4月30日(水)
081 4月29日 CL準決勝 バイエルン×レアル・マドリード
0-4でマドリーの勝利。誰が見ても前半のバイエルンは攻め急ぎすぎた。中央から縦縦と中央にボールを入れては失敗をする。本来ならば、一度ライン深くまでボールを落ち着かせてから、じわじわと陣形を縮めていくのがバイエルンである。マドリーのクリロナ、ベンゼマ、ベイル3人の攻撃は速く、スピードに難があるといわれていたバイエルンDFにとって、後方を気にしなければならないかなりのプレッシャーがあったろう。それによって、攻撃も中途半端で、最終のライン上げを徹底できなかった理由と考える。崩されたのは、彼らの速攻に加え中盤が上がったときのものであった。今季多くのバイエルン戦を見てきたが、こうした速攻が成功したのは、先日のドルトムントとこのマドリーくらいであった。マンUすらできていなかった。
4月29日(火)
EDLゼミ。「デザインの鍵」池辺陽著の読書会。デザインにおける経験というものが役立つかどうかの議論をする。デザインには「気づき」が大切である。それが根本的であるほどデザインのクオリティーが上がるのだが、普段のデザインでも、小さな気づきは必要とされる。その気づきは、経験=知識から得られるものかという議論になった。大方は、経験よりも感性あるいは運命に左右されるという意見であった。はたしてそうか?もうすこし積極的方法で、気づきを促すような方法はないのだろうかという議論である。そうでなければ、ぼくらの将来は明るくないからだ。AI領域ではこれを「フレーム問題」という。ロボットが副次的な結果を認識できるようにするための方法である。ロボットはチェスのようなルール化された前提のある場面では力を発揮できるが、例えば自ら立ち上がる行為のような、前提そのものが変化していくような場合のプログラム化が思いの他難しい。AIはこの「フレーム問題」をどう説くかで進歩してきた話をする。最近読んでいるデザインスゴロクやアジャイルにも、その応えの可能性がある。AI領域では既に、次々に連続する「環境」を、完全に表現しつくす知識表象をつくりあげることなど不可能と結論づけた。一方で、気づきというような偶然も期待できないので、「環境」の変化が及ぼす影響に限定してそれに注目するようになった。その影響をコントロールすることで環境を一定に保つことを行っている。それは網膜に写る像をどのように認識するかという視角構造と同様であるという話である。
4月28日(月)
「システムの科学」を読む。本書では、これまでに複雑系に関して3つの大きな高まりがあったことを示し、経済がそれとは不断の関係であることを言う。ひとつめは、第一次世界大戦後のゲシュタルトと創発論(ポパー、ハイエク、ウィーバー)、ふたつ目は第2次大戦後のサバネティックス(ウイーナー)、カタストロフ。アフォーダンス(Jギブソン)もここに入る、3つめは少し前のエントロピー(プリコジン)、カオス(ローレンツ、マンデルブロ)、アルゴリズムである。そしてあえて付け加えるなら現在のネットワーク科学である。反還元論や創発という考えからはじまって、フィードバックとホメオステイス(恒常性)、そしてそのシミユレーションという変化を追っている。その上で本書の主眼は、全体を「準分解し」、階層化によって複雑性を理解しようとするところにある。時間軸を考慮に入れ、短期的には差異がある下位システムも長期的には上位システムに影響を与えない範囲に区切って観察する方法の提案である。付章では、組織における合理的意思決定論を展開する。著書サイモンはノーベル経済学賞受賞者である。最近読む「アジャイル」本、アレグサンダーのその後、に影響を与えているに違いない。
081 4月27日 プレミア リヴァプール×チェルシー
キャプテンジェラードの信じられないトラップミスが引き金になり0-1のチェルシーの勝利。今週のCLを睨み、先発となったバがゴールを決める。いつものようにCBサコからのジェラードへのパスで、分厚いリヴァプールの攻撃がはじまるはずであった。その何でもないトラップを失敗した。24年ぶりの優勝のプレッシャーとはこういうものなのだろう。その後リヴァプールは、キャプテンの失敗を取り戻すべく一丸となって攻めるも、チェルシーの厚い壁に阻まれた。やはり守ると強いチェルシーである。ロスタイムにはさらに1点を決める。これでリヴァプールは1試合少ないマンCに実質並ばれてしまった。それにしても、優勝を諦めこのゲームを捨てたという今日のモウリーニョの采配は見事であった。同様のプレッシャーで前回サンダーランド戦を落としてしまった反省が生かされる。スピードのあるバを引いて守るワントップFWに使い、一方で若い21歳のチェコ人DFも使う。等しく選手を使うことで全選手からも信頼され、将来へ向かって勝利と経験、勢いをこの試合で手にしている。
4月27日(日)
080 4月26日 プレミア マンU×ノーウィッチ
先発は、ルーニー、ウェルベック、バレンシア、そしてマタでなく香川であった。暫定新監督ギグスは前日、選手もプレーを楽しむべきだとコメントする。この前線4人をベースに、今までよりショートパスを多く、大きなサイドチェンジを織り交ぜた流動的な攻撃を見せてくれた。中盤底にキャリックとクレバリー。キャリックのポジションもいつもより高めであった。ゲーム序盤はちぐはぐさが多かったものの、ルーニーのPKでゲームが落ち着く。ただし、これも完全に崩してのPKであった。2点目は、香川がDFを引き連れ、空いたスペースでルーニーがフリーでロングシュートを放ったもの。後半は、前半自嘲気味の香川もいつものように広くピッチを使う。香川にとって、さあこれからというときの交代であった。90分のフル出場は、前線ではルーニーとバレンシア。ギグスが寄せる信頼度が判る。最初にピッチに送り込まれたマタが効果的に攻撃参加し、2点をあげる。マンUはこれで一応ファンを納得させることができた。多くのメディアから、ファン・ハールでほぼ決定という情報が流れる。
4月26日(土)
モイーズ解任の様々な情報が拡がる。組織論と結びつけて興味深いのは、ミューレンスティーン氏のコメント。彼はファーガソンのもとで5年間コーチを務めた。ユナイテッドのような大クラブで必要とされるのはゲーム監督業だけではないことを指摘し、エバートンとの違いは、ヨットと客船くらい差がある。重要なのはゲーム以外のところにあるという。ゲームコントロールはむしろコーチ陣やベテラン選手でも指揮することができ、その前提つくりが老体ファーガソンにしかできなかったものであるという訳である。成功をおさめるには、実力に加えて運命をたぐり寄せるような創発をゲットすることが必要不可欠であり、それが起きるような前提つくりが監督業として最も重要視されるべきものであるといっている。年間60ゲームをこなすためのスターティングメンバーを選手各人へ納得させ、マスコミを含めた勝利への雰囲気つくり、ライバルチームへのプレッシャー、そして経営陣からのある程度の自律とかつ金銭面の援助などである。そこには人事も絡んでくる。ヨット出身のモイーズにはそこが理解できなかったと言わんばかりの発言であり、近頃読む本との関連できて面白かった。
079 4月26日 ブンデス マインツ×ニュールンベルグ
岡崎と清武がともに先発。岡崎がセットプレーからヘディングを決める。マインツは好調を維持。ニュールベルグは攻撃の型がなく、降格圏からの脱出が難しい状況にある。前線とDFの距離がありすぎ、速攻撃に移れない。ニュールンベルグもユース監督に変更し、スクランブル状況にあるなか、長谷部が東京から呼び戻されたという。彼のキャプテンシィがここでも必要とされる訳である。今後2人の日本人の力がみものである。
4月25日(金)
「システムの科学」ハーバート・A・サイモン著を読みはじめる。経済学者が科学に注目していること、デザインと科学の結びつきを説いた初期の人であることを聞き、本書を手にする。1章を通して、「サスティナブル」が、この本の延長上にあることがよくわかる。当時はサスティナブルという言葉なかった。が、この本で説いているのは、内部環境から、あるいは人工物をつくる側の視点から、外部環境との接点を探ることである。複雑な実体から抽出された少数の特性を、より現実的に経験的にみるための試みが紹介されている。
4月24日(木)
078 4月23日 CL準決勝 レアルマドリード×バイエルン
序盤はバイエルンペースで、得点も時間の問題かと思われた20分に、逆にレアルが速攻で得点する。ゴール前のクリアボールをセンター付近でクリロナがキープし、そこからなぜかしら相手陣地まで攻め挙がっていた5番左サイドバック、コエントランの折り返しをベンゼマが確実に決めた。その後もレアルは、シュートを数回外すも1-0でレアルの先勝。ボールポゼッションは前半25%くらいであったと思われるが、バイエルンはもたされていたともとれ、攻めあぐねていた。反対にクリロナ、ベンゼマ、ディマリアの攻撃の圧力は鋭くバイエルンDFを圧倒していた。DFをかわす日本のFWにこうした強さがほしい。
4月23日(水)
EDLでのゼミ。話ながら、池辺さんのデザインが他の人が言う統合的デザインと、どこが異なるかに気付いた。それはデザインの鍵79「仮説を立てること」にある。そこでは、仮説の上に設計を展開させることが求められている。それを「トータリティ−」といっている。一般には仮説の強さが重要視されるが、85「デザインスゴロク」と合わせると、むしろ情報量の多さと個々の情報結びつきの強度が重要とされているのが判った。それを強度ある「トータリティ−」という。それはアレグサンダーのいうようにツリーシステム思考では履行不可能であり、現存する複雑なシステムを上手に仮説に引き寄せる技術、せめてセミラチス程度に整理する技術が必要とされる。
078 4月22日 CL準決勝 アトレチコ×チェルシー
モウリーニョの思惑通りにアウェーで0-0のドロー。しかしチェルシーにとって、GKシェフとキャプテンDFテリーの負傷は予想外であったに違いない。お互いが探り合い、退屈なゲームとなるのはチェルシーの場合いつもである。そうした守りを固めるチェルシーに対してアトレチコは、中央からのミドル、あるいはサイドからファーサイドに放り込みで対抗していた。あと少しのところで得点に結びつかなかった。アトレチコもカウンターによるホームでの失点を恐れていたためだろう。強引に中央を割って入ることをしなかった。次戦のアウェーで1点獲ればよしという作戦であった。メディアのいうようにチェルシー有利とはいえない。
4月22日(火)
「偶然の問題」解説を読む。九鬼周造の生い立ちと絡めて偶然の説明をする。彼の生い立ちとは、彼の母親が彼を産むために余儀なくされたアメリカからの帰国途中に、サポート役であったはずの岡倉天心とスキャンダルを犯してしまったことをいう。そのため母は精神的におかしくなり亡くなった。そうした後追いによって、九鬼周造の生涯のテーマが偶然と必然の表裏一体性にあったというものである。九鬼は時として神を持ち出し、至上から説明を行ったが、後追いの正当性はそうした視点によってはじめて可能なる。それに対しぼくらは目先のことしか見えない。現実にたって結論を出しているワッツに好感をもつ。
プレミア番外
モイーズの解任が発表になる。日曜日の試合におけるエバートンマルティネスの躍進が、モイーズを逆境に追い込んだ。CL消滅によるものではない。ではなぜモイーズを選んだとされるファーガソンは、モイーズの能力を把握しきれていなかったのだろうか?という疑問が挙がる。ファーガソンは退任時、 73歳であった。彼はチームの最終決定者として強く存在していたが、おそらくマンUを実際に支えていたのはベテラン選手やコーチ陣であったのだろう。モイーズは彼らを首にしてしまっていた。チームが機能していなかった理由である。OBロイ・キーンから、選手もこの事態を恥じるべきであるというコメントが流れる。キーンは、ファーガソンをサポートしていた自負があるのだろう。現在チームのベテラン達はその気概がなかったことを指摘するものである。ファーガソンが選んだとされる香川はその実力を証明しなければならない。偉大なるOBギグスが残り4試合の監督を務めるという。
4月21日(月)
「偶然の問題」九鬼周造著を読みはじめる。1935年の著書である。偶然を様々な角度から分析する。しかしその中に、ローティのみる自然科学における偶然というものはない。決定な違いは偶然を、可能性が拡大するポジティブなものとして捉えるか、必然のうちのひとつとして捉えるかの違いがある。世界を動的でクリエィションの集まりと見なすか、静的なものと見なすかの違いがある。「腑に落ちる」という表現がピッタリいく偶然性をいっている。
4月20日(日)
077 4月20日 プレミア エバートン×マンU
モイーズが古巣とクディソンパークでの対戦。下馬評通りにマンUの0-2の完敗。ルーニーの体調がいまいちであったのが最大の敗戦要因とも思えるが、攻撃陣の不甲斐なさはどこから来るのだろうと考える。前線の攻撃にイマジナリーが全くなかった。マルティネスとの監督の差とも考えられるが、そう簡単でもない。エバートンは、高さと体力のあるルカクを押し込みこぼれ球をMFがシュートするパタン、それに加えて、サイドが強引に攻め上がるパタン、このふたつを織り交ぜて闘う方針である。それに比べてモイーズマンUは中央突破のショットパス連携で打開を狙う。モイーズはサイド中心の押し込みを得意としていたのであるが、それでは上位を狙えないことを実感しここ数試合で、香川、マタ、ルーニーのパス攻撃に切り替えた。この成熟度の差が出た。最近このパタンで成功しているのは実は、マンUがコーナーからのセットプレーによって得点を重ね、自分たちのペースをつくり出していたことが実は大きい。このゲームではそれができなかった。前半2本の香川からのルーニーへの長い裏を狙ったパスが決まっていたら、展開は違っていただろう。先に書いたようにルーニーの体調がいまいちでこれを決めきれなかった。失点は、いずれもマンUの左サイドを崩されたことから始まっている。特に前半終了間際の2失点目は、左サイドのビュッイトナーがラインコントロールを見過ごすという基本を失ったもの。体の向きが全く反対であった。モイーズの育てた両サイドバック、ベインズとコールマンにやられたかたちである。守備では彼らにナニと香川の攻撃が封じこめられたのも大きかった。それを嫌い香川もナニも中央の前線に入りすぎ、ゴール前にスペースをなくしてしまっていた。これでは攻撃が行き詰まってしまう。こうした劣勢を跳ね返す強さとイマジネーション、あるいは経験が今季のマンUになかったということである。
4月19日(土)
「偶然性・アイロニー・連帯」を読み終わる。「偶然性・アイロニー・連帯」は、「哲学と自然の鏡」1979年の10年後の著作である。「哲学と自然の鏡」において中心においていた「対話」はどこにいったのだろうと思う。「偶然性・アイロニー・連帯」では、革命を実行するのはアイロニストのみである。アイロニストとそれを受け入れる大衆とを区別するものだ。彼が左派から受け入れられない大きな理由がそこにある。彼のいう偶然が、アクシデントでない理由も理解できる。とはいえ、主体性を出さないアイロニーな方法を勧め、偶然を起こす前提つくりをはっきりと意識化している両立点をもっているのがローティのいわんとするところであり、不思議なところである。
075 4月19日 ブンデス ドルトムント×マインツ
岡崎2度の同点弾放つも、2-4でマインツ負ける。実力の差が明らかであった。いずれもラッキーなゴールであったが、前線からのプレッシャーとシュートへのこだわりがなせる業であろう。一方ドルトムントの起点はもはやロイスからである。彼からはじまり、レバントスキーとムヒタリアン3人でゴールまで結びつける。シーズン終盤になり連携が馴染んでくる。来季はこのメンバーで戦えないのが残念である。
4月18日(金)
昨日引用した5章前に「私は第8章で主張する。」とある。そこで早速8章に飛ぶ。文芸評論のようでさっぱりであった。「1984」を書いたオーウェルを批評する。1950年に書かれた未来小説である。「1984」は、85年公開の「未来世紀ブラジル」の原作とされている。この本が書かれたのは1989年。この本の時代背景も判ってくる。
4月17日(木)
「偶然性・アイロニー・連帯」第Ⅱ部5章「自己創造と自己を越えたものへのつながり」を読む。カントをはじめ崇高論が扱われる。カントが崇高の現象を唯々記述しているのに対し、本書ではそれと創造との関係にまで踏み込もうとしている。そうした人がいることが判っただけでも収穫であった。しかし崇高なるものを仕込むために偶然性を期待することに否定的であった。あくまでもアイノロニーという立場を貫き通す訳である。5章最後に「自己創造の言説がどれほど洗練されようとも、リベラルの政治言説はそのままアンセオリティカルを保ちつづけた方がうまくゆく」とある。引き裂かれる思いである。
4月16日(水)
大学院の授業。池辺氏の「デザインスゴロク」をもとにしながら、デザイン時にまず仮説をたてること、そしてそれにトータルティーをもたせることの大切さを話す。香取線香の商品開発・デザインを行う場合を想定し、具体的にグループディスカッションを行った。デザインスゴロクに従うことによって、どんな発想からはじめてもトータリティーを帯びるようになること、反対に、デザインスゴロクを参照して、様々な発想を得ることも可能であることを示したかった。イームズの椅子やガウディの建築が異質に見えるのは、むしろデザインスゴロクにおける一般に扱わない問題をデザインしていることによる。
4月15日(火)
「偶然性・アイロニー・連帯」第Ⅱ部、アイロニーに入る。アイロニストとなることをすすめる。アイロニストとは、常識とされる前提を拒み、世間から一定の距離を保つ人のことをいう。自分の主義主張に固辞するのは、自分より強大な世間から身を守るためである。そこから距離を置くことで、むしろ自由な存在でいることができる。またその余裕から相手に関心を抱くこともよりできるようになる。contingencyを起こす前提条件がアイロニーという訳だ。
4月14日(月)
「偶然性・アイロニー・連帯」リチャード・ローティ著を読み始める。「哲学と自然の鏡」においてローティは、主体性に対して否定的であったこと、それと「偶然」がどう絡むかを知りたいと思い本書を手にする。 本題はcontingency. 偶発という意味である。アクシデントと異なり、前向きでポジティヴなイメージをこの語から持つ。第Ⅰ部は偶発性を、言語、自己、共同体から説明する。難解である。ただ、真理は発見されるというよりつくるのだ、というメッセージを強く感じる。世界を説明するための合理的で科学的思考=啓蒙を否定している。フランス革命は、これまでの宗教、哲学、科学が与えてきた世界観をロマン主義者が中心になって変革したものだという。ロマン主義者達は啓蒙の行き詰まりを新しい言葉によって切り開こうとしていた。そうした言葉の存在が革命の原動力になったという。そういえば、フランス革命を目の当たりにしたバーグの「崇高と美の観念の起原」も、カントの「判断力批判」も最終章は言葉についてであった。その最終章で、詩を推奨していた。3章では、語彙=コンセプトとして表現することの重要性を述べる。それが可能になることで反対に、運動が明快になり、運動が活性化され進歩させることができるといっている。後解釈というものをポジティヴに解釈するとこのようになる。ぼくたちに必要とされるのは、皆が自由に発言できるようなリベラルな前提つくりである。
4月13日(日)
「偶然の科学」を読み続ける。ハイエク理論にもとづく「キャップ・アンド・トレード」政策、「スモールワールド」でも挙げていたトヨタの「ブートストラップ」方式を勧める。「キャップ・アンド・トレード」政策とは、例えばCO2削減に対し、政府が法律のようなかたちで全体規制を設けるのではなく、一端目標値という「キャップ」を全体にかけて、後の実行方法を個々の企業に任せるというものである。技術力のある企業は、生産においてCO2削減に対処し、そうでない企業は排出権を買い取ることなど、企業にあった様々な選択を行う。こうした考えの前提には、大きな問題を統一解決できるベストな答えなどはなく、個々の試みの淘汰を通して社会が公正に導くという信念の上にある。先のハイエクに対するケインズへの批判でもある。スモールワールドがひしめき合い世界全体が動いていくイメージである。といっても、ぼくらは未来に対して明快な方針を示すことが無力といっている訳ではなく、インターネットなどの新しいテクノロジーによる統計を駆使して、予測可能性と予測不能性のバランスを知ることからはじめるべきであるというのが本書の結論である。
4月13日(日)
「偶然の科学」2部に入る。計画が意味のないことを、様々な例を挙げて指摘する。未来を見通すことは全くできないという。面白かったのは、ソニーのベータ戦争でVHSに負けた失敗について。よく聞かされていたのは、ソニーが画質の優位性にあぐらをかき、ユーザ本位でなかったということだ。それでレンタルビデオ市場でのVHSシェアを許してしまったというものである。それは事実であるのだが、ソニーがユーザをなおざりにしていた訳ではないというのが本書の指摘である。ソニーはビデオデッキを、テレビ番組の録画に使うものと予想していた。レンタル中心とは予想できなかったという。現在のデジタル録画機の主目的がむしろ録画にあることを考えると、あながちソニーのユーザ像が外れていたわけではない。たまたま時代に合わなかったのだ。一般に知らされているソニー敗北の理由は、ひとが後解釈をするという好例であった訳である。常識はないという本書の根拠がここにある。そこで本書では、計画者の役割として、未来に何が役立つかを正しく予想するのでなく、現在役だっているものについて知る能力を向上させることを説く。20世紀初頭の建築家、科学者、政治家、哲学者の計画立案によって社会の諸問題を解決しようとする態度を、楽観主義すぎるとして断罪している。
4月12日(土)
「偶然の科学」ダンカン・ワッツ著を読み始める。「スモールワールド・ネットワーク」の続編である。原題は、Everything is obvious. Once you know the answer. 人間は後知恵でいかようにも解釈する。と訳すべきか。世界は偶然の連続で成立していることを様々な実例で説明する。
074 4月12日 ブンデス バイエルン×ドルトムント
バイエルンにとっては優勝とCL4強を決め、ドルトムントにとってはCLの敗退が決まってしまい、このリーグ戦に対するモチベーションが両者にとって難しい試合に思えた。しかしドルトムントは違っていた。ドルトムント選手の球際は強く、ことごとくバイエルンのパスを突き返していた。バイエルンのボール支配率が70%以上であっても、それはバイエルン自陣でのものであり、いつものボール回しからの相手を徐々に絞っていくような攻撃はほとんどなかった。それに対しドルトムントは、FWにレバントスキーでなくオバメヤンを使い、激しいプレッシングから彼への速攻を幾度も試みた。バイエルンDF陣は、そのオバメヤンの速さに翻弄され、攻撃に参加できなかったことになる。いつもの攻撃とならなかったふたつ目の原因である。前半の得点は、スローイングからのリスタートをムヒタリアンが落ち着いて決めたもの。CL後半の好機を逃した2回を挽回するものであった。後半は、DFラフィーニャを退場させるなどドルトムントの圧勝である。両者は、おそらく再びドイツカップ決勝で顔を合わすことになる。今日の試合で、ここまでバイエルンが機能しなかったのは驚きである。
4月11日(金)
「スモールワールド・ネットワーク」を読む。3章以降、コンピュータウィルスやエボラ出血熱、あるいはトヨタアイシンの復活劇などの実例を紹介するにとどまる。ワッツとしても、社会ネットワークが閾値(臨界点)を超えてカスケード状況に向かう状況を正面から掘り下げたいのであるが、どうやら答えはそう簡単でないようだ。分析・仮説の検証という悶々とした状況を超えて、かたちにまで昇華させるのは難しいことが判る。ところで本書の中で面白い事実を発見した。エボラ出血熱が(幸いなことに)未だ爆発的流行していないことに対しHIVがもはや閾値を超えている理由である。エボラのウィルスは、あまりにも強いキャラクターをもっている。つまり感染直後に症状がでる。そのためネットワーク切断、つまり村を隔離することが容易で、感染拡大を防ぐことが可能であった。それに対しHIVは潜伏期間が長く、逆にその存在が発見されないため拡大を招いたという。ウィルスの弱さと既存社会との親和性が重要な条件となっているわけだ。それは統計学の扱う数字と別の次元の問題である。情報のアジャイル性ばかりでなく、その質も問題にされていることになる。
073 4月7日 CL チェルシー×パリSG
チェルシーが終了間際に1点をとり2-0、トータル3-3としアウェーゴールの差で4強進出を決める。モウリーニョの喜びは凄かった。点を決めたバを中心としたフィールド内の選手の輪に加わる程である。チームの一体感が感じられた。前半に1点を取り、決してアウェーゴールを許すことなく最後の最後で点をとるのはモウリーニョらしい。早めの2点目は、むしろ反撃の余裕を与えることになり、ゲームがどのように展開していったか、は判らない。この辺りに采配の妙があることを、「スモールワールド・ネットワーク」を読んで感じる。
4月10日(木)
「スモールワールド・ネットワーク 世界を知るための新科学的思考法」ダンカン・ワッツ著を読み始める。スモールワールドとは、いわゆる「世間は広いようで狭い」現象のことをいう。表紙も「6」。6人いれば世界につながるのである。一見大きなネットワークも小さなネットワークの積み重ねから成る。この現象を、実例とともに科学的に説明した書である。こうした科学は、ネットワーク科学と呼ばれ、ワッツによってはじめられた。ぼくとしては、小さな学習の積み重ねが突如不連続に大きく発展し、革新的アイデアにまで至る現象がいかなるものかを知りたいと思いこの本を手にした。第2章にワッツの理論的背景が概観されている。伝染病の拡散、流行の伝達も、ある規模を越えると臨界点に達し爆発的に拡がる。この現象は数学的に証明可能であり、それを表したグラフをランダムグラフという。3章以降に実例が紹介される。
072 4月8日 CL バイエルン×マンU
香川右で先発。1stレグ程ではないが、マンUはカウンター狙いのゲーム運びに終始する。カウンター時にボールをキープできていたことが、マンUが他のチームと異なっていた。必ず右のバレンシアに預け、彼が他の選手が攻撃に上がる時間を稼ぐことができた。それにルーニー、香川が呼応する。それが徹底されていた。先制点はそうしたバレンシアサイドからボールを受けた左のエブラの強烈なミドルシュートであった。この時4人の選手がゴール前に詰めていたのは流石である。この時点でアウェーのマンUが圧倒的優位となり、逆転勝利への希望をもたせてくれた。2点奪われなければ大丈夫だからだ。しかし直後のプレーで同点弾を浴び、チームに動揺が拡がる。完全に守備が崩壊した。モイーズは試合後に、この時間帯の失点を経験のなさからくるものだといっていた。これはモイーズ自身のことをいっているのだろうか?それ程マンUは若いとも言えない。それに対しグアディオラのゲームプランは明快であった。ゲッチェに変え、右にラフィーニャを投入する。ゲッチェのいた両サイド奥にスペースをつくり、右から移動してきたラームが、そこへパスを出す攻撃変更である。香川が中央寄りになったのはこのためか、あるいは香川自身が攻撃を重視したためかは不明であるが、2点目失点時に、折り返しを入れるロッペンに対し、エブラと香川が左サイドで不在という状況であった。そのクロスに対する1対1にビビッチが負けたことが最大の問題であるが、マンUに前半にはない混乱がおきていたのは明らかであった。グアディオラの指示通りに空いたサイド奥をミューラーとリベリーが突いていた。その後、点を獲るために香川は中央に位置し、流動的に攻撃参加をする。ルーニーの体調がいまいちであったようだ。ルーニーから引き継いだかたちで、シュートをはじめいくつかの決定機を香川が演出した。TVカメラも香川を多くクローズアップするようになる。相手のプレッシングがキツい中、体の小さな香川が生き生きできたのは皮肉でもある。縦々一辺倒のモイーズも連動の必要性を実感できたと思う。香川をフル出場させるも、マンUの来季CL出場が絶たれる。
4月9日(水)
ゼミでクセナキスの作曲した1954年のメタスタシスを聞く。HP幾何学で生み出されるグラフ図形を元に、縦軸を音高、横軸を時間と見做し音響の変化を綴る形で作曲したものである。http://www.youtube.com/watch?v=SZazYFchLRI に楽譜と曲がアップされている。フィリップ館も同様な構成をとっていることを知る。HP幾何学の端部直線を50センチで等分し、それを結ぶ直線の角度を数学的に連続させたものである。はじめから空間イメージがあった訳でない。数学を先行させた、いわゆる、「できちゃった」空間である。曲も同様であった。もちろん、適所での建築家の意思が方向性を決めているのはいうまでもない。それによって当初あった4本の柱をなくすことに成功した。室内には400個のスピーカーが設置され、それと「2001年宇宙の旅」を彷彿させる映像によって、不思議な囲まれた空間をつくり出した。建設は50センチ幅のPCを並べ、その上にアルミの防水を施したという。音楽によるひとつの次元を加えた空間とクセナキスはいっている。研究室では、1/100模型からスケールアップさせた模型に取りかかる。
071 4月8日 CL ドルトムント×レアル マドリード
1stレグと異なりドルトムントは、開始直後のレアルの攻撃を凌ぎきることができた。これによってホームドルトムントは自らのペースに持ち込むことができた。バイエンフェラーがPKを止めてからはさらにそれが加速する。プレッシングが効果的に効き、相手のミスを誘い、早々に2点を奪う。あわや逆転を思わせるゲーム運びであった。しかし後半は点を取れずにトータル2-3で敗退。後半にレアルが持ち直した訳ではない。あるいはドルトムントが攻め疲れた訳ではない。ムヒタリアンの2発、グロスクロイスの1発は決まってもおかしくないものであった。ムヒタリアンの1発目は2人の縦の攻撃で3人のDFを崩す見事な攻撃であったが、ポストに嫌われた。ドルトムントにとっては、1stレグのレバントスキーとルイスの欠場が痛かった。この試合有効であった前線からの守備は彼らから始まっていたのである。
4月8日(火)
NHK特集「34年前のバス放火事件」を見る。ぼくが新宿から帰宅するバスで34年前に起きた事件である。確か高校2年生であった。全身にやけどを負い、そのための輸血で肝炎にもなってしまったひとりの被害者の終生を追うドキュメンタリーである。被害者の心の深い傷を追う。人を慰める言葉が、さらに人を傷つけてしまい、肉親であってもそれをカバーできないという難しい人間関係を追っていた。
070 4月7日 セリエA ジェノア×ミラン
本田の初ゴール。DFとキーパーを上手く交わしての速攻であった。ゴール後のチームメートの彼への祝福も尋常でなかった。本田の貢献度が理解できた。このゲームにおけるジェノアのプレッシングがプレミア並であり、本田も守備に追われる。ミランは何もすることができなかったが、勝利を手にする。
4月7日(月)
今年2回目のゼミ。アレグサンダーンのパタンランゲージを起点にして、他分野関連本の読書会を行う。「パターンWiki」というコンピュータプログラミングの本、「知識創造の方法論」というビジネス書、「デザイン思考が世界を変える」というデザイン(ビジネス)書、「弓と禅」という東洋哲学導入本である。いくつかの候補の中からこれらを学生が選択した。本の底辺に流れているのは現代の行き詰まりからの脱却方法である。いずれも、明確なゴールを目指しステップアップする分析型学習を否定している。優れたコンセプトの探求よりも、発見されたコンセプトをいかに実行するかの大切を説いたものである。あるいは、情報をキーワードに、それをつなぎ合わせることの重要性を述べている。それは、アレグサンダーのいう思考形態をツリーからセミラチスへ移行させることを意味し、ぼくらの考える空間つくりも同様であることを話した。学生から「偶然を起こすように日々仕込むことですね。」という的得た感想を得る。今回のゼミの意図が伝わったようだ。これに関連させた次回のテーマを決める。
069 4月5日 セリエA インテル×ボローニャ
長友が前半は左、後半途中から右のウイングとしてフル出場。1点目をアシストするなど、プレーに貫禄を感じさせてくれた。左を起点にサイド奥や中央にドリブルで切れ込む、あるいはDFの裏に回り込むなど縦横無尽な動きをする。チームメートがその動きを把握しているようにも思え、無駄な動きには見えなかった。結果は2-2のドロー。3バックディフェンスの脆さが出た試合であった。4試合勝ちがない。
4月6日(日)
俵屋宗達の「風神雷神図」を見る。迫力のある絵と想像していたのだが、むしろ風神の軽さが特徴的な絵であった。現代的な絵としても素直に受け入れられるものである。風を受ける頭上の白袋が効いているのだ。眼を見開いた顔の表情もどことなく滑稽である。神が人格化されるようになったのはこの頃からだろう。雷神と風神を対極に置く構図も現代的で、両風の間に「間」がある。先週見た長谷川等伯が画面いっぱいに描き尽くしていたのとは対照的である。実物を間近に見て気づいたのは、タッチのラフさにあった。色の塗り重ね方にそれがよく現れている。特に神が乗る雲には驚いた。雲の軽さはそこから来ている。尾形光琳はこれに感動し模写したというが、タッチはだいぶ異なっている?と記憶している。筆のタッチだけで描く水墨画が由来だろうか? この絵は「栄西と建仁寺」展で見ることができる。栄西は風神雷神を所有する建仁寺を建立した。栄西を、最近は「ようさい」と呼ぶらしい。ぼくにとって、栄西は禅宗や茶を広めた人物というより、東大寺大勧進重源の後を引き継いだ人物である。彼により大仏様が途絶え、いわゆる和洋化というものが始まった。現代まで続く日本文化はこれを源とするものが多い。茶、花、書、禅全てそうだ。禅宗の伝播とともに、こうした文化も伝播していく。建仁寺はその起点として働いた。毎年3月1日の栄西の生誕日に、伝統式的な四頭(よつがしら)式茶会が建仁寺で開かれるという。
4月5日(土)
北澤豪の講演会。選手選考基準について面白い発言をする。才能がある若手と、才能が飛び抜けていないが自分の立ち位置が見えている若手とでは、選考に際して、後者を選択するという。サッカーでは、年間を通じたゲームプランを考える。絶えずマイナス部分を付いてくる対戦相手に対して、自己修復能力が、ちょっとした才能より大切とされるのだそうだ。それはメンタルコントロールによってなせる業であり、ポジティヴな思考によって育てられるという。それも天性のものであり、ひとつの能力なのである。北澤はヴェルディに所属し、どちらかというと創造性重視の選手と考えていたので意外に思えた。それだけサッカーはチームスポーツであり、選手に要求されるタスクが多いのである。
068 4月5日 プレミア マンU×ニューカッスル
ルーニーが怪我で欠場。エルナンデスの1トップにマタ、香川、ヤングという前線をとる。そのヤングが負傷し10分にヤヌザイが入る。ニューカッスルのディフェンスは当たりが弱く、マンUもCLの間ということもあり、主力が温存された。したがって集中力がいまいちのゲームで、どちらかというと退屈な試合であった。しかし時間が経つにつれて、エルナンデスと香川の近い距離の連携でゴールにせまるようになる。点にはならなかったが、キーパーからの蹴り出しをエルナンデスが落とし、それを受けた香川がDFをドリブルで引きつけ、再びエルナンデスへのパス。それをエルナンデスがシュートに結びつけた攻撃がその典型であった。3点目は、ヤヌザイのサイドに香川が切れ込み、それに連動してエルナンデスも切り込むものであった。マンUもこうした攻撃ができるようになる。ファンベルシー1トップに、ルーニートップ下の時にはない攻撃である。その下に位置するマタと香川は連動できがなかった。ファンベルシーは、DFライン上に位置とりをし、自らスペースを空け、そこを使うタイプである。その場合、どうしてもサイドのマタと香川は攻撃の萱の外になってしまうのだろう。ルーニーやエルナンデスは比較的自由なポジショニングをするので、マタと香川も連携できるのだ。4-0で数字上は圧勝。しかしCLのバイエルンとの戦いには、このモチベーションと負傷者の問題があり、疑問を残す試合となった。
4月4日(金)
「経験経済」を読む。これまでの品質価格競争経済に対して経験経済を提案する。この「経験経済」とは、建築の場合でいえば「場」を提供することにあたる。しかしこうした利用者の経験を促す場の建築に名作があったかどうかを考える。「場」とは利用者が自らの要求を実現するためにあり、その容易さが大切にされる。一方で、不自由なものを使いこなしたときに感じる達成感もある。エドマンドバーグとカントの「崇高」理論から、そうした達成感がはるかに大きな感動や快適性を与えることを学んだ。名作とはそれを前提にしたものであり、ぼくら建築家はそれを追い求め続けている。したがって、建築をつくることと経験建築=場をつくることとは相容れない。もしそうでない場合があるとしたらそれは住宅においてである。住宅は特定個人を前提にし、むしろこうした予期しない快適性が大切にされる。利用者を絞りきることが不可能な公共の建物にかんしては、場であることを徹底しなければならない。
4月3日(木)
「経験経済」パイン+ギルモア著を読み始める。価格競争によって縮小していくマーケティングをコモディティ化という。そこから抜け出すための方法として「経験経済」があげられている。経験経済では、豆腐を使ってどんな経験が提供できるかを問題にする。例えば100円の豆腐の品質競争、あるいは98円にする価格競争に打ち勝つものではない。よい例は、ディズニーランドであり、ベネチアのサンマルコ広場に面するカフェである。最近ではスターバックスがそれに該当する。これらは、「従来重視されてきた技術・機能あるいは効率化の知識ではなく、より深いレベルで消費者の感性や情緒を組み込んだモノづくりの知恵」によって成立している。出版は1999年。経済価値が見なおされた時期である。今までは価値は与えるもので、すべて買い手の外部に存在しているが、本質的に個人に属する経験に委ねられることとなった。
067 4月2日 CL レアルマドリード×ドルトムント
アウェーでドルトムントの0-3の完敗。開始3分の失点が痛かった。右イスコから左奥へのロングパスの折り返しを、グロスクロイスが付ききれなかった。ベイルに先制を許す。前半の20分過ぎからようやくドルトムントのプレッシングが効くようになるが、これからというときの2点目であった。レアルはドルトムントビルトアップ時のカットを狙っていた。見事にその罠にはまってしまい、ボランチ・シャビアロンソにパスカットされ、ボランチ・イスコに決められる。後半も同様な失点。ドルトムントは苦しい状況に追い込まれる。
4月2日(水)
066 4月1日 CL マンU×バイエルン
マンUは守備的なフォーメーションでこのゲームに臨む。ゲーム開始時には2列目を3人にして4-3-3、途中からウェルベックを前線に残し4-4-1-1にする。ルーニーをトップ下に配置し、長いダイレクトパスを使って、ウェルベックの個人技に勝機を賭ける戦術変更である。こうした変更をゲーム中に行えるのは、歴史あるチームの証である。これに対しバイエルンはいつものように大きな円を描くようなボール回しをし、ボールが奪われてもユナイテッドにカウンターを許さないかたちをとる。バイエルンの一方的な攻撃である。ボール保持率は7割を超えていただろう。マンUのスタメンは、オリンピアコス戦と同様にモイーズの信頼を置くベテランを起用。ファーディナントをCBに、ギグスを左の中盤に使う。しかしオリンピアコス戦のようなギグスからの効果的なパスは1度のみであった。ギリシアチームとの格の違いを世界王者は見せつけたことになる。一方前半をしのいだユナイテッドの守備も特筆すべきものがあった。ギグスが2列目から間を計ったように飛び出すDFのかたちをとる。それがチームとしてのプレッシング始動の号令であった。その度にDFラインを押し返す。前半にマンUが得点を許さなかった最大の理由がそこにあった。しかし30分過ぎからDFラインが疲れ、前線のみのプレッシングで、逆にライン間が間延びしてしまった。バイエルンは最終ライン前に選手が入り込み、そこからボールを出入りさせては、サイド奥にボールを入れるようになる。円陣が狭まり、得点は時間の問題と思われたが、ユナイテッドは前半をしのぎきった。これがユナイテッドにとって大きかった。後半からギグスにかわり香川の登場。ギグスは怪我という。守備的ならフレッチャーという手もあったはずだ。香川投入は、モイーズのここ数試合の香川への評価の変化の現れである。香川はそれに応え、自由に動き、バイエルンの守備を混乱させる。香川が得たコーナーキックをビビッチがヘッドで決めユナイテッドの先制点となる。その後もバイエルンの落ち着かない状況は続く。しかしその10分後にはバイエルンが追いつく。香川とビュイットナーの左サイドを揺さぶり、マンジュキッチュのヘディングの折り返しをシュバインシュタイガーがボレーの同点弾を決めた。たった1度のチャンスでゴールを決めるのは流石である。その後の展開は完全にバイエルンとなる。しかし結局は1-1のドロー。ユナイテッドにとって、4月9日の2ndレグへと望みを繋げるゲームとなった。
4月1日(火)
065 3月29日 セリエA ミラン×キエーボ
本田フル出場。バロッテリとの連携が向上する。お互いにDFを引きつけ、その空いたスペースを使うようになっていた。そうした中いくつか本田にも決定機が訪れる。特に前半のカカからのパスをフリーで受けたシュートを決めきれなかったのは大きい。大事に行ってしまった。混線の中でのヘディングシュートもいくつかあった。確実に皆が本田を意識しはじめた。起点となるパスあるいは最終パスを本田に預けるようになった