2月17日(月)
ここ数日前から「万延元年のフットボール」大江健三郎著の再読をはじめている。密という人物を通して物語は進む。登場人物のひとつひとつの心の動きや表情の描写密度の濃さにびっくりする。それ以外の世界はむしろボッーとしている。固有名詞が少ないので、イメージを焦点しにくい。その分、字面を追うことになる。それでも時偶、カタカナ名やジョン・デューイなどが散発的に出る。物語の骨格となる出来事は同じような意味をもっている。これがテーマであろうか。それが、江戸時代の万延、戦後、現在であったり、谷間の村や神奈川の病院であったりして、行ったり来たりが繰り返えされる。

2月16日(日)
022 プレミア ノーウィッチ×リヴァプール 1-0でリヴァプールが辛勝。南野はベンチ外。これから続く、ハードなスケジュールのためと考えたい。2日後にはアトレチコ・マドリード戦があり、今年からCLレギュレーションが変わったそうで、前チームで登録していた選手もノックアウトステージで再び新しいチームに登録可能になった。それにしても、マジョルカとの違いにはいつもびっくりする。

2月15日(土)
021 ラ・リーガ マジョルカ×アラベス マジョルカは4試合ぶりの勝利。久保が50分過ぎから投入され、攻撃を活性化した。久保は吹っ切れたかのように、ボールのあるサイドへ自由に動き回っていた。解説の柱谷が、それがもたらす空いたスペースを何度も危惧していた程だ。今日も幻のアシストに終わったが、左サイドを深くえぐるドリブル突破を見せ、右からは中央に移動しての左足シュートもあった。何よりも、ワンタッチで中盤底から前線へ繋ぐ縦ラインを形成しているのがよかった。

2月14日(金)
虎ノ門ヒルズに行く。ジャウメ・プレンサの彫刻「ルーツ」が丘の上にあり、思ったより大きくなかった。斜面地に建つ50階の高層ビルをはじめて経験する。低層階には、その地形と平行して階段状のエントランスホールがあり、カフェなどが並ぶ。公園の中にいるような気になる。この流れで付近の地形を調べる。虎ノ門ヒルズのオーバル広場はもともと高台でもなかったことを知る。地中に走る自動車道によるものだろうか。現状はかなり複雑である。

2月13日(木)
小泉先生と久し振りにお会いする。変わらずお元気で、測量における3Dスキャナーの可能性について意見交換。建築では、展覧会で例えばライゾマテックスのような人たちが、デジタル表現を通して、建築と社会をインターフェースする試みをしていることを紹介。藤木先生からは、近代建築の保存時の可能性について提案。ぼくも研究との絡みを考察することにする。

2月12日(水)
建徳雑誌2月号は、震災特集。震災以降、生活を見直し、新たな生活を模索している人を紹介する。建築でもこれを奮起させることを意図したものだろう。難波さんの寄稿「一室空間住居の系譜」が、興味深い。1995年以降、一室空間が建築家から一般住宅に普及し始めている経緯が、自らの設計経験から歴史的に示されている。ところが、ぼくの研究室の河野祐子さんの分析では、1990年を境に、建築家が設計したLD空間の面積割合は若干減少し、反対に居室数が若干増えているというのである。この見解は重要であるので、もっと精査すれば面白い結果が導かれると思った。建築家の設計する住宅は、クライアントの個別の要求に対応するものだとしたら、どうやらクライアントの要求は、LDに象徴される家族から、ひとりひとりの趣味空間になどに移行しているらしいのだ。これが現実であることが確かめられれば、住宅の今後が見通せることになるだろう。因みにハウスメーカーのLD割合は増加傾向にあり、難波さんの論考と一致している。そういう点で修士設計でも面白い作品に出会った。最終結果がダメであったのであまり議論にならなかったが、その作品は、渋谷にガラス張りの高層個人スペースを用意するものであった。広さは1.8m角。彼が言うには現在、個人スペースを獲得することが最重要事項であるらしい。かつて、ハンナ・アレントや山本理顕さんが、公共空間は与えられるのではなく獲得することであると主張していたが、それに反し、既に公共空間は与えられ管理するものになってしまい、人は公共空間の可能性を見出せずに、そこからの逸脱しつつある。この作品にこうした問題の萌芽があるように思えた。

2月11日(火)
修士設計発表会で、選考ライン上の学生にたいするぼくの考えを整理する。ぼくらのコンペや賞でも、選考基準は曖昧なものである。設計では仕方なしのことではあるが、ぼくなりに整理してみる。濱田さんが、ペットアーキを具に再調査したことは脱帽である。ただし、その結果を提出まで形にできていなかった。過程の面白さを評価しても、アウトプット不足を補えなかった。根本くんは、敷地スケールの都市のヴォイド、もう少しスケールの小さなヒューマンなヴォイド、これらを都市に見い出した案である。前者の発見が、修士設計ならではのものと思う一方で、無批判にこれらをデザインしているところが、卒業設計の域を出ていないとも思えた。ヴォイド自体のデザインは難しいが、それをすべきであったのでないか。櫻井さんは、曖昧模糊した空間が弱いものであることに意識的であった。それを前提にした設計であることに感心した。吉阪の影響が大きいと思われるが、通常ぼくらは、曖昧模糊したものの解釈を文化というものに無意識に負っている。文化は、吉阪がいう、合理(例えば数式)と非合理(愛)の間にあるものなのだろう。建築が顔であると、そのように誰でも把握する。これが、合理も非合理の間にある文化というものの働きである。顔の設計は、こうした文化の働きを最大限に活用して可能なもののひとつであったと思う。分析から自らの考えをかたちし、他より一歩進んでいる。柴田さんの、改修を建具で行う発想が面白い。ただし、その扱いが机上的あるいは網羅的とも思えた。高山伝統技術との絡みや現実性の検討も含めて、田島研にとって大事なコミュニティの問題に真に繋げる工夫を詰めるべきと思う。

2月10日(月)
修士論文の発表会。小峯先生のストーリーがないという指摘に同意。学生は形式に縛られ、確実なところばかりを詰めている。ひとつのデータも、仮説によっては全く異なる解釈になることもある。データと仮説はセットと考えるべきで、そうした説明が大事であると思う。

2月9日(日)
020 ラ・リーガ エスパニョール×マジョルカ 0-1でマジョルカ負ける。これで最下位と勝ち点が並ぶ。久保は60分過ぎから登場。今日は左サイドに変わり、キレを見せたが、強烈なインパクトとはならなかった。

2月8日(土)
千葉工大の修士設計発表会。昨日のキーワード「他者」を通して作品を観ると面白かった。千葉工大でも、サードプレースや古民家の再生を試みる作品が多い。しかし、それが他者の存在を意識したものでないと、多様なユーザの設定が、設計者ひとりの視点のものに還元されてしまい、神の否定が新しい神を呼ぶというトートロジーに陥ってしまう。設計主体は相変わらず上から視点で、自己満足のものでしかないのだ。遠藤研小池くんの作品はそういう意味で、設計主体を消しながら制作する一見矛盾することを、おとぎ話の構造をヒントに行っていた。おとぎ話は、登場人物や時間、場所などが自由に交換するもので、その気ままな感じが、読者が物語の中味(道徳など)=他者に入り込むことを容易にする。近代的思考は逆で、いくつかの個人的特殊事情を上手く積み上げ、文化的なバックグランドの力を借りて、あたかも必然のように上手く結論付けていくことである。この場合、そうした流れから逸脱する視点は基本的に許されておらず他者であり続ける。小池案はそのパラドックスに気付いている。ただし、議論でふたつの問題が提出された。ひとつは、おとぎ話の道徳に匹敵するものは何か?もうひとつは、この作品で何が可能となったか?であった。次の段階ではこれに応える必要があるだろう。ふたつ目はとくに、利用する人がより自由になる、この表現に力を注ぐ必要があると思う。櫻井さんの案は意外と評価が低かったのにびっくりした。顔的建築によって、愛らしさみたいな合理性を超えたもの=他者を建築の構築にて表現しようとする提案である。先に説明したように、構築や計画において設計主体は、絶対的なものになる運命にある。そうありながらも、そこからの逸脱が試みられていた。吉阪隆正が櫻井さんの根にあるのだが、合理性から逃れる方法を、合理と非合理のスキ間(吉阪)に、それをみるところにユニークさがある。顔は、ぼくらが合理と非合理の間を行ったり来たりすることを可能にする丁度よい媒体であったのだ。スキをねらっているという点でポストモダンではないと思う。中山くんの案は、下諏訪のアクターネットワークを明らかにしつつ、ささやかにそれに乗る案である。ネットワークの解読を、実際にそこで生活し、科学的なシミュレーションからも行っていた。こうした結果、どういうものが可能になったかが問われたので、完成した結果のシミュレーションが大事になるのではないかと思った。塙くんの案は残念ながら選ばれなかった。積層という、考えながら同時に形にしていくという漸進的方法は、予期できない未来=絶対的他者にたいするときの正直な解答方法であると思う。最近のコンテクスト主義を具体的にしているという点で評価すべきであろう。正直であるが故に、大きなジャンプが難しかった。ぼくがもっと異物=他者として介入すべきであったと後悔するが、それも事後説明でしかない。

2月7日(金)
東京理科大学の修士設計講評会へ行く。大きな模型が精巧にできているのが好ましい。一時不調であった図面制作も充実してきた。ただし、配置図がないことが気がかりであったが。周辺環境との関係が問われている時代に、配置図を形式的なものと捉えずに、ピックアップした条件を的確に示す手段と考えてみたらどうかと思う。優秀案を選抜する講評会では、文化庁の加藤道夫先生が、現代の状況を的確に表現する言葉として「他者」を上げていた。それに乗って議論をしたかったのだが、尻切れ蜻蛉になり残念。皆は同調しなかったようだ。ぼくがいったのは、他者が現代的再解釈できるのは、価値観が多様になりそれを共有することが困難な現在、建築家はどこに向けて設計を行えばよいかを考えるときに、他者がテーマとなるということである。それにはふたつの方法があると思う。ひとつは、アクターネットワークのように複雑な他者ネットワークがあることを意識した上で、ネットワークを明らかにしつつそれにささやかに乗っかるような態度。社会に対する工学的な分析が必要となるものだろう。もうひとつはもう少し後退した位置に主体を置き、ネットワークはあまりにも複雑で動的であるので、それには触れないように保存を目指す態度。建築における歴史的建造物保存において、その周りの法や経済の整備を含めた環境を整えることに近い。建築では、環境整備を建築構築で行うものである。加藤先生がいうように、これによって、修士設計作品の大半を捉えることができる。最優秀案は、小豆島の醤油倉の改装で、島の発酵文化に乗ったものである。優秀案は、海辺の集合住宅。海風を感じ、それから身を守る計画がなされていた。安原さんの、集まって住まうということが家族や経済的理由からでなく、環境的によるものであるという講評が印象的であった。もうひとつは、先のふたつ目に分類されるもの。動植物のネットワークを取り巻き、それを知らしめすように、少し嫌味のある建築を計画するものであった。

2月5日(水)
卒業設計講評会。新カリキュラムになって4年経ち、はじめて迎える卒業設計であった。作品がシステマティクになり、建築を俯瞰的にみるものが多くなった。その分従来の卒業設計にあったような具体的な出来事が見えにくくなっている。この両輪が噛み合えばと思う。一昔前の卒業設計にもどった感はぬぐえない。それは無理もない。現実の建築は、複雑な社会関係を上手く反映したチームによる設計が多く、その分ひとりひとりの個性まで追えない状況にあるのだから。その前提に立つと、批評性というのもまた必要になるのかとも思う。社会から要請される条件を説いてしまうのでなく、かといってそれを無視するわけでもなく、別の読み方が必要ということだろうか。遠藤研の作品が共有されにくかったのは、そうした理由もあるのだろう。週末の修士の学生にその巻き返しを期待する。こうしたことに意識的かどうは不明だが、苦労しているようだ。今日の2次審査の発表会には、遠藤研から3名が選ばれた。石原くんの作品は、ピュリスム絵画を建築に応用しようとした作品。建築学科ではピュリスムの功績を、3次元から2次元への試みというように概念的に捉えがちであるが、そのように見せるために彼らが心底開発した技法を、この作品では丁寧に把握しようとしていた。このところに好感がもてた。岡崎乾二郎から学んだが、画家は繰り返しデッサンによって、これを身に付けようとしている。岡田くんの作品は、世田谷岡本町にある旧渋谷町水道がもたらすへんてこなランドスケープを顕在化しようとするもの。この顕在化は、多摩川氾濫時のための避難経路として機能し、ちゃんと建築の大義名分を押さえている。こうした考え方を彼は、ロバート・アーウィンの彫刻から学んだ。大地や自然と対話するための建築・アートワークである。建築がミニマルであることの批判も多かったが、それを反対に利用して、ランドスケープの重要性を強調するプレゼにもっと振り切るのもありと思った。堂ノ下くんの作品は、神社の存在様態の新しい提案である。かつて柄谷行人は、美術のみが西洋化を免れた岡倉天心の功績を評価していた。それは、岡倉天心がいち早く美術館をつくって、日本画を世界に先駆けて権威付けし、美術の商品価値を高めたことに成功したからだといっている。つまり、美術館の発明が官僚であった岡倉天心の功績だったわけである。この日本画が、どうも堂ノ下くんの神社と一致するのである。あるいは、レム・コールハースのヴォイドの戦略に重ならないこともない。このからくりが上手くプレゼできていればと思う。結局、自らを代表することは、他者の表象を依存することでしかできないのである。ちょっと神社を覆いすぎでないかという批判を受け入れて、全体の中でのヴォイド感を出すことが重要であった。他の研究室では、構造家の多田研が健闘していたのが光る。木造格子シェルを逆さ吊り実験や石膏での製作を繰り返し、精確な形にまでもっていた穀野案。江戸切り子のカット技術にみる格子をシェルター構造に応用した土田案。納まり的に問題はあるものも格子構造に窪みをつくり、内部空間に淀みを与えようとしていた点で、構造システムから建築になりかけていた。小さなフットボールスタジアムを施工方法からも提案していた喜多案。これも精確な模型として表現されていた。集積型木質吊屋根がもたらす空間のヒエラルキーと生涯学習センターとプログラムが融合していた野内案などである。目指すべき問題と結果が明確に示されているという点で、意匠系学生が学ぶことが多い作品であった。

2月4日(火)
修士設計の予行発表。塙くんは、積層をテーマとする。積層は近代以前の伝統建設方法のひとつであるが、考えながら実行が可能な初源的な創造活動である(C・アレグザンダー)。これは、計画に基づく近代以降の制作方法を批判したものである。本作品では、積層構造の分析からはじめ、実際に積層家具を制作し、バシュラールの文献調査まで行い、制作行為における想像の定義までを行うものである。櫻井さんは、建築における「スキ」をテーマとする。スキとは、建築家吉阪隆正の言論や作品の特徴を示すキーワードである。合理的な世界は広い非合理の一部でしかなく、この落差を「スキ」と定義している。本作品によると、吉阪の作品の特徴はこのスキを積極的に受け入れたうえで統一をもたらすことであるという。建築の本来の姿は、感情の伴う思い出や連想のある不思議な世界をかたちづけるものなのである。街にある顔相的建築には、建築家の作品と異なりこの条件が揃っている。その分析から建築を構築しようとする極めてユニークな提案である。小池くんは、おとぎ話をテーマとする。おとぎ話と同様の寓話的視点から近代小説を批判したのは柄谷行人であった。近代小説は、暗黙に個々の特殊な出来事が、それとは知らずに普遍的な意味をもつ(社会化された)自明性を無条件に受け入れたものといっていた。本作品も、これまでの建築が機能、構造、環境から無批判に組み立てられていく建築計画を批判している。本作品では、そうした計画方法に回収されないイレギュラーなひとつひとつの特異性が現実の生活として提案されている。島田くんは、将来に向けての移動式住居を提案する。ここに提案される移動式住居はタイニーハウスと呼ばれ、これまでのモバイルアーキテクチュアと比べてローテクで、自分たちで製作・移動できるものである。都市のインフラは既に完備されているので、それを最大限に利用した簡素な住居でよいという社会状況の判断によって、本作品が計画されている。岡部くんは、表皮によって建築を構築することを目的とする。表皮とは、空間・構造・プログラムからなる建築本体のさらに外側にある層であり、人の感性をインターフェースするものである。装飾の歴史を追うことで、装飾の意味するものが社会的なメッセージを表象するものから、個人的感性や嗜好を反映するものに変化していった。それは近代建築家アドロフ・ロースがラウムプランを通して、装飾に代わり表皮という空間にへばりつくものを提案したこととつながる。この新しい建築の構築方法をさらに推進させるものである。中山くんの題名は、インヴォルブド アンビエンスである。アンビエンスとは、私たちの日常を取り巻く雰囲気やリズムまでを含む環境を指し示す言葉であり、最近では環境哲学者ティモシー・モートンが使用している。インヴォルブとは、60年代の「かくれた次元」でエドワード・ホールがテーマにした言葉で、理解が難しい他者を前にしたとき使用される言葉であり、巻き込むことことを意味する。時代を経て度々この言葉は使用されてきた。経験というリサーチからアンビエンスを捉え、実験的シミュレーションによってインヴォルブするものである。自然/人間という近代の環境二元論的枠組みを外すシームレスな環境の提案である。

2月2日(日)
夕飯時にTVで「タクシードライバー」スコテッチ監督、ロバート・デ・ニーロ主演を観る。いつ観ても、主演のロバート・デ・ニーロは若き頃、細かったことにびっくりする。70年代の衰退はじめるアメリカの実情を浮き彫りにする映画である。デ・ニーロふんするトラヴィスはベトナム帰り。豊かであるが故に腐敗する社会に矛盾を感じ、孤独に追いこまれ、いつしか浄化という名のもとの犯罪者へと転落していく。そのNYに、生も含めてリアルというものはない。トラヴィスが打ち壊そうとするのは実はそうしたアンリアルな自己であった。大統領暗殺が未遂に終わり、ギャングに討ち入りに行くまでは、一般的なストーリーである。しかし最後、彼は死にきれずに、マスコミによって英雄に逆に仕立て上げられる。簡単にリアルな死までも獲得できないのである。タクシーを流しながらのNYの街は、バーナード・ハーマンのサックスと相まって、実に妖艶で不気味に描かれている。そのNYとは全く異なる心叫ぶ音楽として、ジャクソン・ブラウンの「Late for the sky」が使われている。トラヴィスの低い一定のトーンの演技とは対照的であった。彼はゆっくりと足でその曲を否定するように、それが流れるテレビを押し倒す。
019 ラ・リーガ マジョルカ×バリャドリッド 今日は強いホームで、直ぐ上に位置するバリャドリッドに負ける。残留に向けてこの敗戦は痛い。このところ4-4-2で、コロンビアFWクチョを自由に動かせるチョイスをしているが、今日はなかなか上手く機能しなかった。守備的でありながら前線へ誰がボールを運ぶかという問題をマジョルカはずっと抱えている。一時は久保にその役割が期待されたが、最近はチームプレッシングというかたちで、今日のかたちになっている。このところ、リヴァプールのゲームに続けてマジョルカのゲームを観ることが多いが、フィールドの使い方そもそも違うことを痛切する。

2月1日(土)
018 プレミア リヴァプール×サウサンプトン サウサンプトンの吉田がイタリアのサンプドリアへ移籍というニュースが入ってきた。7年半在籍し、英国の永住権も獲得した。サウサンプトンでの在籍期間は現役では2番目の長さであった。新監督は、DF陣を若手に切り替えようとしていた。そうした中レスターに大敗してしまったことが吉田をベンチ入りにした要因である。7年前の初戦アーセナル戦で、FWに見事に振り切られてしまった時は、日本人DFがプレミアで活躍することの難しさを知ることになったのだが、その後ファン・ダイクやロブレンなどと競い合い、昨年は降格圏から脱出するためのキャプテンでもあった。サンプドリアでがんばってもらいたい。代わって南野といえば、後半70分から1番目で登場。勝敗は決してはいたがクロップの序列は上がってきた。だいぶチームにフィットしてきたが、サラーからのお膳立てを決めきることができなかったのが悔やまれる。リヴァプールレギュラーは、この後完全にオフにはいるそうだ。

1月31日(金)
梗概が出揃ってきたので、修士設計要旨の整理をはじめる。この2年間に彼らが読んできた本や経験と上手くつなげたいと思う。コロナウィルスの報道が恐怖を呼んでいることを実感する。サーズは2003年であった。このときはさほど恐ろしさを感じなかったのは、社会状況によるものだろうか。大量の公的資金が投入され、このときは上手く世の中が回り始めていた。

1月30日(木)
017 スペイン国王杯 サラゴサ×レアル・マドリード 今年から国王杯のレギュレーションが変わったという。下部リーグに所属するチームのホームでの一発勝負となった。そのため、ビッグクラブが不覚を取ることがある。今日は、香川のいる2部サラゴサがそうした経緯でレアルを迎えた。しかしサラゴサもレアルも週末に大事な試合を控え、1.5軍である。香川の位置付けも同様である。そんな中、香川は活躍する。シュートを5〜6本放ち、もう少しでアシストになる決定的パスも数本繰り出していた。ビッグクラブは統制が取れていて、ここぞというタイミングを知っていて、無闇にガツガツと来ない。それで絶えずチームがバランスしている。香川はそうしたゲームを心得ていて、そこそこのプレーができていたと思う。香川をはじめブラジルW杯を経験した選手は、そこから一皮剥けようと必死である。その点では、香川の現地での評価とは別に、少し不満が残るものであった。

1月28日(火)
016 ラ・リーガ レアル・ソシエダ×マジョルカ 先週のバレンシア戦で上手く機能した4-4-2でソシエダにのぞむも、アウエーでは上手く機能しない。久保も先発を外れ、65分から2番手で登場。1番手は新加入の7番で、久保は主戦ではない右サイドとなった。監督の信頼はどうも下がってしまったようだ。前線へのボールのつなぎ役に徹する。得点という結果が求められる。ソシエダは、来季久保がレンタルされるのでないかと憶測されるチーム。ドルトにいたイサクやヤヌザイも登場した。

1月27日(月)
2年生後期第2課題の講評会に出席。2年生には珍しく、コンセプチュアルな案がいくつかあった。ひとつは「knit」というタイトルの案で、編み物のように物理的に細長い5住居を編み込んでいた。敷地は4周を道路に囲まれているので、この細長い住居によって、様々な方向へ景色が展開する。高さを抑えて勾配をもう少し緩やかにする必要があるかもしれない。繋がりというテーマを住戸形式で直接的に示した作品であった。アレグザンダーもknitあるいはweaveをキーワードに設定している。もうひとつは、新しく第2の大地というものを設定していたもの。大地は、古代からの神話、あるいは近代でもイサム・ノグチがテーマにしている。学生の設定した第2の大地によって、上下で空間の性質が全く変わっていた。大地をもっと前面に押し出すデザインにするとよいと思った。もうひとつは、内断熱と外断熱の部屋を散りばめて配置し、家族というものとは異なる新しい集住の方法を提案していた案。家族が基本の集まりでないので、細胞のように部屋が集合する案であった。長く滞在する部屋は外断熱で、個室は内断熱である。コンクリートの厚みの変化で、それを表現してもよかったと思う。
015 FA杯 シェルーズベリー×リヴァプール 3部で下位に沈んでいる人口8万のチームが、ビッグクラブを迎えるのは、お祭りのように違いない。一方リヴァプールは、故障明けの選手と10代の選手中心に先発を組み、そこに新入りの南野も入る。解説によるとシェルーズベリーは3部といえども、ユナイテッドなどでプレー経験のある選手もいて侮れないという。案の定、先制はリヴァプールがするものも、結果追いつかれ2-2のドローとなる。ゲーム開始当初は、南野もフィットしていたが、その後、チームが窮地に立たされると、持ち直す選手まで至っていなかった。80分過ぎにフィルミーノと交替。はじめて南野への評価も厳しくなった。これで再試合が案フィールドで行われる。FA規定では、観客入場者収入は両チームで折半となるそうで、アンフィールドの3万人分の収入は、小さなクラブにとって大きなボーナスとなるそうだ。これこそお祭りである。

1月26日(日)
「They shall not grow old」ピーター・ジャクソン監督を観る。イギリスの帝国博物館に保存されていた第1次大戦にかんする莫大な記録とBBCが保存していた退役軍人のインタビューから、当時の時代状況と兵士の生の感情をピーター・ジャクソンが蘇生した。第1次世界大戦のドキュメンタリー映画である。塹壕から出て直接ドイツ軍とぶつかり合うシーンは、記録がないので漫画となるも、効果的にインタビューを使用し、スピルバーグの「プライベート・ライアン」の上陸シーンに匹敵するほどの緊張感があるものであった。ところで、当時のイギリスでは戦争を全くリアルなものに感じていなかったことがよくわかった。法律上18歳以上男子しか軍人になれなかったが、不況と言うこともあって、自分の勇気試しのために、15歳くらいから入隊をすることが普通であったという。白羽根が流行り、女性からそれを手渡されるのに男子はびびっていたという。白羽根は臆病者を意味するものであった。そうした男たちは9週間の入隊で鍛えられ、現地へ向かい、そこではじめて戦争という現実に向き合うことになる。そして映画の舞台となる南部戦線では、兵士の1/3が亡くなった。これが現実であった。兵士はドイツに勝利し生還しても、世間は反対に冷ややかであったことが最後に記される。景気がより悪くなり、戦争にたいする見方の変化があったのだと思うのだが、戦場と日常生活とのギャップに兵士が戸惑うこともクローズアップされていた。
014 ラ・リーガ バレンシア×バルセロナ バルサは得点できずに、バレンシアに負ける。メッシがゴールできないでいると、速攻を逆に決められてしまった。バルサは、監督が変わっても、スアレス離脱で、調子が上がってこないようだ。右トップには、久保とコンビを組んでいた17歳ファティが先発。レアルのヴィニシウス、ロドリゴ同様に動きが素早いが、DFにとっての驚異まではならず。

1月25日(土)
東京国立近代美術館で開催中の「窓展」へ行く。窓をキーにして、アルベルティ以降のアートを振り返る企画であるが、現代的意味が読み取れなかった。額縁と窓は相同的である。それらはフレームワークとなり、鑑賞者に制限を与えるものになるというのが、近代以降の反転した共通の価値観である。その後の現代への展開はなかなか見えてこなかった。展覧会では、デュシャンの「Fresh Widow」、マティスの「窓辺の女」、岸田劉生の「麗子肖像」、リキテンシュタインの「フレームⅣ」、THE PLAYの「MADO」が印象的。どれも既存のフレームワークを批判したものである。そこでは透明性、美しい風景、鏡性、透視画性、美術館のあり方性等が批判されている。

1月24日(金)
013 プレミア ウルヴァーハンプトン×リヴァプール ここ2シーズン好調で、今季6位につけているウルヴァーハンプトンのホームにリヴァプールが乗り込む。ウルヴァーハンプトンは、今季シティなどを撃破している。今日は、バルサ出身のトラオレがどんな状況でもセンタリングを上げていたし、ヒメネスが確実にチャンスメイキングをしていた。2-1でリヴァプールが勝ったとはいえ、互角に近い戦いであったと思う。それよりも、南野がプレミアデビューを果たしたことが、日本人のぼくには大きい。前半30分のマネの負傷からの登場で、クロップの優先順位の変化を知ることができた。ただ、チームメートからの信頼をまだ得ていない。いいところでパスが回ってこなかった。決定的なのは、前半アディショナルに、キーパーと2対1になって、サラーからのパスが南野へ回ってこなかったところである。2人が併走して、南野は全くのフリーとなった。ここで得点していればゲームも楽になっとと思うが、サラーは無理な体勢からのシュートを選択した。南野は脚を痛めたという情報が入ってきたが大丈夫だろうか。今日は、モデルとの恋愛情報もネットで賑わせていた。元チームメートのハーランドは今日も2本決め、ドルトムントで確実に結果を残している。

1月23日(木)
CASABELLA902が届く。石建築特集。プラクシス・アルキテクター+ゾンダーガードによる「スロットフェルトラーデの修復」の屋根が印象的。現代的な干草屋根の再生である。フランチェスコ・ダルコによる論文は、17,8世紀の古代回帰について。このころに、ストーンヘンジなどの測量などが行われていた。「建築の起源」とその後の「クワイヤル・ガウル」ジョン・ウッド著という本に言及する。祭壇を建築の起源とし、それは、建築がそもそもキリスト文明を成形したものであることをいったものだ。

1月22日(水)
3年生後期の設計講評会。外部講師として、建築家の末光弘和氏と竹中工務店の川島宏起氏をむかえる。この設計4の授業では、専任全教員がエスキスを行った。ぼくのCスタジオのから出展した木造による山型案が、川島さんから優秀案として選ばれた。この案は、大断面木構造を使わずに在来製材105角を使用する一室空間の事務所建築である。そのため、4本の組柱にして、斜材を2本の水平材で挟み込んだトラス梁による構成である。木造の弱点であるジョイントは、製材を重ね合わせて、釘による剪断によって力を伝達させるものだ。この大きいトラスせいを利用したダブルスキン構造で屋根からの日射をカットし、卓越風をその中に取り込むものだ。その屋根は地上付近まで達し、卓越風を冷却するために南には池がある。川島さんは、こうした設計を、意匠・構造・環境を考えるプラットフォームとしての完成度が大きいと、この案の可能性を評価してくれた。末光さんは、Aスタジオの自然教育園に隣接する、大きな共用部分に動くユニットが取りつく案を選出してくれた。この案では、緑を育てる仕組みがデザインされており、建築の社会性が評価されたかたちである。残念ながらCスタジオのパサージュ案には、川島さん同様に、密度の高い共同作業があったという簡単なコメントのみ。Cスタジオの木造三角案については、大きな三角屋根の水面への着地方法のデザインを評価してくれた。システムが勝っているのでなくセンシティブなキレのあるデザインを評価したものだ。最後にかたちを持ち出したことに少しびっくりするも建築家なのだと思う。結局はそうした批評にさらされるのが建築である。川島さんも末光さんも、この授業を他の大学にはないカリキュラムで運営され、ぼくら教員の仕掛けを評価してくれた。そして、それに応えた刺激的な案が多かったと学生を評価してくれた。その可能性を示した上で末光さんは、実務寄りのデザインが良いかどうかに疑問を残しつつも、学生にとっては、対話することが一番の財産になると、新たな意義を示してくれた。学生の設計はとかく自分だけの世界にこもりがちであるが、それを批判したものである。今、卒業設計に取り組み最中の4年生に感ずることでないかと思う。非常勤の御手洗龍さんと佐野健太さんも学生の成長を喜んでくれた。御手洗さんはその上で、プロジェクトを動かす初動の目的意識の弱さを指摘してくれた。卒業設計となると反対に、そこを気にして足踏みしてしまう傾向があるが、御手洗さんが意味することは、自身でも説明していたように、デザインを通して構造や環境をもう一度考え鍛え直すということである。佐野さんは、学生の決定の留保性を問題視していた。エンジニアリングをいくら詰めても答えはない。そこから舵を切る方向を決める大切さをいったものだ。決断を忖度してはいけないことを説明してくれた。

1月21日(火)
大学院の一級建築士インターンシップについて教務と相談。上手く運ぶ。明日の3年生の講評会に向けてのアドバイス。夕方から設計方法小委員会に出席。
012 スペイン国王杯 サラゴサ×マジョルカ 香川と久保の戦いとなる。両者フル出場。マジョルカは中1日、サラゴサもベストメンバーでなかったが、二人は間違いなくチームの中心であった。香川は、いつものプレーであったが、今日は周りと息が合っていた。マジョルカのチェックが甘かったからかもしれない。あわやというポスト直撃のフリーキックもあった。1点目のアシストも香川であった。ポストプレーでDFを翻弄させるプレーであったと思う。久保は前半2トップ、後半から右のサイドでプレーしていた。チームのしがないプレーにたいし、怒りを露わにしていたのが印象的。前のゲームでバレンシアにたいしベストな戦いをしたチームに久保はいなかった。久保も追い込まれている。

1月20日(月)
011 プレミア リヴァプール×マンU ナショナルダービーといわれるように激しい闘いであった。リヴァプールは、苦しむも最後まで早い展開で押し切った。今日は、自慢のサイドバック攻撃が封じられ、比較的前線頼りの展開であった。しかし早い判断で、ダイレクトパスをとにかく多用し、相手に陣形を整えさせず、慌てさせる速攻であった。そのため、新入りの南野の登場はお預け。交替3人はララーナ、オリギ、ファビーニョであった。

1月19日(日)
010 ラ・リーガ マジョルカ×バレンシア マジョルカは強豪バレンシアをホームで迎える。ここに来て、システムを変更し2トップ体制に。久保はベンチスタートである。これが奏して、マジョルカは連続的な攻撃ができるようになる。前半で、一連の崩しから3点を奪取。2トップになって、ためをつくることができ、前線とDFラインがコンパクトになった。2トップにしたことで、守備を重視するために久保を先発から外すことになったと思うが、久保は3番手で登場。序列の変化が気になる。久保は、登場するといつもよりも増してアグレッシブさを前面に出す。いいタイミングでシュートを放つも、力がなかった。4-1でCL16強を相手に圧勝する。

1月18日(土)
東京駅ステーションギャラリーで開催中の坂田一男展に行く。「抽象の力」で岡崎乾二郎氏が坂田の功績を力説していたこともあるが、何よりも坂田は渡欧して、コルビジュエやオザンファンのピュリスムの影響を色濃く受けた数少ない画家だからである。岡崎によると、坂田は、対象を描くことよりも、対象が帰属する空間を重視していたという。「抽象の力」でいわれていたように、それはポアンカレの射影幾何学の影響を受けるものであった。岡崎はいう。「空間は先見的にあるものとはみなされず、対象(事物)の認識から引き出される、可変的な射影関係であるとみなされている」。これは、建築でいうコンテクスト主義に疑問を投げかけるもので、コンテクストは不動なものではなく、主体によって変容するのだということだ。実際には主体は人の数だけ存在するので、コンテクストは実体であるどころか透明でなければ、論理的な矛盾をきたす。近代は、この前提にたって進歩してきたというのだ。面白いのは、それが現在また顕著に否定されていることである。ところで、ピュリスムも坂田も壺をよく絵の題材に用いた。壺は、「外部から遮断された内部空間をもち、それだけで単一の絵画空間は内部と外部の二つの異質な空間に分断されるが、それをトポロジカルに繋げることでさまざまな質の違う空間が濃度を変えて重なりあいシームレスに循環するような空間がえられている」ものだというという。コンテクストと対象を渾然一体に同時にみる手法をここにみることができる。この展覧会のタイトルは「捲土重来」。土煙が巻き起こる様子をいったものだ。それは、クリスチャンでった坂田が亡くなる1年前の個展の案内状にあった言葉である。

1月16日(木)
深夜、立川談志の「らくだ」をYouTubeで観る。まだ談志が若かった頃のものである。使いっ走りの屑屋が、酒に酔って態度が豹変する、それを演じる談志に圧倒される。続いて談志後期の「らくだ」も観る。年老いていてしまい、声量など足りず往年の迫力はなかった。話も最後まで行かなかったのでないか。しかし、微妙にディテールが異なり、ライブ感が落語の醍醐味なのだと思う。噺家のコンディションもあるが、客席の雰囲気も大に関係している。本題の前につかみがあり、その映像も残っている。観客の雰囲気つくりを重要視していたことがわかる。

1月15日(水)
009 U23 日本×カタール カタールは、次のW杯開催国。現在のU23が主流になっていくという。そのため、オリンピックには是が非でも出場したいところ。日本以上に彼らは本気であった。結果は、日本にとって判定に疑問が残るもの1-1のドロー。一勝もできずにグループステージ敗退となる。選手は国内組であったことから、敗因の矛先を選手に向けることはなく、森安監督の進退に話題が移る。試合後のコメントは、今日の選手はスピリットを前面に出してくれたというもの。指揮官としては物足りない。引いてくる相手に対して得点できないのは仕方のないことであるが、なんらかの策はあってよいと思う。選手にとっては、超えなければならない世界基準の経験が必要で、海外選手は所属チームで日々直面している。久保のマジョルカがしがないゲームプランで闘っているのは、彼らにスキルがないわけでなく、スキルを消されてしまう厳しい戦術チェックによるものだということを最近わかった。国内組はもちろんそうした経験していなく、それは森保監督も同じである。打開策は、打開をしてはじめてわかるものだということを実感する。

1月14日(火)
4年生の図面チェック。配置図を充実させるように指示。配置図の意味をなかなか見いだすことができないものだが、大なり小なりアイデアは、既存枠組みの上に成立している。そのことを示すのはとりあえず配置図である。数多あるものの中からピックアップした条件は何か?それを示すような配置図が必要となる。

1月13日(月)
CASABELLA 901はロベ-ル・マイヤール特集。タイトルは「量か質か?」ハイデッカーの建築論も紹介されている。その後は家具デザイン特集。フランコ・アルビーニとレオナルド・モッソ。二人とも家具にテンションを利用している。モッソは、アアルトの弟子で、動く構造としなやかなジョイントを考えた。そして、カーボンやケブラーという繊維質の複合材料構造体として、2つのプロジェクトの紹介。そして最後は、リスボンのサン・ジョルジェ城にある5つの建物の紹介。現代建築と考古学、街並との融合である。

1月12日(日)
「アイリッシュマン」スコセッシ監督を観る。ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシによるマフィア映画という評価が先行するも、なるほど迫力ある映画であった。これは3人の名演のみならず、映像ディテールと素早いカメラワーク、主題によるものだ。映画を通じて、人間が抱える不信感と倫理観の混乱した同居性が感じられる。リアルな暴力はこの両方がぶつかり合ったところから生まるものだ。それと宗教性が映画に緊迫性を与えていた。ただし3人の役者が40代から80代までを通じて演じ、3つの時代が錯綜して進行する物語であるので、日本人にとっては人物を見極めるのにも難がある。それを、特殊メークアップ映像技術を使用して、リアリティを高めていた。とはいえ、彼らの体型までは変えることができないのが技術の限界かとも思う。
007 プレミア トットナム×リヴァプール 南野ベンチ入りも出場せず。ララーナ、オリギ、シャキリという控え選手の順番は変えなかった。クロップの人心把握術とも思う。ゲーム展開も厳しかった。序盤から押し込むも、最後のところで踏み止まれ、ゲーム終盤では度々の速攻に気を揉まれていた。この状況で、未知数の南野を使う無理はできなかったに違いない。それにしても、プレミア上位チームのプレーの正確さと速さは目を見張るものがある。
008 U23 日本×シリア よもやの終了間際に失点して、2連敗。グループステージ敗退が決まる。アジアでのこうした状況ははじめてのことだという。今日も攻めあぐねた結果、速攻を決められてしまった。引いて守る相手をこじ開けるのを、個人のドリブル突破に委ねていたツケが回ってきたとは思いたくないが、チームとしてのアイデンティとそれを主導するリーダーの不在ということだろう。海外組へのクローズアップが華やかではあるが、それほど日本が総合力において勝っているといえないのが現実である。

1月11日(土)
続けてタランティーノ監督「パルプフィクション」を観る。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」と異なり、短編ストーリーそれぞれにテーマがある。任侠心といったものだろうか。サミュエル・ジャクソンが何度も言う旧約聖書のエゼキエル書25章17節を調べる。「わたしは怒りに満ちた懲罰をもって、大いなる復讐を彼らになす。わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる」であった。各ストーリーに、トイレシーンが共通してあるというのも面白い。その後のシーンでは必ず生命を左右する大きな事件が起きる。が、それほど真剣なものでもない。「ワンス・アポン・ア・タイム」では、そうした具体的な手法を使わない分だけ巧みである。
006 スペイン国王杯 サラゴサ×ジムナスティック 2部と4部の戦い。香川の試合を観るのは、開幕戦以来である。そのときとの香川の違いは、控えのチームにいることである。トップ下にいるも、息が合わないためか、期待していたほど存在感がなかった。ただ、ドルトムント、ユナイテッドのときのようのプレースタイルを引き継いでいる。なかったのは、DFライン間に位置してからのボールを受けることであった。聞けば、サラゴサには驚異的なルイス・スアレスというバルサと同名のFWがいるという。彼との連携を観てみたいと思うのだが。

1月10日(金)
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」タランティーノ監督を観る。69年当時のアメリカ西海岸がリアルに描かれているということで薦められて観る。その意味は、当時のアメリカを知らなくても、それを体験できるほどのものだということだ。ストーリーはオリジナルであるが、当時の街並、文化、事件、時代背景、映像、人物、登場小物などと違和感ないくらいにスムーズにのリンクしている。建築におけるコンテクスト主義とはこういうことだろうと思う。いくつかのストーリーが同時に進むシンクロニシティ的ないつもの描き方が、本作ではより物語を豊かに捉えることに成功している。小さなストーリーが綿密に描かれ、散りばめられているのは、ひとつひとつが歴史を背負って成立しているからだ。そのうちのいくつかがたまに交わって大きなストーリーが形成されている。こうしたつくり方をしたいものだ。

1月9日(木)
「アラバマ物語」グレゴリー・ベック主演を観る。原題は「To Kill a Mockingbird」。Mockingbirdとは、人に無害な鳥らしい。真実と幸福、正義とは何かを語る映画である。正義感の強い弁護士を父に持つ娘の幼年時代を回想する物語である。正義の尊さを示しつつも、その扱い方を悩むことをテーマとする。こうしたテーマはアメリカ映画でずっと語られてきた定番ものであるが、その設定が超越的ヒーローものでもなく、ドキュメンタリーちっくでもなく、身近で、今でも新しさがあるとボードリヤールはいっていた。
005 U23 日本×サウジアラビア 日本は3-4-3で、これがこの世代の基本だそうだ。思えば、ロシアW杯の時もこれを試すも、結局4-2-3-1になる。香川、本田、その前では俊輔など、トップ下を経由するゲームプランが日本は主流で、彼らの力や経験が最後にチームにとって必要になっていたからであった。そんなかたちが、今変わりつつあるのを感じる。誰もがトップ下的な機能を担えるようになり、全体での縦への攻撃を早めようとしている。結果、強豪サウジアラビアを押し仕切り、相手をアップアップさせていた。しかしながらも、1-2で負けてしまった。敗因は、3バックの手薄さなところを突かれたかたちである。特に、終了間際の失点は実は日本DFのふらふらからくる判断ミスによるものであった。もう少し、ボランチを下げるなどリスクマネジメントがあってもよかったと思うが、経験のなさか、あるいは、ゲームを支配するキャプテンの不在かが問題なのだろう。中2日で次戦がある。修正に期待である。

1月7日(火)
熱があるので、病院に行く。一応検査しましょうということで、インフルエンザであることが判る。今週は自宅待機となる。「瓦礫の未来」磯崎新著を読みはじめる。縁起、井筒俊彦、アラヤ(阿頼耶)識、イマージュなど、ちょっと危険な言葉を垣間見る。

1月6日(月)
「Battle」を訳していて、「エチカ」との共通点が気になる。どちらも、将来へ焦点を結ぼうとすることよりも、そこからの開放を目指す。そして、そのために従事する新たな基準を大切にする。それはかたちあるものであり、新しい幾何学である。ただし開放の結果を、Battleでは触れられていない。
004 FAカップ リヴァプール×エバートン エバートン監督がアンチェロッティになっていた。少し前までナポリ監督であったのに。解説では、エバートンを長期的にみていきたいらしいことをいっていた。一方リヴァプールは、10代選手が多く完全にセカンドチームであった。そこに南野もいた訳であるが、レギュラーとの間の選手がいないのを不思議に思った。怪我人が多いということか。したがってチームに熟成度がないことと、皆若手で自分を押し出したいためか、南野へボールが全く供給されなかった。幾度も下りてきてはボールを要求するも、皆無ではなかったろうか。フェルミーノがいつもするプレーであるが、それがなかったため、縦への早い攻撃がなりを潜めていた。南野にとっては決してよいデビューではなかったが、なんとか勝ったのがよかった。次戦でも使われることになるだろう。フェルミーノには運動量が要求されるため、途中交代が多い印象がある。そのときの控えで登場し、成功イメージを仲間に植え付けたいところだ。

1月5日(日)
003 ラ・リーガ グラナダ×マジョルカ 年を明けてチームに変化があり、久保を観るようになった。ただし、最初の数プレーまで効果的なプレーがあったものの、その後相手DFに読まれたか中盤底付近でのビルトアップでアップアップになる。後半から、いつものように中央に位置することが多くなるもやはりダメ。久保フル出場するも、よいパフォーマンスを残すことができなかった。完封負け。マジョルカ監督はかなり危うい状況にいると思う。深夜、久保を中心とした五輪世代の特集を放映。久保が長くしゃべるのをはじめて観た。落ち着いていて目は絶えず真剣。戦術に関しても豊富な語彙をもっている。2-0で完敗したコロンビア戦も俯瞰的にチームを分析していた。例えば、久保の次にインタビューに登場したマンCからハーツに期限付き移籍している食野でさえ、自分の特徴とその生かし方の説明に終始していた。それにたいして久保は、相手DFの位置を絶えず視野に入れることを優先しているという。なんとも対照的なことか。明らかに自分を内面からでなく、外から観ることに成功している。自分を決めつけていないので、自分を多様に表現でき、それがプレーの多様さにつながっているのでないか。最後に登場した国内組数人は、十分に自己分析もままならない状況である。仲間をいじることによって自分の立ち位置を明確にしようとする構図は、他者あっての久保と同様であるが、相手をいじることによって自分を動かさなくてすむようにしてしまって、自分が対象化されていない。久保の凄さを物語る特集であったと思う。

1月4日(土)
映画「シャイニング」キューブリック監督を観る。冬期閉鎖中のホテル管理を任された家族が精神的に追い込まれ、殺人にまで陥ってしまうカルト映画である。原作はスティーブンキング。ジャック・ニコルソンが見事にその役を演じる。鏡やシンメトリーな構図を扱う正確なカメラワークが、その緊迫感を増幅する。息子ダニーが操縦する三輪車が廊下を走るシーンが印象的である。ジャック・ニコルソンが凍死するのも雪の中の巨大な迷路である。

1月3日(金)
002 プレミア リヴァプール×シェフィールド 2-0の得点以上にリヴァプールの圧勝。南野がどこに入るかワクワクする。サラーとマネの駆け出しが早く、DFがドタバタしていた。そこにパスを出すのが南野だろうか。5日のFAカップからの出場といわれている。

1月2日(木)
妻の実家で正月会。「スピノザ 実践の哲学」ドゥルーズ著を読み終える。訳者鈴木雅大のあとがきに面白い例がある。それは、二人で仰向けになり、双方の足の裏を空中で合わせて、自由に脚を動かすという例である。やがて二人には、どちらが動かしているか、動かされているかでもなく、一体となってただ動いている自分を見いだす瞬間があるというのだ。この能動でも受動でもない状態を、ドゥルーズ(スピノザ)は、これが内在的プランといっている。現在流行の中道態ということであろう。この例で面白いと思ったのは、行動がはじめにあって、思考が後から実感できるということである。「Battle」ではこのために、建設(つくること)を、まずもって最も大事なものと考えている。そうすれば、予測ー制御に基づく最終結果を想像することなしに(ビクビク結果を気にすることなしに)、現在思いっきり生きることができるというのである。「大切なのは、単なる理論でも実践でもない。概念の発明と情動の開放とを結びつけること。生の総体を自由な出会いと相互触発へと促してやまないスピノザの力強い風をドゥルーズが増幅して私たちに届けてくれた」という訳者あとがきが本書のまとめとして相応しい。

1月1日(水)
正月のご馳走を戴きながら映画を2本、「ティファニーで朝食を」「シャレード」を観る。なぜかしら、オードリー・ヘプバーン特集である。どちらも、ヘプバーンの小気味よい天真爛漫さを前面に押し出した映画で、パートナーとしてダンディな紳士が背後に控える。このヘプバーンが当時の米国女性の理想にならなかったのだろうかと思う。近くの氷川神社に初詣。そこそこの人がいる。実家で夕食。NHKで放送のサッカーオリンピック世代の特集を観る。現在この世代のメンバー候補は沢山いる。メジャーなリーグの海外でチームの主流になりつつある堂安や久保、ベルギーやポルトガル、ドイツ2部でレギュラーを獲得している海外組、それと今後海外を狙うJリーグ組である。森保監督のインタビューを中心とするT特集であるが、これといって新しい情報はなし。
001 天皇杯決勝 神戸×鹿島 新国立競技場でのオープニングゲーム。超満員であった。昨日、チケットをチェックしたら既に完売であった。ゲームは、バルサ化した神戸の圧勝。DFラインの裏を上手く使っていた。これで、神戸の今年のALC進出が決まる。

12月31日(火)
午前中は墓参り。午後は事務所の掃除と正月の買い出し。例年通りに年越しうどんで新年を迎える。「実践の哲学」は第6章。スピノザの全体・計画の捉え方は、アレグザンダーのそれに近い。スピノザは、これを「様態」という。「形やもろもろの器官、機能から規定したり、それを実体や主体として規定したりしないp245」ものである。ではなにかとうと、「形をなしていない物質(素材)の微細な粒子群のあいだに成りたつ速度の複合関係があるp247」ものといっている。速度とは一体何だろうと思うが、ここで「プラン」あるいは全体にたいしてふたつのアイデアを提供している。ひとつは、超越的プランの存在を認め、「それが与える所与からただ推定され、帰納され、遡及的に推論されるしかない」ものと、これとは逆の「内在的プラン」である。カント的な物自体を否定するものがこの内在的プランというものである。アレグザンダーは実際につくることで、このふたつを超えることができると「Battle」でいっている。

12月30日(月)
「Shall we ダンス?」 1996年周防正行監督作品を観る。特殊な条件を通じて人間性や人生をコミカルに描くのが周防監督の特徴である。この映画でそれは、社交ダンスである。社交ダンスは西洋文化の象徴でもあるので、人間性以上に国民性が描かれることになる。主人公の役所広司も徐々にダンスに引き込まれ、没頭すればするほど、夢の世界に入っていく。発表会での観客席からの娘の声で、その夢から覚め、家族を置き忘れてしまったことに気付くのであるが、最後は、再び西洋文化に取り込まれていく。これが日本人典型例として描かれる。役所広司が典型的なサラリーマン部長、脇役に気もちの悪い竹中直人であるのも、映画を嫌味っぽくしない。この目の付け所とディテールひとつひとつが映画を作品にしていた。

12月29日(日)
「実践の哲学」を読む。「私たちの活動力能は減少するか疎外されるのであり、これに対応する受動(受%