2月28日(金)
044 2月26日 CL ガラタサライ×チェルシー
チェルシーは絶えず負けない試合運びをする。したがって、コンサバな試合となり、退屈となる。アザールが目立った活躍をしなかったのも、サイドをケアしていたためであり、得点は、FWトーレスの空いたスペースへの速攻を期待するものであった。1-1のドロー。
2月27日(木)
もう一度建築にスポットを当てるため「空間の生産」ルフェーヴル著を改めて読む。空間を通して社会を探求する書である。本書では、心的快楽を追求した作品と区別して、それを社会空間といっている。社会空間は時代に即し、矛盾した空間、差異による空間へと分化してきた。空間が抽象的なものからより身近なものになってきた訳である。「空間的実践」とは、その調整を行いつづけることであり、それにより空間の再生産を可能にするのである。それは、グローバルに対して個人、抽象に対して多様、を認めるものである。この点に異論を唱えるものはいないのだが、そうした中、ぼくらに向けられる「数寄屋化」「遊び」「戯れ」というのはどういう位置づけなのだろうか?これらは、少しネガティヴな意味で使われるものだ。
043 2月25日 CL ゼニト×ドルトムント
ドルトムントの前からのプレッシャーが効き、前半早々に2点先取し、ゲームを決定づけた。ゼニトはウインターブレイク中で実践感覚に劣っていた。それがドルトムントの速攻を活きよいづけることとなった。ドルトムントはどのポジションにおいても、ディフェンダーの前に足を出すプレッシングをし、奪ったボールをトラップなしにダイレクトにパスをつなぐ。ゲームプランに一貫性がある。しかし少し安定性に欠けるため失点が多いことが欠点である。対極にあるのがバイエルンの確実性のある球回しで、もう一度行われる両者のマッチアップが今から楽しみである。
2月26日(水)
042 2月25日 CL オリンピアコス×マンU
モイーズがいうようにユナイテッドに全くよいところがなかった。おそらくマタ加入でボールポゼッションをあげるサッカーを目指しているのであるが、バレンシアとヤングは縦縦の突破型であるとことに問題がある。彼らは組織的かつ強力な守備を前にそれを交わす術を知らないところに問題があった。個人能力に安易に頼る程、CL16は甘くないということである。モイーズは何をいわんかである。後半は、相手のプレッシングに対してボールすらビルトアップができず追加点を許し、15分にはバレンシアと中盤クレヴァリーを替える。ルーニーが中盤に下がり香川トップ下。1ヶ月ぶりの出場の香川の背中を見て、思わず涙が出そうになる。はじめの10分はディフェンスにしっかりとマークされパスをもらえない香川の状況が続く。香川はゲームに入れていなかった。しかし自由が許されている香川が中盤まで下がりボールポゼッションをあげはじめると、ルーニーがロングボールを蹴るなどと相まって、徐々にユナイテッドがボールを動かせるようになる。このふたつをマタは実行していたことを改めて感じる。香川の右奥へのスルーパスが通ったのはそんな時間帯であった。香川が3人を引きつけた後の空いたスペースへのパスであった。そのセンタリングをファンベルシーが決めきれなかったことが悔やまれる。そこから香川の躍動を感じることができた。終了間際には、中盤混線でのルーニーとのワンツーを受けて、香川が中央のディフェンスを置き去りにしたドリブル、そして左の空いたスペースへのエブラへのスルーは見事であった。エブラはトラップしたためセンタリングあげられなかった。2つめの悔やまれる点である。ディフェンスに関しては、ファーディナントの甘さは年齢によるものといえそうであるが、ポゼッションができないのは致命的である。そのカバーリングにヴィヴィチが追われていた。ファーディナントが小刻みのドリブルに振られた前半の1対2の状況では、中央のFWを後退しながら視野に入れ、一転ドリブラーへのアタックによって、失点を防いだ守備は見事であった。アウェーの1stレグ0-2の敗戦。ところで試合運びから、改めてモイーズの影響力の大きさがわかった。選手は型を強要されているため、自由に発想できない状況にいる。唯一ルーニーだけが例外である。禁止されていたと思われる、彼の放ったあてもないロングボールによって組織的守備を崩したのは皮肉である。ユナイテッドのベテランとはいえ、30代は、一般に考えると若者である。監督の影響力は大きいのは当然だろう。香川が干されている理由は、自由な発想をしようとするところが折り合わないからであろう。そうした自由なルーニーが香川を欲してくれればと思う。ところで、ウエッブでは香川の働きが評価されていない。このゲームではそうでなかったと思うのだが、どうだろうか?
2月25日(火)
隈氏の千葉工大での講演会。1755年のリスボン地震から自作を引き寄せて説明をはじめ、この歴史感覚を流石と感心する。この時期にカントもこの大地震を経験し、地震の物理的メカニズムまで解明しようとした。同時に心的影響も考え、崇高という概念に行き着き、「判断力批判」の執筆へ向かったのである。その辺りを10+1に「崇高と美の観念の起原」エドマンドバーグ著の書評として書いた。隈氏も、建築が変わるのはこのような外からの強大な圧力でしかないと考えていたようだ。負ける建築の根拠である。もうひとつ歴史的なこととしては、世界恐慌後のライト、おそらくブロードエーカーシステム、に言及していたことである。ブロードエーカーシステムは、当時のニューディール政策(フォーディズム)に対抗するべきものとして出現したプログレッシブ党の農業を中心とした協同体システムである。ライトは、自然素材を使い、このタリアセンでの自給自足協同生活を考えていた。隈氏も、政策との関係で建築を見出そうとしている。3.11以降の素材と構造の使い方の根拠をここに置いている。ただし、素材はスケールに左右されるので、大きな公共建築では説得力がないのではないかとの疑問が残る。長岡の役場プロジェクトでは、公共の屋外空間が有名であるが、僕らがコンペの中心として考えたように、役場の議会場を1階に設けていた。彼もそれを画期的なこととして少し触れる。建築を社会と接点をもたせるひとつである。学生に分かり易く、内容のある講演であった。
041 2月22日 ブンデス ハノファー×バイエルン
CLを見てバイエルンの攻撃に興味をもつ。今シーズンは、スカパーの番組編成が異なりブンデスを見る機会が減っていた。バイエルンはこの試合もハノファーを圧倒する。ハノファーは4-4-2とし、ラインを広く高めにとる布陣。サイド奥を使われないようにするためである。それでも揺さぶられ、サイド奥へボールは入るのがバイエルンたる由縁である。ラインが下がり、その折り返しをMFがシュートを放つパタンだ。1点目がそれであった。後半ハノファーは前線からの強いプレッシングに戦術を替えたのだが、大きな三角形をつくって縦パスで崩すかたちでバイエルンが対抗し、2点を獲る。完璧であった。特に3点目は、FWとMFの距離をなくした、サイドから受けたボールのワンツーによる中央突破からのゴールであった。香川が理想的とする得点シーンである。バイエルンを崩すとしたら、アーセナルがゲーム当初したプランのように、前目からのプレッシングを持続させるしかないと思う。
2月24日(月)
「ポストモダニティの条件」第3部「空間と時間の経験」に入る。はたと空間について考える。ぼくら建築家は空間という言葉を、質という審美的意味を込めて使う。それとは別に一般の人は、組織のあり様を空間と呼ぶことに気づいた。パタンランゲージがITを通じて、組織論においてはじめに受け入れられたことに合点がいく。第3部では、こうした空間重視の美学とフロー重視の社会理論の対比からの考察である。セルトー「日常的実践のポイエティーク」、フレデリックジェインムソン「批判的地域主義」、ルフェーヴァル「空間の生産」が挙げられ、空間と時間が資本主義社会に組織化される過程が記述されている。18世紀は、空間と時間といったものが秩序化されようとし、まさに啓蒙の時代であったこと(ブレーやフランス地図、フォーティーの「言葉と建築」)、しかしそれを秩序立て美学を追求したコルやグロピウス、ニーマイヤーを代表値するモダニストは、時間—空間を圧縮しコントロールしようとしていたフォーディズムに代表される資本経済に取り込まれてしまったこと、その結果、ポストモダニズムの時代には、獲得した個人中心の空間が内向してしまったことが「ブレードランナー」「ベルリン天使の詩」「パリーテキサス」といった映画の紹介を通じて書かれている。結局、そのやり場のなさで本書は締めくくられる。出版は1990年。ITの爆発的成長前のことである。近頃読み始めているポストモダニズム後のキーワードとして「アジャイル」がある。アジャイルな参加型社会形成について、さらに追いたくなってきた。
2月23日(日)
「ポストモダニティの条件」の核心部分「フレキシブルな蓄積」に入る。20世紀初頭のフォーディズムの蓄積からフレキシブルな蓄積への移行について端的にまとめられている。フォーディズム下では、一貫性のある価値、国家と上昇する経済があった。それを支えていたのが民主主義的自由個人主義なのであるが、それが加速すると、新たなもの、束の間のもの、偶発的なものを重視する。しかしその価値は不確定である。不安な70年代は個別に新たな価値が見出される時代である。これを「フレキシブルな蓄積」という。新しい家族制度、地域、国家、新ビジネス、金融市場がこうして立ち上がった。IT 産業、アレグサンダーのパタン、あるいはWikiにつながる社会基盤の成立である。最近の柄谷行人を思い出させてくれる論展開である。
040 2月22日 セリエA サンプドリア×ミラン
本田先発フル出場。カカ休養のためトップ下に入る可能性あった。後半早々のトップ下交代で、再びその可能性もあったが、右サイドは変わらず。しばらく右で使われる方針のようである。しかしここ数試合と異なり、少し自由に動き回ることが許される。許されると評したのは、ライン際から絶対に動かなかった試合もあったのだが、本田がそういう立場をとるとは思えないので、セードルフの強い指示と考えたからだ。したがって方針転換をしたことになる。おそらく、CL戦のイメージがあったのだろう。自由に動き、効果的なパスと2本のシュートを放つ。その他にも大きなサイドチェンジを狙ったパスを多く出す。このゲームの起点は主に右サイドからであった。ディフェンスからの縦のワンツーでディフェンダー裏へのスルーパスがいくつか見られた。徐々にフィットしてくることを感じ、次戦に期待する。
2月22日(土)
「ポストモダニティの条件」デヴィッド・ハーヴェイ著を読み続ける。空間思考と社会構造の関係を詳細に並列解説した本である。IT出現前の社会の前提をもう一度知りたいと思いこの古典を手にした。第1部は、文化のポストモダニティについて。科学、絵画、そして都市デザインの潮流が、20世紀初頭と68年以降の2回大きく変化した。はじめの変化は、西欧モダニズムがアメリカ主導へと移行し、それを存続可能とするために新しい美学原理を必要としたことによる。それが「自由主義+抽象主義」であり、建築でいえば、1932年のMOMA、フィリップジョンソンとヒッチコックによるインターナショナルスタイル展の位置づけと一致している。そのモダニズムにはなかった自由さが、アメリカの経済台頭と同時に、帝国主義をおびた政治的な見合いをもつようになった。それが強大になりすぎ限界に達した。爆発したのが1968年からである。2部は、経済から見たポストモダニティへの経緯である。20世紀初頭からはじまったフォードを代表する大量生産中心の経済が、新しい全体的モダニズム文化と結びつく経緯が示されている。そういえば、アルバートカーンがこの時期、西洋建築史にはのらないかたちの多くの工場建築(フォード工場をはじめとする)を残している。これはコルやグロピウスが夢見た建築であった。西欧文化とアメリカ文化が交わるのはこれ以降であることを改めて知る。
039 2月22日 プレミア クリスタルパレス×マンU
交代はバレンシアとギグスであり、香川不出場。1か月以上出番がない。残念ながらモイーズの構想には全く香川はないようだ。CLでもチャンスがなさそうである。マンUの攻撃の形が少し変わった。復帰したフェライニが前目のポジションをとり、サイドからの一辺倒の攻撃でなく、パスが中心となる。しかし、ペナルティの外でのパス回しで、シュートはペナルティエリア外からであった。得点シーンは相変わらず、サイドを深くえぐってからのセンタリングより生まれたものである。2-0でマンU勝つ。この変更では、香川の出番のチャンスは少ないだろう。次の日に行われたバイエルンの中央突破の3点目が理想と思う。
2月21日(金)
038 2月19日CL ミラン×アトレチコマドリード
イタリアは攻撃でも複雑であることを知る。このゲームにおいて通常の攻めでは4-1-3-1-1が基本で、ボールを奪われると4-4-2のようなかたちになる。トップのカカとバロッテッリも縦の関係であったり、2人同時に開きスペースに2列目が入ってきたりなど複雑だ。本田は言葉の壁もあり、理解できていないのでないかと不安に思う。前半は、カカとバロテッリがディフェンスを押し込み、比較的楽に2列目のドリブルを可能にした。動き回るバロテッリに1回預け、近くにいるカカがシュートいうパタンがいくつも実る。ただし、ネットを揺らすことはなかった。後半は、おそらく、バロッテッリがボールをもらいにペナルティエリア外まで上がってしまいそのスペースが消えていた。そのためチャンスが少なくなるが、ファウルによるフリーキックが多くなった。本田はCSKA登録のため出場資格がなかったのだが、今日のような縦の動きに弱いことを知る。
2月20日(木)
037 2月19日CL アーセナル×バイエルン
昨年の決勝リーグ1回戦と同じ対戦。バイエルンは監督がベップに替わり、アーセナルはチームが一新。どちらも今シーズンのテスト的意味合いのあるゲームと位置づけ、意気込みを顕わにしていた。序盤はホームアーセナルが優勢。前線からのプレッシングが有効に効き、右サイドのサニャへ一端展開してから、再び中央突破を試みる攻撃で幾度となくチャンスをつくる。しかし、決定的チャンスとなったのはその隙を狙った反対サイドのエジルであった。エジルはPKを与えられるものの失敗。エジルはそれを引きずりプレーに精彩さを欠いた。その時間帯から戦況がバイエルンへ傾く。前半終了間際のGKシュチェスニーのレッドカードが、アーセナルをさらに苦況に追い込むことになった。後半早々クロース、終了間際にはミュラーが得点。2得点差以上にバイエルンの完勝であった。バイエルの攻撃はというと、実に無理のないものであった。それは、センターFWを中心に2重の大きな円でアーセナル守備陣を囲むものだ。大きくボールを回しながら、時折FWまたは攻撃的MFが外向きボールを受け、その繰り返しでディフェンスを揺さぶるものだ。混入った中への無理なパスでないので、ボールを奪われることもない。たとえボールを奪われても、広く大きく囲っているので、10人のアーセナルにはそこからの突破はどうしようにもできなかった。おそらくボールポゼッションは70%を越えていただろう。そのうちアーセナルはしびれを切らし、ライン裏やライン間へスペースをつくってしまう。バイエルンのシュートシーンは、そのカバーがさらなる空いたスペースをつくったところからの比較的遠目のシュートである。アーセナルは、チェルシーがマンC相手にとったディフェンスのように、思い切って広目のディフェンスをすべきであった。今季バイエルンの試合をあまり見ていなかったことが悔やまれる。
2月19日(水)
「創発」スティーブン・ジョンソン著を読む。訳者の山形浩生氏は「アメリカ大都市の死と生」の訳者でもある。最近読み続けているソフトの世界を建築へ橋渡しする本として選んだ。興味深かったのは、多くをジェイコブスの分析に割き、都市部に起こる階層別のゾーニングと生物界との類似であった。粘菌の離散と集合,働きアリのコロニーつくりと社会行動とにおける一致を指摘している。いずれも明確なルールがあるわけではなく、そこにある一定のパタンをしめすことにとどまっているが、そこにコントロールされたランダムさの存在「創発」を指摘している。アリがコロニーを形成する不思議なメカニズムをかたちつくるものである。副題に「個別の意志決定から自己組織化される集団の創造力」とある。大文字の目的がなくとも、プロセスの中の小さな目的を達成することで生じる変化に言及したものだ。学生時代によく読んだ70年以降のニューサイエンスを思い出す。
035 2月18日CL マンC×バルセロナ
CLが再スタートした。決勝戦に相応しい好カードであった。2-0でバルサの勝利。いずれのゴールも、バルサの落ち着いたボール回しから、FWの一瞬の突破によるゴールであった。中盤から絶えず三角形をつくり、ワンタッチでリズムよく連動を繰り返す。その距離は5m前後でコンパクトである。そうしてディフェンスのほころびを待ち受ける攻めである。グアルディオラの遺産を垣間見る。そういえば、怪我から復帰したネイマールはベンチスタートであった。マンCのスペースを消した最終ラインつくりも見事であったが、揺さぶられた後の守備のバックアップが完璧でなかったとしかいいようがない。バルサはパスだけでなくドリブルでの仕掛けもある。しかしそれが行き詰まることなく、次へのパスと連動している。これが、メッシが他の選手と違うところでもある。聞くところによると、今季のマルティーノバルサの攻撃パタンはこれだそうだ。マンCもジェコを投入してから、彼がターゲットとなり攻撃がクリアになり、連動が生まれる。もう1歩のところで得点できずの完封負け。次戦は負け越でのアウェーゲームである。このゲーム後半のような思い切った戦いが必要である。むしろその方が戦い易いような気もする。
036 2月18日CL レバークーゼン×パリSG
2月18日(火)
「デザイン思考が世界を変える」 ティム・ブラウン著を読む。ティム・ブラウンはIDEOのCEOである。IDEOは世界を代表するデザインコンサルタント会社であり、度々様々な書籍で散り扱われるので、IDEOについて調べたくなった。ここにはデザイン思考するための方法や組織論が挙げられている。いずれも、研究室活動に使える、いくつか興味を持ったことがあった。「前もって許可をもらうのではなく、あとから許可を求める方がよいとされる文化、つまり成功には報酬を与えるが、失敗しても許される文化は、新たなアイデアを生み出す」。「イノベーションの定義は、優れたアイデアを効果的に実行することであり、もはや優れたアイデアだけでは不十分なのである。」
2月17日(月)
「都市はツリーではない」を読む。人の思考形態は単純なツリーシステムでしかなく、それにもとづいてつくられた近代以降の都市は許容力のあるものにならない、というのがこの本の要旨である。そのために、漸進的成長なるものを、後に「オレゴン大学の実験」で提案した。情報を取り込むためのバイアスとして時間が考えられている。それに対して、近頃読む情報科学の本では、アジャイル(素早い)がキーワードである。それは漸進的成長と対極のものである。ITにより誰でもが参加可能な世界が保証された。それは短い時間で多量の情報を組み込むことを可能とする世界である。重要なバイアスが時間から参加に変わったのだ。コラボレーション、エコロジカルといった概念はそこから生まれてきた。半世紀の年の流れを感じる。ぼくも構造家とのコラボレーションで多くの作品をつくってきた。構造解析がノートブックレベルで瞬時にでき、かたちのフィードバックが容易になり、これを設計に反映してきた。大事なのは観察量でなく、そこに差異を生むことにあるというベイトソンの考えが頭を横切る。多量の情報によって様々な差異を発見していくことが、設計行為を格段に進歩させるのだ。
2月16日(日)
「知識創造の方法論」を読む。いかにして組織的な知力を鍛錬するかについての方法が書かれている。与えられた問題の解決にとどまらず、新たな構想を構築するには、企業トップだけでなく、そこで働く個人全てが知力の鍛錬を備える必要があるという訳である。デザイン思考という語が目立つが、抽象的でよくつかめない。実用書であるためか、少し虫がよすぎると感じる。ただ、ビジネスの世界においても、すぐれた新商品を発売することに終始していてはダメなことが判った。このような企業トップダウンの垂直的な考えが改められ、消費者や環境を考慮に入れた柔軟で水平的なエコシステムとしてビジネスが描写されるようになったのである。それは、まさしく建築的な発想である。
034 2月15日セリエA フィオレンティーナ×インテル
コロンビア代表クアドラドと長友のマッチアップ。クアドラドが後半に足をつったところを見ると、上下運動を繰り返した長友の勝ち。クアドラドはその時点で交代が告げられる。局面において見応えがあった。同様に一瞬の飛び出しにおけるゴールがセリエAでの売りである。長友のクロスからの決勝点もそれであった。同じコロンビア代表同士のクアドラドとインテル・グアリンの一触即発的な争いも凄かった。日本とは異なる国民性を認識する。香川と本田がピッチ上でやり合うことなどあるだろうか?セリエAは要するに局所戦がメインである。逆を返せば、トータル的には退屈なゲームであるともいえる。守りが重視され、スペースが消され、選手間の距離があり、攻撃にスピーディさを生まないからであり、ボールを奪う位置が最終ディフェンスラインであり、奪ってからゴールまでの距離が長く、攻守の切り替えもスピーディでないことによる。観客が少ないため緊張感に欠けていることも要因としてあるだろう。TV収入を重視して生観戦対策を怠っていた結果である。今年のCL16強にミランしかいないのが実情である。
2月15日(土)
「利益や売上げばかりを考える人はなぜ失敗してしむのか」紺野登著を読む。「パターン」から、コードソースをオープンにしたシステムつくりについて興味をもったことからこの本に廻り合う。なお著者の紺野氏は建築の出身である。経営においても、イノベーション的な発想方法は不可欠であり、そのために、個人・組織・社会の知識の結合の必要性を説いた本である。その知を束ねるのが「目的」であるという。common good共通善、バウンダリー・オブジェクトという新しい言葉を知る。続けて「知識創造の方法論」野中郁次郎+紺野登著を読む。
033 2月15日セリエA ボローニャ×ミラン
本田が右サイドで窮屈そうにプレーをするのを見る。体調壊していたため精気も感じられず、後半65分で交代。香川より重症のようだ。自由さが与えられていない。1-0でミランの勝利。
2月14日(金)
「パターン、Wiki、XP」の後半を読む。アレグサンダーのパタン思考が、Wikipediaの誕生なるまでのプロセスがまとめてそこに記されている(特にp182)。Wikipediaの最古は、2001年1月15日だそうだ。当初のNupedia(New encyclopedia 新しい百科事典)というシステムが、「Wiki」システムを取り入れることで現在のWikipediaへと発展した。「Wiki」は、ウォート・カニンガムとケント・ベックが開発に関わったパタン的思考をもったプログラムをもっている。このときNupediaがとった方向転換、すなわち専門的で正確あることよりも、アジャイルであることを優先したことが成功の理由として挙げられている。一般の人が参加可能なシステムとしたのだ。これが膨大な情報の処理を可能にし、成功へ導いた。次に、「パタンランゲージ」と「Wikipedia」の中間に位置するものとして、GoF4人組による「デザインパターン」が紹介されていたので、早速これを読む。「パタンランゲージ」における施工部分に当たるのだろう。実務的で全く理解できなかった。「Wiki」と同様、システムがパタン構成をとっていても、そこに「参加」という概念がないので、ぼくのような素人には理解不能なのである。「Wiki」のもつ参加という基本コンセプトの偉大さを知ったのが最大の収穫であった。
2月13日(木)
032 2月12日プレミア アーセナル×マンU
香川またしてもベンチ外。マンUは前回同様の攻めができなかった。ポイントは、いかにボールポジションをあげるかである。それにより有効なサイドチェンジを繰り返して、相手陣営を崩す。その中でのセンタリングとこぼれ球を拾った2列目からのシュートが、モイーズのいう「正しいかたち」である。このゲームプランでは、狭いスペースで両チームが対面するため、香川のような小さなプレイヤーは苦手であろう。古き良きイングランドサッカーを代表するものである。そのためマタも香川も、そこにショートパスを組み込み、アクセントを付けるサッカーをしなければならないのだがそこまで至っていない。昨年を振り返ると、ルーニー、キャリック、香川の連携にその可能性を見いだすことができたのだが、この数試合の状況を見ると、香川はモイーズから全く信頼を受けていないことが判る。0-0のドロー。マンUの抜け出せないトンネルは続く。マンUの今季決算が発表になる。今のところ、日本からの放映権収入により黒字収支。香川の去就が取りざたされる中、モイーズと経営側のやり取りに注目される。
2月12日(水)
修士設計講評会。午後から遠藤研の発表。五十嵐くんは山居倉庫のリノベーションを計画する。歴史的であるが、現状は空きとなっている倉庫に、観光客と市民の両者が使える工作センターと役所機能を組み込んだ案。前面にある川の交通機能も復活させ、街に中心機能をもたせようとする案である。8棟の連続する木造倉庫を貫くようにチューブ状の新しい動線が計画されている。それは、構造補強として機能し、倉庫という大空間を全空調するのは合理的でないとし、空調範囲を明確に分離する環境を配慮したものである。歴史的建築物のリノベーションとはいえ、デザイン範囲をもっと明瞭にすべきであった。かたちはランドスケープに合わせても、思想は明快にすべきである。河内くんの案は、ハイプレインという幾何学を発見し、それを建築に応用した意欲的な案であった。1平面上1点を中心に三角形を集合させるためには、内角の和を360°にする必要があるのだが、360°を越えた場合、幾何学が立体的になる。この性質を利用した案である。敷地は、山間部の小さな村。そこの斜面地にハイプレインを摺り合わせ、小さな情報センターとホールを計画した。斜面地であることと特殊な幾何学が相まって、平面図では表しきれない、外部と内部空間をアトランダムに繋げる立体的な空間がそこにあった。そこは、オープンな交流スペースであり、一体感のある多層階劇場ホールである。幾何学が勝っているため、ランドスケープとの一体化に疑問が呈されていたのだが、より大きなランドスケープからみれば、白の幾何学郡は緑の斜面の中に可愛く見えるだろう。そうしたプレゼへの配慮が足りなかったといえる。冨山くんの案は、東京36景。スカイツリーを中心に現在の東京をあぶり出そうとする案である。東京には電柱が多いこと、実は桜樹などに代表される自然が多いこと、高層ビルと木造が混在していること、首都高速道路が巨大な構造物としてうねっていることなどを、北斎の富嶽36をもとネタに、再現したものである。北斎の画法をスタディし、そうした構図のある建築シーンをつくりだしていった。最後のかたちの是非に疑問が呈されるが、目の付け所に感心した。卒業設計でも同様のテーマを展開していたが、格段のストーリー展開をさせるものであった。林くんの案は、住宅には多く散在されてきた中間領域を公共建築にも応用しようとする案。かつて芸能の街として栄えた浅草において、再び路上芸能空間を、現代的軒下空間で復活させようとする案である。浅草公会堂の地を敷地に選んだ。地上面だけでなく、立体的に繋がる公共空間が展開されていることに高評価を得た。都市のコンテクストを読み込み、丁寧に建築に折り込んだ好感のもてる案であった。今年のM2はスケールにおいて圧倒するものがなかったものの、実に良く考えられた案が多かった。今後の伝統としていきたい。
031 2月11日プレミア ハルシティ×サウサンプトン
吉田の少し開き目のポジショニングに感心。絶えず守備範囲にFWを捉えることで、裏を取られる場面も減り、1-0の完封に貢献。前回のように一発で抜かれることもなかったのは、ボランチが守備的であったためでもある。しかしその分、攻めへのタイミングが遅れ、攻撃の連動が見られなかったのは、これからの課題である。同時によい解答を得ることができないのは、どの世界でも同じであることを知る。この時期の勝利は大きく、マンUに勝点でせまる。
2月11日(火)
030 2月9日 セリアA インテル×サッスーロ
2月10日(月)
「パターン」を読み続ける。状況をデザインする言葉として「Playground」という言葉が気に入る。「CRC(Class Responsibility Collaboration) カード」、「それゆれしかし形式」という試行は、「Playground」上で方向性を模索する方法である。そうした試行を通して「Playground」を再発見するともいえる。まさに曖昧模糊した全体を表す言葉である。
029 2月9日 プレミア マンU×フラム
サッカーでいうクリエイティブなプレーとは、こうした「Playground」を活かすものだと思う。個人のイマジナリーなプレーが、小さな渦となってチーム全体を巻き込む。「創発」スティーブ・ジョンソン著を思い出した。これもソフトウエアーの本である。マンUは、今のところ型にはまったサイドからのセンタリングが多い。大きなサイドチェンジでの揺さぶりは大きな渦にはならず。モイーズがいう、「手の打ちようがない」とはこのことである。新しく加入したマタもひとつの型にはまってしまった。こういう時こそ少し自由を与え、新しい血を入れるべきと、思う。香川にその役割を期待する。
2月9日(日)
土木構築物には署名がないが、なにがしかによって立派にそれはつくられる。土木を日本国へ置き換えることも可能で、固有名のない官僚によって支えられてきた。署名なき組織を前にした個人は時に小さな存在である。しかしそれに立ち向かうことはそれだけで美しい。
028 2月9日 プレミア サウサンプトン×ストークシティ
サウサンプトンホームで吉田先発フル出場。1点目の失点は、相手自陣からのスルーパスに反応したFWを、サイドBと吉田で挟むことができなかったことによるディフェンスの連携ミス。吉田は背後を気にしなければならない。コーナーキックを決められた2点目は、マンツーマンディフェンスがブロックされ、マークがズレたことにより、長身クラウチをフリーにしたことによる失点。直接失点に関係ないにしてもその時吉田も振り切られていた。団子状態のゴール前のマンツーマンディフェンスにおいて、ファーサイドからニアサイドに大きく回り込むセットプレーに注意する必要がある。その時ディフェンスは肉弾戦となり振り切られる。攻撃はというと、ストークの前線と2列目からのプレッシャーによって、サウサンプトンは、前回アーセナル戦に比べ、スムーズなビルトアップをさせてもらえなかった。特にストークの左サイドのケアが優れていた。
2月8日(土)
「パターン、Wiki、XP」を読む。現代のマウスを使って、ウインドゥを次々に開いていくコンピュータインターフェイスを、GUI(Graphical User Interface)という。それらを総じてオブジェクト指向のプログラミングというのだそうだ。それは、1984年のApple Macintoshから始まった。その開発に絡んだのが、ウォート・カニンガムとケント・ベックという2人で、ベックはぼくと歳は変わらない。コンピュータ出身であるのだが、オレゴン大学の書店で「Timeless Way of the building」に出会い、その後アレグサンダーのパタンをヒントに、GUI研究に没頭したのだそうだ。ぼくも1989年まで大学に籍があった。そのころは、日本でアレグサンダーが盈進学園をつくり、ちょっとしたアレグサンダーブームの時であった。ぼくの研究室は建築計画研究室であるが、来るべきコンピュータ時代に対して設計行為がどのように対応すべきかを探っていた。アレグサンダーに興味をもっていたぼくには、早速パタンランゲージをシステム化する役割があてがわれた。そこで学部と院の3年間その研究に没頭する。しかし、コンピュータ(当時はコマンドによる入力プログラム)に苦手なぼくは、パタンランゲージのような複雑なものをシステム化するのは不可能であると結論づけた。むしろアレグサンダーの思想の方に興味を拡げていったのだ。そうしてモノをつくる建築家の道を選ぶことになった。ベックは、当時開発されはじめていたSmalltalkの良い点を熟知していた。これをパタンランゲージのシステム化に有用であると思いついた時は、さぞ興奮したに違いない(最終的にシステムを完成させたのは90年に入ってからで、そう簡単なことではない)。ぼくはというと技術がまるでなかったので、60年代のノイマンのノイローゼプログラムをヒントにして研究をまとめた。ノイマンのプログラムは、ただただ患者の悩みを聞いてはオウム返しをするシステムである。それによりノイローゼ患者は自己修復力によって、悩みから解放されるもので、コンピュータと人間を総括的に扱うものであった。誰もがヒントさえ与えられれば美しい空間をつくることができる、それの手助けをするのがパタンランゲージであるというアレグサンダーの思想をぼくなりに解釈である。自分のことながら実に面白い分かれ道だと思う。技術に対するアプローチの違いから、こうも人生の方向が変わるのだと思った。4半世紀以上経って知った事実であった。
2月7日(金)
「プロセスが答えではないのなら、どこに答えがあるのだろう?」というフレーズは反語であった。プロセスに全てを求める戦略的組織論である。全体を把握しながら緩く縛る弾力的な組織論である。個人を尊重しながらの組織を成長させる方法といってもよい。まちつくりとプログラミングという違いにあるにせよ、問題解決に臨むときの思考方法を提示していて、パタンランゲージと同様の思想がある。成果物はそれをつくりだしたグループの組織構造を反映するという「コンウェイの法則」に代表されるように、かたちと思想を不可分としている点もこれに近い。「インクリメンタル=増分の」は、センタリングを思い出させるキーワードである。「アジャイル=素早い」が、センタリングを強化する今までにない概念である。池田とのコラボを思い出し、連絡を取る。
2月6日(木)
「弓と禅」オイゲン・ヘリゲルを久しぶりに読む。スティーブ・ジョブズの愛読書として、最近見なおされている。はじめに読んだ学生時代にも感じたのだが、禅問答を地でいく内容がよく理解できなかった。向かうべきゴールが見えないときにでも、日常の些細なことに同様の問題があるので、それを通じて1歩1歩漸進的に成長することが理にかなった道である、と読む。これを感覚として理解できるのだが、この弓の先生のような強い指導を行えない現実がある。続けて、「組織パターン」ジム・コプリエン+ニール・ハリソン著 和智右桂訳に進む。コプリエンは、Nature of Orderの謝辞に挙がっている。冒頭にある「プロセスが答えではないのなら、どこに答えがあるのだろう?」というフレーズにも惹かれた。
2月5日(水)
レジスと表意文字について話が盛り上がる。渋谷には谷が多いのが、「渋谷」という名前の由来であることを説明する。そうしたら、「渋」は何かと聞かれた。ぎょっとして、渋谷区のホームページで調べると、昔は入江であり、塩谷であったことが判る。今でも渋谷駅は一番低い場所にあり、道に迷っても下っていけば必ず駅までたどり着くことができるというと、なるほどそうだという。実際に今週の日曜の朝、原宿から迷いながら渋谷まで行けたそうだ。表意文字である漢字は始皇帝時代に改良された。紀元前2世紀に始皇帝が周辺民族を次々征服した。そのとき、自国語を強要せずに新しく改良した漢字を通し、視覚による意志の伝達をはかり、全土の統一を完成させた。人身の掌握も最後は文化である。その後、漢字はそれぞれの地域において、時代とともに簡略化されていき、現代にいたる。中国では、「愛」の字に今は「心」部分がないそうだ。日本ではこの表意の簡略化に加えて訓読みが追加された(柄谷行人「日本精神分析」)。日本は、文化においても完全に大陸からの影響下にあった。それに、日本独自の文化を付け加えることで、大陸文化を換骨奪胎させ、心の征服からも逃れたことが記されている。これにスピードと誰でもの参加の可能性を加えると、グローバル時代のウイキィペディアになる。「パターン、Wiki、XP」江渡浩一郎著に繋げて考えることにしよう。
2月4日(火)
本日は朝から卒業設計発表会。毎週のように指導をしてきたのだが、この1週間の研究室の学生の頑張りに驚いた。今年は配置図に力を入れるように指示をし、少し不安なところがあったのだが、大きな模型と相まってそれなりに仕上がった。今年の4年生は真面目で、読書会においても積極的であった。ただ、皆を引っ張る力強い者がいなかった分、突出した案が生まれなかった。
荒井くんの「斜めの建築」は、お茶の水の両岸に挟まれた神田川上を都市公園として捉え直したところが評価された。川面をいじりすぎでないかという指摘も受けるが、斜めの手法を現代的と理解された。佐久間くんの「茂原駅そごう」は、問題設定がよかったのだが、敷地選定がさえなかった。駅との繋がりが理解してもらえなかったようだ。大きな模型であっても、内部を覗いてくれるものでない。卒業設計にいては、上から眺められることを意識した設定にすべきだと痛感する。それと対照的なのは、佐々木さんの「矢板インター」。敷地の選定が抜群であった。建物を急な崖に埋め込む方法に疑問が残されたが、ランドスケープを考えれば、この程度の非現実性も許されるだろう。後は、高速からの敷地の眺めを捉え直し、メインの建物の内部計画を構造も含めて捉え直すとよい。折れ曲がった壁のカーブの意味は構造からも来ているはずだ。杉浦さんの「路地」は、一番よい意味で意外であった。模型が、図面での理解よりずっと魅力的であったのだ。皆が指摘するように、路地というより、ヒルサイドテラスのような高級住宅における公共空地に見えた。谷井くんの「ジブリ」は期待していたが、建築となっていないところがダメであった。彼はよいキャラクターをもち、大学院に進むというので、基礎から鍛え直そう。増子くんの「道の駅」は、完成度が高く評価された。ただし、最後に1等となれないのは、大きな模型において、ランドスケープを表現しきれなかった点にある。ぼくも強く推したのだが、その点の説得力が表現されずに認めてもらえなかった。彼の良さは、頑固さと柔軟さを兼ね備えているところにある。それに踏ん張りが必要である。土屋くんの「渋谷」のパースは抜群であった。かたちものびのびしていて見なおした。普通建築をとらえるのは、歩くスピードに沿って、あるいは立ち止まってからなのだが、現実は異なっている。車から電車から、あるいはインターネット的な見方があってよい。そこからの着目から都市へ捉え直すことができなかったのが、最後までの課題であった。「川復活」の牟田くんは最後まで悩んでいた。力はありそうなので多いに悩むべきである。模型における川の表現が昭和を感じさせてしまった。上部の高層建築をもっと未来的にすべきであったか?今後のがんばりに期待しよう。
2月3日(月)
住宅建築賞の評価を書く。千葉工大の作品は、これまでにない内部空間に繋がりがあるものであった。これをぼくだけでなく、課題提出時に複数の担当教員が感じたことであったが、新たな模型写真には、それを再現できていなかった。それが、賞に漏れた原因だと推測する。それを補う解説文にした。書いて気づいたことがひとつあった。それは、多くの学生が、敷地南の公園を意識する余り、それに対する正面性にしたがい、住宅に裏をつくってしまったことであった。彼女はそれをクリアしていたのだが、それによってのびやかな計画となっていた。今後の指導のひとつとしよう。
027 2月1日 プレミア マンC×チェルシー
1-0でチェルシーの完勝。結果を知ってからの鑑賞であったので、マンCホームで完封したチェルシーの守備を中心に見る。キーパーを含めて7人で守り、攻撃は前線の4人だけ。少し退屈な試合に思えそうだが、お互いの動きとパス回しが早くそれ程でもない。チェルシーディフェンスは綺麗なラインコントロールをし、ボールに対して前向きなプレッシングを必ず1人が行う。その代わりに直ぐに1人が下がり、ラインは一糸乱れていなかった。凄いと感じる。ラインが4人から5人になり時に6人になり、2人だけを残し、ボランチ位置まで上がったりする。それに応じてシティは、最終ライン上で、あるいはボランチ位置の前で絶えず誰かをポスト役にし、そこからのダイレクトな折り返しシュートを試みるのだが、その数も多くつくりだせなかった。唯一右SBイバノビッチが上がった後半はじめに、チェルシーに得点が生まれる。モウリーニョの采配が的中。さぞ嬉しいことだろう。
2月2日(日)
026 2月1日 セリエA ユベントス×インテル
長友キャプテンで出場のイタリアダービーもインテルの完敗。中盤の構成力に差があった。長友は絶えずFWの位置にいた。何もできない場合、もう少し下がるのがよいと思うのだが、マッツアーリの指示はいかがなものだろう。
2月1日(土)
中埜博さん事務所がある中井に行き、最近のアレグサンダー自身の近況と日本におけるアレグサンダーの受け止め方について意見交換をする。昨年は、「ネイチャー オブ オーダー」、井庭崇氏による「パタン・ランゲージ」が出版され、「都市はツリーでない」や僕も関わった「住宅の生産」が鹿島から再版された。アレグサンダーの考えが、IT分野や、イノベーション的発想方法、戦略経営の組織形態のあり方を扱うビジネス分野において、プラグマティックな問題として浸透していることを聞く。それに関するたくさんの書籍を紹介してくれた。早速、アマゾンで注文する。それらは手続論として取り上げられ、その手続きを経て生まれるものがどんなものであるか、その価値については言及していないのが本質的問題であるとの意見で一致する。アレグサンダーは、プロセスも含め、最終物における価値に揺らぎがなかった。その当時の建築界で巻きおきた様々な問題の原因はそこにあった。彼の日本での作品「盈進学園」も、ポストモダンの時代に置いてさえ、擬日本的であったことにより、反対に建築界からの反発を受けたのはそのためであり、皮肉なことでもある。今月号の新建築住宅特集で、僕はその価値を固辞することは、ユーザーを蔑ろにすることではなく、飛躍的なコミュニケーションを高め、お互いの合意形成、すなわちサスティナブルになることを書評した。中埜さんに紹介された書籍の中で、経営の本がいくつかある。経営では売上という明確な結果が求められるのだが、他の価値というのはあるのだろうか? 中埜さんに大学での講義のお願いと、「ネイチャー オブ オーダー」4巻翻訳の話しをして、お暇する。懐かしくもあり、興奮した夜であった。
024 2月1日 プレミア ストーク×マンU
パス連動でいくのか、サイドからのクロス攻撃を中心とするのか不明瞭なゲームプランで、攻撃が噛み合わない。追加点が取れず1-2で勝ち点3を落とす。香川はベンチ外。バレンシアとヤヌザイも不出場であることを考えると、戦略を変えつつあることが伝わってくるのだが、マンUの伝統を覆すことは難しそうだ。
025 2月1日 セリアA トリノ×ミラン
前半途中に、わざわざカカがベンチまで戻り監督と相談する。その結果、2列目3人のポジショニングが流動的となる。後半から、先週のカリアリ戦と同様、本田は右に固定される。センターとの間に大きなスペースができ、そこに守備陣が攻撃に入り込む。得点はそのかたちからCBが得点したパタンであった。本田は、ドリブルをサイドライン深くあるいは中央に仕掛けるのだが、ワンツーで崩したいのだろう。守備陣が中央スペースに入り込むとき、それが障害になる。本田は自由を好んでいるようであった。プレミアと比べると、カカにおいてさえも、判断そのスピードが遅い。得点にならないのは、そのためである。1-1のドロー。トリノが中位にいるのは伊達ではなかった。