10月23日(金)
096 EL ビジャレアル×スィヴァススポル 待望の久保が先発出場。トップ下であった。スィヴァススポルは前線から激しくプレッシングをかけてきたので、それにビジャレアルDFは苦労するも、一旦抜け出すことができるとフリーの久保が中央で待っていたかたちである。成功のカギに実はこのことが大きい。しかし久保も優秀で、ワンタッチパスによって大きくボールを前に進めることに成功していた。1得点2アシスト。しかし今日のビジャレアルはこれまでの控えであった選手を多く使っていたので、全体を通じて安定した試合コントロールできていなかった。絶えず追いつかれる。相手はトルコの中堅である。もっと楽に勝ちたかったろう。後半からは久保は何故かしら右サイドに変更され、チュクエゼが2トップの位置に入る。今後のためのエミリの模索だろうか。チュクエゼはどちらかというとアタッカーなので、アタッカーのバッカと被り前線に渋滞をつくることも多く、中央には大きなスペースが残されていた。しかし久保もなかなかそこを使わない。何故だろうかと思う。その代わり、SBと縦との連携を高めていた。それでいくつかの突破のかたちもつくる。面白いのは中央が空いているので、DFラインからダイレクトな縦パスが入るようになったことだ。バッカに代わったパコがそれで追加点をあげる。これで5-3。ビジャレアルは勝利を確信し、若い選手を右に入れ久保は再びトップ下にもどる。そして再び自由にボールを持てるようになった。久保の週末の出場停止が取り消された。これでエミリ采配も楽しみになる。

10月22日(木)
095 CL アヤックス×リヴァプール 今日の南野は躍動していた。後半55分過ぎから登場。クロップは、このとき3トップをまるまる変えた。そこに南野がいた。サラー、マネ、フィルミーノとの連携を気にしなくてよかったため、南野は自由に動き回ることができたのかもしれない。戦術においても新しい3トップは、ハーフライン少し上からのプレッシングを行い、それによってアヤクッスDFラインはボールの出しどころを失っていた。その結果、形勢はリヴァプールに傾く。中盤でボールを保持できるようになった。DF裏のスペースを南野が自由に使えたのはこの理由による。ほしいシュートも何度か放つ。

10月21日(水)
大学に行く途中の3車線湾岸道路で覆面パトカーの行動をたまたま見る。彼らは一番左車線を走行し、2車線越しに右の追い越し車線を走るかなり後方の車の動向をじっくりと観察している。そしてスピード違反車を発見すると、それより少し先に、まず中央車線に移り、抜かれた瞬間に最右車線に入り計測を始める。サイレンを鳴らすまでは一瞬のことである。違反車が減速する時間的余裕を許さないのである。違反車も急に後方につかれるので、気付いても減速できないのではないか。これは中央車線がつながっている状況で行われる。パトカーのその中央車線への移動も巧みで、車間距離をとっている車の少し前を選び、それに併走しいつでも車間に入れるような準備をしている。捕まった車は制限スピードを越えてはいたが、100キロそこそこでなかったろうか。

10月20日(火)
スラヴォイ・ジジェク「パンデミック」を読みはじめる。ジジェクは久しぶりだ。中国における初期情報隠蔽がコロナの問題を大きくしたといい、目先の結果に左右されずに、情報開示は必須であるというのがジジェクの考えである。そうするとぼくらがむかえるべきは呉越同舟の世界であり、それは新しい形の共産主義の世界となる。WHOのような組織が先頭にたって世界全体をリードするような世界である。

10月19日(月)
「アルファベットそしてアルゴリズム」マリオ・カルポ著を読み終える。デジタルテクノロジーによって、アルベルティ以降の近代建築、あるいは「原作者」としての建築家の役割が終わるというのが本書の結論である。最終章は、アリストテレス以来の類と種が引用される。2つの一般概念の外延について比べて、一方が他方に包摂されるとき前者を後者の種,後者を前者の類と呼ぶものだ。デジタルテクノロジーによって、すべてが種となり、かつての原作者性はなくなり、類は新しいアルゴリズムをデザインしないかぎり達成できないというのだ。しかし、これはデジタルテクノロジーの出現を待つまでもなく、ずっと変わらなかったことであると思う。類を大文字の建築と置き換えればそれははっきりする。建築家が原作者と思い実行してきたことは、実は従来から種でしかなかったと思うのだ。むしろ原作者性についての誤った考え方が、デジタルテクノロジーによって市民権を得たということだろう。面白いのは、この種のことをauthorシステムといっていることである。署名性と原作者性の違いがこれではっきりした。OOOでよく使用するauthorとはoriginalityと区別するものであった。本書は全く新しい建築史の本である。2011年出版、2014年翻訳の本であり、その後に続けて日本では「建築のかたち」クプラー著、「建築の聖なるもの」土居義岳著などが翻訳されることになる。

10月18日(日)
隈研吾設計の廣澤美術館へ行く。思ったより小さい建物であった。ランドスケープを意識した建築で、屋根のみの建築で潔い。積まれた石が横力にたいする構造体というが、そうは感じられない。屋根を支えるせいのある梁は集成材でテーパーがかかっていて軽やかで現代的である。屋根は3枚。それに囲まれた中央が収蔵庫で、外に開く建築である。オーナーのコレクションである巨石が長手方向に積まれる。それは内部から見えたらよいと思った。作庭は斎藤忠一氏。ランドスケープを宮城俊一氏が担当する。こうしたマネジメントできるのがすごいことだと思う。ただし隈研吾展が開催されていた。その後に庭園を廻る。
094 ラ・リーガ ビジャレアル×バレンシア 前半からビジャレアルがボールを支配する展開も、得点は開始早々のPKだけであった。その後、目の冷めるようなシュートを放たれ同点にされ、膠着が続いた。先発も予想された久保は60分過ぎに右サイドで登場。コクランと共に一番手であった。左からの攻撃を中央で受けて、かたちが美しくなかったがパレモのアシストをする。その後は、どちらかというと最終ラインに吸収され、守備に追われる。そのなかで戸惑っている風であった。案の定、トラップミスからイエロー2枚をもらい退場。今日も終盤の締めを厳しいものにしてしまった。昨季は当初フリーであってもなかなかボールが回ってこなかった。そして久保がチームで認められると彼中心に展開した。今季は、フリーになれる程チームバランスが悪くなく、ボールと人が程よくちらばっているので、ボールも回ってくるが、見方との連携で動きが制限されている。そのため窮屈で得意でないポジションでボールを受けることが多く、そのためロストも多い。それが続いている。監督がいう「対応の途中段階」という久保の評価はこういうことをいうのだろう。しかし各選手は歯車のひとつのようでチームが小さくまとまってしまっている。もうひとつ久保が突き抜けると、そうした制限から解放され自由さが与えられると思うのだが、それには結果が求められる。

10月17日(土)
093 プレミア エヴァートン×リヴァプール 2-2のドロー。激しい闘いであった。前半にリヴァプールはファンダイクを、エヴァートンもサイドバックを負傷で失っていた。南野の先発の話もあったが出場なし。今日のゲームを観る限り、よほどのことがない限り3トップは絶対的である。3人のプレーは息がピッタリである。いつも前を向いてのプレーができている。そこが南野との大きな違いである。3トップで次に登場したのはジョッタであった。

10月16日(金)
「アルファベットそしてアルゴリズム」を続ける。アルベルティによってつくられた表記法によって、モノは複製可能となる社会がつくられた。しかし現代は、そこから開放されたノンスタンダードの時代であるというのが、本書の主旨である。別な言い方をすれば、現代は、つくる人が考える人から解放された時代となった。かつ、そのふたつの関係を複雑にネットワークし直す時代になったとし、ウィキペディアとラトゥールのネットワーク論をこの好例として引き合いに出す。あるいはフランシス・フクヤマの「歴史の終焉」と関係づけ、次の新しい時代の契機になるとしている。もちろんこれに同意する。しかし今一納得いかないのは、P135にも挙げられているレム・コールハースの概念のように、「ジェネリック」や「ビッグネス」が今では現実世界で力をもっていることである。それらはノンスタンダードとは正反対の世界を示唆するものだからである。

10月15日(木)
ゼミにて都内の建築レポート。提案された建築の時代背景を、敷地条件と合わせて話しをする。当時、暗黙裏ではあるが時代が背負っていた問題が建築デザインに大きく影響をしていることを知ってもらいたいと思った。建築家個人の考えも振り返ると時代の影響を大きく受けている。

10月13日(火)
092 代表 日本×コートジボワール FIFAランキングとは関係なく明らかに格上のコートジボワールに対して、これまで通りの4-4-2で日本は立ち向かう。しかしメンバーを前戦からガラッと変え、今日のプレッシングはそこそこ効いていた。その結果、コートジボワールは中盤にぽっかりとスペースをつくってしまっていたが、後半にはその問題が解決されてしまったので、前半に日本としてはゴールを決めたかった。セカンドボールを拾うこともでき、そのスペースを鎌田が上手く使うことができ、右サイドバックで室屋と伊東とをサイド奥まで上げることに成功していた。そうした流れで開始早々には久保のシュートもあった。しかしコートジボアールのDFラインは厚く、ゴールマウスをこじ開けるまで至らなかった。期待の久保は守備に追われ60分過ぎに交代。むしろ代わって入った南野が前線を活性化させていた。そうしたプレーが功を奏し得られたフリーキックからロスタイムに勝ち越す。最後に投入された植田のヘディングで1-0の勝利。ブラジルW杯初戦の借りを返す。それにしても久保は窮屈そうであった。中央に位置取ることもなかった。なかなかブレークしないのが気がかりである。ところで代表のこの2試合を総括すると、全般的に面白さに欠けていたと思う。海外のトップチームのサッカーと比べると技術も戦術も落ちることを感じたのだ。それとは異なる代表のプレーは何かということか。このままだと代表人気下落が加速することを懸念する。

10月12日(月)
「アルファベットそしてアルゴリズム」を続ける。表記法を確定したアルベルティより少し前のブルネレスキについてのコメントが面白い。フィレンツェのドーム建設についてである。現在では、フィレンツェのドームはブルネレスキの作品とされる。しかし本書がいうには、たとえアイデアのアイデンティティがブルネレスキにあったとしても、現実は昔からの習慣で、職人や役所からなる委員会によるものであった。したがって、従来のままであればブルネレスキの署名性は消えても然りであったのだが、ブルネレスキは途方もない策略を行うことで、この目的を達成したというのである。そのときの策略が本書の言う表記法というものであるという。実際にはつくることができないものにたいしてのコントロールである。このためにありとあらゆることをブルネレスキは考えたのだという。実際に建設開始直後にブルネレスキは亡くなっている。しかし今でもブルネレスキの作品とみなせるのは、不完全であったにせよブルネレスキの表記法によるものであるというのが本書の主旨である。そしてその事実を受けてアルベルティが平面断面というような表記方法を確立した。そして完全につくる人を疎外することに成功し、つくる人を奴隷化させることに至ってしまうことになってしまったという。この問題についてぼくはというと幸いに、アレグザンダーを知っていたと言うこともあり、独立する上での大きな問題点であった。独立後の「初台のアパート」では、このアルベルティの表記図面を書かなかった。必要とされるパーツ図だけを描き、自分の考えを明確にした上で、現場でのアイデアを拾い上げて合理的な正しい解決案を導こうとした。それは未熟であった自分自身の知識を補うためであり、かつて行っていた皆が議論し、デザインし、そして作るという生産の手法を行おうとしたのである。

10月11日(日)
「アルファベットそしてアルゴリズム」を続ける。興味深い文章をピックアップする。「建築の規則や規範が公表され普及し重用されることとは無関係に、建設は、デザインの特定の指示を表記するために必要とされる文化的テクノロジーにも依存しているp30」。あるいは、「アルベルティは歴史上始めて、建築家は何をすべきではないかを、正確に並べ立てることができていたのだ。曰く、建築家は透視図を避けるべきである、なぜなら短縮法によって実物より短くなった線のために、正確に寸法を採ることができないからであるp38」。同様にアルベルティは、「色々な文脈で、ノー・リターンのこの理想的な地点について力説している。」つまり、建築家は図面を詳細に書き、施工者にそれを渡した後はタッチしないという態度である。反対に言うと「アルベルティの新しい建設方法は、施工者に逃げる余地を残さなかったことである」。ぼくにとっては、それがえらく辛いことであった。このことを本書では「ブルネレスキによる手工業的な原作者性(「この建物は私のものである、なぜなら私が作ったからだ」)から、アルベルティによる知識人的な原作者性(「この建物は私のものである、なぜなら私がデザインしたからだ」)への移行」といっている。本書のテーマはこの考えを支える「原作者性、代著、そして表記法がなす、ある完全な状態」についてである。こうした建築の硬直性を批判できても、それに代わる新しい方法を提案する者などいない。

10月9日(金)
091 代表 日本×カメルーン カメルーンに凄さを感じなかったのは、代表が成長したためだろうか?カメルーンに突出したプレヤーがいなかったこともその理由である。とはいえ得点ができずに、0-0のドロー。前半は4-4-2。DFがひとり分優位に立っていたかわりに中盤が足らなくなりに、そこをカメルーンに使用され苦しんでいた。したがってほとんどボールを前に進めることができていなかった。そこで後半は3バックの3-4-3にする。3バックはいつも上手くいかないものであったのだが、今日はゲーム途中の切り替えでも成功する。ここに成長を感じる。とくに右Wに入った伊東が機能した。堂安との間で縦の突破を幾度か成功させた。しかし伊東がつくったビッグチャンスを大迫が決められず。65分から堂安に代わり久保登場。独特のリズムでチームの雰囲気を変える。それでも得点できず。久保の現状である。ところで今日の森保監督はこれまでと異なり戦術的であった。次戦に期待である。

10月8日(木)
「ウルフ」1994年制作、ジャック・ニコルソン主演を観る。狼化妄想症というのがあるらしい。この映画では本当に狼化してしまうニコルソンの苦悩を少しコミカルに描く。ストーリー展開としてはサスペンスでもある。根底に愛がテーマとしてあるのもアメリカ映画らしい。J・ニコルソンの相手役はティム・バートンの映画でキャット・ウーマンであったミシェル・ファイヤーであった。彼女も最後に子供を宿ったウルフになる。

10月7日(水)
3年生後期の設計がはじまる。そこそこの条件整理ができているが、周辺環境との絡みがいまいちでもあった。その中で与条件をひとまず置いて大きな問題に結びつけようとした学生がいた。思い切ってさらに問題を広げてみた。ぼくは、問題意識なしに建築を解いてしまうことの空しさを歴史家フランプトンから学んだ。もっともそれは岡崎乾二郎の指摘ではあったが、最近になって、コールハースも同様のアプローチをしていることに気付いた。世の中にはひとつのプロジェトだけでは解けない問題はあり続ける。そうした問題までを射程にいれるための方法であると思う。彼らは隠れた問題を露呈することでそれを解決しようとしている。そのことで、建築の社会性を獲得しようとしている。否定することでない批判方法である。

10月5日(月)
090 プレミア アストンヴィラ×リヴァプール リヴァプールがまさかの7失点する大敗。こういうこともあるものだ。GKがアリソンから交代に加えて、CBのジョー・ゴメスと右SBのアレグサンダー・アーノルドのチェックがあまりにも弱かった。アンラッキーな面もあったが、リヴァプールの左サイドが徹底的に狙われていた。これは初戦のリーズ戦も然りである。今日は前戦からのプレッシングもほとんどなかったので、前線選手のパフォーマンスの低さも関係している。そうした中、後半からそのポジションに南野が登場。最初は中盤であった。よく動き回るも徹底的なパスが回らずに無駄足となることが多い。そしてその後はフィルミーノに代わってCFとなった。やはり周囲との連携が気になる。南野はひとりでなんとかできるFWではない。サラーとの絡みでよいシーンもつくったが、監督の望みを満たすまでにはいかなかっただろうと思う。

10月3日(土)
089 ラ・リーガ アトレチコ×ビジャレアル 両チームとも中2日の強行スケジュールで、体のキレが今一となる0-0のドローゲーム。ビジャレアルはアラベス戦と同じスターティングメンバーであった。ただシステムは4-4-2。右Wには14番マヌエル・トロゲロスが入っていた。しかし守備重視であることは変わらず、アトレチコに攻め込むスキを与えることはなかった。そのため、ビジャレアルはメンバー変更が遅くなる。久保は2番手で85分から右Wで登場。ポジションを取ろうとしようと焦ってか無理な突破をしようとし、自陣でのボールロストを2度もしてしまう。あわや失点の場面をつくってしまう。明らかにチームと個人の思惑が乖離した悪循環が起きている。この2試合で久保の立ち位置が苦しくなっていることがわかる。

10月2日(金)
「アルファベット、そしてアルゴリズム 表記法による建築―ルネサンスからデジタル革命へー」マリオ・カルポ著を読みはじめる。本書には今日のデジタルアークテクチャーが意味するものが示されている。それは日本語版への前書きにも示されているように、今日のデジタル・テクノロジーの可能性である。「システムがもつ生成的あるいは自己組織的な能力に光りを当てその開発に取り組んだり、あるいはいくつかの構造システムやマテリアル・システムの組織化における、自然発生的な「創発性」を称賛するデザイナーたちを見かけることになっている」。そして共感するのは、サブタイトルにもあるようにルネサンスのアルベルティ以降の大文字の建築の延長上でこのことを思索していることだ。「私はデジタル技術におけるインテリジェント・アーキテクチャーの文化とテクノロジーを、長きにわたって接続する西洋の古典的伝統の中に位置づけている」とはじめににある。

10月1日(木)
088 ラ・リーガ ビジャレアル×アラベス バルサ戦のチームパフォーマンスの低さと中2日という強行日程もあって、久保の先発が予想されていたのだが、今日もベンチスタートであった。3日前のバルサ戦では久保が得意とする右サイドがファティとジョルディ・アルバに潰されていたのである。しかし指揮官の考えは違っていた。中盤をこれまでの2枚から10番のイボーラを加えて3枚にして、守備の立て直しを計るものであった。それで前線の絶対的エースのジェラール・モレーノを降ろして、彼を右のポジションとしていた。意外とエミリの戦術は固い事を知る。そしてこれが功を奏し3点をあげての圧勝となった。中盤で数的有利を保って、DFライン裏への縦パスを起点とした得点であった。久保は75分頃から登場。これまでと異なり左ウイングであった。少し窮屈そうであったのは、左サイドであったと言うことと、勝敗が決まった後なのでチームも停滞していたからだろう。それでも枠内シュートをロスタイムに放つ。どうやら久保は第1のユーティリティプレヤーといまのところ考えられていて、誰かとポジションを争うことを期待されていないようである。となれば結果を示し状態がよければ、ポジションに関係なく使われる選手になれる。次戦は昨季、数々の華麗なプレーによって怒りを引き出したシメオネ率いるアトレチコとである。

9月30日(水)
NHKでパンデミックにかんする特集を観る。2つの興味深いことを知る。ひとつめは、日本の工業技術について。日本大企業も、グローバル化の波にしたがって沢山の海外工場をもっている。例としてあげられていたのはAGCというガラスメーカーであるのだが、フロートガラスを平滑に仕上げるためには、窯の温度具合などの職人的判断や技が必要となっているという。コロナ渦で海外に赴任できない現在、現地の人的指導に苦慮しているという。そのためこの特集ではライブ交信による指導が行われていた。そにとき日本の職人が指摘していたのは、これまで無意識にしていた様々なチェックをひとつひとつ明示することの困難さである。こうした工業製品でも暗黙知が大きく支配していたのである。そのため、この会社ではAIを使って、こうした暗黙知を明示化データベース化する作業に力を入れているらしい。現地職員がこうしたものを通して問題を発見しやすくするものだという。しかし、コロナ渦の世界では、もはや一律な製品をつくることの意味のなさを気付くべきであると思う。例えばガラスが完璧に平滑である必要性はなくなるのでないかと考えた。もうひとつは、企業理念の変化のレポートが興味深かった。企業は目先の利益追求から、従業員を最も重要な資源と考え、長い目で人を育てようとしていることだ。コロナ渦によって、潜在化していた人手不足の問題に企業は真剣に立ち向かおうとしている。

9月29日(火)
087 プレミア リヴァプール×アーセナル リヴァプールが多くの時間ボールを支配し、アーセナルはボールを跳ね返しても拾われ続けていた。それでも鋭い速攻を数回試みる。先制もした。しかし結果3-1でリヴァプールの勝利。クロップの交替はまずミルナー。そしてジョッタであった。ジョッタには恐ろしいくらいにボールが集まっていた。今日は90分過ぎからの登場の南野と、その点が明らかに異なっていた。ジョッタはラストパスにシュートをし、おまけにこぼれ球が正面に来てゴールまで決めた。ジョッタの印象はどちらかというとエゴイストでなく、チーム和を重んじるタイプのようでもある。その点でも南野と被り、序列が完全に逆転したことになる。がんばれ南野。

9月28日(月)
086 ラ・リーガ バルセロナ×ビジャレアル 4-0でバルサ圧勝。ビジャレアルは為す術がなかった。バルサはメッシが中心ではなく、全員による速い攻めにチームが変更される。その中で久保とラ・マシアで一緒に過ごしたアンス・ファティが2GとPKの奪取で活躍する。メッシとかスアレスらが一線を退き始め、20代前半あるいは10代の選手がそれぞれのチームで躍動するのを目の当たりにした。久保はというと、70分過ぎから右サイドで登場。明らかにチームのリズムが変わり流れを引き戻していた。右SBと連携もよかった。サイドから中に絞り、そのスペースをSBに渡して、さらにサイド奥のスペースを何度か使っていた。これが監督の指示であるとすると先発も近いのではないか。次戦はミッドウィークにあるという。期待である。

9月27日(日)
CASABELLA910が届く。スミルハン・ラディックの小屋が紹介されている。この建築はサーカス小屋のテントであると記されている。つまり、過去からヒントを汲み上げたデザインであり、ティム・インゴルドを思い出す。さらに面白いことに、この建築は篠原一男の「プリズム・ハウス」も素にあるともいう。どちらも演出家の住宅である。「不都合な幾何学」がテーマである。自然の中へ人の介入ということだろうか。

9月26日(土)
難波さんのオープンハウスに行く。まず気付いたのは、本体から明確にアーティキュレーションした庇等の歯切れよいデザインである。おそらく徹底した断熱を考えヒートブリッジを防ごうとした結果がもたらしたものであろう。建築本体の構成は、5.4m×16.2m角の2層の150Hを基本とした鉄骨造。それに本体と同じくらいの間口のある南庭を平行配置したものだ。箱の中央には大きな吹き抜け空間がある。2階の東西の2つの個室には吹き抜けにたいして間仕切りがなく、徹底した一室空間がその内部に実現されていた。そうした空間のために有効に考えられた空調方式は、床からの冷暖空調であった。それは壁掛けエアコンによる暖冷気を床下に吹くもので、ぼくも保育園で試みたものだ。しかしぼくの場合は夏期、高い室温に対して床表面温度の想像を超えた低さが起きてしまい、温度ムラのコントロールの難しさを経験した。この建築ではそれを防ぐために、床にアクアレイヤーという蓄熱層を設けて、それをコントロールしていた。ひとつヒントをもらった気がする。帰り際に、「新住宅論」のお礼をする。そのとき思い切って12章のぼくの疑問をぶつけてみた。難波さんは暗黙知すなわちポラニーの第2項全体の存在を認めていながらも、現実の試みに関しては、その暗黙知の存在に触れずに明示知からのアプローチを目指している点である。そのことを尋ねた。ポラニーも、暗黙知は明示知によって明らかにできないといっている。それにも関わらず、である。どうやら難波さんは少しでも暗黙知を明らかにしようとしているらしい。そして、その積み重ねの必要性を、回答として返してくれた。ぼくとしては、暗黙知が誰にも備わっているものだとしたら、それを前提とする「文化」、「社会」あるいは「建築」の存在をはっきりさせるということで、それが明示できなくとも誰もがアプローチし易くなり、結果的に暗黙知を上手く運用できるようなるのではないか思っていたのだが、そのことが上手く伝わっただろうか。一度帰宅して、虎ノ門へ。メッセージのレスポンスはよく、安心する。

9月25日(金)
ここ数日ポラニーの「暗黙知の次元」を読んでいる。1966年出版であるが今でも示唆的な著書である。とはいえ、ブリコジンやサイモン、それと反対のドーキンスなどを読むことで解釈できるようになってきた。「ティール」のあとがきに書いた図の意味もあらためて気付くことがでてきた。書き直してみる。来週からはじまる授業の動画を整理して、関係者に送付する。後期はこの時期を乗り超えると楽になると思い踏ん張る。夕方、設計方法委員会をオンラインで参加。

9月24日(木)
午前は健康診断。一度虎ノ門に寄り、午後からゼミ。4年生による中間発表後の進行をプレゼしてもらう。今年の特徴として、建築特有の考え方から解放されていることがあげられる。世間で起きていることにかんして分析をして、そこにメスを入れるような方法で、自ら考えた建築的手法を敷地で実践するようなものではない。世間で起きていることとは、住宅メーカーのイメージ商品に変化が起きているがそれは何に基づいているとか、大型店舗の店舗展開戦略が外れたものとは何かというようなことである。これまでと違って少し楽しみでもある。もうひとつみられる傾向は、ランドスケープ的な提案である。よりダイナミックな方法で環境を捉えようとしている。

9月22日(火)
「インセプション」クリストファー・ノーラン監督を観る。夢が多層構造になっていること、そして主人公ディカプリオのミッションは、雇われたライバル会社の息子が父親の会社を崩壊することをインセプション(誘導)するなどオイディプス王神話を思い出させてくれて、無意識がテーマであることが判る。どことなくボルヘスの小説にも似ている。夢と現実の境界が曖昧になり、それは社会を客観視できないことに通じ、彼らはコマが回り続けるかどうかでその判断をする。しかし信じるものとは自分自身の問題に帰する、という提示で映画は終わる。渡辺謙も、東洋人特有のミステリアスな異文化人としてではなく重要な役割の一員を果たしていて、好演である。

9月20日(日)
昼を挟んで、オンラインのオープンキャンパスに参加。夕方「沈黙 サイレンス」遠藤周作原作スコセッシ監督を観る。どんなに人が困っても決して神は答えを出してくれない、沈黙とはこのことを指している。人を救済する宗教の崇高さとそれから生じる悲劇が描かれる。主人公は若い宣教師である。宗教弾圧によって改宗させられた師匠を求めて日本に潜入する。その主人公の価値判断はすべてキリスト教義に基づいている。それは隠れキリシタンといわれる村人も同様である。その頑なさは死にいたらしめるものとなる。たいして役人は、神父を改宗させようと様々な画策をする。彼らは命にたいしての尊厳も倫理もなく、目的達成へ向けて無限の策略を想像するのである。どちらが自由であるかは謎である。外見上は改宗し日本化していくのであるが、最期まで真の自己を表現しないまま十字架を隠して埋葬されていったのが主人公であった。もうひとり特徴的に置かれた人物がいる。彼は、その場凌ぎを繰り返す全く拠り所のない哀れな若者である。スコセッシ監督映画のロバート・デ・ニーロが演じる役どころである。その彼もあっさりと最期をむかえてしまった。宗教の限界を示すことがテーマなのだろうか。人に比べて人間社会の複雑さや大きさを示すことがテーマだろうか。スコテッシ監督は最後に救われる感を出すのが特徴であるのだが、この映画でそれは、主人公が改宗をしていなかったということだろうか。それにしてもキリストは沈黙することで人を遠ざけその絶対的距離によって、教えを強大にしていっていることは理解できた。それを廻る文化の異なる人たちの戦いが描かれている。
085 プレミア チェルシー×リヴァプール 2-0でリヴァプールの圧勝。前半にチェルシーは退場者を出し10人になったところ、後半から新加入のチアゴも投入し、2点を獲ったのだからチームは勢いつくだろうと思う。クロップの計らいも見逃せない。チアゴはキャプテンヘンダーソンに代わって入ったが、その後は重鎮のミルナーを今季初登場させ、実績のあるこれまた新加入のジョッタがどこに入るかが不明であるが、南野を最後に登場させた。南野は戦力に入っているというメッセージだろうか。今日のベンチには先週活躍の若手カーティス・ジョーンズとベテランシャキリはいなく、先週に長いプレー時間をカーティス・ジョーンズに与えた理由を理解する。チアゴ入団の布石があったのだ。FWオリギは不出場であった。

9月19日(土)
午後、墓参り。JIAマガジンの山本理顕さんと坂牛卓さんの対談を読む。ノーマンズズランドの誰のものでもない場所の訳や、マテレリアライズ「物化」についての話で盛り上がっていた。事ではなく建築することの正当性をあらためて感じさせる対談であった。
084 ラ・リーガ ビジャレアル×エイバル 2-1でビジャレアルが逆転勝ち。ビジャレアルは先週と同様、オフサイドでチャンスをつぶしている間に失点する。エイバル先発の乾も一瞬の抜け出しで、ゴールまでもう1歩のところであった。今日のビジャレアルは、DFライン裏への抜けだしがテーマとなっていたようだ。中盤底から多くの縦パスが入る。トップ下のモレーノが右に大きく開き、空いたスペースを他の前線選手が使っていた。逆にいうと前線でタメすることが少なく、そうした役割が得意な久保は、投入されたときどう対応するか気になる。出場は80分過ぎてからであった。中央や右と自由にポジションを変えていた。少ない出場時間であったが、それなりの存在感を示すことができたと思う。最初のチャンスは前半のビジャレアルの試合運びと同様、右の裏へのパスを受けてからドリブルでペナルティ中央に侵入したものであった。ほしくもセンタリングがモレーノと合わなかった。次のチャンスは、これまでと異なりライン間の中央で、横からのボールを受けたものであった。反転して右のモレーノへのラストパスであった。モレーノは決めきれず。その後、両チームの陣形が整わない打ち合い状況となる。猛攻のエイバルにたいし2度のカウンターに絡んだ。その中で終了間際のペナルティエリア内での1対2の状況の左足は決めたかった。試合終了間際ということも合わさって、久保投入後はゲーム展開が大きく変わった。先発のチュクイゼは身体能力とエースモレーノとの絡みが優れているが、かたちに縛られすぎで、久保がポジションを掴むのももう少しだと思った。

9月18日(金)
今年の卒業した中山陽介くんが来所。近況を聞く。「知のデザイン」再読し、思うことがあった。北東方向にトイレを配置してはいけない。さもなければ、その家系は長く続かない、などといった日本では古くからの言い伝えが多々ある。この理由としてあげられるのは、北東は陽が当たらないので衛生面で優れていないから、ということである。つまり、物事を原因と結果で見ようとする姿勢がここにみられる。しかしこの説明では、家系が長く続かないという戒めの位置付けの説明はつかない。風通しが悪く不潔になるからといえばよい。つまり、禁止事項を戒めまでもっていくそれ相当の理由があると思うのだ。そこで、この言い伝えあるいは戒めの機能とは何かと思う。「知のデザイン」を読んで考えたことだ。説明できることを暗黙知までもっていくことで、より強力な禁止を発動するようなことが可能となるのだろう。説明することよりも人の心に訴えかける方法は何か、こうように考えた結果、辿りついたものが言い伝えというものではないだろうか。説明的になるよりもその状況を丸ごと感じさせる上位概念の提案である。「知のデザイン」5章にあったポラニーによる「近位項と遠位項」から考えたことである。

9月17日(木)
ゼミにて、アレグザンダーについて話す。今年読んだ「時のかたち」や「動態平衡」、あるいはそれに近いティム・インゴルドの本から学んだこととは、ぼくらは長い歴史や過去の延長上にいて、そう目新しいことはできなさそうであるということである。そうしたことがもし可能であったとすると既に誰かが実行していたはずである。そんなものがなかったことを示していたのがこうした本であった。つまりぼくらは、過去から積み上げられた何らかの枠組みの中にいることになる。アレグザンダーもそうした前提に立って、15の特性を考えた。15の特性とは、そうした過去の積み上げの存在の片鱗ではないか?こういう話をした。皆はどう感じただろうか?ぼくは、必ずしも以上のことを完全に受け入れている訳ではないのだが、今年のゼミの流れからそのように考えてみた。大学からの帰路、「時のかたち」の翻訳に大きく関わっていた岡崎乾二郎さんが、ケネスフランプトンを批判していたことを思い出した(「漢字文化圏における建築言語の生成」)。そこで岡崎氏は、フランプトンの薦める現代建築を、程よい調停作業の結果でしかないと批判していた。岡崎氏がいうフランプトン建築に欠けていたものとは、そうした前提に立って何をするかであったと記憶する。流石に芸術家である。

9月16日(水)
「知のデザイン」諏訪正樹・藤井晴行著を読み終える。新しい知のあり方が示されていた。それは、主体なき知や自然法則などないというものである。ラトゥールのアクターネットワーク論で批判していたのは、都合のよいときだけヒューマニズムを持ち出す近代自然科学のご都合主義であった。本書もそれに同調し、徹底した人×科学の知のあり方が示されていた。それを「自分ごととして考える」といっている。しかし、本タイトルにもある「デザイン」という創造性にまで説明が至っていない。本書とは反対に位置する近頃流行の非人間中心主義的思想でもそうであるが、無から何かを生む謎については、未だにスッキリしていない状況である。

9月15日(火)
アレグザンダーの生い立ちを整理する。アレグザンダーが建築に及ぼした大きな影響は3つある。70年代初頭の「都市はツリーではない」のセミラチス構造。70年後半からの「パタン・ランゲージ」のパタン認識。そしてその後の「15の幾何学的特質」である。「都市はツリーではない」では、建築を含めて物事は一般に、制作と生成があることが語られていた。これは柄谷行人「隠喩としての建築」で広まった。近代に特徴的な主体性が、このときから問題にされている訳である。そして、その生成というものを実践手助けするものが「パタン・ランゲージ」であった。パタン・ランゲージを辞書のように使用するのもひとつの方法であるが、それよりも有用であったのは、物事の認識が個々の部分間の1対1関係や因果で決定されていくものではなく、かなり複雑なネットワーク上の絡み合ったものであることを示したことであった。それをもっとストレートに言うと、暗黙知、そうしたものの存在を明示したことにあった。その後の展開は江渡さんの本に書かれている。パタン・ランゲージに感化されたエンジニアがWikipediaのプラットフォームをつくったのだ。要は、捉えることの難しい膨大な情報をどう表象するかという方法を「パタン・ランゲージ」が示したのである。しかしAI議論にもあるように、認識状態の分析から、創造あるいは建築をつくるということまで達することはできない。つくるにはもう一歩の方法論のジャンプが必要となる。そこで考えられたのが「15の幾何学的特質」というものであった。ここが実に理解しにくく、誰もこの思想を上手く説明出来ていないのが現状である。そこには全体性とか生命というキーワードが関わってきて、理解をさらに難しくしている。そのため遠巻きにされてきた。しかし今になって状況が変わってきたと思う。多くの分野で再びこうしたキーワードが使用されるようになってきたのである。ぼくも度々、逆上がりの例を紹介してきた。このできるという瞬間が何によるかということである。事後的にはいくらでも機能的に説明ができるが、それを事前に説明することの難しさについてだ。おそらくその答えは、完成のぼっーとしたイメージを感性が掴めたとき、であると思う(これが普遍的な世界とつながる全体というものらしい)。こう考えるようになったのは、悟性と感性との関係、あるいは大文字の「」を知るようになってからである。つまり、完成のぼっーとしたイメージが先行して存在していることの可能性を知ってからである。昔からの伝統建築、あるいは生物などは、長い時間をかけてある状況に既に到達、完成の域に達しているといえば、そうしたもの存在も納得がいく。アレグザンダーがいうには、そこにある幾何学的共通点があるということだ。しかしそれはその場その場で微妙に違っていて、つくるということはそれを掴み、正すということといっている。それによって、分析というものからつくるというひとつ別のカテゴリーにジャンプできるのである。この論理はあくまで昔からの伝統建築や自然現象に関していっているだけで、あらゆる状況にあてはまる訳ではない。しかし、これを実感してみたいと近頃思うようになっている。

9月14日(月)
083 ラ・リーガ ビジャレアル×ウエスカ 1-1のドロー。ビジャレアルは優位に立ってゲームを進行させるも、オフサイド判定でゴールを逃している間に、ウエスカに効果的な速攻で先制される。岡崎先発フル出場。先制点の起点といい、想像を超えたあり得ないかたちでのヘディングシュートといい、守備での貢献に加えて存在を示していた。一方今日の久保は、チームの中心でありトップ下のモレーノの位置に75分過ぎから出場。不発であった。モレーノのポジションを1つあげさせて、久保にとって理想的なかたちでの登場となったが、そのモレーノの動きもいまいちにしてしまった感が否めない。これまでのフレンドリーマッチと異なり、引かれて密集した相手にたいしてのコンビネーションの悪さが露呈した。

9月13日(日)
082 プレミア リヴァプール×リーズ 4-3。見る側にとって最高の試合であった。リーズの戦法に感心する。前への攻撃が早い。ファン・ダイクも慌てさせていた。リーズと言えば、井手口が所属し、藤田がフロントに入るなど、馴染み深いチームであったが、こうした日本人好みのチームになっていた。今季率いるのはアルゼンチン人アルセロ・ピエルサ。老練で、ベンチ前にうんこ座りをしてチームを鼓舞。今季で3年目の指揮らしい。リヴァプールは今日、サラーが生き生きしていた。中央が空いていたためか。南野のポジションがそこである。先発の期待もあったが今日は不出場。あらためて思うが、中盤底のリヴァプールの充実ぶりもすごいので、南野不出場は当然でもある。ファビーニョ、ミルナーが控えである。先発は、怪我から復帰のキャプテンヘンダーソンとバルサが熱望するというワイナルドゥム、運動量激しいケイタであった。

9月12日(土)
「エチカ」スピノザを再読。避けられない運命、掟、社会にたいして、創造的でいるにはどうしたらよいかが語られている。創造的であることが前進するということであるとしたら、避けられない現実にたいして自分なりの一歩をあみ出していく他はない。それは身を任せることでもなく、広大に開いている未来にたいしてどう対処しようすることとも異なるスタンスである。ところが科学や医学が進歩するようになり、人の手でそうしたものを変えることができると信じるようになった。しかし実はそうでなかったのだ。こうした前提にたったものの見方が試されている。

9月10日(木)
「知のデザイン」5章再読。身体知によるモノの認識が示されている。打者がインコースの難しい球を打つときや町歩きの例を持ち出して、ことばシステムと身体システムとの関係を説明する。しかし、これは事後的な説明でしかなく、人が納得するための方便でないかと思う。それぞれに関係があるというのが従来的な認識方法で、身体知とはそれとは異なる次元にあるものであると思う。

9月9日(水)
「知のデザイン」を読み続ける。読みながら、暗黙知の存在の大きさにたいする考えが、本書とは違うことに気付く。暗黙知とはあまりにも大きいので、明示知で示すことの小ささを感じてしまうものなのだ。そこで、巨大な暗黙知にたいして感性というものが必要とされる。それがここでいう身体知であると思うのだが、これの言語化に努めるよりも、身体知を働かせるために道具を知ることが大切だと思うのだ。カントがいう悟性とは、こういうものでないかと思う。悟性へいかに接近するかということである。

9月8日(火)
「知のデザイン」第5章は、「からだメタ認知」という主題の説明。ポラニーが登場する。この本では、記号やことばを身体から乖離させないことを大切とする。「モノの世界を丹念に言葉で表現してみようと意識的な努力を払うことを、からだメタ認知」といっている。例として町歩きがあり、難波さんが度々あげるベンヤミンが参照源になっているようだ。ここでの疑問は、言葉の上の知のシステムと身体により知のシステムが同列に扱われていることだ。つまり、互いに変換が可能ということである。田島先生の力を借りてオープンキャンパスの動画が出来上がる。

9月7日(月)
今日から初台のアパートの本格的な塗装工事等がはじまる。それと平衡して柱脚の型枠設置からはじまる。簡単な打ち合わせをすませて大学へ。今日から気分としては新しいセメスターとなる。「知のデザイン」を続ける。

9月6日(日)
081 フレンドリーマッチ ビジャレアル×レバンテ 久保はトップ下、後半途中からは左でフル出場。レバンテの固い守りにビジャレアルは皆苦しんでいた。上手い具合に縦パスが入らなかったことによって、リズムがつくれなかった。今日の久保は左に回ると、中に絞るよりライン際の突破をいくつか試みていた。これまでのビジャレアルは、どちらかというと右サイドがフィニッシャーとなるかたちであった。その新しいバージョンだろうと思う。1-2の逆転負け。左のモイ・ゴメスが負傷で欠場らしい。来週開幕である。久保はどういったかたちで先発・登場するのだろうか。

9月5日(土)
080 フレンドリーマッチ リヴァプール×ブラックプール リヴァプールは、4-2-3-1にして南野を先発。今日はインターナショナルウィークでヨーロッパの代表選手は招集でいない。DFラインは若手となる。前半は苦しむも南野は2本シュートを放つ。決定力が欲しいところだ。後半は怒濤の攻撃で圧勝。ブラックプールDFの集中力が切れていた。南野が中央に位置取るのでサラーはきつそうであった。このフォーメーションはどうなるのだろうか?思えばクロップはドルトムント時代このフォーメーションで、ゲーゲンプレスによってブンデスを制していることを思い出した。

9月4日(金)
中埜さんの事務所に行く。「知のデザイン」諏訪正樹・藤井春行著を紹介され、読みはじめる。身体知がテーマである。身体知は、自分ごととして考えることと密接にリンクをしているという。パタン・ランゲージについても言及がある。単なる情報集やマニュアルと異なることを指摘し、体系立っていること、それに対してユーザは自分ごととして対応することが可能となることを評価している。

9月3日(木)
079 フレンドリーマッチ ビジャレアル×レアル・ソシエダ 久保がトップ下で先発。モレーノが代表合宿に参加のためである。トップにパコ・アルカセル。左にチュクウェゼ、右に23番モイ・ゴメス。今日はイボーラと8番コクランが中盤底。攻撃時は4-2-3-1。守備では4-4-2である。つくづくビジャレアルはモレーノのチームだと思う。彼の不在で両ウィングが自由に動き自分で決めようとしていた。その点、久保との連携が薄くなってしまったが、今日は前線からの守備は貫徹されていた。1点目はその典型。久保がDFを追い込み、ミスパスを誘ったところから、チュクウェゼ、コクランとつないだ。攻撃では久保はトップ下であると上下に大きく動き、ボランチからの縦パスの受け手となる。そこからスイッチが入るかたちである。右のポジションの場合は横の動きとなるが、それを90度ひっくり返したかたちで、左利きの久保にとってはこちらの方がやりやすそうである。それにしても両ウィングがよく動くので、久保が右に回ることもあり、前半終わりの左のモイ・ゴメスからの決定的なクロスは決めておきたかった。右足でのトラップに失敗してしまった。イボーラのフル出場に続く、80分過ぎまでプレーする。

9月2日(水)
時間ができたので、Battleの翻訳を見直す。この半年で意外にも「全体性」の具体的なイメージが出来上がり、すんなりと訳すことができていることに気付く。同様の内容と思われる「森は考える」エドゥアルド・コーン著を読みはじめる。しかしなかなか入ってこないので、苦労する。

9月1日(火)
NHKでコロナ特集。1/15日段階で日本でもコロナウィルスの存在を捉えていたことを知る。ただし、パンデミックを起こすほどのものとみていなかったらしい。1/23に武漢封鎖。1/25にダイヤモンドプリンセス号の乗客から感染が判明など、このころの展開は急であった。3/1に全員が下船し、その間にコロナ対策本部では市中感染を最も怖れていたという。そして感染環境として3密状況をこの時期指定するなど世界的にも進んだ研究を行った。ヨーロッパでは、3/12のリヴァプール×アトレチコを最後にサッカーがなくなったのだから、この後直ぐにヨーロッパでは手がつけられなくなったということだろう。日本でも、3/14に特措法制定。3月末には小池都知事がロックダウンを口走るようになり緊急事態宣言を政府に求めるようになった。政府が渋々それに応じたのは4/7であった。この特集では、これまでのサーズ、マーズなどの感染症から日本が上手く逃れてきたことを指摘し、そこから生まれたスキを原因にあげていた。それは1/15時点の事の重大性に対する誤認であり、ここ10年の政府の感染症に対する予算配分に対してである。

8月30日(日)
078 コミュニティシールド杯 アーセナル×リヴァプール プレミアリーグ開幕を告げるリーグ王者とFA杯王者との戦いである。来週がインターナショナルマッチ週間であるので例年より1週間早くこの試合をむかえる。今季は各リーグの開始がまちまちで十分な休養が与えられずに、選手のコンディションが気がかりだ。アーセナルはまだ戦力が十分に確定していないし、リヴァプール前線3人はまだトップコンディションでない。そうした中、南野が同点弾を決める。公式戦初ゴールである。前線の混戦の中、ワンツーで抜け出し落ち着いてゴールを決めた。その後も気のせいか南野にボールが集まるようになる。流れとは恐ろしい。ぼくの目からも勢いが感じられるようになった。頼もしいのはもうひとつある。南野投入によってフォーメーションも変わったたことだ。サラの1トップになり、より攻撃的になった。南野が代え駒としてではなく、より攻撃的戦略時にかけがえのない重要パーツとして認められたということだ。

8月29日(土)
077 フレンドリーマッチ バレンシア×ビジャレアル はじめてビジャレアルのゲームを、全体を通して観る。ビジャレアルは7番モレーノのチームだ。左利きなのだろう。CFでありながら左サイドと中盤下までかなり自由に大きく動き回る。その空いたスペースをもうひとりのFWパコ・アルカセル(ドルトにいた)や11番のチュクウェゼ(久保のライバル)が使う。右が基点である。中盤は今日の対戦相手であるライバルバレンシアから移籍してきた5番パレモと8番コクランである。縦パスはここから入る。スペインらしく、動きの中でのスペースをつくり、そこにボールを入れて前に進める戦術である。得点は、左サイドからであった。パコとモレーノがスルーし、チュクウェゼがフリーで振り抜いた。後半から総交替と思っていたのだが、今日から交替要員が5人になったようだ。レスターとセビージャにいた10番イボーラと一緒に久保は65分から登場。左サイドであった。前2戦の練習試合ではトップ下と右であったので、様々な組み合わせが試されているのが分かる。久保は一度中央に絞ってダイレクトでボールを受けて、縦への突破を試みるも、久保に限らず後半、チームは低調であった。今日のゲームから推測すると監督からの信頼はFW7番モレーノ、11番チュクウェゼ、5番パレモと8番コクランが厚そうだ。彼らを中心にゲームが組み立てられている。そこに久保が入り込むとしたら、どういう状況なのかと思う。チャンスは与えられ続けるだろから当座は彼らの控えで、そこから徐々に可能性を示していくことになるのだろう。

8月28日(金)
カサベラ909が届く。巻頭でスカルパのベネチア運河沿いの邸宅の改修が紹介されている。続いてピサの大聖堂の美術館への改修。続いて木特集。このセンスがあればと思う。いつも思うのは、イタリアとの接点は見つけにくいことだ。

8月27日(木)
「建築」に関わる明示知と暗黙知との関係が気になり、柄谷行人を再読する。ここでは明示知とは理性、暗黙知とは悟性、感性にあたる。悟性と感性の区別はよく分からないが、悟性とは明示化できない集団共通の意識、感性とはその個人的なものをいうらしい。柄谷というよりも柄谷解釈のカントも、この感性や悟性の存在をしっかりと認め、つまり物事の認識は理性や悟性、感性の塩梅で行われているという。そして何かを突出させて単独で物事を捉えることの危険性を指摘する。だから、明示知や理性のみによって物事を捉えることはできないし、だからといって感性の方向に振りもどしてしまうことを美学的といって批判する。これは「ティール組織」における自己開放のみにスポットライトをあててしまうことに該当するだろう。理性、悟性、感性それぞれのインジゲーター操作が重要であるというのである。自転車を乗ることができるのは(「ティール」の説明にあったように)決して感性のみによってではなく、これまで成功してきたものを見てのイメージ(悟性?)と感性(状況に応じた直感)とのバランスが上手くいったことをいうのである。そしてこのことは、自転車に乗ることできていない他者に明示することはできないが、そのコツは確かに存在している。これが明示知と暗黙知の関係だろうと思う。建築でいえば、敷地からの応答はまさに悟性ではないだろうか。それを人それぞれの感性を使って結びつけ想像する。したがって、敷地によって絶対的ということでもなく、人の感性と相まって敷地観が生まれてくるのである。パタン・ランゲーを以上の行為をスムーズに運ばせるための手助け道具と考えると、分かりやすい。気の利いたところを指し示してくれるものなのだ。建築家の世界でも、敷地に該当するものに「建築」というものがあるのではないか。建築家の内部では明示知的に知らしめす必要がなくても、確かに存在してきた。そして今日まで「建築」の歴史をつくってきたのである。そしてそれをスムーズに動かす道具というものも何かしらあったのだろうと思う。それを使用しない手はないのではないかと思う。問題を整理する。暗黙知とはある集団内部では存在し、有効に機能する。しかしそれに属さない別の集団からは明示されることはないので存在しないに等しく、役に立たないものである。作法というものに近い。ある世界に入ると有効なのは暗黙知というものの存在である。それの明示は難しい。それを知るには、その世界に入り感性によって吟味すること以外に方法はない。しかし、それを促すための道具はある。

8月26日(水)
「新住宅論」第12章を1週間程前に読んで、「大文字の「建築」の存在に意識的であるということこそが暗黙知に関わることではないのか」と考えた。しかし、「建築」が教条的になりすぎては、主体と「建築」との間の交通を制限してしまうことになりかねない。そこで、「建築」などというときには、無意識レベルでの強制から逃れる方策を合わせていうことの必要性を感じた。そう考えると「ティール組織」では、ブレークスルーの2番目に「自己開放」というものをあげている。しかしそれはスピリチャル過ぎて、なかなか一般に受け入れられないところだろうとも思う。それにたいして批判的な精神を持つ必要性をいう人もいるのだろうが、それもちょっと時代がズレている。ブリコラージュのような道具の有効性についてはどうだろうか。「建築」に関わる道具を通じてコミュニケーション(交通)することである。これがあれば「建築」の存在を一旦忘れてもあるいは終始意識的でなくとも、コミュニケーション(交通)は可能である。

8月25日(火)
3年生と4年生前期の設計合同講評会。全体的に要所を押さえているが、そこを超えたものになっていない印象であった。パワポによる小さなプレゼのためだろうか、空間性とはいいたくないが、説明がつくことに終始してしまうのは、オンラインエスキスの限界だろうとも思う。その結果、バリバリの近代建築的な作品が多くなってしまっている。それを超えるために講評者に、環境の荻原廣高氏をむかえた。環境という新しい視点を加えてもらうというよりも、より微細に建築条件を捉える人と考えてのことである。このことで近代建築を超えることができるという仮説のもとである。3年生非常勤講師の佐々木珠穂さんは、技術×コンセプトを、千葉工大の特徴として講評してくれたが、御手洗龍さんは一方で、ものづくりとしての建築のあり方に不満を投げかけていた。模型の必要性である。4年の非常勤の谷口景一郎さんには、環境を可視化してもらうためのシミュレーション技術で大いに助けてもらった。その上で、こうしたオンラインでの新しいプレゼの方法を今後の課題にあげてくれた。比嘉武彦さんには、このコロナ渦においてシミュレーション前段階の建築家の問題意識について鍛えてもらったのだが、千葉工大生に限らず上手くいかないのは今後の課題だろう。ぼくも答えがない。しかし比嘉さんの言葉が印象的であった。それは、最後に残る案は問いの立て方が秀一なもの、というものである。最後に荻原さんは総評として、美術館課題では、居場所+環境の多様性の捉え方が豊かであったことを評価され、小学校課題では、地域との関わりに関する計画性が評価された。優秀作品としては、櫻田さんの小学校をあげてくれた。中庭をもつロの字型学校であるが、地域住民の自由通路と開放教室が2階にあり、その上下階の教室からスキップフロアでつながっている構成の小学校である。外部を示す淡いピンクのドローイングが印象的な作品であった。もひとつ4年生からは竹村くんの作品が優秀案として選ばれた。これは力作であった。シミュレーションを繰り返すことで、光りのグラディエーションを創り出そうとしていた作品である。授業提出後に、かなりの量のシミュレーションを加えて、かたちへフィードバックしていたと思う。この作品は斑のある空間がコンセプトであった。ぼくとしては、だらだらとした空間といいたいが、これを狙っていたものであった。ただこれは、従来の壁によって人の行動を制御するのではなく、一室空間だからこその空間性であり、人が自発的に移動することによって起きるムラでありたいと思う。荻原さんからの、そうしたムラを定義する方法が重要であるという指摘が今後の方向性を示してくれたような気がする。ところで、荻原さんが担当した、ぎふの森メディアコスモスでは、人気のある場所が西日の見える窓際であったそうだ。それはシミュレーションでは追えないものであるが、だらだらとして空間性によって可能となった末の空間でもある。

8月24日(月)
076 CL決勝 バイエルン×パリ バイエルンがパリを封じこめた。パリは組織的に守り抜きそこからの速攻に賭けていた。しかしもうひとつのところで、ノイアーをはじめとするバイエルンDFラインを突破することはできなかった。ゲーム後、ネイマールは号泣していたのが印象的。ネイマールは前線とDFラインの間でのつなぎ役とフィニッシャーの両役割に奔走していた。たいしバイエルンは11人が攻撃と守備のバランスを保ち組織化されていた。それが多様な攻め方を生み、結果、ゴールはコマンのヘディングであったのだ。そして総合的にパリ攻撃陣を封じこんだ。この差が出たかたちであった。

8月23日(日)
「父親たちの星条旗」クリント・イーストウッド監督を観る。太平洋戦争末期の硫黄島の戦いを廻る当時のアメリカ世論を知る。アメリカも負債をかかえ困窮していた。しかし世論は予想をはるかに超えて戦争に冷やかであった。そうした状況の下、現実の戦争に直面し心身ともに病む兵士と、戦争債を得るためにマスコミを利用し世論をコントロールしようとする政府や軍上層部とのズレがこの映画のテーマである。この映画と同時に同監督による「硫黄島からの手紙」も公開された。ここでは日本側の視点から栗林大将の玉砕が描かれている。どちらも現場とトップの間に