季残りは10ゲームほどだ。

3月9日(土)
「歴史はべき乗則で動く」マーク・ブキャナン著を読み終える。最後に本書は、スケールフリーなべき乗則にしたがう砂山、それにおけるひとつの砂粒自体を問題にする。それは、法則に縛られる中でのひとりひとりの存在意義についてである。「なぜ地震が起こるかについては、ほぼ完全に解明されている。ところが、いつ、どんな規模の地震が起こるかを正確に予知するというのは、いまだに疑似科学あるいは夢物語の一つでしかない」という問題である。それは、ぼくら建築における、コンテクストや社会あるいは歴史の中に自分たちを位置づける設計を行うとき、一個人の創造とは何かという問題に直結する。本書は最後の方で、クーンのパラダイム論を展開する。それがその解答となる。パラダイムとは、クーンの著書「科学革命の構造」によって提出された学説や理論などの、ある特定の首尾一貫した伝統を生み出すひとつのモデルのことをいう。「パラダイムをもっていなければ、科学者は自然現象の広大な海に呑みこまれ、どの事実が重要でどれが重要でないか見分けられなくなる。科学者は、学生時代に様々なパラダイムを教わり、どのように科学を進めるべきかを実例から学んでいく。このような一連の学説は、科学者に、宇宙はどんな物でできているのかー原子、波動、量子場などーを示し、それらがどのように振る舞うかという原理を提出する。その結果科学者は、科学活動をほぼ機械的に進めることができる。パラダイムのなかの「優れた学説」は、科学者に活動の基盤を与え、その結果として科学者は、喜んで、パラダイムに身を捧げるのである。そして科学者たちの集団的貢献によって、すべての科学的パラダイムは、適切につなぎあわされた優れた学説からなるネットワークを形作る。もっとも傑出したパラダイムは、量子論、相対論、進化論といった、もっとも基本的な優れた学説である。しかし他にも、数えきれないほどの小さな学説が、このネットワークを形作っている。それらは、どこかで正しいと証明されたり、あるいは科学者に、ある種の方程式の解き方や、よい結果を出すための実験方法などを示したりするものである。こういった学説がすべて合わさって、科学の核心構造、つまりポランニーのいうところの「自然の物事に対する、確立した科学的見方」を形作っているp285」。ポランニーのこれをクーンはまた、通常科学といい、ぼくらにあてはめると通常建築というものだろうか。本書ではそこから科学革命が起きる過程を説明する。「通常科学とは、パラダイムによって与えられた、形が決まった融通の効かない箱の中に、自然を押しこもうとする試み」である。そして、「どうしても箱に合わない現象が見つかることがある。複数の優れた学説が矛盾していることが分かったり、ネットワークの様々な部分がなめらかにつながらなかったりすることもある。そのような問題は、通常科学に混乱を引き起こし、不調和を生み出して、クーンの言う第二の科学的変化、すなわち「科学革命」への舞台をしつらえるp287」と。つまり科学革命という人為的行為も、自然において地震が起きるときのように、臨界状態に置かれたときに出現するものであるという。創造も同様なのかもしれない。そしてクーンは「科学革命の構造」の後記で以下のようにも続けている。「科学革命とは必ずしも、広範囲にわたる影響を及ぼしたり、根本的な学説を含んでいるものでなくても構わない」と。つまり、大小を問わないスケールフリーなものであるというのだ。ぼくらは、創造というものを大それたものように考える。つまり一個人をあまりにも尊大なものとして考えるが、じつはそうした視点とは反対の、大きな枠組みという通常建築の中のひとつのものと考えるとどうだろう。気が楽になる。これが本書から学んだことでこの本の結論。一粒の砂の意味を問うのでなく、大枠を考えることの方が大切なのかもしれない。

3月8日(金)
遠藤研のOBと食事会。そこで昨年の名和研二さんの構造デザイン賞を祝う。OBの中永勇司さんは石川の出身で、能登でも仕事をしているという。彼の作品も地震で被害に遭い、そこから建築家の社会的責任についての話が盛り上がった。石川県では耐震化率が高齢化などのの様々な理由で低かった。そこにきて今回の地震で倒壊したのは、ほぼ耐震基準前の建物であったという。輪島のビルが横倒しになったシーンは衝撃的であったが、竣工時の杭設計に横力に対する考慮が求められていなかったからである。また最近のサイディングの建物にはあまり被害がなく、昔からの在来建物に被害が多かった。ある意味、建築専門側からすると当然のことが起きてしまったという訳だ。だから専門家は、各家に出向いて「このままだと壊れます」とはなかなか忠告はできないが、そうした姿勢もまた必要であったのかもしれない。反対に、被災地では企業でなく大学等の活動は受け入れやすいという。それは、たとえ効率が悪く要求にダイレクトに応えるものにはならないが金儲け行為でないことが暗黙に理解されているからであるという。大学をはじめ専門家の立ち位置は日本ではこのように曖昧である。そこの改善が必要という話であった。深夜、WOWOWを観ていたら以外に面白く最後まで観てしまった。そしてなんとエンディングロールでタランティーノの映画であることを知った。「ジャンゴ」。2012年の作品である。黒人奴隷を描いた西部劇で、タイトルにあるようにマカロニウエスタンをパロっている。最後の方で間抜けなタンティーのが出てくるし、全く感情移入できない悪役をディカプリオが演じ、音楽もやたら多様でレパートリーに富んでいる。二ガーという言葉も多く出て、演出といいい、思い切った作品だと思っていた。流石はタランティーノであった。
025 EL プラハ×リヴァプール 打ち合いをリヴァプールが制する。驚くべきことに、後半から投入のファン・ダイクの何度も繰り出された縦パスの正確さ。これによって、フリーな選手が前にボールを運べて、チームが落ち着いた。リーダーシップの偉大さを知った。

3月7日(木)
トウキョウ建築コレクション展へ行く。内藤さんが審査委員長のためか、つくりこんでいるあるいは内部空間のある作品が目立った。その中でも、他者を意識したものも多く、それは郵便的というタイトルに代表されるよう利用者や地域、土地などとの応答を続けるものである。一方で社会に批判的な姿勢を表現をする作品もあって多様である。藝大の視点はいつもユーニークで、社会がつくり出す窒素に着目するもの、原発廃棄物に着目するものなどがあった。表現まで高めているのがよい。
024 CL バイエルン×ラツィオ 第1戦をホームでリードしたラツィオは、今日は打つ手なしで完敗。それだけバイエルンがよかった。鎌田も終了間際に登場も何もできなかった。チームも鎌田も暗中模索状態だ。

3月6日(水)
023 CL ソシエダ×パリ ソシエダはほぼ選手が戻り、インテンシティ高くのぞむもエムバペの一発に沈む。ソシエダの序盤のプレッシングはよかった。しかしそれがはまらなかったのは、デンベレの動きによる。彼が中央よりでマークを外してはボールを受けて、前戦に供給する役割を果たしていた。それに対する術がなかった。GKからの組立ではいつものようなビルドアップも少なかった反面、ロングボールのオヤルサバルのポストプレーが効いて攻撃のかたちまでいくもフィニッシュに至らなかった。久保もその責任を負っている。これでソシエダはリーグ戦のみとなる。ちょっと上位から離されている。

3月5日(月)
竹中工務店社で開かれている吉村順三展へ行く。NYのジャパン・ソサイエティ、猪熊邸、園田邸、青山タワービル、目白の音楽スクールの動画をゆっくりと鑑賞する。写真で見る限り空間は小さいが、皆スケール心地よさを口にする。椅子の配置も妙である。音楽スクールからヒントをもらう。早速事務所にもどり検討。

3月3日(日)
天気がよかったので、久しぶりに遠出する。美味い蕎麦を食べて富士山を観ながら温泉に入り夕方前に戻る。映画「ニューヨーク1997」ジョン・カーペンター監督を観る。NY全体が刑務所になり、そこへ墜落した大統領を救出するというSF映画。先日観たぼくらの自主映画の元となる映画である。「歴史はべき乗則で動く」マーク・ブキャナン著を続ける。

3月2日(土)
午前は赤松茂雄くんの墓前参りの後、高校の同窓会。高校時代の文化祭で撮影した自主映画が最近発見されて、それをみんなで何十年かふりに鑑賞。当時の思い出で大いに盛り上がる。近況も報告し合う。大手会社でSEをしている友人などは、1年に数回しか出社しないというのを聞いて驚いた。それも極端な例ではないそうだ。
022 ラ・リーガ セビージャ×ソシエダ ソシエダは2-3の完敗。久保は出場せず。来週のパリ戦にむけて主力の多くを温存。そのためか序盤からいいところなしで、チーム状態が底であることを露呈。パリ戦はともかく、リーグ戦の順位も悪くなる一方で、チームは負のスパイラルに陥っている。

3月1日(金)
今日も大学行き。その行き帰りで「I AM LEGEND」フランシス・ローレンス監督のコロナ前の2007年の映画を観る。主演ウィル・スミスが、ある感染症で絶命したNYで唯一生き残っている研究者の役を演じる。コロナパンデミックを経験したぼくらには、都市封鎖の緊迫感が半端ない。生存者はウィル・スミス唯一であるので、モノローグ的に進むしかなく、時折挟まれる記憶のシーンがストーリーを厚くする。感染者が敵となっているのがアメリカ的で、コロナの現実はその境目がないのがもっと恐ろしいところであった。

2月29日(木)
大学で今村先生と会い、先日の講評会について雑談を交えながら建築の動向について確認をする。何人かの参加講評者がそうであったように、地球環境の中で自分たちが何ができるかを考える人たちが一方にいる。その場合、設計のテーマは、ゴミ問題であったり失われゆく生態系であったり具体的で明確である。その目的達成のために建築はひとつの手段で、たまたまぼくたちは建築をやっているので、建築を一種のブリコラージュのように考える。だからあまり建築論は必要とせずに、むしろそうした議論に辟易とし、実効性を大事にする。もうひとつは、環境や利用者を他者とみなしマトリックス的に思考するもの。閉鎖的ともとれるが建築行為自体の可能性を追求している。広い意味でのエンジニアリングということになりそうだ。フランプトンのテクトニックといってよいかもしれない。アート的アプローチはもうないのだろうから、このふたつをどう扱ったらよいのだろうかと思う。その後、研究室での学生とのやり取りでネリ・オックスマンの話が出た。彼女のMOMAで展覧会本「Material Ecology」を観る。生物的思考でエコロジーと建築を考えるものであった。ネットで検索すると福岡伸一さんとの対談もあった。池辺さんのデザインスゴロクのように、システム的に捉えることで新しい方向性を見出している。やはりこうした姿勢に可能性を見出すことがよさそうだと思う。「デザインの鍵」を再読。

2月28日(水)
「歴史はべき乗則で動く」マーク・ブキャナン著を続ける。大量絶滅の話が面白い。一般に恐竜の大量絶滅は、巨大隕石が地球にぶつかり大きな気候変化をもたらされた結果であると考えられている。しかし地球の歴史を辿ると、こうした巨大隕石は何度か地球にぶつかったものの、大量絶命が起きていない時もあるという。著書が推定する大量絶命の原因は、そのときの地球上の種の数である。もちろん引き金として巨大隕石もあるが、その前提として大量の個体数が臨界状態にあったのではないか、という仮説である。「大量絶滅は、はるかかなたから振り下ろされた神の拳の跡なのではなく、進化のもっともありふれた原理にもとづく必然の産物だったのであるp189」。

2月27日(火)
電車の中で「ドクトル・ジバゴ」ディヴィット・リーン監督を観る。この前作「アラビアのローレンス」と同様、大自然の中のちっぽけな人間を表現する映像が美しく、この映画では、ロシアの厳しい冬だ。と同時に、この映画では第1次大戦とロシア革命という荒波に主人公たちは奔走される。出演者も「アラビアのローレンス」と重なる。主人公のシャリフは、エジプトでエドワード・サイードと同級で元々はアラブ人であるが、ロシア人になったりと、ぼくら日本人には不可解なところ。1965年の大作である。

2月26日(月)
ミシェル・ンデゲオチェロの「オムニコード・リアル・ブック」というアルバムを購入。オムニコードという日本製の幼稚な電子楽器が80年代からあって、それを使用した楽譜集(リアルブック)ということらしい。ジャンルや楽器に捉えられない新しい軽い音楽(ジャズ、最近はブラック・アメリカン・ミュージックというらしい)で、堅苦しくない。
021 イングランド杯 リヴァプール×チェルシー 120分の死闘を、キャプテンファン・ダイクのヘッドで決める。得点もさることながら彼のキャプテンシーに感心。背後から仲間を奮い立たせて、自らの力を証明した。その前に位置する遠藤もフル出場。最後はくたくたで満身創痍であった。120分戦い抜いたのは、GKの他にそのファン・ダイク、ディアス、エリオットと遠藤だけである。代表キャプテン遠藤の糧となったろう。

2月25日(日)
新国立美術館で開催中の「マティス展」へ行く。マティスの切り絵はいわゆる透視画ぽくなく、描かれているものひとつひとつがてんでんバラバラである。鑑賞者たるぼくは絵の中でそれらをひとつずつ目で追うことになる。建築でいえば、ひとつの平面図にシークエンスをのせようとするものだと思い至った。しかし建築でいえば、てんでんバラバラでも実際には使用される機能目的もあるし、全体を構成する構造というものがあり、まとまりというものをつくることができる。こうした散漫なものを構成するときにマティスは何を拠り所にするのだろう。昨日の修士設計でも2人の学生がこのことをテーマとしていた。夏のマティス展のカタログにあった岡崎乾二郎の「もうひとつの生を生きるーマティスのアオリスト」という解説を再読。アオリストとは、古典ギリシア語に存在した時制方法である。そこに例がある。「空は曇っていた。風も吹いていた。そして誰かがヴァイオリンを弾いた」。こうした時制方法は、「語り手空間から切り取られ、浮き立てさせられた出来事は、背景の上に浮かび上がる図のように、その文に読む者の意識に焦点を与える効果をもつ」ものだという。岡崎がいうには、同時代のかつての近代画家のようにてんでんバラバラにした上でさらに、後期マティスはこの「浮き彫り効果」=アオリストを追求したというのだ。そのために、「サイン」という徴しを用いたテクニックを考えていたという。ずっと気になっていたアレゴリー的な手法を考えるヒントをここに学んだ。ぼくらは切掛けを与えユーザを誘発するところまでは考えてはいる。そこからもう一歩踏み込んだ方法論である。


2月24日(土)
今年度の卒業設計・修士設計の外部講評会を行う。ゲストに坂牛卓氏、常山未央氏、佐野健太氏、武田清明氏、一色ヒロタカ氏をむかえる。坂牛さんが作品を分類して総評をしてくれたのが興味深い。これは学生作品に限らず建築家の作品にもあてはまる。作品のテーマを、技術、政治・社会、そして哲学に分類するものであった。それでいうと今日の講評者の多くは社会性に着目していた。常山さんは総評で、社会的テーマの発見とそれをダイレクトに応えようとした作品を選んだという。武田さんは別の言い方で、誰にための何のための建築かを明確にすべきという指摘。タイポロジーというキーワードが常山さんからあがったが、形をメッセージとして社会にどれだけ残せるかが評価の分かれ目であったと思う。そうした視点に立って、学部生の素直な作品が上位に食い込んだ。酒井さんの作品は、東南アジアの縁台システムを福祉施設に取り込むもの。平瀬さんの作品は、斜面の厳しい限界集落で豊かな水資源によって再分配するもの。能登さんの作品は北陸地方の新しい雁木の提案である。これらと同様なテーマを掲げていた遠藤研伊藤さんの作品、護岸保護に粗朶沈床という伝統構法を用いるもの、西芳路さんの祭の提案は、少々回りくどかった。佐野健太さんが指摘するように、複雑なだけあってプレゼに工夫すべきであったと思われる。同様な考えから、大学院生の修士設計は設計密度と質量ともに勝っているものの完敗した。坂牛さんが指摘してくれたように、社会性が問われた中で、今日は巡り合わせが悪かったということだろう。竹村さんの作品は、よく考えられていたので好感がもてて、ぼくも救い手をさしのべたつもりだが、現実の社会問題に向き合っていないという点で、あるいは遠藤研の土師さんの作品も確信犯的に行ったモノローグ性が支持されなかった。講評を経ていつも考えるのは、様々な矛盾点を抱えても、それを越えるあっけらかんとした勢いというか希望を感じさせる前向きな姿勢の大切さである。最後は、自分の立てた仮説から自由になる必要がある。

2月23日(金)
車中で「マルタの鷹」を観る。ダシール・ハメット原作の推理小説をジョン・ヒューストン監督が映像化を試みる。1941年のジョン・ヒューストン監督の処女作で、最近では「王になろうとした男」を観た。2度目の鑑賞と思われるが、ディテールに感心する。ハードボイルドのスター、ハンフリー・ボガードはじめ多才な役者によるフィルム・ノワールの傑作。モノトーンな白黒画像で、役者にあたる照明のコントラストがシャープである。
020 ラ・リーガ ソシエダ×ビジャレアル ソシエダは苦しい台所事情のい中、いきなり右Wのバレネチアも負傷交替。ミスもあって失点し、バランスを崩しても挽回しようとする個々の選手の動きがバラバラなチーム状態を呼び、そして完敗。

2月22日(木)
研究室の土師くんの明後日に向けてのプレゼを聞く。彼はどうやら、建築のもっている自明性を、小説を手がかりにして解体したいようだ。建築でいえば、住宅メーカーがつくる家族の幸せ像みたいなものがある。それは、現実を直視することを逃避したロマン的なものである。それへの疑問である。同様な関心は小説家村上春樹がかつて行っていたという。土師くんも物書きを目指していて村上春樹の処女作「風の歌を聴け」はもっともお気に入りだそうだ。ここで村上春樹は、固有名を消したり数字の羅列をやたら繰り返したりして、意味の空無化を目指した。そして主人公に一切の限定をうけない自由な世界を獲得させた。それが読者、あるいは土師くん自身にうけたという。土師くんの小説は、この村上春樹の影響を受けていて、これを建築化できないかという提案である。それがプレゼからよく判った。それから土師くんの作品をもう一度観ると、その空気感はつかめるし、最初に彼がもった疑問、建築の自明な幸せ感の否定もよく判った。そういえば柄谷行人は、そうした村上の作品を「パスティシュ」と評していた。パスティッシュとは、ユーモアのセンスを失ったつまり真摯な態度をもつパロディのことである。どことなくレム・コールハースの建築を思い出させてくれる言葉である。経済やモラルなど雁字搦めの建築世界において、過多な情報量を逆手にとった建築表現が一定の支持を受けたことと近いのかもしれない。
019 CL ポルト×アーセナル ポルトの劇的なゴールが終了間際に決まった。アーセナルの攻めも複雑で策略的であるが、それをしのいでからのポルトのカウンターもまた見事であった。この攻防が理解できるようになるとよいと思ったりするが、半ば途中である。

2月21日(水)
018 CL インテル×アトレチコ・マドリー アトレチコは0-1でホームのインテルに敗戦。速攻を受けた。その後も慎重な姿勢でむやみに攻撃に出ず。第2戦のホームにかける。スペインとイタリアの闘いの違いが出たようだ。コートをいっぱいに使うイタリアが有利に試合を進めていた。

2月19日(月)
「歴史はべき乗則で動く」マーク・ブキャナン著を読み始める。5章にあるファイマンの忠告「「どうしてそうなるのか」という疑問を抱いて知性の深みにはまってしまわないように」という言葉が印象的。破壊的な地震は、まったく理由なしに発生するというのである。小さい地震か大きな地震かになるのは確率の問題で、メカニズムは同じであるという。それらはべき乗則にしたがい、小さな地震は多数起き、大きな地震は数が少ない。地震エネルギーが4倍になると回数が1/6になる繰り返しになるという。どちらに転ぶかは偶然が支配しているという。つまり、スケールフリーということである。

2月18日(日)
017 ラ・リーガ マジョルカ×ソシエダ ソシエダは久保が同点弾を決め、終了間際にメリーノで逆転。2-1の勝利。チームとして久しぶりの得点で、流れを変えたかったという久保のインタビュー。試合内容はというと、判定をめぐって荒れたものになった。このカードで国王杯の準決勝が次週にある。

2月17日(土)
箱根から足柄へ。駅近くの蕎麦屋は休業。代わって道の駅に寄る。この辺りの2月は冬期休業が多い。「訂正する力」東浩紀著を読み終える。「訂正可能性の哲学」に比べて網羅的である。「自然を作為する」ことの妥当性が終始記述されていた。かつての科学と自然、作為と制作という二項対立を越えるものとしての提案であった。

2月16日(金)
虎ノ門で打合せ。今日は午後までかかる。時間がなくて蜷川実花展は観ることができなかった。虎ノ門はヒルズがオープンしても、まだ多くのところが工事中で、インフラ整備も続いている。そして、景気回復のためのこうした再開発は、今度は新宿に移っていく。

2月15日(木)
016 CL パリ×ソシエダ 久保も楽しみにしていた一戦。ところがソシエダが力負けの完敗。ビッグクラブとの差は大きい。あわよくば、開始早々のプレッシングが効いている間に得点をしたかった。パリは慣れていなかった。2得点されたのは後半から。この後半中盤の時間帯は完全にパリのペース。いつ得点されてもおかしくない状況であった。その一連の動きの中、コーナーからエンバペにやられる。トラオレ負傷の間のマークが同サイドの久保で、ルーズにしてしまった。その後もWGに右を突破されて0-2の完敗。ソシエダの攻撃では久保奮闘も決定機までいかず。久保にとっても、この壁を越える必要がありそう。

2月14日(水)
015 CL マンチェスターC×コペンハーゲン 引かれた相手にポケットをとる技術はこういうものかと思った。前半コペンハーゲンに4バック敷かれる。右Wが大きく開いた位置にポジショニングをすることでIHが選手間をたやすく突けていた。後半からは5バックにされる。なかなか苦労していたが、ライン全体が押し下げながら右Wがボールをもらうと同時にIHが加速して抜けていた。そこにボールを出すのは内気味のSB。このような全体の連動が大事なことを知る。IHにいるのはデ・ブライネ。シティの圧勝。

2月12日(月)
深夜「ディパーテッド」スコセッシ監督を観る。ボストンのアイルランド系住民の苦しい生活を表現する現代映画。都市に根深く残る血筋(ファミリー)による結束は現代でもずっと生きていて、スコセッシのテーマである。映画では、そこから逃げようにも逃げられない厳しい都市像が描かれている。それは一般の人に対してでもある。こうした意識の解体は国が成熟しないと不可能で、逆に日本は解体の流れを止めるのに躍起である。ディカプリオの名演が光りアカデミー監督賞を受賞。タイトルのディパーテッドとは、ローマカトリックがカトリックでありながらもアイルランド系アメリカ人を見捨てたことを意味する死者に該当する言葉らしい。後発の貧しいアイルランド系は警察や消防、軍人などの仕事に就くことが多かった。この映画でもそれを色濃く反映している。
014 プレミア リヴァプール×バーンリー 後半から遠藤は生き生きとプレーして、ファンの心をつかんだ。慣れとは大きいもので、おどおどしたところもなくなると、チームメートから適切なパスも通る。リヴァプールは後半突き放し3-1で圧勝。

2月10日(土)
石原健也先生の最後の授業を公開で行う。石原先生とコンペを一緒に闘ったアラップの佐々木仁さん、建築家の西田司さん、宮本佳明さんもかけつけてくれる。テーマは、コラボレーションの現在についてで、ハイデガーの「建てる、住まう、考える」からメルロ=ポンティの「知覚の現象学」を上げるのは、最近のティム・インゴルドの影響が大きかったのだと思う。それは、主体と世界との関係をどうとらえるかということに尽きる。ぼくらは川の上の両岸にかかる橋のかけ方をこれまで求め続けていたが、大事なのはそこに流れる大きな川があることであり、それこそが世界をかたちつくっているものであり、橋がもたらす結果はほんの一部でしかないというものだ。終了してから、宮本さん、西田さん、多田先生、若林さんらと食事。今後の意匠の体制についていろいろと意見をもらう。

2月9日(金)
深夜眠れなくてWOWOWOをつけたら「月の満ち欠け」廣木隆一監督を放映していて、それを観る。80年代の自動車を実際に走らせるなど背景をよく練ってはいるがぎこちない。それは演技にもいえて、どことなくそらぞらしいのは、演出によるものと思うが、なぜだろうと思う。アマのようといったら言い過ぎだろうか。

2月8日(木)
土師くんの修士設計から、村上春樹について考えるため、柄谷行人の「村上春樹の風景」を再読。この本で柄谷は、村上の捻れを解説する。それは、ぼくらが物事の本質など知ることはできないことからはじまる。「村上春樹」という固有名詞は「大江健三郎」とは違うものを指しているだけで、村上そのものを知ることはできないというもの。しかしぼくらは普通、判るとそこから遡って、固有名の一部をそうとは知らず理解しているというのだ。そういえばこの仕組みを上手に利用してある種のイメージ操作をずっと行ってきた。ヒッチコックの映画効果などその最たるものだろう。しかしこれに頼っていると、日本の小説が日本という身内(土着)にしか通用しないということにもなってしまう。これが近代小説家の悩みであった。そこで大江は彼の小説で、常識に支配されている固有名を消して、それによっても伝えられる登場人物や歴史性の構築を目指したという。村上もきっと同じことを考えて、彼は固有名の無効性(村上はやたらと数字や固有名を乱用する)を示すことで、現実イメージを無効化し、上手く限定した新しい別のものを誘発させようとしたという。そこにはメッセージ性はない。あってはいけない。建築作品でいえば、ユーザーの経験や記憶を刺激するような素材や自然、文化装置を使用して、あるいは生活スタイルを連想させてある種の心理操作をできないこともない。それをするのも大変なことだろう。しかし、それとは違う新しい装置の開発があってもよいと思う。その装置設定が村上は上手いのだ。図らずも磯崎が建築にもはや手法論しかないといったものに近い意味をここに感じた。それは、かつての妹島さんや石上さんの建築かもしれない。

2月6日(火)
東京は雪に弱く、ぼくも弱い。大学に行けずに事務処理を事務所で行う。東浩紀さんも進めていた「サーチ」アニーシュ・チャガンデティ監督2018年を合間に観る。全編ストーリーがPCスクリーンのポップアップウィンドゥ越しに展開され、ぼくもMacでこの映像を観ているので、一瞬混乱してしまう。映像がダイナミックではないが、没入感は十分だ。これまでにない新しい映画の表現方法だと思った。その中で展開される主人公のPC操作は普通のことであろうが真似できない。もっと使いこなす必要がありそうだ。

2月5日(月)
「訂正可能性の哲学」東浩紀著を読み終える。ルソーが示した一般意志は決して絶対的な真理をいうものではなく、ルソーが「社会契約論」とはまた別の著書(小説)で示しているように、一般意志を訂正し続けられることが大事という。それが本書のテーマである。絶対的真理などはないのだから、それを追求することにも意味はなく、ただ修正すること、これを道筋立てる哲学の役割が叫ばれている。その中でアーレントにある近代矛盾に、シンギュラリティにおけるAI絶対主義の否定に、参考になることが多かった。

2月4日(日)
「BLUE GIANT」立石譲監督を観る。立石はアニメーション専門の監督らしい。ほとんどの曲が上原ひとみによるオリジナル。コルトレーンなどの曲は前半のみに留まる。この上原の曲をもとに実際のアニメーション制作がはじめられたという。最後はベタでいただけないが、音楽を感動堪能できる映画であった。
012 ラ・リーガ ジローナ×ソシエダ 0-0のドロー。ソシエダは怪我人がまた増える。アルグアシル監督は、F3カーでF1を闘っているといっていた。地域型で予算も小さな排気量の小さいF3で世界転進しては、エンジンや部品が焼き切れてしまうことを喩えている。ただし今が激しさのピークであり、ここを乗り越えることで視界が変わり、F1サーキットもみえるということでもある。

2月3日(土)
011 アジア杯 日本×イラン 完敗といってよいだろう。今回のアジア杯は8強で終える。外から放り込まれ続け、その跳ね返りを繋げ返すこともできず、ついには耐えることができなくなった。イラク戦がそうであったように、今回は冨安も戻り大丈夫との慢心があったか。思い返せばA代表で、こうしたパワーに屈したやるせない思いは、18年のW杯ベルギー戦、ブラジル杯のコロンビア戦、05年のコンフェデ杯のメキシコ戦と記憶する。ここから脱出する術を会得してもらいたい。

2月1日(木)
入試監督で1日を費やすが、予備監督で、大学院要旨をまとめることができた。その後で、所属学生から一昨日の発表会について意見を求められた。本当に悔しそうだった。彼らは人生をかけているので、それに応えなければならないことを改めて確かめる。一昨日のまとめを再考する。

1月31日(水)

1月31日(水)
「訂正可能性の哲学」を続ける。ルソーの一般意志をゲームに基づく説明が面白い。「ルソーによれば、一般意志は、あたかも自然の秩序があるかのように、人間社会の外部に絶対的に君臨している。それはゲームにおいて、ルールがゲームプレイの外部に絶対的に君臨しているのと同じである。(中略)しかしそのような理解には欠陥がある。ルールはプレイヤーを制御するものであるが、しかしまた同時にプレヤーによって生み出されるものであるからだ。(中略)ゲームはむしろそのような訂正可能性によって持続するp252」。ぼくらは、こうしたルールの存在を遡及的に意識する必要があって、ただただ自由であると思っていてはいけないのだ。
010 アジア杯 日本×バーレーン 安心して観ることができた。ゲーム開始にDF陣が慌てなかったので、徐々に日本のペースになった。旗手がアップアップしていたと思っていたが負傷で交代。おそらく次戦万全を期していた代わって投入の守田がさらに落ち着きをもたらした。毎熊というSBの動きもよい。先制点と3点目の起点となる。失点は頂けない。その直前から遠藤がミスし、GKも連続してミスをした。どうやらキャッチングに問題あるようだ。それにしても後半はもっと点が入ってもよかった。浅野がいまいちか。

1月30日(火)
今年度の修士設計の発表会。遠藤研から8名が参加。研究視点が面白いものの、それを表象するにまでいたっていないことが悔やまれる。人は、最終物をみてから遡及的に内容を吟味するものだ。このことを軽くみてはいけない。自己を表出する技術は思っているより大きい。ぼくにとっても反省点が多かった。もう少し前段階でも彼らの作品に俯瞰的な視点が与えることができたかもしれない。大石さんには建築の冗長性の問題に結びつけたらとも思う。小山さんには、今日的な原氏の位置づけについてである。島袋さんには、広い意味での公共についてか。土師さんには、根元にある村上春樹の位置づけをどう考えているかを示せたらよかった。今後に期待。鈴木さんには、もう少し年代明記などの詳細さを求めればよかった。山口さんには、和様化と異形のダイアグラム化を直前に指示できたが、急であった。こうしたことを事務所に戻って考える。

1月29日(月)
「訂正可能性の哲学」東浩紀著を続ける。第2部。シンギュラリティの可能性についての言説は面白い。「ウィトゲンシュタインとクリプキは人間のコミュニケーションをゲームに準えた。その比喩を受け継いでいえば、ぼくたちが日々直面している生きることの厄介さは、そもそもゲームの相手が人間だから生じているのではない。ゲームの規則が不完全だから生じているのではない。ぼくたちが人間だから生じている。肝心のぼくたちが規則を不完全にしか運用できず、つねに訂正を加えてしまうプレヤーだからこそ、すべての問題は生じている。したがって、ぼくたち自身が人間であるかぎり、生きることの厄介さを消そうとする運動は必ず自己矛盾に陥るp165」。「王になろうとした男」ジョン・ヒューストン監督1975年を観る。「アラビアンのローレンス」に似た物語展開で、回想シーンからはじまり、この映画では、インドから西のアフガンを生死を彷徨いながら越える砂漠や雪山といった壮大なシーンが売りである。そして近代技術と頭脳を使って一国の王になろうとする野望、そして挫折してしまう様は「地獄の黙示録」を思い出させてくれるが、この映画はある意味爽快である。それを可能にしているのは、007を卒業のショーン・コネリー。そして演技幅の広いマイケル・ケインの賜物である。2人は、無謀な冒険を演じるばかな男たちを演じる。

1月28日(日)
BSで「隠し砦の三悪人」黒澤明映画を観る。三悪人というが、三船演じる忠誠心の高い若大将と俗だけれども愛嬌のある2人の百姓である。それに、日本人離れのメイクアップした男勝りの雪姫の大脱出劇。どことなく設定が「スターウォーズ」1977年を思い出させる。それは物語だけでなく、1958年制作というが、圧倒的なダイナミックなカメラワークはハリウッド映画だ。城内階段を捕虜が逃げ出すところを下から鉄砲隊が乱射するシーン、三船が手綱を待たずに馬を疾走さえるシーン、火祭りという大がかりな状況で村人が狂喜乱舞するシーンなど、これらは広い画面で中心人物が小さくとも、全体密度が高く、迫りくるものがある。昼間に棚の中にアストル・ピアソルのCDを複数見つける。
009 ラ・リーガ ソシエダ×ラージョ このところ調子の上がってきたソシエダであるが、連戦のため若手中心にした5バックでのぞむ。先週はこのシステムでブライスが輝いていた。しかし今日は途中からの出場で、オヤルサバルをはじめ主力が登場しても、これといった見せ場もつくれずに不発に終わる。久保の代わりの中盤、そしてDFラインの中心に、新しい怪我人も出てしまった。チーム状態はまた苦しくなってしまった。

1月27日(土)
修士学生の発表プレゼをオンラインで行う。最後は言葉である。聞きながら最後のぼくなりのアドバイスをする。大石さんは、現代のジェンダー論に基づいて新しい建築観を模索した。それは計画することで切りすてられる事象を拾い上げる方法論である。計画することと平等を保つことは相反しないことを建築で証明しようとしている。小山さんの作品は、原広司の有孔体理論の建築的応用。皮膜ありきの建築観を越えようとする30年来の再トライである。建築はふつふつと湧き上がる欲動の表現であることが現代でも求められているのだ。島袋さんの作品は、個人的な感動事象を他者にまで共感させる方法が試された。公共の方法が考えられている。鈴木さんは、計画から50年経った現在、つくば学園都市の計画の再検討である。超長いスパンで計画を俯瞰する視点がユニークだ。関原さんは、庄内平野の2つの遺産、山居倉庫と山鉾山車の結合。土師さんの作品は、文学の建築への応用。文学に準じた建築的レトリックを考えた。没入を頭でなく身体感覚で捉えなおそうとするものである。山口さんは異形建築を考えた。異形建築は単なる形の問題でなく、むしろ社会的(機能的)コンテクストと技術的コンテクストをいかに深く捉えるかで生じるという視点が面白い。意識的に伝統(コンテクスト)を捉えたものが異形建築であるという。水口さんの作品は、現代では珍しいシンボル建築の必要論。松浦氏の「エッフェル塔試論」を下敷きに、当時のパリの状況を現代の日本の災害が直面している状況と重ね合わせているのが面白い。シンボルは形の問題でなく、それを成立させようとする大衆の問題で、その表層物なのだ。「訂正可能性の哲学」を続ける。東のアーレント評も興味深い。「人間の条件」の労働・制作・活動という有名な営為の中で活動がクローズアップされ、活動によって公共性を構成できるとアーレントは主張しているようで、接続性こそが、共通の世界に公共性を与えるものであるともいっている、というものである。そしてそれを可能にしているのが制作にあるというのだ。東の訂正可能性、観光客論は、このことをいっている。

1月26日(金)
「訂正可能性の哲学」東浩紀著を続ける。以前読んだ「名指しと必然性」の著者クリプキのウィトゲンシュタイン解釈が第1部の中盤に中心である。クリプキのこの解釈は誤読であるといわれ、クリプケンシュタインといわれているそうだ。しかし東はこれを評価する。「いかなる共同体も、内部の正しさに閉じこもり、外部からの参加を排除したままでは滅びる。クリプキはここで、プレイヤーの誤りを「訂正する」というかたちで、外部を内部に取り込む論理」を考えたというのだ。そこから東は共同体を定義する。「共同体とはそのような遡行的訂正の連続体である」と。それが「家族」というものである。そして絶え間ないこの訂正を可能にするのは、「家族」という共同体が反証可能性、あるいは「家族の外にも家族しかなく、家族の否定が家族の再提示になってしまうというこの歪み」がもたらしているというのである。ここまでくると、「家族」を生む構造と「建築」を重ねざるを得なくなる。クリプキの「名指しと必然性」のある必然性や可能性も記述可能にする様相論理というのも面白い。それは、「多数の世界が到達可能性によって連結され、ある世界からある世界には到達できるが、別の世界には到達できないといった論理空間の構造p89」をもつものである。ポパーの反証可能性を成立させる世界を捉えた言葉であった。

1月25日(木)
「訂正可能性の哲学」東浩紀著を続ける。第1部は「家族」について。東の考える家族とは、エマニュエル・トッドに倣うものである。それは、「ぼくたち人間はしょせんは家族をモデルにした人間関係しかつくれないp37」というもの。しかしそれは、「家族」をバカにするものではなく、むしろ、「家族を、成員も規則もなにもかもが変わっていくにもかかわらず、参加者たちはなぜかみな「同じゲーム」を行い「同じ何か」を守り続けていると信じている、そのような共同体p65」であるといい、「家族」を持ち上げる発言である。つまり、「家族の外にも家族しかなく、家族の否定が家族の再提示になってしまうp37」程のものであるという。しかしぼくの好きなフロイトやラカンはそこに登場しない。そしてこの結論に至るまで引き合いに出されるのは、カール・ポパーである。ポパーの「開かれた社会とその敵」や反証可能性にぼくは影響を受けた。それの要約もある。「経験科学、すなわち数学や論理学と異なり世界の観察を必要とする物理学のような学問においては、そもそも正しさなるものは具体的な予測について確認できるだけで、理論全体については成立しない。ひらたくいえば科学の正しさなるものはつねに暫定的なものでしかないp31」。つまり、真実としてみられるものも実はそんなものはなく、しかし否定しても何もはじまらない。経験的にはその存在を認める必要がある、ということ。東は、その思考形式と「家族」の存在を重ねている。ポパーにフロイト的視点をみているここが面白い。

1月24日(水)
008 アジア杯 日本×インドネシア 前戦より8人のスタメンを替えターンオーバー制をひく。それで板倉は招集外。優勝を目指す過密日程が続く中、こんなところで足踏みをしてはいられないという意気込みの現れである。今日は序盤から積極的にでて、相手5バックを苦にしなかった。積極的にDFラインの裏をとり、ラインを崩していたと思う。同時に最終ラインも安定していた。冨安を中心にしたかなり高いライン設定にも関わらず、速攻を受けることもなかった。縦パスがいくつも入っていたのもよかった。しかし終了間際にロングスローからの失点はいただけない。DFラインの横裏を突かれたかたちである。気がかりなのは、トップ下の久保の不調。ボールロストが多かったように思う。芝の状態を久保は理由に上げているのだが、右サイドにいる場合と違って中央では体の左右両面を使えないのが痛い。これからの課題である。

1月23日(火)
夕方から修士設計の図面確認を研究室で行う。今年は8名である。土師さんは物書きを目指している。そのときに得られた手法を20用意して建築に応用する作品である。はじめは造語を控えめにしてそれを具体的に示すこと、そしてそれを子どもの道くさ遊びへ適用を説明することが要になると思った。小山さんは、原広司の有孔体理論の建築的応用である。原のいう皮膜を破る有孔体は、この作品でいえば窮屈な社会とそれを穿つ若者の希望であるし、都市計画で規定される建物内の限られた賃料床に対して設けられる余裕部分となる。マイケルジョーダンの伝説的エアーウォークでこれを形像化し、マイケルジョーダンの記念館を若者の街渋谷に計画する。鈴木さんは地元のつくば学園都市を調査した。遠藤研では珍しく都市計画の提案である。ポイントは、これまでの都市計画をいかに引き継いだかの説明を図で的確に伝えられるかだと思う。島袋さんの作品は、自身が感動する日の出と日の入りのシーンをパーキングエリアで再現するものである。そういったシーンは様々な条件が絡み合ってできる複合的なもので、パタンランゲージで表現されるようなものである。丁寧な風景スケッチ起こしからはじめ徐々に建物から風景へと外在化していった。山口さんは異形建築を取り上げて、磯崎新を詳しく読み解いた。いわゆる無自覚で保守的な和様化建築の反対の自覚的で伝統的なものの究極として異形建築を位置づけている。だから昨今の受身的建築の究極にそれがあるということらしい。自覚的かつ伝統的であるために池辺陽のデザインスゴロクを利用して、福島の鶴ヶ城内に新しい建築を計画した。大石さんの作品は、ジェンダーという現代的テーマをイリイチのコンヴィヴィアリティで説明しているところが新しい。全体の中のひとつであることを意識するということで、選択的自由な在り方を疎外してきた建築の宿命を批判するもので、建築は差異を表象してはならず、閾値を示すものであるべきという主張がある。関原さんは、庄内の山居倉庫の復活に伝統的な山鉾祭を絡めようとするもので、表現をつめる必要がありそうだ。水口さんの根底には松浦寿輝氏の「エッフェル塔試論」がある。エッフェル塔が表象と近代との関係をめぐる問題の束を集約的に体現している特権的な記号としてあり、虚空に屹立しているという論にもとづいている。今日の日本のこの問題は災害にこそあるというのがユニークな視点である。災害は、近い未来にくるはずであるにもかかわらず語らずに仕舞われている事象である。これを表象することがまず皆の共感を得られことで、それを質や美ではなく、対象自体の圧倒的数量、その偏在分布の広さ、そしてそれら相互の間での流通頻度が重要であるというのだ。残り1週間もないが、皆に頑張ってもらいたい。

1月22日(月)
卒業設計の講評会。発表に関しては、研究の前提が複雑な場合、3分の時間では難しいことを実感する。周囲との関連に意識高い学生も多く、敷地に見られる前提を表記可能な配置図によく書き込んでいる。今後は模型にも同様の試行が期待される。遠藤研から12名が参加。青木さんの作品は雪を利用した雪国の酒蔵の設計。周辺環境と幾何学的建物の必然性が弱かった。そこへの設計密度が必要となる。井手さんの作品は、廃墟となった集合住宅のリノベーション。愛着をテーマとする。愛着というキーワードは曖昧なので経年変化を可能とする素材等といった具体的な言葉に置き換える必要があった。伊藤さんの作品は、粗朶沈床という伝統的基礎構法を用いた河川のランドスケープの設計。最近の災害は、現代の土木技術の想定をはるかに越えている。伊藤さんは、こうした自然と対峙し自然をコントロールする西洋的姿勢の限界を指摘している。それは近代の科学技術を問うものでもある。日本では古来から、川の氾濫から新しい土壌の恵みを享受するなど、災害を含めて自然への受身的態度がある。粗朶沈床は、そのひとつの現れとして発見された。この構法を利用した建築は面白い。問題とされたのは、現代土木技術に匹敵するその性能である。背後に住宅地が控えているからである。計画敷地の位置づけや粗朶沈床の設置箇所などの明確さが今後に必要とされるだろう。小川さんは、ぼっーと眺める情景から、人の感情に由来する風景にもっていくには建築の助けが必要であるという。そうした建築の何気なさに反する建築の在り方、デザインが問題になった。齋藤さんの作品は、現代社会における、高速道路の開通といった利便性の追求が、一方では人口流出をもたらし小学校廃校をもたらすという社会的矛盾へ目を向けるものである。本作品は、この高速道路と廃校という2点を否定することなく、美しい街の風景を眺める施設にこれらを転換させた。経済が生む過疎問題を、ロマン主義的であるが、建築を信じて、解決しようとしている点で卒業設計としてよい。西方路さんの作品は、かつて繁栄した三国町の文化地域ネットワークの再編である。かつて三国町は、北前船産業を中心にしたネットワークによって賑わいがあったという。しかし昭和初期の護岸道路と交通発展によりそれが崩れた。本作品は、当時のネットワークがもたらしていたかぐらだて建てという構法の復興により新しくネットワークを再編する試みである。そのために、建築というハード以外に人の営みや日常性といった出来事までを加味し、結果、新しい祭の提案まで行っているのが興味深い。この調査内容が詳細に伝わるとよい。船山さんの作品は空に浮かぶ建築の提案である。非現実的であるが、スタジオジブリにみられるように、建築前提を越えたところの絵の強さによってその美しさを伝えようとした意欲的な作品である。増田さんの作品は新しい家族の型をテーマにした住宅の提案である。従来の住宅は絆が重んじられ、あるいは最近ではシェアハウスに代表される選択的同居の型が考えられていた。それに属さない家族の提案である。共用部がなく視線が通る空間配置が丁寧に計画されている。こうした住宅の型を語る言葉がもうひとつ必要であった。山岡さんの作品もユニークな家族の住宅を提案している。特殊条件から特殊解が得られた訳であるが、欲をいえば山岡さんが当初から狙っていたように、例えば家族成員間の距離といったような一般的な解にまでもっていくことが望まれる。特殊解の方ではなく現実をあぶり出すことが今日的である。敷地模型にそれが表れてはいるのだが。山本さんの作品は、自らのバイト経験に基づいた特別支援学級の提案である。ユニークな敷地条件のもと、4つの発見された設計方針を秩序立てて計画したものであった。米澤さんは、すり鉢状の敷地を生かした建築の提案である。敷地の選択がよい。霜越さんの作品は過疎の地方都市駅の再生計画である。無人管理駅の提案として地域文化と結びつけた人を信じているところが好感もてた。

1月21日(日)
007 ラ・リーガ セルタ×ソシエダ 久保はアジア杯で不出場。それもあって最近の得点へのチャンス不足が指摘されている。加えて3日後に同スタジアムで同カードの国王杯が控えている。そのためソシエダは5バックの2トップに変え、主力級の温存で若手を多く使ったゲームプランを用意した。ここ数週間の中でよりボールが回ったのはそのためだろう。ブライスのゴラッソで1-0の勝利。

1月19日(金)
006 アジア杯 日本×イラク 久しぶりの完敗。これで1位通過がなくなり、優勝のためには厳しい対戦相手となる。具体的な敗因は多々あるとして、日本はゲーム開始から受けて立ってしまったことが大きい。そして最後まで相手のペースを許してしまった。イラクの戦法ははっきりしていた。日本のプレッシングをかわすためにロングボールを多用し、日本の谷口+板倉を大型FWで押し込み、そして日本の全体を下げさせてゴールから遠ざけ、セカンドボールを拾うというものである。日本はこれに、ちょっとの時間でも耐えればよかったが、GKのミスもあるが早々に失点してしまった。これを打破するためには、両SBの積極性や中央の久保のキープ力が期待される。しかし、コンディション不足や精度のなさがそうさせてくれなかった。とにかく完敗である。堂安曰く、これからの数日が「上手いチームから強いチームになるための正念場だ」と。

1月18日(木)
「観光客の哲学」を再読。引き込まれる内容であったが、政治と経済、ナショナリズムとネーション、規則と動物的行動、これらの分裂を解決しなければならないというのは、これまでも考えられてきた問題でなかったかとも思う。例えば、科学主義対人文主義などのかたちで。確かに、大文字の他者は見えにくくなっているが、見えないこととは違う。次に「訂正可能性の哲学」東浩紀著をトライする。

1月17日(水)
「観光客の哲学」東浩紀著第2部を読み終える。第2部はドストエフスキー論。読んだことがないので、実感がなく読み話だけになってしまった。評価するのは「カラマーゾフの兄弟」。今度チャレンジしてみよう。トランプ評が面白い。「リベラルの多くは当初、トランプの支持者はセレブで大金持ちという煌びやかなイメージ(見えるもの)に騙されているだけであり、支離滅裂な実体(見えないもの)を暴けば影響力も下がるだろうと考えた。けれどもうまくいかなかった。支持者の多くはいくら真実を示されても嘘のほうを信じ続けたし(フェイクニュース)、リベラルな執拗な批判は、逆に支持者たちの側に悪質な陰謀論の流行を引き起こすことになった。トランプは「にせもの」にすぎず、見えないところにこそ「ほんもの」があるという知識人のキャンペーンは、一方では「にせもの」でなにが悪いかという開きなおりを引き出し、他方ではおれたちにはおれたちの「ほんもの」があるのだという独自の世界観を生み出す結果にしかならなかったP388」。結果、東は「「にせもの」が「にせもの」のまま世界を動かしてしまう時代において「ほんもの」とはなんなのか、その体験には重要なヒントが隠されている」といって本書を締めくくる。郵便的な体験というものがキーワードとなる。ぼくらは映画を評価するときに、「スクリーンに登場する俳優(見えるもの)に同一化するだけでなく、それぞれの場面を撮影する監督=カメラの視線(見えないもの)に注目しなければ、作品の価値は十分にわからないということになっていた」。こうした時代は終わったというのだ。

1月16日(火)
久しぶりにフランスから帰ってきた友人に会い、午後からは写真家の坂口裕康さんのお宅を訪れて、お別れの挨拶をする。2時間を越えての娘さんと奥様と思い出話をする。夕方から風が強くなりかなり冷える。確定申告をはじめよとするもまだ源泉徴収票が来ていないことに気づく。気がはやりすぎた。

1月15日(月)
大学の行き帰りの中、数回に分けて「疑惑の影」1942年ヒッチコック監督を観る。カルフォルニアの郊外に住む当時のアメリカ人の生活や家族観が表現されていて、それを逆手にとったサスペンス映画である。NYに比べると劣っているものの日本よりは遙かに生活は豊かで、勤勉な敬虔な家族で家族を大切にする。一方で都会を意識せざるを得ない若者には歪みが生じ、事件を起こす主人公もNYからやってくる。ヒッチコック特有の映像がどうのこうではなく、精神的に追い詰められるものでなく、小気味よく展開する物語であった。か弱そうにみえる主人公テレサ・ライトが逆襲に走る後半の展開から物語が大きく変わる。題名に関係させると、むしろ影が本質で、実体なるテレサ・ライトは虚構であるが、最後は虚構が勝つというなんともニヒルな映画である。

1月14日(日)
005 アジア杯 日本×ベトナム 日本の初戦。DAZNのみの放送。相手はなんとトルシエであった。そのトルシエ戦術に一時逆転される。チームを救ったのは、かなりの自由が許されていた南野であった。2G1A。南野はコンパクトなライン間のスペースを見つけては、攻守に輝いていた。それにしてもベトナムのポジションサッカーは将来につなげるものであったと思う。勝敗でいうと、それに固持していたおかげ日本は中盤でボールを奪うことができていたのだが。日本の余裕がそうさせていた。チーム状態は怪我人を考慮し、試合を追うごとにコンディションを上げていくようになっている。まるでW杯の南米チームのようでもある。

1月13日(土)
004 ラ・リーガ ビルバオ・アスレチック×ソシエダ バスクダービー。久保は不在。オヤルサバルが1トップをつとめる。激しいプレッシングの応酬。そうした状況もあってソシエダはレミーロに代わって出場の若いGKからボールをつなぐ選択をしなかった。それが前線からの守備を無能にして失点を呼ぶ。後半に1点を返すも完敗であったと思う。これでヨーロッパ大会出場ラインへのライバルとの勝ち点差が大きく開いてしまった。

1月12日(金)
「観光客の哲学」を続ける。昨日に続き本書の前提を確かめる。それは、「自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらしか選択肢がない時代に足を踏み入れているp193」という文章によく表れているものだ。これは建築にもいえる。自分の感性や眼、身体性を信じるデザインをするか、外部に根拠を置き結構によるデザインをするか、この2つを示しているといってよいと思う。続けて東は「ぼくはそのような世界に生きたくない。だからこの本を記している。言い換えれば、ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道であるp193」と。先の建築の話でいえば、署名的と結構的の片方ではないような方法で、皆が享受できる新しい建築のつくりかたがあるというのだ。ここでいう「世界市民」とは何だろうか?本書では、ぼくも好きな増田直紀、今野紀雄氏による「複雑ネットワークとは何か」による数学的思考を下敷きにローティを引用して、その方法を提示している。「ぼくたちは、普遍的な価値の支えなしに、いったいどのようにして他者と関係を結べばよいのだろうか?(中略)ローティの答えはどのようなものだろうか。じつは彼はそこで「感覚」や「想像力」といった言葉をもちだしている。ローティはつぎのように記している。「本書でこれまで主張してきたのは、わたしは歴史や制度を越えたものを求めないようにしようということだった。わたしがリベラル・アイロニストと呼ぶのは、この感覚[連帯の感覚]が、まえもって他者と共有さらたなにものかについての認識としてあるのではなく、むしろ他者の生の細部への想像的な同一化の問題としてあるような、そのような人々のことである」p242」。つまり、大きな物語や法則あるいはみんなのための方法論を追ってもそれはなく、きわめて具体的で偶然的な細部への個人的感情移入といった(観光客的)体験の事後に、遡及的にそうした共有、ローティのいう連帯というものが生まれるというのである。それをダンカンワッツのスモールワールドやバラバシのスケールフリーべき乗数理論によって説明しようとしている。そしてこの遡及性を産み出す力のことが「否定神学的」というものである。

1月11日(木)
「観光客の哲学」東浩紀著を読み始める。冒頭に記されているように東は柄谷に強い影響受けているので、本書をぼくも素直に読み進めることができ同意することが多かった。そのひとつめは、コジェーヴやフランシス・フクヤマのいった歴史の終焉以降の世界への前向きな姿勢である。東は「観光」をキーワードにしてそれを説明しようとしている。そのときに、彼らの思想や世界観をバッサリと否定しているところに、他にない強さがある。「21世紀の世界は、人間が人間として生きるナショナリズムの層と、人間が動物としてしか生きることができないグローバリズムの層、そのふたつの層が互いに独立したまま重なりあった世界だと考えることができる。(中略)本書が構想する観光客の哲学なるものは、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路か(中略)、その可能性を探る企てであるp161」と。ヘーゲルだけでなくアーレントについても辛辣で、アーレントの「政治と経済(社会)、公と私、ポリスとオイコスの分割を基本原理p181」もバッサリと切りすてている。「政治的なものの自律性を社会的・経済的なものから切り離して提示しようとする理論には、もはやなんの意味もない」と。建築でいえば、「純粋な建築」を自律させることの否定へとつながるのだろう。この点には注意が必要とされる。さらにぼくが翻訳した「ティール組織」の根に「リバタリアニズムp162」という流れが英語圏にあったことも知った。リバタリアニズムとは本書によると、「諸個人の自由を最大限重視し政府による強制を最小限にとどめるべきだという、社会論理や政治思想上の見解」をいう。ティールを訳していて物足りなかったのは、その組織を支持する根拠がロマン主義的であったことにあるが、それについても本書は回答を示してくれている。リバタリアニズムは、本当に政治が介入する力を必要としないので、逆に政治の存在を浮かび上げることになったというのだ。そのことを「否定神学的」という。「他者は存在しないことによって存在する」あるいは「自由は存在しないことによって存在する」ということ。現実の世界は「規律と管理が、排他的どころか相補的であって、現代社会では両者がともに作動しているp174」というのである。東はこの2つをつなげることができれば、ヘーゲルを超えアーレントを越えることが可能であるというのだ。ここでいう管理社会とは「生権力(個人の発露)が支配する」社会のことである。

1月10日(水)
時間の合間を利用して散歩がてらにICCで開催中の「坂本龍一トリビュート展」に行く。真鍋大度などとのコラボ作品の展示。坂本は音を映像化することへの関心が一端にあったようだ。そのひとつにAIを絡めたユーザ参加ものがある。音楽とそれを受けた聞き手の感情を表現した映像とをミックスさせたもの。もうひとつは、可聴できない音の可視化。そしてもうひとつは意識されない音、例えば風の音などの音映像化である。映像で観ることができる坂本のピアノはゆっくりと叙情豊かである。事務所に戻り、坂本が愛したというグレン・グルードのブラームス間奏曲を聴いてみた後。「グレン・グールドをめぐる32章」をYouTubeでチェック。TVドキュメンタリーである。

1月9日(火)
大学行き。年明けの修士設計と卒業設計の進行状況を確認する。4年生は来週、図面をもう一度確認することにした。行き帰りの電車の中で、「海外特派員」ヒッチコック監督1940年を観る。第2次大戦直前のヨーロッパ(イギリス)を取材するアメリカ人記者が巻き込まれるサスペンス。ヒッチコックのハリウッド進出2番目の作品ときく(1番目は「レベッカ」)。1939年の9月にイギリスとドイツが現実に戦争をはじめたので、リアルタイムでの製作となるが、ヒッチコックばりのエンターテイメントに富む作品となっている。最後の飛行機墜落シーンは、スタジオセットによる長回しであるというので驚きである。そこへ導入する飛行機から乗客にアップする方法も絶妙でそのテクニックに脱帽。他にも当時の車によるカーチェイスやオランダ風車のある田園での格闘の合成シーンなど見所は多い。その後のサイコ的傾向が強くなっていく前の、映像技術に惜しみなく凝った映画であった。第1次大戦前にこれまた渡米したムルナウ監督の第1作「サンライズ」1927年に重ねて考える。

1月8日(月)
003 FAカップ アーセナル×リヴァプール クリスマスに続き、同じカードでの今日はカップ戦。そのときと少しスターティングメンバーが変わる。アジア杯のため冨安と遠藤はもちろんいない。ゲームは序盤からアーセナルペース。しかし、フィニッシュまでいかない。リヴァプールも苦し紛れのロングボールを多用。後半、セットプレーからリヴァプールが先制する。オウンゴールであった。終了間際に追加点。2-0でリヴァプールが16強に進出。このところアーセナルは勝てていない。今日も強度あるリヴァプールがアーセナルの完成度に勝った。

1月7日(日)
1日をかけて父の書棚の整理。興味深いCDがいくつも見つかった。父の分類分け方法も見えてきた。夕方から家族で食事。恵比寿のブルーノートへ。デイビット・ブライアントのピアノによるセッション。他は日本人の若いアーティスト。ミュージックチャージが取られなかったのはよかった。戻ってから見つけたCDを続けて視聴。深夜、NHKでサブカルチャー歴史の特集を観る。映画を軸にして、時代を見ていく特集である。60年代は闘争の時代と位置づけ、その後、逃走とする。前半は、黒人×白人、そして民主党ケネディと共和党ニクソン、あるいはアメリカとソ連の宇宙闘争。その後はキューバ危機1962年を境に核におびえるアメリカの逃走である。その境にキューブリックの映画が挙げられる。最近ぼくが聞くジャズもほとんど1962年前のもの。このころジャズが最盛期を迎えたことになる。

1月6日(土)
伊東を散策。東海館という昭和初期の旅館の見学。川に面した気持ちよい旅館であった。その周りは老舗のうなぎ屋やリノベーションされた建築カフェなどもあり、街起こしの様子も見ることができる。美味しそうな干物もその近くで購入。海沿いでなく尾根沿いのスカイラインを通って家路につく。

1月5日(金)
江の浦測候所に行くも入場制限にて入れず。その後、伊東にある安藤さんの野間幼稚園へ。ここも見学を受け付けていなかった。以前は大きな屋敷であったような敷地の一角にある。横には川が流れ桜の木が印象的。その川沿いには池田親生+三城賢士による竹あかり作品がある。佐藤先生のお薦めのイタリアンは正月休み。代わって入った居酒屋での夕食はよかった。伊東泊。

1月3日(水)
「アラビアンのロレンス」デヴィット・リーン監督1962年を観る。4時間近くの大作で時間があるときにいつか観てみたいと思っていた。その壮大なシーンは、スピルバーグからクリストファー・ノーランらのマスターピースとなっている。砂漠を疾走するシーンでは黒澤明からスタンリー・キューブリックまでも思い出す。映画では歴史認識とは違って、戦況に追い込まれるにつれて、単なるヒーローではなくひとりの人間としての矛盾した主人公ロレンスが描かれている。観終わってからローレンスの足取りを確かめる。それは、サウジアラビア西側のメッカから沿岸を北上しシナイ半島東のアカバ、シナイ半島を横断しエジプトカイロの司令部に一端入ってから、再びシリアのダマスカスまで至るもので、エルサレムは入っていない。後半の足取りはローレンスらが破壊するトルコ鉄道ラインと一致する。このサウジ西側がヒジャーズ王国となり、ファイサル国王(役ではスターウォーズのオビ・ワン)がシリア・アラブ全体の国王となるが、後にイラク王国に追い込まれることになる。映画は、砂漠をラクダで疾走するローレンスが、イギリスでバイクによって事故死してしまうシーンからはじまる。なんとも皮肉である。この後に葬儀のシーンがあり、後に登場する士官やジャーナリストがローレンス評を次々に話してから砂漠での物語がはじまる。こうした思い出シーンからはじまるパターンは、この映画からであるという。

1月2日(火)
自宅近くの幡ヶ谷不動尊に初詣。住職は95歳だそうで今年からお孫さんが引き継ぎ、十分な時間の護摩炊きが執り行われた。能登の地震は今日も断続的に続く。夕方、羽田で飛行機事故。正月から慌ただしい。
002 ラ・リーガ ソシエダ×グラナダ ソシエダがロスタイムに追いつき1-1のドロー。その前に久保がバー直撃のほしいシュートも放つ。ゲームを難しくしたのは、前半36分のGKの退場から。いつものようなビルドアップや前からのプレッシングができなくなったことによる。久保のゲーム後のインタビューが興味深い。審判ジャッジへの要望とアジア杯のスケジュールについてであった。選手を代表してのコメントは立派である。

1月1日(月)
午後に川口の義理父に会い新年の挨拶。代表戦が終わった直後の4時に能登で大地震。被害状況は暗くなり不明。TVはこぞって、固定カメラからの映像ばかりである。
001代表 日本×タイ 後半からいつものメンバーが加わると5点をとり圧勝。ヨーロッパの試合に比べて、ボールの転がり速度が遅いのが気になる。その後にアジア杯の登録メンバーが発表される。怪我の選手が入っているのはどうかと思う。三笘は選ばれたのは、ブライトン監督も疑問を呈していた。冨安は昨日復帰したばかりで、だれがサラリーをはらっているのかという話で、まだ試合に復帰していない板倉までいる

12月31日(日)
4年生とM1生の梗概の校正に1日かかる。学生の進捗状況がよく判った。これでそれぞれが設計全体の整理ができる。夕方になって正月の買い出しのため新宿行き。

12月30日(土)
午前に墓参り。午後から書類の整理。BSで「ターミナル」スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演、キャサリーン・ゼタ=ジョーンズ助演を観る。共産国出身の主人公の父の夢はアメリカのジャズにある。息子であるトム・ハンクスが、今は亡き父の夢、サクスフォーン奏者ベニー・ゴルソンに会うという物語である。鑑賞後「リー・モーガンVol3」を聴く。全編、ベニー・ゴルソンの作品。3つめのクリフォード・ブラウンへの追悼曲をはじめメローな曲が多い。

12月29日(金)
夕方から界工作舎のOB会を青山のイタリアンで行う。久しぶりに難波さんと会う。会の冒頭の挨拶で、「住まいをよむ」の感想を思い切って話してみた。途中から難波さんとの掛け合いになったのは、よかった。何か引っかかる部分が難波さんの中にもあったのだと思いたい。先日の磯崎論、ちょっと前の佐々木さん退職レクチャー本の冒頭文章など、ぼくが引っ掛かっていた疑問が間接的に、しかし大きく膨らんでの応えになっているのは、問題意識の同時代性を感じるも、未熟さもまた感じる。その後に、難波さん抜きでの2次会。皆の難波論で盛り上がった。知識や技術の積み重ねをモノにまでするプロセスに、難波さんにたいする見方が、世代を超えて違っているのが意外であった。難波さんからみて40年、ぼくからみても25年の間に、同じテーマでも考えが振り子のように行ったり来たりしている。こうした状況の説明は、「建築」の存在なくしては語れないと思う。

12月28日(木)
難波さんからの進呈本「住まいをよむ」難波和彦著を読み終える。年明けからラジオ講座がはじまるそのテキストであり、全て書き下ろしだと思う。話し言葉で記述され読みやすい。ラジオ講座テキストであることもあり、住まいを俯瞰的に位置づけている。それは未だ社会的認知度の低い建築家についても同様である。授業で自分の仕事を歴史的に位置づけることをしていても、それを建築家の仕事として拡張することはなかった。びっくりしたのは後半の数章にある。これまでの難波さんらしからぬ社会的制度を個人的な体験から語っているのだ。自分からが拭えない異質性をなんとか重ね合わせようとしているようで、ここに新境地をみた。何かみえないものの存在を捉えようとする姿勢である。そういえば、昔から東大名誉教授にもかかわらず俯瞰的という言葉を難波さんは嫌っていた。

12月27日(水)
ここ2日間の大学への行き帰り電車の中で「オルフェ」ジャン・コクトー監督1949年を観終える。ジャン・マレー主演。マリア・カザレスが死神を演じ、ギリシア神話のオルフェウスを1940年代のパリで焼き直した作品である。イザナキとイザナミが登場する日本書紀とも物語は同じ。黄泉の国では顔を見てはいけないという掟、見返りにこの世で多くの犠牲が発生するというストーリーは同じであるが、死者に近づいてはいけないという教訓的なものではなく、一般にいうところの愛に批判的な作品である。マリア・カザレスの孤高の神秘性がそれを可能にしていた。

12月26日(火)
128 プレミア  バーンリー×リヴァプール 0-2でリヴァプールの勝利。遠藤はフル出場で、連続出場は歴代のプレーヤーに匹敵するものだそうで、しっかりとチームの一員になった。そうなると反対に、三笘などが潰れていったように怪我が心配になる。

12月25日(月)
夜にBSで放送の「ショーシャンクの空に」と「ダーティハリー5」1988年を垣間観る。ショーシャンクは何度目だろうか。いつ観ても清々しい気分になるのは、ハッピーエンドで終わる男の友情を描いたものだからだ。たいしてダーティハリーは、社会派映画で画面もいつも暗い。ロスの街に代表される当時の都会におけるリアルが失われていく病みを明らかにしている。このシリーズは71年からはじまった。NYから文化や問題の中心が移っていったのは、建築と同じである。

12月24日(日)
127 プレミア リヴァプール×アーセナル 遠藤がフル出場。チームに馴染んできた。リヴァプールはアーセナルの厳しいチェックに苦しむとロングボールで対応。最初押し込まれた状況を打開した。完成度のアーセナル、強度のリヴァプールであった。1-1のドローで終わる。

12月23日(土)
「建築の解体」にあるアレグザンダーの章を再読。そこに「高速道路計画におけるグラフィック・テクニックに関するスタディ」1962がある。高速道路を形成する26の条件をグラフィック化し、それに優先順位をつけてグラフィック的に重ね合わせる提案である。これが1964年の「形の合成にかんするノート」へとつながった。磯崎はこの活動を「デザインの科学とでもいうべき領域に決定的な地平をひらいた」として評価する。アレグザンダーはその後、「都市はツリーではない」でセミラチス構造の提案を、そこから「システムを生成するシステム」という報告書を通じて「パタン・ランゲージ」1977年へ向かう。しかし磯崎は、こうしたアレグザンダーの活動が「純粋な論理領域だけにとじこもる」ことをしなかったために、冒険的で泥沼のような困難な領域へとむかわせてしまったともいう。その際に影響を与えた人として、バークレーにいたポール・グッドマンという社会批評家、エリック・エリクソンというフロイト派の自我形成の研究者を挙げる。この時期にエドワード・ホールの「かくれた次元」などの文化人類学から建築・都市への貢献が多いものの、フィールドワークを取り入れた点においてアレグザンダーのユニークさを語っている。そして同様な構造主義的建築作業としてアルド・ヴァン・アイクの「穏健の奇跡」という書物も挙げている。

12月22日(金)
午前中にナチュラルカッコのガラス交換に立ち会い、午後から五反田行き。結露による網入りガラスのひび割れによる交換となったが、大判の開口いっぱいの交換は大変であることを実感。いつものことであるが職人さんに頭が下がる。それにしても透明ガラスは網入りに比べてヌケがよい。
126 ラ・リーガ カディス×ソシエダ 0-0のドロー。久保はフル出場も、激しい守備に決定機をつくれずにいた。過密日程と重なり、どのチームも停滞気味で、混戦状態がこのところ続く。スペインはクリスマス休暇に入り、年明けから再開となる。

12月21日(木)
「ともあれやはり大文字の<建築>を」磯崎新+浅田彰を読む。「Anyway 方法の諸問題」1995年に掲載されている。コジェーヴの「歴史の終わり」を受けて「日本的スノビズム」を批判したものだ。「日本的スノビズム」とは「グローバルな資本主義の場所なき偏在、剰余価値を生み出しさえすれば、どんなもの、どんなやりかた(any way)でもいいという、そのシニカルなプラグマティズム」をいう。それを建築に限っていえば、「西欧建築の<構築的(コンストラクティヴ)>な性格にたいして、日本の(伝統)的建築の<構成的(コンポジション)>な性格」、もっと具体的にいうと< <構築的>は技術的、生産的な近代建築的視点、<構成的>は美的な視点であり、それが無原則な記号のゲームによって展開されていったことをいっている。そしてその源に大文字の<建築>があるらしいという結で終える。ではなぜ「日本的スノビズム」が批判されるか、それはこの論考で明確である。「表層的な差異の氾濫」をよび、それが「無差異と無関心の飽和点に近づき、しかもそのすべてが巨大な同一性の中に囲い込まれていることが露呈されてしまう」というのだ。反動としての全体主義である。それを受けて同誌に掲載されている柄谷行人の「「物自体」について」を読むとこの問題の核心をまたついてくれる。ここでも、磯崎+浅田のいう日本的、あるいは西欧が「歴史の終焉」後に見出した<構成的>なものを否定し、<統整的>という言葉を使用してぼくたちの進むべき次のステップを説明している。<統整的>とは、「現実的な歴史的諸条件によってもたらされた現実的諸矛盾を克服する不断の運動過程」のことをいう。そして結論は、カントのいう「物自体」への再考である。物自体が示す世界観は、さまざまな発展段階が同時的に共存するような世界であるといい、ひとりひとりが思い描く能動的世界=現象は違っていても、その差異をもたらす階層が上の超越論的何かを示唆している。ひとつの本の中に大文字の<建築>と物自体があって、びっくりした。

12月20日(水)
午後から卒業設計の図面審査会。出来があまりよくなかったのは、自信の裏返しかとも思う。悩むことはよいことなので、本番に向けて期待したい。

12月19日(火)
「曖昧の七つの型」ウィリアム・エンプソン著を読み、エンプソンの曖昧の7つの型の再整理。第1の型は色々な意味をもつ言葉や文章の曖昧。「だがしかし」と続けるもの。単純なかたちだけれども中身は複雑など。第2の型は、2つ以上の意味が、文脈において1つの意味になる場合の曖昧。リノベーションによって元の古構造材が新しいインテリアになるようなもの。第3の型は、コンテクストがそもそも異なる2つの関係がつくりだす曖昧。地口(駄洒落)アレゴリーなどである。バロック建築が好例。第4の型は人それぞれが違うことを前提とする多元的な意味での曖昧。デコンストラクチャー。第5の型は、つくりながら変わるというような一貫性のない偶然がよぶ曖昧。ブリコラージュ。第6の型は、そもそも矛盾あるいは不適切で、解釈の幅が大きすぎる曖昧。戦争において両者の言い分があるというようなものか。そして第7の型は、相容れないことを前提とした曖昧である。好例は国連の現状か。これは、近代科学主義を批判する条件として考えられたものである。

12月18日(月)
2年生後期の講評会。課題は集合住宅。敷地に対して余裕のある条件をもてあますことなく発表者は皆よくまとめていた。新しい提案をいくつかあったので、それを言葉にしたりかたちにしたり、次のステップが重要と思い、最後のコメントに記す。かたちまでもっていくプロセスの大切さを知ってくれるとよい。その後で懇談会。今後の設計教育やレヴァレンツの建築(聖ペトリ教会、聖マークス教会)など盛り上がる話は多かった。

12月17日(日)
125 ラ・リーガ ソシエダ×ベティス ベティスの最終ラインを上げて前線を下げるというコンパクトな陣形にソシエダは攻めあぐねる。そのため久保はいつもより低い位置でボールを受けて、中央に切れ込む数が増えた。ここから新境地を見出したいところであったが、0-0のドロー。トップにシルバを置いて、裏に抜け出す対策を十分にしていたのだが、上手くいかなかった。オフサイドで2度もゴール取り消しも痛かった。相手にはイスコもいて、久保も股抜きドリブルを行ったが、久保もまたやられていた。

12月16日(土)
高校時代にクラスで製作した映画が何十年ぶりに送られてきた。早速鑑賞。あの時代は鬱憤がたまっていたと思うのだが、それを少し俯瞰的立場からエンターテイメント的に描いていた。当時の同級生の監督に感心する。彼はどうしただろうか?映像の切れに関心があまりなかったと思われるが、脚本はよくできていて、クラスメートをキャラクター化した演出は素晴らしい。だからちょっと内輪受けするような映画でクラスメートは楽しむことができ、一方で風景も要所で取り込み時代も反映しようとしている。映画は、長谷川和彦監督の「太陽を盗んだ男」1979年をモチーフにして、ジョン・カーペンター監督の「ニューヨーク1997」1981年のNY設定を母校にしたものであった。よくも学園祭映画でハリウッドを真似る気になったと感心するも、その着眼には感服する。登場人物は皆、閉ざされた高校の外を窓越しにあるいは屋上からいつも画面左方を眺め、ヘンテコな長台詞をいう。これが印象的でもある。

12月15日(金)
虎ノ門の打合せの帰りにオラファー・エリアソンの展覧会に行く。3年前にも、母が入院している合間をみて東京都現代美術館に気晴らしに行った。それよりも小規模なものであるが、彼の考えが理解できる展覧会であった。「瞬間の家」と訳された「Your split second house」という水を使った作品のコメントがいい。「瞬間とは、2つの秒の間の空間である。過去と未来の間の隙間であり、単に今であるというだけでなく、今の「空白」の部分である。(中略)エリアソンの友人で生化学者のオットー・レスラー曰く「宇宙飛行士がブラックホールから脱出するのに、どれくらいかかるか?およそ1日だが、ブラックホールの中にいない人間にとっては永遠である」」。うねるホースから出る水滴がフラッシュ光にさらされ不定な動きをする作品である。解説によるとエリアソンは、ユークリッド幾何学に疑問を持ちB・フラーに接近したらしい。同様なJPタワー棟のエントランスホールから吊られた作品は、亜鉛精製時に出る有害物質を双対称十一面体のモデュールへと固形化し、それを連続させた幾何学彫刻である。そこに見出された作品のねらいは「すべてのものごとは、たとえ安定しているように見えるものさえ、大きなスケールでみれば動きの中にある」ということである。それを本展覧会ではオルタナティブな幾何学の前景化といい、その方法は無限数あって当たり前のものなどなく、エリアソンはそれにたいして色々と口を出すべきという。彼特有の環境に対する考えでもある。この作品があるホールに面しているのがヘザウィックの広場であり、似たようなアプローチにもかかわらず、それとは雲泥の差があり、口の出し方も上手くないといけないと思った。前回の展覧会では、エリアソンはティモシー・モートンに度々言及していたと記憶する。この展覧会では、ダナ・ハラウェイのnaturecultueに移っているのは時代の趨勢かとも思う。
125 EL サン・ジリワーズ×リヴァプール 既に1位通過が決まっているリヴァプールは、若手中心でのぞんだ。そんな中遠藤は中盤そこで先発。グループステージ突破をかけて勢いのあるチームにたいして、遠藤は上手くビルドアップさせることができなかった。クロップいわく「予定通り」とはいえ、前半で交代させられる。1-3で負ける。したがってあまり評価も高くない。

12月14日(木)
午後からオンライン会議。夕方から学科の懇談会。その前に、頂いたハットの寸法直しとMUJIギャラリで開催されている「渡し船―からむしの営み」展を寄る。チョマと呼ばれる草から繊維を取りだして工芸品になるまでの過程を展示。こんなところにも沢山の埋もれた文化があるものだと思う。この繊維をからむしと呼ぶそうで白く繊細である。そこからつくられる越後上布や小地谷縮も美しい。124 CL アトレチコ・マドリード×ラツィオ 残り30分から鎌田が登場。やはりとけ込んでいない。対称的に鎌田からポジションを奪っているグエントゥージのダイレクトパスは効果的。0-2でアトレチコの勝利。 

12月13日(水)
3年生後期の設計4の評会を、オブ・アラップの佐々木仁さんと竹中工務店の設計部長伊藤琢さんをむかえて行う。伊藤さんの竹中での活動の中で、いくつか興味深いことがあった。バンダイ社の作品はボックスインボックスになっていて、中のボックスを壊すと大きな一室空間になること、シカゴでは結露しないということ、他にその後の懇談会で知った、アメリカと日本の安全率の考えの違いなどである。日本ではむやみに2重防水をするのだが、アメリカは簡易な防水をして漏ったところだけを防水の補強をしていくのだという。それの方が合理的だと考えるのだそうだ。レクチャー後に4時間くらいかけての各スタジオからのプレゼ。残念ながら佐野+遠藤スタジオの作品は好評を得ることができなかった。その理由は佐々木さんの総評に代表されていると思う。佐々木さんは自身がエンジニアであることを前置きして、建築の強いモチベーションを求めていた。その後に技術論がはじまると。伊藤さんの総評はとても現実的だ。3つの大切さを挙げていた。ひとつは周辺環境への意識の高さ。置かれることによって周囲がどうなるかである。2つめは、もう少し視点のスケールを小さくして、建物と敷地の余白の提案。建物を大地に馴染ませろということである。3つめは未来に対する意識。研究所の平均寿命は52年だそうで、それを意識した建築の要求である。来年からはぼくのスタジオでは、建物規模をもう少し大きくして、まずはダイナミックさが出せるようにしよう。
123 CL インテル・ミラノ×ソシエダ 試合前からアルグアシル監督は、引き分けでもよい状況にもかかわらず、攻めなければ負けるといっていた。その通りにソシエダは開始当初からの前線の激しいプレッシングを続け0−0のドロー。1位通過を決めた。この激しいプレッシングから、流石にイタリアチャンピオンインテルからゴール奪取へと結びつかなかったが、彼らの攻撃のかたちには持っていかせなかった。後半になって前線が疲れはじめると、少しずつメンバーを入れ替えて強度を保ち続けたのは、第1戦からの反省。その交代要員に久保もいる。最後まで残ったのはキャプテンオヤルサバルで、久保もこのポジションをつかんでほしい。最後まで頼りになる存在で、実際オヤルサバルの走力には脱帽である。

12月12日(火)
ユリイカ「大江健三郎」を拾い読み。青木耕平氏の「1986年のピーンボールー大江健三郎のアメリカ講演後、Japan’s Dual Identity:A Writer’sDilemma」を読み、思うことが多かった。ぼくが難波事務所に勤務してまもなく難波さんに、「女子高生は幸せだな」ということを話した記憶がある。難波さんは呆れていた。この感情は、知らなくてもよいことを、目を丸くして形式化することへの窮屈さをいった戯言に近いものであった。しかし実は違うところに根があることを20年以上経って判ってきた。それは、西洋の建築が政治に完全に分離されているのにたいして、遅れてきた第三世界の日本の建築は、つねに日本の文化や社会的闘争の状況に無意識に置かれてしまっている窮屈さへの疑問であったのだ。純粋な建築などあるかどうか不明で、難しいことであろう。しかしそうした憧れを皆がもっているように思う。今でも。その憧れのイメージを女子高生と重ね合わせている。しかし現実の建築はというと3.11以降、それが捻れて政治への参加が強迫観念として、コミュニティとかに代表されるように益々政治的様相が要求される。しかし現実は上手くはいかない。だからますます窮屈になり若者は自閉的になる。自律どころではない。それに正面きって実行に移した建築家は、伊東さんの活動を観ても、珍しい。流れに身を抗することの厳しさである。青木耕平氏の論考は、大江氏が1980年代後半に正面切って小説においてこの問題に立ち向かったというものであった。

12月11日(月)
総合資格機関誌のインタビューを受ける。ぼくの建築学科に進んだ経緯から研究室の活動内容などのインタビュー。色々と思いつくままに、話題が行ったり来たりしながらの話だったので文章にするのは大変だろうと思った。担当の方は、福島のチョマという植物から採れる繊維を利用した伝統工芸に携わっているらしく(https://atelier.muji.com/jp/exhibition/6275/)、ぼくの活動の話を聞いて、イノベーションと伝統との関係に興味をもってくれたようであった。イノベーションを起こすのも伝統として残りつづけるのもどちらも、水面下に眠っている暗黙知を水面上に表出することだと思う。そのためにぼくらつくり手はそれに意識的である必要があるという話である。しかし自力で行うのは難しく、道具の助け、例えばデザインスゴロクなどの便利な道具があるという話であった。

12月10日(日)
朝、日曜美術館で「倉俣史朗」展を紹介していた。天気もよく紅葉も真っ盛りと思い世田谷美術館へ行く。倉俣のアクリルの中に薔薇をあしらった「ミス・ブランチ」は有名で、これはバブル経済における倉俣の決意の表れだという。インテリアデザインが一般化し消費文化となったそのとき、それを憂いで倉俣は薔薇をしかも造花をデザインに使用する決心したという。その作品を日本では誰も何も批評しなかったが、パリで個展を行い、名作にもっていた。レムのボルドーの家にもこれの洗面カウンターがあった。娘さんは得意げにそれを説明してくれたのを思い出す。展覧会では、ホールにある「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」には座ることができる。このタイトルがジャズのスタンダードであることを知る。倉俣は音楽好きで、この展覧会でもいくつかの愛用のレコードが展示されていた。戻ってからそのいくつかを視聴。「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」はよく聞いていたベニーグッドマンやエラのベルリン講演の最後の曲で有名あることを知る。しかし倉俣の椅子との相違が気になる。他にもグレン・グルードのゴルドベルグ協奏曲やキース・ジャレット、クラシックではマラーが好みで小澤征爾(交響曲1番)やバーンスタイン(交響曲9番)があった。これも視聴するがいまいち合点がいかなかった。

12月9日(土)
122 ラ・リーガ ビジャレアル×ソシエダ 久保が古巣にさいして久しぶりの得点。3-0での圧勝。しかし怪我人が多くなるのが気になる。メディアでは最近、アジア杯で久保の抜ける10試合でもちきりだ。アジア杯後半ではCLの決勝リーグとも日程的に重なっていくという。久保の勝利インタビューを受けたものでもある。好調期に戻しつつあるので、コンディションだけ気を付けてもらいたいと思う。

12月7日(木)
「曖昧の七つの型」ウィリアム・エンプソン著を読み始める。エンプソンは数学出身だけあって、誰もが当たり前と考えるであろう曖昧さ=アンビギュイティを、詩を題材にして分析を試みる。こうした分析態度は修士設計の時にも役立つと思う。この本でエンプソンは曖昧の7つの型を挙げ、要約によると、第1の型は色々な意味をもつ言葉や文章の曖昧。これは通常の意味での定義できない曖昧でコンテクストが大きく係わる。第2の型は、2つ以上の意味が融け合って1つの意味になる場合の曖昧。第3の型は、コンテクストがそもそも異なる2つの関係がつくりだす曖昧。地口(駄洒落)アレゴリーなどである。第4の型は人それぞれが違うことを前提とする多元的な意味での曖昧。第5の型は、つくりながら変わるというような一貫性のない偶然がよぶ曖昧。第6の型は、そもそも矛盾あるいは不適切で、解釈の幅が大きすぎる曖昧。そして第7の型は、相容れないことを前提とした曖昧である。いずれも詩を場合分けしたものである。

12月6日(水)
「エル・アレフ」ボルヘスを読む。最近読んだ短編と同様になんとも評しがたい小説である。小さな世界の始まりアレフが地下室にあったという話で、その邸宅はどうしようもないがある程度の評価がなされている詩人の住まいであったという話で、時系列にそって描かれている。ボルヘスは時間とか巡り合わせとか知識といった科学的に説明不可能な領域のものを空間的に捉えようとしているのが、彼の小説を独特な雰囲気なものにしている。それは迷宮であったり、永遠であったり繰り返しだったりして、現世の言葉で語ろうとしているのがよい。

12月5日(火)
建築ジャーナル12月号磯崎追悼の特集「磯崎新とはなんだったのか」を読む。その中で難波和彦氏の論考「和様化を体現した建築家」は興味深い。「建築の解体」と「つくばセンタービル」を取り上げて磯崎を説明する。丹下健三の大阪万博と60年代後半の文化革命を体現した磯崎は、モダニズムに見切りをつけ「建築の解体」を著し、向かった先が作法=マニエラの徹底によるデザイン(つくばセンタービル)であったというものだ。その磯崎が切り拓いた先には、難波のいう和様化というものがあり、それは「いっさいの歴史的=人間的内容を欠いた形式の洗練、空虚な記号のゲームとしての日本的スノビズム」というものである。ソニーやトヨタがそれであるが、磯崎はひとりのクリエターとして意識的にその道を体現したという論考であった。難波さんは磯崎のこの功を暗に批判している。当然その末端にぼくらもいて、ぼくにたいする難波さんの批評も同じようなものであったと思う。それからぼくは、磯崎の歩みを遡って考えるようになった。磯崎がマニエラに耽ることができたのはその根元に大文字の建築にたいする意識もまたあったからだと。大文字の建築の存在は「アルファベットそしてアルゴリズム」マリオ・カルポ著に代表されるように既に終焉していると現在は考えられてはいる。しかし磯崎の仕事をはじめあらゆる想像というものが自己言及的なシステムによって引き起こされたものと考えると、果たしてそれも疑問ある問題なのだ。

12月4日(月)
ボルヘスの「八岐の園」を読む。時間は一定に進むのではなく、分岐を繰り返しそれぞれに別の時間があるということを描いた小説。ティム・インゴルドのラインの説明を読んでいるようだ。パラレルワールドとかパラレルシフトというべき観念の世界が示されている。

12月3日(日)
「東京物語」小津安二郎監督1953年を観る。年老いた尾道に住む親と東京で家庭を持つ子の関係を冷静に分析した映画である。戦後日本の家族関係の変化を表現している。1950年代の日本人の生活を垣間見ることができ、それは小さく貧しくも清潔で、プライバシーがなくも節度あるものである。ぼくらはついこの前までこれから脱しようと、浸食分離や来訪者のための寝所、子供室などを要望として、住宅を建てるときに根強くもっていた。その中で女神のように輝いたのが原節子で、日本人が求める理想の女性像をもつくっている。ある種のステレオタイプ的に美化されたものを極めた映画であったといってよいと思う。黒澤明と比較されることが多いが、小津の静に対して黒澤のもがきであり、後者がよい。121 ラ・リーガ オサスナ×ソシエダ 1-1のドロー。最近得点がない久保は少しフラストレーションがたまっている。ややチーム状態が崩れかけている証だろうが、監督は高い評価をFWサディクに与えている。ここから悪いループに向かわなければよいと思う。

12月2日(土)
軽井沢に行き、山道を通ってコードマーク御代田に帰りに寄る。株式化して里山の保全を現実化している団体のベースで、そこにカフェが併設されている。太古からここは炭や薪の産地であったらしい。そこで食事をしていたところ、離れたところで主催者らしい人が仕事の打合せをしていた。後で調べると、森田さんという本人で、図書館建築を影から支えてくれる人らしいことが判る。せんだいメディアテークや武蔵野プレイスのコンセプトに関わっている。実際の図書館などの公共施設のネットワークつくりから地域問題のコンサルに係わるようになっていたらしい。夜にNHK特集「生誕120年没後60年 小津安二郎は生きている」を観る。山田洋次やらヴィム・ベンダース監督の証言のもとに小津を紹介する。山田洋次は小津の作品に助監督として携わってきたものも、テーマが日本的すぎて世界には理解されないだろうと思っていたら、80年代からヴィム・ベンダースをはじめ多くの批評家が小津を評価しだしたという。それまで日本の監督というと、それは黒澤明で、建築でいえば丹下健三に重なる。小津は脚本から絵コンテ、街の看板のデザイン、役者の台詞回しや間まで全てをコントロールし、彼の美的感覚を徹底した人で、撮影所は物音しない緊張感に包まれた場であったらしい。古き良き近代主義人である。しかし家族の隠された日常をテーマとし派手でないことで巨匠らしくはない。近景には花が置かれ、低いアングルで何重かで構成された襖や障子の間を家族が行き来する。フェードアウトもなく、役者にたいして正対したシーンが細切れに続く。これまで小津の映画はほとんど観てこなかった。現状を肯定し、そこに夢や批評性がないからであるが、その良さも少し判ってきたような気がする。明日にでも観てみよう。

12月1日(金)
坂口裕康さんの訃報を難波さんの日記を読み、何人かの仲間から連絡が入る。ぼくはというと水曜日の授業中にその知らせが元事務所のスタッフ中永さんから入ってきた。彼は設計の残仕事を坂口さんから引き継いでいたらしい。その知らせで授業に少し身が入らなくなってしまった。坂口さんの写真は曇天が基本で、「今日はだめだな」という坂口さんの言葉を思い出したりしていた。これまでの写真家もそうであるがさらにそれを極めていて、曇天の日に露出を上げて長いシャッタースピードで数枚を撮るのがスタイルであった。場合によってはシャッター押すまでに、ベストの状態を待って数時間かかることもあった。出来上がった写真は正確な画角にどこまでもピントが合っている静寂そのものの写真である。プロの仕事とはこういうものだということを教えてくれた。だから、ぼくもそれに恥じない作品をつくらなければならないと肝に命じていた。坂口さんとの関係は難波事務所のバイト時代から始まり、ぼくのつくった模型の撮影では、完成後の夜に一晩中スチノリの毛羽を取ることが求められたことからはじまる。何人もの写真家と出会い撮っていただいたたが、その熱量が群を抜いていて、竣工写真全てを坂口さんにお願いをしていた。坂口さんもそれに応えていただいていたと思う。エリップスの有名な俯瞰カットは坂口さんだけのものである。ぼくは建築周囲の通行人の交通整理をしていたので、どこのビルから撮ったものか判らないが、それで海外をはじめエリップスのイメージが出来上がった。最近はご無沙汰であったのが心残りである。コロナ禍でも海外雑誌の掲載をお願いしていたので、お礼をしたいと思っていたところであった。思い立ったら直ぐに行動すべき歳になった。

11月30日(木)
午後から会議。夕方から開学記念会。本を持参し学長に挨拶。同時刻からはじまっている学科主催の就職相談会に参加。遠藤研の卒業生2名に会う。元気そうだ。
120 CL ソシエダ×ザルツブルク ソシエダは久保などの主力を大幅に休ませてのぞみ、0-0のドロー。これで最終戦のインテルと引き分けることができれば1位通過が決まる。久保は後半75分過ぎから同サイドのSBトラオレと一緒に登場。慣れたコンビで遺憾なくポテンシャルを発揮する。全くゲームの様相が変わった。相手のマークが緩く、久保自体が元気であるとこれくらいのパフォーマンスを発揮することを知る。しかしゴールを奪えなかった。

11月29日(水)
119 CL ラツィオ×セルティック ラツィオが終盤に得点しセルティックを引き離した。古橋は健闘するもゴールはなし。終了間際に10番の負傷により鎌田も登場。めっきり出場時間が減って鎌田は窮地に追い込まれている。それにしてもラツィオの連動は複雑で、なかなか鎌田が溶け込めないのも判る。

11月28日(火)
午後から大学院生と吉祥寺の絵本屋さんに行く。全員で10数冊をピックアップ。ぼくはいわゆるアーティストが描いた絵本を選んだ。終了後、1階で本棚の素材について少し話し合う。ボルヘスの「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」という短編小説を続ける。実在と仮想の世界が逆転しそうな世にも不思議な物語的なストーリー。仮想と思われていた国が実は百科事典に掲載されていたり、空想と思われていた天体についての百科事典の記述や実物証拠まで発見されたりと、現実が不確かになるという話である。クリストファー・ノーランの映画を紐解いてたどり着いた本であるが、かつては原広司さんとの読書会で「エル・アレフ」も読んだこともある。迷宮とは何かを考える。

11月27日(月)
118 ラ・リーガ ソシエダ×セビージャ セビージャの今年のゲームをCLなどでいくつか観ていて思うのは怪我人の多さによる決定不足であった。しかし、今日からメンバーが揃いはじめる。後半になると、ガス欠になるソシエダに脅威を与えるほどである。しかし、いい雰囲気の時に、ベテラン2人の退場。これで万事休す。前半の2失点が大きかった。ソシエダにとってはなんとか勝つことができたということだろう。両チームとも年末に向けて中2日3日のゲームが続くという。

11月26日(日)
ICCで開催されている「ものごとのかたち」展へ行く。現代テクノロジーによって拡張された新しい現実の可能性を示す展覧会であった。昨日クリストファー・ノーランの本を読み終えたが、その中でノーランのことを「作家主義 la politique des auteurs」監督といっていた。映画は技術の集積ではなく、エクリチュールつまり個人的な表現手段にあるというものである。そう思うと、この展覧会をかたち展というくらいなら、参加者に投げないでもう少し表現=かたちに踏み込んでもよいと思った。その中でも東大の館智宏研究室の幾何学集積からつくるかたちの提案は面白い。へんてこな3次元空間が出来上がっている。

11月25日(土)
蔵前で今年の遠藤研OB会。多くの卒業生が参加してくれた。久しぶりに会うOBもいて彼らの近況を聞いて回った。此処に来ている人は元気なので安心なのであるが、しばらく会っていない人はどうだろうという情報も聞いたりする。会の途中で皆からの還暦のお祝いをありがたく頂戴する。ボルサリーノのバケットハットとお花である。照れる。当日のOBの仕切と事前の現役生の段取りに感謝である。「ノーラン・ヴァリエーションズ クリストファー・ノーランの映画術」トム・ショーン著を読み終える。最後は、左右という概念をいかに定義するかという著者とノーランの対話で終わる。この定義は長年説明不可能な問題とされてきた。つまり現実に存在するにも関わらず客観的な説明ができないということで、ノーランはこれを映画の魅力と重ね合わせている。ぼくの大好きなG・ベイトソンも、この左右の概念定義からトートロジーという独特の考えを説明している。定義することとは結局、トートロジーの網を張っていく作業であるので、将来にわたり完璧さを保証するものではなく、後の発見などによって変わるものなのである。だから、受け手にとって満足いくかどうかでしかないという。ノーランの作品も、まず作品という実物があり、作品は鑑賞者との間で結ばれるトートロジーの面白さに関わっていれ、客観的な説明など不要というのだ。

11月24日(金)
昨日に続き「ボルヘス「伝奇集」」にある「バベルの図書館」を読む。ボルヘスはアルゼンチン図書館館長もしていたらしい。知が生成される無限性を図書館になぞったのが本書である。ボルヘスの言う図書館の構造をイメージすると様々なプランが浮かぶ。しかしこれが天まで消えゆく様はなかなか想像しづらく崇高をかたちづくるものとなる。そう、崇高性がもっともぴったりいくのが、この本である。

11月23日(木)
「ボルヘス「伝奇集」」にある「円環の廃墟」を読む。人や世界は想像の産物であることを表現しようとした短編である。自分も想像の産物であるとしたら話がややこしくなるがそうした物語がシームレスに入れ子状に展開し、決して機能的な読み方では終えない小説であった。だから神秘的で哲学的であったりするのだが、具体的な描写を通じてそれを感じさせているのが建築的でもあり、演劇の舞台を観るようでもある。知の構造を示そうとしている。

11月21日(火)
ギャラ間で開催中の西澤徹夫展「偶然は用意のあるところに」に行く。免疫法をかんがえたパスツールの言葉がこのタイトルのヒントになっている。Chanceを偶然と訳しているのが今風である。展覧会も全体を示すものがなく部分模型で構成される。多くの美術館の会場構成を手がけているとあって配置も面白い。視線移動を飽きさせないものとなっているし、ドローイングも優しい。混迷を追求するモダニストでなく、リアルと夢の間を探求する遊歩的でもなく、ありのままを受け入れる状況的でもなく、社会を主観的に捉えながら信じるものをもっている姿勢は真似できるものでない。

11月20日(月)
「芸術新潮」10月号の磯崎新特集を読む。藤森照信氏のインタビューは面白い。磯崎にはずっと廃墟イメージが源泉としてあったという。「ふたたび廃墟になったヒロシマ」は有名だけれども晩年のカルフォルニアの砂漠に建てられた「砂漠の寝所 Obscured Horizn」は知らなかった。荒涼たる砂漠にポツンと建つ星空鑑賞用のベッドがコンクリートむき出しでできたものである。椹木野衣氏の俯瞰的磯崎論も面白い。「偶然は必然と二項の対をなすけれども、磯崎の思考はそうした軸に沿っていない。もちろんジョン・ケージ言うところの「実験」とも違っている。ではなんと呼べばよいのだろう。この呼び方が難しい。磯崎が使った言葉に沿うならば、それこそが「孵化過程」ということになる」。そして殻を破る孵化、これを荒ぶると表現しているが、この反活動に磯崎の本質をみている。しかしどうだろう。殻の存在なくしてそれはないことを強調すべきだと思うのだ。磯崎が直面した時代から続いている問題と思う。

11月19日(日)
「レザボア・ドッグス」主演のハーヴェイ・カイテルがスコセッシ監督のデビュー作品に主演しているのを知り、「ミーン・ストリート」スコセッシ監督1973年を観る。この映画に、ロバート・デ・ニーロも助演としてデビューしている。デ・ニーロはその後に「タクシードライバー」等のタッグがスコセッシと続く。テーマはニューヨークのリトル・イタリアを生で描くこと。スコセッシの生い立ち映画である。ジェンナーロ祭のシーンからはじまるように、そこにはカトリックの影響が根強い。罪に対する償いを重んじ、償いは教会に対してではなく仲間やファミリーに捧げるものとしてある。だから主人公のハーヴェイ・カイテルは、トラベルメーカーのデ・ニーロを守り続けるが、社会はそれを許さないし、街も彼らを見捨てる。しかし映画はアンハッピーで終わる。懐かしい60〜70年代のヒット曲で映画は進む。ザ・ロネッツの「Be my baby」、ローリングストーンズ「Tell me」「Jimpin Jack Flash」、クリーム(エリック・クランプトン)の「Steppin out」、マーヴェレッツの「Please Mr Postman」。他にはイタリア伝統民謡など。アメリカアンダーグランドの少し暗い時代の象徴を試みる映画である。
117 代表 日本×ミャンマー W杯予選初戦。初戦はいつも引いてくる相手に難しい試合となっていたのだが、今日は危なげなかった。早々に先制でき、その後も追加点を続けることができた。5-0で1本もシュートを打たせなかったと思う。

11月18日(土)
朝早く京都御所を散歩。とてつもなく大きい。途中、菅原院天満宮神社による。ここは菅原道真誕生の地であるという。ホテルチェックアウト後、陰陽師安倍清明を祀る晴明神社へ。堀川通沿いに東向きに建っている。本殿横の桃は厄除け果物であることも知る。昼過ぎに新幹線に乗車し、「プレステージ」クリストファー・ノーラン監督を観る。これも時系列が遡る凝ったサスペンス映画で、ノーランと弟のジョナサンそして妻エマが脚本担当。因縁をもった2人のマジシャンをヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベールが演じる。彼らは根を同じくするが対称的に描かれる。マジックンを技術とみるか芸術とみるか。映画やぼくらに関わる建築にもこれはいえそうだ。それは見た現実をどう判断するかだ。最後の主人公の台詞は印象的である。「客は真実を知っている。世界は単純で、惨めで、つまらないものんだということを。だが、その世間をほんの一瞬だけでも驚かせることができれば、とても特別なものに見られるんだ」。この映画の時系列は緻密で、いくつものシーンが錯綜している。基本となる事件のシーン、盗まれた日記上のシーン、回想シーン、回想シーンの登場人物が回想するシーン、それとタネ証のシーンなど。なかなか飽きさせない映画である。

11月17日(金)
苔寺西芳寺に行く。拝観料を高額予約制にして参拝制限をしているのでそれ程人は多くなく、苔の状態をキープしている。その苔は朝まで雨が降っていたので瑞々しい。無窓疎石(国師)の作であるが、苔は自然発生した結果らしい。その足で、京都のもうひとつの無窓疎石作天龍寺曹源池庭園へ行く。道中の嵐山は人がいっぱいで、オーバーツーリズム。ここ天龍寺も例外ではない。曹源池は地と図が反転していて、妹島さんの作品を思い起こす。外国の批評家もそう行っていたような気がする。早々に切り上げて隣の福田美術館へ。近年できた安田幸一さん設計である。中庭の水の流れをつくることを第1優先としてためかプランは少し窮屈であるが、眼前の桂川への連続は抜群である。どことなく土門美術館を思い出させてくれる。レストランは入館者だけが利用でき落ち着いて昼食が採れた。川に向かう南から差し込む光をガラスプリントの模様で遮っている。伝統に対する距離を置くことに好感がもて、それは屋根の扱いに現れている。亙でなく根太風コンクリートを上手く使っている。道を挟んで隣のホテルも安田さんの設計である。それもみるとやはり外部空間の扱いがこの建築のテーマのようだ。この美術館の収蔵は日本画である。今日の展覧会も江戸時代の絵師たち、円山応挙、伊藤若冲、琳派と狩野派であった。現代を誇る日本画美術館だ。大徳寺へ。紅葉の高桐院は閉まっていた。特別公開中の黄梅院へ。品があり大きい。千利休作の直中庭があり、昨夢軒という千利休師武野紹鴎(たけのじょうおう)の4畳半茶室もある。紹鴎は貧しい家の出身で苦労し、村田珠光の枯淡性を千利休へ伝えたとされる。それが分かる茶室であった。次に興臨院へ。近代和風建築であるが、庭は近代作庭家中根金作。奥に古田織部のかん虚邸がある。かなり複雑な四畳台目茶室であった。その後、内藤廣氏設計の虎屋でお茶をして学生たちと別れる。内藤さんには珍しく切れを前面に出した建築であるが、プランは堂々と実直である。

11月16日(木)
京都行き。新幹線で着くと学生が迎えに来てくれた。ありがたい。その足で特別公開の西本願寺飛雲閣へ行く。この旅行の目的である。飛雲閣の中には入れないが、その大きさを知る。思っていたより大きい。池が小さいので相対的にそう感じるのかもしれない。池とのバランスを考えるとはじめからあったわけでなく移築という説が有力らしい。5つの異なる屋根が印象的。これに魅せられた石井和鉱は直島役所をデザインした。モダニズムが崩れた時代に注目された建築である。異形としである。次に唐門、浪之間、太鼓の間を経て、外から白書院(対面所)を観る。それらは庭の能舞台を囲むようにある。白書院は今日の午前中のみ公開ということで残念であった。東寺に行き、講堂の立体曼荼羅を確かめる。文字に長けていた空海が渡唐し真言密教から得たものは図という曼荼羅であり、それを立体的に表現したものである。その南にあるのが灌頂院で、そこでは密教の奥義が正月の7日間に渡り行われる。以前の東寺展で1/1模型があった。五重塔に入る。ここで大学とWebexミーティング。夕方、銀閣へ行く。3つの楼閣建築の2つめである。飛雲閣を観ると、デザインに物足りなさを感じる。小ぶりにも感じる。修学旅行の学生たちが多く落ち着かない。一度東本願寺裏のホテルに戻り、学生と夕食。新幹線で「レザボア・ドッグス」タランチィーノ監督・脚本・主演1992年を観る。タランチィーノのデビュー作でもある。題名にあるように社会に適応できない悪者の物語で舞台演劇のようである。ひとりひとりのキャラクターが変化に富み、70年代の音楽に沿って出演者それぞれの記憶を遡のぼりながら物語が進む。

11月15日(水)
MARU.architectureを招いてのレクチャーシリーズ。レクチャー前にMARU。に勤めていた岡部くんが来てくれる。3ヶ月前に無事退所したそうで、一緒にレクチャーを聞く。「重なりがつくる建築」というテーマで、「松原図書館」、「生態系と生きる家」、「伊東市図書館」、「花重リノベーション」、「伊賀上野庁舎リノベーション」を説明。どれもが2項対立を超えたシステム、それを生きたシステムといい、それを目指して、近代建築の批判としてある。その方法はぼくが見たところ、比較的強いダイアグラム(かたち)を提出し、それにユーザを巻き込むものである。ただし、そのダイアグラムの提出にデザインの妙があり、押しつけがましくない。それに同意。ぼくはかつてそのことを「串のある建築」といった。串があれば、それにおでんや串カツや焼き鳥など様々な料理に展開する。それは歴史的で、串をデザインした人はすごいというエッセイであった。MARU.の場合は、個々のプロジェクトに沿ってそれは変わっていて、古墳の風景、室温制御の壁、既存住宅の構造システム、坂倉さんの建築、などであった。レクチャーの後に学生の質問が興味深かったというコメントももらう。千葉工大はモノ派だねと。モノの力を信じているのがここからも判る。

11月13日(月)
「見知らぬ乗客」1951ヒッチコック監督を観る。脚本のレイモンド・チャンドラーは、先週観た「湖中の女」の原作者である。同様にストーリー展開が何重にも重なり観るものを飽きさせない。婚約者の妹(ヒッチコックの実娘らしい)と元妻の容姿、焦りの気持ちをテニスのゲームに重ねるなど。当時の1等列車中の様子も度々登場し、当時最新鋭であっただろう遊園地など、1950年代のアメリカ文化も知ることができる。最後のメリーゴーランドでの格闘は、今からすると幼稚だけれども狂気地味ている。ヒッチコックが絶頂期に差し掛かる直前の作品である。自動車の移動中に、気になっていたワーグナーの「ラインの黄金」の聴き比べをする。名盤と呼ばれる1959年ソルティ、1957年クナッパーツブッシュ、それとフルトヴェングラー。昔の録音だけあって音に迫力がないと思う。

11月12日(日)
昨日に続き「内面の発見」柄谷行人著の再読。フロイトの引用が面白い。「抽象的思考言語がつくりあげられてはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくことにあり、それによって、内的事象そのものが、しだいに知覚されるようになったのである」(トーテムとタブーより)。この抽象的思考言語とは、日本の明治における言文一致運動にあり、そこれによって国木田独歩の武蔵野の風景が日本に見出されたという。具体的には、文語表現では語尾に「ツカマツル」とか「ゴザル」によって主語がなくとも誰のことを指すかを理解することができた。それを廃止すると主語が必要となり、他者との関係から中立的な自己が生まれたという。他には語尾の「ケリ」の例もあった。ケリは、よく知られてはいないが過去にあったらしいことをしめす言葉であった。それが「た」になるとこの二アンスがなくなってしまった反面、中性的な語り手と主人公の黙契性を含むことが可能になったという。これらは、作家の自己意識の優位性が一般化していく流れのはじまりとなった。これによって普通であった景色に何かしらの意味を浮かび上がさせることを、「武蔵野」のように、可能にしたという。しかし柄谷はこれに批判的である。この風景はパースペクティブな三人称客観描写で、シンボル的思考に支えられたローカルなモノでしかないからである。ダビンチらのルネサンス時代にこうした三人称客観描写が発明された。しかし彼らが行ったのはむしろそこから漏れた事象と格闘することにあったという。日本では、それが生まれなかったし現在もないというのだ。他に「身ぶりと言葉」の著者ルロワ・グーランも引用されていた。「絵から文字が生じたのではなく、表意文字から絵が生じた」という。「過去を逃れて」1947年ジャック・ターナー監督を観る。ボスの愛人を追う聡明な私立探偵がその女性と恋に落ちたため、その後の幸せな生活も壊れてしまう単純なストーリも、脚本の妙と早い展開、フラッシュバックの多用で、現代でも通じる映画となっていた。嘘と真実がテーマで、嘘が悲劇を呼ぶかと思えば、最後の耳の不自由な少年によって嘘が真実を上回る。ロバート・ミチャム主演でカーグ・ダグラスが相手役になっている。

11月11日(土)
柄谷行人の「風景の発見」を読み、ぼくの書いた崇高論を校正する。建築においても、与条件や調査の結果をかたちまで形式化するときに、いかんとしがたいジャンプをする必要があるのだが、一般にはそうした行為を設計といったり、かたちにするといったり、想像といったりする。その存在の曖昧さをまず疑う必要があるが、基本的にほとんどの人はそれを受け入れている。ぼくもそうであったかもしれない。崇高論を通して知ったことは、この想像というものもカントによると、無限に続く理性として置き換えられる。要するに永遠の目標によって理性的に考えることができるということで、そのためには超越論的仮象というものが必要となる。それが物自体というもので、建築でいえば「建築」はそのかっこうのものとなる。講評後に遠藤研の学生から「結局はわかりにくくした方が先生からのアドバイスを受けやすい」といった批判に対する応えでもある。想像的なものも理性の積み重ねで可能となると考えたい。では次に何に対して理性的であるかが重要となる。
116 ラ・リーガ アルメリア×ソシエダ ソシエダは激戦の後の最下位との戦い。選手のテンションの低さが目立つ中、オヤルサバルだけ気を吐く。彼がキャプテンになる由縁だろう。後半から出場の久保もその戦犯のひとり。不用意にボールを失って同点にさせてしまった。その後、気合いが空回りしたのか、9番フェルナンデスからPK権利を奪おうとして監督に制止させられる。このところ得点ができていない焦りもあるだろう。プレーの違いを見せてはいるが、日本人らしくない久保の若さも出ている。

11月10日(金)
打合せの合間を縫って、国立新美術館で開催中の大巻伸嗣展「Interface of Being」に行く。この夏に、弘前れんが倉庫美術館で観ていたく感動した。それに比べると作品数は少ないものの、揺らぐ布のプロジェクトや巨大な映像作品を観ることができる。タイトルにもあるように大巻のテーマは、見えていないけれど存在するモノの可視化にある。映像作品は「Rustle of Existance」というタイトルで、それは音であり、他にも空気や温度、歴史などを制作を通じて存在たらしめようとする。それにしても、「三月の水」というボサノバの名曲に津軽弁をのせた映像「Befor and After the Horizon」は印象深かった。夜にBSで、戦中の長野松代にあった地下首都計画を知る。敗戦濃厚であった日本政府は、松代の象山麓に大本営と皇居をつくっていたという。

11月9日(木)
修士設計の中間発表。遠藤研から8名が参加。大石さんのジェンダー問題を建築で応えようとしているのは意欲的。オンオフではなくかつユニバーサルでもない多様な場所の提案でそれに応えようとしている。それこそがオブジェクト指向デザインというのでそれを見てみたい。遠藤研ではテーマ設定を直感的に選択することを許すので他者からの共感性を得られることが難しい。小山さんも独特で、原広司氏の有孔体理論とマイケル・ジョーダンを結びつける建築を目指している。原さんの有孔体に、近代建築(思想)から脱却するユートピア性を見出していて、自身のマイケル・ジョーダンにたいする憧れをそれに重ねている。要は外部規定に対する矛盾や不満の爆発あるいは事実矮小化に対する警告が根底にある。それを表現できるとよいと思った。島袋さんが制作したプロジェクトランゲージは、扱う範囲が曖昧であったので、「日常性」であることを明確にして、視覚効果をメインにしていたパタンランゲージから拡げて空気感や時間性なども加えたらよいと思った。鈴木さんの提案は、遠藤研ではじめての都市計画スケールのものであったので、評価が気になった。筑波の都市計画と自分の提案の区別を明確にして、テーマとしている「こねくと」を具体的に設計すればよいことが分かった。関原さんの提案は明確であるので、早くかたちにすればよい。土師さんの提案は、二アンスを大切にするのでいつも冗長性を呼ぶ。それを上手く生かすプレゼがないかと考えるのだが難しい。同様に水口さんの提案は、現代では相応しくないシンボル的建築を肯定するものであるので伝わりづらいが、まずは、シンボル的建築の現代的意義をできるだけ客観的に伝えるとよく、方法が見出せる。それには「エッフェル塔試論」などを積極的に利用するのもよいだろう。そして扱う問題が具体的なものでなく災害という潜在的なものへの啓発にあるので、そのからくりも具体的にする必要がある。幾重にも捻くれているように見えるのは、社会を自分の目で見ていてその境目が無くなっている証拠でもあり、好感がもてる。その立ち位置を示すことで、それが面白さに変わるだろう。それに準ずれば土師さんは3次元的な小説表現を目指すといった方がよいのかもしれない。山口くんの提案では、異形建築が生まれる理由やプロセスというフェーズとそれの現代的意味を問うフェーズ、それぞれを区別する必要がある。その上で2つの差し渡しをはっきり提案するとよい。そうでないと異形建築をつくることが目的となってしまう。面白いのは彼の提案する異形建築もその現代的意味もどちらも、普通や常識を基準にしているところにある。普通から異形が出来ているというのだ。それが説明できると面白いと思う。今村研で面白いテーマの提案があった。それは片山さんの提案で、言語によって異なって見える世界観を示すものであった。片山さんは現代の形容詞的世界観に着目する。柄谷行人はかつての国木田独歩らが見出した武蔵野の風景が日本人に一般化したのは、遠近法の基づく西洋文学からの脱却を日本人が口語的表現を手にしたことによって可能になったといっていた。それを思い出させてくれた。
114 CL ソシエダ×ベンフィカ 前半の3点で試合を決めた。さらに2点くらい入ってもおかしくない状況であった。久保は全ての点のお膳立てをつくる。右サイドに3人を引き連れてそこからフリーとなる味方へのパスで逆サイドへつなげ、得点へつなげている。その後に行われる試合でインテルが勝ち、ソシエダはグループステージ突破が決まる。試合後のロッカールームも異様な盛り上がりであった。
115 CL アーセナル×セビージャ 富安が前半で退く。違和感があったらしい。漸く復帰、ポジションをつかんだの時なのに、大事に至らなければよい。

11月8日(水)
授業の後半で「誰がためのサステイナビリティ」というタイトルでアラップの姉川麻衣さんのレクチャー。新建築で連載中。地球のためという人ごとの問題ではなく、自分のため、自分の子ども世代のための社会をつくるべきというレクチャーであった。かつてのPMV指標は多くの人が不快を感じないレベルを目指していたのだが、実はその基準は怪しく、様々なムラのある場所を設定し選択できることが重要であるということだ。それはぼくが、だらだらした空間といっていることと同じで、池辺のいうデザインスゴロクの中央にあるスタンダードの思想でもある。それは条件によって動き、決してひとつにするべきでないという考えである。働く場で使用するメディアによっても快適性は変化し、かつては紙であった時代、風によって飛ばされない風速が基準になっていたのだが、今ではもっと風を取り込むことが可能となり室内環境の考え方も変わってきているという。紹介してくれたプロジェクトは、小堀さんのロキイノベーションセンター、JR横浜タワー、そしてグーグルのベイ・ビュー・キャンパスである。そこで使用されている空調は床吹出空調で、ムラのある場をつくるには有効だそうだ。ウェルネスパラダイムも紹介してくれた。これは快適性を微分法で捉えるもので、数値が優秀ほどよいものではない。幸せの感じ方と同じであると思った。
113 CL ラツィオ×フェイエノールト 鎌田が久しぶりの先発。ラツィオの守備戦略が複雑であるのがよくわかる。右のIHの鎌田は沢山のタスクが要求される。チェックにいきながら下がり、前のWGや後ろのSBとの入れ替えが激しい。一方攻撃は反対サイドのIH10番中心で、ルイス・アルベルトとの連動が求められていた。それでなかなか慣れるのに苦労している。鎌田に代わって投入されたグエントゥージはアグレッシブにフリーに動くので、鎌田もあまり気にする必要がないようにも思える。終了間際の上田の打点は高かった。1-0でラツィオの勝利。

11月7日(火)
ナチュラルシーム行き。内部が完成したのでその確認。駐車場部分の掲示方法の検討。風に対する対応と乾式工法で行うこと。そして内部の本棚からの流れをもたせることを条件とする。毎週打合せをすることにした。夕方事務所に戻り、簡単な打合せ。

11月6日(月)
インフルの予防接種の後に授業。担当の学生の姿勢がよく、よいエスキスができた。この課題では、どんなコンセプトにせよ、敷地に余裕がありすぎるので、コンセプトを拡張しなければならない。そこがポイントになると思う。来週に期待。

11月5日(日)
112 ラ・リーガ ソシエダ×バルセロナ ソシエダはロスタイムに失点し0−1で落とす。するするとDFライン裏に抜けだしたSBアラウホに見事に決められた。その5分前からバルサが攻勢し出したのだが、それまではソシエダペース。特に前半は圧倒していたと思う。久保をはじめ、ひとつでも決めていたらと思う。したがってゲームMVPはGKのテア・シュテーゲン。久保はというと終始存在感を示していたのが成長の証だと思う。オヤルサバルに代わって今日はフルタイム出場を果たす。

11月4日(土)
午前中の打合せを済ませてから軽井沢へ。紅葉真っ盛りのベストシーズンをむかえていた。簡単な打合せを済ませて夕食。午後過ぎに出たので高速は空いていたのだが夕食はどこも混んでいて、地元の人でいっぱいの小さなトラッテリアで漸く席をとる。カジュアルでとてもよかった。

11月3日(金)
国立西洋美術館で開催中の、ポンピドゥー美術館所有によるキュビズム展へ行く。いつものことであるが、セザンヌからはじまる。セザンヌが近代絵画の父と言われる由縁である。次に展示されているのはピカソとブラック。キュビズムが彼らの共同からはじまったことを今更ながら知った。2人の作品が並列されているので、コーリン・ロウの「透明性」のいう内容がよく掴める。「透明性」で取り上げられている他の絵画は、ドローネのリテラルとグリスのフェノメナル、モホリ・ナギのリテラルとレジェのフェノメナルであるが、彼らの作品もこの展覧会で取り上げられ、コーリン・ロウの選択が意図的でないことも知ることができた。本では、そこからグロピウスとコルビジュエにいき、本展でもコルビジュエの絵画で締めくくられる。この間の第一次大戦までに、対象に向かう画家たちの主体性が自由に放たれていったことがわかる。それは世間も同様で、その延長上に、あるいは恩恵を受けて、現在のぼくらはいることになる

11月2日(木)
朝から院生の梗概チェック。そして夕方から設計小委員会。夜に「湖中の女」1947年フィリップ・マロー監督主演を観る。主演である私立探偵マローの視点がカメラとなって物語が進む。したがって、マローの姿は鏡にしか映らない。通常の映画と異なり、鑑賞者であるぼくたちは自由な俯瞰ができない。相手の視点が真正面となっていることにもそれが表れる。ぼくらの視点が他者に限定されることについて考える。最近のPCゲームがそうだ。実際のスポーツでは、優秀なサッカー選手は現実には自分の視点しかもっていないが、俯瞰して全体を見渡すことができるともいっている。少なからずぼくらはモノとそれを巡る俯瞰という2つの視点を行ったり来たりしている。この映画では、たまにみせる鏡に映るシーンと主人公の解説シーンがあり、それでやっと全体の状況がつかめるのである。この手法は、ベラスケスをはじめとして絵画でよく使われた。建築でもあり得ないだろうか。ひとりで考える設計では客観性を与えることができないので、それを助ける言葉や先生が必要となるのだが、設計自体でそれが行えそうな気がした。

10月31日(火)
午後から虎ノ門行き。夕方、新しくできたOMA設計の虎ノ門ステーションタワーを観る。2つの駅を通す軸線が強烈である。目指すべき終点が曖昧であるが、一連の都市開発を行ったメッセージを感じる。面白いのは、地下鉄が走る様子がエスカレータの人の動きと一緒に見えることだ。それが大きな吹き抜けの内部において起きている。地上のグリッド世界では人が行き交い生き生きとしているが、地下でもそれが起きていることが感じられる。東京特有とは言いがたいが、新しい都市、現代の風景と思う。上へのEV結節点となる7階に行く。ギャラリーの料金が8000円と知りびっくりする。流石に気軽には入ることができない。地階のマーケット風のレストラン街で休憩。この辺りにも新しい工夫がある。ホテルをはじめ店舗はまだ改装中のものも多い。

10月30日(月)
2年生後期第1課題の講評会。幼稚園としてのプログラムを解くこと、そしてそれとは別の、自分の疑問とか気づきとかやりたいことといった発想、この両方から解いていって最終的に合致させるのがよい、ことを話した。そのためには、少なくともそれが出来ているだろう建築作品を観ることからはじめるのがよいと思う。特に上手く設計できない学生は後半ばかりを求めているので、前半を少なくとも行うべきだと思う。
111 ラ・リーガ ラージョ×ソシエダ ロスタイムに同点弾を浴びソシエダには痛いドロー。オヤルサバルが2得点し完全復活しているのだが、全体的に勢いがなかった。CLでの大一番を終えて、何人かが休んでいることもあり、テンションは高くはない。久保も同様と思う。だからこそ控えの選手が頑張るべきであるが、上手く機能しないことも原因である。

10月29日(日)
義理の母の49日と納骨。真言宗では僧侶と一緒に経を朗読した。それは一言二言の長さではないので面食らったが、後半にはその独特のリズムに慣れた。母とも正式にお別れとなる。それにしても父の歯痒い態度に比べて妻は立派だった。考えさせられることが多く、実家に戻ってからタイミングを見計らい妻にはすまないと思いつつもお暇をする。夕方「メメント」クリストファー・ノーラン監督を観る。虚無感を醸し出すのはノーラン独特の演出。複雑な時間の流れを用いる手法はこの作品で生まれた。この映画では、カラーと白黒の場面を上手く使い分け、少しずつ時間を遡っていく。もうひとつ、意味と言葉の関係をこの映画はテーマとしている。言葉による表現は事実の一部しか担わないことから、人はそれを巧みに操作することができる。虚偽となるのは、対話者と共有したバックグランドに反したときである。しかし言葉自体の自律機能に意識的である人は少ない。主人公はそれに意識的で、最後の言葉「I’m different」がそれを物語っている。主人公は社会的不適格者でありつつも論理的で、この両方を巧みに扱う人である。
110 ラ・リーガ バルセロナ×レアル・マドリード ベリンガムの活躍でバルサが2−1で負ける。それにしてもバルサの選手は若く、戦術は一貫していても熟成度が足りないので、マドリーにやられた。今日のゲームはローリングストーンズがスポンサー。選手が特別なユニホームを着て、会場にはストーンズとバルサのコラボアイコニックが飾られる。ニューアルバムがリリーズされたためという。ミックジャガーとロン・ウッドが度々のクローズアップ。

10月28日(土)
GAJAPAN185が届く。ぼくより少し若い構造家の対談と、それに続く若い構造家のインタビュー。その中で、池田の活動を代表してエリップスが取り上げられている。ソフトの可能性を拡げて、小建築にも構造の活動を広めた功労者として、である。そしてその延長に現在があるのだろう。そんな構造界の若い彼らの心情を把握することができるがポリシーが聞けないことが残念でもある。技術も構造も、モデルが微細化する方向へいっている。そこでは、テクニックばかりがクローズアップされてしまう。しかし、そうした状況へのスタンスの取り方もまた重要である。先日の会での名和さんはそのスタンスが明確であった。

10月27日(金)
卒業研究の中間発表。発表後の先生からの酷評に萎えている学生もいる。物事を積み重ねていく論法、特に帰納的方法は、その前段階が否定されると総崩れするときがある。そのために、いくつも逃げ道を用意する必要があるのと、そもそもそんな方法は(設計では)古いと考えるときだと思う。実際の設計では、あるいは思考は何度も何度も試行錯誤しながら前に進む。これをひとつの道筋に落とし込むのは無理であるし、そもそもそのために多くの条件を実はふるい落としてしまうというウソくさい面もある(質疑ではこのふるい落としていることを突いてくることが多い)。アブダクションとはいわないが、無限にある筋道の中で選んだひとつを、相手に納得させることの方が必要なのだと思う。それにはまず結論、特に強烈な結論ありきの状態にして、自分(実行者)の立ち位置を明確にする。その上での他の可能性を投げかけられれば(推論されれば)それは共有ということであり厚みがもたらされるし、拒否が投げかけられればその点のみを修正すればよく、根本が崩されることはない。だから設計においては、形という結論を出しておくのは非常に重要だと思うのだ。カントのいう物自体とは、究極のそれで、それを崩そうと、最近はオブジェクト論などが盛んであるが、まだ論破するに至っていない。

10月26日(木)
ゼミにて明日の中間発表の予行演習。これで一続きの研究プロセスのひとつの区切りとなればよい。これを区切りと判断し、舵を切れるかどうかも、これまでの研究の厚みでありセンスである。
109 EL リヴァプール×トゥールーズ 遠藤が久しぶりの先発。決勝点も決める。今日は開始からボールが回りチームに馴染んでいた。2トップの間の後ろに絶えず位置し、縦への素早いパスを何度も決めていた。この連動性がおそらく遠藤に託された役割だろう。それを見事に実行できていた。クロップの評価も上々。相手との実力差もあろうがプレミアで観たい。

10月25日(水)
遠藤事務所OBの名和研二さんと佐々木事務所OBの鈴木啓さんの構造デザイン賞受賞のパーティを霞が関ビル34Fの霞ホールで行う。佐々木さんと金箱さんの挨拶後の乾杯の挨拶で、名和さん鈴木さんとの出会いと個々の作品評を話す。彼らが学生の頃の90年代、まだまだ構造家というものも定着していなく、かつ構造デザインという考えは、少なくとも意匠学生のレベルではなかった。そのときに今でいうハイテック建築家がヨーロッパに出現してきたこともあるが、非常勤で理大にいらしていた難波和彦さんの影響力が大きかった。技術が規制でなく可能性を大きく引き延ばすことを難波さんは示してくれた。四層構造の前のことである。その芽を池田さんと共に開かせてきたのであるが、彼らの受賞はそれが定着した証でもある。そして名和さんの作品をユニークあるいは独特と構造界で評される理由にも触れた。それは名和さんが、構造の力の流れを切れで表現する他の構造家と違って、彼特有の方法を模索しているためだと思う。だから名和さんは建築家でもあると思うのだが、建築をつくるときの常套句への疑いに焦点をあてていて、そこを前提とする構造家とは異なるということだ。そのためには、建築家特有の鼻がきく気づきというものが必要で、特に変わった考えをした建築家との相性はよくなる。安斎さんは自らを工務店の3代目といっていたのだが、そういう人と上手くいく。それをぼくは、良くも悪くも建築家との関係をインティメイトしていると評した。構造家とのインティメイトには、建築家の考えを上手く拾ってくれて現実化する場合と、曖昧模糊した問題を共有することからはじめようとする場合があって、それは構造家を単なる手段として扱うことと異なるフェーズである。受賞会の後、EDHのOBと会食。皆元気であった。半分はアトリエを構え、半分は大手事務所に勤務している。アトリエの状況はだいたい推測できるので大手事務所の状況を聞いた。近頃の設計は本当に扱うべき要件が多く、それをまとめる建築の役割は大きいという。かつてはコンセプト等を考えることで建築家は知性を満足させていたと思うのだが、現在は条件を解くことでそれを満足させている。それは、ケネス・フランプトンがいっていた結構技術というものが一般化してきたことでもある。ただし、相変わらず形への執着はどちらの場合も別な知性としてある。アトリエ事務所でも、建築コンセプトを嫌い、ユーザー目線での共有を目指すことが最近の傾向である。それは卒業設計などにも現れている。しかしそれは、コンセプトを考えるというひとつの知的作業の顛末にも思えてきた。
108 CL セビージャ×アーセナル 富安が先発。それにしてもアーセナルの戦術は複雑だ。富安は、前線の内側に絞る位置に多くいた。もちろん、ボランチの位置にもいることもあり、守備時には左SBに戻る。それがチーム全体のもとで連動するのであるが、誰かをフリーにするための相手をずらすための動きであったりする。

10月24日(火)
マンジャロッティのドキュメンタリー「アルファベット・マンジャロッティ」の上映会へイタリア文化会館に行く。ぼくの恩師である奥田宗幸教授がマンジャロッティ事務所に留学していて、先生から招待された。マンジャロッティは1921年生まれのイタリアの建築家である。多くのプロダクトも制作している。映画は、あるアラバスター職人のランプ制作からはじまる。この伝統的な作品を、素材のまま真っ白なものにリファインしたのがマンジャロッティであったという。ぼくのマンジャロッティで最も好きな作品「バランゼーテの教会」1957の透ける大理石の壁はこうして生まれたのかもしれない。ぼくは、これをモチーフに「ナチュラルウェッジ」において透ける断熱壁をなんとか制作した。これが日本ぽいと言われる由縁は、マンジャロッティと比べると分かるが、マンジャロッティは無垢で素材感があり芸術品である。フィルム途中でマンジャロッティはフォスターのセンズベリーセンターを強烈に批判していた。それはトラスの足下が剛接合であり、彼の「スナイデロ社のサービス棟」はピンジョイントになっているからである。マンジャロッティは材料の量をフィルムでは問題にしていたが、フォスターは柱+梁がピンジョイントで、マンジャロッティは柱+梁が剛接合である。確かに空間はフォスターの方がヘビーで、イギリスとイタリアの文化の違いかとも思う。マンジャロッティの他のコンクリート作品は柱脚剛のキャンティレバー柱で梁がピンジョイントであるので、もしかしたら鉄骨に向かう時の姿勢を指摘していたのかもしれない。映画では無垢ということがぼくには印象的であった。石の切り出し方法にそれが現れる。それを「重さのデザイン」といっていたのが諸角敬さんで、今日もフィルムで「エロス」と「アゾロ」のコンセプトは同じでもフォルムの違いをそれでマンジャロッティは語っていた。どちらの作品も石テーブルで、その柱のはめ込み式のジョイントは究極である。中間的な素材を新たに使わないものなのだ。マンジャロッティに惹きつけられる理由はここにあるのだと思う。ピンジョイントの軽やかさと対称的な素材感の重さである。日本風のベタベタした手作り感があるものと異なる点である。素材を扱うときの知性と感性の対比といってもよいかもしれない。映画の後、難波さんと奥田先生、そして仲間たちと食事会。
107 CL ベンフィカ×ソシエダ ソシエダはベストメンバーでのぞみ、ポルトガル王者ベンフィカを圧倒した。最もベンフィカの今シーズンの状態は、エースが抜けて最悪らしい。久保は得点に直接絡まなくともMVP。それだけ目立っていた。今期、2番目の出来であったと思う。あわよくば交代前の、中央でのドリブルからの左足を決めたかったが、バーに阻まれた。ソシエダの前線からのチェックはどんな相手にも脅威である。それで後ろも前からのチェックが可能となる。両サイドの久保やバレネチェアをフリーにするための攻撃手順も徹底されていて、それの実行をオヤルサバルの引きつけと中盤3枚の連係にある。そこにSBも絡んでくる。

10月22日(日)
総合型入試のため大学行き。今年から少し方針が変わった。作品タイトルを必要とせずに、制作手順の説明を新たに設定した。つまり、制作意図にストーリーを持たせるのではなく、つくりかたを手順だって考えることを要求したのである。個人的な見解を作品でなく言葉で説明する人が多かったので、モノの成り立ちを客観的に説明してほしいということである。これは実際の設計において、設計根拠を外部条件で説明することにつながる。ただしそこにきちんとした自己がないと作品とならずにありきたりのものになってしまう。あるいはAIなどと変わらなくなる。そうした意図を理解できない受験生には苦しかったかもしれない。

10月21日(土)
106 ラ・リーガ ソシエダ×マジョルカ ソシエダは1-0で辛勝。その得点は後半60分から投入の4分後の久保のアシストによるものであった。その後も圧倒する場面もあるもオフサイドなどの判定により得点できず、危うい時間帯もあった。ソシエダは今日、代表帰りの選手を考慮して多く選手を入れ替えた。前半はそのためか攻撃のかたちにならず。これまでの選手を揃えてた後半途中からかたちになった。

10月20日(金)
午前に目黒のボルボ行き、昼から明日の入試準備と研究室学生の梗概チェック。入試の準備はいつも責任上心が休まない。「ノーラン・バリエーション」トム・ショーン著を続ける。意外と初期作品は観ていないことを知る。最近作は「オッペンハイマー」。意外と当たっているらしい。

10月19日(木)
ナチュラルシームに行き、1/1による現場設計を担当者と行う。次は、駐車場部分の看板や掲示設計と家具の発注、絵本の購入である。大学に行き週末行事のチェック。夜は懇談会。合間に梗概のチェック。梗概を書くことによって、プレゼの流れをつかむことができればよい。

10月18日(水)
先日訪れたデイヴィッド・ホック二ー展で、彼のデッサンがあまりにも技巧的であるのにびっくりして、それを調べる。どうやらホックニーは元々そうした技術をもっていたわけでなく、19世紀前半のフランス画家ドミニク・アングルを研究して後の2000年以降に変わったらしい。ドミニク・アングルは、「グランド・オダリスク」に代表されるように、写真のような端正な形式的な美をもつ画家である。ホックニーはこの画家の絵の正確さから、カメラ・ルシーダという投影機を使用していただろうという結論に達する。なぜならアングルの作品は対象が左利きであることが多く、それは鏡による左右反転だと考えたからだ。それはひとつのスキャンダラスな仮説であったという。それにしたがうと、カラヴァッジオやジョットも、そうらしいというのだ。購入した作品集からホックニーの人物デッサンを観る。残念ながら左利きが多いとはいえなかった。しかしホックニーは、写真や写真技術というものにそこから引き込まれていったのは確実で、彼の後期作品がある。

10月17日(火)
105 代表 日本×チュニジア トップ下で久保が活躍。はじめはチュニジア最終ラインに吸収されていた久保が、やがて右サイド、そして中盤底にまで動くようになる。これはチームの方針かと思うが、守田も連動してあがり、久保がチームの起点となっていた。前半終了間際にこうした連係から日本が得点すると、後半からは左サイドまで動くようになる。2点目は久保が左を深くえぐり、守田とFW上田が潰れた後にボックス内に入ってきた右の伊東が決めた。とはいえ、日本の最終ラインも優秀で全体的に安定。全員守備という前からのチェックが上手く機能している。

10月16日(月)
「Mordern Forms」ニコラス・グロスピエールの写真集をみる。近代建築を外形で分類し、全てがほどよい大きさの正面写真である。曇天のため物静か。過去の遺産のようにもみえる。ウィリアム・エンプソンの著書「曖昧の七つの型」に興味深い曖昧に対する批評があった。「曖昧さは、それ自体で満足できるものでなければ、それ自体が手段であると見なされたり、計画されたりするべきものでもない。どんな場合でも、曖昧さはそれぞれの状況に特有の必要性から生じ、正当化されなければならない」。つまり、ネタバレされないことが重要ということである。

10月15日(日)
午前ボルボに行き、午後から事務所で大学の雑務と研究室の卒業設計の梗概チェック。このところ読んでいるのは「ノーラン バリエーションズ」映画監督クリストファー・ノーランの紹介本である。彼の時空への興味は尽きないようだ。ノーランも挙げているアインシュタインの「双子のパラドックス」を調べる。なるほど空間がゆがんでいるというのも納得する。ノーランは、こうした時空に興味をもち映像化しようとしていて、その描き方に本質がある。それのヒントも示されていて、ボルヘスの小説や、フィレンツエのクーポラ、ローマラテラノ大聖堂のモザイクタイルなどである。

10月14日(土)
自宅のシェードを外し、室内が明るくなった。秋冬に向けての備えをはじめる。夕方買い物に行き、夜に遅れての家族の誕生日会。深夜、インド映画を観てしまう。「マカディーラ勇者転生」2009年ラージャマウリ監督。最近は大ヒット「RRR」を完成させた監督である。とにかく長いが楽しい。アクションあり音楽あり踊りありの3時間映画であった。実は全部を見切ていない。

10月13日(金)
104 代表 日本×カナダ 欧州でCLやELに参加し体を酷使してきた選手が欠場の中、代表は頑張る。4−1で日本の圧勝。開始早々のプレッシングがよかったのと、田中碧がいつも絶妙なタイミングでゴール前にいる。それで得点を重ねることができた。システムは4-1-4-1。トップ下を設けてフランスで好調の南野をそこに置く。

10月12日(木)
重要な会議を中断して、明治鋼業100周年の会のため東京會舘へ行く。明治さんとは家族ぐるみのお付き合いをしてきた。会社は関東大震災時に設立し、数々の荒波を経て今に至るという。今年100年を迎える株式会社は2600社だそうで、50周年を迎える2万社の1割だそうだ。銀行や材料供給会社からの信頼も厚いことがこの会で知れた。そこに参加できて嬉しく思う。東京會舘は、谷口吉郎設計の以前の面影を残しつつ日建設計が高層ビルにリニューアルさせた建築である。宴会の合間に歩き回ると、1階のエントランスロビーには、その当時の猪熊弦一郎のレリーフも保存され、7階の宴会場も当時と同じくして皇居に面していて前面見通せる空間となっていた。ぼくなんかに真似できないのは、装飾と素材の扱いで、大企業だから可能となるスペックの抑えとインテリア部門の技にあり、近代建築を上手く現代に適用させていた。これを越えるヒントは以前の谷口吉郎建築にあるような気もした。

10月11日(水)
ゼミにて卒業設計のエスキス。その中に、風景の発見をテーマにした興味深い提案があった。それを最近流行のオブジェクト指向にむすびつけていたのだが、柄谷行人は同じテーマを別の見方をしている。それは、近代文学者国木田独歩らのロマン主義を通してのものであった。そこでいう風景とは、外を見ない内的人間によってつくられるものであるという。ここまでの解釈は彼の研究と同じであるが、内面とははじめからあったものではなく、夏目漱石や二葉亭四迷らの先輩によって築かれた言文一致運動を経て、そのギャップから生まれたものであるという。つまり西洋からもたらされた巨大な贈り物=小説には日本が克服すべき様々な問題があっただろうが、それをすり抜けたものとして批判されている。ぼくらが直面している様々な現実問題も同様だろう。それを懐かしさという情感を持ち出すことで実は問題を逃避しているのではないかという危惧である。

10月10日(火)
時間の合間を縫って「サンライズ」1927年F・Wムルナウ監督を観る。音楽だけがフィルムにのったサイレント映画。ムルナムがハリウッドに渡りサウンドカメラではじめて撮影したサイレント映画最後の傑作と言われている。物語に川や嵐のシーン、あるいはジェットコースターのある遊園地、ヨーロッパの都市やそこに走る路面電車などが背景として出てくるが、全てがセットであるというから驚きである。セットであるが故に様々なカメラワークが可能となった。そこにはスピード感のある都市と取り残された田舎がある。その代表が車と路面電車、手漕ボートである。白黒映画なので天候とか昼夜が分からない分、それらが浮きだって見えた。それらは建築室内を通して描かれることが多く、セットなので当時のイメージだろうが、部屋は大きなガラスに囲まれ空間容積が大きく四角く、自然光と照明で明るい。この映画のテーマは都市に代表される近代批判であるが、都市は魅力的な世界として展開されている。

10月9日(月)
「エイリアン コヴェナント」リドリー・スコット監督2017が放送されていたので観てしまう。密度のあるカメラワークを日本では真似できない。前に観たとき感じたいくつかの謎も解ける。最初と最後のシーンで流れるワーグナーの「ニーベルング指輪」1部の「ラインの黄金」第4章「ヴァルハラ城への神々の入場」が気になる。早速ショルティ+ウィーンフィルを聴く。大らかな曲調に反して内容は、神々に愛想を尽かしそれを嘆く音楽らしい。嘆くのは黄金を守護する乙女たちで、愛を司る天使のような人である。
103 プレミア ブライトン×リヴァプール メディアの予想に反して遠藤は不出場。やはりまだまだ危なっかしいと指揮官も考えている。三笘もマークがつかれると厳しい。結果は2-2のドロー。リーグもヨーロッパリーグも2節を終えひとまず落ち着き、調子のよかった選手は対策が講じられ陰りが見え始めてきた。まだチームになれていない選手には奮起を期待する。

10月8日(日)
ぼくの所属している建築計画委員会が今年主催するデザインシンポジウムに参加。建築以外の機械や精密、人工知能などの各分野の研究者が最近のデザインについての研究発表をする。そこで2つの傾向を見ることができた。それは、学生の設計におけるアプローチと同じであった。ひとつは、自然現象や人間の思考などにある種の構造が隠れていると仮定してその分析を探求するというもの、建築以外の分野にこうした傾向が多い。しかし残念ながら到底自然や知性にまで及ぶことなく、むしろそちらの豊かさを露呈させてしまっている。手段が目的化されている。それと反対に、これは建築分野に多いのだが、分析や記述をするもののその成果を表す社会的言葉を失っているもの。岡崎乾二郎の抽象の力の大切さを痛感する。かつてほどデータと結論の間における厳密性が求められなくなっている反面、自分の仮説を語る物語つくりに苦労している。

10月7日(土)
東京都美術館で開催中のデイヴィット・ホックニー展へ行く。展覧会の趣旨が明確であった。ホックニーは、鑑賞者をどのように作品に引き込むかを生涯通じて考えていて、素材の選択からルネサンス以来の焦点批判、そして行き着いたのがカメラ+CG技術による多焦点描写という方法である。その技法は当初のiPhoneにあるパノラマ写真のようなものから最近作ではそこに個性を加えていた。大作の「ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作」は、鑑賞者が林のなかに吸い込まれるような雰囲気つくりまで至っている。ホックニーはデッサンも実に上手く、現代作家にあまり感じることができない実直さをもっていることもわかった。若い頃からあった大らかさは現代でも健在で、それが現代で受け入れられている理由だろうとも思う。若い頃の作品「一度目の結婚式」から大竹伸朗の「ジャリおじさん」を思い出す。大竹の経歴を調べたら70年代と80年代はじめにロンドンで親密な関係であったことを知る。ちなみにこのときから大竹のコラージュ・ブック作品がはじまっている。展覧会を後にして近くのアセットベンチャー企業がマネジメントするソーシャルアパートメントの1階にあるカフェで昼食。隣にはコインランドリーがある。現代上層の生活イメージを上手く表現している建築である。

10月6日(金)
101 EL リヴァプール×サン・ジロワーズ クロップは、ビルトアップ時に相手2FW後ろにアンカーを置き、彼らをそこに引きつけてはフリーになった両SBから展開をはじめるというチーム戦術をひく。しかしこのポジション先発の遠藤の動きはどうもぎこちなく、囮であることが見えすぎで、反対にときたま遠藤に縦パスが入ると、おっかなびっくりとした感じである。予定通りとクロップは言うが、後半からマクアリスタに変えると、この連動がスムーズに働いた。遠藤のよさは、前向きで突っかけるディフェンス力にある。ところが、攻めてこない格下相手にこの力は活きない。混雑状態からの単独のゲームメーキングの役割も課せられ、それができるかどうかが今後の遠藤の正念場である。なおサン・ジロワーズは町田が先発し、サラーと対峙。

10月5日(木)
中山のナチュラルシーム行き。いよいよこども図書館の設営準備がはじまる。午後にその脚で大学へ行く。
100 CL セルティック×ラツィオ 日本人が4人も先発に名前を連ねる。前半から果敢にプレシングするセルティックは前田を起点に見事なゴールを古橋が決めた。古橋はCL初得点。ところが実力の差が徐々に見え始め、それをしのぐと今度はラツィオのボールがまわりはじめた。終了間際に逆転する。鎌田は完璧にフィットしていないとはいえフル出場。ほしいシュートも放つ。

10月4日(水)
098 CL ザルツブルク×ソシエダ ソシエダの前半は今季最高の出来であったと思う。いつもより選手間距離を長く保ち、それはザルツブルクがダイヤモンド型で中央を固めていたためで、ワンタッチパスの大きな展開で崩していた。それがフィニッシュまで結びつきプレミアのチームのようであった。オヤルサバルも完全に復調したようだ。久保が開いてつくったスペースを使い、そこでの受け、そして素早いフィニッシュと完璧であった。20年降りのCL勝利だという。ここに来て漸く役者がそろった。
099 CL RCランス×アーセナル

10月3日(火)
昨日大学に行く途中でタイヤを交換した。6.5万キロ走って、ディラーからの変えるべきという進言にしたがう。ちょっと安めの国産タイヤを選定。以前よりフアフアしていてグリップ感がないのであるが、コーナリングではむしろ窮屈感がなくなり、不思議な気分であった。タイヤのラインナップは以前より増えて選択が難しいのだが、スタンドのエンジニアを信頼したものにした。

10月2日(月)
オープンゼミにてぼくの卒業設計を発表。学生のリクエストによる。当時は今と違って、作品にたいする社会的目的意識がそれほど求められていなかった。それはよいこともあり、制作を窮屈に考えることもなかった。だから映画が好きなぼくは、当時バイブルともされていた「ブレードランナー」の世界観を、表参道の同潤会アパートを保存しながらその裏にジェットコースターを走らせることで表現した。スピルバーグ「インディジョーンズ」のジェットコースタームービーもお気に入りのひとつで、めくるめくスピード感を建築のシークエンスに持ち込もうとしたのであった。それを、かたち×構造×機能というフェーズを通して考えようとしていたのはずっと変わっていない。「建築の四層構造」前のことである。

10月1日(日)
097 ラ・リーガ ソシエダ×アトレチコ・ビルバオ バスクダービー。ビルバオはバスク人のみのチームでこの地方の特集性が垣間みることができる。一方他のダービーとは異なり、両チームにいざこざはない。バスクがスペインからはじかれていたので、共同体意識が強いのだろう。青いサポーターの中に赤いサポーターがいても違和感がなく彼らは観戦している。ゲームは最後3-0となり一方的になったが、お互いのチェックは激しく、どちらに転んでもおかしくないゲームであった。そんな中、久保はフル出場。後半早々の速攻を決めてMVP。既に今季5度目である。チームとしてはサディックが溜めをできるようになり、オヤルサバルが復調した模様で、実はこれが大きい。

9月30日(土)
軽井沢の絵本の森美術館へ行く。設計は類設計。ターゲットはこどもでなく大人であった。読む場所の提供というよりも展示室や吉田新一の寄贈図書室を大きな庭に中に点在させ、歩きながら自然を楽しむ空間であった。展示作品も繊細なタッチの絵が多い。軽井沢の気候や湿度のためか、ボックス・イン・ボックス形式の建物が2つあり、どれも中心性の高い建物である。その後、川と床のレベル差が近い別荘を改築したカフェで休憩。グアテマラの中煎が酸味がなくて飲みやすいことを知った。夜、たまたま「サイレンス」スコセッチ監督、遠藤周作原作が放映されていたので観てしまう。キリストは沈黙することで人を遠ざけその絶対的距離を保つものとして描かれる。その結果、主人公の西欧人はその沈黙を解くために熟考し、それが嫌が負うにも自己形成へとつながる。反対に日本人は、頑ななようで自己がないままである。それが改宗を拒むキリシタンの村人にも、改宗という目的達成へ向けて無限の策略を想像する役人にもいえる。彼らには、内容にたいする形式というものが絶対的なものなのである。そうした自己形成を廻る文化の異いが描かれていた。

9月29日(金)
本棚で「トポフィリア」イーフー・トゥアン著を探すも見つからなかった。学生が興味あるというので探した。トポフィリアとは場所愛と訳すことが多い。トポス(場所)+フィリア(偏執)の造語である。たしか民族によって感知する場所が異なるといったことを紹介した本であったと思う。その後にイーフー・トゥアンは「空間の経験」を著し、その調査を思想にまで展開させた。昨日も研究室の紹介で、水面に浮かぶ氷を例にとって、水面上の見られる明示知識よりも水面下にある暗黙知あるいは身体知のほうが遙かに大きいことを話した。そして水面下の無意識なる知識を水面上に引き出す訓練=術を学ぶ必要を説いた。イーフー・トゥアンにおいても同様だ。トポスという場所庫=トピカがあって、そこから引き出されたものがトピックとなる。建築でいうところのそれは空間(コーラ)である。この水面に上げる力のことをイーフー・トゥアンはトポフィリアといっていたのである。

9月29日(木)
096 ラ・リーガ バレンシア×ソシエダ ソシエダはターンオーバーを用いてメスターシャにのぞむ。途中出場と思われた久保はゲームの流れから今日は休養となった。試合は1-0で逃げ切る。ただし得点はセットプレーからで、10人のバレンシアにたいして攻撃のかたちをつくることができなかった。こうした勝ち方もシーズンを通じて必要となるが、なんとも頼りない。

9月27日(水)
都立大の饗庭伸さんを迎えてのレクチャーシリーズ。「人口減少と都市 8333満員の都市計画」というテーマ。通常では、失われつつパイをいかにゲットするかということを考えがちであるが、少なくなったパイをどうバランスよく分配するかという話であった。人口減少から世帯減少、そして空き家の顕在化まで数十年のタイムラグがあるというのが新鮮な見方であった。だからなかなか空き家は顕在化しにくい。そしてそのかたちは風船がしぼむような中央への縮小ではなくて、まばらに空いていくというスポンジ型になるだろうという指摘。だからまだらな穴を充足させるリノベーションによって部分的な活性化が有効でないかという提案であった。それを実証する国立のリノベーションを紹介してくれた。空き家所有者との駆け引きの話が面白かった。結局はファシリテーターが重要であることと、なによりも国立という立地がよかったと思う。ともあれ、都市がスポンジ化する現状を踏まえて、10年掛けて大きなプロジェクトを完成させるよりも、1年の10個のプロジェクトを成し遂げることが縮小時代に過疎を生まない方法であるというレクチャーであった。

9月26日(火)
夕方からの設計小委員会に参加。機械とか人工知能などの様々な学会が参加するデザインシンポジウムが建築学会主催で10月にある。その運営方法を中心に話が進む。

9月25日(月)
3年生に向けて研究室の説明を行う。早いもので今年もこの時期が来た。スケジュール管理がままならないでちょっとドタバタしてしまい、この時期までずれ込んでしまった。ぼくが大学時代から設計を続けることができたモチベーションから現在の研究テーマについてのお話しする。ぼくにとっては、コルビジュエよりもフラーの方の影響が大きく、それを通じて池辺さんや難波さん、そして技術があった。その探求が尽きることなかったので、面白く設計を続けられることができた。設計において重要なのは、美的感覚や発想力といった個人能力の蓄積よりも社会的知識、それを暗黙知といってもよいが、それにどれだけ意識的になれるかにあった。それを有効にするための道具の数々との出会いがあった。その紹介である。

9月24日(日)
今日もアンデルセン行き。船橋市長と副市長がたまたま訪問。八咫さんと共に小山くんがかいつまんで展示内容の説明をする。様々な居場所の提案というコンセプトは的確に伝えることができたと思う。ぼくにたいしては大学研究との絡みを聞かれることが多く、そのときは、素材との格闘や技術的アプローチから生まれる新しい空間形式の探求、という回答をする。今日は秋晴れで、こどもたちのアクティビティが高まりそうであるが、それとは別のかたちを欲する子どもたちが反対にいて、彼らが室内で絵本を楽しんでいた。空間や設えにたいする行動は、ぼくらの想定とは異なり一枚岩的でなく複雑である。その後多摩まで行き、お彼岸の墓参り。夕方戻る。
095 ラ・リーガ ソシエダ×ヘタフェ 久保はフル出場。先制弾を決める。今日もいつもの悪いパターンで、先制するも逃げ切れない雰囲気であったのだが、ターンオーバーの後半から出場の先発組が突き放した。オヤルサバルとメリーノ、そしてスビメンディらの奮起で、ボール奪取、そしてエースオヤルサバルの2点。流れが変わるとよい。

9月23日(土)
今日からアンデルセン美術館のワークショップ。雨のため少なかった参加者が午後から増える。一度臨界点を超えると第2展示室は鬼ごっご状態になり一抹の不安。昼過ぎに会場を後にして建築会館で開催中の故坂上直哉展に行く。今日が最終日。坂上さんの都市的というか土木的アプローチのアート作品を垣間見る。一方で、作品の源泉には新しい技術に関する関心があり、粘菌や昆虫などの生態に向けたミクロな視点もある。南方熊楠も好きだったらしい。坂上さんの多才さを知る。もっとお話をすればよかったと思う。八咫さんに詳しく説明を受けなお一層然うした気持ちが高まった。吉阪さんの八王子セミナーハウス国際館の屋根絵を描いたというスタッフの人にも会い名刺交換。江津市役所の情報もいただく。

9月22日(金)
明治鋼業本社行き。工事日程の確認、購入予定の椅子などを決定する。施設の名前を当座は、「中山えほんの森」にすることにした。当初必要な購入絵本も任されて、絵が綺麗なもので動物をテーマにするものを選定することにした。もうひとつ、屋外エントランス部分に設ける看板と掲示を兼ねた家具が依頼された。室内のデザインした家具と連続して、こどもが描いた絵や催し内容を示すポスターなどを展示できるとよいと思った。建物の補修方法についても確認。最期に次回の打合せを、家具設置後にすることに決定して、本社を後にする。
094 EL ブライトン×AEKアテネ 2-3でブライトンがホームで初戦を落とす。初出場のチームはこういったプッレシャーがあるのかと思う。攻め続けるも3発の速攻でやられた。三笘へのマークもきつく、仲間との新しい連動がほしいところ。今日はファティが先発した。ボールに多く触れていたので、これからに期待。

9月21日(木)
092 CL ソシエダ×インテル 昨季のCL準優勝チームで開幕連勝しているイタリアチームをソシエダは迎える。今日の久保は序盤から圧力を強めるソシエダの中であまりボールに触れていなかった。だが少しずつ攻撃で勢いを手にしていき、彼特有のディテールを前半後半から発揮している。30分には極上のクロスをル・ノルマンに出したものの、このシュートは枠を外れた。疲れを考慮してか75分過ぎに交替。その後プレスが上手く効かずに同点弾を浴びてしまう。これは悪いときのソシエダのパターン。問題は前半のエネルギー満ちているときの決定力にあると思う。
093 CL アーセナル×PSV アーセナルの組織的攻撃にあらためて驚く。こうも機械的に選手が動けるのは安定した個人の技術力と判断のよさからだろうか。その前段階で明確なチーム方針がある。後半中頃から富安も登場。富安の動きがその方針を如実に現れている。左SBとしてであるが、攻撃時には中央よりのレーン上がり目のボランチ的な位置に移動し、DFラインから前へのボールのつなぎ役として働きかつ守備に移ったときの相手FWと中盤の両方を見る初期火消し役となる。この富安が入ることで試合がさらに安定していた。

9月20日(水)
アンデルセン公園美術館行き。今日からオープニング。プレス取材を学生が受ける。大学に戻り午後からチームワーク設計の授業。その初回にぎりぎりに間に合う。田島先生から単著「コミュニティ・アセットにより地域再生」を頂く。アセットというのが面白い。1章は、田島先生のロンドン留学ころからのアセットを巡る歴史である。
091 CL フェイエノールト×セルティック 両者均衡状態からフェイエノールトが抜け出せたのは、個人技術によるものか。退場者も出し、最後は一方的な戦いになった。

9月18日(月)
090 ラ・リーガ マドリー×ソシエダ 国内外からの久保に対する賛辞は止まらない。それだけ前半の久保は無双であった。まずは、開始早々のハーフラインを越えたところからの逆サイドへの長い鋭いパス。バレネチュアが落ち着いてそれを決めた。さらに11分。オフサイドという判定であったが、ゴラッソな得点。アルグアシル監督曰く、チームとしての得点。同サイドのSBトラオレが追い越しかつサイドに開き、CFのオヤルサバルもその後サイドに開き、久保のカットインのコースを空けたシュートであった。その後もフラン・ガルシアを置き去りにする2本のシュートと決定的な浮き球パスを出す。ガルシアをサポートするクロースの股を抜くドリブルもまた圧巻。しかし後半からマドリーも王者であった。フラン・ガルシアをより高い位置に上げ、ロドリゴとソシエダ最終ラインに張付ける。それによってSBトラオレとIHブライスメンデスが下げられ久保が孤立し、ソシエダの右サイドは展開できなくなった。それをみて久保が中央よりに移動するも不発。結局は、久保の右サイドを攻められ1-2で負ける。センタリングを上げたフラン・ガルシアがMVPという皮肉な結果。臨機応変かどうかで真の力が試された試合であった。

9月17日(日)
今日は葬式。会館にて1時間わたるお経。その後出棺し焼場に。喪主の挨拶を義父はできず悲しみを誘う。妻が代読。主とは家に属し人ではない。この実体を垣間見る。ぼくらが普通考える家制度というのは意に反して西洋的なものなのかもしれない。焼場は伊東さんの設計「川口めぐりの森」。前市長が岐阜の「瞑想の森」を気に入って伊東さんに頼んだと聞く。中央にいくつもの焼場があり、それらは閉鎖空間である。周りは控え室でこれも個室であった。うねる屋根にたいして与条件の大変さを感じる。周囲は公園である。池越しに葦などを観ることができ落ち着いている。外環道路沿いで、どちらかというとすさんだ雰囲気のところであるが、よいランドスケープを形成している。うねる屋根のシェル効果を期待するための屋根ライズが大きいのが少し気になった。水平性の強い空間はある種の雰囲気をつくるとも思った。1時間あまりかかり納骨を終える。これらは全て閉じた空間で行われた。バスで会館に戻り精進料理による会食。会食は焼場でも可能のようだが、利権上、それは認められていないようだ。夕方前に解散。実家では仮祭壇がボール紙でつくられていた。夕食せずに家族で帰宅。自宅に皆揃うのは久しぶりである。

9月16日(土)
昼過ぎに義母の出棺。夕方から通夜であるのでだいぶ早い。お寺に付属する会館で行われる。親戚は多い。妻の実家の宗教は真言宗であった。そのお経のテンポは遅い。お経の意味は判らないが、声のトーンから死者を諭しているようにも聞こえる。その後に会食。そのための会館利用である。
089 プレミア マンU×ブライトン 三笘がかなりマークされているのが分かる。ウイングにたいしてSBとボランチの2人が付く。それでもその隙間を縫って得点できるのがブライトンの好調の印。3-1でアウエーで勝利する。

9月15日(金)
BSで「ドライビング ミス デイジー」ブルース・ベレスフォード監督を観る。主演女優ジェシカ・タンディは眼が印象的な俳優であるが、ぼくにとってはなんといってもヒッチコックの「鳥」における主人公の強烈なマゾコン母である。この映画のジェシカ・タンディ演じるデイジーは南部に住むユダヤ人で、黒人を蔑んではいるがそうした自分を快く思っていない気高い人である。彼女とモーガン・フリーマン演じる穏やかなアフリカ系運転手との交流を描く。1950年代から70年初期までの人種差別をはじめアメリカ社会の実体がよくわかった。会社の在り方の変化とかシナゴーグ襲撃、キング牧師の演説、それを巡る黒人たちの様子、警官の差別的視線などである。モーガン・フリーマンの運転する車はアメリカの象徴でもあった。黒いクライスラーから赤い派手なハドソン、そして黒いキャデラック。まさしくアメリカの歴史である。一昨年公開の「グリーンブック」を思い出した。

9月14日(木)
アンデルセン公園美術館行き。その後大学に戻り雑用。「笑い」を続ける。ベルクソンがこれを書いた目的が見えずに苦労する。この本では、笑いあるいはおかしさが生じる状況が語られているのだが、これを一体何に結びつけたらよいかが見えてこない。1,人間のみの現象であること 2.冷静(知的)であること 3.共有意識があること、がその状況分析である。ちなみにこの本はベルクソンの初期の著作であるらしい。

9月12日(火)
昼病院に寄ってからアンデルセン公園美術館行き。20日からの展覧会のための準備は順調のようだ。確認にとどめ夕方に帰宅。夜に義母が亡くなったという連絡が入る。今日は84歳の誕生日でもあった。病院へ再び行き、日が変わった頃に亡骸と共に妻の実家へ。ぼくは滅多に和室を設計することがないが、その和室が機能した。妻の実家は、大きな片勾配屋根の下に幅2間の部屋が吹き抜けを介して2層直列つなぎで配置されている。その一番奥で、空間を見渡せる位置に和室がある。状況が落ち着いた明け方に帰宅。
088 代表 日本×トルコ 今日は4-2の勝利。先発を10人変えるとチームとしての戦略性が弱くなる。今日は前線からのプレッシングが上手く効かずに、後ろもきつそうであった。したがって交替のために遠藤と富安まで出すことになってしまった。攻撃の久保もフル出場。彼らは週末にビッグゲームが控え、日を空けずにCLが開幕する。上手く体調管理ができるとよい。

9月11日(月)
早朝病院。容体が落ち着いた昼過ぎに戻り、再度連絡が入り夕方に病院行き。合間に雑用。「笑い」アンリ・ベリクソン著を読み始める。修士・卒業設計でこの「笑い」をテーマにする学生がかつていたことを思い出しながら読み始める。

9月10日(日)
昼休憩の合間をみて歩いて数分のところにある旧井上邸へ。レーモンドの事務所+自宅を移築した建築である。木造シザーズトラス構造で、軽井沢の教会を横に伸ばしたような建築である。しかし、併設の美術館が展示入れ替えのため休館で、久しぶりに観ることはかなわなかった。父母との会話の中で恥ずかしながら、白井晟一の松井田役場は軽井沢近くの松井田であることを知った。まだ訪れていない。妻から義母の容体について連絡がPPA終わりに入り、1本前の新幹線で戻る。高崎から新宿までは、大宮乗り換えも東京乗り換えも時間は変わらないことを知る。妻と義父を残し、夜に自宅へ戻る。
087 代表 ドイツ×日本 W杯に続きドイツを破る。しかも4−1というスコア。ゲームの流れを支配したといってよい。日本は4−2−3−1でのぞみ、開始時のドイツの激しいプレッシャーに苦しむも、そこを耐えたのがよかった。というよりも危ない場面があったものの、落ち着いたパス回しによってそこを乗り切った。そこへワンチャンスを活かした得点へ結びつけることができた。奇跡かもしれない。伊東のリュディガーとの競り合いからのつま先であった。そしてドイツCBを置き去りにする上田の反応鋭いシュート。2−1で前半を終える。日本にとっての問題は右WGのサネがフリーとなっていったことなので、後半から三笘を下げての5バック。これでは攻撃につながらないので、続けて三笘を戻し、CB谷口を投入して再度5バックの構築し直しをした。それでも上手く攻撃へつながらなかったものの、攻めるドイツにスペースを与えることはなく耐えることができた。そして久保投入。久保が結局2アシストを終了間際に決める。ドイツと日本の力の上下関係を内外に示すことに成功したと思う。

9月9日(土)
大学のPPA活動のため浦和へ。研究室所属の学生の父母からお礼もいただく。ありがたいことだ。その後、次の高崎会場に移動。今日は懇談会となる。駅から離れた市役所等がある城址付近が会場であった。途中、レーモンドの群馬音楽センターも見えた。群馬の同窓会活動は盛んであることが判る。母校愛は素晴らしい。駅近くのホテルにもどり宿泊。

9月8日(金)
時間が経ってしまったが「消費社会の神話と構造」ボードリヤール著を読み終える。最終章に挙げられているのは、1913年の「プラハの大学生」 (ステラン・ライ監督)という無声映画である。貧しい学生が鏡に映る自分の像を悪魔に売り、それを資金として成功をおさめるのだが、追い回される自分の像によってノイローゼとなり死んでしまうという悲しい物語である。消費の論理に支配されてしまった個人的・社会的生活を描写した映画で、自分の像をふくめてすべてが客体化され、利潤との関係において世界は存在する。こうしたストーリーはよくあるがボードリヤールが言わんとすることとは、そうしたモノが中世における悪魔、そんな存在にまで仕立て上げられ、超モノ化されている現状である。そうした過程は神話的であるといい、この本の趣旨、消費社会の神話と構造につながる。

9月7日(木)
日本近代文学の起源」柄谷行人著を読み続ける。中国語版への序文に興味をもった。それを引用。「近代文学は旧来の慣習的な見方を斥けてものを見ようとした。しかし、それは、旧来の文学に慣れた人たちにとっては、むしろ便器(デュシャンの「泉」をいう)を提示するようなものであったにちがいない。ところが、いわば便器のようなものが間もなく尊敬の眼で見られるようになったのである。文学を目指す人はかつて少数であり、呪われた存在であった。夏目漱石もそのような作家であったことはいうまでもない。しかし、1970年代に漱石は「国民文学」の作家として仰ぎ見られるようになっていた。(中略)それはすでに否定的な破壊力をなくしており、国定教科書で教えられるような代物になっていた。それはすでに文学の死骸であった。だから、もしこの時期に「近代文学」が死んだとしても、別に心配する必要はない。それはけっして文学が死んだということではない。最初にいったように、本当に文学の存在根拠が問われ、また、文学の本来的な力が発揮されるのはこれからである」。では、どのような可能性を柄谷は見出しているのか。柄谷は、ネーションというような共同体をつくる力を小説に見出している。そのためにカントの崇高論を持ち出す。「カントによれば、崇高は、対象にあるのではなく、感性的な有限性を乗り越える理性の無限性にある。カントがここで指摘しているのは、崇高が、不快な対象からもたらされること、それを快に変えるのは主観の能動性によってであること、にもかかわらず、無限性が主観にではなく対象そのものにあるかのようにみなされるということである」。「小説」のそれは「建築」においても可能なのではないかと思う。

9月6日(水)
昨日に続く文章「「話のない小説」論争」柄谷行人を読む。大正期小説における脱中心化と構成美についての芥川と谷崎の論争である。この論争は一般には谷崎に分があり、その後芥川は自殺したと言うが、現代の主流はそれに反し脱中心化を歩んでいる。柄谷の嘆きは芥川の自死によってこの論争に幕が下りてしまったことにある。柄谷が言うには、どちらも近代が確立した遠近法にもとづく均質空間によって排除された空間を拾おうとしている点で通底しているという。芥川はセザンヌの絵にあるような脱構成的方法にそれをみたし、源氏物語にあった厳密な漢文学に情緒を盛り込むことに現在の可能性を見出したのが谷崎であるという。問題は、脱中心的か主体による構成美、どちらを優位におくかという選択によって、問題の本質となる、不均質な空間の存在を見えなくしてしまうことにある。建築でいうところの、環境といった外部因子によって設計を組み立てることも、告白というような私的領域から設計をはじめることも同様である。何によって自分が突き動かされようとしているか、あるいはされているかの自覚が大事となる。「対立の形式が、本当は網目状にからまりあっている様態を切りすててしまってはいけない」p219。

9月5日(火)
柄谷行人の「告白という制度」を再読。田山花袋の「蒲団」を巡る社会状況分析からそれははじまる。「蒲団」は、「妻子ある中年の作家が若い女弟子に対して愛欲で悩む姿を、作者自身の体験であると観られるように書いた」小説である。この小説は一般に、「それまでの日本文学における性とはまったく異質な性、抑圧によってはじめて存在させられた性が書かれたのである。この新しさが、花袋自身も思わなかった衝撃を他に与えた。花袋は「かくして置いたもの」を告白した」として評価されている。しかし、フォルマリスト柄谷は、表現されるべき自己あるいは内面がアプリオリにあるのではないと、それを完全否定する。この明治期のキリスト教の影響を色濃く反映した西洋文化が大きく影響を与えているというのだ。そこには、一神教である神が絶対であり、それとの間の社会矛盾から生じるプレッシャー開放のために「主体」が根本あるという考えである。この転倒が、「武士道」理念が崩壊した旧幕臣子弟の自尊心をとられたのだという。だから、こうした告白制度を支えるのは、極端にいうと、権力意志といってもよいというのだ。この柄谷を再読したのは、卒業設計で特に、告白を出発点にするものが多かったことによる。「ティール組織」でもストーリーテリングや振り返りの場が推奨されている。

9月4日(月)
イゼナの前田さんと葛工務店の勝山さんから、シームの床フローリングの状態についての連絡をもらう。どうやら漏水の原因は判明解決したようだ。ただし20年以上経っているので、根本的な修復か部分修復による現状復帰かは迷うところ。とりあえずお見積をお願いして処理方法を判断することにする。

9月3日(日)
085 セリエA ナポリ×ラッツィオ 久しぶりのイタリアのゲームを観る。守備を重視した落ち着いたゲーム運びで、スペインとプレミアの中間に位置づくと思う。鎌田は右のIHで先発。まだまだボールを預けられることが少ないものの初ゴールを決める。これからだ。

9月2日(土)
ホテルを後にして薬師寺へ。金堂の薬師如来と日光月光菩薩を義理母に代わってお参りをする。授業でも話すが、銅像は詳細な表現ができないかわりになめらかで品をつくる。東大寺の普空菩薩や昨日見た聖林寺の十一面観音の乾漆によるものとは異なる。その後に両五重塔へ。西塔が完成し、両塔の中が公開され、彫刻による釈迦の伝記が描かれていた。国宝の東院堂の聖観世音菩薩像は小さくて、いつも心安まる。再び京都へもどり、午後過ぎの新幹線で東京に戻る。新幹線の中で「ベイビー・ブローカー」是枝裕和監督を観る。是枝監督のテーマはいつも家族である。ソン・ガンホ主演のベービーブローカーの仲間内に家族愛が生まれるというストーリー。監督特有の特殊な背景を設定するのはどうかとも思うが、この巧みさが作品たる由縁だろうと思う。ひとりの母親を中心に男たちが動くのは生物的であり、家族とは血でも形式によるものでもなく、放っておくと解体してしまうので、ひとりひとりが踏みとどまってそれとは逆の方向に向かうエネルギーを必要とする、というテーマだろう。これはプリコジンの散逸構造と同じ。エントロピー増大方向に逆らって局所的最大を生むようにエネルギーを費やすことが生であり創造ということなのである。家族もそういうものだということだろうと解釈した。夕方前に自宅に戻る。
085 ラ・リーガ ソシエダ×グラナダ 久しぶりにソシエダが爆発し大勝。久保は脚の違和感のために今週練習を欠席したと聞いていたので、先発は無理かと思っていたところ、躍動し2発を決めた。今日ソシエダはボールをつなぐと共に、スペースに出すことに心がけていたと思う。それで中盤が下がることはなかった。久保の1点目はそこから生まれた。久保は4試合続けてのMOMである。

9月1日(金)
天理駅前にあるnendo設計のコフウンへ。駅前の子どものための遊び場である。室生寺へ。写真家土門拳が最も愛した寺である。土門拳の写真は緊張感があり、全ての部分にピントがあっている。それで土門写真は精巧で緊張感があり、その技術による室生寺の冬の五重塔は有名だ。そうした技法は古典的ともいえるが、そこからホンマタカシが生まれている。土門が愛したという弥勒菩薩が安置されている弥勒堂へ。すっと高い屋根が特徴である。金堂は中まで入ることができ、仏像の説明を受けた。こけら葺きの屋根は改修中で鉄板がはられている。この特徴は、江戸時代に掛けつくりの前面礼堂部分が付け加えられたところにある。これは東大寺の三月堂も同様で、平和な名江戸時代には色々なことが試された。五重塔で全体写真。白い軒先が印象的。五重塔は数多くあれど、見上げる五重塔は羽黒山とこれくらいか。羽黒山より質素であるのがよい。その後みんなは奥の院へ。ここで全体行動を終え、各自で聖林寺へ向かう。栗生さんが最近、聖林寺の十一面観音をおさめるお堂をつくった。到着するとそれに伴い外構周りが整理されたことが分かった。十一面観音は、フェノロサと岡倉天心によって再発見された仏像である。これだけの作品だからもともとは三輪山の神宮寺のものであったという。秘仏であったため誰の眼にもさらされることがなかった。それを彼らが廃仏毀釈から逃れる手助けをしたわけである。光背がなかったのが残念であったが、仏像の後ろまで回れることができるようなっていて、右手指先の微妙な表現まで観ることができた。お堂は半球を傾けて乗せた感じで、ちょっとその半球は傾けている。壁とはシームレスであってもよいと思った。この聖林寺から三輪山を観る眺めは本当によい。その後、まだ時間があったので、安倍文殊院に行くことにした。陰陽師の安倍晴明を祀る華厳宗の国宝の寺で、快慶作獅子に乗る文殊菩薩像を納める。華厳宗であること、文殊菩薩は卯年の守り神で、知恵の神様であるので個人的に気に入っている。参拝者はぼくだけで祈祷してくれるというのでお願いをした。それで国宝の渡海文殊群像の下まで行くことができた。その最中、その隣の従者である仏陀波利三蔵が気になってしかたがなかった。阿倍文殊院を後にし、三島由紀夫も好きだった圓照寺に行こうとするも時間的に断念。奈良ホテルへ。部屋食にしてベッドになだれ込む。

8月31日(木)
修学院離宮にはじめて訪れる。桂が景観を含めて全てをデザインしようとしていることにたいして、修学院は受動的で修景を最大限に利用しようとしている。中離宮から上離宮へ移動するために棚田の中を歩くのだが、それは今でこそ宮内庁のものだそうだが、当時は一般地であったという。その田はこの時期非常に暑いものの、稲穂が頭を垂れて緑の絨毯のようで綺麗だった。ただし、その路地そのものは見えないようなつくりになっている。桂が50年掛けて完成させたのにたいして修学院は3年で完成させたという。つくったとされる後水尾上皇は生涯に60回も訪れ、全て日帰りだったとはいえ、大変愛していたそうだ。徳川からの寄付によって完成させることができたらしい。政治という現実を逃れ美に饗したというのは桂と同じである。上離宮は京都タワーより高く眺めは最高で、池越しに京都の町、そして鞍馬の山並み、そして合間からは大阪と海まで見える絶景である。西に向かっての下る斜面には田畑が続き、その向こうに山並みが見えるのは、ぼくもお気に入りの八ヶ岳西麓と同じで、午後直ぐに暗くなることなく、愛すべき場所である。奈良へ。東大寺に集合し、南大門、大仏殿と観て回る。ぼくはその後みんなと離れて大湯屋、戒壇院、正倉院を回る。戒壇院は修復中。大湯屋は今回も中に入れずに内部を想像するしかなかった。帰り際に印刷工場をリノベしたカフェに寄ろうとしたのだが閉まっていた。しかたなく、奈良街道沿いで休憩。いつものパターンである。新薬師寺へ。今回観て回る寺と同様、これも奇妙な仏像配置をする。かつては大寺院であったが、今はアプローチしにくい入り組んだ高低差のある町中にひっそりとある。本堂は、本瓦葺きで奈良時代の創建を保ち、当時はたいした位置づけのものではなかったという。そのためか屋根の起りは小さく、それが帰って小気味よい。ファサードも端正で、柱間7つの中央3つが開口で両側2つずつが白漆喰。あまり高くない基壇の上に乗っていて、低い屋根と合わさって現代的である。内部に入ると、この時代の建築であって構造体がそのまま見える。新薬師寺の隣には入江泰吉記念館があるが時間がなく断念。入江の写真は明日訪れる室生寺の土門拳と対比させると面白い。その後、磯崎新のなら100年館の地下にある小ホールを借りて4年生の中間発表。その前に大ホールとガラスの中ホールも案内してもらう。大ホールは、設計当初様々な稼働方法が考えられていたのだが、安全性の問題から今は固定されているという。コンサートで観客が跳ねたりするとその振動は構造上問題ないのであるが、心配は尽きないからという。1500人用と聞いてびっくり。十分な大きさがあるからだ。中ホールは誰もが様子を伺えるようなガラス張りの新しいかたちのホールで400人用。楕円の一端を担うホワイエは圧巻である。学生の喜び様も寺院を観るときと違っていた。猿沢池から上がったところにあるオフィスをリノベーションしたホテルに泊まる。池付近は旅館が廃業となり空地となった駐車場が多い。夕食はみんなで三条通沿いの居酒屋で。この辺りの地形は不思議である。南北を走る奈良街道東は奈良公園が広がり高台で、その西の興福寺南の低い三条通沿いは商店街。それより南の東西を走るならまち通りより南は伝統的な住居が残り風情がある。そこには屋根の飛び跳ねが鋭い国宝元興寺がある。

8月30日(水)
レンタカーの予約ミスで研究室の学生と桂離宮から合流。その前に学生は三十三間堂と角屋に行ってきた。三十三間堂の異様さはその仏像がひしめき合って一直線に置かれ、建物の間口が120mもあるところにある。普通の感覚だとオンリーワンでないのでありがたみは薄くなるのであるが、どれも精巧にできていて緊張感が充満している。プログラムの異様さが建築を成立させているよい例だ。角屋は江戸時代後期の料亭である。桂や修学院といった皇族の同様施設との違いがつかめるとよいと思った。しかし2階の部屋に上がれなかったことを聞いて残念。桂のように色鮮やかな襖や貝であしらった部屋があり、どちらも遊び心や好きさはあるが、敷地の使い方に桂との違いがある。何年かぶりの桂離宮へ。なんといってもシークエンスのつくりかたが建築的である。山あり橋あり樹ありで様々な景色を池中心につくっている。とはいえ足下が気になりそれほど景色を楽しめない。飛び石のつくりは、遠州好みというが、はじめは小石がびっしり敷積まれた広めの直線上の道で、それが細くなり平面にヒビいれたように幾何学的な道になる。飛び石もあれば、四角い石が踊るように配置された路地もある。この石を写真家の石元泰博はいたく気に入ったと聞いているが、有機的な自然に対して幾何学を対置させる意識がこの作庭家にはあった。残念ながら、書院の半分が修理中。丹下健三が好んだファサードをダイナミックに観ることができなかったが、その半分からもプロポーションの良さを感じることができるのは、正確な正方形を中心に構成されているからだ。丹下が嫌った屋根も、素材目地が見えずに抽象的だ。想像していたより高さがある。井上章一氏がいうように桂の神話はつくられた作為的ものであるが、この端正なプロポーションは群を抜いて素晴らしいし、丹下の広島平和館でも感じられるもので、モノとして完成度は高い。その後、京都市京セラ美術館へ。あまりにも疲れたので、その前にある前川さんの京都会館で一服。それから美術館エントランスに入る。ポンピドゥーセンターのように吸い込まれるようである。多目的なエントランスホールは真白く抽象的に仕上げられている。床仕上げはフローリングタイルであるが光っていて目地が見えずに、全体としてシームレスな表現となっている。こうして既存を彷彿とさせるものとはなっていないのは、建築家としての主張かとも思う。企画展である「ルーブル美術館展」は東京で経験していたので、常設展のみ行く。そのため中庭や円形状のトイレなどを体験できた。プランはなかなか複雑でカフェやショップ以外に、2階のキャットウォークを使うとホワイトキューブ上の開放テラスやプレイルームなども無料で利用でき、よく練られている。そうした空間はエントランスとは異なり当時の素材をリノベーションした空間となっていた。構成は八戸美術館と似ているが、素材の扱いや来館者ターゲットが違うと、こうも違った空間になるものだと思った。帰り際に、次の時間帯で桂を見学してきた4年生と会い、集合写真を撮る。宿泊する村野藤吾氏の宝ヶ池プリンスへ。途中、その前にある大谷幸夫設計の京都国際会館に寄る。今日も中に入ることはできなかった。思ったより小さい。ディテールが際立っていて鬼気を感じる。宝ヶ池プリンスは重厚である一方、時代を感じる安っぽさもある。それは工業製品にみられた。小さな宴会場で中間発表ゼミを行って今日は解散。

8月29日(火)
「生きるLiving」オリバー・ハーマナス監督を新幹線の中で観る。1952年の「生きる」黒澤明監督、志村喬主演のリメイク版で、カズオ・イシグロが脚本を努めている。オリジナルの「生きる」は、予備校時代に現代国語の先生からえらく薦められたので、当時同級生と岩波ホールに出かけた。その後も数回ビデオで観ていて、ずっと側にある作品である。黒澤監督が面白いのは、特有のおどけたコミカルさをときたま差し込むことにあり、それは葬式での思い出話シーンにそれがもっとも色濃く表れているし、苦情を寄せる俳優はたしかズケズケとうるさい菅井きんであったと思う。志村喬のぼっーとした顔が急にアップになったりして、眼をぎょろっとさせたシーンも効果音と共にあった。そうしたシーンが一層のさみしさを誘うのであるが、本作はあくまでも真っ直ぐに描かれ、それが日英の文化の違いというものだろうか。葬式は家族以外の者にとっては他人事なのかもしれないが、それを道徳で制御するかどうかの違いがある。ちなみに主人公を演じるビル・ナイは、ハリーボッタにも出演し、パイレーツ・オブ・カリビアンではジョーンズ役を演じている。

8月28日(月)
早朝から大学院の入試監督、その後に人事面接を行う。ひとまず解決をしたのだが、問題は尽きない。その後に学生からの相談を受ける。前向きな姿勢は頼もしい。長い1日を終え帰宅。明日からの研究室合宿に備えて、残仕事に取りかかる。

8月26日(土)
084 ラ・リーガ ラス・パルマス×ソシエダ ラス・パルマスは、スペインと言うよりモロッコの隣にある離島、柴崎が所属していたテネリフェと首都を分け合っていることを知った。なんでもチームはバルサカンデラ出身の選手とコーチが多いという。パスをつなぐサッカーをする。前半ソシエダはそんなラス・パルマスのプレッシングに苦しみ全くよいところなし。後半から、SBの押し上げを控えさせて、代わりにIHを時たま下げてボールをつなぐ方法に変更。久保はというと、サイドに張って、そこからの個人突破するも連係まではいかなかった。しかし今日もMOM。ゲームは0-0の3試合続けてのドロー。

8月25日(金)
唐沢鉱泉へ行く。公道から4キロあまりの舗装されていない道を進んで到着する。天狗岳の登山者の入り口となる山小屋にある。とはいえ建物は大きく立派で、こうした温泉では珍しくカード払いも可能で昼食もとれた。打たせ湯のように高いところから湧き出る源泉の水温は低く、浴室が湯気で覆われることはない。四角い2つの浴槽が整然とある大きな浴室であった。その後に、いつものサイクリングショップでコーヒーを飲む。少し小高いところに店があり、そこからずっと田畑が続き、遠くには連峰が広がる。表だってカフェとして営業していないのでいなくゆっくりできる。よくこうした場所を見つけたものだと思う。アメリカ人が経営している。度々妻の実家から連絡が入る。

8月24日(木)
蓼科行き。眺めのよいエコーラインを利用して古民家を陶芸家が改装したカフェで休憩。その後ホテルへ。夕食は外のイタリアンまで出かける。打合せは上手くいった。夜の気温は20度を下回る。

8月23日(水)
「日本の庭」立原正秋著を読み、気づいたことがある。彼らが庭を評価するのは、庭のディテールが優れていることもあるが、芸術そのものが何であることを理解していることからはじまっている。それを理解できない中学時代の修学旅行では、単なる家の庭と変わりないものである。立原正秋にとって美とは現世を脱する距離にあったように思う。作庭家の自律性の強度といってもよいかもしれない。それはそもそも庭が作庭家と庭師、あるいは僧侶との共同作業にあり、政治的影響を色濃く受けていることを前提としているが、その前提が研究によって現在明らかになってきている。

8月22日(火)
京都で桂と修学院に行くというので、父の本棚から「日本の庭」立原正秋著を拾い読み始める。こうした本をなぜかしら遠ざけていた。審美を語る本だからであるが、父はこうした本を好んでいた。とはいえ立原はバリバリの近代主義者である。両離宮のクライアントである後水尾天皇を審美家として崇める一方で、桂の方を詳細に記述し、それは桂に精緻性を見出しているからである。建築では、桂と丹下健三との関係がとかく取り上げられる。が、もうひとつの桂が近代建築に結びつく理由を理解できた。ところで、この本の桂・修学院の章の前後は、夢想疎石と小堀遠州である。両者とも政治に近づいた人で、時代も後水尾天皇の前後である。疎石は禅思想をつくるのではなく表出させた石庭の創始者として、遠州は禅を受け継いだわび思想の草庵茶創始者の千利休を現世化した人として、取り上げられている。近代主義者である立原はもちろん疎石と利休を買うのだが、それを越えたところの審美性を見出している。ここが面白い。桂と修学院を観るのなら、疎石の見学不可能な苔寺ではなくもうひとつの天龍寺曹源池庭園や、遠州の金地院庭園を観てもよいと思った。天龍寺をチェックしていたら、妹島さんとの間にどことなく共通点があることも気づいた。

8月21日(月)
朝食を義理父と一緒に取って昼前に揃ってチェックアウト。ゆっくりとした午前の時間を過ごす。その後時間があったので、息子と一度訪れたかった大丸温泉旅館へ。日帰りは昼の時間しか開いていない。豊富な湯量と高い源泉温度を活かしての川をせき止めた温泉である。景色はよくないものの、河原の中に入る独特な雰囲気を経験する。夕方前に帰宅。体内時計をリセットするためにプール行き。

8月20日(日)
那須のホテルで甥の結婚式。家族皆で出席。チャペルで挙式後、披露宴。最後の甥らしいスピーチは感動的であった。義理母は1月前に入院し退院の目処が立っていない。義理父も、車椅子生活で自立できていない。今日はずっと泣きっぱなしであった。実家隣の家で育った彼には心苦しかったに違いない。そうした中で、理路整然と気配りがなされ、かつ自分の心情を吐露するスピーチであったと思う。彼は栃木の中学校で教鞭をとっている。小さい頃のイメージからほど遠い頼れる真っ直ぐな人間に育っていた。娘たちは夜の新幹線で帰宅。義理父の計らいで、ぼくと息子はホテルに連泊。
083 プレミア リヴァプール×ボーンマス 遠藤が後半65分過ぎから登場。上々の働きであったと思う。なんでも数日前にオファーが届き即断。チームのジェットでリヴァプール行き。全体練習に参加することなくベンチ入りであったそうだ。それだけ、リヴァプールは守備的中盤の獲得に失敗をしていたことになる。遠藤のネームバリュームなさからくる実力をマスコミは心配をしていたが、ブンデスに詳しいクロップの後押しによって実現し、今日のゲームである程度の安心を勝ち得たのではないだろうか。

8月19日(土)
午後から那須行き。渋滞もなく到着。何年ぶりだろうか鹿の湯に立ち寄る。鹿の湯は昔からの湯治場で、1度ごとに温度が違う浴槽がグリット上に2×3個用意されている。白濁の湯で、豊富な源泉からの湯量をそれぞれの浴槽に分けて供給する仕組みである。係の人が念入りにその温度管理もしていて、彼から、脚を浴槽に入れて休むのは体に悪いと注意された。完全に体を抜いて床に腰下ろすのがよいという。その床のスノコは最近貼りかえられたのだろう。以前とは異なり明るく清潔な雰囲気となっている。珍しく家族にも好評。川を渡ってフロントから浴槽までのアプローチもよかった。
082 ラ・リーガ ソシエダ×セルタ 監督は前節の流れをみて、中心選手のオヤルサバルを先発から外す。その左サイドは活性化し、ゲームの流れはよくなった。得点は、久保の右サイドの突破から、左のバレネチアが決めた。と、これまではよかったが、後半からセルタは5バックを採用すると、これまでサイドラインまで張っていた久保がフリーでなくなり、かたちがつくれなくなる。そして終了間際に失点。これはソシエダの悪いパターン。時間がたつと中盤と、変わって投入されたやる気満々の前線との間にギャップができての失点である。2試合連続のホーム開幕というのは数年ぶりのことだそうだが、勝ち点2に留まってしまった。スタートダッシュの失敗である。

8月18日(金)
「「力と交換様式」を読む」を読み終える。それぞれの交換様式において働く力、そしてAの高次元回復なる交換様式Dとは何かをテーマとしていた。Dについては、これまで人は自然をコントロール可能なものとして行動してきたので、それが不可能である前提に立った新しい自然との交換に可能性を感じた。力についてぼくにとっては、それ程に違和感なくその存在を感じることができた。いみしくも「ティール組織」の3つのブレークスルーにおける2つめオープンマインドにおける全体性、これを招くことに重なる。他の2つは、セルフマネジメントすなわち交換様式Aを前提とすること、エボルーショナル・パーパスすなわち結果を予測して逆算して行動するのではなく現実をただ追うことである。アレグザンダーもずっと全体性の必要をいっているし、ここで取りあげられているカントの物自体も同じことだと思う。自分の身の回りにある上部構造、その設定なしには生きられない性、これを力といっているのだろうと思う。

8月17日(木)
子ども絵本図書館の打合せのため明治鋼業本社行き。一通りの案の説明、予算の承認を頂く。椅子についても了解を得た。午後、事務所に戻り、与えられた課題の整理。制作に向けての材料の手配などをする。

8月16日(水)
「「力と交換様式」を読む」を読み続ける。マルクスを直接読んだことのないぼくにとって、マルクスは柄谷、あるいはその周辺から知ることが多かった。この本は加えて、マルクスについての一般的知識を得ることができた。例えば史的唯物論については、以下のような記述である。1)「下部構造とは「生産力と生産関係」です。生産力は人間と自然の関係からくるものであり、生産関係とは生産力に対応して生じる人間と人間の関係である。そして、生産力が増大すると、旧来の生産関係との間に矛盾が生じ、その衝突、すなわち、階級闘争を通して新たな生産関係が作り出される。こうして、経済的な土台の在りようが、観念的・政治的な上部構造の在り方を決定するp133」。もう少し一般化させると、2)「生産力は科学技術をふくめて多様なものですが、物質的な力といってもいいでしょう。一方、上部構造は政治的・イデオロギー的なものです。いわば、観念的な力です。そして史的唯物論とは、観念的な力は物質的な力によって規定されるという唯物論です。したがって、国家・宗教・芸術などの「上部構造」は、経済的下部構造に規定されることになるp134」。そして柄谷がいうには、この構図を成立させるのに、上部構造を越えたところにある種の観念的で霊的な力があるというのである。

8月15日(火)
夕方に時間が出来たので今週末まで開催中のマティス展へ行く。一連の作品を観ながらリテラルあるいは写実とは何かを考えさせられた。「窓辺のヴァイオリン奏者」や「黄色と青の室内」「赤の大きな室内」を観ると、いわゆる透視画ではなく、描かれているものひとつひとつがてんでんバラバラである。鑑賞者たるぼくは絵の中でそれらをひとつずつ目で追うことになる。それは後期の切り絵のコンセプトにもつながっている。建築でいえば、1つの平面図にシークエンスをのせようとするものだと思いたった。しかし建築でいえば、てんでんバラバラでも実際には使用される機能目的もあるし、全体を構成する構造というものがあり、まとまりというものをつくることができる。こうした散漫なものを構成するときにマティスは何を拠り所にするのだろう。事務所に戻り、岡崎乾二郎の「もうひとつの生を生きるーマティスのアオリスト」という解説を読む。アオリストとは、古典ギリシア語に存在する時制方法である。そこに例が上げられている。「空は曇っていた。風も吹いていた。そして誰かがヴァイオリンを弾いた」。こうした時制方法は、「語り手空間から切り取られ、浮き立てさせられた出来事は、背景の上に浮かび上がる図のように、その文に読む者の意識に焦点を与える効果をもつ」ものという。岡崎がいうには、同時代のかつての近代絵画のようにてんでんバラバラにした上で、後期マティスはこの「浮き彫り効果」=アオリストを追求したというのだ。そのために、サインという徴しを用いていたという。「赤の大きな室内」の猫の絨毯などは、絵の中に掛けられた絵や室の床にも描かれていて、それが徴しというのである。展覧会では、4連作の彫刻「背中」が気になったのだが、その作品の意図は地と図のせめぎ合いにあるという。その浮き彫り効果を試したものであるというのだ。ずっと気になっていたアレゴリー的な手法を解くヒントをここに学んだ。ぼくらは切掛けを与えユーザを誘発するところまで考えてはいるが、もう一歩踏み込んで、その状況を指し示しかたちにまでしている人は少ない。

8月14日(月)
旅行中、持ち運びに便利という点で、柄谷の最新作「「力と交換様式」を読む」を読み始めている。交換によって両者間を納得させるなんだか説明の付かない力=物神が働いていることを「力と交換様式」といっている。それはただの紙ぺらに1万円の価値を認めたり、将来年金を受け取れると(ある程度)国家を信用したり、親が無償で子の面倒をみて家族をつくったり、そういったものだ。そして、交換様式C(商品交換)が行き詰まりつつある現在、別の新しい力が生まれて、これによって別の交換様式が要請される、という仮説である。

8月13日(日)
081 フランス モナコ×クレルモン 監督が代わり、南野も生き生きとする。選手本来の実力よりも、いかに自分にあった環境に自分を置くことができるかで、結果が異なることを感じる。これはサッカーだけではなさそうだ。鎌田はその点を虎視眈々と狙っていたのだが、どうだろう。イタリアは来週開幕となる。

8月12日(土)
080 ラ・リーガ ソシエダ×ジローナ 今季開幕。ソシエダは昨年昇格で10位に終わったジローナをホームで迎える。開始早々の久保のゴール。ソシエダはほぼマンツーマンで激しいプレッシングによって幾度となくジローナゴールに襲いかかる。しかし追加点を奪えなかったのがよくなかった。75分にプレシングが弱くなって、やばいと思っていたところ、見事に速攻を決められてしまった。なぜだかイマノルはいつもよりオヤルサバルと久保を引っ張った。それが裏目に出たかたちである。1-1のドロー。ソシエダは勝ち点2を落としてしまった。

8月11日(金)
「今朝は城ヶ倉大橋を見学してから、猿倉温泉へ。建物が新しいのでびっくり。秘湯というと古さを求めてしまう。その後にブナ林を抜けてもうひとつの古い蔦温泉へ。歴史ある旅館で、立派な木材を使用ししっかりしている。源泉の上にヒバ材の浴槽があり、ヒバ材の隙間から湧き出る単純泉である。奥入瀬渓流を通過して空港へ。以前訪れたのは雨だったので記憶が不確かであったのだが、それは雲井の滝であることがわかった。阿修羅の流れなども観る。飛行機は2度遅延し夜遅くに羽田着。大館空港ロビーでなでしこの戦いを観る。前半は圧倒されていたというが、後半は見応えがあった。

8月10日(木)
カーナビに従うと信号のない農道を走り、1時間半あまりをかけて八戸へ。先週まで三社祭であったらしくまだ片付けをしている。車を市役所の駐車場にとめて八戸市美術館へ。田根さんと同様に街に繋がった美術館であるが、街にたいして建築ボリュームが大きすぎると思った。隣の銀行と一体となって、エントランスは北側にあり、どちらかというとそちらに開いているが、建物中央が高いシンメトリーなかたちである。それが原因かと思う。エントランスを入ると大きな吹き抜け空間がそれでありジャイアントルームという。2階のデッキからも見下ろせて、その上のハイサイドから太陽光を取り込む。そこは、市民のための休憩所でカジュアルな閲覧室あった。大きな展示室としての活用も可能で、奥で川俣正氏の大きな彫刻作品があった。南側には様々な大きさをした展示室が並ぶ。市民開放型にもなるし、今日のように入場料を取ってホワイトキューブの企画展示にもなる。「美しいHUG!」という6人展が開催されていた。なんとも相手任せのハプニング的な現代アート展。それは建築にもいえるような気がする。建築が背景となりプログラムを活性化させているともいえるが、他人指向型の建築ともいえる。その後、十和田市街へ。久しぶりの十和田市現代美術館へ。前とはだいぶ展示内容も変わっていて、道路向こうの公園まで草間彌生やアンノウン・マスの屋外作品が伸びている。敷地屋外にはチェ・ジョンファや椿昇の彫刻があり、室内はジム・ランビーからはじまってロン・ミュエク、塩田千春、トマス・サラセーノ、アナ・ラウラ・アラエズ、ソ・ドホ、マリール・ノイデッカー、名和晃平といった作品である。これも街から連続し、さらに建物隙間にある屋外展示やガラスにより街へも連続している。何より来館者が多く、人流の面でも街となっている。以前は外壁に物足りなさを感じたが、奈良美智のキャンバスになって解消されていた。その後、藤本壮介氏の十和田市地域交流センターへ。真っ白の四角い中庭空間は夏の午後には本当に眩しい。建築はL字型でそこにはカフェや大小の会議室があり、その中庭を囲む。建築は交差点の一角をしめ、街に開かれているが中庭がどれだけ異質、非日常空間になるかが試されたのだろうと思う。交流センターは普通カジュアル性が求められるのだが、簡単にはそうなっていないのが、建築たる由縁だろうか。建築が社会プログラムから容易に取り込まれることを拒むように感じられ、建築を自立させている。そこが隈建築や八戸市美術館とは異なっている。八甲田方面へ移動。時間ぎりぎりに間に合って秘湯の谷地温泉に入ることができた。上湯と下湯と泉質の濃度が異なる2つの湯があり、浴槽下にも洞窟風の噴水がある。城ヶ倉温泉で宿泊。

8月9日(水)
能代大館空港から能代へ。はじめに、田根剛さんの弘前れんが倉庫美術館へ。酒造工場がリノベーションされ、当時はおそらく閉鎖的環境であったろうが、芝生公園となって街から連続するシンボル的な建物になっている。そのスケール感がよい。煉瓦の扱いといい屋根トラスの扱いといい素材への執着が感じられ、建築家の歴史へのリスペクトがそのまま空間の質となっている。今年は長期間に渡り大巻伸嗣展が開催されていた。タイトルは「地平線のゆくえ」。場所と時間に強い関心を示した展示で、最後のアントニオ・カルロス・ジョビンのボサノバを津軽弁の唄にアレンジしたイメージビデオに最もそれが表れている。目に映る津軽の春のイメージをただ重ね合わせるだけの映像である。他には、森の深遠さをイメージさせる音と一体となった作品や、暗闇の中でドライアイアスのシャボン玉が揺らぎながら落下する作品、生き物のように反射する布が風になびく作品など、暗闇の中の展示が多く、出口のひとつ手前には真っ白な抽象的な空間を歩かせる対照的な展示があった。どことなく既知観があるもののそこを突破しているのは、作品の密度による迫力だと感じる。展示といい建築といい快い体験であった。その後、前川建築を再訪。木村産業研究所は、コルビジュエを直接彷彿させる1932年の建築である。スチールサッシュやガラスのシール納まりなど、いつの段階かは不明であるが、潔いディテールである。玄関ポーチ上の吹き抜けの扱いが建築構成を決定づけている。奥の丸い大きな出窓などはジャンヌレ邸そのものだ。その後、弘前市役所へ。無骨なコンクリートもスケールが小ぶりなのがよい。城内にある市民会館も同様で、その時代の構造指針にもよるが、プロポーションが前川建築たる由縁である。博物館へ。後期の煉瓦ファサードになると空間がおおらか過ぎると思う。その後弘前城を観て回って、市民会館のカフェで前川建築を堪能する。黒と青、濃い目に着色した木を基調とした空間で、上野の文化会館を小ぶりにした感じである。十和田湖畔のホテルへ。10年前に宿泊した。旧館のエントランスの秋田杉の構造装飾は圧巻。けれどもう少し大きかったという記憶であった。ただ、機能が伴っていないので、過去の遺品となっているのが残念である。その後増築を繰り返しRC造の中庭型となっている。その配置は空気が淀むためか、ガラスは外結露していて淡い色の外壁はカビている。レストランの照明デザインでもう少し質を出せると思うのだが、いわゆる宴会場になってしまっている。温泉は十和田湖を見渡せるゆったりした単純泉であった。


8月8日(火)
「ルネサンス 経験の条件」岡崎乾二郎著にある「アンリ・マティス」の再読。いわゆる作品への没入というものが何かを問うた批評である。没入にはまず、対象と主体に距離があることに意識的であることが前提であるという。マティスのロザリオ教会は、この前提(彫刻/絵画、線/色彩、装飾/図像性、触覚/視覚)を一切否定したところからはじまっているという。なるほど。それをもって実際はどう感じられるか?1/1のある東京展で確かめたい。岡崎がいうには、ぼくらは「語りにくくさせ、ゆえに見損じさせてしまうようなーわれわれの視線を構想しているところの論理的な場」に囲まれている。そこからの自由がマティスの晩年にあったというのだ。

8月7日(月)
会議の後、同僚との親睦会。銀座の国際フォーラムとエルメスといったS造建築を観て回った後に行う。日本におけるS造のはじまりは、横河民輔の三井銀行かと思っていたが、調べてみると小橋先生のいうように、秀英舎印刷工場(1895)であることが、山本学治の本からわかった。これは現在エルメスが建っている対面に建てられていたという。この頃には八幡製鉄所も完成した。ヴィオレ・ル・デュックが教会修復をはじめたというのが1840年、「建築講話」の出版が1862とすると、1985年に鉄骨造が輸入されたのはかなり早かった。ちなみに設計は造船技師の若宮好吉氏。日本では煉瓦との併用で折衷様式に留まっていて、鉄骨造のポテンシャルが発揮できるようになるのは、坂倉が日本館を設計してからである。

8月6日(日)
079 プレシーズンマッチ ソシエダ×ベティス 両チームはここ数年リーガにおいて順位もほぼ同じで、しかし昨年ソシエダはベティスから勝ち点を取りこぼしている。ソシエダにとって来週に開幕を迎える今季を占うカードといってよいかもしれない。結果は1−0。それ以上にソシエダが支配していたゲームであった一方、得点不足は否めない。今日は、オヤルサバルを外し、左にショを入れた。ショは激しく仕掛けるので、反対サイドの久保とともに攻撃的チームになって、ベティスを圧倒していたが、1点である。この現実を監督はどう見るのだろうかと思う。攻撃陣で言うともう1人、辛抱強くプレシーズンを試してきた9番の扱いも気になるところ。ポストプレーもサイドへの斜めの動きにもなかなか中盤とフィットしないので、他の戦術を試したかっただろうと思う。

8月5日(土)
「ハウス・オブ・グッチ」リドリー・スコット監督を観る。主演にレディーガガ。グッチ家の馬鹿息子役にスターウォーズのレン役のアダム・ドライバー。創業者にアル・パチーノという豪華俳優陣。グッチが健在な現在に、こうしたスキャンダルな物語が映画になるのには驚いた。詳しくはなかったが、グッチ家は元々皮製から出発し、それもロンドンのサヴォイホテルのボーイをしていたころに、ハンドバックがステータスになり得ることを知り、フィレンツエの高い職人能力に支えられて世界的なブランドにまで、のしあげた。映画は、その財産に群がる人間模様を描く。レディ・ガガ役の息子の妻は最後に理性が効かずに犯罪に及んでしまう。最後に勝つのは、長い時間をかけた仕込みの上に合法的にじわじわと締め付けるドライな知性をもったお抱えの弁護士であった。つまり、血筋や才能、職能よりも理性に基づく知識が現在資本を牛耳っているということだ。しかしそれは幸福と一致してはいない。

8月4日(金)
最近の学生の考えが気になり、柄谷行人の「内面の発見」の再読。現在当たり前になった小説話法、三人称客観描写、が如何に生まれたかが、明治初期の小説家、二葉亭四迷、森鴎外、夏目漱石の苦悩を通して描かれている。どうやらそれは、言文一致運動から生じたものらしく、それ以前からアプリオリに内面というものがあったわけではないらしい。つまり、主観―客観の基底が、新たな象徴的形式(言語形式)によって見出されたらしいのだ。この本では、この3名がこれと格闘し、これを前提としてすんなりと実践したのが、国木田独歩という構図である。国木田は自然主義者、ロマン主義者として理解されている。これを建築の話に戻すと、如何に西洋文化の「建築」を翻訳するかを苦悩した磯崎にたいして、三人称客観描写を普通に扱えたように、自由に自己表現できる現在のぼくらということだろう。その後文学はどうなっていたか。柄谷は別なところで、規制のない自由な世界では他人に承認されたいという欲望のみの自己が展開されたという。それを他人指向型といい、まったく主体性をもたずに浮動する大衆へとなった。そして、それが「排除」をもたらす新しい権力につながっていったという。

8月3日(木)
アンデルセン公園行き。制作前に美術館側との打合せ。概ね了解を得られる。ただし車椅子対応の展示の仕方が要求された。もっともだと思う。その後、具体的な作品の釣り方や照明方法、運営方法の確認。ここ数日の暑さのため、公園を訪れる人も控え気味であるそうだ。
078 プレシーズンマッチ ソシエダ×アトレチコ・マドリード 0-0のドロー。アトレチコは5バックで、本番さながらの守備チェック。それをソシエダは崩すことができなかった。久保は60分過ぎまで先発。ときおり可能性を示すも、決定機をつくるまでは至らず。引退したシルバと比較されるだろう。

8月2日(水)
「消費社会の神話と構造」ボードリヤール著を続ける。「消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない」という帯にある文章が印象的。製図室で、アンデルセン公園美術館で行われる作品のモックアップを確認。短期間で素晴らしいモノにまで仕上げっていた。いくつかアドバイスして、中山のナチュラルシーム行き。ここでも1/1模型の確認。暑いとはいえ、樹に囲まれて庇がある西日カットの建物にはいる風でなんとか過ごせる。

8月1日(火)
五反田での検査の後、妻の実家に行く。義理の母の様態が芳しくない。コロナ禍で直接本人にも担当医にも会えないのがつらい。病院側に主導権があり、詳細が把握できないでいる。妻も苦しそうだ。「消費社会の神話と構造」ボードリヤール著を続ける。「ガジェット」についての記述が面白い。「マシーンは工業社会の象徴であったが、ガジェットは脱工業社会の象徴であるp178」。ガジェットは、もともと軽蔑的な言葉であった(これは理大の山名先生がいっていた)が、本来の目的性を超えて遊戯性を帯びたものをいう。この遊戯性によって、他のモノと関係して新しい価値をつくっていく。これが現実で、その先に何があるかを知りたいと思い読み進める。面白いのは、このときすでにボードリヤールは、差異を回収するという一見ポジティブな考えもまた否定的に捉えていることである。

7月31日(月)
「消費社会の神話と構造」ボードリヤール著を読み始める。すべてが消費の対象になっている現状を詳細に記述する。キーワードが、パノプリ(パッケージ)とルシクラージュ。モノを離れてストーリーが更新され続けることをいう。そこには、サブカルチャーも感性も肉体や性、そして自然までが含まれてしまう。一般に感性や自然は消費社会とは隔絶したポジティブなものとして考えられているのだが、それすらも消費の対象というのである。こうした消費によって帰属社会への連帯というものは強められる。というのは、柄谷の交換様式と同じ構図である。

7月30日(日)
久保途中投入のソシエダ×レヴァークーゼンのダイジェストを観る。なぜかしら久保はスターティングではなく途中投入となるも切れはあった。しかしチームとしては前線に勢いがなく得点力不足。気になる。
077 プレシーズンマッチ バルセロナ×レアルマドリード アメリカでクラシコ。マドリーは大きく選手が代わっていた。2トップとなりその下に新生ベリンガム。ボランチもモドリッチとクローズでなく、カマビンガとチュアメニだ。バルセロナも中盤にギュンドアンが入り、ボランチにロメウ。プレシーズンマッチとは思えないほどのヒートアップに、怪我人続出。結果は3-0と大差がついたが、内容は5分5分であったと思う。ビニシウスのシュートは多くバーに嫌われていた。

7月29日(土)
桃購入のため山梨一宮御坂まで遠出。例年のようにJAでB級品を格安で購入。ちょっと時期を逸して、好みのブランドではなかったもののまずまずの出来。地元の公共温泉で時間を潰してから戻る。学生から送られてきた研究計画書をチェック。人の自然観は、文化的に深くDNAに根付いているようようで、じつは時代の影響を強く受けている。近代以降大きく変わってその前提は怪しい。こうしたことを記述する書籍がないかを思い巡らせる。科学で言えば村上陽一郎などがある。建築や絵画の分野でもそういった視点をもって実例を紹介するなどした本があるだろうか。三宅理一の「限界デザイン」もそうかと思うが、本棚に見当たらなかった。読書会で取り上げた中沢新一も、そうした方向性を暗示して野生の科学といったりしているが、思想に留まっているので、建築に結びつけにくい。

7月28日(金)
a+uの最新号は、フラー特集。「I am not trying to iminate nature; I am trying to discover the principles she is using」とあるように、フラーは、自分が自然という王様の代弁者であることを終始一貫して語っている。それが現代的である理由でもある。フラーから勇気をもらう言葉は以下。「自分の立ち位置にとらわれることなく、信念にしたがい、世界に向けてそれを表現することではじめて個性というものを獲得できる。人が集まってできる家も同様で個性的であるためには、このことが必要である」。そして、「How much does your building weight?」となるように重量がフラーにとって全てであった。フラーは、シナジェティクスとよく言うが、「シナジェティクスとは、離れている部分同士の振る舞いからは知ることができない全体の振る舞い」のことをいう。そしてそのために「Dare to be naive」。ナイーブであれというのだ。

7月27日(木)
076 プレシーズンマッチ マンチェスターシティ×バイエルン 昨日見たソシエダとは一味も違うことを実感する。まずはミスをしない優れた基本的技術が、戦術や体調復帰の前にある。戦術的には、縦パスを入れるタイミングのよさに差があった。

7月26日(水)
075 プレシーズンマッチ スポルティング×ソシエダ ソシエダは前線こそ主力も、その後ろは控えメンバー中心でまだまだ調整中のようだ。一方のスポルティングは、午前にも1試合を行い、この試合も変更選手を4名のみ配置させる本気モード。ある意味一方的なゲームとなった。ソシエダの球出しを封じるための強いインテンシティでのぞみ、システム変更しながらそこから逃れようとするソシエダを何なりと押さえこんでいた。守田がその中心にいたのは間違いがない。守から攻撃への起点になっていたと思う。ソシエダはシルバが引退。スルロットもビジャレアルにいってしまうそうだ。あまりよいスタートを切れていない。その中で久保は順調な仕上がりを見せる。

7月25日(火)
朝食を新しい食堂棟ですませ、9時には移動。それにしても食堂棟からの眺めはよい。10分ほどで伊東さんの多摩美の図書館へ。以前は全てが見学可能であったが、チェックゲート前までしか入ることができなかった。残念。緩やかな傾斜に沿って、グリッドを批判的に捉えたおおらかなアーチ構造が続く。アーチのRC厚は200ミリ。これを佐々木構造事務所は死守したかったそうだ。カードボードのようで、グリッドに囲まれたスラブ同士の照度の微妙さが心地よい。天上には吸音材が張られているが、響きのある空間は緊張感をもたらす。流れるような緩い空間は、堅いグリッドが崩れることによって強調されている。それから1時間ほどの運転で武蔵野美術大学へ。まずは藤本さんの図書館へ行く。何ら問題なく利用されている。大きく渦を巻く本棚が流動的な空間をつくっている。多摩美図書館程緊張感がなく、おおらかで現代的である。それは開口部の取り方による窓のデザインによるのかもしれない。高い天井からの比較的均質なトップライトがそう感じさせている。2層吹き抜けの本棚いっぱいに本が埋められたところを見てみたい。いずれの図書館も、まずはユーザーの思い思いの自由な場の提供をするための建築的アイデアありきである。いわゆる図書館計画を逸脱したところから出発している。これを逆転させることに建築構成が貢献することに成功している。30分の見学の後、図書館を出たところにある芦原義信氏設計の食堂ホールへ。どことなく吉阪さんと構成は似ているが、力強さがない。絵画演習棟へ。地面からの無骨なキャンティレバー柱の上に一層分の梁グリッドがのり、思い思いのところに三角屋根がかかる構成である。芦原さんの代表作のひとつ。1階は均質なピロティ空間が続く。こちらも全体像が見えずに動き回ることを強いられるが、建築自体は静的であるのが現代の藤本さんと異なる。この2つの中間に伊東さんの図書館があるように思えた。最後に一番奥にある、最近長坂常さんがリノベした15号棟へ。学生と共につくったというプロセスが面白く、完成した建築は倉庫のようで、そこで作品を制作するというカジュアルさが現代的である。このとき、もはや建築家に空間性などは要求されてなく、環境的に快適に過ごせる空間の大きさが求められ、どれだけそれが肩苦しくないかである。これはこれでセンスが必要とされる。ここでひとまず解散し、帰宅。

7月24日(月)
研究室の夏休み前の合宿を、八王子の大学セミナーハウスで行う。昼過ぎに集合して、吉阪隆正建築を観て回る。本館から移動。本館の逆四角錐の倒れかかる壁は、いつ見ても頭をクラクラさせる。内部に入ると暗く、厚い壁から差し込む太陽光が美しい。外のギラギラ感から守ってくれていることを実感する。インドのコルビジュエの建築でも感じたことだ。ブリッジを渡り、2つのセミナー室の屋根がせめぎ合う、決して美しくはないが、力強い空間を体験。屋外劇場を通り、松下教師館へ。やはり屋上へ行くことはできないが、コロナ前より整えられて、リノベされている気がした。もうひとつの谷間に埋もれた四角錐のセミナー室を通り、宿泊となる交流館、そして国際館へ。国際館の屋上はいつ見ても尾根のようで優大である。交流館の構成は、みんなが集まることの意味を形式化したようなものだ。国際館とは異なり縦方向の内部空間の連続である。ゼミは残念ながらあまり特徴のない国際館で行う。M2生の100枚資料の紹介といきたかったが、そこまで進めている学生は少ない。研究の方向目処が立ってから資料収集するのでなく、それだと予定調和的になるので、まずは気になったところの資料収集からはじめて、その展開していく様をしりたいものだ。自転車は前もって計画的に乗れるようになるわけでなく、感知―反応の繰り返しの結果である。バーベキューの夕食のあと、夜のゼミ。今度は4年生。夕食前のM2生への指摘を夏休みに反映できるとよい。資料収集はアリバイつくりのためのものでなく、遠くに飛ぶためのマイルストーンである。

7月23日(日)
父と母の三回忌を多摩霊園で行う。予定よりも少し早く着いたので、石屋の経営するカフェで時間を潰す。間口が広く品のある昔の建物の土間がカフェになっている。その後、お墓に移動。住職が代わり、暑い中を先代住職がいらしてくれた。わかりやすい口語調の経のため、すっと入ってくる。先代の特徴かとも思う。場所を新宿に移して法要を行う。といっても中華の会食。母が亡くなりちょうど2年となった。

7月22日(土)
高校の同窓会で久しぶりに面々に会う。今日来ている皆は元気のようだ。懐かしい思い出で話が盛り上がることは苦手であるが、それも受け入れることができる。ぼくは受付の仕事もしたので11時から19時までの長丁場となった。それにしても、こうした横や縦の人の繋がりを大事にするのは、文系出身の男ばかりで、理系出身はダメだ。社会の縮図を見ているようで、文系経営者の下のエンジニアという構図がそこにあり、政策立案者>技術者というかたちである。

7月21日(金)
名和さんと会食。今年度の日本構造デザイン賞を受賞し、その報告に来てくれた。名和さんは学生時代から意匠に進みたいという望みを持ちながらも、難波さんの影響を受けて地盤構造研究室に進み、有名な設計アトリエ事務所を経てぼくの仕事を手伝ってくれた。エリップスまでは遠藤事務所と池田事務所に所属し、その後独立して、構造家としてスプリットⅡまでを見てくれた。最近はお会いしていなかったが、安斎さんとの仕事で今回の賞を頂いたそうだ。都心の小さなオフィスビルでRCの数層吹抜け空間に木造スラブを自由に挿入するという設計である。名和さんの構造は骨太で大胆である。それは他のどの構造家より際立った特徴である。一般に構造家は力学を理解しているとはいえ、シミュレーション技術に頼ってそれを縫ったデザインをするが、名和さんはそれをしない。モノ自体に即して考える。だから意匠を志したはずで、ぼくもむしろその点で助けられた。構造デザインの切れという点ではものが足りない反面、力強いものになる。それが安斎さんの作品で漸く評価されたかたちである。ブリコラージュ的な進め方をする構造家はまずいない。まさしく建築家なのだ。

7月20日(木)
「崇高の分析論」リオタール著を読み始めるも、なかなか入ってこない。この本は、カントの「判断力批判」についてのリオタールによる講義録である。2020年の発刊。原著発刊は、98年に没したので、その前だろう。訳者解説によると、崇高論が流行ったのは80年代前後。それと時を同じく、リオタールがこのカントの崇高論の分析をはじめたという。アーレントも1982年にカント講義録を出したとも触れている。第1章は、反省について。事後的にしか対象を理解できないということだろう。

7月18日(火)
「リオタール 寓話集」を読み終えた。後半は響いてくるものがまりなかったが、全体を通じてエクリチュール(記述行為)が主テーマであったと思う。それはあるシステムを設定あるいは想定したときにこぼれ落ちるものを拾うことである。リオタールは、このとき安定したシステムから脱するときの不安定さを危惧し、宙吊り状態にあることを現代に見ていたが、時代も流れ、虚無感の方がますます増大しているように思う。

7月17日(月)
韓国視察のための以前の旅程を整理する。当時ウォンくんが遠藤研に在籍していて、ソウルから遙か遠くの安東まで脚を運ぶことができた。世界遺産にもなった安東河回村に泊まり、儒教で有名な最高儒学者もいたという陶山書院、ここで当時のオンドルを観た。そして屏山書院。最後に韓国最古の木造建築といわれる鳳停寺(ほうていじ1363以前 一説には672年)まで行った。日本の法隆寺が607年創建といわれるが、火災で670年という説もある。それに匹敵する古い寺である。山中にあり韓国の人もいないような隔離された場所であった。韓国仏教の中の最大宗、曹渓宗(ソウケイシュウ)の寺で、日本でいう鎌倉時代に、禅を基本に天台・華厳思想を民衆向けに教義した寺だそうだ。骨太木造が緑に融けこむ風景は強烈であった。スケジュールはハードであったが、当時ブータン調査もしていたので平気だった。

7月16日(日)
帰路にて道の駅を目指して、足柄へ。足柄駅が建築家の作品と思ったら隈さんであった。単線の駅ホームに直結した待合場所と役所の出張所、公共トイレがある。待ち合わせ場所は庇下と巨大階段を備えた図書館といえないほどのたまり場の2つがあり、高校生の勉強スペースになっている。そこから高校の隣にあるあしがら温泉へ。公共の温泉で、20年くらい前に行って、その景色をいたく気に入った記憶がある。いつか再訪しよう思っていたのが実現できた。20年も経ち建物は変わっているようで、ただし風景はそのままであった。高台の温泉で、人工芝越の正面に富士山が見える。富士山に向かう北向き斜面の抜群のロケーションは貴重である。

7月15日(土)
涼をとるための箱根行き。途中、宮ノ下の古い木造旅館(従業員棟?)を改修した奈良屋カフェによる。急崖に立つ4〜5層もある古い木造旅館を換骨奪胎、ほとんどスケルトン状態にして、今日のような暑い日は、ほとんど外となり、気分は最高。そこに置かれている本も個性的で、妹尾河童からアレックス・カー、ブータンから戦後の闇市など建築関係も多い。しがらみからの自由を目指し、平和や日常を渇望するオーナーの意図も感じる。帰ってから奈良屋旅館を調べる。やはりカフェは従業員棟のようだ。本体はリゾートトラストに買われて今はエクシブ箱根離宮(2010〜)になっている。なんでも富士屋ホテルは外国人向け、奈良屋ホテルは日本人用となっていたそうだ。そのくらいの老舗旅館であった。仙石原泊。このホテルも老舗旅館の建て替えという。中央に大きな池があり、それを囲むようにRC6層の宿泊棟がある。箱根のような平地が限られた地域では、斜面の土地開発は今の御時世不可能なようで、老舗旅館を買い取り改修することが主流らしい。

7月13日(木)
合間を縫って建築実験棟のエアコン工事完了。いくつかの会議とゼミ。学生に自身のマスターピースをそれぞれ語ってもらった。ぼくのマスターピースは、ジャン・プルーヴェの「ナンシーの家」。時間の関係で発表できなかった。建築家のマスターピースとして、他の建築家とともにどこかの書籍で紹介したと思う。読書会のテーマでもある「考えることとつくること」、このつくることとの本質と喜びを体現していたのがジェン・プルーヴェであった。今度紹介をしよう。

7月12日(水)
3、4年生の合同講評会。遠藤克彦さんと3年生非常勤の佐野ももさん武田清明さん、そして4年生の比嘉武彦さん谷口景一郎さんとで行う。遠藤克彦さんの実務的視点が印象的であった。ビジョンを立ててから諸条件を満足させ、それを鍛えあげていくことを絶えず求めていた。だから、出発点は個人的なものであっても、作品は客観的であれというのである。それには計画論的な満足も要求されるし、かたちについてもうるさかった。多くのプロポにえらばれている由縁でもあろう。3年生の中で優秀案とされたのは3点。奥富樹さんの作品は、区民のための自由花壇と歩行路を用意した小学校の案。阿部向日葵さんの作品は小中一貫プログラムを巧みに解いた案。そして藤本千廣さんの美術館である。藤本さんの美術館案では、上野の路上生活者などの弱者に向けた建築提案が具体的にどこに設計されているかを遠藤さんは聞きたがっていた。それは庇下の空間やたくさんの外縁ある外形にあると思ったので、その説明を促したところ、納得していたようであった。奥富さんの小学校はおそらく埋め立て地の新しい敷地だろうが、周囲の整然と計画された公園や団地、規則正しく並んだ戸建て群、その中に、尾瀬の湿地帯を思わせるようなデッキ空間が用意されている。それをぼくは「動いている庭」あるいは「野生の庭」と評したのだが、それが遠藤克彦さんも響いたようだ。4年生にたいしては、比嘉さんが12週を通じて徹底的にコンセプトを鍛え上げるような指導をしてくれたので、丁寧にかたちまで練られていた斉藤拓真くんの作品が選ばれた。先日訪れた野又穫展にあった模型のような提案で、大地やその歴史性を上手く建築化した作品である。この点が今日的であると思った。つまり現在は未来像を唱うよりも歴史上に位置づけてから、そのちょっと先を提案する時代である。その時語る物語の妙さが重要で、現状認識の共感に重きを置いているのである。

7月11日(火)
鈴木大拙と華厳教との関係を今村先生から指摘されたので、もう一度確認。「華厳経の研究」1955によると、華厳経的思考は「性起(ショウキ)と「縁起」からなり、この縁起の網の目は無限であるから、因果律に束縛されている知性によっては、これをとらえることができない。そこで性起が登場するという構図である。性起は、非線形的思考で、集合を全体として直感的に把握することをいう。ロゴス/レンマの関係に近く、それはライプニッツのモナド論に結びつく。映画「メッセージ」でヘプタポッドが操っていた能力であるともいいたい。次に仏教の日本の浸透については、鎌倉仏教、特に浄土真宗は15〜16世紀に自治都市国家の形成にまで至ったが、本格的に広まったのは徳川幕府が檀家制度を悪用して、人々を土地に縛り付けることによってからだという。これにより仏教の宗教的意味が失われ、行政的手段になった。柄谷に言わせると、日本の仏教の普及はアニミズムの支配から絶対王政主義への移行と平行して起こっている。

7月10日(月)
2年生の設計講評会を非常勤の佐野健太氏、村田龍馬氏、若林拓哉氏と行う。図面と模型の完成度と努力度が十分に伝わる作品が多かった。ぼくが興味を持った作品は2点。ひとつめは、敷地の軽井沢を調査して、軽井沢の石掘壁の上に木造の柔らかな屋根を乗せた案。水回りとリビング部分を2分した平面形に対応する屋根はハート型で、構造方式も含めて造形力があると思った。厚い石堀壁は蓄熱材として利用すれば、環境建築にも適用できる。以前中川純スタジオでそのような案があった。今後の検討を期待。もうひとつは、第2課題の敷地南の公園から実際に人が登れる屋根を提案する案。広瀬さんの作品である。屋根からも住宅に入ることもでき、その屋根の下は中央に中庭を備えた一室空間である。一番奥の下にリビングがあり、上下に動き回る住宅に仕上がっていた。断面のスタディを重ねた結果である。

7月8日(土)
「想像の語彙」野又穫展へ行く。前半の作品はどことなく上学年の設計課題を見るよう。プログラムが見えないにもかかわらずある種のイメージをさせるからである。大地と一体になったような構造体が提案されている。やがてそのディテールが現れるようになる。ただし、それもエンジニアと関係のなくイメージのものである。後期になるとそれが全く消える。線から面がモチーフになり構造物と背景まで消えていき、構造物と人との間にある光と空気がテーマとなる。

7月7日(金)
4年生の設計課題の講評会。4年生の設計は比嘉さんと谷口さんのスタジオ制で、ぼくは講評会のみの参加となる。したがって俯瞰的にみることができ、考えることも多かった。そして製図という書く技術を外すと実は自由に発想できることに気づく。反対に、プロになるには書く技術が大切なことも判る。その技術の先端に解析技術も含まれる。それを学ぶ谷口スタジオで、それを外したところで出発している案が多いのが気になる。学生にとっては、各自の技術の習得よりも時代を捉える感性を優先させてしまっているのかもしれない。時代の消費速度は速い。そうした感性も次の世代へと直ぐに受け継がれてしまう。つまり捨てられる訳だ、ここはひとつ地道な技術習得にかかるべきだと思うのだが。技術を感性の下に置く慣習は根強い。

7月6日(木)
「新学長伊藤穣一氏のあいさつ。オープンでフラットな印象を得る。応用科学を重視し、エンジニアの地位向上が生涯の目標だという。MITメディアラボの所長であっただけあって実践的で、特にエンジニアの政策立案能力を問題にしているようで順応的である。アメリカは現在、経営者のかなりの割合がエンジニア出身で、それは戦後、技術者というと機械の修理人というイメージを払拭させた結果であるという。政策立案者が、エンジニアの中身を知らないと、組織のパフォーマンスを最大限発揮できないままに陥ってしまうというというのだ。

7月5日(水)
「リオタール 寓話集」の中の「奇妙なパートナー」を読む。論証にたいする記述行為の優位性について。解決というゴールを目指すのでなく、応答の連続を目指し、これを記述行為(エクリチュール)といっている。今流行のスペキュラティブデザイン、あるいは池辺さんの原則のないシステム論である。

7月4日(火)
「リオタール 寓話集」の中の「一般方針」を読む。人には、無人郷への権利があるという。無人郷とは、自由に人知れずに、物思いにふけるところで秘密なところである。どうやらそこまで情報伝達が可能になり、人間の権利の名のもとの自由が入りこんできているという。星のやの過度なおもてなしと言ったものだろうか。行き届いた設計もそうだろう。それは権利の脅迫であるという。

7月3日(月)
「リオタール 寓話集」を続ける。気になったところの抜粋。「発展は人間の発明ではない。人間が発展の発明なのである。寓話の主人公は人類ではなく、エネルギーなのであるp123」。「負のエントロピーは偶然的なしかたでふるまいうし、より複雑なシステムの出現はーそれ自体システマティックな研究体系や制御体系にもかかわらずー、予測できないままなので、この物語には不確定な面があるのである。その出現を容易にすることはできては、出現を命令することはできない。より複雑な組織の出現を容易にすることができる不確定な余地を開いたままにしておくことは、この寓話が「自由民主主義的」と名づける開かれたシステムの特徴のひとつであり、このことはあらゆる領域について該当する。われわれが研究と称しているものは、発明と発見のためのこうした自由の余地の、瑣末になったひとつのケースである。しかし、このようなケースはそれ自体、必然と偶然をジャック・モノーが見たような単に認識論の領域で結びつけられるだけでなく、プリゴジーヌとスタンジェールの用語を用いれば、新しい結合という現実において結びつけられるような、より高度な発展のしるしである。この結合は、客観的なものとの主観的なものとの結合ではない。そうではなくて、規則と偶然性、ないしは継続性と不連続との結合であるp125」。大文字のAと人類の行いとの関係をエネルギーを用いて説明している。

7月2日(日)
「ノマドランド」クロエ・ジャオ監督を観る。経済危機によって生じた田舎街の衰退、それによってマイホームと夫を失ったリタイア世代の女性の現代におけるノマド生活を描く。その生活は悲惨ではなく、強く逞しく自然とともに生きるアメリカでのそれである。古いが立派なキャンピングカーで寝泊まりし、そうした人のための日雇い労働場も用意されている。アマゾン企業はその中でも環境がよいようだ。病気になれば入院も可能だし、癌患者も健常者と同様に生活できている。つまりノマドのような特殊な生き方をする人にも生きていける社会の理解と基盤が、当事者には不満もあるだろが、アメリカには出来上がっている。それにびっくりした。60代中盤の女性主人公を演じるマクドーマンドが製作し、中国国籍の女性監督クロエ・ジャオを決めている。

7月1日(土)
「イニエスタの日本ラストゲーム。最後のセレモニーでイニエスタは、特別なチャントを受け、サポーター席の中にまで上がっていき、交友を確かめ合っていた。それに驚いた。強烈なキャラクターやほとばしる情熱がある訳でなく、淡々と諭すような職人的選手像の影響力を見る。自然体な行き方で、バルサ残党の中で最も幸せな生き方をしている。いずれ日本に帰ってくるとも言っていた。

6月29日(木)
「リオタール 寓話集」を続ける。大文字のAについての記述が散見される。「唯一おもしろいものは、自分の理解していないだれか他者の言語を話してみようとすること」、「おもしろそうなものは欲望にとらわれないことを要求するもの」とある。解説には、「たがいに了解可能な言語をやりとりすることはありきたりのことである。おもしろそうなこととは、宇宙現象や風景の色合いやことばの新たな用いかたといった、広い意味での他者の未知な言語を聞き取り、それを翻訳し、応答すること」とある。興味あるものの理解不能なものとは何だろうか。寓話スタイルがこれに応えている。

6月28日(水)
「リオタール 寓話集」を読み始める。寓話ということで惹かれたが、本題名は「Moralities Postmodernes」。まえがきに「寓話にせよ御伽噺にせよ、寸劇にせよ実例にせよ、ちょっとした物語のおしまいに、モラリテとしてそこから引き出されるのはひとつの控え目な知恵である」としながらも、そうして次から次へと掲示された「モラリテとは、言ってみれば「エステティックな」快」でしかないという。なんやら多様性にうんざりしているようにも読めたりする。1993の著作である。

6月27日(火)
a+u634は、カーモディ・グロークの特集。マッキントシュのヒル・ハウスを覆った仮設建築で有名であるが、この特集から彼らの独特な即物的感覚をみることができる。ウルスプルングの巻頭論文では、現代的崇高論が展開される。そこには、ページいっぱいのカスパー・ダーヴィットの「雲海の上の旅人」がある。カスパー・ダーヴィットを調べる。ドイツロマン主義を代表する画家で、その直前の理性重視を逆転させた画家で、とはいえドイツ人で同時代のゲーテと反対に立つ人として説明されていた。そのように読むと、カーモディ・グロークの作品がちょっとつまらなく思えてきた。

6月26日(月)
「エッフェル塔試論」松浦寿輝著の読書会。担当者は3つの議題をあげながら、本を詳細に紹介してくれた。それは、ぼくたちが作品を介して共感を得ることが必要かどうかの議論から始まり、もしそれが必要ならばそれを得る方法があるのだろうか、というものであった。担当者がこの本から学んだことは、エッフェル塔が様々な2項対立を経て一枚岩的なものでなくなっていること、とはいえ単純な形をしていること、そして時代の変革期につくられていたこと、その3点がエッフェル塔を解く上で重要なこととしてあげてくれた。共感については、この本にもあるように、実際に得られるかどうかは他者次第で、つくり手がコントロールできないこともあるが、その素養は何かという問いであった。実際にこの本では、エッフェル塔がパリのシンボルになったのは、情報の質よりも量、すなわち映像や絵葉書、お土産などを通じて世界に浸透していったからだというが、同時に本の前半では、担当者のいうような、単純な美学を越えた様々な問題に十分でないにせよエッフェルが応えようとしていたことが記述されている。エッフェル自身が多数の2項対立に意識的であったかは不明であるが、ぼくにとっては、美学に対応できないほどの問題、それは風に抗して立ち続ける300mもの巨大建造物の技術的問題が、たまたまあったからでないかと思う。その前代未聞の問題に美学なんて通じない。近代を率いた技術の凄さをここにも感じることができた。だから、もし共感を得る方法があるとしたら、共感できそうな問題を遠くに投げることだと思う。それを皆で拾う。これが建築家の役割だと思う。これをこの本から学んだ。

6月25日(日)
天気がよくなったので高峰温泉の露天風呂へ。道中の浅間サンラインは、南傾斜の高原野菜畑を突っ切る道路で見晴らしがよく気持ちよい。どことなく八ヶ岳のビーナスラインを思い出す。そこから山を登るピーチラインというのは、桜の名所か?桜並木を抜けて高峰に着く。麓の小諸には村野東吾の小山敬三美術館がある。どことなく千住博美術館に似ている。ただし、おおらかな分、西澤さんの方が気持ちよい。現代的なのかもしれない。

6月24日(土)
昼過ぎに打合せのために長野行き。木造の古いカフェで打ち合わせを済ませて宿泊。小雨が続くもそれほど寒くはない。夜に時間があるので「エッフェル塔試論」の拾い読み。後半の表象論が気になる。論立てであるのだが分析に留まりつくることに向かわないからかもしれない。建築はそれに比べて実利だと思う。

6月22日(木)
先日に他研の学生から相談を受けていた修士研究の内容は、閉じることによって起きる創造というものであった。今は開く時代であるとするとその反対で面白いと思った。そのときに思いついた本が「漢字文化圏における建築言語の生成」岡崎乾二郎監修と「襞 ライプニッツとバロック」ドゥールズ著であった。前者は2002年のヴェネチアビエンナーレ日本館展示趣旨につながっている。漢字が東アジアに流布しそれが様々な形態をとって諸国文化になっていく様を、建築を通じて展示しようとするものであった。それは、漢字が表意文字で、へんやつくりに意味があり、時間と場所に従ってそれの応用を無限に繰り返した結果であるという。それは、フランプトンの「批判的地域主義」の批判にもなっていて、岡崎が言うに「批判的地域主義」では、建築家の役割が単なる資本主義の生産メカニズムに組み込まれたものでしかないので、建築家と名乗る人間はせいぜい、それにスペクタキュラーなパッケージを加える役割しかもたないと、建築家を矮小化させているという。しかし現代建築でいえば妹島さんの21世紀美術館が岡崎のいうものに相当し、それは漢字の形のように角張っていて、例えばくにがまえのように一端は閉じていて、その中の形のバリエーションで幾重にも違った使い方が展開できるようなものだという。それは外に開いたアルファベットaとは異なる。それに従いアジアの伝統的住居はみなそうであるというのだ。「襞」ではバロック建築の生成とは何かをいっている。理念だけでなく、バロックのように、襞が襞を呼び無限の半自動生成の可能性を創造といったものだ。そうした状況がなぜ起こるか。本書では、モナドとその不共可能性で説明する。モナドとは、ひとつの世界。そのモナドが発散し、不共可能しているために生じるという。「一つの世界はそれを表現するモナドの外には存在しないが、モナドに対して先行するものが存在するp107」という。これが閉じたものだ。こうして不共可能性な世界において、発散する系列へと同時に展開し、分岐する話の錯綜が生じるというのだ。

6月21日(水)
NHK特集の「ウクライナ大統領府緊迫の72時間」の再放送を観る。ロシアの侵攻直前も直後も西洋諸国はゼレンスキーに国外退去を薦め、まずは戦況の拡大をおさめようとしていたという。したがって武器供与に消極的であった。しかしゼレンスキーはその選択を選ばなかった。地下壕から内閣を鼓舞し、2日目にあえてSNSに首脳5人で登場し、国民を鼓舞した。ロシアの読みも同様であった。ウクライナ国民は戦争を望まずにロシア軍を受け入れ、早くに内閣を国外逃亡させ、新ロシア派の政権をキーウに設立し、容易にウクライナをおさえられると踏んでいた。戦術面でも、進行前からウクライナは絶えず武器と弾薬を移動し、制空権を与えることをしなかったという。それが油断して南下してくるロシア軍を退けることに成功したらしい。

6月20日(火)
074 代表 日本×ペルー 南米の強豪に対して日本は圧倒する。4-1の勝利。緊張感がないためかミスが多かったとはいえ、鎌田を中心にして決定機をつくっていた。この調子で成長をしてもらいたい。

6月19日(月)
「アメリカ大都市の死と生」ジェイコブズ著の読書会。担当者からはボトムアップのプロセスの優位性が示された。ぼくとしてはそれも大事であるが、ジェイコブズのユニークな発見というか拘り、例えばスーパーマーケットではなく雑貨店がよいこと、古い建物は家賃が安く、手を加えやすいので、なんにでも対応可能である利点がある等。この具体的なユニークな視点がよいのだと思う。最近の情報マーケティングではロングテールデータを見直すという。アマゾンがこれに成功したそうで、べき乗数にのっている情報のマジョリティにたいする永遠に続くマイノリティデータに注目することをいう。情報量を増やしていくこと、あるいは偏執狂的に追っかけることによって見えてくる情報である。大事なのはここでデータを私的に観ているということである。このマイノリティは、マジョリティを前提にしたものであって、コールハースの偏執狂的批判的方法とは、マイノリティの表出から反対にマジョリティというものを浮かび上がらせようとするものだ。マジョリティはデータが多い分複雑で、それを解きほぐすことは難しいし、解きほぐしても一部でしかないことが多い。そう考えると、ぼくらに求められるのは、データ量を増やしたり偏執狂的に観察したりすることで得られる(独自の)ユニークな視点の発見ということなのだと思う。

6月18日(日)
NHKでスティーブ・ジョブズの2つの特集。ひとつめは、なかなかオンデマンドされていなかった「ジョブスとフラー」。もうひとつは、「日本に憧れ、日本に学ぶスティーブ・ジョブズのものづくりの原点」。ジョブズは日本の新版画が好きで、特に川瀬巴水(はすい)や橋口五葉がお気に入りであったという。それは、それまでの浮世絵と違い、刷りの工程が2倍も3倍もかかり、その全ての工程に絵師が関わっていたからだという。つまり、デザイナーの意志が貫徹される事を好む形式主義者であった。その観点から、ジョブズはソニー製品を評価し、盛田社長を師と仰いでいたという。後期は日本の信楽焼の丸みに興味を持ったという。それで初代のカラーiMacが生まれた。ジョブズは絶えず手で陶器を撫で、そこにシンプルでありつつもデザイナーの個性が宿ることを信じていた。

6月17日(土)
国立近代博物館で行われているガウディ展へ行く。ガウディの核心に触れることはできないが、1/10や1/25モデルが多数展示されている。その中でガウディの創造の源泉が、歴史や自然、幾何学をあげていて、大地の浸食風景、ヴィオレ・デュクに傾倒していたことをあらためて知った。最後にガウディの影響として佐々木陸朗さんの構造作品が取り上げられているのが印象的で共振させられる。佐々木さんは、逆さ吊り実験からガウディを評価しようとしている。この実験を境にガウディは、構造的合理性に基づいて自然を観るようになり、それが幾何学への発想展開を起こしたのではといっている。結果、大聖堂の鐘塔の回転放物面、身廊の天井に観られる双曲面と双曲放物面、付属学校のコノイド曲面、傾斜柱の分岐構造の発想に至ったというのだ。設計者のくだらん意志など排除した宇宙原理に基づいた形であるというのだ。流石である。

6月16日(金)
「アメリカ大都市の死と生」を再読。生の生活を実によく観察し、その良さを残そうとする強靱な精神力をもつジェイコブス。それをもって大ディベロッパーと立ち向かう姿がここに描かれている。映画では、その勝利がヒロイックに描かれてもいる。つまり、トップダウンとボトムアップの戦い。誰だってボトムアップの勝利を喜ぶものだが、建築にとって大事な計画自体も、ジェイコブスは否定的で、自然発生的あるいは自主的調和的な世界観をもっている。この良さは分かっているものの、実際の設計は計画的でなければならず、アンビバレントな状況に置かれてしまう。アレグザンダーはまさにこのことをテーマとしていたが、ぼくがジェイコブスよりもアレグザンダーが好きなのは、彼は最後まで形の本質に拘っていたところである。何か形を信じるものがあった。つまり、現実は、自然的なモノをはじめリアルなモノに支配されているという態度で、それによって、専門家としてそれを扱う計画の必要性、すなわち小さなトップダウン方式としてそれを納得していたものだ。ところで、最近の日本の都市開発はどうだろうか。再開発といえども歴史が大切にされ、路地が大切にされ、歩き回る散策の楽しさも地上レベルで満足させようとしている。何しろおしゃれでそれ程嘘くさい町並みでもなく、もちろん世代を超えて受け入れられている。ジェイコブスの時代と大いに違っている。広瀬すずがメインキャラクターであるほどだ。一建築家がおかしいと思ってこの流れを変えることはできないだろうが、少なくとも卒業設計においてはこの状況を一度立ち止まって考える必要があるとは思う。それは計画することの疑いとしてである。

6月15日(木)
073 代表 日本×エルサルバドル エルサルバドルは中南米にあって、それほど強くもない。しかしよく日本との対戦があることを考えると、協会として重要視しているのだろう。ゲームは開始早々のフリーキックからの谷口のヘディング。そして3分のレッドカードを伴うPK獲得でほぼ決まる。解説では、もう少し拮抗した展開が日本のためになるといっていた。6-0の圧勝。しかもニューカマーも数多く登場。彼らは、ヨーロッパで今季よい成績をおさめている者たちだ。頼もしい。

6月14日(水)
佐藤裕さんを迎えての建築計画2の授業。芦原小を中心にお話をしてくれた。佐藤さんのレクチャーを聞いても、地域との連携が小学校で大事なことはよく分かる。教室数が多い分、画期的なプレグラム変更がない限り、プランニングにそう新しさはなく、飽和状態なのだろう。平面計画を地域との連携によって変化させることが最大のテーマになっているのだ。これに関心をもってくれて学校設計に進んでくれればと思う。

6月12日(月)
「驚異の構築」の読者会。ぼくらにとって観察は必須である。ただしその観察をコンテクスト、状況から離れて客観的に行うことはできない。それは、前回の読書会「野生の科学」でも主テーマとして取り上げられていて、それを科学的思考と対峙させていた。今日の担当者は、観察-調査-発見(明確化)-形は直線的でなく、同心円状に拡がるものであるという。もうひとつ、それとは知らずに観察する方法がシンボル的思考である。ぼくらは普通の見方でモノを観てしまうのだ。それだと観察=形で、発見あるいは私(視点)が無くなってしまう。コールハースはこれから脱却しようとした。それを可能にするのが偏執狂的=批判的方法というものである。当たり前と思われていたことを、あるいはマスターピースを、偏執狂的に調べてみろというのである。そうすると意外とぼくらを支配するフレームワークが見えてきて、かつ同時にそれの綻びもまた見えてくるというのである。もしその綻びを表現できたら、それは前提条件の批判となり得るし、そもそも前提の再定義にもつながる。最初でいうところのコンテクスト、状況の共有である。つまり、建築が自己満足であり(作品性を担保し)つつも、共有の働きを有することになる。これは近代、野生の科学のいうところの科学的思考の行き詰まりを打破するものではないか、というのが本書の主旨である。映画「だれも知らない建築のはなし」や「レム」で、コールハースがいっていたのは、建築分野でいうところの前提条件である大文字の「建築」の存在とその危うさであった。是枝監督も「誰も知らない」で、「家族」について同様のことをいっている。

6月11日(日)
「ラフマニノフ」を観る。世界一のピアニストと賞される氏のCDを調べ、この映画を観る。天才で不遇な人生、神経質、曲がかけない主人公の苦悩が描かれる。曲は大手不動産マンションCMにも採用されるほど叙情性がある。映画としては物足りない。
072 CL決勝 マンチェスタ−・シティ×インテル インテルの堅い守備をなかなか突破できなかったシティであるが、後半の終盤になって漸くこじ開けることに成功した。DF裏へ斜めに走り込みそこからの折り返しを遅れてP内に入ってきたロドリが弾丸シュートを決めて、その1点を守り切った。これで3冠。終始シティが押し、インテルが速攻をかけるという五分五分の中からの漸くシティが得点した。

6月10日(土)
朝に木立の中の木造の古いカフェでコーヒーを飲み、宮本忠直設計の軽井沢発地市場へ。木造のうねる屋根が印象的。碓氷峠を越えて富岡製糸場へ。世界遺産で西塔は国宝でもある。構造改修は江尻憲泰さんが行った。どこに手を加えたかわからくて素晴らしい。内部の展示設計は、建築計画の授業でも講義をしてくれた前田尚武さんである。国宝建築に触れないようにボックスインボックスのガラスの箱が挿入されている。印象としては、ガラスといえども存在感がある。ドットポイントの機械的ディテールとガラスの反射性がそう感じさせるのかもしれない。続けて隈さんの長岡市庁舎へ。ルーバーが4ミリ合板の張り物であるのはびっくりした。続いて武井誠氏設計の上州富岡駅へ。構造が小西泰孝氏。煉瓦が構造の助けやベンチなどの補助的機能になっているというのは悪しき近代の物語信仰かとも思う。それならば、もっと駅としての玄関性を物語にして前面に打ち出してもよいと思った。煎餅と温泉マークで有名な近くの磯部温泉へ経ち寄り、事務所に戻る。

6月9日(金)
長野へ行き、現地で打合せを済ませてから、夕方前に千住博美術館へ。建物本体は樹に覆われて見えなくなっていて、様々な樹が植えられている中の曲がりくねったコンクリート舗装を通り抜けるとエントランスがある。その外は交通量の多い国道である。中に入ると、壁柱にかかった絵画と円形の中庭(ここにも様々な樹)がうねるように続いている。コンクリートの床も緩やかに下る。作品と建築風景が一体になる静寂な建築である。奥には暗室とプロジェクションの部屋もあり、そこから引き返す道程となる。外周のガラスを白色のシェードで覆われるようになったのもまた空間的にはよい。駐車場脇の安井秀夫設計のショップに寄る。大らかで静寂であることが西澤さんの上手いところだとも思う。

6月8日(木)
研究室では来週の子供絵本図書館プレゼに向けて作業を続ける。その間に実験室のエアコン交換のための段取りを業者との間で奔走。おかげで、脚の裏の豆が悪化する。大きな荷物をもって事務所に戻る。

6月7日(水)
「ラボラトリー・ライフ」ラトゥール著の再読。かつての人類学者たちは村落というものを調査していたが、ラトゥールはノーベル賞をとる程の研究室の活動を詳細に記述する。いわゆる科学的事実というものがどのように構築(construction)されていくかの参与観察記録である。それは、自然的無秩序から科学者が秩序を発見するというものではない。データの構築を通し物象化し、ライバルとの闘争を通じて、説得力のある信頼性が獲得されていくプロセスである。つまり科学でさえ、ある状況からつくり出されている。俯瞰的視点に立てば、これが、ラトゥールがアクターネットワークに向かった理由であるが、科学とは偶然的な出来事を必然性あるようにもっていくことなのだ。ただし、単なる空言ではないところに特徴がある。

6月6日(火)
「ラボラトリー・ライフ 科学的事実の構築」ラトゥール著の再読。 昨日のゼミで発言した没入ということを科学的言葉で説明したいと思い再読。本書は、参与観察によって、(科学的)創造というものが、データの物象化を通じて起こる人の闘争や信頼によって起こるものだといっている。つまり、モノと人、観察と思考には区別がないことをいっている。

6月5日(月)
今年度3回目の読書会。「野生の科学」中沢新一著。関連する映画として「メッセージ」ヴィルヌーブ監督を挙げる。この本の前提条件としてあるのは、近代の科学との対峙であり、近代の科学の限界を超えようとするものである。近代の科学とは、中世が終わり、ニュートンが出現した18世紀以降の西欧を中心とする思考方法である。なぜかしらぼくらは、(近代の)科学では説明しきれない事象が多々あることを気づいているのに、それを、まだ解明の途中段階であるとか、あるいは個人的感性に委ねる問題であるとか人間性、あるいは自然観といった言葉によって納得させられてきた。しかし、近代以前にはそれを別な方法で多くの事象を説明できていたという仮説が中沢にはある。アースダイバーしかり、ぼくらの研究でいえば発酵などがそれにあたる。この映画でエイリアンがぼくらにもたらしたのは、そうした能力である。新しい言語体系を理解させることでそれを与えようとしていた。では、ぼくらは設計において、それを取り入れるとしたらどう取り入れるか?というが、今日の担当者のテーマであった。これは近代思考=計画思考=シンボル的思考を越えるには?という今日的テーマであり難解である。ひとつにラトゥールが提案するアクターネットワークのような応えがある。彼はこの考えに至るまで「ラボラトリー・ライフ」という本を著している。これは、実験室で行われてきた出来事を詳細に記述し、それを振り返るというものであった。それを受けて建築では、コールハースのホイットニー美術館プロジェクトを詳細に記述しネットワーク化してみせたヤルネバの「The Making of a Building」そして「Mapping Controversies in Architecture」という本もある。建築でもぼくらは、不可解なものにたいしてリサーチという作業を設計行為として行うが、リサーチ結果を積み上げるだけでは不十分であるらしいことをまずこれらの本では言っている。自分をあるいは仮説を抱いてデータ化に対峙しないかぎり何も得られないというのである。没入といってもよいだろう。あるいは、このことを全体性の必要性といったりする。前回読書会の「人間の条件」では、全体主義として悪者であったものである。どうやらぼくらはこうした何かに取り囲まれていて、良くも悪くもそれから自由になる必要がありそうだ。
071 ラ・リーガ ソシエダ×セビージャ 2-1でEL王者をソシエダは下す。久保は10点目に届かなかったが、充実したシーズンになったと思う。若いSBを置き去りにするドリブル+トラップが今日は印象的。それを象徴するように久保のコンディションはシーズンを通じて良好であって、チャンスをものにしていた。これで今季終了。来季、WOWOWはスペインリーグの中継を打ち切るそうだ。

6月4日(日)
070 ドイツ杯決勝 フランクフルト×ライプチッヒ フランクフルトは鎌田と長谷部が先発するも、負ける。これで来シーズンのELがなくなった。ちょっと引いた位置からのプレッシングで、そこから刈り取っての速攻をねらうのだが不発に終わる。序盤にこのかたちで成功させたかったに違いない。しかし相変わらずのスペースにボールを出してからの選手がそれに連動するという攻撃のかたちは健在。スペースを上手くつくるための工夫が随所に見られた。

6月3日(土)
「海街diary」是枝監督を観る。家族とは、血縁がもたらされる外部形式もさることながら、それを維持しようとする日々のコミュニケーション、互酬によってかたちつくられるというのは、いつもの是枝監督のテーマである。その中で今日の映画はエンターテイメント性が要求されたためか、今時の俳優陣を中心に配して、周りをベテラン演技で固める方法がとられている。この頃から、監督の手腕が上がるのを感じる。ただ、このパターンだと是枝監督のいつものような前提の特異性が解決できていないとも思う。是枝監督は特異性の徹底した調査から一般性を導き出すのが上手い。特異性から物語を出発させるのは容易なことである一方、ストーリーに厚みを持たせるのが難しい。ハリウッド映画なら膨大なお金をかけて映像密度を上げるだが、これを演技密度に賭けるのでなく緻密な脚本によって欲しいと思う。
069 FA杯決勝 マンチェスターシティ×ユナイテッド シティの圧勝。これで2冠を達成。来週のCL決勝で3冠を狙う。ギュンドアンは調子よい。いずれの得点も、ボールより遅れてPエリアに入ってからの折り返しである。これは、前線のハーランドが効いていることによる。相手はそれに釣られて、おおきなスペースができる。そこをギュンドアンが上手く突いている。イングランドの今季もこれで修了。明日のスペインで欧州のレギュラーシーズンが終わる。


6月2日(金)
「野生の科学」中沢新一著を読書会のために再読。読みながら、ここでいう野生の科学とは具体的に何かを考えた。通常の科学的思考に対するものである。読書家に同時に取り上げている「メッセージ」という映画では、エリアンの発する墨絵のような言葉がそれにあたる。はじめに、x,yで解く代数に対する図で理解するつるかめ算、あるいは和差算を思い出した。これは図によって答えを導き出すものだ。次に、昨日の授業でも取り上げたスペキュラティブデザイン。「ライトついてますか?」という看板デザインである。トンネンルの出口にかかっている「ライトついてますか?」という問いかけから、人は自分の置かれている状況を把握しライトのオンオフを瞬時に実行できる。もし、プログラミングする(科学的思考)としたら膨大な数の条件付けになってしまう。もうひとつは、ぼくがよく例に出す逆上がりや自転車乗りの例である。この能力が野生の科学といったものだろう。これらに共通することは、事前に前提条件が不確かであるのだが、事後的に事前にあっただろう(前提条件)を理解するということである。ここに時間の逆転が起きている。事後的に、事前に遡ったとき何を未来に考えていたかを、理解できるということだ。これはとてつもない人間の科学的思考と異なる能力であると思う。そして人間は、その前提を積み上げて結果があるように考えてしまう。「メッセージ」といいう映画で、主人公の時間の混同がこうして表現されていた。つまり物事は時間によって進む(原因から結果)なのではなく、少なくとも思考やイメージの上ではバラバラなのだ。以前、陸上の為末氏が、短距離のスタートで、脳におけるスタート指示よりも先にアスリートの筋肉はスタートしている、といっていたことも思い出した。ティン・インゴルドのライン思考もこの中沢のアースダイバーも同様な思考形態を取っている。

6月1日(木)
授業の後に中山のナチュラルシームに学生と行く。30名近くのワークショップとなった。責任者を中心に模型上の案を1/1で実際に作成し、問題点を発見していった。色々な発見があり、現場での手を動かしての思考はよいものだと実感する。来週はじめまでに今日の問題を整理し模型と図面にすることにする。

5月31日(水)
068 EL決勝 ローマ×セビージャ 120分+PKの激闘の末、セビージャが勝つ。スペシャルワンのモウリーニョにたいし、ELスペシャリストのセビージャが勝った訳である。セビージャは今季絶不調で、あのロペテギからサンパオリ、そして4月になってメンディリバルに代わる程であった。両チーム共これといったストライカーがいなく、組織的連動が重要となってくるが、南スペインのチームは陽気のためか素直な性格な選手がいないそれが難しい。それがもろに出てしまったシーズンであったようだ。それをメンディリバルが見事にまとめ上げたということだろう。

5月29日(月)
「人間の条件」ハンナ・アーレント著の読書会。本書におけるアーレントの主張が、現代にあるいは設計において通じるものが何かを感じて欲しかった。それは積極的な思考とその表現ということであり、ぼくらは知らず知らずの内に社会風潮に取り込まれてはないだろうかということである。
067 ラ・リーガ アトレチコ・マドリード×ソシエダ ソシエダは1-2で破れるも、来季のCL出場を決めた。アトレチコは、久保に対し5バックの0トップでのぞんだ。そうしたフォーメーションにたいしソシエダは攻撃的にいかなかった。そのためボール保持するも決定機をつくれずに終了間際の1点に終わった。それにしても戦術にしたがい行動をとれるアトレチコ選手の能力の高さには脱帽する。

5月28日(日)
066 ブンデス ドルトムント×マインツ 優勝のかかった最終戦。前節、首位だったバイエルンが負けてドルトにチャンスが転がり込んできた。香川が属していた時以来の14年ぶりの大チャンスだそうだ。久しぶりにブンデスを観る。イグナパークは当時のように満員。観客が若者だけでないのが目立ち地域に支えられているのがわかる。ビッグクラブにないよいところだ。今季、ドルトはハーランドが抜けこれといったFWがいなかったらしい。今日はその弱みが露呈した。攻め手に欠き、ドローで優勝を逃してしまった。


5月27日(土)
ヘザウィックスタジオ展へ行く。フリーなスケッチが多く、彫刻的作品が多かった。しかし多くの作品は幾何学を連続させていて、全体のかたちとかたちをつくるためのルールつくりの往復が激しいのだと思う。そうしたプロセスを示す模型も多く、もう少し知りたいと思った。動画にそのあたりのプロセスがあったのだろうか。事務所に帰り気づいた。

5月26日(金)
4年生の設計における中間発表。与条件としてのプログラムが具体的でないときに、方向性を失う学生が多いことに気づく。そのアドバイスがあるとしたら、社会や都市は、ある決まりの下で知らず知らずのうちにできているので、それからの批評が設計の方向性になることが多い、ということだろうか。これをネチネチとするのが、ダリによる偏執狂的批判的方法というものであり、レムがそれをいたく気に入っていた。その決まり事が強大であればあるほど、調査は厚いものとなり、設計も面白くなるのだろう。

5月25日(木)
「ハンナ・アーレント」マルガレーテ・フォン・トロッタ監督をもう一度観る。前のシーンの解答を次のシーンで意味深に応えていることに気づく。前半からこの映画のテーマははっきりしていて、それは全体主義にたいする個人の無能さであるが、それだとエンターテイメント性には欠けるので、ハンナの人間性を打ち出すために途中ハイデガーとの人間関係に移り、その描き方は曖昧で意味深く、この作品を豊かにしている。ハイデカーとの回想シーンの後に友人メアリーの作品の性描写にたいする議論があったり(ハンナは強い拒否感がある)、ニューヨーカーの男性編集長が女性編集者にやり込められるなどのシーンがあったりする。それにしてもここで描かれるハイデカーの2面性は滑稽でもある。言葉の強さと人間性の幼さである。しかしハイデカーに対するアーレントの批評、「ひとりではできないものもある」という言葉は印象的。考えることに限界があるのだが、それを打破したいという強い意志がそこにあるということだろう。ぼくたちはそういったものに覆われていることに恐怖をみないといけない。

5月24日(水)
3年生の設計における美術館課題の提出。遠藤スタジオの優秀案3案がそのまま13週目の全体講評に選ばれる。ひとつは、上野公園全域に5つの小さな美術館のある複合施設を計画したもの。日本のスター芸術家の作品展示とカフェなどの休息所はもちろん、貸しギャラリや公衆トイレ、授乳室、子供のための屋上公園などを併用させた計画である。これら複合施設は、様々な人を受け入れるのに上野に足りていないもので、上野公園全域を様々な人に体験してもらうために計画された。上野の多生する樹をモチーフにした土と緑を前面に出したデザインで、どことなく野暮ったく現代風でもある。2つめは、子供の絵本を展示する美術館。もちろんそこで子供たちは読むこともでき、不忍池から桜のあるメイン通りまでを一体として考えた計画で、ダイナミックであった。美術館の設計はとかく中身に集中しがちであるが、中身は展示作品ばかりでなく、外部環境もある。外にある中身というものであろうか。それを上手く利用した計画であった。3つめは、展示室を桜のある通りに開き、生の桜と桜の絵を同時に体験できる展示室をもつ美術館。通りから見ると裏側の壁柱にダミアン・ハーストの桜を展示し、通りに面した表には一般展示を行うものである。その展示方法が評価された。優秀作品には様々な美術館空間を提案するものが多いが、現代はそれよりも場所性が大事にされている。それを表現する配置図は格別に重要であることを痛感する。
065 ラ・リーガ ソシエダ×アルメリア ソシエダにとって日程がきつい中、落としてはいけないゲームがこれであった。1-0の久保のゴールでソシエダは勝利をものにする。右から中央に切り込み、一度フェイントをいれてからの見事なループシュートであったと思う。シルバが早々に怪我のため退き今日は久保が攻撃の中心となった。久保をフリーにするために、久保と相手SBの間にシルバに代わって入ったブライス・メンデスがポジショニングして、逆サイドから久保に投げ込まれるケースが多かった。ゴラッソもそうして生まれた。次は久保が得意とするアトレチコ戦である。

5月22日(月)
3年生の設計における第1課題住宅の提出。配置を含めた大きな模型をつくることにしたのがよかった。小さな建築となるので、いかに外部を考えて、ダイナミックにするかが大事になる。スキップなどを工夫して外を巻き込もうとする案が多かったのはそのためだろう。それに屋根のデザインも絡めて環境を考えるように指導をする。


5月21日(日)
064 ラ・リーガ バルセロナ×ソシエダ 2-1でソシエダの勝利。カンプノウでの勝利は実に32年ぶりだそうだ。今日は怪我のためシルバがメンバー外。オヤルサバルと久保もスタメンから外れる。4位獲得に向けて次節火曜日のアルメニア戦に備えるためのようだ。しかしメンバーを代えても戦い方に変更がないのがソシエダ。むしろ、相手の裏に抜けるという戦術が明確になりFWのスルロットは躍動していた。1G1AでMOM。55分過ぎから登場の久保も切れていて、2点目のお膳立てをつくる。

5月20日(土)
午前中に墓参り。午後に棚からホロヴィッツ/スカルラッティを探す。スカルラッティはむしろホロヴィッツによって有名になったという。ホロヴィッツは硬質なタッチで歯切れがよい。自由に戯れているという感じかとも思うが、聞いていてテンションは上がらない。この整理を続けて、棚から取り出していたCDのメモをとる。パブロ・カザルス演奏のバッハ無伴奏チェロ組曲。カール・リヒター指揮のバッハマタイ受難曲BWV244。クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団のワーグナーパルシファル1962。ショルティ指揮のスタジオ録音のニーベルングの指輪。

5月19日(金)
グレン・グールドの浅田彰と松浦寿輝の対談を読む。WAVE37号。グールドの乾いていて離散的な音楽がどこからくるかを理解しはじめる。後期には生演奏をしなかったことを知っていたが、グールドは劇場型でなく、弾き終わってから音を確かめるような演奏家であったらしい。それは、全てをコントロールしながら、他者と共有する倫理を求めようとする現れで、グールドのことをこの対談で開かれた独裁者といっている。グールドと反対側にいる、スカルラッティの曲を演奏するホロヴィッツが紹介されていて、興味を持つ。

5月18日(木)
063 CL マンチェスターシティ×レアル・マドリード よもやの4-0でシティの圧勝。マドリードは何もできなかった。プレッシングがかからずに前線は浮き、DFラインと中盤は押し込まれてしまい、数的有利をシティの中盤に与えてしまっていた。それは両サイドの攻防で負けていたからで、マドリーが優位のはずのサイドが反対にやられたかたちである。展開としては面白いゲームであったと思う。これで決勝はシティとインテルになった。

5月17日(水)
062 CL インテル×ミラン インテルがミランを圧倒。1-0のスコア以上に安定した戦いであった。モウリーニョ時代依頼の決勝進出だそうだ。ミランにしても同様で長らく両チームは停滞していた訳であるが、その間にインテルのサイドバックには長い間長友がいたし、ミランには10番の本田がいた。懐かしい。監督は何度も代わってもインザーギが今は指揮を執っている。

5月16日(火)
INAX季刊誌の今月の特集は湯沢・横手。ぼくも昨年の夏に白井晟一を中心にここを観て回った。記事で白井晟一と林芙美子がパリで恋仲であったとことを知った。林芙美子の小説「浮雲」から、白井晟一の稲住温泉の「浮雲」の名が付いたという。その浮雲は外観こそあれ、従業員の宿泊所に変わっていた。林芙美子の自宅が山口文象だということも知った。今度観に行こう。林芙美子は若いときの不遇体験を書いた小説「放浪記」が有名であるが、戦前の日本政府に操られてしまったという汚点がつきまとっている。白井晟一も多才で、つかみ所がない建築家である。この秋田で観ることのできる稲住温泉の一連の茶室、秋ノ宮役場、そして四同舎などに共通性を見出しにくい。外界に影響されない感性などないのかもしれない。

5月15日(月)
今年の読書会第1回目は「イームズ・ハウス」岸和郎著。巨匠の建築からブリコラージュ的な建築への変わり目を本書から捉えてくれた担当者がいて話が進んだ。そこに大きく係わってた点が、テクノロジーに対する開かれた視点と、消費社会を見据えた工業化や核家族化、大衆社会などの社会変化であったりする。それをイームズが見通していて、実際のモノとして許容をもった作品にまで到達できたのがレイというのは、言い過ぎだと思う。しかし実際のところ、このイームズの作品から、建築はカジュアルになり、ぼくらがアタッチできるものになっていった。そこに学ぶべきものがあると思う。

5月14日(日)
「イームズ・ハウス」岸和郎著を再読。第1章では、イームズ邸を実際に訪れた感想というか分析が詳細になされている。当時の映像技術を下敷きにしてそれがこの建築に与えている影響を具体的に記述している。第2章は、同時代のアメリカの住宅建築との比較。俯瞰的にイームズ邸を位置づけている。他の建築との差異から、この建築が考える技術の位置づけが明らかにされる。メタファーとしての技術がリアルなものになったという。素直にこのような分析アプローチ方法を学ぶべきだとまずは思う。詳細で具体的な調査と俯瞰的な全体からの位置づけである。本書はそれでこの建築を明らかにしている。その結果、岸さんはこの建築がマスターピースとされる由縁を説明する。「近代という理性と合理主義の時代、内部が外部に開く時代になっているにも係わらず世界から閉じようとすることーしかも一見するとまるで閉じようもないオープンなガラスの箱、鉄とガラスの建築という形式を採用しながら閉じようという壮大な試みである」と。工業主義や商業主義、個人主義を引き受けて、それを透明にまとめてワンパッケージしたような建築をいっている。それは、要素を集約してインテンシティ高くまとめ上げるこれまでの「建築」とは異なっている。現代では、西澤さんのHouseAとの重なりをイームズ邸に感じる。

5月13日(土)
今年のCリーグを東京電機大学で行う。審査員に芦田智之氏、雨宮知彦氏、大村真也氏、小川博央氏、手塚由比氏を迎える。最優秀案に理科大学のよく練られた案が選ばれた。巧みな配置計画で、敷地の一部を買い取って(あるいは交換して)、街に上手く開いた正面性のない案であったと思う。次点の東京電機大学の案もそうであるが、総じてスケール感がよく、それは様々な問題に応えているのが完成度として表れている作品であった。千葉工大はその点で失敗したといえよう。その中で、学内の講評会もそうであったが、酒井さんの不思議な感性は評価され、雨宮賞をいただくことができた。全体講評では、大村さんのいう、地域への眼差し不足という指摘が印象的。地域に対する愛着をもっと深堀すると、それは時間軸で地域を考えることになるという。手塚さんの絶えず計画された建物の中にたって想像しようとする視点も印象的で、最後の大事なところはモノとなる。仕方のないところであるがそれがツメの甘さとして作品に表れるのだ。それをもっと自覚するとよくなると思った。理科大学が、これからの小学校の新しい教育プログラムの採用を建築にもり込もうとしているのが新しい側面か。垣野さんにその当たりの経緯を聞く。
061 ラ・リーガ ソシエダ×ジローナ CLを狙うソシエダは早々に久保のPK獲得とアシストで2点を先行し、このゲームは楽勝かと思われたが、前半に追いつかれ2-2のドロー。その後の時間に行われた5位のビジャレアルは圧勝し、勝ち点を5まで迫られてしまった。今日の久保は圧巻。早々にPK誘発によって、その後は相手も距離を取ってきたので、2点目のアシストも容易に成功させた。今日は右ハーフにシルバが久しぶりに位置したのも大きい。彼やスピロメンディとの前半30分頃のワンツーの繰り返しは凄かった。しかしその直後にあっという間に展開が切り替えてしまったのは、久保のインタビューにあったように、謎である。10番のオヤルサバルがこれに乗れずに穴を空けてしまったのかもしれない。その後の後半も、久保は好パフォーマンスを繰り返し、決定機をいくつもつくるも得点には至らなかった。

5月11日(木)
060 CL インテル×ミラノ インテリアのムヒタリアンのゴール。昨日のシティのギュンドアンといい、香川の元同僚はまだ十分の戦力となっている。香川の復調を望む。久しぶりのイタリアサッカーを観る。どちらかというと、どっしりと守りきるかたちである。インテルは速攻とセットプレーの個人技で今日は逃げ切った。

5月13日(土)

今年のCリーグを東京電機大学で行う。審査員に芦田智之氏、雨宮知彦氏、大村真也氏、小川博央氏、手塚由比氏を迎える。最優秀案に理科大学のよく練られた案が選ばれた。巧みな配置計画で、敷地の一部を買い取って(あるいは交換して)、街に上手く開いた正面性のない案であったと思う。次点の東京電機大学の案もそうであるが、総じてスケール感がよく、それは様々な問題に応えているのが完成度として表れている作品であった。千葉工大はその点で失敗したといえよう。その中で、学内の講評会もそうであったが、酒井さんの不思議な感性は評価され、雨宮賞をいただくことができた。全体講評では、大村さんのいう、地域への眼差し不足という指摘が印象的。地域に対する愛着をもっと深堀すると、それは時間軸で地域を考えることになるという。手塚さんの絶えず計画された建物の中にたって想像しようとする視点も印象的で、最後の大事なところはモノとなる。仕方のないところであるがそれがツメの甘さとして作品に表れるのだ。それをもっと自覚するとよくなると思った。理科大学が、これからの小学校の新しい教育プログラムの採用を建築にもり込もうとしているのが新しい側面か。垣野さんにその当たりの経緯を聞く。

061 ラ・リーガ ソシエダ×ジローナ CLを狙うソシエダは早々に久保のPK獲得とアシストで2点を先行し、このゲームは楽勝かと思われたが、前半に追いつかれ2-2のドロー。その後の時間に行われた5位のビジャレアルは圧勝し、勝ち点を5まで迫られてしまった。今日の久保は圧巻。早々にPK誘発によって、その後は相手も距離を取ってきたので、2点目のアシストも容易に成功させた。今日は右ハーフにシルバが久しぶりに位置したのも大きい。彼やスピロメンディとの前半30分頃のワンツーの繰り返しは凄かった。しかしその直後にあっという間に展開が切り替えてしまったのは、久保のインタビューにあったように、謎である。10番のオヤルサバルがこれに乗れずに穴を空けてしまったのかもしれない。その後の後半も、久保は好パフォーマンスを繰り返し、決定機をいくつもつくるも得点には至らなかった。

5月11日(木)
060 CL インテル×ミラノ インテリアのムヒタリアンのゴール。昨日のシティのギュンドアンといい、香川の元同僚はまだ十分の戦力となっている。香川の復調を望む。久しぶりのイタリアサッカーを観る。どちらかというと、どっしりと守りきるかたちである。インテルは速攻とセットプレーの個人技で今日は逃げ切った。

5月10日(水)
059 CL レアル・マドリード×マンチェスターC いよいよ準決勝が始まる。好カード。レアルが先制するもシティが追いつく。レアルのヴィニシウスはずば抜けている。圧巻である。しかし、得点の後はシティに押さえられていた。流石である。一方シティも攻めあぐねていたものの、デ・ブライネのスーパミドルシュートで嫌な雰囲気を脱することができた。結果はシティのホームにまで伸ばされた。

5月9日(火)
午前中レジスと打合せ。その後、学長のお別れ会のために虎ノ門へ。事務所に戻り雑用と授業準備。レポートを見る。忙しい1日であった。夕方ジムに行き、どうやら一連になっていた鍵を落としたらしい。事務所に入ろうとするときにそのことに気づく。自宅にも誰もいなく、途方に暮れる。

5月8日(月)
絵本図書館の本棚ができたので、大学内の保育園へ行き、保育士から感想をもらう。合わせて子供たちに利用して、その観察。概ねよかったと思うが、安全性について一部注意される。意外であったのは、捕まり立ちをする幼児にとって格好の位置に棚があり、もし体重をかけると棚の転倒の危険があるとのこと。研究室に戻り、担当者と善後策を練る。水曜日のゼミで経過を発表することにする。

5月7日(日)
「超複製技術時代の芸術」展へ行く。コピーができないデジタルデータNFT(Non-Fungible-Token)によってデジタルデータは変わりつつある。その紹介である。チーム・ラボ、ダミアン・ハースト、レア・メイヤーズ、セス・ジーゲローブからはじまり、ゲームクリエイターのルー・ヤン、ローゼンタールや森万里子などの新技術を使った自動生成、藤幡正樹のNFTアイコンデザインなどが紹介される。
058 国王杯 オサスナ×レアル・マドリード ヴィニシウスが圧巻のパフォーマンス。誰も彼を止めることができなかった。開始早々に得点。その後はオサスナに攻められるも、レアルはいなす形。一度は同点にされるも、ヴィニシウスが起点となりロドリゴが2得点。レアルが優勝。

5月6日(土)
「アメリカ大都市の死と生」ジェイン・ジェイコブス著を再読。本書で示されるのは、間違いなくトップダウンの都市計画でなく、ボトムアップのそれである。この思想は間違いなく建築の学生には共有されていて、そのためか最近の不動産会社のCMもこのことを強く訴えるようになっている。しかし疑問に思うのは、そうした状況を受けたためか路地で街を埋め尽くす卒業設計における計画の多さである。それではスケールは小さくとも、善良?な計画家のトップダウンと変わりないと思うのだ。ジェイコブスと敵対する再開発業者もそれ程の悪人でないとすると、無知であることにおいて共通している。これをジェイコブスは直感で判っていて、それは自習的な秩序というものである。つまり、ひとりひとりが重要で、かつひとりひとりが何かの秩序の下で自由に活動することへの視点である。全体計画ではなくて、秩序=ルールの共有であり、本書はそうするための経済的社会的政策を挙げている。建築する場合、このバランスが難しい。日本は成熟した。一通りインフラが整備され今だからこそこのことが可能にあると思う。しかし一方で、東日本大震災のような急務が求められるときに、トップダウンが幅を効かせてしまう。まだまだ危うい方法論かもしれないと思う。「シンドラーのリスト」スピルバーグ監督1993年作品を観る。ナチスのユダヤ人に対する扱いから彼らを救出するドイツ人実業家シンドラーの生涯を描く。当初の低賃金ユダヤ人を雇う工場経営の目的が、利潤追求からいつしか私財を投げ打ってもユダヤ人の命を守ることに変わる。対するドイツ将校の自制心こそが力という言葉は重い。ところでこの戦時中は欲しくてもモノが手に入らないので貨幣よりも物々交換が主流となり、モノが主流となっていた。しかしそれは命あってのことであり、生命は貨幣で交換できることがあっても、信頼をはじめとする道徳などの形ないものはそういかずに互酬から生じていた。将校が自分に欠けていると気づいた自制心は、そこに交換という仕組みがないので力(フェティッシュ)までにならなかった。それは、ユダヤ人の家政婦を愛せなかった理由でもある。

5月5日(木)
「レム」ドキュメンタリーを観る。読書会の副映画として最適と思う。レムのモノローグから彼の思想を垣間見ることができる。彼は自分の思想に自信をもっていて、それは、不確かな未来を占うものでなく、分析した現状にたいする批判精神が生むものであるからだ。ここに新しさを感じる。答えではなく、応えであることに○や×はない。ただしモノである建築は拘束力を伴うので、調査からモノに至るときにそれをどう扱うかをテーマとしているのがよく分かった。

5月4日(水)
「レム・コールハース 驚異の構築」ロベルト・ガルジャーニ著の再読。コールハースの大学時代からの伝記である。彼の思想の根本に計画に対する不信がある。それは近代や近代建築のもつ原因→結果の不信でもある。本書によると、コールハースがそこからの脱却を見出したのは、ダリによる偏執狂的=批判的解釈からである。第1章は、ダリの本に従い彼が「錯乱のニューヨーク」に至った経緯である。2章からは、その実践、発展が示される。それは即物主義であったり、コンテクスチュアリズムへの反旗であったりする。それは技術やプログラムへの懐疑である。かれの作品のユニークな形の根本に「建築」への批判精神があることを頭に入れる必要がありそうだ。それが驚異なものとしてクンストハルやグラン・パレ、エデュカトリウム、フランス国会図書館コンペ案、ボルドーの住宅に結びつく。ボルドーの家は実際に体験したが、素材の扱いや構造において箱を批判的に扱っている。この考えを拡大したのが著書「S,M.L,XL」で、4章に書かれているように、その思想をサイズと都市にまで拡大をした。5章のマコーミックセンターからは、コンテクスチュアリズムに加えて寓意的挿話の詩的総合をテーマにしたという。それは、計画から漏れる残余空間に着目するものであるという説は面白い。残余空間は、ソリッドとヴォイドからなる。それで、カーサムジカのような不定形な多面体が生まれた。ジャンクスペースはそれを機能的側面から評価するものである。しかし一貫して本書は、偏執狂的=批判的解釈を軸に作品解説を行う。このことが面白い。「ジャコメッティ 最後の肖像」スタンリー・トゥッチ監督を観る。作家ジェームズ・ロードがデッサンモデルとなる1964年の18日間のドラマ。ネガティブ思考で決して満足しないジャコメッティは癇癪持ちで自由人である。有名にもかかわらずお金に無頓着で汚いアパートに暮らしている。娼婦であるカロリーヌに現を抜かし、魂を絞り出す。妻のアネットも仕方なしに容認。理解者は弟のディエゴ。彼の作品集を見るとこうした人物にモデルは限られていた。ジェームズの肖像画はそこに残念ながらなかったが、カロリーヌの肖像画もそうであるが、どれも真っ正面からのもので、手は腹の下で組んでいる。細い線を重ねて描き緊張感がある。

5月3日(火)
「ミレー<晩餐>の悲劇的神話 「パラノイア的=批判的」解釈」サルバトール・ダリ著を読む。当時のパリではこの偏執狂的であることが流行していたそうだ。1977年の著作とされているものの、制作当時のダリの思考方法を知ることができる。それは、ミレーの「晩餐」を好き勝手に解釈し、そこに客観的事実を付加させるものである。その前提としてこの絵画は、画家たちのマスターピースであり、ダリの解釈とは真逆の正当なものに属していたという事実がある。それは性的なものが多く、生と死に関わる解釈である。
057 ラ・リーガ ソシエダ×レアル・マドリード 今日のソシエダはインテンシティも高く、何よりスタジアムがそうさせていた。前半久保は下がり気味で守備重視。前からのチェックは右サイド。後半からシステムが変わりFWと久保がチェック。これが見事にはまりミリトンのミスを誘い久保が先制弾。今期8点目である。その後もシルバの活躍がずば抜けていて安定したパフォーマンスをして試合をコントロールした。2-0でマドリーを破る。出場停止選手と週末の国王杯の休養のため多くの選手が欠場したとはいえソシエダの好パフォーマンスが光るゲームであった。

5月2日(火)
「人間の条件」に感化された建築家がいる。山本理顕さんで「権力の空間/空間の権力」山本理顕著の再読。はじめにと第1章は、「人間の条件」におけるポリスを、形によって解説している。それによると、まず植民地としてのグリッドのポリスがあり、そこにはアゴラ広場がある。そしてアゴラに通じる道にアンドロティスという閾、つまり私的でかつ公的な空間が用意されていたのだという。古代ギリシア人は、そこで個から公的領域に参加し、議論をした。これを「人々はグリッド・プランの都市に住み、ストアによって囲まれたアゴラで聴衆に訴え、「閾」のある家に住むことによって平等と自由という作法を身につけるのである。つまり市民としての作法を身につけたのであるp31」。つまり、自由や平等がポリスより先にあった訳ではない。アレンの「革命について」にあるように、「自由は、ギリシアの都市国家(植民都市)の出現と時を同じくして生まれた」のである。つまり、ポリスという建築空間があってはじめて、人々の政治的自由そして平等が実現されるのであってその逆ではなく、ポリスは自由と平等が実現されるように、建築的に計画されたという。しかし、山本やアーレントがいうには、「私たちの「社会」の中の建築空間は、その政治的な重要性を全くと言っていいほど失ってしまっているp34」。「人間の条件」に話を戻そう。「都市にとって重要なのは、隠されたまま公的な重要性をもたないこの「私的」領域の内部ではなく、その外周の現れ」ということである。つまり、建築の都市環境へのたちかたであるということだ。だから山本理顕さんが訴えるのは、現代の日本の風潮に反して「物化」ということである。ぼくもそれに同意する。

5月1日(月)
読書会に向けての「人間の条件」ハンナ・アーレント著の整理をする。一般にこの本を評すると、労働、仕事、活動の定義から、人間たる由縁は自ら積極的に思考し社会に関わることとされる。ただし、それだけだとそういった思想家はいるだろう。アーレントの建築で取り上げる可能性とはなんであろう。あるいは映画における彼女のエネルギッシュさは何に由来するのだろうか。それを考える上で、この本の最初にギリシアのポリスの話がある。そこには、批判としてではなく社会のつくりかたが具体的に示されている。この建築的思考が役立たないかと思うのだ。

4月30日(日)
映画「メッセージ」について、中沢新一が現代思想の2018年の総展望で寄稿していたのを思い出し、「レンマ的算術の基礎」を再読。ここでは、映画に沿いながら近代というか西洋思想と、それとは異なる思想体系を紹介している。人類/ヘプタポッド、線形/非線形、原因と結果/全体思考、因果律/目的律、ロゴス/レンマなどである。そして、後者を縁起、華厳経、虚数の存在、ライプニッツのモナド、鈴木大拙、ハイゼンベルクのマトリックス力学、量子論として説明する。そして、「物質の微細レベルに起こることを記述するには、思考はどうしてもレンマ的=縁起論的になっていかざるを得ない」という。

4月29日(土)
056 ラ・リーガ オサスナ×ソシエダ 中2日で今日もアウエー戦。厳しい日程がソシエダも続く。久保は先発から外れて60分過ぎから登場。疲れた相手に対し久保は好機を作り出す。今日は久保の日になると監督はいって久保を送り出したという。それに応えるように90分にチーム2点目を左足でゲットし、大事な試合をソシエダは手にすることができた。久保は調子を維持している。次はマドリード戦。楽しみである。

4月28日(金)
「メッセージ」ヴィルヌーヴ監督を観る。もう何度目か。この映画は様々な解釈を許す哲学的な作品である。ストーリーは単純である。人間が未知の外来生物と遭遇したときのドラマである。ただし、両者にコミュニケーションの手段はないので、そうした場合における言語伝達の意味や方法がテーマとされている。主人公のルイーズは言語学者。未知の生物は世界12箇所に突然現れた。そのかたちが、ブランクーシー「バード」の彫刻のようで、単純で有機的なかたちである。通常の解釈であるならば、言語学者ルイーズが、異性物との模索的なコミュニケーションを通じて、未来を知る予知能力を得たということだろう。それによって、宇宙戦争を回避できたというものだ。映画のはじめのシーンの子どもとの別れのシーンは実は過去のことでなく、未来の話であったというものだ。死んだ娘の名がHANNAHといい、対象文字で、こうした転倒を意味するものとされる。ところでこの映画では、いくつかの興味深い話が引用されていた。ひとつはカンガルーの話。袋をもった生物をオーストラリアの原住民であるエボリ人がなんと呼ぶかを、西洋人が尋ねたとき、彼らは「カンガルー」といったという。しかし、カンガルーは、What?というのが、エボリ人本来の意味であったいうもの。つまりは、コミュニケーションは錯綜するというもの。もうひとつは、サピア・ウォーフの言語相対性仮説。人の思考は、使用する言語体系に支配されているというもの。このふたつによって物語が展開されている。したがって、このふたつから、予知能力を得るという解釈は事前と事後の混同ではないかと思うに至った。ぼくらは普通、原因-結果という時系列で事象を対自として考える。しかしこの作品で外来生物が使用するもうひとつのものは、経験からくる事象に、感じて反応するものである。ぼくはこのときよく学生に逆上がりの話をする。逆上がりのできる条件が何であったかは、逆上がりができたことによって人は理解するのである。ただし、判ったと理解しただけで、真の事実(逆上がりの条件)はなにひとつ不明のままである。事後の成功によって、事前条件を誤読してしまっているのである。この映画では、最後の追い詰められた状態でルイ-ズは、異星人の言語全てを理解すると同時に、予知能力を獲得したことを悟る。そして未来における中国将軍の説得によって、宇宙大戦を回避するのである。しかし、未知の言語が理解できたかどうかは誰も分からない。理解したと思い込み、その必死さが生んだ行動が偶然にも成功に導いたと考えられないだろうか?彼女の思い込みが全てをよい方向に導いた。その後の結婚と子どもとの死別の予知は、過去の記憶を自分本位に編集した結果である。このとき、異星人の言語の映画における役割はなんだろうか、と思う。彼女の人としてのポテンシャルを最大限引きだしたトリガーであったのだ。彼女の内面は彼女自身しかわからないばかりか、事実も誰も分からない。結局は、偶然の一致なのである。ルイーズが自分自身と向き合い、個人的な内面の体験を突き詰めることで、結果として世界が救われるというものだ。ジジェックを思い出す。「モダンの透明とは、機械がどう動いているかを見とせるという錯覚を維持するという意味」というジジェックの言葉である。こうしたことを思わせる巧みな仕掛けがある映画であった。

4月27日(木)
八咫の坂上直哉氏の偲ぶ会が建築学会の中庭で行われた。それに出席。坂上さんとは1度だけしかお会いしていないが、昨年夏にアンデルセン美術館を案内していただき、その後で濃密な創作についてのお話をさせていただいた。難波さんと同じ47年生まれでに難波さんに負けずと劣らず、技術と芸術の融合の実践を考えていらっしゃった。芸大を出てから金属メーカーに就職。ステンレスで絵を描くことに生涯を捧げた人だ。その作品は、光反射を個々の人の網膜に感受させようとする軽く繊細なものである。そう想うのはギブソンの「生態学的視角論」やユクスキュルの「生物から見た世界」を通してであるが、今日の展示で坂上さんのスケッチブックが紹介されていて、蝶やキノコの詳細がやたらスケッチされているのを見て、なお納得がいった。もっと話を続けたいと思う人であった。
055 ラ・リーガ ベティス×ソシエダ 4位と5位による来季CL圏を争う戦い。リーグも終盤を迎えてきた。互いに中2日とあって体力的に厳しい状況。大事なゲームではあるが、シルバとメリーノは控えから登場。久保はフル出場であった。結果0-0のドロー。前半ソシエダは守備がはまり一方的であったが、クーリングブレイク後にボランチスピロメンディがマークされブライス・メンデスが下げられると、サイドのオヤルサバルも下げられソシエダは展開できなくなった。それが最後まで続いた。久保はインタビューで、もっと勇気が必要なことを訴えていた。この程度の相手に引いてしまっては活路がないというのだ。今年加入の21歳の生え抜きでない選手のコメントとして、なんとも頼もしい。

4月26日(火)
今日は建築計画2の授業で、京都市京セラ美術館の前田尚武さんを迎えての1時間半に及ぶレクチャー。前田さんは六本木ヒルズの建設に立ち会うことからはじめて、六本木美術館の展示企画で数多くの建築展を企画した。その手腕が認められ、建築と美術を結ぶコーディネーターとしての地位を確立した。京都市京セラ美術館はその最たるものである。今は村上隆展の準備で忙しいそうだ。今日のテーマは3点。ひとつ目は美術館の位置づけについて。実は建築が大きな美術作品であることを示しつつも、建築家の考える機能の限界、美術館を通じた地域への貢献、そして多様化していく美術館の現状である。それにもとづき前田さんは、美術館のアーカイブ化に力を入れていて「モダン建築の京都」という本を著したり、富岡製糸場では年表やその歴史展示を行ったりしている。京都の街へ出かけるワークショップ、あるいは美術館建設のコンペでは美術館ツアーの提案など多様で、その実践を数多く示してくれた。2つ目のテーマは、従来とは変化していく美術館について。なんでも美術館の入場料収益は2割程度で、それを埋めるべき方策が美術館の箱としての多様化を促進しているという。リアルな話だ。そのために、美術館自体が収益を上げるのがひとつ。ショップを充実させたり、ホイットニー美術館に代表されるように、展覧会をしない時間帯に結婚式とか出版パーティとかに貸し出しなどをしているという。京都市美術館ではカルティエの新作発表会などを行っている。そのためには今までは前面にでていなかった設備機能の柔軟さや充実が建築に求められているという。もうひとつの方策は、いかに外部資金を獲得するかということ。様々な企業と連携や、あるいは街との連係で経済活性化などに貢献することなどである。その積極性が求められている。3つ目のテーマは、日本の美術館の特徴について。ヨーロッパが歴史ある豊富な展示中心の美術館、アメリカのコレクターによる現代美術+建築の面白さにあるのに対し、日本は無料スペースを上手く使ったコミュニケーション重視にその特徴があるという。その好例として金沢21世紀美術館のフリー通路や大分美術館の街路と一体となる展示室などを上げてくれた。もっとも日本は寺の仏像などのご開帳に代表されるように祭との一体的展示が歴史的に展開されてきたという。どれもが興味深い話であった。夜にはゼミで、OBの秋山怜央さんを迎える。学生時代から最近の藤本事務所の仕事を紹介してもらった。学生時代にたまたま参加した篠原雅武さんに感化されたオブジェクト指向は今でもずっと続いているという。藤本さんは寛大で色々案出しをさせてくれるので、自分の案を認めてもらうために苦労するらしい。今日の説明もそうしたためか非常に説得力があった。ほぼ秋山さんがはじめから最後までひとりで完成させた十和田の市民センターは、即物的である点を評価したい。建築は煩わしことが多いので、こうした作品は強烈なインパクトを残す。正に建築だと思った。前にGA誌で3DCADによるその即効的なスタディとプロセスが紹介されていた。藤本さんは、事後的に言葉を与えていくという。モノの力を信じていて、秋山さんがずっと気にかけてきたオブジェクト指向とそこでリンクしている。もっとも池辺さんをはじめ難波さんも形式こそを大事にして、目新しい視点でもないが、近頃建築で薄れている姿勢である。これを歴史という出来事まで含めたのがぼくに言わせるとティム・インゴルドで、ラトゥールとつながるものとなる。レクチャーの後、研究室にもどり皆で歓談。学生時代のことなどざっくばらんな話ができた。

4月25日(火)
「野生の科学」で度々、贈与について語られる。つまり貨幣による交換以前にも、それに匹敵する物神性(フェティッシュ)がそこにあったことを見出している。それは柄谷も同様で、貨幣論理=言語論理=近代と考えると、それを越えるものとしての贈与互酬性を見出している。贈与互酬性は、金に換算できない何かを産む。昨日否定的に考えた修士の修了基準設定、あるいはエビデンス主義は、この近代思考の最たるものだろうと思う。教員と学生との間で何か創造しようとすると、プロセスや信頼関係が大事となり、責任の所在を外部にもっていくのは気が楽でありがたいことであるが、それ以上のもの=物神は生まれないことになる。

4月24日(月)
修士研究の合格ラインについての明示化が学科内で問題になってきている。明確な基準を設けることにぼくはあまり乗り気でないのは、意欲のある学生を伸ばすことに力を入れるべきであり、基準はやがて目標に成り代わってしまうからだ。建築基準法は設計にとっての明確な基準であろう。健全な町並みをつくることや衛生的で健康的な場所つくりに最低限の貢献をしているものの、本来の主旨は忘れられ基準法を満たすだけの主旨からむしろ離れてしまっているところも多い。要は基準が目的化されるのは避けられないことであると思う。人もエントロピー増大の法則に従い壊れていく運命にあるとすると、生きることとはそれに逆行して壊れないようにまとまりをつくることであり、それによって安易な基準をよりどころにしてしまうものだ。そう安易ではなく大海に出てからまとめるような姿勢であって欲しいと思うのだ。

4月23日(日)
午後に川口行き。状況は芳しくない。深夜「ブラックホーク・ダウン」リドリー・スコット監督を観る。ノーカット版ははじめて。市街地での戦闘がともかく生々しく戦争が怖くなる。軍隊において、指揮官の絶対性とそのために仲間を絶対に見捨てないという徹底的な姿勢が描写される。このソマリアの事件でアメリカは撤退。米軍の死者は19人に及んだという。

4月22日(土)
054 ラ・リーガ ソシエダ×バジョカノ 2-1でソシエダの勝利。ソシエダの今日の攻撃は冴えていた。久保は控えで、7番バレネチアが使われる。色々な見方ができるが、後半落ちる攻撃のための温存とみたい。バレネチアもよかった。後半からシステム変更し、4-3-3に。シルバ頼りからの変更となる。久保はゴールこそなかたものの、今日は相手DFを置き去りにする逆転の起点となった。

4月21日(金)
053 EL スポルティング×ユベントス 守田の役割は大きかった。ユベントスに堂々の戦いをする。しかしドローとなりスポルティングの敗退が決まる。スポルティングの連動は組織化されていて、前線に魅力的なアタッカーがいるのがよい。

4月20日(木)
「野生の科学」を続ける。中沢新一も物々交換(貨幣交換)に対する贈与(モース)を考察している。それはマリノフスキの「クラ」の交易である。リニアに対するノンリニアであることで、それの具体的例としてあげる「空とカタツムリ」の神話が面白い。贈与や互酬性にモノを越えた人格、記憶、霊性のやり取りをそこに見出している。
052 CL バイエルン×マンチェスター・シティ シティがバイエルンを去なして、準決勝に進出。今日のバイエルンはホームでインテンシティが高くあと一歩のところまでせまったのだが速攻でデ・ブライネとハーランドにやられてしまった。なかなか形がつくれないでいるので、新しく代わったトゥヘルの腕の見せ所と思う。

4月19日(水)
授業の後に、多田研との合同ゼミ。パスタブリッジが進歩してアイスバーブリッジになった。パスタと違って正確なジョイントができ、このために準備してくれた多田研の試作品は既に完成度が高かった。果たして遠藤研はどう立ち向かうか。期待しよう。剪断力を使ったジョイントがよいのではないかと思う。その後、新しい4年生の歓迎会を新習志野で行う。スペースの大きさがよく、皆としゃべることができた。最後にネズミが登場したのには驚いたのだが。
051 CL レアル・マドリー×チェルシー マドリー今日は、ロドリコが台頭。2点を決めて盤石に次のステージに進む。ビニシウスと並び同年代の久保と比較がされてきたが、ビニシウスは確実にトップになり今やマドリーの中心。ロドリゴは要所で活躍。確実性が売りである。久保はまだまだドタバタ名ところがあり、若いともいえるが、ロドリコの確実性が欲しいところだ。

4月17日(月)
今年の研究室の読書会は映画とペアで考えることにした。どれもが、イノベーションを起こした人のドキュメンタリーである。そうした映画の時代背景を後のぼくらには当たり前となって知ることができないが、その手助けになってくれる。どれもが近代以降の話で時代順にあげるとまずは、「エッフェル塔試論」松浦寿輝著と最近公開された「エッフェル」。保守的な都市パリからエッフェル塔がシンボルにまで認められるようになった経緯が記されている。そこには美学的側面はもちろん機能や技術に対する世間や専門家の意識変化が示されている。「人間の条件」ハンナ・アーレント著と映画「ハンナ・アーレント」。人間が社会へコミットする積極性の必要がここに記されている。それは労働、仕事、活動である。この人の持って生まれた力をアーレントは信じ、ハイデガーから離れ、映画にあるようにナチスを生んだ当時の社会自体を批判した。「イームズ・ハウス」岸和郎著と映画「ふたりのイームズ」。近代建築が資本商業化されていく中、これをもう一度建築にたらしめるのに苦悩したことが記されている。工業化や個人/大衆といった社会変化に対応する建築を提案したのであった。「アメリカ大都市の死と生」ジェイン・ジェイコブス著と映画「ジェイン・ジェイコブス」。資本主義がいよいよ台頭しとき、ヒューマンな都市が再開発される戦いである。ジェイコブスが単なる市民派代表ではなく、戦略・経済的に具体的に実践(活動)していたことを知ってもらいたいと思う。レム・コールハースの伝記「驚異の構築」ロベルト・ガルジャーニ著と映画「だれも知らない建築のはなし」。単発に見える建築潮流も実は大きなうねりの中にある。その中でエキサイティングな建築の可能性を示すのはコールハース。計画=プログラムと美とは別物であると一般には考えられて、美にとっては計画は不要とされるが、そうでなく新しい計画方法について示した本である。「野生の科学」中沢新一著とヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」。これも、デカルト的思考では捉えられない何かを説明しようとしている。映画では言語体系に対するものがそれであり、中沢新一は多くの事例を引用してこの何かを紹介しようとしている。科学で捉えきれない何かを人間性とか美とかで済まそうとする、この近代の限界をラトゥールは警告している。それらふたつに連続性をもたらすことをテーマとしている。

4月16日(日)
今ちょっと仏教のことを知りたいと思い柄谷行人の「仏教とファッシズム」を読む。仏教の教義とは関係なしに当時の知識人は、西洋のキリストに相当するものとして仏教を要請したことが詳細に記されている。それは現代における地球環境を再考するときに、自然との一体というような日本伝統を持ち出すことと同様だろう。それは建築でいえば、西洋の建築の知の行き詰まりから新しい方向付けを行うために、環境を持ち出すようなことなのかもしれない。柄谷はこれを美学的にみることだという。その反対は相対的にみることである。環境はいま特別視されているが、むしろ現代はその括弧外しを行うときなのかもしれない。
050 プレミア チェルシー×ブライトン 今日は前節と変わり三笘が躍動。いくつもチャンスをつくる。チェルシーは調子がよくないとはいえ、どちらがビッグチームであるか分からない程だ。ブライトンは、三笘や反対サイドにボールを届けるまでがシステマチックで組織化されている。というか上手く機能している。チェルシーは監督交代後もそれが上手くいっていない。今週はマドリーとの戦いがある。

4月15日(土)
今「野生の科学」を続ける。天皇に対する視点が面白い。当初天皇は、稲魂の祭祀者として自然の生産力の支配者としての王であったという。ところが、壬申の乱後に天皇権力が確立されると、政治という王権が前面に出てきた。ここまではよく言われることである。次に律令制が確立されるとその役割は実質不要になり、天皇そのものは空虚な中心という超越物になった。それが今日まで続いているというのだ。この記述と同時に登場するのは、クラインの壺とクロスキャップ。クロスキャップの動画をチェックhttps://wed7931.hatenablog.com/entry/2018/05/07/192208。これを立体的に理解する。
049 ラ・リーガ ビルバオ×ソシエダ バスクダービー。久保によるこのゲームに対する意気込みがこの1週間報道されていた。しかし、完全に久保は押さえこまれる。サイドに開いた久保には絶えず複数人がマークにつき、久保は思うようなプレーができなかった。試合も0-2の完敗。4位の座も危ぶまれる。

4月14日(金)
「野生の科学」を続ける。どうやらこの本はベイトソンのいう論理階型を力として説明しようとしているようだ。論理階型とは、AとBの矛盾を解決できないときに使用し、もうひとつ上の論理階型に上げて解決する人特有の自然な考え方である。よく出されるのは、母の愛情を受けたい子供が忙しい母に拒否されノイローゼになる例である。そのとき子は、母は今忙しいのであって時間をずらした後になれば愛情を受けることができる、と考え直すことができればノイローゼから復帰する。ここでは、時間という新しいファクター=もうひとつ上位の条件が考慮されている。人はこれを自然に行うのだが、本書はこれを力として問うている。
048 EL ユベントス×スポルティング 守田が先発。チームの中心メンバーであった。攻撃時でもわざと相手選手の中間にポジショニングをして、味方をフリーにさせようとするのは流石である。いくつか欲しいシーンもつくるもユベントスに0-1で負ける。次のホームでの戦いに期待である。チーム自体がユベントスのようなメガチームと対戦するのを楽しんでいるようだ。

4月13日(木)
今日は大学院の授業。計画2の学部の授業と同様に、大文字の建築の話しをする。アーキネットの織山さんにかつて行っていただいた若手建築家向けのセミナー企画をもとに、自分のキャラクターの差異化を目指すには、その前提なるものが必要となるという話である。こうした考えはG・ベイトソンから学んだ。ところで若いときは、こうした前提にたって思考することを創造的でないと考えたりしていたので、その予防策として今日は「オイディプス王」の神話の話もした。これはフロイトや柄谷行人、ジジェクから学んだことである。彼らは無から何かを生むことを、この神話を引用して説明しようとしていた。自律と社会化は同時に起こるという話である。あるいは、自己を俯瞰的に見ることを自己認識ということである。最近、他者がキーワードになっているが、他者との境をつくるとき、それよりも大きい全体というものが重要と思うのだ。自律を創造と重ねると、「建築」と作品にそのままあてはまる話である。
047 CL チェルシー×レアル・マドリード レアルの完勝。マドリーはピッチをいっぱいに使い、ボールを受けるべきところでボールを受ける。機械のように動いていたと思う。典型がFWのベンゼマで最終ラインから1歩引いてははたいて裏をつく。面白いように決まっていた。それでも2−0.セカンドレグにチェルシーは望みを残した。

4月12日(水)
建築計画2の授業で、恒例の「建築と建物との違い」から建築の作法、そして大文字の建築、そして「建築の四層構造」まで話を拡げる。小さいことに拘りすぎないで、自分の作品を大きな視点から位置づけられるようになるとよいと思う。
046 CL マンチェスターシティ×バイエルン バイエルンは監督がトゥヘルに代わってから2戦目だそうだ。しかしシティに歯が立たなかった。0-3の点差以上の差を感じた。典型的9番がいないのが大きいが、守備でもバイエルンがプレッシングをかいくぐれないのには驚いた。

4月11日(火)
大学の年度初めの会議。その後に数人の学生と立ち話。といっても数時間話す。池辺さんの内之浦ロケットセンターの資料をみせてもらった。建築文化の資料で、前回訪問したときのいくつかの疑問も解けた。卒業設計のアドバイスもする。敷地が面白そうで資料集めのアドバイス。かたちになるのは意外と伝統や習慣と言ったソフトが多いこともある。

4月10日(月)
今日から本格的に授業がはじまる。設計のガイダンスで学生と一緒に非常勤先生のショートレクチャーを聴く。新しく加わっていただいた若林拓哉さんは、建築のみならずソフトを含めパッケージすることに興味があるようだ。全国の建替予定の郵便局を町の中心施設に変えるプロジェクトを進めている。自宅の商店長屋の改修も進行中という。どことなく気持ちよい空間がそこに仕込まれている。一色さんは自分の立ち位置を定めたようだ。若林さんのようにまるごと建築の面倒をみることに興味があるらしい。村田さんの経歴も驚いた。京都の高松研+事務所から川口衛先生の事務所であることは知っていたのだが、その前に情報学科にいて4年次に建築に編入をしたという。さらに村田さんに興味が湧いた。佐野健太さんの話を聞いていても、偶然を必然に変える力を感じる。建築科は皆そういった者なのだろう。

4月9日(日)
快晴で景色の良い露天風呂として蓼科小斉の湯に寄る。木越の連峰の景色は抜群である。自由農園に寄り帰宅。「野生の科学」を続ける。「カタラクシー」が面白い。敵を味方に返る現象を、トーラストポロジーを使って説明しようとする。設計でいける!
045 ラ・リーガ ソシエダ×ヘタフェ 今日は、久保とオヤルサバルが先発。久保は右いっぱいに張り付き、空いたレーンをブライス・メンデスが狙う。したがって今日の久保は前ほど自由に内側に絞ることをしなかった。後半から、中盤底が若手のゲバラからスピメンディに代わると活性化する。久保も得点。縦への速い攻撃を行うことができた。なんとなく先が開けてきたような気のするゲームであった。

4月8日(土)
八ヶ岳行き。東京は20度超えるも、八ヶ岳は雪混じりの氷点下となる。夜はストーブがまだ必需である。渋辰野館に寄るも冬季で露天風呂はまだ閉まっていた。少し残念。ちょっと下りてホテルへ。
044 プレミア トットナム×ブライトン どこでもサッカーが見ることができるのはありがたい。三笘好調もハンドで得点の取り消し。試合後に誤審とされる。認められれば鮮やかな得点であった。ブライトンは逆転されCLが少し遠のく。

4月7日(金)
「野生の科学」中沢新一著を読み始める。科学では説明できないものは多々ある。そのことを多くの例をもって説明しようとする。柄谷と同様に「交換」をキーワードに挙げているのが面白い。交換を近代合理的思考を越えるものとして位置づけている.

4月6日(木)
043 スペイン国王杯 バルセロナ×レアルマドリード 第1戦と違って、ホームバルサは積極的に出る。メンバーも揃っていいた。しかし後半からスペースを与えてしまい4失点。マドリーの逆転決勝進出。マドリーの戦術はオーソドックスであるが、どんな相手にたいしても選手はそれを難なくこなす。これが強さの原因と思う。ビニシウスを起点とした速攻と、中央からサイド奥に切れ込んでからのもう一度中央への繰り返しである。前半優勢のバルサも、ビニシウスの中央突破から崩れていった。ビニシウスの相手は今日のために用意されたマルコス・アロンソであった。

4月5日(水)
ゼミにて、こども絵本図書館の計画。本棚の検討。絵本の新しい見せ方を提案してくれた。所蔵数が少ないので、ちょっと変わった見せ方もできるかもしれない。スケッチを続行。

4月3日(月)
NHKでフルトヴェングラーの特集。父はフルトヴェングラーのフィギアを飾るほどのファンであった。フィギアがあるのはそれだけである。フルトヴェングラーはワーグナーを愛し、ベートベンの第九が十八番であったらしい。この特集では、ナチに取り込まれてしまう苦悩が描かれていた。絶対的な美を信じて政治に取り込まれんとする、あるいは取り込まれても構わないとする姿である。1942年4月19日のヒトラー誕生日前日の第九が紹介される。ナチからのプレッシャーに屈するも美で立ち向かったという物語である。興味をもち早速棚を調べるも見つからなかった。第九だけでも演奏によって数種類のCDがあることを知った。この特集では他にジョスタコビッチとレーニンとの関係も示され、レーニンの死後の1953年の交響曲10番はソビエト現実に倣った悲愴的な曲らしく、やっと自分の曲が演奏できたのだという。他にユダヤ人のバレンボイムの2001年7月7日のエルサレムでのワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の演奏も挙げられる。ちなみにバレンボイムはサイードと関係があったことも知る。

4月2日(日)
NHKの日曜美術館は安藤忠雄特集。病気の現状からはじまり新しいプロジェクトが紹介される。若者に生き様を紹介する主旨があった。奇しくも坂本龍一も死去する知らせが来る。「人生は短し、芸術は長し」という言葉が遺言。
042 ラ・リーガ ビジャレアル×ソシエダ CL圏を争う重要な一戦にソシエダは負ける。いいところをつくれるもの得点できず、空いた中盤底を起点に得点されるという、このところの悪いパターンであった。だから、久保やシルバの評価は高く、中盤底のメリーノとブライス・メンデス、フィニッシャーのスルロットの評価は厳しい。この戦略でいくなら早い段階の得点。もしくはフォーメーションの変更が必要なのかもしれない。次節は、守備の要となるスピメンディとスペルディアが出場停止となる。

4月1日(土)
041 プレミア ブライトン×ブレントフォード ブレントフォードも上位に位置していて、好ゲームであった。3−3のドロー。チーム状態が成績に結びついている。三笘も好調を続け、得点を決める。ブライトンは、三笘と反対サイドのマーチを起点にしようとしていて、自然と良い形でボールが集まるからだ。

3月31日(金)
「ルーブル美術館展」国立新美術館へ行く。美術を広く行き渡らせようとしているのだろう、愛がテーマである。作品はフランス革命前のものが多く、そのためか建築との関連も薄く感じ惹かれるものも少なかった。エドマンド・バーグ、カントにゲーテ、バッハ、モーツァルト、マリー・アントワネット、建築家でいえばルドゥー、ブーレー、産業革命のはじまりの時代に重なる。

3月30日(木)
東「空想の建築史」土居義岳著を読み始める。建築を信じる力をテーマにしているようだ。それは部分が組み上げられひとつになるときの力である。原広司、カント、ヘーゲルそしてフォションと続き、扱う範囲が幅広い。040 ユーロ予選 スコットランド×スペイン 先日とガラッとスタメンを替えてのぞむもスペインが決定機をつくれずに負けてしまった。パスを中心にゲーム構成する場合、完成するまで時間を要するのと、決定機を高めるのは難しい。

3月29日(水)
ゼミにてM2生の1年間の計画を聞く。今年の読書会の方針も発表。映画と結びつけることにした。映画は、イノベーションを起こした人をテーマにしたもの。その内容を、映画を通じて当時のバックグランドから理解しようと思う。映画「エッフェル」と「エッフェル塔試論」松浦寿輝著、「ハンナ・アーレント」と「人間の条件」、「ふたりのイームズ」と「イームズ・ハウス」岸和郎著、「ジェイン・ジェイコブス」と「アメリカ大都市の死と生」、「だれも知らない建築のはなし」と「驚異の構築」そして「メッセージ」と「野生の科学」の中から選ぶ。

3月28日(火)
039 代表 日本×コロンビア 日本が苦手とする南米勢との第2戦。加えて新しい試みがどれだけ実践できるかが試される。今日は遠藤が外れて鎌田がボランチ。時折2CBの間に下りて、SBと前線との間でゲームプランニング。悪くなかったと思うが、堂安はJリーグレベルとして試合後にこの前半を批判。後半は選手が代わり、代わって入った選手が前のめりでエキサイティングになったものの、形にならずに終わってしまった(堂安は後半途中出場)。南米特有の球際の激しさがさらに試合を難しくしてしまっていたこともある。W杯後、代表にはボールポジショニングが大事にされている。その場合でも時折スイッチが入ることが必要となる。この2つに連続性を持たせること、三笘のいる左サイドでその萌芽が見られたのは希望。

3月27日(月)
「ストーリーが世界を滅ぼす」ジョナサン・ゴットシャル著を読み終える。本書の言うストーリーとは悪者だ。ぼくらを影でコントロールする根源をいう。もちろんそれは正しいが、一方でぼくらが言葉を話せたり、イメージを共有できたりするのも、そうした単なる言葉を知っているだけでなく、背後のコンテクストをストーリーとして共有しているからだと思う。もう少しストーリーのポジティブな面も語ってほしかった。

3月26日(日)
東京都写真美術館の土門拳「古寺巡礼」展へ行く。全5巻の古寺巡礼全集にそって展示がなされ、その中でも仏像の顔をズームする作品が中心に選ばれていた。土門拳特有の迫真に迫る力は半端ない。まだ現物を観たことのないものに、長浜渡岸寺十一面観世菩薩像、多治見の永保寺観音堂があった。事務所に戻り作品集を手にして展示作品に係わる他の写真を確かめる。

3月25日(土)
アーティセゾンで開催中のダムタイプ展へ行く。昨年のヴェネチアビエンナーレの回顧展で、同スケールで日本館が再現されている。建築家の場合と違って、素人にはまねできない作品であった。確固たるデジタル空間が提案され、その中でぼくらは右往左往するだけで、彼らの結成時からあまり状況は変わっていない。
038 ユーロ予選 スペイン×ノルウェー 新生スペインは柔軟で、今日は右サイドからの攻撃が多かったが、どこからでも展開できる強さをもっていた。後半突き放し初陣をかざる。

3月24日(金)
037 代表 日本×パラグアイ 日本のリスタートは国立競技場からはじまった。4-3-3でポジショニングを上げながらゲームコントロールを目指していくという。そうはいうものコンディションがよくないこと、あるいはパラグアイの効率よいプレッシングが効いていたことによって、自陣に留まる遅攻が目立った。後半から遠藤を両CBの間に落として、両SBを上げるようにすると、そこからの速攻で同点にした。注目は新しいSB。長友や酒井のように上下だけでなく、内側のレーンも使う。ただしその前の三笘や堂安、今日はさっぱりだった鎌田との連係が今後の課題となる。

3月23日(木)
「ストーリーが世界を滅ぼす」ジョナサン・ゴットシャル著を読む。ぼくらは物語にコントロールされているという。前半はその実例が多く示される。最たるものがキリスト教だ。キリスト教にある福音伝道と一神教不寛容な2つのプログラムコードが、物語に力を特に与えているものであるという。昨日までのWBCの人気も同様だろう。

3月22日(水)
午前にWBCを観る。かつてはスモールベースボールといっていたが、いつのまにか体力、スピードともに大リーガに劣っていなくなっていた。内容もいわゆる横綱相撲で、その上での勝利である。サッカーも2050年優勝を掲げているが、そうした日がくるのだろうか。体格的にはいまいちの状況でそれを前提にしたゲームプランを考えているのだが、それだと勝利してもタイトロープを渡るような状況で運に大きく左右されてしまうような気もする。午後は卒業式で学生らと研究室で会う。3年間一緒であった大学院生とは感慨深い。就職先も決まったというので一安心。これからも頑張って欲しい。

3月21日(火)
JIA MAGAZIN の坂牛さんと内藤廣さんの対談を読む。建築は小乗仏教、土木が大乗仏教という考えだそうだ。その中で、建築におけるプリコジンを引用したエントロピー論に同意する。「物理世界全体はエントロピー拡大の方向で、最後は無限大になって消滅するということになっている。それがエントロピー論の描く世界観です。1980年代、イリヤ・プリコジンという化学者が、そうばかりでない、不連続に局所的にエントロピーが減少することもあり得ること示して話題になりました。それが生命現象の定義だというのです。つまりエントロピーが増大していく中で、ひょっとしたら建築はエントロピーを減少させる人間の生命的な営みなおではないかと思い至ったのです。もしそうだとすると、建築を一生懸命つくること、そのこと自体はエントロピーを減少させる生命的な現象と矛盾していない。そういうことの延長上として僕らは営みとして建築をつくっていると思えるのは、心安まることですね」。

3月20日(月)
036 ラ・リーガ ソシエダ×エルチェ 今日はオヤルサバルに代わり久保が登場。トップ下のシルバとの連係が光り、後半になって漸く得点すると、チームにも安堵感が漂い、2−0の久しぶりの勝利。欲をいえば、シルバと久保にもうひとり誰かが絡むと最高だ。これで気持ちよく代表ウィークを迎えることができる。

3月19日(日)
御手洗龍さんの新しいプロジェクトを観に行く。帰りがけの難波さんにお会いし簡単なご挨拶をする。そして13:30から1.5時間かけて丁寧な御手洗の説明。7階建ての旧街道沿いの自宅を兼ねた賃貸ビルである。テーマは、建築の秩序がもたらす多様な場つくり。9m×38mの細長い敷地に千鳥状のラーメン構造で建築にして、そこに外部を取り込みながら諸室を挿入させる計画である。取り込んだ外部空間は縦方向にも展開し、横の駐車場空き地からスカスカの全体像がよく見える。赤色の600mmの柱とスラブを強調するために、邪魔となる手摺りを目立たなくしているのは上手い。しかもその構造計画が、支配的にならないように梁をみせたり半分隠したり、柱の形状を○や□など変えたり千鳥配置にしたり、散漫的構築といったらよいか、新しい構築方法だと思う。構造を他のエレメントに融けこませたり小さくするだけでないのは発見的な方法かと思う。上部3階分のオーナー住宅は雑多な豪華さがあってよい。それはスケールの扱いが上手いからだ。施工は日南鉄鋼。頑張っている。その後、車で30分のところにある妹島さんのなかまちテラスへ。彫刻的建築を輪切りにするので各階で平面が異なるのは現代的だ。ただしスケールが小さくて、同様なコンセプトのもう少し大きい北斎美術館の方が機能的に役だっている。外壁を覆うエキスパンドメタルの西日への遮蔽具合は、完璧でないものの機能的であった。その後、多磨霊園まで南下し、墓参りを済ませてから稲城のスーパー銭湯へ。中央道で帰宅。1日を終える。
035 FA杯 ブライトン×グニムズリー・タウン 何でも相手は4部のチーム。前半は手こずるも、早々に得点すると落ち着いて突き放した。その中の三笘も同様。5点目を決める。

3月17日(金)
034 EL ソシエダ×ローマ ホーム0-0のドローでソシエダ敗退。久保はよもやの先発から外れる。アルグアシル監督は絶不調のチーム状態から勝利するために、調子のよかった時のシステムを変えないこと、その場合新参の久保よりもポジションの被るチームの顔であるオヤルサバルにかけること、であったと思う。かけるといったのは、オヤルサバルは本調子から程遠かったからである。案の定、引いたローマに対して風孔を空ける者はいなかった。前日のインタビューで久保は、チームの歴史を自身のゴールで変えるといっていった。それなのに、である。久保の悔しさと絶望感が、試合後のサポーターに向かう久保の背中が語っていた。

3月16日(木)
「闘争の世代は偉大だ。これまでの自身の行ってきた活動に自信があり後輩を心配する。時代の変化は刻々と変わること、だから先日の審査でも話題になった未来を計画することの限界など、気にしてはいないのだ。それは、論理における強度とどこまでを射程に入れるかという繊細さに対応するといえそうで、これを建築では、微細な構築として乗り越えようとしているが、要は他者をどう位置づけるかということだと思う。他山の石としよう。
033 CL マドリー×リヴァプール リヴァプールは超攻撃的布陣でのぞむも撃沈。決めきれずに速攻でビニシウスとベンゼマに仕留められてしまった。これでCLも敗退。昨年とは打って変わる。

3月15日(水)
JIA修士設計展の審査に参加。審査委員長に飯田義彦氏。最優秀案には、芸大のモバイル寺の作品が選ばれた。なんでも寺のご子息で、寺の布教をするために担いで動かすことのできる寺の提案であるという。飯田さんの心配は、こうした企画力に負う作品の扱いだ。審査では対抗馬を求めていたが、どの案もナイーブで強い企画力に抗するものはなかった。工学院や日本工業大の町並み保存案は社会性がありその点で強さがあるものの、ぼくとしては、理想的なヒューマにズムに頼ることなく、再開発に屈してしまう現実に抗する戦略が必要かと思った。ラトゥールが、最後に人間論に逃げる近代科学主義の弱点を指摘していたことである。逆の立場にたって、未来を計画することの不可能性を意識するあまり手法論を中心に展開するものがある。最近流行のオブジェクト思考へと連動していくこれは発見的であるのだが、自我的でもあり共感が弱い。神奈川大や工芸大、千葉工大の酒井くんの案もそうであった。プレゼに選出された9作品は、展示の規定上から、どれも模型映えのするものであったのは否めない。最後は建築にしてなんぼという原点みたいものだろう。ぼくの研究室の鈴木さんの弱かったところでもある。そうした中の最優秀案のモバイル寺の案はぼくも納得がいった。彼のプレゼが生き生きとしていたのは、仏教という全体像がまずあってそれに感化する自己を、形を通じて表現しているからだろうと思った。無理矢理に自己を表現してもいないし、逆に隠すことにもならないのは、そのためだろう。トップダウン形式はもはや時代遅れでボトムアップがよいというのは通説である。それはポストモダン時から言われていて、制作でなく生成ということであるが、先の方法論の行き詰まりも同様で、そうはいってもなかなか自然には生成ならないのである。柄谷行人は、シンボル思考でなくアレゴリー思考といっていた。先日亡くなった大江健三郎を引用して、である。ぼくらは、何かはっきりとしていないが選択可能な全体像に包まれている。それは宗教やネーションであったり、社会通念や文化であったり、もう少し狭く言うと、○○道といったものがその典型例でいくつもある。だから選択可能なものである。講評でぼくは「建築」もそのひとつでないかと、おそろおそろ発言をした。それらはなかなか意識されないものであるが、その中で自己位置を表面することで逆にその世界が示されるものでないかと思う。モバイル寺の案はその好例であった。修士設計でリサーチが重要であるとすると、その世界観を意識化することでないかと思う。

3月14日(火)
JIA修士設計展の準備に実行委員として参加。模型サイズは1800×900。図面を大きく展示できないので、1次審査は模型評価がポイントとなる。14時に終えて事務所に戻り、明日の審査のための資料を読み込む。私小説的な作品が多いことが気になる。こうした感性を外に向ければよいのだが。

3月13日(月)
「エッフェル塔試論」松浦寿輝著を読み終える。前半は、観光資源としてだけでなく、文化的資源となったエッフェル塔の説明。コルビジュエとスーラを取り上げ、そこではエッフェル塔建設を巡る当時の社会状況が捉えられている。それは、「西欧建築史の言説の制度性、技術と芸術の棲み分けをめぐるイデオロギーの変容、第三共和制下フランスの階級と共同体無意識、発生期の大衆社会における「知」とジャーナリズム、職能共同体への忠誠と民族的自己同一性との葛藤、「イメージ」現象の20世紀的再編成」といったものである。そして後半は、当時はともかくとして現在までエッフェル塔がパリを表象するものになったことの説明。それは、エッフェル塔が「「表象」と「近代」との関係をめぐる問題の束を集約的に体現している特権的な記号として、虚空に屹立している」からであるという。そして、エッフェル塔という対象が社会から影響されまた影響を与え、無意識のあるいは多義的(ポリセミー)な歴史的対象となった仕組みを明らかにする。そのとき取り上げられるのは、ゴダールの「カラビニエ」とブニュエル「自由の幻想」。映像やイメージとしてのエッフェル塔である。「こうした複製技術が産み出すマス・プロダクションの商品に対しては、人はふつう、どちらかと言えば批評的な距離を取りつつ軽く扱いがちであり、熱い思い入れの対象とはあまりしないものである。中世のイコンと、エッフェルの絵葉書と、コンピュータ−・グラフィックスという三者を並べてみた場合、呪術的なフェティッシュとして崇拝の対象となるのにもっとも相応しからぬものは、中間に位置する絵葉書だろう」としながらも、「モダンの時代における映像の存在感とは、あくまでも「量」の問題であり、「質」の問題ではない。(中略)人を説得するのは、映像と「本物」との間の「類似」ではなく、無数の映像相互間の「相似」の方である」というのだ。つまり近代においては、質や美ではなく、対象自体の圧倒的数量、その偏在分布の広さ、そしてそれら相互の間での流通頻度が重要であるというのだ。エッフェル塔はそれを体現するものなのである。

3月12日(日)
午前に墓参り。帰りに深大寺に寄る。「エッフェル塔試論」の終盤は、エッフェル塔のもつ表象について。2つの映画が紹介される。ゴダールの「カラビニエ」とブニュエル「自由の幻想」である。ここでエッフェル塔の位置づけを絵葉書的といい、近代を表象する虚空の屹立とする。2つの映画は、「物語とイメージの安易な癒着を撃つという批評的身振りを通じて、そうした無限に巨大な記号論的環境としての「エッフェル塔」の不在の輪郭を触知さしめることに成功した、稀有なフィルムp369」であり、それがエッフェル塔の本書の最終的な位置づけでもある。
032 ラ・リーガ マジョルカ×ソシエダ 今日も1-1-のドロー。ソシエダはトンネルから出ることができない。ここ9試合で1勝だそうだ。久保は今日休みで80分過ぎから登場。シルバ以外は思うようなプレーができていないので、大事にいきすぎているからかも知れない。もっと大胆なプレーを欲する。

3月11日(土)
「テルマ アンド ルイーズ」リドリー・スコット監督を観る。これまでリドリー・スコット最悪の映画となっていたのが、時代とともにその評判も薄れて、この映画を推す評論家も出てきた。それもそのはず、「エイリアン」「ブレードランナー」「ブラックレイン」の後の作品である。しかし実際に観ると、やはり疑問が残る作品。2人の女性が旅の途中、ヒョンとした切掛けで犯罪を犯したことからはじまるロードムービー。ブラッド・ピットの出世作でもあるそうだ。
031 プレミア リーズ×ブライトン 今日は三笘の日であった。これまでの数試合と違って三笘へのマークが1人であった。リーズの作戦は前線からの激しいプレッシング。そのために中盤守備も中央の3人にかかり、両Wサイドは比較的ルーズとなる場面が多かった。そうなると三笘も反対サイドも躍動する。今日は全得点に三笘が関わった。それにしてもブライトンDFは相手FWを呼び寄せてかわすという大胆なプレー。ちょっと信じられなかった。

3月10日(金)
029 EL ローマ×ソシエダ ソシエダがモウリーニョに完敗。ローマ前線3人の激しいプレッシングからソシエダはビルトアップが上手くいかずに、サイドに追いやられる。右Wで先発の久保はそこから受けるも、2人に付かれ上手く中央へボールを送ることができなかった。唯一のチャンスは、逆に奥へドリブルしニアサイドをぶち抜いたシュートとセンタリングをあげたところだけだった。その後、久保はスペースを目指して中央に寄る。そして空いたスペースを両SBが使うのだが、反対にその裏をローマに突かれてしまった。その速攻は見事であった。点差以上にローマが優勢であったと思う。ところでプレシングが激しくなると個人技に差が出る。トラップミスも多く、ひ弱くまで見えてしまった。来週のセカンドレグをどう闘うか。意地の見せ所である。
030 EL スポルティング×アーセナル 守田先発。富安は65分過ぎから。守田は攻守の要にいる。オウンゴールはしかたなかった。富安は今日、守備の安定しないアーセナル左サイドへ途中出場。左サイドの攻撃時には、中央に絞りボランチ役が要求される。富安はトーマスとともに見事にその役割をこなし、むしろ生き生きしていたように見えた。2-2のドロー。

3月9日(木)
028 CL バイエルン×パリ バイエルンの試合巧者ぶりが目立った。それほど強力なFWがいるわけではないが全員が攻めていた。一方パリはちぐはぐさが目立ち、前線までボール渡らず。バイエルンが完勝。

3月7日(火)
「エッフェル塔」マルタン・ブルブロン監督を観る。松浦さんの「エッフェル塔試論」を読むと、伝統的な美から脱却することの苦心やそれを個人的嗜好でなく社会的使命と感じている点、そしてめまぐるしく生まれてくる新技術を背景とした社会転換、これらに興味を惹かれることが多いのであるが、本作はふたりのロマンスがそれに加わっている。エッフェルが偉大な成功を収める裏に、上流階級であるにもかかわらず天真爛漫、当時としては破天荒な女性の社会挫折があったというストーリーである。とはいえ「エッフェル塔試論」にも触れられている当時の社会状況も知ることができ、それは、芸術ほどには技術や科学を尊重せず、市民の立場を保障しつつあるも個人の存在感は薄く、これから移行する大衆消費への対応が遅れている社会である。その後100年以上が経って現在は、完全に消費商業中心に社会はなっている。にもかかわらず、あいかわらず美的関心は、それに背を向け、公共性とかの別の形へ置き換えることで、それを保持しようとしているのかもしれない。

3月6日(月)
027 プレミア アーセナル×ボーンマス 富安は前半のみ出場で評判がよくないことを知り、見逃し配信を観ようと思った。確かに前線との連係がとれていなかったのだが、大きなミスもなかったと思う。前半0-1となり攻めあぐんでいたチームに活性化を与えるには、停滞気味の富安サイドにあったということかと思う。長らく出場していないと、こうも評価が変わるのかとも思う。

3月5日(日)
午後の飛行機搭乗まで、霧島神社とその古社を廻る。霧島神社は最近国宝指定となったという。参拝所となる勅使殿は立派な装飾のある唐破風屋根で覆われ、そこから先は行けないのだが、本殿までの直階段があり、その両脇にも立派な装飾があるようだ。急斜面を利用した躍動的な本殿である。参道が広く堂々としているのは古社も同じ。古社はそこに小さな樹のみが現在祀られているが、その背後にはふたつの霊峰がそびえる。ここも宮崎と同じ高千穂と呼ばれるところで、古事記以来、神の生まれたところとされる。

3月4日(土)
内之浦のロケットセンターへ。1960年代の通産省と関係深かった東大生産研究所の池辺陽設計である。今日は2度目の訪問となるが、前回は発射直前のため見学禁止で苦い思いをした。敷地ゲート近くにある花びら型プランの資料館のみが見学可能であった。今日は幸いにも雨に降られずにいくつかの施設を外観のみ見学できた。まずはMロケットセンターへ。ここはロケットの組立場。メインの北側ファサード前までは入れずに西と東面のみ見ることができる。この面の写真掲載はなく、北壁と同様の四角錐パーツを使用した大型引戸となっていた。施設は再塗装され70年代のアウラはなくなっているが今でも健全に使用されている。内部には大阪万博のお祭り広場の予行演習として日本で初めてスペースフレームが採用された。観たかった。その手前には、不思議な幾何学をしたコンクリートの退避室がある。大地に馴染み外観をうかがい知ることはできない。隣のU字型の管制室はなくなっているようだ。しかし別の坂道からここを俯瞰できる場所を発見。そこからMロケットセンターの四角錐トップライトはなくなっていることを知る。南側は新しい機能が付加され現在は本体より大きくなっていた。その途中にはコンクリートのLロケットセンター。そして鉄骨造の施設も発見。かつての計算センターか。今は稼働していない。梁なしの斜柱によって天井高のある三角のメイン空間をつくり、諸機能はそこから突き出すかたちで付加されている。このような幾何学的構成は池辺さん特有である。斜面に建つ第一光学観測室の建築は、土圧を受けるコンクリート箱に1/4円の屋根と壁が一体化したスチール骨組+フレキ外壁を被せる構成である。再び道を下り、ゲート近くの資料館へ。花びらをつくる鉄骨造壁のスリットから採光し、中央が吹き抜けで、そこに直立したロケットが展示されている。その吹き抜け周りを階段状にスキップする構成である。内壁は6角形の段ボールをFRPでサンドイッチしたものであった。2時間くらい見学した後、再び霧島のホテルへ戻る。今日、鹿児島のホテルは予約でいっぱい。テレビでマラソン大会があることを知る。宿泊ホテルも満室で家族連れが多い。湯量が豊富で霧島の人気を知る。

3月3日(金)
午前虎ノ門行き。午後の便で鹿児島行き。レンタカーを借りて空港から直ぐの日当山温泉へ。資料集成にも掲載の数寄屋旅館をインテリアデザイナーが最近リノベーションした。デザインに線が多いのが気になる。吉田五十八は線を少なくすることで近代数寄屋を完成させたというのだから、その逆行となる。
026 ラ・リーガ ソシエダ×カディス 0-0のドロー。このところソシエダがなかなか得点までいかないのは、中盤底の5番がマークされ、かつ前線が流動的でないからである。今日の久保はダイアモンドの頂点で先発し自由に動き回り、その連係のキーマンとして監督から期待される。いくつか決定的パスを通すも、単調なのだろうか、シュート数も少なく、得点に至らなかった。後半途中からその位置にシルバが復帰。流石シルバはひと味違った。そして久しぶりに久保との連係でDFラインを混乱させる。ソシエダらしい戦いが戻ったところでタイムアップ。来週はローマ戦がある。

3月2日(木)
「エッフェル塔試論」を読みながら、難波さんの「箱の家と環境」が前衛だとしたら、エッフェル塔との間に相関が見出せるのではないかと思うに至る。本書でのエッフェル塔の存在は、単なる技術×芸術や革新×保守に還元されるものでなく、保守側の時代背景と共有しつつもそこから逸脱するものとして描かれている。「建築」も新しい民主の力によって崩れていくのは確実である。しかしそれは、単純に(民主的な)場×建築あるいは市民建築家×ザ建築家、住宅×公共建築という2項対立に回収されてしまうことでもない。これが現代日本の風潮であるが、エッフェル塔の場合ように、「建築」という土俵に立って、場や民間、住宅への創出が可能でないか。難波さんの環境は、これを目指しているのだろう。そうすると難波さんはいつから「建築」における環境を意識するようになったのだろうかという疑問が次に湧く。

3月1日(水)
025 国王杯 ストーク×ブライトン ブライトンは三笘のアシストにより1-0の勝利。チームにおける国王杯の位置づけが不明であるが、ビッグクラブほどに力が入っていない印象。いずれ負けるとの判断か?それともそれ程の収入が見込めないためか。週末に試合がなかったにもかかわらず、ベストメンバーではなかった。三笘も後半75分で交代。それでもブライトンは逃げ切った。

2月28日(火)
今花粉症のためか、眠れずに深夜wowowで「スティルウォーター」マット・デイモン主演、トム・マッカーシー監督を観る。オクラハマスティルウォーターからマルセイユに留学した娘の殺人罪無実を証明するために、真犯人探しに奔走するアメリカ人を描く。主人公はアクションドラマのヒーローではなく惨めな存在であるが心を入れ替えたひたむきさがある。そこに文化の違いや宗教、人間心底の憎悪、道徳が絡む。マルセイユの文化の象徴としてサッカーがあがり、そこに当時所属していた酒井の名とアシストのシーンも含まれていた。

2月26日(日)
024 ラ・リーガ バレンシア×ソシエダ 今日のバレンシアは、監督替わりホーム初戦ということで、勢いが違っていた。ソシエダは最初4-3-3。途中から4-4-2のダイヤモンド型にし、それは久保をキーマンにした変更である。しかし相変わらず、バレンシアのプレッシングをかわし前線までボールを運ぶことができずに負けた。久保も75分過ぎに交代される。絶対的存在であることが否定されたようで、久保にとっては屈辱的であろう。選手全員の距離が間延びさせられ、各自が孤立してしまっていたのを、改善できなかったということである。

2月25日(土)
「だれも知らない建築のはなし」石山友美監督を観る。70年代からの日本の建築家の状況を、国内外の建築家や批評家、編集者のインタビューを通して明らかにするドキュメンタリーである。あの安藤忠雄氏、伊東豊雄氏らも80年代はじめには、当時作品も小さいこともあるが、内向的であり批評に堪えないとの批評を受けていた。それは磯崎新氏にたいしても同様で、日本という特殊性を持ち出すので美的判断しかできないとレムから批判されるし、ポストモダンという流行にのってしまったとアイゼンマンにも批評される。そうした状況を知らないぼくにとっては衝撃的であった。ぼくらもあるいは学生もレベルが違えど、無自覚であることに対して批評にさらされてしまうことは宿命なのだ。GAの二川さんはそうした現実を踏まえて、建築家育成の必要性に駆られGAを位置づけているらしい。そして今がある。英語のタイトルは「INSIDE ARCHITECTURE」。内輪話とも解釈できるが、建築からのまだ見ぬ可能性ともとれた。要は、崩れゆく近代建築後の話で、批判という尖った表現が終わった現在、磯崎さんはその後に建築家がエンジニア的、テクノクラート的、アーティスト的の3つのパターンになっていくといい、伊東さんは、社会性のあるコミュニティアーキテクトを提案する。社会性と作家性を2項対立させることは容易で、前者が現在日本では優位に立っているけれども、GAが追求してきたように、そう簡単に割り切れるものでないという歴史事実を本作品は明らかにしている。

2月24日(金)
国立近現代資料館で開催中の原広司展に行く。原邸も含めて原さんの建築は大方体験しているのだが、よく分かっていないコンペ案を観たく展覧会に行く。とにかく原さんのいうことは壮大である。その意味を若い頃は訳分からなかったが、今日のビデオでの京都駅についてのコメントは印象的であった。京都駅の大階段は、昇る昇らないという問題でなく、駅構内にしかも京都駅で、谷間の風を吹かせるためのものなのだ。いみじくも今月のニュースで、雪が吹き込む様子を観て、それに合点した。それは機能の提案を越えているし、ランドスケープをつくることとは次元の異なるデザインである。もちろん単なる思いつきでない。そこまで至る過程のすごさは、教え子たちが圧倒されていることから推測するしかないが、資料やスケッチが広範囲に渡っていた。それに関する出版予定の吉見俊哉さんとの対談集が楽しみでもある。
023 EL マンチェスターユナイテッド×バルセロナ バルセロナは、ユナイテッドのプレッシングに苦しみボールを前線に運ぶことが出来ずに敗退。特に後半からはひどかった。サイドへのロングボールに頼るしかなく、そこをターゲットにされると、再び中央狙いにいくのだが、代わってそこを任され入ったファティも本調子でなく、ポジションについてレバンドスキーと口論になっていた。

2月23日(木)
今年度の卒業設計・修士設計の講評会を、審査員に宇野求氏、高橋一平氏、佐々木珠穂氏、伊藤孝仁氏をむかえて行う。審査の後に宇野さんから、学生のアイデアをリアルな世界へと上手く指導がなされていて教育バランスよいとの感想を頂く。今日の講評会では、各審査員が作品講評を通して自分の建築観を述べていたので自然と議論が白熱し有意義であった。そのために賞を決めるのにも時間がかかった。その中で中心的テーマとなったのは、青井さんが最近出版した「ヨコとタテの建築論」でいうところのタテの必要性についてだ。どうもタテにたいする真剣度を学生は甘くみていると感じたらしく、それに対するコメントが多かった。宇野さんは、それを素材やディメンションの選択を通して表現できるという。だから、その根拠を学生に問い、建築作品の出来を判断していた。それは、ぼくら建築家がジャーナリズムから求められることでもあり、少し高度なことで遠慮していたのであるが、それこそがまさに必要であることに気づく。その反面、学生なりの新鮮な視点も大切にしていて、それをぼっーと終わらせずにどうやって表現となることをアドバイスしていたと思う。まさにタテに対するアドバイスである。同様に高橋さんは、プログラムの設定を含めて、学生が無自覚に解いてしまっている点を絶えず疑問視していた。だから敷地選択に最もシビアであった。それは、与条件のようで実は一番の選択権あることだからである。そうした審査を通して最優秀案となったのは、遠藤研鈴木奏子さんの鵜飼プロジェクトであった。鵜にまつわる生態系の奥行き深さに伊藤さんは驚かされたといい、高橋さんは、計画の粗さはあるもののリサーチの精度の高さと表現の効果度を好評してくれた。今日新しくできた1/50の模型が、内部から覗けるのもよかった。建築の役割とは、このプロジェクトにあるように、大きな生態系を意識してその中に自分の位置づけを表明することだと思う。この作品はこれをクリアに表現していた。遠藤研の皆川莉久さんの天空の集落の作品については、宇野さんがこの作品をよく読んでくれていたのだが、審査員の議論で3等になった。2等となった岩間小春さんの遠野のリノベーション案を、宇野さんが今日的気配感のある作品として、より魅力的に感じたからだと思う。屋根デザインをいじらずにその下を流動的に扱う巧みさのセンスを買っていた。ぼくとしては皆川さんの浮遊感を買いたいと思うのだが、タテをソフィスティケーション表現する技量を好んだのだろう。これらの案に限らずリサーチを重要視する案は現状追認型になる傾向がある。かつてはそれに批判的態度をとることがもてはやされたのであるが、それを現代的に表現するのなら、浮遊感というものかと思う。皆川さんは、わざわざ「天空の・・・」といい、今回それに値する大きな縦型パースまで用意していた。3等で残念。しかし宇野さんの長々と語ってくれた皆川評は印象的であった。宇野さんは地形の読み方を評価し、かつて関所があった地勢までを読み取っていた。ブドウ畑をつくるための植樹パターンが幾何学的になることまでアドバイスしてくれた。何でもフランスのブドウ生産地のそうしたマップがあるという。観光地化でなく巡礼といったらよいとまで提案しくれた。そして、建築しかできないこととは希望や安らぎを与えることといい、この案にその可能性を見出してくれていた。ありがたい。もうひとりの遠藤研中村理来くんの伊王島のプロジェクトは惜しくもOB賞であった。高橋さんのいう、自分の考えを精度高く伝える点に難点があった。しかし、彼の直感に驚かされることが多く、それが発見的であるほどいくつかを線としてつなぐのは難しいことではあるが、それによるダイナミックスさを実感して欲しいと思う。
022 CL フランクフルト×ナポリ ナポリの攻撃は素早かった。10人になるとフランクフルトはさらに厳しくなる。鎌田は中盤の下で先発。起点になり時折フュニッシャーにまでなる。0-2で初戦を落とす。以前のように前からのプレッシングとサイド攻撃がなりを潜めていた。

2月22日(水)
021 CL リヴァプール×レアル・マドリード 開始早々リヴァプールは2点をとり、しかも2点目は名手クルトワのミスであったので、このままリヴァプールが復活の道を進むのかと思いきや、マドリーは前半に追いつくと、最後は5−2とする。恐るべきマドリー。マドリーの速攻は安定している。逆をいえば、リヴァプールは攻めることでしかこの速攻を防ぐ手立てをもっていなかったことになる。これは正面切っての解答でないので、ボロがでたかたちである。クロップ戦略の限界かとも思った。

2月21日(火)
「エッフェル塔試論」を続ける。はじめに、塔のデザイナー側からの主張が描かれる。鉄による前世との石文化との分断が認められるものの、美においては自己言及的で前世と連続している、という指摘は面白い。「第一機械時代の理論とデザイン」のバンハムのようである。風に抵抗するために、新素材鋼ではなく、錬鉄を使用したというのである。

2月20日(月)
「ふたりのイームズ」ジェイソン・コーン+ビル・ジャージー監督2011を観る。この頃を前後してイームズの展覧会が日本でもよく開催されていた。ふたりの伝記で、よいところも悪いところも描いているのだが、作品の核心に触れるようなところはこうしたメディアにはない。ぼくの誤解であったのは、エーロ・サーネンとの合板技術による椅子のアイデアは最初からあって、その後にレッグ・スプリントの製品化を通じて、合板技術に長けていったそうだ。そして、イームズ邸の斜面における配置計画においても長い間の思慮の結果と材料不足から今のような配置になったらしい。ミースの同様の計画を知って急に変更をしたものではないらしい。ところで、まずこの映画から痛感させられるのはつくることの喜び。そしてそれはレイに負うことが多かった。そしてチャールズに負うこととは、建築とメディア、都市との関係、技術や工業化など、モダニズムがかかえていた次なる問題である。チャールズはそうした広い視野をもっていた。そのときに作品はヒロイックでなく社会の中のものとして見えてくる。途中のチャールズの自由についての言葉も印象的。自由は規則や制限がなければならないという主旨のものであった。

2月19日(日)
020 プレミア ブライトン×フラム 0-1でブライトンが負ける。何度もゴールに迫ったが、最後のところをGKに阻まれて、終了間際にカウンターを食らう。後半途中からエストゥピニャンが退くと三笘にボールが集まるようになる。しかし得点にはならなかった。何でも新年からはじめての敗戦だそうだ。

2月18日(土)
「建築と時間と妹島和世」ホンマタカシ監督・撮影を観る。大阪芸大キャンパスセンタープロジェクトの3年にわたるドキュメンタリー。ひとつのコンセプトが決定した後の最終的な作品になるまでの過程を追っている。ここで示されるのは、建築が、アイデアにある訳でもなく、建築家による環境や社会や他者との確認作業によっていることである。
019 ラ・リーガ ソシエダ×セルタ ソシエダのどちらかというと集中力を欠いたような内容であったと思う。ソシエダはリードしつつもミスもあり、最後にそのしっぺ返しで、ゼロで閉めることができなかった。強豪との戦いの後で魔が差しているのであろうか。昼のゲームということもあろうか。中盤の組み立てがままならずに、速攻を食らってしまっていた。ゲーム早々の久保による素晴らしいスルーパスまではよかった。1-1のドロー。久保は今日もMOMとなるも、終了後苦い顔をしてベンチに居続けていた。

2月17日(金)
018 EL バルセロナ×マンチェスターユナイテッド プレーオフとは考えられないほどの好取組。結果2-2のドローに終わる。ユナイテッドのラッシュフォードの勢いは凄かった。2点に絡む。一方のバルサは、ブスケツの怪我欠場に続きペドリも前半で怪我のため退き、ガビ奮闘も次節は出場停止となった。中盤がデ・ヨングのみでは苦しい。
「エッフェル塔試論」松浦寿輝著の再読を始める。「アメリカ大都市の死と生」の反対に位置つけられるものと思った。序章から、保守的な美学をもつエイスマンスと進歩的なエッフェルとの対立構造が示される。ただし、ちょっと捻くれている。「insensであるがゆえの「美」を感受する眼差しが一般化してゆく過程―また、そうした「無用の」まなざしを実践的に基礎づける「前衛」的な美学が種々様々なかたちで開花しては、渦を巻き、相互に葛藤し、消長を繰り返す、眩暈のするような過程」が書かれている。

2月16日(木)
「ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命」マット・ティルナー監督を観る。大戦前後の都市計画についてのドキュメンタリーであるが、なぜかしら「アメリカ大都市の死と生」の再翻訳(2010)と合わせて、再び現在脚光をあびている。2018年の作品である。市民リーダージェイコブス×開発業者モーゼスというあからさまな対立構造を持ち出しているのも、今更なぜかしらと思う。NYは再びそうした岐路に立っているとは思えないのだが、トランプの出現、#MeTooと関係するのだろうか。建築的には、道路の市民に対する役割、一方で高速道路がもたらす町の分断が大きなテーマである。「アメリカ大都市の死と生」の位置づけが当時、「沈黙の春」レイチェル・カーソン(環境問題)、「新しい女性の創造」ベティ・フリーダン(女性人権)と同等ということを知った。
017 プレミア アーセナル×マンチェスターシティ 富安はこのゲームのキーパーソンとして右で先発。しかしアーセナルは右からの展開が全くできなかったのは、グリーリッシュのプレシングに耐えきれずに出した富安のバックパスを決められてしまったからである。スタジアムの雰囲気は首位対決ともあって最高潮であった。この経験はかけがえのないものである反面、失策は大きく富安にのしかかる。これで潰れて欲しくはないことを願う。

2月15日(水)
016 CL パリ×バイエルン パリは前半押し込まれる一方。バイエルンの前線からチェックを受け、ボールを進めることができず。後半からSBメンバーを変えて、途中から怪我から復帰したエンバペを投入。すると攻撃が見事に復活。一度はゴールもオフサイド判定もありエンバペのゴールは取り消しになる。0-1でホームでの敗戦。

2月14日(火)
015 ラ・リーガ エスパニョール×ソシエダ ソシエダは十分な休息。2日の休暇があったという。今日は4-3-3でのぞむ。久保は右、オヤルサバルが左であった。左のオヤルサバルは復調の兆し。今日は下がり気味でアシストを記録。IHのイジャラメンディとよい関係。左が活性化すると、右の久保も生きる。1Gとオウンゴールの誘発まで行う。通常は右に張り付いて、IHのブライス・メンデスとの兼ね合いで中央に入りこむ前試合からの形がよかった。メリーノも後半に登場。

2月12日(日)
014 プレミア クリスタルパレス×ブライトン 三笘は上手くマークされ、ここ数試合のような活躍はできなかった。その代わり反対サイドのマーチと三笘の後ろのエストゥピニャンが自由を得ていた。こういう日もあるのだろう。ただ、今日前掛かりになった10番マクアリスタが右利きらしく、後ろ向きで受ける場合、三笘と逆サイドにボールをはたいてうたのが気になる。

2月11日(土)
「ショーシャンクの空に」フランク・タラボン監督 を観る。タイトル画像とは全く異なり、清々しい映画であった。モーガン・フリーマンの語りによって物語は進み、それで主人公ティム・ロビンスの行動が客観性を帯びる。観客にどことなく感情移入させない構成が、他の映画と違っていてよい。モーガン・フリーマンはこの映画でも重要な役割を果たしていて、「挫折しないために希望を持つな」という台詞や甦生することなど、聖書からの引用も多い。

2月10日(金)
近くで開催中の「Sit,Down.Sit Down Please, Sphinx.」泉太郎展に行く。久しぶりにさっぱり判らない展覧会であった。ひとつのテーマに縛られることを嫌っているようであるが、展示に手がかりがみえないし、マントを着るとかが反対に同調や参加が求められる。結構なショック。

2月8日(水)
「建築に何が可能か」を読み終える。本書は建築とは何かの否定からはじめる。「(建築とは何か)のような本質の把握においては、本質とは過去にあっても未来には必ずしも約束されていない理想であり、もし未来の行動の指針として本質をかかげるなら、彼岸としてしか設定されないのである」。そして「建築として何ができるか」に向かう。「何ができるかという問いは、過去から未来に至るプログラムの設定を可能にする。(中略)強く現世的である」。「個人あるいは集団の意識下にある不安と恐怖を意識の表面に浮上させることによって、これを積極的に打開すべき対象に転化させる。こうした顕在化こそ、希望の源となる。建築になにができるかと問うことと(中略)同じ構造をもっている。T・インゴルドの文章を読むようだ。この姿勢こそ後半の有孔体の理論であり、規制箱から孔がうがつイメージだ。浮遊の思想とは、そのために自由で自立した存在でなければならないことをいっている。読後に違和感がないのは、難波さんの考えの大きな部分にこの原さんの思想が大きくあって、それを通じてきたからだと思う。建築家の主体性が否定されて久しいが、原さんはそうでない。「建築家にとって可能なのは、ひとつの解答の提起であるにすぎないp33」。だから「したいことの内容が社会化されておらねばならないp34」という。それには秩序の発見が必要であるという。ぼくらにはむしろ秩序にかんする視点、制御する意識が欠けているというのだ。それを「被覆性」といい、そこからの搾孔が重要という。こうした全体と部分の関係がこの本を通じて一貫して語られている。

2月7日(火)
「建築に何が可能か」を続ける。「新しいこと」にかんする興味深い記述があった。「物質は、人間の出現とともに、ずれを表出する。私はこのずれにたいして、物語性なる概念をあてた。つまり、ものの在り方は、人間の介入とともに物語性に転化する。物語性とは、存在が意識に与える意味である。美しさとか心地よさといった領域は、観察者によってうけとり方が異なる。そこで客観性を議論してもはじまらない。しかし新しさは客観化されるのではないだろうか。新しいものの在り方は、論理的な新しさをもっている。新しさは、歴史の地平において論理的にとりあつかえそうである。そして、新しいものの在り方は、新しい物語を人々に用意するであろう。非難を覚悟で発言するなら、建物における条件の満足を議論し研究するより、新しさの追求の方がずっと合理的な行為なのだ。正確に発言すれば、正しい方法を探求する姿勢からは矛盾の止揚はほとんど期待できず、実践的に矛盾と対決せねばならない状況に、私たちは投げ出されているのだ。新しさの中にこそ、希望があるp178」。

2月6日(月)
013 ラ・リーガ ソシエダ×バリャドリッド 開幕時でいうならサブ組でソシエダはのぞむ。台所事情は苦しい。選手間のタイミングがよくなく、前半はバリャドリッドに押し込まれていた。したがって、久保は下がり気味で前線へはつながらない。後半からブライス・メンデスを投入。久保は前線に留まることができる。チームのポゼッション率も上がりいつもの形に近くなる。この修正力は流石である。ただし、久保のいくつかのフィニッシュは決まらず。速攻でやられて0-1で落とす。痛い敗戦である。久保はシュート後も引き締まった表情で気力が充実していていることが判る。今日のMOM。

2月5日(日)
NHK特集を2つ観る。ひとつ目は、ロシアのIT技術者の世界への流出についての特集。優秀な技術者がアメリカだけでなく、ウズベキスタンなど世界各地に均等に拡がっているという。実に1/3が国外脱出した。そして彼らはロシア国外で開発のネットワークをつくりはじめている。2つめは、アイリーン・スミスをクローズアップした水俣の特集。水俣は過去の問題ではないとして、現在でも2月に1度、ボランティアで彼女は水俣を訪れている。元夫のユージン・スミスの写真集は有名で、ぼくも幾度となく展覧会を訪れたが、いつ観ても心詰まる思いがする。数年前にはジョニー・デップ主演で映画化もされた。水俣は新しい局面に入っているのだ。したがって、この特集も「52年目のMINAMATA」というローマ字表記である。なんでも、スミス2人は50年代の水俣を訪れる前に結婚し、写真集ができると離婚したという。チッソ社を調べると現在も大企業である。驚きであった。当時も水俣市はチッソ社が中心にあって、公害問題が表面化していてもその善悪を問うには難しい状況であったらしい。特集後半の、映画に影響されてボランティアに参加する若者に優しく問うアイリーンが印象的。こうした状況に直面して何ができるかを迫っている。水俣を他者の出来事となるのを彼女は嫌っているようだ。しかし多くの若者はそれ以上踏み込むのを恐れる。FEARという感情を抱くからだ。「地獄の黙示録」のカーツ大佐が呟く「FEAR」をそのとき思い出した。そして裁判は今でも続いている。
012 プレミア ブライトン×ボーンマス 今日も三笘が終了間際に決勝点を決める。神かっている。引いてくる相手にたいし、決定機をつくれていなかったが、時間が経つにつれて相手の疲れからか徐々に可能性の片鱗をみせはじめ、最後はヘディングで決めた。それにしても三笘はクールである。

2月4日(土)
「灼熱の魂」ヴィルヌーヴ監督を観る。ギリシア神話を参照しているようで、アンティゴネの視点でオイディプスの周辺を描いた作品である。原作があり、70年代のレバノン内戦を舞台にして、悲劇における肉親への愛と社会倫理、そして神の崇高性をテーマにしようとしている。憎しみは愛の欠落から連鎖してしまうが、その欠落に気づくと同時に愛が理解できるというメッセージである。この映画のように運命のいたずらを批判的にみたくもなるが、それを上回る神のような存在が示されている。結局ぼくらが把握できる範囲はその程度であるという世界の被服性についてである。最初のシーンでの主人公のオイラーの等式についての見解がそれを物語る。パースのこれに対するコメントをまず思い出した。「ぼくたちはそれを理解できないし、それがどんな意義を持っているかも分からない。だがそれは証明されるし、それゆえにそれが間違いのない真実である」。
011 プレミア エヴァートン×アーセナル アーセナルは攻めあぐねて、0−1で下位から勝利を逃す。後半から新加入の選手が送られる。そして最後に富安も。相手に研究され、とくにサカへのつなぎが難しくなってきている。

2月3日(金)
午前から昼にかけて虎ノ門で打合せ。夕方から時間をつくり、久しぶりにゆっくりする。怪我から復帰して漸く自由になれた気がする。

2月1日(水)
「建築に何が可能か」を続ける。「非連続性の構造」の章が興味深い。「多様性の讃美は、ともすればあらゆるものの存在を許す共存思想に結びつく危険性がある。これは権力体制の持続をそのまま肯定する思想であるp74」。「共存の思想は、部分に自律性を認めるところに魅力がある。この魅力を変化する総体のなかでどう持続させるかが、私たちの課題であるp75」。つまり、部分と全体の両方を考える必要をいっているが、とかく部分にとらわれがちであり、全体、あるいは部分の連続に重要性を見出している。それで数学が登場し、加えて美がその機能を持っているというのだ。

1月31日(火)
「建築に何が可能か」原広司著を読む。「建築とは何か」ではなく、「何が可能か」を問うことを求める。というのは、カオスが普通のこととして、ありそうもないことを実現するのが人間であるという解釈に基づく。何ができるかには決断を要し、それは現実の自己否定性、歴史の否定性を予告するものという。それを投企といっているのは興味深い。大学で、合格か否かの議論が続く。上位の学生を伸ばし全体をあげることを議論した方が建設的だと思う。ルールを定めることはそれのクリアを目指させることを意味して前向きでない。学生の能力をあげることと反すると思う。

1月30日(月)
010 ラ・リーガ レアル・マドリード×ラ・レアルソシエダ 今日もシルバとメリーノは不在。4-3-1-2でマドリーにのぞむ。久保はトップ下。終盤では右に移動しフル出場。久保を右にして5−4−1にすると、ソシエダはマドリーの度々犯されていたサイド突破を抑えることができたが、攻撃に関しては久保頼りになる。そのときの久保とカマビンガのマッチアップは見物であった。しかし久保もアップアップで、0-0のドローで終える。ホイッスルと同時に久保はピッチに仰向けになる。怪我人が多く、オヤルサバルもいまいちで、これまでのようにパスで崩すことができないでいる。ソシエダはこれから少し日程も楽になっていくので、巻き返しに期待したいところだ。

1月29日(日)
009 FA杯 ブライトン×リヴァプール ブライトンは、移籍がこじれてボランチのカイセドが欠場。これが痛かった。中盤から前線へのつなぎが上手くいかずに、2週間前の戦いのようにはいかず。ただ調子悪いとはいえ、前年のチャンピオンとの対戦。見応えのあるゲームであった。そんな中、ロスタイムに三笘が逆転のボレーシュートを放つ。三笘は落ち着いていて貫禄すら感じられた。

1月28日(土)
友人の墓参りの後、数人の同級生と食事会。十年以来思っていた墓参ができて、少し肩の荷が下りた。高校卒業後も、その友人とは仕事を一緒にしたりよく遊んだりしたもんだ。苦い思い出ばかりが残っている。彼はアメフト部に属していて、彼らは幾度も墓参りをしていたそうだ。自由業をしている人が多く、会話も弾む。楽しい会であった。

1月27日(金)
修士設計の発表会。設計ではよく調査から形へ導くための論理性を問うために、不確定な条件を排除してしまう傾向がある。それでは、これまでの科学が犯した失敗と同じ轍を踏む。このことに自覚的になる必要を感じた。例えば、人口減少を課題にした減築のための有効な構法は、昨今の環境問題、特にしっかりと断熱することにとってはマイナスともなる。あるいは30年前にはフロンなど考えもしなかったが、大きな社会問題となった。こうした課題はこれからも山ほど生まれてくるということもあるだろう。それらを視野に置いた対応とはどういうものか。「デザインスゴロク」の効果を池辺は、陥りがちなそうした過ちのためにも役立つ、といっていた。それだけ未来を計画することは難しいのだが、避けることができないことでもある。今年度の遠藤研からは2名が参加した。伊藤くんは、環境を建築でコントロールする前段階として、環境を身近に感じさせるための建築を考えた。制作者の意図を他者に伝える技法は映画において先んじていて、昨今では背景に環境を絡める技法が多い。それを建築に応用する計画である。例えば、雲間から差し込む幾筋かの太陽光は印象的な映像である。映画ではそうした光景をより印象的にするために、前後のカメラワークやストーリーを巧みに構成し、それによってぼくらは、主人公の心の動きを、光りのもつ力強さや空の高さなどと合わせて感じることができる。建築もまた、シークエンスの映画的な手法の導入によって、特定の環境をユーザーに認識させることが可能となるというのがこの作品のねらいである。結果、建築のシークエンスは映画ほどに誘導できるのは難しく自由に思考してしまうので、その効果は発揮できなかったと思う。しかし、建築のオブジェクトだけに注目するではなく、それを含むコンテクストまでを取り込むシステムをデザインしようとしたところを評価したい。もうひとり鈴木さんの作品は、失われていく鵜飼文化を建築によって再構築しようとする作品であった。本作品は、鵜文化を4つの視点から見直している。まずは通時的視点。鵜飼いは漁業というよりも文化的側面に重きが置かれた歴史的な変遷を辿ってきたという。次に共時的な視点から、現在残っている鵜文化に物質的や道具的共通性を認め、そこに特殊な素材の扱いを発見していた。そして自然科学的視点。鵜飼いに使用される鵜は海鵜で、渡り鳥で、中国からシベリアへの行き帰りの年2回、茨城県の太平洋突端の海岸壁で休息を取る。そのときに用いる伝統的捕獲方法を発見した。そして全国に送られて鵜飼いの鵜として飼い倣わせる方法にも特徴があり、鵜の生態を通じた人の営みを発見した。最後に経済的視点。観光業として現在の鵜飼いは危機的状況にある。その経済的存在価値を高める方法を建築に見出していた。以上から本作品が計画したものは、人間と鵜の関係の提示、それは捕獲し、生活し訓練し、副産物を得て、観察・研究することを可能にする文化的拠点の提案であり、それを多くの人に掲示するための開かれた文化の推進を目指し、鵜を中心とした人と社会のネットワークの再構築である。これは地域間の交流にも及ぶ。以上のようにこの作品は、鵜文化を詳しく調査し、そこで見出されたいくつかの発見が、人と生物との間にあった興味深い関係を示すものであった。この建築が目指すものは、そうした環境を取り巻くような建築の提案であった。

1月26日(木)
「風景の科学 芸術と科学の融合」を読む。2019年の国立科学博物館開催に合わせて制作された本である。上田義彦氏の写真から数々の事実を拾い、それを指し示すことに目的がある。伊藤俊治さんの「風の博物誌 ー芸術と科学のインターフェースー」という論考は勉強になる。それによると、「ランドスケープ」という言葉は17世紀、風景画を意味していたという。だから、現実の光景を意味するのではなく、風景を描いた絵画を示していた。現実の風景を意味するようになったのは18世紀であるというのだ。そして、風景画が芸術ジャンルになり自律するのは、19世紀になってからだという。それは、ジョン・ラスキンが「感情を持って見るにもかかわらず正しく精密な知覚」をもつ人を芸術家といったことによる。その画家とは、ウィリアム・ターナーとジョン・コンスタブルである。この時期に自然と人間の交錯を模索した人が一方にいた。ゲーテである。ゲーテは18世紀後半から19世紀にかけて、科学たる由縁を、新規の発見ではなく、発見されたものの自分自身へ結びつけることにおいてみていた。つまり、「個々の事実の発見の連鎖により世界全体を一つの視点から眺め直す」ことを目指したとのである。直感的概念を科学的概念の先に置いたのである。そして本書にもある写真の登場である。写真にも科学的想起を期待させようとする意図がこの本にある。008 スペイン国王杯 バルセロナ×ソシエダ メリーノ、シルバと故障で、トップ下久保、2トップにするロットとオヤルサバル。前半の30分でプライス・メンデスが退場。0-1で敗退。久保はというと、左からのシュート、60分過ぎには正確なセンタリングで活躍。爪痕を残した。とにかく激しいゲームであったと思う。そうした中、気後れせずに久保が中心であったのが大きい。

1月25日(水)
「力と交換様式」におけるマルクスの言葉を整理。「机は、やはり木材、ありふれた感覚的なものである。ところがこれが、商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう。(中略)したがって商品の価値の神秘性は、その使用価値に由来するものではない。価値規定の内容から生ずるものでもない」(マルクス「資本論」第1巻第1章)。「ある一定の商品を一般的等価(貨幣)にしうるものは、社会的行為だけである。だから、この一定の商品以外のすべての商品の社会的行為が、自分たちの価値を全面的にそれに表すある一定の商品を、除外するのである。このことによって、この商品の自然形態が、社会的に妥当な等価の形態となる。一般的等価であるということが、社会的過程によって除外されたその商品の、特殊な社会的機能となる。こうしてその商品は―貨幣となる」(マルクス「資本論」第1巻第2章)。つまり、マルクスは「貨幣の生成を商品世界における「社会契約」として見たp105」と、柄谷はいっている。

1月24日(火)
GA JAPAN180 2022総括と展望 を読む。二川さんと藤原哲平氏+石上純也氏の対談。前半は建築家のスタディもどきの批判。あまりにも建築家は前提を受け入れすぎていて、それでのバリエーションに価値がないという。そのボスとして隈さんと藤本さんの名が上がり、山本理顕さんはその対極に置かれる。制度そのものを変えた上での空間化を目指すべきという。GAは健在である。

1月23日(月)
a+u増刊号「茶室33選」を読む。桐谷邦夫氏と石上純也氏との対談で、茶室を空間ではなくモノとしてみることが提案されている。非常に現代的だ。日本には黒木造が古からあり、草庵はこれを引き継いでいるらしい。小堀遠州の孤篷庵忘筌、金地院八窓席、曼殊院八窓軒、高台寺の傘亭と時雨亭を思い出してみる。

1月22日(日)
007 ラ・リーガ ラージョ×ソシエダ 国王杯の相手がバルサと昨日、決まる。したがって、ソシエダは今週バルサ、レアルと合いまみれる。そのためか久保は欠場。監督曰く、右太ももの違和感があり大事を取ったという。2-0で勝利も、攻撃の起点がみえなかったのを見ると、久保の存在は大きくなっているのが分かる。

1月21日(土)
「力と交換様式」を読み、建築における力みたいなものを考えた。建築における空間と人間との間にも、霊的な力の交換が期待されているように思えるからだ。もう一度、繰り返しアルベルティを持ち出すまでもなく、中世が野蛮とされていたのは、考えることすなわち知が上部構造に何よりも置かれていなかったからであった。そして図面というシステムを持ち出してそれを可能にしたのがアルベルティであった。このとき建築家は空間操作という力を手にしたことになる。知はそれまで、パンテオン級の大きい空間がフィレンツェのドームまで不可能であったことに見られるように、石材を積み上げる作業や徒弟制度のギルドの中に隠されていたのでないか。それが開放されたのである。このように知の出現は歴史上繰り返し起こっている。ヴィオレ・ル・デユクの18世紀は「構造」というものがそれであったのではないか。そう考えると交換様式Aという遊動的で個性体・独立性を備えた状況は、知をもそうさせる。柄谷のいう高次元の回復とは、知も射程に入っているものだろう。
006 プレミア レスター×ブライトン 三笘のスーパーゴール。余裕が感じられ、右45度からであった。相手DFも三笘を恐れて無理にあたってこないことがそれを可能にしている。その時点で三笘が上にいる。しかしゲームは2-2のドロー。ブライトンのトロサールは移籍してしまった。

1月20日(金)
卒業設計の発表会。朝から全学生による発表。昼にポスターセッション。20名程度の選抜を経て質疑応答、こうしたプログラムで進めた。全体的印象というと、構造等のエンジニアリングや社会的要求を考える教育方針であったので、きちんとした建築を考えることができるようになっていた。それによってポジティブには、図面表現が充実した一方、既知感に支配されているように見えてしまうのも事実。むしろぼくらを取り巻くそうした押さえるべきことから批判的に向かえばよいと思う。例えば、社会的要請からリノベーションを提案する案が多いのだが、そのとき構造材などの痕跡を残そうとするのは、設計者としての美的センスが実は大きいのだと思う。しかしそれを社会的な要請として処理してしまえば、それを免罪符にして美を自由に手にすることができる。そうした美は意識的でないので、客観的な伝達能力も低くステレオタイプ的なものになっているような気がした。遠藤研の中村理来くんの案は、長崎の伊王島の観光地化を文化面から考える案であった。伊王島は隠れキリシタン、炭鉱、本土からの橋の建設などの最近の経済政策、コンテクストが複雑な場所である。70年代には山田洋次が映画にしていたし、遠藤周作の小説とも深く係わっている。中村くんはそうしたものを手がかりに島の情報を丁寧に拾っていった。今では当たり前になった島にある仮設パイプや失われた山道、そして炭鉱孔の動圧受けになる山積みされた木々の写真の発見は、そうした手がかりによるものである。それらに彼のセンスが相まって独特な作品に仕上げていた。遠藤周作の文学界における評価はいまいちのところもあるが、外来文化を内的なものにかみ砕く日本人としての苦悩を一貫して描いており、映画監督マーティン・スコセッシは人間性をそこに発見している。皆川里久さんの作品は、70年代の森俊偉さんが見出した「丘端」を現代の栃本限界集落に見出そうとする計画である。それが現代SANAA風で軽やかにできているのが当時と異なりよい。いくつかの問題が指摘されたのが、この発想は皆川さん特有の素晴らしいものなので、これを表現としてさらに展開できればよいと思う。タイトルにも「天空の栃本集落」とあり、天空性を表現できたら有無を言わせないと思う。瀧岡玲奈さんの作品は、瀬戸内海の粟島での日常を再評価しようとする作品。空間が場になるには、意識化を経なければならないというイーフー・トゥアンの考えによっていて、この作品は導かれている。これを表現できなかったのが悔しいところであるが、瀧岡さんは島民の生活や出来事にそれを見出そうとしていて、中村くんがモノにそれを見出そうとしていたところとの違いがあった。こう考えると、岡崎乾二郎が芸術家にみられる抽象の力といっていたものの存在を大きく、山田洋次やマーティン・スコセッシなどは映像へ総力を投じていることに気づく。建築も同じだと思う。森本遼くんの作品は、ジル・クレマンの「動いている庭」を参照し荒れ地をテーマにしている。そこには、全てをコントロールすることへの批判がこめられている。雑草を亡くすことは無理あるように、街へユートピアを見出すこと、逆に消えゆく街を復活させることも難しい。だから、荒れ地という現実と上手く付き合い共存していくこと、その素晴らしさが現代に欠けていて、荒れ地にヒントがあるというものであった。この節度さは建築と相反することが多く建築化するのに難しかったが、確実に現代的なテーマである。山崎優大くんの作品は境界の研究。境界は曖昧な事象なため、モノとしてあるいは心的対象として研究に昔からなっているので新規性が難しかった。参照文献を見つけることができなかったことも大きいと思う。分析の解像度を上げていくと複雑になり、ネットワークのようなもので応えるしかない、このことまでたどり着くことができれば新しい展開かとも思うが、ぼくにとってもアイデアの段階である。小川裕太くんの作品は西船橋駅の再整備計画。いつものようにプレゼがユニークでこれまでになかった才能をみる。今後この才能のテーマは何かを考える。

1月18日(水)
「力と交換様式」を読み、建築や芸術、あるいは文化における交換様式A,B,CそしてDは何に当るかを考える。いわゆる「建築」というシステムは15世紀中頃からはじまったと言われている。その第1人者であるアルベルティはフィレンツェ出身で、はじめは商人から仕事を受け、晩年はローマ教皇の仕事を受けていた。アルベルティの「建築論」はウィトルウィウス(紀元前の共和制古代ローマ末期と帝政ローマ初期)を参照したのは有名である。「力と交換様式」によると、このウィトルウィウスの時代は、カエサル暗殺の頃で、「互酬交換Aをとどめる“パトロンークライエント”関係が残り、それが王―臣下という体制Bの確立に抵抗したp201」時代であった。つまり、「ギリシアと同様に氏族社会の民主主義残っていた」時代、すなわちBに行く前のAの時代であった。一方アルベルティの時代は、絶対王政と宗教改革前の商人資本の時代。職人や商人のアソシエーションあるいはコンミューンが形成されていた時代。「力と交換様式」によれば、未開のAが濃密に残存し、それがBの決定的な優越を許さない時代にあたる。だからアルベルティをはじめその後の多くの芸術家はパトロンを求めていくつかの都市を渡り動いていた。アルベルティの作品の代表は、マントヴァのサンタンドレア教会。図面というものを発明し、考える人とつくる人を分離させ、建築家を特権化させたことでも有名で、建築家に一種の力、無から素晴らしいものを生む力、これを備えた人であることを世間に浸透させようとした。このように考えると「建築」のはじまりは、未開の氏族社会Aの互酬交換のような力を復活させようとする産物だろうと推測する。次の段階、1848年時代の建築家と言えば、構造を「建築」に取り上げたヴィオレ・ル・デユクである。ヴィオレ・ル・デユクは官僚であったと聞く。鉄を使用し力の流れを理解して、朽ち果てていた数々のゴシックの教会を独自の思想で修繕をした。教会が教皇のものから国のもの、そして市民のものとなっていった時代で、キリスト=ネーション=国家の出現ともいえる。その前がルドゥーで完全円形の管理建築、ショーの製塩工場(1779)を完成させている。絶対王政の時代で、これはまさしく交換様式Bの建築である。だからヴィオレ・ル・デユクは、この完成されたBからの脱却のために構造=技術、あるいは中世のゴシックの可能性を見出した訳だ。交換様式Cの建築としては、1951年のミースのレイクショア・ドライブ・アパートメント、あるいは真反対のぼくらがつくったような狭小住宅のようなものだろうか。お金によってしかも少額で、これまでの慣例、道徳なしに誰もが最新の技術や素材を手にできるようになった。

1月17日(火)
「力と交換様式」柄谷行人著を読み終える。本書によるとマルクスが晩年に至った結論は、未来の共産主義が古代社会にあったものの高次元の回復によって成立する、というものであった。それは、次のようにも記述されている。「定住を強いられた諸個人は、定住共同体の掟に自発的に従うようになったが、同時に、遊動的な段階にあった個性体・独立性を保持したのである。それが氏族社会である。しかし、国家の出現とともに、自体が変わった。氏族社会が終わっても、人々は国家の下で共同体を維持したが、それまであった個体性・独立性を失った。交換様式でいえば、そのときAがBに押さえこまれたのである。 その後、近代国家・資本主義の発展、つまり、BとCの拡大とともに、村落共同体Aは解体されていった。しかし、それはある意味で回復された。つまり、資本主義経済の下で、ネーション(想像の共同体)が形成されたからである。とはいえ、それはAの“低次元での回復”にすぎない。その結果として成立したのが、資本=ネーション=国家である。そして、それが最初に出現したのは、ヨーロッパにおける1848年の革命を通してであった。マルクスとエンゲルスはそのとき、資本=ネーション=国家の出現、すなわち、Cの下でのA・Bの結合という大事件に立ち会ったのであるp389」。共同体のあり方としてアソシエーションという協同組合方式もひとつの方法であるがそれは、ユートピアン社会主義であり、ローカルに通用するものでしかないという。したがってもう少しスケールアップした国家や資本というものを揚棄することはできない。揚棄しようとすること自体が、それらを回復させてしまうからだという。そしてそれを可能とするのは、この本のテーマである高次元のAの回復によってしかないというのだ。Aとは、互酬にもとづく相互扶助。個体性・独立性ある社会のことであり、それは古代社会にあったものものである。

1月16日(月)
「力と交換様式」は第4部。ヘーゲル、マルクス、エンゲルスと続き、エルンスト・ブロッホが登場し、ブロッホの「希望」を定義する。それは「希望とは、中断された未成のものが、おのずから回帰すること」である。これを史的唯物論でいう「未来」、生産力とともに形成された生産関係(階級)の変革と国家の揚棄によって実現されるもの、と対比する。そしてブロッホは、無意識に対して未意識という。反復される意識のことをいう。

1月15日(日)
午前に娘たちと2階の残工事。これで一通り終えることができた。後はリフォーム会社に任せようと思う。午後から妻の実家に行き、義父の退院祝い。軽めの会食をする。元気そうで何よりである。
005 ラ・リーガ ソシエダ×ビルバオ はじめて観るバスクダービー。他のダービーとは異なり穏やかである。互いのサポーターは隣り合って座り観戦するほどだ。隣接すれどもいがみ合うことなく共同体としての意識があるらしい。ソシエダのホームページも一番始めにバスク語euskarであり、スペイン人であることの前にバスク人であることが分かる。試合前には民族舞踊も。脚を中心とした踊りであった。久保は右FWで先発。ゲーム当初から意気込みが感じられ調子がよいのがわかった。相手股抜きの1GにエースオヤルサバルへPKもプレゼントし、MOMに選ばれる。今日は、ビルバオのプレッシングも激しく、ソシエダはそれをかいくぐるのに苦労していた。そのひとつの打開策にCFのセルロートが下り、久保はその近くを上がってゴールを狙っていた。交代前には、そうした状況で何度も裏を狙っていたのだが、味方からはパスが供給されないのは、もうひとつ信頼をつかめていないことかとも思う。反対サイドにオヤルサバルがいて攻撃の重心がそちら側になっている。

1月14日(土)
003 プレミア マンチェスターユナイテッド×シティ ユナイテッドが逆転に成功。ホームでの気合いが感じられた。いずれも速攻から少ないチャンスをものにしたものであるが、その前からプレッシングが激しくなり逆転の予兆は十分に感じられていた。その結果ユナイテッドもいつのまにか上位に位置し、2位のシティとの差はなくなっている。
004 プレミア ブライトン×リヴァプール 三笘の左先発もしっかり定着したようだ。今日も随所にリヴァプールサイドを脅かしていた。その対策としてリヴァプールは右ハーフのヘンダーソンを下げて2人で押さえ込もうとするも、ブライトンも左SBのエストゥピリアンとの連係でこれを崩そうとしていた。結果、後半からブライトンの圧勝。故障者が多いリヴァプールであるが、昨年までの勝者の面影は今はない。クロップは7年目で、それはドルトムントで不調であった時と重なる。

1月13日(金)
朝から建具、ガス、ペンキの工事。今日で工事は一段落するも、残されたセルフ工事部分は大きい。その予定を立てて今日を終える。室内はすこぶる快適になった。

1月12日(木)
大学にて重要な会議。なかなか解決が見出せないが、誰かが無理しないといけないのだろうと自覚する。交換様式Aを高次で再回復するには、柄谷にいわせると、本来あるべき交換様式Aが有効らしいことを自覚できないといけないが、それには情が重要な要因になるのだろう?と思う。

1月11日(水)
o+hの大西麻貴さんをむかえてのレクチャーシリーズ。今年度最後となる。大西さんは実に感受性豊かで人柄もよく、具体的なエピソードにそって話をすすめる。この姿勢に惹かれた。無防備にみえるのもまたよかった。タイトルは「愛される建築をめざして」。これは高校時代からの近代建築に対する疑問であったという。大西さんの考えは一貫している。それは「個から出発する共感の輪が重なり合い全体が包摂される」というものだ。それを聞いて、ぼくはプリコジンの散逸構造を連想した。大西さんはそのための建築の構成を模索しているのだという。他の建築家と異なっているのは、そのために新しい建築の形式をつくることも大切に考えていることだ。このことに大変共感した。つまり、恣意的でありつつも自分を開いているのである。いくつかのプロジェクトを紹介してくれた。どれももちろんプランが大事となり、そのため求められる要求を意味として重ね合わせていくのだそうだ。しかし、それにもまして屋根の形にも重きが置かれている。屋根にはあまり要求がないのだろう。したがって大西さんの建築に対する思いがそこに表現され、建築になっていると思う。近作では、庇端部の修まりなど建築としても洗練されてきている。よいレクチャーであった。

1月10日(火)
「力と交換様式」を続ける。第3部の最後は環境問題について。アニミズムが消えてしまって、自然が人間にとって、単なる操作される、また操作されるべき物となってしまった点を批判する。「われわれが今日見出す環境危機は、気候変動のような問題に還元されるべきではない。環境危機は、人間の社会における交換様式Cの浸透が、同時に人間と自然の関係を変えてしまったことから来る。それによって、それまで“他者”として見られていた自然が、たんなる物的対象と化した。こうして。交換様式Cから生じた物神が、人間と人間の関係のみならず。人間と自然の関係をも致命的に歪めてしまったのである。さらにそれが、人間と人間の関係も歪めるものとなる。すなわち、それはネーション=国家の間の対立を各地にもたらす」。

1月9日(月)
サントリー美術館で開催中の智積院展に行く。長谷川等伯の屏風は、10年くらい前に父が本物を観たいというので京都に一緒にいった。行くと屏風は、門の左の寒々しい宝物館に展示されていて、がっかりした記憶がある。しかし隣の会館には土肝を抜かれた。屋根を支持する柱がコンクリートのポテンシャルを遺憾なく発揮していた建築であった。後で調べると増田友也であった。現在は取り壊されてしまったそうだ。今日の展示では、等伯と息子久蔵の屏風は完璧に展示されていた。CGのようであり、これはこれで少し残念でもある。この江戸初期の絵は絢爛豪華であまり好みではないが、構成と対象物の大胆さがその感じを上回っている。構成という概念は江戸当時なかったと思うが、極端な横長であることがそうさせているのだと思う。それは少し前の狩野永徳のもと比較しても、のびのびしていてより大胆である。二人はライバルであったといわれているが、それもうなずける。等伯後の琳派の展覧会に今度行ってみようと思う。

1月8日(日)
妻を実家に送って、ホームセンター巡り。今週の残工事に備える。
002 ラ・リーガ アルメリア×ソシエダ 久保は右で先発。今日は右脚で右奥までドリブルで攻め上がり、遅れて上がってくるシルバとの連係も多かった。シルバにアシストを与える。右サイドでは、シルバやメリーノ、そしてプライス・メンデスなど左利きの選手が密集して起こす攻撃が目立つ。対し左では、比較的スペースがあり久保が自由に動き回れっている。最近久保が右に位置するのは、おそらくエースオヤルサバルが左で復帰したときの対策と思いたいが、実に面白い展開となっている。

1月7日(土)
リビングのオーディオのセッティング直し。漸くこの作業にかかることができた。始めようとしてから1年かかった。注意深くアンプの配線を確かめながら進める。
001 プレミア ミドルズブラ×ブライトン 三笘先発。アシストも決める。ブライトンの戦術が巧妙で全員をピースのように考えている。こういう形に日本人はあっている。三笘も後ろのSBエストゥピアンとIHのファーガソンとの連係がはまる。

1月6日(金)
午前に虎ノ門に行き、午後に銀行の雑用と炊飯器を修理センターに届け、どちらも連絡待ちとなる。「力と交換様式」第3部を読みはじめながら、子供の頃の疑問を思い出した。それは、なぜ紙切れでしかない紙幣の価値を皆が信じて売買するかという点や、西欧の人たちが聖書の前で宣誓する点。宣誓など単なる口先のものでしかないと思っていたからだ。あるいは戦争を起こす一方で、憲法を重んじる点についてだ。これらは幽霊のようなわからい力である。本書ではこれを説明しようとしていて、徐々に納得していく。

1月5日(木)
「力と交換様式」第2部を読み終える。後半は、共同体にいたゲルマン農民が、どこでいかにして賃労働者に転化したかについてである。それはマンチェスターやリヴァプールという新都市の織物業で起きた。織物業はあまり熟練業を必要としなく、消費者としての魅力に彼らがかかってしまったためとされる。これが資本の優位性を導き、絶え間ない技術革新が求められ、産業革命が起こったという。その下地として宗教革命による神崇拝からの解放、すなわち貨幣を蓄える物神崇拝と国家による規律教育があったという。

1月4日(水)
妻が義母の世話に出かけたので、今日は近くの熊野神社に一人で行く。結構人が多かった。「力と交換様式」第2部をほぼ読み終える。第2部はイオニアからギリシア、ローマそしてゲルマンまでの中世、そして絶対王政までの、近代国家が成立するまでの話である。このときギリシアやローマは、アジアの亜周辺であったと指摘される。そのためアジアの官僚制専制国家システムが及ばなかった。そこでは互酬性に基づく小国家(都市国家)が形成され、ゲルマンの封建制も、領主と農民の間の双務的な農村共同体(アソシエーション)であったという。柄谷はそれを未開的といい、文明と対立させる。この未開性が専制国家をつくる妨げになっていたし、ギリシアで芸術が花開いたのも、この未開性によるものだという。その未開性は、今では修道院にて見ることができる。そしてこの絶対王政(といっても君主に毛が生えたものでしかないそうだ)が崩壊してはじめて近代国民国家が成立するに至った。本章の後半にベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」も紹介される。資本主義の成立と印刷を通じた情報技術を通じて、新しい集団意識が目覚め、法に基づく国民国家がブルジョア層によってもたらされたという。ここでもまずは現実社会があり、それは上部構造から発展したものとなっていない。

1月3日(火)
今日は妻と近くの氷川神社へ初詣。午後から2階の整理。正月が明けると職人さんが入るための準備をする。昨日に続き山田洋次監督を観る。「幸せの黄色いハンカチ」。この映画を、ぼくが学生の頃、中埜博さんが難波さんに強く薦めていた。このことを鮮明に覚えている。そのとき難波さんは意地でも観ないといいつつも、それなりに詳細を把握していた。二人のただならぬ会話から、ぼくも今日まで観ないでいた。その自制を思い切って外して観ることにしたのである。もうよいのではと。案の定、この映画の特徴は、あらゆる複雑な現実を伏せても訴えかける感動をなんの衒いもなく描き切るところにある。もちろんぼくもそれに素直に反応した。が一方で、ある種のパターンに寄り添ってしまっている姿勢を批判的に思ってもしまう。つまりこのふたつの間を揺れてしまう訳で、学生時代に危惧した状況と今もあまり変わっていない。ただし、あらゆる前提をあらためて問い直すことなど本当に不可能と考えるようにもなっていて、その上に乗った方がいくらかでも前進できるとも考えるようになってきている。この映画を通じてこのことに気づけたのはよかった。

1月2日(月)
近くの幡ヶ谷不動尊へ初詣。人が少なくてよい。護摩焚きのみで予定の時間より早くはじまるも30分ばかり続いた。天気もよく清々しい気持ちになる。午後に「家族」山田洋次監督、1970年の作品を観る。長崎の伊王島の炭鉱に勤めていた家族が北海道の中標津町の開拓地までたどり着くまでのドラマである。日本の高度経済成長時代の風景と世情を知ることができる。井川比佐志と倍賞千恵子が扮する家族はおそらくぼくの両親と同世代だろう。現実と社会の歪みにもがくのはどの時代でも共通であるが、真っ直ぐな希望を抱いているのが現在と違うところである。それに重ね合わすように博多の工業地帯、福山の工場団地、そして大坂万博も描かれていた。列車から垣間見られる街の風景も多様で特徴的だ。山田洋次監督はその前年に「男はつらいよ」を完成させ、キャストを含めそのファミリーによる製作である。

1月1日(日)
今日は妻の実家で正月。向かえにある西福寺は今年も開いていない。三重塔もある立派な寺であるのに残念だ。その間に4年生から送られてきた梗概のチェックと読書。妹夫妻が今年になって飼い始めたボルゾイに会う。大型犬であるが、物静かで優しい。2時間の間、子供たちとじゃれ合っても一度も吠えなかった。体高は机より高く体重は45キロくらいあり、毛艶もよくぬいぐるみのようだ。「イエスマン」ペイトン・リード監督をBSで観る。2008年の映画で、家族はよく知っていた。主人公が変な宗教に感化され、つまらない人生をポジティブに変えるコメディ映画で、元気をもらう。ジム・キャリー主演。「アメリカン・スナイパー」のブラッドリー・クーパーも友人役で出演。製作までしている。クリント・イーストウッドの「運び屋」では、イーストウッドを敵視する保安官役でもあった。司祭役がこれまた特徴的で、見覚えがあるとネット検索するとスターウォーズの良心的な最高会議議長の一人であった。