11月12日(月)
2年生の第1課題講評会。これまでにない密度ある作品が垣間見ることができた。総合的に考える視点がいい方向に向かっている。錦織×フェデラーの録画を早朝観る。フェデラーは勝つために、一球一球に一喜一憂することなく淡々とリズムを保つプレースタイルを確立してきたことが判った。サーブは狙うのでなく、リズムをもって打ち続けるだけのことなのだ。よいリズムを続けることで、トータル的に得点できるという解釈なのだろう。錦織の奇跡的なリターンを繰り出すことによって、フェデラーのリズムが狂い、久しぶりにフェデラーに勝つ。

11月11日(日)
車で洛北へ移動し、蓮華寺へ。以前、瑠璃光院に行ったときに時間がなく寄れなかった。小さな寺で回遊式池に映りこむ紅葉がよい。池を横目に本堂をまわる。その後、八窓軒を観るため曼殊院門跡へ行く。3度目である。新居さんの展覧会内容をもう一度確かめたいと思った。生憎、アプローチ迄となる。ふたつの不動造と掛け軸を観入る。圓光寺へ。近代化された寺で少しがっかりする。秋の永観堂というので、永観堂へ向かうも駐車場がなく断念。ロームシアーター京都へ。前川國男氏の京都会館の生まれ変わりである。会議場が空間的に豊かなレストランになり、1階の事務周りが蔦谷書店+カフェになっていた。第1劇場アプローチバルコニーが室内化され1階が比較的自由往き来できる空間になっている。かたちや利用方法が保存され、オリジナルの意味が尊重されたよい改修であったと思う。谷口吉生設計の京都国立博物館へ。宿泊先の窓からよく見えていた建物であった。きっちりとした建物である。夕方帰京。「利休をたずねよ」田中光敏監督を帰路観る。一昨日観た「利休」と異なり、ラブドラマ仕立ての映画であった。利休の茶と朝鮮との関係は以前から類似性が指摘されていた。その利休の志す美は、昔の恋人に由来するものであり、その彼女が高麗から売られてきた偉人の娘という設定であった。牢屋の中のその高麗女の輝きが、暗闇の茶室における美の原点であるというのだ。利休はあくまでも孤高の人であり、迷いがない。秀吉、山上宗二は、徹底的に酷い者として扱われているのも特徴である。利休の妻宗恩が、利休形見の高麗人の香壺を壊そうとし、死去した利休に訴えた言葉がタイトルであった。
132 ブンデス ドルトムント×バイエルン 
非常に攻守の切り替えの速い展開で、エキサイティングなゲームであった。後半ドルトは、ロイスが幾度もチャンスを逃し、これまでかと思っていたのだが、ロイスのスーパーゴールで追いつくと、逆転に成功した。勝点差を広げる。これでチームも再び上昇気味も、香川はベンチ外。彼にとって厳しい状況は続く。

11月10日(土)
朝、散歩がてらに西本願寺へ。残念ながら、飛雲閣が修繕のためすっぽり工事囲いがされている。本堂と薬師堂を観て回る。その後、車で高山寺へ。紅葉のため混んでいる。台風の被害を目の当たりにする。大きな杉樹が倒木し、山頂の金堂、開山堂まで行くことができなかった。その代わり茶室遣香庵を観る。近代草庵茶室でシンプルであった。小さな前庭は小川治兵衞と聞く。わかりやすい。釣鐘堂も面白い。笠屋根の中央に鐘が吊られていた。その後、西明寺へ。静かな小さな寺である。本殿東の側廊部分と客殿のつながり部分が落ち着いた。雁行上に庭を囲む縁側である。神護寺へ。長い長い階段であった。瓦投げまでいくきになれず。本堂で引き返す。途中、紅葉の綺麗な茶屋でうどんを食べて、山を下りる。琳派の村へ。光悦寺は残念ながら、茶会があり、アプローチまでしか行けず。紅葉の露地である。源光庵へ。正円と正方形の禅窓で有名である。それよりも、それがある本堂の幾何学の正確さにビックリした。本尊の横にあるこの禅窓のある部分は、白漆喰の垂壁に囲まれが、空間性を強くしていた。もちろん中央部分の天井は高い。均質な柱空間の中にムラがあったのである。収穫であった。吉野太夫ゆかりの常照寺には寄らずに帰る。光悦との交流があったことが計り知ることができた。大徳寺へ寄り、ホテルへ。高瀬川沿いの町屋風ホテルである。ただし、リノベーションではなく、あくまでも町屋風であった。少し歩いて町屋のイタリアンで夕食。アプローチを敷地奥まで引っ張り、中央に厨房がある配置である。そしてトイレが中庭越しにあった。無口でひたすら料理をする職人仇のシェフで、美味しかった。NHKで伊東豊雄の特集、続けてユージン・スミスの特集を続けて観る。伊東豊雄の最近の作品の見解を、写真家小松義夫が対談によって明らかにする。皆が生き生きする場の創造がテーマであり、それは日常の中で垣間見ることができるものであるという。これをいかに専門家がフォローできるかというのが、伊東のテーマであった。ユージン・スミスは、写真家として、水俣病患者に迫った。これは昨年の写真美術館で生を観た。そして驚いた記憶がある。テーマは、日常ではあり得ない水俣病患者にいかに迫ることができるかである。その溝がつまらないからこそ、ユージン・スミスの気迫が感じられる作品であったと思う。当たり前なことを作品にすることの難しさを感じる。作品には、拒否しようとも批判性が必要とされてしまう。

11月9日(金)
「利休」勅使原原宏監督を観る。利休を廻る戦国史である。茶がこのとき、政治的な会談の切っ掛けをつくっていた。そうしたなかで、善人利休の心の乱れを表現する。一般的に、利休は美に徹していたと言われるが、実は政治に翻弄されていたというのである。ラストの待庵での秀吉との問答は迫真があり、精神性を伴う利休美が完成する。ストーリーを抜きにして、この映画では数々の文化財を観ることができる。織部好みの黒茶碗「わらや」や長谷川等伯のふすま絵、掛け軸などは本物を使用しているようである。長次郎「「大黒」、「無一文」、「待庵」は違うような感じがするのだが。夕方、京都に行く新幹線の中で観る。

11月8日(木)
131 CL ユベントス×マンチェスター・ユナイテッド 
ホームユベントスが、完全にゲームをコントロールするも、追加点を逸しているうちに、2本のセットプレーで、85分過ぎにユナイテッドにやられる。ここに大型FWのフェライニの途中投入が絡んでいた。日本代表の試合の流れを思い出す。試合巧者のイタリアユベントスでさえもであった。ユナイテッドは勝ったとはいえ、退屈なゲーム展開である。数年前のモウリーニョの負けないサッカー観から、戦術観が確実に変化しつつあり、そのために、退屈に思えてしまうのである。

11月7日(水)
3年生後期第1課題の講評会。総合的な解決方法を試みた作品が選ばれる。その中で、新しい環境装置が前面にかたちになった作品が一番になった。新しい傾向である。
130 CL アトレチコ×ドルトムント 
前回とは打って変わり、ドルトは何もできなくなった。理由は難しいが、速い両サイドの動きが封じられ、中央が固められてしまった。途中から、ゲッツエを投入するも打開策を見出すことができず、0-2の完敗。サッカーの奥行きの深さを感じた。シメオメはしてやったり、と言わんばかりだ。香川は、2部での試合に出場したという。コンディションを整えるためである。これを前向きの期待と感じ、訪れるチャンスで下降気味のチームの活力となって欲しい。

11月5日(月)
「ティール」本の最終校正の激しいやり取り。深夜まで続き、方向性を決め、明日の作業とする。頭を切り換えるために、見残していたプレミアを深夜観る。
129 プレミア アーセナル×リヴァプール 
1-1-のドロー。実に見応えのあるゲームであった。両チーム共に機敏である。ドルトムントもそうであるが、W杯を境に主流になりつつある。フランス代表に見られるように、両サイドが早く、中盤でボールをポゼッションすることはない。ボールを叩いて、スペースへの展開を行うことが最大の役割である。日本代表もこのパタンを継承しつつあるのを感じる。フランス人監督デシャン、アーセナルウメリ、ドルトファブルはこれに成功し、ハリルボシッチは失敗した。ところが、ハリルはナントで成功をおさめているようである。

11月4日(日)
車で遠出する。蔵をリノベした蕎麦屋へ。外装の外に新しいレイヤーをひとつつくり、そこに新しいアプローチ機能、椅子席などをつくる。その構造が骨太であるのが気持ちよい。その後、紅葉を観て回る。渋滞が続くので、街中のレストランへ。料理はよくも、昼と比べると建物がよくない。木造のプレハブにハリボテのインテリアであり、この差は大きい。ジェコビッチが決勝で負ける。相手は、22歳のカチャノフ。大型な選手であった。ジェコの連勝は22で止まる。先々週カチャノフは優勝を果たし、先週は、錦織によって押さえられていた。この試合は、錦織にとってベストゲームと言われている。

11月3日(土)
早朝の試合で、錦織がフェデラーに負ける。ブレークを奪うことができずに、各セットで1ゲームをブレークされた。なかなかこの壁を越えられない。TVで上野の特集を観る。フェルメール展、デュシャン展、快慶・定慶展があることを知る。ちょっと時間をつくろう。錦織を破ったフェデラーがジェコビッチと死闘を繰り広げ、負ける。この差は僅差である。
128 ブンデス ヴォルフスブルク×ドルトムント 
香川ベンチ外。最近ポジションを掴めつつあるゲッツエがコンディション不足のためよいチャンスであったのだが、違う攻撃の選手が優先される。前回のアトレチコを境に、ドルトムントの調子も下降気味。奇跡的なプレーが起こらなくなってきた。主力の疲れが溜まってきたためだろうかと思う。その意味、香川はチャンスである。結果は、なんとか1-0で勝利。バイエルンが引き分け、勝ち点を広げる。

11月2日(金)
中埜さんと打ち合わせ。最終的な方針を決める。深夜、「ワン・フローム・ザ・ハート」コッポラ監督を観る。「地獄の黙示録」と平行して製作されたという。全てがスタジオ撮影で、舞台のような仕上りの映画である。興行的に成功しなかったこともうなずける。中年男女の恋愛物語であるので、勢いがない。その中で、よいアクセントとなっているのがナターシャ・キンスキーである。その後のヴェンダースの「パリ・テキサス」で魅せた美しさを予感させるほど、際立った尖った存在であった。

11月1日(木)
卒業設計の中間発表。かたちにまで提案を高めてくる案が、総じて少なかった。学生は、この力を侮っているようだ。考えたこととかたちは決してシームレスであることはない。かたちという結果から、考えていたことが何かを、時間を遡って知ることができる。逆に線としてつながっていくのだ。この感覚をぼくらはおぼろげには知っているのだが、それを使いこなすこと、これはなかなかできるものではない。ここに、素晴らしい才能が隠されている。

10月31日(水)
午前中の会議で、今日のエネルギーを使い果たす。ティールの本にもあるのだが、こうした会議に終始することに未来はないことを感じる。もっと前向きな行動のためとしたいと思う。

10月30日(火)
卒業論文の中間発表。正確さが要求されるので、冒険が出来ずに、当たり前のような結論に陥ってしまっていることを散見する。卒業設計において、柱を描かかせる等、とにかく最低限の図面としての体裁を整えさせようとするが、それと同じことなのだろうか。上から制度で覆い隠すことはできるだけ行いたくないものであると、自分を戒める。

10月29日(月)
大迫のゴールと、久保のアシストを、ダイジェストで確かめる。海外で活躍する日本人選手がそろそろ変わってきた雰囲気がある。彼らが、思い白い戦術を可能とするクラブに行くというのだが。

10月28日(日)
1日中、校正に時間をかける。錦織の決勝の放送に気づくも、山場なく負けてしまった。
127 スペインリーガ バルセロナ×レアル・マドリード 
サイドから徹底的に攻めるバルサが前半でゲームを決める。パスなどの確実性があるも、昨日のドルトムントの方が、スピードがあった。いまいちの盛り上がりである。

10月27日(土)
126 ブンデス ドルトムント×ヘルタ・ベルリン 
圧勝となるはずの内容が、今日は引き分けに終わってしまう。決定力を発揮すりことできなかった。中2日という疲れのためだろう。時折見せる速攻でのフィニッシュで、ミスが多かった。これで連勝が途絶える。香川はベンチ外。

10月26日(金)
深夜、はじめて「もののけ姫」を観る。刀剣美術館へ行き、たたら製法を知ってから、この映画でも舞台として扱われていることを知った。テーマは、様々なパラダイム内部葛藤と外部への闘争である。単純化された自然対人でなく、もちろん人対人もあるし、生きもの対自然もある。そしてその上に存在するのが、生命や環境を司る神のようなものである。その下であらゆるパラダイムが右往左往している。あるもの、例えば愛とかが特化している訳でない。この神のような存在の描き方に苦労しただろうと思う。この映画で神は、あるときは動物、最後には黒く強大な人間のかたちをしたものとして描かれているが、少し具体化しすぎたのでないかと思う。この演出にまだ残された余地があるような気がする。

10月25日(木)
午前は、新橋に行き、午後は会議。夜は、中埜さんとのミーティングをもつ。精神論としてではなく、ツリー構造をセミラティス構造に変えていくことに、ぼくらの働きが必要となると思う。ネットワークグラフを立体的にすることで、このことが見えてきた。この考えに気づけたことに今回の翻訳に意味があった。これを上手く図示化したいのだがと思う。

10月24日(水)
125 CL ドルトムント×アトレチコ・マドリード 
ドルトムントがアトレチコを圧勝した。4-0である。シメオネにとって最悪の試合となったという。3点は、終了間際の点を獲りに来たアトレチコの裏を利用したことにもよるが、アトレチコを叩きのめしたかたちである。今日は絶好調18歳のサンチョを休ませ、左サイドのハキミの攻撃がとくによかった。そこが起点となる。しかし、そのサイドを徹底的に狙われていたことも事実で、バーによって助けられるなど運もあった。もし得点になっていたら、ゲーム結果も変わっていたに違いない。それにしても、ドルトの力強い速攻は目を見張るものがある。これに香川が加わることができれば、香川にとっても成長となる。香川がこれまでできなかったスタイルである。

10月23日(火)
124 CL マンチェスター・ユナイテッド×ユベントス 
アウエーのユベントスが前半で得点すると、そのまま逃げ切る。なんと固い守備だろうと思う。

10月21日(日)
奥田研究室のOB会に出席。出席するメンバーも固定されてきたようだ。先生もお元気である。皆との情報を交換し、夕方事務所に戻る。雑務が多く、少し混乱。

10月20日(土)
1日中、翻訳に集中。全ての作業を終える。
122 プレミア ニューカッスル×ブライトン 
武藤先発。特に見せ場なし。相手DFラインで、ボールを待つのであるが、動きが単調で、配球がない。前戦に鮮やかな得点をしたとはいえ、このままでは苦しい状況が続く。サイドに流れるなどの動きがいるのでないか?
123 ブンデス シュツットガルト×ドルトムント 
ドルトムント躍動。チームは攻撃においてピークである。中盤ロイスが中盤底まで下がり、両サイドが攻めあがる。若い両サイドは、空いたスペースを自由に使っていた。大きなダイレクトパスで、DFをボールをもっている選手に集中させない。4-0の圧勝。これでCLで。アトレチコをホームに迎える。香川はベンチ外。3番手からの逆襲に期待する。

10月19日(金)
夕方、中埜さんと打ち合わせ。だんだん考えが明確になってくる。全体性について表現することは、難しく、少し蔑ろにしていたのであるが、このところ皆もその存在を無視できなくなっている。それについて、書く必要があるということである。その前に、頭を打った妻が頭痛いというので、病院の検査に付き合う。深夜 BSで「フェリスはある朝突然に」ジョン・ヒューズ監督を観る。ここからパロディが生まれるほどの影響力が何かを知りたいと思った。ある日の半日を描いた青春ドラマである。シカゴ・カブスの本拠地やシカゴ美術館など、いろいろな観光名所が紹介される。ロートレックやゴッホが紹介される中、スーラがキーとされる。スーラのドットが若者にがつんとくるのである。点描によって、色が濁ることなく、発色のある絵を完成させたものだ。誰もが不幸になることなく、かつエイリアンが現れることもないのだが、痛快さを感じさせてくれた。

10月18日(木)
塚本由晴さんを迎えてのレクチャーシリーズ。タイトルは、「資源的人の建築」。塚本さんが、3.11以降の仕事をまとめて説明してくれた。ぼくなりに解釈すると、これまで培われていたネットワークの見える化である。人のネットワークに置き換えることでそれを可能にしようとしている。政府は、数の復興を行ってきたのだが、実はネットワークの復興こそが大事であるという。人も建築も様々なネットワークの中に置かれている。現代は、それをモノやお金のネットワークに置き換えてきたが、農村部や地方は、長い間培ってきたそれこそが財産で、幸福の源であるというのだ。前回の石川さんのレクチャーでもあったように、現代版ブリコラージュが注目されているようだ。

10月16日(火)
121 代表 日本×パラグアイ 
前線の4人が躍動し、前戦とは打って変わってゲームが盛り上がる。彼らは海外のクラブで活躍している人たちである。ボールを受けると、必ず相手DFにたいして、仕掛ける動きをし、危険な存在であった。追いすがるパラグアイを、守ることなく、攻めきった。とはいえ、守り勝つという文化を日本にも根付かせる必要があるのではないか?

10月14日(日)
天気が予想より早く回復し、思い切って遠出することにする。これまで知らなかった道を通って八ヶ岳をまわり、食事をして夜遅くに帰宅。「ダーウィンとデザイン 進化に目的はあるのか?」マイケル・ルース著を読みはじめる。

10月13日(土)
1日中、ダイアグラムの作成。ティール本書におけるブレークスルーの位置づけをはっきりさせる。制作から生成への意志の必要性を再確認。深夜NHKでモネの生涯を追う特集を観る。モネだけが、印象派の巨匠の中で生前に評価されていた。オランジュリー美術館にある睡蓮の大作は、死後まで発表を控えていたのであるが、80歳半ばまで現役であった。晩年は白内障を患い視力もなかったという。ドキュメンタリーによると、妻の死後、人物画を描かずに、風景に向かい、特に光りに対する執着が色濃くなったという。ルーアン大聖堂の連作などは、2〜3ヶ月の旅の間に制作したものだそうだ。その間の後期は、ジヴェルニーに居を構えていた。睡蓮の初期バージョンは素晴らしい。池に映り込む風景が、重力をなくし、軽さが幻想的である。この夏に、横浜美術館で、モネの回顧展が開催され、モネの作品と同時に日本の現代作家の影響が展示されていた。同じような企画は、バーゼルのバイエラー美術館でも過去に行われていた。そこでは、リヒテンシュタイン、マーク・ロスコ、ジャクソンポロックなどのオマージュが出展されていた。モネの光りや構成を抽象化した作品である。現代絵画も(建築も)、巨匠たちが残した手法の抽象化しか道が残されていなかったことがわかる。そこに驚異を感じると同時に、先細りの刹那さも感じる。事実、マーク・ロスコは自殺に追いやられた。しかし、モネは、多様な自然を表現仕切れない自分の未熟さを糧にし、アーティストのポテンシャルを無限に獲得できていたことになる。主題を外部に置くか、内部に置くか、その差を感じた特集であった。ちなみにモネは花を育てることも好み、ジヴェルニーの庭園は、植物園のようであったという。

10月12日(金)
121 代表 日本×パナマ 
3-0で勝つも、いまいちの盛り上がりである。スター選手の不在もあるが、これだけ日本でも、世界中のサッカーが観られるようになると、チームコンセプトのインパクトが重要になってくる。W杯というような当座の目標がない場合、ファンを惹き付けるには尚更必要となる。あくまでも、エンターテーメントであるのだから。森安監督の、インパクトなしのこの段階での選手模索が、ゲームを面白なくしている。途中から、話題性の勝る錦織戦へ視聴を変えてしまった。
上海マスターズのセンターコートで錦織×フェデラー。屋根が放映されないのは残念。1.5万の一体感が感じられないのはいまいちかと思う。円形を型どった上の部分がよく見えなかった。途中から、錦織が躍動し感触を掴んだに違いない。それでも、フェデラーに踏ん張られた。深夜、「アメリカの友人」ヴェンダース監督を観る。彼のハリウッド前の作品と記憶する。舞台は、ハンブルク、パリ、ニューヨーク、ミュンヘンと各地に飛ぶ。サスペンス映画でストーリーにも惹き付けられるが、映像密度に圧倒される。それは、出演者の背景となる都市風景の選択にも表れている。何となくというぼんやりした印象的なものでなく、コンセプトがはっきりしている。パリの背景に、ポール・アンドリューの空港もさることながら、スーロネンのフゥトロハウスが小さくあったのにビックリした。それに色。死んでしまった街に色が動きを与える。開発前のハンブルクには哀愁があった。

10月11日(木)
校正しながら、あとがきについて考える。今までは、組織図を断面的に見ることに慣れていた。そうすると実は、上と下のつながりが見えづらいことに気づく。しかし、自然のヒエラルキー構造があるとしたら、その全貌を見るためには、中間の存在が重要となる。中間の位置で流れを良くし、上下を繋げようとする考えである。ネットワークグラフで中央部分が見えなくなり、黒幕が存在することと同じである。上と下の距離が縮まり、タテ組織から水平組織へということだろうと思う。NHKで特集「マネーワールド お金が消える」を観る。当然のことながら、お金は流れる(消費される)ことで価値が生まれる。留まっていてはただの紙切れだ。日本に限らず世界中で、政府の信用不安から、こうした現象が起きている。そこで、様々な(消費誘導)方法を資本経済は考えているというのが、本特集のひとつめのテーマである。電子マネー取引がそれである。より効率よく、お金の使用感を低くするためのもので、資本経済のさらなる加速を狙ったものである。仮想通貨もそれである。ただし、ここに番組のふたつめのテーマがある。それは資本に対する信用というものである。前述したように、紙幣を発行する国の信用、つまりこれは金本位制にもとづくものであるが、この信用は薄れつつある。仮想通貨は、現在投資目的のためのものであるが、本来は、全体量が数学で決定され、そのもとに発行が細かく分散され、場所に囚われずに皆にオープンになっている、しかも使用履歴も保存されるところにある。信用が一部の特権化された人のもとで行われる保証によってなされるのではなく、IT技術によって、参加者全員の管理になるというのである。同様に権利の分散化ということでは、時間通貨というものもある。ひとりひとりのもっている実時間を取引するものだ。このように現在、お金の信用が、金、国家、テクノロジー、時間と様々になってきている。このことを示す特集であった。

10月10日(水)
授業進行について担当間でメールでのやり取り。建築が完成するまでには多くの専門分野があり、そこからのアドバイスで、アイデアに厚みが増すことを示す時間にしてみたい。そのために、今回の発表授業では、選ばれた発表作品をネタにして、他分野の先生が何に注目しているかを聞くことを中心にして、議論を進めることを提案する。ぼくはといえば、そうしたことを聞き出す黒子役に徹する。可能なら、発表できない学生を考慮して、できるだけ個別解の講評にとどまらず、彼らが問題意識を共有できるように話を拡げることもしよう。これは、ラルーの本に書かれていることでもある。ちょうどそこの部分に引っ掛かり、訳し直していたところであった。それを実行することにする。

10月8日(月)
深夜、「ニュー・シネマ・パラダイス」トルナトーレ監督を観る。この歳になるまで、真剣に観る気持ちにはなれなかった。中年男性との若者の成長物語である。中年男性は、様々な事情から、幼いときから映写室を離れることができなかった。しかしそこは、安住を許す程の宝の詰まったパラダイスであり、誰にも触れさせたくないものであった(作中に登場する映画の名シーンは多数。あまりにも古く、ほとんどを残念ながら知らない)。そこへ、一人の少年が強い関心を示し、彼と共有することになる。しかし、少年には自分と同じ境遇に満足をしてもらいたくなかったのだ。少年の失恋を機会に、彼を都会に送る。一方、少年は、有名な映画監督となり、30年間、故郷に戻ることはなかった。その代償として、真剣に人を愛することができない状況が続く。彼は、故郷に戻ることが怖かったという。頭の中にあるパラダイスがなくなってしまうこと、映画監督として、変わってしまう故郷に何もできない現実を受け入れることができなかったためだ。ところが恩師の死によって、現実と直面する。死は、彼に気づきを与えもした。モノはなくなれど、メモリーを永遠にすることは可能ということである。モリコーネの音楽も美しい。こうした情緒的なストーリーを、今になって受け入れることができるようになった。

10月7日(日)
国際文化会館で杉村浩一郎さんと永井佑希さんの結婚式に出席。難波さん、佐々木さん夫妻、宮本さん、藤武さん、多田さんと同席。雨模様が外れて、熱く眩しい1日だった。間口いっぱいの開口は、開け閉めができ、小川治兵衞の庭一体となった宴席を気持ちよくする。夕方から、鈴木竜太さんと遠藤研学生とでナチュラルアングルに行く。作成した2案を説明。どちらも気に入っていただいたような気がする。その後、学生は時間をかけて2階部分の寸法取り。皆、思っていたより小さいことを感じただろう。この実感は大切で、設計を左右するものとなる。その後、新宿で打ち上げ。錦織が決勝で負けたという情報が入る。なかなか復活といかない。

10月6日(土)
ナチュラルスラットへ行く。葛工務店の勝山さんと雨漏りの補修。1時間あまりで終える。その間にクライアントと近況報告。午後は翻訳の校正に時間をかける。
120 ブンデス ドルトムント×アウグスブルク 
香川の怪我の詳細はなし。前半は、ドルトはいつものように様子見をして、積極的でない。特に今日のアウグスブルクは、マンツーマンできたので、面食らった感じでもある。無理をせずに後半から起きるだろう相手のほころびを待つ。後半から今期初めてのゲッツエ登場。噂はいろいろ走っている。ゲッツエは、ゴール前中央から大きく動き、DFをはがし得点を取る。後の3点も、途中から出場のパコである。ドルトのかたちが決まりつつある。ここに参加できていない香川は苦しい。ドルトは首位をキープ。

10月5日(金)
中埜さんと病院で、打ち合わせ。ぼくらが翻訳するテーマは、一見、神秘的な問題とされる「全体」について何らかの一般性を与えることにある。中埜さんと話しているうちに、それは、物自体や暗黙知というものに対するアプローチと重なることに気づく。カントやその後継者、ポランニーらは、その存在を示すことに全勢力を傾け、道筋をつくった。「ティール」が行っているのは、そこに向かうのに便利なツールの提案であったのだ。中埜さんは、そこにパタンランゲージによる方法論との共通点を見出していた。いつの時代にも、環境との整合をつけるためには、自己のブレークスルーは起こり得る。ブリコラージュに見られるように、それは実践でしか達成し得ないものであるが、それを個でなく社会やチームとしてのものはないか?今の時代はその方法論を求められるようになった。話をする入院中の中埜さんは熱かった。深夜に映画「カリートの道」ブライアン・デ・パルマ監督を観る。アルパチーノが主演カリートを演じる。題名にあるように、ひとりの男の人生を通して、日本で言うなら任侠道を描いた作品である。文化は違えど、それ程に日本との共通項を見出すことができるのが不思議だ。社会と、純愛や正義といった倫理観との間の亀裂を、一度アウトローを経験した弱者の立場から描くものである。善悪の区別が、道徳観にはなく、個人に帰することをいっているといってよい。現代との違いは、この映画ではかたちあるユートピアが想定されていること。現代にはそれすらなくしたものが多いかもしれない。
119 ブンデス ブレーメン×ヴォルフスブルク 

10月4日(木)
川向正人先生がアンカーマンとなる新居千秋さんのシンポジウムに行く。大原崇嘉、古澤龍、柳川智之といったアーティストとのコラボレーションによる企画展である。彼らは視覚映像をテーマとし、人の既知感を揺さぶる作品をつくりだしている。例えば、照明によって鑑賞環境を変容させ、人と作品との間の成立条件を問うものである。それは、モネのルーアン大聖堂の連作、スーラの点描画などのテクニックの現代版である。新居さんのテーマは「身体性」。小さな茶室は、カンピドーリア広場と同じ400m角の世界を対象にしているとし、茶室の窓の配置は、これまでの日本文化とは一線を画し、西洋文化を受け入れたものであるという。数寄屋の好きは、当時既にここまでに至っていたという。これ程に自由な窓配置が実に可能となったのは、開口を再考できた結果に違いないというのだ。この展覧会では、待庵(利休)、八窓軒(遠州)、燕庵(織部)、如庵(有楽齋)の窓を再現し、それを3人の映像作家のための基本フレームとした。これによってつくり出される4つの茶室窓の連なる風景は無限である。そして、窓に彩色した糸を細かく張り、それに室の照明色相を太陽の軌道になぞってゆっくりと変化させていくと、不思議な風景となる。新居さんを受けた作家たちの応えであった。この空間体験は面白かった。ぼくらは通常、モノを相対的な意識によって見ている。それが揺さぶられる展示であったことを痛感させられる。この展示は、紀尾井町のオカムラショールームで体験できる。ところで新居さんには、窓からの風景をつくるという明確な目的がある。コンペでも、例えば円通寺の借景方法を拝借して、空間をイメージさせていた。これにたいして、3人の作家には、ひたすら自己拡張が目的とされ、焦点が結ぶその先はなかった。この対比が面白かったと思う。来場者の多くは建築の人であったと思うのだが、これをポジティブに判断する人は少なかったろうと思う。
118 CL ドルトムント×モナコ 
香川は怪我で欠場という情報が入る。モナコは、チーム状態がよくなく、攻撃に厚みがなかった。それに救われ、後半から3点を獲得し、勝ち点を伸ばす。

10月2日(火)
1日をかけて、「ティール組織」の校正をする。販売日もメールで送られてきた。金曜日にあとがきの相談。

10月1日(月)
ゼミにて、ナチュラルアングルに置く家具を2案に絞る。どちらもよくできている。ひとつは作り込んだ密度の濃い作品。もうひとつは伸びやかで空間性のある作品である。モックアップをつくり、一応の疑問点を解決したもので、どちらも捨てがたい。模型と作図を完成させることを指示し、日曜にクライアントにプレゼを行うことにする。

9月30日(日)
神奈川近代美術館葉山で開催されてるアルヴァ・アールト展に行く。扱われる作品に疑問を残すも、多くのトレペスケッチを見ることができるのがよい。穏やかで繊細なタッチであり、作品のイメージと一致する。カレ邸を思い出す。天井高と床の段差を工夫した落ち着いた伸びのある光りに満ちた空間であった。ロヴァニエミやセイナキヨの図書館、ヘルシンキ工科大学、アールトのアトリエのインテリアから、白くても、きつくなく、柔らかな空間が可能であること知る。色彩と素材が相まって、柔らかなトップライトがそうさせている。天井模型のスタディが多いことにも感心する。どのプロジェクトでも行われていた。ヴィーブリの図書館のスカイライトに、ガラスを置くだけのディテールの起源を見つけ、嬉しく思う。難波さんとのEXマシーンのときにはじめて知り、ナチュラルエリップス、ナチュラルアングルでも借用した。知らなかったが、ニューヨーク万博のフィンランド館はその中でも異色である。オーロラをイメージしたものだろう。壁面が迫力のある自由曲面で囲われている。いくつかの椅子に座ることができたのもよかった。典型的なスツールも3万円するが、アームチェアNO45は座りが深くたいへん気持ちよかった。いつか購入したい。椅子の脚を曲げる画期的な方法から、構成についてのひとつのアイデアを思い付く。
117 ブンデス レヴァークーゼン×ドルトムント 
香川ベンチ外。ぼくの記憶が正しければ、レヴァークーゼン相手のときはいつも活躍をする。それはレヴァークーゼンが守備的ではないチームだったからだ。ユナイテッドの時も、復調の切っ掛けをレヴァークーゼンから掴んだと記憶する。そうした香川が外れた理由を選手たちはよく理解している。そのため、ドルトムントは大きな賭には出ない。スペースを相手に許さないでの攻撃を、特に前半では選択する。したがって、前半はみるべきものがほとんどなかった。しかし2点を許し、後半からギアを上げる。特にデラネイが交替させられたことに選手に火を付けた。それでも粘るレヴァークーゼンにたいし、ファブル監督はさらなるギアを上げる。アルカセル、サンチョと立て続けに投入。この采配は見事であった。これで勢い保たせて4点を獲る。金曜日に負けたバイエルンに変わり、ドルトが久しぶりの首位となる。

9月29日(土)
「発酵文化人類額」小倉ヒラク著を読む。密度ある内容にかかわらず判りやすい。「ニッチですが、2万部突破!」という帯の標語もうなずける。発酵は、極めてアナログな方法であるが、極めて最先端に位置することが判る。資本主義的な市場原理と違う、贈与経済。安定的ヒエラルキーではない、ミクロのなかの不確実性。ベイトソンも登場。「個」でなく、巨大な環の中の「私」である。そして、そこに「美」も位置付けられている。ブリコラージュも、明確な目的の下に完成するものなのだ。解釈するに、発酵は伝統的なものであり、沢山の情報が長い時間と場所をかけて積み込まれており、それを考慮すること、つまり意志ある前進によってしか革新できないということなのである。
116 ブンデス シュツットガルト×ブレーメン 
大迫が本来のトップ下で先発。攻撃の起点となりチームのアクセントとなる。10人となり、不利ななかを攻守を率いていた。評価もうなぎ登りであるが、結果が欲しい。

9月28日(金)
環境特論に参加し、日本設計大串氏のレクチャーを聴講。港区のプロジェクトでは、同時期に行われていた日本設計の仕事を参考にした。要求される条件が高度となり、アトリエ事務所の限界を知ることになった。このときから感じたのは、客観的環境表現は組織の領域であるということで、建築家のやるべきことは、主観性を表現すること、であった。そして、そこから環境における主観性の追求とは何かを考えるようになった。今日のレクチャーも、政府の方針から導かれる外部の条件を処理するものであった。ぼくらとしては、ここから個人の問題に引き寄せる必要がある。その後、研究室紹介を3年生向けに行う。昨日の石川さんのレクチャーの感想を交えながら行う。深夜、フランス映画「暗黒街のふたり」を観る。アラン・ドロンとジャン・ギャバンが出演する。フランス映画っぽく、ドラマ性によって最後まで観客を引きつけながら、最後はドキュメンタリー風の社会批判となる。今日の映画は、死刑判決を初めとする牢獄内の現状である。

9月27日(木)
石川初さんをむかえてのレクチャー。心のこもった熱いレクチャーであった。四国徳島の神山町のフィールドワークを通じて、日本現代版ブリコラージュを発見していた。そうした彼らを称してFAB-Gという。石川さんはランドスケープを主な仕事とするが、扱う素材はネイチャーだけでなく、いわゆる工業製品であったりもする。FAB-Gは見事にそれを使い倒す人たちなのだ。フィールドワークからそれを可能にする環境条件を明らかにしていた。それは、必要となるだろう素材を、ゆるく分類して保管できているということだ。そこから、「avoir-faire」する。「avoir-faire」とは、フランス語で、フランスの建築雑誌「l’ architecture d’aujourd’hui」で、ぼくのエリップスを表紙でとりあげ、扱っていたテーマである。それは、そのとき亡くなったウッツォン、その前でいうと石工の息子として生まれたミースの流れを組むものであるというものであった。確かに歓迎すべき評価であったが、一方で欠けているものも同時に指摘されている気がしていた。それが何かを最近理解するようになったのだが、それはデザインを超えた強い目的意識のようなものであると思うようになっている。翻訳中の「ティール組織」でもそれがテーマとなっている。100均で「avoir-faire」することと、FAB-Gとの違いに意識的でなければならない。難しい話ではあるが。とはいえ、石川さんがいうように、既成の目的論的解釈から逃れることを助けるエキサイティングなレクチャーであったことに間違いはない。神山町にある道の分析も面白い。昔は、尾根伝いに歩く道があり、それはネットワーク状に張り巡らされていたという。それが車社会になり、ツリー状の行き止まりの多い状態になったという。「avoir-faire」が上手く生かされた例である。その一方で、リサーチを行ったインドネシアの貧しい都市では、下水道のインフラ整備をされていないことが、ペットボトルの使用料を増やし、さらなる水質汚染を招いているという。これは、「avoir-faire」では、処理できない問題の指摘である。このように現状の問題は、もはや「avoir-faire」では解決不可能な状況にあると思うのだ。それにたいして、ぼくらができることは、「avoir-faire」に加えて、「evolutinal puepose」 (ティール組織)をもつことなのでないかと思う。

9月26日(水)
115 ブンデス ドルトムント×ニュルンベルク 
7-0でドルト大勝。シーズン当初のように守備的にドルトはのぞむ。無理に攻撃せず、チャンスがくるまでボール廻しに徹する。プロシッチのドリブルによるPエリア内の個人技から得点すると、堰を切ったようにボールがゴール前でもまわりはじめた。香川は後半の4-0から登場。この流れに乗ることができたものも、2回のシュートチャンスを逸する。ドルトはデラネイの中盤底からのロングボールが効いていた。これで流れが良くなった。このかたちがしならく基本となりそうである。久保はフル出場。ただし、ボールがまわってこずに孤軍奮闘か。

9月25日(火)
設計方法小委員会へ。方法論について意見交換。建築方法論が否定されて久しい。扱われる問題が多岐にわたり、動的でない方法論では、問題をカバー仕切れなくなってきたことが大きな要因である。ところが、震災以降再びフィールドリサーチという点からプレデザインが見直されてきた。しかしこのリサーチは以前とは異なり、全くの個人に根差したものである。主/客がはっきりしないということで動的なものである。つまり、かなり錯綜した情報を束ねて進める方法論が注目されているという訳だ。それにたいし、単純化しようとするBIM的思考がもう片方にある。この違いを示せればと思う。
114 ブンデス ブレーメン×ヘルタ
大迫は、体調不良から復帰。直ぐに先発を手にできるところをみると、評価されていることだろう。今日、ドルトムントからのシャヒンが初先発。中盤底でゲームをコントロールする。大迫は当初はトップ下。シャヒンが攻撃時にはCB横まで下がり、大迫が何度も中盤底まで下がり、ボールをおさめて、攻撃の起点となる。このかたちがまっていた。前半に2点。後半は、どういう訳かフォーメーションを変える。シャヒンが下がることなく、大迫も前目。シャヒンが60分過ぎに交替すると、2トップにもなった。シュートチャンスをいくつか逸する。ブレーメンは、とにかく10番が自由に動き回り、大迫というかチームがそれにしたがいバランスをとっている感じである。それがはまる。ブレーメンはよいかたちであった。

9月24日(月)
鈴木竜太さんに来研してもらいゼミを行う。ふたつの案の問題点を整理し、それぞれいくつかのプランを作成することにする。そのとき、機能的問題の解決を目指す他に、考えた案を客観的な視点をもって、何が伝わっているかを俯瞰する必要がある。このとき、これまで苦労してきたプロセスを推測させることは難しく、かたちとして伝えることができるものが全てであると考える。そうした視点が必要とされることを知ってもらえればと思う。

9月23日(日)
サントリー美術館で開催されている醍醐寺展に行く。醍醐寺は、真言密教の拠点であり、秀吉も大いにバックアップした。展覧会では随所で桜がモチーフとされ、それは秀吉が花見を行ったことで有名だからである。ぼくも春に桜を観にいったことがあるが、山の上の上醍醐までは行かなかった。少し後悔する。醍醐寺では、鎌倉以降、加持祈祷や修法(すほう)という儀式・実践を重視した。その伝承はもちろん文字でも行われるが、絵やモノを通じて積極的に行われてきたのが特徴である。その資料が膨大に展示されている。デッサンのような白図と着色された完成図のふたつが展示されていた。それらは、十巻抄と呼ばれる図像集に基づいている。修法を厳格化するのは、権威となる模範を示す必要とがあった訳である。近代絵画の俵屋宗達の絵もいくつかあった。舞楽図屏風は展示されていなかったものの扇面散図屏風をみる。リズミカルで現代的である。芦鴨図衝立には、たらしこみ技法もみられた。江戸時代においても文化の最先端をこの寺が担っていたことがこれで判る。
113 ブンデス ニュルンベルク×ハノファー 
久保と原口先発。これまで先発であった浅野はベンチ。前半でハノファーはDFに退場者を出したこともあるが、原口は元気ななく、前半で交替。浅野も出場できず。久保も得点を獲りたい気持ちが先走り、裏を狙うことが多く、攻撃に上手く絡めていない。それでも全試合フル出場である。2-0でニュルンベルクが完勝する。

9月22日(土)
111 ブンデス ホッヘンハイム×ドルトムント 
香川が今季初出場。先発し、60分までプレーする。よいプレーを見せるも、得点という結果までは残せず。今後の先発が約束されるまでは到らなかったと思う。今日は、守備が乱れてしまっていた。ホッヘンハイムは中盤を省略し、いきなりサイドから攻撃されていた。それで、途中からサイドが上がるのを止められ、攻撃陣が孤立していた。攻守のバランスとしては、シーズン当初の4-3-3が安定している。中盤が守備重視となるが、それでは香川の居場所がない。ファブレ監督の今後も注目される。
112 プレミア レスター×バターズフィールド 
後半からレスターが圧勝。今日負けると、プエルの立場が危ういと噂されていたが、それを一掃するようなゲーム展開であった。終了間際に岡崎も登場。このチームのかたちに馴染み、ほしいシュートも放つ。ブンデスと比べ、ボール展開が大きく、迫力を感じる。

9月21日(金)
「ニキータ」リュック・ベンソン監督を観る。不良であった少女が、戸籍上は死亡した上で政府に雇われ、工作員として生きる。よくありがちなストーリーであるが、例えば「ランボー」に代表されるハリウッド映画のようにアクション映画としてではいまいちで、テーマとしても、人間か機械かというような主人公の人間性の葛藤が問題にされている訳ではない。ラストは、ニキータを愛する二人の男の冷ややかな会話で終わる。フランス映画っぽい。愛を批判的な視点で捉え、少し冷ややかなのがハリウッド映画と異なる。これによって、作品となっている気がした。

9月20日(木)
110 ブンデス ブレーメン×ニュルンベルグ 
大迫と久保が先発出場。得点ならずも二人ともレギュラーに定着。ブレーメン10番は自由に動き回り、大迫が遠慮がちとなる。中央にポジショニングがなかなかできずに、シュートチャンスをつくることができない。後半になるとポジションがばらけ、チャンスが廻ってきていた。久保も同様に、右サイドであったりトップであったりポジションが定まらない。終了間際のシュートチャンスは決めたかった。ワンテンポボールが早く送られてくればと悔やまれる。チーム状態もいまいちのままである。

9月19日(水)
設計科目にて課題発表。今年からシステムが変わる。ぼくのスタジオでは、御手洗さんの他に構造と設備の教員とも一緒に行う。小堀さんの2作品を中心に、これまでにはみられなかった働く場について話しをする。どちらの作品も空間がダラダラとつながっていて、働き方を動的に捉えるものだ。そうしたことに対応する建築のあり方を模索してもらいたい。各教員から目標を説明してもらった後、敷地の大きさの検討。次にこうしたプログラムにおける面積配分検討を行う。来週までにプランニングを完成してくることを促す。夕方からゼミ。2つのトライに対してモックアップモデルができる。モックアップをつくると雰囲気ががらっと変わる。この感覚の必要性を感じて欲しいと思う。
109 CL ブールージュ×ドルトムント 
今年からCLはDOZNで観ることが出来る。だいたい朝起きてからWEBを観る前に倍速で録画を観るのがCLであったのだが、DOZNではそれができず、2回に分けてゆっくると観る。香川が60分過ぎから登場。ゲッツエに変わってである。ドルトは今日、トップ下を置く戦術であった。ゲッツエほどではなかったが、WEBで言うほど強烈なインパクトを香川は残せていなかった。このシステムだと選手間距離が極端に短くなり、シーズンはじめのゲームプランと著しく異なってくる。当然、相手にスペースを与え、何度か危ういシーンをつくってしまっていた。しかし相手も攻撃をした後で陣形が崩れるので、そのスペースを上手く香川は使ってはいた。しかし奇しくも、得点できたのは、ライバルであるダフードであった。

9月17日(月)
AOの2日目は面接。無事終える。興味深い受験生と何人かと会えて嬉しく思う。研究室で行っているようなことに興味をもつ学生に出会うことができたからだ。試験後、今後の設計教育について、皆と話しをする。急いで事務所に戻り、明日からの授業の整理。コンペのときのように、敷地となる習志野市について調べる。再開発で駅前人口が増えてはいるが、それの継続が問題となることを知る。幕張と東京という間に位置し、土地も豊富にあるというのが不思議な地域である。

9月16日(日)
AO試験の1日目。特に問題もなく終える。今年は、少し作業量を増やし、処理能力に比重を傾けた課題にしたが、やはり、造形能力を判断するには足かせとなった。システマティックに解く案を見たかったところであった。与えたテーマ性とは関係なく、自分を中心として他人をみる視点が多いことに気になる。親や社会の過度の子供に対する献身性が子供本人に浸透していることかとも思う。ある意味、政府が薦める、人間の成長を社会によって支える理想的な話ではあるが、ステレオタイプ化していることに不満を感じたりする。ぼくだけの感想でなく、教師皆が思っていることを要約するとこうなるのだろう。

9月15日(土)
思い切って昼から遠出する。妻の同級生が経営しているという甲府の原茂ワイナリーへ。古い母屋を改造したレストランが気持ちよい。2階の窓から、一面を葡萄畑に覆われた山を見ることが出来る。幸いに同級生に会うことができた。さらに山を登り、展望のよい温泉へ。思ったより中央道が混んでいなくスムーズに帰る。香川に期待するも今日もベンチ外。記事によると、4-3-3でなく、4-2-3-1であったという。それでも出番なしである。余程身体能力に重点をおいているのだろう。ゲッツエも同様の立場に置かれている。
108 プレミア ニューカッスル×アーセナル 
ニューカッスルは、前戦ほどには守備的でないものの、これといった攻撃の戦術はなし。武藤も2点差がついたところで、投入される。少しはチームに弾みがついたものの特段変わりなし。前回のカップ戦の武藤のパフォーマンスが相当悪かったことが想像できる。

9月13日(木)
旅館のある中州地区とは一変し、人工島にある「ぐりんぐりん」へ。車で30分もかからない。伊東豊雄氏の設計である。周りは高層マンションに囲われ道路も広く直角である。その中心となる公園の中心建物、植物館である。建物は緑に覆われ、ほとんど外観は判断つかない。昨年に、岐阜の瞑想の森を体験したことにもよるが、この建物は、丘に穴を空けたようであり、印象が全く異なる。スラブ厚は400ミリ。それに保土のために250ミリが用意されている。屋上にも散策路がある。中の様子も、ラーニングセンターと近いも、異なる。やはり地面付近の空間の抜けが、空間の性質を決定づけるのである。ここからひとり太宰府天満宮へ。思っていたより建物の背が低い。参道もほとんど平ら起伏がなく幅広い。うっそうとした木々のなかの神社とは印象が異なる。参道横のスターバックスへ。隈研吾設計、佐藤淳構造である。微細な木組子を多用する。構造とはなっていないように見えるが、本当にインテリアなのである。ここで帰路便の変更手続きを行い、北九州空港から福岡空港とする。意外と近い。途中大雨。福岡空港も改築中でわかりづらい。ラウンジもチェックインの前にあり、スムーズな移動の障害となる。夕方前の早い時刻の便で東京に戻る。

9月12日(水)
鳥栖、八女を通り、九州文芸館へ。途中、台風の大きな爪痕を度々目にする。南斜面の谷筋はことごとく土砂滑りを起こしている。土質の問題もあるのだろうが、備前焼の窯元も多い。隈研吾設計の九州文芸館は、新幹線新駅前の広域公園内にある。折り紙のように折られたシャープな屋根をもつ建築で、個々の面を覆う素材も豊富である。その脇に構造に凝ったふたつの小さなアトリエもある。ひとつは、コンクリートの屋根スラブを端部の壁柱で支える垂れ屋根のアトリエ。SOUPの設計。もうひとつは、木の三角ピースを噛ませてトラしにしたアトリエである。この建物にあるアトリエ、会議室は、主に一般市民に向けてのものだそうである。その会議室のひとつで、4年生の研究の中間発表を行う。多面体屋根の部屋での発表は、反響して聞きづらかたったが、時間をかけて行う。総じて、自己流の方法論を展開させていくものが多いのであるが、自己満足に留まってしまい、かたちとしての結果にダイナミックさに欠ける。このことを指摘する。方法論をユニークに感じさせるのは、結果から反芻するときにはじめて生じさせるものである。結果を伴わない限り、その説明に意味はない。少し早めに終了し、八女にある青木茂氏がリノベーションした「共生の森」へいく。コンクリート2階建ての老人福祉施設を、子供との交流施設にしたものである。既存建物の両側に鉄骨造の軽い空間で被い、そこが子供のためのスペースである。外壁は数枚のHP局面で構成される。これを構造として使わないため、軽さを伴うものの空間が引きしまっていない。屋根ガラスの多用が暑いという指摘を受ける。2000年初頭の作品で、様々なところでの未熟さが残る。しかし、ここからリノベーションの価値が伝わっていった。博多の鹿島本館へ。今日の宿は、中州脇にある木造数寄屋旅館である。古い街並みが残り、この旅館は国の有形文化財指定も受けている。間口の狭い奥行きのある敷地に、いくつかの中庭を挟んで和室客室が並び、気持ちよい。日本風情を色濃く残しているため、多くの利用者が外国人である。サービスがよいが、建物が古い分、掃除がたいへんだろう。ぼくが宿泊した奥の和室に面する坪庭をもう少し手を入れると、外部を有効に使うことができ、趣ある部屋となるだろう。夕食前に歩いて直ぐの所にある櫛田神社へ。博多の総鎮守神社である。夜であるためか、灯りがともり、普通の神社と異なり奥がなく、通り抜けができ、雰囲気がある。日常の中に置かれていることが、そうした雰囲気をつくっている。おみくじは小吉。本殿横には、花笠神輿が展示されている。この神社を出発点として祭りがはじまるそうだ。夕食は近くの鳥料理屋へ。様々なバージョンの鳥料理があるものだ。深夜、中州の屋台通りへ。河に面した遊歩道上にある。

9月11日(火)
午前中に門司の街をまわる。大阪商船のファサードスクリーンは日本的で繊細だ。JR九州本社ビルは松田軍平設計。近代的オフィスビルの走りとされている。天井高があり気持ちよい。門司港ホテルは、長方形ではなく僅かに端部がしぼませたかたちをしている。建物を突っ切る大きな開口が珍しい。それを境にふたつのテラスがあり往き来ができるのだが、あまり使われていない。船着き場を囲む突端に位置し、パラソルでも開けば、ヨーロッパのようになるだろうと思う。本当に気持ちよい。建物の色使いといい、鈍重さといい、このホテルは日本を感じさせない。船着き場の突端には、つり上げ式の歩行橋もある。たまたま、それがせり上がるのも見ることができた。30分の移動で、北九州市立美術館へ。斜面に突き出るように2本の大砲のような展示室がある。いまから思うと、もっと長く迫り出せば良かったのでないかと思う。その下の大階段を上ったところにエントランスがあり、4年前のゼミ旅行では、ちょうど大規模改修がはじまったばかりで、ここまでしか入ることができなかった。ホールの大きさは尋常ではなく、群馬県立美術館を思い出す。構成は、医師会館に近い。展示室途中の休憩室からみることができる海と街の景色も圧巻である。その後ろにヤノベケンジのの彫刻がある。ただ、北九州には天井高の低い空間も用意されている。レストラン通路など非常に低い。別館までまわった後に、このレストランでしばらく休息。見上げるため、意外とダイナミックな写真が撮れないことにいつも気づく。30分かけて、市立図書館へ行く。相変わらず改修工事中である。PCコンクリート梁が集まるところは流れが感じられ美しい。レストランで昼食をとりながら、「世界の図書館」という写真集をみる。西洋では、大スパンはヴォールト屋根が主であったことに気づく。この建築もそれを踏襲したものだろうかと思った。壁際ではなく、中央に低目の書棚が平行に置かれ、それを縫うように通路と閲覧机が用意されている。以前経験した印象より明るく軽く感じた。気のせいだろうか。1時間半かけて英彦山の旅館へ。大分の日田の近くである。夕食前に、M2生の中間発表。

9月10日(月)
昼にミーティングをすませた後、一つ前の便に乗りたかったが満席のため、夕方の便で北九州へ。そのまま門司のホテルへ。もう既に暗く、街の様子はよく判らなかったが、大阪商船、三井倶楽部、税関などをざっと外から観る。門司港駅は改修中。夕食を空港で購入した鯖寿司ですます。

9月9日(日)
大坂なおみが全米オープンを勝ち取ったニュースが入ってくる。そのダイジェストをYouturbでチェック。圧勝であったことを知る。大坂のコーチは、どうやらセリーナの練習相手を8年も務めていたらしい。セリーナは丸裸であった訳だ。NHKBSで「欲望の時代 マルクス・ガブリエル 日本へ行く」を観る。テーマは、「世界は存在しない」。本人が日本語でそう言っていた。とはいえ、ひとつの世界が存在しないということで、各自が様々な世界を描いているということである。そのなかで最もダメなパターンは、仕込まれた全体(totarityといっていた)に無自覚に取り込まれることである。ぼくが考えるのは近頃、それを前提に、皆が共通した世界観を描かざるを得ないことをむしろ強調すべきであるということである。彼は、この協調を、様々なレベルでのレイアーの偶然の重なりといっていた。京都の裏庭、能における空から始まって様々なことが起きるストーリー、西田哲学に関心をもっていた。それらは、どれも因—果を前提とする時間的推移を否定する(目的論的な)思想である。

9月8日(土)
縦ログ構法研究会出版の「縦ログ構法の世界」が届く。この巻末の対談で、グラフを用いて建築家のこれからの役割について語った。社会の末端にいる業者や建築家が、中心的問題を見ていない状況にいるという指摘である。対談後のティール組織について考える中で、そのグラフは、アレグサンダーが指摘していたセミラティス構造を平面化したものであることに気づいた。深夜BSで「トゥルーロマンス」T・スコット監督、タランティーノ脚本を観る。破天荒な主人公が直感から生じた愛を信じ、それを全うする中で、様々な事件を巻き起こしてしまう。その中に父や友人の死も含まれるが、最後は幸福を勝ち取るストーリーであった。脇役に名優が囲む。エンターテーメントに徹した作品であった。

9月7日(金)
107 親善試合 オスナブリュック×ドルトムント 
これまで開幕数試合に出場できていなかった選手でのぞんだ親善試合を、たまたまドルトムントの公式ネットで見つけ、往復の電車の中で観る。それでもスタジアムには1万の観客がいた。ファブレ監督は、これまでと同様4-3-3でのぞむ。この決心は固いようだ。前線3人はラーセンをトップに、バルサからの若いゴメスとアルカセルである。その下に出場機会を失っている香川、ヴァイグル、ゲッツエである。ヴァイグルが中盤底。前半香川は、その横の守備重視のポジションが命じられていた(後半はゲッツエ)。控えめな3部チームであったので、この機会を香川は上手く機能させた。右からの攻撃の猶予を得ることができたのだ。唯一のレギュラーであるベテラン、ピシチェクとの間で決定機をつくる。そして早いうちに香川のタクトにより5点を獲った。途中、香川が攻撃的であるために右の後ろにスペースを相手に与えてしまっていたが、ファブレ監督には、これがどう見えただろうか?前戦右のゴメスの位置に香川やゲッツエを置かないところをみると、あくまでもこの二人には8番の仕事を求め、それは10番ではないということだ。攻撃陣は、他に十分にいるという判断である。香川に求められることは、そことは異なる守備重視というポジションであり、その点においてヴィツェルに勝ち目はない。その上で今日の香川の積極的なパフォーマンスは、功を奏したと思いたい。3部チーム相手とはいえ、長短の決定的パスを繰り出し、存在感を見せた香川であった。

9月5日(水)
106 ブンデス ハノーファー×ドルトムント 
BSで再放送を観る。浅野先発。原口はコンディション不足でベンチ、香川はベンチ外である。ドルトムントは、組織的にスペースを消す戦略で、守備が重視されていた。ラインコントロールが厳密になされ、ヴィツェルが中盤の底に陣取り、インサイドハーフのダフードとデラネイがサイド奥まで守備する。守備時にはサイドディフェンダーも中央に絞り、5バック気味にまでなる。これまでのドルトが行っていたダイレクトパスによるサイドからの縦の崩しのかたちはもうない。スペースを消すことを重視するので、選手間に距離があるからだ。同時に、攻撃時には空いたスペースにボールを供給する。そこに適切な選手が走り込む訳だ。これを的確に行っていたのがロイスとフィリップであった。交替投入は、サンチョとゲレイロで、怪我のプリシッチの代わりとなるヴォルフは残り、ゲッツエではない。徹底的に10番をおかないかたちである。したがって香川も苦しい。新加入のアルカセルがバルサからというので、彼を活かすシステムにしたとき次第か?とも思うが、まだアルカセルもベンチ外である。センターバックも変わった。ディアロとアカンジで、ともに身体能力が優れた優れた選手である。トプラクとヴァイグルは控えにまわった。

9月4日(火)
大型台風が大阪を直撃。関西国際空港が高潮にあい、空港への連絡橋にタンカーが衝突する。海水面は通常時より3m以上高くなったそうだ。実に25年ぶりの規模だそうである。意外と屋根防水の駆体への密着が問題であることを知る。ブラタモリで門司を放送。江戸時代からの下関にたいして、門司は明治以降の町であることを知る。筑豊で発掘した石炭の出航で賑わった。したがって、近代的な都市計画がなされている。来週のゼミ合宿を利用して、訪れてみようと思う。

9月3日(月)
「ティール組織」翻訳のチェック。内容把握が難しかった3点をあげ、検討続ける。少し判るようになる。これらの要点は、生じる結果は偶然であるものの、誰かの強い意志が必要であることをいっている。それが出発点となって、ことが起きる。最近再読した「隠喩としての建築」における「建築としての意志」を再確認できたことが大きく、考えを先に進めることができた。「隠喩としての建築」は、1980年代であるが、この30年の間の進歩を見なければならないと思う。

9月2日(日)
主要なヨーロッパ各国の、フットボール選手の夏の移籍可能期限をむかえた。香川はネットを賑わせるも、ドルトムントに留まる。どうやら、香川は条件をチームに示し、チームに委ねていたようだ。それを受けたドルトムントは交渉に入ったものの、上手くまとまらなかったようだ。それを香川は先週、「神のみぞ知る」といっていたことだ。大迫が活躍したというニュースが飛び込んでくる。今季、ブンデスリーガはスカパーでの放送になった。未だに再加入を迷っている。選手のW杯後の燃え尽き症候は、ぼくにも影響をしている。

9月1日(土)
午前中に、両国の槇事務所設計の刀剣美術館に行く。以前は事務所近くの代々木にあった施設が安田庭園内に移動した。2階ベランダからの庭園の眺めがよい。円形プランの上に蒲鉾状の3階展示空間がのった構成で、以前その地に建てられていた公会堂のドーム屋根を踏襲したものだ。1階では、その空間体験ができないのにはびっくり。単純なプランニングでも、実体験と結びつかないことを知った。たたら製鉄方法を展示ビデオで知る。古代からの製鉄方法で、砂鉄から銑鉄と純度の高い鋼をつくり出す。銑鉄(銑ズク)は鋳物や包丁とかに、鋼(鉧ケラ)は刀鍛冶師に委ねられ、叩かれて刀になる。毎年、土を固めて窯をつくり、その中で砂鉄と木炭を燃焼続けさせ、最後に窯を壊して、底部分から鋼の固まりを取り出す。一連の作業は、村下という技術集団によって執り行われ、神事でもある。10tの砂鉄から3tのケラ。その内、刀になれるのは1tであるという。どうしてこのような製法が生まれたかがミステリアスであるが、輸入製法が口承伝達によって発展してきた。「もののけ姫」のバックグランドであることを知り、観ようとするが、アマゾンにもiTurnにもレンタルがない。貴重価値とされている。
105 プレミア レスター×リヴァプール 
ホームのレスターは、多くの時間でボールを支配するも、要所で得点され負ける。しかしレスターの戦い方が成熟してきている。以前のブロックしてボールを奪取、そこからバーディによる速攻という形から、ボールを繋げてビルトアップの形に変えてきた。そこに岡崎が含まれていないのが残念でもある。リードされた後半75分から登場。印象を残すことができなかった。
104 アジア大会 日本代表U21×韓国 
延長の末、1-2で金メダルを逸する。フル代表と比べて異なるのは、選手の個人能力に期待し、のびのびとプレーさせているところにある。したがってドリブルでの仕掛が多く見られる。一方で、組織性が要求されるDF戦術は成熟しておらず、とくに中盤選手との絡みに劣っていたため、オーバーエイジ枠を使う韓国に上手くやられたというかたちである。ちなみに、日本は一つ下のクラスU21のみでのぞみ、2020に向けた挑戦の一角としてこの大会を位置付けていたのは、韓国と対照的である。

8月31日(金)
「甘い生活」フェデリコ・フェリーニ監督を観る。60年代特有の表象重視の少し分かりづらい映画である。テーマは、台頭する商業・合理主義にたいする人間性についてであるが、それにたいする答えが用意されていないことが、退廃的な印象をつくりだしている。しかし、当時としてはこの感覚が新しかったに違いない。60年経つと、それも相対的に見ることができるようになる。
103 アジア大会 日本代表女子×中国 
ロスタイムに中国を突き放す。経験が呼んだ勝利であった。男子フル代表と異なるところである。一度といわず数度経験した頂点がもたらす効果はこういうところに出ることを知る。

8月29日(水)
GAJAPAN154を読む。特集は、「歴史観なき現代建築に未来はないⅢ」である。そのなかで誰もが、建築家の歴史観の喪失を嘆いている。その大きな原因は、建築を刹那的な合理性と発想で組み立てようとしていることでないかと思う。これはモダニティを形成してきた考えではあるが、それを俯瞰的に示す習慣が根付いていないためだろうと思う。機能的であることと合理的であることの曖昧からもそれは生じている。今見られる合理性も発想も、先人たちの延長上に存在し、歴史=自然史(必然性などなく、偶然的な出会いの中からの決定)として見出す必要があると思うのだ。
102 ブンデス  ブレーメン×ハノファー 
再放送をBSで観る。大迫、原口、浅野は自チームにおいて、主要な戦略としてみられているといわれているが、3人ともこの開幕戦でインパクトを残せなかった。ブレーメンは、前半クルーゼのチーム、後半はピサロのチームで、彼らが縦横無尽に走り回り、大迫はそのバランスをとった脇役となり、割を食った感じであった。前半はサイドにへばりつき、後半は10番の役割を果たしていた。浅野は2トップとして出場。スペースを見つけるのに苦労していた。浅野に代わった出場した選手が、裏へ抜き出ることに成功し得点できたのが皮肉である。原口は、怪我のためか途中出場。10番であった。それでもプレーに貫禄を感じることができた。

8月28日(火)
非存在から存在への制作というものに、2つの考え方が歴史的にあったことは、「隠喩としての建築」柄谷行人著に詳細に書かれている。それは、進化論的/創造説的、生成/制作、テクスト的/作品的というふたつである。建築のような芸術なるものは後者、生物とか自然なるものは前者と一般に考えられているが、建築では、この生成/制作、あるいは自然/人工の境界を超えようとする問題規制が、実は古くから取り組まれていた。なぜなら、そう簡単に、無から創造は起きないし、建築は沢山の人の助けを借りて完成をするので、一人の能力あるいは現象だけでは説明が不可能であったからだ。訳中の「ティ-ル組織」も、そこに問題意識をもっている。ヒエラルキー構造によって、現代の多くの問題が解決できなくなってきたこともあるが、社会的な存在として、価値あるものをつくる組織のあり方の追究が要請されているのである。その場合、ヒエラルキー型組織に対して、自主管理を重んじる下部構造をフラットにする組織構造と自然のもつ秩序構造の融合として語られている。ここでも、自然/主体の2項対立を超える問題が扱われているのである。これが本書の核心である。建築でこの問題に関しては、70年代後半からのアレグサンダーが有名で、柄谷行人は「隠喩としての建築」で紹介している。アレグサンダーは、都市がセミラティスになるべきであることを主張し、セミラティス構造における主体の存在のあり方を語った。その後は、「パタンランゲージ」で、この構造はパタンとして受け継がれている。それは「ティール組織」における、「自己管理」に相当するものだろう。

ところで、建築は多様であり、皆が生き生きと接することが理想である。ただし、これは何も主張しない、あるいは建築家の存在を隠すことではない。つまりは、自然状態をデザインするには、形式化を避けることができない。このことを80年代はじめに既に「隠喩としての建築」で柄谷行人は、この混沌から秩序をつくるのに必要とされるものが「建築への意志」であることを紹介している。そしてこのことに意識的であったのがアレグサンダーというのだ。どういう形式化か?それは、もちろん理性的でなければならないが、ゲーテルをだすまでもなく絶対なものはない。したがって、歴史的にこれまでの先人を参考にしたトートロジーを組むことである。したがって巧妙さと同時に設計者の意志が必要となるのである。これを「隠喩としての建築」といい、池辺さん流には「名前のない空間へ」ということなのだ。この思考形態をかたちにすると、ツリーでなくセミラティス構造になるというのである。この典型例として挙げられているのがアレグサンダーであった。そして「隠喩としての建築」では、この形式化について、もう一歩踏み込んだ発言をしている。理論/実践、個別/普遍、外/内というような2項対立は、同じロジカルタイプでは解決できないので、その諸矛盾を解決すべく新しい上位のロジカルの制作が促され、すなわちそれが創造につながるという。例えば身近な例でいえば分裂症の例が挙げられる。子供は母親に愛されたいので、抱擁を求める。ところが、母親は忙しいのでそっとしておいて欲しいといったらどうだろうか?もし、時間を置いて子供が再度要求できれば問題がないのであるが、その能力がないと子供は解決方法を見出すことができずに自己中毒に陥る。これをベイトソンはダブルバインドといった。したがって社会は、あらゆる制度を設けることでこのロジカルタイプを超えることを禁止し、階層性を維持するように動いている。しかし、形式化というものによって、外部からこれを意図的に崩すことが可能であるというのだ。これが建築家に求められる能力ということであった。セミラティスも平面的には重なりが多いグラフであるが、断面的に見ると階層構造をもつ。こうした形式化をアレグサンダーは提案していたことになる。「ティール組織」における提案される様々方法、例えば予算作成や人事決定の方法、柔軟なスケジュール管理なども、セミラティス構造を組織内でつくることといえる。個々人の主体性にもとづきながら、諸個人の意志を超え、諸個人を条件付ける多次元の社会的諸関係が捨象されないようになる構造である。それは、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」システムである。年次評価で、同僚同士で互いに評価し合うシステムがそれである。ところで、現在はそれから30年以上を経過した。「ティール」の新しさは何かと思う。それは、この考えを実践する状況になったということだろうか?ティールの活動はまだ系統だってはいないけれども、価値転換の萌芽が建築のみならず社会に根付いてきたことが垣間見えるのである。

8月27日(月)
ティールにおいて組織は、それに目的はないが合目的性を想定したものとして記述されている。物事を事後でなく事前からみようとするときの思考である。
101 プレミア  ニューカッスル×チェルシー 
今日も武藤は80分から。ニューカッスルは今のところ、10人でひたすら守り、点を獲ることに重きを置かない戦況である。武藤は0-1の状況からピッチに送り込まれた。ベニテスは、徐々にシステムを攻撃的に変えていくのだろうが、そのとき武藤が鍵になればと思う。まだ守備のかたちが定まっていないということだろう。

8月26日(日)
「世界史の構造」柄谷行人著の序文を再読。「ティール組織」では、これまで相対していた生産効率性とそこから生まれる価値の問題を同じステージに上げようとしている。効率性は、生産において因果律を高めること。価値とは、時間とか金に代表される生産からの剰余物である。このふたつは分離していて、これまでは、この価値を、効率よく再分配することで、新たな価値の創造をつくり出そうとしていた。しかし、効率性にも限界があり、剰余物とは別の、新しい価値が要請されてきたということだろうか。ぼくたちは、価値を生むことに執着するサガがある。それがティールでは、生産プロセス自体に価値を見出すことに転換したと思うのだ。働く意義とか生きがいという価値としてである。これらは再配分できなく、これまでの価値と異なる。したがって、そもそもの仕組みにたいする価値転換が必要とされるかもしれない。ティールが注目される理由である。建築も、成果物に価値を残せるかを勝負としていたのだが、最近はつくること自体に価値を生み出す方法を考えている。生産方法を単なる手段以上のものとして考えないと、たくさんの価値をつくり出せない現状では、建築することの意味が問えないのかもしれない。アレグサンダーはその研究に半世紀もの間、時間を費やしている。

8月25日(土)
昨日はBSNHKで映画「ニンゲン合格」黒沢清監督を観た。若き西島秀俊が主演である。ちょっと間が多く思わせぶりの日本ぽい映画であることが気になる。ディテールがないことで、感情移入を誘っているのだが、複雑な人の感情や人間関係は、どう複雑であるかを示さない限り、希薄化されてしまう。その典型映画であったと思う。午後、御手洗龍さんのオープンハウスに行く。都立大学駅に近い商業地域に建つ店舗兼住宅だ。部屋の中央に部屋の大きさに不釣り合いなくらい大きな桁階段がある。住まい手の趣味であるダンスがヒントになって優雅な踊るような階段からデザインを出発させたという。それをどうやら再開発が進む建物周囲の都市スケールにまで拡張したらしい。歩き回ることによって、個々の窓や部屋、ベランダから様々なインフラのシーン(走る電車や高架橋、空)をぼくらは目にすることができるのだが、それを空間的仕掛というよりも建築的な仕掛として落とし込めたっかたのだろう。兎も角も自分でインフラ的なものをつくって、それを訪れた人にたいして第一印象なるものとして位置付けたかったのだろうと推測する。それがこの大きな階段なのだ。この辺の潔さが気持ちよい。ところで、まずこの階段から思い出したのが、サン・ロレンツォのラウレンツィアーナ図書館入り口のホール階段。不釣り合いに大きく、箍が外れた感じであるが、なまめかしい階段である。ブルネルスキの幾何学的に統制された空間に対峙するものであった。それとの対比で階段のデザインをみた。
100 プレミア  サウサンプトン×レスター 
吉田はベンチ外。バーディが3試合出場停止のため、岡崎はベンチ。後半40分から出場。これといった活躍はなし。ここ数試合、レスターは流れのあるボール運びを見せる。体の小さい岡崎は、DFを背負うときにしっかり身構えるので、こうした要求に応えることは難しいように思えるが、代表における戦術はこれに近いのだからがんばって欲しいと思う。

8月24日(金)
「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著を読みはじめる。Xª+Yª=Zªを満たすX、Y、Zの自然数は存在しない。このことを350年かけて証明をしてきた数学者たちの物語である。無限に続く未知なるものの存在を、いかに因果律と言う言葉を使って説明するかという方法に興味をもった。この350年間に、a=3,4,5・・などの場合を世界各国の数学者が証明をしてきたのだが、無限なことまでの証明は、長い時間と労力が必要とされた。その物語である。その解決には、全く降って湧いたようなモデュラー形式という演算方法がヒントとなって可能となった。これは周期性を用いて、円を繰り返し分割する対称性を表す数式でもあり、これが意味することが現在問われている。メイヤスーの「有限性の後で」と同様な方法論である。

8月23日(木)
中埜さんの事務所で打ち合わせ。ティールと建築、あるいはアレグサンダーとの関係について話合う。このふたつには共通する世界観があり、その思想的バックグランドも見えるが、実践するためのモチベーションが見えにくい。価値が転換することを訴えているのであるが、その現代性がつかめないのである。「禅と日本文化」を続ける。禅は、「われわれ自身の存在、すなわち、実在そのものの秘密を直接に洞察することにある」p150。これが西洋哲学と異なることであるという。外でなく内部へという訳である。そして本書後半は意識の階層性に言及する。半意識(記憶)、無意識、集合的無意識、宇宙的無意識である。無意識は、絶望的なあるいは偶然的なカタストロフの起こるとともに表面にもたらされる。後半の2つが暗黙知に相当するものだろう。直感によってのみアプローチでき、共感をよぶものである。無意識を呼び込む方法が機能的であるのにたいし、ここまで来ると宗教となる。悟るしかないといわれているようで少し辛い。そうした別の説明方法を知りたいと思う。

8月22日(水)
「禅と日本文化」が意外と面白い。これまでは、禅に拒否反応をもっていた。難波さんの影響が大きいが、その理由がしっかりと記述されている。「禅は知性主義に対立して直感を重んじる」p36。あるいは、「禅は文字の知識を軽蔑し、究極の実在を直接に把握するためには最も有効な手段」であり、「経験主義・神秘主義・および実証主義はきわめて容易に手をたずさえて歩くことができ(中略)この三者はいずれも、経験事実そのものを求め、その事実のまわりに知識的構造を気づきあげることを嫌う」p111のである。きっぱりと形式することを否定すらしている。あるいは、「禅は直感的理解の面に踏み止まるため、最善の方法をつくす。そして、念象・表象・および詩的表現というべきものを自由に使役する」p112。しかし、そうした禅にたいしては、西洋の因果律から拒否反応がある。それが禅を遠ざけていた理由であるが、それにたいする解答も与えられていた。これが発見であった。それは、「華厳」とペアにして考えることだという。華厳宗の参究者、澄観と宗密(8世紀)がそれを行った。華厳哲学は、非因果的とは別種な知的形態を、縁起論を用いて、禅に知的作用を訴えるものでのであったという。

8月21日(火)
トルコへの移籍の噂が絶えない香川が、初戦のカップ戦にベンチ外となる。ネットが充実しているとはいえ移籍情報は噂ばかりであり、核心をつくものではない。おそらく多くの人が気にする欲望が、無尽蔵の情報をつくりだしている。午前中に、白駒池に行く。苔の森である。今年のJR東日本のポスターにある。まばらに立つツガの根元が広く苔に覆われている。地盤が固いためだろうか。根が地中深くまで生長しないため倒木も多い。その上の苔が時間を感じさせてくれる。安藤忠雄設計の小海町高原美術館へ。その隣に新しく温泉施設もできていた。木造の小屋組があらわしの建物である。15年くらい前は閑散としていたが、この温泉施設の利用者のため賑わっている。皮肉である。長坂インターから帰る。長坂インター手前に広がる北斜面の農場が美しい。以前、タダリコという店で食事して、その前面道路の風景に見入った。

8月20日(月)
小布施図書館により、長野自動車道を利用し安曇野へ。いわさきちひろ美術館。そこから美が原高原道路から王ヶ頭峠へ。途中の尾根道が美しい。そこから奥蓼科に抜ける。「禅と日本文化」文庫本 鈴木大拙著を読みはじめる。

8月19日(日)
小布施に行く。5〜6年前の理大の川向先生と行ったワークショップ時と街が大きく変わっている。そのとき千葉工大として参加し、街の構造を分析した結果、広場にポータブルな大きな池をつくった。それは、街に中心部を形成することを目指したものであった。その時は、小さな水路と、通り抜けの小道と小さな広場が町に沢山あったのだが、そこにまとまりがなかった。ぼくたちたちの案はその町の構造を補強するものとして考えた。しかし今回の訪問で、その小道がはっきりとかたちつくられていたことが分かった。町のインフォメーションセンターを兼ねた小さなB&Bホテルを宿泊場所したのだが、その建物自体が通り抜け可能となっていた。土蔵をリノベーションした宿泊部屋は分棟式で、その外廊下が通り道であったのだ。そうした建物が沢山できていた。チェックインを済ました後、北斎館(宮本忠長設計)に行き、北斎の肉筆画を観る。当時のワークショップで工藤国雄さんもいっていたが、北斎の精度と迫力に改めて圧倒される。美術館自体も明るくリノベーションされていた。夕食を近くの江戸時代の酒蔵を改築したレストランでとる。空間に合った味噌とか麹を使った料理であった。

8月17日(金)
急に湿度が低くなり、気持ちよい日になる。夕方、技術評論社へ。翻訳の打ち合わせ。建築分野外との打ち合わせは新鮮だ。技術評論社は、IT企業向けのビジネス書の出版が多く、その話題が多くなる。その中で、新しい働く空間のあり方に興味をもっていることが印象的。フリーアドレスもあるが、空間的にゆったりしていて、オフィス内に居心地の良い空間を、どの企業も求めているようであった。その流れは、明らかにフランクゲーリーのグーグル本社にあり、日本のIT企業といっても、もとは米国で、大きくその影響を受けているようだ。つまり、IT社会も建築と同様、ある共通認識化された世界をもっていて、情報の流れは速いことがわかる。そして彼らはその空間からフラットな人間関係を表す会社のあり方を感じているようである。とはいえ、多くは東京の高層ビル内にオフィスを構える点で、外に対する建築のような批判的な視点は持ち合わせてはいない。それはアメリカでも同様で羽生田さんがいうには、グーグルなどあまりにもオフィスが快適であるので、街に出なくなり、その規制をしているという。まるで地方都市におけるイオンのようだ。どこも抱える問題は似てくることを痛感する。ところで、ITにとって離職率改善は大きな問題のようだ。要するにそれだと教育に時間をとられて、技術の集積に役立たないそうである。「ティール組織」はそういう点でも的を得た本であるという。新しい分野から社会変革が起きるのはこういうことだろうと思う。帰りの電車の中で中埜さんと立ち話。ネットワーク図がツリー構造の上から見たものであるという指摘に驚く。そこから、水平的思考と垂直的思考の違いについて、事務所に戻り考える。ツリー構造のどの高さを切断するかで、ネットワーク図が変わるのである。フラットな構造も俯瞰的視点をもつとツリーとなるのである。ツリー構造の切断位置とは何かについて考えてみよう。

8月16日(木)
午前中病院へ。先生の都合で、次から新橋の病院へ変わる。小さい病院は、大学病院と異なり経営陣からの直のプレッシャーは相当なものであるという。昼から新横浜へ。大きい街の割には、何もないことにビックリする。駅の東側は古い住宅街で、突然と新横浜駅ができたのだろうか、全くの商店街もない。線路が大きな壁となっている。その駅の西が新しい大規模開発の街であり、横浜競技場もある。離図で見ると南が古い街で、そこまで歩くことができず。

8月15日(水)
夕方から時間をつくり仙川に行く。よく通っていたときからだいぶ変わってしまって、昔が分からなくなる。駅中心が開発され、さらに安藤建築により駅が中心でなくなり、街が分散傾向にあるのがよい。

8月14日(火)
「暗黙知の次元」マイケル・ポランニー再読。発見は、対象知でなく方法知によるものであることを確認。方法知がトリガーとなって発見が促される。つまり、設定されたプログラムから別の新たな知が生じることをこのことは示している。暗黙知とは、まだ説明がつかないものをいうのではなく、科学的な発見や創造的な行為に作用する知のことで、存在するものである。ポランニーは、部分が組み上がりひとつの包括的なものになるには、暗黙知という存在がない限り論理的説明がつかないとした。

8月13日(月)
「時を超えた建設の道」アレグサンダー著を再読。ドーキンスを近頃読んだこともあるが、多くの類似点があることに驚く。本書は、秩序あるいは全体とは何かを探究する。ドーキンスによれば、進化が何かということである。その秩序は、生物が生まれるように、「つくられる」のではなく、個々の細胞の時々刻々の漸進的な適応にまかせるようなプロセスによって生成されるにすぎないものという。この本の素晴らしさは、美しさの分析ができても、それを生成にまで高めることはできない。その難しさに正面から問うているところにある。それを単なる人間主義に陥ることなく、あるいは論理的説明をギブアップしてしまうこともなくトライしているところにある。そこに、ドーキンスのように確率論で押し切る歯切れ良さはないが、問題を二項対立させそれを説くことによる内面化と、曖昧であった現象の精緻化とが不可分であることで、これを説明しようとしている。

8月12日(日)
098 プレミア アーセナル×マンチェスターC 
ピッチ上に元ドルトムントの選手がいっぱい。ギュンドアン、ムヒタリアン、パパロクロス、オバメヤンらである。デンベレのアーセナル移籍は成功しなかったようだ。W杯後は大きく選手が動く。シティは、マフレズが新加入くらいであるが、調整不足でブライネらはスタメンから外れている。はじめの得点は、それでもイングランド代表のスターリングからであった。とはいえ、アーセナルの守備の甘さがまねいた。中盤底のオリー、ジャカをはじめ、アーセナルはかなりメンバーが昨季と異なる。攻撃ではオバメヤンは仕事ができず。ドルト時代、基本的にはサイドに開き、スペースを空けておくことが多かったが、そのスペースを味方とシティに消されていた。ブンデスのチームとシティのレベルの違いかとも思う。0-2でシティが勝つ。エメリ新監督の厳しいスタートとなった。

8月11日(土)
096 プレミア ニューカッスル×トットナム 
武藤がニューカッスルに加入。後半80分から出場。トップ下あるいは2トップの一角であった。相棒は強靱な体力もつ新加入のロンドン。しかしニューカッスル、ベニテスの狙いは今のところ不明。とにかく今季、お金をかけてメンバーを一新した。武藤もその一人である。ビザの関係で前日まで帰国していたというので、コンディション不足だろう。今後に期待する。今日の試合を見る限り、武藤に課せられているチームコンセプトは見えなかった。
097 Jリーグ 神戸×磐田 
イニエスタの美しいシュートをニュースで観て、ポトルスキーとの連携をDAZNでチェック。「世界を知る者同士の連携」というフレーズに煽られたかたちであるが、実際観ると美しい。ポトルスキーとの練習は1日のみだったそうで、それでこのレベルである。試合の中で彼らは絶えず、FWの古橋は見ている。イニエスタは背後へのパス、ポトルスキーからは大きなサイドチェンジ、が度々古橋に来る。古橋はまだ23歳。今後の伸びに期待である。二人のポジションが被らないのが不思議である。ポトルスキーはサイドにへばりつき、イニエスタはチャンス以外、前線には上がらない。美しいシュートは、その数少ない連携から生まれた。15分早々であった。サイドへばりついていたポトルスキーが、これまではシュートを放っていたのだが、このときのみイニエスタが中央のスペースに入り、そこにラストパスがと通った。ところでDAZNは、サッカーコンテンツを独占しつつあり、数時間後に改めてこうしたチェックができるようになった。DAZNは今季、CLの放送権もとった。しかし、ブンデスを反対にスカパーに手放すことになる。ユーザは相変わらず両方を加入しなければならず、これはこれで問題である。サッカーが広く世界中に共通するコンテンツとなり、毎年放映権が上昇している。そのため日本では、単独では赤字となることが避けられず、他のコンテンツとの抱き合わせからその経済性を確保していると聞く。そうしたなか強くなるのは、携帯占有率をあげることに将来的な展望をもつ、ソウトバンクやNTT(DAZN)である。実はその損失は携帯パケット金に反映はされている。

8月10日(金)
「ダイヤルMを廻せ」ヒッチコック監督を観る。ストーリーが2転3転する。ほとんどのシーンが事件現場となる夫婦の部屋内であり、玄関と反対側からの撮影である。その退屈さをストーリー展開と、登場人物が部屋を出たり入ったりすることで押し切る。もともとは舞台演劇であったそうで、それに納得。品があるグレース・ケリーも、役としてはいまいち。恋多き、男に振り回される女性として描かれている。
095 プレミア マンチェスターユナイテッド×レスター 
プレミアが早くも開幕。W杯決勝から3週間である。バーディは先発外れるも、フランス代表ボクバは先発する。このように、選手の疲れとモチベーション低下のためW杯年のリーグ戦は荒れるといわれている。岡崎はベンチ外。レスターは半分が新加入選手である。10番マディソンはこれから。岡崎が昨季まで、なんだかんだいってもバーディとの絡みは一番であった。そのバーディとの今後の関係が注目だ。途中出場のラシド・ゲザルはマフレズの後におさまりそうである。どうも、レスター、クロード・ピュエル監督は、ポジションサッカーを目指しているようだが、絶対王者バーディの速攻との折り合いが問題である。ベンチにエヴァンスがいるのに驚く。

8月9日(木)
「知識デザイン企業」紺野登著を読む。著者は、野中郁次郎との共著が多く、建築出身である。この本でも、組織論を軸にして、暗黙知やパタンランゲージについてが書かれている。現代のデザインは、「知識デザイン」になっていくという。知識デザインとは、形式知から暗黙知、さらに形式知へと、知識の流れを上手く(上位に)することだ。戦後の多機能追究から、Macに代表されるモノのデザイン、そしてAIに代表されるソフト知識デザインへと時代が趨勢してきたことがよくわかる。HowからWhatの方向である。目的重視といってもよい。パタンランゲージはこれを可能にするタイムリーな道具として、本書で扱われている。アレグサンダーの「Timerless way of building」で扱われている「名付け得ぬ質」について言及していることに驚く。デザインを生むことは何かについて正面から取り組み、この超越性の説明を避けていなかった。しかし、それは難しい。パタンランゲージの利点を3点挙げている。近視的と俯瞰的両視点(ユーザ志向と専門性)、再利用可能性、そして、異種異質の要素の綜合、である。このパタンの構造をもとに暗黙知を意識して、再び内面化できたものを、「名付け得ぬ質」といっている。

8月8日(水)
一連に読んだ著書とパタンランゲージとの関係を考える。パタンを運用するには、パタンを辞書のようにただ羅列するだけでは無駄である。包括的なものにするには、他のパタン、あるいは既存のパタンからなるもの、などと利害を対立させることが必要そうだ。ただし、パタンランゲージの構造は、コンテクストに馴染む方向で考えられている。したがって、能力のある専門家しか新たに対立項を見出せない。一般の人にとって運用が難しいとアレグサンダーは考えたのではないか。その証拠として、盈進学園のプロジェクトランゲージは、最もらしいことしか書かれていないので、次の段階(かたち)に進めることができていない。そこで、アレグサンダーは敷地という対立項によって、敷地と格闘した。この考えが正しいかどうかパタンの構造を調べる。意外と対立項を同時に扱っていることに気づく。パブリックとプライベート、裏と表、内と外、中心と周辺、機能性と伝統などがあった。ファシリテーターのコツがここにある。

8月7日(火)
翻訳続行中のラル-著「ティール組織」におけるキーワードは、自主経営、全体性、存在目的あるいは進化する目的である。それに基づきここしばらく、H・サイモン、ウィルバー、ドーキンスの一連の著書を読んできた。どれもダーウィンの進化論を拡張解釈するものである。あるいは機械論的方法によって、いかに創造性をもたらすかを考えるものであった。それは事後的な説明を否定し、先の見えない未来を前提に進行形のかたちで方法論を描くものである。池辺さんのいう「名前のない空間へ」を説明するものと考えてよいだろう。そこには、進化といっても、安定した水準から安定した水準への不連続な前進の繰り返しのことが書かれ、進化はたえまない上昇ではないことが特徴的である。これを前提にしなければならない。そしてサイモンは、その安定した水準をニッチといい、ぼくらは直感、あるいは感知によって、ニッチを精緻化することしかできないといっていた。その精緻化されたニッチが、ある組織で通じると文化というものなのだ。つまり文化を結果物としてみている。したがって、数は多くないが多々のニッチが見て取れる。後述するが、それがドーキンスと異なる視点である。しかしどの著書も、こうした個体による直感あるいは感知されたものの総体が、全体性あるものになるということで一致している。そしてその方法論に特徴を置いている。「ティール組織」の主たるテーマも、具体的にそれを提案することであった。その中でも異色なのはドーキンスである。ドーキンスには人間主義的な考えが一切なく、徹底的に目的をもった個の利己的遺伝子によって動く機械と生物を考える。したがって歯切れがよく、例えば、自然にたいして、それが包括的であるとか全体的であるとかの価値をもたせるような俯瞰的視点を持ち出すことはない。したがって文化という視点もないのだ。C・アレグサンダーは、ウィルバーに近い。ドーキンスと異なり、パタンあるいは幾何学特性が全体性を得るまでのプロセスに、人間主義的なダイコトミー(2項対立調和)を加味させながら進行させることをする。パタンらを、バラバラな細目から世界へ拡げるには、身体との同化、つまりパタンの内面化が必要とされるというのだ。この人間主義的思想に拘りがある。そう考えるとその結果できた建築は、様々なものがあってよいと思うのだが、アレグサンダーはそこを否定する。ラルーも内面化を奨励するための方法論を様々挙げ、そこから生まれる結果については不問ではある。

8月6日(月)
「盲目の時計職人」を読み終える。生物の進化からみた偶然に関する本であった。ここでは突然変異に代表される「荒々しい偶然」というものは否定される。大規模な変化も、小さな変化の積み重ねである(累積淘汰)。そして、遺伝子は個を生存させるという目的のみに働く。種全体のことを考えない(利己的遺伝子)。このふたつがダーウィン主義に基づいた世界観というものであった。つまり、突然変異はランダムであるが、自然淘汰は極めて目的的な行為なのである。したがって、ラマルク説、獲得形質説の遺伝、神による創造も当然否定される。盲目の時計職人による仕業なのである。最後に本書では、思索を深める個人主義者として、アーサー・ケストラーとバーナード・ショーが挙げられている。彼らは、人間性の改良に感情に訴える力があるに違いないと考えた人たちである。そうした彼らも否定されていた。

8月5日(日)
「盲目の時計職人」後半9章は、突然変異について。本書では基本的に、大突然変異を認めていない。漸進的な累積淘汰を基本とする。そうした前提で突然変異に関する見方が面白い。大突然変異は、ぼくらでいうところの創発、あるいは創造というものの解釈に相当する。ここを面白く読む。実は、同種とみられる種は、同地域を故郷とする、たたまたま何匹かが例えば大きな山脈を越えて独自の地で累積淘汰した各々であるという。それらが時間経過とともに気候が変動し再び一緒の地に移動した結果である。そのとき、一方がその過酷な環境によって進化している可能性が高い。それらが競争をはじめると、どちらかが絶滅する。その結果、同時期の地層にふたつの種が残されることになる。それを事後的にぼくらは化石事実からふたつ違いを突然変異として考えているのだという。別々な地で漸進的進化していたものにたいして。面白いのは、突然変異と見なされる事実はある。しかしプロセスはそうでなく漸進的であったということだ。創造はある。ただし、それは別の世界や分野で進化してきたものがやってきたとき起こる事後的に見なされる変化なのである。これによって、フラーや池辺のユニークさの説明にたいする確証を得た気がする。

8月4日(土)
この時期、戦争の特集が多い。深夜、昨年NHKで制作された「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”」を観る。当時のアメリカ空軍は陸軍や海軍の下にあり、悲願の独立組織となるためには、戦争成果をあげる必要があり、それを示すための焼夷弾による無差別爆撃であった。このことを、当時の将校の証言によってまとめた特集である。米軍は長距離超高空爆撃機B29を多額の投資のもとに戦中に開発し、その使用を政治的に空軍が得た。当初は、軍需施設のみへのプレシジョン爆撃を考えていたが、それは上手くいかなかった空軍の焦りが、道徳観をも失わせてしまったという。12月の10万人以上の犠牲者を出した東京大空襲から半年間、場所に関しても無差別に地方都市が爆撃された。実に、広島、長崎も含めてこの時期に40万人犠牲者が出た。日本もアメリカも、人には道徳を持ち続ける能力などはなく、なぜなら道徳は結果によって再解釈されるものであるという、誠に悲しい結論をもたらす特集であった。

8月3日(金)
夜放送大学で、美術館の歴史についてのレクチャーがあった。それをたまたま観る。18世紀中のルーヴル宮のサロン・カレで行われたのがはじまりだという。無料で一般人も入館でき、当時60万のパリの人口に対して、2万冊のパンフレットが売れたという。ただし、1ヶ月間だけの限定開催であった。これはフランス革命前のことである。応接という意味のサロンという言葉が、展覧会や社交場を意味するようなったのもこれを起源とする。そのときの展示は、壁一面にたくさんの絵を覆う展示方法で、ロココの絵が中心あった。これが毎年開催されることとなる。雑誌批評もこの頃から生まれた。ただし、その雑誌は一般に売られるものではなく、世界中の国王などが教養を高めるために読むものであった。写真もないので、文字によって絵画を描写していたものであったらしい。フランス革命以降、本格的にルーブルが美術館となるのだが、それが完全に一般人に公開されるようになるには、パリ万博の1867まで待たないといけない。その間美術館は、美術関係者にたいしてスケッチなどを許すところであったそうだ。徐々に美術館に窓がなくなり壁となり、壁に対して絵の数が少なくなり、トップライトによる採光方式になっていった。ウィーン美術史美術館開館も時を同じくして、1891年である。

8月1日(水)
ゼミにて、家具製作の打ち合わせをする。リアリティが不足し、夏越しの宿題とする。イメージを描くこれまでのデザインから実際に自分たちでつくるデザインに変えることによって、新しいデザインが派生することを証明したいと思う。モノに即したリアルな発想によってデザインができるようになればと思うのだ。その後、前期の研究室打ち上げを近くの居酒屋で行う。帰宅後の深夜、広島の原爆特集をNHKで観る。当時の軍人たちは、現実の社会に押し流された行動をしてしまった。その深い反省から、彼らはひどい自己嫌悪に陥っているのが分かり、なおいっそうの辛さを感じる。

7月31日(火)
午前中、月山へ。山岳信仰の地だけあって、アプローチは簡単ではない。車で1時間はかかる。道路の険しさから昔は、鶴岡と寒河江は同じ山形でも別の文化圏であったことが想像される。その道をだいぶ登って行くも、気温は30度を辛うじて下回るほど東北も暑い。台風の影響という。口之宮湯殿山神社、志津温泉、空港前の国民宿舎温泉に入り、午後の便で帰る。

7月30日(月)
羽黒山神社五重塔へ行く。天皇在位30年を記念して内部公開している。樹齢千年を超える高い杉木立を抜けてそこに辿り着く。前面の白砂利に太陽光が反射して、五重塔の軒裏が生える。それを階段下から見上げることができる。昨日の土門拳の室生寺の写真より美しいとさえ思う。この天皇在位を記念して足場を使って屋根構造を間近に見ることができる。山頂へ歩いて行くにはきついので、車に戻り近道をする。山頂の出羽三山神社三社合祭殿へ。茅葺きの屋根が奇妙なかたちで力強い。村の豪者が持っていたという秘仏3体も公開されていた。鶴岡市内の妹島さんの鶴岡市文化会館へ。春に観た岡山大学のホールと同じく屋根がテーマである。ただし、鶴岡はうねった屋根である。これによって大ホールの高さは確かに目立たない。隣には致道館がある。それを配慮したかたちでもある。ただし、致道館の入り口側が、会館のサービス側で引きがあるので、その効果は薄いと思う。重要なのは、変形敷地を利用して、ホールの間を自由に通り抜けることができ、前面の役所側から裏のアートフォーラムへ連続をつくりだしたことだ。記憶ではコンペ時はもっとその回路が複雑であったと思うのだが、貸し会議室が裏のようにみえ、通り抜け方法が単純に思えた。それでも高校生がそこで勉強をしているのが象徴的。問題は、今日のような暑い日の空調方法だろう。そのためにもっと多機能にする必要性を感じる。露出のスチールデザインによって、妹島さん特有の空間の軽さを出しているのだが、その後が心配でもある。駅前に移動し、フルーツ店から山形のお土産を郵送。その後湯田川温泉へ。古くから温泉街で、建物が建て込んでヒューマンスケールを維持し、街の構成が面白い。今日泊まるホテルも古い木造旅館をリノベして古さを残しつつ、昭和に建てられたと思われる奥のコンクリート部分を外から見えないようにして、現在は空間とサービスの質を上げながら、営業効率を保とうとしている。実は今回で2度目の宿泊で、清潔で気持ちよく、その営業効果は出ている。

7月29日(日)
台風が過ぎ、酒田へ行くことが可能となった。久しぶりに土門拳記念館へ行く。企画展で、「筑豊のこどもたち」が開催されていた。「母のいない娘」を観る。一瞬でその写真を思い出す。ライフ誌の表紙となったものだ。土門の力を感じる。常設展は古寺巡礼。いつ見てもその迫力と密度を感じる。この写真に感動し、全集を中古で購入をした。今日の展示はカラー写真が中心であった。その後、イサムノグチの中庭をじっくり見る。前面の池の水とは異なり瑞々しい。勅使河さんの彫刻を観て、外からまた中庭を観る。実は、中庭もイサムノグチのデザインと知って初めての訪問である。建築より生き生きしているのは、正直な感想。しかし、それを俯瞰できるブリッジは建築からである。そして酒田市体育館へ。今回、はじめて中に入る。単純な箱に、大と小の体育館がおさめられている。その真ん中がエントランス。円形劇場ともなる屋外練習場もある。屋根は鉄骨造であるが、大分体育館コンペで大いに参考にした。時代が一巡りし、こうしたシンプルな箱が時代に相応しいものと考えたが、優秀案はショッピングモールに似た回廊のある住民に媚びた案であった。45mスパンのスケール感を確かめる。骨太の木造でできたらと思う。その後、酒田市美術館へ。池原義郎氏の設計である。谷口吉生氏とは異なる密度感がある。谷口さんを好むが、池原さんの設計になってしまう。これでもかという程、ディテールを畳み込む。駐車場脇のトイレ棟まで、そのデザインは徹底されている。そうした手法で、奥の常設展示室のガラスのアルコブは外と一体だ。自然の中にいるようである。歩いて行くうちにスカルパのブリオン家の墓を思い出す。しかしこの作品はもっと健康的で、鳥海山を捉える建築である。レストランで食事。ディテールを確かめる中で、天井高の低さが気になる。明るい内に海辺の道を通りホテルへ。おそらく古いコンクリート旅館を改築したものだろう。空間的に少し寂しいが、食事は旨かった。

7月28日(土)
「盲目の時計職人」ドーキンス著を読みはじめる。「利己的な遺伝子」から、25年後の著書である。単純なふるい分けによって発生しうる生物遺伝の非ランダム性を示すものである。純粋に無作為な発展による複雑性にたいして、累積淘汰と組み合わさった無作為がもたらす複雑性を示す。このグラフをイタチ・プログラムという。

7月27日(金)
淵上さんの学会賞パーティに夕方出席。小堀さんに、Roxyの見学についてお聞きする。黒石いづみさんと「アダムの家」の話。池辺さんの住宅のクライアントであったことを忘れていた。これによって、話が盛り上がる。帰りの電車の中で、千葉貴司さんと偶然出会う。もう何年もぼくと同じ駅に住んでいると聞き、ビックリ。台風が近づいている。

7月25日(水)
3年生の講評会。原田真宏さんと中川エリカさんをむかえる。中川さんは、デザインしたものを利用者がどう使うかかの重要さを強調する。これからの建築のあり方は、これまで以上にユーザ目線が大事になるという。多数のアイレベル空間を用意し、多様な錯綜する提案を求めていた。中川さんがベストとした作品は、こうした視点において、上野公園に散策路をデザインした堂下くんの作品で、建築と自然を同時に考える作品であった。原田さんは、自分が存在するからこそ可能となる建築の大切さを強調していた。多様だからこそ、自分が見ている世界を大事にデザインして欲しいというものだ。それは、決してアクロバットな建築を要求するものでなく、自分の視点をしっかり持ち、そこから社会を直視して欲しいということであろう。好感を持つ。一見、派手さはないが、確実にひとつの目的をもってデザインしている作品を推していた。川沿いの桜並木を学校の正面に変えていこうとする意欲的な作品であった。
093 インターナショナル・チャンピオンズ・リーグ リヴァプール×ドルトムント 
終始ドルトはリヴァプールにボールを支配するも、終了間際の速攻で逆転をする。ゲッツエがボールをキープし、サイドのシュメルツァーが走り、アメリカ代表プリシッチが決める。ドルトは、セットプレーの守備が問題で、日本代表のゲームのようである。スーパースターのいないチームが抱える問題はどれも同じようである。

7月24日(火)
「利己的な遺伝子」リチャード・ドーキンス著を読み終える。あらゆる生物は、自己複製が最大の目的である。それを行うのが利己的遺伝子である。一見、利他的に見える種の行動も、あるいは文化伝承も、確率的に自己複製を高める行為であり、結果的に利他的に見えるだけであるという。文化伝承遺伝子をミームと命名すらしている。要は、生物全てが遺伝子を運ぶための機械であるというのだ。プロメテウスなどの映画において、神を超えたものとして遺伝子をテーマとする根本がここにある。その是非はともかくとして、こうした考えが道徳とか共同体意識というものを無視したものであることが面白い。さらにもっと面白いのは、進化が種として起きるのでなく、個から起きるということだ。種同士の事前打ち合わせなどなく、ある個が行う自己複製伝達によって、それが最適(サバイバルに勝ち抜けること)だとすると、他の個も同様のことをするはずであり、それが種を変えていく(進化)というのである。個が種全体に及ぼす方法として、極めて機能的思考で、部分と全体との関係を把握する上での有効な考えとなる。これは、どことなく「ティール組織」を思い出させてくれる。進化した人間組織では反対に、個がこういう思考をできるように個の開放が必要とされるのである。「ティール組織」ではこれについての方法が中心である。パタンと利己的遺伝子の共通点も見出すことができる。パタンから全体性へは、パタン同士の一見利己的な折衝が必要である。これを解決していく過程で全体が現れる。

7月23日(月)
2年生前期第2課題の講評会。総じてよくできていた。敷地を回り込んで南からアプローチする案に驚いた。これまでになかったパタンである。3つの楕円を駆使したプランニングにも感心した。都市に批判的な案はこれまでなかった。全てがコントロールされている住宅は気持ちが悪いという。ぼくらがコルの都市計画に感じていたものと同じものを現代の住宅に見出していた。どことなく余白の多い仕掛をつくりだし、不気味こそが街を生き生きさせる方法と考えているのがよい。卒業設計でも扱われにくい問題設定である。他にも、公園からのランドスケープを意識した作品やL型壁や蜷局を巻いた形を用いて、新しい空間形式を追究していた案が印象に残る。最後に行った全教員による優秀案にたいする投票は割れた。それだけ、多くの優秀案があったということだ。

7月22日(日)
092 インターナショナル・チャンピオンズ・リーグ 
バイエルン×パリSG 
トゥヘルのパリ初陣を観る。ドルト時代のように縦を強調した攻撃はなかった。パリのメンバー多くが10代と若く、そうした戦術を期待したのであるが、半分がレギュラークラスのバイエルンにたいし、後半からポゼッションをあげられ圧倒された。この時期のゲームの狙いがいまいち見えないのが残念でもある。

 
7月21日(土)
オペラシティで開催中のイサムノグチ展へ行く。大分、香川と続く巡回展である。萬來舎のテーブルといい、イェールの図書館の中庭といい、鑑賞する位置によって発見できるさまざまな仕掛けを知る。テーブルの脚が隠れたり、丸い彫刻がスロープを転がったり見える。思えば、重いものを浮いたように見せるなど、トリッキーな方法を一貫して用いていたのである。しかしそうした方法を覆うほどの作品の質が前面にだせていることが凄い。ブランクーシーから精巧さを取り除くことに終始苦労していたのである。そうしたイサムノグチは、何度も来日しているが、戦後急に日本でもてはやされるようになったことも知った。谷口さんからの萬來舎設計による。このときに、京都に足を運び、幼少時の鎌倉の記憶とともに、夢窓国師の庭(西芳寺、天竜寺)を研究したという。夢窓国師の庭は他にも、恵林寺(甲州)、瑞泉寺(鎌倉)がある。師をオマージュした作品は、チェイス・マンハッタン銀行が有名であるが、ブロンズの単体作品もこの展覧会で観ることができた。
091 インターナショナル・チャンピオンズ・リーグ ドルトムント×マンチェスター・シティ 
ドルトムントファブレ監督の初陣。ゾーンをつくってから攻撃というパターンが見えるも、突出した戦略はまだ見えなかった。ドルトは、W杯後の休養からまだ戻っていないのが半数。対してシティは10代のユーズ選手がほとんどであった。ドルトムントは十分にボールを支配し、ゲームをコントロールしていた。

7月20日(金)
メキシコ人のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の「バベル」を観る。モロッコ、アメリカ、メキシコ、日本で同時に起きる事件の神の見えざる手を描いた作品。神は、聖書にある「バベル」に代表されるように人に、拳銃という武器と、異なる言語を与えた。そうして人種や文化を超えたコミュニケーションを難くさせた。それは家族というひとりひとりの間でも言えることであるが、家族や個人は、なんとかそれを超えることができる。なんとも保守的なストーリーである。4つのコンテクストの各々の人たちは、銃というモノをいかに解釈するかによってそれを描く。しかし、あまりにもステレオタイプ的である。差別的で権力主義的であるが家族愛の強いアメリカ、陽気で無垢なメキシコ、性や死生意識をはじめ道徳観のない経済大国日本である。それによって物語の交錯度が薄まりぶつ切りになってしまう。映画にのめり込めるのは、ひとつひとつのショッキングなシーンによってでしかない。

7月18日(水)
ゼミにて、「磯崎新建築談義」の読書会。15世紀からはじめて1世紀毎の建築、サン・ローレンンツォ、パラツォ・デル・テ、クワトロ・フォンターネ、ショーの製塩工場を読むこむ。建築の様相は時代の要請によって行ったり来たりする。磯崎流ではあるが、それでも動かないある基準がそこから見えてくるのではないか。これを大文字の建築といってよいものだと思う。これに意識的であることが設計において大切である。

7月17日(火)
学生から先週出版された「建築のリテラシー」についての質問を受ける。「中身のない空間はない」という見出しと、「空間には中身がある」との違いについてである。ぼくは空間に、特に美術館では中身(展示物)が大事であると思っている。しかし、一般にはそれが忘れられている。このこれを前提にした文章である。空間には中身があるべきであるといったとき、それは規制となる。しかし、「中身のない空間はない」といったとき、さらに強く規制されることを読者は感じるだろう。前提を押さえられることになるからだ。しかし、その強さほどにネガティブ感は少ないと思ったりする。問題の起点を明確に示すものであるからだ。偏執狂的批判的方法の意味は、こういうことかとも、話しているうちに思う。

7月16日(月)
休日であるのだが、大学は平常通り。来週の試験に向けて学生も休んでいない。2年生は課題の提出。最後は面白くまとめる案が揃ってきたので一安心。作り込んだ案を来週の講評会に挙げる。

7月15日(日)
成城のナチュラルアングル行き。子供室に向けての相談。1案を持っていく。方針が認められ実施に動くことになる。その後鈴木さんと、吉阪さんの樋口邸、篠原さんの成城の家、磯崎さんの横尾忠則アトリエを観て回る。崖のある公園と一体化しており、八王子の大学セミナーハウスを思わせる。暑いのでプールによって事務所に戻る。

7月14日(土)
横浜美術館で行われている「モネ展」へ行く。モネの大作は少なく、モネへのオマージュ的作品を併置させ、モネの作品に厚みを与えようとする構成である。モネの筆使いをデジタルで表現しているものが多い。そこに深みを感じられないのは現代アートの特徴であるが、方法論となってそこに批判性が足りないからだと思う。ダリの彫刻が常設されているのだが、そこには、パラノイア的性格をさらに感じる。その意味することを少しづつわかってきたような気がする。誰もがモネに近づくことができる時代には、その強さと切り口こそが重要となる。そうしたところまで、世界は細かく分断されている。夜にジョコビッチとナダルの再試合を観る。昨日のもうひとつの準決に比べてラリーに迫力がある。勝負はともかく実力に差があることは、素人目にも明らかである。錦織はもう一歩のところまでいっていることも判る。彼らは、0-40という状況でも安定している。様々な攻撃パタンを備えていて、相手と状況によって変えることができているような気がする。サッカーの代表にも同じ感想をもつ。
090 W杯 イングランド×ベルギー 
中2日のイングランドはきつかった。前半はのらりくらり、後半に勝負をかけたようであるが、タイミングの悪いところで失点をしてしまった。0-2で負ける。スケジュールがきつく、体の切れが悪く試合内容はいまいち。スケジュールの見直しが必要だろうと思う。

7月13日(金)
ウィンブルドンの準決勝アンダーソン×イズナー戦を観る。なんと最後のセットは、26-24である。得点でなくセットである。当然全部は観なかったが、両者2m身長から振り込むサーブでほぼ得点が決まる。にわかテニスファンであるので、錦織戦しか観ないのであるが、錦織の技術力の高さと、日本人であることを除外しても錦織の戦いの面白さを改めて知る。そうしたアンダーソンやイズナーに錦織は、これまで勝ち越している。

7月12日(木)
本年度レクチャーシリーズ第1回目を家成俊勝氏を迎える。モノとしての建築に加えて、道具、メディア、使い方、物語性などをフル活用し、人を巻き込む。その実践を紹介してくれた。モノのデザインを超えたコミュニティのデザインである。しかしそれを正当化するための社会的要請を持ち出さないところに好感をもつ。つくる行為を通して世界をみていることころに、レクチャーに説得力を感じた。小豆島のプロジェクトは、その中でも特に面白い。家成さんの全プロジェクトに共通することでもあるのだが、このプロジェクトでは特に、商業をはじめとする社会の情勢にのりつつも批判的であり、ユーモアである。アーティストが個人的に批判的スタンスをとることはできても、ある集団においてそれを行うことは難しい。ユーモアがなくなり、闘争となる。建築は多くの人が絡むので、批判的にならないのはそのためである。家成さんは、そこを上手くすり抜ける術をもっている。このことを感じる。批判の対象がビートたけしにあり、2重の批判が行われているからかもしれない。

7月11日(水)
089 W杯 イングランド×クロアチア 
イングランドが先制するも、徐々にクロアチアはペースをつかみ、延長後半で逆転をする。ケインが封じ込まれ、セットプレーしか得点を見出すことがイングランドはできていなかった。それにしても、クロアチアはよく走る。延長戦を続けてきたチームとは思えない。マンジュキッチュ、ペリシッチ、モドリッチ、ラキチッチ、レビッチらの迫力は、イングランドDFは耐えきれなかった。どことなく、日本とイングランドを重ねてしまった。

7月10日(火)
088 W杯 フランス×ベルギー 
守りを固めるフランスに対して、ベルギーは戸惑っているようであった。そうしている内に後半早々、セットプレーからウムティティに得点される。引いてくる相手に対してブラジル戦のようには上手くいかなかった。

7月9日(月)
ゼミにて「生きられた家」多木浩二著の読書会。担当者はよく読み込んでいた。副題が経験と象徴であるが、経験と象徴を対置させているわけでない。象徴のもと様々な経験がなされ、そてがまた象徴性をつくっていく過程が示されている。「家」あるいは「建築」とはそういうものなのだということが語られている。90年代に考えられなかったのだが、ジジェク(ラカン)を通してこのように考えられるようになった。

7月8日(日)
多摩美術大学図書館再考。伊東さんの中には、むしろ流れるような空間がはじめにあったように思われる。それが優しい技術で包まれている感覚である。技術は規則であり、グリッドである。ぎふのメディアコスモスもよかったが、ぎふは肉感的で多摩美は透明である。瞑想の森は、まだ技術に関する解答がまだ成熟していないように思えた。代表選手のロングインタヴューがやっと各局から届くようになる。ほとんどの選手が清々しく受け応える中、昌子の悔しがり方が印象的。

7月7日(土)
10時にチェックアウトし、伊東豊雄さん設計の多摩美術大学図書館へ。静粛な空間であった。想像していたより、カジュアルなくつろぎ空間がないことが驚きであったのだ。しかし、こんなにも充実する美術書が重々しくなく、流れるように配置されているのが気持ちよい。お店のようだ。天井高があり、正面が北側で、大きな開口がカーテンなしに外部と連続していることもそれを増幅している。アーチの連続する崩れたグリッドは何かと考える。型ぐるしくないのだが、グリッドのない自由空間にはない開放感がそこにある。グリッド/開放という相反する問題が同時に解決されている。難波さんと佐々木さんが新しいグリッドを、いつか試みたいといっていたことを思い出す。伊東さんはやはりすごい。

7月6日(金)
研究室活動で、八王子の大学セミナーハウスへ。本館の力強さを改めて感じる。ぼくが宿泊したのは、松下館。実に10年振りだろうか。ユニットバスが配置され、綺麗になっている。学生が宿泊したのは、長期館。冨田玲子さん設計である。中央にゼミができるほどの大きな集会場があり、その周りを3箇所の宿泊できるクラスターが巻き付く。クラスターは2本の換気塔を八の字に登る形でベッドアルコブが形成されている。学生が設計するような住宅が実現されている。一体感があり気持ちよい。深夜に、中央の集会室の壁一面にプロジェクターを使って、フランス×ウルグアイを観る。早めの夕食をバーベキュー場でとり、ピラミッド型中央セミナー室で4年生の卒業設計の中間発表。今年は大きくふたつの傾向がある。ひとつは社会問題に真面目に取り組むもの。もうひとつは、都市構造を読み解き、シームレスな自然と都市の関係を捕らえ直そうとするもの。前者は、なかなか解決策が見出せない複雑な問題である。自分にとってのリアルな解決に結び付けることをアドバイス。後者に関しては、自然との調和を目指すものであっても、それが実現されてこなかったリアルさを観ることをアドバイス。この大学セミナーハウスもそうであるように、建築はあくまでも人工物であることを意識して、自然と対峙してからでないと、調和はない。このことを、この建築から知ることができる。無自覚に、自然をコントロールしようとするところが、この自然/都市という断絶を招いていると思う。どちらの提案も、形式的ではなく、身近な問題にまで引きつけることが必要だと思う。社会に関する問題は、これまで沢山の人がアプローチしてきた。それを乗り超えるには、個人的な思い込みによるものでしか可能性がない。そう簡単に突破できないだろう。そうして、問題の大きさを感じることからはじめる必要がある。
086 W杯 フランス×ウルグアイ 
どちらも攻守の切り替えとプレーが正確で、ここにまで至るチームの技術の厚さを感じてしまう。グループステージの肉弾戦とは全く異なり、CLのような戦いとなる。フランスは、巧みな組織的セットプレーから得点すると、組織的に優位にゲームを進めた。カバーニを欠くウルグアイは、固い守備を守りつつも、スアレスにまでボールを運ぶことがどうしてもできなかった。その結果が、2-0というスコアである。2点差を大きなアドバンテージとする組織力が日本に必要である。

7月5日(木)
「アダムの家」ジュセフ・リクワート著再読。これまでは建築の原型が何か?それを確かめるために読んでいたが、その印象が変わる。むしろ、建築の原型を廻り様々な議論がなされ、大文字の「建築」なるものが出来上がっていく過程が示される本として読むことができた。ここに挙げられているのは、哲学者としてはカント、ヘーゲル、ライプニッツ、フロイト、ユングたち。建築家のコルビジュエ、ロース、ゼンパー、ヴィオレ・ル・デュクたちに加え、日本、キリスト、ユダヤといった地域・国を超えた例が挙げられている。あらゆる人が、初源を廻って様々に議論してきたというのだ。これによって、恒久的に避けがたいかたちで人間の内部に存在しているものを再生し続けてきたのだという。これが「建築」というものなのだといわんばかりである。「理論家が原始の小屋に興味をもつことによって、破壊された習慣や実践が再び蘇ったのと全く同様」p269であるというのだ。むしろヘーゲル的な歴史観のものであったことを改めて知る。

7月4日(水)
ヒッチコック監督「鳥」を研究室で観る。ヒッチコック特有のカメラワークと問題設定によって、忍び寄る恐怖をつくる。建築パースを描くときに、どこに視点を置くかの議論の後、この映画を鑑賞することになった。この映画は1963年作で、CGもない超アナログ作品あるのだが、学生にとっても恐怖を感じる作品であったという。このカメラワークをトラッキング・ショットとしてヒッチコックがはじめた。不気味な「物」に接近するときは、「物」に接近する人間を写す客観的ショットと、その人物の目を通して「物」を写し出す主観的ショットがあり、不気味な「物」の客観的ショットや、不気味な対象そのものの視点に立って接近してくる人物を写し出す主観的ショットというものはない。このテクニックによって、観客を惹き付けている。カメラワークだけでなく、物語設定においても、同様の構造が観られる。それは、現代が寛容社会であるように見える一方で、規則への服従を強いて、道徳的掟を拒む社会の不安定さを背景としている点である。それが不気味な鳥をシンボルとするものであり、父が亡くなった後の、プレーボーイな息子をもつ母親の心情として現れている。こうした間主観性を巧みに利用するところにもテクニックがある。しかもそこには転倒性がつきものである。この物語設定を「母なる超自我」といったりする。それが不気味さをつくっている。

7月3日(火)
日本選手談話が届く。読むにつれて、涙しそうになり、自身を情けなく思う。3番昌子は、ベルギー選手を後ろから追いかけるかたちであったので、状況全てが手に取るように判っていたという。時間よ止まれと思ったそうだ。長友は、本田らの決意を聞き、ただならぬ真剣度を感じていたようだ。吉田は、冗談を言いながら最後は涙しながらキャプテン長谷部の存在を語っていた。そのひとつひとつが物語となり、間主観的な位置づけを日本代表につくっていく。このことを感じる。他のスポーツと異なり、サッカーは「サッカー」であることだ。ちょっとした能力が長けているだけでは、勝ち進むことを許さないほど、層の厚さがある。全く上手くつくられたシステムである。そんな訳で、ぼくも再び、ベルギー戦を観てしまった。日本が守るゴール上からのカメラが本田コーナーキック後の状況をよく捕らえていた。明らかに対応する人数不足であったというか、ベルギーの攻撃にかける人数・意志が勝っていたことが判った。

7月2日(月)
085 W杯 日本×ベルギー 
ロスタイムに、CKから速攻を食らう。なんとも悔やまれる。最後のCKの位置づけを、なんとかならなかったのだろうか?と後悔し、ドーハの悲劇を思い出してしまう。ことごとくセカンドボールを拾われていた前半の猛攻をしのいだ日本には可能性を感じた。そして後半の2得点である。フェライニが投入され、最も恐れていたパワープレーに抗することになる。これに屈したものも、ドイツ大会のオーストラリア戦やブラジル大会のコートジボアール戦のように完璧に打ちのめされることはなく、なんとか余力を残した終盤であった。にもかかわらずである。もうひとつ残念なのは、フェライニ投入に対するケアが事前に打てなかったことであった。

7月1日(日)
太田市行き。隈さんの「太田金山地域センター」と平田さんの「太田市図書館美術館」再訪。隈さんの建築は、木毛セメント板を徹底して使用したもの。しかし建物としては非常によくできていた。動線、スケール、地形の使い方などである。これだけ木毛版を徹底すると潔く気持ちよい。「太田市図書館美術館」は、図書館完成後初めての来訪である。迷路のようで楽しい。これだけ全体性を失うことに成功させた建物はなかったのでないかと思う。完全に細部のデザインがコントロールされているわけではないが、決して破綻しているのではなく、きっと模型時に感じられたいただろう、ひとつひとつの空間性は担保されている。通常は、ディテールの破綻から、こうした空間感覚にまで至らない。考えるに、動かないキューブの扱いにポイントがあるのではないかと思う。これがうまくバランスされ、残りは如何様でも上手くいくような配置となっている。難を言えば俯瞰を許す外観かと思う。全体性という構成が見えて、イメージが拡がらなくもない。
084 W杯 ロシア×スペイン 
PKまでもつれ、ロシアが勝つ。スペインは、引いてきた5バックを崩すことができなかったのであるが、序盤の段階でこれを崩す展開しておきたかったに違いない。スペインといえども、創造的な攻めができなかった。その後のクロアチアもPK戦で勝ったと聞く。意外ともつれるゲームが多い。

 
6月30日(土)
難波さんの池辺さんに関するレクチャーを聞き逃す。大失敗。一月予定を間違えてしまった。後悔する。
082 W杯 フランス×アルゼンチン
4-3でフランスが勝つ。と同時に19歳エムバペがついに才能を開花させる。ひとりでアルゼンチンDF陣を翻弄させた。一方メッシもフィニッシュこそなかったが、パスの出し手にまわり一度は逆転に貢献した。しかしカンテがマンツーマンに着き、メッシにほぼ自由を与えなかったことが、この結果を分けることになった。
083 W杯 パラグアイ×ポルトガル 
カバーニのスパーゴール2発でクリロナポルトガルを打ちのめした。パラグアイのスアレスとカバーニの個人技はともかく、周りの選手の運動量が半端ない。これによって、ポルトガル選手に自由をあたえなかった。決勝トーナメントの迫力は、別物である。

6月29日(金)
深夜BSで「ラストベガス」ジョン・タートルトーブ監督。マイケル・ダグラス、ロバート・デ・ニーロ、モーガン・フリーマン、ケヴィン・クライン主演を観る。幼なじみの4人組が、70歳を迎え、再び青春を取り戻す過程をコメディに描いた映画。マイケル・ダグラスが若い娘と結婚することを期に、ベガスに集合することからはじまる。年寄りの映画であるのだが、ぼくもこうした映画を楽しむようになってしまった。「他者の受容」ハーバーマス著を読んでいるのであるが、中々進まない。その理由が「斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ」ジジェック著にあったことを思い出し、こちらを再読。大文字の「他者」について書かれている。これを、大文字の「建築」に置き換えてもよい。その再確認をする。大文字の「他者」があるという解釈は、非常にパラノイア的であるというのだが、これは必要なものであるという。むしろパラノイア的なこうした構築物を想定することによって、世界は秩序を保っていられるという。なぜなら、「他者」というものの存在をなくした瞬間に、他者的なもの全ての主体的行為がバラバラになり、混乱や病気的なものを誘発してしまう。現実界が「他者」をもつことで、現実の「他者」が閉ざされた秩序あるものではなくなり、批判の対象となり、ぼくらが自由に扱えるようになるのである。ジャック=アラン・ミレールを引き合いに、「現実の領域は<対象a>の除去に上になりたっているが、それにもかかわらず<対象a>が現実の領域を枠どっている」のである。一般の生活で、この「他者」や「建築」に相当するものがあるのだろうかと思う。本書では、フロイトを持ち出し、母なる超自我、死の欲動などを上げている。最近観る是枝監督の「家族」も同様かと思う。ところでこの本でハーバーマスについて。氏は、モダニストという位置づけである。公共と私の区別による疎外された私領域から、自由と開放への条件を見出すこととは、個々の人に注目しているようで、実は「束縛のないコミュニケーションといった啓蒙主義に近い理想」p293を前提にしているとし、個々の人とは無関係な抽象人間をいっている点で、これまでのモダニストと変わりないといいうのである。むしろ、これまでの公/私の支配関係を潜り抜けてきた方法を、(自転車を乗りこなすように)、見出すべきであるといっている。

6月28日(木)
081 W杯 日本×ポーランド 
西野監督が策に溺れる。最終ライン変えないものの、6人の新しい選手を送り出す。狙いを察するに、これまでのメンバーの疲れを考慮しすると同時に、これまで幾度となく試しては失敗をしてきた守備的でありながら主導権を握る作戦の日本への定着を目論んだようである。しかし、軸のいないチームは、先制されると為す術を失ってしまったのが現状であった。ただしあくまでも公には、前掛かりで立ち向かうとし、チーム内に向けても、気持ちで負けないように、守備的指示をしていなかったと聞く。しかし内実はリスク回避を大前提としたかたちであったのである。本田は疲れていない。したがって、今日の先発は当然であるのだが、その本田を外したのは、気がはやる数人のために守備のバランスが崩れるのをおそれたためである。明らかにポーランドは、ビルトアップ能力に欠け、ロングボールか、特定の選手へのボールカットの狙いを定めての速攻しかなかった。そうした前提のもと、引き分け狙い、上手くいけば後半逆転の策をうちだしたのである。香川や乾の攻撃能力を買いつつも、テンポよいボール回しはミスがつきもので、その危険性を怖れていたのである。サイドにW酒井を配置し、岡崎にボランチをマンマークさせ、攻撃を限定させ安定させた上で、中盤をできるだけ省略して2バックの背後のみを一発で狙う作戦だったのである。しかし、失点をしてからは、堅実なラインコントロールするポーランドにたいし中心選手のいないチームは策を見出せずに、これまでのように交替選手も役にたたなかった。やはりDF突破に、日本はコンビネーションである。これをなくそうとしたハリル方式は難しいのだ。しかし、西野監督は次の策では成功する。得点することを諦めた。負けきることの選択である。いやはや驚く。長谷部を投入し、他会場のセネガルが点を入れられないことを前提にして、長谷部のパフォーマンスによって、戦う意志のないことを、日本代表とポーランドにまで布告したのである。幸いにセネガルが得点することはなく、ポーランドも攻めることなく、10分を消化させた。結果的にはこの意志が上手く伝わり、西野監督は裏目に出た策の帳尻合わせに成功したことになる。

6月27日(水)
080 W杯 韓国×ドイツ 
予想に反し、韓国が2-0で勝ち、予選リーグでドイツは敗退。ドイツはいつでも点がとれるようで余裕があり、そのときまでは決して、韓国が勝つとは思えなかった。それがいつのまにか焦りと変わり、悪循環に陥りはじめたころ、他会場のスウェーデンが次々得点を重ねていく。それがさらなる悪循環を招くことになった。そしてついに、ロスタイムのコーナーキックをドイツは決められてしまう。しかもビデオ判定で覆るとは、なんとも皮肉なことである。組織戦略から、ぶつかり合いになったとき、これまでの経歴やFIFAランキングが関係ないものとなる。そうした瞬間であった。あくまでもこれまでのランキングは、知らないうちに支配されている(大文字の)フットボール観の上のものであることを痛感させられる。全く異なるスポーツとはいわないまでも、それに近いものとなったのだ。日本は優秀かな、その上を真面目にのって、今回は勝っている。しかし前回はそれで涙した。それはそれで立派で、日本らしい国民性である。

6月25日(月)
昨日の日本の戦いの連動性の高さを指摘するメディアが増える。長谷部が下がって3バックになったときの両サイドバックの動き、香川が下がってボールを受けたときの空いたスペースに入り込む乾の動きなど。同時に大迫がDFの裏をついているというもの。流石の組織的セネガルも、彼らが得点してからこの連動に対応できなかった。どうやら日本は、速いセネガルの左サイドの奥を重点的に攻めるための徹底した戦術を立ててrいたようだ。こうした戦術を、次戦ポーランドへも期待する。

6月24日(日)
江の島のヨットハーバー(オンデザイン設計)へ行く。曇っていて、室内外の輝度差がなく、連続感があっれ、よかった。海反対のトップライトも効いている。うねりのある白い天井面を強調する。サッシュの扱いもよい。大きくできないガラスを上手く分割していた。こうした建物で気になるのは、垂直方向の大きさである。1階の壁が気になり、屋根面がとってついたように感じられてしまう。「意思決定と合理性」H・Aサイモン著を読み終える。具体的な決定方法論ではなく、集団意思決定についてを概説する本であった。理性とは、適切なインプットが与えられた場合のみ機能するといい(p7)、ある環境(ニッチ)でしか成立しない(p21)。したがって理性から導かれる合理性は、全知全能的合理性でなく、非常に限定されたものとなる。そして「直感」を強調する。直感とは、情動と結びつき、経験の上に成立するものであり、適応あるいは適合という合理性判断のもとであるという。逆にいうと、直感しかないということである。この考えはつまるところ、絶対的ものなど不在で、無数の生態的ニッチ、あるいはニッチの精緻化を前提としなければならないことをいっている。世界は、複雑怪奇な構造をしており、ピッタリいくことでそのニッチを再確認できるというものである。本書は、このプロセスを合理的に説明するために、適合という進化を持ち出している。そして社会や文化も同様の進化の結果であるというのだ。「文化(的継承)を、生物学的遺伝子の集合とカルチャーゲン(文化的遺伝子)の集合との間の結合過程によって発展するもの」p57という。つまり、変異を産み出すのは、特殊なメカニズム、あるいは、理由がある訳でない。何が優秀であるかのヒントを与えるものもそこにない。そうした突然変異という事実と、暗に「利他主義」的選択メカニズムがあるだけといっている。利他主義とは、自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動のことである。個的な「利己的遺伝子」によって出発はするが、全体的には利他的なシステムが働くことで全体が進化するという考えである。したがって進化には、「目標がなく、ただ探索と改良の過程があるだけで、探索が目的である」p73。そうして「ニッチの精緻化」「複雑さを増大させ」、「独立した特殊性」=文化が生まれるというのだ。したがってぼくらは、局部的な進化をみることができるが、全体的な最大値をとらえることはできないという。ぼくにとっては、ニッチという考えは目新しいものではなかったが、ニッチの精緻化が文化というものであり、それは直感による適合の結果によるものであるというのが発見であった。それと、精緻化には、明確な目標(主体性)が基本にあるものの、それと利他的思考、つまり同じニッチ内の他者を持ち上げることによって、かたちとなるということも大きな発見であった。これはホラクラシーにつながるものである。翻訳中の「ティール組織」に引き寄せれば、利他的行動とはどういうものかを、「ティール組織」で具体的に描いていることになる。ティールでは「全体性」が突如として現れる。これを、この利他的という考えで、理論付けできそうだ。
078 W杯 ベルギー×チュニジア
079 W杯 日本×セネガル 
日本は、2度リードされるものの追いつき、2-2のドロー。開始早々は、速いセネガルに圧倒され、守勢に回ってしまった。それにより、ミスを連発し失点する。これが悔やまれる。長谷部が最初のトラップを失敗してしまったことから、それは発している。しかしこれまでの日本であったなら、ズルズルと後退してしまうとこころを、今回も踏みとどまった。セネガルも得点できたことで安心し、一気呵成に攻めてこなかったこと。このことが、大きかった。しかし、その10分後の大きなサイドチェンジからの得点は、日本の当初からの狙いであったことをゲーム終了後の選手インタビューで知る。ぼくらより、現場は冷静であった。後半に入ると、日本はパス回しで圧倒するも、簡単なフィニッシュをミスし決めきれずに、反対に素早い速攻にあっさりとやられる。いつもの日本のパタンであると思われた。誰もが、ここまでかと思ったに違いない。そこからの同点弾であった。岡崎がキーパー共々倒れ、フリーの本田が決める。本田は実に決定力がある。しかもアフリカ勢に強い。後半35分のことであった。そのままタイムアップ。本番で追いついたのだから、価値ある勝ち点1と考えたい。その後のポーランド×コロンビア戦で、ポーランドがコテンパンに打ちのめされる。次戦ポーランドに引き分け以上で、文句なく決勝トーナメントへ出場が可能となった。しばらく、選手インタビューを観る。自信に満ちあふれている。

6月23日(土)
難波さん設計の「箱の家159」に行く。遠藤研0期生の木村優志くんが担当した。担当2作目であるという。界工作舎久しぶりの鉄骨造。3階にスタジオがあり、1,2階が住まいである。木村くんは、大野ジャパンを経ているので、S造に臆することなく挑んだと思われるが、予算が厳しかったという中でも、いつもの界工作舎の完成度に至っていることが判り、ひとまず自分のことのように安心する。今回のチャレンジは、地下のコンクリート暗渠を利用した空調方法であると聞く。最近、床下埋込型の専用空調機が市販されているのだそうだ。これによって、吹抜のある大空間の居住域空調が問題なく実行できることになる。ぼくが着た頃から冷房運転もはじめていた。箱の家は、こうした様々な試みによって環境的コントロールが完全であるのに対し、住まい方については、内外に開かれた空間というコンセプトのもと、住まい手に自由が委ねられている。このことが特徴である。ただし、こうした開かれた空間コンセプトを、住まい手が使いこなすのも、反対にまた労力がいることだろうと推測する。一般に建築家は、箱の家の環境処理のように、様々なアイデアで、住まい方を提案する。それが受け入れられている。それは、提案が一家族に向けられているか、あるユーザ層に向けられているかの違いがあるもののハウスメーカも同様である。つまり箱の家は、住まい手に対して配慮する問題意識が、建築家とも世間一般と全く異なっている。このことに気づく。箱の家には、個々の問題とは別なところに大目的があるのだろう。建築家がひとつひとつの設計を如何に行うかを考えるのに対し、大目的にしたがって何が今回はできるかを考えるところに箱の家の特徴がある。したがってゴールがなく、果てしない格闘が続き、尽きることはない。難波さんがぼくにたいして批評した、コジェーヴからの引き合いを、思い出してしまった。この違いは、目的というものに意識的であるかどうかの違いだろうか?
075 W杯 ベルギー×チュニジア 
ベルギーは余裕で勝利。最後は、控えのアッタカー陣を送り出し、彼らも得点する。ドルトムントのバチュアイもその中にいた。怪我から復帰できたことを喜ぶ。
076 W杯 韓国×メキシコ 
韓国は4-4-2という陣形をつくりしっかり守って、カウンター狙いとしたが、反対にメキシコにカウンターを食らってしまった。陣形が自陣よりで、そこから速攻がかけられなかったからだと思う。反対にメキシコは、じっくりとボールを保持し、守るとボールを持たせ、ひたすら好機をねらっていた感がある。結局は、それで得点し逃げ切った。試合巧者である。韓国は最後、ソンフンミンが鮮やかなシュートでその存在を見せるも遅かった。韓国は敗退の危機にいる。
077 W杯 ドイツ×スウェーデン 
ロスタイムにトニクロースがフリーキックを決め、2-1でドイツが勝つ。あわやの危機からドイツを救う。やはりドイツはしぶとい。前半、引いてくるスウェーデンをドイツは攻めあぐね、反対に何度も速攻をあびる。今日はフンメルスが欠場で、もうひとりのSBボアティングが振り回された。2枚のイエローで退場させられる。10人となり、もうダメかとおもったロスタイムでの得点であった。とはいえあくまでもドイツは攻撃的であり、攻撃的ボランチ、ギュンドアンとクロースが交わされるとこうした状況に陥ってしまう。そのため今日は、ケディラを外し、ルディを先発させた。しかし、ルディは早々に怪我で退場。苦しい展開であった。たとえグループステージを突破しても、さらに精度の高いアッタカーに対するときどうするのだろうか?その戦いブリを観てみたいと思わせる。レーブの采配に注目する。

6月22日(金)
「スリーピー・ホロー」ティム・バートン監督をBSで深夜観る。18世紀後半から19世紀前半の啓蒙の時代をよく表現したティム・バートンの(ゴシック)ホラーサスペンスである。この時代に現れ始めた科学的見解とキリスト教を中心とした保守的霊的存在にたいする見解、この間に揺れる世界観を、ティム・バートン特有の面白おかしくミステリアスに描いた作品であった。首なし遺体は、はじめ恐ろしくもあるが、ストーリーが展開するにつれて、どことなく愛嬌のある子供的残虐さある不思議な感覚を呼び起こすものとなる。ティム・バートン節炸裂である。こうなると誰が犯人かという問題探究意識は薄くなる。つまり、近代の、答えを追いもとめようとする意味的追究思考よりも、幼い頃にあった、未知のものに対する好奇心による無我夢中の探究心の方が勝るのである。後者だけならば、ディズニーでも可能だろうが、ふたつの同時性はティム・バートンにしか描けない。エンディングで、高い塔に逃げ込むというのが、ティム・バートンの定番である。いつもは悪者が死に悪者の哀愁を残すものであるが、この映画では、主人公ジョニー・デップが真実の愛を掴んだところでエンディング。ティム・バートンファンとしては、少し物足りなさを感じたりする。
074 W杯 ブラジル×コスタリカ 
守るコスタリカにたいして、漸くロスタイムにブラジルが得点する。死闘であったと思う。試合後、まだ早いと思うのだが、ネイマールが感極まって涙する。

6月21日(木)
073 W杯 フランス×ペルー エムバペの得点でフランスが逃げ切る。ジルーを先発させ、連動が蘇った。しかし、ペルーの素早い攻守の切り替え、激しいチェックで、試合は拮抗していた。

6月20日(水)
今日から大学院の授業。マッキンゼーで行われた若い建築家向けのセミナーをもとに話をはじめた。このセミナーでは、建築家はもっと自らの特徴・個性に意識的になるべきというものであった。経営の視点からすると、建築家の行いはそう変わらないものとして見えるというのだ。それはある意味正しいことを認め、差異でなく差異を生む源についての理解が、大切であることの話をする。大袈裟にいうと、ぼくらは大文字の「建築」から逃れることができないので、それに意識的になり、自分の立ち位置に俯瞰性をもつべきであるということである。そこで今日は「モダンデザインの展開」ベブスナー著と「第一機械時代の理論とデザイン」バンハム著を引き合いに、1800年代後半に、絵画から、そして建築に波及した構成・空間という概念について話す。これによって、自我というものの存在が認識されるようになったのである。これは現在も支配的であり、一般人のぼくらが設計することを可能にしている。ただし、バンハムによると、この自我を芸術家は過剰に運用してしまい、それと違ってコルビュジエに代表される建築家は、社会と融合させようとした。このことを評価している。「モデュロール」に代表されるように、美学と産業のふたつに対して応えるものを提供したということである。
072 W杯 スペイン×イラン 
前半からイランは11人で守りに専念する。批判もあるだろうが、勝つためである。しかし、後半イニエスタのドリブル突破によって微妙にマークを外され、ジエゴによって均衡を破られてしまった。その後、イランが予想以上のビルトアップに成功していたのはよい意味で裏切られた。これまたビデオ判定で、一度はセットプレーから追いついた得点が、オフサイドとして無効になってしまったのだが、イランの攻撃力もなかなかのものであった。しかしこれでイランは、いよいよ最後にクリロナのポルトガルとの決戦に向かうことになる。

6月19日(火)
夕方、中埜さんの事務所へ。翻訳の途中経過打ち合わせ。羽生田さんとはじめてお合いする。単語の統一を確認し、羽生田さんの訳調にそろえることにする。その後、中埜さん特製のカレーで食事をしながら、W杯日本の戦いを観る。
071 W杯 日本×コロンビア 
日本代表は成長した。こちらが気を病むことが多かったが、選手たちはいたって平静にゲームを進めた。思えば、ベテランといわれる選手は、この日のために4年間を送ってきたのだ。自身のキャリアの下降気味でるこを自覚し、ある者はチームを直前に変え、ある者はあせることなく調整に費やし、最後にチームでのポジションを奪い返している。海外でのこのマネジメントには、かなりの能力と、自分を俯瞰的にみる判断力が必要とされていたことが容易に想像される。そうした4年間だったのだ。相手が開始早々10人になることを差し引いても、この成長は驚きに値する。個々の選手についていうと香川は、緊張が高まり、プレッシャーがかかるPKを、よくもGKの動きを冷静に見極めて決めたと思う。大迫にかんしては、相手に囲まれながら競り合いの中でヘディングを決めたことは、これまでの日本になかったことだ。前回ブラジルでは10人の引いたギリシアに攻め手を見出すことできずに、時間だけがすぎてしったことを考えると、今回は長谷部を中心に落ち着いたボールさばきで、相手を揺さぶることができていた。それで前半と後半の終了間際の2度ばかりの危機を回避できたといってもよいだろう。ドイツでもブラジル大会でも、一時のオーストラリアとカメルーンの猛攻にさらされると、コントロールを失った荒波の船のように大破してしまった。しかし今日は2-1で南米チームからの初勝利。これでいっそうのチームエンジンがかあるとよいと思う。少なくとも3戦まで楽しみを繫いでくれた。感謝である。その後、もうひとつのH組セネガルとポルトガルの試合も観る。予想に反し、こちらもセネガルが2-1で勝つ。セネガルは、身体能力に優れていることは了解済みも、かなり組織的に動いていたことが驚きであった。今日はマネはそれほどでもなかったが、ニアンが活躍していた。ニアンといえば、ミラン時に本田とよい左右でコンビネーションをつくっていたことを思い出す。本田は、ニアンを上手く使うことで、ポジションを獲得していた。ただその時のニアンは若く、スポーツカーを大破させるほどの大事故等をおこしミランの問題児であった。本田は何度もニアンに選手の自覚について警告していたと聞く。そうした甲斐もなくも、ニアンはビッククラブへの移籍も上手くいかずに現在に至っている。果たして現在はどうだろうか?思えば、今は世界を代表するポルトガルストライカーのレバンドスキーも、ドルト移籍時には、パラグアイ代表のルーカス・バリオスの控えであった。香川との絶妙な距離感を保ち、香川からアシストを受けることで、徐々にポジションを奪うことに成功した。当初は、香川やゲッツエ、バリオスのスピードある選手のポスト役として期待されていたと記憶する。それが大化けしたのだ。セネガルのマネも吉田のサウサンプトンの同僚だ。日本選手が海外選手に比べて臆することなどないことが、ここでも明らかになっている。

6月18日(月)
建築計画2の授業で、「だらだらとした建築」について。人の行動も、空間も今後だらだらと続くものになるだろう。そして、それに相応しい広い意味での環境が求められていることを話す。設計課題となっている学校建築も、教室のかたちがくずれはじめて久しいが、未だどう使いこなしていいか、使用者は模索中である。その理由のひとつに、これを成立させる環境的な問題が解決されていないことが多いという事実がある。この環境的解決が、だらだらした空間実現への突破口が開かれると思うのだ。これについて話をした。
069 W杯 韓国×スウェーデン 
韓国も負ける。引いてカウンター狙いであったが、引きすぎた。ペナルティーエリア内でファウルを犯し、PKにより0-1で負ける。これもビデオ判定で、しばらくプレーが続いた後PKが与えられた。スウェーデンは守備が堅い。韓国はいいところがなかった。ソンフンミンも叶わなかった。日本代表の前日インタビューも合間に放送される。西野監督は、引いて守ることなく、ポゼッションで立ち向かうという。前線からのプレッシングでしか、体格劣る日本に勝機がないということだろうか?先発は、香川と乾となりそうだ。
070 W杯 イングランド×チュニジア 
新生イングランドの戦いを観る。普段から目にしているプレミアとブンデスの選手はやはり目が離せない。イングランドは、トットナムの選手が多く、シティ、ユナイテッド、リヴァプールとバランスがよい。だが決してコンビネーションが良いとは言えない。ボールを保持し、中盤のサイド位置までボールを回すが、それ以降攻め手がなくなる展開が続く。中盤のタレント不足である。2点は、巨漢マグワイヤーとケインの力業の得点である。終了間際の逆転で勢いはついた。

6月17日(日)
オープンキャンパスで、2回のAO説明会を行う。例年のことであるが、受験生は真剣である。これに応えるのも大変なエネルギーが要る。
068 W杯 ドイツ×メキシコ 
メキシコの強さに脱帽。身体能力に圧倒的に劣るドイツとの1対1のデュエルに一歩も譲ることがなかった。しかし、ドイツに勝っていた能力にスピードがあった。はじめ、キミッヒのサイド攻撃に手こずっていたが、それに慣れると、絶えず、速攻を仕掛けて、ボアティングとフンメルスの2バックを脅かしていた。得点は、中盤でカットしてから縦へのワンツーで崩した。最後がエジルであったのも幸いした。GKはノイヤーであった。

6月16日(土)
067 W杯 フランス×オーストラリア 
2-1でフランスが勝つ。アジア勢は検討するも一歩及ばない。ビデオ判定によるものであるが、その是非よりも、ファウルをとられるようなタイミングとなってしまっているのは事実である。週明けの韓国に期待。

6月15日(金)
065 W杯 エジプト×パラグアイ 
サラーとスアレス+カバーニがクローズアップされるも、サラーは怪我から復帰できずに今日を終える。終了間際の1-0で、パラグアイが勝つ。戦術云々というよりも、1対1のぶつかり合いである。これがW杯ということであろうか。選手のアドレナリンがでまくり、前半から激しく、流石に後半は疲れてスペースが多く生まれるも、最後のところで肉弾戦となる。明らかに、スアレスとカバーニのシュートの鋭さは群を抜いていたが、そういうわけでゴールネットを許されなかった。しかし、最後は、セットプレーから、アトレチコのヒメネスがヘッドを決める。アトレチコのCB二人は、こういう試合に最適である。
066 W杯 スペイン×ポルトガル 
初戦から、すごいマッチメイキングである。3-3のドロー。クリスティアーノ・ロナウドがハットトリック。ジエゴ・コスタがダブル。前宣伝に劣らない激しい試合となった。いきなりスペインはPKを与えてしまい、このゲームも肉弾戦か、と思ったところ、その後さすがスペインは、冷静な組織的な戦いをしてくれた。スペインは、アトレチコ、マドリ-、バルセロナの混成チームであった。印象は、引いて守るポルトガルに対し、ベップが指揮するような、流動的なポジショニングで、徐々にDFを絞り上げるような戦い方であった。スペインにもなると、クラブ時のような組織的攻撃ができることを知る。1点目は、ジエゴ・コスタ1人のパワー+テクニックによる得点であったが、その後は、チームによって、完全に崩した。一方、ポルトガルは、どちらかというとレアルのような速攻を有効活用する。審判のジャッジもあったが、クリロナがそれを完璧に決めた。

6月14日(木)
「生きられた家」を読み終える。昨日ぼくにとって発見的であったのは、「人の象徴行為」というものであった。しかし本書後半では、これを、接近不可能な大それた行為として否定される。人は、その行動の深遠さ不可能さを知っていて、本物と対にある身近なまがいものを操ることに満足するという。むしろそこに人の生き生きした本質があり、それが「生きられた家」の根幹となるというのである。これにまた違和感を感じる。ただし、「パタンランゲージ」の位置づけが明らかになる。本質を示すものだとしても、その運用は俗的でよく、それで十分その機能は果たしているということである。
064 W杯 ロシア×サウジアラビア
FIFAランキング最下位の開催国ロシアが、日本を破ったサウジを圧倒したといってよい。何やら末恐ろしさを感じるのは、日本代表も同様だろう。サウジは、ロシアの4-4-2にブロックされ、上手い具合にカウンターを食らっていた。最初はミスに助けられるも、1点決められて、この流れから逃げられなくなってしまった。相手を見分ける経験がなかったということだろうか?

6月13日(水)
「生きられた家 経験と象徴」多木浩二著の再読をはじめる。読むにしたがい、これまでと異なる感想をもつ。不思議なものだ。これまで「生きられた家」を、住まいのあり方を微細に示しているものの、この思想を建築家のデザインへフィードバックすることが拒否されていると読んでいた。それで、「建築の四層構造」を持ち出して、この引き裂かれたふたつの橋渡しを目論み、それを、「住宅の空間原論」や今度の本にも書いた。したがってこの本後半の「象徴」は、書かれた時代がポストモダンの時代であることを差し引いても、少し違和感を残すものであった。今日の再読で、その謎が解けたような気がした。ここで言う「象徴」行為とは、社会が心の奥底で欲動するものなのである。欲動とは、フロイトが使う語であるが、ここでもバッチリこの語が使用されている。「欲動」の章では、「ブリコラージュ」も扱われている。一般には、既存のモノを上手く利用することをいうが、ここでは、その根源にあるなぜそんなことをするかが語られている。本書によるとそれは、「自分だけの文脈のなか」であることが重要であるという。そこに暗黙の信念があるというのだ。それは社会化されると、「神話」にもなる。(思えば、レヴィ=ストロース「野生の思考」そのものだ) したがって、ブリコラージュには、具体性と象徴性が同時に存在するものであるという。「人は閉じた夢のような、しかし、実際には宏大な世界に直接ふれるイメージにたわむれることがありうる」のである。むしろそこにこそ、人たるものがあるような言い方である。どうやら、象徴は否定されるどころか、根源的ものとして捉えられている。そしてそこに、つくることの意味が見出されると、今回思えてきたのである。

6月12日(火)
NHKで、江戸の歴史特集第2回。この時期の江戸が世界の大都市と比べても、1,2を争う経済発展を遂げた理由に迫る特集であった。それによると、江戸初期には、各地の大名が行ったインフラ整備による公共投資の恩恵と、その後の参勤交代により、大量の資金が江戸に流入したためであるという。しかし、あっという間にこのバブルははじけてしまったそうである。しかし中期以降の発展は、その恩恵で生活水準を上げた一般町人による商いを中心にしたという。これは世界と歩みを同じくしていて、日本でも文化が一般市民に支えられるようになった。よいことばかりでなく、それが生んだ貧富の差は、フランス革命を呼んだように、日本でも「打ち壊し」が相次いだ。しかし、この時期パリにはレストランというものがなかったという。ある書物によると、フランス語の識字率も低かったという。これに比べて、江戸では、蕎麦屋や寿司屋などが流行し、浮世絵も広まっていた。この番組によると、フランスとは異なり江戸幕府が倒されなかったのは、こうした状況を受けて、裕福な商人は、自治会によって富の再分配を行っていたからであるという。ヨーロッパのように、城壁をつくり、傭兵を募るような自治ではなかったことが強調されていた。
063 代表 日本×パラグアイ
西野監督は思いきったことをするものだ。先発10人を入れ替える。変えていなかった酒井高徳も、スイス戦で、前半交替させられていた。彼を勝負師と言う人が多いが、このことを言うのだろう。徹底して選手が機能するコンビネーションを模索しているようだ。その期待に応じてチームは、ゲーム入りから攻守のバランスがよく、セレッソ時代共に過ごしていた香川と乾、あるいは、代表で長く共にしてきた香川と岡崎が連動できた。思えば、後ろの昌子、植田、芝崎もアントラーズで時間を共にしていた。彼らはサブチームと言われているが、この阿吽の呼吸感が実ったかたちである。守備は、前回同様の4-4-2。相手DFをチェックする能力は、岡崎、香川とも所属チームで訓練されている。したがって前回の本田+大迫より上手く機能していた。後半から西野監督は、岡崎をトップ下にして、さらにレスター方式を模索する。香川をサイドに置くことになるが、そのバランスを見ようとしていたと思う。今日のかたちが上手く機能していたのは、最終ラインの昌子、中盤底の柴崎からの縦パスも大きい。これがよく決まった。しかしあたりがきつくなる本番ではそうは上手くいかないだろうから、それをカットされたときのDFの準備が問題にされるだろう。今日は4-2で勝利。ただし、パラグアイはW杯を逃し、コンディションもモチベーションも遙かにコロンビアに劣っているチームである。

6月11日(月)
計画の授業で、佐藤裕さんを迎える。彼が担当をした芦原小学校をじっくり解説してくれた。学生は、生活のリアリティを把握することが一番大切と考えてくれたようだ。

6月10日(日)
打ち合わせを兼ねて、鎌倉行き。荏柄天神社、覚園寺による。駐車場から寺までの途中に、多くのレストランがあった。夕方、翻訳。夜、W杯のバラエティを観るが、この番組くらいで、いつものようには盛り上がってはいない。

6月9日(土)
昨日のスイス戦について、代表のDFとFWとの間にギャップがあることを、選手のコメントから知る。ドイツ大会での選手の不満を彷彿とさせてくれた。DFは行き過ぎずないかたちでコンパクトにして欲しいようだ。FWは、このこところ点が取れておらず、前へ前へと厚い攻めを望んでいる。次のパラグアイ戦では、前線と中盤の選手を大幅に入れ替えるという。選手を入れ替えては、連動もないと思うのだが、よい組み合わせを模索しているのか、あるいはコンディションつくりを最優先にしているのか不明である。

6月8日(金)
「ゼロ・ダーク・サーティ」キャスリン・ピグロー監督を観る。ビン・ラーディン殺害まで至る経緯を、ジェシカ・チャステインふんする女性CIA局員マヤを中心に描いた。この登場人物設定が事実であるかは、定かではないが、迫力が十分であった。
062 代表 スイス×日本
今日、日本は慣れた4-2-3-1で臨む。トップ下に本田。守備では、4-4-2にして、引いてブロックする新しいかたちであった。もっとも、レスターにおいて、岡崎が生きる馴染み深いものであるが、岡崎出場なし。アジア勢相手と異なり、シュートのかたちすらつくれない。事態は深刻である。本田の判断力遅さを否定できないと思う。時折、フリーとなる大島からの長いスルーパスだけが光る。FW左右の宇佐美と原口が何もできないことも気に掛かる。後半から香川が登場。バイタルエリアで決定機をつくろうとするも、空回り。仲間とタイミングがズレている。0-2で負け、希望を見出すことができず、お先が真っ暗である。これをどう突破するのだろうか?

6月7日(木)
科学者らしくない発言に出会う。たまたま都合のよい実例を持ち出す。その例がどれだけ客観性あるものなのか、検証されていないのである。むしろ、世の中が科学的でないことが普通であるので、それを前提にすべきだと思うのに、それをしない。アカデミックな場所でも、そういったことが横行しているのである。

6月6日(水)
3年生の設計第1課題の講評会。プログラム条件から組み立て、完成度が高い作品が多い。これを良し、とするか迷うところでもある。続けて、次課題である小学校の課題説明。倉斗先生による学校計画と、温熱・光環境がここでは中心となる。環境からは学校計画で必要とされる設計上のヒントが挙げられた。これを参考に建築の4層構造の第2層を考えるとよい。最近、エコスクールが大切に考えられるのは、小さい頃から環境に関心を持つことが求められ、運営×教育×空間の大切さが一定の評価を得ているからだという。ただし、新しいエコスクールが以前の学校よりエネルギーを多く使用するのだという。これを運営の問題と指摘しているのだが、本当のところは、これまでは寒くても暑くても我慢をしていたのだろう。要求条件があがり、新しく設定された性能基準が問題にされる必要がある。そしてこうしたエコスクールは、パッシブ方法での解決が中心となるそうだ。ただし、時と場所によって光や熱は、プラスになるしマイナスにもなる。そのバランスを鑑みた組み合わせの多様さがデザインになるのである。その際、ローイーガラスのメカニズムを建築化するのがよいという。ダブルスキンはその典型だそうだ。他にソーラーチムニーもある。換気には、風力換気と温度差換気があり、風力換気では負圧と正圧の位置を見極める必要があるという。他に緑化もあるが、日陰のつくり方も温度と湿度のバランスでケースバイケースであるいう。つまり、シミュレーションが大切で、万能な環境制御はパッシブではあり得ないので、何を目的とするかというデザインコンセプトが大切なのである。ZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)が叫ばれているが、そのときは、アクティブな方法を避けられない。これが今後の課題だろう。続いて倉斗先生の計画からも同様に、学校では、理念×指導方法×空間の大切さが指摘される。1985年の宮前小以来、オープンスペース型学校が建築分野では増えてきているが、その運用を成功させるには長い道のりが必要なのだという。しかし、教えるー教わるというクローズシステムに疑問がもたれ、多様なオープン教育が求められる方向に間違いはない。それに加えて最近は、その方向が傷害者マネジメントに移ってもいるそうだ。ここでも環境が問題にされる。オープンスペースがもたらした学校建築は、環境制御が難しくなり、他のビルディングタイプ以上に光、風、熱が真剣にかんがえられるようになっているという。ソウフト面にかんしては、アクティブラーニングが中心になり、教育内容でなく、 どう実行するかが問題になっているという。打瀬小も当初OSを使っていなく、それも学級単位でしかなかった。その後、自主性、テーマ別学習、進行別学習などの実行が考えられることによって、使われるようになったという。居場所とアクティブラーニングとの関係として面白い。そういう先生も、教室が大きく空いていることの気持ち良さは受け入れてくれるという。反対に問題にされるのは、音響的にうるさく集中できない、感染症が広まるなどの不満である。そこで最近では、先生が気楽に使える稼働壁が重宝されているそうだ。観察によると、先生は、合同クラスを多用し、そのためOSは家具を置かないガラーンとした空間になるという。パタンランゲージにあるように、それでは子どもたちの居場所とならない。自由とは何かを深く考えさせてくれる問題である。地域と学校の関係も示される。芦原小では、「街づくりはひとつくりから」というコンセプトで、プロジェクトがはじまったという。3.11以降、避難所として学校のあり方も再考されている。被災後しばらくして避難所と切り離すことができる校舎配置が重要となってきているという。最後に、今後プログラムへの挑戦が求められた。可能性のあるのは、履き替え、体育館のボリューム、セキュリティという3つである。加えて、教室のかたちが、依然として方向性のない8M角である。空間はアクティビティを変えられる。それへの奮起が促された。夕方から、三沢悠子さんを迎えての大学院レクチャー。佐藤事務所時代から独立後の仕事を紹介してくれた。素材に対する探究心が凄い。佐藤さんは、モノを建築としてでなく、物性としてみるのだというのが印象的。それをギリギリに思えるのは、近代建築家が鉄骨建築を前にしときの態度とおなじであることに気づき、反省する。

6月5日(火)
就職セミナーで行われた遠藤研の元くんのレクチャーを聞く。5年くらい前に大学院を修了し、韓国での徴兵を経て、NYのOMAを経て今は隈事務所にいる。自信に満ちた生き生きしたレクチャーであった。3年生も勇気づけられたと思う。これを聞き、つくづく自信は大事だと思った。しかし、それはもって生まれたものばかりでなく、かつ一気に育つわけではなく、トライの繰り返しで大きくすることができるのである。その後、今村先生と元くんと食事で、意見交換をする。

6月4日(月)
「誰も知らない」是枝裕和監督をもう一度、気になるところをピックアップしながら観る。それだけ、衝撃的であった。そして少し考えが変わる。子どもたちが孤独のなか生き抜くためには、母親というものがもたらすイメージだけでも必要であった、このように思うようになった。物理的には母も全く別な人間であり、この映画の場合、それが現実でもそうであるのだが、そこに何かしらのつながりを見出すことで、人は生きていく。それは、イメージでしかないのであるが、実はそこに、かけがえのないものが隠されているのである。このことに気づく。

6月3日(日)
マウントフジの「道の駅 ましこ」に行く。ギザギザの集成材屋根の伸びが気持ちよい。それは、田んぼの中のランドスケープとも一体である。現代的な骨太建築に原田さんは意識的であるようだ。その後、内藤廣設計の「フォレスト益子」へ。20室程度の国民宿舎である。内藤さんに珍しく、繊細な建築である。時代性を感じる。マウントフジの方が、内藤さん風でもあるのが面白い。その後、重要文化財の西明寺へ。狭い敷地に建て込んだ伽藍をもつ。川口に戻り、伊東豊雄さんの火葬場へ。入ることができなかったが、岐阜ほど緊張感がないように感じる。錦織が全仏敗退。楽しみが半分に減る。

6月2日(土)
「誰も知らない」是枝裕和監督を観る。現代版「ほたるの墓」のようで、観るのがつらい。母親に見捨てられたこどもたちの世界を描く。子どもたちは母親に見捨てられても、それを認めようとしない。認めた瞬間に全てが壊れてしまうからである。子どもたちを支えているのは、ただその信念だけである。その姿が感動的を誘う。母性を子ども側から強く描いた映画である。その後、よく眠ることができなかった。

6月1日(金)
「ティール組織」翻訳再開。現代の複雑な問題は、これまでのヒエラルキー型の思考・組織では対応できないという前提が本書にはある。そこで組織や思考方法を、現代の複雑性に対応するティール型へ変更することを推奨するものだ。ティール組織・思考とは、自主性を重んじた横並び型の構造をもち、自然なヒエラルキーをもつ。それは人類が何千もかけて進化させてきたものでもある。しかしこれへの実行は難しい。本書では、その成功実行例を示すことで、ティールへの変換の可能性を示している。要は、個人的イノベーションを寄せ集め全体へ波及するにはどうしたらよいか、全体論への実践例を示すものである。しかし実践例を示せても、原因—結果という機械論的思考に慣れている現代人に説得力をもたせるのは難しい。これまでも、そこに根性論や、宗教といったスピリチャルなものといわないまでもケン・ウィーバーのように感知する能力、スピノザのように自然システムへの自己投入、近頃流行のより大きなシステム=アクターネットワークの中での位置付けといったものが歴史上にあった。その中で本書の特徴は、「進化する存在目的」なるものを示していることにある。人類の組織形態が進化してきた歴史を辿り、進化する存在目的の必要性を、あくまでも過程記述によって表現している。組織の進化の過程を、蟻が複雑な動きをしながら巣に進むことのように実況するものである。あくまでも進行形で表現すること、そうしながら「進化する存在目的」なるものを示している。このことに本書の新しさがある。アレグサンダーもこの全体論の実況的(過程記述として)を「オレゴン大学の実験」を著し、「存在目的」を「パタン・ランゲージ」としてまとめた。そしてその理論的な背景(状態記述)を、「時を超えた建設の道」で行ってはいたが、受け入れられずに、その活動は現在も継がれている。本書から感じられることは、そうした論理的説明より、より複雑な問題を上手く解決できることの重要さと意義である。こうした観点から、続けてハーバート・サイモンの「意思決定と合理性」を読むことにする。

5月31日(木)
「システムの科学」ハーバート・サイモン著の再読。この本が「ティール組織」の思想的根幹となっていることに気づき、再読はじめる。ハーバート・サイモンは、経済でノーベル賞を受賞したシステム思考の第一人者である。ぼくにとっては、どろどろした現実、あるいはその反対の理想を追いもとめた「ティール組織」に、俯瞰的説明を与えたいと思った。本書にはこれがあるという直感である。本書は、システム論という俯瞰した立場から、「ティール組織」の基本構造である「複雑性」について語る。そもそも「組織」とは、「集団目的が個人目的となる。p52」ことで成立する。「進化」とは、「ジェネレーター(多様性すなわち以前に存在していなかった新しい形態を生み出すこと)とテスト(自然淘汰)という2つの過程に依存するp54」考えである。この考えに従うと、「局所的最大化と全域的最大化」が同時に起きることで進化する。したがってダーウィンは片落ちであったという。これを別なところでは、「内部環境と外部環境」あるいは「組織化と自然淘汰」といっている。そしてその接面(インターフェース)に人工物(システム)がある。それが、科学であり、デザインであるというのだ。このふたつが等価に扱われているのが面白い。別なところでは、「部分と全体」「還元論と全体論」といっている。全体でもなく、部分からでもなく、両方を満足させることをデザインといっているのだ。したがって、デザインとは最適解でなく動的な満足解なのである。そして本書ではこの複雑性について、蟻を例に持ち出し説明する。「ティール組織」における自転車の例と同じである。「蟻は自分の巣がどこにあるか、大まかな方向感覚をもっているが、そこに行きつくまでの途中に横たわる障害物については、必ずしも全てを予知しているわけでない。(中略)蟻が歩いた路を幾何学的な図形としてみると、不規則で、複雑であり、記述しにくい。しかしそこにみられる複雑性は、蟻が歩いた海岸の複雑性を示しているのであって、その蟻の複雑さを示すものではないp65」。ティールの自転車の例は、これを当事者側から説明するものだ。本書は続く。「細胞や分子のレベルでみれば、蟻は明らかに複雑である。しかし内部環境の微視的な世界は、外部環境との関連における蟻の行動とはほとんど関係ないp63」。これを、準分解可能性という。「静的には階層的な構造を持っていて、動態的には準分解可能性の特性がある。そして準分解可能性はまた、複雑なシステムの記述を単純化し、そのシステムの発達や再生産に必要な情報がいかに適度に貯えられるかということの理解を容易にするp256」ものだという。サイモンはこの理解の仕方を、「状態記述と過程記述」とした。「複雑性の問題解決には、状態記述を与えたり、過程記述を与えたりして、この2つの記述の仕方の間でたえず変換作業を行う必要があるp250」というのである。つまり、複雑なもの(システム)とは、鶏と卵のどちらが先であるかという問題と同様、思考とシステムが不可分なものなのである。「ティール組織」は、この複雑性の理解を、過程記述で試みるものといってよいだろう。「創発」についても言及する。全体論では、部分から全体へのジャンプを説明することができない。サイモンによると創発とは、そういうときに要請される発明物であるという。「緩い意味では、創発とはたんに、複雑なシステムを構成する個々の部分が、それ単独では存在しないような、相互的な関係をもつことp205」である。つまり全体論は、還元論の焼き直しと考えられている。しかしそこに大いなる人の可能性を読むのは、考えすぎだろうか。「ティール組織」では、蟻の例における「大まかな方向感覚」を「存在目的(ちょっと霊的であるが)」といい、あくまでも「過程記述」で、この全体論問題を乗り超えようとしている。創発に当たる機能を存在目的に与えているのである。このことに気づく。夕方、中埜さんと新宿で打ち合わせ。途中、日本代表23名を知る。実績が重視されるものであった。世界と戦うには、世界を知っていないといけないという理由だろう。潜在的個人能力の突然の開花は信じられていない。

5月30日(水)
061 代表 日本×ガーナ
長谷部をリベロにおき3-4-3を試す。ガーナがハイパワーで攻めてこなかったので、これを検証することができず。一方、3-4-3による攻撃は不合格であった。厚いサイドからの攻撃が見られなかった。ホームで、W杯にでないチームに得点できないのだから、守備を固めることに終始し、相手を誘い出す初期対応を考えたらよいのでないかと思う。4バックで、MFに運動量を求めるのが適していると思う。
錦織の全仏2回戦を観る。錦織は、一度は崩れかけたメンタルを持ち直すことができた。フルセットの末、変人といわれているフランス選手に勝つ。

5月29日(火)
設計小委員会に出席。シンポジウム打ち合わせ。設計の目的論に話が進む。何のためのデザインかということであった。目的がしっかりすると、デザインはHOWよりもWHAT TO DOが大切にされることだろう。方法論よりもモノである。「フューチャーサーチ」マーヴィン・ワイスボード+サンドラ・ジャノフを読む。会議の進め方の本である。価値観の違いを超えて、それを受け入れるべき現実として捉えるための方法論である。隠されているテーマは、全体を、部分からいかにコントロールするかである。そのために、共有意識をつくり、それを未来と定めるためのコツがノウハウとして示される。しかしその共有意識が何かについては触れられておらず、実行のみが示される。アレグサンダーの引用も、この途中?段階の意識を示すものである。「外の景色が見えない部屋は、その中にいなければならない人にとって牢屋のようなものです。人は今いる世界とは違う世界を観ることで気分転換する必要があるのです。そして、外の世界は、それ自体が気分転換できるような変化に富んでいて、活気がある必要がありますp295」。この段階では、多様な価値観のみが示され、その先が見えていない。

5月28日(月)
「ワールド・カフェ」アニータ・ブラウン+デイビッド・アイザックス著(2007)を読む。主体性と創造性を高める話し合いのエッセンスをまとめている本である。リラックスしてカフェにいるようにミーティングするという意味である。二人は、ワールド・カフェという企業向けのコンサルタント会社の創始者である。続いて「オープン・スペース・テクノロジー(OST)」ハリソン・オーエン著ヒューマンバリュー訳(2007)を読みはじめる。OSTを実行するための手引書である。ノウハウ中心の実務書である。両著とも本のレイアウトセンスを疑う。これは、企業戦略立案思考とデザイン思考とにリンクがないことを如実に表す。このことに唖然とする。文化度が低いといってもよいが、経済活動に文化・歴史を必要としない考えが判る。「万物の歴史」が目的としていた人間性回復など少しも感じられない。ここにある人とは、企業の単なる一歯車でしかなく、その効率性を高めるための条件でしかないのだ。組織論が流行っているが、「ティール組織」においてこれらとの違いを出すとすれば、ここにあることに気づく。

5月27日(日)
「意識のスペクトル」ケン・ウィルバー著再読。1977年の出版である。はじめに、スペンサー・ブラウン、鈴木大拙、クーマラスワミの引用があった。このときは、意識のレベルが変われば知覚される世界そのもの様相を異にするというまでの結論であった。その後の20年後に「万物の歴史」が出版される。
060 CL決勝 リヴァプール×レアル・マドリード
サラが前半に怪我のため退場し、後半からゲームが動いた。各選手の能力は明らかにレアルが上で、押すリヴァプールに対しかわすレアルの前半であったが、ミスからリヴァプールが失点すると、この関係が崩れた。要所でレアルが得点を続き、盤石の勝利であった。これで今季全日程終了する。フットボールはW杯に向かう。

5月26日(土)
「万物の歴史」再読。読後のまとめの中で多くを気づく。この本では、これまでの科学に対する考えを否定している。これまでの科学とは、ニュートンに代表される機械論的、分析的なるもの、それに対置する全体論もふくめたものである。この全体論も、モノロジカルな現象を経験的・客観的方法で捉えているものに過ぎないという。ここが新しい。自然のとらえ方然り、人体のとらえ方然り、エゴもエコも否定という訳だ。スピノザも登場する。「純粋な自由は、自然の<大システム>、純粋な<エコ>への全面的投入にある」p439。エコの代表としてある。古いという。最終的に本書では、このエゴとエコをひとつに繋げるもの=スピリット<霊>が挙げられる。ちょっと引いてしまうが、物事が発達しリアルになるプロセスの中で生まれる直感のことである。直感の扱いも触れられている。<エゴ>を捨てるためには、直感が自分にだけ顕現するのでなく、皆にも同様に顕現すると思うことである。その調整が、社会的、文化的基盤と客観的な相関物を備えたコミュニティのなかの自己として顕現する。一方<エコ>を捨てるためには、エコは全体論的な概念をもった<エゴ>であると自覚することである。これを意識するのが、直感ということだろうか。結論は、事後的にものを捉えることなく、探究的なそれ、私たち、私(真・善・美)のひとつひとつを活性化するプロセスから自己の立ち位置を発見するということか、と思う。この3つが程よく調和したフラットランドは強く否定されている。「そして父になる」 2013年是枝裕和監督を観る。親子とは血縁関係にもとづくものか愛情にもとづくものであるかというのが表面的なテーマであるが、「万物の歴史」読後だけあって、「私・私たち・それ」に引き寄せて考えてしまう。物語は、主人公となる父が、産後直ぐに息子が取り違えられたことを小学校に上がる段階で知らされたことからはじまる。それまでは幸せに満ちた親子関係にあった。父と母と子の感情も、両者間の愛情面も、そして社会的バランスも取れていたのである。ところが血縁がないという外部(社会)要因がもたらされると、いとも簡単に全体バランスが崩れてしまうのである。それは大人の感情の乱れからはじまる。そのときの人はひ弱い。しかし最終的に主人公である父は、これに気づくことで、再び幸福=バランスを取り戻す父になるのである。つまり、家族とは、外部からもたらされる存在ではなく、親と子自身が家族であることに意識的で、確かめ合い、時間を超えた状態となることをいう。「万物の歴史」から学んだことであった。

 

5月25日(金)
「万物の歴史」ケン・ウィルバーを読み終える。この本は、「ティール組織」の参考文献として扱われている。1996年出版で、20年も前のものである。この本では、モダニティが失った人間性を科学的に回復することを目的としている。そして本書は、瞑想やスピリチャル(霊的)なものを持ち出していることに特徴がある。その点に、ついて行けないが、課題が「世界観」にある。カントの世界観「真・善・美」は、「探究のそれ・私たち・私」である。本来世界は、この三つ巴にあった。しかし、これら3つを差異化したまではよかったが、現在は、ひとつの「それ」=真のみが突出してしまっているという。それが人間性の損失ということであるが、判るようで難しい。自然が例として挙げられる。「自然は完全に調和のとれた、相互に関連したシステム」P193と捉えるようになってしまったことをいっている。別なところでは「相互に関連した存在の巨大な調和の取れた全体」P194といっている。これは近頃流行のティモシー・モートンの考えに近い。しかし、こうした考えを否定しているのである。これは、「私」「私たち」を抑圧し、感覚で捉えることができる自然だけがリアルになり、意識・文化といったものを益々崩壊させていくというのだ。むしろ、3つの再統合が必要であるという。昨年夢中になっていたOOO等は、メイヤスーの「有限性の後で」とならないことが、ここで明言されていることになる。この本の考えに沿えば、ホリスティックと思われていた考えが、実は世界を分化していることになる。衝撃的であった。ぼくなりに解釈すると、空間に名前をつけては、デザインの敗北である、ということかと思う(妙に昨日の本田の発言が引っ掛かってきた)。ところで、モダニティを代表とするものとして水晶宮が選択されているのが面白い。水晶宮は、内面的な知性の啓蒙、外面的な新しい経済・技術の合成物であるという。内なる魂と外なる社会とを一体にし、かつ非合理的、非科学的、未開野蛮なものの影もかたちもなくした透明な体系というのである。ぼくにとってはこのように、私的な立場からモダニティを俯瞰する視点が面白かった。

5月24日(木)
やっとのことで、本田圭祐出演の「プロフェッショナル仕事の流儀」をネットで観る。話題になっている程、本田節が炸裂している。面白いのは、この取材中にハリルが解任されたことだ。本田は、解任後の事後説明でなく、進行形として主張している。それによると、ハリルの縦へのコンセプトを実践上選手(特に本田)が共有できなくなっていたことがわかる。ハリルは強力なリーダーシップにより、チームをコントロールしていた。しかし共有できていた選手が結果を残すことができず、チームコンセプトにたいする公然とした批判が噴出したのである。それが海外組からのものであった訳だが、それが近頃話題の日大アメフト部員とは異なる点である。彼らは、順応型人間でなかった。ひとりひとりが代表における自己を客観視でき、チームが進むべき方向性をハリル同様、いやそれ以上にもち、主張していたことになる。ハリルのコミュニケ−ション不足というのは、ハリルが旧タイプの人間で、この包摂能力に欠けていたということである。ハリルのコンセプトがよいかどうかは事後的にしか説明ができないので、もうその検証は不可能であるが、マスコミから批判されるサッカー協会は、それより現代的な考えに少し進んでいて、解任決断の時間的問題はあるものの、正しい方向付けをした。ところで、最後の本田の言葉「プロフェッショナルとは、ケイスケホンダである」は、意味深い。カッコよく解釈すると、プロフェッショナルとは、もたらされる存在ではなく、本田自身がそれに気づき、告白し、時間を超えた状態、といっているようでもある。少し感動する。

5月23日(水)
多田先生と平岩良之さんを迎えての大学院講義。佐々木事務所から独立後の自身の仕事を紹介してくれた。近頃珍しく、かなり難解なプロジェクトに携わっている。それは、つくり方に関わるものが多く、アイデアと生産との間の方法論が彼の中心的な課題のようだ。そうした展望を共有してくれる彼に世話になる建築家は羨ましい。しかし反対に、広い意味でのかたちをつくる美学をもたなければならなくなる。これまでのプロセスを開き、世界観の変えることに美学をあてることもひとつあったのだが、3.11以降、これも難しくなってきた。存在目的がより重視されるようになったからだ。

5月22日(火)
「ティール組織」翻訳続行。素晴らしいフレーズにいくつも出会ったので、書き留める。フラー「目の前の現実と闘っても何もかえることはできない。何かを変えたければ、今あるモデルが時代遅れになるような、新しいモデルをつくるべきだ」。アインシュタイン「問題は、それが起こったときと同じ意識レベルでは解けない」。マーガレット・ミード「世界を変えることに打ち込んでいる少数の人々の力をあなどってはならない。実際、それこそが世界を変えてきたのだから」。マーガレットJ.ウィートリー+マイロン・ケルナー-ロジャーズ「もし私たちが、人間性にあふれた世界に存在することができれば、一体何を実現できるだろう?」 。夕方、鈴木竜太さん来所。リノベーションの打ち合わせ。いくつか案を出し合う。拡がりそうだ。その後の雑談でお互いの近況を批評。不思議なもので、同種の内容を助言される。こういうことを、シンクロニシティという。

5月21日(月)
計画の授業で、環境、構造、機能等の建築の綜合について話す。これらを「流れ」という言葉でまとめる。時間の流れを加えると、建築の四層構造となる。この「流れ」は、かたちのない中身であり、巨匠たちは近代以降、これをかたちにすることをテーマとしてきた。かたちないものをかたちあるもので表現することである。現在はその綜合性が求められてもいる。

5月20日(日)
住宅特集6月号が届く。芳賀沼さんとの縦ログによるリノベーション住宅が掲載される。縦ログ材は生材なので、外装材としての耐久性に劣る。それを内部において、しかもポテンシャルのある構造性能をフルに発揮した試みを前々からしてみたいと思っていた。古い建物は基礎が不安定である。それに対する提案として、梁と基礎とを縦ログ材を挟んで張力で緊結することを試みた。そして、古いなんともない普通の住宅の天井を剥がすだけで露出される構造体が、それとなく迫力を増して見えるのは、モノのもつ力であることを痛感するプロジェクトであった。作品としてはそこに追うことが実は多い。縦ログが白い箱であったらどうだろうと思うのだ。弟の3回忌として、家族で墓参り。その後食事。夜にテニスのローマ大会を観る。
059 ボカール杯決勝 フランクフルト×バイエルン
3試合の出場停止から、長谷部がボランチで登場。監督の彼に対する信頼の大きさを感じる。長谷部もそれに応えた。センターライン付近ではボールチェックをし、押し込まれるとDFライン中央にはいり5バックを形成する。決して1対1には強くないが、事が大きくなる前の事前処理能力が期待されている。そのため、他の選手は思いきり当たり、そのカバーを安心して長谷部に任せている。バイエルンもW杯が目前にあるためか、集中力が今一であったと思う。後半までのらりくらりとしていた。結果3-1でフランクフルトが優勝。長谷部は、ボルフスブルク以来のカップである。レバントスキー、ハメルと対戦し、間合いを掴んでくれたと思いたい。

5月19日(土)
千葉工大でCリーグ(千葉工大、千葉大、東京電機大、理科大)開催。古市徹雄氏、栗生明氏、川向正人氏、山本圭介各先生を特別審査員に、赤松佳珠子さん、長崎辰哉さんをゲスト審査員に迎える。今年で10回目である。各大学から4名が参加。10年も経つと、他大学と競うことで内容もさることながら物理量も上がる。EV階段に入らないほど模型が大きくなり、大ホールが模型と人でいっぱいになる。課題は10年間、自身の出身校を敷地にするものであり、最近は周囲とのつながりで小学校を皆が考えるようになった。その前は、居場所を提案するものが多かった。こうした発展の傾向をみることができる。しかしまだ、学校プログラムとの関係が言及されていない。これが、今後の余地だろうと思う。公開討論の後、最優秀案に千葉工大の水沢綸志くんの作品が選ばれた。地域性とみんなでつくることの参加に重点を置いた作品である。失われた参道を復活させ、その両側に学校を配置する案である。周囲を意識させた模型が美しかった。参道をまたぐ1階における学校の利用方法が問題にされたが、作品にかけた彼のエネルギーとプレゼでの堂々とした態度が評価された。惜しくも2等には特別審査員賞が与えられた千葉大の高力雄大くんの作品は、バランスがとれていた。実施されてもよいほど、細かく練られた作品であった。問題は、4つのゾーニング分けが学年に従うもので、そこに疑問が残されなかった点だろう。千葉工大の学生については、案が窮屈なものになっていたのが気に掛かる。作品を発散させて、問題を引き込むようにするのがよい。設計者の迷いが表れては、見る方がきつくなる。力が入りすぎたのかもしれない。その後、近くで懇談会。古市先生とゆっくりお話しをする。

5月18日(金)
夕方から、明日のCリーグのための会場設営。EDLの小池くん、中山くんを中心にがんばってくれた。一通り準備できたところで終える。研究室では、明日発表する佐藤くんのために、皆が協力。がんばってもらいたい。

5月17日(木)
058 EL決勝アトレチコ・マドリード×マルセイユ
シーズン最後に怪我から復帰に間にあった酒井は出場しなかった。酒井のいるはずの左サイドをクリーズマンに、マルセイユはやられてしまった。この経験を酒井にさせたかったと思う。0-2でアトレチコの圧勝であった。シメオネのリーダーシップに感嘆。選手ひとりひとりに、イズムが徹底されたピラミッドスタイルである。

5月16日(水)
「メイキング」再考。ぼくらは抽象化する傾向にある。そしてその方法に主体性がある。このことは、1800年後半の絵画に、構成が生まれたことから起きたことだ。このときセザンヌはやたらと長い腕をした人物を描いた。「メイキング」はそれが間違っているという。そこからこぼれ落ちたものたちが沢山あるというのだ。それが一作品の出来事ならともかく、世界が同様な思考をするようになっては、問題が大きすぎるという。例えば、経済優先というような。そこで提案されるのは、社会的文脈、文化的文脈を通して見ることである。そのためには、未来を予想しては、それをできなく、現状を感知—応答することであるという。そこに別の見方の主体性がある。ぼくらが自転車を乗りこなすとき、書道をするとき、あるいはスポーツでホームランを打つとき、日常的にそれをやってのけているのだ。建築の場合どうだろう。建築は扱う条件が広い。感知—応答という主体性を働かせることで、「メイキング」できるだろうか。そのためにこれまでの建築家が残してきてくれた文化的文脈というものが、道具(ガジェット)としてある。ぼくが「デザインスゴロク」や「建築の四層構造」に可能性があると思うのは、この点である。フラーが特異であるのは、感度のよいアンテナとしてこうした道具をもっていたような気がするのである。錦織の試合を久しぶりに観る。素人目にも、躍動しているのがよくわかる。「メイキング」における「文脈」は感じることができるのである。

5月15日(火)
昨日、「メイキング 人類学・考古学・芸術・建築」ティム・インゴルド著の読書会をゼミにて行った。発見的な思考は、つくることによってのみ獲得できるという大筋を理解しつつも、それを第1章に述べられている「内面化」できないのが悩ましいところであった。本書に従えば、それは実践で得ることしかないので、頭で理解することは難しい。それでも、いくつか考えるヒントが挙げられていた。「参与観察」。観察においても対象と距離をおくのでなく、働きかけなければならない。「応答」。世界との関係を調整することである。この世界とは、社会的文脈、文化的文脈のことで歴史である。生物においては「環境世界」(ユクスキュル)であり、動態である。それに「感知」「ダンス」「結合」することである。みずからの存在をいくらか他の生きものの特性と認め、他の生きものと交感することである。そしてそのために「交換装置」が必要とされる。あくまでも、「交換装置」を通じて受け身である必要があるわけだ。それは、「予測でなく、予期的発見」によって行われる。偉大な建造物などは、予期的発見の積み重ねによって創りだされたという。建築に引き寄せると面白い。以上のことは、「空間に名前をつけていくこと」である。しかし、それであると受け身であったつもりが、作品性を強くしてしまい、本書と反対の路を辿ってしまう。建築でいえば、これまでの方法と何ら変わりないことになる。つくることは本来主体的であり、それを受け身で行うには、「空間に名前をつけていくこと」ではなく「名前のない空間へ」(池辺)であると思う。ぼくがひっかった点はここにあった。もうひとつ、受け身というシステムを行う「ガバナンス」に関して主体性を発揮することでも、この疑問は解決できる。このあたりが突破口となると思うのだ。「ティール組織」で取り上げられているケン・ウィルバーの「万物の歴史」を読みはじめる。

5月14日(月)
森美術館の前田尚武さんを建築計画の授業で迎える。丁寧に美術館の定義をし、課題とされる美術館の位置づけを与えてくれる。美術館なるもの日本に6000館あり、その設定の仕方によっては、ヘビーな設備を必要としない美術館もあり得るのである。次に美術館の活動について説明してくれた。日本では、美術館は教育委員会の下に置かれることが多く、教育施設と考えられることが伝統的に多いという。最近はこれをラーニングといったりする。したがって、展覧会事業は低予算となり、新聞社やテレビ局との共催がメインとなる。その内容は、アニメなどとなる。伝統的に無料スペースも多いのも特徴である。前田さんがいうには、寺の「開帳」を引き継いでいるからだという。これを大阪万博のお祭り広場が決定的なものとした。ヨーロッパは、これに対し豊富な展示数が特徴的で、保守的である。そのため、ガラスなどの現代性が美術館に差し込まれる。アメリカは、個人コレクターが多く、展示のほとんどが戦後の現代アートである。慈善事業でこれを行うため、近頃は、パーティや結婚式などの目的にも広く貸し出す。年間200は行われるという。この早変わり方法が今問題にされているという。そのため、外観もユニークなものが要求されるのだそうだ。その後、前田さんが関わった美術館の説明。国内外に渡る。これらは的確にマネジメント要求に応えたものだ。新しい美術館対する一番の要求は、流行るかどうかである。時間毎の利用状況を視覚化し、様々な利用例も具体的に示していた。それに加えて目玉となるものの大切さである。商業的ではあるものの、これが重要であるという。ランドアートはこの点有効だそうだ。最後に現在開催されている「建築の日本展」について。建築を題材にして、テーマ毎に展示する試みははじめてであるという。建築の世界では意外にも正統さが要求され、これまで、○○運動とか○○生誕100年展等といった展示しかなかったという。対してアートの世界では、古典と現代アートを対比するような試みは多くあった。その折衷的なことを建築展で試みたという。

5月13日(日)
神奈川県立美術館葉山で開催されている「ブルーノ・ムナーリ展」へ行く。ムナーリが、自らの作品を完成した閉じたものにみられることを拒んでいることがよくわかる。作品は皆に利用され、開かれたものとなることを願っていた。ムナーリのキャリアは、後期未来派との交流からはじまったという。バンハムの「第一機械時代の理論とデザイン」によると、未来派は、フラーと並び、それまでの歴史との断絶を唯一成功させた運動であった。それだけ、非人間歴史主義的であった。この未来派とのムナーリの決別が、「役に立たない機械」という作品である。ガルーダの彫刻を連想させる一種の「やじろべえ」である。未来派とは反対の「人間が機械の主人である」ことを示したものとも考えられるが、人間も風を感じ、機械も風を感じる、という解釈もできる。事務所に戻り。「デザインとビジュアル・コミュニケーション」を再読。この本から感じることは、作品を閉じざるを得ないことにたいするムナーリのジレンマである。彼が作家たる所以は、作品として完成させるという事実にある。外部に開かれることを認めつつも、作家たる主体と他者の間のコミュニケーションに同化しては、ムナーリたるものの存在が必要なくなる。むしろその拘りが強いことを感じた。「メイキング」では、ゲーテが参照されていた。自分の身体と対象との境界を連続的に考える人として紹介されている。ムナーリは、ここまで結論を下せなかったが、作家として最大限に、自分を開くことを目指していたのである。ムナーリの子である認知学のアルベルト・ムナーリは、「身ぶりの英知」とこれをいっている。「身ぶりの英知」とは、「始めに行動ありき」(ピアジェ)、その後その精度をたかめ、内面化していくときに不可欠なものである。ポランニーは、これを「実際的知識」といった。「メイキング」では、この考えをさらに推し進めているようである。作品性はなくなり、終わりのない連続行為となる。今回の展覧会で「ペアノ曲線」というのも知る。「デザインとビジュアル・コミュニケーション」をみると、伊東豊雄の元ネタ、佐々木さんの本の表紙の源泉をつかむことができる。「ペアノ曲線」は数学的幾何学であるが、これを手作業で展開してみせたのが、伊東さんの「台中オペラハウス」とも言えそうだ。伊東さんは、この方針で進むことなしに、「みんなのいえ」に向かったのは、なぜだろうかと思う。

5月12日(土)
057 ブンデス ホッヘンハイム×ドルトムント
今季最終戦。1-3で負ける。順位を4位に落とし、CLストレートインとならなかった。それにもかかわらず、積極的な攻撃に出なかったのが、不思議である。若きナーゲルスマンとご老体シュテ-ガーの差が出たと思う。選手に戦術とモチベーションを与えられていない。香川は、75分から3月ぶりに出場も、何もできず。W杯選出に暗雲である、

5月11日(金)
夕方、中埜さんの事務所行き。第1弾の翻訳を終える。深夜BSで「プライベート・ライアン」スピルバーグ監督を観る。開始早々20分以上続く戦闘シーンの迫力に圧倒される。この密度感が映画の醍醐味であると思う。「メイキング」ティム・インゴルドの再読。池辺さんの考えと重なることが多いことに気づく。キーワードを上げるだけでも、「形を生み出すシステム」、「つくることのプロセス」、「発見するのはもの自体であり、もののデザインではない」、「予期的な発見」「見るということは離れて持つことである(メルロ-ポンティ)」、「物質に従え(ドゥルーズ・ガタリ)」、「運動のさなかの思考(シーツ・ジョンストン)」、「空気はエージェントである」、「太陽が目のごときものでなければ、どうして空で輝くことができようか(ユクスキュル)」、「語るということ」など「デザインの鍵」に似たものが多い。ユークリッドの元来の意味が異なっていることにも驚いた。これを整理する。

5月9日(水)
ゼミにて、設計をホラクラシーミーティングでやってみる。昨年からはじめた。敷地条件からはじまり、他人がおいたパーツを手掛かりにリレー方式でかたちを積み上げていく。かたち遊びに近いが、これまでの機能性重視の頭を解きほぐすことを目的とする。「デザインスゴロク」の紹介も改めて行う。この凝り固まった考えをほぐすのに、デザインスゴロクは最適である。ホラクラシーのいわんとすることは、問題を感受し、それに応答することである。これまでは、未来を予想し、それをコントロールしようとすることであった。科学、人生観など全てのことがこのフレームワークに囚われている。ユートピア志向といってもよいと思う。しかし一方でこの予想しない、コントロールしいないということは、暗中模索の中を進むので、実は怖いことである。そこで登場するのが「デザインスゴロク」である。手近な道標となり、ぼくら知り得なかった存在を知らしめてくれる。

5月8日(火)
1年生に向けて、「建築と絵画」に関して授業をする。先日、体験した「赤いチョッキの少年」セザンヌをもとに、「モダンデザインの展開」ベブスナー著と「第一機械時代の理論とデザイン」バンハム著の概要をかい摘まんで紹介する。「赤いチョッキの少年」に見られるように、1800年後半に、画家たちは、「構成」というものを手にして、かたちを自由に扱うことができる主体性を獲得した。あるいは、シャガールのように、淡い点表現による「空間性」を獲得した。後者の精神がアールヌーボーへ、前者が近代建築へと展開していった。前者は、アートの世界では、「分解・再構成」を繰り返しデュシャンに行き着き、個人的世界へ迷走してしまうのであるが、建築の世界では、この分解がコルビジュエによるモデュロールによって、生産や人の身体性と結びついていった。これに代表されるように、建築は社会的であるべきことを指摘した。ある学生から、建築の社会性について質問を受ける。ぼくのレクチャーに同意したのか、違和感を感じたか、確かめたかった。この学生も高校生の頃から、建築の社会性のなさがなぜかを考えていたという。

5月7日(月)
計画2の授業。美術館で大切にされる「シークエンス」の説明から、これを超えるための建築家の試みも合わせて示す。ふたつを使いこなしてほしい。夕方ゼミにて、「ホラクラシー」の読書会。「研究室が掲げる問題」を題材にして、実際にホラクラシーミーティングを行ってみる。ファッシリテーターの技量が大きく進行に関わってくるが、面白い体験であった。ホラクラシーミーティングでは、正解という結論を目指さない。現在「感じる」ことができる問題に応えるだけである。それを積み重ねて行く。これを進化といっている。ただの言葉遊びにならないように、真剣さとプロセス管理(ガバナンス)が重要となる。真剣さは、自分をさらけ出すことである。それができないと、これまでの慣行から考えられる結論を逆算した応えになってしまい、陳腐なものになる。この真剣さ、あるいは自分の問題として積極的に考えることができるかのための実践が、本書で示されている。そのためには、ヒエラルキー構造をなくし、フラットなホラクラシー型(全体が部分であり、部分が全体であるような構造を維持していくガバナンス)が考えられている。

5月6日(日)
新国立美術館で開催の「ビュール・コレクション 至上の印象派展」へ行く。明日が最終日であった。なんと言ってもセザンヌの「赤いチョッキの少年」を見たかった。思ったより大きい。1890年前の作品で、ポーズこそは伝統的構成に倣っているものの、長く引き延ばされた腕が異様である。これは、写実でなく、絵としてのバランスから来たものであることがよくわかる。背景が黒っぽく、白い腕を中心に映える構成である。既に抽象画の領域に入ったようにも思える。つまり、構成というものを手にして、画家は自らの主体性を大きく放ったことになる。ここから、絵画が新しい領域に突入して行った。ゴッホのコレクションも充実している。彼の成長を確認できる。生前は理解されなかったことも理解できる。終始、名作からインスピレーションを受けようとし、自分と格闘しているのがよくわかる。その実直までの無骨さが、評価に勢いをもたらさなかった。最晩年の花の絵は、これまでと打って変わって穏やかで泣かされる。もうひとつ見たかったのは、ブラックである。「ヴァイオリニスト」のひとつがあった。中央下のヴァイオリンが浮かび上がって見える。これは現物でわかったことである。コーリンロウは、ピカソと対比してこれをフェノメナルな透明性といった。目からだけでなく、五感で感じてわかるという意味である。このことを実感する。

5月5日(土)
森美術館で開催中の「建築の日本展:その遺伝子がのこすもの」に行く。前田尚武さん責任の展覧会である。建築展覧会らしく、コンセプトと空間構成がしっかりしている。大きな空間、暗い空間など空間バリエーションが豊かに連続し、鑑賞を飽きさせない。現代建築を歴史上の先端にあることを位置付け、そのための9つのテーマが展示室毎に位置付けられる。建築の学生にとって、教科書のような扱いである。ただし、齋藤誠一さん率いるライゾマティクスアーキテクチャーによるデジタルアートを駆使し、これまでの建築展とはことなり、建築提案を身近なものにしている。9つのテーマは、「木造・技術」「わびさび日本美学」「屋根」「(伝統)工芸」「日本らしさ」「折衷」「日本社会・ムラ」「発見された日本」「共生・環境」である。一筋縄では行かないテーマ設定が日本的ということであろう。伊東忠太やシンドラーなどの外からの目を入れているのが効果的である。夕方、妻の親族の通夜に出席。帰宅して、女子の卓球の決勝戦を観る。
056 ブンデス ドルトムント×マインツ
香川がまた足の故障と聞く。ベンチ外。武藤がDFの前に素早く抜け出しヘディングでゴール。マインツは残留を決める。マインツの真剣さに比べて、ドルトムントは今一集中力に欠け、引く相手にたいして縦パスを幾度も試みるも、1-2で負ける。チームとしての目標がなく、怪我を恐れ、W杯に意識が向かっている。

5月4日(金)
天気が良いので、八ヶ岳まで遠出をし、村野藤吾の原村美術館へ。エコーラインという農道がある。緩やかに下る畑を見下ろすことができ、斜面とは垂直方向に走る道路である。これが気持ちよく、幾度も訪れる。いくつかの別荘地があり憬れる。それを突っ切り、ビーナスラインへ。ガムラスタンという店名に引かれてそこで食事。ストックホルム郊外の美しい伝統的建物が並ぶ町である。店内はGWとあっていっぱい。上り渋滞がひどく、ふたつの温泉で時間を潰す。

5月3日(木)
東京駅ステーションギャラリーで行われている隈研吾展へ行く。訪れている人の年齢層が幅広い。これまでの作品を、素材を中心にして紹介する。新しい解析技術や、成熟した産業を巧みに建築に応用した新しいモノつくりの提案である。これは、90年代後半からの日本建築の特徴でもあった。ぼくもその初期に大きく関わったと自覚している。IT革命がもたらした情報の開示によって、意外な展開が様々なところでにおきたのだ。建設という巨大産業の、様々な専門家の中心にいた建築家が、この恩恵を利用することが最も可能であった。しかしさらに情報開示が進み、情報が専門家の手から一般の人へも行き渡るようになると、情報が錯綜し、専門家には巧みなマネジメント能力が必要とされるようになった。特に2005年の姉歯事件という専門家による不祥事件頃からその傾向が強くなった。隈研吾はこのマネジメント能力にも長け、今日のこの展覧会にまで至っている。というより、こうした恩恵を実践するハンドリング具合をわきまえていた。それを用いる場所や強度の操作が群を抜いていた。現在もこうした傾向は続いている。ただし、最近になって漸くその詳細が判明してきた環境問題と密接に絡むようになった。それは、大規模プロジェクトで試されるもので、建築家ではなく企業にしか追えないものとなっている。開放されたはずの情報が反対にコントロール化されている。この現状を考える必要がありそうだ。その後、内藤廣氏がインテリアを設計した虎屋に行く。椅子座り心地よさに感動する。
055 CL ローマ×リヴァプール
第1戦の大量リードによって、リヴァプールは落ち着いたゲーム運びを行った。それが、ゲーム開始直後のローマナインゴランのミスを誘った。最後は意地のローマに逆転されるも、リヴァプールが決勝の地にコマを進める。それにしても、日本が対戦するマリのスピードは群を抜いている。ゴム鞠のように躍動感がある。チームメートであった吉田との対戦は楽しみである。

5月2日(水)
彰国社行き。最後の打ち合わせ。事務所に戻り、「はじめに」を再考。少し切り口を見直す。翻訳続行。ほぼ終える。
054 CL レアル・マドリード×バイエルン
今日のセカンドレグもバイエルンがゲームを支配するも、引き分け、レアルが決勝に進出する。後半早々の痛恨のバックパスミスがバイエルンは痛かった。それにしても、両チームの技術力の高さに感服する。トラップがピタッと足下に収まり、テンポ良くボールが展開する。精神的な余裕から来るものだろう。流石に、ゴール前では慌てる様子が見られるが、日本人もこの精神的余裕の幅が必要と思う。時としてCL決勝はW杯に響くと言われている。選手が休養する余裕を与えないことになるからである。日本の相手となるポーランドのレバントスキーとコロンビアのハリル・ロドリゲスはここで姿を消すこととなった。

5月1日(火)
ブラタモリは銀閣。銀閣の広縁からの庭景色を始めて知る。ここから日本文化がはじまったというものであった。タモリたちも同仁斎を堪能する。これを歴史的位置づけからでなく、地形から読み解くのが面白い。この番組の後で、江戸の特集を観る。150年前の江戸の町写真がオーストリアで発見された。江戸城も存在し、その周りは立派な瓦屋根の長屋が囲んでいた。その風景は美しい。現在の下町のような雑然としたカオス状況ではなかった。この江戸の都市計画は堀を中心に進められたという。江戸の堀は、螺旋状を描きながら大きくしていったということを知る。それは、今でもその面影を追うことができる。コルビジュエのムンダネウム構想のようだ。それと江戸に関するもうひとつの解釈に興味をもった。江戸も西洋と同様の石の町であるという指摘である。木や紙の町でなく。江戸の町は、大石による擁壁工事の上に成立しているという指摘であった。参勤交代のように、全国の大名が、この造成のためにかり出され、お金を出資させられたという。石の多くは伊豆から切り出し、海上から江戸まで運ばれたのだそうだ。陣内さんが出演していた。

4月30日(月)
秩父行き。谷口吉郎の秩父セメント工場を観る。その後、キャンプPICAの温泉でくつろぎ、昭和の映画館をリノベーションしたイタリアンレストランで夕食。木造のシザーズトラス構造であった。奥行きが浅く、当時の使用方法が読めなかった。

4月29日(日)
053 ブンデス ブレーメン×ドルトムント
ドルトムントはしっかり固める守りを攻めきれず、1-1のドローに終わる。香川不出場。次戦にお預けだ。どうやら負けないという消極的指示があったように思われる。縦パスを少なくし、ゲッツエやロイス、プリシッチはサイドに張り付き、DFが出し所を見出せなくとも、ボールを受けるような無理はしなかった。

4月28日(土)
052 プレミア クリスタルパレス×レスター
岡崎はまだ怪我のようだ。代わりにイグアナチョが先発。しかし上手く機能しない。後半から、このポジションが交替させられるのは、岡崎と場合と同じだ。それでも好転はしない。順位上位を狙う期待ができなくなり、ピュエル監督の求心力が弱まっているためだ。監督に明確な戦術方針を出す必要があるのでないか?

4月27日(金)
彰国社で出版会議。最後の方針を決める。その行き帰りでハリルボシッチの弁明会見をYouTubeで全てを観る。ハリルは、90分間しゃべりまくった。そのエネジーに完敗する。その中でハリルは、田嶋会長が解任原因にあげたコミュニケーション不足の有無を問題にする。いっそのこと、欧州遠征での結果が悪かったと言ってもらえれば納得するというものであった。本当に直接的だ。田嶋会長は、ハリルに対して、おそらく敬意を払って、指揮内容の是非をいうことを忖度してしまった。いっそのこと、はっきりとコミュニケーションとか言わずに、はっきりとゲーム内容について言及をすべきであった。むしろこの点のコミュニケーションが失敗したのだと思う。明らかに、マリとウクライナ戦では、チームとしての一貫性は見られず、気のないゲームであった。これは事実であったと思う。もっと具体的に言うと、ハリルは縦への突破をコンセプトにしていた。それは、ベテランの本田、香川、岡崎でなく、大迫、原口、浅野、井手口によってなされるものであったのだが、その彼らが所属チームで全く出場機会を得ていない状況であった。そのときに彼らの代わりになる選手が見出せず、かといってチーム方針を変えることも、ハリルはできなかった。協会にとって、ぼくらにとってもこれが最大の危機であったのだと思う。ちなみに、会見から解任の真意を総合的に判断するに、本田の明確な行動が一部の選手と協会を動かしたことになる。本田は、監督にも直訴していたというので、本田の堂々とした行動力にハリルが屈したかたちがこの結果のようである。

4月26日(木)
051 CL バイエルン×レアル・マドリード
バイエルンが攻め立てるも、1-2で負ける。C・ロナウドを完全に押さえていたにもかかわらず、である。いつものように、DFを囲い込むことに成功していた。ただし、最後のフィニッシュまで至らなかった。

4月25日(水)
050 CL リヴァプール×ローマ
リヴァプール前線の3人はめっぽう速い。彼らが攻め続けた。そのため、ローマDFは慌て規律をなくし、セカンドボールもことごとく拾われていた。ただし、5-0となってから気が緩んだろうか、一休みしたところで2失点する。ローマに希望を与えることになってしまった。

4月24日(火)
設計方法小委員会に出席。出席者が少なく、今後の方針についてのブレインストーミング。その中でテーマが、新しい設計・施工体制。合意形成のためのファシリテーションから、プロ同士のコラボレーションのためのファシリテーションに収束する。様々な意見交換。「ティール組織」も加えられる。現状打開のための分析から実践へ、ということだろうか。これを実践するために便利なアプリも知る。研究室で利用してみよう。深夜、キム・ジョウンの特集を観る。39号室というキム直轄の外貨獲得のための組織があるのだそうだ。世界各地にいる北朝鮮職員が獲得した外貨がそこに集まる。父、  が考え、ジョウンによって完成されたという。これによって政権維持が確実なものにしている。同時に今日は、中国観光客が遭遇してしまった事故のための病院を視察する人間味のあるジョウンがニュースで紹介される。情勢の変化はかなり速い。

4月23日(月)
設計の授業で、河内さんと佐野健太さんのショートレクチャー。河内さんらしい自作のかたちの意味を与えてくれた。グリッド空間に球を挿入する意味と空間的効果についてであった。佐野さんは、伊東さんの作品の紹介からはじめ、建築の可能性を拡げる話をしてくれた。学生にとっては、施工という新しいキーワードが加えられたと思う。「アイデアキャンプ」の読書会。その後、皆で実践する。意見が活発に展開し、5月のゼミ予定をこの方法で決める。

4月22日(日)
龍ヶ崎の現場行き。今週木曜日に行われる新建築誌の撮影に向けて、工事が追い込み段階に入る。田畑の中にある昭和の農家から突き出た縦ログが印象的である。縦ログは、構造的にも断熱性能も、日本の抱える木産業においても、優れた構法といえるが、外壁としての耐候性に劣る。いつか、室内に置いて耐震補強として、使用したいと考えていたところ、この昭和の民家の改修で実現できた。屋根から突き出た縦ログ材は、一種のシンボルである。昭和の民家を立派に新しい木造が支えている。錦織のモンテカルロツアー決勝戦では、王者ナダルに全く歯が立たなかった。テニスにおいて強いとは、得点が必要なときに一気に攻め込むことができることである。このことを今日も痛感する。反対にそれに耐えることができると勝機が開けていく。
049 ブンデス ドルトムント×レヴァークーゼン
香川のベンチ入りを期待したが、それはかなわなかった。バチュアイ負傷のため、大きくスタメンを変える。トップ下にロイス、ボランチにヴァイグル、その前にゲュツエである。サイドに、若いサンチョを置く。これが当たった。もっとも、レヴァークーゼン戦はいつもオープンな撃ち合いになる。これに適した選手配置であった。中盤ボールをキープし、トップが自由に走りまわっていた。今日は、左のサンチョが特に良かった。一度サイドで起点となっていた。

4月21日(土)
翻訳のために1日を使う。途中、若冲の特集をNHKで観る。「樹花鳥獣屏風図」は、解体新書にある挿絵、ノアの箱船をヒントにしたものという指摘が面白い。このころ鎖国が緩くなりはじめ、もの新しい情報が多く流れてくるようになったそうだ。それに敏感であったというものである。錦織の準決勝を観る。錦織が怪我をしているあい間に台頭著しいズベレフを破る。様々な攻撃パターンを繰り出し、勢いがあった。安心して試合を観た。明日の決勝戦が楽しみとなる。

4月20日(金)
建築学会に行き、今年の東北大学での学会梗概のプログラムつくり。はじめての参加で、学会というものの様子が判る。どの世界にもその世界の作法があり、その世界の内的平衡を保ちながら、対外性を保っていることがよく判る。社会への貢献もさることながら、研究発表というものも、学会に所属する人の位置づけを、内部的にも対外的にも位置付けるものであるのだ。対外的には、その人の評価に客観性を与え、内部的には序列化と組織強化するものである。人はどうやってこういう仕組みをつくり出したのだろうと思う。建築家においては、こうした組織体制否定が現在一般的である。これにたいして、ぼくはむしろ批判的であるのだが、一般社会においては、そうした意識がまだ薄いのだ。このことを感じた1日であった。今日も錦織の試合を観る。ランキング3位のチリッチに勝ちきる。チリッチは、第2セットで膝を痛めてから、捨て身の作戦をとる。とにかく、強く振り切り、失敗もするが、意外と数多いスーパーショットになる。解説者によると、これまでにないチリッチの出来だそうだ。簡単に勝利を掴めるそうな気がしたが、実際に錦織は悪戦苦闘する。それでも3セット終盤でブレークして、勝ちきった。問題の手首は痛そうであった。

4月19日(木)
深夜錦織の試合を久しぶりに観る。今シーズン初めてである。精神的にハラハラする。最後は勝ちきることで喜びも倍増するのであるが、これがテニスの他のスポーツとは異なる面白みだと思う。「アイデアキャンプ 創造する時代の働き方」中西泰人著の再読。人には創造という能力があり、それを客観的・論理的思考と対立させている。その能力を発揮させるためには、主観的に身体的環境を変化させなければならない。それを象徴する言葉が、「キャンプ」である。数々のアイデアはいずれ収束させなければならないが、まずは発散させることの重要性が、この本のテーマである。参考文献にオーエンの「オープン・ススペース・テクノロジー」、アニータ・ブラウン、アイザックスの「ワールド・カフェ」、ワイスボードとジャノフの「フューチャーサーチ」。ルフェーブルの「空間の生産」、ユクスキュルの「生物から見た世界」、ハーバート・サイモンの「システムの科学」が挙げられている。

4月18日(水)
4年生を研究室に新しく迎えるにあたって歓迎会。「ティール組織」を読んでいることもあり、お互いで質問を繰り返すことで、コミュニケーションを深めることをやってみる。当然のことながら、もう少し工夫が必要であることが判る。帰宅後、なでしこが中国を圧勝していた。

4月17日(火)
「ティール組織」の翻訳に没頭。そのためこの頃読書できないのので、少しストレスが溜まる。深夜、キム・ジョンウンの特集を観る。これまでガキ大将のように考えられていたが、実は強かな戦略を張り巡らす策略家であるという特集であった。今日までの日米韓、中国の動向は、彼の思い描いたシナリオに従っているという。果たしてそうしたことは可能なのだろうかと疑問に思う。そのくらいの力量があるなら、もう少し国富を貯めることができてもよいと思うのだが。

4月16日(月)
建築計画2授業。難波さんの「建築の四層構造」中心に「建築」と建物の違いを説明。「建築」には、4層構造全てに対しての何らかの解答がなければならない。ディズニーランド施設が、誰にも親しみがある一方で、「建築」として扱われない理由がそこにある。その後、設計授業で扱う美術館課題をもとにして「第3層」の解説を行う。今日の授業のテーマである。「第3層」とは機能層である。一級建築士試験は、ほぼ第3層を問うものであることを前提に、これを解くことを課した。実際に黒板で解いてみせる。ただし、繰り返しになるが、「建築」にするためには、ここで具体的に示した例えば「裏と表」というような計画術を超えたものにする必要がある。

4月15日(日)
048 ブンデス シャルケ×ドルトムント
ドルトムントは、なんともはっきりとしない攻撃を続け、シャルケに完封させられる。昨季は、トゥヘルが、強烈なキャラクターと戦術でチームを率いた。それは、チームに歪みを生むほどのものであった。現在のシュティンガーは、反対に細かな指示は選手にないようである。ドルトの選手も優秀ではあるが、個で打開するほどのスーパースターはいない。トゥヘルがいなくなり、その空虚感をボー然と見守るだけの試合になっているように感じる。なかなか選手コントロールは難しいことを知る。

4月14日(土)
047 プレミア バンリー×レスター
岡崎先発もいいところなしに、前半で交替させられる。このところ、レスターの型にはまらない。岡崎に原因があるわけではないが、その原因探しのしわ寄せが彼のところにくる。後半から登場のイグアナチョがアシストを決める。レスターはこの繰り返しを続けてきた。いつか型にはまるようになり、岡崎定着となるのだが、今季はあと数試合しかない。

4月13日(金)
046 EL ザルツブルク×ラッツィオ ザルツブルクが一気にひっくり返す。攻撃だけでなく、守備からの展開にスピードが長けていた。インザーギがラッツィオの指揮をしていたのはビックリ。モンテッラといい、ミランを追い出された若手が指導において活躍をしている。

4月12日(木)
夕方に鈴木くんが来所。ナチュラルアングルの増築計画の打ち合わせ。子どもが大きくなり、新たな有ペース分割が求められている。流れるような空間を仕切る方法を検討する。
045 CL レアル・マドリード×ユベントス
今日もイタリア勢が完璧に試合をコントロールし、今日も奇蹟を起こすかと思われた。しかし、95分過ぎにPKを与えてしまい、レアルがベスト4に進む。0-3にした時点でユーベは一呼吸置いてしまった。そこから流れを引き戻すことはできなかったことになる。それにしても今日のユーベは、前戦では綺麗なラインコントロールを行い、スペースを消していたのだが、これとは異なり、マンツーマンに近いかたちでロナウドやベイル、マルセロを押さえ込んだ。セルジオ・ラモスが出場停止であったことも影響した。前回不出場のマンジュキッチの攻守走り回る貢献度も大きいだろう。バイエルン時代とは大きく変身を遂げていた。

4月11日(水)
ゼミにて、「メッセージ」ヴィルヌーヴ監督を観る。観るのは3度目になるが、いくつか発見もあった。普通に考えると、主人公のルイーズは予知能力を授かったと言うことであろう。ただし、映画がエンターテイメントであり、正確性を求めるものでないとすると、むしろ予知能力など得られるはずもないので、人が正しいと感じ、思い込むことで時に世界を大きく変えることもある。とも映画を解釈できる。この映画では、ふたつの思考方法が紹介されている。ひとつはぼくたちが今もっている、原因-結果という時系列で事象を追いかけるもの。対自で考えることである。もうひとつは、経験からくる事象に、感じて反応するものである。自転車の例を挙げた。自転車を乗ることができるために、いちいち、降りては反省して修正したりはしない。試行錯誤が壮大な情報処理を行っているという事実である。ヘプタポットはこれを操っていた。ここには、時間という概念がなく、ぼくら時系列から考える世界観からは、ヘプタポットは予知能力があると言うことになる。ぼくとしては、後者の思考方法が、物事を変えていくときの大いなるヒントとなると思うのだ。そのため今年の初回ゼミで、この映画の鑑賞会を行った。
043 CL マンチェスタC×リヴァプール
クロップの人間性溢れるアグレッシブな戦法が、グアディオラの緻密な機械のような戦法を破った。ドルトがバイエルンを破ったときのような感情が蘇った。しかし、前半終了間際のオフサイド判定が正しくなされていたら、この結果はどうなっていたかは判らない。グアディアオラはこの判定に怒り、退場処分となった。
044 CL ローマ×バルセロナ
ローマがバルサの攻撃を封じ、3-0で勝利し、アウエーゴールの差でベスト4に進出する。誰も予想できなかったに違いない。バルセロナは、1点を取れれば優位に立つと思い、守勢にまわってしまったのが痛かった。この流れを最後まで変えることできずに無得点で終わってしまう。スタディオ・オリンピコの奇蹟として、後世まで語られることであろう。

4月10日(火)
ハリル解任にたいするコメントが一転して、協会批判となる。面白いものだ。強い者への大衆批判と見て取れる。いつの時でも、事を為すかモノをつくる者は批判の対象である。つくらない者は、批判されることのない安全な場所にいる。その中で、川島の心泣かされるコメントもあった。再びピッチに立てるように配慮してくれたハリルへの感謝の意であった。

4月9日(月)
朝起きると、ハリルボシッチ監督の解任をニュースで知る。どうやらマリ戦が決定打となったようであるが、年末から水面下で準備は進められていたようだ。その中に長谷部からのヒアリングもあったという。そうした現場からの生の疑念が、マリ戦後に現実となって紛失したという。ハリルにしてみれば、本田を招集してしまったことが仇となった。本田は、マリ戦で明らかにゲームを落ち着かせていた。これができたのは本田だからであり、それをハリルは否定してしまったのだ。ゲームに勝てればよかったものの、この否定は選手からの求心力を失い、逆に本田へと集まることになってしまった。ゲーム後の長友の発言、ハリルに買われていた大迫でさえ、縦一辺倒の戦術の批判をするようになった。記事によると、選手皆のボイコットまでもが起こりそうであったそうである。これをまとめたのは、強化部長の西野であり、彼が後任となった。それにしても、本田の行動力に感心する。ミランにおいても、最後は必ずポジションを獲得していたし、後半の落ち気味のキャリアを、メキシコという飛び道具を使って復活させ、代表の座を最後には掴みそうである。

4月8日(日)
042 ブンデス ドルトムント×シュツットガルト
香川の怪我は続き、浅野もベンチ外。3-0でドルトムントの勝利。点差から推察するほどの優劣差はなかった。プリシッチのクロスが偶然ゴールしたのを切掛けにして、要所でドルトが得点を挙げていった。前戦の大敗を機に、大幅なメンバー入れ替え。シャヒンも久々の先発であった。
「プリズナーズ」ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品を続けて観る。誘拐された娘を奪還するための、常軌を逸した父親をヒュー・ジャックマンが演じる。これを聞くとアメリカ映画特有の人間愛に満ちたハードアクション作品に思えるが、全体的印象は、善悪を超越する程のキリスト教的な映画である。人間を超越したところの存在が登場人物を動かしているようである。したがって、娘救出のために、知的障害者をヒュー・ジャックマンは殴り続けるし、神父ですら殺人を犯し、少年愛好者であったりする。全てがたわいもないことに見えるほど、絶対的他者の存在を示す映画であった。これが受け入れられる背景がアメリカにはあることを知る。

4月7日(土)
041 プレミア レスター×ニューカッスル
岡崎の代わりにディアバテが先発出場。前戦同様、高い位置からのボール奪取し、速攻するというパターンがはまらない。バランス悪く、相手ボランチにボールが簡単に落ちて、そこから展開されてしまっていた。この戦況を見極めてか、岡崎は後半早々に登場。2点差となったところで、ニューカッスルが守りをかためたため、奇しくもレスターのボールポゼッションが高まる。得点は、サイドからのロングボールに岡崎が頭で落とし、バーディが決めたものである。しかし1-2で負ける。チームが上手く機能しない理由を、なぜか岡崎の交替で解決しようとする采配に、岡崎も少し疑問に思うこともあろうと思う。

4月6日(金)
「複製された男」ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督を観る。カナダトロントが舞台であった。トロントというと、ジェイコブスの街という印象であるのだが、現代建築も目立つ。ヤンソン・マーの捻れた超高層が象徴的に扱われ、ルイーズ・ブルジュワらしき蜘蛛のアートも度々登場する。この映画は、2重人格者を描いたとも、偶然に廻り合ったそっくりさんが巻き起こすミステリーとも解釈できるが、そんなことより、この映画は人(男)のさがについて語るものであったと思う。蜘蛛は、どうやら女性(母親)の健全な母性とは反対の、嫉妬、独占欲、性などの暗部を象徴しているもののようだ。そこから男(息子)は逃れられないことを、極めてシリアスに語っている。物語のはじめに主人公が学生向けに講義する2パターンの独裁者「遊びを与えて享楽させる方法」と「情報をコントロールして大事なことを教えない方法」とは、息子にたいする母親のことであり、あるいは、「1度目は悲劇、2度目は笑劇」というマルクス、ヘーゲルの引用は、母親から逃れたとしても今度は別の女性(妻)に囚われてしまう、歴史=男のさがを言うものである。それから逃れるための手段として、怪しげな秘密クラブや浮気などの反社会的行為があるのだ。この反転する見方が他と異なるヴィルヌーヴ監督の特徴だろうかと思う。

4月5日(木)
040 CL リヴァプール×マンチェスター・シティ
今季のシティは頭ひとつぬけた成績をおさめているのだが、そのシティを3-0でリヴァプールが破る。速攻が上手く決まったとは言え、前半はその後も終始ゲームを支配していた。球離れが早く、かつDFを背負ってボールを受けることがない。ロングボールによるチーム戦術が確立している。基本的に、リヴァプールも、グアディオラのように、相手陣内を取り囲むようにボール回しをしていた。これは、チームに落ち着きをもたらし、相手に対し余裕を保つ戦法である。昨日の試合といい、フィールドを大きく使い、ボールを失う確率を低くし、チャンスが廻ってくるのを待つ戦術のように見えた。バタバタ感がない。

4月4日(水)
039 CL ユベントス×レアル・マドリード
アウエーでマドリードの圧勝。固いと言われているユーベのDFラインを開始早々にロナウドが崩し、マドリ-は終始ゲームをコントロールできた。それにしても、1点目は見事であった。ベンゼマを盾にしてDFの1歩前に出ることに成功していた。それにしてもお互い守備が固い。多人数に囲まれないように、フィールドいっぱいにボールを回す。日本代表より、1周り大きいボール回しである。

4月3日(火)
大学で一級建築士実務免除のためのガイダンス。構造と設備の学生は見当たらない。「ティール組織」の下訳を終え、中埜さんへ送付。図柄の方にとりかかることにする。

4月2日(月)
白馬のジャンプ台を観る。思っていたより急勾配で、壮大さを感じる。内藤廣氏設計の安曇野のいわさきちひろ美術館へ。10年ふりの訪問である。この間に、のびのびしたランドスケープが出来上がり、公園の中の美術館として美しくなっていた。こうした力強いかたちがぼく好みではあるが、岩崎ちひろの優しい画風との関連に説明がつかない難しいところがあることを前から感じていた。そのための工夫が、平面をはじめとする計画の様々なところにあることに今回気づいた。外観からの形式は、内部から全く感じさせないようにできている。人は屋根方向と直角方向に動き、天井を見通すことができない。サッシュ上の2m高さにコンクリートの大きなまぐさが廻っているが、それは人の動く方向にそってあり、屋根構造の方向と一致していない。屋根構造も、コンクリートラーメン構造でできている大きな樋の上に引っ掛かるようにかけられているが、その設置が明快ではない。これらは、それ以前の高知や伊勢の美術館と異なっている。五浦の美術館に近いかもしれない。その後、近くのわさび農園で食事をとり帰路につく。
038 ブンデス バイエルン×ドルトムント
ドルトムントが0-6で大敗。マスコミが騒ぐ。監督も限界を感じ、来季の続投を諦めるコメントを残す。激しいプレッシングに対するチーム戦術がなかった。失点はほとんど、中盤近くでパスカットされたものであった。中盤が孤立されてしまっていた。前線から下がってのフォローが必要である。香川がいた場合も想像できない。最も苦手とするパターンであるからだ。

4月1日(日)
上田を抜けて、松本市内へ。宮本忠長設計の松本市立美術館へ。草間彌生展が開催されている。草間は、この松本が出身地ということらしく、街をあげてのイベントである。街中に水玉模様のフラッグが溢れ、彫刻も展示されている。若き頃のニューヨークでの活動から、作品が一貫していることに驚く。単純なアイテムへの固執とその映り込みである。にゅろにゅろなものであったり、水玉であったり、カボチャであったりする。それが、空間の中に仕込まれて、無限を獲得することがテーマとされるのだ。宮本忠長の建築は、階段がテーマである。中庭を囲むように常設展示と企画展示がゾーン分けされ、それを両方に往き来できる中央に、上り下りができる大きな吹き抜け階段室がある。中庭も陽が当たり気持ちよい。そこから、裏道を抜けることができるので、旧街を通り抜け近くの蕎麦屋へ。そこには井戸水が湧いている。安曇野の碌山美術館へ。今井兼次設計の教会のような美術館である。安曇野のイメージを代表する美術館で抵抗があったが、はじめて訪れる。やはり少しがっかり。言われているほどに精神性を感じることができなかった。天井から吊されている蛍光灯が全くよくない。白馬のホテルへ。この付近に来ると山にはうっすら雪がある。

3月31日(土)
伊東豊雄さんのまつもと市民芸術センターへ。大ホールでのバレエの練習風景を観る。上から見下ろすことができ、馬蹄形がつくり出す一体感が良い。ホワイエの大きさには疑問が残る。ここから、動線だけでなく、岐阜のようにもっと流動的な使われ方を目指してのではないかと推測する。蓼科のホテルへ。
037 プレミア ブライトン×レスター
岡崎先発。ブライトンはロングパスを多用する戦法で、レスターのプレッシングが全くかからなかった。したがって、岡崎は不発。後半早々に交替させられる。ブライトンも流石に、後半は疲れる。それでもPKを決められるかどうかが勝負の分かれ目であった。徐々に、レスターが押し込み、2-0で勝利。得点は、ポゼッションを高めて、パワーで押し込んだものであった。

3月30日(金)
午前中、龍ヶ崎行き。深夜、BSで「フォーカス」ウィル・スミス主演を観る。ウィル・スミスは詐欺師である。詐欺とは、相手の心の裏をかくことで成立する。それと恋愛をかけあわせたストーリーで、物語性=機能性を高めた作品であるが、早い展開が心地よい。最後まで観てしまう。

3月29日(木)
成増のナチュラルフレックス行き。竣工後10年経っているが、当時のままであった。その後、近くの喫茶店で岩間くんの近況を聞く。実作もでき、チャレンジングなプロジェクトに参加している。実験的にプロジェクトを試みようとする人がどの時代にもいて、それが最終的に実現されるかは不透明である。その試みに同乗してくれる建築家が求められていることを理解する。ぼくも若いつもりでいるが、既に出来上がってしまっていると判断されてか、あまり声がかからなくなった。あるいは、チャレンジングであることがかなり一般的になり、誰もが主体性を持ち出す世の中になった。作品をつくることにも、主体性が避けられないことであるが、それとの折り合いがなされていないということだろうか、とも思う。

3月28日(水)
父と岩本町の病院へ。予想に反して芳しくない。その後大学行き、翻訳を続ける。なぜ今、組織論なのかを考える。

3月27日(火)
036 親善試合 日本代表×ウクライナ
1-2で負ける。こうも代表が弱かったと思う。欧州のリーグ戦を見ることが多いが、それとの差は大きい。1つのイージーなミスが勝敗を分けると言うが、そうしたミスが無数にあった。おそらく、身体能力をはじめ精神的に相手に圧倒されていたのでないかと思う。ハリル監督が目指すところに、香川をはじめ、満足な解答を出す選手がいないこともわかるが、欧州で日頃から切磋琢磨しているベテランを招集する必要を感じる。こうした状況が未経験の選手には、さらに解決が難しい。ハリルも、現実的な策が必要となるだろう。今日も、4-2-3-1。ダブルボランチで、トップ下を置くかたちである。トップ下に前回は森岡、今日は柴崎が入る。ここにボールがおさまらないと、両サイドの早い飛び出しができない。それは、ドルトムントのかたちでもある。香川の復帰に期待する。トップ下を置くかたちであれば、岡崎も可能だろう。右での本田のタメ、終盤登場の中島の活躍、前半に見せたハーフラインより自陣に引いてからの速攻、これらが少ない明るい兆しである。前半終盤から、上手く前線FWが引き出され、ウクライナにかわされることで、このかたちが崩れていった。

3月25日(日)
NHKの人体特集の最終回を観る。このシリーズは、エクソソームに代表されるメッセージ物質に光りをあてるものであった。あらゆる臓器からメッセージ物質は放出され、それを介して臓器は互いにバランスをとり合っているという。分析的機械論の立場から、全体性を表現しようというものである。医学界でのメッセージ物質への注目は、ここ10年だそうだ。ところで、今回のテーマは、ガン治療と心筋梗塞予防について。最先端のガン治療は大きくふたつあり、ひとつは遺伝子治療ともうひとつは免疫治療である。このことを知る。ガン細胞は遺伝子異常が引き起こす負細胞の結果である。この異常遺伝子を特定するプレシジョンが遺伝子治療である。もうひとつは、今回の特集にある、ガン細胞自体を治癒するのではなく、がん細胞が放出するメッセージ物質を正常な体内にある免疫細胞によって押さえ込むものである。ガン細胞は、免疫細胞から防御するためと自らを増殖のためにエクソソームというメッセージ物質を放出する。これに対するケアで、ガン転移を防ぐものである。

3月24日(土)
「美の巨人」でベラスケスをまた観る。今日は、「セビーリャの水売り」ベラスケスのデビュー作である。滑らかな壺の素材感、水が浪波そそがれたグラスの透明感、これらは光りを強調したリアルな表現の極地である。そこに身近な宗教観を差し込むのは、この頃に既に完成していた。夕方にかけて花見に出る。少し寒い。

3月23日(金)
035 親善試合 日本代表×マリ
ロスタイムに追いつき1-1のドロー。ベルギーという第3国での開催ということで観客がいない。このこともあって、迫力に欠ける試合であった。崩されることがなかったが、それはマリにチーム戦術がなかったということで、1対1では負けていた。日本は、4-2-1-3で臨む。両ウイングに宇佐美と久保。トップ下に森岡である。これは驚きであった。当初、両ウイングが裏を獲る場面があったのは、ボランチからの縦パスによるもの。前からのプレッシングが上手く効いていたためである。しかし時間を立つと、大迫らの疲れと、マリDFがボールの出だしをかわすことに成功し、全体にプレッシングがかからなくなった。と同時に、日本の攻撃もなくなる。このフォーメーションは、ドルトムントと同じである。それと比較してしまう。森岡と大迫の関係にも疑問が残った。60分過ぎから本田登場。久保と異なりボールをキープし、全体の押し上げに成功し、相手マークがきつくなると、逆サイドの宇佐美に替わった中島のフリーにさせることに貢献する。得点はそうしたなかで、左からの折り返しの跳ね返りで生まれる。中島初出場で初得点。今日の日本は、守備面での連携を見せるまでいかなかったこと、かといって攻撃におけるパターンが見出せなかった。この相手にこの戦いでは、本番でかなり苦労しそうな気配である。選手間の競争ばかりが目につき、戦術に熟成がないように見えるのは、ハリルに明確な方針がないことによるものか、気になるところである。

3月22日(木)
夕方から謝恩会に出席、その後EDLの打ち上げ。学部、院生とも今年の卒業生はキャラが立っていたので、面白かった。就職する学生と重点的に話す。それぞれ、問題を抱えているのは、明るい見通しが立たない時代の風潮だろう。気にしても仕方ないので、求められた道に進むことをアドバイスする。多少シンミリすることもあったが、ハッピーに終える。

3月21日(水)
早くも大学院のゼミを始める。来年度の予定と、研究室の片付けの指示。製図室環境ががらっと変わるので、研究室も気分一新することとする。4月のゼミの予定をねることにする。

3月20日(火)
夕方、中埜さんと翻訳の打ち合わせ。至極真っ当な方法論を研究するいくつかの本について話す。フレデリック・ラルーの「ティール組織」でも彼らは扱われている。ノーマン・ウルフの「生きている組織」、ユルゲン・ハーバーマスの「他者の受容」、ケン・ウィルバーの「万物の歴史」「存在することのシンプルな感覚」、アブラハム・マズローなどである。ハーバーマス以外は、これまでぼくにとって馴染みのなかった人たちで、アメリカのプラクティカルな思想家たちである。なぜかと思い難波さんの日記でチェック。流石に何人かは引っ掛かる。が、否定的な見解が目立つ。建築と異なり結果を伴わないで済まされるプロセス論者だからとも思う。このあたりを翻訳のテーマとする。

3月18日(日)
エクスプローラーの車検を通したが、10年を超え、そろそろ買い換えについて考え、ディーラーを廻る。本来のぼくの好みはクロカンであるのだが、エコ対策としては時代遅れであることが判る。車種も限定される。一部の望みをかけて三菱のPHEV車も見る。スバルも今年にデビューさせるそうだ。車のスケールを落としハッチバック型にし、燃費を重視すると、それは欧州基準のディーゼル車となるそうだ。聞けば、フィアット並に走るそうである。マツダもデザインに重点を置き、質とコストパフォーマンスの両立を問題にしているのが印象的であるが、そもそもコスト抜きにした輸入車に質感は譲らざるを得ない。
034 ブンデス ドルトムント×ハノーハァ

3月17日(土)
NHKスペシャル「メルトダウン 7」を観る。昨日再放送を観た88時間の後の話である。その後、格納容器内への注水が中止され、その2日間における大量放射線物質放出の事実とその原因にせまる特集である。音声記録解析から当時の状況を再現する。ここでひとつの事実を発見できた。一連のNHKの特集では、失敗した格納容器のメルトダウンが問題にされていた訳だが、原発当事者の本題は炉心のメルトダウンを防ぐことにあったらしい。したがって、放射線物質を放出させてしまったものの、最悪のケースを招かなかった成功を称えるものとして、番組を描くこともできた訳である。このように考えると、別な意味で薄気味悪く感じてしまう。こうした特集でさえ、バイアスのかかったものしかぼくらは知ることができないのである。ところでこの特集は、当時の福島現場には情報が集まりすぎ、それによる対処時間ロスとその労力によって、問題解決の糸口が阻まれていたという論旨であった。それを、一般的な組織論に結び付けようとするものであった。あらゆる決定がひとつに集中すると、判断の閾値を超えてしまうということであったと思う。これは、今翻訳している「ティール組織」との関連を考える必要がありそうだ。この特集から推測するに、時代の趨勢はもはやピラミッド式組織はもはや死語となり、その先にある、フラットでありかつひとつにまとめるような組織のあり方、それにまで批判が向けられている。「ティール組織」もそうした現状を受け止めた展開を強調する必要がありそうだ。

3月16日(金)
深夜、「メルトダウンまでの88時間」の再放送をBSで観る。あの臨場感がふたたび蘇り、不気味さを感じる。当時、最後福島第1原発内では打つ手がなくなっていた。東京本部との生々しい交信記録がそれを物語っている。4号機の爆発と2号機の容器内圧力が0になってしまったことで、彼らは終わったと思ったという。しかし2号機核納容器の設計不足から生じる自然ベントにより救われた。まさに奇蹟の神ありということだろう。要するに偶然に助けられたわけで、コントロールできなくなっていた。それでも稼働再開する日本の実情に疑問を感じざるを得ない。
033 EL2nd ザルツブルグ×ドルトムント
0-0でドルトは16強で敗退。前半は、ゲーゲンプレッシングされると全くいいところなし。後半から、背の高いイサクをターゲットマンして、2トップにたいしてロングボールを混ぜていった。いくつかチャンスができるようになったが、最後を突き崩すことができず。シュテ-ガーの無策ぶりが表面化した。選手がピッチ上で自由にできないときの方策が監督に必要である。

3月15日(木)
032 CL2nd バルセロナ×チェルシー
開始早々にバルサが得点を上げて、チェルシーにとってはゲームプランが狂う。そのため攻撃に積極的に出た。今日はアウエーの白いジャージ。ラインコントロールがよく映えていた。守りでは5バック、攻めになると3-2-4-1の統率がスムーズである。バルサは1点目以外にこのラインを崩せないと見るや、速攻にかける。得点は、ボール奪取から陣形が整うまでの勝負に徹していた。3-0の圧勝といってよいだろう。

3月14日(水)
夕方に西洋美術館で開催されているプラド美術館展へ。ベラスケスが多く展示されている。しかし目当ての「ラス・メニーナス」と「鏡の前のヴィーナス」は出国していなかったのが残念。ローティもジジェックも、フーコーもこの絵にある鏡を語る。鏡と真理は絶えず対にされる。真理崇拝主義への疑いである。一般に鏡は人の心を表象するものと考えられ、ぼくらはそうした思考方法をとる。しかし鏡と心は全く別のものであり、「鏡」という虚像をつくって安住することへの警告がそこで語られている。という前提に立てば、これらの絵は、主体不在の表象を批判的に捉えることができる。この17世紀には、現在考える人間というものは存在していなかった。本展にある7点のベラスケスの絵は、肖像画・宗教画であり、それに写実性を与え、宗教や神話との結びつきにリアルさを与えるものであった。絵に登場する人たちはみなベラスケスの家族をモデルにしていた。絵によって、宗教と現実のつながりを強化させようとする意図がある。「ラス・メニーナス」中央に描かれているマルガリータ・テレーサがウィーン美術史美術館で見た王女の肖像画との一致に気づく。確か成長に合わせて何枚かの肖像画の連作であったことを思い出した。

3月13日(火)
午前中に税務署に寄り、確定申告の提出。その足で大学にいく。2〜3の会議のあと、退職する二人の先生の送別会。おふたりには大変お世話になった。包容力のある先生であった。
031 CL 1stレグ セビージャ×マンU
0-0のスコアレスドロー。ホームのセビージャはとにかく失点しないことを優先とする。ユナイテッドも、カウンターを怖れ、サイドからの展開に終始。その結果、スピード感のない展開となる。

3月12日(月)
彰国社で教科書の原稿打ち合わせ。全体像を掴もうとするも、まだまだである。なんとか1冊の本としてのまとまりをつくりたい。それは、4年生の卒業設計にむけてのヒントを与えることと考える。その問題提起にまで至っていない。これのよって何とか設計授業とのリンクであることをこの本で示したい。午後、中目黒のナチュラルスティックⅡ行き。「ENGIN」誌の撮影に立ち会う。

3月11日(日)
030 ブンデス ドルトムント×フランクフルト
香川は未だ欠場。2〜3週の療養が永遠と続く。一方長谷部はボランチで出場。完全復帰したようだ。後半から、ボアティングといい距離を保ち、ボールの起点となる。ただし、ドルトの得点は、長谷部の辺りを起点にしたもので、守備の要としては問われることになるだろう。ドルトムントは、ゲッツエとバチュアイを先発から外し、プリシッチを使う。それで右サイドからの効果的な攻撃ができた。中盤の細かいややもすると独りよがりのパス回しがなくなり、素直な展開となった。途中交代で入ったバチュアイも中央に陣取り、これに応えることができた。一度は追いつかれるもロスタイムに逆転。なんとか3位をキープする。

3月10日(土)
午前、山庄建設の山本社長来所。リノベの簡単な打ち合わせ。午後、面接のため大学行き。昨日届いた原稿を読みはじめ、全体構成に考えを廻らせる。合間に車検に出していた車をピックアップする。原稿構成については、歴史、近代、ユーザーオリエンテッド、かたち(主体性)、構造、都市(社会)、プロセス(他者性)、それぞれの建築への言及で、各章を整理するという考えに至る。その後、内容の重なりをチェック。建築は、近代の賜である一方で、置き去りにしてしまってきたモノも多い。そうしたものを指摘しつつ、拾い上げるようなことを促す構成を考える。再読。テレ東で東大寺特集。盧舎那仏は華厳経の宇宙仏であることを知る。法華堂の不空羂索観音とともに光り仏といわれている。
029 プレミア レスター×WBA
岡崎が怪我から復帰し、先発出場。このところのレスター不振と岡崎の怪我による欠場との間の因果関係が地元紙でも指摘されていたという。プエル監督の岡崎起用にも、これと同様の解釈がみられる。プレッシングの守備からの攻撃を組み立てるというのがレスターの基本姿勢であり、岡崎はその要である。とはいえ、岡崎にゲーム感覚がなし。全くよいところがなかった。60分過ぎに交替。替わって入った8番イグアナチョが大活躍。岡崎が使えきれなかったちょっと下がり目のスペースでタッチ数を増やし、ゲームに上手く加わる。バーディへのアシストを試みはじめたのも、イグアナチョの新しい一面であった。ゴール前では、岡崎と同じポジショニングで、上手くセンタリングを手にし、ゴールを決める。ここ数試合に見られなかったいい流れがレスターにもたらされる。4-1で勝利。

3月9日(金)
午後は、大学院の試験監督に半日費やす。合間に、石原先生と興味深い話をする。GAのインタビュー内容についてで、それによって頭の中を再整理できた。その後、JIAの大学院修士展に遠藤研から二人参加していたが、全くダメだったという報告を受ける。どうやら、他大学も正当といってはおかしいが、堅実な設計方法するものが多かったという。千葉工大は提出してから時間がない分、プレゼの完成度は低い。ここに大きな差があったようである。このようにコンペでは、相対的な見方を否が応でもされる。同じ土俵で戦うには、相当なる心構えが必要とされる。深夜、郵便局へ不在配達を獲りにいく。原稿校正である。
028 EL ドルトムント×ザルツブルク
香川欠場。ドルトは攻めきれずに、ホームで、1-2で負ける。ところでザルツブルクは統率されたよいチームであった。中盤底を徹底マークし、ボールの出所を押さえ、今日は、ロイスをサイドに置き去りにした。前線でのボールもシュールレに限定し、フィニッシュまでいたらせかなかった。後半、プリシッチに替えられると、一時攻められるも、最後は耐え抜いた。ドルトは、ホームでの敗戦が痛い。

3月8日(木)
研究室の学生から、せんだいの10選に入ったという嬉しい報告を受け、会場での審査経過についてしばらく話合う。櫻井さんは、大学内での講評に選ばれなかったので、大いなるリベンジをした。審査員の琴線に触れることができたのだろう。
027 CL ユヴェントス×トトナム
昨日とは違い、ユヴェントスの試合巧者ぶりが目立った。完全にゲーム運びはトトナムにあったのだが、的確な両サイドの二人の交替によって、がらっと展開が変えた。交替後3分で逆転する。攻められ続けても、最終ラインで踏ん張ることができるのが、DFを慌てさせない。この3分前後から、セカンドボールを拾うことができ、ベンゼマが決定機を逃さなかった。

3月7日(水)
事務所の電話工事。ソフトバンクからKDDIに変更。既存ネットワークが複雑で、通常のような切り替えが難しいことを指摘される。この際に、ネットワークを整理することに決めるも、取り合えず今は既存のインフラの上で徐々に更新していくしかない。実は、KDDIへの変更も、事務所のネットワークの再整理が目的で、これを決断をした。
026 CL パリSG×レアル・マドリード
ゲームは一進一退であったが、レアルの速攻が最後に勝つ。パリは10人になったのがいけなかった。ひとつ気づいたことがある。速攻によって押し込みはじめてから、中盤にスペースをつくりだしたのは、レアルの意図だろう。C・ロナウドがそこを使いはじめたのは、そうした直後であった。

3月6日(火)
設計小委員会に出席。計画系の論文構成について様々学ぶ。「対話としてのデザイン」シンポジウムの査読。ぼくにとっては目新しいことばかりである。

3月5日(月)

3月4日(日)
025 ブンデス ライプニッツ×ドルトムント
秋のライプニッツからの敗戦から、ドルトはおかしくなった。その時はCBのトプラクが標的にされていた。今日は、ビルトアップの起点となるヴァイグルが狙われていたようだ。そこから、幾度かピンチを迎える。ドルトも決定機をつくるも、ことごとくオフサイド判定となる。ライプニッツが巧みなラインコントールしているというよりも、ボールの出し手が一瞬遅れていた。最終的に1-1のドロー。ドルトムントの攻撃のパタンがないのが、気がかりである。

3月3日(土)
024 プレミア レスター×ボーンマス
岡崎欠場。開始早々、左SBアマーティーも怪我で交替。3バックでのぞむ。やはりこれが良くない。プエル監督は、ボールをつなぐビルトアップに拘る。これまでラニエリ以降多くの監督がこれを目指すも、上手くいった例しがない。60分過ぎからイヘアナチョ投入し、いつものパターンに戻す。スペースに投げ込み、全員が前からプレッシングするものだ。ラグビーのようで、かつてのイングランドサッカーを彷彿させ芸がないが、これで上手く機能するようになる。辛うじて追いつき、1−1のドロー。

3月2日(金)
「ブレードランナー2049」リドリー・スコット総監督、ヴィルヌーヴ監督を観る。レプリカントも悩むというのが、この映画の面白い切り口である。前作では、生きている証が、過去にも現在にも未来にもなかったのだが、今作では未来があり、技術が進んことで、例えばバーチャルな愛があるなど現在も、レプリカントに残されている。この閉塞感が足りない分、作品を少し面白くしていないように感じた。そのため、最後の戦闘シーンにおけるデッカードは少し滑稽にすら思える。記憶や経験が、人にとって何かがテーマとされるが、レプリカントと人間との違いが描かれていないのも、少し不満である。

3月1日(木)
雑誌編集者のジョースズキさんが午前中に来所。ナチュラルスティックⅡのインタビュー。建築専門と一般ユーザの橋渡しをしていただける人でありがたい。スズキさんがいうには、一般ユーザといっても、故障しやすい欧州車を、愛情をもって悪口を言うような人たちのことである。彼らは、与えられるモノよりも、使いこなすコトにカイカンを得る。モノよりコトということであろう。モノをつくる人の感覚に近いものである。人の情感が、人にある訳でもなく、あるいはモノにある訳でもなく、その関係にこそあることをいったもので、共感することが多かった。ぼくはこれをエドマンドバーグとカントの崇高論から学んだ。18世紀後半、リスボンでも大地震がった。恐怖とか喜びが、どこから来るかが最大の関心事であった。それは今も変わらない。

2月28日(水)
GAから「151 100details」が届く。ディテールが細部の問題でなく、モノとモノ、あるいはモノと人、さらに広げると社会との接点の問題であることを、池辺さんの「デザインの鍵」から学んだ。ここに、「名前のない空間へ」という氏の思想が色濃く現れている。絶えず新鮮な眼でモノのあり方を模索しかたちにしていく態度がここにある。本書のインアタビューでは、「イマジナリー・ストラクチャー」がテーマとなっている。ここでは、「イマジナリー・ストラクチャー」におけるぼくの位置づけが、当初の、他のモノとインテグレートさせ、見えなくなる構造から、目的にそって、目指すべきモノのあり方構成のようなものへの、変化を語った。ミースの「神は細部に宿る」は、凝縮していく思想であるが、それと反対の拡散に向かっていったことをお話しした。そうすると実際には、見えない構造から反対に見える構造になっていくのが不思議である。何人かの学生から反応を得る。昨日の田井さんの「住宅断面詳細図集」をはじめ、ディテールが注目されるのに、何か理由がありそうである。

2月27日(火)
夕方、田井さんの出版パーティに行く。北山恒さんと今村さんとの30分のレクチャーがあり、こうした会に珍しく真面目な討論がなされる。北山さんは池辺さんを持ち出し、「フェア」という言葉で田井建築を切りはじめた。エイドリアン・フォティーの「構造」の定義に近いものである。北山さんがバリバリの近代主義者であることがよく判る。その反論を田井さんは、純化に向かうのでなく、多矛盾に向かうといっていた。近代の行き詰まりが、行き過ぎた合理主義がまねいたものであるという発言であったと思う。世界をより詳細に見る力が建築に備わってきたということを前向きに評価するものといっていいだろう。最後に北山さんは、建築の基本である住宅が誰のものであるかが重要であるという指摘をする。興味深い。住宅建築は、子金持ちから脱却をする必要があるというものだ。帰り際に橋本純さんと立ち話。橋本さんは、この最後の北山さんのアドバイスを大変気に入っていた。橋本さんは経済に興味が集中し、昨今の建築に不満があるようであった。

2月26日(月)
朝病院へ行くも、インフルではなかった。その足で大学に行き、スペースにかんする会議。無事終了。
023 ブンデス ドルトムント×アウグスブルク
月曜深夜開催にサポーターが抗議する。サポーターファーストでないというものだ。いつものように熱狂的な応援がない。ボールタッチがスタジアムに響き渡る。これもまたよいと思う。香川は依然として怪我のため欠場が続く。中盤3人の連動はよい。しかし、トップのバチュアイ、それと出場機会を失ったプリシッチが割を食っている。なかなかそこに入り込めていない。少し、中央からに拘りすぎている。もう少しオープンでよいのではないかと思う。鮮やかな速攻が決まるも、引き分けに持ち込まれる。

2月25日(日)
朝から下痢が続きダウン。1日中ベットで横たわる。ナチュラルアングルの改築の打ち合わせを鈴木くんに任せる。ここ数週間のハードスケジュールが身に応えたか?

2月24日(土)
卒業設計・修士設計の外部講評会。長谷川逸子氏、米田明氏、門脇耕三氏をむかえる。総体的に好評価であったように感じられた。長谷川さんと門脇さんは、ぼくたち教員の影響が大きいと語ってくれた。これをどう受け止めようか?その上で、長谷川さんは学生を鼓舞してくれた。学生なりの感受性をもっと教員にぶつけるべきであるという主旨である。門脇さんは加えて、リサーチ力と図面技術も評価してくれた。米田さんは、テクノロジーの位置付けに千葉工大の特殊性を感じたようだ。もともと、アートとエンジニアリングは同種であり、近代以降分離してしまった。そのなかで、テクノロジー×建築=デザインとしての態度が印象的であったというのであった。そうしたなか、優秀案は学部が占めることとなった。河内さん曰く、院生にたいしては辛めに採点することによるものだという。決して劣るものではなかったとぼくも思う。長谷川さんは、本日一貫して、ユーザ目線から、提案される空間内部からのシーンの強度を問題にしていた。このことが印象的である。したがって、設計方法論をテーマにした作品が辛めとなってしまった。これを評価側が感じ、同調したことでもあったと思う。その点においても、院生の作品は比較的方法論よりで不利でもあった。中山くんの「グリッド無化」というような作品も割を食ってしまう形となった。反対に最優秀賞の塙くんの案は、ミステリアスな個性あるドローイングが評価側のイマジネーションを誘うものとなり成功した。最後に長谷川さんからそれにたいする建築的言語による説明が求められ、「浅い空間」というタイトルに込められた意味を説明できたのがよかったと思う。浅い空間とは、パースペクティブな近代思考から逃れ、個人にたいして思い入れのある言葉である。中山くんの作品も、ぼくにとって、塙くんとは反対側からこれを説こうとしたものと思っている。3等案の小池くんの作品は、作品の主旨を米田さんに完璧に理解されたことは驚きに値する。講評会で非常に明確にまとめあげてくれた。その上で、モノとしての作品性に物足りなさを感じたようであるが、その物量を門脇さんが評価してくれた。ただし、公共性の前のひとりの個人の立ち位置についての討論を巻き起こすべきであったと反省する。嶋田くんの作品は、人間中心主義を超えようとしているようで、(この場合)鳥目線が欠けていることが門脇さんから指摘された。もっともなことであったので、今後の課題である。山田くんの作品は、講評の度に評価が上がり、好ましい。真摯なコンテクストに向かう態度が評価されたものだ。ぼくにとっては十分に彼の建築的な提案が感じられるのであるが、なかなか伝わりにくいので、それを美しいパース等に示すことができれば、この壁を超えることができるのではないかと思う。こうした順番付けは審査員によって変わるものであるが、主張が形になって表現されているかが重要である。このことを切に感じた。

2月23日(金)
iphoneを新しくする。いまだに0円キャンペーンをやっていることに驚く。深夜BSで「チャイナタウン」ポランスキー監督、ジャックニコルソン主演を観る。チャイナタウンとは、法の埒外にあることの象徴である。ダークな中央に権力者がいて、そこには道徳も正義も捜査も及ばないことをいっている。親子の絆もない。ジョン・ヒューストン扮する権力者がいたって普通であるのも、一層ストーリーを不気味にする。最後の結論に向けて、様々な伏線が張られているのも懐かしい手法と今では感じる。今では様々な解釈を残すものがもてはやされている。
022 EL アトランタ×ドルトムント
終了間際に復帰戦となるシュメルツァーが決め1-1のドロー。辛うじてドルトが次戦へ駒を進めることができた。ドルトは、逆サイドへの展開にDFラインが振られ続け、GKブリュキのファインセーブがなければ、敗退であった。アトランタはおそろしく組織立たれたチームであった。

2月22日(木)
田畑大氏、土屋範人氏と食事。同世代のアートの状況について話合う。アートの世界では、差異を最大のテーマとする。建築における差異を隠そうとする風潮に疑問が投げかけられる。氏たちの長きに渡る千葉工大教育のお話しも聞く。千種寮をリノベするべきであるという提案に驚く。

2月20日(火)
021 CL チェルシー×バルセロナ
1-1のドロー。岡田武史氏が解説。チェルシーのホームにもかかわらず守り中心の戦術に批判的であった。3トップのアザール、ウィリアン、ペドロに攻撃を任せ、後ろは無理をしないという作戦を評価していないようであった。耳を疑う。岡田戦法そのものであるからだ。それがゲームを面白くなくし、人気を下降させた原因とぼくはみている。

2月19日(月)
020 ブンデス メーヘングランドバッハ×ドルトムント
香川の怪我は長引きそうである。バチュアイを1トップに、ドイツ代表のゲッツエ、シュールレ、マルコ・ルイスの3人がはじめて顔をそろえる。コンビネーションはよい。特にこのところシュールレが活躍する。香川が復帰後この間に入る余地はあるだろうか。それでも、MGBの守備は堅く、1-0でなんとか勝ち抜く。

2月18日(日)
今日も、ASJのイベントに参加。合間に矢板さんと話をする。先週までドイツにいっていたという。シンケルを見た喜びを語ってくれる。思わず合点。この夏にぼくも行くことにする。事務所に戻り、a+u2016年8月号のベルリン特集を読む。矢板さんがいうには、遠いがシャーロッテンホーフ宮殿がよかったという。意外である。シャウシュピールハウス、ノイエ・ヴァッヘ、アムテス・ムゼウムは一気に観ること可能だそうだ。シャロウンの劇場、図書館とミースのナショナルギャラリもひとかたまりにある。ライヒスタークとっげーリーのDZ銀行は南。ユダヤ博物館だけ離れている。これでホテルを決めるとよいそうだ。

2月17日(土)
ASJのイベントに参加。東京フォーラム前の日石ビルの1階に行く。来場者が多くなく、隣のコーナーの建築家矢板久明さんとの話に盛り上がる。沢山の谷口さんのお話しを聞く。スタッフ配置に優れ、コンセプトつくりには全く興味がなく、仕事はプラグマチックに進めるそうだ。矢板さんが卒業後のはじめに担当した幕張のIBMの話がその典型であった。IBMから当時まだ注目されていなかったファッシリティマネジメントにかんする分厚い報告書をもとにしたという。そこには、オフィスに関する仕事効率性が数値化されるなか、残余の部分も明確に位置づけされているという。その統合の中で建築が試みられるという。そうした姿勢が矢板さんの現在の仕事にも反映されている。氏は住宅においても、事務所固有のコスト判定システムを持っており、大変参考になった。これについての研究も計画としてありえると思った。
019 FA杯 レスター×シェフィールド

2月16日(金)
夕方から彰国社にて編集会議。いよいよお尻に火がついた。
018 EL ドルトムント×アトランタ
香川は怪我のため欠場。バチュアイの2発で、逆転勝ちをする。今季前半のように守備に問題がでてしまった。大きなサイドチェンジに対応できなかったかたちである。ただし、攻撃陣は流動的に動き、調子がよい。前回も感じたことであるが、プリシッチもシュールレも中央に切り込むことが多く、オバメヤンと動きのパタンが重なっていたのである。それが分散し、チーム全体が上手く働いている。バチュアイも移籍後全試合のゴールである。

2月15日(木)
修士設計審査会。遠藤研究室から2名が参加。内容の濃いものであったと思う。どちらもコンテクストに批判的な焦点をあてている。嶋田くんは住宅の詳細な設計をした。ただし、ここかしこに生き物が住まうような計画である。通常読み込むコンテクスト範疇を拡大解釈したものだ。具体的には、生物の住処を加えること、住宅の耐用年数を超えた長いスパンで考えること、このふたつに焦点があてられている。敷地は、中川の土手沿い。ここは、江戸川区がカワセミなどの野鳥成育地区に指定しているところだそうだ。彼のデザインは、こうした与条件を解くというよりも、全てを調整せずに等価に投げ出したようなデザインである。コンテクストから得られる未来への解答を拒否しているようにみえ、その一方で、人が住まなくなった後の問題がテーマにされているところが面白い。つまり不在を現前にした建築のあり方が模索されている訳である。そこを評価したいと思った。したがって他のコンテクストの読みも批判的になる。たとえば、建物を上がったり下がったりするのは、土手の段差をそのまま踏襲したもので不便である。生態系の操作は、不便ですらある。それは、住宅に関わる人以外の全体の底上げの必要性からである。昨今空き屋が問題にされるが、彼がいうには、上手くそれを個別に解決しても、人口減少の現在、その量が減ることはないという。日本のどこかで空き屋が発生する。その根本の解決を目指した提案であった。山田くんは月に建つ宇宙建築を計画した。そこでは、科学に基づく条件が絶対であり、そこでは、ぼくらが知らず知らずのうちに囚われている習慣や文化というものが全く役に立たない、このことを思い知らされてくれる。それは材料ひとつの選択まで及ぶ。地球から持ち込むユニット建築にするか、現地調達の素材を利用するかしか選択はない。計画では、宇宙放射線防御のためにレゴリスという月砂、水素などが使用される。本計画は、2045年までのNASAの第一次計画の後を継ぐ食物研究所計画である。それを、NASAの宇宙線防御のために土で覆ったこれまでの閉鎖的建築にたいし、水膜によって開かれた建築にする。これが彼の唯一の提案である。トリチェリの実験を応用したシンボル的気圧棟が中央にあり、具体的にそれは墓標である。屍は月土を植物生育のためのものでもある。与条件とは実は完全な外部にあるものでなく、ぼくたちの多大な解釈の上にある内部のものであることを、批判する作品であった。
017 CL レアル・マドリード×パリSG
スピーディな戦いであった。ベイルが終了間際に登場し、サイドからの攻撃にエンジンが掛かり、レアルが逆転勝利する。それにしてもとっさの鋭敏な反応がゲームを左右する。後半の2点はGKのリバウンドにロナウドと   が反応したものであった。

2月14日(水)
妻と病院へ行きその後、夕方ぎりぎりに上野で開催中の仁和寺展へ行く。仁和寺は、皇族による真言密教の中心地でもあったようだ。空海の「30帖冊子」を観る。丁寧な真四角な筆使いであったのが意外であった。これを読みたいがために、皆が空海にすり寄っていったという。真言がかかれていたという。この類の国宝クラスが多く展示される。仁和寺の小さな薬師如来坐像の精巧さにも驚く。全体が12㎝ほどで、ディテールはミリ単位に施されていた。空海が身に離さずに持っていたという。今回観音堂の33体も公開される。葛井寺の千手観音菩薩坐像も、精巧だ。大阪にはこの手の仏像がまだ沢山あることを知る。今度訪れたく思う。他に、大阪金剛寺、福井明通寺、中山寺などである。
015 CL ユヴェントス×トトナム
トトナムは後半自力で、固いユヴェントスDFを崩す。完璧なシュートチャンスに至る前に打ち抜く力に脱帽。力が均衡しているので、構える前が勝負となること知る 。
016 CL バーゼル×マンC

2月13日(火)

2月12日(月)
高橋てい一設計の群馬県立館林美術館に行く。ランドスケープと一体となり、水平が意識された建築である。ゆったりとしていて気持ちよい。諸室構成も明確である。館林は分福茶釜で有名で、その名にちなんだポンポンの作品が常設され、同氏のアトリエも再現あれていた。ブルーノ・ロメダの「純粋な大円」が印象的。古伊万里展を観て、その後レストランでコーヒーの2時間あまりを過ごす。「理想的ヴィラの数学」コーリン・ロウ再読。以前と印象を異にする。コルビュジエとパラディオの間の構造的類似性から、そこには連続性があるというのが以前の印象であった。そこに、機能主義の行き詰まりを打破する幾何学の可能性が残されていると考えていた。ところが今回感じたこととは、ふたつの間にあるむしろ断絶というものであった。時代の慣習規範から力を得るか、むしろそれを無化しようとするか、ふたつの正反対なアプローチが見て取れた。大袈裟に言うと主体の有無ということだろう。何回かのトライで、はじめて気づいた。続けて「透明性」を再読。虚の透明性を、奥行きの「浅い空間」と言いかえている。あるいは建築においては、「空間の位置的な矛盾」といっている。バウハウスにはなく、軸線の明快なコルの国際連盟案にあるものであるという。構造を消すのではなく、設定した構造を無化することである。これを批判的構築といってよいと思った。

2月11日(日)
坂茂設計の富士山世界遺産センターへ行く。富士山の西面が見える富士市にこの建築は位置し、浅間神社の参道横にある。建物前面の大きな池に円錐が美しく映り込む。逆円錐の中は、屋上へ行くための螺旋スロープである。その屋上から富士山を見ることが出来る。屋上にはたくさんの人が集まりにぎわっている。その姿が、下のアプローチから見えない設計は流石である。富士山、建物、池、アプローチの位置関係が上手い。今日はとにかく富士山が綺麗であった。建築は少し大味な印象を受ける。明確なひとつのアイデアで全体をまとめあげることに好感もてるも、近づいても大きなスケールのままであるのが、その印象をつくっている。それは部材の扱いに現れていた。途中建物内で、中畑さんに会う。その後、浅間神社をお参りする。極めて平坦な印象で不思議に思う。夕日に赤く染まった富士も美しい。参道裏に横町があり、そこを寄って帰路につく。センターの北にある温泉に入り、市内で食事して帰宅。
014 プレミア マンC×レスター
岡崎は怪我のため、2週間の離脱と聞く。マンCにとっては苦手なレスター戦。岡崎がいるからである。グアディオラがはっきりと言っている。はじめ3バックでのぞむも、早々に失点し、オルブライトンを下げて4バックとする。そのサイド奥がいきなり使われてしまった。これでいつものようなパターンにもどすが、ラインがいつもより深かった。後半は、マンCに打ちのめされる。アレグロに4発を食らう。レスターDFは前からプレッシングによって成立する。今日は、ラインを下げてしまいサイドから中央へとDFが揺さぶられ、全く機能しなかった。グアディオラの采配が光る。セカンドボールを拾うことが出来なかったことも大きい。バーディが2人のDFが挟まれてしまった。もうひとりDFからのボールを納めるプレヤーが欲しかった。その役をこなすはずの途中出場のマフレズである。移籍ごたごたでパフォーマンスがいまいちであった。

2月10日(土)
013 ブンデス ドルトムント×ハンブルグ
ロイスが復帰。前半香川はボランチとしてバランスをとる。シュテ-ガーの指示であるかは不明であるが、前半はいつも守備重視である。後半から香川は前に。ロイスとサイドが少し下がり気味とする。すると、ボールが動き、GKとDF裏のスペースへのサイドからの早いクロスをバチュアイが決める。2戦連発である。その後、香川は自ら下がる。怪我の具合が気がかりである。その後、ペースを崩すも、最後にゲッツエが決める。2-0の勝利。

2月9日(金)
修士論文の審査会。ぼくの研究室ではないが主査を務めた論文はふたつ。下川くんの論文は、68年から75年までの「都市住宅」誌に掲載された都市の傾向をまとめるものである。68年にはパリで革命が起きた。その後は、どの分野でも既存世界とその価値観の再検討を計る時代となった。建築でいえばアレグサンダーが「パタンランゲージ」の原型「人間都市」が出版されたのが1970年。ルドルフスキーの「建築家なしの建築」が1964年である。これらは人間を中心とする考えの否定である。技術の進歩によって、見えてくる世界が大きくなった。それと平行してポピュリズムを背景に、すさまじく時代が動いた。これを念頭にすべきであったと思うのだ。もうひとりは、現代のカフェの研究。アクティビティの根拠をかたちにまで結び付けるのは難しい。その前段階として考現学のように、現実をわかりやすくかたちとして整理することを薦める。その資料のようなものはパタンランゲージのようなものかもしれない。午後に理科大学に行く。修士設計の講評会に参加。3〜4年前に比べて、かたちにたいする信頼が向上していることを嬉しく思う。精巧な大きな模型でのプレゼであった。テーマも前半に未来志向の前向きの提案が多かったのだが、後半は社会派が占める。最終的に優秀案は、ある瀬戸内海の小島の活性化、小布施の街おこしをテーマにしたものに落ち着いた。講評会に三宅理一さんが最初いらしていた。途中の社会派の案に対して、3.11以降は理論でなく生の時代になったというコンメントが印象的であった。生とは、合理性に反する人間の動きのことをいっている。作品に引き寄せると、都合のよいコンテクストを引っ張り上げてそれから未来を思考する時代は終わったということだろう。たとえ、それが隠れていて見えなくなっていたものだとしてもである。もっと、不合理な拾ろいきれない問題=生の問題を扱う必要がある。なかなかそれにたいする方法は見出せないのであるが、歴史は繰り返されるので、その視差(パララックスビュー)から浮かび上がらせることしかないように思う。その意味で優秀案等に見られたような、想定利用者を持ち出して、未来像を正当化する方法と反対の方法が必要なのだと思う。もっと開かれる必要があると思うのだ。終電の11時まで講評会は続いた。

2月8日(木)
卒業設計の審査会。総じて例年より図面の完成度が上がる。コンセプトもさることながら、敷地周囲との関係、利用方法などが彼らにとって、より詳細にリアルに考えられるようになったこととして評価できる。卒業設計の履修数も増えていることも喜ばしい。その中には、3年次に設計の授業をとっていなかった学生も含まれる。彼らもCAD技術を駆使し詳細な図面をあげている。もはや、描けるということだけではダメになった。それは、機能に特化した建物では、建築家がいなくとも可能であることも意味している。建築家には雑多な標準にのらない施設へのトライが必須となるのだろう。遠藤研も奮闘する。講評会に選ばれることのなかった学生もあと少しであった。微妙なバランスの上にひしめいている。赤塚くんは、六本木の街裏にある墓地のリノベーションである。既存の六本木の墓地空間は、都市化の波をくらった残骸のように取り残されてしまっている。そこに、経済性を超越する哀愁を赤塚くんは発見し、それをデザインしようとした。地下に墓地空間を埋没させ、地上にはそれを取り囲む雑居ビルを現前させ、その間にできる空間の哀愁を、より増大させることに成功したと思う。それは、デュシャンが残したアンフラマンスというテーマを思い出させてくれるものであった。岡部くんの作品は、忙しい山手線の乗車中の居場所を提案するものである。電車の構造を変え、ホームとの連携を再考察した。彼は身体スケールを問題としていたのだが、ホームという大きなインフラの設計の中に、それが埋没してしまった。ぼくもそのことに意識的である必要があったと反省する。小池くんは2重に捻れた視点で、現代都市を批判している。なかなか伝わりにくいテーマではあるが、それが伝わったようであった。当然のことであるが、都市は幾層もの歴史の上に存在している。残念ながら、それは見えない。トマソンとして時たま発見するだけのものである。とはいえ、誰もが思い思いのイメージで都市をみている。それは、おそらく経験や学習を通じて得られ、個別のものである。しかし、ある共通意識のようなものに、それは支配されているのではないか?こうした疑問が小池くんの中にある。ヴィトラーを参照している。かつて広場恐怖症という病があったそうであるが、それはそうした共通意識にセンシティブな人がかかる病気である。彼からいわせると、現代は広場安心症というマインドコントロールされているというのだ。広場恐怖症の人にとっては、そのもやもやして見えないものの存在が不気味でしかないのだ。小池くんの提案は、その不気味さに風穴を開けようとする提案である。トマソンとミミクリーというものを現出させることでそれを試みている。彼のデザインしたドローイングの数々は、ちょっと薄気味悪いものであった。河野さんは武蔵野の森のランドスケープの設計である。遊環構造が基にした、雑木林と一体になった遊具類のデザインである。コンセプト重視の提案と異なり、快適な空間性、さらに奥行きのないランドスケープにそれをを示すことは実は紙段階ではかなり難しい。櫻井さんの提案は吉阪隆正の再検証である。当然のことながら、合理的判断可能なこととは私たちが見ることが出来る世界の一部でしか過ぎない。当たり前のことであるが、人はそれで全てであると思いがちである。通常の建築は合理性をかたちにすることで客観性を担保し、できないものをセンスといって片付ける。それは建築家のつくる作品も同様である。吉阪は、それを丸ごとをかたちにすることを正面から考えた。ユーケロジーとはまさにそのことをいっている。櫻井さんはそこに心動かされた。敷地である谷中を歩き回りヒアリングをして、避難重視の地区計画の下、谷中らしさが犠牲になっていく姿を目撃した。避難施設を設計すると同時に、ターザンロープのような日常的に子どもたちが遊ぶ避難施設を提案した。これが、どれだけ非常時に有用であるかは不確かであるが、谷中のよき日常イメージを保ちながら、災害に備える街の計り知れないイメージを喚起するものとなっている。これが、櫻井流の吉阪の解釈で、それを「スキ」と位置付けていた。防災拠点の凝ったデザインより遙か遠くに焦点する世界観がある。その落差がスキであるというのだ。ぼくらのデザインの小ささを喚起する批判的方法と捉えると、優秀賞に選考できなかったことを悔しさを思う。島田くんは、オタクと工場萌えをテーマにしていた。モノにすることのエネルギーは遙かに大きいので、その落差が大きすぎた。そこに意識になることで、今後もがんばってもらいたい。瀧本さんは、サウンドスケープのデザインである。シェーファーの提案するサウンドエデュケーションを実行し、環境音を捉える施設をかたちにした。それは5線譜音楽、あるいは人の伝統式音楽でも捉えきれないものである。設計経験によりかたちを決め、それをシュミュレーションし、新しい機能を発見するという極めて斬新的な方法である。近頃風解析による設計と同様で、サウンドに関してはより扱いやすいことが判る。残された問題は、サウンドを扱うことの目的だろう。その背景の指導を徹底すべきであった。中山くんは、グリッド空間にたいする批判を提案した。グリッドは近代において、建築を無限に成長させる典型と考えられてきた。それを使って設計者は主体的に、問題—解決という一方向のプロセスで建築を考えてきた。その否定である。敷地は昭和高度経済成長時代に建てられた団地。団地グリッドの半分近くを緑化し減築し、残りに建築家の設計した住宅プランをブリコラージュする計画である。建築とは、見ることが出来ない未来の現前であるべきで、単に新しいシステムを提案するだけでは、建築の不在を表層することは決してできないことを意味している。塙くんの作品には、近視眼的な空間性が全くないことに特徴がある。空間性はユーザに委ねられ、遠隔視的に抽象化したモノを操作に主眼がおかれている。これを不評する意見にたいして、バンドデシネのコンセプト絵はこれに応えようとしている。このコンセプトとして提出されているバンドデシネには、パースペクティブな方法なしにふたつの遠と近のものが同居する。浅い空間である。通常考えられる形式論的な範疇が否定されているものだ。平野くんは、観念的になりすぎた。もっと他者との間でおこる偶然性に身を任せる必要がある。山口くんのがんばりに期待する。

2月7日(水)
歴史研の卒業研究を聞く。明治の初期の混乱期をテーマにしているのが面白い。聞きながら時代背景を整理する。明治20年が1887年。今から130年前。島崎藤村の「夜明け前」が1886年までの話。国学と離れていく明治国家の不信が、木曽を舞台として扱われている。岡倉天心が芸大を開校し、日本画を正式に認めさせたのが1890年。81年にフェノロサと日本中の仏像調査をしている。このころに世界的視点から再度改めて日本を再発見している。夏目漱石が連載をはじめたのが1905年である。二葉亭四迷の「浮雲」が1987年である。このころを境に、先見のある人間は冷静な目で西洋を見るようになった。コンドルが東大に招かれたのは、1877年である。

2月6日(火)
大学に行き、卒業設計の発表構成を学生と練る。整理し、伝わり安くなるように指示。合間に翻訳をする。

2月4日(日)
011 プレミア レスター×スウォンジー
岡崎の序列が急降下。このところカップ戦で好調のイグアナチョが先発。オフサイドなどで得点なかったものの中盤下でフリーにボールを受け、エンディティやジャバティとの綺麗なワンツーを決め、岡崎より彼らとの相性が良さそうなところを見せる。前半は完全なレスターペース。後半は反対となる。その原因を探るのは難しい。ただ、スウォンジーは後半に力を残し、様子を見て、プレッシングの激しさをコントロールしていた。岡崎は終了10分前から3番手の交替順位。存在感を見せるも、決定機をつくるまでは至らず。1-1のドロー。もっともスウォンジーは、アーセナル、リブァプールに勝ち、キングパワースタジアムに乗り込み、勢いがった。
012 プレミア アーセナル×エバートン
オバメヤン、ムヒタリアンがアーセナルに加入。二人はワンツーによって、ペナルティアエリア内のエバートンDF陣を切り崩す。ドルトムントでよく見た光景である。アーセナルは、プレミアの中でもブンデスに似て、中央からの攻めを重視し、密なスペースの中で動く。中盤底のラムジーが今日3点を獲ったことがそれを物語っている。オバメヤン、ムヒタリアンに、そのスタイルは合っているのだろう。マンU時に比べて、ムヒタリアンが生き生きしていたのは明らかであった。

2月3日(土)
入試監督。ぼくより学生の方がリラックスしていたと思う。研究室に戻り、学生と卒業設計の相談。バンドデシネを知る。その後、昨年の漫画展にあったことを思い出す。フランスの漫画のことである。英語でいうと、コミック・ストリップス。現代のバンドデシネは多彩で絵本のような体裁である。映画を意識したカット割りが特徴的で、絵の芸術性がストーリーよりも重要視される。そのストーリーを補うものが構図にある。最近の日本漫画に影響を与えているのも分かる。
010 ブンデス ケルン×ドルトムント
今週、選手が大きく動いた。ついにオバメヤンが移籍し、代わりにベルギー代表のバチュアイがチェルシーから加入する。早速先発し、2点を決める。ゴール中央にポジションした素早い反応であった。オバメヤンはサイドに開いて、中央のスペースを残し、そこに飛び込むかたちであったため、他の選手はなかなかそのスペースに使うことができなかったこと。香川はいつもより生き生きしていたことから、そのことが分かった。香川だけでなく中盤選手が中央のバチュアイにボールを預けたワンツーが多かった。2点目は、香川の斜めの走りがつくったスペースを逆にバチュアイが使っていた。終了間際に得点し、久しぶりの勝利。ドルトはこれで波に乗れるとよい。

2月1日(木)
009 プレミア エバートン×レスター
水曜日の変則開催であった。岡崎は十分休養をとって先発。序盤こそ、長めのダイレクトパスでレスターは相手陣内に攻め入ることができたが、事故とも言える失点を犯した後、激しいDFラインへのプレッシングと、エバートンのロングボールに、いつものプレッシングができずに苦しむ。中盤ルーニーが下がり、そこからの鋭いロングボールで全体が押し込まれてしまった。加えて、移籍騒ぎによるマフレズ不在が大きかった。彼のドリブルが膠着状態を打開としていたことが浮き彫りになった。1-2の完敗である。岡崎といえば、中盤に下がり、ダイレクトロングパスの繋ぎ役として中心にいる。このことは、代表にとっても大きなことであろうと思う。前線からのプレッシングだけでないことを示すものである。

1月31日(水)
ジジェクの「幻想の感染」を思い出して読む。「客観的に主観的」に引っ掛かる。幻想のことをいっている。続けて柄谷行人の「大江健三郎のアレゴリー」も読む。再び翻訳続行。「ティール組織」の翻訳が出版されていたのを中埜さんから聞く。早速購入。

1月30日(火)
GAの原稿に集中的にとりかかる。「イマジナリー・ストラクチャー」の意味が、リアルな構造の話から建築の構成を指すものに移動していることを明確に示したいと考えた。スペキュラティブデザインにおけるアプリケーション(応用)からインプリケーション(含意)への変化を分かりやすくしたいと考えた。「モノがあるけど見えない」とする立場と、「見えないけどあるモノ」を前提とする立場には違いがある気がしている。前者はモノをある慣習や文化(装置)によって想像させることを期待し、後者はそれを明らかにすることを期待する。後者の意識が大きくなるのがぼくの中にあった。例えば「渋谷」といって、イメージを誘導するのが前者であり、後者は、「渋谷」を詳細にすることで、渋谷の位置づけを日本の中においているのか、世界においているのか、若者においているかなど前提を明らかにすることを目的とする。パタンランゲージも、辞書として扱うか、対象が置かれる特殊性を明らかにするか、で扱い方が分かれる。

1月29日(月)
2年生の設計講評会に参加。この課題に関しては直接指導をしていないが、集合住宅の課題は直ぐに難しい課題であることを理解する。集合住宅定型のラーメン構造を崩そうとする案が多かったのは、それだけ構造を意識するようになったからであろう。それを前向きに捉えることとする。ひとつ面白い案があった。南面向き住戸を確保しつつも、中心のある中庭型を志向した案である。かたちが歪で、設計者の手の後がみられる作品であった。この意図を明確にしたとき面白い案に成長することを感じた。その後、津田沼に戻り、意匠系のちょっとした会議。来年度について話合う。GAからの原稿を読み込み、考えさせられること多かった。頭の再整理をする。

1月28日(日)
008 ブンデス ドルトムント×ホッヘンハイム
ドルトムントは終了間際に追いつき2-2のドロー。オバメヤンが先発し、早々によいかたちから香川が決める。それによって気が緩み、そこから回復することができなかった。ホッヘンハイムのプレッシングが予想以上であったこともあるだろう。これで年明け引き分け続きである。守備を安定させた分、選手の動きが小さく打開するまでに至っていない。オバメヤンのモチベーションも不安である。

1月27日(土)
昨日の話をぼくなりに整理する。ぼくの設計の基本的な方針は、池辺さんの「名前のない空間へ」というものである。名前をつけることで安心することが、デザインにとってもっとも遠いところにあることをいったものである。ナチュラルシリーズの初期では、若さ故にテーマが限られていた。この頃構造解析がカジュアルにできるようになり、新しい技術を用いた新しい空間つくりにデザインの主眼が置かれていた。それは、これまでにない寸法感覚を可能にしたと思う。GAは、これを評価されつつも、それ以外の既存システムにのっとったデザインを酷評した。それは、開口部の扱いなどに現れているものである。「神は細部に宿る」といったのは、ミースあるいはアビ・ヴォールブルクである。GAの指摘で気づかされたのは、この言葉に代表されるような「建築」を成立させている懐の深さである。ぼくらは、ここから逃れられないような気がした。ただし、ぼくは「名前のない空間へ」を目指している。ただただ、それに従うことには意味がないことは承知しているつもりである。従うだけでは、それは「名前のある空間へ」あるいはシンボル的思考となってしまう。それは、歴史的な装置に、何も考えないで思考を委ねていることである。これは、柄谷行人が繰り返し忠告していることでもある。近代の持つシンボル的思考を脱するための方法を考えていたといいてもよいと思う。既成の考えを疑うことを、エリップス頃までは、これに終始していたと思う。ディテールを単独で存在させないようにし、家族、街並、技術、機能など近代のヴォキャブラリーとして考え得るもののデザインを削ぎ落とし、それらを同化させるデザインを前向きに行った。それを平立断で徹底的に描くことによって。エリップスでは、最終的にディテールの見えない白のシームレスな空間となるのだが、それは条件を純化することで可能となる。何もなく純化された後に、作品の個別性だけが残ったのには驚きであった。シンボル的思考の裏には、個性の否定がもたらされていたことに逆に気づかされた。ただし、疑問も残った。あまりにも純化されすぎたデザインの暴力性と、いくら前提条件を否定したところでも、成熟した日本の状況をもろに前提としたものになってしまうことに対する自省である。問題は永遠に解決されないまま残る。あるいは都合のよい問題の解決だけといってよいかもしれない。このときのディテールは、洗練という消しのディテールである。数寄ともいわれた。このころSANNAが、ジョイント方法を溶接からボルトに変え、カーペットを見せ、花を見せ、アルミを使う住宅を発表したのに驚いた。50年代のイームズを彷彿させるもので、あらゆる設計条件が等価に置かれた新しい生活を示すものであった。同時に、パタンランゲージの「順に固める構造」にある大工の話とも結び付けることができた。見習いに比べて熟練大工の作業が早いのは、小さな問題を後で何とかなるとして、アバウトの状態で次に進むことができるから、という話である。熟練大工には、大きな目的があるのだ。その下での行為が様々にある。これは、ミースの「神は細部に宿る」と対極にある態度である。部分に全体を求めるのでなく、全体があって部分は部分でしかないのだ。部分の強弱や、あるなしは重要とされない。アレグサンダーは、これを全体性という。目的優先思考といってもよいかもしれない。抑圧されていた生活の方を開放する。エリップスの消しのデザインから、ディテールなどあらゆるモノの存在を認め、解像度を上げていく方向に変えたのは、そうしたことによる。もっとも解像度という言葉もGAから批評してもらったものであった。既存の素材感を保ち、それに呼応するようにディテールを分節させ、全体へばらまくようなデザインである。FBの小端や道路面のFBの向きにそれが表れている。デザインのひとつひとつのキレでなく、位置つけを大事にするデザインである。自分の表現の立ち位置が俯瞰できるようになったのではないかと思う。最近は、木造を手がけることになった。そこでもうひとつのディテール処理、すなわちシンボル的思考の否定の別の方法に気づくことができた。シンボル的思考とは、歴史性のことである。歴史性の否定が新しい局面を生むと考えるようになった。これまでのふたつの方法は、まったく歴史に関係がない。これが問題であると考えた。歴史を取り出し、それをずらすことで非歴史的なる。このように考えるようになった。木造は、皆が暖かみを感じるように、もっとも日本人には歴史的な素材である。この木造の扱いをズラすことで、非歴史性=シンボルの否定がデザインできると考えた。ディテールの金物に新しさはないが、これまでの柱+梁というシステムにのっとったディテールとは異なるものである。こうしたディテールの3つの変遷があったのだ。このことを改めて記しておくことにする。
006 FA杯 ピーターバラ×レスター
格下とあってレスターは大幅にスタメンを変えてきた。岡崎も帯同を免除され、扱いがひとつ上がったことになる。3部といえ、プレミア経験者も多く侮れないパフォーマンスをする。強豪を相手とする代表を見ているようでもある。ひとつひとつプレーの正確さと、プレッシャーの弱さがゲーム展開を難しくしていた。これまでと違って、レスターはそのため落ち着いている。新鋭の選手がしたがって活躍できていた。少しの違いが大きな開きをうむことを知る。

1月26日(金)
GAの杉田義一さんが来所。次回GAのディテール特集のインタビュー。はじめに杉田さんからイマジナリーなディテールと聞かれたのでびっくりする。そんな大それたことを、何年か前にいっていた。ぼくにとっては最近、ディテールの亡霊からやっと開放された感があり、その経験に基づいて、ディテールへの思考変遷をイマジナリーに絡めて話しをする。そのぼくのディテール思考の変化というのは、平立側面というユークリッド的表現から、高解像度へ、そして非歴史性というステップを辿るものである。イマジナリーディテールとは、このユークリッド表現を捨てたあたりのものをいう。「神は細部に宿る」といったミース、アビ・ヴォールブルクであるが、それからの開放のことである。これは、初期のユークリッド表現が不可能になった瞬間、(正確にはだいぶ時間を要したが)のことである。ディテールに建築家の思考が凝縮されるというのは、まったくの近代シンボル思考である。人それぞれは異なる視点をもっているのだから、受け取り方も様々であるはずで、ある無意識に存在する(習慣という)装置に思考を委ねていることに他ならない。「名前のない空間へ」とは池辺がいっていたが、これに反するものである。これが、従来のユークリッド的表現では不可能になった曲面エリップスにて変化したような気がしている。そのため、ディテール自体を納得するものに至らなかったが、要は、開放され新しく考えられるようになったのだ。昔の10+1で、丸山洋志さんが、エリップスのリングをイマジナリーに繋げることを、「時間」という言葉で力強く批評してくれたことを思い出した。そしてエリップス以降は、部分は部分に過ぎず、全体を俯瞰するように考えられるようになった。全てを等価に高解像度なものとして、ディテールを考えられるようになった。そして最近は、人に馴染み深い木造をあえて外す扱いで非歴史性を獲得しようとしている。シンボル思考とは深く歴史とかんでいる。これらふたつは、機械論的なシンボル思考から逃れるために身に付けた方法であった。もうひとつ、アレグサンダーの大工のお話によって、シンボル思考の次ステージについて語りたかったが、力不足。とはいえ、内容の濃い時間であった。その後、杉田さんと雑談。様々な有名建築のコンテクストについて教えてもらう。これらが今日生み出される過去の作品にはなかった新しい解像度ということなのだろう。そこに歴史性をずらし例も垣間見ることができた。視点の解像度を上げることと、ずらすことで生まれる視差は近いことかもしれない。深夜BSで「24時間の情事」アラン・レネ監督の広島を舞台とした1959年のフランス映画を観る。原題は「ヒロシマ・モナムール」。戦後の広島が舞台であり、丹下健三の原爆記念館、そしてその中の悲惨な展示、展示映像が前半生々しく描き出される。どれもぼくには強烈に記憶に刻まれているものである。大きくストーリーはふたつに分かれ、どちらも、強烈で個人的な記憶・体験を他者と通じ会うことが可能かをテーマとする。前半は戦争の悲惨さ、後半は人の内面である。登場人物はふたり。彼らに名前が与えられていない。ヒロシマとヌーヴェルと互いを呼ぶ。これは彼らの出身地を表し、はじめから終わりまでキャラクターに変化がない。広島を発つ前日の濃密な時間の中で、会話から、お互いの地での悲惨な過去が明らかになる、それだけの映画である。コミュニケーションの限界を示しつつも、他者と通じ合うことによる自己更新。このことを情感的に描いた作品である。ところで、ヌーヴェルが宿泊していた新広島ホテルとは、誰の設計なのかと思う。資料館の直ぐ西にあった。

1月25日(木)
3年生後期課題の講評会。建築家の福島加津也さんと小堀哲夫さんをむかえる。両氏に選ばれたふたつの作品は、深くつくり込みを行った、設計者の思いが伝わるものであったと思う。お二人とも強調されていたのは、身体感覚であった。得てして頭で考えがちになるが、それにたいするものである。建築は唯一世界を動かすことが可能な仕事で、そのためにはリサーチと歴史性が大切であるという福島さんの言葉が印象的。どちらも、センシティブな視点が必要となる。その後、水道橋で食事会。学生に対する接し方を皆工夫していることが判る。

1月23日(火)
午前中、中埜さんの事務所へ。2回目の翻訳の打ち合わせ。Vision Purus Target といった言葉の訳しかたについて話合う。文化によって、それぞれのイメージが異なることが問題である。Tealとはまさにコガモのことで、グリーンかかった色の鳥である。ヨーロッパでは一般的らしい。「人生フルーツ」という映画を紹介してもらう。経済社会に埋没された建築家の生涯を描いたものらしい。ステレオタイプの物語ではないようだ。

1月22日(月)
大雪となる。急遽、今日の予定を変更。「Reinventing organizations」の翻訳を行う。2部に入ると具体的で訳しやすくなる。

1月21日(日)
気晴らしに甲府行き。眺めのよい温泉に入り食事をして、休日を過ごす。合間に現代思想1月号に掲載されている柄谷行人「資本の力とそれを超える力」を読む。最近のぼくの興味に引き寄せると、時系列的解決から目的優先的解決へ転換方法の具体性を示したものである。柄谷は時系列的なものを生産過程からみる経済に、目的優先的なものを、生産過程とその逆の流通過程の両方向的を複合したものに、見ている。建築でいえば、利用者視点を入れるということであると思うのだが、建築には既に組み込まれたものでもある。もう少し詳細さが必要で、デザインスゴロクなどは最適なものであると、あらためて思う。夜にNHKで731部隊の特集を観る。昨年夏の特集と被るところが多かった。昨年のものは、事実を明らかにすることが主であったが、今回は「なぜ」である。731部隊の組織は、横のつながりが分断されていて、全体像が掴めないようにものであったという。それは、人が善悪を働かなくするためのものであった。うすうす皆は知っていたとしても、それは知らないという構図をつくりだしていた。戦争後のハバロフスク裁判で、その全体像が明確にされることによって、当事者の道徳心がはじめて芽生える。問題は、早々に日本へ退散した中枢部の医師である。彼らは、おそらく自責の心はあったと思うのだが、そこでの研究成果を社会に貢献し直すことで自制し、社会的にはそれなりのポストを手に入れたのだ。
005 プレミア レスター×ワトフォード
終始レスターのペースで進む。全選手が前を向いてプレッシングを上手く行うことができ、相手ボールへのチェックと同様にセカンドボールも拾うことができている。3試合連続して無失点というのはかつてなかったことだという。このチームバランスを保つ大きな要因に岡崎にあることを監督も認めているようだ。中盤の選手の入れ替えは行われても、前線は岡崎とバーディのままである。サイドに流れるバーディからの折り返しを、岡崎がニアサイドに詰めよる決定的シーンがあった。これを決めたかった。今日は、岡崎が中盤に下がってからパスを受け、反転し、あるいはサイドへの展開する、こうしたシーンが多く見ることができた。これまでにない進展で驚く。グレイのプレーを岡崎も実践した訳である。

1月20日(土)
004 ブンデス ヘルタ・ベルリン×ドルトムント
今日もオバメヤン不在でドルトムントは臨む。オバメヤンは移籍ということだろうか。前節のヴォルフスブルク戦同様、ボールをビルドアップするのに苦労し、前戦の脅威がない気がする。全員がマンマークされ、突破の糸口が見出せていない。もう少しボールと人を動かし、冒険をする必要があるのだろうか。前半、特にドルトは無理をしないので、尚更である。香川のヘディングで同点にするも、1-1のドロー。2戦続けて同じようなパタンである。

1月19日(金)
午後大学行く車の中で、小室哲哉の長い引退会見を観る。不倫報道に端を発した引退は、スポーツ選手の場合のように華やかなものでなく、自分の内面を淡々とこれでもかという程に吐露するものであった。それはある意味、自己演出による最高のエンターテイメントであったと思う。自分の体力と才能の衰えを、不倫による社会的責任処理をすることによって、見事に逆転美化できた演出であったと思う。自分の存在をよく理解していることによるものだろう。近頃の力士引退とは違ったものを感じることができた。深夜BSで60年代のフランス映画「バルタザールどこへ行く」ロベール・ブレッソン監督を観る。これといった盛り上がりのあるストーリーがなく、登場人物の演技もない。どうやら、皆素人の役者であるらしい。とはいえ、自由な気軽な感じはせず、戒律の厳しさがひしひしと感じられる作品である。バルタザールとは、ロバの名前である。登場人物が意識する有無にかかわらず、横に絶えずいる。そして売られた先の飼い主の人生が断片的にエピソードのように描かれる。神のような不動の存在で、実は、死や強姦されるなどショッキングなエピソードであるにも関わらず、ロバの存在で、その凹凸が消し去られている。最後は、羊に囲まれて死ぬ。まるで人全ての償いを背負ったキリストのようでもある。ハリウッド映画の対極にある詩的で宗教的作品つくりが巧みである。

1月18日(木)
今日は1日中、卒業設計の図面審査。4年生は一端完成の目途が立ったことを契機に、コンセプトからかたちへの橋渡しを考えることに時間を集中できる。このとき、ダイアグラム的なもので表現する方法も大切であるが、最終的なかたちはもっと大事である。まずは納得してもらわないと、他人は細部を注視してくれない。原因と結果、前提と結論などは交換可能で、人は全体思考を行うものである。人は、原因が発生する前に結果についての知識を持っていて、それにしたがい最小化を目指して原因を追及する思考を展開する。例えば、ある料理が旨いと感じてから、その原因を探り、自己納得すると言うことである。これを目的論的解釈ともいう。先日の中沢新一の論考で気づかされた。このとき他者に、シンボル的な解釈、例えば、光りが劇的な空間性をつくりだすという解釈を強要すると、むしろ嘘くさく見られてしまう。なぜなら、シンボル的解釈は体験する以外に他者が入り込むことが許されないほどに余地を残さないものだからである。何人かの学生にこのようなアドバイスを行う。

1月17日(水)
3年生の後期第2課題の講評会。総じてよく出来ていた。例年と比べて、都市スケールの視点で解く案が多く、そうした案が上位を占める。視点を広く持つことで、設計の密度も上がる。

1月15日(月)
003 ブンデス ドルトムント×ヴォルフスブルグ
ブンデスもウインターブレイクが明け、後半戦がはじまる。ゲッツエとコンビを組み香川は先発。前半はバランス重視し、どちらも速攻を重視しているように見えた。試合後の「もっと賭けが必要」という香川のコメントが印象的。香川のフィニッシュまで至らなかった責任ある言葉と思われるが、ヤルモレンコは少ないチャンスを確実に決めたかった。後半15分も過ぎると、香川も含め全体に疲労感が漂う。ドタバタが多くなり、スコアレスのドロー。プリシッチとオバメヤンの欠場の大きさを感じないこともない。

1月14日(日)
「エイリアン コヴェナント」リドリー・スコット監督を観る。前作の「プロメテウス」に比べて、ストーリーがスッキリし、これまでのエイリアンシリーズの描写に戻る。突然現れるエイリアンに対し、乗務員が次々に襲われ、エイリアンの恐怖を前面に押し出したものであった。ただし、この作品で焦点が当てられている最高のアンドロイド、デビッドのミステリアスさが前作より劣っているのが皮肉である。その点が、興行収入低下の原因でないか、と思う。少し、説明しすぎた感がある。

1月13日(土)
東京都写真美術館、ユージン・スミス展へ行く。LIFE誌を通じての報道写真家として有名である。加えてぼくにとっては、戦後の「The Family of Man」展における、森を歩くふたりの子どもの後ろ姿の写真が印象的である。パタンランゲージでも取り上げられている。作品注によって、写真のふたりはスミスの子であったことを知る。戦争取材から心身共に傷つき、写真家としての道に失望しかけていたときの、久しぶりのショットであった。したがって、この森はニューヨークのものであったのだ。事務所に戻り、「The Family of Man」展の復刻本を観る。愛する人と出会い、子どもが生まれ、死を迎えるまでを、様々な写真家によって表情豊かに捉えた写真展であった。後半は、社会に対する不安、苦悩、希望を表す写真が追加され、最後に「A world to be born under your footsteps・・・(St.-John Perse)の詩と、ユージン・スミスのこの作品で閉められている。
002 プレミア チェルシー×レスター
岡崎先発。今日は、バーディより多くのシュートを放つ。全て難しい局面のものであったが、決めたかった。レスターは後半70分に、DFが2枚目のイエローをもらい10人となる。そのためチーム戦術から岡崎が交代となる。それまでは、得点こそないもののアウエーのレスターのペースであった。その後、10人で何とか猛攻を凌ぎ、0-0のドロー。岡崎の評価は分かれるところだろう。

1月12日(金)
現代思想1月号から思い付くことがあった。「デザインの鍵」の「42目的のないところに機能がある」は、ぼくのお気に入りのひとつである。そこで池辺は、合目的性と機能性の違いに言及し、ふたつを分けることの必要性て説明している。近頃注目している思弁的実在論のいうところは、42を反対の立場から説明しているのでないだろうか?「機能のないところに目的がある」という訳である。このように理解すると、合点いくことが多くなった。身近な問題、例えば機能的問題とは別の上のところに、絶対的目的の存在があることを、どちらもいっている。深夜NHKで、映画「あの頃のペニー・レインと」キャメロン・クロウ監督を観る。監督自身の経験に基づく青春映画であった。15歳の少年が、スターダムにのし上がるロックバンドのツアー同行取材を通じて、大人に成長していく過程を描く。

1月11日(木)
深夜BSで運慶の特集を観る。2008年の再放送である。東大寺南大門の金剛力士像がわずか2〜3ヶ月で完成させたことを知り驚く。さらに面白いのは、全体像があらかた出来てから細かいパーツをきったりはったり、まるで粘土でつくるように手を加えていることであった。それによって、完成度よりも迫力のある大きな像が完成した。処女作が円成寺の大日如来坐像、今のところの遺作が光明院(金沢文庫)のものであるという。これは思っていたより小さい。晩年の最高傑作が、自然体を表現した無著菩薩と世観菩薩立像とされる。興福寺でこれを観て、納得した。願成就院(伊豆)や浄楽寺(三浦)は、まだ有名になる前のものであるらしい。奈良に本拠地を置く慶派は平安末期の新興源氏がパトロンであったため、関東に作品が多い。その間、東寺の立体曼荼羅像らの修繕を通じて、平安仏像が忘れていた写実的技巧を学んだという。

1月10日(水)
車を車検のためにディラーに出した後、彰国社へ。一通り原稿が出揃う。まとまりをつくる方法について考える。今のところバラバラである。その後、卒業設計のアドバイスのため大学行き。総じて進みが遅いので、図面レイアウト方法について個別に話合う。新しく考えるよりも、これまで考えてきたことを表現することの方が大事である。

1月9日(火)
NHKの人体特集を観る。第3回は、骨について。骨は3年程度要して新しく生まれ変わるという。絶えず骨は壊され、生成される。それは、カルシウを体が必要とすることに由来する。今日の特集は、この骨生成の速度を調整するアクセルとブレーキを司る物質についての話。これは、血液にのって、体内中を周る。そして、他の臓器や脳の活性化にも関わるものとしても機能するという。体を支え、内臓を保護する以外の骨の機能が示されていた。この特集を観れば観るほど、東洋医学の方が人体に合っているように思えてならない。

1月8日(月)
新幹線駅で購入した現代思想1月号を読む。中沢新一「レンマ的算術の基礎」と大澤真幸「根源的構成主義から思弁的実在論へ・・・そしてまた戻る」のふたつをまず読む。驚いたことに中沢は、映画「メッセージ」を題材にしていた。レンマ×ロゴス、東洋思想×西洋思想、仏教×キリスト教、未来×近代、そして目的論的方法×近代科学という体裁をとり、鈴木大拙の「華厳の研究」にまで言及する。これまで全体論として理解していたことを目的論という言葉でまとめている。それによって読後、柄谷がよくいうアレゴリー的思考×シンボル的思考を理解する。こちらは、ものをつくるという表現の立場からのもので、物事をどう捉えるかという批評的立場から発展させることができた。アレゴリーとは、遠くで焦点する道徳あるいは真実を前提とするために、少しテレもあって居心地が悪いが、それを前提として下々の自由な交通を描くものであるのだ。したがって、下々の個別性を生き生きと描く必要が求められ、それがアレゴリー作家の特徴である。このことを理解する。大澤の論考は、この「自由な交通」を、磯崎が最近よく言う「偶有性」という言葉を使っている。「偶有性」とは、「差異」あるいは「パララックス」という関係性を表現する言葉にたいして、そのもの自体の方を指す言葉である。大澤は、偶有性とは他者の存在を意識することで、絶対的な実在がないことを示す好例であるという。この偶有性の存在確認によって、メイヤスーのいうところの、有限性=相関主義内におさまってしまうこと、を超えることができるといっている。簡単に考えると、絶対的なもの=神の存有無についてであるが、他者の存在を認めることで、絶対的なものなどないことをいっている。磯崎新の連載「結界」も読む。デュシャンのアンフラマンス(極薄)を引用し、驚いたことにここでも、「華厳の宇宙」と、映画「メッセージ」の宇宙船イメージであるブランクーシの「バード」が挙げられていた。忘我の境地でひたすら水磨きするなかで光りに満ちた宇宙の声が「バード」であるという。

1月7日(日)
朝食をとり、三輪山神社へ。三輪山は対象形の完璧に美しいかかちをしている。したがって、自然のものとは思われずに、神がつくったものであるという意味で、古来から信仰の対象であった。神社として祀られるようになったのはその後のことである。しかし、1月7日ということであろうか、大渋滞で近づくことができずに訪問を断念する。引き返し代わりに長岳寺に寄る。阿弥陀如来坐像と両脇侍坐像は、運慶が影響受けたものであることを、運慶展で知った。それを観る。静かなお寺で、大和路の面影がそのまま残されていた。帰路の途中、石上神宮(いそのかみじんぐう)を見つけ、急いで拝観する。日本書紀では、伊勢神宮と並び、最古の神宮とされている。そういえばこの道筋には、沢山の古墳があった。卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳もあった。東西の山々に囲われ、北の奈良と南の飛鳥の中間地点にある。国宝の拝殿は、平入りの優雅なかたちである。その奥には、本殿がある。伊勢神宮のかたちに近く近寄ることができなかったが、後で近代になってからのものと知る。夕方の新幹線で戻る。深夜、今年開催されるロシアW杯に向けての代表選手のロングインタビュー番組を観る。W杯前には、こうした番組が多かったと思うが、今回は少ない。サッカー人気の低下だろう。新しい選手が大きな活躍をできていないことが原因である。それは南アフリカW杯と同じ雰囲気である。俊輔のスペイン選択が裏目となるなど代表はどん底であった。大会がはじまってから、大幅な選手入れ替えを岡田監督が行う必要があった程である。しかしはじまってみると、長谷部、本田の数少ない海外組が奇跡的な活躍をした。そうして長友、川島、岡崎、香川、内田らがその後に海外移籍をしていった。

1月6日(土)
寺町内にある元興寺極楽堂へ行く。小さな町中にある寺である。以前に夜は何度も、この前を素通りしていた。3重になる入れ子状のプランが透明感をつくる。スケールに無理のない幾何学に支配され、屋根の迫り方にも品がある。後ろにある僧坊も同様で簡素であった。1時間あまりを過ごし、菊一文字刃物店により、国宝館がリニューアル完成したという興福寺へ。中身は素晴らしい国宝ばかりであるが、昔と変わらず寒々とした空間であった。阿修羅像、八部衆立像、千手観音立像などを観てまわる。昨年国立博物館で観た運慶作が特に多い。東金堂には、薬師如来座像、他に国宝の四天王像、12神将像などがあった。南円堂、北円堂をその後観て回る。中の弥勒如来座像は観れず。車に乗り換えて、東大寺大湯殿へ。やはり内部には入れない。法華堂へ。不空観音菩薩と四天王像を観る。日光、月光菩薩像は新しくできた美術館へ移動したようだ。戒壇院へ。以前の記憶だと、四天王以外にもあったような気がするが気のせいであった。入れ子状の内部空間の床高がかなり高い。その後、葛粥の遅い昼食をとる。新薬師寺へ。薬師如来座像を中心に12体の神将が囲む空間構成であるが、建築は平入りの一方向の入母屋屋根であった。磯崎新のなら百年館へ。3つのホールを巨大な楕円が収容する。奈良を彷彿させる巨大建築である。楕円外のHP屋根アトリウム部分がホワイエであり、外の広場とつながる。現在は、一体的に都市整備され各建物が広場中心に連携されていた。ホテルに戻り、奈良町の別の民家で夕食。

1月5日(金)
新幹線で京都を経て、奈良行き。40分くらいで宇治上神社に到着。拝殿と本殿が国宝である。屋根のかたちが両端で持ち上げられ優雅である。敷地が狭く、全景を写真におさめて撮ることができなかった。その後、平等院へ。本院修理が終了し、阿弥陀座像にまで入ることができた。周りの雲上像も間近で見る。その後、池の反対側に渡り全景を観て、栗生さん設計の美術館へ。外形が目立たないシークエンスの建築である。奈良のホテルへ。奈良町の民家で食事。

1月4日(木)
「メッセージ」ヴィルヌーヴ監督を観る。この映画は様々な解釈を許す哲学的な作品であった。ストーリーは単純である。人間が未知の外来生物と遭遇したときのドラマである。ただし、両者にコミュニケーションの手段はないので、そうした場合における言語の意味がテーマとされている。主人公のルイーズは言語学者。未知の生物は世界12箇所に突然現れた。そのかたちが、ブランクーシー「バード」の彫刻のようで、単純で有機的なかたちである。通常の解釈であるならば、言語学者ルイーズが、異性物との模索的なコミュニケーションを通じて、未来を知る予知能力を得たということだろう。それによって、宇宙戦争を回避できた。映画のはじめのシーンの子どもとの別れのシーンは実は過去のことでなく、未来の話であったというものだ。死んだ娘の名がHANNAHといい、対象文字で、こうした転倒を意味するものとされる。ところでこの映画では、いくつかの興味深い話が引用されていた。ひとつはカンガルーの話。袋をもった生物をエボリ人がなんと呼ぶかを、西洋人が尋ねたとき、彼らは「カンガルー」といったという。しかし、カンガルーは、What?というのが、エボリ人本来の意味であったいうもの。つまりは、コミュニケーションは錯綜するというもの。もうひとつは、サピア・ウォーフの言語相対性仮説。人の思考は、使用する言語体系に支配されているというもの。このふたつによって物語が展開されている。したがって、このふたつのことから、予知能力を得るという解釈は事前と事後の混同であると思った。ぼくはよく学生に逆上がりの話をする。逆上がりのできる条件が何であったかは、逆上がりができたことによって人は理解する。ただし、判ったと理解しただけで、真の事実(逆上がりの条件)はなにひとつ不明のままである。事後の成功によって、事前条件を誤読してしまっているのである。この映画では、最後の追い詰められた状態でルイ-ズは、異星人の言語全てを理解すると同時に、予知能力を獲得したことを悟る。そして未来における中国将軍の説得によって、宇宙大戦を回避するのである。しかし、未知の言語が理解できたかどうかは誰も分からない。理解したと思い込み、その必死さが生んだ行動が偶然にも成功に導いたと考えられないだろうか?彼女の思い込みが全てをよい方向に導いた。その後の結婚と子どもとの死別の予知は、過去の記憶を自分本位に編集した結果である。このとき、異星人の言語の映画における役割はなんだろうか、と思う。彼女の人としてのポテンシャルを最大限引きだしたトリガーであったのだ。彼女の内面は彼女自身しかわからないばかりか、事実も誰も分からない。結局は、偶然の一致なのである。ルイーズが自分自身と向き合い、個人的な内面の体験を突き詰めることで、結果として世界が救われるというものだ。ジジェックを思い出す。「モダンの透明とは、機械がどう動いているかを見とせるという錯覚を維持するという意味」というジジェックの言葉であった。こうしたことを思わせる巧みな仕掛けがある映画であった。

1月3日(水)
教科書の原稿に再度とりかかる。年末に集中的にネットワークに関する本を乱読したので、これに基づきいくつかの点を変更する。これらの本から得たぼくなりの仮説は、ネットワークモデルが平均化したとき、はじめて活発な優先的選択が働くということであった。しかし、それを数学的に追究することができなかった。平均化とは、スモールワールドのように、平均頂点間距離が一定値に漸近することである。これは容易に起きる。様々なことが起きる可能性が高くなる確率あるところである。夕方、今年はじめて泳ぐ。

1月2日(火)
妻の実家に年始の挨拶に行く。ゆっくりとした時間を過ごす。合間にネットワークに関する本を乱読。

1月1日(月)
朝起きると、「ジョーズ」(1975)スピルバーグ監督が放送されていた。はじめて親無しに友達といった映画である。新宿ハルク裏の「タワーリングインフェルノ」との2本立てであった。ヒッチコックのテクニックが多いことに現在気づく。その後、近くの氷川神社に初詣に行く。
001 プレミア レスター×ハダーズフィールド
前戦から中1日。今日でボクシングウィークが終わる。岡崎先発。今日レスターは、いつものよいかたちをつくり、カウンター攻撃がはまる。バーディは怪我のため欠場し、代わりの初先発スリマニが走り回ったためである。マフレズのドリブルもキレ、マフレズ、スリマニ、ドリンクウォーターにより3-0の勝利。岡崎もファウルになった幻のゴールもあったが、2得点目の起点となり絡んだ。しかしオールタイム出場中であったモーガンが途中交代。彼は昨季もオールタイム出場であったと思う。中心プレヤーが欠きはじめる。ハードなプレミアリーグであることを、身をもって知る。