5月3日(月)
045 ラ・リーガ ビジャレアル×ヘタフェ 久保は、1点のビハインドになって漸く80分過ぎから登場。そこそこのパフォーマンスを示すも得点までは至らず。これが、久保の置かれている現状である。今日対戦した両監督は久保の加入を望んだ人たちである。それは攻撃のアクセントとして、であった。それでも久保が未だにこうした状況であるのは、攻撃において期待以下のパフォーマンスであったからであるのか、あるいはそれ以上に守備にたいする不安が勝ってしまっているからかが計り知れないが、この状況を打開するには攻撃の結果を残すしかない。久保のモチベーションに不安がないわけではないが。

5月2日(日)
父の納骨のため多磨霊園へ。墓地での読経の前後に住職と立ち話。住職は物理出身から仏の道に入った人である。キャリアが特殊だ。それに興味をもち話しをしてみたいと前から思っていた。物理といっても扱う範囲が広いが量子力学や宇宙の存在などでは、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレーティンガー、プリコジン然り、一方で数学による理解、他方でこれまでにない認識方法が要求されることを知った。前者が西洋思想、後者が東洋的思想に対応さえることもあるが、それは一時の流行で、現在はどうやらその中間に真実があると考えるらしい。住職はその辺りを実践してきたと思うので、そうした話を聞きたいと思っていた。帰宅直後は春の嵐。天気に恵まれていた。

5月1日(土)
044 プレミア サウザンプトン×レスター 南野先発。しかし開始10分でDFに退場者が出ると、比較的守備重視の戦術となる。それで南野の存在は薄くなる。そして75分に交替。これは守備に徹するという監督のサインであったろう。それで、チームはレスターに一方的に攻められるも、なんとか1-1のドローに持ち込むことに成功する。代表で日本に呼ばれてからの南野の立場は変わってしまった。久しぶりの登場となったが、このチャンスを監督がどう判断したかは分からない。次はあるだろうか。

4月30日(金)
「樹木たちの知られざる生活 森林管理者が聴いた森の声」ペーター・ヴォールレーベン著を読みはじめる。ドイツの森林保護管理者のエッセーである。面白いことに著者はフリーランスとして、自治体から森林の保護と管理を委託されている。2〜3週前に放送された「情熱大陸」の桜守の3人を思い出した。彼らもヴォールレーベンと同様、吉野山の桜が上手く花ひらくように山を管理する民間の人たちであった。

4月29日(木)
「ドローダウン」には、地球を癒やす様々な方法が示されているが、そこに共通するものは何かと思う。そこではぼくらの意識改革を求めていて、過去に戻るということではなく、よりローカルに成立し柔軟で生物のようなシステムの構築を求めている。そしてそのための技術使用やそれを成立させる構造を求めているようなのだ。それを建築に適用させるとどうなるのだろう。地域素材の活用、コストよりもコンテクストの重視、パッシブな環境制御、地元工務店による建設など多数が考えられるが、つまるところ寛容な建築とは?ということか。これは「ティール」の組織論を具体化するときにも考えた問題である。そこで、「ティール」にある自主管理とパタン・ランゲージ80「自主管理の作業場とオフィス」を比較する。このパタンは意に反して抽象度が高かった。それでも、パタンのネットワークを追っていくうちに分かったことがあった。ティールの基本となる自己管理組織をかたちでいうと、p85にあるような小さくグルーピングされたかたちとなる。しかしそれは、固定されたものではなく、自主的に変形するという。ただし、それらがひしめき合って細胞のように集合することを前提とすれば、かたちは円に近く、それほど突拍子な変形とはならない。「ティール」本では、このかたちが硬直しなく、かつ反対のバラバラにもならないように、ゆるく束ねる方法の模索に苦労しているのだ。つまりトップが君臨する本部の位置づけについてである。かたちでいえば、全体を束ねる外形の設定についてである。しかし実は「ティール」にこれは言及されてはいない。同一面にまとめるプラットフォームの存在についてである。硬直をもたらすものとしてミッションステートメントが否定されているが、これに代わるものがこの本では示唆されていない。あるいはそうした外形を直接用意しなくとも、同様の規模の組織を設定して、一緒にひしめき合うようにすればよいとも考えられる。ビュートゾルフが、無償で他の組織に情報提供しているのは、このためだろうかとも思う。「ドローダウン」を幾何学で観てみたいと考えた。

4月28日(水)
「ドローダウン」にも取り上げられていた「デザイン・ウィズ・ネーチャー」イアン・マクハーグ著を読みはじめる。この本で示されているランドスケープや地域生態系、これを分析する方法に興味をもつ。大地は何百年というそう遠くない時間においても変化する。そうした土地の変遷を捉える方法である。

4月27日(火)
a+u608は、S-MAO(サンチョ+マドリデホス・アーキテクチュア・オフィス)の特集。表紙の折り紙でつくられているコンセプト模型が印象的。ただし、サンチョは、これは折り紙でなく襞であるという。「私たちの狙いは、折りたたまれた形態をつくることにはない。(中略)むしろなぜ襞によってこのように一体的な形態や空間構造が現れるのかを解明しようとしたのがそもそもの出発点となっている」。ドゥールズの「襞 ライプニッツとバロック」を思い出す。彼らのコンクリートのみを主戦場としていることに小ささを感じるが、共感できることも多い。それは彼らが示す平面や断面は無限な展開をし、それが空間にも現れていることである。因みに襞はFOLDの訳である。

4月26日(月)
「ドローダウン」読み終える。新しいインフラ、これをスマートグリッドといっていたが、これが必須となることを知る。その中に建築があり都市がある。これは今のコロナ渦でのテーマと一致している。建築が土地や周辺環境ばかりでなく時間的変化や他者に微細に対応し、植物的である。

4月25日(日)
「ドローダウン」によると、資材リサイクル率65%がひとつの目標指標になるという。2000年前のパンテオンはローマンコンクリートででき、そこにはポラゾンといわれる灰が含まれていて耐久性を向上させていたという。現在主流のポルトラントコンクリート生産のためには、高温巨大な窯が必要となり、コンクリート1トンの製造のために180キロに相当する石炭の燃焼が必要だという。その点フライアッシュは有効であるが、問題は有毒物質を含むことにある。ライアッシュは石炭を燃焼するときに副産物よしてでき、これまで廃棄していた。フライアッシュの再利用が大きなテーマだそうだ。節水では、今流行りのシャワーヘッドも紹介されている。
043 ラ・リーガ ウエスカ×ヘタフェ 岡崎は後半の終盤に登場し久保は不出場。久保は拮抗した試合になると、守備が不安視され出場が叶わなくなる。負けているときの切り札として扱われるのだ。2-0でヘタフェ快勝。降格圏ボーダーラインからひとつ抜け出す。

4月24日(土)
「ドローダウン」は輸送システム。大量交通システムを発展させることは温暖化防止に役立つのだそうだ。1900年の段階で既にポルシェ社からハイブリット車が考えられていたことも知る。ローナーポルシェ(常に生きているという意味)と命名されていた。Wikiでチェック。フォードTと違い馬車のようなイメージはないのだが、機械そのもので、そこにデザインが加味されていない。見るからに重そうである。こう考えるとフラーにも美学があったことに気付く。リモートワークをこの本ではテレプレゼンスといっていた。次章「資材」へ行く。

4月23日(金)
「ドローダウン」中盤は土地利用について。プランテーションも色々あるらしい。日本は古来からマツ、ポプラなどの単一樹種による植樹が行われていた。しかしこれだと短期間で土壌が枯れてしまうので、高、中、低木といった多様性が必要だという。これは日本の宮脇昭が考案した方法だそうだ。これはティールでも挙げられて、私たちが目指すべき組織のあり方とされていた。同様な研究にペーター・ヴォールレーベンという人もいた。彼の研究によると、植物はライバルの樹にも栄養分を分け合って、人間社会と同じく協力し合うのだという。ティ−ルでは、このことを結果そうなるのであって、予め調整するものではなく、自然に進行させながらバランスさせる力、進化する目的といっていた。ここまで読み進めると、ドローダウンを政治的に扱う矛盾を身に染みて感じるようになる。

4月22日(木)
042 ラ・リーガ バルセロナ×ヘタフェ 久保が4-2-3-1の2列目左で先発。守備から入り、現地評価はいまいちであったのだがまずまずのプレーであったと思う。ヘタフェ2点目は同年代のトリンコンを突き飛ばしたところからはじまっていたし、相対するこれも同年代の急上昇中のミンゲサをベンチに追いやっている。特に1点目は今日サイドバックに下がったククレアとのワンツーからバルサを崩したものは見事であった。久保を活かすという意味ではこの左サイドの組み合わせは悪くないと思う。したがっていつもと違ってラグビーのような試合ではなかった。こうも変わるとは不思議である。やはり監督からの指示がチームにもたらすものは大きい。選手にはそれだけポテンシャルの幅があるのである。週末は当面のライバルウエスカとの対戦だ。

4月21日(水)
午前にオンラインで授業を行い、午後から3年生のエスキス。対面である。2年生と違ってしっかりした案が出てこないのが少し残念だった。「ドローダウン」を続ける。エネルギーからフードへと実例紹介が移行する。次が建物と都市である。ここで、その先駆者としてジェイコブスとイアン・マクハーグなる人物が紹介されている。ジェイコブスと同様、市民レベルからエコロジカルデザインを提案している人だと知る。著書「デザイン ウィズ ネイチャー」を購入。

4月20日(火)
041 ラ・リーガ ヘタフェ×レアル・マドリード レアルは怪我人続出でフィールドプレヤー13名。そこにはBチームの選手も含まれている。ヘタフェの久保は先発せず。それでもヘタフェはマドリーを上回っていたと思う。しかし結果0-0。ヘタフェにとってこれは御の字とみるか。逆に首位に勝ち点1で肉薄していたマドリーにとってこの引き分けは痛いものだろうと思う。こういった拮抗ゲームに久保の出番はない。今週のミッドウィークのバルサ戦に期待である。

4月19日(月)
午前中に大教室での講義。そして午後は久しぶりの対面エスキス。流石に4時間は疲れた。2年生だからこそ、設計が小さくまとまることなく、外へ外へと視点を広げていってほしいと思う。敷地には十分余裕があり、隣には脇田山荘という名作建築も建っている。軽井沢の特殊性も大事である。

4月18日(日)
040 スペイン国王杯 ビルバオ×バルセロナ 前半ビルバオはバルサの攻撃を守り抜くも、後半に失点すると、返す力がなく0-4で負ける。潜在力の違うチームの典型的なゲームであった。前半のバルサのボール支配率は80を超えていたのではないか。レフリーもゲームを壊さないためにイエローカードの出し惜しみをしていた。しかし繰り返されるファウルギリギリのプレーにひとたびイエローが出ると、ビルバオの詰めも甘くなった。それにしても、今日のメッシはこれまでのメッシと違っていた。メッシ1点目の得点は自陣から長い距離を走りこんでのものであった。このタイトルによってメッシはバルサに残留するという報道がネットで賑わう。

4月17日(土)
久しぶりに映画を観る。「しあわせの隠れ場所」2009ジョン・リー・ハンコック監督。アメリカンフットボール選手の伝記である。しかし未だに現役選手を描いたものであることを知って驚く。原書と異なり映画は彼を受け入れた家族を中心に描いているのだが、この後の選手のキャリアが上手くいかなかったらどうなってしまうのだろうと心配してしたりしてしまう。ストーリーは、貧しい生まれで孤児であった心優しい青年が、裕福で優しいファミリーに受け入れられ、スター選手になるというものである。そしてその家族皆が人格的にも優れている。ドイツ車に乗り、カレッジフットボールやバスケット好きで愛校心があり、宗教信に厚く、ボランティアに積極的に参加し、共和党員であるのだが民主党に傾きつつある。こういった白人アメリカ人家族像、そいてリーダーの交渉力は強く、子供も大人のような口をきいても咎められることはないというようなアメリカ社会も垣間見ることができる。

4月16日(金)
039 CL ドルトムント×マンチェスターシティ 2ndレグのフルバージョンをUEFA.TVで見つける。今年ドルトは調子悪いと聞いていたが、戦術は以前と違って、パスをつなげていくものに変わっていた。サイドに個性的なスピードのある選手を置くのを止めて、オーソドックスな戦い方に変化していた。中盤が消されていて、ハーランドまでボールが届いていなかった。1-2でドルトが負ける。シティが順調に次のステージへ。シティは、ドルトにいたギュンドアンが中心となっている。相手陣内で彼を中心にボールが供給される。

4月15日(木)
大学院の授業もはじまる。受講生が多かったので、ディベート中心の授業であること、毎週本を読む課題を課すことなどの説明をはじめにする。来週の受講生数はどうなっているだろうか?今日の内容は、「建築」があることを話し、それがデザインの足かせになるのではなく、創造につながることを説明する。昨年の学生はこのことに納得がいかなかったようだ。あくまでも自由な立場でいたいという主旨であったと思う。今日は、個人的な個性(差異)の大切さを考えさせ、それを生む前提があることを説明し、さまざまな前提があるが、最も強力なものが「建築」であるという説明をした。午後からゼミ。「デザインの鍵」にある「名前のない空間に」と「目的のないところに機能がある」の説明からはじめ、今年の読書会に結びつける。M2中心に活発な意見交換ができた。押しつけがましい空間をつくることは誰もが嫌うが、そんなことせずに空間をつくることは可能か、というテーマである。いろいろな意見が出たが、面白かったのは、名前のない空間を残すような外堀を埋めるような設計をすること、あるいは、あえて名前をつけて既成とのズレを考えさせるなどがあった。その中でも環境や時間といった広いコンテクスト中で考えること、それでも上手くいくか分からないが、建築家としてそれに正面から向き合わなければならないこと、をまとめとした。これが今年読む「生態的視覚論」や「抽象の力」と関連することで説明を終える。

4月14日(水)
建築計画2の授業がはじまる。今年の授業は、はじめにライブで概要を説明し、その後オンデマンドというかたちにした。今日は第1回目なので、ライブでこの授業の意味についての説明。午後に行われる設計演習と連動していること。建築計画は決してスタティクなものではなく条件によって動くものなのだが、そこには作法らしきものがあり、それを設計実習を通して学ぶということ。実践によって計画作法を学ぶということである。前半は美術館の設計を通してである。作法というと決まり切った固いイメージがあるが、スポーツも然り、華道や茶道なども然り、それにしたがえばある程度もいくことができ、なによりもそういった型からこそ創造が生まれる。設計もこれと同様に考えるとよいというアドバイスをする。はじめは基本、それから思うことがあれば変えていけばよい。はじめからあれこれと複雑なことを考えるのもありだが、これまで建築が培われてきた土俵の上にまず乗ってそこから設計を行う方がジャンプは大きくなるというのがぼくの信念である。思えばぼくも学生時代、大胆な設計をしてこなかった。当時は四層構造もなかったが、その萌芽を習っていた。今日のオンデマンドではまず建物と建築の違いがあることを説明した後で、それを直感ではないj方法で説明するものとして「建築の四層構造」というものがひとつあるという結論であるというアドバイスをする。したがってこの授業は絶えずこの建築の四層構造に帰って説明をする。もっというと「四層構造」にそって建築をどう判断したかで建物との違いが生まれるのである。この四層構造を実践によって体得してもらいたい。こういった説明をした。次回は平面図作成の作法について学ぶことを前置きしてライブを終了する。

4月12日(月)
大学の会計システムに慣れるのに一苦労。ウインドゥズは扱い慣れていない。「ティール組織」の4刷に向けての校正開始。思い切って小題目を再考することにする。本の構成が曖昧なのが売りであるのだが分かりにくい面もある。元本にはない言葉を付け加えることにする。

4月11日(日)
038 ラ・リーガ レアル×バルサ 春の嵐の中の戦い。ポゼションはバルサであったが、先制点をとったレアルがペースを握っているのは明らかであった。最初はバルベルデがSBの上がりを阻止し、途中から3バックになったものの前線の選手を下げて中盤に守備的選手を入れる。それは攻撃的な守備で、ときに5バックでとなり、バルサの猛攻をしのいでいた。この変更はどうやらバルベルでの怪我のようだ。雨中の中、ジダンはびしょ濡れ。ライン際で指示をしていたのが印象的であった。監督も戦っていた。

4月10日(土)
037 ラ・リーガ ヘタフェ×カディフ 久保が先発も、後半5分で交替。どういった意図があるのだろう。久保は単発のプレーが多く、それがチームとして連動する気配はなかった。それを是正するためのものだろうか。その後、1発の速攻からオウンゴールを犯してしまい、0−1で敗ける。降格圏上のライバルに敗れた。次戦はレアルとバルサと続く。

4月8日(木)
今年度のはじめてのゼミを行い、研究室で読む本を決める。そのひとつとしてあげた「ドローダウン」ポール・ホーケン編著を読みはじめる。ドローダウンとは経済用語で、株が下がっていくことが明らかな中で最小限のリスクによって運用することをいう。本書では、科学的知見から、地球温暖化を逆転させる100の解決策が提示されている。

4月7日(水)
「シェークスピアのアナモルフォーズ」後半は著者の専門であるシェークスピアの分析。戯曲の中に挿入される1文が、様々な人に対して様々な意味を帯びてくることを詳細に説明する。そこには歴史(文化)と娯楽が同時に存在することで、劇に厚みを与えているという。このマニエリスムの時代、様々な視点を与える試みが試されていたのを知る。

4月6日(火)
今週からCLが再開されるもWOWOWに加入していないので観ることができない。残念である。放送権を廻って各メデイアの攻防は凄まじい。メディアが淘汰中であることを実感する。ホルバインの「大使達」は、立ち位置によってドクロが浮き上がる程度に思っていたが、そうでもないらしい。凸面鏡などの光学器具を使用するとさらに異なる構図が出る。つまり、鑑賞者に何度も足を運ばせる仕組みがあるという意味で、読む度に新しい発見をもたらすシェークスピア文学と同じであるというのである。ルネサンスからマニエリスムの時代にこうしたことが起きた。

4月5日(月)
「シェークスピアのアナモルフォーズ」蒲池美鶴著を読みはじめる。絵画において正面から見るとさっぱり訳がわからいのに、斜めから見ればはっきりとものの形が現れる、これをアナモルフォーズというが、この言葉が気になり本書を手にする。第1章は、絵画のその典型、ホルバインの「大使達」の紹介である。

4月4日(日)
「やさしいベイトソン」野村直樹著を再読。情報は一般に階層性がないといわれるが、ベイトソンはそれを覆した人である。ある前提のもとに会話はするものであるので、それを共有できないと会話が成立しない。例として、電車が止まった時の社内アナウンスが取りあげられる。「先程、お客様が線路に降り立ったため、電車を停止しております。お客様には大変ご迷惑をおかけしています」。このふたつの「お客様」が異なる人であることは普通に理解されるという例だ。もっとも会話が成立して前提が共有されているのを知るわけであるが、つまり情報は単独で意味を持つわけではないという意味で階層性がなく、その場その時のコンテクストに左右されるのである。このコンテクストというものを図式でなくなんといったらよいか。
036 プレミア サウザンプトン×バーンリー 3−2でサウザンプトンが逆転勝利。南野は不出場。この2チームも降格ライン上にいるが、両者とも守勢に立つことなく積極的なゲームを試みていた。結果、大変楽しかった。こうした試合でないと、勝利云々の前に観客が離れていく。ラ・リーガが学ぶべきことと思う。

4月3日(土)
「ティール組織」再読。昨日考えたことに関連してティールでは、予測→制御ではなく、感知→反応といっていたことを思い出す。感知→反応は、図式→認識と対立する。後者は、カントの有名な言葉「内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である」に代表されているように、盲目的な直感にたいし否定的である。ティールにある感知→反応は「目的は常に進化する」に代表されるように、ぼくたちを廻る環境は常に動的であることを前提としている。いわば図式など見出せないという立場である。図式という言葉はスタティックなイメージがある。
035 ラ・リーガ オサスナ×ヘタフェ 残りを10節とした残留ライン上に位置するライバル同士の戦い。どちらも失敗を怖れて安全策をとる。そこに久保はいない。80分過ぎから登場も、ボールタッチがなかったのでないか。0-0のドロー。

4月2日(金)○
午前、1年生の新入生ガイダンスに参加。午後研究室に戻り、安達くんから近況報告を受ける。SUPEでよい経験をしていたようだ。彼の興味のある「遊び」について話合う中で、ベイトソンの遊び理論を思い出す。ベイトソンは、双方向コミュニケーションを考える人である。昨日のゼミでもそうであったが、アフォーダンスというとそれがモノに宿っているように考えてしまう。そうでなく受け手としての人との関係で考えるのがベイトソンである。その論理でいくと遊びとは、例えばチャンバラごっこをするのは、互いにこれが遊びであると理解しているので楽しむことができるのであって、この理解がなければケンカになってしまうという。遊びとはこうしたひとつ高次元の精神性を伴う行為である。これはアフォーダンス理論にも応用可能で、人がアフォードされる前提を理解していないとアフォードは起きない。アフォーダンスとは環境全体を問題にしていて、そこで生活することによって理解できる意味のことで、一方向的な刺激的なものではない。これについて上手い言葉を探る。そう、刺激→反応ではなく、図式→認識である。ここまで考えてギブソンを再読したくなった。

4月1日(木)
新M2生とゼミ。修士研究の方針について話合う。興味あることを調査分析し、そこに共通してみられるものを起点にして設計をすすめようとする学生が多い。それよりも調査分析した中で興味をもった事例を身体化していく方が、設計が展開できるというアドバイスをする。これまで気付いていなかった自己を開放させるのに適した方法を考えるとよいと思う。各自がテーマとしていたのは、「斜面」、「北斎」、「発酵」、「影」、「セルフビルド」、「見えるけど隠されているもの」であった。今年度の読みたい本についても話合う。ティム・インゴルド、J・ギブソン、イーフー・トゥアン、マトゥラーナ+バレーナ、R・バンハムらが上がる。物事を歴史としてとらえること、空間を建築でない視点でとらえること、自律性や生態系のなぞ、建築と技術との関係、こういったものにある。

3月31日(水)
昨日のゲームでの右SBの松原の評価は高い。伊東とのコンビネーションがよかった。伊東が最終ラインの裏と2列目との間を上手く使わせていたという趣旨のものであった。

3月30日(火)
034 代表 日本×モンゴル 日本で開催もモンゴルのホームゲームらしい。日本がゴールラッシュし、14-0。引いて小さく守る相手に、パスを大きく回してはポストプレーによって、外からと中からと攻め抜いた。まるでゲーム前のミニゲームを見ているようであった。

3月29日(月)
033 U24代表 日本×アルゼンチン 26日からの中2日で本番と同様のスケジュールという。久保と板倉以外を代えてこのゲームにのぞむ。結果3-0の完勝。第1戦の雪辱を果たす。今日は、日本のプレッシングが勝っていた。とくにボランチの田中と板倉がよかった。それで両ウイングが積極的に奥を突くことができ、中央の久保が下がりライン間で受ける、そのかたちができていた。得点はこのかたちでないもののこれによってよい流れがチームをつくっていた。得点は、サイドバックからの縦パス1本によるものと、久保のコーナーキックによるもの。よい時間帯で得点を重ねることができていた。

3月28日(日)
「ベンヤミン・コレクション1」の浅井健二郎氏の解説を読む。コレクションの選択指針がまとめられている。1「近代の芸術意識のなかにー誰よりもゲーテにおいてー巣くっている神話的なもの(アウラ的知覚)を、ベンヤミンは名によりもまず認知する。その限りにおいて、ベンヤミン自身の深い内部に濃厚な親アウラ的心性が潜んでおり、そのうえでのゲーテ批判、とりわけその反批判的姿勢への批判なのだ。そしてベンヤミンは、このゲーテからの遠ざかりの距離、もしくはその距離の絶対性において、たとえばボードレールのモデルネ度を、またたとえばブレヒトの脱近代度を測定するのである」とある。同時に、2「バロック・アレゴリーの精神が重なって映ったということ、そしてさらに、バロック・アレゴリーを捉えたまなざしのありようが、いま一度翻って、パリの近代ないしボードレールを捉えるまなざしのありようを本質的に規定したということ、である。このまなざしによって、市民社会の演出する調和幻想が打ち砕かれた」という。これをまとめたベンヤミンの思考変遷は以下である。「アウラ的近代技術の代表者をゲーテに見出し、そこからの断絶の最初のラディカルな顕れ(近代の転回)をボードレールに、近代からの決定的な覚醒を告げるシグナルを非(反)アウラ的芸術(シュルレアリズムやブレヒトと複製芸術とに)見出した」。ここまできて、難波さんの美的経験の変容と近いことに気づき、はっとする。アレグザンダーに注目し批判するのは、難波さんはそこから出発したからであり、近代の極北である池辺さんを物差しにしてアレグザンダーの思考を計っていたからだ。そしてそれを注目したのは技術とりわけ環境技術によってなのである。アレグザンダーを一番に批判するとき、必ず技術に対するアレグザンダーの無知さを上げるのはそれによる。技術は、ベンヤミンが映画に見たように非アウラ芸術に欠かせないものだ。こうした2人の軌跡の目的は何かを考える。この解説にあるように、それは近代社会に深く切り込むためである。当時の読書記録を日記で振り返る。アナモルフォーズと不共可能性(共同主観)というふたつのキーワードが引っ掛かった。

3月27日(土)
カザベラ916で興味深い記事。スイスは国家として、津々浦々にまで整備された鉄道網を使って、そして美しい自然を活かした美術館を配置し、観光国家として戦略を考えているというものである。ヘルツォークからはじまり、ギゴン+ゴヤのキルヒナー美術館、クリスト+ガンデンバインのチューリッヒ国立美術館、メリクリのラ・コンジュンタ美術館らが評価を勝ち得たものであるという。

3月26日(金)
昨日の内藤廣さんの言葉を思い巡らす。主体と社会(外部)との位置付けについてである。得てして主体の強度が注目されがちではあるが、主体の強度と社会(外部)に深く切り込むこととは違うのでは、と最近思うようなった。むしろ社会に切り込むことができるのは、社会にオープンにされているという意味で中立的な位置にある技術とか科学とかいったものによってでしかなく、しかも技術は一朝一夕でできたものではない。これを利用した深度が問題にされるのではないか、と思うようになった。もしかしたらぼくには技術にたいする後者の配慮が欠けていたのかもしれないと思うようになる。切れ味と深さである。
032 U24代表 日本×アルゼンチン 前半はほとんどかたちをつくることができずに、アルゼンチンのプレッシングに苦しむ。昨日の代表はこの点が韓国より上回っていたことになる。後半からサイドをいっぱいに使ってプレッシングをかいくぐるようにすると、攻撃のかたちになる。久保はそれによってスペインでのいつものパターンに持ち込めるようになった。反対左サイドにボールがあるときは右の久保は内に絞り、際どいシュートも放つ。後は結果である。0-1の完敗といってもよいだろう。

3月25日(木)
午前、確定申告と役所周り。渋谷区役所に行く。建物中央に動線コアがあり、南がガラス張りの執務空間である。その向こうに低層で校庭のある神南小学校があるので渋谷駅にむかって視界は開けている。北はタワーマンションや公会堂があり、その間が小さな庭が連続している。どう使われているのだろうか。それに面する北内部はアトリウムでエスカレータ動線があり、空間は反対に大きい。評価は微妙である。午後、赤れんが卒業設計展をzoomで見る。遠藤研の佐藤さんが10選に選ばれたという知らせを受けた。質疑応答における末光さんの、多くの学生が生の空間を意識していないという指摘が面白い。手法とか情報とかシステムといったものが目的化しているという。これを聞いて時代が動いていることを感じた。内藤さんは建築家自身の時代にたいする欠如を指摘していた。おそらく、社会状況といった外部条件に則して考えてしまう傾向を批判したものだろう。そういう意味で主体を捨てて世界の中で個人を位置づけること、アクターネットワークに基づく方法論であるが、そうした時代性を感じないこともない。こんなこともあって審査の論点が、空間にしろ、方法論にしろ、その強度が問題になっていった。佐藤案は最終形を明確に示さなかった点でこの論点から外れてしまった。時代は面白いもので、ぼくが別の審査の場で末光さんにいったことが繰り返されている。それは「建築」というものに関わるもので、「建築」の存在をあらためて知ることとなった。
031 代表 日本×韓国 今日はよいかたちで攻撃を組み立てることができていた。やはり身体的な余裕がそうさせているのだと思う。1対1が安定していた。ゴールして後にピッチ上で選手皆が喜ぶ姿を見ると、海外では孤独なのだろうと思う。こんなところで国を感じたりする。

3月24日(水)
研究室の棚卸し業務をチェックして、午後は来年度の設計授業の準備をする。カザベラ916が届く。巻頭はスイス建築。アルド・ロッシがETHに赴任にした1972年からスイスの建築は変わったという。アナロジー建築なる方法論ができた。技術を前面に押し出すものではなく、壁構造で切り妻屋根のマッシブな端正な建築である。その根底にはマイヤールなどのシビルエンジニアリングがある。

3月23日(火)
午後大学行き。諸々の事務処理をして、夕方に理事長にお礼をする。帰りの夕方の首都高速は混んでいる。日常が戻りかけているようだ。

3月22日(月)
午前は会計士との打ち合わせ。午後はコロナ渦の卒業式。研究室に戻ってきてもらい歓談のみとする。今年の思い出と横の連携の大切さについて話した。小さなスタンドと無垢のアクリル製ブックスタンドを記念品として頂き、皆で記念撮影。その後、就職先などの相談を数人から受ける。アトリエ事務所を目指す学生はこれからが本番だ。希望する事務所にむかって頑張ってほしいと思う。

3月21日(日)
030 ラ・リーガ ヘタフェ×エルチェ 前線の怪我人のため久保が久しぶりの先発。最初はトップ下、前半途中から右Wに移動。トップ下では左右からのクロスに2度ばかり合わせるチャンスもあったが、ひとつは体格不足、もうひとつはタイミングが合わなかった。右に移ってからは早いタイミングでクロスを放り込む。そのうちのひとつがアシストとなった。結果を残したかたちとなったが70分に交替。その直前の速攻時に、走り抜けなかったことが交代させられた原因か。走力的な問題か一度受けてからアシストしようと目論んだかが分からないが、腑に落ちないプレーであった。監督も同様だろうと思う。久保の後に交代した10番選手に監督が激怒していたのが印象的。PKを廻る論争であったと後で知る。結果1-1のドロー。問題のPKを決めて勝ちたかったにちがいない。

3月20日(土)○
029 FA杯 ボーツマス×サウザンプトン サウザンプトン圧勝。南野は規定により不出場となる。2部が相手であると精神的余裕があるのか気持ちよいようにシュートが決まっていた。南野と同ポジションの選手が活躍している。

3月19日(金)
JIAで今年度の関東甲信地区の修士設計展の2次審査。審査員に大野秀敏氏。実行委員はぼくの他に電機大の日野さん、法政の下吹越さん、日大の古澤さん、千葉大の杉山さん、芝浦工大の岡野さんである。コロナのため今年はZoomによるオンラインとなる。8分の生プレゼを聞くと、1次の紙面審査との違いを多く発見する。特に最優秀案の東洋大の渡邉雄大さんの作品はそれが顕著であった。彼の作品は建築の動的さをテーマとしていた。機械的ではなく生態的にするという意味であろう。面白いのは、彼の試みがアレグザンダーの「オレゴン大学の実験」のプロセスに相当していたことだ。参加と漸進的成長の原理はもちろん、診断を行っていたのが特徴である。加えて彼はある集落(久我集落)を丁寧に調べていたのであるが、大野先生からの質問でどの集落でもよかったと応えていた。つまり、どの集落でも伝統を培ったものであれば、そこから普遍性を得られるということだろう。それは、パタンランゲージの精神のようでもある。そうした集落を丁寧に読み解き、パタンのようなものを無意識に習得していたことになる。大野先生もこれをダントツに優れていると考えていて、あっさりと最優秀案となった。審議ではその後の優秀賞の選択が中心となった。ぼくが選んだ理科大学の齋藤匠くんの作品は、瀬戸内海の小さな島の街おこし計画である。製塩やレモン栽培、豚の家畜場をアドホックに構築するものである。ぼくが考えるにインダストリアルブリコラージュというものに近い。街おこしあるいは製塩場などをつくるという目的をはっきりさだめて、それを達成させるためには身近な材料のブリコラージュで十分だという考えである。面白いのは、島で採集できる大文字の材料にこだわることなく、現代の工業製品も含めて、それらを匠みに使いブリコラージュの手法がカジュアルになっている点だ。それをインダストリアルブリコラージュといいたい。もうひとつぼくが選んだ作品は都市大学の木村くんの作品。これも街おこしをテーマにしていた。場所は和歌ノ浦の漁港。和歌ノ浦は和歌の発祥の地でもあるという。この地をよく調査し、考えられるアクターネットワークを作成し、最終的に彼が選んだ大伴家持の歌に基づき作品としてまとめ上げていた。アクターネットワーク的なアプローチする作品は多いが、それが動的であるために建築にまで仕上げるときの一工夫が必要とされる。彼の作品には、和歌に詠み上げられた塩によって、それを可能にしていた。それが他の作品と違っていた点である。紐を使った製塩の方法も様々な実験を試みていて共感できた。力作であったと思う。もうひとつの優秀案は、留学先でアマルフィの街を調査し、その街を改修した工学院の北村久美子さんの案であった。ぼくとしては、抜群のロケーションに助けられていると思われたのだが、これが伝統的なイタリアのリノベーションというのを先日の渡邉真理さんと陣内先生のレクチャーで知った。それで納得をする。今年の作品は昨年より充実していた。方法論において面白い作品が多かったように思われた。

3月17日(水)
10時前に代々幡斎場。住職の話を控え室で聞く。住職のキャリアは興味深い。息子の副住職は物理出身だそうだ。11時から告別式と初七日法要を執り行う。無事終了。最期のお別れでは、母が諦めつかずにお棺を閉じるのに時間がかかる。その後隣の焼き場へ。1時間もかからなかった。

3月16日(火)
15:30になると父を迎えに来る。その後を追うようにして自動車で代々幡斎場へ。式場で納棺式を家族で執り行う。その後で供花の祭壇配置を指示。祭壇は供花16束あり賑やかで安堵する。上階の控え室で住職を待つ。18:00から通夜開始。通夜の住職の衣装は地味であった。40分程度の読経の後、講話。戒名や通夜、告別式の意味を説明。1時間程度で終了。

3月14日(日)○
父は生前から戒名がいらないと言っていっていたが、先祖との関係ででそうもいかなかった。弟が世話になっていた心行寺にお願いし、護雲院政誉知則居士となる。少し落ち着いたので、溜まっていた日記作業にかかる。この2〜3日を思い廻らす。書きはじめると色々なことを改めて発見する。
027 ラ・リーガ ヘタフェ×アトレチコ 0-0のドロー。結果的にヘタフェのペースであった。したがって、そこに久保はなし。右は久保ではなくアレーニャが先発であった。
028 プレミア サウザンプトン×ブライトン 南野は先発。前半は、中盤まで下がりそこで受けるとボールをサイドに散らし、中央でリターン受けてフィニッシュというかたちを上手くつくっていた。チームにとけ込んでいるのが分かる。しかし後半は消えてしまう。このパターンが数試合続いている。1-2でサウザンプトンの競い負けであった。

3月13日(土)
早朝、母と妻の意見を聞いてから、葬儀会社に連絡。夕方打ち合わせとする。午後は法政大学のオンラインシンポジウム「コモンズを再生する東京」を聴講。北山恒さん主催である。若手建築家の商店街の活性化活動の報告と陣内秀信先生、大野秀敏氏、織山和久氏、渡辺真理氏がそれをレクチャーでバックアップする形式だ。陣内先生は、歴史家らしく日本の商店街を世界から説明してくれる。寝食一体の商店街は日本独特の文化だそうだ。紹介してくれたのは、トルコのギョイヌック、イスファハーン、シリアのアレッポ、モロッコのマラケシュ、ポンペイ、アマルフィ、北京のフートンなどである。学術的説明というのはこういうことだろう。大野先生は、東京の紐状都市のフィールドリサーチの報告。近代建築家によるデザインを強く批判していたのが印象的。建築家なしの建築の東京版リサーチである。笹塚の10号商店街を好例として挙げていたのは驚いた。ぼくの家の近くである。こういう視点に立つと、若手建築家の意見もそうであるが、建築家はエージェントになるのだろうかという疑問も湧く。渡辺さんはここのところを意識的で、建築家教育も一方で必要とし、その上で例えば大学院教育でその行き詰まりを考えるのがよい、という立場であった。これが法政大学の教育方針なのだろう。織山さんは経済分野出身で、データによる説明をする。日本の経済は先行き不安と言われるが、東京で建物が建っていない空間は逆に70%も残されていて、それを活用しない手はないということであった。北山さんらと活動する日本版「ヴォイドの戦略」である。コールハースが発想し、かつつくろうとしたヴォイドを実活動として引き継ぐものだ。面白いのは、建築家はこうした問題を考えると異様な想像力で創造を起こし、周囲を活気づけると考えていることだ。そしてそれが最終的な経済に反映されるということであった(それはちょっとカント的思考を彷彿させる)。ぼくらの経験した狭小地ブームにみられる現象である。今日紹介された若手建築家山道拓人さんの活動はその典型だろう。京王電鉄と協力した駅から遠い商店街の活性化活動である。彼らが中心となって商店街長屋にアクティビティを復活させ、本来不便であるはずの土地価値をあげるものであった。ぼくとしてはこれに建築技術を加え、昇華させる方法を考えたい。もうひとつ面白かったのは、織山さんは、そうした活動を促すのに組織論を問題にしていたことだ。フラットで刺激し合う組織がまずもって重要と考えていた。これに同意する。ところで今日のレクチャーで収穫だったのが、自分の意見を主張する方法と、織山さんがプレゼしてくれた内容、すなわち建築の可能性を経済的視点から捉えることであった。事実、経済は創造からこそ大きくなるというのだ。

3月12日(金)
朝早く起き、和室の掃除。プリンタだの照明器具の多くを片付ける。9:30過ぎに代々木警察署から電話。10:30に警察行き。電話では、父は家に帰ることが出来るということであったが、結局監察医行きが決まる。葬儀屋が遅れ1時間近く待たされる。14:00に大塚の監察院へ行く。30分待たされてから本人確認。ちょっと顔が変わっているような印象。結局死因の特定はできなかったという。ぼくらはそのことはどうでもよいのだが、誰のためにやっているのかと思う。段取りはわからないが、今度は葬儀屋へ運ばれるらしい。ひとりで帰宅。食事をして仮眠。義理の妹家族も駆けつけてくれた。そうこうしている間に葬儀屋から電話があり、18:30に漸く父が帰る。70キロの体で3階に上げるのは大変であった。父の態勢が整うと、皆が悲しみにふける。ぼくはフォロー役に回る。その後、葬儀の打ち合わせ。妹家族と賑やかな簡単な夕食。葬儀屋との打ち合わせを思うとなかなか寝付かれなかった。翌朝電話で相談し直すことにする。

3月11日(木)
父死去。突然であった。15時くらいには買い物に行く姿をzoomによる会議中に事務所から観た。声をかけようかと窓を開けて外に出たのだが、反対側に行ってしまったので声をかけることができなかった。少し経って階段の踊り場付近で戻ってくる足下だけ観た。ひとまず安心。その後帽子が転がり落ちてきたので、拾ってから声をかけようと外に出る。いつものことだと思ったので「大丈夫か」というつもりであった。階段下に行くと頭を下にして大の字に倒れている父を観て急いで駆け上がる。頭を持ち上げてから声をかけると反応がなかったようには思えなかった。体を起こそうとするが重くてひとりではできなかった。携帯を事務所に置いたままだと気づき、大声で2階の自宅勤務の娘を呼ぶも声が届いていないらしい。続けて3階の母を呼ぶ。これも反応なし。頭の高さを一定にしたまま階段に座り直し、太ももに頭を乗せる。道路には人影見えるも関係なしであった。父に「大丈夫か」と何度も語りかけるも反応なし。合間に大声でふたりを再び呼ぶ。漸く母が来る。南帆を呼ぶように指示。出ないという。次に119番に連絡を頼む。父の息はもうないようだった。南帆が来る。南帆は落ち着いていた。そうだ心臓マッサージと気づき、父の体を支えているためぼくにはそれが出来ないので南帆に頼む。母が階段を降りようとするので、2次被害を怖れてそれを制してセーターを着るようにいう。やがて救急車到着。救急車の中で蘇生措置。反応がない模様。緊急病院がなかなか見つけられないようなので出発まで時間がかかる。漸く女子医大病院に到着。ぼくは緊急外来の外の長椅子で待機。外出していた妻からメッセージと電話が届く。母を向かわせるかどうかである。おそらくもうダメだろうと感づいていたので、体調を優先するよう指示。30分後医師が出てきて中に入るように指示を受ける。父と対面。悲しみが急にこみ上げてくる。今日の2回目の感情である。様々な処置を尽くしたが無理であることの説明をしているらしいもはっきりしりない。どうやら延命装置を外してよいかぼくに同意を求めているようだ。心拍計の上段が心臓のものか尋ねる。そうだといい僅かに反応ある。再び心臓マッサージ。それでも波形が変わらないことを説明。無理だとは感じていたのだが延命装置を外ことの決定をくだすことに躊躇していたが一連の処置をみてそれも消える。瞳孔に光りを当てる。反応なし。16:30。これで死亡とする。半開きの父の目をそっと手で閉じる。カーテンを閉じてくれる。3回目の一番大きな悲しみが訪れる。どうしようもなかった。「何をやってんだ」と、言ったような気がする。自分に対する言葉でもある。部屋を出て妻に連絡。妻も混乱していた。しばらく長椅子で待機。死因不明のため警察が来るとの話を聞く。3〜40分して父と霊安室へ。ここで警察を待つ。警察からも自宅に連絡がいくそうで、それよりも身内の口から母に知らせることが重要と考えたが、妻にはそれが出来ないという。代々木警察署から2人の刑事と対面。今日の状況を説明。親切な人であった。今日これから検視、父が帰るのは明日という。タクシーで帰宅中、いかに母に告げるか思いを廻らす。タクシー降りると妻が待っていてくれた。母の状況を聴き、結局車椅子に腰掛けていた母の片を押さえて単刀直入に告げた。母は入院と思っていたらしい。遅れて食事。泣きじゃくっている南葉もいた。ショックで一緒にいれななかったようだ。そうこうしているうちに先程の刑事の現場検証。明日からの予定を確かめる。霊安室にいた葬儀会社に連絡することにする。そのころは既に就寝時刻であった。1日の出来事を思い廻らしながらソファーで就寝。

3月10日(水)
17年卒業の秋山怜央くんから「中銀カプセルスタイル」前田達之編 草思社が送られてくる。最近まで中銀カプセルに住んでいたのだそうだ。そのインタビューが掲載されている。ぼくも10年以上前に訪れたことがある。当時は設備が老朽化していて気になったが、狭くとも十分に事足りていた印象があった。この本からは、パッケージエアコンが装備され、その問題も解決されているようであった。秋山さんは藤本氏の事務所に勤めてからもう4年も経つという。早いものだ。主担当の東北の施設も来月オープンさせるという。頼もしい。

3月9日(火)
午後、JIA修士設計展の1次審査を、法政大学を借りて行う。今年度の審査員は大野秀敏氏である。大野さんは応募作品を深く読み込んでいらして、ぼくらのサポートはそれ程必要とされなかった。したがって2時間あまりで2次審査のへの9点を決めることができた。選考はバランスが良くとれていたと思う。作品の目の付け所あるいは研究過程よりも最終形に重点が置かれていたという印象を持つ。そこに大野氏のテイストが反映されていた。そもそも最終形が不十分なものはダメであることには当たり前のことではあるが、この時期それほど冒険もできない社会的風潮もあるので、まずは結果の密度とある程度の社会的妥当性が問われたということだろう。その上での批評性に耐えうるかどうかの作品が残った。

3月8日(月)
建築雑誌今月号は震災特集。滑田さんと浦部先生の木造仮設住宅の再利用状況のレポートがある。彼らのチームで再利用した実績は実に50件を上回るそうだ。その考察も面白い。スパンが3.6あるいは5.4mはほしいこと。部品構成種類を限定すること。部材一部だけでも再利用可能にすること、である。難波さんの論考は、胸に刺さるものがある。一連の建築家の提案に対して「3.11以前の自身の活動を見直すというより、それまでのデザインをより先に推し進めるかたちで展開したといったほうがよい」という。難波さんにおけるその結果が半ば途中であるが、「これまでの経験の上に、新しい技術を取り入れた、コンパクトで高性能なエコハウスの提案」であるという。

3月7日(日)
「グリーンブック」ピーター・ファレリー監督2018製作を観る。1962年時のジャマイカ系黒人ピアニストとイタリア系運転手の友情物語である。当時のアメリカ社会における黒人差別はショッキングであった。しかし差別自体ではなく、既に財をなして裕福な黒人の葛藤からそれを描き出している点が、それをより新鮮にしていた。社会に深く根付く差別がありつつも、それへの一人一人の僅かな抵抗と社会への上手い同化が希望的に描かれていたのが、まずもって素晴らしかったと思う。ピーター・ファレリー監督は喜劇中心に活動をしているようだ。「グリーンブック」とは当時の中産黒人階級者が安心して旅行できるためのガイドブックで、当時も黒人の間でしか知られていなかった本であったらしい。
026 プレミア シェフィールド×サウザンプトン 南野は怪我から復帰し先発で登場。下位のチームに取りこぼすことなく2−0で落ち着いて勝つことができた。ゴールすることができなかったが、南野はチームにすっかりとけ込んでいる。ライン間でボールを受けることが多く、ゴール前で絡むことも増えた。同時に結果も欲しいところで、終了間際の左足でのシュートは決めたかった。

3月6日(土)
NHK特集は、震災から10年。住民ひとりひとりからの避難にかんする聞き取り調査のまとめであった。ひとりひとりの行動を、時間を追ってプロットし、それを人数分重ね合わせた結果の報告である。町単位の小さな集団では避難誘導が、人によるカスケードあるいはヒエラルキー構造をもっていた。合理的な情報伝達のかたちをそこに見ることができた。
025 ラ・リーガ バリャドリッド×ヘタフェ ヘタフェは今日も従来の戦いかたでのぞむ。前半に2失点し後半はじめから久保を使う。いくつかチャンスをつくるも、これといって変化はなし。下位のチームに1-2で負ける。流石にここまでくると、久保を応援していてもヘタフェの試合にはうんざりした。ビジャレアルでは、久保が出場しなくとも組織がしっかりしていたので別の楽しみ方があったのだが、ラグビーのゲームのようである。

3月5日(金)○
「サーカス」チャップリン監督・主演、1928を観る。放浪者チャップリンがひょんとしたことからサーカス小屋に紛れ込んでしまい、そこから繰り広げられる喜劇である。はじめて観たと思うのだが、そうは感じさせないほど明確にシーンをイメージすることができた。思えばよくある短編アメリカンアニメも同様で、定番ストーリーといってもよいだろう。したがって、映画に込めてある社会縮図や個々の演技のディテールの是非が映画としての価値を決めるものとなっている。

3月4日(木)
「複製技術時代の芸術作品」の後半を読む。後半は、当時政治的意味をもつようになった映画に代表される複製芸術の本質についてである。キーワードは複製芸術を形成する技術と大衆。どちらも純粋芸術に向かうことを阻止し、反対の社会というものを形成していく源とされる。大衆の効用は以下である。「チェックすることになるこの大衆のほうは目に見えず、まだ存在していない。この不可視性によってチェックの権威は高められる」。こうして大衆も作家と同様にチェックを通じて自らの意見や考えを社会に反映させることができるようになるというのだ。これは現在のSNSの状況と似ている。次にその実現をになう技術について、ベンヤミンにとってそれは、政治的に中立にあるものとされる。中立とは以下にあるように人の判断外部にあるということである。良くも悪くもなるというのだ。「撮影機械が現実から獲得することができる多様な姿の大部分は、感覚的知覚の通常の範囲の外にある」。そこには知覚器官によってでは、歴史の転換期において直面する課題を解決することは不可能であるという考えが根本にあり、そのために外部にある技術の助けが必要となるというのだ。最終的にこうした課題がどのように解決されるか、ここで建築が登場する。建築を体験することに照らし合わせて、「触覚的受容(=体験)の導きによって慣れを通じて少しずつ克服されてゆく」ことによって解決されるというのだ。ここでいう技術とは、「魔術師に対する外科医、絵画に対する映画のカメラテクニークにあたる」ものである。「画家はその仕事において、対象との自然な距離を観察する。それにたいしてカメラマンは、事象の組織構造に深く侵入してゆく。それぞれが獲得するイメージは、はなはだしく異なっている。画家によるイメージは全体的なものであるのに対し、カメラマンによるイメージはばらばらに寸断されたものであり、その諸部分は、のちにある新しい法則にしたがって集められる」。つまり社会に深く入り込むことできるのは中立的で外部にある技術によってのみであり、そうして深く入り込んだ成果だからこそ、公平に大衆判断に委ねることができるというのだ。このことができるのが映画(あるいは建築がしてきたこと)という複製芸術なのである。

3月3日(水)
思い直して「複製技術時代の芸術作品」を再読することにした。読み直すと改めて気付くことも多い。ここで挙げられているヴィーナスの例が頭を整理しやすい。「古代のヴィーナスの像は、それを礼拝の対象としていたギリシア人にとってはある伝統連関に属していたが、それを災いをもたらす偶像と見なした中世の聖職者にとっては、また別の伝統連関に属していたのである。しかしこの両者に対して、等しい現れかたをしていたものがある。それはこの像の唯一無二という性格、換言すればそのアウラである」。そして「決定的に重要なのは、芸術作品のこのアウラ的な存在様式が、その儀式機能から完全に分離することは決してないということである」。つまり「真正な芸術作品の比類なき価値は、つねに儀式に基づいていた」という。しかし、芸術の複製可能性がこの状況を変えたと本論は続く。それは「芸術のための芸術という教義を持ち出し」、「いかなる社会的機能を果たすことを拒むだけでなく、いかなる具体的テーマによって規定されることも拒絶する、<純粋>芸術の理念というかたちで現れた」のだという。逆にいうと「芸術作品が技術的に複製可能となったことが、芸術作品を世界史上はじめて、儀式への寄生状態から開放するという認識である。(中略)芸術は儀式に基づくかわりに、必然的にある別の実践、すなわち政治に基づくことになる」。芸術となったのは複製技術によってであるというのだ。ものの根拠をその内部に見出すのではなく、とりまく状況からあぶり出す論の進め方。この論考の前半である。

 
3月2日(火)
024 プレミア サンザンプトン×エヴァートン 南野はハムストリングを痛めたという理由で欠場。心配である。サンザンプトンは好調エヴァートンに先制され、そのまま逃げ切られる。0-1。このところサウザンプトンでゴールしているのは南野だけである。

3月1日(月)○
午前に虎の門行き。午後は来春からの授業の準備をはじめる。一応の方針の目途を着けることができた。この勢いで確定申告の資料も集める。「チャップリン回顧」ベンヤミン著(1928)を読む。笑いをインターナショナルで革命的な情動にまでしたチャップリンを評価する。「サーカス」「世論」「巴里の女性」「ある美しい女性の夜夜」「偽牧師」が挙げられていた。

2月28日(日)
023 ラ・リーガ ヘタフェ×バレンシア 久保は85分過ぎから登場。今日のヘタフェはプレッシングが効きゲームを有利に進めた。そんな中前半終了間際に強烈なミドルシュートで得点ができ、久保の出番は遅くなる。崖縁に立たされたボルダラス監督はこれまでのメンバーに戻し、彼らが徐々に応えるかたちになっている。久保は終了間際にほしいシュートも放ったのだが、後半登場という立ち位置に落ち着いてしまうのだろうか。

2月27日(土)
渡辺真理氏と北山恒氏の法政大学での最終講義にzoomで聴講。アーバニズムがテーマ。渡辺氏は、コーリン・ロウの「コラージュシティ」翻訳からはじまって、都市をどう位置づけてきたかを、作品を通して紹介してくれた。学会賞の真壁伝承館では、プロポ時に建築的な答えを与えていなく、サーベイとワークショップの実施のみを提案していたというのをはじめて知った。その審査員長をしていたのが北山さんであった。続く北山さんは反アーバニズムを唱える。都市をつくるエージェントを市民に取り戻す方法を法政に赴任してからずっと考え続けてきたという。アーバニズムのその後を考えているという点で2人は共通している。北山さんにとってその答えは、都市のヴォイドに注目すること。死んでいるヴォイドを上手く活用することであった。そうした彼らに共通しているのは、資本の手に落ちた都市からの脱却である。もう一度、地形的歴史的文化的バックグランドをもつ都市を計画するにはどうしたらよいかということであった。それを学術的科学的アプローチよりもブリコラージュ的なサーベイやワークショップに期待しているのである。このことに大筋納得できた。しかし、強大なコンペティター=資本には、対抗でなく懐柔が必要でないかと思ったりもする。昨今はリノベーション、環境問題、あるいは狭小地建築ブーム等があるのだが、その上に乗った資本誘導を建築家として考えることもあると思う。建築家のもっている技術とは何かということであるが、つまりは、それこそが(都市)計画することの否定、建築家だからこそのブリコラージュ的手法と思ったりする。
022 ラ・リーガ エイバル×ウエスカ

2月25日(木)
昨日に続き、ベンヤミン著の「オスカル・シュミッツへの応答」1927年を読む。映画「ポチョムキン」の批評である。この映画のストーリーの分かりやすさを批判するシュミッツに対してベンヤミンは、モンタージュという新しい技術を用いて大衆を惹き付け、映画の意味までをも大衆化させたという点を評価する。映画をはじめとする芸術活動が、ブルジュワの審美眼に留まることへ否定したものである。新技術を使用することで「ポチョムキン」が社会にたいして直接為し得た事実を大いに評価していた。夕方から設計小委員会。建築情報学会の「建築情報学へ」第2章の石澤さんの「一から多へ」が話題になる。著書は竹中工務店のBIMマネージャーである。建築情報も詳細になり深度を増していく。それに設計者は追従できなくなりどうなっていくかが間接的に問われていたように思う。ここで書かれているように、建築家が優れているのは、1:500図面に於いて書くこと、1:50において書くこと、1:5で表現する意味等を自然と身体化していることである。このスイッチの切り替えが建築家特有のセンスで、それがさらに問われるようになるようだ。ぼくの経験を振り返っても、最近は事務所特有の究極のディテール等が許されることはない。標準ディテールを使用しながら、それを上手くカバーするようなデザインが細かいところで必要となっていて、それが建築の作品としての質を左右している。情報がオープンになり個々で独立して価値を持つようになったとき、とるべき態度がここにあるように思う。ティール組織のような話である。一方でスペシャリストは細密化を試みる。池田さんのRC構造のモデル化にたいする研究を思い出した。現行の基準法のモデル化はあまりにも単純であるので、実際の挙動を詳細に分析して、新しい基準を作り出そうとするものである。ベンヤミンを読んだ後には、技術者の本来の行いがこうしたところにあるのだとも思うに至る。

2月24日(水)
「生産者としての<作者>」1934年ベンヤミン著を読む。「球と迷宮」から知った。これが書かれた時代背景をなかなか理解することが難しいが、ロシア革命が好転しない現状を踏まえたものと推測する。それをベンヤミンは、様々な分野に所属していたブルジョアジー(知識人、専門家)が仕組んだ革命がそこで留まり、プロレタリアートまでに及んでいないからだと指摘する。計画したことが一人一人の個人にまで及ばなかったことを批判しているのである。これは文学や音楽、写真について言及したものであるが、建築も同様であろう。どうしてそんなことになってしまったのか、ここでは「生産装置」という言葉を使い説明する。「実際には装置が彼ら(音楽家や作家や批評家)を所有しているのに、自分たちこそがその装置を所有していると思っており、そのことによって、みずからがもはやコントロールできない装置、彼らがまだ信じているところはちがってもはや生産者のための手段ではなく、生産者に敵対する手段になってしまった装置を、擁護している」からであるという。この装置を「建築」と言い換えてもよいだろう。ぼくらは「建築」の中にいることを知らずして、逆に「建築」に取り込まれてしまっているのである。ではそうした認識の後どのようにすべきか。本書では「ある作品は時代の生産関係(=「建築」)のなかでどういう立場になるのかを問うべき」といい、別のところでは、「作品が具現している作家の技術」こそが重要といっている。技術とは「生産過程における知識人みずからの持ち場についての正確な知識」のことであり、社会の中にあり、ある方向づけすなわち一旦形式化するものである。この技術を使用して、「生産を束縛している障壁のひとつを新たに取り払う」ことが、「ブルジョア出身でありながら、その出自を克服して、真にプロレタリアートとの連帯を目指す作家」を可能にするというのだ。難波さんとの縦ログ構法を「建築」として捉え直し、今日的な環境問題に合致するよう位置づけし直すこととの共通性をここに感じた。縦ログ構法がなんであるかよりも、縦ログ構法が有益なものを何も作り出せないのなら、役立たずとする考え方である。それにしてもここで取り上げられているブレヒトの言葉は衝撃的であった。「政治において決定的なのは私的な思考などではなく、他者の頭のなかで思考する術(クンスト)である」。

2月23日(火)
「はじめてのスピノザ」國分功一郎著を読み終える。スピノザに惹かれる理由が整理できた。後半にそれをデカルトとの比較で示している。デカルトにとって真理はア・プリオリに存在し、「真理は公共性をもっており、公的な精査に耐えうるものでなければならない。言い換えれば、真理が真理と求められるのは、もはや反論の余地がないと考えられた時であり、したがって真理が相手を説得した時である」とある。この考えによって今日の近代科学が根拠付けられている。それにたいしてスピノザは「真理の基準を外に設けることはできない」とし、「自分と真理の関係だけが問題にされる。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしている」。これは建築家が敷地や前提条件にのぞむときの態度に近い。あるいは、幸福って何だろうというような答えのない問題を考えるときの態度に近い。そうした問題に根拠を与えるものなどないので、その中で考え戯れ、それがせめてもの創造といえるものだということである。次に疑問に思うのは、こうしたスピノザ的真理観と近代科学との間に接点があるかということである。本書では、全くOSが異なるので、つまりパラダイムが異なるので共有は難しいと結論付けている。ただぼくが思うに、その中で考え戯れる方法自体は整理説明できるし、その手順は近代科学的思考方法と同じでないかと思う。あるいはもしスピノザの方法こそが正しいとするなら、対立する近代科学の限界を示すことで逆に振り戻すこともできるのではないかと思う。

2月22日(月)
「はじめてのスピノザ」を続ける。原因/結果、能動/受動が3章で取り上げられる。「自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である」。つまりコナトゥスを発揮していることを能動的という。すなわち、自由とは能動的であることである。しかし一方で自発性は否定される。意識も含めて全てが複雑な原因の上に成立して、ゼロから生まれるものなどなく、それを差し示すことなどできないというのだ。むしろ原因は結果の中で自らの力を表現するものとしてある。パタン・ランゲージに対する評価も同様だろう。パタン・ランゲージを使いこなすことが自由=創造で、そうしてはじめてパタン・ランゲージが創造の源と見なされるようになる。

2月21日(日)
020 プレミア サウサンプトン×チェルシー 南野が先発。サウサンプトンは前戦からのプレッシングが効かずに押し込まれ、ボール支配率が極端に低かったが、南野は一瞬のチャンスを活かして先制ゴールを決める。このときだけ左ではなく反対サイドに位置していた、そこの選手間でボールを受け、DFとGKが滑るのを見届けてから落ち着いてゴールに流し込んだ。しかし後半から消えてしまう。チームが押し込まれる状態ではやはり南野は活きない。先制ゴールにもかかわらず75分過ぎに一番はじめに交代させられる。こういう均衡したゲーム展開でも使い続けられる信頼を勝ち取ってほしいと思う。
21 ギリシア PAOK×ラミア 香川は60分過ぎから登場。そのとき3点をリードしていて試合は決してた。動きは上々。ただし、ギリシアリーグはあたりが強くなく、判断スピードが他リーグと比べて劣っていた。それは小さな香川には不利にならず、背中に相手を背負っても難なくターンをして窮地を脱していた。ここに日本人の欧州での成功が難しい答えがあるように思えた。激しさからくる体格の弱点をクリアする何かがまず求められている。

2月20日(土)
「はじめてのスピノザ」國部功一郎著を読みはじめる。スピノザ「エチカ」の入門書である。コナトゥスとは、自分の存在を維持しようとする力。つまり、エントロピーを減少させる力である。このコナトゥスによって、物や人は変状し、つまりエントロピー増大に反し生き、それは生物学に於けるエソロジーという考えである。人が幸福を感じるのは、コナトゥスが発揮されるときで、場や時、各自にとって異なり、絶対的なものではない。生起=幸福ということであろう。したがって、精神と身体を2分けして考えない。同時期のデカルトが考えた近代二元論と大きく違うという指摘がなされるが、芸術においてはバロックが先行していて、むしろスピノザよりもデカルトの誕生の方が異様なことだろうと思う。ちなみにこの後17世紀にはニュートン、ホッブス、ロック(契約論)が続き、啓蒙の18世紀に入る。そして3章からはスピノザの自由について。自由とは、与えられた条件のもとでコナトゥスを発揮できることである。
019 ラ・リーガ ソシエダ×ヘタフェ いよいよヘタフェが行き詰まる。5戦勝ちがなく4連敗である。久保とアレーニャを外し守備的でのぞむのが、今日は以前と違い数度チャンスをつくる。しかし得点できなかった。試合も0-0の均衡を保っていたので、久保の登場も遅くなり80分過ぎから。交代直後にPKを与えてしまい、反撃に移ろうとするも打つ手なし。久保はともかくチームの迷走は続く。

2月19日(金)
本年度の卒業設計・修士設計の講評会をzoomで開催。ゲスト審査員に比嘉武彦氏、松井龍哉氏、日埜直彦氏を迎える。それに非常勤講師と専任を加え、23名による大講評会であった。たいし参加する学生12名全員はパワポによる2回目のプレゼとなり、テーマを絞り上手く伝えることができたと思う。Zoomのよいところであった。遠藤研からは佐藤玲香さんと町田忠浩くんが参加。佐藤さんの案は地元の庄内平野で計画し、庄内平野の大きな課題である雪を「溶かす」ことから「と化す」ことを目指した案で1等に選ばれた。この案は、使われなくなった田を町が推進していた移住者促進計画によって再生しようとする試みである。計画されたのは8棟。それらをシミュレーションによって巧みに離れた分散配置をし、夏と冬で全く異なるランドスケープをつくった。それはこの雪国特有の吹溜りという自然現象を上手く建築化したものである。松井さんからは、生活する側の視点からのデータ分析と観察が丁寧であり、それをみずみずしいと講評してもらい、「〜と化す」という言葉の扱いも感心してもらった。日埜さんは、野生動物の脱皮などの例に挙げ、夏と冬の顔があるのは生態的と評してくれた。こうした建築のあり方は、モンゴルのゲルや東南アジアの浮型高床式住居に見られないこともないが、ひとつの発明であるとも評してくれた。比嘉さんは、前提となる庄内の過疎や農業問題などの条件操作も巧みであったと評してくれた。御手洗龍さんは最もこの案を評価してくれたひとりである。この案を、観察から自分の言葉での抽象化し、そしてそれを建築にまで高めたものという高い評価である。そしてその広がりを根付かせることが文化であるともいっていた。しかし一方で内部の生活のプレゼなさを指摘し、今後の課題としてあげてくれた。武田清明さんは将来に開けていて、そこからくる明るさを評価してくれた。谷口景一郎さんは、技術的側面から雪の断熱や反射などの実現性の高さを評価してくれた。それに加えるならぼくが思うにこの案の素晴らしさは、卒業設計で必要な壮大な希望があり、かつそれを具体的にしようとする意志の高さが先生の琴線に触れたのではないかと思う。地球とまでいかないまでも自然までをもブリコラージュする大胆さと緻密さが受けたのだと思う。これからは、こうした視点の思想、たとえばティモシー・モートンなどに触れて問題を整理するとよい。2等となった町田くんの案は、ピラネージの「牢獄第2版」を分析し、その意味を現代に問い直す提案であった。松井さんは、学生らしい意欲的な試みであり、ピラネージから隈研吾とインスタ、そしてイオンが代表される商業批判といった一連のストーリーつくりの力強さを買ってくれた。日埜さんはこの案の明るさを評価してくれた。こうしたことが可能なのも軸組構法によるものであるが、チュミとの相違を質問に挙げていた。日埜さんは絶えず成果物としてのモノの効果に重点を置いていたのが印象的であった。もっというとチュミがもたらしたものと30年後の現在何が違うかという問いである。これに答えるのは難しいが、町田くんがあげたインスタ映えの意味を再評価することにヒントがあるのだろうと思った。一般の人は全体計画など全く気にしていないということだ。チュミのものとは違って全く全体像などないのだ。比嘉さんは、牢獄における「衝突」の発見を評してくれた。衝突については、タフーリがそしてエイゼンシュタインもキーワードとして挙げているので、チェックする必要がありそうだ。ぼくとしては、建築の根本である将来を計画することの不可能さを示す批判的作品として、この作品を評価している。ピラネージには、近代の明確な都市計画への反発がある。それによって、ひとつひとつ一人一人の個が消されてしまうことへの批判である。現在誰もその危惧を感じている。しかしそうした危うい計画に代わる新しい方法など見出されてはいない。そのときにこうした窮屈な現状を衆知にさらす批判的方法もあるのでないかと思うのだ。そこも評価したいと思う。遠藤研以外では、布施晃輔くんの南極に建つプレファブ建築の提案も好評であった。詳細な技術的検討やモックアップが評価されたかたちである。完成度が高かった。日埜さんもいっていたのだが、オープンテクノロジーの可能性について結論として位置づけるとよいのではないか。それは比嘉さんがこの構法の汎用性を問うていたことでもある。これらの話を聞いて、三宅理一さんの「限界デザイン」という本を思い出した。参考にするとよいと思った。塚原諒くんの作品も高い評価を受けた。手賀沼の自然環境を読み解き、そこで生育している芦を建築にする提案である。彼はプレゼの前半で、石山修武、坂茂、ジャン・プルーヴェ、池辺陽を構築家として挙げて、彼らの作品に対する姿勢を受け継ごうとしている。それにぼくも賛同する。ぼくが思うに彼らに共通していることは、建築を通して社会性を示そうとするのではなくその反対の、社会の中から生まれてくる技術を利用して建築として顕在化することにある。比嘉さんはこれを踏まえて、手賀沼の歴史性も拾い上げる必要性を指摘してくれた。日埜さんはもう少し現実の敷地に向かう必要性を指摘してくれた。研究に重点を置いてしまう院の弱点を突かれた訳である。ほしかった。学部4年の竹村寿樹くんも高い評価を受けた。これも地元商店街を丁寧に読み解き、そこから拾った問題点や特徴を公共に役立てようとする提案である。松井さんからは最終的な新しさが問題にされたが、比嘉さんによる、この案を中華料理に喩えた評価が面白い。大きさの同じ材料を揃えてざっと組み合わせるカジュアルさを評価したものであった。この指摘にあるように図面の精度と密度は圧倒するものであって、真摯に評価する必要がある。最後に総評として松井さんは槙文彦先生の言葉を紹介してくれた。美とは美しいという意味の他に、元来人間が住むときの快適さを示すものであるというもの。こうした提案の大切さを重く受け止める必要がある。日埜さんは佐藤案と町田案の突出したユニークさと展開の面白さを評価してくれたものの、比嘉さんにはいまいちであったようだ。2案の力強いストーリーつくりを評価しつつも、そこに至るまでの視点の面白さ、拡がりの可能性も評価すべきだという意見であったと思う。それは、コロナ渦を踏まえた非同期コミュニケーションの提案や地面レベルの開放を狙った案のことをいったものだと思う。その上で選ばれた3案に対して敢えて批評してくれて、佐藤案に対しては特殊解で普遍性がないとし、布施案に対してはテクニカルな方法論の行き先に疑問を呈していた。町田案には情熱を感じつつも最後のモノとしての強度に疑問を感じていた。今年はzoomによる講評会であった。建築としてのモノの出来の深度よりも、設計に至る内容までの深度を上手く表現できているかが問題にしたと思う。比嘉さんがいうにはその深度よりも切り口の鋭さというものだろうか。近頃の傾向として、学生らしい突き抜けた案がなく保守的といってもよい案が多い。そんな中、モノよりも過程の方に重心が移ったかたちである。それは千葉工大らしくなく、先行きに少し不安を感じないこともない。このように思うに至る。

2月18日(木)
「球と迷宮」の8「閨房建築」を再読。閨房とは心地よい寝室のことである。現代建築が内部に留まっていることを批判している。では向かうべきはどこか。ベンヤミンの「生産者としての作家」というエッセイが最後に挙げられ、それが答えである。「ある文学(作品)が時代の生産関係に対してどういう立場にたっているかと問う前に、生産関係に対してどういう立場になっているのか、と問いかけてみたい。(中略)この問いは作品生産における作家の技術に直接向けられている」。この生産と技術に向けられた視点は池辺さんを思い出させるものであった。池辺さんはこれをまとめて「デザインの鍵」の最後の96「広げるほど決めやすくなる」でこういっている。「デザインの対象は単に名前だけではなく、具体的な形として無限に広げた形の中に浮かび上がってくるとシンボリックに考えることができる。ここにシステムの考え方の基本が存在しており。システムとは、描かれた組織図ではなく、対象物の無限の成長の形態であるといえる」。

2月17日(水)
建築雑誌2月号が届く。特集は「ローコスト建築の諸相」。巻頭に石山修武氏の対談。最後の方に難波さんの「ブリコラージュとしてのローコスト・デザイン」がある。この特集ではローコストを、工業化技術という実際的問題として示すよりも、設計者や社会のもつ美学としても浮き上がらせようとしている。その中でフィンランドの戦後の住宅政策の紹介が興味深い。三宅理一氏の「限界デザイン」でも紹介されていたPuutalo社の戦後復興難民丸太組住宅である。ローコストの普及はもちろん品質保証と地域への適用が目的とされていて、今年のベネチアビエンナーレでも紹介されているということである。最後に最近の日本のDIY的建築家の見取り図が挿絵としてある。石山さんを中心にして、横軸に生産工法―美学意匠。縦軸に複雑性―単独性として建築家を割り振っている。これは生産と美学、単純と複雑性を対比して捉えるものであるが、その批判として難波さんの論考を読むと、ブリコラージュをこうしたステレオタイプ的な思考を脱するものとして紹介していて、面白い。

2月16日(火)
CASABELLA915号が届く。アンサンブルスタジオによるアースワークが2点。ロッキー山脈のある財団のためのステージ。大地を盛り、穴を掘ってコンクリートを打設し、盛った大地を取り除いた作品。それと、石灰岩の採掘場の再生計画。どちらも建築というよりもアートである。ヘルツォークのバーゼルの集合住宅は、外装のシャッターが印象的であった。

2月15日(月)
017 プレミア サウザンプトン×ウルヴァーハンプトン 今週FA杯でも両者は戦っていた。南野は規定により登録できずに今日は2列目から先発。前半はチャンスメークをし、シュートも放つ。チームの前線からのプレッシングが効きよいかたちであった。ところが後半から形勢ががらっと変わる。なぜだか判るとよいのだが、トラオレが縦横無尽にドリブルするようになるとDFラインが下がり、全くセカンドボールを拾えなくなった。こうして南野が消えて、60分に交代。しかしゲーム展開は変わらなかった。フットボールの面白いところである。サウザンプトンは良い戦いをしているのだが、リーグ戦5連敗である。

2月14日(日)
016 ラ・リーガ ヘタフェ×レアル・ソシエダ 前戦のマドリードに続き、ヘタフェは従来の形式に戻す。したがって、久保とアレーニャは先発から外れる。久保登場の58分まで、得点を決められるもまずまずのプレッシングが効き5分5分であったと思う。久保とアレーニャの登場は守備中心から攻撃はじまりの狼煙である。しかしそう簡単にはいかなかった。チャンスが訪れないのは、相変わらずハイボールを上げて相手攻撃をしのぐパターンが続いているからだ。久保がフリーでいるもそこへのパスは少なかった。そろそろボルダラス監督の次の新しい手が必要となってきた。

2月13日(土)
「球と迷宮」の2「アヴァンギャルドの歴史 ピラネージとエイゼンシュタイン」を再読。エイゼンシュタインはロシアの映画監督である。有名なのは「戦艦ポチョムキン」。エイゼンシュタインが用いたピラネージをオマージュする構成手法をタフーリは評価する。それは、エイゼンシュタイン特有のモンタージュ手法というものであり、「牢獄」からヒントを得たものであるという。エイゼンシュタインは「牢獄」の構成を「相互に随伴する複数の知的作業による衝突―並置」したと捉えていた。ところでこの章で、タフーリはエイゼンシュタインのどこにアヴァンギャルト性を見出しているのか。なかなか読解するのが難しいが、フォルマリズムの実験を行いながらも、コンテクストの全体性、有機性、その構造の永続性を保持しているところにそれを見い出しているようである。ぼくなりに考えると、「名前のある空間」をつくりつつも、名前によって決め切ることができない余白も提示することだろうと思う。つまりは「名前のない空間へ」ということなのだろう。
015 プレミア レスター×リヴァプール 1-3でレスターが勝利。リヴァプールペースでゲームが続き、漸く後半になって美しい崩しからサラーがゴールを決めた。しかしその直後に、DFが崩壊し続け様に3失点をしたかたちである。今日もキーパーをはじめとするDFがおかしくなった。クロップはこういう時もあると選手をかばうも、悪いチーム状態から抜け出せずにいるのが現実である。
 

2月12日(金)
「球と迷宮」タフーリ著の1「悪しき建築家 G・B・ピラネージ ヘトロトピアと旅」を再読。ヘトロトピア(混在郷)とは、フーコーの言葉で、想像上の場でありながら現実に存在する場のことをいう。ユートピア(理想郷)と対の言葉である。このピラネージの不思議な画の構成をタフーリは「すわりの悪い」「非実在的」といい、「中心をもつかに装ってはいるが決してそこには到達していかぬような組織体の呈示」あるいは「『中心性』の概念に対する体系的な批評」といっている。修士研究で町田くんは、ピラネージのこの「牢獄」に物理的「衝突」を見ていたが、本書ではこれを、物理的なものを超えて、「支配の必要性の主張が主体の権利の主張と衝突しているもの」といっている。つまりこの啓蒙の時代には、社会、自然、科学、都市といったあらゆるものが超越的なものによって合理的にコントロールされると考え、それが主体にまでおよぶと考えていた。ピラネージはこのことを非常なまでに拒否しようとしたのである。そうではなく、自然や社会はもっと「偉容」であるべきといっていた(この偉容と言う言葉をピラネージは「ローマの建築と偉容」と題名にしている)。「偉容」とは、社会や自然に疎外されている恣意的な主体をも含む有り様を示す。つまりピラネージは、理念や理想が窮屈なもので、それに対して偉容な世界観を「牢獄」で提示しようとしているというのだ。

2月11日(木)
JIAから書籍「2020大学院修士設計展」が送られてくる。昨年の修士設計優秀作品集である。遠藤研から中山くんと櫻井さんが代表で選ばれ、ぼくも実行委員をしていたので思い出深い。そこでの審査委員長の野沢正光さんが中山くんに話してくれた言葉が印象的であった。「建築には作為が必要だ」というもの。兎角ぼくらは、意識した環境条件を全て拾い上げようとするものであるが、そうではなく切り捨てる判断が必要、これを作為といっていたように思う。同様なことを総評でぼくも話したのであるが、野沢さんの方が上手くこのことを言い当てていた。リサーチをかたちにジャンプさせることを無理なく行う方法のひとつで、非常に現代的な方法であると思う。NHKで聖林寺の十一面観音の特集を観る。栗生さんが新しい収蔵庫を設計しているようである。この像は優雅で好きな仏像のひとつで、奈良橿原の山奥にあるのだがこれまでに4〜5度訪れた。元々は三輪山神社本殿にあったというが、廃仏毀釈を免れるためにこの山奥の小さな寺に隠されたものだ。それをフェノロサが再発見し、国宝制度をつくった。この特集で御堂の右にあるのが、フェノロサが寄贈したものであることを知った。今は一旦外に出て外廊下を登った味気ないコンクリートの中に保存されているのであるが、それがクラウドファンディングによって新しいものになるそうだ。

2月10日(水)
015 ラ・リーガ レアル・マドリード×ヘタフェ 延期していた第1節を中2日で強行。そのためヘタフェは先発を前戦から7人代え、久保らは後半56分から登場。アレーニャ、マタと3人揃っての交代登場であった。しかし決定的な見せ場はつくれず。それ以前のヘタフェは厳しいチェックによってレアルに善戦していたと思う。攻撃モードになったところを、逆に突かれたかたちであった。今日のレアルは、久保と同世代のB出身の若手が2人登場した。久保も頑張らないといけない。

2月9日(火)
「世界を変える7つの実験」ルバート・シェルドレイク著を読み終える。科学教義は反駁可能で、これまで当然視されていた「科学」信仰を実験の俎上にのせるのが本書のねらいであった。1980年代の本であるがその後40年経ち、本当に壊れ始めて多様な価値観が広く認められるようになった。しかし未だに「科学」信仰は強固であり、ご都合主義によって上手い具合に使い分けられていることを一方で感じる。

2月8日(月)
「世界を変える7つの実験」を続ける。光速度Cや重力Gというような基礎定数値も一定でないことが第3部で示される。プラトンのイデアのように隠れた理性やロゴスがあり、時空を超えて存在するものなどないということだ。基礎定数は、18世紀後半の理神論に代わって登場した。そして、1960年代にまで永遠のものであった。しかし、よく言われることであるが、そうした定説をホワイトヘッドらが覆した。自然の変化にともなって法則も進化するはずだと考えられるようになったのである。例えば実際に、光速度は1928年から1945年にかけて下降した。本書がいうには、基礎定数は平均値の限度内でゆらぐものであるという。もちろんこの自然数が一定でないのは観察者側の立場によっても左右され、医療の治癒効果としてはブラシーボ効果として既に認められている。しかし、一般には基礎定数にかんする信頼は厚い。ここに風穴を空けようとしているのが本書である。

2月7日(日)
015 ラ・リーガ セビージャ×ヘタフェ 今日も荒れた試合。退場者が出たのは今季4試合目だそうだ。ヘタフェの試合はこういうものだと知る。ボールをつなげようとするも久保らには届かず、得点の臭いすらしなかった。久保はと言うとDF退場者によって60分過ぎに交代。その後加点され0-3の大敗となる。次戦はレアル戦。久保に奮起を促したいところであるが、先日の、小澤一郎氏とヘタフェの番記者との対談では、コロナがなければボルタナス率いるチームは昨季で寿命を全うしていたという。そうしたところから今季の求心力が弱まっているそうである。久保やアレーニャの加入は、そうした状況で、なんとかチームを再活性化したい手段として考えられたものであるという。

2月6日(土)○
014 プレミア ニューカッスル×サウザンプトン 南野がサウザンプトン移籍後の先発フル出場。鮮やかな得点を決める。DF選手間でボールを受けると前にトラップしてDFを置き去りにして左足を振り抜いた。それでもチームにフィットするには時間が必要なようで、相手が10人になると後方での待機となってしまった。相手を退場させたのも南野の突破からであった。退場を誘発するまでの南野を振り返ると、南野はトップ下で、FWがサイドいっぱいに開くので、2列目から中央に乗り出すようなかたちとなる。これは南野が活きるかたちかとも思う。得点もそこから生まれた。しかしチームは引いて守る10人の相手に攻めあぐねて、2-3で負ける。

2月5日(金)
東京理科大学院の修士設計講評会にzoomで参加。三宅理一氏、加藤道夫氏、ライゾマティクスの齋藤精一氏、能作淳平氏、栃澤麻利氏、近藤哲雄氏が参加。設計の対象がリノベーションや住宅といった小規模なものが多く、身近なものの延長上に設計を捉えているものが多かった。その分ダイナミックさを欠いてしまい、ぼくなんかは少し残念に思う。経験のある者に対してものを申すときには、張ったりが効果的であると思うのだが、そうした作品が少なくなった。自戒も含めて考えたことであった。最終的にぼくが評価した作品は他の審査員に認められなかった。それでも興味を惹かれたのはふたつあった。ひとつは、文学のレトリックを建築に応用した岸野祐哉くんの作品。レトリックが通用するには、そもそも衆知されるための前提がなければならず、そこからのズレによって、自分の考えに加えて前提表現も可能になる、そうした作品であった。建築でいえば、大文字の「建築」あるいはコンテクストといったものをあぶりだすことである。それはコールハースの偏執狂的批判的方法に近く、非常に構築的なものであると思った。ところでこの作品の提案者が前提としたものは、建築家である祖父の思い出詰まった住宅で、それに直階段を新しく挿入して、祖父が大事にしていたものを明らかにしようとしていた作品であった。もうひとつ気になった作品があった。それは篠原麻衣さんの作品で、江戸時代の錦絵の構図を利用して、大阪の水風景を再生させようとしたものであった。錦絵から現代大阪へ正当に適用すべり込ませる方法が巧みであった。錦絵のパースペクティブな構図は、絵を鑑賞する人の立ち位置を意識したものであるので、それを淀川の流れにのせることによって、現代人の興味を川に沿って連続させることを期待した作品であった。これは2等になった。1等は、齋藤匠さんの瀬戸内海小島の活性化計画。ランドスケープアーキテクト石川初さんのインダストリアル・ブリコラージュを思い出させてくれる作品であった。島内の素材を巧みに使っているのだが、ブリコラージュするときの切羽詰まった必要性のようなものを感じることができずに、遊び的あるいは数寄屋的ともとれて、評価することができなかった。その他、3等は住宅が壊れるまでの30年をデザインした、落合諒さんの作品。計画することがこれほど疑われている現在、死に方まで計画する必要はないと思い、選ぶことはできなかった。4等は地下の水脈を活かした山崎南帆さんの下町計画。こうした地球規模の環境を考えることは素晴らしいと思ったが、既存の住宅区画に縛られていてランドスケープまで至らなかったのが残念であった。

2月4日(木)
香川がPAOKデビュー。YouTubeのタッチ集を見る限り、ボールが23番に集まっているのがわかった。ただし、後ろ向きで受けることが多く、連動的な動きに至るまではもう少し時間が必要と思う。
013 プレミア リヴァプール×ブライトン リヴァプールが0-1で負ける。ブライトンは組織化されてよいチームであった。今日はマネが欠場。シャキリが先発も前戦のように活躍ができなかった。それはフェルミーノも同様であった。

2月3日(水)
「世界を変える7つの実験」を続ける。例えばモノを見るというのは、モノから瞳、網膜、そして脳へという一方向的な伝達プロセスではなく、反対のプロセスがもう一方向にあるといっている。それは、映像や知覚が瞳を介して外界へ投影されるプロセスである。本書ではこの2つめのプロセスを科学的に証明しようとしている。建築でいえば、モノから人への作用に加えて、モノを廻る人が知覚するコンテクストもあるということであろう。情報は単独には存在せず、周辺状況と絡まってはじめて存在するということである。これはある観察者の意識下で起きることであるので、完璧に客観的な情報とすることはできない。修士研究などにおいて事例からパターンを分析することに、ぼくが引っ掛かるのはこうした理由による。これを逆の創造という立場からいったものが岡崎乾二郎の「抽象の力」である。このパターン化するときの観察者(芸術家)の意志こそが重要で、それを力説した本である。これを思い出す。

2月2日(火)
「世界を変える7つの実験」ルパート・シェルドレイク著を読みはじめる。1994年出版である。日常近辺には既成の科学が見過ごしている大きな謎が潜んでいる。それは、ペットの犬が飼い主の帰宅に気付くとか、後ろからの視線を感じる、といったことであり、その紹介である。本書の立場は、これをミステリアスに扱わないで、科学によってアプローチしようとしている。この点に好感が持てる。要するに複雑系システムの扱い方について書かれたものだ。

2月1日(月)
012 プレミア ウエストハム×リヴァプール このところ好調のウエストハムにリヴァプールが乗り込む。中2日で日程が混んでいることもあり、今日の3トップはサラー、シャキリ、オリギであった。南野はいない。オリギは前半からディフェンダーを引きつけて3本シュートを放つ。シャキリは、サラーへの2点目のアシストが素晴らしかった。サラーは2得点。どちらもスーパーゴールである。3点目は途中出場のフェルミーノの絶妙なペナルティ内でのアシスト。前戦の戦いぶりといいリヴァプールは調子が戻ったという感じである。残念ながらそこに南野はいない。

1月31日(日)
011 ラ・リーガ ヘタフェ×アラベス 下位同志の戦い。横パスカットを怖れて、トラップもなしに兎に角前に蹴り出すという戦法を両者がとる。そのボールは高くパントのようなボールで、壮絶なヘディングの競い合いとなる。それがファウルをよびゲームは途切れ途切れとなる。ラグビーの試合かと思うほどであった。久保にたいして「内に絞れ」という監督の指示が、今日は2シャドーという形になった。しかしほとんど展開できずに80分過ぎにもう片方のアレーニャと共に交代。自由が与えられているようなので、中盤の空いていたスペースを使って、ボールを受けても良かったのではと思う。その後、これまでのメンバーに戻るとボールがむしろ回るようになるのは皮肉か。出場チャンスを得ても成長のためのプレーとなっていない。こうしたゲームが2つ続いてしまった。

1月30日(土)
010 プレミア トットナム×リヴァプール モウリーニョとクロップの新しい闘いである。序盤から激しいスペース争いで得点の取り合いと思われたが、オフサイドやハンドなどの判定が翻った。緊張感が張りつめた序盤であった。アジア人のソン・フンミンはその中で一際輝いていた。前半終了間際に速攻からリヴァプールが得点すると、このところ成りを潜めていたSBアレクサンダー・アーノルドが輝く。早めのアーリークロスによってアシストとゴールをする。これによって本来のリヴァプールに戻ったという印象。3-1でリヴァプールが完勝。トットナムは後半からケインが怪我で退いたことでレクサンダー・アーノルドを楽にさせてしまった。ゲームの流れはこのことが大きかった。

1月29日(金)
修士設計発表会をZoomで行う。入念に準備されたパワポプレゼにより研究内容や手順を詳しく理解できた。Zoomによる今年の新しい傾向である。しかし、図面を詳しく読み解くことができなくなってもいる。つまり作品にまで至るプロセス共有が大事になり、修士設計も現在の多くの建物と同じ問題を抱えるようになっていると思う。それは、現実感の欠如というもので、多くの設計前提が情報として扱われた結果のものである。最近、新しい病院に行くことが多くなった。そこで感じたことであるのだが、それらは来院者を滞りなく流すことに重視が置かれ、案内は全て番号表示で、建築計画はそれを補完するように一筆書きになっている。それで利用者の混乱を少なくすることに成功はしているが、エントランスや診療待ちなどの空間に違いはなく、単なる面積確保として考えられているようである。そのために空調や照明といった環境制御が重要視されるのだが、かえってますます人が本来もっている感性とかけ離れる結果を招いている。遠藤研からは発表会に5名が参加。トウくんは中国の伝統式構法である耳鍋屋根を復活させた新しい街の提案である。この構法を風水と絡めて、部屋の配置とランドスケープを意識した建物配置に用いた。加藤翼くんの作品は純粋幾何学を分析し設計に応用する案である。古代建築やカーンの建築を詳しく調べていた。その結果、彼らは幾何学を自然と対峙するためのものと考えていることを発見した。それは昨今流行りの自然と同化と異なる考えである。手賀沼で残すべき風景をリサーチから発見し、それに学んだ幾何学の配意方法で対峙することで自然を浮き立たせる設計であった。こうした研究では多くが、資料収集をパターン化して設計に応用させようとする。もちろん、そうした分析は自分にとっての学習にはなるが、それを一般化させるには無理があると思う。パタン・ランゲージも同様のツールと考えられがちであるが、アレグザンダーはあくまでもパタン・ランゲージを、利用者に刺激を与える媒介物として考えている。パタン・ランゲージは、モノと人との間に潜んでいる関係を浮かび上がらせるための道具としてあって、詩や小説を表現するための言葉(ランゲージ)のようなものなのである。あくまでも結果としての成果物は設計者の判断に委ねられていて自由である。それを念頭に置く必要があると思う。佐藤誓哉くんの作品は、忌み嫌われているお墓を日常的なものにしようとする作品。選ばれた敷地は行田公園である。この公園で収集された特徴的なモノには記憶が宿っているとして、その記憶を、建築を通じて再獲得しようとする案である。しかしそうしたモノと受け手のプロセスは複雑で容易にモデル化が難しいことが指摘された。加藤くんの作品と同様に必ずしも明確なルール化する必要がなかった。もっと記憶を宿したであろうモノをクローズアップさせた設計をすべきであった。鈴木蘭子さんは建築の寿命をテーマとした。非常に現代的テーマである。しかし視点がユニークであった。本作品によると、モノとしての耐久性とプログラムが機能する時間にズレが生じ、それが建築の根本の問題であり続けてきたという。特に最近は生活変化が激しいにもかかわらず、モノの寿命が延びてその乖離は大きくなっている。フラーのエフェマリゼーションもこのことを問題にしていた。本作品は、それをスクラップアンドビルドが柔軟な素材によって実現しようとするものである。提案では設計を2つのフェーズに分けて、現在必要な療養施設と何十年後日に住民の中心となる図書館が計画されている。敷地は、お茶の水駅プラットフォーム対岸にある住宅が建つ細長い敷地である。そこでスクラップアンドビルドを繰り返しながらもシンボル性を確保しようとしている。この視点が次に面白かった。町田くんの作品は、2/19の外部講評会に選出された。ピラネージの「牢獄第2版」を分析し、それを設計に応用する作品である。「牢獄」の構図は、スケールアウトした階段やブリッジが中心に向けて「衝突」をおこすものである。しかし、その中心部には入り口などもなく、ナンセンスな画である。このピラネージの意図はどこにあるかというのが研究の出発点である。本研究によると、ローマの都市計画とこれは深く関わっているという。古代ローマの遺跡は混沌とし全体性がない複雑なものであった。ピラネージは古代ローマ遺跡の実測調査を通してそうした古代ローマに憬れていたという。ところが16世紀のサッコ・デ・ローマ以降のピラネージ時代のローマは、教会前広場やオベリスクを直線道路で繫ぐ明快な都市計画になった。それはいわゆる近代思想の中心である計画(原因から結果)による全体性の獲得を目指したものである。しかし数世紀を経て、そうした計画の行き詰まりが叫ばれるように現在なっている。そうは明快に原因と結果の構図にならないのだ。しかし代替え方法が見つけられずに未だに世界は計画によって支配されている。そうした計画への批判性が本研究にある。しかしそうした兆候は既に見ることができ、隈研吾によると、彼の建築をバックとするSNSには部分を背景にしたものが多いという。それは現代の若者が全体像に関心を示すことのないひとつの現れであるという。本研究はそうした現代性を表現しようとするものだ。SNS=「牢獄」の構図を引き継ぐことでそれを獲得しようとしている。敷地は幕張のイオンモール。現代のイオンモールなどの大型店舗は、無意識に消費を促すような入念な計画が練られている。本来自由意志基づくはずの消費活動はそういう意味でコントロールされている。そこから脱却するにはどうしたらよいか、ピラネージのローマ批判と同様な方法がここで試されている。フードコートやブランドショップに、スケールアウトした門や階段が衝突を起こす計画である。結果、そうした場所は窮屈そうで不自由である。それが周知されることで、消費計画から自由になることが考えられた。批判性のある作品としてユニークであった。

1月28日(木)
昼に虎の門病院行き。午後から雪が降り始める。GA JAPAN168の2020の総括は、伊東さんと藤本さん。美学が共有されないとプロポでは選ばれないという伊東さんの言葉が印象的。美学とは建築を統合するときのセンスのようなものをいっている。これは卒業設計などにもいえることだろう。香川のPAOK移籍が決まる。ギリシアリーグのゲームは日本では放送されていないらしい。iPadのデータ消費が激しい。メモ機能の消費が多く、最近増えた手書き機能によるものだろうか。Wifi意外での同期チェックを外す。

1月27日(水)
卒業論文の発表会をzoomで行う。コロナ渦のためこれまでの既往研究の延長上のものが多い。新実験棟のスペース問題も収束させることができた。メールデータが飛び復旧に悪戦苦闘する。Macの場合は、自分の問題とピッタリ一致する解決策がネットでも見つけられないので、同様な問題を抱えていた人の解決策を辿って、トライアンドエラーしなければならない。怪しいところを狭めていく訳である。設計を体感しているようであった。それにしても専門用語が多いので、辟易する。

1月26日(火)
009 ラ・リーガ ビルバオ×ヘタフェ ヘタフェは後半、ビルバオから力の違いを見せつけられた。1-4の大敗。久保は60分過ぎまで先発。開始いきなりの連携による得点以降、ビルバオの守備に苦しめられた。自陣でしかボールを受けることができずに、ゴールまで迫ることができなかった。試合後、監督のインタビューでは中央に絞ることが許されていたという。マンマークの相手SBの裏を見方SBに使わせて自由に展開ができなかっただろうかと思う。ビルバオはそのことを実践し、久保のサイドから攻撃していた。

1月25日(月)
母と国立国際医療センター行き。詳細な検査の結果、特定原因が発見されず、それがよかったのか悪かったのか。妻はというと父と虎の門病院行き。こうした状況が続きそうだ。「建築情報学へ」を続ける。複雑であるとされる世界が細かく情報化される過程を本書から読み取ることが出来た。しかしそれでも不明な疑問が残り続ける訳である。余白がなくなることはない。まるで原子核の周りの量子のようなものの存在が情報であるとも思う。これを制作に結びつけるのは至難の業であるが、要するに「建築」と言うことではないかと思うに至る。存在がはっきりしないが、確実に存在するものである。そして「建築」はそもそも動的なものである。

1月24日(日)
「建築情報学へ」を読みはじめる。新しくつくられた建築情報学会のマニュフェスト的本である。デジタル技術が単なる手段からフィジカル的に受け入れられる可能なものとなるにはどうしたらよいか、これを説明している。加えて強調されるのは、領域的横断と拡張である。つまり、情報が微細に身体に浸透していく過程の扱いが示されている。実践的例がないことと、歴史も浅いので、記される技術内容が客観視できないでいるので、読み物としては苦しかった。教科書とはこういうものであるといってしまうとそれまでであるが、設計教科書も同様、動的な現象を記述するときの表現の難しさを感じた。

1月23日(土)
CASABELLA914の巻頭はモンタージュ。論考にあったチューリングの格言が印象的であった。コンピュータによる創造性を廻る永遠の論争についてである。「機械が書いたソネットを味わえるのは別の機械だけである」。この格言は、機械の創造を否定したとも人間が変わるべきものであるかを指摘したものとも、どちらにも捉えることができるものであった。そしてその次に、「イタリアのフォトモンタージュ」が紹介されている。ミレーの晩鐘、ピラネージは定番であることが分かる。
008 ラ・リーガ ウエスカ×ビジャレアル 久保が移籍し興味が半減したものの岡崎先発。奮闘するもウエスカは守備重視でボールが前線にまで届かず。60分過ぎに交代となる。ビジャレアルはと言うと、久保のライバルであったモレーノとチュクエゼが離脱していた。何ともいえない感じであったが、そこに右のモイ・ゴメスを入れ、左はというとSBのペトロザを上げていた。あくまでも守備重視であって、久保が移籍しなかったとしても先発が回ってきたかは不明である。0-0のドロー。あくまでも型重視のエメリの姿勢がうかがい知ることが出来たゲームであった。

1月22日(金)
卒業設計の発表会を今年はオンラインで行う。実際の模型と図面をみることが出来ないので、作品のもつ力が感じられなく、画面を通してのプレゼの良し悪しで決まったように思えた。つまり、評価がモノから説明力に移動したわけである。遠藤研からは佐藤伶香さんが2/19開催の講評会に選ばれた。敷地は庄内平野の田んぼの中。夏と冬でがらっと変わる景色を利用して、庄内平野特有の新しい生活を提案するものであった。積雪が多いと道路やあぜ道が消え、その上の吹雪きで新しいランドスケープが出現する。これを吹きだまりというが、それを積極的に生活に活かそうとする提案である。残念ながらその風景の変化がどんなものであるか、雪国出身でないぼくらは理解できなかった。その辺りのプレゼが重要となるだろう。木造ログハウスが、雪に覆わることでザハ建築になることをイメージすると良い。こうしたランドスケープが表現できればとよいと思う。

1月21日(木)
007 プレミア リヴァプール×バーンリー アンフィールドで、リヴァプールがまさかの敗戦。実に64試合ぶりとのことだ。しっかり固めた陣形を最後まで崩すことができなかった。これで4試合得点がないことになる。南野は80分過ぎから登場。ゴール前の混戦において南野は重要な働きをすると思ったのだが不発。最終ラインに埋もれてしまい、リヴァプールは1点もとれなかった。

1月20日(水)
006 ラ・リーガ ヘタフェ×ウエスカ 久保が先発。ウエスカは守りに徹して5バック。対して4-2-3-1の右Wで先発の久保は二人の左バックスを見る必要があり、前半は自陣に追いやられていた。そのため幾度か相手DFを交わす見事なポストプレーもあったが、ゴールマウスからは遠く、ゴールに押し込むまでは至らなかった。その反省から後半から、チーム全体が前線から果敢なプレッシングをするようになる。これでウエスカの攻撃を食い留めることができ、パスカットから速攻を決めた。久保と同じくこの冬に加入したアレーニャからのスルーであった。興味深かったのは、久保が得たフリーキックを久保自信が蹴っていたことである。堂々としていて、久保がチームから受け入れられていることを知るシーンであった。

1月19日(火)
午後大学行き事務処理を行う。夕方から設計方法小委員会にzoomで参加。最近出版された「建築情報学へ」が話題になる。購入をしていたので、早速読みはじめる。

1月18日(月)
母と国立国際医療センター行き。事務所に戻り調べると、日建設計と厚生省の設計とある。他の病院に比べて廊下幅等が広くゆったりした設計で、待合室も科ごとの枝状になっていて、いわゆる窓口の合理化が行き過ぎていないと思った。2010年の竣工らしいが電子システムの様子をみると、この10年でだいぶ進歩したことがわかる。患者数が少なく感じたのは、建物の大きさからきているのだろうか。午後にはほとんどいなくなっていた。

1月17日(日)
005 プレミア リヴァプール×マンU フィジカルを前面に押し出しユナイテッドが守り切る。0-0のドローである。キーとなっていたのは、リヴァプールの復帰を果たしたティアゴであった。これまでの最終ラインからではなく、ここから縦パスが供給されるのであるが、左右のSBからのパスと同様、決定機にまで至らず。他チームから研究されていることを感じた。

1月16日(土)
CASABELLA914号が届く。巻末に丹下健三の自邸がある。それをピエルコンティが批評している。これによると丹下の転換期が1956年のグロピウスの来日によってもたらされたという。それは創造についてである。それ以前の丹下にとっての創造は「自我の内部でフォルムが育ち、最終的に出現し成熟する」ものであった。しかしグロピウスの日本文化吸収力に触れ、「伝統と破壊のディアレクテイクな統一が、創造の構造である」というまでに至ったというのだ。それで丹下は日本伝統を、伊勢からの神殿造と桂に見られる数寄屋で統合しようとしたというのだ。そしてそのエネルギーを創造に変換した。その詳細をこの丹下自邸に見ることができる、という論考であった。

1月14日(木)
「サピエンス全史」を読み終える。ホモサピエンスが良くも悪くも大きくなったのは、「想像上のコミュニティ」を描くことが出来たからであるという。それは、王国、帝国、宗教、貨幣といったものである。他の生物との違いは、親密なコミュニティでは補うことが出来ない感情的空白を想像上のコミュニティによって補えることができたかどうかにあるという。文化とはそういう上に成立するもので、アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」もそれを示唆するものだろう。大文字の「建築」もそういうものでないだろうか。そう考えると、ぼくらはそこから何をあぶり出すかが大事で、それの方法を追究するのは時代に左右されてしまいあまり重要でないと思うようになる。

1月13日(水)
「サピエンス全史」を続ける。ここでは、想像上のコミュニティをポジティブに評価する。建築では一般にリアル(本書では親密)なコミュニティにたいするものとしての想像上のコミュニティについてである。最たるものは国家である。国家のおかげで社会秩序が保たれ、暴力の割合は圧倒的に減っている。こうした一連の話を読むと、カントの永遠平和を思い出す。想像上のコミュニティはサガ(性)であり、その扱い次第で幸不幸が決まるというもの。つまり、真(科学)と善(道徳)と美(価値)は独立していてその三つ巴の相が世界という考えであり、進歩主義にたいするものである。この本に共通する思想であった。

1月12日(火)
004 ラ・リーガ エルチェ×ヘタフェ ヘタフェのあるマドリードが何十年ぶりの大雪のため移動が出来ずに試合が順延。練習することなしに久保が65分過ぎからピッチに登場。逆転の2得点のお膳立てをつくり、新チームでの最高のスタートを切ることが出来た。久保は特異とする右サイドで登場。基本的にサイドいっぱいに位置し、状況に応じてライン間中央付近を使う。ビジャリアルでは、他選手との絡みでこの動きがあまり許されなかった。モレーノがこの役割を果たしていたと思う。今日の久保は自由になったことで輝いていた。自分の特異とする位置でボールを受けて相手DFと勝負していたのだ。終了間際の2回のショートコーナーでは、バルサカンテラ育ちのククレジャとアレーニャと3人でパス交換を繰り返し、時間稼ぎを楽しんでいたようであった。久保が入ると、これまた初先発のアレーニャはひとつポジションを下げて、押し下げられた相手ラインの間でフリーにボールを保持するようになり、左のククレジャと右の久保に好パスを繰り出していた。今後が楽しみである。

1月11日(月)
エクスナレッジ社から「奇跡と呼ばれた日本の名作住宅」が送られてくる。1950年からの日本住宅の歴史を総覧するものだ。清家さん、吉阪さんからはじまって難波さんもあり、2000年以降の章にナチュラルスラットが取りあげられている。この時代の総括として、構造家、クライント、素材、既存建物等とのコラボレーションによって建築の内部から従来の建築が壊れつつあるが捉えられている。そしてこの本の終わりとして、ぼくと当時大学院に在籍していた上島直樹くんとで描いた挿絵で締めくくられている。2011年12月号の建築知識の投稿論文である。ここで記述したかったのは、「インテリアがとけ込んだ建築」である。ここでぼくは、「建築」が残りつつも、フラーのエフェマリゼーションがもたらす住宅のあり方を提案した。それは、あらゆる問題が十分に広く微細なところまで身体化される「建築」のあり方であった。これを踏まえた編集になっていて誇らしく嬉しくも思った。

1月10日(日)
ツキノワグマの生態を追うドキュメンタリーを観る。同種の生きもので殺し合いをするのは、一部の猿類と人間だけであると聞いていたのであるが、クマが子グマを殺すという事実を知った。メスクマは子育てに専念する期間、すなわち授乳中は生理的に発情できないのであるが、発情を押さえられないオスは子グマを殺すことで、メスの発情を促すのである。メスとオスはそのとき壮絶に闘う。森では無敵なクマでも成人するのはしたがって50%以下であるというのだ。

1月9日(土)
「テネット」C・ノーラン監督を観る。ストーリーを追うことが難しく、途中から直感で感じるようにした。時間が順行することに意識的な映画で、これまでも実際に未来から人がやってくるとか、編集によって時間経過を曖昧にするとか、あるいは論理的ではなく時空の乱れといった神秘性に委ねるものはあったが、同じ空間に違った時間を同居させた映画はなかったと思う。それを後ろ歩きや車の逆走という後退映像で表現していた。すごく奇妙であった。観る側の焦点が定まらないからである。

1月8日(金)
003 FA杯 アストン・ヴィビラ×リヴァプール アストン・ヴィラはチーム内でコロナが蔓延し、監督をはじめ選手が全員隔離されているとう。それでこの試合はU-23選手、監督でのぞむ。FAだけはスタジアムにサポートを入れていたが、そうした政策が裏目に出たかたちである。今日のロンドンではコロナが手に負えない状況になっているとニュースでいっていた。試合はというと、今日は南野が先発で出場。前半の左ウィングではボールを受けるタイミングをいつものように失っていたのだが、後半から中央に入りよい起点となっていた。しかし60分にポストプレーでアシストした直後に交代。チームは90%近くボールをポゼッションし、最初のうちは手こずるも4-1で完勝した。久保のヘタフェへの入団も漸く発表される。

1月7日(木)
「サピエンス全史」を続ける。学生の頃から、イギリスやオランダという国ではない東インド会社が南アジアの国を治めていたことへ疑問をもっていた。その理由に納得する。このときの裕福層は、国王よりも新興組織である株式会社に「信用」を置き、株式会社の方に、自分の資本を賭けた=投資したのである。16世紀以前は、本書によると生産の中心はむしろ中国やインド、イスラムといったアジアにあった。しかし、これ以降の西ヨーロッパでは、生産利益を新たな生産のために再投資することが広まり、資本を指数関数的な量に膨れあがらせることを可能にする投資家、資本家を出現させたという。それが株式会社となり、国を征服するまでに至ったというのだ。その富は税金や略奪から得られるものよりも遙かに大きく、それは科学革命によってもたらされたものであるという。テクノロジーの発明や組織改革によって、現在よりも確実に未来が明るくなることを「信用」流布させることに成功し、資本のあくなき再投資する社会に変換していったのだという。そして東インド会社が南アジアを征服するにまで至ったのだ。

1月6日(水)
コロナ患者に対する病床データが日経に掲載されていた。それによると、日本のベッド数は世界有数。先進国の中でも突出しているという。それなのになぜ医療危機が起きているかということだ。それは、医師数、看護師数が少ない上に、日本の病院の多くが民間(8割)で中小規模であるからだという。ICUにおける病床数も先進国で飛び抜けて低いこともある。一人当たりの入院日数も日本の16日にたいして欧州は10日であるという。つまり他の先進国はコロナに限らず入院前後の別の受け入れシステムが整っていて、近頃問題にされる医療構造改革が日本はまだまだ進んでいないからだという(ちなみに、フランスやドイツは20年前日本と同じ状況であった)。加えて日本は国民皆保険制度で、入院にたいする国民の経済負担が少ないことも一因にあげている。それもあって軽症患者が入院患者の66%という結果となっている。それは日本特有の医療方針で良くも悪くもあるのだが、こうした緊急時において限られた医療資源を有効に使用するという点ではマイナスである。そのためには、各病院を束ねる本来あるべきトップの視点から、病床と人材運用を効率化する必要があるという。例えば公立病院をコロナ患者専用にあてるとか、小規模民間病院の連携を高めるとかである。本来こうしたことに日本の官僚システムが有効に働いていたのであるが、有時には時としてそれが働かなくなり、そのとき知事や政府らのリーダーシップが大事になる。

1月5日(火)
002 プレミア サウザンプトン×リヴァプール 0-1でリヴァプールが負ける。攻撃リズムがよかったが、最後のところでゴールマウスをこじ開けることができなかった。南野は不出場。こうした引かれた相手のペナルティエリア内で南野は強いと思うのだが。次戦のFA杯のためであろうか。

1月4日(月)
「都市美」山本理顕責任編集を拾い読み。家族を会社や学校が上手く利用することで、戦後の日本が形成されてきたという指摘が印象的であった。社会性を学ぶ学校は家庭の協力なしには運営が不可能であるし、主婦の家事労働の上に猛烈に働く会社が可能となっているというのである。にもかかわらずこれらは別個のシステムとしてこれまで考えられていたのが問題で、こうした矛盾が現在のコロナ渦で露呈しはじめている。例えば政府の学校閉鎖についてである。家庭側から、働くためためには子供の面倒をみてくれる学校が不可欠であることが指摘されているのだ。コミュニティと意味が近い「アソシエーション」に、山本さんが否定的であるのは意外であった。山本さんは(動くことができない)空間を伴うコミュニティにこそ信頼を寄せているのだ。山本さんの設計している名古屋造形大の計画も興味深い。これまでと同様に社会に開けた建築であることに加えて、研究室というコミュニティ単位も取っ払い、ひとりひとりの学生を重んじた建築計画となっている。そこではひとりひとりに十分なスペースをあてがうことが出来ないので、他者とのコミュニケーション(調整)力が必要とされている。山本さんに接して思うのは、思想を建築に直結させる意志の強さである。そこから建築を信じることがぼくらには欠けていることを思う。

1月3日(日)
「プラド美術館 驚異のコレクション」を観る。絵画の解説というよりは、フェリペ2,4世当時の時代背景や彼らに雇われていた画家たちの生涯が中心に語られていた。400年前のことである。このときスペインが栄華を極めていたのだが、ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」やボッスの「快楽の園」「地獄」が購入されたのはこうした経緯からであった。しかし当時、芸術はやはりイタリア(特にこの時期はパラディオの生きたベネチア)が中心であったことも改めて知った。ダイナミックな焦点を持つティントレットの「弟子たちの足を洗うキリスト」もこの時ベネチアから手に入れたものであった。そして当時、スペイン自国の宮廷画家であったのが、「ブレダの開城」「ラス・メニーナス」「マルガリータ王女」のベラスケスであり、現在巨匠とされるそのベラスケスも、長く地方画家としての評価であった、このことを知る。そして、それ以前にエル・ゴレコが存在していたことを知ってさらにびっくりする。エル・グレコの構成やタッチの特殊性は、バロックの中でも突出している。このことが作品からよく理解できた。そして美術館自体が完成するのはその200年後である。それは1800年前半。これはゼンパーのウィーンの美術史美術館より早い。ベラスケスの再評価もこれに負うことが大きいらしい。そしてこの美術館収蔵品として特に充実しているゴヤの作品はそのときのものであった。ゴヤはサラゴサ出身であることも知る。

1月2日(土)
コロナ渦で迷ったが、義理の父が年明けに病院へ行くというので、例年通りに妻の実家に行く。帰宅後、今年最初のサッカーを観る。久保がベンチ外であった。
001 ラ・リーガ ビジャレアル×レバンテ 2-1でビジャレアルが逃げ切る。久保はベンチ外。試合終了後のインタビューでエミリがその理由を説明する。終了後1時間以内のことである。それを小澤一郎氏がYouTubeで伝える。どうやら2日前に久保とエミリは直接話し合いを持ったそうで、その時久保から「出たい」とのはっきりしたコメントを受けたのだそうだ。耐えてチャンスを待つこれまでの日本人と違って久保ははっきりしている。自分に自信もあるのだろう。どうやら新しい移籍先はヘタフェが有力らしい。その後ヘタフェのゲームを観る。熱血漢のボルダラス監督が率いていて、今日のゲームは全く形になってなかった。これをどうみるか、確か柴崎も彼から嫌われていたと記憶する。

1月1日(金)
2021のはじまり。お雑煮を戴き、午後から近くの神社へ。途中、昆虫食の販売機を見つける。混んでいたので、さらに移動して不動尊へ。夜は実家に行き夕食。いつものような元日を過ごす。力を入れた特集番組もない。これが例年と異なっている。

12月31日(木)
コロナ渦のため近くで買い出し。今日の感染者数を知ると動きも止まるだろう。しかしスーパーは混んでいる。年賀訪問のための買い出しはできないので、ぼくだけで新宿に行く。新宿周辺も人がいなく、デパートの地下売り場のみ混んでいた。「サピエンス全史」下巻を読みはじめる。上下巻の区切りはひとつの話をふたつに物理的に分けるものであるが、下巻からは、貨幣や帝国にかわり宗教における役割についてである。2000年前までのローマ以前のギリシアは多神教であった。この時代は自分や地域内で独自の神を信じたので、他の地域では同様の別の神がいることは公然なことであった。したがって他の神を認めざるを得なかった。これが多神教である。つまり、社会的な意味での共同主観状態が一神教すなわちキリスト以前にはあったことになる。したがってこのとき、帝国も自分の宗教への改宗をせまることはなかったのである。

12月30日(水)
BSで「ゴットファーザーⅢ」フランシス・コッポラ監督を観る。この映画は全2作に比べて好評を得ていないが、ラストシーンは凄まじい。パレルモのテアトロ・マッシモで演じられるオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」と並行して、アル・パチーノ最後の殺戮劇が行われる。ヒッチコックばりの音との融合であるが、ライフルでは決着をつけずに、この間にバチカンのコンクラーベまでを含めて物語を壮大にし、エイゼンシュテインを思わせる大階段で愛娘を失い、悲劇として終演する。現代家族とマフィアというふたつのファミリーの間で引き裂かれる自我が様々なかたちで周囲や社会に変貌を及ぼしていく様を描くのはコッポラのいつもの描きである。宗教もそれと合わせてひとつのテーマとなっている。その偉大さを描きながら、一方でその下での悲劇や不幸も同時に描く。
128 ラ・リーガ セビージャ×ビジャレアル 0-2でビジャレアルが久しぶりに負ける。このところの得点不足が表だった形になった訳である。今日のセビージャはカウンター狙いであり、その厚い守りにほとんど決定機をつくれなかったというのが現実だろう。そこに久保はいない。3戦続けて不出場である。ビジャレアルの得点源は、唯一自由に動き回ることが許されているジェラード・モレーノである。その彼も後半になると上手く動けなくなっていた。前半は右サイドで自由にポジションを変えながら厳しいマークをかわし起点となり、そこから前のFWへあるいは飛び出すトリゲロスにボールを送っていたのだが、後半になりモレーノがトップ位置に入ると、中盤の激しいあたりをかわせる中盤がいなくなりボールが届かなくなってしまった。監督エミリは、動的であるがシステムに固持する人である。しかしそれに選手が合わせることになるので、選手個々の調子と相手に左右される。その意味で真の流動性がみられないのである。このところはレギュラーFWが怪我のため不在であり、イボラ不在のためパレロが守備に追われている。こういう状況で、モレーノが早い段階で得点できないとシステムがひとり歩きをして悪循環を生むことになっていると推測する。

12月29日(火)
午前中に父退院。午後からzoomにて個別相談。a+u8月特集号を続ける。後半の対談は、74年の北九州市立中央図書館を取り上げることからはじまる。そこでは、ヴォールトのPC構造がテーマとされる。この建築の空間性はエンジニアリングに引っ張られているというのが両氏の考えである。それがアーチのリブに現れていて、出来上がった空間はゴシック調であるというのだ。ところが77年の西日本総合展示になると、がらっと変わり、構造も空調も機能も程よく融合し無限定に拡張する均質空間となった。そこには造形がなく、薄い屋根が彷彿させるイメージの空間ができあがっているというのである。両氏はこれを評価し、この全く異なるふたつの建築に共通する建築の意味を磯崎から問いただそうとする。そして磯崎の答えは、建築にプロパーな形式があるというならば、その側に立ってリアルな現実をそこに取り込もうとする態度に共通性があったという。設計は現実によって、プロパーな形式が変化したものなのだ。その意味で過去の建築からの切断というものが必要であったし、切断した以上、そこに手法論が新たに必要となったというのである。しかし、相変わらず形式は残り、建築の場合でいえば、その形式は広い意味でのテクノロジー(ソフトテクノロジーや素材)に左右されるというのだ。つまりこれは、建築家にとって、自己言及の手掛かりとしてのテクノロジーの重要性をはっきりさせたもので、それは難波さんの近代テクノロジー論に通じるものである。このことを知ることが出来た対談であった。

12月28日(月)
時間ができたので、今年のa+uの8月特集号「磯崎新の1970年代実務と理論」を読みはじめる。青木氏と西沢氏が実施図面を通して磯崎の思想に迫る特集である。この特集で取り上げられる作品は大分県医師会館新館、貝島邸、北九州市立中央図書館、西日本総合展示場の4つである。前半の磯崎へのインタビューは前2作についてで、その終わりでは、磯崎の手法論が何であったかを締めくくるものであった。それは大分県医師会館の60年の旧館において成し遂げた、構造、構成、あるいはシステム、スケルトンといったものを中心とする建築の考えからのお別れというものである。それらはこれからの現実世界で通用しなくなるもので、それに代わって、今から考えるとインテリアあるいは素材といったものが建築の主流となり、それが既に磯崎の手法論にあったという主旨である。両氏はそれを明らかにしようとしている。70年初頭の新館のピロティはまるでインテリアのようであるという。旧館のピロティの批判としてあったのではないかという。そしてその新館の空間構成にピラネージの牢獄を見出しているのだ。この見解の深さに感心する。

12月27日(日)
「The Wife」ビョルン・ルンゲ監督を観る。老年作家のノーベル賞式典最中の出来事を綴る夫婦の物語である。妻がゴーストライターであったというのがこの物語のミソであるのだが、ちょっとした出来事を切掛けにして妻がこれまでの40年間の夫婦生活を追想し、懐かしんだり後悔したりする。ただしそれまでの心境に至る妻の心情が今一描かれていないので少し唐突な感じがしたが、ぼくの娘の心には響いたそうだ。ノーベル賞の晩餐会や滞在ホテル、これらのセットがこの映画の見物である。ところで作家の妻を演じていたのは、「危険な情事」でマイケル・ダグラスを幸せの絶頂から落とし入れる鬼気迫る不倫相手役を、「101」ではクルエラ役を、演じたグレン・クローズであった。その彼女も70を過ぎていた。録画してあったブータンの祭りツェチュのNHK特集を観る。この祭りは9月の15日前後に5日間行われるので、毎年の調査期間と重なり何度も見に行く機会があった。お面をつけて踊り、演劇を通じて仏教の教えを国民に伝えるものである。色鮮やかな衣装と面と太鼓の音、広場に人々を集めて、体を大きくくねらせて円状に踊る様子が印象的であった。パロゾンとその下の広場で行われる一番大切な儀式であると聞いていた。

12月26日(土)
父のいとこの納骨に立ち会う。残念ながら父母は欠席。しかし天気が良く高齢者にはよかった。納骨前に中を見る。骨壺は整然としていた。40分あまりの経を授かり、コロナ渦のため墓地で解散。事務所に戻る。東京のコロナ患者数は依然として減少傾向に向かわない。新建築住宅特集1月号の巻頭対談「建築の想像力」青木淳×西沢立衞を読む。前半は「形式」がテーマである。ここでは、歴史や習慣などに鍛えられ続けてきた建築家の痕跡みたいなものを形式と呼んでいる。だから、形式は誰のものでもないし自由なものであるが、皆というか建築家の拠り所となるものなので強い。ただし、アレグザンダーの思想の15の幾何学のように教条的なものとはならないのが、現代的なのだろうと思う。とはいえ、「大文字の建築」のことである。これをそうとはいわずに「形式」といっている。そして形式は俯瞰性によって得られるものともいい、コルビジュエの作品の核心をそこに見出している。そこが面白い。

12月25日(金)
「動的平衡3」の拾い読み。そこで取り上げられているパスツールの言葉に合点がいく。「Chance favors the preparared mind」。「発見とは、準備された上での偶然の産物」。とでも訳したらよいか、あるいはクリエターからの立場からなら「偶然を必然に変える意志」と難波さんならいうだろう。ビジャレアルの久保の動向がネットでにぎわっている。チャンスを生かせなかったというのが理由であるが、逃げ切りの試合終了間際に登場させるなど結構きついチャンス?の与えられ方であったと思う。

12月24日(木)
「サピエンス全史」読み終える。共同主観の最大のものが貨幣というのが上巻の結論であった。下巻がどう続くのか興味をもつ。この本の収穫は、共同主観というものであった。そしてそれを認識した上でかみ砕く努力の大事さを感じた。「想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走りこんでいるわけだ」という運命じみた警告が印象的である。

12月23日(水)
3年後期の設計講評会に日建設計の勝矢武之氏とOBでもある中村篤史氏をむかえる。ぼくが担当したCスタジオの2人が揃って優秀賞をいただく。杉江さんを推してくれたのは勝矢氏。杉江さんの案は、5Mユニットを樹状に広げた平面計画をもつ。それによって出来る内部空間が淡泊と指摘しつつも、それらユニットの囲いが小さな外部空間をつくっており、内外を同時に考慮した空間構成を評価してくれた。ただし、外部空間を取り巻く建物の高さは気になったようだ。内部の淡泊さは、吹き抜けの大きさに変化をつけることでよいものになるというアドバイスを受けた。もうひとりの高橋さんの案を推してくれたのは中村氏。高橋さんの案は、二つのスロープが絡み合う案であり、それぞれは外部に面するゆったりしたくつろぎ空間と、もうひとつは他者から見られる緊張感のある空間である。創造性を豊かにするにはこの二つの空間の融合が必要だという仮説に基づいて計画された案である。中村さんが評価したように、これを幕張という新都心の交通システムに位置づけたのが大きい。車と徒歩の中間となるセグウェイによる街の起点として計画した建物であった。勝矢氏が指摘したように、この二つの空間が出会う場がどんな空間であるか、これが平面ではない何らかの方法で明確に示す必要があったのだと思う。少し残念であった。総評として両氏から、各専門分野をオーバーラップする体験を3年のこの時期に出来ることを評価してもってもらった。勝矢氏は、他のジャンルを理解するよい機会であるといってくれた。中村氏は、細かい点はさておき、社会を変えようとするような大志を持ってほしいという強い言葉を頂いた。古市研出身らしい言葉である。古市先生も喜んでいることだろう。講評会の前に両氏から簡単なレクチャーをしてもらった。勝矢氏からは日建らしく、ワークスペースを取り巻く環境の変化が甚だしいことが指摘された。これからの働く場は、場所からは自由になり、時間を基準にしたものに変化していくという。そうして働く場は、繋がりのための結節点になるという。それは時間や人、あるいは企業の社会に対するブランドイメージとして変わってくかもしれないという。中村氏からは、古市事務所時代の仕事を通じて、模型と現場を通じて空間を鍛えることの重要性が指摘された。千葉工大の特徴を言い当てた指摘であったと思う。あっと驚くような空間をつくろうとし、それには自分が模型なりで体験し感動をしないと、それはできないという指摘である。空間つくりを諦める近頃の傾向を否定する力強い言葉であったと思う。気になったのは、エンジニアリングが目的なしの作業になっていると指摘されたことだ。ぼくら教員も注意を払わなければならいと思った。「サピエンス全史」は9章にかかる。この章に至り漸く共同主観の「文化」的側面が注目される。ここで問題にするのは共同主観内の矛盾である。中世では、キリスト教と騎士道、現代では個人の自由と平等という矛盾がある。コロナ渦の今それは顕著である。これを認知的不協和音というらしい。これは「建築」にも当てはまる。  
127 ラ・リーガ ビジャレアル×ビルバオ 久保が2戦続けて不出場。ここに来て久保を廻る状況が急転している。主軸の怪我人が現れ、何人かの若手の台頭、システム維持、得点不足、こうした状況の中で何かがあったのだろうと思う。

12月22日(火)
想像上の秩序というものは、中立的でも公正的でもないという。それどころか世界にヒエラルキーを生み出した。ヒエラルキーとは「偶然の歴史的事情委に端を発し、さまざまな集団の既得権がそのヒエラルキーに基づいて発達するのに足並みを揃えて、何世代もの間に洗練され、不滅のものとなったp176」ものなのである。これは建築にあてはまるだろう。もしそうだとすると、「建築」の功罪を明確にすることは大事になる。他に気付いたことがある。モノのネットワークが最近注目されているが、そこには共同主観のネットワークもあることを忘れてはいけないということだ。モノばかりを考えてしまうと、大いなる共同主観が逆に蔓延ってしまう。

12月21日(月)
「サピエンス全史」を続ける。第6章に差し掛かり驚かされるのは、人類の進歩が共同主観というものによっているという仮説である。これによって遺伝子伝達より数段早く進化をさせることが出来たのだという。これを具体的には次のようにもいっていた。「ティーンエイジャーは、サッカーのための遺伝子など持っていない。それでも赤の他人とサッカーができるのは、誰もがサッカーについての同一の考えを学んだからだ。それらの考えは完全に想像上のものなのだが、全員が共有していれば、誰もがサッカーが出来る。同じことがもっと大規模な形で、王国や教会、交易ネットワークにも当てはまるp154」。共同主観とは想像上の秩序のことである。「想像上の秩序は、私自身の想像の中に存在する主観的秩序ではなく、厖大な数の人々が共有する想像の中に存在する、共同主観的秩序p151」のことをいう。つまり、世界は「主観的」「客観的」そして「共同主観」で成立していることになる。これを読んで、ルネサンス以来の建築も同様だろうと思う。主観(美学)、客観(工学(真))、そして「建築」(倫理(善))で成立するものなのだと思った。そう考えると「建築」の存在が疎かにされているように感じる。そして6章の最後は次のように締めくくる。「想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走りこんでいるわけだ」。

12月20日(日)
「新聞記者」を観る。正義とか道徳をテーマとして興味深いが、それと裏返しにある権力が差し迫ってくるようなストーリーの妙もなく、TVドラマの域を出ていないと感じた。あるいは二人の主人公や彼らの周辺の上司や家族のキャラクターにスポットライトがあてられているわけでもなく、同様の時事ネタ洋画に対抗できていないとも思った。それは、「大統領の陰謀」アラン・パクラ監督や「チャイナ・シンドローム」、「シークレットマン」ランデズマン監督らの作品である。それらですら「シミュラークルとシミュレーション」でボードリヤールは、歴史を神話化してしまい、つまりリアルさに乏しく、ベタな世界観しか表現できていないと批判していた。唯々技術による刷新が行われたに過ぎないという批判であった。ところでボードリヤールがそれらの作品より評価をしていたのは、それ以前の技術が未熟な時代の「アラバマ物語」で、想像性豊かな作品であるといい、あるいは淡々とした「バリー・リンドン」スタンリーキュブリック監督であり、格調高い詳細があり壮大さを表現しているといっていた。
126 ラ・リーガ オサスナ×ビジャレアル ミッドウィークに大勝した若手メンバーを今日は採用する。その彼らが活躍をした。そんなこともあって久保の出番は今季はじめてなかった。久保に対するエミリの真意は推し量れない。久保は上り調子であったし、久保のキャラクターとシステムが漸く噛み合いはじめたと思っていたところ、その前のシステムに戻し久保よりも同歳の若手の成長を優先させたからである。そして結局それが上手く機能した。つまりビジャレアルは中盤3枚が必要ということである。王様モレーノの右に拘っている限り、久保が狙えるポジションは再びなくなることになる。

12月19日(土)
125 プレミア クリスタルパレス×リヴァプール 南野が開始3分でゴール。チームに加わりこの日まで1年を要した。その後、チームはクリスタルパレスに決定機を与えてしまったが、ミスで救われると、終始ペースを保った。そのリズムに南野もしっかりのっていた。フル出場。チームは7-0の大勝。今日はサラーを休ませたかたちであるが、サラー不在も悪くない。南野も比較的自由に動けていた。右から難なくペナルティエリア中央で受けることが多かった。得点もそのかたちであった。フェルミーノも見事なランニングで2得点。マネも得点の他に幾度も決定機をつくる。両サイドバックが好調なのもそうさせていた。

12月18日(金)
午前中に父に付き添いMRIを撮りに行く。母を起こすときに腰を痛ため、経過が芳しくなかったからである。10時過ぎに戻り、あまりにも父の息が上がっているので、パルスオキシメーターで計測すると軽く90を下回っていたので病院へ連絡。午後から検査をして入院となる。その合間を縫ってZOOMで図面審査の確認をする。こちらも芳しくない。入院を見届けてから、病院のロビーに残り図面審査後の打ち合わせに加わる。事務所に戻り、堂ノ下くんから送られてきた今日の録画をもう一度確認。ありがたい。メールで4年生にぼくなりの今日のまとめを送付し奮起を促す。

12月17日(木)
サピエンス全史」を続ける。農業革命によって安住等が可能となり、現在を生きることから将来を見据えるようになったという。つまり時間的感覚が人に宿った。それは現在のことだけでなく見えない将来に対する不安要素ももたもたらすことになった。ここが面白い。設計も同様でないだろうか。100年後住宅を考えるよりも、フラーのエフェメラリーゼーションのほうが生態的である。
124 プレミア リヴァプール×トットナム プレミア序盤の大一番でリヴァプールにリズムが戻る。絶え間ない攻撃で圧倒し続けるかたちである。今日は両SBも素晴らしかった。最後に漸く逆転となったが、むしろトットナムがよく頑張ったということであろう。ソン・フンミンの決定機は流石である。若いDFをぶっちぎった。

12月16日(水)
「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著を読む。漫画の続きを書籍にて確認したいと思った。面白いのは農業革命の顛末についてである。農業革命によって生活が安定したわけではなく、むしろ戦争が起き死因の15%までに至るようになった地域もあり、自足による限られた食物では栄養バランスも崩れてしまったという。本書では狩猟時代の方が栄養的に豊かであったし、自然にたいする知識も豊富であったという。しかし人が狩猟世界に後戻りしなかったのは、人口増加がもたらす甘い夢にあったのである。人口増加によって様々な未知なことが可能となった。それは、安住や将来にたいする安心などで、現在にも通じる贅沢品もそうして生まれた。しかしそれが実現にまで至るとは限らない。そうならなくとも、夢をキープさせることでその結論を先延ばし、システムを維持し続けてきたのが現実であるという。なんだかスピノザの神論を思い出す。しかしそのために新たな義務や仕事が次々に生じ、それが現在まで続いていることになる。ITによって仕事が効率化したが、一方で仕事量は増えているということだ。一般に農業革命を繁栄と進歩の象徴として扱うことが多いが、これを物議を醸す原因とするのが面白い。

12月15日(火)
青木淳氏をむかえての今年2回目のレクチャーシリーズ。今村先生との対談である。最近竣工した京都市美術館について、1933年竣工からその変遷を丁寧に説明することから対談がはじめられた。そのなかで川崎清氏が収蔵庫を設計していたことも知る。そうした歴史を受けて現在の美術館側は、エントランスの機能が追いついていないこと、そして現代美術を展示するには、すべて奥行き7mの部屋では対応できないこと、を要求するという。そのために考えられた地下のエントランスは、「建築」とは異なる、透明な軽い基壇の提案となったのである。青木さんがそれを楽しそうに語っていたのが印象的であった。また展示室には、展示物という視点から2つの側面が求められたという。ひとつはホワイトキューブに見られるニュートラルな空間。つまり、作品によってはじめて成立する空間である。もうひとつは、作品を刺激する空間。サイトスペシフィックの源となる空間である。京都市美術館ではそれを、東山キューブと既存改修部分の二つに該当させたのだそうだ。その東山キューブでは、現代設備の仕掛が十分に研究されていて、すべて天井からそれが供給されるものになったという。前田さんからよく聞いていたことだ。そしてこの美術館が建つ岡崎地区では上野のように、各施設の連動が最近重要視されるようになってきたという。それに関する多くのエピソードも、館長でもある青木さんから十分に聞けた。ところで建築展は観客動員が見込めるので流行ではあるが、青木さんは展覧会を通じて建築の本質に迫りたいようで、建築展の新しい試みを考えているらしい。芸大の展覧会では展示室をリノベーションする様子をダイレクトに示そうとしているそうだ。それで生のつくる行為自体を示そうとしているらしい。レクチャーの最後に今村さんが、設計を決定するときの判断基準を問うたのは意外であった。青木さんはどうやら建築家によるプログラムの独占をなくしたいようで、その意味で図式は否定、そうではない汎用性のある形式性を肯定していた。この二つの違いは微妙ではあるが意味するところはつまり、建築を過去から未来へ向かう線上の一切断面として捉えるにはどうしたらよいかを考えているようである。今日の京都市美術館の説明もそれに沿うものであった。

12月14日(月)
122 ラ・リーガ レアル・ソシエダ×ビジャレアル 久保が右の2列目で先発。攻撃時に中央に位置どり、チームへの順応が求められていたこれまでとは異なり久保特有の役割が与えられるようになったようである。そこに2つの問題が発生。故障者が3人も出てしまってリズムが崩れそれ以降上手く機能しなかったこと、そしてビジャレルに君臨するモレーノとのポジションの重なりである。中央付近でそれは起き、前戦のような連携ができなかった。今日はどちらかというとモレーノが窮屈そうであった。折角できかけた久保にとっての良い流れがこれからどう変化するのだろう。
123 プレミア フラム×リヴァプール 後半早々から怪我のセンターバックに代わりそこにMFヘンダーソンが入り、南野がそこに登場。前戦の同ポジションでのクロップの印象が良かったのだろう。続けて試される。しかし今日はいまいちであった。縦への動きが少なかったように思えた。

12月13日(日)
中畑昌之さんのzoomオープンハウスに参加。浜松にある中畑さんの自邸である。2.7mグリッド(3×5)のRC構造の上に木造格子状LVLでできた5種類の異なるヴォールト屋根を載せた作品である。屋根には複数のトップライトが設置され、格子天井は奥行きがあり450ミリ角で区切られているので、その光は区切りの中で強弱をもち、連続的というよりデジタル的である。近くに往来の激しい国道が走っているので、上から外部に接することをまず考えたのだそうだ。内部は大きな一室空間でその光に応じて居場所を選択できるというものも現代的である。この作品が面白いのは、このような建築から受ける心象性を大切にしていることと空間をつくるときのシステマティックな思考が同居していることだと思う。ものをつくるという行為は、これから生まれるまだ見ることのないモノとそれを現前させようとする意図とを繰り返しフィードバックすることである。したがって、そこにシステマテックな思考など必要ないと考えるのが普通である。むしろシステムは消えて見えなくなると考えるのが近頃の傾向であろう。それに逆行しシステム性を残そうとする姿勢が面白いと思った。中畑さんはぼくと同じ研究室出身である。どちらかというと生活は自由なものではなく見えないシステムにしたがっていると考える。そこから開放するためのモノ=別のシステム、これを提供することが建築の役割と考えている。それを評価したいと思うも、グリッドを構成する梁の存在が気になった。システムを表現する別のかたちもあったのでないかと思った。工事中の外壁のない写真では、どこまでも続くグリッドの永遠性が感じられた。そうした状況での強弱のある光で覆われた生活は、中畑さんがおそらくイメージしていただろう新しい生活であると思った。午後に映画「吸血鬼ドラキュラ」フランシス・コッポラ監督を観る。現在の愛か過去の遂げられなかった悲哀か、男は一途で勇敢で実際的であるが、女は愛に永遠性ロマンを求める。こうしたストーリーだろうと思う。永遠性は未完によってしか得られず、それは宗教のシステムも同じである。

12月12日(土)
青木さん設計の大宮前体育館へ行く。住宅街にあり体育館とはいえ低層で、地下深く埋め込まれた建築である。コンクリートに覆われた巨大な体育館自体は、人が大きな象を一度に知ることができない喩えのように、ぼくらはその全体像を知ることができず、できることといえば唯々その周りを歩き回ること、このようなことを諭すような建築である。もっとも体育館本体の周りには他に必要とされる様々な場が与えられ、決して批評的な建築でもないし嫌味的な建築でもない快適な場である。逆に巨大さを表現しているのは換気塔で、それでも可愛いのでユーモアすら感じた。いわゆる建築的コンセプトというものを否定したところから出発する建築とはこういうものなのだろうと思った。槙さんや北川原さんの次点案と比べると分かりやすいと思うのだが、そんなことお構えなしのところで成立する建築なのだろう。深夜BSで放送していた「カウボーイ&インディアン」ジョン・ファブロー監督を観る。アニメの実写化だそうだ。内容は、はちゃめちゃであったが、ハリソン・フォード、ダニエル・クレイグらが出演していた。
121 ラ・リーガ アトレチコ・マドリード×レアル・マドリード 序盤にレアルが得点をすると、安定したボールさばきで首位独走中のアトレチコに今季はじめての黒星をつけさせる。コートいっぱいを使って、スペースにボールを正確に送り続けるのは気持ちよい。派手さはないも確実性をそこに感じた。

12月11日(金)
青木淳選「建築文学傑作選」を拾い読みする。須賀敦子の「ヴェネツィアの悲しみ」。芥川龍之介の「蜃気楼」、立原道造「長崎紀行」である。どうやらこれらの小説を分析しながら青木さんはどうやって部分からはじめて全体像をつくりだすのか、このことをテーマにしているようだ。先日のエスキスで体験の積み重ねから建築をつくることは難しいことの話を学生にしたが、こうした建築における抽象の力、これは岡崎乾二郎の言葉であるが、それをなしに青木さんは建築しようとしているようである。ただしこれらの小説の主題には、中心の不在性なるものが共通に感じられる。かつて存在していたものの喪失感とでもいうべきものであろうか。個人的な体験が中心に語られているとはいえ、かつて存在していたものの憧憬、この助けを借りているように思った。NHK特集でコロナ渦後の世界情勢の特集を観る。コロナ渦の中国の世界貢献によってアメリカの立場がゆらぎはじめたという特集である。そのため両国が衝突おきる場面が多くなり、その最前戦としてアジアとくに台湾の状況が問題視されていた。

12月10日(木)
「漫画 サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著を読みはじめる。意に反して面白い。NHK特集でも語れていたが、6種類の人類が5万年前には存在していたという。脳の大きさや体格からいえば、ネアンデルタールの方がホモサピエンスより優れていたという。しかし、7万年前にホモサピエンスが有利になり形勢が逆転した。それは、火が使えるようになった訳でもなく、道具を使えるようになった訳でもなく、コミュニケーションを上手く利用できるようになったからだという。しかし虫でも動物でもチンパンジーでも臭いや身ぶりや声によってそれを可能にしている。問題はその規模にあるという。チンパンジーの群れでもせいぜい50人。群れとはコミュニケーションによって信頼できる集団のことをいう。ここが大事。ホモサピエンスも当然この規模に対する壁はあったのだが、神話という虚構を共有することによってその信頼の規模の拡大に成功したのだという。みんなが同じ虚構を信じていれば同じ規則に従うことができるという訳だ。それによって莫大な規模の群れを創ることに成功した。この虚構は宗教であったり国家だったりお金であったりするのであるが、面白いのは現代の企業ブランドも含めて、その連続性を本書で示していることだ。企業も実体のない虚構である。虚構を上手く演出し企業は集団をまとめているし、対外的も認知をされているのだ。だから、重要なのは「どんな問題をつくるかじゃなく、どうやってそれをみんなに信じさせるか」である。つまり「川とか樹木とかライオンとか、そういう実在するモノのことしか話せないとしたら、国家や教会や法律を創るのはむずかしかった」ということである。これは「建築」にもあてはまることだと思った。つまり、ホモサピエンスは7年前に「現実」と「虚構」という二重の世界に生きることに成功したというのである。それによって、遺伝子進化をはるかに凌ぐスピード進化を手にしたのであった。チンパンジーはボノボ(2足歩行の道具を使う猿類。平等主義社会である)と話し合って平等世界をつくることなどないのである。土偶や壁画にある奇妙な動物は、そうした虚構=神話が当時から存在していたという証である。
120 CL ミジェランド×リヴァプール 南野が4-3-3の2列目で先発フル出場。ベンチの指示だと思うのだが、左と右を前半はケイタとその後はヘンダーソンと定期的に代わりながらプレーする。右の南野はよかった。いつもとは違い下がるというよりは、横にあるいは縦に動いて効果的な繋ぎ役になっていたと思う。2列目から遅れてペナルティエリアに侵入し、シュートの機会もいくつかつくっていた。後半相手に攻め込まれていたのは、中盤のチェックの甘さによるものかとも思ったが、この点についてチームはどう判断するのだろうか。南野の動きを見て世界との差について気付くことがある。これまでの日本のMFはパスセンスが評価されてきた。しかしその彼らが苦労しているのは、その前段階のボールの受け方である。パスを出すもう1段前までをも考慮した戦い方が問われている。

12月9日(水)
「フラジャイル・コンセプト」青木淳著を続ける。読んでいて、青木さんの歴史観と建築知識には圧倒される。しかし、述べられていることはその存在をなくした現在の感覚のものである。このズレが何だろうと思う。ライアン・ガンダーの作品をウェブでチェック。何となく理解する。作品に対する明確なテーマがある。それはタイトルに表れている。しかし、それが焦点を結ぶことはない。もっと別なテーマ、あるいはそのテーマを否定する別なものもある。作品はその複合体としてある。作品の強度というより巧妙さが優れている。ルイジ・ギッリの写真については、「世界の一部をまるで掌にそっと捕獲したよう」と青木さんは表現する。ルイジ・ギッリについてはモランディのアトリエ写真が有名であるが、これを観て世界を丸ごと捕まえようとするアレゴリーの効用を思い出す。青木さんは「建築」については否定的であるが、不在になった「建築」には肯定的なのだろうか。それをさらにネガティブに捉える方法とは何だろうか。
119 CL バルサ×ユベントス バルサが0-3で負ける。コンパクトに守るユベントスを突破することができなかった。パスワークの正確さと早さに圧倒されるもそこからの迫力が足りなかったように感じる。今年はバルサもレアルも苦難が続いている。

12月8日(火)
「フラジャイル・コンセプト」青木淳著を読む。青木は、大文字の建築がなくなりつつあることを認め、そこから「名前のない空間」をつくろうとする。構成などという手法では、「建築」に取り込まれてフラジャイルなセンスまでをもこわされてしまうのでもっと繊細な「くうきを整える」というような提案をする。青木が紹介する杉戸洋、ライアン・ガンダー、ルイジ・ギッリ、立原道造らの軌跡にその方法のヒントがある。そして大宮前体育館で行ってきたことが、今のところのそれに応える解答というのである。それは、解像度の異なるレイヤーの重なりという提案である。それによって、いわゆる「建築」的な全体を打ち消すことをし、モノによる不共可能性を示そうとしている。このことについて、ちょっと考えてみたいと思った。

12月7日(月)
118 ラ・リーガ ビジャレアル×エルチェ 0-0のスコアレスドロー。前戦におけるエミリ監督の久保評価が気になっていたが、後半開始からトップ下で登場させる。前日の会見で久保についてエミリは、「よいときも悪いときもある。よいときは戒めて、悪いときは寄り添う」といった発言をしていた。前戦の久保はそれ程には悪くなかったと思うので、今日の起用が気になっていた。エミリは後半からフォーメーションを変えた。そのため、久保はフリーになっていた。従来の攻撃時4-1-2-2-1からの変更である。それで久保に何度もボールが入る。ここで決定的な仕事をしておきたかった。ライン上でのアルカセルからのダイレクト、70分過ぎにはこの試合唯一のマウス内シュートを放つも力強くなくGKにはじかれる。それはペナルティ内での細かいパスによるものであった。ビジャレアルは引いて守る相手に研究され、苦しいゲームが続いている。こういった細かい連携も久しぶりである。久保に期待大である。

12月6日(日)
「Fukushima50」 若松節朗監督を観る。NHKでの連続特集で事実をほぼ知っていたのだが、lこの映画ではそこで起きていた人間関係を知る。東電本社の社員は僅かで、現場で作業にあたっていた人たちは多くが地元で雇われた人たちであった。したがって、地元との関係にもこの映画では言及がなされていた。そしてNHKの再現と異なっていたのは、この映画では吉田所長もかなり取り乱していたし、触れられていなかった菅首相や東電本部の混乱ぶりは異常であった。ここから学ぶべきものは何なのだろうと考える。それは緊急時の組織における意思決定についてである。この映画では仲間や地元を思いやるところが感動を呼んでいるのだが、問題を解決するには指揮系統をこういうときこそ1本化してドライに対処する必要があると思った。以前海上自衛隊潜水艦なだしお号が民間漁船と衝突し、漁船乗組員数名が死亡した事件があったことを思い出した。このとき浮上した潜水艦甲板上で見張活動を続け救助活動をしなかった海上自衛官がマスコミから批判されていた。この批判は人道主義にもとづくものであったが、2次災害の危険などを考えるとそれが正しい判断であったという。おそらく自衛官は情をなくして機械のように動くことが叩き込まれているのだろう。戦場で各自が勝手に判断をして行動をしては混乱を呼ぶばかりである、と聞いたのは父親からであった。一般に最近では組織のヒエラルキー構造は否定されるものであるが、緊急時にはそれが重要となることを改めて感じる。福島の場合でいえば、本部から緊急の別の指揮部隊を投入することによって、チームを再組織化することが必要であったのだと思う。冷静な問題解決を導くために。これは例えばW杯中に不振に陥った代表チームや、何よりも事故やクレーム等によって生じた事務所のプロジェクト内での混乱においても通用することだと思う。

12月5日(土)
「砂の器」野村芳太郎監督、松本清張原作を観る。物語展開にちょっと無理があるように思えたが、原作はどうなっているのかと思う。それでも、感動もののラストシーンであった。今は亡き名優達が好演している。

12月4日(金)
117 EL シワススポル×ビジャレアル 久保は得意の右で先発。いつも右のチュクエゼは左での先発。その久保は60分前に交代。その後右に回ったチュクエゼが得点し1-0でビジャレルが勝つ。久保とチュクエゼを比べてきたマスコミはこれぞとばかり久保を批判し、チュクエゼを盛り上げていた。なぜなら久保の所属元のマドリードよりのマスコミが、先発で使用しないエミリ監督を批判し続けてきたからである。その反動が出たかたちである。最もチュクエゼはビジャレアル元々の育成選手。レアルから鳴り物入りで入団してきた今年限りの久保は批判にさらされる土壌にある。エミリ監督の60分前の久保の交代の意図はわからないが、その答えは週末の久保の扱いに出ると思われる。しかし、いかにも久保が悪かったかのような印象を与える采配であった。エミリは、アーセナル時代にエジリを否定するなど頑な人である。これまでの報道から、久保に対して意地になっていなければと思うのだが。冷静にみるとぼくとしては、今日のビジャレアルは10代選手4人使い、相手マンツーマンに久保も含め(チュクエゼも)何もできていなかった。というよりも引き分け狙いのエミリはバランス重視で、久保もその役割を果たしていたと思うのだが、自由が許されずにいた。そうした中で中盤底選手がビルトアップできていなかったことが原因だと思う。したがって久保交代後も特に状況に変化はなかったが、70分過ぎからコクランに代わりパレホと14番トリゲロスが中盤に登場すると突然攻撃が活性化した。そしてチュクエゼが最後に決めたのであった。パレホが最終ラインまで下がり、普段はどちらかというと右サイドの守備重視でバランスをとるトリゲロスが左のスペースまで動き、パレホからの縦パスを受けてDFラインを崩したかたちであった。それは今日先発の若い選手との違いを見せつけたものであり、戦犯が久保だけではない証と思うのだが、エミリ監督がどう判断しているか?週末のリーガでの久保の扱いに注目である。

12月3日(木)
エスキスの後にティム・インゴルドの質問を受ける。ティム・インゴルドの本から学んだことは、建築にとって世界をいかに表象するかではなく、いかにして世界を「そこに存在する」ものにするかであった。評論するよりもつくり出すことである。これは意匠系の研究において大いにあてはまる。どうも世界の表象に意識がいって、そこからの制作が疎かになっている。モノが自然と生成されることなどない、(世界と通じる)主体を持って制作することが重要なのである。
116 CL アトレチコ×バイエルン 1-1のドロー。どちらもエースストライカーがおらずに比較的無理な攻撃をしていなかった。そのためネームバリューの割りには、素人目にゲームは面白くなかった。その中でもジョアン・フェリックスのテクニックが光る。右利きの右Wで体格もそれ程良くないが、サイドと中央の両方をこなしていた。

12月2日(水)
建築家の考えるバロック論を知りたいと思い、「磯崎新の建築談義09 17世紀 サン・カルロ・アッレ・クァトロ・フォンターネ聖堂」を再読。ボッロミーニとベルニーニの比較から、あるいはルネサンスとの比較から、つまり歴史的位置づけからバロック建築の特徴を解説していた。その特徴とは、劇的な動き、階段の前面化、空間化、過剰さ、そしてある全体性を想定し建築を外部から切り取るデザインである。その中でライプニッツのバロックも取り上げ、それは「モナドに、つまり霧のような状態に世界を置き直した上で、再編したもの」という位置づけである。一方で面白いのは、バロック的なものはどの時代の終焉にもみることができるという指摘であった。近代後期ではヴェンチュリーの「建築の多様性と対立性」、ポルトケージ(バロックのローマ)、あるいはピーター・グリーナウェイの映画をあげている。ということは、バロックは数寄屋化に近いということだ。「二つの和解できない要因を抱え込みながらそれを統合するときに発生するズレと格闘する、不連続、非線型的というか、常に割り切れないものがのどにひっかかるように残っているいろいろな表現」がバロックに観られるというのだ。ボッロミーニのサン・カルロ・アッレ・クァトロ・フォンターネ聖堂、サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂、ナボーナ広場のサンタネーゼ・イン・アゴーネ教会、サン・フィリッポ・ネリ教会(オラトリオ)とベルニーニのヴィットーリア教会、サンタンドレア・アル・クィリナーレ聖堂を思い出しながら再読する。

12月1日(火)
西田司氏と萬玉直子氏をむかえての今年度第1回目のレクチャーシリーズ。タイトルは「ひととまちと共に生きる建築」。みちがテーマであった。広場でなく道でのコミュニティが日本に相応しいという考えである。最近完成した関東学院の国際学生寮が興味深い。外観は避難通路としてあり普通だが、中身が複雑な道の絡み合いである。個にはそれぞれの世界があり、それらは共有せずに同じ空間にいることの可能性を目指したという。それはライプニッツが不共可能性といっていたものだ。具体的に建築は、吹き抜け空間に宙ぶらりんな一人用の空間が漂うような構成であった。西田さんは構成といわれることに抵抗したいようで、その気持ちも分からないでもないが、建築としては、現象として済ますのではなくモノで語る必要があると思う。というのは、浜町のみどりビルプロジェクトの建築はたいへんよくできていた。コーポラティブで、室内と屋外の面積割合を等しくした貸しビルであった。屋外空間が建築の周囲に張り巡らされ、それらが醸し出す雰囲気は、階層のなさや屋外との連続によって建築として上手く納まっていた。こうしたことを感じることができるのも、モノと人との関係があるからで、モノからの視点を否定することはないと思う。最後に紹介したプロジェクトが、ぼくの地元の渋谷本町であったのには驚いた。近頃商店街に活気が失われたところだったので、がんばってもらいたいと思う。「アレゴリーとバロック悲劇」ベンヤミン・コレクションを読みはじめる。最初に本書ではアレゴリーと対極にある象徴概念(シンボル)を否定することからはじめる。ベンヤミンは、芸術において理念を現前するためには、象徴作用の助けを負うことが大きいことを認めつつも、その象徴作用は人間存在を神格化するロマン主義のもとで歪められてきたというのである。象徴作用が実は、ある限定された思考範囲のものでしか通用しないことをいったものだ。これに対してバロックとは、神の神格化が崩れるにつれて象徴的思考というものが無効となり、神との弁証法によって成立したもので、アレゴリー的概念とはそこから生まれてきたものであるという。したがって、徐々に歪曲的な仕組みを持ちながら深いところから進行してきたものであるといっている。それでアレゴリーとは瞬間的なものである象徴に対しての継起的で時間を要するものになった。アレゴリーにおいて、たわいもないものが悲劇をむかえることによって高次の位階(道徳)にまで引き上げられるのは、この仕組みによることが大きいという。そのためにアレゴリーは沈潜しないよう絶えず新たに人を驚かすような展開をする。運動性がアレゴリーの本質なのである。ベンヤミンの思考はいつも新鮮である。反対意見を取り入れながら、そこから漏れる問題をすくい上げることで意見をつくり出している。

11月30日(月)
115 ラ・リーガ レアル・ソシエダ×ビジャレアル 久保は75分から左サイドで登場。適正ではない左での起用に各評論家はとかく不平をこぼしているが、今日の久保はこれまでとは違い自由に動き回る。特に右まで出てチュクエゼとの連携に努めたのには驚いた。思えば昨季もマジョルカで突然自由に動き出したときがあった。その前後で久保に対する評価も変わっていった。久保は考えを変えて、チームへのフィットから自分を出そうとしているのだろうか。今日の交代場面から想像するに監督が考える久保は、モイ・ゴメスやトリゲロスの控えではなく、 終盤の飛び道具のひとつに考えているようである。その役割はそこそこ果たしている。久保が入ってチームは活気づいた。後は得点である。

11月29日(日)
1日中推薦入試の監督。合間に読書。娘がアマゾンスティクを購入。TVでDAZNもUEFA.tvも、もちろんPrimeVideoもわざわざパソコンを接続しなくとも見ることができるようになる。本来なら、映画のコンテンツにおいてiTunesの方が信頼あるのでAppletvにしたいところだが、本を中心としたショッピングにおいてappleは一歩リードを許してしまっている。Mac+iPhone(iPad)が生活の中心になると、例えばこれまで親しんできた2時間の映画やスポーツ観戦などもパソコンコンテツになり、それらを同時に1台のMacに託すには無理が生じてきている。サッカーを観ながら、たまにファイルも開きたくなるものだ。それをiPadに託すか?しかし実生活ではTVが再登場してきて、第2幕のインフラ整備が徐々に進んできた、このことを感じる。
114 プレミア アルビオン×リヴァプール 怪我人が多い中、南野は中盤で先発。クロップの温情でチャンスが廻ってきたともいえるが、逆にいうと不慣れなポジションで立場を悪くしたともいえる。効果的な守備も攻撃もできずに終える。どうもボールをもらおうと焦っている気がしてならない。周りとの連動がないため、動きにメリハリが少ないように見えてしまっている。

11月28日(土)
「襞 ライプニッツとバロック」を読み終える。最後にベルニーニの彫刻「聖テレジアの法悦」が詳細に記述されている。ドゥルーズは頂部の丸天井とそこから伸びる円錐によって、一つの統一が生みだされているという。宗教というものが当時幻影になりつつも、それを踏まえて再び現前することの夢を与えるものだというのだ。ぼくもヴィットーリア教会でこれを見た。上からの光で彫刻が神に包まれているあまりにもベタな手法とも感じないこともないのだが、それを超えて感動した記憶がある。続いてベンヤミンのアレゴリー論についても言及している。シンボル的な見方と対比させ、アレゴリックな見方をベンヤミンがはじめて評価したというのである。それは、動物寓意譚のベスティアリにも見られたものであった。ベルニーニの彫刻の丸天井と円錐は正にアレゴリックなものであるという。こうしたアレゴリーの効果については、多くの思想家が問題に上げている。しかし、なかなか明確に掴めないでいる。ここで取り上げられていたアナモルフォーズの動画を観る。歪んだ訳のわからない絵が、ある見方(例えば鏡面でできた反射する円筒というフィルター)によって、皆が認識できる図像になる現象である。このテクニックがアレゴリーに似ているのだという指摘である。「感覚しうる対象を、連続性の法則にしたがう形象や相の系列に変えること、これらの形象化された相に対応し、命題の中に記入される出来事を指定すること、命題の概念を含み、尖端あるいは観点として定義される個体的な主語に対して命題を述語化すること、概念と個体の内面性を保証する識別不可能の原理」をアレゴリーの特色と述べる。

11月27日(金)
修士設計の中間発表をオンラインで行う。研究室の学生と密な相談ができていないので、基本的な部分の見落としが多い。さて、どう展開させようかと思う。佐藤くんの提案に対しては、研究のバックグランドの説明に時間をかけすぎて、一番大事な設計対象が理解されていなかった。墓地を日常的なものにするために、墓地のたつ土地が誘発する記憶を役立てようとしていることが伝わっていなかった。もうひとつ、設計者に都合がよい記憶ばかりを取り上げているが、反対のことを想う人、あるいは何とも感じない人がほとんどだろうと思う。現実のモノと人とのネットワークは複雑であることを考慮しないとトートロジーにはまる。加藤くんの提案は幾何学を扱うものである。分析において仮説をなくしているので、そこから組み立てることができないでいる。カーンのドミニコ修道院案の配置関係を参考に、西澤立衛さんは十和田美術館であれやこれやと検討を重ねていると思うのだ。こうした主体の見る目がないと、幾何学からは何も答えてはくれない。法則や世界がはじめからあって個体に作用するのではなく、個体の内部にそれが意識あるものとして所属の関係にあるときはじめて生じるものなのである。同様なことは研究の条件整理にも現れる。鈴木さんに限らず、最終イメージがないと、諸条件も整理できないことになる。早くゴールをイメージしてもらいたい。それでも町田くんのプレゼは気持ちが入っていたので、先生達の琴線に触れることができた。成功のカギは、ピラネージの「牢獄」の現代的意味を上手く表現できるかどうかにかかっていると思う。その際に、SNSに上げる写真の傾向を持ち出すのはよいだろう。それらをひとつにリンクできたらよい。
113 EL テルアビル×ビジャレアル 久保が左サイドで先発。可もなく不可もなくレギュラーのモイ・ゴメスと同様の働きをしたのではないかと思う。逆サイドのチュクエゼとは兎角ライバル視される関係であるが、二人は何度もアイコンタクトをしてペナリティ内、あるいは大きなサイドチェンジで連携を高めようとしていた。むしろ今日は、トップ下の32番バエナとの連携に難があったと思う。前回の右で行った連携ができていなかったのが残念。スペースが被り窮屈そうであった。いつもの戦術ではこのポジションがないからだろうか。トップ下を置くなら久保が最適と思う。エミリの采配にちょっと謎を残すことになった。

11月26日(木)
112 CL リヴァプール×アトランタ 0-2。アンフィールドでリヴァプールが負ける。今日は前線の選手も変えてきたが、それよりも最終ラインのバランスがよくなかった。やはりリヴァプールは、両SBが攻撃の起点であることを知る。そこからの展開が今日はなく、相手SBに押し込まれる時間が続いていた。前戦のレスター戦であまりにもロバートソンがはまっていたので尚更その差を感じた。終了間際に南野も登場するも為す術なし。今日はオリギが先発で南野にとって厳しい状況が続く。

11月25日(水)
「襞 ライプニッツとバロック」を読む。昨日考えたことの続きがあった。無数にあるふたつの人とモノを結びつけるのに必要なものを、ここでは理性としている。理性でなくあくまでも形であるが、15の幾何学特性とは、パズルのようにふたつがピタッとはまることを許容する形のルールでないか、と思うに至る。無数の組み合わせの中で、結合をつくりやすい形の性質をいうのだと思う。

11月24日(火)
中埜さんと打ち合わせ。中埜さんに薦められ、「まちづくりの新しい理論」アレグザンダー著 難波和彦訳を読み直す。そして全体性への再理解に努める。本章によると、モノにはこれまで培われてきたものが痕跡として残っており、それに個人が関与していくこと、これによって全体性が得られるという。関与あるいは参加とは同調することだ。残された痕跡は無数にある。そして沢山の人がいて、その人でさえも時と場所に応じて変わる。だから、このモノと人のふたつが同調する確率とは奇跡的なことだ。ふたつが同じ方向に向いていない限り同調は不可能なことである。そしてこれが成立した状態を全体性というのである。本書では、この困難さを克服するために、成長という考えを導入している。少しずつ確かめて、1歩1歩近づけるというものである。そのために「中間的ルール」を提案しているのが面白い。実践には中間的ルールが有効というのだ。それは、「ティール」での中間職の役割を思い出させてくれるものだ。そして最終目標(最優先のルール)は、本書もティールも全体性wholenessというものである。

11月23日(月)
「襞 ライプニッツとバロック」を読みながらローマ劫掠からフランス革命までの時代を人物で整理する。ルター(1483-1546) ミケランジェロ(1475-1564) パッラーディオ(1508-1580) ローマ劫掠(1526) ガリレオ・ガリレイ(1564-1642) ベルニーニ(1598-1680) ボッロミーニ(1599-1667) ベラスケス(1599-1667) レンブラント(1606-1669) フェルメール(1632-1675) スピノザ(1632-1677) ニュートン(1642-1727) ライプニッツ(1646-1716) カント(1720-1778) ピラネージ(1720-1778) ルドゥー(1736-1806) ゲーテ(1749-1832) ワット(1736-1819) フランス革命(1789)。因みに日本は、応仁の乱(1467) 千利休(1522-1591) 関ヶ原の戦い(1600) 俵屋宗達( -1640) 葛飾北斎(1760-1849) 本居宣長(1730-1801) 明治維新(1868)である。
111 プレミア リヴァプール×レスター リヴァプールが苦しい戦力の中、レスターを3-0で破る。引いて守るレスターに対して、大きなサイドチェンジによってフリーになった左SBロバートソンからの攻撃は見事であった。中盤からこれまたフリーになったジョッタが走り込んでヘッドで決めた。今日はサラー不在で、その空を十分に埋めるプレーであったと思う。久しぶりにレスターの試合を観る。岡崎がいた時代からのメンバーも残っていて、今日は速攻のチャンスが少なく不甲斐なかったが好調をキープしている。

11月22日(日)
「イエスタディ」ダニー・ボイル監督を観る。世界中の一斉停電の後、主人公のジャックが、皆の記憶から消えたビートルズによってスターになるという物語である。売れない歌手であったジャックが退院した日に、友人からプレゼントされたギターによって、冷やかされながら即興で奏でた「イエスタディ」のシーンは素晴らしかった。このときジャックは皆の記憶からビートルズがなくなったことを知る。その後エド・シーランとの即興対決で皆を静まりかえらせた「ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード」も感動的であった。音楽が時を超えての永遠のものであることを上手く表現した映画だ。

11月21日(土)
110 ラ・リーガ ビジャレアル×レアル・マドリード 楽しみにしていたゲームであったが、久保は85分過ぎからの登場であった。エミリ監督は選手をピースのように考えていて、1-1の状況で、ピースが上手くはまっていると考えていたのだろう。エミルにとって久保は本当の最後の賭のピースである。したがって交代タイミングの判断が遅くなる。戦術は無理をせずにスペースのみにボールを送り、守備ではスペースを与えないというものだ。レアル側からするとDFラインから出たボールをSBあるいは中盤が受けて、そこで1対1の場面を振り切る必要があるがビジャレルのインテンシティの方が勝っていた。逆にいえばリアルは怪我人やコロナで十分なメンバーが組めなかったということである。久保にこのタスクは無理だと判断されている。

11月20日(金)
「襞 ライプニッツとバロック」を続ける。ライプニッツはニュートンと同時期の人物であるという指摘が面白い。二人はどうやら対立していたらしい。ニュートンの「引力」を用いた世界観は、微分を用いて瞬間から瞬間へ緊張の無限に小さい現象によって得られる軌跡を実在化したものである。その考えは1960年代のダーシー・トンプソンの「生物のかたち」にも、あるいは、それ以前からのゲッシュタルト理論にも同様にあり、ライプニッツ側からそこには、個体性(の現働化)がなく引かれたレール上の移動でしかなく、法則が統計的でしかないということになる。近代科学の限界を指摘するものとして今では普通であることが、このときから指摘されていたのだ。つまり、法則や世界ははじめにあって個体に作用するのではなく、個体の内部にそれが意識あるものとして所属の関係にあるときはじめて生じるものなのである。

11月19日(木)
「襞 ライプニッツとバロック」ジル・ドゥールズ著を続ける。なかなか入ってこないが、個と全体についての啓蒙の時代前の考えを示唆していて、反対に捉えやすい。つまりここで引用されるライプニッツの個体は、第一に理性的であり、自らの概念を通して世界に対するものである。その意味で、個体の中に世界全体が包摂され、世界は無限なものである。一方物理(身体)的には、個体は世界から分れたものであり有限である。その個体の集積が世界となり、その内的ネットワークは無限である。そしてこの個体をモナドといい、バロックにおける襞がそれにあたる。反対の世界(全体)とは、固体の中で現働化される可能性あるものであり、物質として実在化された出来事が集合したものである。このことを知る。

11月18日(水)
109 代表 日本×メキシコ 強豪メキシコとの親善試合。日本の現在地を最も知ることのできるゲームであると皆がいう。メキシコはW杯16強の常連で確実性があるからだ。日本はこれまで何度も勝てそうになるも跳ね返されてきた苦い経験がある。そこから進歩しているかである。今日は4バックから入り、前半は日本のペースであった。前線からのプレッシングが効くと日本は強い。しかし得点が奪えないのもいつもと同じである。これを勝負弱さというがトラップの技術であったりするのだと思う。後半からメキシコは見事な修正をする。2ボランチにして日本のプレッシングをかいくぐり、そこからのロングボールで攻めるかたちをつくってきた。そうするとセカンドボールを握られ、全くプレッシングがかからなくなった。やがてサイド深くえぐられ守備一辺倒になってしまった。メキシコと異なり次の策がない。ボランチを橋本に代えても、南野や久保を投入しても何の効果もなかった。個人でカバーできるものではない。こうした時のために3バックにして、もう一度サイドを押し上げるチーム全体としての戦術が必要なのではないかと思う。ベンチワークに差が出た結果であった。

11月16日(月)
「襞 ライプニッツとバロック」ジル・ドゥールズ著を続ける。ライプニッツの不共可能性(imcompossibilite)を読み解くことが後半のテーマとなった。個にはそれぞれの世界があり、それらは共有せずに同じ空間にいることの可能性を不共可能性いう。神の不在が明らかになりはじめた時、個は何かをライプニッツは考えたのだろう。現在の神にあたるものは大文字の「」であったりする。「唯名論者にとっては、個体のみが実在するのであって、概念はよく調整された言葉にすぎない。一方、普遍論者にとっては、概念はみずからを無限に種別化する力をもっていて、個体は単に偶有的で、概念にとって外的な限定にかかわるだけである。しかしライプニッツにとっては個体だけが存在すると同時に、しかもそれは概念の力能、つまりモナドあるいは魂のおかげなのである。(中略)特異性とは一般性ではなく、出来事の滴である。それでも、世界が世界を表現する個体たちに対して潜在的に先にくるかぎりにおいて、やはり特殊性は前ー個体的である(神は罪人アダムを創造したのではなく、アダムが罪を犯すような世界を創造した・・・)。個体とは、このような意味で、前ー個体的な特異性の現働化である」p113。個体を全体の中で位置づけるのではなくて、個体内から定義しようとしていることが分かる。これを別にところでは、建築を持ち出して説明する。バロック建築のことである。「一つは建物の適切さ、もう一つは内部における「部屋の数と優雅さ」、最後にもう一つ、土地と素材と外側のファサードが一続きになって快適であること」。あらゆる内外の問題に戯れること=設計をいっている。ルネサンスーマニエリスム−バロックという美術の流れと個人の確立経緯の重ね合わせが見て取れる。

11月15日(日)
森美術館で開催中のSTARS展に行く。草間彌生、リ・ウファン、宮島達男、村上隆、奈良美智、杉本博司といった世界で活躍するスター達の活動を歴史的なアーカイブとして回想する展示である。部分に集中して自己形成を目論む草間、もの派のリ、部分を抽象化させ、共有可能性を探る宮島、日本美に潜むポップさを露わにしたにスーパーフラットの村上、それを画で表現する奈良、建築家のようにモノを配置する杉本であった。会場を出たところにサムソン・ヤンという若手の作品があった。サウンド・アーティストで、弦にテープを巻くなどして音を響かないようにしてオーケストラを演奏させる作品であった。奏者の息づかいや楽器を押さえる音のみの音楽は迫力があった。

11月14日(土)
「ホテル・ムンバイ」アンソニー・マラス監督を観る。2008年11月26日に起きたムンバイ同時多発テロで標的になったタージマハルホテルでの惨劇を映画にしたものである。タージマハルホテルだけでも死者31名が出た。このテロ自体は知ってはいたが、これほどの惨劇であったとは知らなかった。知らないとは恐ろしいことである。その後の11年9月に、ぼくは世界一サービスに長けたホテルとして、ここに宿泊した。ホテル再開が2010年の8月というのでその1年後である。ホテルは空港から1時間弱で、ホテルサービスの送迎ベンツだかなんだかが付いていて、そのリムジンを使用した。空港から発車する車の中でもそれはかなり特殊なものであったと思う。ホテルとの約束時間が上手くつかずに熱い中しばらく混沌とした空港で待っていたので、リムジン中でのサービスに感動したのだが、その車中からみた近代ビル群の下に続く数々のスラム街は異様であった。インドの都市風景は見慣れていたのだが、それでも異様なものであった。ブータン帰りのインドで、ニューデリー、デリー、アーグラ、グアハティ、そしてシャンディガールとアーメダバードのコルビジュエを観て回った後の疲れを癒やすために予約したのであるが、そんな感じを醸し出す雰囲気ではなかった。到着するとホテルの外は様々な人がいっぱいで、外に出るのもはばかった記憶がある。だからホテル外観の写真はない。都市の鬱憤みたいなものを、2年前の事件の詳細を知らなくても感じたのであった。しかしその分、世間から隔離されたホテルのサービスは素晴らしく、サービスとはこういうものかと思ったものであった。それまでの2週間とは違って、この世のものとは思えない柔らかさのベッドで、帰国後Sillyのベッドを購入したほどである。映画はホテル従業員の勇気を称えるものであるが、決して善悪の区別とか登場人物のキャラクターを描くものではなかった。信用ということがテーマであろうか。人は信用のもとで行動し、その対象が宗教であったり社会的立場であったり、家族に対してであったりする。多様な現代において国家とはなんだか不明ではあるが、こうした緊迫したときに国は最も信用が要請されるものなのである。

11月13日(金)
108 代表 日本×パルマ PKにより、1−0で辛勝する。3バックでのぞむも前回のように上手くいかなかった。前回は奇跡であったのか。サイドが押し込まれ5バックの時間が多く、にもかかわらずDFの人数は余っていて、反対に中盤において数的不利となっていた。そのためボランチはビビり、バックパスを繰り返し、前へボールを送ることができなかった。後半から遠藤航が登場。がらっと状況が変わる。前向きにフリーでボールを受けて縦パスが通る。SB長友に代わっての原口のポジションも高く、相手をより押し込めるようになる。そうした中、遠藤―久保―南野の流れでPKを獲得した。その後、浅野と鎌田がスペースを自由に使いチャンスをいくつもつくるも得点なし。浅野は東欧で得点を重ねているとのことだ。今日は、右サイドで前回活躍した酒井も残り5分から、伊東は出場をしなかった。全員を試しているようであるが、意味があるのだろうかと思う。

11月12日(木)
ゼミにてアレグザンダーの「15の幾何学的特質」について、M1生が整理してくれたことをもとに議論する。ぼくらは近代教育を受けているので、モノ→感情あるいは原因→結果で物事を考えがちである。建築に関していうと、建築→美的快感というような図式である。もっと具体的いうと、ガードレールに腰掛けたくなるのは高さが80センチだからと考えることである。ぼくらはこうした思考方法を小さいときから叩き込まれてきた。しかしカントはこれを否定する。それは、見る目をもたなければ見るべきものは見えない、という点からの否定である。80センチだけが問題ではないのだ。つまり因果関係もひとつの認識図式に過ぎず、腰掛けたいという主体の存在が必要となる、というのである。ネットワーク論でいえば、世界は複雑過ぎて全体を見ることはできないので、ある視点で見ようとしない限りぼっーとしてしまうということである。つまり生きた主体なしには空間もない、ということである。アレグザンダーもこれに呼応してなのか、今日のゼミではじめに紹介してくれたように、15の幾何学に先駆けて「全体性」というものを持ち出している。「全体性」の定義も難しい。しかし、ひとつのコミュニティにおける一体感のようなものと考えてもよいだろう。スポーツでいえば、最高の勝利をしたときにチーム皆が感じる一体感のようなものである。このときの状況を全体的というのだ。つまり、主体と対象との間に何かしらの連帯(一体)感、すなわち全体性が生まれることをアレグザンダーは問題にしているのである。そして、パタン・ランゲージをつくったときもそうであったように、そうした状況が起きる場の調査を積み重ねていった結果、対象に「15の幾何学」が宿っていそうだという結論に至ったのである。ぼくがアレグザンダーをすごいと思うのは、こうした一体感というものは精神的なものであるので、曖昧なものとして片付けてしまうところを、それとは反対の明確な「かたち」として定義していることにある。実に建築家っぽい。もちろんカントの認識論も限界があり、例えば最近流行りのオブジェクト論は、人間は宇宙が何であるかを認識できていないにもかかわらず宇宙が存在している、この事実をカントの認識論では説明できないとしたところから出発するものである。そうして、人を飛ばしてモノに特化した新たな世界観を追究しようとしている。これに否定的な考えもあるが、ぼくはちょっとそこに可能性を感じていて、アレグザンダーの「15の幾何学」との関連がないこともない?と思ったりする。先に説明したように15の幾何学は全体性とペアであること、そして幾何学といえどもそのひとつひとつを吟味するとそこには、「共鳴」とか「良い形」とか「両義性」とか感覚的なニアンスを含ませているのである。ここにオブジェクト唯物論とはちょっと違った見方があり、興味を惹かれる。そこを調べてみたいと思っている。

11月11日(水)
「球と迷宮」にエイゼンシュテインが扱われていたので、久しぶりに「戦艦ポチョムキン」エイゼンシュテイン監督を観る。オデッサの階段のシーンは有名であるがその前段階で、市民が殉死者のまわりに集まるシーンはピラネージの「牢獄」そのものであった。高い位置にあるアーチ橋の周りをいくつも階段が絡み合う。そこを人が行進する。その後にオデッサの階段のシーンが用意されているので、それは地獄への行進である。そうした内容に見合った情景が「牢獄」であったのだ。この作品は無声映画である。それだけに映像にかける監督の思いは強い。カット割りも妙である。部分を噛み合わせながら全体の印象をつくりあげている。

11月10日(火)
今年の修士学生がピラネージを研究している。それに触発されあらためて「球と迷宮」マンフレッド・タフーエリ著 八束はじめ訳を読み直す。その第ⅰ部がピラネージについてである。ピラネージが活躍した18世紀は啓蒙の時代で、神から解放されブルジュワジーが新たな秩序を社会や自然、科学に求めた時代である。本書によると、実務家のピラネージはこうした考えが引き起こす問題を先取りしていたという。それは、結局のところそれでも生じる秩序の不在、中心なるものの不在をいち早く気付いていたというのである。それが「牢獄」における断片化、歪曲、増殖、解体といった手法に表れているというのだ。ここには計画することへの断念が根本にある。計画が事物を選び秩序立てるということであるとしたら、ピラネージは秩序を意味のない事物で構成させることで、この秩序恐怖症?からの解放に成功したというのである。この逆転的発想によって、はじめて建築家は自由になり知的な労働が可能となったのだという。つまり人の本性を問うことができるようになった。本書のタイトルである「球」は計画、「迷宮」はカオスあるいは自然(じねん)を表している。設計することとはそのどちらでもない中間に位置するものである、この扉をはじめて開いた人物としてピラネージが扱われている。社会と個人との関係を示唆するものであるが、それは現代でもあてはまる問題である。

11月9日(月)
107 プレミア マンC×リヴァプール 今日はジョッタを入れた4トップでマンCに乗り込む。南野バージョンであるが、南野はベンチ外。最悪のシナリオが現実化する。前半の中からこのシステムが上手く機能せずにマンCに押し込まれる時間帯が続く。1-1のドロー。

11月8日(日)
106 ラ・リーガ ヘタフェ×ビジャレアル 1-3でビジャレアルが勝利。ヘタフェは激しいプレシングをしてくるチームであるのと中2日の試合日程から久保は先発を外れ、どちらかというと守備に強い選手の配置となる。1トップのパコに右にモレーノ、左にモイ・ゴメスである。中央にパレホとトリゲロスでひとりイボーラを余らせるかたちである。最初の交代は、好調のバッカと復帰のコクラン。そして85分過ぎから久保がモレーノに代わっての出場である。これといって見せ場はなし。チームが良い状態で勝ち点を積み重ねているので仕方ないが、エミリが賭けに出てトップ下を置くときまで久保は辛抱である。 

11月7日(土)
「フォレスト・ガンプ」ロバート・ゼメキス監督、トム・ハンクス主演を観る。この作品の主人公である一般人フォレスト・ガンプが偶然にも当事者になってアメリカ現代史と関わっていくその構成が面白い。偶然をよぶその行動は、過去や未来のためではなく今を生きよ、という母親や幼なじみの教えに従うものである。「人生はチョコレートの箱、食べるまで中身はわからない(Life is like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get.)」。「バカなことをする人がバカなのよ(Stupid is as stupid does)」。「死を怖がらないで、生の一部なんだから(Don’t be afraid of death, it’s part of life)」。「過去は捨ててから前へ進みなさい、前進こそがすべてのです(You’ve got to put the past behind you before you can move on. And I think that’s what my running was all about.)」。「ぼくらには運命があるのか、ただ風にふかれているだけなのか、分からない (I don’t know if we have a destiny, of if we’re all just floating around accidental-like on a breeze.)」等。ジャクソン・ブラウンのRunning on empty にのって3年間全米をひたすら走り回るシーンは感動的である。

11月6日(金)
105 EL ビジャレアル×マッカピ・テルアビブ 久保がフル出場。前半は中央側に位置し、後半からビジャレアルが前線の人数鵜を増やし久保は右サイド際に位置する。そうすると数的な不利が解消し、攻撃が活性化する。久保は右から絶妙なアシストを成功する。このところ相手の出方によって変化するチーム戦術に久保は上手く対応している。今日はとくに同年齢の中盤の32番とで右サイドの絶妙な連携を行っていた。どちらかというと既成の先発組との相性がいまいちである。その典型が、王様ジュラール・モレーノの登場によって明らかになった。モレーノが久保が得意とするライン間を彼が使うと、久保は行き場を失いちょっと窮屈そうであった。チームはモレーノを経由してゲームを展開し、見事な4点目につなげていた。こうした状況では、ラインの裏を狙うチュクエゼの方がチームに合っていると思う。モレーノは、チュクエゼを経てゴール内に進入しようとするからだ。久保を左で使いたいと考えるエミリの考えもわからなくもない。

11月4日(水)
「襞 ライプニッツとバロック」ジル・ドゥールズ著を読みはじめる。襞とは、バロックに見られる無限に続く装飾・線のことである。これが生まれる過程を、生物の成長や進化と重ね合わせている。有機体の襞は、内部と外部のふたつの要員によって形成される。内部要因を可塑的な力という。機械的な織り畳み作用が、緊張と弛緩、収縮と膨張によって続けられ、これは宇宙の構造も同様であるという。しかし生物はそれを制御しようとする圧縮的な弾性的な外力を受け、これによって内部の一連の機械的作用が方向性や有限性をもつようになるという。脳における頭蓋骨、腸ににおける身体である。頭蓋骨も沢山の気泡があり襞のようでもある。骨も外的な要因から成立している。つまり、内的論理と外部条件のバランスがスケールを超えて連続しているということである。このふたつの動きは事後的に統一を獲得しているように見えるので理性がある、あるいは魂が宿っていると考えることができる。これがライプニッツの基本であるという。アレグザンダーのパタン・ランゲージと敷地における原寸設計との関係を思い出す。アレグザンダーは、これをlifeあるいはlivingという。

11月3日(火)
104 ラ・リーガ ビジャレアル×バリャドリード 2-0でビジャレアルが勝利。今日からジュラール・モレーノが復帰。そのため久保は控えとなる。右がチュクエゼ、左がモイ・ゴメスである。これにパコ・アルカセルを加えた前線は好調。前半で2点を決めた。久保は60分過ぎから右サイドで登場。中2日でゲームが続くためのローテーションである。登場後時間が経つにつれて両チームの攻撃がオープンになり、そのスペースを使ってのボールを保持したチャンスメークを幾度かつくり、シュートも放つ。シュートはほしかった。残念。これは評価されるだろう。しかし右でのSBとの連携は今一で、キャプテンであるガスパールからの信用を得ていない。交替直後のガスパールの懸命な上がりに上手く反応できなかった。ガスパールは天を仰いでいた。その後、久保は決定的なバックパスミスを犯す。得点に結びついてもおかしくない程のものであった。ガスパールが今度は上がってこなかったために、久保が孤立して生じたものだ。おそらく先発とならないのは、この点においてモレーノ監督の信頼を得ていないからだろう。久保がミスをすることを前提として、そのリスクバランスを考えているようである。

11月2日(月)
NHKのアメリカ大統領選の特集を観る。コロナ渦での選挙キャンペーンはアメリカに大きな亀裂をもたらしている、という特集であった。ミズーリー州が好例とされる。経済のグローバル化に伴い結果的に見捨てられることになった白人を中心としたトランプ支持と、経済よりも人道主義を大切にするバイデン支持者とBlack lives matterが結びついた、ふたつの溝である。これは、コロナによって一層深刻な差し迫った問題となった。それが大きくなり両派の極では、暴力も辞さない状況に陥っている。その特集であった。社会は、人のコントロールが及ばないコロナウィルスによって混乱し、逆にいえば、社会はこのようなモノによって複雑に絡み合ったネットワークなのである。その中に人間がいる。これは今さらはじまったことではなく、建築でいえば、設計条件などがそういったものであろう。このときのキーになるのは、やはりトップダウンによる解決ではなく微細な対応の連続ということになるのだろう。あるいは、差異を強調する個人重視よりも、差異の分岐点が何かを探って社会に向かうことなのだろうと思う。

11月1日(日)
今年のCリーグをオンラインで開催。審査委員に栗生明氏、堀場弘氏、勝矢武之氏、垣野義典氏、末光弘和氏をむかえる。コロナ渦によってこの時期にずれ込んでしまったが、理大の岩岡先生とスポンサーの力添えによりオンラインで開催することができた。感謝である。オンラインでは模型がない。しかしその分、計画内容に重点が置かれた説明になったように思う。各審査員もこのことを新鮮に感じ好評であった。勝矢氏は、敷地を出身学校とする課題設定を評価してくれた。それは、学生のプログラムに対するリアリティとそれから考える熱き思いを感じることができたからである。そうお話ししてくれた。その上で、グランドレベルとの関係性の希薄さを指摘する。要するに外への視線が弱いということである。あわせて校舎と敷地との間に生じる余白にも提案不足が指摘された。敷地のありがたみを理解する必要があるということだ。勝矢さんは思い切ったラジカルな提案をする日建設計に所属する建築家であるので、そうしたラジカルなアイデアに対するマイナス配慮を欠かすことはない。比較的細かい機能的な問題の指摘も多かったのはこのためだろうと思う。印象的である。子供が走り回るようにするためには、通常時のきちんとした動線計画が重要視されるということである。垣野さんは計画学が専門であり、今後の学校に対する考えが面白かった。コロナによって従前の教室教育がますます難しくなって、画一的でない多様な教育方法がクローズアップされてくるだろうという。設計でよく提案される自由な新しい教室モデルが現実化されるチャンスが広がるだろうというものである。堀場氏は、開かれた課題であることを喜んでくれた。そのため評価が多用となり、審査も審査員によって割れた。したがって学生はこれに一喜一憂しないで、自分なりに信じるものをつくりなさいというアドバイスである。末光さんは、作品を通じて5大学の教育の特徴を指摘してくれた。千葉工大は、手が動いて社会性を問うことが特徴的であったという。ふたつとも大きなテーマとして取り組んできたことであったので嬉しく思う。電機大学は造形力指導の厚さを、理大はプレゼの上手さを特徴にあげていた。栗生氏は、これまでのCリーグの経緯を説明しこのイベントの意義を指摘する。それは答えのない設計の奥行きの深さを実感する大切さな機会である。それが課題提案にも表れているし、評価にも表れている。この時期の学生は優劣よりも学びの機会を得ることが大切であるというのだ。そうした中、今年度の最優秀に千葉工大の竹村寿樹くんの作品が選ばれた。接戦であった。0メートル地帯に避難施設をメインに考えた学校の提案であった。学校にこそ理想的な人間性回復を期待する過度なノスタルジーを捨てて、リアルな社会問題にたいして夢をもった解答を語ったところが評価されたのだと思う。これはまさしく今日的な設計の傾向だ。通常これが環境問題にいきつくものであるのだが、彼は避難施設としてこの問題に上手く取り組んでいた。その一方で、上階にある教室の接地性やドライなプランニングが問題にされたのは、指導時にぼくもあまり気にしていなかったが、コンセプトを中心に展開する近代的計画批判として受け止めてよいと思う。この講評会でも度々指摘されていたように、多様性のある緩さが今最も大事なテーマであるということなのだ。しかし竹村くんが素晴らしかったのは、そうした指摘にたいしてキチンと受け応えできていたことである。竹村くんとしては、特別教室の位置づけこそが教育の根幹にあるという回答であった。こう理解した。鈴木奏子さんは栗生賞を頂いた。トップバッターで機器の不具合もあり、ぼくからするとプレゼの重点が間違っていたと思うのだが、栗生氏は事前資料を良く読み込んでくれていて、質問によって、彼女の意志を誘導してくれた。これによって評価が好転したのだと思う。しかしそれを読み込んだのは、のびのびした鈴木さんのプランニングにあったと思う。かたちの存在は重要である。まずはそれで語らなければならない。ただしそれでは案にのめり込んでしまうので自分の案を客観視できなくなる。それを防ぐためにも他者の存在は重要である。栗生氏が偶然にもそうした役割を果たしてくれた訳である。設計とは面白い。

10月31日(土)
「A River runs through it」ロバートレッドフォード監督を観る。ブラッド・ピット主演。厳格な牧師である父、田舎に留まりエネルギーを発散しきれない弟、そして外の世界を知り優秀な兄。その兄の視点から見た1900年前半のアメリカの田舎家族が描かれている。彼らをつなぐものはフライフィッシングである。それは自己中心的な人間に地球という大自然と一体化を促すためのものである。彼らは様々な運命を辿るがその1点で互いが深くつながっている。開拓精神が過去のものとなり、完成されつつある社会と本来あるはずの人の姿との間に生じはじめた亀裂を、批判的にではなく優しく愛情をもって描いた作品であった。
103 プレミア リヴァプール×ウェストハム 2-1でリヴァプールが勝つ。南野不出場。クロップが交替として選択したのはシャキリとジョタであった。その二人を中心としたコンビネーションでチームを活性化する。南野の立場がきつくなる。

10月30日(金)
卒業設計・論文の中間発表。対面で行う。これまでの遠藤研の内容と大きく変わったことがよくわかった。今年度の読書会の影響か、過去の事例を肯定的に見ることで当時から続く社会状況を引き受けようとするものと、環境をスケールアップするものの2つとなっている。この時期にテーマが漸くはっきりしてきたので、この1ヶ月の分析が勝負である。
102 EL カラバフ×ビジャレアル 日本では放送がなく、YouTubeを探り久保のプレーをダイジェストで観る。今年はDAZNでの放送がない。カジュアルなインフラは経済状況に左右される。これまでとは異なるインフラというものを想定しないといけない。このことを実感する。そうした中で観た後半の久保のプレーは、監督をはじめマスコミにも好意的にとられているようだ。今日は苦手とされる左で先発。後半からライン間でボールを受けることが多くなり、久保からゲームが構成されていた。どちらかというとサイド際から内に絞り、縦方向ではIHとSFとのスペース分担が明確にかつ連続的になっていた。それでも75分に交替。

10月29日(木)
スラヴォイ・ジジェク「パンデミック」を読み終える。最後に紹介されるのは、アラブの寓話「サマラの約束」である。その話はこうだ。ある召使いがバクダットで死神に出会い、サマラまで逃げようとする。主人は召使いを助けようとバクダットで死神を探し、偶然にも出会うことができる。そしてその死神から、召使いとは今夜サマラで会うことになっていたので、バクダットであったことに驚いた、という話を聞く。これだけの物語である。通常この寓話からぼくたちは、召使いの立場から、死の運命からは逃げられないことを学ぶ。しかし、その運命信者である死神すらそこからの逸脱があることもまた示されている。また、主人は死神を信じない人である。そういう人は死神すら探すことをいとわない。死神に出会ったことで運命が尽きるかも知れずに、である。つまりこの寓話は、誰もが今起きている事実を見落としていることをいっている。「パンデミック」本書の主旨はこの寓話を引用し、コロナ渦の右派も左派もあらゆる政治家の政策がみなこの状況にあることをいわんとしている。ロードランナーアニメのコヨーテが既に崖から飛び出しているにもかかわらず、下を向いてそのことに気付いてから急降下する状態にあるというのだ。それからでは遅い。最後にラトゥールが登場する。コロナウィルスの影響を振り返るとジジェクは、「人間は多様なラクタン(非人間の当事者)のひとつでしかない」ことを実感するようになるだろうという。そしてこうした実感―変化し続ける集合体の中に現象を位置づけるアプローチーによって、予期しない超・機能的なことが発生するはずであるというのだ。それは、ラクタンを中心とするモノや問題を中心に展開する「モノの政治」である。そして、これまでの価値や信念が役立たなくなるという。だから批判精神をもってその後の世界を再定義をし直すべきであるという。これが本書の主旨である。ところがジジェクは、ラトゥールの「モノの政治」に対しても疑問を残すことを忘れていない。ひとつはその上での主体の必要性についてである。非人間的な視点から、私たちもその一部を構成するアクタンの集合体を理解できるのだが、それには主体がなければならないというのである。もうひとつは価値と信条を無視することの否定である。集合体には特徴がなければなない、それは重要で、集合体はそれを捨てることができる程実際単純なものではないという。
101 CL ユベントス×バルセロナ ユベントスにロナウドがいなかった。モラタが3度ゴールを決めるも、オフサイドで取り消される。最後はPKでバルセロナが突き放すゲームであった。

10月28日(水)
スラヴォイ・ジジェク「パンデミック」を続ける。ボッカチオの「デカメロン」は、フィレンツェの町を襲ったペストから逃れるために、郊外の隔離された別荘に引きこもっていた7人の若い女性と3人の若い男性の物語であったことを、本書から思い出させてくれた。ところでジジェクは、このウィルスのことを「リヴィング・デッド」といっている。自己複製する活動においては生きているが一種のゼロレベルであり、自律せずに寄生する馬鹿げたレベルで反復と増殖をする生の欲動の生物学的な風刺物であるという。つまるところウィルスは、発展した高度な機構があったとしても、それでも処理しきれないバグつまり残余であるという訳である。ジジェクは、これを言語と同一視する。ここが面白い。言語は単なる表現規則でしかないが、長い時間をかけて人に介し寄生し文化や哲学をつくってきた。あらためてこの言語を変えたり、捨て去たっりはできないものである。できるのは中国においてせいぜい漢字を略式にするくらいである。そうしたことによって現在の国々の対立がおきている、そのような書きぷりである。言語やウィルスのようなリヴィング・デッドなものの存在を乗り超えて自律的な倫理全体へと自らを教育する大胆なビジョンが現在求められているというのである。
100 CL マルセイユ×マンチェスターC 酒井が先発でフル出場。堅実な守備であったと思う。ほとんどの時間をシティに握られるも90分間走りきり、試合を通じての体力をコントロールしていたことに感心する。ちょっと歳をとっているが、ビッグクラブからの誘いもあるのでないかと思わせるパフォーマンスであった。 

10月27日(火)
スラヴォイ・ジジェク「パンデミック」を続ける。上手い具合にコロナ渦の世界を分析している。中国については、デジタル化された社会統制の普及によって完全にこの危機を克服したといい、西欧については、通常の統治の枠組みとして例外状態を利用する傾向を強くしてしまったという。そしてアメリカに至っては、誇張されたパニックによって国家権力に対する不信を増大させてしまったという。それでは、このような驚異の現実を消し去るには、中国式しかないかというとそうでもなく、中国のしたことをもっと透明性のある民主的な形で実行することがあるという。これを「国家権力が介入するもっと繊細な語彙の必要性」といっている。建築でいうところの「微細な構築」といったことであろう。

10月26日(月)
099 ラ・リーガ カディス×ビジャレアル 0-0のドロー。ビジャレアルは75%もボール保持したにもかかわらずシュートはほとんどなかった。相手の4-4-2の堅い守りを崩せなかった。久保は前戦ELでの活躍が認められ今季初先発。2トップあるいは右サイドであったが、ほとんどボールに触れることがなかった。チーム全体がそうであったが、中でも久保のタッチ数が極端に少なかったと思う。期待の裏返しで久保の評価は辛い。久保のポジショニングの問題もあるかもしれないが、まだまだチームメートに支持されていないことがわかる。そのため久保の反対サイドにボールが集まり渋滞することが多く、それがチーム全体で攻めあぐんだ理由である。

10月25日(日)
098 プレミア リヴァプール×シェフィールド スコアーは2-1。シェフィールドは調子がよく、リバプールは先制をされ苦しい展開となる。それでも最後は何とか勝ち抜く。こうしたゲームをものにすることが優勝するためには求められるのだろう。南野は終盤に登場。不満はあるだろうが、クロサーというポジションを与えられているかたちである。着実に前からのプレシングで後方の守備陣に一呼吸を与えることに成功し、先発の前線選手にベンチで休養を与えることになっている。しかし本人ももう一踏ん張りして先発を手に入れたいだろう。南野のライバルである調子落ちと言われていたフェルミーノも初得点、真のライバルであるジョタも得点している。

10月24日(土)
今日からAO試験。コロナ渦で無事むかえることができた。今年の課題は少し難しかったか、あまり出来がよくなかった。明日は面接である。
097 ラ・リーガ バルセロナ×レアル・マドリード 3-1でレアルが勝つも、ラモスの得たPKは意図的なシミュレーションであった。流れの中では全く問題ないプレーも、部分を取り出してみるとファウルが浮かびあがった。スポーツ精神として気になる。レアルは連敗をしていてジダンの去就も出始めたところを、このプレーで押さえこんだかたちである。

10月23日(金)
096 EL ビジャレアル×スィヴァススポル 待望の久保が先発出場。トップ下であった。スィヴァススポルは前線から激しくプレッシングをかけてきたので、それにビジャレアルDFは苦労するも、一旦抜け出すことができるとフリーの久保が中央で待っていたかたちである。成功のカギに実はこのことが大きい。しかし久保も優秀で、ワンタッチパスによって大きくボールを前に進めることに成功していた。1得点2アシスト。しかし今日のビジャレアルはこれまでの控えであった選手を多く使っていたので、全体を通じて安定した試合コントロールできていなかった。絶えず追いつかれる。相手はトルコの中堅である。もっと楽に勝ちたかったろう。後半からは久保は何故かしら右サイドに変更され、チュクエゼが2トップの位置に入る。今後のためのエミリの模索だろうか。チュクエゼはどちらかというとアタッカーなので、アタッカーのバッカと被り前線に渋滞をつくることも多く、中央には大きなスペースが残されていた。しかし久保もなかなかそこを使わない。何故だろうかと思う。その代わり、SBと縦との連携を高めていた。それでいくつかの突破のかたちもつくる。面白いのは中央が空いているので、DFラインからダイレクトな縦パスが入るようになったことだ。バッカに代わったパコがそれで追加点をあげる。これで5-3。ビジャレアルは勝利を確信し、若い選手を右に入れ久保は再びトップ下にもどる。そして再び自由にボールを持てるようになった。久保の週末の出場停止が取り消された。これでエミリ采配も楽しみになる。

10月22日(木)
095 CL アヤックス×リヴァプール 今日の南野は躍動していた。後半55分過ぎから登場。クロップは、このとき3トップをまるまる変えた。そこに南野がいた。サラー、マネ、フィルミーノとの連携を気にしなくてよかったため、南野は自由に動き回ることができたのかもしれない。戦術においても新しい3トップは、ハーフライン少し上からのプレッシングを行い、それによってアヤクッスDFラインはボールの出しどころを失っていた。その結果、形勢はリヴァプールに傾く。中盤でボールを保持できるようになった。DF裏のスペースを南野が自由に使えたのはこの理由による。ほしいシュートも何度か放つ。

10月21日(水)
大学に行く途中の3車線湾岸道路で覆面パトカーの行動をたまたま見る。彼らは一番左車線を走行し、2車線越しに右の追い越し車線を走るかなり後方の車の動向をじっくりと観察している。そしてスピード違反車を発見すると、それより少し先に、まず中央車線に移り、抜かれた瞬間に最右車線に入り計測を始める。サイレンを鳴らすまでは一瞬のことである。違反車が減速する時間的余裕を許さないのである。違反車も急に後方につかれるので、気付いても減速できないのではないか。これは中央車線がつながっている状況で行われる。パトカーのその中央車線への移動も巧みで、車間距離をとっている車の少し前を選び、それに併走しいつでも車間に入れるような準備をしている。捕まった車は制限スピードを越えてはいたが、100キロそこそこでなかったろうか。

10月20日(火)
スラヴォイ・ジジェク「パンデミック」を読みはじめる。ジジェクは久しぶりだ。中国における初期情報隠蔽がコロナの問題を大きくしたといい、目先の結果に左右されずに、情報開示は必須であるというのがジジェクの考えである。そうするとぼくらがむかえるべきは呉越同舟の世界であり、それは新しい形の共産主義の世界となる。WHOのような組織が先頭にたって世界全体をリードするような世界である。

10月19日(月)
「アルファベットそしてアルゴリズム」マリオ・カルポ著を読み終える。デジタルテクノロジーによって、アルベルティ以降の近代建築、あるいは「原作者」としての建築家の役割が終わるというのが本書の結論である。最終章は、アリストテレス以来の類と種が引用される。2つの一般概念の外延について比べて、一方が他方に包摂されるとき前者を後者の種,後者を前者の類と呼ぶものだ。デジタルテクノロジーによって、すべてが種となり、かつての原作者性はなくなり、類は新しいアルゴリズムをデザインしないかぎり達成できないというのだ。しかし、これはデジタルテクノロジーの出現を待つまでもなく、ずっと変わらなかったことであると思う。類を大文字の建築と置き換えればそれははっきりする。建築家が原作者と思い実行してきたことは、実は従来から種でしかなかったと思うのだ。むしろ原作者性についての誤った考え方が、デジタルテクノロジーによって市民権を得たということだろう。面白いのは、この種のことをauthorシステムといっていることである。署名性と原作者性の違いがこれではっきりした。OOOでよく使用するauthorとはoriginalityと区別するものであった。本書は全く新しい建築史の本である。2011年出版、2014年翻訳の本であり、その後に続けて日本では「建築のかたち」クプラー著、「建築の聖なるもの」土居義岳著などが翻訳されることになる。

10月18日(日)
隈研吾設計の廣澤美術館へ行く。思ったより小さい建物であった。ランドスケープを意識した建築で、屋根のみの建築で潔い。積まれた石が横力にたいする構造体というが、そうは感じられない。屋根を支えるせいのある梁は集成材でテーパーがかかっていて軽やかで現代的である。屋根は3枚。それに囲まれた中央が収蔵庫で、外に開く建築である。オーナーのコレクションである巨石が長手方向に積まれる。それは内部から見えたらよいと思った。作庭は斎藤忠一氏。ランドスケープを宮城俊一氏が担当する。こうしたマネジメントできるのがすごいことだと思う。ただし隈研吾展が開催されていた。その後に庭園を廻る。
094 ラ・リーガ ビジャレアル×バレンシア 前半からビジャレアルがボールを支配する展開も、得点は開始早々のPKだけであった。その後、目の冷めるようなシュートを放たれ同点にされ、膠着が続いた。先発も予想された久保は60分過ぎに右サイドで登場。コクランと共に一番手であった。左からの攻撃を中央で受けて、かたちが美しくなかったがパレモのアシストをする。その後は、どちらかというと最終ラインに吸収され、守備に追われる。そのなかで戸惑っている風であった。案の定、トラップミスからイエロー2枚をもらい退場。今日も終盤の締めを厳しいものにしてしまった。昨季は当初フリーであってもなかなかボールが回ってこなかった。そして久保がチームで認められると彼中心に展開した。今季は、フリーになれる程チームバランスが悪くなく、ボールと人が程よくちらばっているので、ボールも回ってくるが、見方との連携で動きが制限されている。そのため窮屈で得意でないポジションでボールを受けることが多く、そのためロストも多い。それが続いている。監督がいう「対応の途中段階」という久保の評価はこういうことをいうのだろう。しかし各選手は歯車のひとつのようでチームが小さくまとまってしまっている。もうひとつ久保が突き抜けると、そうした制限から解放され自由さが与えられると思うのだが、それには結果が求められる。

10月17日(土)
093 プレミア エヴァートン×リヴァプール 2-2のドロー。激しい闘いであった。前半にリヴァプールはファンダイクを、エヴァートンもサイドバックを負傷で失っていた。南野の先発の話もあったが出場なし。今日のゲームを観る限り、よほどのことがない限り3トップは絶対的である。3人のプレーは息がピッタリである。いつも前を向いてのプレーができている。そこが南野との大きな違いである。3トップで次に登場したのはジョッタであった。

10月16日(金)
「アルファベットそしてアルゴリズム」を続ける。アルベルティによってつくられた表記法によって、モノは複製可能となる社会がつくられた。しかし現代は、そこから開放されたノンスタンダードの時代であるというのが、本書の主旨である。別な言い方をすれば、現代は、つくる人が考える人から解放された時代となった。かつ、そのふたつの関係を複雑にネットワークし直す時代になったとし、ウィキペディアとラトゥールのネットワーク論をこの好例として引き合いに出す。あるいはフランシス・フクヤマの「歴史の終焉」と関係づけ、次の新しい時代の契機になるとしている。もちろんこれに同意する。しかし今一納得いかないのは、P135にも挙げられているレム・コールハースの概念のように、「ジェネリック」や「ビッグネス」が今では現実世界で力をもっていることである。それらはノンスタンダードとは正反対の世界を示唆するものだからである。

10月15日(木)
ゼミにて都内の建築レポート。提案された建築の時代背景を、敷地条件と合わせて話しをする。当時、暗黙裏ではあるが時代が背負っていた問題が建築デザインに大きく影響をしていることを知ってもらいたいと思った。建築家個人の考えも振り返ると時代の影響を大きく受けている。

10月13日(火)
092 代表 日本×コートジボワール FIFAランキングとは関係なく明らかに格上のコートジボワールに対して、これまで通りの4-4-2で日本は立ち向かう。しかしメンバーを前戦からガラッと変え、今日のプレッシングはそこそこ効いていた。その結果、コートジボワールは中盤にぽっかりとスペースをつくってしまっていたが、後半にはその問題が解決されてしまったので、前半に日本としてはゴールを決めたかった。セカンドボールを拾うこともでき、そのスペースを鎌田が上手く使うことができ、右サイドバックで室屋と伊東とをサイド奥まで上げることに成功していた。そうした流れで開始早々には久保のシュートもあった。しかしコートジボアールのDFラインは厚く、ゴールマウスをこじ開けるまで至らなかった。期待の久保は守備に追われ60分過ぎに交代。むしろ代わって入った南野が前線を活性化させていた。そうしたプレーが功を奏し得られたフリーキックからロスタイムに勝ち越す。最後に投入された植田のヘディングで1-0の勝利。ブラジルW杯初戦の借りを返す。それにしても久保は窮屈そうであった。中央に位置取ることもなかった。なかなかブレークしないのが気がかりである。ところで代表のこの2試合を総括すると、全般的に面白さに欠けていたと思う。海外のトップチームのサッカーと比べると技術も戦術も落ちることを感じたのだ。それとは異なる代表のプレーは何かということか。このままだと代表人気下落が加速することを懸念する。

10月12日(月)
「アルファベットそしてアルゴリズム」を続ける。表記法を確定したアルベルティより少し前のブルネレスキについてのコメントが面白い。フィレンツェのドーム建設についてである。現在では、フィレンツェのドームはブルネレスキの作品とされる。しかし本書がいうには、たとえアイデアのアイデンティティがブルネレスキにあったとしても、現実は昔からの習慣で、職人や役所からなる委員会によるものであった。したがって、従来のままであればブルネレスキの署名性は消えても然りであったのだが、ブルネレスキは途方もない策略を行うことで、この目的を達成したというのである。そのときの策略が本書の言う表記法というものであるという。実際にはつくることができないものにたいしてのコントロールである。このためにありとあらゆることをブルネレスキは考えたのだという。実際に建設開始直後にブルネレスキは亡くなっている。しかし今でもブルネレスキの作品とみなせるのは、不完全であったにせよブルネレスキの表記法によるものであるというのが本書の主旨である。そしてその事実を受けてアルベルティが平面断面というような表記方法を確立した。そして完全につくる人を疎外することに成功し、つくる人を奴隷化させることに至ってしまうことになってしまったという。この問題についてぼくはというと幸いに、アレグザンダーを知っていたと言うこともあり、独立する上での大きな問題点であった。独立後の「初台のアパート」では、このアルベルティの表記図面を書かなかった。必要とされるパーツ図だけを描き、自分の考えを明確にした上で、現場でのアイデアを拾い上げて合理的な正しい解決案を導こうとした。それは未熟であった自分自身の知識を補うためであり、かつて行っていた皆が議論し、デザインし、そして作るという生産の手法を行おうとしたのである。

10月11日(日)
「アルファベットそしてアルゴリズム」を続ける。興味深い文章をピックアップする。「建築の規則や規範が公表され普及し重用されることとは無関係に、建設は、デザインの特定の指示を表記するために必要とされる文化的テクノロジーにも依存しているp30」。あるいは、「アルベルティは歴史上始めて、建築家は何をすべきではないかを、正確に並べ立てることができていたのだ。曰く、建築家は透視図を避けるべきである、なぜなら短縮法によって実物より短くなった線のために、正確に寸法を採ることができないからであるp38」。同様にアルベルティは、「色々な文脈で、ノー・リターンのこの理想的な地点について力説している。」つまり、建築家は図面を詳細に書き、施工者にそれを渡した後はタッチしないという態度である。反対に言うと「アルベルティの新しい建設方法は、施工者に逃げる余地を残さなかったことである」。ぼくにとっては、それがえらく辛いことであった。このことを本書では「ブルネレスキによる手工業的な原作者性(「この建物は私のものである、なぜなら私が作ったからだ」)から、アルベルティによる知識人的な原作者性(「この建物は私のものである、なぜなら私がデザインしたからだ」)への移行」といっている。本書のテーマはこの考えを支える「原作者性、代著、そして表記法がなす、ある完全な状態」についてである。こうした建築の硬直性を批判できても、それに代わる新しい方法を提案する者などいない。

10月9日(金)
091 代表 日本×カメルーン カメルーンに凄さを感じなかったのは、代表が成長したためだろうか?カメルーンに突出したプレヤーがいなかったこともその理由である。とはいえ得点ができずに、0-0のドロー。前半は4-4-2。DFがひとり分優位に立っていたかわりに中盤が足らなくなりに、そこをカメルーンに使用され苦しんでいた。したがってほとんどボールを前に進めることができていなかった。そこで後半は3バックの3-4-3にする。3バックはいつも上手くいかないものであったのだが、今日はゲーム途中の切り替えでも成功する。ここに成長を感じる。とくに右Wに入った伊東が機能した。堂安との間で縦の突破を幾度か成功させた。しかし伊東がつくったビッグチャンスを大迫が決められず。65分から堂安に代わり久保登場。独特のリズムでチームの雰囲気を変える。それでも得点できず。久保の現状である。ところで今日の森保監督はこれまでと異なり戦術的であった。次戦に期待である。

10月8日(木)
「ウルフ」1994年制作、ジャック・ニコルソン主演を観る。狼化妄想症というのがあるらしい。この映画では本当に狼化してしまうニコルソンの苦悩を少しコミカルに描く。ストーリー展開としてはサスペンスでもある。根底に愛がテーマとしてあるのもアメリカ映画らしい。J・ニコルソンの相手役はティム・バートンの映画でキャット・ウーマンであったミシェル・ファイヤーであった。彼女も最後に子供を宿ったウルフになる。

10月7日(水)
3年生後期の設計がはじまる。そこそこの条件整理ができているが、周辺環境との絡みがいまいちでもあった。その中で与条件をひとまず置いて大きな問題に結びつけようとした学生がいた。思い切ってさらに問題を広げてみた。ぼくは、問題意識なしに建築を解いてしまうことの空しさを歴史家フランプトンから学んだ。もっともそれは岡崎乾二郎の指摘ではあったが、最近になって、コールハースも同様のアプローチをしていることに気付いた。世の中にはひとつのプロジェトだけでは解けない問題はあり続ける。そうした問題までを射程にいれるための方法であると思う。彼らは隠れた問題を露呈することでそれを解決しようとしている。そのことで、建築の社会性を獲得しようとしている。否定することでない批判方法である。

10月5日(月)
090 プレミア アストンヴィラ×リヴァプール リヴァプールがまさかの7失点する大敗。こういうこともあるものだ。GKがアリソンから交代に加えて、CBのジョー・ゴメスと右SBのアレグサンダー・アーノルドのチェックがあまりにも弱かった。アンラッキーな面もあったが、リヴァプールの左サイドが徹底的に狙われていた。これは初戦のリーズ戦も然りである。今日は前戦からのプレッシングもほとんどなかったので、前線選手のパフォーマンスの低さも関係している。そうした中、後半からそのポジションに南野が登場。最初は中盤であった。よく動き回るも徹底的なパスが回らずに無駄足となることが多い。そしてその後はフィルミーノに代わってCFとなった。やはり周囲との連携が気になる。南野はひとりでなんとかできるFWではない。サラーとの絡みでよいシーンもつくったが、監督の望みを満たすまでにはいかなかっただろうと思う。

10月3日(土)
089 ラ・リーガ アトレチコ×ビジャレアル 両チームとも中2日の強行スケジュールで、体のキレが今一となる0-0のドローゲーム。ビジャレアルはアラベス戦と同じスターティングメンバーであった。ただシステムは4-4-2。右Wには14番マヌエル・トロゲロスが入っていた。しかし守備重視であることは変わらず、アトレチコに攻め込むスキを与えることはなかった。そのため、ビジャレアルはメンバー変更が遅くなる。久保は2番手で85分から右Wで登場。ポジションを取ろうとしようと焦ってか無理な突破をしようとし、自陣でのボールロストを2度もしてしまう。あわや失点の場面をつくってしまう。明らかにチームと個人の思惑が乖離した悪循環が起きている。この2試合で久保の立ち位置が苦しくなっていることがわかる。

10月2日(金)
「アルファベット、そしてアルゴリズム 表記法による建築―ルネサンスからデジタル革命へー」マリオ・カルポ著を読みはじめる。本書には今日のデジタルアークテクチャーが意味するものが示されている。それは日本語版への前書きにも示されているように、今日のデジタル・テクノロジーの可能性である。「システムがもつ生成的あるいは自己組織的な能力に光りを当てその開発に取り組んだり、あるいはいくつかの構造システムやマテリアル・システムの組織化における、自然発生的な「創発性」を称賛するデザイナーたちを見かけることになっている」。そして共感するのは、サブタイトルにもあるようにルネサンスのアルベルティ以降の大文字の建築の延長上でこのことを思索していることだ。「私はデジタル技術におけるインテリジェント・アーキテクチャーの文化とテクノロジーを、長きにわたって接続する西洋の古典的伝統の中に位置づけている」とはじめににある。

10月1日(木)
088 ラ・リーガ ビジャレアル×アラベス バルサ戦のチームパフォーマンスの低さと中2日という強行日程もあって、久保の先発が予想されていたのだが、今日もベンチスタートであった。3日前のバルサ戦では久保が得意とする右サイドがファティとジョルディ・アルバに潰されていたのである。しかし指揮官の考えは違っていた。中盤をこれまでの2枚から10番のイボーラを加えて3枚にして、守備の立て直しを計るものであった。それで前線の絶対的エースのジェラール・モレーノを降ろして、彼を右のポジションとしていた。意外とエミリの戦術は固い事を知る。そしてこれが功を奏し3点をあげての圧勝となった。中盤で数的有利を保って、DFライン裏への縦パスを起点とした得点であった。久保は75分頃から登場。これまでと異なり左ウイングであった。少し窮屈そうであったのは、左サイドであったと言うことと、勝敗が決まった後なのでチームも停滞していたからだろう。それでも枠内シュートをロスタイムに放つ。どうやら久保は第1のユーティリティプレヤーといまのところ考えられていて、誰かとポジションを争うことを期待されていないようである。となれば結果を示し状態がよければ、ポジションに関係なく使われる選手になれる。次戦は昨季、数々の華麗なプレーによって怒りを引き出したシメオネ率いるアトレチコとである。

9月30日(水)
NHKでパンデミックにかんする特集を観る。2つの興味深いことを知る。ひとつめは、日本の工業技術について。日本大企業も、グローバル化の波にしたがって沢山の海外工場をもっている。例としてあげられていたのはAGCというガラスメーカーであるのだが、フロートガラスを平滑に仕上げるためには、窯の温度具合などの職人的判断や技が必要となっているという。コロナ渦で海外に赴任できない現在、現地の人的指導に苦慮しているという。そのためこの特集ではライブ交信による指導が行われていた。そにとき日本の職人が指摘していたのは、これまで無意識にしていた様々なチェックをひとつひとつ明示することの困難さである。こうした工業製品でも暗黙知が大きく支配していたのである。そのため、この会社ではAIを使って、こうした暗黙知を明示化データベース化する作業に力を入れているらしい。現地職員がこうしたものを通して問題を発見しやすくするものだという。しかし、コロナ渦の世界では、もはや一律な製品をつくることの意味のなさを気付くべきであると思う。例えばガラスが完璧に平滑である必要性はなくなるのでないかと考えた。もうひとつは、企業理念の変化のレポートが興味深かった。企業は目先の利益追求から、従業員を最も重要な資源と考え、長い目で人を育てようとしていることだ。コロナ渦によって、潜在化していた人手不足の問題に企業は真剣に立ち向かおうとしている。

9月29日(火)
087 プレミア リヴァプール×アーセナル リヴァプールが多くの時間ボールを支配し、アーセナルはボールを跳ね返しても拾われ続けていた。それでも鋭い速攻を数回試みる。先制もした。しかし結果3-1でリヴァプールの勝利。クロップの交替はまずミルナー。そしてジョッタであった。ジョッタには恐ろしいくらいにボールが集まっていた。今日は90分過ぎからの登場の南野と、その点が明らかに異なっていた。ジョッタはラストパスにシュートをし、おまけにこぼれ球が正面に来てゴールまで決めた。ジョッタの印象はどちらかというとエゴイストでなく、チーム和を重んじるタイプのようでもある。その点でも南野と被り、序列が完全に逆転したことになる。がんばれ南野。

9月28日(月)
086 ラ・リーガ バルセロナ×ビジャレアル 4-0でバルサ圧勝。ビジャレアルは為す術がなかった。バルサはメッシが中心ではなく、全員による速い攻めにチームが変更される。その中で久保とラ・マシアで一緒に過ごしたアンス・ファティが2GとPKの奪取で活躍する。メッシとかスアレスらが一線を退き始め、20代前半あるいは10代の選手がそれぞれのチームで躍動するのを目の当たりにした。久保はというと、70分過ぎから右サイドで登場。明らかにチームのリズムが変わり流れを引き戻していた。右SBと連携もよかった。サイドから中に絞り、そのスペースをSBに渡して、さらにサイド奥のスペースを何度か使っていた。これが監督の指示であるとすると先発も近いのではないか。次戦はミッドウィークにあるという。期待である。

9月27日(日)
CASABELLA910が届く。スミルハン・ラディックの小屋が紹介されている。この建築はサーカス小屋のテントであると記されている。つまり、過去からヒントを汲み上げたデザインであり、ティム・インゴルドを思い出す。さらに面白いことに、この建築は篠原一男の「プリズム・ハウス」も素にあるともいう。どちらも演出家の住宅である。「不都合な幾何学」がテーマである。自然の中へ人の介入ということだろうか。

9月26日(土)
難波さんのオープンハウスに行く。まず気付いたのは、本体から明確にアーティキュレーションした庇等の歯切れよいデザインである。おそらく徹底した断熱を考えヒートブリッジを防ごうとした結果がもたらしたものであろう。建築本体の構成は、5.4m×16.2m角の2層の150Hを基本とした鉄骨造。それに本体と同じくらいの間口のある南庭を平行配置したものだ。箱の中央には大きな吹き抜け空間がある。2階の東西の2つの個室には吹き抜けにたいして間仕切りがなく、徹底した一室空間がその内部に実現されていた。そうした空間のために有効に考えられた空調方式は、床からの冷暖空調であった。それは壁掛けエアコンによる暖冷気を床下に吹くもので、ぼくも保育園で試みたものだ。しかしぼくの場合は夏期、高い室温に対して床表面温度の想像を超えた低さが起きてしまい、温度ムラのコントロールの難しさを経験した。この建築ではそれを防ぐために、床にアクアレイヤーという蓄熱層を設けて、それをコントロールしていた。ひとつヒントをもらった気がする。帰り際に、「新住宅論」のお礼をする。そのとき思い切って12章のぼくの疑問をぶつけてみた。難波さんは暗黙知すなわちポラニーの第2項全体の存在を認めていながらも、現実の試みに関しては、その暗黙知の存在に触れずに明示知からのアプローチを目指している点である。そのことを尋ねた。ポラニーも、暗黙知は明示知によって明らかにできないといっている。それにも関わらず、である。どうやら難波さんは少しでも暗黙知を明らかにしようとしているらしい。そして、その積み重ねの必要性を、回答として返してくれた。ぼくとしては、暗黙知が誰にも備わっているものだとしたら、それを前提とする「文化」、「社会」あるいは「建築」の存在をはっきりさせるということで、それが明示できなくとも誰もがアプローチし易くなり、結果的に暗黙知を上手く運用できるようなるのではないか思っていたのだが、そのことが上手く伝わっただろうか。一度帰宅して、虎ノ門へ。メッセージのレスポンスはよく、安心する。

9月25日(金)
ここ数日ポラニーの「暗黙知の次元」を読んでいる。1966年出版であるが今でも示唆的な著書である。とはいえ、ブリコジンやサイモン、それと反対のドーキンスなどを読むことで解釈できるようになってきた。「ティール」のあとがきに書いた図の意味もあらためて気付くことがでてきた。書き直してみる。来週からはじまる授業の動画を整理して、関係者に送付する。後期はこの時期を乗り超えると楽になると思い踏ん張る。夕方、設計方法委員会をオンラインで参加。

9月24日(木)
午前は健康診断。一度虎ノ門に寄り、午後からゼミ。4年生による中間発表後の進行をプレゼしてもらう。今年の特徴として、建築特有の考え方から解放されていることがあげられる。世間で起きていることにかんして分析をして、そこにメスを入れるような方法で、自ら考えた建築的手法を敷地で実践するようなものではない。世間で起きていることとは、住宅メーカーのイメージ商品に変化が起きているがそれは何に基づいているとか、大型店舗の店舗展開戦略が外れたものとは何かというようなことである。これまでと違って少し楽しみでもある。もうひとつみられる傾向は、ランドスケープ的な提案である。よりダイナミックな方法で環境を捉えようとしている。

9月22日(火)
「インセプション」クリストファー・ノーラン監督を観る。夢が多層構造になっていること、そして主人公ディカプリオのミッションは、雇われたライバル会社の息子が父親の会社を崩壊することをインセプション(誘導)するなどオイディプス王神話を思い出させてくれて、無意識がテーマであることが判る。どことなくボルヘスの小説にも似ている。夢と現実の境界が曖昧になり、それは社会を客観視できないことに通じ、彼らはコマが回り続けるかどうかでその判断をする。しかし信じるものとは自分自身の問題に帰する、という提示で映画は終わる。渡辺謙も、東洋人特有のミステリアスな異文化人としてではなく重要な役割の一員を果たしていて、好演である。

9月20日(日)
昼を挟んで、オンラインのオープンキャンパスに参加。夕方「沈黙 サイレンス」遠藤周作原作スコセッシ監督を観る。どんなに人が困っても決して神は答えを出してくれない、沈黙とはこのことを指している。人を救済する宗教の崇高さとそれから生じる悲劇が描かれる。主人公は若い宣教師である。宗教弾圧によって改宗させられた師匠を求めて日本に潜入する。その主人公の価値判断はすべてキリスト教義に基づいている。それは隠れキリシタンといわれる村人も同様である。その頑なさは死にいたらしめるものとなる。たいして役人は、神父を改宗させようと様々な画策をする。彼らは命にたいしての尊厳も倫理もなく、目的達成へ向けて無限の策略を想像するのである。どちらが自由であるかは謎である。外見上は改宗し日本化していくのであるが、最期まで真の自己を表現しないまま十字架を隠して埋葬されていったのが主人公であった。もうひとり特徴的に置かれた人物がいる。彼は、その場凌ぎを繰り返す全く拠り所のない哀れな若者である。スコセッシ監督映画のロバート・デ・ニーロが演じる役どころである。その彼もあっさりと最期をむかえてしまった。宗教の限界を示すことがテーマなのだろうか。人に比べて人間社会の複雑さや大きさを示すことがテーマだろうか。スコテッシ監督は最後に救われる感を出すのが特徴であるのだが、この映画でそれは、主人公が改宗をしていなかったということだろうか。それにしてもキリストは沈黙することで人を遠ざけその絶対的距離によって、教えを強大にしていっていることは理解できた。それを廻る文化の異なる人たちの戦いが描かれている。
085 プレミア チェルシー×リヴァプール 2-0でリヴァプールの圧勝。前半にチェルシーは退場者を出し10人になったところ、後半から新加入のチアゴも投入し、2点を獲ったのだからチームは勢いつくだろうと思う。クロップの計らいも見逃せない。チアゴはキャプテンヘンダーソンに代わって入ったが、その後は重鎮のミルナーを今季初登場させ、実績のあるこれまた新加入のジョッタがどこに入るかが不明であるが、南野を最後に登場させた。南野は戦力に入っているというメッセージだろうか。今日のベンチには先週活躍の若手カーティス・ジョーンズとベテランシャキリはいなく、先週に長いプレー時間をカーティス・ジョーンズに与えた理由を理解する。チアゴ入団の布石があったのだ。FWオリギは不出場であった。

9月19日(土)
午後、墓参り。JIAマガジンの山本理顕さんと坂牛卓さんの対談を読む。ノーマンズズランドの誰のものでもない場所の訳や、マテレリアライズ「物化」についての話で盛り上がっていた。事ではなく建築することの正当性をあらためて感じさせる対談であった。
084 ラ・リーガ ビジャレアル×エイバル 2-1でビジャレアルが逆転勝ち。ビジャレアルは先週と同様、オフサイドでチャンスをつぶしている間に失点する。エイバル先発の乾も一瞬の抜け出しで、ゴールまでもう1歩のところであった。今日のビジャレアルは、DFライン裏への抜けだしがテーマとなっていたようだ。中盤底から多くの縦パスが入る。トップ下のモレーノが右に大きく開き、空いたスペースを他の前線選手が使っていた。逆にいうと前線でタメすることが少なく、そうした役割が得意な久保は、投入されたときどう対応するか気になる。出場は80分過ぎてからであった。中央や右と自由にポジションを変えていた。少ない出場時間であったが、それなりの存在感を示すことができたと思う。最初のチャンスは前半のビジャレアルの試合運びと同様、右の裏へのパスを受けてからドリブルでペナルティ中央に侵入したものであった。ほしくもセンタリングがモレーノと合わなかった。次のチャンスは、これまでと異なりライン間の中央で、横からのボールを受けたものであった。反転して右のモレーノへのラストパスであった。モレーノは決めきれず。その後、両チームの陣形が整わない打ち合い状況となる。猛攻のエイバルにたいし2度のカウンターに絡んだ。その中で終了間際のペナルティエリア内での1対2の状況の左足は決めたかった。試合終了間際ということも合わさって、久保投入後はゲーム展開が大きく変わった。先発のチュクイゼは身体能力とエースモレーノとの絡みが優れているが、かたちに縛られすぎで、久保がポジションを掴むのももう少しだと思った。

9月18日(金)
今年の卒業した中山陽介くんが来所。近況を聞く。「知のデザイン」再読し、思うことがあった。北東方向にトイレを配置してはいけない。さもなければ、その家系は長く続かない、などといった日本では古くからの言い伝えが多々ある。この理由としてあげられるのは、北東は陽が当たらないので衛生面で優れていないから、ということである。つまり、物事を原因と結果で見ようとする姿勢がここにみられる。しかしこの説明では、家系が長く続かないという戒めの位置付けの説明はつかない。風通しが悪く不潔になるからといえばよい。つまり、禁止事項を戒めまでもっていくそれ相当の理由があると思うのだ。そこで、この言い伝えあるいは戒めの機能とは何かと思う。「知のデザイン」を読んで考えたことだ。説明できることを暗黙知までもっていくことで、より強力な禁止を発動するようなことが可能となるのだろう。説明することよりも人の心に訴えかける方法は何か、こうように考えた結果、辿りついたものが言い伝えというものではないだろうか。説明的になるよりもその状況を丸ごと感じさせる上位概念の提案である。「知のデザイン」5章にあったポラニーによる「近位項と遠位項」から考えたことである。

9月17日(木)
ゼミにて、アレグザンダーについて話す。今年読んだ「時のかたち」や「動態平衡」、あるいはそれに近いティム・インゴルドの本から学んだこととは、ぼくらは長い歴史や過去の延長上にいて、そう目新しいことはできなさそうであるということである。そうしたことがもし可能であったとすると既に誰かが実行していたはずである。そんなものがなかったことを示していたのがこうした本であった。つまりぼくらは、過去から積み上げられた何らかの枠組みの中にいることになる。アレグザンダーもそうした前提に立って、15の特性を考えた。15の特性とは、そうした過去の積み上げの存在の片鱗ではないか?こういう話をした。皆はどう感じただろうか?ぼくは、必ずしも以上のことを完全に受け入れている訳ではないのだが、今年のゼミの流れからそのように考えてみた。大学からの帰路、「時のかたち」の翻訳に大きく関わっていた岡崎乾二郎さんが、ケネスフランプトンを批判していたことを思い出した(「漢字文化圏における建築言語の生成」)。そこで岡崎氏は、フランプトンの薦める現代建築を、程よい調停作業の結果でしかないと批判していた。岡崎氏がいうフランプトン建築に欠けていたものとは、そうした前提に立って何をするかであったと記憶する。流石に芸術家である。

9月16日(水)
「知のデザイン」諏訪正樹・藤井晴行著を読み終える。新しい知のあり方が示されていた。それは、主体なき知や自然法則などないというものである。ラトゥールのアクターネットワーク論で批判していたのは、都合のよいときだけヒューマニズムを持ち出す近代自然科学のご都合主義であった。本書もそれに同調し、徹底した人×科学の知のあり方が示されていた。それを「自分ごととして考える」といっている。しかし、本タイトルにもある「デザイン」という創造性にまで説明が至っていない。本書とは反対に位置する近頃流行の非人間中心主義的思想でもそうであるが、無から何かを生む謎については、未だにスッキリしていない状況である。

9月15日(火)
アレグザンダーの生い立ちを整理する。アレグザンダーが建築に及ぼした大きな影響は3つある。70年代初頭の「都市はツリーではない」のセミラチス構造。70年後半からの「パタン・ランゲージ」のパタン認識。そしてその後の「15の幾何学的特質」である。「都市はツリーではない」では、建築を含めて物事は一般に、制作と生成があることが語られていた。これは柄谷行人「隠喩としての建築」で広まった。近代に特徴的な主体性が、このときから問題にされている訳である。そして、その生成というものを実践手助けするものが「パタン・ランゲージ」であった。パタン・ランゲージを辞書のように使用するのもひとつの方法であるが、それよりも有用であったのは、物事の認識が個々の部分間の1対1関係や因果で決定されていくものではなく、かなり複雑なネットワーク上の絡み合ったものであることを示したことであった。それをもっとストレートに言うと、暗黙知、そうしたものの存在を明示したことにあった。その後の展開は江渡さんの本に書かれている。パタン・ランゲージに感化されたエンジニアがWikipediaのプラットフォームをつくったのだ。要は、捉えることの難しい膨大な情報をどう表象するかという方法を「パタン・ランゲージ」が示したのである。しかしAI議論にもあるように、認識状態の分析から、創造あるいは建築をつくるということまで達することはできない。つくるにはもう一歩の方法論のジャンプが必要となる。そこで考えられたのが「15の幾何学的特質」というものであった。ここが実に理解しにくく、誰もこの思想を上手く説明出来ていないのが現状である。そこには全体性とか生命というキーワードが関わってきて、理解をさらに難しくしている。そのため遠巻きにされてきた。しかし今になって状況が変わってきたと思う。多くの分野で再びこうしたキーワードが使用されるようになってきたのである。ぼくも度々、逆上がりの例を紹介してきた。このできるという瞬間が何によるかということである。事後的にはいくらでも機能的に説明ができるが、それを事前に説明することの難しさについてだ。おそらくその答えは、完成のぼっーとしたイメージを感性が掴めたとき、であると思う(これが普遍的な世界とつながる全体というものらしい)。こう考えるようになったのは、悟性と感性との関係、あるいは大文字の「」を知るようになってからである。つまり、完成のぼっーとしたイメージが先行して存在していることの可能性を知ってからである。昔からの伝統建築、あるいは生物などは、長い時間をかけてある状況に既に到達、完成の域に達しているといえば、そうしたもの存在も納得がいく。アレグザンダーがいうには、そこにある幾何学的共通点があるということだ。しかしそれはその場その場で微妙に違っていて、つくるということはそれを掴み、正すということといっている。それによって、分析というものからつくるというひとつ別のカテゴリーにジャンプできるのである。この論理はあくまで昔からの伝統建築や自然現象に関していっているだけで、あらゆる状況にあてはまる訳ではない。しかし、これを実感してみたいと近頃思うようになっている。

9月14日(月)
083 ラ・リーガ ビジャレアル×ウエスカ 1-1のドロー。ビジャレアルは優位に立ってゲームを進行させるも、オフサイド判定でゴールを逃している間に、ウエスカに効果的な速攻で先制される。岡崎先発フル出場。先制点の起点といい、想像を超えたあり得ないかたちでのヘディングシュートといい、守備での貢献に加えて存在を示していた。一方今日の久保は、チームの中心でありトップ下のモレーノの位置に75分過ぎから出場。不発であった。モレーノのポジションを1つあげさせて、久保にとって理想的なかたちでの登場となったが、そのモレーノの動きもいまいちにしてしまった感が否めない。これまでのフレンドリーマッチと異なり、引かれて密集した相手にたいしてのコンビネーションの悪さが露呈した。

9月13日(日)
082 プレミア リヴァプール×リーズ 4-3。見る側にとって最高の試合であった。リーズの戦法に感心する。前への攻撃が早い。ファン・ダイクも慌てさせていた。リーズと言えば、井手口が所属し、藤田がフロントに入るなど、馴染み深いチームであったが、こうした日本人好みのチームになっていた。今季率いるのはアルゼンチン人アルセロ・ピエルサ。老練で、ベンチ前にうんこ座りをしてチームを鼓舞。今季で3年目の指揮らしい。リヴァプールは今日、サラーが生き生きしていた。中央が空いていたためか。南野のポジションがそこである。先発の期待もあったが今日は不出場。あらためて思うが、中盤底のリヴァプールの充実ぶりもすごいので、南野不出場は当然でもある。ファビーニョ、ミルナーが控えである。先発は、怪我から復帰のキャプテンヘンダーソンとバルサが熱望するというワイナルドゥム、運動量激しいケイタであった。

9月12日(土)
「エチカ」スピノザを再読。避けられない運命、掟、社会にたいして、創造的でいるにはどうしたらよいかが語られている。創造的であることが前進するということであるとしたら、避けられない現実にたいして自分なりの一歩をあみ出していく他はない。それは身を任せることでもなく、広大に開いている未来にたいしてどう対処しようすることとも異なるスタンスである。ところが科学や医学が進歩するようになり、人の手でそうしたものを変えることができると信じるようになった。しかし実はそうでなかったのだ。こうした前提にたったものの見方が試されている。

9月10日(木)
「知のデザイン」5章再読。身体知によるモノの認識が示されている。打者がインコースの難しい球を打つときや町歩きの例を持ち出して、ことばシステムと身体システムとの関係を説明する。しかし、これは事後的な説明でしかなく、人が納得するための方便でないかと思う。それぞれに関係があるというのが従来的な認識方法で、身体知とはそれとは異なる次元にあるものであると思う。

9月9日(水)
「知のデザイン」を読み続ける。読みながら、暗黙知の存在の大きさにたいする考えが、本書とは違うことに気付く。暗黙知とはあまりにも大きいので、明示知で示すことの小ささを感じてしまうものなのだ。そこで、巨大な暗黙知にたいして感性というものが必要とされる。それがここでいう身体知であると思うのだが、これの言語化に努めるよりも、身体知を働かせるために道具を知ることが大切だと思うのだ。カントがいう悟性とは、こういうものでないかと思う。悟性へいかに接近するかということである。

9月8日(火)
「知のデザイン」第5章は、「からだメタ認知」という主題の説明。ポラニーが登場する。この本では、記号やことばを身体から乖離させないことを大切とする。「モノの世界を丹念に言葉で表現してみようと意識的な努力を払うことを、からだメタ認知」といっている。例として町歩きがあり、難波さんが度々あげるベンヤミンが参照源になっているようだ。ここでの疑問は、言葉の上の知のシステムと身体により知のシステムが同列に扱われていることだ。つまり、互いに変換が可能ということである。田島先生の力を借りてオープンキャンパスの動画が出来上がる。

9月7日(月)
今日から初台のアパートの本格的な塗装工事等がはじまる。それと平衡して柱脚の型枠設置からはじまる。簡単な打ち合わせをすませて大学へ。今日から気分としては新しいセメスターとなる。「知のデザイン」を続ける。

9月6日(日)
081 フレンドリーマッチ ビジャレアル×レバンテ 久保はトップ下、後半途中からは左でフル出場。レバンテの固い守りにビジャレアルは皆苦しんでいた。上手い具合に縦パスが入らなかったことによって、リズムがつくれなかった。今日の久保は左に回ると、中に絞るよりライン際の突破をいくつか試みていた。これまでのビジャレアルは、どちらかというと右サイドがフィニッシャーとなるかたちであった。その新しいバージョンだろうと思う。1-2の逆転負け。左のモイ・ゴメスが負傷で欠場らしい。来週開幕である。久保はどういったかたちで先発・登場するのだろうか。

9月5日(土)
080 フレンドリーマッチ リヴァプール×ブラックプール リヴァプールは、4-2-3-1にして南野を先発。今日はインターナショナルウィークでヨーロッパの代表選手は招集でいない。DFラインは若手となる。前半は苦しむも南野は2本シュートを放つ。決定力が欲しいところだ。後半は怒濤の攻撃で圧勝。ブラックプールDFの集中力が切れていた。南野が中央に位置取るのでサラーはきつそうであった。このフォーメーションはどうなるのだろうか?思えばクロップはドルトムント時代このフォーメーションで、ゲーゲンプレスによってブンデスを制していることを思い出した。

9月4日(金)
中埜さんの事務所に行く。「知のデザイン」諏訪正樹・藤井春行著を紹介され、読みはじめる。身体知がテーマである。身体知は、自分ごととして考えることと密接にリンクをしているという。パタン・ランゲージについても言及がある。単なる情報集やマニュアルと異なることを指摘し、体系立っていること、それに対してユーザは自分ごととして対応することが可能となることを評価している。

9月3日(木)
079 フレンドリーマッチ ビジャレアル×レアル・ソシエダ 久保がトップ下で先発。モレーノが代表合宿に参加のためである。トップにパコ・アルカセル。左にチュクウェゼ、右に23番モイ・ゴメス。今日はイボーラと8番コクランが中盤底。攻撃時は4-2-3-1。守備では4-4-2である。つくづくビジャレアルはモレーノのチームだと思う。彼の不在で両ウィングが自由に動き自分で決めようとしていた。その点、久保との連携が薄くなってしまったが、今日は前線からの守備は貫徹されていた。1点目はその典型。久保がDFを追い込み、ミスパスを誘ったところから、チュクウェゼ、コクランとつないだ。攻撃では久保はトップ下であると上下に大きく動き、ボランチからの縦パスの受け手となる。そこからスイッチが入るかたちである。右のポジションの場合は横の動きとなるが、それを90度ひっくり返したかたちで、左利きの久保にとってはこちらの方がやりやすそうである。それにしても両ウィングがよく動くので、久保が右に回ることもあり、前半終わりの左のモイ・ゴメスからの決定的なクロスは決めておきたかった。右足でのトラップに失敗してしまった。イボーラのフル出場に続く、80分過ぎまでプレーする。

9月2日(水)
時間ができたので、Battleの翻訳を見直す。この半年で意外にも「全体性」の具体的なイメージが出来上がり、すんなりと訳すことができていることに気付く。同様の内容と思われる「森は考える」エドゥアルド・コーン著を読みはじめる。しかしなかなか入ってこないので、苦労する。

9月1日(火)
NHKでコロナ特集。1/15日段階で日本でもコロナウィルスの存在を捉えていたことを知る。ただし、パンデミックを起こすほどのものとみていなかったらしい。1/23に武漢封鎖。1/25にダイヤモンドプリンセス号の乗客から感染が判明など、このころの展開は急であった。3/1に全員が下船し、その間にコロナ対策本部では市中感染を最も怖れていたという。そして感染環境として3密状況をこの時期指定するなど世界的にも進んだ研究を行った。ヨーロッパでは、3/12のリヴァプール×アトレチコを最後にサッカーがなくなったのだから、この後直ぐにヨーロッパでは手がつけられなくなったということだろう。日本でも、3/14に特措法制定。3月末には小池都知事がロックダウンを口走るようになり緊急事態宣言を政府に求めるようになった。政府が渋々それに応じたのは4/7であった。この特集では、これまでのサーズ、マーズなどの感染症から日本が上手く逃れてきたことを指摘し、そこから生まれたスキを原因にあげていた。それは1/15時点の事の重大性に対する誤認であり、ここ10年の政府の感染症に対する予算配分に対してである。

8月30日(日)
078 コミュニティシールド杯 アーセナル×リヴァプール プレミアリーグ開幕を告げるリーグ王者とFA杯王者との戦いである。来週がインターナショナルマッチ週間であるので例年より1週間早くこの試合をむかえる。今季は各リーグの開始がまちまちで十分な休養が与えられずに、選手のコンディションが気がかりだ。アーセナルはまだ戦力が十分に確定していないし、リヴァプール前線3人はまだトップコンディションでない。そうした中、南野が同点弾を決める。公式戦初ゴールである。前線の混戦の中、ワンツーで抜け出し落ち着いてゴールを決めた。その後も気のせいか南野にボールが集まるようになる。流れとは恐ろしい。ぼくの目からも勢いが感じられるようになった。頼もしいのはもうひとつある。南野投入によってフォーメーションも変わったたことだ。サラの1トップになり、より攻撃的になった。南野が代え駒としてではなく、より攻撃的戦略時にかけがえのない重要パーツとして認められたということだ。

8月29日(土)
077 フレンドリーマッチ バレンシア×ビジャレアル はじめてビジャレアルのゲームを、全体を通して観る。ビジャレアルは7番モレーノのチームだ。左利きなのだろう。CFでありながら左サイドと中盤下までかなり自由に大きく動き回る。その空いたスペースをもうひとりのFWパコ・アルカセル(ドルトにいた)や11番のチュクウェゼ(久保のライバル)が使う。右が基点である。中盤は今日の対戦相手であるライバルバレンシアから移籍してきた5番パレモと8番コクランである。縦パスはここから入る。スペインらしく、動きの中でのスペースをつくり、そこにボールを入れて前に進める戦術である。得点は、左サイドからであった。パコとモレーノがスルーし、チュクウェゼがフリーで振り抜いた。後半から総交替と思っていたのだが、今日から交替要員が5人になったようだ。レスターとセビージャにいた10番イボーラと一緒に久保は65分から登場。左サイドであった。前2戦の練習試合ではトップ下と右であったので、様々な組み合わせが試されているのが分かる。久保は一度中央に絞ってダイレクトでボールを受けて、縦への突破を試みるも、久保に限らず後半、チームは低調であった。今日のゲームから推測すると監督からの信頼はFW7番モレーノ、11番チュクウェゼ、5番パレモと8番コクランが厚そうだ。彼らを中心にゲームが組み立てられている。そこに久保が入り込むとしたら、どういう状況なのかと思う。チャンスは与えられ続けるだろから当座は彼らの控えで、そこから徐々に可能性を示していくことになるのだろう。

8月28日(金)
カサベラ909が届く。巻頭でスカルパのベネチア運河沿いの邸宅の改修が紹介されている。続いてピサの大聖堂の美術館への改修。続いて木特集。このセンスがあればと思う。いつも思うのは、イタリアとの接点は見つけにくいことだ。

8月27日(木)
「建築」に関わる明示知と暗黙知との関係が気になり、柄谷行人を再読する。ここでは明示知とは理性、暗黙知とは悟性、感性にあたる。悟性と感性の区別はよく分からないが、悟性とは明示化できない集団共通の意識、感性とはその個人的なものをいうらしい。柄谷というよりも柄谷解釈のカントも、この感性や悟性の存在をしっかりと認め、つまり物事の認識は理性や悟性、感性の塩梅で行われているという。そして何かを突出させて単独で物事を捉えることの危険性を指摘する。だから、明示知や理性のみによって物事を捉えることはできないし、だからといって感性の方向に振りもどしてしまうことを美学的といって批判する。これは「ティール組織」における自己開放のみにスポットライトをあててしまうことに該当するだろう。理性、悟性、感性それぞれのインジゲーター操作が重要であるというのである。自転車を乗ることができるのは(「ティール」の説明にあったように)決して感性のみによってではなく、これまで成功してきたものを見てのイメージ(悟性?)と感性(状況に応じた直感)とのバランスが上手くいったことをいうのである。そしてこのことは、自転車に乗ることできていない他者に明示することはできないが、そのコツは確かに存在している。これが明示知と暗黙知の関係だろうと思う。建築でいえば、敷地からの応答はまさに悟性ではないだろうか。それを人それぞれの感性を使って結びつけ想像する。したがって、敷地によって絶対的ということでもなく、人の感性と相まって敷地観が生まれてくるのである。パタン・ランゲーを以上の行為をスムーズに運ばせるための手助け道具と考えると、分かりやすい。気の利いたところを指し示してくれるものなのだ。建築家の世界でも、敷地に該当するものに「建築」というものがあるのではないか。建築家の内部では明示知的に知らしめす必要がなくても、確かに存在してきた。そして今日まで「建築」の歴史をつくってきたのである。そしてそれをスムーズに動かす道具というものも何かしらあったのだろうと思う。それを使用しない手はないのではないかと思う。問題を整理する。暗黙知とはある集団内部では存在し、有効に機能する。しかしそれに属さない別の集団からは明示されることはないので存在しないに等しく、役に立たないものである。作法というものに近い。ある世界に入ると有効なのは暗黙知というものの存在である。それの明示は難しい。それを知るには、その世界に入り感性によって吟味すること以外に方法はない。しかし、それを促すための道具はある。

8月26日(水)
「新住宅論」第12章を1週間程前に読んで、「大文字の「建築」の存在に意識的であるということこそが暗黙知に関わることではないのか」と考えた。しかし、「建築」が教条的になりすぎては、主体と「建築」との間の交通を制限してしまうことになりかねない。そこで、「建築」などというときには、無意識レベルでの強制から逃れる方策を合わせていうことの必要性を感じた。そう考えると「ティール組織」では、ブレークスルーの2番目に「自己開放」というものをあげている。しかしそれはスピリチャル過ぎて、なかなか一般に受け入れられないところだろうとも思う。それにたいして批判的な精神を持つ必要性をいう人もいるのだろうが、それもちょっと時代がズレている。ブリコラージュのような道具の有効性についてはどうだろうか。「建築」に関わる道具を通じてコミュニケーション(交通)することである。これがあれば「建築」の存在を一旦忘れてもあるいは終始意識的でなくとも、コミュニケーション(交通)は可能である。

8月25日(火)
3年生と4年生前期の設計合同講評会。全体的に要所を押さえているが、そこを超えたものになっていない印象であった。パワポによる小さなプレゼのためだろうか、空間性とはいいたくないが、説明がつくことに終始してしまうのは、オンラインエスキスの限界だろうとも思う。その結果、バリバリの近代建築的な作品が多くなってしまっている。それを超えるために講評者に、環境の荻原廣高氏をむかえた。環境という新しい視点を加えてもらうというよりも、より微細に建築条件を捉える人と考えてのことである。このことで近代建築を超えることができるという仮説のもとである。3年生非常勤講師の佐々木珠穂さんは、技術×コンセプトを、千葉工大の特徴として講評してくれたが、御手洗龍さんは一方で、ものづくりとしての建築のあり方に不満を投げかけていた。模型の必要性である。4年の非常勤の谷口景一郎さんには、環境を可視化してもらうためのシミュレーション技術で大いに助けてもらった。その上で、こうしたオンラインでの新しいプレゼの方法を今後の課題にあげてくれた。比嘉武彦さんには、このコロナ渦においてシミュレーション前段階の建築家の問題意識について鍛えてもらったのだが、千葉工大生に限らず上手くいかないのは今後の課題だろう。ぼくも答えがない。しかし比嘉さんの言葉が印象的であった。それは、最後に残る案は問いの立て方が秀一なもの、というものである。最後に荻原さんは総評として、美術館課題では、居場所+環境の多様性の捉え方が豊かであったことを評価され、小学校課題では、地域との関わりに関する計画性が評価された。優秀作品としては、櫻田さんの小学校をあげてくれた。中庭をもつロの字型学校であるが、地域住民の自由通路と開放教室が2階にあり、その上下階の教室からスキップフロアでつながっている構成の小学校である。外部を示す淡いピンクのドローイングが印象的な作品であった。もひとつ4年生からは竹村くんの作品が優秀案として選ばれた。これは力作であった。シミュレーションを繰り返すことで、光りのグラディエーションを創り出そうとしていた作品である。授業提出後に、かなりの量のシミュレーションを加えて、かたちへフィードバックしていたと思う。この作品は斑のある空間がコンセプトであった。ぼくとしては、だらだらとした空間といいたいが、これを狙っていたものであった。ただこれは、従来の壁によって人の行動を制御するのではなく、一室空間だからこその空間性であり、人が自発的に移動することによって起きるムラでありたいと思う。荻原さんからの、そうしたムラを定義する方法が重要であるという指摘が今後の方向性を示してくれたような気がする。ところで、荻原さんが担当した、ぎふの森メディアコスモスでは、人気のある場所が西日の見える窓際であったそうだ。それはシミュレーションでは追えないものであるが、だらだらとして空間性によって可能となった末の空間でもある。

8月24日(月)
076 CL決勝 バイエルン×パリ バイエルンがパリを封じこめた。パリは組織的に守り抜きそこからの速攻に賭けていた。しかしもうひとつのところで、ノイアーをはじめとするバイエルンDFラインを突破することはできなかった。ゲーム後、ネイマールは号泣していたのが印象的。ネイマールは前線とDFラインの間でのつなぎ役とフィニッシャーの両役割に奔走していた。たいしバイエルンは11人が攻撃と守備のバランスを保ち組織化されていた。それが多様な攻め方を生み、結果、ゴールはコマンのヘディングであったのだ。そして総合的にパリ攻撃陣を封じこんだ。この差が出たかたちであった。

8月23日(日)
「父親たちの星条旗」クリント・イーストウッド監督を観る。太平洋戦争末期の硫黄島の戦いを廻る当時のアメリカ世論を知る。アメリカも負債をかかえ困窮していた。しかし世論は予想をはるかに超えて戦争に冷やかであった。そうした状況の下、現実の戦争に直面し心身ともに病む兵士と、戦争債を得るためにマスコミを利用し世論をコントロールしようとする政府や軍上層部とのズレがこの映画のテーマである。この映画と同時に同監督による「硫黄島からの手紙」も公開された。ここでは日本側の視点から栗林大将の玉砕が描かれている。どちらも現場とトップの間に