2月17日(日)
埼玉県立美術館で開催中の「インポッシブル・アーキテクチャー」展へ行く。1910年代のロシア構成主義から、現代の「新国立競技場」、藤本壮介、マーク・フォスター・ゲージまで及ぶアンビルトプロジェクトの紹介である。千葉工大の今村研からも1938年のテラーニの「ダンテウム」を紹介している。学生時代の「未来都市の考古学」展での紹介を思い出す。今回新たに、コロッセウムからの軸線上に、この建築が計画されていたことを知る。そうした状況でも外部の軸線にたいし閉じることとは、内面の象徴化が強化されている証拠である。外部に接続するのは数学的秩序によってのみであった。ジャン・ジルーの映像「見えない都市 メタボリズム」は衝撃的であった。磯崎が言うように、建築とは偶有的でPCの上に成立せざるを得ない産物であり、ここに展示されている作品は、これに批判的あったり、反対に、美学の純性を表明したものである。こうした建築家の試みは徒労に終わっているだろうか。むしろそれがエンジンとされて、本来の偶有的「建築」を揺さぶらり、「建築」を生長させ続けている。このことを、エントランスにあったジャン・ジルーの映像で感じることができた。ここに挿入されているメタボリズムの建築は、今日の経済社会と全く合っていないことが明白ではあるが、その映像からは、現実と虚構の違いに違和感を感じることがなく、現実の東京であるかのような錯覚を覚える。それだけ、メタボリズム的DNAが今日の東京をつくっている。

2月16日(土)
「女神の見えざる手」ジョン・マッデン監督を観る。有能な女性ロビイストが、巨大政府を敵にまわし、銃規制法案の通過を勝ちとるドラマである。ここまでは普通のストーリーであるが彼女は、愛情の欠片が微塵もなく勝敗に徹する冷徹な戦略家であり、プレッシャーから薬を乱用し男も買い、仲間や同調者を道具として非道に利用し、一線を越えた違法盗聴も行う人であった。つまり自分に貸した信念にだけ意識的なエゴイストである。そんな彼女を時代寵児から悪者へ、犯罪者にまで仕立てていったのが、巨大な政府であり、また社会である。しかし映画はこうしたアイロニカルな終わり方をしない。一発逆転で彼女は、ポリティカル・コレクトネスを手玉にとり、社会を見方に付けてしまうのである。その勝負師たるは、守られた場所から甘い汁を吸ってきた聴聞会議長より数段上であったし、第3者的傍観者であるぼくらも何枚も上手であった。彼女の「相手に切り札を出させて、それから自分がカードを切る」という言葉が印象的である。そのカードは、自分を破滅させることでしか得られなかったものだったのである。それだけ追い詰められた破滅危機を、見事に描いたジョン・マッデン監督に脱帽する。このタイプの新しいアンチヒーローを演じていたのはジェシカ・チャスティンである。ぼくらのこれまでのヒーロー観を幾重にも捻った面白い映画であった。
020 トルコリーグ マラティア×ベシシュタク 
60分過ぎのリードした場面から香川登場。今日もトップ下で、前線から下りてきてはDFからボールを受けてゲームをつくる。マークが自由であると、サイド奥に長いパスを繰り返す。ロスタイムにこのかたちから、折り返しをフリーで中央で受けることに成功。ヘディングはほしくもポスト右へ。決めたかった。このかたちを旧来というかは意見がわかれるところ。もっとアグレッシブに縦に抜き去ることを、トゥヘル、ハリル・ポシッチ、ファブルが求めていた。次節はダービーだそうだ。ヤルニッチが警告累積で先発の期待が高まる。

2月15日(金)
鈴木さんをむかえての研究室の打ち合わせ。ぼくたちが考えた、つくるためのコンセプトを、より広いコンテクストの中に位置づけることを行う。コンセプトはプロジェクトにおける切り口となり、設計の決め手となるが、同時に社会における曖昧な位置づけを明確にしてくれるものとなり得る。デザインの鍵96「広げるほど決めやすい」はこのことをいう。打ち合わせの後、食事会。深夜「ハート・ビート」マイケル・ダミアン監督を観る。ミュージカル風の映画で少しも面白くなかったが、日本女性ダンサーが出演していることを発見。ソノヤ・ミズノという女優で、資生堂やユニクロのCMに出演していることを知る。その中でも、The Chemical BrothersのMV「WIDE OPEN」は面白い。CGによって彼女が徐々にメッシュ状の透明人間に変わっていく。

2月14日(木)
019 CL トットナム×ドルトムント 
ドルトムントは、アウエーで0-3で大敗。次戦のホームで、3点の巻き返しが可能だろうか?両チームともエースが怪我等で欠く。ドルトは加えて、パコも不在で、この時期フォーメーションを変える。長期的視点に立ってチームマネジメントをしてこなかったファブルの漬けがまわってきたかたちである。勝敗は、サイド奥のスペースをどちらが制するかで決まった。トットナムは3バック、ドルトもハキミがずっと攻めているので、実質3バックに近いかたちである。序盤にトットナムは、圧倒的なプレッシャーをかけ優位に立つも、前半中盤から形勢はドルトへ。ハキミが裏を取ることに成功していた。後半は全くのトットナムペース。開始早々、ハキミが狙われボール奪取され得点を許すと、それの修正ができずに追加点を許してしまった。ハキミの守備は以前から問題であったが、チーム戦術によるものなので仕方なし。一度、前線でボールをおさめるターゲットマンがいれば話がかわるだろうとも思う。

2月13日(水)
修士設計でウッソンをテーマとしていた学生から触発される。「テクトニック・カルチャー」8章のウッソンの章を再読。確かに「加算的」がテーマになっている。ウッソンによる加算的原理は、繰り返しを徹底することで生じる空間昇華を狙ったものである。ウッソンというと、シドニーのオペラハウスやバウスヴェア教会が思い浮かぶ。これらは大スパンの屋根構造を持ち、基壇と屋根の間の空間性が印象的である。そこにある加算性を、恥ずかしながら気づいていなかった。しかしよく読むと、ウッソンは中国の木造曲げ構法に精通しており、単一木部材を組み上げることで雄大な勾配屋根となることが生涯のテーマであったことが判る。おそらく、基壇は生活や皮膚感覚に根差すもので、屋根が空間性を獲得するものと考えていたのだろう。その空間性は、加算によって可能になるというのである。「ウッソンの目的はテクノロジーのシステムの純粋に方法論的・経済的な洗練を称賛することでなく、結構的な目的のために構法の生産理論を利用する」というのが、彼を言い当てるよい説明である。

2月12日(火)
018 CL マンチェスタユナイテッド×パリSG 
モウリーニョからスールシャールに監督が代わり、復調してきたユナイテッドがホームで、トゥヘル率いるパリを迎える。序盤からパリが優勢で、速攻とそれに伴うセットプレーによる2点でパリが勝つ。圧勝だろう。パリは実に安定していて、乱れることがなかった。比較的長めのダイレクトパスで、ユナイテッドのプレッシャーを簡単に交わしていた。フィニッシュのかたちは2年前のオバメヤンと今日のエムバペと重なるも、中盤は全く異なっていた。当時トゥヘルは、速さに任せ、次々と新しい策を繰り出すだけであった。それに安定が加わってきたのである。

2月11日(月)
一昨日、途中までであった「ケープ・フィア-」マーティン・スコセッシ監督を再び観る。14年前の法廷での弁護が不十分であったことを訴え、既に刑に服したロバート・デ・ニーロが、当時の弁護人に復讐するサイコスリラー映画。犯人であるロバート・デ・ニーロは異常なまでに高い知性、信仰心、体力、精神力をもつ。これは、異常な自己愛に基づく復讐心から出発するものであり、もちろんそこに他者の欠片もない。当初この異常さを予感できているのは、当の弁護人と観客だけである。弁護人を取り巻く人、妻、娘、警察、探偵、社会は全く彼を甘く見ている。娘など、犯罪者に強姦されると思いきや、反対に取り込まれて愛情を示してしまう程だ。そうした彼らが異常さを気づいていくことで、観客も恐怖に引き込まれていく。91年の製作であるが、特殊技術を使用せずに、脚本と演技力で恐怖を演出する古き良き映画であった。

2月10日(日)
ASJのイベントに参加。1時間あまり、3人のクライアント候補と簡単な面談+レクチャー。ひとりの人と意気投合し、モノに結び付けられることを願う。昨日と打って変わって快晴。多くの人が来場。
017 トルコリーグ ベシシュタク×ブルサ 
今日香川は65分過ぎから3トップの中央で出場。前試合のようなインパクトを残せず。絶えずマンマークされ、窮屈そうであった。トルコリーグの激しい当たりが印象的。試合後のスタンドと選手のエールのやり取りも熱狂的であった。先発でないところを見ると、ナイーブな香川を大切に育てようとしていることがうかがえる。

2月9日(土)
午後から修士設計講評会。遠藤研から5作品が発表。大高くんに限らず、分析をもとにして設計を組み立てる場合、仮説と結果との間には否応なしの不連続性が生まれてしまう。その点にかんする質問を受ける。つまり恣意性が問われている訳だ。それはかつてぼくが、「形の合成に関するノート」C・アレグザンダー著を読んで受けた印象でもある。その考えに難波さんは否定的であった。不可能とはいえ目標をかかげているからこそ、そこからの現在の立ち位置が明確になり、進歩がのぞめるし、エネルギーが投入できるというものであったと思う。そのとき知る由もなかったが、何かを機能的に創ろうとするときに、共通に問題にされることなのである。ところで「形の合成に関するノート」間もなくして著者であるアレグサンダーは、「パタンランゲージ」の編集に取りかかる。パタンランゲージの詳細な分析から出発をしているが、ぼくが解釈するに、その説明よりも、パタンを通して可能となる世界観の提示を行うようになった。ただし、こうした態度は強制力を伴う暴力的なものにもなりかねないので、小さいモノ(パタン)に留めると同時に、全体は多様な見方ができるような複雑怪奇ネットワーク構造をもたせるようにしている。この方法論は意外と面白く、人が共感するのは、部分を把握し、そこから指向を広げることができる時に感じるものであることを、これから知った。修士設計のプレゼにも利用すべき方法であると思うのだ。つまり、過程を説明するのでなく、作品を通じて過程の可能性を納得してももらうのである。こういう前提に立つと、大高くんの作品にたいしては、既存の廃墟を利用しないこと、廃墟を分析しても廃墟を再生することにつながらないのでないか、という誰もが疑問にもつ解答を自然に納得させるプレゼを期待したい。そのために次のことを明確にして置く必要がある。建築はモノ×経験の複雑体であり、この×を具合的にすることに建築の価値があるということ。この前提に立てば、建築における日常性とは、無意識に空間を経験していることをいう。この状況を建物というなら、×を具合的にすることで、建物から建築へtransfigurationすることは不可能ではないのではないか(つまり、修士設計として十分に批判的である)。これを具体的にするために研究では、使用を伴わない人を拒絶した廃墟をモノとしてみなしても構わないこと。箱庭療法に代表される臨床学とは、学習を、実践を通じて得ようとする経験について考えるものであること。このふたつ廃墟×箱庭療法を相性よく組み合わせることで、別の建築のあり方が模索できるということである。香取くんの作品は、通常最も大切に考える歴史やコンテクストを初期条件から外して、友人の設計を手掛かりにスタートする実験である。今日の講評会で皆が疑問をもったのは、それによって提案される空間が、設計者の自己満足を超えた何になるかについての説明であった。この疑問を思い起こさせないようなプレゼが必要とされるだろう。そのために、これまでにない新しい空間性を示すのもひとつ。そこには、予想だにしない「できちゃっと空間」を示すのものありだろう。もうひとつ、コンテクストチュアリズムといっても、所詮建築家の考えることは慣習的な発想からでしかないと、フランプトンを批判するのもある。が、それを突き抜けて、実際にモノをつくるという推進力は、あれこれと条件操作をする(理性)だけではダメで、むしろ目の前のつくりたいと思う欲求(これを悟性というのだろうか)を刺激させる方がよっぽど生産的になるといったらどうだろうか。最近のユーザ目線で情報収集し、それを設計に取り組む方法もこれに近いが、あくまでも設計者は第3者的な立場に留まっている。これにたいし香取くんの方法は、主体をさらけ出しているので、傷つけられ易い。一種の開き直りでもあるが、大人には言えないことでもある。小林くんの作品は惜しくも外部の講評会に選ばれることはなかった。複雑であることが、実は合理的関係の上に成立したものであることを示す意欲的な試みであった。それが、コラージュ作品を解説する彼のネットワーク全図に良く表現されていた。もうひとつ建築に及ばなかったことが悔やまれる。コラージュ表現同様に、ビジブルな思わせぶりのアクソメの可能性を、多くの教員が感じていた。
016 ブンデス ドルトムント×ホッヘンハイム 
よもやの0-3から、残り15分でドルトムントは追いつかれる。実は、香川のベシシュタク戦を観るために、75分でドルトの圧勝を信じ、DAZNへと変えていた。今日は、ロイスとデラネイという攻守の要が欠場。監督もインフルという。それでも前半は、サンチョが絶好調で活躍し楽勝ムードであった。後半も逆襲から、見事な速攻を成功させたのにかかわらずである。若きナーゲルスマンの執着心とチームへの求心力、戦術の修正力に脅かされる。それに対しファブルは、ピッタリとするフォーメーションが固まるまで試行錯誤していたが、その後は選手を合わせることをしている。今日もトップは、ゲッツエであったが、本来のポジションでもよかったと思う。そのため、香川も含めて力ある選手も戦術に合わない理由で使うこと。そのツケが今日なのかもしれない。アジア杯もそうであったし、スケジュールの厳しいリーグを勝ち抜くためには、オプションを絶えず用意しておくことが必要だ。それに欠けていることに気づく。

2月8日(金)
午前中を意匠系の修士論文発表会。午後から、東京理科大の修士設計講評会。昨年から続けての参加である。常勤の他に三宅理一先生、鈴木啓さん、近藤哲雄さん、沖俊治さん。有岡三恵さんもいる。長丁場となったが、アットホームで自由な雰囲気であった。2年間を通して設計を行うのは千葉工大と一緒であるが、設計過程に重点を置き、作業量を問わないところに大きな違いがある。したがって、学生の思惑を超え議論を呼ぶ、ぼくが推したくなるような案は少なく、そうした案は早々に脱落した。最優秀案は、葛飾京島に、観察によって得られた仕掛(ガジェット)を設計するものである。東京に残された木密地域の社会的問題を意識した案であるという、三宅先生の最後のコメントが1等への大きな推進力となった。大きな社会問題が、小さなガジェットによるコミュニティ提案に差し替えられているという疑問も湧くも、発言の猶予は与えられなかった。2等案は、52年後までの自分の将来をゲームによって設定し、自邸の増改築を提案するモノローグな案。予測-制御という計画方法がもはや無効であり、感受—対応という生物的な決定論と割り切って、設計者の主体を前面に出した案であった。設定がゲーム感覚で、設計の根拠のなさから、社会への批判性がないことが問われた。ぼくは、十分にこの作品は予測-制御という計画にたいする批判であると思ったので、助け船を出すも、上手く伝わらなかったようだ。悔やまれる。3等案は、鶯谷のラブホテル街に、アナグラ的な創造の場を提案する案。閉じた街だからこそ可能な生き生きした風俗を描こうとしている。スターリング風の見上げアクソメを描いているのを懐かしく思った。この意味を問う指摘に、三宅先生が適切な解説を与えてくれた。この仕掛によって、タイトルにもあるように人はtransfiguration(イエスの変容)するという指摘である。彼がデザインしたかたちは、単なるtransformではないのだ。この指摘にビックリし、3票目を入れることにした。

2月7日(木)
「混沌からの秩序」プリコジン+スタンジェールを「確実性の終焉」から続けて読み終える。微視的に古典物理学(原因—結果)が有効であること、ただし中心から外れると、それが通用しなくなり自己組織化が起こり、それが全体を引っ張るエネルギーになり得ること、そして巨視的には時間は不可逆に流れること、を学ぶ。建築でいうところのこの流れとは、いあわゆる大文字の「建築」のことだろうと思う。そこから距離を自覚的にとり観察すると、何かが起きているということだろうかと思う。可能なら、それの参加因子になりたいと思う。
015 ドイツ杯 ドルトムント×ブレーメン 
ホームでドルトが、延長PKで敗退。延長から俄然両チームが攻撃的になる。離されても追いつくブレーメンの勝利への執念がゲームを面白くしていた。ただし、大迫はアジア杯の疲れから不出場。チームが一体となる折角のチャンスに参加出来ずに、ほしいことをした。日本人のぼくには加えて、手薄になった延長に香川がいたらとも思う。

2月6日(水)
最終提出に向けて修士設計を研究室内で発表。プレゼ方法を探る。香取くんの作品は、テクトニックカルチャーにたいする批判的設計。設計者の主体性は、それ単独で成立させることはできないことを認めつつも、歴史やコンテクストに無条件に左右されてしまうことにたいする建築家への批判である。その試みが可能かどうかは別として、香取くんが自ら、主体性をなんとか確立させたいという切迫感が感じられる作品であった。それは、最も大切とされる歴史やコンテクストを外して、知らない者が設計したモノから設計をスタートさせるものである。これを時間の許す限りドライブ続けることをアドバイスする。テキくんは、中国の山水画と園林の歴史を詳細に紐解いている。これがどれ程一般化された歴史観かは判らないが、ぼくなりに解釈すると、中国思想を表現するものが、隠匿の身にあった状況から生まれたランドスケープとしての山水画にあった。これは、中国の伝統思想を内面化、表象化したものである。そして現在、山水画は長い時間を経てシンボルとまでになった。それと同様にこの表象は、ある時、園林という伝統建築と結びつき、太湖石ともなっていった。日本では、書院と結びつき掛け軸となっていくことと同じである。思想を表象する方法として、文字がもちろん第一にある。しかし、内面化する過程を示すには、他のメディアでも可能である。そのひとつに、建築があったではないかという提案である。この歴史的説明に重点を置くことをアドバイスする。大高くんの作品は、廃墟をテーマとする。一般に、建物においてなされる経験にたいして人は意識的ではない。それが日常的ということだろう。しかし、廃墟は別物である。なぜなら、その機能的役割を終えモノとして存在するだけで、経験する人を拒んでいるからである。したがって、人は廃墟に接すると、モノとの間に新しい回路をつくらなければなならなくなる。これは何か?というように人は自然と判断するのである。こうした人の指向性に注目した。これは、治癒や学習といったものに既に利用されている臨床学というものである。臨床教育学、臨床心理学、法学などがあるが、臨床建築があってもよいだろうというのが、この作品の提案である。これを建築化するのは難しいが、廃墟をモノとして分析し、それに箱庭療法というプログラムを結び付けることで、訪れた人が新しい回路をつくることが期待されている。十分に資料は用意されているので、判りやすい簡潔な説明が大切となるだろう。このことをアドバイスする。小林くんは、コラージュ手法を研究していた。彼が言うには、コラージュは、多様な鑑賞者の取り込みを意識したものであるが、そのために判りやすい1本の線でつながった表現になるのではなく、錯綜を許す寛容な表現にする必要があった。小林くんの描いたコラージュ作品の分析は、マニュエル・リマのような複雑ネットワーク図となっている。これが意味するものは、部分的には明快なつながりがあるものの、その上に成立する複雑な全体である。これを建築化しようとした。都市の遊歩者を建築に取り込む道のような建築の提案である一方、それは垂直ビルとして可視化さている。設計した建築を、ネットワーク図のようなものまでポテンシャルを与えることをアドバイスする。オウくんの作品は、伝統的住居から派生した舞台建築を観察しながら、それを現代美術館へ計画を拡げるものである。周囲のコンテクストと対比を大事にすることをアドバイスする。

2月5日(火)
事務所に戻り、本年度の卒業設計を振り返る。喜ばしいことに、図面技術や精度が上がった。そのため、紙面表現に大きな違いはなく、より具体的に自ら設定したテーマを表現できている作品が優秀作品として選ばれた。こうした作品は白々とした一般解をもっていないことが特徴であり、選ばれた10作品は多様なものとなった。街並み保存や地域コミュニティの復活、過疎化改善というような傾向から、身の丈サイズの独自視点をもって、構法やコンテクストを追究する作品、身体性を見直すものへと代わってきたのも特徴である。実寸設計から何かを得ようとするものまであった。これは震災以降、社会から要請されてきたことを自己消化でき、意識的に方向性を決定できるようになったことの現れかもしれない。しかしもうひとつ物足りないと思うが、そうした視点が建築内部へしか向いていないことである。もうひとつ離れたところからの位置付けができたらよいと思う。遠藤研の町田くんの作品は、その可能性を目指し上手くいかなかったが、今日の講評でヒントを得た。それを広げることができたらと思う。同様に、方法論と格闘していた学生への指導も悔やまれた。それを直接的に説明するのではなく、例えば敷地設定を条件を巧みにして、方法論を言わなくとも現状批判を通じて浮かび上げる指導があったことに気づく。

2月3日(日)
映画「ペンタゴン・ペーパーズ」スピルバーグ監督を観る。主演は、メリル・ストリープとトム・ハンクス。彼らは、ベトナム戦争の真実を暴こうとするワシントンポスト紙のオーナーとジャーナリスト。彼らが秘密公文書(ペンタゴン・ペーパーズ)公表に至る葛藤を映画化した社会派ドラマであった。この映画の意図が、トランプ大統領就任と関係ないわけはない。ニクソンがとりわけ悪者であるが、歴代大統領が皆国民を欺いていたのである。そうした権力に対するマスコミの使命が何かが描かれている。また、当時ビジネス界では女性の立場は弱かった。それをメリル・ストリープが好演し、昨年話題となったタイムズアップ運動とも連動している。NHK特集で、「朝鮮戦争 秘録」を観る。珍しいことに、中国の研究者の報告書を基にした特集である。北朝鮮のキム・イルソンを通して、スターリンと毛沢東の大国思惑を紹介する特集であった。朝鮮半島はその犠牲者であったという設定である。
014 トルコ アンタルヤスボル×べシクタッシュ 
香川がアウエー遠征に帯同するということを知り、早速DAZNでチェック。急遽、ストリーミングとなっていた。80分から22番リャイッチに替り登場。10秒後のファーストタッチでゴールを決める。その2分後には、距離のあるフリーキックも決める。いきなりのダブルで、鮮烈的なデビューを飾る。ドルトでは見られなかったフリーキックを任され、チームに受け入れられたことも判る。ポジションは、3トップの中央であった。終了間際も、特異のポジショニングから裏へのパスを2本繰り出す。仲間と合わなかったが、仲間にインパクトを与えたに違いない。とはいえ、相手チームは1-4でビハインドされた状況で、攻撃一辺倒であったことを考慮する必要がある。べシクタッシュのスタイルはというとそれは、前半からはリードするものの明確な攻撃方針によるものではなかった。むしろ、アンタルヤスボルの方にそれを感じることができた。このようにべシクタッシュは攻撃が噛み合っていなかったのか、10番選手がいなかったのか、香川を必要とした理由はまだ判らない。しかし香川にとって好ましいかたち、ずば抜けたセンターFWはいないようである。それでも、べシクタッシュには技術的に優れた選手が多いことはわかった。

2月2日(土)
013 ブンデス フランクフルト×ドルトムント 
香川の移籍が決定した。トルコのベシクタッシュである。夏からのベシクタッシュ監督からの熱望に応えたかたちである。今日も同じスターティングメンバーでドルトムントは試合にのぞむ。前半のいくつかの好機をロイスが外すと、フランクフルトが前半終了間際のスーパーゴールで同点とし、そのまま1-1のドローとなる。フランクフルトの前線の攻撃力は凄みがあるも、それを支えているのは長谷部を中心とした読みの鋭さにあることが判る。最終ラインからボール奪取後に、ことごとく速攻が決まっていた。長谷部は、試合直後にプレッシングされるも、慌てることなくゲーム内で立ち直った。余裕が感じられた。

2月1日(金)
ノイエザッハリカイトを「驚異の構築」でも、ひとつの章を割いていることに気づく。そこでは、ノイエザッハリカイトをコンテクスチュアリズムに対するものとして位置づけている。コンテクスチュアリズムは、理想を優先するために現実を歪め、精密な判断と選択を排除し、そこには具体性とオーラが欠けているといっていた。つまりノイエザッハリカイトは、ロマン主義を排除するものなのである。これが巨大数にまで拡大させたものが、OOOといったものなのだろうと思う。「GAJAPAN 20世紀の現代建築を検証する○と×」の鈴木博之の発言は、大衆=ロマン主義という位置づけのものであった。
012 アジア杯決勝 日本×カタール 
1-3で、日本はよもやの敗北を喫する。事実上の決勝といわれていた強豪イランに完勝し、対戦相手に決まったカタールはヨーロッパスタイルで、イランより体格が劣るとの判断から戦い安しといったイメージをもってしまったか? おまけに1日分カタールより日程的に有利であることが、それを助長したのかもしれない。ゲーム外では、カタールの登録選手規定違反から没収試合が誠としやかに噂され、そんな中、キャプテン吉田が前日に、絵に描いたような素晴らしいアスリートとしてのインタビューも行った。これらが重なり、完全に日本はカタールに対して精神的に優位に立ってしまっていたのである。それが試合においても続いた。カタールを受けて立ってしまったのである。これが敗因だろう。確かにカタールの5バックによって、上手くプレッシングがかからなかったこともあったが、この気持ちの緩みが1対1の甘さを呼び、2失点を喫した。後半からは、選手が覚醒し実力を発揮した。打って変わって大迫にボールがおさまるようになり、よい距離間を保ったダイレクトパスによって1点差に追いつくも、PKでまたしても離されてしまい、万事休すであった。森保監督の打つ手なさも気になる。交替時期が遅く、13本のコーナーキックの明確な方針もみられなかったからだ。これは、組織つくり中心の森保監督の内容のなさでないかと思う。試合後の、控えにまわっていた乾のインタビューが印象的であった。5バックに対する攻撃方法を監督に進言していたようだ。経験に勝る知識はないことを知る。

1月31日(木)
夕方、フェルメール展に上野にいく。長い会期も今週で終了することもあり、会場は沢山の人で溢れていた。フェルメールの作品は相当数を観た。記録のために書き留めると、「ディアナとニンフたち」「手紙を書く女」「手紙を読む青衣の女」「手紙を書く女と召使い」「地理学者」「レースを編む女」「青いターバンの女」「天文学者」「水差しを持つ女」「ヴァージナルの前に座る若い女」「ワイングラスを持つ娘」「小路」「絵画芸術」。それに今回の「マルタとマリアの家のキリスト」「取り持ち女」「牛乳を注ぐ女」「ワイングラス」「水差しを持つ女」「リュートを調弦する女」「真珠の首飾りの女」「赤い帽子の娘」である。3年前の森美で開催された「フェルメールとレンブラント展」を思い出す。ふたりの関係は建築でいうところの、ベルニーニとボッロミーニである。聖テレジアの法悦あるいはサンタンドレア聖堂とサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ、透明(光り)と闇というところだろうか。この展覧会の構成もそうであったが、17世紀このバロックの時期は、宗教画から世俗性への流れがあった。決まり切ったテーマから開放され、作家独自の視点の時代となる。その結果、極端な作家性が表れることになった。フェルメールの光りに対する執着心は感嘆ものだ。

1月30日(水)
NHKの経済特集を観る度に気づくことがある。それは、最近のOOOやアクターネットワークが、ともすると新自由主義とあまりにも相性が良すぎて、絡め取られてしまっているのでないかという心配である。そこで、アクターネットワークに批判的な文章を思い返し、3年前の「新しい唯物論」磯崎新と日埜直彦の対談をあたる。読むうちに、新即物主義(ノイエザッハリカイト)が気になる。まずは、「現代建築史」ケネス・フランプトン著の15章をチェック。「新しい客観性1923-33」である。冒頭の美術評論家ハルトラウブの1929年の引用が、ノイエザッハリカイトをよく言い表している。「ノイエザッハリカイト」という表現は、社会主義的傾向を持つ新しい写実主義の標札として使われるべきものだ。それは、希望溢れる時代(その捌け口が表現主義であった)のあとの、諦めと冷笑がドイツ全体を覆っていた頃の、共通する感覚に結びついていたのだ。冷笑と諦めは「ノイエザッハリカイト」の否定的側面だし、その肯定的側面は、物事を理想的意味で誤魔化したりせず、物質的基盤に基づいて、全て客観的に受け止めよという欲望の結果として表れた、直接的現実に熱中することだ。こうした健康的な覚醒か最も鮮明に現れているのは、ドイツでは、建築なのだ」。同時期のフランスはアールデコの時代である。つまり、美学的側面が見直された時代である。そもそも建築はモノを組み立てることで、抽象性を表現しようとする。抽象的なものには、社会制度から機能性、空間印象まで様々なものが含まれるが、この時期に、真摯にこれを構築しようとしたのである。そこに極めてロマン主義的な人間感情を排除していた。ここに現在との同時代性も感じることができる。しかしそれを、「GAJAPAN 20世紀の現代建築を検証する○と×」で鈴木博之は、磯崎の薦めるノイエザッハリカイトに対して、エリート的な理念主義で大衆性に欠けていると非難してはいるが。

1月29日(火)
NHK特集で「アメリカVS中国 未来の覇権争いが始まった」を観る。将来において産業のトップに君臨するのはAI産業であるという。それは、ビッグデータと情報技術により、今後のインフラ全てを手中に収めることができるからだという。もちろんこの優位性は現在、グーグルをはじめとする米国が握っているが、中国が国策によって多数の留学生を派遣し、この技術を経験として確実にものにしているという。米国は、あくまでもこうした技術を企業がもっている。したがって、中国にたいしての貿易制御などを行っているものの、こうした対抗策としては不十分であるという。つまりここでも、個人/国家という対立問題が浮きぼりになっている訳だ。番組の後半は、経済について。国家は、経済と技術革新の両輪を成功裏に導くことによって覇権を握ることができるのである。ここでもブロックチェーンが話題に上げられる。ドル基本通貨にたいする対抗策として中国は、ブロックチェーンの開発を推進している。銀行口座をもたない途上国ユーザに向けてのサービスを目的とし、世界的な潜在的消費者獲得を目指し、経済上の米国牽制を行っている。この特集を観て、建築でいうところのふたつの状況が気になる。ひとつはBIMについて。BIMは、日本のように高い技術、統率の取れている国にたいする新しいスタンダードによる制覇のように思えてきた。各国のスタンダードを重視しつつも、情報の互換性こそが重要となるのではないかと思うに至る。もうひとつは、建築特に意匠分野における留学生にについて。彼らはおそらく、日本を席巻した欧米文化の顛末を目にし、失われていく中国文化にセンシティブになることを教えられている。AI分野の留学生が取り込んできた方向と逆のベクトルをもつ考えであるが、こうした彼らが自国でどう立ち振る舞うかは楽しみでもある。アジアカップで、開催国UAEがカタールに惨敗。ザックとの対戦はなくなった。それにしても両国の隣国関係がよくないことが、この試合を通しても容易に理解ができた。次のW杯はそのカタールである。シャビ予想が日本で話題であるが、シャビはカタールのクラブに所属していることを知る。

1月28日(月)
011 アジア杯 日本×イラン 
代表の見応えのある試合を久しぶりにみる。体格差に勝るイランは、パワープレーで日本を押し切ろうとする。吉田と冨安のCBが危なげなく相手FW20番をブロックするも、セカンドボールをことごとく支配され、試合を難しくしていた。日本ふたりのブランチは小さかった。ここで、ボールをキープできればと思うが、彼らも効果的なパスを繰り出しているので、選手選択は難しいところである。前線の動きはよかった。大迫にある程度ボールがおさまったからだ。ここまで大迫の回復を信じ、彼を休ませていたベンチワークが光る。それでも、ほとんどの時間をイランに支配されていた。2得点は、アクシデントが重なったようなもので、3点目は、ほとんど消えていた原口が決めた。これには驚いた。ともかくも決勝にコマを進める。最強イランに堪え忍び、チームは良い雰囲気である。

1月27日(日)
深夜、NHKの資本主義の特集を観る。これからの経済政策を占う特集である。それは、国家による管理か自由に国民に任せるかというテーマであり、世界が共産主義対ケインズという図式から、ケインズ対ハイエクという図式へと移行していることと重なる。科学においては、いくつかの書籍で確かめてきたが、どの分野においても、この管理/自由という対立構造は共通テーマであることが判る。当然のことながら、昨今話題の仮想通貨の是非にもつながる。その中で、ブロックチェーンという言葉を耳にする。分散型取引台帳技術、分散型ネットワークのことをいう。銀行という中央システムを必要とせず、オープンに使用履歴が保存、閲覧でき、その透明性故に、データを改ざんや過去に遡り修正することはできない(不可逆)システムのことをいう。構成員で互いを監視するシステムのことである。ビットコインでは総通貨量を設定している。市場でこの信用を築けば、このブロックチェーンシステムに載せることで金本位制に代わる新しいシステムとなるのだそうだ。金の保有量を保証する国家というものを必要とせずに、透明性システムがこれに代わるものとなる。この流れは、遺伝子の情報伝達と近い。情報を保存追加によって次世代に引き渡すので、不可逆なものである。マイニング(採掘)という言葉がここでも使用される。ブロックチェーンに透明性を持たせるには、膨大な計算作業が必要となる。したがって、いくつかの分散型ネットワークによってそれを行う。その作業の見返りに、新しく発行されたビットコインを分散型ネットワークが受け取ることができる。これをマインイングという。つまり、隠れている全体を個人で認識することをいう。マイニングといえば、中埜さんとで、人それぞれがパタンの質を発見する意味で使用していた。ちなみにこれに対し、パタンを使用(建築化)することで、内面(文化)化していくことをセンタリングといっていた。つまりマイニングとは、センタリングと対で、文化が共有化(信用)され、再表出することをいう。パタンも仮想通貨も、信用(文化、共通価値)を前提とするところに一致点が見出せる。建築における共通価値とは、現在は環境ということだろう。環境をどのようにマイニング、センタリングするかが今後の課題であると思う。

1月26日(土)
夕方から、大坂なおみの全豪決勝を観る。40-0のチャンピオンシップポイントを握りながら、4ゲームを連続で取られ、1-1のセットカウントが並んだときは、本当に危ういと思った。大坂も取り乱し、泣いてていたと思う。そこからトイレ休憩を取ってからの優勝であった。あっぱれ。3セット目の大坂は、落ち込んでいるようでも、無の境地に入るようにも見え、不思議な状態であった。ともあれ、サーブが強いということは素晴らしい。精神的に追い込まれても、そこからのブレークスルーを可能にする。そこから、サーブ技術に劣る錦織を逆に凄いと思うようになる。追い込まれた状態で5時間堪え忍び、勝つのだから。かなりの精神の持ち主である。
010 ブンデス ドルトムント×ハノーファー 
香川出場に期待をもち、ONするも、やはり今日もベンチ外。苦しい状況が香川に続く。それに反し、ドルトは好調時に調子を戻す。ロイスが復帰、そして何よりハノーファーが最悪だった。監督交代の時期かもしれない。それにつけ込み、前線が面白いように得点を重ねる。浅野が前半終わりから出場。しかし何もできていなかった。

1月25日(金)
「ティール組織」の打ち上げを編集者と行う。会話の中で、「ティール組織」の位置付けがはっきりしてきた。本書が推していることとは実は、イノベーションによる達成主義(オレンジ)を否定している訳ではない。依然としてそこに足をおいている。その一方で、集団の中のひとりとしての自分がどうしたらよいかを提案しているのである。極めて主体的(能動的)な考え方だ。それにたいしてこれまでの個人は、社会(組織・集団)の中のひとつであることを良しとされ、社会が優先され、主体が受動的なものとされていたのである。これは日本だけの特徴でなかった。ティールは、これにたいする批判である。こうした批判を、対象が会社であれば誰もが納得し受け入れる。が、現在は対象が会社組織から環境、地球という曖昧模糊としたものにすり替えられていないだろうか。つまり、ぼくらの立場は依然として受動的のままでいるのである。これを建築の場合に引き寄せる。建築は幸いにも、「建築」を対象として、個人をテーマとしてやってきた。しかし近頃は、その限界も見えつつある。建築が受け身になっていると、言わざるを得ない。ぼくとしては、扱う対象を「建築」から環境や社会という大きなものに移行させ、かつ主体が受動的にならないこと、このことが建築の重要ポイントであると思うように至った。それは、アレグサンダーが追究してきたことでもあったのだ。このことに気づく。その後深夜まで、別な場所で大学時代の友人とも飲む。少人数であったが、皆元気であった。

1月24日(木)
夕方から、非常勤教員との懇談会。今年は赤羽先生と幹事で、庭園美術館内のレストランで行った。屋根形状と外の庭へのつながりが、気持ちを優雅にしてくれる。美味しい料理で、皆満足してくれたようだ。「確実性の終焉」プリコジン著を読み終える。時間がテーマであった。世界は不可逆ということあった。不可逆性を理解することは、伝統的に古典力学や量子力学と同一視されてきた微視的記述を通じてでなければなされ得ない。それに基づけば、世界は確実なものではなく、確率で表現される。それを「確実性の終焉」といっているのである。確率を高めること、それにしたがった行いを創造という。別なところでは、「未来は、もはや与えられてはおらず、「建設」となる」p90という。科学の実情を知る。世界は平衡から離れた複雑の中にある。ここで重ね合いが共鳴を起こし、新しい挙動が起こるが、一方でこれと対照的に世界は一様に向かい続けるのである。
009 アジア杯 日本×ベトナム 
PKによる1点でベスト4に進出。相手はイランとなる。トーナメント2戦目とはいえベトナム相手に、先発を入れ替えなかった。イランを見据えてもっと総力戦で戦ってもよかったと思う。とはいえ、チャンスを十分に与えられている北川と権田は不適といわざるを得ない。ベトナム相手のプレッシャーに逃げているようにも見えた。これでは、もっと力のある国とは戦えない。

1月23日(水)
3年生建築設計講評会。宮本佳明氏と川島範久氏をむかえる。講評を聞きながら、来年度の課題方針を、隣に同席した佐藤先生、望月先生と意見交換する。来年度は、エンジニアリングとのインテグレートする喜びをもっと打ち出し、その感動を促すことにする。ぼくの作品を紹介するのもありと思う。知識が個人の琴線に触れたときに意味をなすことを彼らもわかっていたことを知り、嬉しく思う。講評で川島さんは、環境について広く捉えることを喚起してくれた。室内環境ばかりでなく、敷地環境、地球環境における建物の位置づけを考えなさいということだ。それは、配置計画にもっとも顕著に現れる。少なくとも、配置にセンシティブにならなければならない。環境を思考することによって、思考を外に広げてみようということだろう。宮本さんは、レヴィストロース「野生の思考」の資材性(潜在的有用性)を紹介し、建築家に求められるのは、その発見性にあるといってくれた。8mスパンの学校建築は、その点扱いやすいので、発見性が難しい建物であるという。もっとリノベーションに必要な既存との絡みに意識を集中すべきであるという指摘であった。規模が大きくなるにつれて、特に学生はリアリティを掴むのが難しくなると思われるが、学校建築がどう変化したら面白いかを感じることは可能である。このリアリティには、ふたつの側面があり、ひとつは、プロジェクトに対するリアリティ。プロジェクトの社会要望にたいする理解といってもよいだろう。これを追究することは大事であるが、これに留まってしまっては、現実に押し込められた案になってしまう。もうひとつ、つくることなどに熱中することで生まれる感動に近いリアリティというものもある。優秀案にとして選ばれた案は、この点において優れていた。人を動かすのは、社会的要請の理解も大事だが、そこからのリアクション個人の発露にある。この点が強調されたのである。

1月22日(火)
「確実性の終焉」プリコジン著のⅢ・Ⅳ章を読む。個の起動レベルでの不安定さが、統計的記述レベルでは安定であることを、数学的に証明をしているのであるが、なかなか理解できない。つまり、カオスの縁において個々がバラバラであるときに、自己組織化が起きることを数学的に証明している。しかもその挙動を、前もって決定することはできない。Ⅴ章は、この相反する挙動に統一した見解を与える説明を試みる。キーワードは共鳴である。個々がバラバラでも複雑であれば衝突し合い、巨視的レベルでは、確率的な傾向が現れるという。Ⅵ章でポパーが紹介される。「非決定論は実在論と両立する。(中略)量子論全体についての首尾一貫した客観的認識論、および確率の客観主義的解釈の採用が可能となるのである」。また、「観測主体が存在しなかったとしても、おそらく、いまあるのと同じように非決定論的なままであったろう」。プリゴジンは、数学的に示した事実を一般の人にも分かるような例で説明してくれているところがよい。これらの説明から、自然(法則)と個の存在の間には矛盾がないというのである。

1月21日(月)
「確実性の終焉」プリコジン著を続ける。P59の図Ⅱ.5が興味深い。散逸構造をよく示す図である。平衡付近ではエントロピー生成を伴う散逸は最小となるが、系を非平衡に押しやると、新しい過程が発現し(自己組織化)、エントロピーは増大する(カオスの縁)、このことを示す図であった。さらに非平衡に押しやるとカオス状態になる。この考えをもとに、ポアンカレの予想方法、ホワイトヘッド、ベリクソン、ホーキング、ポパーを評価する。P60は自然との対比である。有機体が優勢な環境に対して自然と適応するのは、複雑性を注意深く回避しようとするものであるという。つまり、創造(新しい自己組織化)を起こさないようにするためである。このことに驚く。帰宅後も、錦織のゲームが続いている。これで終わりかというところからの逆転であった。一喜一憂することなく、プレーに集中していたのが印象的。その姿勢に引き込まれ、思わずゲームしている気になる。
008 アジア杯 日本×サウジアラビア 
日本がボール支持率30%以下で勝つ。中盤が下がり気味で、高い位置のサイドから度々クロスを上げられる。シュートの正確性もあるが、それをなんとか跳ね返す。アジア相手に守りぬくことが可能なことを証明できたのであるが、そこからの速攻のかたちはできていなかった。とはいえ、W杯出場国にたいして勝ち抜き、チームは前に進む。

1月20日(日)
「確実性の終焉」プリコジン著を読みはじめる。それと同時に散逸構造について整理する。エネルギーが散逸していく中にも、局所的にエネルギーが注入されると、構造が現れることをいう。生命体とは、宇宙から考えると、死にゆく運命の中で、代謝機構や排泄機構によって生きるものなのである。第1章は、この歴史的経緯の説明。世界は自然法則によって支配されているとすると、それに対して、人それぞれは自由でもある、このふたつの矛盾をいかに説明するかが、歴史的に考えられてきた。それを廻る。大胆に言えば、大文字の「建築」を前提にすることで、個人の創造が説明できるかということである。個人的視点を超えて、創造を少し高い位置から考えることである。それを本書では、「いまや創発しつつあるのは、決定論的世界観と、偶然性だけからなる恣意的世界とのあいだにある、中間的な記述世界」としている。
007 ブンデス ライプツッヒ×ドルトムント 
1月ぶりにブンデスも開幕。ドルトは、ロイスが体調不良から怪我を起こしベンチ外。最終ラインも怪我人多発で、中央にヴァイグルが入る。シーズンも中盤に差し掛かり、選手が手薄になってきたのだが、それでも香川はベンチ外。移籍を表明したとはいえ、そうした状況をつくり出しているのはファーブルにも原因があり、どっちもどっちだろうと思うが、香川は完全に干されている。チーム状態が変わればと思うのだが、ドルトは安定している。今日も1-0の勝利。移籍期限まで、残り10日あまりである。

1月19日(土)
午前中、大阪なおみと錦織圭の試合を観る。その間に、昨日届いたJIAマガジンを読む。坂牛さんによる田根剛氏のインタビュー記事が面白い。田根さんは、考古学のように敷地を分析し、考古学者とは異なり未来に対する方向性に意識的である。このことがわかるインタビューであった。建築家の行うことは、その位置づけを決断することにあるのだろう。それにたいして坂牛さんが鋭いのは、建築家が主体性をもち続けることの塩梅にあった。このやり取りが興味深かった。田根さんが行っていることは、歴史性の括弧入れをし、それを外すことで、建築家としての主体性を復活させているのである。
006 プレミア リヴァプール×クリスタルパレス 
早くにリヴァプールが逆転したので、わくわく感はなかったものも、壮絶な打ち合いで4-3でリヴァプールの勝利。前線の活躍もさることながら、ヘンダーソン、ミルナーらの中盤の活躍が光る。彼らは、エンジンのようだ。

1月18日(金)
内之浦ロケットセンターから、無事発射したことをニュースで知る。CASABELLA890が届く。フランチェスコ・ダルコの巻頭論文は、ロッシのモデナ墓地を廻る表層論。モデナ墓地の全体平面図ドローイングは有名であるが、建築自体は未完であることを知る。ダルコによると未完であるが故に、納骨堂のギッリの写真とこのドローイングとが相まって、作品は崇高さを獲得しているのだという。ぼくに言わせると、イエスは神格化されることで成立しているのであって、身近な存在であってはいけないということである。作品紹介の後に、なぜかしらカーンのベネチアにおける国際会議場案がある。敷地はビエンナーレが開催されるジャルディーニ公園へのアプローチ脇であった。確かにこのアプローチはあっけなかった記憶がある。そしてあの強烈な球形はサンマルコ寺院をイメージしたものなのだ。OMAのカタール国立図書館も紹介されている。内部化された一室空間の図書館で、文化のための一種の屋内広場をデザインしたことが了解できる。108m(このモデュールは日本的?)正方形平面の端部の先端を持ち上げたかたちでそうさせている。持ち上げられた下がエントランスとサービスアプローチである。中央が何かと探ると、ヘリテッジと呼ばれるイスラム文明に関する重要資料庫であった。これが地階にあり、その上がテラスである。ここにコールハース特有の批判的姿勢が読み取れる。100万冊以上も収蔵し、国立図書館+公共図書館+大学図書館であるそうだ。深夜BSで「ラビリンス」ジム・ヘンソン監督、ジョージルーカス総指揮、デビット・ボウイ主演を観る。東洋的思想色の濃いSFアドベンチャー映画であった。

1月17日(木)
005 アジアカップ 日本×ウズベキスタン 
先発を10人代えて、グループリーグの最終戦にのぞみ、それでも2-1で勝つ。もっとも、対戦するウズベキスタンも同様に大きく先発メンバーを代えていた。両チーム共に決勝トーナメントへの進出が決定しており、これから続くハードスケージュールを考慮し、かつ1位での進出でも、対戦相手に有利性が働くとは限らなかったためである。日本は、選手が代わると戦術も変わり、今日は2トップで、サイドからのクロス攻撃が中心となっていた。前半の終わり頃からそのかたちが明確になりつつある。こうしたかたちがオーソドックスであるからではないが、森保監督の目指す新しい日本代表にとって、選手の代えが効かなくなっていることを感じる。つまり、レギュラー組が明確になり(固定され)つつあることを感じる。大迫然り、両サイド然りである。今後の代表の成長を考えると、決勝トーナメントでの戦いで、戦術でなく選手の流動性を獲得する必要がありそうだ。

1月16日(水)
鈴木竜太さんを研究室にむかえて、ナチュラルアングル改築の打ち合わせ再スタートをする。構法とは、つくり方を通して、広い意味での確実性を与えるものと考えられていて、その前提諸条件に縛られがちである。そこには、プロジェクト内で検討された条件やこれまで培われてきた技術も含まれる。むしろ、これを外すことができればと思うのだが、今日の打ち合わせで、その切掛けを垣間見ることができた。池田さんをはじめ構造家との打ち合わせでは、こうしたダイナミックさを獲得していたことを思い出す。3.11の津波と原発がもたらしたものは、生活におけるこうした括弧外しがあまりにも手に負えないものであった。そのため、構法が基本とする技術の、コントロールが最優先されているのが現実だろうと思う。つまり人が技術に対して受け身であることに否定的になった訳である。時間が経ち、その先が何であるかを考えるようになったことに気づく。

1月15日(火)
研究室学生の作品をコメントしているうちに気づいたことがあった。それは卒業設計における、大いなる誤解である。それは自由に関する考えであった。特に自由度の高い卒業設計では、学生に、自らの格率にしたがって自由に設計せよ、という。そして講評会でぼくら先生は、これに至った動因を尋ね、次にそれがどのように形として表現されたかを問う。しかし先生は、学生の作品が様々な条件によって規定されていると思いはするものの、それに拘わらずに作品自体を評価するのである。しかもその評価理由は、学生の提案する格率についてでもない。それは、先生が、次のことを前提としているからである。即ち、この学生の考えたコンセプトやコンテクストがどうであろうと、それは度外視してよろしい。プロセスにおける条件の系列は、無かったものと思ってよい。要するに先生は、学生がかかる制作の結果のプロセスとはまったく新たに、自ら始めるかのように見なしてよい。このことを前提にしているのである。学生に対する批判は、先生自身の理性の法則にもとづくものであり、この場合に先生は、自分の理性を作品の原因と見なしているのである。つまり、作品の評価は、上に述べた一切の条件にかかわりなく、学生の作品を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであると見なしているのである。ここで注目すべきは、先生が、学生の自由な格率に制作した作品を、事前にではなく、事後的に見ていることだ。ここから先生の判断は主観的なものだという批判、コンセプトの純粋性のみを重視してその結果を省みないという批判が出てくるが、これは以下の間違った前提の上から生じる批判である。そう、学生も含めてぼくらは自由ではないのだ。自由意志だと思っていたことは、実はさまざまな因果性によって決定されていたものなのである。そのことを知らなかっただけなのである。その点で理論上先生も学生も皆、同じ状況に置かれている。しかし先生は、この因果性を外すことで、実際上自由でいる。この点に着目する必要がある。先生は自ら(内から)自然と自由になっているのではないのである。この絡繰りを理解できれば、先生ばかりが気持ちよくなってしまうことはなくなる。しかも格率に比重を置く設計では(他の科学とは異なり)、先生と学生の関係が反転できる可能性を大いに秘めている。これを狙わない手はないと思う。つまり、各自の立ち位置、あるいは作品設定はメタフィジカルであることを前提にする。あるいは、自分と全く規則を共有できない他者に囲まれていると考えるのである。因みに「ティール組織」におけるさまざまな経営手段は、これを基本原則としている。これによって組織を前に進ませることができるのは、目指すべき明確な目的がある訳でなく、提案される経営手段が政治に根差すものだからである。そう、メタフィジカルであるのなら政治的なのである。これは、カントのいう「他者を手段としてだけでなく、目的として使う」ということである。

1月14日(月)
今日は、歌舞伎海老蔵の改名と息子の襲名披露があった。昨年再放送で観た能の野村萬斎親子の初舞台のときと比べてしまう。歌舞伎と能の違いはこうしたときにも現れる。民放とNHKという演出の仕方が大きいと思うが、大衆を意識しているか、それよりも文化伝承を第一にするかの違いがあったように思う。能に演者の自由度が少ないのはもちろんであるが、それは跡取りへの遺伝子伝承にも違いがあった。能にとって、生き生きとしたという表現は不要である。

1月13日(日)
004 アジアカップ 日本×オマーン 
1-0の勝利。前半の南野の活躍が嘘のように、後半は、誰もシュートが打てずに終わる。オマーンが意外とラインを高く保ってきたので、その裏を突いたかたちが前半は上手くいった。後半は修正され、ボールの出所のチェックが激しかった。森保監督は慎重である。今日も一人の交代要員を使わなかった。バランスを重視するためだろう。先発も、怪我の大迫に代えて北川。体調が回復した遠藤を復帰させ、冨安をSBにする。左前は、原口のまままだ。決勝までの7試合を考えれば、他の選手を試してもよいかと思う。北川だけが、未知の存在であったのだろう。その北川の働きが?であった。しかし、その後武藤もいまいちであった。伊藤のみが最後に一矢を報いた。

1月12日(土)
「魂に息づく科学」を読み終える。ドーキンスの厳格な科学観を知る。それは、創造とか偶然とかいった希望的思考を許さないものである。全てが事実の上に成立する世界観である。だから、プラトンや宗教を批判する。理想でしかないからだ。第5部は現実世界。遺伝子を超えて大きくなった脳の働きが示される。読後、ある種の潔さに惹き付けられる。それは、「デザインの鍵」からの印象と重なることに気づく。建築で言うところの人間との相関を示す機能性というものを大前提とせずに展開するところにある。神話としないことが、潔さを導く。「モリのいる場所」沖田修一監督を観る。ゆったりした映画で、悪くいうと退屈で、よく言うと宇宙観がある。モリこと熊谷守一は実在した画家である。池袋モンパルナスの自宅から何年も外出せずに、昼間は庭の自然観察を楽しんだ。映画では、彼の魅力の下に様々な人が導かれ、一種のニッチ状態を形成していた。人の目線からは、非常に深く広く感じるその庭も、ラストのシーンでの、完成したマンションの屋上からは、驚くほど小さく、すべてが分かったような感覚をもたせる。映画としては、これを誰の視点とするかが問題であったろう。常に守一を追いかけていたカメラマンの視点としたことに少し疑問を感じる。守一の信望者さえ、守一にはなり得ない一種の皮肉だろうかとも思う。このカメラマンは、手帳に熊谷邸の敷地を書き留めていた。監督の生き写しとも考えられた。

1月11日(金)
「魂に息づく科学」を読み進めていくうちに、「ティール組織」を廻るふたつの考え方を発見。ひとつは目的論的視点からティールを考えるもの。人は、絶えず、ボス、制度、科学などの下で生きてきた。現在はその構造が崩れつつあるが、その先は見えない。新しいものとして環境、あるいは論理みたいな崇高なものが必要とする見方。これを目的論とひとまず言う。もうひとつは、ボス、制度、科学との対立構造によって個が徐々にクローズアップされ、個が開放されてきたというもの。実在論的立場からのものである。深夜BSで、ドバート・ゼメキス監督の「永遠に美しく・・ Death becomes her」を観る。M・ストリーブ、B・ウィルス、G・ホーン出演である。はじめはシリアスな映画と思ったら、途中からブラックユーモアたっぷりの特撮映画となる。ストーリーがあるようでなく痛快で、ティム・バートンの映画のようであった。生き生きとした3人の役者が印象的である。

1月10日(木)
「魂に息づく科学」リチャード・ドーキンス著を読む。第2部でもいろいろなことを学ぶ。目的論、デザイン、ガイア理論を生物の進化に適用すること、このことを徹底的に否定する。ドーキンスは、「ダーウィンは、目的因という幻想がいかにして、まっとうに理解できる作用因によって生まれるかを示したP189」とさえ言っている。そして生態系バランスという考えは、ダーウィンが生んだ共進化の想定外の結果であって、政治的なものでしかないという。生態系バランスというのは、「植物は一次生産者である。太陽からのエネルギーをとらえ、一次、二次、さらには三次の消費者、そして最終的に腐食動物にいたる連鎖をとおして・・・」というものである。それにたいするドーキンスの立場はこうだ。「生物個体内に生態系があるp192」。つまり、「ミトコンドリアにとって細胞が重要である同じように、ミトコンドリアは細胞の働きにとって不可欠」でなければならない。生物個体内部で、ウインウインの関係が完成している。肉食動物は草食動物が存在するところで繁殖するのではなく、皮肉食種の中から積極的に自然淘汰を通して肉食個体になるという。それは、ティール組織におけるセルフマネジメントにあたる。個体それぞれが環境に適用しようとするのであって、指令を出す全体システムがあるわけではない。そうすると、あとがきでも書いたが、ブレークスルー2の「全体性」という訳が気になる。部分と集合のホロン化のこととなるだろう。そうすると4章がすっきり流れる。ブレークスルー3は、自然淘汰とか適合と理解するとピッタリくる。つまり、ティール段階でブレークスルーされるのは、個人の自律、主体の確立ということになる。よくティール解説のために使用されるレッド、アンバー、オレンジ、グリーンと円が大きくなる図は、ラマルク的(獲得形質的)で、ちょっと違う気がする。系統樹的な書き方がよいと思いはじめる。

1月9日(水)
司馬遼太郎の「建築に観る日本文化」という講演記録を聴く。建物と建築の違いからはじまり、明治に「建築」が輸入されたこと。夏目漱石が建築家志望であって、「三四郎」に色濃くそれが表現されていること、など知っていることも多かったが、織田信長が建築家であったという指摘が面白い。日本は伝統的に建築家は壮大な夢をもっているのであるが、施主が幼稚であるという。ところが織田信長は、施主でもあった。司馬遼太郎は、ザビエルの故郷に行ったことがあるという。そこで目にしたものは、安土城であった。信長は、奈良以降はじめて建築を輸入した人であるというのだ。「魂に息づく科学」リチャード・ドーキンス著を読む。進化は、ダーウィン主義に基づく自然淘汰と突然変異によるものである。その突然変異(跳躍進化)にたいする理解を改める。ふたつの解釈がそこにあげられている。飛行機を引き合いにしてた、DC-8伸張型と747型というふたつの例えである。747は、竜巻が吹き抜けて組み立てるようなものだという。これはありえないことである。跳躍進化といっても、DC-8伸張型程度というのだ。そこには構造の変化はない(複雑さの増大はない)。ただし、キリンの首がレイヨウから伸びるとき、複雑性が同じでも、それを成立させるために、血液を押し上げる心臓の強化、筋肉など、実際問題は多々ある。この変化をクリアすることを突然変異という。遺伝子自体には変化が全くないのである。そう考えると、ラマルクの進化論も意味をなさなくなる。これを知って、キリンの首が長くなる一般的な解釈に疑問を感じていたことの整理がつく。実質内容を考慮せずに、機能的問題を優先させる方法に違和感を感じていたのだ。建築における機能的改善などは、ラマルク論を基本にしている詩的科学なのである。
003 アジアカップ 日本×トルクメニスタン 
3-2の勝利。初戦は厳しい戦いになると言われる中で、後半の大迫のふり向きざまのシュートで楽になった。相手は、W杯初戦の日本のようにベストな状態で牙を剥いてかかってくる。それを受けて立つことの難しさだろう。その後は気を緩めて、PKを与えてしまう。実力差が、プラス思考とマイナス思考をトータルした精神差をぎりぎり上回っていた。

1月8日(火)
「魂に息づく科学」リチャード・ドーキンス著を読みはじめる。ドーキンスのこれまでのエッセイや講演記録をまとめたものである。まえがきに、「科学者個人の内心の感情がどうであれ、科学そのものは、客観的価値を厳格に固守することで機能する」とあるように、科学には、デザイン思考や全体論、あるいは目的論などを必要としない潔さが全編に通底しているという。真実と価値は区別されるべきものであり、価値は創造できても、事実は創造できないという。
002 練習試合 ドルトムント×デュッセルドルフ 
香川がよいパフォーマンスしたというので、ドルト公式TVでチェックする。後半からトップ下で登場し、守備に貢献し、逆転へのチャンスメイキングとなっていたのだが、報道されているほどでもない。常時前を向ける状況をつくり出すことができていなかったので、速いサイドを活かすことができなかった。逆転時は、相手が守備に徹していたので、至近距離で前を向くことができていた。トップ下に君臨する絶好調ロイスは、チームがよいリズムでないときも前をむくことができ、そこからゲームを立て直していた。

1月7日(月)
昨日の疑問確認のために「ダーウィンとデザイン 進化に目的はあるのか?」マイケル・ルース著の再読。この本のテーマは、目的論にある。つまり、近代科学が発展をしても、神に変わるものが必要とされてきたという立場にたった主張である。カントも然り、ダーウィンも自然選択を「盲目的な法則に従って、知性に直接的に言及することなく物事を成し遂げる。この目的論は内在的」p121であるとしている。しかし、その後科学分析が進むにつれて、この目的論の存在意義は薄れていく。その最大の推進役となったのは、ドーキンスの利己的遺伝子であるが、ドーキンスの提案に本書は疑問を呈している。ベルクソン以降も、世界は因果律で図り切れない問題でいっぱいであるというのだ。トマス・ネーゲル、ラリー・ライト、ロバート・カミンズが挙げられているが、身近な人ではない。ラルーの日本語字幕付の講演をYouTubeで観る。翻訳では、「自己管理」「全体性」「進化する目的」と訳したが、既存組織側の立場から分かりやすくするなら、「ボスのいない小さな組織」「仮面を脱ぐ(既成概念からぬける)」「目先の目標に囚われない」が分かりやすい。新しい組織イメージを与えようとすると、「セルフマネジメント」「オープンマインド」「何をすべきか」といったところか。それを成立させるために建築にできることに引き寄せると、「見えない構造(イマジナリーストラクチャー)」「安心の場(セーフスペース)」「社会(環境)のなかの建築(サステイナブルアーキテクチャー)」といったものだろうか。

ティール組織動画日本語字幕

1月6日(日)
「自己組織化と進化の論理」カウフマン(1939-)著を読み終える。カウフマンの自己組織化も、進化が有効に機能するための確率論を基本としており、それはドーキンス(1941-)の利己的遺伝子論と大筋において同じであった。生物個体の外部に目的があるわけでなく、あくまでも内部理論によるものであった。大きな違いは、カウフマンが数学的法則から一般性を導くのに対して、ドーキンスはあくまでも遺伝子伝達確率のみに基づいている点である。カウフマンは、少し宿命的な法則の存在を認めてるいるが、ドーキンスには全くその片鱗がない。どちらも、もちろん思考というものがないが、擬人的な表現で説明をするところに特徴がある。一方で、ベルクソン(1859-1941)の生気論は否定する。次の疑問は、この生気論がどのような展開をしていったかである。

1月5日(土)
「自己組織化と進化の論理」11章は組織論である。シュミレイテッド・アニーリングが紹介される。徐々に冷やすことをいう。通常は身近で容易な窪みに安住してしまうので、外部からエネルギーを加えることで、そこから逸脱させることをいう。鍛冶屋の例が示される。熱してものを叩くのは、外部からエネルギーをつぎ込むことなのである。もうひとつ、組織を部分に分けるパッチ方法も示される。内部矛盾解決型である。「各部分組織は自分の適応地形の上で適応度の高い山に登ろうとするが、そのことが他の部分組織の適応地形を変形させる」。こうして、全体がより高い山に登れるようになる。これを共進化という。本章では、組織分割数による進化の違いを数学的に示す。それによると、これまでの章と同様に、細かく分割するとカオス状態に陥り、大き過ぎると安定してしまうといっている。カオスの縁に留まることがもっとも効率がよいという。建築の場合も触れられる。「最終製品の多様化を予測し、生産ラインの設備をすばやく再配置し、さまざまな市場に合った限定された製品を短期間に少量だけ生産する」ようになる。次に示される3つめの方法は、制約条件を無視することである。これが、全体でみると効率がよいことが多いという。これら3つは、アレグサンダーのいうところの、漸進的成長、パタン(小さな作業集団)、ラフネスに当たる。12章では、マトゥラーナとヴァレーラのオートポイエーシスが触れられる。カントが、生物をオートポイエーシス的統一体と考えていたことも知る。

1月4日(金)
録画していた「映像の世紀」の後半を観る。68年のパリの時は幼かったものの、1989年のベルリンの壁の崩壊から続く熱狂は、当時日本にいたぼくには少なくとも遠い世界の話であった。ゴルバチョフのペレストロイカによって西側の勝利が自明と信じ込まれていたし、日本はなんといってもバブル景気であった。日本社会に不満をもつ者などいなかった。もっとも、68年の一連の出来事をはしかのようなものであったとする虚無感が支配的であったと思う。建築においても、歴史主義はどことなく斜に構えたものとして写っていた。入学時垣間見れた学生運動も、この頃には皆無であったと思う。そうしたなか日本の若者を惹き付けたのは、この頃からはじまったオウムのようなものであったと思う。おそらく、ばくらは社会という外の問題でなく、内省することに向かってしまった。この特集を考えるに、映像はエポックメイキングなシーンを取り上げてはいるが、社会のかかえる内情と必ずしも一致しないことが多いことを気づかせてくれる。
001 プレミア シティ×リヴァプール 
今年も、プレミアリーグから見始める。この時期の連戦は大変だろう。その中で好カードが組まれている。そしてシティが勝ち点差7を詰める。グアディオラもここで負けたら終わったといっていた。ゲームは終始、シティがコントロールする。サイドからボールをつなぎ、プレッシングをさせなかった。DF底からの縦パスも徹底的にマークし、FW陣に前を向いてボールをキープさせなかった。そのため、シュートもさせず、セカンドボールが拾われることもなかった。いい循環でコントロールしたことになる。一端、同点とされるも、直ぐにオーソドックスなサイドへの展開から、確実にサネが決める。とはいえ、激しい闘いであった。

1月3日(木)
再び民放局で、別の若冲特集を観る。今日の特集は描き方に対してではなく、絵の構成と主題についてであった。若冲は、相国寺僧侶の教えのもと仏教思想を表現し、絵1枚1枚に固有の主題というものはない。したがって、額縁に囚われる構成というものもない。彼が、絵師としての教育を受けていないことが、このユニークさをつくった。反面このことによって、「日本画」に位置付けられることもなく、専らの評価は、色彩や技法の特殊性にあった。相国寺は金閣、銀閣をおさめ、若冲の白黒画が銀閣の障子に多くあることを知る。夜に、新監督森保一のインタビュー特集を観る。紳士的な態度で、昨日の特集のような嫌味な感じはしなかった。ただし、最後は気持ちの強さというものがフォーカスされ、残念に思った。その段階を既に海外選手は肌で感じている。問題は、チームが追い込まれた非常時に、ひとりひとりがどう戦術を組み直せるかということだと思う。表象化できない意識下で、共通の問題を個人個人が感じられるとき、それが文化となることを、野中郁次郎から学んだ。その段階に、海外選手はいるように思うのだ。

1月2日(水)
昼過ぎに、久しぶりに穴八幡宮へ行く。そこで今年の吉方向が、東より少し北寄りであることを知る。こういうことを知ると少し気になるので、不思議である。その後、自宅近くの氷川神社まで散歩。夜に、サッカー特集を観る。岡田と西野の両監督の対談である。このW杯で、日本人として采配にかなり自信を持ったことが判る。劣等感をもっていた時代から前に進んだことを、そこから感じることができたが、年長者特有の手慣れた余裕が伴っていたため、あまり気分よく感じられなかった。海外経験選手たちは既にその段階を超えている。西野監督が告白していたが、ブラジルを経験した選手は、このW杯にかける情熱は半端なかった。これは、ブラジルで粉々に壊された自信から再起したものである。この情熱を首脳陣は判ってはいるが、自分の問題となっていない。その裏返しがテレとなって、捻れた態度となったのである。彼らも秘めた情熱を率直に表現すべきであった。気分をよくしなかった理由である。選ばれなかった若い世代も、アピールの機会がなかったろうが、それがなかったということだ。BSで、「オリバーストーン オン プーチン」を観る。ロシアから見た西側、とくにアメリカがどのような存在であるかを知る。ロシアからも、ぼくらがロシアにたいして思っているように、アメリカは信用ならない虚構に満ちた国と思われているのである。アメリカがNATOを存在させる理由、ロシア周辺国での反体制支援、これらのことをプーチンは納得していなかった。昨日、映画ミッションインポッシブルが放映されていたが、IMFからの視点がそのままプーチンにあったことに驚く。

1月1日(火)
昼過ぎに、赤坂の豊川稲荷へ初詣。その後、虎屋へ。予想に反して、他に店が開いていなかった。夕方、実家で夕食。BSで、昨年秋にパリで行われた若冲展の特集を観る。相国寺にあったとされる釈迦三尊図と30幅なる動植綵絵(サイエ)を一同に展示する。若冲はミステリアスな作家である。色といい構成といい、それが独特であるのは独学による発想からである。40歳から本格的にはじめた。使用する色数は決して多くなく、色に厚みもたせたドットで描き、背景とのコントラストで、対象を浮かびあげる手法である。そして対象、背景、裏背景と3つのレイヤーを駆使する。非常に現代的な手法である。このことが明らかになったのは、現代技術で高い解像度をもつ写真技術によってである。若冲の中に、フェノメナルな透明性を見る。その後、NHKの「ミッションインポッシブル」を観る。

12月31日(月)
午前中、墓参り。「自己組織化と進化の論理」を読み進める。示される数々の実例を、リアルに理解できないことがもどかしい。「生物学の進化も技術の進化も、拮抗する制約条件でいっぱいになった系を最適化しようとする過程」であるという主張が印象的。これが自然淘汰である。ところが、これでは系が、「全空間の微少な領域に閉じ込めらてしまう」という。つまり、たいした進展は起きない。そこで、突然変異というものが必要となるが、数学的に、突然変異を起こす確率の調整により、閉じ込められる系の大きさを調整できるというのである。つまり、突然変異が度々起きると発展しない。適度な突然変異率がある。これを調整するのが自己組織化というものであるという。例年通りに深夜に実家を訪れ、先祖に挨拶し、軽い食事会。ルーチン化するのも悪くない。深夜、「映像の20世紀」再放送を観る。やはり、ナチスの場面が印象的。ヒトラーは遺言として「ナチズムはこれで消滅するが、100年後に再び生まれる」といったそうだ。ジジェックが書いていたように、ドイツ人は、ユダヤ人への虐殺を見て見ぬ振りをしていたことが確かであったことも理解する。戦後、アメリカ軍はこの事態を歴史的事実として残すために、虐殺現場を老若男女のドイツ人が見ることを強制したという。このとき、ドイツ一般人の「知らなかった」というコメントに対し、被害者たるユダヤ人の「いや、そんなはずがない」という反論が残されていた。当初、アメリカもドイツへの参戦は消極的であった。ユダヤ富裕層の投資先が、実はドイツであったからである。リンドバーグがその先方にいたことにも驚いた。正義は複雑である。

12月30日(日)
NHKでロストフの悲劇の分析番組を観る。今月はじめに放送された特集の2時間バージョンである。新しい発見がいくつかあった。サイドのふたりをフリーにしてしまったことが痛かった。出だしは、シャドリに乾が付いていたが、完全に振り切られている。交替させられた原口のコメントが印象的。「ぼくなら、止められたかも」。ショートコーナーにいた香川は、見誤ってデ・ブライネを追ってしまった。同サイドのムニエをマークしていたらと思う。結果的にみれば、あらゆる局面で、1テンポ送れたことが原因で、それが積み重なり得点された。ただし、これが判るようになったのも、時間が経った今になってからで、得点結果から逆に要因をフォーカスすることで判明したことである。当事者のプレヤーは事後説明でしか把握できないが、これを学習することで、次におこる同様の状況で、事後説明であったことを進行形のかたちで再利用できるようになる。これで、文化らしきものがつくられていく。とはいえ、全くこれに関係なく、ゲームは進行する。
150 プレミア リヴァプール×アーセナル 
5-1でリヴァプール圧勝する。セカンドボールを徹底的にリヴァプールが拾い、波状攻撃を続ける。そのため、アーセナルは為す術がなかった。3トップの早い攻撃と前からのプレッシングがそうさせていた。クロップリヴァプールは、確実に首位を固めつつある。

12月29日(土)
149 プレミア レスター×カーディフ・シティ 
ビッグ6に連勝したレスターが、下位のチームに勝ち点を取りこぼす。終了間際に速攻をくらってしまった。残り10分で岡崎投入も、なにもできず。

12月27日(木)
中埜さんとメールのやり取り。15の幾何学的特性にもある「ラフネス」の重要性を再確認。「ラフネス」であることによって、専門的でないユーザに、建築に入り込む余地をもたらすことになる。この技術は実に深く、ポジティブに主体性を捉え直すものでもある。とかくぼくたちはプレーンな場の提供を念頭に置いてしまうが、これとラフネスは矛盾していることに気づいた。ぼくたちは自分たちのことをホモ・サピエンス(賢い人)、ホモ・ハビリス(道具を使う人)といったりするが、もうひとつホモ・ルーデンス(遊戯人)という呼び方がある。ラフネスもホモ・ルーデンスも、収束から逃れるために動的であることを示す言葉である。

12月26日(水)
「自己組織化と進化の論理」を読み進める。自己組織化は判っているようで、具体的にイメージが難しい。YouTubeをチェックするも、なかなか的確なものが見つからない。カウフマンによると、自己組織化は閾値を超えるときに起きるという。「自己組織化」を「創造」に置き換えると、ティム・インゴルドの主張となる。閾値に達する方法は沢山ある。早くするために「デザインスゴロク」というようなデバイスがあったり、ひたすらバットを振り回すという手もあったりある。ぼくは泳ぐことが好きであるが、ぼくのような自己流で下手な場合、意外と力が抜けて楽に泳げたときの方が力一杯のときよりも早く進む。水の抵抗を大きくしてしまうためだと思う。推測するに、もっているエネルギーの使う方向が実は大切なことが判る。ここにセンスが隠されているのでないか?ひとつひとつの力の入れ具合より、力を調整させる能力のことだろう。これを掴むと飛躍的(効率的)な進歩が可能となる。自己組織化をこのような調整力と捉えてよいと思う。調整とは、環境の中での位置づけである。このとき、情報量の閾値を超えた複雑怪奇なある環境(ニッチという)が見えている。

12月25日(火)
148 ブンデス ドルトムント×メンヘングラードバッハ 
ウインターブレイク前の最終戦の1位と2位の先週末ゲームをNHKで観る。ドルトは怪我人が多く、いつものDF陣が欠場。前半にパコも筋肉系トラブルで退場。しかし、2-1で勝ちきった。ここにやはり香川はいない。終了後にスタジアムを後にする姿がTVには映されたが。ドルトレジェンドに対し、最後まで特別扱いはなかった。決して自分を前面に出すような選手でないのに関わらず、そして体調が悪い訳でもないのに関わらず、なぜ、ここまで干されているか、不思議である。移籍が成功した後に、この理由を聞きたいと思う。

12月24日(月)
「自己組織化と進化の論理」の第2章を読む。有機物にも無機物にも含まれている物質、たとえば尿素のような物質の紹介からはじまり、こうした物質が偶然に結合する確率は、天文学的なものであることが示されている。したがって、何らかの必然性を生む外からの力が必要となるというのである。それを「利己的遺伝子」に対応させ「無償の秩序」と呼ぶ。どうやら擬人的な説明はここでも有効なようだ。

12月23日(日)
天皇陛下の生い立ちを追う特集を観る。今日の内容は、ご結婚前までの幼青年期についてである。人格形成がなされた頃の話である。曖昧ではあったが、戦後になって、皇太子として目指すべきものが、神に似た存在から国のリーダーとしての存在へ、アメリカ的実践的教育が積極的になされていた。これを紹介していた。ここに本人にも社会にも葛藤があったと思うのだが、それについては触れられていない。昭和30年代前半まで、ぼくの祖父や父を廻る環境は、依然として戦前状態の王政復興が再び起きることが信じられていたことを耳にしていた。これが現実なのでないかと思う。深夜、20世紀を映像で振り返る特集も観る。サウジアラビアから石油が発見されたのは、1930年代後半であることを知る。最近のことである。戦後、この利権を廻り、サウジ国内外の情勢が崩れていく。当時から、こうした紛争を解決するためにイスラム原理主義者たちの力を借りてきたことも判る。そうした力による平定は、直に不要になるのであるが、その力をさらに利用しようとする国や人が現れる。それが、ますます世界状況を悪化させていった。大国がいかなる手段を使おうとも、国をコントロールすることはできないことが、ここで語られている。

12月22日(土)
「自己組織化と進化の論理」スチュアートと・カウフマン著を読みはじめる。1章において、ドーキンスの「利己的遺伝子」や閉じた系における「熱的平衡状態」、モノーの「偶然」、これらを乗り超えようとする本書のポイントが判る。すなわち、非平衡状態において、個が互いに刺激合うことで、秩序が一瞬、一瞬に生まれることをいっている。「自己組織化」「散逸構造」「自己触媒」「自己創発」がキーワードである。面白いのは、進化を内的条件と外的条件の間でのプロセスと位置付けていることにある。午前中父が退院し、簡単な昼食会。
147 クラブW杯 鹿島×リヴァープレート 
拮抗したゲーム展開であったが、最後は大きな差となる現状を目の当たりにする。

12月21日(金)
深夜に、映画「ダウン・バイ・ロー」ジム・ジャームッシュ監督を観る。アメリカの詩人ロバート・フロストの詩「選ばれざる道」をリプレゼンテーションする映画である。これは、映画の中でも主人公3人によって象徴的に語られている。3人は、退廃したアメリカ人と変なイタリア人である。イタリア人は、体格的に弱そうに見えるが、宗教信に厚く、母親をはじめ家族を信じる者である。強そうであるが底辺にいるアメリカ人を、彼が結果的に引っ張っていくことになる。なんとも批判的な映画であった。途中、牢獄内で3人が「I scream, you scream, we all scream for ice cream.」と叫ぶと、刑務所全体が呼応する。なんだか意味がよく判らないが、言葉が迫力をもつ不思議なシーンである。

12月20日(木)
M2修士設計のエスキス。独自の方法論確立を目指すことは悪いことでないが、それによって、物事にたいしてより広い視点をもてるようになっていないことに気づく。反対に、閉塞してしまってもいる。要は、方法論をつくっても、自分がそのままであれば、つくる前から何も自分は進歩していないのだ。実行は簡単である。これまでのやり方ではじめる。きっと変わってきた自分に気づき、それをクローズアップしていけばよいのだ。このことは、池辺さんの「デザインの鍵」から学んだ。「95 システムに原則はない」にそれが記されている。「システマティックな思考とは、「ある原則からスタートすること」ではなく、「実体から新たな原則をつくり出すこと」意外にありえない(中略)システマティックな思考には限られた対象物は存在せず、それは常に変化している無限に広がっていく対象の中に何らかの新しいっものを生み出していくプロセスである」。

12月19日(水)
146 クラブW杯 鹿島×レアル・マドリード 
終了後の選手インタビューが物語るように、完全に鹿島は、レアルにもてあそばれてしまった。その悔し涙であったと思う。個々の能力の愕然と存在する差を感じたらしい。前半30分、レアルはのらりくらりうとしていた。このことを解説者は、なめられているか本調子でない、といっていた。選手談話からすると、このときレアルは本気であったので、ガツガツくるだろう鹿島を見極めていたことになる。彼らにとって、苦い2年前の記憶があるからである。それを確認した後、怒濤の攻撃を行ったということなのだろう。それを許すくらい余裕であったのである。

12月18日(火)
CASABELLA889を読み、フォスターのヴェネチア・ビエンナーレ出展の教会が気になる。木材とテンセグリティーを共存させた教会である。ぼくのNIKEのように木造構造のみによって建築をつくろうとしているが、NIKEと異なりより多様である。樽構造かテンシィグリティかの違いだろう。フランチェスコ・ダルの批評にも惹きつけられる。それは、教会のオリジン「オヘル・モエド」に遡るものであった。これによると、オヘル・モエドとは、臨在の幕屋である。これはモーゼの言葉として出エジプト記にある。「身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、私はあなたをどうするか考えよう」とイエスが告げた場所である。つまり、神と契約を結ぶ場所、臨在の幕屋は、飾りのない天幕であったというのだ。これを現代的に翻訳すると、ハイデカーを持ち出し「人生とは、事物と人との間にあるもの」が教会であるというのだ。つまり、事物に囲まれた迷路の中に、教会は、迷宮の交差点のように、道筋を見極め、自然の中で進む方向を身体的に定めるよう暗示する場所なのである。それを表現するのが、この木材とテンセグリティーを共存させた路のような教会なのである。スポーツsportsの語源を探る。ラテン語のdeportareであった。「あるものを別のところに運び去る」という意味である。「重荷を担わない」が語感となる。ここからdesporter「気晴らしする、楽しむ」ものsportsとなった。重荷を担わない場のイメージは、簡素なつくりで、適度に囲まれ、風が通り抜けるようなイメージである。それが、根を張るのではなく、置かれたようになる。

12月17日(月)
「創造的進化」ベルクソンを、強引に読み通す。経験と直感が重要視される。しかし、それは知性以下のものともする。この微妙さが面白い。一般性や法則性を求めるのことは、物事を矮小化して考えることであり、いかに動的進化的な経験を通して、遠くを見ようとするかを鍵としている。最後は、プラトン・アリストテレス/近代科学/デカルト/ライプニッツとスピノザ/カント/カント以降(フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ショーペンハウアー)といった分類であった。雪だるま、鉄くずの中を動く手、弾み、花火、波、圧力のかかった容器などの比喩を用いて説明する方法に特徴があった。
145 プレミア リヴァプール×マンチェスターユナイテッド 
リヴァプールが終始攻め続け、3-1で圧勝する。点差以上の差があったと思う。引いてしまったユナイテッドは、セカンドボールを拾うことができずに、攻撃のかたちをつくれなかった。モーリーニョのカリスマ性は、もう見ることができないだろうか。

12月16日(日)
144 ブンデス ドルトムント×ケルン 
従来のスターティングメンバーから、右ウイングのゲレイロ1人のみを代えてのぞむ。後半はケルンが盛り返したが、最終的に2-1でドルトが勝つ。ドルトの強さは続く。

12月15日(土)
朝起きて、霧島の森アートセンターへ。栗野岳山頂にある。はじめに草間彌生の「大きな靴」に迎えられ、早川邦彦設計の筒状建築は丘の上に置かれるように配置されている。思ったより小さく、屋外展示へのゲートである。そこを抜けると、初台にもあるボロフスキー、ゴームリー、ダン・グレアムらの彫刻などたくさんある。アートセンターは、ショップと企画展示室のみであり、真鍋大度+ライゾマティクスリサーチ(齋藤精一ら)展が開かれていた。はじめの4作品は、特殊な光源とロボットアームによる光のインスタレーション。現実のものかどうかが判らなく不思議な作品である。ふたつ目の作品は、AIダンサーによる3次元作品。どうやら、ダンサーMIKIKOとのコラボらしい。3つめは、音を解析して図像化したもの。視覚と聴覚の融合が試みられていた。その後、高速に乗り鹿児島空港へ。急いで2本早い羽田行きに搭乗、東京医大へ。
143 クラブW杯 鹿島×グアダラハラ 
逆転で鹿島が勝利する。前半は、全く攻めることができず。ハーフラインを超えることすらできなかった。失点も、リーダー内田のミスからで、よく逆転できた。後半から投入された19歳の阿部がすべてを代えた。日本にも若い力の流れがきていることを感じる。次戦は、レアル・マドリードとである。リベンジなるか。

12月14日(金)
池辺さんの一連の作品を見るため、内之浦の宇宙空間研究所へ。日南、志布志という海岸線の道路を選択し、1.5時間程度で到着。しかし、先週末のロケット打ち上げが延期され、その処理のためMロケットセンターを間近まで近づくことができなかった。5つの扇形ユニットと正三角形を組み合わせた資料館へ。中央の6角形吹き抜けにロケットがあり、その周りをスキップしながらユニットを下りる構成である。6角形のハニカムFRP間仕切りなどがまだ残されている。システマティックな思考結果とはいえ、時間が経ち、決して機械的な感じはしなく、むしろウエットな感じがするのが不思議である。それは、池辺さんではないがロケットのデザインにも現れている。打ち上げは、1月中になったという。車で、鹿児島北の古い温泉街、宮野城温泉へ。夕食時に実家から電話が入る。夜は非常に寒い。

12月13日(木)
午前中、虎の門へ。その足で、飫肥に行く。江戸初期からの城下町である。北に山と城を控え、南に酒谷川がある。大きくうねった酒谷川と山に囲まれた街である。城を基点に正方形グリッド状に区画割りがなされ、城に近いほど立派な石垣に囲まれた武家屋敷である。そうした武家屋敷の門構は堂々としている。そのひとつをリノベーションした民家・長屋門に宿泊する。囲炉裏と土間の関係は象徴的に残され、新しい現代的な水回りが土間の横にある。南の広縁の幅は広げられ、そこがリビングである。広い間口が庭に面する。庭には井戸もある。夕食のために街を歩く。道ばたの水路には、錦鯉が泳ぐ。電柱、電灯がなく、足下白熱球が点々とする。民家も雨戸を閉じ、6時を過ぎると街は真っ暗である。容易に来れるところでないため、大衆化を逃れていて、街の保存状態が上手くいっている。夕食に居酒屋で宮崎地頭鶏を食べる。歯ごたえがあり、濃厚であった。飛行機の中で、「グレイテスト・ショーマン」を観る。バーナムという実在した興行師の伝記物語である。彼はいわゆる見世物興行から出発し、テントによる移動式興行などを発明した。英国女王までの接見を果たし、本格的リサイタルまでも手がけた。彼の周囲は、マイナーな人たちであるが、少しも湿ったところがなく、勇気づけられる映画であった。

12月12日(水)
142 CL モナコ×ドルトムント 
ドルトムントは、予選突破が決定している関係で、いつものスターティングメンバーをドイツに残し、サブでのぞむ。しかし、そこに香川がいない。香川のスペインへの移籍表明が裏目に出てしまった。全くはじかれた格好である。これで吹っ切れて移籍できるだろう。モナコは、監督がアンリに変わっていた。ドルトは、それでも落ち着いたゲーム運びで、2-0で勝つ。モナコに気迫がないといった方がよいかもしれない。アトレチコが、敵地で引き分け、ドルトが首位通過となる。

12月11日(火)
夕方遅くから雨が降り始め、ぐっと寒くなる。ナチュラルアングル行き。山庄建設の木村さんに現場を説明する。その後、家具について打ち合わせ。既存のタンス位置と収納量について、再考することとする。初期案に落ち着きそうである。続いて、職人や大工がつくる家具と、学生による制作の違いについて、クライントとお話し。学生には職人のような技術がなく、それが制限となるために、技術がなくても可能なつくり方を工夫する必要がある。それが2案のポイントとなっている。つまり材料量の増加にたいして、技術料が小さな案で、コスト的に有利にしたが、構法に制限があるため機能的犠牲箇所が生まれる案となる。その理解の上で、可能な範囲での機能的要望を加えることは可能であることをお話しした。とくに期限が定められているわけでないので、検討のための時間をつくることにする。深夜NHKの特集「ロストフの14秒」を観る。W杯の日本×ベルギーのロスタイムの出来事であるが、タイトルからは推測できなかった。長谷部、長友、吉田、酒井、原口、クルトワ、デ・ブライネ、ルカク、ムニエ、カッペロ、ザッケローニ、オシム、西野が語った内容から、ロスタイム弾について分析する。これまで、不思議なことにW杯を振り返る特集がなかった。漸く整ったということだ。山口蛍や特定の誰かを戦犯にするのではなく、局面でひとりひとりが少しずつベルギー選手に負けていたことを示す特集であった。その中で、長谷部と長友がすがすがしく語っていたことが印象的。彼らは、力を出し切って、悔いはなしということだろう。それにたいして、出演のなかった香川、特に蛍が気になる。彼らは出演できないほどキズを負っているに違いない。観ているぼくも感じていたことだが、2-0の時点で選手皆がプレッシャーを感じていたという。日本には、ドーハの悲劇や、ドイツ大会のオーストラリア戦、あるいはブラジル大会のコートジボアール戦のキズが癒やされてはいない。緊張感が高まる試合になる程、その恐怖が強大なものになる。それは、完璧に打ちのめされたドイツ杯のブラジル戦、ブラジル杯でのコロンビア戦より遙かに深いキズである。リードしたときも絶えず攻撃姿勢を見せ、守りに徹する戦術をとれない理由が、ここにあるのかも知れない。克服してもらいたいところだ。

12月10日(月) 
午前中、目黒の弁護士事務所へ。午後、安藤忠雄氏のレクチャーを大学で行う。100歳まで生きることを前提に学生を鼓舞してくれた。チャレンジを続けろ。ということである。自分の生い立ちから病歴までを赤裸々に語り、安藤さん自らが100歳まで生き抜く決意を感じた。サミュエル・ウルフマンが70代で書いたとされる「青春の詩」を引用していたのが印象的。安藤さんは77歳である。

12月9日(日)
新年会の会場確認のため、庭園美術館のレストランへ。HPシェルの大屋根が特徴的。シームレスのシングルガラス越しに50角程度の無垢鉄骨柱が並び、その向こうに雑木林が続く。席数が50くらいで、大きさを確かめる。屋根の一部をカットしているのが少し残念でもある。新館は杉本博司と聞くが、こちらは久米設計単独であろうか。本館の権藤要吉設計朝香宮邸で行われた2年くらい前のボルタンスキー展を思い出した。その後、青山スパイラルで開催されている田根剛によるシチズン展へ。たまたま、現代舞踊イベントと重なり、観客でごった返していた。それでも、神聖さを感じられないことはない。今度改めて、平日に行く必要がありそうだ。用事を兼ねて赤坂の虎屋へ。内藤廣氏設計であることを思い出し、急に興味が湧く。周囲とは異なり、低層の建物である。ヒノキの小片をメインインテリアとする。それに比べて、ディスプレイ台は真っ白である。地階が展示室。1階は駐車場。建物が角地にあり、それに沿った大きな大階段によって2階にアプローチする。そこが店舗である。さらに上がると、3階が天井高のある喫茶室である。連続する屋根根太が綺麗だ。道路反対側の東宮御所の木々が見える。簡素でありながら高雅である。店舗における1階の使い方が大胆であり、EVもあるものの、高齢者の利用が多いので、2階の店舗プランは無理にしているように思えた。
141 天皇杯 浦和×柏 
差し引いてみても、昨日のドイツリーグとの差を感じる。ピッチが大きく感じたのだ。パススピードと正確さの問題と思う。

12月8日(土)
叔父の葬式のため、葛西へ行く。9層もある市内の式場から、新しい浦安市の斎場をまわる1日であった。斎場は海岸近くにある。車が中心に考えられ、目指すべきメインのエントランスホールなどなく、長いアプローチ車路に沿っていくつかの火葬室が平行配置された横長の建物である。2階は、1階の火葬室に対応し控室が並ぶ。やはりメインの休憩所やレストランなどはない。2階からは、暴風林越しに横長の水平線だけが見える。梓設計の仕事である。1時間少しで火葬が終わり、実家に集まり食事しながら、生前の四方山話。
140 ブンデス シャルケ×ドルトムント 
今季は、実力さが明快であった。2-1でドルトの勝利。試合運びも安定していた。先発と控え、交替方法も確立されている。したがって、移籍を表明した香川の居る場所は見当たらない。

12月7日(金)
propという言葉がある。一般的には、小道具と訳される。Propertyと語源を同じにし、所有物あるいは特性という意味合いがある。つまり、それを見た人はそのモノ自体を想像できることを指す。俳句がもたらす効果というと判りやすい。最近は、プロダクトデザインというのでなく、プロップデザインというのだそうだ。そこにはデザインが、広く人を守ったり便利にしたりするためのものではなく、人を更新したり、未知の世界へ導くためのもの、という意味合いが含まれている。これを別な表現では、アプリケーションとインプリケーションといったりする。上手くいくことを目的とすることと、失敗もするかもしれないが、可能性を広げることに目的を置いたデザインと位置付けられるかもしれない。昨日感じたことは、デザインする側からでなく市場側から、この後者へ変えることができるか、という疑問であった。しかし、なかなか難しい。ただし、ここに使用者視点が抜けていることに気づく。そういう意味でも、循環の輪を小さくすること、ローカルであることは重要である。深夜「アウト・オブ・サイト」スティーブン・ソダーバーグを観る。ジョージ・クルーニーとジェニファー・ロペスの軽快でお洒落なラブドラマ。台詞回しがそう感じさせる。

12月6日(木)
小見山陽介さんを迎えてのレクチャー。「世界の動向 環境・木造・森林」と題して、世界の木造、とくにCLTの状況をお話してくれる。建築で木を使用する大きな流れは世界的なものであり、その中心にあるのがCLTである。日本は昔より林業が盛んで、かつその豊富な資源を基にした木造は伝統的でもある。その間にたって、日本の木現状も徐々に変わりつつある。その中心的ファッシリテーターを小見山さんが担っている。その俯瞰した視点を提供してくれて勉強になった。小見山さんはそのことを、生産、流通、消費をつなぐ大きな輪といっていた。まさにその輪ができつつあるのだ。ぼくは、奇しくも縦ログ構法に出会っている。そこから聞き漏れてくる危機感は、その輪からの疎外であるように思う。輪は次第に合理性を求めて硬直していくのである。余白を受け入れる動的なものであって欲しいと思った。そこでふと、デザインスゴロクとの関係が気になった。小見山さんの行っていることは、まさにデザインスゴロクを社会的に実行することである。そこの同質性にきづいた。そこで、これまでデザインスゴロクを、デザインプロセスの方法としてみるのはよいが、完成してしまうとどうなるのだろうと思い、ギョッとしたのである。デザインスゴロクの閉塞性を感じたのである。閉じることなく動的なものにする必要がある。帰路、このことを考える。

12月5日(水)
NHK特集で狂言「靱(ウツボ)猿」を観る。野村万作、萬斎、祐基親子3代の共演であった。太郎冠者を加えて、4人の舞台での立ち位置が抽象的で面白い。シテとアドが交わることなく、太郎冠者が絶えず媒介し、小猿がこちょこちょ動き回る。

12月4日(火)
「福島アトラス」福島住まい・まちづくりネットワーク編をネットで観る。一般には販売されていないので、閲覧は一部であるが、復興状況を俯瞰することができる。まだまだ福島は混乱していて、復興途上であることが詳細なデータからわかる。政府指導の下では上手くいかない現状を浮き彫りにし、むしろ、行政の働きを期待しているような立ち位置に興味をもつ。

12月3日(月)
「創造的進化」を続ける。第1章は「生命進化について」。進化論には一般的に、ふたつの歴史的見方があることを知れたのが収穫であった。それは、機械論的と目的論的な見方である。ベルクソンは、どちらかというと目的論的立場から、そのふたつの視点を乗り超えようとしているが、目的論の擬人的な性格に疑問を呈している。目的論の、自然の仕事と職人の仕事を同一視性にたいしてである。マイケル・ルースの試みは、これを逆に評価しようとするものであるが、あくまでもマイナーなものであることが判る。1章で、この2元論を乗り超えるために注目しているのは、胚の発達である。名付け得ぬものを、胚というもので現前させようとしている。胚は、結合や累積でなく、分離や分裂による進行するものである。

12月2日(日)
MOA美術館へ行く。映画「利休」で、山上宗二の「金の茶室は、わびさびの本質ではない」という批評に対し、三國連太郎演じる師匠利休が、「そうした考えこそ、モノの枠組みに囚われている。金の茶室に入ると、不思議な浮遊感を感じる」と反論する。この金の茶室を訪れる。赤と金の組み合わせで構成され、床の赤に光りが反射して光りが充満していることが判る。秀吉はここに帝を招くことができ、はじめて茶を振る舞うことができた。この喜びがいかなるものか判らないが、他の映画でも象徴的に描かれていた。もうひとつ尾形光琳の紅白梅図があると聞いていたのだが、これは期間限定公開だそうだ。その代わり杉本博司のオマージュ作品があった。数々の本物は他にある。入り口の大きな扉は漆喰仕上げで象徴的である。展示室の中央の壁は、アールのかかった黒漆喰。暗い展示室の中でさらに光る。展示ケース内床は、大きな杉。このような伝統的素材を新しく使用する審美眼で構成された建物である。設計は杉本博司と聞く。この空間印象がいかなるものか、金の茶室と合わせて判断をしかねる。
139 プレミア アーセナル×トットナム 
激しいプレミアらしい戦い。逆転でアーセナルの勝利。ブンデスとの違いがよく判る。スペースをつくりながら大きな展開が魅力的である。

12月1日(土)
138 ブンデス ドルトムント×フライブルク 
2-0でドルトが勝つ。かつての勢いがなくなっているが、要所で得点ができ、安定した勝ち方をする。移籍希望を表明した香川は今日もベンチ外。状況打開とはいかなかったようである。

11月30日(金)
ティム・インゴルドに続き、そこで取り上げられている「創造的進化」アンリ・ベルクソンを読むことにする。丸山洋志さんが以前、ナチュラルエリップスを「10+1」で、ベルクソンを引用して批評してくれた。ぼくが、3次元をしたかたちを2次元の連続上に捉えようとしたことに対する解説であった。それは、建築に時間的表象を与えるものであるというコメントであった。1章から目的論と機械論の違いから始まる。深夜「エド・ウッド」ティム・バートン監督を観る。ティム・バートンはぼくのお気に入りの監督である。この映画でエド・ウッドは、ティムと同様、欠陥があり、妄想っぽい感覚のある監督として描かれている。ちなみに、エド・ウッドは史上最低の映画監督として認知されている人である。この主人公に代表されるよう、この映画に、ストーリー展開のようなものはない。終わり方も尻切れトンボ的である。ティムの映画はいつもそうであるが、この映画はそれが際だっている。本当に貧弱な感じで、それによっていくつかの感動的なシーンを際立たせているともいえる。エドが女装趣味を告白し受け入れられるシーン。ルゴシがエドを押し切って渾身の台詞を吐くシーンなど。とはいっても、それは仕組まれたものではなく、ごっちゃごっちゃのおもちゃ箱からひとつのアイテムが出てきたような喜びがもたらされるものなのである。

11月29日(木)
「ライフ・オブ・ラインズ」ティム・インゴルド著を読み終える。興奮して読み終えた。ぼくらモノをつくる者にとっての立ち位置が示される本であった。それは、以下の文章によく表れている。「観察することは客観化することではない。人や物に注意を払うこと、それから学ぶということ、そして指針や実践において追従することなのである」p310。また別のところでは、「人間は自然をもたない。人間がもつものは、・・・歴史である」p308。一般的に日本人は、西洋人と異なり、モノあるいは自然と人をペアに考えるといわれている。そうしたことを前提にして、もう一度、人あるいは意識のモノに対する上位性を示す本であったと思う。それは、これまでの科学を否定するが、芸術の優位性を示すものでもない。それを、「中動態」として、ここでも提案されている。中動態とは、「エージェンシーをいわば前面に押し出し、行為者を行為から切り離す」p285ことである。建築において、このことは何かを考える。目に見えず、言葉にも表し得ないものを、いかに表象するかだ。その新しい試みとして、最近手のしたエマニュエル・リマの本があったことを思い出した。それに関して、ぼくが度々出すのは、自転車が乗れるようになることの例である。それは、「ティール組織」にでも扱われている例えだ。いくら操縦方法を計画し、慎重に道路状況を分析しても、自転車に乗ることはできない理由を探るときに説明する例である。ぼくらがこの状況で自転車に乗ることができないのは、情報にたいしてぼくらが不在状態で、道路状況などの情報と自転車に乗る情報とは別々に存在しているからだ。自転車に乗れるようになるには、少なくともこの受け身状態から抜け出し、情報をつなぎ合わさなければならない。そう、情報に受け身的であった立場から逆転し行動的になる必要がある。そうして、情報が繋がれる。これを本書から学んだ。つまり、建築にとっては、世界をいかに表象するかではなく、いかにして世界を「そこに存在する」ものにするかが大切なのである。この点において、難波さんの「ティール組織」評、『ニーチェの「方法は最後にくる」という箴言』は正しい。しかしもうひとつ踏み込めば、積極性のある人間の関与が鍵となっている。本書にはいくつも美しい図絵が紹介されている。「木の結び目」や「空気で満たされた大気」といった自然に関するものや、図17.1のようなダイアグラムである。その中で特に図29.2は興味深い。建築における、こうした表象を役に立てることが当座の目標であることを感じる。
137 CL ドルトムント×ブールジュ 
0-0のドロー。今日は堅い守りにはまり、次第に為す術をなくしてしまった。香川がいればと思うが、今日もベンチ外。昨日、香川が移籍を表明するロングインタビューがアップされていた。はっきりと、スペイン行きの希望を表明したのである。現況を打破するため、香川も一歩前に出たかたちである。これが、ファブレの采配にどう影響するか見物である。チームも研究されはじめ、選手の疲労も蓄積傾向にある。

11月28日(水)
「ライフ・オブ・ラインズ」を続ける。第3部である。「24行うこと、経験すること」が面白い。創造には2種類があるという。いわゆるモノをつくる創造(行うこと)と、「個人が行なう何かではなく、個人によって経験されるもの」(経験すること)である。これをホワイトヘッドは「合成」といい、ハンナ・アレントは、「さまざまな出来事に満ちている生」といっている。しかし、一般的にこの経験することとは、受動的なものとして考えられている。「つまり、行うことにおいて、事物や人間、地球に対して行われたことの結果である」。「金融企業や巨大科学、国家権力により相互的に強化されていくアジェンダによって駆動される世界では、変化のパラダイムは、おそらく思想史でそれに匹敵するものはないほどの覇権を握ってきた。したがって、パラダイムによって前提とされている経験することの意味を理解するのは決定的に重要となる。この意味で経験することは受動的である」。2部でもあったが、受動的である限り、人は世界に閉じ込められてしまう。そのため、それに意識的になる必要性をいう。このふたつ、すなわち行うことと経験することは、相補的である必要がある。それは経験することを、「むしろ、閾値を超えて物事を動かすこと、物事を準備すること、あるいは新しい生のための物事を用意すること」と考え直すことである。つまり、世界(コンテクスト)は人を成長させるもの、というような擬人観をもつのである。擬人については、マイケル・ルースの「ダーウィンとデザイン 進化に目的はあるのか?」でも登場した。擬人法を用いることで、一段上の視点からの機能的説明が可能となるのである。目的論とはこのことをいう。午後、大学院の一級申請の確認。2年ごとの更新が義務づけられ、今年は申請の必要のないことを確認する。

11月27日(火)
「ライフ・オブ・ラインズ」を続ける。第2部後半を読み進めるうちに、本書は、どうやら科学的なものと情動的なものの対立を超えようとしているわけでないことが判ってきた。ジェームズ・ギブソンのアフォーダンスも批判しているからである(それも随所で)。ギブソン的思考であると、人は絶えず受け身的立場に追いやられるというのである。ユクスキュルとの微妙な違いにも言及する。評価するのはゲーテ、メルロ=ポンティである。ギブソンには、環境から得られた部分的な情報を、記憶の中で全体の包括的な像へと組み立てる人の視点が欠けているという。つまり、モノがアフォードするのであって、表象された世界に人は閉じ込められているに過ぎないというのである。これを逆転させる表層方法を示すことが本書の目的である。

11月26日(月)
難波さんの日記に「ティール組織」に対する感想がアップされている。ティール組織の成立時代背景を踏まえた上で、〈コンテンツ〉より上位に〈方法論〉や〈組織論〉が展開されることに疑問を投げかけ、「〈方法〉や〈組織〉を〈コンテンツ〉から切り離して論じるべきではない」と指摘するものであった。このことは、翻訳版のタイトル(名前)から推察されたことだろうと思う。池辺さんの「デザインの鍵」に「名前のない空間へ」がある。これはつくる発信者側の立つべき視点を明確にしたもので、これに沿った意見であると想像できた。あるいは、四層構造に基づいた総合的ボトムアップをいっているのだろう。しかし「名前」は逆に、ユーザという受け取る側にとって、理解を容易にするものでもある。この「名前」の効用を利用しない手もないと思うのだが、いかがだろうか。つまりこうした「名前」の機能は、複雑で言い尽くせないことの説明を可能とするものなのである。これまで言い尽すことができてこなかったのは、物事を上下関係、因果関係で捉えてきたからである。それとは全く別の考え方が「ティール」には示されているような気がする。もっとも「名前」があまりにもシンボル化されることは危険なことではあるが、あえていうと「名前」を上位に位置付けることで、その下の因果・上下が絶えず交換可能なものとなれば、名前にしたがって作用の最小化ないし最大化をめざして事物は展開できるようになるだろう。「ティール」ではこのようなことをいっているように思えてならない。そしてこの点の新しさに注目をしたい。

11月25日(日)
今年の遠藤研のOB会。例年と同様、ル・コントワール・オクタシオンで行う。久しぶりに顔を合わせたOBもいて、皆の近況を聞く。今日来た人は皆元気で頼もしい。少しづつ学年を超えたネットワークもできつつあり、これが大きくなればよいと思う。創造的であることと、ネットワークが大きくなり閾値を超えることとは、同様のことである。ネットワークに意識的であることが創造の近道となる。「ライフ・オブ・ラインズ」を続ける。第1部までは、これまでのおさらい。第2部からが本書のテーマである。それは、気象学にあるという。「厳密に言えば科学的ではなく、純粋に美学の対象でもない気象学の指針となる関心事こそ、わたしがライン学を補完するのに必要としたものであったのだp156」。あるいは、「気象学は(中略)空気を媒体であろうとすることは容易なことだが、その空気は物理学や化学が分子構造によって規定するようなものでもないし、呼吸する人間やその他の存在がいなくとも気体の状態で完璧に存在することができるようなものでもないp157」。要するに本書で、ティム・インゴルドは、科学的なものと情動的なものの対立を超えようとしているのである。

11月24日(土)
135 プレミア ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオン×レスター 
岡崎が元気な姿で今季初先発。ワントップであった。これまでと同様、65分過ぎまで走り回る。途中からバーディが入ると、岡崎のパフォーマンスも明らかに上がる。不思議なものだ。ボールチェイスが激しくなり、幾度となく、相手DF陣に、ゴール寸前のところまでプレッシャーをかける。1-1のドロー。このところのレスターを追っていないので、今日の岡崎先発の意味するところを計り知れないが、健在であることは示せたと思う。
136 ドルトムント マインツ×ドルトムント 
インターナショナルウィークにおいて、代表に呼ばれていない香川は、ファブレ監督の下、十分な調整をしているはずだと推察されるのに、ベンチ外。ファブレ監督のスターティングメンバーへの信頼の厚さを感じる。今季出られないのは、怪我で出遅れたこともあるが、鼻から実力不足として、試されていないことによる。過去にもそうした烙印をおされてはきたが、少ないチャンスをものにしては、出場を勝ち取ってきた。なかなか今季はそれが叶わないのである。ドルトは、今日も好調。後半から一気にギアを上げ、苦しい状況でも勝ち続けた。ゲッツエもそれなりにいいパフォーマンスを示す。ドルトムントの速い展開で輝くことができれば、香川も一皮むけるだろうと思うのだが。

11月23日(金)
深夜BSで「マイノリティ レポート」スピルバーグ監督(2002)を観る。2054年には、未来予測可能な超能力者たちによって、犯罪は事前に食い止められる世界になっているという設定である。そうした超能力者は、社会の歪みがもたらした精神障害者(マイノリティ)である。そのシステムのバグ(マイノリティレポート)を廻るさまざまな人の対立を描く。システムに固執する者、それに盲目的な者、それと信念をもって抵抗する者(トム・クルーズ)である。アメリカ映画らしく最終的には、未来を変えることができ、あらゆることに人の道徳心が求められることになる。それまでストーリーを、トム・クルーズ演じる現場責任者(軍隊における中隊長)によって、豊富なエンターティメント性で満たす映画である。

11月22日(木)
「ライフ・オブ・ラインズ」ティム・インゴルド著を読みはじめる。「ラインズ」以降の著者の考えをまとめたエッセイのようにみえる。複雑な進行形を結果からでなく、進行的に表現する方法に、こうしたエッセイ的表現が相応しいと考えたのだと思う。どことなく、「デザインの鍵」に似たものを感じる。第1部は、「ラインとブロブ(小さな塊)」について、それが何かを示すものである。TASCHENのPhilip Jodidioから連絡が入り、彼に、2つの近作を紹介する。

11月21日(水)
「ビジュアル・コンプレキシティ 情報パターンのマッピング」マニュエル・リマ著 久保田晃弘監修を読み終える。監修者は、「スペキュラティブ・デザイン」も監修をしている。美しい図表のビジュアル本としても読めるが、図表の歴史や背景を追うのにも十分なものである。それは、ツリー構造からネットワーク構造への流れであり、最近のアート動向にまで話が及ぶ。その膨大な詳細資料である。大量のデータを分析した結果を理解するには、美的な新しい観点が必要とされるという訳である。それは、ルネサンスの時代から変わりはないという点で、充分にアートであるというのである。今月号の住宅特集で中村拓志さんのヴォールト連続住宅を発見する。2つのヴォールト屋根をまたぐ中央にひとまわり小さな部屋を配置している。こうすることで、内部空間と構造の一体性は崩れるが、ヴォールトが自律して見え、豊かな半外部空間が生まれる。目から鱗が落ちる思いがした。ゼミで来週発売される「ティール組織」の紹介。この本のもっている可能性を少し探ってみようと思う。

11月20日(火)
夕方、ふたつの田根剛展に行く。共にタイトルは「Archaeology of the Future」。オペラシティアートギャラリの方は、プロジェクトが厳選され、プロジェクト毎に大きな模型と動画がある。ギャラ間の方は、多少建築寄りで説明的であり、そのふたつに大差はない。田根さんには昨年、千葉工大にレクチャーをして頂いた。そのとき感じたことと同様、考古学のように敷地を分析し、考古学者とは異なり未来に対する方向性に意識的であることがわかる。建築家の行うことは、その位置づけを決断することにあるのだろう。試行錯誤のメイキング自体を重視しながら、プログラムの内部には入り込まずに、建築を外から規定していくのだ。その決断が建築家に委ねられた唯一の手段である。ここに日本的でない建築性を感じた。それで、アートのようにも見える。それはまた、ティム・インゴルドの著作「ラインズ」「メイキング」とぴったりと重なるものである。ギャラリを出てショップによると、展覧会のカタログの横にティム・インゴルドの著作があったのにはビックリした。理由を店員に聞くと、ショップオーナーの意向によるという。田根さんとレクチャーの後に、「ラインズ」を語ったことを思い出す。プロジェクトの中に、ブータンのものがあったのにもビックリした。思えば大磯の住宅も、等々力の住宅も、土壁の上に木造が乗っている。ブータンに引きつけられる理由がそこにあるのだろう。そのショップで、マニュエル・リマの本2冊も購入。12月7日〜16日まで青山スパイラルで、ミラノサローネで開催された「time is Time」の再展がある情報も得る。
134 代表 日本×キリギス 
少し物足りない格下相手に圧勝。協会のマッチメイキングに疑問を残すも、気持ちよく成長させるのもひとつの手だとも思う。この後に最近呼ばれていない、海外でプレーする選手との折り合いをどうつけるのだろうか楽しみではある。オリンピック世代も活躍している。

11月19日(月)
「ダーウィンとデザイン 進化に目的はあるのか?」マイケル・ルース著を読み終える。本書では、進化には「目的」が必要となることを、多面的に紹介している。それは、ふたつの理由による。ひとつ目は、従来の科学の持つ機械論的アプローチでは、あまりに複雑なこと、例えば眼の成り立ちなどを説明できないからである。そこに何らかの方向性を示すものの存在=目的が必要とされたのである(ペイリー)。ふたつ目は、そもそも原因-結果という時系列的思考が間違っているというものである。生物は、もっと複雑な因果律を抱える組織化されたものなのである。それを適切に説明できるのが、機能的な(根拠が科学的でない)選択の使用と目的論的な言い回しによってである。つまり、機能的+目的論的説明である。この思考転換=発明こそが重要であるあるというのが、本書の主旨である。シンボル的思考からアレゴリー的思考への転換といってよいのだろうか。あるいは13章(P275)では、「現実をありのままに伝えることと、現実を理解すること」の違いだとする。理解には、価値を伴うことが必要とされ、科学の目的が後者へ変わってきていることを示している。

11月18日(日)
研究室の学生たちと鈴木さんとでナチュラルアングルへ。改築案の打ち合わせ。いくつかの詳細をお聞きする。今後は、工務店とのスケジュール合わせ結果を待ってからとする。3月か4月になるだろうか?その後、近くの1973年の篠原一男の成城の家、吉阪隆正の樋口邸、磯崎新の横尾忠則アトリエを外から観て回る。斜面地を保存した公園を囲むように結果的になっているのが面白い。吉田五十八の猪俣邸(1967)へ。小さなスケールと最小限に留めようとするディテールが空間を気持ちよくする。玄関が能舞台のようであり、客間の空調システムなど感心させられる。その後、学生と別れて事務所に戻る。龍生派からの誘いで、下目黒の雅叙園へ。百段階段の各和室に、さまざまな流派のいけばなが展示される。百段階段では、こうした展示が度々企画されているらしい。現在雅叙園は、有名なブライダル会社の保有となり、外部を持たずに閉じられた世界で成立させる一種のディズニーランド的要素を多く抱える建物になった。おそらくかつては庭園に囲まれていたところに、今は高層オフィス2つが建設されている。とはいえ、ここには細長い敷地に増築を重ねてきた町屋的な雰囲気がある。町屋建築の巨大版であると思う。「千利休 本覚坊遺文」井上靖原作 熊井啓監督を観る。先週観た利休2作とは異なり、茶の美を生と死の精神性に結び付ける近代抽象的思考を追究した映画である。利休の死を究極の美として扱う。勅使河原監督の「利休」と同時期に公開されたと記憶する。その対比が面白い。こちらで扱われている建物も多くが本物である。タイトルには龍安寺の石庭が使用され、妙心寺の塔頭の境内が最初のシーンである。東陽坊(薄茶)がいたとされる真如堂へのアプローチシーンの後に、現在は建仁寺にある茶室東陽坊内部があり、それらしい。利休から送られたとされる黒楽茶碗「東陽坊」もそこで扱われていた。織田有楽齋の如庵も登場。これは今は犬山にあるが、東陽坊と反対に建仁寺正伝院にあった。大徳寺もさることながら、同じ臨済宗の建仁寺が元々の中心であったことがわかる。俵屋宗達の風神雷神図などもここ出である。クライマックスでは、妙喜庵待庵も登場。それらしいが、本物かどうか疑問でもある。そこに利休、山上宗二、古田織部が茶会をもち、戦国茶の精神性を確認しあったことになっている。本作品のテーマがここで生まれた。大徳寺聚光院が、古田織部の居所となっていて、その撮影は隣の大仙院か。織部好みの燕庵らしきものも登場し、妙心寺天球院逢案のようである。

11月17日(土)
「ダーウィンとデザイン 進化に目的はあるのか?」を続ける。本書は、ダーウィン進化論の是非もさることながら、それによって生じた思想の変化を記述している。ダーウィンは、「適応」という概念によって、あくまでも物理科学の概念と原理から生物科学の概念と原理を演繹しようとした。それは、原因-結果という機能的説明を使用するものである。しかしこの機能的説明は、それまでの存在論的な立場ではあり得なかったことであった(おそらく今日の科学の世界でも)。その状況は以下の記述でよく判る。「科学は客観的であり価値は主観的であるから、科学(つまりは、優れた科学)は一切の価値を有さない。そう論理経験主義者たちは述べていた。それゆえ、進化生物学の完全性と進化を保つ目的論的思考の分析はどれも、あらゆる価値の話を排除し、回避するものでなければならない」。ところが進化論が説得力を獲得するにしたがい、機能性に基づく思考方法が、少なくとも生物界で(建築界でも)認められるようになったのである。しかし悲しいかなこうした視点に立っても、機能的説明の限界が多くみられるのも現実である。例えば眼などの生成についてである。眼の構造はあまりにも複雑であった。本書の目的は、そうしたときに生まれた世間一般的な思考方法の変換を示すことにある。トーマス・クーンの「科学革命に構造」のいっていることを生物界でまさに適用しようとしているのだ。本書がいうには、そのとき再び、神のようなものの存在が必要とされたという。つまり、進化によって、再び目標指向的システムが要請されたというのだ。しかし今度は神でなく、デザインというものによって。そうして、「デザインの比喩が、人工物としての生物の比喩とともに、ダーウィン的進化生物学の核心になったP253」のである。カントの次の言葉が、この解釈の基本である。「ある事物が自然的目的として存在するのは、それが(2重の意味ではあるが)それ自体で原因であると同時に結果であるときである」。よくいう自転車乗りを説明するのに適する説明である。つまり、「Xはあらゆる場合に常にZを行わなければならないわけではないーXはごく稀にしかZをおこなわないかもしれないーが、XがZを行うときがなければならず、そのことが重要である」。このような思考展開が、ダーウィンによって世界にもたらされたというのである。

11月16日(金)
時間の合間を縫って、上野で開催されている「デュシャン展」と「快慶・定慶展」に行く。デュシャンを表現するキーワードとして「レディメイド」、「精密工学」、「アンフラマンス」が挙げられる。そのひとつひとつを確認する。これら作品は、ほぼフィラデルフィア美術館に保存され、放縦とされるデュシャンでさえ芸術家としての地位に拘っていたことを知る。レプリカの「泉」「自転車の車輪」「大ガラス」にオーラは感じられず。やはり当時のコンテクストと一体となる必要がある。しかし晩年のエロティスムなオブジェ、ビデオであるが「のぞき窓」には迫力があった。アンフラマンス(極薄)に通じるが、デュシャンは絶対的他者を設定し、それに肉薄し、その不可能性を表現しようとしている。それが凹/凸や鋳型、見る/見られる、残骸として作品化されている。後半のデュシャンと関連させた日本美術展も面白い。利休の竹一重切花入や黒楽茶碗とデュシャンは一緒というのだ。雪舟や俵屋宗達と狩野派、光悦までいくと、強引すぎる気もするが、光悦の硯箱など見入ってしまった。それと対照的なのは、隣で開催されている快慶・定慶の彫刻展である。密度の濃い職人技である。六観音像と十大弟子立像は全て大報恩寺の所蔵仏像である。中でも快慶の神通と知恵の目犍連と舎利佛は精巧なミイラのようで恐ろしい。国宝の千本釈迦堂に安置されていたと言われ、このお堂は内々陣をもつ3重構造である。そこに置かれた状態で観たいと思った。奈良の薬師寺に格式持たせたようになるのだろうか。「ダーウィンとデザイン 進化に目的はあるのか?」を続ける。P42にあるウィリアム・ベイリーの言葉が印象的。「人間の体だと、偶然、すなわちデザインを欠く原因が働いて腫れ物やイボや痣、ニキビができるかもしれないが、眼が出来上がることは決してないだろう」。要するに、目的論的思考は否定しきれないということである。「危険な情事」エイドリアン・ライン監督をBSで観る。ヒューマンドラマと思いきや、ホラーサスペンス映画であった。
133 代表 日本×ベネズエラ 
両ウイングが押さえ込まれ、前回のようなパタンにはならず。疲れもあって、速い攻撃ができなかった。代わった選手もいまいちで終盤に追いつかれドロー。日本のこれまでの勢いが止まる。

11月15日(木)
東北大学の本江正茂さんを迎えてのレクチャーシリーズ。BYOP(Bring Your Owen Place)をテーマに働く場について話してくれた。オフィスの歴史がまず興味深い。産業革命時代、オフィスは、工場に隣接する小さな小屋であったという。そこだけが、金勘定をはじめとするディスク業務が行われる場所であった。美術(絵画)の歴史と同じく、それは特別な場所性を必要としないので、人の移動効率を求めて、オフィスだけが都市(美術館)に集中することになったという。それが貸しオフィスビルのはじまりである。自社オフィスでなく賃貸システムとなったのは、経営者が自己資本を大きくすることを嫌ったためである。自己資本率によって、会社の経営状態を判断されるからである。そうした貸しオフィスは、時間をかけて、仕切られた空間と滑らかな空間との間を揺れながら、今日あるようなオープンオフィスあるいはABW(Actibity Based Working)になっていった。今回のタイトルBYOP(Bring Your Owen Place)は、それをさらに展開させ、自分たちで場を用意するというものである。オフィスの形もさることながら、そこで働く人間像も変わっていく。機械の部品のような立場から、人間性を重視した自主性が重んじられ、それは同時に、創造性を求めるようになっている。それは会社が、協働性からもたらされる付加価値に、経済的優位性を見出していることでもある。聞こえはよいが実は、ティールの翻訳でも然りであったが、ぼくらは経済の渦から身を離すことは難しい現れでもある。赤坂のヤフーが管理するLodge は好例である。ここまでが一般的な働く場の話。ところが、その後に紹介してくれた本江さんの働く場をつくるワークショップは、それを払拭できるほど、生き生きとしたものであった。なぜそのように感じられたかをはかり知ることは難しいが、抽象的ではなく、実際にモノをつくることが生む何かであろうと思う。モノをつくることで、これまで培われ貯められてきた人の習慣や歴史といったものの総体に触れることができるからだろうと思う。これが、経済性や合理性を超えたものだと思いたい。

11月14日(水)
「The Maiking of a Building A Pragmatist Approach to Architecture」 Albena Yaneva(ヤネヴァ)著を再読。ゼミにて触発され、改めて確認をする。この本は、レム・コールハースのホイットニー美術館増築プロジェクト(最終的に頓挫)のアーカイブである。それによると、美術館としての機能は、建物ボリュームがある程度を決めた後に検討されている。つまりフォルマリズムな建築である。2000年はじめのこと。この時期の時代性を、ぼくの行いも含めて感じられるプロジェクトである。解決策はこうだ。ブロイヤーの美術館と既存の歴史的建物を保存し、それでも残存した隙間部分からブロイヤーの上に覆い被さるボリュームを設定し、それを出発点として、プログラムが検討されるというものだ。9.11によって、その案は頓挫する。しかし、その後の妥協案までアーカイブされている。これを読む限り、コンテクストは方便でしかないことを感じさせてくれる。建築(家)に内部化され、主体を活気つける最大のモチベーションなのである。それはまた、偏執狂的にプログラムを運用することで、通常考えられるプログラムによる解決方法を批判しているかのようにみえる。おそらく、完成したら使いづらいだろう。しかし、それは真っ当な広い深い分析を経て得られたものなのである。なまじの倫理感などない。使いやすいことなどは、実はそうしたものに多くを負っていることを公言しているかのようである。プログラム主義者に対して、実はプログラム以外の要因を無意識に拾っていることを批判しているのである。ヤネヴァは別の評論で、エティエンヌ=ジュール・マレーのカモメのコマ撮りを立体化したドローイングを評価している。そこからは、建築は不動であるものの、建築には様々なモノや事がダイナミックに収納されている凄さを気づかせてくれる。しかし、そのことをリプレゼンテーションする術をぼくらは持ち合わせていない。この本は、その不可能性を露わそうとするものだ。加えて、このプロジェクトで試みていたレムの批判的手法もフォーム=アーカイブを目指したものである、こう思えてならなくなった。

11月13日(火)
「ダーウィンとデザイン 進化に目的はあるのか?」マイケル・ルース著を再び読みはじめる。生物界におけるデザイン的思考を歴史的に紹介する。つまり、物理化学の世界では問題にされていないが、神的存在=目的論が未だに生物の世界では語られる。その謎を辿る本である。

11月12日(月)
2年生の第1課題講評会。これまでにない密度ある作品が垣間見ることができた。総合的に考える視点がいい方向に向かっている。錦織×フェデラーの録画を早朝観る。フェデラーは勝つために、一球一球に一喜一憂することなく淡々とリズムを保つプレースタイルを確立してきたことが判った。サーブは狙うのでなく、リズムをもって打ち続けるだけのことなのだ。よいリズムを続けることで、トータル的に得点できるという解釈なのだろう。錦織の奇跡的なリターンを繰り出すことによって、フェデラーのリズムが狂い、久しぶりにフェデラーに勝つ。

11月11日(日)
車で洛北へ移動し、蓮華寺へ。以前、瑠璃光院に行ったときに時間がなく寄れなかった。小さな寺で回遊式池に映りこむ紅葉がよい。池を横目に本堂をまわる。その後、八窓軒を観るため曼殊院門跡へ行く。3度目である。新居さんの展覧会内容をもう一度確かめたいと思った。生憎、アプローチ迄となる。ふたつの不動像と掛け軸を観入る。圓光寺へ。近代化された寺で少しがっかりする。秋の永観堂というので、永観堂へ向かうも駐車場がなく断念。ロームシアーター京都へ。前川國男氏の京都会館の生まれ変わりである。会議場が空間的に豊かなレストランになり、1階の事務周りが蔦谷書店+カフェになっていた。第1劇場アプローチバルコニーが室内化され1階が比較的自由往き来できる空間になっている。かたちや利用方法が保存され、オリジナルの意味が尊重されたよい改修であったと思う。谷口吉生設計の京都国立博物館へ。宿泊先の窓からよく見えていた建物であった。きっちりとした建物である。夕方帰京。「利休をたずねよ」田中光敏監督を帰路観る。一昨日観た「利休」と異なり、ラブドラマ仕立ての映画であった。利休の茶と朝鮮との関係は以前から類似性が指摘されていた。その利休の志す美は、昔の恋人に由来するものであり、その彼女が高麗から売られてきた偉人の娘という設定であった。牢屋の中のその高麗女の輝きが、暗闇の茶室における美の原点であるというのだ。利休はあくまでも孤高の人であり、迷いがない。秀吉、山上宗二は、徹底的に酷い者として扱われているのも特徴である。利休の妻宗恩が、利休形見の高麗人の香壺を壊そうとし、死去した利休に訴えた言葉がタイトルであった。
132 ブンデス ドルトムント×バイエルン 
非常に攻守の切り替えの速い展開で、エキサイティングなゲームであった。後半ドルトは、ロイスが幾度もチャンスを逃し、これまでかと思っていたのだが、ロイスのスーパーゴールで追いつくと、逆転に成功した。勝点差を広げる。これでチームも再び上昇気味も、香川はベンチ外。彼にとって厳しい状況は続く。

11月10日(土)
朝、散歩がてらに西本願寺へ。残念ながら、飛雲閣が修繕のためすっぽり工事囲いがされている。本堂と薬師堂を観て回る。その後、車で高山寺へ。紅葉のため混んでいる。台風の被害を目の当たりにする。大きな杉樹が倒木し、山頂の金堂、開山堂まで行くことができなかった。その代わり茶室遣香庵を観る。近代草庵茶室でシンプルであった。小さな前庭は小川治兵衞と聞く。わかりやすい。釣鐘堂も面白い。笠屋根の中央に鐘が吊られていた。その後、西明寺へ。静かな小さな寺である。本殿東の側廊部分と客殿のつながり部分が落ち着いた。雁行上に庭を囲む縁側である。神護寺へ。長い長い階段であった。瓦投げまでいくきになれず。本堂で引き返す。途中、紅葉の綺麗な茶屋でうどんを食べて、山を下りる。琳派の村へ。光悦寺は残念ながら、茶会があり、アプローチまでしか行けず。紅葉の露地である。源光庵へ。正円と正方形の禅窓で有名である。それよりも、それがある本堂の幾何学の正確さにビックリした。本尊の横にあるこの禅窓のある部分は、白漆喰の垂壁に囲まれが、空間性を強くしていた。もちろん中央部分の天井は高い。均質な柱空間の中にムラがあったのである。収穫であった。吉野太夫ゆかりの常照寺には寄らずに帰る。光悦との交流があったことが計り知ることができた。大徳寺へ寄り、ホテルへ。高瀬川沿いの町屋風ホテルである。ただし、リノベーションではなく、あくまでも町屋風であった。少し歩いて町屋のイタリアンで夕食。アプローチを敷地奥まで引っ張り、中央に厨房がある配置である。そしてトイレが中庭越しにあった。無口でひたすら料理をする職人仇のシェフで、美味しかった。NHKで伊東豊雄の特集、続けてユージン・スミスの特集を続けて観る。伊東豊雄の最近の作品の見解を、写真家小松義夫が対談によって明らかにする。皆が生き生きする場の創造がテーマであり、それは日常の中で垣間見ることができるものであるという。これをいかに専門家がフォローできるかというのが、伊東のテーマであった。ユージン・スミスは、写真家として、水俣病患者に迫った。これは昨年の写真美術館で生を観た。そして驚いた記憶がある。テーマは、日常ではあり得ない水俣病患者にいかに迫ることができるかである。その溝がつまらないからこそ、ユージン・スミスの気迫が感じられる作品であったと思う。当たり前なことを作品にすることの難しさを感じる。作品には、拒否しようとも批判性が必要とされてしまう。

11月9日(金)
「利休」勅使原原宏監督を観る。利休を廻る戦国史である。茶がこのとき、政治的な会談の切っ掛けをつくっていた。そうしたなかで、善人利休の心の乱れを表現する。一般的に、利休は美に徹していたと言われるが、実は政治に翻弄されていたというのである。ラストの待庵での秀吉との問答は迫真があり、精神性を伴う利休美が完成する。ストーリーを抜きにして、この映画では数々の文化財を観ることができる。織部好みの黒茶碗「わらや」や長谷川等伯のふすま絵、掛け軸などは本物を使用しているようである。長次郎「「大黒」、「無一文」、「待庵」は違うような感じがするのだが。夕方、京都に行く新幹線の中で観る。

11月8日(木)
131 CL ユベントス×マンチェスター・ユナイテッド 
ホームユベントスが、完全にゲームをコントロールするも、追加点を逸しているうちに、2本のセットプレーで、85分過ぎにユナイテッドにやられる。ここに大型FWのフェライニの途中投入が絡んでいた。日本代表の試合の流れを思い出す。試合巧者のイタリアユベントスでさえもであった。ユナイテッドは勝ったとはいえ、退屈なゲーム展開である。数年前のモウリーニョの負けないサッカー観から、戦術観が確実に変化しつつあり、そのために、退屈に思えてしまうのである。

11月7日(水)
3年生後期第1課題の講評会。総合的な解決方法を試みた作品が選ばれる。その中で、新しい環境装置が前面にかたちになった作品が一番になった。新しい傾向である。
130 CL アトレチコ×ドルトムント 
前回とは打って変わり、ドルトは何もできなくなった。理由は難しいが、速い両サイドの動きが封じられ、中央が固められてしまった。途中から、ゲッツエを投入するも打開策を見出すことができず、0-2の完敗。サッカーの奥行きの深さを感じた。シメオメはしてやったり、と言わんばかりだ。香川は、2部での試合に出場したという。コンディションを整えるためである。これを前向きの期待と感じ、訪れるチャンスで下降気味のチームの活力となって欲しい。

11月5日(月)
「ティール」本の最終校正の激しいやり取り。深夜まで続き、方向性を決め、明日の作業とする。頭を切り換えるために、見残していたプレミアを深夜観る。
129 プレミア アーセナル×リヴァプール 
1-1-のドロー。実に見応えのあるゲームであった。両チーム共に機敏である。ドルトムントもそうであるが、W杯を境に主流になりつつある。フランス代表に見られるように、両サイドが早く、中盤でボールをポゼッションすることはない。ボールを叩いて、スペースへの展開を行うことが最大の役割である。日本代表もこのパタンを継承しつつあるのを感じる。フランス人監督デシャン、アーセナルウメリ、ドルトファブルはこれに成功し、ハリルボシッチは失敗した。ところが、ハリルはナントで成功をおさめているようである。

11月4日(日)
車で遠出する。蔵をリノベした蕎麦屋へ。外装の外に新しいレイヤーをひとつつくり、そこに新しいアプローチ機能、椅子席などをつくる。その構造が骨太であるのが気持ちよい。その後、紅葉を観て回る。渋滞が続くので、街中のレストランへ。料理はよくも、昼と比べると建物がよくない。木造のプレハブにハリボテのインテリアであり、この差は大きい。ジェコビッチが決勝で負ける。相手は、22歳のカチャノフ。大型な選手であった。ジェコの連勝は22で止まる。先々週カチャノフは優勝を果たし、先週は、錦織によって押さえられていた。この試合は、錦織にとってベストゲームと言われている。

11月3日(土)
早朝の試合で、錦織がフェデラーに負ける。ブレークを奪うことができずに、各セットで1ゲームをブレークされた。なかなかこの壁を越えられない。TVで上野の特集を観る。フェルメール展、デュシャン展、快慶・定慶展があることを知る。ちょっと時間をつくろう。錦織を破ったフェデラーがジェコビッチと死闘を繰り広げ、負ける。この差は僅差である。
128 ブンデス ヴォルフスブルク×ドルトムント 
香川ベンチ外。最近ポジションを掴めつつあるゲッツエがコンディション不足のためよいチャンスであったのだが、違う攻撃の選手が優先される。前回のアトレチコを境に、ドルトムントの調子も下降気味。奇跡的なプレーが起こらなくなってきた。主力の疲れが溜まってきたためだろうかと思う。その意味、香川はチャンスである。結果は、なんとか1-0で勝利。バイエルンが引き分け、勝ち点を広げる。

11月2日(金)
中埜さんと打ち合わせ。最終的な方針を決める。深夜、「ワン・フローム・ザ・ハート」コッポラ監督を観る。「地獄の黙示録」と平行して製作されたという。全てがスタジオ撮影で、舞台のような仕上りの映画である。興行的に成功しなかったこともうなずける。中年男女の恋愛物語であるので、勢いがない。その中で、よいアクセントとなっているのがナターシャ・キンスキーである。その後のヴェンダースの「パリ・テキサス」で魅せた美しさを予感させるほど、際立った尖った存在であった。

11月1日(木)
卒業設計の中間発表。かたちにまで提案を高めてくる案が、総じて少なかった。学生は、この力を侮っているようだ。考えたこととかたちは決してシームレスであることはない。かたちという結果から、考えていたことが何かを、時間を遡って知ることができる。逆に線としてつながっていくのだ。この感覚をぼくらはおぼろげには知っているのだが、それを使いこなすこと、これはなかなかできるものではない。ここに、素晴らしい才能が隠されている。

10月31日(水)
午前中の会議で、今日のエネルギーを使い果たす。ティールの本にもあるのだが、こうした会議に終始することに未来はないことを感じる。もっと前向きな行動のためとしたいと思う。

10月30日(火)
卒業論文の中間発表。正確さが要求されるので、冒険が出来ずに、当たり前のような結論に陥ってしまっていることを散見する。卒業設計において、柱を描かかせる等、とにかく最低限の図面としての体裁を整えさせようとするが、それと同じことなのだろうか。上から制度で覆い隠すことはできるだけ行いたくないものであると、自分を戒める。

10月29日(月)
大迫のゴールと、久保のアシストを、ダイジェストで確かめる。海外で活躍する日本人選手がそろそろ変わってきた雰囲気がある。彼らが、思い白い戦術を可能とするクラブに行くというのだが。

10月28日(日)
1日中、校正に時間をかける。錦織の決勝の放送に気づくも、山場なく負けてしまった。
127 スペインリーガ バルセロナ×レアル・マドリード 
サイドから徹底的に攻めるバルサが前半でゲームを決める。パスなどの確実性があるも、昨日のドルトムントの方が、スピードがあった。いまいちの盛り上がりである。

10月27日(土)
126 ブンデス ドルトムント×ヘルタ・ベルリン 
圧勝となるはずの内容が、今日は引き分けに終わってしまう。決定力を発揮すりことできなかった。中2日という疲れのためだろう。時折見せる速攻でのフィニッシュで、ミスが多かった。これで連勝が途絶える。香川はベンチ外。

10月26日(金)
深夜、はじめて「もののけ姫」を観る。刀剣美術館へ行き、たたら製法を知ってから、この映画でも舞台として扱われていることを知った。テーマは、様々なパラダイム内部葛藤と外部への闘争である。単純化された自然対人でなく、もちろん人対人もあるし、生きもの対自然もある。そしてその上に存在するのが、生命や環境を司る神のようなものである。その下であらゆるパラダイムが右往左往している。あるもの、例えば愛とかが特化している訳でない。この神のような存在の描き方に苦労しただろうと思う。この映画で神は、あるときは動物、最後には黒く強大な人間のかたちをしたものとして描かれているが、少し具体化しすぎたのでないかと思う。この演出にまだ残された余地があるような気がする。

10月25日(木)
午前は、新橋に行き、午後は会議。夜は、中埜さんとのミーティングをもつ。精神論としてではなく、ツリー構造をセミラティス構造に変えていくことに、ぼくらの働きが必要となると思う。ネットワークグラフを立体的にすることで、このことが見えてきた。この考えに気づけたことに今回の翻訳に意味があった。これを上手く図示化したいのだがと思う。

10月24日(水)
125 CL ドルトムント×アトレチコ・マドリード 
ドルトムントがアトレチコを圧勝した。4-0である。シメオネにとって最悪の試合となったという。3点は、終了間際の点を獲りに来たアトレチコの裏を利用したことにもよるが、アトレチコを叩きのめしたかたちである。今日は絶好調18歳のサンチョを休ませ、左サイドのハキミの攻撃がとくによかった。そこが起点となる。しかし、そのサイドを徹底的に狙われていたことも事実で、バーによって助けられるなど運もあった。もし得点になっていたら、ゲーム結果も変わっていたに違いない。それにしても、ドルトの力強い速攻は目を見張るものがある。これに香川が加わることができれば、香川にとっても成長となる。香川がこれまでできなかったスタイルである。

10月23日(火)
124 CL マンチェスター・ユナイテッド×ユベントス 
アウエーのユベントスが前半で得点すると、そのまま逃げ切る。なんと固い守備だろうと思う。

10月21日(日)
奥田研究室のOB会に出席。出席するメンバーも固定されてきたようだ。先生もお元気である。皆との情報を交換し、夕方事務所に戻る。雑務が多く、少し混乱。

10月20日(土)
1日中、翻訳に集中。全ての作業を終える。
122 プレミア ニューカッスル×ブライトン 
武藤先発。特に見せ場なし。相手DFラインで、ボールを待つのであるが、動きが単調で、配球がない。前戦に鮮やかな得点をしたとはいえ、このままでは苦しい状況が続く。サイドに流れるなどの動きがいるのでないか?
123 ブンデス シュツットガルト×ドルトムント 
ドルトムント躍動。チームは攻撃においてピークである。中盤ロイスが中盤底まで下がり、両サイドが攻めあがる。若い両サイドは、空いたスペースを自由に使っていた。大きなダイレクトパスで、DFをボールをもっている選手に集中させない。4-0の圧勝。これでCLで。アトレチコをホームに迎える。香川はベンチ外。3番手からの逆襲に期待する。

10月19日(金)
夕方、中埜さんと打ち合わせ。だんだん考えが明確になってくる。全体性について表現することは、難しく、少し蔑ろにしていたのであるが、このところ皆もその存在を無視できなくなっている。それについて、書く必要があるということである。その前に、頭を打った妻が頭痛いというので、病院の検査に付き合う。深夜 BSで「フェリスはある朝突然に」ジョン・ヒューズ監督を観る。ここからパロディが生まれるほどの影響力が何かを知りたいと思った。ある日の半日を描いた青春ドラマである。シカゴ・カブスの本拠地やシカゴ美術館など、いろいろな観光名所が紹介される。ロートレックやゴッホが紹介される中、スーラがキーとされる。スーラのドットが若者にがつんとくるのである。点描によって、色が濁ることなく、発色のある絵を完成させたものだ。誰もが不幸になることなく、かつエイリアンが現れることもないのだが、痛快さを感じさせてくれた。

10月18日(木)
塚本由晴さんを迎えてのレクチャーシリーズ。タイトルは、「資源的人の建築」。塚本さんが、3.11以降の仕事をまとめて説明してくれた。ぼくなりに解釈すると、これまで培われていたネットワークの見える化である。人のネットワークに置き換えることでそれを可能にしようとしている。政府は、数の復興を行ってきたのだが、実はネットワークの復興こそが大事であるという。人も建築も様々なネットワークの中に置かれている。現代は、それをモノやお金のネットワークに置き換えてきたが、農村部や地方は、長い間培ってきたそれこそが財産で、幸福の源であるというのだ。前回の石川さんのレクチャーでもあったように、現代版ブリコラージュが注目されているようだ。

10月16日(火)
121 代表 日本×パラグアイ 
前線の4人が躍動し、前戦とは打って変わってゲームが盛り上がる。彼らは海外のクラブで活躍している人たちである。ボールを受けると、必ず相手DFにたいして、仕掛ける動きをし、危険な存在であった。追いすがるパラグアイを、守ることなく、攻めきった。とはいえ、守り勝つという文化を日本にも根付かせる必要があるのではないか?

10月14日(日)
天気が予想より早く回復し、思い切って遠出することにする。これまで知らなかった道を通って八ヶ岳をまわり、食事をして夜遅くに帰宅。「ダーウィンとデザイン 進化に目的はあるのか?」マイケル・ルース著を読みはじめる。

10月13日(土)
1日中、ダイアグラムの作成。ティール本書におけるブレークスルーの位置づけをはっきりさせる。制作から生成への意志の必要性を再確認。深夜NHKでモネの生涯を追う特集を観る。モネだけが、印象派の巨匠の中で生前に評価されていた。オランジュリー美術館にある睡蓮の大作は、死後まで発表を控えていたのであるが、80歳半ばまで現役であった。晩年は白内障を患い視力もなかったという。ドキュメンタリーによると、妻の死後、人物画を描かずに、風景に向かい、特に光りに対する執着が色濃くなったという。ルーアン大聖堂の連作などは、2〜3ヶ月の旅の間に制作したものだそうだ。その間の後期は、ジヴェルニーに居を構えていた。睡蓮の初期バージョンは素晴らしい。池に映り込む風景が、重力をなくし、軽さが幻想的である。この夏に、横浜美術館で、モネの回顧展が開催され、モネの作品と同時に日本の現代作家の影響が展示されていた。同じような企画は、バーゼルのバイエラー美術館でも過去に行われていた。そこでは、リヒテンシュタイン、マーク・ロスコ、ジャクソンポロックなどのオマージュが出展されていた。モネの光りや構成を抽象化した作品である。現代絵画も(建築も)、巨匠たちが残した手法の抽象化しか道が残されていなかったことがわかる。そこに驚異を感じると同時に、先細りの刹那さも感じる。事実、マーク・ロスコは自殺に追いやられた。しかし、モネは、多様な自然を表現仕切れない自分の未熟さを糧にし、アーティストのポテンシャルを無限に獲得できていたことになる。主題を外部に置くか、内部に置くか、その差を感じた特集であった。ちなみにモネは花を育てることも好み、ジヴェルニーの庭園は、植物園のようであったという。

10月12日(金)
121 代表 日本×パナマ 
3-0で勝つも、いまいちの盛り上がりである。スター選手の不在もあるが、これだけ日本でも、世界中のサッカーが観られるようになると、チームコンセプトのインパクトが重要になってくる。W杯というような当座の目標がない場合、ファンを惹き付けるには尚更必要となる。あくまでも、エンターテーメントであるのだから。森安監督の、インパクトなしのこの段階での選手模索が、ゲームを面白なくしている。途中から、話題性の勝る錦織戦へ視聴を変えてしまった。
上海マスターズのセンターコートで錦織×フェデラー。屋根が放映されないのは残念。1.5万の一体感が感じられないのはいまいちかと思う。円形を型どった上の部分がよく見えなかった。途中から、錦織が躍動し感触を掴んだに違いない。それでも、フェデラーに踏ん張られた。深夜、「アメリカの友人」ヴェンダース監督を観る。彼のハリウッド前の作品と記憶する。舞台は、ハンブルク、パリ、ニューヨーク、ミュンヘンと各地に飛ぶ。サスペンス映画でストーリーにも惹き付けられるが、映像密度に圧倒される。それは、出演者の背景となる都市風景の選択にも表れている。何となくというぼんやりした印象的なものでなく、コンセプトがはっきりしている。パリの背景に、ポール・アンドリューの空港もさることながら、スーロネンのフゥトロハウスが小さくあったのにビックリした。それに色。死んでしまった街に色が動きを与える。開発前のハンブルクには哀愁があった。

10月11日(木)
校正しながら、あとがきについて考える。今までは、組織図を断面的に見ることに慣れていた。そうすると実は、上と下のつながりが見えづらいことに気づく。しかし、自然のヒエラルキー構造があるとしたら、その全貌を見るためには、中間の存在が重要となる。中間の位置で流れを良くし、上下を繋げようとする考えである。ネットワークグラフで中央部分が見えなくなり、黒幕が存在することと同じである。上と下の距離が縮まり、タテ組織から水平組織へということだろうと思う。NHKで特集「マネーワールド お金が消える」を観る。当然のことながら、お金は流れる(消費される)ことで価値が生まれる。留まっていてはただの紙切れだ。日本に限らず世界中で、政府の信用不安から、こうした現象が起きている。そこで、様々な(消費誘導)方法を資本経済は考えているというのが、本特集のひとつめのテーマである。電子マネー取引がそれである。より効率よく、お金の使用感を低くするためのもので、資本経済のさらなる加速を狙ったものである。仮想通貨もそれである。ただし、ここに番組のふたつめのテーマがある。それは資本に対する信用というものである。前述したように、紙幣を発行する国の信用、つまりこれは金本位制にもとづくものであるが、この信用は薄れつつある。仮想通貨は、現在投資目的のためのものであるが、本来は、全体量が数学で決定され、そのもとに発行が細かく分散され、場所に囚われずに皆にオープンになっている、しかも使用履歴も保存されるところにある。信用が一部の特権化された人のもとで行われる保証によってなされるのではなく、IT技術によって、参加者全員の管理になるというのである。同様に権利の分散化ということでは、時間通貨というものもある。ひとりひとりのもっている実時間を取引するものだ。このように現在、お金の信用が、金、国家、テクノロジー、時間と様々になってきている。このことを示す特集であった。

10月10日(水)
授業進行について担当間でメールでのやり取り。建築が完成するまでには多くの専門分野があり、そこからのアドバイスで、アイデアに厚みが増すことを示す時間にしてみたい。そのために、今回の発表授業では、選ばれた発表作品をネタにして、他分野の先生が何に注目しているかを聞くことを中心にして、議論を進めることを提案する。ぼくはといえば、そうしたことを聞き出す黒子役に徹する。可能なら、発表できない学生を考慮して、できるだけ個別解の講評にとどまらず、彼らが問題意識を共有できるように話を拡げることもしよう。これは、ラルーの本に書かれていることでもある。ちょうどそこの部分に引っ掛かり、訳し直していたところであった。それを実行することにする。

10月8日(月)
深夜、「ニュー・シネマ・パラダイス」トルナトーレ監督を観る。この歳になるまで、真剣に観る気持ちにはなれなかった。中年男性との若者の成長物語である。中年男性は、様々な事情から、幼いときから映写室を離れることができなかった。しかしそこは、安住を許す程の宝の詰まったパラダイスであり、誰にも触れさせたくないものであった(作中に登場する映画の名シーンは多数。あまりにも古く、ほとんどを残念ながら知らない)。そこへ、一人の少年が強い関心を示し、彼と共有することになる。しかし、少年には自分と同じ境遇に満足をしてもらいたくなかったのだ。少年の失恋を機会に、彼を都会に送る。一方、少年は、有名な映画監督となり、30年間、故郷に戻ることはなかった。その代償として、真剣に人を愛することができない状況が続く。彼は、故郷に戻ることが怖かったという。頭の中にあるパラダイスがなくなってしまうこと、映画監督として、変わってしまう故郷に何もできない現実を受け入れることができなかったためだ。ところが恩師の死によって、現実と直面する。死は、彼に気づきを与えもした。モノはなくなれど、メモリーを永遠にすることは可能ということである。モリコーネの音楽も美しい。こうした情緒的なストーリーを、今になって受け入れることができるようになった。

10月7日(日)
国際文化会館で杉村浩一郎さんと永井佑希さんの結婚式に出席。難波さん、佐々木さん夫妻、宮本さん、藤武さん、多田さんと同席。雨模様が外れて、熱く眩しい1日だった。間口いっぱいの開口は、開け閉めができ、小川治兵衞の庭一体となった宴席を気持ちよくする。夕方から、鈴木竜太さんと遠藤研学生とでナチュラルアングルに行く。作成した2案を説明。どちらも気に入っていただいたような気がする。その後、学生は時間をかけて2階部分の寸法取り。皆、思っていたより小さいことを感じただろう。この実感は大切で、設計を左右するものとなる。その後、新宿で打ち上げ。錦織が決勝で負けたという情報が入る。なかなか復活といかない。

10月6日(土)
ナチュラルスラットへ行く。葛工務店の勝山さんと雨漏りの補修。1時間あまりで終える。その間にクライアントと近況報告。午後は翻訳の校正に時間をかける。
120 ブンデス ドルトムント×アウグスブルク 
香川の怪我の詳細はなし。前半は、ドルトはいつものように様子見をして、積極的でない。特に今日のアウグスブルクは、マンツーマンできたので、面食らった感じでもある。無理をせずに後半から起きるだろう相手のほころびを待つ。後半から今期初めてのゲッツエ登場。噂はいろいろ走っている。ゲッツエは、ゴール前中央から大きく動き、DFをはがし得点を取る。後の3点も、途中から出場のパコである。ドルトのかたちが決まりつつある。ここに参加できていない香川は苦しい。ドルトは首位をキープ。

10月5日(金)
中埜さんと病院で、打ち合わせ。ぼくらが翻訳するテーマは、一見、神秘的な問題とされる「全体」について何らかの一般性を与えることにある。中埜さんと話しているうちに、それは、物自体や暗黙知というものに対するアプローチと重なることに気づく。カントやその後継者、ポランニーらは、その存在を示すことに全勢力を傾け、道筋をつくった。「ティール」が行っているのは、そこに向かうのに便利なツールの提案であったのだ。中埜さんは、そこにパタンランゲージによる方法論との共通点を見出していた。いつの時代にも、環境との整合をつけるためには、自己のブレークスルーは起こり得る。ブリコラージュに見られるように、それは実践でしか達成し得ないものであるが、それを個でなく社会やチームとしてのものはないか?今の時代はその方法論を求められるようになった。話をする入院中の中埜さんは熱かった。深夜に映画「カリートの道」ブライアン・デ・パルマ監督を観る。アルパチーノが主演カリートを演じる。題名にあるように、ひとりの男の人生を通して、日本で言うなら任侠道を描いた作品である。文化は違えど、それ程に日本との共通項を見出すことができるのが不思議だ。社会と、純愛や正義といった倫理観との間の亀裂を、一度アウトローを経験した弱者の立場から描くものである。善悪の区別が、道徳観にはなく、個人に帰することをいっているといってよい。現代との違いは、この映画ではかたちあるユートピアが想定されていること。現代にはそれすらなくしたものが多いかもしれない。
119 ブンデス ブレーメン×ヴォルフスブルク 

10月4日(木)
川向正人先生がアンカーマンとなる新居千秋さんのシンポジウムに行く。大原崇嘉、古澤龍、柳川智之といったアーティストとのコラボレーションによる企画展である。彼らは視覚映像をテーマとし、人の既知感を揺さぶる作品をつくりだしている。例えば、照明によって鑑賞環境を変容させ、人と作品との間の成立条件を問うものである。それは、モネのルーアン大聖堂の連作、スーラの点描画などのテクニックの現代版である。新居さんのテーマは「身体性」。小さな茶室は、カンピドーリア広場と同じ400m角の世界を対象にしているとし、茶室の窓の配置は、これまでの日本文化とは一線を画し、西洋文化を受け入れたものであるという。数寄屋の好きは、当時既にここまでに至っていたという。これ程に自由な窓配置が実に可能となったのは、開口を再考できた結果に違いないというのだ。この展覧会では、待庵(利休)、八窓軒(遠州)、燕庵(織部)、如庵(有楽齋)の窓を再現し、それを3人の映像作家のための基本フレームとした。これによってつくり出される4つの茶室窓の連なる風景は無限である。そして、窓に彩色した糸を細かく張り、それに室の照明色相を太陽の軌道になぞってゆっくりと変化させていくと、不思議な風景となる。新居さんを受けた作家たちの応えであった。この空間体験は面白かった。ぼくらは通常、モノを相対的な意識によって見ている。それが揺さぶられる展示であったことを痛感させられる。この展示は、紀尾井町のオカムラショールームで体験できる。ところで新居さんには、窓からの風景をつくるという明確な目的がある。コンペでも、例えば円通寺の借景方法を拝借して、空間をイメージさせていた。これにたいして、3人の作家には、ひたすら自己拡張が目的とされ、焦点が結ぶその先はなかった。この対比が面白かったと思う。来場者の多くは建築の人であったと思うのだが、これをポジティブに判断する人は少なかったろうと思う。
118 CL ドルトムント×モナコ 
香川は怪我で欠場という情報が入る。モナコは、チーム状態がよくなく、攻撃に厚みがなかった。それに救われ、後半から3点を獲得し、勝ち点を伸ばす。

10月2日(火)
1日をかけて、「ティール組織」の校正をする。販売日もメールで送られてきた。金曜日にあとがきの相談。

10月1日(月)
ゼミにて、ナチュラルアングルに置く家具を2案に絞る。どちらもよくできている。ひとつは作り込んだ密度の濃い作品。もうひとつは伸びやかで空間性のある作品である。モックアップをつくり、一応の疑問点を解決したもので、どちらも捨てがたい。模型と作図を完成させることを指示し、日曜にクライアントにプレゼを行うことにする。

9月30日(日)
神奈川近代美術館葉山で開催されてるアルヴァ・アールト展に行く。扱われる作品に疑問を残すも、多くのトレペスケッチを見ることができるのがよい。穏やかで繊細なタッチであり、作品のイメージと一致する。カレ邸を思い出す。天井高と床の段差を工夫した落ち着いた伸びのある光りに満ちた空間であった。ロヴァニエミやセイナキヨの図書館、ヘルシンキ工科大学、アールトのアトリエのインテリアから、白くても、きつくなく、柔らかな空間が可能であること知る。色彩と素材が相まって、柔らかなトップライトがそうさせている。天井模型のスタディが多いことにも感心する。どのプロジェクトでも行われていた。ヴィーブリの図書館のスカイライトに、ガラスを置くだけのディテールの起源を見つけ、嬉しく思う。難波さんとのEXマシーンのときにはじめて知り、ナチュラルエリップス、ナチュラルアングルでも借用した。知らなかったが、ニューヨーク万博のフィンランド館はその中でも異色である。オーロラをイメージしたものだろう。壁面が迫力のある自由曲面で囲われている。いくつかの椅子に座ることができたのもよかった。典型的なスツールも3万円するが、アームチェアNO45は座りが深くたいへん気持ちよかった。いつか購入したい。椅子の脚を曲げる画期的な方法から、構成についてのひとつのアイデアを思い付く。
117 ブンデス レヴァークーゼン×ドルトムント 
香川ベンチ外。ぼくの記憶が正しければ、レヴァークーゼン相手のときはいつも活躍をする。それはレヴァークーゼンが守備的ではないチームだったからだ。ユナイテッドの時も、復調の切っ掛けをレヴァークーゼンから掴んだと記憶する。そうした香川が外れた理由を選手たちはよく理解している。そのため、ドルトムントは大きな賭には出ない。スペースを相手に許さないでの攻撃を、特に前半では選択する。したがって、前半はみるべきものがほとんどなかった。しかし2点を許し、後半からギアを上げる。特にデラネイが交替させられたことに選手に火を付けた。それでも粘るレヴァークーゼンにたいし、ファブル監督はさらなるギアを上げる。アルカセル、サンチョと立て続けに投入。この采配は見事であった。これで勢い保たせて4点を獲る。金曜日に負けたバイエルンに変わり、ドルトが久しぶりの首位となる。

9月29日(土)
「発酵文化人類額」小倉ヒラク著を読む。密度ある内容にかかわらず判りやすい。「ニッチですが、2万部突破!」という帯の標語もうなずける。発酵は、極めてアナログな方法であるが、極めて最先端に位置することが判る。資本主義的な市場原理と違う、贈与経済。安定的ヒエラルキーではない、ミクロのなかの不確実性。ベイトソンも登場。「個」でなく、巨大な環の中の「私」である。そして、そこに「美」も位置付けられている。ブリコラージュも、明確な目的の下に完成するものなのだ。解釈するに、発酵は伝統的なものであり、沢山の情報が長い時間と場所をかけて積み込まれており、それを考慮すること、つまり意志ある前進によってしか革新できないということなのである。
116 ブンデス シュツットガルト×ブレーメン 
大迫が本来のトップ下で先発。攻撃の起点となりチームのアクセントとなる。10人となり、不利ななかを攻守を率いていた。評価もうなぎ登りであるが、結果が欲しい。

9月28日(金)
環境特論に参加し、日本設計大串氏のレクチャーを聴講。港区のプロジェクトでは、同時期に行われていた日本設計の仕事を参考にした。要求される条件が高度となり、アトリエ事務所の限界を知ることになった。このときから感じたのは、客観的環境表現は組織の領域であるということで、建築家のやるべきことは、主観性を表現すること、であった。そして、そこから環境における主観性の追求とは何かを考えるようになった。今日のレクチャーも、政府の方針から導かれる外部の条件を処理するものであった。ぼくらとしては、ここから個人の問題に引き寄せる必要がある。その後、研究室紹介を3年生向けに行う。昨日の石川さんのレクチャーの感想を交えながら行う。深夜、フランス映画「暗黒街のふたり」を観る。アラン・ドロンとジャン・ギャバンが出演する。フランス映画っぽく、ドラマ性によって最後まで観客を引きつけながら、最後はドキュメンタリー風の社会批判となる。今日の映画は、死刑判決を初めとする牢獄内の現状である。

9月27日(木)
石川初さんをむかえてのレクチャー。心のこもった熱いレクチャーであった。四国徳島の神山町のフィールドワークを通じて、日本現代版ブリコラージュを発見していた。そうした彼らを称してFAB-Gという。石川さんはランドスケープを主な仕事とするが、扱う素材はネイチャーだけでなく、いわゆる工業製品であったりもする。FAB-Gは見事にそれを使い倒す人たちなのだ。フィールドワークからそれを可能にする環境条件を明らかにしていた。それは、必要となるだろう素材を、ゆるく分類して保管できているということだ。そこから、「avoir-faire」する。「avoir-faire」とは、フランス語で、フランスの建築雑誌「l’ architecture d’aujourd’hui」で、ぼくのエリップスを表紙でとりあげ、扱っていたテーマである。それは、そのとき亡くなったウッツォン、その前でいうと石工の息子として生まれたミースの流れを組むものであるというものであった。確かに歓迎すべき評価であったが、一方で欠けているものも同時に指摘されている気がしていた。それが何かを最近理解するようになったのだが、それはデザインを超えた強い目的意識のようなものであると思うようになっている。翻訳中の「ティール組織」でもそれがテーマとなっている。100均で「avoir-faire」することと、FAB-Gとの違いに意識的でなければならない。難しい話ではあるが。とはいえ、石川さんがいうように、既成の目的論的解釈から逃れることを助けるエキサイティングなレクチャーであったことに間違いはない。神山町にある道の分析も面白い。昔は、尾根伝いに歩く道があり、それはネットワーク状に張り巡らされていたという。それが車社会になり、ツリー状の行き止まりの多い状態になったという。「avoir-faire」が上手く生かされた例である。その一方で、リサーチを行ったインドネシアの貧しい都市では、下水道のインフラ整備をされていないことが、ペットボトルの使用料を増やし、さらなる水質汚染を招いているという。これは、「avoir-faire」では、処理できない問題の指摘である。このように現状の問題は、もはや「avoir-faire」では解決不可能な状況にあると思うのだ。それにたいして、ぼくらができることは、「avoir-faire」に加えて、「evolutinal puepose」 (ティール組織)をもつことなのでないかと思う。

9月26日(水)
115 ブンデス ドルトムント×ニュルンベルク 
7-0でドルト大勝。シーズン当初のように守備的にドルトはのぞむ。無理に攻撃せず、チャンスがくるまでボール廻しに徹する。プロシッチのドリブルによるPエリア内の個人技から得点すると、堰を切ったようにボールがゴール前でもまわりはじめた。香川は後半の4-0から登場。この流れに乗ることができたものも、2回のシュートチャンスを逸する。ドルトはデラネイの中盤底からのロングボールが効いていた。これで流れが良くなった。このかたちがしならく基本となりそうである。久保はフル出場。ただし、ボールがまわってこずに孤軍奮闘か。

9月25日(火)
設計方法小委員会へ。方法論について意見交換。建築方法論が否定されて久しい。扱われる問題が多岐にわたり、動的でない方法論では、問題をカバー仕切れなくなってきたことが大きな要因である。ところが、震災以降再びフィールドリサーチという点からプレデザインが見直されてきた。しかしこのリサーチは以前とは異なり、全くの個人に根差したものである。主/客がはっきりしないということで動的なものである。つまり、かなり錯綜した情報を束ねて進める方法論が注目されているという訳だ。それにたいし、単純化しようとするBIM的思考がもう片方にある。この違いを示せればと思う。
114 ブンデス ブレーメン×ヘルタ
大迫は、体調不良から復帰。直ぐに先発を手にできるところをみると、評価されていることだろう。今日、ドルトムントからのシャヒンが初先発。中盤底でゲームをコントロールする。大迫は当初はトップ下。シャヒンが攻撃時にはCB横まで下がり、大迫が何度も中盤底まで下がり、ボールをおさめて、攻撃の起点となる。このかたちがまっていた。前半に2点。後半は、どういう訳かフォーメーションを変える。シャヒンが下がることなく、大迫も前目。シャヒンが60分過ぎに交替すると、2トップにもなった。シュートチャンスをいくつか逸する。ブレーメンは、とにかく10番が自由に動き回り、大迫というかチームがそれにしたがいバランスをとっている感じである。それがはまる。ブレーメンはよいかたちであった。

9月24日(月)
鈴木竜太さんに来研してもらいゼミを行う。ふたつの案の問題点を整理し、それぞれいくつかのプランを作成することにする。そのとき、機能的問題の解決を目指す他に、考えた案を客観的な視点をもって、何が伝わっているかを俯瞰する必要がある。このとき、これまで苦労してきたプロセスを推測させることは難しく、かたちとして伝えることができるものが全てであると考える。そうした視点が必要とされることを知ってもらえればと思う。

9月23日(日)
サントリー美術館で開催されている醍醐寺展に行く。醍醐寺は、真言密教の拠点であり、秀吉も大いにバックアップした。展覧会では随所で桜がモチーフとされ、それは秀吉が花見を行ったことで有名だからである。ぼくも春に桜を観にいったことがあるが、山の上の上醍醐までは行かなかった。少し後悔する。醍醐寺では、鎌倉以降、加持祈祷や修法(すほう)という儀式・実践を重視した。その伝承はもちろん文字でも行われるが、絵やモノを通じて積極的に行われてきたのが特徴である。その資料が膨大に展示されている。デッサンのような白図と着色された完成図のふたつが展示されていた。それらは、十巻抄と呼ばれる図像集に基づいている。修法を厳格化するのは、権威となる模範を示す必要とがあった訳である。近代絵画の俵屋宗達の絵もいくつかあった。舞楽図屏風は展示されていなかったものの扇面散図屏風をみる。リズミカルで現代的である。芦鴨図衝立には、たらしこみ技法もみられた。江戸時代においても文化の最先端をこの寺が担っていたことがこれで判る。
113 ブンデス ニュルンベルク×ハノファー 
久保と原口先発。これまで先発であった浅野はベンチ。前半でハノファーはDFに退場者を出したこともあるが、原口は元気ななく、前半で交替。浅野も出場できず。久保も得点を獲りたい気持ちが先走り、裏を狙うことが多く、攻撃に上手く絡めていない。それでも全試合フル出場である。2-0でニュルンベルクが完勝する。

9月22日(土)
111 ブンデス ホッヘンハイム×ドルトムント 
香川が今季初出場。先発し、60分までプレーする。よいプレーを見せるも、得点という結果までは残せず。今後の先発が約束されるまでは到らなかったと思う。今日は、守備が乱れてしまっていた。ホッヘンハイムは中盤を省略し、いきなりサイドから攻撃されていた。それで、途中からサイドが上がるのを止められ、攻撃陣が孤立していた。攻守のバランスとしては、シーズン当初の4-3-3が安定している。中盤が守備重視となるが、それでは香川の居場所がない。ファブレ監督の今後も注目される。
112 プレミア レスター×バターズフィールド 
後半からレスターが圧勝。今日負けると、プエルの立場が危ういと噂されていたが、それを一掃するようなゲーム展開であった。終了間際に岡崎も登場。このチームのかたちに馴染み、ほしいシュートも放つ。ブンデスと比べ、ボール展開が大きく、迫力を感じる。

9月21日(金)
「ニキータ」リュック・ベンソン監督を観る。不良であった少女が、戸籍上は死亡した上で政府に雇われ、工作員として生きる。よくありがちなストーリーであるが、例えば「ランボー」に代表されるハリウッド映画のようにアクション映画としてではいまいちで、テーマとしても、人間か機械かというような主人公の人間性の葛藤が問題にされている訳ではない。ラストは、ニキータを愛する二人の男の冷ややかな会話で終わる。フランス映画っぽい。愛を批判的な視点で捉え、少し冷ややかなのがハリウッド映画と異なる。これによって、作品となっている気がした。

9月20日(木)
110 ブンデス ブレーメン×ニュルンベルグ 
大迫と久保が先発出場。得点ならずも二人ともレギュラーに定着。ブレーメン10番は自由に動き回り、大迫が遠慮がちとなる。中央にポジショニングがなかなかできずに、シュートチャンスをつくることができない。後半になるとポジションがばらけ、チャンスが廻ってきていた。久保も同様に、右サイドであったりトップであったりポジションが定まらない。終了間際のシュートチャンスは決めたかった。ワンテンポボールが早く送られてくればと悔やまれる。チーム状態もいまいちのままである。

9月19日(水)
設計科目にて課題発表。今年からシステムが変わる。ぼくのスタジオでは、御手洗さんの他に構造と設備の教員とも一緒に行う。小堀さんの2作品を中心に、これまでにはみられなかった働く場について話しをする。どちらの作品も空間がダラダラとつながっていて、働き方を動的に捉えるものだ。そうしたことに対応する建築のあり方を模索してもらいたい。各教員から目標を説明してもらった後、敷地の大きさの検討。次にこうしたプログラムにおける面積配分検討を行う。来週までにプランニングを完成してくることを促す。夕方からゼミ。2つのトライに対してモックアップモデルができる。モックアップをつくると雰囲気ががらっと変わる。この感覚の必要性を感じて欲しいと思う。
109 CL ブールージュ×ドルトムント 
今年からCLはDOZNで観ることが出来る。だいたい朝起きてからWEBを観る前に倍速で録画を観るのがCLであったのだが、DOZNではそれができず、2回に分けてゆっくると観る。香川が60分過ぎから登場。ゲッツエに変わってである。ドルトは今日、トップ下を置く戦術であった。ゲッツエほどではなかったが、WEBで言うほど強烈なインパクトを香川は残せていなかった。このシステムだと選手間距離が極端に短くなり、シーズンはじめのゲームプランと著しく異なってくる。当然、相手にスペースを与え、何度か危ういシーンをつくってしまっていた。しかし相手も攻撃をした後で陣形が崩れるので、そのスペースを上手く香川は使ってはいた。しかし奇しくも、得点できたのは、ライバルであるダフードであった。

9月17日(月)
AOの2日目は面接。無事終える。興味深い受験生と何人かと会えて嬉しく思う。研究室で行っているようなことに興味をもつ学生に出会うことができたからだ。試験後、今後の設計教育について、皆と話しをする。急いで事務所に戻り、明日からの授業の整理。コンペのときのように、敷地となる習志野市について調べる。再開発で駅前人口が増えてはいるが、それの継続が問題となることを知る。幕張と東京という間に位置し、土地も豊富にあるというのが不思議な地域である。

9月16日(日)
AO試験の1日目。特に問題もなく終える。今年は、少し作業量を増やし、処理能力に比重を傾けた課題にしたが、やはり、造形能力を判断するには足かせとなった。システマティックに解く案を見たかったところであった。与えたテーマ性とは関係なく、自分を中心として他人をみる視点が多いことに気になる。親や社会の過度の子供に対する献身性が子供本人に浸透していることかとも思う。ある意味、政府が薦める、人間の成長を社会によって支える理想的な話ではあるが、ステレオタイプ化していることに不満を感じたりする。ぼくだけの感想でなく、教師皆が思っていることを要約するとこうなるのだろう。

9月15日(土)
思い切って昼から遠出する。妻の同級生が経営しているという甲府の原茂ワイナリーへ。古い母屋を改造したレストランが気持ちよい。2階の窓から、一面を葡萄畑に覆われた山を見ることが出来る。幸いに同級生に会うことができた。さらに山を登り、展望のよい温泉へ。思ったより中央道が混んでいなくスムーズに帰る。香川に期待するも今日もベンチ外。記事によると、4-3-3でなく、4-2-3-1であったという。それでも出番なしである。余程身体能力に重点をおいているのだろう。ゲッツエも同様の立場に置かれている。
108 プレミア ニューカッスル×アーセナル 
ニューカッスルは、前戦ほどには守備的でないものの、これといった攻撃の戦術はなし。武藤も2点差がついたところで、投入される。少しはチームに弾みがついたものの特段変わりなし。前回のカップ戦の武藤のパフォーマンスが相当悪かったことが想像できる。

9月13日(木)
旅館のある中州地区とは一変し、人工島にある「ぐりんぐりん」へ。車で30分もかからない。伊東豊雄氏の設計である。周りは高層マンションに囲われ道路も広く直角である。その中心となる公園の中心建物、植物館である。建物は緑に覆われ、ほとんど外観は判断つかない。昨年に、岐阜の瞑想の森を体験したことにもよるが、この建物は、丘に穴を空けたようであり、印象が全く異なる。スラブ厚は400ミリ。それに保土のために250ミリが用意されている。屋上にも散策路がある。中の様子も、ラーニングセンターと近いも、異なる。やはり地面付近の空間の抜けが、空間の性質を決定づけるのである。ここからひとり太宰府天満宮へ。思っていたより建物の背が低い。参道もほとんど平ら起伏がなく幅広い。うっそうとした木々のなかの神社とは印象が異なる。参道横のスターバックスへ。隈研吾設計、佐藤淳構造である。微細な木組子を多用する。構造とはなっていないように見えるが、本当にインテリアなのである。ここで帰路便の変更手続きを行い、北九州空港から福岡空港とする。意外と近い。途中大雨。福岡空港も改築中でわかりづらい。ラウンジもチェックインの前にあり、スムーズな移動の障害となる。夕方前の早い時刻の便で東京に戻る。

9月12日(水)
鳥栖、八女を通り、九州文芸館へ。途中、台風の大きな爪痕を度々目にする。南斜面の谷筋はことごとく土砂滑りを起こしている。土質の問題もあるのだろうが、備前焼の窯元も多い。隈研吾設計の九州文芸館は、新幹線新駅前の広域公園内にある。折り紙のように折られたシャープな屋根をもつ建築で、個々の面を覆う素材も豊富である。その脇に構造に凝ったふたつの小さなアトリエもある。ひとつは、コンクリートの屋根スラブを端部の壁柱で支える垂れ屋根のアトリエ。SOUPの設計。もうひとつは、木の三角ピースを噛ませてトラしにしたアトリエである。この建物にあるアトリエ、会議室は、主に一般市民に向けてのものだそうである。その会議室のひとつで、4年生の研究の中間発表を行う。多面体屋根の部屋での発表は、反響して聞きづらかたったが、時間をかけて行う。総じて、自己流の方法論を展開させていくものが多いのであるが、自己満足に留まってしまい、かたちとしての結果にダイナミックさに欠ける。このことを指摘する。方法論をユニークに感じさせるのは、結果から反芻するときにはじめて生じさせるものである。結果を伴わない限り、その説明に意味はない。少し早めに終了し、八女にある青木茂氏がリノベーションした「共生の森」へいく。コンクリート2階建ての老人福祉施設を、子供との交流施設にしたものである。既存建物の両側に鉄骨造の軽い空間で被い、そこが子供のためのスペースである。外壁は数枚のHP局面で構成される。これを構造として使わないため、軽さを伴うものの空間が引きしまっていない。屋根ガラスの多用が暑いという指摘を受ける。2000年初頭の作品で、様々なところでの未熟さが残る。しかし、ここからリノベーションの価値が伝わっていった。博多の鹿島本館へ。今日の宿は、中州脇にある木造数寄屋旅館である。古い街並みが残り、この旅館は国の有形文化財指定も受けている。間口の狭い奥行きのある敷地に、いくつかの中庭を挟んで和室客室が並び、気持ちよい。日本風情を色濃く残しているため、多くの利用者が外国人である。サービスがよいが、建物が古い分、掃除がたいへんだろう。ぼくが宿泊した奥の和室に面する坪庭をもう少し手を入れると、外部を有効に使うことができ、趣ある部屋となるだろう。夕食前に歩いて直ぐの所にある櫛田神社へ。博多の総鎮守神社である。夜であるためか、灯りがともり、普通の神社と異なり奥がなく、通り抜けができ、雰囲気がある。日常の中に置かれていることが、そうした雰囲気をつくっている。おみくじは小吉。本殿横には、花笠神輿が展示されている。この神社を出発点として祭りがはじまるそうだ。夕食は近くの鳥料理屋へ。様々なバージョンの鳥料理があるものだ。深夜、中州の屋台通りへ。河に面した遊歩道上にある。

9月11日(火)
午前中に門司の街をまわる。大阪商船のファサードスクリーンは日本的で繊細だ。JR九州本社ビルは松田軍平設計。近代的オフィスビルの走りとされている。天井高があり気持ちよい。門司港ホテルは、長方形ではなく僅かに端部がしぼませたかたちをしている。建物を突っ切る大きな開口が珍しい。それを境にふたつのテラスがあり往き来ができるのだが、あまり使われていない。船着き場を囲む突端に位置し、パラソルでも開けば、ヨーロッパのようになるだろうと思う。本当に気持ちよい。建物の色使いといい、鈍重さといい、このホテルは日本を感じさせない。船着き場の突端には、つり上げ式の歩行橋もある。たまたま、それがせり上がるのも見ることができた。30分の移動で、北九州市立美術館へ。斜面に突き出るように2本の大砲のような展示室がある。いまから思うと、もっと長く迫り出せば良かったのでないかと思う。その下の大階段を上ったところにエントランスがあり、4年前のゼミ旅行では、ちょうど大規模改修がはじまったばかりで、ここまでしか入ることができなかった。ホールの大きさは尋常ではなく、群馬県立美術館を思い出す。構成は、医師会館に近い。展示室途中の休憩室からみることができる海と街の景色も圧巻である。その後ろにヤノベケンジのの彫刻がある。ただ、北九州には天井高の低い空間も用意されている。レストラン通路など非常に低い。別館までまわった後に、このレストランでしばらく休息。見上げるため、意外とダイナミックな写真が撮れないことにいつも気づく。30分かけて、市立図書館へ行く。相変わらず改修工事中である。PCコンクリート梁が集まるところは流れが感じられ美しい。レストランで昼食をとりながら、「世界の図書館」という写真集をみる。西洋では、大スパンはヴォールト屋根が主であったことに気づく。この建築もそれを踏襲したものだろうかと思った。壁際ではなく、中央に低目の書棚が平行に置かれ、それを縫うように通路と閲覧机が用意されている。以前経験した印象より明るく軽く感じた。気のせいだろうか。1時間半かけて英彦山の旅館へ。大分の日田の近くである。夕食前に、M2生の中間発表。

9月10日(月)
昼にミーティングをすませた後、一つ前の便に乗りたかったが満席のため、夕方の便で北九州へ。そのまま門司のホテルへ。もう既に暗く、街の様子はよく判らなかったが、大阪商船、三井倶楽部、税関などをざっと外から観る。門司港駅は改修中。夕食を空港で購入した鯖寿司ですます。

9月9日(日)
大坂なおみが全米オープンを勝ち取ったニュースが入ってくる。そのダイジェストをYouturbでチェック。圧勝であったことを知る。大坂のコーチは、どうやらセリーナの練習相手を8年も務めていたらしい。セリーナは丸裸であった訳だ。NHKBSで「欲望の時代 マルクス・ガブリエル 日本へ行く」を観る。テーマは、「世界は存在しない」。本人が日本語でそう言っていた。とはいえ、ひとつの世界が存在しないということで、各自が様々な世界を描いているということである。そのなかで最もダメなパターンは、仕込まれた全体(totarityといっていた)に無自覚に取り込まれることである。ぼくが考えるのは近頃、それを前提に、皆が共通した世界観を描かざるを得ないことをむしろ強調すべきであるということである。彼は、この協調を、様々なレベルでのレイアーの偶然の重なりといっていた。京都の裏庭、能における空から始まって様々なことが起きるストーリー、西田哲学に関心をもっていた。それらは、どれも因—果を前提とする時間的推移を否定する(目的論的な)思想である。

9月8日(土)
縦ログ構法研究会出版の「縦ログ構法の世界」が届く。この巻末の対談で、グラフを用いて建築家のこれからの役割について語った。社会の末端にいる業者や建築家が、中心的問題を見ていない状況にいるという指摘である。対談後のティール組織について考える中で、そのグラフは、アレグサンダーが指摘していたセミラティス構造を平面化したものであることに気づいた。深夜BSで「トゥルーロマンス」T・スコット監督、タランティーノ脚本を観る。破天荒な主人公が直感から生じた愛を信じ、それを全うする中で、様々な事件を巻き起こしてしまう。その中に父や友人の死も含まれるが、最後は幸福を勝ち取るストーリーであった。脇役に名優が囲む。エンターテーメントに徹した作品であった。

9月7日(金)
107 親善試合 オスナブリュック×ドルトムント 
これまで開幕数試合に出場できていなかった選手でのぞんだ親善試合を、たまたまドルトムントの公式ネットで見つけ、往復の電車の中で観る。それでもスタジアムには1万の観客がいた。ファブレ監督は、これまでと同様4-3-3でのぞむ。この決心は固いようだ。前線3人はラーセンをトップに、バルサからの若いゴメスとアルカセルである。その下に出場機会を失っている香川、ヴァイグル、ゲッツエである。ヴァイグルが中盤底。前半香川は、その横の守備重視のポジションが命じられていた(後半はゲッツエ)。控えめな3部チームであったので、この機会を香川は上手く機能させた。右からの攻撃の猶予を得ることができたのだ。唯一のレギュラーであるベテラン、ピシチェクとの間で決定機をつくる。そして早いうちに香川のタクトにより5点を獲った。途中、香川が攻撃的であるために右の後ろにスペースを相手に与えてしまっていたが、ファブレ監督には、これがどう見えただろうか?前戦右のゴメスの位置に香川やゲッツエを置かないところをみると、あくまでもこの二人には8番の仕事を求め、それは10番ではないということだ。攻撃陣は、他に十分にいるという判断である。香川に求められることは、そことは異なる守備重視というポジションであり、その点においてヴィツェルに勝ち目はない。その上で今日の香川の積極的なパフォーマンスは、功を奏したと思いたい。3部チーム相手とはいえ、長短の決定的パスを繰り出し、存在感を見せた香川であった。

9月5日(水)
106 ブンデス ハノーファー×ドルトムント 
BSで再放送を観る。浅野先発。原口はコンディション不足でベンチ、香川はベンチ外である。ドルトムントは、組織的にスペースを消す戦略で、守備が重視されていた。ラインコントロールが厳密になされ、ヴィツェルが中盤の底に陣取り、インサイドハーフのダフードとデラネイがサイド奥まで守備する。守備時にはサイドディフェンダーも中央に絞り、5バック気味にまでなる。これまでのドルトが行っていたダイレクトパスによるサイドからの縦の崩しのかたちはもうない。スペースを消すことを重視するので、選手間に距離があるからだ。同時に、攻撃時には空いたスペースにボールを供給する。そこに適切な選手が走り込む訳だ。これを的確に行っていたのがロイスとフィリップであった。交替投入は、サンチョとゲレイロで、怪我のプリシッチの代わりとなるヴォルフは残り、ゲッツエではない。徹底的に10番をおかないかたちである。したがって香川も苦しい。新加入のアルカセルがバルサからというので、彼を活かすシステムにしたとき次第か?とも思うが、まだアルカセルもベンチ外である。センターバックも変わった。ディアロとアカンジで、ともに身体能力が優れた優れた選手である。トプラクとヴァイグルは控えにまわった。

9月4日(火)
大型台風が大阪を直撃。関西国際空港が高潮にあい、空港への連絡橋にタンカーが衝突する。海水面は通常時より3m以上高くなったそうだ。実に25年ぶりの規模だそうである。意外と屋根防水の駆体への密着が問題であることを知る。ブラタモリで門司を放送。江戸時代からの下関にたいして、門司は明治以降の町であることを知る。筑豊で発掘した石炭の出航で賑わった。したがって、近代的な都市計画がなされている。来週のゼミ合宿を利用して、訪れてみようと思う。

9月3日(月)
「ティール組織」翻訳のチェック。内容把握が難しかった3点をあげ、検討続ける。少し判るようになる。これらの要点は、生じる結果は偶然であるものの、誰かの強い意志が必要であることをいっている。それが出発点となって、ことが起きる。最近再読した「隠喩としての建築」における「建築としての意志」を再確認できたことが大きく、考えを先に進めることができた。「隠喩としての建築」は、1980年代であるが、この30年の間の進歩を見なければならないと思う。

9月2日(日)
主要なヨーロッパ各国の、フットボール選手の夏の移籍可能期限をむかえた。香川はネットを賑わせるも、ドルトムントに留まる。どうやら、香川は条件をチームに示し、チームに委ねていたようだ。それを受けたドルトムントは交渉に入ったものの、上手くまとまらなかったようだ。それを香川は先週、「神のみぞ知る」といっていたことだ。大迫が活躍したというニュースが飛び込んでくる。今季、ブンデスリーガはスカパーでの放送になった。未だに再加入を迷っている。選手のW杯後の燃え尽き症候は、ぼくにも影響をしている。

9月1日(土)
午前中に、両国の槇事務所設計の刀剣美術館に行く。以前は事務所近くの代々木にあった施設が安田庭園内に移動した。2階ベランダからの庭園の眺めがよい。円形プランの上に蒲鉾状の3階展示空間がのった構成で、以前その地に建てられていた公会堂のドーム屋根を踏襲したものだ。1階では、その空間体験ができないのにはびっくり。単純なプランニングでも、実体験と結びつかないことを知った。たたら製鉄方法を展示ビデオで知る。古代からの製鉄方法で、砂鉄から銑鉄と純度の高い鋼をつくり出す。銑鉄(銑ズク)は鋳物や包丁とかに、鋼(鉧ケラ)は刀鍛冶師に委ねられ、叩かれて刀になる。毎年、土を固めて窯をつくり、その中で砂鉄と木炭を燃焼続けさせ、最後に窯を壊して、底部分から鋼の固まりを取り出す。一連の作業は、村下という技術集団によって執り行われ、神事でもある。10tの砂鉄から3tのケラ。その内、刀になれるのは1tであるという。どうしてこのような製法が生まれたかがミステリアスであるが、輸入製法が口承伝達によって発展してきた。「もののけ姫」のバックグランドであることを知り、観ようとするが、アマゾンにもiTurnにもレンタルがない。貴重価値とされている。
105 プレミア レスター×リヴァプール 
ホームのレスターは、多くの時間でボールを支配するも、要所で得点され負ける。しかしレスターの戦い方が成熟してきている。以前のブロックしてボールを奪取、そこからバーディによる速攻という形から、ボールを繋げてビルトアップの形に変えてきた。そこに岡崎が含まれていないのが残念でもある。リードされた後半75分から登場。印象を残すことができなかった。
104 アジア大会 日本代表U21×韓国 
延長の末、1-2で金メダルを逸する。フル代表と比べて異なるのは、選手の個人能力に期待し、のびのびとプレーさせているところにある。したがってドリブルでの仕掛が多く見られる。一方で、組織性が要求されるDF戦術は成熟しておらず、とくに中盤選手との絡みに劣っていたため、オーバーエイジ枠を使う韓国に上手くやられたというかたちである。ちなみに、日本は一つ下のクラスU21のみでのぞみ、2020に向けた挑戦の一角としてこの大会を位置付けていたのは、韓国と対照的である。

8月31日(金)
「甘い生活」フェデリコ・フェリーニ監督を観る。60年代特有の表象重視の少し分かりづらい映画である。テーマは、台頭する商業・合理主義にたいする人間性についてであるが、それにたいする答えが用意されていないことが、退廃的な印象をつくりだしている。しかし、当時としてはこの感覚が新しかったに違いない。60年経つと、それも相対的に見ることができるようになる。
103 アジア大会 日本代表女子×中国 
ロスタイムに中国を突き放す。経験が呼んだ勝利であった。男子フル代表と異なるところである。一度といわず数度経験した頂点がもたらす効果はこういうところに出ることを知る。

8月29日(水)
GAJAPAN154を読む。特集は、「歴史観なき現代建築に未来はないⅢ」である。そのなかで誰もが、建築家の歴史観の喪失を嘆いている。その大きな原因は、建築を刹那的な合理性と発想で組み立てようとしていることでないかと思う。これはモダニティを形成してきた考えではあるが、それを俯瞰的に示す習慣が根付いていないためだろうと思う。機能的であることと合理的であることの曖昧からもそれは生じている。今見られる合理性も発想も、先人たちの延長上に存在し、歴史=自然史(必然性などなく、偶然的な出会いの中からの決定)として見出す必要があると思うのだ。
102 ブンデス  ブレーメン×ハノファー 
再放送をBSで観る。大迫、原口、浅野は自チームにおいて、主要な戦略としてみられているといわれているが、3人ともこの開幕戦でインパクトを残せなかった。ブレーメンは、前半クルーゼのチーム、後半はピサロのチームで、彼らが縦横無尽に走り回り、大迫はそのバランスをとった脇役となり、割を食った感じであった。前半はサイドにへばりつき、後半は10番の役割を果たしていた。浅野は2トップとして出場。スペースを見つけるのに苦労していた。浅野に代わった出場した選手が、裏へ抜き出ることに成功し得点できたのが皮肉である。原口は、怪我のためか途中出場。10番であった。それでもプレーに貫禄を感じることができた。

8月28日(火)
非存在から存在への制作というものに、2つの考え方が歴史的にあったことは、「隠喩としての建築」柄谷行人著に詳細に書かれている。それは、進化論的/創造説的、生成/制作、テクスト的/作品的というふたつである。建築のような芸術なるものは後者、生物とか自然なるものは前者と一般に考えられているが、建築では、この生成/制作、あるいは自然/人工の境界を超えようとする問題規制が、実は古くから取り組まれていた。なぜなら、そう簡単に、無から創造は起きないし、建築は沢山の人の助けを借りて完成をするので、一人の能力あるいは現象だけでは説明が不可能であったからだ。訳中の「ティ-ル組織」も、そこに問題意識をもっている。ヒエラルキー構造によって、現代の多くの問題が解決できなくなってきたこともあるが、社会的な存在として、価値あるものをつくる組織のあり方の追究が要請されているのである。その場合、ヒエラルキー型組織に対して、自主管理を重んじる下部構造をフラットにする組織構造と自然のもつ秩序構造の融合として語られている。ここでも、自然/主体の2項対立を超える問題が扱われているのである。これが本書の核心である。建築でこの問題に関しては、70年代後半からのアレグサンダーが有名で、柄谷行人は「隠喩としての建築」で紹介している。アレグサンダーは、都市がセミラティスになるべきであることを主張し、セミラティス構造における主体の存在のあり方を語った。その後は、「パタンランゲージ」で、この構造はパタンとして受け継がれている。それは「ティール組織」における、「自己管理」に相当するものだろう。

ところで、建築は多様であり、皆が生き生きと接することが理想である。ただし、これは何も主張しない、あるいは建築家の存在を隠すことではない。つまりは、自然状態をデザインするには、形式化を避けることができない。このことを80年代はじめに既に「隠喩としての建築」で柄谷行人は、この混沌から秩序をつくるのに必要とされるものが「建築への意志」であることを紹介している。そしてこのことに意識的であったのがアレグサンダーというのだ。どういう形式化か?それは、もちろん理性的でなければならないが、ゲーテルをだすまでもなく絶対なものはない。したがって、歴史的にこれまでの先人を参考にしたトートロジーを組むことである。したがって巧妙さと同時に設計者の意志が必要となるのである。これを「隠喩としての建築」といい、池辺さん流には「名前のない空間へ」ということなのだ。この思考形態をかたちにすると、ツリーでなくセミラティス構造になるというのである。この典型例として挙げられているのがアレグサンダーであった。そして「隠喩としての建築」では、この形式化について、もう一歩踏み込んだ発言をしている。理論/実践、個別/普遍、外/内というような2項対立は、同じロジカルタイプでは解決できないので、その諸矛盾を解決すべく新しい上位のロジカルの制作が促され、すなわちそれが創造につながるという。例えば身近な例でいえば分裂症の例が挙げられる。子供は母親に愛されたいので、抱擁を求める。ところが、母親は忙しいのでそっとしておいて欲しいといったらどうだろうか?もし、時間を置いて子供が再度要求できれば問題がないのであるが、その能力がないと子供は解決方法を見出すことができずに自己中毒に陥る。これをベイトソンはダブルバインドといった。したがって社会は、あらゆる制度を設けることでこのロジカルタイプを超えることを禁止し、階層性を維持するように動いている。しかし、形式化というものによって、外部からこれを意図的に崩すことが可能であるというのだ。これが建築家に求められる能力ということであった。セミラティスも平面的には重なりが多いグラフであるが、断面的に見ると階層構造をもつ。こうした形式化をアレグサンダーは提案していたことになる。「ティール組織」における提案される様々方法、例えば予算作成や人事決定の方法、柔軟なスケジュール管理なども、セミラティス構造を組織内でつくることといえる。個々人の主体性にもとづきながら、諸個人の意志を超え、諸個人を条件付ける多次元の社会的諸関係が捨象されないようになる構造である。それは、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」システムである。年次評価で、同僚同士で互いに評価し合うシステムがそれである。ところで、現在はそれから30年以上を経過した。「ティール」の新しさは何かと思う。それは、この考えを実践する状況になったということだろうか?ティールの活動はまだ系統だってはいないけれども、価値転換の萌芽が建築のみならず社会に根付いてきたことが垣間見えるのである。

8月27日(月)
ティールにおいて組織は、それに目的はないが合目的性を想定したものとして記述されている。物事を事後でなく事前からみようとするときの思考である。
101 プレミア  ニューカッスル×チェルシー 
今日も武藤は80分から。ニューカッスルは今のところ、10人でひたすら守り、点を獲ることに重きを置かない戦況である。武藤は0-1の状況からピッチに送り込まれた。ベニテスは、徐々にシステムを攻撃的に変えていくのだろうが、そのとき武藤が鍵になればと思う。まだ守備のかたちが定まっていないということだろう。

8月26日(日)
「世界史の構造」柄谷行人著の序文を再読。「ティール組織」では、これまで相対していた生産効率性とそこから生まれる価値の問題を同じステージに上げようとしている。効率性は、生産において因果律を高めること。価値とは、時間とか金に代表される生産からの剰余物である。このふたつは分離していて、これまでは、この価値を、効率よく再分配することで、新たな価値の創造をつくり出そうとしていた。しかし、効率性にも限界があり、剰余物とは別の、新しい価値が要請されてきたということだろうか。ぼくたちは、価値を生むことに執着するサガがある。それがティールでは、生産プロセス自体に価値を見出すことに転換したと思うのだ。働く意義とか生きがいという価値としてである。これらは再配分できなく、これまでの価値と異なる。したがって、そもそもの仕組みにたいする価値転換が必要とされるかもしれない。ティールが注目される理由である。建築も、成果物に価値を残せるかを勝負としていたのだが、最近はつくること自体に価値を生み出す方法を考えている。生産方法を単なる手段以上のものとして考えないと、たくさんの価値をつくり出せない現状では、建築することの意味が問えないのかもしれない。アレグサンダーはその研究に半世紀もの間、時間を費やしている。

8月25日(土)
昨日はBSNHKで映画「ニンゲン合格」黒沢清監督を観た。若き西島秀俊が主演である。ちょっと間が多く思わせぶりの日本ぽい映画であることが気になる。ディテールがないことで、感情移入を誘っているのだが、複雑な人の感情や人間関係は、どう複雑であるかを示さない限り、希薄化されてしまう。その典型映画であったと思う。午後、御手洗龍さんのオープンハウスに行く。都立大学駅に近い商業地域に建つ店舗兼住宅だ。部屋の中央に部屋の大きさに不釣り合いなくらい大きな桁階段がある。住まい手の趣味であるダンスがヒントになって優雅な踊るような階段からデザインを出発させたという。それをどうやら再開発が進む建物周囲の都市スケールにまで拡張したらしい。歩き回ることによって、個々の窓や部屋、ベランダから様々なインフラのシーン(走る電車や高架橋、空)をぼくらは目にすることができるのだが、それを空間的仕掛というよりも建築的な仕掛として落とし込めたっかたのだろう。兎も角も自分でインフラ的なものをつくって、それを訪れた人にたいして第一印象なるものとして位置付けたかったのだろうと推測する。それがこの大きな階段なのだ。この辺の潔さが気持ちよい。ところで、まずこの階段から思い出したのが、サン・ロレンツォのラウレンツィアーナ図書館入り口のホール階段。不釣り合いに大きく、箍が外れた感じであるが、なまめかしい階段である。ブルネルスキの幾何学的に統制された空間に対峙するものであった。それとの対比で階段のデザインをみた。
100 プレミア  サウサンプトン×レスター 
吉田はベンチ外。バーディが3試合出場停止のため、岡崎はベンチ。後半40分から出場。これといった活躍はなし。ここ数試合、レスターは流れのあるボール運びを見せる。体の小さい岡崎は、DFを背負うときにしっかり身構えるので、こうした要求に応えることは難しいように思えるが、代表における戦術はこれに近いのだからがんばって欲しいと思う。

8月24日(金)
「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著を読みはじめる。Xª+Yª=Zªを満たすX、Y、Zの自然数は存在しない。このことを350年かけて証明をしてきた数学者たちの物語である。無限に続く未知なるものの存在を、いかに因果律と言う言葉を使って説明するかという方法に興味をもった。この350年間に、a=3,4,5・・などの場合を世界各国の数学者が証明をしてきたのだが、無限なことまでの証明は、長い時間と労力が必要とされた。その物語である。その解決には、全く降って湧いたようなモデュラー形式という演算方法がヒントとなって可能となった。これは周期性を用いて、円を繰り返し分割する対称性を表す数式でもあり、これが意味することが現在問われている。メイヤスーの「有限性の後で」と同様な方法論である。

8月23日(木)
中埜さんの事務所で打ち合わせ。ティールと建築、あるいはアレグサンダーとの関係について話合う。このふたつには共通する世界観があり、その思想的バックグランドも見えるが、実践するためのモチベーションが見えにくい。価値が転換することを訴えているのであるが、その現代性がつかめないのである。「禅と日本文化」を続ける。禅は、「われわれ自身の存在、すなわち、実在そのものの秘密を直接に洞察することにある」p150。これが西洋哲学と異なることであるという。外でなく内部へという訳である。そして本書後半は意識の階層性に言及する。半意識(記憶)、無意識、集合的無意識、宇宙的無意識である。無意識は、絶望的なあるいは偶然的なカタストロフの起こるとともに表面にもたらされる。後半の2つが暗黙知に相当するものだろう。直感によってのみアプローチでき、共感をよぶものである。無意識を呼び込む方法が機能的であるのにたいし、ここまで来ると宗教となる。悟るしかないといわれているようで少し辛い。そうした別の説明方法を知りたいと思う。

8月22日(水)
「禅と日本文化」が意外と面白い。これまでは、禅に拒否反応をもっていた。難波さんの影響が大きいが、その理由がしっかりと記述されている。「禅は知性主義に対立して直感を重んじる」p36。あるいは、「禅は文字の知識を軽蔑し、究極の実在を直接に把握するためには最も有効な手段」であり、「経験主義・神秘主義・および実証主義はきわめて容易に手をたずさえて歩くことができ(中略)この三者はいずれも、経験事実そのものを求め、その事実のまわりに知識的構造を気づきあげることを嫌う」p111のである。きっぱりと形式することを否定すらしている。あるいは、「禅は直感的理解の面に踏み止まるため、最善の方法をつくす。そして、念象・表象・および詩的表現というべきものを自由に使役する」p112。しかし、そうした禅にたいしては、西洋の因果律から拒否反応がある。それが禅を遠ざけていた理由であるが、それにたいする解答も与えられていた。これが発見であった。それは、「華厳」とペアにして考えることだという。華厳宗の参究者、澄観と宗密(8世紀)がそれを行った。華厳哲学は、非因果的とは別種な知的形態を、縁起論を用いて、禅に知的作用を訴えるものでのであったという。

8月21日(火)
トルコへの移籍の噂が絶えない香川が、初戦のカップ戦にベンチ外となる。ネットが充実しているとはいえ移籍情報は噂ばかりであり、核心をつくものではない。おそらく多くの人が気にする欲望が、無尽蔵の情報をつくりだしている。午前中に、白駒池に行く。苔の森である。今年のJR東日本のポスターにある。まばらに立つツガの根元が広く苔に覆われている。地盤が固いためだろうか。根が地中深くまで生長しないため倒木も多い。その上の苔が時間を感じさせてくれる。安藤忠雄設計の小海町高原美術館へ。その隣に新しく温泉施設もできていた。木造の小屋組があらわしの建物である。15年くらい前は閑散としていたが、この温泉施設の利用者のため賑わっている。皮肉である。長坂インターから帰る。長坂インター手前に広がる北斜面の農場が美しい。以前、タダリコという店で食事して、その前面道路の風景に見入った。

8月20日(月)
小布施図書館により、長野自動車道を利用し安曇野へ。いわさきちひろ美術館。そこから美が原高原道路から王ヶ頭峠へ。途中の尾根道が美しい。そこから奥蓼科に抜ける。「禅と日本文化」文庫本 鈴木大拙著を読みはじめる。

8月19日(日)
小布施に行く。5〜6年前の理大の川向先生と行ったワークショップ時と街が大きく変わっている。そのとき千葉工大として参加し、街の構造を分析した結果、広場にポータブルな大きな池をつくった。それは、街に中心部を形成することを目指したものであった。その時は、小さな水路と、通り抜けの小道と小さな広場が町に沢山あったのだが、そこにまとまりがなかった。ぼくたちたちの案はその町の構造を補強するものとして考えた。しかし今回の訪問で、その小道がはっきりとかたちつくられていたことが分かった。町のインフォメーションセンターを兼ねた小さなB&Bホテルを宿泊場所したのだが、その建物自体が通り抜け可能となっていた。土蔵をリノベーションした宿泊部屋は分棟式で、その外廊下が通り道であったのだ。そうした建物が沢山できていた。チェックインを済ました後、北斎館(宮本忠長設計)に行き、北斎の肉筆画を観る。当時のワークショップで工藤国雄さんもいっていたが、北斎の精度と迫力に改めて圧倒される。美術館自体も明るくリノベーションされていた。夕食を近くの江戸時代の酒蔵を改築したレストランでとる。空間に合った味噌とか麹を使った料理であった。

8月17日(金)
急に湿度が低くなり、気持ちよい日になる。夕方、技術評論社へ。翻訳の打ち合わせ。建築分野外との打ち合わせは新鮮だ。技術評論社は、IT企業向けのビジネス書の出版が多く、その話題が多くなる。その中で、新しい働く空間のあり方に興味をもっていることが印象的。フリーアドレスもあるが、空間的にゆったりしていて、オフィス内に居心地の良い空間を、どの企業も求めているようであった。その流れは、明らかにフランクゲーリーのグーグル本社にあり、日本のIT企業といっても、もとは米国で、大きくその影響を受けているようだ。つまり、IT社会も建築と同様、ある共通認識化された世界をもっていて、情報の流れは速いことがわかる。そして彼らはその空間からフラットな人間関係を表す会社のあり方を感じているようである。とはいえ、多くは東京の高層ビル内にオフィスを構える点で、外に対する建築のような批判的な視点は持ち合わせてはいない。それはアメリカでも同様で羽生田さんがいうには、グーグルなどあまりにもオフィスが快適であるので、街に出なくなり、その規制をしているという。まるで地方都市におけるイオンのようだ。どこも抱える問題は似てくることを痛感する。ところで、ITにとって離職率改善は大きな問題のようだ。要するにそれだと教育に時間をとられて、技術の集積に役立たないそうである。「ティール組織」はそういう点でも的を得た本であるという。新しい分野から社会変革が起きるのはこういうことだろうと思う。帰りの電車の中で中埜さんと立ち話。ネットワーク図がツリー構造の上から見たものであるという指摘に驚く。そこから、水平的思考と垂直的思考の違いについて、事務所に戻り考える。ツリー構造のどの高さを切断するかで、ネットワーク図が変わるのである。フラットな構造も俯瞰的視点をもつとツリーとなるのである。ツリー構造の切断位置とは何かについて考えてみよう。

8月16日(木)
午前中病院へ。先生の都合で、次から新橋の病院へ変わる。小さい病院は、大学病院と異なり経営陣からの直のプレッシャーは相当なものであるという。昼から新横浜へ。大きい街の割には、何もないことにビックリする。駅の東側は古い住宅街で、突然と新横浜駅ができたのだろうか、全くの商店街もない。線路が大きな壁となっている。その駅の西が新しい大規模開発の街であり、横浜競技場もある。離図で見ると南が古い街で、そこまで歩くことができず。

8月15日(水)
夕方から時間をつくり仙川に行く。よく通っていたときからだいぶ変わってしまって、昔が分からなくなる。駅中心が開発され、さらに安藤建築により駅が中心でなくなり、街が分散傾向にあるのがよい。

8月14日(火)
「暗黙知の次元」マイケル・ポランニー再読。発見は、対象知でなく方法知によるものであることを確認。方法知がトリガーとなって発見が促される。つまり、設定されたプログラムから別の新たな知が生じることをこのことは示している。暗黙知とは、まだ説明がつかないものをいうのではなく、科学的な発見や創造的な行為に作用する知のことで、存在するものである。ポランニーは、部分が組み上がりひとつの包括的なものになるには、暗黙知という存在がない限り論理的説明がつかないとした。

8月13日(月)
「時を超えた建設の道」アレグサンダー著を再読。ドーキンスを近頃読んだこともあるが、多くの類似点があることに驚く。本書は、秩序あるいは全体とは何かを探究する。ドーキンスによれば、進化が何かということである。その秩序は、生物が生まれるように、「つくられる」のではなく、個々の細胞の時々刻々の漸進的な適応にまかせるようなプロセスによって生成されるにすぎないものという。この本の素晴らしさは、美しさの分析ができても、それを生成にまで高めることはできない。その難しさに正面から問うているところにある。それを単なる人間主義に陥ることなく、あるいは論理的説明をギブアップしてしまうこともなくトライしているところにある。そこに、ドーキンスのように確率論で押し切る歯切れ良さはないが、問題を二項対立させそれを説くことによる内面化と、曖昧であった現象の精緻化とが不可分であることで、これを説明しようとしている。

8月12日(日)
098 プレミア アーセナル×マンチェスターC 
ピッチ上に元ドルトムントの選手がいっぱい。ギュンドアン、ムヒタリアン、パパロクロス、オバメヤンらである。デンベレのアーセナル移籍は成功しなかったようだ。W杯後は大きく選手が動く。シティは、マフレズが新加入くらいであるが、調整不足でブライネらはスタメンから外れている。はじめの得点は、それでもイングランド代表のスターリングからであった。とはいえ、アーセナルの守備の甘さがまねいた。中盤底のオリー、ジャカをはじめ、アーセナルはかなりメンバーが昨季と異なる。攻撃ではオバメヤンは仕事ができず。ドルト時代、基本的にはサイドに開き、スペースを空けておくことが多かったが、そのスペースを味方とシティに消されていた。ブンデスのチームとシティのレベルの違いかとも思う。0-2でシティが勝つ。エメリ新監督の厳しいスタートとなった。

8月11日(土)
096 プレミア ニューカッスル×トットナム 
武藤がニューカッスルに加入。後半80分から出場。トップ下あるいは2トップの一角であった。相棒は強靱な体力もつ新加入のロンドン。しかしニューカッスル、ベニテスの狙いは今のところ不明。とにかく今季、お金をかけてメンバーを一新した。武藤もその一人である。ビザの関係で前日まで帰国していたというので、コンディション不足だろう。今後に期待する。今日の試合を見る限り、武藤に課せられているチームコンセプトは見えなかった。
097 Jリーグ 神戸×磐田 
イニエスタの美しいシュートをニュースで観て、ポトルスキーとの連携をDAZNでチェック。「世界を知る者同士の連携」というフレーズに煽られたかたちであるが、実際観ると美しい。ポトルスキーとの練習は1日のみだったそうで、それでこのレベルである。試合の中で彼らは絶えず、FWの古橋は見ている。イニエスタは背後へのパス、ポトルスキーからは大きなサイドチェンジ、が度々古橋に来る。古橋はまだ23歳。今後の伸びに期待である。二人のポジションが被らないのが不思議である。ポトルスキーはサイドにへばりつき、イニエスタはチャンス以外、前線には上がらない。美しいシュートは、その数少ない連携から生まれた。15分早々であった。サイドへばりついていたポトルスキーが、これまではシュートを放っていたのだが、このときのみイニエスタが中央のスペースに入り、そこにラストパスがと通った。ところでDAZNは、サッカーコンテンツを独占しつつあり、数時間後に改めてこうしたチェックができるようになった。DAZNは今季、CLの放送権もとった。しかし、ブンデスを反対にスカパーに手放すことになる。ユーザは相変わらず両方を加入しなければならず、これはこれで問題である。サッカーが広く世界中に共通するコンテンツとなり、毎年放映権が上昇している。そのため日本では、単独では赤字となることが避けられず、他のコンテンツとの抱き合わせからその経済性を確保していると聞く。そうしたなか強くなるのは、携帯占有率をあげることに将来的な展望をもつ、ソウトバンクやNTT(DAZN)である。実はその損失は携帯パケット金に反映はされている。

8月10日(金)
「ダイヤルMを廻せ」ヒッチコック監督を観る。ストーリーが2転3転する。ほとんどのシーンが事件現場となる夫婦の部屋内であり、玄関と反対側からの撮影である。その退屈さをストーリー展開と、登場人物が部屋を出たり入ったりすることで押し切る。もともとは舞台演劇であったそうで、それに納得。品があるグレース・ケリーも、役としてはいまいち。恋多き、男に振り回される女性として描かれている。
095 プレミア マンチェスターユナイテッド×レスター 
プレミアが早くも開幕。W杯決勝から3週間である。バーディは先発外れるも、フランス代表ボクバは先発する。このように、選手の疲れとモチベーション低下のためW杯年のリーグ戦は荒れるといわれている。岡崎はベンチ外。レスターは半分が新加入選手である。10番マディソンはこれから。岡崎が昨季まで、なんだかんだいってもバーディとの絡みは一番であった。そのバーディとの今後の関係が注目だ。途中出場のラシド・ゲザルはマフレズの後におさまりそうである。どうも、レスター、クロード・ピュエル監督は、ポジションサッカーを目指しているようだが、絶対王者バーディの速攻との折り合いが問題である。ベンチにエヴァンスがいるのに驚く。

8月9日(木)
「知識デザイン企業」紺野登著を読む。著者は、野中郁次郎との共著が多く、建築出身である。この本でも、組織論を軸にして、暗黙知やパタンランゲージについてが書かれている。現代のデザインは、「知識デザイン」になっていくという。知識デザインとは、形式知から暗黙知、さらに形式知へと、知識の流れを上手く(上位に)することだ。戦後の多機能追究から、Macに代表されるモノのデザイン、そしてAIに代表されるソフト知識デザインへと時代が趨勢してきたことがよくわかる。HowからWhatの方向である。目的重視といってもよい。パタンランゲージはこれを可能にするタイムリーな道具として、本書で扱われている。アレグサンダーの「Timerless way of building」で扱われている「名付け得ぬ質」について言及していることに驚く。デザインを生むことは何かについて正面から取り組み、この超越性の説明を避けていなかった。しかし、それは難しい。パタンランゲージの利点を3点挙げている。近視的と俯瞰的両視点(ユーザ志向と専門性)、再利用可能性、そして、異種異質の要素の綜合、である。このパタンの構造をもとに暗黙知を意識して、再び内面化できたものを、「名付け得ぬ質」といっている。

8月8日(水)
一連に読んだ著書とパタンランゲージとの関係を考える。パタンを運用するには、パタンを辞書のようにただ羅列するだけでは無駄である。包括的なものにするには、他のパタン、あるいは既存のパタンからなるもの、などと利害を対立させることが必要そうだ。ただし、パタンランゲージの構造は、コンテクストに馴染む方向で考えられている。したがって、能力のある専門家しか新たに対立項を見出せない。一般の人にとって運用が難しいとアレグサンダーは考えたのではないか。その証拠として、盈進学園のプロジェクトランゲージは、最もらしいことしか書かれていないので、次の段階(かたち)に進めることができていない。そこで、アレグサンダーは敷地という対立項によって、敷地と格闘した。この考えが正しいかどうかパタンの構造を調べる。意外と対立項を同時に扱っていることに気づく。パブリックとプライベート、裏と表、内と外、中心と周辺、機能性と伝統などがあった。ファシリテーターのコツがここにある。

8月7日(火)
翻訳続行中のラル-著「ティール組織」におけるキーワードは、自主経営、全体性、存在目的あるいは進化する目的である。それに基づきここしばらく、H・サイモン、ウィルバー、ドーキンスの一連の著書を読んできた。どれもダーウィンの進化論を拡張解釈するものである。あるいは機械論的方法によって、いかに創造性をもたらすかを考えるものであった。それは事後的な説明を否定し、先の見えない未来を前提に進行形のかたちで方法論を描くものである。池辺さんのいう「名前のない空間へ」を説明するものと考えてよいだろう。そこには、進化といっても、安定した水準から安定した水準への不連続な前進の繰り返しのことが書かれ、進化はたえまない上昇ではないことが特徴的である。これを前提にしなければならない。そしてサイモンは、その安定した水準をニッチといい、ぼくらは直感、あるいは感知によって、ニッチを精緻化することしかできないといっていた。その精緻化されたニッチが、ある組織で通じると文化というものなのだ。つまり文化を結果物としてみている。したがって、数は多くないが多々のニッチが見て取れる。後述するが、それがドーキンスと異なる視点である。しかしどの著書も、こうした個体による直感あるいは感知されたものの総体が、全体性あるものになるということで一致している。そしてその方法論に特徴を置いている。「ティール組織」の主たるテーマも、具体的にそれを提案することであった。その中でも異色なのはドーキンスである。ドーキンスには人間主義的な考えが一切なく、徹底的に目的をもった個の利己的遺伝子によって動く機械と生物を考える。したがって歯切れがよく、例えば、自然にたいして、それが包括的であるとか全体的であるとかの価値をもたせるような俯瞰的視点を持ち出すことはない。したがって文化という視点もないのだ。C・アレグサンダーは、ウィルバーに近い。ドーキンスと異なり、パタンあるいは幾何学特性が全体性を得るまでのプロセスに、人間主義的なダイコトミー(2項対立調和)を加味させながら進行させることをする。パタンらを、バラバラな細目から世界へ拡げるには、身体との同化、つまりパタンの内面化が必要とされるというのだ。この人間主義的思想に拘りがある。そう考えるとその結果できた建築は、様々なものがあってよいと思うのだが、アレグサンダーは