7月22日(土)
ビッグサイトにて、高校生に向けてレクチャーをする。「未来への思索のために建築ができること」と題して、デザインの社会的役割について話す。高校生は真剣に聞いているものの、メモをとったり、笑ったりするなど反応が今一であったので、引き込むことに苦労する。150名程度相手であったのでこれも可能であった。各大学から先生が招待され、ビッグサイトいっぱいを使って、1日8回くらいの講義が行われる。かなりの数の先生に高校生は触れることになる。子どもの数が少ないことを受けて、こうしたことまでが商売となっている状況を実感する。

7月21日(金)
「建築の条件」坂牛卓著を読みはじめる。坂牛さんには及ばないものの、読書歴が重なっている部分がある。しかし、全く異なる見方であることに気づく。視線の先が異なるのだ。この違いが何に由来するかを考えて本書を読んでみよう。第1章の「男女性」にカワイイ論があり、2章の視覚性にグリーンバーグ、クラウスが語られる。社会やモノの構造というより、外から肉薄する表面への視線が特徴的である。ぼくが考えがちの構造というと、それは建築内からの視線であることに気づく。

7月22日(土)
ビッグサイトにて、高校生に向けてレクチャーをする。「未来への思索のために建築ができること」と題して、デザインの社会的役割について話す。高校生は真剣に聞いているものの、メモをとったり、笑ったりするなど反応が今一であったので、引き込むことに苦労する。150名程度相手であったのでこれも可能であった。各大学から先生が招待され、ビッグサイトいっぱいを使って、1日8回くらいの講義が行われる。かなりの数の先生に高校生は触れることになる。子どもの数が少ないことを受けて、こうしたことまでが商売となっている状況を実感する。

7月21日(金)
「建築の条件」坂牛卓著を読みはじめる。坂牛さんには及ばないものの、読書歴が重なっている部分がある。しかし、全く異なる見方であることに気づく。視線の先が異なるのだ。この違いが何に由来するかを考えて本書を読んでみよう。第1章の「男女性」にカワイイ論があり、2章の視覚性にグリーンバーグ、クラウスが語られる。社会やモノの構造というより、外から肉薄する表面への視線が特徴的である。ぼくが考えがちの構造というと、それは建築内からの視線であることに気づく。

7月20日(木)
ノイズの豊田啓介氏を千葉工大に迎えてのレクチャーを行う。デジタル技術を使うことで自らのレンジが拡がっていく実感を、実例を通じて示してくれた。創発に関する考えなどぼくと重なることが多く、最近のデジタル技術を操縦できないぼくには、その実感から遠ざかってしまっているので、彼の状況を少し羨ましく思う。これほどのエキサイティングなレクチャーであった。レクチャー前半紹介してくれたアート作品は、名和晃平氏、BAOBAOらとの共同で、デジタル技術を繊細に試みることによって、より自然な状態に近づける作品であった。難波和彦のいう微細な構築がもたらす意味的物理的な透明性、これをサステイナブルデザインといってもよいが、これがデジタル技術によってはじめて実現可能となることを示すものであった。具体的にそれは、動くことによって自然に近い状況を視角化させようとする作品である。もちろんこうした試みは実験的である。後の食事会で話したところ、金銭的理解がある台湾においても、この試みはかなりのリスクを背負うものであったようだ。若かったからできたとお話ししていたが、この試みに敬服する。豊田啓介さんによると、最近のデジタル技術は生産面においても機能させることができるので、情報とマテリアルの境界までもシームレスにすることが可能であるという。これは、マスプロダクトからマスカスタマイズの方向に、専門性から一般ユーザーへという流れで、社会に広く馴染む方向のものである。そして多くのひとが様々な創造性を活かす状況をつくるものである。ただし、ことデジタルインフラに関しては、その独占がはじまっており、新しい管理社会が構築されつつあることを見逃してはならないことも同時に思う。豊田啓介さんは情報学のようなものを立ち上げようとしているという。彼のようなつくる立場の人が、この新しい管理社会に注文を出すようにしなければならないと思う。その意味で情報学を立ち上げることにも賛成する。もうひとつ面白いことがあった。豊田さんは安藤事務所で、みっちりと大道の建築の修行をしていることだ。おそらく、作品にのめり込みつつも、社会との接点の重要性を失わないことだろうと思う。他のデジタルアーティストと比べて、ふたつの世界を俯瞰することができているからだ。

7月19日(水)
「パターン、Wiki、XP」を通して、パタンランゲージの新しい解釈を思い付く。パタンランゲージを辞書として使用することとの違いである。対象(オブジェクト)を大きなコンテクストに位置付け、対象が単に名前だけでなく、具体的な形として無限に広げた形の中に浮かび上がってくるシンボリックなものとして考える。これがパタンである。与えられる教示的なものでなく、パタンを生成物のように扱うことである。パタンは無限の成長の一形態であり、繰り返されるものである。設計とは、こういうことをいうのだろう。例えば学校というものはある制度のもとで運用されるビルディングタイプではあるが、地域という中からシンボリックに上がってくるものとしてみることである。

7月18日(火)
「パターン、Wiki、XP」再読。昨日書いたプログラム方法を、コンピュータの世界では、オブジェクト指向プログラミングといっていることも判る。これは、データ指向に相対するもので、ある目的に従って、複雑なデータを取り合えず捉える手法である。空間に名前を付けることであるが、それをもっと柔らかくいうと、パタン認識いうものである。HOWからWHATへの移行であった訳だ。WHATであることで、分析型から提案型への移行が可能になった。

7月17日(月)
「パターン、Wiki、XP」江渡浩一郎著の再読。Wikipediaとパタンランゲージのつながりについて再確認。これまでのプログラム設計がアルゴリズム処理手段とデータ構造という2段構えであったのを、パタンランゲージをヒントに、ふたりのプログラマーがユーザーインターフェイスを重視するようひとつに統一したということが判る。繰り返し現れるプログラム手法をパタン化して、それをインターフェース上に載せたのである。そのユーザーフレンドリーな構造が、爆発的な拡大に繋がった。ぼくらのみて、だれもが参加出来るWikipediaはその最大の成果物である。つまり、ここでは曖昧模糊した現象を捉えるのに、パタン認識とそのオープン化のふたつが構造化されたわけだ。ここには、善悪というような価値判断がないのが特徴である。ビッグデータによる淘汰によって、その機能が担保されている。とはいっても、かたちのない大きなストリームにたいしては批判できないのである。ぼくらに許されている現実とは、その上の参加というかたちをとる個性発揮でしかないのだ。どことなく最近の建築におけるワークショップに近いものを感じる。このことに最近気づいた。

7月16日(日)
忙しい休日を過ごす。墓参りに行き、その後山梨のキースへリング美術館。途中で三分一湧水というところで、蕎の食事。なかなか美味しかった。その後、高速の反対側にある尾白の湯。途中白州を通り抜ける。緩やかな開けた田んぼの山裾に温泉があり、湯船が広々として気持ちよい。管理されたキャンプ場が隣にある。20号の東側は永遠と断層が続く。韮崎駅はそれを超えたところにあり、断層真上に大きな観音仏があり、街を見下ろす。韮崎経由の高速で帰宅。途中韮崎高校があり、中田英の高校かと思うと感慨深く思う。夜、フェデラーとチリッチのウインブルドン決勝を観る。フェデラーは、勝つためのスタイルをもっていて、それに持ち込む能力が高い。錦織との差をここに感じる。無理することなく、短時間で圧勝した。それを思うと、全豪でフェデラーにそうさせなかった錦織の健闘を称えたく、この死闘を制することができればと残念に思う。

7月15日(土)
龍ケ崎行き。ブラッシュアップした案を提示し、概ね了承される。これで詳細な技術的問題の検討に入ることができる。
053 親善試合 浦和×ドルトムント
ヨーロッパリーグも休みが終わり、新シーズンに向けての準備がはじまる。ドルトは監督が変わった。4-3-3を基本に後半は3-5-3となり、昨年とそれ程変わりがなく、今日を見る限り新監督のコンセプトは見えてこなかった。それよりも前半はレッズの闘志が目立つ。それに圧倒され、攻め手をつくれなかったのかもしれない。しかし後半からレギュラーが保障されていないモチベーションが高い選手が出ると流れが少し変わる。モルがかき回し、個人技で浦和を逆転する。とはいえ、モルの持ちすぎは今後の課題だろう。香川は、代表戦の怪我のため欠場。

7月14日(金)
昨日に続き、データの整理。その中で、デザインの役割について気づくことがあった。同じデザインも、受け取る側には答えにもなり、疑問が呈される、このふたつの可能が生まれる。拡散型思考を促すには、この後者の役割が大きい。これによって、これまであたりまであったことがはじめて見直されることになるのだ。

7月13日(木)
来週、幕張で行われる高校生向けの模擬授業の整理をする。「未来を思索するために建築ができること」と題し、これまであたりまえと思われていたことをひっくり返す建築あるいはデザインの力を紹介することにする。この力によって、社会が大きく変わることがある。その実例の紹介である。これまでの美学を否定できたフラー、これまでの業界構造、工程を変えることができたイッセイミヤケ、機能に合った素材選びとは逆の、素材から新しい機能性を発見したイームズなどを挙げ、デザインには、答えを与える役割に加え、問題を巻き起こす起点となりうることを示し、むしろそれがデザインの本質であることを示そう。逆にいうと、それだけ既存のフレームワークから逃れるのは難しいことでもある。そうするために、パタンランゲージのもっていたユーザに対するオープンソース性が役立つ。Wikiの本質がそこにある事実を示すのもよいかもしれない。加えて、デザインスゴロクのような俯瞰的視点を与えるツールを使うことも有効である。このことを示したいと考えた。

7月12日(水)
生物学者ルイ・パストゥールがいったという「偶然は心構えのある者にしか微笑まない」は、アイデアの発想を上手く言い当てた名言である。ある本で廻り合う。

7月11日(火)
新しい原稿の準備にかかる。設計に求められることを書こうとするだが、それだと教条的になり、学生が外向き思考できなくなることを懸念する。ぼくや多くの建築家が実際に行っているように、既存のフレームワークを疑う姿勢の必要性を痛感する。設計行為において、闇雲に与えられた条件を解いてしまうとしたら、それは創造行為でなくなる。このこともあわせて強調する必要がありそうだ。テーマを少し拡げ、もう一度考えることにする。

7月10日(月)
先週末に研究室活動として八王子に行き、研究状況の報告会をしたので、今日のゼミは休みとする。夜に、娘が事故に遭ったというので大慌てとなる。現場に駆けつけると、たいした怪我もなく一安心する。

7月8日(土)
朝食を、新しく建てられた木造建物でとる。尾根の突き出た先端にその建物はある。景色を取り込むように外に開かれた建物で、気持ちよいが、なぜか物足りなさを感じる。その横には、タイルアートとした大浴室がある交友館がある。この浴室は、冨田玲子さんの設計と聞く。本館にあるコンタ模型を見ると、意外な事実を発見する。本館と講堂の間に山頂があり、そこは手つかずのまま残されている。そして、尾根筋が基本的なアプローチ路となっている。敷地と建物の関係がよく判った。先程見た交友館は、大きな煙突をもち、重要な位置付けにあるのだが、その手前にさくら館ができ、その位置付けが曖昧になってしまった。高いところで、本館、交友館、講堂で施設の一体感をつくり出し、以前はその下に宿泊ユニット群があった。そのクラスターに、ユニット各室からの焦点をつくるために、谷筋をまたぐようにユニット群が建てられている。が、昨日見て判ったように、その配置のため朽ちるのを早めてしまった。地形から発想するなら、同じ高さのコンタ上にユニットを配置し、中央を最も小高い部分にし、外に開くような構成とすべきであった。このことに気づく。ともあれ吉阪建築とは、体験可能な原寸模型建築である。

7月7日(金)
芳賀沼さん来所し、龍ケ崎住宅の改築の打ち合わせ。スタッフと話をしている中で、新しい展開を思い付く。彼が言うには、近頃発表されるリノベーション作品の多くは、構造を顕わに保存した上で間取りが変えたものであるという。間取りの変更は、既存住宅の機能的破綻を解決するものであるので合点がいくが、構造を顕わにすることは、近頃の建築家の行動に反し、強烈な意志を表すものである。一般的なリノベーションで、これを行わないことからもそれは明らかで、彼はその違和感を指摘していた。それは、無意識に建築家の中に、構造が上位概念、その下に生活があるとし、このヒエラルキーが横滑りしていることではないか?と考えた。ぼくらの提案する案も同様のかたちをとっている。空間を拡げるために、閉じた縦ログの箱を既存住宅の中に用意した。これによって構造的にも環境的にも最大限の効果をあげることができる。果たしてこれからこの案をどう考えようかと思い巡らす。
午後、研究室活動で、八王子セミナーハウスに何年かぶりに行く。とはいえ、訪れるときはいつも雨が降っていて、十分に各建物を観たのは今回が初めてであった。まずは本館の逆四角錐型外観に圧倒される。こうした建物は少ない。観る側に傾斜をし、加えて、建物の重量感がなおそうした未経験からくる不思議さを増長している。これと対をなすように、中央セミナー館は、姿を谷間に隠し、四角錐の内部が圧巻である。宿泊ユニットはかなりくたびれていたので、少し残念であった。松下館は、敷地を活かしたユニットの連続建物である。しかし屋根が一体化しひとつになり、大地へと連続する。ユニット建築がこれほどダイナミックなかたちになることに驚く。こうした経験は初めてである。シェル屋根の講堂と図書館のつば競り合う庇がつくる屋外空間は、涼しい風道である。ただし、室内空間との連続が弱い。つまりは、外か内か2分するのがこの施設の特徴である。それだけ繊細な構造ではないのである。野外ステージは、単なる外部空間として軽く見ていたが、ステージ上から見上げると、講堂と図書館に囲まれ、さながらオペラ劇場のようであった。大きな模型、あるいは現場観察からでしか発見できない設計だと思う。同様に長期研修館の通り抜けアプローチからは、飛行機が下降するときのコックピットからの眺めたようだ。国際セミナー館の屋上は滑走路のようで、それくらいダイナミックな構成であった。吉阪さんらは登山家でもあった。この国際セミナー館は、山の尾根筋をデザインしたものなのだ。そう考えると、谷筋にあるユニットハウスは、華奢な木造ではあるが、朽ちるのが早いことに合点がいく。谷をまたぐ松下館はなんとか持ちこたえている。建物の配置には、谷を避けるべきことを教訓とする。

7月6日(木)
彰国社で、出版に関する打ち合わせ。設計と講義科目のリンクについて、今一理解されない。このことを歯がゆく思う。設計課題に、設計技術の向上や創造性を鍛錬する直接的な目的と、その課題を廻る建築的知識や思想を知る目的をもたせたい。各講座で、それとの関係を多面的に示すこと、逆にいうと、そのとき学んだ知識や思考を設計として実践し、検証することに設計が位置付けられればよいと思う。つまり設計を、結果というより手段として考える。それが将来の拡がりをつくるのではないか。もう少しトライしてみよう。

7月5日(水)
「バースト」を再度整理する。スケールフリーの実在によって、自然や生物、生命といったものは、偶然の産物という見方が出来る。たまたまの線の組み替えが一気に態勢、システムを変えていき、偶然に同じ組み替えをする他者が数%いることで、こうしたことが起こるのだ。この可能性を数字で示したことが本書であった。しかしそのことを、事後に機能的に説明することが可能であっても、進行中にそれを行うことは難しい。なぜなら、進行中には、線の組み替えを無数に、自分も他者も行っているからである。バーストが起こった後に、線の組み替えの成功の原因が特定できるのである。創造に関しても同様だろう。だとすると、過去を振り返り、組み替えが成功した痕跡を見ることはできても、その痕跡を廻る当時の環境は不明のままである。それはかたちにないからである。「Battle」では、土地の観察、センターの見極めが主題であった。これも眉唾もののように思えてくる。当然のことながら、そう簡単に説明できないことだけは判る。「デザインの鍵」には、「名前のない空間へ」という章がある。名前あるいは機能的な説明で納得することが最も創造と遠い行為となる。このことをいっている。

7月4日(火)
夕方、下訳をもって中埜さんの事務所へ行く。「Battle」は当初、アレグサンダーと細井理事との共著であったらしい。中埜さんが細井理事の文書を英訳し、その量は今の1.5倍くらいあり、各章で担当を分けたかたちであったそうだ。ふたりとも頑固で、いくつか妥協できない問題があり、その試みは決裂したそうである。中埜さんは最近、15の幾何学的特質を組織化するための人間行動に置き換えていることを聞く。「Battle」でも、幾何学をtransformationと置き換え、より実戦的なのにしていた。中埜さんによると、パタンをランゲージにするには、考えられているほど容易ではなく、盈進のときにアレグサンダーの中心課題であったという。本書を読むとそのことがよく判る。土地の構造を読むことでそれを追究していたのである。土地の構造によって、パタンがランゲージになった。つまり、パタンの問題とセンターあるいは幾何学の問題を、盈進以前は別個に扱っていたのを、盈進によって繋げた訳である。と同時に、メキシカリの住宅「住宅の建設」でも扱っていた生産の問題も、このパタン+土地という案を形にするための重要なファクターとなった。ぼくが思うに、15の幾何学的性質とは、多くの情報をとり込むための緩い枠組のようなものである。それは受動的に聞こえるかもしれないが、枠組みを設定するので、当然のことながらある価値観が存在する。そして受け入れる側にも上手い資質、構造がなければ、それが可能とならない。それは生来のものでもあり、学習することもできる。その学習方法を中埜さんはメタファーという。それは、見たり感じたりして、自分の場合にあてはめ真似することである。

7月3日(月)
「バースト」を読み、スケールフリーの問題を整理。まずは、ワッツとストロガッツによるネットワークモデルというものがあった。これは、円上に等分割された頂点とそれを結ぶ線で説明されるものである。狭い社会では、隣の頂点としか結ばれない。これだと反対側にある頂点にまで達するのに、相当の線を経なければならない。例えば、22の頂点がある円では、対角線上にある頂点には6本の線が必要となる。しかし、人は遠くに飛ぶことができる。それによって、対角線上の頂点にたったひとつの線でいくこともでき、平均するとその線は3弱本になるそうである。これがスモールワールドである。ワッツは世界がこうしたランダムネットワークであると考えた。バラバシはそれに主体性を考慮した。世界はこれほどランダムではなく、偏りがあるというものである。それがリンク数の多いWEBを生み、一部の富豪をつくり出している。なぜか?それは、「優先的選択」というものがあるという。それから発生するモデルをバラバシは考えたのである。それは、最もリジットな初期モデルの15%の線を変えるだけのものである。それで、偏りができる。世界はランダムであることよりも、この形状をとることの方が実は多い。世界が出来る様を、経済性や機能性、あるいは生物なら進化的機能性からできている訳ではなく、数学的な主体性、個性のない部分のようなもので支配されている。この見方が刺激的である。

7月2日(日)
新国立美術館で開催されている「ジャコメッティ展へ行く。初期のキュービスム的作品から、最晩年の結局は実現しなかったチェース・マンハッタン銀行のプロジェクトまで、ジャコメッティの生涯を顧みることができる。その中でジャコメッティは、1935年を境に作風を変えたという。シュルレアリスムに別れを告げ、モデルを前にする制作へと回帰したのである。次の言葉は、1948年に自身が35年以降の自身の作品を振り返ったものであるが、{バースト}で読んだハイゼンベルグの不確定性原理に近いものがここでも見ることができ、時代性を感じる。「見たものを記憶によって作ろうとすると、怖ろしいことに、彫刻は次第に小さくなった。それらは小さくなければ現実に似ないのだった。それでいて私はこの小ささに反抗した。倦(あぐ)むことなく私は何度も新たに始めたが、数か月後にはいつも同じ地点に達するのだった」。ジャコメッティは、そうして極小の作品をつくり、1940年頃にサルトルと知り合いになった。そこで「絶対の探究」にめぐり合ったという。即自と対自を一致させるような試みと推察する。ハイゼンベルクの観察絶対主義的な姿勢もこれに近いものだろうと思う。そうして、見ることと制作することの一体化が、その後のジャコメッティ生涯のテーマになった。ジャコメッティがモデルを前に行うスケッチ映像は、それにたいする迫力が十分に伝わるものであった。ところで2006年に神奈川県立近代美術館葉山でも同展が開催された。そのときは日本所蔵の作品を中心にした展示であったが、今回はこの極小の作品数点と大型3点が加えられ、だいぶ様相が変わっていたと思う。ぼくの観る視点もだいぶ変わっていった。上記のことを当時は気づかなかった。

7月1日(土)
21-21 DESIGN SIGHTで開催されている「そこまでやるか」展に行く。クリスト、アーク・ノヴァ、ヌーメン、石上純也、ジュルジュ・ルースらによるスケールが壮大なプロジェクトが紹介される。壮大であるが故に、ビデオや模型展示では、迫力不足が否めないことを感じる。建築展で感じる欲求不満と似たものである。その中で、ヌーメンのビニールテープがつくり出す地蜘蛛の巣のような作品は、実際に中に入ることもできる遊具であり、圧巻であった。

6月30日(金)
久しぶりに「朝まで生テレビ」を1時間だけ見る。官僚制度がテーマであった。その討論とは別に、官僚をはじめ世の中の管理側の力が以前より強くなったことを近頃感じる。今回の加計問題は、内角官房府が主導する特区にたいする文科省の反発からはじまっている。しかしその力関係は明白で、それは安倍内閣の情報公開要求にたいする横柄な対応でそれがわかる。大学と文科省との間にもこの縮小をみるこができなくもない。現在、特に3.11以降、世の中が進むべき方向性は見えていない状況である。何を実行するにも、価値観が多様化し利害関係がぶつかり、簡単には物事・政治を進めることができないでいる。震災復興もそうである。そのため世論は、公言はしないものの、政治的なリーダーシップをどこか求めている。安倍政権はそうした状況にのっている。特区政策もそのひとつの現れである。しかしそうした強い政権でも、前提となる情報公開がもたらすクレームにたいして対処が求められるので、それをすり抜ける巧妙な管理体制というもののさらなる強化が必要とされる。そうでなければ、法治国家の下でリーダーシップをはっきできないからだ。加計・森友問題における野党とマスコミの突っ込みがさほど効果的でないのは、既にそうした体制が完成しつつあることを物語るものであるかもしれない。つまりは、真の民主化を促す情報の公開というものが、複雑な世論を招き、それとは反対の管理強化する方向にむいていることだ。それが不気味である。知らないうちに巧妙で強大な管理体制が出来上がりつつあることだ。これは政府だけでなく、会社組織や建築にかかわる一連の法律設定、大学問題にまで及んでいる。このことをたまに実感する。

6月29日(木)
「バースト」アルバート=ラズロ・バラハシ著を読み終わる。バースト、べき乗数が発生する根拠、初期条件とは、人の重要度にもとづく優先順位付けにやはりあった。しかし病気発生(入院状況)や知的生命体発生数など、原因が優先順位付けに該当しないものもバーストすることが指摘されたところで、本書は終わる。「バーストが我々人間の発明物でなく、知的生命が地球に現れるずっと前から働いていたp351」のである。結論を先送りした感が否めず、「意識的な優先位置付けなどありそうもない動物や分子原子レベルのプロセスで、いったいどんなメカニズムが重要性を決めているのだろうか」(監訳者あとがき)という疑問が残されたかたちである。本書後半は、バースト原理から、人の行動などにたいする「予測可能性」というものに話題が移る。これにたいしては全くの試行段階のお手上げ状態であった。本書偶数章で進められるルネサンス十字軍の物語は、これを案じるものである。主人公の破天荒な動きがバーストであることは事実であるとしても、個々の事実は多大な解釈の上にあり、歴史というのは、ぼくが前日に指摘したように、事後的な説明でしかないことが説明されている。未来を予想することもさることながら、過去を知ることさえ不可能なのである。つまり、ぼくらは未だに1927年のハイゼンベルグの不確定性原理の内にある。現実さえも捉えることができないことが示されているp286。観測によってはじめて人の行動が予知できるのであるが、観測しなければ決まるものもない。逆にいうと、必要とされているのは、事実と思わせる程の観察である。バラバシを支えているのがこの考えであることが判る。

6月28日(水)
昨日の番組に触発され、再び「バースト」アルバート=ラズロ・バラハシ著を読みはじめる。「新ネットワーク思考」を読み終え、結論が見えているので、バースト、べき乗数が発生する根拠、初期条件を知りたいと思うのが、なかなか出てこない。ただし、ルネサンスの十字軍の物語が偶数章に、現代のバースト例を奇数章にと、2つの物語を平行に進める書き方は、読者を引き込む。物語内容も時系列に沿っていない。行ったり来たりする。むしろその方が、臨場感がある。人が筋道付けて説明するのは、事後強引に必然性を導いくためのものであり、本当のことではない。

6月27日(火)
「Battle」のまとめを終える。気になるところがあるのでそれをどう扱うか、次の段階である。NHKで、AI特集「天使か悪魔か」を観る。AIロボットと将棋名人との2局の戦いを通じて、AIの将来に迫ろうとするものである。既に知られているように、AIロボットが圧勝した。しかも別の番組では、このAIロボットも、AIロボットとの将棋大会決勝で負けている。恐るべきAIの進歩である。というのも、このAIには、これまでの名人戦700万局がデータ化され、それは棋士の対局2000年分に相当する数であるという。AIはこのデータをもとに、棋士の常識では考えられない進め方をする。つまり、制作者のプログラムに沿ってはいるが、その扱う量が膨大であるためにプログラマーでもその因果関係を掴むことがもはや出来ず、つまりAiが独自に学習しているかのような現象がおきている。この技術は、文章アンケートを解読することによる深層心理の解読、あるいはアメリカでは犯罪者の行動予想などに、既に世の中で実用化されているそうだ。これらに共通するのは、思考過程はブラックボックス化され、結論だけを提出する。この過程をだれも静止することができないAIの現状である。この番組はこれを揶揄するものであった。はたしてこれはAIだけの問題であろうか?と思う。レム・コールハースが著した「錯乱のニューヨーク」におけるニューヨークの成立過程も、これに近いことでないかと思う。法律(=プログラム)に則ってはいるが、経済の欲望によって、あのような都市が完成した。東京の狭小地住宅状況も同じである。中国の状況も同じかもしれない。これらはデータ数の多さでなく、大衆や経済パワーによっている。そう考え、設計というものに限定すると、計画することよりも、情報量をかき集めることの方がより豊かな結果をもたらすことになる。もっというと計画内容よりも、情報量を獲得するための方法の検討の方が重要となるのである。

6月26日(月)
「生活とかたち 有形学」を読む。「デザインの鍵」と同様に、ひとつの章で話題を完結させる書き方が特徴的である。2章には、ふたつの思考方法が示される。「悠久の歴史、無限の宇宙は、どうジタバタしても全体のつかみようがないが、自分の撫でた範囲で全体像を推察する他はあるまい。ここにいわば二つのみち、拡散型と凝集型がみられる」。これにしたがうと両書とも、拡散型思考に値するすことが判る。ある中心にあるテーマを、凝視するのでなく、多面的に捉え中心を浮かび上げるような方法である。この中心となるテーマとは、社会、宇宙、世界、歴史、文明の構造とは何かということである。繰り返しになるが、まえがきにある「他者の立場、他者の考え方、他者の反応を理解し、相互の矛盾をのりこえるアイディアの発見、実行ということになる。その媒体となるのが空間的に表出された表現であり、その姿や形である。」ということにつきる。「デザインの鍵」最後の96「広げるほど決めやすくなる」にも、同様の内容が読み取れる。「デザインが何らかのものを形づけるためにあるとすれば、最も問題になる点は、そのデザインの対象とその外側との区別がどのようにしてなされているかということであろう」。「このような意味で、デザインの基礎が対象物の中に入っていくということではなく、問題を外側に広げていく思考方法が最も重要である」。かたちをひとつのシステムに位置づけること。この時期彼らが行っていたことである。

6月25日(日)
「Battle」24章をまとめる。日常的な美によって世界が変わることを、盈進の実例を交えて説明する。全体性の中身を説明するのでなく、それが展開されることによる結果を示すのが本章である。「生活とかたち 有形学」吉阪隆正著を読みはじめる。歯切れのよい文章に感嘆する。まえがきがも素晴らしい。吉阪の基本的考え方を理解できる。「主意は、証明にあるのではなく、別な考え方も存在するということを述べることにある。最も身近で心が通い合っていると信じている親子や恋人同士でさえ、何らかの仕方でその心の内を表出しない限り伝わらない。」そして、「他者の立場、他者の考え方、他者の反応を理解し、相互の矛盾をのりこえるアイディアの発見、実行ということになる。その媒体となるのが空間的に表出された表現であり、その姿や形である」。吉阪の形に思い入れする考えがここにある。1章 生活とかたち(有形学)はこの本の概要である。「物の姿を通じて生活との絡み合いを知る必要が生じて、有形学をつくらせる。原人たちが大自然の形姿に対したように、今私たちは人工物に対応しなければならなくなったのである」。有形学は明らかに、人間中心主義的な考えである。しかし一方で人間がつくるということに疑問が呈されている。「物をつくるとはその物に生命を移すことだともいえる。私たちが物の形を通じてその奥にあるものを知り感動を受けるのは、注ぎ込まれた生命の多さによるのだろうか」。まるで、「Battle」で訳したような内容である。「安心できるのは総合されたものだ」。これも「Battle」にある。「このためには過去を顧みて、物の形がつくられる経過を学び、他方、未来に賭けて提案をするみちを探ることだ」。現代でいうところのスペキュラティヴ・デザインである。次章からは、目次がシラバス形式をとっていて内容が理解しやすい。どれも歴史、文化がどのように空間化されていったかが語られている。本書締めくくりの15章が最初に気になった。「視点と視野」というタイトルである。ここでは、全体像を把握し、その中に個人を位置づける重要性を説き、発想転換を促している。具体的にそれは「魚眼地図」に現れる。客観的とされる地図を主体的に表現したものである。
052 コンフェデ杯 ロシア×メキシコ
開催国ロシアが先制するも、逆転を許し、メキシコが決勝トーナメントへ進出する。メキシコは勝ち方を知っている。日本は参考としなければならい。リードをとると、その後は、粗い攻めにより追加点が奪えず、流れがホームのロシアに行くところを、前線からのちょっとしたプレッシャーから相手の勢いを削ぐことに成功していた。ラインを下げすぎずにいられたのは、前線からの守備によるものだ。セカンドボールの支配率が高くなくとも、なんとかボールを押し戻していた。決して体格的に優勢でないメキシコの勝ち方を日本は学ばなければならないと思う。

6月24日(土)
「Battle」23章をまとめる。この章では、全体性へのアプローチを語られる。本来世界には構造がある。それをよく見れば、何をすべきかが自ずとわかるというものである。以下抜き出す。「私たちは、新しい将来の現実を現在の現実から理解し、抽出することができます。私たちは、それが何であるかを定義できなくとも、未来に導くロープをたどり、その現実を越えた見方が可能であるということをそれは意味しています。」p452。あるいは、「現在あるものに関する構造についての私たちの知識が、私たちのためにドアを開けます。それが、輝くビジョンとなり、直接私たちを誘導します。私たちは、現在の構造を深く推定することで、まるで自分自身のことのように、ものごとが生まれてきます。」p452。「さらにいうと、それらは、現在ある構造の深い構造から来ます。何をするべきかについて示すものです。それはまるで、見えない魂が主体的に働いたかのようです。これが、創造というミステリアスな性質です!!」p452。人間中心主義ではない世界が展開されている。しかし、それを把握するのはあくまでも人間でしかない。この把握方法が徹底化されているのが特徴的である。ぼくらは様々な場面で試行錯誤を繰り返す。例えば、途中でコンセプトを思い付いたり、敷地の見方が開けたりとか、設計とは時間を行ったり来たりする連続の末のものと考えている。もちろんこの本でも、そうした試行錯誤が語られる。しかしそれは思いつきではない。例えば、パタンランゲージから生まれた田の字センターと敷地における中心となる場所の一致。これを永遠と試行錯誤していたことが本書から判る。最終的には、コンタ模型の上に建物ボリュームの切れ端を偶然に置いたことを切っ掛けに設計は展開するのであるが、それは主題が定まっている中での試行錯誤である。人間中心主義を、思考という言葉で解釈するなら、自由な思考の上にガバナンス方法が位置づけられている。さらにその上位に、全体性を司る幾何学構造がある。ヒエラルキーが徹底され、思考は下層にあるものである。

6月23日(金)
「吉阪隆正とル・コルビュジエ」再読。ヴェネチア・ビエンナーレ日本館。日本国のアイデンティティが求められる中、吉阪はこの建築テーマを、建築と自然とする。これを本書では、「明晰な形態に、土地に対するさまざまな配慮を盛り込んでいる」という。ピロティは、土地から離れるのでものでなく、土地に介入しその性格を引き出すものである。これを、ぼくも経験した。伊東豊雄は、中央の外部に通じる吹き抜けがいつも展示の時に格闘すると述懐する。ヴィラ・クゥクゥは、道路からであるが彫塑のようなコンクリート外観が印象的である。思ったより小さい。これから後期コルビュジエを思い出さない人はいないだろう。プランは、ロフト型の一室空間であり、この時期よくあったものである。中央に玄関。外に開かれていて、道路側2階が寝室である。アテネ・フランスは色使いが特徴的である。増築を重ね、不連続統一体をなしている。手すりがとにかく凄い。大学セミナーハウスも、62年から78年まで7期に分けて工事が行われた。本館、中央セミナー館、宿泊ユニットと続く。これは工業化されたものだ。次に本館に繫がれた講堂と図書館。ふたつのシェル屋根で構成される。冨田玲子さんが担当した長期研修館、野外ステージ。それから大学院セミナー館、国際セミナー館と続く。とにかくバリエーションに富み、それが自然と一体化した道によって繫がれている。アテネ・フランスと同様のコンセプトである。最後に樋口邸。ぼくの設計した住宅の直ぐ近く、篠原さんの住宅の隣にある。コンクリートの迫力は群を抜いている。
051 コンフェデ杯 オーストラリア×カメルーン
カメルーンは引いて守り、カウンター狙い。オーストラリアもそれを怖れ、どちらも負けない戦いを選択する。ゲームとしては退屈であった。オーストラリアは左の10番がよい。サイド奥深く攻め込み、そこからのクロスに終始する。

6月22日(木)
「吉阪隆正とル・コルビュジエ」倉方俊輔著を再読。有形学がやはり、60年代からのものであることを再確認する。池辺陽との同時代性もはっきりした。有形学は、自然と対峙するもので、人間を主体としたアプローチである。しかも、「生産ではなく、消費あるいは利用の側に立つ学問」である%