11月26日(日)
ICCで開催されている「ものごとのかたち」展へ行く。現代テクノロジーによって拡張された新しい現実の可能性を示す展覧会であった。昨日クリストファー・ノーランの本を読み終えたが、その中でノーランのことを「作家主義 la politique des auteurs」監督といっていた。映画は技術の集積ではなく、エクリチュールつまり個人的な表現手段にあるというものである。そう思うと、この展覧会をかたち展というくらいなら、参加者に投げないでもう少し表現=かたちに踏み込んでもよいと思った。その中でも東大の館智宏研究室の幾何学集積からつくるかたちの提案は面白い。へんてこな3次元空間が出来上がっている。

11月25日(土)
蔵前で今年の遠藤研OB会。多くの卒業生が参加してくれた。久しぶりに会うOBもいて彼らの近況を聞いて回った。此処に来ている人は元気なので安心なのであるが、しばらく会っていない人はどうだろうという情報も聞いたりする。会の途中で皆からの還暦のお祝いをありがたく頂戴する。ボルサリーノのバケットハットとお花である。照れる。当日のOBの仕切と事前の現役生の段取りに感謝である。「ノーラン・ヴァリエーションズ クリストファー・ノーランの映画術」トム・ショーン著を読み終える。最後は、左右という概念をいかに定義するかという著者とノーランの対話で終わる。この定義は長年説明不可能な問題とされてきた。つまり現実に存在するにも関わらず客観的な説明ができないということで、ノーランはこれを映画の魅力と重ね合わせている。ぼくの大好きなG・ベイトソンも、この左右の概念定義からトートロジーという独特の考えを説明している。定義することとは結局、トートロジーの網を張っていく作業であるので、将来にわたり完璧さを保証するものではなく、後の発見などによって変わるものなのである。だから、受け手にとって満足いくかどうかでしかないという。ノーランの作品も、まず作品という実物があり、作品は鑑賞者との間で結ばれるトートロジーの面白さに関わっていれ、客観的な説明など不要というのだ。

11月24日(金)
昨日に続き「ボルヘス「伝奇集」」にある「バベルの図書館」を読む。ボルヘスはアルゼンチン図書館館長もしていたらしい。知が生成される無限性を図書館になぞったのが本書である。ボルヘスの言う図書館の構造をイメージすると様々なプランが浮かぶ。しかしこれが天まで消えゆく様はなかなか想像しづらく崇高をかたちづくるものとなる。そう、崇高性がもっともぴったりいくのが、この本である。

11月23日(木)
「ボルヘス「伝奇集」」にある「円環の廃墟」を読む。人や世界は想像の産物であることを表現しようとした短編である。自分も想像の産物であるとしたら話がややこしくなるがそうした物語がシームレスに入れ子状に展開し、決して機能的な読み方では終えない小説であった。だから神秘的で哲学的であったりするのだが、具体的な描写を通じてそれを感じさせているのが建築的でもあり、演劇の舞台を観るようでもある。知の構造を示そうとしている。

11月21日(火)
ギャラ間で開催中の西澤徹夫展「偶然は用意のあるところに」に行く。免疫法をかんがえたパスツールの言葉がこのタイトルのヒントになっている。Chanceを偶然と訳しているのが今風である。展覧会も全体を示すものがなく部分模型で構成される。多くの美術館の会場構成を手がけているとあって配置も面白い。視線移動を飽きさせないものとなっているし、ドローイングも優しい。混迷を追求するモダニストでなく、リアルと夢の間を探求する遊歩的でもなく、ありのままを受け入れる状況的でもなく、社会を主観的に捉えながら信じるものをもっている姿勢は真似できるものでない。

11月20日(月)
「芸術新潮」10月号の磯崎新特集を読む。藤森照信氏のインタビューは面白い。磯崎にはずっと廃墟イメージが源泉としてあったという。「ふたたび廃墟になったヒロシマ」は有名だけれども晩年のカルフォルニアの砂漠に建てられた「砂漠の寝所 Obscured Horizn」は知らなかった。荒涼たる砂漠にポツンと建つ星空鑑賞用のベッドがコンクリートむき出しでできたものである。椹木野衣氏の俯瞰的磯崎論も面白い。「偶然は必然と二項の対をなすけれども、磯崎の思考はそうした軸に沿っていない。もちろんジョン・ケージ言うところの「実験」とも違っている。ではなんと呼べばよいのだろう。この呼び方が難しい。磯崎が使った言葉に沿うならば、それこそが「孵化過程」ということになる」。そして殻を破る孵化、これを荒ぶると表現しているが、この反活動に磯崎の本質をみている。しかしどうだろう。殻の存在なくしてそれはないことを強調すべきだと思うのだ。磯崎が直面した時代から続いている問題と思う。

11月19日(日)
「レザボア・ドッグス」主演のハーヴェイ・カイテルがスコセッシ監督のデビュー作品に主演しているのを知り、「ミーン・ストリート」スコセッシ監督1973年を観る。この映画に、ロバート・デ・ニーロも助演としてデビューしている。デ・ニーロはその後に「タクシードライバー」等のタッグがスコセッシと続く。テーマはニューヨークのリトル・イタリアを生で描くこと。スコセッシの生い立ち映画である。ジェンナーロ祭のシーンからはじまるように、そこにはカトリックの影響が根強い。罪に対する償いを重んじ、償いは教会に対してではなく仲間やファミリーに捧げるものとしてある。だから主人公のハーヴェイ・カイテルは、トラベルメーカーのデ・ニーロを守り続けるが、社会はそれを許さないし、街も彼らを見捨てる。しかし映画はアンハッピーで終わる。懐かしい60〜70年代のヒット曲で映画は進む。ザ・ロネッツの「Be my baby」、ローリングストーンズ「Tell me」「Jimpin Jack Flash」、クリーム(エリック・クランプトン)の「Steppin out」、マーヴェレッツの「Please Mr Postman」。他にはイタリア伝統民謡など。アメリカアンダーグランドの少し暗い時代の象徴を試みる映画である。
117 代表 日本×ミャンマー W杯予選初戦。初戦はいつも引いてくる相手に難しい試合となっていたのだが、今日は危なげなかった。早々に先制でき、その後も追加点を続けることができた。5-0で1本もシュートを打たせなかったと思う。

11月18日(土)
朝早く京都御所を散歩。とてつもなく大きい。途中、菅原院天満宮神社による。ここは菅原道真誕生の地であるという。ホテルチェックアウト後、陰陽師安倍清明を祀る晴明神社へ。堀川通沿いに東向きに建っている。本殿横の桃は厄除け果物であることも知る。昼過ぎに新幹線に乗車し、「プレステージ」クリストファー・ノーラン監督を観る。これも時系列が遡る凝ったサスペンス映画で、ノーランと弟のジョナサンそして妻エマが脚本担当。因縁をもった2人のマジシャンをヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベールが演じる。彼らは根を同じくするが対称的に描かれる。マジックンを技術とみるか芸術とみるか。映画やぼくらに関わる建築にもこれはいえそうだ。それは見た現実をどう判断するかだ。最後の主人公の台詞は印象的である。「客は真実を知っている。世界は単純で、惨めで、つまらないものんだということを。だが、その世間をほんの一瞬だけでも驚かせることができれば、とても特別なものに見られるんだ」。この映画の時系列は緻密で、いくつものシーンが錯綜している。基本となる事件のシーン、盗まれた日記上のシーン、回想シーン、回想シーンの登場人物が回想するシーン、それとタネ証のシーンなど。なかなか飽きさせない映画である。

11月17日(金)
苔寺西芳寺に行く。拝観料を高額予約制にして参拝制限をしているのでそれ程人は多くなく、苔の状態をキープしている。その苔は朝まで雨が降っていたので瑞々しい。無窓疎石(国師)の作であるが、苔は自然発生した結果らしい。その足で、京都のもうひとつの無窓疎石作天龍寺曹源池庭園へ行く。道中の嵐山は人がいっぱいで、オーバーツーリズム。ここ天龍寺も例外ではない。曹源池は地と図が反転していて、妹島さんの作品を思い起こす。外国の批評家もそう行っていたような気がする。早々に切り上げて隣の福田美術館へ。近年できた安田幸一さん設計である。中庭の水の流れをつくることを第1優先としてためかプランは少し窮屈であるが、眼前の桂川への連続は抜群である。どことなく土門美術館を思い出させてくれる。レストランは入館者だけが利用でき落ち着いて昼食が採れた。川に向かう南から差し込む光をガラスプリントの模様で遮っている。伝統に対する距離を置くことに好感がもて、それは屋根の扱いに現れている。亙でなく根太風コンクリートを上手く使っている。道を挟んで隣のホテルも安田さんの設計である。それもみるとやはり外部空間の扱いがこの建築のテーマのようだ。この美術館の収蔵は日本画である。今日の展覧会も江戸時代の絵師たち、円山応挙、伊藤若冲、琳派と狩野派であった。現代を誇る日本画美術館だ。大徳寺へ。紅葉の高桐院は閉まっていた。特別公開中の黄梅院へ。品があり大きい。千利休作の直中庭があり、昨夢軒という千利休師武野紹鴎(たけのじょうおう)の4畳半茶室もある。紹鴎は貧しい家の出身で苦労し、村田珠光の枯淡性を千利休へ伝えたとされる。それが分かる茶室であった。次に興臨院へ。近代和風建築であるが、庭は近代作庭家中根金作。奥に古田織部のかん虚邸がある。かなり複雑な四畳台目茶室であった。その後、内藤廣氏設計の虎屋でお茶をして学生たちと別れる。内藤さんには珍しく切れを前面に出した建築であるが、プランは堂々と実直である。

11月16日(木)
京都行き。新幹線で着くと学生が迎えに来てくれた。ありがたい。その足で特別公開の西本願寺飛雲閣へ行く。この旅行の目的である。飛雲閣の中には入れないが、その大きさを知る。思っていたより大きい。池が小さいので相対的にそう感じるのかもしれない。池とのバランスを考えるとはじめからあったわけでなく移築という説が有力らしい。5つの異なる屋根が印象的。これに魅せられた石井和鉱は直島役所をデザインした。モダニズムが崩れた時代に注目された建築である。異形としである。次に唐門、浪之間、太鼓の間を経て、外から白書院(対面所)を観る。それらは庭の能舞台を囲むようにある。白書院は今日の午前中のみ公開ということで残念であった。東寺に行き、講堂の立体曼荼羅を確かめる。文字に長けていた空海が渡唐し真言密教から得たものは図という曼荼羅であり、それを立体的に表現したものである。その南にあるのが灌頂院で、そこでは密教の奥義が正月の7日間に渡り行われる。以前の東寺展で1/1模型があった。五重塔に入る。ここで大学とWebexミーティング。夕方、銀閣へ行く。3つの楼閣建築の2つめである。飛雲閣を観ると、デザインに物足りなさを感じる。小ぶりにも感じる。修学旅行の学生たちが多く落ち着かない。一度東本願寺裏のホテルに戻り、学生と夕食。新幹線で「レザボア・ドッグス」タランチィーノ監督・脚本・主演1992年を観る。タランチィーノのデビュー作でもある。題名にあるように社会に適応できない悪者の物語で舞台演劇のようである。ひとりひとりのキャラクターが変化に富み、70年代の音楽に沿って出演者それぞれの記憶を遡のぼりながら物語が進む。

11月15日(水)
MARU.architectureを招いてのレクチャーシリーズ。レクチャー前にMARU。に勤めていた岡部くんが来てくれる。3ヶ月前に無事退所したそうで、一緒にレクチャーを聞く。「重なりがつくる建築」というテーマで、「松原図書館」、「生態系と生きる家」、「伊東市図書館」、「花重リノベーション」、「伊賀上野庁舎リノベーション」を説明。どれもが2項対立を超えたシステム、それを生きたシステムといい、それを目指して、近代建築の批判としてある。その方法はぼくが見たところ、比較的強いダイアグラム(かたち)を提出し、それにユーザを巻き込むものである。ただし、そのダイアグラムの提出にデザインの妙があり、押しつけがましくない。それに同意。ぼくはかつてそのことを「串のある建築」といった。串があれば、それにおでんや串カツや焼き鳥など様々な料理に展開する。それは歴史的で、串をデザインした人はすごいというエッセイであった。MARU.の場合は、個々のプロジェクトに沿ってそれは変わっていて、古墳の風景、室温制御の壁、既存住宅の構造システム、坂倉さんの建築、などであった。レクチャーの後に学生の質問が興味深かったというコメントももらう。千葉工大はモノ派だねと。モノの力を信じているのがここからも判る。

11月13日(月)
「見知らぬ乗客」1951ヒッチコック監督を観る。脚本のレイモンド・チャンドラーは、先週観た「湖中の女」の原作者である。同様にストーリー展開が何重にも重なり観るものを飽きさせない。婚約者の妹(ヒッチコックの実娘らしい)と元妻の容姿、焦りの気持ちをテニスのゲームに重ねるなど。当時の1等列車中の様子も度々登場し、当時最新鋭であっただろう遊園地など、1950年代のアメリカ文化も知ることができる。最後のメリーゴーランドでの格闘は、今からすると幼稚だけれども狂気地味ている。ヒッチコックが絶頂期に差し掛かる直前の作品である。自動車の移動中に、気になっていたワーグナーの「ラインの黄金」の聴き比べをする。名盤と呼ばれる1959年ソルティ、1957年クナッパーツブッシュ、それとフルトヴェングラー。昔の録音だけあって音に迫力がないと思う。

11月12日(日)
昨日に続き「内面の発見」柄谷行人著の再読。フロイトの引用が面白い。「抽象的思考言語がつくりあげられてはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくことにあり、それによって、内的事象そのものが、しだいに知覚されるようになったのである」(トーテムとタブーより)。この抽象的思考言語とは、日本の明治における言文一致運動にあり、そこれによって国木田独歩の武蔵野の風景が日本に見出されたという。具体的には、文語表現では語尾に「ツカマツル」とか「ゴザル」によって主語がなくとも誰のことを指すかを理解することができた。それを廃止すると主語が必要となり、他者との関係から中立的な自己が生まれたという。他には語尾の「ケリ」の例もあった。ケリは、よく知られてはいないが過去にあったらしいことをしめす言葉であった。それが「た」になるとこの二アンスがなくなってしまった反面、中性的な語り手と主人公の黙契性を含むことが可能になったという。これらは、作家の自己意識の優位性が一般化していく流れのはじまりとなった。これによって普通であった景色に何かしらの意味を浮かび上がさせることを、「武蔵野」のように、可能にしたという。しかし柄谷はこれに批判的である。この風景はパースペクティブな三人称客観描写で、シンボル的思考に支えられたローカルなモノでしかないからである。ダビンチらのルネサンス時代にこうした三人称客観描写が発明された。しかし彼らが行ったのはむしろそこから漏れた事象と格闘することにあったという。日本では、それが生まれなかったし現在もないというのだ。他に「身ぶりと言葉」の著者ルロワ・グーランも引用されていた。「絵から文字が生じたのではなく、表意文字から絵が生じた」という。「過去を逃れて」1947年ジャック・ターナー監督を観る。ボスの愛人を追う聡明な私立探偵がその女性と恋に落ちたため、その後の幸せな生活も壊れてしまう単純なストーリも、脚本の妙と早い展開、フラッシュバックの多用で、現代でも通じる映画となっていた。嘘と真実がテーマで、嘘が悲劇を呼ぶかと思えば、最後の耳の不自由な少年によって嘘が真実を上回る。ロバート・ミチャム主演でカーグ・ダグラスが相手役になっている。

11月11日(土)
柄谷行人の「風景の発見」を読み、ぼくの書いた崇高論を校正する。建築においても、与条件や調査の結果をかたちまで形式化するときに、いかんとしがたいジャンプをする必要があるのだが、一般にはそうした行為を設計といったり、かたちにするといったり、想像といったりする。その存在の曖昧さをまず疑う必要があるが、基本的にほとんどの人はそれを受け入れている。ぼくもそうであったかもしれない。崇高論を通して知ったことは、この想像というものもカントによると、無限に続く理性として置き換えられる。要するに永遠の目標によって理性的に考えることができるということで、そのためには超越論的仮象というものが必要となる。それが物自体というもので、建築でいえば「建築」はそのかっこうのものとなる。講評後に遠藤研の学生から「結局はわかりにくくした方が先生からのアドバイスを受けやすい」といった批判に対する応えでもある。想像的なものも理性の積み重ねで可能となると考えたい。では次に何に対して理性的であるかが重要となる。
116 ラ・リーガ アルメリア×ソシエダ ソシエダは激戦の後の最下位との戦い。選手のテンションの低さが目立つ中、オヤルサバルだけ気を吐く。彼がキャプテンになる由縁だろう。後半から出場の久保もその戦犯のひとり。不用意にボールを失って同点にさせてしまった。その後、気合いが空回りしたのか、9番フェルナンデスからPK権利を奪おうとして監督に制止させられる。このところ得点ができていない焦りもあるだろう。プレーの違いを見せてはいるが、日本人らしくない久保の若さも出ている。

11月10日(金)
打合せの合間を縫って、国立新美術館で開催中の大巻伸嗣展「Interface of Being」に行く。この夏に、弘前れんが倉庫美術館で観ていたく感動した。それに比べると作品数は少ないものの、揺らぐ布のプロジェクトや巨大な映像作品を観ることができる。タイトルにもあるように大巻のテーマは、見えていないけれど存在するモノの可視化にある。映像作品は「Rustle of Existance」というタイトルで、それは音であり、他にも空気や温度、歴史などを制作を通じて存在たらしめようとする。それにしても、「三月の水」というボサノバの名曲に津軽弁をのせた映像「Befor and After the Horizon」は印象深かった。夜にBSで、戦中の長野松代にあった地下首都計画を知る。敗戦濃厚であった日本政府は、松代の象山麓に大本営と皇居をつくっていたという。

11月9日(木)
修士設計の中間発表。遠藤研から8名が参加。大石さんのジェンダー問題を建築で応えようとしているのは意欲的。オンオフではなくかつユニバーサルでもない多様な場所の提案でそれに応えようとしている。それこそがオブジェクト指向デザインというのでそれを見てみたい。遠藤研ではテーマ設定を直感的に選択することを許すので他者からの共感性を得られることが難しい。小山さんも独特で、原広司氏の有孔体理論とマイケル・ジョーダンを結びつける建築を目指している。原さんの有孔体に、近代建築(思想)から脱却するユートピア性を見出していて、自身のマイケル・ジョーダンにたいする憧れをそれに重ねている。要は外部規定に対する矛盾や不満の爆発あるいは事実矮小化に対する警告が根底にある。それを表現できるとよいと思った。島袋さんが制作したプロジェクトランゲージは、扱う範囲が曖昧であったので、「日常性」であることを明確にして、視覚効果をメインにしていたパタンランゲージから拡げて空気感や時間性なども加えたらよいと思った。鈴木さんの提案は、遠藤研ではじめての都市計画スケールのものであったので、評価が気になった。筑波の都市計画と自分の提案の区別を明確にして、テーマとしている「こねくと」を具体的に設計すればよいことが分かった。関原さんの提案は明確であるので、早くかたちにすればよい。土師さんの提案は、二アンスを大切にするのでいつも冗長性を呼ぶ。それを上手く生かすプレゼがないかと考えるのだが難しい。同様に水口さんの提案は、現代では相応しくないシンボル的建築を肯定するものであるので伝わりづらいが、まずは、シンボル的建築の現代的意義をできるだけ客観的に伝えるとよく、方法が見出せる。それには「エッフェル塔試論」などを積極的に利用するのもよいだろう。そして扱う問題が具体的なものでなく災害という潜在的なものへの啓発にあるので、そのからくりも具体的にする必要がある。幾重にも捻くれているように見えるのは、社会を自分の目で見ていてその境目が無くなっている証拠でもあり、好感がもてる。その立ち位置を示すことで、それが面白さに変わるだろう。それに準ずれば土師さんは3次元的な小説表現を目指すといった方がよいのかもしれない。山口くんの提案では、異形建築が生まれる理由やプロセスというフェーズとそれの現代的意味を問うフェーズ、それぞれを区別する必要がある。その上で2つの差し渡しをはっきり提案するとよい。そうでないと異形建築をつくることが目的となってしまう。面白いのは彼の提案する異形建築もその現代的意味もどちらも、普通や常識を基準にしているところにある。普通から異形が出来ているというのだ。それが説明できると面白いと思う。今村研で面白いテーマの提案があった。それは片山さんの提案で、言語によって異なって見える世界観を示すものであった。片山さんは現代の形容詞的世界観に着目する。柄谷行人はかつての国木田独歩らが見出した武蔵野の風景が日本人に一般化したのは、遠近法の基づく西洋文学からの脱却を日本人が口語的表現を手にしたことによって可能になったといっていた。それを思い出させてくれた。
114 CL ソシエダ×ベンフィカ 前半の3点で試合を決めた。さらに2点くらい入ってもおかしくない状況であった。久保は全ての点のお膳立てをつくる。右サイドに3人を引き連れてそこからフリーとなる味方へのパスで逆サイドへつなげ、得点へつなげている。その後に行われる試合でインテルが勝ち、ソシエダはグループステージ突破が決まる。試合後のロッカールームも異様な盛り上がりであった。
115 CL アーセナル×セビージャ 富安が前半で退く。違和感があったらしい。漸く復帰、ポジションをつかんだの時なのに、大事に至らなければよい。

11月8日(水)
授業の後半で「誰がためのサステイナビリティ」というタイトルでアラップの姉川麻衣さんのレクチャー。新建築で連載中。地球のためという人ごとの問題ではなく、自分のため、自分の子ども世代のための社会をつくるべきというレクチャーであった。かつてのPMV指標は多くの人が不快を感じないレベルを目指していたのだが、実はその基準は怪しく、様々なムラのある場所を設定し選択できることが重要であるということだ。それはぼくが、だらだらした空間といっていることと同じで、池辺のいうデザインスゴロクの中央にあるスタンダードの思想でもある。それは条件によって動き、決してひとつにするべきでないという考えである。働く場で使用するメディアによっても快適性は変化し、かつては紙であった時代、風によって飛ばされない風速が基準になっていたのだが、今ではもっと風を取り込むことが可能となり室内環境の考え方も変わってきているという。紹介してくれたプロジェクトは、小堀さんのロキイノベーションセンター、JR横浜タワー、そしてグーグルのベイ・ビュー・キャンパスである。そこで使用されている空調は床吹出空調で、ムラのある場をつくるには有効だそうだ。ウェルネスパラダイムも紹介してくれた。これは快適性を微分法で捉えるもので、数値が優秀ほどよいものではない。幸せの感じ方と同じであると思った。
113 CL ラツィオ×フェイエノールト 鎌田が久しぶりの先発。ラツィオの守備戦略が複雑であるのがよくわかる。右のIHの鎌田は沢山のタスクが要求される。チェックにいきながら下がり、前のWGや後ろのSBとの入れ替えが激しい。一方攻撃は反対サイドのIH10番中心で、ルイス・アルベルトとの連動が求められていた。それでなかなか慣れるのに苦労している。鎌田に代わって投入されたグエントゥージはアグレッシブにフリーに動くので、鎌田もあまり気にする必要がないようにも思える。終了間際の上田の打点は高かった。1-0でラツィオの勝利。

11月7日(火)
ナチュラルシーム行き。内部が完成したのでその確認。駐車場部分の掲示方法の検討。風に対する対応と乾式工法で行うこと。そして内部の本棚からの流れをもたせることを条件とする。毎週打合せをすることにした。夕方事務所に戻り、簡単な打合せ。

11月6日(月)
インフルの予防接種の後に授業。担当の学生の姿勢がよく、よいエスキスができた。この課題では、どんなコンセプトにせよ、敷地に余裕がありすぎるので、コンセプトを拡張しなければならない。そこがポイントになると思う。来週に期待。

11月5日(日)
112 ラ・リーガ ソシエダ×バルセロナ ソシエダはロスタイムに失点し0−1で落とす。するするとDFライン裏に抜けだしたSBアラウホに見事に決められた。その5分前からバルサが攻勢し出したのだが、それまではソシエダペース。特に前半は圧倒していたと思う。久保をはじめ、ひとつでも決めていたらと思う。したがってゲームMVPはGKのテア・シュテーゲン。久保はというと終始存在感を示していたのが成長の証だと思う。オヤルサバルに代わって今日はフルタイム出場を果たす。

11月4日(土)
午前中の打合せを済ませてから軽井沢へ。紅葉真っ盛りのベストシーズンをむかえていた。簡単な打合せを済ませて夕食。午後過ぎに出たので高速は空いていたのだが夕食はどこも混んでいて、地元の人でいっぱいの小さなトラッテリアで漸く席をとる。カジュアルでとてもよかった。

11月3日(金)
国立西洋美術館で開催中の、ポンピドゥー美術館所有によるキュビズム展へ行く。いつものことであるが、セザンヌからはじまる。セザンヌが近代絵画の父と言われる由縁である。次に展示されているのはピカソとブラック。キュビズムが彼らの共同からはじまったことを今更ながら知った。2人の作品が並列されているので、コーリン・ロウの「透明性」のいう内容がよく掴める。「透明性」で取り上げられている他の絵画は、ドローネのリテラルとグリスのフェノメナル、モホリ・ナギのリテラルとレジェのフェノメナルであるが、彼らの作品もこの展覧会で取り上げられ、コーリン・ロウの選択が意図的でないことも知ることができた。本では、そこからグロピウスとコルビジュエにいき、本展でもコルビジュエの絵画で締めくくられる。この間の第一次大戦までに、対象に向かう画家たちの主体性が自由に放たれていったことがわかる。それは世間も同様で、その延長上に、あるいは恩恵を受けて、現在のぼくらはいることになる

11月2日(木)
朝から院生の梗概チェック。そして夕方から設計小委員会。夜に「湖中の女」1947年フィリップ・マロー監督主演を観る。主演である私立探偵マローの視点がカメラとなって物語が進む。したがって、マローの姿は鏡にしか映らない。通常の映画と異なり、鑑賞者であるぼくたちは自由な俯瞰ができない。相手の視点が真正面となっていることにもそれが表れる。ぼくらの視点が他者に限定されることについて考える。最近のPCゲームがそうだ。実際のスポーツでは、優秀なサッカー選手は現実には自分の視点しかもっていないが、俯瞰して全体を見渡すことができるともいっている。少なからずぼくらはモノとそれを巡る俯瞰という2つの視点を行ったり来たりしている。この映画では、たまにみせる鏡に映るシーンと主人公の解説シーンがあり、それでやっと全体の状況がつかめるのである。この手法は、ベラスケスをはじめとして絵画でよく使われた。建築でもあり得ないだろうか。ひとりで考える設計では客観性を与えることができないので、それを助ける言葉や先生が必要となるのだが、設計自体でそれが行えそうな気がした。

10月31日(火)
午後から虎ノ門行き。夕方、新しくできたOMA設計の虎ノ門ステーションタワーを観る。2つの駅を通す軸線が強烈である。目指すべき終点が曖昧であるが、一連の都市開発を行ったメッセージを感じる。面白いのは、地下鉄が走る様子がエスカレータの人の動きと一緒に見えることだ。それが大きな吹き抜けの内部において起きている。地上のグリッド世界では人が行き交い生き生きとしているが、地下でもそれが起きていることが感じられる。東京特有とは言いがたいが、新しい都市、現代の風景と思う。上へのEV結節点となる7階に行く。ギャラリーの料金が8000円と知りびっくりする。流石に気軽には入ることができない。地階のマーケット風のレストラン街で休憩。この辺りにも新しい工夫がある。ホテルをはじめ店舗はまだ改装中のものも多い。

10月30日(月)
2年生後期第1課題の講評会。幼稚園としてのプログラムを解くこと、そしてそれとは別の、自分の疑問とか気づきとかやりたいことといった発想、この両方から解いていって最終的に合致させるのがよい、ことを話した。そのためには、少なくともそれが出来ているだろう建築作品を観ることからはじめるのがよいと思う。特に上手く設計できない学生は後半ばかりを求めているので、前半を少なくとも行うべきだと思う。
111 ラ・リーガ ラージョ×ソシエダ ロスタイムに同点弾を浴びソシエダには痛いドロー。オヤルサバルが2得点し完全復活しているのだが、全体的に勢いがなかった。CLでの大一番を終えて、何人かが休んでいることもあり、テンションは高くはない。久保も同様と思う。だからこそ控えの選手が頑張るべきであるが、上手く機能しないことも原因である。

10月29日(日)
義理の母の49日と納骨。真言宗では僧侶と一緒に経を朗読した。それは一言二言の長さではないので面食らったが、後半にはその独特のリズムに慣れた。母とも正式にお別れとなる。それにしても父の歯痒い態度に比べて妻は立派だった。考えさせられることが多く、実家に戻ってからタイミングを見計らい妻にはすまないと思いつつもお暇をする。夕方「メメント」クリストファー・ノーラン監督を観る。虚無感を醸し出すのはノーラン独特の演出。複雑な時間の流れを用いる手法はこの作品で生まれた。この映画では、カラーと白黒の場面を上手く使い分け、少しずつ時間を遡っていく。もうひとつ、意味と言葉の関係をこの映画はテーマとしている。言葉による表現は事実の一部しか担わないことから、人はそれを巧みに操作することができる。虚偽となるのは、対話者と共有したバックグランドに反したときである。しかし言葉自体の自律機能に意識的である人は少ない。主人公はそれに意識的で、最後の言葉「I’m different」がそれを物語っている。主人公は社会的不適格者でありつつも論理的で、この両方を巧みに扱う人である。
110 ラ・リーガ バルセロナ×レアル・マドリード ベリンガムの活躍でバルサが2−1で負ける。それにしてもバルサの選手は若く、戦術は一貫していても熟成度が足りないので、マドリーにやられた。今日のゲームはローリングストーンズがスポンサー。選手が特別なユニホームを着て、会場にはストーンズとバルサのコラボアイコニックが飾られる。ニューアルバムがリリーズされたためという。ミックジャガーとロン・ウッドが度々のクローズアップ。

10月28日(土)
GAJAPAN185が届く。ぼくより少し若い構造家の対談と、それに続く若い構造家のインタビュー。その中で、池田の活動を代表してエリップスが取り上げられている。ソフトの可能性を拡げて、小建築にも構造の活動を広めた功労者として、である。そしてその延長に現在があるのだろう。そんな構造界の若い彼らの心情を把握することができるがポリシーが聞けないことが残念でもある。技術も構造も、モデルが微細化する方向へいっている。そこでは、テクニックばかりがクローズアップされてしまう。しかし、そうした状況へのスタンスの取り方もまた重要である。先日の会での名和さんはそのスタンスが明確であった。

10月27日(金)
卒業研究の中間発表。発表後の先生からの酷評に萎えている学生もいる。物事を積み重ねていく論法、特に帰納的方法は、その前段階が否定されると総崩れするときがある。そのために、いくつも逃げ道を用意する必要があるのと、そもそもそんな方法は(設計では)古いと考えるときだと思う。実際の設計では、あるいは思考は何度も何度も試行錯誤しながら前に進む。これをひとつの道筋に落とし込むのは無理であるし、そもそもそのために多くの条件を実はふるい落としてしまうというウソくさい面もある(質疑ではこのふるい落としていることを突いてくることが多い)。アブダクションとはいわないが、無限にある筋道の中で選んだひとつを、相手に納得させることの方が必要なのだと思う。それにはまず結論、特に強烈な結論ありきの状態にして、自分(実行者)の立ち位置を明確にする。その上での他の可能性を投げかけられれば(推論されれば)それは共有ということであり厚みがもたらされるし、拒否が投げかけられればその点のみを修正すればよく、根本が崩されることはない。だから設計においては、形という結論を出しておくのは非常に重要だと思うのだ。カントのいう物自体とは、究極のそれで、それを崩そうと、最近はオブジェクト論などが盛んであるが、まだ論破するに至っていない。

10月26日(木)
ゼミにて明日の中間発表の予行演習。これで一続きの研究プロセスのひとつの区切りとなればよい。これを区切りと判断し、舵を切れるかどうかも、これまでの研究の厚みでありセンスである。
109 EL リヴァプール×トゥールーズ 遠藤が久しぶりの先発。決勝点も決める。今日は開始からボールが回りチームに馴染んでいた。2トップの間の後ろに絶えず位置し、縦への素早いパスを何度も決めていた。この連動性がおそらく遠藤に託された役割だろう。それを見事に実行できていた。クロップの評価も上々。相手との実力差もあろうがプレミアで観たい。

10月25日(水)
遠藤事務所OBの名和研二さんと佐々木事務所OBの鈴木啓さんの構造デザイン賞受賞のパーティを霞が関ビル34Fの霞ホールで行う。佐々木さんと金箱さんの挨拶後の乾杯の挨拶で、名和さん鈴木さんとの出会いと個々の作品評を話す。彼らが学生の頃の90年代、まだまだ構造家というものも定着していなく、かつ構造デザインという考えは、少なくとも意匠学生のレベルではなかった。そのときに今でいうハイテック建築家がヨーロッパに出現してきたこともあるが、非常勤で理大にいらしていた難波和彦さんの影響力が大きかった。技術が規制でなく可能性を大きく引き延ばすことを難波さんは示してくれた。四層構造の前のことである。その芽を池田さんと共に開かせてきたのであるが、彼らの受賞はそれが定着した証でもある。そして名和さんの作品をユニークあるいは独特と構造界で評される理由にも触れた。それは名和さんが、構造の力の流れを切れで表現する他の構造家と違って、彼特有の方法を模索しているためだと思う。だから名和さんは建築家でもあると思うのだが、建築をつくるときの常套句への疑いに焦点をあてていて、そこを前提とする構造家とは異なるということだ。そのためには、建築家特有の鼻がきく気づきというものが必要で、特に変わった考えをした建築家との相性はよくなる。安斎さんは自らを工務店の3代目といっていたのだが、そういう人と上手くいく。それをぼくは、良くも悪くも建築家との関係をインティメイトしていると評した。構造家とのインティメイトには、建築家の考えを上手く拾ってくれて現実化する場合と、曖昧模糊した問題を共有することからはじめようとする場合があって、それは構造家を単なる手段として扱うことと異なるフェーズである。受賞会の後、EDHのOBと会食。皆元気であった。半分はアトリエを構え、半分は大手事務所に勤務している。アトリエの状況はだいたい推測できるので大手事務所の状況を聞いた。近頃の設計は本当に扱うべき要件が多く、それをまとめる建築の役割は大きいという。かつてはコンセプト等を考えることで建築家は知性を満足させていたと思うのだが、現在は条件を解くことでそれを満足させている。それは、ケネス・フランプトンがいっていた結構技術というものが一般化してきたことでもある。ただし、相変わらず形への執着はどちらの場合も別な知性としてある。アトリエ事務所でも、建築コンセプトを嫌い、ユーザー目線での共有を目指すことが最近の傾向である。それは卒業設計などにも現れている。しかしそれは、コンセプトを考えるというひとつの知的作業の顛末にも思えてきた。
108 CL セビージャ×アーセナル 富安が先発。それにしてもアーセナルの戦術は複雑だ。富安は、前線の内側に絞る位置に多くいた。もちろん、ボランチの位置にもいることもあり、守備時には左SBに戻る。それがチーム全体のもとで連動するのであるが、誰かをフリーにするための相手をずらすための動きであったりする。

10月24日(火)
マンジャロッティのドキュメンタリー「アルファベット・マンジャロッティ」の上映会へイタリア文化会館に行く。ぼくの恩師である奥田宗幸教授がマンジャロッティ事務所に留学していて、先生から招待された。マンジャロッティは1921年生まれのイタリアの建築家である。多くのプロダクトも制作している。映画は、あるアラバスター職人のランプ制作からはじまる。この伝統的な作品を、素材のまま真っ白なものにリファインしたのがマンジャロッティであったという。ぼくのマンジャロッティで最も好きな作品「バランゼーテの教会」1957の透ける大理石の壁はこうして生まれたのかもしれない。ぼくは、これをモチーフに「ナチュラルウェッジ」において透ける断熱壁をなんとか制作した。これが日本ぽいと言われる由縁は、マンジャロッティと比べると分かるが、マンジャロッティは無垢で素材感があり芸術品である。フィルム途中でマンジャロッティはフォスターのセンズベリーセンターを強烈に批判していた。それはトラスの足下が剛接合であり、彼の「スナイデロ社のサービス棟」はピンジョイントになっているからである。マンジャロッティは材料の量をフィルムでは問題にしていたが、フォスターは柱+梁がピンジョイントで、マンジャロッティは柱+梁が剛接合である。確かに空間はフォスターの方がヘビーで、イギリスとイタリアの文化の違いかとも思う。マンジャロッティの他のコンクリート作品は柱脚剛のキャンティレバー柱で梁がピンジョイントであるので、もしかしたら鉄骨に向かう時の姿勢を指摘していたのかもしれない。映画では無垢ということがぼくには印象的であった。石の切り出し方法にそれが現れる。それを「重さのデザイン」といっていたのが諸角敬さんで、今日もフィルムで「エロス」と「アゾロ」のコンセプトは同じでもフォルムの違いをそれでマンジャロッティは語っていた。どちらの作品も石テーブルで、その柱のはめ込み式のジョイントは究極である。中間的な素材を新たに使わないものなのだ。マンジャロッティに惹きつけられる理由はここにあるのだと思う。ピンジョイントの軽やかさと対称的な素材感の重さである。日本風のベタベタした手作り感があるものと異なる点である。素材を扱うときの知性と感性の対比といってもよいかもしれない。映画の後、難波さんと奥田先生、そして仲間たちと食事会。
107 CL ベンフィカ×ソシエダ ソシエダはベストメンバーでのぞみ、ポルトガル王者ベンフィカを圧倒した。最もベンフィカの今シーズンの状態は、エースが抜けて最悪らしい。久保は得点に直接絡まなくともMVP。それだけ目立っていた。今期、2番目の出来であったと思う。あわよくば交代前の、中央でのドリブルからの左足を決めたかったが、バーに阻まれた。ソシエダの前線からのチェックはどんな相手にも脅威である。それで後ろも前からのチェックが可能となる。両サイドの久保やバレネチェアをフリーにするための攻撃手順も徹底されていて、それの実行をオヤルサバルの引きつけと中盤3枚の連係にある。そこにSBも絡んでくる。

10月22日(日)
総合型入試のため大学行き。今年から少し方針が変わった。作品タイトルを必要とせずに、制作手順の説明を新たに設定した。つまり、制作意図にストーリーを持たせるのではなく、つくりかたを手順だって考えることを要求したのである。個人的な見解を作品でなく言葉で説明する人が多かったので、モノの成り立ちを客観的に説明してほしいということである。これは実際の設計において、設計根拠を外部条件で説明することにつながる。ただしそこにきちんとした自己がないと作品とならずにありきたりのものになってしまう。あるいはAIなどと変わらなくなる。そうした意図を理解できない受験生には苦しかったかもしれない。

10月21日(土)
106 ラ・リーガ ソシエダ×マジョルカ ソシエダは1-0で辛勝。その得点は後半60分から投入の4分後の久保のアシストによるものであった。その後も圧倒する場面もあるもオフサイドなどの判定により得点できず、危うい時間帯もあった。ソシエダは今日、代表帰りの選手を考慮して多く選手を入れ替えた。前半はそのためか攻撃のかたちにならず。これまでの選手を揃えてた後半途中からかたちになった。

10月20日(金)
午前に目黒のボルボ行き、昼から明日の入試準備と研究室学生の梗概チェック。入試の準備はいつも責任上心が休まない。「ノーラン・バリエーション」トム・ショーン著を続ける。意外と初期作品は観ていないことを知る。最近作は「オッペンハイマー」。意外と当たっているらしい。

10月19日(木)
ナチュラルシームに行き、1/1による現場設計を担当者と行う。次は、駐車場部分の看板や掲示設計と家具の発注、絵本の購入である。大学に行き週末行事のチェック。夜は懇談会。合間に梗概のチェック。梗概を書くことによって、プレゼの流れをつかむことができればよい。

10月18日(水)
先日訪れたデイヴィッド・ホック二ー展で、彼のデッサンがあまりにも技巧的であるのにびっくりして、それを調べる。どうやらホックニーは元々そうした技術をもっていたわけでなく、19世紀前半のフランス画家ドミニク・アングルを研究して後の2000年以降に変わったらしい。ドミニク・アングルは、「グランド・オダリスク」に代表されるように、写真のような端正な形式的な美をもつ画家である。ホックニーはこの画家の絵の正確さから、カメラ・ルシーダという投影機を使用していただろうという結論に達する。なぜならアングルの作品は対象が左利きであることが多く、それは鏡による左右反転だと考えたからだ。それはひとつのスキャンダラスな仮説であったという。それにしたがうと、カラヴァッジオやジョットも、そうらしいというのだ。購入した作品集からホックニーの人物デッサンを観る。残念ながら左利きが多いとはいえなかった。しかしホックニーは、写真や写真技術というものにそこから引き込まれていったのは確実で、彼の後期作品がある。

10月17日(火)
105 代表 日本×チュニジア トップ下で久保が活躍。はじめはチュニジア最終ラインに吸収されていた久保が、やがて右サイド、そして中盤底にまで動くようになる。これはチームの方針かと思うが、守田も連動してあがり、久保がチームの起点となっていた。前半終了間際にこうした連係から日本が得点すると、後半からは左サイドまで動くようになる。2点目は久保が左を深くえぐり、守田とFW上田が潰れた後にボックス内に入ってきた右の伊東が決めた。とはいえ、日本の最終ラインも優秀で全体的に安定。全員守備という前からのチェックが上手く機能している。

10月16日(月)
「Mordern Forms」ニコラス・グロスピエールの写真集をみる。近代建築を外形で分類し、全てがほどよい大きさの正面写真である。曇天のため物静か。過去の遺産のようにもみえる。ウィリアム・エンプソンの著書「曖昧の七つの型」に興味深い曖昧に対する批評があった。「曖昧さは、それ自体で満足できるものでなければ、それ自体が手段であると見なされたり、計画されたりするべきものでもない。どんな場合でも、曖昧さはそれぞれの状況に特有の必要性から生じ、正当化されなければならない」。つまり、ネタバレされないことが重要ということである。

10月15日(日)
午前ボルボに行き、午後から事務所で大学の雑務と研究室の卒業設計の梗概チェック。このところ読んでいるのは「ノーラン バリエーションズ」映画監督クリストファー・ノーランの紹介本である。彼の時空への興味は尽きないようだ。ノーランも挙げているアインシュタインの「双子のパラドックス」を調べる。なるほど空間がゆがんでいるというのも納得する。ノーランは、こうした時空に興味をもち映像化しようとしていて、その描き方に本質がある。それのヒントも示されていて、ボルヘスの小説や、フィレンツエのクーポラ、ローマラテラノ大聖堂のモザイクタイルなどである。

10月14日(土)
自宅のシェードを外し、室内が明るくなった。秋冬に向けての備えをはじめる。夕方買い物に行き、夜に遅れての家族の誕生日会。深夜、インド映画を観てしまう。「マカディーラ勇者転生」2009年ラージャマウリ監督。最近は大ヒット「RRR」を完成させた監督である。とにかく長いが楽しい。アクションあり音楽あり踊りありの3時間映画であった。実は全部を見切ていない。

10月13日(金)
104 代表 日本×カナダ 欧州でCLやELに参加し体を酷使してきた選手が欠場の中、代表は頑張る。4−1で日本の圧勝。開始早々のプレッシングがよかったのと、田中碧がいつも絶妙なタイミングでゴール前にいる。それで得点を重ねることができた。システムは4-1-4-1。トップ下を設けてフランスで好調の南野をそこに置く。

10月12日(木)
重要な会議を中断して、明治鋼業100周年の会のため東京會舘へ行く。明治さんとは家族ぐるみのお付き合いをしてきた。会社は関東大震災時に設立し、数々の荒波を経て今に至るという。今年100年を迎える株式会社は2600社だそうで、50周年を迎える2万社の1割だそうだ。銀行や材料供給会社からの信頼も厚いことがこの会で知れた。そこに参加できて嬉しく思う。東京會舘は、谷口吉郎設計の以前の面影を残しつつ日建設計が高層ビルにリニューアルさせた建築である。宴会の合間に歩き回ると、1階のエントランスロビーには、その当時の猪熊弦一郎のレリーフも保存され、7階の宴会場も当時と同じくして皇居に面していて前面見通せる空間となっていた。ぼくなんかに真似できないのは、装飾と素材の扱いで、大企業だから可能となるスペックの抑えとインテリア部門の技にあり、近代建築を上手く現代に適用させていた。これを越えるヒントは以前の谷口吉郎建築にあるような気もした。

10月11日(水)
ゼミにて卒業設計のエスキス。その中に、風景の発見をテーマにした興味深い提案があった。それを最近流行のオブジェクト指向にむすびつけていたのだが、柄谷行人は同じテーマを別の見方をしている。それは、近代文学者国木田独歩らのロマン主義を通してのものであった。そこでいう風景とは、外を見ない内的人間によってつくられるものであるという。ここまでの解釈は彼の研究と同じであるが、内面とははじめからあったものではなく、夏目漱石や二葉亭四迷らの先輩によって築かれた言文一致運動を経て、そのギャップから生まれたものであるという。つまり西洋からもたらされた巨大な贈り物=小説には日本が克服すべき様々な問題があっただろうが、それをすり抜けたものとして批判されている。ぼくらが直面している様々な現実問題も同様だろう。それを懐かしさという情感を持ち出すことで実は問題を逃避しているのではないかという危惧である。

10月10日(火)
時間の合間を縫って「サンライズ」1927年F・Wムルナウ監督を観る。音楽だけがフィルムにのったサイレント映画。ムルナムがハリウッドに渡りサウンドカメラではじめて撮影したサイレント映画最後の傑作と言われている。物語に川や嵐のシーン、あるいはジェットコースターのある遊園地、ヨーロッパの都市やそこに走る路面電車などが背景として出てくるが、全てがセットであるというから驚きである。セットであるが故に様々なカメラワークが可能となった。そこにはスピード感のある都市と取り残された田舎がある。その代表が車と路面電車、手漕ボートである。白黒映画なので天候とか昼夜が分からない分、それらが浮きだって見えた。それらは建築室内を通して描かれることが多く、セットなので当時のイメージだろうが、部屋は大きなガラスに囲まれ空間容積が大きく四角く、自然光と照明で明るい。この映画のテーマは都市に代表される近代批判であるが、都市は魅力的な世界として展開されている。

10月9日(月)
「エイリアン コヴェナント」リドリー・スコット監督2017が放送されていたので観てしまう。密度のあるカメラワークを日本では真似できない。前に観たとき感じたいくつかの謎も解ける。最初と最後のシーンで流れるワーグナーの「ニーベルング指輪」1部の「ラインの黄金」第4章「ヴァルハラ城への神々の入場」が気になる。早速ショルティ+ウィーンフィルを聴く。大らかな曲調に反して内容は、神々に愛想を尽かしそれを嘆く音楽らしい。嘆くのは黄金を守護する乙女たちで、愛を司る天使のような人である。
103 プレミア ブライトン×リヴァプール メディアの予想に反して遠藤は不出場。やはりまだまだ危なっかしいと指揮官も考えている。三笘もマークがつかれると厳しい。結果は2-2のドロー。リーグもヨーロッパリーグも2節を終えひとまず落ち着き、調子のよかった選手は対策が講じられ陰りが見え始めてきた。まだチームになれていない選手には奮起を期待する。

10月8日(日)
ぼくの所属している建築計画委員会が今年主催するデザインシンポジウムに参加。建築以外の機械や精密、人工知能などの各分野の研究者が最近のデザインについての研究発表をする。そこで2つの傾向を見ることができた。それは、学生の設計におけるアプローチと同じであった。ひとつは、自然現象や人間の思考などにある種の構造が隠れていると仮定してその分析を探求するというもの、建築以外の分野にこうした傾向が多い。しかし残念ながら到底自然や知性にまで及ぶことなく、むしろそちらの豊かさを露呈させてしまっている。手段が目的化されている。それと反対に、これは建築分野に多いのだが、分析や記述をするもののその成果を表す社会的言葉を失っているもの。岡崎乾二郎の抽象の力の大切さを痛感する。かつてほどデータと結論の間における厳密性が求められなくなっている反面、自分の仮説を語る物語つくりに苦労している。

10月7日(土)
東京都美術館で開催中のデイヴィット・ホックニー展へ行く。展覧会の趣旨が明確であった。ホックニーは、鑑賞者をどのように作品に引き込むかを生涯通じて考えていて、素材の選択からルネサンス以来の焦点批判、そして行き着いたのがカメラ+CG技術による多焦点描写という方法である。その技法は当初のiPhoneにあるパノラマ写真のようなものから最近作ではそこに個性を加えていた。大作の「ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作」は、鑑賞者が林のなかに吸い込まれるような雰囲気つくりまで至っている。ホックニーはデッサンも実に上手く、現代作家にあまり感じることができない実直さをもっていることもわかった。若い頃からあった大らかさは現代でも健在で、それが現代で受け入れられている理由だろうとも思う。若い頃の作品「一度目の結婚式」から大竹伸朗の「ジャリおじさん」を思い出す。大竹の経歴を調べたら70年代と80年代はじめにロンドンで親密な関係であったことを知る。ちなみにこのときから大竹のコラージュ・ブック作品がはじまっている。展覧会を後にして近くのアセットベンチャー企業がマネジメントするソーシャルアパートメントの1階にあるカフェで昼食。隣にはコインランドリーがある。現代上層の生活イメージを上手く表現している建築である。

10月6日(金)
101 EL リヴァプール×サン・ジロワーズ クロップは、ビルトアップ時に相手2FW後ろにアンカーを置き、彼らをそこに引きつけてはフリーになった両SBから展開をはじめるというチーム戦術をひく。しかしこのポジション先発の遠藤の動きはどうもぎこちなく、囮であることが見えすぎで、反対にときたま遠藤に縦パスが入ると、おっかなびっくりとした感じである。予定通りとクロップは言うが、後半からマクアリスタに変えると、この連動がスムーズに働いた。遠藤のよさは、前向きで突っかけるディフェンス力にある。ところが、攻めてこない格下相手にこの力は活きない。混雑状態からの単独のゲームメーキングの役割も課せられ、それができるかどうかが今後の遠藤の正念場である。なおサン・ジロワーズは町田が先発し、サラーと対峙。

10月5日(木)
中山のナチュラルシーム行き。いよいよこども図書館の設営準備がはじまる。午後にその脚で大学へ行く。
100 CL セルティック×ラツィオ 日本人が4人も先発に名前を連ねる。前半から果敢にプレシングするセルティックは前田を起点に見事なゴールを古橋が決めた。古橋はCL初得点。ところが実力の差が徐々に見え始め、それをしのぐと今度はラツィオのボールがまわりはじめた。終了間際に逆転する。鎌田は完璧にフィットしていないとはいえフル出場。ほしいシュートも放つ。

10月4日(水)
098 CL ザルツブルク×ソシエダ ソシエダの前半は今季最高の出来であったと思う。いつもより選手間距離を長く保ち、それはザルツブルクがダイヤモンド型で中央を固めていたためで、ワンタッチパスの大きな展開で崩していた。それがフィニッシュまで結びつきプレミアのチームのようであった。オヤルサバルも完全に復調したようだ。久保が開いてつくったスペースを使い、そこでの受け、そして素早いフィニッシュと完璧であった。20年降りのCL勝利だという。ここに来て漸く役者がそろった。
099 CL RCランス×アーセナル

10月3日(火)
昨日大学に行く途中でタイヤを交換した。6.5万キロ走って、ディラーからの変えるべきという進言にしたがう。ちょっと安めの国産タイヤを選定。以前よりフアフアしていてグリップ感がないのであるが、コーナリングではむしろ窮屈感がなくなり、不思議な気分であった。タイヤのラインナップは以前より増えて選択が難しいのだが、スタンドのエンジニアを信頼したものにした。

10月2日(月)
オープンゼミにてぼくの卒業設計を発表。学生のリクエストによる。当時は今と違って、作品にたいする社会的目的意識がそれほど求められていなかった。それはよいこともあり、制作を窮屈に考えることもなかった。だから映画が好きなぼくは、当時バイブルともされていた「ブレードランナー」の世界観を、表参道の同潤会アパートを保存しながらその裏にジェットコースターを走らせることで表現した。スピルバーグ「インディジョーンズ」のジェットコースタームービーもお気に入りのひとつで、めくるめくスピード感を建築のシークエンスに持ち込もうとしたのであった。それを、かたち×構造×機能というフェーズを通して考えようとしていたのはずっと変わっていない。「建築の四層構造」前のことである。

10月1日(日)
097 ラ・リーガ ソシエダ×アトレチコ・ビルバオ バスクダービー。ビルバオはバスク人のみのチームでこの地方の特集性が垣間みることができる。一方他のダービーとは異なり、両チームにいざこざはない。バスクがスペインからはじかれていたので、共同体意識が強いのだろう。青いサポーターの中に赤いサポーターがいても違和感がなく彼らは観戦している。ゲームは最後3-0となり一方的になったが、お互いのチェックは激しく、どちらに転んでもおかしくないゲームであった。そんな中、久保はフル出場。後半早々の速攻を決めてMVP。既に今季5度目である。チームとしてはサディックが溜めをできるようになり、オヤルサバルが復調した模様で、実はこれが大きい。

9月30日(土)
軽井沢の絵本の森美術館へ行く。設計は類設計。ターゲットはこどもでなく大人であった。読む場所の提供というよりも展示室や吉田新一の寄贈図書室を大きな庭に中に点在させ、歩きながら自然を楽しむ空間であった。展示作品も繊細なタッチの絵が多い。軽井沢の気候や湿度のためか、ボックス・イン・ボックス形式の建物が2つあり、どれも中心性の高い建物である。その後、川と床のレベル差が近い別荘を改築したカフェで休憩。グアテマラの中煎が酸味がなくて飲みやすいことを知った。夜、たまたま「サイレンス」スコセッチ監督、遠藤周作原作が放映されていたので観てしまう。キリストは沈黙することで人を遠ざけその絶対的距離を保つものとして描かれる。その結果、主人公の西欧人はその沈黙を解くために熟考し、それが嫌が負うにも自己形成へとつながる。反対に日本人は、頑ななようで自己がないままである。それが改宗を拒むキリシタンの村人にも、改宗という目的達成へ向けて無限の策略を想像する役人にもいえる。彼らには、内容にたいする形式というものが絶対的なものなのである。そうした自己形成を廻る文化の異いが描かれていた。

9月29日(金)
本棚で「トポフィリア」イーフー・トゥアン著を探すも見つからなかった。学生が興味あるというので探した。トポフィリアとは場所愛と訳すことが多い。トポス(場所)+フィリア(偏執)の造語である。たしか民族によって感知する場所が異なるといったことを紹介した本であったと思う。その後にイーフー・トゥアンは「空間の経験」を著し、その調査を思想にまで展開させた。昨日も研究室の紹介で、水面に浮かぶ氷を例にとって、水面上の見られる明示知識よりも水面下にある暗黙知あるいは身体知のほうが遙かに大きいことを話した。そして水面下の無意識なる知識を水面上に引き出す訓練=術を学ぶ必要を説いた。イーフー・トゥアンにおいても同様だ。トポスという場所庫=トピカがあって、そこから引き出されたものがトピックとなる。建築でいうところのそれは空間(コーラ)である。この水面に上げる力のことをイーフー・トゥアンはトポフィリアといっていたのである。

9月29日(木)
096 ラ・リーガ バレンシア×ソシエダ ソシエダはターンオーバーを用いてメスターシャにのぞむ。途中出場と思われた久保はゲームの流れから今日は休養となった。試合は1-0で逃げ切る。ただし得点はセットプレーからで、10人のバレンシアにたいして攻撃のかたちをつくることができなかった。こうした勝ち方もシーズンを通じて必要となるが、なんとも頼りない。

9月27日(水)
都立大の饗庭伸さんを迎えてのレクチャーシリーズ。「人口減少と都市 8333満員の都市計画」というテーマ。通常では、失われつつパイをいかにゲットするかということを考えがちであるが、少なくなったパイをどうバランスよく分配するかという話であった。人口減少から世帯減少、そして空き家の顕在化まで数十年のタイムラグがあるというのが新鮮な見方であった。だからなかなか空き家は顕在化しにくい。そしてそのかたちは風船がしぼむような中央への縮小ではなくて、まばらに空いていくというスポンジ型になるだろうという指摘。だからまだらな穴を充足させるリノベーションによって部分的な活性化が有効でないかという提案であった。それを実証する国立のリノベーションを紹介してくれた。空き家所有者との駆け引きの話が面白かった。結局はファシリテーターが重要であることと、なによりも国立という立地がよかったと思う。ともあれ、都市がスポンジ化する現状を踏まえて、10年掛けて大きなプロジェクトを完成させるよりも、1年の10個のプロジェクトを成し遂げることが縮小時代に過疎を生まない方法であるというレクチャーであった。

9月26日(火)
夕方からの設計小委員会に参加。機械とか人工知能などの様々な学会が参加するデザインシンポジウムが建築学会主催で10月にある。その運営方法を中心に話が進む。

9月25日(月)
3年生に向けて研究室の説明を行う。早いもので今年もこの時期が来た。スケジュール管理がままならないでちょっとドタバタしてしまい、この時期までずれ込んでしまった。ぼくが大学時代から設計を続けることができたモチベーションから現在の研究テーマについてのお話しする。ぼくにとっては、コルビジュエよりもフラーの方の影響が大きく、それを通じて池辺さんや難波さん、そして技術があった。その探求が尽きることなかったので、面白く設計を続けられることができた。設計において重要なのは、美的感覚や発想力といった個人能力の蓄積よりも社会的知識、それを暗黙知といってもよいが、それにどれだけ意識的になれるかにあった。それを有効にするための道具の数々との出会いがあった。その紹介である。

9月24日(日)
今日もアンデルセン行き。船橋市長と副市長がたまたま訪問。八咫さんと共に小山くんがかいつまんで展示内容の説明をする。様々な居場所の提案というコンセプトは的確に伝えることができたと思う。ぼくにたいしては大学研究との絡みを聞かれることが多く、そのときは、素材との格闘や技術的アプローチから生まれる新しい空間形式の探求、という回答をする。今日は秋晴れで、こどもたちのアクティビティが高まりそうであるが、それとは別のかたちを欲する子どもたちが反対にいて、彼らが室内で絵本を楽しんでいた。空間や設えにたいする行動は、ぼくらの想定とは異なり一枚岩的でなく複雑である。その後多摩まで行き、お彼岸の墓参り。夕方戻る。
095 ラ・リーガ ソシエダ×ヘタフェ 久保はフル出場。先制弾を決める。今日もいつもの悪いパターンで、先制するも逃げ切れない雰囲気であったのだが、ターンオーバーの後半から出場の先発組が突き放した。オヤルサバルとメリーノ、そしてスビメンディらの奮起で、ボール奪取、そしてエースオヤルサバルの2点。流れが変わるとよい。

9月23日(土)
今日からアンデルセン美術館のワークショップ。雨のため少なかった参加者が午後から増える。一度臨界点を超えると第2展示室は鬼ごっご状態になり一抹の不安。昼過ぎに会場を後にして建築会館で開催中の故坂上直哉展に行く。今日が最終日。坂上さんの都市的というか土木的アプローチのアート作品を垣間見る。一方で、作品の源泉には新しい技術に関する関心があり、粘菌や昆虫などの生態に向けたミクロな視点もある。南方熊楠も好きだったらしい。坂上さんの多才さを知る。もっとお話をすればよかったと思う。八咫さんに詳しく説明を受けなお一層然うした気持ちが高まった。吉阪さんの八王子セミナーハウス国際館の屋根絵を描いたというスタッフの人にも会い名刺交換。江津市役所の情報もいただく。

9月22日(金)
明治鋼業本社行き。工事日程の確認、購入予定の椅子などを決定する。施設の名前を当座は、「中山えほんの森」にすることにした。当初必要な購入絵本も任されて、絵が綺麗なもので動物をテーマにするものを選定することにした。もうひとつ、屋外エントランス部分に設ける看板と掲示を兼ねた家具が依頼された。室内のデザインした家具と連続して、こどもが描いた絵や催し内容を示すポスターなどを展示できるとよいと思った。建物の補修方法についても確認。最期に次回の打合せを、家具設置後にすることに決定して、本社を後にする。
094 EL ブライトン×AEKアテネ 2-3でブライトンがホームで初戦を落とす。初出場のチームはこういったプッレシャーがあるのかと思う。攻め続けるも3発の速攻でやられた。三笘へのマークもきつく、仲間との新しい連動がほしいところ。今日はファティが先発した。ボールに多く触れていたので、これからに期待。

9月21日(木)
092 CL ソシエダ×インテル 昨季のCL準優勝チームで開幕連勝しているイタリアチームをソシエダは迎える。今日の久保は序盤から圧力を強めるソシエダの中であまりボールに触れていなかった。だが少しずつ攻撃で勢いを手にしていき、彼特有のディテールを前半後半から発揮している。30分には極上のクロスをル・ノルマンに出したものの、このシュートは枠を外れた。疲れを考慮してか75分過ぎに交替。その後プレスが上手く効かずに同点弾を浴びてしまう。これは悪いときのソシエダのパターン。問題は前半のエネルギー満ちているときの決定力にあると思う。
093 CL アーセナル×PSV アーセナルの組織的攻撃にあらためて驚く。こうも機械的に選手が動けるのは安定した個人の技術力と判断のよさからだろうか。その前段階で明確なチーム方針がある。後半中頃から富安も登場。富安の動きがその方針を如実に現れている。左SBとしてであるが、攻撃時には中央よりのレーン上がり目のボランチ的な位置に移動し、DFラインから前へのボールのつなぎ役として働きかつ守備に移ったときの相手FWと中盤の両方を見る初期火消し役となる。この富安が入ることで試合がさらに安定していた。

9月20日(水)
アンデルセン公園美術館行き。今日からオープニング。プレス取材を学生が受ける。大学に戻り午後からチームワーク設計の授業。その初回にぎりぎりに間に合う。田島先生から単著「コミュニティ・アセットにより地域再生」を頂く。アセットというのが面白い。1章は、田島先生のロンドン留学ころからのアセットを巡る歴史である。
091 CL フェイエノールト×セルティック 両者均衡状態からフェイエノールトが抜け出せたのは、個人技術によるものか。退場者も出し、最後は一方的な戦いになった。

9月18日(月)
090 ラ・リーガ マドリー×ソシエダ 国内外からの久保に対する賛辞は止まらない。それだけ前半の久保は無双であった。まずは、開始早々のハーフラインを越えたところからの逆サイドへの長い鋭いパス。バレネチュアが落ち着いてそれを決めた。さらに11分。オフサイドという判定であったが、ゴラッソな得点。アルグアシル監督曰く、チームとしての得点。同サイドのSBトラオレが追い越しかつサイドに開き、CFのオヤルサバルもその後サイドに開き、久保のカットインのコースを空けたシュートであった。その後もフラン・ガルシアを置き去りにする2本のシュートと決定的な浮き球パスを出す。ガルシアをサポートするクロースの股を抜くドリブルもまた圧巻。しかし後半からマドリーも王者であった。フラン・ガルシアをより高い位置に上げ、ロドリゴとソシエダ最終ラインに張付ける。それによってSBトラオレとIHブライスメンデスが下げられ久保が孤立し、ソシエダの右サイドは展開できなくなった。それをみて久保が中央よりに移動するも不発。結局は、久保の右サイドを攻められ1-2で負ける。センタリングを上げたフラン・ガルシアがMVPという皮肉な結果。臨機応変かどうかで真の力が試された試合であった。

9月17日(日)
今日は葬式。会館にて1時間わたるお経。その後出棺し焼場に。喪主の挨拶を義父はできず悲しみを誘う。妻が代読。主とは家に属し人ではない。この実体を垣間見る。ぼくらが普通考える家制度というのは意に反して西洋的なものなのかもしれない。焼場は伊東さんの設計「川口めぐりの森」。前市長が岐阜の「瞑想の森」を気に入って伊東さんに頼んだと聞く。中央にいくつもの焼場があり、それらは閉鎖空間である。周りは控え室でこれも個室であった。うねる屋根にたいして与条件の大変さを感じる。周囲は公園である。池越しに葦などを観ることができ落ち着いている。外環道路沿いで、どちらかというとすさんだ雰囲気のところであるが、よいランドスケープを形成している。うねる屋根のシェル効果を期待するための屋根ライズが大きいのが少し気になった。水平性の強い空間はある種の雰囲気をつくるとも思った。1時間あまりかかり納骨を終える。これらは全て閉じた空間で行われた。バスで会館に戻り精進料理による会食。会食は焼場でも可能のようだが、利権上、それは認められていないようだ。夕方前に解散。実家では仮祭壇がボール紙でつくられていた。夕食せずに家族で帰宅。自宅に皆揃うのは久しぶりである。

9月16日(土)
昼過ぎに義母の出棺。夕方から通夜であるのでだいぶ早い。お寺に付属する会館で行われる。親戚は多い。妻の実家の宗教は真言宗であった。そのお経のテンポは遅い。お経の意味は判らないが、声のトーンから死者を諭しているようにも聞こえる。その後に会食。そのための会館利用である。
089 プレミア マンU×ブライトン 三笘がかなりマークされているのが分かる。ウイングにたいしてSBとボランチの2人が付く。それでもその隙間を縫って得点できるのがブライトンの好調の印。3-1でアウエーで勝利する。

9月15日(金)
BSで「ドライビング ミス デイジー」ブルース・ベレスフォード監督を観る。主演女優ジェシカ・タンディは眼が印象的な俳優であるが、ぼくにとってはなんといってもヒッチコックの「鳥」における主人公の強烈なマゾコン母である。この映画のジェシカ・タンディ演じるデイジーは南部に住むユダヤ人で、黒人を蔑んではいるがそうした自分を快く思っていない気高い人である。彼女とモーガン・フリーマン演じる穏やかなアフリカ系運転手との交流を描く。1950年代から70年初期までの人種差別をはじめアメリカ社会の実体がよくわかった。会社の在り方の変化とかシナゴーグ襲撃、キング牧師の演説、それを巡る黒人たちの様子、警官の差別的視線などである。モーガン・フリーマンの運転する車はアメリカの象徴でもあった。黒いクライスラーから赤い派手なハドソン、そして黒いキャデラック。まさしくアメリカの歴史である。一昨年公開の「グリーンブック」を思い出した。

9月14日(木)
アンデルセン公園美術館行き。その後大学に戻り雑用。「笑い」を続ける。ベルクソンがこれを書いた目的が見えずに苦労する。この本では、笑いあるいはおかしさが生じる状況が語られているのだが、これを一体何に結びつけたらよいかが見えてこない。1,人間のみの現象であること 2.冷静(知的)であること 3.共有意識があること、がその状況分析である。ちなみにこの本はベルクソンの初期の著作であるらしい。

9月12日(火)
昼病院に寄ってからアンデルセン公園美術館行き。20日からの展覧会のための準備は順調のようだ。確認にとどめ夕方に帰宅。夜に義母が亡くなったという連絡が入る。今日は84歳の誕生日でもあった。病院へ再び行き、日が変わった頃に亡骸と共に妻の実家へ。ぼくは滅多に和室を設計することがないが、その和室が機能した。妻の実家は、大きな片勾配屋根の下に幅2間の部屋が吹き抜けを介して2層直列つなぎで配置されている。その一番奥で、空間を見渡せる位置に和室がある。状況が落ち着いた明け方に帰宅。
088 代表 日本×トルコ 今日は4-2の勝利。先発を10人変えるとチームとしての戦略性が弱くなる。今日は前線からのプレッシングが上手く効かずに、後ろもきつそうであった。したがって交替のために遠藤と富安まで出すことになってしまった。攻撃の久保もフル出場。彼らは週末にビッグゲームが控え、日を空けずにCLが開幕する。上手く体調管理ができるとよい。

9月11日(月)
早朝病院。容体が落ち着いた昼過ぎに戻り、再度連絡が入り夕方に病院行き。合間に雑用。「笑い」アンリ・ベリクソン著を読み始める。修士・卒業設計でこの「笑い」をテーマにする学生がかつていたことを思い出しながら読み始める。

9月10日(日)
昼休憩の合間をみて歩いて数分のところにある旧井上邸へ。レーモンドの事務所+自宅を移築した建築である。木造シザーズトラス構造で、軽井沢の教会を横に伸ばしたような建築である。しかし、併設の美術館が展示入れ替えのため休館で、久しぶりに観ることはかなわなかった。父母との会話の中で恥ずかしながら、白井晟一の松井田役場は軽井沢近くの松井田であることを知った。まだ訪れていない。妻から義母の容体について連絡がPPA終わりに入り、1本前の新幹線で戻る。高崎から新宿までは、大宮乗り換えも東京乗り換えも時間は変わらないことを知る。妻と義父を残し、夜に自宅へ戻る。
087 代表 ドイツ×日本 W杯に続きドイツを破る。しかも4−1というスコア。ゲームの流れを支配したといってよい。日本は4−2−3−1でのぞみ、開始時のドイツの激しいプレッシャーに苦しむも、そこを耐えたのがよかった。というよりも危ない場面があったものの、落ち着いたパス回しによってそこを乗り切った。そこへワンチャンスを活かした得点へ結びつけることができた。奇跡かもしれない。伊東のリュディガーとの競り合いからのつま先であった。そしてドイツCBを置き去りにする上田の反応鋭いシュート。2−1で前半を終える。日本にとっての問題は右WGのサネがフリーとなっていったことなので、後半から三笘を下げての5バック。これでは攻撃につながらないので、続けて三笘を戻し、CB谷口を投入して再度5バックの構築し直しをした。それでも上手く攻撃へつながらなかったものの、攻めるドイツにスペースを与えることはなく耐えることができた。そして久保投入。久保が結局2アシストを終了間際に決める。ドイツと日本の力の上下関係を内外に示すことに成功したと思う。

9月9日(土)
大学のPPA活動のため浦和へ。研究室所属の学生の父母からお礼もいただく。ありがたいことだ。その後、次の高崎会場に移動。今日は懇談会となる。駅から離れた市役所等がある城址付近が会場であった。途中、レーモンドの群馬音楽センターも見えた。群馬の同窓会活動は盛んであることが判る。母校愛は素晴らしい。駅近くのホテルにもどり宿泊。

9月8日(金)
時間が経ってしまったが「消費社会の神話と構造」ボードリヤール著を読み終える。最終章に挙げられているのは、1913年の「プラハの大学生」 (ステラン・ライ監督)という無声映画である。貧しい学生が鏡に映る自分の像を悪魔に売り、それを資金として成功をおさめるのだが、追い回される自分の像によってノイローゼとなり死んでしまうという悲しい物語である。消費の論理に支配されてしまった個人的・社会的生活を描写した映画で、自分の像をふくめてすべてが客体化され、利潤との関係において世界は存在する。こうしたストーリーはよくあるがボードリヤールが言わんとすることとは、そうしたモノが中世における悪魔、そんな存在にまで仕立て上げられ、超モノ化されている現状である。そうした過程は神話的であるといい、この本の趣旨、消費社会の神話と構造につながる。

9月7日(木)
日本近代文学の起源」柄谷行人著を読み続ける。中国語版への序文に興味をもった。それを引用。「近代文学は旧来の慣習的な見方を斥けてものを見ようとした。しかし、それは、旧来の文学に慣れた人たちにとっては、むしろ便器(デュシャンの「泉」をいう)を提示するようなものであったにちがいない。ところが、いわば便器のようなものが間もなく尊敬の眼で見られるようになったのである。文学を目指す人はかつて少数であり、呪われた存在であった。夏目漱石もそのような作家であったことはいうまでもない。しかし、1970年代に漱石は「国民文学」の作家として仰ぎ見られるようになっていた。(中略)それはすでに否定的な破壊力をなくしており、国定教科書で教えられるような代物になっていた。それはすでに文学の死骸であった。だから、もしこの時期に「近代文学」が死んだとしても、別に心配する必要はない。それはけっして文学が死んだということではない。最初にいったように、本当に文学の存在根拠が問われ、また、文学の本来的な力が発揮されるのはこれからである」。では、どのような可能性を柄谷は見出しているのか。柄谷は、ネーションというような共同体をつくる力を小説に見出している。そのためにカントの崇高論を持ち出す。「カントによれば、崇高は、対象にあるのではなく、感性的な有限性を乗り越える理性の無限性にある。カントがここで指摘しているのは、崇高が、不快な対象からもたらされること、それを快に変えるのは主観の能動性によってであること、にもかかわらず、無限性が主観にではなく対象そのものにあるかのようにみなされるということである」。「小説」のそれは「建築」においても可能なのではないかと思う。

9月6日(水)
昨日に続く文章「「話のない小説」論争」柄谷行人を読む。大正期小説における脱中心化と構成美についての芥川と谷崎の論争である。この論争は一般には谷崎に分があり、その後芥川は自殺したと言うが、現代の主流はそれに反し脱中心化を歩んでいる。柄谷の嘆きは芥川の自死によってこの論争に幕が下りてしまったことにある。柄谷が言うには、どちらも近代が確立した遠近法にもとづく均質空間によって排除された空間を拾おうとしている点で通底しているという。芥川はセザンヌの絵にあるような脱構成的方法にそれをみたし、源氏物語にあった厳密な漢文学に情緒を盛り込むことに現在の可能性を見出したのが谷崎であるという。問題は、脱中心的か主体による構成美、どちらを優位におくかという選択によって、問題の本質となる、不均質な空間の存在を見えなくしてしまうことにある。建築でいうところの、環境といった外部因子によって設計を組み立てることも、告白というような私的領域から設計をはじめることも同様である。何によって自分が突き動かされようとしているか、あるいはされているかの自覚が大事となる。「対立の形式が、本当は網目状にからまりあっている様態を切りすててしまってはいけない」p219。

9月5日(火)
柄谷行人の「告白という制度」を再読。田山花袋の「蒲団」を巡る社会状況分析からそれははじまる。「蒲団」は、「妻子ある中年の作家が若い女弟子に対して愛欲で悩む姿を、作者自身の体験であると観られるように書いた」小説である。この小説は一般に、「それまでの日本文学における性とはまったく異質な性、抑圧によってはじめて存在させられた性が書かれたのである。この新しさが、花袋自身も思わなかった衝撃を他に与えた。花袋は「かくして置いたもの」を告白した」として評価されている。しかし、フォルマリスト柄谷は、表現されるべき自己あるいは内面がアプリオリにあるのではないと、それを完全否定する。この明治期のキリスト教の影響を色濃く反映した西洋文化が大きく影響を与えているというのだ。そこには、一神教である神が絶対であり、それとの間の社会矛盾から生じるプレッシャー開放のために「主体」が根本あるという考えである。この転倒が、「武士道」理念が崩壊した旧幕臣子弟の自尊心をとられたのだという。だから、こうした告白制度を支えるのは、極端にいうと、権力意志といってもよいというのだ。この柄谷を再読したのは、卒業設計で特に、告白を出発点にするものが多かったことによる。「ティール組織」でもストーリーテリングや振り返りの場が推奨されている。

9月4日(月)
イゼナの前田さんと葛工務店の勝山さんから、シームの床フローリングの状態についての連絡をもらう。どうやら漏水の原因は判明解決したようだ。ただし20年以上経っているので、根本的な修復か部分修復による現状復帰かは迷うところ。とりあえずお見積をお願いして処理方法を判断することにする。

9月3日(日)
085 セリエA ナポリ×ラッツィオ 久しぶりのイタリアのゲームを観る。守備を重視した落ち着いたゲーム運びで、スペインとプレミアの中間に位置づくと思う。鎌田は右のIHで先発。まだまだボールを預けられることが少ないものの初ゴールを決める。これからだ。

9月2日(土)
ホテルを後にして薬師寺へ。金堂の薬師如来と日光月光菩薩を義理母に代わってお参りをする。授業でも話すが、銅像は詳細な表現ができないかわりになめらかで品をつくる。東大寺の普空菩薩や昨日見た聖林寺の十一面観音の乾漆によるものとは異なる。その後に両五重塔へ。西塔が完成し、両塔の中が公開され、彫刻による釈迦の伝記が描かれていた。国宝の東院堂の聖観世音菩薩像は小さくて、いつも心安まる。再び京都へもどり、午後過ぎの新幹線で東京に戻る。新幹線の中で「ベイビー・ブローカー」是枝裕和監督を観る。是枝監督のテーマはいつも家族である。ソン・ガンホ主演のベービーブローカーの仲間内に家族愛が生まれるというストーリー。監督特有の特殊な背景を設定するのはどうかとも思うが、この巧みさが作品たる由縁だろうと思う。ひとりの母親を中心に男たちが動くのは生物的であり、家族とは血でも形式によるものでもなく、放っておくと解体してしまうので、ひとりひとりが踏みとどまってそれとは逆の方向に向かうエネルギーを必要とする、というテーマだろう。これはプリコジンの散逸構造と同じ。エントロピー増大方向に逆らって局所的最大を生むようにエネルギーを費やすことが生であり創造ということなのである。家族もそういうものだということだろうと解釈した。夕方前に自宅に戻る。
085 ラ・リーガ ソシエダ×グラナダ 久しぶりにソシエダが爆発し大勝。久保は脚の違和感のために今週練習を欠席したと聞いていたので、先発は無理かと思っていたところ、躍動し2発を決めた。今日ソシエダはボールをつなぐと共に、スペースに出すことに心がけていたと思う。それで中盤が下がることはなかった。久保の1点目はそこから生まれた。久保は4試合続けてのMOMである。

9月1日(金)
天理駅前にあるnendo設計のコフウンへ。駅前の子どものための遊び場である。室生寺へ。写真家土門拳が最も愛した寺である。土門拳の写真は緊張感があり、全ての部分にピントがあっている。それで土門写真は精巧で緊張感があり、その技術による室生寺の冬の五重塔は有名だ。そうした技法は古典的ともいえるが、そこからホンマタカシが生まれている。土門が愛したという弥勒菩薩が安置されている弥勒堂へ。すっと高い屋根が特徴である。金堂は中まで入ることができ、仏像の説明を受けた。こけら葺きの屋根は改修中で鉄板がはられている。この特徴は、江戸時代に掛けつくりの前面礼堂部分が付け加えられたところにある。これは東大寺の三月堂も同様で、平和な名江戸時代には色々なことが試された。五重塔で全体写真。白い軒先が印象的。五重塔は数多くあれど、見上げる五重塔は羽黒山とこれくらいか。羽黒山より質素であるのがよい。その後みんなは奥の院へ。ここで全体行動を終え、各自で聖林寺へ向かう。栗生さんが最近、聖林寺の十一面観音をおさめるお堂をつくった。到着するとそれに伴い外構周りが整理されたことが分かった。十一面観音は、フェノロサと岡倉天心によって再発見された仏像である。これだけの作品だからもともとは三輪山の神宮寺のものであったという。秘仏であったため誰の眼にもさらされることがなかった。それを彼らが廃仏毀釈から逃れる手助けをしたわけである。光背がなかったのが残念であったが、仏像の後ろまで回れることができるようなっていて、右手指先の微妙な表現まで観ることができた。お堂は半球を傾けて乗せた感じで、ちょっとその半球は傾けている。壁とはシームレスであってもよいと思った。この聖林寺から三輪山を観る眺めは本当によい。その後、まだ時間があったので、安倍文殊院に行くことにした。陰陽師の安倍晴明を祀る華厳宗の国宝の寺で、快慶作獅子に乗る文殊菩薩像を納める。華厳宗であること、文殊菩薩は卯年の守り神で、知恵の神様であるので個人的に気に入っている。参拝者はぼくだけで祈祷してくれるというのでお願いをした。それで国宝の渡海文殊群像の下まで行くことができた。その最中、その隣の従者である仏陀波利三蔵が気になってしかたがなかった。阿倍文殊院を後にし、三島由紀夫も好きだった圓照寺に行こうとするも時間的に断念。奈良ホテルへ。部屋食にしてベッドになだれ込む。

8月31日(木)
修学院離宮にはじめて訪れる。桂が景観を含めて全てをデザインしようとしていることにたいして、修学院は受動的で修景を最大限に利用しようとしている。中離宮から上離宮へ移動するために棚田の中を歩くのだが、それは今でこそ宮内庁のものだそうだが、当時は一般地であったという。その田はこの時期非常に暑いものの、稲穂が頭を垂れて緑の絨毯のようで綺麗だった。ただし、その路地そのものは見えないようなつくりになっている。桂が50年掛けて完成させたのにたいして修学院は3年で完成させたという。つくったとされる後水尾上皇は生涯に60回も訪れ、全て日帰りだったとはいえ、大変愛していたそうだ。徳川からの寄付によって完成させることができたらしい。政治という現実を逃れ美に饗したというのは桂と同じである。上離宮は京都タワーより高く眺めは最高で、池越しに京都の町、そして鞍馬の山並み、そして合間からは大阪と海まで見える絶景である。西に向かっての下る斜面には田畑が続き、その向こうに山並みが見えるのは、ぼくもお気に入りの八ヶ岳西麓と同じで、午後直ぐに暗くなることなく、愛すべき場所である。奈良へ。東大寺に集合し、南大門、大仏殿と観て回る。ぼくはその後みんなと離れて大湯屋、戒壇院、正倉院を回る。戒壇院は修復中。大湯屋は今回も中に入れずに内部を想像するしかなかった。帰り際に印刷工場をリノベしたカフェに寄ろうとしたのだが閉まっていた。しかたなく、奈良街道沿いで休憩。いつものパターンである。新薬師寺へ。今回観て回る寺と同様、これも奇妙な仏像配置をする。かつては大寺院であったが、今はアプローチしにくい入り組んだ高低差のある町中にひっそりとある。本堂は、本瓦葺きで奈良時代の創建を保ち、当時はたいした位置づけのものではなかったという。そのためか屋根の起りは小さく、それが帰って小気味よい。ファサードも端正で、柱間7つの中央3つが開口で両側2つずつが白漆喰。あまり高くない基壇の上に乗っていて、低い屋根と合わさって現代的である。内部に入ると、この時代の建築であって構造体がそのまま見える。新薬師寺の隣には入江泰吉記念館があるが時間がなく断念。入江の写真は明日訪れる室生寺の土門拳と対比させると面白い。その後、磯崎新のなら100年館の地下にある小ホールを借りて4年生の中間発表。その前に大ホールとガラスの中ホールも案内してもらう。大ホールは、設計当初様々な稼働方法が考えられていたのだが、安全性の問題から今は固定されているという。コンサートで観客が跳ねたりするとその振動は構造上問題ないのであるが、心配は尽きないからという。1500人用と聞いてびっくり。十分な大きさがあるからだ。中ホールは誰もが様子を伺えるようなガラス張りの新しいかたちのホールで400人用。楕円の一端を担うホワイエは圧巻である。学生の喜び様も寺院を観るときと違っていた。猿沢池から上がったところにあるオフィスをリノベーションしたホテルに泊まる。池付近は旅館が廃業となり空地となった駐車場が多い。夕食はみんなで三条通沿いの居酒屋で。この辺りの地形は不思議である。南北を走る奈良街道東は奈良公園が広がり高台で、その西の興福寺南の低い三条通沿いは商店街。それより南の東西を走るならまち通りより南は伝統的な住居が残り風情がある。そこには屋根の飛び跳ねが鋭い国宝元興寺がある。

8月30日(水)
レンタカーの予約ミスで研究室の学生と桂離宮から合流。その前に学生は三十三間堂と角屋に行ってきた。三十三間堂の異様さはその仏像がひしめき合って一直線に置かれ、建物の間口が120mもあるところにある。普通の感覚だとオンリーワンでないのでありがたみは薄くなるのであるが、どれも精巧にできていて緊張感が充満している。プログラムの異様さが建築を成立させているよい例だ。角屋は江戸時代後期の料亭である。桂や修学院といった皇族の同様施設との違いがつかめるとよいと思った。しかし2階の部屋に上がれなかったことを聞いて残念。桂のように色鮮やかな襖や貝であしらった部屋があり、どちらも遊び心や好きさはあるが、敷地の使い方に桂との違いがある。何年かぶりの桂離宮へ。なんといってもシークエンスのつくりかたが建築的である。山あり橋あり樹ありで様々な景色を池中心につくっている。とはいえ足下が気になりそれほど景色を楽しめない。飛び石のつくりは、遠州好みというが、はじめは小石がびっしり敷積まれた広めの直線上の道で、それが細くなり平面にヒビいれたように幾何学的な道になる。飛び石もあれば、四角い石が踊るように配置された路地もある。この石を写真家の石元泰博はいたく気に入ったと聞いているが、有機的な自然に対して幾何学を対置させる意識がこの作庭家にはあった。残念ながら、書院の半分が修理中。丹下健三が好んだファサードをダイナミックに観ることができなかったが、その半分からもプロポーションの良さを感じることができるのは、正確な正方形を中心に構成されているからだ。丹下が嫌った屋根も、素材目地が見えずに抽象的だ。想像していたより高さがある。井上章一氏がいうように桂の神話はつくられた作為的ものであるが、この端正なプロポーションは群を抜いて素晴らしいし、丹下の広島平和館でも感じられるもので、モノとして完成度は高い。その後、京都市京セラ美術館へ。あまりにも疲れたので、その前にある前川さんの京都会館で一服。それから美術館エントランスに入る。ポンピドゥーセンターのように吸い込まれるようである。多目的なエントランスホールは真白く抽象的に仕上げられている。床仕上げはフローリングタイルであるが光っていて目地が見えずに、全体としてシームレスな表現となっている。こうして既存を彷彿とさせるものとはなっていないのは、建築家としての主張かとも思う。企画展である「ルーブル美術館展」は東京で経験していたので、常設展のみ行く。そのため中庭や円形状のトイレなどを体験できた。プランはなかなか複雑でカフェやショップ以外に、2階のキャットウォークを使うとホワイトキューブ上の開放テラスやプレイルームなども無料で利用でき、よく練られている。そうした空間はエントランスとは異なり当時の素材をリノベーションした空間となっていた。構成は八戸美術館と似ているが、素材の扱いや来館者ターゲットが違うと、こうも違った空間になるものだと思った。帰り際に、次の時間帯で桂を見学してきた4年生と会い、集合写真を撮る。宿泊する村野藤吾氏の宝ヶ池プリンスへ。途中、その前にある大谷幸夫設計の京都国際会館に寄る。今日も中に入ることはできなかった。思ったより小さい。ディテールが際立っていて鬼気を感じる。宝ヶ池プリンスは重厚である一方、時代を感じる安っぽさもある。それは工業製品にみられた。小さな宴会場で中間発表ゼミを行って今日は解散。

8月29日(火)
「生きるLiving」オリバー・ハーマナス監督を新幹線の中で観る。1952年の「生きる」黒澤明監督、志村喬主演のリメイク版で、カズオ・イシグロが脚本を努めている。オリジナルの「生きる」は、予備校時代に現代国語の先生からえらく薦められたので、当時同級生と岩波ホールに出かけた。その後も数回ビデオで観ていて、ずっと側にある作品である。黒澤監督が面白いのは、特有のおどけたコミカルさをときたま差し込むことにあり、それは葬式での思い出話シーンにそれがもっとも色濃く表れているし、苦情を寄せる俳優はたしかズケズケとうるさい菅井きんであったと思う。志村喬のぼっーとした顔が急にアップになったりして、眼をぎょろっとさせたシーンも効果音と共にあった。そうしたシーンが一層のさみしさを誘うのであるが、本作はあくまでも真っ直ぐに描かれ、それが日英の文化の違いというものだろうか。葬式は家族以外の者にとっては他人事なのかもしれないが、それを道徳で制御するかどうかの違いがある。ちなみに主人公を演じるビル・ナイは、ハリーボッタにも出演し、パイレーツ・オブ・カリビアンではジョーンズ役を演じている。

8月28日(月)
早朝から大学院の入試監督、その後に人事面接を行う。ひとまず解決をしたのだが、問題は尽きない。その後に学生からの相談を受ける。前向きな姿勢は頼もしい。長い1日を終え帰宅。明日からの研究室合宿に備えて、残仕事に取りかかる。

8月26日(土)
084 ラ・リーガ ラス・パルマス×ソシエダ ラス・パルマスは、スペインと言うよりモロッコの隣にある離島、柴崎が所属していたテネリフェと首都を分け合っていることを知った。なんでもチームはバルサカンデラ出身の選手とコーチが多いという。パスをつなぐサッカーをする。前半ソシエダはそんなラス・パルマスのプレッシングに苦しみ全くよいところなし。後半から、SBの押し上げを控えさせて、代わりにIHを時たま下げてボールをつなぐ方法に変更。久保はというと、サイドに張って、そこからの個人突破するも連係まではいかなかった。しかし今日もMOM。ゲームは0-0の3試合続けてのドロー。

8月25日(金)
唐沢鉱泉へ行く。公道から4キロあまりの舗装されていない道を進んで到着する。天狗岳の登山者の入り口となる山小屋にある。とはいえ建物は大きく立派で、こうした温泉では珍しくカード払いも可能で昼食もとれた。打たせ湯のように高いところから湧き出る源泉の水温は低く、浴室が湯気で覆われることはない。四角い2つの浴槽が整然とある大きな浴室であった。その後に、いつものサイクリングショップでコーヒーを飲む。少し小高いところに店があり、そこからずっと田畑が続き、遠くには連峰が広がる。表だってカフェとして営業していないのでいなくゆっくりできる。よくこうした場所を見つけたものだと思う。アメリカ人が経営している。度々妻の実家から連絡が入る。

8月24日(木)
蓼科行き。眺めのよいエコーラインを利用して古民家を陶芸家が改装したカフェで休憩。その後ホテルへ。夕食は外のイタリアンまで出かける。打合せは上手くいった。夜の気温は20度を下回る。

8月23日(水)
「日本の庭」立原正秋著を読み、気づいたことがある。彼らが庭を評価するのは、庭のディテールが優れていることもあるが、芸術そのものが何であることを理解していることからはじまっている。それを理解できない中学時代の修学旅行では、単なる家の庭と変わりないものである。立原正秋にとって美とは現世を脱する距離にあったように思う。作庭家の自律性の強度といってもよいかもしれない。それはそもそも庭が作庭家と庭師、あるいは僧侶との共同作業にあり、政治的影響を色濃く受けていることを前提としているが、その前提が研究によって現在明らかになってきている。

8月22日(火)
京都で桂と修学院に行くというので、父の本棚から「日本の庭」立原正秋著を拾い読み始める。こうした本をなぜかしら遠ざけていた。審美を語る本だからであるが、父はこうした本を好んでいた。とはいえ立原はバリバリの近代主義者である。両離宮のクライアントである後水尾天皇を審美家として崇める一方で、桂の方を詳細に記述し、それは桂に精緻性を見出しているからである。建築では、桂と丹下健三との関係がとかく取り上げられる。が、もうひとつの桂が近代建築に結びつく理由を理解できた。ところで、この本の桂・修学院の章の前後は、夢想疎石と小堀遠州である。両者とも政治に近づいた人で、時代も後水尾天皇の前後である。疎石は禅思想をつくるのではなく表出させた石庭の創始者として、遠州は禅を受け継いだわび思想の草庵茶創始者の千利休を現世化した人として、取り上げられている。近代主義者である立原はもちろん疎石と利休を買うのだが、それを越えたところの審美性を見出している。ここが面白い。桂と修学院を観るのなら、疎石の見学不可能な苔寺ではなくもうひとつの天龍寺曹源池庭園や、遠州の金地院庭園を観てもよいと思った。天龍寺をチェックしていたら、妹島さんとの間にどことなく共通点があることも気づいた。

8月21日(月)
朝食を義理父と一緒に取って昼前に揃ってチェックアウト。ゆっくりとした午前の時間を過ごす。その後時間があったので、息子と一度訪れたかった大丸温泉旅館へ。日帰りは昼の時間しか開いていない。豊富な湯量と高い源泉温度を活かしての川をせき止めた温泉である。景色はよくないものの、河原の中に入る独特な雰囲気を経験する。夕方前に帰宅。体内時計をリセットするためにプール行き。

8月20日(日)
那須のホテルで甥の結婚式。家族皆で出席。チャペルで挙式後、披露宴。最後の甥らしいスピーチは感動的であった。義理母は1月前に入院し退院の目処が立っていない。義理父も、車椅子生活で自立できていない。今日はずっと泣きっぱなしであった。実家隣の家で育った彼には心苦しかったに違いない。そうした中で、理路整然と気配りがなされ、かつ自分の心情を吐露するスピーチであったと思う。彼は栃木の中学校で教鞭をとっている。小さい頃のイメージからほど遠い頼れる真っ直ぐな人間に育っていた。娘たちは夜の新幹線で帰宅。義理父の計らいで、ぼくと息子はホテルに連泊。
083 プレミア リヴァプール×ボーンマス 遠藤が後半65分過ぎから登場。上々の働きであったと思う。なんでも数日前にオファーが届き即断。チームのジェットでリヴァプール行き。全体練習に参加することなくベンチ入りであったそうだ。それだけ、リヴァプールは守備的中盤の獲得に失敗をしていたことになる。遠藤のネームバリュームなさからくる実力をマスコミは心配をしていたが、ブンデスに詳しいクロップの後押しによって実現し、今日のゲームである程度の安心を勝ち得たのではないだろうか。

8月19日(土)
午後から那須行き。渋滞もなく到着。何年ぶりだろうか鹿の湯に立ち寄る。鹿の湯は昔からの湯治場で、1度ごとに温度が違う浴槽がグリット上に2×3個用意されている。白濁の湯で、豊富な源泉からの湯量をそれぞれの浴槽に分けて供給する仕組みである。係の人が念入りにその温度管理もしていて、彼から、脚を浴槽に入れて休むのは体に悪いと注意された。完全に体を抜いて床に腰下ろすのがよいという。その床のスノコは最近貼りかえられたのだろう。以前とは異なり明るく清潔な雰囲気となっている。珍しく家族にも好評。川を渡ってフロントから浴槽までのアプローチもよかった。
082 ラ・リーガ ソシエダ×セルタ 監督は前節の流れをみて、中心選手のオヤルサバルを先発から外す。その左サイドは活性化し、ゲームの流れはよくなった。得点は、久保の右サイドの突破から、左のバレネチアが決めた。と、これまではよかったが、後半からセルタは5バックを採用すると、これまでサイドラインまで張っていた久保がフリーでなくなり、かたちがつくれなくなる。そして終了間際に失点。これはソシエダの悪いパターン。時間がたつと中盤と、変わって投入されたやる気満々の前線との間にギャップができての失点である。2試合連続のホーム開幕というのは数年ぶりのことだそうだが、勝ち点2に留まってしまった。スタートダッシュの失敗である。

8月18日(金)
「「力と交換様式」を読む」を読み終える。それぞれの交換様式において働く力、そしてAの高次元回復なる交換様式Dとは何かをテーマとしていた。Dについては、これまで人は自然をコントロール可能なものとして行動してきたので、それが不可能である前提に立った新しい自然との交換に可能性を感じた。力についてぼくにとっては、それ程に違和感なくその存在を感じることができた。いみしくも「ティール組織」の3つのブレークスルーにおける2つめオープンマインドにおける全体性、これを招くことに重なる。他の2つは、セルフマネジメントすなわち交換様式Aを前提とすること、エボルーショナル・パーパスすなわち結果を予測して逆算して行動するのではなく現実をただ追うことである。アレグザンダーもずっと全体性の必要をいっているし、ここで取りあげられているカントの物自体も同じことだと思う。自分の身の回りにある上部構造、その設定なしには生きられない性、これを力といっているのだろうと思う。

8月17日(木)
子ども絵本図書館の打合せのため明治鋼業本社行き。一通りの案の説明、予算の承認を頂く。椅子についても了解を得た。午後、事務所に戻り、与えられた課題の整理。制作に向けての材料の手配などをする。

8月16日(水)
「「力と交換様式」を読む」を読み続ける。マルクスを直接読んだことのないぼくにとって、マルクスは柄谷、あるいはその周辺から知ることが多かった。この本は加えて、マルクスについての一般的知識を得ることができた。例えば史的唯物論については、以下のような記述である。1)「下部構造とは「生産力と生産関係」です。生産力は人間と自然の関係からくるものであり、生産関係とは生産力に対応して生じる人間と人間の関係である。そして、生産力が増大すると、旧来の生産関係との間に矛盾が生じ、その衝突、すなわち、階級闘争を通して新たな生産関係が作り出される。こうして、経済的な土台の在りようが、観念的・政治的な上部構造の在り方を決定するp133」。もう少し一般化させると、2)「生産力は科学技術をふくめて多様なものですが、物質的な力といってもいいでしょう。一方、上部構造は政治的・イデオロギー的なものです。いわば、観念的な力です。そして史的唯物論とは、観念的な力は物質的な力によって規定されるという唯物論です。したがって、国家・宗教・芸術などの「上部構造」は、経済的下部構造に規定されることになるp134」。そして柄谷がいうには、この構図を成立させるのに、上部構造を越えたところにある種の観念的で霊的な力があるというのである。

8月15日(火)
夕方に時間が出来たので今週末まで開催中のマティス展へ行く。一連の作品を観ながらリテラルあるいは写実とは何かを考えさせられた。「窓辺のヴァイオリン奏者」や「黄色と青の室内」「赤の大きな室内」を観ると、いわゆる透視画ではなく、描かれているものひとつひとつがてんでんバラバラである。鑑賞者たるぼくは絵の中でそれらをひとつずつ目で追うことになる。それは後期の切り絵のコンセプトにもつながっている。建築でいえば、1つの平面図にシークエンスをのせようとするものだと思いたった。しかし建築でいえば、てんでんバラバラでも実際には使用される機能目的もあるし、全体を構成する構造というものがあり、まとまりというものをつくることができる。こうした散漫なものを構成するときにマティスは何を拠り所にするのだろう。事務所に戻り、岡崎乾二郎の「もうひとつの生を生きるーマティスのアオリスト」という解説を読む。アオリストとは、古典ギリシア語に存在する時制方法である。そこに例が上げられている。「空は曇っていた。風も吹いていた。そして誰かがヴァイオリンを弾いた」。こうした時制方法は、「語り手空間から切り取られ、浮き立てさせられた出来事は、背景の上に浮かび上がる図のように、その文に読む者の意識に焦点を与える効果をもつ」ものという。岡崎がいうには、同時代のかつての近代絵画のようにてんでんバラバラにした上で、後期マティスはこの「浮き彫り効果」=アオリストを追求したというのだ。そのために、サインという徴しを用いていたという。「赤の大きな室内」の猫の絨毯などは、絵の中に掛けられた絵や室の床にも描かれていて、それが徴しというのである。展覧会では、4連作の彫刻「背中」が気になったのだが、その作品の意図は地と図のせめぎ合いにあるという。その浮き彫り効果を試したものであるというのだ。ずっと気になっていたアレゴリー的な手法を解くヒントをここに学んだ。ぼくらは切掛けを与えユーザを誘発するところまで考えてはいるが、もう一歩踏み込んで、その状況を指し示しかたちにまでしている人は少ない。

8月14日(月)
旅行中、持ち運びに便利という点で、柄谷の最新作「「力と交換様式」を読む」を読み始めている。交換によって両者間を納得させるなんだか説明の付かない力=物神が働いていることを「力と交換様式」といっている。それはただの紙ぺらに1万円の価値を認めたり、将来年金を受け取れると(ある程度)国家を信用したり、親が無償で子の面倒をみて家族をつくったり、そういったものだ。そして、交換様式C(商品交換)が行き詰まりつつある現在、別の新しい力が生まれて、これによって別の交換様式が要請される、という仮説である。

8月13日(日)
081 フランス モナコ×クレルモン 監督が代わり、南野も生き生きとする。選手本来の実力よりも、いかに自分にあった環境に自分を置くことができるかで、結果が異なることを感じる。これはサッカーだけではなさそうだ。鎌田はその点を虎視眈々と狙っていたのだが、どうだろう。イタリアは来週開幕となる。

8月12日(土)
080 ラ・リーガ ソシエダ×ジローナ 今季開幕。ソシエダは昨年昇格で10位に終わったジローナをホームで迎える。開始早々の久保のゴール。ソシエダはほぼマンツーマンで激しいプレッシングによって幾度となくジローナゴールに襲いかかる。しかし追加点を奪えなかったのがよくなかった。75分にプレシングが弱くなって、やばいと思っていたところ、見事に速攻を決められてしまった。なぜだかイマノルはいつもよりオヤルサバルと久保を引っ張った。それが裏目に出たかたちである。1-1のドロー。ソシエダは勝ち点2を落としてしまった。

8月11日(金)
「今朝は城ヶ倉大橋を見学してから、猿倉温泉へ。建物が新しいのでびっくり。秘湯というと古さを求めてしまう。その後にブナ林を抜けてもうひとつの古い蔦温泉へ。歴史ある旅館で、立派な木材を使用ししっかりしている。源泉の上にヒバ材の浴槽があり、ヒバ材の隙間から湧き出る単純泉である。奥入瀬渓流を通過して空港へ。以前訪れたのは雨だったので記憶が不確かであったのだが、それは雲井の滝であることがわかった。阿修羅の流れなども観る。飛行機は2度遅延し夜遅くに羽田着。大館空港ロビーでなでしこの戦いを観る。前半は圧倒されていたというが、後半は見応えがあった。

8月10日(木)
カーナビに従うと信号のない農道を走り、1時間半あまりをかけて八戸へ。先週まで三社祭であったらしくまだ片付けをしている。車を市役所の駐車場にとめて八戸市美術館へ。田根さんと同様に街に繋がった美術館であるが、街にたいして建築ボリュームが大きすぎると思った。隣の銀行と一体となって、エントランスは北側にあり、どちらかというとそちらに開いているが、建物中央が高いシンメトリーなかたちである。それが原因かと思う。エントランスを入ると大きな吹き抜け空間がそれでありジャイアントルームという。2階のデッキからも見下ろせて、その上のハイサイドから太陽光を取り込む。そこは、市民のための休憩所でカジュアルな閲覧室あった。大きな展示室としての活用も可能で、奥で川俣正氏の大きな彫刻作品があった。南側には様々な大きさをした展示室が並ぶ。市民開放型にもなるし、今日のように入場料を取ってホワイトキューブの企画展示にもなる。「美しいHUG!」という6人展が開催されていた。なんとも相手任せのハプニング的な現代アート展。それは建築にもいえるような気がする。建築が背景となりプログラムを活性化させているともいえるが、他人指向型の建築ともいえる。その後、十和田市街へ。久しぶりの十和田市現代美術館へ。前とはだいぶ展示内容も変わっていて、道路向こうの公園まで草間彌生やアンノウン・マスの屋外作品が伸びている。敷地屋外にはチェ・ジョンファや椿昇の彫刻があり、室内はジム・ランビーからはじまってロン・ミュエク、塩田千春、トマス・サラセーノ、アナ・ラウラ・アラエズ、ソ・ドホ、マリール・ノイデッカー、名和晃平といった作品である。これも街から連続し、さらに建物隙間にある屋外展示やガラスにより街へも連続している。何より来館者が多く、人流の面でも街となっている。以前は外壁に物足りなさを感じたが、奈良美智のキャンバスになって解消されていた。その後、藤本壮介氏の十和田市地域交流センターへ。真っ白の四角い中庭空間は夏の午後には本当に眩しい。建築はL字型でそこにはカフェや大小の会議室があり、その中庭を囲む。建築は交差点の一角をしめ、街に開かれているが中庭がどれだけ異質、非日常空間になるかが試されたのだろうと思う。交流センターは普通カジュアル性が求められるのだが、簡単にはそうなっていないのが、建築たる由縁だろうか。建築が社会プログラムから容易に取り込まれることを拒むように感じられ、建築を自立させている。そこが隈建築や八戸市美術館とは異なっている。八甲田方面へ移動。時間ぎりぎりに間に合って秘湯の谷地温泉に入ることができた。上湯と下湯と泉質の濃度が異なる2つの湯があり、浴槽下にも洞窟風の噴水がある。城ヶ倉温泉で宿泊。

8月9日(水)
能代大館空港から能代へ。はじめに、田根剛さんの弘前れんが倉庫美術館へ。酒造工場がリノベーションされ、当時はおそらく閉鎖的環境であったろうが、芝生公園となって街から連続するシンボル的な建物になっている。そのスケール感がよい。煉瓦の扱いといい屋根トラスの扱いといい素材への執着が感じられ、建築家の歴史へのリスペクトがそのまま空間の質となっている。今年は長期間に渡り大巻伸嗣展が開催されていた。タイトルは「地平線のゆくえ」。場所と時間に強い関心を示した展示で、最後のアントニオ・カルロス・ジョビンのボサノバを津軽弁の唄にアレンジしたイメージビデオに最もそれが表れている。目に映る津軽の春のイメージをただ重ね合わせるだけの映像である。他には、森の深遠さをイメージさせる音と一体となった作品や、暗闇の中でドライアイアスのシャボン玉が揺らぎながら落下する作品、生き物のように反射する布が風になびく作品など、暗闇の中の展示が多く、出口のひとつ手前には真っ白な抽象的な空間を歩かせる対照的な展示があった。どことなく既知観があるもののそこを突破しているのは、作品の密度による迫力だと感じる。展示といい建築といい快い体験であった。その後、前川建築を再訪。木村産業研究所は、コルビジュエを直接彷彿させる1932年の建築である。スチールサッシュやガラスのシール納まりなど、いつの段階かは不明であるが、潔いディテールである。玄関ポーチ上の吹き抜けの扱いが建築構成を決定づけている。奥の丸い大きな出窓などはジャンヌレ邸そのものだ。その後、弘前市役所へ。無骨なコンクリートもスケールが小ぶりなのがよい。城内にある市民会館も同様で、その時代の構造指針にもよるが、プロポーションが前川建築たる由縁である。博物館へ。後期の煉瓦ファサードになると空間がおおらか過ぎると思う。その後弘前城を観て回って、市民会館のカフェで前川建築を堪能する。黒と青、濃い目に着色した木を基調とした空間で、上野の文化会館を小ぶりにした感じである。十和田湖畔のホテルへ。10年前に宿泊した。旧館のエントランスの秋田杉の構造装飾は圧巻。けれどもう少し大きかったという記憶であった。ただ、機能が伴っていないので、過去の遺品となっているのが残念である。その後増築を繰り返しRC造の中庭型となっている。その配置は空気が淀むためか、ガラスは外結露していて淡い色の外壁はカビている。レストランの照明デザインでもう少し質を出せると思うのだが、いわゆる宴会場になってしまっている。温泉は十和田湖を見渡せるゆったりした単純泉であった。


8月8日(火)
「ルネサンス 経験の条件」岡崎乾二郎著にある「アンリ・マティス」の再読。いわゆる作品への没入というものが何かを問うた批評である。没入にはまず、対象と主体に距離があることに意識的であることが前提であるという。マティスのロザリオ教会は、この前提(彫刻/絵画、線/色彩、装飾/図像性、触覚/視覚)を一切否定したところからはじまっているという。なるほど。それをもって実際はどう感じられるか?1/1のある東京展で確かめたい。岡崎がいうには、ぼくらは「語りにくくさせ、ゆえに見損じさせてしまうようなーわれわれの視線を構想しているところの論理的な場」に囲まれている。そこからの自由がマティスの晩年にあったというのだ。

8月7日(月)
会議の後、同僚との親睦会。銀座の国際フォーラムとエルメスといったS造建築を観て回った後に行う。日本におけるS造のはじまりは、横河民輔の三井銀行かと思っていたが、調べてみると小橋先生のいうように、秀英舎印刷工場(1895)であることが、山本学治の本からわかった。これは現在エルメスが建っている対面に建てられていたという。この頃には八幡製鉄所も完成した。ヴィオレ・ル・デュックが教会修復をはじめたというのが1840年、「建築講話」の出版が1862とすると、1985年に鉄骨造が輸入されたのはかなり早かった。ちなみに設計は造船技師の若宮好吉氏。日本では煉瓦との併用で折衷様式に留まっていて、鉄骨造のポテンシャルが発揮できるようになるのは、坂倉が日本館を設計してからである。

8月6日(日)
079 プレシーズンマッチ ソシエダ×ベティス 両チームはここ数年リーガにおいて順位もほぼ同じで、しかし昨年ソシエダはベティスから勝ち点を取りこぼしている。ソシエダにとって来週に開幕を迎える今季を占うカードといってよいかもしれない。結果は1−0。それ以上にソシエダが支配していたゲームであった一方、得点不足は否めない。今日は、オヤルサバルを外し、左にショを入れた。ショは激しく仕掛けるので、反対サイドの久保とともに攻撃的チームになって、ベティスを圧倒していたが、1点である。この現実を監督はどう見るのだろうかと思う。攻撃陣で言うともう1人、辛抱強くプレシーズンを試してきた9番の扱いも気になるところ。ポストプレーもサイドへの斜めの動きにもなかなか中盤とフィットしないので、他の戦術を試したかっただろうと思う。

8月5日(土)
「ハウス・オブ・グッチ」リドリー・スコット監督を観る。主演にレディーガガ。グッチ家の馬鹿息子役にスターウォーズのレン役のアダム・ドライバー。創業者にアル・パチーノという豪華俳優陣。グッチが健在な現在に、こうしたスキャンダルな物語が映画になるのには驚いた。詳しくはなかったが、グッチ家は元々皮製から出発し、それもロンドンのサヴォイホテルのボーイをしていたころに、ハンドバックがステータスになり得ることを知り、フィレンツエの高い職人能力に支えられて世界的なブランドにまで、のしあげた。映画は、その財産に群がる人間模様を描く。レディ・ガガ役の息子の妻は最後に理性が効かずに犯罪に及んでしまう。最後に勝つのは、長い時間をかけた仕込みの上に合法的にじわじわと締め付けるドライな知性をもったお抱えの弁護士であった。つまり、血筋や才能、職能よりも理性に基づく知識が現在資本を牛耳っているということだ。しかしそれは幸福と一致してはいない。

8月4日(金)
最近の学生の考えが気になり、柄谷行人の「内面の発見」の再読。現在当たり前になった小説話法、三人称客観描写、が如何に生まれたかが、明治初期の小説家、二葉亭四迷、森鴎外、夏目漱石の苦悩を通して描かれている。どうやらそれは、言文一致運動から生じたものらしく、それ以前からアプリオリに内面というものがあったわけではないらしい。つまり、主観―客観の基底が、新たな象徴的形式(言語形式)によって見出されたらしいのだ。この本では、この3名がこれと格闘し、これを前提としてすんなりと実践したのが、国木田独歩という構図である。国木田は自然主義者、ロマン主義者として理解されている。これを建築の話に戻すと、如何に西洋文化の「建築」を翻訳するかを苦悩した磯崎にたいして、三人称客観描写を普通に扱えたように、自由に自己表現できる現在のぼくらということだろう。その後文学はどうなっていたか。柄谷は別なところで、規制のない自由な世界では他人に承認されたいという欲望のみの自己が展開されたという。それを他人指向型といい、まったく主体性をもたずに浮動する大衆へとなった。そして、それが「排除」をもたらす新しい権力につながっていったという。

8月3日(木)
アンデルセン公園行き。制作前に美術館側との打合せ。概ね了解を得られる。ただし車椅子対応の展示の仕方が要求された。もっともだと思う。その後、具体的な作品の釣り方や照明方法、運営方法の確認。ここ数日の暑さのため、公園を訪れる人も控え気味であるそうだ。
078 プレシーズンマッチ ソシエダ×アトレチコ・マドリード 0-0のドロー。アトレチコは5バックで、本番さながらの守備チェック。それをソシエダは崩すことができなかった。久保は60分過ぎまで先発。ときおり可能性を示すも、決定機をつくるまでは至らず。引退したシルバと比較されるだろう。

8月2日(水)
「消費社会の神話と構造」ボードリヤール著を続ける。「消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない」という帯にある文章が印象的。製図室で、アンデルセン公園美術館で行われる作品のモックアップを確認。短期間で素晴らしいモノにまで仕上げっていた。いくつかアドバイスして、中山のナチュラルシーム行き。ここでも1/1模型の確認。暑いとはいえ、樹に囲まれて庇がある西日カットの建物にはいる風でなんとか過ごせる。

8月1日(火)
五反田での検査の後、妻の実家に行く。義理の母の様態が芳しくない。コロナ禍で直接本人にも担当医にも会えないのがつらい。病院側に主導権があり、詳細が把握できないでいる。妻も苦しそうだ。「消費社会の神話と構造」ボードリヤール著を続ける。「ガジェット」についての記述が面白い。「マシーンは工業社会の象徴であったが、ガジェットは脱工業社会の象徴であるp178」。ガジェットは、もともと軽蔑的な言葉であった(これは理大の山名先生がいっていた)が、本来の目的性を超えて遊戯性を帯びたものをいう。この遊戯性によって、他のモノと関係して新しい価値をつくっていく。これが現実で、その先に何があるかを知りたいと思い読み進める。面白いのは、このときすでにボードリヤールは、差異を回収するという一見ポジティブな考えもまた否定的に捉えていることである。

7月31日(月)
「消費社会の神話と構造」ボードリヤール著を読み始める。すべてが消費の対象になっている現状を詳細に記述する。キーワードが、パノプリ(パッケージ)とルシクラージュ。モノを離れてストーリーが更新され続けることをいう。そこには、サブカルチャーも感性も肉体や性、そして自然までが含まれてしまう。一般に感性や自然は消費社会とは隔絶したポジティブなものとして考えられているのだが、それすらも消費の対象というのである。こうした消費によって帰属社会への連帯というものは強められる。というのは、柄谷の交換様式と同じ構図である。

7月30日(日)
久保途中投入のソシエダ×レヴァークーゼンのダイジェストを観る。なぜかしら久保はスターティングではなく途中投入となるも切れはあった。しかしチームとしては前線に勢いがなく得点力不足。気になる。
077 プレシーズンマッチ バルセロナ×レアルマドリード アメリカでクラシコ。マドリーは大きく選手が代わっていた。2トップとなりその下に新生ベリンガム。ボランチもモドリッチとクローズでなく、カマビンガとチュアメニだ。バルセロナも中盤にギュンドアンが入り、ボランチにロメウ。プレシーズンマッチとは思えないほどのヒートアップに、怪我人続出。結果は3-0と大差がついたが、内容は5分5分であったと思う。ビニシウスのシュートは多くバーに嫌われていた。

7月29日(土)
桃購入のため山梨一宮御坂まで遠出。例年のようにJAでB級品を格安で購入。ちょっと時期を逸して、好みのブランドではなかったもののまずまずの出来。地元の公共温泉で時間を潰してから戻る。学生から送られてきた研究計画書をチェック。人の自然観は、文化的に深くDNAに根付いているようようで、じつは時代の影響を強く受けている。近代以降大きく変わってその前提は怪しい。こうしたことを記述する書籍がないかを思い巡らせる。科学で言えば村上陽一郎などがある。建築や絵画の分野でもそういった視点をもって実例を紹介するなどした本があるだろうか。三宅理一の「限界デザイン」もそうかと思うが、本棚に見当たらなかった。読書会で取り上げた中沢新一も、そうした方向性を暗示して野生の科学といったりしているが、思想に留まっているので、建築に結びつけにくい。

7月28日(金)
a+uの最新号は、フラー特集。「I am not trying to iminate nature; I am trying to discover the principles she is using」とあるように、フラーは、自分が自然という王様の代弁者であることを終始一貫して語っている。それが現代的である理由でもある。フラーから勇気をもらう言葉は以下。「自分の立ち位置にとらわれることなく、信念にしたがい、世界に向けてそれを表現することではじめて個性というものを獲得できる。人が集まってできる家も同様で個性的であるためには、このことが必要である」。そして、「How much does your building weight?」となるように重量がフラーにとって全てであった。フラーは、シナジェティクスとよく言うが、「シナジェティクスとは、離れている部分同士の振る舞いからは知ることができない全体の振る舞い」のことをいう。そしてそのために「Dare to be naive」。ナイーブであれというのだ。

7月27日(木)
076 プレシーズンマッチ マンチェスターシティ×バイエルン 昨日見たソシエダとは一味も違うことを実感する。まずはミスをしない優れた基本的技術が、戦術や体調復帰の前にある。戦術的には、縦パスを入れるタイミングのよさに差があった。

7月26日(水)
075 プレシーズンマッチ スポルティング×ソシエダ ソシエダは前線こそ主力も、その後ろは控えメンバー中心でまだまだ調整中のようだ。一方のスポルティングは、午前にも1試合を行い、この試合も変更選手を4名のみ配置させる本気モード。ある意味一方的なゲームとなった。ソシエダの球出しを封じるための強いインテンシティでのぞみ、システム変更しながらそこから逃れようとするソシエダを何なりと押さえこんでいた。守田がその中心にいたのは間違いがない。守から攻撃への起点になっていたと思う。ソシエダはシルバが引退。スルロットもビジャレアルにいってしまうそうだ。あまりよいスタートを切れていない。その中で久保は順調な仕上がりを見せる。

7月25日(火)
朝食を新しい食堂棟ですませ、9時には移動。それにしても食堂棟からの眺めはよい。10分ほどで伊東さんの多摩美の図書館へ。以前は全てが見学可能であったが、チェックゲート前までしか入ることができなかった。残念。緩やかな傾斜に沿って、グリッドを批判的に捉えたおおらかなアーチ構造が続く。アーチのRC厚は200ミリ。これを佐々木構造事務所は死守したかったそうだ。カードボードのようで、グリッドに囲まれたスラブ同士の照度の微妙さが心地よい。天上には吸音材が張られているが、響きのある空間は緊張感をもたらす。流れるような緩い空間は、堅いグリッドが崩れることによって強調されている。それから1時間ほどの運転で武蔵野美術大学へ。まずは藤本さんの図書館へ行く。何ら問題なく利用されている。大きく渦を巻く本棚が流動的な空間をつくっている。多摩美図書館程緊張感がなく、おおらかで現代的である。それは開口部の取り方による窓のデザインによるのかもしれない。高い天井からの比較的均質なトップライトがそう感じさせている。2層吹き抜けの本棚いっぱいに本が埋められたところを見てみたい。いずれの図書館も、まずはユーザーの思い思いの自由な場の提供をするための建築的アイデアありきである。いわゆる図書館計画を逸脱したところから出発している。これを逆転させることに建築構成が貢献することに成功している。30分の見学の後、図書館を出たところにある芦原義信氏設計の食堂ホールへ。どことなく吉阪さんと構成は似ているが、力強さがない。絵画演習棟へ。地面からの無骨なキャンティレバー柱の上に一層分の梁グリッドがのり、思い思いのところに三角屋根がかかる構成である。芦原さんの代表作のひとつ。1階は均質なピロティ空間が続く。こちらも全体像が見えずに動き回ることを強いられるが、建築自体は静的であるのが現代の藤本さんと異なる。この2つの中間に伊東さんの図書館があるように思えた。最後に一番奥にある、最近長坂常さんがリノベした15号棟へ。学生と共につくったというプロセスが面白く、完成した建築は倉庫のようで、そこで作品を制作するというカジュアルさが現代的である。このとき、もはや建築家に空間性などは要求されてなく、環境的に快適に過ごせる空間の大きさが求められ、どれだけそれが肩苦しくないかである。これはこれでセンスが必要とされる。ここでひとまず解散し、帰宅。

7月24日(月)
研究室の夏休み前の合宿を、八王子の大学セミナーハウスで行う。昼過ぎに集合して、吉阪隆正建築を観て回る。本館から移動。本館の逆四角錐の倒れかかる壁は、いつ見ても頭をクラクラさせる。内部に入ると暗く、厚い壁から差し込む太陽光が美しい。外のギラギラ感から守ってくれていることを実感する。インドのコルビジュエの建築でも感じたことだ。ブリッジを渡り、2つのセミナー室の屋根がせめぎ合う、決して美しくはないが、力強い空間を体験。屋外劇場を通り、松下教師館へ。やはり屋上へ行くことはできないが、コロナ前より整えられて、リノベされている気がした。もうひとつの谷間に埋もれた四角錐のセミナー室を通り、宿泊となる交流館、そして国際館へ。国際館の屋上はいつ見ても尾根のようで優大である。交流館の構成は、みんなが集まることの意味を形式化したようなものだ。国際館とは異なり縦方向の内部空間の連続である。ゼミは残念ながらあまり特徴のない国際館で行う。M2生の100枚資料の紹介といきたかったが、そこまで進めている学生は少ない。研究の方向目処が立ってから資料収集するのでなく、それだと予定調和的になるので、まずは気になったところの資料収集からはじめて、その展開していく様をしりたいものだ。自転車は前もって計画的に乗れるようになるわけでなく、感知―反応の繰り返しの結果である。バーベキューの夕食のあと、夜のゼミ。今度は4年生。夕食前のM2生への指摘を夏休みに反映できるとよい。資料収集はアリバイつくりのためのものでなく、遠くに飛ぶためのマイルストーンである。

7月23日(日)
父と母の三回忌を多摩霊園で行う。予定よりも少し早く着いたので、石屋の経営するカフェで時間を潰す。間口が広く品のある昔の建物の土間がカフェになっている。その後、お墓に移動。住職が代わり、暑い中を先代住職がいらしてくれた。わかりやすい口語調の経のため、すっと入ってくる。先代の特徴かとも思う。場所を新宿に移して法要を行う。といっても中華の会食。母が亡くなりちょうど2年となった。

7月22日(土)
高校の同窓会で久しぶりに面々に会う。今日来ている皆は元気のようだ。懐かしい思い出で話が盛り上がることは苦手であるが、それも受け入れることができる。ぼくは受付の仕事もしたので11時から19時までの長丁場となった。それにしても、こうした横や縦の人の繋がりを大事にするのは、文系出身の男ばかりで、理系出身はダメだ。社会の縮図を見ているようで、文系経営者の下のエンジニアという構図がそこにあり、政策立案者>技術者というかたちである。

7月21日(金)
名和さんと会食。今年度の日本構造デザイン賞を受賞し、その報告に来てくれた。名和さんは学生時代から意匠に進みたいという望みを持ちながらも、難波さんの影響を受けて地盤構造研究室に進み、有名な設計アトリエ事務所を経てぼくの仕事を手伝ってくれた。エリップスまでは遠藤事務所と池田事務所に所属し、その後独立して、構造家としてスプリットⅡまでを見てくれた。最近はお会いしていなかったが、安斎さんとの仕事で今回の賞を頂いたそうだ。都心の小さなオフィスビルでRCの数層吹抜け空間に木造スラブを自由に挿入するという設計である。名和さんの構造は骨太で大胆である。それは他のどの構造家より際立った特徴である。一般に構造家は力学を理解しているとはいえ、シミュレーション技術に頼ってそれを縫ったデザインをするが、名和さんはそれをしない。モノ自体に即して考える。だから意匠を志したはずで、ぼくもむしろその点で助けられた。構造デザインの切れという点ではものが足りない反面、力強いものになる。それが安斎さんの作品で漸く評価されたかたちである。ブリコラージュ的な進め方をする構造家はまずいない。まさしく建築家なのだ。

7月20日(木)
「崇高の分析論」リオタール著を読み始めるも、なかなか入ってこない。この本は、カントの「判断力批判」についてのリオタールによる講義録である。2020年の発刊。原著発刊は、98年に没したので、その前だろう。訳者解説によると、崇高論が流行ったのは80年代前後。それと時を同じく、リオタールがこのカントの崇高論の分析をはじめたという。アーレントも1982年にカント講義録を出したとも触れている。第1章は、反省について。事後的にしか対象を理解できないということだろう。

7月18日(火)
「リオタール 寓話集」を読み終えた。後半は響いてくるものがまりなかったが、全体を通じてエクリチュール(記述行為)が主テーマであったと思う。それはあるシステムを設定あるいは想定したときにこぼれ落ちるものを拾うことである。リオタールは、このとき安定したシステムから脱するときの不安定さを危惧し、宙吊り状態にあることを現代に見ていたが、時代も流れ、虚無感の方がますます増大しているように思う。

7月17日(月)
韓国視察のための以前の旅程を整理する。当時ウォンくんが遠藤研に在籍していて、ソウルから遙か遠くの安東まで脚を運ぶことができた。世界遺産にもなった安東河回村に泊まり、儒教で有名な最高儒学者もいたという陶山書院、ここで当時のオンドルを観た。そして屏山書院。最後に韓国最古の木造建築といわれる鳳停寺(ほうていじ1363以前 一説には672年)まで行った。日本の法隆寺が607年創建といわれるが、火災で670年という説もある。それに匹敵する古い寺である。山中にあり韓国の人もいないような隔離された場所であった。韓国仏教の中の最大宗、曹渓宗(ソウケイシュウ)の寺で、日本でいう鎌倉時代に、禅を基本に天台・華厳思想を民衆向けに教義した寺だそうだ。骨太木造が緑に融けこむ風景は強烈であった。スケジュールはハードであったが、当時ブータン調査もしていたので平気だった。

7月16日(日)
帰路にて道の駅を目指して、足柄へ。足柄駅が建築家の作品と思ったら隈さんであった。単線の駅ホームに直結した待合場所と役所の出張所、公共トイレがある。待ち合わせ場所は庇下と巨大階段を備えた図書館といえないほどのたまり場の2つがあり、高校生の勉強スペースになっている。そこから高校の隣にあるあしがら温泉へ。公共の温泉で、20年くらい前に行って、その景色をいたく気に入った記憶がある。いつか再訪しよう思っていたのが実現できた。20年も経ち建物は変わっているようで、ただし風景はそのままであった。高台の温泉で、人工芝越の正面に富士山が見える。富士山に向かう北向き斜面の抜群のロケーションは貴重である。

7月15日(土)
涼をとるための箱根行き。途中、宮ノ下の古い木造旅館(従業員棟?)を改修した奈良屋カフェによる。急崖に立つ4〜5層もある古い木造旅館を換骨奪胎、ほとんどスケルトン状態にして、今日のような暑い日は、ほとんど外となり、気分は最高。そこに置かれている本も個性的で、妹尾河童からアレックス・カー、ブータンから戦後の闇市など建築関係も多い。しがらみからの自由を目指し、平和や日常を渇望するオーナーの意図も感じる。帰ってから奈良屋旅館を調べる。やはりカフェは従業員棟のようだ。本体はリゾートトラストに買われて今はエクシブ箱根離宮(2010〜)になっている。なんでも富士屋ホテルは外国人向け、奈良屋ホテルは日本人用となっていたそうだ。そのくらいの老舗旅館であった。仙石原泊。このホテルも老舗旅館の建て替えという。中央に大きな池があり、それを囲むようにRC6層の宿泊棟がある。箱根のような平地が限られた地域では、斜面の土地開発は今の御時世不可能なようで、老舗旅館を買い取り改修することが主流らしい。

7月13日(木)
合間を縫って建築実験棟のエアコン工事完了。いくつかの会議とゼミ。学生に自身のマスターピースをそれぞれ語ってもらった。ぼくのマスターピースは、ジャン・プルーヴェの「ナンシーの家」。時間の関係で発表できなかった。建築家のマスターピースとして、他の建築家とともにどこかの書籍で紹介したと思う。読書会のテーマでもある「考えることとつくること」、このつくることとの本質と喜びを体現していたのがジェン・プルーヴェであった。今度紹介をしよう。

7月12日(水)
3、4年生の合同講評会。遠藤克彦さんと3年生非常勤の佐野ももさん武田清明さん、そして4年生の比嘉武彦さん谷口景一郎さんとで行う。遠藤克彦さんの実務的視点が印象的であった。ビジョンを立ててから諸条件を満足させ、それを鍛えあげていくことを絶えず求めていた。だから、出発点は個人的なものであっても、作品は客観的であれというのである。それには計画論的な満足も要求されるし、かたちについてもうるさかった。多くのプロポにえらばれている由縁でもあろう。3年生の中で優秀案とされたのは3点。奥富樹さんの作品は、区民のための自由花壇と歩行路を用意した小学校の案。阿部向日葵さんの作品は小中一貫プログラムを巧みに解いた案。そして藤本千廣さんの美術館である。藤本さんの美術館案では、上野の路上生活者などの弱者に向けた建築提案が具体的にどこに設計されているかを遠藤さんは聞きたがっていた。それは庇下の空間やたくさんの外縁ある外形にあると思ったので、その説明を促したところ、納得していたようであった。奥富さんの小学校はおそらく埋め立て地の新しい敷地だろうが、周囲の整然と計画された公園や団地、規則正しく並んだ戸建て群、その中に、尾瀬の湿地帯を思わせるようなデッキ空間が用意されている。それをぼくは「動いている庭」あるいは「野生の庭」と評したのだが、それが遠藤克彦さんも響いたようだ。4年生にたいしては、比嘉さんが12週を通じて徹底的にコンセプトを鍛え上げるような指導をしてくれたので、丁寧にかたちまで練られていた斉藤拓真くんの作品が選ばれた。先日訪れた野又穫展にあった模型のような提案で、大地やその歴史性を上手く建築化した作品である。この点が今日的であると思った。つまり現在は未来像を唱うよりも歴史上に位置づけてから、そのちょっと先を提案する時代である。その時語る物語の妙さが重要で、現状認識の共感に重きを置いているのである。

7月11日(火)
鈴木大拙と華厳教との関係を今村先生から指摘されたので、もう一度確認。「華厳経の研究」1955によると、華厳経的思考は「性起(ショウキ)と「縁起」からなり、この縁起の網の目は無限であるから、因果律に束縛されている知性によっては、これをとらえることができない。そこで性起が登場するという構図である。性起は、非線形的思考で、集合を全体として直感的に把握することをいう。ロゴス/レンマの関係に近く、それはライプニッツのモナド論に結びつく。映画「メッセージ」でヘプタポッドが操っていた能力であるともいいたい。次に仏教の日本の浸透については、鎌倉仏教、特に浄土真宗は15〜16世紀に自治都市国家の形成にまで至ったが、本格的に広まったのは徳川幕府が檀家制度を悪用して、人々を土地に縛り付けることによってからだという。これにより仏教の宗教的意味が失われ、行政的手段になった。柄谷に言わせると、日本の仏教の普及はアニミズムの支配から絶対王政主義への移行と平行して起こっている。

7月10日(月)
2年生の設計講評会を非常勤の佐野健太氏、村田龍馬氏、若林拓哉氏と行う。図面と模型の完成度と努力度が十分に伝わる作品が多かった。ぼくが興味を持った作品は2点。ひとつめは、敷地の軽井沢を調査して、軽井沢の石掘壁の上に木造の柔らかな屋根を乗せた案。水回りとリビング部分を2分した平面形に対応する屋根はハート型で、構造方式も含めて造形力があると思った。厚い石堀壁は蓄熱材として利用すれば、環境建築にも適用できる。以前中川純スタジオでそのような案があった。今後の検討を期待。もうひとつは、第2課題の敷地南の公園から実際に人が登れる屋根を提案する案。広瀬さんの作品である。屋根からも住宅に入ることもでき、その屋根の下は中央に中庭を備えた一室空間である。一番奥の下にリビングがあり、上下に動き回る住宅に仕上がっていた。断面のスタディを重ねた結果である。

7月8日(土)
「想像の語彙」野又穫展へ行く。前半の作品はどことなく上学年の設計課題を見るよう。プログラムが見えないにもかかわらずある種のイメージをさせるからである。大地と一体になったような構造体が提案されている。やがてそのディテールが現れるようになる。ただし、それもエンジニアと関係のなくイメージのものである。後期になるとそれが全く消える。線から面がモチーフになり構造物と背景まで消えていき、構造物と人との間にある光と空気がテーマとなる。

7月7日(金)
4年生の設計課題の講評会。4年生の設計は比嘉さんと谷口さんのスタジオ制で、ぼくは講評会のみの参加となる。したがって俯瞰的にみることができ、考えることも多かった。そして製図という書く技術を外すと実は自由に発想できることに気づく。反対に、プロになるには書く技術が大切なことも判る。その技術の先端に解析技術も含まれる。それを学ぶ谷口スタジオで、それを外したところで出発している案が多いのが気になる。学生にとっては、各自の技術の習得よりも時代を捉える感性を優先させてしまっているのかもしれない。時代の消費速度は速い。そうした感性も次の世代へと直ぐに受け継がれてしまう。つまり捨てられる訳だ、ここはひとつ地道な技術習得にかかるべきだと思うのだが。技術を感性の下に置く慣習は根強い。

7月6日(木)
「新学長伊藤穣一氏のあいさつ。オープンでフラットな印象を得る。応用科学を重視し、エンジニアの地位向上が生涯の目標だという。MITメディアラボの所長であっただけあって実践的で、特にエンジニアの政策立案能力を問題にしているようで順応的である。アメリカは現在、経営者のかなりの割合がエンジニア出身で、それは戦後、技術者というと機械の修理人というイメージを払拭させた結果であるという。政策立案者が、エンジニアの中身を知らないと、組織のパフォーマンスを最大限発揮できないままに陥ってしまうというというのだ。

7月5日(水)
「リオタール 寓話集」の中の「奇妙なパートナー」を読む。論証にたいする記述行為の優位性について。解決というゴールを目指すのでなく、応答の連続を目指し、これを記述行為(エクリチュール)といっている。今流行のスペキュラティブデザイン、あるいは池辺さんの原則のないシステム論である。

7月4日(火)
「リオタール 寓話集」の中の「一般方針」を読む。人には、無人郷への権利があるという。無人郷とは、自由に人知れずに、物思いにふけるところで秘密なところである。どうやらそこまで情報伝達が可能になり、人間の権利の名のもとの自由が入りこんできているという。星のやの過度なおもてなしと言ったものだろうか。行き届いた設計もそうだろう。それは権利の脅迫であるという。

7月3日(月)
「リオタール 寓話集」を続ける。気になったところの抜粋。「発展は人間の発明ではない。人間が発展の発明なのである。寓話の主人公は人類ではなく、エネルギーなのであるp123」。「負のエントロピーは偶然的なしかたでふるまいうし、より複雑なシステムの出現はーそれ自体システマティックな研究体系や制御体系にもかかわらずー、予測できないままなので、この物語には不確定な面があるのである。その出現を容易にすることはできては、出現を命令することはできない。より複雑な組織の出現を容易にすることができる不確定な余地を開いたままにしておくことは、この寓話が「自由民主主義的」と名づける開かれたシステムの特徴のひとつであり、このことはあらゆる領域について該当する。われわれが研究と称しているものは、発明と発見のためのこうした自由の余地の、瑣末になったひとつのケースである。しかし、このようなケースはそれ自体、必然と偶然をジャック・モノーが見たような単に認識論の領域で結びつけられるだけでなく、プリゴジーヌとスタンジェールの用語を用いれば、新しい結合という現実において結びつけられるような、より高度な発展のしるしである。この結合は、客観的なものとの主観的なものとの結合ではない。そうではなくて、規則と偶然性、ないしは継続性と不連続との結合であるp125」。大文字のAと人類の行いとの関係をエネルギーを用いて説明している。

7月2日(日)
「ノマドランド」クロエ・ジャオ監督を観る。経済危機によって生じた田舎街の衰退、それによってマイホームと夫を失ったリタイア世代の女性の現代におけるノマド生活を描く。その生活は悲惨ではなく、強く逞しく自然とともに生きるアメリカでのそれである。古いが立派なキャンピングカーで寝泊まりし、そうした人のための日雇い労働場も用意されている。アマゾン企業はその中でも環境がよいようだ。病気になれば入院も可能だし、癌患者も健常者と同様に生活できている。つまりノマドのような特殊な生き方をする人にも生きていける社会の理解と基盤が、当事者には不満もあるだろが、アメリカには出来上がっている。それにびっくりした。60代中盤の女性主人公を演じるマクドーマンドが製作し、中国国籍の女性監督クロエ・ジャオを決めている。

7月1日(土)
「イニエスタの日本ラストゲーム。最後のセレモニーでイニエスタは、特別なチャントを受け、サポーター席の中にまで上がっていき、交友を確かめ合っていた。それに驚いた。強烈なキャラクターやほとばしる情熱がある訳でなく、淡々と諭すような職人的選手像の影響力を見る。自然体な行き方で、バルサ残党の中で最も幸せな生き方をしている。いずれ日本に帰ってくるとも言っていた。

6月29日(木)
「リオタール 寓話集」を続ける。大文字のAについての記述が散見される。「唯一おもしろいものは、自分の理解していないだれか他者の言語を話してみようとすること」、「おもしろそうなものは欲望にとらわれないことを要求するもの」とある。解説には、「たがいに了解可能な言語をやりとりすることはありきたりのことである。おもしろそうなこととは、宇宙現象や風景の色合いやことばの新たな用いかたといった、広い意味での他者の未知な言語を聞き取り、それを翻訳し、応答すること」とある。興味あるものの理解不能なものとは何だろうか。寓話スタイルがこれに応えている。

6月28日(水)
「リオタール 寓話集」を読み始める。寓話ということで惹かれたが、本題名は「Moralities Postmodernes」。まえがきに「寓話にせよ御伽噺にせよ、寸劇にせよ実例にせよ、ちょっとした物語のおしまいに、モラリテとしてそこから引き出されるのはひとつの控え目な知恵である」としながらも、そうして次から次へと掲示された「モラリテとは、言ってみれば「エステティックな」快」でしかないという。なんやら多様性にうんざりしているようにも読めたりする。1993の著作である。

6月27日(火)
a+u634は、カーモディ・グロークの特集。マッキントシュのヒル・ハウスを覆った仮設建築で有名であるが、この特集から彼らの独特な即物的感覚をみることができる。ウルスプルングの巻頭論文では、現代的崇高論が展開される。そこには、ページいっぱいのカスパー・ダーヴィットの「雲海の上の旅人」がある。カスパー・ダーヴィットを調べる。ドイツロマン主義を代表する画家で、その直前の理性重視を逆転させた画家で、とはいえドイツ人で同時代のゲーテと反対に立つ人として説明されていた。そのように読むと、カーモディ・グロークの作品がちょっとつまらなく思えてきた。

6月26日(月)
「エッフェル塔試論」松浦寿輝著の読書会。担当者は3つの議題をあげながら、本を詳細に紹介してくれた。それは、ぼくたちが作品を介して共感を得ることが必要かどうかの議論から始まり、もしそれが必要ならばそれを得る方法があるのだろうか、というものであった。担当者がこの本から学んだことは、エッフェル塔が様々な2項対立を経て一枚岩的なものでなくなっていること、とはいえ単純な形をしていること、そして時代の変革期につくられていたこと、その3点がエッフェル塔を解く上で重要なこととしてあげてくれた。共感については、この本にもあるように、実際に得られるかどうかは他者次第で、つくり手がコントロールできないこともあるが、その素養は何かという問いであった。実際にこの本では、エッフェル塔がパリのシンボルになったのは、情報の質よりも量、すなわち映像や絵葉書、お土産などを通じて世界に浸透していったからだというが、同時に本の前半では、担当者のいうような、単純な美学を越えた様々な問題に十分でないにせよエッフェルが応えようとしていたことが記述されている。エッフェル自身が多数の2項対立に意識的であったかは不明であるが、ぼくにとっては、美学に対応できないほどの問題、それは風に抗して立ち続ける300mもの巨大建造物の技術的問題が、たまたまあったからでないかと思う。その前代未聞の問題に美学なんて通じない。近代を率いた技術の凄さをここにも感じることができた。だから、もし共感を得る方法があるとしたら、共感できそうな問題を遠くに投げることだと思う。それを皆で拾う。これが建築家の役割だと思う。これをこの本から学んだ。

6月25日(日)
天気がよくなったので高峰温泉の露天風呂へ。道中の浅間サンラインは、南傾斜の高原野菜畑を突っ切る道路で見晴らしがよく気持ちよい。どことなく八ヶ岳のビーナスラインを思い出す。そこから山を登るピーチラインというのは、桜の名所か?桜並木を抜けて高峰に着く。麓の小諸には村野東吾の小山敬三美術館がある。どことなく千住博美術館に似ている。ただし、おおらかな分、西澤さんの方が気持ちよい。現代的なのかもしれない。

6月24日(土)
昼過ぎに打合せのために長野行き。木造の古いカフェで打ち合わせを済ませて宿泊。小雨が続くもそれほど寒くはない。夜に時間があるので「エッフェル塔試論」の拾い読み。後半の表象論が気になる。論立てであるのだが分析に留まりつくることに向かわないからかもしれない。建築はそれに比べて実利だと思う。

6月22日(木)
先日に他研の学生から相談を受けていた修士研究の内容は、閉じることによって起きる創造というものであった。今は開く時代であるとするとその反対で面白いと思った。そのときに思いついた本が「漢字文化圏における建築言語の生成」岡崎乾二郎監修と「襞 ライプニッツとバロック」ドゥールズ著であった。前者は2002年のヴェネチアビエンナーレ日本館展示趣旨につながっている。漢字が東アジアに流布しそれが様々な形態をとって諸国文化になっていく様を、建築を通じて展示しようとするものであった。それは、漢字が表意文字で、へんやつくりに意味があり、時間と場所に従ってそれの応用を無限に繰り返した結果であるという。それは、フランプトンの「批判的地域主義」の批判にもなっていて、岡崎が言うに「批判的地域主義」では、建築家の役割が単なる資本主義の生産メカニズムに組み込まれたものでしかないので、建築家と名乗る人間はせいぜい、それにスペクタキュラーなパッケージを加える役割しかもたないと、建築家を矮小化させているという。しかし現代建築でいえば妹島さんの21世紀美術館が岡崎のいうものに相当し、それは漢字の形のように角張っていて、例えばくにがまえのように一端は閉じていて、その中の形のバリエーションで幾重にも違った使い方が展開できるようなものだという。それは外に開いたアルファベットaとは異なる。それに従いアジアの伝統的住居はみなそうであるというのだ。「襞」ではバロック建築の生成とは何かをいっている。理念だけでなく、バロックのように、襞が襞を呼び無限の半自動生成の可能性を創造といったものだ。そうした状況がなぜ起こるか。本書では、モナドとその不共可能性で説明する。モナドとは、ひとつの世界。そのモナドが発散し、不共可能しているために生じるという。「一つの世界はそれを表現するモナドの外には存在しないが、モナドに対して先行するものが存在するp107」という。これが閉じたものだ。こうして不共可能性な世界において、発散する系列へと同時に展開し、分岐する話の錯綜が生じるというのだ。

6月21日(水)
NHK特集の「ウクライナ大統領府緊迫の72時間」の再放送を観る。ロシアの侵攻直前も直後も西洋諸国はゼレンスキーに国外退去を薦め、まずは戦況の拡大をおさめようとしていたという。したがって武器供与に消極的であった。しかしゼレンスキーはその選択を選ばなかった。地下壕から内閣を鼓舞し、2日目にあえてSNSに首脳5人で登場し、国民を鼓舞した。ロシアの読みも同様であった。ウクライナ国民は戦争を望まずにロシア軍を受け入れ、早くに内閣を国外逃亡させ、新ロシア派の政権をキーウに設立し、容易にウクライナをおさえられると踏んでいた。戦術面でも、進行前からウクライナは絶えず武器と弾薬を移動し、制空権を与えることをしなかったという。それが油断して南下してくるロシア軍を退けることに成功したらしい。

6月20日(火)
074 代表 日本×ペルー 南米の強豪に対して日本は圧倒する。4-1の勝利。緊張感がないためかミスが多かったとはいえ、鎌田を中心にして決定機をつくっていた。この調子で成長をしてもらいたい。

6月19日(月)
「アメリカ大都市の死と生」ジェイコブズ著の読書会。担当者からはボトムアップのプロセスの優位性が示された。ぼくとしてはそれも大事であるが、ジェイコブズのユニークな発見というか拘り、例えばスーパーマーケットではなく雑貨店がよいこと、古い建物は家賃が安く、手を加えやすいので、なんにでも対応可能である利点がある等。この具体的なユニークな視点がよいのだと思う。最近の情報マーケティングではロングテールデータを見直すという。アマゾンがこれに成功したそうで、べき乗数にのっている情報のマジョリティにたいする永遠に続くマイノリティデータに注目することをいう。情報量を増やしていくこと、あるいは偏執狂的に追っかけることによって見えてくる情報である。大事なのはここでデータを私的に観ているということである。このマイノリティは、マジョリティを前提にしたものであって、コールハースの偏執狂的批判的方法とは、マイノリティの表出から反対にマジョリティというものを浮かび上がらせようとするものだ。マジョリティはデータが多い分複雑で、それを解きほぐすことは難しいし、解きほぐしても一部でしかないことが多い。そう考えると、ぼくらに求められるのは、データ量を増やしたり偏執狂的に観察したりすることで得られる(独自の)ユニークな視点の発見ということなのだと思う。

6月18日(日)
NHKでスティーブ・ジョブズの2つの特集。ひとつめは、なかなかオンデマンドされていなかった「ジョブスとフラー」。もうひとつは、「日本に憧れ、日本に学ぶスティーブ・ジョブズのものづくりの原点」。ジョブズは日本の新版画が好きで、特に川瀬巴水(はすい)や橋口五葉がお気に入りであったという。それは、それまでの浮世絵と違い、刷りの工程が2倍も3倍もかかり、その全ての工程に絵師が関わっていたからだという。つまり、デザイナーの意志が貫徹される事を好む形式主義者であった。その観点から、ジョブズはソニー製品を評価し、盛田社長を師と仰いでいたという。後期は日本の信楽焼の丸みに興味を持ったという。それで初代のカラーiMacが生まれた。ジョブズは絶えず手で陶器を撫で、そこにシンプルでありつつもデザイナーの個性が宿ることを信じていた。

6月17日(土)
国立近代博物館で行われているガウディ展へ行く。ガウディの核心に触れることはできないが、1/10や1/25モデルが多数展示されている。その中でガウディの創造の源泉が、歴史や自然、幾何学をあげていて、大地の浸食風景、ヴィオレ・デュクに傾倒していたことをあらためて知った。最後にガウディの影響として佐々木陸朗さんの構造作品が取り上げられているのが印象的で共振させられる。佐々木さんは、逆さ吊り実験からガウディを評価しようとしている。この実験を境にガウディは、構造的合理性に基づいて自然を観るようになり、それが幾何学への発想展開を起こしたのではといっている。結果、大聖堂の鐘塔の回転放物面、身廊の天井に観られる双曲面と双曲放物面、付属学校のコノイド曲面、傾斜柱の分岐構造の発想に至ったというのだ。設計者のくだらん意志など排除した宇宙原理に基づいた形であるというのだ。流石である。

6月16日(金)
「アメリカ大都市の死と生」を再読。生の生活を実によく観察し、その良さを残そうとする強靱な精神力をもつジェイコブス。それをもって大ディベロッパーと立ち向かう姿がここに描かれている。映画では、その勝利がヒロイックに描かれてもいる。つまり、トップダウンとボトムアップの戦い。誰だってボトムアップの勝利を喜ぶものだが、建築にとって大事な計画自体も、ジェイコブスは否定的で、自然発生的あるいは自主的調和的な世界観をもっている。この良さは分かっているものの、実際の設計は計画的でなければならず、アンビバレントな状況に置かれてしまう。アレグザンダーはまさにこのことをテーマとしていたが、ぼくがジェイコブスよりもアレグザンダーが好きなのは、彼は最後まで形の本質に拘っていたところである。何か形を信じるものがあった。つまり、現実は、自然的なモノをはじめリアルなモノに支配されているという態度で、それによって、専門家としてそれを扱う計画の必要性、すなわち小さなトップダウン方式としてそれを納得していたものだ。ところで、最近の日本の都市開発はどうだろうか。再開発といえども歴史が大切にされ、路地が大切にされ、歩き回る散策の楽しさも地上レベルで満足させようとしている。何しろおしゃれでそれ程嘘くさい町並みでもなく、もちろん世代を超えて受け入れられている。ジェイコブスの時代と大いに違っている。広瀬すずがメインキャラクターであるほどだ。一建築家がおかしいと思ってこの流れを変えることはできないだろうが、少なくとも卒業設計においてはこの状況を一度立ち止まって考える必要があるとは思う。それは計画することの疑いとしてである。

6月15日(木)
073 代表 日本×エルサルバドル エルサルバドルは中南米にあって、それほど強くもない。しかしよく日本との対戦があることを考えると、協会として重要視しているのだろう。ゲームは開始早々のフリーキックからの谷口のヘディング。そして3分のレッドカードを伴うPK獲得でほぼ決まる。解説では、もう少し拮抗した展開が日本のためになるといっていた。6-0の圧勝。しかもニューカマーも数多く登場。彼らは、ヨーロッパで今季よい成績をおさめている者たちだ。頼もしい。

6月14日(水)
佐藤裕さんを迎えての建築計画2の授業。芦原小を中心にお話をしてくれた。佐藤さんのレクチャーを聞いても、地域との連携が小学校で大事なことはよく分かる。教室数が多い分、画期的なプレグラム変更がない限り、プランニングにそう新しさはなく、飽和状態なのだろう。平面計画を地域との連携によって変化させることが最大のテーマになっているのだ。これに関心をもってくれて学校設計に進んでくれればと思う。

6月12日(月)
「驚異の構築」の読者会。ぼくらにとって観察は必須である。ただしその観察をコンテクスト、状況から離れて客観的に行うことはできない。それは、前回の読書会「野生の科学」でも主テーマとして取り上げられていて、それを科学的思考と対峙させていた。今日の担当者は、観察-調査-発見(明確化)-形は直線的でなく、同心円状に拡がるものであるという。もうひとつ、それとは知らずに観察する方法がシンボル的思考である。ぼくらは普通の見方でモノを観てしまうのだ。それだと観察=形で、発見あるいは私(視点)が無くなってしまう。コールハースはこれから脱却しようとした。それを可能にするのが偏執狂的=批判的方法というものである。当たり前と思われていたことを、あるいはマスターピースを、偏執狂的に調べてみろというのである。そうすると意外とぼくらを支配するフレームワークが見えてきて、かつ同時にそれの綻びもまた見えてくるというのである。もしその綻びを表現できたら、それは前提条件の批判となり得るし、そもそも前提の再定義にもつながる。最初でいうところのコンテクスト、状況の共有である。つまり、建築が自己満足であり(作品性を担保し)つつも、共有の働きを有することになる。これは近代、野生の科学のいうところの科学的思考の行き詰まりを打破するものではないか、というのが本書の主旨である。映画「だれも知らない建築のはなし」や「レム」で、コールハースがいっていたのは、建築分野でいうところの前提条件である大文字の「建築」の存在とその危うさであった。是枝監督も「誰も知らない」で、「家族」について同様のことをいっている。

6月11日(日)
「ラフマニノフ」を観る。世界一のピアニストと賞される氏のCDを調べ、この映画を観る。天才で不遇な人生、神経質、曲がかけない主人公の苦悩が描かれる。曲は大手不動産マンションCMにも採用されるほど叙情性がある。映画としては物足りない。
072 CL決勝 マンチェスタ−・シティ×インテル インテルの堅い守備をなかなか突破できなかったシティであるが、後半の終盤になって漸くこじ開けることに成功した。DF裏へ斜めに走り込みそこからの折り返しを遅れてP内に入ってきたロドリが弾丸シュートを決めて、その1点を守り切った。これで3冠。終始シティが押し、インテルが速攻をかけるという五分五分の中からの漸くシティが得点した。

6月10日(土)
朝に木立の中の木造の古いカフェでコーヒーを飲み、宮本忠直設計の軽井沢発地市場へ。木造のうねる屋根が印象的。碓氷峠を越えて富岡製糸場へ。世界遺産で西塔は国宝でもある。構造改修は江尻憲泰さんが行った。どこに手を加えたかわからくて素晴らしい。内部の展示設計は、建築計画の授業でも講義をしてくれた前田尚武さんである。国宝建築に触れないようにボックスインボックスのガラスの箱が挿入されている。印象としては、ガラスといえども存在感がある。ドットポイントの機械的ディテールとガラスの反射性がそう感じさせるのかもしれない。続けて隈さんの長岡市庁舎へ。ルーバーが4ミリ合板の張り物であるのはびっくりした。続いて武井誠氏設計の上州富岡駅へ。構造が小西泰孝氏。煉瓦が構造の助けやベンチなどの補助的機能になっているというのは悪しき近代の物語信仰かとも思う。それならば、もっと駅としての玄関性を物語にして前面に打ち出してもよいと思った。煎餅と温泉マークで有名な近くの磯部温泉へ経ち寄り、事務所に戻る。

6月9日(金)
長野へ行き、現地で打合せを済ませてから、夕方前に千住博美術館へ。建物本体は樹に覆われて見えなくなっていて、様々な樹が植えられている中の曲がりくねったコンクリート舗装を通り抜けるとエントランスがある。その外は交通量の多い国道である。中に入ると、壁柱にかかった絵画と円形の中庭(ここにも様々な樹)がうねるように続いている。コンクリートの床も緩やかに下る。作品と建築風景が一体になる静寂な建築である。奥には暗室とプロジェクションの部屋もあり、そこから引き返す道程となる。外周のガラスを白色のシェードで覆われるようになったのもまた空間的にはよい。駐車場脇の安井秀夫設計のショップに寄る。大らかで静寂であることが西澤さんの上手いところだとも思う。

6月8日(木)
研究室では来週の子供絵本図書館プレゼに向けて作業を続ける。その間に実験室のエアコン交換のための段取りを業者との間で奔走。おかげで、脚の裏の豆が悪化する。大きな荷物をもって事務所に戻る。

6月7日(水)
「ラボラトリー・ライフ」ラトゥール著の再読。かつての人類学者たちは村落というものを調査していたが、ラトゥールはノーベル賞をとる程の研究室の活動を詳細に記述する。いわゆる科学的事実というものがどのように構築(construction)されていくかの参与観察記録である。それは、自然的無秩序から科学者が秩序を発見するというものではない。データの構築を通し物象化し、ライバルとの闘争を通じて、説得力のある信頼性が獲得されていくプロセスである。つまり科学でさえ、ある状況からつくり出されている。俯瞰的視点に立てば、これが、ラトゥールがアクターネットワークに向かった理由であるが、科学とは偶然的な出来事を必然性あるようにもっていくことなのだ。ただし、単なる空言ではないところに特徴がある。

6月6日(火)
「ラボラトリー・ライフ 科学的事実の構築」ラトゥール著の再読。 昨日のゼミで発言した没入ということを科学的言葉で説明したいと思い再読。本書は、参与観察によって、(科学的)創造というものが、データの物象化を通じて起こる人の闘争や信頼によって起こるものだといっている。つまり、モノと人、観察と思考には区別がないことをいっている。

6月5日(月)
今年度3回目の読書会。「野生の科学」中沢新一著。関連する映画として「メッセージ」ヴィルヌーブ監督を挙げる。この本の前提条件としてあるのは、近代の科学との対峙であり、近代の科学の限界を超えようとするものである。近代の科学とは、中世が終わり、ニュートンが出現した18世紀以降の西欧を中心とする思考方法である。なぜかしらぼくらは、(近代の)科学では説明しきれない事象が多々あることを気づいているのに、それを、まだ解明の途中段階であるとか、あるいは個人的感性に委ねる問題であるとか人間性、あるいは自然観といった言葉によって納得させられてきた。しかし、近代以前にはそれを別な方法で多くの事象を説明できていたという仮説が中沢にはある。アースダイバーしかり、ぼくらの研究でいえば発酵などがそれにあたる。この映画でエイリアンがぼくらにもたらしたのは、そうした能力である。新しい言語体系を理解させることでそれを与えようとしていた。では、ぼくらは設計において、それを取り入れるとしたらどう取り入れるか?というが、今日の担当者のテーマであった。これは近代思考=計画思考=シンボル的思考を越えるには?という今日的テーマであり難解である。ひとつにラトゥールが提案するアクターネットワークのような応えがある。彼はこの考えに至るまで「ラボラトリー・ライフ」という本を著している。これは、実験室で行われてきた出来事を詳細に記述し、それを振り返るというものであった。それを受けて建築では、コールハースのホイットニー美術館プロジェクトを詳細に記述しネットワーク化してみせたヤルネバの「The Making of a Building」そして「Mapping Controversies in Architecture」という本もある。建築でもぼくらは、不可解なものにたいしてリサーチという作業を設計行為として行うが、リサーチ結果を積み上げるだけでは不十分であるらしいことをまずこれらの本では言っている。自分をあるいは仮説を抱いてデータ化に対峙しないかぎり何も得られないというのである。没入といってもよいだろう。あるいは、このことを全体性の必要性といったりする。前回読書会の「人間の条件」では、全体主義として悪者であったものである。どうやらぼくらはこうした何かに取り囲まれていて、良くも悪くもそれから自由になる必要がありそうだ。
071 ラ・リーガ ソシエダ×セビージャ 2-1でEL王者をソシエダは下す。久保は10点目に届かなかったが、充実したシーズンになったと思う。若いSBを置き去りにするドリブル+トラップが今日は印象的。それを象徴するように久保のコンディションはシーズンを通じて良好であって、チャンスをものにしていた。これで今季終了。来季、WOWOWはスペインリーグの中継を打ち切るそうだ。

6月4日(日)
070 ドイツ杯決勝 フランクフルト×ライプチッヒ フランクフルトは鎌田と長谷部が先発するも、負ける。これで来シーズンのELがなくなった。ちょっと引いた位置からのプレッシングで、そこから刈り取っての速攻をねらうのだが不発に終わる。序盤にこのかたちで成功させたかったに違いない。しかし相変わらずのスペースにボールを出してからの選手がそれに連動するという攻撃のかたちは健在。スペースを上手くつくるための工夫が随所に見られた。

6月3日(土)
「海街diary」是枝監督を観る。家族とは、血縁がもたらされる外部形式もさることながら、それを維持しようとする日々のコミュニケーション、互酬によってかたちつくられるというのは、いつもの是枝監督のテーマである。その中で今日の映画はエンターテイメント性が要求されたためか、今時の俳優陣を中心に配して、周りをベテラン演技で固める方法がとられている。この頃から、監督の手腕が上がるのを感じる。ただ、このパターンだと是枝監督のいつものような前提の特異性が解決できていないとも思う。是枝監督は特異性の徹底した調査から一般性を導き出すのが上手い。特異性から物語を出発させるのは容易なことである一方、ストーリーに厚みを持たせるのが難しい。ハリウッド映画なら膨大なお金をかけて映像密度を上げるだが、これを演技密度に賭けるのでなく緻密な脚本によって欲しいと思う。
069 FA杯決勝 マンチェスターシティ×ユナイテッド シティの圧勝。これで2冠を達成。来週のCL決勝で3冠を狙う。ギュンドアンは調子よい。いずれの得点も、ボールより遅れてPエリアに入ってからの折り返しである。これは、前線のハーランドが効いていることによる。相手はそれに釣られて、おおきなスペースができる。そこをギュンドアンが上手く突いている。イングランドの今季もこれで修了。明日のスペインで欧州のレギュラーシーズンが終わる。


6月2日(金)
「野生の科学」中沢新一著を読書会のために再読。読みながら、ここでいう野生の科学とは具体的に何かを考えた。通常の科学的思考に対するものである。読書家に同時に取り上げている「メッセージ」という映画では、エリアンの発する墨絵のような言葉がそれにあたる。はじめに、x,yで解く代数に対する図で理解するつるかめ算、あるいは和差算を思い出した。これは図によって答えを導き出すものだ。次に、昨日の授業でも取り上げたスペキュラティブデザイン。「ライトついてますか?」という看板デザインである。トンネンルの出口にかかっている「ライトついてますか?」という問いかけから、人は自分の置かれている状況を把握しライトのオンオフを瞬時に実行できる。もし、プログラミングする(科学的思考)としたら膨大な数の条件付けになってしまう。もうひとつは、ぼくがよく例に出す逆上がりや自転車乗りの例である。この能力が野生の科学といったものだろう。これらに共通することは、事前に前提条件が不確かであるのだが、事後的に事前にあっただろう(前提条件)を理解するということである。ここに時間の逆転が起きている。事後的に、事前に遡ったとき何を未来に考えていたかを、理解できるということだ。これはとてつもない人間の科学的思考と異なる能力であると思う。そして人間は、その前提を積み上げて結果があるように考えてしまう。「メッセージ」といいう映画で、主人公の時間の混同がこうして表現されていた。つまり物事は時間によって進む(原因から結果)なのではなく、少なくとも思考やイメージの上ではバラバラなのだ。以前、陸上の為末氏が、短距離のスタートで、脳におけるスタート指示よりも先にアスリートの筋肉はスタートしている、といっていたことも思い出した。ティン・インゴルドのライン思考もこの中沢のアースダイバーも同様な思考形態を取っている。

6月1日(木)
授業の後に中山のナチュラルシームに学生と行く。30名近くのワークショップとなった。責任者を中心に模型上の案を1/1で実際に作成し、問題点を発見していった。色々な発見があり、現場での手を動かしての思考はよいものだと実感する。来週はじめまでに今日の問題を整理し模型と図面にすることにする。

5月31日(水)
068 EL決勝 ローマ×セビージャ 120分+PKの激闘の末、セビージャが勝つ。スペシャルワンのモウリーニョにたいし、ELスペシャリストのセビージャが勝った訳である。セビージャは今季絶不調で、あのロペテギからサンパオリ、そして4月になってメンディリバルに代わる程であった。両チーム共これといったストライカーがいなく、組織的連動が重要となってくるが、南スペインのチームは陽気のためか素直な性格な選手がいないそれが難しい。それがもろに出てしまったシーズンであったようだ。それをメンディリバルが見事にまとめ上げたということだろう。

5月29日(月)
「人間の条件」ハンナ・アーレント著の読書会。本書におけるアーレントの主張が、現代にあるいは設計において通じるものが何かを感じて欲しかった。それは積極的な思考とその表現ということであり、ぼくらは知らず知らずの内に社会風潮に取り込まれてはないだろうかということである。
067 ラ・リーガ アトレチコ・マドリード×ソシエダ ソシエダは1-2で破れるも、来季のCL出場を決めた。アトレチコは、久保に対し5バックの0トップでのぞんだ。そうしたフォーメーションにたいしソシエダは攻撃的にいかなかった。そのためボール保持するも決定機をつくれずに終了間際の1点に終わった。それにしても戦術にしたがい行動をとれるアトレチコ選手の能力の高さには脱帽する。

5月28日(日)
066 ブンデス ドルトムント×マインツ 優勝のかかった最終戦。前節、首位だったバイエルンが負けてドルトにチャンスが転がり込んできた。香川が属していた時以来の14年ぶりの大チャンスだそうだ。久しぶりにブンデスを観る。イグナパークは当時のように満員。観客が若者だけでないのが目立ち地域に支えられているのがわかる。ビッグクラブにないよいところだ。今季、ドルトはハーランドが抜けこれといったFWがいなかったらしい。今日はその弱みが露呈した。攻め手に欠き、ドローで優勝を逃してしまった。


5月27日(土)
ヘザウィックスタジオ展へ行く。フリーなスケッチが多く、彫刻的作品が多かった。しかし多くの作品は幾何学を連続させていて、全体のかたちとかたちをつくるためのルールつくりの往復が激しいのだと思う。そうしたプロセスを示す模型も多く、もう少し知りたいと思った。動画にそのあたりのプロセスがあったのだろうか。事務所に帰り気づいた。

5月26日(金)
4年生の設計における中間発表。与条件としてのプログラムが具体的でないときに、方向性を失う学生が多いことに気づく。そのアドバイスがあるとしたら、社会や都市は、ある決まりの下で知らず知らずのうちにできているので、それからの批評が設計の方向性になることが多い、ということだろうか。これをネチネチとするのが、ダリによる偏執狂的批判的方法というものであり、レムがそれをいたく気に入っていた。その決まり事が強大であればあるほど、調査は厚いものとなり、設計も面白くなるのだろう。

5月25日(木)
「ハンナ・アーレント」マルガレーテ・フォン・トロッタ監督をもう一度観る。前のシーンの解答を次のシーンで意味深に応えていることに気づく。前半からこの映画のテーマははっきりしていて、それは全体主義にたいする個人の無能さであるが、それだとエンターテイメント性には欠けるので、ハンナの人間性を打ち出すために途中ハイデガーとの人間関係に移り、その描き方は曖昧で意味深く、この作品を豊かにしている。ハイデカーとの回想シーンの後に友人メアリーの作品の性描写にたいする議論があったり(ハンナは強い拒否感がある)、ニューヨーカーの男性編集長が女性編集者にやり込められるなどのシーンがあったりする。それにしてもここで描かれるハイデカーの2面性は滑稽でもある。言葉の強さと人間性の幼さである。しかしハイデカーに対するアーレントの批評、「ひとりではできないものもある」という言葉は印象的。考えることに限界があるのだが、それを打破したいという強い意志がそこにあるということだろう。ぼくたちはそういったものに覆われていることに恐怖をみないといけない。

5月24日(水)
3年生の設計における美術館課題の提出。遠藤スタジオの優秀案3案がそのまま13週目の全体講評に選ばれる。ひとつは、上野公園全域に5つの小さな美術館のある複合施設を計画したもの。日本のスター芸術家の作品展示とカフェなどの休息所はもちろん、貸しギャラリや公衆トイレ、授乳室、子供のための屋上公園などを併用させた計画である。これら複合施設は、様々な人を受け入れるのに上野に足りていないもので、上野公園全域を様々な人に体験してもらうために計画された。上野の多生する樹をモチーフにした土と緑を前面に出したデザインで、どことなく野暮ったく現代風でもある。2つめは、子供の絵本を展示する美術館。もちろんそこで子供たちは読むこともでき、不忍池から桜のあるメイン通りまでを一体として考えた計画で、ダイナミックであった。美術館の設計はとかく中身に集中しがちであるが、中身は展示作品ばかりでなく、外部環境もある。外にある中身というものであろうか。それを上手く利用した計画であった。3つめは、展示室を桜のある通りに開き、生の桜と桜の絵を同時に体験できる展示室をもつ美術館。通りから見ると裏側の壁柱にダミアン・ハーストの桜を展示し、通りに面した表には一般展示を行うものである。その展示方法が評価された。優秀作品には様々な美術館空間を提案するものが多いが、現代はそれよりも場所性が大事にされている。それを表現する配置図は格別に重要であることを痛感する。
065 ラ・リーガ ソシエダ×アルメリア ソシエダにとって日程がきつい中、落としてはいけないゲームがこれであった。1-0の久保のゴールでソシエダは勝利をものにする。右から中央に切り込み、一度フェイントをいれてからの見事なループシュートであったと思う。シルバが早々に怪我のため退き今日は久保が攻撃の中心となった。久保をフリーにするために、久保と相手SBの間にシルバに代わって入ったブライス・メンデスがポジショニングして、逆サイドから久保に投げ込まれるケースが多かった。ゴラッソもそうして生まれた。次は久保が得意とするアトレチコ戦である。

5月22日(月)
3年生の設計における第1課題住宅の提出。配置を含めた大きな模型をつくることにしたのがよかった。小さな建築となるので、いかに外部を考えて、ダイナミックにするかが大事になる。スキップなどを工夫して外を巻き込もうとする案が多かったのはそのためだろう。それに屋根のデザインも絡めて環境を考えるように指導をする。


5月21日(日)
064 ラ・リーガ バルセロナ×ソシエダ 2-1でソシエダの勝利。カンプノウでの勝利は実に32年ぶりだそうだ。今日は怪我のためシルバがメンバー外。オヤルサバルと久保もスタメンから外れる。4位獲得に向けて次節火曜日のアルメニア戦に備えるためのようだ。しかしメンバーを代えても戦い方に変更がないのがソシエダ。むしろ、相手の裏に抜けるという戦術が明確になりFWのスルロットは躍動していた。1G1AでMOM。55分過ぎから登場の久保も切れていて、2点目のお膳立てをつくる。

5月20日(土)
午前中に墓参り。午後に棚からホロヴィッツ/スカルラッティを探す。スカルラッティはむしろホロヴィッツによって有名になったという。ホロヴィッツは硬質なタッチで歯切れがよい。自由に戯れているという感じかとも思うが、聞いていてテンションは上がらない。この整理を続けて、棚から取り出していたCDのメモをとる。パブロ・カザルス演奏のバッハ無伴奏チェロ組曲。カール・リヒター指揮のバッハマタイ受難曲BWV244。クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団のワーグナーパルシファル1962。ショルティ指揮のスタジオ録音のニーベルングの指輪。

5月19日(金)
グレン・グールドの浅田彰と松浦寿輝の対談を読む。WAVE37号。グールドの乾いていて離散的な音楽がどこからくるかを理解しはじめる。後期には生演奏をしなかったことを知っていたが、グールドは劇場型でなく、弾き終わってから音を確かめるような演奏家であったらしい。それは、全てをコントロールしながら、他者と共有する倫理を求めようとする現れで、グールドのことをこの対談で開かれた独裁者といっている。グールドと反対側にいる、スカルラッティの曲を演奏するホロヴィッツが紹介されていて、興味を持つ。

5月18日(木)
063 CL マンチェスターシティ×レアル・マドリード よもやの4-0でシティの圧勝。マドリードは何もできなかった。プレッシングがかからずに前線は浮き、DFラインと中盤は押し込まれてしまい、数的有利をシティの中盤に与えてしまっていた。それは両サイドの攻防で負けていたからで、マドリーが優位のはずのサイドが反対にやられたかたちである。展開としては面白いゲームであったと思う。これで決勝はシティとインテルになった。

5月17日(水)
062 CL インテル×ミラン インテルがミランを圧倒。1-0のスコア以上に安定した戦いであった。モウリーニョ時代依頼の決勝進出だそうだ。ミランにしても同様で長らく両チームは停滞していた訳であるが、その間にインテルのサイドバックには長い間長友がいたし、ミランには10番の本田がいた。懐かしい。監督は何度も代わってもインザーギが今は指揮を執っている。

5月16日(火)
INAX季刊誌の今月の特集は湯沢・横手。ぼくも昨年の夏に白井晟一を中心にここを観て回った。記事で白井晟一と林芙美子がパリで恋仲であったとことを知った。林芙美子の小説「浮雲」から、白井晟一の稲住温泉の「浮雲」の名が付いたという。その浮雲は外観こそあれ、従業員の宿泊所に変わっていた。林芙美子の自宅が山口文象だということも知った。今度観に行こう。林芙美子は若いときの不遇体験を書いた小説「放浪記」が有名であるが、戦前の日本政府に操られてしまったという汚点がつきまとっている。白井晟一も多才で、つかみ所がない建築家である。この秋田で観ることのできる稲住温泉の一連の茶室、秋ノ宮役場、そして四同舎などに共通性を見出しにくい。外界に影響されない感性などないのかもしれない。

5月15日(月)
今年の読書会第1回目は「イームズ・ハウス」岸和郎著。巨匠の建築からブリコラージュ的な建築への変わり目を本書から捉えてくれた担当者がいて話が進んだ。そこに大きく係わってた点が、テクノロジーに対する開かれた視点と、消費社会を見据えた工業化や核家族化、大衆社会などの社会変化であったりする。それをイームズが見通していて、実際のモノとして許容をもった作品にまで到達できたのがレイというのは、言い過ぎだと思う。しかし実際のところ、このイームズの作品から、建築はカジュアルになり、ぼくらがアタッチできるものになっていった。そこに学ぶべきものがあると思う。

5月14日(日)
「イームズ・ハウス」岸和郎著を再読。第1章では、イームズ邸を実際に訪れた感想というか分析が詳細になされている。当時の映像技術を下敷きにしてそれがこの建築に与えている影響を具体的に記述している。第2章は、同時代のアメリカの住宅建築との比較。俯瞰的にイームズ邸を位置づけている。他の建築との差異から、この建築が考える技術の位置づけが明らかにされる。メタファーとしての技術がリアルなものになったという。素直にこのような分析アプローチ方法を学ぶべきだとまずは思う。詳細で具体的な調査と俯瞰的な全体からの位置づけである。本書はそれでこの建築を明らかにしている。その結果、岸さんはこの建築がマスターピースとされる由縁を説明する。「近代という理性と合理主義の時代、内部が外部に開く時代になっているにも係わらず世界から閉じようとすることーしかも一見するとまるで閉じようもないオープンなガラスの箱、鉄とガラスの建築という形式を採用しながら閉じようという壮大な試みである」と。工業主義や商業主義、個人主義を引き受けて、それを透明にまとめてワンパッケージしたような建築をいっている。それは、要素を集約してインテンシティ高くまとめ上げるこれまでの「建築」とは異なっている。現代では、西澤さんのHouseAとの重なりをイームズ邸に感じる。

5月13日(土)
今年のCリーグを東京電機大学で行う。審査員に芦田智之氏、雨宮知彦氏、大村真也氏、小川博央氏、手塚由比氏を迎える。最優秀案に理科大学のよく練られた案が選ばれた。巧みな配置計画で、敷地の一部を買い取って(あるいは交換して)、街に上手く開いた正面性のない案であったと思う。次点の東京電機大学の案もそうであるが、総じてスケール感がよく、それは様々な問題に応えているのが完成度として表れている作品であった。千葉工大はその点で失敗したといえよう。その中で、学内の講評会もそうであったが、酒井さんの不思議な感性は評価され、雨宮賞をいただくことができた。全体講評では、大村さんのいう、地域への眼差し不足という指摘が印象的。地域に対する愛着をもっと深堀すると、それは時間軸で地域を考えることになるという。手塚さんの絶えず計画された建物の中にたって想像しようとする視点も印象的で、最後の大事なところはモノとなる。仕方のないところであるがそれがツメの甘さとして作品に表れるのだ。それをもっと自覚するとよくなると思った。理科大学が、これからの小学校の新しい教育プログラムの採用を建築にもり込もうとしているのが新しい側面か。垣野さんにその当たりの経緯を聞く。
061 ラ・リーガ ソシエダ×ジローナ CLを狙うソシエダは早々に久保のPK獲得とアシストで2点を先行し、このゲームは楽勝かと思われたが、前半に追いつかれ2-2のドロー。その後の時間に行われた5位のビジャレアルは圧勝し、勝ち点を5まで迫られてしまった。今日の久保は圧巻。早々にPK誘発によって、その後は相手も距離を取ってきたので、2点目のアシストも容易に成功させた。今日は右ハーフにシルバが久しぶりに位置したのも大きい。彼やスピロメンディとの前半30分頃のワンツーの繰り返しは凄かった。しかしその直後にあっという間に展開が切り替えてしまったのは、久保のインタビューにあったように、謎である。10番のオヤルサバルがこれに乗れずに穴を空けてしまったのかもしれない。その後の後半も、久保は好パフォーマンスを繰り返し、決定機をいくつもつくるも得点には至らなかった。

5月11日(木)
060 CL インテル×ミラノ インテリアのムヒタリアンのゴール。昨日のシティのギュンドアンといい、香川の元同僚はまだ十分の戦力となっている。香川の復調を望む。久しぶりのイタリアサッカーを観る。どちらかというと、どっしりと守りきるかたちである。インテルは速攻とセットプレーの個人技で今日は逃げ切った。

5月13日(土)

今年のCリーグを東京電機大学で行う。審査員に芦田智之氏、雨宮知彦氏、大村真也氏、小川博央氏、手塚由比氏を迎える。最優秀案に理科大学のよく練られた案が選ばれた。巧みな配置計画で、敷地の一部を買い取って(あるいは交換して)、街に上手く開いた正面性のない案であったと思う。次点の東京電機大学の案もそうであるが、総じてスケール感がよく、それは様々な問題に応えているのが完成度として表れている作品であった。千葉工大はその点で失敗したといえよう。その中で、学内の講評会もそうであったが、酒井さんの不思議な感性は評価され、雨宮賞をいただくことができた。全体講評では、大村さんのいう、地域への眼差し不足という指摘が印象的。地域に対する愛着をもっと深堀すると、それは時間軸で地域を考えることになるという。手塚さんの絶えず計画された建物の中にたって想像しようとする視点も印象的で、最後の大事なところはモノとなる。仕方のないところであるがそれがツメの甘さとして作品に表れるのだ。それをもっと自覚するとよくなると思った。理科大学が、これからの小学校の新しい教育プログラムの採用を建築にもり込もうとしているのが新しい側面か。垣野さんにその当たりの経緯を聞く。

061 ラ・リーガ ソシエダ×ジローナ CLを狙うソシエダは早々に久保のPK獲得とアシストで2点を先行し、このゲームは楽勝かと思われたが、前半に追いつかれ2-2のドロー。その後の時間に行われた5位のビジャレアルは圧勝し、勝ち点を5まで迫られてしまった。今日の久保は圧巻。早々にPK誘発によって、その後は相手も距離を取ってきたので、2点目のアシストも容易に成功させた。今日は右ハーフにシルバが久しぶりに位置したのも大きい。彼やスピロメンディとの前半30分頃のワンツーの繰り返しは凄かった。しかしその直後にあっという間に展開が切り替えてしまったのは、久保のインタビューにあったように、謎である。10番のオヤルサバルがこれに乗れずに穴を空けてしまったのかもしれない。その後の後半も、久保は好パフォーマンスを繰り返し、決定機をいくつもつくるも得点には至らなかった。

5月11日(木)
060 CL インテル×ミラノ インテリアのムヒタリアンのゴール。昨日のシティのギュンドアンといい、香川の元同僚はまだ十分の戦力となっている。香川の復調を望む。久しぶりのイタリアサッカーを観る。どちらかというと、どっしりと守りきるかたちである。インテルは速攻とセットプレーの個人技で今日は逃げ切った。

5月10日(水)
059 CL レアル・マドリード×マンチェスターC いよいよ準決勝が始まる。好カード。レアルが先制するもシティが追いつく。レアルのヴィニシウスはずば抜けている。圧巻である。しかし、得点の後はシティに押さえられていた。流石である。一方シティも攻めあぐねていたものの、デ・ブライネのスーパミドルシュートで嫌な雰囲気を脱することができた。結果はシティのホームにまで伸ばされた。

5月9日(火)
午前中レジスと打合せ。その後、学長のお別れ会のために虎ノ門へ。事務所に戻り雑用と授業準備。レポートを見る。忙しい1日であった。夕方ジムに行き、どうやら一連になっていた鍵を落としたらしい。事務所に入ろうとするときにそのことに気づく。自宅にも誰もいなく、途方に暮れる。

5月8日(月)
絵本図書館の本棚ができたので、大学内の保育園へ行き、保育士から感想をもらう。合わせて子供たちに利用して、その観察。概ねよかったと思うが、安全性について一部注意される。意外であったのは、捕まり立ちをする幼児にとって格好の位置に棚があり、もし体重をかけると棚の転倒の危険があるとのこと。研究室に戻り、担当者と善後策を練る。水曜日のゼミで経過を発表することにする。

5月7日(日)
「超複製技術時代の芸術」展へ行く。コピーができないデジタルデータNFT(Non-Fungible-Token)によってデジタルデータは変わりつつある。その紹介である。チーム・ラボ、ダミアン・ハースト、レア・メイヤーズ、セス・ジーゲローブからはじまり、ゲームクリエイターのルー・ヤン、ローゼンタールや森万里子などの新技術を使った自動生成、藤幡正樹のNFTアイコンデザインなどが紹介される。
058 国王杯 オサスナ×レアル・マドリード ヴィニシウスが圧巻のパフォーマンス。誰も彼を止めることができなかった。開始早々に得点。その後はオサスナに攻められるも、レアルはいなす形。一度は同点にされるも、ヴィニシウスが起点となりロドリゴが2得点。レアルが優勝。

5月6日(土)
「アメリカ大都市の死と生」ジェイン・ジェイコブス著を再読。本書で示されるのは、間違いなくトップダウンの都市計画でなく、ボトムアップのそれである。この思想は間違いなく建築の学生には共有されていて、そのためか最近の不動産会社のCMもこのことを強く訴えるようになっている。しかし疑問に思うのは、そうした状況を受けたためか路地で街を埋め尽くす卒業設計における計画の多さである。それではスケールは小さくとも、善良?な計画家のトップダウンと変わりないと思うのだ。ジェイコブスと敵対する再開発業者もそれ程の悪人でないとすると、無知であることにおいて共通している。これをジェイコブスは直感で判っていて、それは自習的な秩序というものである。つまり、ひとりひとりが重要で、かつひとりひとりが何かの秩序の下で自由に活動することへの視点である。全体計画ではなくて、秩序=ルールの共有であり、本書はそうするための経済的社会的政策を挙げている。建築する場合、このバランスが難しい。日本は成熟した。一通りインフラが整備され今だからこそこのことが可能にあると思う。しかし一方で、東日本大震災のような急務が求められるときに、トップダウンが幅を効かせてしまう。まだまだ危うい方法論かもしれないと思う。「シンドラーのリスト」スピルバーグ監督1993年作品を観る。ナチスのユダヤ人に対する扱いから彼らを救出するドイツ人実業家シンドラーの生涯を描く。当初の低賃金ユダヤ人を雇う工場経営の目的が、利潤追求からいつしか私財を投げ打ってもユダヤ人の命を守ることに変わる。対するドイツ将校の自制心こそが力という言葉は重い。ところでこの戦時中は欲しくてもモノが手に入らないので貨幣よりも物々交換が主流となり、モノが主流となっていた。しかしそれは命あってのことであり、生命は貨幣で交換できることがあっても、信頼をはじめとする道徳などの形ないものはそういかずに互酬から生じていた。将校が自分に欠けていると気づいた自制心は、そこに交換という仕組みがないので力(フェティッシュ)までにならなかった。それは、ユダヤ人の家政婦を愛せなかった理由でもある。

5月5日(木)
「レム」ドキュメンタリーを観る。読書会の副映画として最適と思う。レムのモノローグから彼の思想を垣間見ることができる。彼は自分の思想に自信をもっていて、それは、不確かな未来を占うものでなく、分析した現状にたいする批判精神が生むものであるからだ。ここに新しさを感じる。答えではなく、応えであることに○や×はない。ただしモノである建築は拘束力を伴うので、調査からモノに至るときにそれをどう扱うかをテーマとしているのがよく分かった。

5月4日(水)
「レム・コールハース 驚異の構築」ロベルト・ガルジャーニ著の再読。コールハースの大学時代からの伝記である。彼の思想の根本に計画に対する不信がある。それは近代や近代建築のもつ原因→結果の不信でもある。本書によると、コールハースがそこからの脱却を見出したのは、ダリによる偏執狂的=批判的解釈からである。第1章は、ダリの本に従い彼が「錯乱のニューヨーク」に至った経緯である。2章からは、その実践、発展が示される。それは即物主義であったり、コンテクスチュアリズムへの反旗であったりする。それは技術やプログラムへの懐疑である。かれの作品のユニークな形の根本に「建築」への批判精神があることを頭に入れる必要がありそうだ。それが驚異なものとしてクンストハルやグラン・パレ、エデュカトリウム、フランス国会図書館コンペ案、ボルドーの住宅に結びつく。ボルドーの家は実際に体験したが、素材の扱いや構造において箱を批判的に扱っている。この考えを拡大したのが著書「S,M.L,XL」で、4章に書かれているように、その思想をサイズと都市にまで拡大をした。5章のマコーミックセンターからは、コンテクスチュアリズムに加えて寓意的挿話の詩的総合をテーマにしたという。それは、計画から漏れる残余空間に着目するものであるという説は面白い。残余空間は、ソリッドとヴォイドからなる。それで、カーサムジカのような不定形な多面体が生まれた。ジャンクスペースはそれを機能的側面から評価するものである。しかし一貫して本書は、偏執狂的=批判的解釈を軸に作品解説を行う。このことが面白い。「ジャコメッティ 最後の肖像」スタンリー・トゥッチ監督を観る。作家ジェームズ・ロードがデッサンモデルとなる1964年の18日間のドラマ。ネガティブ思考で決して満足しないジャコメッティは癇癪持ちで自由人である。有名にもかかわらずお金に無頓着で汚いアパートに暮らしている。娼婦であるカロリーヌに現を抜かし、魂を絞り出す。妻のアネットも仕方なしに容認。理解者は弟のディエゴ。彼の作品集を見るとこうした人物にモデルは限られていた。ジェームズの肖像画はそこに残念ながらなかったが、カロリーヌの肖像画もそうであるが、どれも真っ正面からのもので、手は腹の下で組んでいる。細い線を重ねて描き緊張感がある。

5月3日(火)
「ミレー<晩餐>の悲劇的神話 「パラノイア的=批判的」解釈」サルバトール・ダリ著を読む。当時のパリではこの偏執狂的であることが流行していたそうだ。1977年の著作とされているものの、制作当時のダリの思考方法を知ることができる。それは、ミレーの「晩餐」を好き勝手に解釈し、そこに客観的事実を付加させるものである。その前提としてこの絵画は、画家たちのマスターピースであり、ダリの解釈とは真逆の正当なものに属していたという事実がある。それは性的なものが多く、生と死に関わる解釈である。
057 ラ・リーガ ソシエダ×レアル・マドリード 今日のソシエダはインテンシティも高く、何よりスタジアムがそうさせていた。前半久保は下がり気味で守備重視。前からのチェックは右サイド。後半からシステムが変わりFWと久保がチェック。これが見事にはまりミリトンのミスを誘い久保が先制弾。今期8点目である。その後もシルバの活躍がずば抜けていて安定したパフォーマンスをして試合をコントロールした。2-0でマドリーを破る。出場停止選手と週末の国王杯の休養のため多くの選手が欠場したとはいえソシエダの好パフォーマンスが光るゲームであった。

5月2日(火)
「人間の条件」に感化された建築家がいる。山本理顕さんで「権力の空間/空間の権力」山本理顕著の再読。はじめにと第1章は、「人間の条件」におけるポリスを、形によって解説している。それによると、まず植民地としてのグリッドのポリスがあり、そこにはアゴラ広場がある。そしてアゴラに通じる道にアンドロティスという閾、つまり私的でかつ公的な空間が用意されていたのだという。古代ギリシア人は、そこで個から公的領域に参加し、議論をした。これを「人々はグリッド・プランの都市に住み、ストアによって囲まれたアゴラで聴衆に訴え、「閾」のある家に住むことによって平等と自由という作法を身につけるのである。つまり市民としての作法を身につけたのであるp31」。つまり、自由や平等がポリスより先にあった訳ではない。アレンの「革命について」にあるように、「自由は、ギリシアの都市国家(植民都市)の出現と時を同じくして生まれた」のである。つまり、ポリスという建築空間があってはじめて、人々の政治的自由そして平等が実現されるのであってその逆ではなく、ポリスは自由と平等が実現されるように、建築的に計画されたという。しかし、山本やアーレントがいうには、「私たちの「社会」の中の建築空間は、その政治的な重要性を全くと言っていいほど失ってしまっているp34」。「人間の条件」に話を戻そう。「都市にとって重要なのは、隠されたまま公的な重要性をもたないこの「私的」領域の内部ではなく、その外周の現れ」ということである。つまり、建築の都市環境へのたちかたであるということだ。だから山本理顕さんが訴えるのは、現代の日本の風潮に反して「物化」ということである。ぼくもそれに同意する。

5月1日(月)
読書会に向けての「人間の条件」ハンナ・アーレント著の整理をする。一般にこの本を評すると、労働、仕事、活動の定義から、人間たる由縁は自ら積極的に思考し社会に関わることとされる。ただし、それだけだとそういった思想家はいるだろう。アーレントの建築で取り上げる可能性とはなんであろう。あるいは映画における彼女のエネルギッシュさは何に由来するのだろうか。それを考える上で、この本の最初にギリシアのポリスの話がある。そこには、批判としてではなく社会のつくりかたが具体的に示されている。この建築的思考が役立たないかと思うのだ。

4月30日(日)
映画「メッセージ」について、中沢新一が現代思想の2018年の総展望で寄稿していたのを思い出し、「レンマ的算術の基礎」を再読。ここでは、映画に沿いながら近代というか西洋思想と、それとは異なる思想体系を紹介している。人類/ヘプタポッド、線形/非線形、原因と結果/全体思考、因果律/目的律、ロゴス/レンマなどである。そして、後者を縁起、華厳経、虚数の存在、ライプニッツのモナド、鈴木大拙、ハイゼンベルクのマトリックス力学、量子論として説明する。そして、「物質の微細レベルに起こることを記述するには、思考はどうしてもレンマ的=縁起論的になっていかざるを得ない」という。

4月29日(土)
056 ラ・リーガ オサスナ×ソシエダ 中2日で今日もアウエー戦。厳しい日程がソシエダも続く。久保は先発から外れて60分過ぎから登場。疲れた相手に対し久保は好機を作り出す。今日は久保の日になると監督はいって久保を送り出したという。それに応えるように90分にチーム2点目を左足でゲットし、大事な試合をソシエダは手にすることができた。久保は調子を維持している。次はマドリード戦。楽しみである。

4月28日(金)
「メッセージ」ヴィルヌーヴ監督を観る。もう何度目か。この映画は様々な解釈を許す哲学的な作品である。ストーリーは単純である。人間が未知の外来生物と遭遇したときのドラマである。ただし、両者にコミュニケーションの手段はないので、そうした場合における言語伝達の意味や方法がテーマとされている。主人公のルイーズは言語学者。未知の生物は世界12箇所に突然現れた。そのかたちが、ブランクーシー「バード」の彫刻のようで、単純で有機的なかたちである。通常の解釈であるならば、言語学者ルイーズが、異性物との模索的なコミュニケーションを通じて、未来を知る予知能力を得たということだろう。それによって、宇宙戦争を回避できたというものだ。映画のはじめのシーンの子どもとの別れのシーンは実は過去のことでなく、未来の話であったというものだ。死んだ娘の名がHANNAHといい、対象文字で、こうした転倒を意味するものとされる。ところでこの映画では、いくつかの興味深い話が引用されていた。ひとつはカンガルーの話。袋をもった生物をオーストラリアの原住民であるエボリ人がなんと呼ぶかを、西洋人が尋ねたとき、彼らは「カンガルー」といったという。しかし、カンガルーは、What?というのが、エボリ人本来の意味であったいうもの。つまりは、コミュニケーションは錯綜するというもの。もうひとつは、サピア・ウォーフの言語相対性仮説。人の思考は、使用する言語体系に支配されているというもの。このふたつによって物語が展開されている。したがって、このふたつから、予知能力を得るという解釈は事前と事後の混同ではないかと思うに至った。ぼくらは普通、原因-結果という時系列で事象を対自として考える。しかしこの作品で外来生物が使用するもうひとつのものは、経験からくる事象に、感じて反応するものである。ぼくはこのときよく学生に逆上がりの話をする。逆上がりのできる条件が何であったかは、逆上がりができたことによって人は理解するのである。ただし、判ったと理解しただけで、真の事実(逆上がりの条件)はなにひとつ不明のままである。事後の成功によって、事前条件を誤読してしまっているのである。この映画では、最後の追い詰められた状態でルイ-ズは、異星人の言語全てを理解すると同時に、予知能力を獲得したことを悟る。そして未来における中国将軍の説得によって、宇宙大戦を回避するのである。しかし、未知の言語が理解できたかどうかは誰も分からない。理解したと思い込み、その必死さが生んだ行動が偶然にも成功に導いたと考えられないだろうか?彼女の思い込みが全てをよい方向に導いた。その後の結婚と子どもとの死別の予知は、過去の記憶を自分本位に編集した結果である。このとき、異星人の言語の映画における役割はなんだろうか、と思う。彼女の人としてのポテンシャルを最大限引きだしたトリガーであったのだ。彼女の内面は彼女自身しかわからないばかりか、事実も誰も分からない。結局は、偶然の一致なのである。ルイーズが自分自身と向き合い、個人的な内面の体験を突き詰めることで、結果として世界が救われるというものだ。ジジェックを思い出す。「モダンの透明とは、機械がどう動いているかを見とせるという錯覚を維持するという意味」というジジェックの言葉である。こうしたことを思わせる巧みな仕掛けがある映画であった。

4月27日(木)
八咫の坂上直哉氏の偲ぶ会が建築学会の中庭で行われた。それに出席。坂上さんとは1度だけしかお会いしていないが、昨年夏にアンデルセン美術館を案内していただき、その後で濃密な創作についてのお話をさせていただいた。難波さんと同じ47年生まれでに難波さんに負けずと劣らず、技術と芸術の融合の実践を考えていらっしゃった。芸大を出てから金属メーカーに就職。ステンレスで絵を描くことに生涯を捧げた人だ。その作品は、光反射を個々の人の網膜に感受させようとする軽く繊細なものである。そう想うのはギブソンの「生態学的視角論」やユクスキュルの「生物から見た世界」を通してであるが、今日の展示で坂上さんのスケッチブックが紹介されていて、蝶やキノコの詳細がやたらスケッチされているのを見て、なお納得がいった。もっと話を続けたいと思う人であった。
055 ラ・リーガ ベティス×ソシエダ 4位と5位による来季CL圏を争う戦い。リーグも終盤を迎えてきた。互いに中2日とあって体力的に厳しい状況。大事なゲームではあるが、シルバとメリーノは控えから登場。久保はフル出場であった。結果0-0のドロー。前半ソシエダは守備がはまり一方的であったが、クーリングブレイク後にボランチスピロメンディがマークされブライス・メンデスが下げられると、サイドのオヤルサバルも下げられソシエダは展開できなくなった。それが最後まで続いた。久保はインタビューで、もっと勇気が必要なことを訴えていた。この程度の相手に引いてしまっては活路がないというのだ。今年加入の21歳の生え抜きでない選手のコメントとして、なんとも頼もしい。

4月26日(火)
今日は建築計画2の授業で、京都市京セラ美術館の前田尚武さんを迎えての1時間半に及ぶレクチャー。前田さんは六本木ヒルズの建設に立ち会うことからはじめて、六本木美術館の展示企画で数多くの建築展を企画した。その手腕が認められ、建築と美術を結ぶコーディネーターとしての地位を確立した。京都市京セラ美術館はその最たるものである。今は村上隆展の準備で忙しいそうだ。今日のテーマは3点。ひとつ目は美術館の位置づけについて。実は建築が大きな美術作品であることを示しつつも、建築家の考える機能の限界、美術館を通じた地域への貢献、そして多様化していく美術館の現状である。それにもとづき前田さんは、美術館のアーカイブ化に力を入れていて「モダン建築の京都」という本を著したり、富岡製糸場では年表やその歴史展示を行ったりしている。京都の街へ出かけるワークショップ、あるいは美術館建設のコンペでは美術館ツアーの提案など多様で、その実践を数多く示してくれた。2つ目のテーマは、従来とは変化していく美術館について。なんでも美術館の入場料収益は2割程度で、それを埋めるべき方策が美術館の箱としての多様化を促進しているという。リアルな話だ。そのために、美術館自体が収益を上げるのがひとつ。ショップを充実させたり、ホイットニー美術館に代表されるように、展覧会をしない時間帯に結婚式とか出版パーティとかに貸し出しなどをしているという。京都市美術館ではカルティエの新作発表会などを行っている。そのためには今までは前面にでていなかった設備機能の柔軟さや充実が建築に求められているという。もうひとつの方策は、いかに外部資金を獲得するかということ。様々な企業と連携や、あるいは街との連係で経済活性化などに貢献することなどである。その積極性が求められている。3つ目のテーマは、日本の美術館の特徴について。ヨーロッパが歴史ある豊富な展示中心の美術館、アメリカのコレクターによる現代美術+建築の面白さにあるのに対し、日本は無料スペースを上手く使ったコミュニケーション重視にその特徴があるという。その好例として金沢21世紀美術館のフリー通路や大分美術館の街路と一体となる展示室などを上げてくれた。もっとも日本は寺の仏像などのご開帳に代表されるように祭との一体的展示が歴史的に展開されてきたという。どれもが興味深い話であった。夜にはゼミで、OBの秋山怜央さんを迎える。学生時代から最近の藤本事務所の仕事を紹介してもらった。学生時代にたまたま参加した篠原雅武さんに感化されたオブジェクト指向は今でもずっと続いているという。藤本さんは寛大で色々案出しをさせてくれるので、自分の案を認めてもらうために苦労するらしい。今日の説明もそうしたためか非常に説得力があった。ほぼ秋山さんがはじめから最後までひとりで完成させた十和田の市民センターは、即物的である点を評価したい。建築は煩わしことが多いので、こうした作品は強烈なインパクトを残す。正に建築だと思った。前にGA誌で3DCADによるその即効的なスタディとプロセスが紹介されていた。藤本さんは、事後的に言葉を与えていくという。モノの力を信じていて、秋山さんがずっと気にかけてきたオブジェクト指向とそこでリンクしている。もっとも池辺さんをはじめ難波さんも形式こそを大事にして、目新しい視点でもないが、近頃建築で薄れている姿勢である。これを歴史という出来事まで含めたのがぼくに言わせるとティム・インゴルドで、ラトゥールとつながるものとなる。レクチャーの後、研究室にもどり皆で歓談。学生時代のことなどざっくばらんな話ができた。

4月25日(火)
「野生の科学」で度々、贈与について語られる。つまり貨幣による交換以前にも、それに匹敵する物神性(フェティッシュ)がそこにあったことを見出している。それは柄谷も同様で、貨幣論理=言語論理=近代と考えると、それを越えるものとしての贈与互酬性を見出している。贈与互酬性は、金に換算できない何かを産む。昨日否定的に考えた修士の修了基準設定、あるいはエビデンス主義は、この近代思考の最たるものだろうと思う。教員と学生との間で何か創造しようとすると、プロセスや信頼関係が大事となり、責任の所在を外部にもっていくのは気が楽でありがたいことであるが、それ以上のもの=物神は生まれないことになる。

4月24日(月)
修士研究の合格ラインについての明示化が学科内で問題になってきている。明確な基準を設けることにぼくはあまり乗り気でないのは、意欲のある学生を伸ばすことに力を入れるべきであり、基準はやがて目標に成り代わってしまうからだ。建築基準法は設計にとっての明確な基準であろう。健全な町並みをつくることや衛生的で健康的な場所つくりに最低限の貢献をしているものの、本来の主旨は忘れられ基準法を満たすだけの主旨からむしろ離れてしまっているところも多い。要は基準が目的化されるのは避けられないことであると思う。人もエントロピー増大の法則に従い壊れていく運命にあるとすると、生きることとはそれに逆行して壊れないようにまとまりをつくることであり、それによって安易な基準をよりどころにしてしまうものだ。そう安易ではなく大海に出てからまとめるような姿勢であって欲しいと思うのだ。

4月23日(日)
午後に川口行き。状況は芳しくない。深夜「ブラックホーク・ダウン」リドリー・スコット監督を観る。ノーカット版ははじめて。市街地での戦闘がともかく生々しく戦争が怖くなる。軍隊において、指揮官の絶対性とそのために仲間を絶対に見捨てないという徹底的な姿勢が描写される。このソマリアの事件でアメリカは撤退。米軍の死者は19人に及んだという。

4月22日(土)
054 ラ・リーガ ソシエダ×バジョカノ 2-1でソシエダの勝利。ソシエダの今日の攻撃は冴えていた。久保は控えで、7番バレネチアが使われる。色々な見方ができるが、後半落ちる攻撃のための温存とみたい。バレネチアもよかった。後半からシステム変更し、4-3-3に。シルバ頼りからの変更となる。久保はゴールこそなかたものの、今日は相手DFを置き去りにする逆転の起点となった。

4月21日(金)
053 EL スポルティング×ユベントス 守田の役割は大きかった。ユベントスに堂々の戦いをする。しかしドローとなりスポルティングの敗退が決まる。スポルティングの連動は組織化されていて、前線に魅力的なアタッカーがいるのがよい。

4月20日(木)
「野生の科学」を続ける。中沢新一も物々交換(貨幣交換)に対する贈与(モース)を考察している。それはマリノフスキの「クラ」の交易である。リニアに対するノンリニアであることで、それの具体的例としてあげる「空とカタツムリ」の神話が面白い。贈与や互酬性にモノを越えた人格、記憶、霊性のやり取りをそこに見出している。
052 CL バイエルン×マンチェスター・シティ シティがバイエルンを去なして、準決勝に進出。今日のバイエルンはホームでインテンシティが高くあと一歩のところまでせまったのだが速攻でデ・ブライネとハーランドにやられてしまった。なかなか形がつくれないでいるので、新しく代わったトゥヘルの腕の見せ所と思う。

4月19日(水)
授業の後に、多田研との合同ゼミ。パスタブリッジが進歩してアイスバーブリッジになった。パスタと違って正確なジョイントができ、このために準備してくれた多田研の試作品は既に完成度が高かった。果たして遠藤研はどう立ち向かうか。期待しよう。剪断力を使ったジョイントがよいのではないかと思う。その後、新しい4年生の歓迎会を新習志野で行う。スペースの大きさがよく、皆としゃべることができた。最後にネズミが登場したのには驚いたのだが。
051 CL レアル・マドリー×チェルシー マドリー今日は、ロドリコが台頭。2点を決めて盤石に次のステージに進む。ビニシウスと並び同年代の久保と比較がされてきたが、ビニシウスは確実にトップになり今やマドリーの中心。ロドリゴは要所で活躍。確実性が売りである。久保はまだまだドタバタ名ところがあり、若いともいえるが、ロドリコの確実性が欲しいところだ。

4月17日(月)
今年の研究室の読書会は映画とペアで考えることにした。どれもが、イノベーションを起こした人のドキュメンタリーである。そうした映画の時代背景を後のぼくらには当たり前となって知ることができないが、その手助けになってくれる。どれもが近代以降の話で時代順にあげるとまずは、「エッフェル塔試論」松浦寿輝著と最近公開された「エッフェル」。保守的な都市パリからエッフェル塔がシンボルにまで認められるようになった経緯が記されている。そこには美学的側面はもちろん機能や技術に対する世間や専門家の意識変化が示されている。「人間の条件」ハンナ・アーレント著と映画「ハンナ・アーレント」。人間が社会へコミットする積極性の必要がここに記されている。それは労働、仕事、活動である。この人の持って生まれた力をアーレントは信じ、ハイデガーから離れ、映画にあるようにナチスを生んだ当時の社会自体を批判した。「イームズ・ハウス」岸和郎著と映画「ふたりのイームズ」。近代建築が資本商業化されていく中、これをもう一度建築にたらしめるのに苦悩したことが記されている。工業化や個人/大衆といった社会変化に対応する建築を提案したのであった。「アメリカ大都市の死と生」ジェイン・ジェイコブス著と映画「ジェイン・ジェイコブス」。資本主義がいよいよ台頭しとき、ヒューマンな都市が再開発される戦いである。ジェイコブスが単なる市民派代表ではなく、戦略・経済的に具体的に実践(活動)していたことを知ってもらいたいと思う。レム・コールハースの伝記「驚異の構築」ロベルト・ガルジャーニ著と映画「だれも知らない建築のはなし」。単発に見える建築潮流も実は大きなうねりの中にある。その中でエキサイティングな建築の可能性を示すのはコールハース。計画=プログラムと美とは別物であると一般には考えられて、美にとっては計画は不要とされるが、そうでなく新しい計画方法について示した本である。「野生の科学」中沢新一著とヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」。これも、デカルト的思考では捉えられない何かを説明しようとしている。映画では言語体系に対するものがそれであり、中沢新一は多くの事例を引用してこの何かを紹介しようとしている。科学で捉えきれない何かを人間性とか美とかで済まそうとする、この近代の限界をラトゥールは警告している。それらふたつに連続性をもたらすことをテーマとしている。

4月16日(日)
今ちょっと仏教のことを知りたいと思い柄谷行人の「仏教とファッシズム」を読む。仏教の教義とは関係なしに当時の知識人は、西洋のキリストに相当するものとして仏教を要請したことが詳細に記されている。それは現代における地球環境を再考するときに、自然との一体というような日本伝統を持ち出すことと同様だろう。それは建築でいえば、西洋の建築の知の行き詰まりから新しい方向付けを行うために、環境を持ち出すようなことなのかもしれない。柄谷はこれを美学的にみることだという。その反対は相対的にみることである。環境はいま特別視されているが、むしろ現代はその括弧外しを行うときなのかもしれない。
050 プレミア チェルシー×ブライトン 今日は前節と変わり三笘が躍動。いくつもチャンスをつくる。チェルシーは調子がよくないとはいえ、どちらがビッグチームであるか分からない程だ。ブライトンは、三笘や反対サイドにボールを届けるまでがシステマチックで組織化されている。というか上手く機能している。チェルシーは監督交代後もそれが上手くいっていない。今週はマドリーとの戦いがある。

4月15日(土)
今「野生の科学」を続ける。天皇に対する視点が面白い。当初天皇は、稲魂の祭祀者として自然の生産力の支配者としての王であったという。ところが、壬申の乱後に天皇権力が確立されると、政治という王権が前面に出てきた。ここまではよく言われることである。次に律令制が確立されるとその役割は実質不要になり、天皇そのものは空虚な中心という超越物になった。それが今日まで続いているというのだ。この記述と同時に登場するのは、クラインの壺とクロスキャップ。クロスキャップの動画をチェックhttps://wed7931.hatenablog.com/entry/2018/05/07/192208。これを立体的に理解する。
049 ラ・リーガ ビルバオ×ソシエダ バスクダービー。久保によるこのゲームに対する意気込みがこの1週間報道されていた。しかし、完全に久保は押さえこまれる。サイドに開いた久保には絶えず複数人がマークにつき、久保は思うようなプレーができなかった。試合も0-2の完敗。4位の座も危ぶまれる。

4月14日(金)
「野生の科学」を続ける。どうやらこの本はベイトソンのいう論理階型を力として説明しようとしているようだ。論理階型とは、AとBの矛盾を解決できないときに使用し、もうひとつ上の論理階型に上げて解決する人特有の自然な考え方である。よく出されるのは、母の愛情を受けたい子供が忙しい母に拒否されノイローゼになる例である。そのとき子は、母は今忙しいのであって時間をずらした後になれば愛情を受けることができる、と考え直すことができればノイローゼから復帰する。ここでは、時間という新しいファクター=もうひとつ上位の条件が考慮されている。人はこれを自然に行うのだが、本書はこれを力として問うている。
048 EL ユベントス×スポルティング 守田が先発。チームの中心メンバーであった。攻撃時でもわざと相手選手の中間にポジショニングをして、味方をフリーにさせようとするのは流石である。いくつか欲しいシーンもつくるもユベントスに0-1で負ける。次のホームでの戦いに期待である。チーム自体がユベントスのようなメガチームと対戦するのを楽しんでいるようだ。

4月13日(木)
今日は大学院の授業。計画2の学部の授業と同様に、大文字の建築の話しをする。アーキネットの織山さんにかつて行っていただいた若手建築家向けのセミナー企画をもとに、自分のキャラクターの差異化を目指すには、その前提なるものが必要となるという話である。こうした考えはG・ベイトソンから学んだ。ところで若いときは、こうした前提にたって思考することを創造的でないと考えたりしていたので、その予防策として今日は「オイディプス王」の神話の話もした。これはフロイトや柄谷行人、ジジェクから学んだことである。彼らは無から何かを生むことを、この神話を引用して説明しようとしていた。自律と社会化は同時に起こるという話である。あるいは、自己を俯瞰的に見ることを自己認識ということである。最近、他者がキーワードになっているが、他者との境をつくるとき、それよりも大きい全体というものが重要と思うのだ。自律を創造と重ねると、「建築」と作品にそのままあてはまる話である。
047 CL チェルシー×レアル・マドリード レアルの完勝。マドリーはピッチをいっぱいに使い、ボールを受けるべきところでボールを受ける。機械のように動いていたと思う。典型がFWのベンゼマで最終ラインから1歩引いてははたいて裏をつく。面白いように決まっていた。それでも2−0.セカンドレグにチェルシーは望みを残した。

4月12日(水)
建築計画2の授業で、恒例の「建築と建物との違い」から建築の作法、そして大文字の建築、そして「建築の四層構造」まで話を拡げる。小さいことに拘りすぎないで、自分の作品を大きな視点から位置づけられるようになるとよいと思う。
046 CL マンチェスターシティ×バイエルン バイエルンは監督がトゥヘルに代わってから2戦目だそうだ。しかしシティに歯が立たなかった。0-3の点差以上の差を感じた。典型的9番がいないのが大きいが、守備でもバイエルンがプレッシングをかいくぐれないのには驚いた。

4月11日(火)
大学の年度初めの会議。その後に数人の学生と立ち話。といっても数時間話す。池辺さんの内之浦ロケットセンターの資料をみせてもらった。建築文化の資料で、前回訪問したときのいくつかの疑問も解けた。卒業設計のアドバイスもする。敷地が面白そうで資料集めのアドバイス。かたちになるのは意外と伝統や習慣と言ったソフトが多いこともある。

4月10日(月)
今日から本格的に授業がはじまる。設計のガイダンスで学生と一緒に非常勤先生のショートレクチャーを聴く。新しく加わっていただいた若林拓哉さんは、建築のみならずソフトを含めパッケージすることに興味があるようだ。全国の建替予定の郵便局を町の中心施設に変えるプロジェクトを進めている。自宅の商店長屋の改修も進行中という。どことなく気持ちよい空間がそこに仕込まれている。一色さんは自分の立ち位置を定めたようだ。若林さんのようにまるごと建築の面倒をみることに興味があるらしい。村田さんの経歴も驚いた。京都の高松研+事務所から川口衛先生の事務所であることは知っていたのだが、その前に情報学科にいて4年次に建築に編入をしたという。さらに村田さんに興味が湧いた。佐野健太さんの話を聞いていても、偶然を必然に変える力を感じる。建築科は皆そういった者なのだろう。

4月9日(日)
快晴で景色の良い露天風呂として蓼科小斉の湯に寄る。木越の連峰の景色は抜群である。自由農園に寄り帰宅。「野生の科学」を続ける。「カタラクシー」が面白い。敵を味方に返る現象を、トーラストポロジーを使って説明しようとする。設計でいける!
045 ラ・リーガ ソシエダ×ヘタフェ 今日は、久保とオヤルサバルが先発。久保は右いっぱいに張り付き、空いたレーンをブライス・メンデスが狙う。したがって今日の久保は前ほど自由に内側に絞ることをしなかった。後半から、中盤底が若手のゲバラからスピメンディに代わると活性化する。久保も得点。縦への速い攻撃を行うことができた。なんとなく先が開けてきたような気のするゲームであった。

4月8日(土)
八ヶ岳行き。東京は20度超えるも、八ヶ岳は雪混じりの氷点下となる。夜はストーブがまだ必需である。渋辰野館に寄るも冬季で露天風呂はまだ閉まっていた。少し残念。ちょっと下りてホテルへ。
044 プレミア トットナム×ブライトン どこでもサッカーが見ることができるのはありがたい。三笘好調もハンドで得点の取り消し。試合後に誤審とされる。認められれば鮮やかな得点であった。ブライトンは逆転されCLが少し遠のく。

4月7日(金)
「野生の科学」中沢新一著を読み始める。科学では説明できないものは多々ある。そのことを多くの例をもって説明しようとする。柄谷と同様に「交換」をキーワードに挙げているのが面白い。交換を近代合理的思考を越えるものとして位置づけている.

4月6日(木)
043 スペイン国王杯 バルセロナ×レアルマドリード 第1戦と違って、ホームバルサは積極的に出る。メンバーも揃っていいた。しかし後半からスペースを与えてしまい4失点。マドリーの逆転決勝進出。マドリーの戦術はオーソドックスであるが、どんな相手にたいしても選手はそれを難なくこなす。これが強さの原因と思う。ビニシウスを起点とした速攻と、中央からサイド奥に切れ込んでからのもう一度中央への繰り返しである。前半優勢のバルサも、ビニシウスの中央突破から崩れていった。ビニシウスの相手は今日のために用意されたマルコス・アロンソであった。

4月5日(水)
ゼミにて、こども絵本図書館の計画。本棚の検討。絵本の新しい見せ方を提案してくれた。所蔵数が少ないので、ちょっと変わった見せ方もできるかもしれない。スケッチを続行。

4月3日(月)
NHKでフルトヴェングラーの特集。父はフルトヴェングラーのフィギアを飾るほどのファンであった。フィギアがあるのはそれだけである。フルトヴェングラーはワーグナーを愛し、ベートベンの第九が十八番であったらしい。この特集では、ナチに取り込まれてしまう苦悩が描かれていた。絶対的な美を信じて政治に取り込まれんとする、あるいは取り込まれても構わないとする姿である。1942年4月19日のヒトラー誕生日前日の第九が紹介される。ナチからのプレッシャーに屈するも美で立ち向かったという物語である。興味をもち早速棚を調べるも見つからなかった。第九だけでも演奏によって数種類のCDがあることを知った。この特集では他にジョスタコビッチとレーニンとの関係も示され、レーニンの死後の1953年の交響曲10番はソビエト現実に倣った悲愴的な曲らしく、やっと自分の曲が演奏できたのだという。他にユダヤ人のバレンボイムの2001年7月7日のエルサレムでのワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の演奏も挙げられる。ちなみにバレンボイムはサイードと関係があったことも知る。

4月2日(日)
NHKの日曜美術館は安藤忠雄特集。病気の現状からはじまり新しいプロジェクトが紹介される。若者に生き様を紹介する主旨があった。奇しくも坂本龍一も死去する知らせが来る。「人生は短し、芸術は長し」という言葉が遺言。
042 ラ・リーガ ビジャレアル×ソシエダ CL圏を争う重要な一戦にソシエダは負ける。いいところをつくれるもの得点できず、空いた中盤底を起点に得点されるという、このところの悪いパターンであった。だから、久保やシルバの評価は高く、中盤底のメリーノとブライス・メンデス、フィニッシャーのスルロットの評価は厳しい。この戦略でいくなら早い段階の得点。もしくはフォーメーションの変更が必要なのかもしれない。次節は、守備の要となるスピメンディとスペルディアが出場停止となる。

4月1日(土)
041 プレミア ブライトン×ブレントフォード ブレントフォードも上位に位置していて、好ゲームであった。3−3のドロー。チーム状態が成績に結びついている。三笘も好調を続け、得点を決める。ブライトンは、三笘と反対サイドのマーチを起点にしようとしていて、自然と良い形でボールが集まるからだ。

3月31日(金)
「ルーブル美術館展」国立新美術館へ行く。美術を広く行き渡らせようとしているのだろう、愛がテーマである。作品はフランス革命前のものが多く、そのためか建築との関連も薄く感じ惹かれるものも少なかった。エドマンド・バーグ、カントにゲーテ、バッハ、モーツァルト、マリー・アントワネット、建築家でいえばルドゥー、ブーレー、産業革命のはじまりの時代に重なる。

3月30日(木)
東「空想の建築史」土居義岳著を読み始める。建築を信じる力をテーマにしているようだ。それは部分が組み上げられひとつになるときの力である。原広司、カント、ヘーゲルそしてフォションと続き、扱う範囲が幅広い。040 ユーロ予選 スコットランド×スペイン 先日とガラッとスタメンを替えてのぞむもスペインが決定機をつくれずに負けてしまった。パスを中心にゲーム構成する場合、完成するまで時間を要するのと、決定機を高めるのは難しい。

3月29日(水)
ゼミにてM2生の1年間の計画を聞く。今年の読書会の方針も発表。映画と結びつけることにした。映画は、イノベーションを起こした人をテーマにしたもの。その内容を、映画を通じて当時のバックグランドから理解しようと思う。映画「エッフェル」と「エッフェル塔試論」松浦寿輝著、「ハンナ・アーレント」と「人間の条件」、「ふたりのイームズ」と「イームズ・ハウス」岸和郎著、「ジェイン・ジェイコブス」と「アメリカ大都市の死と生」、「だれも知らない建築のはなし」と「驚異の構築」そして「メッセージ」と「野生の科学」の中から選ぶ。

3月28日(火)
039 代表 日本×コロンビア 日本が苦手とする南米勢との第2戦。加えて新しい試みがどれだけ実践できるかが試される。今日は遠藤が外れて鎌田がボランチ。時折2CBの間に下りて、SBと前線との間でゲームプランニング。悪くなかったと思うが、堂安はJリーグレベルとして試合後にこの前半を批判。後半は選手が代わり、代わって入った選手が前のめりでエキサイティングになったものの、形にならずに終わってしまった(堂安は後半途中出場)。南米特有の球際の激しさがさらに試合を難しくしてしまっていたこともある。W杯後、代表にはボールポジショニングが大事にされている。その場合でも時折スイッチが入ることが必要となる。この2つに連続性を持たせること、三笘のいる左サイドでその萌芽が見られたのは希望。

3月27日(月)
「ストーリーが世界を滅ぼす」ジョナサン・ゴットシャル著を読み終える。本書の言うストーリーとは悪者だ。ぼくらを影でコントロールする根源をいう。もちろんそれは正しいが、一方でぼくらが言葉を話せたり、イメージを共有できたりするのも、そうした単なる言葉を知っているだけでなく、背後のコンテクストをストーリーとして共有しているからだと思う。もう少しストーリーのポジティブな面も語ってほしかった。

3月26日(日)
東京都写真美術館の土門拳「古寺巡礼」展へ行く。全5巻の古寺巡礼全集にそって展示がなされ、その中でも仏像の顔をズームする作品が中心に選ばれていた。土門拳特有の迫真に迫る力は半端ない。まだ現物を観たことのないものに、長浜渡岸寺十一面観世菩薩像、多治見の永保寺観音堂があった。事務所に戻り作品集を手にして展示作品に係わる他の写真を確かめる。

3月25日(土)
アーティセゾンで開催中のダムタイプ展へ行く。昨年のヴェネチアビエンナーレの回顧展で、同スケールで日本館が再現されている。建築家の場合と違って、素人にはまねできない作品であった。確固たるデジタル空間が提案され、その中でぼくらは右往左往するだけで、彼らの結成時からあまり状況は変わっていない。
038 ユーロ予選 スペイン×ノルウェー 新生スペインは柔軟で、今日は右サイドからの攻撃が多かったが、どこからでも展開できる強さをもっていた。後半突き放し初陣をかざる。

3月24日(金)
037 代表 日本×パラグアイ 日本のリスタートは国立競技場からはじまった。4-3-3でポジショニングを上げながらゲームコントロールを目指していくという。そうはいうものコンディションがよくないこと、あるいはパラグアイの効率よいプレッシングが効いていたことによって、自陣に留まる遅攻が目立った。後半から遠藤を両CBの間に落として、両SBを上げるようにすると、そこからの速攻で同点にした。注目は新しいSB。長友や酒井のように上下だけでなく、内側のレーンも使う。ただしその前の三笘や堂安、今日はさっぱりだった鎌田との連係が今後の課題となる。

3月23日(木)
「ストーリーが世界を滅ぼす」ジョナサン・ゴットシャル著を読む。ぼくらは物語にコントロールされているという。前半はその実例が多く示される。最たるものがキリスト教だ。キリスト教にある福音伝道と一神教不寛容な2つのプログラムコードが、物語に力を特に与えているものであるという。昨日までのWBCの人気も同様だろう。

3月22日(水)
午前にWBCを観る。かつてはスモールベースボールといっていたが、いつのまにか体力、スピードともに大リーガに劣っていなくなっていた。内容もいわゆる横綱相撲で、その上での勝利である。サッカーも2050年優勝を掲げているが、そうした日がくるのだろうか。体格的にはいまいちの状況でそれを前提にしたゲームプランを考えているのだが、それだと勝利してもタイトロープを渡るような状況で運に大きく左右されてしまうような気もする。午後は卒業式で学生らと研究室で会う。3年間一緒であった大学院生とは感慨深い。就職先も決まったというので一安心。これからも頑張って欲しい。

3月21日(火)
JIA MAGAZIN の坂牛さんと内藤廣さんの対談を読む。建築は小乗仏教、土木が大乗仏教という考えだそうだ。その中で、建築におけるプリコジンを引用したエントロピー論に同意する。「物理世界全体はエントロピー拡大の方向で、最後は無限大になって消滅するということになっている。それがエントロピー論の描く世界観です。1980年代、イリヤ・プリコジンという化学者が、そうばかりでない、不連続に局所的にエントロピーが減少することもあり得ること示して話題になりました。それが生命現象の定義だというのです。つまりエントロピーが増大していく中で、ひょっとしたら建築はエントロピーを減少させる人間の生命的な営みなおではないかと思い至ったのです。もしそうだとすると、建築を一生懸命つくること、そのこと自体はエントロピーを減少させる生命的な現象と矛盾していない。そういうことの延長上として僕らは営みとして建築をつくっていると思えるのは、心安まることですね」。

3月20日(月)
036 ラ・リーガ ソシエダ×エルチェ 今日はオヤルサバルに代わり久保が登場。トップ下のシルバとの連係が光り、後半になって漸く得点すると、チームにも安堵感が漂い、2−0の久しぶりの勝利。欲をいえば、シルバと久保にもうひとり誰かが絡むと最高だ。これで気持ちよく代表ウィークを迎えることができる。

3月19日(日)
御手洗龍さんの新しいプロジェクトを観に行く。帰りがけの難波さんにお会いし簡単なご挨拶をする。そして13:30から1.5時間かけて丁寧な御手洗の説明。7階建ての旧街道沿いの自宅を兼ねた賃貸ビルである。テーマは、建築の秩序がもたらす多様な場つくり。9m×38mの細長い敷地に千鳥状のラーメン構造で建築にして、そこに外部を取り込みながら諸室を挿入させる計画である。取り込んだ外部空間は縦方向にも展開し、横の駐車場空き地からスカスカの全体像がよく見える。赤色の600mmの柱とスラブを強調するために、邪魔となる手摺りを目立たなくしているのは上手い。しかもその構造計画が、支配的にならないように梁をみせたり半分隠したり、柱の形状を○や□など変えたり千鳥配置にしたり、散漫的構築といったらよいか、新しい構築方法だと思う。構造を他のエレメントに融けこませたり小さくするだけでないのは発見的な方法かと思う。上部3階分のオーナー住宅は雑多な豪華さがあってよい。それはスケールの扱いが上手いからだ。施工は日南鉄鋼。頑張っている。その後、車で30分のところにある妹島さんのなかまちテラスへ。彫刻的建築を輪切りにするので各階で平面が異なるのは現代的だ。ただしスケールが小さくて、同様なコンセプトのもう少し大きい北斎美術館の方が機能的に役だっている。外壁を覆うエキスパンドメタルの西日への遮蔽具合は、完璧でないものの機能的であった。その後、多磨霊園まで南下し、墓参りを済ませてから稲城のスーパー銭湯へ。中央道で帰宅。1日を終える。
035 FA杯 ブライトン×グニムズリー・タウン 何でも相手は4部のチーム。前半は手こずるも、早々に得点すると落ち着いて突き放した。その中の三笘も同様。5点目を決める。

3月17日(金)
034 EL ソシエダ×ローマ ホーム0-0のドローでソシエダ敗退。久保はよもやの先発から外れる。アルグアシル監督は絶不調のチーム状態から勝利するために、調子のよかった時のシステムを変えないこと、その場合新参の久保よりもポジションの被るチームの顔であるオヤルサバルにかけること、であったと思う。かけるといったのは、オヤルサバルは本調子から程遠かったからである。案の定、引いたローマに対して風孔を空ける者はいなかった。前日のインタビューで久保は、チームの歴史を自身のゴールで変えるといっていった。それなのに、である。久保の悔しさと絶望感が、試合後のサポーターに向かう久保の背中が語っていた。

3月16日(木)
「闘争の世代は偉大だ。これまでの自身の行ってきた活動に自信があり後輩を心配する。時代の変化は刻々と変わること、だから先日の審査でも話題になった未来を計画することの限界など、気にしてはいないのだ。それは、論理における強度とどこまでを射程に入れるかという繊細さに対応するといえそうで、これを建築では、微細な構築として乗り越えようとしているが、要は他者をどう位置づけるかということだと思う。他山の石としよう。
033 CL マドリー×リヴァプール リヴァプールは超攻撃的布陣でのぞむも撃沈。決めきれずに速攻でビニシウスとベンゼマに仕留められてしまった。これでCLも敗退。昨年とは打って変わる。

3月15日(水)
JIA修士設計展の審査に参加。審査委員長に飯田義彦氏。最優秀案には、芸大のモバイル寺の作品が選ばれた。なんでも寺のご子息で、寺の布教をするために担いで動かすことのできる寺の提案であるという。飯田さんの心配は、こうした企画力に負う作品の扱いだ。審査では対抗馬を求めていたが、どの案もナイーブで強い企画力に抗するものはなかった。工学院や日本工業大の町並み保存案は社会性がありその点で強さがあるものの、ぼくとしては、理想的なヒューマにズムに頼ることなく、再開発に屈してしまう現実に抗する戦略が必要かと思った。ラトゥールが、最後に人間論に逃げる近代科学主義の弱点を指摘していたことである。逆の立場にたって、未来を計画することの不可能性を意識するあまり手法論を中心に展開するものがある。最近流行のオブジェクト思考へと連動していくこれは発見的であるのだが、自我的でもあり共感が弱い。神奈川大や工芸大、千葉工大の酒井くんの案もそうであった。プレゼに選出された9作品は、展示の規定上から、どれも模型映えのするものであったのは否めない。最後は建築にしてなんぼという原点みたいものだろう。ぼくの研究室の鈴木さんの弱かったところでもある。そうした中の最優秀案のモバイル寺の案はぼくも納得がいった。彼のプレゼが生き生きとしていたのは、仏教という全体像がまずあってそれに感化する自己を、形を通じて表現しているからだろうと思った。無理矢理に自己を表現してもいないし、逆に隠すことにもならないのは、そのためだろう。トップダウン形式はもはや時代遅れでボトムアップがよいというのは通説である。それはポストモダン時から言われていて、制作でなく生成ということであるが、先の方法論の行き詰まりも同様で、そうはいってもなかなか自然には生成ならないのである。柄谷行人は、シンボル思考でなくアレゴリー思考といっていた。先日亡くなった大江健三郎を引用して、である。ぼくらは、何かはっきりとしていないが選択可能な全体像に包まれている。それは宗教やネーションであったり、社会通念や文化であったり、もう少し狭く言うと、○○道といったものがその典型例でいくつもある。だから選択可能なものである。講評でぼくは「建築」もそのひとつでないかと、おそろおそろ発言をした。それらはなかなか意識されないものであるが、その中で自己位置を表面することで逆にその世界が示されるものでないかと思う。モバイル寺の案はその好例であった。修士設計でリサーチが重要であるとすると、その世界観を意識化することでないかと思う。

3月14日(火)
JIA修士設計展の準備に実行委員として参加。模型サイズは1800×900。図面を大きく展示できないので、1次審査は模型評価がポイントとなる。14時に終えて事務所に戻り、明日の審査のための資料を読み込む。私小説的な作品が多いことが気になる。こうした感性を外に向ければよいのだが。

3月13日(月)
「エッフェル塔試論」松浦寿輝著を読み終える。前半は、観光資源としてだけでなく、文化的資源となったエッフェル塔の説明。コルビジュエとスーラを取り上げ、そこではエッフェル塔建設を巡る当時の社会状況が捉えられている。それは、「西欧建築史の言説の制度性、技術と芸術の棲み分けをめぐるイデオロギーの変容、第三共和制下フランスの階級と共同体無意識、発生期の大衆社会における「知」とジャーナリズム、職能共同体への忠誠と民族的自己同一性との葛藤、「イメージ」現象の20世紀的再編成」といったものである。そして後半は、当時はともかくとして現在までエッフェル塔がパリを表象するものになったことの説明。それは、エッフェル塔が「「表象」と「近代」との関係をめぐる問題の束を集約的に体現している特権的な記号として、虚空に屹立している」からであるという。そして、エッフェル塔という対象が社会から影響されまた影響を与え、無意識のあるいは多義的(ポリセミー)な歴史的対象となった仕組みを明らかにする。そのとき取り上げられるのは、ゴダールの「カラビニエ」とブニュエル「自由の幻想」。映像やイメージとしてのエッフェル塔である。「こうした複製技術が産み出すマス・プロダクションの商品に対しては、人はふつう、どちらかと言えば批評的な距離を取りつつ軽く扱いがちであり、熱い思い入れの対象とはあまりしないものである。中世のイコンと、エッフェルの絵葉書と、コンピュータ−・グラフィックスという三者を並べてみた場合、呪術的なフェティッシュとして崇拝の対象となるのにもっとも相応しからぬものは、中間に位置する絵葉書だろう」としながらも、「モダンの時代における映像の存在感とは、あくまでも「量」の問題であり、「質」の問題ではない。(中略)人を説得するのは、映像と「本物」との間の「類似」ではなく、無数の映像相互間の「相似」の方である」というのだ。つまり近代においては、質や美ではなく、対象自体の圧倒的数量、その偏在分布の広さ、そしてそれら相互の間での流通頻度が重要であるというのだ。エッフェル塔はそれを体現するものなのである。

3月12日(日)
午前に墓参り。帰りに深大寺に寄る。「エッフェル塔試論」の終盤は、エッフェル塔のもつ表象について。2つの映画が紹介される。ゴダールの「カラビニエ」とブニュエル「自由の幻想」である。ここでエッフェル塔の位置づけを絵葉書的といい、近代を表象する虚空の屹立とする。2つの映画は、「物語とイメージの安易な癒着を撃つという批評的身振りを通じて、そうした無限に巨大な記号論的環境としての「エッフェル塔」の不在の輪郭を触知さしめることに成功した、稀有なフィルムp369」であり、それがエッフェル塔の本書の最終的な位置づけでもある。
032 ラ・リーガ マジョルカ×ソシエダ 今日も1-1-のドロー。ソシエダはトンネルから出ることができない。ここ9試合で1勝だそうだ。久保は今日休みで80分過ぎから登場。シルバ以外は思うようなプレーができていないので、大事にいきすぎているからかも知れない。もっと大胆なプレーを欲する。

3月11日(土)
「テルマ アンド ルイーズ」リドリー・スコット監督を観る。これまでリドリー・スコット最悪の映画となっていたのが、時代とともにその評判も薄れて、この映画を推す評論家も出てきた。それもそのはず、「エイリアン」「ブレードランナー」「ブラックレイン」の後の作品である。しかし実際に観ると、やはり疑問が残る作品。2人の女性が旅の途中、ヒョンとした切掛けで犯罪を犯したことからはじまるロードムービー。ブラッド・ピットの出世作でもあるそうだ。
031 プレミア リーズ×ブライトン 今日は三笘の日であった。これまでの数試合と違って三笘へのマークが1人であった。リーズの作戦は前線からの激しいプレッシング。そのために中盤守備も中央の3人にかかり、両Wサイドは比較的ルーズとなる場面が多かった。そうなると三笘も反対サイドも躍動する。今日は全得点に三笘が関わった。それにしてもブライトンDFは相手FWを呼び寄せてかわすという大胆なプレー。ちょっと信じられなかった。

3月10日(金)
029 EL ローマ×ソシエダ ソシエダがモウリーニョに完敗。ローマ前線3人の激しいプレッシングからソシエダはビルトアップが上手くいかずに、サイドに追いやられる。右Wで先発の久保はそこから受けるも、2人に付かれ上手く中央へボールを送ることができなかった。唯一のチャンスは、逆に奥へドリブルしニアサイドをぶち抜いたシュートとセンタリングをあげたところだけだった。その後、久保はスペースを目指して中央に寄る。そして空いたスペースを両SBが使うのだが、反対にその裏をローマに突かれてしまった。その速攻は見事であった。点差以上にローマが優勢であったと思う。ところでプレシングが激しくなると個人技に差が出る。トラップミスも多く、ひ弱くまで見えてしまった。来週のセカンドレグをどう闘うか。意地の見せ所である。
030 EL スポルティング×アーセナル 守田先発。富安は65分過ぎから。守田は攻守の要にいる。オウンゴールはしかたなかった。富安は今日、守備の安定しないアーセナル左サイドへ途中出場。左サイドの攻撃時には、中央に絞りボランチ役が要求される。富安はトーマスとともに見事にその役割をこなし、むしろ生き生きしていたように見えた。2-2のドロー。

3月9日(木)
028 CL バイエルン×パリ バイエルンの試合巧者ぶりが目立った。それほど強力なFWがいるわけではないが全員が攻めていた。一方パリはちぐはぐさが目立ち、前線までボール渡らず。バイエルンが完勝。

3月7日(火)
「エッフェル塔」マルタン・ブルブロン監督を観る。松浦さんの「エッフェル塔試論」を読むと、伝統的な美から脱却することの苦心やそれを個人的嗜好でなく社会的使命と感じている点、そしてめまぐるしく生まれてくる新技術を背景とした社会転換、これらに興味を惹かれることが多いのであるが、本作はふたりのロマンスがそれに加わっている。エッフェルが偉大な成功を収める裏に、上流階級であるにもかかわらず天真爛漫、当時としては破天荒な女性の社会挫折があったというストーリーである。とはいえ「エッフェル塔試論」にも触れられている当時の社会状況も知ることができ、それは、芸術ほどには技術や科学を尊重せず、市民の立場を保障しつつあるも個人の存在感は薄く、これから移行する大衆消費への対応が遅れている社会である。その後100年以上が経って現在は、完全に消費商業中心に社会はなっている。にもかかわらず、あいかわらず美的関心は、それに背を向け、公共性とかの別の形へ置き換えることで、それを保持しようとしているのかもしれない。

3月6日(月)
027 プレミア アーセナル×ボーンマス 富安は前半のみ出場で評判がよくないことを知り、見逃し配信を観ようと思った。確かに前線との連係がとれていなかったのだが、大きなミスもなかったと思う。前半0-1となり攻めあぐんでいたチームに活性化を与えるには、停滞気味の富安サイドにあったということかと思う。長らく出場していないと、こうも評価が変わるのかとも思う。

3月5日(日)
午後の飛行機搭乗まで、霧島神社とその古社を廻る。霧島神社は最近国宝指定となったという。参拝所となる勅使殿は立派な装飾のある唐破風屋根で覆われ、そこから先は行けないのだが、本殿までの直階段があり、その両脇にも立派な装飾があるようだ。急斜面を利用した躍動的な本殿である。参道が広く堂々としているのは古社も同じ。古社はそこに小さな樹のみが現在祀られているが、その背後にはふたつの霊峰がそびえる。ここも宮崎と同じ高千穂と呼ばれるところで、古事記以来、神の生まれたところとされる。

3月4日(土)
内之浦のロケットセンターへ。1960年代の通産省と関係深かった東大生産研究所の池辺陽設計である。今日は2度目の訪問となるが、前回は発射直前のため見学禁止で苦い思いをした。敷地ゲート近くにある花びら型プランの資料館のみが見学可能であった。今日は幸いにも雨に降られずにいくつかの施設を外観のみ見学できた。まずはMロケットセンターへ。ここはロケットの組立場。メインの北側ファサード前までは入れずに西と東面のみ見ることができる。この面の写真掲載はなく、北壁と同様の四角錐パーツを使用した大型引戸となっていた。施設は再塗装され70年代のアウラはなくなっているが今でも健全に使用されている。内部には大阪万博のお祭り広場の予行演習として日本で初めてスペースフレームが採用された。観たかった。その手前には、不思議な幾何学をしたコンクリートの退避室がある。大地に馴染み外観をうかがい知ることはできない。隣のU字型の管制室はなくなっているようだ。しかし別の坂道からここを俯瞰できる場所を発見。そこからMロケットセンターの四角錐トップライトはなくなっていることを知る。南側は新しい機能が付加され現在は本体より大きくなっていた。その途中にはコンクリートのLロケットセンター。そして鉄骨造の施設も発見。かつての計算センターか。今は稼働していない。梁なしの斜柱によって天井高のある三角のメイン空間をつくり、諸機能はそこから突き出すかたちで付加されている。このような幾何学的構成は池辺さん特有である。斜面に建つ第一光学観測室の建築は、土圧を受けるコンクリート箱に1/4円の屋根と壁が一体化したスチール骨組+フレキ外壁を被せる構成である。再び道を下り、ゲート近くの資料館へ。花びらをつくる鉄骨造壁のスリットから採光し、中央が吹き抜けで、そこに直立したロケットが展示されている。その吹き抜け周りを階段状にスキップする構成である。内壁は6角形の段ボールをFRPでサンドイッチしたものであった。2時間くらい見学した後、再び霧島のホテルへ戻る。今日、鹿児島のホテルは予約でいっぱい。テレビでマラソン大会があることを知る。宿泊ホテルも満室で家族連れが多い。湯量が豊富で霧島の人気を知る。

3月3日(金)
午前虎ノ門行き。午後の便で鹿児島行き。レンタカーを借りて空港から直ぐの日当山温泉へ。資料集成にも掲載の数寄屋旅館をインテリアデザイナーが最近リノベーションした。デザインに線が多いのが気になる。吉田五十八は線を少なくすることで近代数寄屋を完成させたというのだから、その逆行となる。
026 ラ・リーガ ソシエダ×カディス 0-0のドロー。このところソシエダがなかなか得点までいかないのは、中盤底の5番がマークされ、かつ前線が流動的でないからである。今日の久保はダイアモンドの頂点で先発し自由に動き回り、その連係のキーマンとして監督から期待される。いくつか決定的パスを通すも、単調なのだろうか、シュート数も少なく、得点に至らなかった。後半途中からその位置にシルバが復帰。流石シルバはひと味違った。そして久しぶりに久保との連係でDFラインを混乱させる。ソシエダらしい戦いが戻ったところでタイムアップ。来週はローマ戦がある。

3月2日(木)
「エッフェル塔試論」を読みながら、難波さんの「箱の家と環境」が前衛だとしたら、エッフェル塔との間に相関が見出せるのではないかと思うに至る。本書でのエッフェル塔の存在は、単なる技術×芸術や革新×保守に還元されるものでなく、保守側の時代背景と共有しつつもそこから逸脱するものとして描かれている。「建築」も新しい民主の力によって崩れていくのは確実である。しかしそれは、単純に(民主的な)場×建築あるいは市民建築家×ザ建築家、住宅×公共建築という2項対立に回収されてしまうことでもない。これが現代日本の風潮であるが、エッフェル塔の場合ように、「建築」という土俵に立って、場や民間、住宅への創出が可能でないか。難波さんの環境は、これを目指しているのだろう。そうすると難波さんはいつから「建築」における環境を意識するようになったのだろうかという疑問が次に湧く。

3月1日(水)
025 国王杯 ストーク×ブライトン ブライトンは三笘のアシストにより1-0の勝利。チームにおける国王杯の位置づけが不明であるが、ビッグクラブほどに力が入っていない印象。いずれ負けるとの判断か?それともそれ程の収入が見込めないためか。週末に試合がなかったにもかかわらず、ベストメンバーではなかった。三笘も後半75分で交代。それでもブライトンは逃げ切った。

2月28日(火)
今花粉症のためか、眠れずに深夜wowowで「スティルウォーター」マット・デイモン主演、トム・マッカーシー監督を観る。オクラハマスティルウォーターからマルセイユに留学した娘の殺人罪無実を証明するために、真犯人探しに奔走するアメリカ人を描く。主人公はアクションドラマのヒーローではなく惨めな存在であるが心を入れ替えたひたむきさがある。そこに文化の違いや宗教、人間心底の憎悪、道徳が絡む。マルセイユの文化の象徴としてサッカーがあがり、そこに当時所属していた酒井の名とアシストのシーンも含まれていた。

2月26日(日)
024 ラ・リーガ バレンシア×ソシエダ 今日のバレンシアは、監督替わりホーム初戦ということで、勢いが違っていた。ソシエダは最初4-3-3。途中から4-4-2のダイヤモンド型にし、それは久保をキーマンにした変更である。しかし相変わらず、バレンシアのプレッシングをかわし前線までボールを運ぶことができずに負けた。久保も75分過ぎに交代される。絶対的存在であることが否定されたようで、久保にとっては屈辱的であろう。選手全員の距離が間延びさせられ、各自が孤立してしまっていたのを、改善できなかったということである。

2月25日(土)
「だれも知らない建築のはなし」石山友美監督を観る。70年代からの日本の建築家の状況を、国内外の建築家や批評家、編集者のインタビューを通して明らかにするドキュメンタリーである。あの安藤忠雄氏、伊東豊雄氏らも80年代はじめには、当時作品も小さいこともあるが、内向的であり批評に堪えないとの批評を受けていた。それは磯崎新氏にたいしても同様で、日本という特殊性を持ち出すので美的判断しかできないとレムから批判されるし、ポストモダンという流行にのってしまったとアイゼンマンにも批評される。そうした状況を知らないぼくにとっては衝撃的であった。ぼくらもあるいは学生もレベルが違えど、無自覚であることに対して批評にさらされてしまうことは宿命なのだ。GAの二川さんはそうした現実を踏まえて、建築家育成の必要性に駆られGAを位置づけているらしい。そして今がある。英語のタイトルは「INSIDE ARCHITECTURE」。内輪話とも解釈できるが、建築からのまだ見ぬ可能性ともとれた。要は、崩れゆく近代建築後の話で、批判という尖った表現が終わった現在、磯崎さんはその後に建築家がエンジニア的、テクノクラート的、アーティスト的の3つのパターンになっていくといい、伊東さんは、社会性のあるコミュニティアーキテクトを提案する。社会性と作家性を2項対立させることは容易で、前者が現在日本では優位に立っているけれども、GAが追求してきたように、そう簡単に割り切れるものでないという歴史事実を本作品は明らかにしている。

2月24日(金)
国立近現代資料館で開催中の原広司展に行く。原邸も含めて原さんの建築は大方体験しているのだが、よく分かっていないコンペ案を観たく展覧会に行く。とにかく原さんのいうことは壮大である。その意味を若い頃は訳分からなかったが、今日のビデオでの京都駅についてのコメントは印象的であった。京都駅の大階段は、昇る昇らないという問題でなく、駅構内にしかも京都駅で、谷間の風を吹かせるためのものなのだ。いみじくも今月のニュースで、雪が吹き込む様子を観て、それに合点した。それは機能の提案を越えているし、ランドスケープをつくることとは次元の異なるデザインである。もちろん単なる思いつきでない。そこまで至る過程のすごさは、教え子たちが圧倒されていることから推測するしかないが、資料やスケッチが広範囲に渡っていた。それに関する出版予定の吉見俊哉さんとの対談集が楽しみでもある。
023 EL マンチェスターユナイテッド×バルセロナ バルセロナは、ユナイテッドのプレッシングに苦しみボールを前線に運ぶことが出来ずに敗退。特に後半からはひどかった。サイドへのロングボールに頼るしかなく、そこをターゲットにされると、再び中央狙いにいくのだが、代わってそこを任され入ったファティも本調子でなく、ポジションについてレバンドスキーと口論になっていた。

2月23日(木)
今年度の卒業設計・修士設計の講評会を、審査員に宇野求氏、高橋一平氏、佐々木珠穂氏、伊藤孝仁氏をむかえて行う。審査の後に宇野さんから、学生のアイデアをリアルな世界へと上手く指導がなされていて教育バランスよいとの感想を頂く。今日の講評会では、各審査員が作品講評を通して自分の建築観を述べていたので自然と議論が白熱し有意義であった。そのために賞を決めるのにも時間がかかった。その中で中心的テーマとなったのは、青井さんが最近出版した「ヨコとタテの建築論」でいうところのタテの必要性についてだ。どうもタテにたいする真剣度を学生は甘くみていると感じたらしく、それに対するコメントが多かった。宇野さんは、それを素材やディメンションの選択を通して表現できるという。だから、その根拠を学生に問い、建築作品の出来を判断していた。それは、ぼくら建築家がジャーナリズムから求められることでもあり、少し高度なことで遠慮していたのであるが、それこそがまさに必要であることに気づく。その反面、学生なりの新鮮な視点も大切にしていて、それをぼっーと終わらせずにどうやって表現となることをアドバイスしていたと思う。まさにタテに対するアドバイスである。同様に高橋さんは、プログラムの設定を含めて、学生が無自覚に解いてしまっている点を絶えず疑問視していた。だから敷地選択に最もシビアであった。それは、与条件のようで実は一番の選択権あることだからである。そうした審査を通して最優秀案となったのは、遠藤研鈴木奏子さんの鵜飼プロジェクトであった。鵜にまつわる生態系の奥行き深さに伊藤さんは驚かされたといい、高橋さんは、計画の粗さはあるもののリサーチの精度の高さと表現の効果度を好評してくれた。今日新しくできた1/50の模型が、内部から覗けるのもよかった。建築の役割とは、このプロジェクトにあるように、大きな生態系を意識してその中に自分の位置づけを表明することだと思う。この作品はこれをクリアに表現していた。遠藤研の皆川莉久さんの天空の集落の作品については、宇野さんがこの作品をよく読んでくれていたのだが、審査員の議論で3等になった。2等となった岩間小春さんの遠野のリノベーション案を、宇野さんが今日的気配感のある作品として、より魅力的に感じたからだと思う。屋根デザインをいじらずにその下を流動的に扱う巧みさのセンスを買っていた。ぼくとしては皆川さんの浮遊感を買いたいと思うのだが、タテをソフィスティケーション表現する技量を好んだのだろう。これらの案に限らずリサーチを重要視する案は現状追認型になる傾向がある。かつてはそれに批判的態度をとることがもてはやされたのであるが、それを現代的に表現するのなら、浮遊感というものかと思う。皆川さんは、わざわざ「天空の・・・」といい、今回それに値する大きな縦型パースまで用意していた。3等で残念。しかし宇野さんの長々と語ってくれた皆川評は印象的であった。宇野さんは地形の読み方を評価し、かつて関所があった地勢までを読み取っていた。ブドウ畑をつくるための植樹パターンが幾何学的になることまでアドバイスしてくれた。何でもフランスのブドウ生産地のそうしたマップがあるという。観光地化でなく巡礼といったらよいとまで提案しくれた。そして、建築しかできないこととは希望や安らぎを与えることといい、この案にその可能性を見出してくれていた。ありがたい。もうひとりの遠藤研中村理来くんの伊王島のプロジェクトは惜しくもOB賞であった。高橋さんのいう、自分の考えを精度高く伝える点に難点があった。しかし、彼の直感に驚かされることが多く、それが発見的であるほどいくつかを線としてつなぐのは難しいことではあるが、それによるダイナミックスさを実感して欲しいと思う。
022 CL フランクフルト×ナポリ ナポリの攻撃は素早かった。10人になるとフランクフルトはさらに厳しくなる。鎌田は中盤の下で先発。起点になり時折フュニッシャーにまでなる。0-2で初戦を落とす。以前のように前からのプレッシングとサイド攻撃がなりを潜めていた。

2月22日(水)
021 CL リヴァプール×レアル・マドリード 開始早々リヴァプールは2点をとり、しかも2点目は名手クルトワのミスであったので、このままリヴァプールが復活の道を進むのかと思いきや、マドリーは前半に追いつくと、最後は5−2とする。恐るべきマドリー。マドリーの速攻は安定している。逆をいえば、リヴァプールは攻めることでしかこの速攻を防ぐ手立てをもっていなかったことになる。これは正面切っての解答でないので、ボロがでたかたちである。クロップ戦略の限界かとも思った。

2月21日(火)
「エッフェル塔試論」を続ける。はじめに、塔のデザイナー側からの主張が描かれる。鉄による前世との石文化との分断が認められるものの、美においては自己言及的で前世と連続している、という指摘は面白い。「第一機械時代の理論とデザイン」のバンハムのようである。風に抵抗するために、新素材鋼ではなく、錬鉄を使用したというのである。

2月20日(月)
「ふたりのイームズ」ジェイソン・コーン+ビル・ジャージー監督2011を観る。この頃を前後してイームズの展覧会が日本でもよく開催されていた。ふたりの伝記で、よいところも悪いところも描いているのだが、作品の核心に触れるようなところはこうしたメディアにはない。ぼくの誤解であったのは、エーロ・サーネンとの合板技術による椅子のアイデアは最初からあって、その後にレッグ・スプリントの製品化を通じて、合板技術に長けていったそうだ。そして、イームズ邸の斜面における配置計画においても長い間の思慮の結果と材料不足から今のような配置になったらしい。ミースの同様の計画を知って急に変更をしたものではないらしい。ところで、まずこの映画から痛感させられるのはつくることの喜び。そしてそれはレイに負うことが多かった。そしてチャールズに負うこととは、建築とメディア、都市との関係、技術や工業化など、モダニズムがかかえていた次なる問題である。チャールズはそうした広い視野をもっていた。そのときに作品はヒロイックでなく社会の中のものとして見えてくる。途中のチャールズの自由についての言葉も印象的。自由は規則や制限がなければならないという主旨のものであった。

2月19日(日)
020 プレミア ブライトン×フラム 0-1でブライトンが負ける。何度もゴールに迫ったが、最後のところをGKに阻まれて、終了間際にカウンターを食らう。後半途中からエストゥピニャンが退くと三笘にボールが集まるようになる。しかし得点にはならなかった。何でも新年からはじめての敗戦だそうだ。

2月18日(土)
「建築と時間と妹島和世」ホンマタカシ監督・撮影を観る。大阪芸大キャンパスセンタープロジェクトの3年にわたるドキュメンタリー。ひとつのコンセプトが決定した後の最終的な作品になるまでの過程を追っている。ここで示されるのは、建築が、アイデアにある訳でもなく、建築家による環境や社会や他者との確認作業によっていることである。
019 ラ・リーガ ソシエダ×セルタ ソシエダのどちらかというと集中力を欠いたような内容であったと思う。ソシエダはリードしつつもミスもあり、最後にそのしっぺ返しで、ゼロで閉めることができなかった。強豪との戦いの後で魔が差しているのであろうか。昼のゲームということもあろうか。中盤の組み立てがままならずに、速攻を食らってしまっていた。ゲーム早々の久保による素晴らしいスルーパスまではよかった。1-1のドロー。久保は今日もMOMとなるも、終了後苦い顔をしてベンチに居続けていた。

2月17日(金)
018 EL バルセロナ×マンチェスターユナイテッド プレーオフとは考えられないほどの好取組。結果2-2のドローに終わる。ユナイテッドのラッシュフォードの勢いは凄かった。2点に絡む。一方のバルサは、ブスケツの怪我欠場に続きペドリも前半で怪我のため退き、ガビ奮闘も次節は出場停止となった。中盤がデ・ヨングのみでは苦しい。
「エッフェル塔試論」松浦寿輝著の再読を始める。「アメリカ大都市の死と生」の反対に位置つけられるものと思った。序章から、保守的な美学をもつエイスマンスと進歩的なエッフェルとの対立構造が示される。ただし、ちょっと捻くれている。「insensであるがゆえの「美」を感受する眼差しが一般化してゆく過程―また、そうした「無用の」まなざしを実践的に基礎づける「前衛」的な美学が種々様々なかたちで開花しては、渦を巻き、相互に葛藤し、消長を繰り返す、眩暈のするような過程」が書かれている。

2月16日(木)
「ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命」マット・ティルナー監督を観る。大戦前後の都市計画についてのドキュメンタリーであるが、なぜかしら「アメリカ大都市の死と生」の再翻訳(2010)と合わせて、再び現在脚光をあびている。2018年の作品である。市民リーダージェイコブス×開発業者モーゼスというあからさまな対立構造を持ち出しているのも、今更なぜかしらと思う。NYは再びそうした岐路に立っているとは思えないのだが、トランプの出現、#MeTooと関係するのだろうか。建築的には、道路の市民に対する役割、一方で高速道路がもたらす町の分断が大きなテーマである。「アメリカ大都市の死と生」の位置づけが当時、「沈黙の春」レイチェル・カーソン(環境問題)、「新しい女性の創造」ベティ・フリーダン(女性人権)と同等ということを知った。
017 プレミア アーセナル×マンチェスターシティ 富安はこのゲームのキーパーソンとして右で先発。しかしアーセナルは右からの展開が全くできなかったのは、グリーリッシュのプレシングに耐えきれずに出した富安のバックパスを決められてしまったからである。スタジアムの雰囲気は首位対決ともあって最高潮であった。この経験はかけがえのないものである反面、失策は大きく富安にのしかかる。これで潰れて欲しくはないことを願う。

2月15日(水)
016 CL パリ×バイエルン パリは前半押し込まれる一方。バイエルンの前線からチェックを受け、ボールを進めることができず。後半からSBメンバーを変えて、途中から怪我から復帰したエンバペを投入。すると攻撃が見事に復活。一度はゴールもオフサイド判定もありエンバペのゴールは取り消しになる。0-1でホームでの敗戦。

2月14日(火)
015 ラ・リーガ エスパニョール×ソシエダ ソシエダは十分な休息。2日の休暇があったという。今日は4-3-3でのぞむ。久保は右、オヤルサバルが左であった。左のオヤルサバルは復調の兆し。今日は下がり気味でアシストを記録。IHのイジャラメンディとよい関係。左が活性化すると、右の久保も生きる。1Gとオウンゴールの誘発まで行う。通常は右に張り付いて、IHのブライス・メンデスとの兼ね合いで中央に入りこむ前試合からの形がよかった。メリーノも後半に登場。

2月12日(日)
014 プレミア クリスタルパレス×ブライトン 三笘は上手くマークされ、ここ数試合のような活躍はできなかった。その代わり反対サイドのマーチと三笘の後ろのエストゥピニャンが自由を得ていた。こういう日もあるのだろう。ただ、今日前掛かりになった10番マクアリスタが右利きらしく、後ろ向きで受ける場合、三笘と逆サイドにボールをはたいてうたのが気になる。

2月11日(土)
「ショーシャンクの空に」フランク・タラボン監督 を観る。タイトル画像とは全く異なり、清々しい映画であった。モーガン・フリーマンの語りによって物語は進み、それで主人公ティム・ロビンスの行動が客観性を帯びる。観客にどことなく感情移入させない構成が、他の映画と違っていてよい。モーガン・フリーマンはこの映画でも重要な役割を果たしていて、「挫折しないために希望を持つな」という台詞や甦生することなど、聖書からの引用も多い。

2月10日(金)
近くで開催中の「Sit,Down.Sit Down Please, Sphinx.」泉太郎展に行く。久しぶりにさっぱり判らない展覧会であった。ひとつのテーマに縛られることを嫌っているようであるが、展示に手がかりがみえないし、マントを着るとかが反対に同調や参加が求められる。結構なショック。

2月8日(水)
「建築に何が可能か」を読み終える。本書は建築とは何かの否定からはじめる。「(建築とは何か)のような本質の把握においては、本質とは過去にあっても未来には必ずしも約束されていない理想であり、もし未来の行動の指針として本質をかかげるなら、彼岸としてしか設定されないのである」。そして「建築として何ができるか」に向かう。「何ができるかという問いは、過去から未来に至るプログラムの設定を可能にする。(中略)強く現世的である」。「個人あるいは集団の意識下にある不安と恐怖を意識の表面に浮上させることによって、これを積極的に打開すべき対象に転化させる。こうした顕在化こそ、希望の源となる。建築になにができるかと問うことと(中略)同じ構造をもっている。T・インゴルドの文章を読むようだ。この姿勢こそ後半の有孔体の理論であり、規制箱から孔がうがつイメージだ。浮遊の思想とは、そのために自由で自立した存在でなければならないことをいっている。読後に違和感がないのは、難波さんの考えの大きな部分にこの原さんの思想が大きくあって、それを通じてきたからだと思う。建築家の主体性が否定されて久しいが、原さんはそうでない。「建築家にとって可能なのは、ひとつの解答の提起であるにすぎないp33」。だから「したいことの内容が社会化されておらねばならないp34」という。それには秩序の発見が必要であるという。ぼくらにはむしろ秩序にかんする視点、制御する意識が欠けているというのだ。それを「被覆性」といい、そこからの搾孔が重要という。こうした全体と部分の関係がこの本を通じて一貫して語られている。

2月7日(火)
「建築に何が可能か」を続ける。「新しいこと」にかんする興味深い記述があった。「物質は、人間の出現とともに、ずれを表出する。私はこのずれにたいして、物語性なる概念をあてた。つまり、ものの在り方は、人間の介入とともに物語性に転化する。物語性とは、存在が意識に与える意味である。美しさとか心地よさといった領域は、観察者によってうけとり方が異なる。そこで客観性を議論してもはじまらない。しかし新しさは客観化されるのではないだろうか。新しいものの在り方は、論理的な新しさをもっている。新しさは、歴史の地平において論理的にとりあつかえそうである。そして、新しいものの在り方は、新しい物語を人々に用意するであろう。非難を覚悟で発言するなら、建物における条件の満足を議論し研究するより、新しさの追求の方がずっと合理的な行為なのだ。正確に発言すれば、正しい方法を探求する姿勢からは矛盾の止揚はほとんど期待できず、実践的に矛盾と対決せねばならない状況に、私たちは投げ出されているのだ。新しさの中にこそ、希望があるp178」。

2月6日(月)
013 ラ・リーガ ソシエダ×バリャドリッド 開幕時でいうならサブ組でソシエダはのぞむ。台所事情は苦しい。選手間のタイミングがよくなく、前半はバリャドリッドに押し込まれていた。したがって、久保は下がり気味で前線へはつながらない。後半からブライス・メンデスを投入。久保は前線に留まることができる。チームのポゼッション率も上がりいつもの形に近くなる。この修正力は流石である。ただし、久保のいくつかのフィニッシュは決まらず。速攻でやられて0-1で落とす。痛い敗戦である。久保はシュート後も引き締まった表情で気力が充実していていることが判る。今日のMOM。

2月5日(日)
NHK特集を2つ観る。ひとつ目は、ロシアのIT技術者の世界への流出についての特集。優秀な技術者がアメリカだけでなく、ウズベキスタンなど世界各地に均等に拡がっているという。実に1/3が国外脱出した。そして彼らはロシア国外で開発のネットワークをつくりはじめている。2つめは、アイリーン・スミスをクローズアップした水俣の特集。水俣は過去の問題ではないとして、現在でも2月に1度、ボランティアで彼女は水俣を訪れている。元夫のユージン・スミスの写真集は有名で、ぼくも幾度となく展覧会を訪れたが、いつ観ても心詰まる思いがする。数年前にはジョニー・デップ主演で映画化もされた。水俣は新しい局面に入っているのだ。したがって、この特集も「52年目のMINAMATA」というローマ字表記である。なんでも、スミス2人は50年代の水俣を訪れる前に結婚し、写真集ができると離婚したという。チッソ社を調べると現在も大企業である。驚きであった。当時も水俣市はチッソ社が中心にあって、公害問題が表面化していてもその善悪を問うには難しい状況であったらしい。特集後半の、映画に影響されてボランティアに参加する若者に優しく問うアイリーンが印象的。こうした状況に直面して何ができるかを迫っている。水俣を他者の出来事となるのを彼女は嫌っているようだ。しかし多くの若者はそれ以上踏み込むのを恐れる。FEARという感情を抱くからだ。「地獄の黙示録」のカーツ大佐が呟く「FEAR」をそのとき思い出した。そして裁判は今でも続いている。
012 プレミア ブライトン×ボーンマス 今日も三笘が終了間際に決勝点を決める。神かっている。引いてくる相手にたいし、決定機をつくれていなかったが、時間が経つにつれて相手の疲れからか徐々に可能性の片鱗をみせはじめ、最後はヘディングで決めた。それにしても三笘はクールである。

2月4日(土)
「灼熱の魂」ヴィルヌーヴ監督を観る。ギリシア神話を参照しているようで、アンティゴネの視点でオイディプスの周辺を描いた作品である。原作があり、70年代のレバノン内戦を舞台にして、悲劇における肉親への愛と社会倫理、そして神の崇高性をテーマにしようとしている。憎しみは愛の欠落から連鎖してしまうが、その欠落に気づくと同時に愛が理解できるというメッセージである。この映画のように運命のいたずらを批判的にみたくもなるが、それを上回る神のような存在が示されている。結局ぼくらが把握できる範囲はその程度であるという世界の被服性についてである。最初のシーンでの主人公のオイラーの等式についての見解がそれを物語る。パースのこれに対するコメントをまず思い出した。「ぼくたちはそれを理解できないし、それがどんな意義を持っているかも分からない。だがそれは証明されるし、それゆえにそれが間違いのない真実である」。
011 プレミア エヴァートン×アーセナル アーセナルは攻めあぐねて、0−1で下位から勝利を逃す。後半から新加入の選手が送られる。そして最後に富安も。相手に研究され、とくにサカへのつなぎが難しくなってきている。

2月3日(金)
午前から昼にかけて虎ノ門で打合せ。夕方から時間をつくり、久しぶりにゆっくりする。怪我から復帰して漸く自由になれた気がする。

2月1日(水)
「建築に何が可能か」を続ける。「非連続性の構造」の章が興味深い。「多様性の讃美は、ともすればあらゆるものの存在を許す共存思想に結びつく危険性がある。これは権力体制の持続をそのまま肯定する思想であるp74」。「共存の思想は、部分に自律性を認めるところに魅力がある。この魅力を変化する総体のなかでどう持続させるかが、私たちの課題であるp75」。つまり、部分と全体の両方を考える必要をいっているが、とかく部分にとらわれがちであり、全体、あるいは部分の連続に重要性を見出している。それで数学が登場し、加えて美がその機能を持っているというのだ。

1月31日(火)
「建築に何が可能か」原広司著を読む。「建築とは何か」ではなく、「何が可能か」を問うことを求める。というのは、カオスが普通のこととして、ありそうもないことを実現するのが人間であるという解釈に基づく。何ができるかには決断を要し、それは現実の自己否定性、歴史の否定性を予告するものという。それを投企といっているのは興味深い。大学で、合格か否かの議論が続く。上位の学生を伸ばし全体をあげることを議論した方が建設的だと思う。ルールを定めることはそれのクリアを目指させることを意味して前向きでない。学生の能力をあげることと反すると思う。

1月30日(月)
010 ラ・リーガ レアル・マドリード×ラ・レアルソシエダ 今日もシルバとメリーノは不在。4-3-1-2でマドリーにのぞむ。久保はトップ下。終盤では右に移動しフル出場。久保を右にして5−4−1にすると、ソシエダはマドリーの度々犯されていたサイド突破を抑えることができたが、攻撃に関しては久保頼りになる。そのときの久保とカマビンガのマッチアップは見物であった。しかし久保もアップアップで、0-0のドローで終える。ホイッスルと同時に久保はピッチに仰向けになる。怪我人が多く、オヤルサバルもいまいちで、これまでのようにパスで崩すことができないでいる。ソシエダはこれから少し日程も楽になっていくので、巻き返しに期待したいところだ。

1月29日(日)
009 FA杯 ブライトン×リヴァプール ブライトンは、移籍がこじれてボランチのカイセドが欠場。これが痛かった。中盤から前線へのつなぎが上手くいかずに、2週間前の戦いのようにはいかず。ただ調子悪いとはいえ、前年のチャンピオンとの対戦。見応えのあるゲームであった。そんな中、ロスタイムに三笘が逆転のボレーシュートを放つ。三笘は落ち着いていて貫禄すら感じられた。

1月28日(土)
友人の墓参りの後、数人の同級生と食事会。十年以来思っていた墓参ができて、少し肩の荷が下りた。高校卒業後も、その友人とは仕事を一緒にしたりよく遊んだりしたもんだ。苦い思い出ばかりが残っている。彼はアメフト部に属していて、彼らは幾度も墓参りをしていたそうだ。自由業をしている人が多く、会話も弾む。楽しい会であった。

1月27日(金)
修士設計の発表会。設計ではよく調査から形へ導くための論理性を問うために、不確定な条件を排除してしまう傾向がある。それでは、これまでの科学が犯した失敗と同じ轍を踏む。このことに自覚的になる必要を感じた。例えば、人口減少を課題にした減築のための有効な構法は、昨今の環境問題、特にしっかりと断熱することにとってはマイナスともなる。あるいは30年前にはフロンなど考えもしなかったが、大きな社会問題となった。こうした課題はこれからも山ほど生まれてくるということもあるだろう。それらを視野に置いた対応とはどういうものか。「デザインスゴロク」の効果を池辺は、陥りがちなそうした過ちのためにも役立つ、といっていた。それだけ未来を計画することは難しいのだが、避けることができないことでもある。今年度の遠藤研からは2名が参加した。伊藤くんは、環境を建築でコントロールする前段階として、環境を身近に感じさせるための建築を考えた。制作者の意図を他者に伝える技法は映画において先んじていて、昨今では背景に環境を絡める技法が多い。それを建築に応用する計画である。例えば、雲間から差し込む幾筋かの太陽光は印象的な映像である。映画ではそうした光景をより印象的にするために、前後のカメラワークやストーリーを巧みに構成し、それによってぼくらは、主人公の心の動きを、光りのもつ力強さや空の高さなどと合わせて感じることができる。建築もまた、シークエンスの映画的な手法の導入によって、特定の環境をユーザーに認識させることが可能となるというのがこの作品のねらいである。結果、建築のシークエンスは映画ほどに誘導できるのは難しく自由に思考してしまうので、その効果は発揮できなかったと思う。しかし、建築のオブジェクトだけに注目するではなく、それを含むコンテクストまでを取り込むシステムをデザインしようとしたところを評価したい。もうひとり鈴木さんの作品は、失われていく鵜飼文化を建築によって再構築しようとする作品であった。本作品は、鵜文化を4つの視点から見直している。まずは通時的視点。鵜飼いは漁業というよりも文化的側面に重きが置かれた歴史的な変遷を辿ってきたという。次に共時的な視点から、現在残っている鵜文化に物質的や道具的共通性を認め、そこに特殊な素材の扱いを発見していた。そして自然科学的視点。鵜飼いに使用される鵜は海鵜で、渡り鳥で、中国からシベリアへの行き帰りの年2回、茨城県の太平洋突端の海岸壁で休息を取る。そのときに用いる伝統的捕獲方法を発見した。そして全国に送られて鵜飼いの鵜として飼い倣わせる方法にも特徴があり、鵜の生態を通じた人の営みを発見した。最後に経済的視点。観光業として現在の鵜飼いは危機的状況にある。その経済的存在価値を高める方法を建築に見出していた。以上から本作品が計画したものは、人間と鵜の関係の提示、それは捕獲し、生活し訓練し、副産物を得て、観察・研究することを可能にする文化的拠点の提案であり、それを多くの人に掲示するための開かれた文化の推進を目指し、鵜を中心とした人と社会のネットワークの再構築である。これは地域間の交流にも及ぶ。以上のようにこの作品は、鵜文化を詳しく調査し、そこで見出されたいくつかの発見が、人と生物との間にあった興味深い関係を示すものであった。この建築が目指すものは、そうした環境を取り巻くような建築の提案であった。

1月26日(木)
「風景の科学 芸術と科学の融合」を読む。2019年の国立科学博物館開催に合わせて制作された本である。上田義彦氏の写真から数々の事実を拾い、それを指し示すことに目的がある。伊藤俊治さんの「風の博物誌 ー芸術と科学のインターフェースー」という論考は勉強になる。それによると、「ランドスケープ」という言葉は17世紀、風景画を意味していたという。だから、現実の光景を意味するのではなく、風景を描いた絵画を示していた。現実の風景を意味するようになったのは18世紀であるというのだ。そして、風景画が芸術ジャンルになり自律するのは、19世紀になってからだという。それは、ジョン・ラスキンが「感情を持って見るにもかかわらず正しく精密な知覚」をもつ人を芸術家といったことによる。その画家とは、ウィリアム・ターナーとジョン・コンスタブルである。この時期に自然と人間の交錯を模索した人が一方にいた。ゲーテである。ゲーテは18世紀後半から19世紀にかけて、科学たる由縁を、新規の発見ではなく、発見されたものの自分自身へ結びつけることにおいてみていた。つまり、「個々の事実の発見の連鎖により世界全体を一つの視点から眺め直す」ことを目指したとのである。直感的概念を科学的概念の先に置いたのである。そして本書にもある写真の登場である。写真にも科学的想起を期待させようとする意図がこの本にある。008 スペイン国王杯 バルセロナ×ソシエダ メリーノ、シルバと故障で、トップ下久保、2トップにするロットとオヤルサバル。前半の30分でプライス・メンデスが退場。0-1で敗退。久保はというと、左からのシュート、60分過ぎには正確なセンタリングで活躍。爪痕を残した。とにかく激しいゲームであったと思う。そうした中、気後れせずに久保が中心であったのが大きい。

1月25日(水)
「力と交換様式」におけるマルクスの言葉を整理。「机は、やはり木材、ありふれた感覚的なものである。ところがこれが、商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう。(中略)したがって商品の価値の神秘性は、その使用価値に由来するものではない。価値規定の内容から生ずるものでもない」(マルクス「資本論」第1巻第1章)。「ある一定の商品を一般的等価(貨幣)にしうるものは、社会的行為だけである。だから、この一定の商品以外のすべての商品の社会的行為が、自分たちの価値を全面的にそれに表すある一定の商品を、除外するのである。このことによって、この商品の自然形態が、社会的に妥当な等価の形態となる。一般的等価であるということが、社会的過程によって除外されたその商品の、特殊な社会的機能となる。こうしてその商品は―貨幣となる」(マルクス「資本論」第1巻第2章)。つまり、マルクスは「貨幣の生成を商品世界における「社会契約」として見たp105」と、柄谷はいっている。

1月24日(火)
GA JAPAN180 2022総括と展望 を読む。二川さんと藤原哲平氏+石上純也氏の対談。前半は建築家のスタディもどきの批判。あまりにも建築家は前提を受け入れすぎていて、それでのバリエーションに価値がないという。そのボスとして隈さんと藤本さんの名が上がり、山本理顕さんはその対極に置かれる。制度そのものを変えた上での空間化を目指すべきという。GAは健在である。

1月23日(月)
a+u増刊号「茶室33選」を読む。桐谷邦夫氏と石上純也氏との対談で、茶室を空間ではなくモノとしてみることが提案されている。非常に現代的だ。日本には黒木造が古からあり、草庵はこれを引き継いでいるらしい。小堀遠州の孤篷庵忘筌、金地院八窓席、曼殊院八窓軒、高台寺の傘亭と時雨亭を思い出してみる。

1月22日(日)
007 ラ・リーガ ラージョ×ソシエダ 国王杯の相手がバルサと昨日、決まる。したがって、ソシエダは今週バルサ、レアルと合いまみれる。そのためか久保は欠場。監督曰く、右太ももの違和感があり大事を取ったという。2-0で勝利も、攻撃の起点がみえなかったのを見ると、久保の存在は大きくなっているのが分かる。

1月21日(土)
「力と交換様式」を読み、建築における力みたいなものを考えた。建築における空間と人間との間にも、霊的な力の交換が期待されているように思えるからだ。もう一度、繰り返しアルベルティを持ち出すまでもなく、中世が野蛮とされていたのは、考えることすなわち知が上部構造に何よりも置かれていなかったからであった。そして図面というシステムを持ち出してそれを可能にしたのがアルベルティであった。このとき建築家は空間操作という力を手にしたことになる。知はそれまで、パンテオン級の大きい空間がフィレンツェのドームまで不可能であったことに見られるように、石材を積み上げる作業や徒弟制度のギルドの中に隠されていたのでないか。それが開放されたのである。このように知の出現は歴史上繰り返し起こっている。ヴィオレ・ル・デユクの18世紀は「構造」というものがそれであったのではないか。そう考えると交換様式Aという遊動的で個性体・独立性を備えた状況は、知をもそうさせる。柄谷のいう高次元の回復とは、知も射程に入っているものだろう。
006 プレミア レスター×ブライトン 三笘のスーパーゴール。余裕が感じられ、右45度からであった。相手DFも三笘を恐れて無理にあたってこないことがそれを可能にしている。その時点で三笘が上にいる。しかしゲームは2-2のドロー。ブライトンのトロサールは移籍してしまった。

1月20日(金)
卒業設計の発表会。朝から全学生による発表。昼にポスターセッション。20名程度の選抜を経て質疑応答、こうしたプログラムで進めた。全体的印象というと、構造等のエンジニアリングや社会的要求を考える教育方針であったので、きちんとした建築を考えることができるようになっていた。それによってポジティブには、図面表現が充実した一方、既知感に支配されているように見えてしまうのも事実。むしろぼくらを取り巻くそうした押さえるべきことから批判的に向かえばよいと思う。例えば、社会的要請からリノベーションを提案する案が多いのだが、そのとき構造材などの痕跡を残そうとするのは、設計者としての美的センスが実は大きいのだと思う。しかしそれを社会的な要請として処理してしまえば、それを免罪符にして美を自由に手にすることができる。そうした美は意識的でないので、客観的な伝達能力も低くステレオタイプ的なものになっているような気がした。遠藤研の中村理来くんの案は、長崎の伊王島の観光地化を文化面から考える案であった。伊王島は隠れキリシタン、炭鉱、本土からの橋の建設などの最近の経済政策、コンテクストが複雑な場所である。70年代には山田洋次が映画にしていたし、遠藤周作の小説とも深く係わっている。中村くんはそうしたものを手がかりに島の情報を丁寧に拾っていった。今では当たり前になった島にある仮設パイプや失われた山道、そして炭鉱孔の動圧受けになる山積みされた木々の写真の発見は、そうした手がかりによるものである。それらに彼のセンスが相まって独特な作品に仕上げていた。遠藤周作の文学界における評価はいまいちのところもあるが、外来文化を内的なものにかみ砕く日本人としての苦悩を一貫して描いており、映画監督マーティン・スコセッシは人間性をそこに発見している。皆川里久さんの作品は、70年代の森俊偉さんが見出した「丘端」を現代の栃本限界集落に見出そうとする計画である。それが現代SANAA風で軽やかにできているのが当時と異なりよい。いくつかの問題が指摘されたのが、この発想は皆川さん特有の素晴らしいものなので、これを表現としてさらに展開できればよいと思う。タイトルにも「天空の栃本集落」とあり、天空性を表現できたら有無を言わせないと思う。瀧岡玲奈さんの作品は、瀬戸内海の粟島での日常を再評価しようとする作品。空間が場になるには、意識化を経なければならないというイーフー・トゥアンの考えによっていて、この作品は導かれている。これを表現できなかったのが悔しいところであるが、瀧岡さんは島民の生活や出来事にそれを見出そうとしていて、中村くんがモノにそれを見出そうとしていたところとの違いがあった。こう考えると、岡崎乾二郎が芸術家にみられる抽象の力といっていたものの存在を大きく、山田洋次やマーティン・スコセッシなどは映像へ総力を投じていることに気づく。建築も同じだと思う。森本遼くんの作品は、ジル・クレマンの「動いている庭」を参照し荒れ地をテーマにしている。そこには、全てをコントロールすることへの批判がこめられている。雑草を亡くすことは無理あるように、街へユートピアを見出すこと、逆に消えゆく街を復活させることも難しい。だから、荒れ地という現実と上手く付き合い共存していくこと、その素晴らしさが現代に欠けていて、荒れ地にヒントがあるというものであった。この節度さは建築と相反することが多く建築化するのに難しかったが、確実に現代的なテーマである。山崎優大くんの作品は境界の研究。境界は曖昧な事象なため、モノとしてあるいは心的対象として研究に昔からなっているので新規性が難しかった。参照文献を見つけることができなかったことも大きいと思う。分析の解像度を上げていくと複雑になり、ネットワークのようなもので応えるしかない、このことまでたどり着くことができれば新しい展開かとも思うが、ぼくにとってもアイデアの段階である。小川裕太くんの作品は西船橋駅の再整備計画。いつものようにプレゼがユニークでこれまでになかった才能をみる。今後この才能のテーマは何かを考える。

1月18日(水)
「力と交換様式」を読み、建築や芸術、あるいは文化における交換様式A,B,CそしてDは何に当るかを考える。いわゆる「建築」というシステムは15世紀中頃からはじまったと言われている。その第1人者であるアルベルティはフィレンツェ出身で、はじめは商人から仕事を受け、晩年はローマ教皇の仕事を受けていた。アルベルティの「建築論」はウィトルウィウス(紀元前の共和制古代ローマ末期と帝政ローマ初期)を参照したのは有名である。「力と交換様式」によると、このウィトルウィウスの時代は、カエサル暗殺の頃で、「互酬交換Aをとどめる“パトロンークライエント”関係が残り、それが王―臣下という体制Bの確立に抵抗したp201」時代であった。つまり、「ギリシアと同様に氏族社会の民主主義残っていた」時代、すなわちBに行く前のAの時代であった。一方アルベルティの時代は、絶対王政と宗教改革前の商人資本の時代。職人や商人のアソシエーションあるいはコンミューンが形成されていた時代。「力と交換様式」によれば、未開のAが濃密に残存し、それがBの決定的な優越を許さない時代にあたる。だからアルベルティをはじめその後の多くの芸術家はパトロンを求めていくつかの都市を渡り動いていた。アルベルティの作品の代表は、マントヴァのサンタンドレア教会。図面というものを発明し、考える人とつくる人を分離させ、建築家を特権化させたことでも有名で、建築家に一種の力、無から素晴らしいものを生む力、これを備えた人であることを世間に浸透させようとした。このように考えると「建築」のはじまりは、未開の氏族社会Aの互酬交換のような力を復活させようとする産物だろうと推測する。次の段階、1848年時代の建築家と言えば、構造を「建築」に取り上げたヴィオレ・ル・デユクである。ヴィオレ・ル・デユクは官僚であったと聞く。鉄を使用し力の流れを理解して、朽ち果てていた数々のゴシックの教会を独自の思想で修繕をした。教会が教皇のものから国のもの、そして市民のものとなっていった時代で、キリスト=ネーション=国家の出現ともいえる。その前がルドゥーで完全円形の管理建築、ショーの製塩工場(1779)を完成させている。絶対王政の時代で、これはまさしく交換様式Bの建築である。だからヴィオレ・ル・デユクは、この完成されたBからの脱却のために構造=技術、あるいは中世のゴシックの可能性を見出した訳だ。交換様式Cの建築としては、1951年のミースのレイクショア・ドライブ・アパートメント、あるいは真反対のぼくらがつくったような狭小住宅のようなものだろうか。お金によってしかも少額で、これまでの慣例、道徳なしに誰もが最新の技術や素材を手にできるようになった。

1月17日(火)
「力と交換様式」柄谷行人著を読み終える。本書によるとマルクスが晩年に至った結論は、未来の共産主義が古代社会にあったものの高次元の回復によって成立する、というものであった。それは、次のようにも記述されている。「定住を強いられた諸個人は、定住共同体の掟に自発的に従うようになったが、同時に、遊動的な段階にあった個性体・独立性を保持したのである。それが氏族社会である。しかし、国家の出現とともに、自体が変わった。氏族社会が終わっても、人々は国家の下で共同体を維持したが、それまであった個体性・独立性を失った。交換様式でいえば、そのときAがBに押さえこまれたのである。 その後、近代国家・資本主義の発展、つまり、BとCの拡大とともに、村落共同体Aは解体されていった。しかし、それはある意味で回復された。つまり、資本主義経済の下で、ネーション(想像の共同体)が形成されたからである。とはいえ、それはAの“低次元での回復”にすぎない。その結果として成立したのが、資本=ネーション=国家である。そして、それが最初に出現したのは、ヨーロッパにおける1848年の革命を通してであった。マルクスとエンゲルスはそのとき、資本=ネーション=国家の出現、すなわち、Cの下でのA・Bの結合という大事件に立ち会ったのであるp389」。共同体のあり方としてアソシエーションという協同組合方式もひとつの方法であるがそれは、ユートピアン社会主義であり、ローカルに通用するものでしかないという。したがってもう少しスケールアップした国家や資本というものを揚棄することはできない。揚棄しようとすること自体が、それらを回復させてしまうからだという。そしてそれを可能とするのは、この本のテーマである高次元のAの回復によってしかないというのだ。Aとは、互酬にもとづく相互扶助。個体性・独立性ある社会のことであり、それは古代社会にあったものものである。

1月16日(月)
「力と交換様式」は第4部。ヘーゲル、マルクス、エンゲルスと続き、エルンスト・ブロッホが登場し、ブロッホの「希望」を定義する。それは「希望とは、中断された未成のものが、おのずから回帰すること」である。これを史的唯物論でいう「未来」、生産力とともに形成された生産関係(階級)の変革と国家の揚棄によって実現されるもの、と対比する。そしてブロッホは、無意識に対して未意識という。反復される意識のことをいう。

1月15日(日)
午前に娘たちと2階の残工事。これで一通り終えることができた。後はリフォーム会社に任せようと思う。午後から妻の実家に行き、義父の退院祝い。軽めの会食をする。元気そうで何よりである。
005 ラ・リーガ ソシエダ×ビルバオ はじめて観るバスクダービー。他のダービーとは異なり穏やかである。互いのサポーターは隣り合って座り観戦するほどだ。隣接すれどもいがみ合うことなく共同体としての意識があるらしい。ソシエダのホームページも一番始めにバスク語euskarであり、スペイン人であることの前にバスク人であることが分かる。試合前には民族舞踊も。脚を中心とした踊りであった。久保は右FWで先発。ゲーム当初から意気込みが感じられ調子がよいのがわかった。相手股抜きの1GにエースオヤルサバルへPKもプレゼントし、MOMに選ばれる。今日は、ビルバオのプレッシングも激しく、ソシエダはそれをかいくぐるのに苦労していた。そのひとつの打開策にCFのセルロートが下り、久保はその近くを上がってゴールを狙っていた。交代前には、そうした状況で何度も裏を狙っていたのだが、味方からはパスが供給されないのは、もうひとつ信頼をつかめていないことかとも思う。反対サイドにオヤルサバルがいて攻撃の重心がそちら側になっている。

1月14日(土)
003 プレミア マンチェスターユナイテッド×シティ ユナイテッドが逆転に成功。ホームでの気合いが感じられた。いずれも速攻から少ないチャンスをものにしたものであるが、その前からプレッシングが激しくなり逆転の予兆は十分に感じられていた。その結果ユナイテッドもいつのまにか上位に位置し、2位のシティとの差はなくなっている。
004 プレミア ブライトン×リヴァプール 三笘の左先発もしっかり定着したようだ。今日も随所にリヴァプールサイドを脅かしていた。その対策としてリヴァプールは右ハーフのヘンダーソンを下げて2人で押さえ込もうとするも、ブライトンも左SBのエストゥピリアンとの連係でこれを崩そうとしていた。結果、後半からブライトンの圧勝。故障者が多いリヴァプールであるが、昨年までの勝者の面影は今はない。クロップは7年目で、それはドルトムントで不調であった時と重なる。

1月13日(金)
朝から建具、ガス、ペンキの工事。今日で工事は一段落するも、残されたセルフ工事部分は大きい。その予定を立てて今日を終える。室内はすこぶる快適になった。

1月12日(木)
大学にて重要な会議。なかなか解決が見出せないが、誰かが無理しないといけないのだろうと自覚する。交換様式Aを高次で再回復するには、柄谷にいわせると、本来あるべき交換様式Aが有効らしいことを自覚できないといけないが、それには情が重要な要因になるのだろう?と思う。

1月11日(水)
o+hの大西麻貴さんをむかえてのレクチャーシリーズ。今年度最後となる。大西さんは実に感受性豊かで人柄もよく、具体的なエピソードにそって話をすすめる。この姿勢に惹かれた。無防備にみえるのもまたよかった。タイトルは「愛される建築をめざして」。これは高校時代からの近代建築に対する疑問であったという。大西さんの考えは一貫している。それは「個から出発する共感の輪が重なり合い全体が包摂される」というものだ。それを聞いて、ぼくはプリコジンの散逸構造を連想した。大西さんはそのための建築の構成を模索しているのだという。他の建築家と異なっているのは、そのために新しい建築の形式をつくることも大切に考えていることだ。このことに大変共感した。つまり、恣意的でありつつも自分を開いているのである。いくつかのプロジェクトを紹介してくれた。どれももちろんプランが大事となり、そのため求められる要求を意味として重ね合わせていくのだそうだ。しかし、それにもまして屋根の形にも重きが置かれている。屋根にはあまり要求がないのだろう。したがって大西さんの建築に対する思いがそこに表現され、建築になっていると思う。近作では、庇端部の修まりなど建築としても洗練されてきている。よいレクチャーであった。

1月10日(火)
「力と交換様式」を続ける。第3部の最後は環境問題について。アニミズムが消えてしまって、自然が人間にとって、単なる操作される、また操作されるべき物となってしまった点を批判する。「われわれが今日見出す環境危機は、気候変動のような問題に還元されるべきではない。環境危機は、人間の社会における交換様式Cの浸透が、同時に人間と自然の関係を変えてしまったことから来る。それによって、それまで“他者”として見られていた自然が、たんなる物的対象と化した。こうして。交換様式Cから生じた物神が、人間と人間の関係のみならず。人間と自然の関係をも致命的に歪めてしまったのである。さらにそれが、人間と人間の関係も歪めるものとなる。すなわち、それはネーション=国家の間の対立を各地にもたらす」。

1月9日(月)
サントリー美術館で開催中の智積院展に行く。長谷川等伯の屏風は、10年くらい前に父が本物を観たいというので京都に一緒にいった。行くと屏風は、門の左の寒々しい宝物館に展示されていて、がっかりした記憶がある。しかし隣の会館には土肝を抜かれた。屋根を支持する柱がコンクリートのポテンシャルを遺憾なく発揮していた建築であった。後で調べると増田友也であった。現在は取り壊されてしまったそうだ。今日の展示では、等伯と息子久蔵の屏風は完璧に展示されていた。CGのようであり、これはこれで少し残念でもある。この江戸初期の絵は絢爛豪華であまり好みではないが、構成と対象物の大胆さがその感じを上回っている。構成という概念は江戸当時なかったと思うが、極端な横長であることがそうさせているのだと思う。それは少し前の狩野永徳のもと比較しても、のびのびしていてより大胆である。二人はライバルであったといわれているが、それもうなずける。等伯後の琳派の展覧会に今度行ってみようと思う。

1月8日(日)
妻を実家に送って、ホームセンター巡り。今週の残工事に備える。
002 ラ・リーガ アルメリア×ソシエダ 久保は右で先発。今日は右脚で右奥までドリブルで攻め上がり、遅れて上がってくるシルバとの連係も多かった。シルバにアシストを与える。右サイドでは、シルバやメリーノ、そしてプライス・メンデスなど左利きの選手が密集して起こす攻撃が目立つ。対し左では、比較的スペースがあり久保が自由に動き回れっている。最近久保が右に位置するのは、おそらくエースオヤルサバルが左で復帰したときの対策と思いたいが、実に面白い展開となっている。

1月7日(土)
リビングのオーディオのセッティング直し。漸くこの作業にかかることができた。始めようとしてから1年かかった。注意深くアンプの配線を確かめながら進める。
001 プレミア ミドルズブラ×ブライトン 三笘先発。アシストも決める。ブライトンの戦術が巧妙で全員をピースのように考えている。こういう形に日本人はあっている。三笘も後ろのSBエストゥピアンとIHのファーガソンとの連係がはまる。

1月6日(金)
午前に虎ノ門に行き、午後に銀行の雑用と炊飯器を修理センターに届け、どちらも連絡待ちとなる。「力と交換様式」第3部を読みはじめながら、子供の頃の疑問を思い出した。それは、なぜ紙切れでしかない紙幣の価値を皆が信じて売買するかという点や、西欧の人たちが聖書の前で宣誓する点。宣誓など単なる口先のものでしかないと思っていたからだ。あるいは戦争を起こす一方で、憲法を重んじる点についてだ。これらは幽霊のようなわからい力である。本書ではこれを説明しようとしていて、徐々に納得していく。

1月5日(木)
「力と交換様式」第2部を読み終える。後半は、共同体にいたゲルマン農民が、どこでいかにして賃労働者に転化したかについてである。それはマンチェスターやリヴァプールという新都市の織物業で起きた。織物業はあまり熟練業を必要としなく、消費者としての魅力に彼らがかかってしまったためとされる。これが資本の優位性を導き、絶え間ない技術革新が求められ、産業革命が起こったという。その下地として宗教革命による神崇拝からの解放、すなわち貨幣を蓄える物神崇拝と国家による規律教育があったという。

1月4日(水)
妻が義母の世話に出かけたので、今日は近くの熊野神社に一人で行く。結構人が多かった。「力と交換様式」第2部をほぼ読み終える。第2部はイオニアからギリシア、ローマそしてゲルマンまでの中世、そして絶対王政までの、近代国家が成立するまでの話である。このときギリシアやローマは、アジアの亜周辺であったと指摘される。そのためアジアの官僚制専制国家システムが及ばなかった。そこでは互酬性に基づく小国家(都市国家)が形成され、ゲルマンの封建制も、領主と農民の間の双務的な農村共同体(アソシエーション)であったという。柄谷はそれを未開的といい、文明と対立させる。この未開性が専制国家をつくる妨げになっていたし、ギリシアで芸術が花開いたのも、この未開性によるものだという。その未開性は、今では修道院にて見ることができる。そしてこの絶対王政(といっても君主に毛が生えたものでしかないそうだ)が崩壊してはじめて近代国民国家が成立するに至った。本章の後半にベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」も紹介される。資本主義の成立と印刷を通じた情報技術を通じて、新しい集団意識が目覚め、法に基づく国民国家がブルジョア層によってもたらされたという。ここでもまずは現実社会があり、それは上部構造から発展したものとなっていない。

1月3日(火)
今日は妻と近くの氷川神社へ初詣。午後から2階の整理。正月が明けると職人さんが入るための準備をする。昨日に続き山田洋次監督を観る。「幸せの黄色いハンカチ」。この映画を、ぼくが学生の頃、中埜博さんが難波さんに強く薦めていた。このことを鮮明に覚えている。そのとき難波さんは意地でも観ないといいつつも、それなりに詳細を把握していた。二人のただならぬ会話から、ぼくも今日まで観ないでいた。その自制を思い切って外して観ることにしたのである。もうよいのではと。案の定、この映画の特徴は、あらゆる複雑な現実を伏せても訴えかける感動をなんの衒いもなく描き切るところにある。もちろんぼくもそれに素直に反応した。が一方で、ある種のパターンに寄り添ってしまっている姿勢を批判的に思ってもしまう。つまりこのふたつの間を揺れてしまう訳で、学生時代に危惧した状況と今もあまり変わっていない。ただし、あらゆる前提をあらためて問い直すことなど本当に不可能と考えるようにもなっていて、その上に乗った方がいくらかでも前進できるとも考えるようになってきている。この映画を通じてこのことに気づけたのはよかった。

1月2日(月)
近くの幡ヶ谷不動尊へ初詣。人が少なくてよい。護摩焚きのみで予定の時間より早くはじまるも30分ばかり続いた。天気もよく清々しい気持ちになる。午後に「家族」山田洋次監督、1970年の作品を観る。長崎の伊王島の炭鉱に勤めていた家族が北海道の中標津町の開拓地までたどり着くまでのドラマである。日本の高度経済成長時代の風景と世情を知ることができる。井川比佐志と倍賞千恵子が扮する家族はおそらくぼくの両親と同世代だろう。現実と社会の歪みにもがくのはどの時代でも共通であるが、真っ直ぐな希望を抱いているのが現在と違うところである。それに重ね合わすように博多の工業地帯、福山の工場団地、そして大坂万博も描かれていた。列車から垣間見られる街の風景も多様で特徴的だ。山田洋次監督はその前年に「男はつらいよ」を完成させ、キャストを含めそのファミリーによる製作である。

1月1日(日)
今日は妻の実家で正月。向かえにある西福寺は今年も開いていない。三重塔もある立派な寺であるのに残念だ。その間に4年生から送られてきた梗概のチェックと読書。妹夫妻が今年になって飼い始めたボルゾイに会う。大型犬であるが、物静かで優しい。2時間の間、子供たちとじゃれ合っても一度も吠えなかった。体高は机より高く体重は45キロくらいあり、毛艶もよくぬいぐるみのようだ。「イエスマン」ペイトン・リード監督をBSで観る。2008年の映画で、家族はよく知っていた。主人公が変な宗教に感化され、つまらない人生をポジティブに変えるコメディ映画で、元気をもらう。ジム・キャリー主演。「アメリカン・スナイパー」のブラッドリー・クーパーも友人役で出演。製作までしている。クリント・イーストウッドの「運び屋」では、イーストウッドを敵視する保安官役でもあった。司祭役がこれまた特徴的で、見覚えがあるとネット検索するとスターウォーズの良心的な最高会議議長の一人であった。