3月31日(月)
会津若松技術支援センター、北会津村役場、県立医科大学を訪れる。技術センターでは、ユニット化が徹底され、それは技術研究所という建物の性格と一致している。その中でも屋上のソーラーパネルを支える格子ユニットは狂気を孕んでいた。小さなスチール部材を溶接によりユニット化したものであるが、水平を出すことにさぞ苦労したことだろう。建築家の力量に脱帽する。右ウイングの屋上は、丹下さんの山梨放送の中間階の外部空間、チャンディガールの事務棟の屋上を思い出させてくれた。これらは屋上とはいえ、建築の迫力さを示す空間である。ホール前のガラス張りのホワイエはぼくも扱える空間でたいへん参考なった。技術センターの木造の柱は200角。コンクリート柱は250厚であったろう。柱は2ペアで柱間が設備ゾーンという徹底ぶりである。一方北会津役場の木造柱は200角の7.2mグリッドの高さも7.2mである。参考になった。議場は3階にある。その理由を特と聞かされる。今後の参考としよう。明るい大らかな空間で他の建物と違った印象をもつ。前日に空間の力強さが大きさに由来することを知ったが、古市氏の建築は柱の建築、垂直方向の建築である。その間を通り抜けるときに感じる空間のダイナミックさが鍵となっていることが改めて判る。県立医科大学の中庭に面するEVは垂直の表現で、圧倒するものであった。2万m2という空間を引き締める役割を持っている。垂直性の重要性を、未来派を引き合いにバンハムが指摘していたのを思い出す。垂直は技術的でもある。それに対して妹島さんは水平性を用いて、技術的アプローチを加味しているのかもしれない。それが新しさの由縁である。

3月30日(日)
古市先生の案内で棚倉の古市邸、棚倉町文化センターを訪れる。小細工のない堂々とした括弧つきの「建築」であった。建築に力強さをもたらすのは、大きさが重要であることを実感する。ただし、それを間延びさせないことが建築家の腕の見せ所である。棚倉町文化センターでは、コンクリートの柱梁が大空間にメリハリを与えていた。もうひとつ、空間が囲まれることの重要さも知る。ホワイエのガラス面の方立ピッチは狭めである。総ガラス張りにもかかわらず閉じられた感じをつくっていることが空間を効果的にしている。夕方に原さんの会津中高を見たが、中央の屋外広場はオープンな空間であった。その違いがわかった。
064 3月29日 プレミア マンU×アストンビラ 
スタメンから香川、マタ、ルーニーが並び、効果的な攻撃がようやくできるようになる。香川はこれまでと異なり相手の最終ラインに吸収されることがなくなった。おそらく、チーム全体が流動的になり、多くのスペースができるようになったからである。そこに香川が有効的に入り込んでいった。そこからマタにも負けないロングパスで香川が起点になることが多かった。ちょっと遅すぎた感もあるが、ミッドウィークのバイエルン戦を楽しみにしたい。前半はじめは比較的左に位置する。自らドリブルでボールを運び左45°からのルーニーへのピンポイントロングパスが1点目である。前半途中からは、フェライニが上がるためか、ルーニー、マタ、香川と縦に並ぶことが多くなり、自由に動くようになる。2点目は、相手自陣中央から長いDF裏へのスルーパスであった。マタが倒され、与えられたPKをルーニーが決める。後半は相手が守勢に立ったためだろうか、ゴール前に位置取ることが多くなる。混線からマタが3点目をきめる。ボールが反対側に転がり込めば香川の得点という可能性もあった。徐々にユナイテッドに明るい材料が増えてきた。ボランチにフェライニが定着してきたのも大きい。彼がことごとく相手ボールを跳ね返し、それをフレッチャー、マタ、香川が起点となるパタンで攻撃のかたちをつくることに成功していた。

3月29日(土)

3月28日(金)
「学習する組織」を読み終わる。経営書としてベストセラーらしいが、特に得るものがなかった。しかしなぜ今こうした組織論が流行っているかについて考えさせられた。従来の経営あるいは実務においては、アナリシスが強調され、全体へのシンセシスが欠けていたという。現在では相変わらず大学の研究が然りである。科学あるいは生物の分野では同様なことが30年前に起き、近代哲学の歴史は、この思考か実践かの二元論を越えようとするものである。「Nature of Order」を出すまでもなくアレグサンダーは、このアナリシスを徹底的に批判していた。ぼくはそれで若い時を過ごしたが、未だにそれにぴったりくる答えを得たいと考えている。

3月27日(木)
synthesisという言葉を知る。integrationと近い。synthesisが同種の合成綜合を意味するのに対して、integrationは異種との統合、化学的意味合いと生物的意味合いの違いがあることが判る。設計に引き寄せれば、閉じられた系における最適解を求めるための方法か、系の拡大を目指すものかどうかの違いだろうか。
063 3月25日 セリエA フィオレンティーナ×ミラン 
本田は4-2-3-1の右で先発出場。しかし攻撃では自由が保障されていたようだ。ゲームの50%が中央でのプレーというデータが示される。特に自陣でボールをカットしてからの中央攻撃では本田が起点であった。バロッテリの「本田はパスをすべきであり、流れから点を獲りたい」というコメントが気になるが、半分は彼流のジョークだろう。バロテッリは比較的サイドに開いてボールを受けることが多く、本田の前、あるいは併走することで、連動が生まれたと思う。バロッテリはその点を指摘していたのかもしれない。開始当初、左サイドからのセンタリングを空振りしたこと、後半はじめのデヨングからのロングパスに対し転倒してしまったことは本田らしくない。得点できるチャンスであった。しかしそのFKをバロッテリが決め、試合を確実なものにした。ミランの守備は献身的である。4-2-3-1から4-5-1に瞬時に変えるフォーメーションはこれまで見られなかった点である。相手にスペースを与えず、両サイドバックを攻撃に参加させなかった。フィオレンティーナはロッシとマリオゴメスといった決定力をもったプレイヤーを欠いていたこと、EL消耗で疲れていたこと、がミランを優位にした。この試合で、ある程度本田は満足したようである。試合後、ユニホームをファンにプレゼントし、バロテッリと片を組み合う姿が放映される。本田がチームの中心的役割へ変わることに期待する。

3月26日(水)
建築家増田友也を知る。京都の浄水場や智積院(ちしゃくいん)会館を手がけた建築家である。コンクリートHP幾何を屋根に多用し、モダニズム的な力強いかたちをつくる。これらはオリンピック直後の建物であり、丹下健三の代々木あるいはカテドラルと同じ時代感覚をもっている。その時代にぼくは生まれた。その前の時代には鳴門市にいくつか建物をつくっていることも知る。今年の夏に見た丹下の淡路島戦没記念館と位置的にも近かった。同時に見学する機会を逃したことが悔やまれる。今度彼を追いかけてみよう。
062 3月25日 プレミア マンU×マンC
マンUはいつもとは異なる守備的な4-3-3という布陣で臨む。今までの守備的布陣の場合、両ウイングに屈強かつ縦の早い選手を使っていた。今日はフェライニがトップ下ともボランチとも言える中間的役割を担い3列目を固め、サイドを自由にしたパス重視のかたちである。その効き目が出る前40秒でシティに1点を奪われてしまう。ユナイテッドが優勢にゲームをすすめるようになったのは15分過ぎからである。フェライニとマタ、ルーニーが連動し、長めの連続パスが通るようになった。マタがもたらした新しい面である。しかし得点にはならず。ルーニーがボール運びにエネルギーを使いすぎた。ここで点を奪えなかったのが力不足であると、モイーズが試合後に吐露する。クレバリー負傷のため後半から香川登場。正直、香川のリズムがチームを苦しくした。前半に対して、短いワンタッチパスがことごとく失敗し、マタと合わなかった。マタは疲れたのかもしれない。ともかくチームのリズムが前半より悪くなった。そうした中、コーナーキックにおいて、ファーディナントがマークを外すという致命的な失敗を犯し、ジェコに2点目を奪われる。ユナイテッド、万事休す。もはやファーディナントは役に立たないとさえ思う。その後負けているにも関わらず選手に覇気が感じられなくなる。監督の交代時期を示す予兆でないか?明確な策を示さないモイーズに、最大の原因があると選手も思いはじめたのでないか?と考える。マンUは上位6チームにほとんど勝てていない。

3月25日(火)
「学習する組織」ピーター・センゲ著を読み始める。未来への創造のための5つの原則が示される。システム思考、自己マスタリー(熟達)、メンタルモデル(適正な判断)、共有ビジョン、チーム学習である。これらは、著者の豊富なケーススタディによって裏付けされたものだ。管理でなく学習を、正確性の固辞でなく好奇心を呼ぶための原則として考えてよいだろう。
長谷川等伯の「桜図」「楓図」をみる。桃山文化の豪華絢爛かつ構図の力強い絵であった。等伯は、当時主流の狩野派に対して、千利休によって見出されたという。利休の本質がわびさびだとすると、このセレクションは利休商人としての才覚によるものである。この時代、日本画は個人というより、血縁関係のある集団によって伝統的画法として描かれていた。それで狩野派は400年も続いたという。等伯は、新規参入者として利休に買われ、狩野派に代表される画壇に一撃を加える役割を担っていたのである。等伯息子の「桜図」は繊細なところもあり不思議な絵であるのだが、25歳の息子の早死によってその流れも大きくなることなく、等伯と利休の企ても一代で途絶えてしまった。等伯後の江戸初期には、俵屋宗達や尾形光琳が現れる。琳派である。彼らもまた商人をターゲットにしていた点で時代は繰り返された。それでも狩野派は残り、衰えたのは明治になってからである。明治になって、建築も含めあらゆる分野での近代化が伝統を衰退させたが、日本画だけは異なっていた。日本画のみが西欧化を免れたのだ。それは、狩野派や大衆浮世絵をはじめとする日本画が以前から西欧において評価されていたためと、中心を担っていた岡倉天心が汎アジア(脱西欧)を目指していたからである。したがって狩野派が衰退したのは、岡倉天心というフィクサーによってである。以前TVのドキュメンタリーで、村上隆のアトリエを見たことがある。アトリエは郊外の倉庫を改築したもので、多数の若者の手により作品が分業で制作されていた。この10数年のキャラクターがデータ化され、色においては何千もの数がナンバリングされ、指示体型や制作プロセス全てがシステム化されていた。担当スタッフによって作品の出来が左右されることなく、工場というのに相応しいものであった。彼も日本画出身であり、狩野派の成功が頭にあったに違いない。千利休も同様に偉大なフィクサーであった。茶と塔頭建設を通して、名だたる武将の名誉欲と購買欲をかき立て、応仁の乱以降見る術もなかった大徳寺を現在にまでにした。いうまでもなく、それを通じて千利休の株があがり、それは現在まで引き継がれている。等伯もそのひとつであった。○○好みという制度も完成させたのも利休である。

3月24日(月)
「哲学と自然の鏡」ローティの第3部に入る。真理の追究を否定したローティは、会話による客観性獲得を本書での最終的結論とする。会話とは、目的を持つ対話と異なり、外へ開かれた他者との交流自体を促すものである。そうしたローティは、相対的、あるいは非合理的として批判されたのはいうまでもない。この点においてもパタンランゲージと同じである。アジャイルもその延長上にある。ローティはその応えとして、徹底した実践主義を用意していた。偶然性を回避した普遍的本質から出発するのではなく、出発点の偶然的性格を承認し、実行によってその批判に応えようとしたのである。そこには「格率」=自分の持つ行為の道徳的規則、が必要とされる。カントは、この「格率」を普遍的道徳規制に対して、主観的のみ妥当する実践的原則といった。アジャイルを考える上で参考になった。解説では、「ここがロードスだ、さあここで跳べ」というイソップ寓話が持ち出されている。マルクスも持ち出したものである。ローティはこの格率に身を委ね、実践で過去の哲学、ここでいう体系学的哲学を越えようとした。ローティは自らのこの哲学を、体系学的哲学に対して啓発的哲学といっている。

3月23日(日)
ローティを読み続ける。第1部の「心」に続き、第2部の大文字の「真・善・美」でさえも、ばっさりと時代の「発明」品として処理される。そこに普遍的な答えなどないということだ。それは、これまでの伝統的建築を否定したマンフレッド・タフーリの切口と同じである。これまでの歴史的起原を明らかにし、新たな歴史展望に置く、超歴史的処置によってローティも断罪していた。この時代に建築と哲学の両分野で同様な歴史の扱いをしていたことが、ぼくにとっての発見であった。現在は、彼らの行ったそれぞれの分野での解体を前提としてあり、その解体速度はIT技術の進歩でさらに加速している。
060 3月22日 ブンデス マインツ×バイエルン 
最後は底力の差が現れ、バイエルンの勝利。マインツの4-1-4-1の広目の守備体型は、バイエルンの円陣型攻撃を80分までしのぐことはできたのだが、攻撃へまで転換する力がなかった。もちろん、その大きな役割は岡崎にある。なかなか決定機をつくれないバイエルンは、突拍子もないと思われるシュバインシュタイガーの怒濤の一直線の上がりでゴールを奪うことに成功する。イレギュラーな動きが硬直したゲーム展開に大きな穴を空けたことになる。バイエルンは強い。
061 3月22日 プレミア マンU×ウエストハム 
待望のルーニー、マタ、香川の3者同時出場。サイド45°からの放り込みは皆無で、ユナイテッドは完全にパス中心の攻撃に変わったようだ。ルーニーの超ロングシュートは、ユナイテッドのこうした攻撃を予想できなかったウエストハムの守備の混乱から生じたものだろう。その後、香川も好機をつくるもゴールは奪えず。後半途中から香川はトップ下にも入る。ゲーム感が足りないためか本調子ではない。パス感覚が多少狂う。これを力の限界と見るか、あるいは多少我慢し将来への糧とみるかはモイーズ次第である。今日はマタがトップ下で輝いていた。選手にあったポジション選びが重要であることを感じる。

3月22日(土)
今年度の卒業式と謝恩会。心温まるものであった。今年で6年目を迎えるが、彼らに道をつくってやれたかという責任をこの度に感じる。特に3年を一緒に過ごした院生から感謝されるとなおさらである。これから活きていくために基礎は大事である。基礎とは、技術的なことはもちろんであるが仕事に向かう姿勢をいう。中途半端でなくやりきること、形式るものまで整える力量である。
「哲学と自然の鏡」ローティを読み続ける。近代哲学を様々な面から批判する。その根本に、近代哲学のもっている(ゴールがあたかもあるような)真理崇拝主義への疑いがある。現実を直視する限り、真理によって物事は解決できていない、これを重要視すべきであるという指摘である。ローティは磯崎新と同じ歳であった。近代哲学の解体といってよいだろう。第1部は、心、直感の問題を扱う。それを写しだす鏡の位置づけが本書のテーマである。解説では、鏡を主題に用いたベラスケスの「ラス・メニーナス」(プラド美術館所蔵)との比較がなされている。鏡は一般に心を表象するものと考えられ、ぼくらはこのような思考方法をとる。しかし、鏡と心はそもそも別ものなのであるというのが前半の主張だろう。「鏡」という虚像をつくって安住することへの警告である。
059 3月19日 CL ドルトムント×ゼニト 
1STレグを落とし躍起に攻めてくるゼニトに対して、ドルトムントのプレッシングがうまく機能するゲーム展開となるはずであった。しかしそうはいかず、ゲームはパタン化できないことを実感する。ゼニト、フッキの強烈なミドルを早々に決められ、フッキをケアするためのドルトムント両サイドが完全に封じ込められてしまった。その結果、従来の守備から攻撃への素早い切り替えが行えなかったのである。1STレグの大量リードが守備的にさせたとも言えるのだが、バイエルンのリベリーと対戦するときの大きな問題になるだろう。しかし前半のうちにドルトムントは、ドルトムントらしくない通常のセンタリングからヘディングでゴールをあげることで、難なく8強に進むことができた。レバントスキーの累積警告による次戦出場不可が大きい。次戦はレアルであることが決まった。

3月21日(金)
058 3月19日 CL マンU×オリンピアコス 
モイーズの進退がかかっているといわれる試合である。アゥエーのオリンピアコスは1点でも獲れれば、ほぼ8強を確実にする。そうした窮地のモイーズが選んだメンバーは、ベテランであり、従来の縦々への試みを実践できる選手であった。サイドにウェルベックとバレンシア、ボランチにギグス、CBにファーディナントであった。それに応えたのはギグスであった。ギグスが決定機を3度つくる。一度目は、左奥から左外に流れるルーニーへのロングパス。ヘディングは残念ながらポストに嫌われる。2度目は、やはり左奥から右奥へのファンベルシーへのロングパス。オリンピアコスは慌てたためPKを与えてしまう。これを落ちついてファンベルシーが決めて1点目。3度目は、2度のデ・ヘヤの好セーブの後の、やはり左奥からの右に開いたルーニーへのロングパス。その折り返しをファンベルシーがきっちりと決めた。いずれもサイドMFの動きにつられ、ギグスをフリーにした結果のものであった。前半、彼を比較的フリーにオリンピアコスはしてしまったのが失策だろう。3点目は、後半早々に、ルーニーとウェルベックのドリブルを、慌てて留めたファウルを、ファンベルシーがフリーキックで決めたものであった。ファンベルシーのハットトリックでマンUの完勝。固いといわれるギリシア代表のディフェンスは大半がオリンピアコス選手と聞く。といえでも、ギグスが遠藤と重ね合わせることができるし、日本の連動は、ルーニーとウェルベックの単独ドリブルより厚みがあるだろう。なんとか代表でも戦える感触もつかめた。早々にリードし守備重視の状況で香川の出場がなくなる。そして8強の対戦相手がバイエルンと決まる。香川はバイエルンにドルトムント時代負けたことがない。

3月20日(木)
栗生明、川口衛、渡辺真理、宇野求氏を招いての卒業設計、修士設計の講評会。遠藤研に関しては学部生3人、院生2人が発表した。総じて提出後1ヶ月の間の進展がなく、先生をうならせる程のものとなっていなかった。これは過去5年間にないことで、残念である。確かに提出時の案は例年になくまとまっていた。しかしそうした学生は他校にもたくさんいる。ぼくらに残された可能性は、エネルギーのかけ具合を調整することなく、情熱とパワーでやりきることである。この1か月の伸びは、これまでの半年分くらいに相当する。過去賞を得た学生は、この期間にのびた学生であった。上手い学生ではない。学校を代表して選ばれたのは、それを見込んだものであることをもっと自覚すべきである。栗生先生が面白い標語を教えてくれる。千葉大学医学部外科における標語である。これは全く建築に通じるものである。獅胆鷹目 行以女手((したんようもく おこなうにじょしゅをもってす)獅子のような決断をし、鷹のように鋭く観察し、優しく人の身になって施すという意味である。

3月19日(水)
057 3月18日 CL チェルシー×ガラタサライ 
チェルシーの盤石の守備により完勝をする。チェルシーはどんな状況においてもピッチいっぱいを使用し、相手にスペースを与えなかった。このフォーメーションでは選手間に距離が生まれるため、長いパスを奪われカウンター攻撃を受けるという欠点があるが、サイド側にボールを散らすことでそのリスクを少なくしていた。当然、攻撃は4人の前線のうち3人のみ。1人は攻撃に参加せず守備にとどまる。1人でも決定機をつくれるエトゥーのような選手が必要となるのはいうまでもない。ガラタサライが守備的であることを見越し、スペースを使うトーレスでなく、スペースなくとも突破できるエトゥーの起用となった。試合としてはいつものことながら退屈なものであった。「バルサのようなボールポゼッションの高い攻撃的フットボールが美しいのではない。勝つフットボールが美しいのだ。」というモウリーニョの言葉を思い出す。
3年前の福島原発原子炉内がどのような状態にあったかというドキュメンタリー「メルトダウン」NHK特集を見る。番組によると、すでに地震直後の3.12(正確な日付忘れる?)には、1号機がメルトダウンをしていたという。その対策としてのベントは役に立たず、水素爆発をし、その後3号機も同じ運命をたどった。初期の多くの放射能はこの2度のベントと水素爆発によってもたらされたものであった。しかし2号機はさらに危険な状態にあった。ベントが行えなかった。そのために完全にメルトダウンをし、原子炉から絶えず放射能が漏れ出していたという。爆発をしなかったのは、常時放射能漏れをしていたため炉内圧力が上がらなかったからである。こうした放射能漏れの実情は、最近見つかった街中にある計測機データから判ったものであった。ベントは本来、放射能除去を95.5%可能であるはずのシステムであるが、こうした異常時にはその機能を果たしていなかった。また2号機では、外部との接続ダクトの4重パッキング、厚さ24ミリの鉄板、これらも高温異常時には機能しなかったのである。つまり、万全な対応策など前もって用意することは、どんな科学技術が進んでも不可能であるという番組の結論である。それにも関わらず、原発の再稼働を目指す政府方針に警笛を鳴らすものである。
クーン、ファイヤーベントと並び賞される「哲学と自然の鏡」リチャード・ローティを読みはじめる。

3月18日(火)
NHK特集「脳卒中」を見る。日本人が脳卒中にかかる確率は他の国に比べてかなり高い。その原因を探る番組である。ほ乳類は進化の過程で手を使えるようになった。その時、脳における運動野が発達し、脳はチンパンジーの3倍にまでの現在大きさになったという。それに伴い心臓機能が発達し、同時に動脈管厚が太くなったのだが、脳内血管においては他の動物と同様の細いままであるという。脳卒中を引き起こす血管破裂は、この運動野へ向かう肉厚の薄い曲部分で起こる。脳内血管厚にまで進化が及んでいないのは、多量の塩分を摂取するようになったのは最近のことであり、進化が追いついていないという説明であった。したがってアフリカ原住民、あるいは古代人は、(血管が薄くても)脳卒中になる人はいないということだ。このような機能的な問題を解決するために進化を持ち出すことに疑問をいつももつ。それならこれから血管厚は厚くなるのかといいたくなる。しかしぼくも歳をとり、こうした番組を見るようになった。
056 3月18日 CL レアル・マドリード×シャルケ 
基本となる1対1がダイレクトパスによって崩れ、組織性が失われた典型的な試合であった。1点目は、PA内中央のドリブルから右サイドへのパスを、左のDFがカバーしきれずにダイレクトの折り返しをゆるしたもので、2点目はハーフライン付近の中盤において同様にダイレクトに、2人のDFの間にパスを通されたものである。最終的にはロナウドが決めた。彼の決定力もさることながら、崩された場合のカバーをどういう組織体制で行うかという組織の差である。内田がこれを経験できなかったのが残念である。ロナウドが、ギリシア代表パパロクーロスからの2度のアタックにぶれることなく、ドリブル+シュートまで持ち込めたのは凄いと感心する。

3月17日(月)
山本理顕氏が寄稿した「思想」3月号を探して読む。最終講義前から気になっていたのだが、なかなか手にすることができなかった。「世界」から「社会」への近代化が果たした役割について、ハンナアーレントの「人間の条件」に即しながら詳細に記述されている。その仕組をつくる上で建築家は大きな役割を担った。次号からは、そこからのブレークスルー論が展開されるだろう。とはいえ、最近読んでいるウイーナーやパースに則して考えると、こうした流れを止めることはできないとさえ思う。イレギラーな情報のフィードッバックは、より強固なシステムをつくりあげてしまうことに至る。3.11以降少し垣間見た「世界」は、今では「社会」へ還元されてしまった。新建築3月号における芳賀沼整氏の寄稿によると、3.11以降福島の家族構成が、多世帯同居型から核家族化へ確実に移行しているという。経済的な保証さを求めて、ポテンシャルのある若者は独立していく傾向を示したもので、こうした小さなところにでも「世界」が「社会」化されていく例をみることができる。「世界」を目指すことが無駄と行っている訳ではない。この力をどう空間に結びつけるか具体的な方針が必要とされている。今までにないアジャイルな方法での量的な対抗を真剣に考える。

3月16日(日)
055 3月16日 プレミア マンU×リヴァプール 
リヴァプールの圧勝。ホーム試合というのに、どうしたユナイテッドと叫びたくなる試合であった。前半の激しい1対1の局地戦は、THE ENGLANDといえるほどの見応えのあるものであった。ただ、この肉弾戦からボールを奪ってから試合を支配したのはリヴァプール。右サイドのスターリッジに渡してから、逆サイドのスアレスというしっかりしたパタンをもっている。ジェラードは選手生命終盤にきて、ボランチのさらに底という新しいポジションをしっかり見つけ出した。それに対してマンUは無策であった。3つのPKをあたえたのは、DFの差というより、組織的守備ができているかの差である。こうした激しい戦いには香川は不向きと見られたのか、香川は不出場。3人目の後退にマンUはDFを投入する。モイーズは、無様な負けだけを避けたかったのである。情けない。

3月15日(土)
古市教授の最終講義司会を務める。山本理顕氏の祝辞、トムヘネガン氏の現代バナキュラー論、伊東豊雄氏のビデオ参加等盛りだくさんであった。最終講義は古市教授の活動を改めて振り返るものであったが、その活動の広さに皆圧倒されていた。大学院修了後、丹下事務所でのアフリカ・アジアでの単身乗り込みが先生を決定づけたのだが、誰でもがまねすることはできないことだろう。これまで105か国を訪問したそうだ。総じて研究室活動を古市先生は、学生と一緒になってトレペ上に図面を引き、学生の数だけ基本計画をこの13年間で行ったという。そのため、自分の技量が相当進歩したといっていた。ぼくはというと、これまで養ってきた知識を分け与えるようにフル活動をして指導をしてきたのだが、それだとこちらが消耗するだけである。古市先生の態度を見習いたい。山本氏の祝辞もまた立派であった。ぼくらが属する空間を、ハンナアーレントの「人間の条件」を引き合いに出し、「世界」と「社会」とに区別した。「世界」は、経験を重んじ個人が拡がる空間であり、「社会」はコントロール化された空間である。コントロールとは機能的であるということだ。一般には近代化を通じて「世界」が「社会」化されたというのだが、それは間違っているという。実は空間をどう見るかにかかっている。「世界」と「社会」は別物なのだ。古市教授はアフリカ世界からはじまり、その経験を持って近代を突き抜けたという講評であった。当然僕らは、空間を「世界」として見る立場にいなければならない。その奮起を促すものであったと思う。ぼくの知っているハンナアーレントは柄谷行人からである。
054 3月15日 ブンデス ホッヘンハイム×マインツ
岡崎の2ゴールでマインツの逆転勝利。マインツは前線からのプレッシングが効くかどうかでゲームの良し悪しが左右される。その典型的な試合であった。後半2点獲られてから相手がディフェンシブになり、得意のこのパタンとなり、逆転に成功した。岡崎は香川に続く二桁得点である。

3月14日(金)
「アブダクション」を読む。仮説的思考が歴史的に解説される。探求は仮説によって導かれ、事実は仮説にもとづいてしか集められないのだ。これも池辺陽から学んだことであるが、池辺は科学分野で生じた仮説思考を、デザイン、芸術の分野に持ち込んだ。この書によれば、はじめ仮説的思考=アブダクションがあり、その信用性をあげるための演繹的思考を通して最終的帰納的な結果を導くという。科学的発見とはその繰り返しによってもたらされるものである。したがって局所的には、先に読んだウイーナーのサイバネックスは、パースにおける演繹的思考部分に対応し、あるいは、この繰り返しサイクル全体をサイバネックスということもできる。この場合、仮説の重要性は相対的となるが、いずれにせよ仮説を無視することはできなそうだ。これを否定するウイーナーの思い切った結論はどこから来ているのだろう。

3月13日(木)
「アブダクション 仮説と発見の論理」米盛裕二著を読む。ギリシア以来の演繹的、あるいは帰納的思考方法に対して、アブダクションと呼ぶもうひとつの思考方法をパースは提案した。その仮説的思考方法=アブダクションに惹かれ、導入書として本書を手にした。仮説的思考は、池辺陽「デザインの鍵」からを学んだことでもある。
インターネットで面白い橋を発見する。West 8 Urban Design & Landscape Architecture。構造が薄いコンクリートシェルでできており、そこから橋がつられているものだ。
053 3月12日 CL バルセロナ×マンC
マンCが勝ってもおかしくないゲームで、両者の厳しい1対1が見られた密度の濃いゲーム内容であった。メッシが絶好調とはいえないものの、中央から幾度となくチャンスをつくり出し、終了10分前に1点をとりゲームを決める。メッシの中央付近での横の動きは、彼しかできない動きだろう。何人かのDFが引きずられ、空いたサイドを狙われていた。審判のジャッジが多少ゲームを動かしたかもしれない。

3月12日(水)
「サイバネティックス」第Ⅱ部(1961)を読み終わる。機械と生物の違いを学習能力と増殖能力の有無に置き、第Ⅱ部では生物の自己組織化について言及をしている。今でいう「ゆらぎ」の数学的証明をし、自己組織化の好例とした。自己組織化とは、自律的に秩序をつくりだす現象をいう。生物が学習と増殖を可能にしているのは、明確な目的にそった実行をしている訳ではない。それは、情報を繰り返しフィードバック処理することで、自然と身につく結果としての能力によるものなのだ。情報のフィードバック処理は機械においても可能である。それに基づき機械制御の可能性を示したことがウイーナーの仮説であり、様々な分野へ影響を及ぼしたのである。アレグサンダーもそのひとりであったかもしれない。時代を経てパタンランゲージの第3世代は、パタンランゲージを、(単なる)舵取りする手段として評価するまで至っている。ウイーナーの徹底といえるだろう。しかしこのことにぼくは少し疑問を残している。舵取りにも明快な目的が必要でないか? この書でウイーナーは、こうした目的性を否定していたことが判った。次に時代を遡り、パースをかじることとする。
深夜NHKで歌麿の肉筆画の特集を見る。歌麿は一生女性を描き続けのだが、有名な浮世絵とは別に、「品川の月」「吉原の花」「深川の雪」という肉筆の大作も描いていたことを知る。1800年前後には,質素倹約を勧める寛政の改革、天保の改革があった。どの世も、快楽的芸術は悪である。色、花魁を描くことが禁止され、庶民文化に対する幕府からの締め付けがきつくなったという。最後には町娘を描くことさえも禁止された。それを受けて、歌麿の画風も変化してきた。色から描く対象へ(内容)、そして構図へとテーマが変化していったのである。その中で絶えず、江戸を離れ栃木のパトロンの下に囲われながら、肉筆の大作を描き続けていたという。パトロンは若い頃からの狂歌仲間であった。そのとき、蔦谷重三郎という版元の助けはなく、彼も投獄されていたという。三作とも、その色鮮やかさと女性個々の動きを見事に表現しており、構成において圧倒するものである。当時既に西洋の遠近画法が知られており、北斎が展開させた構図を巧みに利用し、それに鮮やかさを加えたものだ。思えば、北斎も晩年、長野の小布施でいくつかの天井肉筆画を描いている。赤の天井龍図である。その迫力にぼくもそうであったが、ニューヨークの工藤國男さんがえらく感動していたことも思い出した。芸術家は古今問わずパトロンの助けを借りながら、自己実現を行っている。「深川の雪」は、4月から箱根の岡田美術館で公開される。
052 3月11日 CL バイエルン×アーセナル 
このゲームも、序盤はアーセナルがよいかたちをつくっていたものの、10分過ぎからバイエルンペースになる。最初の8分まではアーセナルの、広めの布陣、かつ前線からのプレッシングが功を奏していた。一方バイエルンは、ラームを本来の右サイド、かつダブルボランチという守備的にゲームに入り、それを迎え撃つ。結局のところアーセナルが、この時間帯にゴールを奪えなかったのが痛かった。その後アーセナルは徐々に押し込まれ、FWも守備に追われるようになると、ボールを奪っても出しところがなく、2人のDFにはじかれるパタンとなった。バイエルンの完勝といってよいだろう。1STレグの教訓を活かし、アーセナルは、このゲームをプレッシングで臨んだ。しかしこれが継続できなかったのは、サニャの右サイドにボールが入ってしまったからであり、その折り返しとリベリのドリブルで徐々にゲームコントロールを難しくしてしまったのだ。

3月11日(火)
東日本大震災から3年が経った。3年前も大学院入試の面接であったことを思い出す。その強烈な揺れに対して、はじめは家族や関わった建物などの自分の周りのことを気にしたが、被害はそれ以上であったことを徐々にTVを通して知っていった。各地で様々な追悼のイベントが催される。自分の不甲斐なさにあきれる。

3月10日(月)
「サイバネティックス」を読む。1948年に書かれた第Ⅰ部前半は、数式にもとづく統計学的な論考である。それ対し後半は、種がもつ普遍性、人の精神病理、社会といった人文分野を、制御という観点から論じていてわかりやすい。現代との違いは、分析の細かさにあるのは明白であるのだが、サイバネティックスは、あらゆることが細分化され、緻密性が要求されている状況において、それをコントロールする方法が何かをいっている。副題にあるように、生物が行う制御を、機械においても持ち込もうとした。そうした考えの契機となった。今でもその解答を得られていないのだが、生物や、世界や社会に、制御する見えざる手がある状況証拠を示している。第一部を読み終わる。

3月9日(日)
051 3月9日 セリエA インテル×トリノ 
パラシオのFWらしい強引なヘディングシュートで1-0のインテル勝利。右サイドからの大きく左の長友へのサイドチェンジを、さらに中央のカンビアッソが受け、裏へ抜け出したパラシオへの浮き球のヘディングであった。連携のあるよい攻撃であった。最後はイタリアらしく守備を固めて完封で終了。プレミアのようにプレッシャーがきつい場合、スペースがない。このため、こう簡単にも守備固めも難しいのでないか?とも思う。ともあれインテルもシーズン後半になりエンジンがかかる。

3月8日(土)
049 3月8日 プレミア マンU×WBA 
香川後半15分から登場。ヤヌザイがこれといった働きをしなかったこと、モイーズがどうやら戦略を変更したらしいこと、これらが重なりマタ加入後はじめての香川出場へと結びついた。モイーズは、試合後のコメントでも、香川の出場機会が今後増えることを断言する。想像するにCL前の合宿、あるいは前節クリスタルパレス戦の失敗あたりから、パス中心の攻撃を浸透させようとしたのだろう。本節はそれを試す最終試験的意味合いが強かった。CLにおいてバレンシア、ヤングが、ドリブル+センタリングというおきまりのパタンを使わなかったのはその理由による。それがCLでの前半の混乱である。本節の香川の出番はそうした理由から回ってきたものである。したがって試合にスムーズに入ることができた。パスを多く受け、後退直後のウェルベックへのパスは自らがシュートで終えたいところである。その後も、香川とルーニーとの関係、特に距離間はよかった。最終的なゴールにはならなかったものの、いくつも突破を予感させるチャンスをつくり出していた。ぼくは香川の存在感を示せたと考える。もうひとつ見逃してならないのは、チームとしての守備の意識の高さである。ルーニーはいつものことであるが、フェライニの前からのプレッシャーが効いていた。ここからの攻守の切り替えが素早く、2点目と3点目が生まれている。
050 3月8日 セリエA ウディネーゼ×ミラン 
右サイドの本田は、これまでと異なり比較的自由なポジショニングが保障されていた。後半終わりからはトップ下も許される。今週火曜日のCLアトレチコ戦をにらんで、カカをはじめ多くの選手を休ませたため、ゲームをコントロールする選手が不在であったことによる。しかし本田は、前線に入りすぎたため、パスを受けることができずに、違いを創り出せなかった。FWパッチー二との連動がほしいところであるが、彼は神出鬼没で複雑に動き回り、特に左サイドへ一端大きく開くので、連動が難しかったのだろう。岡崎のように本田に合わせることもない。残念であった。メディアからは本田タタキがいつもより増す。救いは、セードルフの時間が解決するというコメントである。

3月7日(金)
「サイバネティックス」ウイーナー著を読み始める。ITの爆発的普及前の科学において、生物や心と機械との関係をどう捉えていたかを知りたいため、あるいは、アジャイルにおける発散的創造に対してのカウンターバランスとしてこの名著を手にした。サイバネティックスとは、舵を取るという意味のギリシア語である。この本から機械制御という概念がはじまった。しかし、機能的要求に対してシステムが制御するというこのサイバネティックスという考えは、現代科学を持ち出すこともなく、行き詰まっている。それは今日の復興の解決策が未だ見いだせないことと同様である。価値が多様化して複雑であり、それをひっくるめたひとつの方向性を見出すことができないでいる。そこからの脱却の可能性として、アジャイルな創造的アプローチに最近注目している。一方でアレグサンダーのパタンランゲージは、動的な環境のなかで絶えず事態の変化に適応する舵取りである。学習する組織、学習する社会といったものだ。舵取りにも色々ある。アジャイルには、制御する方法がないように見えるのが、今のところのぼくの疑問だ。その接点をつかみたいと思っている。

3月6日(木)
「アジャイルに効く〜」を続けて読む。英語のタイトルが判りやすく気に入ったのでここに記す。( )内は該当すると思われる「パタンランゲージ」のパタンである。
1Evangelist 2 Small Successes 3 Step by Step(順に固める構造208) 4 Test the Waters 5 Time for Reflection(アルコーブ179 ベッドアルコーブ188) 6 Ask for Help 7 Brown Bag(生き生きとした中庭115) 8 Connector 9 Do food(会食147食事の雰囲気182) 10 e-Forum 11 Early Adopter(アーキテクトビルダー) 12 External Validation 13 Group Identity 14 Guru on Your Side 15 In Your Space(30 活動の節点44地区タウンホール 45 コミュニティ活動の輪 81 形式ぬきの小さな窓口 80自主管理の作業場とオフィス 151小さな集会室) 16 Innovator 17 Just do It(85店先学校156腰を据えた仕事 ) 18 Just Say Thanks 19 Next Steps 20 Personal Touch 21 Piggyback 22 Plant the Seeds 23 The Right Time 24 Stay in Touch 25 Study Group 26 Taillor Made(202 造りつけの腰掛 253 自分を語る小物 ) 27 Big Jolt 28 Corporate Angel 29 Dedicated Champion 30 Early Majority 31 Guru Review 32 Hometown Story(81 形式ぬきの小さな窓口) 33 Involve Everyone 34 Just Enough(207ふさわしい材料) 35 Local Sponsor 36 Location, Location, Location(205生活空間にしたがう構造) 37 Mentor(83 師匠と弟子) 38 Royal Audience 39 Shoulder to Cry On 40 Smell of Success 41Sustained Momentum 42 Token(249装飾 253自分を語る小物) 43 Bridge-Builder 44 Champion Skeptic 45 Corridor Politics 46 Fear Less 47 Trial Run 48 Whisper in the General’s Ear
こうしてみると、意外と「パタンランゲージ」と1対1対応していないことに気づく。 「パタンランゲージ」はあくまでもかたちや空間に主眼を置き、つくられ方に言及していないためだろう。アレグサンダーは「パタンランゲージ」を補完するものとして、アーキテクトビルダーの存在とセンタリングの考えを別に与えている。この48個はそちらの考えに傾いているのだ。センタリングは、最近出版された「The Nature of Order」に示されている。既存を活かしながら徐々に全体を成長させていく考えである。アーキテクトビルダーはそれに基づき、建設行為や資金の運用も含めてプロジェクトプロセス全体を把握する人物である。アーキテクトビルダーについては、ぼくも翻訳に関わった「住宅の生産」に詳しく書かれている。

3月5日(水)
「アジャイルに効くアイデアを組織に広めるための48のパターン」マリリン・マンズ リンダ・ライジング著 を読む。組織的に新しいアイデアを導入するときの秘訣を「パタンランゲージ」形式で記述した本である。冒頭でのアレグサンダーの紹介からはじまり、48個のイノベーションのためのパターンが示されている。これまで読んできたソフトウェアへの応用は「パタンランゲージ」を利用した第2世代であり、この本が契機となり、創造的な仕事をするための組織論へ展開する第3世代に移行していったという。この第3世代では、したがって未来志向の方法を示し、コミュニティを尊重する。48パターンには個々を繋げる構造がなく、その使い方はむしろ利用者に委ねられている。前半はその具体的な応用例である。後半の48パターンから読み始めるとイメージしやすく判りやすいと思う。
048 3月4日 Aマッチ 日本×ニュージーランド 
W杯の直前を抜かすと今年最初で最後のAマッチである。それを加味すると2つの物足りないところがあった。ひとつ目は対戦相手。韓国がギリシアと対戦したことを考えると、ニュージーランド相手は少々疑問に残る。南アフリカ大会では、予選リーグを無敗で戦った守備に長けているチームとはいえ、モチベーションはW杯出場国とは違うだろう。彼らは若手中心であった。ふたつ目は、これといって新しいメンバーを試さなかったこと。特に問題のディフェンスについては手を打つ必要があったのでないか。内田、長谷部が怪我、遠藤、今野が体調不良とあって、スタメンは、青山と森重が使われたのだが、ディフェンス待望論に応える程のものでなかった。案の定この試合もあっさり2点を獲られた。2点目は森重がプレミア2部の20歳のFWにすっ飛ばされたものだった。1年前ならともかく、これを糧と見るにはもはや遅すぎる。ザックはチームを熟成させていくタイプである。これが是か非かは、3ヶ月後を見なければならないのだが、多少不安がつきまとう。しかし、ぼくらはその方法に託すしかない。

3月4日(火)
「プレゼンテーション・パターン」井庭崇著を読む。「パタンランゲージ」は誰でもが街や家つくりへの参加を可能にする誘発装置であり、その形式に則り、現代的なプレゼンテーションの方法を記した本である。プレゼは今やどの世界でも不可欠な表現手段である。そのことを前提に、プレゼを、意図伝達のための手段としてではなく、ユーザ(この場合聞き手)の創造を誘発するものと捉えているところに、本書のいわんとするところがある。ユーザを含めたひとつのシステムつくりをいかに行うかを考えた実験的な指南書である。そのための方法が、パタンランゲージのように33個のパターンとして示されている。それは、「形式」、「魅せ方」、「振る舞い」と大きく3つに分類され、それもパタンランゲージの「街並み」、「建物」、「施工」に一致する。TPO(パタンランゲージの場合はスケール)を変えながら、あるいは一部分を特に詳しく述べるなど、比較的同様の内容を繰り返し述べ、パタンランゲージと構造も同じにしている。全体のコンセプトを示すダイアグラムも特徴的だ。それはアレグサンダーの好きな陰陽のかたちをしている。その中央に「0創造プレゼンテーション」というパターンがある。パターン内容についてもダイアグラム化ができればもっと判りやすいはずだ。ぼくにとっての発見は、スポーツ選手から哲学者、科学者に至るまでの数々の名言である。それを読むだけでパターンの内容をつかむことができた。

3月3日(月)
C(千葉)リーグ合同講評会。千葉5大学の3年生共通課題「自分が育った小学校の建替計画」の優秀作品合同講評会である。20名を越える各大学教員で盛況であった。Cリーグも6回目を迎え、競争することで、確実にレベルが上がっていることを実感する。ほしくも次点で重村力賞をいただいた新田さんの案は、街の動線を学校まで引き入れる案。体育館の高さを抑え、昔の街並みのようにクラスルームを並べる構成が講評を得た。2階建とするのは敷地の大きさから妥当であるが、1階と2階の繋がりと、引き込み通路と2階との関係が不明瞭であるという指摘があった。2階建は、1階を暗くし、2階の引込通路との関係を弱くする。緩やかに揺れるような配置に対して、2階案は十分な答えとはなっていなかった点が次点の理由である。内藤賞をいただいた秋山くんの案は力強いかたちを前面に出し、千葉工大生っぽい案でよい。既存の段地を保存し、その上に蜷局を巻く学校の提案である。蜷局型とはいえ、数珠状に並ぶクラスルーム構成ではなく、中に3つの階段を設け、2つの玄関からほぼダイレクトに各教室にアプローチ可能な構成である。3つの階段部分周りが、図書館あるいはメディアセンター、食堂として計画され、実に理にかなった計画である。蜷局の中央が閉じた中庭であっても、既存敷地の高低差を利用して、持ち上げられた蜷局の下を通り、北の校門から南の校庭までの移動の問題が解決されていたのも驚いた。最終的にかたちとその大きなボリュームが受け入れられなかったが、ぼくとしては1番であったと思う。第4課題の国際交流センターでもかれは面白い提案をしていた。宿泊室、中庭、研究室をひとつにまとめた塔状ユニットを敷地全体に配置する案であった。その塔は中庭があるため半分開いているのだが、構造としても機能している。残りは図書館のような自由に行き来する交流空間であり、その構成に感心した記憶がある。なかなか面白い学生だ。賞を得ることができなかったが原くんの案も高低差を利用して案である。大階段は、日常的な駅を結ぶ近道として計画され、それに面し1階には、特別教室空間と図書館がある。図書館にも屋内化された階段状の閲覧があり、2階のクラスルームと接続している。全体のかたちが固かったことと、敷地全体を設計していないことを指摘される。ランドスケープを意識させるような図面があればよかった。L型壁で仕切っているクラスルームから、その通路を見透す効果をもう少し提案するべきであった。最優秀案の理科大学生の案は、空間とそれをつくる仕組みに着目した点が評価される。全体を覆う格子梁からつられた垂壁が要求空間を解決する装置として計画されていた。ただし空間にメリハリがないことと、全体を司る格子梁の存在をもっと考えるべきである。身近な問題をひとつの方法で全体構成まで拡げたときの案の強さを感じた。原とは同じ出発点に立っているのだが、原のL字壁とはその徹底において差があった。

3月2日(日)
046 3月1日 セリエA ローマ×インテル
長友とジュルビーニョとのマッチアップを楽しみにしていたのだが、ジュルビーニョは主に反対サイドでのプレー。守備的にゲームを支配するインテルは、ジュルビーニョの背後を突き、右サイドを起点にダイレクトのパス連続によるビルトアップをスムーズに行う。この試合運びに進歩を感じる。長友も試合後のインタビューで守備重視を考えたという。それにしても、長友は競合相手とのマッチアップを多く経験し、W杯に向けてよい準備ができている。
047 3月1日 セリエA ミラン×ユベントス 
理由が不明であるが、本田は後半25分過ぎから出場。ボランチであった。緊張感のないプレーがいくつかあり、どうした本田といいたくなる。2点ビハインドであったので、流れを変えて存在感を示してほしかった。ボランチとはいえ、守備重視のデ・ヨンクの前。比較的自由な動きが保証されているポジションである。左サイドのエマニエルからのパスを受け手の攻撃にいくつか面白いものがあったが、本来の右サイドからがさっぱり。利き足が左である本田は、右から中央に入るか、左サイド奥からのセンタリングによる攻撃パタンを多くつくりだしたい。

3月1日(土)
ここ数日の間に、「人間と空間」ボルノウ1963、「空間の経験」イーフー・トゥアン著1977、「場所の現象学」エドワード・レルフ著1999の拾い読みをした。いずれも、人間が経験する場として、空間を定義する本である。空間を芸術あるいは数学的、政治的なつくる側のものから、生活に根差した日常的空間へ分化していくことを主題にしている。が、いまいち、これが実社会にどう展開するかがよめなかった。もはや言い尽くされた感があるのかもしれない。むしろITによって、現実は大きく変化していることを改めて実感する。ここにスポットを当てたいと思う。時間をおいて再チャレンジしよう。読売の論点に、大学教員のインターンシップ導入をすすめる主張があった。大学教育が社会と切り離れているために、学生だけでなく、教員もインターンから学ぶべきであるという主張である。ぼくも3〜4人を雇う企業人として、新卒者に対して実務能力を期待していない。大企業とは違って学歴で判断するほど余裕はないのだが、これまでの企業というものはしたがって、学歴や意欲での採用をし、技術力は入社後に育てるとしていたのである。今は技術革新のスピードが速まり、研究費にかける余裕もなく、大学とくに工学部にその役割を期待しているあらわれだろう。大学がこれを行うとしたら、生産効率を上げる利益追求から、アイデア知を利益に結びつけるノウハウを提供することに可能性がある。それは社会ニーズにも合っている。
045 3月1日 ブンデス レバークゼン×マインツ 
岡崎の先発フル出場。マインツの1-0勝利。前線で一度ためをつくるとゲーム展開が楽になることを知る。そのためのパスの正確さとトラップの基本は大事である。両チームともことごとくそれを失敗し、ドタバタし