4月21日(日)
地球の声委員会主催の展覧会に行く。遠藤研の中山くんも学生ながら出品し、会場構成を行った。出品されていたのはハノイ近郊の住宅で、既に着工中である。環境的にも未知な外国で、実施まで行ったものである。柄谷行人がかつて、コペルニクス的転回を、「地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、或る関係構造の項としてとらえたことである」といっていたことを思い出した。これは、地球も多々ある惑星と同様であることを認識する一方、実際の経験を(従来とは)異なる言葉で説明する方法を人間が手に入れたことをいったものである。地動説はずっと前からあったという。天動説から地動説への転回も重要であるが、それよりも人間がこのときから、経験知に基づかない新しい説明方法を獲得したのである。この飛躍をいっていた。そしてこれが現在の科学的思考へつながっていった。しかし現在、この思考方法は、人間中心主義が行き過ぎたものとされ否定的である。環境分野については尚更そうした雰囲気がある。この展覧会でもそうであった。しかし、人間中心主義が否定的な現状においても、経験というものが否定されたわけではない。むしろ見直されていると思う。(人間による)経験と行き過ぎた人間中心主義とを折り合わせる方法が未だに見つけられていないのである。だから、今でも確実に人間中心主義は残り続け、ぼくたち多少の経験者に至っては、経験とのズレを無意識的に絶えず解消してしまっている。それは、経験が一般には限られたものでしかない未熟な学生にとっても同様である。どうしても教科書的な従来の説明方法にならざるを得ない。が、経験を素直に自覚することによって、新しい言葉を手にできる可能性があるのではないかと、思ったりする。もしこれを可能にするならば、多少経験を積んできたぼくらにもっとも強烈なカウンターパンチとなり得るだろう。第2のコペルニクス転回とはいわないまでも、若い中山くんたちの作品によって、経験をしっかりと説明できる時が来ると思いたい。そんなことを考えると、新しい感覚で実施まで至っているので、その経験というものをもっと前面に押し出すプレゼがベターであったのかもしれないと思った。そのことを中山くんに話す。展示方法にも特徴があった。ひとりひとりの作品にいくつかのキーワードが掲げられ、A3の普通紙が壁一面に貼りだされていた。エコロジーがテーマであるのと、情報がアップデートされるようで、臨場感があってよい。安原さんの説明で、この方法はCIAMの発表で行われていた方式らしい。アレグザンダーの大阪万博での「人間都市」の発表も同様であったことを思い出した。

4月20日(土)
彦根にある圓常寺に、叔父の納骨のため行く。母方の菩提寺である。寺にある快慶作の阿弥陀如来立像のある本堂で1時間のお経をいただく。訪れたのは2回目で、今回はじめてご本尊をじっくりと見る。意外と小さく1mもない。住職によると、寺は江戸前期のものであるが、鎌倉の快慶があるのは謎だそうだ。抑えの効いた表情をし、快慶といわれると、そうした風格がある。快慶晩期の作品であることを知る。関東と異なる納骨の方法に戸惑う。壺ごと納めるのではなく、墓石の基壇の空洞に、小さな穴を通じて直に納める。中では先祖代々皆一緒となる。土に帰るというものだろう。貴重な経験であった。

4月19日(金)
045 EL フランクフルト×ベンフィカ 
2-0でフランクフルトが勝利し、次の準決へ進出。長谷部の守備でのリーダーシップが光る。彼にとってこれまで最高のキャリアでないだろうか。相乗効果で、フランクフルトの攻撃の雰囲気もよい。一瞬の隙を縫って得点をする。次はチェルシーとの闘いである。

4月18日(木)
「宇宙船地球号操縦マニュアル」バックミンスター・フラー著 東野芳明訳版を再読。ブリコラージュの大スケール版である。映画のジャック・スパローと重なってみえた。この本では、「われわれはどれくらいデッカク考えられるかp66」を問うている。ぼーとした全体(シナジー)を捉えることができれば、「漸次、細分化の作業」は容易なのである。このようなフラーの考え方を、これまでの概念や言語におさめることができない。これは、「シナジー」のような造語が多々あることからもよくわかる。したがって、時を経てこの本の翻訳も改良され、第7章のタイトルは、どうやら新版の芹沢訳では分かりやすくなっている。ところで、デッカク考えるために必要なものは何か?本書ではそのために道具が必要であるといい、それが「地球」というものであるといっている。わたしたちにとっては、「から威張りや近視眼や偏見や一般的な鞭から自らを開放することこそ、きわめて大切であるp52」とされ、そこから、「いまどんな気持ちがしますか」と問うのである。「ティール」と重なる。
044 CL マンチェスター・シティ×トットナム 
開始早々からアウエーのトットナム、ソンフンミンがゴールをし、打ち合いになる。正確には、シティが先制したのであるが、その印象が引き飛ぶくらいの2ゴールであった。その後は、観ている者を興奮させる壮絶な打ち合い。1stレグの守備的な消極的ゲームが嘘のようであった。最後、シティ、アグレロが逆転のゴールをしたかと思ったが、グアディオラ興奮の中でVAR判定。なんとオフサイドととなり、トットナムが準決勝に進出。

4月17日(水)
043 CL バルセロナ×マンチェスター・ユナイテッド 
盤石の戦いをバルサが行い、ユナイテッドを退ける。今日は、メッシの日であった。キレのある動きで、ユナイテッドDFラインをいとも簡単そうに突破していた。アウエーのユナイテッドは、先週のホームのように踏ん張ることができなかった。

4月16日(火)
「科学革命の構造」トーマス・クーン著を再読する。第2〜4章では「通常科学」をパズル解きと類比する。「両者とも、専門の道の熟練者にルールを与えれば、核心をもってこれらのルールと既存知識の上に立って問題の解決に没頭できるp47」という。つまり、「通常科学の伝統の中では、ルール、仮定、見解が統一されているというよりも、共通したパラダイムを持つ」のだ。第5章は、「パラダイムの優先」。そうしたパラダイムは堅固であり、多少の変化を許容するという。「(通常)科学は、お互いに重なり合う部分があっても全く同じ拡がりを持つものではない。これらの処方向の一つの中で起こった革命が、必ずしも他に拡がるとは限らないp56」。第6章は「発見」について。発見されたことが次第に大きくなり、古いパラダイムはその存在を認めざるを得なくなる。第8章は「危機・異常科学」について。上手くパラダイムが機能しなくなっても、「理論に合わないことを、科学哲学用語で反証例というが、彼らはそれを反証例とみなしたがらないp87」のである。そして、「一つのパラダイムを拒否する決断は、常に同時に他のもの(パラダイム)を受け入れる決断である」という。つまり、同時に複数のパラダイムが混在するといっている。これが「異常科学」状態への移行である。異常科学とは、「変則性そのものが専門家たち一般に認識され」たものである。第9章以降は、旧パラダイムを放棄するときの本質的理由についてである。異常科学状態では、ふたつのパラダイム間で論理的に十分噛み合わない。それは、どちらがよいかという規準とか価値がないからだという。10章がいうには、最終的それは世界観が決めるものだという。「新しいパラダイムに導かれて、科学者は新しい装置を採用し、新しい土地を発見する。さらに重要なことは、革命によって科学者たちは、これまでの装置で今まで見なれてきた場所を見ながら、新しい全く違ったものを見る」のである。そして、一世代をかけて漸く変わったことに気づくものだという。つまり、進歩に向かわせる目標などなく、原理・真理などもなく、有用かどうかの淘汰で進歩する。科学も主観的で非合理的なものであることをいっている。絶対化が否定される訳だ。すなわち、価値の下に科学もあるということである。したがって、ふたつのパラダイム間での翻訳性が可能となるのである。

4月15日(月)
授業で、「建築」と建物の違いがあることを紹介。そこには作法があり、現在では「建築の4層構造」によって分かりやすく捉えることができることを話す。作法を学ぶことなど胡散臭くても、現実の「建築」は歴史を通してそれで成立していて、作法をまなぶことが最も効率よい学びなのである。これは歴とした、ポランニーのいうリテラシーとして位置付けられている。

4月14日(日)
042 トルコ ベシクタシュ×バシャクシェヒル 
ホームのベシクタシュが、首位のバシャクシェヒルを迎え撃つ。これまでトルコは、ベシクタシュ、フェネルバチェ、ガラタサライの3チームが優勝を分け合っていた。が、今季は新興のバシャクシェヒルが独走状態にいる。バシャクシェヒルは、大統領の親族がオーナーを務め、近頃その資金力から順位をあげてきた。そのトップは、ロビーニョであった。互いにパス中心で試合を組織的に進め、これまで観たトルコのチームとの対戦と異なり、バタバタ感がなかった。サッカーは戦いといえども、両チームの協力作業であることも実感する。香川は今日も途中から出場。怪我の中盤メデルから60分過ぎに代わる。いくつかシュートも放し、組織を維持させ、チームを落ち着かせた。最後の10分は、ボールが行ったり来たりを繰り返すようになったが、なんとかベシクタシュは2-1で勝利した。

4月13日(土)
鈴木さん、学生とナチュラルアングル邸へ。家具プロジェクトのプレゼンテーション。概ね上手くいく。制作に入る前に、全体工程を早急に押さえることにし、プレゼを終える。帰路、鈴木さんと立ち話。ぼくらは一発で解き切ることに快感を覚えるのだが、それはあくまでも特殊解であり、そこには強度があると同時に、現実とのギャップがある。時代は、後者にセンシィティブだ。これからの時代、ギャップについての語り様がテーマになるのではないかと話した。

4月12日(金)
「科学革命の構造」トーマス・クーンの再読を始める。本書を通して、パラダイムという言葉が広まった。パラダイムの内容の説明として、ヴィトゲンシュタインが紹介される。「ヴィトゲンシュタインは、「椅子」とか「木の葉」とか「ゲーム」とかいう言葉を、明確に、何の意義もさしはさめないように使うには、われわれは何を知る必要があるかを問うた。(中略) これらの言葉を構成するのは、自然の家族であり、それぞれ多少の食い違いがあるだろうが似た者同士を構成する。このような類似性が存在するからこそ、それぞれ対応する対象や活動をうまく同定できるのだp50」。ここでいう科学とは、ある時期のある集団によってのみ機能するものなのである。

4月11日(木)
040 CL マンチェスター・ユナイテッド×バルセロナ 
早々にバルサが得点し、圧勝かと思いきや、ユナイテッドが踏ん張り、結果1-0の拮抗したゲームであった。ユナイテッドは徐々に、スペースを見つけ出し、長いワンツーでゴールへの数を増やしていった。それに比べて、バルサは、短いパスで、隙間をこじ開けるような戦いぶりであった。
041 ブンデス バイエルン×ドルトムント 
首位のドルトムントが0-5で大敗。中盤がつくれず、まったくよいところがなかった。この大一番にファブル監督は、大胆な采配をする。怪我人が多かったこともあるが、ゲッツエを外し、ロイスのトップでのぞむ。ところが、中盤底がバイエルンに押さえられると、そこからボールを持ち出す者がいなかった。これまで、ひとつのパタンに決めて、選手をそれに合わせるかたちにしてきたつけであるとも思う。ドルトは、首位陥落。

4月10日(水)
039 CL トットナム×マンシティ 
昨日のベシクタシュのゲームと異なり、攻守が組織的である。そのかたちが両チームプレヤーにイメージできているからこそ、互いに無理はせず、余裕が生まれ、技術も安定しているように見える。事実、そうなのであるが。いつものマンシティなら、そこから一瞬の閃きによって均衡を突破するも、今日は上手く完封される。僅かながらホームのトットナムが上手をいっていた。1-0でトットナムの勝利。来週のマンCホームまで楽しみを残すかたちとなった。

4月9日(火)
038 トルコ リゼスポル×ベシクタシュ 
香川のライバルであるリャイッチが2得点3アシストの大活躍で、スコア上は圧勝となるも、後半はじめまでは、どちらに勝敗が転ぶか分からない状況であった。香川は、勝敗が決まってから登場。ベシクタシュはチームとして不安定な守備のため、スタートはトップ下を置かない3人の守備的MFを置くかたちである。したがって香川はジョーカー的扱いである。トルコのゲームは、数年前の代表の試合のように、後半は打ち合いになる。組織的な攻撃と守備ができないことによるだろう。そして後半はスタミナ不足となる。

4月8日(月)
午前中、建築計画の授業で、前田尚武さんをむかえる。今年で3回目となる。前田さんは森美術館を退社し、京都市美術館の準備委員会に所属するようになった。その他にも、さまざまなところでアドバイスを行っている。森美術館立ち上げの経験が、さまざまな場面で必要とされているのである。こんなキャリアをもった人はいないのだろう。だからこそ、お忙しい中無理を言って授業でお呼びしている。自身も、フィリップジョンソンのように、美術のハードとソフトの両面をこなす人間になりたいとおっしゃっていた。それは、建築家が気づかない細かいところのハード面と、イベントプログラムなどのソフト面、両方についていうものだ。それは、フィリップジョンソンの時代とは全く様相が異なるものである。したがって、全く新しいプロフェッショナルともいえるだろう。ハード面に見られる、レンゾ・ピアノの一連の作品の問題点指摘もさることながら、地域を巻き込んだアートイベントの提案や、アートイベントの体験ダイアグラム、あるいはイベントスケージュールの提案などソフト面での目を見張る功績が多かった。これが絶妙に建築に反映されている。最後に、世界の美術館を比較した指摘も面白い。日本の美術館の特徴を、祭りを基本とするものだといっていた。

4月7日(日)
「万引き家族」是枝裕和監督を観る。以前より増して、観た後に虚無感を感じた。最後のシーンに至るまで、家族は解体され続け傷ついていたのである。以前の是枝映画では「家族」の存在の大きさが語られ、そこに一筋の希望がもてたのだが、今回では、その諦めの方が大きかった。それは、家族という単体が社会との関係をもとうとしないと、家族は崩壊してしまうことをいっている。要するに、家族とは構成員間だけの問題でなく、社会からも位置付けられ、現代はその影響の方が遙かに大きいということだろうと思う。家族の絆以前に社会的規範が存在し、社会はそれに従って生きることを要求し、そこから個人的に拭うことなどできないのである。もちろん、社会的規範は人間的な尊厳を大切にするものであるが、それが逆に人間性を崩壊させることもある。この矛盾を巻き起こす居心地の悪さが、虚無感として残っていた。

4月6日(土)
037サウザンプトン×リヴァプール 
サウザンプトンは、よいプレッシングから先制点、そしてその後守り抜いていた。が、徐々に中盤が下がりはじめると、80分過ぎにサラーに速攻を決められ、力尽きる。そこに吉田の健闘もあったが、首位と降格圏の差が出たかたちである。ただし、マネにしろ、ファン・ダイク、ロブレンはサウザンプトンの選手であった。選手の潜在能力は紙一重である。

4月5日(金)
「ハンナ・アレント」マルガ・フォン・トロッタ監督を観る。アウシュビッツに関わるナチ戦犯の裁判傍聴記事を通して、ハンナ・アレントは悪の源は何かを迫ろうとする。現在の日本のぼくらにとっては当たり前となってはきたが、最後のアレントの講義は当時の状況を明らかにするものである。「アイヒマンは、ただ命令に従っただけだと弁明した。彼は、考えることをせず、ただ忠実に命令を実行した。そこには動機も善悪もない。思考をやめたとき、人間はいとも簡単に残虐な行為を行う。思考をやめたものは人間であることを拒絶したものだ。私が望むのは考えることで人間が強くなることだ」。当時のナチも一般市民もユダヤ人も、思考停止状況に追い込まれていたのである。映画は、アレントがそのように直感し、思考したものを、なぜ頑なにまで固持するかを描く。それが社会的な軋轢となってでもある。そのために映画では、長く国籍がなく不安定な状態にあった過去から、現在の安定を与える夫やニューヨークでのドイツ人仲間などを描き、それに対峙するかたちで「存在と時間」にかかっていたときのハイデカーの影響をあげる。その影響とは、最後の講義でアレントが訴えたこと、すなわち、生きること=思考すること=絶対的なものを認めないこと、ということであろう。そのハイデガーでさえ、ナチに落ちてしまった。アレントは、ハイデガーとの交際でその危うさを実感していた(ハイデガーがアレントに跪くシーン)。それを知っているが故の否定が、彼女を頑なにしていたのであろう。

4月4日(木)
ブルーノ・ラトゥールの「虚構の近代」の再読を終える。科学と社会との関係が、工学と芸術あるいは建築との関係に見えてくる。科学のみが普遍的な自然にアプローチできるとし、芸術のみが感性をあつかうものとしたのが近代である。そして、両者の交通を認めないようにした。人権憲法によって。しかし、実の社会は、全く以てその混合が大方を占めるのである。人間のいない科学と人間の社会という二つの方向に純化できるのは、極めて稀なことであって、それによって、西洋あるいは建築は王道を歩いているというのである。その本来の姿を描くにはどうしたらよいか?ここが問題である。本書後半の「碩学(せきがく)の大砲」の例は、これを解決する方法として分かり易い。技術(科学)をもって政治的代理制を上手く使えば、大きな物語が起こせるというのである。普遍主義のヒエラルキー構造、絶対的相対主義者の、全て等価なヒエラルキー、その中間にある相対的相対主義者としての提案である。共約可能性あるモノのエネルギーを人が放つことで巻き起こる現象のことであった。近代人的ブリコラージュが大きな渦となり得るというのである。それが何であるかの思いを廻らす。

4月3日(水)
上野で開催されている「ピュリスムの時代」展に行く。コルビュジエが、オザファンと出会った1918年から31年のサヴォア邸完成までのピュリスム時代に焦点をあてた展覧会である。コルビュジエは、当時流行したキュービズムについてオザファンから教えられ、興味を示すつも、社会に向けて独自の姿勢をとった。そのことをよく示す展覧会であったと思う。当時の20世紀はじめ、画家たちは、セザンヌが導いた「構成」というものを通じて、表現の新境地を得ることができた。それがキュービズムへと発展させていったのであるが、コルビュジエは、これを工業化に結び付ける選択をし、社会への還元を目指したのである。このことは、ペブスナーとバンハムによる「モダンデザインの展開」と「第1機械時代の理論とデザイン」で展開された近代化の一つのテーマであり、この時代のコルビュジエを特徴づけるものである。本展は、その主旨と重なるものであった。そして本展では、そのピュリスム思想を完成する作品として、「イン-ブル=ヴィラ」を位置付けている。22年のこの作品は、25年の「エスプリ・ヌーヴォー館」としてパリ芸術博覧会にてユニットとしてのみ完成したもので、「近代の美学と近代の倫理の原理を打ち出した」作品として位置付けられていた。この模型はじつは、ぼくらが学生時代にコル展で製作したものである。模型製作当時も、この主旨に沿って、数多くあるコルの作品から、これの製作を決定したのであった。対面も2回目で、感慨深いものであった。またカタログでははっきり判らなかったが、数年前にラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸を訪れた時、壁の色が白くなくベージュであったのに驚いたが、後期ピュリスム絵画を観て、その淡い色と同じであったことも確認できた。

4月2日(火)
036 ブンデス ドルトムント×ヴォルフスクブルク 
ドルトは、バイエルンとの大一番の前に、2-0で勝利。そのバイエルンはアウエーで引き分けた。後半は、どちらかというとヴォルフスクブルクペース。ドルトの左を何度となくえぐられていた。終了間際に、自ら得たフリーキックをパコが決めたわけであるが、守りを固めるヴォルフスクブルクに対し打つ手がなかったといわざるを得ない。香川がいただろうトップ下のゲッツエを追う。彼は、決してポジションを下げることをしない。代表でも香川のこのプレーが組織を遅くするとして、批判の対象となっているが、ゲッツエはむしろ、サイド深くのスペースに斜めに逃げ、前線を動かしていた。このことが印象的であった。

4月1日(月)
近代の科学主義批判として、続けて「虚構の近代」ブルーノ・ラトゥールを再読始める。17世紀デカルトからはじまる機械論的世界観を批判する。ラトゥールをユニークなものにしているのは、「モノの代理制」という考えにある。それは、徹底した客観主義を貫き通し、モノが語っているようにみせる世界観である。それは、中世ゴシック時代の、モノと議論し合意点を得ようとするスコラ哲学を一変させたもので、現在における科学というものなった。そして、このモノに語らせる方法のカウンターバランスとして登場したのは、「政治的代理制」である。人は、社会つくりにこそ主体的でいられることを信じさせたのである。ラトゥールによると、近代はこのふたつ(自然と社会)を都合よく使い分け発展させてきたという。これは真に、建築におけるふたつ(建築と機能)に該当するものだと思った。建築は人間界から超越した自然法則によって制御され、建築家はあたかも自然にしたがってがそれを生成したといい、機能性は、それに対して人間の自由意志に基づいている。これは、建築におけるつくる側と使用する側の論理立てといってもよいかもしれない。このことに気づく。

3月31日(日)
「野生の思考」を読み終える。本書においてレヴィ-ストロースは、人間の不変的構造を明らかにしたと一般にいわれている。が、その捉え方にこそ意味があったではないか。レヴィ-ストロースこそが、未開の地に足を運び、未開のものにたいして、全くゼロから新しい捉え方を発見したのである。その発見方法がこれまでにないものであったと思うに至った。それは、未開民族人個人の内部事情に入っていくことをしない。そうではなく、彼らを取り巻く社会との関係から考えるものであった。通常の観察と矛盾することであるが、一種の俯瞰的視点を持つことである。内部事情は、様々な歴史やコンテクストに左右され不確定であるとし、そこから逃れ、そのときの、全体における位置づけを確定していく。こうした作業であったのである。ここまでの理解で、ブリコラージュとは何かが明らかになった気がした。それは、限られた対象を置かないで、常に変化している無限に広がった対象の中に何らかの新しいものを生み出していく方法なのである。これは、なんと池辺陽から学んだことである(95「システムに原則はない」)。度々、物理の量子力学について触れられていたと記憶するが、その理由はこのことであったと合点した。そして、その思考構造がどの人間にとっても共通であるのは、時間を超えた永遠性の獲得を、時代を超えて求めていたためであるという。単なる延命というものではなく、子孫(文化)を残すために必要なシステムが行きつく先であったというのである。

3月30日(土)
「ティール組織」にかんする誤解を整理する。「ティール組織」に書かれていることは、全体性や名付け得ぬ質が何であるかを記述するものではなく、それがもたらす効果を得るために行うべき方法論である。難波さんが、日記で指摘した「方法は最後にくる」というニーチェに近く、実践的なことが書かれている。何ではなく、何の役に立つかということである。それは、「ティール組織」の前に書いた「建築のリテラシー」でも同様で、ポランニーを持ち出し、実際的な知識を体得するための道筋を書いたのであった。難波事務所と佐々木事務所の合同OB会に出席。

3月29日(金)
「野生の思考」レヴィ-ストロース著を再読はじめる。近代科学的思考の限界が何であるか、そのヒントが本書にあったことを思い出した。第1章の「具体の科学」が本書の概要となる。そこでは、科学についてこう述べている。「科学は、創始されたという事実だけで動き出し、自ら絶えまなく製造している構造、すなわち仮説と理論を使って、出来事というかたちで自らの手段や成果をつくり出していくp28」。もちろんこれは科学的思考を否定的に捉えている。これから、科学の限界が見えてくるからである。その限界とは、「知識がさきにあればこそ、有用ないし有益」なことであり、あるいは嫌味っぽく、シンプソンを持ち出し、次のようにもいっている。「科学者は、不確実や挫折には寛容であるp13」と。そしてそれを補うものが、ここでいう「具体の科学」=「ブリコラージュ」=「神話的思考」=「野生の思考」というのである。「科学者とブレコールの相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を創る(世界を変える)のに対し、ブルコールは出来事を用いて構造を作るp29」という。そして、美術的創作を、このふたつから独立させ、その中間に位置付け、1章を終える。2章以降は、この「具体の科学」とは何かを具体的に示していく。以前は、なかなか読み込めなかったが、2章以降に示す具体的な野生人の思考方法が実は重要であった。このことに気づいた。

3月28日(木)
ティールの結論を考える。それは、全体性の位置付けについてである。全体は、それがあるかどうかに関わらず、人は全体性というものの存在を意識しないと、自転車が乗れることを説明出来ないのである。これまでの科学(理性)オレンジ世界には、この現実を説明する言葉がなかったことになる。この考えは、目的論的な思考にとどまることに変わりないが、ぼくらが自由に思考できると考えてきたことに疑問を置き、何らかの世界観内にいるということに意識的にさせることができた。ティールという世界観は、はじめて自由でないことを前提に、自由に考えることにたいして意識的になった世界観でなかろうか。

3月27日(水)
「ローティ論集」を読み終える。一貫して記述されているのは、絶対的なものへの否定である。したがって、ローティはそれに通じる理性を否定し、現実世界に実際的である。とはいえ、脳天気に想像力を推奨している訳でもなく、それは言語をはじめとするこれまで培われてきた文化・歴史などの「古い問題群」を下敷きにした想像である。建築でいえば、大文字の「建築」の存在を絶対視することなく、認識した上でのなんぼということだろうかと思う。訳者による解題が論点を明確にしてくれる書であった。

3月26日(火)
035 代表 日本×ボリビア 
森保監督は、先発全員入れ替えるという大胆な采配をする。実際のピッチ上でないと選手を判断できないものかと疑問に思う。それとも、選手の疲労を考慮したものだろうか?ここに、森保の重きが、戦術の熟成よりも人心掌握にあることが判る。ところが、ボリビアは南米とはいえ、攻撃に関しては期待外れであった。そのためDF陣の今後への判断はできなかったのではないか。攻撃はというと、後半からの若き3人の質は、明らかに前半とは異なっていた。前半は、これまでの悪いときの日本であった。そのイメージを払拭できるほどのものが、中島、堂安、南野にあったということだろう。先発香川等の限界が浮き彫りになったような気がする。

3月25日(月)
「ローティ論集」第2章は「想像力」についてである。理性より想像力を上位に置く。ティールに述べられていた原因—結果に対する「感知—反応」にたいして、果たしてそうなのかと思っていたのだが、その疑問を払拭させてくれる内容であった。本章によって、実在(真理や神のように、その存在を言語で説明出来ないもの)にたいするふたつのアクセスが歴史的あることを確認できた。ひとつは、カントに代表される超越論的物自体を設定する方法。もうひとつは、ローティが薦める想像力によるプラグマティズム。ニーチェも登場する。ここでは、実在など眼中にされていない。そうではなく、自由の機会を増大するにはどうしたらよいかということに重きを置く。これは、もたらすものの是非を問わないので、ロマン主義的進歩観ともいわれる。想像できることで、言語化が可能になり、意識化され、社会化されるということである。「認識のない世界においては、仮象によって、同一の事例からなる計算可能なある世界がまずもって創造されなければならない」ということである。ところでぼくは、「ティール組織」の翻訳中、著者ラルーの意図を掴めないままであった。人が結果に囚われないで、自由に感知できるというラルーの態度についてである。ラルーは、そもそも世界が壮大な目標(全体性)のもと、目的論的立場に立脚することで、それの下での行為は自由でよいと、生前説に似たものを意図しているのか。あるいは、目的論など関係なしに本気で理性より感知というものを信じているのか、ということである。本章で、このふたつ目の解釈をローティから得ることができた。

3月24日(日)
NHK日曜美術館は、ノーベル賞作家カズオ・イシグロ。彼の芸術観を「浮世の画家」を通してドキュメントする。「浮世の画家」を読んだことがないのだが、そこに書かれているのは、戦争前後を通して浮き彫りになる芸術家主体の危うさである。それは強いと思ってはいても、情勢に流されてしまう脆さがある。番組によると、行き場の失ったこの本の主人公は、最後に耽美的になった。それをロマン主義的に描いている。そこには三島由紀夫のように切羽詰まったところがなく、建築でいえば、丹下健三、池辺陽のような転向もないところに少し不満が残らないこともない。別の建築でいえば、茶室に向かった堀口捨己、詩に向かった立原道造だろうか。ぼくの知らない美の中枢に関わる世界のことかもしれない。

3月23日(土)
「ローティ論集」第2章は「合理性と文化的差異」。これを読み、昨日の謝恩会で発せられた長の挨拶を思い出した。その挨拶は、先生が学生にたいして最大限の寛容さを保障することで、学生文化が育つというものであったと思う。一種のロマン主義的な考えではあるが、「ティール組織」にも、それを感じていた。ローティの本章において示される疑問も同様にことをいっている。それは、この寛容さに潜む合理性概念にたいする疑念である。そもそも得体の知れない他者の全てを、判ったように対象化することはできない。他者も当然のことながら複雑で、その存在は、その中での折り合いのなかでつくり出された居場所(結果)のようなものなのである。つまり、寛容の中に既に存在する一種の優位性の危険性を指摘したものだ。これを読み、フーコーの「パノプティコン」を思い出す。これは、監視者を内在化させることで収監者を自然服従させるというものだ。ところで具体的に本章では、文化について3つの考え方を挙げている。文化1は、人間にも動物にも認めることができる共有された行為の習慣性。文化2は、音楽、絵画、建築などのハイカルチャー。寛容さによって成立するものである。文化3は、優劣判断を含み、いわゆる西洋文化のことをいう。これにたいし、知識人に受け入れられやすい考えは、伝統文化は決して西洋文化より劣っている訳ではないので、伝統文化の保存に走るか、自然な淘汰に任せるかのふたつである。このふたつの考えに疑問が呈されている訳である。

3月22日(金)
謝恩会に出席。そこで学外へ作品出展した学生から、講評内容の報告を受ける。なかなか現実は厳しく、次年度の課題として持ち越す。これで今年度の行事も全て終了。今日から「ローティ論集」を読みはじめる。訳者冨田恭彦氏の解題によって、「哲学と自然の鏡」「偶然性、アイロニー、連帯」の内容を深めることができそうだ。第1章は、前期ヴィトゲンシュタインから後期ヴィトゲンシュタインへの転回についてであるが、それは実在する「名付け得ぬ質」あるいは「全体性」なるものにたいする態度についてであった。前期ヴィトゲンシュタイン(あるいは後期ハイデッカー)は、この名付け得ぬ質(あるいは「理性の他者」)を言語で説明しようとした。しかしこの試みは理論的に矛盾していて、神秘性を帯びるだけであったという。これを、可能性への逃避といい、現実を見ていなかったとして本章は批判する。19世紀に哲学は、意識や経験について考えた。それを言語に置き換えただけで、哲学を延命させたことにすぎないといっている。おそらく「建築」も、こうして生き続けてきたのではないかと思う。また同様に、ラッセルの論理的対象やカントのカテゴリーも批判する。それは、経験され記述されるようになる前に、先に挙げた対象がそれらを関係づけなければならないからである。つまり、線的思考を否定したものだ。それらを受けて後期ヴィトゲンシュタインは、神秘的な対象を示すだけに留まる。そして内容を語ることができないという立場をとるようになった。これでプラグマティズムを発した。難波さんが「ティール組織」を批判するときの態度と同様の主旨を感じる。しかし、それは深読みで、ケン・ウィルバーと異なり「ティール組織」は、現実とのプラグマティックな対処方法を書いただけのものである。自転車乗りについての説明を拒否し、乗れるという事実を直視するものである。
034 代表 日本×コロンビア 
親善試合とはいえ、両チームとも真剣であった。コロンビアの監督は、先月戦ったイラン率いるカルロス・ケイロであったのにびっくり。その時辛うじて日本は勝ったのだが、イランより数段コマの揃ったコロンビアである。それによって、日本の弱点が的確に浮き彫りになるのではないかと、今後のために期待した。試合は、大迫に代わり武蔵がトップに入るも、基本的に日本が主導権を握っていた。先発は若き3人。彼らはスピードに優れ、終始コロンビアDFラインを脅かしていた。しかし、日本のアグレッシブさは90分続かない。後半に入り日本の勢いが落ちたところで、カルロス・ケイロは新しい選手の投入し、調子がよかった左前の中島を守備まで引かせ、巻き返してきた。得点はPKによるものであったが、その前は迫力ある攻撃であった。その一時の勢いで、あっさり得点されてしまった。これが、強豪国との違いである。香川は、今日は控えであった。前線の疲れが見えたところで、別のパワーとして注入された。この戦術は、カルロス・ケイロの上をいくものであったと思う。香川は、スピードこそ劣るものの、今度は左右大きくボールを動かし、DF陣を揺さぶっていた。得点こそ生まれなかったが、今後のこのパタンに期待したい。

3月21日(木)
横浜美術館で開催中の「イサム・ノグチと長谷川三郎」展へ行く。イサム・ノグチはもちろんアーティストであるが、彼の行ってきたことは、新しい何かを創り出すというより、歴史的に残されている文化、例えば土器、石庭、焼き物、寺などを自分なりに抽象化する作業であったことを改めて感じる。その題材に恵まれていたこと、彼独特の抽象化作業が、作品をユニークなものにしている。もちろん、男と女とか、人生とかのテーマは個々の作品にある。がそれよりも、異なる素材を使って、歴史を遡り、当時と同じ行為をしているに過ぎない。ただし、その行為に没入する主体(個人の思い入れ)が強く、歴史的な文化作品とは一線を画したものになっている。本展は、それに導いた長谷川三郎という人物にも光りをあてている。はじめて長谷川の作品を観て、彼のトポロジー的思想を知る。イサム・ノグチと異なり対象は無限に広がっていくものであった。初期の昆虫の軌跡を追うなどの「あやとり」偶発性シリーズ、日常的な写真における批評性、マルチブロック、漢字の分解シリーズなどである。イサム・ノグチは、これを立体的であること、物質的であることにおいて、長谷川をはじめ当時の抽象画家たちより数段前を進んでいるように思えた。

3月19日(火)
午前中に墓参りに行き、午後佐藤先生と打ち合わせ。研究室の床掃除が完了し、新しい気分になる。雑務をこなしながら、新しい案の階段のスタディを続ける。

3月18日(月)
新プロジェクトの打ち合わせ。その後、2重螺旋階段について、資料を当たる。ミケランジェロのバチカン、ダビンチによるサンボール城、福島のサザエ堂を思い浮かべる。アラップのロンドン動物園もあった。棒に均等に紐を吊るし、先端に錘を付け、紐の長さを一定に変え、回転させると、綺麗な螺旋形態に収束していくことも知る。ガウディを思い出す。計算ではない方法で、実際の幾何が決まっていくことに感動したりする。

3月17日(日)
JIAマガジン361が届く。冒頭の、坂牛さんと加藤耕一氏のインタビューが面白い。日本の建築の特徴として「テクトニック」というキーワードをあげる。それを、結構でなく、構築と訳す。そして話題は、建築の自律性に。このテクトニックを手段として、自律でも他律でもないものに位置付けようとしている。奇しくも「人間の条件」にも、同様な意味のカントの言葉があった。繰り返しになるが、「いかなる人間も目的のための手段であってはならず、全ての人間が目的自体である」である。「テクトニック」という言葉にこのニアンスを感じる。
033 トルコ ベシシュタク×ギョステペ 
先発した香川は89分まで動き回る。はじめてリャイッチと共にピッチに立つも、決定的な爪痕を残すことができなかった。特に前半はひどかった。香川がDFまで下がるもそこからの展開がさっぱり。後半から、リャイッチが下がり、香川は前線に残る。それによって、前半よりボールが動くようになり、なんとか1-0で勝利する。

3月16日(土)
「人間の条件」を確認する。建築にとっても重要な、公的空間がテーマとしてある。古代ギリシア時代、公的領域と私的領域は明確に分離されていた。自分が万人の中の最良の者であることを示す場が公的空間であり、それは平等を象徴する場ではなかった。それにたいし私的空間は、それを実行できない人間(奴隷・女性)が労働する場であったという。つまり世界は、残された余地のある不均一なものであったのである。しかし、社会やキリスト教が勃興し新しい価値観が提供されるようになると、公的/私的の区別が曖昧になり、現在では一様化している。労働が開放され、私的領域内から外に出る絶対数が増えるようになったからだ。そして、新しい秩序が公的領域に求められるようになった。公的領域が、自由を保証するものから自由を制限するようなものへ意味を変えていったのである。私的領域にも、そこにあった秩序が消え、個人はさらなる内部へ逃亡していく。本書の言う「活動的生活」とは、他者との関係から把握できる人のリアルな活動のことである。活動が不可能となり、もっぱら生産手段を担うだけの工作人(受身的人間)になってしまうことが、ここで問題にされている。

3月15日(金)
「人間の条件」ハンナ・アレント著を再読。はじめて読んだのは、確か難波さんに薦められたからであった。当時、設計を進めていくに当たって、設計行為の不純性を感じていた頃のことであった。例えばクライアントの内装仕上げに関する要望を、「建築」との折り合いから再調整するのは、建築が誰のものであるかと考えると、ぼくにとって自己矛盾を引き起こす問題であった。そうした矛盾を抱えずに社会に身を任している?例えば女子高生を見ると、幸せに思えたりした。その疑問の応えとして薦められたと記憶している。今回の読書で改めて思うのは、第1章にあるように、人間を、内(本性)からでなく、社会から条件付けようとしているところの本書の斬新さである。したがって、社会は与えられるものであってはいけないのである。彼女の社会批判の中心がここにある。

3月14日(木)
032 CL バイエルン×リヴァプール 
0-0からのセカンドレグ。アウエーのリヴァプールが、3-1で8強を決める。どちらに勝利が転んでもおかしくないかたちであった。リヴァプールはカウンター狙いで、前線からのプレッシング。サイドにボールを追い込み、そこでで囲み速攻というかたちである。このクロップ特有のかたちが効いていたものの、得点はそこからではなく、セットプレーからファン・ダイクがヘッドで決めた。バイエルンもこのかたちを上手く交わしていたので、結果はたまたまであったと思う。イングランド勢が今季は強い。これで4チーム全てが8強に残ったことになる。

3月13日(水)
岩間さんの紹介で、構造家の桒子亮さんと打ち合わせ。さっと閃いた発想も、既に誰かによって検討がなされており、その結果、現在一般化されている構法は、そうした試みが修正淘汰されて合理的なものに行きついている、このことを痛切する。思い切って、前提条件を外して考えるも、なかなかブレークスルーできず。そこで、ひとつひとつのディテールを具体的に検討し、少しずつブラッシュアップを積み重ねる。目から鱗が落ちるような案とはならずも、床面積が10%程度改善した案になる。それは、一体的な構造を木造+基壇の2つに分けるものであった。上部木造を溝型鋼鉄骨、重量鉄骨とサイズアップさせていき、基壇をコンクリートから重量鉄骨へとサイズアップさせ、両者を近づけていった。まだぼんやりしているが、これのネーミングを目指して、ミーティング終了。ダイアグラムを書き始め、今日の整理を行う。
031 CL ユベントス×アトレチコ・マドリード 
C・ロナウドのハットトリックで、ユベントスが逆転で勝ち上がり。C・ロナウドの強さが目立つ試合であった。アトレチコの固いDF陣ゴディン、アリアスに挟まれても、遙かに高い位置で空中戦を制していた。こんな選手が、チーム、代表にいたら、どんなに試合が楽になるだろうと思う。

3月12日(火)
片山先生の退職を記念して、感謝の会を学士会館で行う。多くの先生が参加し、和やかな2時間を過ごす。片山先生には赴任以来お世話になった。かつ古市先生が去った後は、意匠系のをまとめてくださった。このお礼を述べる。片山先生の人柄が現れた会であった。片山先生はお疲れになったようで、意匠系の先生だけで学士会館近くの居酒屋で打ち上げをする。

3月11日(月)
030 トルコ ベシシュタク×コンパスポル 
75分過ぎから香川登場。直後に同点に追いつかれるも、ロスタイムに香川自身が決勝点を決める。左のSBアドリアーノのインターセプトを受けて、角度のないところから打ち抜いた。これで、その前の、右サイドでのワンツーシュートと左から逆サイドへのセンタリングも評価されるようになるだろう。怪我の具合が不明であるが、今日先発でないところをみると、一時よりも監督の支持が薄らいでいるようにもみえる。同ポジションのリャイッチも前半よかった。香川らしいクリエイティブな仕事ではないが、再びチームに痕跡を残しつつある。

3月10日(日)
今年度の確定申告をまとめ、午後、敷地めぐり。意外なことを多く発見する。昔はよく通っていたところであったが、だいぶ変わってきた。住宅街が若者向けの店舗に変わってきている。店の入れ替わりが激しいだろうが、2極化が進んでいる。

3月9日(土)
午後、新しいプロジェクトに向けて打ち合わせ開始。スチールによる積層構法を思い付く。梁勝ちラーメン構造とも言える。具体的にプロジェクトに適用。設計をシステマチックにする方法である。これによって、外部空間の使い方が提案できればと思う。スケッチを始める。

3月7日(木)
午前中、打ち合わせを行い、夕方設計方法小委員会。
029 CL パリ×マンチェスター・ユナイテッド 
終了間際のPKでユナイテッドが8強に進出。パリはこの壁を越えられない。ファーストレグをアウエーで2-0で勝利したのにかかわらずである。ユナイテッドは、ほとんどの時間を守りに割いていたのだが、ポイントで得点を重ねた。スールシャールに代わり、チームがまとまったかたちである。

3月6日(水)
027 CL ドルトムント×トットナム 
0-3で迎えたセカンドレグ。ドルトは、5バックのトットナムに上手くかわされる。相手GKもよかった。反対に速攻一発をケインに決められ、万事休す。0-1で16強敗退。悔やまれるのは、相手ホームでの無駄な失点であるが、狙われていた。経験の差であったと思う。
028 CL レアル・マドリード×アヤックス 
よもやのレアル敗退。スペースを消し、比較的長いパスでじわじわと相手を追い込むレアルは見事な技術と戦術であったが、負ける。アヤックスは、前線3人が抜群に調子よかった。速攻でレアルDF陣を崩した。レアルは、バルサとホームで2戦闘い2連敗であったそうだ。その歪みが来ていたのかもしれない。はじめにチーム戦術ありきではなく、点を獲るために何をすべきかであることを知る。ロナウドがいなくなった今、柱を決め、その選手が点を獲れるシステムが必要となるのだ。そして、その選手が欠場の時のオプションが次に必要となる。戦術に立ち位置を当てはめることではなく、闘う方向性の意思統一を高めることが大事なことを知る。

3月4日(火)
午前中、恵比寿の弁護士事務所へ。叔父の問題もこれで解決し、一安心である。事務所に戻り、SHPPの資料整理。思い出すことも多い。同様の方法の、縦ログ構法での可能性を思い付く。どちらも壁ユニットによる組み立てである。当時、工期とコストを明確にして、構造ユニット+ハコ+建築という3段階にスケールを分けていた。ユーザにとって、建築を扱うには大きすぎるので分割する。手頃なガジェット(道具)を使用することで得られる自由をシステム化したいと思ったのだ。

3月3日(月)
三輪山神社へ。その完璧な円錐のかたちから、古代から信仰の中心だった。それは神社というビルディングタイプが生まれる前のものである。神がつくったとしか思えないかたちの山に、神が降臨し岩に座する。それを対象神として祀ったのがはじまりである。雨のため入山できなかったが、途中にいくつか磐座(いわくら)があることは、磯崎の文章から知っていた。磐座とは、神が座した岩のことである。ただし、今の三輪山大神神社は由緒ある神社となっている(一説には伊勢神宮より古いともいわれている)。昨年の初詣では、あまりにも人が多く、自動車であったため行けなかった程であった。その奥の浅井神社にも行く。薬の神といわれ、社殿の脇で清水をいただく。その反対横が入山口である。磯崎に言わせると、古事記が磐座、日本書紀が大神神社にあたるという。いつの時代も、文化をかたちにすることを考えていた訳である。奈良国立博物館へ。片山東熊の本館と吉村順三設計の新館を結ぶ地下回廊を体験したかった。97年の設計により、本館のメイン入口は西から東へ移動し、中庭公園を囲む配置計画となった。東の入口は誰の設計かと思う。地下回廊は、池を避けるようにあり、そこからレストランへ行ける。本館も最近改修された。栗生明氏と聞く。谷口さんとは異なり、白く明るい室内でありつつも静かな空間である。多くの重要文化財級の仏像が並ぶ。室生寺金堂内部の2体の欠けていた仏像も観る。浄土堂ではなく本殿にあったとされる快慶作の阿弥陀如来立像もあった。仏像の歴史と部位の詳細な意味を地下回廊の展示から知る。少し観る目が変わる。新館は、お水取りに合わせた企画展示が開かれていた。お松明の実物があり、その大きさにビックリ。数々の展示とビデオから、お水取りは荒行のクライマックス行事であることを知る。選ばれた修行僧の最終目標なのだ。それを民衆に見てもらい評価され、自分の立ち位置を見直すための行事であった。常設展で、當麻寺五重塔で舎利が見つかったという展示を発見。舎利は、柱下でなく、上部の飾りの中にあることを知る。往復の新幹線内で、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督の2本「ボーダーライン」と「静かなる叫び」を観る。「ボーダーライン」は、メキシコ国境付近での麻薬組織を描く映画である。エミリー・ブラント主演。世論が足かせとなって、取締を強化できない米政府が、闇でメキシコマフィアと抗争を展開する。FBI捜査官扮するエミリー・ブラントは、高官によって、この陰謀に利用される。そこでは社会的道徳は通用しない。力や精神、頭脳の強い者だけが生き残っていく。どれだけぼくらは、実態がないものの国家というものに守られているかを痛感させられる。「静かなる叫び」はフランス語による白黒映画である。ヴィルヌーブの初期作品。1989年に実際に起きたモントリオールの理工科大学での乱射事件を題材とする。名前のない男子学生が、女性政治活動を憎み、女生徒を狙った校内乱射事件を起こす。キーワードは、主演者によって度々語られる熱力学第2法則である。第一の殺人現場の教室でも、それをテーマに授業が展開されていた。これはヴィルヌーブ監督が使うテクニックで、「メッセージ」でも同様であった。旧来の男性目線でこの映画を語れば、やがて死にゆく旧来の男性イメージがテーマとされている。男/女の区別はなくなり、時に男はそれに抵抗するのだが、やがて消えゆく運動は絶対的に不可逆なものである。ブリコジンの「確実性の終焉」を映像で観るような感覚であった。犯人も自殺し、生き残った被害者女性は子供を身ごもり、生き抜こうとするが、そこから身を引いてしまった行動力のあった彼氏は自殺してしまう。たったこれだけの内容を、美しい映像でつくり出す。ヴィルヌーブの非凡さを感じる映画であった。

3月2日(日)
久しぶりに室生寺へ。釈迦如来坐像のある弥勒堂は非公開も、金堂で釈迦如来立像、十一面観音菩薩像などじっくり観る。以前と変わって、室内に入れなくなった。そして五重塔へ。白い軒縁が効いている。見上げる建物は、軒裏がポイントであることは、羽黒山の五重塔で知った。羽黒山では白地の砂利の上に建ち、反射光を受けていた。土門拳撮影の雪の中の室生寺の五重塔は有名である、同様な効果と理解した。この写真に感動し、「古寺巡礼」の作品集を購入したのであった。そして今日は、長い石階段を上って、奥院まで行く。かなりしんどい。奥院は、木と石でつくられたべたっとしたへんてこな屋根であった。参道横の店でうどんを食べる。聖林寺をかすめ、今日は談山神社へ。十三重塔をじっくり観る。垂木が遅くピッチが細かくこれまで観てきた塔建築よりはるかに繊細であった。拝殿まで入れるのがよい。本殿との間の中庭の大きさの感じを掴む。どことなく大陸文化を感じた。石舞台古墳を観て、阿倍文殊院へ。快慶作といわれる文殊菩薩像を観る。昨年の快慶展の時とは異なり実物は迫力がある。おどけた童子像、須菩提像、維摩居士像も快慶作である。表情が豊かである。阿倍清明は卯年の神であることも知り、俄然興味が湧く。早めにホテルへ、美味しい夕食であった。

3月1日(土)
京都経由で奈良へ行く。運慶出世作、大日如来坐像を観るため円成寺へ。多宝塔は、密教形式である。明確な幾何学形態が積み重なる建物である。現在、大日如来坐像は別の現代の建築に収容されていた。しかし、近くまで寄ってじっくり観ることができた。思ったよりふくよかでない。表情が誇張されてなく、運慶初期の特徴をよく表している。その後、狭い山道を経て、岩船寺へ。三重の塔が有名であるが、本尊阿弥陀如来坐像は大きく、平安期のものである。住職によると、初期ほど本尊は大きく、時代を経ると小さく技巧的になっていくという。先程の運慶は、もちろん鎌倉時代のものであるが、運慶は活動の初期に奈良に留まり、奈良時代の仏像を繰り返し観察していた。その影響が大きいことが判る。久しぶりに、浄瑠璃寺へ、9体の阿弥陀如来坐像を観る。国宝であるが、ディテールに関しては、運慶の方が上のように思える。大きな池を挟んで、東の朝日を取り入れる三重塔。そこには薬師如来がある。そして西日を取り入れる本堂である。少し早めに東大寺へ。お水取りは3月14日のことをいうが、その2週間前からお松明という行事がある。そのお祭りを観る。流石に人がいっぱいである。引き返し工場跡珈琲店に寄り、裏から再び二月堂へ。2度目であるが、今日は松明を出発するところも観る。予想以上に松明の軸となる竹は長く重そうであった。この長い松明を高く抱え上げる修行僧に関心する。向かって左から反時計回りに駆け巡る。修行僧によって、そのパフォーマンスに特徴が現れる。奈良町の7席しかないイタリアンで食事し、ホテルへ。

2月29日(金)
鈴木さんとのゼミ。具体的な方針に入る。通常は閉じ気味の積層構造を、構造的な制限が苦に見えなくなるくらい開いたものにすること。それによって得られる自由度を表現にまで持ち込むこと。棚の移動の容易さの斬新性や小口の断面表現にその余地があるのかもしれない。研究室のSlackを新しく更新してくれたので、コメントを書き込む。4月からこれをフル回転させて、何が起こるか見てみよう。

2月28日(木)
クブラーの「時のかたち」の再読始める。「抽象の力」との共通性を見出せなかったからである。深夜に、長谷部と原口、浅野の試合を観る。長谷部はチームの中心となり安定している。チーム状態もよい。それに比較してハノファーは狂しい状況であり、2人の立ち位置も苦しい。

2月27日(水)
「抽象の力」岡崎乾二郎著を読み終える。Ⅳ部には、ゴンブリッチ、クブラー、クーン、レヴィ・ストロース、ポパー、ベンヤミンが登場。テーマは形式。岡崎のいう形式とは、内包、外延によって規定されるものでない。内包、外延をリアルに掴めないが、モノ、時代精神といったものだろうか。つまり、主体と対象との間でその都度つくられるべきものとして定義される。したがって、複数存在し、自己再生産能力を持つが一元的なものである。道具にたいする同等のイメージともいっている。上記の人たちは、徹底した形式主義的な自己撞着によって、これを発見したという。そう考えると、形式間の交通(対話、通訳)は通常、不可能である。その上で本書の結論はこうである。グリーンバーグのようにその形式ひとつひとつを純化するのではなく、あるいは、形式は数多あるのだからその優劣をヘゲモニーとして争っても無駄で、複雑な現実として、完結し得ない(固有のパラダイムとして形成し得ない)ことを認め、共時性を見出していくことしかないという。構築性への意志ということだろう。それは、安易な交通を支持する耽美(ロマン)主義とも異なり、批評が伴う。その意味で、社会性というような安易な意味での人間主義の解体を求めるものでもある。「自己解体」、「形式」、「構築への意志」、「批評」、「非人間主義」、これらずっと気にかけていた言葉を繋げてくれた書であった。読後、難波さんの本書にたいする感想を読む。予想に反して、テンションがそう高くないので、なぜかと思う。

2月26日(火)
朝から、一級建築士の定期講習。夕方5時までビデオ授業でその後は修了考査。息子に教訓じみたことを言っているが、これでは機械しか育たないことを実感し、反省する。ビデオの内容は3年の間に施行された新しい法規解説が主であり、既存ストックの活用、構造強化、CLT、CO2削減にむけての環境整備等である。数多ある切羽詰まった問題の中で、これらは内閣が強く取り組むことを決定した課題である。官僚はこれを、複雑な利害対立状況から法令化を巧妙にしていく。この姿勢を目の当たりにして、形式化することの強さと日本社会の見事なヒエラルキー構造にゾッとする。とはいえ、こうした講習を通して、さらに広く社会に実践されていくことを思うと、ぼくも間接的に協力をしているのだ。ただし、あまりにも細分化されすぎて、現実に合っていない袋小路に陥っているので、こうした方法も限界かもしれないと思う。その中で旧38条認定の復活は頼もしい。設計者の自由度を復活させたものである。官僚がこれまでの決定を覆すことなどなかったので、こうした巧妙さがあるのだとしたら、浄化作用として大歓迎である。
026 トルコ ベシクタシュ×フェネルバフチェ 
香川が先発。序盤からベシクタシュはゲームをコントロールし、前半で3-0。香川もその勢いにのり、果敢に攻め、アシストも記録する。圧勝かと思いきや、イスタンブールダービーだそうで、そう簡単にはいかずに結局3-3となった。後半香川は活躍できず。まるで、代表戦の決勝トーナメントを観るようなゲームであった。ボールが落ち着かずひたすら激しい。ベシクタシュが、香川をずっと熱望していた理由も判る。ゲームをコントロールすることを望んでいるのだ。監督の厳しい香川への批判が、ニュースで流れるも、納得する。これを改善するために必要としていたということだろう。

2月25日(月)
EDHのOBである鈴木竜太さんの設計した新しい住宅の見学に、研究室の学生と行く。敷地は、大きくU字にくねった坂道に囲まれた中の、ごちゃごちゃと込み入った住宅密集地にあった。当然旗竿地でもあるので、坂道から長いアプローチ路が続く。そのさらに回り込んだ奥に玄関がある。よくもこれ程、歩き回すかと思うのだが、1階は水回りなどのサブ空間でしかない。そして、そこから折り返し階段を上ると、現れるのは、大きく横長に広がった一室空間のリビングダイニングである。これまでのアプローチのありようを納得させる圧巻のパノラマな景色がそこに広がっていた。眼下には昔ながらのトタン板の住宅。さらにその下には東横線路がある。ここは谷間沿いの山中腹付近であることが判る。線路の向こうは再び山。といっても住宅地がびっっしり。神奈川典型の谷筋景色を一望できる計画であった。そして敷地が三角であることも判る。その三角敷地に合わせるように、角に設置した暖炉から放射状に梁が伸びる平面形である。敷地条件を充分活かした空間構成が、外へ放り出されるような空間となっている。その放射状梁の端部には、西日をカットするという壁柱があり、動き回ると壁柱の角度が異なるので重なって見え、外の景色が動く。聞けば住まい手はひとり暮らしだそうだ。なんとも贅沢な暮らしが展開されるのだろう。鈴木さんの建築のよいところは、住まい方を想像できることにある。都市であろうと建築が自閉することなく、周辺環境との噛み合いが明快に判るからだろう。鈴木さんにとってそれが構造・構成となっているのが特徴である。前の作品も、中央に太い大黒柱がある大胆な木造であったが、今回も木造によって、よくここまでの空間構成ができるものだと感心した。ただし、木造はジョイントに融通が利かないので、どうしても隠す必要が生まれ、普通のディテールになってしまう。ジョイントにこそ、「人間・空間・ものの関係をどのような形で結び付けるかというポイントがある」といったのは、池辺さんである。細部のジョイントへの拘りは、空間を窮屈にしてしまうとは限らないのではないか。近くに、手塚さんの集会所と妹島さんの集合住宅があった。どちらも(線でなく)面で構成される建築で、ディテールが全く見えない熟れた建築である。それによって空間性が引き立っていた。しかし現代は、デジタルを駆使して解像度を飛躍的に上げる時代である。細部を密集させたような空間方法もあると思う。これが目指すべき方向でないかとも思う。とはいえ、妹島さんの集合住宅の新しさもあって、それも発見できた。通常の現代露地とは異なり、2階部分が出っ張り、引っ込んだりしていて、露地が立体的であるのだ。森の中を歩く感覚に近い。それを、樹と全く異なるスケールで可能にしていた。
025 ブンデス ドルトムント×レヴァークーゼン 
今日のドルトは、先発メンバーのポジションを昨年のかたちに近くし修正を図り、昨季監督のボスを迎え撃つ。ヴァイグルをボランチに、ゲッツエはトップ下である。というよりも、戦術を受けて立つ形に戻した。3-2で接戦を手にする。3差の勝点をキープする。

2月24日(日)
今年度の卒業設計・修士設計の講評会に、山梨知彦氏、五十嵐太郎氏、家成俊勝氏をむかえる。非常勤の御手洗さん、佐野さん、佐々木さん、河内さん、中川さん、一色さん、吉田さんも参加し、活発な意見交換が行われた。家成氏は千葉工大の特徴として、バリエーションの豊富さを挙げ、形をつくることへのチャレンジを評価してくれた。それは、五十嵐氏も同様である。そこには構造的アイデアがあることを指摘し、プレゼが壁一面を使えることも、その原因として挙げてくれた。大学院に関しては、リサーチが綿密であることを評価してくれたのも嬉しい。したがって修士設計に関して今後、プレゼ時間がもっと必要となるだろう指摘は、今後ぼくらが考えなければならない問題である。それは、学生、特に修士学生のプレゼにみられる十分な熱意によるものであった。が、要点がまとめられてなく、判りにくかったことも事実である。時間を増やすことと同時に反省しなければならない。山梨氏からもプレゼに関してのアドバイスをもらう。それは、自分が組織事務所に属していることと前置きをし、もっと一般の人にも通じる言葉で建築を語ろうというものであった。それを、ごく普通の「ひらがなで語る」といっていた。これは、ぼくら建築家への批判でもあり、鋭い指摘であったと思う。やってきた経緯の説明よりも、できたモノへの忠実な説明によって、こまでの成果を十分に言い表せないといけない。アクティビティ等の社会性は、こうして示されていくべきものなのだろう。他に、断面図の素晴らしさも同時に指摘し、他の先生方と同様、造形力を買ってくれたのが印象的であった。山梨氏と講評をするときいつも思うのは、アトリエ派の建築家より形の存在を最後まで信じているところにある。そんな山梨氏からの発言を重く受け止める。最終的に選ばれた3案は、滝怜華さん、香取裕之くん、グエンヒョウくんの案であった。滝さんの作品は、青山通り付近の状況を踏まえた青山劇場のリノベーションである。評価は、保存されたホール以外の残された外部空間の扱いにあった。ここでのアクティビティに期待が寄せられた。都市への新鮮な眼差しがあり、他の作品にはない、力の抜けたところが評価されたのだと推測する。グエンくんの作品は、山梨氏がいうように抜群の造形力があった。それは原寸設計から得られたものであることとして評価したい。この講評会では、人と動物を含めた外部環境についての言及をしながら形の根拠付けをしていた。このことが評価された。その上で山梨氏のアドバイスは、もっとその両者を同時に語る言葉があってもよいということであった。学内発表では、ひたすら人目線で語っていたことを思うと、そこからの大躍進である。最優秀賞に相応しい。五十嵐氏は、現代の「塔の家」ともいってくれた。小さくとも濃密な様々なアクテビティを包みこむ東京建築という指摘であろう。抜群の指摘である。香取くんは、残念ながら2等であった。討論されることなく盛り上がらなかったことにその原因があり、指導教員として少し反省する。河内さんの指摘が面白い。香取くんが研究の出発点にあげた「歩道橋下の喫煙場所のイメージ」は、裏と表が捻れた面白さがあり、それをもっと空間化した方がよいのではないかという指摘であった。五十嵐氏は、コープヒンメルブラウにもあった偶然性を拾おうとする方法論を買ってくれた。香取くんと大高くんは同じようにエレメントの再合成をテーマにしているが、山梨氏のいうオートマティズムとしての評価は、選ばれた香取くんではなく、大高くんにあった。これが面白い。山梨氏の卒業設計が、廃墟をテーマにしたものであったことを五十嵐氏から後で聞いた。大高案にたいして琴線が触れたのだろう。しかし、提案されたかたちの面白さから香取くんの案に軍配が上がった。ふたつが選ばれるとは思っていなかったので、こういうのが選考の綾だろうと思うので、大高くんは落ち込む必要がない。ぼくとしては、いくら拒否しても建築を組み立てるのに必要となる建築家の主体が大事である。これを真っ当に位置付けることを、両案に指導してきたつもりでいる。その視点からすると山梨氏のオートマティズムは、主体性に関してより俯瞰的であったことで評価され、大高くんがその点で優れていた。ただ、提案された作品が超えていなかっただけである。その代わりに山梨氏は、大高くんの作品をディープラーニングの実践といって、社会背景との結び付けにヒントを与えてくれた。ディープラーニングとは、学習方法を学習するということで、脳にある階層構造をいっている。これの建築化が、大高案というわけだ。今後に期待である。学部では、町田くんが健闘する。工学からアートへ展開しているという五十嵐氏、山梨氏の評価であった。それは、つくることからの自閉性から逃れ、批判による自壊性へ進歩しているということだろうか?そうだたとしたら、この2週間の町田くんの成長を嬉しく思う。五十嵐氏が指摘したように、アナログ感覚的な建築が、アートのように批判性をもち得たことになる。佐野さんからはこの点を前向きなパーソナル空間として講評を得た。河内さんと山梨氏から、外部空間の意識がないことの窮屈感と指摘された。もしこの気持ち悪さが不気味な領域まで拡張できれば、両氏の指摘も払拭できただろう。次に期待である。現実の小屋を製作した塚原くんの作品は、同タイプの家成さんからは厳しめの評価を受けたため、優秀案に選ばれず。彼は3年生時代にぼくのスタジオで頑なな空間志向を持っていたのだが、それと現在の仕事とのギャップを繋げるようになれればと思う。

2月23日(土)
「抽象の力」Ⅲ部前半は、イサム・ノグチと白井晟一。大学生の頃、白井の弥生登呂遺跡公園内にある「芹沢美術館」に行って、えらく感動した思いがある。その後、いくつかの白井の作品を見てまわった。しかし大きな声で白井が好きだとは、ちょっと恥ずかしく言えなかった思いがある。一般に白井は「個人的趣味に耽溺した」建築家と評されていたからだ。そうした気持ちを覆す応えが本書に十分に用意されていた。「理性が、本能や自然感情の領域にせまりうるのはしれたものだ。(中略)あらゆる部分が弁別できないほど、緊密にして一つの全体にうちにとけこみ、渾然たる調和に統一される」ものを白井は目指していたという。これが具体的に、縄文や核エネルギー、あるいは受胎にたいする注視につながっていった。これらはどれも、これから纏まろうとする直前の「野放図な生のエネルギーに満ちた」状態である。建築でこの状態を意識的につくろうとしていたのだ。これが原爆堂の配置計画、ノアビルの平面図等に現れているという。後半では、建築家ルクーと比較される。ルクーの新古典主義にみられる、知覚をとびこえて直接、精神に働きかける具体的な回路の存在を白井は信じていたという。本書のいう、抽象幾何(芸術)の持つ、具体的な力とは、このことであったのだ。次からこの具体性がテーマとなる。

2月22日(金)
「抽象の力」Ⅱ部を続ける。漱石が再び登場。「客体と主観の区別があらかじめあるのではない、確率的に形成される函数こそが、それを定位するのだ。漱石は、その有様(主観と客観の混じり合うさま)を、水蒸気が示す、さまざまな様相として描写するp235」。「主観も客体も、この湯気の中の知覚のように、さまざまな感覚の確率的な分布から立ち現れる現象的な様相にすぎないのだと。その関係を止まった形に固定し制御するのは(国家に代表される)政治的な制度、権力だろう(漱石は、こうした国家権力のあり方を、蒸気機関車に喩えて記述している)p236」。「もし芸術が、(調和という観念によって)すべてを固定し静止させる形式の実現を大言壮語するのであれば、その衝動はファシズムの衝動にこそ、近接してしまうp237」。しかしぼくら表現者は、この確率的状況を一端止めざるを得ない。どうしたらよいか。その応えが、雪の結晶を追い続けた中谷宇吉郎と中谷芙二子親子にあるという。「むしろ、この自然プロセスに含まれる、人の目にとっての混乱、人の目が見損なう逸脱こそが、創造的でありうるし知的探究の対象たりうる。創造とは、人の認識に沿って自然を形態として整えることではない。それに対峙し観測する人間の認識こそを転換させることにあるp247」。これを読んで、はずかしながら宮崎駿の「もののけ姫」のラストシーンを思い出してしまった。そして中谷芙二子の作品からの戒めとして、「霧に神秘はない。曖昧なのは、われわれ人間がそこに見出そうと欲する(観念としての)オブジェクトという概念自体であるp252」と、Ⅱ部を締めくくる。中谷宇吉郎の美術館は磯崎による。読後、中谷芙二子のYouTubeを観る。そこで彼女は、自分の作品をアートとはいっていない。実験といっている。アートによる権威主義を否定している。
024 JL セレッソ大阪×神戸 
神戸の3人に惹き付けられ観るも、ゲーム内容はいまいち。やはり11人で行うスポーツである。

2月21日(木)
「抽象の力」Ⅱ部を続ける。昨年観た映画「モリのいる場所」の画家、「熊谷守一」がはじめであった。守一の仕事を評して、「感覚されたものと認識されたものの落差が与える、経験の強度こそ、熊谷守一の仕事の核心があったp21」という。「影響されることができ、再生できるのは、当たり前ですが自分たちが理解できたことだけです。ゆえに理解した側が変わることなく、構造は影響をうけることがなく見かけだけが変化する。が、これでは同期も共振も起こらないでしょう。共振つまりレジナンスとは繰り返せば、構造的に起こる同期であって、ゆえにそれは一時的、表面的な類似性を超えた展開力を持つのです」。これは、内面化から共振に向かう精神の向上をいっている。Ⅱ部後半には、勉強不足であったが、内間安瑆という版画家についてある。彼は、「空気を入れる」といったそうだ。それは、建築家が事物を扱い、空気や光を描くことができないことを前提に、空間をつくろうとすることと同様である。ジョン・ケージもそこに挙げられている。
023 CL アトレチコ×ユベントス 
2-0で終盤にホームアトレチコがユベントスを振り切る。両チームとも守備が堅く、一進一退の膠着状態が続くも、2つの得点はいずれもセットプレーからであった。途中出場のモラタが雰囲気を変えたのは間違いない。モラタにとってユベントスは古巣である。

2月20日(水)
ギャラ間で開催中のRCR展へ行く。日本の吉野で進んでいるプロジェクトの紹介が主であった。彼らは森を見てまわり、製材所に行き木の特質を聞き、木材のセリにも注目している。そして和紙工場に行き、もちろん敷地に向かい、現物で検討する。中庭の木構造のモックアップは、展覧会後、実際に使用されるもののようだ。本来のあるべき建築の姿を、真っ当に示す展示であった。が、少し引掛かるものがある。それは、建築家の才能に寄りすぎていて、当たり前であることが一般化されていないことだ。彼らが受け入れられているのは、彼らの才能を認めた特殊な(裕福な)人たちによってであった。少なくとも映像からはそう理解された。よくも悪くも、彼らは自己の内部に存在しているが意識されていない社会のゴタゴタにかんして無関心でいられているようで仕方ない。当たり前であるはずのことが、実は特殊な条件の上に成立しているところに疑問を感じてしまったのだ。穿った見方だろうか?
022 CL リヴァプール×バイエルン 
0-0のドローも、決して両者が引いて守備に徹していたわけでなく、互いに攻めては守り、充実した内容であった。ほんの最後のところで、個人技が光り、お互いが踏ん張り合っていた試合であった。

2月19日(火)
「抽象の力」岡崎乾二郎著を読みはじめる。第一次世界大戦前後の世界的なアートの動きが、ティールのいう「自転車乗り」と同様の感覚に基づいていることに気づく。第Ⅰ部の主張は、これに要約される。例えば、「全体を視覚的に眺めて構図を決めるよりも、いわば個々の事物が示す具体的な要請に沿って仕事を進めたほうが効率もよく、最終的な整合的な秩序が生み出されるp47」。あるいは、「芸術表現に、代表/表現(representation)モデルではない別のモデルがある。(中略)それは何かを模倣するのではなく、その事物とそれに関わる主体との関係そのものを組織するp49」等である。自転車乗りの喩えを上手く表現した言葉であった。つまりこの時期の社会や画家自体の問題規制は、現在の自分たちと同様のものであったのである。その状況は次のようであった。「われわれの生自体が、自分自身でも確率的にしか捉えることができない身体によって構成されている以上、われわれの思考も意志もその行動も所詮、偶発的なものに翻弄されているp53」。これは、これからも続く考えだろうか?と思う。そしてその中心に、ポアンカレの「科学と方法」に影響されたジョルジ・モランディがいたという。モランディは以前、フランク・ゲーリーが最も好きな画家として、展覧会のビデオの中で彼を挙げていた。両者のデザインの隔たりがあまりにも大きいため、その発言に疑問を感じていたが、この疑問が解ける。夏目漱石が帰国後、F(Foucus)+f(felling)を主題にしていたという指摘が印象的であった。ただし疑問が残るのは、Fとfの違いである。Fの存在を認めるも、Fで説明をまとめることの危険性についてである。
021 ブンデス ホッヘンハイム×ドルトムント 
0-0のドロー。バイエルンとの9点の差が、いつの間にか縮まっている。シーズンは長い。ファブルのそのマネジメントに原因がある。ドルトは踏ん張りどころである。

2月17日(日)
埼玉県立美術館で開催中の「インポッシブル・アーキテクチャー」展へ行く。1910年代のロシア構成主義から、現代の「新国立競技場」、藤本壮介、マーク・フォスター・ゲージまで及ぶアンビルトプロジェクトの紹介である。千葉工大の今村研からも1938年のテラーニの「ダンテウム」を紹介している。学生時代の「未来都市の考古学」展での紹介を思い出す。今回新たに、コロッセウムからの軸線上に、この建築が計画されていたことを知る。そうした状況でも外部の軸線にたいし閉じることとは、内面の象徴化が強化されている証拠である。外部に接続するのは数学的秩序によってのみであった。ジャン・ジルーの映像「見えない都市 メタボリズム」は衝撃的であった。磯崎が言うように、建築とは偶有的でPCの上に成立せざるを得ない産物であり、ここに展示されている作品は、これに批判的あったり、反対に、美学の純性を表明したものである。こうした建築家の試みは徒労に終わっているだろうか。むしろそれがエンジンとされて、本来の偶有的「建築」を揺さぶらり、「建築」を生長させ続けている。このことを、エントランスにあったジャン・ジルーの映像で感じることができた。ここに挿入されているメタボリズムの建築は、今日の経済社会と全く合っていないことが明白ではあるが、その映像からは、現実と虚構の違いに違和感を感じることがなく、現実の東京であるかのような錯覚を覚える。それだけ、メタボリズム的DNAが今日の東京をつくっている。

2月16日(土)
「女神の見えざる手」ジョン・マッデン監督を観る。有能な女性ロビイストが、巨大政府を敵にまわし、銃規制法案の通過を勝ちとるドラマである。ここまでは普通のストーリーであるが彼女は、愛情の欠片が微塵もなく勝敗に徹する冷徹な戦略家であり、プレッシャーから薬を乱用し男も買い、仲間や同調者を道具として非道に利用し、一線を越えた違法盗聴も行う人であった。つまり自分に貸した信念にだけ意識的なエゴイストである。そんな彼女を時代寵児から悪者へ、犯罪者にまで仕立てていったのが、巨大な政府であり、また社会である。しかし映画はこうしたアイロニカルな終わり方をしない。一発逆転で彼女は、ポリティカル・コレクトネスを手玉にとり、社会を見方に付けてしまうのである。その勝負師たるは、守られた場所から甘い汁を吸ってきた聴聞会議長より数段上であったし、第3者的傍観者であるぼくらも何枚も上手であった。彼女の「相手に切り札を出させて、それから自分がカードを切る」という言葉が印象的である。そのカードは、自分を破滅させることでしか得られなかったものだったのである。それだけ追い詰められた破滅危機を、見事に描いたジョン・マッデン監督に脱帽する。このタイプの新しいアンチヒーローを演じていたのはジェシカ・チャスティンである。ぼくらのこれまでのヒーロー観を幾重にも捻った面白い映画であった。
020 トルコリーグ マラティア×ベシシュタク 
60分過ぎのリードした場面から香川登場。今日もトップ下で、前線から下りてきてはDFからボールを受けてゲームをつくる。マークが自由であると、サイド奥に長いパスを繰り返す。ロスタイムにこのかたちから、折り返しをフリーで中央で受けることに成功。ヘディングはほしくもポスト右へ。決めたかった。このかたちを旧来というかは意見がわかれるところ。もっとアグレッシブに縦に抜き去ることを、トゥヘル、ハリル・ポシッチ、ファブルが求めていた。次節はダービーだそうだ。ヤルニッチが警告累積で先発の期待が高まる。

2月15日(金)
鈴木さんをむかえての研究室の打ち合わせ。ぼくたちが考えた、つくるためのコンセプトを、より広いコンテクストの中に位置づけることを行う。コンセプトはプロジェクトにおける切り口となり、設計の決め手となるが、同時に社会における曖昧な位置づけを明確にしてくれるものとなり得る。デザインの鍵96「広げるほど決めやすい」はこのことをいう。打ち合わせの後、食事会。深夜「ハート・ビート」マイケル・ダミアン監督を観る。ミュージカル風の映画で少しも面白くなかったが、日本女性ダンサーが出演していることを発見。ソノヤ・ミズノという女優で、資生堂やユニクロのCMに出演していることを知る。その中でも、The Chemical BrothersのMV「WIDE OPEN」は面白い。CGによって彼女が徐々にメッシュ状の透明人間に変わっていく。

2月14日(木)
019 CL トットナム×ドルトムント 
ドルトムントは、アウエーで0-3で大敗。次戦のホームで、3点の巻き返しが可能だろうか?両チームともエースが怪我等で欠く。ドルトは加えて、パコも不在で、この時期フォーメーションを変える。長期的視点に立ってチームマネジメントをしてこなかったファブルの漬けがまわってきたかたちである。勝敗は、サイド奥のスペースをどちらが制するかで決まった。トットナムは3バック、ドルトもハキミがずっと攻めているので、実質3バックに近いかたちである。序盤にトットナムは、圧倒的なプレッシャーをかけ優位に立つも、前半中盤から形勢はドルトへ。ハキミが裏を取ることに成功していた。後半は全くのトットナムペース。開始早々、ハキミが狙われボール奪取され得点を許すと、それの修正ができずに追加点を許してしまった。ハキミの守備は以前から問題であったが、チーム戦術によるものなので仕方なし。一度、前線でボールをおさめるターゲットマンがいれば話がかわるだろうとも思う。

2月13日(水)
修士設計でウッソンをテーマとしていた学生から触発される。「テクトニック・カルチャー」8章のウッソンの章を再読。確かに「加算的」がテーマになっている。ウッソンによる加算的原理は、繰り返しを徹底することで生じる空間昇華を狙ったものである。ウッソンというと、シドニーのオペラハウスやバウスヴェア教会が思い浮かぶ。これらは大スパンの屋根構造を持ち、基壇と屋根の間の空間性が印象的である。そこにある加算性を、恥ずかしながら気づいていなかった。しかしよく読むと、ウッソンは中国の木造曲げ構法に精通しており、単一木部材を組み上げることで雄大な勾配屋根となることが生涯のテーマであったことが判る。おそらく、基壇は生活や皮膚感覚に根差すもので、屋根が空間性を獲得するものと考えていたのだろう。その空間性は、加算によって可能になるというのである。「ウッソンの目的はテクノロジーのシステムの純粋に方法論的・経済的な洗練を称賛することでなく、結構的な目的のために構法の生産理論を利用する」というのが、彼を言い当てるよい説明である。

2月12日(火)
018 CL マンチェスタユナイテッド×パリSG 
モウリーニョからスールシャールに監督が代わり、復調してきたユナイテッドがホームで、トゥヘル率いるパリを迎える。序盤からパリが優勢で、速攻とそれに伴うセットプレーによる2点でパリが勝つ。圧勝だろう。パリは実に安定していて、乱れることがなかった。比較的長めのダイレクトパスで、ユナイテッドのプレッシャーを簡単に交わしていた。フィニッシュのかたちは2年前のオバメヤンと今日のエムバペと重なるも、中盤は全く異なっていた。当時トゥヘルは、速さに任せ、次々と新しい策を繰り出すだけであった。それに安定が加わってきたのである。

2月11日(月)
一昨日、途中までであった「ケープ・フィア-」マーティン・スコセッシ監督を再び観る。14年前の法廷での弁護が不十分であったことを訴え、既に刑に服したロバート・デ・ニーロが、当時の弁護人に復讐するサイコスリラー映画。犯人であるロバート・デ・ニーロは異常なまでに高い知性、信仰心、体力、精神力をもつ。これは、異常な自己愛に基づく復讐心から出発するものであり、もちろんそこに他者の欠片もない。当初この異常さを予感できているのは、当の弁護人と観客だけである。弁護人を取り巻く人、妻、娘、警察、探偵、社会は全く彼を甘く見ている。娘など、犯罪者に強姦されると思いきや、反対に取り込まれて愛情を示してしまう程だ。そうした彼らが異常さを気づいていくことで、観客も恐怖に引き込まれていく。91年の製作であるが、特殊技術を使用せずに、脚本と演技力で恐怖を演出する古き良き映画であった。

2月10日(日)
ASJのイベントに参加。1時間あまり、3人のクライアント候補と簡単な面談+レクチャー。ひとりの人と意気投合し、モノに結び付けられることを願う。昨日と打って変わって快晴。多くの人が来場。
017 トルコリーグ ベシシュタク×ブルサ 
今日香川は65分過ぎから3トップの中央で出場。前試合のようなインパクトを残せず。絶えずマンマークされ、窮屈そうであった。トルコリーグの激しい当たりが印象的。試合後のスタンドと選手のエールのやり取りも熱狂的であった。先発でないところを見ると、ナイーブな香川を大切に育てようとしていることがうかがえる。

2月9日(土)
午後から修士設計講評会。遠藤研から5作品が発表。大高くんに限らず、分析をもとにして設計を組み立てる場合、仮説と結果との間には否応なしの不連続性が生まれてしまう。その点にかんする質問を受ける。つまり恣意性が問われている訳だ。それはかつてぼくが、「形の合成に関するノート」C・アレグザンダー著を読んで受けた印象でもある。その考えに難波さんは否定的であった。不可能とはいえ目標をかかげているからこそ、そこからの現在の立ち位置が明確になり、進歩がのぞめるし、エネルギーが投入できるというものであったと思う。そのとき知る由もなかったが、何かを機能的に創ろうとするときに、共通に問題にされることなのである。ところで「形の合成に関するノート」間もなくして著者であるアレグサンダーは、「パタンランゲージ」の編集に取りかかる。パタンランゲージの詳細な分析から出発をしているが、ぼくが解釈するに、その説明よりも、パタンを通して可能となる世界観の提示を行うようになった。ただし、こうした態度は強制力を伴う暴力的なものにもなりかねないので、小さいモノ(パタン)に留めると同時に、全体は多様な見方ができるような複雑怪奇ネットワーク構造をもたせるようにしている。この方法論は意外と面白く、人が共感するのは、部分を把握し、そこから指向を広げることができる時に感じるものであることを、これから知った。修士設計のプレゼにも利用すべき方法であると思うのだ。つまり、過程を説明するのでなく、作品を通じて過程の可能性を納得してももらうのである。こういう前提に立つと、大高くんの作品にたいしては、既存の廃墟を利用しないこと、廃墟を分析しても廃墟を再生することにつながらないのでないか、という誰もが疑問にもつ解答を自然に納得させるプレゼを期待したい。そのために次のことを明確にして置く必要がある。建築はモノ×経験の複雑体であり、この×を具合的にすることに建築の価値があるということ。この前提に立てば、建築における日常性とは、無意識に空間を経験していることをいう。この状況を建物というなら、×を具合的にすることで、建物から建築へtransfigurationすることは不可能ではないのではないか(つまり、修士設計として十分に批判的である)。これを具体的にするために研究では、使用を伴わない人を拒絶した廃墟をモノとしてみなしても構わないこと。箱庭療法に代表される臨床学とは、学習を、実践を通じて得ようとする経験について考えるものであること。このふたつ廃墟×箱庭療法を相性よく組み合わせることで、別の建築のあり方が模索できるということである。香取くんの作品は、通常最も大切に考える歴史やコンテクストを初期条件から外して、友人の設計を手掛かりにスタートする実験である。今日の講評会で皆が疑問をもったのは、それによって提案される空間が、設計者の自己満足を超えた何になるかについての説明であった。この疑問を思い起こさせないようなプレゼが必要とされるだろう。そのために、これまでにない新しい空間性を示すのもひとつ。そこには、予想だにしない「できちゃっと空間」を示すのものありだろう。もうひとつ、コンテクストチュアリズムといっても、所詮建築家の考えることは慣習的な発想からでしかないと、フランプトンを批判するのもある。が、それを突き抜けて、実際にモノをつくるという推進力は、あれこれと条件操作をする(理性)だけではダメで、むしろ目の前のつくりたいと思う欲求(これを悟性というのだろうか)を刺激させる方がよっぽど生産的になるといったらどうだろうか。最近のユーザ目線で情報収集し、それを設計に取り組む方法もこれに近いが、あくまでも設計者は第3者的な立場に留まっている。これにたいし香取くんの方法は、主体をさらけ出しているので、傷つけられ易い。一種の開き直りでもあるが、大人には言えないことでもある。小林くんの作品は惜しくも外部の講評会に選ばれることはなかった。複雑であることが、実は合理的関係の上に成立したものであることを示す意欲的な試みであった。それが、コラージュ作品を解説する彼のネットワーク全図に良く表現されていた。もうひとつ建築に及ばなかったことが悔やまれる。コラージュ表現同様に、ビジブルな思わせぶりのアクソメの可能性を、多くの教員が感じていた。
016 ブンデス ドルトムント×ホッヘンハイム 
よもやの0-3から、残り15分でドルトムントは追いつかれる。実は、香川のベシシュタク戦を観るために、75分でドルトの圧勝を信じ、DAZNへと変えていた。今日は、ロイスとデラネイという攻守の要が欠場。監督もインフルという。それでも前半は、サンチョが絶好調で活躍し楽勝ムードであった。後半も逆襲から、見事な速攻を成功させたのにかかわらずである。若きナーゲルスマンの執着心とチームへの求心力、戦術の修正力に脅かされる。それに対しファブルは、ピッタリとするフォーメーションが固まるまで試行錯誤していたが、その後は選手を合わせることをしている。今日もトップは、ゲッツエであったが、本来のポジションでもよかったと思う。そのため、香川も含めて力ある選手も戦術に合わない理由で使うこと。そのツケが今日なのかもしれない。アジア杯もそうであったし、スケジュールの厳しいリーグを勝ち抜くためには、オプションを絶えず用意しておくことが必要だ。それに欠けていることに気づく。

2月8日(金)
午前中を意匠系の修士論文発表会。午後から、東京理科大の修士設計講評会。昨年から続けての参加である。常勤の他に三宅理一先生、鈴木啓さん、近藤哲雄さん、沖俊治さん。有岡三恵さんもいる。長丁場となったが、アットホームで自由な雰囲気であった。2年間を通して設計を行うのは千葉工大と一緒であるが、設計過程に重点を置き、作業量を問わないところに大きな違いがある。したがって、学生の思惑を超え議論を呼ぶ、ぼくが推したくなるような案は少なく、そうした案は早々に脱落した。最優秀案は、葛飾京島に、観察によって得られた仕掛(ガジェット)を設計するものである。東京に残された木密地域の社会的問題を意識した案であるという、三宅先生の最後のコメントが1等への大きな推進力となった。大きな社会問題が、小さなガジェットによるコミュニティ提案に差し替えられているという疑問も湧くも、発言の猶予は与えられなかった。2等案は、52年後までの自分の将来をゲームによって設定し、自邸の増改築を提案するモノローグな案。予測-制御という計画方法がもはや無効であり、感受—対応という生物的な決定論と割り切って、設計者の主体を前面に出した案であった。設定がゲーム感覚で、設計の根拠のなさから、社会への批判性がないことが問われた。ぼくは、十分にこの作品は予測-制御という計画にたいする批判であると思ったので、助け船を出すも、上手く伝わらなかったようだ。悔やまれる。3等案は、鶯谷のラブホテル街に、アナグラ的な創造の場を提案する案。閉じた街だからこそ可能な生き生きした風俗を描こうとしている。スターリング風の見上げアクソメを描いているのを懐かしく思った。この意味を問う指摘に、三宅先生が適切な解説を与えてくれた。この仕掛によって、タイトルにもあるように人はtransfiguration(イエスの変容)するという指摘である。彼がデザインしたかたちは、単なるtransformではないのだ。この指摘にビックリし、3票目を入れることにした。

2月7日(木)
「混沌からの秩序」プリコジン+スタンジェールを「確実性の終焉」から続けて読み終える。微視的に古典物理学(原因—結果)が有効であること、ただし中心から外れると、それが通用しなくなり自己組織化が起こり、それが全体を引っ張るエネルギーになり得ること、そして巨視的には時間は不可逆に流れること、を学ぶ。建築でいうところのこの流れとは、いあわゆる大文字の「建築」のことだろうと思う。そこから距離を自覚的にとり観察すると、何かが起きているということだろうかと思う。可能なら、それの参加因子になりたいと思う。
015 ドイツ杯 ドルトムント×ブレーメン 
ホームでドルトが、延長PKで敗退。延長から俄然両チームが攻撃的になる。離されても追いつくブレーメンの勝利への執念がゲームを面白くしていた。ただし、大迫はアジア杯の疲れから不出場。チームが一体となる折角のチャンスに参加出来ずに、ほしいことをした。日本人のぼくには加えて、手薄になった延長に香川がいたらとも思う。

2月6日(水)
最終提出に向けて修士設計を研究室内で発表。プレゼ方法を探る。香取くんの作品は、テクトニックカルチャーにたいする批判的設計。設計者の主体性は、それ単独で成立させることはできないことを認めつつも、歴史やコンテクストに無条件に左右されてしまうことにたいする建築家への批判である。その試みが可能かどうかは別として、香取くんが自ら、主体性をなんとか確立させたいという切迫感が感じられる作品であった。それは、最も大切とされる歴史やコンテクストを外して、知らない者が設計したモノから設計をスタートさせるものである。これを時間の許す限りドライブ続けることをアドバイスする。テキくんは、中国の山水画と園林の歴史を詳細に紐解いている。これがどれ程一般化された歴史観かは判らないが、ぼくなりに解釈すると、中国思想を表現するものが、隠匿の身にあった状況から生まれたランドスケープとしての山水画にあった。これは、中国の伝統思想を内面化、表象化したものである。そして現在、山水画は長い時間を経てシンボルとまでになった。それと同様にこの表象は、ある時、園林という伝統建築と結びつき、太湖石ともなっていった。日本では、書院と結びつき掛け軸となっていくことと同じである。思想を表象する方法として、文字がもちろん第一にある。しかし、内面化する過程を示すには、他のメディアでも可能である。そのひとつに、建築があったではないかという提案である。この歴史的説明に重点を置くことをアドバイスする。大高くんの作品は、廃墟をテーマとする。一般に、建物においてなされる経験にたいして人は意識的ではない。それが日常的ということだろう。しかし、廃墟は別物である。なぜなら、その機能的役割を終えモノとして存在するだけで、経験する人を拒んでいるからである。したがって、人は廃墟に接すると、モノとの間に新しい回路をつくらなければなならなくなる。これは何か?というように人は自然と判断するのである。こうした人の指向性に注目した。これは、治癒や学習といったものに既に利用されている臨床学というものである。臨床教育学、臨床心理学、法学などがあるが、臨床建築があってもよいだろうというのが、この作品の提案である。これを建築化するのは難しいが、廃墟をモノとして分析し、それに箱庭療法というプログラムを結び付けることで、訪れた人が新しい回路をつくることが期待されている。十分に資料は用意されているので、判りやすい簡潔な説明が大切となるだろう。このことをアドバイスする。小林くんは、コラージュ手法を研究していた。彼が言うには、コラージュは、多様な鑑賞者の取り込みを意識したものであるが、そのために判りやすい1本の線でつながった表現になるのではなく、錯綜を許す寛容な表現にする必要があった。小林くんの描いたコラージュ作品の分析は、マニュエル・リマのような複雑ネットワーク図となっている。これが意味するものは、部分的には明快なつながりがあるものの、その上に成立する複雑な全体である。これを建築化しようとした。都市の遊歩者を建築に取り込む道のような建築の提案である一方、それは垂直ビルとして可視化さている。設計した建築を、ネットワーク図のようなものまでポテンシャルを与えることをアドバイスする。オウくんの作品は、伝統的住居から派生した舞台建築を観察しながら、それを現代美術館へ計画を拡げるものである。周囲のコンテクストと対比を大事にすることをアドバイスする。

2月5日(火)
事務所に戻り、本年度の卒業設計を振り返る。喜ばしいことに、図面技術や精度が上がった。そのため、紙面表現に大きな違いはなく、より具体的に自ら設定したテーマを表現できている作品が優秀作品として選ばれた。こうした作品は白々とした一般解をもっていないことが特徴であり、選ばれた10作品は多様なものとなった。街並み保存や地域コミュニティの復活、過疎化改善というような傾向から、身の丈サイズの独自視点をもって、構法やコンテクストを追究する作品、身体性を見直すものへと代わってきたのも特徴である。実寸設計から何かを得ようとするものまであった。これは震災以降、社会から要請されてきたことを自己消化でき、意識的に方向性を決定できるようになったことの現れかもしれない。しかしもうひとつ物足りないと思うが、そうした視点が建築内部へしか向いていないことである。もうひとつ離れたところからの位置付けができたらよいと思う。遠藤研の町田くんの作品は、その可能性を目指し上手くいかなかったが、今日の講評でヒントを得た。それを広げることができたらと思う。同様に、方法論と格闘していた学生への指導も悔やまれた。それを直接的に説明するのではなく、例えば敷地設定を条件を巧みにして、方法論を言わなくとも現状批判を通じて浮かび上げる指導があったことに気づく。

2月3日(日)
映画「ペンタゴン・ペーパーズ」スピルバーグ監督を観る。主演は、メリル・ストリープとトム・ハンクス。彼らは、ベトナム戦争の真実を暴こうとするワシントンポスト紙のオーナーとジャーナリスト。彼らが秘密公文書(ペンタゴン・ペーパーズ)公表に至る葛藤を映画化した社会派ドラマであった。この映画の意図が、トランプ大統領就任と関係ないわけはない。ニクソンがとりわけ悪者であるが、歴代大統領が皆国民を欺いていたのである。そうした権力に対するマスコミの使命が何かが描かれている。また、当時ビジネス界では女性の立場は弱かった。それをメリル・ストリープが好演し、昨年話題となったタイムズアップ運動とも連動している。NHK特集で、「朝鮮戦争 秘録」を観る。珍しいことに、中国の研究者の報告書を基にした特集である。北朝鮮のキム・イルソンを通して、スターリンと毛沢東の大国思惑を紹介する特集であった。朝鮮半島はその犠牲者であったという設定である。
014 トルコ アンタルヤスボル×べシクタッシュ 
香川がアウエー遠征に帯同するということを知り、早速DAZNでチェック。急遽、ストリーミングとなっていた。80分から22番リャイッチに替り登場。10秒後のファーストタッチでゴールを決める。その2分後には、距離のあるフリーキックも決める。いきなりのダブルで、鮮烈的なデビューを飾る。ドルトでは見られなかったフリーキックを任され、チームに受け入れられたことも判る。ポジションは、3トップの中央であった。終了間際も、特異のポジショニングから裏へのパスを2本繰り出す。仲間と合わなかったが、仲間にインパクトを与えたに違いない。とはいえ、相手チームは1-4でビハインドされた状況で、攻撃一辺倒であったことを考慮する必要がある。べシクタッシュのスタイルはというとそれは、前半からはリードするものの明確な攻撃方針によるものではなかった。むしろ、アンタルヤスボルの方にそれを感じることができた。このようにべシクタッシュは攻撃が噛み合っていなかったのか、10番選手がいなかったのか、香川を必要とした理由はまだ判らない。しかし香川にとって好ましいかたち、ずば抜けたセンターFWはいないようである。それでも、べシクタッシュには技術的に優れた選手が多いことはわかった。

2月2日(土)
013 ブンデス フランクフルト×ドルトムント 
香川の移籍が決定した。トルコのベシクタッシュである。夏からのベシクタッシュ監督からの熱望に応えたかたちである。今日も同じスターティングメンバーでドルトムントは試合にのぞむ。前半のいくつかの好機をロイスが外すと、フランクフルトが前半終了間際のスーパーゴールで同点とし、そのまま1-1のドローとなる。フランクフルトの前線の攻撃力は凄みがあるも、それを支えているのは長谷部を中心とした読みの鋭さにあることが判る。最終ラインからボール奪取後に、ことごとく速攻が決まっていた。長谷部は、試合直後にプレッシングされるも、慌てることなくゲーム内で立ち直った。余裕が感じられた。

2月1日(金)
ノイエザッハリカイトを「驚異の構築」でも、ひとつの章を割いていることに気づく。そこでは、ノイエザッハリカイトをコンテクスチュアリズムに対するものとして位置づけている。コンテクスチュアリズムは、理想を優先するために現実を歪め、精密な判断と選択を排除し、そこには具体性とオーラが欠けているといっていた。つまりノイエザッハリカイトは、ロマン主義を排除するものなのである。これが巨大数にまで拡大させたものが、OOOといったものなのだろうと思う。「GAJAPAN 20世紀の現代建築を検証する○と×」の鈴木博之の発言は、大衆=ロマン主義という位置づけのものであった。
012 アジア杯決勝 日本×カタール 
1-3で、日本はよもやの敗北を喫する。事実上の決勝といわれていた強豪イランに完勝し、対戦相手に決まったカタールはヨーロッパスタイルで、イランより体格が劣るとの判断から戦い安しといったイメージをもってしまったか? おまけに1日分カタールより日程的に有利であることが、それを助長したのかもしれない。ゲーム外では、カタールの登録選手規定違反から没収試合が誠としやかに噂され、そんな中、キャプテン吉田が前日に、絵に描いたような素晴らしいアスリートとしてのインタビューも行った。これらが重なり、完全に日本はカタールに対して精神的に優位に立ってしまっていたのである。それが試合においても続いた。カタールを受けて立ってしまったのである。これが敗因だろう。確かにカタールの5バックによって、上手くプレッシングがかからなかったこともあったが、この気持ちの緩みが1対1の甘さを呼び、2失点を喫した。後半からは、選手が覚醒し実力を発揮した。打って変わって大迫にボールがおさまるようになり、よい距離間を保ったダイレクトパスによって1点差に追いつくも、PKでまたしても離されてしまい、万事休すであった。森保監督の打つ手なさも気になる。交替時期が遅く、13本のコーナーキックの明確な方針もみられなかったからだ。これは、組織つくり中心の森保監督の内容のなさでないかと思う。試合後の、控えにまわっていた乾のインタビューが印象的であった。5バックに対する攻撃方法を監督に進言していたようだ。経験に勝る知識はないことを知る。

1月31日(木)
夕方、フェルメール展に上野にいく。長い会期も今週で終了することもあり、会場は沢山の人で溢れていた。フェルメールの作品は相当数を観た。記録のために書き留めると、「ディアナとニンフたち」「手紙を書く女」「手紙を読む青衣の女」「手紙を書く女と召使い」「地理学者」「レースを編む女」「青いターバンの女」「天文学者」「水差しを持つ女」「ヴァージナルの前に座る若い女」「ワイングラスを持つ娘」「小路」「絵画芸術」。それに今回の「マルタとマリアの家のキリスト」「取り持ち女」「牛乳を注ぐ女」「ワイングラス」「水差しを持つ女」「リュートを調弦する女」「真珠の首飾りの女」「赤い帽子の娘」である。3年前の森美で開催された「フェルメールとレンブラント展」を思い出す。ふたりの関係は建築でいうところの、ベルニーニとボッロミーニである。聖テレジアの法悦あるいはサンタンドレア聖堂とサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ、透明(光り)と闇というところだろうか。この展覧会の構成もそうであったが、17世紀このバロックの時期は、宗教画から世俗性への流れがあった。決まり切ったテーマから開放され、作家独自の視点の時代となる。その結果、極端な作家性が表れることになった。フェルメールの光りに対する執着心は感嘆ものだ。

1月30日(水)
NHKの経済特集を観る度に気づくことがある。それは、最近のOOOやアクターネットワークが、ともすると新自由主義とあまりにも相性が良すぎて、絡め取られてしまっているのでないかという心配である。そこで、アクターネットワークに批判的な文章を思い返し、3年前の「新しい唯物論」磯崎新と日埜直彦の対談をあたる。読むうちに、新即物主義(ノイエザッハリカイト)が気になる。まずは、「現代建築史」ケネス・フランプトン著の15章をチェック。「新しい客観性1923-33」である。冒頭の美術評論家ハルトラウブの1929年の引用が、ノイエザッハリカイトをよく言い表している。「ノイエザッハリカイト」という表現は、社会主義的傾向を持つ新しい写実主義の標札として使われるべきものだ。それは、希望溢れる時代(その捌け口が表現主義であった)のあとの、諦めと冷笑がドイツ全体を覆っていた頃の、共通する感覚に結びついていたのだ。冷笑と諦めは「ノイエザッハリカイト」の否定的側面だし、その肯定的側面は、物事を理想的意味で誤魔化したりせず、物質的基盤に基づいて、全て客観的に受け止めよという欲望の結果として表れた、直接的現実に熱中することだ。こうした健康的な覚醒か最も鮮明に現れているのは、ドイツでは、建築なのだ」。同時期のフランスはアールデコの時代である。つまり、美学的側面が見直された時代である。そもそも建築はモノを組み立てることで、抽象性を表現しようとする。抽象的なものには、社会制度から機能性、空間印象まで様々なものが含まれるが、この時期に、真摯にこれを構築しようとしたのである。そこに極めてロマン主義的な人間感情を排除していた。ここに現在との同時代性も感じることができる。しかしそれを、「GAJAPAN 20世紀の現代建築を検証する○と×」で鈴木博之は、磯崎の薦めるノイエザッハリカイトに対して、エリート的な理念主義で大衆性に欠けていると非難してはいるが。

1月29日(火)
NHK特集で「アメリカVS中国 未来の覇権争いが始まった」を観る。将来において産業のトップに君臨するのはAI産業であるという。それは、ビッグデータと情報技術により、今後のインフラ全てを手中に収めることができるからだという。もちろんこの優位性は現在、グーグルをはじめとする米国が握っているが、中国が国策によって多数の留学生を派遣し、この技術を経験として確実にものにしているという。米国は、あくまでもこうした技術を企業がもっている。したがって、中国にたいしての貿易制御などを行っているものの、こうした対抗策としては不十分であるという。つまりここでも、個人/国家という対立問題が浮きぼりになっている訳だ。番組の後半は、経済について。国家は、経済と技術革新の両輪を成功裏に導くことによって覇権を握ることができるのである。ここでもブロックチェーンが話題に上げられる。ドル基本通貨にたいする対抗策として中国は、ブロックチェーンの開発を推進している。銀行口座をもたない途上国ユーザに向けてのサービスを目的とし、世界的な潜在的消費者獲得を目指し、経済上の米国牽制を行っている。この特集を観て、建築でいうところのふたつの状況が気になる。ひとつはBIMについて。BIMは、日本のように高い技術、統率の取れている国にたいする新しいスタンダードによる制覇のように思えてきた。各国のスタンダードを重視しつつも、情報の互換性こそが重要となるのではないかと思うに至る。もうひとつは、建築特に意匠分野における留学生にについて。彼らはおそらく、日本を席巻した欧米文化の顛末を目にし、失われていく中国文化にセンシティブになることを教えられている。AI分野の留学生が取り込んできた方向と逆のベクトルをもつ考えであるが、こうした彼らが自国でどう立ち振る舞うかは楽しみでもある。アジアカップで、開催国UAEがカタールに惨敗。ザックとの対戦はなくなった。それにしても両国の隣国関係がよくないことが、この試合を通しても容易に理解ができた。次のW杯はそのカタールである。シャビ予想が日本で話題であるが、シャビはカタールのクラブに所属していることを知る。

1月28日(月)
011 アジア杯 日本×イラン 
代表の見応えのある試合を久しぶりにみる。体格差に勝るイランは、パワープレーで日本を押し切ろうとする。吉田と冨安のCBが危なげなく相手FW20番をブロックするも、セカンドボールをことごとく支配され、試合を難しくしていた。日本ふたりのブランチは小さかった。ここで、ボールをキープできればと思うが、彼らも効果的なパスを繰り出しているので、選手選択は難しいところである。前線の動きはよかった。大迫にある程度ボールがおさまったからだ。ここまで大迫の回復を信じ、彼を休ませていたベンチワークが光る。それでも、ほとんどの時間をイランに支配されていた。2得点は、アクシデントが重なったようなもので、3点目は、ほとんど消えていた原口が決めた。これには驚いた。ともかくも決勝にコマを進める。最強イランに堪え忍び、チームは良い雰囲気である。

1月27日(日)
深夜、NHKの資本主義の特集を観る。これからの経済政策を占う特集である。それは、国家による管理か自由に国民に任せるかというテーマであり、世界が共産主義対ケインズという図式から、ケインズ対ハイエクという図式へと移行していることと重なる。科学においては、いくつかの書籍で確かめてきたが、どの分野においても、この管理/自由という対立構造は共通テーマであることが判る。当然のことながら、昨今話題の仮想通貨の是非にもつながる。その中で、ブロックチェーンという言葉を耳にする。分散型取引台帳技術、分散型ネットワークのことをいう。銀行という中央システムを必要とせず、オープンに使用履歴が保存、閲覧でき、その透明性故に、データを改ざんや過去に遡り修正することはできない(不可逆)システムのことをいう。構成員で互いを監視するシステムのことである。ビットコインでは総通貨量を設定している。市場でこの信用を築けば、このブロックチェーンシステムに載せることで金本位制に代わる新しいシステムとなるのだそうだ。金の保有量を保証する国家というものを必要とせずに、透明性システムがこれに代わるものとなる。この流れは、遺伝子の情報伝達と近い。情報を保存追加によって次世代に引き渡すので、不可逆なものである。マイニング(採掘)という言葉がここでも使用される。ブロックチェーンに透明性を持たせるには、膨大な計算作業が必要となる。したがって、いくつかの分散型ネットワークによってそれを行う。その作業の見返りに、新しく発行されたビットコインを分散型ネットワークが受け取ることができる。これをマインイングという。つまり、隠れている全体を個人で認識することをいう。マイニングといえば、中埜さんとで、人それぞれがパタンの質を発見する意味で使用していた。ちなみにこれに対し、パタンを使用(建築化)することで、内面(文化)化していくことをセンタリングといっていた。つまりマイニングとは、センタリングと対で、文化が共有化(信用)され、再表出することをいう。パタンも仮想通貨も、信用(文化、共通価値)を前提とするところに一致点が見出せる。建築における共通価値とは、現在は環境ということだろう。環境をどのようにマイニング、センタリングするかが今後の課題であると思う。

1月26日(土)
夕方から、大坂なおみの全豪決勝を観る。40-0のチャンピオンシップポイントを握りながら、4ゲームを連続で取られ、1-1のセットカウントが並んだときは、本当に危ういと思った。大坂も取り乱し、泣いてていたと思う。そこからトイレ休憩を取ってからの優勝であった。あっぱれ。3セット目の大坂は、落ち込んでいるようでも、無の境地に入るようにも見え、不思議な状態であった。ともあれ、サーブが強いということは素晴らしい。精神的に追い込まれても、そこからのブレークスルーを可能にする。そこから、サーブ技術に劣る錦織を逆に凄いと思うようになる。追い込まれた状態で5時間堪え忍び、勝つのだから。かなりの精神の持ち主である。
010 ブンデス ドルトムント×ハノーファー 
香川出場に期待をもち、ONするも、やはり今日もベンチ外。苦しい状況が香川に続く。それに反し、ドルトは好調時に調子を戻す。ロイスが復帰、そして何よりハノーファーが最悪だった。監督交代の時期かもしれない。それにつけ込み、前線が面白いように得点を重ねる。浅野が前半終わりから出場。しかし何もできていなかった。

1月25日(金)
「ティール組織」の打ち上げを編集者と行う。会話の中で、「ティール組織」の位置付けがはっきりしてきた。本書が推していることとは実は、イノベーションによる達成主義(オレンジ)を否定している訳ではない。依然としてそこに足をおいている。その一方で、集団の中のひとりとしての自分がどうしたらよいかを提案しているのである。極めて主体的(能動的)な考え方だ。それにたいしてこれまでの個人は、社会(組織・集団)の中のひとつであることを良しとされ、社会が優先され、主体が受動的なものとされていたのである。これは日本だけの特徴でなかった。ティールは、これにたいする批判である。こうした批判を、対象が会社であれば誰もが納得し受け入れる。が、現在は対象が会社組織から環境、地球という曖昧模糊としたものにすり替えられていないだろうか。つまり、ぼくらの立場は依然として受動的のままでいるのである。これを建築の場合に引き寄せる。建築は幸いにも、「建築」を対象として、個人をテーマとしてやってきた。しかし近頃は、その限界も見えつつある。建築が受け身になっていると、言わざるを得ない。ぼくとしては、扱う対象を「建築」から環境や社会という大きなものに移行させ、かつ主体が受動的にならないこと、このことが建築の重要ポイントであると思うように至った。それは、アレグサンダーが追究してきたことでもあったのだ。このことに気づく。その後深夜まで、別な場所で大学時代の友人とも飲む。少人数であったが、皆元気であった。

1月24日(木)
夕方から、非常勤教員との懇談会。今年は赤羽先生と幹事で、庭園美術館内のレストランで行った。屋根形状と外の庭へのつながりが、気持ちを優雅にしてくれる。美味しい料理で、皆満足してくれたようだ。「確実性の終焉」プリコジン著を読み終える。時間がテーマであった。世界は不可逆ということあった。不可逆性を理解することは、伝統的に古典力学や量子力学と同一視されてきた微視的記述を通じてでなければなされ得ない。それに基づけば、世界は確実なものではなく、確率で表現される。それを「確実性の終焉」といっているのである。確率を高めること、それにしたがった行いを創造という。別なところでは、「未来は、もはや与えられてはおらず、「建設」となる」p90という。科学の実情を知る。世界は平衡から離れた複雑の中にある。ここで重ね合いが共鳴を起こし、新しい挙動が起こるが、一方でこれと対照的に世界は一様に向かい続けるのである。
009 アジア杯 日本×ベトナム 
PKによる1点でベスト4に進出。相手はイランとなる。トーナメント2戦目とはいえベトナム相手に、先発を入れ替えなかった。イランを見据えてもっと総力戦で戦ってもよかったと思う。とはいえ、チャンスを十分に与えられている北川と権田は不適といわざるを得ない。ベトナム相手のプレッシャーに逃げているようにも見えた。これでは、もっと力のある国とは戦えない。

1月23日(水)
3年生建築設計講評会。宮本佳明氏と川島範久氏をむかえる。講評を聞きながら、来年度の課題方針を、隣に同席した佐藤先生、望月先生と意見交換する。来年度は、エンジニアリングとのインテグレートする喜びをもっと打ち出し、その感動を促すことにする。ぼくの作品を紹介するのもありと思う。知識が個人の琴線に触れたときに意味をなすことを彼らもわかっていたことを知り、嬉しく思う。講評で川島さんは、環境について広く捉えることを喚起してくれた。室内環境ばかりでなく、敷地環境、地球環境における建物の位置づけを考えなさいということだ。それは、配置計画にもっとも顕著に現れる。少なくとも、配置にセンシティブにならなければならない。環境を思考することによって、思考を外に広げてみようということだろう。宮本さんは、レヴィストロース「野生の思考」の資材性(潜在的有用性)を紹介し、建築家に求められるのは、その発見性にあるといってくれた。8mスパンの学校建築は、その点扱いやすいので、発見性が難しい建物であるという。もっとリノベーションに必要な既存との絡みに意識を集中すべきであるという指摘であった。規模が大きくなるにつれて、特に学生はリアリティを掴むのが難しくなると思われるが、学校建築がどう変化したら面白いかを感じることは可能である。このリアリティには、ふたつの側面があり、ひとつは、プロジェクトに対するリアリティ。プロジェクトの社会要望にたいする理解といってもよいだろう。これを追究することは大事であるが、これに留まってしまっては、現実に押し込められた案になってしまう。もうひとつ、つくることなどに熱中することで生まれる感動に近いリアリティというものもある。優秀案にとして選ばれた案は、この点において優れていた。人を動かすのは、社会的要請の理解も大事だが、そこからのリアクション個人の発露にある。この点が強調されたのである。

1月22日(火)
「確実性の終焉」プリコジン著のⅢ・Ⅳ章を読む。個の起動レベルでの不安定さが、統計的記述レベルでは安定であることを、数学的に証明をしているのであるが、なかなか理解できない。つまり、カオスの縁において個々がバラバラであるときに、自己組織化が起きることを数学的に証明している。しかもその挙動を、前もって決定することはできない。Ⅴ章は、この相反する挙動に統一した見解を与える説明を試みる。キーワードは共鳴である。個々がバラバラでも複雑であれば衝突し合い、巨視的レベルでは、確率的な傾向が現れるという。Ⅵ章でポパーが紹介される。「非決定論は実在論と両立する。(中略)量子論全体についての首尾一貫した客観的認識論、および確率の客観主義的解釈の採用が可能となるのである」。また、「観測主体が存在しなかったとしても、おそらく、いまあるのと同じように非決定論的なままであったろう」。プリゴジンは、数学的に示した事実を一般の人にも分かるような例で説明してくれているところがよい。これらの説明から、自然(法則)と個の存在の間には矛盾がないというのである。

1月21日(月)
「確実性の終焉」プリコジン著を続ける。P59の図Ⅱ.5が興味深い。散逸構造をよく示す図である。平衡付近ではエントロピー生成を伴う散逸は最小となるが、系を非平衡に押しやると、新しい過程が発現し(自己組織化)、エントロピーは増大する(カオスの縁)、このことを示す図であった。さらに非平衡に押しやるとカオス状態になる。この考えをもとに、ポアンカレの予想方法、ホワイトヘッド、ベリクソン、ホーキング、ポパーを評価する。P60は自然との対比である。有機体が優勢な環境に対して自然と適応するのは、複雑性を注意深く回避しようとするものであるという。つまり、創造(新しい自己組織化)を起こさないようにするためである。このことに驚く。帰宅後も、錦織のゲームが続いている。これで終わりかというところからの逆転であった。一喜一憂することなく、プレーに集中していたのが印象的。その姿勢に引き込まれ、思わずゲームしている気になる。
008 アジア杯 日本×サウジアラビア 
日本がボール支持率30%以下で勝つ。中盤が下がり気味で、高い位置のサイドから度々クロスを上げられる。シュートの正確性もあるが、それをなんとか跳ね返す。アジア相手に守りぬくことが可能なことを証明できたのであるが、そこからの速攻のかたちはできていなかった。とはいえ、W杯出場国にたいして勝ち抜き、チームは前に進む。

1月20日(日)
「確実性の終焉」プリコジン著を読みはじめる。それと同時に散逸構造について整理する。エネルギーが散逸していく中にも、局所的にエネルギーが注入されると、構造が現れることをいう。生命体とは、宇宙から考えると、死にゆく運命の中で、代謝機構や排泄機構によって生きるものなのである。第1章は、この歴史的経緯の説明。世界は自然法則によって支配されているとすると、それに対して、人それぞれは自由でもある、このふたつの矛盾をいかに説明するかが、歴史的に考えられてきた。それを廻る。大胆に言えば、大文字の「建築」を前提にすることで、個人の創造が説明できるかということである。個人的視点を超えて、創造を少し高い位置から考えることである。それを本書では、「いまや創発しつつあるのは、決定論的世界観と、偶然性だけからなる恣意的世界とのあいだにある、中間的な記述世界」としている。
007 ブンデス ライプツッヒ×ドルトムント 
1月ぶりにブンデスも開幕。ドルトは、ロイスが体調不良から怪我を起こしベンチ外。最終ラインも怪我人多発で、中央にヴァイグルが入る。シーズンも中盤に差し掛かり、選手が手薄になってきたのだが、それでも香川はベンチ外。移籍を表明したとはいえ、そうした状況をつくり出しているのはファーブルにも原因があり、どっちもどっちだろうと思うが、香川は完全に干されている。チーム状態が変わればと思うのだが、ドルトは安定している。今日も1-0の勝利。移籍期限まで、残り10日あまりである。

1月19日(土)
午前中、大阪なおみと錦織圭の試合を観る。その間に、昨日届いたJIAマガジンを読む。坂牛さんによる田根剛氏のインタビュー記事が面白い。田根さんは、考古学のように敷地を分析し、考古学者とは異なり未来に対する方向性に意識的である。このことがわかるインタビューであった。建築家の行うことは、その位置づけを決断することにあるのだろう。それにたいして坂牛さんが鋭いのは、建築家が主体性をもち続けることの塩梅にあった。このやり取りが興味深かった。田根さんが行っていることは、歴史性の括弧入れをし、それを外すことで、建築家としての主体性を復活させているのである。
006 プレミア リヴァプール×クリスタルパレス 
早くにリヴァプールが逆転したので、わくわく感はなかったものも、壮絶な打ち合いで4-3でリヴァプールの勝利。前線の活躍もさることながら、ヘンダーソン、ミルナーらの中盤の活躍が光る。彼らは、エンジンのようだ。

1月18日(金)
内之浦ロケットセンターから、無事発射したことをニュースで知る。CASABELLA890が届く。フランチェスコ・ダルコの巻頭論文は、ロッシのモデナ墓地を廻る表層論。モデナ墓地の全体平面図ドローイングは有名であるが、建築自体は未完であることを知る。ダルコによると未完であるが故に、納骨堂のギッリの写真とこのドローイングとが相まって、作品は崇高さを獲得しているのだという。ぼくに言わせると、イエスは神格化されることで成立しているのであって、身近な存在であってはいけないということである。作品紹介の後に、なぜかしらカーンのベネチアにおける国際会議場案がある。敷地はビエンナーレが開催されるジャルディーニ公園へのアプローチ脇であった。確かにこのアプローチはあっけなかった記憶がある。そしてあの強烈な球形はサンマルコ寺院をイメージしたものなのだ。OMAのカタール国立図書館も紹介されている。内部化された一室空間の図書館で、文化のための一種の屋内広場をデザインしたことが了解できる。108m(このモデュールは日本的?)正方形平面の端部の先端を持ち上げたかたちでそうさせている。持ち上げられた下がエントランスとサービスアプローチである。中央が何かと探ると、ヘリテッジと呼ばれるイスラム文明に関する重要資料庫であった。これが地階にあり、その上がテラスである。ここにコールハース特有の批判的姿勢が読み取れる。100万冊以上も収蔵し、国立図書館+公共図書館+大学図書館であるそうだ。深夜BSで「ラビリンス」ジム・ヘンソン監督、ジョージルーカス総指揮、デビット・ボウイ主演を観る。東洋的思想色の濃いSFアドベンチャー映画であった。

1月17日(木)
005 アジアカップ 日本×ウズベキスタン 
先発を10人代えて、グループリーグの最終戦にのぞみ、それでも2-1で勝つ。もっとも、対戦するウズベキスタンも同様に大きく先発メンバーを代えていた。両チーム共に決勝トーナメントへの進出が決定しており、これから続くハードスケージュールを考慮し、かつ1位での進出でも、対戦相手に有利性が働くとは限らなかったためである。日本は、選手が代わると戦術も変わり、今日は2トップで、サイドからのクロス攻撃が中心となっていた。前半の終わり頃からそのかたちが明確になりつつある。こうしたかたちがオーソドックスであるからではないが、森保監督の目指す新しい日本代表にとって、選手の代えが効かなくなっていることを感じる。つまり、レギュラー組が明確になり(固定され)つつあることを感じる。大迫然り、両サイド然りである。今後の代表の成長を考えると、決勝トーナメントでの戦いで、戦術でなく選手の流動性を獲得する必要がありそうだ。

1月16日(水)
鈴木竜太さんを研究室にむかえて、ナチュラルアングル改築の打ち合わせ再スタートをする。構法とは、つくり方を通して、広い意味での確実性を与えるものと考えられていて、その前提諸条件に縛られがちである。そこには、プロジェクト内で検討された条件やこれまで培われてきた技術も含まれる。むしろ、これを外すことができればと思うのだが、今日の打ち合わせで、その切掛けを垣間見ることができた。池田さんをはじめ構造家との打ち合わせでは、こうしたダイナミックさを獲得していたことを思い出す。3.11の津波と原発がもたらしたものは、生活におけるこうした括弧外しがあまりにも手に負えないものであった。そのため、構法が基本とする技術の、コントロールが最優先されているのが現実だろうと思う。つまり人が技術に対して受け身であることに否定的になった訳である。時間が経ち、その先が何であるかを考えるようになったことに気づく。

1月15日(火)
研究室学生の作品をコメントしているうちに気づいたことがあった。それは卒業設計における、大いなる誤解である。それは自由に関する考えであった。特に自由度の高い卒業設計では、学生に、自らの格率にしたがって自由に設計せよ、という。そして講評会でぼくら先生は、これに至った動因を尋ね、次にそれがどのように形として表現されたかを問う。しかし先生は、学生の作品が様々な条件によって規定されていると思いはするものの、それに拘わらずに作品自体を評価するのである。しかもその評価理由は、学生の提案する格率についてでもない。それは、先生が、次のことを前提としているからである。即ち、この学生の考えたコンセプトやコンテクストがどうであろうと、それは度外視してよろしい。プロセスにおける条件の系列は、無かったものと思ってよい。要するに先生は、学生がかかる制作の結果のプロセスとはまったく新たに、自ら始めるかのように見なしてよい。このことを前提にしているのである。学生に対する批判は、先生自身の理性の法則にもとづくものであり、この場合に先生は、自分の理性を作品の原因と見なしているのである。つまり、作品の評価は、上に述べた一切の条件にかかわりなく、学生の作品を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであると見なしているのである。ここで注目すべきは、先生が、学生の自由な格率に制作した作品を、事前にではなく、事後的に見ていることだ。ここから先生の判断は主観的なものだという批判、コンセプトの純粋性のみを重視してその結果を省みないという批判が出てくるが、これは以下の間違った前提の上から生じる批判である。そう、学生も含めてぼくらは自由ではないのだ。自由意志だと思っていたことは、実はさまざまな因果性によって決定されていたものなのである。そのことを知らなかっただけなのである。その点で理論上先生も学生も皆、同じ状況に置かれている。しかし先生は、この因果性を外すことで、実際上自由でいる。この点に着目する必要がある。先生は自ら(内から)自然と自由になっているのではないのである。この絡繰りを理解できれば、先生ばかりが気持ちよくなってしまうことはなくなる。しかも格率に比重を置く設計では(他の科学とは異なり)、先生と学生の関係が反転できる可能性を大いに秘めている。これを狙わない手はないと思う。つまり、各自の立ち位置、あるいは作品設定はメタフィジカルであることを前提にする。あるいは、自分と全く規則を共有できない他者に囲まれていると考えるのである。因みに「ティール組織」におけるさまざまな経営手段は、これを基本原則としている。これによって組織を前に進ませることができるのは、目指すべき明確な目的がある訳でなく、提案される経営手段が政治に根差すものだからである。そう、メタフィジカルであるのなら政治的なのである。これは、カントのいう「他者を手段としてだけでなく、目的として使う」ということである。

1月14日(月)
今日は、歌舞伎海老蔵の改名と息子の襲名披露があった。昨年再放送で観た能の野村萬斎親子の初舞台のときと比べてしまう。歌舞伎と能の違いはこうしたときにも現れる。民放とNHKという演出の仕方が大きいと思うが、大衆を意識しているか、それよりも文化伝承を第一にするかの違いがあったように思う。能に演者の自由度が少ないのはもちろんであるが、それは跡取りへの遺伝子伝承にも違いがあった。能にとって、生き生きとしたという表現は不要である。

1月13日(日)
004 アジアカップ 日本×オマーン 
1-0の勝利。前半の南野の活躍が嘘のように、後半は、誰もシュートが打てずに終わる。オマーンが意外とラインを高く保ってきたので、その裏を突いたかたちが前半は上手くいった。後半は修正され、ボールの出所のチェックが激しかった。森保監督は慎重である。今日も一人の交代要員を使わなかった。バランスを重視するためだろう。先発も、怪我の大迫に代えて北川。体調が回復した遠藤を復帰させ、冨安をSBにする。左前は、原口のまままだ。決勝までの7試合を考えれば、他の選手を試してもよいかと思う。北川だけが、未知の存在であったのだろう。その北川の働きが?であった。しかし、その後武藤もいまいちであった。伊藤のみが最後に一矢を報いた。

1月12日(土)
「魂に息づく科学」を読み終える。ドーキンスの厳格な科学観を知る。それは、創造とか偶然とかいった希望的思考を許さないものである。全てが事実の上に成立する世界観である。だから、プラトンや宗教を批判する。理想でしかないからだ。第5部は現実世界。遺伝子を超えて大きくなった脳の働きが示される。読後、ある種の潔さに惹き付けられる。それは、「デザインの鍵」からの印象と重なることに気づく。建築で言うところの人間との相関を示す機能性というものを大前提とせずに展開するところにある。神話としないことが、潔さを導く。「モリのいる場所」沖田修一監督を観る。ゆったりした映画で、悪くいうと退屈で、よく言うと宇宙観がある。モリこと熊谷守一は実在した画家である。池袋モンパルナスの自宅から何年も外出せずに、昼間は庭の自然観察を楽しんだ。映画では、彼の魅力の下に様々な人が導かれ、一種のニッチ状態を形成していた。人の目線からは、非常に深く広く感じるその庭も、ラストのシーンでの、完成したマンションの屋上からは、驚くほど小さく、すべてが分かったような感覚をもたせる。映画としては、これを誰の視点とするかが問題であったろう。常に守一を追いかけていたカメラマンの視点としたことに少し疑問を感じる。守一の信望者さえ、守一にはなり得ない一種の皮肉だろうかとも思う。このカメラマンは、手帳に熊谷邸の敷地を書き留めていた。監督の生き写しとも考えられた。

1月11日(金)
「魂に息づく科学」を読み進めていくうちに、「ティール組織」を廻るふたつの考え方を発見。ひとつは目的論的視点からティールを考えるもの。人は、絶えず、ボス、制度、科学などの下で生きてきた。現在はその構造が崩れつつあるが、その先は見えない。新しいものとして環境、あるいは論理みたいな崇高なものが必要とする見方。これを目的論とひとまず言う。もうひとつは、ボス、制度、科学との対立構造によって個が徐々にクローズアップされ、個が開放されてきたというもの。実在論的立場からのものである。深夜BSで、ドバート・ゼメキス監督の「永遠に美しく・・ Death becomes her」を観る。M・ストリーブ、B・ウィルス、G・ホーン出演である。はじめはシリアスな映画と思ったら、途中からブラックユーモアたっぷりの特撮映画となる。ストーリーがあるようでなく痛快で、ティム・バートンの映画のようであった。生き生きとした3人の役者が印象的である。

1月10日(木)
「魂に息づく科学」リチャード・ドーキンス著を読む。第2部でもいろいろなことを学ぶ。目的論、デザイン、ガイア理論を生物の進化に適用すること、このことを徹底的に否定する。ドーキンスは、「ダーウィンは、目的因という幻想がいかにして、まっとうに理解できる作用因によって生まれるかを示したP189」とさえ言っている。そして生態系バランスという考えは、ダーウィンが生んだ共進化の想定外の結果であって、政治的なものでしかないという。生態系バランスというのは、「植物は一次生産者である。太陽からのエネルギーをとらえ、一次、二次、さらには三次の消費者、そして最終的に腐食動物にいたる連鎖をとおして・・・」というものである。それにたいするドーキンスの立場はこうだ。「生物個体内に生態系があるp192」。つまり、「ミトコンドリアにとって細胞が重要である同じように、ミトコンドリアは細胞の働きにとって不可欠」でなければならない。生物個体内部で、ウインウインの関係が完成している。肉食動物は草食動物が存在するところで繁殖するのではなく、皮肉食種の中から積極的に自然淘汰を通して肉食個体になるという。それは、ティール組織におけるセルフマネジメントにあたる。個体それぞれが環境に適用しようとするのであって、指令を出す全体システムがあるわけではない。そうすると、あとがきでも書いたが、ブレークスルー2の「全体性」という訳が気になる。部分と集合のホロン化のこととなるだろう。そうすると4章がすっきり流れる。ブレークスルー3は、自然淘汰とか適合と理解するとピッタリくる。つまり、ティール段階でブレークスルーされるのは、個人の自律、主体の確立ということになる。よくティール解説のために使用されるレッド、アンバー、オレンジ、グリーンと円が大きくなる図は、ラマルク的(獲得形質的)で、ちょっと違う気がする。系統樹的な書き方がよいと思いはじめる。

1月9日(水)
司馬遼太郎の「建築に観る日本文化」という講演記録を聴く。建物と建築の違いからはじまり、明治に「建築」が輸入されたこと。夏目漱石が建築家志望であって、「三四郎」に色濃くそれが表現されていること、など知っていることも多かったが、織田信長が建築家であったという指摘が面白い。日本は伝統的に建築家は壮大な夢をもっているのであるが、施主が幼稚であるという。ところが織田信長は、施主でもあった。司馬遼太郎は、ザビエルの故郷に行ったことがあるという。そこで目にしたものは、安土城であった。信長は、奈良以降はじめて建築を輸入した人であるというのだ。「魂に息づく科学」リチャード・ドーキンス著を読む。進化は、ダーウィン主義に基づく自然淘汰と突然変異によるものである。その突然変異(跳躍進化)にたいする理解を改める。ふたつの解釈がそこにあげられている。飛行機を引き合いにしてた、DC-8伸張型と747型というふたつの例えである。747は、竜巻が吹き抜けて組み立てるようなものだという。これはありえないことである。跳躍進化といっても、DC-8伸張型程度というのだ。そこには構造の変化はない(複雑さの増大はない)。ただし、キリンの首がレイヨウから伸びるとき、複雑性が同じでも、それを成立させるために、血液を押し上げる心臓の強化、筋肉など、実際問題は多々ある。この変化をクリアすることを突然変異という。遺伝子自体には変化が全くないのである。そう考えると、ラマルクの進化論も意味をなさなくなる。これを知って、キリンの首が長くなる一般的な解釈に疑問を感じていたことの整理がつく。実質内容を考慮せずに、機能的問題を優先させる方法に違和感を感じていたのだ。建築における機能的改善などは、ラマルク論を基本にしている詩的科学なのである。
003 アジアカップ 日本×トルクメニスタン 
3-2の勝利。初戦は厳しい戦いになると言われる中で、後半の大迫のふり向きざまのシュートで楽になった。相手は、W杯初戦の日本のようにベストな状態で牙を剥いてかかってくる。それを受けて立つことの難しさだろう。その後は気を緩めて、PKを与えてしまう。実力差が、プラス思考とマイナス思考をトータルした精神差をぎりぎり上回っていた。

1月8日(火)
「魂に息づく科学」リチャード・ドーキンス著を読みはじめる。ドーキンスのこれまでのエッセイや講演記録をまとめたものである。まえがきに、「科学者個人の内心の感情がどうであれ、科学そのものは、客観的価値を厳格に固守することで機能する」とあるように、科学には、デザイン思考や全体論、あるいは目的論などを必要としない潔さが全編に通底しているという。真実と価値は区別されるべきものであり、価値は創造できても、事実は創造できないという。
002 練習試合 ドルトムント×デュッセルドルフ 
香川がよいパフォーマンスしたというので、ドルト公式TVでチェックする。後半からトップ下で登場し、守備に貢献し、逆転へのチャンスメイキングとなっていたのだが、報道されているほどでもない。常時前を向ける状況をつくり出すことができていなかったので、速いサイドを活かすことができなかった。逆転時は、相手が守備に徹していたので、至近距離で前を向くことができていた。トップ下に君臨する絶好調ロイスは、チームがよいリズムでないときも前をむくことができ、そこからゲームを立て直していた。

1月7日(月)
昨日の疑問確認のために「ダーウィンとデザイン 進化に目的はあるのか?」マイケル・ルース著の再読。この本のテーマは、目的論にある。つまり、近代科学が発展をしても、神に変わるものが必要とされてきたという立場にたった主張である。カントも然り、ダーウィンも自然選択を「盲目的な法則に従って、知性に直接的に言及することなく物事を成し遂げる。この目的論は内在的」p121であるとしている。しかし、その後科学分析が進むにつれて、この目的論の存在意義は薄れていく。その最大の推進役となったのは、ドーキンスの利己的遺伝子であるが、ドーキンスの提案に本書は疑問を呈している。ベルクソン以降も、世界は因果律で図り切れない問題でいっぱいであるというのだ。トマス・ネーゲル、ラリー・ライト、ロバート・カミンズが挙げられているが、身近な人ではない。ラルーの日本語字幕付の講演をYouTubeで観る。翻訳では、「自己管理」「全体性」「進化する目的」と訳したが、既存組織側の立場から分かりやすくするなら、「ボスのいない小さな組織」「仮面を脱ぐ(既成概念からぬける)」「目先の目標に囚われない」が分かりやすい。新しい組織イメージを与えようとすると、「セルフマネジメント」「オープンマインド」「何をすべきか」といったところか。それを成立させるために建築にできることに引き寄せると、「見えない構造(イマジナリーストラクチャー)」「安心の場(セーフスペース)」「社会(環境)のなかの建築(サステイナブルアーキテクチャー)」といったものだろうか。

https://organization-laboratory.com/teal-untertitel-jp/?fbclid=IwAR2TjqRIfT_foohWFU6zlA8lR6unDiPlcQ5R_ygI6zvffheUZKnSLbE0M-E

1月6日(日)
「自己組織化と進化の論理」カウフマン(1939-)著を読み終える。カウフマンの自己組織化も、進化が有効に機能するための確率論を基本としており、それはドーキンス(1941-)の利己的遺伝子論と大筋において同じであった。生物個体の外部に目的があるわけでなく、あくまでも内部理論によるものであった。大きな違いは、カウフマンが数学的法則から一般性を導くのに対して、ドーキンスはあくまでも遺伝子伝達確率のみに基づいている点である。カウフマンは、少し宿命的な法則の存在を認めてるいるが、ドーキンスには全くその片鱗がない。どちらも、もちろん思考というものがないが、擬人的な表現で説明をするところに特徴がある。一方で、ベルクソン(1859-1941)の生気論は否定する。次の疑問は、この生気論がどのような展開をしていったかである。

1月5日(土)
「自己組織化と進化の論理」11章は組織論である。シュミレイテッド・アニーリングが紹介される。徐々に冷やすことをいう。通常は身近で容易な窪みに安住してしまうので、外部からエネルギーを加えることで、そこから逸脱させることをいう。鍛冶屋の例が示される。熱してものを叩くのは、外部からエネルギーをつぎ込むことなのである。もうひとつ、組織を部分に分けるパッチ方法も示される。内部矛盾解決型である。「各部分組織は自分の適応地形の上で適応度の高い山に登ろうとするが、そのことが他の部分組織の適応地形を変形させる」。こうして、全体がより高い山に登れるようになる。これを共進化という。本章では、組織分割数による進化の違いを数学的に示す。それによると、これまでの章と同様に、細かく分割するとカオス状態に陥り、大き過ぎると安定してしまうといっている。カオスの縁に留まることがもっとも効率がよいという。建築の場合も触れられる。「最終製品の多様化を予測し、生産ラインの設備をすばやく再配置し、さまざまな市場に合った限定された製品を短期間に少量だけ生産する」ようになる。次に示される3つめの方法は、制約条件を無視することである。これが、全体でみると効率がよいことが多いという。これら3つは、アレグサンダーのいうところの、漸進的成長、パタン(小さな作業集団)、ラフネスに当たる。12章では、マトゥラーナとヴァレーラのオートポイエーシスが触れられる。カントが、生物をオートポイエーシス的統一体と考えていたことも知る。

1月4日(金)
録画していた「映像の世紀」の後半を観る。68年のパリの時は幼かったものの、1989年のベルリンの壁の崩壊から続く熱狂は、当時日本にいたぼくには少なくとも遠い世界の話であった。ゴルバチョフのペレストロイカによって西側の勝利が自明と信じ込まれていたし、日本はなんといってもバブル景気であった。日本社会に不満をもつ者などいなかった。もっとも、68年の一連の出来事をはしかのようなものであったとする虚無感が支配的であったと思う。建築においても、歴史主義はどことなく斜に構えたものとして写っていた。入学時垣間見れた学生運動も、この頃には皆無であったと思う。そうしたなか日本の若者を惹き付けたのは、この頃からはじまったオウムのようなものであったと思う。おそらく、ばくらは社会という外の問題でなく、内省することに向かってしまった。この特集を考えるに、映像はエポックメイキングなシーンを取り上げてはいるが、社会のかかえる内情と必ずしも一致しないことが多いことを気づかせてくれる。
001 プレミア シティ×リヴァプール 
今年も、プレミアリーグから見始める。この時期の連戦は大変だろう。その中で好カードが組まれている。そしてシティが勝ち点差7を詰める。グアディオラもここで負けたら終わったといっていた。ゲームは終始、シティがコントロールする。サイドからボールをつなぎ、プレッシングをさせなかった。DF底からの縦パスも徹底的にマークし、FW陣に前を向いてボールをキープさせなかった。そのため、シュートもさせず、セカンドボールが拾われることもなかった。いい循環でコントロールしたことになる。一端、同点とされるも、直ぐにオーソドックスなサイドへの展開から、確実にサネが決める。とはいえ、激しい闘いであった。

1月3日(木)
再び民放局で、別の若冲特集を観る。今日の特集は描き方に対してではなく、絵の構成と主題についてであった。若冲は、相国寺僧侶の教えのもと仏教思想を表現し、絵1枚1枚に固有の主題というものはない。したがって、額縁に囚われる構成というものもない。彼が、絵師としての教育を受けていないことが、このユニークさをつくった。反面このことによって、「日本画」に位置付けられることもなく、専らの評価は、色彩や技法の特殊性にあった。相国寺は金閣、銀閣をおさめ、若冲の白黒画が銀閣の障子に多くあることを知る。夜に、新監督森保一のインタビュー特集を観る。紳士的な態度で、昨日の特集のような嫌味な感じはしなかった。ただし、最後は気持ちの強さというものがフォーカスされ、残念に思った。その段階を既に海外選手は肌で感じている。問題は、チームが追い込まれた非常時に、ひとりひとりがどう戦術を組み直せるかということだと思う。表象化できない意識下で、共通の問題を個人個人が感じられるとき、それが文化となることを、野中郁次郎から学んだ。その段階に、海外選手はいるように思うのだ。

1月2日(水)
昼過ぎに、久しぶりに穴八幡宮へ行く。そこで今年の吉方向が、東より少し北寄りであることを知る。こういうことを知ると少し気になるので、不思議である。その後、自宅近くの氷川神社まで散歩。夜に、サッカー特集を観る。岡田と西野の両監督の対談である。このW杯で、日本人として采配にかなり自信を持ったことが判る。劣等感をもっていた時代から前に進んだことを、そこから感じることができたが、年長者特有の手慣れた余裕が伴っていたため、あまり気分よく感じられなかった。海外経験選手たちは既にその段階を超えている。西野監督が告白していたが、ブラジルを経験した選手は、このW杯にかける情熱は半端なかった。これは、ブラジルで粉々に壊された自信から再起したものである。この情熱を首脳陣は判ってはいるが、自分の問題となっていない。その裏返しがテレとなって、捻れた態度となったのである。彼らも秘めた情熱を率直に表現すべきであった。気分をよくしなかった理由である。選ばれなかった若い世代も、アピールの機会がなかったろうが、それがなかったということだ。BSで、「オリバーストーン オン プーチン」を観る。ロシアから見た西側、とくにアメリカがどのような存在であるかを知る。ロシアからも、ぼくらがロシアにたいして思っているように、アメリカは信用ならない虚構に満ちた国と思われているのである。アメリカがNATOを存在させる理由、ロシア周辺国での反体制支援、これらのことをプーチンは納得していなかった。昨日、映画ミッションインポッシブルが放映されていたが、IMFからの視点がそのままプーチンにあったことに驚く。

1月1日(火)
昼過ぎに、赤坂の豊川稲荷へ初詣。その後、虎屋へ。予想に反して、他に店が開いていなかった。夕方、実家で夕食。BSで、昨年秋にパリで行われた若冲展の特集を観る。相国寺にあったとされる釈迦三尊図と30幅なる動植綵絵(サイエ)を一同に展示する。若冲はミステリアスな作家である。色といい構成といい、それが独特であるのは独学による発想からである。40歳から本格的にはじめた。使用する色数は決して多くなく、色に厚みもたせたドットで描き、背景とのコントラストで、対象を浮かびあげる手法である。そして対象、背景、裏背景と3つのレイヤーを駆使する。非常に現代的な手法である。このことが明らかになったのは、現代技術で高い解像度をもつ写真技術によってである。若冲の中に、フェノメナルな透明性を見る。その後、NHKの「ミッションインポッシブル」を観る。