8月4日(火)
「福岡伸一、西田哲学を読む」を読む。福岡氏がぼくらの視点にまで下りて、西田哲学を分かりやすい言葉を使ってかみ砕いて説明しているのが素晴らしい。高校時代に読んだ「善の研究」の印象からやっと一歩前に進むことができたような気がした。それは、善が存在するかというものである。善とは真理みたいなものを指している。本書から受けた当時の印象は、仏教観あるいは禅問答のようなものでしかなかった。したがってその場合、個の存在はちっぽけな流れのようなもので、無性に悲しくなった記憶がある。しかし今回は本書によって、個という多が一へ向かうことの必要性を理解できた。個と善は、当然のことのように固定的なものでないが、それぞれ独自の世界がある。しかし個は善とのズレを直感的に知ることによって、個を修正前進させるのである。それによって個の独自性や合目性は確保される。それが個の証である。善がなければそれができない。そして善観があることによって個すなわち多はひとつになることも可能である。このことを理解する。

8月3日(月)
「福岡伸一、西田哲学を読む」を読みはじめる。動的平衡と西田哲学の共通点を探る本である。哲学者池田義昭との対談である。1章で概要を掴む。ギリシア以前のイオニア文化では、ロゴスではなくビュシスであった。ビュシスとは自然主義である。ロゴス(理性)では、計りし得ないものがあるという前提に立って思考することをいう。このビュシスが西田のいう絶対矛盾的自己同一、あるいはザイエンデに対するザインである。柄谷行人も同様の道を進んでいる。そしてビュジスが仏教をはじめとする東洋思想にもなく、「あいだ」に焦点をあてた思想であることを知る。

8月2日(日)
063FA杯決勝 アーセナル×チェルシー 2-1でアーセナル勝利。14度目のカップだそうだ。オバメヤンが2発決める。ゲームはチェルシーがコントロールするもアーセナルが速攻で決めた。両チームの監督も若返っている。アルテタとランパードであった。プレミアは長期に渡る長老監督の時代を経てチームが右往左往するも現在は彼ら若手で落ち着いている。選手もベテランは入れ替わり(ジルーがチェルシーにダビド・ルイスがアーセナルにいる)、若手が台頭しバランスしている。プレミアでは大きな変化が起きていることを実感する。その中でいち早く熟成したのがクロップのリヴァプールである。

8月1日(土)
NHKの特集で、各国のコロナ後の情勢を追っていた。中国は国家による監視体制を一層強めることでコロナを封鎖することに成功している。これは民主主義国家ではできなかったことだ。このことを前向きに中国国民の多くが評価している。監視よりもコロナ撲滅により、西側諸国より優れていると評価しているのである。それを政府は国家高揚に逆利用している。香港に対する国家安全維持法案などは、その勢いのまま可決した法律である。そして内政を安定させた中国は、世界各地へ金と人を投資することで、世界の信用を逆に得ている。最も被害を受けたイタリアなど町の至る所で中国への感謝を言葉にする。東アジアの反中国の国々も、豊富な資金力から中国なしには生きられない状況である。この特集では、コロナ渦の後の世界は、中国一国による世界覇権を暗にほのめかすものであった。

7月31日(金)
「時がつくる建築」再読。1章のキーワードは、「アルベルティの時間殺し」である。アルベルティによってはじまった建築論というものはゆっくりと進行し、20世紀初頭の近代建築に至って一応の完成をみた。アルベルティ前は、時間というものが支配的であった。建築とは計画することではなくつくるものであった。その形成が徐々に逆転していく様が本書のテーマである。19世紀に起きた次なる大きな動力というのは、その1世紀前の啓蒙の時代やフランス革命からの影響である。これらはみな「建築」の歴史となり、の揺れ戻しが現代に起きている。とはいえ、現代のぼくたちは新しい科学思想や、機械論的思考からもっと柔軟な生物的思考というものを手にしている。動的平衡というものもそのひとつだろう。単なる揺れ戻しではなく、もうひとつ先の「建築」に寄与したいものだと思う。

7月30日(木)
ゼミにて「動的平衡」の読書会。担当者からの一通りの説明の後、本書による生命のナチュラルな動き=動的平衡にたいして、因果律を基本とする近代思考方法はバイアスのかかったものとして考えられるが、そこからブレークスルーする方法が何であるかが問われた。動的平衡とは、臨機応変に外部環境に微細に対応する生命の姿である。しかし、例えばぼくらは敷地を観るときに、生命のようにナチュラルに物事を捉えていないのだろうという問いである。必ず自分なりのバイアスをかけて観ているのではないかという疑問である。そこからブレークスルーする方法について議論をした。議論から導き出された方法は4つ。1つは「知識」を得ること。それによって自己の枠組みを広げるということだ。2つ目は、「他者」の存在を積極的に受け入れること。他者の視点によって、自分との差異に自覚的になることができる。3つめは、「道具」を利用すること。道具こそが自己と世界をつないでくれるものだ。「デザインスゴロク」や「パタンランゲージ」といったよい道具はいくつかあり、それによって自己を開放してナチュラルに世界とつないでくれる。そして4つめは、「全体」である。全体の中で自分の位置づけを把握することだ。建築でいえば、とりあえず大文字の「建築」がある。こうした考えは古くさく思えるが、実は無意識にぼくらを取り囲んでいるのである。それを知ることだ。建築学科がある理由、建物ではなく建築がつくられては議論され続けている理由はこうしたものの存在なしにでは語ることができない。ぼくらはこうした4つを上手く使い分けながら、敷地に向き合う必要がある。その結果、ひょっとすると動的平衡に匹敵する建築の登場を見ることができるかもしれないと、夢ながらに思ったりしたゼミであった。

7月29日(水)
「時がつくる建築」を読む。論点が建築に限定され分かりやすい反面、物足りなさを感じないこともない。要は、点が線になるのではなく、あるいは様式が発展するのではなく、行ったり来たり紆余曲折しながら現在に至る西洋建築の生き様あるいは歴史のことである。それはもちろん経済状態や政治、社会状況に左右されてきたのだが、ルネサンス以来の「建築」というものの考え方の影響が大である。そうした全体的なものがあるからこそ、修復しなければならない箇所が見え、物事を前に進ませることができたのである。あえて批判的にこの本を読むのなら、こうした「建築」の存在をもっとクリアに表現すべきであったとも思う。そしてもちろん「建築」は、こうした紆余曲折したラインの捻れを積み重ねることによって育てられ修正され今日に至っていて、確固したものではない。しかし存在が大きく、それに触れないわけにはいかないものだろうと思う。つまり因果律や決定論とは別の思考形態でつくられてきた「建築」というものがあり、それもルネサンス以来時間をかけてつくられてきたものなのだ。そして近代主義を経験し改めてそうしたモノの存在がクローズアップされてきた。こういう筋の本であったと思う。

7月28日(火)
山庄建設の山本社長来所。柱脚のサビを実際に見てもらう。次回はペンキ屋さんと実地調査をすることに決めて1時間弱の打ち合わせを終える。「時がつくる建築」を再読はじめる。読書会では、ここにある事例を丁寧に解説するのがよいと思う。ひとりで読んでいると簡単に読み飛ばしてしまうからだ。そここらこの本のテーマをあぶり出していくのがこの本の相応しい読み方だと思う。

7月27日(月)
建築設計学会から季刊誌が届く。宮本佳明さんの「自分に正直な建築」という文章が印象的。すごい建築とは、半べそをかきながら、それでもつくらずにはおれない気持ちある、そして止むに止まれぬ思いから発する強度がある建築のことをいう。自身の深度が試される建築のことをいう。「動的平衡2」を読み終える。これまでの断片的知識がひとつにつながることをいくつか実感した。ひとつに「ゲーデルの不完全性定理」があった。決定不可能な命題が、その体系内に必ず存在するというものであるが、遺伝子のコピーミスが発生するがゆえに、変化が起こり、その変化が次の世代に伝わる。それがもし環境に対して有効に働くなら、その変化が継承される。進化とはこういうもので、生命はあえてコピーミスの可能性を残しているというものであった。もうひとつは「ゼノンのパラドクス」からの教えで、AIの否定、つまりデジタルから現実へは決して行き着けないということである。そこには時間という連続的に対象を捉える視点が必要で、瞬時に壊れることを前提とする合成のための直感の連鎖というものが必要であるということである。「エピジェネティックス」というが、全体と個の両立が必要な根拠である。科学は基本的に帰納法に基づくが、演繹的な思考ジャンプもまた必要ということである。もうひとつはアインシュタインがいったという「私は、スピノザの神を信じます」という言葉の意味だ。量子論をつくったアインシュタインは、因果律や決定論が成立しないような世界を否定したのではなく、その判断は各観察者に委ねられた自由なものである、ということをいったものであった。この真意を理解できた。

7月26日(日)
062プレミア ニューカッスル×リヴァプール 今季の最終戦。3-1でリヴァプールの勝利。南野は久しぶりの先発で60分までプレー。武藤はベンチに入るも出場なし。がらっと先発をリヴァプールは変えた。そのためか連携に難があり。南野へもそれは当てはまる。なかなか流れの中でボールを操ることはできなかった。しかし積極的に動き回っていた。それを事を起こそうとしてしているか、流れを乱しているか、評価が分かれるところであるが、クロップは前者であって、一定の評価をしていたようだ。

7月25日(土)
池田さん来所。「初台のアパート」の柱脚サビが思っていたより進行していたのでチェックしてもらう。エポキシ系のさび止め塗料を探す。ハイポン20デグロにいきつく。以前からメッキ品にEDHの標準使用となっていたものだ。なかなかサビの進行を止めることができないので、加えて柱脚をコンクリートで覆うことに決定。来週に、ハイポン20デグロとコンクリートとの相性をメーカに尋ねることにする。カタログを調べると、1種ケレンが求められているがそれは無理なので、丁寧に素地がでるまで手加工する必要がありそうだ。池田さんの研究内容について聞く。どうやらコンクリートの新しい評価基準を編み出そうとしているようだ。FEM解析は、詳細に部材の挙動を把握できるものの、それでも切り捨てる情報があることはそもそも論としてあり、それなら光弾性のほうが優れているという。もちろん基準法は、複雑な力を曲げ、剪断、軸力で評価するもので、自然現象を強引なかたちに落とし込めている点で正にモダニズム的である。この基準法とFEM解析の中間に研究の目標地点に定めている。それは現実に近く、解析とモデリングのフィードバックを容易にできそうなものである。現実が多量情報解析付近にないというのも面白い。その後建築談義。過去を振り返る歳でもないが、池田さんは構造家として佐々木さんを通じて多くの巨匠建築家たちと接し、彼らの思想と空間に感化されてきた。このことが財産である。伊東さんはじめ磯崎さん、レムやピアノとである。ぼくはというと、難波さんを通じてしか学ばなかったが、難波さんの孤高の批判精神が、今でも考えの拠り所である。実感することが大事だ。その後、来週の大学院授業で説明するティール組織とネットワークについて整理。思えば形式を通してしか物事を把握できないという考えも難波さんから学んだ。その勢いで、もやもやしていたものを一気にまとめてしまう。だいぶ頭の整理ができた。

7月24日(金)
「動的平衡2」を読む。「ゼノンのパラドクス」が紹介されている。飛んでいる矢は止まっている、という矛盾である。この矛盾を解決するために持ちだされたものは、「空間の厚み」というものであった。なかなか理解しにくい。こういった場合、近代思考では全体と部分を別々に考えているという。全体は部分の集合であり、部分は全体を解体したであるというものである。しかし、どうやら「空間の厚み」とはこの2分を超えるものらしいが、それをイメージするおKとができない。昨日の大学院授業で、線から面へというテーマでこれまでの作品を紹介した。そうではなく、線という部分も何かの全体を形成しているということであり、面という全体も何かのもっと大きいものからなっているその一部である、という必要があるらしい。これが本書で言う近代的機械論を超えるものであるという。

7月23日(木)
061プレミア リヴァプール×チェルシー 5-3の面白い試合であった。その後、優勝セレモニー。9試合出場の南野もそこに参加しメダルをもらう。ただし活躍できていないのでその価値がないと悟っているためか、ばつが悪そうであった。ネットでは、キャプテンのヘンダーソンが、シャイな南野にトロフィーを掲げるのを促したことが話題になる。

7月22日(水)
「動的平衡」や「時のかたち」につながる動画をチェック。そこにはTHA LTD、ダイゾマティク・リサーチ、リチャード・ロング、杉田千春、柳幸典、オラファー・エリアソン、脇田玲があがる。時間という流れをいかに表現するかをアーティストも果敢に取り組んでいる。ビッグデータを使用する者、痕跡を表現する者様々である。建築も、土地や歴史といったコンテクストから条件を拾い上げては、建築という不同なものへ留めることをする。このときの表現方法に主体者トとしての個性が出る。選ばれた動画どれもユニークな捉え方をしている。

7月21日(火)
「動的平衡2」福岡伸一著を読みはじめる。1には少なかった生物以外の例があり、分かりやすい。これまでの疑問をはっきりさせてくれる文章に出会うことが多い。そのひとつに因果関係についてのものがある。「この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係で繋がり合っている。(中略)しかし、次の瞬間に目を移すことができれば、原因と結果は逆転しているだろう。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には本当の意味で因果関係と呼べるべきものは存在しない。世界は分けないとことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのであるp123」。「しかし、どんなに頑丈に作っても、やがて破壊の力はそれを凌駕するp80」。

7月20日(月)
060スペイン オサスナ×マジョルカ 降格が決まったマジョルカは、大幅にメンバー変更。久保は60分過ぎから登場。これといって見せ場はなかった。2-2のドロー。今季をこれで終える。勝ち点は33。やはり合計38まで1勝+1分け分足りなかった。久保は4ゴール4アシスト。来季をどこでプレーするか、日本のみならずスペインでも話題である。

7月19日(日)
国立新美術館で開催中の「古典×現代2020」展へ行く。久しぶりの美術館である。管本志雄、川内倫子、棚田康司、鴻池朋子、田根剛、しりあがり寿、皆川明、横尾忠則といったキャリア十分の現代作家と江戸芸術あるいは工芸とのコラボ企画である。おそらく企画の主旨は時間を超えて通底する芸術の本質を浮き彫りにするものであったろう。しかし、作家が現代の社会状況を抜きにして、江戸の芸術や工芸そのものに向かってしまい、作家の独特な解釈ばかりが目立つ展示となっていた。それでは、多くの人が共感するのは難しいだろうと思う。その中で棚田康司と田根剛の作品は、対象に対峙するときの真摯さがあり、円空や西明時月光日光両菩薩の凄さを際立たせるものであった。田根の作品は照明のデザインである。暗闇の中で照明器具を上下させ、それにあわせて照度をデザインするものであった。それによって、唱えられる経があたかも現前するかのように錯覚させてくれた。横尾忠則の作品はこの世代を代表するものであり、批評性が強すぎる感がある。

7月18日(土)
NHKの中国空旅という番組で「空海のまわり道」を観る。この特集は、最終目的地の都長安までの旅路ではなく、その入り口となる当初寄港予定であった杭州までをクローズアップするものであった。それは先週観た鑑真の特集と同様、道なき道、厳しい自然環境に対峙しなければならなくなった旅である。その中で体験した食や文化、土木技術、仏教精神が、帰国後の日本に色濃く影響を与えたというのである。ケンヨウ市の曜変天目、廿八都の豆腐、門虫河の土木技術などがそれである。その後空海は長安に行き直ぐに密教を授かる。それが可能となったのは、このとき得た自然観宇宙観ではないかと思った。それだけ、人をちっぽけに感じさせる崇高なものを経験した。旅は素晴らしい。稚拙ながらぼくもブータンへ数回の調査を敢行している。ブータン中部の歴史都市トンサ・ブムタンジャッカルへの旅やインド東部の飛び地グワハティからアッサムを抜けてブータン東部奥地タシガンへ入った時のことを思い出すと、目的地に辿り着くことで精一杯で、目的地ではそれなりの調査結果を出したが、旅の途中で時間を費やすべきであったと後悔する。

7月17日(金)
059スペイン マジョルカ×グラナダ マジョルカは逆転負けし2部降格が決まった。久保はチームを助けるまでいかず。今日は右サイドでSBとの間でタメがつくれていなかった。それでも、緩急ある独特の動きの中で中央に移動し相手DFが構える前に素早いシュートを数本放つ。

7月16日(木)
ゼミにて、時のかたちを抱えたデザインを全員にプレゼしてもらう。いくつかの興味深い歴史的事実を知った。思えば、「時のかたち」とはラインズのことだと実感する。ラインが捻れ寄り合った状態を普段は見ることはできないが、よくよく観察するとそのよれたラインの状態が見えるのである。ラインを手繰り寄せながら、それを未来に繋げることをデザインといっているのである。

7月15日(水)
058 プレミア アーセナル×リヴァプール 南野は60分過ぎから登場。サラーとのコンビネーションはまだである。強引なところを見せるも、サラーとポジショニングが重なり二人とも窮屈そうであった。それでも南野は時偶ハーフライン近くまで下りてきてボールを受けるも、一呼吸置くだけで前線への展開まで至らなかった。シュートチャンスも数回つくる。クロップはこれをどう判断するのだろうか。リバプールは決定的なミスを犯し2失点し逆転で負け、シーズン勝ち点100を逃す。

7月14日(火)
CASABELA908号が届く。縦ログのような建築が掲載されている。イタリアのグラッソ・カンニッツォという建築家の住宅である。安藤さんのような建築で、100ミリ断熱材を150ミリと200ミリの木で挟む構成で、木の打ち放し建築である。敷地いっぱいの境界壁としてもそれがあり、屋根がなく閉じていない壁だけの空間がまた建築をよくしている。敷地のかたちに馴染んで直角のみで構成されていないところもよい。巻頭のフランチェスコ・ダルの論文も意味深である。問いを立てることを建築の存在理由としている。では何を問うかというと、それは建築家と施主との間で共有する「顕示的消費」に対してであるという。建築とは顕示物であるが、消費を伴う喜びの儚さに意識的であれ、というものであった。これがイタリア的性格であるといい、カサベラ掲載作品の特徴ともなっている。なぜかしら、石山修武を思い出す。

7月13日(月)
057 スペイン セビージャ×マジョルカ 4位のセビージャとアウエーで対する。好調といえどもやはり0-2の完敗。久保をはじめ為す術が全くなかった。セビージャは突出したスパープレヤーがいなくとも、実に組織的な動きをハードに行い、その戦術は90分間少しも崩れることがなかった。こうした堅実なチームが上位にいることを知る。

7月12日(日)
「動的平衡」福岡伸一著を読み終える。結論じみたものはなかったが、ぼくにとっては生命体にたいするイメージを固めることができた。それは、先週の日記にも記したが、エントロピー増大という死にゆく方向に逆らって新陳代謝を繰り返しては逆行する生命体個のイメージである。ぼくら生命体は、自然界から見ると、エネルギーの流れの中の一瞬(偶然)物でしかなく、それは自然界から見ると、本書のいうように「効果」程度のものでしかない。効果とはよくいったもので、それによって一生命体の立場からは生きるということ、もう少し視点をズラすと、一個人の創造というものも位置付けることができる。ただ、未来が明るくないこと(エントロピー増大)を前提にして、何かしら事を起こす(エネルギーを使ってかき回す)ことの積極的な意味は何だろうかと思う。このことによって、全体や自然界のエントロピー増大に影響を与えているのだろうか。

7月11日(土)
056 プレミア リヴァプール×バーンリー 中2日で厳しい日程にもかかわらず、控えの南野は出場できず。10台の若者2人が先発であった。本当に厳しい状況に置かれている。試合はサラーが決定機を逸して1-1のドロー。今日はサラーの日ではなかった。

7月10日(金)
055 スペイン マジョルカ×レバンテ 2-0でマジョルカが勝利。降格圏脱出まで勝ち点3に迫る。貴重な勝利である。久保はというと、疲れがあったためか今一のプレー内容であったと思うが、2点目をゲットし喝采を受ける。今日は中央に多くポジションをとっていた。これはクチョとプリミルで3トップを形成するときの特徴である。流れは久保に来ていることを感じる。

7月9日(木)
ゼミにて、クプラーの「時のかたち」の読書会。担当者は詳しく読み込んでいたので議論が進んだ。最後に担当者から、クプラーの提案するような歴史を色濃く残したモノあるいは実例は何か、という提案があり、それを来週の課題とする。こうした本を読んで、ぼくらは何を学ぶかである。実際の設計に役立てたいと思うのだ。クプラーのいう、モノの痕跡から世界を想像するという視点、これが得られても、それを創造という未来に結びつけるとき、もうひとつのジャンプが必要となる、これが何かということの疑問がぼくとしては残る。「ティール組織」を訳したときも同じように疑問を持った。この解答を手に入れた訳でないが、方向性について気づきはじめたところもある。今後のゼミでの課題にしていこうと思う。
054 プレミア ブライトン×リヴァプール 1-3で余裕の勝利をリヴァプールが勝ち取る。南野は後半42分から登場。サラーとポジションが被り遠慮を見せたところもあったが見せ場もつくった。先発はオリギ。そろそろ特別にチャンスを与えられなくなってきた。

7月8日(水)
授業方法をめぐり、連日大学を往復する。オンライン授業も研究室で行った。様々な条件が重なり問題が大きくなるのはいつものことであるが、この時間や労力を好転させるために使ったらすごいことが起きるのでないかといつも思う。こうした方法を手に入れることができれば、天下無敵だろうと思うのだ。こういうことを考えてきた人はいなかったのだろうかと思う。むしろこのことが頭から離れない。

7月7日(火)
NHKで鑑真が来日するまでの5年の行動を追う特集を観る。鑑真といえば、何回も日本への渡航を試みたことは有名で失明までした高尚である。第5回目の航海では日本とは反対の南の海南島にまで流され、そこから桂林を経て故郷の揚州にまでもどる過酷な旅を追うドキュメンタリーであった。そのとき普照とヨウ叡という2人の日本人僧侶を伴っていた。本特集は、そのとき鑑真は失明したのであるが、その直前に触れた風景が後の日本で大きな役割を果たしのではないかという内容である。たしかに鑑真の建立した東大寺の戒厳院やその制度あるいは唐招提寺は、今日の特集にある中国建築にその萌芽を見ることができなくもない。例えば都キョウ山では、道教や儒教、仏教が混在する修行場があり、鑑真の持っていた広い視野の存在の根拠を彷彿させるし、トン族の小さな村の広葉杉を使った貫構造の風雨橋といわれる橋や鼓楼といわれる屋根を重ねた塔は酷く不格好で洗練とは程遠く、力強い雄大なものであった。桂林の風景は言うまでもなく、中国知識人の目指すべき対象となったが、後の南宋文化の基礎である。その桂林の手前には始皇帝がつくったとされる運河や水門があり、古来の確実な土木技術を伝えるものであった。桂林の栖霞(セイカ)寺は唐の時代を代表する仏教建築で、唐招提寺との共通点を思わせる。鑑真らは桂林1年の滞在の後、七星岩を経験し、慶雲寺では日本人ヨウ叡が倒れるも、なんとか揚州にもどることができ、5年経って漸く遣唐使の舟で日本へ6回目の渡航に成功した。実に鑑真還暦前後の5年間の出来事がそこにあった。 

7月6日(月)
先週からのコロナの状況を受けて、今後の対面エスキスの方法について担当の先生とメール審議。その結果、学生の安全を優先しこれまで通りのオンラインエスキスに戻すことにする。オンラインの状況もよくなっているので、対面に匹敵するようなものも可能だろうという結論に至る。各先生に連絡し、オンラインでスタジオの学生に周知してもらう。
053 プレミア リヴァプール×アストン・ヴィラ 落ち着いたゲームでリヴァプールが勝つ。そこに南野は出場なし。南野をめぐる状況が変わりつつあることを思う。

7月4日(土)
052 スペイン アトレチコ×マジョルカ 0-3でマジョルカは完敗も、久保は爪痕を残した。圧巻は42分。コケと若いSBをドリブルで置き去りにしてCBのヒメレスまで迫った。その直後のプレーでもDFに囲まれつつペナルティエリアで決定的パスを繰り出し、固いといわれるアトレチコDFを翻弄させた。後半途中から今日は休みのレギュラーSBのセレソンの新生ロディをも登場させるに至る。ロディはシメオネの意向を受けて久保を潰しにかかっていたのは明かであった。勝負が決まった段階でのアトレチコ、あるいはシメオネのプライドがそうさせていた。許せて置けないと。そうしたファウルギリギリのプレシングにたいして久保は幾度か潰されるも、正面からのタックルに対して負けなかったのが驚きであった。しかしそれにもまして驚いたのは、久保がぷらぷらと歩いている場面が多く、まるでメッシのようであったことである。味方の攻撃にエンジンがかかったときでも中央に入ることなく、サイドで留まって、タイミングを見計らっていた。大物感すら感じられたげーむであった。

7月3日(金)
「動的平衡」を続ける。生きるということと「エントロピー増大の法則」すなわち死ぬこととの折り合いについて疑問をもっていたが、はじめて明確な解答を手にした。それはP245にある。「秩序あるものはすべて乱雑さが増大する方向に不可侵的に進み、その秩序はやがて失われていく。ここで私が言う「秩序」は「美」あるいは「システム」と言い換えてもよい。すべては、消耗し、酸化し、ミスが蓄積し、やがて障害が起こる。つまりエントロピーは常に増大するのである。(改行)生命はそのことをあらかじめ織り込み、一つの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまりそれが「動的平衡」である。(改行)しかし、長い間、「エントロピー増大の法則」と追いかけっこしているうちに少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に追い抜かれてしまう。つまり秩序が保てない時が必ず来る。それが固体の死である」。

7月2日(木)
ゼミにて、井庭崇さんのコラボレーションパターンカードを使ってこれまでの人生を振り返って、その傾向を学年ごとにプレゼしてもらった。狙いはふたつ。カードのような道具を使うことの楽しさを知ること。ふたつ目は、分かりやすくプレゼする方法を体得することである。後者のために「プレゼ資料のデザイン図鑑」という本も紹介した。しかし、プレゼはなかなか難しいことが分かった。一筋縄ではいかない。建築における良くも悪くも見られる傾向であると思う。問題はふたつある。状況よりも過程を説明しようとしてしまうこと。過程の説明からモノそのものを伝えることは難しいと思う。このことは思考方法と深く繋がりがあるので、再考の余地があることに気付いた。もうひとつは、客観的にあろうとするあまり何を伝えるか目的がはっきりしていないことだ。ふたつの問題は微妙に絡んでいるが、使い分けることはプレゼにおいて重要である。こんことを知ってもらいたいと思った。道具を通じての体験については、道具を使うことを評価しつつも感動するまでは至っていなかった。ここでも再考の余地を感じた。ゼミの後、井庭さんの「プレゼンテーション・パターン」という本があったことを思い出し、読み直す。パターンカードに緩やかな構造があることをゼミで指摘されたからである。この本にもはっきりとかかれてはいなかったが、ネットワーク図があった。そこから、「創造」に関して3つのフェーズを用意しているらしいことがわかった。その3つとは、「チームのあり方」、「具体的なつくり方」、そして「コミュニケーションの取り方」といってよいだろう。このゆるい3つの構造を互いにネットワークさせようとしているようであった。カードという構成上、自由なネットワークを推奨しているのだと思っていたのだがそうでもなかったようだ。先日読みはじめた「動的平衡」で生命現象とは構造ではなく「効果」といっていた(p232)。このこととの関係を思う。

7月1日(水)
051 スペイン マジョルカ×セルタ 降格圏脱出へ向けての下位争いで、マジョルカはホームで久しぶりの勝利。しかも大勝であった。5-1。これで悪い流れが変わればと思う。久保へのチェックが甘かったか、あるいは久保が優れていたかは分からないが、久保がよいタメとなり、前線と中盤底にボールを配球していた。それによって久保は4得点に絡み2アシストであった。マジョルカはホームで先制点をかちとると強さを発揮し、がらっと雰囲気も変わるのが面白い。次戦はアトレチコという。アトレチコは久保へはガンガンとあたってくるだろうので、久保がどうかわすか楽しみでもある。

6月30日(火)
050 スペイン2部 サラゴサ×ウエスカ 香川と岡崎がそれぞれ先発。サラゴサは首位との勝点差1の2位。ウエスカも僅差で自動昇格へ迫る。現在4位である。前節に岡崎は得点をしている。ウエスカは岡崎の1トップで前半はウエスカペース。オーバーヘッドシュートも放つ。香川は4-4-2の左であった。後半は、がらっと変わってサラゴサペース。香川はトップ下入る。どうやらサラゴサは前半カウンター狙いの作戦であった。自陣引いて守備を固め、右奥の空いているスペースへ絶えず得点源のスアレスを走らせることを意図していた。左の香川はそのための反対サイドのタメである。後半からは前線から激しくプレッシングして速攻を試みる。そこに香川が起点となる。いくつかチャンスを演出するもフィニッシュできず香川は悔やまれるだろう。70分過ぎに後退。その直後にカウンターを食らって、0-1でウエスカに負ける。ウエスカは堅実でサイドからのクロス攻撃を繰り返していた。そして1トップの岡崎はポジショニングを考えながら鈍くさく体を張っていた。この結果でシーズンの行方はさらに混沌となる。

6月29日(月)
昨日の勢いで「動的平衡」福岡伸一著を読みはじめる。第2回目の研究室読書会の本である。自動車を真っ直ぐに走らせるために、運転手はハンドルを絶えまなく微動させている。これが動的平衡である。こうした現象は構造に依存しているのではなく、環境の変化への適応によるものであるという。あらゆる生命現象をこの論理によって説明している。

6月28日(日)
「時のかたち」クブラー著の再読をはじめる。最近読んだティム・インゴルドの内容が酷似している。インゴルドの考える人類学は、調査対象がマイナーな部族であったり過去の人たちなどで、絶対的他者というものである。それへの対処は、繰り返しになるが、直面する条件と過去によって累積的に形づくられた条件のふたつを、あらゆる瞬間で反応することであった。それは現実に基づく直接的な思考というようなもので、よからぬ観察者側の道徳観を消し去り、自分たちの価値判断が否応なく入り込んでしまうことに意識的な態度である。これを参与観察ともいっていた。クブラーも全く同じスタンスであった。歴史とは、モノを通して刻み込まれている存在の積み重ねの結果であるという立場を一貫して保持していた。通常は、調査した内容を起点にして一般論へ展開していく帰納法が一般的である。これをシンボル的な思考といってもよいと思う。例えば、建築作品の発表において現代の家族像を表現するようなことである。あるいは発見したモノから時代や民族が何であるかを推論する方法である。クブラーはそれとは反対である。世界(あるいは家族像など)は複雑で把握できないことを前提とし、たまたま垣間みた部分(時代や民族)を詳細に浮き上がらせることに力を注ごうとする。これをアレゴリー的思考と言ってもよいかもしれない。不変指向に対して動的指向である。本の帯にあるコペルニクス的転回とキャッチフレーズは、このことをいうのだろうと思う。

6月27日(土)
049 スペイン ビルバオ×マジョルカ 今日も久保は先発フル出場。監督の期待の高さを感じることができる。とはいえ、プレーの質はそうでもなかった。今日は比較的自由に動かなかったのはなぜだろうか。比較的右サイドにへばりつき、サイドチェンジのロングボールを待つことが多かった。同サイドのサイドバックも上がることが少なかったのもプレーを孤立させていた。中盤での攻防が大きいと思う。ここの打開に久保やホソが絡めばと思う。今日も負け残留に向けて厳しさが増す。

6月26日(金)
4年生の中間講評会。今年からの谷口スタジオでは、環境シミュレーションがテーマである。学生はそれに力を入れると、建築計画的なアプローチが疎かになり、その点を各先生から批評される。このバランスがなかなか難しい。ひとつの条件を強化すると他の条件も引張られることでよくなればと思うのであるが、現実では犠牲をつくってしまう。総合的アプローチの大変さを痛感する。

6月25日(木)
大学院授業で前半の総括。第5回の「崇高と美」については上手く伝わっていなかったようだと知り反省する。それで改めて整理する。ぼくらは対象物に出会い、それが理解できない凄いものであるとき、そこに崇高さを感じる。一方、何らかの方法で対象物を自分なりに説明できる場合、そこに美しいとかかっこいいとかあるいは悲しいとか、そうした感情をもつ。この定義にしたがえば雷は、古代人にとってはなんだか分からない神の怒りのように思えて崇高の対象となり、現代のぼくらにとっては、その成立条件を小学校授業で学んだりしているので、その構造が理解できたと思い雷を観ては美しいと感じたりする。一方、たまたま山里にひとりでいるときに偶然に雷に遭ったら、死ぬかもしれないという恐怖を感じ、偶然にも何で今なんだと思うと混乱し、雷に遭遇した状況に崇高さを感じるかもしれない。つまり、人の感情とは単独では存在せず、対象や状況に左右される相対的なものなのである。そのこのような観点から人間の感情をカテゴライズすることにカントらは成功した。そしてこの相対的な構造を推し進めて究極にあるのが「物自体」というものである。「物自体」も理解するのが難しいのだけれども簡単にいうと、どんな時代でも世の中では、理解出来ない対象というものが数多あり、人はそれにせめて名前でもつけることで、理解できない対象を自分なりに捉えて納得した気になろうとしてきた。そのはるか先にある決して表現しきれないもののことを「物自体」といっている。つまりカントによると、人の感情とは対象と状況の間で動くボリュームコントロールバーみたいなものということである。カントがさらに面白いのは、こうした感情はひとりひとりの心の中でしか起きない訳ではなく、人間集団あるいは社会でも起こりうると考えた点である。例えばコロナにたいしては、全世界的な恐怖であるし、第1次大戦後に民主的な手続きを経てナチスを生んでしまったドイツ国民にはそうした共通の感情があったという。これを前提とすると、建築を廻って、アーでもないこうでもないと言って思考しているぼくたちの行動も理解できる。「物自体」の手前にあるもののひとつに、大文字の「建築」といいうものがあると思うのだ。最高の建築などと言うはっきりした答えなどない。それにも関わらず、何世紀にも渡って建築家たちはそれを納得しようと躍起になってきた。そうしたものが「建築」で、ぼくらも未だにその魅力に取り憑かれた参加者のひとりとなっているのである。建築における思考も人の感情と同様の構造をもち、「建築」と状況との間にあるボリュームコントロールバーみたいなものとして位置付けられるのである。ただしこれは全ての人に関係する訳ではなく、ミキサー隣にある他のボリュームコントロールバーに移っても構わない。「建築」にいない例えばぼくの奥さんは、休日返上して仕事することを全然理解できないが、また別の「世界」で生きている。したがって「建築」から外れても何ら問題ない。しかし、「建築」というボリュームコントロールバーは、なぜかしら多くのひとを虜にするほどに魅力あるものとして生きながらえて成長してきたものといえそうだ。それが「建築」というものである。したがって「建築」を否定してもはじまらない。カントに言わせればそうしたものを前提とせざるを得ない。これが、ぼくが崇高論から学んだことであった。

6月24日(水)
048 スペイン レアル・マドリード×マジョルカ 日本だけでなくスペインでも久保の活躍は報道されているようだ。ASの表紙になったという。試合前にジダンも久保についてコメントをしていた。そんな中ゲームが始まる。マジョルカは早々に失点してしまいレアルに余裕を与えてしまったこともあるが、ゲームをコントロールしている時間帯もあった。今日は、古参セビージャを先発させずに監督は守備一辺倒としなかった。これも原因である。その中心に久保がいる。久保は、ガンガンと詰めよることなく間を保つレアル選手とは組みやすそうである。いくつか見せ場もつくる。とはいえ得点ができていないので、もてあそばれているとも言える。ジダンがいうように、もうひとつ鋭い何かが久保に必要とされている。

6月22日(月)
047 プレミア エヴァートン×リヴァプール プレミアも開幕する。南野先発も前半で交替。そう悪くなかったと思うが、中央に入りすぎていたか?これが持ち味で、今日の南野は生き生きとしていたように思う。パスも回ってきて比較的自由に動き回っていた。これがクロップに否定されたかと思うと、なかなか立ち位置は難しくなる。リヴァプールは今日、アンジョレッティに上手くかわされた感じである。プレスがかからない位置に誰かしらがいて、そこから速攻を受けリズムがつかめないままでいた。

6月21日(日)
「人類学とは何か」ティム・インゴルド著を読み終える。後半では、著者が人類学に所属する苦悩を記しているが、畑違いのぼくにはピントこなかった。とはいえ、「民族誌」を否定することに共感できた。民族誌とは、観察者が見えないために批判の対象になることはなく、かえって都合のよい見本として純化されたかたちで保存されてしまうものである。そこで観察者が仮説を表明することが必要とされる。これがティム・インゴルドの世界観である。同様に世界の多様性に立脚することにも基本的に否定的である。それによって互いの不干渉を招くからである。現在の経済のグローバルに対応する術は、こうして失われていったという。ではどうするかというと、ティム・インゴルドは、知識でなく知恵であり、生であると結論付ける。生とは「諸関係があらかじめ与えられるのではなく、絶えずつくり出さなければならない」ものである。「デザインの鍵」で言えば、「名前のない空間へ」ということであろう。翻訳者の奥野克巳さんに興味をもち、続けて「森は考える」を購入する。テレビでコロナ以降のビジネスについて星野リゾートの星野佳路氏が語っているのを観た。現在のコロナ対策は、仕方なし風であって、ポストコロナの新しいツーリズムのあり方ではないという。それでは新しいツーリズムは何かというと、星のリゾートで行われてきた食材豊かなビュッフェから例えば、森林の中でテイクアウト朝食をとる提案であったりするという。少し興味をそそられるも、おもてなしがここまできたかとも思う。全てが消費の対象となってしまっている。自由な余白などないことを感じた。夜「パラサイト 半地下の家族」ホン・ジュノ監督を観る。人物設定が巧妙な構成的な映画であった。今の時代背景を追ってしまうと、各家族が南北朝鮮とアメリカ(資本主義)と重なって見えてしまうのは、ぼくだけだろうか。元家政婦が北朝鮮のスポークスマンそっくりであったのも滑稽であった。舞台となるモダニスト建築家の設計した住宅は、地下室の各家族の存在を象徴的なものにしている。そこで地下の人、地上の人が分けられ、それぞれは各々の領域では生き生きとしていているが、そこを横断する度に混乱が生じる様が描かれている。映画では、そうした境界が生まれてしまった理由として、経済格差という解答が与えられているが、監督は地下フェチなのだろうと思う。地下への思い入れが感じられた。世界各地に天岩戸神話のようなものがあるが、そのような地下の存在を前向きに捉える監督の視点が感じられた。地下の存在によって地上の秩序が保たれているといっているようでもあった。

6月20日(土)
ティム・インゴルドの新刊「人類学とは何か」を読みはじめる。2章まで進む。人間の本性をティム・インゴルドは、自然という先天的な考えも、文化・環境という後天的な環境からの影響も批判する。それでは何かというと、「人間は、人間が直面する条件―過去に自分自身の行動によって累積的に形づくられた条件―に、あらゆる瞬間に反応しながらつくられる自らの生の産物である(p47)」という。ティールのいうところの「感知―応答」を的確に表現する文章であった。ティールでは自転車が例に挙げられていたが、この本では歩くことを例に「あなたが歩くようになるということは、あなたの歩くしかたで歩くようになることである。―さらには、それはけっして完成することがなく、ある部分は他者の支えや交わりによって、またある部分は絶えず老いていく身体の変わりゆく生の力学に応じて、生涯を通じて続いていくプロセスである」といっている。本書では、これを「非=対立的な理解」と呼ぶ。自然×文化(人間)や先天的×後天的、社会×個性、社会×生物あるいは状態記述×過程記述を超えたものという意味である。そして、この非=対立的な理解によって、「私たちは、私が今置かれている場所から無制限に諸関係の風景の中へと達することとになる。そのアプローチは包含も排除もせず、広がっていくp62」という。ここまできて「デザインの鍵」ラストの96「広げるほどきめやすくなる」を思い出す。これも、デザインするときにぼくらが対象物の中に入り込んでいくことを否定したものだ。デザイン対象を限定しないことで、「(デザインする)対象物は無限に広がっていくと同時に、デザインの対象は単に名前だけではなく、具体的な形として無限に広げた形の中に浮かび上がってくるシンボリックに考えることができる」というのが、96であった。「デザインの鍵」では、「非=対立的な理解」に相当するものとしてデザインスゴロクが提案されている。
046 スペイン マジョルカ×レガネス 終了間際に失点をして、マジョルカは最下位争いから抜け出すことができなかった。1-1のドロー。今日は良くも悪くも古参セビージャ中心のチームとなり、久保の出る幕がなかった。悪かった前半戦の戦いである。コロナ前にいい感じのチーム状態から、これでもどってしまった感がある。

6月19日(金)
「ひとり空間の都市論」南後由和著を読み終える。社会学者が「お一人様」という社会現象を建築的に捉えていて面白い。貴重な視点である。これに似てぼくら建築家が行おうとすることとは、「潜在的な」社会的要求をマテリアライゼーションすることであるが、これがいかに特殊な欲求であることを痛感する。商売をする人、ニュービジネスを探る人、こうした人ぐらいなのかと思う。将来のことなど見えないのだからマテリアライゼーションは、むしろトライするものではないように思えた。

6月18日(木)
大学院の3回目のレポートが届く。難波さんの「モダニティの条件」を読んでもらった。「建築の四層構造」という思想に至るまでの難波さんの考えが色濃く表現されている論考である。この時期は、ポストモダンが終わりかけていた時代であった。ポストモダンとは、簡単にいうとこれまでの規制概念を壊そうという時代であった。それは兎に角「逃走」することで、建築でいえばアンチモダニズムでいることに主眼が置かれていた。そうした時代背景の中、改めてモダニティといった論考である。いくらか設計が自由になって、建築家たちは何を手にしたかという疑問がそこにあった。もう一度、センシティブにモダニズム的思考を徹底すべきであるという考えである。あれから20年経っている。現在はどうだろうか。少なくとも、「逃走」が主流となっている訳ではない。難波さんのいうようにそこからの揺り戻しがあり、ぼくらは(直接でなくとも社会的に)一度「逃走」を経験しているので、もう少し冷静な目でモダニズムを判断することができるようになっている。それは建築初心者の学生も例外ではない。建築の勉強をはじめた頃は自由に展開していた自意識も控えるようになり、自分探しの時期に突入しているのでないかと思う。ぼくもそうだった。そのときに、前回の「自己解体の試み」あるいは今回の「モダニティの条件」から得たものは大いなる救いとなった。逃走とは、何かがあってそれから逃走であり、なんだか後向きな切羽詰まった感じがするが、(中心にあるもの)何であるかを掴めば、逃走手段を考えるのも楽しくなったりするのである。
045 スペイン ビジャレアル×マジョルカ 久保は存在感を示すも60分で交替。週2ゲームをこなすローテージョンと思いたい。今日はシュートこそなかったものの、ボールをつなぎゴール付近まで運ぶトップ下の役割を果たしていた。久保のプレーはひとつひとつが何かを語ってくれている。やはり問題はフィニッシュの精度と回数である。0-1で負ける。久保の活躍をクローズアップしているが、コロナ解除後のゲームでマジョルカはまだ得点をしていない。

6月17日(水)
建築雑誌6月号は、「建築と生物学の接点―多目的最適化をめざして」である。話題は、生物へのアナロジーからAIやパラメーターの多様化まで幅広い。植物的な建築を求めて久しいが、生物進化論に代表されるように機能的決定論が優先されている。そのために突然変異や偶然、あるいは創造といったこれまでと不連続な事象の説明が必要となるとき、実在論や数学が出現してくるのだと思う。過程記述と状態記述の違い、あるいは個人的視点と宇宙的視点の違いといってもよいが、これを同時に見る方法がないものかと常々思う。

6月16日(火)
建築雑誌5月号の難波さんの盈進レポートを読み、「ティール組織」巻末での中埜さんとのまとめを思い出す。中埜さんはマイニングといっていたが、これが5月号特集の物化マテリアライゼーションにあたる。この特集でいっている循環回路がティールでは螺旋回路となる。システム化(結合・かたち)、内面化、共有化(暗黙知)、表出化(マイニング)を繰り返す渦巻き型構造である。巻末では、これを提案し、個が社会化することを全体性といった。英語では、Connectuon,Intermalised,Socialized,Externalizedである。この特集によって、ぼく自身の中の全体ストーリーがつながっていくのを感じた。ラトゥールは、世界を認識する方法をあるときは人間主義であったり、あるときは科学自然主義あるいは社会主義であったりと、都合よく(無意識に)近代人が使い分けていたことを批判していた。これに回路というかたちで、整合性を持たせた考えがマテリアライゼーションであったりマイニングであったりすることに気付く。深夜NHKジオジャパンを観る。300年前の北アルプスの爺ヶ岳や穂高岳、槍ヶ岳の成立過程を示す。巨大なカルデラ噴火が起き、地下のマグマが固まった巨大な花崗岩が太平洋プレートに押し出され直角に隆起するまで至ったという。つまりマグマだまりの大きさ10キロの高さまで達する山となる可能性もあった。現在の黒部渓谷などは、その亀裂となった断層であるという。この景色を見たことがなかったが、かなり険しいものであった。続いて関東平野の成立過程も示す。何万回という関東大震災クラスの地震が起き、東京湾海底にはL型の隆起があるという。それが堰き止めになって、崩れた山々の土砂が投がれ込み広大な平野をつくったという。

6月15日(月)
建築雑誌5月号は「社会のマテリアライゼーション(物化)」である。社会学と建築との関係である。日本の建築は3.11以降の揺れ戻しから新しい社会との模索に入った感じがした。直接的な人的援助や近代建築批判も落ち着き、再び構築力が試されようとしている。その出発となる特集である。副題も建築の社会的構築力である。多くの人はどう思うのだろうか。こうした視点は最近流行っている一連の実在論にも現れている。巻頭論文にもそれははっきりと表現されている。社会から建築へという一歩通行回路から建築(モノ)から社会への回路の重要性を訴え、循環性の可能性を探る、というものだ。ただし、ぼくら建築家はモノをつくる立場なので、一足飛びに循環性というのではなくて、まずは建築から社会への回路をということだろうか。そのための今月のラインアップは豊富である。まずは、「ブルーノタウトの取説」の久保明教氏、「関係性のデザイン」の池辺さんの助手であった門内輝行氏、アーレント専門の「公共性」を著した齋藤純一氏、教育家の佐藤学氏からは臨床ということから設計教育について学んだ。それに社会学者で「ひとり空間の都市論」著者の南後由和氏、山本理顕氏の対談、アレグザンダーの盈進訪問まである。これらは、難波さんあるいは池辺さんがもっていたコミュニティ構築とは異なる建築的な社会化の考えが色濃く反映されたものだ。前月の木特集と読み比べてもよく分かるのであるが、建築家が社会を語る、あるいは関わるときの専門家故のスタンスというものに徹した考えである。それを確実に行うべきであるというものだ。これを物理的な建築技術といって、プランニングと対比してもいる。震災の復興活動で難波さんは、仮設住宅のモノとしての性能向上に務めていた。とくに断熱等とその後の住宅活用方法についてである。それで縦ログを構法まで確立した。現在は林業という社会問題にまで広げている。これこそ建築家ならではものであり、ややもするとこれまでの日本文化が毛嫌いしてきた上から視点ともなるが、直接的な技術的問題である。

6月14日(日)
044 スペイン マジョルカ×バルセロナ スペインも開幕する。スペインはドイツと異なり、無観客でも放送にはバーチャルな観客がスタジアムを埋め、何よりも歓声を被せることによってスタジアムを盛り上げようとしている。それ程違和感がない。むしろ、ゲームを楽しくしてくれた。そうしたところに各国リーグの国民性が現れる。ドイツの厳格性に対してスペインはルーズだ。選手のマスク対応やベンチワークをみてもそれは明らかである。これが一般のコロナ対策でも共通するのだろうと思ったりする。ゲームは、早々にバルサが得点をして、ゲームのアグレッシブさが欠けてしまった。久保がそのプレーに絡んだともいえるが、一流チームの凄さをそこに感じた。その後、久保は奮闘する。前半でシュートは3本。左からドリブルで上がってからのゴール左へのシュートは見事であったがキーパーに阻まれる。これまた超一流なら決めていたところだ。フリーキックをキャプテンで絶対的チームの支柱であるセビージャから奪い取ったのが印象的であった。ボールを抱えて放さなかった。この休み期間に久保の位置づけが大きく変わったことを感じた。後半から久保は、中央にポジションをよせ、いつもの後半のように攻撃的になる。ただし、バルサが混乱することなくむしろマジョルカは、バラバラで立て続けに失点する。0-4の大敗。久保は攻撃陣では数少ないフル出場組であった。しかし、これから週2でゲームが行われる。降格組にいても、チームを立て直す時間は残されていない。

6月13日(土)
043 ブンデス ヘルタ・ベルリン×フランクフルト スタジアムはフライオットーである。少し垣間みることができる。ゲームは、フランクフルトが失点をしてから反対にずっと有利に進めていた。その中心に日本人の鎌田と長谷部がいる。鎌田は得点こそなかったものの起点と突破口の役割を果たしていた。フランクフルトは相変わらず攻撃的である。近頃、フランクフルトのゲームを観る理由でもある。

6月12日(金)
大学院で課したレポートが届く。ひとつはコーリン・ロウの「透明性」に関するレポート。もうひとつは難波さんの「自己解体の試み」の感想である。今の時代にどうして「透明性」のレポートか?「透明性」の内容は兎も角として理由はふたつある。「透明性」は現代に置き換えることが可能な問題設定であるということ。ガラスに相当する今日的問題がある。そして、こうしたところにいつも建築的思考方法の妙やパターンが隠されている、このことを、身をもって感じてもらいたいと考えた。もうひとつの難波さんの論考は、非常に捻れたものだ。自己を他者の視点で捉えるというものである。デザインする上でこれを意識的に使い分けるのは非常に重要である。そうでないと自己混乱をきしてしまい、それを怖れて自閉してしまう。急にモノがつくれなくなる学生は、主にここに理由があると思う。

6月11日(木)
KDDIから、緊急事態宣言後の通勤に関する東京丸の内、品川、霞ヶ関駅のビッグデータが公表される。それによると宣言直後は平時の40%になったという。その後宣言が解除されると、品川が平時の47%、丸の内も53%まで回復する。霞ヶ関は64%。霞ヶ関以外はテレワークがそれなりに進んでいることを示している。しかし年齢別にみると60代以上が60%前後で若くなるほど低くなる。品川と丸の内は30代では50%前後である。対し霞ヶ関では65%。役所関係ほどテレワークが進んでいないことが分かる。

6月10日(水)
NHKで「ジオ JAPAN」日本列島の成立過程を追う番組を観る。1400万年前、日本は平原であっっというので驚く。そのとき、西日本各地で巨大噴火が起こった。紀伊半島下には、今でも神奈川県ほどの大きさの花崗岩が埋もれているという。そのとき世界的にも稀な巨大噴火が生じ、それが噴出することで生じた地表面近くの空洞に地下深くのマグマがゆっくりと固まった。地表に吹き出した溶岩によって、現在の紀伊の険しい山岳をつくった。そうした巨大花崗岩は西日本の各地に埋もれている。その位置は日本の神話伝説や空海伝説の場所と一致している。

6月9日(火)
大学に行き、3,4月号の建築雑誌を漸く手にする。4月号は木材特集。縦ログ構法を難波さんとやってきたが、そのまとめである。しかし、これまでと印象が異なった。テーマが川上、川中、川下である。何だろうと思うだろうが、それは林業と製材業、建築業に相当する。亡き芳賀沼さんがいつも口にしていた。現在木産業は、川下の建築の値段がまず決まり、そこから逆算して川上の価格が決定されてしまう、という言葉である。そしてそこでは歩留まりが大きな要因となる。本書によると、材料歩留まりが45%まで下落しているそうだ。大貫肇氏のレポートによると、それは1980年代の構造改革によって住宅建設の合理化がすすめられた結果であるという。それによって大工さんの職人的刻み作業からプレカット構法が普及し、プレカット技術に見合う乾燥木材の品質向上が求められ、製材歩留まりの低下を招いたという。当時67%あったものが急に20%も下落した。それでは、歩留まりを上げる方法は何かというと、本書では少し歯切れが悪い。歩留まりが80%といわれるLVLがよいと読めるのだが、それ以上のLVLへの言及が少ないからである。竹原義二さんとの対話の中で、小見山陽介さんがこのことに少しコメントしている。本来心材となるはずの価値のある木までも、歩留まりを上げるための細かいB材のLVLとなっていると。つまるところ、川下、川上のネットワークが分断されているのである。これらを総合すると、木材料の流通をコントロールするさらなる俯瞰的仕組みが必要ということである。そう考えると、産地指定ということをぼくも行ってきたことであるが、それはさらに歩留まりを悪くするものとなる。地域のシンボル性は保てても、もっと広い視点に立った柔軟なシステムが必要なのである。だが、もう少し踏み込んで考えネットワークという観点にたつと、世界は自然と、黒幕的ヒエラルキー型になるように思えてならない。システムが安定するほど、誰か賢い者が莫大な利益をかき集めるシステムに自然となるということだ。だとしたらこれを揺さぶるような方法を見つける必要がある。林業の場合でいうと中間にある川中に鍵があるのではないか?と思う。これは「ティール組織」から得た結論でもある。このことをあらためて反芻する。

6月8日(月)
午前中は虎ノ門行き。AdobeのPDF編集ソフトを購入するもサブスクリプション出来ずに苦労する。30分近くまち電話にて漸く理由が判明。解決する。午後はオンラインのエスキス。

6月7日(日)
「私は光りをにぎっている」中川龍太郎監督を観る。飛ぶことの出来ない現代の魔女の宅急便というふれこみであったが、現状追認でしかなかった。しかしラストでは、ぼくら世代の光石研演じる銭湯の主人がくよくよしていて前に進めないのに対し、主人公の松本穂香は、腹をきめて元気になっていく。この姿は神々しい。終わりを前提として、どう生きるかを分かった松本穂香の好演技であった。とはいえ、もっと生き生きとしてもよかったのでないかとも思う。同世代の若者に共感されるのだろうが、時代雰囲気に頼っていては、時代が変わるとその理解も難しくなるのではと思う。

6月6日(土)
042 ブンデス フランクフルト×マインツ 連敗中のマインツにフランクフルトが負ける。長谷部フル出場。鎌田はいいところなしで途中交代であった。長谷部はレベロで3バックの中心であったが、幾度かバックをとられていた。ゴールされるもオフサイド判定で2度も救われていた。しかし、3度目は長谷部が競り合いから負けて追加点とされる。今後に不安材料を残すこととなった。

6月4日(木)
ゼミにて、池辺さんの作品を紹介する。池辺さんのユニークさは、思想の射程距離が長いことを強調。そのためにデザインスゴロクがよい道具となることを説明。その後、屋根の表現の話となり、近頃の屋根が見直されているという状況を、むしろ建物を風景と同化させるための屋根デザインであるという指摘が面白かった。消すためにデザインするという考えである。オンラインゼミも少し慣れてきた。

6月3日(水)
041 ブンデス ブレーメン×フランクフルト 大迫、長谷部、鎌田が先発。長谷部の存在感が光る。時偶裏を取られるシーンがあるも、強いレーダーシップを発揮し、チームメートをコントロールしていた。それに比べると、鎌田、大迫は、十分にパフォーマンスを発揮できていないようである。長谷部と異なり動かされている感じである。

6月2日(火)
大学行き。授業準備と事務処理を行う。本格的に暑くなってきた。このところ授業の動画制作でいっぱいである。少し頭が整理できたことをよしとしよう。意外とテーマがひとつに絞られていったのには驚いた。

5月31日(日)
「天気の子」新海誠監督を観る。なんのてらいもない純粋ラブストーリーを気持ちよく仕上げているところが前作とは違っていた。東京が水没してしまってもハッピーな気持ちにしてくれた。舞台となる神社のあるビルは代々木駅前のものかと思いストリートビューをすると、それは解体されていた。このビルは、ぼくが子供の頃観ていた「傷だらけの天使」で、萩原健一と水谷豊の住まい兼事務所であったと記憶する。深作欽二監督のオープニングシーンは強烈で、その音楽や菊池武夫の衣装は今でも鮮明に思い出す。何度もこのビル前を通り過ぎているが、中学時代に友人と確認のため訪れていたから思い出すこともできたのだろう。「天気の子」の最初のシーンはJR病院で、息子が生まれる前に妻が長く入院していたところでもあり、このシーンも印象深い。前作でも代々木が多く出てきたのだが、新海監督と何かの関係があるのだろうかと気になった。

5月30日(土)
040 ブンデス ヴォルフスブルグ×フランクフルト 長谷部と鎌田が先発。鎌田が決勝ゴールを決める。ラッキーなゴールであったが、DFよりも走りきったゴールであった。長谷部の守備での貢献も目立つ。開催後4試合目となるが、少し物足りなさを感じるようになった。やはり無観客は盛り上がりに欠ける。スペインの再開日も発表になる。6月の第2週である。

5月29日(金)
カサベラ906は、煉瓦建築特集。冒頭にミースの作品が紹介されている。その作品を知らなかったが、1926年の共産主義者組織撲滅組織の首謀者のための墓碑であった。文書から、廃棄処分となる煉瓦を使用していたことを知る。しかし、建築は過激である。カール・リーグクネヒトとローザ・ルクセンブルクのための墓碑である。ところでこの特集のように、素材の可能性を極限まで高め素材の細部に拘る建築には辟易としてしまう。新素材ではないからだろうか、建築が芸術を担っていることの反発だろうか、懐古主義とみえるからだろうか、取り付く島がないことを感じた。905号が届いていないと記憶するが、そこに掲載されていたらしいレム・コールハースのダラヴァ邸の批評が今号の日本語バージョンにある。それは、今号前半の特集よりはるかに面白い。コルビュジエと、コールハースあるいはダリとを詳細に比較するものであった。コルビジュエを、清教徒のドグマに囚われていた者であるときっぱりと言い切り、構図はピューリズム×シュルレアリズムである。この論文では、ダリの偏執狂的批評の方法の言及にまでは及ばないが、コルの見えざる手とブニュエルの開いた目の比較など、事例に則した論考は理解しやすかった。これによって、ダラヴァ邸に登場するキリンの存在に納得がいった。そして、コルビュジエのベイステギ邸のドローイングにオウムがいる意味も知る。この作品は、コルがシュールレアリズムから唯一影響を受けた作品であるそうだ。難波さんとの那須のコンペ案を思い出す。今ならそこからの展開ができそうだ。もう一度トライしてみたい案である。現在のコロナ渦でも通じる案であると思う。

5月27日(水)
039 ブンデス ドルトムント×バイエルン ドルトムントはホームで負け、大きく勝ち点の差をつけられる。これで今季は万事休すとなった。無観客ではホームアドバンテージがないという。その通りとなった。後半に、ドルトは攻め続けるもゴールマウスをこじ開けるには至らなかった。

5月26日(火)
今日のブラタモリは飛鳥であった。飛鳥(明日香)は、日本の最初の都として有名であるが、タモリがいうように、それは思ったより小さい。村のようである。その中心にあった飛鳥寺が、掘立柱式でなく、石という基礎の上にのせたはじめての建物であることを知る。構造的には、ピン支持になったことを意味する。これは、柱へ曲げがかからなくなり、柱断面が大きくなくとも大きな建築が可能となったことを意味する。その代わりに梁などの横部材が大事になってくるのだが、その点については触れていなかった。このときの上屋はどういうものであったろう。現存の飛鳥大仏は石の上に固定され、この1400年間移動することはなかったという。上屋だけ何度も建て替えられたという。

5月25日(月)
「デザインの鍵」を読みながら、その今日性について考える。コロナの影響で自粛要請が広がり、ひとりひとりがバラバラにされている。ソーシャルディスタンスという新しい言葉も生まれた。これまでの人が自然とあるいは文化的にもっていた距離感とかコミュニケーションとか、あるいは安心感とか、そういった価値観が揺さぶられている。そしてこのことを皆気付いている。しかしある人は、これは一時のものだという。あるいは、自粛明けに、その良さを再確認し、人との繋がりというものはもっと見直されるようになるという。池辺陽の「デザインの鍵」には、こうした人間的視点が全くといって記されていない。このことに気付く。こうした人間から観た価値みたいなものが将来に渡るひとつの指針を示すものだとしたら、つまり、「デザインの鍵」には将来に対する提言みたいなものが一切ないのである。不思議な感じがした。現在の自分やデザインを立ち位置のみが記されている。むしろ過去からの歴史の中の位置づけを与えるだけである。それで、デザインという創造をテーマとしている。これが面白い。

5月24日(日)
「マーウェン」ロバート・ゼメキス監督を観る。写真家マーク・ホーガンキャンプの伝記である。G.Iジョーとバービー人形によるCGシーンと、スティーブ・カレル主演の現実シーンがシームレスで、不思議な映画である。主人公は暴行によって脳に障害を抱え、PTSDにも苦しんでいる。リハビリのためのフィギュア撮影対象は、自分や友人たち、そして自分を襲った男たちを模した人形を使った空想世界である。その町がマーウェンという。そうした主人公が自己の内的世界から脱出するまでが映画のテーマである。驚くほど彼を取り巻く町の人たちは優しい。アメリカの寛容さというものであろうか。しかしテーマは明るくはない。しかしそう感じさせないのは、ティムバートンの片腕キャロライン・トンプソンの脚本によってである。最後は、ゼメキスが監督したバックトゥーザフューチャーのシーンもあるし、ティムバートンのフランケウィニーやバットマンでのラストシーンも登場する。おまけに白雪姫やシンデレラのパロディもある。これには笑った。そして最後に主人公は開放される。主人公の心深く支配していた無意識の母親的な存在を否定することによってである。主人公は、母親に相当するフィギアを神棚から箱にしまうことに成功するのである。そのキャラクターは性格がきつく、いつも最後に登場しては主人公を正し、主人公の愛する女性を抹殺していた。しかしそれは彼にとって精神安定剤でもあった。そのフィギアの腕にタトゥーを発見すると、その幻想から開放されたのであった。

5月23日(土)
037 ブンデス ヴォルフスブルグ×ドルトムント 2-0でドルトの勝ち。次戦はバイエルン戦である。まだ体力を整える準備段階で、両チームのもともとの技術の差で勝敗が決していた。技術が優れたドルトムントはスペースを大きく使い、落ちついたパスを巧みにしていた。その間に、抜群の決定力でゴールを決めていた。
038 ブンデス フライブルク×ブレーメン 大迫が後半途中から、1トップで出場。途中から2トップへ。しかし全くといってよいほど、ボールが回ってこなかった。ブレーメンは8バックとなってしまい、余裕でポゼッションされ、セカンドボールを完全に支配されていた。勝利したとはいえブレーメンはかなりの重症である。若き知将コールフェルトは苦悩している。

5月21日(木)
大学院の推薦入試がオンラインで行われる。特に問題がなく、こうした会議に慣れてきたことを実感する。夕方にオンラインでゼミ。その間に、パタンランゲージについての講義をまとめる。学部と院の授業で内容を変更することにする。

5月20日(水)
ぼくのオンデマンド授業が今日からはじまる。反応がわからいのがもどかしい。江戸前寿司の伝説の巨匠、藤本繁蔵の番組を観る。小林秀雄、魯山人、白洲次郎らと交流があり、店つくりまで拘っていた。カウンターの木曽檜はもちろん、厨房との段差やカウンター高さ、あるいはカウンター上の小庇の形状、照明方法、あるいは食器などである。そうして、寿司を文化にまで高めた。それは、数々の文化人から知識を受けその実践をしていたことによる。その影響は今でも続いている。寿司の名店といえば木製冷蔵庫を店の顔とすることである。藤本繁蔵から当たり前になっているそうだ。

5月19日(火)
NHKでビッグデータを使用したコロナ解析の特集を観る。世界中の5万件のコロナに関する科学論文分析からは、これといって新しさがなかったが、スマホの位置情報を使用して自治体が、人の動きを把握していたことを知ってびっくりする。町を125m角で区切り、密集度を既に把握できていた。さらに驚いたことに、シンガポール政府が開発したスマホアプリをさらにバージョンアップし、その適用を日本政府が予定していることである。ブルートゥースによって、30分以上2m以内に接触した人をスマホに記憶させるシステムだ。データ中に感染者がいたことが判明すると、自動的に該当者にスマホに知らせてくれる。完全とはいえないものの、データは匿名性が保たれたシステムである。

5月18日(月)
パワポから動画への変換の問題が漸く判明する。判ってみれば当たり前であることは、こういうことであった。余計な作業を加えていた。MacとWinの扱いの違いにもよる。これまでの作業が無駄になってしまったが、いい経験になったとしよう。

5月17日(日)
「真実」是枝監督を観る。これまでの作品のように家族がテーマと思いきや、ぼくにとってはそうした問題を超えて、映画つくりの素晴らしさが伝わってくる作品であった。ここに登場してくる人たちは映画に関わっていて、皆自立している。その仕事での充実ぶりが家族たるものを豊かにしているのだ。全てを賭けて打ち込める価値あるものが映画といわんばかりである。

5月16日(土)
036 ブンデス ドルトムント×シャルケ 2ヶ月ぶりにサッカーを観る。なんでもメルケルが国の威信をかけてサッカーを開幕させたそうだ。欧州のどの国よりもドイツが優れていることを内外に示すために、である。長谷部もいっていたが非常事態宣言解除から10日。早くても6月開幕といわれていたそうであるが、それをはるかに凌ぐ早さである。そのために分厚いマニュアルが作成された。もちろん無観客で関係者も制限される。選手の握手も記念撮影もなかった。5人まで交替可能というルールも変わっていた。そしてこの26節はルールダービー。熱さはいつもとは異なっていた。その結果、4-0という大差がつくものとなった。2017年の第2戦でドルトが4-0から後半追いつかれたが、サポーターがいない分、そうした展開にはいかなかった。もっともゲーム内容も、お互いフィジカルが十分でないためか、無理なプレーが少なかったと思う。その中で選手間の距離を保つポジショニングが優れていたドルトが勝つことになった。

5月15日(金)
オンデマンド授業の目途が漸くたつ。なかなか苦労した1週間であった。最低限をクリアできたので、次のステップを考えようと思う。これで授業の質も変わってくるのでないか。TAに連絡をとり、具体的授業準備にとりかかる。前田裕二や明石ガクトがいっていたが、世の中は確実に、プロセスから結果主義に変わっていく。設計も同様である。こうした状況にたいする立ち位置は重要と思う。

5月14日(木)
オンラインゼミにて「デザインの鍵」をはじめる。著者池辺の特殊性が早い段階で皆に意識されていた。それは、徹底したモノ思考であること、そして、良い悪いといった価値判断がないこと、である。ラトゥールが指摘するように通常は、都合のよいときに人間性を持ち出したり、科学性を持ち出したりを人はするものであるが、池辺はそれにたいして意識的で批判的である。

5月13日(水)
日本の自衛隊がアメリカに出向き、アメリカの軍事ナショナルセンターで共同訓練を行う特集を深夜に観る。この軍事センターは東京ほどの広さがあり、日本だけでなく、あらゆる同盟国が参加しているという。驚いたのは、日本は戦車までをも輸送し、後方支援といいつつもアメリカ軍と攻撃参加の演習をしていたことであった。もちろん憲法に違反してはいないだろうが、普通に見れば、あるいは敵国から見ればそれは判るはずもなく、共同の軍事作戦である。9.11以降、戦車+歩兵部隊による戦いがまた再び主流になりつつあるという。

5月12日(火)
NHK番組の「疑惑のカラバッジョ」を観る。トゥールーズの民家でカラバッジョの画とみられる「ホロフェルネスの首を斬るユディト」が発見される。この画は旧約聖書の逸話を大胆な構成で描いたもので、本物かどうかを廻るドキュメンタリーであった。こうした場合フランスでは、30月の間、作品を国外へもちだすことが禁止され、ルーブルで徹底的に検査が行われるそうだ。しかし、ルーブルではこの画がカラバッジョのものであるという公的確証が得るまで至らなかった。しかし面白いのは、本物かどうかの決定を実は市場が行うということである。真実というものはどこかにあるのだが、市場が高く買うことになればカラバッジョの作品となるのである。至上主義である。このケースの場合、公開オークションで二の足を踏まれることになるが、最後はニューヨークのメトロポリタン美術館の後援者から価格未公開の状態で買い取られた。これでこの画の運命は一端保留されることになる。つまり、本物でないのだろうが経済社会での価値は留保されたのである。社会とは恐ろしい。

5月11日(月)
サッカー元日本代表岡田武史の半生を振り返る番組を観る。彼にとっては、戦術と選手の自主性の両立が最大のテーマであるらしい。つまり、規則と創造、集団と個人の境目にかんする問題である。そのための彼の結論は、16歳までに徹底的に基礎を叩き込むことが重要で、そうしたプロセスを経た後にしか自律性が芽生えないというものであった。設計を学ぶことにおいても同様であると思う。まずは作法の徹底化とも思う。

5月10日(日)
MISIAのスマイルプロジェクトに感動。オンラインでの久しぶりの素晴らしいコラボレーションを見た感じであった。番組つくりも新しい局面を迎えている。内容もさることながら、表現編集技術が重要となっていくことを知る。そう考えると、授業の映像つくりに少し希望をもてるようになる。

5月9日(土)
「イミテーション・ゲーム」モルテン・ティルドゥム監督を観る。アラン・チューリングという第2次大戦中の英国暗号解読機関メンバーの生涯を描く映画である。ナチスの暗号を当時エニグマ(謎めいた言葉)と呼んでいた。アラン・チューリングは元来センシブルで、数学が得意な少年であった。中学時代にクリスという友人からいじめに救われ、その友人に心を許すも、病気でなくなってしまう。するとチューリングは心を閉ざし、大学に進むと暗号解読に溺れてしまう。戦中は国防省に自ら進んで入り、2年を費やして漸く解読に成功する。しかし、暗号が解読したことを悟られないためには、ある程度の情報をスルーし、自国民の犠牲に目をつぶり、トータルでの情報管理をしなければならなくなった。それは、チューリングを精神的に追い込み、さらなる機械的人間へと変貌させることとなった。しかもメンバー内にも2重スパイが存在し、スパイ的活動もせざるを得なくなっていた。彼は、発明した機械を学生時代の友人クリスと命名した。唯一の彼の支えであったのだ。そんな彼は戦後もその負い目を背負って生きるという映画であった。これは実話である。今では名誉を回復するも、1950年代では、同性愛ということで法律によって去勢が強要され、自害してしまうという何とも悲しい生涯であった。

5月8日(金)
今日も1日中、オンデマンド授業のための準備。パワポからmp4への変換が上手くいかずに、動画の簡単な編集まですることになる。1からのiMovieのトライは辛かった。動画編集は切りがないので、それを最低限の作業に留め、QuickTimePlayerの使用に切り替える。しかし最後は、パワポのスライド切り替えタイミングが重要であるという結論に至る。もう少しやり方があると思うが、結局は人のカンに頼らなければならないというのが今日の結論であった。YouTubeへのアップはそれとなく問題なく行うことができたが、かなりデータを軽くする必要があり、もう一度データの整理からやり直す。何事もトライアンドエラーの繰り返しであることを実感する。

5月6日(水)
NHKで、グランドプリンセス号の調査結果に関する特集を観る。客船における感染分布が一様であるのは、皆が集まる大共用部での感染を意味し、そこから散らばっていったことを示すことらしい。それに該当する場所は、ホールと食堂であるという。ホールでは飛沫感染、食堂ではビュッフェによる接触感染だそうだ。そしてその感染の強さを、実験シミュレーションで実証していた。どちらも予想をはるかに超えるものであり、年当初の安易な方向に導いていた情報に憤慨する。この事実を理解していた者はいたはずであり、その責任は大きい。プリンセス号を担当した専門家の苦悩も紹介される。収容先となる病院がいっぱいになる中で、患者の優先順位に関する苦悩である。それを聞くと胸が詰まる。

5月5日(火)
NHKでダヴィンチの再放送特集を観る。ぼくにとってグッドタイミングであった。この特集は、彼の描画方法や生活、思考方法を、AIを使ってクローズアップするものであった。しかし、彼の描く絵画のテーマ性については依然と謎である。ダヴィンチの絵は不思議であるので、明らかにしたいと思っている。

5月4日(月)
研究室の何人かとオンライン会議。今後の方針を決定。「薔薇の名前」ジャン・ジャック・アノー監督を観る。哲学者ウンベルト・エコーの同名小説の映画化である。舞台は、14世紀の修道院。根底にフランチェスコ会vsベネディクト会(主流派)があり、キリスト教内部で腐敗がすすんでいることがよくわかる。テーマは、キリストの笑い、あるいは清貧について廻る解釈である。それをめぐり殺人事件がおきるのであるが、シャーロックホームズとワトソンと重なる二人の修道士(ショーン・コネリー)がそれを解明しようとする。舞台となる修道院には世界一の蔵書があるといわれ、その中にギリシア語でのアリストテレスの「詩学」という禁書があった。そこに喜劇についてのキリストの教えが記されているのであった。図書館はまるで知識の迷路のようであった。これはセットであろうが、最後に焼け落ちてしまい、この映画を物語るラストであった。最後の台詞にこれを象徴するメッセージがある。「薔薇の美しさや色、香りがあせたとき、言葉だけが残る。薔薇という名前が」。ぼくなりに解釈しものをつくる立場からいうと、池辺さんの「名前のない空間へ」ということであろうと思う。それにしても、修道院内とその外との生活の差はひどかった。こんな現状であったのだろうかと思う。

5月3日(日)
「インフェルノ」ロン・ハワード監督を観る。今回は地獄篇インフェルノを書いたダンテがテーマである。それを描いたボッティチェリの絵画「地獄挿絵」が最初のキーワードである。はじめはフィレンツェが舞台であった。パディア・フィオレンティーナという教会の鐘楼が登場し、ここから主犯が自殺を図るのであるが、これを建てた人をダンテが天国篇で取り上げたことを知る。ストーリーはこうした細部でも一貫していた。そこからトムハンクスの逃走劇がはじまる。ブルネレスキが一部設計したピッティ宮殿内にあるポーポリ庭園から、ヴォザーリの廻廊、そしてウフィッツィ美術館へ。ヴェッキオ宮殿の五百人広間の屋根裏が格闘の場だ。五百人広間といえば、ダヴィンチとミケランジェロの壁画が裏にあるとして有名だ。現在は、ヴァザーリの壁画に覆われている。そこからダンテのデスマスクが隠されていると推測するサン・ジョヴンニ礼拝堂へ。そこからヴェネチアまで飛ぶ。3作目は各地に飛びバラエティに富んでいる。サンマルコ大聖堂とドゥカーレ宮殿内へ。最後はイスタンブールのアヤソフィア、そしてイエレバタン・サラユ地下宮殿で終わる。

5月2日(土)
昨日に続き「ダヴィンチ・コード」ロン・ハワード監督を観る。パリが舞台であった。マグラダのマリアをめぐるキリスト教内で異端とされる女神崇拝をテーマとする。建築ではルーヴル美術館が幾度も登場する。ナポレオン・ホールからはじまり、最初の事件は、サロン・カレでおきる。そこで殺害される秘密結社のリーダーは、カラバッジョの絵「聖母の死」を外しながら殺害される。そして、女神崇拝に相応しくダヴィンチの「岩窟の聖母」、そして「ウィトルウィウスの人体図」と「聖アンナと聖母子」と続く。最後に「モナリザ」。ラストシーンでは、ルーブルがかつての子午線ラインであったことも示す。イギリスでは、ウェストミンスター教会が登場していた。

5月1日(金)
深夜「天使と悪魔」ロン・ハワード監督を観る。1年生にこの映画を紹介したので、もう一度観ることにする。バロックで有名なローマが舞台となる。ベルニーニが秘密結社に属していたとして、サンタ・マリア・ポポロ教会のハバフクと天使、ヴィットーリア教会の聖テレジアの法悦、ナヴォーナ広場の四大河の泉、サンピエトロ広場などが登場する。その他にもパンティオンやサンタンジェロ城など目白押し。ローマを堪能できた。

4月30日(木)
どうやら自粛期間はのびそうだ。ヨーロッパ各国は、それ程改善していないと思うのだが、これ以上は延長できないとみると徐々に解除の方向に向かう。出口戦略が難しい。

4月29日(水)
意匠系教員間でオンライン会議。設計授業の今後の方法について。その後、授業準備。折角なので内容を吟味し直しながら新しくつくり直す。

4月27日(月)
新しくパワーポイントを購入し、今週は授業準備にかかることにする。ひとつひとつ確認をする。キーノートでは上手く機能しなかった。画質が落ちるが、やむを得ないとする。「メディア・アート原論」を続ける。

4月26日(日)
「メディア・アート原論」を続ける。夕方、家族と「セブン」デヴィッド・フィンチャー監督、ブラッド・ピット主演を観る。キリスト教の「七つの大罪」をモチーフにした連続猟奇殺人事件である。全編が物静かで暗い。ホラー映画にしろとはいわないが、恐怖を身近に感じることができない。コロナに対する現実が大きく上回る。

4月25日(土)
「創造と神秘のサクラダ・ファミリア」を観る。今世紀に入ってからのサクラダ・ファミリア建設のドキュメンタリーであった。外尾悦郎さんもメインで登場する。彼とは対照的に責任建築家が、ガウディの意図と離れてしまっている現実を前向きに受け止めていたことが印象的であった。つくることとアイデア(精神)が別々となってしまうことも仕方なしという考えである。ぼくにとっては、サクラダ・ファミリアの原風景となったモンセラート山と修道院を観ることができたのが収穫であった。ここでのみスペイン内戦後、カタルニヤ語を使用することがつい最近までの1975年までできなかったそうだ。

4月24日(金)
「ル・コルビジュエとアイリーン・グレイ 追憶のヴィラ」メアリー・マクガキアン監督を観る。アイリーン・グレイ自身の生涯を描き、コルビジュエとの確執は予想していたより描写が少ない。E.1027やテンペ・ア・パイアも登場する。しかし、内部をなめるシーンが、内部に関しては本物かどうか謎であった。もちろん、ドラゴンチェア、E-1027サイドテーブル、ビベンダムチェアはある。建築の形式を重んじるコルビジュエと生活を重んじるアイリーンを対称的に扱うのであるが、ちょっと現代に引き寄せすぎかとも思う。シャルロット・ペリアンが低く扱われているのには驚いた。午前中に虎ノ門。午後に父と東京医大へ。病院は比較的空いている。いつもより待ち時間が少なくすむ。

4月23日(木)
オンラインで学科会議。授業のスタート日程等が決まる。コロナの状況に関係なくオンラインで授業をはじめることとなった。これで真剣に授業準備に入ることができる。早速、最新のパワポを購入する。

4月21日(火)
「メディア・アート原論」久保田晃弘著を読みはじめる。これまでのメディア・アートの歴史を振り返る。一番になることが実は保守的であるというのが興味深い。メディア・アートは中庸を目指すことに意味があるのだという。初台に出向く。オペラシティなどいつもより人が多いような気がする。車はいつもと変わりない。新宿は全く人がいないというが、そのしわ寄せが周辺の町に来ているような気がする。

4月20日(月)
昨晩は、TV放送で「プラトゥーン」オリバー・ストーン監督を観る。人間のもつべき善悪をテーマとする映画で、これまでのベトナム映画と異なっていた。善悪の判断は、極限状況にさらされると危ういものとなる、このことを語っていた。それでも、最後の戦闘シーンにはいつ観ても圧倒される。戦争をする気になるのだろうかと思う。

4月19日(日)
「ミッドナイト・イン・パリ」を観る。コール・ポーター作曲のLet’s fall in Loveを、ウディ・アレンが映画化する。パリ旅行中の小説家志望の主人公はタイムスリップし、ヘミングウェイやコクトー、そしてピカソやマティスと交流する。それは、コルビジュエのスタイン(ガルシュ)邸の施主であったガートルード・スタインのサロンを中心にしてであった。ダリもブニュエルやマン・レイも登場する。ウディ・アレンはブニュエルの第1作「アンダルシアの犬」を評価しているようだ。さらに、主人公は恋に落ちて時代をさらにタイムスリップする。ベル・エポックの時代のマキシムが舞台となる。「BATTLE」にある「荒地」のT,Sエリオットも登場していた。

4月18日(土)
午前中、意匠系教員でWebexを使ってのミーティング。今後の設計授業に運営についてである。「建築の聖なるもの」を読み終える。読後、「言葉と建築」にあげられていた「空間」という言語、あるいは、ゼンパーの「表皮/中身の分離、を思い出す。これらは全て19世紀末から20世紀初頭の現象である。本書では教会建築を材料にして、この現象をより具体的な「聖なるもの」にまで突っ込んだ。この時代にこうした現象が起きたことは時代の必然であったと思う。問題は、こうした現象の説明を、フロイトが行った個人的解釈から社会に広げる説明の飛躍にあるだと思う。社会にも主体性を見出すということであるが、ポピュリズムとはいわないまでも、その扱いに注意しなければならい。あくまでも個人ひとりひとりの違いが尊重されるべきであって、そうした視点からモノや現象が今語られなければならないと思った。

4月17日(金)
「BATTLE 23章」は、22章の全体性の構造分析に対しての実行方法を示す。分析と実行をペアにする姿勢は終始一貫している。さらに、それらにかたちを表象させようとしているのがアレグザンダーの特徴である。23章では、この実行プロセスをオオハンゴウソウという植物と重ね合わせている。黄金色の花の咲く、道端、荒地、畑地、河川敷、湿原などさまざまな環境に生育するどこにでもある雑草である。つまり、野生の花のように(「野生の思考」表紙のパンジーを思い出す)、感知-応答を連続的に起こすことにかたちを与えたものだ。そして何を感知すべきかといえば、それは15の幾何学的特性である。もっといえば、感知に基づき15の幾何学変容をさせるという。本章の後半はそのさらなる具体的なアドバイスである。ゲッシュタルトからはじめれば良いという。盈進プロジェクトでいえば、敷地の尾根がそれに該当したというのだ。それを起点にした感知—応答の漸進的成長、あるいは幾何学的変容を現実に起こしていったのである。その現象を事後に振り返ると、自分の内から来た主体的なもののようでもあり、外部環境がなせた技のようでもあり、それは静謚で、これを全体性といっている。

4月16日(木)
NHKのコロナ特集。東北大の押谷仁を長とする対策班の活動を追う。西浦博教授による疫学解析がこの活動を牽引している。民放報道番組では、頑なにクラスター追跡を行い、PCR検査を普及させない厚生省の方針に批判的であり、その方針決定者にたいして黒幕的な扱いをしている。今回の特集で、この中心がこの対策班にあり、彼らが東京都や政府に積極的にデータを開示していることが分かった。とはいえ、なかなか政府が動かないので、危機感から自らもSNSを通じてPRしている。それから察するとこの対策班は、政府や厚生省の単なるぶら下がり機関ではなく、自主性をもった組織であることが分かる。彼らは感染社会にたいしての哲学をもっていて、それが日本特有のクラスター対策となっていたのだ。しかしその対策も当初は功をそうしたものの、現在は行き詰まってしまっている。これも同時に番組から察せられ、ある意味恐怖を感じた。どういった解決方法が良いかはわからないが、政府はまた別の専門家チームをもち、ふたつを比較検討するようにマネジメントするのはどうだろうかと思う。何しろ答えはないのだから。日曜日の情熱大陸では、東大の片岡義裕氏の特集を組んでいた。彼らは皆、実践的である。

4月15日(水)
「BATTLE 22章」は、15の幾何学的特性について。知覚可能なセンターには、以下の詳細な15の幾何学的特性がある。1.Strong 強いこと 2.Thick-Boundary 厚い境界 3. Levels of Scale スケールの段階性 4. Alternating Repetition 交互反復 5.Lacal Symmetry 局所の対称性 6.Positive 正の空間7.Roughness 曖昧であること 8.Grdeent 段階性 9.Contrast 対比 10.Deep Interlock 深い内部結合と両義性 11.Ecohs 共鳴 12.Good Shape 良い形 13.Innner Calm 内的静謚さ 14.Void 空 15.Non-Separateness 不可分であること。これらが再帰性を帯びることでセンターの一貫性が強まるという。逆にこの15をルールとして変容させることがシステムAにおけるつくることなのである。この22章は分析的であり、次の23章はそれを実践する方法を示す。夕方、研究室皆宛に「デザインの鍵」の理解を深めるため、本と映画との関連を示す。「BATTLE」にならって、物事を形として理解することを薦めてみた。

4月14日(火)
「建築の聖なるもの」の読書は、3部前半に入る。18世紀のカトリックと政治の複雑な関係を経て20世紀の教会建築へと移る。そして新しく述べられるのは、18世紀からのオベリスクの設置経緯である。両者とも、フロイトをもとにして、不在の崇高さを表現するものであった。そこから「建築の不在こそが建築である」という逆説を生み出す。これは堀口捨己や磯崎新がしばしば引用してきた西行が伊勢にたいしていう「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」からの発想である。ブラタモリを久しぶりに観る。伊賀であった。先日レジスとたまたま話している中で忍者が話題にあがった。外国人には興味をそそるものであるらしい。番組は忍者の出現してきた経緯を伊賀の土地に求める内容であった。太古この地は琵琶湖であったという。そのため地盤がゆるく川が幾度も氾濫するような土地であった。そのため農民は山裾の比較的安定した小さな土地に住み、集落間で争いが絶えなかっという。そうした農民がやがて山伏となる。彼らが有名になったのは、織田信長との戦いによってであった。敗戦をしたもののその戦いぶりは家康に買われた。時は江戸時代。平和な時代は彼らを不要とし、伊賀忍者は後世に自分たちを紹介する自叙本を著す。これがかなりユニークで、平和な江戸で歌舞伎とかでアレンジされていったという。これが現在でも続き、忍者がクローズアップされる原因なのである。番組を観ていて、こうした経緯をかたちにする方法はないものかと思う。

4月13日(月)
「BATTLE 6章」は全体性について。システムAにおける建物をつくることとは何か?それを、「全体性」というかたちあるもので表現するのが本章である。その中で、段階的に前進させていくプロセスまでをもかたち化しようとしていることがユニークである。この全体性とは、1.構造がある。すなわちまとまりあるかたちとして表現できる、 2. 人との関係においてある、 3.明確に定義はできない、 4.全体性はたくさんある。ひとつひとつをセンターともいう。全体性はセンターのまとまりである、 5.入れ子状でもある 6.全体性を獲得することで平穏である、というものである。このとき具体的に目に見えるものをセンターという。自然はしたがってセンターで定義可能である。本章をあえていうなら、全体性を知覚できるセンターとそれを段階的な追っていくことで定義しようとしている。深夜NHKで、2019年4月15日に起きたノートルダム大聖堂火災のドキュメンタリーを観る。ヴィオレ・ル・デュクが復元したという尖塔が焼け落ちたが、文化財と南北両塔は消防隊によって死守された。マクロン大統領をはじめ閣僚が現場で指揮しているのには驚いた。まさに国民の精神的支柱であったのだ。午前中は父と虎の門行き。結果に問題ないことを聞きホッとする。

4月12日(日)
「BATTLE」章立てまとめる。「BATTLE はじめに」は、建物をつくることの重要性についてである。建物をつくることを通じて、人の感情、社会・習慣、かたちが相互に関係しあうのである。そのために、9つの方針が示される。それは、建設行為ひとつひとつを有機的に繋げるための指針である。1.建築が芸術的であることへの理解 2.人間組織の変革 3.予算管理方法 4.幸福の尊重 5.地球生態系への配慮 6.大地への配慮 7.部分における手による熟練作業の必要性 8. 推進性のあるパタンランゲージの利用 9つくることの真の意味 である。そして、これをシステムAと呼び、20世紀がつくってきたシステムBと比較する。

4月11日(土)
「スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」を観る。これまでと異なりストーリーが簡潔で、アクションが重視される。フォースによる時空の超越がそうさせている。9作目の本作で完結というが、まだ続きそうな雰囲気を残すのは流石である。夜、枝垂れ桜が有名な妙心寺退蔵院の特集を観る。その作庭家中根金作の特集である。絶対的に自身の美に自信をもっていた作家であったようだ。昨年夏に訪れた谷村美術館の玉翠園を思い出す。構成は似ている。川や滝を砂利でダイナミックに表現し、緑の置き方に作為があり、それでも背景となる周囲の自然と融合する庭であった。

4月10日(金)
「建築の聖なるもの」第1部を読み終える。後半は、政教分離法以降のフランス政府の施策についてである。それは、文化が何かということでもある。カトリックと政治を分かつために、教会資産を国有化公有化したまま、使用の観点からはカトリックの自由な運用に委ねたのである。それはバシリカだけでなく地方の文化財ではない教会までに及んだ。つまり、宗教ではなく文化という名のもとでサービスを市民に提供することを考えたのである。それは国有化された鉄道網のような都市インフラにたいする考えと同じものである。こうしたことが、第1次世界大戦直前の出来事であったのは驚きであった。そしてこれらの変化に伴いコミュニティについての市民意識も影響を受けたという。コミュニティの範囲が教会区では一端なくなり、運用アソシエーションを単位としたものになり、現在に至っている。つまり今見るコミュニティは、もちろん完全に長く培われた歴史的影響は否定できないが20世紀につくられたものだというのだ。このことにまた驚く。フランスは革命後100年以上の時間をかけて、現在の国制度へと変換していったのである。そして二つの大戦があった。

4月9日(木)
「建築の聖なるもの」土居義岳著を読みはじめる。本書は2部構成である。1部は、1789年革命からの1801年のコルソンダ体制、1905年の政教分離法成立までのフランスにおける教会の歴史である。読みながら、ぼくら旅行者にとってひとくくりにしていた教会の個々の違いが明らかになった。もちろん国宝級のバシリカに相当する教会がまずある。それだけでなく、この18世紀以降につくられた近代建築以外の教会も数多あるのである。例えば、サン・ドニ教会やパリのパンテオン、あるいはド・ボーのコンクリート教会などである。その位置づけを知る。それらは政治と関係する。まずフランス革命によって、カトリックが否定される。教会は国有化され民の公共サービスを提供するものになった。そして聖職者は役人となって施設を管理をするようになったという。同時に教会は聖なるものから研究の対象となったのである。建築家等によって、平面や構造、空間性、経済性などの合理性が検討されるようになった。それで、教会の標準形がつくられたり、それに抗するように様々なトライがなされるようになった。構造でヴィオレ・ル・デュクが登場するのもそのためである。サン・ドニ教会は、役所になったり美術館になったり、また教会になったり用途も変わっている。そして、この間にも、1814年の王政復古があり、問題はより複雑となる。それは、ギルドのようなアソシエーションシステムにも及んでいた。要するに聖なるもの=アンタッチャブルな世界がことごとく解体される過程が教会建築を通じて説明されている。研究室皆に「デザインの鍵」を送る。

4月8日(水)
非常事態宣言が発令され、2割まで接触機会を減らそうと首相は訴えかけるも、朝の通勤は半分程度であった。個人で商売する自営業者の自粛ばかりの焦点があてられ、ちょっとした歪みを感じる。別の産業への生産影響を数字上表すことができない飲食・生活関連サービスから犠牲になっているのかと思う。これらの産業人口、売り上げは共に10%程度であるが、売り上げ割合の方が高いので、他業種に比べて儲かっていないこともない。

4月7日(火)
3編目の「技術とはなんだろうか」ハイデガー著を読む。技術は道具手段である、というような消極的意味でなく、「顕現させること」、「徴用して立たせること」、「総かり立てること」、「それらを巧みに遣わすこと」というもっと強制力のあるものが技術であるという。そして、それを危機と捉える。その上で技術の本質とは、それに抗することにあるという。読んでいて、プリコジンの散逸構造のイメージと重なった。平衡状態にあった物事は時間と共に自然と乱雑な方向へ進み、死に行く運命にあるのが一般的であるが、中心から遠いところでは時偶、構造(散逸構造)が出現して、自己組織化といってもよいが、これが起きる。技術の本質とこの散逸構造が重なって見えたのである。本書は現代語訳であるからか、勝手にハイデガーに抱いていた印象と違うものであった。技術論と建築論という身近な問題を、全体ネットワークに位置付けるものであった。夕方に非常事態宣言が発令される。

4月6日(月)
NHK特集の「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた 昭和編」を観る。読売新聞の幹部、ジャイアンツの球団トップで、Jリーグ発足において川渕チェアマンとの対立、などダークなイメージがある実業家と思っていたが、実は新聞記者であったことを知り、自分の無知さを知る。その新聞記者としての活動は、日本の戦後政治を動かしてきたフィクサーほどのものであったという。御厨貴東大名誉教授がいうように、テレビ的に誇張されたものであることを差し引く必要があるものの、首相人事、日韓国交樹立に深く関わっていたらしい。一介の新聞記者がこのようなフィクサー的存在になれたのは、氏の人間性ももちろんあるが、戦後の政治が閉ざされた人間関係によって進められてきたことによる。その状況を生かして、氏は権力外にいることをいいことにして敵対関係をつくらずに、豊富な情報をもって政治家の懐に入り込み、やがて揺さぶるようになり、一方に新しい政治信条でもって啓蒙することもでき、金権政治の反対側の立場を利用したのであった。恐るべきことである。そう思うと、それに刃向かってJリーグをここまで発展させた川渕チェアマンの力量は相当なものであることを知る。川渕チェアマンは、選手、チーム、サポーター、町といった下部を大切にするヨーロッパ的理念で、戦後から席巻していたアメリカ的な商業主義を突き崩したのである。1990年前後のことである。

4月5日(日)
「エリザベス」シェカール・カプール監督を観る。16世紀のイングランドが舞台である。囚われの身から女王になり、イギリス国教会を設立し、最後に「国家と結婚する」という宣誓までの物語である。実際に戴冠式はウエストミンスター教会で行われるというが、映画はヨークミンスター教会である。肖像画でよく見る衣装やメイクアップが忠実に表現されている。日本の織田信長と時代が被る。

4月4日(土)
家族が「ダークナイト ビギニング」を観る傍ら、翻訳を続ける。今年の研究室で読む本について院生から提案される。それを受けて考える。とりあえず、「デザインの鍵」をまた読んでみようと思う。ぼくの本には書き込みが多すぎるので、amzonでチェック。到着予定が1週間後である。

4月3日(金)
会議のため久しぶりに外に出た。その帰りに父の誕生日のために虎屋による。思い切ってパナマハットをプレゼントに決める。喜んでもらった。隈さんの特集を観る。日本らしさの追究ではなく、日本らしさをどう捉えられているかをテーマとしていることが面白い。どっちにしろ本質よりイメージだということである。

4月2日(木)
「建てること、住むこと、考えること」の後半Ⅱを読む。ここでは空間(ラウム)に話題が及ぶ。「ラウムとは、空け渡され、開放された何かであり、すなわち、境界であり、ギリシア語ではペラス」である。そして「境界とは、そこから何かがその本質を発揮し始める起点」であるという。したがって、「あれこれの空間はその本質を、あれこれの場所から受け入れるのであって、空間「そのもの」から受け入れるものではない」という。そうすると次の問題は、人と空間の関係である。しかし、「物」と同様にそうした考えは否定される。「人間が存在して、そのほかに空間も存在する、というものではない」のである。ここで再び建てることの意味に移る。「建てることが、空間「そのもの」を形成することは決してありません。直接的にも間接的にもないのです。しかしながら、建てることは、場所としての物を産み出すがゆえに、幾何学や数学よりも、あれこれの空間の本質および空間「そのもの」の本質由来の近くにある」のだという。つまり、「建てることと考えることが、住むことに属しつつ、それぞれの境界内にとどまり、それぞれが、長きにわたる経験と絶え間ない修練の仕事場に由来することを弁えること」であるというのが、結論である。

4月1日(水)
昨日に続いて「建てること、住むこと、考えること」ハイデガー講演記録を読む。「住むこととは、どんな場合でも、一切の建てることに先立って、それをつかさどる目的だ、ということになりそうです。住むことと建てることは、お互い目的と手段の関係にあるのだ、と。しかし、このことしか考えないかぎり、私たちは、住むことと建てることを、二つの別々の活動だと見なしています。そのさい思い浮かべているイメージは、べつに間違っていません。しかし同時に私たちは、目的—手段-図式によって、本質的な関わりをさえぎって見えなくしてしまうしまうのです」。それでは、建てることとはというと、それは「根源的には、住むという意味」であると。要するに二つは不可分ということである。というよりも、言葉によって物事を定義することで、本質が見えなくなってしまっているといっている。それを「言語は、みずからが単純に、かつ高次に語ることを、人間から引き離してしまう」といっている。次に、本質は何かという問題である。本書では四方界を持ち出してこれを説明する。大地、天空、神的な者、そして死すべき者=人間である。「死すべき者たちは、この四方界を労(いたわ)ってその本質を発揮させる、という仕方で住んでいる」というのだ。本質は、四方界を労ることにあるというのだ。それが派生して住むこと、建てること、という語が生まれた。前半のまとめは以下にある。「死すべき者たちが、生育する物たちの世話をし、面倒をみることによってであり、生育するこのない物たちを、ことさら打ち建てることによってです。面倒をみることと打ち建てることは、狭義の建てることです。住むこととは、四方界を物たちのうちへ安全にしまっておくかぎりにおいて、そのように安全にしまっておくことでありながら、一種の建てることなのです」。神話の解説を聞いているようである。

3月31日(火)
「物」ハイデガーを読む。「技術とは何だろうか」の現代語訳の中にある講演記録である。「科学が関わっている相手とは、科学なりの表象し立てる仕方によって科学向きの可能的対象としてあらかじめ容認された当のものでしかない」。あるいは「科学的知識は、その領域つまり対象の領域において強制力をもっていますが、物を物としてはとっくに虚無化しています」。それでは、物の本質は何かというと、瓶を例にして「瓶の瓶らしさは、注がれたものを捧げることの全体のうちで、本質を発揮する」ものであるという。あるいは、「瓶が物であるのは、瓶が物化するかぎりにおいて」であるという。なかなか分かりにくい。あるいは、「思いを致し追想する思考のうちへ踏み入る、歩み戻り」ものであると。歩み戻りに関しては以下の記述がある。「歩み戻りは、次のような語り応じ方のうちの滞在地をさだめます。つまり、世界の本質において世界の本質によって語りかけられ、この本質の内部でこの本質に応答して語る、そういう応接のかたちに、です」と。何となく理解するも禅問答のようで、スッキリしない。

3月30日(月)
深夜NHKで樂焼の樂吉左衛門の2007年の再放送を観る。樂吉左衛門の1年間の活動を追うドキュメンタリーであった。黒茶碗は高温で一気にひとつひとつを焼き、20椀程度を1昼夜かけて焼く。その日だけに、墨屋さんとか棟梁とか幼なじみ、息子などが手伝うのである。赤茶碗は、ひとりで4つを同時に焼く。黒茶碗は、襲名をするまで焼けないそうだ。焼き温度をコントロールし、上薬との微妙な一致を模索し、それによって出来が決定されるという。15代吉左衛門は、伝統的な茶碗を焼く一方、自分なりの感性を生かした数椀を実験的につくる。これで芸術家としての自己を保っているのである。粘土も門外不出で、轆轤など使う訳でなく練りながらかたちにしていく。その後乾いてからヘラ等を使って削り出し、自分なりのかたちにしていく。全てが一子相伝であり、マニュアルどころか口伝さえないという。受け継がれてきた茶碗と先代のつくる姿を観察し盗むのだそうだ。今は篤人が受け継いだ。正月には初釜もあるが、三千家がそれぞれ赤茶碗に絵付けをするのも伝統だそうだ。事務所に戻って、3年前に近代美術館で開催された楽焼の展覧会のカタログで、重要文化財である大黒、無一文、太郎坊(長次郎作)、青山(3代道入)、光悦を観る。吉左衛門は、光悦の作品に触れて、自己を確立できたといっていた。

3月29日(日)
「ダークナイト ライジング」クリストファー・ノーラン監督を続けて観る。ストーリーが前作より格段に大きい。核戦争まで広がるのだが、ゴッサムシティに話が限定されていることや人を殺さないというバットマンのポリシーなどの設定との歪みを感じざるを得ない。それでも、場面密度と展開の速さは相変わらずで十分に楽しませてくれる映画であった。

3月28日(土)
自宅待機。ジョーカーシリーズの「ダークナイト」クリストファー・ノーラン監督を観る。バットマンが苦悩するというストーリーの面白さよりも、映像の濃さや小道具、YESorNOの緊迫感、場面展開のスピードで観客を圧倒する。ジョーカーを演じるヒース・レジャーも独特であるが、ジャック・ニコルソンと被ってしまう。

3月27日(金)
妻と虎の門行き。一昨日の都知事の要請を受けて、午後からの八ヶ岳行きを中止。午後、次女を加えて食事。花見の自粛要請も出される。2日前から東京が急遽緊迫してくるのを実感する。事務所に戻り乗りかけた来年度の授業準備を続ける。深夜の朝まで生テレビを久しぶりに観る。コロナの特集であったが、経済対策と経済支援を廻って議論。自粛と経済支援対策を同時に行わない限り社会が混乱するというのはよく分かるが、支援内容を廻って意見が噛み合わない。日本ではまだ危機が共有されていないことが分かる。

3月26日(木)
ホリゾンタルネットワークの中間にいるのが、ぼくら建築家である。広い底辺に位置するのが現実社会としたら、頂点に位置するのは崇高なる目的、あるいは大文字の括弧付き「建築」やカント流の物自体ということだろうか。中間に位置するぼくら建築家はその上下を自由にリンクする役割と考えられないか。頂点の道徳と底辺の現実の中間にあるのが寓意であるというのが、小池くんの修士設計であった。名付け得ぬ質とプロジェクトランゲージの中間にあるのがパタンランゲージというのが、「ティール組織」のあとがきに書いた。こうした考えを焦点することで、近頃テーマであるうカントの相関主義否定を超えられるような気がする。

3月25日(水)
「複雑ネットワークとは何か」増田直紀+今野紀雄著を再読。統計値によると、ネットワークの頂点の数とそれから伸びる枝の数(次数)は、正規分布をせずにべき則に従うことが分かっている。それは、ウェブサイトのヒット数とか、単語の頻出度、生物の種類数などに現れるものだ。これを現実として受け入れて、バラバシとアルバートによる成長するBA優先的選択ネットワークに当てはめても、構造というものは現れない。しかし、そこに優先選択基準として閾値を導入すると、枝(次)数が多いものを頂点としたツリーに近い構造が生成される(リッチグラフ)。閾値設定とは、参加する新しい頂点の枝数とリンクする相手の頂点の枝数の合計をある数値以上に設定するようなことである。つまり、世界で生き残るために必要とされる必要最低限の数値を設定するようなことである。さらに、参加する頂点の枝数とリンクする相手の頂点の差がある数値以上にならないような制限、ホモフィリーを加えると、より強いツリー構造となる(ビップグラフ)。これは、強い者同士、弱い者同士がつながることを意味し、昨今の社会を象徴する構造に近いものかもしれない。アレグザンダーは人間の思考形態がツリー構造で、自然都市がセミラチス構造になることを1970年代に提言していたのだが、これによると現在は社会までもがツリー構造化していることになるのだ。ところでこの構造の最大の問題は、多数の底辺と小数の頂上のリンクが全くないことにある。本書ではそれを黒幕構造といっている。このネットワークの特徴をよく表現する言葉である。それは力をもつ実際のマネジメントが見えにくい構造である。これを修正するにはどうしたらよいか。翻訳をした「ティール組織」では、中間に位置する頂点の働きにスポットライトをあてていた。中間が価値判断をもち閾値設定を無視することで、アレグザンダーのセミラチス構造ではない新しい構造とすることが可能となる。これが、ホリゾンタルネットワーク、あるいはミドルアップダウンマネジメントである。こうした構造に未来を感じるのであるが、どうだろうか?

3月24日(火)
NHKのコロナウィルスの特集を観る。接触感染と飛沫感染に加えて、咳や会話を通して微小な形でウイルスが飛び散る「マイクロ飛沫」がクラスターを拡大している可能性を示す。マイクロ飛沫感染は、人が咳をすると、約10万個の飛沫が飛び散るという。大中のものはしばらくすると落下するが、マイクロ飛沫は5分、10分が経過しても空気のよどみのなかにあり20分間も浮遊するそうだ。この防止策には、機械換気では機能せず、窓を直接開けることによる強制(流出)換気しかないという。つまり、常時の換気が必要とされている。3つの密空間から逃げることが叫ばれているが、その根拠のひとつがこういうことにあった。

3月23日(月)
娘の卒業式の後、家族で記念写真。しかし正式には娘の大学でも卒業式は中止である。建築雑誌3月号の「歴史の効用」を読む。巻頭に難波さん、中谷礼仁さん、青井哲人さん、加藤耕一さんの対談がある。柄谷行人の美学の効用が前提にあることを察していたが、それは対談に明示されていた。興味深いのは、この対談に意匠あるいはかたちの位置づけがないことである。それは、工学も社会学も、従来の科学にたいする考えと異なり完全に客観的なものではなく主体のもつ美学を組み込んだものである、という前提があるからだろうか。このことが明確に記されていなかったので、歴史だけに主体があるような誤解を与えてしまっているような気がする。歴史が工学や社会学を引っ張るようなイメージである。歴史だけが特別な訳でなく、3者それぞれのなかにある美学が媒介となって建築を構成するのでないか。美学という意匠やかたちが、工学や社会学、歴史学全てに含まれるものなのである。それで、意匠やかたちが単独にはない。そう考えると、本特集がいうようなボトムアップでなく、ホリゾンタルネットワーク(あるいは、ミドルアップダウンマネジメント)といいたいが、どうだろうか。

3月22日(日)
今日は卒業式であったが、コロナのため中止となり、証書のみの引き渡し。その後、研究室の皆とは軽く乾杯をする。嬉しいことに記念品として印鑑とペンケースを頂く。就職をする石原くんとは最後の挨拶である。その後で、M2生と3年間を振り返ったり将来の話をしたりする。M2生はそれぞれのキャラクターが立っていて、お互いに切磋琢磨し刺激し合っていた。そのためか研究の出来もよかったと思う。結構な時間を話合った。

3月21日(土)
ヨーロッパサッカーの中止が続き、退屈な週末である。イタリア、スペインの街のレポートからは、日本との温度差を感じる。こうした映像を観て、ウィルスに感染することの恐怖よりも、自分が媒介となってしまった場合の社会的責任の重さを感じてしまう。自由でありたいと思いながら、若いときとは異なり、なんだか自分が社会化されているような気持ちであり、複雑である。こんなことを想う人はいるのだろうかと思う。自動車で梗概のレストランで昼食をとる。

3月20日(金)
講評会から1日が経ち、少し客観的に中山案を見ることできるようになる。中山案が素晴らしいのは、環境の可視化にある。それも経験による検証とデータによる検証によって相当濃密なものを提案していることである。このことは実は大変なことで、かつては構造で、分析結果をラップトップ上にリアルタイムに表出することができるようになり、それを見てアイデアを飛躍的に躍進させることができたのであった。その環境版でないだろうかと、率直に講評すべきであった。だから、自分に引き寄せて様々にこの案を皆が良きにせよ悪きにせよ批評した。思えばアレグサンダーも様々な理論を考えるも、目に見えるかたちというものにそれを必ず収斂させていた。それは、ラトゥールのいう、近代が世界を科学的合理思考で捉えきれなくなると人間性を持ち出して曖昧に処理し続けてきたことの批判、これに同調するものである。つまり、可視化するで、人/科学の対立ご都合主義から逃れることが可能なのである。このことに気付く。

3月19日(木)
JIAで修士設計講評会。野沢正光さんのもとで、日野さん、下吹越さん、古澤さん、杉山さん、青島さんと講評する。千葉工大からは中山くんが選ばれ、10作品を評価することになった。優秀案等の選出についてぼくらも意見を述べるも、最終的には野沢さんが決定する仕組みである。協議の途中で野沢さんの考え方が分かる。敷地や工学を配慮することをもちろん大切にするが、それは不適な環境が何かを見極めるためのものでもある。残されるべき環境こそ配慮すべきという訳で、大胆な切り捨てデザインが可能となる。まさに批判的なデザインと思った。中山くんの案で、既存建物の位置付けにたいして野沢さんは質問をしたが、これを確かめる意図であった。中山くんの案は、10案の中でもぼくの目からは突出していたと思う。リサーチもボリュームも他を圧倒していた。その上で講評者はこの案を大人しい案か暴れた案か、その判断を迷っていた思う。野沢さんにとっては、切り捨てた環境条件がなかったという点で、大人しい案と判断したのだろう。そのまま既存世界を受け入れてしまったという点で。入選を逃したと思う。講評後の食事会で、野沢さんをこれを別な観点から、作為といっていた。作為が建築に必要であると。ぼくにとってこれをジャンプといいたいが、そこには根拠の居所というものがないのが問題でもある。野沢さんの考えでは、切り捨てたコンテクストからは連続させられる。このことが発見であった。事務所に戻り、野沢さんと難波さんの「仕掛考」を思い出し再読。続けて、コールハースとダリのいう偏執狂的批判的方法を思い出す。否定する環境が強ければ強いほど、それはフロイトの超自我のように作品の強度は上がる。

3月18日(水)
粘菌の特集を観る。フランス制作の番組であったが、粘菌といえばぼくにとっては南方熊楠である。氏には触れていなかったが、今でも日本が粘菌のトップランナーであるという。その熊楠も追究していた単細胞である粘菌が、知能を持っているかのように振る舞うことができる謎に迫る特集である。それはデータの積み重ね方式の最近のAI(お掃除ロボット)と暗に比較するもので興味深い。実際の知能とは何かということである。例えば、粘菌は餌に対してもっとも短い距離となる直線状に動き、迷路でさえも簡単に解く。塩分に弱いが、それが害でないと、学習と共にその移動速度を早めることができるという。またその学習内容は他の粘菌にも伝達されるという。伝達は電気信号によって行われる。粘菌の行動を人間的な機能的視点から捉えようとしていることに納得いかないものも、粘菌の行動から知能の働きを再定義しようとしていることに好感をもつ。粘菌があたかも目的をもってそれに従って行動するというのは、人間の独りよがりでしかないと思う。単細胞も人間も環境に対して電気的反応することが、あたかも知能があるように見えるのだ。目的の下の合理的思考とは、人の言う知能とは別で、むしろ特殊なものであるという解釈が広まりつつある。

3月17日(火)
深夜NHKでダヴィンチ特集を観る。最近になって、ダヴィンチの自画像とされる作品が発見された。「ルカーニアの絵」である。これが真にダヴィンチの作品であるかを科学的検証する特集であった。ダヴィンチは、顔の部位配置に関する厳格な比率を持っていた。弟子のカプロティが書いたとされるダヴィンチ画と「ルカーニアの絵」はそれは一致する。また、モナリザもこの絵も22.5度斜めの角度からの自画像であるが、八角形の鏡の間から移る自分の顔を左右逆に描いているので、微妙に顔が歪んでいる。これはダヴィンチが編み出したモノを立体的に見せるテクニックであるという。これまでなかった新しい色を微妙に使い、それをぼやかすことで奥行きをつくっているのもダヴィンチのテクニックであるという。驚くべきは、その密度の濃さである。リアルに書くための科学的かつ幾何学的テクニックが天才たる由縁なのである。

3月16日(月)
コロナウィルス流行をネットワーク思考から考える。バラバシの「新ネットワーク思考」を再読。そこに紹介されるのは、クラスタリングである(p77)。スモールワールド性を示すものであるが、現実を円形グラフで表示しようとすると、それは規則正しくもなく、ランダムでもなく、その中間に位置するものになるそうだ。それによって世界は平均6係数で繋がるという。一般に大半のノードはごく少数のリンクしかもたないが、ごく少数のハブが膨大なリンクをもつ、こうしたことによって起きるのである。これをグラフ化したものが、べき乗数グラフであり、スケールフリーネットワークという(p103)。現在は、この既存ネットワークにコロナウィルスのネットワークを重ねない努力が様々に試行されている。

3月15日(日)
CASABALLA904は、オーナメントの特集。イタリアでは、いまでもオーナメントが主題になる。そこには、アルベルティをはじめ、ロース、ヴィトゲンシュタインなどオーナメントにたいしての否定論者が多いものの、言葉で語り尽くせないそこにある質を美と同等に並列させる基盤が今でも残り続けている。

3月14日(土)
今日から、欧州サッカーが2週間中止。今週に至って欧州では、コロナウィルスが急に拡散していることがわかる。映画「ドクタースリープ」マイク・フラナガン監督を観る。「シャイニング」(スタンリー・キューブリック監督)からストーリーや映像、あのオーバールックホテルのディテールまでも引き継いでいるが、サイコスリラーというよりホラー映画であった。ユアン・マクレガーが主演であるので、スターウォーズのホラー版でもある。フォースに相当するテラパシーがふんだんに使用される。

3月13日(金)
「Battle」翻訳中に、盈進理事であった細井氏の「小さな美しい村」を見つける。盈進学園の歴史を紐解く小誌である。細井氏は、「Battle」の内容が事実と異なるという理由で、「Battle」の翻訳出版を認めていない。それにたいして本章では、細井氏側からの当時の事実関係が書かれている。読後の印象は「Battle」よりも時間経過がはっきりしている。そこに書かれているスキャンダルの多くはふたつとも一致をしているものの、その相手は異なっていた。盈進学園は当時、移転を廻って、学内理事会がかなり混乱していて、細井氏によれば、その時の事実関係を、アレグザンダーは判っていなかったらしい。スキャンダルをアレグザンダーは、施工側が仕込んだ圧力としているが、細井氏はむしろ旧学園体制との軋轢と考えているようだ。この本では実際に暴力団の名前も記されており、細井氏の言い分の方が事実であるようにも思えた。2人の差異は、「Battle」のPart3特に14〜16章にある事実についての問題である。

3月12日(木)
035 CL リヴァプール×アトレチコ 延長の後、リヴァプールの方が力つきる。終始リヴァプールが押すも、GKオブラクをはじめアトレチコDF陣が踏ん張っていた。シメオネの気力が選手に乗り移ったかたちである。それにたいしてリヴァプールは、得点することが絶対条件のなかリスクを追って攻め続けたが、簡単なミスからあっさり延長前半に得点させてしまった。後半に奇跡を望むも、そうした雰囲気にさえてもらえなかった。今から振り返ると、1stレグの初っ端の失点が全てであった。これでアトレチコに守りきるサッカーをさせてしまった。
036 CL パリ×ドルトムント ドルトムントは1stレグに勝利し、今日は受けて立ってしまった。前半はホームパリに圧倒され、思うような攻撃ができずに終わる。後半から巻き返しをするが守り切られてしまった。ちょっと悔やまれる戦いである。スコアは0-2。

3月11日(水)
柄谷行人の「構成力についてー二つの論争」の再読。スコテッシとトッド・フィリップス監督の映画を観て、理性と狂気の境目が気になった。確か本書でパノフスキーを引用し、これについて言及していたことを思い出した。これのよると、近代の等質的空間が狂人を生み出したという。確かに狂人はいたものの、空間的には排除されてはいなかったという。進化論についても同様に言及していた。進化に目的がなく、たんに偶然の変異が事後的に合目的に理解されたものを、いかにも機能的要求、すなわち理性が働いて、進化を生んだかのように誤解されているという。後半は、芥川龍之介と谷崎潤一郎との対談「話のない小説論争」についてであった。これを読むにつれ、難波さんの池辺陽と篠原一男の文書「アートとデザイン」を思い出す。きっと参考にしたと直感した。谷崎と篠原が、芥川と池辺が重なって見えたのだ。前者が美=主体、あるいは内面思考を、後者が非中心的思考でシステム思考である。しかし2つの文章は共に、そうした両者の差異よりも彼らがそれを問題としなければならなかった時代背景にあると主張する。どちらの場合も、主体の位置づけを問題にしながら、西洋から輸入され、日本に根付きはじめた「物語」や「建築」の存在が問題にされている。主体はむしろこれによって制約された結果という。それが「構成」や「機能」の別々の解釈を生んでいるというのだ。その構図は、人vsモノとか、建築vs環境として現在まで続いている。
034 CL ライプニッツ×トットナム 今季低迷中で、怪我人を多く抱えるトットナムは、モウリーニョによっても為す術なし。

3月10日(火)
大槌町の特集を観る。大槌町では、多くの役人が津波にのみ込まれてしまい、その後の役所機能が麻痺してしまい、町民の避難生活に大きな影響を与えてしまった。そうした結果を生んだ地震発生から津波までの約30分の役所の防災行動に対する検証番組であった。因みに町長も津波によって亡くなっている。生きながらえた人も何かしらの負い目を感じていて、当時の状況を語りたがらないものであるが、その上での検証番組であった。後悔と悲しみを個人のうちに留めさせることなく、こうした特集によって、わだかまりが開放できればと願う。

3月9日(月)
深夜に無理して「キング・オブ・コメディ」マーティン・スコテッシ監督。ロバート・デ・ニーロ主演、1982年製作を観る。「ジョーカー」で司会役のロバート・デ・ニーロが、ここでは異常者コメディアンを演じる。この4〜5年前は、「タクシードライバー」で同様な役を演じている。妄想癖があり社会からは異常者であるが、最後はヒーローになるのが、スコテッシ監督の結末である。そうしたちょっと非現実的なところが映画を楽しいものにしてくれている。たいして「ジョーカー」では、ヒーローとなるのは結局バットマンで、アーサーは最後まで悲しい道化師であった。これによって最後の病院でのシーン、「ちょっとね、ジョークを思いついてね。君には理解できないさ」とアーサーが言う意味が理解できた。これは、スコテッシ監督にたいしていった台詞であったのだ。

3月8日(日)
「ジョーカー」トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス主演を観る。1981年のゴッサムシティが舞台である。これまでのバットマンとのストーリーの整合性が問われるも、どうやらフェニックス演じるジョーカーはアーサー・フレックといって、(ジャック・ニコルソンが演じるジャック・ネイピアとは)別人のようだ。アーサーは、愛する母親から虐待を受けていて、妄想癖があり、突然笑い出すように、精神が病んでいる社会的弱者である。が、最後まで救済されないことがこの映画の印象をかたちつくっている。フランク・シナトラといい、ロバート・デ・ニーロといい、道化師といい、ニューヨークといい、今年のアカデミー賞を共に争ったスコテッシ監督の数々の映画を彷彿とさせる。しかし、最後の扱いで映画の後味を違ったものにしている。主人公が最後まで突き放されている。

3月7日(土)
032 ラ・リーガ エイバル×マジョルカ 2-1で、マジョルカ勝利。今季アウエーでのはじめての勝利である。ここ数試合、アウエーでも守備的ではない。久保、クチョ、ブティミル3人が比較的自由に動きまわり、ボールを前進させる。特に久保は自由だ。クチョやブティミルの近くにいて、当然相手にスペースを与えてしまうがそれよりも攻撃を優先させて、そこにおさまるボールをダイレクトでさばく役割である。1点目はそうして久保が得たファウルのフリーキックからであった。2点目は、久保がドリブルで駆け上がり、一度は潰されるも、ホゾが再び奪取し、中央に残っていた久保が今日も右で決めたものであった。
033 プレミア リヴァプール×ボーンマウス 2-1でリヴァプール勝利。ミッドウィークにアトレチコ戦が控えるも、ベストに近いメンバーでのぞむ。それだけチーム状態に余裕がない。今日も、つまらないミスから失点し、攻めあぐねていたところを、サラー、マネでひっくり返した。この後も得点を重ねて楽をしたかったろうが、そうもいかずギリギリまで3トップを使う。南野は、今日は出場なし。こうした状況で今季の天王山を今週むかえる。

3月6日(金)
事務所にて、今村先生と来季から4年生の設計を担当する谷口景一郎さんと打ち合わせ。Flow designを使って、シミュレーションを中心とした課題とする。これまで試行錯誤だった環境にたいする試みが焦点しそうだ。エンジニアリング一辺倒にならないように上手く建築とリンクをさせてみたい。深夜、化学香料を製法する特集を観る。バラは無限のにおいの構成成分からなる。それを最近の分析技術を利用して、人工的に精製する試みである。特集の途中で、自然のバラを利用する伝統的な天然香料が紹介される。一方で、新しい香りをもつバラ自体の品種改良も行われている。分析によってこれまで知られていなかった成分が発見されるも、香りは伝統的な文化に支えられており、この文化を追従する以上、いかに分析精度が上がろうとも、天然香料を超えることはできないという結論であった。

3月4日(水)
031 FA杯 チェルシー×リヴァプール このところ調子の上がらないリヴァプールは、これまでの安定した守備陣形を保ったまま、攻撃陣に新しい血を導入する。南野もそこにいた。ところが、0-2で負ける。このところの不甲斐ない守備と、不発の攻撃は変わらなかった。南野のフル出場は、評価が難しいところ。可能性を見せたがそこまでで、これまでの調子の落ちた3トップの代替まで遠く及ばなかった。FA杯敗退。さらに次週のミッドウィークでの、1点ビハインドでアトレチコをホームにむかえる状況によい材料はなかった。

3月3日(火)
来年度の授業整理をしていたところ、学生時代に感化を受けた1984年の難波さんの「自己解体論の試み」を見つける。現在流行のネットワーク理論のように、主体/社会との関係を問うものである。真の個性とは、徹底的な外部からの解体作業に耐えたものである、というのが第一の主旨で、それがないと、ありきたりの社会しか見えない、というのが第2の主旨である。フラー、アレグザンダー、池辺陽、吉阪隆正がこれを実践できた人である。昨今、ネットワークやリサーチが流行っている。それが、従来の科学のように判りきったことをデータ化し、ただただ証明し直すことでは、それと何も変わらなくなってしまう。データは客観的なことを少しもいっていない。個性を刺激(解体)するものとして捉え、その後、データを考えることを充実させなければならない。

3月2日(月)
卒業設計・修士設計の講評会。コロナウィルスの影響で、無観客で行う。外部講師に飯田喜彦氏、手塚貴晴氏、萬玉直子氏をむかえる。審査員各氏は、実務に即した教育的指導を熱心にしてくれた。流石である。発表学生以外にそのコメントを聞くことができなかったのが心残りである。飯田氏、手塚氏からは特に、プレゼンテーションについて問われた。もっと自分の言葉で、建築の言葉でなく、社会的な言葉で話すべきであるという指摘である。多くの学生の設計コンセプトは「建築」からの逸脱を狙っているのだろうから、それを真摯に受け止めなければならないことを思う。そうした観点からぼくの印象では、自分のアイデアをしっかりもっていて、それがプレゼとして表現できていたものが今日、賞を得たように思う。中山くんの環境を捉える視点の多さは審査員までをも圧倒し、体験を通して社会にまで関係させたことが大きかった。方法論とは、社会や自然の構造を可能な限り客観的に観ることである。とはいえ、そこに観察者の立脚点を消去することは避けられない。それなのに、主観をなくしたかのようなプレゼを一般的にしてしまう。審査員各氏の疑問はこれに集約できると思う。中山くんのプレゼは、これに意識的であった。経験と分析の両面からのアプローチを明確にしていた。2等の学部生関くんの作品は、これに反し個人的視点で突き進むものであった。その潔さが評価されたかたちである。手塚さんが指摘したようにそれは感性的な刹那的な視点である。それは「建築」に乗らないものであるが、それを情熱で乗り超えた。3等の櫻井さんの作品は飯田氏に特に評価された。それは、近代が切り捨てたもの解決に、「顔」として視点を建築家として明確に示したことに尽きると思う。街並や歴史など、切り捨てられたモノの復活を考える人は多い。それにたいしてもうひとつ踏み込み「顔」という彼女なりの切り口を提案できたし、切り捨てられたもの、それはひとりひとりの感性みたいなものであると思うが、それを独特なドローイングで表現できていた。賞まで届かなかったのは、小池くんである。ぼくら社会がもつ自明性を問う提案であったが、それはハッとさせないかぎり他者が気付くことはない。堂ノ下くんの作品も同様であったのかもしれない。手法に限らず新しいものとは、納得してから後追いで確認される。かたちの凄さはそれが可能なことである。それを別の観点から飯田さんは、キーワードの大切さといっていた。キーワードも他者にたいしてかたちと同様な機能をもっていることだろうと思う。とはいえ、このテーマは何らかの引っ掛かりをもたせるものであったことに間違いはない。岡田くんももうひとつのところで賞に到達できなかった。手塚さんの指摘では、敗因はコンセプトを表現するパースの小ささにあった。敷地の発見は十分に評価対象であったので、その結末をしっかりつける必要があったと思う。少なくともぼくは、岡田くんの持ってきたカルフォルニアの実例には圧倒された。この感情がどこから来るかの分析が足りなかったのかもしれない。全体講評として、萬玉さんは卒業修士設計について、たとえ内容が自閉的であっても、その後10年間は少なくとも引きずり、建築をみる物差しになるという大切さを総評してくれた。手塚さんは、少し照れるが、先生との出会いを大切にしてくださいというものであった。大学の先生、ロジャース事務所での経験、大学に復帰してからの大学のありがたみをいったものであった。これらの経験で得たものが強いほど、一生を左右するというものとなるという意味だろう。飯田さんは、反対に先生を信じずに、自分の道を進めという趣旨を伝えてくれた。最後にエンジンとなるのは自分であるという意味である。各氏、自分の経験から語ってくれている。これが彼らの強みである。

3月1日(日)
午後早々に、武田清明さんのオープンハウスに行く。世田谷の高台の本当の高級住宅地を敷地にもつ住宅であった。決して大きくないが、おそらく既存の斜面を切り拓き、そこにテクスチャーのあるコンクリートを差し込み、その上に華奢な木造グリッドを載せる、そうしたデザインである。即物的なデザインに好感をもつ。欲を言えば、木造の梁の扱いが気になった。もう少し抽象的な扱いによって下のコンクリートとの対比を大きくすることも可能だったろう。敷地の前提条件を批判的な視点で読み替えるデザインであるため、一層そのように感じることことができた。
030 ラ・リーガ マジョルカ×ヘタフェ ヘタフェは徹底的に激しいプレッシングをする。久保もはじめ、技術がおぼつかないマジョルカはアップアップ。為す術がなかった。綻びが出ては徐々に得点され、0-1の完敗。よくなったチーム状況を波にのせることができないでいる。

2月29日(土)
029 プレミア ワトフォード×リヴァプール 0-3でリヴァプールが完敗し、衝撃的な結果となる。実に45戦ぶりの敗戦だそうだ。DFラインが変わり、機能しなかったこともあるが、このところ攻撃が消極的で勢いに欠けている。南野が残り10分で登場。最前戦ではサラーとポジションが重なり、引いてみてはボールを持ちすぎていたと思う。八方ふさがりであるのは、自分のペースで動けないからである。その強さがあれば、状況が開けていくと思うのだ。

2月27日(木)
028 CL レアル・マドリード×マンチェスター・シティ 1-2でレアルはホームで逆転負け。レアルは後がなくなった。セルジオラモスのレッドも大きい、次戦が出場不可である。久しぶりにヴィニシウスを観る。守備も巧みになり、フィニッシュだけではなくゴール前でのプレーの幅もみせる。きっと出場を重ね、プレーに余裕が生まれているからだろう。要するにとがっていた者が平均点を上げている。久保が割ってはいるとしたら、どこかと思う。ヴィニシウスでさえそうなのだから、反対に久保はもっと秀でるものがないと、いくら平均を上げても、そうした選手は沢山いるというということである。モドリッチをみる。パスカット、スルーパスなど相手を読み込む力がポジションに現れていた。

2月26日(水)
027 CL ナポリ×バルセロナ 1-1の引き分け。バルサにいつものようなキレがないのが気になった。うがった目でみるためだろうか。生き生きとしたダイレクトパスが見られなかった。

2月25日(火)
NHKで食の特集を観る。味覚は、苦みを感知するによって味蕾を通じて、脳の中枢神経で判断されるというが、最終的には、その中枢神経も他からの情報との絡みから総合判断を下すという。つまり、旨いと人が感じるのは、食物の成分自体に関わるものではあるのだが、それよりももっと決定的なのは、それを旨いと想う共感能力にあるということである。同じ料理でも料理の名前が美味しそうだと美味しく感じるし、サルの実験では、サルには苦みを感じるサルとそうでないサルがいるのだが、はじめ苦みを拒否していたサルも、苦みの感じないサルが美味しそうに食べる様子を見て、その苦い食物を食べるようになる。かつてゲーテが色彩論で、人が不在するところに色はない、といっていたが、そのことである。モノだけに因子があるのではなく、モノと人の総合作用の結果なのである。空間認識も同様だろう。総合関係という以上、それは動的である。アレグザンダーは、この動的状態を出来事+空間として、それをパタンといった。今日の特集にあるように、こうした考えは広く浸透している。次の問題は、このやんわりとした動的なものを、ぼくらはかたちという固定的なものに移行させるときに、どんな方法があるかである。

2月24日(月)
「万延元年のフットボール」を読み終える。ストーリーに起承転結があるわけでないので、はじめから大筋のストーリーをぼくらは了解できる。それにもかかわらず読み進めるのは、登場人物の、そこには回収されることのない個々の生き様があり、それに惹き付けられるからである。それは、歴史上の人物に光りをあてる歴史小説の形式に近いが、それとも少し違っている。前提となる社会に対しても懐疑的な視点を本書はもっているからである。本書の密と鷹は正反対のキャラクターである。そして彼らは同一の出来事を全く異なる視点で見る。それによってまちまちの社会観が提案されている。密は安全な場所にいて、社会を俯瞰的に観察する。したがって密がみる社会は精巧な現実そのものであろうとする。しかしそれを正すことをしない。鷹はそれにたいするチャレンジャーであるので、社会は変革の対象であって確固たるものではない。若者にたいする求心力があるが、行動根拠が不明であるので、社会が鷹にとって個人的のものであるか、村や社会のためのものであるかはわからない。一方で、保守的な曾祖父たちにとって、村のコミュニティはコントロール可能な外部にあるものである。つまり、ここに描かれる村や社会も、ひとつに回収されるものではないのだ。登場人物にしても社会にしても、「名前のない空間」として永遠に宙づり状態のままである。それでも小説として成立させている。このことに感心した。

2月23日(日)
026 プレミア リヴァプール×ウエストハム リヴァプールは逆転を許し、追加点の危うい場面もつくるも3-2で競り勝つ。アトレチコ戦を落とした後で、嫌なムードであったが強い勝ち方をした。特にチェンバレンが投入されてから流れが変わり勢いづいた。こうした場面での南野の信用はまだなし。

2月22日(土)
名古屋市美術館で開催中の岡崎乾二郎展へ行く。岡崎は、磯崎新や石山修武、八束はじめをはじめ建築評論との関わりは深く、かつ自ら制作するアーティストである。昨年の著書「抽象の力」は、建築家が本来すべき仕事、かたちにする=言語を具体化する=抽象化、を言説するものであった。それは、かたち以前をクローズアップする昨今の建築界とは対照的な態度である。それで、大きな合板による幾何学的彫刻や、花びらのような空間を表現する絵画的試みもあったが、ぼくが惹かれたのは、重ねた紙を破りめくる手法を用いた一連の作品である。ハサミを使用するのは、先月観た東京駅ステーションギャラリーでの坂田一男からのものだろうか。キュービズムの流れを汲むものである。その中でも、さらに立体的にした小さな習作が気になった。それは壁から吊されていて、ゲーリーのビルバオのようなかたちが、ガウディの逆さ吊り実験を経て生まれたものだ。洗濯ばさみの重さを利用しているのが可愛らしい。さらに、イサム・ノグチのランドアートを彷彿させてくれるような紙模型もあった。地層や歴史をひとつひとつの層と見なすことができれば、それをめくることで何かを表出させることができるのである。そのために、岡崎は6つの習作を提出している。この作品が何かを抽象化したものであるが、6つもあることはむしろその違いが大切にされ、雛形をつくることに目的がないのである。モノと人との関係を雛形のように不問することが批判され、ぼくらがモノから直接何かを感じることの具体性が問われているのだ。ところで、名古屋まで行った大きな目的は、岡崎の「経験の条件」にあるブランカッチ礼拝堂のトリックをiPadで経験することにあった。実際に、この本の影響を受けてフィレンツェに行った。祭壇の前に立ち、左右の壁画を同時に感じようとしたが、よく分からなかった。それが今回iPadによって確かめられると聞き、行くことを決心した。ブランカッチ礼拝堂の壁画は、マサッチオ、マゾリーノ、フィリピーノ・リッピという3人によって描かれ、鳩小屋を積み上げたような壁画である。マサッチオは若くして死んで、リッピが描き始めるまでは60年を要したという。岡崎によると、これら対面する壁画を反転したりして重ね合わせると、新しい宗教的意味が生産されるという。この実際のところをiPadによって可能にしてくれる展示であった。マサッチオのこの手法の目的が何であるかは今となっては明らかでないが、マサッチオはブルネルスキから教示され、透視図法やフレスコ画のための下絵を書く新しい手法を学び、こうした空間を可能にした。この時期に絶対的であった神が、様々に解釈されうる対象となったことを示すものである。この問題規制は、現在神から社会に移っても、なお俎上にあるというのが岡崎の主張である。その後、美術館を後にして、妹島さんの豊田市交流館へ行く。円形の部屋が細胞のように連結した3層の建築である。規模が小さいので、金沢21世紀美術館では体験できなかった不定形の部屋を潜り抜ける不思議な経験ができる。中央に2層分のホールがあり、その周りをガラス張りの小部屋がある。それは、会議室であったり、キッチン室、工作室、和室であったりする。これに立体的な移動空間を組み込んだのが、平田さんの太田市美術館・図書館だろうと実感する。その円形部屋に、構造のシステムを堅持しつつさらに分解したのがブタペストの美術館なのだろうと思う。
025 ラ・リーガ ベティス×マジョルカ 6試合ぶりに久保が先発する。先週の途中登場から、久保に何かが変わり積極的になった。本人の行動次第でボールも回ってくるということだろうかと思うと、不思議であった。久保がハーフライン手前からダイレクトパスあるいはドリブルで、2トップへの繫ぎ役となる。これが速攻のかたちとなり、3点とも久保を含めた3トップで成功させていた。マジョルカは久し振りの複数得点。久保も1G1Aである。このところ久保は、右サイドに流れてもプレーする。そして右を深くえぐるかたちである。今日のシュートは、左サイドからの右足であった。左足を警戒されるため、ひとつ早いタイミングでのシュートであった。久保にとって、良い方向にチーム状況が転がりはじめている。

2月21日(金)
小堀さんの「ロキ イノベーションセンター」に行くつもりが、予定が狂って、直接宿となる湯谷温泉へ。長篠城を抜けて、JR飯田線の駅がある古い小さな谷間の温泉街である。「万延元年のフットボール」は中盤までさしかかる。どうやら暴力がひとつのテーマのようだ。力による支配が古来より絶対的であって、これから逃れるために社会というものが要請されてきたことを実感する。少年時代、ぼくも暴力に悩まされていた。そうしたならず者も、大きくなるとその片鱗を全く見せなくなるのは、社会による去勢によるものであった。しかし理性によって社会システムが暴力を帯びたように動くこともある。本書が面白いのはここにある。つまり、社会は公平でも健全でもないというのだ。その一員に参加はならないとする主人公密に同調するのだが、物語の後半への展開が気に掛かる。

2月20日(木)
024 CL ドルトムント×パリSG ハーランドが2発決める。ホームでドルトは2-1の勝利。2発目は目を見張るものであった。ブラジル代表DFを一瞬に置き去りにした。久し振りにドルトの試合を観たが、昨季より数段進歩している。素早かった選手がドリブルに固執することなく、ダイレクトパスで繋ぐようになっていた。これでは香川がいても活躍の場がないことを実感する。ファブレの目指すべきプラントはこのことだったのかと思う。昨季のSBの選手がひとつポジションを上げ、守備が安定した本職のSBと組み、計4人で両サイドの攻守を先導していることに、それが典型的に現れている。中盤の底の新加入の大型エムレ・ジャンがいいアクセントともなる。とはいえ、ハーランドの確実性は何よりも大きいことを感じた。

2月19日(水)
023 CL アトレチコ・マドリード×リヴァプール 0-1でリヴァプールが負ける。これで何十戦負けなしという記録が途絶えた。強かなシメオネにやられたかたちである。開始早々のプッレシャーに負け、よもやのセットプレーのどさくさからの失点。その後は、堅い守りを崩すことができなかった。その間にも、マネが執拗にマークされイライラし後退を余儀なくされ、それはサラーも同様であった。南野はベンチ入りし、何度もアップしていたものの出場なし。クロップは最後にミルナーを投入し、0-1でも仕方なしと考えたようだ。来月のホームでの巻き返しに賭けたようであった。

2月17日(月)
ここ数日前から「万延元年のフットボール」大江健三郎著の再読をはじめている。密という人物を通して物語は進む。登場人物のひとつひとつの心の動きや表情の描写密度の濃さにびっくりする。それ以外の世界はむしろボッーとしている。固有名詞が少ないので、イメージを焦点しにくい。その分、字面を追うことになる。それでも時偶、カタカナ名やジョン・デューイなどが散発的に出る。物語の骨格となる出来事は同じような意味をもっている。これがテーマであろうか。それが、江戸時代の万延、戦後、現在であったり、谷間の村や神奈川の病院であったりして、行ったり来たりが繰り返えされる。

2月16日(日)
022 プレミア ノーウィッチ×リヴァプール 1-0でリヴァプールが辛勝。南野はベンチ外。これから続く、ハードなスケジュールのためと考えたい。2日後にはアトレチコ・マドリード戦があり、今年からCLレギュレーションが変わったそうで、前チームで登録していた選手もノックアウトステージで再び新しいチームに登録可能になった。それにしても、マジョルカとの違いにはいつもびっくりする。

2月15日(土)
021 ラ・リーガ マジョルカ×アラベス マジョルカは4試合ぶりの勝利。久保が50分過ぎから投入され、攻撃を活性化した。久保は吹っ切れたかのように、ボールのあるサイドへ自由に動き回っていた。解説の柱谷が、それがもたらす空いたスペースを何度も危惧していた程だ。今日も幻のアシストに終わったが、左サイドを深くえぐるドリブル突破を見せ、右からは中央に移動しての左足シュートもあった。何よりも、ワンタッチで中盤底から前線へ繋ぐ縦ラインを形成しているのがよかった。

2月14日(金)
虎ノ門ヒルズに行く。ジャウメ・プレンサの彫刻「ルーツ」が丘の上にあり、思ったより大きくなかった。斜面地に建つ50階の高層ビルをはじめて経験する。低層階には、その地形と平行して階段状のエントランスホールがあり、カフェなどが並ぶ。公園の中にいるような気になる。この流れで付近の地形を調べる。虎ノ門ヒルズのオーバル広場はもともと高台でもなかったことを知る。地中に走る自動車道によるものだろうか。現状はかなり複雑である。

2月13日(木)
小泉先生と久し振りにお会いする。変わらずお元気で、測量における3Dスキャナーの可能性について意見交換。建築では、展覧会で例えばライゾマテックスのような人たちが、デジタル表現を通して、建築と社会をインターフェースする試みをしていることを紹介。藤木先生からは、近代建築の保存時の可能性について提案。ぼくも研究との絡みを考察することにする。

2月12日(水)
建徳雑誌2月号は、震災特集。震災以降、生活を見直し、新たな生活を模索している人を紹介する。建築でもこれを奮起させることを意図したものだろう。難波さんの寄稿「一室空間住居の系譜」が、興味深い。1995年以降、一室空間が建築家から一般住宅に普及し始めている経緯が、自らの設計経験から歴史的に示されている。ところが、ぼくの研究室の河野祐子さんの分析では、1990年を境に、建築家が設計したLD空間の面積割合は若干減少し、反対に居室数が若干増えているというのである。この見解は重要であるので、もっと精査すれば面白い結果が導かれると思った。建築家の設計する住宅は、クライアントの個別の要求に対応するものだとしたら、どうやらクライアントの要求は、LDに象徴される家族から、ひとりひとりの趣味空間になどに移行しているらしいのだ。これが現実であることが確かめられれば、住宅の今後が見通せることになるだろう。因みにハウスメーカーのLD割合は増加傾向にあり、難波さんの論考と一致している。そういう点で修士設計でも面白い作品に出会った。最終結果がダメであったのであまり議論にならなかったが、その作品は、渋谷にガラス張りの高層個人スペースを用意するものであった。広さは1.8m角。彼が言うには現在、個人スペースを獲得することが最重要事項であるらしい。かつて、ハンナ・アレントや山本理顕さんが、公共空間は与えられるのではなく獲得することであると主張していたが、それに反し、既に公共空間は与えられ管理するものになってしまい、人は公共空間の可能性を見出せずに、そこからの逸脱しつつある。この作品にこうした問題の萌芽があるように思えた。

2月11日(火)
修士設計発表会で、選考ライン上の学生にたいするぼくの考えを整理する。ぼくらのコンペや賞でも、選考基準は曖昧なものである。設計では仕方なしのことではあるが、ぼくなりに整理してみる。濱田さんが、ペットアーキを具に再調査したことは脱帽である。ただし、その結果を提出まで形にできていなかった。過程の面白さを評価しても、アウトプット不足を補えなかった。根本くんは、敷地スケールの都市のヴォイド、もう少しスケールの小さなヒューマンなヴォイド、これらを都市に見い出した案である。前者の発見が、修士設計ならではのものと思う一方で、無批判にこれらをデザインしているところが、卒業設計の域を出ていないとも思えた。ヴォイド自体のデザインは難しいが、それをすべきであったのでないか。櫻井さんは、曖昧模糊した空間が弱いものであることに意識的であった。それを前提にした設計であることに感心した。吉阪の影響が大きいと思われるが、通常ぼくらは、曖昧模糊したものの解釈を文化というものに無意識に負っている。文化は、吉阪がいう、合理(例えば数式)と非合理(愛)の間にあるものなのだろう。建築が顔であると、そのように誰でも把握する。これが、合理も非合理の間にある文化というものの働きである。顔の設計は、こうした文化の働きを最大限に活用して可能なもののひとつであったと思う。分析から自らの考えをかたちし、他より一歩進んでいる。柴田さんの、改修を建具で行う発想が面白い。ただし、その扱いが机上的あるいは網羅的とも思えた。高山伝統技術との絡みや現実性の検討も含めて、田島研にとって大事なコミュニティの問題に真に繋げる工夫を詰めるべきと思う。

2月10日(月)
修士論文の発表会。小峯先生のストーリーがないという指摘に同意。学生は形式に縛られ、確実なところばかりを詰めている。ひとつのデータも、仮説によっては全く異なる解釈になることもある。データと仮説はセットと考えるべきで、そうした説明が大事であると思う。

2月9日(日)
020 ラ・リーガ エスパニョール×マジョルカ 0-1でマジョルカ負ける。これで最下位と勝ち点が並ぶ。久保は60分過ぎから登場。今日は左サイドに変わり、キレを見せたが、強烈なインパクトとはならなかった。

2月8日(土)
千葉工大の修士設計発表会。昨日のキーワード「他者」を通して作品を観ると面白かった。千葉工大でも、サードプレースや古民家の再生を試みる作品が多い。しかし、それが他者の存在を意識したものでないと、多様なユーザの設定が、設計者ひとりの視点のものに還元されてしまい、神の否定が新しい神を呼ぶというトートロジーに陥ってしまう。設計主体は相変わらず上から視点で、自己満足のものでしかないのだ。遠藤研小池くんの作品はそういう意味で、設計主体を消しながら制作する一見矛盾することを、おとぎ話の構造をヒントに行っていた。おとぎ話は、登場人物や時間、場所などが自由に交換するもので、その気ままな感じが、読者が物語の中味(道徳など)=他者に入り込むことを容易にする。近代的思考は逆で、いくつかの個人的特殊事情を上手く積み上げ、文化的なバックグランドの力を借りて、あたかも必然のように上手く結論付けていくことである。この場合、そうした流れから逸脱する視点は基本的に許されておらず他者であり続ける。小池案はそのパラドックスに気付いている。ただし、議論でふたつの問題が提出された。ひとつは、おとぎ話の道徳に匹敵するものは何か?もうひとつは、この作品で何が可能となったか?であった。次の段階ではこれに応える必要があるだろう。ふたつ目はとくに、利用する人がより自由になる、この表現に力を注ぐ必要があると思う。櫻井さんの案は意外と評価が低かったのにびっくりした。顔的建築によって、愛らしさみたいな合理性を超えたもの=他者を建築の構築にて表現しようとする提案である。先に説明したように、構築や計画において設計主体は、絶対的なものになる運命にある。そうありながらも、そこからの逸脱が試みられていた。吉阪隆正が櫻井さんの根にあるのだが、合理性から逃れる方法を、合理と非合理のスキ間(吉阪)に、それをみるところにユニークさがある。顔は、ぼくらが合理と非合理の間を行ったり来たりすることを可能にする丁度よい媒体であったのだ。スキをねらっているという点でポストモダンではないと思う。中山くんの案は、下諏訪のアクターネットワークを明らかにしつつ、ささやかにそれに乗る案である。ネットワークの解読を、実際にそこで生活し、科学的なシミュレーションからも行っていた。こうした結果、どういうものが可能になったかが問われたので、完成した結果のシミュレーションが大事になるのではないかと思った。塙くんの案は残念ながら選ばれなかった。積層という、考えながら同時に形にしていくという漸進的方法は、予期できない未来=絶対的他者にたいするときの正直な解答方法であると思う。最近のコンテクスト主義を具体的にしているという点で評価すべきであろう。正直であるが故に、大きなジャンプが難しかった。ぼくがもっと異物=他者として介入すべきであったと後悔するが、それも事後説明でしかない。

2月7日(金)
東京理科大学の修士設計講評会へ行く。大きな模型が精巧にできているのが好ましい。一時不調であった図面制作も充実してきた。ただし、配置図がないことが気がかりであったが。周辺環境との関係が問われている時代に、配置図を形式的なものと捉えずに、ピックアップした条件を的確に示す手段と考えてみたらどうかと思う。優秀案を選抜する講評会では、文化庁の加藤道夫先生が、現代の状況を的確に表現する言葉として「他者」を上げていた。それに乗って議論をしたかったのだが、尻切れ蜻蛉になり残念。皆は同調しなかったようだ。ぼくがいったのは、他者が現代的再解釈できるのは、価値観が多様になりそれを共有することが困難な現在、建築家はどこに向けて設計を行えばよいかを考えるときに、他者がテーマとなるということである。それにはふたつの方法があると思う。ひとつは、アクターネットワークのように複雑な他者ネットワークがあることを意識した上で、ネットワークを明らかにしつつそれにささやかに乗っかるような態度。社会に対する工学的な分析が必要となるものだろう。もうひとつはもう少し後退した位置に主体を置き、ネットワークはあまりにも複雑で動的であるので、それには触れないように保存を目指す態度。建築における歴史的建造物保存において、その周りの法や経済の整備を含めた環境を整えることに近い。建築では、環境整備を建築構築で行うものである。加藤先生がいうように、これによって、修士設計作品の大半を捉えることができる。最優秀案は、小豆島の醤油倉の改装で、島の発酵文化に乗ったものである。優秀案は、海辺の集合住宅。海風を感じ、それから身を守る計画がなされていた。安原さんの、集まって住まうということが家族や経済的理由からでなく、環境的によるものであるという講評が印象的であった。もうひとつは、先のふたつ目に分類されるもの。動植物のネットワークを取り巻き、それを知らしめすように、少し嫌味のある建築を計画するものであった。

2月5日(水)
卒業設計講評会。新カリキュラムになって4年経ち、はじめて迎える卒業設計であった。作品がシステマティクになり、建築を俯瞰的にみるものが多くなった。その分従来の卒業設計にあったような具体的な出来事が見えにくくなっている。この両輪が噛み合えばと思う。一昔前の卒業設計にもどった感はぬぐえない。それは無理もない。現実の建築は、複雑な社会関係を上手く反映したチームによる設計が多く、その分ひとりひとりの個性まで追えない状況にあるのだから。その前提に立つと、批評性というのもまた必要になるのかとも思う。社会から要請される条件を説いてしまうのでなく、かといってそれを無視するわけでもなく、別の読み方が必要ということだろうか。遠藤研の作品が共有されにくかったのは、そうした理由もあるのだろう。週末の修士の学生にその巻き返しを期待する。こうしたことに意識的かどうは不明だが、苦労しているようだ。今日の2次審査の発表会には、遠藤研から3名が選ばれた。石原くんの作品は、ピュリスム絵画を建築に応用しようとした作品。建築学科ではピュリスムの功績を、3次元から2次元への試みというように概念的に捉えがちであるが、そのように見せるために彼らが心底開発した技法を、この作品では丁寧に把握しようとしていた。このところに好感がもてた。岡崎乾二郎から学んだが、画家は繰り返しデッサンによって、これを身に付けようとしている。岡田くんの作品は、世田谷岡本町にある旧渋谷町水道がもたらすへんてこなランドスケープを顕在化しようとするもの。この顕在化は、多摩川氾濫時のための避難経路として機能し、ちゃんと建築の大義名分を押さえている。こうした考え方を彼は、ロバート・アーウィンの彫刻から学んだ。大地や自然と対話するための建築・アートワークである。建築がミニマルであることの批判も多かったが、それを反対に利用して、ランドスケープの重要性を強調するプレゼにもっと振り切るのもありと思った。堂ノ下くんの作品は、神社の存在様態の新しい提案である。かつて柄谷行人は、美術のみが西洋化を免れた岡倉天心の功績を評価していた。それは、岡倉天心がいち早く美術館をつくって、日本画を世界に先駆けて権威付けし、美術の商品価値を高めたことに成功したからだといっている。つまり、美術館の発明が官僚であった岡倉天心の功績だったわけである。この日本画が、どうも堂ノ下くんの神社と一致するのである。あるいは、レム・コールハースのヴォイドの戦略に重ならないこともない。このからくりが上手くプレゼできていればと思う。結局、自らを代表することは、他者の表象を依存することでしかできないのである。ちょっと神社を覆いすぎでないかという批判を受け入れて、全体の中でのヴォイド感を出すことが重要であった。他の研究室では、構造家の多田研が健闘していたのが光る。木造格子シェルを逆さ吊り実験や石膏での製作を繰り返し、精確な形にまでもっていた穀野案。江戸切り子のカット技術にみる格子をシェルター構造に応用した土田案。納まり的に問題はあるものも格子構造に窪みをつくり、内部空間に淀みを与えようとしていた点で、構造システムから建築になりかけていた。小さなフットボールスタジアムを施工方法からも提案していた喜多案。これも精確な模型として表現されていた。集積型木質吊屋根がもたらす空間のヒエラルキーと生涯学習センターとプログラムが融合していた野内案などである。目指すべき問題と結果が明確に示されているという点で、意匠系学生が学ぶことが多い作品であった。

2月4日(火)
修士設計の予行発表。塙くんは、積層をテーマとする。積層は近代以前の伝統建設方法のひとつであるが、考えながら実行が可能な初源的な創造活動である(C・アレグザンダー)。これは、計画に基づく近代以降の制作方法を批判したものである。本作品では、積層構造の分析からはじめ、実際に積層家具を制作し、バシュラールの文献調査まで行い、制作行為における想像の定義までを行うものである。櫻井さんは、建築における「スキ」をテーマとする。スキとは、建築家吉阪隆正の言論や作品の特徴を示すキーワードである。合理的な世界は広い非合理の一部でしかなく、この落差を「スキ」と定義している。本作品によると、吉阪の作品の特徴はこのスキを積極的に受け入れたうえで統一をもたらすことであるという。建築の本来の姿は、感情の伴う思い出や連想のある不思議な世界をかたちづけるものなのである。街にある顔相的建築には、建築家の作品と異なりこの条件が揃っている。その分析から建築を構築しようとする極めてユニークな提案である。小池くんは、おとぎ話をテーマとする。おとぎ話と同様の寓話的視点から近代小説を批判したのは柄谷行人であった。近代小説は、暗黙に個々の特殊な出来事が、それとは知らずに普遍的な意味をもつ(社会化された)自明性を無条件に受け入れたものといっていた。本作品も、これまでの建築が機能、構造、環境から無批判に組み立てられていく建築計画を批判している。本作品では、そうした計画方法に回収されないイレギュラーなひとつひとつの特異性が現実の生活として提案されている。島田くんは、将来に向けての移動式住居を提案する。ここに提案される移動式住居はタイニーハウスと呼ばれ、これまでのモバイルアーキテクチュアと比べてローテクで、自分たちで製作・移動できるものである。都市のインフラは既に完備されているので、それを最大限に利用した簡素な住居でよいという社会状況の判断によって、本作品が計画されている。岡部くんは、表皮によって建築を構築することを目的とする。表皮とは、空間・構造・プログラムからなる建築本体のさらに外側にある層であり、人の感性をインターフェースするものである。装飾の歴史を追うことで、装飾の意味するものが社会的なメッセージを表象するものから、個人的感性や嗜好を反映するものに変化していった。それは近代建築家アドロフ・ロースがラウムプランを通して、装飾に代わり表皮という空間にへばりつくものを提案したこととつながる。この新しい建築の構築方法をさらに推進させるものである。中山くんの題名は、インヴォルブド アンビエンスである。アンビエンスとは、私たちの日常を取り巻く雰囲気やリズムまでを含む環境を指し示す言葉であり、最近では環境哲学者ティモシー・モートンが使用している。インヴォルブとは、60年代の「かくれた次元」でエドワード・ホールがテーマにした言葉で、理解が難しい他者を前にしたとき使用される言葉であり、巻き込むことことを意味する。時代を経て度々この言葉は使用されてきた。経験というリサーチからアンビエンスを捉え、実験的シミュレーションによってインヴォルブするものである。自然/人間という近代の環境二元論的枠組みを外すシームレスな環境の提案である。

2月2日(日)
夕飯時にTVで「タクシードライバー」スコテッチ監督、ロバート・デ・ニーロ主演を観る。いつ観ても、主演のロバート・デ・ニーロは若き頃、細かったことにびっくりする。70年代の衰退はじめるアメリカの実情を浮き彫りにする映画である。デ・ニーロふんするトラヴィスはベトナム帰り。豊かであるが故に腐敗する社会に矛盾を感じ、孤独に追いこまれ、いつしか浄化という名のもとの犯罪者へと転落していく。そのNYに、生も含めてリアルというものはない。トラヴィスが打ち壊そうとするのは実はそうしたアンリアルな自己であった。大統領暗殺が未遂に終わり、ギャングに討ち入りに行くまでは、一般的なストーリーである。しかし最後、彼は死にきれずに、マスコミによって英雄に逆に仕立て上げられる。簡単にリアルな死までも獲得できないのである。タクシーを流しながらのNYの街は、バーナード・ハーマンのサックスと相まって、実に妖艶で不気味に描かれている。そのNYとは全く異なる心叫ぶ音楽として、ジャクソン・ブラウンの「Late for the sky」が使われている。トラヴィスの低い一定のトーンの演技とは対照的であった。彼はゆっくりと足でその曲を否定するように、それが流れるテレビを押し倒す。
019 ラ・リーガ マジョルカ×バリャドリッド 今日は強いホームで、直ぐ上に位置するバリャドリッドに負ける。残留に向けてこの敗戦は痛い。このところ4-4-2で、コロンビアFWクチョを自由に動かせるチョイスをしているが、今日はなかなか上手く機能しなかった。守備的でありながら前線へ誰がボールを運ぶかという問題をマジョルカはずっと抱えている。一時は久保にその役割が期待されたが、最近はチームプレッシングというかたちで、今日のかたちになっている。このところ、リヴァプールのゲームに続けてマジョルカのゲームを観ることが多いが、フィールドの使い方そもそも違うことを痛切する。

2月1日(土)
018 プレミア リヴァプール×サウサンプトン サウサンプトンの吉田がイタリアのサンプドリアへ移籍というニュースが入ってきた。7年半在籍し、英国の永住権も獲得した。サウサンプトンでの在籍期間は現役では2番目の長さであった。新監督は、DF陣を若手に切り替えようとしていた。そうした中レスターに大敗してしまったことが吉田をベンチ入りにした要因である。7年前の初戦アーセナル戦で、FWに見事に振り切られてしまった時は、日本人DFがプレミアで活躍することの難しさを知ることになったのだが、その後ファン・ダイクやロブレンなどと競い合い、昨年は降格圏から脱出するためのキャプテンでもあった。サンプドリアでがんばってもらいたい。代わって南野といえば、後半70分から1番目で登場。勝敗は決してはいたがクロップの序列は上がってきた。だいぶチームにフィットしてきたが、サラーからのお膳立てを決めきることができなかったのが悔やまれる。リヴァプールレギュラーは、この後完全にオフにはいるそうだ。

1月31日(金)
梗概が出揃ってきたので、修士設計要旨の整理をはじめる。この2年間に彼らが読んできた本や経験と上手くつなげたいと思う。コロナウィルスの報道が恐怖を呼んでいることを実感する。サーズは2003年であった。このときはさほど恐ろしさを感じなかったのは、社会状況によるものだろうか。大量の公的資金が投入され、このときは上手く世の中が回り始めていた。

1月30日(木)
017 スペイン国王杯 サラゴサ×レアル・マドリード 今年から国王杯のレギュレーションが変わったという。下部リーグに所属するチームのホームでの一発勝負となった。そのため、ビッグクラブが不覚を取ることがある。今日は、香川のいる2部サラゴサがそうした経緯でレアルを迎えた。しかしサラゴサもレアルも週末に大事な試合を控え、1.5軍である。香川の位置付けも同様である。そんな中、香川は活躍する。シュートを5〜6本放ち、もう少しでアシストになる決定的パスも数本繰り出していた。ビッグクラブは統制が取れていて、ここぞというタイミングを知っていて、無闇にガツガツと来ない。それで絶えずチームがバランスしている。香川はそうしたゲームを心得ていて、そこそこのプレーができていたと思う。香川をはじめブラジルW杯を経験した選手は、そこから一皮剥けようと必死である。その点では、香川の現地での評価とは別に、少し不満が残るものであった。

1月28日(火)
016 ラ・リーガ レアル・ソシエダ×マジョルカ 先週のバレンシア戦で上手く機能した4-4-2でソシエダにのぞむも、アウエーでは上手く機能しない。久保も先発を外れ、65分から2番手で登場。1番手は新加入の7番で、久保は主戦ではない右サイドとなった。監督の信頼はどうも下がってしまったようだ。前線へのボールのつなぎ役に徹する。得点という結果が求められる。ソシエダは、来季久保がレンタルされるのでないかと憶測されるチーム。ドルトにいたイサクやヤヌザイも登場した。

1月27日(月)
2年生後期第2課題の講評会に出席。2年生には珍しく、コンセプチュアルな案がいくつかあった。ひとつは「knit」というタイトルの案で、編み物のように物理的に細長い5住居を編み込んでいた。敷地は4周を道路に囲まれているので、この細長い住居によって、様々な方向へ景色が展開する。高さを抑えて勾配をもう少し緩やかにする必要があるかもしれない。繋がりというテーマを住戸形式で直接的に示した作品であった。アレグザンダーもknitあるいはweaveをキーワードに設定している。もうひとつは、新しく第2の大地というものを設定していたもの。大地は、古代からの神話、あるいは近代でもイサム・ノグチがテーマにしている。学生の設定した第2の大地によって、上下で空間の性質が全く変わっていた。大地をもっと前面に押し出すデザインにするとよいと思った。もうひとつは、内断熱と外断熱の部屋を散りばめて配置し、家族というものとは異なる新しい集住の方法を提案していた案。家族が基本の集まりでないので、細胞のように部屋が集合する案であった。長く滞在する部屋は外断熱で、個室は内断熱である。コンクリートの厚みの変化で、それを表現してもよかったと思う。
015 FA杯 シェルーズベリー×リヴァプール 3部で下位に沈んでいる人口8万のチームが、ビッグクラブを迎えるのは、お祭りのように違いない。一方リヴァプールは、故障明けの選手と10代の選手中心に先発を組み、そこに新入りの南野も入る。解説によるとシェルーズベリーは3部といえども、ユナイテッドなどでプレー経験のある選手もいて侮れないという。案の定、先制はリヴァプールがするものも、結果追いつかれ2-2のドローとなる。ゲーム開始当初は、南野もフィットしていたが、その後、チームが窮地に立たされると、持ち直す選手まで至っていなかった。80分過ぎにフィルミーノと交替。はじめて南野への評価も厳しくなった。これで再試合が案フィールドで行われる。FA規定では、観客入場者収入は両チームで折半となるそうで、アンフィールドの3万人分の収入は、小さなクラブにとって大きなボーナスとなるそうだ。これこそお祭りである。

1月26日(日)
「They shall not grow old」ピーター・ジャクソン監督を観る。イギリスの帝国博物館に保存されていた第1次大戦にかんする莫大な記録とBBCが保存していた退役軍人のインタビューから、当時の時代状況と兵士の生の感情をピーター・ジャクソンが蘇生した。第1次世界大戦のドキュメンタリー映画である。塹壕から出て直接ドイツ軍とぶつかり合うシーンは、記録がないので漫画となるも、効果的にインタビューを使用し、スピルバーグの「プライベート・ライアン」の上陸シーンに匹敵するほどの緊張感があるものであった。ところで、当時のイギリスでは戦争を全くリアルなものに感じていなかったことがよくわかった。法律上18歳以上男子しか軍人になれなかったが、不況と言うこともあって、自分の勇気試しのために、15歳くらいから入隊をすることが普通であったという。白羽根が流行り、女性からそれを手渡されるのに男子はびびっていたという。白羽根は臆病者を意味するものであった。そうした男たちは9週間の入隊で鍛えられ、現地へ向かい、そこではじめて戦争という現実に向き合うことになる。そして映画の舞台となる南部戦線では、兵士の1/3が亡くなった。これが現実であった。兵士はドイツに勝利し生還しても、世間は反対に冷ややかであったことが最後に記される。景気がより悪くなり、戦争にたいする見方の変化があったのだと思うのだが、戦場と日常生活とのギャップに兵士が戸惑うこともクローズアップされていた。
014 ラ・リーガ バレンシア×バルセロナ バルサは得点できずに、バレンシアに負ける。メッシがゴールできないでいると、速攻を逆に決められてしまった。バルサは、監督が変わっても、スアレス離脱で、調子が上がってこないようだ。右トップには、久保とコンビを組んでいた17歳ファティが先発。レアルのヴィニシウス、ロドリゴ同様に動きが素早いが、DFにとっての驚異まではならず。

1月25日(土)
東京国立近代美術館で開催中の「窓展」へ行く。窓をキーにして、アルベルティ以降のアートを振り返る企画であるが、現代的意味が読み取れなかった。額縁と窓は相同的である。それらはフレームワークとなり、鑑賞者に制限を与えるものになるというのが、近代以降の反転した共通の価値観である。その後の現代への展開はなかなか見えてこなかった。展覧会では、デュシャンの「Fresh Widow」、マティスの「窓辺の女」、岸田劉生の「麗子肖像」、リキテンシュタインの「フレームⅣ」、THE PLAYの「MADO」が印象的。どれも既存のフレームワークを批判したものである。そこでは透明性、美しい風景、鏡性、透視画性、美術館のあり方性等が批判されている。

1月24日(金)
013 プレミア ウルヴァーハンプトン×リヴァプール ここ2シーズン好調で、今季6位につけているウルヴァーハンプトンのホームにリヴァプールが乗り込む。ウルヴァーハンプトンは、今季シティなどを撃破している。今日は、バルサ出身のトラオレがどんな状況でもセンタリングを上げていたし、ヒメネスが確実にチャンスメイキングをしていた。2-1でリヴァプールが勝ったとはいえ、互角に近い戦いであったと思う。それよりも、南野がプレミアデビューを果たしたことが、日本人のぼくには大きい。前半30分のマネの負傷からの登場で、クロップの優先順位の変化を知ることができた。ただ、チームメートからの信頼をまだ得ていない。いいところでパスが回ってこなかった。決定的なのは、前半アディショナルに、キーパーと2対1になって、サラーからのパスが南野へ回ってこなかったところである。2人が併走して、南野は全くのフリーとなった。ここで得点していればゲームも楽になっとと思うが、サラーは無理な体勢からのシュートを選択した。南野は脚を痛めたという情報が入ってきたが大丈夫だろうか。今日は、モデルとの恋愛情報もネットで賑わせていた。元チームメートのハーランドは今日も2本決め、ドルトムントで確実に結果を残している。

1月23日(木)
CASABELLA902が届く。石建築特集。プラクシス・アルキテクター+ゾンダーガードによる「スロットフェルトラーデの修復」の屋根が印象的。現代的な干草屋根の再生である。フランチェスコ・ダルコによる論文は、17,8世紀の古代回帰について。このころに、ストーンヘンジなどの測量などが行われていた。「建築の起源」とその後の「クワイヤル・ガウル」ジョン・ウッド著という本に言及する。祭壇を建築の起源とし、それは、建築がそもそもキリスト文明を成形したものであることをいったものだ。

1月22日(水)
3年生後期の設計講評会。外部講師として、建築家の末光弘和氏と竹中工務店の川島宏起氏をむかえる。この設計4の授業では、専任全教員がエスキスを行った。ぼくのCスタジオのから出展した木造による山型案が、川島さんから優秀案として選ばれた。この案は、大断面木構造を使わずに在来製材105角を使用する一室空間の事務所建築である。そのため、4本の組柱にして、斜材を2本の水平材で挟み込んだトラス梁による構成である。木造の弱点であるジョイントは、製材を重ね合わせて、釘による剪断によって力を伝達させるものだ。この大きいトラスせいを利用したダブルスキン構造で屋根からの日射をカットし、卓越風をその中に取り込むものだ。その屋根は地上付近まで達し、卓越風を冷却するために南には池がある。川島さんは、こうした設計を、意匠・構造・環境を考えるプラットフォームとしての完成度が大きいと、この案の可能性を評価してくれた。末光さんは、Aスタジオの自然教育園に隣接する、大きな共用部分に動くユニットが取りつく案を選出してくれた。この案では、緑を育てる仕組みがデザインされており、建築の社会性が評価されたかたちである。残念ながらCスタジオのパサージュ案には、川島さん同様に、密度の高い共同作業があったという簡単なコメントのみ。Cスタジオの木造三角案については、大きな三角屋根の水面への着地方法のデザインを評価してくれた。システムが勝っているのでなくセンシティブなキレのあるデザインを評価したものだ。最後にかたちを持ち出したことに少しびっくりするも建築家なのだと思う。結局はそうした批評にさらされるのが建築である。川島さんも末光さんも、この授業を他の大学にはないカリキュラムで運営され、ぼくら教員の仕掛けを評価してくれた。そして、それに応えた刺激的な案が多かったと学生を評価してくれた。その可能性を示した上で末光さんは、実務寄りのデザインが良いかどうかに疑問を残しつつも、学生にとっては、対話することが一番の財産になると、新たな意義を示してくれた。学生の設計はとかく自分だけの世界にこもりがちであるが、それを批判したものである。今、卒業設計に取り組み最中の4年生に感ずることでないかと思う。非常勤の御手洗龍さんと佐野健太さんも学生の成長を喜んでくれた。御手洗さんはその上で、プロジェクトを動かす初動の目的意識の弱さを指摘してくれた。卒業設計となると反対に、そこを気にして足踏みしてしまう傾向があるが、御手洗さんが意味することは、自身でも説明していたように、デザインを通して構造や環境をもう一度考え鍛え直すということである。佐野さんは、学生の決定の留保性を問題視していた。エンジニアリングをいくら詰めても答えはない。そこから舵を切る方向を決める大切さをいったものだ。決断を忖度してはいけないことを説明してくれた。

1月21日(火)
大学院の一級建築士インターンシップについて教務と相談。上手く運ぶ。明日の3年生の講評会に向けてのアドバイス。夕方から設計方法小委員会に出席。
012 スペイン国王杯 サラゴサ×マジョルカ 香川と久保の戦いとなる。両者フル出場。マジョルカは中1日、サラゴサもベストメンバーでなかったが、二人は間違いなくチームの中心であった。香川は、いつものプレーであったが、今日は周りと息が合っていた。マジョルカのチェックが甘かったからかもしれない。あわやというポスト直撃のフリーキックもあった。1点目のアシストも香川であった。ポストプレーでDFを翻弄させるプレーであったと思う。久保は前半2トップ、後半から右のサイドでプレーしていた。チームのしがないプレーにたいし、怒りを露わにしていたのが印象的。前のゲームでバレンシアにたいしベストな戦いをしたチームに久保はいなかった。久保も追い込まれている。

1月20日(月)
011 プレミア リヴァプール×マンU ナショナルダービーといわれるように激しい闘いであった。リヴァプールは、苦しむも最後まで早い展開で押し切った。今日は、自慢のサイドバック攻撃が封じられ、比較的前線頼りの展開であった。しかし早い判断で、ダイレクトパスをとにかく多用し、相手に陣形を整えさせず、慌てさせる速攻であった。そのため、新入りの南野の登場はお預け。交替3人はララーナ、オリギ、ファビーニョであった。

1月19日(日)
010 ラ・リーガ マジョルカ×バレンシア マジョルカは強豪バレンシアをホームで迎える。ここに来て、システムを変更し2トップ体制に。久保はベンチスタートである。これが奏して、マジョルカは連続的な攻撃ができるようになる。前半で、一連の崩しから3点を奪取。2トップになって、ためをつくることができ、前線とDFラインがコンパクトになった。2トップにしたことで、守備を重視するために久保を先発から外すことになったと思うが、久保は3番手で登場。序列の変化が気になる。久保は、登場するといつもよりも増してアグレッシブさを前面に出す。いいタイミングでシュートを放つも、力がなかった。4-1でCL16強を相手に圧勝する。

1月18日(土)
東京駅ステーションギャラリーで開催中の坂田一男展に行く。「抽象の力」で岡崎乾二郎氏が坂田の功績を力説していたこともあるが、何よりも坂田は渡欧して、コルビジュエやオザンファンのピュリスムの影響を色濃く受けた数少ない画家だからである。岡崎によると、坂田は、対象を描くことよりも、対象が帰属する空間を重視していたという。「抽象の力」でいわれていたように、それはポアンカレの射影幾何学の影響を受けるものであった。岡崎はいう。「空間は先見的にあるものとはみなされず、対象(事物)の認識から引き出される、可変的な射影関係であるとみなされている」。これは、建築でいうコンテクスト主義に疑問を投げかけるもので、コンテクストは不動なものではなく、主体によって変容するのだということだ。実際には主体は人の数だけ存在するので、コンテクストは実体であるどころか透明でなければ、論理的な矛盾をきたす。近代は、この前提にたって進歩してきたというのだ。面白いのは、それが現在また顕著に否定されていることである。ところで、ピュリスムも坂田も壺をよく絵の題材に用いた。壺は、「外部から遮断された内部空間をもち、それだけで単一の絵画空間は内部と外部の二つの異質な空間に分断されるが、それをトポロジカルに繋げることでさまざまな質の違う空間が濃度を変えて重なりあいシームレスに循環するような空間がえられている」ものだというという。コンテクストと対象を渾然一体に同時にみる手法をここにみることができる。この展覧会のタイトルは「捲土重来」。土煙が巻き起こる様子をいったものだ。それは、クリスチャンでった坂田が亡くなる1年前の個展の案内状にあった言葉である。

1月16日(木)
深夜、立川談志の「らくだ」をYouTubeで観る。まだ談志が若かった頃のものである。使いっ走りの屑屋が、酒に酔って態度が豹変する、それを演じる談志に圧倒される。続いて談志後期の「らくだ」も観る。年老いていてしまい、声量など足りず往年の迫力はなかった。話も最後まで行かなかったのでないか。しかし、微妙にディテールが異なり、ライブ感が落語の醍醐味なのだと思う。噺家のコンディションもあるが、客席の雰囲気も大に関係している。本題の前につかみがあり、その映像も残っている。観客の雰囲気つくりを重要視していたことがわかる。

1月15日(水)
009 U23 日本×カタール カタールは、次のW杯開催国。現在のU23が主流になっていくという。そのため、オリンピックには是が非でも出場したいところ。日本以上に彼らは本気であった。結果は、日本にとって判定に疑問が残るもの1-1のドロー。一勝もできずにグループステージ敗退となる。選手は国内組であったことから、敗因の矛先を選手に向けることはなく、森安監督の進退に話題が移る。試合後のコメントは、今日の選手はスピリットを前面に出してくれたというもの。指揮官としては物足りない。引いてくる相手に対して得点できないのは仕方のないことであるが、なんらかの策はあってよいと思う。選手にとっては、超えなければならない世界基準の経験が必要で、海外選手は所属チームで日々直面している。久保のマジョルカがしがないゲームプランで闘っているのは、彼らにスキルがないわけでなく、スキルを消されてしまう厳しい戦術チェックによるものだということを最近わかった。国内組はもちろんそうした経験していなく、それは森保監督も同じである。打開策は、打開をしてはじめてわかるものだということを実感する。

1月14日(火)
4年生の図面チェック。配置図を充実させるように指示。配置図の意味をなかなか見いだすことができないものだが、大なり小なりアイデアは、既存枠組みの上に成立している。そのことを示すのはとりあえず配置図である。数多あるものの中からピックアップした条件は何か?それを示すような配置図が必要となる。

1月13日(月)
CASABELLA 901はロベ-ル・マイヤール特集。タイトルは「量か質か?」ハイデッカーの建築論も紹介されている。その後は家具デザイン特集。フランコ・アルビーニとレオナルド・モッソ。二人とも家具にテンションを利用している。モッソは、アアルトの弟子で、動く構造としなやかなジョイントを考えた。そして、カーボンやケブラーという繊維質の複合材料構造体として、2つのプロジェクトの紹介。そして最後は、リスボンのサン・ジョルジェ城にある5つの建物の紹介。現代建築と考古学、街並との融合である。

1月12日(日)
「アイリッシュマン」スコセッシ監督を観る。ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシによるマフィア映画という評価が先行するも、なるほど迫力ある映画であった。これは3人の名演のみならず、映像ディテールと素早いカメラワーク、主題によるものだ。映画を通じて、人間が抱える不信感と倫理観の混乱した同居性が感じられる。リアルな暴力はこの両方がぶつかり合ったところから生まるものだ。それと宗教性が映画に緊迫性を与えていた。ただし3人の役者が40代から80代までを通じて演じ、3つの時代が錯綜して進行する物語であるので、日本人にとっては人物を見極めるのにも難がある。それを、特殊メークアップ映像技術を使用して、リアリティを高めていた。とはいえ、彼らの体型までは変えることができないのが技術の限界かとも思う。
007 プレミア トットナム×リヴァプール 南野ベンチ入りも出場せず。ララーナ、オリギ、シャキリという控え選手の順番は変えなかった。クロップの人心把握術とも思う。ゲーム展開も厳しかった。序盤から押し込むも、最後のところで踏み止まれ、ゲーム終盤では度々の速攻に気を揉まれていた。この状況で、未知数の南野を使う無理はできなかったに違いない。それにしても、プレミア上位チームのプレーの正確さと速さは目を見張るものがある。
008 U23 日本×シリア よもやの終了間際に失点して、2連敗。グループステージ敗退が決まる。アジアでのこうした状況ははじめてのことだという。今日も攻めあぐねた結果、速攻を決められてしまった。引いて守る相手をこじ開けるのを、個人のドリブル突破に委ねていたツケが回ってきたとは思いたくないが、チームとしてのアイデンティとそれを主導するリーダーの不在ということだろう。海外組へのクローズアップが華やかではあるが、それほど日本が総合力において勝っているといえないのが現実である。

1月11日(土)
続けてタランティーノ監督「パルプフィクション」を観る。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」と異なり、短編ストーリーそれぞれにテーマがある。任侠心といったものだろうか。サミュエル・ジャクソンが何度も言う旧約聖書のエゼキエル書25章17節を調べる。「わたしは怒りに満ちた懲罰をもって、大いなる復讐を彼らになす。わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる」であった。各ストーリーに、トイレシーンが共通してあるというのも面白い。その後のシーンでは必ず生命を左右する大きな事件が起きる。が、それほど真剣なものでもない。「ワンス・アポン・ア・タイム」では、そうした具体的な手法を使わない分だけ巧みである。
006 スペイン国王杯 サラゴサ×ジムナスティック 2部と4部の戦い。香川の試合を観るのは、開幕戦以来である。そのときとの香川の違いは、控えのチームにいることである。トップ下にいるも、息が合わないためか、期待していたほど存在感がなかった。ただ、ドルトムント、ユナイテッドのときのようのプレースタイルを引き継いでいる。なかったのは、DFライン間に位置してからのボールを受けることであった。聞けば、サラゴサには驚異的なルイス・スアレスというバルサと同名のFWがいるという。彼との連携を観てみたいと思うのだが。

1月10日(金)
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」タランティーノ監督を観る。69年当時のアメリカ西海岸がリアルに描かれているということで薦められて観る。その意味は、当時のアメリカを知らなくても、それを体験できるほどのものだということだ。ストーリーはオリジナルであるが、当時の街並、文化、事件、時代背景、映像、人物、登場小物などと違和感ないくらいにスムーズにのリンクしている。建築におけるコンテクスト主義とはこういうことだろうと思う。いくつかのストーリーが同時に進むシンクロニシティ的ないつもの描き方が、本作ではより物語を豊かに捉えることに成功している。小さなストーリーが綿密に描かれ、散りばめられているのは、ひとつひとつが歴史を背負って成立しているからだ。そのうちのいくつかがたまに交わって大きなストーリーが形成されている。こうしたつくり方をしたいものだ。

1月9日(木)
「アラバマ物語」グレゴリー・ベック主演を観る。原題は「To Kill a Mockingbird」。Mockingbirdとは、人に無害な鳥らしい。真実と幸福、正義とは何かを語る映画である。正義感の強い弁護士を父に持つ娘の幼年時代を回想する物語である。正義の尊さを示しつつも、その扱い方を悩むことをテーマとする。こうしたテーマはアメリカ映画でずっと語られてきた定番ものであるが、その設定が超越的ヒーローものでもなく、ドキュメンタリーちっくでもなく、身近で、今でも新しさがあるとボードリヤールはいっていた。
005 U23 日本×サウジアラビア 日本は3-4-3で、これがこの世代の基本だそうだ。思えば、ロシアW杯の時もこれを試すも、結局4-2-3-1になる。香川、本田、その前では俊輔など、トップ下を経由するゲームプランが日本は主流で、彼らの力や経験が最後にチームにとって必要になっていたからであった。そんなかたちが、今変わりつつあるのを感じる。誰もがトップ下的な機能を担えるようになり、全体での縦への攻撃を早めようとしている。結果、強豪サウジアラビアを押し仕切り、相手をアップアップさせていた。しかしながらも、1-2で負けてしまった。敗因は、3バックの手薄さなところを突かれたかたちである。特に、終了間際の失点は実は日本DFのふらふらからくる判断ミスによるものであった。もう少し、ボランチを下げるなどリスクマネジメントがあってもよかったと思うが、経験のなさか、あるいは、ゲームを支配するキャプテンの不在かが問題なのだろう。中2日で次戦がある。修正に期待である。

1月7日(火)
熱があるので、病院に行く。一応検査しましょうということで、インフルエンザであることが判る。今週は自宅待機となる。「瓦礫の未来」磯崎新著を読みはじめる。縁起、井筒俊彦、アラヤ(阿頼耶)識、イマージュなど、ちょっと危険な言葉を垣間見る。

1月6日(月)
「Battle」を訳していて、「エチカ」との共通点が気になる。どちらも、将来へ焦点を結ぼうとすることよりも、そこからの開放を目指す。そして、そのために従事する新たな基準を大切にする。それはかたちあるものであり、新しい幾何学である。ただし開放の結果を、Battleでは触れられていない。
004 FAカップ リヴァプール×エバートン エバートン監督がアンチェロッティになっていた。少し前までナポリ監督であったのに。解説では、エバートンを長期的にみていきたいらしいことをいっていた。一方リヴァプールは、10代選手が多く完全にセカンドチームであった。そこに南野もいた訳であるが、レギュラーとの間の選手がいないのを不思議に思った。怪我人が多いということか。したがってチームに熟成度がないことと、皆若手で自分を押し出したいためか、南野へボールが全く供給されなかった。幾度も下りてきてはボールを要求するも、皆無ではなかったろうか。フェルミーノがいつもするプレーであるが、それがなかったため、縦への早い攻撃がなりを潜めていた。南野にとっては決してよいデビューではなかったが、なんとか勝ったのがよかった。次戦でも使われることになるだろう。フェルミーノには運動量が要求されるため、途中交代が多い印象がある。そのときの控えで登場し、成功イメージを仲間に植え付けたいところだ。

1月5日(日)
003 ラ・リーガ グラナダ×マジョルカ 年を明けてチームに変化があり、久保を観るようになった。ただし、最初の数プレーまで効果的なプレーがあったものの、その後相手DFに読まれたか中盤底付近でのビルトアップでアップアップになる。後半から、いつものように中央に位置することが多くなるもやはりダメ。久保フル出場するも、よいパフォーマンスを残すことができなかった。完封負け。マジョルカ監督はかなり危うい状況にいると思う。深夜、久保を中心とした五輪世代の特集を放映。久保が長くしゃべるのをはじめて観た。落ち着いていて目は絶えず真剣。戦術に関しても豊富な語彙をもっている。2-0で完敗したコロンビア戦も俯瞰的にチームを分析していた。例えば、久保の次にインタビューに登場したマンCからハーツに期限付き移籍している食野でさえ、自分の特徴とその生かし方の説明に終始していた。それにたいして久保は、相手DFの位置を絶えず視野に入れることを優先しているという。なんとも対照的なことか。明らかに自分を内面からでなく、外から観ることに成功している。自分を決めつけていないので、自分を多様に表現でき、それがプレーの多様さにつながっているのでないか。最後に登場した国内組数人は、十分に自己分析もままならない状況である。仲間をいじることによって自分の立ち位置を明確にしようとする構図は、他者あっての久保と同様であるが、相手をいじることによって自分を動かさなくてすむようにしてしまって、自分が対象化されていない。久保の凄さを物語る特集であったと思う。

1月4日(土)
映画「シャイニング」キューブリック監督を観る。冬期閉鎖中のホテル管理を任された家族が精神的に追い込まれ、殺人にまで陥ってしまうカルト映画である。原作はスティーブンキング。ジャック・ニコルソンが見事にその役を演じる。鏡やシンメトリーな構図を扱う正確なカメラワークが、その緊迫感を増幅する。息子ダニーが操縦する三輪車が廊下を走るシーンが印象的である。ジャック・ニコルソンが凍死するのも雪の中の巨大な迷路である。

1月3日(金)
002 プレミア リヴァプール×シェフィールド 2-0の得点以上にリヴァプールの圧勝。南野がどこに入るかワクワクする。サラーとマネの駆け出しが早く、DFがドタバタしていた。そこにパスを出すのが南野だろうか。5日のFAカップからの出場といわれている。

1月2日(木)
妻の実家で正月会。「スピノザ 実践の哲学」ドゥルーズ著を読み終える。訳者鈴木雅大のあとがきに面白い例がある。それは、二人で仰向けになり、双方の足の裏を空中で合わせて、自由に脚を動かすという例である。やがて二人には、どちらが動かしているか、動かされているかでもなく、一体となってただ動いている自分を見いだす瞬間があるというのだ。この能動でも受動でもない状態を、ドゥルーズ(スピノザ)は、これが内在的プランといっている。現在流行の中道態ということであろう。この例で面白いと思ったのは、行動がはじめにあって、思考が後から実感できるということである。「Battle」ではこのために、建設(つくること)を、まずもって最も大事なものと考えている。そうすれば、予測ー制御に基づく最終結果を想像することなしに(ビクビク結果を気にすることなしに)、現在思いっきり生きることができるというのである。「大切なのは、単なる理論でも実践でもない。概念の発明と情動の開放とを結びつけること。生の総体を自由な出会いと相互触発へと促してやまないスピノザの力強い風をドゥルーズが増幅して私たちに届けてくれた」という訳者あとがきが本書のまとめとして相応しい。

1月1日(水)
正月のご馳走を戴きながら映画を2本、「ティファニーで朝食を」「シャレード」を観る。なぜかしら、オードリー・ヘプバーン特集である。どちらも、ヘプバーンの小気味よい天真爛漫さを前面に押し出した映画で、パートナーとしてダンディな紳士が背後に控える。このヘプバーンが当時の米国女性の理想にならなかったのだろうかと思う。近くの氷川神社に初詣。そこそこの人がいる。実家で夕食。NHKで放送のサッカーオリンピック世代の特集を観る。現在この世代のメンバー候補は沢山いる。メジャーなリーグの海外でチームの主流になりつつある堂安や久保、ベルギーやポルトガル、ドイツ2部でレギュラーを獲得している海外組、それと今後海外を狙うJリーグ組である。森保監督のインタビューを中心とするT特集であるが、これといって新しい情報はなし。
001 天皇杯決勝 神戸×鹿島 新国立競技場でのオープニングゲーム。超満員であった。昨日、チケットをチェックしたら既に完売であった。ゲームは、バルサ化した神戸の圧勝。DFラインの裏を上手く使っていた。これで、神戸の今年のALC進出が決まる。