1月23日(土)
CASABELLA914の巻頭はモンタージュ。論考にあったチューリングの格言が印象的であった。コンピュータによる創造性を廻る永遠の論争についてである。「機械が書いたソネットを味わえるのは別の機械だけである」。この格言は、機械の創造を否定したとも人間が変わるべきものであるかを指摘したものとも、どちらにも捉えることができるものであった。そしてその次に、「イタリアのフォトモンタージュ」が紹介されている。ミレーの晩鐘、ピラネージは定番であることが分かる。
008 ラ・リーガ ウエスカ×ビジャレアル 久保が移籍し興味が半減したものの岡崎先発。奮闘するもウエスカは守備重視でボールが前線にまで届かず。60分過ぎに交代となる。ビジャレアルはと言うと、久保のライバルであったモレーノとチュクエゼが離脱していた。何ともいえない感じであったが、そこに右のモイ・ゴメスを入れ、左はというとSBのペトロザを上げていた。あくまでも守備重視であって、久保が移籍しなかったとしても先発が回ってきたかは不明である。0-0のドロー。あくまでも型重視のエメリの姿勢がうかがい知ることが出来たゲームであった。

1月22日(金)
卒業設計の発表会を今年はオンラインで行う。実際の模型と図面をみることが出来ないので、作品のもつ力が感じられなく、画面を通してのプレゼの良し悪しで決まったように思えた。つまり、評価がモノから説明力に移動したわけである。遠藤研からは佐藤伶香さんが2/19開催の講評会に選ばれた。敷地は庄内平野の田んぼの中。夏と冬でがらっと変わる景色を利用して、庄内平野特有の新しい生活を提案するものであった。積雪が多いと道路やあぜ道が消え、その上の吹雪きで新しいランドスケープが出現する。これを吹きだまりというが、それを積極的に生活に活かそうとする提案である。残念ながらその風景の変化がどんなものであるか、雪国出身でないぼくらは理解できなかった。その辺りのプレゼが重要となるだろう。木造ログハウスが、雪に覆わることでザハ建築になることをイメージすると良い。こうしたランドスケープが表現できればとよいと思う。

1月21日(木)
007 プレミア リヴァプール×バーンリー アンフィールドで、リヴァプールがまさかの敗戦。実に64試合ぶりとのことだ。しっかり固めた陣形を最後まで崩すことができなかった。これで4試合得点がないことになる。南野は80分過ぎから登場。ゴール前の混戦において南野は重要な働きをすると思ったのだが不発。最終ラインに埋もれてしまい、リヴァプールは1点もとれなかった。

1月20日(水)
006 ラ・リーガ ヘタフェ×ウエスカ 久保が先発。ウエスカは守りに徹して5バック。対して4-2-3-1の右Wで先発の久保は二人の左バックスを見る必要があり、前半は自陣に追いやられていた。そのため幾度か相手DFを交わす見事なポストプレーもあったが、ゴールマウスからは遠く、ゴールに押し込むまでは至らなかった。その反省から後半から、チーム全体が前線から果敢なプレッシングをするようになる。これでウエスカの攻撃を食い留めることができ、パスカットから速攻を決めた。久保と同じくこの冬に加入したアレーニャからのスルーであった。興味深かったのは、久保が得たフリーキックを久保自信が蹴っていたことである。堂々としていて、久保がチームから受け入れられていることを知るシーンであった。

1月19日(火)
午後大学行き事務処理を行う。夕方から設計方法小委員会にzoomで参加。最近出版された「建築情報学へ」が話題になる。購入をしていたので、早速読みはじめる。

1月18日(月)
母と国立国際医療センター行き。事務所に戻り調べると、日建設計と厚生省の設計とある。他の病院に比べて廊下幅等が広くゆったりした設計で、待合室も科ごとの枝状になっていて、いわゆる窓口の合理化が行き過ぎていないと思った。2010年の竣工らしいが電子システムの様子をみると、この10年でだいぶ進歩したことがわかる。患者数が少なく感じたのは、建物の大きさからきているのだろうか。午後にはほとんどいなくなっていた。

1月17日(日)
005 プレミア リヴァプール×マンU フィジカルを前面に押し出しユナイテッドが守り切る。0-0のドローである。キーとなっていたのは、リヴァプールの復帰を果たしたティアゴであった。これまでの最終ラインからではなく、ここから縦パスが供給されるのであるが、左右のSBからのパスと同様、決定機にまで至らず。他チームから研究されていることを感じた。

1月16日(土)
CASABELLA914号が届く。巻末に丹下健三の自邸がある。それをピエルコンティが批評している。これによると丹下の転換期が1956年のグロピウスの来日によってもたらされたという。それは創造についてである。それ以前の丹下にとっての創造は「自我の内部でフォルムが育ち、最終的に出現し成熟する」ものであった。しかしグロピウスの日本文化吸収力に触れ、「伝統と破壊のディアレクテイクな統一が、創造の構造である」というまでに至ったというのだ。それで丹下は日本伝統を、伊勢からの神殿造と桂に見られる数寄屋で統合しようとしたというのだ。そしてそのエネルギーを創造に変換した。その詳細をこの丹下自邸に見ることができる、という論考であった。

1月14日(木)
「サピエンス全史」を読み終える。ホモサピエンスが良くも悪くも大きくなったのは、「想像上のコミュニティ」を描くことが出来たからであるという。それは、王国、帝国、宗教、貨幣といったものである。他の生物との違いは、親密なコミュニティでは補うことが出来ない感情的空白を想像上のコミュニティによって補えることができたかどうかにあるという。文化とはそういう上に成立するもので、アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」もそれを示唆するものだろう。大文字の「建築」もそういうものでないだろうか。そう考えると、ぼくらはそこから何をあぶり出すかが大事で、それの方法を追究するのは時代に左右されてしまいあまり重要でないと思うようになる。

1月13日(水)
「サピエンス全史」を続ける。ここでは、想像上のコミュニティをポジティブに評価する。建築では一般にリアル(本書では親密)なコミュニティにたいするものとしての想像上のコミュニティについてである。最たるものは国家である。国家のおかげで社会秩序が保たれ、暴力の割合は圧倒的に減っている。こうした一連の話を読むと、カントの永遠平和を思い出す。想像上のコミュニティはサガ(性)であり、その扱い次第で幸不幸が決まるというもの。つまり、真(科学)と善(道徳)と美(価値)は独立していてその三つ巴の相が世界という考えであり、進歩主義にたいするものである。この本に共通する思想であった。

1月12日(火)
004 ラ・リーガ エルチェ×ヘタフェ ヘタフェのあるマドリードが何十年ぶりの大雪のため移動が出来ずに試合が順延。練習することなしに久保が65分過ぎからピッチに登場。逆転の2得点のお膳立てをつくり、新チームでの最高のスタートを切ることが出来た。久保は特異とする右サイドで登場。基本的にサイドいっぱいに位置し、状況に応じてライン間中央付近を使う。ビジャリアルでは、他選手との絡みでこの動きがあまり許されなかった。モレーノがこの役割を果たしていたと思う。今日の久保は自由になったことで輝いていた。自分の特異とする位置でボールを受けて相手DFと勝負していたのだ。終了間際の2回のショートコーナーでは、バルサカンテラ育ちのククレジャとアレーニャと3人でパス交換を繰り返し、時間稼ぎを楽しんでいたようであった。久保が入ると、これまた初先発のアレーニャはひとつポジションを下げて、押し下げられた相手ラインの間でフリーにボールを保持するようになり、左のククレジャと右の久保に好パスを繰り出していた。今後が楽しみである。

1月11日(月)
エクスナレッジ社から「奇跡と呼ばれた日本の名作住宅」が送られてくる。1950年からの日本住宅の歴史を総覧するものだ。清家さん、吉阪さんからはじまって難波さんもあり、2000年以降の章にナチュラルスラットが取りあげられている。この時代の総括として、構造家、クライント、素材、既存建物等とのコラボレーションによって建築の内部から従来の建築が壊れつつあるが捉えられている。そしてこの本の終わりとして、ぼくと当時大学院に在籍していた上島直樹くんとで描いた挿絵で締めくくられている。2011年12月号の建築知識の投稿論文である。ここで記述したかったのは、「インテリアがとけ込んだ建築」である。ここでぼくは、「建築」が残りつつも、フラーのエフェマリゼーションがもたらす住宅のあり方を提案した。それは、あらゆる問題が十分に広く微細なところまで身体化される「建築」のあり方であった。これを踏まえた編集になっていて誇らしく嬉しくも思った。

1月10日(日)
ツキノワグマの生態を追うドキュメンタリーを観る。同種の生きもので殺し合いをするのは、一部の猿類と人間だけであると聞いていたのであるが、クマが子グマを殺すという事実を知った。メスクマは子育てに専念する期間、すなわち授乳中は生理的に発情できないのであるが、発情を押さえられないオスは子グマを殺すことで、メスの発情を促すのである。メスとオスはそのとき壮絶に闘う。森では無敵なクマでも成人するのはしたがって50%以下であるというのだ。

1月9日(土)
「テネット」C・ノーラン監督を観る。ストーリーを追うことが難しく、途中から直感で感じるようにした。時間が順行することに意識的な映画で、これまでも実際に未来から人がやってくるとか、編集によって時間経過を曖昧にするとか、あるいは論理的ではなく時空の乱れといった神秘性に委ねるものはあったが、同じ空間に違った時間を同居させた映画はなかったと思う。それを後ろ歩きや車の逆走という後退映像で表現していた。すごく奇妙であった。観る側の焦点が定まらないからである。

1月8日(金)
003 FA杯 アストン・ヴィビラ×リヴァプール アストン・ヴィラはチーム内でコロナが蔓延し、監督をはじめ選手が全員隔離されているとう。それでこの試合はU-23選手、監督でのぞむ。FAだけはスタジアムにサポートを入れていたが、そうした政策が裏目に出たかたちである。今日のロンドンではコロナが手に負えない状況になっているとニュースでいっていた。試合はというと、今日は南野が先発で出場。前半の左ウィングではボールを受けるタイミングをいつものように失っていたのだが、後半から中央に入りよい起点となっていた。しかし60分にポストプレーでアシストした直後に交代。チームは90%近くボールをポゼッションし、最初のうちは手こずるも4-1で完勝した。久保のヘタフェへの入団も漸く発表される。

1月7日(木)
「サピエンス全史」を続ける。学生の頃から、イギリスやオランダという国ではない東インド会社が南アジアの国を治めていたことへ疑問をもっていた。その理由に納得する。このときの裕福層は、国王よりも新興組織である株式会社に「信用」を置き、株式会社の方に、自分の資本を賭けた=投資したのである。16世紀以前は、本書によると生産の中心はむしろ中国やインド、イスラムといったアジアにあった。しかし、これ以降の西ヨーロッパでは、生産利益を新たな生産のために再投資することが広まり、資本を指数関数的な量に膨れあがらせることを可能にする投資家、資本家を出現させたという。それが株式会社となり、国を征服するまでに至ったというのだ。その富は税金や略奪から得られるものよりも遙かに大きく、それは科学革命によってもたらされたものであるという。テクノロジーの発明や組織改革によって、現在よりも確実に未来が明るくなることを「信用」流布させることに成功し、資本のあくなき再投資する社会に変換していったのだという。そして東インド会社が南アジアを征服するにまで至ったのだ。

1月6日(水)
コロナ患者に対する病床データが日経に掲載されていた。それによると、日本のベッド数は世界有数。先進国の中でも突出しているという。それなのになぜ医療危機が起きているかということだ。それは、医師数、看護師数が少ない上に、日本の病院の多くが民間(8割)で中小規模であるからだという。ICUにおける病床数も先進国で飛び抜けて低いこともある。一人当たりの入院日数も日本の16日にたいして欧州は10日であるという。つまり他の先進国はコロナに限らず入院前後の別の受け入れシステムが整っていて、近頃問題にされる医療構造改革が日本はまだまだ進んでいないからだという(ちなみに、フランスやドイツは20年前日本と同じ状況であった)。加えて日本は国民皆保険制度で、入院にたいする国民の経済負担が少ないことも一因にあげている。それもあって軽症患者が入院患者の66%という結果となっている。それは日本特有の医療方針で良くも悪くもあるのだが、こうした緊急時において限られた医療資源を有効に使用するという点ではマイナスである。そのためには、各病院を束ねる本来あるべきトップの視点から、病床と人材運用を効率化する必要があるという。例えば公立病院をコロナ患者専用にあてるとか、小規模民間病院の連携を高めるとかである。本来こうしたことに日本の官僚システムが有効に働いていたのであるが、有時には時としてそれが働かなくなり、そのとき知事や政府らのリーダーシップが大事になる。

1月5日(火)
002 プレミア サウザンプトン×リヴァプール 0-1でリヴァプールが負ける。攻撃リズムがよかったが、最後のところでゴールマウスをこじ開けることができなかった。南野は不出場。こうした引かれた相手のペナルティエリア内で南野は強いと思うのだが。次戦のFA杯のためであろうか。

1月4日(月)
「都市美」山本理顕責任編集を拾い読み。家族を会社や学校が上手く利用することで、戦後の日本が形成されてきたという指摘が印象的であった。社会性を学ぶ学校は家庭の協力なしには運営が不可能であるし、主婦の家事労働の上に猛烈に働く会社が可能となっているというのである。にもかかわらずこれらは別個のシステムとしてこれまで考えられていたのが問題で、こうした矛盾が現在のコロナ渦で露呈しはじめている。例えば政府の学校閉鎖についてである。家庭側から、働くためためには子供の面倒をみてくれる学校が不可欠であることが指摘されているのだ。コミュニティと意味が近い「アソシエーション」に、山本さんが否定的であるのは意外であった。山本さんは(動くことができない)空間を伴うコミュニティにこそ信頼を寄せているのだ。山本さんの設計している名古屋造形大の計画も興味深い。これまでと同様に社会に開けた建築であることに加えて、研究室というコミュニティ単位も取っ払い、ひとりひとりの学生を重んじた建築計画となっている。そこではひとりひとりに十分なスペースをあてがうことが出来ないので、他者とのコミュニケーション(調整)力が必要とされている。山本さんに接して思うのは、思想を建築に直結させる意志の強さである。そこから建築を信じることがぼくらには欠けていることを思う。

1月3日(日)
「プラド美術館 驚異のコレクション」を観る。絵画の解説というよりは、フェリペ2,4世当時の時代背景や彼らに雇われていた画家たちの生涯が中心に語られていた。400年前のことである。このときスペインが栄華を極めていたのだが、ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」やボッスの「快楽の園」「地獄」が購入されたのはこうした経緯からであった。しかし当時、芸術はやはりイタリア(特にこの時期はパラディオの生きたベネチア)が中心であったことも改めて知った。ダイナミックな焦点を持つティントレットの「弟子たちの足を洗うキリスト」もこの時ベネチアから手に入れたものであった。そして当時、スペイン自国の宮廷画家であったのが、「ブレダの開城」「ラス・メニーナス」「マルガリータ王女」のベラスケスであり、現在巨匠とされるそのベラスケスも、長く地方画家としての評価であった、このことを知る。そして、それ以前にエル・ゴレコが存在していたことを知ってさらにびっくりする。エル・グレコの構成やタッチの特殊性は、バロックの中でも突出している。このことが作品からよく理解できた。そして美術館自体が完成するのはその200年後である。それは1800年前半。これはゼンパーのウィーンの美術史美術館より早い。ベラスケスの再評価もこれに負うことが大きいらしい。そしてこの美術館収蔵品として特に充実しているゴヤの作品はそのときのものであった。ゴヤはサラゴサ出身であることも知る。

1月2日(土)
コロナ渦で迷ったが、義理の父が年明けに病院へ行くというので、例年通りに妻の実家に行く。帰宅後、今年最初のサッカーを観る。久保がベンチ外であった。
001 ラ・リーガ ビジャレアル×レバンテ 2-1でビジャレアルが逃げ切る。久保はベンチ外。試合終了後のインタビューでエミリがその理由を説明する。終了後1時間以内のことである。それを小澤一郎氏がYouTubeで伝える。どうやら2日前に久保とエミリは直接話し合いを持ったそうで、その時久保から「出たい」とのはっきりしたコメントを受けたのだそうだ。耐えてチャンスを待つこれまでの日本人と違って久保ははっきりしている。自分に自信もあるのだろう。どうやら新しい移籍先はヘタフェが有力らしい。その後ヘタフェのゲームを観る。熱血漢のボルダラス監督が率いていて、今日のゲームは全く形になってなかった。これをどうみるか、確か柴崎も彼から嫌われていたと記憶する。

1月1日(金)
2021のはじまり。お雑煮を戴き、午後から近くの神社へ。途中、昆虫食の販売機を見つける。混んでいたので、さらに移動して不動尊へ。夜は実家に行き夕食。いつものような元日を過ごす。力を入れた特集番組もない。これが例年と異なっている。

12月31日(木)
コロナ渦のため近くで買い出し。今日の感染者数を知ると動きも止まるだろう。しかしスーパーは混んでいる。年賀訪問のための買い出しはできないので、ぼくだけで新宿に行く。新宿周辺も人がいなく、デパートの地下売り場のみ混んでいた。「サピエンス全史」下巻を読みはじめる。上下巻の区切りはひとつの話をふたつに物理的に分けるものであるが、下巻からは、貨幣や帝国にかわり宗教における役割についてである。2000年前までのローマ以前のギリシアは多神教であった。この時代は自分や地域内で独自の神を信じたので、他の地域では同様の別の神がいることは公然なことであった。したがって他の神を認めざるを得なかった。これが多神教である。つまり、社会的な意味での共同主観状態が一神教すなわちキリスト以前にはあったことになる。したがってこのとき、帝国も自分の宗教への改宗をせまることはなかったのである。

12月30日(水)
BSで「ゴットファーザーⅢ」フランシス・コッポラ監督を観る。この映画は全2作に比べて好評を得ていないが、ラストシーンは凄まじい。パレルモのテアトロ・マッシモで演じられるオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」と並行して、アル・パチーノ最後の殺戮劇が行われる。ヒッチコックばりの音との融合であるが、ライフルでは決着をつけずに、この間にバチカンのコンクラーベまでを含めて物語を壮大にし、エイゼンシュテインを思わせる大階段で愛娘を失い、悲劇として終演する。現代家族とマフィアというふたつのファミリーの間で引き裂かれる自我が様々なかたちで周囲や社会に変貌を及ぼしていく様を描くのはコッポラのいつもの描きである。宗教もそれと合わせてひとつのテーマとなっている。その偉大さを描きながら、一方でその下での悲劇や不幸も同時に描く。
128 ラ・リーガ セビージャ×ビジャレアル 0-2でビジャレアルが久しぶりに負ける。このところの得点不足が表だった形になった訳である。今日のセビージャはカウンター狙いであり、その厚い守りにほとんど決定機をつくれなかったというのが現実だろう。そこに久保はいない。3戦続けて不出場である。ビジャレアルの得点源は、唯一自由に動き回ることが許されているジェラード・モレーノである。その彼も後半になると上手く動けなくなっていた。前半は右サイドで自由にポジションを変えながら厳しいマークをかわし起点となり、そこから前のFWへあるいは飛び出すトリゲロスにボールを送っていたのだが、後半になりモレーノがトップ位置に入ると、中盤の激しいあたりをかわせる中盤がいなくなりボールが届かなくなってしまった。監督エミリは、動的であるがシステムに固持する人である。しかしそれに選手が合わせることになるので、選手個々の調子と相手に左右される。その意味で真の流動性がみられないのである。このところはレギュラーFWが怪我のため不在であり、イボラ不在のためパレロが守備に追われている。こういう状況で、モレーノが早い段階で得点できないとシステムがひとり歩きをして悪循環を生むことになっていると推測する。

12月29日(火)
午前中に父退院。午後からzoomにて個別相談。a+u8月特集号を続ける。後半の対談は、74年の北九州市立中央図書館を取り上げることからはじまる。そこでは、ヴォールトのPC構造がテーマとされる。この建築の空間性はエンジニアリングに引っ張られているというのが両氏の考えである。それがアーチのリブに現れていて、出来上がった空間はゴシック調であるというのだ。ところが77年の西日本総合展示になると、がらっと変わり、構造も空調も機能も程よく融合し無限定に拡張する均質空間となった。そこには造形がなく、薄い屋根が彷彿させるイメージの空間ができあがっているというのである。両氏はこれを評価し、この全く異なるふたつの建築に共通する建築の意味を磯崎から問いただそうとする。そして磯崎の答えは、建築にプロパーな形式があるというならば、その側に立ってリアルな現実をそこに取り込もうとする態度に共通性があったという。設計は現実によって、プロパーな形式が変化したものなのだ。その意味で過去の建築からの切断というものが必要であったし、切断した以上、そこに手法論が新たに必要となったというのである。しかし、相変わらず形式は残り、建築の場合でいえば、その形式は広い意味でのテクノロジー(ソフトテクノロジーや素材)に左右されるというのだ。つまりこれは、建築家にとって、自己言及の手掛かりとしてのテクノロジーの重要性をはっきりさせたもので、それは難波さんの近代テクノロジー論に通じるものである。このことを知ることが出来た対談であった。

12月28日(月)
時間ができたので、今年のa+uの8月特集号「磯崎新の1970年代実務と理論」を読みはじめる。青木氏と西沢氏が実施図面を通して磯崎の思想に迫る特集である。この特集で取り上げられる作品は大分県医師会館新館、貝島邸、北九州市立中央図書館、西日本総合展示場の4つである。前半の磯崎へのインタビューは前2作についてで、その終わりでは、磯崎の手法論が何であったかを締めくくるものであった。それは大分県医師会館の60年の旧館において成し遂げた、構造、構成、あるいはシステム、スケルトンといったものを中心とする建築の考えからのお別れというものである。それらはこれからの現実世界で通用しなくなるもので、それに代わって、今から考えるとインテリアあるいは素材といったものが建築の主流となり、それが既に磯崎の手法論にあったという主旨である。両氏はそれを明らかにしようとしている。70年初頭の新館のピロティはまるでインテリアのようであるという。旧館のピロティの批判としてあったのではないかという。そしてその新館の空間構成にピラネージの牢獄を見出しているのだ。この見解の深さに感心する。

12月27日(日)
「The Wife」ビョルン・ルンゲ監督を観る。老年作家のノーベル賞式典最中の出来事を綴る夫婦の物語である。妻がゴーストライターであったというのがこの物語のミソであるのだが、ちょっとした出来事を切掛けにして妻がこれまでの40年間の夫婦生活を追想し、懐かしんだり後悔したりする。ただしそれまでの心境に至る妻の心情が今一描かれていないので少し唐突な感じがしたが、ぼくの娘の心には響いたそうだ。ノーベル賞の晩餐会や滞在ホテル、これらのセットがこの映画の見物である。ところで作家の妻を演じていたのは、「危険な情事」でマイケル・ダグラスを幸せの絶頂から落とし入れる鬼気迫る不倫相手役を、「101」ではクルエラ役を、演じたグレン・クローズであった。その彼女も70を過ぎていた。録画してあったブータンの祭りツェチュのNHK特集を観る。この祭りは9月の15日前後に5日間行われるので、毎年の調査期間と重なり何度も見に行く機会があった。お面をつけて踊り、演劇を通じて仏教の教えを国民に伝えるものである。色鮮やかな衣装と面と太鼓の音、広場に人々を集めて、体を大きくくねらせて円状に踊る様子が印象的であった。パロゾンとその下の広場で行われる一番大切な儀式であると聞いていた。

12月26日(土)
父のいとこの納骨に立ち会う。残念ながら父母は欠席。しかし天気が良く高齢者にはよかった。納骨前に中を見る。骨壺は整然としていた。40分あまりの経を授かり、コロナ渦のため墓地で解散。事務所に戻る。東京のコロナ患者数は依然として減少傾向に向かわない。新建築住宅特集1月号の巻頭対談「建築の想像力」青木淳×西沢立衞を読む。前半は「形式」がテーマである。ここでは、歴史や習慣などに鍛えられ続けてきた建築家の痕跡みたいなものを形式と呼んでいる。だから、形式は誰のものでもないし自由なものであるが、皆というか建築家の拠り所となるものなので強い。ただし、アレグザンダーの思想の15の幾何学のように教条的なものとはならないのが、現代的なのだろうと思う。とはいえ、「大文字の建築」のことである。これをそうとはいわずに「形式」といっている。そして形式は俯瞰性によって得られるものともいい、コルビジュエの作品の核心をそこに見出している。そこが面白い。

12月25日(金)
「動的平衡3」の拾い読み。そこで取り上げられているパスツールの言葉に合点がいく。「Chance favors the preparared mind」。「発見とは、準備された上での偶然の産物」。とでも訳したらよいか、あるいはクリエターからの立場からなら「偶然を必然に変える意志」と難波さんならいうだろう。ビジャレアルの久保の動向がネットでにぎわっている。チャンスを生かせなかったというのが理由であるが、逃げ切りの試合終了間際に登場させるなど結構きついチャンス?の与えられ方であったと思う。

12月24日(木)
「サピエンス全史」読み終える。共同主観の最大のものが貨幣というのが上巻の結論であった。下巻がどう続くのか興味をもつ。この本の収穫は、共同主観というものであった。そしてそれを認識した上でかみ砕く努力の大事さを感じた。「想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走りこんでいるわけだ」という運命じみた警告が印象的である。

12月23日(水)
3年後期の設計講評会に日建設計の勝矢武之氏とOBでもある中村篤史氏をむかえる。ぼくが担当したCスタジオの2人が揃って優秀賞をいただく。杉江さんを推してくれたのは勝矢氏。杉江さんの案は、5Mユニットを樹状に広げた平面計画をもつ。それによって出来る内部空間が淡泊と指摘しつつも、それらユニットの囲いが小さな外部空間をつくっており、内外を同時に考慮した空間構成を評価してくれた。ただし、外部空間を取り巻く建物の高さは気になったようだ。内部の淡泊さは、吹き抜けの大きさに変化をつけることでよいものになるというアドバイスを受けた。もうひとりの高橋さんの案を推してくれたのは中村氏。高橋さんの案は、二つのスロープが絡み合う案であり、それぞれは外部に面するゆったりしたくつろぎ空間と、もうひとつは他者から見られる緊張感のある空間である。創造性を豊かにするにはこの二つの空間の融合が必要だという仮説に基づいて計画された案である。中村さんが評価したように、これを幕張という新都心の交通システムに位置づけたのが大きい。車と徒歩の中間となるセグウェイによる街の起点として計画した建物であった。勝矢氏が指摘したように、この二つの空間が出会う場がどんな空間であるか、これが平面ではない何らかの方法で明確に示す必要があったのだと思う。少し残念であった。総評として両氏から、各専門分野をオーバーラップする体験を3年のこの時期に出来ることを評価してもってもらった。勝矢氏は、他のジャンルを理解するよい機会であるといってくれた。中村氏は、細かい点はさておき、社会を変えようとするような大志を持ってほしいという強い言葉を頂いた。古市研出身らしい言葉である。古市先生も喜んでいることだろう。講評会の前に両氏から簡単なレクチャーをしてもらった。勝矢氏からは日建らしく、ワークスペースを取り巻く環境の変化が甚だしいことが指摘された。これからの働く場は、場所からは自由になり、時間を基準にしたものに変化していくという。そうして働く場は、繋がりのための結節点になるという。それは時間や人、あるいは企業の社会に対するブランドイメージとして変わってくかもしれないという。中村氏からは、古市事務所時代の仕事を通じて、模型と現場を通じて空間を鍛えることの重要性が指摘された。千葉工大の特徴を言い当てた指摘であったと思う。あっと驚くような空間をつくろうとし、それには自分が模型なりで体験し感動をしないと、それはできないという指摘である。空間つくりを諦める近頃の傾向を否定する力強い言葉であったと思う。気になったのは、エンジニアリングが目的なしの作業になっていると指摘されたことだ。ぼくら教員も注意を払わなければならいと思った。「サピエンス全史」は9章にかかる。この章に至り漸く共同主観の「文化」的側面が注目される。ここで問題にするのは共同主観内の矛盾である。中世では、キリスト教と騎士道、現代では個人の自由と平等という矛盾がある。コロナ渦の今それは顕著である。これを認知的不協和音というらしい。これは「建築」にも当てはまる。  
127 ラ・リーガ ビジャレアル×ビルバオ 久保が2戦続けて不出場。ここに来て久保を廻る状況が急転している。主軸の怪我人が現れ、何人かの若手の台頭、システム維持、得点不足、こうした状況の中で何かがあったのだろうと思う。

12月22日(火)
想像上の秩序というものは、中立的でも公正的でもないという。それどころか世界にヒエラルキーを生み出した。ヒエラルキーとは「偶然の歴史的事情委に端を発し、さまざまな集団の既得権がそのヒエラルキーに基づいて発達するのに足並みを揃えて、何世代もの間に洗練され、不滅のものとなったp176」ものなのである。これは建築にあてはまるだろう。もしそうだとすると、「建築」の功罪を明確にすることは大事になる。他に気付いたことがある。モノのネットワークが最近注目されているが、そこには共同主観のネットワークもあることを忘れてはいけないということだ。モノばかりを考えてしまうと、大いなる共同主観が逆に蔓延ってしまう。

12月21日(月)
「サピエンス全史」を続ける。第6章に差し掛かり驚かされるのは、人類の進歩が共同主観というものによっているという仮説である。これによって遺伝子伝達より数段早く進化をさせることが出来たのだという。これを具体的には次のようにもいっていた。「ティーンエイジャーは、サッカーのための遺伝子など持っていない。それでも赤の他人とサッカーができるのは、誰もがサッカーについての同一の考えを学んだからだ。それらの考えは完全に想像上のものなのだが、全員が共有していれば、誰もがサッカーが出来る。同じことがもっと大規模な形で、王国や教会、交易ネットワークにも当てはまるp154」。共同主観とは想像上の秩序のことである。「想像上の秩序は、私自身の想像の中に存在する主観的秩序ではなく、厖大な数の人々が共有する想像の中に存在する、共同主観的秩序p151」のことをいう。つまり、世界は「主観的」「客観的」そして「共同主観」で成立していることになる。これを読んで、ルネサンス以来の建築も同様だろうと思う。主観(美学)、客観(工学(真))、そして「建築」(倫理(善))で成立するものなのだと思った。そう考えると「建築」の存在が疎かにされているように感じる。そして6章の最後は次のように締めくくる。「想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走りこんでいるわけだ」。

12月20日(日)
「新聞記者」を観る。正義とか道徳をテーマとして興味深いが、それと裏返しにある権力が差し迫ってくるようなストーリーの妙もなく、TVドラマの域を出ていないと感じた。あるいは二人の主人公や彼らの周辺の上司や家族のキャラクターにスポットライトがあてられているわけでもなく、同様の時事ネタ洋画に対抗できていないとも思った。それは、「大統領の陰謀」アラン・パクラ監督や「チャイナ・シンドローム」、「シークレットマン」ランデズマン監督らの作品である。それらですら「シミュラークルとシミュレーション」でボードリヤールは、歴史を神話化してしまい、つまりリアルさに乏しく、ベタな世界観しか表現できていないと批判していた。唯々技術による刷新が行われたに過ぎないという批判であった。ところでボードリヤールがそれらの作品より評価をしていたのは、それ以前の技術が未熟な時代の「アラバマ物語」で、想像性豊かな作品であるといい、あるいは淡々とした「バリー・リンドン」スタンリーキュブリック監督であり、格調高い詳細があり壮大さを表現しているといっていた。
126 ラ・リーガ オサスナ×ビジャレアル ミッドウィークに大勝した若手メンバーを今日は採用する。その彼らが活躍をした。そんなこともあって久保の出番は今季はじめてなかった。久保に対するエミリの真意は推し量れない。久保は上り調子であったし、久保のキャラクターとシステムが漸く噛み合いはじめたと思っていたところ、その前のシステムに戻し久保よりも同歳の若手の成長を優先させたからである。そして結局それが上手く機能した。つまりビジャレアルは中盤3枚が必要ということである。王様モレーノの右に拘っている限り、久保が狙えるポジションは再びなくなることになる。

12月19日(土)
125 プレミア クリスタルパレス×リヴァプール 南野が開始3分でゴール。チームに加わりこの日まで1年を要した。その後、チームはクリスタルパレスに決定機を与えてしまったが、ミスで救われると、終始ペースを保った。そのリズムに南野もしっかりのっていた。フル出場。チームは7-0の大勝。今日はサラーを休ませたかたちであるが、サラー不在も悪くない。南野も比較的自由に動けていた。右から難なくペナルティエリア中央で受けることが多かった。得点もそのかたちであった。フェルミーノも見事なランニングで2得点。マネも得点の他に幾度も決定機をつくる。両サイドバックが好調なのもそうさせていた。

12月18日(金)
午前中に父に付き添いMRIを撮りに行く。母を起こすときに腰を痛ため、経過が芳しくなかったからである。10時過ぎに戻り、あまりにも父の息が上がっているので、パルスオキシメーターで計測すると軽く90を下回っていたので病院へ連絡。午後から検査をして入院となる。その合間を縫ってZOOMで図面審査の確認をする。こちらも芳しくない。入院を見届けてから、病院のロビーに残り図面審査後の打ち合わせに加わる。事務所に戻り、堂ノ下くんから送られてきた今日の録画をもう一度確認。ありがたい。メールで4年生にぼくなりの今日のまとめを送付し奮起を促す。

12月17日(木)
サピエンス全史」を続ける。農業革命によって安住等が可能となり、現在を生きることから将来を見据えるようになったという。つまり時間的感覚が人に宿った。それは現在のことだけでなく見えない将来に対する不安要素ももたもたらすことになった。ここが面白い。設計も同様でないだろうか。100年後住宅を考えるよりも、フラーのエフェメラリーゼーションのほうが生態的である。
124 プレミア リヴァプール×トットナム プレミア序盤の大一番でリヴァプールにリズムが戻る。絶え間ない攻撃で圧倒し続けるかたちである。今日は両SBも素晴らしかった。最後に漸く逆転となったが、むしろトットナムがよく頑張ったということであろう。ソン・フンミンの決定機は流石である。若いDFをぶっちぎった。

12月16日(水)
「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著を読む。漫画の続きを書籍にて確認したいと思った。面白いのは農業革命の顛末についてである。農業革命によって生活が安定したわけではなく、むしろ戦争が起き死因の15%までに至るようになった地域もあり、自足による限られた食物では栄養バランスも崩れてしまったという。本書では狩猟時代の方が栄養的に豊かであったし、自然にたいする知識も豊富であったという。しかし人が狩猟世界に後戻りしなかったのは、人口増加がもたらす甘い夢にあったのである。人口増加によって様々な未知なことが可能となった。それは、安住や将来にたいする安心などで、現在にも通じる贅沢品もそうして生まれた。しかしそれが実現にまで至るとは限らない。そうならなくとも、夢をキープさせることでその結論を先延ばし、システムを維持し続けてきたのが現実であるという。なんだかスピノザの神論を思い出す。しかしそのために新たな義務や仕事が次々に生じ、それが現在まで続いていることになる。ITによって仕事が効率化したが、一方で仕事量は増えているということだ。一般に農業革命を繁栄と進歩の象徴として扱うことが多いが、これを物議を醸す原因とするのが面白い。

12月15日(火)
青木淳氏をむかえての今年2回目のレクチャーシリーズ。今村先生との対談である。最近竣工した京都市美術館について、1933年竣工からその変遷を丁寧に説明することから対談がはじめられた。そのなかで川崎清氏が収蔵庫を設計していたことも知る。そうした歴史を受けて現在の美術館側は、エントランスの機能が追いついていないこと、そして現代美術を展示するには、すべて奥行き7mの部屋では対応できないこと、を要求するという。そのために考えられた地下のエントランスは、「建築」とは異なる、透明な軽い基壇の提案となったのである。青木さんがそれを楽しそうに語っていたのが印象的であった。また展示室には、展示物という視点から2つの側面が求められたという。ひとつはホワイトキューブに見られるニュートラルな空間。つまり、作品によってはじめて成立する空間である。もうひとつは、作品を刺激する空間。サイトスペシフィックの源となる空間である。京都市美術館ではそれを、東山キューブと既存改修部分の二つに該当させたのだそうだ。その東山キューブでは、現代設備の仕掛が十分に研究されていて、すべて天井からそれが供給されるものになったという。前田さんからよく聞いていたことだ。そしてこの美術館が建つ岡崎地区では上野のように、各施設の連動が最近重要視されるようになってきたという。それに関する多くのエピソードも、館長でもある青木さんから十分に聞けた。ところで建築展は観客動員が見込めるので流行ではあるが、青木さんは展覧会を通じて建築の本質に迫りたいようで、建築展の新しい試みを考えているらしい。芸大の展覧会では展示室をリノベーションする様子をダイレクトに示そうとしているそうだ。それで生のつくる行為自体を示そうとしているらしい。レクチャーの最後に今村さんが、設計を決定するときの判断基準を問うたのは意外であった。青木さんはどうやら建築家によるプログラムの独占をなくしたいようで、その意味で図式は否定、そうではない汎用性のある形式性を肯定していた。この二つの違いは微妙ではあるが意味するところはつまり、建築を過去から未来へ向かう線上の一切断面として捉えるにはどうしたらよいかを考えているようである。今日の京都市美術館の説明もそれに沿うものであった。

12月14日(月)
122 ラ・リーガ レアル・ソシエダ×ビジャレアル 久保が右の2列目で先発。攻撃時に中央に位置どり、チームへの順応が求められていたこれまでとは異なり久保特有の役割が与えられるようになったようである。そこに2つの問題が発生。故障者が3人も出てしまってリズムが崩れそれ以降上手く機能しなかったこと、そしてビジャレルに君臨するモレーノとのポジションの重なりである。中央付近でそれは起き、前戦のような連携ができなかった。今日はどちらかというとモレーノが窮屈そうであった。折角できかけた久保にとっての良い流れがこれからどう変化するのだろう。
123 プレミア フラム×リヴァプール 後半早々から怪我のセンターバックに代わりそこにMFヘンダーソンが入り、南野がそこに登場。前戦の同ポジションでのクロップの印象が良かったのだろう。続けて試される。しかし今日はいまいちであった。縦への動きが少なかったように思えた。

12月13日(日)
中畑昌之さんのzoomオープンハウスに参加。浜松にある中畑さんの自邸である。2.7mグリッド(3×5)のRC構造の上に木造格子状LVLでできた5種類の異なるヴォールト屋根を載せた作品である。屋根には複数のトップライトが設置され、格子天井は奥行きがあり450ミリ角で区切られているので、その光は区切りの中で強弱をもち、連続的というよりデジタル的である。近くに往来の激しい国道が走っているので、上から外部に接することをまず考えたのだそうだ。内部は大きな一室空間でその光に応じて居場所を選択できるというものも現代的である。この作品が面白いのは、このような建築から受ける心象性を大切にしていることと空間をつくるときのシステマティックな思考が同居していることだと思う。ものをつくるという行為は、これから生まれるまだ見ることのないモノとそれを現前させようとする意図とを繰り返しフィードバックすることである。したがって、そこにシステマテックな思考など必要ないと考えるのが普通である。むしろシステムは消えて見えなくなると考えるのが近頃の傾向であろう。それに逆行しシステム性を残そうとする姿勢が面白いと思った。中畑さんはぼくと同じ研究室出身である。どちらかというと生活は自由なものではなく見えないシステムにしたがっていると考える。そこから開放するためのモノ=別のシステム、これを提供することが建築の役割と考えている。それを評価したいと思うも、グリッドを構成する梁の存在が気になった。システムを表現する別のかたちもあったのでないかと思った。工事中の外壁のない写真では、どこまでも続くグリッドの永遠性が感じられた。そうした状況での強弱のある光で覆われた生活は、中畑さんがおそらくイメージしていただろう新しい生活であると思った。午後に映画「吸血鬼ドラキュラ」フランシス・コッポラ監督を観る。現在の愛か過去の遂げられなかった悲哀か、男は一途で勇敢で実際的であるが、女は愛に永遠性ロマンを求める。こうしたストーリーだろうと思う。永遠性は未完によってしか得られず、それは宗教のシステムも同じである。

12月12日(土)
青木さん設計の大宮前体育館へ行く。住宅街にあり体育館とはいえ低層で、地下深く埋め込まれた建築である。コンクリートに覆われた巨大な体育館自体は、人が大きな象を一度に知ることができない喩えのように、ぼくらはその全体像を知ることができず、できることといえば唯々その周りを歩き回ること、このようなことを諭すような建築である。もっとも体育館本体の周りには他に必要とされる様々な場が与えられ、決して批評的な建築でもないし嫌味的な建築でもない快適な場である。逆に巨大さを表現しているのは換気塔で、それでも可愛いのでユーモアすら感じた。いわゆる建築的コンセプトというものを否定したところから出発する建築とはこういうものなのだろうと思った。槙さんや北川原さんの次点案と比べると分かりやすいと思うのだが、そんなことお構えなしのところで成立する建築なのだろう。深夜BSで放送していた「カウボーイ&インディアン」ジョン・ファブロー監督を観る。アニメの実写化だそうだ。内容は、はちゃめちゃであったが、ハリソン・フォード、ダニエル・クレイグらが出演していた。
121 ラ・リーガ アトレチコ・マドリード×レアル・マドリード 序盤にレアルが得点をすると、安定したボールさばきで首位独走中のアトレチコに今季はじめての黒星をつけさせる。コートいっぱいを使って、スペースにボールを正確に送り続けるのは気持ちよい。派手さはないも確実性をそこに感じた。

12月11日(金)
青木淳選「建築文学傑作選」を拾い読みする。須賀敦子の「ヴェネツィアの悲しみ」。芥川龍之介の「蜃気楼」、立原道造「長崎紀行」である。どうやらこれらの小説を分析しながら青木さんはどうやって部分からはじめて全体像をつくりだすのか、このことをテーマにしているようだ。先日のエスキスで体験の積み重ねから建築をつくることは難しいことの話を学生にしたが、こうした建築における抽象の力、これは岡崎乾二郎の言葉であるが、それをなしに青木さんは建築しようとしているようである。ただしこれらの小説の主題には、中心の不在性なるものが共通に感じられる。かつて存在していたものの喪失感とでもいうべきものであろうか。個人的な体験が中心に語られているとはいえ、かつて存在していたものの憧憬、この助けを借りているように思った。NHK特集でコロナ渦後の世界情勢の特集を観る。コロナ渦の中国の世界貢献によってアメリカの立場がゆらぎはじめたという特集である。そのため両国が衝突おきる場面が多くなり、その最前戦としてアジアとくに台湾の状況が問題視されていた。

12月10日(木)
「漫画 サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ著を読みはじめる。意に反して面白い。NHK特集でも語れていたが、6種類の人類が5万年前には存在していたという。脳の大きさや体格からいえば、ネアンデルタールの方がホモサピエンスより優れていたという。しかし、7万年前にホモサピエンスが有利になり形勢が逆転した。それは、火が使えるようになった訳でもなく、道具を使えるようになった訳でもなく、コミュニケーションを上手く利用できるようになったからだという。しかし虫でも動物でもチンパンジーでも臭いや身ぶりや声によってそれを可能にしている。問題はその規模にあるという。チンパンジーの群れでもせいぜい50人。群れとはコミュニケーションによって信頼できる集団のことをいう。ここが大事。ホモサピエンスも当然この規模に対する壁はあったのだが、神話という虚構を共有することによってその信頼の規模の拡大に成功したのだという。みんなが同じ虚構を信じていれば同じ規則に従うことができるという訳だ。それによって莫大な規模の群れを創ることに成功した。この虚構は宗教であったり国家だったりお金であったりするのであるが、面白いのは現代の企業ブランドも含めて、その連続性を本書で示していることだ。企業も実体のない虚構である。虚構を上手く演出し企業は集団をまとめているし、対外的も認知をされているのだ。だから、重要なのは「どんな問題をつくるかじゃなく、どうやってそれをみんなに信じさせるか」である。つまり「川とか樹木とかライオンとか、そういう実在するモノのことしか話せないとしたら、国家や教会や法律を創るのはむずかしかった」ということである。これは「建築」にもあてはまることだと思った。つまり、ホモサピエンスは7年前に「現実」と「虚構」という二重の世界に生きることに成功したというのである。それによって、遺伝子進化をはるかに凌ぐスピード進化を手にしたのであった。チンパンジーはボノボ(2足歩行の道具を使う猿類。平等主義社会である)と話し合って平等世界をつくることなどないのである。土偶や壁画にある奇妙な動物は、そうした虚構=神話が当時から存在していたという証である。
120 CL ミジェランド×リヴァプール 南野が4-3-3の2列目で先発フル出場。ベンチの指示だと思うのだが、左と右を前半はケイタとその後はヘンダーソンと定期的に代わりながらプレーする。右の南野はよかった。いつもとは違い下がるというよりは、横にあるいは縦に動いて効果的な繋ぎ役になっていたと思う。2列目から遅れてペナルティエリアに侵入し、シュートの機会もいくつかつくっていた。後半相手に攻め込まれていたのは、中盤のチェックの甘さによるものかとも思ったが、この点についてチームはどう判断するのだろうか。南野の動きを見て世界との差について気付くことがある。これまでの日本のMFはパスセンスが評価されてきた。しかしその彼らが苦労しているのは、その前段階のボールの受け方である。パスを出すもう1段前までをも考慮した戦い方が問われている。

12月9日(水)
「フラジャイル・コンセプト」青木淳著を続ける。読んでいて、青木さんの歴史観と建築知識には圧倒される。しかし、述べられていることはその存在をなくした現在の感覚のものである。このズレが何だろうと思う。ライアン・ガンダーの作品をウェブでチェック。何となく理解する。作品に対する明確なテーマがある。それはタイトルに表れている。しかし、それが焦点を結ぶことはない。もっと別なテーマ、あるいはそのテーマを否定する別なものもある。作品はその複合体としてある。作品の強度というより巧妙さが優れている。ルイジ・ギッリの写真については、「世界の一部をまるで掌にそっと捕獲したよう」と青木さんは表現する。ルイジ・ギッリについてはモランディのアトリエ写真が有名であるが、これを観て世界を丸ごと捕まえようとするアレゴリーの効用を思い出す。青木さんは「建築」については否定的であるが、不在になった「建築」には肯定的なのだろうか。それをさらにネガティブに捉える方法とは何だろうか。
119 CL バルサ×ユベントス バルサが0-3で負ける。コンパクトに守るユベントスを突破することができなかった。パスワークの正確さと早さに圧倒されるもそこからの迫力が足りなかったように感じる。今年はバルサもレアルも苦難が続いている。

12月8日(火)
「フラジャイル・コンセプト」青木淳著を読む。青木は、大文字の建築がなくなりつつあることを認め、そこから「名前のない空間」をつくろうとする。構成などという手法では、「建築」に取り込まれてフラジャイルなセンスまでをもこわされてしまうのでもっと繊細な「くうきを整える」というような提案をする。青木が紹介する杉戸洋、ライアン・ガンダー、ルイジ・ギッリ、立原道造らの軌跡にその方法のヒントがある。そして大宮前体育館で行ってきたことが、今のところのそれに応える解答というのである。それは、解像度の異なるレイヤーの重なりという提案である。それによって、いわゆる「建築」的な全体を打ち消すことをし、モノによる不共可能性を示そうとしている。このことについて、ちょっと考えてみたいと思った。

12月7日(月)
118 ラ・リーガ ビジャレアル×エルチェ 0-0のスコアレスドロー。前戦におけるエミリ監督の久保評価が気になっていたが、後半開始からトップ下で登場させる。前日の会見で久保についてエミリは、「よいときも悪いときもある。よいときは戒めて、悪いときは寄り添う」といった発言をしていた。前戦の久保はそれ程には悪くなかったと思うので、今日の起用が気になっていた。エミリは後半からフォーメーションを変えた。そのため、久保はフリーになっていた。従来の攻撃時4-1-2-2-1からの変更である。それで久保に何度もボールが入る。ここで決定的な仕事をしておきたかった。ライン上でのアルカセルからのダイレクト、70分過ぎにはこの試合唯一のマウス内シュートを放つも力強くなくGKにはじかれる。それはペナルティ内での細かいパスによるものであった。ビジャレアルは引いて守る相手に研究され、苦しいゲームが続いている。こういった細かい連携も久しぶりである。久保に期待大である。

12月6日(日)
「Fukushima50」 若松節朗監督を観る。NHKでの連続特集で事実をほぼ知っていたのだが、lこの映画ではそこで起きていた人間関係を知る。東電本社の社員は僅かで、現場で作業にあたっていた人たちは多くが地元で雇われた人たちであった。したがって、地元との関係にもこの映画では言及がなされていた。そしてNHKの再現と異なっていたのは、この映画では吉田所長もかなり取り乱していたし、触れられていなかった菅首相や東電本部の混乱ぶりは異常であった。ここから学ぶべきものは何なのだろうと考える。それは緊急時の組織における意思決定についてである。この映画では仲間や地元を思いやるところが感動を呼んでいるのだが、問題を解決するには指揮系統をこういうときこそ1本化してドライに対処する必要があると思った。以前海上自衛隊潜水艦なだしお号が民間漁船と衝突し、漁船乗組員数名が死亡した事件があったことを思い出した。このとき浮上した潜水艦甲板上で見張活動を続け救助活動をしなかった海上自衛官がマスコミから批判されていた。この批判は人道主義にもとづくものであったが、2次災害の危険などを考えるとそれが正しい判断であったという。おそらく自衛官は情をなくして機械のように動くことが叩き込まれているのだろう。戦場で各自が勝手に判断をして行動をしては混乱を呼ぶばかりである、と聞いたのは父親からであった。一般に最近では組織のヒエラルキー構造は否定されるものであるが、緊急時にはそれが重要となることを改めて感じる。福島の場合でいえば、本部から緊急の別の指揮部隊を投入することによって、チームを再組織化することが必要であったのだと思う。冷静な問題解決を導くために。これは例えばW杯中に不振に陥った代表チームや、何よりも事故やクレーム等によって生じた事務所のプロジェクト内での混乱においても通用することだと思う。

12月5日(土)
「砂の器」野村芳太郎監督、松本清張原作を観る。物語展開にちょっと無理があるように思えたが、原作はどうなっているのかと思う。それでも、感動もののラストシーンであった。今は亡き名優達が好演している。

12月4日(金)
117 EL シワススポル×ビジャレアル 久保は得意の右で先発。いつも右のチュクエゼは左での先発。その久保は60分前に交代。その後右に回ったチュクエゼが得点し1-0でビジャレルが勝つ。久保とチュクエゼを比べてきたマスコミはこれぞとばかり久保を批判し、チュクエゼを盛り上げていた。なぜなら久保の所属元のマドリードよりのマスコミが、先発で使用しないエミリ監督を批判し続けてきたからである。その反動が出たかたちである。最もチュクエゼはビジャレアル元々の育成選手。レアルから鳴り物入りで入団してきた今年限りの久保は批判にさらされる土壌にある。エミリ監督の60分前の久保の交代の意図はわからないが、その答えは週末の久保の扱いに出ると思われる。しかし、いかにも久保が悪かったかのような印象を与える采配であった。エミリは、アーセナル時代にエジリを否定するなど頑な人である。これまでの報道から、久保に対して意地になっていなければと思うのだが。冷静にみるとぼくとしては、今日のビジャレアルは10代選手4人使い、相手マンツーマンに久保も含め(チュクエゼも)何もできていなかった。というよりも引き分け狙いのエミリはバランス重視で、久保もその役割を果たしていたと思うのだが、自由が許されずにいた。そうした中で中盤底選手がビルトアップできていなかったことが原因だと思う。したがって久保交代後も特に状況に変化はなかったが、70分過ぎからコクランに代わりパレホと14番トリゲロスが中盤に登場すると突然攻撃が活性化した。そしてチュクエゼが最後に決めたのであった。パレホが最終ラインまで下がり、普段はどちらかというと右サイドの守備重視でバランスをとるトリゲロスが左のスペースまで動き、パレホからの縦パスを受けてDFラインを崩したかたちであった。それは今日先発の若い選手との違いを見せつけたものであり、戦犯が久保だけではない証と思うのだが、エミリ監督がどう判断しているか?週末のリーガでの久保の扱いに注目である。

12月3日(木)
エスキスの後にティム・インゴルドの質問を受ける。ティム・インゴルドの本から学んだことは、建築にとって世界をいかに表象するかではなく、いかにして世界を「そこに存在する」ものにするかであった。評論するよりもつくり出すことである。これは意匠系の研究において大いにあてはまる。どうも世界の表象に意識がいって、そこからの制作が疎かになっている。モノが自然と生成されることなどない、(世界と通じる)主体を持って制作することが重要なのである。
116 CL アトレチコ×バイエルン 1-1のドロー。どちらもエースストライカーがおらずに比較的無理な攻撃をしていなかった。そのためネームバリューの割りには、素人目にゲームは面白くなかった。その中でもジョアン・フェリックスのテクニックが光る。右利きの右Wで体格もそれ程良くないが、サイドと中央の両方をこなしていた。

12月2日(水)
建築家の考えるバロック論を知りたいと思い、「磯崎新の建築談義09 17世紀 サン・カルロ・アッレ・クァトロ・フォンターネ聖堂」を再読。ボッロミーニとベルニーニの比較から、あるいはルネサンスとの比較から、つまり歴史的位置づけからバロック建築の特徴を解説していた。その特徴とは、劇的な動き、階段の前面化、空間化、過剰さ、そしてある全体性を想定し建築を外部から切り取るデザインである。その中でライプニッツのバロックも取り上げ、それは「モナドに、つまり霧のような状態に世界を置き直した上で、再編したもの」という位置づけである。一方で面白いのは、バロック的なものはどの時代の終焉にもみることができるという指摘であった。近代後期ではヴェンチュリーの「建築の多様性と対立性」、ポルトケージ(バロックのローマ)、あるいはピーター・グリーナウェイの映画をあげている。ということは、バロックは数寄屋化に近いということだ。「二つの和解できない要因を抱え込みながらそれを統合するときに発生するズレと格闘する、不連続、非線型的というか、常に割り切れないものがのどにひっかかるように残っているいろいろな表現」がバロックに観られるというのだ。ボッロミーニのサン・カルロ・アッレ・クァトロ・フォンターネ聖堂、サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂、ナボーナ広場のサンタネーゼ・イン・アゴーネ教会、サン・フィリッポ・ネリ教会(オラトリオ)とベルニーニのヴィットーリア教会、サンタンドレア・アル・クィリナーレ聖堂を思い出しながら再読する。

12月1日(火)
西田司氏と萬玉直子氏をむかえての今年度第1回目のレクチャーシリーズ。タイトルは「ひととまちと共に生きる建築」。みちがテーマであった。広場でなく道でのコミュニティが日本に相応しいという考えである。最近完成した関東学院の国際学生寮が興味深い。外観は避難通路としてあり普通だが、中身が複雑な道の絡み合いである。個にはそれぞれの世界があり、それらは共有せずに同じ空間にいることの可能性を目指したという。それはライプニッツが不共可能性といっていたものだ。具体的に建築は、吹き抜け空間に宙ぶらりんな一人用の空間が漂うような構成であった。西田さんは構成といわれることに抵抗したいようで、その気持ちも分からないでもないが、建築としては、現象として済ますのではなくモノで語る必要があると思う。というのは、浜町のみどりビルプロジェクトの建築はたいへんよくできていた。コーポラティブで、室内と屋外の面積割合を等しくした貸しビルであった。屋外空間が建築の周囲に張り巡らされ、それらが醸し出す雰囲気は、階層のなさや屋外との連続によって建築として上手く納まっていた。こうしたことを感じることができるのも、モノと人との関係があるからで、モノからの視点を否定することはないと思う。最後に紹介したプロジェクトが、ぼくの地元の渋谷本町であったのには驚いた。近頃商店街に活気が失われたところだったので、がんばってもらいたいと思う。「アレゴリーとバロック悲劇」ベンヤミン・コレクションを読みはじめる。最初に本書ではアレゴリーと対極にある象徴概念(シンボル)を否定することからはじめる。ベンヤミンは、芸術において理念を現前するためには、象徴作用の助けを負うことが大きいことを認めつつも、その象徴作用は人間存在を神格化するロマン主義のもとで歪められてきたというのである。象徴作用が実は、ある限定された思考範囲のものでしか通用しないことをいったものだ。これに対してバロックとは、神の神格化が崩れるにつれて象徴的思考というものが無効となり、神との弁証法によって成立したもので、アレゴリー的概念とはそこから生まれてきたものであるという。したがって、徐々に歪曲的な仕組みを持ちながら深いところから進行してきたものであるといっている。それでアレゴリーとは瞬間的なものである象徴に対しての継起的で時間を要するものになった。アレゴリーにおいて、たわいもないものが悲劇をむかえることによって高次の位階(道徳)にまで引き上げられるのは、この仕組みによることが大きいという。そのためにアレゴリーは沈潜しないよう絶えず新たに人を驚かすような展開をする。運動性がアレゴリーの本質なのである。ベンヤミンの思考はいつも新鮮である。反対意見を取り入れながら、そこから漏れる問題をすくい上げることで意見をつくり出している。

11月30日(月)
115 ラ・リーガ レアル・ソシエダ×ビジャレアル 久保は75分から左サイドで登場。適正ではない左での起用に各評論家はとかく不平をこぼしているが、今日の久保はこれまでとは違い自由に動き回る。特に右まで出てチュクエゼとの連携に努めたのには驚いた。思えば昨季もマジョルカで突然自由に動き出したときがあった。その前後で久保に対する評価も変わっていった。久保は考えを変えて、チームへのフィットから自分を出そうとしているのだろうか。今日の交代場面から想像するに監督が考える久保は、モイ・ゴメスやトリゲロスの控えではなく、 終盤の飛び道具のひとつに考えているようである。その役割はそこそこ果たしている。久保が入ってチームは活気づいた。後は得点である。

11月29日(日)
1日中推薦入試の監督。合間に読書。娘がアマゾンスティクを購入。TVでDAZNもUEFA.tvも、もちろんPrimeVideoもわざわざパソコンを接続しなくとも見ることができるようになる。本来なら、映画のコンテンツにおいてiTunesの方が信頼あるのでAppletvにしたいところだが、本を中心としたショッピングにおいてappleは一歩リードを許してしまっている。Mac+iPhone(iPad)が生活の中心になると、例えばこれまで親しんできた2時間の映画やスポーツ観戦などもパソコンコンテツになり、それらを同時に1台のMacに託すには無理が生じてきている。サッカーを観ながら、たまにファイルも開きたくなるものだ。それをiPadに託すか?しかし実生活ではTVが再登場してきて、第2幕のインフラ整備が徐々に進んできた、このことを感じる。
114 プレミア アルビオン×リヴァプール 怪我人が多い中、南野は中盤で先発。クロップの温情でチャンスが廻ってきたともいえるが、逆にいうと不慣れなポジションで立場を悪くしたともいえる。効果的な守備も攻撃もできずに終える。どうもボールをもらおうと焦っている気がしてならない。周りとの連動がないため、動きにメリハリが少ないように見えてしまっている。

11月28日(土)
「襞 ライプニッツとバロック」を読み終える。最後にベルニーニの彫刻「聖テレジアの法悦」が詳細に記述されている。ドゥルーズは頂部の丸天井とそこから伸びる円錐によって、一つの統一が生みだされているという。宗教というものが当時幻影になりつつも、それを踏まえて再び現前することの夢を与えるものだというのだ。ぼくもヴィットーリア教会でこれを見た。上からの光で彫刻が神に包まれているあまりにもベタな手法とも感じないこともないのだが、それを超えて感動した記憶がある。続いてベンヤミンのアレゴリー論についても言及している。シンボル的な見方と対比させ、アレゴリックな見方をベンヤミンがはじめて評価したというのである。それは、動物寓意譚のベスティアリにも見られたものであった。ベルニーニの彫刻の丸天井と円錐は正にアレゴリックなものであるという。こうしたアレゴリーの効果については、多くの思想家が問題に上げている。しかし、なかなか明確に掴めないでいる。ここで取り上げられていたアナモルフォーズの動画を観る。歪んだ訳のわからない絵が、ある見方(例えば鏡面でできた反射する円筒というフィルター)によって、皆が認識できる図像になる現象である。このテクニックがアレゴリーに似ているのだという指摘である。「感覚しうる対象を、連続性の法則にしたがう形象や相の系列に変えること、これらの形象化された相に対応し、命題の中に記入される出来事を指定すること、命題の概念を含み、尖端あるいは観点として定義される個体的な主語に対して命題を述語化すること、概念と個体の内面性を保証する識別不可能の原理」をアレゴリーの特色と述べる。

11月27日(金)
修士設計の中間発表をオンラインで行う。研究室の学生と密な相談ができていないので、基本的な部分の見落としが多い。さて、どう展開させようかと思う。佐藤くんの提案に対しては、研究のバックグランドの説明に時間をかけすぎて、一番大事な設計対象が理解されていなかった。墓地を日常的なものにするために、墓地のたつ土地が誘発する記憶を役立てようとしていることが伝わっていなかった。もうひとつ、設計者に都合がよい記憶ばかりを取り上げているが、反対のことを想う人、あるいは何とも感じない人がほとんどだろうと思う。現実のモノと人とのネットワークは複雑であることを考慮しないとトートロジーにはまる。加藤くんの提案は幾何学を扱うものである。分析において仮説をなくしているので、そこから組み立てることができないでいる。カーンのドミニコ修道院案の配置関係を参考に、西澤立衛さんは十和田美術館であれやこれやと検討を重ねていると思うのだ。こうした主体の見る目がないと、幾何学からは何も答えてはくれない。法則や世界がはじめからあって個体に作用するのではなく、個体の内部にそれが意識あるものとして所属の関係にあるときはじめて生じるものなのである。同様なことは研究の条件整理にも現れる。鈴木さんに限らず、最終イメージがないと、諸条件も整理できないことになる。早くゴールをイメージしてもらいたい。それでも町田くんのプレゼは気持ちが入っていたので、先生達の琴線に触れることができた。成功のカギは、ピラネージの「牢獄」の現代的意味を上手く表現できるかどうかにかかっていると思う。その際に、SNSに上げる写真の傾向を持ち出すのはよいだろう。それらをひとつにリンクできたらよい。
113 EL テルアビル×ビジャレアル 久保が左サイドで先発。可もなく不可もなくレギュラーのモイ・ゴメスと同様の働きをしたのではないかと思う。逆サイドのチュクエゼとは兎角ライバル視される関係であるが、二人は何度もアイコンタクトをしてペナリティ内、あるいは大きなサイドチェンジで連携を高めようとしていた。むしろ今日は、トップ下の32番バエナとの連携に難があったと思う。前回の右で行った連携ができていなかったのが残念。スペースが被り窮屈そうであった。いつもの戦術ではこのポジションがないからだろうか。トップ下を置くなら久保が最適と思う。エミリの采配にちょっと謎を残すことになった。

11月26日(木)
112 CL リヴァプール×アトランタ 0-2。アンフィールドでリヴァプールが負ける。今日は前線の選手も変えてきたが、それよりも最終ラインのバランスがよくなかった。やはりリヴァプールは、両SBが攻撃の起点であることを知る。そこからの展開が今日はなく、相手SBに押し込まれる時間が続いていた。前戦のレスター戦であまりにもロバートソンがはまっていたので尚更その差を感じた。終了間際に南野も登場するも為す術なし。今日はオリギが先発で南野にとって厳しい状況が続く。

11月25日(水)
「襞 ライプニッツとバロック」を読む。昨日考えたことの続きがあった。無数にあるふたつの人とモノを結びつけるのに必要なものを、ここでは理性としている。理性でなくあくまでも形であるが、15の幾何学特性とは、パズルのようにふたつがピタッとはまることを許容する形のルールでないか、と思うに至る。無数の組み合わせの中で、結合をつくりやすい形の性質をいうのだと思う。

11月24日(火)
中埜さんと打ち合わせ。中埜さんに薦められ、「まちづくりの新しい理論」アレグザンダー著 難波和彦訳を読み直す。そして全体性への再理解に努める。本章によると、モノにはこれまで培われてきたものが痕跡として残っており、それに個人が関与していくこと、これによって全体性が得られるという。関与あるいは参加とは同調することだ。残された痕跡は無数にある。そして沢山の人がいて、その人でさえも時と場所に応じて変わる。だから、このモノと人のふたつが同調する確率とは奇跡的なことだ。ふたつが同じ方向に向いていない限り同調は不可能なことである。そしてこれが成立した状態を全体性というのである。本書では、この困難さを克服するために、成長という考えを導入している。少しずつ確かめて、1歩1歩近づけるというものである。そのために「中間的ルール」を提案しているのが面白い。実践には中間的ルールが有効というのだ。それは、「ティール」での中間職の役割を思い出させてくれるものだ。そして最終目標(最優先のルール)は、本書もティールも全体性wholenessというものである。

11月23日(月)
「襞 ライプニッツとバロック」を読みながらローマ劫掠からフランス革命までの時代を人物で整理する。ルター(1483-1546) ミケランジェロ(1475-1564) パッラーディオ(1508-1580) ローマ劫掠(1526) ガリレオ・ガリレイ(1564-1642) ベルニーニ(1598-1680) ボッロミーニ(1599-1667) ベラスケス(1599-1667) レンブラント(1606-1669) フェルメール(1632-1675) スピノザ(1632-1677) ニュートン(1642-1727) ライプニッツ(1646-1716) カント(1720-1778) ピラネージ(1720-1778) ルドゥー(1736-1806) ゲーテ(1749-1832) ワット(1736-1819) フランス革命(1789)。因みに日本は、応仁の乱(1467) 千利休(1522-1591) 関ヶ原の戦い(1600) 俵屋宗達( -1640) 葛飾北斎(1760-1849) 本居宣長(1730-1801) 明治維新(1868)である。
111 プレミア リヴァプール×レスター リヴァプールが苦しい戦力の中、レスターを3-0で破る。引いて守るレスターに対して、大きなサイドチェンジによってフリーになった左SBロバートソンからの攻撃は見事であった。中盤からこれまたフリーになったジョッタが走り込んでヘッドで決めた。今日はサラー不在で、その空を十分に埋めるプレーであったと思う。久しぶりにレスターの試合を観る。岡崎がいた時代からのメンバーも残っていて、今日は速攻のチャンスが少なく不甲斐なかったが好調をキープしている。

11月22日(日)
「イエスタディ」ダニー・ボイル監督を観る。世界中の一斉停電の後、主人公のジャックが、皆の記憶から消えたビートルズによってスターになるという物語である。売れない歌手であったジャックが退院した日に、友人からプレゼントされたギターによって、冷やかされながら即興で奏でた「イエスタディ」のシーンは素晴らしかった。このときジャックは皆の記憶からビートルズがなくなったことを知る。その後エド・シーランとの即興対決で皆を静まりかえらせた「ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード」も感動的であった。音楽が時を超えての永遠のものであることを上手く表現した映画だ。

11月21日(土)
110 ラ・リーガ ビジャレアル×レアル・マドリード 楽しみにしていたゲームであったが、久保は85分過ぎからの登場であった。エミリ監督は選手をピースのように考えていて、1-1の状況で、ピースが上手くはまっていると考えていたのだろう。エミルにとって久保は本当の最後の賭のピースである。したがって交代タイミングの判断が遅くなる。戦術は無理をせずにスペースのみにボールを送り、守備ではスペースを与えないというものだ。レアル側からするとDFラインから出たボールをSBあるいは中盤が受けて、そこで1対1の場面を振り切る必要があるがビジャレルのインテンシティの方が勝っていた。逆にいえばリアルは怪我人やコロナで十分なメンバーが組めなかったということである。久保にこのタスクは無理だと判断されている。

11月20日(金)
「襞 ライプニッツとバロック」を続ける。ライプニッツはニュートンと同時期の人物であるという指摘が面白い。二人はどうやら対立していたらしい。ニュートンの「引力」を用いた世界観は、微分を用いて瞬間から瞬間へ緊張の無限に小さい現象によって得られる軌跡を実在化したものである。その考えは1960年代のダーシー・トンプソンの「生物のかたち」にも、あるいは、それ以前からのゲッシュタルト理論にも同様にあり、ライプニッツ側からそこには、個体性(の現働化)がなく引かれたレール上の移動でしかなく、法則が統計的でしかないということになる。近代科学の限界を指摘するものとして今では普通であることが、このときから指摘されていたのだ。つまり、法則や世界ははじめにあって個体に作用するのではなく、個体の内部にそれが意識あるものとして所属の関係にあるときはじめて生じるものなのである。

11月19日(木)
「襞 ライプニッツとバロック」ジル・ドゥールズ著を続ける。なかなか入ってこないが、個と全体についての啓蒙の時代前の考えを示唆していて、反対に捉えやすい。つまりここで引用されるライプニッツの個体は、第一に理性的であり、自らの概念を通して世界に対するものである。その意味で、個体の中に世界全体が包摂され、世界は無限なものである。一方物理(身体)的には、個体は世界から分れたものであり有限である。その個体の集積が世界となり、その内的ネットワークは無限である。そしてこの個体をモナドといい、バロックにおける襞がそれにあたる。反対の世界(全体)とは、固体の中で現働化される可能性あるものであり、物質として実在化された出来事が集合したものである。このことを知る。

11月18日(水)
109 代表 日本×メキシコ 強豪メキシコとの親善試合。日本の現在地を最も知ることのできるゲームであると皆がいう。メキシコはW杯16強の常連で確実性があるからだ。日本はこれまで何度も勝てそうになるも跳ね返されてきた苦い経験がある。そこから進歩しているかである。今日は4バックから入り、前半は日本のペースであった。前線からのプレッシングが効くと日本は強い。しかし得点が奪えないのもいつもと同じである。これを勝負弱さというがトラップの技術であったりするのだと思う。後半からメキシコは見事な修正をする。2ボランチにして日本のプレッシングをかいくぐり、そこからのロングボールで攻めるかたちをつくってきた。そうするとセカンドボールを握られ、全くプレッシングがかからなくなった。やがてサイド深くえぐられ守備一辺倒になってしまった。メキシコと異なり次の策がない。ボランチを橋本に代えても、南野や久保を投入しても何の効果もなかった。個人でカバーできるものではない。こうした時のために3バックにして、もう一度サイドを押し上げるチーム全体としての戦術が必要なのではないかと思う。ベンチワークに差が出た結果であった。

11月16日(月)
「襞 ライプニッツとバロック」ジル・ドゥールズ著を続ける。ライプニッツの不共可能性(imcompossibilite)を読み解くことが後半のテーマとなった。個にはそれぞれの世界があり、それらは共有せずに同じ空間にいることの可能性を不共可能性いう。神の不在が明らかになりはじめた時、個は何かをライプニッツは考えたのだろう。現在の神にあたるものは大文字の「」であったりする。「唯名論者にとっては、個体のみが実在するのであって、概念はよく調整された言葉にすぎない。一方、普遍論者にとっては、概念はみずからを無限に種別化する力をもっていて、個体は単に偶有的で、概念にとって外的な限定にかかわるだけである。しかしライプニッツにとっては個体だけが存在すると同時に、しかもそれは概念の力能、つまりモナドあるいは魂のおかげなのである。(中略)特異性とは一般性ではなく、出来事の滴である。それでも、世界が世界を表現する個体たちに対して潜在的に先にくるかぎりにおいて、やはり特殊性は前ー個体的である(神は罪人アダムを創造したのではなく、アダムが罪を犯すような世界を創造した・・・)。個体とは、このような意味で、前ー個体的な特異性の現働化である」p113。個体を全体の中で位置づけるのではなくて、個体内から定義しようとしていることが分かる。これを別にところでは、建築を持ち出して説明する。バロック建築のことである。「一つは建物の適切さ、もう一つは内部における「部屋の数と優雅さ」、最後にもう一つ、土地と素材と外側のファサードが一続きになって快適であること」。あらゆる内外の問題に戯れること=設計をいっている。ルネサンスーマニエリスム−バロックという美術の流れと個人の確立経緯の重ね合わせが見て取れる。

11月15日(日)
森美術館で開催中のSTARS展に行く。草間彌生、リ・ウファン、宮島達男、村上隆、奈良美智、杉本博司といった世界で活躍するスター達の活動を歴史的なアーカイブとして回想する展示である。部分に集中して自己形成を目論む草間、もの派のリ、部分を抽象化させ、共有可能性を探る宮島、日本美に潜むポップさを露わにしたにスーパーフラットの村上、それを画で表現する奈良、建築家のようにモノを配置する杉本であった。会場を出たところにサムソン・ヤンという若手の作品があった。サウンド・アーティストで、弦にテープを巻くなどして音を響かないようにしてオーケストラを演奏させる作品であった。奏者の息づかいや楽器を押さえる音のみの音楽は迫力があった。

11月14日(土)
「ホテル・ムンバイ」アンソニー・マラス監督を観る。2008年11月26日に起きたムンバイ同時多発テロで標的になったタージマハルホテルでの惨劇を映画にしたものである。タージマハルホテルだけでも死者31名が出た。このテロ自体は知ってはいたが、これほどの惨劇であったとは知らなかった。知らないとは恐ろしいことである。その後の11年9月に、ぼくは世界一サービスに長けたホテルとして、ここに宿泊した。ホテル再開が2010年の8月というのでその1年後である。ホテルは空港から1時間弱で、ホテルサービスの送迎ベンツだかなんだかが付いていて、そのリムジンを使用した。空港から発車する車の中でもそれはかなり特殊なものであったと思う。ホテルとの約束時間が上手くつかずに熱い中しばらく混沌とした空港で待っていたので、リムジン中でのサービスに感動したのだが、その車中からみた近代ビル群の下に続く数々のスラム街は異様であった。インドの都市風景は見慣れていたのだが、それでも異様なものであった。ブータン帰りのインドで、ニューデリー、デリー、アーグラ、グアハティ、そしてシャンディガールとアーメダバードのコルビジュエを観て回った後の疲れを癒やすために予約したのであるが、そんな感じを醸し出す雰囲気ではなかった。到着するとホテルの外は様々な人がいっぱいで、外に出るのもはばかった記憶がある。だからホテル外観の写真はない。都市の鬱憤みたいなものを、2年前の事件の詳細を知らなくても感じたのであった。しかしその分、世間から隔離されたホテルのサービスは素晴らしく、サービスとはこういうものかと思ったものであった。それまでの2週間とは違って、この世のものとは思えない柔らかさのベッドで、帰国後Sillyのベッドを購入したほどである。映画はホテル従業員の勇気を称えるものであるが、決して善悪の区別とか登場人物のキャラクターを描くものではなかった。信用ということがテーマであろうか。人は信用のもとで行動し、その対象が宗教であったり社会的立場であったり、家族に対してであったりする。多様な現代において国家とはなんだか不明ではあるが、こうした緊迫したときに国は最も信用が要請されるものなのである。

11月13日(金)
108 代表 日本×パルマ PKにより、1−0で辛勝する。3バックでのぞむも前回のように上手くいかなかった。前回は奇跡であったのか。サイドが押し込まれ5バックの時間が多く、にもかかわらずDFの人数は余っていて、反対に中盤において数的不利となっていた。そのためボランチはビビり、バックパスを繰り返し、前へボールを送ることができなかった。後半から遠藤航が登場。がらっと状況が変わる。前向きにフリーでボールを受けて縦パスが通る。SB長友に代わっての原口のポジションも高く、相手をより押し込めるようになる。そうした中、遠藤―久保―南野の流れでPKを獲得した。その後、浅野と鎌田がスペースを自由に使いチャンスをいくつもつくるも得点なし。浅野は東欧で得点を重ねているとのことだ。今日は、右サイドで前回活躍した酒井も残り5分から、伊東は出場をしなかった。全員を試しているようであるが、意味があるのだろうかと思う。

11月12日(木)
ゼミにてアレグザンダーの「15の幾何学的特質」について、M1生が整理してくれたことをもとに議論する。ぼくらは近代教育を受けているので、モノ→感情あるいは原因→結果で物事を考えがちである。建築に関していうと、建築→美的快感というような図式である。もっと具体的いうと、ガードレールに腰掛けたくなるのは高さが80センチだからと考えることである。ぼくらはこうした思考方法を小さいときから叩き込まれてきた。しかしカントはこれを否定する。それは、見る目をもたなければ見るべきものは見えない、という点からの否定である。80センチだけが問題ではないのだ。つまり因果関係もひとつの認識図式に過ぎず、腰掛けたいという主体の存在が必要となる、というのである。ネットワーク論でいえば、世界は複雑過ぎて全体を見ることはできないので、ある視点で見ようとしない限りぼっーとしてしまうということである。つまり生きた主体なしには空間もない、ということである。アレグザンダーもこれに呼応してなのか、今日のゼミではじめに紹介してくれたように、15の幾何学に先駆けて「全体性」というものを持ち出している。「全体性」の定義も難しい。しかし、ひとつのコミュニティにおける一体感のようなものと考えてもよいだろう。スポーツでいえば、最高の勝利をしたときにチーム皆が感じる一体感のようなものである。このときの状況を全体的というのだ。つまり、主体と対象との間に何かしらの連帯(一体)感、すなわち全体性が生まれることをアレグザンダーは問題にしているのである。そして、パタン・ランゲージをつくったときもそうであったように、そうした状況が起きる場の調査を積み重ねていった結果、対象に「15の幾何学」が宿っていそうだという結論に至ったのである。ぼくがアレグザンダーをすごいと思うのは、こうした一体感というものは精神的なものであるので、曖昧なものとして片付けてしまうところを、それとは反対の明確な「かたち」として定義していることにある。実に建築家っぽい。もちろんカントの認識論も限界があり、例えば最近流行りのオブジェクト論は、人間は宇宙が何であるかを認識できていないにもかかわらず宇宙が存在している、この事実をカントの認識論では説明できないとしたところから出発するものである。そうして、人を飛ばしてモノに特化した新たな世界観を追究しようとしている。これに否定的な考えもあるが、ぼくはちょっとそこに可能性を感じていて、アレグザンダーの「15の幾何学」との関連がないこともない?と思ったりする。先に説明したように15の幾何学は全体性とペアであること、そして幾何学といえどもそのひとつひとつを吟味するとそこには、「共鳴」とか「良い形」とか「両義性」とか感覚的なニアンスを含ませているのである。ここにオブジェクト唯物論とはちょっと違った見方があり、興味を惹かれる。そこを調べてみたいと思っている。

11月11日(水)
「球と迷宮」にエイゼンシュテインが扱われていたので、久しぶりに「戦艦ポチョムキン」エイゼンシュテイン監督を観る。オデッサの階段のシーンは有名であるがその前段階で、市民が殉死者のまわりに集まるシーンはピラネージの「牢獄」そのものであった。高い位置にあるアーチ橋の周りをいくつも階段が絡み合う。そこを人が行進する。その後にオデッサの階段のシーンが用意されているので、それは地獄への行進である。そうした内容に見合った情景が「牢獄」であったのだ。この作品は無声映画である。それだけに映像にかける監督の思いは強い。カット割りも妙である。部分を噛み合わせながら全体の印象をつくりあげている。

11月10日(火)
今年の修士学生がピラネージを研究している。それに触発されあらためて「球と迷宮」マンフレッド・タフーエリ著 八束はじめ訳を読み直す。その第ⅰ部がピラネージについてである。ピラネージが活躍した18世紀は啓蒙の時代で、神から解放されブルジュワジーが新たな秩序を社会や自然、科学に求めた時代である。本書によると、実務家のピラネージはこうした考えが引き起こす問題を先取りしていたという。それは、結局のところそれでも生じる秩序の不在、中心なるものの不在をいち早く気付いていたというのである。それが「牢獄」における断片化、歪曲、増殖、解体といった手法に表れているというのだ。ここには計画することへの断念が根本にある。計画が事物を選び秩序立てるということであるとしたら、ピラネージは秩序を意味のない事物で構成させることで、この秩序恐怖症?からの解放に成功したというのである。この逆転的発想によって、はじめて建築家は自由になり知的な労働が可能となったのだという。つまり人の本性を問うことができるようになった。本書のタイトルである「球」は計画、「迷宮」はカオスあるいは自然(じねん)を表している。設計することとはそのどちらでもない中間に位置するものである、この扉をはじめて開いた人物としてピラネージが扱われている。社会と個人との関係を示唆するものであるが、それは現代でもあてはまる問題である。

11月9日(月)
107 プレミア マンC×リヴァプール 今日はジョッタを入れた4トップでマンCに乗り込む。南野バージョンであるが、南野はベンチ外。最悪のシナリオが現実化する。前半の中からこのシステムが上手く機能せずにマンCに押し込まれる時間帯が続く。1-1のドロー。

11月8日(日)
106 ラ・リーガ ヘタフェ×ビジャレアル 1-3でビジャレアルが勝利。ヘタフェは激しいプレシングをしてくるチームであるのと中2日の試合日程から久保は先発を外れ、どちらかというと守備に強い選手の配置となる。1トップのパコに右にモレーノ、左にモイ・ゴメスである。中央にパレホとトリゲロスでひとりイボーラを余らせるかたちである。最初の交代は、好調のバッカと復帰のコクラン。そして85分過ぎから久保がモレーノに代わっての出場である。これといって見せ場はなし。チームが良い状態で勝ち点を積み重ねているので仕方ないが、エミリが賭けに出てトップ下を置くときまで久保は辛抱である。 

11月7日(土)
「フォレスト・ガンプ」ロバート・ゼメキス監督、トム・ハンクス主演を観る。この作品の主人公である一般人フォレスト・ガンプが偶然にも当事者になってアメリカ現代史と関わっていくその構成が面白い。偶然をよぶその行動は、過去や未来のためではなく今を生きよ、という母親や幼なじみの教えに従うものである。「人生はチョコレートの箱、食べるまで中身はわからない(Life is like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get.)」。「バカなことをする人がバカなのよ(Stupid is as stupid does)」。「死を怖がらないで、生の一部なんだから(Don’t be afraid of death, it’s part of life)」。「過去は捨ててから前へ進みなさい、前進こそがすべてのです(You’ve got to put the past behind you before you can move on. And I think that’s what my running was all about.)」。「ぼくらには運命があるのか、ただ風にふかれているだけなのか、分からない (I don’t know if we have a destiny, of if we’re all just floating around accidental-like on a breeze.)」等。ジャクソン・ブラウンのRunning on empty にのって3年間全米をひたすら走り回るシーンは感動的である。

11月6日(金)
105 EL ビジャレアル×マッカピ・テルアビブ 久保がフル出場。前半は中央側に位置し、後半からビジャレアルが前線の人数鵜を増やし久保は右サイド際に位置する。そうすると数的な不利が解消し、攻撃が活性化する。久保は右から絶妙なアシストを成功する。このところ相手の出方によって変化するチーム戦術に久保は上手く対応している。今日はとくに同年齢の中盤の32番とで右サイドの絶妙な連携を行っていた。どちらかというと既成の先発組との相性がいまいちである。その典型が、王様ジュラール・モレーノの登場によって明らかになった。モレーノが久保が得意とするライン間を彼が使うと、久保は行き場を失いちょっと窮屈そうであった。チームはモレーノを経由してゲームを展開し、見事な4点目につなげていた。こうした状況では、ラインの裏を狙うチュクエゼの方がチームに合っていると思う。モレーノは、チュクエゼを経てゴール内に進入しようとするからだ。久保を左で使いたいと考えるエミリの考えもわからなくもない。

11月4日(水)
「襞 ライプニッツとバロック」ジル・ドゥールズ著を読みはじめる。襞とは、バロックに見られる無限に続く装飾・線のことである。これが生まれる過程を、生物の成長や進化と重ね合わせている。有機体の襞は、内部と外部のふたつの要員によって形成される。内部要因を可塑的な力という。機械的な織り畳み作用が、緊張と弛緩、収縮と膨張によって続けられ、これは宇宙の構造も同様であるという。しかし生物はそれを制御しようとする圧縮的な弾性的な外力を受け、これによって内部の一連の機械的作用が方向性や有限性をもつようになるという。脳における頭蓋骨、腸ににおける身体である。頭蓋骨も沢山の気泡があり襞のようでもある。骨も外的な要因から成立している。つまり、内的論理と外部条件のバランスがスケールを超えて連続しているということである。このふたつの動きは事後的に統一を獲得しているように見えるので理性がある、あるいは魂が宿っていると考えることができる。これがライプニッツの基本であるという。アレグザンダーのパタン・ランゲージと敷地における原寸設計との関係を思い出す。アレグザンダーは、これをlifeあるいはlivingという。

11月3日(火)
104 ラ・リーガ ビジャレアル×バリャドリード 2-0でビジャレアルが勝利。今日からジュラール・モレーノが復帰。そのため久保は控えとなる。右がチュクエゼ、左がモイ・ゴメスである。これにパコ・アルカセルを加えた前線は好調。前半で2点を決めた。久保は60分過ぎから右サイドで登場。中2日でゲームが続くためのローテーションである。登場後時間が経つにつれて両チームの攻撃がオープンになり、そのスペースを使ってのボールを保持したチャンスメークを幾度かつくり、シュートも放つ。シュートはほしかった。残念。これは評価されるだろう。しかし右でのSBとの連携は今一で、キャプテンであるガスパールからの信用を得ていない。交替直後のガスパールの懸命な上がりに上手く反応できなかった。ガスパールは天を仰いでいた。その後、久保は決定的なバックパスミスを犯す。得点に結びついてもおかしくない程のものであった。ガスパールが今度は上がってこなかったために、久保が孤立して生じたものだ。おそらく先発とならないのは、この点においてモレーノ監督の信頼を得ていないからだろう。久保がミスをすることを前提として、そのリスクバランスを考えているようである。

11月2日(月)
NHKのアメリカ大統領選の特集を観る。コロナ渦での選挙キャンペーンはアメリカに大きな亀裂をもたらしている、という特集であった。ミズーリー州が好例とされる。経済のグローバル化に伴い結果的に見捨てられることになった白人を中心としたトランプ支持と、経済よりも人道主義を大切にするバイデン支持者とBlack lives matterが結びついた、ふたつの溝である。これは、コロナによって一層深刻な差し迫った問題となった。それが大きくなり両派の極では、暴力も辞さない状況に陥っている。その特集であった。社会は、人のコントロールが及ばないコロナウィルスによって混乱し、逆にいえば、社会はこのようなモノによって複雑に絡み合ったネットワークなのである。その中に人間がいる。これは今さらはじまったことではなく、建築でいえば、設計条件などがそういったものであろう。このときのキーになるのは、やはりトップダウンによる解決ではなく微細な対応の連続ということになるのだろう。あるいは、差異を強調する個人重視よりも、差異の分岐点が何かを探って社会に向かうことなのだろうと思う。

11月1日(日)
今年のCリーグをオンラインで開催。審査委員に栗生明氏、堀場弘氏、勝矢武之氏、垣野義典氏、末光弘和氏をむかえる。コロナ渦によってこの時期にずれ込んでしまったが、理大の岩岡先生とスポンサーの力添えによりオンラインで開催することができた。感謝である。オンラインでは模型がない。しかしその分、計画内容に重点が置かれた説明になったように思う。各審査員もこのことを新鮮に感じ好評であった。勝矢氏は、敷地を出身学校とする課題設定を評価してくれた。それは、学生のプログラムに対するリアリティとそれから考える熱き思いを感じることができたからである。そうお話ししてくれた。その上で、グランドレベルとの関係性の希薄さを指摘する。要するに外への視線が弱いということである。あわせて校舎と敷地との間に生じる余白にも提案不足が指摘された。敷地のありがたみを理解する必要があるということだ。勝矢さんは思い切ったラジカルな提案をする日建設計に所属する建築家であるので、そうしたラジカルなアイデアに対するマイナス配慮を欠かすことはない。比較的細かい機能的な問題の指摘も多かったのはこのためだろうと思う。印象的である。子供が走り回るようにするためには、通常時のきちんとした動線計画が重要視されるということである。垣野さんは計画学が専門であり、今後の学校に対する考えが面白かった。コロナによって従前の教室教育がますます難しくなって、画一的でない多様な教育方法がクローズアップされてくるだろうという。設計でよく提案される自由な新しい教室モデルが現実化されるチャンスが広がるだろうというものである。堀場氏は、開かれた課題であることを喜んでくれた。そのため評価が多用となり、審査も審査員によって割れた。したがって学生はこれに一喜一憂しないで、自分なりに信じるものをつくりなさいというアドバイスである。末光さんは、作品を通じて5大学の教育の特徴を指摘してくれた。千葉工大は、手が動いて社会性を問うことが特徴的であったという。ふたつとも大きなテーマとして取り組んできたことであったので嬉しく思う。電機大学は造形力指導の厚さを、理大はプレゼの上手さを特徴にあげていた。栗生氏は、これまでのCリーグの経緯を説明しこのイベントの意義を指摘する。それは答えのない設計の奥行きの深さを実感する大切さな機会である。それが課題提案にも表れているし、評価にも表れている。この時期の学生は優劣よりも学びの機会を得ることが大切であるというのだ。そうした中、今年度の最優秀に千葉工大の竹村寿樹くんの作品が選ばれた。接戦であった。0メートル地帯に避難施設をメインに考えた学校の提案であった。学校にこそ理想的な人間性回復を期待する過度なノスタルジーを捨てて、リアルな社会問題にたいして夢をもった解答を語ったところが評価されたのだと思う。これはまさしく今日的な設計の傾向だ。通常これが環境問題にいきつくものであるのだが、彼は避難施設としてこの問題に上手く取り組んでいた。その一方で、上階にある教室の接地性やドライなプランニングが問題にされたのは、指導時にぼくもあまり気にしていなかったが、コンセプトを中心に展開する近代的計画批判として受け止めてよいと思う。この講評会でも度々指摘されていたように、多様性のある緩さが今最も大事なテーマであるということなのだ。しかし竹村くんが素晴らしかったのは、そうした指摘にたいしてキチンと受け応えできていたことである。竹村くんとしては、特別教室の位置づけこそが教育の根幹にあるという回答であった。こう理解した。鈴木奏子さんは栗生賞を頂いた。トップバッターで機器の不具合もあり、ぼくからするとプレゼの重点が間違っていたと思うのだが、栗生氏は事前資料を良く読み込んでくれていて、質問によって、彼女の意志を誘導してくれた。これによって評価が好転したのだと思う。しかしそれを読み込んだのは、のびのびした鈴木さんのプランニングにあったと思う。かたちの存在は重要である。まずはそれで語らなければならない。ただしそれでは案にのめり込んでしまうので自分の案を客観視できなくなる。それを防ぐためにも他者の存在は重要である。栗生氏が偶然にもそうした役割を果たしてくれた訳である。設計とは面白い。

10月31日(土)
「A River runs through it」ロバートレッドフォード監督を観る。ブラッド・ピット主演。厳格な牧師である父、田舎に留まりエネルギーを発散しきれない弟、そして外の世界を知り優秀な兄。その兄の視点から見た1900年前半のアメリカの田舎家族が描かれている。彼らをつなぐものはフライフィッシングである。それは自己中心的な人間に地球という大自然と一体化を促すためのものである。彼らは様々な運命を辿るがその1点で互いが深くつながっている。開拓精神が過去のものとなり、完成されつつある社会と本来あるはずの人の姿との間に生じはじめた亀裂を、批判的にではなく優しく愛情をもって描いた作品であった。
103 プレミア リヴァプール×ウェストハム 2-1でリヴァプールが勝つ。南野不出場。クロップが交替として選択したのはシャキリとジョタであった。その二人を中心としたコンビネーションでチームを活性化する。南野の立場がきつくなる。

10月30日(金)
卒業設計・論文の中間発表。対面で行う。これまでの遠藤研の内容と大きく変わったことがよくわかった。今年度の読書会の影響か、過去の事例を肯定的に見ることで当時から続く社会状況を引き受けようとするものと、環境をスケールアップするものの2つとなっている。この時期にテーマが漸くはっきりしてきたので、この1ヶ月の分析が勝負である。
102 EL カラバフ×ビジャレアル 日本では放送がなく、YouTubeを探り久保のプレーをダイジェストで観る。今年はDAZNでの放送がない。カジュアルなインフラは経済状況に左右される。これまでとは異なるインフラというものを想定しないといけない。このことを実感する。そうした中で観た後半の久保のプレーは、監督をはじめマスコミにも好意的にとられているようだ。今日は苦手とされる左で先発。後半からライン間でボールを受けることが多くなり、久保からゲームが構成されていた。どちらかというとサイド際から内に絞り、縦方向ではIHとSFとのスペース分担が明確にかつ連続的になっていた。それでも75分に交替。

10月29日(木)
スラヴォイ・ジジェク「パンデミック」を読み終える。最後に紹介されるのは、アラブの寓話「サマラの約束」である。その話はこうだ。ある召使いがバクダットで死神に出会い、サマラまで逃げようとする。主人は召使いを助けようとバクダットで死神を探し、偶然にも出会うことができる。そしてその死神から、召使いとは今夜サマラで会うことになっていたので、バクダットであったことに驚いた、という話を聞く。これだけの物語である。通常この寓話からぼくたちは、召使いの立場から、死の運命からは逃げられないことを学ぶ。しかし、その運命信者である死神すらそこからの逸脱があることもまた示されている。また、主人は死神を信じない人である。そういう人は死神すら探すことをいとわない。死神に出会ったことで運命が尽きるかも知れずに、である。つまりこの寓話は、誰もが今起きている事実を見落としていることをいっている。「パンデミック」本書の主旨はこの寓話を引用し、コロナ渦の右派も左派もあらゆる政治家の政策がみなこの状況にあることをいわんとしている。ロードランナーアニメのコヨーテが既に崖から飛び出しているにもかかわらず、下を向いてそのことに気付いてから急降下する状態にあるというのだ。それからでは遅い。最後にラトゥールが登場する。コロナウィルスの影響を振り返るとジジェクは、「人間は多様なラクタン(非人間の当事者)のひとつでしかない」ことを実感するようになるだろうという。そしてこうした実感―変化し続ける集合体の中に現象を位置づけるアプローチーによって、予期しない超・機能的なことが発生するはずであるというのだ。それは、ラクタンを中心とするモノや問題を中心に展開する「モノの政治」である。そして、これまでの価値や信念が役立たなくなるという。だから批判精神をもってその後の世界を再定義をし直すべきであるという。これが本書の主旨である。ところがジジェクは、ラトゥールの「モノの政治」に対しても疑問を残すことを忘れていない。ひとつはその上での主体の必要性についてである。非人間的な視点から、私たちもその一部を構成するアクタンの集合体を理解できるのだが、それには主体がなければならないというのである。もうひとつは価値と信条を無視することの否定である。集合体には特徴がなければなない、それは重要で、集合体はそれを捨てることができる程実際単純なものではないという。
101 CL ユベントス×バルセロナ ユベントスにロナウドがいなかった。モラタが3度ゴールを決めるも、オフサイドで取り消される。最後はPKでバルセロナが突き放すゲームであった。

10月28日(水)
スラヴォイ・ジジェク「パンデミック」を続ける。ボッカチオの「デカメロン」は、フィレンツェの町を襲ったペストから逃れるために、郊外の隔離された別荘に引きこもっていた7人の若い女性と3人の若い男性の物語であったことを、本書から思い出させてくれた。ところでジジェクは、このウィルスのことを「リヴィング・デッド」といっている。自己複製する活動においては生きているが一種のゼロレベルであり、自律せずに寄生する馬鹿げたレベルで反復と増殖をする生の欲動の生物学的な風刺物であるという。つまるところウィルスは、発展した高度な機構があったとしても、それでも処理しきれないバグつまり残余であるという訳である。ジジェクは、これを言語と同一視する。ここが面白い。言語は単なる表現規則でしかないが、長い時間をかけて人に介し寄生し文化や哲学をつくってきた。あらためてこの言語を変えたり、捨て去たっりはできないものである。できるのは中国においてせいぜい漢字を略式にするくらいである。そうしたことによって現在の国々の対立がおきている、そのような書きぷりである。言語やウィルスのようなリヴィング・デッドなものの存在を乗り超えて自律的な倫理全体へと自らを教育する大胆なビジョンが現在求められているというのである。
100 CL マルセイユ×マンチェスターC 酒井が先発でフル出場。堅実な守備であったと思う。ほとんどの時間をシティに握られるも90分間走りきり、試合を通じての体力をコントロールしていたことに感心する。ちょっと歳をとっているが、ビッグクラブからの誘いもあるのでないかと思わせるパフォーマンスであった。 

10月27日(火)
スラヴォイ・ジジェク「パンデミック」を続ける。上手い具合にコロナ渦の世界を分析している。中国については、デジタル化された社会統制の普及によって完全にこの危機を克服したといい、西欧については、通常の統治の枠組みとして例外状態を利用する傾向を強くしてしまったという。そしてアメリカに至っては、誇張されたパニックによって国家権力に対する不信を増大させてしまったという。それでは、このような驚異の現実を消し去るには、中国式しかないかというとそうでもなく、中国のしたことをもっと透明性のある民主的な形で実行することがあるという。これを「国家権力が介入するもっと繊細な語彙の必要性」といっている。建築でいうところの「微細な構築」といったことであろう。

10月26日(月)
099 ラ・リーガ カディス×ビジャレアル 0-0のドロー。ビジャレアルは75%もボール保持したにもかかわらずシュートはほとんどなかった。相手の4-4-2の堅い守りを崩せなかった。久保は前戦ELでの活躍が認められ今季初先発。2トップあるいは右サイドであったが、ほとんどボールに触れることがなかった。チーム全体がそうであったが、中でも久保のタッチ数が極端に少なかったと思う。期待の裏返しで久保の評価は辛い。久保のポジショニングの問題もあるかもしれないが、まだまだチームメートに支持されていないことがわかる。そのため久保の反対サイドにボールが集まり渋滞することが多く、それがチーム全体で攻めあぐんだ理由である。

10月25日(日)
098 プレミア リヴァプール×シェフィールド スコアーは2-1。シェフィールドは調子がよく、リバプールは先制をされ苦しい展開となる。それでも最後は何とか勝ち抜く。こうしたゲームをものにすることが優勝するためには求められるのだろう。南野は終盤に登場。不満はあるだろうが、クロサーというポジションを与えられているかたちである。着実に前からのプレシングで後方の守備陣に一呼吸を与えることに成功し、先発の前線選手にベンチで休養を与えることになっている。しかし本人ももう一踏ん張りして先発を手に入れたいだろう。南野のライバルである調子落ちと言われていたフェルミーノも初得点、真のライバルであるジョタも得点している。

10月24日(土)
今日からAO試験。コロナ渦で無事むかえることができた。今年の課題は少し難しかったか、あまり出来がよくなかった。明日は面接である。
097 ラ・リーガ バルセロナ×レアル・マドリード 3-1でレアルが勝つも、ラモスの得たPKは意図的なシミュレーションであった。流れの中では全く問題ないプレーも、部分を取り出してみるとファウルが浮かびあがった。スポーツ精神として気になる。レアルは連敗をしていてジダンの去就も出始めたところを、このプレーで押さえこんだかたちである。

10月23日(金)
096 EL ビジャレアル×スィヴァススポル 待望の久保が先発出場。トップ下であった。スィヴァススポルは前線から激しくプレッシングをかけてきたので、それにビジャレアルDFは苦労するも、一旦抜け出すことができるとフリーの久保が中央で待っていたかたちである。成功のカギに実はこのことが大きい。しかし久保も優秀で、ワンタッチパスによって大きくボールを前に進めることに成功していた。1得点2アシスト。しかし今日のビジャレアルはこれまでの控えであった選手を多く使っていたので、全体を通じて安定した試合コントロールできていなかった。絶えず追いつかれる。相手はトルコの中堅である。もっと楽に勝ちたかったろう。後半からは久保は何故かしら右サイドに変更され、チュクエゼが2トップの位置に入る。今後のためのエミリの模索だろうか。チュクエゼはどちらかというとアタッカーなので、アタッカーのバッカと被り前線に渋滞をつくることも多く、中央には大きなスペースが残されていた。しかし久保もなかなかそこを使わない。何故だろうかと思う。その代わり、SBと縦との連携を高めていた。それでいくつかの突破のかたちもつくる。面白いのは中央が空いているので、DFラインからダイレクトな縦パスが入るようになったことだ。バッカに代わったパコがそれで追加点をあげる。これで5-3。ビジャレアルは勝利を確信し、若い選手を右に入れ久保は再びトップ下にもどる。そして再び自由にボールを持てるようになった。久保の週末の出場停止が取り消された。これでエミリ采配も楽しみになる。

10月22日(木)
095 CL アヤックス×リヴァプール 今日の南野は躍動していた。後半55分過ぎから登場。クロップは、このとき3トップをまるまる変えた。そこに南野がいた。サラー、マネ、フィルミーノとの連携を気にしなくてよかったため、南野は自由に動き回ることができたのかもしれない。戦術においても新しい3トップは、ハーフライン少し上からのプレッシングを行い、それによってアヤクッスDFラインはボールの出しどころを失っていた。その結果、形勢はリヴァプールに傾く。中盤でボールを保持できるようになった。DF裏のスペースを南野が自由に使えたのはこの理由による。ほしいシュートも何度か放つ。

10月21日(水)
大学に行く途中の3車線湾岸道路で覆面パトカーの行動をたまたま見る。彼らは一番左車線を走行し、2車線越しに右の追い越し車線を走るかなり後方の車の動向をじっくりと観察している。そしてスピード違反車を発見すると、それより少し先に、まず中央車線に移り、抜かれた瞬間に最右車線に入り計測を始める。サイレンを鳴らすまでは一瞬のことである。違反車が減速する時間的余裕を許さないのである。違反車も急に後方につかれるので、気付いても減速できないのではないか。これは中央車線がつながっている状況で行われる。パトカーのその中央車線への移動も巧みで、車間距離をとっている車の少し前を選び、それに併走しいつでも車間に入れるような準備をしている。捕まった車は制限スピードを越えてはいたが、100キロそこそこでなかったろうか。

10月20日(火)
スラヴォイ・ジジェク「パンデミック」を読みはじめる。ジジェクは久しぶりだ。中国における初期情報隠蔽がコロナの問題を大きくしたといい、目先の結果に左右されずに、情報開示は必須であるというのがジジェクの考えである。そうするとぼくらがむかえるべきは呉越同舟の世界であり、それは新しい形の共産主義の世界となる。WHOのような組織が先頭にたって世界全体をリードするような世界である。

10月19日(月)
「アルファベットそしてアルゴリズム」マリオ・カルポ著を読み終える。デジタルテクノロジーによって、アルベルティ以降の近代建築、あるいは「原作者」としての建築家の役割が終わるというのが本書の結論である。最終章は、アリストテレス以来の類と種が引用される。2つの一般概念の外延について比べて、一方が他方に包摂されるとき前者を後者の種,後者を前者の類と呼ぶものだ。デジタルテクノロジーによって、すべてが種となり、かつての原作者性はなくなり、類は新しいアルゴリズムをデザインしないかぎり達成できないというのだ。しかし、これはデジタルテクノロジーの出現を待つまでもなく、ずっと変わらなかったことであると思う。類を大文字の建築と置き換えればそれははっきりする。建築家が原作者と思い実行してきたことは、実は従来から種でしかなかったと思うのだ。むしろ原作者性についての誤った考え方が、デジタルテクノロジーによって市民権を得たということだろう。面白いのは、この種のことをauthorシステムといっていることである。署名性と原作者性の違いがこれではっきりした。OOOでよく使用するauthorとはoriginalityと区別するものであった。本書は全く新しい建築史の本である。2011年出版、2014年翻訳の本であり、その後に続けて日本では「建築のかたち」クプラー著、「建築の聖なるもの」土居義岳著などが翻訳されることになる。

10月18日(日)
隈研吾設計の廣澤美術館へ行く。思ったより小さい建物であった。ランドスケープを意識した建築で、屋根のみの建築で潔い。積まれた石が横力にたいする構造体というが、そうは感じられない。屋根を支えるせいのある梁は集成材でテーパーがかかっていて軽やかで現代的である。屋根は3枚。それに囲まれた中央が収蔵庫で、外に開く建築である。オーナーのコレクションである巨石が長手方向に積まれる。それは内部から見えたらよいと思った。作庭は斎藤忠一氏。ランドスケープを宮城俊一氏が担当する。こうしたマネジメントできるのがすごいことだと思う。ただし隈研吾展が開催されていた。その後に庭園を廻る。
094 ラ・リーガ ビジャレアル×バレンシア 前半からビジャレアルがボールを支配する展開も、得点は開始早々のPKだけであった。その後、目の冷めるようなシュートを放たれ同点にされ、膠着が続いた。先発も予想された久保は60分過ぎに右サイドで登場。コクランと共に一番手であった。左からの攻撃を中央で受けて、かたちが美しくなかったがパレモのアシストをする。その後は、どちらかというと最終ラインに吸収され、守備に追われる。そのなかで戸惑っている風であった。案の定、トラップミスからイエロー2枚をもらい退場。今日も終盤の締めを厳しいものにしてしまった。昨季は当初フリーであってもなかなかボールが回ってこなかった。そして久保がチームで認められると彼中心に展開した。今季は、フリーになれる程チームバランスが悪くなく、ボールと人が程よくちらばっているので、ボールも回ってくるが、見方との連携で動きが制限されている。そのため窮屈で得意でないポジションでボールを受けることが多く、そのためロストも多い。それが続いている。監督がいう「対応の途中段階」という久保の評価はこういうことをいうのだろう。しかし各選手は歯車のひとつのようでチームが小さくまとまってしまっている。もうひとつ久保が突き抜けると、そうした制限から解放され自由さが与えられると思うのだが、それには結果が求められる。

10月17日(土)
093 プレミア エヴァートン×リヴァプール 2-2のドロー。激しい闘いであった。前半にリヴァプールはファンダイクを、エヴァートンもサイドバックを負傷で失っていた。南野の先発の話もあったが出場なし。今日のゲームを観る限り、よほどのことがない限り3トップは絶対的である。3人のプレーは息がピッタリである。いつも前を向いてのプレーができている。そこが南野との大きな違いである。3トップで次に登場したのはジョッタであった。

10月16日(金)
「アルファベットそしてアルゴリズム」を続ける。アルベルティによってつくられた表記法によって、モノは複製可能となる社会がつくられた。しかし現代は、そこから開放されたノンスタンダードの時代であるというのが、本書の主旨である。別な言い方をすれば、現代は、つくる人が考える人から解放された時代となった。かつ、そのふたつの関係を複雑にネットワークし直す時代になったとし、ウィキペディアとラトゥールのネットワーク論をこの好例として引き合いに出す。あるいはフランシス・フクヤマの「歴史の終焉」と関係づけ、次の新しい時代の契機になるとしている。もちろんこれに同意する。しかし今一納得いかないのは、P135にも挙げられているレム・コールハースの概念のように、「ジェネリック」や「ビッグネス」が今では現実世界で力をもっていることである。それらはノンスタンダードとは正反対の世界を示唆するものだからである。

10月15日(木)
ゼミにて都内の建築レポート。提案された建築の時代背景を、敷地条件と合わせて話しをする。当時、暗黙裏ではあるが時代が背負っていた問題が建築デザインに大きく影響をしていることを知ってもらいたいと思った。建築家個人の考えも振り返ると時代の影響を大きく受けている。

10月13日(火)
092 代表 日本×コートジボワール FIFAランキングとは関係なく明らかに格上のコートジボワールに対して、これまで通りの4-4-2で日本は立ち向かう。しかしメンバーを前戦からガラッと変え、今日のプレッシングはそこそこ効いていた。その結果、コートジボワールは中盤にぽっかりとスペースをつくってしまっていたが、後半にはその問題が解決されてしまったので、前半に日本としてはゴールを決めたかった。セカンドボールを拾うこともでき、そのスペースを鎌田が上手く使うことができ、右サイドバックで室屋と伊東とをサイド奥まで上げることに成功していた。そうした流れで開始早々には久保のシュートもあった。しかしコートジボアールのDFラインは厚く、ゴールマウスをこじ開けるまで至らなかった。期待の久保は守備に追われ60分過ぎに交代。むしろ代わって入った南野が前線を活性化させていた。そうしたプレーが功を奏し得られたフリーキックからロスタイムに勝ち越す。最後に投入された植田のヘディングで1-0の勝利。ブラジルW杯初戦の借りを返す。それにしても久保は窮屈そうであった。中央に位置取ることもなかった。なかなかブレークしないのが気がかりである。ところで代表のこの2試合を総括すると、全般的に面白さに欠けていたと思う。海外のトップチームのサッカーと比べると技術も戦術も落ちることを感じたのだ。それとは異なる代表のプレーは何かということか。このままだと代表人気下落が加速することを懸念する。

10月12日(月)
「アルファベットそしてアルゴリズム」を続ける。表記法を確定したアルベルティより少し前のブルネレスキについてのコメントが面白い。フィレンツェのドーム建設についてである。現在では、フィレンツェのドームはブルネレスキの作品とされる。しかし本書がいうには、たとえアイデアのアイデンティティがブルネレスキにあったとしても、現実は昔からの習慣で、職人や役所からなる委員会によるものであった。したがって、従来のままであればブルネレスキの署名性は消えても然りであったのだが、ブルネレスキは途方もない策略を行うことで、この目的を達成したというのである。そのときの策略が本書の言う表記法というものであるという。実際にはつくることができないものにたいしてのコントロールである。このためにありとあらゆることをブルネレスキは考えたのだという。実際に建設開始直後にブルネレスキは亡くなっている。しかし今でもブルネレスキの作品とみなせるのは、不完全であったにせよブルネレスキの表記法によるものであるというのが本書の主旨である。そしてその事実を受けてアルベルティが平面断面というような表記方法を確立した。そして完全につくる人を疎外することに成功し、つくる人を奴隷化させることに至ってしまうことになってしまったという。この問題についてぼくはというと幸いに、アレグザンダーを知っていたと言うこともあり、独立する上での大きな問題点であった。独立後の「初台のアパート」では、このアルベルティの表記図面を書かなかった。必要とされるパーツ図だけを描き、自分の考えを明確にした上で、現場でのアイデアを拾い上げて合理的な正しい解決案を導こうとした。それは未熟であった自分自身の知識を補うためであり、かつて行っていた皆が議論し、デザインし、そして作るという生産の手法を行おうとしたのである。

10月11日(日)
「アルファベットそしてアルゴリズム」を続ける。興味深い文章をピックアップする。「建築の規則や規範が公表され普及し重用されることとは無関係に、建設は、デザインの特定の指示を表記するために必要とされる文化的テクノロジーにも依存しているp30」。あるいは、「アルベルティは歴史上始めて、建築家は何をすべきではないかを、正確に並べ立てることができていたのだ。曰く、建築家は透視図を避けるべきである、なぜなら短縮法によって実物より短くなった線のために、正確に寸法を採ることができないからであるp38」。同様にアルベルティは、「色々な文脈で、ノー・リターンのこの理想的な地点について力説している。」つまり、建築家は図面を詳細に書き、施工者にそれを渡した後はタッチしないという態度である。反対に言うと「アルベルティの新しい建設方法は、施工者に逃げる余地を残さなかったことである」。ぼくにとっては、それがえらく辛いことであった。このことを本書では「ブルネレスキによる手工業的な原作者性(「この建物は私のものである、なぜなら私が作ったからだ」)から、アルベルティによる知識人的な原作者性(「この建物は私のものである、なぜなら私がデザインしたからだ」)への移行」といっている。本書のテーマはこの考えを支える「原作者性、代著、そして表記法がなす、ある完全な状態」についてである。こうした建築の硬直性を批判できても、それに代わる新しい方法を提案する者などいない。

10月9日(金)
091 代表 日本×カメルーン カメルーンに凄さを感じなかったのは、代表が成長したためだろうか?カメルーンに突出したプレヤーがいなかったこともその理由である。とはいえ得点ができずに、0-0のドロー。前半は4-4-2。DFがひとり分優位に立っていたかわりに中盤が足らなくなりに、そこをカメルーンに使用され苦しんでいた。したがってほとんどボールを前に進めることができていなかった。そこで後半は3バックの3-4-3にする。3バックはいつも上手くいかないものであったのだが、今日はゲーム途中の切り替えでも成功する。ここに成長を感じる。とくに右Wに入った伊東が機能した。堂安との間で縦の突破を幾度か成功させた。しかし伊東がつくったビッグチャンスを大迫が決められず。65分から堂安に代わり久保登場。独特のリズムでチームの雰囲気を変える。それでも得点できず。久保の現状である。ところで今日の森保監督はこれまでと異なり戦術的であった。次戦に期待である。

10月8日(木)
「ウルフ」1994年制作、ジャック・ニコルソン主演を観る。狼化妄想症というのがあるらしい。この映画では本当に狼化してしまうニコルソンの苦悩を少しコミカルに描く。ストーリー展開としてはサスペンスでもある。根底に愛がテーマとしてあるのもアメリカ映画らしい。J・ニコルソンの相手役はティム・バートンの映画でキャット・ウーマンであったミシェル・ファイヤーであった。彼女も最後に子供を宿ったウルフになる。

10月7日(水)
3年生後期の設計がはじまる。そこそこの条件整理ができているが、周辺環境との絡みがいまいちでもあった。その中で与条件をひとまず置いて大きな問題に結びつけようとした学生がいた。思い切ってさらに問題を広げてみた。ぼくは、問題意識なしに建築を解いてしまうことの空しさを歴史家フランプトンから学んだ。もっともそれは岡崎乾二郎の指摘ではあったが、最近になって、コールハースも同様のアプローチをしていることに気付いた。世の中にはひとつのプロジェトだけでは解けない問題はあり続ける。そうした問題までを射程にいれるための方法であると思う。彼らは隠れた問題を露呈することでそれを解決しようとしている。そのことで、建築の社会性を獲得しようとしている。否定することでない批判方法である。

10月5日(月)
090 プレミア アストンヴィラ×リヴァプール リヴァプールがまさかの7失点する大敗。こういうこともあるものだ。GKがアリソンから交代に加えて、CBのジョー・ゴメスと右SBのアレグサンダー・アーノルドのチェックがあまりにも弱かった。アンラッキーな面もあったが、リヴァプールの左サイドが徹底的に狙われていた。これは初戦のリーズ戦も然りである。今日は前戦からのプレッシングもほとんどなかったので、前線選手のパフォーマンスの低さも関係している。そうした中、後半からそのポジションに南野が登場。最初は中盤であった。よく動き回るも徹底的なパスが回らずに無駄足となることが多い。そしてその後はフィルミーノに代わってCFとなった。やはり周囲との連携が気になる。南野はひとりでなんとかできるFWではない。サラーとの絡みでよいシーンもつくったが、監督の望みを満たすまでにはいかなかっただろうと思う。

10月3日(土)
089 ラ・リーガ アトレチコ×ビジャレアル 両チームとも中2日の強行スケジュールで、体のキレが今一となる0-0のドローゲーム。ビジャレアルはアラベス戦と同じスターティングメンバーであった。ただシステムは4-4-2。右Wには14番マヌエル・トロゲロスが入っていた。しかし守備重視であることは変わらず、アトレチコに攻め込むスキを与えることはなかった。そのため、ビジャレアルはメンバー変更が遅くなる。久保は2番手で85分から右Wで登場。ポジションを取ろうとしようと焦ってか無理な突破をしようとし、自陣でのボールロストを2度もしてしまう。あわや失点の場面をつくってしまう。明らかにチームと個人の思惑が乖離した悪循環が起きている。この2試合で久保の立ち位置が苦しくなっていることがわかる。

10月2日(金)
「アルファベット、そしてアルゴリズム 表記法による建築―ルネサンスからデジタル革命へー」マリオ・カルポ著を読みはじめる。本書には今日のデジタルアークテクチャーが意味するものが示されている。それは日本語版への前書きにも示されているように、今日のデジタル・テクノロジーの可能性である。「システムがもつ生成的あるいは自己組織的な能力に光りを当てその開発に取り組んだり、あるいはいくつかの構造システムやマテリアル・システムの組織化における、自然発生的な「創発性」を称賛するデザイナーたちを見かけることになっている」。そして共感するのは、サブタイトルにもあるようにルネサンスのアルベルティ以降の大文字の建築の延長上でこのことを思索していることだ。「私はデジタル技術におけるインテリジェント・アーキテクチャーの文化とテクノロジーを、長きにわたって接続する西洋の古典的伝統の中に位置づけている」とはじめににある。

10月1日(木)
088 ラ・リーガ ビジャレアル×アラベス バルサ戦のチームパフォーマンスの低さと中2日という強行日程もあって、久保の先発が予想されていたのだが、今日もベンチスタートであった。3日前のバルサ戦では久保が得意とする右サイドがファティとジョルディ・アルバに潰されていたのである。しかし指揮官の考えは違っていた。中盤をこれまでの2枚から10番のイボーラを加えて3枚にして、守備の立て直しを計るものであった。それで前線の絶対的エースのジェラール・モレーノを降ろして、彼を右のポジションとしていた。意外とエミリの戦術は固い事を知る。そしてこれが功を奏し3点をあげての圧勝となった。中盤で数的有利を保って、DFライン裏への縦パスを起点とした得点であった。久保は75分頃から登場。これまでと異なり左ウイングであった。少し窮屈そうであったのは、左サイドであったと言うことと、勝敗が決まった後なのでチームも停滞していたからだろう。それでも枠内シュートをロスタイムに放つ。どうやら久保は第1のユーティリティプレヤーといまのところ考えられていて、誰かとポジションを争うことを期待されていないようである。となれば結果を示し状態がよければ、ポジションに関係なく使われる選手になれる。次戦は昨季、数々の華麗なプレーによって怒りを引き出したシメオネ率いるアトレチコとである。

9月30日(水)
NHKでパンデミックにかんする特集を観る。2つの興味深いことを知る。ひとつめは、日本の工業技術について。日本大企業も、グローバル化の波にしたがって沢山の海外工場をもっている。例としてあげられていたのはAGCというガラスメーカーであるのだが、フロートガラスを平滑に仕上げるためには、窯の温度具合などの職人的判断や技が必要となっているという。コロナ渦で海外に赴任できない現在、現地の人的指導に苦慮しているという。そのためこの特集ではライブ交信による指導が行われていた。そにとき日本の職人が指摘していたのは、これまで無意識にしていた様々なチェックをひとつひとつ明示することの困難さである。こうした工業製品でも暗黙知が大きく支配していたのである。そのため、この会社ではAIを使って、こうした暗黙知を明示化データベース化する作業に力を入れているらしい。現地職員がこうしたものを通して問題を発見しやすくするものだという。しかし、コロナ渦の世界では、もはや一律な製品をつくることの意味のなさを気付くべきであると思う。例えばガラスが完璧に平滑である必要性はなくなるのでないかと考えた。もうひとつは、企業理念の変化のレポートが興味深かった。企業は目先の利益追求から、従業員を最も重要な資源と考え、長い目で人を育てようとしていることだ。コロナ渦によって、潜在化していた人手不足の問題に企業は真剣に立ち向かおうとしている。

9月29日(火)
087 プレミア リヴァプール×アーセナル リヴァプールが多くの時間ボールを支配し、アーセナルはボールを跳ね返しても拾われ続けていた。それでも鋭い速攻を数回試みる。先制もした。しかし結果3-1でリヴァプールの勝利。クロップの交替はまずミルナー。そしてジョッタであった。ジョッタには恐ろしいくらいにボールが集まっていた。今日は90分過ぎからの登場の南野と、その点が明らかに異なっていた。ジョッタはラストパスにシュートをし、おまけにこぼれ球が正面に来てゴールまで決めた。ジョッタの印象はどちらかというとエゴイストでなく、チーム和を重んじるタイプのようでもある。その点でも南野と被り、序列が完全に逆転したことになる。がんばれ南野。

9月28日(月)
086 ラ・リーガ バルセロナ×ビジャレアル 4-0でバルサ圧勝。ビジャレアルは為す術がなかった。バルサはメッシが中心ではなく、全員による速い攻めにチームが変更される。その中で久保とラ・マシアで一緒に過ごしたアンス・ファティが2GとPKの奪取で活躍する。メッシとかスアレスらが一線を退き始め、20代前半あるいは10代の選手がそれぞれのチームで躍動するのを目の当たりにした。久保はというと、70分過ぎから右サイドで登場。明らかにチームのリズムが変わり流れを引き戻していた。右SBと連携もよかった。サイドから中に絞り、そのスペースをSBに渡して、さらにサイド奥のスペースを何度か使っていた。これが監督の指示であるとすると先発も近いのではないか。次戦はミッドウィークにあるという。期待である。

9月27日(日)
CASABELLA910が届く。スミルハン・ラディックの小屋が紹介されている。この建築はサーカス小屋のテントであると記されている。つまり、過去からヒントを汲み上げたデザインであり、ティム・インゴルドを思い出す。さらに面白いことに、この建築は篠原一男の「プリズム・ハウス」も素にあるともいう。どちらも演出家の住宅である。「不都合な幾何学」がテーマである。自然の中へ人の介入ということだろうか。

9月26日(土)
難波さんのオープンハウスに行く。まず気付いたのは、本体から明確にアーティキュレーションした庇等の歯切れよいデザインである。おそらく徹底した断熱を考えヒートブリッジを防ごうとした結果がもたらしたものであろう。建築本体の構成は、5.4m×16.2m角の2層の150Hを基本とした鉄骨造。それに本体と同じくらいの間口のある南庭を平行配置したものだ。箱の中央には大きな吹き抜け空間がある。2階の東西の2つの個室には吹き抜けにたいして間仕切りがなく、徹底した一室空間がその内部に実現されていた。そうした空間のために有効に考えられた空調方式は、床からの冷暖空調であった。それは壁掛けエアコンによる暖冷気を床下に吹くもので、ぼくも保育園で試みたものだ。しかしぼくの場合は夏期、高い室温に対して床表面温度の想像を超えた低さが起きてしまい、温度ムラのコントロールの難しさを経験した。この建築ではそれを防ぐために、床にアクアレイヤーという蓄熱層を設けて、それをコントロールしていた。ひとつヒントをもらった気がする。帰り際に、「新住宅論」のお礼をする。そのとき思い切って12章のぼくの疑問をぶつけてみた。難波さんは暗黙知すなわちポラニーの第2項全体の存在を認めていながらも、現実の試みに関しては、その暗黙知の存在に触れずに明示知からのアプローチを目指している点である。そのことを尋ねた。ポラニーも、暗黙知は明示知によって明らかにできないといっている。それにも関わらず、である。どうやら難波さんは少しでも暗黙知を明らかにしようとしているらしい。そして、その積み重ねの必要性を、回答として返してくれた。ぼくとしては、暗黙知が誰にも備わっているものだとしたら、それを前提とする「文化」、「社会」あるいは「建築」の存在をはっきりさせるということで、それが明示できなくとも誰もがアプローチし易くなり、結果的に暗黙知を上手く運用できるようなるのではないか思っていたのだが、そのことが上手く伝わっただろうか。一度帰宅して、虎ノ門へ。メッセージのレスポンスはよく、安心する。

9月25日(金)
ここ数日ポラニーの「暗黙知の次元」を読んでいる。1966年出版であるが今でも示唆的な著書である。とはいえ、ブリコジンやサイモン、それと反対のドーキンスなどを読むことで解釈できるようになってきた。「ティール」のあとがきに書いた図の意味もあらためて気付くことがでてきた。書き直してみる。来週からはじまる授業の動画を整理して、関係者に送付する。後期はこの時期を乗り超えると楽になると思い踏ん張る。夕方、設計方法委員会をオンラインで参加。

9月24日(木)
午前は健康診断。一度虎ノ門に寄り、午後からゼミ。4年生による中間発表後の進行をプレゼしてもらう。今年の特徴として、建築特有の考え方から解放されていることがあげられる。世間で起きていることにかんして分析をして、そこにメスを入れるような方法で、自ら考えた建築的手法を敷地で実践するようなものではない。世間で起きていることとは、住宅メーカーのイメージ商品に変化が起きているがそれは何に基づいているとか、大型店舗の店舗展開戦略が外れたものとは何かというようなことである。これまでと違って少し楽しみでもある。もうひとつみられる傾向は、ランドスケープ的な提案である。よりダイナミックな方法で環境を捉えようとしている。

9月22日(火)
「インセプション」クリストファー・ノーラン監督を観る。夢が多層構造になっていること、そして主人公ディカプリオのミッションは、雇われたライバル会社の息子が父親の会社を崩壊することをインセプション(誘導)するなどオイディプス王神話を思い出させてくれて、無意識がテーマであることが判る。どことなくボルヘスの小説にも似ている。夢と現実の境界が曖昧になり、それは社会を客観視できないことに通じ、彼らはコマが回り続けるかどうかでその判断をする。しかし信じるものとは自分自身の問題に帰する、という提示で映画は終わる。渡辺謙も、東洋人特有のミステリアスな異文化人としてではなく重要な役割の一員を果たしていて、好演である。

9月20日(日)
昼を挟んで、オンラインのオープンキャンパスに参加。夕方「沈黙 サイレンス」遠藤周作原作スコセッシ監督を観る。どんなに人が困っても決して神は答えを出してくれない、沈黙とはこのことを指している。人を救済する宗教の崇高さとそれから生じる悲劇が描かれる。主人公は若い宣教師である。宗教弾圧によって改宗させられた師匠を求めて日本に潜入する。その主人公の価値判断はすべてキリスト教義に基づいている。それは隠れキリシタンといわれる村人も同様である。その頑なさは死にいたらしめるものとなる。たいして役人は、神父を改宗させようと様々な画策をする。彼らは命にたいしての尊厳も倫理もなく、目的達成へ向けて無限の策略を想像するのである。どちらが自由であるかは謎である。外見上は改宗し日本化していくのであるが、最期まで真の自己を表現しないまま十字架を隠して埋葬されていったのが主人公であった。もうひとり特徴的に置かれた人物がいる。彼は、その場凌ぎを繰り返す全く拠り所のない哀れな若者である。スコセッシ監督映画のロバート・デ・ニーロが演じる役どころである。その彼もあっさりと最期をむかえてしまった。宗教の限界を示すことがテーマなのだろうか。人に比べて人間社会の複雑さや大きさを示すことがテーマだろうか。スコテッシ監督は最後に救われる感を出すのが特徴であるのだが、この映画でそれは、主人公が改宗をしていなかったということだろうか。それにしてもキリストは沈黙することで人を遠ざけその絶対的距離によって、教えを強大にしていっていることは理解できた。それを廻る文化の異なる人たちの戦いが描かれている。
085 プレミア チェルシー×リヴァプール 2-0でリヴァプールの圧勝。前半にチェルシーは退場者を出し10人になったところ、後半から新加入のチアゴも投入し、2点を獲ったのだからチームは勢いつくだろうと思う。クロップの計らいも見逃せない。チアゴはキャプテンヘンダーソンに代わって入ったが、その後は重鎮のミルナーを今季初登場させ、実績のあるこれまた新加入のジョッタがどこに入るかが不明であるが、南野を最後に登場させた。南野は戦力に入っているというメッセージだろうか。今日のベンチには先週活躍の若手カーティス・ジョーンズとベテランシャキリはいなく、先週に長いプレー時間をカーティス・ジョーンズに与えた理由を理解する。チアゴ入団の布石があったのだ。FWオリギは不出場であった。

9月19日(土)
午後、墓参り。JIAマガジンの山本理顕さんと坂牛卓さんの対談を読む。ノーマンズズランドの誰のものでもない場所の訳や、マテレリアライズ「物化」についての話で盛り上がっていた。事ではなく建築することの正当性をあらためて感じさせる対談であった。
084 ラ・リーガ ビジャレアル×エイバル 2-1でビジャレアルが逆転勝ち。ビジャレアルは先週と同様、オフサイドでチャンスをつぶしている間に失点する。エイバル先発の乾も一瞬の抜け出しで、ゴールまでもう1歩のところであった。今日のビジャレアルは、DFライン裏への抜けだしがテーマとなっていたようだ。中盤底から多くの縦パスが入る。トップ下のモレーノが右に大きく開き、空いたスペースを他の前線選手が使っていた。逆にいうと前線でタメすることが少なく、そうした役割が得意な久保は、投入されたときどう対応するか気になる。出場は80分過ぎてからであった。中央や右と自由にポジションを変えていた。少ない出場時間であったが、それなりの存在感を示すことができたと思う。最初のチャンスは前半のビジャレアルの試合運びと同様、右の裏へのパスを受けてからドリブルでペナルティ中央に侵入したものであった。ほしくもセンタリングがモレーノと合わなかった。次のチャンスは、これまでと異なりライン間の中央で、横からのボールを受けたものであった。反転して右のモレーノへのラストパスであった。モレーノは決めきれず。その後、両チームの陣形が整わない打ち合い状況となる。猛攻のエイバルにたいし2度のカウンターに絡んだ。その中で終了間際のペナルティエリア内での1対2の状況の左足は決めたかった。試合終了間際ということも合わさって、久保投入後はゲーム展開が大きく変わった。先発のチュクイゼは身体能力とエースモレーノとの絡みが優れているが、かたちに縛られすぎで、久保がポジションを掴むのももう少しだと思った。

9月18日(金)
今年の卒業した中山陽介くんが来所。近況を聞く。「知のデザイン」再読し、思うことがあった。北東方向にトイレを配置してはいけない。さもなければ、その家系は長く続かない、などといった日本では古くからの言い伝えが多々ある。この理由としてあげられるのは、北東は陽が当たらないので衛生面で優れていないから、ということである。つまり、物事を原因と結果で見ようとする姿勢がここにみられる。しかしこの説明では、家系が長く続かないという戒めの位置付けの説明はつかない。風通しが悪く不潔になるからといえばよい。つまり、禁止事項を戒めまでもっていくそれ相当の理由があると思うのだ。そこで、この言い伝えあるいは戒めの機能とは何かと思う。「知のデザイン」を読んで考えたことだ。説明できることを暗黙知までもっていくことで、より強力な禁止を発動するようなことが可能となるのだろう。説明することよりも人の心に訴えかける方法は何か、こうように考えた結果、辿りついたものが言い伝えというものではないだろうか。説明的になるよりもその状況を丸ごと感じさせる上位概念の提案である。「知のデザイン」5章にあったポラニーによる「近位項と遠位項」から考えたことである。

9月17日(木)
ゼミにて、アレグザンダーについて話す。今年読んだ「時のかたち」や「動態平衡」、あるいはそれに近いティム・インゴルドの本から学んだこととは、ぼくらは長い歴史や過去の延長上にいて、そう目新しいことはできなさそうであるということである。そうしたことがもし可能であったとすると既に誰かが実行していたはずである。そんなものがなかったことを示していたのがこうした本であった。つまりぼくらは、過去から積み上げられた何らかの枠組みの中にいることになる。アレグザンダーもそうした前提に立って、15の特性を考えた。15の特性とは、そうした過去の積み上げの存在の片鱗ではないか?こういう話をした。皆はどう感じただろうか?ぼくは、必ずしも以上のことを完全に受け入れている訳ではないのだが、今年のゼミの流れからそのように考えてみた。大学からの帰路、「時のかたち」の翻訳に大きく関わっていた岡崎乾二郎さんが、ケネスフランプトンを批判していたことを思い出した(「漢字文化圏における建築言語の生成」)。そこで岡崎氏は、フランプトンの薦める現代建築を、程よい調停作業の結果でしかないと批判していた。岡崎氏がいうフランプトン建築に欠けていたものとは、そうした前提に立って何をするかであったと記憶する。流石に芸術家である。

9月16日(水)
「知のデザイン」諏訪正樹・藤井晴行著を読み終える。新しい知のあり方が示されていた。それは、主体なき知や自然法則などないというものである。ラトゥールのアクターネットワーク論で批判していたのは、都合のよいときだけヒューマニズムを持ち出す近代自然科学のご都合主義であった。本書もそれに同調し、徹底した人×科学の知のあり方が示されていた。それを「自分ごととして考える」といっている。しかし、本タイトルにもある「デザイン」という創造性にまで説明が至っていない。本書とは反対に位置する近頃流行の非人間中心主義的思想でもそうであるが、無から何かを生む謎については、未だにスッキリしていない状況である。

9月15日(火)
アレグザンダーの生い立ちを整理する。アレグザンダーが建築に及ぼした大きな影響は3つある。70年代初頭の「都市はツリーではない」のセミラチス構造。70年後半からの「パタン・ランゲージ」のパタン認識。そしてその後の「15の幾何学的特質」である。「都市はツリーではない」では、建築を含めて物事は一般に、制作と生成があることが語られていた。これは柄谷行人「隠喩としての建築」で広まった。近代に特徴的な主体性が、このときから問題にされている訳である。そして、その生成というものを実践手助けするものが「パタン・ランゲージ」であった。パタン・ランゲージを辞書のように使用するのもひとつの方法であるが、それよりも有用であったのは、物事の認識が個々の部分間の1対1関係や因果で決定されていくものではなく、かなり複雑なネットワーク上の絡み合ったものであることを示したことであった。それをもっとストレートに言うと、暗黙知、そうしたものの存在を明示したことにあった。その後の展開は江渡さんの本に書かれている。パタン・ランゲージに感化されたエンジニアがWikipediaのプラットフォームをつくったのだ。要は、捉えることの難しい膨大な情報をどう表象するかという方法を「パタン・ランゲージ」が示したのである。しかしAI議論にもあるように、認識状態の分析から、創造あるいは建築をつくるということまで達することはできない。つくるにはもう一歩の方法論のジャンプが必要となる。そこで考えられたのが「15の幾何学的特質」というものであった。ここが実に理解しにくく、誰もこの思想を上手く説明出来ていないのが現状である。そこには全体性とか生命というキーワードが関わってきて、理解をさらに難しくしている。そのため遠巻きにされてきた。しかし今になって状況が変わってきたと思う。多くの分野で再びこうしたキーワードが使用されるようになってきたのである。ぼくも度々、逆上がりの例を紹介してきた。このできるという瞬間が何によるかということである。事後的にはいくらでも機能的に説明ができるが、それを事前に説明することの難しさについてだ。おそらくその答えは、完成のぼっーとしたイメージを感性が掴めたとき、であると思う(これが普遍的な世界とつながる全体というものらしい)。こう考えるようになったのは、悟性と感性との関係、あるいは大文字の「」を知るようになってからである。つまり、完成のぼっーとしたイメージが先行して存在していることの可能性を知ってからである。昔からの伝統建築、あるいは生物などは、長い時間をかけてある状況に既に到達、完成の域に達しているといえば、そうしたもの存在も納得がいく。アレグザンダーがいうには、そこにある幾何学的共通点があるということだ。しかしそれはその場その場で微妙に違っていて、つくるということはそれを掴み、正すということといっている。それによって、分析というものからつくるというひとつ別のカテゴリーにジャンプできるのである。この論理はあくまで昔からの伝統建築や自然現象に関していっているだけで、あらゆる状況にあてはまる訳ではない。しかし、これを実感してみたいと近頃思うようになっている。

9月14日(月)
083 ラ・リーガ ビジャレアル×ウエスカ 1-1のドロー。ビジャレアルは優位に立ってゲームを進行させるも、オフサイド判定でゴールを逃している間に、ウエスカに効果的な速攻で先制される。岡崎先発フル出場。先制点の起点といい、想像を超えたあり得ないかたちでのヘディングシュートといい、守備での貢献に加えて存在を示していた。一方今日の久保は、チームの中心でありトップ下のモレーノの位置に75分過ぎから出場。不発であった。モレーノのポジションを1つあげさせて、久保にとって理想的なかたちでの登場となったが、そのモレーノの動きもいまいちにしてしまった感が否めない。これまでのフレンドリーマッチと異なり、引かれて密集した相手にたいしてのコンビネーションの悪さが露呈した。

9月13日(日)
082 プレミア リヴァプール×リーズ 4-3。見る側にとって最高の試合であった。リーズの戦法に感心する。前への攻撃が早い。ファン・ダイクも慌てさせていた。リーズと言えば、井手口が所属し、藤田がフロントに入るなど、馴染み深いチームであったが、こうした日本人好みのチームになっていた。今季率いるのはアルゼンチン人アルセロ・ピエルサ。老練で、ベンチ前にうんこ座りをしてチームを鼓舞。今季で3年目の指揮らしい。リヴァプールは今日、サラーが生き生きしていた。中央が空いていたためか。南野のポジションがそこである。先発の期待もあったが今日は不出場。あらためて思うが、中盤底のリヴァプールの充実ぶりもすごいので、南野不出場は当然でもある。ファビーニョ、ミルナーが控えである。先発は、怪我から復帰のキャプテンヘンダーソンとバルサが熱望するというワイナルドゥム、運動量激しいケイタであった。

9月12日(土)
「エチカ」スピノザを再読。避けられない運命、掟、社会にたいして、創造的でいるにはどうしたらよいかが語られている。創造的であることが前進するということであるとしたら、避けられない現実にたいして自分なりの一歩をあみ出していく他はない。それは身を任せることでもなく、広大に開いている未来にたいしてどう対処しようすることとも異なるスタンスである。ところが科学や医学が進歩するようになり、人の手でそうしたものを変えることができると信じるようになった。しかし実はそうでなかったのだ。こうした前提にたったものの見方が試されている。

9月10日(木)
「知のデザイン」5章再読。身体知によるモノの認識が示されている。打者がインコースの難しい球を打つときや町歩きの例を持ち出して、ことばシステムと身体システムとの関係を説明する。しかし、これは事後的な説明でしかなく、人が納得するための方便でないかと思う。それぞれに関係があるというのが従来的な認識方法で、身体知とはそれとは異なる次元にあるものであると思う。

9月9日(水)
「知のデザイン」を読み続ける。読みながら、暗黙知の存在の大きさにたいする考えが、本書とは違うことに気付く。暗黙知とはあまりにも大きいので、明示知で示すことの小ささを感じてしまうものなのだ。そこで、巨大な暗黙知にたいして感性というものが必要とされる。それがここでいう身体知であると思うのだが、これの言語化に努めるよりも、身体知を働かせるために道具を知ることが大切だと思うのだ。カントがいう悟性とは、こういうものでないかと思う。悟性へいかに接近するかということである。

9月8日(火)
「知のデザイン」第5章は、「からだメタ認知」という主題の説明。ポラニーが登場する。この本では、記号やことばを身体から乖離させないことを大切とする。「モノの世界を丹念に言葉で表現してみようと意識的な努力を払うことを、からだメタ認知」といっている。例として町歩きがあり、難波さんが度々あげるベンヤミンが参照源になっているようだ。ここでの疑問は、言葉の上の知のシステムと身体により知のシステムが同列に扱われていることだ。つまり、互いに変換が可能ということである。田島先生の力を借りてオープンキャンパスの動画が出来上がる。

9月7日(月)
今日から初台のアパートの本格的な塗装工事等がはじまる。それと平衡して柱脚の型枠設置からはじまる。簡単な打ち合わせをすませて大学へ。今日から気分としては新しいセメスターとなる。「知のデザイン」を続ける。

9月6日(日)
081 フレンドリーマッチ ビジャレアル×レバンテ 久保はトップ下、後半途中からは左でフル出場。レバンテの固い守りにビジャレアルは皆苦しんでいた。上手い具合に縦パスが入らなかったことによって、リズムがつくれなかった。今日の久保は左に回ると、中に絞るよりライン際の突破をいくつか試みていた。これまでのビジャレアルは、どちらかというと右サイドがフィニッシャーとなるかたちであった。その新しいバージョンだろうと思う。1-2の逆転負け。左のモイ・ゴメスが負傷で欠場らしい。来週開幕である。久保はどういったかたちで先発・登場するのだろうか。

9月5日(土)
080 フレンドリーマッチ リヴァプール×ブラックプール リヴァプールは、4-2-3-1にして南野を先発。今日はインターナショナルウィークでヨーロッパの代表選手は招集でいない。DFラインは若手となる。前半は苦しむも南野は2本シュートを放つ。決定力が欲しいところだ。後半は怒濤の攻撃で圧勝。ブラックプールDFの集中力が切れていた。南野が中央に位置取るのでサラーはきつそうであった。このフォーメーションはどうなるのだろうか?思えばクロップはドルトムント時代このフォーメーションで、ゲーゲンプレスによってブンデスを制していることを思い出した。

9月4日(金)
中埜さんの事務所に行く。「知のデザイン」諏訪正樹・藤井春行著を紹介され、読みはじめる。身体知がテーマである。身体知は、自分ごととして考えることと密接にリンクをしているという。パタン・ランゲージについても言及がある。単なる情報集やマニュアルと異なることを指摘し、体系立っていること、それに対してユーザは自分ごととして対応することが可能となることを評価している。

9月3日(木)
079 フレンドリーマッチ ビジャレアル×レアル・ソシエダ 久保がトップ下で先発。モレーノが代表合宿に参加のためである。トップにパコ・アルカセル。左にチュクウェゼ、右に23番モイ・ゴメス。今日はイボーラと8番コクランが中盤底。攻撃時は4-2-3-1。守備では4-4-2である。つくづくビジャレアルはモレーノのチームだと思う。彼の不在で両ウィングが自由に動き自分で決めようとしていた。その点、久保との連携が薄くなってしまったが、今日は前線からの守備は貫徹されていた。1点目はその典型。久保がDFを追い込み、ミスパスを誘ったところから、チュクウェゼ、コクランとつないだ。攻撃では久保はトップ下であると上下に大きく動き、ボランチからの縦パスの受け手となる。そこからスイッチが入るかたちである。右のポジションの場合は横の動きとなるが、それを90度ひっくり返したかたちで、左利きの久保にとってはこちらの方がやりやすそうである。それにしても両ウィングがよく動くので、久保が右に回ることもあり、前半終わりの左のモイ・ゴメスからの決定的なクロスは決めておきたかった。右足でのトラップに失敗してしまった。イボーラのフル出場に続く、80分過ぎまでプレーする。

9月2日(水)
時間ができたので、Battleの翻訳を見直す。この半年で意外にも「全体性」の具体的なイメージが出来上がり、すんなりと訳すことができていることに気付く。同様の内容と思われる「森は考える」エドゥアルド・コーン著を読みはじめる。しかしなかなか入ってこないので、苦労する。

9月1日(火)
NHKでコロナ特集。1/15日段階で日本でもコロナウィルスの存在を捉えていたことを知る。ただし、パンデミックを起こすほどのものとみていなかったらしい。1/23に武漢封鎖。1/25にダイヤモンドプリンセス号の乗客から感染が判明など、このころの展開は急であった。3/1に全員が下船し、その間にコロナ対策本部では市中感染を最も怖れていたという。そして感染環境として3密状況をこの時期指定するなど世界的にも進んだ研究を行った。ヨーロッパでは、3/12のリヴァプール×アトレチコを最後にサッカーがなくなったのだから、この後直ぐにヨーロッパでは手がつけられなくなったということだろう。日本でも、3/14に特措法制定。3月末には小池都知事がロックダウンを口走るようになり緊急事態宣言を政府に求めるようになった。政府が渋々それに応じたのは4/7であった。この特集では、これまでのサーズ、マーズなどの感染症から日本が上手く逃れてきたことを指摘し、そこから生まれたスキを原因にあげていた。それは1/15時点の事の重大性に対する誤認であり、ここ10年の政府の感染症に対する予算配分に対してである。

8月30日(日)
078 コミュニティシールド杯 アーセナル×リヴァプール プレミアリーグ開幕を告げるリーグ王者とFA杯王者との戦いである。来週がインターナショナルマッチ週間であるので例年より1週間早くこの試合をむかえる。今季は各リーグの開始がまちまちで十分な休養が与えられずに、選手のコンディションが気がかりだ。アーセナルはまだ戦力が十分に確定していないし、リヴァプール前線3人はまだトップコンディションでない。そうした中、南野が同点弾を決める。公式戦初ゴールである。前線の混戦の中、ワンツーで抜け出し落ち着いてゴールを決めた。その後も気のせいか南野にボールが集まるようになる。流れとは恐ろしい。ぼくの目からも勢いが感じられるようになった。頼もしいのはもうひとつある。南野投入によってフォーメーションも変わったたことだ。サラの1トップになり、より攻撃的になった。南野が代え駒としてではなく、より攻撃的戦略時にかけがえのない重要パーツとして認められたということだ。

8月29日(土)
077 フレンドリーマッチ バレンシア×ビジャレアル はじめてビジャレアルのゲームを、全体を通して観る。ビジャレアルは7番モレーノのチームだ。左利きなのだろう。CFでありながら左サイドと中盤下までかなり自由に大きく動き回る。その空いたスペースをもうひとりのFWパコ・アルカセル(ドルトにいた)や11番のチュクウェゼ(久保のライバル)が使う。右が基点である。中盤は今日の対戦相手であるライバルバレンシアから移籍してきた5番パレモと8番コクランである。縦パスはここから入る。スペインらしく、動きの中でのスペースをつくり、そこにボールを入れて前に進める戦術である。得点は、左サイドからであった。パコとモレーノがスルーし、チュクウェゼがフリーで振り抜いた。後半から総交替と思っていたのだが、今日から交替要員が5人になったようだ。レスターとセビージャにいた10番イボーラと一緒に久保は65分から登場。左サイドであった。前2戦の練習試合ではトップ下と右であったので、様々な組み合わせが試されているのが分かる。久保は一度中央に絞ってダイレクトでボールを受けて、縦への突破を試みるも、久保に限らず後半、チームは低調であった。今日のゲームから推測すると監督からの信頼はFW7番モレーノ、11番チュクウェゼ、5番パレモと8番コクランが厚そうだ。彼らを中心にゲームが組み立てられている。そこに久保が入り込むとしたら、どういう状況なのかと思う。チャンスは与えられ続けるだろから当座は彼らの控えで、そこから徐々に可能性を示していくことになるのだろう。

8月28日(金)
カサベラ909が届く。巻頭でスカルパのベネチア運河沿いの邸宅の改修が紹介されている。続いてピサの大聖堂の美術館への改修。続いて木特集。このセンスがあればと思う。いつも思うのは、イタリアとの接点は見つけにくいことだ。

8月27日(木)
「建築」に関わる明示知と暗黙知との関係が気になり、柄谷行人を再読する。ここでは明示知とは理性、暗黙知とは悟性、感性にあたる。悟性と感性の区別はよく分からないが、悟性とは明示化できない集団共通の意識、感性とはその個人的なものをいうらしい。柄谷というよりも柄谷解釈のカントも、この感性や悟性の存在をしっかりと認め、つまり物事の認識は理性や悟性、感性の塩梅で行われているという。そして何かを突出させて単独で物事を捉えることの危険性を指摘する。だから、明示知や理性のみによって物事を捉えることはできないし、だからといって感性の方向に振りもどしてしまうことを美学的といって批判する。これは「ティール組織」における自己開放のみにスポットライトをあててしまうことに該当するだろう。理性、悟性、感性それぞれのインジゲーター操作が重要であるというのである。自転車を乗ることができるのは(「ティール」の説明にあったように)決して感性のみによってではなく、これまで成功してきたものを見てのイメージ(悟性?)と感性(状況に応じた直感)とのバランスが上手くいったことをいうのである。そしてこのことは、自転車に乗ることできていない他者に明示することはできないが、そのコツは確かに存在している。これが明示知と暗黙知の関係だろうと思う。建築でいえば、敷地からの応答はまさに悟性ではないだろうか。それを人それぞれの感性を使って結びつけ想像する。したがって、敷地によって絶対的ということでもなく、人の感性と相まって敷地観が生まれてくるのである。パタン・ランゲーを以上の行為をスムーズに運ばせるための手助け道具と考えると、分かりやすい。気の利いたところを指し示してくれるものなのだ。建築家の世界でも、敷地に該当するものに「建築」というものがあるのではないか。建築家の内部では明示知的に知らしめす必要がなくても、確かに存在してきた。そして今日まで「建築」の歴史をつくってきたのである。そしてそれをスムーズに動かす道具というものも何かしらあったのだろうと思う。それを使用しない手はないのではないかと思う。問題を整理する。暗黙知とはある集団内部では存在し、有効に機能する。しかしそれに属さない別の集団からは明示されることはないので存在しないに等しく、役に立たないものである。作法というものに近い。ある世界に入ると有効なのは暗黙知というものの存在である。それの明示は難しい。それを知るには、その世界に入り感性によって吟味すること以外に方法はない。しかし、それを促すための道具はある。

8月26日(水)
「新住宅論」第12章を1週間程前に読んで、「大文字の「建築」の存在に意識的であるということこそが暗黙知に関わることではないのか」と考えた。しかし、「建築」が教条的になりすぎては、主体と「建築」との間の交通を制限してしまうことになりかねない。そこで、「建築」などというときには、無意識レベルでの強制から逃れる方策を合わせていうことの必要性を感じた。そう考えると「ティール組織」では、ブレークスルーの2番目に「自己開放」というものをあげている。しかしそれはスピリチャル過ぎて、なかなか一般に受け入れられないところだろうとも思う。それにたいして批判的な精神を持つ必要性をいう人もいるのだろうが、それもちょっと時代がズレている。ブリコラージュのような道具の有効性についてはどうだろうか。「建築」に関わる道具を通じてコミュニケーション(交通)することである。これがあれば「建築」の存在を一旦忘れてもあるいは終始意識的でなくとも、コミュニケーション(交通)は可能である。

8月25日(火)
3年生と4年生前期の設計合同講評会。全体的に要所を押さえているが、そこを超えたものになっていない印象であった。パワポによる小さなプレゼのためだろうか、空間性とはいいたくないが、説明がつくことに終始してしまうのは、オンラインエスキスの限界だろうとも思う。その結果、バリバリの近代建築的な作品が多くなってしまっている。それを超えるために講評者に、環境の荻原廣高氏をむかえた。環境という新しい視点を加えてもらうというよりも、より微細に建築条件を捉える人と考えてのことである。このことで近代建築を超えることができるという仮説のもとである。3年生非常勤講師の佐々木珠穂さんは、技術×コンセプトを、千葉工大の特徴として講評してくれたが、御手洗龍さんは一方で、ものづくりとしての建築のあり方に不満を投げかけていた。模型の必要性である。4年の非常勤の谷口景一郎さんには、環境を可視化してもらうためのシミュレーション技術で大いに助けてもらった。その上で、こうしたオンラインでの新しいプレゼの方法を今後の課題にあげてくれた。比嘉武彦さんには、このコロナ渦においてシミュレーション前段階の建築家の問題意識について鍛えてもらったのだが、千葉工大生に限らず上手くいかないのは今後の課題だろう。ぼくも答えがない。しかし比嘉さんの言葉が印象的であった。それは、最後に残る案は問いの立て方が秀一なもの、というものである。最後に荻原さんは総評として、美術館課題では、居場所+環境の多様性の捉え方が豊かであったことを評価され、小学校課題では、地域との関わりに関する計画性が評価された。優秀作品としては、櫻田さんの小学校をあげてくれた。中庭をもつロの字型学校であるが、地域住民の自由通路と開放教室が2階にあり、その上下階の教室からスキップフロアでつながっている構成の小学校である。外部を示す淡いピンクのドローイングが印象的な作品であった。もひとつ4年生からは竹村くんの作品が優秀案として選ばれた。これは力作であった。シミュレーションを繰り返すことで、光りのグラディエーションを創り出そうとしていた作品である。授業提出後に、かなりの量のシミュレーションを加えて、かたちへフィードバックしていたと思う。この作品は斑のある空間がコンセプトであった。ぼくとしては、だらだらとした空間といいたいが、これを狙っていたものであった。ただこれは、従来の壁によって人の行動を制御するのではなく、一室空間だからこその空間性であり、人が自発的に移動することによって起きるムラでありたいと思う。荻原さんからの、そうしたムラを定義する方法が重要であるという指摘が今後の方向性を示してくれたような気がする。ところで、荻原さんが担当した、ぎふの森メディアコスモスでは、人気のある場所が西日の見える窓際であったそうだ。それはシミュレーションでは追えないものであるが、だらだらとして空間性によって可能となった末の空間でもある。

8月24日(月)
076 CL決勝 バイエルン×パリ バイエルンがパリを封じこめた。パリは組織的に守り抜きそこからの速攻に賭けていた。しかしもうひとつのところで、ノイアーをはじめとするバイエルンDFラインを突破することはできなかった。ゲーム後、ネイマールは号泣していたのが印象的。ネイマールは前線とDFラインの間でのつなぎ役とフィニッシャーの両役割に奔走していた。たいしバイエルンは11人が攻撃と守備のバランスを保ち組織化されていた。それが多様な攻め方を生み、結果、ゴールはコマンのヘディングであったのだ。そして総合的にパリ攻撃陣を封じこんだ。この差が出たかたちであった。

8月23日(日)
「父親たちの星条旗」クリント・イーストウッド監督を観る。太平洋戦争末期の硫黄島の戦いを廻る当時のアメリカ世論を知る。アメリカも負債をかかえ困窮していた。しかし世論は予想をはるかに超えて戦争に冷やかであった。そうした状況の下、現実の戦争に直面し心身ともに病む兵士と、戦争債を得るためにマスコミを利用し世論をコントロールしようとする政府や軍上層部とのズレがこの映画のテーマである。この映画と同時に同監督による「硫黄島からの手紙」も公開された。ここでは日本側の視点から栗林大将の玉砕が描かれている。どちらも現場とトップの間に