7月14日(土)
横浜美術館で行われている「モネ展」へ行く。モネの大作は少なく、モネへのオマージュ的作品を併置させ、モネの作品に厚みを与えようとする構成である。モネの筆使いをデジタルで表現しているものが多い。そこに深みを感じられないのは現代アートの特徴であるが、方法論となってそこに批判性が足りないからだと思う。ダリの彫刻が常設されているのだが、そこには、パラノイア的性格をさらに感じる。その意味することを少しづつわかってきたような気がする。誰もがモネに近づくことができる時代には、その強さと切り口こそが重要となる。そうしたところまで、世界は細かく分断されている。夜にジョコビッチとナダルの再試合を観る。昨日のもうひとつの準決に比べてラリーに迫力がある。勝負はともかく実力に差があることは、素人目にも明らかである。錦織はもう一歩のところまでいっていることも判る。彼らは、0-40という状況でも安定している。様々な攻撃パタンを備えていて、相手と状況によって変えることができているような気がする。サッカーの代表にも同じ感想をもつ。
090 W杯 イングランド×ベルギー 
中2日のイングランドはきつかった。前半はのらりくらり、後半に勝負をかけたようであるが、タイミングの悪いところで失点をしてしまった。0-2で負ける。スケジュールがきつく、体の切れが悪く試合内容はいまいち。スケジュールの見直しが必要だろうと思う。

7月13日(金)
ウィンブルドンの準決勝アンダーソン×イズナー戦を観る。なんと最後のセットは、26-24である。得点でなくセットである。当然全部は観なかったが、両者2m身長から振り込むサーブでほぼ得点が決まる。にわかテニスファンであるので、錦織戦しか観ないのであるが、錦織の技術力の高さと、日本人であることを除外しても錦織の戦いの面白さを改めて知る。そうしたアンダーソンやイズナーに錦織は、これまで勝ち越している。

7月12日(木)
本年度レクチャーシリーズ第1回目を家成俊勝氏を迎える。モノとしての建築に加えて、道具、メディア、使い方、物語性などをフル活用し、人を巻き込む。その実践を紹介してくれた。モノのデザインを超えたコミュニティのデザインである。しかしそれを正当化するための社会的要請を持ち出さないところに好感をもつ。つくる行為を通して世界をみていることころに、レクチャーに説得力を感じた。小豆島のプロジェクトは、その中でも特に面白い。家成さんの全プロジェクトに共通することでもあるのだが、このプロジェクトでは特に、商業をはじめとする社会の情勢にのりつつも批判的であり、ユーモアである。アーティストが個人的に批判的スタンスをとることはできても、ある集団においてそれを行うことは難しい。ユーモアがなくなり、闘争となる。建築は多くの人が絡むので、批判的にならないのはそのためである。家成さんは、そこを上手くすり抜ける術をもっている。このことを感じる。批判の対象がビートたけしにあり、2重の批判が行われているからかもしれない。

7月11日(水)
089 W杯 イングランド×クロアチア 
イングランドが先制するも、徐々にクロアチアはペースをつかみ、延長後半で逆転をする。ケインが封じ込まれ、セットプレーしか得点を見出すことがイングランドはできていなかった。それにしても、クロアチアはよく走る。延長戦を続けてきたチームとは思えない。マンジュキッチュ、ペリシッチ、モドリッチ、ラキチッチ、レビッチらの迫力は、イングランドDFは耐えきれなかった。どことなく、日本とイングランドを重ねてしまった。

7月10日(火)
088 W杯 フランス×ベルギー 
守りを固めるフランスに対して、ベルギーは戸惑っているようであった。そうしている内に後半早々、セットプレーからウムティティに得点される。引いてくる相手に対してブラジル戦のようには上手くいかなかった。

7月9日(月)
ゼミにて「生きられた家」多木浩二著の読書会。担当者はよく読み込んでいた。副題が経験と象徴であるが、経験と象徴を対置させているわけでない。象徴のもと様々な経験がなされ、そてがまた象徴性をつくっていく過程が示されている。「家」あるいは「建築」とはそういうものなのだということが語られている。90年代に考えられなかったのだが、ジジェク(ラカン)を通してこのように考えられるようになった。

7月8日(日)
多摩美術大学図書館再考。伊東さんの中には、むしろ流れるような空間がはじめにあったように思われる。それが優しい技術で包まれている感覚である。技術は規則であり、グリッドである。ぎふのメディアコスモスもよかったが、ぎふは肉感的で多摩美は透明である。瞑想の森は、まだ技術に関する解答がまだ成熟していないように思えた。代表選手のロングインタヴューがやっと各局から届くようになる。ほとんどの選手が清々しく受け応える中、昌子の悔しがり方が印象的。

7月7日(土)
10時にチェックアウトし、伊東豊雄さん設計の多摩美術大学図書館へ。静粛な空間であった。想像していたより、カジュアルなくつろぎ空間がないことが驚きであったのだ。しかし、こんなにも充実する美術書が重々しくなく、流れるように配置されているのが気持ちよい。お店のようだ。天井高があり、正面が北側で、大きな開口がカーテンなしに外部と連続していることもそれを増幅している。アーチの連続する崩れたグリッドは何かと考える。型ぐるしくないのだが、グリッドのない自由空間にはない開放感がそこにある。グリッド/開放という相反する問題が同時に解決されている。難波さんと佐々木さんが新しいグリッドを、いつか試みたいといっていたことを思い出す。伊東さんはやはりすごい。

7月6日(金)
研究室活動で、八王子の大学セミナーハウスへ。本館の力強さを改めて感じる。ぼくが宿泊したのは、松下館。実に10年振りだろうか。ユニットバスが配置され、綺麗になっている。学生が宿泊したのは、長期館。冨田玲子さん設計である。中央にゼミができるほどの大きな集会場があり、その周りを3箇所の宿泊できるクラスターが巻き付く。クラスターは2本の換気塔を八の字に登る形でベッドアルコブが形成されている。学生が設計するような住宅が実現されている。一体感があり気持ちよい。深夜に、中央の集会室の壁一面にプロジェクターを使って、フランス×ウルグアイを観る。早めの夕食をバーベキュー場でとり、ピラミッド型中央セミナー室で4年生の卒業設計の中間発表。今年は大きくふたつの傾向がある。ひとつは社会問題に真面目に取り組むもの。もうひとつは、都市構造を読み解き、シームレスな自然と都市の関係を捕らえ直そうとするもの。前者は、なかなか解決策が見出せない複雑な問題である。自分にとってのリアルな解決に結び付けることをアドバイス。後者に関しては、自然との調和を目指すものであっても、それが実現されてこなかったリアルさを観ることをアドバイス。この大学セミナーハウスもそうであるように、建築はあくまでも人工物であることを意識して、自然と対峙してからでないと、調和はない。このことを、この建築から知ることができる。無自覚に、自然をコントロールしようとするところが、この自然/都市という断絶を招いていると思う。どちらの提案も、形式的ではなく、身近な問題にまで引きつけることが必要だと思う。社会に関する問題は、これまで沢山の人がアプローチしてきた。それを乗り超えるには、個人的な思い込みによるものでしか可能性がない。そう簡単に突破できないだろう。そうして、問題の大きさを感じることからはじめる必要がある。
086 W杯 フランス×ウルグアイ 
どちらも攻守の切り替えとプレーが正確で、ここにまで至るチームの技術の厚さを感じてしまう。グループステージの肉弾戦とは全く異なり、CLのような戦いとなる。フランスは、巧みな組織的セットプレーから得点すると、組織的に優位にゲームを進めた。カバーニを欠くウルグアイは、固い守備を守りつつも、スアレスにまでボールを運ぶことがどうしてもできなかった。その結果が、2-0というスコアである。2点差を大きなアドバンテージとする組織力が日本に必要である。

7月5日(木)
「アダムの家」ジュセフ・リクワート著再読。これまでは建築の原型が何か?それを確かめるために読んでいたが、その印象が変わる。むしろ、建築の原型を廻り様々な議論がなされ、大文字の「建築」なるものが出来上がっていく過程が示される本として読むことができた。ここに挙げられているのは、哲学者としてはカント、ヘーゲル、ライプニッツ、フロイト、ユングたち。建築家のコルビジュエ、ロース、ゼンパー、ヴィオレ・ル・デュクたちに加え、日本、キリスト、ユダヤといった地域・国を超えた例が挙げられている。あらゆる人が、初源を廻って様々に議論してきたというのだ。これによって、恒久的に避けがたいかたちで人間の内部に存在しているものを再生し続けてきたのだという。これが「建築」というものなのだといわんばかりである。「理論家が原始の小屋に興味をもつことによって、破壊された習慣や実践が再び蘇ったのと全く同様」p269であるというのだ。むしろヘーゲル的な歴史観のものであったことを改めて知る。

7月4日(水)
ヒッチコック監督「鳥」を研究室で観る。ヒッチコック特有のカメラワークと問題設定によって、忍び寄る恐怖をつくる。建築パースを描くときに、どこに視点を置くかの議論の後、この映画を鑑賞することになった。この映画は1963年作で、CGもない超アナログ作品あるのだが、学生にとっても恐怖を感じる作品であったという。このカメラワークをトラッキング・ショットとしてヒッチコックがはじめた。不気味な「物」に接近するときは、「物」に接近する人間を写す客観的ショットと、その人物の目を通して「物」を写し出す主観的ショットがあり、不気味な「物」の客観的ショットや、不気味な対象そのものの視点に立って接近してくる人物を写し出す主観的ショットというものはない。このテクニックによって、観客を惹き付けている。カメラワークだけでなく、物語設定においても、同様の構造が観られる。それは、現代が寛容社会であるように見える一方で、規則への服従を強いて、道徳的掟を拒む社会の不安定さを背景としている点である。それが不気味な鳥をシンボルとするものであり、父が亡くなった後の、プレーボーイな息子をもつ母親の心情として現れている。こうした間主観性を巧みに利用するところにもテクニックがある。しかもそこには転倒性がつきものである。この物語設定を「母なる超自我」といったりする。それが不気味さをつくっている。

7月3日(火)
日本選手談話が届く。読むにつれて、涙しそうになり、自身を情けなく思う。3番昌子は、ベルギー選手を後ろから追いかけるかたちであったので、状況全てが手に取るように判っていたという。時間よ止まれと思ったそうだ。長友は、本田らの決意を聞き、ただならぬ真剣度を感じていたようだ。吉田は、冗談を言いながら最後は涙しながらキャプテン長谷部の存在を語っていた。そのひとつひとつが物語となり、間主観的な位置づけを日本代表につくっていく。このことを感じる。他のスポーツと異なり、サッカーは「サッカー」であることだ。ちょっとした能力が長けているだけでは、勝ち進むことを許さないほど、層の厚さがある。全く上手くつくられたシステムである。そんな訳で、ぼくも再び、ベルギー戦を観てしまった。日本が守るゴール上からのカメラが本田コーナーキック後の状況をよく捕らえていた。明らかに対応する人数不足であったというか、ベルギーの攻撃にかける人数・意志が勝っていたことが判った。

7月2日(月)
085 W杯 日本×ベルギー 
ロスタイムに、CKから速攻を食らう。なんとも悔やまれる。最後のCKの位置づけを、なんとかならなかったのだろうか?と後悔し、ドーハの悲劇を思い出してしまう。ことごとくセカンドボールを拾われていた前半の猛攻をしのいだ日本には可能性を感じた。そして後半の2得点である。フェライニが投入され、最も恐れていたパワープレーに抗することになる。これに屈したものも、ドイツ大会のオーストラリア戦やブラジル大会のコートジボアール戦のように完璧に打ちのめされることはなく、なんとか余力を残した終盤であった。にもかかわらずである。もうひとつ残念なのは、フェライニ投入に対するケアが事前に打てなかったことであった。

7月1日(日)
太田市行き。隈さんの「太田金山地域センター」と平田さんの「太田市図書館美術館」再訪。隈さんの建築は、木毛セメント板を徹底して使用したもの。しかし建物としては非常によくできていた。動線、スケール、地形の使い方などである。これだけ木毛版を徹底すると潔く気持ちよい。「太田市図書館美術館」は、図書館完成後初めての来訪である。迷路のようで楽しい。これだけ全体性を失うことに成功させた建物はなかったのでないかと思う。完全に細部のデザインがコントロールされているわけではないが、決して破綻しているのではなく、きっと模型時に感じられたいただろう、ひとつひとつの空間性は担保されている。通常は、ディテールの破綻から、こうした空間感覚にまで至らない。考えるに、動かないキューブの扱いにポイントがあるのではないかと思う。これがうまくバランスされ、残りは如何様でも上手くいくような配置となっている。難を言えば俯瞰を許す外観かと思う。全体性という構成が見えて、イメージが拡がらなくもない。
084 W杯 ロシア×スペイン 
PKまでもつれ、ロシアが勝つ。スペインは、引いてきた5バックを崩すことができなかったのであるが、序盤の段階でこれを崩す展開しておきたかったに違いない。スペインといえども、創造的な攻めができなかった。その後のクロアチアもPK戦で勝ったと聞く。意外ともつれるゲームが多い。

 
6月30日(土)
難波さんの池辺さんに関するレクチャーを聞き逃す。大失敗。一月予定を間違えてしまった。後悔する。
082 W杯 フランス×アルゼンチン
4-3でフランスが勝つ。と同時に19歳エムバペがついに才能を開花させる。ひとりでアルゼンチンDF陣を翻弄させた。一方メッシもフィニッシュこそなかったが、パスの出し手にまわり一度は逆転に貢献した。しかしカンテがマンツーマンに着き、メッシにほぼ自由を与えなかったことが、この結果を分けることになった。
083 W杯 パラグアイ×ポルトガル 
カバーニのスパーゴール2発でクリロナポルトガルを打ちのめした。パラグアイのスアレスとカバーニの個人技はともかく、周りの選手の運動量が半端ない。これによって、ポルトガル選手に自由をあたえなかった。決勝トーナメントの迫力は、別物である。

6月29日(金)
深夜BSで「ラストベガス」ジョン・タートルトーブ監督。マイケル・ダグラス、ロバート・デ・ニーロ、モーガン・フリーマン、ケヴィン・クライン主演を観る。幼なじみの4人組が、70歳を迎え、再び青春を取り戻す過程をコメディに描いた映画。マイケル・ダグラスが若い娘と結婚することを期に、ベガスに集合することからはじまる。年寄りの映画であるのだが、ぼくもこうした映画を楽しむようになってしまった。「他者の受容」ハーバーマス著を読んでいるのであるが、中々進まない。その理由が「斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ」ジジェック著にあったことを思い出し、こちらを再読。大文字の「他者」について書かれている。これを、大文字の「建築」に置き換えてもよい。その再確認をする。大文字の「他者」があるという解釈は、非常にパラノイア的であるというのだが、これは必要なものであるという。むしろパラノイア的なこうした構築物を想定することによって、世界は秩序を保っていられるという。なぜなら、「他者」というものの存在をなくした瞬間に、他者的なもの全ての主体的行為がバラバラになり、混乱や病気的なものを誘発してしまう。現実界が「他者」をもつことで、現実の「他者」が閉ざされた秩序あるものではなくなり、批判の対象となり、ぼくらが自由に扱えるようになるのである。ジャック=アラン・ミレールを引き合いに、「現実の領域は<対象a>の除去に上になりたっているが、それにもかかわらず<対象a>が現実の領域を枠どっている」のである。一般の生活で、この「他者」や「建築」に相当するものがあるのだろうかと思う。本書では、フロイトを持ち出し、母なる超自我、死の欲動などを上げている。最近観る是枝監督の「家族」も同様かと思う。ところでこの本でハーバーマスについて。氏は、モダニストという位置づけである。公共と私の区別による疎外された私領域から、自由と開放への条件を見出すこととは、個々の人に注目しているようで、実は「束縛のないコミュニケーションといった啓蒙主義に近い理想」p293を前提にしているとし、個々の人とは無関係な抽象人間をいっている点で、これまでのモダニストと変わりないといいうのである。むしろ、これまでの公/私の支配関係を潜り抜けてきた方法を、(自転車を乗りこなすように)、見出すべきであるといっている。

6月28日(木)
081 W杯 日本×ポーランド 
西野監督が策に溺れる。最終ライン変えないものの、6人の新しい選手を送り出す。狙いを察するに、これまでのメンバーの疲れを考慮しすると同時に、これまで幾度となく試しては失敗をしてきた守備的でありながら主導権を握る作戦の日本への定着を目論んだようである。しかし、軸のいないチームは、先制されると為す術を失ってしまったのが現状であった。ただしあくまでも公には、前掛かりで立ち向かうとし、チーム内に向けても、気持ちで負けないように、守備的指示をしていなかったと聞く。しかし内実はリスク回避を大前提としたかたちであったのである。本田は疲れていない。したがって、今日の先発は当然であるのだが、その本田を外したのは、気がはやる数人のために守備のバランスが崩れるのをおそれたためである。明らかにポーランドは、ビルトアップ能力に欠け、ロングボールか、特定の選手へのボールカットの狙いを定めての速攻しかなかった。そうした前提のもと、引き分け狙い、上手くいけば後半逆転の策をうちだしたのである。香川や乾の攻撃能力を買いつつも、テンポよいボール回しはミスがつきもので、その危険性を怖れていたのである。サイドにW酒井を配置し、岡崎にボランチをマンマークさせ、攻撃を限定させ安定させた上で、中盤をできるだけ省略して2バックの背後のみを一発で狙う作戦だったのである。しかし、失点をしてからは、堅実なラインコントロールするポーランドにたいし中心選手のいないチームは策を見出せずに、これまでのように交替選手も役にたたなかった。やはりDF突破に、日本はコンビネーションである。これをなくそうとしたハリル方式は難しいのだ。しかし、西野監督は次の策では成功する。得点することを諦めた。負けきることの選択である。いやはや驚く。長谷部を投入し、他会場のセネガルが点を入れられないことを前提にして、長谷部のパフォーマンスによって、戦う意志のないことを、日本代表とポーランドにまで布告したのである。幸いにセネガルが得点することはなく、ポーランドも攻めることなく、10分を消化させた。結果的にはこの意志が上手く伝わり、西野監督は裏目に出た策の帳尻合わせに成功したことになる。

6月27日(水)
080 W杯 韓国×ドイツ 
予想に反し、韓国が2-0で勝ち、予選リーグでドイツは敗退。ドイツはいつでも点がとれるようで余裕があり、そのときまでは決して、韓国が勝つとは思えなかった。それがいつのまにか焦りと変わり、悪循環に陥りはじめたころ、他会場のスウェーデンが次々得点を重ねていく。それがさらなる悪循環を招くことになった。そしてついに、ロスタイムのコーナーキックをドイツは決められてしまう。しかもビデオ判定で覆るとは、なんとも皮肉なことである。組織戦略から、ぶつかり合いになったとき、これまでの経歴やFIFAランキングが関係ないものとなる。そうした瞬間であった。あくまでもこれまでのランキングは、知らないうちに支配されている(大文字の)フットボール観の上のものであることを痛感させられる。全く異なるスポーツとはいわないまでも、それに近いものとなったのだ。日本は優秀かな、その上を真面目にのって、今回は勝っている。しかし前回はそれで涙した。それはそれで立派で、日本らしい国民性である。

6月25日(月)
昨日の日本の戦いの連動性の高さを指摘するメディアが増える。長谷部が下がって3バックになったときの両サイドバックの動き、香川が下がってボールを受けたときの空いたスペースに入り込む乾の動きなど。同時に大迫がDFの裏をついているというもの。流石の組織的セネガルも、彼らが得点してからこの連動に対応できなかった。どうやら日本は、速いセネガルの左サイドの奥を重点的に攻めるための徹底した戦術を立ててrいたようだ。こうした戦術を、次戦ポーランドへも期待する。

6月24日(日)
江の島のヨットハーバー(オンデザイン設計)へ行く。曇っていて、室内外の輝度差がなく、連続感があっれ、よかった。海反対のトップライトも効いている。うねりのある白い天井面を強調する。サッシュの扱いもよい。大きくできないガラスを上手く分割していた。こうした建物で気になるのは、垂直方向の大きさである。1階の壁が気になり、屋根面がとってついたように感じられてしまう。「意思決定と合理性」H・Aサイモン著を読み終える。具体的な決定方法論ではなく、集団意思決定についてを概説する本であった。理性とは、適切なインプットが与えられた場合のみ機能するといい(p7)、ある環境(ニッチ)でしか成立しない(p21)。したがって理性から導かれる合理性は、全知全能的合理性でなく、非常に限定されたものとなる。そして「直感」を強調する。直感とは、情動と結びつき、経験の上に成立するものであり、適応あるいは適合という合理性判断のもとであるという。逆にいうと、直感しかないということである。この考えはつまるところ、絶対的ものなど不在で、無数の生態的ニッチ、あるいはニッチの精緻化を前提としなければならないことをいっている。世界は、複雑怪奇な構造をしており、ピッタリいくことでそのニッチを再確認できるというものである。本書は、このプロセスを合理的に説明するために、適合という進化を持ち出している。そして社会や文化も同様の進化の結果であるというのだ。「文化(的継承)を、生物学的遺伝子の集合とカルチャーゲン(文化的遺伝子)の集合との間の結合過程によって発展するもの」p57という。つまり、変異を産み出すのは、特殊なメカニズム、あるいは、理由がある訳でない。何が優秀であるかのヒントを与えるものもそこにない。そうした突然変異という事実と、暗に「利他主義」的選択メカニズムがあるだけといっている。利他主義とは、自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動のことである。個的な「利己的遺伝子」によって出発はするが、全体的には利他的なシステムが働くことで全体が進化するという考えである。したがって進化には、「目標がなく、ただ探索と改良の過程があるだけで、探索が目的である」p73。そうして「ニッチの精緻化」「複雑さを増大させ」、「独立した特殊性」=文化が生まれるというのだ。したがってぼくらは、局部的な進化をみることができるが、全体的な最大値をとらえることはできないという。ぼくにとっては、ニッチという考えは目新しいものではなかったが、ニッチの精緻化が文化というものであり、それは直感による適合の結果によるものであるというのが発見であった。それと、精緻化には、明確な目標(主体性)が基本にあるものの、それと利他的思考、つまり同じニッチ内の他者を持ち上げることによって、かたちとなるということも大きな発見であった。これはホラクラシーにつながるものである。翻訳中の「ティール組織」に引き寄せれば、利他的行動とはどういうものかを、「ティール組織」で具体的に描いていることになる。ティールでは「全体性」が突如として現れる。これを、この利他的という考えで、理論付けできそうだ。
078 W杯 ベルギー×チュニジア
079 W杯 日本×セネガル 
日本は、2度リードされるものの追いつき、2-2のドロー。開始早々は、速いセネガルに圧倒され、守勢に回ってしまった。それにより、ミスを連発し失点する。これが悔やまれる。長谷部が最初のトラップを失敗してしまったことから、それは発している。しかしこれまでの日本であったなら、ズルズルと後退してしまうとこころを、今回も踏みとどまった。セネガルも得点できたことで安心し、一気呵成に攻めてこなかったこと。このことが、大きかった。しかし、その10分後の大きなサイドチェンジからの得点は、日本の当初からの狙いであったことをゲーム終了後の選手インタビューで知る。ぼくらより、現場は冷静であった。後半に入ると、日本はパス回しで圧倒するも、簡単なフィニッシュをミスし決めきれずに、反対に素早い速攻にあっさりとやられる。いつもの日本のパタンであると思われた。誰もが、ここまでかと思ったに違いない。そこからの同点弾であった。岡崎がキーパー共々倒れ、フリーの本田が決める。本田は実に決定力がある。しかもアフリカ勢に強い。後半35分のことであった。そのままタイムアップ。本番で追いついたのだから、価値ある勝ち点1と考えたい。その後のポーランド×コロンビア戦で、ポーランドがコテンパンに打ちのめされる。次戦ポーランドに引き分け以上で、文句なく決勝トーナメントへ出場が可能となった。しばらく、選手インタビューを観る。自信に満ちあふれている。

6月23日(土)
難波さん設計の「箱の家159」に行く。遠藤研0期生の木村優志くんが担当した。担当2作目であるという。界工作舎久しぶりの鉄骨造。3階にスタジオがあり、1,2階が住まいである。木村くんは、大野ジャパンを経ているので、S造に臆することなく挑んだと思われるが、予算が厳しかったという中でも、いつもの界工作舎の完成度に至っていることが判り、ひとまず自分のことのように安心する。今回のチャレンジは、地下のコンクリート暗渠を利用した空調方法であると聞く。最近、床下埋込型の専用空調機が市販されているのだそうだ。これによって、吹抜のある大空間の居住域空調が問題なく実行できることになる。ぼくが着た頃から冷房運転もはじめていた。箱の家は、こうした様々な試みによって環境的コントロールが完全であるのに対し、住まい方については、内外に開かれた空間というコンセプトのもと、住まい手に自由が委ねられている。このことが特徴である。ただし、こうした開かれた空間コンセプトを、住まい手が使いこなすのも、反対にまた労力がいることだろうと推測する。一般に建築家は、箱の家の環境処理のように、様々なアイデアで、住まい方を提案する。それが受け入れられている。それは、提案が一家族に向けられているか、あるユーザ層に向けられているかの違いがあるもののハウスメーカも同様である。つまり箱の家は、住まい手に対して配慮する問題意識が、建築家とも世間一般と全く異なっている。このことに気づく。箱の家には、個々の問題とは別なところに大目的があるのだろう。建築家がひとつひとつの設計を如何に行うかを考えるのに対し、大目的にしたがって何が今回はできるかを考えるところに箱の家の特徴がある。したがってゴールがなく、果てしない格闘が続き、尽きることはない。難波さんがぼくにたいして批評した、コジェーヴからの引き合いを、思い出してしまった。この違いは、目的というものに意識的であるかどうかの違いだろうか?
075 W杯 ベルギー×チュニジア 
ベルギーは余裕で勝利。最後は、控えのアッタカー陣を送り出し、彼らも得点する。ドルトムントのバチュアイもその中にいた。怪我から復帰できたことを喜ぶ。
076 W杯 韓国×メキシコ 
韓国は4-4-2という陣形をつくりしっかり守って、カウンター狙いとしたが、反対にメキシコにカウンターを食らってしまった。陣形が自陣よりで、そこから速攻がかけられなかったからだと思う。反対にメキシコは、じっくりとボールを保持し、守るとボールを持たせ、ひたすら好機をねらっていた感がある。結局は、それで得点し逃げ切った。試合巧者である。韓国は最後、ソンフンミンが鮮やかなシュートでその存在を見せるも遅かった。韓国は敗退の危機にいる。
077 W杯 ドイツ×スウェーデン 
ロスタイムにトニクロースがフリーキックを決め、2-1でドイツが勝つ。あわやの危機からドイツを救う。やはりドイツはしぶとい。前半、引いてくるスウェーデンをドイツは攻めあぐね、反対に何度も速攻をあびる。今日はフンメルスが欠場で、もうひとりのSBボアティングが振り回された。2枚のイエローで退場させられる。10人となり、もうダメかとおもったロスタイムでの得点であった。とはいえあくまでもドイツは攻撃的であり、攻撃的ボランチ、ギュンドアンとクロースが交わされるとこうした状況に陥ってしまう。そのため今日は、ケディラを外し、ルディを先発させた。しかし、ルディは早々に怪我で退場。苦しい展開であった。たとえグループステージを突破しても、さらに精度の高いアッタカーに対するときどうするのだろうか?その戦いブリを観てみたいと思わせる。レーブの采配に注目する。

6月22日(金)
「スリーピー・ホロー」ティム・バートン監督をBSで深夜観る。18世紀後半から19世紀前半の啓蒙の時代をよく表現したティム・バートンの(ゴシック)ホラーサスペンスである。この時代に現れ始めた科学的見解とキリスト教を中心とした保守的霊的存在にたいする見解、この間に揺れる世界観を、ティム・バートン特有の面白おかしくミステリアスに描いた作品であった。首なし遺体は、はじめ恐ろしくもあるが、ストーリーが展開するにつれて、どことなく愛嬌のある子供的残虐さある不思議な感覚を呼び起こすものとなる。ティム・バートン節炸裂である。こうなると誰が犯人かという問題探究意識は薄くなる。つまり、近代の、答えを追いもとめようとする意味的追究思考よりも、幼い頃にあった、未知のものに対する好奇心による無我夢中の探究心の方が勝るのである。後者だけならば、ディズニーでも可能だろうが、ふたつの同時性はティム・バートンにしか描けない。エンディングで、高い塔に逃げ込むというのが、ティム・バートンの定番である。いつもは悪者が死に悪者の哀愁を残すものであるが、この映画では、主人公ジョニー・デップが真実の愛を掴んだところでエンディング。ティム・バートンファンとしては、少し物足りなさを感じたりする。
074 W杯 ブラジル×コスタリカ 
守るコスタリカにたいして、漸くロスタイムにブラジルが得点する。死闘であったと思う。試合後、まだ早いと思うのだが、ネイマールが感極まって涙する。

6月21日(木)
073 W杯 フランス×ペルー エムバペの得点でフランスが逃げ切る。ジルーを先発させ、連動が蘇った。しかし、ペルーの素早い攻守の切り替え、激しいチェックで、試合は拮抗していた。

6月20日(水)
今日から大学院の授業。マッキンゼーで行われた若い建築家向けのセミナーをもとに話をはじめた。このセミナーでは、建築家はもっと自らの特徴・個性に意識的になるべきというものであった。経営の視点からすると、建築家の行いはそう変わらないものとして見えるというのだ。それはある意味正しいことを認め、差異でなく差異を生む源についての理解が、大切であることの話をする。大袈裟にいうと、ぼくらは大文字の「建築」から逃れることができないので、それに意識的になり、自分の立ち位置に俯瞰性をもつべきであるということである。そこで今日は「モダンデザインの展開」ベブスナー著と「第一機械時代の理論とデザイン」バンハム著を引き合いに、1800年代後半に、絵画から、そして建築に波及した構成・空間という概念について話す。これによって、自我というものの存在が認識されるようになったのである。これは現在も支配的であり、一般人のぼくらが設計することを可能にしている。ただし、バンハムによると、この自我を芸術家は過剰に運用してしまい、それと違ってコルビュジエに代表される建築家は、社会と融合させようとした。このことを評価している。「モデュロール」に代表されるように、美学と産業のふたつに対して応えるものを提供したということである。
072 W杯 スペイン×イラン 
前半からイランは11人で守りに専念する。批判もあるだろうが、勝つためである。しかし、後半イニエスタのドリブル突破によって微妙にマークを外され、ジエゴによって均衡を破られてしまった。その後、イランが予想以上のビルトアップに成功していたのはよい意味で裏切られた。これまたビデオ判定で、一度はセットプレーから追いついた得点が、オフサイドとして無効になってしまったのだが、イランの攻撃力もなかなかのものであった。しかしこれでイランは、いよいよ最後にクリロナのポルトガルとの決戦に向かうことになる。

6月19日(火)
夕方、中埜さんの事務所へ。翻訳の途中経過打ち合わせ。羽生田さんとはじめてお合いする。単語の統一を確認し、羽生田さんの訳調にそろえることにする。その後、中埜さん特製のカレーで食事をしながら、W杯日本の戦いを観る。
071 W杯 日本×コロンビア 
日本代表は成長した。こちらが気を病むことが多かったが、選手たちはいたって平静にゲームを進めた。思えば、ベテランといわれる選手は、この日のために4年間を送ってきたのだ。自身のキャリアの下降気味でるこを自覚し、ある者はチームを直前に変え、ある者はあせることなく調整に費やし、最後にチームでのポジションを奪い返している。海外でのこのマネジメントには、かなりの能力と、自分を俯瞰的にみる判断力が必要とされていたことが容易に想像される。そうした4年間だったのだ。相手が開始早々10人になることを差し引いても、この成長は驚きに値する。個々の選手についていうと香川は、緊張が高まり、プレッシャーがかかるPKを、よくもGKの動きを冷静に見極めて決めたと思う。大迫にかんしては、相手に囲まれながら競り合いの中でヘディングを決めたことは、これまでの日本になかったことだ。前回ブラジルでは10人の引いたギリシアに攻め手を見出すことできずに、時間だけがすぎてしったことを考えると、今回は長谷部を中心に落ち着いたボールさばきで、相手を揺さぶることができていた。それで前半と後半の終了間際の2度ばかりの危機を回避できたといってもよいだろう。ドイツでもブラジル大会でも、一時のオーストラリアとカメルーンの猛攻にさらされると、コントロールを失った荒波の船のように大破してしまった。しかし今日は2-1で南米チームからの初勝利。これでいっそうのチームエンジンがかあるとよいと思う。少なくとも3戦まで楽しみを繫いでくれた。感謝である。その後、もうひとつのH組セネガルとポルトガルの試合も観る。予想に反し、こちらもセネガルが2-1で勝つ。セネガルは、身体能力に優れていることは了解済みも、かなり組織的に動いていたことが驚きであった。今日はマネはそれほどでもなかったが、ニアンが活躍していた。ニアンといえば、ミラン時に本田とよい左右でコンビネーションをつくっていたことを思い出す。本田は、ニアンを上手く使うことで、ポジションを獲得していた。ただその時のニアンは若く、スポーツカーを大破させるほどの大事故等をおこしミランの問題児であった。本田は何度もニアンに選手の自覚について警告していたと聞く。そうした甲斐もなくも、ニアンはビッククラブへの移籍も上手くいかずに現在に至っている。果たして現在はどうだろうか?思えば、今は世界を代表するポルトガルストライカーのレバンドスキーも、ドルト移籍時には、パラグアイ代表のルーカス・バリオスの控えであった。香川との絶妙な距離感を保ち、香川からアシストを受けることで、徐々にポジションを奪うことに成功した。当初は、香川やゲッツエ、バリオスのスピードある選手のポスト役として期待されていたと記憶する。それが大化けしたのだ。セネガルのマネも吉田のサウサンプトンの同僚だ。日本選手が海外選手に比べて臆することなどないことが、ここでも明らかになっている。

6月18日(月)
建築計画2の授業で、「だらだらとした建築」について。人の行動も、空間も今後だらだらと続くものになるだろう。そして、それに相応しい広い意味での環境が求められていることを話す。設計課題となっている学校建築も、教室のかたちがくずれはじめて久しいが、未だどう使いこなしていいか、使用者は模索中である。その理由のひとつに、これを成立させる環境的な問題が解決されていないことが多いという事実がある。この環境的解決が、だらだらした空間実現への突破口が開かれると思うのだ。これについて話をした。
069 W杯 韓国×スウェーデン 
韓国も負ける。引いてカウンター狙いであったが、引きすぎた。ペナルティーエリア内でファウルを犯し、PKにより0-1で負ける。これもビデオ判定で、しばらくプレーが続いた後PKが与えられた。スウェーデンは守備が堅い。韓国はいいところがなかった。ソンフンミンも叶わなかった。日本代表の前日インタビューも合間に放送される。西野監督は、引いて守ることなく、ポゼッションで立ち向かうという。前線からのプレッシングでしか、体格劣る日本に勝機がないということだろうか?先発は、香川と乾となりそうだ。
070 W杯 イングランド×チュニジア 
新生イングランドの戦いを観る。普段から目にしているプレミアとブンデスの選手はやはり目が離せない。イングランドは、トットナムの選手が多く、シティ、ユナイテッド、リヴァプールとバランスがよい。だが決してコンビネーションが良いとは言えない。ボールを保持し、中盤のサイド位置までボールを回すが、それ以降攻め手がなくなる展開が続く。中盤のタレント不足である。2点は、巨漢マグワイヤーとケインの力業の得点である。終了間際の逆転で勢いはついた。

6月17日(日)
オープンキャンパスで、2回のAO説明会を行う。例年のことであるが、受験生は真剣である。これに応えるのも大変なエネルギーが要る。
068 W杯 ドイツ×メキシコ 
メキシコの強さに脱帽。身体能力に圧倒的に劣るドイツとの1対1のデュエルに一歩も譲ることがなかった。しかし、ドイツに勝っていた能力にスピードがあった。はじめ、キミッヒのサイド攻撃に手こずっていたが、それに慣れると、絶えず、速攻を仕掛けて、ボアティングとフンメルスの2バックを脅かしていた。得点は、中盤でカットしてから縦へのワンツーで崩した。最後がエジルであったのも幸いした。GKはノイヤーであった。

6月16日(土)
067 W杯 フランス×オーストラリア 
2-1でフランスが勝つ。アジア勢は検討するも一歩及ばない。ビデオ判定によるものであるが、その是非よりも、ファウルをとられるようなタイミングとなってしまっているのは事実である。週明けの韓国に期待。

6月15日(金)
065 W杯 エジプト×パラグアイ 
サラーとスアレス+カバーニがクローズアップされるも、サラーは怪我から復帰できずに今日を終える。終了間際の1-0で、パラグアイが勝つ。戦術云々というよりも、1対1のぶつかり合いである。これがW杯ということであろうか。選手のアドレナリンがでまくり、前半から激しく、流石に後半は疲れてスペースが多く生まれるも、最後のところで肉弾戦となる。明らかに、スアレスとカバーニのシュートの鋭さは群を抜いていたが、そういうわけでゴールネットを許されなかった。しかし、最後は、セットプレーから、アトレチコのヒメネスがヘッドを決める。アトレチコのCB二人は、こういう試合に最適である。
066 W杯 スペイン×ポルトガル 
初戦から、すごいマッチメイキングである。3-3のドロー。クリスティアーノ・ロナウドがハットトリック。ジエゴ・コスタがダブル。前宣伝に劣らない激しい試合となった。いきなりスペインはPKを与えてしまい、このゲームも肉弾戦か、と思ったところ、その後さすがスペインは、冷静な組織的な戦いをしてくれた。スペインは、アトレチコ、マドリ-、バルセロナの混成チームであった。印象は、引いて守るポルトガルに対し、ベップが指揮するような、流動的なポジショニングで、徐々にDFを絞り上げるような戦い方であった。スペインにもなると、クラブ時のような組織的攻撃ができることを知る。1点目は、ジエゴ・コスタ1人のパワー+テクニックによる得点であったが、その後は、チームによって、完全に崩した。一方、ポルトガルは、どちらかというとレアルのような速攻を有効活用する。審判のジャッジもあったが、クリロナがそれを完璧に決めた。

6月14日(木)
「生きられた家」を読み終える。昨日ぼくにとって発見的であったのは、「人の象徴行為」というものであった。しかし本書後半では、これを、接近不可能な大それた行為として否定される。人は、その行動の深遠さ不可能さを知っていて、本物と対にある身近なまがいものを操ることに満足するという。むしろそこに人の生き生きした本質があり、それが「生きられた家」の根幹となるというのである。これにまた違和感を感じる。ただし、「パタンランゲージ」の位置づけが明らかになる。本質を示すものだとしても、その運用は俗的でよく、それで十分その機能は果たしているということである。
064 W杯 ロシア×サウジアラビア
FIFAランキング最下位の開催国ロシアが、日本を破ったサウジを圧倒したといってよい。何やら末恐ろしさを感じるのは、日本代表も同様だろう。サウジは、ロシアの4-4-2にブロックされ、上手い具合にカウンターを食らっていた。最初はミスに助けられるも、1点決められて、この流れから逃げられなくなってしまった。相手を見分ける経験がなかったということだろうか?

6月13日(水)
「生きられた家 経験と象徴」多木浩二著の再読をはじめる。読むにしたがい、これまでと異なる感想をもつ。不思議なものだ。これまで「生きられた家」を、住まいのあり方を微細に示しているものの、この思想を建築家のデザインへフィードバックすることが拒否されていると読んでいた。それで、「建築の四層構造」を持ち出して、この引き裂かれたふたつの橋渡しを目論み、それを、「住宅の空間原論」や今度の本にも書いた。したがってこの本後半の「象徴」は、書かれた時代がポストモダンの時代であることを差し引いても、少し違和感を残すものであった。今日の再読で、その謎が解けたような気がした。ここで言う「象徴」行為とは、社会が心の奥底で欲動するものなのである。欲動とは、フロイトが使う語であるが、ここでもバッチリこの語が使用されている。「欲動」の章では、「ブリコラージュ」も扱われている。一般には、既存のモノを上手く利用することをいうが、ここでは、その根源にあるなぜそんなことをするかが語られている。本書によるとそれは、「自分だけの文脈のなか」であることが重要であるという。そこに暗黙の信念があるというのだ。それは社会化されると、「神話」にもなる。(思えば、レヴィ=ストロース「野生の思考」そのものだ) したがって、ブリコラージュには、具体性と象徴性が同時に存在するものであるという。「人は閉じた夢のような、しかし、実際には宏大な世界に直接ふれるイメージにたわむれることがありうる」のである。むしろそこにこそ、人たるものがあるような言い方である。どうやら、象徴は否定されるどころか、根源的ものとして捉えられている。そしてそこに、つくることの意味が見出されると、今回思えてきたのである。

6月12日(火)
NHKで、江戸の歴史特集第2回。この時期の江戸が世界の大都市と比べても、1,2を争う経済発展を遂げた理由に迫る特集であった。それによると、江戸初期には、各地の大名が行ったインフラ整備による公共投資の恩恵と、その後の参勤交代により、大量の資金が江戸に流入したためであるという。しかし、あっという間にこのバブルははじけてしまったそうである。しかし中期以降の発展は、その恩恵で生活水準を上げた一般町人による商いを中心にしたという。これは世界と歩みを同じくしていて、日本でも文化が一般市民に支えられるようになった。よいことばかりでなく、それが生んだ貧富の差は、フランス革命を呼んだように、日本でも「打ち壊し」が相次いだ。しかし、この時期パリにはレストランというものがなかったという。ある書物によると、フランス語の識字率も低かったという。これに比べて、江戸では、蕎麦屋や寿司屋などが流行し、浮世絵も広まっていた。この番組によると、フランスとは異なり江戸幕府が倒されなかったのは、こうした状況を受けて、裕福な商人は、自治会によって富の再分配を行っていたからであるという。ヨーロッパのように、城壁をつくり、傭兵を募るような自治ではなかったことが強調されていた。
063 代表 日本×パラグアイ
西野監督は思いきったことをするものだ。先発10人を入れ替える。変えていなかった酒井高徳も、スイス戦で、前半交替させられていた。彼を勝負師と言う人が多いが、このことを言うのだろう。徹底して選手が機能するコンビネーションを模索しているようだ。その期待に応じてチームは、ゲーム入りから攻守のバランスがよく、セレッソ時代共に過ごしていた香川と乾、あるいは、代表で長く共にしてきた香川と岡崎が連動できた。思えば、後ろの昌子、植田、芝崎もアントラーズで時間を共にしていた。彼らはサブチームと言われているが、この阿吽の呼吸感が実ったかたちである。守備は、前回同様の4-4-2。相手DFをチェックする能力は、岡崎、香川とも所属チームで訓練されている。したがって前回の本田+大迫より上手く機能していた。後半から西野監督は、岡崎をトップ下にして、さらにレスター方式を模索する。香川をサイドに置くことになるが、そのバランスを見ようとしていたと思う。今日のかたちが上手く機能していたのは、最終ラインの昌子、中盤底の柴崎からの縦パスも大きい。これがよく決まった。しかしあたりがきつくなる本番ではそうは上手くいかないだろうから、それをカットされたときのDFの準備が問題にされるだろう。今日は4-2で勝利。ただし、パラグアイはW杯を逃し、コンディションもモチベーションも遙かにコロンビアに劣っているチームである。

6月11日(月)
計画の授業で、佐藤裕さんを迎える。彼が担当をした芦原小学校をじっくり解説してくれた。学生は、生活のリアリティを把握することが一番大切と考えてくれたようだ。

6月10日(日)
打ち合わせを兼ねて、鎌倉行き。荏柄天神社、覚園寺による。駐車場から寺までの途中に、多くのレストランがあった。夕方、翻訳。夜、W杯のバラエティを観るが、この番組くらいで、いつものようには盛り上がってはいない。

6月9日(土)
昨日のスイス戦について、代表のDFとFWとの間にギャップがあることを、選手のコメントから知る。ドイツ大会での選手の不満を彷彿とさせてくれた。DFは行き過ぎずないかたちでコンパクトにして欲しいようだ。FWは、このこところ点が取れておらず、前へ前へと厚い攻めを望んでいる。次のパラグアイ戦では、前線と中盤の選手を大幅に入れ替えるという。選手を入れ替えては、連動もないと思うのだが、よい組み合わせを模索しているのか、あるいはコンディションつくりを最優先にしているのか不明である。

6月8日(金)
「ゼロ・ダーク・サーティ」キャスリン・ピグロー監督を観る。ビン・ラーディン殺害まで至る経緯を、ジェシカ・チャステインふんする女性CIA局員マヤを中心に描いた。この登場人物設定が事実であるかは、定かではないが、迫力が十分であった。
062 代表 スイス×日本
今日、日本は慣れた4-2-3-1で臨む。トップ下に本田。守備では、4-4-2にして、引いてブロックする新しいかたちであった。もっとも、レスターにおいて、岡崎が生きる馴染み深いものであるが、岡崎出場なし。アジア勢相手と異なり、シュートのかたちすらつくれない。事態は深刻である。本田の判断力遅さを否定できないと思う。時折、フリーとなる大島からの長いスルーパスだけが光る。FW左右の宇佐美と原口が何もできないことも気に掛かる。後半から香川が登場。バイタルエリアで決定機をつくろうとするも、空回り。仲間とタイミングがズレている。0-2で負け、希望を見出すことができず、お先が真っ暗である。これをどう突破するのだろうか?

6月7日(木)
科学者らしくない発言に出会う。たまたま都合のよい実例を持ち出す。その例がどれだけ客観性あるものなのか、検証されていないのである。むしろ、世の中が科学的でないことが普通であるので、それを前提にすべきだと思うのに、それをしない。アカデミックな場所でも、そういったことが横行しているのである。

6月6日(水)
3年生の設計第1課題の講評会。プログラム条件から組み立て、完成度が高い作品が多い。これを良し、とするか迷うところでもある。続けて、次課題である小学校の課題説明。倉斗先生による学校計画と、温熱・光環境がここでは中心となる。環境からは学校計画で必要とされる設計上のヒントが挙げられた。これを参考に建築の4層構造の第2層を考えるとよい。最近、エコスクールが大切に考えられるのは、小さい頃から環境に関心を持つことが求められ、運営×教育×空間の大切さが一定の評価を得ているからだという。ただし、新しいエコスクールが以前の学校よりエネルギーを多く使用するのだという。これを運営の問題と指摘しているのだが、本当のところは、これまでは寒くても暑くても我慢をしていたのだろう。要求条件があがり、新しく設定された性能基準が問題にされる必要がある。そしてこうしたエコスクールは、パッシブ方法での解決が中心となるそうだ。ただし、時と場所によって光や熱は、プラスになるしマイナスにもなる。そのバランスを鑑みた組み合わせの多様さがデザインになるのである。その際、ローイーガラスのメカニズムを建築化するのがよいという。ダブルスキンはその典型だそうだ。他にソーラーチムニーもある。換気には、風力換気と温度差換気があり、風力換気では負圧と正圧の位置を見極める必要があるという。他に緑化もあるが、日陰のつくり方も温度と湿度のバランスでケースバイケースであるいう。つまり、シミュレーションが大切で、万能な環境制御はパッシブではあり得ないので、何を目的とするかというデザインコンセプトが大切なのである。ZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)が叫ばれているが、そのときは、アクティブな方法を避けられない。これが今後の課題だろう。続いて倉斗先生の計画からも同様に、学校では、理念×指導方法×空間の大切さが指摘される。1985年の宮前小以来、オープンスペース型学校が建築分野では増えてきているが、その運用を成功させるには長い道のりが必要なのだという。しかし、教えるー教わるというクローズシステムに疑問がもたれ、多様なオープン教育が求められる方向に間違いはない。それに加えて最近は、その方向が傷害者マネジメントに移ってもいるそうだ。ここでも環境が問題にされる。オープンスペースがもたらした学校建築は、環境制御が難しくなり、他のビルディングタイプ以上に光、風、熱が真剣にかんがえられるようになっているという。ソウフト面にかんしては、アクティブラーニングが中心になり、教育内容でなく、 どう実行するかが問題になっているという。打瀬小も当初OSを使っていなく、それも学級単位でしかなかった。その後、自主性、テーマ別学習、進行別学習などの実行が考えられることによって、使われるようになったという。居場所とアクティブラーニングとの関係として面白い。そういう先生も、教室が大きく空いていることの気持ち良さは受け入れてくれるという。反対に問題にされるのは、音響的にうるさく集中できない、感染症が広まるなどの不満である。そこで最近では、先生が気楽に使える稼働壁が重宝されているそうだ。観察によると、先生は、合同クラスを多用し、そのためOSは家具を置かないガラーンとした空間になるという。パタンランゲージにあるように、それでは子どもたちの居場所とならない。自由とは何かを深く考えさせてくれる問題である。地域と学校の関係も示される。芦原小では、「街づくりはひとつくりから」というコンセプトで、プロジェクトがはじまったという。3.11以降、避難所として学校のあり方も再考されている。被災後しばらくして避難所と切り離すことができる校舎配置が重要となってきているという。最後に、今後プログラムへの挑戦が求められた。可能性のあるのは、履き替え、体育館のボリューム、セキュリティという3つである。加えて、教室のかたちが、依然として方向性のない8M角である。空間はアクティビティを変えられる。それへの奮起が促された。夕方から、三沢悠子さんを迎えての大学院レクチャー。佐藤事務所時代から独立後の仕事を紹介してくれた。素材に対する探究心が凄い。佐藤さんは、モノを建築としてでなく、物性としてみるのだというのが印象的。それをギリギリに思えるのは、近代建築家が鉄骨建築を前にしときの態度とおなじであることに気づき、反省する。

6月5日(火)
就職セミナーで行われた遠藤研の元くんのレクチャーを聞く。5年くらい前に大学院を修了し、韓国での徴兵を経て、NYのOMAを経て今は隈事務所にいる。自信に満ちた生き生きしたレクチャーであった。3年生も勇気づけられたと思う。これを聞き、つくづく自信は大事だと思った。しかし、それはもって生まれたものばかりでなく、かつ一気に育つわけではなく、トライの繰り返しで大きくすることができるのである。その後、今村先生と元くんと食事で、意見交換をする。

6月4日(月)
「誰も知らない」是枝裕和監督をもう一度、気になるところをピックアップしながら観る。それだけ、衝撃的であった。そして少し考えが変わる。子どもたちが孤独のなか生き抜くためには、母親というものがもたらすイメージだけでも必要であった、このように思うようになった。物理的には母も全く別な人間であり、この映画の場合、それが現実でもそうであるのだが、そこに何かしらのつながりを見出すことで、人は生きていく。それは、イメージでしかないのであるが、実はそこに、かけがえのないものが隠されているのである。このことに気づく。

6月3日(日)
マウントフジの「道の駅 ましこ」に行く。ギザギザの集成材屋根の伸びが気持ちよい。それは、田んぼの中のランドスケープとも一体である。現代的な骨太建築に原田さんは意識的であるようだ。その後、内藤廣設計の「フォレスト益子」へ。20室程度の国民宿舎である。内藤さんに珍しく、繊細な建築である。時代性を感じる。マウントフジの方が、内藤さん風でもあるのが面白い。その後、重要文化財の西明寺へ。狭い敷地に建て込んだ伽藍をもつ。川口に戻り、伊東豊雄さんの火葬場へ。入ることができなかったが、岐阜ほど緊張感がないように感じる。錦織が全仏敗退。楽しみが半分に減る。

6月2日(土)
「誰も知らない」是枝裕和監督を観る。現代版「ほたるの墓」のようで、観るのがつらい。母親に見捨てられたこどもたちの世界を描く。子どもたちは母親に見捨てられても、それを認めようとしない。認めた瞬間に全てが壊れてしまうからである。子どもたちを支えているのは、ただその信念だけである。その姿が感動的を誘う。母性を子ども側から強く描いた映画である。その後、よく眠ることができなかった。

6月1日(金)
「ティール組織」翻訳再開。現代の複雑な問題は、これまでのヒエラルキー型の思考・組織では対応できないという前提が本書にはある。そこで組織や思考方法を、現代の複雑性に対応するティール型へ変更することを推奨するものだ。ティール組織・思考とは、自主性を重んじた横並び型の構造をもち、自然なヒエラルキーをもつ。それは人類が何千もかけて進化させてきたものでもある。しかしこれへの実行は難しい。本書では、その成功実行例を示すことで、ティールへの変換の可能性を示している。要は、個人的イノベーションを寄せ集め全体へ波及するにはどうしたらよいか、全体論への実践例を示すものである。しかし実践例を示せても、原因—結果という機械論的思考に慣れている現代人に説得力をもたせるのは難しい。これまでも、そこに根性論や、宗教といったスピリチャルなものといわないまでもケン・ウィーバーのように感知する能力、スピノザのように自然システムへの自己投入、近頃流行のより大きなシステム=アクターネットワークの中での位置付けといったものが歴史上にあった。その中で本書の特徴は、「進化する存在目的」なるものを示していることにある。人類の組織形態が進化してきた歴史を辿り、進化する存在目的の必要性を、あくまでも過程記述によって表現している。組織の進化の過程を、蟻が複雑な動きをしながら巣に進むことのように実況するものである。あくまでも進行形で表現すること、そうしながら「進化する存在目的」なるものを示している。このことに本書の新しさがある。アレグサンダーもこの全体論の実況的(過程記述として)を「オレゴン大学の実験」を著し、「存在目的」を「パタン・ランゲージ」としてまとめた。そしてその理論的な背景(状態記述)を、「時を超えた建設の道」で行ってはいたが、受け入れられずに、その活動は現在も継がれている。本書から感じられることは、そうした論理的説明より、より複雑な問題を上手く解決できることの重要さと意義である。こうした観点から、続けてハーバート・サイモンの「意思決定と合理性」を読むことにする。

5月31日(木)
「システムの科学」ハーバート・サイモン著の再読。この本が「ティール組織」の思想的根幹となっていることに気づき、再読はじめる。ハーバート・サイモンは、経済でノーベル賞を受賞したシステム思考の第一人者である。ぼくにとっては、どろどろした現実、あるいはその反対の理想を追いもとめた「ティール組織」に、俯瞰的説明を与えたいと思った。本書にはこれがあるという直感である。本書は、システム論という俯瞰した立場から、「ティール組織」の基本構造である「複雑性」について語る。そもそも「組織」とは、「集団目的が個人目的となる。p52」ことで成立する。「進化」とは、「ジェネレーター(多様性すなわち以前に存在していなかった新しい形態を生み出すこと)とテスト(自然淘汰)という2つの過程に依存するp54」考えである。この考えに従うと、「局所的最大化と全域的最大化」が同時に起きることで進化する。したがってダーウィンは片落ちであったという。これを別なところでは、「内部環境と外部環境」あるいは「組織化と自然淘汰」といっている。そしてその接面(インターフェース)に人工物(システム)がある。それが、科学であり、デザインであるというのだ。このふたつが等価に扱われているのが面白い。別なところでは、「部分と全体」「還元論と全体論」といっている。全体でもなく、部分からでもなく、両方を満足させることをデザインといっているのだ。したがって、デザインとは最適解でなく動的な満足解なのである。そして本書ではこの複雑性について、蟻を例に持ち出し説明する。「ティール組織」における自転車の例と同じである。「蟻は自分の巣がどこにあるか、大まかな方向感覚をもっているが、そこに行きつくまでの途中に横たわる障害物については、必ずしも全てを予知しているわけでない。(中略)蟻が歩いた路を幾何学的な図形としてみると、不規則で、複雑であり、記述しにくい。しかしそこにみられる複雑性は、蟻が歩いた海岸の複雑性を示しているのであって、その蟻の複雑さを示すものではないp65」。ティールの自転車の例は、これを当事者側から説明するものだ。本書は続く。「細胞や分子のレベルでみれば、蟻は明らかに複雑である。しかし内部環境の微視的な世界は、外部環境との関連における蟻の行動とはほとんど関係ないp63」。これを、準分解可能性という。「静的には階層的な構造を持っていて、動態的には準分解可能性の特性がある。そして準分解可能性はまた、複雑なシステムの記述を単純化し、そのシステムの発達や再生産に必要な情報がいかに適度に貯えられるかということの理解を容易にするp256」ものだという。サイモンはこの理解の仕方を、「状態記述と過程記述」とした。「複雑性の問題解決には、状態記述を与えたり、過程記述を与えたりして、この2つの記述の仕方の間でたえず変換作業を行う必要があるp250」というのである。つまり、複雑なもの(システム)とは、鶏と卵のどちらが先であるかという問題と同様、思考とシステムが不可分なものなのである。「ティール組織」は、この複雑性の理解を、過程記述で試みるものといってよいだろう。「創発」についても言及する。全体論では、部分から全体へのジャンプを説明することができない。サイモンによると創発とは、そういうときに要請される発明物であるという。「緩い意味では、創発とはたんに、複雑なシステムを構成する個々の部分が、それ単独では存在しないような、相互的な関係をもつことp205」である。つまり全体論は、還元論の焼き直しと考えられている。しかしそこに大いなる人の可能性を読むのは、考えすぎだろうか。「ティール組織」では、蟻の例における「大まかな方向感覚」を「存在目的(ちょっと霊的であるが)」といい、あくまでも「過程記述」で、この全体論問題を乗り超えようとしている。創発に当たる機能を存在目的に与えているのである。このことに気づく。夕方、中埜さんと新宿で打ち合わせ。途中、日本代表23名を知る。実績が重視されるものであった。世界と戦うには、世界を知っていないといけないという理由だろう。潜在的個人能力の突然の開花は信じられていない。

5月30日(水)
061 代表 日本×ガーナ
長谷部をリベロにおき3-4-3を試す。ガーナがハイパワーで攻めてこなかったので、これを検証することができず。一方、3-4-3による攻撃は不合格であった。厚いサイドからの攻撃が見られなかった。ホームで、W杯にでないチームに得点できないのだから、守備を固めることに終始し、相手を誘い出す初期対応を考えたらよいのでないかと思う。4バックで、MFに運動量を求めるのが適していると思う。
錦織の全仏2回戦を観る。錦織は、一度は崩れかけたメンタルを持ち直すことができた。フルセットの末、変人といわれているフランス選手に勝つ。

5月29日(火)
設計小委員会に出席。シンポジウム打ち合わせ。設計の目的論に話が進む。何のためのデザインかということであった。目的がしっかりすると、デザインはHOWよりもWHAT TO DOが大切にされることだろう。方法論よりもモノである。「フューチャーサーチ」マーヴィン・ワイスボード+サンドラ・ジャノフを読む。会議の進め方の本である。価値観の違いを超えて、それを受け入れるべき現実として捉えるための方法論である。隠されているテーマは、全体を、部分からいかにコントロールするかである。そのために、共有意識をつくり、それを未来と定めるためのコツがノウハウとして示される。しかしその共有意識が何かについては触れられておらず、実行のみが示される。アレグサンダーの引用も、この途中?段階の意識を示すものである。「外の景色が見えない部屋は、その中にいなければならない人にとって牢屋のようなものです。人は今いる世界とは違う世界を観ることで気分転換する必要があるのです。そして、外の世界は、それ自体が気分転換できるような変化に富んでいて、活気がある必要がありますp295」。この段階では、多様な価値観のみが示され、その先が見えていない。

5月28日(月)
「ワールド・カフェ」アニータ・ブラウン+デイビッド・アイザックス著(2007)を読む。主体性と創造性を高める話し合いのエッセンスをまとめている本である。リラックスしてカフェにいるようにミーティングするという意味である。二人は、ワールド・カフェという企業向けのコンサルタント会社の創始者である。続いて「オープン・スペース・テクノロジー(OST)」ハリソン・オーエン著ヒューマンバリュー訳(2007)を読みはじめる。OSTを実行するための手引書である。ノウハウ中心の実務書である。両著とも本のレイアウトセンスを疑う。これは、企業戦略立案思考とデザイン思考とにリンクがないことを如実に表す。このことに唖然とする。文化度が低いといってもよいが、経済活動に文化・歴史を必要としない考えが判る。「万物の歴史」が目的としていた人間性回復など少しも感じられない。ここにある人とは、企業の単なる一歯車でしかなく、その効率性を高めるための条件でしかないのだ。組織論が流行っているが、「ティール組織」においてこれらとの違いを出すとすれば、ここにあることに気づく。

5月27日(日)
「意識のスペクトル」ケン・ウィルバー著再読。1977年の出版である。はじめに、スペンサー・ブラウン、鈴木大拙、クーマラスワミの引用があった。このときは、意識のレベルが変われば知覚される世界そのもの様相を異にするというまでの結論であった。その後の20年後に「万物の歴史」が出版される。
060 CL決勝 リヴァプール×レアル・マドリード
サラが前半に怪我のため退場し、後半からゲームが動いた。各選手の能力は明らかにレアルが上で、押すリヴァプールに対しかわすレアルの前半であったが、ミスからリヴァプールが失点すると、この関係が崩れた。要所でレアルが得点を続き、盤石の勝利であった。これで今季全日程終了する。フットボールはW杯に向かう。

5月26日(土)
「万物の歴史」再読。読後のまとめの中で多くを気づく。この本では、これまでの科学に対する考えを否定している。これまでの科学とは、ニュートンに代表される機械論的、分析的なるもの、それに対置する全体論もふくめたものである。この全体論も、モノロジカルな現象を経験的・客観的方法で捉えているものに過ぎないという。ここが新しい。自然のとらえ方然り、人体のとらえ方然り、エゴもエコも否定という訳だ。スピノザも登場する。「純粋な自由は、自然の<大システム>、純粋な<エコ>への全面的投入にある」p439。エコの代表としてある。古いという。最終的に本書では、このエゴとエコをひとつに繋げるもの=スピリット<霊>が挙げられる。ちょっと引いてしまうが、物事が発達しリアルになるプロセスの中で生まれる直感のことである。直感の扱いも触れられている。<エゴ>を捨てるためには、直感が自分にだけ顕現するのでなく、皆にも同様に顕現すると思うことである。その調整が、社会的、文化的基盤と客観的な相関物を備えたコミュニティのなかの自己として顕現する。一方<エコ>を捨てるためには、エコは全体論的な概念をもった<エゴ>であると自覚することである。これを意識するのが、直感ということだろうか。結論は、事後的にものを捉えることなく、探究的なそれ、私たち、私(真・善・美)のひとつひとつを活性化するプロセスから自己の立ち位置を発見するということか、と思う。この3つが程よく調和したフラットランドは強く否定されている。「そして父になる」 2013年是枝裕和監督を観る。親子とは血縁関係にもとづくものか愛情にもとづくものであるかというのが表面的なテーマであるが、「万物の歴史」読後だけあって、「私・私たち・それ」に引き寄せて考えてしまう。物語は、主人公となる父が、産後直ぐに息子が取り違えられたことを小学校に上がる段階で知らされたことからはじまる。それまでは幸せに満ちた親子関係にあった。父と母と子の感情も、両者間の愛情面も、そして社会的バランスも取れていたのである。ところが血縁がないという外部(社会)要因がもたらされると、いとも簡単に全体バランスが崩れてしまうのである。それは大人の感情の乱れからはじまる。そのときの人はひ弱い。しかし最終的に主人公である父は、これに気づくことで、再び幸福=バランスを取り戻す父になるのである。つまり、家族とは、外部からもたらされる存在ではなく、親と子自身が家族であることに意識的で、確かめ合い、時間を超えた状態となることをいう。「万物の歴史」から学んだことであった。

 

5月25日(金)
「万物の歴史」ケン・ウィルバーを読み終える。この本は、「ティール組織」の参考文献として扱われている。1996年出版で、20年も前のものである。この本では、モダニティが失った人間性を科学的に回復することを目的としている。そして本書は、瞑想やスピリチャル(霊的)なものを持ち出していることに特徴がある。その点に、ついて行けないが、課題が「世界観」にある。カントの世界観「真・善・美」は、「探究のそれ・私たち・私」である。本来世界は、この三つ巴にあった。しかし、これら3つを差異化したまではよかったが、現在は、ひとつの「それ」=真のみが突出してしまっているという。それが人間性の損失ということであるが、判るようで難しい。自然が例として挙げられる。「自然は完全に調和のとれた、相互に関連したシステム」P193と捉えるようになってしまったことをいっている。別なところでは「相互に関連した存在の巨大な調和の取れた全体」P194といっている。これは近頃流行のティモシー・モートンの考えに近い。しかし、こうした考えを否定しているのである。これは、「私」「私たち」を抑圧し、感覚で捉えることができる自然だけがリアルになり、意識・文化といったものを益々崩壊させていくというのだ。むしろ、3つの再統合が必要であるという。昨年夢中になっていたOOO等は、メイヤスーの「有限性の後で」とならないことが、ここで明言されていることになる。この本の考えに沿えば、ホリスティックと思われていた考えが、実は世界を分化していることになる。衝撃的であった。ぼくなりに解釈すると、空間に名前をつけては、デザインの敗北である、ということかと思う(妙に昨日の本田の発言が引っ掛かってきた)。ところで、モダニティを代表とするものとして水晶宮が選択されているのが面白い。水晶宮は、内面的な知性の啓蒙、外面的な新しい経済・技術の合成物であるという。内なる魂と外なる社会とを一体にし、かつ非合理的、非科学的、未開野蛮なものの影もかたちもなくした透明な体系というのである。ぼくにとってはこのように、私的な立場からモダニティを俯瞰する視点が面白かった。

5月24日(木)
やっとのことで、本田圭祐出演の「プロフェッショナル仕事の流儀」をネットで観る。話題になっている程、本田節が炸裂している。面白いのは、この取材中にハリルが解任されたことだ。本田は、解任後の事後説明でなく、進行形として主張している。それによると、ハリルの縦へのコンセプトを実践上選手(特に本田)が共有できなくなっていたことがわかる。ハリルは強力なリーダーシップにより、チームをコントロールしていた。しかし共有できていた選手が結果を残すことができず、チームコンセプトにたいする公然とした批判が噴出したのである。それが海外組からのものであった訳だが、それが近頃話題の日大アメフト部員とは異なる点である。彼らは、順応型人間でなかった。ひとりひとりが代表における自己を客観視でき、チームが進むべき方向性をハリル同様、いやそれ以上にもち、主張していたことになる。ハリルのコミュニケ−ション不足というのは、ハリルが旧タイプの人間で、この包摂能力に欠けていたということである。ハリルのコンセプトがよいかどうかは事後的にしか説明ができないので、もうその検証は不可能であるが、マスコミから批判されるサッカー協会は、それより現代的な考えに少し進んでいて、解任決断の時間的問題はあるものの、正しい方向付けをした。ところで、最後の本田の言葉「プロフェッショナルとは、ケイスケホンダである」は、意味深い。カッコよく解釈すると、プロフェッショナルとは、もたらされる存在ではなく、本田自身がそれに気づき、告白し、時間を超えた状態、といっているようでもある。少し感動する。

5月23日(水)
多田先生と平岩良之さんを迎えての大学院講義。佐々木事務所から独立後の自身の仕事を紹介してくれた。近頃珍しく、かなり難解なプロジェクトに携わっている。それは、つくり方に関わるものが多く、アイデアと生産との間の方法論が彼の中心的な課題のようだ。そうした展望を共有してくれる彼に世話になる建築家は羨ましい。しかし反対に、広い意味でのかたちをつくる美学をもたなければならなくなる。これまでのプロセスを開き、世界観の変えることに美学をあてることもひとつあったのだが、3.11以降、これも難しくなってきた。存在目的がより重視されるようになったからだ。

5月22日(火)
「ティール組織」翻訳続行。素晴らしいフレーズにいくつも出会ったので、書き留める。フラー「目の前の現実と闘っても何もかえることはできない。何かを変えたければ、今あるモデルが時代遅れになるような、新しいモデルをつくるべきだ」。アインシュタイン「問題は、それが起こったときと同じ意識レベルでは解けない」。マーガレット・ミード「世界を変えることに打ち込んでいる少数の人々の力をあなどってはならない。実際、それこそが世界を変えてきたのだから」。マーガレットJ.ウィートリー+マイロン・ケルナー-ロジャーズ「もし私たちが、人間性にあふれた世界に存在することができれば、一体何を実現できるだろう?」 。夕方、鈴木竜太さん来所。リノベーションの打ち合わせ。いくつか案を出し合う。拡がりそうだ。その後の雑談でお互いの近況を批評。不思議なもので、同種の内容を助言される。こういうことを、シンクロニシティという。

5月21日(月)
計画の授業で、環境、構造、機能等の建築の綜合について話す。これらを「流れ」という言葉でまとめる。時間の流れを加えると、建築の四層構造となる。この「流れ」は、かたちのない中身であり、巨匠たちは近代以降、これをかたちにすることをテーマとしてきた。かたちないものをかたちあるもので表現することである。現在はその綜合性が求められてもいる。

5月20日(日)
住宅特集6月号が届く。芳賀沼さんとの縦ログによるリノベーション住宅が掲載される。縦ログ材は生材なので、外装材としての耐久性に劣る。それを内部において、しかもポテンシャルのある構造性能をフルに発揮した試みを前々からしてみたいと思っていた。古い建物は基礎が不安定である。それに対する提案として、梁と基礎とを縦ログ材を挟んで張力で緊結することを試みた。そして、古いなんともない普通の住宅の天井を剥がすだけで露出される構造体が、それとなく迫力を増して見えるのは、モノのもつ力であることを痛感するプロジェクトであった。作品としてはそこに追うことが実は多い。縦ログが白い箱であったらどうだろうと思うのだ。弟の3回忌として、家族で墓参り。その後食事。夜にテニスのローマ大会を観る。
059 ボカール杯決勝 フランクフルト×バイエルン
3試合の出場停止から、長谷部がボランチで登場。監督の彼に対する信頼の大きさを感じる。長谷部もそれに応えた。センターライン付近ではボールチェックをし、押し込まれるとDFライン中央にはいり5バックを形成する。決して1対1には強くないが、事が大きくなる前の事前処理能力が期待されている。そのため、他の選手は思いきり当たり、そのカバーを安心して長谷部に任せている。バイエルンもW杯が目前にあるためか、集中力が今一であったと思う。後半までのらりくらりとしていた。結果3-1でフランクフルトが優勝。長谷部は、ボルフスブルク以来のカップである。レバントスキー、ハメルと対戦し、間合いを掴んでくれたと思いたい。

5月19日(土)
千葉工大でCリーグ(千葉工大、千葉大、東京電機大、理科大)開催。古市徹雄氏、栗生明氏、川向正人氏、山本圭介各先生を特別審査員に、赤松佳珠子さん、長崎辰哉さんをゲスト審査員に迎える。今年で10回目である。各大学から4名が参加。10年も経つと、他大学と競うことで内容もさることながら物理量も上がる。EV階段に入らないほど模型が大きくなり、大ホールが模型と人でいっぱいになる。課題は10年間、自身の出身校を敷地にするものであり、最近は周囲とのつながりで小学校を皆が考えるようになった。その前は、居場所を提案するものが多かった。こうした発展の傾向をみることができる。しかしまだ、学校プログラムとの関係が言及されていない。これが、今後の余地だろうと思う。公開討論の後、最優秀案に千葉工大の水沢綸志くんの作品が選ばれた。地域性とみんなでつくることの参加に重点を置いた作品である。失われた参道を復活させ、その両側に学校を配置する案である。周囲を意識させた模型が美しかった。参道をまたぐ1階における学校の利用方法が問題にされたが、作品にかけた彼のエネルギーとプレゼでの堂々とした態度が評価された。惜しくも2等には特別審査員賞が与えられた千葉大の高力雄大くんの作品は、バランスがとれていた。実施されてもよいほど、細かく練られた作品であった。問題は、4つのゾーニング分けが学年に従うもので、そこに疑問が残されなかった点だろう。千葉工大の学生については、案が窮屈なものになっていたのが気に掛かる。作品を発散させて、問題を引き込むようにするのがよい。設計者の迷いが表れては、見る方がきつくなる。力が入りすぎたのかもしれない。その後、近くで懇談会。古市先生とゆっくりお話しをする。

5月18日(金)
夕方から、明日のCリーグのための会場設営。EDLの小池くん、中山くんを中心にがんばってくれた。一通り準備できたところで終える。研究室では、明日発表する佐藤くんのために、皆が協力。がんばってもらいたい。

5月17日(木)
058 EL決勝アトレチコ・マドリード×マルセイユ
シーズン最後に怪我から復帰に間にあった酒井は出場しなかった。酒井のいるはずの左サイドをクリーズマンに、マルセイユはやられてしまった。この経験を酒井にさせたかったと思う。0-2でアトレチコの圧勝であった。シメオネのリーダーシップに感嘆。選手ひとりひとりに、イズムが徹底されたピラミッドスタイルである。

5月16日(水)
「メイキング」再考。ぼくらは抽象化する傾向にある。そしてその方法に主体性がある。このことは、1800年後半の絵画に、構成が生まれたことから起きたことだ。このときセザンヌはやたらと長い腕をした人物を描いた。「メイキング」はそれが間違っているという。そこからこぼれ落ちたものたちが沢山あるというのだ。それが一作品の出来事ならともかく、世界が同様な思考をするようになっては、問題が大きすぎるという。例えば、経済優先というような。そこで提案されるのは、社会的文脈、文化的文脈を通して見ることである。そのためには、未来を予想しては、それをできなく、現状を感知—応答することであるという。そこに別の見方の主体性がある。ぼくらが自転車を乗りこなすとき、書道をするとき、あるいはスポーツでホームランを打つとき、日常的にそれをやってのけているのだ。建築の場合どうだろう。建築は扱う条件が広い。感知—応答という主体性を働かせることで、「メイキング」できるだろうか。そのためにこれまでの建築家が残してきてくれた文化的文脈というものが、道具(ガジェット)としてある。ぼくが「デザインスゴロク」や「建築の四層構造」に可能性があると思うのは、この点である。フラーが特異であるのは、感度のよいアンテナとしてこうした道具をもっていたような気がするのである。錦織の試合を久しぶりに観る。素人目にも、躍動しているのがよくわかる。「メイキング」における「文脈」は感じることができるのである。

5月15日(火)
昨日、「メイキング 人類学・考古学・芸術・建築」ティム・インゴルド著の読書会をゼミにて行った。発見的な思考は、つくることによってのみ獲得できるという大筋を理解しつつも、それを第1章に述べられている「内面化」できないのが悩ましいところであった。本書に従えば、それは実践で得ることしかないので、頭で理解することは難しい。それでも、いくつか考えるヒントが挙げられていた。「参与観察」。観察においても対象と距離をおくのでなく、働きかけなければならない。「応答」。世界との関係を調整することである。この世界とは、社会的文脈、文化的文脈のことで歴史である。生物においては「環境世界」(ユクスキュル)であり、動態である。それに「感知」「ダンス」「結合」することである。みずからの存在をいくらか他の生きものの特性と認め、他の生きものと交感することである。そしてそのために「交換装置」が必要とされる。あくまでも、「交換装置」を通じて受け身である必要があるわけだ。それは、「予測でなく、予期的発見」によって行われる。偉大な建造物などは、予期的発見の積み重ねによって創りだされたという。建築に引き寄せると面白い。以上のことは、「空間に名前をつけていくこと」である。しかし、それであると受け身であったつもりが、作品性を強くしてしまい、本書と反対の路を辿ってしまう。建築でいえば、これまでの方法と何ら変わりないことになる。つくることは本来主体的であり、それを受け身で行うには、「空間に名前をつけていくこと」ではなく「名前のない空間へ」(池辺)であると思う。ぼくがひっかった点はここにあった。もうひとつ、受け身というシステムを行う「ガバナンス」に関して主体性を発揮することでも、この疑問は解決できる。このあたりが突破口となると思うのだ。「ティール組織」で取り上げられているケン・ウィルバーの「万物の歴史」を読みはじめる。

5月14日(月)
森美術館の前田尚武さんを建築計画の授業で迎える。丁寧に美術館の定義をし、課題とされる美術館の位置づけを与えてくれる。美術館なるもの日本に6000館あり、その設定の仕方によっては、ヘビーな設備を必要としない美術館もあり得るのである。次に美術館の活動について説明してくれた。日本では、美術館は教育委員会の下に置かれることが多く、教育施設と考えられることが伝統的に多いという。最近はこれをラーニングといったりする。したがって、展覧会事業は低予算となり、新聞社やテレビ局との共催がメインとなる。その内容は、アニメなどとなる。伝統的に無料スペースも多いのも特徴である。前田さんがいうには、寺の「開帳」を引き継いでいるからだという。これを大阪万博のお祭り広場が決定的なものとした。ヨーロッパは、これに対し豊富な展示数が特徴的で、保守的である。そのため、ガラスなどの現代性が美術館に差し込まれる。アメリカは、個人コレクターが多く、展示のほとんどが戦後の現代アートである。慈善事業でこれを行うため、近頃は、パーティや結婚式などの目的にも広く貸し出す。年間200は行われるという。この早変わり方法が今問題にされているという。そのため、外観もユニークなものが要求されるのだそうだ。その後、前田さんが関わった美術館の説明。国内外に渡る。これらは的確にマネジメント要求に応えたものだ。新しい美術館対する一番の要求は、流行るかどうかである。時間毎の利用状況を視覚化し、様々な利用例も具体的に示していた。それに加えて目玉となるものの大切さである。商業的ではあるものの、これが重要であるという。ランドアートはこの点有効だそうだ。最後に現在開催されている「建築の日本展」について。建築を題材にして、テーマ毎に展示する試みははじめてであるという。建築の世界では意外にも正統さが要求され、これまで、○○運動とか○○生誕100年展等といった展示しかなかったという。対してアートの世界では、古典と現代アートを対比するような試みは多くあった。その折衷的なことを建築展で試みたという。

5月13日(日)
神奈川県立美術館葉山で開催されている「ブルーノ・ムナーリ展」へ行く。ムナーリが、自らの作品を完成した閉じたものにみられることを拒んでいることがよくわかる。作品は皆に利用され、開かれたものとなることを願っていた。ムナーリのキャリアは、後期未来派との交流からはじまったという。バンハムの「第一機械時代の理論とデザイン」によると、未来派は、フラーと並び、それまでの歴史との断絶を唯一成功させた運動であった。それだけ、非人間歴史主義的であった。この未来派とのムナーリの決別が、「役に立たない機械」という作品である。ガルーダの彫刻を連想させる一種の「やじろべえ」である。未来派とは反対の「人間が機械の主人である」ことを示したものとも考えられるが、人間も風を感じ、機械も風を感じる、という解釈もできる。事務所に戻り。「デザインとビジュアル・コミュニケーション」を再読。この本から感じることは、作品を閉じざるを得ないことにたいするムナーリのジレンマである。彼が作家たる所以は、作品として完成させるという事実にある。外部に開かれることを認めつつも、作家たる主体と他者の間のコミュニケーションに同化しては、ムナーリたるものの存在が必要なくなる。むしろその拘りが強いことを感じた。「メイキング」では、ゲーテが参照されていた。自分の身体と対象との境界を連続的に考える人として紹介されている。ムナーリは、ここまで結論を下せなかったが、作家として最大限に、自分を開くことを目指していたのである。ムナーリの子である認知学のアルベルト・ムナーリは、「身ぶりの英知」とこれをいっている。「身ぶりの英知」とは、「始めに行動ありき」(ピアジェ)、その後その精度をたかめ、内面化していくときに不可欠なものである。ポランニーは、これを「実際的知識」といった。「メイキング」では、この考えをさらに推し進めているようである。作品性はなくなり、終わりのない連続行為となる。今回の展覧会で「ペアノ曲線」というのも知る。「デザインとビジュアル・コミュニケーション」をみると、伊東豊雄の元ネタ、佐々木さんの本の表紙の源泉をつかむことができる。「ペアノ曲線」は数学的幾何学であるが、これを手作業で展開してみせたのが、伊東さんの「台中オペラハウス」とも言えそうだ。伊東さんは、この方針で進むことなしに、「みんなのいえ」に向かったのは、なぜだろうかと思う。

5月12日(土)
057 ブンデス ホッヘンハイム×ドルトムント
今季最終戦。1-3で負ける。順位を4位に落とし、CLストレートインとならなかった。それにもかかわらず、積極的な攻撃に出なかったのが、不思議である。若きナーゲルスマンとご老体シュテ-ガーの差が出たと思う。選手に戦術とモチベーションを与えられていない。香川は、75分から3月ぶりに出場も、何もできず。W杯選出に暗雲である、

5月11日(金)
夕方、中埜さんの事務所行き。第1弾の翻訳を終える。深夜BSで「プライベート・ライアン」スピルバーグ監督を観る。開始早々20分以上続く戦闘シーンの迫力に圧倒される。この密度感が映画の醍醐味であると思う。「メイキング」ティム・インゴルドの再読。池辺さんの考えと重なることが多いことに気づく。キーワードを上げるだけでも、「形を生み出すシステム」、「つくることのプロセス」、「発見するのはもの自体であり、もののデザインではない」、「予期的な発見」「見るということは離れて持つことである(メルロ-ポンティ)」、「物質に従え(ドゥルーズ・ガタリ)」、「運動のさなかの思考(シーツ・ジョンストン)」、「空気はエージェントである」、「太陽が目のごときものでなければ、どうして空で輝くことができようか(ユクスキュル)」、「語るということ」など「デザインの鍵」に似たものが多い。ユークリッドの元来の意味が異なっていることにも驚いた。これを整理する。

5月9日(水)
ゼミにて、設計をホラクラシーミーティングでやってみる。昨年からはじめた。敷地条件からはじまり、他人がおいたパーツを手掛かりにリレー方式でかたちを積み上げていく。かたち遊びに近いが、これまでの機能性重視の頭を解きほぐすことを目的とする。「デザインスゴロク」の紹介も改めて行う。この凝り固まった考えをほぐすのに、デザインスゴロクは最適である。ホラクラシーのいわんとすることは、問題を感受し、それに応答することである。これまでは、未来を予想し、それをコントロールしようとすることであった。科学、人生観など全てのことがこのフレームワークに囚われている。ユートピア志向といってもよいと思う。しかし一方でこの予想しない、コントロールしいないということは、暗中模索の中を進むので、実は怖いことである。そこで登場するのが「デザインスゴロク」である。手近な道標となり、ぼくら知り得なかった存在を知らしめてくれる。

5月8日(火)
1年生に向けて、「建築と絵画」に関して授業をする。先日、体験した「赤いチョッキの少年」セザンヌをもとに、「モダンデザインの展開」ベブスナー著と「第一機械時代の理論とデザイン」バンハム著の概要をかい摘まんで紹介する。「赤いチョッキの少年」に見られるように、1800年後半に、画家たちは、「構成」というものを手にして、かたちを自由に扱うことができる主体性を獲得した。あるいは、シャガールのように、淡い点表現による「空間性」を獲得した。後者の精神がアールヌーボーへ、前者が近代建築へと展開していった。前者は、アートの世界では、「分解・再構成」を繰り返しデュシャンに行き着き、個人的世界へ迷走してしまうのであるが、建築の世界では、この分解がコルビジュエによるモデュロールによって、生産や人の身体性と結びついていった。これに代表されるように、建築は社会的であるべきことを指摘した。ある学生から、建築の社会性について質問を受ける。ぼくのレクチャーに同意したのか、違和感を感じたか、確かめたかった。この学生も高校生の頃から、建築の社会性のなさがなぜかを考えていたという。

5月7日(月)
計画2の授業。美術館で大切にされる「シークエンス」の説明から、これを超えるための建築家の試みも合わせて示す。ふたつを使いこなしてほしい。夕方ゼミにて、「ホラクラシー」の読書会。「研究室が掲げる問題」を題材にして、実際にホラクラシーミーティングを行ってみる。ファッシリテーターの技量が大きく進行に関わってくるが、面白い体験であった。ホラクラシーミーティングでは、正解という結論を目指さない。現在「感じる」ことができる問題に応えるだけである。それを積み重ねて行く。これを進化といっている。ただの言葉遊びにならないように、真剣さとプロセス管理(ガバナンス)が重要となる。真剣さは、自分をさらけ出すことである。それができないと、これまでの慣行から考えられる結論を逆算した応えになってしまい、陳腐なものになる。この真剣さ、あるいは自分の問題として積極的に考えることができるかのための実践が、本書で示されている。そのためには、ヒエラルキー構造をなくし、フラットなホラクラシー型(全体が部分であり、部分が全体であるような構造を維持していくガバナンス)が考えられている。

5月6日(日)
新国立美術館で開催の「ビュール・コレクション 至上の印象派展」へ行く。明日が最終日であった。なんと言ってもセザンヌの「赤いチョッキの少年」を見たかった。思ったより大きい。1890年前の作品で、ポーズこそは伝統的構成に倣っているものの、長く引き延ばされた腕が異様である。これは、写実でなく、絵としてのバランスから来たものであることがよくわかる。背景が黒っぽく、白い腕を中心に映える構成である。既に抽象画の領域に入ったようにも思える。つまり、構成というものを手にして、画家は自らの主体性を大きく放ったことになる。ここから、絵画が新しい領域に突入して行った。ゴッホのコレクションも充実している。彼の成長を確認できる。生前は理解されなかったことも理解できる。終始、名作からインスピレーションを受けようとし、自分と格闘しているのがよくわかる。その実直までの無骨さが、評価に勢いをもたらさなかった。最晩年の花の絵は、これまでと打って変わって穏やかで泣かされる。もうひとつ見たかったのは、ブラックである。「ヴァイオリニスト」のひとつがあった。中央下のヴァイオリンが浮かび上がって見える。これは現物でわかったことである。コーリンロウは、ピカソと対比してこれをフェノメナルな透明性といった。目からだけでなく、五感で感じてわかるという意味である。このことを実感する。

5月5日(土)
森美術館で開催中の「建築の日本展:その遺伝子がのこすもの」に行く。前田尚武さん責任の展覧会である。建築展覧会らしく、コンセプトと空間構成がしっかりしている。大きな空間、暗い空間など空間バリエーションが豊かに連続し、鑑賞を飽きさせない。現代建築を歴史上の先端にあることを位置付け、そのための9つのテーマが展示室毎に位置付けられる。建築の学生にとって、教科書のような扱いである。ただし、齋藤誠一さん率いるライゾマティクスアーキテクチャーによるデジタルアートを駆使し、これまでの建築展とはことなり、建築提案を身近なものにしている。9つのテーマは、「木造・技術」「わびさび日本美学」「屋根」「(伝統)工芸」「日本らしさ」「折衷」「日本社会・ムラ」「発見された日本」「共生・環境」である。一筋縄では行かないテーマ設定が日本的ということであろう。伊東忠太やシンドラーなどの外からの目を入れているのが効果的である。夕方、妻の親族の通夜に出席。帰宅して、女子の卓球の決勝戦を観る。
056 ブンデス ドルトムント×マインツ
香川がまた足の故障と聞く。ベンチ外。武藤がDFの前に素早く抜け出しヘディングでゴール。マインツは残留を決める。マインツの真剣さに比べて、ドルトムントは今一集中力に欠け、引く相手にたいして縦パスを幾度も試みるも、1-2で負ける。チームとしての目標がなく、怪我を恐れ、W杯に意識が向かっている。

5月4日(金)
天気が良いので、八ヶ岳まで遠出をし、村野藤吾の原村美術館へ。エコーラインという農道がある。緩やかに下る畑を見下ろすことができ、斜面とは垂直方向に走る道路である。これが気持ちよく、幾度も訪れる。いくつかの別荘地があり憬れる。それを突っ切り、ビーナスラインへ。ガムラスタンという店名に引かれてそこで食事。ストックホルム郊外の美しい伝統的建物が並ぶ町である。店内はGWとあっていっぱい。上り渋滞がひどく、ふたつの温泉で時間を潰す。

5月3日(木)
東京駅ステーションギャラリーで行われている隈研吾展へ行く。訪れている人の年齢層が幅広い。これまでの作品を、素材を中心にして紹介する。新しい解析技術や、成熟した産業を巧みに建築に応用した新しいモノつくりの提案である。これは、90年代後半からの日本建築の特徴でもあった。ぼくもその初期に大きく関わったと自覚している。IT革命がもたらした情報の開示によって、意外な展開が様々なところでにおきたのだ。建設という巨大産業の、様々な専門家の中心にいた建築家が、この恩恵を利用することが最も可能であった。しかしさらに情報開示が進み、情報が専門家の手から一般の人へも行き渡るようになると、情報が錯綜し、専門家には巧みなマネジメント能力が必要とされるようになった。特に2005年の姉歯事件という専門家による不祥事件頃からその傾向が強くなった。隈研吾はこのマネジメント能力にも長け、今日のこの展覧会にまで至っている。というより、こうした恩恵を実践するハンドリング具合をわきまえていた。それを用いる場所や強度の操作が群を抜いていた。現在もこうした傾向は続いている。ただし、最近になって漸くその詳細が判明してきた環境問題と密接に絡むようになった。それは、大規模プロジェクトで試されるもので、建築家ではなく企業にしか追えないものとなっている。開放されたはずの情報が反対にコントロール化されている。この現状を考える必要がありそうだ。その後、内藤廣氏がインテリアを設計した虎屋に行く。椅子座り心地よさに感動する。
055 CL ローマ×リヴァプール
第1戦の大量リードによって、リヴァプールは落ち着いたゲーム運びを行った。それが、ゲーム開始直後のローマナインゴランのミスを誘った。最後は意地のローマに逆転されるも、リヴァプールが決勝の地にコマを進める。それにしても、日本が対戦するマリのスピードは群を抜いている。ゴム鞠のように躍動感がある。チームメートであった吉田との対戦は楽しみである。

5月2日(水)
彰国社行き。最後の打ち合わせ。事務所に戻り、「はじめに」を再考。少し切り口を見直す。翻訳続行。ほぼ終える。
054 CL レアル・マドリード×バイエルン
今日のセカンドレグもバイエルンがゲームを支配するも、引き分け、レアルが決勝に進出する。後半早々の痛恨のバックパスミスがバイエルンは痛かった。それにしても、両チームの技術力の高さに感服する。トラップがピタッと足下に収まり、テンポ良くボールが展開する。精神的な余裕から来るものだろう。流石に、ゴール前では慌てる様子が見られるが、日本人もこの精神的余裕の幅が必要と思う。時としてCL決勝はW杯に響くと言われている。選手が休養する余裕を与えないことになるからである。日本の相手となるポーランドのレバントスキーとコロンビアのハリル・ロドリゲスはここで姿を消すこととなった。

5月1日(火)
ブラタモリは銀閣。銀閣の広縁からの庭景色を始めて知る。ここから日本文化がはじまったというものであった。タモリたちも同仁斎を堪能する。これを歴史的位置づけからでなく、地形から読み解くのが面白い。この番組の後で、江戸の特集を観る。150年前の江戸の町写真がオーストリアで発見された。江戸城も存在し、その周りは立派な瓦屋根の長屋が囲んでいた。その風景は美しい。現在の下町のような雑然としたカオス状況ではなかった。この江戸の都市計画は堀を中心に進められたという。江戸の堀は、螺旋状を描きながら大きくしていったということを知る。それは、今でもその面影を追うことができる。コルビジュエのムンダネウム構想のようだ。それと江戸に関するもうひとつの解釈に興味をもった。江戸も西洋と同様の石の町であるという指摘である。木や紙の町でなく。江戸の町は、大石による擁壁工事の上に成立しているという指摘であった。参勤交代のように、全国の大名が、この造成のためにかり出され、お金を出資させられたという。石の多くは伊豆から切り出し、海上から江戸まで運ばれたのだそうだ。陣内さんが出演していた。

4月30日(月)
秩父行き。谷口吉郎の秩父セメント工場を観る。その後、キャンプPICAの温泉でくつろぎ、昭和の映画館をリノベーションしたイタリアンレストランで夕食。木造のシザーズトラス構造であった。奥行きが浅く、当時の使用方法が読めなかった。

4月29日(日)
053 ブンデス ブレーメン×ドルトムント
ドルトムントはしっかり固める守りを攻めきれず、1-1のドローに終わる。香川不出場。次戦にお預けだ。どうやら負けないという消極的指示があったように思われる。縦パスを少なくし、ゲッツエやロイス、プリシッチはサイドに張り付き、DFが出し所を見出せなくとも、ボールを受けるような無理はしなかった。

4月28日(土)
052 プレミア クリスタルパレス×レスター
岡崎はまだ怪我のようだ。代わりにイグアナチョが先発。しかし上手く機能しない。後半から、このポジションが交替させられるのは、岡崎と場合と同じだ。それでも好転はしない。順位上位を狙う期待ができなくなり、ピュエル監督の求心力が弱まっているためだ。監督に明確な戦術方針を出す必要があるのでないか?

4月27日(金)
彰国社で出版会議。最後の方針を決める。その行き帰りでハリルボシッチの弁明会見をYouTubeで全てを観る。ハリルは、90分間しゃべりまくった。そのエネジーに完敗する。その中でハリルは、田嶋会長が解任原因にあげたコミュニケーション不足の有無を問題にする。いっそのこと、欧州遠征での結果が悪かったと言ってもらえれば納得するというものであった。本当に直接的だ。田嶋会長は、ハリルに対して、おそらく敬意を払って、指揮内容の是非をいうことを忖度してしまった。いっそのこと、はっきりとコミュニケーションとか言わずに、はっきりとゲーム内容について言及をすべきであった。むしろこの点のコミュニケーションが失敗したのだと思う。明らかに、マリとウクライナ戦では、チームとしての一貫性は見られず、気のないゲームであった。これは事実であったと思う。もっと具体的に言うと、ハリルは縦への突破をコンセプトにしていた。それは、ベテランの本田、香川、岡崎でなく、大迫、原口、浅野、井手口によってなされるものであったのだが、その彼らが所属チームで全く出場機会を得ていない状況であった。そのときに彼らの代わりになる選手が見出せず、かといってチーム方針を変えることも、ハリルはできなかった。協会にとって、ぼくらにとってもこれが最大の危機であったのだと思う。ちなみに、会見から解任の真意を総合的に判断するに、本田の明確な行動が一部の選手と協会を動かしたことになる。本田は、監督にも直訴していたというので、本田の堂々とした行動力にハリルが屈したかたちがこの結果のようである。

4月26日(木)
051 CL バイエルン×レアル・マドリード
バイエルンが攻め立てるも、1-2で負ける。C・ロナウドを完全に押さえていたにもかかわらず、である。いつものように、DFを囲い込むことに成功していた。ただし、最後のフィニッシュまで至らなかった。

4月25日(水)
050 CL リヴァプール×ローマ
リヴァプール前線の3人はめっぽう速い。彼らが攻め続けた。そのため、ローマDFは慌て規律をなくし、セカンドボールもことごとく拾われていた。ただし、5-0となってから気が緩んだろうか、一休みしたところで2失点する。ローマに希望を与えることになってしまった。

4月24日(火)
設計方法小委員会に出席。出席者が少なく、今後の方針についてのブレインストーミング。その中でテーマが、新しい設計・施工体制。合意形成のためのファシリテーションから、プロ同士のコラボレーションのためのファシリテーションに収束する。様々な意見交換。「ティール組織」も加えられる。現状打開のための分析から実践へ、ということだろうか。これを実践するために便利なアプリも知る。研究室で利用してみよう。深夜、キム・ジョウンの特集を観る。39号室というキム直轄の外貨獲得のための組織があるのだそうだ。世界各地にいる北朝鮮職員が獲得した外貨がそこに集まる。父、  が考え、ジョウンによって完成されたという。これによって政権維持が確実なものにしている。同時に今日は、中国観光客が遭遇してしまった事故のための病院を視察する人間味のあるジョウンがニュースで紹介される。情勢の変化はかなり速い。

4月23日(月)
設計の授業で、河内さんと佐野健太さんのショートレクチャー。河内さんらしい自作のかたちの意味を与えてくれた。グリッド空間に球を挿入する意味と空間的効果についてであった。佐野さんは、伊東さんの作品の紹介からはじめ、建築の可能性を拡げる話をしてくれた。学生にとっては、施工という新しいキーワードが加えられたと思う。「アイデアキャンプ」の読書会。その後、皆で実践する。意見が活発に展開し、5月のゼミ予定をこの方法で決める。

4月22日(日)
龍ヶ崎の現場行き。今週木曜日に行われる新建築誌の撮影に向けて、工事が追い込み段階に入る。田畑の中にある昭和の農家から突き出た縦ログが印象的である。縦ログは、構造的にも断熱性能も、日本の抱える木産業においても、優れた構法といえるが、外壁としての耐候性に劣る。いつか、室内に置いて耐震補強として、使用したいと考えていたところ、この昭和の民家の改修で実現できた。屋根から突き出た縦ログ材は、一種のシンボルである。昭和の民家を立派に新しい木造が支えている。錦織のモンテカルロツアー決勝戦では、王者ナダルに全く歯が立たなかった。テニスにおいて強いとは、得点が必要なときに一気に攻め込むことができることである。このことを今日も痛感する。反対にそれに耐えることができると勝機が開けていく。
049 ブンデス ドルトムント×レヴァークーゼン
香川のベンチ入りを期待したが、それはかなわなかった。バチュアイ負傷のため、大きくスタメンを変える。トップ下にロイス、ボランチにヴァイグル、その前にゲュツエである。サイドに、若いサンチョを置く。これが当たった。もっとも、レヴァークーゼン戦はいつもオープンな撃ち合いになる。これに適した選手配置であった。中盤ボールをキープし、トップが自由に走りまわっていた。今日は、左のサンチョが特に良かった。一度サイドで起点となっていた。

4月21日(土)
翻訳のために1日を使う。途中、若冲の特集をNHKで観る。「樹花鳥獣屏風図」は、解体新書にある挿絵、ノアの箱船をヒントにしたものという指摘が面白い。このころ鎖国が緩くなりはじめ、もの新しい情報が多く流れてくるようになったそうだ。それに敏感であったというものである。錦織の準決勝を観る。錦織が怪我をしているあい間に台頭著しいズベレフを破る。様々な攻撃パターンを繰り出し、勢いがあった。安心して試合を観た。明日の決勝戦が楽しみとなる。

4月20日(金)
建築学会に行き、今年の東北大学での学会梗概のプログラムつくり。はじめての参加で、学会というものの様子が判る。どの世界にもその世界の作法があり、その世界の内的平衡を保ちながら、対外性を保っていることがよく判る。社会への貢献もさることながら、研究発表というものも、学会に所属する人の位置づけを、内部的にも対外的にも位置付けるものであるのだ。対外的には、その人の評価に客観性を与え、内部的には序列化と組織強化するものである。人はどうやってこういう仕組みをつくり出したのだろうと思う。建築家においては、こうした組織体制否定が現在一般的である。これにたいして、ぼくはむしろ批判的であるのだが、一般社会においては、そうした意識がまだ薄いのだ。このことを感じた1日であった。今日も錦織の試合を観る。ランキング3位のチリッチに勝ちきる。チリッチは、第2セットで膝を痛めてから、捨て身の作戦をとる。とにかく、強く振り切り、失敗もするが、意外と数多いスーパーショットになる。解説者によると、これまでにないチリッチの出来だそうだ。簡単に勝利を掴めるそうな気がしたが、実際に錦織は悪戦苦闘する。それでも3セット終盤でブレークして、勝ちきった。問題の手首は痛そうであった。

4月19日(木)
深夜錦織の試合を久しぶりに観る。今シーズン初めてである。精神的にハラハラする。最後は勝ちきることで喜びも倍増するのであるが、これがテニスの他のスポーツとは異なる面白みだと思う。「アイデアキャンプ 創造する時代の働き方」中西泰人著の再読。人には創造という能力があり、それを客観的・論理的思考と対立させている。その能力を発揮させるためには、主観的に身体的環境を変化させなければならない。それを象徴する言葉が、「キャンプ」である。数々のアイデアはいずれ収束させなければならないが、まずは発散させることの重要性が、この本のテーマである。参考文献にオーエンの「オープン・ススペース・テクノロジー」、アニータ・ブラウン、アイザックスの「ワールド・カフェ」、ワイスボードとジャノフの「フューチャーサーチ」。ルフェーブルの「空間の生産」、ユクスキュルの「生物から見た世界」、ハーバート・サイモンの「システムの科学」が挙げられている。

4月18日(水)
4年生を研究室に新しく迎えるにあたって歓迎会。「ティール組織」を読んでいることもあり、お互いで質問を繰り返すことで、コミュニケーションを深めることをやってみる。当然のことながら、もう少し工夫が必要であることが判る。帰宅後、なでしこが中国を圧勝していた。

4月17日(火)
「ティール組織」の翻訳に没頭。そのためこの頃読書できないのので、少しストレスが溜まる。深夜、キム・ジョンウンの特集を観る。これまでガキ大将のように考えられていたが、実は強かな戦略を張り巡らす策略家であるという特集であった。今日までの日米韓、中国の動向は、彼の思い描いたシナリオに従っているという。果たしてそうしたことは可能なのだろうかと疑問に思う。そのくらいの力量があるなら、もう少し国富を貯めることができてもよいと思うのだが。

4月16日(月)
建築計画2授業。難波さんの「建築の四層構造」中心に「建築」と建物の違いを説明。「建築」には、4層構造全てに対しての何らかの解答がなければならない。ディズニーランド施設が、誰にも親しみがある一方で、「建築」として扱われない理由がそこにある。その後、設計授業で扱う美術館課題をもとにして「第3層」の解説を行う。今日の授業のテーマである。「第3層」とは機能層である。一級建築士試験は、ほぼ第3層を問うものであることを前提に、これを解くことを課した。実際に黒板で解いてみせる。ただし、繰り返しになるが、「建築」にするためには、ここで具体的に示した例えば「裏と表」というような計画術を超えたものにする必要がある。

4月15日(日)
048 ブンデス シャルケ×ドルトムント
ドルトムントは、なんともはっきりとしない攻撃を続け、シャルケに完封させられる。昨季は、トゥヘルが、強烈なキャラクターと戦術でチームを率いた。それは、チームに歪みを生むほどのものであった。現在のシュティンガーは、反対に細かな指示は選手にないようである。ドルトの選手も優秀ではあるが、個で打開するほどのスーパースターはいない。トゥヘルがいなくなり、その空虚感をボー然と見守るだけの試合になっているように感じる。なかなか選手コントロールは難しいことを知る。

4月14日(土)
047 プレミア バンリー×レスター
岡崎先発もいいところなしに、前半で交替させられる。このところ、レスターの型にはまらない。岡崎に原因があるわけではないが、その原因探しのしわ寄せが彼のところにくる。後半から登場のイグアナチョがアシストを決める。レスターはこの繰り返しを続けてきた。いつか型にはまるようになり、岡崎定着となるのだが、今季はあと数試合しかない。

4月13日(金)
046 EL ザルツブルク×ラッツィオ ザルツブルクが一気にひっくり返す。攻撃だけでなく、守備からの展開にスピードが長けていた。インザーギがラッツィオの指揮をしていたのはビックリ。モンテッラといい、ミランを追い出された若手が指導において活躍をしている。

4月12日(木)
夕方に鈴木くんが来所。ナチュラルアングルの増築計画の打ち合わせ。子どもが大きくなり、新たな有ペース分割が求められている。流れるような空間を仕切る方法を検討する。
045 CL レアル・マドリード×ユベントス
今日もイタリア勢が完璧に試合をコントロールし、今日も奇蹟を起こすかと思われた。しかし、95分過ぎにPKを与えてしまい、レアルがベスト4に進む。0-3にした時点でユーベは一呼吸置いてしまった。そこから流れを引き戻すことはできなかったことになる。それにしても今日のユーベは、前戦では綺麗なラインコントロールを行い、スペースを消していたのだが、これとは異なり、マンツーマンに近いかたちでロナウドやベイル、マルセロを押さえ込んだ。セルジオ・ラモスが出場停止であったことも影響した。前回不出場のマンジュキッチの攻守走り回る貢献度も大きいだろう。バイエルン時代とは大きく変身を遂げていた。

4月11日(水)
ゼミにて、「メッセージ」ヴィルヌーヴ監督を観る。観るのは3度目になるが、いくつか発見もあった。普通に考えると、主人公のルイーズは予知能力を授かったと言うことであろう。ただし、映画がエンターテイメントであり、正確性を求めるものでないとすると、むしろ予知能力など得られるはずもないので、人が正しいと感じ、思い込むことで時に世界を大きく変えることもある。とも映画を解釈できる。この映画では、ふたつの思考方法が紹介されている。ひとつはぼくたちが今もっている、原因-結果という時系列で事象を追いかけるもの。対自で考えることである。もうひとつは、経験からくる事象に、感じて反応するものである。自転車の例を挙げた。自転車を乗ることができるために、いちいち、降りては反省して修正したりはしない。試行錯誤が壮大な情報処理を行っているという事実である。ヘプタポットはこれを操っていた。ここには、時間という概念がなく、ぼくら時系列から考える世界観からは、ヘプタポットは予知能力があると言うことになる。ぼくとしては、後者の思考方法が、物事を変えていくときの大いなるヒントとなると思うのだ。そのため今年の初回ゼミで、この映画の鑑賞会を行った。
043 CL マンチェスタC×リヴァプール
クロップの人間性溢れるアグレッシブな戦法が、グアディオラの緻密な機械のような戦法を破った。ドルトがバイエルンを破ったときのような感情が蘇った。しかし、前半終了間際のオフサイド判定が正しくなされていたら、この結果はどうなっていたかは判らない。グアディアオラはこの判定に怒り、退場処分となった。
044 CL ローマ×バルセロナ
ローマがバルサの攻撃を封じ、3-0で勝利し、アウエーゴールの差でベスト4に進出する。誰も予想できなかったに違いない。バルセロナは、1点を取れれば優位に立つと思い、守勢にまわってしまったのが痛かった。この流れを最後まで変えることできずに無得点で終わってしまう。スタディオ・オリンピコの奇蹟として、後世まで語られることであろう。

4月10日(火)
ハリル解任にたいするコメントが一転して、協会批判となる。面白いものだ。強い者への大衆批判と見て取れる。いつの時でも、事を為すかモノをつくる者は批判の対象である。つくらない者は、批判されることのない安全な場所にいる。その中で、川島の心泣かされるコメントもあった。再びピッチに立てるように配慮してくれたハリルへの感謝の意であった。

4月9日(月)
朝起きると、ハリルボシッチ監督の解任をニュースで知る。どうやらマリ戦が決定打となったようであるが、年末から水面下で準備は進められていたようだ。その中に長谷部からのヒアリングもあったという。そうした現場からの生の疑念が、マリ戦後に現実となって紛失したという。ハリルにしてみれば、本田を招集してしまったことが仇となった。本田は、マリ戦で明らかにゲームを落ち着かせていた。これができたのは本田だからであり、それをハリルは否定してしまったのだ。ゲームに勝てればよかったものの、この否定は選手からの求心力を失い、逆に本田へと集まることになってしまった。ゲーム後の長友の発言、ハリルに買われていた大迫でさえ、縦一辺倒の戦術の批判をするようになった。記事によると、選手皆のボイコットまでもが起こりそうであったそうである。これをまとめたのは、強化部長の西野であり、彼が後任となった。それにしても、本田の行動力に感心する。ミランにおいても、最後は必ずポジションを獲得していたし、後半の落ち気味のキャリアを、メキシコという飛び道具を使って復活させ、代表の座を最後には掴みそうである。

4月8日(日)
042 ブンデス ドルトムント×シュツットガルト
香川の怪我は続き、浅野もベンチ外。3-0でドルトムントの勝利。点差から推察するほどの優劣差はなかった。プリシッチのクロスが偶然ゴールしたのを切掛けにして、要所でドルトが得点を挙げていった。前戦の大敗を機に、大幅なメンバー入れ替え。シャヒンも久々の先発であった。
「プリズナーズ」ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品を続けて観る。誘拐された娘を奪還するための、常軌を逸した父親をヒュー・ジャックマンが演じる。これを聞くとアメリカ映画特有の人間愛に満ちたハードアクション作品に思えるが、全体的印象は、善悪を超越する程のキリスト教的な映画である。人間を超越したところの存在が登場人物を動かしているようである。したがって、娘救出のために、知的障害者をヒュー・ジャックマンは殴り続けるし、神父ですら殺人を犯し、少年愛好者であったりする。全てがたわいもないことに見えるほど、絶対的他者の存在を示す映画であった。これが受け入れられる背景がアメリカにはあることを知る。

4月7日(土)
041 プレミア レスター×ニューカッスル
岡崎の代わりにディアバテが先発出場。前戦同様、高い位置からのボール奪取し、速攻するというパターンがはまらない。バランス悪く、相手ボランチにボールが簡単に落ちて、そこから展開されてしまっていた。この戦況を見極めてか、岡崎は後半早々に登場。2点差となったところで、ニューカッスルが守りをかためたため、奇しくもレスターのボールポゼッションが高まる。得点は、サイドからのロングボールに岡崎が頭で落とし、バーディが決めたものである。しかし1-2で負ける。チームが上手く機能しない理由を、なぜか岡崎の交替で解決しようとする采配に、岡崎も少し疑問に思うこともあろうと思う。

4月6日(金)
「複製された男」ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督を観る。カナダトロントが舞台であった。トロントというと、ジェイコブスの街という印象であるのだが、現代建築も目立つ。ヤンソン・マーの捻れた超高層が象徴的に扱われ、ルイーズ・ブルジュワらしき蜘蛛のアートも度々登場する。この映画は、2重人格者を描いたとも、偶然に廻り合ったそっくりさんが巻き起こすミステリーとも解釈できるが、そんなことより、この映画は人(男)のさがについて語るものであったと思う。蜘蛛は、どうやら女性(母親)の健全な母性とは反対の、嫉妬、独占欲、性などの暗部を象徴しているもののようだ。そこから男(息子)は逃れられないことを、極めてシリアスに語っている。物語のはじめに主人公が学生向けに講義する2パターンの独裁者「遊びを与えて享楽させる方法」と「情報をコントロールして大事なことを教えない方法」とは、息子にたいする母親のことであり、あるいは、「1度目は悲劇、2度目は笑劇」というマルクス、ヘーゲルの引用は、母親から逃れたとしても今度は別の女性(妻)に囚われてしまう、歴史=男のさがを言うものである。それから逃れるための手段として、怪しげな秘密クラブや浮気などの反社会的行為があるのだ。この反転する見方が他と異なるヴィルヌーヴ監督の特徴だろうかと思う。

4月5日(木)
040 CL リヴァプール×マンチェスター・シティ
今季のシティは頭ひとつぬけた成績をおさめているのだが、そのシティを3-0でリヴァプールが破る。速攻が上手く決まったとは言え、前半はその後も終始ゲームを支配していた。球離れが早く、かつDFを背負ってボールを受けることがない。ロングボールによるチーム戦術が確立している。基本的に、リヴァプールも、グアディオラのように、相手陣内を取り囲むようにボール回しをしていた。これは、チームに落ち着きをもたらし、相手に対し余裕を保つ戦法である。昨日の試合といい、フィールドを大きく使い、ボールを失う確率を低くし、チャンスが廻ってくるのを待つ戦術のように見えた。バタバタ感がない。

4月4日(水)
039 CL ユベントス×レアル・マドリード
アウエーでマドリードの圧勝。固いと言われているユーベのDFラインを開始早々にロナウドが崩し、マドリ-は終始ゲームをコントロールできた。それにしても、1点目は見事であった。ベンゼマを盾にしてDFの1歩前に出ることに成功していた。それにしてもお互い守備が固い。多人数に囲まれないように、フィールドいっぱいにボールを回す。日本代表より、1周り大きいボール回しである。

4月3日(火)
大学で一級建築士実務免除のためのガイダンス。構造と設備の学生は見当たらない。「ティール組織」の下訳を終え、中埜さんへ送付。図柄の方にとりかかることにする。

4月2日(月)
白馬のジャンプ台を観る。思っていたより急勾配で、壮大さを感じる。内藤廣氏設計の安曇野のいわさきちひろ美術館へ。10年ふりの訪問である。この間に、のびのびしたランドスケープが出来上がり、公園の中の美術館として美しくなっていた。こうした力強いかたちがぼく好みではあるが、岩崎ちひろの優しい画風との関連に説明がつかない難しいところがあることを前から感じていた。そのための工夫が、平面をはじめとする計画の様々なところにあることに今回気づいた。外観からの形式は、内部から全く感じさせないようにできている。人は屋根方向と直角方向に動き、天井を見通すことができない。サッシュ上の2m高さにコンクリートの大きなまぐさが廻っているが、それは人の動く方向にそってあり、屋根構造の方向と一致していない。屋根構造も、コンクリートラーメン構造でできている大きな樋の上に引っ掛かるようにかけられているが、その設置が明快ではない。これらは、それ以前の高知や伊勢の美術館と異なっている。五浦の美術館に近いかもしれない。その後、近くのわさび農園で食事をとり帰路につく。
038 ブンデス バイエルン×ドルトムント
ドルトムントが0-6で大敗。マスコミが騒ぐ。監督も限界を感じ、来季の続投を諦めるコメントを残す。激しいプレッシングに対するチーム戦術がなかった。失点はほとんど、中盤近くでパスカットされたものであった。中盤が孤立されてしまっていた。前線から下がってのフォローが必要である。香川がいた場合も想像できない。最も苦手とするパターンであるからだ。

4月1日(日)
上田を抜けて、松本市内へ。宮本忠長設計の松本市立美術館へ。草間彌生展が開催されている。草間は、この松本が出身地ということらしく、街をあげてのイベントである。街中に水玉模様のフラッグが溢れ、彫刻も展示されている。若き頃のニューヨークでの活動から、作品が一貫していることに驚く。単純なアイテムへの固執とその映り込みである。にゅろにゅろなものであったり、水玉であったり、カボチャであったりする。それが、空間の中に仕込まれて、無限を獲得することがテーマとされるのだ。宮本忠長の建築は、階段がテーマである。中庭を囲むように常設展示と企画展示がゾーン分けされ、それを両方に往き来できる中央に、上り下りができる大きな吹き抜け階段室がある。中庭も陽が当たり気持ちよい。そこから、裏道を抜けることができるので、旧街を通り抜け近くの蕎麦屋へ。そこには井戸水が湧いている。安曇野の碌山美術館へ。今井兼次設計の教会のような美術館である。安曇野のイメージを代表する美術館で抵抗があったが、はじめて訪れる。やはり少しがっかり。言われているほどに精神性を感じることができなかった。天井から吊されている蛍光灯が全くよくない。白馬のホテルへ。この付近に来ると山にはうっすら雪がある。

3月31日(土)
伊東豊雄さんのまつもと市民芸術センターへ。大ホールでのバレエの練習風景を観る。上から見下ろすことができ、馬蹄形がつくり出す一体感が良い。ホワイエの大きさには疑問が残る。ここから、動線だけでなく、岐阜のようにもっと流動的な使われ方を目指してのではないかと推測する。蓼科のホテルへ。
037 プレミア ブライトン×レスター
岡崎先発。ブライトンはロングパスを多用する戦法で、レスターのプレッシングが全くかからなかった。したがって、岡崎は不発。後半早々に交替させられる。ブライトンも流石に、後半は疲れる。それでもPKを決められるかどうかが勝負の分かれ目であった。徐々に、レスターが押し込み、2-0で勝利。得点は、ポゼッションを高めて、パワーで押し込んだものであった。

3月30日(金)
午前中、龍ヶ崎行き。深夜、BSで「フォーカス」ウィル・スミス主演を観る。ウィル・スミスは詐欺師である。詐欺とは、相手の心の裏をかくことで成立する。それと恋愛をかけあわせたストーリーで、物語性=機能性を高めた作品であるが、早い展開が心地よい。最後まで観てしまう。

3月29日(木)
成増のナチュラルフレックス行き。竣工後10年経っているが、当時のままであった。その後、近くの喫茶店で岩間くんの近況を聞く。実作もでき、チャレンジングなプロジェクトに参加している。実験的にプロジェクトを試みようとする人がどの時代にもいて、それが最終的に実現されるかは不透明である。その試みに同乗してくれる建築家が求められていることを理解する。ぼくも若いつもりでいるが、既に出来上がってしまっていると判断されてか、あまり声がかからなくなった。あるいは、チャレンジングであることがかなり一般的になり、誰もが主体性を持ち出す世の中になった。作品をつくることにも、主体性が避けられないことであるが、それとの折り合いがなされていないということだろうか、とも思う。

3月28日(水)
父と岩本町の病院へ。予想に反して芳しくない。その後大学行き、翻訳を続ける。なぜ今、組織論なのかを考える。

3月27日(火)
036 親善試合 日本代表×ウクライナ
1-2で負ける。こうも代表が弱かったと思う。欧州のリーグ戦を見ることが多いが、それとの差は大きい。1つのイージーなミスが勝敗を分けると言うが、そうしたミスが無数にあった。おそらく、身体能力をはじめ精神的に相手に圧倒されていたのでないかと思う。ハリル監督が目指すところに、香川をはじめ、満足な解答を出す選手がいないこともわかるが、欧州で日頃から切磋琢磨しているベテランを招集する必要を感じる。こうした状況が未経験の選手には、さらに解決が難しい。ハリルも、現実的な策が必要となるだろう。今日も、4-2-3-1。ダブルボランチで、トップ下を置くかたちである。トップ下に前回は森岡、今日は柴崎が入る。ここにボールがおさまらないと、両サイドの早い飛び出しができない。それは、ドルトムントのかたちでもある。香川の復帰に期待する。トップ下を置くかたちであれば、岡崎も可能だろう。右での本田のタメ、終盤登場の中島の活躍、前半に見せたハーフラインより自陣に引いてからの速攻、これらが少ない明るい兆しである。前半終盤から、上手く前線FWが引き出され、ウクライナにかわされることで、このかたちが崩れていった。

3月25日(日)
NHKの人体特集の最終回を観る。このシリーズは、エクソソームに代表されるメッセージ物質に光りをあてるものであった。あらゆる臓器からメッセージ物質は放出され、それを介して臓器は互いにバランスをとり合っているという。分析的機械論の立場から、全体性を表現しようというものである。医学界でのメッセージ物質への注目は、ここ10年だそうだ。ところで、今回のテーマは、ガン治療と心筋梗塞予防について。最先端のガン治療は大きくふたつあり、ひとつは遺伝子治療ともうひとつは免疫治療である。このことを知る。ガン細胞は遺伝子異常が引き起こす負細胞の結果である。この異常遺伝子を特定するプレシジョンが遺伝子治療である。もうひとつは、今回の特集にある、ガン細胞自体を治癒するのではなく、がん細胞が放出するメッセージ物質を正常な体内にある免疫細胞によって押さえ込むものである。ガン細胞は、免疫細胞から防御するためと自らを増殖のためにエクソソームというメッセージ物質を放出する。これに対するケアで、ガン転移を防ぐものである。

3月24日(土)
「美の巨人」でベラスケスをまた観る。今日は、「セビーリャの水売り」ベラスケスのデビュー作である。滑らかな壺の素材感、水が浪波そそがれたグラスの透明感、これらは光りを強調したリアルな表現の極地である。そこに身近な宗教観を差し込むのは、この頃に既に完成していた。夕方にかけて花見に出る。少し寒い。

3月23日(金)
035 親善試合 日本代表×マリ
ロスタイムに追いつき1-1のドロー。ベルギーという第3国での開催ということで観客がいない。このこともあって、迫力に欠ける試合であった。崩されることがなかったが、それはマリにチーム戦術がなかったということで、1対1では負けていた。日本は、4-2-1-3で臨む。両ウイングに宇佐美と久保。トップ下に森岡である。これは驚きであった。当初、両ウイングが裏を獲る場面があったのは、ボランチからの縦パスによるもの。前からのプレッシングが上手く効いていたためである。しかし時間を立つと、大迫らの疲れと、マリDFがボールの出だしをかわすことに成功し、全体にプレッシングがかからなくなった。と同時に、日本の攻撃もなくなる。このフォーメーションは、ドルトムントと同じである。それと比較してしまう。森岡と大迫の関係にも疑問が残った。60分過ぎから本田登場。久保と異なりボールをキープし、全体の押し上げに成功し、相手マークがきつくなると、逆サイドの宇佐美に替わった中島のフリーにさせることに貢献する。得点はそうしたなかで、左からの折り返しの跳ね返りで生まれる。中島初出場で初得点。今日の日本は、守備面での連携を見せるまでいかなかったこと、かといって攻撃におけるパターンが見出せなかった。この相手にこの戦いでは、本番でかなり苦労しそうな気配である。選手間の競争ばかりが目につき、戦術に熟成がないように見えるのは、ハリルに明確な方針がないことによるものか、気になるところである。

3月22日(木)
夕方から謝恩会に出席、その後EDLの打ち上げ。学部、院生とも今年の卒業生はキャラが立っていたので、面白かった。就職する学生と重点的に話す。それぞれ、問題を抱えているのは、明るい見通しが立たない時代の風潮だろう。気にしても仕方ないので、求められた道に進むことをアドバイスする。多少シンミリすることもあったが、ハッピーに終える。

3月21日(水)
早くも大学院のゼミを始める。来年度の予定と、研究室の片付けの指示。製図室環境ががらっと変わるので、研究室も気分一新することとする。4月のゼミの予定をねることにする。

3月20日(火)
夕方、中埜さんと翻訳の打ち合わせ。至極真っ当な方法論を研究するいくつかの本について話す。フレデリック・ラルーの「ティール組織」でも彼らは扱われている。ノーマン・ウルフの「生きている組織」、ユルゲン・ハーバーマスの「他者の受容」、ケン・ウィルバーの「万物の歴史」「存在することのシンプルな感覚」、アブラハム・マズローなどである。ハーバーマス以外は、これまでぼくにとって馴染みのなかった人たちで、アメリカのプラクティカルな思想家たちである。なぜかと思い難波さんの日記でチェック。流石に何人かは引っ掛かる。が、否定的な見解が目立つ。建築と異なり結果を伴わないで済まされるプロセス論者だからとも思う。このあたりを翻訳のテーマとする。

3月18日(日)
エクスプローラーの車検を通したが、10年を超え、そろそろ買い換えについて考え、ディーラーを廻る。本来のぼくの好みはクロカンであるのだが、エコ対策としては時代遅れであることが判る。車種も限定される。一部の望みをかけて三菱のPHEV車も見る。スバルも今年にデビューさせるそうだ。車のスケールを落としハッチバック型にし、燃費を重視すると、それは欧州基準のディーゼル車となるそうだ。聞けば、フィアット並に走るそうである。マツダもデザインに重点を置き、質とコストパフォーマンスの両立を問題にしているのが印象的であるが、そもそもコスト抜きにした輸入車に質感は譲らざるを得ない。
034 ブンデス ドルトムント×ハノーハァ

3月17日(土)
NHKスペシャル「メルトダウン 7」を観る。昨日再放送を観た88時間の後の話である。その後、格納容器内への注水が中止され、その2日間における大量放射線物質放出の事実とその原因にせまる特集である。音声記録解析から当時の状況を再現する。ここでひとつの事実を発見できた。一連のNHKの特集では、失敗した格納容器のメルトダウンが問題にされていた訳だが、原発当事者の本題は炉心のメルトダウンを防ぐことにあったらしい。したがって、放射線物質を放出させてしまったものの、最悪のケースを招かなかった成功を称えるものとして、番組を描くこともできた訳である。このように考えると、別な意味で薄気味悪く感じてしまう。こうした特集でさえ、バイアスのかかったものしかぼくらは知ることができないのである。ところでこの特集は、当時の福島現場には情報が集まりすぎ、それによる対処時間ロスとその労力によって、問題解決の糸口が阻まれていたという論旨であった。それを、一般的な組織論に結び付けようとするものであった。あらゆる決定がひとつに集中すると、判断の閾値を超えてしまうということであったと思う。これは、今翻訳している「ティール組織」との関連を考える必要がありそうだ。この特集から推測するに、時代の趨勢はもはやピラミッド式組織はもはや死語となり、その先にある、フラットでありかつひとつにまとめるような組織のあり方、それにまで批判が向けられている。「ティール組織」もそうした現状を受け止めた展開を強調する必要がありそうだ。

3月16日(金)
深夜、「メルトダウンまでの88時間」の再放送をBSで観る。あの臨場感がふたたび蘇り、不気味さを感じる。当時、最後福島第1原発内では打つ手がなくなっていた。東京本部との生々しい交信記録がそれを物語っている。4号機の爆発と2号機の容器内圧力が0になってしまったことで、彼らは終わったと思ったという。しかし2号機核納容器の設計不足から生じる自然ベントにより救われた。まさに奇蹟の神ありということだろう。要するに偶然に助けられたわけで、コントロールできなくなっていた。それでも稼働再開する日本の実情に疑問を感じざるを得ない。
033 EL2nd ザルツブルグ×ドルトムント
0-0でドルトは16強で敗退。前半は、ゲーゲンプレッシングされると全くいいところなし。後半から、背の高いイサクをターゲットマンして、2トップにたいしてロングボールを混ぜていった。いくつかチャンスができるようになったが、最後を突き崩すことができず。シュテ-ガーの無策ぶりが表面化した。選手がピッチ上で自由にできないときの方策が監督に必要である。

3月15日(木)
032 CL2nd バルセロナ×チェルシー
開始早々にバルサが得点を上げて、チェルシーにとってはゲームプランが狂う。そのため攻撃に積極的に出た。今日はアウエーの白いジャージ。ラインコントロールがよく映えていた。守りでは5バック、攻めになると3-2-4-1の統率がスムーズである。バルサは1点目以外にこのラインを崩せないと見るや、速攻にかける。得点は、ボール奪取から陣形が整うまでの勝負に徹していた。3-0の圧勝といってよいだろう。

3月14日(水)
夕方に西洋美術館で開催されているプラド美術館展へ。ベラスケスが多く展示されている。しかし目当ての「ラス・メニーナス」と「鏡の前のヴィーナス」は出国していなかったのが残念。ローティもジジェックも、フーコーもこの絵にある鏡を語る。鏡と真理は絶えず対にされる。真理崇拝主義への疑いである。一般に鏡は人の心を表象するものと考えられ、ぼくらはそうした思考方法をとる。しかし鏡と心は全く別のものであり、「鏡」という虚像をつくって安住することへの警告がそこで語られている。という前提に立てば、これらの絵は、主体不在の表象を批判的に捉えることができる。この17世紀には、現在考える人間というものは存在していなかった。本展にある7点のベラスケスの絵は、肖像画・宗教画であり、それに写実性を与え、宗教や神話との結びつきにリアルさを与えるものであった。絵に登場する人たちはみなベラスケスの家族をモデルにしていた。絵によって、宗教と現実のつながりを強化させようとする意図がある。「ラス・メニーナス」中央に描かれているマルガリータ・テレーサがウィーン美術史美術館で見た王女の肖像画との一致に気づく。確か成長に合わせて何枚かの肖像画の連作であったことを思い出した。

3月13日(火)
午前中に税務署に寄り、確定申告の提出。その足で大学にいく。2〜3の会議のあと、退職する二人の先生の送別会。おふたりには大変お世話になった。包容力のある先生であった。
031 CL 1stレグ セビージャ×マンU
0-0のスコアレスドロー。ホームのセビージャはとにかく失点しないことを優先とする。ユナイテッドも、カウンターを怖れ、サイドからの展開に終始。その結果、スピード感のない展開となる。

3月12日(月)
彰国社で教科書の原稿打ち合わせ。全体像を掴もうとするも、まだまだである。なんとか1冊の本としてのまとまりをつくりたい。それは、4年生の卒業設計にむけてのヒントを与えることと考える。その問題提起にまで至っていない。これのよって何とか設計授業とのリンクであることをこの本で示したい。午後、中目黒のナチュラルスティックⅡ行き。「ENGIN」誌の撮影に立ち会う。

3月11日(日)
030 ブンデス ドルトムント×フランクフルト
香川は未だ欠場。2〜3週の療養が永遠と続く。一方長谷部はボランチで出場。完全復帰したようだ。後半から、ボアティングといい距離を保ち、ボールの起点となる。ただし、ドルトの得点は、長谷部の辺りを起点にしたもので、守備の要としては問われることになるだろう。ドルトムントは、ゲッツエとバチュアイを先発から外し、プリシッチを使う。それで右サイドからの効果的な攻撃ができた。中盤の細かいややもすると独りよがりのパス回しがなくなり、素直な展開となった。途中交代で入ったバチュアイも中央に陣取り、これに応えることができた。一度は追いつかれるもロスタイムに逆転。なんとか3位をキープする。

3月10日(土)
午前、山庄建設の山本社長来所。リノベの簡単な打ち合わせ。午後、面接のため大学行き。昨日届いた原稿を読みはじめ、全体構成に考えを廻らせる。合間に車検に出していた車をピックアップする。原稿構成については、歴史、近代、ユーザーオリエンテッド、かたち(主体性)、構造、都市(社会)、プロセス(他者性)、それぞれの建築への言及で、各章を整理するという考えに至る。その後、内容の重なりをチェック。建築は、近代の賜である一方で、置き去りにしてしまってきたモノも多い。そうしたものを指摘しつつ、拾い上げるようなことを促す構成を考える。再読。テレ東で東大寺特集。盧舎那仏は華厳経の宇宙仏であることを知る。法華堂の不空羂索観音とともに光り仏といわれている。
029 プレミア レスター×WBA
岡崎が怪我から復帰し、先発出場。このところのレスター不振と岡崎の怪我による欠場との間の因果関係が地元紙でも指摘されていたという。プエル監督の岡崎起用にも、これと同様の解釈がみられる。プレッシングの守備からの攻撃を組み立てるというのがレスターの基本姿勢であり、岡崎はその要である。とはいえ、岡崎にゲーム感覚がなし。全くよいところがなかった。60分過ぎに交替。替わって入った8番イグアナチョが大活躍。岡崎が使えきれなかったちょっと下がり目のスペースでタッチ数を増やし、ゲームに上手く加わる。バーディへのアシストを試みはじめたのも、イグアナチョの新しい一面であった。ゴール前では、岡崎と同じポジショニングで、上手くセンタリングを手にし、ゴールを決める。ここ数試合に見られなかったいい流れがレスターにもたらされる。4-1で勝利。

3月9日(金)
午後は、大学院の試験監督に半日費やす。合間に、石原先生と興味深い話をする。GAのインタビュー内容についてで、それによって頭の中を再整理できた。その後、JIAの大学院修士展に遠藤研から二人参加していたが、全くダメだったという報告を受ける。どうやら、他大学も正当といってはおかしいが、堅実な設計方法するものが多かったという。千葉工大は提出してから時間がない分、プレゼの完成度は低い。ここに大きな差があったようである。このようにコンペでは、相対的な見方を否が応でもされる。同じ土俵で戦うには、相当なる心構えが必要とされる。深夜、郵便局へ不在配達を獲りにいく。原稿校正である。
028 EL ドルトムント×ザルツブルク
香川欠場。ドルトは攻めきれずに、ホームで、1-2で負ける。ところでザルツブルクは統率されたよいチームであった。中盤底を徹底マークし、ボールの出所を押さえ、今日は、ロイスをサイドに置き去りにした。前線でのボールもシュールレに限定し、フィニッシュまでいたらせかなかった。後半、プリシッチに替えられると、一時攻められるも、最後は耐え抜いた。ドルトは、ホームでの敗戦が痛い。

3月8日(木)
研究室の学生から、せんだいの10選に入ったという嬉しい報告を受け、会場での審査経過についてしばらく話合う。櫻井さんは、大学内での講評に選ばれなかったので、大いなるリベンジをした。審査員の琴線に触れることができたのだろう。
027 CL ユヴェントス×トトナム
昨日とは違い、ユヴェントスの試合巧者ぶりが目立った。完全にゲーム運びはトトナムにあったのだが、的確な両サイドの二人の交替によって、がらっと展開が変えた。交替後3分で逆転する。攻められ続けても、最終ラインで踏ん張ることができるのが、DFを慌てさせない。この3分前後から、セカンドボールを拾うことができ、ベンゼマが決定機を逃さなかった。

3月7日(水)
事務所の電話工事。ソフトバンクからKDDIに変更。既存ネットワークが複雑で、通常のような切り替えが難しいことを指摘される。この際に、ネットワークを整理することに決めるも、取り合えず今は既存のインフラの上で徐々に更新していくしかない。実は、KDDIへの変更も、事務所のネットワークの再整理が目的で、これを決断をした。
026 CL パリSG×レアル・マドリード
ゲームは一進一退であったが、レアルの速攻が最後に勝つ。パリは10人になったのがいけなかった。ひとつ気づいたことがある。速攻によって押し込みはじめてから、中盤にスペースをつくりだしたのは、レアルの意図だろう。C・ロナウドがそこを使いはじめたのは、そうした直後であった。

3月6日(火)
設計小委員会に出席。計画系の論文構成について様々学ぶ。「対話としてのデザイン」シンポジウムの査読。ぼくにとっては目新しいことばかりである。

3月5日(月)

3月4日(日)
025 ブンデス ライプニッツ×ドルトムント
秋のライプニッツからの敗戦から、ドルトはおかしくなった。その時はCBのトプラクが標的にされていた。今日は、ビルトアップの起点となるヴァイグルが狙われていたようだ。そこから、幾度かピンチを迎える。ドルトも決定機をつくるも、ことごとくオフサイド判定となる。ライプニッツが巧みなラインコントールしているというよりも、ボールの出し手が一瞬遅れていた。最終的に1-1のドロー。ドルトムントの攻撃のパタンがないのが、気がかりである。

3月3日(土)
024 プレミア レスター×ボーンマス
岡崎欠場。開始早々、左SBアマーティーも怪我で交替。3バックでのぞむ。やはりこれが良くない。プエル監督は、ボールをつなぐビルトアップに拘る。これまでラニエリ以降多くの監督がこれを目指すも、上手くいった例しがない。60分過ぎからイヘアナチョ投入し、いつものパターンに戻す。スペースに投げ込み、全員が前からプレッシングするものだ。ラグビーのようで、かつてのイングランドサッカーを彷彿させ芸がないが、これで上手く機能するようになる。辛うじて追いつき、1−1のドロー。

3月2日(金)
「ブレードランナー2049」リドリー・スコット総監督、ヴィルヌーヴ監督を観る。レプリカントも悩むというのが、この映画の面白い切り口である。前作では、生きている証が、過去にも現在にも未来にもなかったのだが、今作では未来があり、技術が進んことで、例えばバーチャルな愛があるなど現在も、レプリカントに残されている。この閉塞感が足りない分、作品を少し面白くしていないように感じた。そのため、最後の戦闘シーンにおけるデッカードは少し滑稽にすら思える。記憶や経験が、人にとって何かがテーマとされるが、レプリカントと人間との違いが描かれていないのも、少し不満である。

3月1日(木)
雑誌編集者のジョースズキさんが午前中に来所。ナチュラルスティックⅡのインタビュー。建築専門と一般ユーザの橋渡しをしていただける人でありがたい。スズキさんがいうには、一般ユーザといっても、故障しやすい欧州車を、愛情をもって悪口を言うような人たちのことである。彼らは、与えられるモノよりも、使いこなすコトにカイカンを得る。モノよりコトということであろう。モノをつくる人の感覚に近いものである。人の情感が、人にある訳でもなく、あるいはモノにある訳でもなく、その関係にこそあることをいったもので、共感することが多かった。ぼくはこれをエドマンドバーグとカントの崇高論から学んだ。18世紀後半、リスボンでも大地震がった。恐怖とか喜びが、どこから来るかが最大の関心事であった。それは今も変わらない。

2月28日(水)
GAから「151 100details」が届く。ディテールが細部の問題でなく、モノとモノ、あるいはモノと人、さらに広げると社会との接点の問題であることを、池辺さんの「デザインの鍵」から学んだ。ここに、「名前のない空間へ」という氏の思想が色濃く現れている。絶えず新鮮な眼でモノのあり方を模索しかたちにしていく態度がここにある。本書のインアタビューでは、「イマジナリー・ストラクチャー」がテーマとなっている。ここでは、「イマジナリー・ストラクチャー」におけるぼくの位置づけが、当初の、他のモノとインテグレートさせ、見えなくなる構造から、目的にそって、目指すべきモノのあり方構成のようなものへの、変化を語った。ミースの「神は細部に宿る」は、凝縮していく思想であるが、それと反対の拡散に向かっていったことをお話しした。そうすると実際には、見えない構造から反対に見える構造になっていくのが不思議である。何人かの学生から反応を得る。昨日の田井さんの「住宅断面詳細図集」をはじめ、ディテールが注目されるのに、何か理由がありそうである。

2月27日(火)
夕方、田井さんの出版パーティに行く。北山恒さんと今村さんとの30分のレクチャーがあり、こうした会に珍しく真面目な討論がなされる。北山さんは池辺さんを持ち出し、「フェア」という言葉で田井建築を切りはじめた。エイドリアン・フォティーの「構造」の定義に近いものである。北山さんがバリバリの近代主義者であることがよく判る。その反論を田井さんは、純化に向かうのでなく、多矛盾に向かうといっていた。近代の行き詰まりが、行き過ぎた合理主義がまねいたものであるという発言であったと思う。世界をより詳細に見る力が建築に備わってきたということを前向きに評価するものといっていいだろう。最後に北山さんは、建築の基本である住宅が誰のものであるかが重要であるという指摘をする。興味深い。住宅建築は、子金持ちから脱却をする必要があるというものだ。帰り際に橋本純さんと立ち話。橋本さんは、この最後の北山さんのアドバイスを大変気に入っていた。橋本さんは経済に興味が集中し、昨今の建築に不満があるようであった。

2月26日(月)
朝病院へ行くも、インフルではなかった。その足で大学に行き、スペースにかんする会議。無事終了。
023 ブンデス ドルトムント×アウグスブルク
月曜深夜開催にサポーターが抗議する。サポーターファーストでないというものだ。いつものように熱狂的な応援がない。ボールタッチがスタジアムに響き渡る。これもまたよいと思う。香川は依然として怪我のため欠場が続く。中盤3人の連動はよい。しかし、トップのバチュアイ、それと出場機会を失ったプリシッチが割を食っている。なかなかそこに入り込めていない。少し、中央からに拘りすぎている。もう少しオープンでよいのではないかと思う。鮮やかな速攻が決まるも、引き分けに持ち込まれる。

2月25日(日)
朝から下痢が続きダウン。1日中ベットで横たわる。ナチュラルアングルの改築の打ち合わせを鈴木くんに任せる。ここ数週間のハードスケジュールが身に応えたか?

2月24日(土)
卒業設計・修士設計の外部講評会。長谷川逸子氏、米田明氏、門脇耕三氏をむかえる。総体的に好評価であったように感じられた。長谷川さんと門脇さんは、ぼくたち教員の影響が大きいと語ってくれた。これをどう受け止めようか?その上で、長谷川さんは学生を鼓舞してくれた。学生なりの感受性をもっと教員にぶつけるべきであるという主旨である。門脇さんは加えて、リサーチ力と図面技術も評価してくれた。米田さんは、テクノロジーの位置付けに千葉工大の特殊性を感じたようだ。もともと、アートとエンジニアリングは同種であり、近代以降分離してしまった。そのなかで、テクノロジー×建築=デザインとしての態度が印象的であったというのであった。そうしたなか、優秀案は学部が占めることとなった。河内さん曰く、院生にたいしては辛めに採点することによるものだという。決して劣るものではなかったとぼくも思う。長谷川さんは、本日一貫して、ユーザ目線から、提案される空間内部からのシーンの強度を問題にしていた。このことが印象的である。したがって、設計方法論をテーマにした作品が辛めとなってしまった。これを評価側が感じ、同調したことでもあったと思う。その点においても、院生の作品は比較的方法論よりで不利でもあった。中山くんの「グリッド無化」というような作品も割を食ってしまう形となった。反対に最優秀賞の塙くんの案は、ミステリアスな個性あるドローイングが評価側のイマジネーションを誘うものとなり成功した。最後に長谷川さんからそれにたいする建築的言語による説明が求められ、「浅い空間」というタイトルに込められた意味を説明できたのがよかったと思う。浅い空間とは、パースペクティブな近代思考から逃れ、個人にたいして思い入れのある言葉である。中山くんの作品も、ぼくにとって、塙くんとは反対側からこれを説こうとしたものと思っている。3等案の小池くんの作品は、作品の主旨を米田さんに完璧に理解されたことは驚きに値する。講評会で非常に明確にまとめあげてくれた。その上で、モノとしての作品性に物足りなさを感じたようであるが、その物量を門脇さんが評価してくれた。ただし、公共性の前のひとりの個人の立ち位置についての討論を巻き起こすべきであったと反省する。嶋田くんの作品は、人間中心主義を超えようとしているようで、(この場合)鳥目線が欠けていることが門脇さんから指摘された。もっともなことであったので、今後の課題である。山田くんの作品は、講評の度に評価が上がり、好ましい。真摯なコンテクストに向かう態度が評価されたものだ。ぼくにとっては十分に彼の建築的な提案が感じられるのであるが、なかなか伝わりにくいので、それを美しいパース等に示すことができれば、この壁を超えることができるのではないかと思う。こうした順番付けは審査員によって変わるものであるが、主張が形になって表現されているかが重要である。このことを切に感じた。

2月23日(金)
iphoneを新しくする。いまだに0円キャンペーンをやっていることに驚く。深夜BSで「チャイナタウン」ポランスキー監督、ジャックニコルソン主演を観る。チャイナタウンとは、法の埒外にあることの象徴である。ダークな中央に権力者がいて、そこには道徳も正義も捜査も及ばないことをいっている。親子の絆もない。ジョン・ヒューストン扮する権力者がいたって普通であるのも、一層ストーリーを不気味にする。最後の結論に向けて、様々な伏線が張られているのも懐かしい手法と今では感じる。今では様々な解釈を残すものがもてはやされている。
022 EL アトランタ×ドルトムント
終了間際に復帰戦となるシュメルツァーが決め1-1のドロー。辛うじてドルトが次戦へ駒を進めることができた。ドルトは、逆サイドへの展開にDFラインが振られ続け、GKブリュキのファインセーブがなければ、敗退であった。アトランタはおそろしく組織立たれたチームであった。

2月22日(木)
田畑大氏、土屋範人氏と食事。同世代のアートの状況について話合う。アートの世界では、差異を最大のテーマとする。建築における差異を隠そうとする風潮に疑問が投げかけられる。氏たちの長きに渡る千葉工大教育のお話しも聞く。千種寮をリノベするべきであるという提案に驚く。

2月20日(火)
021 CL チェルシー×バルセロナ
1-1のドロー。岡田武史氏が解説。チェルシーのホームにもかかわらず守り中心の戦術に批判的であった。3トップのアザール、ウィリアン、ペドロに攻撃を任せ、後ろは無理をしないという作戦を評価していないようであった。耳を疑う。岡田戦法そのものであるからだ。それがゲームを面白くなくし、人気を下降させた原因とぼくはみている。

2月19日(月)
020 ブンデス メーヘングランドバッハ×ドルトムント
香川の怪我は長引きそうである。バチュアイを1トップに、ドイツ代表のゲッツエ、シュールレ、マルコ・ルイスの3人がはじめて顔をそろえる。コンビネーションはよい。特にこのところシュールレが活躍する。香川が復帰後この間に入る余地はあるだろうか。それでも、MGBの守備は堅く、1-0でなんとか勝ち抜く。

2月18日(日)
今日も、ASJのイベントに参加。合間に矢板さんと話をする。先週までドイツにいっていたという。シンケルを見た喜びを語ってくれる。思わず合点。この夏にぼくも行くことにする。事務所に戻り、a+u2016年8月号のベルリン特集を読む。矢板さんがいうには、遠いがシャーロッテンホーフ宮殿がよかったという。意外である。シャウシュピールハウス、ノイエ・ヴァッヘ、アムテス・ムゼウムは一気に観ること可能だそうだ。シャロウンの劇場、図書館とミースのナショナルギャラリもひとかたまりにある。ライヒスタークとっげーリーのDZ銀行は南。ユダヤ博物館だけ離れている。これでホテルを決めるとよいそうだ。

2月17日(土)
ASJのイベントに参加。東京フォーラム前の日石ビルの1階に行く。来場者が多くなく、隣のコーナーの建築家矢板久明さんとの話に盛り上がる。沢山の谷口さんのお話しを聞く。スタッフ配置に優れ、コンセプトつくりには全く興味がなく、仕事はプラグマチックに進めるそうだ。矢板さんが卒業後のはじめに担当した幕張のIBMの話がその典型であった。IBMから当時まだ注目されていなかったファッシリティマネジメントにかんする分厚い報告書をもとにしたという。そこには、オフィスに関する仕事効率性が数値化されるなか、残余の部分も明確に位置づけされているという。その統合の中で建築が試みられるという。そうした姿勢が矢板さんの現在の仕事にも反映されている。氏は住宅においても、事務所固有のコスト判定システムを持っており、大変参考になった。これについての研究も計画としてありえると思った。
019 FA杯 レスター×シェフィールド

2月16日(金)
夕方から彰国社にて編集会議。いよいよお尻に火がついた。
018 EL ドルトムント×アトランタ
香川は怪我のため欠場。バチュアイの2発で、逆転勝ちをする。今季前半のように守備に問題がでてしまった。大きなサイドチェンジに対応できなかったかたちである。ただし、攻撃陣は流動的に動き、調子がよい。前回も感じたことであるが、プリシッチもシュールレも中央に切り込むことが多く、オバメヤンと動きのパタンが重なっていたのである。それが分散し、チーム全体が上手く働いている。バチュアイも移籍後全試合のゴールである。

2月15日(木)
修士設計審査会。遠藤研究室から2名が参加。内容の濃いものであったと思う。どちらもコンテクストに批判的な焦点をあてている。嶋田くんは住宅の詳細な設計をした。ただし、ここかしこに生き物が住まうような計画である。通常読み込むコンテクスト範疇を拡大解釈したものだ。具体的には、生物の住処を加えること、住宅の耐用年数を超えた長いスパンで考えること、このふたつに焦点があてられている。敷地は、中川の土手沿い。ここは、江戸川区がカワセミなどの野鳥成育地区に指定しているところだそうだ。彼のデザインは、こうした与条件を解くというよりも、全てを調整せずに等価に投げ出したようなデザインである。コンテクストから得られる未来への解答を拒否しているようにみえ、その一方で、人が住まなくなった後の問題がテーマにされているところが面白い。つまり不在を現前にした建築のあり方が模索されている訳である。そこを評価したいと思った。したがって他のコンテクストの読みも批判的になる。たとえば、建物を上がったり下がったりするのは、土手の段差をそのまま踏襲したもので不便である。生態系の操作は、不便ですらある。それは、住宅に関わる人以外の全体の底上げの必要性からである。昨今空き屋が問題にされるが、彼がいうには、上手くそれを個別に解決しても、人口減少の現在、その量が減ることはないという。日本のどこかで空き屋が発生する。その根本の解決を目指した提案であった。山田くんは月に建つ宇宙建築を計画した。そこでは、科学に基づく条件が絶対であり、そこでは、ぼくらが知らず知らずのうちに囚われている習慣や文化というものが全く役に立たない、このことを思い知らされてくれる。それは材料ひとつの選択まで及ぶ。地球から持ち込むユニット建築にするか、現地調達の素材を利用するかしか選択はない。計画では、宇宙放射線防御のためにレゴリスという月砂、水素などが使用される。本計画は、2045年までのNASAの第一次計画の後を継ぐ食物研究所計画である。それを、NASAの宇宙線防御のために土で覆ったこれまでの閉鎖的建築にたいし、水膜によって開かれた建築にする。これが彼の唯一の提案である。トリチェリの実験を応用したシンボル的気圧棟が中央にあり、具体的にそれは墓標である。屍は月土を植物生育のためのものでもある。与条件とは実は完全な外部にあるものでなく、ぼくたちの多大な解釈の上にある内部のものであることを、批判する作品であった。
017 CL レアル・マドリード×パリSG
スピーディな戦いであった。ベイルが終了間際に登場し、サイドからの攻撃にエンジンが掛かり、レアルが逆転勝利する。それにしてもとっさの鋭敏な反応がゲームを左右する。後半の2点はGKのリバウンドにロナウドと   が反応したものであった。

2月14日(水)
妻と病院へ行きその後、夕方ぎりぎりに上野で開催中の仁和寺展へ行く。仁和寺は、皇族による真言密教の中心地でもあったようだ。空海の「30帖冊子」を観る。丁寧な真四角な筆使いであったのが意外であった。これを読みたいがために、皆が空海にすり寄っていったという。真言がかかれていたという。この類の国宝クラスが多く展示される。仁和寺の小さな薬師如来坐像の精巧さにも驚く。全体が12㎝ほどで、ディテールはミリ単位に施されていた。空海が身に離さずに持っていたという。今回観音堂の33体も公開される。葛井寺の千手観音菩薩坐像も、精巧だ。大阪にはこの手の仏像がまだ沢山あることを知る。今度訪れたく思う。他に、大阪金剛寺、福井明通寺、中山寺などである。
015 CL ユヴェントス×トトナム
トトナムは後半自力で、固いユヴェントスDFを崩す。完璧なシュートチャンスに至る前に打ち抜く力に脱帽。力が均衡しているので、構える前が勝負となること知る 。
016 CL バーゼル×マンC

2月13日(火)

2月12日(月)
高橋てい一設計の群馬県立館林美術館に行く。ランドスケープと一体となり、水平が意識された建築である。ゆったりとしていて気持ちよい。諸室構成も明確である。館林は分福茶釜で有名で、その名にちなんだポンポンの作品が常設され、同氏のアトリエも再現あれていた。ブルーノ・ロメダの「純粋な大円」が印象的。古伊万里展を観て、その後レストランでコーヒーの2時間あまりを過ごす。「理想的ヴィラの数学」コーリン・ロウ再読。以前と印象を異にする。コルビュジエとパラディオの間の構造的類似性から、そこには連続性があるというのが以前の印象であった。そこに、機能主義の行き詰まりを打破する幾何学の可能性が残されていると考えていた。ところが今回感じたこととは、ふたつの間にあるむしろ断絶というものであった。時代の慣習規範から力を得るか、むしろそれを無化しようとするか、ふたつの正反対なアプローチが見て取れた。大袈裟に言うと主体の有無ということだろう。何回かのトライで、はじめて気づいた。続けて「透明性」を再読。虚の透明性を、奥行きの「浅い空間」と言いかえている。あるいは建築においては、「空間の位置的な矛盾」といっている。バウハウスにはなく、軸線の明快なコルの国際連盟案にあるものであるという。構造を消すのではなく、設定した構造を無化することである。これを批判的構築といってよいと思った。

2月11日(日)
坂茂設計の富士山世界遺産センターへ行く。富士山の西面が見える富士市にこの建築は位置し、浅間神社の参道横にある。建物前面の大きな池に円錐が美しく映り込む。逆円錐の中は、屋上へ行くための螺旋スロープである。その屋上から富士山を見ることが出来る。屋上にはたくさんの人が集まりにぎわっている。その姿が、下のアプローチから見えない設計は流石である。富士山、建物、池、アプローチの位置関係が上手い。今日はとにかく富士山が綺麗であった。建築は少し大味な印象を受ける。明確なひとつのアイデアで全体をまとめあげることに好感もてるも、近づいても大きなスケールのままであるのが、その印象をつくっている。それは部材の扱いに現れていた。途中建物内で、中畑さんに会う。その後、浅間神社をお参りする。極めて平坦な印象で不思議に思う。夕日に赤く染まった富士も美しい。参道裏に横町があり、そこを寄って帰路につく。センターの北にある温泉に入り、市内で食事して帰宅。
014 プレミア マンC×レスター
岡崎は怪我のため、2週間の離脱と聞く。マンCにとっては苦手なレスター戦。岡崎がいるからである。グアディオラがはっきりと言っている。はじめ3バックでのぞむも、早々に失点し、オルブライトンを下げて4バックとする。そのサイド奥がいきなり使われてしまった。これでいつものようなパターンにもどすが、ラインがいつもより深かった。後半は、マンCに打ちのめされる。アレグロに4発を食らう。レスターDFは前からプレッシングによって成立する。今日は、ラインを下げてしまいサイドから中央へとDFが揺さぶられ、全く機能しなかった。グアディオラの采配が光る。セカンドボールを拾うことが出来なかったことも大きい。バーディが2人のDFが挟まれてしまった。もうひとりDFからのボールを納めるプレヤーが欲しかった。その役をこなすはずの途中出場のマフレズである。移籍ごたごたでパフォーマンスがいまいちであった。

2月10日(土)
013 ブンデス ドルトムント×ハンブルグ
ロイスが復帰。前半香川はボランチとしてバランスをとる。シュテ-ガーの指示であるかは不明であるが、前半はいつも守備重視である。後半から香川は前に。ロイスとサイドが少し下がり気味とする。すると、ボールが動き、GKとDF裏のスペースへのサイドからの早いクロスをバチュアイが決める。2戦連発である。その後、香川は自ら下がる。怪我の具合が気がかりである。その後、ペースを崩すも、最後にゲッツエが決める。2-0の勝利。

2月9日(金)
修士論文の審査会。ぼくの研究室ではないが主査を務めた論文はふたつ。下川くんの論文は、68年から75年までの「都市住宅」誌に掲載された都市の傾向をまとめるものである。68年にはパリで革命が起きた。その後は、どの分野でも既存世界とその価値観の再検討を計る時代となった。建築でいえばアレグサンダーが「パタンランゲージ」の原型「人間都市」が出版されたのが1970年。ルドルフスキーの「建築家なしの建築」が1964年である。これらは人間を中心とする考えの否定である。技術の進歩によって、見えてくる世界が大きくなった。それと平行してポピュリズムを背景に、すさまじく時代が動いた。これを念頭にすべきであったと思うのだ。もうひとりは、現代のカフェの研究。アクティビティの根拠をかたちにまで結び付けるのは難しい。その前段階として考現学のように、現実をわかりやすくかたちとして整理することを薦める。その資料のようなものはパタンランゲージのようなものかもしれない。午後に理科大学に行く。修士設計の講評会に参加。3〜4年前に比べて、かたちにたいする信頼が向上していることを嬉しく思う。精巧な大きな模型でのプレゼであった。テーマも前半に未来志向の前向きの提案が多かったのだが、後半は社会派が占める。最終的に優秀案は、ある瀬戸内海の小島の活性化、小布施の街おこしをテーマにしたものに落ち着いた。講評会に三宅理一さんが最初いらしていた。途中の社会派の案に対して、3.11以降は理論でなく生の時代になったというコンメントが印象的であった。生とは、合理性に反する人間の動きのことをいっている。作品に引き寄せると、都合のよいコンテクストを引っ張り上げてそれから未来を思考する時代は終わったということだろう。たとえ、それが隠れていて見えなくなっていたものだとしてもである。もっと、不合理な拾ろいきれない問題=生の問題を扱う必要がある。なかなかそれにたいする方法は見出せないのであるが、歴史は繰り返されるので、その視差(パララックスビュー)から浮かび上がらせることしかないように思う。その意味で優秀案等に見られたような、想定利用者を持ち出して、未来像を正当化する方法と反対の方法が必要なのだと思う。もっと開かれる必要があると思うのだ。終電の11時まで講評会は続いた。

2月8日(木)
卒業設計の審査会。総じて例年より図面の完成度が上がる。コンセプトもさることながら、敷地周囲との関係、利用方法などが彼らにとって、より詳細にリアルに考えられるようになったこととして評価できる。卒業設計の履修数も増えていることも喜ばしい。その中には、3年次に設計の授業をとっていなかった学生も含まれる。彼らもCAD技術を駆使し詳細な図面をあげている。もはや、描けるということだけではダメになった。それは、機能に特化した建物では、建築家がいなくとも可能であることも意味している。建築家には雑多な標準にのらない施設へのトライが必須となるのだろう。遠藤研も奮闘する。講評会に選ばれることのなかった学生もあと少しであった。微妙なバランスの上にひしめいている。赤塚くんは、六本木の街裏にある墓地のリノベーションである。既存の六本木の墓地空間は、都市化の波をくらった残骸のように取り残されてしまっている。そこに、経済性を超越する哀愁を赤塚くんは発見し、それをデザインしようとした。地下に墓地空間を埋没させ、地上にはそれを取り囲む雑居ビルを現前させ、その間にできる空間の哀愁を、より増大させることに成功したと思う。それは、デュシャンが残したアンフラマンスというテーマを思い出させてくれるものであった。岡部くんの作品は、忙しい山手線の乗車中の居場所を提案するものである。電車の構造を変え、ホームとの連携を再考察した。彼は身体スケールを問題としていたのだが、ホームという大きなインフラの設計の中に、それが埋没してしまった。ぼくもそのことに意識的である必要があったと反省する。小池くんは2重に捻れた視点で、現代都市を批判している。なかなか伝わりにくいテーマではあるが、それが伝わったようであった。当然のことであるが、都市は幾層もの歴史の上に存在している。残念ながら、それは見えない。トマソンとして時たま発見するだけのものである。とはいえ、誰もが思い思いのイメージで都市をみている。それは、おそらく経験や学習を通じて得られ、個別のものである。しかし、ある共通意識のようなものに、それは支配されているのではないか?こうした疑問が小池くんの中にある。ヴィトラーを参照している。かつて広場恐怖症という病があったそうであるが、それはそうした共通意識にセンシティブな人がかかる病気である。彼からいわせると、現代は広場安心症というマインドコントロールされているというのだ。広場恐怖症の人にとっては、そのもやもやして見えないものの存在が不気味でしかないのだ。小池くんの提案は、その不気味さに風穴を開けようとする提案である。トマソンとミミクリーというものを現出させることでそれを試みている。彼のデザインしたドローイングの数々は、ちょっと薄気味悪いものであった。河野さんは武蔵野の森のランドスケープの設計である。遊環構造が基にした、雑木林と一体になった遊具類のデザインである。コンセプト重視の提案と異なり、快適な空間性、さらに奥行きのないランドスケープにそれをを示すことは実は紙段階ではかなり難しい。櫻井さんの提案は吉阪隆正の再検証である。当然のことながら、合理的判断可能なこととは私たちが見ることが出来る世界の一部でしか過ぎない。当たり前のことであるが、人はそれで全てであると思いがちである。通常の建築は合理性をかたちにすることで客観性を担保し、できないものをセンスといって片付ける。それは建築家のつくる作品も同様である。吉阪は、それを丸ごとをかたちにすることを正面から考えた。ユーケロジーとはまさにそのことをいっている。櫻井さんはそこに心動かされた。敷地である谷中を歩き回りヒアリングをして、避難重視の地区計画の下、谷中らしさが犠牲になっていく姿を目撃した。避難施設を設計すると同時に、ターザンロープのような日常的に子どもたちが遊ぶ避難施設を提案した。これが、どれだけ非常時に有用であるかは不確かであるが、谷中のよき日常イメージを保ちながら、災害に備える街の計り知れないイメージを喚起するものとなっている。これが、櫻井流の吉阪の解釈で、それを「スキ」と位置付けていた。防災拠点の凝ったデザインより遙か遠くに焦点する世界観がある。その落差がスキであるというのだ。ぼくらのデザインの小ささを喚起する批判的方法と捉えると、優秀賞に選考できなかったことを悔しさを思う。島田くんは、オタクと工場萌えをテーマにしていた。モノにすることのエネルギーは遙かに大きいので、その落差が大きすぎた。そこに意識になることで、今後もがんばってもらいたい。瀧本さんは、サウンドスケープのデザインである。シェーファーの提案するサウンドエデュケーションを実行し、環境音を捉える施設をかたちにした。それは5線譜音楽、あるいは人の伝統式音楽でも捉えきれないものである。設計経験によりかたちを決め、それをシュミュレーションし、新しい機能を発見するという極めて斬新的な方法である。近頃風解析による設計と同様で、サウンドに関してはより扱いやすいことが判る。残された問題は、サウンドを扱うことの目的だろう。その背景の指導を徹底すべきであった。中山くんは、グリッド空間にたいする批判を提案した。グリッドは近代において、建築を無限に成長させる典型と考えられてきた。それを使って設計者は主体的に、問題—解決という一方向のプロセスで建築を考えてきた。その否定である。敷地は昭和高度経済成長時代に建てられた団地。団地グリッドの半分近くを緑化し減築し、残りに建築家の設計した住宅プランをブリコラージュする計画である。建築とは、見ることが出来ない未来の現前であるべきで、単に新しいシステムを提案するだけでは、建築の不在を表層することは決してできないことを意味している。塙くんの作品には、近視眼的な空間性が全くないことに特徴がある。空間性はユーザに委ねられ、遠隔視的に抽象化したモノを操作に主眼がおかれている。これを不評する意見にたいして、バンドデシネのコンセプト絵はこれに応えようとしている。このコンセプトとして提出されているバンドデシネには、パースペクティブな方法なしにふたつの遠と近のものが同居する。浅い空間である。通常考えられる形式論的な範疇が否定されているものだ。平野くんは、観念的になりすぎた。もっと他者との間でおこる偶然性に身を任せる必要がある。山口くんのがんばりに期待する。

2月7日(水)
歴史研の卒業研究を聞く。明治の初期の混乱期をテーマにしているのが面白い。聞きながら時代背景を整理する。明治20年が1887年。今から130年前。島崎藤村の「夜明け前」が1886年までの話。国学と離れていく明治国家の不信が、木曽を舞台として扱われている。岡倉天心が芸大を開校し、日本画を正式に認めさせたのが1890年。81年にフェノロサと日本中の仏像調査をしている。このころに世界的視点から再度改めて日本を再発見している。夏目漱石が連載をはじめたのが1905年である。二葉亭四迷の「浮雲」が1987年である。このころを境に、先見のある人間は冷静な目で西洋を見るようになった。コンドルが東大に招かれたのは、1877年である。

2月6日(火)
大学に行き、卒業設計の発表構成を学生と練る。整理し、伝わり安くなるように指示。合間に翻訳をする。

2月4日(日)
011 プレミア レスター×スウォンジー
岡崎の序列が急降下。このところカップ戦で好調のイグアナチョが先発。オフサイドなどで得点なかったものの中盤下でフリーにボールを受け、エンディティやジャバティとの綺麗なワンツーを決め、岡崎より彼らとの相性が良さそうなところを見せる。前半は完全なレスターペース。後半は反対となる。その原因を探るのは難しい。ただ、スウォンジーは後半に力を残し、様子を見て、プレッシングの激しさをコントロールしていた。岡崎は終了10分前から3番手の交替順位。存在感を見せるも、決定機をつくるまでは至らず。1-1のドロー。もっともスウォンジーは、アーセナル、リブァプールに勝ち、キングパワースタジアムに乗り込み、勢いがった。
012 プレミア アーセナル×エバートン
オバメヤン、ムヒタリアンがアーセナルに加入。二人はワンツーによって、ペナルティアエリア内のエバートンDF陣を切り崩す。ドルトムントでよく見た光景である。アーセナルは、プレミアの中でもブンデスに似て、中央からの攻めを重視し、密なスペースの中で動く。中盤底のラムジーが今日3点を獲ったことがそれを物語っている。オバメヤン、ムヒタリアンに、そのスタイルは合っているのだろう。マンU時に比べて、ムヒタリアンが生き生きしていたのは明らかであった。

2月3日(土)
入試監督。ぼくより学生の方がリラックスしていたと思う。研究室に戻り、学生と卒業設計の相談。バンドデシネを知る。その後、昨年の漫画展にあったことを思い出す。フランスの漫画のことである。英語でいうと、コミック・ストリップス。現代のバンドデシネは多彩で絵本のような体裁である。映画を意識したカット割りが特徴的で、絵の芸術性がストーリーよりも重要視される。そのストーリーを補うものが構図にある。最近の日本漫画に影響を与えているのも分かる。
010 ブンデス ケルン×ドルトムント
今週、選手が大きく動いた。ついにオバメヤンが移籍し、代わりにベルギー代表のバチュアイがチェルシーから加入する。早速先発し、2点を決める。ゴール中央にポジションした素早い反応であった。オバメヤンはサイドに開いて、中央のスペースを残し、そこに飛び込むかたちであったため、他の選手はなかなかそのスペースに使うことができなかったこと。香川はいつもより生き生きしていたことから、そのことが分かった。香川だけでなく中盤選手が中央のバチュアイにボールを預けたワンツーが多かった。2点目は、香川の斜めの走りがつくったスペースを逆にバチュアイが使っていた。終了間際に得点し、久しぶりの勝利。ドルトはこれで波に乗れるとよい。

2月1日(木)
009 プレミア エバートン×レスター
水曜日の変則開催であった。岡崎は十分休養をとって先発。序盤こそ、長めのダイレクトパスでレスターは相手陣内に攻め入ることができたが、事故とも言える失点を犯した後、激しいDFラインへのプレッシングと、エバートンのロングボールに、いつものプレッシングができずに苦しむ。中盤ルーニーが下がり、そこからの鋭いロングボールで全体が押し込まれてしまった。加えて、移籍騒ぎによるマフレズ不在が大きかった。彼のドリブルが膠着状態を打開としていたことが浮き彫りになった。1-2の完敗である。岡崎といえば、中盤に下がり、ダイレクトロングパスの繋ぎ役として中心にいる。このことは、代表にとっても大きなことであろうと思う。前線からのプレッシングだけでないことを示すものである。

1月31日(水)
ジジェクの「幻想の感染」を思い出して読む。「客観的に主観的」に引っ掛かる。幻想のことをいっている。続けて柄谷行人の「大江健三郎のアレゴリー」も読む。再び翻訳続行。「ティール組織」の翻訳が出版されていたのを中埜さんから聞く。早速購入。

1月30日(火)
GAの原稿に集中的にとりかかる。「イマジナリー・ストラクチャー」の意味が、リアルな構造の話から建築の構成を指すものに移動していることを明確に示したいと考えた。スペキュラティブデザインにおけるアプリケーション(応用)からインプリケーション(含意)への変化を分かりやすくしたいと考えた。「モノがあるけど見えない」とする立場と、「見えないけどあるモノ」を前提とする立場には違いがある気がしている。前者はモノをある慣習や文化(装置)によって想像させることを期待し、後者はそれを明らかにすることを期待する。後者の意識が大きくなるのがぼくの中にあった。例えば「渋谷」といって、イメージを誘導するのが前者であり、後者は、「渋谷」を詳細にすることで、渋谷の位置づけを日本の中においているのか、世界においているのか、若者においているかなど前提を明らかにすることを目的とする。パタンランゲージも、辞書として扱うか、対象が置かれる特殊性を明らかにするか、で扱い方が分かれる。

1月29日(月)
2年生の設計講評会に参加。この課題に関しては直接指導をしていないが、集合住宅の課題は直ぐに難しい課題であることを理解する。集合住宅定型のラーメン構造を崩そうとする案が多かったのは、それだけ構造を意識するようになったからであろう。それを前向きに捉えることとする。ひとつ面白い案があった。南面向き住戸を確保しつつも、中心のある中庭型を志向した案である。かたちが歪で、設計者の手の後がみられる作品であった。この意図を明確にしたとき面白い案に成長することを感じた。その後、津田沼に戻り、意匠系のちょっとした会議。来年度について話合う。GAからの原稿を読み込み、考えさせられること多かった。頭の再整理をする。

1月28日(日)
008 ブンデス ドルトムント×ホッヘンハイム
ドルトムントは終了間際に追いつき2-2のドロー。オバメヤンが先発し、早々によいかたちから香川が決める。それによって気が緩み、そこから回復することができなかった。ホッヘンハイムのプレッシングが予想以上であったこともあるだろう。これで年明け引き分け続きである。守備を安定させた分、選手の動きが小さく打開するまでに至っていない。オバメヤンのモチベーションも不安である。

1月27日(土)
昨日の話をぼくなりに整理する。ぼくの設計の基本的な方針は、池辺さんの「名前のない空間へ」というものである。名前をつけることで安心することが、デザインにとってもっとも遠いところにあることをいったものである。ナチュラルシリーズの初期では、若さ故にテーマが限られていた。この頃構造解析がカジュアルにできるようになり、新しい技術を用いた新しい空間つくりにデザインの主眼が置かれていた。それは、これまでにない寸法感覚を可能にしたと思う。GAは、これを評価されつつも、それ以外の既存システムにのっとったデザインを酷評した。それは、開口部の扱いなどに現れているものである。「神は細部に宿る」といったのは、ミースあるいはアビ・ヴォールブルクである。GAの指摘で気づかされたのは、この言葉に代表されるような「建築」を成立させている懐の深さである。ぼくらは、ここから逃れられないような気がした。ただし、ぼくは「名前のない空間へ」を目指している。ただただ、それに従うことには意味がないことは承知しているつもりである。従うだけでは、それは「名前のある空間へ」あるいはシンボル的思考となってしまう。それは、歴史的な装置に、何も考えないで思考を委ねていることである。これは、柄谷行人が繰り返し忠告していることでもある。近代の持つシンボル的思考を脱するための方法を考えていたといいてもよいと思う。既成の考えを疑うことを、エリップス頃までは、これに終始していたと思う。ディテールを単独で存在させないようにし、家族、街並、技術、機能など近代のヴォキャブラリーとして考え得るもののデザインを削ぎ落とし、それらを同化させるデザインを前向きに行った。それを平立断で徹底的に描くことによって。エリップスでは、最終的にディテールの見えない白のシームレスな空間となるのだが、それは条件を純化することで可能となる。何もなく純化された後に、作品の個別性だけが残ったのには驚きであった。シンボル的思考の裏には、個性の否定がもたらされていたことに逆に気づかされた。ただし、疑問も残った。あまりにも純化されすぎたデザインの暴力性と、いくら前提条件を否定したところでも、成熟した日本の状況をもろに前提としたものになってしまうことに対する自省である。問題は永遠に解決されないまま残る。あるいは都合のよい問題の解決だけといってよいかもしれない。このときのディテールは、洗練という消しのディテールである。数寄ともいわれた。このころSANNAが、ジョイント方法を溶接からボルトに変え、カーペットを見せ、花を見せ、アルミを使う住宅を発表したのに驚いた。50年代のイームズを彷彿させるもので、あらゆる設計条件が等価に置かれた新しい生活を示すものであった。同時に、パタンランゲージの「順に固める構造」にある大工の話とも結び付けることができた。見習いに比べて熟練大工の作業が早いのは、小さな問題を後で何とかなるとして、アバウトの状態で次に進むことができるから、という話である。熟練大工には、大きな目的があるのだ。その下での行為が様々にある。これは、ミースの「神は細部に宿る」と対極にある態度である。部分に全体を求めるのでなく、全体があって部分は部分でしかないのだ。部分の強弱や、あるなしは重要とされない。アレグサンダーは、これを全体性という。目的優先思考といってもよいかもしれない。抑圧されていた生活の方を開放する。エリップスの消しのデザインから、ディテールなどあらゆるモノの存在を認め、解像度を上げていく方向に変えたのは、そうしたことによる。もっとも解像度という言葉もGAから批評してもらったものであった。既存の素材感を保ち、それに呼応するようにディテールを分節させ、全体へばらまくようなデザインである。FBの小端や道路面のFBの向きにそれが表れている。デザインのひとつひとつのキレでなく、位置つけを大事にするデザインである。自分の表現の立ち位置が俯瞰できるようになったのではないかと思う。最近は、木造を手がけることになった。そこでもうひとつのディテール処理、すなわちシンボル的思考の否定の別の方法に気づくことができた。シンボル的思考とは、歴史性のことである。歴史性の否定が新しい局面を生むと考えるようになった。これまでのふたつの方法は、まったく歴史に関係がない。これが問題であると考えた。歴史を取り出し、それをずらすことで非歴史的なる。このように考えるようになった。木造は、皆が暖かみを感じるように、もっとも日本人には歴史的な素材である。この木造の扱いをズラすことで、非歴史性=シンボルの否定がデザインできると考えた。ディテールの金物に新しさはないが、これまでの柱+梁というシステムにのっとったディテールとは異なるものである。こうしたディテールの3つの変遷があったのだ。このことを改めて記しておくことにする。
006 FA杯 ピーターバラ×レスター
格下とあってレスターは大幅にスタメンを変えてきた。岡崎も帯同を免除され、扱いがひとつ上がったことになる。3部といえ、プレミア経験者も多く侮れないパフォーマンスをする。強豪を相手とする代表を見ているようでもある。ひとつひとつプレーの正確さと、プレッシャーの弱さがゲーム展開を難しくしていた。これまでと違って、レスターはそのため落ち着いている。新鋭の選手がしたがって活躍できていた。少しの違いが大きな開きをうむことを知る。

1月26日(金)
GAの杉田義一さんが来所。次回GAのディテール特集のインタビュー。はじめに杉田さんからイマジナリーなディテールと聞かれたのでびっくりする。そんな大それたことを、何年か前にいっていた。ぼくにとっては最近、ディテールの亡霊からやっと開放された感があり、その経験に基づいて、ディテールへの思考変遷をイマジナリーに絡めて話しをする。そのぼくのディテール思考の変化というのは、平立側面というユークリッド的表現から、高解像度へ、そして非歴史性というステップを辿るものである。イマジナリーディテールとは、このユークリッド表現を捨てたあたりのものをいう。「神は細部に宿る」といったミース、アビ・ヴォールブルクであるが、それからの開放のことである。これは、初期のユークリッド表現が不可能になった瞬間、(正確にはだいぶ時間を要したが)のことである。ディテールに建築家の思考が凝縮されるというのは、まったくの近代シンボル思考である。人それぞれは異なる視点をもっているのだから、受け取り方も様々であるはずで、ある無意識に存在する(習慣という)装置に思考を委ねていることに他ならない。「名前のない空間へ」とは池辺がいっていたが、これに反するものである。これが、従来のユークリッド的表現では不可能になった曲面エリップスにて変化したような気がしている。そのため、ディテール自体を納得するものに至らなかったが、要は、開放され新しく考えられるようになったのだ。昔の10+1で、丸山洋志さんが、エリップスのリングをイマジナリーに繋げることを、「時間」という言葉で力強く批評してくれたことを思い出した。そしてエリップス以降は、部分は部分に過ぎず、全体を俯瞰するように考えられるようになった。全てを等価に高解像度なものとして、ディテールを考えられるようになった。そして最近は、人に馴染み深い木造をあえて外す扱いで非歴史性を獲得しようとしている。シンボル思考とは深く歴史とかんでいる。これらふたつは、機械論的なシンボル思考から逃れるために身に付けた方法であった。もうひとつ、アレグサンダーの大工のお話によって、シンボル思考の次ステージについて語りたかったが、力不足。とはいえ、内容の濃い時間であった。その後、杉田さんと雑談。様々な有名建築のコンテクストについて教えてもらう。これらが今日生み出される過去の作品にはなかった新しい解像度ということなのだろう。そこに歴史性をずらし例も垣間見ることができた。視点の解像度を上げることと、ずらすことで生まれる視差は近いことかもしれない。深夜BSで「24時間の情事」アラン・レネ監督の広島を舞台とした1959年のフランス映画を観る。原題は「ヒロシマ・モナムール」。戦後の広島が舞台であり、丹下健三の原爆記念館、そしてその中の悲惨な展示、展示映像が前半生々しく描き出される。どれもぼくには強烈に記憶に刻まれているものである。大きくストーリーはふたつに分かれ、どちらも、強烈で個人的な記憶・体験を他者と通じ会うことが可能かをテーマとする。前半は戦争の悲惨さ、後半は人の内面である。登場人物はふたり。彼らに名前が与えられていない。ヒロシマとヌーヴェルと互いを呼ぶ。これは彼らの出身地を表し、はじめから終わりまでキャラクターに変化がない。広島を発つ前日の濃密な時間の中で、会話から、お互いの地での悲惨な過去が明らかになる、それだけの映画である。コミュニケーションの限界を示しつつも、他者と通じ合うことによる自己更新。このことを情感的に描いた作品である。ところで、ヌーヴェルが宿泊していた新広島ホテルとは、誰の設計なのかと思う。資料館の直ぐ西にあった。

1月25日(木)
3年生後期課題の講評会。建築家の福島加津也さんと小堀哲夫さんをむかえる。両氏に選ばれたふたつの作品は、深くつくり込みを行った、設計者の思いが伝わるものであったと思う。お二人とも強調されていたのは、身体感覚であった。得てして頭で考えがちになるが、それにたいするものである。建築は唯一世界を動かすことが可能な仕事で、そのためにはリサーチと歴史性が大切であるという福島さんの言葉が印象的。どちらも、センシティブな視点が必要となる。その後、水道橋で食事会。学生に対する接し方を皆工夫していることが判る。

1月23日(火)
午前中、中埜さんの事務所へ。2回目の翻訳の打ち合わせ。Vision Purus Target といった言葉の訳しかたについて話合う。文化によって、それぞれのイメージが異なることが問題である。Tealとはまさにコガモのことで、グリーンかかった色の鳥である。ヨーロッパでは一般的らしい。「人生フルーツ」という映画を紹介してもらう。経済社会に埋没された建築家の生涯を描いたものらしい。ステレオタイプの物語ではないようだ。

1月22日(月)
大雪となる。急遽、今日の予定を変更。「Reinventing organizations」の翻訳を行う。2部に入ると具体的で訳しやすくなる。

1月21日(日)
気晴らしに甲府行き。眺めのよい温泉に入り食事をして、休日を過ごす。合間に現代思想1月号に掲載されている柄谷行人「資本の力とそれを超える力」を読む。最近のぼくの興味に引き寄せると、時系列的解決から目的優先的解決へ転換方法の具体性を示したものである。柄谷は時系列的なものを生産過程からみる経済に、目的優先的なものを、生産過程とその逆の流通過程の両方向的を複合したものに、見ている。建築でいえば、利用者視点を入れるということであると思うのだが、建築には既に組み込まれたものでもある。もう少し詳細さが必要で、デザインスゴロクなどは最適なものであると、あらためて思う。夜にNHKで731部隊の特集を観る。昨年夏の特集と被るところが多かった。昨年のものは、事実を明らかにすることが主であったが、今回は「なぜ」である。731部隊の組織は、横のつながりが分断されていて、全体像が掴めないようにものであったという。それは、人が善悪を働かなくするためのものであった。うすうす皆は知っていたとしても、それは知らないという構図をつくりだしていた。戦争後のハバロフスク裁判で、その全体像が明確にされることによって、当事者の道徳心がはじめて芽生える。問題は、早々に日本へ退散した中枢部の医師である。彼らは、おそらく自責の心はあったと思うのだが、そこでの研究成果を社会に貢献し直すことで自制し、社会的にはそれなりのポストを手に入れたのだ。
005 プレミア レスター×ワトフォード
終始レスターのペースで進む。全選手が前を向いてプレッシングを上手く行うことができ、相手ボールへのチェックと同様にセカンドボールも拾うことができている。3試合連続して無失点というのはかつてなかったことだという。このチームバランスを保つ大きな要因に岡崎にあることを監督も認めているようだ。中盤の選手の入れ替えは行われても、前線は岡崎とバーディのままである。サイドに流れるバーディからの折り返しを、岡崎がニアサイドに詰めよる決定的シーンがあった。これを決めたかった。今日は、岡崎が中盤に下がってからパスを受け、反転し、あるいはサイドへの展開する、こうしたシーンが多く見ることができた。これまでにない進展で驚く。グレイのプレーを岡崎も実践した訳である。

1月20日(土)
004 ブンデス ヘルタ・ベルリン×ドルトムント
今日もオバメヤン不在でドルトムントは臨む。オバメヤンは移籍ということだろうか。前節のヴォルフスブルク戦同様、ボールをビルドアップするのに苦労し、前戦の脅威がない気がする。全員がマンマークされ、突破の糸口が見出せていない。もう少しボールと人を動かし、冒険をする必要があるのだろうか。前半、特にドルトは無理をしないので、尚更である。香川のヘディングで同点にするも、1-1のドロー。2戦続けて同じようなパタンである。

1月19日(金)
午後大学行く車の中で、小室哲哉の長い引退会見を観る。不倫報道に端を発した引退は、スポーツ選手の場合のように華やかなものでなく、自分の内面を淡々とこれでもかという程に吐露するものであった。それはある意味、自己演出による最高のエンターテイメントであったと思う。自分の体力と才能の衰えを、不倫による社会的責任処理をすることによって、見事に逆転美化できた演出であったと思う。自分の存在をよく理解していることによるものだろう。近頃の力士引退とは違ったものを感じることができた。深夜BSで60年代のフランス映画「バルタザールどこへ行く」ロベール・ブレッソン監督を観る。これといった盛り上がりのあるストーリーがなく、登場人物の演技もない。どうやら、皆素人の役者であるらしい。とはいえ、自由な気軽な感じはせず、戒律の厳しさがひしひしと感じられる作品である。バルタザールとは、ロバの名前である。登場人物が意識する有無にかかわらず、横に絶えずいる。そして売られた先の飼い主の人生が断片的にエピソードのように描かれる。神のような不動の存在で、実は、死や強姦されるなどショッキングなエピソードであるにも関わらず、ロバの存在で、その凹凸が消し去られている。最後は、羊に囲まれて死ぬ。まるで人全ての償いを背負ったキリストのようでもある。ハリウッド映画の対極にある詩的で宗教的作品つくりが巧みである。

1月18日(木)
今日は1日中、卒業設計の図面審査。4年生は一端完成の目途が立ったことを契機に、コンセプトからかたちへの橋渡しを考えることに時間を集中できる。このとき、ダイアグラム的なもので表現する方法も大切であるが、最終的なかたちはもっと大事である。まずは納得してもらわないと、他人は細部を注視してくれない。原因と結果、前提と結論などは交換可能で、人は全体思考を行うものである。人は、原因が発生する前に結果についての知識を持っていて、それにしたがい最小化を目指して原因を追及する思考を展開する。例えば、ある料理が旨いと感じてから、その原因を探り、自己納得すると言うことである。これを目的論的解釈ともいう。先日の中沢新一の論考で気づかされた。このとき他者に、シンボル的な解釈、例えば、光りが劇的な空間性をつくりだすという解釈を強要すると、むしろ嘘くさく見られてしまう。なぜなら、シンボル的解釈は体験する以外に他者が入り込むことが許されないほどに余地を残さないものだからである。何人かの学生にこのようなアドバイスを行う。

1月17日(水)
3年生の後期第2課題の講評会。総じてよく出来ていた。例年と比べて、都市スケールの視点で解く案が多く、そうした案が上位を占める。視点を広く持つことで、設計の密度も上がる。

1月15日(月)
003 ブンデス ドルトムント×ヴォルフスブルグ
ブンデスもウインターブレイクが明け、後半戦がはじまる。ゲッツエとコンビを組み香川は先発。前半はバランス重視し、どちらも速攻を重視しているように見えた。試合後の「もっと賭けが必要」という香川のコメントが印象的。香川のフィニッシュまで至らなかった責任ある言葉と思われるが、ヤルモレンコは少ないチャンスを確実に決めたかった。後半15分も過ぎると、香川も含め全体に疲労感が漂う。ドタバタが多くなり、スコアレスのドロー。プリシッチとオバメヤンの欠場の大きさを感じないこともない。

1月14日(日)
「エイリアン コヴェナント」リドリー・スコット監督を観る。前作の「プロメテウス」に比べて、ストーリーがスッキリし、これまでのエイリアンシリーズの描写に戻る。突然現れるエイリアンに対し、乗務員が次々に襲われ、エイリアンの恐怖を前面に押し出したものであった。ただし、この作品で焦点が当てられている最高のアンドロイド、デビッドのミステリアスさが前作より劣っているのが皮肉である。その点が、興行収入低下の原因でないか、と思う。少し、説明しすぎた感がある。

1月13日(土)
東京都写真美術館、ユージン・スミス展へ行く。LIFE誌を通じての報道写真家として有名である。加えてぼくにとっては、戦後の「The Family of Man」展における、森を歩くふたりの子どもの後ろ姿の写真が印象的である。パタンランゲージでも取り上げられている。作品注によって、写真のふたりはスミスの子であったことを知る。戦争取材から心身共に傷つき、写真家としての道に失望しかけていたときの、久しぶりのショットであった。したがって、この森はニューヨークのものであったのだ。事務所に戻り、「The Family of Man」展の復刻本を観る。愛する人と出会い、子どもが生まれ、死を迎えるまでを、様々な写真家によって表情豊かに捉えた写真展であった。後半は、社会に対する不安、苦悩、希望を表す写真が追加され、最後に「A world to be born under your footsteps・・・(St.-John Perse)の詩と、ユージン・スミスのこの作品で閉められている。
002 プレミア チェルシー×レスター
岡崎先発。今日は、バーディより多くのシュートを放つ。全て難しい局面のものであったが、決めたかった。レスターは後半70分に、DFが2枚目のイエローをもらい10人となる。そのためチーム戦術から岡崎が交代となる。それまでは、得点こそないもののアウエーのレスターのペースであった。その後、10人で何とか猛攻を凌ぎ、0-0のドロー。岡崎の評価は分かれるところだろう。

1月12日(金)
現代思想1月号から思い付くことがあった。「デザインの鍵」の「42目的のないところに機能がある」は、ぼくのお気に入りのひとつである。そこで池辺は、合目的性と機能性の違いに言及し、ふたつを分けることの必要性て説明している。近頃注目している思弁的実在論のいうところは、42を反対の立場から説明しているのでないだろうか?「機能のないところに目的がある」という訳である。このように理解すると、合点いくことが多くなった。身近な問題、例えば機能的問題とは別の上のところに、絶対的目的の存在があることを、どちらもいっている。深夜NHKで、映画「あの頃のペニー・レインと」キャメロン・クロウ監督を観る。監督自身の経験に基づく青春映画であった。15歳の少年が、スターダムにのし上がるロックバンドのツアー同行取材を通じて、大人に成長していく過程を描く。

1月11日(木)
深夜BSで運慶の特集を観る。2008年の再放送である。東大寺南大門の金剛力士像がわずか2〜3ヶ月で完成させたことを知り驚く。さらに面白いのは、全体像があらかた出来てから細かいパーツをきったりはったり、まるで粘土でつくるように手を加えていることであった。それによって、完成度よりも迫力のある大きな像が完成した。処女作が円成寺の大日如来坐像、今のところの遺作が光明院(金沢文庫)のものであるという。これは思っていたより小さい。晩年の最高傑作が、自然体を表現した無著菩薩と世観菩薩立像とされる。興福寺でこれを観て、納得した。願成就院(伊豆)や浄楽寺(三浦)は、まだ有名になる前のものであるらしい。奈良に本拠地を置く慶派は平安末期の新興源氏がパトロンであったため、関東に作品が多い。その間、東寺の立体曼荼羅像らの修繕を通じて、平安仏像が忘れていた写実的技巧を学んだという。

1月10日(水)
車を車検のためにディラーに出した後、彰国社へ。一通り原稿が出揃う。まとまりをつくる方法について考える。今のところバラバラである。その後、卒業設計のアドバイスのため大学行き。総じて進みが遅いので、図面レイアウト方法について個別に話合う。新しく考えるよりも、これまで考えてきたことを表現することの方が大事である。

1月9日(火)
NHKの人体特集を観る。第3回は、骨について。骨は3年程度要して新しく生まれ変わるという。絶えず骨は壊され、生成される。それは、カルシウを体が必要とすることに由来する。今日の特集は、この骨生成の速度を調整するアクセルとブレーキを司る物質についての話。これは、血液にのって、体内中を周る。そして、他の臓器や脳の活性化にも関わるものとしても機能するという。体を支え、内臓を保護する以外の骨の機能が示されていた。この特集を観れば観るほど、東洋医学の方が人体に合っているように思えてならない。

1月8日(月)
新幹線駅で購入した現代思想1月号を読む。中沢新一「レンマ的算術の基礎」と大澤真幸「根源的構成主義から思弁的実在論へ・・・そしてまた戻る」のふたつをまず読む。驚いたことに中沢は、映画「メッセージ」を題材にしていた。レンマ×ロゴス、東洋思想×西洋思想、仏教×キリスト教、未来×近代、そして目的論的方法×近代科学という体裁をとり、鈴木大拙の「華厳の研究」にまで言及する。これまで全体論として理解していたことを目的論という言葉でまとめている。それによって読後、柄谷がよくいうアレゴリー的思考×シンボル的思考を理解する。こちらは、ものをつくるという表現の立場からのもので、物事をどう捉えるかという批評的立場から発展させることができた。アレゴリーとは、遠くで焦点する道徳あるいは真実を前提とするために、少しテレもあって居心地が悪いが、それを前提として下々の自由な交通を描くものであるのだ。したがって、下々の個別性を生き生きと描く必要が求められ、それがアレゴリー作家の特徴である。このことを理解する。大澤の論考は、この「自由な交通」を、磯崎が最近よく言う「偶有性」という言葉を使っている。「偶有性」とは、「差異」あるいは「パララックス」という関係性を表現する言葉にたいして、そのもの自体の方を指す言葉である。大澤は、偶有性とは他者の存在を意識することで、絶対的な実在がないことを示す好例であるという。この偶有性の存在確認によって、メイヤスーのいうところの、有限性=相関主義内におさまってしまうこと、を超えることができるといっている。簡単に考えると、絶対的なもの=神の存有無についてであるが、他者の存在を認めることで、絶対的なものなどないことをいっている。磯崎新の連載「結界」も読む。デュシャンのアンフラマンス(極薄)を引用し、驚いたことにここでも、「華厳の宇宙」と、映画「メッセージ」の宇宙船イメージであるブランクーシの「バード」が挙げられていた。忘我の境地でひたすら水磨きするなかで光りに満ちた宇宙の声が「バード」であるという。

1月7日(日)
朝食をとり、三輪山神社へ。三輪山は対象形の完璧に美しいかかちをしている。したがって、自然のものとは思われずに、神がつくったものであるという意味で、古来から信仰の対象であった。神社として祀られるようになったのはその後のことである。しかし、1月7日ということであろうか、大渋滞で近づくことができずに訪問を断念する。引き返し代わりに長岳寺に寄る。阿弥陀如来坐像と両脇侍坐像は、運慶が影響受けたものであることを、運慶展で知った。それを観る。静かなお寺で、大和路の面影がそのまま残されていた。帰路の途中、石上神宮(いそのかみじんぐう)を見つけ、急いで拝観する。日本書紀では、伊勢神宮と並び、最古の神宮とされている。そういえばこの道筋には、沢山の古墳があった。卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳もあった。東西の山々に囲われ、北の奈良と南の飛鳥の中間地点にある。国宝の拝殿は、平入りの優雅なかたちである。その奥には、本殿がある。伊勢神宮のかたちに近く近寄ることができなかったが、後で近代になってからのものと知る。夕方の新幹線で戻る。深夜、今年開催されるロシアW杯に向けての代表選手のロングインタビュー番組を観る。W杯前には、こうした番組が多かったと思うが、今回は少ない。サッカー人気の低下だろう。新しい選手が大きな活躍をできていないことが原因である。それは南アフリカW杯と同じ雰囲気である。俊輔のスペイン選択が裏目となるなど代表はどん底であった。大会がはじまってから、大幅な選手入れ替えを岡田監督が行う必要があった程である。しかしはじまってみると、長谷部、本田の数少ない海外組が奇跡的な活躍をした。そうして長友、川島、岡崎、香川、内田らがその後に海外移籍をしていった。

1月6日(土)
寺町内にある元興寺極楽堂へ行く。小さな町中にある寺である。以前に夜は何度も、この前を素通りしていた。3重になる入れ子状のプランが透明感をつくる。スケールに無理のない幾何学に支配され、屋根の迫り方にも品がある。後ろにある僧坊も同様で簡素であった。1時間あまりを過ごし、菊一文字刃物店により、国宝館がリニューアル完成したという興福寺へ。中身は素晴らしい国宝ばかりであるが、昔と変わらず寒々とした空間であった。阿修羅像、八部衆立像、千手観音立像などを観てまわる。昨年国立博物館で観た運慶作が特に多い。東金堂には、薬師如来座像、他に国宝の四天王像、12神将像などがあった。南円堂、北円堂をその後観て回る。中の弥勒如来座像は観れず。車に乗り換えて、東大寺大湯殿へ。やはり内部には入れない。法華堂へ。不空観音菩薩と四天王像を観る。日光、月光菩薩像は新しくできた美術館へ移動したようだ。戒壇院へ。以前の記憶だと、四天王以外にもあったような気がするが気のせいであった。入れ子状の内部空間の床高がかなり高い。その後、葛粥の遅い昼食をとる。新薬師寺へ。薬師如来座像を中心に12体の神将が囲む空間構成であるが、建築は平入りの一方向の入母屋屋根であった。磯崎新のなら百年館へ。3つのホールを巨大な楕円が収容する。奈良を彷彿させる巨大建築である。楕円外のHP屋根アトリウム部分がホワイエであり、外の広場とつながる。現在は、一体的に都市整備され各建物が広場中心に連携されていた。ホテルに戻り、奈良町の別の民家で夕食。

1月5日(金)
新幹線で京都を経て、奈良行き。40分くらいで宇治上神社に到着。拝殿と本殿が国宝である。屋根のかたちが両端で持ち上げられ優雅である。敷地が狭く、全景を写真におさめて撮ることができなかった。その後、平等院へ。本院修理が終了し、阿弥陀座像にまで入ることができた。周りの雲上像も間近で見る。その後、池の反対側に渡り全景を観て、栗生さん設計の美術館へ。外形が目立たないシークエンスの建築である。奈良のホテルへ。奈良町の民家で食事。

1月4日(木)
「メッセージ」ヴィルヌーヴ監督を観る。この映画は様々な解釈を許す哲学的な作品であった。ストーリーは単純である。人間が未知の外来生物と遭遇したときのドラマである。ただし、両者にコミュニケーションの手段はないので、そうした場合における言語の意味がテーマとされている。主人公のルイーズは言語学者。未知の生物は世界12箇所に突然現れた。そのかたちが、ブランクーシー「バード」の彫刻のようで、単純で有機的なかたちである。通常の解釈であるならば、言語学者ルイーズが、異性物との模索的なコミュニケーションを通じて、未来を知る予知能力を得たということだろう。それによって、宇宙戦争を回避できた。映画のはじめのシーンの子どもとの別れのシーンは実は過去のことでなく、未来の話であったというものだ。死んだ娘の名がHANNAHといい、対象文字で、こうした転倒を意味するものとされる。ところでこの映画では、いくつかの興味深い話が引用されていた。ひとつはカンガルーの話。袋をもった生物をエボリ人がなんと呼ぶかを、西洋人が尋ねたとき、彼らは「カンガルー」といったという。しかし、カンガルーは、What?というのが、エボリ人本来の意味であったいうもの。つまりは、コミュニケーションは錯綜するというもの。もうひとつは、サピア・ウォーフの言語相対性仮説。人の思考は、使用する言語体系に支配されているというもの。このふたつによって物語が展開されている。したがって、このふたつのことから、予知能力を得るという解釈は事前と事後の混同であると思った。ぼくはよく学生に逆上がりの話をする。逆上がりのできる条件が何であったかは、逆上がりができたことによって人は理解する。ただし、判ったと理解しただけで、真の事実(逆上がりの条件)はなにひとつ不明のままである。事後の成功によって、事前条件を誤読してしまっているのである。この映画では、最後の追い詰められた状態でルイ-ズは、異星人の言語全てを理解すると同時に、予知能力を獲得したことを悟る。そして未来における中国将軍の説得によって、宇宙大戦を回避するのである。しかし、未知の言語が理解できたかどうかは誰も分からない。理解したと思い込み、その必死さが生んだ行動が偶然にも成功に導いたと考えられないだろうか?彼女の思い込みが全てをよい方向に導いた。その後の結婚と子どもとの死別の予知は、過去の記憶を自分本位に編集した結果である。このとき、異星人の言語の映画における役割はなんだろうか、と思う。彼女の人としてのポテンシャルを最大限引きだしたトリガーであったのだ。彼女の内面は彼女自身しかわからないばかりか、事実も誰も分からない。結局は、偶然の一致なのである。ルイーズが自分自身と向き合い、個人的な内面の体験を突き詰めることで、結果として世界が救われるというものだ。ジジェックを思い出す。「モダンの透明とは、機械がどう動いているかを見とせるという錯覚を維持するという意味」というジジェックの言葉であった。こうしたことを思わせる巧みな仕掛けがある映画であった。

1月3日(水)
教科書の原稿に再度とりかかる。年末に集中的にネットワークに関する本を乱読したので、これに基づきいくつかの点を変更する。これらの本から得たぼくなりの仮説は、ネットワークモデルが平均化したとき、はじめて活発な優先的選択が働くということであった。しかし、それを数学的に追究することができなかった。平均化とは、スモールワールドのように、平均頂点間距離が一定値に漸近することである。これは容易に起きる。様々なことが起きる可能性が高くなる確率あるところである。夕方、今年はじめて泳ぐ。

1月2日(火)
妻の実家に年始の挨拶に行く。ゆっくりとした時間を過ごす。合間にネットワークに関する本を乱読。

1月1日(月)
朝起きると、「ジョーズ」(1975)スピルバーグ監督が放送されていた。はじめて親無しに友達といった映画である。新宿ハルク裏の「タワーリングインフェルノ」との2本立てであった。ヒッチコックのテクニックが多いことに現在気づく。その後、近くの氷川神社に初詣に行く。
001 プレミア レスター×ハダーズフィールド
前戦から中1日。今日でボクシングウィークが終わる。岡崎先発。今日レスターは、いつものよいかたちをつくり、カウンター攻撃がはまる。バーディは怪我のため欠場し、代わりの初先発スリマニが走り回ったためである。マフレズのドリブルもキレ、マフレズ、スリマニ、ドリンクウォーターにより3-0の勝利。岡崎もファウルになった幻のゴールもあったが、2得点目の起点となり絡んだ。しかしオールタイム出場中であったモーガンが途中交代。彼は昨季もオールタイム出場であったと思う。中心プレヤーが欠きはじめる。ハードなプレミアリーグであることを、身をもって知る。