「 崇 高 」 がもたらすものとは? ( 1 0 + 1 )

「崇高」がもたらすもの

遠藤政樹

絵を見たとき、教会に入ったとき、感動するのはなぜか?

その理由が対象となるモノ(オブジェクト)にあるのか、経験する側の感受性(サブジェクト)にあるのかについて、これまで多くの人によって語られてきた。現代でいえば、モノをつくる立場から芸術の自立性を主張したクレメント・グリンバークがいたし、建築では、コーリンロウが経験する側から、ル・コルビュジエの建築を虚の透明性として定義をしている。そのはじまりが、「崇高と美の観念の起原」(1759)を書いたE・バークとされる。

E・バークの時代まで、美しさの根拠は均斉やプロポーションといった外部にあった。古典主義というものだ。そこから人の感受性というものに焦点を移した。建築でいえば、ロージェ神父が「建築試論」で原始の小屋を提案した時代である。それまでの建築の聖典であったウィトロウィウスの「建築十書」が揺らぎ始め、建築の再定義が行われたころであった。この18世紀中頃は、理性を重んじる啓蒙思想がはじまった時代である。

この時代にE・バークは、「崇高」という問題を取り上げた。崇高の問題を通して、モノの根拠について考えたのだ。モノの根拠は、僕たちの内面の問題であり、内面が外的対象に投射されていることを、はじめて指摘したのである。

バークと同時代にカントがいた。カントもE・バークの崇高論の影響を受けたと言われている。彼は「判断力批判」1790においてその後、モノの根拠を全くの感受性の問題として収束させたのだが、それに先立ち、外的対象にかかわる人間内面の自然的能力の定義を行っていたのがE・バークであった。

現代はどうか?

現代は、「かわいい」に代表されるように、内面が大切にされる時代である。しかし一方で、個人的感受性一辺倒に陥っては、社会との接点が失われてしまう危惧も一方で語られる。建築家は、自らがデザインした建築がどう社会に働きかけ、どう社会が受け止めることを考える。価値観が多様化し、だれでも情報に対して自由にアクセス可能なITC技術が発達した時代である。個人的嗜好否定は意味のないことである。しかし、「かわいい」に代表される内面の時代の先に、社会との接点を見出す何かがあるのか? LATsの読書会で行ってきたことは、この溝を埋める手掛かりの探求であったと思う。僕らは「崇高」に、それを解く鍵があると考えた。

「崇高」という情感

「崇高」とは、バークあるいはカントによれば、理解不明のとらえどころのない強烈な刺激がもたらす情感とされる。しかたがって、経験者の内部だけで完結し得ないものである。アルプスのような大自然、自然災害が崇高なるものの代表である。「かわいい」と対称にあるものかもしれない。

また啓蒙時代の18世紀に、ギリシア・ローマ文化を知見する目的でいわゆるグランドツアーという山岳体験がはじまった。多くの知識人がそれを通して、今まで見たことのない大自然アルプスの山々を目にすることになった。未知なるものに対する理性的判断が必要とされたのである。ゲーテもこの時代、「イタリア紀行」において、このアルプス越えを詳細に記している。

日本にも古代から山岳信仰というものはあった。例えば、シンメトリーで美しい三輪山に対してである。ところが三輪山は、入山の許されないアンタッチャブルな、神が宿る神聖な場所としてあり続けた。日本に至ってはつい最近の近代まで、理性的な判断がされてこなかったのである。

1755年にはリスボンで大地震がおきたという。津波による自然災害の甚大さを理解するため、崇高という概念が発展した。カントは、地震についての書物を数冊著し、地震のメカニズムを説明しようとした。

「崇高の美の観念の起原」の目的は、繰り返しとなるが、モノの根拠を示すこと、人が美しいと感じることを理性的に考察することであった。

バークは、「刺激を受けるその仕方やその刺激の原因に差異があるのではなくて、その程度に差異が存在する」(「崇高の美の観念の起原」p27)とし、その強度にしたがって、「美」を「崇高」と区別した。「崇高」と「美」は同じカテゴリーに属する。その差は、「崇高な対象はその容積において巨大であるに反し、美の対象はそれが比較的小さい。美は滑らかで磨かれているに反して、偉大な物はごつごつして野放図である。」(同p137)。

これを読む限り、美しいという判断は、あくまでも外的条件に左右されている。しかし、バークが反古典主義の立場をとるとされるのは、均斉も一方で否定していることによる。外的要因と心的要因の中間に人間の判断力があることをいっていたのである。「崇高」が「苦」を伴うという指摘に、それが最も顕著に現れている。ここがE・バークの新しい視点であった。

—「自己維持に属する情念は苦と危険にもとづくものである。その原因が直接我々を刺激する場合にはこの情念は単純に苦であるが、我々が苦と危険の観念を持っていても実際にはそのような状況に置かれない時にはそれが喜悦となる。(中略)この喜悦を抱き起こすものを私は何事によらず崇高と名づける。」(「崇高の美の観念の起原」p57)—

それは、「苦」を除去することで得られる生の反動的ダイナミックな高揚感について言及するものであった。理解不能なものをバーク以前はすごいものとしか表現されえなかったが、バークは苦を通した快というように、それが理性の問題であることを指摘し、崇高と名づけた。理解不能なものの根拠に立ち向かう可能性があることを発見したのである。

これはカントにも引き継がれる。しかしE・バークの、崇高=生の反動的高揚感という解釈は、個人的内面の問題から抜け出るものではなかったというのが、「ネーションと美学(柄谷行人)」における柄谷行人の指摘である。著者によれば、この反動的なダイナミックな高揚感を個人内面にとどめることにカントは否定的であったという。カントはむしろ、内面の問題としてすまされることによって、安易に美的問題へと回収されてしまうこと、それをロマン主義といってもよいのだが、それを拒んだのである。

—「最も植民地主義的な態度は、相手を美的に、且つ美的にのみ評価し尊敬さえすることなのである。」—(「ネーションと美学」p161)

カントも、「崇高」について考察したことにかわりない。

「崇高」がもたらすもの

ここで美と崇高の違いを明らかにしておきたい。まず、理解不能なほど強大、複雑、難解なものの捉え方は個人の感性によるしかなく、他者と共有できず内容が吟味されないという問題がある。例えば世界平和に向けて誰も明確な施策を挙げることができず、ただ単に素晴らしいものとして望まれている。対象のもつ様々な属性を考慮せず、美的にのみ見ること。これが美学という問題構成である。日本におけるつい最近までの三輪山の置かれかたである。

しかしカントのそれは、回収されない、かつ、理性によっても是正することができないものを否定するものではなかった。柄谷のいう「超越論的仮象」として、むしろその存在を認めることからはじめたものであった。

「超越論的仮象」とは「感覚ではなく理性に根ざすような仮象であり、容易にとりのぞきえない仮象だということを意味する。たんなる知的啓蒙によってそれを取りのぞくことができない。」(ネーションと美学p68)ものをいう。これはバークによる「崇高」の定義にも一致する。柄谷はそれに「ネーション」「帝国主義」「宗教」「資本」を加えた。

例えばネーションは、「支配—従属的な人間関係あるいは市場的な競争的人間関係ではないような、相互扶助的な人間関係の「想像的な」回復」(「ネーションと美学」p68)から生まれたものである。「国家と資本がもたらす現実的な問題を仮象において解決しようとする想像物」として考えられたのである。そこには、ひとりの個人的趣味判断を越え、社会構造にまで拡げられた視野が用意されている。ネーションは、知的啓蒙では取りのぞけないほど、社会が必要とした現実である。カントも晩年には、真面目に最も超越論的な「世界共和国」を目指したという。

しかし、こうした現実は、悲しいかな、「崇高」あるいは「超越論的仮象」なるものに出くわしてはじめて、その必要性が認識されるというのが柄谷の考えである。フロイトが、「超自我」と呼んでいたものは、壮絶な戦争体験から生まれたものであった。フロイトもカントから影響を受けた。

—「関心を括弧に入れることが困難であればあるほど、それを実行することの快も大きいということができる。(中略)崇高は、一見して不快でしかないような対象に対して、それを乗り越える主観の能動性から来る快にほかならない。カントによれば、崇高は、対象にあるのではなく、感性的な有限性を乗り越える理性の無限性にある。逆に言えば、崇高は、理性の無限性を自己に対立する対象に見出す「自己疎外」なのである。」—(「ネーションと美学」p155)

そこには、理性の階層性と上階層へのジャンプが示されている。エネルギー随伴による物質の相転移のようなものである。それは、G・ベイトソンのダブルバインドによる学習獲得技術Ⅲを思い起こさせてくれるものであった。ダブルバインドとは、相対する矛盾したメタメッセージによって混乱をきたしたコミュニケーション状況をいう。超越論的仮象に出くわしたようなものだ。人はその混乱から逃れるために、新しい高次元の理性を獲得するという。ちょうどイルカが、調教師から魚を得るために、難易度の高い要求に次々応えることに似ている。これは、ひとつの個体間で完結する低次の学習例であるが、ベイトソンは、さらに上の体細胞的変化、宗教的覚醒、世界観の大幅改定などにまで理論を拡げようとした。それが、ダブルバインドによる学習Ⅲである。経験者(世界)の中には、自己の内に予め用意されていた学習能力がある。それがリリースされることにより理性が相転移するという仮説である。しかし、人(社会)はなかなかその能力の場所すら気づかない。「超越論的仮象」からの逆に気づかされるのである。

社会的想像力

柄谷はカントを引き合いに、そうした力を「想像力」といっている。「想像力」とは、自分で考えていることとは違った在り方を現にしているときにその分裂を越えようとする力である。「想像力」をもって、新しい「実現される高次の次元」の理性獲得をカントは実行しようとしたのであった。

—「これまでの哲学では知覚の懐疑的な再現、あるいは恣意的な空想として低く見られていた想像力が、カントにおいて不可欠なものとして取り出されたことである。想像力は再生的あるのみならず、生産的(創造的)である。」—(「ネーションと美学」p32)

カントが理性の人と言われる由縁である。想像力を社会にまで適用させようとした。「ネーション」がつくり出される過程がそれにあたる。

E・バークに話をもどそう。バークも同様に「想像力」の存在を認めている。人間の自然な判断能力を「感覚、想像力および判断力の三つすべて尽くされる」(「崇高と美の観念の起原」p18)ものと考えていた。

彼は、若いときの「崇高」の研究から、その「想像力」の力を知った。彼が歴史に残っているのは、その後の「フランス革命の省察」を著した政治家として、である。隣国で起きたフランス革命以降の政治家としてイギリスでその革命の余波に抵抗をした。

人々を動かす力が、知性ではなく情念であり感情であり、「想像力」によるものであることを、彼も「崇高」の観察から自覚していた。その後半生、目まぐるしく変貌する多様な状況の中で自らが信ずる理念の実現を政治家として実践したのである。

「崇高と美の観念の起原」の最終第5編は言葉についてである。「崇高」と「美」を比較し、最終的に彼が最も可能性を感じていたのは、詩歌をはじめとした言葉であった。それは、言語による、人が様々な思いをつなぐ「結合の力」に関心を寄せるものである。

「結合の力」=「想像力」の働きを見出し、訳者解説にあるように、「言語表現に本来的にまつわるこの曖昧さ、自由な結合によって雄弁が詩歌に僅かも劣らず極めて強力に想像力を飛翔させて人間の最奥の心胸を揺さぶる仕組みを自覚的に理論」づけた。そして、後に彼は雄弁な政治家として、これを実行に移し、成功をおさめたのである。

私たちが直面するデザインの問題にあてはめよう。デザインは、摩訶不思議な曖昧模糊とした問題を、形式化・社会化することである。それはもちろん与条件を整理するだけでは不十分である。「想像力」というものによって、高次の次元へと導き、つまり個人のアイデアを社会化する必要がある。それは、「超越論的仮象」を自ら積極的に取り込み、自覚的に理性を揚棄することからはじまる。E・バークにとっては、アルプスという大自然の自然体験からフランス革命に至るものがそうさせた。日々の設計活動の中でそれは何か?「崇高と美の観念の起原」を読んで考えたことである。