8月13日(火)
妻の実家に行き、皆で食事。深夜NHKで「かくて自由は死せり」という特集を観る。最近発見された戦前の右派新聞「日本」を調査し、戦争突入までの日本の世論変化10年を振り返る。大正デモクラシーで得た自由が、社会的状況や数々の事件を契機にして、10年の間に、右傾全体化していく様を描いたものである。しかし、個々の事実が、この流れに収斂させられていくというステレオタイプ的な考え方には同意できない。もう少し日本新聞なるものの位置づけ、あるいはメジャー紙との比較が必要ではないかと思う。

8月12日(月)
多磨霊園へ墓参り。CASABELLA897が続けて届く。メキシコ特集。バラガン、オゴルマンをはじめ現代でもその特徴は、伝統と近代を揺れ動くものである。どうやらミラノでメキシコを廻る大きな展覧会があったようだ。

8月11日(日)
階段昇降機の実測に付き合う。しかしお盆休みに入ってしまうので、実際の準備にかかるのはそれからだそうだ。それでも休みの中、来て頂いたのはありがたい。銭湯を改修した流行の温泉施設に行く。比較的街中にあるという場所性もあるが、湯そのものよりも居場所つくりに力をいれ、若者が多いのが特徴的である。ここに建築が内部化を目指したときの、ダイナミック性の欠如を感じる。

8月10日(土)
ナチュラルアングルに行き、最後となった棚の設置をする。喜んでくれているようで、一安心。その後、簡単な撮影を終える。ヨーロッパリーグが開幕し始める。しかし、大迫以外の活躍してきた日本人プレヤーの移籍先が未だに定まっていない。その中でプレミアに所属する2人は、今日はベンチで出場なし。ベルギーやオランダのひとつ下のリーグでがんばっている若手に期待である。

8月9日(金)
終日の学科会議。慌ただしい日々が続く。CASABELLA896は「シザ以前のシザ」初期の住宅の紹介である。コル、アアルト、ライト、ミケランジェロのラウレンツィアーナ図書館の影響を自身が挙げている。このころは、構成というよりもディテールの大胆さに特徴がある。

8月8日(木)
弁護士事務所に寄り大学へ。これまでの経緯を説明し再度依頼することとなった。「やきもち焼きの土器つくり」を読み終える。後半は、フロイトの精神分析に触れ、それが神話分析と同等であることを示す。両者とも、「抽象的想念を視覚的イマージュに翻訳するp269」ものであるという。それは、自然から社会へスムーズに移行するには必要とされるもので、タブーを具体的に表象するものでもある。だからそこには共通性=構造が結果的に現れる。ところで、小学校時に、本書で扱われているヨタカを扱った宮澤賢治の「よだかの星」の演劇をした。このことを思い出した。夜に生息する醜いヨタカが社会に溶け込めずに、太陽を求めて飛び続け、燃え尽き星になるという悲しいストーリーであった。「よだかは星になったんだ」という台詞を今でも思い出すが、主人公ヨタカを直接的でなく周辺から描写し浮き上がらせていることが、例えば「みにくいアヒルの子」と違い、物語に深みを与えているのかとも思う。

8月7日(水)
連日強烈な陽差しの日々が続いているが、瞳孔を明けた検査後の世界はまた別ものである。道路上の白線がハレーションを起こす。モノの輪郭がはっきりしなくなり、光りを放っているように見える。眼科は暗いといつも感じていたが、こうした理由があった訳である。イヤーブックの編集を担当者が終えてくれて、データをデザイン事務所に送付。

8月5日(月)
介護保険認定のための調査を午前中に受ける。これで制度の全体像を掴かむ。担当ケアマネジャーの決定をお願いし、早期に認定されることを依頼する。「やきもち焼きの土器つくり」を続ける。神話に選択される対象は、恣意的かつ偶然性に支配された歴史の遺産であり、その文化でしか通用しないコードではあるが、それぞれの対象の意味は似ており、メタ・コードとなり得る。つまり共通の構造があるという。例えば、神話における嫉妬について。これは、分離の状態があるか分離のおそれが生じたとき、結合の状態を保持し、生み出そうとする意味において、各神話は共通しているという。

8月4日(日)
実家の3階リビングを整理する。テーブルを小さくし、大きく動き回れるようにレイアウト変更。竣工後20年以上経ち、座式から椅子式へ、そして大テーブルから窓際の小テーブルに、父母の体の具合に合わせて変更してきた。次の段階で、キッチンを分ける収納を低くできれば、キッチンと一体のものとなる。自動車のエンジンがかからずビックリする。自動車のバッテリーの問題か?

8月3日(土)
早朝から大学のオープンキャンパスへ。例年より来場者数が多かった。説明会を2回行う。花火大会があるというので、早めに事務所に戻る。「やきもち焼きの土器つくり」を続ける。「神話論理」10年後の作品であり、「神話論理」を俯瞰し要約したものである。

8月2日(金)
直通階段の階段式昇降器を利用する場合の介護福祉制度について調べる。メーカーごとに性能と価格に差があり、補助金を得ることはなかなか難しいことを知る。「やきもち焼きの土器つくり」レヴィ=ストロース著を読みはじめる。土(土器)にヨダカに関する神話を解釈する。土は、地中と地上を分けるものという意味で、イサム・ノグチの代表作「クロノス」や未完の「広島の平和資料像」に通じるものを感じた。どちらも世界全体を表現しようとするものだ。

8月1日(木)
072 プレシーズンマッチ レアル・マドリード×フェネルバフチェ 
連日のゲームで、今日はレアルが5-3で打ち合いを制する。これまでの相手とレベルが違っていた。若手の中では久保だけが、70分過ぎからモドリッチらと一緒に登場する。が、それは先発組の消化時間的意味合いが強いので、優先順位は一番低いようだ。今日のプレーは消極的であった。モドリッチを見て、彼を活かす組み立てをしていたように見える。その中でも1本鋭いシュートを放ったのは久保らしい。試合後のジダンのコメントも久保について慎重であった。

7月31日(水)
071 プレシーズンマッチ レアル・マドリード×トットナム 
レアルは、メンバーが確定しないこともあって、なかなか軌道にのらない。このことがよくわかる。0-1で敗戦。久保は、残りのベンチメンバーと一緒に80分から登場。久保の序列は厳しい。4-4-2の2列目右であった。2つのダイレクトパスをミスし、3本のインパクトあるシュートを放つ。良くも悪くも目立つ存在であった。ジダンの評価はどのようなものだろうか。

7月30日(火)
学科における意匠系授業のフローを相談。M・ポランニーやレヴィ=ストロースによると、知識は2つに分けられる。科学や技術に基づく直接的知識と知識を具体化するための実際的知識である。東大の名誉教授で教育学者佐藤学氏によると、専門教育におけるアクティブラーニングとは、法学では判例、医学では臨床を目の当たりにして、判断と省察力を学ぶことだという。この力は、ふたつ目の知識で可能となる。ぼくら意匠系は、講義では知識を説き、それを設計という実務とリンクさせ、学んだ知識に判断と省察力を身に付けることを目的としている。したがって、ふたつは不可分となる。当然講義科目は従来の建築計画の内容とは異なり、ビルディングタイプ中心に解説するものではない。具体的設計実例を通して、問題を把握しそれを解決するための具体の実際の知識を得るための方法を学生に示す。そのことを、意匠系教員全員で共有していた。その結果が教科書として「建築のリテラシー」として著した。現在はその実行中。当然、その方針のために犠牲となった科目もあり、その知識については許された科目内で振り分けている。こうした理念を説明する。

7月29日(月)
ゼミ合宿は朝食をすませ、集合写真を撮り解散。皆は近くの美術館等へいくそうだ。ぼくは保田小学校に寄り、土産を買って事務所に戻る。「非唯物論」ハーマン著を再読。この本から学んだことは「実在=現実は遂行され、ないしは生み出されるのであるp38」。あるいは「様々な疾患はこれを発見するために様々な方法が使われるさいに生み出されるp36」であった。建築でいうところでは、絶対的なものなどない状況で主体が最初に位置付けられ、主体を通してつくられる現実が絶対視されていることになる。その是非は他者との絡みの中で見出されるのだ。非人間中心主義という言葉はセンセーショナルである。しかし、ハーマンにとってこの言葉が意味するところは、ぼくらの関与できない宇宙の出来事や摂理から現実を紐解こうとするものではない。物自体あるいは崇高な目的の存在意義の否定(カント批判)がまずあり、そこから人間と自然摂理の2項対立を解消することになる。それによって、2項対立がエンジンとなってこれまでつくりあげてきた進歩主義的思考や分析型科学を否定することであった。ぼくにとっては、そこになんらかの理由が見出せた。このことが本書の収穫であった。

7月28日(日)
研究室の前期打ち上げと中間発表を兼ねて、鋸南保田へ行く。リノベで有名な保田小学校は、鋸南保田インターから直ぐのところにある。物産展となる体育館はスケルトン状態の内側に冷蔵庫や倉庫、事務空間を兼ねた幅3mくらいの1層空間で囲まれる。その上部が空調の吹き出しである。外壁は2重のポリカボーネートで覆われ、室内は明るい。中央が地元商品の陳列棚である。校舎部分は、2階が宿泊施設で、1階が食堂、会議室、総合受付等であり、校舎の前の鉄骨造のピロティとガラス張りのバッファ-ゾーンを増築しただけで基本構造に手を加えられてはいない。時間に余裕があったので、新築部分の大浴室に入る。とはいっても小さかった。宿泊先の民宿へ。吉村さんがコンテナを利用した宿泊施設を増築したと聞き、そこを宿泊先に選んだ。全面畳張りでキッチンを備えたものと、2段ベッドが片側に並ぶ2パタンがあった。ぼくは本館に泊まる。施設は西に突き出た突端の南の入江に面していて、西日を受けずに海からの風だけを感じることができる。時間によって風向きの変化を感じられた。この配置は参考になる。夜は半期分の成果を発表してもらう。ぼくが注意したのは、具体例を中心に研究を進めること。ゴールを定めて逆算しようとするのではなく、自分の興味を客観視できるような視点を求めることである。興味に係わる実例が、どういう経緯を持っていたかを知ることで、それが可能となる。

7月27日(土)
「非唯物論 オブジェクトと社会理論」グレハム・ハーマン著上野俊哉訳を読み終える。ハーマンの考えは、アクターネットワークセオリー(ANT)をもとに、OOOとは非唯物論として一線を画す。このイメージは、ぼくにとっては、散逸構造と重なるものであった。それは、非相互的で非対称的な中心が多々共生し、熟成拡大しながら、新しい創生が起きることもあれば、その強さから終焉することもあるエネルギー開放系の動きである。そこには全体を支配する何ものかが安定してあり、そこでの構成単位は、根拠付けられ固有なものであり、ひとつとして同じものは無い。したがって、それぞれが関係するかどうかは偶発的というより確率的なものである。非唯物論の公準をまとめると以下である(p27)。1.間欠的変化(標準は安定) 2.明確な境界(連続体でない) 3.偶発ばかりでない 4.動詞より名詞 5.自律した本質 6.プロセスより実体 7.思考と対象の分離不可能性 8.多数多様でなく唯一特異 9.超越性の否定 これは、アレグザンダーが考えた「15の幾何学的性質」をもとに、ぼくなりに言い換えたものだ。アレグザンダーは非唯物論者ではないので、両者の違いは、9にある超越性あるいは心とモノとのインタラクト性の否定が大きい。それから生じる6のプロセスが否定される。つまり、非唯物論は、アレグザンダーもいう本質の存在を認めつつも、それへの直接的アクセスの否定が根本にある。しかし両者とも、感知というものしか行い得ないともいっている。
070 プレシーズンマッチ レアル・マドリード×アトレチコ・マドリード 
ゲームにかける真剣度の違いが結果となる。久保は後半の60分から出場。モドリッチに代わり中盤底となる。70分に、SBが上がっていたところへ、中盤底からの長いスルーパスをカットされ、7点目を献上してしまう。逆に、ボールを奪いにいったタックルもすんなりとかわされてしまった。思えば、1戦目も相手DFへの安易なチェックから一発のパスを通させてしまった。フォーメーションに対する今後の課題である。攻撃に関しては、時たまトップ下に入ってはチャンスを伺っていた。79分の得点は、久保の思いきったシュートからはじまった。可能性を感じさせるものであり、70分のミスを帳消しにできる程のインパクトをこの試合でも残せたかとも思う。

7月26日(金)
検査の段取りのため母親と大久保病院へ。帰り際新宿に立ち寄り歩行補助器具を購入。役所へも行く。この時間を利用して、考えられることを行ってみた。夏の日程が決まる。

7月25日(木)
「非唯物論 オブジェクトと社会理論」グレハム・ハーマン著上野俊哉訳を続ける。オランダの東インド会社(VOC)の歴史を紐解きながら、著者ハーマンは彼独自の非唯物論を展開する。それは主人公のいない大河ドラマのようだ。歴史はひとつの道筋でストーリーをつくりがちであるが、じっさいは偶然の連鎖で、最終的な道筋は事後によって説明出来るものである。かといって、法則が重視されるのでなく個が大切にされる。だから、生成よりも存在なのである。多数多様というよりも唯一特異なものである。柄谷行人が、制作より生成といっていたが、もう一度その前に戻った訳である。VOCを何であるかよりも何ができるかを見るものだ。VOCは、いまでいう株式会社である一方、軍隊をもち条約を批准し、主権国家のように機能していた。本国から公認されていた、フラーのいう17世紀の海賊である。彼らは本国から遠距離にある理由から社会離れしていて、新しい自分の論理を打ち立ては新しいネットワークを再構築し、その中で広い東南アジアをコントロールしていった。そのネットワークは限られているので事後的に説明がつきやすい好例として、本書では機能していた。香辛料の支配からはじまり、クーンという悪総監が出て、原住民の反乱と新国家樹立、そして香辛料の不要から始まる衰退。つまりVOCは自律しながら、新しいネットワークの構築を時勢にあわせて構築・解体したものであった。そのため、登場人物それぞれにキャラクターがあり、背景を詳しく記述する大河ドラマのように見えたりする。

7月24日(水)
3年生と4年生の前期合同講評会。ゲストに、浅子佳英氏と木内俊克氏を迎える。美術館では、計画した作品と敷地あるいは場所とのあり方を指摘される。美術界についての全体像が判っていないので仕方なしであるが、上野は国立美術館がある場所であり、他の美術館との関連がある。ある程度こちらから作品を絞る必要が来年度以降考える必要があるかもしれない。小学校では、地域の中で学校の位置づけがはっきりしている案が優秀案として選ばれた。このように建築の批評が、建築単体に向かってはいない。このことは明らかである。こうした流れに学生はどう向き合うかを考える必要があるだろう。木内さんはシステム的思考をする人であった。設計において、システムを道具として考え、それを上手く利用することで、建築単体が新しい指向を目指すことを薦めていたように思う。比嘉さんがいっていた、設計者のジャンプとは何かとと同じである。比嘉さんの方がもう少し設計側に引き寄せていたのであった。あるいは身体性。金野さんと佐々木さんが薦めていた。その中で御手洗さんの批評は印象的であった。作品が新しい全体の中での位置づけされるものであるとしたら、それに相応しい新しい建築があるだろうというものであった。そこでは、従来の建築の枠組みが否定されている訳ではいない。これまで見過ごされてきたネットワーク構造に加えて、建築単体を成立させるネットワークも同時に存在し、その重なりをかたちにすることこそが求められていることなのだろうと思う。
069 プレシーズンマッチ レアル・マドリード×アーセナル 
久保は出場しなかった。ネットによると温存らしい。若手に規律をもって育てるジダン流の育成論だという。一喜一憂しては、マスコミに振り回されていまう。このことから守るのが、ジダン流だという。だから、今季は久保を外の1部チームに武者修行させずに、2部チームで鍛え上げ、精神も含めてしっかり教育することになるという。

7月22日(月)
2年生の前期課題講評会。総じて皆がんばっている。「パブリックハウス」というテーマの難しさが指摘されたが、居場所としての住宅の境界が曖昧になっていくことで、住まい方に変化が起き、住宅のかたちに変化を与えることができればと考えた。今年の傑作した作品に、住宅を環境実験装置として提案したものがあった。人間交流を目的とし視線の抜けを考えた開口部のデザイン、壁の物理的性能を高める工夫、あるいはアレグザンダーの厚い壁に見られる機能的連続性、これらと異なる内外の仕切方を工夫した作品であった。それは、熱容量の大きな岩石のようなコンクリートと熱容量の小さい鉄板で囲んだ住宅、あるいは、水で覆いかつ日射遮蔽ルーバーのある水槽のような住宅であった。どちらも、現実の社会則よりも宇宙則に従おうとするもので、はるか遠くに焦点をあてている。この点で、住宅は単なる私的なものであることを超えている。住宅内部から敷地を含めた周辺環境へ、そしてさらに地球宇宙環境へ、建築の指向を変えていくことが求められている。

7月21日(日)
068 プレシーズンマッチ レアル・マドリード×バイエルン 
前半はレギュラー組みでのぞみ、後半から11人の総取り替えで久保も登場。今週は、久保の影響で、レアルTVを追いかけた。レアルの練習は、ゴールに結びつけるため何をすべきかをチームで成熟させるものではなかった。というより、丸くなってDFを挟みながら長短のパス回しをするような練習であった。まるで、ウォーミングアップのようであった。しかし今日のゲームで、その意味が判ったような気がする。レギュラー組は実践でそれを実行し、ゲームをコントロールしていた。選手の技術と貫禄がそうさせていた。反対に後半の控え組は、まったくカタチになっていなかった。久保はというと、それなりに存在感を示していたが、決定機をつくるまではいかなかった。トップ下に入り、今日のところ香川との違いが見出せなかった。ただし、多くの場面で前を向いてボールをさばいていた。

7月20日(土)
「万引き家族」是枝監督をTVで観る。以前の是枝映画では「家族」の存在の大きさが語られ、そこに一筋の希望がもてたのだが、本作品では、それへの諦めの方が大きく感じられた。それは、家族が社会との関係をもとうとしないと、家族は崩壊してしまうことをいっている。要するに、家族とは構成員間だけの問題でなく、社会からも位置付けられ、現代はその影響の方が遙かに大きいということだろうと思う。家族の絆以前に社会的規範が存在し、社会はそれに従って生きることを要求し、それを家族が拭うことなどできないのである。もちろん、社会的規範は人間の尊厳を大切にするものであるが、それが逆に人間性を崩壊させることもあるのだ。この矛盾を巻き起こす居心地の悪さが、虚無感として残った。吉本興業宮迫+田村亮氏の闇営業をめぐる謝罪会見を観る。彼らの軽率さが事の発端であったが、彼らは名を馳せた芸人である。その能力と捨て身の強さで、世論を動かすほどのパフォーマンスを発揮したと思う。少なくともぼくは考えることが多かった。今後の世論に注目である。

7月19日(金)
4年生の課題の講評会に参加。遠藤研からふたつの作品が優秀案として選ばれた。堂の下くんの案は、過去に存在していた蚕中心のネットワークを現代に活かすために、それを味噌つくりのネットワークへ置き換えるものであった。ふたつは分かりやすいネットワークを有しているという点で共通性がある。しかし、時間的にもズレ、行為する人自体も異なっているし、そもそも異なったものである。その差異を明らかにする必要があるだろう。その発見が設計者としての立ち位置になると思うのだ。深谷くんの案は、銀座(都市)の中で豊かであることとは何かという作品であった。歴史的なものを含めて情報を多く得ることを良しとしていた多くの作品の中で、都市とそれ以外は決して不連続でないことを前提に、情報を限定することこそ豊かであると考えた。それをウィリアム・モリスから紐解いているのが興味深い。豊かさを対象にではなく、対象と人との絡みに置いていた。

7月18日(木)
神宮前プロジェクトの新しい模型からいくつかのことを発見。透明性のあるラーメン構造を考える。柱の存在感を確かめ、梁の構成と4周の外部への抜けについて考えた。やはり、図面の上と3次元に立ち上がったものとは印象が違う。深夜TVでのウルトラマンショーを観て思うことがあった。少年頃、夕方の5分番組で人間大のウルトラマンと怪獣が戦っているのを観て、がっかりした。この記憶が蘇った。もちろん、中に演じている人間がいることを知ってはいたが、当時でもその現実を突きつけられた気がした。少年にとっての現実は、テレビの中のビルより大きなウルトラマンを観る自分と、ウルトラマンと怪獣のフィギアを両手に持って戦闘させる自分が、時に行ったり来たりしていた。5分番組の人間大のウルトラマンは、こうした現実を壊すものであったと思う。図面から立ち上がる3Dにも似たような感情を覚える。

7月17日(水)
3年生の第2課題の提出。地域の中の学校の位置付けが明確な作品を選ぶ。本当は地域との位置付けによって、内部プログラムが変わることを願っているのであるが、そこまでは難しい。

7月16日(火)
「局所的最大と全域的最大」を、建築のデザイン行為に結びつけることを考える。局所的最大とは個人の能力に関することで、全域的最大とは、社会が変わっていくことである。社会のために、個人的視点が等閑にする傾向があるが、それとは反対のことである。下からボトムアップであっても、個は皆一緒であるわけでなく、個の役割を確固たるものにすることである。世界には境界がないわけでなく、閉鎖系であるからこそ、それに対応する個があるような気がしてならない。もちろん、スタティックな訳でなく、ダイナミックなものであるのだが。夏にこのことについてあたってみようと思う。

7月15日(月)
2年生の第2課題提出。レベルの高さに驚いた。独創性が上がった訳ではないが、それを説明する詰めが深くなった。来週の講評会に向けて無理やり3案に絞り込む。今後に期待である。

7月14日(日)
ジュコビッチとフェデラーとの決勝は、日本時間で深夜まで続く。死闘であるが、淡々としているのが面白い。錦織と違うのは、エネルギーの使い方にあるかとも思う。

7月13日(土)
入盆というので、多磨霊園にいく。久我山辺りに新しい自動車道路が開通し、三鷹方面への新たなアプローチができたことを知る。帰路で、深大寺でホオズキ市が開催されていた。

7月12日(金)
クリスチャン・ボルタンスキー展へ行く。「巡礼」がテーマであった。巡礼とは、いつかは訪れたいと思っていても、距離的な制約などのため、なかなかそれが適わず、しかし訪れることが不可能でない場所のことを言う。ボルタンスキーはそれをアートとして表現しようしているのだ。遠い豊島の心臓音アーカイヴ、今回展示されているチリにおけるアニミタス、ミステリオスなどがその代表である。アニミタス(「ささやきの森」)では、短冊のある風鈴に愛する人へのメッセージを残すことができる。ぼくとしては、美は対象にあるのではなく人にあることを示した崇高論に通じるものを氏の作品を観る度に思い出す。崇高とは、対象について人が説明不可能なときに生まれる情感である。そのひとつ手前を制作すること、ボルタンスキーの永遠性というテーマは、この関係を引き延ばすものである。そうしたアートあるいは場所は、誰がつくったかをわすれされてしまうが、聖なる場所として残されていくものなのだろう。「亡霊」も氏のテーマである。これらも実在するが、決して接近することができないものである。ユダヤで殺害された人たちの笑顔の写真もそれを物語っている。最近流行のOOOあるいはSRの対象にたいする考えとそれは同じだ。知覚や感覚の対象になっているモノに人間はアクセスできない。人間の介入なしに、またその認識作用なしに対象は、無関係に実在する。ボルタンスキーの作品は、それを気付かせようとするものである。

7月11日(木)
今年度もレクチャーシリーズがはじまった。第1回目として慶應大学の池田靖史氏をむかえる。テーマは「建築情報学」。最近、池田氏は建築情報学会なるものを立ち上げた。情報は、これまで輝かしい未来が保証されていたものであったが、昨今はGAFA問題や情報漏洩、プライバシィー侵害など、建築でもそのコントロール方法が問題にされている。学会の発足理由がそこにもあるという。加えて一昨年に1年を通じて、世界各地の建築情報にたいする教育の実情を調査してきた。世界では、デジタル建築技術との親密性が日本のそれと、比較できないほどに進んでいるという。日本におけるその緊急性も大きな要因であったろう。ところでなぜ日本でそれ程受け入れられていないか、その理由が明らかにされていなかったが、講演からぼくが思うに世界は、職人的技(know houw あるいはsovoir faire)を、この技術に期待している。それに対し日本にはまだその技が十分に残っているということだろうと思う。つまり優秀な日本人的技術が、デジタル技術の発展の足かせになっているともいえる。そうした池田氏の建築テーマが、既存の世界観を外したところの建築の追究にあるのは当然な帰結である。しかし、「第一機械時代の理論とデザイン」にあったように、建築家にとってそれは容易いことではない。この本では、今日の職人技がもつ世界を「建築」としていっているような気がしてならい。この「建築」を前提にしない限り、知らず知らずのうちにぼくらは取り込まれてしまう。ところで、デジタル技術の将来について、それは頭脳のようなものになり、これまでの機械的な原因-結果という思考や行為を超えることができるだろうか?池田氏は、その一線を技術は越えることができずに人間に残るものだという。デジタル技術に刺激を受けて、ますます人間の知性は豊かになり、そこから喜びを得るという。技術と人間を不可分にひとつのシステムとして考えていることが興味深い。

7月10日(水)
今年度の最後の読書会「言葉と建築」エイドリアン・フォティー著。言葉も図面と同様に、建築を表現あるいは発想させるものであるということを、実例を挙げて説明をする。会では「構造」を例にしてくれた。「構造」という言葉は、建設に近い意味しかなかったのが、1800年後半のヴィオレ・ル・デュクによって哲学的な意味を得るようになった。それは、「構成」というものであり、そこから構成を操る主体が自由になり、その拡大解釈は工学にとどまらず社会学にまで、現在は浸透している。このことは、建築が意味しようとしてきたものの変遷であり、それを通して当時の社会が考えてきたことを知ることができる。これからぼくらが学ぶこととは、ぼくらは歴史の延長上にいることであり、建築でいえば、依然として「建築」の中にいることである。その後、現代性を表現できる言葉を挙げ、それとモダニズムとの関係を検証した。第1部の最終章にはアレグザンダーがここでも取り上げられている。アレグザンダーの「活き活きした」という言葉は、当時ヘルツベルハーらが考えていた人間主義的な建築への回帰を、的確に表現するものであったという。逆にいえば、その時代雰囲気を表現できていなかった訳である。『建築はまた、実際には目に見えないものを示しうるし、以前には気付いていなかった人々の結合を引き出しうる』。これが成功した際に「ある建築的環境は、そのうえ、これら埋め込まれていたリアリティを「視覚化」し、そうして使用者に「世界について」何かしらを伝えるだろうp168」。建築の別な社会的意味が示されている。錦織対フェデラーの全英準々決勝を観る。好調の錦織も、フェデラーに歯が立たなかった。ぼくにとっても、トップとの差が何であるかが見えたようで見えなかった大会であったと思う。

7月9日(火)
久保建英のレアル入りの動画が飛び込んでくる。マドリードに到着後、いきなりスター軍団と練習、北米への移動である。入団会見もなく、チームに受け入れてくれているかどうかの判断する間もなく、超個人集団の中に放り込まれた訳だ。数人の新加入選手もいるが、彼らには元チームメートもいるし、同国の選手もいるし、あるいはCLやW杯で顔見知りでもある。日本ではリーダー格の本田も、ミランでは10番にもかかわらず殻に閉じこもってしまったと聞く。きっと予想できないほどの異なった世界なのだろう。そんな久保建英を自分の子のように心配してしまう。

7月8日(月)
「宇宙船地球号操縦マニュアル」の読書会。この本では、一貫して宇宙的な視点で語られているのに対し、人間ひとりひとりについては言及がない。ぼくらは宇宙の一部である一方個人的存在でもある。ラトゥールは、世界を自然と人間の2項対立の間のハイブリッドとしてみていたが、フラーにとって人間は、宇宙の中のひとつでしかない。昨日読んだ「システムの科学」によると、人は状態記述と過程記述を行ったり来たりして思考するものであるが、「宇宙船地球号操縦マニュアル」には過程記述というものがないようである。引っ掛かるのはその点であった。それに対する解答のひとつとして、「局所的最大化と全域的最大化」を説明する。熱力学第2法則によると、絶えずエネルギーを吸収しそして排出するような代謝機能のある開放系世界では、世界はエントロピーが増大して一様に落ち着いていくのではなく、投入されたエネルギーによって小さな新しい構造が時に発生する。そうして、開放系世界は変化し続けていく動的世界なのである。こうした動的世界では、局所的最大化と全域的最大化は不可分で、宇宙の中でひとりひとりの人間が活動する理由をここに見出すことができる。この新しい芽生えた構造を創造といえば、ぼくらがあれこれと悩んでトライすることも、宇宙法則の中で無意味ではないことになる。
067 南米選手権決勝 ブラジル×ペルー 
マンCのジェズスの活躍が目立ったものの、中盤のアルトゥールとカゼミーロがつくるタメが効いていた。ペルーも見せ場つくるも、最後は力尽きる。

7月7日(日)
法則的宇宙全体論と個人的創造との関係を廻る昨日の疑問をもって、「システムの科学」ハーバート・サイモン著を確かめる。本書では、このことを「局所的最大化と全域的最大化」といっている。そしてその接面(インターフェース)に人工物(システム)がある。それが、科学であり、デザインであるというのだ。つまり、世界が発展するには、(誰か)個人が最大限の力を発揮することが十分条件であり、それによって結果が結びつくこともあるという。そのために科学やデザインがある。このことは進化も同様である。したがって、ダーウィンは片落ちであったまでいって批判している。つまりサイモンによる創発あるいは進化とは、新しい関係が要請されるときの事後的な発明物でしかない。「緩い意味では、創発とはたんに、複雑なシステムを構成する個々の部分が、それ単独では存在しないような、相互的な関係をもつことp205」である。つまり、創発も進化も個人的能力によるものというより、宇宙の必然の中につくられた偶然物として(事後的に)位置付けられたものなのである。これによって、システムと個人の関係、建築でいえば、大文字の建築とひとりひとりの自由の間の意味することが説明されている。

7月6日(土)
フラーを読みながら、プリコジンが気になり、「確実性の終焉」を手にする。散逸構造が本書のメインテーマである。エネルギーが散逸していく中にも、局所的にエネルギーが注入されると、構造が現れることをいう。生命体とは、宇宙から考えると、死にゆく運命の中で、代謝機構や排泄機構によって生きるものである。そう考えると世界は自然法則によって支配されているのであるが、それに対して、人それぞれは自由でもある。このふたつの矛盾をいかに説明するかが、歴史的に考えられてきた。大胆に言えば、大文字の「建築」を前提にしながら、個人の創造の意味が説明できるかということである。それを本書では、「今や創発しつつあるのは、決定論的世界観と、偶然性だけからなる恣意的世界とのあいだにある、中間的な記述世界」であるとしている。今日でほぼ、家具の現場作業を終える。

7月5日(金)
「宇宙船地球号操縦マニュアル」フラー著を続けて再読。第1章は、第1次大戦前のパイレーツについて。フラーはパイレーツの生き方が好きだ。彼らは、当時未知なものであった世界の3/4を占める海を支配していたからである。続き第2章は、パイレーツ亡き後に世界を支配しはじめた専門分化された世界観の否定である。次章からその理由を示していく。第3章は、オートマトン(自動人間)について。オートマトンに悪い意味はなく、宇宙法則の下に、人はオートマトンなのである。第4章は、宇宙船地球号について。宇宙の中の地球の位置付けである。第5章は、宇宙について。宇宙は動的平衡状態にあって、個々が無関係にバラバラにあって非同質である。それが相補的でもあって、同じ空間に存在しているのだという。それを知覚できるのは、直感のみである。第6章は、シナジーについて。宇宙のような全体をシナジーといい、シナジーのもとでは、知識とエネルギーは同じ価値をもつ。第7章は、道具について。道具によって人は、分散しているエネルギーを統合することができ、活動を拡張させることができるのだ。形而上的意味においてknow how(sovoir faire)が最大の武器となる。本書の特徴は、差異ばかりを気にする最近の傾向とは異なり、宇宙的視点から語られていることである。そのもとでは、ぼくらにとって重大に見える差異も、宇宙から見るとたいした問題とはならずに、大きな流れに乗っているだけである。そうした視点にたつとき、直感から発して何を(What)するかがぼくらに許された最高の能力となる。なぜ(Why)ではない。

7月4日(木)
ナチュラルアングル行き。10年前に設計したナチュラルアングルは水路のある小道に面していて、この時期ホタルが飛ぶ。設計当時、そんな自然と真摯に向かい合う住宅を考えた。このことが懐かしい。外部へと連続する住宅というと、南に庭があるステレオタイプの住宅が一般的であるが、この住宅はそれを否定することからはじめた。玄関から水回り、階段室そして寝室と部屋が数珠状に連なって蜷局を巻き、それに囲まれた場所が小川に面するリビングとした。だから今でも久しぶりに訪れると方向性を失う。寝室の開口の先がどちらに面しているか判らない。隣の家がどの方向にあるかなどの、模型を見るような俯瞰イメージを、室内から結ぶことができないのである。おぼろげながら設計時には、雁行上の廊下に囲まれた寺、例えば高桐院の空間構成等をイメージしていた。高桐院に代表される建築では、いくつかの庭に面して幾度も折れ曲がることを強要されるので、建物を俯瞰的にイメージすることはできない。それによって、庭にたいする度に生身の目線で接することになる。これは日常とは異なり、かけがえのない体験だと考えていた。今回は、そうした建築の2階のU字型の寝室に新しく、男女2人の子供のスペースを加えるものであった。そこは外部に対して閉じているので、問題は建築内部に限られる。家族メンバー間で、ステレオタイプとはならない接し方が考えられた。寝室から二人の子供の領域を仕切るこの家具は、一般にいう垂木を積み重ねるメーソーリー構法である。研究室のメンバーによる製作である。メーソーリーはアレグザンダーが好む構法であった。実際につくりながら、様々な現実を感知し、微調整させながら進むことができるものである。こうした思考方法を頑なにアレグザンダーは守った。だからアレグザンダーは、計画すること、すなわちマスタープランをつくることを最も嫌った。ルネサンス以降(アレグザンダーにいわせるとデカルト以降)の、考える人/つくる人、あるいは思考/経験の分離はあり得ないことであった。つまりは、「ティール組織」にでてくる自転車乗りのことで、それで建築を仕上げるにはどんな構法が妥当かという問題である。仕上げのイメージから逆算して、それに適する下地や構造を決めていくのではなく、仕上材かつ構造となる垂木を、状況を確かめながら積み重ねる。そこから得られる情報をまた次の垂木の積み方に生かしていく。こうした方法である。実際は、多少なりとも研究室でシミュレーションを重ね予め微調整し、ハプニングを狭めておくことになるが、メーソーリー精神は崩していない。こうした方法をアレグザンダーは、近代の病から癒やす核心であると、80年代には言い当てていたのである。今回の場合では、直角でない部屋に素人が製作するには、尚更適った方法でもあった。そしてそこにあるのは、設計者(学生)とシキチやモノとの不断の格闘のみでもない。ちゃんとナチュラルアングルの家族の存在もある。このメーソーリー方法にはスキマがあり、ささやかながらも気軽に棚を掛け替えることができる。そしてこのスキマは、その棚に何を並べるか、あるいは何よりも、メーソーリーは透いていて、あるいは作業机は通路に面していて、生活上、家族はお互い気を遣わなければならない。その意味で、新しい家具との多少の格闘は、関係なる人全てにかかわっている。外部にたいして考えた真摯さは、こと内部へも適用されている。

7月3日(水)
「宇宙船地球号操縦マニュアル」フラー著を再読。1969年の発刊である。これまでの行ってきた読書会の本とは違い、勇気をもらえる本である。ぼくらにはマニュアルこそないが、直感と知性にしたがえば、富を手にすることができるという。富とは、金のことではなく、宇宙全体の表現可能なエネルギーというものを言いかえたものである。エネルギーは、有限でかつ保存されている。その一部を変換しているのに過ぎないのだ。ここでは、ひとりひとり、あるいは人間、モノ、自然、生命、知性までをも区別する視点はない。全てが同質なエネルギーの粒でできた密度のある集合体のように現象をみている。

7月2日(火)
今日からナチュラルアングルで、家具の設置を研究室のメンバーとはじめる。まずは既存を解体し、購入した家具の組み立てを行う。その後、建物が矩形ではないので墨出しに手間が掛かる。思っていたほど、型紙が有効に働かなかった。そして図面と現状の食い違いを把握し、逃げ墨を打って、明日からの本格的組み立てのための下準備をする。ここで今日の作業を終了。夜、錦織が万全の戦いをする。今週は楽しめそうだ。

7月1日(月)
深夜TVで、大坂なおみの全英オープンの初戦。ミスを連発し負ける。トップ選手にあるひとつめの壁にぶち当たる。これからの挽回に期待。「抽象の力」再読。イサムノグチと白井晟一が探究した大地の意味を理解する。デュシャンのフレマランスもこれに近いのではないか。世の中には様々な2分方法があるが、下と上を分かちあうのが大地であり、大地をデザインするというとは、この2分けの意味を解くことである。ここに部分でもなく全体でもないその中間の表現方法があることを感じる。

6月30日(日)
森美術館で開催の塩田千春展へ行く。マニュエル・リマの「ビジュアル・コンプレキシティ」で、現代ネットワークのビジュアライゼーションの最前線として紹介されていた。本展でもその「静寂」が展示されている。塩田の作低品は、ぼくたちを包み込むネットワークの存在を可視化するアートである。遠くからはぼっーとしていて、近寄ると紐の存在が判る。人間と外界との境界をなくし、彼女の言葉にあるように、「第一の皮膚は人の皮膚、衣服が第二の皮膚、だとしたら第三の皮膚は居住空間」なのである。人とモノ、宇宙、生命の連続を表現しようとする表現である。

6月29日(土)
諏訪大社に行く。三輪山神社と同様に諏訪大社も、拝殿だけで本殿をもたずに、御神体が山だと知ったからだ。大社配置も興味深い。神社建築に珍しく、拝殿に対し裏(西)から布橋を使ってアプローチし、振り返ったところにある。信仰で重要な磐座の硯石は正面にあるにもかかわらずだ。しかし有名な御柱は、この布橋をアプローチにする。二度目の訪問であるが、このアプローチが正しくないのではないかと前回も不安になった、このことを思い出した。その後、前宮に行く途中で、神長官守矢資料館へ立ち寄る。藤森照信氏設計である。館長に諏訪に関する詳しい説明を聞いた。守屋家は諏訪大社で、一子相伝によりミシャグジという地神を下ろす人であった。そして展示されていたのは、守矢氏が執っていたという御頭祭における串刺の兎や鹿の首などであった。ビックリする。館長が言うには、諏訪信仰の成立は複雑で、その経緯は古事記に示されているという。それによると、元々この地には道祖神ミシャグジがいた。それを守矢氏が仕切っていたのだが、大国主神に負けた建御名方神が流れてきてこの地で戦った末、守矢氏は負けた。その複雑な権力闘争の末の統治が日本神話や諏訪信仰として残っているというのである。そのかたちは、三輪山信仰に近い。その後裏のミシャグジ社とその周囲にある大祝家の墓所を観る。大祝とは諏訪氏のことで、建御名方神の後裔といわれている。そして近くの、高過庵、低過庵、空飛ぶ泥舟を間近で観る。何物にも拘束されようとしない物質感に圧倒される。建築を超えた作品で、どことなく神話の世界との共通性を感じた。そして前宮へ。守矢氏の住居があった場所といわれている。御頭祭が行われる十間廊が本殿下にある。前宮には本殿があり、四方は御柱で囲まれている。配置も通常であり、南に山を控えている。思えば、本社の拝殿はこちらを向いている。事務所に戻り、様々な諏訪信仰を調べるも、現在でも未知なことが多いことを知る。神話伝承に代表されるように、統治において抑圧された地神や文化を上手くハンドリングする方法が考えられてきたのだと思う。それが年月を経て、複雑になり、あるいは時の権力者に政治的に利用され、今日に至っているのだろう。そして歴史ロマンを未だに掻きたてるものになっているのだ。その後、古谷誠章氏設計の茅野市民会館へ。駅に直結する図書館、ホール、美術館、駐車場だけあって、多くの人が利用している。空間も気持ちよい。地方の中心駅における現状をフルに取り込んだ建築のあり方に感心する。ただし、藤森さんの建築を観た後では、歴史の背負い方に一矢あってもよいのではないかと思った。それは、古谷さんに限らず、現代建築の壁でもある。現代建築におけるコールハースの固有性は、ここにあるかもしれないと直感する。

6月27日(木)
午後は学科会議。これまでの試されてきたカリキュラムの見直しを行う。問題が出ることはよいことだ。新学科では、デザインとエンジニアリングの融合がテーマであったが、それを本気で捉えていたかどうかが、こういうときに判る。しかしこれは永遠に解決できない問題でもある。近代は人間と、自然あるいは社会を分離して、それぞれで個別の探究を許すことで発展してきた、とラトゥールはいっていた。「建築」もその例外ではない。人間性に足を置くデザインと自然性を探究する技術はそう簡単に融合することなどなく、だからこそ永遠の未解決問題として時に皆が意識を集中させ、「建築」が存続していく。このことを実感する。

6月26日(水)
ゼミにて「かくれた次元」エドワード・ホール著の読書会。距離感について今となっては、コミュニケーションを促す新しいディバイスが日常的になり、その感覚は一様でなくなっている。だから、本書がいうような文化的基盤に根差す差異などなくなってしまったように見える。そうした現状において、かくれた次元を設計にどう生かすか?ゼミ後半では、その話で盛り上がった。例えばユニバーサルスペースというものがある。それは、こうした多様な状況を受け入れるものとして考えられた。しかしそれは、建築家にとってはアイロニカルなことでしかない。この状況をどう説明するかである。他の例でいえば、小学校のOSにある。小学校を観察すると、建築家によって提案された多様な居場所のあるOSよりも、意外と無目的な広いスペースを残したOSが、教師から喜ばれたりする、この説明である。エドワード・ホールはここで、インヴォルヴメントの重要性を「泡」を用いて提案している。インヴォルヴメントとは自然に生成され、この本では全ての実例が事後説明として語られ、その生成原理は語られていない。この本が出版された60年代であることを考えると、まだまだ西洋中心で、文化的差異とは、つまり西洋から観た日本やアラブのことである。つまり、彼らにとってはじめて真剣に接した異、すなわち他者が日本やアラブであったのだ。それへのインヴォルヴメントの必要性がこの本からはじまるのだ。だから、生成原理などまだない。今に至っても、その問題は、「他者」として重要な問題であり続けている。中山くんが示してくれたダナ・ハラウェイの本には、理解し合えない他者が歴全とあり、その前提でどういう交通が可能か、という問題を扱っている、今はこうした動きにシフトしてきている。東浩紀のいう「観光客」である。先のすっきりしたOSは、一見建築家によって見下せがちである。しかしそこには、ネガティブで問題には挙げたくないような理想ばかりでない現実が、かくされた次元としてあるのかもしれない。インヴォルヴメントは、本書がいうように、よいことも悪いいことも含むものなのである。それが今でいう他者というものだろうか。
066 WW杯 日本×オランダ 
見事なパスワークを随所に見せるも、終了間際にゴール前でハンドをとられ、そのPKで負ける。なんとも悔いの残るゲームであった。しかし、前半の得点といい、後半の怒濤の攻撃は、希望を持たせてくれるものであった。それだけに、前半のパワーに圧倒されたゲームの入りだけが悔いが残る。その流れから決められてしまった。後半の5本のシュートは、キーパーの好セーブもあったし、しっかり振り抜いたものであった。負けても爽快感が残るゲームであっと思う。

6月25日(火)
065 コパ・アメリカ 日本×エクアドル 
勝てば決勝トーナメントへ進出。相手は南米といえども同格の相手。大いにチャンスがあったのだが、やはり1-1の引き分けでグループステージ敗退。世界で経験するいつものパタンである。アジアでのように相当な実力差があってこそ勝ちきれる日本。この壁をどう乗り越えようとするのか。インテンシティーといえばそれまでだが、戦術眼自体も欠けているように思う。今日も岡崎先発で、レスターのように前線からのプレッシング戦術が上手くはまっていた。前2戦とは異なり、相手にスター選手もいなく、したがって技術もおぼつかない相手に、きっと選手たちは組易しと思ったに違いない。先制点はそれを物語るものであった。この攻撃は最後まで上手くいったと思う。ところがだ。エクアドルも勝てば決勝ラウンド進出の可能性を残し、FWはスピードとパワーがあり、それよりも前2戦とは異なり貪欲であった。先制直後に、こちらも技術が世界レベルでないDF陣とあって、このFWバレンシアに振りまわされてしまった。右のサイドバックは狙い撃ちされ、川島も考えられないポカを2度もする。日本に微笑みかけた勝利のシーソーは、行ったり来たりするようになってしまった。それを引き戻す程の力はなく、その後、同点に追いつかれ、終える。負ける気もしなかったが、さりとて勝ちきる雰囲気でもなかった。おぼつかない技術は、場の経験不足から来るものと思いたいが、どうやら戦術を含めた根本的な技術不足があるようだ。それを経験不足、あるいはインテンシティー不足といって封印してしまっているのでないか。香川、本田、岡崎らが肉薄しつつも超えられなかった差を、長友や長谷部はクリアできたような気がするが、それを中島や久保にこれから応えてもらいたいと思う。

6月24日(月)
夕方のゼミで、前期の整理を込めてコメントをする。「建築のリテラシー」の前文にも書いたことでもある。それは、自分がもっている知識の外に出るには、どうすべきかということである。それを創造という。体育会系では既に実感されていて、難しいことでもない。それを、今度設計に役立てようというものである。それがひとりではできないというのがミソである。モノや自然や社会という他者があり、そのための道具というものもあって、可能となる。したがって、頭でっかちになることとは反対で動く(つくる)こと、まずはそこに価値を見出さないといけない。そうすると自分を廻る状況が必然的に整理され変化し、その中での自分立ち位置も変わって見える。それが多少なりとも自分を超えた感覚を生み出すことになる。ところで、それによって自分の回りも実際に変わったと思えたら最高だ。偶然を必然に変える力が創造ということなのかもしれない。

6月23日(日)
NHKで、三島由紀夫と川端康成の特集を観る。宮本亜門が、彼らの自殺を通じて、彼らが考えた美を紹介する。ぼくはとしては、死が美化されていて、少し納得がいかなかった。ここでは、美学を貫徹するその強度こそ称賛すべきものであるといっているようであった。こうした特集が現在放送される理由が判らないでもないがそれは、現在の希薄な現実にたいする予兆を真剣に先駆けて発していた三島の先見性をみているのだろう。ただし、三島の死をもってしても現実は変わらなかったようである。それでは個人としてあまりにも悲しいことだと思った。諦めでなくそれにたいする抵抗にこそ美を見出したいと思うのだ。そう思うと、死を美化することはできない。

6月22日(土)
世田谷美術館で開催中の編集者小野二郎の展覧会「ある編集者のユートピア」に行く。昨日の講評会でウィリアム・モリスが話題になり、この展覧会の存在を比嘉武彦さんから教わった。明日までの開催であったので時間をつくり急遽行くことにしたのだが、訪れると、今日は石山修武さんのレクチャーがあったことを知りびっくり。しかし、大変残念なことに既に終わりの時間。会場はそのレクチャーの人でいっぱいだった。小野二郎とは、日本へウィリアム・モリスを輸入した人である。展覧会によると、氏は編集の仕事の中でウィリアム・モリスに出会ったという。それは「芸術の原理をぶつける」というものであった。時は、50年代後半のことである。当時の常識では、企画や内容にこそ創造性があると考えられ、原稿の割り付けは単純作業として、そこに意味を見出していなかった。高校までのぼく(80年代前半)にとっても、それはわからないことでもない。「芸術の原理をぶつける」とは、価値としにくい労働を、質あるものに転回することである。それは、労働に生き甲斐を見出すような精神的なことをいっているのではなく、労働自体を新しくするための成果物を転回することである。それは、石山さんの小論にも示されていた。「知識人の『』を外す」ことなのである。ウィリアム・モリスは、新しい工業化時代が主流をむかえる中での手工業を考えた人でもあるのだが、技術によってむかえる新しい時代を、人(自分)の手によってむかえなければならないことを真剣に考えた人なのである。このことを知る。なお石山さんらしく、「」と知識人と「」を区別している。「」は日常につながるものなのである。ところで、そんな小野二郎による晶文社書籍は、展示されているその装丁をみると、確かに印象深いものである。高校受験案内をはじめ、JAZZ、ベンヤミン集、つげ義春、石山さんの本、なのであった。

6月21日(金)
064 コパ・アメリカ 日本×ウルグアイ 
日本は先発を大幅に変え、岡崎や川島を投入。ウルグアイは、スアレス(バルサ)、カバーニ(パリ)に、DF陣にマドリーコンビのヒメネスとゴディン、それに中盤とサイドにユベントスやミランのイタリア勢を揃える。そうした相手に岡崎の経験が生きる。前半は、岡崎のプレッシングを合図として、相手DFからのボール奪取に度々成功し、チリ戦とは変わって攻撃の基本的かたちをつくることができた。やはり日本のかたちとはこれではないかと思う。これがゲームを落ち着かせた。そうした中、相手負傷の有利もあったが三好が先制に成功。後半も流れから決める。ウルグアイのPKは疑問も残るも、何点獲られてもおかしくない状況であったと思うと、守備での川島のセーブも大きい。2-2のドロー。強豪相手の敵地で、ドローまで引っ張ることができた収穫のあるゲームであった。しかし、攻撃の1対1ではことごとく負けていた。技術でも日本が優位に立ってはいない。しかし相手が集中力を欠き、パスミスを犯すと、それを確実につけ込んだかたちであった。

6月20日(木)
063 WW杯 日本×イングランド 
体格差からくるプレッシャーを跳ね返すことができずに2失点し、完封される。救いは、途中から出場の菅沢である、流れを変えた。体格があり、なぜ海外に行かなかったかとも思う。

6月19日(水)
大学院の後半1回目の授業。建築のマネジメントについて。ぼくがマッキンゼーから学んだマネジメント方法を手掛かりに、アメリカで育ったプラグマティズムに「建築」の有効性を加味する。その際に、オイディプス王の戯曲やヒッチコックの映画を例に出す。具体例からみる「他者」=「建築」を示そうと思った。ジジェクの建築への焼き直しである。それは、デザインを解くのではなく、その先へ広げるためのものである。

6月18日(火)
062 コパ・アメリカ 日本×チリ 
無名の日本選手に対してチリは、ビダル(バルサ)メデル(ベシシュタク)サンチェス(マンU)ジュニオール・フェルナンデス(アランヤスポル)などピークを過ぎたものの蒼々たるメンバー。スピードこそないので圧倒はされなかったものの、前半終了間際、後半開始、終了間際と要所に得点されて完封負け。この大会は若手の経験を重視したものかと疑いたくなる。香川、本田らは十分に経験を積んでいた。その彼らでも到達できなかったものがあり、それは彼らの成長早さ以上に変化する戦術にたいする対応能力であったと思う。スピード重視の戦術に彼らは理解しつつも、ポジショニング重視で育った彼らは大きく舵を切ることが実力的にできなかった。ブラジル大会で彼らの気は熟していたが、経験が足りなかった。ロシアでは、彼らの戦術が時代遅れであった。事は上手くいかないものである。今回のメンバーにはスピードの可能性を感じるものの、その中には大学生もいて、その両輪が上手く噛み合う時が来るのかと疑問に思う。経験選手層を厚くして絶えずの更新を可能にしていないと、世界の後塵を踏み続けてしまう。ヨーロッパの試合を観て感じることは、中堅クラブが新しい戦術をマスターし、資金力のあるクラブが、そうして育った若い選手を逆に回収し、最大限のパフォーマンス集団に仕上げる。そのサイクルのアジャイル性であった。その意味で、日本は中堅クラブよりも少し下に位置しているような気がしてならないのだ。

6月17日(月)
ゼミにて「モノたちの宇宙」ティーヴン・シャヴィロ著の読書会。ぼくらにとって同時代的でホットな話題である。ぼくとしては、モノを中心とした思弁的実在論に立つと、どんなデザインが起きるかの期待について話合いたかった。しかし、本書が哲学を廻る歴史的解釈を中心に語るものであったからだろうか、いまいち盛り上がりに欠けた。ぼくはというと池辺さんから、モノに焦点をあて、そのモノの自律性を学んだ。難波さんからは、そのモノが自律することを相関的に見ることを学んだ。それは、モノの認識論についてであり、そこには認識あるいは思考の外に自分が出る、つまりメイヤスーらのいう相関主義を超えるという発想はなかった。本書に代表される思弁的実在論から学んだことはこの可能性といってよい。それは知識とは何か?という疑問に応えることに直結する。ブリコラージュには対自を超えるものを感じていた。そのブリコラージュには存在していなかった主体の意識(美学や意図)の可能性を与えてくれるものであった。

6月15日(土)
061 U22代表 日本×ブラジル 
若い代表は後半から落ち着き、今回圧倒的な強さを見せていたブラジルに互角以上の戦い方をする。それでも、PKで優勝を逃す。残念。

6月14日(金)
昨日の疑問から、「スペキュラティヴ・デザイン」アンソニー・ダン+フィオナ・レイビー著久保田晃弘訳を再読。「モノたちの宇宙」で扱う思弁的実在論は、Speculative realismの訳語である。Speculativeには投機的という意味があり、日本ではよい意味で使用されないが、その言葉は推測という意味に能動性を加える。昨日、デザインの目的が、如何に(HOW)するかから何を(WHAT)するかに移ったと書いた。この本を読み、ホワイトヘッド以降、討論のため(for debate)の、手段として(as medium) のデザインにさらに移っていったことを理解する。「モノたちの宇宙」にあるように、デザインが問題解決のためではなく、モノたちも含めたコミュニケーションを促すものになったのだ。これまでも人はモノに、場合に応じて様々な解釈をしてはきた。建築では、広義の機能性というものである。しかし、そのことを多少なりともモノの立場から考えることはなかった。モノたちにも人格のようなものがあり、ぼくらはそこから刺激を受けるとも考えられる。ホワイトヘッドの時代からSpeculative realismへの変化を、こう理解する。
060 WW杯 日本×スコットランド 日本が上手い球回しで快勝する。

6月13日(木)
「モノたちの宇宙」スティーヴン・シャヴィロ著の再読をはじめる。話題となる思弁的実在論の歴史性を明らかにする本である。鍵を握るのは、ホワイトヘッドとそれ以前のカントにたいする解釈である。ぼくにとっては、未知なるものを生み出す(創造)ということがいかにして可能になるかという実際的問題と結びつく。啓蒙の時代以降、創造に関しては、主体が物自体へいかに接近するかに意味があった。が、対象を無数に設定すると、周りは見知らぬものばかりで、それに対して現実的に何をするかという問題に変わっていく。このように視点を変えると世界がどのように見えるかが本書に書かれている。主体などない消去主義的にみえるかもしれないし、あらゆるものに主体が宿る古代のように汎神論的に見えるかもしれない。そしてそのように考えた場合、デザインが目指すべきものが変わるのだろうか、と考える。

6月12日(水)
設計の授業で、「これからの学校を考える」というテーマで、デザイン科の倉斗先生の学校に関するレクチャー。小学校の実情をお話ししてくれる。それによると、オープンスペース(OS、多目的スペース)は、建築家が考えるほど十分に機能していないという。竣工後の調査からそのことが明らかになった。OSは主に学年集会などとして使用されているのがせいぜいだという。つまりは、打瀬小などの家具配置によるきめ細かい教育が行われるというよりも、全体を管理するための余裕スペースとして役立っているのである。ここでも、使用者とハコとの難しい関係が指摘されていることになる。ただ建築の無力化をいっている訳ではなく、教育プログラム×ハコ×現場の3者の協力が欠かせないということである。ただし文科省から、教育プログラムとしてアクティブラーニングの推奨が明確になった。これは自主的に学ぶということである。これまで二の足を踏んでいた現場も待ったなしの状況になった。8m角での教える/教えられるというこれまでの関係だけでは不可能になったのだ。今日のレクチャーはこれを念頭にした場合のハコのデザインを問うものであった。因みに、アクティブラーニングは、昨今のAI進歩により、単なる学びはそこから十分に可能であるという文科省の判断らしい。それではできない教育、それがアクティブラーニングということらしい。17時からアラップの笹谷真通氏の大学院授業のレクチャー。今日は盛り沢山だ。モノやカタチ、数字には、サイズや置かれる状況を超えたそれ自体が存在する理由がある。それを追究し知識としてもって、個々の問題を解決することが芸術であるという。科学が法則の発見に重きを置くこととその点において異なる。そうした視点に立ったプロジェクトは、他の構造家の作品とも一線を画していた。山本理顕氏の邑楽役場や磯崎氏のARK NONA、伊東豊雄氏の岐阜メディアコスモスなどである。プロジェクトのユニークさは、建築家や構造家の強さの他に、プロジェクトを超えた視点からのプロジェクトの位置づけなのだと思う。下部構造からのビルトアップとは反対の試みがそこにある。

6月11日(火)
刈谷さんの事務所でイヤーブックの打ち合わせ。デザイナーもつくり手だ。仕事をすることの意義やモチベーションを大切とする。お金以上のものがモノつくりをささえている。このことを改めて知る。夕方、池田さんと打ち合わせ。柱であるか壁であるかの構造的定義(力学的定性)は、3:10を境目とするという。それは視覚的効果と一致する。壁構造でありながら、ラーメン構造のもつ特有な透明性を確保するための方法を話合う。壁構造の配筋の簡便さと薄い壁厚により、壁構造にない構成を目指すことにする。一般に壁構造はその壁長確保のため、空間の利用方法を先行して考え、活動を疎外しないところに壁配置をしていく。このため構成がなくなる。機能的な充足は重要であるが、それを感じさせないようにするための構成を考えるという訳である。深夜、NHKで天安門事件の特集を観る。1989年は大学院を修了した年である。残念ながら、この出来事は同世代の行動であってもぼくに直接的なものではなかった。日本では報道規制も受け、昭和天皇崩御とその反対のバブル景気、個人的には仕事に追われていたからであろう。戦車に対峙する若者の印象的な映像に共感しつつも、不発に終わった民主化運動のシンボルとしてしか感じていなかったのだ。本特集が事実であれば、この戦車の映像からは計り知れない虐殺に近いものが実際には行われていて、それを封印するために、この戦車の映像が、民主化の心の中での勝利に西側や改革家たちを留まらせたことになる。世界が、美的満足で終わってしまったとはいえないだろうか。とはいえ、こうして30年後にこの出来事が改めて歴史の中に位置付けられると、当時の世界の現状とは裏腹に、この出来事が急に意味をもってくる。歴史がつくる危うさであるとも思う。

6月9日(日)
059 代表 日本×エルサルバトル 
30歳の永井の2シュートは見事だった。永井はこれまで幾度となく代表に選ばれ、海外の経験もある。そんな永井がいつも決定不足の日本を救ったかたちとなった。しかし後半は不発で、従来の日本に逆戻り。中島と久保が同時に投入されたが、今日は中島のチームとならなかった。しかし久保は圧巻。これまでの選手とは違ったリズムをつくりだすことに成功。今後に期待である。

6月8日(土)
「千年の愉楽」中上健二原作若松幸二監督を観る。2013年と意外と新しい映画である。ある部落で育った中本という名の血を引き継ぐ3人の男たちの生涯を描く。彼らは個々にキャラクターが異なり、それぞれ人生を謳歌するのだが、彼らの行為は映画のストーリーを展開するものにはならない。ストーリーは最終的に彼らの生と死とに回収されてしまう。運命というべきものか。彼らを見守る産婆のオリュウノオバも、その夫で坊主の礼如も、超越した視点から、やはり彼らの生と死を目撃するだけである。静的な映画であった。人は、根拠などけっしてないのだが、血筋や運命がもたらす宿命などをつくり出す。広い意味での因果関係をつくって納得するのである。それは、ひとりひとりのリアルな生命力よりもはるかに強力なものとなる。このことを示してくれる映画であった。

6月7日(金)
岡崎乾二郎著「抽象の力」の再読。道具についての興味深い記述に廻り合う。「人間と素材を結びつけ、語らせるのは、何より道具であるということである。道具によって主体(人間)も物質(素材)もまったく異なる語り方をするし、そもそも人と素材そのものの形象、性質まで変わってしまう。主体も物質も、道具が行使されたあとに事後的に生み出されるのであるp394」。「虚構の近代」によると、近代は自然/人間(客体/主体)という対立項をつくりだしてきた。その棲み分けを明確にすることによって、自然科学を(個人的見解に邪魔されないように)例えば数字などを媒介させて進歩させてきた。その顛末が、数字で表現できるものだけを矮小化した自然である。一方で(数字ではとうてい表現できない)個人に自由を与え、時としてそうした主体が政治に惑わされれしまったのは当然の成り行きである。これによって無数のハイブリッドをつくりだしたという。それにたいしての無自覚を批判していたのである。そして、そのハイブリッドにポジティブな説明を与えるのが、この道具というものである。現実は主体/客体の中間にあり、道具は、野生の思考のブリコラージュのように、主体と客体を滑らかに結びつけるものとして記述されていた。このことを知る。自転車乗りの例は、主体の身体的感覚と路面状況などの外環境と、自転車という道具を通して完成させるハイブリッドな行為なのである。「抽象の力」がいうには、身体感覚と路面状況との関係には無数の定式化が必要とされる。それには、身体感覚だけを高めても、環境観察精度向上からだけでも不可能で、トライアンドエラーを起こす(中間的位置にある)道具を通じての視点より可能になるというのだ。しかし、なぜの言及はない。そう考えると、自転車乗りか新月面宙返りができるかの強度の違いは、主体の能力と置かれる環境、そしていかなる道具を持ち出すかで決まることになる。「野生の思考」では、ブリコラージュを通じて、この三つ巴が世界をつくる固有の構造であることをいっていたのである。

6月6日(木)
深夜NHKで原爆の特集。これまで原爆投下に至った当事者間の調査は報告されてきたが、今回はそれを廻る世界的状況の報告である。キーマンは英首相のチャーチル。いち早く原爆の可能性を発見し、これをキーにした覇権を目論んでいた。この計画をチューブ・アロイズといい、米のマンハッタン計画を先導するものであったという。当初はドイツ向けの新兵器であったのが、台頭してきたソ連への道具へと変わっていった。日本への投下の意味は、そうしたソ連にたいする脅しの意味があったというのである。その間にもスパイを通じた情報戦が繰り広げられており、孤立した日本、あるいは探究心を煽られ孤立させられた科学者は消費されていってしまう。間接的であっても、アインシュタイン、ボーアといった蒼々たるメンバーもそこにいた。

6月5日(水)
058 代表 日本×トリニダート・トバコ 
日本は3バックでのぞむ。両サイドを攻撃的にして、前線3人での活発な攻撃を補完しようとする。格下相手に長友、酒井は上手く機能していた。攻撃の主軸となる中島もよく働いていた。後はゴールへの確実性だ。しかしこれが問題で、香川の時代、いやその前からも同じであった。かたちはつくれるがフィニッシュが?という問題である。今月からコパアメリカである。若い世代がそこにのぞむ。向こうはバリバリの真剣モードだから苦境に立たされ続けるだろう。ここで、攻撃のためのフォーメーションではなく、守備のためのフォーメーションを日本は考えたらどうか?結局のところ、フィニッシャーがいないのが日本の伝統である。堅守速攻など、楽な状態で前線が動けるシステムが相応しいのでないかと思うのだ。

6月4日(火)
錦織×ナダルの全仏準々決勝を観る。サッカーシーズンが終わり、先週から全仏を楽しませてくれた。今日の錦織は、昨日までの激しい闘いから消耗し十分でなかった。これを揶揄するメディアもあるが、歴然とした体力差を精神力と技術で挽回している錦織を評価すべきだと思う。実力以上にぼくらを楽しませてくれている。揶揄する気持ちも分からないでないが、なんたってトップ3が強すぎて、それでも世界トップ10をキープしているのだから。

6月3日(月)
「現代建築理論序説」マルグレイヴ+グッドマン著の読書会。建築が、グローバル資本主義に平行することで、政治的イデオロギーや批評性から開放され、形態が真の意味で自立したことが記されている。つまり建築家は、近代の呪縛から抜け出し、自立した表現が何かを考えられるようになったのである。しかし、その結果を待たずに次の展開が訪れてしまったと、本書がいっているように読めてならない。つまり、技術やモノを比較的自由に扱えるようになったまではよかったが、それに耽ることに埋没してしまい、肝心の本丸を見失った状況である。それが、コンピュータグラフィック、ミニマリズム、現象学的ディテール主義などの様々な思想の台頭に現れていて、どれも、ダイナミックな世界の動きにたいしてささやかなものである。このところが気に掛かる。その顛末が、本書には書かれていないが日本やアメリカで見られる、機能やお金主義偏重、政治性をもった大衆に、何も提案できずにいる建築家の状況であったのだ。このやばさを誰もが認めている。が一方で、ユーザ目線、面積確保至上主義など、建築家は置かれた立場を忘れたかのような実践をする。かといってどうしたらよいか不明であるが、問題を解かずに、問題を生む状況を明らかにすることでしか、自立の意味がないのだろうかと思う。

6月2日(日)
群馬の館林美術館へ行く。熊谷守一展に行くためである。岡崎乾二郎の「抽象の力」と映画「モリのいる場所」で熊谷守一を知り、是非とも現物を観たいと思っていた。初期の暗ぽい作品から、後期は打って変わって色鮮やかに動きのある軽やかな作品となる。着色も丁寧である。その中間に有名な赤輪郭線による画法がある。描く対象こそ、人物から風景そして生物とあまり変化がないが、例えば暗いトーンの中でかろうじて人の表情を描いていた初期から、後期の「ヤクバノアト」などは、人の顔に目鼻口がなくなっている。それでも「朝顔」などは、詳細がなくとも楽しげな感じは伝わってくる。つまり、守一が描くのは、対象やテーマよりも、絵の持つ具体的な派生力に期待したものだ。この方に関心が動いていた。そう考えると、初期の暗いトーンも理解できる。暗いのは、テーマ性を描くことに対する疑いである。転機は1947年頃。娘の死からという。岡崎にいわせると、樺太訪問から数々の死を経験し、45歳において吹っ切れたのだという。テーマを、社会と自分との関係からの表出であるとすると、画家はそこからの共感を期待し、描く対象はあくまでも自分をリプレゼントしたものとなる。自分を見てくれと。それにたいし後期の守一は、自分の立ち位置と関係なしに鑑賞される人と対象との関係を描いた。彼は昼間に実によく生物を観察していたという。観察から、自分を失うほどの圧倒的何かをつかんでいたということであろうか。それを絵にしていたのである。

6月1日(土)
057 CL リヴァプール×トットナム 
2-0でリヴァプールが今シーズンのビッグイヤーを獲る。クロップにとって3度目にして漸く掴むことができた。開始早々PKを決めると、相手にポゼッションさせ、前線からの守備に終始し、それがうまくはまったかたちである。ゲーム終了以降、選手とクロップの熱き関係を垣間見る。ゲーム内容よりもセレモニー前後に見応えがあった。

5月31日(金)
片山先生との食事会を谷口吉郎氏設計の柿傳にて。食事の前に表千家残月亭を見学。利休の聚楽第にあったものを表千家が写し、それをさらに谷口氏が写した書院付茶室である。二畳の上段、4畳あった付け書院が2畳になり、その手前に8畳がある。秀吉が四角床柱に寄りかかって、天窓から月をみたところからその名がついたものだという。ぼくにとっては、その手前の露地や椅子席の谷口さんのディテールに興味がいった。このビルは八角形で、それを生かすかたちの空間構成とディテールであった。柱は全ての角をとり、変形5角形のかたちである。天井高もないので、低めのテーブル。小さめの凄く軽い椅子であった。深夜に安部公房著「砂の女」勅使河原宏監督を観る。なんといえない独特の奇妙な映画であった。今はなくなった共同体は、近代的視点から俯瞰すると不合理で奇妙なのであるが、実に巧みにできていて、その中の構成員にとっては抜け出すことができない居心地のよい場所である。このことが描かれている。主人公で、砂地獄に陥った大学教授も、はじめ何度も脱出を試みるも、やがてそこでの新しい自然現象を発見してしまうとその科学的説明に心を奪われ共同体の存在を見失ってしまうのだ。つまりぼくらがもっている否定的な伝統への思考、そこから抜け出そうとする主体的指向が無効となるほどに、無意識下に横たわる他者がつくる民権の下部構造は強力であることをいったものだ。それが不気味に表現された映画であった。

5月30日(木)
ラトゥールの「虚構の近代」のゼミの後、いくつか思うことがあった。3.11以降の状況は、いかんとし難い震災の爪痕とそれから復興できない個人の両方を設定することであらゆる決定が公に許されている状況がある。そのために実態調査を精密に行い数値化し、一方で被災者の実情を人間性という側面から訴える。それに拍車が掛かっていることは、プロポーザルコンペなどに典型的に現れていないだろうか。その間で建築家は、ひとりひとりの目標を失い、それに向かって突き進むというアイデンティティをもてなくなっている。ラトゥールのいうそうしたネットワークの中に、もはや自然と埋没してしまったかたちである。この本は、そうした俯瞰的視点を与えてくれるものであったと思う。しかし、建築家個人の視点から考えると、そこに取り込まれてしまうことにたいする否定しがたい主体がいっそう強くなってしまったりする。これも事実である。ぼくなんかは比較的脳天気であったのだが、創造にこそ価値があると考えていた真のプラグマティスト、例えばそう思いつつも実務をこなす必要があったスタッフなどはいてもたまらなかっただろうと、今更ながらに思う。少し前までぼくは、ネットワークの中のたとえ数本のものだけでも、変えていくこと、このことに意味を見出そうとしていたのだが、実際それによって社会が動いたとしても、ひとりひとりの個人の位置づけは明らかでないままである。世界を外からと内からと両方から見る視点がほしいと思うに至る。

5月29日(水)
大学院の授業で、金箱事務所出身の構造家木下洋介さんを迎えてのレクチャー。自身の大学時代から現在までの仕事を振り返ってくれた。レクチャー最後に掲げてくれたのは以下の3つ。木造と異種技術、リノベーションと建築、小規模建築の制震構造である。どれも王道のスキマに入り込むもので、アトリエ構造家の真骨頂かもしれない。新しい技術でsovoir faireする試みである。sovoir faireとは、l’architecture d’aujourd’huiが2003年にぼくを評した言葉であった。ノウハウ的な技巧、才覚にも似た経験論、そして創造性にも似た独創的な発想がブレンドされたような、ある種の匠の技であり天賦の才のことをいう。当時は少し違和感をかんじていた。「建築」のフランスから発せられたその言葉は、マルチチュード的視点であっても、あまりにもグローバルな社会の前であまりにも無力なもののように感じられたからである。

5月28日(火)
全仏で大坂が何とか勝つ。深夜NHK特集で「運慶と快慶」を観る。近頃、興福寺から新たに4体の運慶作が発見されたこと、地方の小さな寺から快慶の阿弥陀如来立像が発見されたことからの二人をめぐる特集である。運慶は、南都焼き討ちから、その復興のため源氏に近づき、あの躍動感ある東大寺南大門の作品にまで廻り合うのだが、弟子の快慶とはそこで袂を分け、快慶は庶民のための穏やかな阿弥陀像をつくるようになったという。そうした阿弥陀如来像が各地の名もない寺で発見されているそうだ。しかしその寺の名前など明らかにされない。思えば、ぼくの母方の菩提寺である圓城寺にあった快慶も似たような境遇である。快慶は、名もない阿弥陀像にとりかかっていたとはいえ、氏のキャリアは衰えることなく、東大寺俊乗堂のものは最高傑作といわれている。それは、金泊で繊細で微妙な光りのコントロールをするものらしい。もう一方の運慶の興福寺四天王像は極彩色を帯び、リアリズムに迫力が加味されたものとなる。とはいえ、二人は完全に袂を分けたわけではなく、運慶の息子である湛慶は快慶に弟子入りをしている。父との共同作品の他に湛慶の代表作は、三十三間堂の千手観音と風神雷神像、他の数多ある千手観音のいくつかである。特集では、二人の融合という位置づけである。

5月27日(月)
ゼミにて、「虚構の近代」ブルーノ・ラトゥール著の読書会。今年になって5冊目の読書会となり、担当者の進行力も上がる。その進行に沿って議論を誘発するよう努めた。ひとつの目にあげられたテーマは、本書前半にある、ぼくらがいる近代の状況についてであった。それは、ぼくらが学ぶ建築教育の状況とも重なるものである。今日の教育は、科学技術を尊重し、あらゆる状況を設計・計画コントロール下におさめることを目指しながら、もう一方で個人(設計者、クライアント)の内的自由を尊重する。問題はそのご都合主義にある。アレントにいうところによると、本来の公共性はこうして奪われてしまっている。アレントは、その曖昧な境界線にこそ意識的にコントロールすべきだというのだ。とはいえ、境界線こそが見えにくいので、ふたつ目のテーマとして上がったのは、ぼくらは実際にどう設計したらよいかという問題である。それがアクターネットワーク理論へと結びついていくものだ。2分けをしている境界というものは線いうよりも実は複雑なネットワークである。それを紐解き、プロジェクトの位置づけをはっきりさせるということだろうかと思う。ぼくにいわせると、「名前にない空間へ」ということだろうか。「デザインの鍵」から学んだ「対象を外側に広げていくデザイン」である。自分を線上に位置付けることから立体的に膨らませるような転換だろうか。ところでアレグザンダーのパタンランゲージは、人間個人の自律性を否定したところから出発し、こうした2分けを認めるものでなかった。そして、それを空間的にまとめて、パタンといった。今から振り返っても先見的な試みである。先行のパタンランゲージから学ぶことがあるとすればそれは、ネットワークを教条的でなく動的に扱うこと、そして「Battle」によると建築では、実際の敷地ネットワークとの融合を図ることである。それを実行するには、つまり既存ネットワークに広く適応させていくには、施工システムという社会変更にまでアレグザンダーは話を及ぼした。近代の2分構造を生かしつつ解体しようとしないラトゥールとの違いがそこにある。

5月26日(日)
錦織の全仏の初戦。久しぶりに安定した闘いで勝つ。今週の楽しみが増えた。「虚構の近代」ブルーノ・ラトゥール著を明日にむけて再読。

5月25日(土)
JIAマガジンで坂牛さんとnoizの豊田啓介さんとの対談が興味深い。「建築家がもつべき責任」を結論とするものであった。以下抜粋。「新しいデザインがどう生まれるのか、そのエッジをどう立てられるのかに関心があるので(中略)、それを探したい。そのクリティカルな決定なり采配なりを行う立場として新しい価値を体現してみたい(中略)。建築家が扱っている領域はとても狭くて、僕らはその外側についていかに議論しているふりをしながらも実際はよく見ていなくて、社会が見ている領域と齟齬があるのにあたかも合致しているような議論が蔓延しすぎているとすごく感じています。その中で、建築家だけが持ちうる専門性や特殊な能力をもっと使うことを、むしろ価値としてだしていくべきなのに、それを隠して社会の責任の中に埋没させるような行為は僕は無責任だと思っています(中略)。建築家は建築の外側の技術領域や新しい価値領域、建築との接点をまだ持ち得ていないさまざまな領域のロジックをどう拾い上げて、建築という新しい形に結像させるかというところのプロフェッショナルなわけで、そこに関しての専門性を持たなかったら意味がないのではないでしょうか。今はむしろその逆で、建築の中に閉じたまま、決定の瞬間だけ民主化させている。領域は民主化して、決定の瞬間は専門化させなければならないはずなのに、逆ではないかと思うのです」。
056 トルコ ベシクタシュ×カスムパシャ 
香川80分まで出場。これといった好機をつくりだすことはできなかった。これで今季を終える。前節負けたので、今日のゲームが消化試合になっていた。観客も入っておらずに、いまいち盛り上がりにかけていた。これは香川にたいする評価も同じであった。

5月24日(金)
「虚構の近代」ブルーノ・ラトゥール著を再読。この本で与えられたテーマを建築の状況に当てはめながら読む。建築も、一方に機能性(他者)を、もう一方に構造などの工学(自然、あるいは科学)を置き、人間と非人間という構図をつくり出し,多々あるハイブリット(作品、建築)をつくりだしてきた。機能と工学をアシンメトリーに見て、つまり機能を優先させては工学に新しい局面をつくりだし、あるいはその逆にしてである。こうした作品が現在の様々な問題に応えていないのは周知の通りである。そして、大文字の建築に接近できるものを「建築」とし、日本の場合など、亜流といった他の文化を相対的に認めるというような態度をしてきた。これが本書でいう、特殊な普遍主義といったものである。これが、「建築」の状況である。しかしこれ以降の肝心な本書の核心「拡大シンメトリーの原則」というものが建築においてなかなか見えてこない。これはひとえにぼくが近代に浸かっているからであるが、実際の行為から逆にこの2分における位置づけを説明すべきというのである。建築の実践が真にそうだと思うのであるが、本書ではもっと精緻なことをいっているらしく、科学を念頭にした知識生産へ還元できるほどのもののことをいっている。そこまで建築は厳密なものではないので、拡大シンメトリーの原則とは何なのだろうと思うのだ。ただしローカルにいながらグローバルな視点を射程にとらえることをいっているのはわかる。そして、これが可能になるなら文化の違いもなくなっていくだろう。これを身近なものでは、「ティール組織」における自転車乗りの例に近いと想像する。予測—制御という態度でのぞまずに、感知-反応といった内側からの思考である。ブリコラージュ的態度というものだ。その態度によって、射程スケール拡大させたものが図4-4にあるシメトリカルな人類学というものであろうか。それを「モノの民主主義」「相対的相対主義」ともいっている。ところで本書ではレヴィ=ストロースにたいする批判は激しい。先の特殊な普遍主義をつくった張本%